第1話『河童〜思いでの降る街』

◆◆◆1◆◆◆

 田舎が好きでした。自然が好きでした。

 緑萌える自然の中に身を寄せて、風の流れと共に歩み、川の流れと共に四季を巡り、自然と一つになるのが好きでした。

 夢を見ました。夢の中でぼくは子供に戻っていました。

 子供に戻って懐かしい、あの頃の……もう忘れてしまった田舎の平原を走り回っていました。

 夏――さんさんと照りつける太陽と青い空。

 蝉の鳴く声と、風が稲穂をそっと掻き分ける音色が、川を流れるせせらぎの清流だけが響き渡る。夕焼け空の赤トンボと共に、夏を走り、夕日を追いかけたあの頃。そんな平和な田舎に帰っていました。

◆◆◆2◆◆◆

 ガタンガタン……だいぶ年期物なのだろうか? 節々まで修復されることのない列車は、毎期の申し訳程度の整備と故障の点検しかしない。人間で言えば、よぼよぼのお爺さん。未だに走っている事さえも不思議に思える、そんな古びた列車。

 山の裾野を走る列車から見える景色は荘厳であり、長閑であった。揺れはひどく激しい。ガタンガタン。列車が揺れれば荷物も傾く。

「うっ、うーん……」

 列車の中一人の青年が目を覚ます。

 短い髪に、真っ白なシャツ。まるで夏を表現するかのような外見に、無邪気で聡明なその瞳。青年の名は太一。

「んー。ふぁーあ、良く寝たなぁ……」

 寝起きの猫が伸びをする如く盛大に伸びをしてみせる。

 相席した女子大生らしい若い女の子がクスクス笑うのを見て、慌ててそこが列車の中であることに気付き照れ隠しからだろうか、口笛さえ吹いてみせる。真っ赤になりながら、太一は車窓からの景色を眺めてみせた。

◆◆◆3◆◆◆

 一面田んぼ。夏の田は陽の光を一心に受け止め皆、一様に元気良く背伸びをしているかの様に思える。

 風が吹けば稲達の涼やかな緑の香りを運んで暮れる。

 秋になればその香りは、もみ殻の収穫の香りに変わる。

 もみ殻の香ばしい香りも捨てがたいが、新緑の水稲の緑思わせる青臭い様な、瑞々しさも実に赴き深い。

 遠く、遥か遠くに見えるのは富士の山。八ヶ岳と呼ばれる、連なった山々。良いお天気だ。

 真夏の暑さを象徴するかのような、膨れ上がった入道雲。風の音に混じって聞こえてくる蝉達のコ−ラスを聞けば外の暑さは、どれほどのものかは想像に難くない。

『まもなく清里に到着します。お降りのお客様はお忘れ物をなさらないようにお願い致します』

 古びた列車の中、車掌が乗り越し切符を確認しながら案内を告げていった。風情があるのが良い。そんな事を考えている間に、相席の女の子は実に手際よく荷物をまとめると、降車の準備を済ませた。列車の中は、乗客も少なくガランとしていた。

 降りる気配がないのは、地元の農家のおばちゃん達ばかり。列車の中はおばちゃん達の憩いの場でもあるように思えた。だからこそ車掌も気を利かせて、不必要な声は掛けない。そこが人情。そこが田舎町と言うものであろう。

「次か。次の駅こそが……我が故郷、甲斐大泉……」

 懐かしそうに笑う太一の手に握られていたのは小さな木製の笛。

 手作りらしい荒っぽい造りが目立つが、その深みある色合いは長い年月を感じさせた。

 窓の外を眺めながら、どこか遠くを見つめる太一がそっと、優しく微笑んだ。

「河太郎、もうすぐ逢えるな。お前に……」

 何かを思い出し、懐かしそうに笑う太一の頬を一粒の涙が、そっと伝った……。

◆◆◆4◆◆◆

 ぼくの田舎は山梨県の奥地、大泉村と言う所だ。

 河童にまつわるエピソ−ドには、全くと言って良いほど無縁なド田舎の鄙びた村。武田信玄発祥の地として知られる。

 高原らしく一年を通じて涼しいが、夏は相当に暑くなる。

 春には蕗の薹に、よもぎ。夏にはぶどう、秋は山の実りに心はずませ、冬にはほうとうを食べる。食べ物がおいしい所だ。天然記念物はオオムラサキ。実物は見たことないけど、とびきりキレイな蝶だ。きらきらときらびやかに輝く、淡い紫の軌跡を残して静かな森の中を飛び回る様は、天女の舞を思わせるそうだ。

 ぼくはこの道が好きだった。砂利だらけの道。

 子供の頃転ぶ度に、擦りむいた膝から血が滲んだ。雨が降れば、泥だらけの水たまり。でも、土の香りが素敵だ。

 そう。ぼくはこの道が好きだった。特に夏が。川の流れが、木々の息吹が、森の香りが、青い空が、白い雲が、真っ赤な夕焼けに赤蜻蛉。そこにはありとあらゆる香りが存在していた。そこにはありとあらゆる音色が存在していた。

 良く川で遊んだ。ずぶ濡れになって帰っては、母ちゃんによく叱られた。ぼくは太一。

 農家の子供。十二歳。裕福でも無ければ、貧困でもない。そんな何処にでもありそうな農家の息子。

 家族はじっちゃんに、ばっちゃんに、父ちゃんに、母ちゃん、弟の次郎に、それから愛犬のシロ。

 夏真っ盛り。何もこんなクソ暑い日に畑仕事をさせなくたって良いじゃないか……。

「太一っ!」

「あいたっ!」

 威勢の良い罵声。ついで突然に脳天を直撃する強かな衝撃と痛み。ハッと我に返った太一だが、どうにも足下がおぼつかない。

「ボ−っとしてねぇで、さっさと手伝いな」

「いってぇー……頭叩くなっ! バカになるっ!」

 頭を抱えたままもっともらしい抗議をしてみせる太一であったが、巨漢の父にはまるで堪える様子もない。代わりに半鐘を叩く様な馬鹿でかい声でゲラゲラと笑ってみせる。まるで雷様が目の前で笑っているかの様な様相である。

「おめは、もう十分にアホだから問題ねぇずら。かっかっか」

 あまりに本当の事を言われ過ぎて、思わず耳まで真っ赤になってしまう太一。刃向かおうにも幼い太一に取って父はあまりにも強敵であった。

 正面から突っ込もうが、背後から隙を取ろうが、その馬鹿でかい手で鷲掴みにされて、次の瞬間には見事に上手投げをかまされてしまう。これではとても勝ち目はない。

 耳まで真っ赤になりながら、無言で水汲み様の桶をふんだくるように担ぐと、大股でズカズカと歩み去って行った。背後で再び父が雷の様なけたたましい笑い声をあげたが、太一は振り向かなかった。

 水汲み様の木桶は、太一の父親でさえ大きく感じられてしまう程の大きさの代物。当然、小柄な太一が背負い込めば大変な大きさとなる。しかも、水も入っていないくせに、長年の年期からかいやに重い。ずっしりと肩に食い込むような感触に思わず脂汗が滴る。

 水は、路地の脇の細い、細い階段を下った所にある。

 流れる清流は川。源泉に近いせいか水は清らかさと清涼感を漂わせていた。

 田舎の川には、実に様々な生き物達が住んでいる。トンボの幼虫ヤゴ。自慢のあごで獲物をガシッと捕らえる水中の狩人。ゲンゴロウのなんだか間の抜けた泳ぎに比べて、蛙の泳ぎは爽快だ。特にトノサマガエルは、体も大きい。岩の上に腰掛けてゲコゲコと鳴く様は、まさしく殿様の風格を漂わせるものがあった。間の抜けた滑稽な表情が、愛嬌を漂わす。

 セリの生い茂る夏の河原。涼しい風に、しばし時を忘れ憩いの時間を過ごすことも多々あった。

◆◆◆5◆◆◆

 畑仕事の合間に、おばちゃん方が過ごす場所。水辺は女の仕事場とは、良く言ったものだ。

 田舎の女達の朝は早い。まだ日も昇らないうちから畑に出て、味噌汁の材料を調達する。ダイコンはその白さ、つや、そして迫力に置いて都会のそれとは比較にならないほどの美を見せつける。

 水場でゴシゴシとダイコンを擦りながら、鼻歌でも歌えば次々とおばちゃん方が集まってくる。

 ダイコンの葉も無駄にはしない。栄養価の高いダイコンの葉は、そのまま味噌汁の汁の実になるのだ。それも田舎の慣わしなのだ。それが田舎の女達の風習なのだ。

 首に白い手ぬぐいを巻き、頭には麦わら帽子。日差しから身を守るために帽子から垂れ下がる手ぬぐい。モンペに長靴。これが田舎の女達の基本スタイルなのだ。華美な装飾よりも、実用性を重視する。

 トラクタ−にまたがりキセルを吹かすイカしたおじさんもいる。時の流れすらも忘れてしまいそうな長閑さ。

 川の流れと、風の音。リズム良く繰り返される自然の音色に歩を休めてしまう。

「よいしょっと……」

 慣れない手つきで、重たい木桶を川に付ける。

 水は冷たい。恐る恐る足を入れれば、思わずヒャっと声にならない悲鳴もこぼれてしまう。しかし、嬉しい悲鳴だ。

「おや、太一ちゃん。精がでるねぇ」

 井戸端会議に花が咲く、おばちゃん達の一人が木桶に苦戦する太一に気付き声を掛ける。

 いきなり明後日の方角から声を掛けられ、驚いた拍子に転びそうになってしまったが、必死で持ちこたえた。

「あらあら。大丈夫かい?」

 矢の様に降り注ぐおばちゃん達の笑い声に思わず照れ隠しからか、殊更ムキになってみせる太一。

「笑い事っちゃねぇや」

「あはは、ごめんよ。そうだ、太一ちゃん、後でね、おばちゃん家、お魚取りにおいで」

 ムッとする太一を見ながら、尚も吹きだしそうなのを必死で抑えてみようと試みるおばちゃん。手にした鎌からおそらく草刈りをしていたのだろう。

「父ちゃんがね、川に釣りに行っただよ」

 おかしそうに笑いながら、説明してみせる。

「そういう事はね、釣れたら言うもんだよ」

 すかさず別のおばちゃんが、突っ込みを入れる。

 あらまっと、狐に摘まれた様な、ひょっとこみたいな表情をしながら、おばちゃん再び笑い出す。

「やんだよ」

「あははははっ!」

 何だか、放って置けば何時まででも笑い転げてそうなご機嫌なおばちゃん達を後にし、水のたっぷり入った木桶を持ち上げようと試みる太一。

 まず、深呼吸。腰をしっかりと、入れ力を込める。力を込めすぎて屁でも放ろうものなら、また笑いの種にされてしまう。だから、精一杯、しかし要らぬ所に力が入りすぎないように細心の注意を払いつつ。

