第1話『旅立ち』

◆◆◆1◆◆◆

 ―――白銀の雪原 夢の終わりの後で―――

 夜半前から降り始めた雪は止むことを知らない。どこまでも広がる幻想的な銀世界。

 アデューは雪を踏み固めながら墓へと続く階段を歩む。振り返れば一面の銀世界の中に、雪原を歩んできた事実を告げる足跡だけが残っていた。その足跡もすぐに降り積もる雪に消される。鈍色の空から雪はただ静かに舞い降りてくる。

 踏み締める雪の感触を愉しみながら階段を昇り続けると雪に包まれた墓が見えてくる。雲間から微かに覗く日の光が柔らかい。高台にある墓からは見渡せる広大な海。後ろを振り返れば白銀の雪に包まれた木々の聳える山の眺望。海と山の織り成す壮大な景観を見守るかの様にそこに佇む墓は誰よりもこの国を愛した救国の英雄に贈られた最後の想い。

「良い景色だ。こんな寒い朝には海を駆けるカモメも震え上がるだろうに」

 アデューは雪に包まれた墓から雪を払っていた。どうせすぐに雪に包まれてしまうだろう。だが、少しでも寒さから遠ざけることが出来るのであれば良い。ささやかな想いではあったが、それは精一杯の感謝の気持ちの表れでもあった。

「僕達の国もだいぶ落ち着いて来ましたよ。それから……」

 手を合わせながらも、温かな吐息を吹き掛けずにはいられない。体の心まで震え上がらせる様な鋭い寒さであった。舞い落ちる雪が頬に降り立った刹那、アデューは静かに空を見上げる。一片、一片、冷え切った頬に舞い降りる。遠くでカモメが鳴いている。雪は鈍色の空から零れ落ちる様に静かに舞い落ちる。次から次へと。

 一息就きながら頭を垂れる。吐く息が白く燃え上がる。

「貴方の一周忌を兼ねて参りました」

  冷たい雪に塗れた花束をそっと墓に手向けた。白い梔子の花束であった。高貴な甘い香りが雪景色の中に溶け込んでゆく。相変わらず吐く息は白く舞い上がる。鮮やかな黄色のめしべを中心に、六枚の白い花弁を持つ花。深い深緑の張りのある葉に、芯のある堅い枝を持つ梔子。華やかな香りにも白銀の雪は静かに舞い降りる。

「花束には使わない花だと聞きましたが、梔子の花の香りは本当に良い香りです。古老の知識人の伝承ですが、梔子を『朽ち無し』と掛けて、死後も魂が朽ち果てることの無いようにとの想いを込めるという意味もあるそうです」

 誰に向けてともなくアデューは微笑む。

 静寂の銀世界に高貴な花の香りが漂う。

 遠く港には船が停泊しようとしていた。汽笛が響き渡れば城下町の家々からは煙が立ち上り始める。家々に光が灯り、そして朝が訪れる。

 それは平和な景色であった。かつての戦争の爪痕も消え始めているように思える程に。

「人は過ちを犯さずには居られない生き物です。同時に犯した罪を償い、立ち直ることもまた出来るものです」

 雪は静かに降り続ける。先刻雪を払った墓は再び雪の彼方に沈もうとしていた。

「貴方が居なかったなら、人は立ち直ることが出来なかったかも知れない。少なくても帝国を平定出来たのも貴方のお陰です。感謝しています」

 だからこそ、貴方にはまだ生きていて欲しかった…そう続きそうな自らの言葉を戒めた。

「悪い癖だ。まだ、貴方に頼ってしまおうとする僕がいる。貴方はこの世を去り、僕はこの世に踏み止まっている」

 再び汽笛が響き渡る。漁船なのだろうか?出航しようとしている様子が遠くに見えた。

 雪はなおも静かに降り続けている。再び手を擦り合わせながら吐息を掛ける。微かにだが暖を感じることが出来る。一瞬だけ感じる生の思い。

「貴方の物語を綴らせて欲しいと考えています。気紛れな奴でしょう? 叱って下さい」

 頭ごなしに叱り付ける気の強い姿を振り返り、アデューは微笑んだ。

 風に散る砂の様に消え去ってしまうのは哀し過ぎる。その偉業を後世の者達にも伝えてゆくこと。二度と戦争を起こしては成らないということ。戒めになれば良い。そう自分自身に言い聞かす様に嘯いて見せる。だが、雪は純潔の証。見え透いた嘘など容易く見破る。

 髪に積もり始めた雪を払いながらアデューは再び墓に向き直る。

「貴方の生き方に心を奪われた一人の愚かな男の物語として描かせて下さい」

 墓前で想いを語りながらも、自身の心の奥深くを探っている自身に気付かされてしまった。照れくさそうに微笑みながら、囁くような小声で

「少しだけ――貴方のことを想うことをお許し下さい」

 アデューは静かに目を伏せると祈りを捧げた。

 振り返るにはあまりにも大き過ぎる歴史がそこにはあった。この命も今となっては自分だけの物では無くなってしまった。為すべき責務は山積していて、容易く行動をすることも侭ならなくなった。それでも、心の奥の灯火は消したくは無い。

 だからこそ、年に一度の命日に訪れることだけは許されたいと願っていた。年を取り、自分の足で歩けなくなってしまうその瞬間が訪れるまでの恋文代わりに。

「また来年逢いに来ます。それでは、僕はお暇します」

 静かに立ち上がり墓に深く頭を垂れた後、アデューは静かに歩き始めた。

 何時しか雪は風を伴い、一寸先さえ見えない程の吹雪の様相を呈していた。凍て付くような寒さと銀色の景色の中に彼は消えていった。

 足跡はすぐに降り積もる雪に消され、先刻まで彼がそこに居た痕跡はかき消されてゆく。

◆◆◆2◆◆◆

 これはレオルカ帝国とティフェリア王国との間に生じた戦争の記録。決して忘れてはならない戦争の傷跡を後世の者達に伝えるために綴ったものである。

 人は過ちを犯さずには生きられない生き物。だが、罪を償い、立ち直ることも出来るのもまた人なのである。

 この記録が後世の者達の道標になることを切に願う。

 ―――旧パルチザン頭首 アデュー・ローゼンバッハ―――

◆◆◆3◆◆◆

 ―――レオルカ帝国 情景―――

 中央通りの朝は教会の鐘の音で始まる。遠くまで響き渡る荘厳な鐘の音は朝の訪れを告げる変わること無き音色。双璧の塔を模した風変わりな造りは双子の皇子の誕生を祝い建立されたもの。街の建物の多くは白い壁に煉瓦色の屋根。個性よりも調和を重視するかの様な造りが印象的に見える。

 此処は平坦なバルーゼル平原に造られたレオルカ城の城下町として栄える街。やや寒冷な地域ではあるが、近隣の農村ではワイン作りも盛んである。聳え立つレナンド山脈が遥か彼方で雄大な姿を称え、内陸にあることもあり大きな気候の変動も少なく住み易い。

 古典的な色合いを保つ城下町とは対照的に、レオルカ城は広大な機械設備を保有する。軍事国家としての色合いが随所に現れているのも、この帝都の特徴のひとつである。

 街を離れて少し歩けば機械設備一色の航空基地もある。この航空基地は帝国軍の軍隊の中でも航空隊と呼ばれる特殊部隊が管理しているが、白兵戦を得意とする古参の五大騎士団が主力を担っていることには変わりは無い。

 古典的な暮らしの中に割り込んできた機械設備の数々。だが、まだ普及度合いは高くは無く、多くの先進諸国に遅れを取っている部分は否めない。それでもレオルカの誇る軍の強さは世界的な規模で見れば、劣るどころか各国の脅威の対象となっているのも事実である。畏怖の念さえ抱かれる国。古き時代からの礎を重んじる軍備の強さは色褪せることは無いということであろう。

 街には鐘の音が響き渡り、今日も何時もと変わらぬ朝が訪れる。

◆◆◆4◆◆◆

 ―――レオルカ帝国 朝焼けの城下町―――

 表面上は何も変わらぬ日常。だが水面下では夜も眠れぬ恐怖と隣り合わせ。何時、脅威に曝されることになるのか判らない猜疑心に侵食され切っている。遠く聞こえるかのように見える遠雷は、唐突に雷雨に変わる癇癪持ちでもあるのだから。過去の歴史を紐解いて見ても同様の史実は見当たらない。だからこそ人は畏れる。見えない殺人鬼は何時の間にか隣人を打ち滅ぼし成り代わっているかも判らない。素知らぬ顔をしながら嘲笑っているのかも知れない。

 街は見てくれだけの平常心を保っていた。何時もと変わらない活気を保つ振りをする市場。野菜を売り込む中年女が見てくれだけの声を張り上げるのが聞こえる。その隣では港から直送されてきた活きの良い魚を怯えた目で売り込む男の姿があった。

 舗装された道路を馬車が忙しなく往来している。何も変わらぬ日常がそこに佇んでいる。それもそのはず。忙しさは免罪符。恐怖から逃れることを許してくれる免罪符。昼も、夜も忘れて阿呆の様に働き続け居れば、もしかしたら忘れられるかも知れない。うっかり、手荷物を置き忘れたかの様にごまかせるかも知れない。

 アデューは街を歩んでいた。何かの目的がある訳では無いが、敷いて言うならば街を歩む人々の声に耳を傾けるため。不安と悪政に揺らぐ真実を知るため。

「聞いたか?北部領でも感染者が出たって話だぜ?」

 すれ違った男が小声で囁く。アデューはやや歩幅を縮めながら聞き耳を立てる。

「段々と南下して来ているってことだな。北部領も見捨てられるって訳か」

 連れの男が忌々しく吐き捨てる。

「ああ、多分な。感染を防ぐには仕方が無いってことなのだろうな」

 なるほど。進行速度は予想以上に速いな。すれ違った男達の話を耳にしながらアデューは静かに空を見上げる。空は透き通る様な青空で、雲ひとつ見られなかった。こんなにも平和な空の下で、当たり前の様に人が死んでいく。そいつの名は黒死病。人々を死の淵へと誘う無慈悲なる悪魔。一度そいつに魅入られた者は、例外なく数日のうちに命を落とす。壮絶なる苦しみの果てに、全身を黒い痣に塗り潰されて死体となる。

 案ずることは無い。その惨い最期は誰の目にも留まることはない。隔離された地域で土に還るだけだ。仮に目撃者が居たとしても、明日には黒い塊になって横たわるのだ。

 感染地域及び、その疑いのある地域は例外なく封鎖され、逃げ出すことも許されない。疫病に愛でられた者達は、皆仲良く黒い塊となって風に消えろと言う帝国政府の粋な図らないなのだ。何処かの街で感染者が見付かった場合、例えそれがたった一人であったとしても、下手をすれば「噂であった」としても、その街は死刑宣告を余儀なくされる。冤罪だろうと関係は無い。これが政府の打ち出した苦肉の策であった。

 このような乱暴な政策を皆が受け入れた訳では無い。見知らぬ他者の犠牲で自らの生命の安全が確保されるのであればそれで良い。そう思うのが人という生き物の本性なのだ。

 恐怖に駆られた人は、黒死病以上に恐ろしい暴徒にだってなれるのだ。敬虔なる神の教えを説く聖職者が、数百の同胞を迷い無く殺めることが出来る独裁者になることもあり得ない話では無いのだ。

 場当たり的な、無秩序な計画は著しく痛みを伴う。即ち、この政策の結果として帝国の人口は著しく減少している。目に見えて、加速度を上げながら。

 黒死病の大流行が始まった結果、帝国の人口は急激に減少した。結果、国を運営するための収入が手元に入らなくなる。無事に「隔離」の危機から逃れられたとしても、民衆には命を紡ぐことが困難になるような税収が課せられることになる。

「終末の訪れだとでも言うのか? こんな事態が許される訳が無い――」

◆◆◆5◆◆◆

 ―――レオルカ帝国 萌える夕日の城―――

「――この様な事態が許される訳が無い」

 声を荒げながら立ち上がったのは元老院の老人達の一人であった。他の老人達も皆同じ思いであったことは、その表情からも伺える。存在が発覚した病巣を手当たり次第切り捨てる地域封鎖政策など到底受け入れられる代物であるはずが無い。

 事態の根本的な解決に着手すらせずに次なる政策を打ち出そうと試みる皇帝に対して強い反発心を抱かずには居ることが出来る訳も無い。

 明らかに旗色の悪いバルザック皇帝は劣勢の最中で喘いでいた。

 背水の陣を仕掛けたいのは山々ではあったが、この状況では起死回生の希望等は到底差し伸べられる訳も無く、四面楚歌の最中で首を獲られるのが関の山であろう。

「陛下、今一度考え直されるべきでは無いのですかな?」

 別の老人もまた声を荒げながら皇帝に詰め寄る。

 さぁ、さぁ、首を切り落とされるか、自害するか、どちらが良い?元老院の老人達に嘲笑われながらも皇帝は必死に立ち上がろうと試みていた。

 黒死病は不治の疫病である上に、効果的な治療法も見付けられずにいる。国の医師団も様々な書物を紐解き英知をかき集めているが、いずれも焼け石に水となるような効果しか得られなかった。

「このままでは人口の減少に歯止めを掛けることすらままならぬ。あの忌々しい疫病は疾風の如き早さで大陸中を駆け巡っておる。一刻一秒を争う窮地なのだ。我らが明日という日との出逢いを果たすためには、よもや手をこまねく余力などは微塵もあり得ぬ」

 バルザック皇帝は必死で理解を求めようとしていた。元老院の老人達はあくまでも非難するような冷たい眼差しを向けるばかり。誰一人として賛同の意を見せる者は居なかった。レオルカ帝国の目付け役である元老院の老人達からしてみれば、これから始まろうとする惨劇への幕開けを容易く見逃す訳にはいかないのだ。

「侵略戦争など言語道断の極み。忌まわしき黒死病を封鎖することが出来なければ、我が国の明日は到底あり得ますまい。陛下、ご覧なさい。今、まさに永遠の日食が始まろうとしておるのですぞ? 忌々しい死の呪いが黒い痣で太陽を包み隠そうとしておるのです。おお…何と嘆かわしき光景であろうことか。陛下には見えませぬか? 渇きに喉をかき毟り、痛みに肌に爪を立てのた打ち回る民衆達の傷ましい姿が!!」

 元老院の老人達の決意は固かった。断固としての受け入れ拒否の姿勢を崩すつもりは毛頭無い腹積もりであった。

 人口の減少を食い止めるために隣国より物資を略奪するかの如く、民衆を強制招致しようという考えを打ち出す皇帝は、忌まわしき疫病への恐怖の余りに気が狂ったのでは無いかと疑う民衆も少なく無い。此処で行動を起こそうものならば、民衆の政府に対する反発は最高潮に達することであろう。ただでさえ脆くなっている障壁など、民衆の一斉蜂起の前には容易く決壊するのは火を見るよりも明らかであった。

 しかしながら黒死病の感染速度は早く、じっくりと腰を据えて作戦を検討している様な余裕などは皆無であった。今もこうしている間にも、多くの民衆が命を奪われていっているのも事実なのである。

 相反する要素を孕む事象への政策は容易く打ち出せるものでも無く、元老院の老人達の執拗な迎撃の前にバルザックは沈黙させられようとしていた。

 これ幸いとばかりに元老院の老人達の一斉砲撃が始まる。

「ティフェリアの様な小規模な国家では、我らの国に息を吹き返させるには役不足。それよりも周辺諸国に救済を求めるべく使者を出すべきですぞ」

「その通りだ。侵略戦争等と言った早まった行動に出れば、周辺諸国からの反発を受けることは間違いない。そうなってしまえば本当に取り返しが付かなくなる」

 誰一人として皇帝の発案を支持する者は居なかった。この状況を勘案した上で、どのような計算間違いをしたところで侵略戦争に到達するはずも無かったのだから。

「もはや時間は残されていないのだ。全責任は余が負う。以上だ」

 バルザック皇帝は、それだけ言い切ると席を立った。

「馬鹿な。民衆が黙ってはおりませぬぞ?」

「陛下、今一度お考え直しなさい」

 騒ぎ立てる元老院の老人達の怨嗟にも似た非難の声を背に受けながらバルザックは部屋を後にした。その志とは裏腹に逃げ出すように急ぎ足で。

◆◆◆6◆◆◆

 逃げ出すつもりは無かった。容易く受け入れられることは無いとは想定していたが、あまりにも重過ぎる緊迫感に堪えられなくなって居た。連日連夜に渡る対策協議に皇帝は疲れ果てていた。まともな精神状態では無くなっていたのも事実。何千、何万もの人命を背負うことの重責に耐えられなくなっていた。背負うには、あまりにも重過ぎる荷物を放り出さずには居られなかった。

 栄華を極めた大いなる帝国の雄大な姿は過去の記憶になりつつあった。やがては人々の記憶からも消え去っていくだけの、儚い夢の様になりつつあった。

 吸い込まれる様に流れ込み、じわじわと流れ出ていく砂時計の様な喪失感に皇帝は悲鳴を挙げたかった。

 今の皇帝は、そこかしこから嗚咽の聞こえてくる壮大なる葬儀の国と化していたのだから。教会の鐘の音が鳴り止むことは無く、街は白と黒に包み込まれ、至る所から死者を弔う香炉の煙が立ち込める国となってしまっていたのだから。

 応接の間の前にてキエナフは主君を待っていた。

 不意に扉が開くと、室内から聞こえてくる罵声にも似た怒号。やはりこうなることは避けられなかった様子だな。キエナフは哀しく吐息を就く。

 部屋を後にする皇帝は幽霊の様な青白い顔で、憔悴し切った様子であった。キエナフは恭しく頭を垂れた。だが、次の瞬間には皇帝は膝から崩れ落ちそうになる。急ぎ駆け寄ると、キエナフは驚いた様な表情で顔を覗き込んだ。

「へ、陛下!? 大丈夫で御座いますか?」

 案ずるなと手で示しながら、バルザックは静かに立ち上がった。

「貴公を使者として送り付ける。ティフェリア王国にだ」

 その一言を聞いただけで総てを察したキエナフは、静かに頭を垂れる。

「……御意」

 体を引き摺るようにしながら歩き出す主を傷ましい眼差しでキエナフは見つめていた。

 皇帝の決断は受け入れ難いものがあった。だが、仮にその決断を拒んだとして帝国が生き残る術があるのだろうか? 考えても答えは見付かる訳も無かった。何よりも尽くすべき主もまた今際の時を迎えそうな程にやつれている。その現実を受け止めることも、現状を打破するだけの力を持たない事実が心苦しかった。

 悪酔いを醒ますかの如く窓の外に目線を送る。何も知らぬ幼い子供達は、何時もと変わらず無邪気に駆け回っている。子供達の無邪気さが羨ましく思えた。先程見た主の消え入りそうな姿とは、あまりにも対照的に思えた。屈強な騎士には似つかわしくない優しい眼差しを送っている自分に気付かぬ様に微笑む。

「子供か……」

 キエナフは目を細めながら子供達の姿を見つめていた。感染地域になってしまえば、あんな幼い子供達までをも見捨てねばならぬ。死ぬことの意味さえ判らぬ子供達に罪を背負わせて、果たして良いのだろうか? 否、罪を背負わせることなど、断じてあってはならぬ。子供達には呪われた明日を迎えさせたくはない。

「手を汚すのは俺達だけで十分だ。子供達には未来がある。その未来を守るためなら」

 消え入りそうな主の悲痛な表情。弾ける躍動感を称えた子供達の笑顔。その両方が頭の中で明滅していた。頭では判っている。判ってはいるさ…

「それは誰かが背負わねばならぬ大罪」

 キエナフはマントを翻すと音を立てながら歩き出した。この状況下に於いて個人の価値観を優先させることは無意味。ならば大儀のために己を棄てるか? キエナフは具足の踵を鳴らしながら考えていた。さて、どう攻め落とすか?

 先刻の主君の言葉を振り返っていた。先ずは外交交渉の使者として赴こう。宣戦布告を告げるのは、交渉が決裂した場合の最終手段と考えれば良い。

 ひとつの采配が戦争に突入するか、否かを分ける狭間となる。そう考えると託された言葉は、重圧を伴う責務である。しかし、その重圧は主が背負っている物とは比べ物に等ならない。仮に自分が手を引けば、この責務は他の誰かに背負わすことになる。他の誰かに同じ想いをさせる位ならば、やはり俺が手を汚そう。唇をかみ締めながら歩く騎士は夕日に照らし出され、燃え上がる炎の様な鮮紅を称えていた。

 目指すは航空基地。急ぎティフェリアへと飛ぶために。

 夕日に照らし出される騎士の横顔は憂いに満ちた修羅の表情であった。

◆◆◆7◆◆◆

 ―――ティフェリア城 寒空の城下町―――

 その日の朝も城下町は淡い霧に包まれていた。晴れるのか、曇るのか、思惑を隠しながらも仄めかす空模様は気紛れであった。

 この城の周囲を守るものは何一つ無い。広大なローゼン平原は大草原で知られる長閑な場所。土着の魔物や、多くの動物達が自由気ままに暮らす場所。吹き抜ける風は、自由の象徴とも呼べるであろう。

 ローゼン平原の植物帯は土地に潤沢な水資源をもたらす。そのため、ティフェリアは「風の都」という呼び名も持っている。

 この地に住む者達は、この風土に見合った自由気ままな生き方を好む傾向が強く、街並みも個性的な色合いを持つ。煉瓦の家に住む物もいれば、山から掘り出した岩を器用に組み合わせて家とする者もいる。とにかく自由気ままで、陽気な人々の住む街なのだ。

 古くから騎士の街としても知られる街であり、古典的ながらも優秀な騎士団を保有し、騎士になることを夢見て、この街に移住して来る者達も少なく無い。

 気候は四季の色合いに強く依存しており、豊富な作物に恵まれていることも、この街の特色とも言えるであろう。

 今の季節は冬。寒さが厳しくなるが、一年を通じて最も女神エルザへの信仰が厚くなる季節でもある。厳しい冬を平穏に過ごし、来るべき暖かな春に向けての備えの季節。

 今日も教会には、多くの信徒達がエルザへの祈りを捧げに訪れていることであろう。

◆◆◆8◆◆◆

 ―――ティフェリア城 朝靄の大聖堂―――

 雲間から時折覗く柔らかな日差しに照らし出されたエルザ像。エリスは淡い光に照らされながら一心に祈りを捧げていた。エリスは王女であると同時に敬虔なるエルザ教信徒でもあった。

 漆黒の鎧に身を包み、剣を握らせれば修羅の如き強さを見せる王女。美しき顔立ちの王女は、王宮の騎士達よりも腕が立つことで有名でもある。すれ違う者皆が一度は振り返る程の美しさを持ちながらも、飾り気のあるドレスを纏うことも、優雅な舞踏会を楽しむことも好まず、剣を振るうことに生き甲斐を感じる王女。

 白一色に包まれた大聖堂には、王女愛用の漆黒の鎧が浮き上がる様であった。

 王女は跪き一心に祈りを捧げ続けている。誰にそうしろと言われた訳でも無い。何時の頃からか、エリスは毎朝の日課の様にエルザ像に祈りを捧げるようになったのだ。祈ることは決まってひとつだけ…

「――この国に永久の平和を願う」

 静かに呟くエリスの声を打ち消すような足音が聞こえてくる。不意にエリスを包み込む大きな影。静かに立ち上がるとエリスは天窓を見上げた。

「良い天気だ。今日も平和な一日が始まる」

 不穏な空気を察したのか、エリスは無表情のまま空を見上げ続ける。だが、ガリルは臆することなく、無遠慮に不穏なる事実を口にした。

「姫、レオルカ帝国からの使者が参っています」

「使者だと?」

 ガリルの言葉にエリスは慌てて振り返った。

「相手は誰だ?誰が訪れている?」

 苛立ちを見せるエリスに呼応するかのように、強い風が吹いた。大聖堂の外で木々の葉がざわめく音が聞こえる。次いで鳥達が一斉に舞い上がる羽音が響き渡った。不吉な予兆が戦慄となって響き渡る様な気がした。冷え切った凍気が波のように広がり、触れる物の全てを凍結させていくかのような動揺が駆け巡った。

「五大騎士団の団長、黒の騎士キエナフです」

「腹黒い騎士が使者だと?」

 エリスは長い髪をかきあげながらガリルを睨み付ける。

「外交交渉に見せ掛けた宣戦布告か? 帝国の連中はティフェリアと戦争でもするつもりなのか?」

「残念ながら詳細は不明です」

 鋭い眼光に射抜かれたことなど気付きもしないかの様に、ガリルはあくまでも淡々とした口調であった。落ち着き払った態度は気に入らなかったが、無骨なまでに寡黙な振る舞いにもいい加減慣れた。

 ガリルはエリスの身辺警護を担うために就けられた騎士である。無論、それは建前の話である。血気盛んで、喧嘩好きな王女の目付け役として就けられたというのが真相である。騎士団の中でも団長であるベルフィアに次ぐ程の腕と、如何なる状況でも冷静な判断を下せる不動の精神を持つ者。次々と目付け役の騎士達を潰してきたエリスと対等に渡り合える相手は他に居ないだろうと選ばれたのだ。まだエリスが幼い頃から共に過ごして来たため、良き理解者でもある。口数の少ない寡黙な男ではあるが、話が判らないということも無い。エリスに取っては兄の様な存在であり、誰よりも信頼出来る親友でもあった。

「国王はお人払いをされて、私も多くを知らされては居りません」

 今、まさに苛立ちを込めた一撃を放とうとした瞬間を狙うかのように返す。

「いちいち私の考えの一歩先を歩むな。調子が狂う」

「申し訳御座いません」

 丁寧な口調とは裏腹に、どこか揶揄めいた振る舞いが気になった。文句のひとつでも言おうかと試みたが、出掛かった言葉を飲み込んだ。重要なことはそんなことでは無いのだから。

