後編『夢の旅の終わりには』

◆◆◆1◆◆◆

 ゆっくりと日が落ちようとしていた。

 大草原の最中を風が駆け抜ける。その緩やかな流れに沿うようにエルアは、佇んでいた。

 風の流れが妙だ。エルアは不穏な目で空を見上げた。空は相変わらず砂漠の砂のような黄土色を孕んでいた。

 時折、土気色の雲が棚引くように流れていく。大きな空の流れだ……。ちっぽけな自分なんか呑まれてしまいそうだ。

「エルア、どうした? みんな待っているぞ」

「うん……風の流れがおかしいんだ。何かが起きそうな気がしてね」

 風が吹きぬけた。キリーの長い髪が風になびいている。そっと髪をかき分けるキリー。

 空を見上げれば、広大な空に呑まれてしまいそうな感じさえしていた。

 テントの傍らからは賑やかな楽器の音色と、歌声が聞こえてくる。

 ケンタウロス達は本当に陽気な奴らだ。ぼくらを歓迎して、精一杯振舞ってくれている。

「なんだ。二人ともこんなところにいたのかい? さぁさぁ、おいしい料理ができあがったよ。一緒に食べよう?」

 陽気に語りかけるケンタウロスの少年に、エルアは微笑みかけた。

「エルア。この世界には考えたって判らないことなんていくらでもあるんだ。悩んでも仕方ないさ。さ、行こう」

 キリーは愛用の弓を背負い込むとくるりと踵を返した。

 そうだね。考えたって判らないことなんて、いっぱいある。できることを、精一杯やってのける。それでいいのかも知れない。エルアは、沈み往く太陽に向かって精一杯の伸びをすると大きく深呼吸してみた。聞こえてくる軽快な音色に併せて歩み出した。

◆◆◆2◆◆◆

 日が沈めばそこには静寂の夜。

 月明かりの下、キリーは静かに笛を吹いていた。

 柔らかな音色。風になびく長い髪と壮大な大草原。心地よい笛の音色に、草原の草たちも安らかな寝息を立て始める。柔らかな月の光に包まれて大草原が眠りに就く。

 エルアは就寝前にと焚き火の後始末に余念のないケンタウロスたちを見つめていた。

 長旅の疲れからだろうか。心地良いキリーの笛の音色と暖かな心に包まれて、エルアは何時しか深い眠りに誘われていた。

◆◆◆3◆◆◆

 やがて朝日が見えてこようとする中、大草原を駆け抜けるケンタウロス。その背にまたがるはエルアとキリー。朝日に包まれ、大草原を吹き抜ける風と共に颯爽と走り抜けるその様は、まるで自然との一体化を果たしたようであった。静かに明けてゆく朝日に包まれて二人は雄大な景色を背に、大草原を駆け抜けた。

