第1話『菜の花の約束』

◆◆◆1◆◆◆

 はじまりは雨の降る街でした。シトシトと降り続ける雨に……抱かれるように君に出逢いました。まさか、それが「始まり」になろうとは、あの時のぼくらには気付く由もありませんでした……

◆◆◆2◆◆◆

 不意に空が暗くなったかと思うと、降り出した雨に道行く人々は頭を抱え、逃げるように慌てて走って行く。

 春の天気は判りにくい。秋の気まぐれな空模様と比べれば格段に素直ではあるが、時に無邪気に奔走してくれる。

 手にしたカバンで頭を抑え走る人達。女達は着物の袖で顔を覆いながら走っていく。商店の主達は急ぎ屋根の下に品物を片づけていく。

「ふぅっ。まいったな。いきなり降り出すとは」

 青年は困ったような笑顔を浮かべながら空を見上げた。

 遊び慣れした優男の様にも見えたが、どこか田舎の素朴さが残る青年。聡明な瞳にピンと立った耳。クルンと巻いた茶色のシッポも雨に濡れてしまっている。

 商店の軒先で雨宿りすれば、これ幸いとばかりに茶店の婆が声を掛ける。

「ちょうどいい。雨も半刻もすればあがるだろう。お茶と団子でもどうだい? うちのあんこ餅は評判なんだよ」

 手を揉みながら曲がった腰をさすりながら愛想のいい笑顔を振りまく婆。商売人のあこぎな香りに青年が苦笑いしてみせる。

「婆さん、悪いけど持ち合わせないんだよ」

「なんだいっ。だったらとっととお行き」

 急に態度を変えるとシッシと手で追い払う婆。

 青年はニヤリと笑いながら懐から財布を取り出して見せた。濡れた髪を梳かしながら嫌味な笑顔を浮かべてやれば、婆は溜め息混じりに店の奥へと去っていった。

 なおも雨は勢い良く降り続く。土ぼこりが雨に跳ねられ、用水路のわきに立ち並ぶ

 柳の葉を雨が穿ってゆく。慌てて渇かしている大豆を取り込む女将や、うれしそうにはしゃぐ子供達を見つめながら一郎は笑った。不意に隣に人の気配を感じた。

「……ああ、すごい雨だ」

 整った顔立ちの虎の青年。どこかの裕福な家庭の一人息子といった感じの、どこか取っつきにくい華族の香りの漂う青年に、一郎は妙な親しみを感じた。

 金持ちのぼんくら息子といった感じであったが、どこか青臭い小僧らしさを兼ね備えた妙な奴だな。一郎は品定めするように青年をじっくり見定めてみた。

「あの……ぼくの顔に何か?」

「あ、いや、その……ああ。そうだよ。そう。すごい雨だよな。あんたもさ、いきなり雨に降られちまってさ、雨宿りしているクチかい?」

 戸惑った表情の青年に、慌てて話を切り返すと一郎は作り笑顔で語って見せた。

「ええ。そうなんですよ。いきなり雨に降られてしまいまして。今日は、雨は降らないと

 思っていたのですが、春の天気は中々に油断ならないですね」

 青年は屈託のない笑顔で微笑んで見せた。

 不意に一郎の腹が情けない声を挙げた。思わず顔を見合わせてしまう二人。そらみたことかと嬉しそうに婆が再び手を揉みながら寄ってくる。一郎はそれをさらりと交わした。

「……どっかメシでも食いに行くかな? 俺は一郎。川中一郎っていうんだ。あんたは?」

「ぼくですか? ぼくは山崎水樹。この辺りは詳しくなくて……あの、どこかおいしいお店知っていますか? ぼくもお腹空いてしまいました」

 人の良さそうな笑みを浮かべる水樹に向き直ると、一郎は決まりだなとばかりに笑って見せた。

◆◆◆3◆◆◆

 いつしか雨もあがり、水路のほとりには濡れてしまったものを渇かす女達の姿も見受けられた。雨だれをうけながら路傍の草がピンと立ち上がってみせる。

「なんでぇ。憎たらしいまでにいいお天気だな」

「まるで夏の夕立だね。さっきまでの大雨がまるでウソみたいな青空だ。きれいだなぁ」

 空を見上げながら水樹は微笑んで見せた。

 一郎も真似して見上げてみたが、別に普通の空じゃないか。ヘンな奴だなぁ。一郎は無邪気に微笑む水樹を見つめてみた。

「春の風は涼しくて心地良いなぁ。もうじき桜も咲き出すんだね。ほら、あそこを見て。もうつぼみがほころび始めている。桜の淡い桃色は春を象徴しているみたいにも思える。綺麗だね」

「ふーん。いつも歩き回っている道なのに全然気付かなかったよ」

 一郎はふと考えてみた。いつも歩き回っている道なのに全然気付かない季節の変化。その変化にさらりと気付くことの出来る水樹は自然が好きなのだろうな。一郎は静かに水樹の表情を覗き込んだ。