「いずれにしても嫌な予感がする」

「わざわざ騎士団団長を寄越すというのは、少なからず武力行使の思惑があるからと考えるのが妥当かと。そう考えると資金繰りに対しての支援要求だと考えられます」

「資金繰りだと? ああ、例の黒死病の被害に対してか?」

 ガリルは頷いて見せた。他には考えられないと付け加えるのを忘れずに。

「だが、私達は舞台の外だ。麗しき姫君と、朴訥な従者といった所さ」

「はい。ですので、くれぐれも舞台に乱入は為さらない様に」

 エリスは剣に手を掛けかけたが、静かに手を引いた。

「まったく――いちいち私の考えの一歩先を歩むな。調子が狂う」

 名目だけの外交交渉ではあったが、その内情を知ることも出来ない。気掛かりではあったが、ただ燻っているしか無い。そんな状況に苛立ちを覚えずには居られなかった。

◆◆◆9◆◆◆

 ―――ティフェリア城 応接の間―――

 緊迫した空気が張り詰めた部屋であった。キエナフは、あくまでも紳士的に振舞おうと表情を作ってはいたが、燃え盛る炎の様な殺気を隠し切ることは出来なかった。

 対するラゼール国王もまた険しい表情を崩すことは無かった。国王の背後に佇む騎士団長のベルフィアも主君同様に眉間に深い皺を寄せ、牽制するような鋭い眼差しでキエナフを見下ろしていた。腰に携えた剣を何時でも抜けるように構えを取ることも忘れずに。

 風格を感じさせる古城の応接の間には、張り詰める様な気配が張り巡らされていた。丸腰では無い騎士が二人いるのだ。お互いの腹積もり次第では、この場が戦場と化すこともあり得ない話では無いのだから。

 張り詰めた空気とは裏腹に空は澄み渡り、窓からは久方ぶりに透き通る様な青空が広がっていた。長閑な風景が、だからこそ場の雰囲気を揶揄するように思えた。

「貴国が置かれている状況、我が国とて知らぬ訳では無い」

 凍結しそうな空気を打ち砕こうと口を開いたラゼール国王。キエナフはあくまでも鋭い眼光を称えたまま、射抜くかの如き鋭い眼光でラゼール国王を静かに見据えていた。

「援助を検討しているのは事実である。それでは貴国は足らぬと申すのか?」

 ラゼール国王は精一杯の譲歩案を打ち出していたのだ。アルハイム大陸は決して大規模な領土を保有している訳では無い。大国であるレオルカを支えるには不十分な程度の物資しか提供出来る訳も無い。そのことはバルザック皇帝自身が良く心得ているはずであろうに?怪訝そうな表情を見せながらラゼール国王はキエナフの反応を待つ。

「単刀直入に申し上げよう。我が国が必要としているのは『当座を凌ぐ物資』では無い。感染地域封鎖に起因する急激な人口の減少に歯止めを掛けたいと申し上げている」

 力強く吼えるキエナフの言葉にラゼール国王は揶揄を交えた笑いを浮かべる。声を張り上げ、見下すかのような、蔑むような、憐れむような眼差しでキエナフを見下す。

「貴公は自身が何を申しているか理解しておいでなのであろうな? ことのつまりは、隔離された感染地域に我が国の民を移住させようと言うのか? 貴国の復興のために、我が国の民に『人柱』になれと申しているのか? これは、これは実に滑稽なる交渉であるな」

 愚弄の言葉を浴びせ掛けられ、揶揄の嘲笑を叩き付けられ、それでもキエナフは努めて冷静な表情を崩さぬ様に振舞った。膝の上で握り締められた拳の中で小手が静かに軋む。

「無論、感染地域に関しては十二分な措置を行った上での移住を願い出るつもり。むざむざ犠牲にするような愚行を選択するつもり等は毛頭無い。王よ、考えても見られよ? 我らは人手を欲しておるのだ。なのに、わざわざ出向いて貰った『お客人』に非礼なる振る舞いをして、一体何の得になると言うのだ?」

 身振り、手振りを織り交ぜながら返すキエナフの熱弁に対し、ラゼール国王はあくまでも冷ややかな態度を崩すことは無かった。揶揄するような眼差しで、憐れむような眼差しで若き騎士を見下しながら一蹴する。

「ならば貴公の国の非感染地域の民を移住させれば良い。百歩譲って非感染地域に我が国の民を移住させる――無論、希望者のみとする。それでも良いと言うのであれば、その話を考えなくも無い」

 あくまでも双方の主張は噛み合わず、平行線を辿ろうとしていた。その平行線は地平の彼方まで続いているかの如く、決して交わることの無い物であった。

 国王としては、民衆の安全を何よりも優先したいと考えるのは当然のことである。愛すべき民衆を実験台の如き仕打ちに曝す行為等、笑止千万以外の何者でも無かった。

 窓辺では冬の寒さを健気に生きる小鳥達が戯れている。緩やかな空気が流れている室外の光景とは裏腹に、室内の空気は鋭く尖った殺気だった物になっていた。

 一触即発の空気が立ち込める中、ベルフィアは剣に手を掛ける。ラゼール国王とて剣の腕には覚えのある身である。此処で一騎打ちとなるならば、喜んで受け入れようと考えていた。今、まさに二人の心の中では、騎士と国王は落雷が急襲する荒れ果てた荒野で激しい剣撃を交わしている様なものであった。

「国王よ、貴殿は考えて見たことはあるだろうか? 我が帝国軍の誇る精鋭部隊がアルハイムを火の海に包むという図を。貴殿の采配一つで、犠牲は最小限に抑えられたであろうものを」

 出された水を一口。渇き始めた喉を潤しながら、騎士は不敵に微笑む。

「貴殿の決断一つで未来が――運命が変わる」

 少し戸惑った表情で、しばし考えた後でラゼール国王は口を開く。

「犠牲に大きいも小さいも無い。貴公が自国の民を愛するのと同じ気持ちを持っている。ただそれだけのこと」

 キエナフは哀しそうな眼差しで首を振る。こうなってしまうことは予測出来ていたが、やはり回避は出来なかったか。血を見ることなく交渉を終えたかったが、それも今となっては叶わぬ願いか。世は常に無常なものだ。

「貴殿は…民衆を、国を愛しておいでなのだな。しかしながら、我らとてその想いには変わりは無い。野蛮人だと罵るが良い――だが、これが我らのやり方なのだ」

 キエナフは携えた槍を振りかざし、ラゼール国王に突きつけた。

「き、貴様っ!!」

 怒りに身を任せ駆け寄るベルフィアをラゼール国王は静かに牽制した。

「此れは宣戦布告なり。ラゼール国王よ、次に逢うのは戦場であるな」

 言い終えるとキエナフは静かに歩き始めた。長い髪を風になびかせながら歩き続けた。決して後ろを振り返らぬ様に。自身の決断に惑いなど微塵も無いと言い切るために。

◆◆◆10◆◆◆

 ―――レオルカ帝国城下町 反帝国解放同盟基地―――

 ティフェリアへの宣戦布告の知らせはアデュー達の下にもすぐに飛び込んで来た。公式には宣戦布告の発表は為されなかったが、情報を掴み取る手段はあるのだ。

 アデューは帝国の政策に疑問を抱く若者達のリーダーでもある。不思議な魅力を持つ彼の下には志を同じくする多くの若者達が集まっていた。自身は決して卓越した能力を持っている訳では無い。だが、自然と有望なる人材が集まってくる。それがアデューの強みでもあった。同時にアデューは他の誰にも真似の出来ない特殊な能力を持つ。その能力は生まれながらに授かった悪魔の様な能力。親しい仲間達しか知らない事実。

 表立って活動するにはまだ力が弱過ぎる。アデューの下に集まった若者達はいずれも腕に覚えのある者達ではあったが、軍と戦うためにはあまりにも心許無い勢力でしか無い。強い風に吹かれれば、容易く巻き上げられてしまうことは想像に難くない。

 この状況を打破したい。その想いは皆の心の中に確実に根付いていた。ただ、行動を起こした結果を見届けることを畏れる者達が多過ぎるだけのことなのだ。現状を受け入れることは出来ない、だからと言って変化を起こすための革命の責任を負うことも辛い。

 人は我侭な生き物なのだ。救国の英雄の登場を誰もが夢見るが、決して自分がなろうとも思わないのが現実であった。

 アデューはその現実を変えたかった。自分が辛い想いをしても良い。ただ、皆が安心して生きられる世界を作り上げてみたかったのだ。

「この国は、どんどん可笑しな方向へと進んでいる。地域封鎖にしても、何の問題解決にも繋がりはしない。そこへティフェリア王国への宣戦布告と来たものさ。略奪戦争でも始めようというつもりなのか?」

 誰に語り掛けるともなく、アデューは静かに呟いて見せた。錆び付いた壁に反射する様に響き渡った。

 何処かの水門が開き、溜まり切った生活排水が音を立てて流れ出すのが聞こえてきた。音に遅れること数秒、一気に異様な悪臭が立ち込め始めた。

 基地とは名ばかりであり、使われなくなった廃水道の横道に作り上げた小さな集会所。

 廃品から掘り当てた古びたランプの明かりに、あちらこちらに傷の目立つテーブル。皆は『会議卓』と称しているが、それにしてはお粗末過ぎる。椅子とて足が不揃いで、妙にぐらつく危うげなものであった。何よりも、使われなくなったとは言え、通風孔は繋がっているため、この猛烈な悪臭に堪えられる鼻が肝要である。

 大事なのは見てくれじゃ無い。そこに志があれば、それでいいじゃないか? アデューは口癖の様に、何時も椅子に腰掛けながら言う。それは誰に向けた訳でも無い独り言の様な言葉でもあった。

「ティフェリア襲撃と言うけど、それ程の規模も無い国でしょう? 焼け石に水程度の収穫しか得られないような気がするのよね」

 弓使いのアンナが椅子から足を投げ出すように呟いてみせる。凛とした鈴の様な声が狭い小部屋の中に響き渡る。アデューと同じくスラム街の出身の彼女は、幼い頃に両親に見捨てられ、幼くして天涯孤独の身になった。何処か抜けた様な感じを見せるが、しっかり者であり、身を守るために覚えた弓の腕前も高い。

「目先の利益のため、と言うには中途半端過ぎる気がする。何か違う目的があるんじゃねぇのかな?」

 巨大な剣を背に携えた色黒の鳥人ミックが腕を組んでみせる。彼もまたスラム街出身であり、生まれ持った立派な体躯を活かしての力仕事で自らを鍛え上げた。気が強く、軍の騎士との喧嘩を起こし、囚われそうになった所をアデューに救われた。

 交わされる言葉を静かに聞きながら静かに考え込むのは、白銀の髪を持つ青年。アデューの親友にして、盲目の魔導師のアドルザーク。

 幼い頃からアデューと共に歩んできた彼は、何時の頃からかスラム街に住むようになっていた。子供の頃から卓越した魔法の腕を誇る彼が何故、スラム街を訪れたのかは不明ではあるが、幼少期の記憶が欠落している辺りに何か訳があるように思われる。

「ティフェリアを欲する理由…それはそんな単純なものでは無いと思うよ」

 チェス版の上に置かれた駒を慣れた手付きで動かす。次の一手での勝利を確信していたミックは、予想もしない突然に奇襲に目を丸くする。

「げっ!! マジかよ!?……い、今の一手無しってことで?」

 作り笑いを浮かべて必死で取り繕おうとするミックに、笑顔で首を横に振るアドルザーク。ガクっと落ち込むミック。アンナはそのやり取りを後ろから覗き込んでいる。

「じゃあ、軍の目的って何なのかしら?」

 二人の勝負に興味を示しながら問い掛けるアンナに、アドルザーク手振りを交えながら答えて見せた。

「明確には判らないよ。ただ、そんな気がしただけさ」

「え、それってさぁ天才魔導師様の千里眼とか?」

「生憎、物語に出てくるようなそんな凄い能力は持っていないよ」

 なぁんだ、とつまらなそうに腰掛け直すアンナ。

 重要なのは軍が何を考えているか?そんなことでは無い。戦争が始まれば、多くの人達の命が失われることになる。出来ることならば戦争を阻止したい。それは本心であった。だが、戦争を阻止出来たとしても、結局帝国を救うことは出来ない。黒死病への対処法はまだ確立された訳では無いのだから。結局、どうすることが最良の選択肢なのか判らなくなってしまっていた。考え込むだけの時間も与えてはくれない。神は何故、こんなにも過酷な試練を与えてくれるのだろうか?その先に一体何が――

「おい、アデュー。」

 「え?」

 思考は不意に掛けられた声で中断させられた。

「どうした?何か遠い目しながら、ボーっとしていたぜ?」

 ミックはにやにや笑いながらアデューの肩に腕を回して見せる。大丈夫だよと、短く告げるとアデューは立ち上がった。皆を見渡しながら、大きく手を広げて見せる。その仕草はアデューの癖でもあった。自分自身の想いを、熱意を持って伝えたい時についつい両手を鳥の翼の様に大きく広げて、主張したくなるのだ。

「今はたったの四人だ。でも、この現状を打破するために何か行動を起こさなくてはいけないと考えている人達は、まだまだ沢山いると信じている。何が正解かなんて判らないけれど、行動を起こさなければ何も変わりはしないんだ。行こう。新たな同士達を探しに」

「ああ。俺達に与えられた時間はそうそう長くは無い。立ち止まっている暇なんかねぇからな。ま、俺達は頭悪いけど体力だけはバッチリあるからな」

「それはミックだけでしょ? あたし達まで一緒にしないでくれる?」

 肩に手を宛てながら笑い掛けるアンナに、そりゃあ無いぜと返すミック。

「力は無いけどフットワークはある。でしょう?」

 アデューの言葉に、四人はお互いを見合わせると、力強く頷き合った。四人は付き合いも長いからこそ、お互いの想いの強さも、互いに判っている。

 四人は城下町の外れにある、貧しい者達が追いやられるスラム街の出身であったが、明確な出身地は判らない、というのが本当のところである。スラム街の子供達の多くは親の顔さえ知らない孤児であり、アデュー達も例外では無い。アデューには弟がいるが、他の三人には兄弟がいない。皆、天涯孤独の身なのだ。

 治安の悪いスラム街は、城下町の人々からも切り離されているため、隔離された小さな街と化している。

 住んでいる場所は、確かに治安も悪く、小汚く見えるのかも知れない。だけど、住んでいる奴等は案外面白い奴らも多いのだ。だからこそ、アデューは立ち上がりたかった。

 見捨てられた街から救国の英雄出現となれば、人々の目に映るスラム街の印象も変わるだろうし、同時にスラム街に住む人々の希望にもなれるだろう。でも、それは二次的な効果を期待してのもの。一番の願いは、苦しむ弱者達の笑顔を取り戻すこと。自らが貧困の最中で苦しい生き方を強いられてきた。だからこそ、未来を担う子供達のためにも平和に暮らせる世界を築き上げたいと考えていた。無論、それはスラム街だけでは無く、世界中の子供達に向けての想いであった。

 平和を手にする権利は、万人に平等に与えられて然るべきもの。そして、そのために英雄に成り上がること。それが自分に与えられた天命だとアデューは確信していた。スケールの大き過ぎる話に、多くの者達は馬鹿げた夢だと野次を飛ばすが、アデューは――仲間達は皆共通の想いを胸に抱いていた。

 夢は叶うものでは無く、叶える物なのだと――――――

◆◆◆11◆◆◆

 ―――ティフェリア城 夕刻の王室―――

 レオルカ帝国から宣戦布告があったことは瞬く間に国中に広がった。王宮は蜂の巣をつついた様な騒ぎになっていた。騎士達が忙しなく廊下を駆け抜ける足音が響き渡る。

 白き城塞と詠われる強固な城を構えているとは言え相手は空中からの襲撃を得意とする部隊。白兵戦に強くても機械技術には劣るティフェリアに取ってレオルカの軍勢は脅威であった。

 草原の真ん中に聳える大きな王城。取り囲むかのような堀に囲まれたティフェリア城は強固な造りで知られている。

 二つの堀に囲まれた変わった構造の街並みを持つティフェリアは、城を囲う第一の堀と、城下町を囲う第二の堀に護られた造りになっている。風光明媚との呼び名も高い美しい城と街は、穏やかなローゼン平原に囲まれているため、四季を通じて穏やかな気候に恵まれた風土を持つ。

 争いごととは無縁に思われる平和で穏やかな街並み。だからこそ皆が浮き足立っているのも仕方が無いのかも知れない。城のそこかしこから聞こえてくる動揺の声に、エリス自身も少なからず動揺を覚えていた。

 不安な気持ちは自分も一緒だ。そんなことを考えながら王室へと向かい歩んでいた。その日、エリスは父であるラゼール国王から呼び出されたのであった。

「父上、エリス参りました」

 重厚な意匠の施された王室の扉を開けば、開かれた窓からは穏やかな草花の香りが流れ込んできた。

 エリスの姿が目に入ると同時に口を開くラゼール国王。

「既に知っているとは思うが…」

 疲れ切った表情を見せる父にエリスは戸惑いを隠し切れなかった。如何なる時でも国王としての威厳を称えていたからこそ、はじめて見せた弱々しい姿に不安感がかき立てられた。心の奥底の弦を一本一本、ピチカートで弾かれるような鋭い衝撃が体の奥に伝わって来る様な不快感に襲われていた。

「レオルカ帝国からの宣戦布告の件、既に耳にしております」

 軍人の様な抑揚の無い口調。気丈な振る舞いを崩さないエリスの優しさに、零れ落ちるような笑みを見せるラゼール国王。傍らではカーラ王妃が慈しむかの様に柔らかな眼差しでエリスを見つめている。

「正直なところ勝ち目のある戦になるとは思えないのだよ」

「な…何を弱気なことをおっしゃられますか?我が国の騎士団の力を持ってすれば、如何に帝国とは言え、無謀な争いを挑んだことを後悔することになるでしょう」

 エリスは剣の腕は確かではある。それに関しては皆が認めていた。だが、若き王女は軍事演習では無い『本物の戦闘』というものを知らない。単純な戦いでは無いのだ。帝国軍は強大な力を持つ軍事兵器の数々を保有している。

 中でも航空技術に長けている帝国軍は、数多の天駆ける船を保有しているのだ。

 ティフェリアでも一般的に使用されている交通手段のひとつ、トランシップの技術とてレオルカ帝国より渡来した技術なのである。そのことはエリスも幼い頃から学んで来ていること。知らぬ訳では無かった。

 ティフェリアはレオルカと比べると圧倒的に文明という部分では劣っている。古典的な暮らしを好む者達が多いため、レオルカの様に機械文明に力を入れる必要も無かったのだ。加えてエルザ教の教えが浸透している歴史を持つため、争いごとを排除し、質素な生活を送る傾向が強くなり過ぎてしまった。

 レオルカの様な純然たる軍事国家とは本質的に異なっていることがティフェリアの弱点でもあったのだ。争いを好まない文化が大きな足枷になろうとしていた。

「恐らくは、勝ち目は無いだろう」

 抑揚の無い口調だった。繰り返し告げられる敗戦の覚悟。

 傍らに座る王妃もまた、何かを覚悟し切ったのだろうか?何時もと変わらぬ優しい笑顔を称えていた。感じたことの無い、落ち着かない雰囲気にエリスは動揺を隠し切れなかった。勝ち目は無い――その一言が妙に耳に残る。

「勝ち目の無い戦いなのに、何故受け入れたのですか?」

 苛立ち混じりのエリスの口調は、本人の意図とは別として、ひどく刺々しいものになってしまっていた。

「エリスよ、王家の存在意義とは何であるか知っておるか?」

 父は静かに顔を上げながらエリスを見つめる。

「え?王家の存在意義…ですか?」

 父はただ静かに頷いて見せた。

 エリスは答えに窮し、困惑した表情で父を見つめ返す。

 父は王座から立ち上がると、窓辺に向かい静かに歩き始めた。

「王のために国があるのでは無い。国のために王という者が居るのだ。例え勝ち目の無い戦いであったとしても、民を売り渡すつもりは毛頭無い。だが――」

 ラゼール国王は空を見上げながら一息つく。

「私の下した決断は、多くの民衆の怒りを買うかも知れぬ。ただ己の誇りを傷付けぬためだけに選んだ選択肢だと罵られても仕方が無い。平和な暮らしを奪ったことを憎まれたとしても仕方が無い」

 エリスには実感が沸かなかった。生きる道を選ぶために自らを棄てることと、尊厳を守るために命を棄てることと、両天秤に掛けた時にどうなるのか。

 無論、このような暴挙に及んだ帝国が間違えていること位は明確に理解出来ていた。帝国で起こっている黒死病の感染被害に関する情報も知っている。だからと言って戦争を仕掛けても良いとは到底考えられなかった。

 結局何が正しくて、何が間違えているのか、エリスには判らなくなってしまっていた。ただ一つ判っていること。それは、さほど時間は残されていないということである。

 宣戦布告を仕掛けてきた今、帝国軍が何時襲撃を仕掛けてくるかは判ったものでは無いのである。城下町では死と隣り合わせの状況に、民が不安を感じていることであろう。

 民は王家に怒りを覚えるであろう。勝ち目の無い相手からの宣戦布告を受け入れたことは理解されないであろう。ならば、みすみす敵国に投降する道を受け入れるか? 恐らくは、民はどちらの道も受け入れることなど出来るはずも無いのだ。国のために王がいる。だが、その王は神では無いのだ。あらゆる事象を自由自在に操ることが出来る訳では無いのだ。

 民は期待する。自分達は国のために働いているのだ。だからこそ、国が民を守るは当然のことであろうと。その時、恩義を果たせない私の存在意義はどうなってしまうのだろうか、と。

 今までの人生の中で、一度だって考えもしなかった不測の事態にエリスは恐怖を覚えていた。目に映る相手との勝負は判りやすいものだ。戦って打ち勝てば良いだけだ。

 だが、これから自分が戦おうとしている相手は目に映らない存在なのだ。そんな相手を前にして、一体、どう戦えば良いのだろうか? もしも、敗北したらどうなるのか?