「北の山までは、まだ遠いのかい?」

「ぼくらの足でもそれなりに時間は掛かるよ。なぁに。それでも日が昇りきる頃には着けるさ」

「エルア、二手に分かれよう。ぼくはバロークを助けにいく。エルア、君は砂漠の街の姫を救うんだ」

「判ったよ、キリー。気をつけてね」

 キリーはくるりと方向を変えると、土気色の針のむしろの様な、北の山を目指して駆け出した。

 風を受けて長い髪が揺れていた。

 山脈の隙間から日が昇る。砂煙と、大草原の風に吹かれてキリーの姿は、少しずつ小さくなってゆく。

「こうしちゃいられない、こっちも急ごう」

「ありがとう」

「礼なんていらないよ。ぼく達は友達じゃないか?」

 にっこりと微笑むと、ケンタウロスの少年はエルアを背に乗せて、再び威勢良く走り出した。

 風が吹き抜けた。そっと、吹き抜ければ草原の草が揺れる。

 いつしか日はすっかりと昇っていた。

 暖かな日差しの中、大草原に静かに朝が訪れる。

 空が唸っている。雲が流れてゆく。何かが違っている。どこか、おかしい朝が訪れた。

◆◆◆4◆◆◆

 静まり返る様にそびえる山は、大地が露出した険しい岩肌。

 キリーはケンタウロスの少年に礼を告げると、そっと歩き出した。

 不意に茂みが揺れ動いたような気がした。何者かの気配を感じる。まるで自分を監視しているみたいだ。

 キリーは静かに歩き出した。気配を隠したところで、辺りにうごめく殺気は感じられる。背に携えた弓を手にすると静かに歩き出した。

 見上げれば、険しい山道は遥か彼方まで続いている。

 鳶が頭上を旋回している。甲高い鳴き声が辺りに響き渡る。その様子を見つめながらキリーは再び歩き出した。

「無駄なことを……気配を消したつもりなのか?」

 キリーは呟くように吐き捨てて見せた。

 だが、気配の主は黙して語ることなく、虎視眈々と彼を見つめているだけであった。

 無数の気配は、おそらくは銀色の毛並みを誇る狼たちであろう。だが、これだけの数を相手するのは少々厄介な話だ。できる限り持ち堪えたい。

 狼達は静かに目を光らせるのみで襲い掛かってくる気配はない。

 だからこそ、キリーはますます不安になるのであった。それでもキリーはひたむきに山道を歩み続けた。

◆◆◆5◆◆◆

 砂漠の景色も久しい。

 懐かしい景色にエルアは不思議な想いで一杯であった。

 遥か彼方には、あの銀色の塔が見えている。

 かなりの距離であったが、ケンタウロスの少年は風の様な早さで、エルアを運んでくれた。

 親切な少年と堅く握手を交わすと、エルアは静かに歩き出した。

 風は、砂をはらんであり、初めてこの地を訪れたあの時と一緒であった。砂塵嵐が吹き荒れれば視界は黄色い砂の色に埋もれてしまう。

「目指すは……宮殿。そして姫の下へ向かうんだ」

 エルアは力強く歩き出した。

 空はなおも唸りをあげている。

 急がなくては……もう、異変は起こり始めているのかも知れない。

 あの時、夢の中にでてきた少女。彼女こそが王女オズリックに違いない。助けてあげなくては。それから、指輪も取り戻さなくては……。

 街は相変わらず喧騒に包まれていた。行商のおじさんは自慢の絨毯を、声を張り上げて売りさばく。ツボ売りの婆さんは静かに佇む。何気ない景色なのに、どこか違っているように思えた。

 そうさ……砂漠だというのに、照り付ける様な暑さが感じられなかった。黄色一色だった砂漠の街を、どんよりとした深い雲が包み込もうとしている。まるで生き物の様に灰色の雲が迫ってくる。

「事態は予想以上に深刻そうだね。急がなくては」

 エルアは賑やかな大通りを急いで駆け抜けた。

 途中、大柄な男とすれ違った。

 逢ったことがないはずなのに、何故か妙な気配を感じ取った。男もまた、何かを感じたのかすれ違いざまにエルアの瞳を見つめた。傍らの小柄な男がきょとんとする。

 不思議な気配を感じた。この男……いったい、何者なのだろう?

 不意に我に返ったエルアは、再び走り出すのであった。

 すれ違いざまに目にした、エルアの瞳に妙な気持ちを隠し切れないカシムは、駆け抜けていったエルアの後姿をじっと見つめていた。だが、振り払うように再び歩き出すのであった。

「おい、ジョニー。いくぜ」

「あ、待ってくれよぉ。アニキぃー!」

 再び砂を孕んだ風が吹きぬけた。まるで、カシムたちの姿を隠すかのように。

◆◆◆6◆◆◆

 険しい山道は山頂に近づくにつれて次第に切り立った崖が目立つようになり、ますます険しさを増していた。

 足元に気を付けながらキリーは慎重に歩きつづけた。

 そこかしこから感じられる銀の狼たちの気配に警戒しつつ、だが可能な限り早く歩んだ。こんな危なっかしい場所で不意打ちを仕掛けられれば手も足も出ない。キリーは遥か彼方に見える砂漠の街を見つめながらも再び歩き出した。もうじき山頂だ。山頂へと続く最後の道を歩みゆくキリー。

 静寂が一瞬、沈黙へと変わった。風が止まった。冷たい気配が周囲に立ち込める。

「……良い加減出て来たらどうなんだい?」

 歩を止めるとキリーは静かに弓を番えて見せた。

 不意にざわめきが止んだ。刹那……無数の影が飛び出した。

「さすがだな、坊主……だが、ここから先へは行かせぬぞ」

 人狼ブレイドが自慢の爪を輝かせて見せる。辺りは銀色の狼たちに囲まれてしまっている。逃げ道はないという訳か……。キリーは静かに矢を手にした。

「だったら、お前を倒して先に行くまでだ!」

「ほう? 良い度胸だな?」

 ブレイドが冷たい眼差しで微笑みながら、自慢の爪を輝かせて見せる。

 もう後には退けない。目の前には親友バロークが待っているんだ。

「お前たち、手を出すな……」

 ブレイドは部下の狼たちを制すると、自信に満ちた目で見下すようにキリーを見つめて見せた。勝利を確信した笑顔。

 だが、瞬時に弓を構えるとキリーはブレイドに向けて矢を放った。

 奇をてらったブレイドの表情から一気に笑みが消えた。

「あ……危ねぇじゃねぇかっ!」

 さっきまでの自信はどこへやら。

 急に狼狽しだすブレイドに向かい、キリーはさらに矢継ぎ早に攻撃を仕掛けるのであった。そのまま素早く懐に飛び込むと、勢い良く足払いを仕掛けて見せた。派手に転倒したブレイドめがけて、さらに矢を放つ。防戦一方のブレイドが怒りの表情を露わにする。

「こ、このガキ……ナメやがって! 切り刻んでくれるわ!」

「面白い。やれるものならやってみろ」

 静かにキリーは弓を構えてみせる。余裕に満ちたキリーとは対照的に、ブレイドは怒りに身を振るわせていた。

 対峙する二人を後目に、不穏な動きを見せる雲は、さらに速度を上げて流れ始めた。何時しか、空は厚い灰色の雲に覆い尽されようとしていた。

◆◆◆7◆◆◆

 急がなくては。もう、時間が残されていないんだ。早く……早くしないと! 空を見上げ、エルアはますます不安になった。このままでは、本当に均衡が崩れてしまい、大変なことになってしまう。気温が急激に下がってきた。風には勢いが無くなってきている。妙に切ない色の空の色は、守護者の哀しみの表れなのだろうか? いずれにしても急がなくてはない。