「水樹は自然が好きなんだな。俺なんかさ、いつも歩き回っている道なのに、全然気付かなかったよ」

「もうじき桜が咲き始めるよ」

「俺は花より団子だな。さ。メシ行こうぜ?」

 少々憮然とした表情の一郎に気付き、水樹は慌てて歩き出した。少々ばつの悪そうな笑顔を浮かべながらも水樹は、急ぎ、一郎の後を追った。

 いつしか空は、棚引く雲を残して美しい青空を呈していた。静かに風が吹き向ければ、春の若草の淡い緑の香りが水樹の髪をかき分けてみせた。

◆◆◆4◆◆◆

 二人は下町の食事処を訪れていた。そこは街の中を駆け抜ける水路を臨む静かな小店。

 自慢の料理を奮うご主人に、忙しく走り回る給仕の女達。裕福な家庭の息子らしい水樹に、格好良いところを見せようと少々奮発してみた店。

 一郎はここの店の主人とは古くからの知り合いであった。

 昼間からすき焼き。日本酒片手に一郎は上機嫌に振舞っていた。相変わらず水樹は笑顔を絶やすことなく、ただ静かに一郎の話に耳を傾けていた。

「まぁ、呑んでくれよ」

「昼間から晩酌とは驚いた。下町の人は昼間からお酒を呑むものなの?」

 不思議そうにたずねる水樹に、一郎は戸惑い顔で応える。

「何時もって訳じゃないさ。時にはこういう時もあるってことさ。まぁっ、水樹と友達になった記念かな?」

「ああ。なるほどね。それじゃあ、乾杯だね」

 水樹は無邪気な笑顔を浮かべたまま、一気に酒を飲み干してみせた。一郎も酒を手にした。

「へぇ。水樹は酒強いな」

「え? そうかな?」

 やはり水樹はどこか風変わりな奴だな。金持ちの息子って感じではあるが、見るからに世間知らずの箱入りのお坊っちゃまって感じもする。だが、悪くはない。金持ち特有の上から見下ろすような嫌味な感じはしない。人柄の良さが気に入った。

「なぁ。水樹は、どこかのお金持ちのご子息さんかい?」

「ぼく?……うーん。お金持ちと言えば、そうなのかも知れないね」

 水樹は困ったような笑顔で返してみせた。空になった一郎の盃に酒を注いでみせる。

「それじゃあ、裕福な家庭の育ちってワケだ」

 意識したわけじゃない。だが、一郎は無意識のうちに嫌味の言葉を口にしていた。

 嫉妬? 羨望? 金持ちの息子に対するひがみなのか、自らの口から発せられた言葉に、一郎自身も驚いていた。

「裕福だからと言って、幸せとは限らないものだよ?」

「悪い。嫌な聞き方しちゃったな」

「ううん。気にしないで。ところで、一郎さんは、どんなお仕事しているの?」

 沈んだ場の空気を取り戻すかのように水樹が再び笑顔を取り戻して見せた。

「一郎さんなんて呼ばなくていいよ。一郎って呼び捨てにしてくれ」

「判った。それじゃあ、一郎のお仕事はなに?」

 何に対しても好奇心を示すのか、水樹は大きな目を輝かせながら一郎の答えを待った。

「へへ。それじゃあ、俺の仕事を当ててみろよ?」

 いたずらっぽく笑う一郎に向き合いながら、水樹は考えを巡らせてみた。

「うーん。どこかの、食べ物屋さんかな?」

「ほう? どうしてそう思った?」

「だって、街に詳しいし、こんな素敵なお店を紹介してくれたじゃない? だから食べ物屋さんかなと思ったんだ」

「残念でした。食べ物屋では無いな」

「お待ちどうさま」

「おおっと、自慢のすき焼きが登場だ」

 主人に目配せすると一郎は我が物顔でふんぞり返ってみせた。どんなもんだ、と言わんばかりに。

「わぁ。おいしそう。いただきます」

 相変わらず無邪気な水樹の振る舞いはまるで全ての物事に興味を示す子供の様だった。

 お金持ちの息子にして、世間知らずのお坊っちゃま。そんな水樹を一郎はすっかり気に入っていた。

 長らく下町に生き、どこか都会ずれしている一郎にとって、水樹の無邪気な姿は珍しい存在に思えた。

 盛んに湯気を放つすき焼きの脇に添えられた風流な菜の花の漬け物。水樹が興味深そうに覗き込んでいた。

「この漬け物、何の花かな?」

「菜の花さ。春になると黄色い花を咲かせるんだ」

「菜の花? へぇ〜。一郎は物知りだね」

「へへっ。良かったら実物を見せてやるぜ?」

「ホントに? じゃあ、ご飯食べたら行ってみよう」

 店の中は客で賑わっていた。幕末の武士が崩れてしまったような、どこか滑稽な武人もいれば富を有して奥方達が気品あふれる着物を召しながら食事を採っている姿も見受けられた。下町はいろいろな人々が集う自由気ままな街。一郎はそんな下町の着飾らない空気が好きだった。自由に満ちた下町の焦臭い香りが好きだった。

