SDG

朱鷺メッセ連絡デッキ落下事故の真相解明に挑む

 
2. 工事段階
 
県と協同組合との監理契約は、2000年11月24日に締結されている。履行期間は2001年3月26日までの123日間としている。そして、今度は日付が記入されていない「工事監理員承認申請書」が協同組合から県知事に提出されていた。担当事務所として福地事務所との記入がある。相変わらず、申請に対する許諾の新潟県の書類はない。多分、黙認するというルールがあったのだと思われる。

この監理契約について、2001年3月1日に「委託変更契約書」が、再度、県知事と協同組合で取り交わされている。監理履行期限をこの年の3月26日であったものを、3月30日とするための変更契約書で変更理由はどこにも書かれていない。僅か4日間の履行期限の延長のために、捺印した契約書を作成する新潟県当局に何か下心があったと勘ぐられてもしょうがないだろう。このことはずっと後になって判明する。

SDGは、従来から設計と監理を一体のものと考えていたから、これまで監理を委託されない構造設計業務は受注していない。あまりにも当然のことと考えていたのだが、そういった一人よがりが決定的にまずく、今になって反省している。地元優先の設計監理体制に、最後まで気がつかなかったのである。

 
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新潟県と第一建設との工事契約は2000年(平成12年)11月13日に行われている。この時点ではSDGの構造設計は開始直後であり、まったく完成していない。実際に、どのような工事発注のやりとりがあったのかは、いまだに、不明である。さらに、設計が未完成であるにも係わらず、着工のために必要な手続きである確認申請に代わる「計画通知」が許可されている。

それらの実体を知りたいが、新潟県は、設計契約については詳細に全書類を公表しているが、工事請負契約については表書きの一枚だけで、内容は一切、公表されていない。

しかし、その表書きの一枚を見るだけでも、理解に苦しむ記述が並んでいる。完成期限を2001年(平成13年)3月26日と定め、請負代金は2億6千460万円で、前払金、部分払を「する」と記入してある。さらに契約補償金は請負金額の10分の1の金額とする、としながらも、その後段で、契約補償金は納付を全額免除する、としている。
そして最後に、「本契約書添付の設計書、図面及び仕様書によって工事請負契約を結び、」とあるがそれらは公表されていない。設計図書が不在のまま、どうやって工事契約を行ったのだろうか。

しかし、それをわが国の10年以上前の談合とか官産の癒着と解釈するのは、この工事に限っては、違うようである。それも、事故後に判明した。何か、新潟県特有の風土を感じるのである。

第一建設は工事契約後、「下請決定通知書」を県知事に提出したことになっているが、この通知書には日付が無いのと、第一建設の社判が押されていない。どうしてこういう未整理の書類が公表されるのか、後になってわかった。ここに書かれている下請けが、「大洋基礎(地盤改良工事)」、「大川トランスティル(鉄骨工事)」、「黒沢建設(PC工事)」、「吉田建興(アルミ建具工事)」の4社だけで、この4社は新潟県に限らず、全国的に知られた超一流の専門会社である。そして、この各々の専門会社に対して、前払金の有無が記入されている。
前払金有りは、ゼネコンと対等の関係にあり、前払金無しはゼネコンの下請けと位置づけられ、下請けの工事ミスはその責任をゼネコンが負うというルールである。この「下請決定通知書」では、大洋基礎と黒沢建設が、前払金有りで、大川トランスティルと吉田建興は前払金無しである。

どうも変だなと思い、黒沢建設に問い合わせたところ、黒沢建設はこの工事に関して前払金など受領していない、ということであった。後の、訴訟段階でのやりとりを考えると、この書類も事故後に新潟県によって捏造されたものである。

「工事変更契約書」が2001年(平成13年)3月1日に新潟県知事と第一建設との間で締結されている。ここには二つの事項が書かれており、一つは請負金額を75,744,900円増額する、もう一つは、変更後工事完成期間を平成13年3月30日とする、とある。そして、工事の変更内容は、別紙図面及び設計書のとおりとする、とあるがそれら図面は添付されていない。
もとの請負額が約2億6千万円で、変更増額が約7千5百万円、約30%の増額である。僅か4日間の工事期間延長で7千5百万円支払う事情を、新潟県当局は説明していないのは何故だろうか。

以上は、契約上の不明点、あるいは、書類上の矛盾点である。しかし、これらは落下事故の遠因であったとしても、直接的原因ではない。

本件事故と直接的に関係するトラブルが、工事発注後に起きている。

大別すれば三つの問題である。SDGが設計していた期間が、新潟県の工事発注とまったくチグハグなために、生じた問題である


(1) SDGは、自分の設計が完成していないのに、着工したことを知ったのは、新潟県当局や福地事務所、第一建設からの連絡ではなく、PC工事を担当した黒沢建設からであった。