 しかし、水の入った木桶はまるで地面に根を生やしたが如く重い。

 歯を食いしばり必死で渾身の力を込める太一。ミシっと言う木桶が軋む音と共に、静かに持ち上がった。

 持ち上がったは良いが、それからが大変だ。肩に食い込むどころか、骨まで砕けそうな重み。まっすぐ歩く事すらこれでは難しい。何しろクラクラ来ているから尚のことまっすぐでなくなる。そんな太一を見ながらあぜ道で畑を耕すおじさんが、はははと笑ってみせる。

「やぁ、おっちゃん。今日も長靴イカしているじゃん」

 苦し紛れに、挨拶をしてみせる太一。

 なんだか腹の底から出ているような声と、笑顔の中に見え隠れする苦悶の表情が重なる様でおかしい。

「はははっ。褒めたって、なーんも出んぞ」

 太一の企みなど、お見通しとばかりに可笑しそうに煙管を吹かせてみせる。

「んじゃ、オレ、忙しいからまたね」

 よたよたと危なげな千鳥足で歩く太一を後目に見ながらおっちゃんがおかしそうに笑う。そのまま笑いながらトラクタ−で、おっちゃんは走り去って行った。

 夏の田舎。川のせせらぎに、蝉の鳴く声。こういう暑い日は、入道雲が実に元気良く膨れ上がる。

 夕暮れ時に、一面灰色の空になったりすれば、もう夕立。ゴロゴロと雷が鳴り出すと、ほぼ同時に土砂降りになる。

 これも田舎の天気の特徴。雨で喜ぶのは、蛙ばかり。何しろ、突然の雨は、折角の干物を台無しにしてくれる。わざわざ乾燥させておいた豆に、雨が降り注げば一からやり直し。ひどくすれば、カビまで生えてしまう。しかし、幸い未だ空は青空を保っていた。

◆◆◆6◆◆◆

「おお。太一お帰り」

 憤怒の表情の太一に、思わずギョッとする母であったが、しっかりと水を運んで来られた太一の功労を労う様な笑顔を浮かべている。何しろ、太一はがんばって、桶の八分目まで水を減らさなかったのだから。

「ただいま、ひぃーっ。重たかった……」

 ドカっと地面に置くと同時に太一の肩にまるで羽根でも生えたかのような、爽快な感触が

 駆け抜けた。風の涼しさが体を駆け抜ける様な気がした。

「はっはっは、父ちゃんは、そんなん楽に持ってくるべ?」

 ヘロヘロな太一を見ながら、豪快に笑う父。わざわざ太一をからかって見せる。止めなさいなと言いたげな母であったが、止める気は無さそうだ。

「父ちゃんと一緒にすんなよな。ひぃーっ」

 思わず土手の草の絨毯の上に寝転がる太一。

 爽快な風に、青く澄んだ空。その全てが純粋で、また洗練されつくした美しさを誇っていた。

 古来、どんな画家達も空の青さを表現する事は出来なかったとされるが、まさにそうだろうと太一は幼心に思った。

 苦しそうに息を付く太一の鼻の頭にちょこんと赤トンボが止まってみせる。

 思わず赤トンボとにらめっこを始める太一であったが、笹包みを手にした弟を見た途端、ガバと起きあがった。

「兄ちゃん、おにぎり」

「ひゃっほうーっ! メシだっ!」

 先程までの死にそうな表情は何処へやら、目の前の笹包みに、すっかり太一は心を奪われた。しかし、太一の手が伸びるよりも早く、母の手がそれを横手に奪い取った。ついでに、ニヤリと笑うと一言。

「手ぇ洗ってからにしな」

「へーい……」

◆◆◆7◆◆◆

 こういう田舎だからこそ、夜になると実に光と言う物が失われる。街灯なんて代物は殆ど存在しない。夜は深淵の闇。月の明かりと、星の明かりだけが頼りになる。運が良ければ、蛍の光も貴重な明かりとなるだろう。夜の静寂は、星々の瞬く音さえも聞こえさせそうな気配を感じさせる。

 夏でも夜は涼しい。虫達も夏を謳歌するが如く自慢の歌声を響かせる。決してお金で買うことの出来ないコンサ−ト。それも田舎の夜の魅力であった。

 蛍の光に目を楽しませ、虫達のコ−ラスに耳を傾ける。そんな静かな田舎の夜の中でも、太一の家では喧騒が轟いていた。

「だぁーっ! また打たれた! このボケナスがっ!」

 茶碗を片手に、父は食い入るようにテレビに見入っていた。母の不機嫌そうな表情など、目に入る様子すらない。

「ちょいと、父ちゃん。テレビに夢中になるのは結構だけどね、ご飯をまき散らすのはやめとくれよ」

 茶碗を片手に、食事とテレビの野球中継を同時進行。母が怒るのも無理は無いだろう。

 元気の良い兄太一と比べると、弟の次郎は物静かな少年である。虫や、植物と戯れる事を幸せと感じる平和な少年である。野球をちらちらと見ながらの食事。さっさと食事を終えた兄の太一を牽制しつつの食事。

「次郎。これいらないなら貰うぜ。」

 一瞬の隙を突いて太一の箸が次郎の皿に伸びる。わざわざ楽しみに取っておいた、たらこを奪われたのが余程悔しかったのか、それとも一瞬の隙を突かれた自らの不甲斐なさに腹が立ったのか、目に涙を讃える。

「うーっ……兄ちゃんのバカぁっ!」

「いててっ!」

 逃げ惑う太一をポカポカ叩き出す次郎に身を震わす母。燃えたぎる怒りがこみ上げる。

「こらっ、ケンカすんじゃないよっ! まったく、ウチの男共と来たら……」

 煎れたての茶を啜りながらも怒りを押し殺す母。しかし、そんな母の気持ちと裏腹に賑やかな兄弟達。

 その時であった。事もあろうに父の贔屓するチ−ムが窮地から起死回生の一撃を放ったらしい。突然、起き上がる父。

「おっ! いけっ! そこだぁーっ!」

 テレビ画面にかじりつきそうになる父に、いよいよ母の怒りも最高潮だろうか。

 仁王の様な形相の母に、思わずピタリと取っ組み合いのケンカを止め、二人抱き合いブルブルと震え出す兄弟。しかし父は気付かない。

「走れっ! 回れっ! うぉおおーっ!……ぐはっ!」

 テレビ画面に噛みつきそうになる父の後頭部を母の放った見事なホ−ムランが直撃。後頭部をフライパンで殴られ、あえなく失神する父。

「九回裏二死満塁の危機に、サヨナラホ−ムランだよ……まったく、さっ……あんた達もお風呂に入って来な」

「へいっ!」

 目の前に沈む父の様な目に逢っては大変だと、慌てて回れ右をすると風呂目指して足早に駆け出す兄弟。田舎の風呂は薪で沸かす。それ故に、熱くすることはなかなかに難儀である。手早く着替えを用意すると、兄弟で競走するかの様に風呂場を目指して駆け込む。

「早くしろよ、次郎」

「待ってよ、兄ちゃん」

 さっさと服を脱ぎ去ると、風呂桶の前に立つ太一。

 恐る恐る浴槽に足を突っ込んでみる。あくまでそっと。

 ちょっとでも勢い余って、突っ込んでしまい、湯が熱ければひどい目に逢うからである。だから、寝ている赤ん坊を起こさないかの様な、慎重な動きで確かめる。その様子を、そっと固唾を飲んで次郎が見守る。

「っ!……あちっ!」

 湯に足が触れる。しばし伝わらない湯の熱さ。やがて、ジワリジワリと熱さが伝わる。

 兄の叫びと同時に、次郎は水道の元栓を一気に全開にする。

「次郎っ、もっと出せっ!」

「もう全開だよ」

 ザバザバと浴槽に注がれる水道の水。

 何しろ、炎天下の中での農作業をやったのだ。背中は日に焼けてヒリヒリと傷む。ちょっとでも熱ければ滲みるのだ。だからこそ、慎重に温度を下げる必要がある。

 そろそろかと、再び足を突っ込む太一。今度はどうやら適度な温度であったようだ。太一は次郎の顔を見ながらにやりと笑う。次の瞬間、二人揃って浴槽に元気良く飛び込んだ。

 豪快な音が響き渡る。ゴボゴボと水が勢い良く流れる音に、台所の母がピクリと反応する。

「……まったく、あの子達は」

「おおーっ! 行けっ、行けっ! 走れーっ!」

 野球に夢中になる父を見て、母は思った。どうやら子供達は、自分ではなく、父に似たのだなと。

 母に取っては、手のやける子供が三人いるような感である。なんだかおかしくなったのか、クスクス笑いだした。台所で、一人で笑う母に怪訝そうな表情の父であったが、野球の方が気になるようである。

◆◆◆8◆◆◆

 その日の夜は蒸し暑かった。涼しさの中にも、やはり独特の暑さが感じられるのだ。田から吹き付ける風は湿気を帯びているから蒸し暑い。窓を開けて寝るのも暑さから身を守るため。だが、蚊帳が無ければとてもそんな恐ろしい事は出来ない。

 田舎の蚊は食料に飢えているせいか、実に執念深く、また一度でも刺されれば見事に腫れ上がる。刺された後にわずかでも触れようものならば、体中を駆けめぐるむず痒さに神経が狂いそうになる。かけばかくほど痒くなるから、ますます始末に負えない。

「ぐがー。ぐがー……」

 昼間の疲れからだろうか、太一の豪快なイビキが響き渡る。大の字になって布団を見事に

 蹴り飛ばしてしまっている。対照的なのは弟の次郎。物静かに寝息を立てながら眠っている。

「うーん……」

 太一が寝返りをうてば、次郎は寝言を言ってみせる。

「うーん……兄ちゃんのバーカ。えへへ」

 辺りは一面静寂。虫の鳴く声と蛙の鳴き声だけが聞こえてくる。空には満天の星。静寂さの中に自然の織りなす華麗な音色が響きわたる。

 その夜のコ−ラスに誘われて、田の上には蛍が舞う。何百匹も、何千匹も、まるでそこだけが夜であることを忘れてしまったかの様に、明るく輝いている。

 まるで月が地面に落ちて来たのかと思わせるほどの穏やかな、暖かな明かりの中でホタル達が舞を舞う。

 刹那……何処からともなく汽笛が聞こえてきた。澄み切った音色は、静寂なる夜に染み渡っていった。

 夜の闇夜の中を汽車が走る。だが、走っているのは線路の上ではない。田の上を、まるで空中を舞うホタル達の様に走り抜けた。

 何処からか聞こえてくる澄んだ笛の音色に呼応するが如く汽笛を吹き上げた。

 乗客は誰もいない。汽車の中は静かでそしてきれいに片づけられていた。ホタルの様な

 淡い光を放つ汽車。だが、思い出」と言う名の目に見えない人々を乗せて汽車は走る。そのまま空高く突き進んで行った。まるで月に呼び寄せられたかの様に。その様子を満足そうに見つめる者がいた。笛を吹く者。人間ならざる者。嬉しそうに微笑むと、今まで

 腰掛けていた木から、眼前に広がる闇夜の池に飛び込んだ。水面に波紋が広がると同時に、

 全ての音が止まった……。再び訪れる静寂。夜半の街は再び静まり返った。

◆◆◆9◆◆◆

 あの日もとびきりの暑さだった。

 むせ返る様な熱気の中で、太一は畑仕事を手伝っていた。同年代の農家の子供達は皆一様に、畑仕事を手伝っていたが、同時に、彼らはまた独自の遊びの手段も持ち合わせていた。

 むくむくと膨れ上がる入道雲も、今日は一際大きく膨れ上がっていた。こういう日は決まって豪快な夕立と対面するものである。

 特に山の天気は変わりやすい。大泉村は標高も高い場所にある。当然、天気も変わりやすい。

 秋の田舎の天気は長年住み慣れた者達でも読みとりにくい。晴れるかと思えば突然の大雨に驚かされることがある。逆に傘を持っていけばこれ見よがしの晴天が迎えてくれることも珍しくない。それが自然というものなのだ。昔、叔父さんに習った。

 そう、時事刻々変化する。絶えず違った顔を見せ続ける。それこそが自然であり、面白さなのだ。

 昼下がりの午後。昼食も住ませ弟と木陰で一時の憩いを過ごす。何を思うか? 空を仰ぐ

 太一の表情は、どこか目がゆらゆらと泳いでいる様に見えた。彼の瞳には何が写っていたのだろうか?

