第1話『少年時代』

◆◆◆1◆◆◆

 季節は夏――さんさんと照りつける陽の光が、じりじりと肌を焦がす。

 駆け回るは賑やかな少年達。太陽の恩恵を一心に受け、静かな漁村を走り回る。あくまで風のように、あくまで勇ましく。海に面した小さな島、そしてそこに生きる人々。

 潮風がそっと軒下を駆け抜け、風鈴を静かに鳴らす。リーンリーン。風鈴の透き通ったガラスの音が良く響く。

 砂浜には、ひるがおの花の薄い桃色と蔓が織り成す緑のコントラスト。

 防砂林は黒松。響きわたるはセミの鳴き声。夏、真っ盛り。真っ黒に日焼けした少年達が、浜辺を駆けてゆく。そして、今――時も駆けようとしている。もう一度、あの日の少年の心に還って。

◆◆◆2◆◆◆

 賑やかな分校――暑さをものともしない元気な少年達の声が響き渡る。

 海辺からは漁師達の軽快な歌声と網を編む老婆達のお囃子が響きわたる。

 潮風がそっと吹き抜ければ、網に残った海藻の香りがする。分校に響き渡る子供達の騒ぐ声は、セミの鳴く声よりも、賑やかな海よりも、さらに賑やかであった。

「静かにしなさい!」

 分校の校庭で繰り広げられる朝礼。照り付ける日差しの暑さからか、子供達はいつも以上にやる気無さそうに見えた。

「……今日はみなさんに新しい先生を紹介します」

 コホンと咳払いする教頭。一瞬生徒達のざわめきがピタリと止まる。

「おい、カズ。新任教師だってよ?」

「今度はババァじゃねぇだろうなー? ははは」

 カズと呼ばれた少年が声をあげて笑う。

 キリリとした顔つきに、意志の強そうな瞳。ランニングシャツに半ズボン姿が印象的であった。

「ええ、静かに。それでは広瀬先生、一言お願いします」

 再びコホンとやってみせる教頭。校長は相変わらず、ボーっとしている。関西芸人で言うところの、ボケ突っ込みコンビみたいな人達である。

◆◆◆3◆◆◆

 新任教師広瀬がおぼつかない足取りで台に昇る。極度の緊張からだろうか、笑顔が強張っているように見えた。

「は、始めまして。広瀬……広瀬由美子です。本島の大学を、今年卒業したばかりの、新米ですがどうぞ、よろしくお願いします!」

 ペコリと挨拶する由美子。なんだか様になっていないのが妙におかしかったらしく、生徒達の笑い声が響き渡る。

「あ、あの……何か面白かったかしら?」

 焦る由美子に、ますます周囲からは笑いが毀れる。戸惑い、焦り、思わず赤面してしまう辺りが新任らしさに拍車を掛けていた。

「ははは、なんか間抜けな先生だな」

 おかしそうに笑いかけるは、カズの友人のリュウ。

 やんちゃそうな外見は、カズ以上のもの。どちらかと言えば、お調子者と言った感じの少年である。

「あ、カズの奴赤くなっているぜ!」

「ば、バカ言ってんじゃねぇやっ!」

 こちらもカズの友人、サル。猿ヶ谷と言う名字から付けられたあだ名。本人も猿顔なので、気に入っているらしい。

「ちょっと、皆。静かにしないと、また怒られちゃうよ。」

 そしてもう一人。どう考えても、こんな悪ガキ達と仲良しとは思えない少年、マコト。

 クラス委員をやっている良家のお坊っちゃま。意外な所で、意外な友情関係が築かれているものである。

「ええ。広瀬先生には6年一組を担当していただきます。」

「オレ達のクラスじゃねぇかよっ!」

「あーあ、あの先生も可哀想に」

 当の由美子は、やはり、どこか浮いている印象が残っていた。

 メガネこと、教頭が大きなため息をつく。

「悪ガキばかりで最初から大変ですが、がんばってくださいね……」

「はいっ! がんばりますっ!」

 にこやかに笑う由美子の表情を見て、教頭はますます心配そうな表情を浮かべていた。

 朝礼も終われば今日は始業式。各自、各々の教室へと移動する。昼が近づくにつれ、気温がどんどん上昇していくのは誰の目にも明らかであった。

 瀬戸内海に面した小さな島。そこが彼らの分校のある地。

 辺境の地にあるだけに、いろいろと不便な点も多いがそれを補って余りある素晴らしい自然の中で、子供達は成長していくのである。

 本島から来た由美子は産休の教師に代わってのピンチヒッター目的で、いきなりこんな島国の、しかも筋金入りの悪ガキ達を相手にしての初仕事と相成った次第である。

◆◆◆4◆◆◆

 ミーンミーン。賑やかに響きわたるセミの声。

 木造の校舎は年期を物語る。分校のすぐ裏には静かな森。

 なんとも自然に恵まれた島国、そして今、悪ガキ達と若き教師のバトルが始まろうとしているのであった。

「ええっと、産休の山口先生に代わって、しばらくの間ピンチヒッターとして、がんばります。広瀬由美子です。由美子先生って呼んでくださいね」

 黒板に名前を書き終えると、由美子は振り返り微笑んで見せる。

 生徒の数は、精々20人程度。あまり規模の大きな分校ではないが、島であることを考えれば妥当な人数である。

「えっと、折角だから、皆の自己紹介でもしてもらおうかしら?」

「はーい!」

 不意に手をあげる元気の良い生徒に、由美子は目を丸くして戸惑う。

「……えっと、川田竜助君かしら?」

「みんな、リュウって呼んでいます。先生の自己紹介してください!」

 教室に歓声が轟く。予想外の展開に焦る由美子。

「い、良いわよ。」

 一瞬戸惑いながらも、腰に手をあて気丈な態度で気合いを入れ直す由美子。

 大きなリボンで髪を束ね、飾りっ気の無い格好。化粧もしていない割には整った顔立ちをしている。男子生徒の中にはボーっとなっている生徒もいた。女子生徒達が、あからさまにため息を就く。

「いやね、男子って」

「ホント。あんな年増のどこがいいのかしらね?」

 ヒソヒソと小声で笑う女子生徒達に、まったく由美子の話を聞く気がない賑やかな男子生徒達。

 気合いを入れて、自己紹介に立ち向かおうと意気込んだ矢先の事である。

 さしもの新任教師も、これには緊張の糸が思わず途切れてしまった。

「みんな……静かにしなさいっ!」

 遂に我慢の限界を超えたのか、由美子が怒鳴った。

 顔を真っ赤にして机をバンと叩きけば一瞬ざわめきが止み、セミの鳴く声だけが響き渡る。突然に静寂に思わず慌てふためく由美子。

「し、静かにしましょうね……」

 たどたどしい流れの中、時間だけがゆっくりと過ぎていった。

 自己紹介は何だか訳が分からないうちに終わり、気が付けば授業の終わりを知らせる鐘の音が響いていた。

「それじゃあ、皆、寄り道しないで帰るのよ? さようなら!」

「さようなら!」

◆◆◆5◆◆◆

 元気良く去っていく生徒達を窓から眺めながら、由美子は思わず大きなため息を就いた。

「ふぅ、中々大変なものね。えっと、カズ君達掃除当番なんだから、ちゃんと掃除しなくちゃダメよ?」

「わかってらぁ。」

 カズはぶっきらぼうに返してみせた。由美子はクスクス笑いながら職員室へと戻っていった。

「ちょっと。男子、ちゃんと掃除しなさいよね?」

 気の強い女子生徒がすかさず突っ込む。

「うるせぇな。キィキィわめくなよ」

「なんですって!」

「ほら、これでもやるぜ、受けとりなっ!」

 カズ選手、振りかぶって第一投をぶちかました。

 わめく女子生徒の顔面を雑巾が見事に直撃した。

「きゃあっ!」

「ちょっと! なんて事するのよっ!」

 この一撃を皮切りに、男子軍と女子軍の熾烈なバトルが始まった。

 女子生徒達は一致団結してホウキやら、モップやらを武器に男子生徒に襲いかかる。武器を手にした女子生徒をおちょくるが如く、男子生徒達はひょこひょこと逃げ回る。

 そんな中、クラス委員のマコトだけが一人黙々と掃除を続けていた。それから数分後、掃除はなんとか終了した。

◆◆◆6◆◆◆

 生徒達が帰った後、由美子は再び教室を訪れていた。

 クラス日記には、女子生徒が男子生徒に攻撃された事が書かれていた。その上から、さらに男子生徒のイタズラ書きがあったのを見て、由美子は思わず吹き出した。

「カズ君達の仕業ね? まったく男の子って幾つになっても子供なのね」

 由美子は先刻女子生徒達が職員室に来て、口々に文句を言っていたことを思い出していた。

『先生、ひどいんですよ!』

『男子、ちっとも掃除してくれなくて』

「私も子供の頃、良く先生に文句言いに言ったっけな。男の子に意地悪されたってね。まさか、自分が同じ立場に立とうなんて思わなかったから、なんだかおかしな話ね」

 由美子は可笑しそうに微笑んでいた。

 遠くを見つめる瞳は一体何を見つめ、何を想うのだろうか? 遠き地にいるあの人を?