「父上、私には判りません。何が正しくて、何が間違っているのか。何よりも――」

 少し考えた後、エリスは微かに唇をかみ締めながら顔を上げた。

「何よりも、私は何を為すべきなのか? 父上が常日頃から口にしている『正義』の意味すら理解出来ていないというのに」

 エリスの言葉を受け、父は何かを思案していた。目を伏せ静かに。しばしの沈黙の後、静かに目を開いた。

「正義とは人それぞれ異なるもの。言い訳の様な話にしかならぬが、自らが正しいと信ずる道を貫き通せ。最初は理解されぬかも知れぬ。時には冷たい雨に打ちひしがれる時も訪れることであろう。それでもなお、貫き通していれば必ずや光が見えてくるはずだ」

 窓の外から見える夕刻の景色は薄暗く、先が見えない。頼りにするのは、夜空に瞬く幾千幾万の星々に、淡い光を称える月だけであった。

 さながら謎掛けの様な父の返答にエリスは戸惑った。知りたかったことはそんなことでは無い。掛けて欲しかった言葉はそうでは無い。否、理解出来無いのは私が未熟だからなのかも知れない。甘えかも知れない。勇気付けて欲しいと願うのは。

 生命の危機に直面するという事態に生まれて初めて直面したエリスは、自身がどう振舞えば良いのかさえ見失っていた。そこは深い霧の中。一寸先さえ見えない程の、深く暗い夕刻の世界。自分自身が何処にいるのか、何処へ向かうべきなのかさえ判らない状態の中で、王家の身として果たさねばならぬ使命が与えられてしまったのだ。

 自分の身さえ護れないというのに、国を担う民達を護り切らなくてはならない。その重責が重た過ぎて、息苦しくて、逃げ出してしまいたかった。

「エリスよ、己を信じて正義を貫け。良いな?」

 不意に父に掛けられた言葉に、途切れていた意識が戻って来た。唐突に現実に引き戻されたエリスは、戸惑いながらも力強く頷き返すのであった。

「判りました、父上。それでは私はこれで」

 王室を抜け出したエリスは、私室へと向かう螺旋階段を歩んでいた。見えない敵に対する苛立ちを打ち消すかの様に、乱暴に靴音を立てながら。

 窓から差し込む、萌える様な夕刻の日差しに照らし出され、エリスも萌える様な緋色に包まれていた。静かに顔を上げながら振り返ってみた。不思議な感覚であった。

 エリスが先程まで歩んでいた階段を飾る赤い絨毯は、風に揺れていた。ゆらゆらと風に身を委ねる様な動きは、遠い思い出の中で夢見た光景に似ているような気がした。

◆◆◆12◆◆◆

 ―――ティフェリア城 冷たい雨の城下町―――

 透き通る様な青空は膨れ上がる雲に追いやられようとしていた。まるで、これから哀しい出来事が起こることを暗示させるかの様な嫌な空模様であった。何時の間にか空は厚い雲に覆い隠されてしまった。不安な気持ちで一杯の民の心を余計に逆撫でするかのような空模様は、何時雨が降り出すか判らない様相を醸し出していた。

「嫌な感じの空模様だねぇ。何時降り出すか油断も隙も無い」

 苦々しい表情で空を見上げるグリム。背に携えた弓を握り締めながら眉を潜める。

 城下町は妙な緊迫感に包まれていた。大通りは活気の色合いを失おうとしていた。すれ違う人々は皆一様に不安そうな表情を隠し切れない様子であった。相手がレオルカ帝国の軍勢となれば、不謹慎ながら勝機は薄いだろう。

 無理も無いことだ。グリムは苦々しい気持ちで一杯だった。

「大体、こっちは軍備にはそれほど力を注いでいないっていうのに、不公平だ。そもそも、そんなところに回せる資金があるならば、難民達の救済に宛てればいい。偉い奴等っていうのは、どうしてこうも権力を武器として振り回さないと気が済まないかねぇ。君もそうは思わないかい?なぁ、案山子君」

 飲食店の前に置かれた客引き用の案山子に熱心に語り掛けるグリム。わざわざ肩に腕を回して熱弁を振るって見せるが、道行く人々は誰一人として構う様子すら見せない。

「あらら……少しは和むかと思ったけど駄目?」

「こんな所で油を売っていたのか?」

 肩に乗せられる大きな手の感触に、不機嫌さを顔一杯に表しながら振り返る。

「油を売っていたとは心外だねぇ。これでも街を巡回する生真面目な騎士様なんだよ?」

 グリムは目一杯に身振り、手振りを織り交ぜて陽気に喋り続けて見せた。ガリルは小さな吐息を就きながら腕組みしたまま抑揚の無い口調で伝令を告げる。

「住民達を速やかに避難させよとの命令だ」

「これは面白いことを言う。避難だって?一体何処にさ?」

 苦笑いを浮かべながら茶化すグリムを見つめながらも、淡々とした態度は崩さない。

「王都は間違いなく最初に狙われるはずだ。となれば、近隣の都市に分散させた方が安全だ。生憎、残された時間は十分とは言い切れない状況なのでな」

 あくまでも伝えられた命令を淡々と口にした。

 二人の付き合いは長く、陽気なグリムと堅物のガリルの組み合わせは、さながら兄弟の様にも思えた。実際のところ、グリムはガリルのことを兄の様に思っているし、ガリルもまたグリムのことを弟の様に思っている。

 お調子者で、少々抜けた部分のあるグリムに取って、ガリルは頼りになる兄の様な存在でもあった。だからこそ、飾らない言葉で意思の疎通をし合うのも日常のことであった。

 弓の扱いに長け、大自然と共に生きることを愛する彼は、誰に対しても同じ態度で接する。歯に衣着せぬ物言いは、口が悪い奴だと評されることもあるが、妙な気遣いをしないからこそ考えが伝わりやすいという評価も得ている。

「無意味な話だね。トランシップを使うとしても大変な大行列が出来上がって混乱が拡大するだけだろうね。それに、この狭い大陸の何処に安全な場所があるって言うのさ?」

 下された命令に納得ゆかぬ想いのグリムはなおも淡々と自身の主張を続ける。

「大体、王家は現場の状況を知らな過ぎるクセに、理想論ばかり提示するから頭に来る。そうは思わない?」

 グリムの熱弁を聞きながらも、ガリルは動揺する表情すら見せなかった。王家を批判する言葉を擁護もしなければ、否定もしない。それが彼の想いであったのだから。

 議論を交わす以上に重要なことが眼前に待ち構えているというのもあった。

 いつしか空は唸りを挙げ始めていた。間もなく雨が降り出すだろう。湿気を孕んだ、重みのある草の香りが漂い始めた。土の香りを纏った湿り気のある独特の香り。

 戦争は哀しい結末しか生み出さない。生まれる物など、何一つ無い。失うものばかりだ。後に残るのは憎悪と悲哀以外何も無い。何故、そんな無意味なことに身を投じるのか?皆が疑問に思うのは当然のことである。

 だが、本質はそこには無い。疑問に思う、思わない、関係なく時は迫りつつあった。

 ティフェリア城と城下町が主戦場になるのは間違いない。民は、王族を憎むであろう。何故、真っ向から勝ち目の無い相手に戦いを挑んだのかと。民を守り切れなかった王族も、王家に連なる貴族達も、王家に遣える騎士団も憎まれるだろう。失われた命の数だけ憎まれるだろう。ガリルは静かに現実を見据えていた。

 憎まれるのが嫌だから行動するのでは無い。民を護ることもまた騎士である自らの務めである。多少なりとも被害を抑えることは出来のであるならば、行動を起こすことの意味はあるはず。今出来ることに、各々が最善を尽くす。それ以外の手段は考えられなかった。

「俺達、騎士団は騎士団としてやれることをやる。それだけだ」

 ガリルは静かに空を見上げた。雨粒が頬に冷たく落ちた。

「おっと……とうとう降り出しちゃったみたいだね」

 困ったものだと空を見上げた瞬間、誰かがぶつかる衝撃にグリムは転びそうになった。

「うわっ。おいおい、大丈夫か?」

 よろめきながらも、自分に衝突した拍子に転んでしまった少年を気遣う。

 少年は雨に濡れるのを防ぐために、頭からフードをすっぽりと被っていた。その上、足元さえもまともに見ないまま走り続けていたところに、突然に降り出した雨。足元をすくわれた際に衝突してしまったのだろう。

 予測しなかった展開に驚き、息を切らしながら、少年はフードから覗く大きな目を目一杯見開き見上げていた。その表情はあどけない少年のものであった。

「……騎士?」

 少年は眉間に皺を寄せながら、どこか威嚇するような表情を見せていた。胸に着けた騎士団の証。それに気付いた瞬間から少年はあからさまに敵対的な態度に切り替わった。

 見知らぬ少年の敵対的な態度に、思わず二人は顔を見合わせた。

「い、いきなりコワい顔は無しにしない?」

 目一杯の愛想笑いを浮かべながら、あくまでも警戒心を緩めようと努めるグリムに対し、少年は後退りしながら、なお一層表情を険しくして見せた。

 威嚇するような態度を崩すことの無い少年は、僧衣の様な衣服を纏っていた。何か思うところがあるのか、ガリルは静かに少年の振る舞いを観察していた。

「どうせ…騎士は何の役にも立てないんだ」

「いきなり手厳しいねぇ。で、君は? 名前くらい名乗らない? まずは友好への一歩ってことでさ。ね?」

 グリムはやたらと敵意を剥き出しにする少年に、笑顔で手を差し出して見せた。だが、少年は鋭い眼差しで睨み付けたまま、静かに後退りする。一定の距離を保ち続け、威嚇するような態度を崩さない少年。

 一体、この少年が何故、これ程までに憤っているのか?二人は戸惑うばかりであった。

「騎士に名乗る名前なんか無い」

「……少年よ、何をそんなに怯えている?」

 ガリルは腕を組んだまま、静かに少年を見下ろしていた。

 いよいよ雨は本格的に降り始めていた。大地に根を張る草花の葉を叩き付ける様に降り注ぎ、嵐を思わせるかのように冷たく降っていた。フードに叩き付ける様な雨にも怯むことなく、三人は立ち尽くしている。どこかで冬の雷が微かに鳴り響くのが聞こえた。

「怯えている? ぼくが?」

 ガリルの言葉に、少年は目を丸くする。

「……怯えているからこそ、我等のことを牽制するのであろう?」

 雨に濡れるがまま身を任せつつ、ガリルはじりじりと少年との距離を縮めていた。

「笑っちゃうね。やっぱり何も知らないんだね」

 少年がようやく見せた笑顔は、どこか揶揄するような、見下すような冷たく乾いた笑顔であった。

 二人を揶揄するように、微かに笑うと少年は両手を高々と掲げる。そのまま短い言葉で何かを呟いた。次の瞬間、突然に強い閃光が辺りを包み込んだ。雷光を思わせるような強烈な閃光に、ガリルは思わず目を覆った。

「い、いきなり何を……!!」

 眩い光が消えた時には、少年の姿は既に消えていた。

 ガリルの心の中には少年の一言が、妙に残っていた。何も知らない、との一言が。どうにも消し切れない、心の奥に引っ掛かる嫌な感触だけが残った。

 雨は激しさを増しながら降り続いている。冷たく、身を凍えさせる雨であった。

「この雨で足止めを食うと厄介だ。手際良く住人達を避難させるぞ」

「濡れるのは苦手なんだけどねぇ。早いところ任務を終えてしまいますかね」

 土砂降りの中、二人は先行する騎士達と合流すべく、街へと駆け抜けていった。

 その様子を少年はじっと見つめていた。土砂降りの雨に濡れながらも、ずっと。

 やがて二人の姿を見えなくなるのを確認してから、少年は城へと向かい走りだした。

◆◆◆13◆◆◆

 ―――レオルカ上空 連合艦隊フェンリル―――

 連合艦隊フェンリルはレオルカ帝国が誇る軍用艦隊のひとつであり、高い機動力を誇る大規模な戦闘用の飛空艦隊である。多数の小型船を保有する空母としての役割も果たす。

 レオルカ帝国が多くの国々から畏れられるのは、こうした高性能な軍用機を数多く保有していることも理由のひとつとなっている。

 連合艦隊フェンリルは帝国が保有している飛空艦隊の中でも大型の艦隊として知られており、透き通る様なブルーを称えた流線型のフォルムと機動力の高さより、その名を冠するに至った。

 此れまでも他国との戦争の際に使用された記録も残されているが、機体には殆ど傷も残されていない。それは裏を返せばこの船の持つ驚異的な火力の証明にも繋がる。即ち、標的に反撃の機会を与えるまでも無く、標的を殲滅出来る程のものであることを意味する。

 通常、ブリッジに立つのは騎士団長級の階級とされており、騎士団長を総指揮官としての大規模な掃討作戦に使用されてきた。今回はキエナフを総指揮官としての航行となった。

 また、この機体の内部は入り組んだ構造となっており、万が一の敵襲にも備えられている。

 見た目以上に動員数を確保出来る構造を持っていることも、この船の特色のひとつであり、多数の帝国軍の騎士達を保有することも可能である。

 今回の作戦は標的の殲滅では無いために、高い攻撃力を誇るフェンリルを動員する必要があるのか?との批判の声も少なくは無かったが、フェンリルを動員する本当の意味は別にある。非常に多くの人員を確保出来る構造と数多くの小型船を保有出来る能力は、数多の捕虜達を一度に捕獲及び搬送することが可能なことも示している。だからこそ、今回は必要最小限の兵器の搭載とし、極力軽量化が図られたのであった。

◆◆◆14◆◆◆

 ―――連合艦隊フェンリル 憂いの時間―――

 航空基地より離陸してから数時間が経過しようとしていた。ティフェリアまでの間の距離は左程遠い訳では無い。だからこそ時間を稼ぎたいと願っていた。これから攻め込む相手への気遣いと言うのも可笑しな話ではあったが、それはキエナフ自身の迷いの現われでもあったのだ。

「団長、出力はこのまま維持されますか?」

「ああ。むしろ出力を落としても良い位だ」

 一体、何を考え下した指示なのかを理解出来ずに、操縦士達は顔を見合わせていた。レオルカからティフェリアまでの距離は、決して長くは無いのだ。空爆をするために力を保持している訳でも無く、ただ無為に時間を稼ぎ続ける。その心が意図するもの等、到底理解出来るような代物では無かったのだから。

 深い雲に包まれた雲海の中へと艦隊は突入しようとしていた。この季節は唐突に発達した雲海に出くわすことも珍しくは無かった。大雪を降らせる寒気団が生み出す厚い雲。本来ならば迂回するべきなのであるが、気象状況は芳しくなかった。まるでレオルカ軍の侵入を阻むかのような強い風に気体が揺れ動く。

「団長、ティフェリア上空への到着は夕刻過ぎになると見られます」

「うむ。判った。そのまま航行を続けろ」

 操縦士の報告に虚ろな眼差しで返す。何処を見つめているのか判らない眼差しは、迷いの現れであった。もうじき戦いが始まってしまう。そう考えると、心の内で何かがざわめく様な不快な気持ちで一杯になった。戦うことは好きではないのだ。

 レオルカ帝国最強の騎士としての呼び名に価値を感じる身では無い。誰かのために槍を振るう訳でも無い。ただ、恒久的な平和を実現するための手段として選ぶだけなのだ。ふと思い出すのは、あの夕日の中に見た無邪気な子供達の笑顔であった。

「……何時から偽善者になったのだ、俺は?」

 自嘲するかの様な笑みを浮かべながら、キエナフは力強く槍を握り締めていた。見てくれだけの小奇麗な言葉に、一体どれ程の力があると言うのだ?その薄弱な想いは、何かを為すべくだけの力を秘めているのか?考えれば考えるほどに矛盾だらけであった。

 何かを守るため、何かを変えるため、俺は戦っているのだ。そう叫びたかったが、果たして真実はどうなのであろうか?結局のところは、上からの命令に流され続けるだけの存在と化してしまっていることに気付かされる。

「お前は嘘吐きだ」

「なんだと?」

 唐突に彼は、もうひとりの自分自身と対峙していることに気付いた。

 口を歪ませながら、揶揄するように見下すもうひとりの自分。

「お前は――いや、俺は血を見ることに至上の悦びを覚えるのさ。お前は存分に戦いたいのさ。お国のためと言う大義名分を背負った偽善者。だが、その正体は無尽蔵なる殺戮を願い続ける修羅に過ぎぬ」

「黙れ!!」

 吼えるキエナフを見下しながら、そいつは不敵に笑い返す。

「黙らせたければ黙れば良い。何故なら、俺はお前自身であるのだから」

 高らかに響き渡る笑い声を聞いていると、無性に憎悪の念が沸いてくる。ああ、そうさ……平和的な解決を願い、下手に出て交渉に臨んでやったのにも関わらず、ティフェリアの国王は俺を揶揄するかのような態度を取り続けた。

 大人しく要求を呑んでいれば、こんなことには成らずに済んだのだ。それを自ら台無しにしたのは、他でも無い。ティフェリア国王自身なのだから。

 俺のせいでは無い。俺は悪くは無いのだ。そう……俺は無罪だ。裁かれる謂れ等無い。

 何時しか巻き起こる想いは、黒い霧の様に吹き上がっていた。心を憎悪で満たす邪なる闇の思惑。呑まれてしまうのか?そのまま呑まれてしまうのか?

「……長……ん長?……団長?」

 誰かが呼ぶ声に遠ざかる意識が戻って来た。肩を酷く揺さぶられている内に、あの忌まわしい霧も消え失せようとしていた。気がつけば額は汗で濡れていた。背筋が冷たくなるような嫌な汗であった。

「団長、大丈夫ですか? 突然、膝から崩れ落ちられたので、何事かと」

「……心配は要らぬ。空中の航行は慣れぬもので、気分が悪くなっていただけだ」

「そうですか。あまりご無理は為さらずに」

 あれは一体何だったのであろうか?幻だったのか?それとも……俺自身の心の迷いが生み出したものだったのか?もう数刻もしないうちにティフェリアに到着するだろう。戦場に迷いは不要。生きて帰るためにも……要らぬ迷いを棄てねば。釈然としない気持ちを抱きつつも、キエナフは夕刻の世界を眺めるのであった。

◆◆◆15◆◆◆

 ―――ティフェリア城 憂いの占星術師―――

 冬の時期は日が落ちるのも早い。冷たく輝く星空を眺めながら国王は静かに吐息を就く。同じ情景を再び眺める時は二度とは訪れない。時の流れを止めることなどは到底出来ないのだ。掬い上げようと試みても指の隙間から零れ落ちてしまうことであろう。

 砂の流れは残酷なもので、どんなに隙間を窄め様としても、僅かな隙間を見つけ出しては流れ落ちてしまう。窓の外の空を見上げれば、既に暗紫色に染め上げられていた。

「空が泣いておるな。燃え上がる火の手……逃げ惑う人々」

 何時の間に王室に入り込んで来たのか、一人の老婆がそこにいた。淡い紫色のローブに身を包んだ導師の様な威厳を称えた老婆は、静かに微笑んでみせる。

「ラゼール国王よ、久しいな」

 唐突に現れた老婆に驚いたが、見知った相手の再来に表情が明るくなる。

「ルーブルでは無いか。良く来てくれた」

 彼女の名はルーブル。老いた身でありながらも、風の気が赴くままに各地を巡る旅の占星術師。占星術師とは、星の流れを読み解き、そこから未来の予言を授かる身。

 かつて、ティフェリアは歴史に残る程の威力を持つ嵐に見舞われたことがあった。壮絶な破壊力を持つ嵐の襲来。ぶらりと旅の途中に立ち寄ったティフェリアの空気を気に入ったルーブルは、自らが見た真実を王に進言した。この助言を元にし、十二分な対策を講じた結果、被害は最小限に留めることが出来たのであった。

 決して外すことの無い鋭い預言がもたらすのは大きな結果。窮地に立たされているティフェリアに取っては、まさに救世主の再来となったのだ。

 ルーブルは同じ所に留まることを好まない。その優れた占星術の力は、一所に偏りすぎてしまっては均衡を崩すことになる。大きな力だからこそ扱いには十分な配慮が必要なのだ。旅を続ける理由もそこにある。

「王よ、王妃よ、貴公らが逃れる術は無いぞ?」

 にやりと笑いながら、鋭く斬り付けるルーブルの言葉。ラゼール国王が、カーラ王妃が、静かに見せた哀しみ笑い。判っていても逃れられない運命の残酷さを享受しろと告げられた。ましてや、この優れた占星術師の言葉である以上、回避は不可能であろう。希望へと救いを求め差し出した手が、無情にも叩き落とされた瞬間であった。

「だが…王女は類まれなる強運の持ち主だ。此れ程までに夜空の星々の恩恵と祝福を受けた身も珍しい。ふむ…良き星に囲まれておるな、エリス王女は」

 ルーブルは水晶球に手を翳しながら、何やら聞き取れない不思議な言葉を呟き掛けた。次第に透明な水晶球から淡い紫色の光が放たれ、彼方に微かな情景が映り出した。さながら一枚の写真の様に浮き上がる映像を、ルーブルは差し出して見せた。

「見るが良い。エリス王女の周囲に佇む星達を。皆、知った顔であろう?」

 ラゼール国王は、静かに水晶球に映し出された情景を覗き込んだ。ルーブルの言葉通り、そこには知った顔が並んでいた。騎士団のガリルにグリム、エリスの幼馴染であるレイン、そしてもう一人は、見知らぬ少年であった。ルーブルは水晶球を差し出したまま、静かに語り始めた。

「此れから訪れるであろう、激しき運命に抗う者達の姿だ」

 ルーブルは再び聞き取れない言葉を呟き始めた。水晶球に映し出された映像が目まぐるしく変わっていく様が見える。炎に包み込まれるティフェリア城。夜空に浮かぶ、忌まわしき青い軍艦。そして、次に映し出された映像に、ラゼール国王は息を呑んだ。

「これは……!?」

 その映像とは、城下町に住む民が捕虜にされてゆく光景であった。レオルカの騎士達に囚われの身となり、小型船に捕獲されていく光景。次から次へと、さながら戦乱の最中、配給を求めて長蛇の列を作る難民を思わせるかのような光景であった。

 ある青年が騎士に食って掛かる。次の瞬間、青年は騎士の剣で背中を貫かれた。その凄惨なる光景に、思わず顔を手で覆うカーラ王妃。

「奴等の狙いは、ティフェリアの民を位相することにあるようだな。滅びつつある国の再建のために使おうという魂胆なのであろうな」

 結局、荒れ狂う様に襲い掛かる運命に立ち向かうことなどは、不可能な話なのであった。そのことは判り切っていたことであった。それでも立ち向かいたいと考えてしまう。それは人が人であることの証なのだから。

「エリスは……エリスは、無事に生き延びられるの?」

 今にも泣き出しそうな悲痛な表情を見せるカーラ王妃。立場を考えれば、優先すべきはエリスでは無く、国の民で無くてはならない。しかし、そこは母親の想いが優位に立っているのであろう。ルーブルは静かに顔をあげるとカーラ王妃の手を取った。

「生き延びるも何も、あの娘は運命を変えるだけの力を持つ身。言うなれば女神エルザの寵愛を受けた存在なのだ。王女は力強く羽ばたき、何時の日か帝国に仇為す存在になるであろうな。だが、忘れてはならぬぞ?」

 安堵した笑みを浮かべるカーラ王妃に向かい、鋭い眼差しを見せるルーブル。再び差し出した水晶球には、おぞましい暗闇が蠢いているのが見えた。

「こ……これは?」

「ふむ……禍々しい闇の力だ。正体は判らぬが、こやつもまた、運命を捻じ曲げる程の力を持っておる。憎悪に満ち溢れた、おぞましい気配を感じる。王女が勝つか、この忌まわしき存在が勝つか。残念ながら、私にも窺い知ることの出来ない深遠なる未来よ」

 ルーブルは静かに目を伏せながら、何かを考え込んでいる様子であった。険しい表情を浮かべたまま、静かに窓の外を見つめている。

「王よ、私は暫くこの地に滞在させて貰おう」

「しかし……」

「案ずるな。これもまた…星が示す道なのだから」

 何時もとは変わらぬ夜空ではあったが、何かが違うように思えてならなかった。ルーブルの言葉を借りるのであれば、星達がざわめいているように感じられた。

◆◆◆16◆◆◆

 ―――ティフェリア城 エリスの私室―――

 大きな窓から見える夜空は、物憂げな哀しみに満ち溢れているように思えた。それは、迷いに満ち溢れた自身の心を映し出す鏡の様にも感じられていた。

 テーブルに置かれた香草茶を口にしながら、エリスは考えを纏めようと試みていた。だが、気ばかりが焦ってしまい、考えは一向に収束する様相を呈することは無かった。

 不意に誰かが私室のドアをノックする音が聞こえた。

「エリス、僕だよ。開けてくれるかい?」

 どこか気の抜けた声が聞こえてくる。エリスは苦々しい表情で、大きな溜め息を就きながら立ち上がる。考え事をして居る時に、それも気が立って居る時に訪れるとは、相変わらず間の悪い奴だ。そんなことを考えながら、苛立った表情でドアを開ける。

「何の用だ?」

 唐突にぶつけられる辛辣な口調に、思わずたじろいでしまうレイン。だが、此処で引き下がっては、自身の威厳が台無しになってしまうに違いない。勝手なことを思いながらも、レインはにこやかな笑顔を浮かべて見せた。

「ラゼール伯父さんから、元気付けてやってくれって頼まれたんだよ」

「そんなことか?生憎、間に合っている」

 無愛想な表情を崩すことなく、エリスは冷たく言い放った。

 レインはラゼール国王の弟であるミュンヘン公爵の一人息子である。つまりは、エリスとは従兄弟の関係に当たる。剣を片手に勇猛果敢に立ち振る舞うエリスとは対照的に、幼い頃から書物に目が無かったレインは、気が付けば有能なる魔導師としての道を歩んでいた。優れた魔導師を殆ど保有していないティフェリア城の中では、異彩を放つ存在としてその名を知られている。

 勉強熱心なのは決して悪いことでは無いのだが、好奇心の赴くままに制御の出来ない魔法を行使し、城内の騎士像やら壷やらを悉く吹き飛ばす程の突風を大量発生させてみたり、怒涛の大洪水を巻き起こし、あわやティフェリア城水没の危機を演出してみたりと、その武勇伝はスケールの大きさも相まっており、あまりにも有名になってしまったのだ。

 腕は確かなのであるが、間の抜けた性格のお陰で引き起こした数知れない程の失敗談のお陰で、本人に取っては不名誉な状態となってしまっている。

「まぁまぁ、堅いこと言わずに」

「一応、私も女なのだぞ?妙齢の女の部屋に、男が容易く入るものでは無い」

「僕とエリスの仲じゃない?」

「ご、誤解を招く様なことを言うな……」

「えへへ」

 悪びれた素振りも見せず、子供の様な無邪気な笑顔を浮かべてみせる。聞こえるように発せられた大きな溜め息も、聞こえているが聞こえない振りをする。相も変わらず、マイペースなレインは自分の調子を崩すことは無かった。エリスにはもうじき戦争が始まろうとしているのにも関わらず、陽気に振舞えるレインの心が理解出来なかった。

 目の前で苛立つエリスにはお構いなしに、楽しそうに笑いながら右手を差し出す。

「見てよ、エリス」

「指輪?」

「そうだよ。綺麗でしょ?」

 レインがにこやかな笑顔で見せたのは、自身の指に嵌められた風変わりな模様の指輪であった。高価な宝石をあしらったものでは無いが、強い力を秘めた淡い空色の石が飾られていた。

「この指輪はね、僕ら魔導師には欠かせないものなんだ。強い魔法を習得すると、この指輪に着けられた石も変化する。ぼくは水と風の魔法を得意としているから、こういう色合いになっているんだ」

「魔法の説明に来たのか? 悪いが今は教養を増やすことに興味は無い」

 得意げに語るレインに対し、エリスは冷たい態度を崩そうとしなかった。気持ちが落ち着かないのだ。必死で冷静になろうと試みるが、焦りばかりが先行してしまい、気がつけば空回りしているだけだ。何をそんなに焦っているのだ、と自身を戒めようと手綱を引くが、焦りは加速度を増して駆け回るばかりであった。そんなエリスの姿を間近で感じながらも、レインは笑顔を崩そうとしなかった。

「レオルカとの戦争が始まると聞いた時、恥ずかしながら、僕は逃げることを真っ先に考えてしまった。城を棄て、貴族であることを棄て、逃げ続けたら助かるかも知れないってね?」

 話の方向性は唐突に変わっていた。笑顔は絶やさなかったが、どこか憂いを感じさせる、哀しげな笑みに変わっていた。表情の変化に興味を示したエリスは、わざとらしく迷惑そうに溜め息を就きながらレインの話に耳を傾けることにした。

「駄目な奴だよね。ぼくはエリスを守りたいと思っているのに、最初に考え付いたのは逃げることだったなんてさ」

 ばつが悪そうにレインは笑った。だが、エリスは笑えなかった。そこに見たのは、自分自身と同じ臆病者の哀しみだったのだから。

「……駄目なものか。私だって同じだ」

 レインの言葉に、少しだけ安堵感を覚えた。何だ。逃げ出そうと思ったのは私だけでは無かったのだ、と。ああ、そうとも。私は逃げ出そうとした。戦うだけの力を持ちながら、王女という立場でありながら。死の恐怖に打ちのめされた。だから逃げ出したくなった。