 水樹は相変わらず菜の花の漬け物に興味を示している。わざわざ箸でほぐしてみたり、花の部分と茎の部分を食べ比べてみたりしている。

 ほのかな香りと微かな苦み。春の暖かな日差しを一身に受けて、天を仰ぐように咲き誇る菜の花の淡い黄色が美しい。

 窓から顔をのぞかせれば、涼やかな音色を立てながら水路が流れている。

 飛脚が雨上がりの街を忙しそうに走っていく姿が目に入った。

 風がそっと河原の芽吹いたばかりの草花を掻き分ければ、淡い新緑の香りが、春の淡く切ない香りが聞こえてくるようだった。

「ごちそうさま。お勘定はツケで頼む」

「一郎ちゃん、またかい?」

「……可愛い子紹介してやるからよ、勘弁してくれよ。なんでもよ、彼女、婿さん探しているらしいぜ? どうするよ?」

 思わず真っ赤になって飛び上がるお店の主人。そろそろ三十路に突入しようかという、気の良いネコの主人は、思わず照れ笑いを浮かべてしまう。

 職人気質な道を生きてきた彼であったが、可愛い子にはトンと弱い。それが下町の男達ってものであった。

「よろしく言って置いてくれよ」

「しょうがねぇなぁ、目一杯ヨイショしておくよ」

 水樹は軒先で水路の流れをじっと見つめていた。

 芽吹いたばかりの草花の芽を眺めていた。

 不意に和紙で出来た小さな船が流れてきた。見上げれば、橋の上から子供達が紙船を流している姿が見えた。水樹は、無邪気に遊ぶ子供達に目を奪われていた。

 不意に肩を叩かれ驚く水樹。

「待たせたな。それじゃ、行こうか。ん? あ。こら。坊主ども。あんまり水路を汚すなよ。お前らの紙船が水路に引っ掛かって余計なゴミになるからよ」

「はーい」

 子供達は賑やかに笑いながら走っていってしまった。

 しかめ面をしてみせる一郎を見ながら水樹は可笑しそうに笑った。

◆◆◆5◆◆◆

 街を出てからどれくらい歩いただろうか。雨上がりの春風は心地良い緑の香りをはらんでいた。

 いつしか景色は、家々の立ち並ぶ下町の景色から緑の目立つ自然豊かな景色へと、その姿を変えていた。

「ずいぶんと自然が豊かな所だね」

「意外な場所に意外なものがある。それが下町の魅力的なところだな。だから俺は下町を離れられない」

 水樹は、大きく手を広げて風にあたってみせた。髪が風になびいている。なんだか様になる絵だ。自分みたいな粗野な奴には絶対似合わない構図だ。そんなことを考えながら一郎は再び歩き出した。

「ちょっと小高い丘になっているだろう? あの丘を登り切れば、もう少しだ」

 小鳥達がさえずりながら飛び去っていった。

 あの小鳥はなんていうのだろう? 一郎はふと雨上がりの青空を眺めながら考えてみた。

 昼下がりの時間も超えれば、いつしか緩やかに日は傾き始めていた。微かに赤みを帯びてきた夕焼け空が辺りの景色を優しく包み込んでくれた。

「お。今年はもう綺麗に咲いているな」

 丘に登り切った一郎が嬉しそうに微笑む。まるで久方ぶりに出逢った恋人を慈しむかのように優しく暖かい笑みを浮かべて見せた。息を切らしながら丘に登り切った水樹の眼下には壮大な光景が入ってきた。

「わぁっ……」

 思わず水樹は息をのんだ。

 眼下には、淡い黄色の菜の花が一面に咲き誇っていた。遥か彼方に街が見える。街の小ささから考えるに、随分と歩いてきたのだな。水樹は壮大な光景に心を奪われる想いで一杯だった。

 淡い新緑の菜の花の香りは春の香り。忙しなく飛び回る蜜蜂が愛らしく思えた。

 風が吹けば、一斉に風の流れに身を任せ菜の花の黄色い花が揺れていた。

「さっきお前が食っていた漬け物の現物だぞ」

「意外だなぁ。こんなに綺麗な花だったんだね」

 しばし二人は淡い花の甘い香りに酔いしれていた。

 時が経つのも忘れて、二人はじっと菜の花を見ていた。

 夕暮れ時ともなれば、鳥達は巣へとかえってゆく。カラスが鳴けば子供達も家に帰っていく。風が吹けば菜の花は揺れる。草達も揺れてみせる。春……すべてが目覚め、すべての命が芽吹く季節。

「さて……そろそろ戻るかな。俺も仕事なんでね」

「すてきな景色、教えてくれてありがとう。気に入ったよ、この景色。一郎と友達になれてよかった」

 水樹は一郎に向き直ると、静かに微笑んで見せた。だが、不意に自嘲的な笑みを浮かべて見せた。

「裕福な家庭に生まれ、恵まれているように見えるけどさ、ほんとに大切なものにはちっとも恵まれていなかった」

 水樹の言葉に一郎の表情が微かに曇る。その変化に気付いたのか、水樹は慌てて言葉を添える。

「また街で逢ったら声掛けてくれるかな? 友達でいてくれる?」

「あはは。俺も同じだ。友達なんざ殆ど居ない身でな……心通わせられる友なんていなかった。だが、お前は不思議な奴だ。なんだか気が合いそうだ。こちらこそ、仲良くしてくれよ。それじゃあ、街まで戻ろうか?」

 草原の芝生を踏み分けながら、一郎は立ち上がった。

 水樹もまた立ち上がると、夕日に照らされて、真っ赤に燃え上がるような髪をかき分けてみせた。

 こいつとは良い友達になれそうだ。一郎は、不意に降り出した昼の雨に感謝していた。

 確かに、突然の雨は厄介なシロモノだ。だが、水は恵みをもたらす。春の雨は俺に友と呼べる息吹を授けてくれた。

 今日は良いことがあった。明日もいい天気になれば良いな。

「おい、水樹。もたもたしてっと置いていくぞ?」

「え? ちょっと待ってよ。こんな所で独りぼっちになったら無事に家まで帰れるかどうか怪しい位なのだから、置いていかないでよ」

「ははは。お前、ほんとお坊ちゃまだな」

 笑いながらからかう一郎に憮然とした表情を向けつつも、水樹は友人ができたことに感謝するのであった。

 ゆっくりと日が沈んでゆく。ただ静かに。

 心なしか背を照らす夕焼け空の赤は、いつもよりも冴え渡る赤だった。水樹はそんな気がしていた。

◆◆◆6◆◆◆

 下町を眼下にのぞむ小高い坂の上に水樹の家は佇んでいた。

 静かな朝は小鳥達のさえずりから始まる。昨日の雨がうそのような冴え渡った青空が映え渡る。

 豪邸と呼んでもおかしくないほどの大きな洋館に水樹は住んでいたのだ。目を覚ませば、木製の豪華なベッド。カ−テンを開ければ外では庭の草達に水をやっている使用人達の姿が見えた。