「う〜んっ! 明日もがんばるわよ。悪ガキ諸君、私も負けないからね」

 力一杯背伸びをし、自慢の合気道の構えを取って見せる由美子。

 日記を閉じ、教室を点検し、由美子は再び職員室へ戻っていった。

 由美子には何もかも判っていた。結局の所、掃除していたのはクラス委員のマコトだけだったということも。

 それでも由美子は満足していた。受験、受験で、頭の成長しか出来ない子供達よりも、ここの生徒達は遥かに自由では無いか。いじめやらなんやらの、暗い話題で持ち切りの都会の学校でのうわさ話が絶えない本土の子供達よりも、大自然に包まれ、元気いっぱいの子供達を相手出来る方がずっと、ずっと楽しいことも。何よりも自分自身が望んでいたものがこの分校にあることも。

◆◆◆7◆◆◆

 大自然豊かなあぜ道を元気良く走り抜けるはリュウ達四人組。

「真面目に掃除なんて、しなくて良いのにさ。」

「だって誰もやらなかったら、終わらないでしょ?」

「マコトは良い子だからなー」

 サルがからかって見せれば、マコトは静かな笑みで返す。不意にリュウが話題を変える。

「そうだ。カブトムシ採りに行かない? 昨日さ、いい場所見つけちゃったんだ。その場所さ、カブトムシもいれば、オオクワガタもいるんだぜ?」

 リュウの言葉に思わず少年達の目が輝き出す。

「オオクワガタだって? ホントかよ!? 行こうぜ!」

 真っ先に反応したのはリーダー格のカズであった。

 勉強嫌いな反面、こう言う事に関しては興味も造詣も深い少年である。

「それで、どこなんだよ? 案内しろよ」

 早くも興味津々のカズは、皆の返事を待つまでも無く皆を先導する。そんなカズの言葉にリュウが相乗りする。

「分かっているさ。でもさ、今日は暑いだろう? 駄菓子屋でアイスキャンディー買ってから行かない?」

「良いね、良いね。暑い日にアイスキャンディーってのは最高だよな!」

「おうっ。それじゃあ、さっさと行くぜっ!」

 賑やかに騒ぎながら、少年達はあぜ道を駆け抜けて行った。

 そっと風が吹き抜ければ、静かに稲の穂が揺れる。サラサラと軽快な音が響き渡る。

 ミーンミーン。セミの賑やかな鳴き声が響き渡れば。海辺からはカモメの声も聞こえてくる。こんな暑い夏の日でさえ少年達は元気良く走り去って行った。

 あぜ道を走り続ければ、何時しか辺りは木々に包まれた森へと姿を変える。

 サラサラと風が木の葉を揺らす音が響き渡る。暑さを忘れさせてくれる涼やかな音色に、やんちゃな坊主達もしばし歩を止めた。森の中は海岸周辺の黒松の防砂林とは異なる神秘の空間。ヒミツの扉を開けばそこには数多の財宝が眠っているに違いない。

「あっ! あそこ、見てっ!」

 マコトが嬉しそうにはしゃぐ。指さす方向を見れば少年達の憧れの的、今となっては都会で見かけることも少なくなってしまった昆虫の王、カブトムシが雄大な姿をさらしていた。思わず少年達の目に輝きが生じる。

「うわっ。ありゃあ、相当でかいぜっ!」

「ああ、カズっ!」

「オレが頂いてやるぜっ!」

 言い終わるよりも早く、カズは元気良く靴を脱ぎ捨て、ついでに靴下も脱ぎ捨てた。

 野生児と言う言葉がこれほど似合う奴はいないのでは無いかと思わせるほどの迅速な動きで木を駆け上がる。

「お〜い、サル、獲物はどの辺だぁっ!?」

「もっと右だよー!」

 足場が悪いのか、唐突にカズは滑り落ちそうになった。

「うぉっ!? あぶねぇ、あぶねぇ……」

 動揺する仲間達の反応などまるで眼中にないカズは、再び元気良く木の枝を伝って目標に狙いを定める。

「貰ったぜっ!」

 素早く手を伸ばし獲物を狙う。だが……

「ああっ!」

 無情にもカブトムシは大空高く舞い上がってしまった。ついでに木の軋む嫌な音が響き渡る。

 カズはカブトムシにすっかり夢中で、細い枝にしがみついていたことなど気付くはずも無かった。軽やかな音を立てて、静かに足元の枝が折れた。

「げっ! マジかよ!?」

 そのままカズは頭からまっさかさまに落下した。だが生い茂った草が衝撃を吸収してくれたお陰で、かすり傷で済んだ。

「ああ。びっくりした……」

「危ないなぁ……夢中になるのも良いけど、ケガしないでよ?」

「へへへ、ジャングルボーイ、カズ様だからなっ!」

「なんだよそれー?」

 思わずみんなで顔を見合わせて吹き出していた。賑やかな笑い声が森の中、野山を駆けて轟いた。

 次なる獲物を求めて駆け回るやんちゃ坊主達は、気が付けば体中ドロだらけの、傷だらけになっていた。森に潜むお化けよりも、もっともっと恐ろしい、怪獣ママゴンの襲撃に遭うことなど彼らは微塵も予想もしてはいなかったことだろう。

 いつしかヒグラシの鳴く切な気な声が響けば、カラスもお家に帰ると言うものである。燃えるような夕暮れの赤々とした日差しの中、少年達の大冒険は幕を閉じた。

「それじゃあ、また明日ーっ!」

「おうっ! じゃあなっ!」

 少年達は皆それぞれ皆の家へと帰って行った。暮れ往く夕日に照らし出され、皆、萌える様な赤い色に包まれていた。

◆◆◆8◆◆◆

 チリーン。夕暮れの涼しげな風が風鈴を鳴らせば夕涼みは、金魚のうちわの粋な浴衣の姉さん。

 どこからか焼き魚の香ばしい香りがすれば、放浪猫も夕食を求めて颯爽と歩き出す。

 夕暮れ時の街並みは静けさに包まれていた。昔ながらの木造の家は黒ずんでいて時代の流れを感じさせる。ふと空を見上げれば我が家へと向かう鳥達の群が目に入る。皆が家に帰る、皆が一日に終わりを告げる。カラスが鳴くから帰ろう。

 皆と別れ、静かな路地を歩むカズに静かに近寄る者がいた。

「……カズ君」

「ひっ!……な、なんだよ。先生かよ……驚かすんじゃねぇよ」

「あらあら。それにしても随分と汚れているけれど、今日も寄り道して遊んでいたのかしら?」

「裏山の森でさ、みんなと虫取りしていたんだ」

「ふーん。でも、その様子から察するに大漁じゃなかったみたいね?」

 その言葉に、カズは一瞬目を見開き、動揺した素振りを見せた。だが、慌てて平静を保とうとそっぽを向いてみせる。判り易い振る舞いに、思わず由美子が笑う。そんな由美子に気付いたのか、慌ててカズは反論してみせた。

「簡単に言ってくれるけどさ、結構難しいんだぜ? たかが虫捕り、されど虫捕りってな」

 妙に得意気に胸を張ってみせるカズに、由美子は笑顔で耳を傾ける。

「今日なんかさ、オレ、木の上から落っこちまったんだぜ? 背中打っちゃってさ、まだちょっと痛いんだよな」

 体中の小さなすり傷、切り傷の跡に、泥まみれの姿をみて、由美子はなるほどと思った。こりゃあ、敵は相当の相手だった様子ね。再びおかしそうに笑ってみせる。

◆◆◆9◆◆◆

「わ、笑うなよな……」

 そっぽを向いて口を尖らせるカズ。

 ゆっくり歩く二人の前に、不意に井戸が目に入った。

「あら? あの井戸、水出るのかしら?」

「やだなぁ。都会の人って、そんな事も知らないの? あれはね、井戸って言って、ちゃんと水だって出るんだぜ。」

「あらあら、それはどうもご丁寧に」

 皮肉った振る舞いを見せるカズに、皮肉った反応をしてみせる由美子。

 一瞬焦ったような素振りを見せながらも、カズは慣れた手付きで井戸を漕いでみせた。井戸は錆び付いているのか? 軋んだ音を響かせていた。流れ出す冷たい水を、カズは豪快に飲み干した。

 この井戸は、どれだけ多くの人を見てきたのだろうか? 戦争の時代にあっても、この井戸は無事だったのだろうか? そうだとしたら、この井戸は働き者だな。由美子はそう思った。

「カズ君、こっちへいらっしゃい」

「何だよ……」

「膝の傷口。泥だらけじゃない? ばい菌が入っちゃったら大変よ」

 由美子はバッグから桃色のきれいなハンカチを取り出すと、そっと井戸水に浸した。夏の暑さにも関わらず井戸の水は背筋まで伸びてしまう冷たさだった。静かにカズの傷口にあてがう。