 沈んだ表情を見せるエリスを気遣う様に、レインは再び陽気な笑顔を見せる。

「でも、僕もエリスも逃げ出さなかった。今だって、どう立ち振る舞えば良いか考えていた訳でしょう? 僕も同じなんだ。宣戦布告の話を聞かされた時は、怖くて、怖くて、震えが止まらなくなった。どうやって逃げようか? それしか考えられなくなってね」

 レインは照れくさそうに声を出して笑って見せた。エリスも釣られて声を出して笑う。

 ガリルが年の離れた兄であるならば、レインは双子の兄弟の様な存在であった。エリスより、少しだけ早く生まれたレインとは幼い頃から一緒に育ってきた。

 お転婆なエリスに、何時も泣かされていたレイン。そのことを、ふと思い出し、エリスは可笑しそうに笑っていた。まさか、自分自身の幼少時代の姿を振り返って笑っているとは予想もしなかったレインは、エリスの笑顔を満足そうに見つめていた。満足ついでに、レインは続ける。

「短期間で習得出来る魔法は殆ど無いけど、少しでも力が欲しくてね。必死で図書館の書物を片っ端から読み漁ったんだ。エリスを守る力を身に付けたくてさ」

 心の奥に仕舞っておくべき想いが、迂闊に零れ落ちてしまったことに、動揺したレインは、図らずとも表情が紅潮していることに気付いた。慌てた口調で話題の方向性を変えようと試みる。

「で……でも、エリスは僕の助けなんか必要無い位に強いものね?」

「そんなことは無いさ。私は強くは無い。だから……」

 エリスが何かを口にしようとしたのを見計らったレインは、静かに席を立った。窓の外をちらりと眺めると、ドアへと向かい歩き始める。

「エリス、何があっても僕は君の味方だから。忘れないでね」

 来た時と同じ様に、陽気な笑顔で手を振ってみせるレイン。ドアが閉じられた後で、エリスは聞こえないように小声で呟いた。

「ありがとう……」

 窓の外は、既に漆黒の闇夜と化していた。星の瞬く光と月の光。それに街の明かり。深い闇夜の最中、他には何も見えなかった。エリスは思った。悪くは無い景色だと。どんなに絶望に満ちた暗闇にも、微かにでも希望の光は灯るものなのだ。そう思うことが出来たのだから。

 皆が勇気付けてくれる。だから私は戦いたい。こんな私でも、小さな灯火位には成れるかも知れないのだから。

◆◆◆17◆◆◆

 ―――ティフェリア上空 連合艦隊フェンリル司令室―――

 暗闇の草原に浮かび上がる様な街明かりは、さながら灯火の様にも見えた。蛍の光の様に静かに揺らめく光は、これから起こる戦慄の瞬間を嘆く死者達の想いの様に思えた。いや、それはこれから命を失う者達――その情景を告げる光景だったのかも知れない。

「再びこの地を訪れてしまうことになろうとはな」

「団長、まもなくティフェリア上空です。これより急襲のため高度を下げます」

 迷いを見せては成らない。俺は指揮官なのだ。レオルカの騎士達を束ねる身であり、何よりもレオルカの明日を担う任務を背負う者。キエナフは揺れ動く想いを抑え込むかのように力強く立ち上がった。翻される漆黒のマントの音に皆が一斉に振り返る。

「諸君、今回の任務を今一度思い出して欲しい。我らに課せられた任務は標的の殲滅では無い。可能な限り『お客人』の扱いは丁重におこなって欲しい」

 毅然とした態度を崩すことなく、自分自身を奮い立たせるかの如く険しい表情を作った。今更後には退けぬという想いからか、諦めの境地と悟ったのか、先刻までの迷いは微塵も感じさせない表情であった。帝国五大騎士団の団長ともなれば多くの騎士達を配下に従える身である。自らの采配一つで多くの同胞達の命の灯火が潰えることもあり得るのだ。だからこそ、戦場では一切の私的感情を断つ。断罪の断頭台に立たされようとも、最後まで武人としての生き方を貫きたい。その信念には微塵の揺らぎも抱いては居ない。

「同時に忘れるな。標的は我々に対し多大なる憎悪の念を抱いている。任務の妨げとなる障害は必要とあらば切り捨てよ。任務の遂行を最優先にして欲しい。それから――これは私個人の想いであるが」

 そう告げるキエナフの表情からは猛々しさは消え去っていた。代わりに憂いを感じていた自分の表情を再び描き出していた。

「諸君らにも家族がいるだろう。妻や子供が待つ者も居るであろう。あるいは、この戦いより帰還した後、最愛の人に想いを託す者もいるであろう。だからこそ私は願う。共に戦場を駆け巡るであろう諸君ら全員と、再び故郷の土を踏む瞬間を!!」

 キエナフの想いに騎士達の士気も上がる。やがて連合艦隊は高度を十二分に降ろし切っていた。避けることの出来なかった戦争の始まりは目前まで迫っていた。

「悪く思うな、ティフェリアの民よ。憎むなら戦争をけし掛けた俺を恨むが良い!!」

 夜空に浮かぶ連合艦隊目掛けて、早くも砲撃が始まっていた。

 動揺した様子も見せずに艦橋のモニターに写し出された光景。その光景をキエナフは上機嫌そうに髪をかき上げながら見つめていた。

「ほぅ、ティフェリアの魔導師達か……中々盛大な歓迎のパレードだな」

 長い髪を風になびかせながら、全軍に指令を下した。

「パレードの開幕だ。我らも踊りの輪に加わろうでは無いか。皆の者、戦闘開始だ!!」

 キエナフの指令と共に騎士達は一斉に各々の持ち場に就いた。

 夜空に浮かぶ巨大な艦隊の中から、小型駆逐艦が次々と放たれてゆく。

「お手並み拝見と行こうでは無いか、ティフェリアの軍勢よ?」

 部下達に指示を出し、高みの見物を決め込むキエナフを見つめる男がいた。その男は不敵に歪んだ笑みを浮かべながら、長い髪をかきあげて見せた。誰も気付かぬその男はキエナフと同じ顔をしていた。

「フフ、お手並み拝見と行こうでは無いか、騎士団長殿?」

◆◆◆18◆◆◆

 ―――ティフェリア城下町 立ち向かう者達―――

 未だ住民達の避難は終えていないと言うのに。ガリルは夜空に浮かぶ帝国軍の連合艦隊を忌々しい表情で見上げながら呟く。

「とうとう始まってしまったか」

 大規模な部隊を率いてきたものだ。レオルカの軍事力に比べたら、ティフェリアの勢力などは微かなものに過ぎない。本腰を入れて攻め落とすつもりなのか、はたまた精一杯の敬意を示しての開戦の意思なのか、その思惑までは窺い知ることは出来なかった。

 星の瞬く美しい夜空には不釣合いな物騒な青い船。だが、ティフェリアの騎士団が見てくれだけの脅しに屈する訳も無い。古くから草原の街に暮らし、草原と共に生きてきた誇りを持つ民達もまた、逃げ惑うばかりが能では無い。

 サーチライトが駆け巡った後だけが、闇夜に浮かび上がる。そんな非日常的な光景の中を駆け回る者達がいた。帝国軍では無い彼らは、急ぎ足でこちらに駆け込んで来た。

「俺達の街を帝国の奴らの好きになんかさせはしないさ」

「ああ。騎士様よ、俺達も戦うぞ」

 何時の間にか、周囲には武器を手にした民達が集まっていた。避難する者も少なくは無かったが、立ち向かおうとする民達も少なくは無かった。

 皆、それぞれに思惑を抱いていたのであろう。死んでしまっては全てが無に帰すと、慌てて避難する者もいれば、この命は帝国と共に在りと朗々と謳い上げる者もいた。避難しろと本心では言いたかったが、志に水を刺すのも気が引ける。

「その度胸、嫌いではない。良かろう。我らと共に戦おう」

 意匠の施された重厚なる槍を高々と掲げると、力強く微笑んで見せた。

 傍らでは靴紐を結び直すグリム。

「生憎、招かれざる客の訪問を、花の香りのするケーキと鮮やかな色合いのティーで出迎えるような酔狂な文化など持ち合わせて居なくてね」

 背に携えた弓をしっかりと握り締め、念入りに靴の紐を結び直すグリムは、鼻歌交じりの余裕さえ見せていた。

「グリム、空中の船は任せる」

「任しておいてよ。一台残らず撃沈してあげるさ」

 幸いレオルカ軍の放った小型駆逐艦の頭数は左程多くは無かった。一機ずつ確実に打ち落としていけば被害は最小限に抑えられるだろう。グリムは大空に浮かぶ駆逐艦を睨み付けながら頭の中でシミュレーションを繰り返していた。

 硬い機体を攻撃しても殆ど打撃は与えられないかも知れないが、操縦士を沈黙させることさえ出来れば足止めは十二分に可能になる訳である。グリムは自らが鳥人であることに感謝をしていた。大空を自在に羽ばたくことが出来る鳥人の彼は、奇襲には奇襲で応じようという考えであった。

「さてっと…ちゃちゃっと片付けちゃうかなぁ」

 力強く地面を跳躍すると、グリムは大空へと一気に舞い上がった。その動きを見ていた、他の鳥人達も一斉に大空へと舞い上がっていった。

「狙うは駆逐艦の操縦士達だ。一番多く撃沈した奴には褒美があるよ!!……多分ね?」

 草原の中心に存在するティフェリアは、地の利を活かしての戦術を取ることが出来ないことが弱点の様に思われている。だが、そのような弱小部隊しか持たないような国家が、このような目立つ場所に風光明媚な街を構えるであろうか?

 敢えて草原のど真ん中に城を構えるのは、言い換えれば絶対的な強さの証でもあった。ティフェリアの騎士団は多彩な部隊を誇っている。元より、地形的な加護を受けること等放棄していたのだ。それは、この国の文化そのもの。

 古くからこの街には、腕に覚えのある戦士達が各地から訪れていたのだ。風光明媚な美しい街は、同時に類まれなる戦士達にも愛された街であったのだ。弓の扱いに長けた奇襲部隊に、守りに長けた地上部隊。魔導師も多く保有しているため、如何なる相手であっても臨機応変に戦うことが出来ることが強みなのだ。

 加えてティフェリアの騎士団は、民衆にも深く親しまれている存在であり、多くの者達が騎士団の一員になれることに憧れを抱いているのだから、戦闘能力には退けは取らない。

「さーって、ゲーム開始といきますか」

 大空高くへと一気に舞い上がったグリムは素早く周囲の状況を把握する。

「ええっと…視界に入る限りでは四、五……全部で七機か」

 七機の駆逐艦の位置関係を考えながら、最も近くに存在する一機の駆逐艦に照準を絞った。仲間達に弓を番えて合図して見せる。

「記念すべき最初のお客人に、盛大なる歓迎の意を込めて――」

 大空高くに舞い上がると、一気に滑空した。低速で飛行している駆逐艦の背後から回り込むと、操縦席の窓目掛け力一杯弓を引き絞った。放たれた矢が窓を派手に打ち破った。

「な……何事だ!?」

 操縦士の困惑する声が響き渡る。それに続く様に、他の弓騎士達も一斉に矢を放った。突然、フロントの硝子を叩き割る無数の矢の襲来。街の家々の明かり以外、何も光の無い空中からの突然の奇襲に、操縦士は動揺するばかりであった。その隙を見逃すはずも無い。

「ようこそ、風光明媚なる風の都ティフェリアへ」

 グリムは動揺する操縦士達の真横に降り立つと、操縦士の首を掴んで漆黒の闇夜へと向かい力一杯投げ飛ばした。

「パラシュートは装着済みかな?空の旅をお楽しみくださいませ」

 可笑しそうに笑うグリムに、もう一人の操縦士が剣を抜き斬り掛かろうとする。

「き、貴様ーっ!!」

「危ない、危ない。人に刃物を向けちゃ駄目だって教わらなかったの?」

 襲い掛かって来る操縦士を空中に舞い上がり交すと、グリムは小馬鹿にしたように嘲笑う。頭に血が上った操縦士が身を乗り出した所で、別の鳥人が蹴り落とす。

「ありゃー、パラシュート装着していたのかね?」

 幸先良い出だしって感じ?グリムはにやりと笑いながら、仲間の騎士達と可笑しそうに笑いあいながら手を叩き合わせた。

「この船は貰っちゃったよー。さぁって……どの船に衝突させちゃうかなぁ」

 陽気に笑いながら、グリムは初めての操縦に挑んで見せるのであった。

◆◆◆19◆◆◆

 ガリルは空中で繰り広げられる派手な戦いの模様を見上げていた。駆逐艦よりも圧倒的に小柄なグリム達が次々と駆逐艦を撃沈していく。小気味良い勝利を肌で感じ取っていた。

「ほぅ……空中舞台も中々やるでは無いか? 俺達も負けては居られないな」

 ガリルは力強く槍を振り回しながら、目前より近寄ってくる帝国軍騎士を見据えていた。

 如何なる理由があって、戦争を仕掛けて来たのかは知る必要等無い。眼前に立ちはだかる敵を砕く。理由はそれだけで良い。ガリルは周囲を見渡しながら、高々と槍を構えて見せた。強気に出て相手が退いてくれればそれで良い、と。

 街のあちらこちらで、ティフェリアの騎士と帝国の騎士との交戦の図が見えた。しかし、その光景には何か違和感を覚えずには居られなかった。何か違和感を覚える……だが、何に違和感を覚えているというのであろうか? 巨大な艦隊を用いるほどの軍備の規模の割には、騎士達の頭数が少な過ぎる。罠か? あるいは敵軍の司令官の策略なのか?

 考え込むガリルに一瞬隙が生じた。その隙を逃すはずも無い。頭上に構えた剣を、騎士が一気に振り下ろす。

「騎士様、危ない!!」

「!!」

 我に返ったガリルは、襲い掛かって来る騎士を、槍でねじ伏せると、顔先に槍を突きつけて威嚇して見せた。軽く呼吸を整えながら、窮地を救ってくれた青年に短く礼を告げた。

「悪いが帝国軍にくれてやる命は無いのでな」

 涼しい表情を崩すこと無くガリルは槍を下げようとした。戦意を失った者を斬り捨てる理由は無い。だが、帝国軍の騎士は怯むこと無く剣を振り翳した。まだ戦いに慣れていないのか、微かに膝が震えていた。

「退く訳にはゆかぬ……祖国の窮地を救うため!!」

 心が痛んだ。祖国を救うために、藁をも掴む想いで挑んで来た青年。斬り捨てるのは容易いこと。だが、このような若者までが戦場に赴く。それほどまでに追い詰められた状況を察すると胸が締め付けられた。

 しかし、戦いに置いて無駄な情けは禁物。如何なる事情があろうとティフェリアの地に災いをもたらすであろう火種は滅せねばならぬ。可哀想……などとは言ってはいられないのだ。ガリルは青年を弔うかの様に目を伏せると、静かに槍を構えた。

「……退かぬと申さぬなら止むを得ぬ。恨むなよ?」

 先程とは異なる構えであった。相手を仕留めるための構え。ガリルは静かに呼吸を整えていた。僅かなる波紋さえ波立たぬ湖面の様に研ぎ澄まされた動きを見せながらも、穏やかなる構えを崩すことは無かった。

「うわあああああっ!!」

 力強く斬り掛かって来る騎士を紙一重でかわすと、軽やかに身を翻す。そのまま微塵の迷いも感じることなく、ガリルは手にした槍を力強く突き刺した。微かな呻き声を挙げて崩れ落ちた。何を掴もうとしているのか、最期の力を振り絞って、虚空を掴む様に突き出された手。ガリルは思わず目を逸らした。それは一瞬のことであった。

「……御免」

「さすがは騎士様だ。一撃で仕留めているぜ」

「こんなに強い騎士達が居てくれるんだ。帝国軍など恐れるに足らずだな」

 呼吸一つ乱さず、迷うことなく一撃の元に仕留めたガリルの腕前に皆が喝采の声を挙げていた。それは……素直に表れた勝利の喜びなのだろう。

 目の前で同胞を呆気なく殺された仲間の騎士達は、慌ててその場を後に逃げ出していった。その光景もまた、どうにも不可解に思えて成らなかった。その名を知られる帝国軍の騎士にしてはあまりにも腑抜け過ぎる。此処にもまた言葉に言い表すことの出来ない奇妙な違和感が漂っていた。

 それにしても――ガリルは表情には表さなかったが、心の奥底では毛が逆立つ様な、表現出来ない不快な想いで一杯だった。兜の外れた帝国の騎士は、未だ少年と呼んでも良い程の若者であった。

 倒れる若者。それを囲み歓喜の声を挙げる民衆達。その光景はとても恐ろしいと思った。普段の生活の最中で、同じ光景を目の当たりにしたならば、人は取り乱さずには居られないのが常である。果たして、この様に人の死を喜ぶことが出来たであろうか? 何かが間違えているとしか思えない異常な状況。だが、戦争とはこうした異常なる状況以外、何も生み出しはしない物なのだ。

 帝国軍が攻め込んで来るという事実を知った時から、民衆は恐怖に怯えながら生きることを強いられてしまったのだ。だからなのだろうか? その恐怖の対象が目の前で息絶えたのを見届けた瞬間、誰かの死を哀しむ気持ちは隠れ、敵を討ち取った勝利の喜びだけが浮上してくるのだろうか? 複雑怪奇なる想いが頭の中を交錯する中、血相を変えたグリムが墜落するような勢いで舞い戻って来た。

「どうしたのだ、そんなに慌てて?」

「ま…まずいよ、ガリル!!」

 先刻の余裕に満ちた表情はそこには無かった。息を切らしながら動揺するグリムに「一先ず落ち着け」と、肩を叩いてみせた。未だ荒い呼吸を整えながら、グリムが顔を挙げる。

「僕達は帝国軍の考えを見誤っていたんだよ」

 妙に青褪めた表情のグリムは、なおも肩で激しく息をしている。あまりにも焦り過ぎているのか、言葉が追い付いていない。

「そんなに焦るな。とにかく落ち着いて話せ」

「はぁ、はぁ……どうしてあの大きな船は攻撃してこないのか? どうして妙に攻撃の手が緩いのか、不思議には思っていたけれど、大変なことに気付いてしまったんだよ」

 グリムの言葉にガリルは先程の違和感を思い出した。感じていた違和感は、彼もまた同じであったのだ。言葉に詰まるグリムの表情から察するに、あまり良い報告では無いことだけは間違い無かった。

「あいつらの狙いは………」

 グリムが言い終わるよりも先に、耳をつんざく様な凄まじい轟音が響き渡った。続いて立ち上る無数の火柱。

「これは一体……」

「ガリル、僕達も急ごう。城が一斉砲撃を受けているんだ!!」

 背筋に冷たいものが走るのを感じた。自らの間抜けさに、ガリルは焦りを隠し切れなかった。何故、あの違和感の正体に気付かなかったのか? 普通に考えればすぐに気付けたはず。反省は後にして、砲撃を受けた城が気になる。起こすべき行動は一つである。

「グリム、城へ急ぐぞ!! 皆はここで待機していてくれ」

「しかし!!」

「……俺達が抜けた後の街を守ってくれ」

 ガリルの言葉に、民衆達はしばし顔を見合わせると、力強く頷いた。ガリルはグリムに目配せすると、城を目指して走り出した。

 城からはもうもうと黒煙が立ち上り、凄まじい炎に照らされた空が赤く見える程であった。二人は城の無事を祈りながら走り出した。

◆◆◆20◆◆◆

 ―――ティフェリア城 炎に包まれた庭園―――

 それは一瞬のうちに起こった出来事であった。

「い、今のは一体!?」

 突然響き渡った轟音に驚いたエリスは、慌てて私室から身を乗り出す。

 美しく立ち並んでいた庭の木々は無残にも、炎に包まれ黒い煙を放っていた。城の庭園に佇んでいた立派なエルザ像も、豊かな水の舞踏で皆の目を楽しませてくれた噴水も粉々に砕け散り、見る影も残されていなかった。

「何と言うことを……」

 怒りの感情よりも、恐怖の気持ちが勝っていた。実感したくなくても、目前に迫り来る死の瞬間を認識せざるを得ない状況。恐怖から逃げ出したい気持ちに駆り立てられる。しかし、逃げているだけでは何も始まりはしない。

「エルザよ――どうか私に武運を」

 覚悟を決めたエリスは長い髪が戦いの邪魔にならないように、しっかりとリボンで結い上げ、愛用の長剣を手に取った。

 夜だと言うのに、炎に包まれた庭園は皮肉にも明るかった。砲撃は一撃だけではあったが、相当な威力の火力を持っていた。庭の噴水の彫像を粉砕し、綺麗に整備された木々は倒れ、盛んに炎を吹き上げていた。立ち上る黒煙を赤く染める程に、煌々と燃え上がる火の手の勢いは強かった。あまりにも凄惨な光景――変わり果てた城の中庭。

 容易く言葉に出来ぬ程の怒りと哀しみに唇をかみ締めながら、エリスは今まさに部屋を飛び出そうと振り返った。扉の取手に手を掛けようとした瞬間、扉は期せずして勢い良く開いた。驚いたエリスは相手が誰かも判らぬままに、剣を向けていた。

「おのれ、帝国の騎士め!!」

「うわぁっ!!」

「……レイン!? す、すまぬ。怪我は無いか?」

 いきなり剣を突き付けられ、驚いた拍子にしたたかに腰を打ってしまったのか、苦笑いを浮かべながらも、痛そうに腰をさすっていた。

「だ、大丈夫……はは、相手を見てから剣は向けて欲しかったかな?」

 こんな状況でも、相変わらずレインはマイペースだ。少々驚きの余韻なのか、強張った表情であったことには変わりは無いが、変わらない笑顔にエリスは安堵を覚えていた。レインは未だ目が据わったままのエリスの両手を握り締めた。

「エリス、良く聞いて。帝国の奴らの砲撃のお陰で、城の一部が崩壊し始めてしまっている。僕達のいる場所も安全とは限らなくなっている。なおかつ、帝国軍の騎士達が攻めてきている。急いでここから逃げなくては――――――」

 まくし立てる様に、矢継ぎ早に語るレインの言葉は途中から聞こえなかった。あまりの出来事に、微かに気が遠くなっていたように思えた。だが、ここで怯む訳にはいかない。自分にだって出来ることは必ずあるはずだ。王家の人間として、国の皆を守りたい。その想いには微塵の曇りも無かった。

「みんな上手く逃げられたなら良いのだけど……」

「レイン、占星術師のルーブルはどうした?それに父上と母上は?」

「判らない。僕も探しているのだけど……」

 レインは済まなそうに項垂れていた。だが、今は一刻の猶予も無い。逃げることが恥だなんて格好を付けたことも言える状況では無い。例え城を見捨てることになったとしても、城の者達を連れて脱出しなければ成らない。城は修復出来ても、民衆の命は修復できないのだから。何よりも次の砲撃が無いとは言い切れる状況では無かったのだから。

 占星術師ルーブルは恐らく父、母と共に行動しているであろう。そう考えてはみたものの、一体何処に居るのか皆目検討が尽かない。

 その時、再び激しい爆音が響き渡った。あまりの衝撃に立っていられない程に、大規模な爆撃を受けたのは間違いなかった。その衝撃は階下から伝わってきたものでは無かった。

 明らかに階上から発せられていた。その証拠に軋んだ天井から石材の破片が落ちている。

「ちょっと待ってよ。この上ってことは……」

「父上!! 母上!!」

「ああ、エリス、危険だよ!!」

 心臓が破裂しそうな程にエリスは動揺していた。自分が王女だという事実さえ吹き飛ぶほどに心が軋んでいた。万が一、父母が王室に残っていたとしたら? 考えることを憚られるような最悪の惨状。それを確信した瞬間、エリスの体は勝手に階上へと向かっていた。

 レインは王室目指して一気に螺旋階段を駆け上がろうとするエリスを止めようと試みた。

「エリス、危険だよ!!」

「えぇい、邪魔をするなっ!! 父上!! 母上!!」

「うわっ!!」

 だが、我を失ったエリスは、レインの制止を渾身の力で振り払うと、なりふり構わず王室へと駆け上がっていくのであった。

 嫌だ!!こんな形で父上を、母上を失うことになるなんて、堪えられない!!