 不意にドアをノックする音がする。

「空いているよ。お入り」

「おはようございます。朝食の用意が整いました」

「うん。すぐに行く」

 水樹はこの家があまり好きではなかった。

 戦後の急成長期に事業で大成功を収め、一躍有名な実業家に成り上がった父のおかげで、今の生活がある。それは揺るぎ無い事実であった。だが同時に水樹にはこの生活が肌に合わなかった。

 多くの使用人達を使い、何不自由なく暮らせ、手が必要になれば呼んでもいないのに使用人達が次々とやってきて世話をやいてくれる。

 何かが物足りなかった。こんなことを考えるのは贅沢なのかも知れない。お金持ちの裕福な家庭に生まれた自分が口にしてはいけない言葉だと判っていた。

 水樹は手際よく着替えると広間へと向かった。

◆◆◆7◆◆◆

 朝食の席は、大きなテ−ブル。

 無意味なまでに大きなテ−ブルは、茶色い光沢を放ち大きな古時計は静かに時をならす。ボ−ン、ボ−ン……。時計の鐘が丁度八回鳴った。まだ朝も早い時間。静かに食事を採る家族。

 蓄音機から聞こえてくるレコ−ドの音色に、使用人が何人も控えている妙な空間。

 無口に食事をとる父と母、そして妹。どこか空虚で無機的なその沈黙が水樹はどうしても好きになれなかった。

 貧しくても良かった。ぼくが子供の頃のあの暖かい時間を返して欲しい……裕福な生活なんて、なんだか逢わないよ。

 沈んだ表情で静かに食事を採る水樹に、食事を終えた母が口元をていねいに拭いながら語りかけてきた。

「……水樹、あなたもそろそろお嫁さんを頂いてもおかしくない年頃だわ。お話があるのよ」

「母さん、またその話かい? その話は断った筈だよ?」

 水樹は母に向き合うことなく静かに食事を採り続けた。

 母はあくまで上品な態度を崩さないように語った。

「良いお話じゃないの。山上様のお嬢様は気品も礼節も、それは、それは優れたお嬢様よ。女学校を首席で卒業し、英語にも堪能なのよ。いったいどこが気に入らないというのです、水樹?」

 水樹は応え無かった。

 静かにナイフとフォ−クをテ−ブルの上に置くと無言で立ち上がった。これが応えだと言わんばかりに。

 何も判っていないのだ……。この人達はなにも判っていない。どうしてぼくの気持ちを

 考えてくれないのだろうか? 望んでもいないお見合いの話が、どれだけぼくを不愉快な想いにさせているか判らないのだろうか? 断る度に先方のお嬢様達に悲しい想いをさせてしまう。

「水樹、あなたは山崎家を背負っていく身……」

「良い加減にしてくれないかっ!?」

 母の言葉を途中で遮ると、水樹は恐ろしいまでの形相で母に向き直った。

「あなたは何も判っていない! 母さんは人が変わってしまった。あの頃の母さんは……貧しかった頃の母さんは、優しかった。でも、今の母さんはそうじゃない。山崎家……山崎家……! そんなに伝統って大事なの? ねぇ? たまたま事業に成功して今の地位がある。それだけのことでしょう? ぼくは……母さんの道具じゃない。お金なんて要らない。ぼくが欲しいのは……」

 怒りに身を任せて水樹は走り去っていってしまった。

 父は黙して語らず静かに煙草に火を灯した。

「あなた……宜しいのですか?」

「ふむ。変わってしまったのは、私も、なのかも知れないな……」

◆◆◆8◆◆◆

 下町の朝は忙しく駆け回る人々で一杯であった。

 男達は力仕事に精を出し、女達も掃除や水撒きなどに勤しんでいる。

 下町の人間は仕事に抜かりがない。それが人情というもの。訪れるお客達に精一杯の時間を過ごして欲しい。だからこそ、仕事にも熱が篭るというものである。

 そんな忙しい下町から少々離れた場所……俗に言う裏町の様な場所である。遊郭が建ち並び、夜も更ければ男達が舞い込んでくる艶なる場所。

 一郎は忙しそうに酒瓶を担いでは、繰り返し、繰り返し往来していた。

 そう。水樹の問い掛けに、明確な返答を見せなかったが、彼は遊郭でお客達を持て成す仕事をしている。表向きには決して自慢出来る仕事ではない。

 一郎は下町の女将達からは、冷たい目で見られている。

 素行も荒々しく、どこかやくざな香りの漂う青年。誰に対しても、どこか心を閉ざし、孤独な一匹狼を演じる彼。

 男達からは、それなりの支持を得ていた。

 一郎は女達の扱いに手慣れていた。享楽に身を興じる女達の色香にも揺るぐことのない一郎に女達は心を動かされる。

「おい、一郎。こいつを裏のご隠居に届けてくれないか?」

「なんですかい、こりゃ?」

「あのご隠居、酒に酔って忘れていっちまったらしいんだ。なにしろ、あのご老体だろう?この杖無しじゃあ、歩くことすらままないだろうに。下手に無理でもされて、骨でも折ってもらっちまったら、可哀想だろうよ」