 一刻も早く王女様に逢わなければ……。

 もうじき宮殿の入り口だ。宮殿は近くで見ると荘厳で重厚な赴きを感じられた。

 その雄大過ぎる光景に、圧倒されそうになりながらも、エルアは宮殿へと近づいていった。

 荘厳な気配を守るかのように入り口の門の前には、兵士が立ちはだかっている。まるで近づくものをすべて拒み、追い返すかのような強い気迫を放っているように思えた。

「待たれよ、幼き少年よ。ここは子供の遊び場ではないぞ?」

 表情さえ変えずに、淡々とした口調で兵士が応えてみせる。

 だがエルアは怯むことなく、兵士に向き合って見せた。

「王女様を助けたくないの!? ぼく、王女様を助ける方法を知っているんだ! だから……どうか、ここを通してっ!」

 エルアの言葉に、無表情な兵士に戸惑いの色が見え隠れしていた。

「幼い少年よ、それは真のことであると申すか?」

「本当かどうかは判らない。でも……王女様は、きっと指輪をしているはずなんだ。どんな指輪かはぼくも判らない。でもね、これだけは確かなんだ。その指輪を外さないと大変なことになってしまうんだ……」

 訴え掛けるように必死で語るエルアの目は、澄み切っていてウソを着いているような目でないことは、兵士にも判った。

「……その少年の話、偽りではあるまい」

 兵士の後ろから、そっと姿を現したのはトカゲの騎士、ドレイアであった。

 兵士たちは慌てて道を空けると敬礼してみせた。慌てて、エルアまで思わず敬礼してしまった。

 ドレイアは表情一つ変えずに、エルアの前に立って見せた。

「少年よ。貴公の名を聞かせていただきたい」

「ぼくはエルア。王女様を助ける方法が判ったんだ」

「我が名はドレイア。此処、輝ける城の騎士達を統括する騎士団長だ。エルアよ、君を信じよう。私に着いて参れ。姫に逢わそう」

「ありがとう、ぼくの話……信じてくれて」

 振り返ることなく静かに歩き出すドレイアの後を追うようにエルアは必死で走った。

 大理石で装飾されたブルーのタイル。天井まで大海原のような青い石で満たされ、随所に置かれて石像や絵画などの装飾品の美しさにエルアは目を白黒させた。

 広大な宮殿の中をエルアはおずおずと歩んでいた。

 やがて、厳かな教会の尖塔が見えてきた。姫は、きっとあそこにいるに違いない。エルアは胸の高鳴りを感じた。

◆◆◆8◆◆◆

 ブレイドは執拗に攻撃を仕掛けてきた。

 だがキリーは、どれも鼻先で交わすと、隙を見つけて矢を放って見せる。

 反撃の手数は多いものの、金属でできたブレイドの体には傷一つ付けられない。次第に形勢が逆転してきたように思えた。

 ジリジリと詰め寄ってくるブレイドに対して、徐々に体力を奪われてきたキリーの動きに翳りが見えてきたように思えた。

 微塵の疲れさえも感じさせること無く、執拗に攻撃を仕掛けてくるブレイドに、少しずつキリーが推されているようにも思えた。

「どうした小僧? 先刻までの威勢の良さはどうした!?」

 キリーは必死でブレイドの攻撃を避けながらも、隙をみて反撃を仕掛けていた。

 劣勢ながらも、冷静に周囲に気を配ることはやめなかった。そして好機が訪れる。キリーは弓を構えると、明後日の方向目掛けて力一杯矢を放った。

「おいおい……どこを狙っているんだ?」

 不敵な笑みを浮かべてみせるブレイド。だが、キリーはむしろ勝利を確信したような笑みを浮かべて見せた。

「狙いは正確さ?」

 キリーが狙ったのはブレイド自身ではない。ブレイドの頭上に生い茂るツタを狙って放ったのだ。矢が引っ掛かったツタの蔓がしなやかに唸りをあげる。次の瞬間、凄まじい勢いで矢が飛んできた。自然が作り出した天然の弓から矢が放たれる。

 キリーは何も考えずに矢を放っていた訳では無かったのだ。

 硬質なブレイドの体に傷を負わせるのは困難である。それならば、奇をてらった奇襲を仕掛けてやれば良い。そう判断したのだ。

「……うおぉ!?」

 見ればブレイドの長いシッポに、深々と矢が突き刺さっている。

 一瞬何が起きたか理解できないブレイドであったが、慌てて飛び上がって見せた。しっかりとささった矢は抜けない。

「いてぇ、いてぇ……く、くそぉ、抜けないっ!」

 矢を抜こうと必死で飛び回るブレイドの、無防備な背に向かいキリーは渾身の力を込めて体当たりを食らわせた。

「じゃあな。間抜けな狼君よ」

「うぉっ!?」

 崖から突き飛ばされたブレイドは、自らの足元に何も無いことに気付いた。慌ててみせるが時既に遅し。崖の下目掛けて勢い良く落下していった。

「あーれー!」

「マヌケな奴め……ん? このカギは?」

 ブレイドが慌てて跳ね回った際に落としたのであろう。

 何かのカギをキリーは拾い上げた。

 背後には、未だに狼たちの気配がしたが、キリーが振り返ると、慌てて、四散していった。大将を失った狼たちは情けない声をあげながら、散り散りに逃げていくばかりであった。