黒沢建設の担当社員は、もちろんPC工事のベテランだから、未完成であった発注図面に対して多くの質疑を、11月になってSDGにもってきた。彼は発注図面を見て、これは構造的におかしいのではないかと疑問をもちSDGに乗り込んできた。しかし、SDGは最終図面を発行していないから、何を疑問視してるかの理由がわからない。そこでの議論で、新潟県がこの工事を既に発注したことをSDGは始めて知ったのである。

それで、設計を急がないとマズイと気がついたのであるが、200mの連絡デッキの設計を一朝一夕には不可能である。やむを得ず、設計の進行に合せて出来上がった図面をその都度、発行することになる。

一方で、この工事を受注した第一建設は、こういった事情を知らないから、SDGが発行する図面を「変更図」として受け取る。何で変更が度々あるのか、施工計画のたてようがないという事態になったのである。結果的に、この工事全体の施工計画書が無いままに、工事が進められた。このことが致命的であったことが、事故後になって判明した。

しかし、施工計画書不在の責任は、第一建設には無い。第一建設こそ県の杜撰な発注による被害者である。

 
(2) 2000年11月23日に、突然、現場で工程会議が招集された。僕は、その日に出席する前に、どんなことになっているのかを調べた。そしたら工期は翌年の3月末であるということがわかった。

僕は、直観的にそれでは無理だと思った。新潟の12月から2月の厳寒期をはさんだ4ヶ月で200mのデッキを造ることは、自殺行為だと直観した。それで自分で工程表をつくってみた。もう一ヶ月延ばした4月末なら工事は何とか完成できるだろうという工程表であった。この工程表を当日、会議の場に持って行ったのである。

会議が始まり、工程は3月末では無理だ、4月末にするべきだ、と僕が発言を始めたら、新潟県の担当者が「そんなことをあなたが、何故、言うんだ。監理の福地事務所も施工の第一建設も、できると言ってるじゃないか。」と大声で怒鳴る。僕も「できる工程表がどこにあるんだ。あるのは僕がつくった工程表だけだろう。実行できる工程表はどこにあるんだ。」と怒鳴り返す。

そしたらこの会議に出席していた佐渡汽船の幹部が、「朱鷺メッセの竣工はずっと先で、この連絡デッキを当面、利用するのは立体駐車場から佐渡ヶ島へ渡る方々ですし、その方々が是非必要なのは今度の連休の時期です。だから佐渡汽船としては4月29日から始まるゴールデンウィークに間に合えば十分です。」と発言してくれた。

これで一件落着すると思っていたら、県の担当者は、「県が発注しているのは、年度末までです。既に、締結した契約期間(年度末)以外は駄目だ。」
全員、沈黙し、そのまま解散。

結果的に、雪と北風の中で工事関係者は、全員、大変な努力を払うことになるが、事故後判明した鉄骨の溶接欠陥は、1ヶ月工期を延長していれば起こらなかったと思う。

 
(3) SDGは、何の疑問も持たずに、5スパンの連続したデッキを設計していた。その5スパンの内、4スパンだけが今年度工事で、最後の1スパンは翌々年度の工事であることがわかったのは、2001年1月の末であった。

監理をしていた福地事務所からPC工事の支保工計画で、キャンバー(上むくり)が必要だと思うが何cmにしたら良いですかという質問がきたのが1月になってからである。
SDGの構造計算は、この頃には完了していたから、R19とR27間は、80mm程度がいいと思いますと答えて、その後、詳細寸法決定のために図面が送られてきた。その図面には、4スパンしか描かれていない。そして、現実の工事の状況を知ることになった。

これには、流石の僕も愕然とした。「うろたえた」、「呆然とした」といった方が正しい。

急遽、4スパンでも安定していて、それに1スパンを将来、追加しても等しく安定できる構造は何か、それも現在進行中の工事を疎外しないでできる構造を発見する作業を開始した。
SDGのスタッフは毎日コンピュータにかじりつき、あらゆる可能性の洗い出しを行った。その作業に約1ヶ月かかった。
もっとも可能性の高い結論は、4スパン完成時に仮設的に5スパンと同じになる応力状態と変形状態を生み出す処置をしておけば、将来、増築するときにこの仮設材を撤去しながら工事すればいいではないか、というものであった。

で、翌月2月28日に工事関係の責任者の全員に現場で集まってもらい、このSDGの検討結果を説明した。
R27端部を平成14年度工事完了時(全体の完成時)の状態にするために、仮設的な処置が必要であること。その具体策として3つを提案した。
  @ R26に仮設支保工を設置する。
  A R28PC床版から地盤への仮設アンカーを設置する。
  B R27-R28間のPC床版上にカウンターウェイトを設置する。
である。