 それもそうだな。妙に饒舌なご主人の言葉に耳を傾けながら一郎は静かに頷いた。

 遊郭のご主人は酒にも詳しい大柄な牛の兄さん。

 普段は至って温厚なのであるが、一度怒ると猪突猛進の闘牛のごとく手に負えない始末。だが、その気さくで世話好きな人柄は裏町に生きる身でありながら人々に親しまれてきた。

「ついでに、そこの棚らから酒を一本持っていってやってくれ。そのとっくりの酒はなかなかの上物だ。高級な米をたっぷり使っているらしいぜ」

「あいよ。んじゃちょっくら行ってきますわ」

「ああ。頼んだぞ」

 浅草の下町の裏通りに広がる静かな街。人知れず生きる女達は、夜にその花を咲かせる。

◆◆◆9◆◆◆

 ご隠居に杖を渡し一郎は帰り道を歩んでいた。

 何時しか日もすっかりのぼり、暖かな日差しに包まれていた。

「あら、一郎さん?」

「なんだよ、由美ちゃんかい……」

 一郎はあからさまに嫌な顔をしてみせた。

 真っ白な肌に、伏し目がちな目が実に色っぽい美しい猫の女性。寝起きなのか、乱れた髪と乱れた着物がますます妖しい色香を放って見せた。

「今日もいいお天気ね」

「ああ。そうだな。俺、忙しいからまた後でな」

「まぁ、つれないわねぇ……」

 素っ気なく通り過ぎていく一郎に吐息がこぼれてしまう由美。

 微笑む笑顔も美しい女性である。彼女の美しさに翻弄される男達も少なくはないであろう。だがその美しさは魔性の美しさ。夜毎男共を狂わすその美は、まさに魔性……。

「……ったく、なんだってここの女共は俺をからかうのが好きなんですかねぇ」

「ははは。それだけお前さんが男前なんだろうよ」

「まぁ、俺が男前だってのは認めますけどねぇ……」

「へっ! そういうのは人に言われてナンボってぇモンだろうがよ?」

 思わず顔を見合わせて笑い出す一郎とご主人。

 表街道の女達は、遊郭の女達に対してあからさまに嫌な顔をするが、それは美しい女郎達に対する嫉妬や羨望なのかも知れない。

 店先の掃除やら細々とした雑用を片付けているうちに、すっかり日は昇っていた。

「……ふぅっ、そろそろ飯時だな」

 昼を告げる半鐘の鐘の音に一郎が嬉しそうに微笑む。

 下町には旨い食い物屋がたくさんある。なにか旨いものを求めて一郎は下町へと向かうのであった。

◆◆◆10◆◆◆

 水樹はどこへ向かうともなくぶらぶらと下町を歩んでいた。

 この街はいい香りがする。あの家にはない自由がある。街行く人達の顔も明るい。

「いらっしゃい! いらっしゃい!」

 昼時ということもあって、賑やかに食事処の女将達が声を張り上げる。

 香ばしい焼き鳥のタレの香り、甘辛いその香りに思わず腹が鳴る。

 不意に肩を叩かれて、水樹は驚いて振り返ってみた。

「あれぇ? やっぱり水樹じゃないか? また逢えたな。メシまだだろう? 一緒に食わないか?ちょうど俺も腹ぺこでさ」

 ヘヘヘと笑う一郎の笑顔を目にした水樹の表情に笑顔が戻ってきた。

 何かに憂い、沈んでいた悲しい表情は、一郎と出会い、今日の空模様のように晴れ渡り、澄んだ表情へと移り変わった。

「そうだね。あ……財布忘れちゃった……」

 急に困った表情に変わる水樹を見て、思わず一郎は吹き出した。

「お前……やっぱ、どこか抜けているな」

「じゃあ、今日は一郎の奢りってことかな?」

 可笑しそうに笑う一郎に向き直ると、水樹は憮然とした表情で笑い返してみせた。

 予想外の切り返しに、一瞬怯まされる一郎であったが、そこは下町の人情味溢れる彼。財布の中身を見てひきつるが、ここで退けば格好がつかない。胸を張ってふんぞり返って見せた。

「あ、ああ、いいぜ。まぁ、着いて来いよっ」

 してやったりと言った表情の笑みを見せる水樹に、一郎は苦笑いで応えて見せた。

 香ばしい香りが食欲をそそる、焼き鳥の店に二人は入った。

◆◆◆11◆◆◆

 威勢の良い女将が切り盛りする店は女達だけで構成されていたが、活気のある店だった。

 香ばしく焼き上げた焼き鳥に、たっぷりの刻み海苔。てっぺんにはうずらの玉子を茹でたものを乗せただけの簡単な作りではあるが、奥深い味を感じさせる逸品であった。

「わぁ、おいしそう。いただきます」

 嬉しそうに微笑む水樹を見つめながら、一郎は苦笑いを浮かべて見せた。

「まったく、お前のせいでお財布すってんてんだぜ。どうしてくれよう? 今度はしっかり奢って貰わなきゃな」

 ふんぞり返ってみせる一郎に向き直った水樹は、思わず吹き出してしまった。

 一郎は焼き鳥丼の刻み海苔を鼻の下にくっつけて、まるでどっかのお偉いさんみたいな顔して威張ってみせていた。息をする度に、刻み海苔がヒラヒラと棚引く様が可笑しくて仕方が無かった。