「……バローク、もうすぐだ。もう少しだけ待っていてくれ」

◆◆◆9◆◆◆

 どこからか楽器の音色が聞こえてくる。

 涼しい風の吹きぬける宮殿の一角をエルアは歩いていた。

 ふと、その耳に涼やかな鈴の音色が聞こえてきた。

 柔らかな紗をかき分けると、そこには横たわる王女の姿があった。神聖な儀式を行うための場所なのか、緩やかに流れる気配さえも厳かに感じられた。その緩やかな気配にエルアは酔いそうになった。

「王女は指輪を填めてしまったんだ。だから、眠ったまま目覚めなくなってしまったんだよ」

 エルアの言葉にドレイアは深く頷いてみせるのであった。いつしか傍らには司祭も佇んでいた。エルアの話に興味を示したのか、ドレイアに目配せすると、そっとエルアの前に踊り出た。

「勇気ある少年よ、指輪と申したが……どういうことなのか、もう少し詳しく教えて頂きたい。些細な情報でも構わないぞ」

 司祭の言葉に応じるように、ドレイアも好奇心に満ちた目でエルアに向き直って見せた。騎士団長に司祭殿。一国を担う位高き二人に見つめられて、エルアは思わず緊張してしまった。

「先ず、ミレイアは……魔女なんかじゃない」

「なんと!?……あ。ああ、失礼した。続けてくれ」

 驚いた拍子に、思わず声を挙げてしまった司祭。

 キョトンとした表情のエルアに気付き、話の続きを奨める。

「砂漠にある、この大地が豊かな恵みを得ることができたのには理由がある。その理由とは、慈悲深い女神様が、この地を訪れた際に宝を遺していったからなんだ」

「指輪が宝だということか?」

 ドレイアの問い掛けに対し、そうだといわんばかりにエルアは自信を持った目で頷いて見せた。

 慌てて司祭が王女の指を見れば、確かに、その指には淡いブルーの指輪が填められていた。

「はて? これは……王宮にもともとあったものではないな。姫がどこかで手にされたものなのであろうか?」

 司祭の驚いたような声に気付きつつも、エルアはさらに話を進めるのであった。もたもたしてなんていられないんだ。

「指輪は二つ揃って初めて力を発揮するんだ。片割れを失ってしまった、もう一つの指輪が暴走し始めたんだ。もう……その異変は各地に現れているんだよ。外に出てみてよ……」

 エルアの言葉に応じるが如く、ドレイアが慌てて歩き出す。

 ドレイアの後姿を、をエルアは静かに見守っていた。

 不意に司祭が何かを思い出したのか驚いたような声を挙げて見せた。

「そうか! この指輪……どこかで見たことがあるとは思ったが、古い信書の中にも出てくる女神が遺した宝……『月の指輪』ではないか! 夜を司る月の指輪……だからこそ醒めぬ眠りに就いてしまわれたというわけか」

 そこへ血相を変えたドレイアが慌てた様子で戻ってきた。

「な……何が起きたというのだ!? 分厚い雲。異様に冷えた空気。そして、何よりも信じ難いのが空から白い綿のようなモノが降ってきたのだ」

「それは、多分雪だよ……。気温が急激に下がったから、雪が降っているのかも知れない」

 哀しそうな笑みを浮かべながら、エルアは静かに応えて見せた。

 もう……異変は、大規模な動きを見せ始めているんだよ。

「む? その指輪……確か、何時ぞやか訪れた旅の商人が売っていったもの。確か、カシムと申すものであったな。大柄な狼族の男だ。まさか……あやつ、こうなることを知っていて!?」

 ドレイアの言葉に反応するかのように、エルアが顔を挙げる。

 大柄な狼族の男……。旅の商人……。不意にエルアの脳裏に見覚えのある顔が浮かんできた。

「そ、その人なら、さっき、街ですれ違ったよ! 大変だ。このままじゃあ……もう一つの指輪も危ないよ!」

「うむ。場所ならば判っておる。指輪が安置されし場所……即ち、神殿に向かったに違いない。おのれ、逃がすか! エルアよ……あの者たちは私に任せてくれ。君は、その指輪を持って、守護者ミレイアの元へ向かうのだ!」

 エルアは力強く頷くと、なおも目覚めぬ哀れな姫の壊れそうな手から、そっと指輪を外した。

 祈るような司祭に一礼を告げると、エルアは走り出した。

 よし、あとはキリー達と合流するだけだ。

◆◆◆10◆◆◆

 どこかで激しい遠雷が鳴り響いた。

 急がねば。時間が残されていないのだから。

 エルアは上手くやってくれただろうか? 山頂でキリーは、懐かしい親友と無事に再会を果たした。足枷の鎖を、ブレイドが落としていったカギで外したのだ。雄大なその姿を、大空高くに誇示しながらバロークは駆けた。

「バローク。目標は……あの宮殿だ。エルアを迎えにいくぞ!」

 了解したと、ばかりにバロークは力一杯吠えて見せた。

 大空に雄大に羽ばたくブルーのボディ。まさに、王者ともいうべき風格を兼ね備えたドラゴンのバロークは、鈍ってしまった体をほぐすかのように雄大に、そして力強く大空を駆けるのであった。