 エリスは力の限り駆け上がった。無理な動きを強いられた足が悲鳴を挙げる。鋭い痛みが突き刺さる様に襲い掛かる。くそっ!! 動け!! 動いてくれ、私の足!! 歯を食いしばり必死で駆け上がろうとする。緊張から口の中がカラカラに渇き、唇が貼り付く嫌な感覚に耐えていた。

 螺旋階段の最上部……本来であれば王室があるべき場所には、瓦礫と化した岩塊しか見えなかった。未だ砲撃の際の爆発に伴う焦熱が残っていた。絨毯の一部が燃えていた。

「そんな……そんな馬鹿なことが許されるものか!!」

 エリスは力一杯、床を蹴り上げながら走り続けた。自分の目で見るまで納得出来る訳も無い。先刻までそこにあった部屋が消失している。それを、今すぐに信じろと言われても、それは無理な話である。

 息を切らし、動かぬ足を引き摺りながら昇り切った場所は、かつて王室のあった場所。吹き抜ける風と、何処までも見渡す夜半の草原。そこには何も残って居なかった。砲撃で吹き飛ばされたのであろう。後に残されているのは爆発の際の焦熱と、燃え盛る絨毯だけ。

 だが、同時に人の気配も感じられなかった。少なくても、ここに誰かが居たであろう形跡は無い――父は、母は、この場所に居なかった? つまりはそういうことか? その事実に気付いた時、エリスは膝から崩れ落ちた。

「はぁ、はぁ、どうやら王様達は上手く逃げたみたいだね」

「どうやら、そのようだな。済まぬ、レイン……取り乱してしまって」

「気にしないで。それよりもここは危ないよ。とにかく城の中に残っている人達を連れて僕達も脱出しよう」

 もしも――もしも、私が死んでしまったら、この先の未来を知ることは出来なくなる。それは嫌だ。生きて、生きて、生き延びて、また皆でこの城に戻ってくるんだ。

 こんな無残に破壊された城では哀し過ぎる。ここは私の家だ。長年住み慣れた生家だ。無残に傷付けられて、痛みに耐えていることだろう。出来るだけ早急に傷を癒してやらねばならぬ。だからこそ、私は生き延びなければならない。断固として死ぬわけにはいかない。そう考え切った時、不思議と荒れ狂う心が次第に沈静化していくのを感じていた。

「レイン、急ごう。この周囲には人の気配は感じられない」

「恐らく皆、大聖堂に向かったはずだよ」

 唐突にレインの口から飛び出した言葉に、エリスは驚いた様に振り返る。

「大聖堂に?」

「うん。大聖堂に僧侶達が集まって、強固な結界を張っているらしいから」

 一体どうして、このタイミングに大聖堂に僧侶達? 訝しげな表情を見せるエリスの手を引きながら、レインが口を開く。ついでにエリスを安心させるかのような、何時もの笑顔も忘れずに。

「宣戦布告を受けてから、多くの人達がエルザに救いを求めようとしたみたいでね。城の大聖堂のエルザ像は、立派な像だから力があると考えたのだろうね。で、街の教会の神父さん達も集まって、皆で必死に祈りを捧げているという話を聞いてね」

 エリスは考えた。そう考えれば、皆が一箇所に終結するのも妥当であると。それにそのような状況にあるならば、なおのこと国王である父もその場に居るはずであろう。皆を勇気付ける存在になることは間違いないのだから。

 今、自分達が採るべき行動はひとつ。是が否でも生き延びて大聖堂に到達すること。それしか考えられなかった。そうと決まれば、後は行動を起こすだけだ。

「急ごう、レイン。誰の助力も得られない状況は危険だ」

「そうだね。皆と合流して、早い所脱出しないとね」

 エリスとレインは顔を見合わせると、急ぎ足で螺旋階段を下っていた。螺旋階段を急ぎ足で下りながら、エリスは不謹慎ながらも幼い日の情景を振り返っていた。

「こうして、良く一緒に走り回ったな」

「まだ子供だった頃にね。へへ、懐かしいなぁ」

「……レイン、生き延びるぞ。絶対にな」

 返事は無かった。代わりに満面の笑みでレインは、力強く頷いて見せた。不安と恐怖に押し潰されそうだったエリスには、その笑顔は何よりも心強く感じられた。

◆◆◆21◆◆◆

 ―――ティフェリア上空 連合艦隊フェンリル司令室―――

 城の各所から吹き上がる様に燃え上がる炎に包まれたティフェリア城。先刻までの勇壮なる面影は、忌々しき火の手に打ち砕かれてしまった。盛んに燃え上がる炎を見つめるキエナフの表情に戦慄が駆け巡った。

「馬鹿な……何故砲撃を? 一体誰の指示だと言うのだ!?」

 取り乱しながら立ち上がるキエナフは、周囲の操縦士達を鋭い声で恫喝した。艦橋内に言い様の無い緊迫した空気が立ち込めてゆく。何故だ? 指示を出した訳でも無いのに勝手な行動を取る者達がいるとは考え難い。他の騎士団のことは良く判らぬが、少なくても我が親衛騎士団は精鋭の集まり。命令違反を犯すような者が居る訳が無いのだ。

 肩で息をしながら、怒りに髪を振り乱すキエナフに皆が動揺を隠し切れなかった。言葉に出来ない嫌な緊迫感の立ちこめる中、一人の操縦士がおずおずと立ち上がった。

「団長……お言葉ではありますが先刻、団長御自身が砲兵達に直々に指示を下されたと伺っておりますが?」

 操縦士の言葉を耳にしたキエナフは動揺と怒りに表情を紅潮させていた。

「馬鹿な、そんなことがあるものか!! 指示があるまで待機せよと命じたはずだ!!」

「し、しかし……」

 言葉に詰まる操縦士の表情からは、偽りを述べているとは考えられなかった。部下達の動揺した表情、突き刺さるような視線。周囲の反応に気付いたキエナフは、出掛かる言葉を必死で抑えながら冷静を保とうと、静かに深呼吸をした。

 しかし、どう考えても辻褄が合わない話だ。俺はこの場所に座したままティフェリア襲撃の戦況を見届けていただけのはず……そう考えたところで、一つの仮説を考え付いた。

 いや……仮に、俺がもう一人いたとしたらあり得ない話では無くなる。俺が席を外している際に――いや、例え指示を下した後でも、指示を塗り替えることは造作もないことだ。何しろ俺自身が下した命令であることには変わりは無いのだから!!

 その考えに至った瞬間、キエナフの脳裏に嫌な光景が蘇ってきた。自分自身に語り掛けてきた、もう一人の自分自身の存在を。

 あれは俺の心が生み出した幻だったのでは無かったのか? いや、違う……あれは幻では無い。もう一人の俺だったのだ。間違いない。そうで無ければ説明が付かない。しかし、それでも説明は付かない。一体、誰がそんなことを? それに、俺に成り代わり、あり得ない指示を下すことに如何なる利得があると言うのだ? 不可解すぎる。

 ふと、大切な何かを思い出したのか、キエナフは急ぎ通信機を手に取った。

「全軍に告ぐ。砲撃を即刻停止せよ。我らの目的は、破壊では無い。繰り返し全軍に告ぐ。砲撃を即刻停止し、速やかにティフェリアの民の捕獲を開始せよ」

 生きている心地がしなかった。ティフェリア城の炎上を目にした瞬間から、否な汗が噴出し続けていた。一体、何が起こったのか理解出来なかった。しかし、事実は事実でしか無い。燃え上がるティフェリア城が、何よりもその残酷な真実を如実に語っていた。時間を逆戻りさせることでも出来なければ、この事実はキエナフの失態となる。考えたくも無い状況。この先の展開を想像すると、体中から嫌な汗が噴出す。

 想定外の出来事に酷く心を揺さぶられた。冷静さを取り戻そうと椅子に腰掛けた瞬間

「団長、我が軍の駆逐艦のうち数隻からの応答が途絶えました!!」

 さらなる事態の悪化を告げる報告が飛び込んできた。再び心が揺さぶられる。

「馬鹿な……機械技術を保有しない田舎王国の奴らが我らを押しているというのか!?」

 想像以上の戦闘能力を誇るティフェリアの軍勢に、キエナフは戸惑いを覚えていた。奴らの能力を過小評価し過ぎた結果か?何たるザマだ……

 次から次へと襲い掛かる、想定外の事態に冷静さを完全に失っていた。煮えたぎる頭ではまともな判断を下すことは出来ない。気持ちを整理しようと艦橋から甲板へと赴き、自身の目で周囲を確かめて見ることにした。冷たい夜風に当たり、煮えたぎる頭を冷やしたかったのだ。報告の真偽を自身の目で確かめるために、甲板から身を乗り出す。身を切るような冷たい風が心地良く思えたが、眼下に広がる景色は明らかな違和感を孕んでいた。

 先刻まで、その場所は草原であったはず。しかし、眼下に広がる景色には確かに墜落した駆逐艦が何機かは確認出来た。何も無い広大な草原には似つかわしくない機械兵器の残骸からは、盛んに煙が上がっていた。間違うはずも無い、絶対的な証拠であった。

 帝国軍相手に怯むことなく、精一杯の反撃を仕掛けるティフェリアの軍勢に敬意を覚えながらも、無残に崩れ落ちたティフェリア城の一角は痛々しく思えた。城を包む炎はなおも激しく燃え盛り、やがては城全体を呑み込むかも知れ無い程に膨れ上がっていた。

「……何故、こうなってしまった? もう一人の俺の仕業か? だとしたら?」

 誰にとも無く呟き掛けるとキエナフは、踵を返し歩き始めた。

 夜半の風は、何故か哀しみに満ちた様な冷たい湿気に満ち溢れている様に思えた。

◆◆◆22◆◆◆

 ―――ティフェリア城 国王の逃走―――

 唐突な砲撃はティフェリアに対して予想外に大きな打撃をもたらした。帝国軍の軍事力の強さを鮮明に刻み込んだのもあるが、何よりも砲撃の威力が大きかった。城内は砲撃の威力により派手に砕け散っていた。豪華な意匠を施された石像も、飾られた絵画も見る影も無かった。城の内部に侵入してきたレオルカの騎士達により、多くの民達が拉致されていった。ティフェリアの騎士達も善戦はしている。だが、圧倒的な頭数の多さも手伝い、戦闘慣れしているレオルカの騎士達は想像以上の強敵であった。

 積極的な攻撃を仕掛けて来ようとしないレオルカの騎士達の思惑に気付いた頃には、もはや手の着けられる様な状態では無くなっていた。次々と連れ去られる民衆達を見殺しにするしか無かった。

 民衆があっての王であるはず。なのに、何故逃走を続けているのか?正直なところ、自分でも自分の行動は理解出来ずにいた。ベルフィアが活路を切り開き、自分達を誘導してくれているからだけでは無い。

 今はどうすることが出来なくとも、必ずや連れ去られた民衆達を奪還する。その想いだけは棄てる訳にはいかなかった。信念からは外れる行動になるかも知れない。しかし、再びティフェリアに希望の灯火が灯るその瞬間をこの目で見届けたい。それが出来なければ、死んでいった同胞達に、連れ去られていった同胞達に申し訳が立たぬと言うものである。

 不思議と死に対する恐怖は薄れていた。いや、麻痺し切っていたというのが正確な所であった。長らく戦乱の世とは切り離された時代を生きてきた身である以上、常にあるべき姿――つまりは『平和』が、ある日突然崩れ去ってしまう瞬間を受け入れることは容易では無い。いずれにしても、ティフェリア国王としての責務を果たすまでは、死んでも死に切れぬ。その切なる想いが、国王が生きることに執着する理由へと成り代わっていたのだ。

 不意にベルフィアが足を止める。

「またしてもレオルカの騎士共か。好きにはさせぬ」

 何としても国王だけでも死守しなくては。揺らぎ無き忠誠心を烈火の赤炎の如く燃えたぎらせながらベルフィアは剣を抜く。長い髪を振り乱しながら、修羅の形相と轟くような咆哮で敵兵達を威圧する。

「我らティフェリア騎士団の誇りに掛けて貴様らを討つ!!」

 目の前に立ち塞がるのはレオルカの騎士達。たかだか三人の騎士如きに遅れを取るつもりも無い。ベルフィアは愛用している長剣を握り締めると力強く大地を跳躍した。

 素早い動きに圧倒された正面の騎士を背後から叩き切ると、返す刃で立ち竦む騎士に剣を突き刺す。

「ぎゃああ!!」

「お、おのれっ!!」

 怒りに身を任せた別の騎士の剣撃を紙一重で交わせば、後に残るのは切り取られた髪の一部だけ。次の瞬間、身を大きく翻し、駒の様に回りながら首を切り付ける。

「その程度では打ち取れはせぬ!!」

 腕に覚えのある帝国の騎士達とは言え、ティフェリア最強の男の前では、所詮は風前の灯であった。静かに呼吸を整えながら、ベルフィアは剣を鞘に収めた。

「急ぎましょう。敵は次第に包囲を狭めて来ております」

「うむ。急ぎ大聖堂へと向かおう」

 レオルカの騎士達はベルフィアを先頭にし、円陣を組みながら城を囲い込んでいる。じわじわと追い詰められながら城の一箇所にかき集められようとしていることだけは判っていた。判ってはいたが、抗うことが出来ないのも事実であった。

 民衆を拉致することが目的なのであれば、一箇所に固めた方が効率は良いのは確かであった。相手の腹の内は判っていても、それに抗い切るには力量が足りなかった。如何にティフェリア騎士団が優れていたとしても、数の上で圧倒的な優位さを握られてしまうとどうすることも出来なかったのだ。

 レオルカの騎士達も、ティフェリアの騎士団に対しては好戦的であった。戦闘能力の高い者達は彼らの任務を遂行する上で邪魔な存在になると判断したのであろう。そして、同時に王家の者達も狙われているであろうことは判っていた。これもまた、ティフェリアの民衆を導くべく存在は不必要とのことなのであろう。あるいは、宣戦布告を受け入れた相手には、相応の礼儀を持って接しようという帝国側の思惑からであろうか? いずれにしても国王は命を狙われている身であることは間違いなかった。

 何度目かの曲がり角を抜け、大聖堂へと続く道へと近付いてきた。この道は城内に造られた美しい庭園を横切る造りになっており、雨の際にも庭園を楽しめるようにと硝子の屋根を設けている。美しい景色を楽しむための道ではあるのだが、この状況では極めて危険な場所となる。遮る物も、身を隠す物も無い剥き出しの道。ここを砲撃されようものならば、一瞬で全員まとめて塵となるであろう。仮に砲撃されなかったとしても、レオルカの騎士達が一斉に攻撃を仕掛けて来るであろう。大人数で迫って来られては騎士団最強と称されるベルフィアであったとしても護り切ることは不可能であろう。

 透き通る様な白い扉の向こうには数多の敵が待ち構えているとも限らないのである。だが、もたもたしていれば背後からの追っ手に仕留められてしまうことであろう。言うなれば絶体絶命の危機に近しい状況となっていた。

「万事休すか」

 苦々しい表情を見せるベルフィアの前に、静かに歩み出る占星術師ルーブル。何も語らずに、静かに扉に手を宛がって見せる。聞いたことの無い独特の韻律を持つ言葉を呟き続ける。何時しかルーブルの手は淡い紫色の光を放っていた。初めは柔らかな光ではあったが、次第に猛々しい光へと変わってゆく。一体何をしようとしているのか、皆が戸惑った瞬間であった。

 光が弾け散り、次の瞬間扉もろとも吹き飛ばす程の閃光を放った。ルーブルの手から放たれた鋭い閃光は、扉を貫き、扉の裏に潜んでいた騎士達ごと貫いたのだ。まるで真昼の太陽の様な凄まじい光に照らし出され、唐突に昼が舞い戻って来たかの様な光景に包まれた。

「な……なんという威力だ」

「王よ、驚いている暇は無いぞ?急ぎ大聖堂へと抜ける」

 ルーブルの静かな声に我を取り戻した王は、動揺している王妃の手を取ると再び走り始めた。慌ててベルフィアが二人の前を守るかのように駆け出す。

 ラゼール国王が死ぬ訳に行かなかったもう一つの理由があった。愛する娘の将来を見届ける、その日まで。信頼するに足る誰かに娘を委ねるその日を迎えるまでは、国王としてでは無く、一人の父親として潰える訳には行かなかったのだ。ただ、その想いだけを胸に抱き、今は必死に走り続けるのであった。情け無いことだが、非力な自分は逃げ続けることしか出来ない。

 敵の兵力は尽きることを知らないかの様に、打ち寄せる波の様に止め処なく押し寄せる。

 ティフェリアの騎士達の旗色は悪くなる一方であった。状況は絶望的な所まで切羽詰っていた。奇跡でも起きない限り、ティフェリアの逆転勝利は到底あり得ない。つまりは、どう足かいた所で終わりは見えてしまっていたのだ。だからこそ、国王は走り続ける。その終わりを覆すことが出来るのであれば、例え塵の様な僅かな確率であったとしても。

 ラゼール国王とは対照的にカーラ王妃は、穏やかな表情を崩すことなく走り続けていた。その表情は、何かを悟り切ったかのようにも見えた。

◆◆◆23◆◆◆

 ―――ティフェリア城 大聖堂に集結する者達―――

 広大な大聖堂には多くの民衆達、宮殿の貴族達が集まっていた。広大な大聖堂を埋め尽くす程に集まった人々は、各々の想いを抱きながらそこに留まっていた。

 僧侶達は必死の形相で防御結界を作り出すための魔法を詠唱し続けていた。力強く唱えられる詠唱の声だけが荘厳なる大聖堂に響き渡る。

 民衆達は皆一様に恐怖と不安で一杯だったことは確かであろう。戦いの心得がある者もいれば、戦いから逃れることだけで精一杯の者もいる。皆が静かにことの成り行きを見守り続けるしか無い歯痒さに苛立ちと、不安、それから恐怖を抱かずには居られなかった。

 ティフェリアの騎士達は大聖堂のたった一つの入口前に陣取り、万が一結界を打ち破られた瞬間を想定して身構えていた。魔法を行使するのは人。人である以上は疲労を蓄積せずにはいられない。魔法を行使するには多大なる精神力と集中力を要求される。結界を構成する魔法を長時間行使し続けるのは決して容易いことでは無いのだから。

 その僧侶達の中に混じる一人の少年。まだ若い身ではあるが、結界を構成する魔法を詠唱出来る程の、群を抜いた魔法の素養を持つ身であった。幼い頃に母を亡くし、ティフェリア城下町の教会にて神父を営む父、ラファエルと二人で暮らしていた。父の影響を受けてか、幼い頃からエルザ教への強い信仰心を抱き育ってきた。強い信仰心は魔法を行使する上で必要不可欠となる。だからこそ、強い信仰心を持つ彼は魔法の彩色にも恵まれた。

 少年の名はアリエス。数時間前にガリル達と衝突した少年である。

「結局のところ、城の騎士団なんてこの程度じゃないか? 何の役にも立てやしない。勝手に戦争を始めておいて、無責任にも程があるよ」

 魔法を詠唱しながらもアリエスは心の奥に想いを秘めることも無く、率直に口に出してみせる。苛立ったような表情を崩すことも無く、先刻出くわした二人の騎士を思い出す。

 誰が怯えているものか……役立たずの騎士団に助けを縋るつもりなんか無いだけさ。どうせ国は何もしてくれないんだ。だったら自分の身は自分で守るしかないんだから。

 苛立ちに精神の統一をかき乱されつつある息子を気遣う様に、同時に嗜める様に優しい笑顔で語り掛けて見せるラファエル。

「アリエス、人は皆それぞれに使命を持って生きているのです。確かに国を守るのは騎士達の使命であるかも知れません。ですが、それ以上に優先すべき使命を抱いている可能性もあるのです。上辺だけで人を判断するのは良くはありませんね?」

 妙に物分りの良い、人の良い父に苛立つ想いはさらにかき立てられた。どんなに酷い目に遭っても、神に授けられた試練なのだから乗り越えなくては成らない。全てをその一言で片付けられる心をアリエスは理解出来なかった。

 気が付けばアリエスは再び、あの瞬間に出くわした騎士の顔を思い出していた。特にあの背の高い黒豹の騎士の言葉が、振る舞いに苛立ちを覚えていた。人の心を見透かすかのような図々しい態度と、明らかに偉そうな上から目線の言葉。子供扱いして馬鹿にするな……

 元を正せば戦争の始まりに不安を覚える民達のために、エルザ教の教えを説いて欲しいとの依頼を受け、城に訪れてしまったことが全ての始まりだったはず。それにも関わらず騎士団は護衛をしてくれる訳でも無く、お人好しな父もまた何の疑念も持たずに城へと向かったのだ。結果、戦いに巻き込まれてしまった形になったのだ。

 大聖堂の外では一体どんな戦いが繰り広げられているのだろうか?アリエスは少なからず迫り来る死の恐怖に動揺を隠し切れなかった。音らしい音は殆ど聞こえてこない。騎士達の武器のぶつかり合う音も、戦いの際の掛け声も聞こえてこない。その妙な静寂がより一層、不安な気持ちを昂ぶらせてしまうような気がして落ち着かなかった。

 不意に大聖堂の入口が騒がしくなる。騎士達が敬礼をしながら列を作るのが見えた。繰り広げられる争いの最中を駆け抜けて来たラゼール国王の一団が到着したのだ。

「あいつが……戦争を始めた張本人!!」

 鋭い眼光で睨み付けながらアリエスは唇を噛む。

「アリエス、憎悪は不幸しか招き寄せません。今は精神を集中させ、結界を作り出すことだけに専念しなさい。我々が力尽きれば、此処はすぐに崩落してしまうでしょう」

 ラファエルが息子に向かい話し掛けている間にも、近くにいた僧侶が力尽き膝から崩れ落ちるのが見えた。判ってはいることだった。所詮、結界は時間稼ぎにしか使えないものだと。根本的な解決策に繋がるものでは無いということも。身を守るだけでは事態は変わらないのだ。根本的な原因である、敵軍の艦隊を打ち砕かぬ限り勝利はあり得ないのだ。

 崩れ落ちた僧侶を見つめながら、何かを思案するラファエル。やがて、何かを思い出したのか、静かに顔を上げると詠唱を中断した。

「……アリエス、私は図書館に行きます」

「え? 図書館?」

 唐突に父が言い出した言葉の意味が判らなかった。何かを思い出したのであろうか? ラファエルは教会の神父であると同時に、熱心なエルザ教の研究を行う学者でもある。現在のエルザ教の教えは完全に教義を抑えたものでは無く、長い歴史の最中に失われた教えや知識、あるいは魔法も残されているとされている。

 この窮地を救うための、何かしらかの強力な力となるような魔法が手に入れば、この状況から脱することも可能になるかも知れないと考えたのだろう。しかしながら、図書館へと続く道は既に結界の外。突然の砲撃による被害を受けないとも限らない危険地帯なのだ。

「待ってよ、図書館は結界の外だよ!? 帝国の奴らに襲われたらどうするの!?」

「大丈夫です。アリエスを残して逝くつもりはありません」

「縁起でも無いこと言わないでよ」

 そんな優しい笑顔で笑い掛けるのは止めてよ。何だか……これでお別れだと言わんばかりの哀しい、哀しい笑顔じゃ無いか?そんな顔するの止めてよ……死ぬ時に見せた、母さんの最期の笑顔と同じじゃないか。駄目だよ。嫌だよ。母さんも居なくなって、父さんも居なくなったら、ぼくは一人ぼっちだ。

 アリエスに取っては勝手に戦争を始めた馬鹿な国の奴らがどうなろうが、そんなことはどうでも良かったのだ。例え、皆が死に絶えたとしても、父だけは失いたくなかったのだ。

 それは、こんな戦争を始めた報いを受けただけのこととして片付けられるだろう。だが、アリエスに取って天涯孤独の身になって生きることは、到底考えられなかったのだ。

「ティフェリア国民諸君……この戦争の始まりとなったのは、王である私の采配によるものである。つまりは……私は民衆に憎悪の眼差しを向けられても仕方が無いことをした訳である」

 唐突に始まったラゼール国王の演説に、それまでざわめいていた民衆達が一斉に耳を傾ける。だが、皆が皆友好的な態度を持っている訳では無かった。戦争を始めた張本人であることには変わりは無い。例えそこに如何なる深い思惑が、信念が込められていたとしても、批判的な者達には受け入れられないことには変わりは無いのだ。アリエスもまた受け入れられない者達の一人であった。

「レオルカの軍事力を前に勝ち目があるとは考え難い。だが、我らティフェリア国民の想いは決して揺らぐことは無い。この戦争は負けるための戦争では無い。我らのあるべき場所を守るための戦いだと……」

 王の演説は続くが、アリエスは興味を持てなかった。それよりも、唐突に図書館へと向かった父のことが心配でならなかった。

「ぼくに取って本当に必要なものは……」

 組み合わせた手を離し魔法の詠唱を中断すると、人混みをかき分けながら図書館への道を目指した。図書館は大聖堂の一角から伸びる細い道を経由して辿り着く。

 数多くの古き時代からの書物の数々の中には、エルザ教にまつわる物も少なからず存在しているのだ。言うなれば、図書館の存在意義はこの国のエルザ教への強い想いの現われだと言っても過言では無いのだ。それだけにティフェリアに存在する図書館が保有する書物の中には、考古学や古い歴史に関する書物以上に、エルザ教にまつわる記録や歴史を綴った書物が多く存在していた。

 父が一体どのような書物を探して図書館に向かったのかは判らないが、この惨状の最中で離れ離れになってしまえば、もう二度と逢うことが出来なくなってしまうかも知れない。そんな恐怖感と不安感に潰されてしまいそうになっていた。悪寒にも似た、冷たい哀しみは氷の溶け水の様な冷たさでアリエスの背筋を駆け抜けていった。

 もう逢えなくなってしまうなんて絶対に嫌だ。アリエスは必死で人混みをかき分け続けていた。一片の希望がその手から零れ落ちてしまうのを阻止するために。

◆◆◆24◆◆◆

 ―――ティフェリア城 大聖堂へ続く道―――

 長い螺旋階段を降り切れば、後は大聖堂へと続く道は一通りしか無い。エリスとレインは息を切らしながら必死で走り続けた。

 既に宮殿の者達は避難した後なのであろう。駆け抜ける王宮からは人の気配はまるで感じられなかった。だからこそ余計に不安をかき立てられたが、後には退けない。一刻も早く皆と合流し、逃げ延びない限り明日はあり得ない。

 残された時間は少ない。直感的に肌で感じ取っていたエリスは呼吸を整えながら走り続けた。突き当たりにある扉を開けば大聖堂までの一本道だ。急がなければ何もかもが手遅れになってしまう。全てが終わってしまう前に辿り着かねば。そんなエリス達の想いを打ち砕くかのように眼前にレオルカの騎士達が立ちはだかるのが見えた。城内に残っている者がいないかを偵察している様子であった。エリスは苛立った表情で唇を噛みながら、素早く剣を引き抜く。

「えぇい、邪魔立てする奴は斬る!!」

 剣を手に走り込んでくるエリス。その姿に気付いた騎士達が一斉に武器を構える。

「多勢を相手に立ち振る舞いなんて無茶だよ。適当に時間を稼いで」

 怒りに身を任せ、突撃しようとするエリスの背に向け、レインが慌てて叫ぶ。

「元よりそのつもりだ。頼むぞ、大魔導師殿?」

 にやりと不敵に笑いながらエリスは振り下ろされる剣を、身を翻しながら避けると、そのまま力一杯蹴り飛ばして見せた。力一杯蹴り飛ばされた騎士に巻き込まれ、数名が崩れ落ちた。その光景を見下すエリスは薄ら笑いを浮かべていた。

「レオルカの騎士達よ、その程度では私の首は奪い取れないぞ?」

 生まれて初めての命懸けの真剣勝負とは思えない程に、落ち着き払っていた。むしろ、何処かで戦うことを楽しんでいるようにさえ思えた。自分でも自分の感覚が理解出来ずに、戸惑いすら覚えてしまう程に。

 何故だ? 私は命を賭しての戦いを楽しんでいる? 馬鹿な……これは軍事演習とは訳が違うのだ。何よりもこの絶望的な状況下で楽しめる訳も無い。これは単純な勝ち負けの勝負では無い。勝利を手にする分には問題は無いが、万に一つ、敗北を帰することがあれば、その時には私が此処に崩れ落ち、哀れな亡骸になり果てるというのに?