「へへーっ。受けたみたいだなっ」

「もう。食べ物で遊んじゃダメでしょう?」

 必死で笑いを堪えながらも、水樹は盛んに焼き鳥丼を頬張っていた。

 周囲の人々の失笑まで買ってしまって、一郎は耳まで真っ赤になっていた。

「お昼ご飯のお礼と……それから、笑わせてくれたお礼に、今度はぼくが街を案内するね」

「お前が街を案内してくれるのか?」

「そうだよ。一郎は下町には詳しいけれど、ぼくは一郎とは違った街を知っている。ちょっと遠いけど一緒に見に来る? 汽車も見られるんだよ?」

 自慢げに微笑む水樹の話に、一郎は興味を惹かれていた。

「下町には長くいるけど、下町意外には殆ど出たことがないからな。それじゃあ、今度は水樹に案内して貰うとするかな?」

「うん。それなら決まりだね」

 食後の茶を啜りながら二人は静かな時を過ごした。

 相変わらず店の中は活気に溢れている。威勢良く駆け回る恰幅のいい女将の姿が印象的だった。その重量感に満ちた体型は妙に説得力のある気迫を放っていた。

◆◆◆12◆◆◆

 昼下がりの道を二人は歩んでいた。

 のどかな畑を見ながらゆっくりと歩むあぜ道。時の流れさえも緩やかに感じられるほどに穏やかな天気であった。

 春の日差しは暖かく、柔らかな風に包み込まれていた。

 田の横を流れる水路をそっと覗き込めば、春の訪れを感じさせる生き物たちの姿があった。

「おっ、水樹。見てみろよ」

「わぁ、おたまじゃくしだ。もう春なんだね」

 愛らしく泳ぐ小さなおたまじゃくし達は川の緩やかな流れに、時折流されそうになりながらも、皆で仲良く泳いでいた。

 小さな黒い体にヒラヒラしっぽが水に棚引いている姿が愛らしく思えた。

 あぜ道には小さな草達が花を咲かせていた。名も知らぬ愛らしい花に二人はしばし見入っていた。

「こっちはすみれの花だね。綺麗な紫色だよね」

「ふーん。それじゃ、こっちのこの水色の花は何て言う名前なんだ?」

 道端の花を眺める水樹につられて一郎も一緒に覗き込む。指さす先には小さな水色の花が誇らしげに咲いていた。

 水樹は思わず困ってしまった。花の名は知っているが……少々困った名前なのであった。

「なぁなぁ。もったいぶらずに教えてくれよ」

「こ、この花は……オオイヌノフグリって言うんだ……」

「ふぐり? なんだそりゃ?」

 厄介な花の名を聞かれてしまった。

 水樹は思わず真っ赤になりながらその場を立った。そんな水樹の後姿を見ながら、一郎は不敵に笑ってみせた。

「俺、知っているぜ? 大きな犬のー」

 言い掛けた一郎の口を手で抑えると、困ったような笑顔を浮かべながら水樹はすたすた走り出した。

 空は透き通る青空。かすかに白い雲が青一色の空を飾っていた。

◆◆◆13◆◆◆

 田畑が広がる広大な道を抜ければ、今度は目の前に広がるのは、うっそうと茂った森と林道であった。

「この辺りは日差しが入らないからちょっと寒いな」

 時折覗く木洩れ日が森の中を照らしている。森は静かで、空気はひんやりとしていた。

「もうすぐ見えてくるよ」

 水樹の歩調が少しずつあがっていく。その後ろを一郎は慌てて追い掛けていた。

 耳を澄ませばどこからか聞こえてくる金属音。カンカンカンカン……。

「何か音が聞こえるな?」

「うん。もうじき森を抜ける。森を抜ければすぐに見えて来るはずだよ」

 ようやく森を抜けた。唐突に差し込む日差しに思わず目が眩む。

 その時であった。二人は丁度目の前に広がる土手を背に、勢い良く蒸気機関車が走っていく姿を見届けた。

 真っ黒な車体に、もうもうと黒い煙を出しながら走っていく様に、一郎はしばし言葉を失っていた。

「ね? すごいでしょう?」

「あれが汽車か。はじめて見たな」

 風に髪を撫でられながら、一郎は壮大な空を仰いで見せた。まだ、先程の興奮は冷めやらなかった。

「汽車はね、多くの人を運べるんだ。いろんな場所に行ける。いろんな街に行ける」

 そう、口にする水樹の表情が不意に沈む。

「そう。いろんな場所に行けるんだ……」

「なぁ、水樹。何か嫌なことでもあったんじゃないか? 俺で良かったらさ、聞いてやってもいいぜ? なにしろ、俺とお前とはよ、友達だからな」

 不敵も微笑む一郎に、水樹は驚いたような表情で振り返った。

 吹き抜ける風が水樹の髪を、静かにかき上げた。

◆◆◆14◆◆◆

 一郎は土手に腰掛けて、静かに山を見つめて見せた。広大な林の遥か向こうには山々が見える。

「天気のいい日は山がよく見えるな。あの山、きっとすごく遠くにあるんだろうな。でも、こういう天気のいい日にはよく見える。不思議なもんだよな。あんなにも遠くにあるのにな」

 微笑む一郎の横に、水樹も腰掛けて見せた。

「綺麗な景色だよね。自然の景色はうそをつかない。どんな時だって、あるがままの素直な姿で接してくれる。だから、ぼくは自然が好きなんだ」

「水樹は、物知りだもんな?」

 ごろんと芝生に寝転がると一郎は空を見上げた。水樹も真似して芝生に寝転がってみせる。

 ふかふかのベッドなんかよりも、ずっと心地よい感触に思えた。暖かな日差しの温もりも感じられる。緑の淡い香りに包まれる感覚も悪くは無い。何よりも、空が青く透き通っているのが印象的に思えた。