 エルアは教会の尖塔の最上部で待っていた。バロークを目にしたエルアは嬉しそうに手を振って見せた。

 その背に輝く、銀色の刀身にバロークは見覚えがあった。

「エルア、待たせたな。行くぞ!」

 キリーの手を借りながら、エルアはバロークの背に乗り上げた。

 行くぞ、とばかりにバロークが力強く吠えた。

 雄大な体を旋回しながら、大空高く、雲をも突き抜けて駆けた。目指すはミレイアの待つ銀の塔だ。

◆◆◆11◆◆◆

 宝を目の前にしたカシムは嬉々として微笑んで見せた。

「アニキ……やっぱり、やめようよ。まずいよ……」

「うるせぇな、お前は黙っていろ!」

 カシムの言葉に、ジョニーはただ言葉を失う。

 神殿内には静かな静寂と不気味なまでの冷気が立ち込めていた。

 あまりの寒さに、思わずジョニーは震え上がった。妙な気配だ。だが、その静寂もすぐに打ち破られた。

 ゾロゾロと訪れた輝ける城の騎士たちの登場に、ジョニーの顔色がみるみる青褪めてゆく。

「あわわわわ。あ、アニキぃ!」

「……お前はイチイチうるせぇっつーの……って、げげぇ!?」

 騎士たちの間から、ドレイアが現れたのをみてカシムは心臓が止まるほど驚いた。

 その手にした大剣は、決して冗談ではないということを雄弁に物語っていた。

「やっとみつけたぞ。こそ泥どもめ……。もはや退路はどこにも無いぞ? 覚悟するのだな」

 ドレイアは冷たい眼差しで二人を見据えていた。

「例の指輪のおかげで大変な目に遭ったのだ。しっかりと礼はさせてもらうぞ? 覚悟は良いのであろうな?」

 ドレイアはニヤリと笑うと自慢の大剣を構えて見せた。

 ジョニーは、ただただ肝をつぶしてしまい狼狽するばかりであった。

 だがカシムは力強く剣を構えると、向き合って見せた。

「クソっ、こんなところで……掴まるワケにはいかねぇなぁっ!」

「愚かな。ここで私の剣の露となるか? それも良かろう……」

 カシムとドレイアとの戦いが始まろうとしていた。

 騎士たちは二人の対決を、ただ静かに見守っていた。

◆◆◆12◆◆◆

 バロークの背にまたがったエルアとキリーはあの場所に戻りつつあった。

 銀色に輝く塔……雪が舞い落ちる中、エルアたちは必死で駆けていた。

「バローク、もう少しだ。頼むぞ……」

 任せてくれとばかりに、バロークは力強く吠えて見せた。一旦上昇すると、乱気流に呑みこまれないように、旋回しつつ一気に突っ込んでいった。青い体が流れとなってゆく。

 激しい気流の流れ。雲が、水滴が、弾丸のように体にぶち当たる。息もできないほどに激しい冷気が吹き付けてきた。だが三人は臆することなく道を突き進んだ。

 それが選んだ道である以上は、退くことなんてできないのだから。

 三人揃った今、恐れるものなど何もないのだから。

 やがて銀色の塔が見えてきた。

 三人はそれぞれの想いを胸に、塔の入り口へと降り立った。

 バロークを休ませると、エルアたちは塔の入り口に向かい歩み始めた。

 降りしきる雪は大粒で、風は冷たく身を切るような冷たさだった。ここが本当に砂漠なのか? 疑問に思わずにはいられない光景であった。

 塔の扉は、音も立てずに静かに開いて見せた。まるで、入って来いといっているかのようにさえ思えた……。

◆◆◆13◆◆◆

 勝負は、あっないほどに一瞬で決まった。所詮、盗賊かぶれの男と腕利きの騎士とではまさに赤子と大人の勝負に等しいものがあった。

「フン、口ほどにもない奴め。指輪は返してもらうぞ?」

「くそー、くそー!」

 なおもジタバタするカシムとジョニーを縛り付けると、騎士たちは指輪を元通りの場所に安置した。淡いオレンジ色を放つ指輪は、二つの指輪の片割れである太陽の指輪。力強い輝きはどこか寂しそうに思えた。力を制することが出来ずに強大な力を放ちつづける指輪にドレイアは苦い表情をみせる。頼んだぞ……エルアよ、後は君たちだけが頼みの綱なのだから……。

◆◆◆14◆◆◆

 真白な雪は周囲の地域一帯に降り始めていた。

 はじめて目にする、綿のような、冷たい雪に、はじめは人々も興味を示したが、やがて異常な空気を感じ取るようになった。

 人々は家に篭もり、カギを閉める者もいれば、祈りを捧げるものもいた。

 岬の修道院のシスターたちも、この異様な光景に驚きを隠せない。

「一体何が起きてしまったというのでしょう? 本来雨さえも滅多に降らない砂漠地帯に……雪が降っているなんて……」

「これも神の思し召しなのでしょう。さぁ、祈るのです」

 シスターは、不思議な気配を放つ少年……エルアを想い、祈りを捧げた。

 街の人が、宮殿の人々が、危機的な異変に恐怖し、ただ静かに祈りを捧げていた。

 未だ眠りから醒めぬ王女に胸を痛める王と司祭もまた、希望を託し空を見上げるばかりであった。

 神殿から外の様子を窺う騎士ドレイアの表情も険しい。

 地底人たちが慌てふためく。だが、長老は静かに佇んでいた。

 大丈夫……あの子ならば、きっとやってくれるであろう、と……。

 大草原にも雪が降った。ケンタウロス達がざわめく。だが、いつしか誰かの口から……エルアと、キリーを呼ぶ声が聞こえた……。

◆◆◆15◆◆◆

 銀の塔の内部は異様なまでに静まり返っていた。

 細かく造り込まれた装飾も美しい塔の内部に潜入した二人は静かに、慎重に歩き出すのであった。相手は強大な力を持ったミレイアだ。例え、偉大な守護者であったとしても、その絶大な力は決して侮れないのだから。