 考え込むエリスに一瞬の隙が生じた。その僅かな隙を狙って剣を握り締め突撃してくる騎士。だが、エリスは咄嗟に地面を蹴り上げ、身をかわすと力一杯、騎士の背中に剣を突き刺した。

「ぐあああっ!!」

 響き渡る騎士の断末魔。身を翻しながら素早く構えを取り直す。

「次はどいつが相手だ? 死にたい奴から掛かって来い!!」

 驚くほどに華麗な動きを見せるエリスに驚きながらも、レインは急ぎ魔法の詠唱を終えようとしていた。天高くに翳した手の平に淡い空色の光が終結する。緩やかな光から、緩やかに光は強い光を放つものへと成長してゆく。そして眩いばかりの力強い光へと変わった瞬間、レインは体を大きく身を翻し、勢いを付けて光の珠を投げ付けた。

「激流よ、敵を呑み込め!!」

 投げ付けられた光の珠は盛んに水しぶきをあげながら巨大化し、レオルカの騎士達の頭上で一気に破裂した。それを見届けたエリスは、地面を蹴り上げながら急ぎ離れた。

 次の瞬間、凄まじい水流が渦を巻いてレオルカの騎士達を次々と飲み込んで行く。形を成さない荒れ狂う水流が、ゆっくりと形を成す。やがて巨大な大蛇の姿を模した水流は駆け回りながら、レオルカの騎士達を次々と飲み込んでいく。やがて、再び巨大な球体を為すと、一気に消滅した。

 水の流れが去った後には激流に呑まれ、力尽きた騎士達の亡骸だけが取り残された。水撃を免れた騎士達が、再び剣を振り乱し立ち向かって来ようとしていたが、エリスは急いで走り出す。慌ててレインも追い掛ける。

「私達の目的は敵の殲滅では無い」

「判っている。急いでみんなと合流しよう」

 レインは複雑な想いで一杯だった。平和の実現のために習得した魔法の能力。だが、その能力は敵対するものの命を奪う武器でもある。生まれて初めて人を殺めてしまった事実。そのことが、ひどく胸を締め付けるような気がしてならなかった。頭では判っているのだ。殺らなければ、自分が殺られてしまうということくらい。容易くは消せないだろう。喉をかき毟りながら窒息していった騎士達の表情を。溺れる苦しみに悶えていた騎士達が、次々と力尽き息絶えてゆく瞬間の表情を。

 これは戦争だ。敵対する者達の命の価値が急激に下落する、異常な状況だ。受け入れたくないなんて甘いことは言っていられない。受け入れなければ、自分の命が潰えることになる。それ以上に――僕はエリスを守りたい!!

「レイン、急ぐぞ」

「あ……うん、判っている」

 一瞬の戸惑いが最悪の結末を生み出すことだって珍しくない。気持ちを引き締めるとレインはエリスに続く様に走り出すのであった。

 宮殿を抜け出し、大聖堂へと続く中庭の道を走り抜けながら、エリスは後ろを振り返る。

 砲撃の影響で、意匠を凝らした美しき装飾は、見る影も無く無残な姿を晒していた。月明かりに照らされた、かつての美しき装飾たちの現実を見届けるのは、心が痛んだ。

「私達の城は、もはや見る影も無いな」

 走りながらエリスが哀しそうに呟く。何時の日か、再び私の知っている姿に戻してやる。だからこそ、何としても生き延びなくてはならない。もう一度、この城を蘇らせるために。もう一度皆が平和に暮らせていたあの頃を、この手に取り戻すために。

 ふとレインは後ろを振り返る。仲間を討ち取られた怒りからだろうか? レオルカの騎士達が追い掛けて来るのが見えた。

「仕方が無い。此処で足止めしなくては。詠唱が終わるまで時間を稼いで」

「ああ、任せておけ。十二分に時間を稼いでやる」

 エリスの言葉に笑顔で頷きながら、レインは一端足を止めると、目を伏せ静かに詠唱を始めた。レオルカの騎士達の足は早く、エリス達との距離をどんどん縮めてくる。エリスは再び剣を抜くと、騎士達を迎え撃つべく構えを取った。だが、迂闊に飛び出せばレインが魔法を行使するタイミングを奪うことになる。此処は焦る気持ちを抑え、戦況を的確に見抜かなくては成らない。

「レオルカの騎士達よ、お前達の相手は私が引き受けよう」

 揶揄するような笑みを浮かべながら、指で騎士達を挑発する。

 エリスが時間を稼いでいる間にレインは再び魔法の詠唱を始めた。力一杯体の前に突き出した手は淡い黄色の光を放っている。時折放電しながらも、黄色い光は次第に強い光を放ち始めた。指先に集う、痺れる様な感覚に集中しながら、レインは気合いを込めて叫ぶ。

「降り注げ、落雷よ!!」

 次の瞬間、天高くから激しい落雷が降り注いだ。落雷は城の城壁を直撃すると、恐るべき破壊力で城の壁を崩した。先程までエリス達が居た王宮からの出口は、猛々しい落雷の衝撃で崩れ落ち、見るも無残な瓦礫と化していた。立ち込める石煙が周囲を包み込む。

 無事に瓦礫の封鎖を逃れた騎士達にも、激しい落雷が次々と直撃する。落雷を身に浴びた騎士達は崩れ落ちたまま微動だにしない。

「エリス、今のうちに逃げよう」

「あ、ああ……判っている」

 面影を失っていく城の姿に憂いと、怒りを覚えながらもエリスは力強く駆け出した。

「うわっ、今度は前からも!?」

「うろたえるな……一人残らず潰してやる」

 目の前を塞ぐ騎士達を、エリスは修羅の様な形相で次々と斬り捨てて行った。怒りに身を任せながら戦うエリスは、まるで騎士達を斬ることを楽しむように返り血を浴びながらも走り続けていた。

 まるで舞を舞うような、流れるような動きで次々とレオルカの騎士達を切り裂いていく。

「レオルカの騎士共、我が前に立ち塞がったことを後悔させてくれる」

 今まで見たこともない程の怒りに満ちたエリスの姿。その姿に動揺をしなかった訳では無いが、いずれにしても皆の下へと向かわないことには何も変わりはしない。レインはエリスが切り開いた活路を必死で駆け抜けながら、大聖堂を目指した。

「退け、退け!!邪魔だてする奴は、容赦無く斬り捨てる!!」

 エリスは力強く剣を振り乱しながら走り続けていた。漆黒の鎧は、数多の返り血を浴びて、何時しか鈍い赤色に染まっていた。一体、何がそこまで彼女をかき立てるのか判らなかった。城の平和を奪った騎士達への怒りか? 戦うことに楽しみを見出しているのか? 戦うことに対しての抵抗は拭い切れなくとも戦わずにはいられないのだ。レインもまた、戸惑いを隠し切れないながらも背後から追い掛けて来るレオルカの騎士達を激流に飲み込み、放電で焦がし、鋭い疾風の刃で切り裂きながら走り続けた。

 何者かに心を支配されるようでエリスは不安と恐怖で一杯であった。だが、力が無ければ明日を向かえることも出来ないのだ。受け入れるしかなかった。修羅に成り果てた自身の姿を。明日を向かえるためには覚悟も必要なのだ、と。

◆◆◆25◆◆◆

 ―――ティフェリア城 駆け抜ける騎士達―――

 炎上する城を目にしたガリルはグリムと共に城へと急いでいた。街を襲撃したレオルカ軍の規模は小規模なものであった。その事実に気付いた二人は本隊が狙いを定めているティフェリア城へ向かう必要があった。

「予想通り相当な数の騎士達が構えているな」

 苦笑いしながらガリルは槍を構える。

「悪いけど、お相手をしている程こっちは暇じゃ無いんだよねぇ」

 やれやれと言った表情を見せるグリムは、矢の先に何かを詰めた小さな袋を装着する。そのまま弓を構えると、力一杯矢を放った。放たれた矢はレオルカの騎士達の頭上で唐突に破裂すると、もうもうと毒々しい深い緑色の煙を放った。その煙を吸い込んだ途端、騎士達は激しく咳き込み始めた。

 グリムが矢に仕掛けたのはブレイ草の粉末。ブレイ草とはティフェリアの周辺でも、特に水気の多い場所を好んで生える薬草の一種。薬草とは名ばかりで、間違えて服用すれば体内を酷く炎症させる強い刺激性を持つ。しかしながら、その毒性も戦いの場において応用すれば、標的をかく乱させるのに大きな効果を発揮する武器にもなる訳である。

「ガリル、一気に抜けるよ。ただし……」

「あの煙を吸い込むな、だろう?一度酷い目に遭ったからな」

「さすが。判っているじゃない?」

 二度は体験したくないのでね。そう言いたげな眼差しを投げ掛けながらガリルは走り出した。グリムは再び地面を力一杯跳躍すると空中へと舞い上がった。敵軍の頭数は相当なものである。一撃喰らわした程度では効果が薄い。グリムは空中から次々と仕込み矢を放ち続けた。まともに相手をするには頭数が多過ぎる。こちらとしては時間を稼がれては困るのだ。指し当たって相手の動きを封じることに意味がある。

「レオルカの騎士達よ、道を開けろ!! 抵抗せぬ者には慈悲を与えよう。我が前に立ちはだかる者は、問答無用でその命を散らすことになる!!」

 足止めのための妨害攻撃を受けてもなお、立ち向かってくる騎士達をガリルは流れるような動きで次々と叩き伏せてゆく。槍を頭上で回転させながら、目の前に立ち塞がる騎士達を右へ、左へと薙ぎ払って行く。

 長身から繰り出される威力の大きな一撃は、仮に受け止められたとしても例外なく体勢を崩れさせられる程の威力を持つ。ガリルは迅速な動きで次々と騎士達を捻じ伏せながら駆け抜ける。ブレイ草の粉末が漂う場所からは極力身を遠ざけながら。

「グリム、一気に抜けるぞ!!」

「判っているって。そろそろお開きにしてやるさ…これでもくらいな!!」

 最後の一撃だと言わんばかりに、空中からブレイ草の粉末を一気に撒き散らす。そのまま一気に滑空すると城へと続く裏門を潜り抜ける。駆け抜け際に急ぎ城門を操作するレバーを落とす。呼応するように城壁が閉じようとしているのが見えた。

 グリムの予想外の行動に焦りながらも、ガリルはあくまでも冷静に、今まさに閉まろうとしている城門の向こうに向かい滑り込む。滑り込むのと、城壁が完全に封鎖されるのとは、ほぼ同時であった。タイミングを計算し切った動きにグリムが敬意を示す。

「さすが。僕の奇想天外な行動に着いてくるなんてやるじゃない?」

「まったく……城門を落とすなら落とすと言え。危なく孤立する所だったでは無いか?」

 安堵の笑顔も束の間。裏門から見渡す城の光景は無残なものであった。砲撃を受けた箇所だけでは無く、爆風や衝撃の影響を受け、城はあちこち傷だらけになっていた。風光明媚の異名を持つ城の変わり果てた姿に二人は息を呑む。

「何ということだ……」

「ガリル、空を見て。まずいよ、再び砲撃を仕掛けて来るつもりだよ」

「もはや一刻の猶予も許されぬということか」

 周囲を見渡しながら何かを思案するガリルは、突破口を見つけたのか、急ぎ振り返る。

「グリム、見ろ。壁が崩落している。あの場所から城内に入れる」

「この場所だと……大聖堂から繋がっている図書館になるはずだよ。急ごう」

 多くを考えるだけの時間は残されていなかった。次第に高度を落としてくる敵軍の母艦に注意を払いつつも、二人は急ぎ突破口より城内に侵入するべき走り続けた。

◆◆◆26◆◆◆

 ―――ティフェリア城 炎上する大聖堂―――

 空気が凝縮されるような感覚。一瞬、あらゆる物が浮かび上がるような重力感。次の瞬間、周囲に響き渡るような凄まじい轟音が響き渡った。凄まじい爆風が吹き付け、あらゆる物が一気に四散していく。爆風と共に城は一気に炎上してゆく。凄まじい早さで火の手は回ってゆく。唐突の砲撃はフェンリルからの二発目の砲撃であった。だが、それはこれから始まる砲撃の最初の一撃に過ぎなかった。

 一撃目を打ち終え、しばしの沈黙。だが、次は連続での砲撃。戸惑うレオルカの騎士もろとも巻き込むかの様に、連続して打ち込まれる砲撃に悲鳴があがる。一気に燃え上がる火の手に、爆撃による地震にも似た衝撃。大聖堂に避難した人々の悲鳴が響き渡る。強い衝撃で、僧侶達が築き上げた守護結界も破壊されようとしていた。再び体勢を整えようと試みてみるが、激しい砲撃に足場は揺らぎ、死の恐怖に怯える民衆は半ばパニックに陥ろうとしていた。この混乱する状況下の中では、精神の統一など不可能であろう。

「一体何が起こっているというのだ!?」

 今にも崩れ落ちそうな程の衝撃を受け続ける天井を気にしながらラゼール国王が慌てて立ち上がった。

「……感じるぞ。禍々しい殺気を。邪悪な漆黒の気を」

 眉間に皺を寄せながら、鋭い眼差しで窓の外を見上げるルーブルの言葉には、少なからず強い想いが秘められているように思えた。

 驟雨の如く浴びせられる砲撃に、城はいよいよ限界を迎えようとしていた。次第に、砲撃を受けるたびに城は激しく揺れ動くようになってきた。柱が軋み、ひびが入る。皆がいよいよ最期の瞬間を考えずにはいられなくなっていた。

 ルーブルは静かに指を組むと魔法の詠唱を始めた。淡い紫色の光が大聖堂を包み込む。緩やかな光は、ルーブルの詠唱の声と共に、次第に強い光へと変わり始めた。その光は、僧侶達が力を合わせて作り出した結界と同等……いや、それ以上に力強い守護の力を秘めていた。圧倒的な魔法力に、崩れ落ちた僧侶達が驚きの表情を見せる。

「長くは持たぬが、当座はこれで凌げるはず。王よ……運命の担い手達は、もうじき此処、大聖堂に集結するであろう。その時こそ総ての始まりの時。努々忘れるで無いぞ」

 ルーブルが何を暗示しているのかは判らなかった。だが、少なからず何かの始まりを意図していることだけは判った。そして、それは同時に……何かの終わりも意図していることも判っていた。

「ああ、エリス……」

 カーラ王妃は、何かを祈るように静かに跪きながら目を伏せていた。

「案ずるな。姫は生き延びる。そう星の定めにも刻まれておる」

 王妃を気遣うルーブルの表情は心なしか憂いを称えている様に見えた。哀しい現実を伝えることを憚るような、嘆きに満ちた表情で目を逸らした。

 再び激しい砲撃を受けたのか、大聖堂の天井が激しく軋み、柱が崩れ始めた。民衆達の恐怖に怯える悲鳴が響き渡る。ルーブルは一際力を込め、結界で崩れ落ちようとする天井を押さえ込んでいた。

◆◆◆27◆◆◆

 幾度目の砲撃を受けたのだろうか? 図書館へと続く道を抜けようとするアリエスは、凄まじい衝撃に何度も足を奪われていた。吹き上がる火の手。頬を焦がす様な熱波を受けながらもアリエスは必死で図書館を目指していた。

 次から次へと打ち込まれる爆撃に怯むことなくアリエスは走り続けた。想像したくは無かったが、これだけ無差別に打ち込まれている以上、図書館とて無事では済まされなかったのであろう。

 やがて眼前に見えてくる銀色の扉。爆風で片側の扉は吹き飛ばされたのか、意匠をこらされた石の床の上に哀しく崩れ落ちていた。

 アリエスは言葉に出来ない胸騒ぎを覚えながら、崩落した図書館へと駆け込んで行った。そしてそこで目にしたのは――――――

「父さん……父さんっ!!」

 アリエスは必死で声を掛けるが、既に命の灯火が消え失せたのか、その体は微かに冷たくなり始めていた。父は一冊の本を大事そうに抱えたまま息絶えていた。まるで、その本を爆風から守るかのように。

 アリエスは地面に崩れ落ち、言葉を発することすら出来なかった。突然奪われた父の命。

 否、まだ希望はあるかも知れない。アリエスは持てる限りの力を込めて、必死で魔法を詠唱し始めた。その魔法は極めて高位の魔法。今の彼には、とても使いこなせるような代物では無かった。それでも父を失う哀しみには代えられない。例え、この身が砕け散ったとしても、必ずや成功させて見せる。

 爆風で軋む天井を見つめながら、アリエスは必死で魔法を詠唱し続けた。命尽きた者に、今一度魂を呼び戻させる蘇生の魔法。だが、アリエスの願いは届くこともなく、淡い色合いの光の球体は、膨らむことなくすぐに破裂してしまうばかりであった。

「どうして……どうして!!ぼくの力が至らないからか!?」

 悔しさを晴らすかのように瓦礫の崩れ落ちた床を殴り付ける。その度に、傷付いた拳に血が滲む。滲んだ血はやがて滴り落ち、石の床に赤い跡を残した。

「うわああああっ!!」

 悲痛な想いを込めてアリエスが叫び声を上げた瞬間であった。ガラガラと崩れ落ちる瓦礫。崩れ落ちた壁から侵入してくるレオルカの騎士達の姿が目に飛び込んできた。

「……許さない……お前達が侵略して来なければ……父さんを……父さんを返せっ!!」

 アリエスは手にした杖を力一杯握り締めると駆け出した。騎士達が一斉に武器を構えるのが見えた。涙を拭うことも無く、アリエスは怒りに身を任せて騎士達に飛び掛ろうとした。父さんの命を奪ったのと同じ様に、僕の命も奪えばいい。アリエスは自らの死に場所を求めてさえいた。希望が無いのであれば、生きる価値も無い。何もかもを投げ出し、レオルカの騎士に命を奪われることを願い飛び出した、その瞬間であった…

「ぐぉっ!!」

「うぐっ!!」

「え?」

 次々と騎士達が倒れていく。唐突な出来事にアリエスは驚き、その場に崩れ落ちた。死を覚悟して飛び出したが、死ねなかった。その真実に気付いた瞬間、足はすくみ、気が付けば腰が抜けていた。気を失いそうな感覚に包まれながらも、その瞬間、何が起こったのかを理解した。

「役立たずのティフェリア騎士団参上ってねぇ?」

「ど……どうしてここに?」

 にやりと微笑む鳥人の弓騎士の顔。忘れるはずも無い、数時間前に街でぶつかった相手だったのだから。アリエスは戸惑った表情を崩すことも無く、静かに後退りする。こいつらの手だけは借りたくない。そんな確固たる想いだけが彼を突き動かしていた。

「命を粗末にするものでは無い。勝ち目の無い相手に戦いを挑むのは勇敢では無い。無謀と言うのだ。少年よ、この場所はもうじき崩落する。我らと共に大聖堂へと向かうぞ」

「待ってよ!!父さんを……父さんを置き去りには出来ない!!」

 アリエスの抗議の声。ただ静かに目を伏せながらガリルはじっと受け止めていた。だが、哀しそうな表情で首を振るとアリエスを抱き上げた。

「生き延びろ……文句は後から聞く」

「ガリル、まずいよ。急がないと、もうじき崩壊するよ」

「判っている」

「降ろせ!! 誰も騎士に助けてくれなんて頼んだ覚えは無い!!」

「文句は後から聞くと言っている」

 なおも激しく抵抗するアリエスをしっかりと抱き抱えたまま、ガリル達は大聖堂目指し走り出すのであった。後に残されたラファエルの亡骸だけが、悲しく横たわっていた。ガリル達が脱出するのと、図書館が崩落するのとは、ほぼ同時であった……

◆◆◆28◆◆◆

 時同じくして、エリスとレインもまた大聖堂へと到着しようとしていた。大聖堂までの最後の扉を開いた時、数多の騎士達が大聖堂を目指しているのが目に飛び込んできた。咄嗟に剣を抜くエリス。

「レオルカの騎士達よ、貴様らの相手、私が引き受けようでは無いか?」

 力強く剣を掲げながら、挑発するように不敵な笑みを投げ掛けるエリス。騎士達は一斉に踵を返すと、こちらに向かい駆け込んできた。エリスは髪をかき上げ、騎士達に一瞥を込めた嘲笑を投げ掛けると一気に踏み込んだ。

 流れるような動きで次々と騎士達を翻弄していくエリス。少し離れた所でレインは静かに魔法の詠唱を始める。両手を向かい合わせる様に合わせ、少しずつ距離を空けていく。両の手の平の間に次第に渦巻く淡い緑色の光が終結していく。つむじ風の様な小さな渦を巻きながら、光は次第に強さを増し、同時につむじ風の勢いも増してゆく。

「エリス、避けて!!」

 レインの言葉を受けたエリスは、急ぎ騎士達から距離を空けるように跳躍する。

「荒れ狂う突風よ、吹き上がれ!!」

 その声と共に、一瞬の静寂が訪れる。何もかも音が消滅したかの様な不思議な空間が生じると同時位に、凄まじい轟音を上げながら大聖堂から突風が吹き起こる。あらゆる物を吹き飛ばす程の威力を持つ突風は、騎士達を一気に外まで吹き飛ばした。

 だが、なおもレオルカの騎士達は執念深く戦いを挑もうとしてくる。その姿を見下すかのように見つめながら、エリスは剣を鞘に戻すと、静かに詠唱を始めた。未だ収まることを知らない猛々しい突風の最中に手を突っ込むと、力強く手の平に念を込めるかの様に詠唱を続けていた。

「燃え尽きるが良い!!」

 エリスの手の平から放たれた炎の帯は、風の力を受けて一気に膨れ上がった。突風は炎を纏った爆炎と化し、一気に騎士達を焼き払う程の威力を発揮した。

「生憎、魔法の心得もあるのでな。恨むなよ」

「急ごう、エリス。みんなはこの中にいるはずだよ」

「ああ、判っている」

 先程からの激しい爆撃の影響なのであろうか? 大聖堂を守っているはずの結界は、今にも消え去りそうな程に微弱な光を放っていた。もはやここまでなのか? 半ば覚悟を決めながらも、エリスは静かに祈りを込めると、大聖堂へと向かい駆け込んだ。例え……その希望が実現する可能性が、微かなものであったとしても、信じて祈り続けていれば願いは叶う。エルザ教の教えをなぞるようにエリスは、ただ静かに祈り続けていた。

◆◆◆29◆◆◆

 ―――ティフェリア城 崩落を告げる歌―――

 大聖堂へと踏み込んだエリスは言葉を失った。防御結界も消え去ってしまった大聖堂の中には、次々とレオルカの騎士達が侵入してくる。半ばパニック状態となった民衆達。必死でレオルカの騎士達と戦うティフェリアの騎士達。

「な……何が起こっている?」

 予期せぬ光景に呆然と立ち尽くしていたが、我を取り戻すレイン。

「エリス、戸惑っている場合じゃないよ。ぼく達も加勢しよう」

 素早く魔法の詠唱を始めようとするレイン。

「無駄なことをするものでは無い」

 背後から浴びせられる言葉。驚き振り返れば、そこには淡い紫色のローブに身を包んだ見慣れない老婆。占星術師のルーブルであった。レインは困った表情を浮かべながらも、落ち着いた口調で老婆に問い掛ける。

「ちょっと待ってよ。無駄なことってどういうこと?」

 ルーブルは静かにレインの眼差しを見つめるばかりであった。老婆とは思えない程に鋭い眼光に一瞬、気圧されたが、レインは憮然とした表情で返す。余所者の占星術師には判らないだろうけれども、此処は僕達の城だ。故郷だ。守りたいと思う気持ちを無駄と揶揄されるのは堪え難かったのだ。苛立ちついでに目線を逸らすレインを見つめるルーブルの表情が不意に険しくなる。

「む?そなた……もしやミュンヘン公爵の子息か?」

 唐突な言葉にレインの顔色が代わる。

「そ、そうだけど?」

「そうか…」

 想像はしたくない現実を叩き付けられることへの恐怖。出来ることならば逃げ出したい哀しみの結末。知らずに済むことまで知ってしまった時、人は一切の例外も無く不幸になるものである。

 低く唸るようなルーブルの吐息。その名を知られる占星術師の振る舞いを見れば、何も言わずとも伝えたいことは判る。判ってしまうからこそ、心が酷く痛んだ。胸が締め付けられた。

 判り切っていたことではあっても、受け入れられるか、否かというのは別問題である。あまりにも唐突過ぎる出来事にレインは、力無く崩れ落ち、小さく肩を震わせていた。

「全部言わなくてもさ……鈍感な僕でも判るからさ……」

 掛ける言葉も見付けられず戸惑いを覚えるエリス。こういう状況で安っぽい慰めなんか何の意味ももたらさない。悪くすれば傷付けるだけだ。それは判ってはいた。だけど、理論では人の心は納得出来る訳も無い。エリスも膝を着くと、そっとレインの肩を抱く。