「……兄ちゃん?」

 うとうとする弟にちらりと視線をくれてやると、ゆっくりとその場を立ち去ろうとする太一であったが、立ち上がり際に小枝を踏んでしまった。その軽やかな音が弟の目を鮮明なものとさせてしまった。しまったと言った表情を見せる太一であったが、もう遅い。

「兄ちゃん、どこ行くの?」

「しょ、しょんべんだよ……」

 しかし、太一のウソはすぐ見抜かれてしまった。

 長い付き合いからだろうか? 太一がウソをつく時、必ず上擦った声で困った様な笑いを浮かべるのを次郎は良く心得ていた。兄は強かだ。すこし目を離せば、すぐにどこかへ遊びに行ってしまう。それを阻止するために、次郎は兄の行動に際して鋭敏な神経を備えるようになったのだ。

「兄ちゃんの嘘つき。どこに行くの? ぼくも連れてってよっ!」

「シッ! でけぇ声だすなっ! 今度連れてってやるからな。んじゃ、母ちゃんにはナイショだぜっ」

 そう一言、言い残すと風の様な早さで太一は草原の彼方に走り去って行ってしまった。

 しまった。またもや置いてけぼりを食ってしまった。見事に兄に填められた次郎は、ふくれっ面をしてみせるが誰も構ってはくれない。次郎を嘲笑うかの様に大きなギンヤンマが、頭上を旋回していった。夏空の下、その暑さを除けば実に静寂であった。

◆◆◆10◆◆◆

 太一が向かったのは山道をずっと登って行った所。

 誰にも知られていない。太一だけが知っている場所。

 川の源流に近いところだけに、水は一点の曇りもなく清らかな流れを讃えていた。辺りは森。木洩れ日の差しこむ静かな場所。サラサラと流れる川の音が、清涼感を醸し出す。

 蝉の鳴き声は、森の中だけに一層派手に聞こえてきた。

 木にシャツが引っかからないように、飛び出した岩や切り株でケガをしないように、慎重に歩んでいく。しかし、慎重でありながらも、その足取りは軽やかであった。

 太一にとっては、この場所は、半ば庭の様な場所。それだけに迷うことなく、確実に歩を進めていくのであった。

 涼し気な風が木の葉を揺らす音が聞こえる。

 蝉の鳴く声に、風が木々の葉を揺らす音、川の流れ。その全てが見事なまでに調和し、一つの旋律を奏でていた。

 太一はと言うと、どこからか拾ってきた長い木の枝に糸を垂らし獲物の到来を、ひたすら待ちわびる。しつこくまとわりつく藪蚊に悪戦苦闘しながらも。

「ふぁーあ、良い風だなぁ……涼しいし」

 大きな欠伸をしてみせる太一。大きく開かれた口に藪蚊が飛び込みそうになり、慌てて首を竦める。

 刹那、垂らした糸がピクリと水中に沈む。

「おっ! 来たぜっ!」

 ピクンと引き込まれた釣り竿の代わりの木の枝を勢い良く、ただし折れないように引き上げる。

 釣りは水の民、魚と陸の民、人間との一対一の戦い。それだけに、真剣勝負に太一も負けるわけにはいかなかった。

「うりゃあっ!」

 太一が勢い良く釣り竿を上げると、日の光にキラキラと光り輝くニジマスが躍り上がった。

 ピチピチと跳ね回るニジマスに苦戦しながらも、やっとこさの勝利。思わず笑いがこぼれる。額の汗を拭えば、手から放たれる生臭さに苦笑する。

◆◆◆11◆◆◆

 こんな素敵な場所に弟、次郎さえも頑なに連れてこないのはワケがあった。

 太一は山歩きに慣れきった野生児であったが次郎は違う。ましてやここは常人にはかなり危険な場所であることは、山歩きに慣れた太一には良く判っているのであった。

 不意に、木洩れ日さえも遮るような暗さ。ゴロゴロと鳴り響く空を見上げればなにやら剣呑な雰囲気。先程までの青空は、いつの間にか暗雲立ちこめる様相にその姿を変えていた。ぽつりと、不意に腕に落ちた雫に、太一は思わず焦った。

「げげっ、やべっ! しまったっ!」

 夏の夕立は豪快である。ましてやこれだけ夏の暑い日の夕立は格別である。ポツポツ降り出した雨は、突然、バケツをひっくり返したかの様な凄まじい大雨に変わる。夏の夕立の典型の様な大雨に太一が戸惑う。雨に焦り、雨宿り出来る場所を求め右往左往する太一を眺めながら、そいつは笑った。

「あはは。災難だべな」

「えっ?」

 不意に背後から聞こえた予想外の声に振り向こうとした瞬間、雨で水気を孕んだ苔に足を取られ、太一はそのまま川に転落した。幸い、川の流れは早かったが、水深は浅かったので溺れると言う危険性は無かった。ただ、源流に程近い川の流れは夏でも冷たく、背筋まで伸び切るほどの冷たさであった。

「ひゃーっ! 冷てぇっ!」

「あはは。何やってんだぁ?」

 ケラケラと頭上から降り注ぐ笑い声に苛立ったのか。太一は憮然とした表情で、頭上の声の主を睨み付けた。だが、次の瞬間、腰が抜けてその場に崩れ落ちた。

 鶏を思わせるような黄色いくちばし。緑色の体に、亀の様な甲良。大きな瞳に、大きな口。頭には皿が乗っかっている。その姿は物語に出てくる河童そのものであった。

「うわっ! おばけっ!」

 あたふたする太一に、そいつは好奇心に満ちた目を大きく見開きながら、語りかけてきた。

「何も、おめを食うなんて言ってないぞ」

「へっ?」

 両手で頭を抱えてぶるぶる震える太一であったが、目の前の河童が自らに危害を加えないと知るや、急に強気になって相手を品定めするように眺め始めた。

「オイラ河太郎。おめは?」

 太一にジロジロ見られるのが照れくさいのか、何故か妙に上擦った声で、話題を変えようとしてきた。

「オレか? オレは太一だ」

「太一かぁ?……あはっ。よろしくな」

 邪気の欠片すら見当たら無い屈託のない無邪気な笑顔を浮かべながら、そいつは握手を求めてきた。

 敵意の無いことを知った所で初めて目にした河童という存在。物語の世界だけの生き物だと思われていた河童が目の前にいて、ついでに握手を求めてきているのだ。驚かない方が不思議だと言うものであろう。

 取りあえず、恐る恐る手を差し出す太一。ぬるっとした感触に、ひんやりと冷たい手に思わず飛び上がった。その表情がよほど滑稽だったのか、河太郎は声をあげて笑い出した。

「あはは。でも……おめ、すげぇ奴だな。こんな所まで来た奴珍しいぞ」

 河太郎は不意に目を大きく見開くと、好奇に満ちた眼差しを見せた。

「なぁ、太一。オイラのお願い聞いてくれるだか?」

 突然モジモジしながら照れくさそうに作り笑いを浮かべる河太郎。

 河童が以外に間が抜けて面白い奴である事を知りもはや太一の中に恐怖心は無かった。代わりに初めて目にした河童と言う不思議な生き物に興味を惹かれていた。

「何だよ? お願いって?」

 好奇心に満ちた目で、見つめられてますます照れて困ってしまう河太郎。殊更モジモジしながら話し出した。

「あ、あのな……お、オイラと友達になって欲しいだべ……」

「へっ?……あははははっ!」

 妙に神妙な顔つきの河太郎から発せられた一言が、あまりにも単純で、当たり前すぎる言葉だったので、太一は少々拍子抜けしてしまった。

 ケラケラとおかしそうに笑う太一に、ムッと来たのか憮然とした表情で河太郎は太一を見つめていた。

「何が、おかしいだ?」

「いや、ごめん。お願いなんて言うからもっとすごいこと頼まれるかと思ったら、そんな事かぁ?」

 相変わらず笑い続ける太一に、ふくれっ面をしてみせる河太郎。さすがに笑いすぎたと、太一はしばし反省する。

「オレで良ければ、良いぜ。」

「ほ……ホントけっ!?」

 太一の口から、さらりと出てきた言葉に思わず我を忘れ、一瞬戸惑ったような、困った様な表情をしてみせる河太郎。だが、次の瞬間嬉しそうに笑い出して見せた。ついでに、嬉しさの余り、思わず妙な踊りまで踊り始めた。

「あはは。お前、面白い奴だなぁ」

 もはや太一に取っては、河太郎が何者かなどと言うことはどうでも良くなっていた。この目の前の不思議で、素敵な友との出逢いを心から喜んでいた。

◆◆◆12◆◆◆

 ポツリポツリといつしか、凄まじい大雨もあがり再び木洩れ日が梢から見え隠れし始めた。

 今来たのと同じ様な早さで、空に立ちこめていた暗雲はいつしか、晴れ晴れとした青空に、早変わりしていた。

「ん? おめ、びちょびちょだなぁ」

 ふと太一を見ながら、河太郎が驚いたように言ってみせる。先程、川に見事に転落したのだ。そのさらに後には叩きつけるような夕立に降られ、ずぶぬれである。

「ああ、川に落ちちまったからな。パンツまでびしょびしょだぜ」

 太一は髪から滴り落ちる水滴をうっとうしそうに払い除けた。濡れて、肌にぴったりと張り付くような感触のシャツの、そのヒンヤリと冷たく、奇妙な感覚に殊更ブルルと震えてみせる。