「痛ぇっ!」

「あら? 染みちゃった? でも、もうちょっとの辛抱よ」

 由美子は丁寧にカズの傷口の泥を拭い去った。綺麗な薄桃色のハンカチは、みるみる土と血の色でカラフルな装飾をされてゆく。

「ああ、ハンカチが……」

「え? 良いのよ。心配無用よ」

 細い路地を抜ければ、そこは坂道の中腹。目の前には静かに清水を讃える川が流れていた。

 遮るものが突然無くなり一気に夕日が顔を照らす。

「先生、オレの家こっちだからさ……」

「そう? 先生の家はね、丁度カズ君の家の反対方向になるわね。それじゃあ、また明日学校で会いましょうね。ちゃんと寄り道しないで帰るのよ?」

「わかってらっ。先生、また明日な」

 由美子に短く告げるとカズは走り出した。夕日に照らし出されたカズは、沈み往く夕日と同じ様に赤々と萌え上がっていた。走りながらカズは困惑していた。何故か脳裏に浮かぶ

 由美子の優しい笑顔。綺麗なハンカチで傷の手当をしてくれた優しい姿。

「もしかして……オレ、先生に?」

 そんな気持ちを打ち消すかのようにカズは走った。迷いを払拭するかの如く走り続けた。

「ああ、腹減った! 今日の夕飯はなんだろうな!」

 馬鹿を演じるかの様に、カズは声を張り上げて見せた。

 元気良く走り去るカズを見つめるのはこれから沈もうとする太陽と、巣に帰ろうとするカラス達だけであった。

「カラスが鳴くから帰ろっとっ!」

 響きわたる夕焼けチャイムの旋律とカラスの声。その音色に重なるようにヒグラシの鳴く声が夏の夕暮れに響きわたった。どこまでも、どこまでも。

◆◆◆10◆◆◆

 そして明くる日。相変わらず蒸し返すような暑さの中、生徒達はぐったりとしていた。

「ええ、それではこの問題を……カズ君、解いて貰おうかしら?」

「それでさぁ、木から落ちちゃってさ。んでもって……ん?」

 カズは授業そっちのけで仲間達に自慢げに昨日の話をしていた。妙な殺気を感じ取り、そっと振り向けば、目の前には、ちょっと若い怪獣ママゴンの姿があった。

「げっ……!」

「ふーん。中々良い度胸ね……校庭十周。はい。行ってらっしゃい」

 ニコリとも笑わず校庭を指さす由美子。カズの表情が凍り付く。

「へへ、先生冗談きついぜ?……オレ、死んじゃうよ」

「ふーん。それじゃあ、あたしの鉄拳くらう? こう見えても合気道歴十数年よ?」

 にこやかな笑顔を見せる由美子に、思わずカズの背筋が伸びる。

「校庭十週、行って来ます!」

 哀れ、真面目に授業を受けていれば良いものを、

 余計な遊びに気が行ってしまうからこうなるのである。

 リュウやサル達と比べるとカズは、だいぶ要領がよろしくないらしい。良く言えばまっすぐ。悪く言えば単純明快。扱い易い奴と言えよう。

「ひぃーっ! 暑ちーっ!……くそっ! 覚えてやがれっ!」

 ミーンミーン。鳴くセミの声が余計に暑さを増長する。さしもの元気小僧も、真夏の校庭十週は堪えた様子であった。

◆◆◆11◆◆◆

 昼時になれば悪ガキ達の至福の時間、学校に来る目的ナンバーワンを確実に欲しいがままにしているは、給食の時間が訪れる。しかし、悪ガキ共はここでも本領発揮である。

「よしっ。みんな、準備は良いか?」

 どこの世界でも必ず一人はやってくれる牛乳の早飲み競走。

「いやねぇ……」

「ちょっと、止めてよね。男子ー」

 盛り上がる男子軍とは裏腹に女子生徒の反応は冷ややか。

「これだから男って子供なのよねー」

 そんなやりとりを見ながらも由美子は嬉しくて仕方なかった。

 やっぱり時代が流れても変わらない物ってあるのね……あたしの子供の頃もこんなだったもの。みんなでこぞって早飲みしてみせて、ときどきこぼしちゃったりして。何が面白いのか、あたしにも分からなかったわ。

 ホント、男の子っていくつになっても子供なのよね。あの人も昔はこういう遊び、やっていたのかしらね? そうだとしたら、なんだか可愛いわね。

「先生っ! 笑ってないで注意して下さいっ!」

「おっ。出たぜっ! クラス委員っ!」

「いよっ! 待ってましたぜっ!」

 メガネにおさげ。ちょいと気の強そうな女の子。クラス委員……早い話クラスのまとめやくみたいな存在。こういう役目に限ってお堅い女の子がやるから困る。男子生徒からは、通称『お局様』と呼ばれている女子生徒。

 メガネをツイと上げてみせると、怯むこと無く周囲を見渡してみせる。その威風堂々たる振る舞いに、由美子は引きつった笑みを浮かべていた。

「……先生、この様な事態をただただ笑って見過ごすのですか?」

 やけに大人びた口調のお局様。

(嫌ね。この子ったら、恐ろしくババ臭いわね。こりゃあ、あたしの方が絶対若いわね……って、そうじゃなかったわね)

 由美子は心の中で独り言を呟いていた。

 迂闊に気を抜くと、思わず吹き出してしまいそうな自分を抑えつつ、教室内を見渡す。

「……ああ、こら、男子。女子の迷惑も考えなさい」

「先生、お局様の味方するのかよぉっ!?」

 すかさずカズがちゃかす。

 面倒な焚き付け方をするな……由美子は苦々しい笑みでカズを見据える。

 こういう場面での采配は難しい。どっちかの肩を持てば、どっちかの敵になってしまう。さて、どう切り返すか? 由美子は少々思案しながら応えた。

「誰かの味方をするわけじゃないわ。ただ、男子は女子の迷惑を考えなさい。でも、女子も分かって上げて。基本的に、男の子は女の子よりも子どもなの。保健の授業でも習ったでしょう? 女の子はお母さんになれるんだから、男の子よりも大人になるように出来ているのよ? だから、男の子達が子供なのは大目に見て上げて? そういう余裕って……オトナの女の魅力だと思わない?」

 クスクス笑う由美子に、なるほどと満足気なお局様。何よりも「オトナの女」という響きが年頃の女子生徒の心を鷲掴みにした。女子生徒達も、お局様が満足するならばと、一緒に頷いてみせた。

 相変わらず振る舞いが子供な男子達は再び賑やかに騒ぎ出す。だが、女子生徒達は余裕に満ちた振る舞いで受け流していた。そんなどこにでもありそうな光景に、由美子は心から感謝していた。やはり、この田舎の分校に志願したのは間違いでは無かったと。

◆◆◆12◆◆◆

 賑やかな給食も終わり、やっとのことで訪れる下校の時間。

「なぁ、カズ。今日はどこで遊ぶ?」

「うーん、そうだな……。なぁ、マコトん家は遊べるか?」

「ボクの家? 良いよ。カズ君ったら、狙いはクーラーでしょ?」

 クスクス笑うマコト。マコトの家は島でも一位二位を争うお金持ち。クーラーなどと言ったハイカラなものだってしっかりと備わっているのだ。

 なんでも父親は大会社の取締役らしい。カズ達には『取締役』などと言う難しい言葉の意味など分かる由も無かったが、少なくても偉い人なのだと言うことだけは幼心にも分かったようである。

「おい、待てよ……」

「お前は二組のテツ……何のようだ?」

 カズの表情が険しくなる。カズが一組のガキ大将とすれば、彼、岩熊徹は二組のガキ大将と言うわけである。

 幼い頃から野球をやっていた彼は、同じく野球と言う共通点でカズと共通している。それ故にお互いライバル視していて、こうして、ちょっとした事でもお互いピリピリしているのである。どちらも自分こそが大将なのだという想いがあればこそ、一歩も譲れなかった。

「フン。カズ。お前、あの広瀬っちゅう先公にホれてるんだってな?」

「なっ!……なんで、オレがあんなババァにっ!?」

「へへっ、図星みてぇだな?」

 テツはカズと同じ年にしては、恰幅の良い少年であった。真っ黒に日焼けした太い腕は、いかにも強そうに見える。取り巻きの雑魚二人はさておいても、剛腕の主砲、テツの持つ威圧感は相当のものがあった。

「……てめぇ、オレにケンカ売っているのか?」

「お前には、一度判らして置いた方が良さそうだな。どっちが大将に相応しいか……裏山で待ってるぜ。」

「上等だぜっ!」

 リュウ達は、息巻くカズの背後で盛り上がっていた。

「おい、カズ! あんなデブに負けるなよっ!」

「まぁ、カズがあんな奴に負ける訳ないよね」

「あんまり派手にやらかしちゃ駄目だよ?」

 口々に応援のメッセージを残すとカズの友人達も裏山へと向かった。テツの取り巻き達も

 ニヤニヤ笑いながら裏山へと向かっていった。そんなやりとりを見つめる者がいた。

「……こ、これはゆゆしき事態だわ。クラス委員として見過ごすわけには行かないわ。せ、先生に報告だわ!」

◆◆◆13◆◆◆

「へへっ。やっと来たかよ……」

「ああ、来てやったぜ。皆。悪りぃけど、下で待っていてくれないか?」

 セミの鳴き声が一層賑やかな神社の境内。

 雑木林から聞こえてくるセミの鳴き声、風が木々を揺らす音。そして、二人の少年の鼓動の音までもが聞こえてくるようであった。

「……なるほどな。おい、お前等も下で待っていろ」

「カズ、負けんなよっ!」

「ああ、まかしとけっ!」

 テツがニヤリと笑ってみせる。海の潮風で鍛えられた体躯は黒く日焼けした体。やけに白い歯が彼の強さを一層強調した。

「相撲で勝負だ。文句ねぇよな?」

「あははっ! お前、デブだもんなっ!」

 ムカっと来たのかテツが怒りを燃やす。

「うるせぇなっ! 殴り合いのケンカなんかすると、母ちゃんがうるせぇんだよっ!」

「母ちゃんがおっかねぇなんて締まらない話だなぁ……」

「う、うるせぇ!」

「お前らしくねぇけど、まぁ、良いぜ。オレはどんな勝負だって、絶対負けないぜ!」

◆◆◆14◆◆◆

「ええ? カズ君達が? 相変わらず、困った子達ね……」

「先生っ! のんびりと構えている場合ではありませんっ! 事態は刻一刻と、大変な事に成ろうとしつつあるんですよっ! ええ、下手をすれば……二組と全面戦争になってしまいますわっ!? まぁっ! なんとした事でしょうっ!? これは言うなれば宣戦布告ですよっ!」