「レイン……」

 小さく肩を震わせながら、気がつけば歯が砕ける程に噛み締めていた。怒りに満ちたレインの表情、涙で濡れた眼差しは猛々しい怒りに満ち溢れていた。

「帝国の奴らめ……何処まで奪えば気が済むんだ!!」

 怒りに任せ、魔法を詠唱しようとするレインをルーブルが再び制する。

「落ち着けと言っている。この状況で感情に任せて魔法を行使すれば、どのような状況になるか位は想像出来るであろう!?」

「判っているよ……判っているけどさ!!」

 こんなにも敵味方が密集した場で、感情を抑え切れずに全力で魔法を行使すれば、敵味方もろとも巻き込む無差別なる大惨事を引き起こすことは火を見るより明らかである。だからこそルーブルは荒れ狂いそうになるレインを必死で嗜めた。

「お前の気持ちは痛い程判る。だが……だからこそ、今は耐えるのだ」

 ルーブルはそれから静かにエリスの前に佇んだ。

「姫よ、状況は見ての通りだ。このままでは、皆が連れ去られてしまうだろう」

 相変わらず淡々とした振る舞いを崩さないルーブルの、あまりにも落ち着き払った姿にエリスは何時しか強い憤りを覚えていた。

「な……何を悠長なことを!!」

 目の前で繰り広げられる双方の騎士達の戦いを見据えながら、エリスは剣に手を掛ける。

「ルーブル、そこを退け。私が帝国の騎士共を血祭りにあげてやる!!」

 駆け出そうとするエリスの手を握り締める。刹那、弾けるような電撃がエリスの体を駆け巡った。

「きゃあ!!」

 唐突なルーブルの行動に、エリスは怒りに満ちた表情で剣を向ける。喉元に剣を突きつけられながらもルーブルは微塵の動揺すら見せなかった。

「ルーブル、邪魔をするならお前を斬る!!」

「……辛いだろうが今は堪えろ」

「まだ言うか!?」

 エリスにはルーブルの言葉の意味が理解出来なかった。一体、何故、こんなにも落ち着いていられるのか?所詮は旅の占星術師だからなのか?見知らぬ城の連中が死のうが、生きようが、どうでも良いとでも言うのか?怒りに燃え上がりそうな想いを必死に押さえ込むエリスの眼前に見覚えのある騎士達が歩んでくるのが見えた。

「ガリル、それにグリムも。無事だったのか?」

 微かに安堵の表情を見せるエリスと向き合いながら、静かに頭を垂れて見せるガリル。

「姫、ご無事で何よりです」

 ガリルの背後には、見慣れない少年が佇んでいる。ガリルの発した『姫』という言葉を聞いた瞬間、凄まじい形相でエリスを睨み付けた。その少年の鋭い眼差しに何か奇異なものを感じたが、エリスは敢えて気付かぬふりをして見せた。ガリルもまた静かに目を伏せながら首を横に振ってみせる。

 微かな安堵感は冷静さをもたらす。熱くなり過ぎた頭ではまともな考えも失せてしまうもの。冷静さはエリスが忘却していた想いを蘇らせた。不意に戻って来た想いを、忘却してしまわぬように握り締めながらエリスは慌ててルーブルに問い掛ける。

「そうだ……ルーブル、父上は? 母上は何処だ?」

 ようやく冷静さを取り戻したエリスに静かな笑みで応える。

「案ずることは無い。ベルフィアと共に民衆の中心に居るはず」

 この状況下においては、最も安全なのは中心部となると判断したのであろう。周囲はレオルカの騎士達が押し寄せてくる交戦場と化している。なるべく戦場から離れた場所に身を置き、生き永らえる方法を画策していることであろう。

 エリスは皆に向かい振り返ると、短く告げた。

「中心部へ向かうぞ」

 死の恐怖に怯える民衆達をかき分けながら、エリス達は民衆達の中心部を目指した。皆が集う大聖堂。此処が最後の拠点なのであるから。ルーブルに導かれるままに、人々をかき分け続けた。人々が密集し過ぎていて、容易く動き回ることは困難ではあったが、もはや残された時間は僅かしか無い。

 民衆達がかたまる中にラゼール国王とカーラ王妃は佇んでいた。

 エリスの姿に気付いた二人の表情に明かりが灯る。

「おお、エリスよ……無事であったか?」

 安堵感からか、抑えていた想いが一気に込み上げてきた。胸が一杯になる。あんなに話したいことはたくさんあったのに、不思議と言葉が出て来ない。無理に搾り出そうとすれば、言葉では無く、涙が零れ落ちそうになった。エリスは先走ろうとする心を抑えながら、ようやく言葉を紡ぎ出した。

「父上、母上……よくぞご無事で」

 皆が一同に集まったのを見届けるルーブル。伝えなければならない何かがあるのか? 厳かな表情で、皆の顔を見上げる。大聖堂の入口ではティフェリアの騎士達が、必死にレオルカの騎士達を食い止めているのが見えた。その光景を見つめる民衆達の不安と恐怖に満ちた表情。エリスは自らの無力さを、ただ悔いることしか出来ずにいた。

「城と城下町の住民達の大半は此処、大聖堂に集まっている。まぁ、言うなれば敵軍の用意した檻の中に集まったという形になった訳だ。いずれにしても、普通に逃げ出すことはほぼ不可能だ」

 ルーブルは『ほぼ』の部分を強調してみせた。この場所から逃げ切るのは完全に無理という訳では無い。極めて困難ではあることは間違いないが、逃げ延びる手段があるということを示唆していることになる訳である。

「方法が無い訳では無い。我が魔法により空間の移送を成し遂げる。つまりは、この大聖堂の者達を別の空間へと移送する訳だ。なに、心配するな。私もまたこの城と運命を共にするつもりだ」

 自身の命と引き換えに皆を救うと言い出すルーブルに、皆が戸惑いを隠し切れなかった。何故、自分自身の命を引き換えにしてまで、縁もゆかりも無いティフェリアの民達に尽くしてくれるのか? そんな皆の想いを先読みしたのか、ルーブルは笑いながら、それもまた星の定めによるものだと言う。

「だが、この魔法も万能では無い。恐らく全員を移送するのは不可能であろう」

 ルーブルの言葉に再び皆の表情に戦慄が走る。

「案ずるな。魔法力の限界に達するまで万全は尽くす。説明は以上だ。ささ、急ぎ部屋の中央へと集まるが良い。出来るだけ多くの民を集めるのだ。広範囲には及ばぬ故」

「うむ……グリム、急ぎ皆をかき集めるぞ」

「判っている。ガリルは奥側を。僕は手前側から集めるよ」

「うむ。承知した」

 ルーブルの言葉を受けたガリルとグリムが急ぎ走り出す。後に残されたエリス達も、この状況にすっかり疲れ切っていた。皆を見回しながら、ラゼール国王はエリスの顔をじっと見つめながら、静かに……哀しそうに溜め息を就く。

 このような切迫した状況で話すような内容で無いことは判っていた。だが、もはや時間は残されていない。この城の命も、何よりも、自分自身の命も――――――

「エリスよ……お前には話さねばならぬことがあるのだ」

「話さなくてはいけないこと?」

 王は躊躇いながらも、静かにエリスの手を握り締めた。怖い位に気迫と、寂しさの篭った眼差しでエリスをじっと凝視しながら。

「エリスよ……どうか驚かずに聞いて欲しい。エリスよ……お前は私達の……そう、お前は私達の本当の娘では無い。血が繋がっていない親子なのだ」

「ち……父上、い、一体何を仰っているのですか? 私には意味が……」

 エリスはただただ困惑していた。いきなり父の口から語られた言葉は、あまりにも衝撃的過ぎて現実味に欠けているように思えた。この戦々恐々とした状況下で、いよいよ父も疲れ果て過ぎて奇妙な幻でも見え始めているのでは無いのだろうか? そんなことを考えさせられる程に衝撃的な言葉であった。エリスは、ただただ困惑していた。横で聞いていたレインもまた動揺を隠し切れずにいた。

 動揺するエリスの手を握り締めながらカーラ王妃が優しい笑顔を見せる。

「エリス、これは本当の話なのです。私達は……もうじき、この城と共に消えてしまいます。ですから、その前に……あなたに真実を話しておく必要があったのです」

 父上と母上が城と共に消える? その言葉に、エリスはさらに動揺させられるのであった。一体、何がどうなってしまっているのか、皆目検討尽かなくなっていた。

 ちょっと待ってくれ。一体、何がどうなっているのか、誰か私に判るように説明してくれ。ただでさえ、生命の存続の危機と直面しているというのに、これ以上に困惑させるような話は後にしてくれないか? そう――皆で生き延びた後でも遅くないだろう?

 呆然と立ち尽くすエリスの前にルーブルが立つ。

「姫よ、その話は偽りでは無い。何故なら、そなたを姫にするように進言したのはこの私なのだから」

 ルーブルは静かに微笑みながらエリスの顔を、じっと見つめていた。孫娘を愛でるかのような、優しい、暖かな眼差しで。

 エリスの混乱は最高潮に達しようとしていた。ルーブルが私を姫にするように進言しただと? では、私が産まれた頃に既にルーブルはティフェリアに訪れていたのか? だとしたら……だとしたら、私の本当の両親は一体誰なのだ? 私は一体何者なのだ?

 いや、今はそれ以上に気になることがある。ついさっき母が口にした一言が気に掛かって仕方が無かった。

「何故……何故、父上が、母上が城に残らなくてはならないのですか!?」

 エリスの必死の問い掛けにラゼール国王は哀しそうな笑顔で、首を横に振って見せた。

「エリスよ……王のために国があるのでは無い。国のために王があるのだ。私はこの国の王だ。最期まで民衆のために生きることこそが、国王たる私の最期の責務なのだ」

「ならば、私も!! 私も王家の者です!!」

「それはならぬ!!」

「ち……父上……」

 今まで見せたことも無いような険しい表情を見せた父に、エリスは思わず身じろいでしまった。父はなおも哀しみに満ちた、険しい表情を崩すことなくエリスに言葉をぶつける。痛い程力の篭った手で、エリスの肩を鷲づかみにしながら。

「お前は王女だ。生き延びて……そして、この城を再興するのだ。これは……王家の一員である、お前にしか出来ぬ役目。必ずや我らが願いを叶えてくれ……頼む……」

 生まれて初めて目にした父の涙。頬を伝う涙は、寡黙で気難しい父の心を饒舌に語りつくしてくれているように思えた。

「父上……」

 静かに目を伏せるエリスの脳裏を走馬灯の様に記憶が駆け巡る。

 幼い日の頃、剣の指南をしてくれた父。初めてガリルと手合わせした御前試合。敗北したけれども善戦を褒めてくれたこと。剣の腕が上達することを苦い表情で憂うる母を説得してくれたこと。振り返れば川の流れのように、思い出が雪崩れ込んで来る。

 父上……誰が何と言おうと、貴方は私の大切な父です。私をここまで育ててくれた尊敬すべき父です。感謝しても仕切れない……でも、だからこそ――――――

 言葉が足らぬならば、態度で示す。エリスは静かに頷くしか出来無かった。父が、母が、託そうとしている最期の願い。その願いを受け止め、そして叶えることが出来なければ、自分が自分である意味を見失ってしまう。何よりも、実の両親でも無いのに、此処まで育てて貰った恩義に報いることが出来ないのでは哀し過ぎる。

「判りました……エリス・アレクサンドラ。ティフェリア王女として、その責務、必ずや叶えて見せます。父上、母上、必ずや城を復興させてみせます……」

 エリスは必死で涙を堪えていた。自分自身の運命を憎もうと思えば、幾らでも憎めたことであろう。だが、それでは立ち行かぬことも多々あるのだ。そう、自分自身の心を欺きながら、ただ気丈に振舞うだけであった。

 そんなエリスの張り裂けそうな心の痛みを理解出来るからこそ、レインもまた痛んでいた。何か少しでも、エリスのためになれることがあれば。ただ、それだけを考えていた。

 親子の最期の時間を少しでも延ばしてやりたい。そう願うが、時の流れは待ってはくれそうになかった。大聖堂の門前を守備すべく必死で立ち向かうティフェリアの騎士達も、ひとり、またひとりと崩れ落ちてゆくのが見えた。決壊するのはすぐであろう。

 ルーブルは静かに呼吸を整えると皆に向き合った。

「それでは……そろそろ魔法を行使するとするか。ベルフィアよ、私の警護を頼むぞ」

「はっ。ティフェリア騎士団団長の名に掛けても、必ずやルーブル殿をお守り致します」

 ルーブルは力一杯両手を天高く突き上げると、大地の底から響き渡るかの様な力強い声で詠唱を始めた。刹那…大聖堂を包み込むように淡い紫色の光が立ち込める。

 時同じくして、民衆をかき集め終えたガリルとグリムがエリスの下に戻ってきた。エリスは手短に自らの素性をガリル達に説明して聞かせた。ガリルはその事実に薄々は気付いていたのか、さほど動揺する素振りも見せなかった。グリムもまた、さして興味が無いのか、素知らぬ素振りを見せていた。

 紡ぎ出される大きな魔法力。次第に部屋全体に不思議な香りが立ち込める。何処かの森の香りであろうか?瑞々しい木々の香りが立ち込めてきた。それに呼応するかのように、エリス達の体が浮かび上がり、肉体が消失していくような不可解な空虚感に襲われ始めた。

 いよいよか……そう思った瞬間、エリス達の意識が急速に遠退いてゆく。周りからは次々と民衆達の姿が消えていくのが見えた。それと同時に、一斉にレオルカの騎士達が大聖堂に押し掛けて来るのが見えた。

「皆の者、ティフェリア騎士団の誇りを見せるぞ!!」

 剣を振るい勇敢に戦うベルフィアと部下の騎士達。だが、一斉に押し寄せてくるレオルカの騎士達の軍勢の頭数に完全におされていた。ひとり、またひとりとティフェリアの騎士達が潰えてゆくのが見えた。

 ベルフィアは必死で立ち向かった。だが、敵の数が多過ぎる。並み居る騎士達を倒してゆくも、次から次へと襲い掛かってくる。そして、その瞬間は訪れてしまった。僅かな隙を抜けて一人の騎士の剣が、深々とベルフィアを貫いた。大きく口を開けて驚愕の表情を見せると、無数の剣がその体を貫いた。やがて力無く崩れ落ち、絶命するのが見えた。

 その瞬間、普段は冷静なガリルが哀しみと怒りに満ちた咆哮をあげた。

「ぐおおおおっ!!隊長ーっ!!」

 残された民衆達は次々と連れ去られ、騎士達と共に必死で立ち向かう国王の体を深々と剣が貫く。突き刺さった剣が背中から突き出される壮絶な光景。

 だが、父は笑っていた。エリスの眼差しをしっかりと見据えたまま。最期の力を振り絞り、手を伸ばし、何かをエリスに語り掛けながら……

「ち、父上ーっ!!」

 逃げることもせず、ただ一心に祈りを捧げ続けていた。その母に対してもレオルカの騎士は容赦なく剣を振るう。背中から切りつけられながらも、最期まで母は優しい笑顔でエリスの瞳を見据えていた。何かを伝えるかの様に唇が動くのが見え、そのまま崩れ落ちた。

 母が何を告げようとしたのか判ってしまったからこそ、エリスは胸が張り裂けそうになっていた。母が最期に告げた言葉……その言葉は父が最期に告げた言葉と同じであった。その言葉は――――『幸せになりなさい』

「いやああああっ!!母上ーっ!!」

 エリスの絶叫が響き渡る中、一気に周囲の景色が変わっていった。白を基調とした大聖堂の色合いから、一気に夜半の森の深い緑色へと移り変わったのだ。エリスはこの時、気を失ってしまっていたため、その情景に気付くことは出来無かった。

 壮絶な別れを迎えながらも、エリス達は城を後に何処かへと移送されていった。後に残されたのは、ただ静か過ぎる静寂だけであった。

◆◆◆30◆◆◆

 ―――ティフェリア上空 連合艦隊フェンリル司令室―――

 司令官から見下ろす光景を見つめるキエナフは、ただただ戦慄の表情を浮かべていた。繰り返された砲撃の結果、美しきティフェリア城はそこかしこから煙を上げていた。見るも無残に砕け散った城壁からは、未だ衰えることの無い忌まわしい炎の燻りが見えていた。

「……ば……馬鹿な、一体何が起きたと言うのだ?」

 それは先刻のことであった。伝令に訪れたのは見慣れない騎士であった。自分の部下にこのような騎士がいたであろうか? 何かを報告しに来たのは覚えている。だが、そこから先の記憶が無い。報告内容を思案する間も無く意識が遠退いていったのだ。忘れもしない。あの忌々しい悪意に満ちた嘲笑……俺はあの男の企てに嵌められたのだ。何か、良からぬことが起こることは間違いないと覚悟はしていたが、これ程までとは予想出来なかった。くそっ、忌々しい!!

 キエナフはただ、呆然と立ち尽くしたまま眼下に望む光景を見つめていた。夜半の暗闇の中にも明らかな惨状が浮かび上がる。未だ盛んに燃え上がる火の手に包まれた城。あちらこちらが崩れ落ち、あるいは亀裂が入り、風光明媚と唄われた光景はそこには存在し得なかった。

「……総ては後の祭りだとでも言うのか?」

 不意に司令室の空気が異常な歪みを見せる。唐突に襲い掛かる激しい耳鳴りと眩暈。世界が揺らぐような強い波動が空間を包み込む。不意に、キエナフは時間が凍結させられていることに気付く。周囲の者達は凍結したまま動かない。音も聞こえない。

「これ程までの魔法を行使出来る者は、俺の知る限りではただ一人だけ!!」

 怒りに髪を振り乱しながら槍を振るう。乱暴に振り翳した槍で背後に佇む者を一閃しようとした。だが、その男はそれ以上の立ち振る舞いでキエナフを一閃した。全く同じ動きで。自分自身と寸分違わぬ動きの一撃に、キエナフは膝から崩れ落ちた。

「き……貴様っ!!」

「判っておらぬなぁ? 俺はお前自身なのだ。勝てる訳が無いであろう?」

 もう一人のキエナフは醜く顔を歪ませながら、見下すような嘲笑を浮かべて見せた。

「くくく……貴様は大罪人として裁かれることになるだろう。皇帝閣下直々の命令に背き、ティフェリアを破壊し尽くしたのだからな?」

「ぐっ……許さんっ!!」

 怒りに身を震わせながら、キエナフは槍を構えると力一杯地面を蹴り上げ跳躍した。体中の重心を掛けての空中からの一撃を突き刺そうとする。だが、もう一人のキエナフは静かに手を突き出したまま、憐れむような眼差しを称えたまま、ほくそ笑んで見せる。

「愚かな……吹き上がれ、闇の氷柱よ!!」

「ぐおっ!!」

 地面から吹き上がる黒い氷柱がキエナフの体に叩き付けられる。目を大きく見開きながら、キエナフ壁際まで弾き飛ばされた。横たわったまま身動きすら出来ない程の衝撃を受けた。黒い氷柱が叩き付けられた跡からは、禍々しい黒い煙が立ち上る。酷い痛みは威力の大きさを物語っている。足がふらつき立ち上がることすら出来なかった。

 その様子を嘲笑うように、偽のキエナフが槍を首元に突きつける。

「五大騎士団の団長とは言え、所詮は口ほどにも無いな?」

「き……貴様の狙いは何だ?」

「ふふ、お前が知る必要は無い……では、さらばだ」

 一体、何が目的であったのか? 何ひとつ己の腹の内を明かすことなく、捨て台詞を残すと偽のキエナフは消え失せた。それと同時に、再び空間が激しく歪む異様な感触が体中を駆け巡るのが判った。

 立ち上がろうとするが、激しく世界が歪んで見えた。目が眩む程の威力があったと言うのか? あの男の凄まじい魔力に畏れを為しながらも、なす術も無い自分自身の体に笑いすら毀れてしまう。

 壁際に崩れ落ちたまま身動きできないキエナフに気付いた部下達が、驚き駆け寄ってくる。不思議に思うのも無理は無いだろう。先刻まで腰掛けていたはずなのに、何時の間にか壁際に横たわっている。しかも口から血を流し、傷口からは禍々しい黒い煙が立ち上っている状態を見れば、どう考えても尋常では無いことは誰の目にも明らかである。

「だ、団長!? ど、どうなされましたか!?」

「酷い怪我を……おい、救護班を呼べ!!」

「お前たち、うろたえるな……大した傷では無い」

 全く以って説得力の無い言葉だ。自分で言いながら可笑しくなる。

 皆がキエナフの元に次々と集まってくる。

「し、しかし、こんなにも酷いお怪我をされて」

「案ずるな……大した傷では無い。それより、戦況はどうなっている?」

 キエナフは痛む体を必死で起き上がらせると、あくまでも冷静さを失うことなく伝令の騎士に向き合った。未だ、先程の一撃を引き摺っているのか? 向かい合う騎士の顔が二つにも、三つにも見える程に焦点が定まらなかった。部下達に肩を借りて立ち上がる。

「はっ。多少の被害は出しましたが、ティフェリアの民達を確保しました」

「そうか。報告ご苦労であった」そう伝えようとしたが、伝令の騎士は何かを口ごもる。

「任務は無事に完了しましたが……」

 報告し辛い何かがあるのか、言葉に詰まる騎士にキエナフは怪訝そうな表情を見せる。キエナフのあからさまに憮然とした表情に動揺しつつも、なおも伝令の騎士は言葉に詰まっている。

「案ずるな。どのような結果にも関わらず、お前達を咎めたりはせぬ」

 キエナフの言葉を受け、少々安心したような表情で伝令の騎士は報告を続ける。

「はっ……では、報告致します。ティフェリア城に潜入した我が軍の騎士を含め……総てが消失しました」

 騎士の言葉にキエナフは耳を疑った。消失した? 馬鹿な……あの惨状から考えるに、少なからず我が軍、ティフェリア軍、共に相応の被害は出ているはず。無論……死体が残らぬはずも無い。砲撃の威力から考えても、何もかもが消え失せるとは考え難いものがある。それが消失したとは、一体何事が起こったと言うのだ?

「済まぬが、詳細に報告をしてくれぬか?」

 キエナフは自分でも意識しないうちに眉間に深い皺を寄せながら、睨み付ける様な眼差しを叩き付けていた。険しい表情に動揺しながらも伝令の騎士は、声を震わせながらも報告を続ける。

「はっ……あまりにも不可解なのですが、城内から一切の者達が居なくなったのです」

「居なくなっただと?」

「はっ。死体は愚か、我が軍の騎士達がそこにいた痕跡すら残されておりません」

「むぅ……」

 でたらめな報告をしているとは考え難かった。第一、わざわざ虚偽の報告をする意味も無い。だとすると、一体どうしたことか? あれ程の戦場から、何もかもが消え失せることなど、間違いなくあり得ない。何らかの高位な魔導師の介入か?まさか……あの男、何か企ておったのか!? あの男ならば遣りかねぬ。何処までも忌々しい男め!!