 二人は螺旋状に続いている階段を昇っていた。

 どれほど昇れば最上階なのかとさえ、思わせる不思議な魔宮。銀の装飾が、視覚的に侵入者を欺いているのではないのだろうか? そう考え始めると、総てが幻想のようにも思われる。

 だがエルアも、キリーも、目指す道は一つだけであった。

 手にした指輪をミレイアに渡すんだ。この……淡く輝く月の指輪を。

 静かに冷たい空気が伝わってきた。見上げれば、もうじき最上階。

 そこに彼女は佇んでいた。

 グリーンの髪。透き通った瞳。魔女という表現からは程遠い美しい女性。静かに振り返るとエルアたちに向かい微笑んで見せた。その肩に乗った黒い鳥も笑った。

「勇ましき少年たちよ……よくぞ此処まで参られたな……」

 ミレイアは静かに微笑むばかりであった。焦点の定まらない目は、どこを見つめているのか判らなかった。だが、その圧倒的な気迫、強力な存在感は肌で感じ取れた。

「……ミレイア。いや、守護者よ……ぼく達は指輪を返しに来たんだ」

 ミレイアは静かに頷くと、美しい手を差し伸べて見せた。

 まるで雪のように白い肌と、鮮やかに輝く爪も美しい。

「勇気ある少年達よ。良くぞここまで来てくれた。感謝するぞ。これで……これで、私の役目を無事に終えることが出来る。再び安らかな眠りに就くことができる……。感謝するぞ。さぁ、見るが良い。お前たちのおかげで、指輪は無事に戻り……均衡も戻るであろう。私は……神殿に戻り、指輪を戻そう。そして、再び眠りに就くのだ。お別れだな、勇ましき少年たちよ……我が名を語り継ぐがよい。お前たちの栄光に満ちた物語と共にな。そして後世に道を示すが良い……」

 静かに微笑むと、ミレイアは月の指輪を指に填めて見せた。

 刹那、凄まじい光があたりにたち込めた。

 あまりの眩しさにエルアは、キリーは思わず目を覆った。再び気がついた時、そこにはミレイアは居なかった。微かな芳香だけを残して、消え去ってしまったのだ……。

「行こう、エルア。均衡が戻れば……」

 塔の窓から、恐る恐る外を覗き込めば……そこにはいつもと変わらぬ砂漠の景色が広がっていた。

 黄色い空。吹き荒れる風は、砂を孕み砂塵嵐となる。そんな当たり前の光景が広がっていた。皆が、再び戻った世界に驚いたのだ。そして……異変は宮殿でも起こっていた……。

「う、ううん……」

「ひ……姫!? おお……なんということだ……オズリックが目覚めたぞ!」

 王は、思わずその場に居合わせた司祭と抱き合うと喜びに満ちた声で笑い出して見せるのであった。

「……あら、お父様? 司祭様まで。私、いったい今まで何を?」

 きょとんとした表情のオズリック。一体、何が起きていたのだろう? 彼女には、何もかもが理解できなかった。だが、その脳裏に語り掛ける者がいた。淡いグリーンの髪と澄んだ目の女性……ミレイアが、オズリックに総てを告げたのであった。