 お局様の突拍子の無い発言に、由美子は苦笑いを浮かべて見せた。

(この子の頭の中はどうなっているのかしら?……こりゃ、男子共の気持ちも分からなくもないわね。あたしだって、こんな妙ちくりんな子に、抑えられたら堪らないもの……やっぱりお局様なのね……)

「先生っ!」

「はいはい……お局さ、じゃなかった。田中さん? 良い事? 男の子なんてね、ちょっとくらい元気な方が良いのよ? それに殴り合いのケンカするなんて一言も言ってないでしょ? あの子達の事ですもの、虫取りで競走とか、そういった可愛らしい勝負に違いないわよ」

 由美子は思わず考えてしまった。まぁ、虫取り勝負じゃカズ君には、勝ち目は無さそうね、と。

「ですがっ!?」

 なおも食い下がらないどっかの議員様みたいなお局様を制すると、再び由美子は説得に移った。

「あのね、田中さん、あなたはあの子達のママじゃないでしょう? それとも……カズ君に気があって、心配で仕方ないのかしら?」

 少々苛立って来たのか、由美子は教師と言う立場を忘れ、思わず熱くなっていた。

「なっ!……なんで、なんで、この私が、あーんな、サルみたいなバカタレにっ!? そういう先生こそっ!」

「な、なんですってっ!?」

 夕暮れ時の暑い空気に包まれた職員室。今、ここでも女同士の奇妙な戦いが始まった。響き渡るはセミの鳴き声だけだった。

◆◆◆15◆◆◆

「いくぜっ!」

「うおおおっ!」

 体のでかさを活かして強烈なタックルで迫るテツ。それに対しカズは機敏さに欠けるテツの弱点を突いた。

「うりゃっ! 足払いっ!」

「うおっ!……て、てめぇっ!反則じゃねぇかっ!」

「うるせっ! デブデブ百貫デブっ!」

 カズの言葉を受け、頭に血が上ったテツはすかさず張り手で応戦。撲たれたカズも黙っちゃいない。間髪居れずに跳び蹴りで応戦した。

「このやろぉっ!」

「いてっ! こんにゃろっ!」

 今や大変なケンカになってしまった。カズが噛みつけばテツが体当たりで反撃。そんなこんなで、いつしか夕暮れの空には、巣に帰るカラスの群が見えていた。

「はぁっ、はぁっ……」

「お前……結構、根性あるじゃん」

「お前こそ、大したもんだぜ……」

 突然テツが笑い出す。けたたましい笑い声は神社の入り口で待つリュウ達のもとまで聞こえてきた。

「な、なんだよ? 気色悪りぃな……」

 焦るカズを後目に、にっこり笑って手を差し出すテツ。

「握手だ。やっぱりお前、強いな。オレの負けだ」

「……な、何言っているんだよ。お前の方が……強いと思うぜ?」

 なんだか照れくさくなって、思わず鼻の頭をこすりながらそっぽを向いてしまうカズ。だが、次の瞬間嬉しそうに笑うと、がしっと固く握手した。

「へへっ! オレさ、お前の事見直したぜ。なぁ。今度さ、一緒に虫取りいかねぇか?」

 テツが鋭く反応する。やっぱり二人は良く似ているらしい。

 野生児の血が騒ぐのか、ワクワクした表情のテツにカズは自慢気に昨日の話をしてみせる。

「オオクワガタだっているんだぜ? すげぇだろっ!」

「ほんとかよ!? 今度、オレも連れて行けよっ!」

「ああ、良いぜ。ふぅ、しっかし、オレ達なんでケンカなんかしていたんだろうな?」

「わかんねぇ……けど、良いじゃねぇか。んなこたぁどうだってさ」

 二人は神社の境内に腰掛けていた。夕焼け空を眺めながら満足そうに笑っていた。

「なぁ、テツ。お前さ、好きな子とかいるのか?」

「な、な、何を、きゅ、急にっ!」

 いやに焦るテツ。真っ赤になってしどろもどろになるあたり、何やら妖し気な香りがする。

 テツの反応を見届けたカズが不敵に笑う。

「よぉ、誰だよ? 教えろよ」

 さっきまでの悪ガキぶりはどこに行ったのか、小さくなって、ついでに真っ赤になって

 モジモジしてしまう辺りがヤケにお茶目な彼であった。

「だ、誰にも……言うんじゃねぇぞ? い、一組のよ……」

「オレのクラス? 誰々、まさかお局様とかっ!?」

 カズの言葉にテツが思い切りムキになって反論する。

「あ、あんな妖怪変化じゃねぇよっ! 斉藤……雪名だよ……」

「マジかよっ! あいつ彼氏いるんだぜっ!」

「ガーン!……うそだろ……」

 カズの意外な応えに石化してしまうテツ。

 どうやら彼は、以外にもシャイな上に一途なお茶目さんだったらしい。

「まぁ、そんなに悲しむなよ。お局様はフリーだからよ。」

「………………」

 テツの返事は無かった。変わりにげんこつが一発、カズの頬にめり込む。

「てめぇ……やっぱり、ムカつくぜっ!」

「いってぇ……冗談だよ、怒るなよ、な?」

「うがー! 許さんっ!」

「わっ! よせっ! 落ち着け! お前、目がマジだぞっ!」

「うがーっ!」

◆◆◆16◆◆◆

 一方その頃、神社の入り口ではリュウ達が和気あいあいと遊びに夢中になっていた。

 本堂までの長い階段に腰掛けて、みんなでお菓子を食べながら彼らの経験談やら何やら、お喋りに填っていた。

「そうそう、カズの奴さ、今日なんかさー」

「ああ、オレ達も見ていたぜ。校庭走らされていたよな?」

「オレが思うに、やっぱり、先生に気があるよ。」

 リュウが感慨深そうに頷けば、サルが声をあげて笑う。テツの取り巻きコンビも色々な

 暴露話をしている。どうやらリーダーよりも部下の方がしたたかな様子であった。

 ミーンミーンと鳴く声はいつしかヒグラシのカナカナと鳴く声に変わっていた。そして、その頃……

「大体先生はいい加減過ぎるんですっ!」

「黙りなさいっ! だから、お局様って呼ばれるのよっ!」

「何ですって!?」

 未だ学校でもバトルは続いていた。

「あの……そろそろ職員室閉めたいのですが……」

「今、お取り込み中よっ!」

 ふらっと入ってきた校長先生を一喝すると、二人のバトルは今もなお、終わることなく続けられた。

 こうしてのどかな島の一日は幕を閉じようとしていた。島は今日も一日、とても平和であったと言えよう。

 都会の喧噪とはまったくかけ離れた世界。いつしか夕焼け空にはお月様が顔を出し始めていた。

◆◆◆17◆◆◆

 翌朝もまた、相変わらずの蒸し返すような暑い朝であった。けたたましく鳴くセミの声は、いつも以上に激しく、風もないおかげで、木の葉のサラサラと言う音も聞こえない。

「暑っちーなぁ……」

「ああ、こう暑いとくたばっちまうぜ……おう、ところで昨日の高校野球みたかよ?」

 すっかり打ち解けたカズとテツが肩を並べて歩む。

 肩を並べれば野球の話題に花が咲く。それもそのはず。お互い幼少の頃から野球には、相当の思い入れをしてきたのだから。

「昨日の野球? ああ、見てねぇよ。かぁちゃんがよ、宿題やってからテレビ見ろって言うんだぜ。いいじゃんかよなぁ?」

 テツはムスっとした表情で、あからさまな苛立ちを見せていた。

「なんだよ、お前も見てねぇの? オレも見てねぇんだよ……」

「なんでぇ、おめぇも同じじゃねぇかよ?」

「うるせぇな……かぁちゃんにだけは叶わねぇんだよ」

「だよなぁ! 判る、判る。女って怖いからなぁ」

 日に焼けたガキ大将コンビが廊下を歩む様はなかなか圧巻なものがある。

 そんな二人を見つめるは、やはり彼女たちであった。

「……女が怖いですって? ふーん。ずいぶんな偏見ねぇ。教育が必要と判断したわ」

「ゆゆしき事態だわ……二組の大将とカズ君が……」

「ん?」

 廊下からひょこんと首を突き出すは、由美子とお局様。

 お互い顔を見合わせ、思わずギョっとしてしまう。

(な……なんで、田中さんがこんな所にいるのよ……!? あ、あたしは、教師としてカズ君達が心配なだけよ……)

「先生、きょ……今日も良いお天気ですね……」

 メガネをツイと上げてみせるお局様。だが動きが妙にぎこちない。

 昨日の熱いバトルの後と言うこともあって、両者一歩も譲らない緊張状態が続いていた。

「さ、さぁ、田中さん、そろそろ授業始まるわよ……」

「そ、そうですね。じゃ、あたくしはこの辺で……」

 なんだか妙にギクシャクした二人のやりとりを見届けるのは、この暑さにも関わらず、どこか温い校長であった。

 カーンカーン。授業の開始を知らせるベルの音が響く。

 今日も一日、暑い……もとい、熱い一日の始まりとなるのであった。

◆◆◆18◆◆◆

「なぁ、カズ、知っているか?」

「ん? 何の話だ?」

 相変わらず授業中だと言うのに、まったく気合いの入らないカズ。例によってリュウとのお喋りに花を咲かせていた。

「なんでもさ、テツの仲間が隣町の奴らに絡まれたらしいんだ。厄介な話だよな」

 隣町……カズがピクリと反応する。

(ああ、覚えているぜ。何時だったか野球の試合で隣町の奴らと対戦したことあったけど、随分とガラの悪い奴らだったな……)

「ええ、それでは……カズ君」

「うーん」

 考え込むカズに、由美子の声は届いてはいないようだ。

 哀れ、今日もまた、この炎天下の中校庭十周が待っているのであった。

「ひぃ〜っ!……暑ちぃーっ! くそっ! 覚えていろよ……」

 クラクラする頭を抱えながら、カズは必死で走り続けた。

 相変わらずセミの鳴き声がけたたましく響きわたる。

「……ミンミンミンミン……うるせぇんだよっ!」

 暑さからだろうか? 頭に来たカズは、何を思ったか突然木に登り出す。セミにケンカを売ってどうするのであろう?