「お金って人の心まで曇らせちゃうんだね。ぼくは、あの空のように澄んだ青空で居たい。それなのに……母さんは、望みもしない縁談を持ってくる」

 縁談という一言に、一郎は思わず吹き出した。だが、水樹の真剣な眼差しに気付き、慌てて謝って見せた。

「笑って悪かった。でもさ、お前……まだ嫁さん貰うような年でもないだろう? 俺とたいして年も違わないのに、ずいぶんとお袋さんも気が早いなぁ」

「お見合いが嫌だとか、そういうわけじゃない。ただぼくは、お見合いをしてまで相手が欲しいわけじゃない。まだ……恋だってしたこともないのにさ、順序がでたらめだよ」

 ポツリと呟く水樹の言葉に再び吹き出しそうになる一郎であったが、真剣この上ない表情を見て、笑いを押し殺した。

「お前、ホントに箱入りなんだな」

「箱入り娘なんていうけど、ぼくは箱入り息子かもね」

 自分で口にしながら、水樹は思わず吹き出した。つられて一郎も笑い出す。堪えていた笑いが思わず飛び出してしまった。

「箱入り息子かぁ? そいつぁ面白い例えだ」

「でしょう? ぼくも今面白いって思った」

 可笑しそうに笑う水樹のひたいをコツンとやると、一郎は静かに立ち上がってみせた。

 空を仰ぐ様に大きく背伸びをしてみせると、寝転がる水樹に向き直った。

「お前は十分、あの青空みたいに澄み渡った奴だよ。純粋で、素直で、それでいて

 傷つきやすく脆くて、繊細な心を持っている」

「そうかな? 一郎の方が……」

 微笑む水樹を見つめながら一郎は大きくかぶりをふって見せた。

「俺は汚れちまっている。お前とは全然違う」

「え?」

「俺の仕事……まだ話していなかったな」

 苦い微笑みを浮かべながら一郎はそっと、自らの身の上話を語り始めた。

◆◆◆15◆◆◆

 いつしか日は沈みかけ、少しずつ夜の闇夜が近づきはじめていた。

 悲しそうに笑う一郎に、今度は水樹が驚かされる番であった。

「俺は遊郭で仕事しているのさ。判るだろう? 遊郭って何だか、お前だって……」

「……うん」

「化粧の濃い、小ぎれいな女達を商売道具にしているのさ。下町は下町でも、俺が生きているのは日の当たらない裏街道だ。俺達は決して綺麗じゃない」

 遠くを見つめながら、一郎は投げ出すように微笑んでみせた。そんな一郎を見つめながら水樹は微笑み返してみせた。

「一郎は嘘つきだね」

「お、俺が嘘つき?」

「そう。一郎はね、自分に嘘ついているよ」

 屈託のない笑顔でにこにこ笑う水樹に一郎は戸惑った。

 どこか満たされずに、寂しい想いをしていたのは自分だけじゃなかったんだ。水樹は心の奥で、妙な安心感を覚えていた。

「ぼくね、ずっと独りだと思っていたんだ。自分が何者で、何を求めているのか判らなくてね」

 一郎は静かに、水樹の表情を見つめていた。

「独り闇夜に彷徨い、朝が訪れるのを震えながら待っているのなんて、自分だけだと思っていた。一郎、君に逢えて良かった。友達になれて良かった」

 穏やかな笑みを浮かべる水樹に、鼻の頭を掻きながら一郎は照れ笑いしてみせた。

 夕日に照らされ二人は燃え上がるような、赤い色合いを放っていた。

「そんな褒めるなよ。照れるじゃんかよ……」

「一郎、驚かないで聞いてくれる?」

「ああ、聞いているぜ?」

 水樹は遠く、山の向こうに目線を投げ掛けながら、小声で呟いて見せた。

「はじめて……人を好きになった……」

 戸惑うように微笑む水樹に一郎は驚きを隠し切れなかった。

「お見合いなんて、成功する訳が無かったんだよ。だってぼくは……へへっ」

 微笑む水樹の頬を涙が伝った。大粒の涙が後から後から、伝っては落ちていった。突然の言葉に、突然の涙。一郎はただ、動揺することしか出来なかった。

「ぼくが好きなのは……」

「……だ、だって、俺とお前は昨日逢ったばかりだろう? そ、それに俺はお前の友達だし……」

「うん。一郎は友達だよ。大事な友達だよ……」

 水樹が、何に迷い、何に苦しんでいるのか一郎には明確には判らなかった。

 だが、水樹は何か言葉で言い表せられない苦しみを背負っている。それだけは明らかだった。

 一郎は自分を不甲斐ないと思った。情け無いと思った。

 目の前で、はじめて出逢えた友と呼べる奴が苦しんでいるのに何もしてやれない自分が、酷く悲しかった。

「……俺にしてやれることなんて、こんなことしかないけど……ずっと友達でいてくれよな」

 一郎は水樹を力一杯抱きしめた。頬に水樹の冷たい涙の感触が伝わった。

「……同情なんて欲しくない」

「え?」

「同情なんてしないで……ぼくが可哀想になる……」

 水樹は、一郎をそっと突き放すと涙を拭って見せた。もはや水樹の顔には屈託のない無邪気な笑顔は無かった。口を真一文字に結ぶとそのまま走り去っていってしまった。

 俺は……あいつのために、何かをしてやることはできないというのか? どうして……どうして水樹は?