 考え込むキエナフの怒りと憎悪に満ち溢れた、恐ろしい表情を恐る恐る覗き込む騎士達。その視線に気付いたキエナフは、慌てて表情を作り直す。

「取り乱してすまぬ。続けてくれ」

「はっ。皆が消失した瞬間、ほんの一瞬だったのですが、城から光が放たれたそうです」

「光?」

「はっ。淡い紫色の……まるで真昼の太陽の様な強い光が放たれたとのことです」

 気にならないと言えば嘘になる。あの男がやったと考えるのが妥当だ。しかしあの男の仕業だとの確証がそこに残されている訳でも無い。現状ではグレーということか。

 それ以上に厄介なのは、王家の者達の生死が不明ということだ。仮に生存していて、なおかつ逃げられてしまっては、再び体勢を立て直す機会を与えてしまうことになる。そうなってしまえば、さらに俺の立場は危うくなってしまう。くそっ!! 何故、こんなにも事態は俺に取って不利益な方向にばかり傾倒していくと言うのだ……

 再び険しい表情になるが、慌てて表情を作る。伝令の騎士に向き直ると

「……ご苦労であったな。ゆっくりと休養を取れ」

「はっ。仰せの通りに」

 不可解な出来事の数々を解明したいところではあるが、それはあくまでも私的な考えの領域を抜け出さないもの。部下達も戦いに疲れたであろう。一先ず、今回の任務は完了した。一度、帰還する必要がある。キエナフは艦橋に立つと、艦内に向けての指示を出した。

「ティフェリア襲撃の任務は今、この瞬間を持って完了とする。全軍、レオルカ帝都に向けて全速前進」

 キエナフの声が艦内に響き渡る。作戦は少なくとも成功とは呼べないものであった。策略に陥れられたとしても、陥れられたのは自身の至らなさの証。怒りと悔しさに身を震わせながらも、多大なる犠牲を出しながらも尽くしてくれた部下達に、キエナフ敬意と感謝の意を込めることを忘れなかった。

 明朝にはレオルカ帝国に帰還するであろう。ティフェリアより移送した民衆達を以って、揺らぎ切った国家の体勢を立て直さなくてはならない。それが出来なければ、犠牲になった者たちに何と詫びれば良いのか判らない。

 夜空を見つめるキエナフの心は激しく揺れ動き、心中穏やかでは無かった。

◆◆◆31◆◆◆

 ―――まどろみの空間 幻想の彼方より訪れた女―――

 此処は一体どこだろうか?エリスは見覚えの無い場所に佇んでいた。何処から何処まで続いているのかさえ判らない不思議な空間。白一色に包まれた世界。そこにエリスは一人佇んでいた。見渡す限り同じ景色だけが広がっている。何処からか花の香りが漂ってくる。甘く、切ない香りを感じながらもエリスは戸惑いを覚えていた。

「此処は一体どこだ? 誰かいないのか?」

 誰かを探し求めるかの様に声を掛けて見る。だが応える者は誰一人として存在しなかった。不意に、風が吹き抜けた。真っ白い床から、唐突に鮮やかな桜色の花弁が舞い上がる。それに呼応するかの様に、花の香りが一段と強くなる。

 エリスは感じていた。背後に何時の間にか佇む何者かの気配を。可笑しそうに笑う息遣いが首筋をくすぐる。静かに剣に手を掛けながら、エリスは眉間に険しく皺を刻む。

「……貴様、何者だ?返答次第では――斬る」

 華やかな香水の香りを漂わせながら、そいつは可笑しそうに笑った。声の感じからするに相手は女か。

 放たれる気配から察するに、相当な腕前を持っている相手であることは間違いない。不安と恐怖に怯えるエリスの動向を楽しむように見つめているのが判る。隙だらけに見える様に、ゆらゆらと立ち振る舞っているが、その腕は推し量ることが出来ない程に高いものを持っているであろう。

 エリスの背筋を冷たいものが走りぬける。それと同時に、女が動いた。ゆっくりとエリスに近寄ってくると、背後から静かにエリスに抱きついて見せる。首筋に吐息を駆けながら、可笑しそうに微笑んだ。まるで、親しい友にするかのような接し方で。

「畏れているのね? 焦らないで、大丈夫。あたしは貴方の敵では無いわ」

 内緒話をするような、甘い吐息混じりに囁く口調。首筋に吐息を吹き掛けられ、背筋が凍り付きそうになった。耐え難い屈辱と苛立ちを覚えたエリスは、力一杯剣を引き抜くと、背後に佇む女を真一文字に斬り付けた。だが、感触は無い。女の姿は消え失せていた。代わりに桜色の花弁が数枚、宙に舞うだけであった。

「あたしは貴方を知っているの。貴方もあたしを知っているわ」

 再び背後からの声。首筋に感じる不快な寒気。エリスは再び斬り付けた。だが、またしても手応えは無く、数枚の花弁だけが舞い落ちた。

「貴様……何者だ!? 一体、何が目的だ!?」

 怒りに身を任せながらエリスが叫んだ瞬間、つむじ風が舞った。花弁を纏ったつむじ風は、エリスの目の前で次第に勢いを増しながら、一つの塊となった。

 長い髪の女。毛先を巻いているのが印象的だ。たっぷりの毛皮を使った衣服は、法衣と似ているが、あまりにも豪華で妖艶に思えた。すらりとした足を妖艶に見せ付けながら、細身の剣を力強く握り締めていた。髪をかき上げながら女は、なおも可笑しそうに微笑む。

「な……なんだと!?」

 その表情を見たエリスは驚きを隠し切れなかった。女の顔はエリスそのものだったのだから。髪の色も同じ女は、妖艶な振舞いを誇示しながら髪をかき上げる。淡い香水の香りが周囲に立ち込める。身構えはするものの、明らかに旗色は悪かった。エリスの動揺を楽しむかの様に、女は静かに微笑みながら歩み寄ってくる。

「あたしは闇。あなたの影。あなたは光。あたしの太陽なのよ?」

 自分と同じ顔をしているのに、何故、この女はこんなにも女らしく、美しいのか?肌の裏側がざらつくような嫉妬を覚えていたのは嘘では無い。だが、それを受け入れることも恥だと考えたエリスは、自身の心の声を振り払うように叫ぶ。

「意味不明なことを!!」

 女は再び振り下ろされるエリスの一撃を、僅かに身を逸らしただけで交わして見せた。何処を見ているのか判らない、焦点の定まらない眼差しを称えたまま、子供の遊び相手をするかの様な穏やかな笑みを称えたまま。

 エリスは自分と同じ色合いの髪と、同じ顔をした女と対峙していることに、堪らなく心をかき乱されていた。まるで、自分自身と対決しているかのような不可解な感覚に囚われそうになっていた。剣の握り方から、振るい方まで、細かな癖まで掌握し尽しているとしか思えない程に。否、特長を掌握しているというよりも、目の前の女はエリスそのものであった。相変わらず挑発するような、余裕に満ちた振る舞いと不敵な笑みを崩さない。

「考えてみたことはないのかしら? どうして貴方は王女になってしまったのかって」

「何故、その事実を貴様が知る!?」

 エリスは驚愕した。何故、この女は自分が本当の王女では無いことを知っているのか?あの時、初めて父母より告げられた衝撃的な真実。それを初対面の、この不審極まりない女が知っているのか? 焦れば焦る程相手の術中に嵌る。判ってはいても動揺を隠し切ることは出来なかった。そんなエリスの心中を察したのか、女は静かに目を伏せる。

「大丈夫よ。あたしは貴方の味方。ずっと貴方を見守っているわ」

 女は可笑しそうに笑いながら静かに剣を収めて見せる。

「待て!! 貴様は一体何者だ!? 何故、私と同じ顔をしている!?」

 驚愕の表情を見せるエリスに、女は微笑みながら頷いた。

「うふふ、それは秘密よ? 全部教えてあげちゃうのも味気ないわ。それに…運命なんて定められたものなんて割り切りたくないでしょう? 明日の真実を全て知ってしまえたら、生きていることがつまらなくなるわ。多少の不確定要素は生きる上での楽しみでしょう?」

 相変わらず焦点の定まらない眼差しで、エリスの瞳をじっと見据える女。静かにエリスに歩み寄ってくると、エリスの正面から肩に腕を絡めて見せる。まるで口付けするかの様にエリスに唇を近付けながら女が呟く。

「また逢いましょう? あたしの可愛い――――」

 唐突に響き渡る不快な金属音。凄まじい衝撃が頭の奥深くを駆け巡る。発狂しそうな程の頭痛が襲い掛かって来る。あまりの痛みに意識が遠退く。

 消え往く意識の中、エリスは何時までの女の感触を肌で感じていた。その感触は、不思議と……遠い昔に知ったことのあるような、妙に懐かしい感触であった。

 馬鹿な――あの女は私の――――――

◆◆◆32◆◆◆

 ―――宵闇の森 避難民達のベースキャンプ―――

 酷い頭痛だった。未だ微かに視界が歪んで見える。

 エリスは静かに体を起こしながら周囲を見渡して見た。そこには確かな色が存在していた。湿気を孕んだ土の匂いに、枯れた落ち葉の匂い。何処かの森の中にいることは確かであった。先刻までの、あの異質な空間とは明らかに異なっていた。

「姫、お目覚めですか?」

 背後から掛けられる声。聞き覚えのある声だと思いながら、まどろんだ眼差しで振り返る。心配そうな表情でエリスを見つめるガリル。

「ああ、私なら大丈夫だ」

「随分とうなされておられたので、心配しておりました」

「そうか。心配を掛けたな」

 応えながらエリスは考えていた。さっき見たのは一体何だったのだ? あれは果たして夢であったのだろうか? 思い出せば思い出す程に不可解な出来事である。段々と落ち着いて来た頭で考えながら、エリスは重大なことを思い出した。

「そうだ、ガリル。城は? 城はどうなった!?」

 唐突に驚いたような口調で問い掛けるエリスに向き合いながら、ガリルは辛そうな表情で目を伏せながら、首を横に振ってみせる。

 受け入れたくはなかったが、あの光景もまた偽りでは無かったのだ。だとすれば……父も、母も、助かりはしなかったのであろう。受け入れ難い現実を受け入れることは容易いことでは無い。だが、私は王女だ。民を守らねばならない……そう、胸を張って言い切ることが出来たならば、どれだけ救われただろうか? あまりにも突然過ぎる事態にエリスは総てを受け入れるどころか、総てを拒むことしか出来ずにいた。

 唐突に薄暗い細道にひとり、放り出され、置き去りにされたような絶望感で一杯になった。何故だ? 何故私がこんな目に遭わなくてはならないのだ?そうだ……私は幼い頃から日々欠かさず、エルザに祈りを捧げてきたと言うのに!! 所詮、目に見えぬ神などは何の役にも立たぬということか? エルザは私を……私達を守ってはくれなかった!!

「所詮……エルザは私達を救ってなどくれなかった。ガリル、私は信仰を捨てる。所詮、見えざる神などは、何の役にも立ってはくれないのだから」

「無責任だね。多くの人々を見捨てて、挙句の果てにはエルザのせい?」

 唐突に背後から叩き付けられる辛辣な言葉に驚きながら、エリスは慌てて振り返って見た。そこには、あの時城の中でガリルの背後に佇んでいた少年が佇んでいた。少なからずエリスに向けられる強い敵意は、その表情を見れば容易に察しが付いた。

「私は日々、国の平和を祈り続けてきた。だが、エルザは守ってくれなかった」

 エリスの返答を受けながら、少年はさらに険しい表情で、エリスを見下すような哀しく、冷たい眼差しを叩き付けて見せるのであった。

「僕達を守れなかったのは、貴方達王家じゃないか? 勝手に宣戦布告して、勝手に戦争始めて、勝手に……勝手に、僕の父さんを見殺しにしたじゃないか!!」

「!!」

「誰も戦争なんか望んじゃ居ないのに……僕達は権力者の駒じゃ無いんだ!!」

 吐き捨てる様に言い終えると少年は走り出した。良く見ると、城の崩落から逃れられた民衆達が、城の者達が周囲に集まっている。怪我をして傷を負っている者。疲れ果てて顔面蒼白になる者。復讐に怒りを燃やし、手馴れた武器を手入れする者。

 そうか……ルーブルの魔法で逃れられた者達は、この森に飛ばされて来たという訳か。ようやく事情が呑めて来たエリスは、暗闇の中に目を凝らしながら周囲を見渡した。

「ルーブル殿の魔法のお陰で我々は命拾いしました」

 ガリルが戸惑い顔のエリスに助け舟を差し出す。

「そのようだな。だが犠牲は少なくは無い。多くの民の命も失われたのも事実だ……」

 先刻の少年の言葉が、心に深く突き刺さった。確かにその通りだ。父は……いや、王家は独断で戦争を始めた。民衆の声を聞くまでも無く、勝手に戦争を始めた。私はティフェリア王女だ……少なくとも民衆達に取っては。

 周囲を見渡せば、傷付いた者達も少なくは無い。それに……この場に居ることさえ出来なかった者達も少なくも無い。私が目の前で両親を失ったのと同じ哀しみを抱く者たちも少なくは無いだろう。心の痛みを知ってしまった者達も少なくはないだろう。

 そう考えると、自らに圧し掛かる重圧に潰されそうであった。王家の者である以上、皆が私に責任を求めるであろう。王家の生き残りとして。

 ここでもしも……私は偽の王女だと宣言すれば、責任を放棄出来るであろうか? いや、そんなことをしてしまっては、死んでいった父に、母に申し訳が立たない。

 生きることの辛さ、苦しさを肌で感じながらもエリスは動揺を隠し切れなかった。いずれにしても何か行動を起こさねばならない。このままこの場所で過ごしていても何の解決にもなる訳でも無い。

 そうさ。私は王女だ。ティフェリア王家の最後の生き残りとして、民衆を導かねばならぬ。私が倒れてしまえば、皆も倒れてしまうのだ。それに、私は父の、母の想いを託されたのだ。城を奪還し、奪われた民達を取り戻し、再び平和な暮らしを取り戻すと心に決めたでは無いか? 城を建て直すと決めたでは無いか? 何よりも……こんな目に遭わせてくれたレオルカ帝国に相応の復讐をしてやるまでは気が晴れない。私の両親の仇……

 『仇』――こんな言葉を自分自身の人生の中で使う時が訪れようとは思わなかった。だが、これは事実だ。私は生き延びよう。民衆を導き――復讐を果たすその日まで!!

「ガリル、この森はどこになる?」

 心を決めたエリスは、すっかり冷静さを取り戻していた。

 ついさっきまでの不安と戸惑いに包まれて表情から、一転したエリスに戸惑いを覚えながらも、ガリルは何時もと変わらず表情で淡々と返す。

「ただいまグリムが偵察に行っております。近隣を大きな川が流れているとの情報もあり、恐らくはレーヌ川かと思われます。だとすれば、モルディオが近いでしょう」

「モルディオ?」

「はい。レーヌ川の北側と南側とに分かれている街です」

 殆ど城の外に出ることの無かったエリスは、言うなれば世間知らずのお嬢様でしか無かった。剣の腕には長けてはいるが、世間一般の知識を持たない彼女には、モルディオというのは街であり、レーヌ川を挟んで南北に栄えている街という情報しか持ち合わせていなかった。ガリルの説明を受けながら、自分自身の無知さに笑いさえ毀れる。

「避難民達を受け入れてくれると良いが」

「ティフェリア陥落の報は伝わっていることでしょう。この緊急事態を考慮すれば、姫からの協力要請を拒むことなどは無いでしょう」

 暫くの間はモルディオで過ごす以外には生きる道は無い。城を失った今、自分にどれ程の権力が残されているかは判らないが、皆を守るためにはそれしか無い。

 全てを自分の責任だと背負い込むかの様な、凛とした態度が逆に気に掛かった。ガリルは、そっとエリスの肩に手を宛てながら、エリスの瞳を覗き込む。心の内を覗き込む様に。

「姫、あまり無理をなさらぬ様に。この状況下では皆が協力し合えねば、明日へと続く道を切り開くことなど出来はしないのですから」

『いちいち私の考えの一歩先を歩むな。調子が狂う』と何時もの様に、不機嫌そうに返そうかと思ったが、ガリルの言うことも一理ある。そう思ったエリスは、不機嫌そうに笑い返して見せた。

「ああ。判っている……だが、その言葉、心強く受け止めておく」

 エリスの言葉を受けながらガリルは静かに頷いてみせる。

「姫、今宵はゆっくり体を休めて下さい。翌朝にはモルディオに発ちます故」

「気持ちは有難く頂く。だが、戦える奴らが警護に当たらねば」

 ガリルは立ち上がろうとするエリスの肩に手を宛てると再び座らせた。突然の行動に、戸惑った表情を見せるエリスに、ガリルは目を伏せながら首を横に振ってみせる。

「姫が為すべき事は剣を振るうことではありませぬ。民を守ることです」

「……そうだな。判った。今宵は体を休め、明日に備えるとしよう」

 エリスの言葉を受けながら、ガリルは満足そうに頷いてみせるのであった。不思議な感覚であった。ガリルの表情を見ているうちに、抗い難い眠気が襲ってきた。それは極度の疲れに起因するものなのだろうか? 近くに見えた大きな木の根元まで這うように歩むと、静かに横たわるように崩れ落ちた。そのまま深い眠りに就いた。

◆◆◆33◆◆◆

 ―――レーヌ川近隣の森 旅立ちの朝―――

 寒さの厳しい朝であった。深い霧の立ちこめる幻想的な朝。木々の根の堅い感触が何時までも背中に残る嫌な感覚を覚えながらエリスは立ち上がった。深い霧の中、川の流れる音を頼りに木々の生い茂る森を歩いた。風は冷たく肌を切る様な寒さであった。落ちた木の枝の折れる軽やかな音だけが響き渡る。

 やがて目の前に広がる景色。緩やかな流れを称えた大河、レーヌ川が不意に眼前に広がる。それまでの深い森の暗さとは対照的な明るい景色。霧が出ていても、日の光の感触は判るものだ。ましてや長い間薄暗い森の中に居たのであれば尚のことである。

「これがレーヌ川か。雄大な流れだ……」

 流れ往く川をしばし眺めていたい衝動に駆られた。絶えず緩やかな流れを紡ぎ続ける大河の音色は、疲れ切った心を優しく受け止めてくれる揺りかごの様に思えた。

 エリスはそっと手を伸ばし川の水に手を伸ばす。

「冷たい」

 慌てて手を引く。優しい流れとは裏腹に、レーヌ川の流れは氷の様に冷たかった。エリスは一息付くと、思い切ったかの様に手を突っ込むと、勢い良く顔を洗い始めた。体中の神経が研ぎ澄まされるような冷たさを全身で感じながらも必死で顔を洗い続けた。

「ふぅ……身が引き締まる冷たさだ」

 雄大な川の流れは身震いするエリスとは裏腹に、揺らぐ素振りさえ見せない。エリスは思った。私のこの川の流れの様に揺らぐことの無い心を持たなくてはと。

 ふと、川の下流に目線を投げ掛ければ街並みが見えてきた。川の両岸に広がる賑やかな街並み。どうやら帝国軍の襲撃は受けていない様子だ。活気のある雰囲気が遠くからも伝わってくる。大きな川を往来する色鮮やかな小船が興味を惹いた。

「あれがモルディオか。活気のある街だな。さて……あまり長居をしても、皆に心配を掛けてはいけないからな。戻るか」

 再び薄暗い森へと戻ってゆく。誰かが火を炊いているのか、微かに木々の燃える匂いが立ち込めていた。木々の中を抜けながらエリスは目を凝らす。

 皆を集めながら、グリムは焚き火を起こしていた。寒さに凍える者達のために器用な腕を奮って見せていた。

「精が出るな」

「ええ。世間知らずの姫とは違いますからね」

 相も変らぬ辛辣な言葉が胸を貫く。今に始まったことでは無いが、やはり痛むものは痛むのだ。グリムは昔からこんな調子であった。王家の者を守るための騎士団に属しながらも、王家の者達には辛辣な態度を見せる。微塵の遠慮も無い手厳しさが苦手だった。気難しく、口も悪いが、変に気を遣う見せ掛けだけの騎士達よりも余程信頼が置けた。

「姫、お目覚めですか?」

「ああ、冷たい川の水で顔を洗ってきた。気持ちも引き締まる」

「そうですか。ですが、お一人での行動は謹んで下さい。」

「判っている」

 ガリルもまた何時もと変わらず、無表情で淡々と接してくれる。ついでに、何時もと変わらぬ口やかましい一言も。変わったのはこの状況だ。ここは城の外であって、何時もとはまるで違う日常を過ごしている。何よりも自分自身の歩む道を、これからは自らの手で切り開いていかなくてはならないのだ。

 これからは守って貰うだけの王女であってはならないのだ。私が皆を守らなくてはならない。皆の道を切り開く剣になり、時には皆を守る盾にならなくてはならないのだ。

「……皆よ、聞いてくれ!!」

 唐突に声を張り上げるエリスに皆が一斉に振り返る。

「今や私は城を失った身、王女としての権力等は無いに等しい。それでも心有る者達は、どうか私の言葉に耳を傾けて欲しい。王家の者の言葉など、聞きたくない者は耳を塞いでくれても構わない」

 誇りだけは棄てたくない。そんな想いを胸に抱きながら力強く佇む王女の姿を見つめながら、皆の反応も様々であった。あからさまに敵意を剥き出しにする者、興味無い者、今まで以上に王家を支持する者。皆、想い想いにエリスの言葉を受け止めていた。そんな者達に混じるアリエスは冷ややかな眼差しでエリスを睨み付けていた。

「皆には多大な苦痛と苦労を強いることとなってしまった。これも一重に我ら王家の民の力不足の致す所。真に申し訳なく思っている。近隣の街、モルディオに我らは救援を求めようと考えている。これだけの人員を受け入れるのは困難かも知れないが、私達に残された道は他には無いのだ」

 初めての演説を行うには、あまりにも地味な場所だったのかも知れない。だが、それでもエリスは怯まなかった。あからさまに非難するような声が胸に突き刺さる。力一杯の声援を送る声に勇気付けられる。複雑な思惑が交錯し、エリスは砕け散りそうな緊張感で一杯であった。それでも、自分がやらねば誰がやるのだという思いが駆り立てた。

「いずれは城を奪還せねばならない。このままレオルカの連中の好きにはさせない。我らが同胞を再び此の地に迎え入れるためにも、私達は負ける訳にはいかないのだ。私は皆をモルディオに送り届けた後、ザイラークへ向かう。アルナス伯に協力を要請するために」

 エリスは考えていた。父ラゼールと古くから親交のあったアルナス伯は、エリスに取っては伯父の様な存在。必ずや力になってくれるであろうと確信していた。いや、他に助けを願える相手は少なくとも近くには居ないのだ。

「皆よ、道中の援護は我らが担う。命に換えても皆の安全は守る。案ずることは無い」

 エリスの言葉に呼応するかの様に、ガリルが槍を高々と掲げて見せる。普段は見せない様な振る舞いに、少々照れ笑いを浮かべながらエリスに微笑み掛けながら。

「大丈夫だよ。僕達はこうして生きているんだ。生きていればきっと、明日に出逢える」

 レインが立ち上がる。根拠の無い前向きな希望は、もしかしたら皆を余計に傷付けてしまうだけかも知れない。それは判っている。だけど、明日を信じる希望さえも失ってしまったら、開かれるであろう道さえもが閉ざされてしまうかも知れない。無責任だと罵られても、何も考えずに明日を信じる気持ちを捨てたくは無い。レインはそう考えていた。

「やれやれ……世間知らずの貴族様は気楽なものだねぇ。ま、あれだけ酷い目に遭わせてくれた帝国の奴らに仕返しをするまでは、皆も心は晴れないだろう? そこはティフェリア騎士団が、皆に代わって倍返しで仕返ししてくるから、信じて待っていて欲しい」

 グリムが立ち上がる。何も出来やしないと思っていた王女の、意外な行動に微かに興味を抱いたのも事実であった。世間知らずの小娘に一体何が出来るのか? 変わり往く姿を見届けたい想いもあった。

 皆の顔を一通り見渡すと、エリスは力一杯剣を天高く掲げて見せた。

「ティフェリアに栄光あれ!!」

 森の中に皆の歓声が響き渡る。皆が皆エリスのことを認めた訳では無かっただろう。半人前の王女に不安を抱く者も少なくは無かった。同時に大きな期待と希望を抱く者も少なくは無かったのだ。

 実直で真っ直ぐな正義感を抱くエリスに共感を覚える者達も少なくは無い。女でありながらも、その卓越した剣の腕前と男顔負けの行動力と度胸。世間知らずで夢見がちな部分は否めないが、それでも皆は考えていたのだ。この状況を打破するためには、とにかく行動するしか無いのだと。

「ぼくは認めない。絶対に認めるものか……」

 アリエスは胸の奥底で燻る想いに、心を焦がされる様な苦痛を覚えながらも、自らの非力さを呪わずには居られなかった。だが、それでもなお、生きたいと願う気持ちは強く心を突き動かす。自分でも何がしたいのか判らないながらも、アリエスは静かに空を見上げていた。見えざる何かを見据えるかの様な静かな眼差しで。

 皆が歩き始めた。明日を手にするための戦いに挑むために。目指すはレーヌ川の街モルディオ。皆、それぞれの思惑を胸に抱きながら歩き続けた。一歩、一歩、歩き続けた。この薄暗い森は、言うなれば今置かれている状況の象徴。先も見えない薄暗い光景。だが、歩き続けていればやがて森は終わり、日差しに包まれた光景が目の前に広がるだろう。

 エリスはそんなことを考えながら皆の先陣を歩んでいた。やがて森の終わりが見えてくる。光が次第に近付いてくる。森を抜けた瞬間、一瞬周囲が真っ白になる程の日差しに包まれていた。

「眩しい……どうやら森はここで終わりのようだな」

 強い日差しに一瞬目が眩んだが、次第に目が慣れてくる。

「広大な草原か。先程の霧も晴れて、今日は良い天気だな」

「本当だね。雲ひとつない綺麗な青空だよね」

 エリスの言葉を受けながら、眩しそうに空を見上げるレイン。二人のやり取りを横目で見ながらあからさまな溜め息を就いてみせるグリム。

「やれやれ。大冒険気分じゃ困るんだけどねぇ」

「そう言うな。殆ど城の外に出ることも無いのだ。世間知らずなのは当然だ」

「まぁ、それもそうか」

 苦笑いしながらもまんざらでも無さそうなグリムは、エリス達に声を掛ける。

「姫、遠くに見える街がモルディオです」

「美しい街だな。何とか皆を受け入れてくれると良いのだがな」

 不安げなエリスの言葉を受けながらガリルが返す。

「ティフェリア陥落の報は伝わっているはずですから、大丈夫でしょう」

「そうですよ。まぁ、姫がちょいと脅しを掛ければすぐでしょう」

 便乗するグリムの一言に、エリスは苦笑いしながら向き直る。

「おい、グリム、私はそんな風に見えるのか?」

 そこには微かではあるが笑いがあった。グリムの気遣いを有難く受け止めながら、エリスは雲ひとつ無い青空を見上げていた。美しい空だ。澄み渡る空は、何処までも続いている様だな。私もこうありたいものだ。

 辛いことも、苦しいことも、たくさん降り掛かるだろう。だけど、悲哀に満ちた旅にはしたくは無い。辛気臭い顔をして、復讐だけを掲げての血生臭い戦いでは本当の平和を取り戻すことなどは出来ないだろう。

 平和とは、皆が笑い合える世界だと私は考える。そうさ。振り返ってみても、ティフェリアは明るい笑いに満ちた城だったでは無いか。皆が明るく、夢と希望を持って生きていた。必ず取り戻して見せるさ。皆が笑い逢える世界を。

 エリスは空を見上げながら沢山のことを考えていた。広大な青空のように何処までも広がる心を胸に抱き生きていこうと。気が付けば、モルディオはもう目の前だ。

 エリス達の到着を想定していたのか、街の長らしき者達が恭しく頭を垂れるのが見えた。

「姫、どうやら受け入れ態勢は整っている様子ですな」

「ああ、これで大きな問題のひとつが解決する。ありがたいことだ」

 信仰――棄てたものでも無いか。エリスは手を振る街の者達に、笑顔で手を振った。

 世の中、まだまだ棄てたものでは無いな。自然と笑顔が零れ落ちる。この青空の様な澄み渡る希望を握り締めながら、エリスは女神エルザに感謝していた。

                       To Be Continued…