「んん?……はぁっ! ゆゆしき事態ですわっ!」

「え? 田中さん、どうしました?」

「先生、カズ君がっ!」

「え?」

 お局様の声に従い、校庭に目線を投げ掛けた由美子の目には、セミを相手にケンカしているカズが飛び込んだ。カズが放課後、残されたのは言うまでもない。

 結局、由美子にこってり絞られた後、カズはテツと共に帰り道を歩んでいた。

「ったく、いちいちうるせぇってのっ!」

「あははっ、お前がアホなんだよ。」

「なんだとっ!?」

 暑い夏も夕方になれば涼しい。いつしかミンミンと鳴くセミの声も、ひぐらしのカナカナと鳴く涼やかな声に変わっていた。

 風がそっと風鈴を鳴らす。夕飯の用意をしているのであろうか? 焼き魚の煙に野良猫が鼻をひくつかせる。のどかな夕暮れ……だが、その時

「ん? おい、あれテツの友達じゃないか?」

「お、お前ら、どうした、そのケガはっ!?」

「あっ……テツ。それに、一組のカズじゃん……どうもこうもさ、隣町の奴らに絡まれちゃってさ」

 苦笑いしてみせるテツの仲間。仲間達を見つめるテツの肩は小さく震えていた。

 テツはこれで仲間思いな所がある。自分の仲間がやられたとあっては、黙っちゃいられない。典型的なガキ大将なのである。

「おい……テツ、一人で行くのかよ?」

 カズは不敵な笑みを浮かべながら、テツの肩を掴んで見せた。一瞬驚いたような表情を見せるテツであったが、次の瞬間、健康この上ない白い歯を見せて笑うと親友の腕を力強く掴んだ。

「来てくれるのか?」

「ったりめぇだろ。お前一人で叶うワケねーじゃん」

 憮然とした表情をしながらも、テツは嬉しそうにしていた。

 ガキ大将コンビが、今、隣町のワル共を相手に戦おうと手を組んだのである。だが、二人で挑むのはあまりに賢くはない。いくら彼らでも、その位は分かっている。伊達に、しょっちゅうケンカをしてはいない。

 夕日の沈もうとしている中、二人のガキ大将がゆっくりと歩き出した。その表情には怯えの表情は無かった。変わりに、自信に満ちた笑いと、満ちあふれる冒険心があった。

「テツ……行くぜ。」

「おうっ、遅れるなよ。」

◆◆◆19◆◆◆

 元気良く飛び出していった彼らであったが数刻後には、見事に返り討ちにあって帰ってくるのであった。

「ただいま……」

「おかえり……どうしたんだいっ!?」

 傷だらけ、痣だらけに、泥まみれの我が子を見て飛び上がるカズの母。だが、伊達にガキ大将の母はやっちゃいない。すぐさまケンカだと気付くと手にしたおたまを振り上げてみせる。

「またケンカしたのかいっ!?」

「かぁちゃんには、わかんねぇのかよっ!? オレ達、コケにされたんだぜっ!頭来るじゃねぇかよっ!」

 息巻くカズとは裏腹に、母はあくまで冷静であった。

 カズには分かっていた。少なからず母の言うことも正しいと。

 だが、だが……彼には、それ以上に誇りを傷つけられたのが堪えていた。相手は大勢で挑んできたのだ。こんな卑怯なケンカで敗れたとあっては、カズの名に恥じる。

「……とにかく、ほら。洗面所で傷洗って来な……」

 カズには、そんな母の優しい言葉が痛く思えた。

 負けてしまった情けない自分に対する怒りと、悔しさと、そして、母の優しさに触れたカズの頬を涙が伝った。そんな姿を悟られまいとカズは、くるりと踵を返すと、再び玄関を飛び出していった。

「ああ、カズっ!……まったく、困った子だねぇ……」

 母親達の情報網とは、なかなかに侮りがたいものがある。

 カズの母にはおおよそ彼が何処へ行ったか検討はついていたのだ。だが、子供達はさらにしたたかであった。母親達の電話の内容から、何が起こっているかを理解した。

 そう。カズの友人達にも、情報は少なからず伝わっていたのだ。少なからず彼らには分かっていた。カズがどこへ向かったのか。母親達は、その場所の名は知ってはいるが正確な

 場所は知らないはず。秘密基地……彼らが目指したのはそこであった。

◆◆◆20◆◆◆

 月明かりがきれいな夜。海辺の小屋。もはや誰も使わなくなってしまった物置小屋の様な

 小さな藁葺きの小屋。少年達はここを秘密基地として密かな遊び場にしていたのであった。ある者は結果の芳しくなかったテストの答案を隠し、またある者は、どこぞの本屋からか仕入れてきた大人向けの本を持ち寄り、仲間達と鑑賞することもあった。

 そう、ここは彼らの基地。子供達の城なのである。

「ぐずっ……ちくしょう……よってたかってなんて、絶対卑怯だぜ……ぐずっ、なめんなよ……バカヤローっ!」

 一人小屋の隅で、悔し泣きをするカズ。

 だが、突然現れた人影に驚き飛び上がる。

「誰だっ!」

「……カズ、オレだよ。」

「リュウ! どうしてココにっ!?」

「母ちゃんがさ、電話で話しているの聞いてさ。ここじゃないかなって思ったんだ。ほら、食えよ」

 にっこり笑うリュウ。ポケットからビスケットを数切れ出して見せた。

 友に涙を悟られないように拭うと、カズは嬉しそうにビスケットを頬張った。

「センキュー、リュウ」

「実はさ、オレだけじゃないんだよなー」

 まさか?……動揺するカズの前に現れたのはサル……そして、マコトであった。

「マコトっ! お前までっ!?」

 マコトは照れくさそうに笑っていた。「だって、ボクもカズ君の友達だもの」。そう言いたかったが、照れくさくて口に出来なかった。

 マコトはカズに密かに憧れていたのだ。運動神経抜群で、何時も元気一杯なカズの姿に少なからず魅かれていたのだ。

「カズ君、話は聞いたよ。ケガしたんでしょ? うちからね、薬箱持って来たんだ。絆創膏もあるし、傷薬もあるし……それから、ええっと……」

 ゴソゴソと薬箱をいじくりながら、慣れない手付きで薬を探るマコト。そんな仲間達の心遣いにカズは再び涙が出そうになったが必死に堪えた。

「へへっ……カズ、良いモン持ってきたぜ」

 ニヤっと笑うサル。手にした紙包みを開くと、そこには、どこから見つけてきたのかマッチとランプ。これで暗い小屋も明るくなると言うものである。

「……みんな、ありがとうなっ!」

 嬉しそうに笑うカズであったが、一方その頃、由美子の家では、大変な事態になっていた。

◆◆◆21◆◆◆

「はいっ、もしもしっ!」

「先生っ!」

 うわっ!……でっかい声ね。感じからして誰かのお母さんの様ね……カズ君達、また何かしでかしたのかしら? ふぅっと、冷や汗が吹き出す由美子。だが、あくまで冷静に振る舞いながら返す。

「ええっと、どちら様でしょうか?」

「マコトの母ですっ!……先生、うちの……うちの、マコトが居なくなってしまったんですのよっ!」

 キンキン声な上に、やたら興奮しているのか力強く叫ぶ声に、耳がピリピリする。

「は……はぁ。お友達の家に遊びに行ったのではないですか?」

「こんな夜遅くに、お友達の家に行くですってっ!?」

 マコト君のお母さんも濃いわねぇ……なんなのよ、このザーマス系のオバハン口調な上に、

 ハイトーンボイスのこのママは……まったく、この島の女の人って皆こんな感じなのかしら? 由美子は思わず、お局……もとい、クラス委員の田中を思い出していた。

「申し訳ないですけど、心当たりがないので……はぁ。何か分かったら、すぐ、連絡いたします。ええ、電話番号は……はぁ、分かりました。それでは……」

 ふぅっ。一体、今の電話は何だったんだ? 冷や汗たらたらの由美子であった。ようやく夕食を食べようと箸を持った瞬間、再び電話が鳴り響く。

「はい、もしもし……え? リュウ君のお母さん?……はぁ」

 それから約半刻の間、由美子の自宅の電話が鳴り止むことはなかった。絶えず、誰かの母親からの電話が鳴り響いていた。

 ママ達の話をまとめるとこうなる。

 カズをはじめ、そのお友達が一斉に居なくなったと言うのだ。秘密基地に向かうとの、謎の一言だけを言い残して。

 さすがの由美子も、ここまで大きな事態になってしまっては動かないわけにはいかない。さっそくカズの家に親達を集結させて対策本部を設置する。

「先生、申し訳ありませんねぇ……うちのバカ息子がご迷惑をお掛けしまして」

「とにかく、もう夜も遅いですし、何よりもカズ君達が心配です。取りあえずマコト君のお母さんは連絡役に残って下さい。私達で捜してきますので電話番お願いします」

 由美子がとっさにマコトの母を電話番に就かせたのは言うまでも無いだろう。なにしろ、一番役に立たなそうであったし、それ以上に、一番うるさそうなお母様であったからと言う理由もあった。