「あはは。人間は不便だべ。オイラは水に濡れても平気だべ」

「そりゃ、河童だもんよ」

 もっともらしい反応をしながらも、どうしたものかと困ったような表情の太一。何しろ、上から下まで見事にびしょぬれになってしまったのだ。気持ちが悪くて仕方ない。

「服脱いで、渇かせ。この日差しだからすぐ渇くべ?」

 満月の様な大きな目を、くるんと回しながら河太郎が笑ってみせる。ついでに、テヘヘと愛想笑いを浮かべて見せた。

 しかし、太一は濡れて気持ち悪い感触以上に、河太郎の提案に驚きを隠せない。そっぽを向き、モジモジしていた。

「や、やだよ……はずかしいよ……」

 耳まで真っ赤になって照れる太一であったが、河太郎には太一がなぜ照れているのかは、察しもつかないようだ。キョトンとした表情の河太郎に、太一も折れたのか、誰も居ないことを再度確認すると、太一は服を木に掛けて渇かすことにした。木の葉からは、先程の雨露が時折したたり落ちていた。不意に木々の葉から川に雫が落ちた。涼やかな音色が、静まり返った森の中に響き渡る。

◆◆◆13◆◆◆

 いつしか辺りには川の流れる音、蝉の鳴く声が戻っていた。夕立の後だからであろうか、吹き抜ける風は爽やかな清涼感を運んでくれた。

 ふと隣に目線をやれば、太一の使っていた木の枝を使ってこしらえた簡素な釣り竿を、河太郎は不思議そうに眺めていた。持ち上げてみたり、横から眺めてみたり、時折感嘆の声を洩らしてみせる。

「ほー。人間はこんなもん使って、魚採るだか?」

「ああ。そうだけど」

 河太郎の問い掛けに、太一は何気なく答えた。不意に、何かを思い付いたかの様な河太郎のいたずらっぽい表情に気付き目を上げた。

「あはっ。オイラがおもしれぇ事してやるべ。そのバケツ、しーっかり頭の上で押さえているべ?」

 河太郎は自信に満ちた笑顔で笑いかけると、そのまま川に飛び込んだ。これから何が起こるのかと不思議そうな表情で河原を覗き込めば、突然目の前に元気良くニジマスがピチピチと跳ね上がり、驚かされた。

「うわっ!」

「ちゃんと、構えているべ」

 河太郎に命じられるまま、太一は頭の上にバケツを構えてみせた。足元でピチピチしているニジマスについつい目線を奪われてしまう太一であったが、河太郎の言葉通りにバケツを構えていた。

 河太郎は、何やら川底に手を突っ込んで何かを確かめるような仕草をしている。太一の心に好奇心が満ちあふれるが、河太郎の指示通りしっかりとバケツを構えていようとグッと我慢した。直立したまま、そっと河原に目を向けた太一は信じられないような光景を目の当たりにした。

 手づかみで魚を採っては、投げつける河太郎。しかも、正確に太一のバケツに魚は投げ込まれていたのだ。

 あまりの事に驚き、ポカンとする太一の前に河太郎が得意満面な顔で戻ってきた。

「おまけだべ」

 ポカンと開いた太一の口の中に、隠し持ったニジマスを突っ込んだ。これには、太一も驚いた。

「うえっ! ぺっ! ぺっ!」

「あはははっ!」

「やったなぁっ!」

 頭の上から、素早くバケツを降ろすと、おかしそうにケラケラ笑う河太郎目がけてすかさずニジマスを投げつけた。笑う河太郎の顔面に、投げられたニジマスは見事に直撃した。

「わおっ!」

 思わず互いを睨み付けると、次の瞬間、二人で大笑いした。村中に響きわたるような大声で二人は笑った。

◆◆◆14◆◆◆

 何時しか日も傾き、蝉の鳴き声は蜩の独特の悲哀を感じさせる鳴き声に変わっていた。空を見上げれば真っ赤に燃える太陽が八ヶ岳の向こうに沈んでゆく。

 鳥達も巣に帰る時間なのであろう。カラスの鳴き声が森の中に響き渡る。

 夕暮れの涼しい風が太一の服を揺らす。服も乾いた太一は、そろそろ帰る事を河太郎に告げた。

「そっかぁ。もう、帰っちまうのか……」

 先程までの元気はどこへやら、河太郎は大きな目に涙を蓄えて太一を見つめていた。そのあまりに純真な表情に何かを思う太一は静かに笑うと、河太郎の肩に手を回して見せた。

「また、遊ぼうぜ。オレ達、友達だろ?」

 ハっとし、まるで雷にでも撃たれたかの様な表情で振り返った河太郎の表情は、複雑だった。嬉しさと別れの寂しさと、それから友情の暖かさと。様々な感情が入り乱れ、どうして良いのか判らないと言った表情で向き直った。

 ガシッと太一の手を力強く握ると、テヘヘと笑って見せた。

「あはっ。うんっ! また遊ぶべ。んじゃ、気ぃ付けて帰るべ」

「ああ、じゃあなっ!」

 辺りはすっかり夕暮れである。河太郎も太一も真っ赤に見えるくらい見事な夕焼け空に包まれていた。

 明日の天気も、太一と河太郎の友情も、まるで何もかもお見通しと言いた気な見事な夕焼け空であった。

 停まるところを求めて、右往左往する赤トンボもススキの穂に停まると、静かに羽根を休めていた。

 河太郎に手を振りながら太一は笑った。心の底から笑った。健康この上ない真っ白な歯を

 見せつけるかの様な、純真で無邪気な笑顔で笑って見せた。

◆◆◆15◆◆◆

 田のあぜ道を歩く太一の足取りは実に軽やかだった。

 その手に握られたバケツには、溢れんばかりのニジマス。とんでもない大漁に心も弾むと言うものであろう。

 夕焼け小焼け。その懐かしい旋律を口ずさむ太一であったが、ふとお堂の前で歩を止める。小さな、小さなお堂と呼ぶには、小さすぎるが、お地蔵様を祭った小さなお堂の前。太一が目を付けたのは、供物の饅頭であった。

「お! うまそうな饅頭だな。お地蔵さん、貰ってくぜ。」

 すっかり上機嫌の太一。渇いてしまって、皮までパリリと湿気た感触の饅頭を頬張りながら帰路を歩むのであった。

 だが、すっかり上機嫌の太一を出迎えたのは母の雷であった。

「ただいまぁっ」

「こらっ! 太一、おめ、どこ行ってたずらっ!」

 なかなかに強かな兄であるが、弟はさらに強かであった。

 置き去りにされたのが余程腹が立ったのか、母に告げ口をしたようである。

 まるで鬼女を思わせるかの様な母の形相にはさすがの太一も、思わず震え上がってしまった。

 怖々、手にしたバケツを母の眼前に差し出せば、手に当たる母の鼻息の暖かな感触に、殊更背筋が寒くなる。

「おや? へー。こりゃまた……すごい大漁だね。ひい、ふう、みい……あらあら。数え切れないよ。あはは。今晩はお魚尽くしだね。まぁ、良いわ。さっ、手ぇ洗ってきな。おいしい、おいしい、トウモロコシがね、茹で上がっているよ」

「ホントにっ!?」

 靴を脱ぎ去りドタドタと走り込んでいく太一の背中に母の怒号が叩きつけられた。

「次郎の分まで、食うんじゃないよ……」

「へーい……」

 素早く泥まみれの手を、石鹸でゴシゴシと、まるで掘り出したばかりの芋を洗うかの様な勢いで素早く洗い終えると、台所目がけて弾丸の如く走り込んだ。ドタバタと賑やかな音に何事かと庭のシロが鼻提灯を割らせ、驚き飛び上がる。

「うわっ、あちちっ!」

 ふかしたてのトウモロコシは、指がジンジンするほど熱かった。まだホカホカと盛んに湯気を立てていた。その黄色はこの世の中の全ての黄色よりも、なお鮮やかで、洗練された光彩を放っていた。やや不揃いな粒。だが、一度口に含めばトウモロコシのあの独特の香りが、甘みが口一杯に広がる。

 夏の日差しの中で成長したトウモロコシはヒゲも長く、香りも強かった。そう。トウモロコシの味は田舎の夏のお日様の味。トウモロコシの香りは、田舎の夏のお日様の香り。空気が、水が、大地がきれいだからこそ出来る畑の実り達。

 その夜はまさしく魚づくしであった。

 母と祖母が作り出した、考えられる限りの魚料理に皆が舌鼓を打った。

 太一はさも自慢気に大漁の話をしてみせたが、そのうちの殆どは、河太郎が採ったものだと言うことをすっかり忘れていたようだ。これだけ魚料理が出れば、さしもの太一も、次郎の残り物を啄むだけの腹も無かった様子だ。

◆◆◆16◆◆◆

 夜も更ければ、こおろぎ達が夜半のコンサ−トの支度に大忙しになる。空には、満天の星と、仄白く輝く月が佇んでいた。その幻想的な明るさは、明かりのない田舎ならではのものであった。

「う、うーん……しょんべんしたくなっちった……」

 寝ぼけ眼を擦りながら、太一はむくりと起きあがった。

 半分眠っているのか、太一はおぼつかない足取りで便所に向かっていた。

 便所の電灯には、闇夜の中の薄明かりに群がる蛾がいた。蝶と似た生き物なのに、なぜこれほどまでに蛾は美しさに欠けるのだろうか? そんな事を考えながら、太一は用を足していた。頭は半分寝ているのか、太一は大きなあくびをしてみせた。

「ううっ!」

 思わずブルブルっとする。用を足し終えた太一は、今来たのと同じ様な千鳥足で離れを目指しひょこひょこと歩き出そうとした。

「ふぅー。すっきりした……」

「ばぁっ!」

「!っ……ぎょええっ!」

 便所を出て、離れに向かい歩こうとした矢先であった。

 突然、振り向いた先に顔が浮かんでいたのだから、思わず太一は腰を抜かしそうになってしまった。闇夜にぼうっと浮かび上がる顔……だが、よくよく見れば、その顔はどこかで見たことのある顔であった。

「か、河太郎っ!」

「へへっ。遊びに来たべ」

 可笑しそうに笑う河太郎に向き合いながら、腰を抜かしたまま太一はポリポリと頭を掻いてみせる。寝汗をかいたのか体のあちこちがむず痒い様な、妙な感覚に襲われる。

「遊びに行くって、今は夜中だぜ?」

 一気に目が覚めてしまったのであろうか、太一はさも迷惑そうな顔をしてみせた。

 その露骨な表情に気付かないのか、あるいは気付いていても気付かない振りをしているのか、相変わらず河太郎はヘラヘラと笑ってみせる。太一は思わず大きなため息を就いてみせた。