「……そう。そんなことが起こっていたのですね」

「む? どうしたのじゃ、オズリックや?」

「エルア様とキリー様のお陰で、砂漠に平和が訪れたのですわ」

「やはりあの少年たちであったか……。うむ、見事であったぞ……」

 眠ったまま目覚めることが無かった王女の目覚めは瞬く間に街中に広がった。

 ある者は王女の目覚めを喜び涙し、抱き合い喜びに浸り、また……ある者は砂漠の女神に深い感銘と、敬意を込めて祈りを捧げるのであった。

◆◆◆16◆◆◆

「……行こうか、エルア。じきに姫も目覚めるだろう。バローク、行くぞ。ぼくたちを乗せてくれ。砂漠の街へ!」

 キリーの声に応じるようにバロークは、ふわりと浮上すると、力強く、雄大に羽ばたいて見せるのであった。

 大空を羽ばたき、駆けるその青い流れに人々は喜びを感じた。

 平和が戻ったのだ……そうさ、平和が戻ってきたのさ。

 バロークは、何時にもまして雄大な羽ばたきを見せるのであった。

 やがて、眼下には砂漠の街が見えてきた。

 エルアの視界に、ドレイアに連行されるマヌケなカシム兄弟が目に入った。頭上の巨大な影に気付いたドレイアが、微笑みながら手を振って見せた。

 苦い表情をしてみせるカシム兄弟が妙に滑稽でエルアは笑った。

 キリーの長い髪が風になびいている。もうすぐ宮殿だ……。

 王女様……宮殿の中庭には、待ち切れないのか、せっかちな王の姿が見えた。

 そして、その傍らには……美しい水色のレースを羽織った王女、オズリックが佇んでいた。

「よし、バローク……慎重に着陸するんだ。間違っても王女様を吹き飛ばしたりしないようにな」

 まかしとけって、とばかりにバロークは陽気に応えてみせる。

 一瞬エルアは、ドラゴンのバロークが振り向きついでに微笑んだ気がした。バロークの背から降りると、エルアは王女の下へ歩み寄った……。

◆◆◆17◆◆◆

 淡い花の香りのする美しい王女は、可憐な立ち振る舞いを見せる美しい少女であった。

「王女様、無事で何よりです」

 エルアは静かに微笑んで見せた。王女は、そっと手を差し伸べると優しく笑った。

「貴方がエルア様ですわね? ミレイア様から総て聞きました。あなたたちの活躍が無ければ……この世界は大変なことになってしまっていたことでしょう。あなたには、本当に感謝します」

「そろそろ、ぼくも正体を明かしてもいい頃かな……」

「え?」

 不意に、背後でキリーが可笑しそうに笑ってみせる。

 その声に呼応するかの様にエルアは振り返ろうとした。その瞬間、キリーは眩しい光を放った。あまりの眩しさにエルアは目を開けていられなかった。

 だが、次の瞬間……自分の名を呼ぶ声に、エルアは背筋が凍り付きそうになった。

「エルア……よくがんばってくれたね」

「そ、その声は……まさか……ご主人様!?」

 慌てて目を凝らせば、懐かしい主の姿が目の前にあった。

 一日だって忘れた日は無かった。寝る前に自分に話を聞かせてくれた心優しいご主人様。あの時と変わらぬパジャマのままで……。

「ごめんね、エルア……。君を騙すつもりは無かったんだ。ただ、ぼくは……君と一緒に冒険してみたかったんだ。だからね、エルア……子犬だった君を……本の世界に案内したんだ」

 エルアには、もはや何も聞こえていなかった。

 ああ、どんなに逢いたかったことでしょう……。ぼくは一瞬だって、ご主人様……あなたを忘れた日は無かった。

 天に召されてしまったことを聞かされた、その時は、天使様をひどく恨んだものです……。

 それが、それが……今、目の前にいるなんて……。

「エルア、ぼくはね……君と一緒に冒険したかったんだ。このお話を読んだ時、思ったんだ。ドラゴンのバロークにまたがって、一緒に大空を羽ばたけたら、どんなに素敵だろうってね」

「夢なんかじゃないです……今なら、できるはずです」

 エルアは、後から後からこみ上げて来る涙を拭うと、力一杯微笑んで見せた。

 バロークも微笑む。そうだ、それでいいんだと言いた気な表情で頷いてみせる。

「行こうか、エルア。みんな……待っているさ」

 バロークは、ふわりと浮かび上がると、雄大な翼をはためかせて羽ばたくのであった。ぐるりと旋回すると岬へ向かい羽ばたいてゆくのであった。

◆◆◆18◆◆◆

 修道院のシスターたちが手を振っている。砂漠の景色が遠くに見える。

 地面から顔を出したモグラたちが嬉しそうに微笑んで見せた。エルアは力一杯手を振って見せるのであった。

 なおもバロークは、体を翻しながら大空を駆けてみせる。

 青の導師が手を振ってみせる。赤と紫の姉妹も手を振って見せる。

 大空の向こうに銀色の塔が見える。

 大草原ではケンタウロスたちが、バロークの影を追って次々と追い掛けて見せる。雄大な草原と、ケンタウロス達……。

 北の山の山頂では、怒りに満ちたブレイドが地団駄踏んでみせる。エルアは思わず失笑した。

 風は砂の香りを称えている。

 そうだよ。これでいいんだよ。砂漠は……暑くて、砂の香りがするんだ。時に砂塵嵐が吹き荒れるものなのさ……。それでいい、それでいいんだ。

◆◆◆19◆◆◆

 一通りの旅を終えたエルアたちは再び宮殿に戻ってきた。

 ドレイアが凱旋を喜び、静かに微笑んで見せた。

 王女の目覚めを喜ぶ街の住民たちは、派手に花火を挙げて喜びを表現する。

 まさに、街が一つになってお祭り騒ぎが始まろうとしているのであった。

「エルア、楽しかったね。君と冒険できて、本当に嬉しいよ」

「ぼくも……また、ご主人様に逢えて嬉しいです……」

 暖かな空気に包まれていた。優しい風が、そこにあった。だが、オズリックの表情は、哀しく曇っていた……。

「エルア様……ここまで世界を戻してくださったのは、すべて貴方のお陰です……。感謝しています。ええ、皆が感謝していますとも……。でも、あなたは、この世界の者ではないのです。エルア様……恩義ある、貴方にこんなことをお伝えするのはとても心苦しいこと……。でも、乱れた世界が貴方を呼んだのだとすれば、世界が秩序を取り戻しつつある今、貴方は元の世界に戻らなくてはなりません。どうか……どうか、恨むなら……私を……」

 王女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「え?」

 エルアは何がなんだか理解できずに、慌ててジョンに向き直って見せた。だが、ジョンも哀しく微笑むばかりであった。

「ありがとう……エルア。君に、また逢えて嬉しかったよ。ありがとう、本当に……ありがとう」

 エルアは、堅い握手を交わそうとした。だが、何故か手が届かない……。

 いや、そうじゃない……吸い込まれる……何かの力に! 凄まじい力に!