 そして、今、ママさん達率いる対策本部が動き出したのであった。

◆◆◆22◆◆◆

「んでさ、オレとテツで行ったは良いけどさ、大勢でフクロにされちまってさ……このザマだぜ」

「卑怯だよな。それって」

 持ち寄ったジュースで晩酌している辺り中々凝った趣向である。ランプの明かりにワラの小屋。波の音が聞こえる浜辺。ちょいと粋な居酒屋を演出してみせている。

「ところで、かぁちゃん達心配しているかな?」

「いきなり飛び出しちゃったからな……」

 ガヤガヤと賑やかにやっている少年達。

◆◆◆23◆◆◆

 海辺を探索していた由美子がふと、足を止める。

 耳を傾けて声の発せられた方角を検索してみせる。

「……あんな所にいたのね。秘密基地とは良く言ったものだわね。まったく、世話のやける子達ね」

 由美子は苦笑しながら砂浜を歩んだ。

 秘密基地の入り口までくると、大きく深呼吸をした。

「こんばんわ」

「うわっ! せ、先生っ!」

 驚く少年達であったが、由美子は咎めることもなく可笑しそうに笑ってみせた。頭ごなしに叱りつけるだけが全てじゃない。それが由美子の哲学であった。

「皆揃ってどうしたの? 黙ってお家飛び出しちゃって……お母さん達、心配しているわよ。ん? カズ君、どうしたの?」

「……先生には関係ねぇだろ」

 口をとがらせそっぽを向いてみせるが、その顔色は何故か赤らんで見えた。

「隣町の奴らにさ、ケンカ売られたんだって」

「リュウっ!」

 余計なことをっ! カズはリュウを睨んだがリュウは飄々とした表情で話してみせる。

「隣町の子達に?……ふーん。ずいぶんとナメた事してくれるわね……」

「へっ?」

 不敵な笑みを浮かべ、指を鳴らす由美子に

 思わずカズが戸惑う。まさか、先生が……ボコボコに……ってか!?

「分かったわ。隣町の学校は一校だけよね。明日、行って先方の先生と話を付けてくるわ。でもね、カズ君? 暴力に対して暴力で応えたら、その子達と同じよ。それじゃいけないと思うのよね」

 由美子の言葉に、カズ達は静かに耳を傾けていた。その様子を見届けながら、由美子は話を続ける。妙に不敵な笑みを浮かべている姿に、むしろカズ達の方が動揺させられていた。

「そうそう。カズ君は野球やっているのよね? だったら、野球で勝負しなさい。でもね、やるからにはね……」

 由美子は口元を歪ませ、さらに不敵な笑みを浮かべる。

 キョトンとするカズを、ビシっと指さすと高らかに声を張り上げた。

「徹底的にブチのめしてあげるのよっ! 良いわねっ!」

「は、はいっ!」

 由美子の迫力におされたカズ達は、思わず力無く座り込んでしまう。

「さ、みんな。取りあえず今日は帰りなさい。良いわね?」

◆◆◆24◆◆◆

 由美子に誘導されて少年達は各々の家へと帰った。

 由美子の巧みな説得により母達に怒られた者はいなかった。それどころか豪胆な島の女達は、我が子の勝負を応援しようと息巻く位なのであったのだから。

 カズ達の脳裏に、由美子の一言が残る。

『明日から特訓よ! ビシビシっ! しごくから、覚悟なさい!?』

 やってやろうじゃないかっ! 窓から眺める夜空を見つめながらカズは不敵に笑って見せた。

 その夜遅くに、その情報はテツの耳にも入った。カズ達の一群とテツの一群を併せて取り敢えず九人。ギリギリ野球に参加できる人数であった。

 何時に無く熱い由美子に、はじめは教頭も戸惑っていたが、熱心な由美子に推され仕方なく承諾する羽目となってしまった。

 そして、その次の日から早くも由美子の特訓が始まった。

 何とか隣町の学校との交渉も平和的に解決したらしい。そう。生徒達を置き、由美子は単身隣町の学校になぐり込みに行ったのである。

『……どうも。隣町の第一小学校から参りました、広瀬と申します』

 不敵に笑う由美子の表情は少なくとも慈愛に満ちた菩薩のモノでは無かった。その笑顔の裏に隠されていたのは仁王の如き憤怒の表情であった。

 由美子は負けん気の強い少女だった。幼い頃から、少人数の者を多数の者達が痛めつけるやりかたには、殊更反発を覚えていた正義漢ぶりを見せつける程の、おてんばな一面も持ち合わせていたのだ。

『うちの生徒達が、とんだ無礼をしたそうで……』

 ペコペコ謝るのは初老の教師。やはり海の男なのか、皺深い顔は、浅黒く日焼けしていた。穏やかな表情ながら、実に油断のない物腰。中々にしっかりした良い先生じゃないの? 由美子は戸惑った。だが、悪いことは悪いと言い切らないと気持ちが悪い由美子は、初老の教師の隣で憮然とする教頭に流し目をくれてやりながらも話を続けた。

『……武力に武力で挑めば、少なからず傷は大きくなりますわ。健全に……スポーツで、野球で勝負……いかがでしょう? 教頭先生?』

 一瞬、ピクリと反応する教頭先生。やけに成金シュミなスーツに眼鏡がいかにも悪趣味な感じを強調していた。

『わ……わかりました、来週の日曜日で如何でしょう?』

『分かりました。その旨、こちらの方にも伝えておきます。まっ、精々、がんばってくださいね。それから……』

 精一杯の皮肉を込めてニヤニヤ笑う由美子にますます教頭の表情が険しくなる。その様子を見届けながら、殊更に嬉しそうに笑いながら由美子は挑発してみせた。

『……反則行為。それから後腐れは無いようにお願いしますね、教頭先生?……それでは、私はこれで。では、ご機嫌ようー!』

 後日この話を生徒達に、さも自慢気に話して見せた由美子。

 カズやテツはともかく、リュウ達までもがすっかり由美子の武勇伝に心弾ませていたのであった。そして、いよいよ本格的な特訓の幕開けである。

◆◆◆25◆◆◆

「ほらっ! もたもたしないっ!」

 ビシビシしごくと言った、由美子の言葉には偽りは無かった。

「ひぃーっ! 先生、容赦なさすぎだぜ……」

「ほらほら、文句言わないっ! はい、カズ君、もう一本よっ!」

 何だかんだと言って、一番燃えているのは先生じゃん……。内心そう思ったが、少なからず目的は一緒なのだ。自分たちの事を本当に思ってくれる由美子に対しての想いが、何よりもカズを動かしていた。

 辺りは夕暮れ。さすがに夏でも夜は暗くなる。涼やかな潮風もまた彼らを応援してくれた。夜空を飾るのは静かに光を讃える月と星々。

 カズ達一組のメンバーと、テツ率いる二組のメンバー総出で、今一丸となって、泥まみれになりながらも必死でがんばった。皆が汗と泥にまみれた頃である。

「あら?……まぁ、カズ君のお母さん。それに、みなさんも」

「先生、遅くまでご苦労様。お弁当作ってきたのよ。ほら、あんた達、夕飯だよ! 先生もどうぞ」

「え? あたしの分もあるんですか?」

 嬉しさからか、思わず真っ赤になってしまう由美子。豪快な島の女達がどっと笑う。

「お口にあうかどうか、判らないけれど、たくさん食べておくれ」

「ほら、ほら。あんた達もしっかり食べるんだよ」

「うお〜っ、メシだ〜っ!」

 飛びつく子供達。だが、母達のカウンターは、それよりも僅かながらに早かった。母達は無言で水飲み場を指さした。なるほど、泥まみれな手で食べればお腹を壊してしまうというものである。

「先生、うちのマコト……足手まといになっていません? なにしろ……お外で走り回った事なんて無い子ですから……」

 なるほど。都会出身のマコトと島の元気な子供達とでは、確かに少なからずハンデがあるように思えた。確かにメンバーの中では一番能力は無いが想い人一倍だ。きっと上手くいく。由美子はそう信じていたからこそ、マコトもメンバーに加えたのだ。

「お母さん、マコト君を見て下さい。あんなに泥だらけになって、がんばっているんですよ。きっと、上手く行きますよ。だから、心配しないで下さい」

「う、うちの……マコトが!?……」

「あらあら、マコト君のお母さん、しっかりしなさいな」

 あまりの事に相当驚いたのであろうか? 見るからに教育ママな、マコトの母はあえなく失神してしまった。体の弱いマコトが土に塗れながらも、必死で駆け回っている。その姿に余程驚かされたのだろう。

◆◆◆26◆◆◆

 そして、それから試合までの一週間、彼らはそれこそ死にものぐるいになって、必死で練習に明け暮れた。

 ある者は体中にたくさんの傷を勲章の如くつくり、また、ある者は、欠かさず祈り続けた。また、ある者は自主トレを欠かすことなく行った。皆が皆、それぞれの想いを胸に試合に望んだのであった。