「良い所、連れていってやるべ。着いてくるだ」

 飄々とした笑顔を浮かべたまま、太一の反応などお構いなしに河太郎はスタスタと歩き出した。

 慌てて起きあがると、太一は尻餅を着いた尻の埃を払った。

 困ったような表情ながらも、好奇心には勝てないのか? 太一は河太郎の後を追いかけることにした。その様子を眺めるのは、何十年も離れを見守ってきた柿の老木と、その枝にひょいと、飛び乗ったフクロウだけであった。

◆◆◆17◆◆◆

 明かりすら差し込まない夜の、田舎道を二人は駆け回っていた。

 ふと何かに気付いた河太郎が歩を止める。見れば、目の前に広がるのは見事な畑であった。たわわに実った野菜達が夏を実感させてくれる。

「おっ、キュウリだべ」

 嬉しそうに笑うと、河太郎は畑の中に抜き足差し足で忍びより、大きなキュウリを一本もぎ取った。

 思わず驚いた太一が、悲鳴にも似た叫びをあげる。

「こらっ。畑ドロボ−するなよっ!」

「細けぇ事さ、気にしちゃダメだべ」

 抗議する太一に対して、河太郎はあくまで飄々とした態度を貫いて見せた。夏の夜空の下で、河太郎がキュウリをかじる、パリリとした鮮明な音が響き渡る。

「おー! このスイカも貰っていくべ?」

 立派なスイカを指さし、殊更嬉しそうに微笑む河太郎であったが、冷ややかに睨み付ける太一に驚いたのか、チェっと、不服そうに、残念そうに舌を打つと再び夜の田舎道を歩き始めた。二人は笑いながら夜の田舎道を歩いた。

 虫の鳴き声も、夜も更けてきたこともあり最高潮に達していた。

 時折、用水路を流れる川のサラサラと言う心地よいリズムの中に大小さまざまなカエル達の見事なコ−ラスが入り乱れていた。

 田の上を飛び回るホタル達の、儚くも美しい光にしばし時を忘れた。

 空は満月。数多の星々をちりばめた夜空は、この世のどんな美しい宝石達も、その輝きを潜めるほどの美しさであった。

 どれくらい歩いたのだろうか? 二人はいつしか高台の土手を歩いていた。

 さすがに、二人とも威勢良く歩きすぎたのか少々疲れた様な表情を浮かべていた。太一が休憩しようと催促する。

「ひゃー。結構歩いたな」

 土手に腰掛ける太一であったが、期待していたような清涼感漂うそよ風どころか、夏特有の湿った暑さに呵まされ閉口していた。ついでに耳元では藪蚊の飛び回る音がする。プ−ン……。近づいたり、遠ざかったり。ピシャリと叩けば、そこには何も見当たらない。やられたと言った表情の太一は、些か忌々し気な表情であった。

「蚊がいるぜ。それもたくさんっ!」

「オイラは蚊に刺されないべ」

 蚊と格闘する太一を見ながらおかしそうに河太郎が笑う。ヘラヘラ笑う河太郎を後目に太一は苦笑してみせる。

「まぁ、河童の血を吸う蚊なんて、聞いた事もないもんな」

 精一杯の皮肉を込めて、勝ち誇った様な笑みを浮かべる太一であったが、河太郎にはそれが皮肉であるのか、どうかはいまいち判っていなかったらしい。折角の皮肉を気付いて貰えずに、太一は何かはぐらかされたかの様な、ちょっと間が抜けたような気分にさせられた。

◆◆◆18◆◆◆

 しばしの休憩の後、二人はさらに歩いた。村を一望できる高台。そこに二人は腰掛け話をしていた。家々の明かりも消え虫とカエルの声だけが響き渡る。辺りを照らし出すのは夜空の月だけであった。柔らかな月明かりに照らし出された、不思議な景色の中、太一の話に河太郎が笑い出す。

「あはぁっ。太一の母ちゃん、おっかねぇべ。」

「だろぉ? すぐ撲つんだぜ。こんな顔してさ、太一っ! ってな?」

 ワザと母の顔を真似て河太郎を笑わせようとする太一であったが、不意に河太郎の表情が曇る。

「オイラの母ちゃんは、もういねぇべ……」

「え?」

 河太郎の突然の、予期せぬ発言に太一は思わず硬直させられた。

「母ちゃんだけじゃね……父ちゃんも、じっちゃんもばっちゃんも……もう、オイラが最後の一人になっちまったべ……」

 河太郎は今にも泣き出しそうな淋しそうな表情を浮かべていた。太一は何を思ったのか、自信に満ちた笑みを浮かべると、河太郎の肩に力強く腕を回した。

「一人じゃねぇよ!」

 河童特有のヒヤリと冷たい感じと、ぬるっとした感触に体中鳥肌が立ったが、それでもなお、その手を離すことはなかった。

 河太郎は一瞬戸惑ったような表情を浮かべていた。だが、太一の優しさに勇気づけられたのか、涙をそっと拭うと、相変わらずの満面の笑顔で応えてみせた。

「あはぁ。そうだべな。太一はオイラの友達だべ」

 嬉しそうに笑う河太郎の鼻先で、指をチチチとやってみせる太一。そうじゃないんだよと言いた気な表情に河太郎はキョトンとしてしまう。

「友達じゃねぇや。へへっ、オレ達は兄弟だべ?」

 太一は精一杯、河太郎の間の抜けた口調を真似してみせた。

「あーっ! オイラの口マネすんなだべっ!」

「ははは、良いだべ?兄弟だべ?」

 太一にからかわれて、プ−っとふくれっ面になって見せるが、次の瞬間、河太郎は豪快に笑い出した。真っ赤になって、照れくさそうにしながら、大粒の涙をボロボロ流しながら。あまりにけたたましい笑いなのでまるで村中の人々を起こしたりはしないだろうかと。

 そして、戸惑った表情の太一の手をガシッと握りしめると涙ながらに、上擦った声で河太郎が精一杯の想いを返した。

「太一。オイラと太一は兄弟だべ」

「ああ、そうさ。」

 にっこり笑う太一の自信に満ちあふれた表情を見ながら満足そうに頷く河太郎。

 河太郎は何かをごそごそと探しているようだ。何を探しているのかと太一が覗き込めば、ササっと隠してみせる河太郎。さも、勿体ぶった様な笑顔で、ニヒヒと笑いながら太一の目の前に差し出されたのは、小さな、古ぼけた手製の笛であった。

「オイラの宝物だべ」

「これは……笛?」

「んだべ。ちーっとばかり不格好だけどな、これでもがんばって作ったんだべ? 折角だから、聴かせてやるべ」

 河太郎が静かに笛を口に当てる。一呼吸、二呼吸。

 そのまま心を落ち着かせ、静かに笛に息を送り込んだ。

 その無骨な外見からは想像も着かないような澄んだ音色が、清らかな流れの様な一点の曇りもない旋律が村中に広がってゆく。

 吹き抜ける風の様な透き通った音色であった。どこか懐かしく、温かみを帯びた不思議な音色であった。柔らかな笛の音は夜の村を駆け抜けた。

 刹那……眠りに就いた木々が目を覚まし、鼻ちょうちんを作っていたフクロウが慌てる。風が木々の間を吹き抜ければ、静かに木々がそれに応える。夜半の景色の中で、木々達はざわざわと、その葉を揺らしてみせた。

 森の中の動物達は、やれお祭りだと騒ぎ出す。田の上を舞うホタルの群は、もはや幻想曲としか形容の仕様が無い程までに明るく、鮮やかに舞った。月明かりの中、再びあの汽車が走り出した。田の上を、まるで空を飛ぶ鳥のように滑らかな動きで汽車が駆け抜けてゆく。汽笛を上げる汽車の中には、やはり乗客はいなかった。

 月を被っていた雲が晴れ始めたのを合図に、河太郎はそっと笛から口を離した。

「……」

 ただただ驚き、半ば放心状態に陥っている太一に、河太郎は向き直った。

「お粗末様だべ」

 ペコリとおじぎをすれば、慌てて我に返った太一も仰々しくおじぎをしてみせる。

「すげぇ……すげぇやっ!」

 思わず河太郎の手を握りしめてはしゃぎだす太一。

「なっ……なんだべっ!?」

「おめぇ、天才だなっ!」

 未だ興奮醒めやらぬと言った表情の太一。ただただ嬉しさと、驚きのあまり顔が紅潮してしまう。そんな、太一の純粋な喜びに河太郎も真っ赤になってしまう。

「そんな、褒められたらオイラ、困っちゃうべ……」

 しかし、その表情はまんざらでもなさそうだ。

 何を思うか、太一はしばし何かを思案していた。おもむろにポケットをごそごそと模索しながら何かを探していた。

「へへっ。オレは……笛は吹けないけど、こいつぁ強いぜ?」

 太一は、まるで旅の行商人が品物を勿体ぶらせて説明するかの様に振舞ってみせた。わざと勿体ぶらせて河太郎の注意を引きつける。興味津々に覗き込む河太郎の表情に、太一は思わず吹き出した。

 太一はポケットの中から一枚のメンコを取りだして見せた。

「へへっ、無敵の強さ。オレはこいつを『神風』と呼ぶけどな」

 赤と黄で彩られた、大きなメンコに河太郎が感嘆の吐息を洩らす。

「ほえぇ……かっこいいべ」

 河太郎の羨ましそうな表情に、鼻の穴まで大きくして仏頂面の太一。ニヤリと笑うと河太郎の鼻先に突き付けた。

「そうだろ、そうだろ? これはオレの宝物だ」

 怯むことなくにっこり笑う河太郎は、先程の笛を両手に乗せて太一の前に差し出してみせた。それが何を意味するのか介する事が出来ず、太一はきょとんとしていた。

「兄弟になった記念に、これやるべ」

 事も無げにさらりと言ってのける河太郎の言葉に、思わず嬉しそうに手を差し出す太一で

 あったが、ふとそれが河太郎の宝物であることを思い出し、慌てて我に返った。

「いいのかっ? それは、お前の宝物なんだろ?」

「太一は兄弟だから、特別だべ」

 河太郎の無邪気な笑顔に何を思ったのか太一は力強く微笑むと、それを受け取った。

「んじゃ、オレは神風をやるぜ」

「わぁっ! 嬉しいべ。大切にするべー」

 神風を両手に抱えて、河太郎は嬉しそうに笑ってみせた。はしゃぎながらくるくる回り出すと、ふと何を思ったのか、頭の皿に神風を乗せてみせる。

「ぷっ! 何だよそれ?」

「かっこいいべ?」

 わざわざ片目をつむってポ−ズまで決めてみせる河太郎に、思わず太一が笑い転げてしまう。

「かっこ悪りぃーっ!」

「あー! 言ったべなっ! 待つべっ!」

「やーだよーん」

 豪快に笑いながら二人は山を駆け下りて行った。二人を見守るのは、静かな夜の森と、柔らかく照らす夜半の月だけであった。

 そして明くる日の朝、大変な事実が太一を待っていたのだ……

◆◆◆19◆◆◆

 その日の朝、太一の家族はラジオ放送に食い入る様に耳を傾けていた。その表情は、酷く険しく、深刻なものであった。

『……超大型で強い勢力を保ったまま、台風13号は依然、北上を続け今日の正午あたりには、山梨県は暴風域に入るでしょう。次の気象情報は……』

 険しい表情の父が、話を切りだした。

「母ちゃん、こいつぁ、やべぇぜ……」

「ああ。この家もボロだしねぇ。困ったもんだねぇ」

 かっぽう着の裾を弄びながら魂も抜けたような口調で話す母に、思わず父が苛立った口調で反論する。

「……ボロで悪かったな。」

「それよりも、あたしゃ作物が心配だよ。農家に取って作物は命だからね……ああ、一体どうなるんだろうねぇ……」

 重く沈んだ空気を打ち破るかの様に父の威勢の良いドラ声が響きわたった。

「おうっ、太一、次郎。とんかちとクギ持ってこいっ!」

 空はどんよりと曇り、奇妙なまでの静けさが辺りを包み込んでいた。時折吹き抜ける風が木の葉を揺らす。まさしく嵐の前の静けさとでも言うのであろうか? 張りつめた空気と重々しい気配がそこかしこから感じられた。