「イヤだよ……。ダメだよ……。どうして? どうしてなんだよっ!? ぼくは……帰りたくない、帰りたくなんてないよ……ああ、ご主人様……ご主人様ーー!ぼくは……ぼくはーーー! わあああああああ!」

 大空に向かい吸い込まれていこうとするエルアを見て、堪えきれなくなったのか、ジョンは走り出した。

「エルア! エルア! ぼくたちは……ずっと、ずっと、親友だよ!」

 ジョンは溢れてくる涙を堪えきれなかった。エルアは必死で手を伸ばそうとした。だが……それも叶わぬ願い……。

「バローク! ぼくを乗せてくれっ!」

「い、いけません! そんなことをすれば……貴方は!」

 王女は慌ててジョンの手を掴んだ。だが、ジョンは乱暴にその手を振り払うとバロークに跨り、気流に突っ込んだ。

 刹那、凄まじい疾風が吹き荒れた。不意に目も開けられないほどに、強烈な光に包まれて、激しい風に体ごと巻き上げられて、エルアは悲鳴をあげた。凄まじい力で舞い上げられた体はまるで捻じ曲がってしまいそうな感じさえした……。

 そう、まるで……あの時と、まったく同じような状況で……。

◆◆◆20◆◆◆

 気がついてみれば、そこは暖かな毛布の上であった。

 エルアは慌てて自分の手足を見てみた。茶色の毛並みに覆われた愛らしい手。へにゃっと曲がった小さな耳も、柔らかくクルリと巻いたシッポも……。

 そうさ、ぼく……犬に……犬に戻ってしまったんだ。

 慌てて周囲を見渡せば、机の上には燻るランプと、あの本が置かれていた。

 外は雪……暖炉の中で薪が弾ける音が聞こえてきた。

 そこは暖かな空気と、柔らかい絨毯に包まれた家。砂塵嵐が吹き荒れる砂漠でも無ければ、あの……渇いた暑さもない。

「ああ、ご主人様……」

 エルアの目から大粒の涙が零れ落ちる。後から後から涙が零れ落ちては、毛布に吸い込まれていった。どうして……どうしてこんなことに……。

 神様は残酷だ。道はとても険しくて、ぼくは迷子のままなのかな?

 暖かな毛布に包まっているうちに、エルアはいつしか深い眠りに就いていた。

 夢の中で、彼は人間の姿であって、ジョンと共に冒険しているのであった。

 今度は、どの街にいこう? どこを冒険しよう? 大丈夫だよ。ご主人様とバロークがいるんだもん。ぼくだって……弱虫で、怖がりだけど、ちょっとは……できるさ。むにゃむにゃとエルアの口元が静かに、寝息を立てていた。

◆◆◆21◆◆◆

 明くる朝。朝日がまぶしい朝。エルアは静かに目覚めた。

 外では小鳥が鳴いている声が聞こえる。

 ここは……そうだったね。ぼくは……もう、戻ってきてしまったんだ。ただの、子犬のエルアなんだ。

 不意に元気良く扉を開く音がした。その音に思わず、一気に目が醒めた。

「エルア、早く、早く。お散歩に行くよ!」

「!?……ご、ご主人様!? ど、どうして!?」

 もはやエルアには何がなんだか理解できなかった。なぜ……本の世界で再会した主人が、ここにいるのか!? だって……ご主人様は確かに……エルアは考えようとしてみた。だけど、そんなことをしたって無駄だってことに気付いた。

◆◆◆22◆◆◆

 そうだったね。道は……誰かが歩いた後に出来るもんじゃないんだ。自分で創りあげるものなんだ。

 どんな道であれ、ぼくの作った道には違いないんだ。良いじゃないか? 素敵な物語の中に呑みこまれたんだ。素敵な出来事があったって良いじゃないか? もう、考えるのはやめた。今は……今を考えよう。

「エルア、早く、早く。行くよ!」

 急かす様に笑う主人に向かい、エルアは嬉しそうに飛び込んだ。そのまま準備万端とばかりに元気良く玄関を目指した。

 ジョンが玄関の戸を開ければ、外は眩しいほどに良いお天気だった。

 雪解け水が冷たくて、思わず飛び上がってしまったけれど、ジョンは元気に走っていく。

 あ、待ってよ! 慌ててエルアは走るのであった。どこまでも……どこまでも……道が続く限り、エルアは走るのであった。朝日は眩しく小鳥は愛らしく歌い、風は優しい緑の香りに包まれていた。

◆◆◆23◆◆◆

 それは、とても不思議な、不思議な物語。

 その本は古びた造りをしており、微かにかび臭い香りがした。

 セピア色の本の表紙には大空に向かい力強く羽ばたくドラゴンと、その背にまたがる二人の少年がレリーフとして彫られている。作者は不明。何時の時代に作られた本なのか、今では知ることもできない。刻まれた文字は古い時代の文字。

「Road of Destiny〜Dragon's Story〜」

 風も無いのに、静かにページがめくれた。パラパラとめくれて……そして、ある所で止まった。

 古びた机の上で、本はランプの明かりに煌々と照らされる。チリチリと時折音を立ててランプが燻った。他には何の音も聞こえない静寂。そのページの挿絵には……雄大に羽ばたくドラゴンと……仲睦まじい二人の少年の姿が描かれていた……。


                                 The End