 その日は澄み渡るような晴天。ただでさえ暑い夏の日でありながら、ひときわ暑い夏の日。それが試合の日であった。隣町のメンバーも次々と集まってくる。中には、カズ達を襲撃した奴らもいた。

 だが、カズ達はそんな目先の利益には微塵の興味も示すことはなかった。ただ、今は全力を出したい。それが彼らの一様な想いであった。そして、試合は始まった。相手チームの先行である。

「リュウーっ! 軽くかましてやれよっ!」

「まかしときー」

 明るい声のリュウ。だが、少なからず緊張で一杯であった。

 広い、広いグラウンド。応援席には一組、二組の仲間達の姿があった。その中には由美子に、カズ達の家族の姿も見受けられた。

 さしものお調子者も、ここまで強烈なプレッシャーにはさすがに参ってしまったらしい。額の汗を拭いながら構える。

 敵、ピッチャーが不敵な笑みを洩らす。

 お前なんかに、打たせるもんかっ! リュウも負けてはいない。不敵な笑みを返す。

「ピッチャー、振りかぶって、第一球、投げましたっ!」

「やああっ!」

 間合いが早すぎる……カズが下唇を噛みしめる。

 ダメだ。あの間合いの速さではボールを逃がしてしまう。焦りすぎだ。もっと、落ち着いてボールを見るんだ。

 カズはそう言いたかった。だが、勝つことに意味があるんじゃない。皆が皆、それぞれのベストを尽くせれば良いじゃないか? それが、今日のミーティングでの由美子からの、最後の一言であった。

 だが、やっぱり……やるからには勝ちたいと思うのが人の心というものであろう。

「リュウ、落ち着けー! 良いか? 相手を人間だと思うな。ピッチャーは、キャベツだと思え! そうすれば、落ち着けるさ!」

「なるほど、わかったよっ」

 カズの突拍子の無い言葉に、テツが思わず吹き出す。何だかんだとクールに振る舞っているけど、心の奥底に燃えたぎるカズの熱い闘志と、自分の持つ意志とが通ずる事に思わず奇妙な近親感を覚えてしまった。

「くそっ! 上手くいかなかったよ。ごめんな、みんな……」

 だが、結局リュウは相手に打ち負かされてしまったのだ。

 勝負は、追い付いたり追い抜いたり、なかなか差が広まることは無かった。さしものクラス委員もこの事態を重く受け止め……思わず「ゆゆしき事態だわ……」と、洩らしてしまう程、切迫した試合になっていたのだ。

 だが、相手チームもあくまで正々堂々と戦う意志はあるようだ。

 これには少なからず由美子も好感を覚えたようだ。なるほど、この子達にも武士の魂は

 あるってワケね。なかなか捨てたモンじゃないわね。

 これなら、どっちが勝っても文句はないわね。

 でも……出来ることなら、カズ君達を勝たせてあげたい……。

 いえ、カズ君達に勝って欲しい。ここまできたら、あたしにとやかく言うだけの権限なんてないんだもの。

 しかし、由美子の想いとは裏腹にカズ達のチームはじわじわと追いつめられていった。

 どんよりと曇った空は、さっきまでの晴天があたかもウソであるかのように、そして、カズ達のチームの未来を示すが如く重くのし掛かって来た。

「ちっ。雨が降ってきたぜ……」

 ついに、雨が降り始めてしまった。だが、試合は続けられた。

 思わず祈るような気持ちになってしまう由美子を支えてくれたのは、カズ達の母親達であった。肝っ玉の座った力強い声援に、カズ達の反撃が始まった。

 テツが、その剛腕を活かして、強力な主砲を放てば素早い動きで、サルが盗塁してみせるマコトが自らの失敗に打ちひしがれれば、カズがそっと応援する。

◆◆◆27◆◆◆

 そして、九回裏……泣いても、笑っても最後のチャンス。二アウト、二ストライク、満塁の窮地にまわってきたのは……。

「カズ君っ! がんばってーっ!」

「カズーっ!」

 場内から響き渡るは、割れんばかりのカズコール。ここまで応援されては、負けるわけにはいかないと言うもの。

 相手のピッチャーも全力で対応しようと言う気迫に満ちあふれている。

 そう。今、この最後の一球に全てが託されているのだ。

 いつしか雨は上がり、再び蒸し暑い風が吹いた。

 全ての想いを託し、相手ピッチャーが最後の一球を打ち出した。構えるカズ。様々な想いが交錯していた。

 みんなでがんばって来たこと。虫取りに行ったこと。

 唯一無二の親友と出会えたこと。素敵な思いでの数々、そして、何よりも素敵な人との出逢い……。先生、オレ……負けないぜ……。

「うおおりゃあっ!」

 良い当たりだっ! だが、際どい……ホームランになるか!?

 いや、相手チームの強者がミットを構えている。もしも、キャッチされればカズ達の負け。だが、もしも……サヨナラホームランになれば、カズ達の逆転勝利となる。

 皆が祈った。カズが、テツが、リュウが、サルが、マコトが……由美子が、お局様が、母達が……仲間達が、全ての想いを託していた。

 その時であった。どんよりと曇った空の隙間から一陣の光が立ち込めたのだ。雲の隙間から差し込む光に、しばし、皆が息を呑んだ。そのあまり美しくも神々しい光景に、皆が止まった。そして、その時……奇蹟が起きた……

「……風が」

 巻き上がった一陣のつむじ風が……ボールを押し出した。

「ゆ……ゆゆしき事態ですわ……ゆゆしき事態ですわっ!」

 思わず飛び上がるお局様は、興奮の余り、隣に座った友人の首を絞めていた。

「や……やったのね……」

「さ……サヨナラホームランだっ!」

 そう。カズの渾身の一撃は、見事に風をも味方に付けたのだ。

◆◆◆28◆◆◆

 帽子を脱ぐ相手チームのピッチャー。にこやかに笑うとカズに握手を求めてきた。カズは照れくさそうに笑い返した。そのまま、力強くその手を握り返した。

「……あの時は、悪かったな」

 相手チームのピッチャー……言うなれば、相手チームの大将と呼べる存在なのだろう。

 過ぎ去ったことを穿り返すのは好きじゃない。確かに、あの時は酷い目に遭わされた。だけど、今こうして向き合っている。だったら、それで良いじゃないか。ここから始まる友情だってあるはずなのだろうから。

「気にしてねぇよ。それよりさ、良い試合、ありがとなっ!」

 一瞬、困った表情をしながらも照れながら微笑むピッチャーの少年。

「ああ、お前達……強いな。また、勝負しようぜ?」

「望むところさ。でもよ、オレ達の勝ちは決まってるけどな?」

 テツがにやにや笑いながら突っ込む。

「そうそう、天気まで味方にしちゃうんだもんな」

「あはは、そいつはすげぇや。でも、次はオレ達も負けないぜ。良い試合、ありがとうな」

 由美子が、母親達が、嬉しそうに笑った。相手チームの少年達が嬉しそうに笑った。そこには、全てを達成した充実感が、すべてを誇れる自信と全てを受け入れられる強さが、優しさが、存在していた。そして、少年達の冒険心あふれる、素晴らしい世界が……

◆◆◆29◆◆◆

「起立、礼、おはようございます。」

 その次の日、カズ達の武勇伝でクラスは未だ興奮醒めやらぬと言った感じが残っていた。

 相変わらずの暑い朝だったが、何時になく由美子の表情は重かった。

「みなさん、おはよう。昨日は、本当にご苦労様でした。素晴らしい勝負をありがとう!」

 笑顔の由美子の表情には、言葉に出来ない哀しみが滲んでいるように思えた。

「そして、もう一つ悲しいお知らせがあります……産休で休んでいた山口先生が、戻ってきます。よって、私の仕事ももうじき終わります……」

 そっと、微笑む由美子の表情は今まで見せたどんな表情よりも、弱々しく、また、儚くも見えた。

 クラスにざわめきが走った。

 だが、カズは何かを決意したのかただただ下を見つめ黙するばかり。

「本当に突然なのだけど、明日、帰ることになりました。急で、ホントに申し訳ないのだけど、試合もあったし余計な気を使わせたくはなかったの。だから、ずっと黙っていました……分かってね。それじゃ今日は……」

 何時もと変わらぬ授業が始まった。だが、カズは何時もとは違っていた。そう、何かを決意した表情を浮かべていた。

(オレ……先生の事、好きだったんだな……今なら、認められるさ。それに、今しかないんだ……今を逃したら、もう!)