 トンカントンカン。木板で窓を守る太一。古式な手段ではあるが有用な手である事は間違いない。

「兄ちゃんっ!」

 次郎が玄関から、ひょいと顔を出しながら呼ぶ。

「家に入れってよ!」

「ああ、わかったっ!」

 再びラジオに噛みつきそうな表情で耳を傾ける太一の家族。

『山梨県全域には現在、大雨洪水暴風雷警報が出ております。河川の反乱には十分な警戒をしてください……』

「なんだか大変な事になってきたねぇ」

 心配そうな表情の母は、何時に無く落ち着きが無かった。

「兄ちゃん、家がギシギシ言っているよ」

「ああ。こりゃあ、相当でかいのが来そうだな……」

 いよいよ風も強まってきたのか。雨戸に叩きつけるように降り付ける大雨に、家族も

 焦りを隠しきれない。どこか遠くで雷が鳴っている。静かに聞こえてくるゴロゴロと唸るような低い音。

 そして、夜半過ぎ台風の接近はピ−クになっていた。

 横殴りの大雨に、強烈な風。空は唸り、風が泣く。もはや一歩の外に出ることは不可能なまでの、途方もない大雨に、いよいよ川の水は増水し氾濫していた。

 土砂を孕んだ洪水は、田も、畑も何もかも呑み込んでいた。

 ピシャっ! どこかで落雷したのであろうか、凄まじい轟音が響き渡った。高木が引き裂かれ倒れる音が聞こえてきた。

「に、兄ちゃん! 怖いよぉっ!」

「だ、大丈夫だっ!」

 布団に頭からすっぽりくるまりながら、太一と次郎はただ震えるばかりであった。

◆◆◆20◆◆◆

 悪夢の様な台風の夜も、時が過ぎ一夜明けた。

 ふと目を覚ませば、雨戸の隙間から陽が差し込む。外からは小鳥達のさえずりが聞こえてくる。

 よほど長い間、陽を浴びていたのか、光の当たった部分がチリチリと痛む。

 半分寝ている目を擦りながら雨戸を開き、太一は外の様子を覗き込んだ。昨日の台風が

 ウソの様な清々しい青空と澄んだ空気に伸びをする太一。

「おおっ。良い天気だぜ……って、な、なんだこりゃっ!?」

 その晴れ晴れした天気とは裏腹に、小鳥達のさえずる平和な天気とは裏腹に、外は無惨な姿をさらけ出していた。

 稲は倒れ、畑は泥の固まりに。河原には数多の木の枝が流れ着いていて、辺りは一面土砂と無残に流された作物で埋め尽くされていた。

 地面は落ちた葉で被われ、そこかしこに水たまりが出来ていた。

 その無惨な光景は昨晩の台風の規模を物語る。

 村の至る所から、嘆きとも取れる悲痛な叫びが聞こえてくる。

「こりゃあ酷いな……」

 表に出た父が、力無く言葉を放つ。

「のんきな事言っている場合じゃないずらっ!」

 泣きそうな表情で、父に食ってかかる母。

「じゃあ、どうしろって言うだっ!?」

「やめろよっ、父ちゃんも、母ちゃんもっ!……あ。笛の音……」

 言い争いを始める父と母を止めようとする太一の耳に聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。

 何処からともなく聞こえてくる、美しい笛の音に太一の両親も、思わず我を忘れ聞き入ってしまう。

「大変だべな」

「河太郎っ!」

 不意に背後で声がした方を見れば、相変わらず飄々とした笑顔を浮かべる河太郎の姿があった。

「ひぃっ! か、河童っ!」

 河童を目にし思わず腰を抜かしてしまう父と母。突然現れた来訪者に、思わずガタガタ震えながら抱き合ってしまう。

「太一、困ってるべ?」

 いたずらっぽく笑う河太郎に、深刻な表情で太一が応える。

「……ああ、とってもな。」

 座っていた流木から、飛び降りると河太郎は自信に満ちた笑顔で太一に向き直ってみせる。

「兄弟が困っているなら、オイラが助けてやるべ。へへっ、昨日の台風で、力一杯蓄えたべ。そーれ、恵みの雨よ、降るべっ!」

 天に向けて掌を高々と向け叫ぶ河太郎。その叫びに呼応するが如く、空からは静かに雨が降り始めた。

 次の瞬間太一は信じられない光景を目にした。

 倒れかかっていた稲が、畑に倒れかかるようになっていた作物が、次々と起きあがっていたのだ。

「ええーっ!?」

 驚きの余りあごが外れそうになる太一。

「あはっ。どうだべ? すごいだべ?」

「河太郎、お前……すげぇよっ! はははっ!」

 自慢気に太一に微笑みかける河太郎に太一はもう、ただただ喜ぶ事しか出き得なかった。

「ありがたや……」

 思わず河太郎を拝んでしまう太一の両親。一瞬戸惑ったように頭を掻きながら河太郎が返す。

「そったら事されても、オイラ困るべ。そったら事すんより、キュウリくれだべ?」

 無邪気な笑顔で河太郎に返されて、思わず地面に顔を突っ込んでしまう太一の両親達。

 そして河太郎の事は村中に広まり、村を救った英雄河太郎の為に祭りが催される事になった。

◆◆◆21◆◆◆

 それから数日後、夏恒例の盆踊りに縁日が催された。

 その中には太一と河太郎の姿もあった。

 ピーピーヒャララ、ピーヒャララー軽快な笛の音が鳴り響く。ドンドンドンドン太鼓の音が響きわたる。夜半のお祭りは賑わいを見せていた。

 その踊りの輪の中にはすっかり人気者の河太郎の姿もあった。

「ひゃー。にぎやかだべ」

 踊りの輪を抜けて、河太郎は太一と共に祭りを見て回っていた。

 河太郎には、こんなに大勢の人の群がとても珍しく感じられたのであろうか、終始はしゃぎっぱなしであった。

「あっ。おっちゃん、これくれだべ」

「はいよっ」

 河太郎はあんず飴をうまそうに食べて見せた。

 水飴の甘さと中のあんずの酸っぱさに、河太郎は目を丸くして喜んでいた。

「うーん、甘いべ」

 そんな河太郎を見ながら、太一は嬉しそうに笑っていた。

 賑やかな神社の縁日から離れ、二人は本堂へと向かう長い、長い石段を登っていた。途中の石段で、少し疲れた二人はしばしの休憩をすることにした。

「ひゃー。こったらたくさんの人間見たの、オイラ初めてだべ」

 少々はしゃぎ疲れたのか、河太郎が一息着く。

「だろうな。すっかり人気者になっちまったもんな」

 さも自分が人気者になったかの様に嬉しそうに笑う太一。

 神社の木々の隙間から見える空は、雲一つないお天気。

 夏らしい蒸し暑さの中、蚊と格闘する太一。虫の鳴く声と祭りのお囃子の音と人々のざわめきだけが暗闇に響きわたる。長閑な光景の中で二人は休息を過ごしていた。

「……それにしても、おめぇ、食ったよな」

 パンパンの河太郎の、妊婦を思わせるような腹を見ながら太一が苦笑してみせる。

「オイラ、お腹いっぱいだべ」

 満足そうに笑う河太郎の無邪気な瞳を見つめる太一。じっと見つめられたのが照れくさかったのか、河太郎は思わず目を反らした。そんな河太郎の表情を見つめたまま、太一は急に真剣な顔つきで向き直った。

「それにしても、お前のおかげで本当に救われたよ。オレだけじゃねぇ。村中みんなが救われた。だからさ……村を代表して感謝するぜ。本当に、ありがとうな」

「あははぁ。オイラ、照れるだよ」

 照れて、困った様な笑みを浮かべる河太郎。

「おっ、河童ちゃん。こんな所にいたのかい?」

「オレ達とも遊ぼうぜ!」

 村の若い連中だ。酒が入っているのか嫌に上機嫌である。

「せーのっ!」

「うひゃーっ!」

 河太郎をひょいと担ぎ上げると、威勢の良い笑い声をあげながら石段を下っていった。

「おーい! 待ってくれよぉーっ!」

 その後を、太一は慌てて追いかけた。

 賑やかな踊りの輪の中で、河太郎は実に楽しそうに踊っていた。

 それまで、ずっと孤独な時を過ごしてきた河太郎にはこれだけ大勢の人に囲まれるのは、実に久方ぶりで、そして、また何よりも楽しかったことだろう。

 踊りの中、頭の皿に水と間違えて焼酎をかけてしまい、あわやパニックになりかけたが、祭りは無事に終わった。

◆◆◆22◆◆◆

 やっとこさ台風の被害も消えかかってきたが、またもや大問題が村を襲った。

 なんと、今度はまったく雨が降らないと言う異例の事態が起きてしまったのだ。その上、台風が過ぎると同時に訪れた暑さは、例年、類を見ないほどの暑さであった。この暑さと、日照りに村はすっかり混乱していた。

 ミ−ンミ−ン。蝉の鳴く声が暑さを一層倍増させているようにさえ思えた。

「うぅーっ。暑い……」

 あまりの暑さに、体中の力が抜けてしまう太一。

「ほれ。太一、しっかりおし」

「母ちゃんだって、足下ふらついているぜ」

「いやだよ。かげろうが見える暑さだよ……」

 麦わら帽子も、もはや殆ど気休めにしか成らなかった。辺り一面途方もない暑さに包まれていた。

「この暑さじゃ、収穫の前に、みんなやられちまうずら……」

 深刻そうな表情の父であったが、暑さですっかり参ってしまっているような表情が見え隠れする。

「あんた、どうするよ……」

「お天道様にお願いするしかねぇべや……」

「太一、日陰で休んでな。このままじゃ日射病になっちまうよ」

 太一を気遣う母。額の汗を手ぬぐいで拭いながら気丈に微笑んでみせる。太一は、まだ手伝えると言おうと思った。しかし、母の心意気を無駄にしないためにも、万が一、母が暑さに耐えられなくなった時に、すぐにでも交代できるように次郎の休むことにした。

 ふらつく足取りで、太一は木陰を目指して歩き出した。

「ほれ、おにぎりだ。次郎と一緒にお昼にしな。」

 母の手から、笹包みのおにぎりを受け取った。

 歯を食いしばりながら、流れるままの汗を拭うこともなく、太一はひたすら歩いた。一歩一歩、踏みしめるように。

 木陰で過ごす弟との昼食。ふと次郎が洩らす。

「兄ちゃん、冷たいスイカが食べたいね……」

「ああ、そうだな」

 しばしの沈黙の後、おにぎりをかじりながら次郎が向き直る。何か言いたかった事を思いだしたかの様な表情で太一を、じっと見つめていた。

「それにしても毎日暑いよね……河童の兄ちゃん、元気かな?」

 ハっとなる太一。思わず手にしたおにぎりを落としそうになってしまった。

 そうさ……この暑さなんだ。河太郎は水が無くては生きられない河童。この暑さで人間以上に、参ってしまっているのではないだろうか?