この場の議論で、@が最も現実性が高いということになり、@の場合のSDGの計算結果、R26に支保工を建てない場合、建てた場合の比較資料を配布して説明し、R26仮設支保工の設置に決定した。そして、このことについて、新潟県の了解を得るために福地事務所の方々が県に出向くことになった。

3月2日に福地事務所の方が新潟県の担当者に説明したら、新潟県担当者は、「そんな予算は無い、設計段階から支保工の計画があるべきではないか。今頃になって言われても駄目だ。」とあっさり拒否。

ここでも、明らかに共通の認識が無かったことがわかる。SDGにとっては、まさに設計段階であり、必要なことを正直に申し上げているだけだが、県の担当者にとっては工事発注以前に設計は終了しているという建前である。まったくかみ合わないすれ違った認識が、工事中に起こっており、構造設計者の配慮より、発注者の発言が圧倒的に現場内では重みがあった。


そして、新潟県当局の工期絶対遵守の号令のもとに、3月4日からジャッキダウンが開始された。R26に仮設支保工を建てないで始めてしまったのである。
3月6日の昼前に、SDGに第一建設から「ジャッキダウンを行っていたところPC床版にクラックが発生した」との連絡があり、慌ててSDGのスタッフが新幹線に乗って現場に着いた夕方には、すでに、ジャッキダウンは中止されていた。

僕が、現場に行けたのは3月9日であった。この日に現場事務所で対策会議が開かれたからである。
僕は、最初に申し上げた。「ジャッキダウンの施工計画書を見たい。現実に行われたジャッキダウンが施工計画書通りでれば、施工計画書のどこかに間違いがあり、施工計画書とは違う手順でジャッキダウンが行われたのであれば、施工そのものに間違いがあった、ということになる。それを調べれば、問題の原因は直ぐにわかりますから。」
第一建設「実は、そういう計画書はないのです。」
僕は、絶句した。
それでは、現況の記録が重要だから、正確な測量を行った上で補修の方法を考えましょう、と提案し直し、具体的対策を翌日に立案することにした。

しかし、翌日以降はSDGは誰からも連絡がない。県の担当者が、SDGは信用できない、誰か第三者的な専門家に補修方法を考えてもらえと、協同組合の幹部に命令したのである。で、その幹部は、新潟大学の先生を推薦し、彼に補修方法を依頼することになる。新潟大学の先生こそいい迷惑である。事情も内容もわからない補修の立案には、最低限3ヶ月は必要だろう。しかし、県の担当者は工期遵守至上であるから、この先生に今すぐ答えろと強要したであろうことは想像できる。

その後、いろいろな事件を経て、結局、一旦、ジャッキアップして、補修工事をして、第2回ジャッキダウンを行う前の検討会が開催された。この日、3月27日に僕も呼ばれたので、その席上で、「R26に仮設支保工を設置し、平成14年度工事まで残さなければ駄目だ。」と再度、説明した。新潟県担当者は、激高して「今頃になってもまだ、仮支保工が必要など認めるわけにはいかない。」と全面否定の態度であった。そこで僕はやむを得ず、「R26仮支保工の設置は、技術工学的に不可欠ですから、SDGが全額費用負担してでも行います。」と申し上げた。
その結果、新潟県担当者も、ようやくことの重要性に気付き、R26仮支保工設置にきわめて消極的に同意したのである。

そして、この年度の工事は、4月17日に完了し、次の平成14年度工事が完了するまでの18ヶ月間、立体駐車場と佐渡汽船を結ぶ区間は多くの観光客が利用していた。

後日、事故が発生した翌々日に、僕は第一建設の方から話を聞いた。

「渡辺さんのような東京の人には分らんでしょう。私たちの工区が完成したのは2001年の4月17日です。工事契約は3月26日でその後4日間延長して30日になり、ジャッキダウンの大騒ぎがあって、結局4月17日になった、県は18日間の工期遅延の罰則として600万円、私たちに請求してきたのですよ。県はジャッキダウンのときの問題を知っていながら、渡辺さんの提案を拒否した当事者でありながら、何で600万円を請求するのですか。もともと赤字工事だけど県のためにしてきたのに、この処遇です。私は、裁判にして払うことは無いと社長に言ったのですが、社長は、将来の県との関係を考えると払わないとしょうがない、ということで実際に違約罰則金として払ったのですよ。」

この話を聞いて、正直言って、僕は絶望的な感覚に襲われた。これは酷い、金額もそうだが、その発想が恐ろしい。お上は常に絶対的存在であり、下々は裁きに従え、という江戸時代以前の封建主義が新潟県では生きていたのである。



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Updated October 02, 2005