 授業はいつもとは、比較にならないほど静まり返っていた。

 お別れ会をしようと言い出す女子もいたが、時間があまりにも短すぎると言うことで、お局様からの、ちょっとした気の利いたプレゼントをクラスで、密かに決めたのであった。

 そして、その夜の事であった。カズはそっと家を抜け出した。

 母は気付いていたのだ。だが、敢えて止めなかった。

 スズムシが鳴く夜のあぜ道は、街頭もまばらなおかげでとても暗かった。だが、カズは走った。由美子の家を目指して。そして……やっとの思いで由美子の家を見つけたカズは、高鳴る心臓を抑えながらも、そっと、ドアをノックした。正直、立っていられないほどに緊張していた。

 足はガタガタ震え、スズムシの鳴く声すらも打ち消さんばかりに心臓は高鳴っていた。真っ赤になった顔は収穫間際のトマトの様に。そう。カズの、初めての恋愛であった……。

「はーい……あら、カズ君!? どうしたの、こんな夜遅くに?」

「先生……勝手だよ!……どうして、どうして……帰っちゃうんだよ!……オレさ……オレ、う、上手く言えないけど……ううっ、先生のこと……先生のこと!」

 にじみ出る涙をカズは必死で堪えた。だが、涙は後から後から溢れてきた。地面に落ちては蒸発するように小さな跡を残す。そんなカズの姿を見届けた由美子が、そっと微笑む。

「さぁ、入りなさい。夕食はまだかしら?」

「うん……」

「じゃあ、一緒に食べましょう。スパゲティーは好き? 先生ね、ミートソースが好きでね。ちょうど、食べようと思っていたところよ。今、カズ君の分も用意するわね」

 カズは思った。オレは卑怯だ。こんな手を使うのは男らしくない……。

 だが、今を逃せば二度とチャンスは巡ってこない。カズは心の中で親友達に謝っていた。

「カズ君、お家の方には連絡は?」

「……」

 応えは無かった。変わりに小さく首を横に振ってみせた。

 その様子を見た由美子は悟った。これはお家には連絡を入れない方が良いな、と。

「先生……オレさ……」

 負けそうになる自分を必死で抑えながらも、カズは必死で自分の想いの丈の全てを声にした……つもりだった。全力で叫んだつもりだった。だが、それは微かな……虫が鳴くような、か細い声にしかならなかった。

 だが、由美子は静かに微笑みながらも、一文字一句逃さないように耳を傾けていた。

 そう、少年の勇気に応えるかの様に。

◆◆◆30◆◆◆

「……先生の事、好きなんだ……ホントに、好きなんだ……オレ、自分でも驚いている……今まで人を好きになったことなんて、ただの一度もなかったからさ……だから……オレ、オレの気持ち、先生がさ、帰っちゃう前に伝えたかったんだ……ごめんな……」

 うつむき、今にも泣き出しそうなやんちゃ坊主を前に、由美子がそっと語り出す。茹で上がったパスタをカズにすすめるのを忘れずに、あらぬ方向を見つめながら。

「カズ君、先生もカズ君の事ね、大好きだよ。でも、先生とカズ君じゃ、年が離れすぎているわ。それに、先生は本土にね、婚約者がいるの……ごめんなさいね」

『ごめんなさい』……カズの頭の中で、その一言が木霊の様に反響していた。除夜の鐘の、鐘突き棒で殴られた様な、氷が溶けたばかりの氷水を頭から浴びせられた様な衝撃に襲われていた。体が粉々に砕け散っていく様な激痛を覚えていた。

 そうさ、分かっていたさ……ああ、もっと早くに生まれていれば、オレは先生を……お嫁さんに貰えたかも知れないのに……でも、良いんだ。ああ。これで……これで良かったんだよ。

「先生、オレ帰るよ……ありがと……」

「待ちなさい。今日はもう遅いわ。泊まっていきなさい。」

「……でも」

「これは先生からの命令よ? さっ、パスタ、冷めないうちに食べて?」

 カズは熱々のパスタを必死で頬張った。

 後から後から溢れてくる、止めどなく降りしきる涙を由美子に悟られない様に……思い通りにいかない運命を憎むが如く、貪るように、最初で最後の、先生の手料理を……由美子と過ごす時を刻むが如く……。

◆◆◆31◆◆◆

「カズ君、ずいぶん泥だらけね……その様子からすると、結構道に迷ったみたいね。そうね、お風呂、一緒に入らない?」

 さすがのカズも、この一言を聞いた時には一気に我に返ってしまった。

 先生と……母親以外のオトナの女性と……一緒にお風呂に入るなんて……! だって、オレ、確かに子供だけど……でも、やっぱり……!

「あはは。真っ赤になっちゃって、可愛いわねー」

「う、うるさいなぁっ……」

「良いじゃない? 見せて減るモンじゃないし。ほらほら、そんな泥だらけじゃ寝かせないわよ?」

 由美子の熱心な誘いを断りきれず、カズは仕方なく由美子と同席することにした。だが、カズはどうしても由美子の方を向くことが出来なかった。ついつい隅っこに小さく縮こまってしまっていた。

「ほら? 背中流してあげるから、座りなさい」

「じ……自分で……出来るよ……」

「言うこと聞きなさいな? それとも、何? あたしに背中流して貰うなんて、不服だって言うの?」

 思わず声が大きくなってしまう由美子。

「……わかったよ。ちぇっ、こんな所まで先生ぶるなよな……」

「何か言ったかしら?」

「な……何も言ってないよ……」

 日焼けした背中は意外にも大きく思えた。きっと、大きくなったら、素敵な男の人になるのだろうな。由美子はそんなことを考えながら笑いが零れ落ちていた。こんな元気なやんちゃ坊主とほんの少しの間だったけど、一緒に遊べて幸せだったわ。うふふ、あなたが居なかったから、私、カズ君選んじゃったかもね?……でも……ううん、悩んでも仕方ないわね。

「さっ、一緒あがり。先にあがっていて。あたしと一緒にあがるの、恥ずかしいでしょ?」

 タオルで力一杯、必死で隠しながら、そそくさと出ていくカズを見ながら由美子はそっと微笑んだ。この子、素敵な大人になるんだろうな……どんな、かっこいい男になるんだろう? ふふっ、なんだか楽しみね。

 テレビを見つめるカズに、由美子はそっと飲み物を差し出した。

「センキュー」

「さっ、明日は朝が早いわ。そろそろ寝ましょう?」

 明日……いよいよ別れの時……カズの心は揺れた。

 そんな、カズの想いを悟ったのか由美子が、そっと微笑む。そして、おもむろにカズの頬に手を伸ばす。

「な……なにすんだ……んぐっ……」

「先生の事、好きになってくれてありがとう。あたしからのお礼よ」

 由美子は、カズの唇にそっと自らの唇を重ねた。飲み物を飲んだおかげで、少々ひんやりした唇の感触は、ふわっと柔らかく、そして、ほのかに甘かった。カズは驚いた。だが、忘れることが出来ない素敵な思い出に心の底から感謝した。

◆◆◆32◆◆◆

 その夜、カズは夢を見た。夢の中でカズはタキシードを、由美子はウエディングドレスを……そう、教会での素敵な結婚式……決して叶うことがない少年の日の思い出……明け方、カズは目を覚ました……。由美子に悟られないように、そっと声を押し殺して涙を流していた……。

 だが、由美子は気付いていた。互いの背と背で触れ合っているからこそ、痛いほど判ってしまうのであった。

(ごめんなさい……カズ君……)

 由美子もまた、カズに悟られないように声を押し殺して涙を流し続けていた。誰かを想うことが、これ程までに人の心を苦しめるのかと思いながら。

◆◆◆33◆◆◆

 そして、次の朝。かもめが鳴く港に生徒達が集結する……ハズであったのだが、何故か、リュウに、マコトに、サルの三人だけであった。

 そう。これはお局様が仕掛けた作戦だったのだ。

 敢えて彼らだけを参加させたのだ。残りの部隊は船のすぐ側に待機というわけである。

「ふふっ、誰が考えたか、大体予想着くけど……」

 苦笑する由美子。だが、何かを閃いたのかクスクス笑って見せる。なるほどね、そうだったのね?

「リュウ君、マコト君、サル君」

「はいっ!」

「野球の試合、ホントに面白かったわ。あなた達と会えて先生は幸せだったわ。ちょっと早いけれど、あなた達はあたしの卒業生だわ。卒業証書を贈らせて貰うわね」

 紙にサインペンで書いた簡素な証書であったが三人は、殊、嬉しそうに笑って見せた。

「先生、また、遊びに来てね」

「ボクら、ずっと待っていますから」

「そうそう、色男が待っているからな〜」

 困った様な笑顔を浮かべながら、カズが照れ笑いする。昨日の、初めてのキスを思いだし、尚更、赤くなってしまう。

◆◆◆34◆◆◆

「さぁ、そろそろ船が出るわね。みんな、ホントにありがとうね。先生、あなた達と出会えた事、一生の宝にするわ」

 船の方に向かい歩き出す由美子。だが、その歩は数歩で止まった。なぜなら目の前には、大勢の仲間達が待っていたからである。

「まぁ、みんな……お見送りに来てくれたの……」

「ゆゆしき事態ですわ。先生とは、まだ決着ついていないんです。だから……また、戻って来て下さいね」

 あくまで浪々と語り上げる様な口調のお局様に、由美子が苦笑する。ええ、きっと戻ってくるわ。あなたとの勝負、まだ決着ついていないものね。きっと、戻ってくるわ……ええ、きっとね……。

「船が出るぞーっ!」

「それじゃあ、みんな、元気でねっ!」

「先生ーっ!」

「ばいばーいっ!」

 船が動き出した。カモメが鳴く大海原に向かって船が動き出した。どんどん小さくなっていく生徒達。最後まで手を降り続ける生徒達。その中には、カズの姿もあった。嬉しそうにはしゃぐカズは、あわや海に転落しそうになって、由美子を笑わせてくれた。

 ええ、きっと戻ってくるわ。約束だもの。あたしの、素敵な故郷に……きっと、きっと、戻ってくるわ。

 それまで、さようなら。あたしの思い出。

 それまで、さようなら。あたしを愛してくれた人。

 それまで……ずっと、ずっと……

                               おわり