 急に不安になった太一は、突然立ち上がると、わき目もふらずに走り出した。

「あっ、兄ちゃんっ!」

◆◆◆23◆◆◆

 河太郎っ、無事でいてくれよっ!

 想いを胸に太一は走った。ひたすら走った。

 森を抜け、山を走り、もう少し、あの河太郎と出会ったあの場所までもう少しと言うところで、突然目の前が暗くなった。意識が遠のきひざからガクリと崩れ落ち、その後は覚えていない……

「う、うーん……」

「あはっ、起きたべ」

 気が付いた時には、どうやら木陰に横たわっている事は判った。そして、目の前には心配そうに覗き込む河太郎の表情があった。

「河太郎っ! 無事かっ!? 生きているかっ!?」

 突然ガバッと起きあがると、太一は河太郎の肩を揺さぶってみせた。

 おかしそうに笑うと、河太郎は太一のひたいをコツンとやってみせた。

「なーに、言うてんだべ? そりゃオイラのセリフだべ。森で倒れているの見たときには、思いっきりびっくりしたべ」

 次郎が河太郎の話題にふれ、慌てて走り出して、この場所にやってきた事。そして途中で意識が途絶えたことを思い出し、太一は照れくさそうに笑ってみせた。

「オレ、おめぇの事が心配で……」

「あはっ。太一はやっぱり良い奴だべなぁ」

 嬉しそうに笑う河太郎に、思わず真っ赤になる太一。

「んだども、こったら暑い日に全力疾走したら命が危ないべ? 自分の心配もしなくちゃダメだべ。あはは」

 森の入り口まで河太郎に付き添われながら、太一は見送られた。河太郎の無事を知り、一安心のその足で家を目指す太一であった。

 その日の夕暮れの空は今まで見たどんな夕焼けよりも赤かった。萌え上がる様な赤さでは無かった。酷く、不安な気持ちを掻き立てられる異様な赤さであった……。

◆◆◆24◆◆◆

 やっとこさ家に帰ってきた太一であるが、なにやら家の中から奇妙な声が聞こえてくる。怪訝そうな表情を浮かべたまま、太一は靴を脱いで家に上がった。

「何か賑やかだなぁ……っ!?」

「雨々降れ々れ早く降れーっ……はいっ!」

「雨々降れ々れ早く降れーっ!」

 視界に飛び込んできた光景に、太一は思わず硬直させられた。ばあちゃんを筆頭とし、

 家族総出で雨乞いの儀式(らしい事)をしていた(らしい)

 太一が目に入ったのか、ばあちゃんがしきりに太一を呼ぶ。

 ひきつった笑みで返す太一。何とか逃げようと試みたが無駄に終わったようだ。眼鏡の奥でばあちゃんの瞳が怪しく輝く。仕方なく加わる太一であった。

「雨々降れ々れ早く降れーっ……はいっ!」

「雨々降れ々れ早く降れーっ!」

 そんなこんなで夕食時、家族は再びテレビに夢中になる。

「あんれまぁ……」

 思わず素っ頓狂な声をあげる、ばあちゃんの声が響き渡る。

 天気予報はむなしくも一面の晴れマ−ク。これには驚きを隠しきれない。逃げ様のない恐怖に立ち塞がれた感覚に包まれた。先の見えない未来への不安に、一家揃って大きなため息が毀れる。

 そんなこんなでさらに数日後。

 一行に天気は良くなる……いや、悪くなる気配は見られなかった。

 空には恨めしくも燦然と輝く太陽があった。雲は全く見られない。

 恐ろしいまでの快晴に、村人達の恨みと憎しみの声は届かないようだ。

「大変だべーっ!」

 慌てて走り込んでくるのは、近所のおじさんであった。その表情から察するに、どうやらただ事では無い様だ。

「どうしただ? そったら慌てて」

 太一の父が声を掛ければ、息も絶え絶えになりながら近所のおじさんが返す。

「い、井戸が……」

「なんだってっ!?」

 村外れにひっそりと佇む井戸は野菜を洗ったりするのに昔は使われていたらしいが、今は専ら日照りの度合いを調べるのに使われている。

「水が……」

「……それだけじゃねぇ。田の水も枯れ始めただよ」

「そんなばかなっ!? この辺は未だ無事……」

 言いかけて、ハッと息を飲む父であった。

 良く見れば、用水路を流れる水の水位は、普段の水位よりも明らかに、いや目に見えてはっきりと低くなっているのは誰の目にも明らかであった。

 長い間続いた日照りは、いよいよ川の水をも奪い取ろうとしているのか。

「神様はオレ達を見捨てるのか……」

 呪いにも似た、太一の父が吐き捨てた一言。

 空を仰ぎながら、怒りの表情を見せるが、無情にも空には雲一つ見受けられはしなかった。

 いつしか、騒ぎを聞きつけた村人達が集まってきた。辺りには無情にも蝉達の威勢の良い鳴き声が響いていた。

「もう一度だけ……台風が来てくれれば……」

「ああ、川も元に戻る……」

「だども、そんな都合良くいく訳があるめぇ……」

 口々に、腹の底に溜まった想いを、吐き捨てるかの様に口に出す村人達。辺りには重苦しい空気が立ちこめる。

「そうだ、太一。あの河童に頼んでくれよっ!」

「なっ!?」

 成り行きを見守っていた太一であったが、不意に耳に入ってきた信じがたい一言に体中の毛が逆立つような、寒気に襲われた。

「で、できねぇよ。あいつだって、この暑さでへたばってるんだ……」

 受け入れるつもりは無いと、そっぽを向く太一。しかし、一度発せられた言葉は、藁にもすがる想いの村人達を無情にも動かしてしまった。

「村の……村中の命が掛かっているんだぞっ!」

「太一、頼むよっ!」

 詰め寄る村人達に、太一は戸惑いを隠し切れなかった。

 頼みの父に救いを求め、太一は視線を送るが、父は強張った表情のままそっぽを向いてしまった。そのあまりに、歪んだ現実に太一が怒りを燃やす。

「……村の為になら……河太郎が、河太郎が死んでも良いって言うのかよっ!?」

 怒りで身を震わす太一の頬を涙が伝った。

 大勢の命を救うために誰かが命を投げ出す。そんな偽りの幸せがあると言うのか? 太一には……幼い太一には大人達の考えは解せなかった。それも正しいのかも知れない。それは正しいのかも知れない。しかし、太一には首を縦に振るだけの強さは無かった。ただただ、今は涙ながらに抗議すること。それしか出来なかった。

「大勢の命には代えられねぇべ……きっと喜んで犠牲になってくれるだよ……」

「え?」

 耳に入ってきた、あまりにも驚愕の言葉に、太一は頭から冷水を浴びせかけられたかの様な表情を浮かべていた。頭を振って、今、耳に入ってきた言葉をかき消そうと必死になってもがく。だが、それは否応もない事実であった。皆、口々に今の言葉を聞き入れようとしている。

「……う……う……うわあああぁぁぁぁっ!」

 泣きながら太一は走った。ひたすら走った。

「そんな……そんなバカな事ってあるかよ……あいつだって……あいつだってっ! 生きているんだっ! 笑うんだっ! 泣くんだっ! ちゃんと命があるんだ!……それなのに……なんで……なんでだよぉっ!」

 泣きながら、叫びながら、ありったけの声を張り上げて、怒りの、憎しみの言葉を、嘆きの想いを見えない誰かにぶつけながら、太一はひたすら走った。

◆◆◆25◆◆◆

「河太郎っ!」

 あの懐かしい出逢いの場所。そこに河太郎はいた。しかし、その表情は暑さからだろうか、疲れ切っていた。あの飄々とした無邪気な笑顔はそこにはなかった。

 力無く笑う河太郎は、太一の知っている河太郎とはあまりにもかけ離れていた。太一は、一瞬それが河太郎であることに気付かなかった。

「……はぁはぁ。おお。太一、良く来ただな……」

 苦しそうに起きあがりながらも、親友の訪問を喜ぶ河太郎。てへへと、苦しそうに笑ってみせる。

「へへへ……こう暑いと、やってられねぇべ……」

 その笑顔を見た途端、堪えていたもの、抑えていたもの。

 全ての感情が、決壊した川の流れの様に溢れてきた。こみ上げてくる想いに、太一はただただ身を任せていた。

「……う……う……うわああああーーーんっ!」

 河太郎に抱きつくと、太一はただただ泣きじゃくった。よしよしと太一の頭を撫でる河太郎。太一の目からは涙が溢れて止まらなかった。太一はただ、泣き崩れる事しか出来なかった。

「……太一、どうしただ? 誰かにいじめられただか?」

「そうじゃねっ! そうじゃねぇけど……うわああああぁっ!」

 河太郎の問い掛けに応えることも出来ない程、太一は激しく涙を流し、泣き続けた。

 不意に河太郎の手が、頭から肩に移る。

 太一を自分の前に立たせると、太一の顔をじっと見つめながら、しっかりとした口調で河太郎が話し出した。

「太一。泣いちゃダメだべ。これは……別れじゃないべ?」

 はっ!っとする太一。まさか、さっきの話聞いていたのか? 何故……何故、河太郎は死を覚悟している? 河太郎は太一の顔を忘れない様にじっくりとその目に焼き付けようとしていた。そして太一にも自らの表情を忘れない様に、自信に満ちた優しい笑顔で向き合っていた。

 太一は直感的に悟った。河太郎は……死ぬつもりだと……。

 呆然と立ちつくす太一の肩をポンポンと叩くと太一を力強く抱きしめた。それが別れの言葉の代わりであるかの様に。そのまま太一を立たせると、河太郎は歩き出した。

「おい。どこへ……」

「みんな困っているだ? オイラが助けてやるだよ」

◆◆◆26◆◆◆

 河太郎は変わることの無い無邪気な笑みを浮かべていた。涙が溢れて止まらない太一は河太郎にしがみついた。その場からもう歩くことが出来ないように、しっかりとしがみついた。

 にっこりと笑うと、河太郎は太一を座らせた。そして自分もその前に、そっと腰掛けた。

「太一。オイラ、おめに逢えて嬉しかっただ。オイラの最初で最後のトモダチだ。へへっ、オイラは死なね……ずっと、ずっと、おめと一緒だぁ。だから、泣いちゃダメだべ?」

 太一の涙を拭ってやると、河太郎が笑った。

「ほーれ、みんな来ただよ。」

「っ!!」

「良く来ただね。待っているだ。オイラが助けてやるべ」

 止めたところで無駄な事は判っていた。

 それでも、納得行かない現実に少しでも、ほんの少しでも報いてやろうと、太一は涙を拭くと河太郎の前に立った。まるでケンカでもする様な凄みのきいた表情で。

「……河太郎、約束だ」

 河太郎の水掻きの付いた手は、ぬるぬるして握りづらく苦戦したが、太一は河太郎と指切りした。

「男と男の約束だ。死んだら許さねぇぞ……絶対、許さねぇからなっ!」

 真剣な表情の太一とは裏腹に、河太郎は相変わらず飄々とした笑顔で応えて見せた。

「あはっ。オイラは死なね。んじゃ、ちょっくら行ってくるべ。」

◆◆◆27◆◆◆

 荒涼とした景色の広がる田と畑の前に立つ河太郎。

 用水路の水はもはや枯れはじめ、暑さにやられた作物達はみな、あらぬ方向に曲がっていた。

「……雨よ……降れっ!」

 河太郎が叫ぶ……。

「雨よっ! 降れっ!」

 再び河太郎が叫ぶ。

「何も起きないだよ……」

「やはりダメなのか?」

 絶望とも取れる村人達の言葉を耳にしながらも、河太郎は決して手をゆるめなかった。

 刹那……。

「おっ!?」

 ポツリ、ポツリと、微かではあるが雨が降り始めた。

「な、なんと!?」

「雨よっ! 降れっ!」

 河太郎の叫びに応じ、空にはどんよりと厚い雨雲が立ち込め始めた。

「雨よっ! 降れっ!」

 河太郎の声に呼応するかの様に、次第に雨足は強くなってきた。何時しか空はすっかり暗雲に覆われていた。

「……はぁ、はぁ……雨よっ! 降れっ!」

 肩で苦し気に息をする河太郎に、太一が焦る。しかし、太一は確信していたのだ。約束はしたのだと。

 だが、雨足が強まるに連れて、河太郎の呼吸は浅く、回数も増えていった。次第に弱まる声。震える足で必死に地面を踏みしめていた。

「奇蹟だ……」

「村が救われるっ!」

 手に手を取り合い喜ぶ村人達。

「……うっ……雨よっ、降れーーっ!」

 河太郎の最後の叫びと同時に、雨は土砂降りとなり渇いた大地に恵みをもたらした。

 村人達が歓喜の悲鳴を挙げる中、河太郎は大きくため息を就くと、その場に崩れ落ちた。

「か、河太郎っ!」

 喜ぶ村人達を突き飛ばすと、太一は慌てて河太郎に駆け寄った。

「ばかやろーっ! 約束守れよーっ!」

 河太郎の瞳にもはや光は見えていなかった。濁った瞳は、死んだ魚の様な鈍い光彩を

 放っていた。どうやら、もう目も見えなくなって来たようだ。あらぬ方向を見つめながら力無く話す河太郎。

「……あはっ……すまねぇな。オイラ太一との約束……守れなかったべ……ははは……太一、元気でな……それから……強く……強く、生きる……べ?」

 最後の力を振り絞って、河太郎は太一に微笑みかけた。次の瞬間、その首ががくりと落ちた。

「……河太郎?……ははは、冗談だろ? ははっ……笑えねぇよ。そういう冗談。つまんねぇよ……く、くだらねぇよ……早く起きろよ……ははは、もう、お芝居はさ、良いんだぜ? 起きろよ……バ−って起きろよっ! 起きて、あいつらをビビらせてやろうぜっ!……起きろよ……起きてくれよ……う……うわあああああーーーっ! そんなのって……そんなのってっ!あんまりだああああっ!」

 誰も太一を責めることは出来なかった。太一の背中は、あまりにも悲しくて、皆自分達の罪を忘れることは出来無かった。生きるためとはいえ、あまりにも惨く、残酷な仕打ちであったことは、判っていたのだ。

◆◆◆28◆◆◆

 河太郎は、最後まで泣き言一つ言わなかった。

 独りぼっちだった河太郎。最後まで強く生きた河太郎。そして、見事に死んでいった河太郎。

 太一は彼の生き様を無駄にしないように、怒りを押し殺した。

 太一の心を示すかの様に雨は降り続いた。雨? いや、河太郎の……太一の……涙なのかもしれない……。そして、雨は止むことなく降り続いた……

◆◆◆29◆◆◆

「……さ、太一。お別れするだ?」

 田舎、山梨では土葬の習慣がある。人が死ぬと棺におさめられ土に埋められる。土に還り再び生まれ変わる。そう信じられているのだろうか? 最期に死者の顔を見て、お別れするのである。

 棺の中の河太郎は、やけに小さく、ひよこの様に鮮やかな黄色だったくちばしは、腐った葡萄の様にどす黒く、寒天の様に柔らかかった頬は、まるで石ころの様にカチカチに固まって、いやがおうにも太一に「死」を実感させた。

 力無く歩く太一の脳裏に思い出が過ぎる……



『うわぁっ! お助けっ!』

『何もおめぇを食おうなんて、言ってないべ』

『へっ!?』

『あはは、オイラ河太郎。おめは?』

『お……オレは、太一……』

『太一かぁ? あはぁ、よろしくだべっ!』



 吹き抜ける風は、冷たく、まるで木枯らしであった……

『何だよ、お願いって?』

『……あ、あのな、オイラと友達になって欲しいんだ……』

『へっ!? あははははっ!』



 独りぼっちだった河太郎。どんな想いで逝ったのだろうか?……もう一度、あの笑顔を見たいと願っていた。

『そっかぁ、帰っちまうのか……』

『また遊ぼうぜ? 友達だろ?』



 あの飄々とした笑顔。時折見せる寂し気な表情。太一には判っていたのだ。河太郎の想いは総て……。

『おっ!? キュウリだべ!』

『こら、畑ドロボ−するなよっ!』

『細けぇ事気にしちゃダメだべ?』

 次々と思い出が蘇る。いつしか、太一の頬を静かに涙が伝う。一粒、また一粒。地面に落ちては土に染みこんでいく涙。

「さぁ、埋めるぞ……」

「キュウリ供えてやるからな」

 その様子をぼうっと見ていた太一。

 不意に我に返ると慌てて、棺を埋めようとしていた父を突き飛ばした。涙を流しながら、太一が叫ぶ。

「な、何しているんだよっ! そんな事したら河太郎が出て来れねぇじゃねぇかよっ!

 なぁ、河太郎、こいつら頭おかしいぜっ! お前が死んだなんて言うんだぜっ! おっかしいよなっ! あははははははっ!」

 太一は狂ったように笑い、そして泣いた。

「あはは……ばかやろう! 一人にしないでくれよーっ!」

◆◆◆30◆◆◆

 そして今、東京の中心。大都会……木々は銀色のビルに姿を変え、川の流れは車の流れに、人々のざわめきと忙しい時の流れ。何もかもが故郷の風景とは異なっていた。

「ふぃーっ。疲れたぜ……」

 額の汗を拭おうと、ポケットをまさぐるがハンカチが見当たらない。仕方なくシャツの袖で汗を拭う。

「おーい。太一っ!」

「はいはいっ。お呼び出しですかー?」

 しかめっ面をしてみせる太一。さも嬉しそうな表情を作りながらも、内心嫌々ながらに走り出す。

「へいへーい、今行きますよー」

 頭を掻きながら走る太一の耳に聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。

 澄んだ音色、暖かな笛の音……。

「この……笛の音は……」

 呆然とし、思わず手にした書類を落とす太一。

「おいっ、太一? どうしたんだよ?」

 同僚に肩をポンと叩かれて、太一は慌てて我に返った。

「……後のことよろしくな」

 にっこり笑って、戸惑う同僚の肩を叩く太一。

「あっ、おいっ! 太一っ!」

 不意にはめられた事に気付いた同僚が抗議の叫びをあげるが、太一は手を振りながら走り去って行った。

「課長ーっ!」

「おお、来たか! この仕事を……」

 説明し出す課長の目の前に、太一は鋭く手を突き出してみせた。怪訝そうな表情の課長に、微笑み掛けると、そのまま勢い良く言葉を放った。

「休暇下さいっ!」

「へっ!?」

「明日一日で良いですから」

「あ、いや……ちょっと落ち着きたまえ。あのな……」

「いいっすよね? いいっすね! はーい、決定ーっ! それじゃ、また明後日、お逢いしましょうー、それでは御機嫌ようっ!」

 何が何だか、状況を掴むことが出来ない課長が戸惑う。

「お……おいっ、太一っ!……一体何がどうなっているんだ? こらーっ!」

◆◆◆31◆◆◆

 ガタンガタン。田舎の列車はひどく揺れる。

 しかし、この揺れが昔ながらで良いと言う人もいる。

「へへっ、課長。スマンっす。土産、買ってくから堪忍したってくださいっ!」

 昨日の課長の困った様な、戸惑ったような表情を思いだし、吹き出しそうになる太一であった。

 その時、丁度車内アナウンスが流れてきた。

「まもなく甲斐大泉ー。甲斐大泉ー。お降りの方は、お忘れ物をなさらないように。ええ、まもなく到着いたします……」

 いよいよか……荷物をまとめると、太一は忘れ物が無いかを確認した。席を立とうとして、

 売店で買った茶の残りを忘れそうになり、慌てて引き返す。

「おおっとっ! 忘れ物、忘れ物っと」

 金属の軋む音。擦れて鳴く音が響き渡る。

 やがて列車が駅に着けば、静かに列車の扉がひらく。ひんやりと心地よい風が扉から吹き込む。東京と比べて気温の低い田舎の空気。涼しい風に、懐かしい思い出が、次々と蘇る。

 太一は列車を降り、駅の改札を抜けた。そっと空を仰ぎながら呟いてみせた。

「変わってねぇな……駅もピカピカにきれいになっちまったし、街も整備されちまったけど、何も変わっちゃいねぇよ。へへっ!」

 古ぼけた笛を手にする太一の頬を涙が伝った。

「へへっ、帰ってきたぜ……河太郎……」

 太陽の日差しが強く、眩しい。思わず目を細める太一。

「さぁーって、今日は遊ぶぞーっ! ひゃっほうーっ!」

                          おしまい