◆◆◆16◆◆◆

 二人の生き方には、確実に変化が現れ始めた。

 一郎は水樹の、最後の一言が胸に残っていたたまれなかった。

 彼は迷っていた。水樹と同じように、いつ来るか判らない朝を待ちわび、闇夜を一人奔走し、彷徨いながら震えていた。まるで幼い少女が、遠雷の残り香に震えるように。

 クソっ、なんで……なんで! こんな気持ちになるんだ。

 なにか、胸の奥が苦しい感覚で一杯だ……! 一郎は怒りに身を任せ、自らに憤り、酒の勢いにその身を任せていた。晩酌する由美の表情が曇る。

「ねぇ。一郎さん、飲み過ぎじゃないの?」

「うるせぇな、女に何が判る!」

「まぁ。ずいぶんね」

 酒に酔っているのか、あからさまに辛辣な態度を取ってみせる一郎であったが、由美は、まるで母親がいうことを聞かない我が子をあやすように一郎の髪を撫でてやった。

「おい由美、お前の部屋に連れて行けよ……」

「だから言ったじゃない? 飲み過ぎて歩けないんでしょう? 困った人だこと」

 一郎は何を思ったのか、酒の勢いに任せてか? あるいは由美の心優しさに何かを見出したのか、あるいはその優しさに反発したのか? 苦しみと悲しみから生み出された不可解な笑みを浮かべて見せた。

「……」

「ちょっと、一郎さんっ!?」

 一郎は一切の感情を棄てて由美を抱いた。だが、気は晴れない。

 胸が苦しくなるような思いで一杯になるばかりだった。

 一郎には判っていた。こいつは自分を好いている。母親のような甘い色香で自分を包み込んでくれる優しい女だ。判っていたからこそ、一郎は酒の勢いに任せて由美を抱いた……。

「……やるせねぇ気分だぜ」

「え?」

「ほら、金だよ。もらっておきな」

 一郎は由美を残して、さっさと着替えると、何事も無かったかのように髪を整えだした。

「一体どういう風の吹き回しなの? 普段はあたし達……遊郭の女達にはまるで興味を示さないあなたが、急に……と思ったら、今度は、まるで素っ気ない態度だし。まるで猫ね」

「……すまないな。ちょっと悩み事があるんだ」

 由美は悲しそうに微笑みながら一郎の背に抱きついて見せた。

「あたしじゃ、力に成れないの? あたしじゃ、一郎さんの役には立てないの? 悲しいな……あたし、ずっと……あなたのことを……」

「ホントにすまない。じゃあな」

 一郎は由美を振り返ることなく部屋を後にした。

 彼が去るのを見届けると、由美はそっと蒲団の端で涙を拭った。

 遊郭に咲く一輪の花なんざ、所詮は誰にも見向きもされずに終わっていく定めなのかしら? 男は勝手よ。泣くのは何時だって女。それが惚れた女の弱みなのかしらと、私は唄うの……。

 由美は静かに唄を口ずさんでみせた。

 いつしか外は、土砂降りの様相を呈していた。

◆◆◆17◆◆◆

 降り続く雨の中、一郎は傘もささずに一人とぼとぼと歩いていた。まるで幽霊のように

 その足取りはおぼつかなかった。水樹のことだけが彼の頭を支配していた。一郎は許せなかった。煮え切らない自分を。

「……おっと、痛てぇな、どこ見ているんだよっ!?」

 雨の夜……一郎は酔っぱらい達とぶつかってしまった。

 降り続く雨は、土を穿つ音を立てていた。仄かに春の雨に沈丁花の香りが流れてくる。

 忘れ去った女達の思い出をよみがえらせるような懐かしく、切ない香り。だが、自分をはっきり主張する香り。シトシトと降り続ける雨は、視界をさえぎる。明日への道すらも見えなくしてしまう。

「てめぇこそ、どこ見ているんだよ……このうすらとんまが……」

「なんだとっ!?」

 一郎は怒りに身を任せて、喧嘩を吹っ掛けていた。

 相手は酒の入った、しかも体格のいい男達。

 幕末の藩士達も落ちぶれちまったモンだなと笑って見せた。こいつらは、確かに、良く働いてくれたさ。だがそれは過去の話。そう、過去に縛られた亡霊達なのさ。もっとも、亡霊なのは俺も同じかも知れないが。

 一郎は自分でも、何をしているのか理解出来なくなっていた。ただ迷いに支配されるがままに、駆り立てられるままに走ることしか出来なかった。

「けっ。張り合いの無い奴だぜっ!」

「ううっ……」

 痛てぇ……。口を切ったのか、口一杯に血がにじみ出てくる。

 俺は何をしているんだ? 馬鹿か、俺は? だが俺は自分が許せなかった。

 雨はなおも降り続いた。俺の涙も雨が流してくれる。雨が俺の代わりに泣いてくれる。

 そんなことを考えながら、一郎はゆっくりと歩き出した。

◆◆◆18◆◆◆

 いつしか雨はあがっていた。一郎は静かに雨上がりの月夜を眺めていた。

 雨上がりの草達は、春の淡い香りを漂わす。薄く棚引く雲の隙間からのぞく淡い光彩の月。

 誰かが近づいてくる音がする。草を踏み分ける音。一郎は人の気配に気付き、耳を立ててみせる。

「……驚いた。雨につられて来てみればまた逢えるなんて。ほんと、不思議な縁だなぁ」

 頭上から聞こえてくる聞き覚えのある声に一郎は慌てて振り返ってみた。

 そこには水樹が立っていた。だが、一郎はすぐに、それが彼だとは判らなかった。なぜならば……。

「み、水樹っ!? な、何だよ!? その格好はっ!?」

「どう? 似合う?」

 真っ赤な着物に身を包んだ水樹は、まるで遊郭の女郎のような妖しい魅力を放っていた。

 水樹の笑顔は赤い着物に映えていた。そこら辺の女よりも遥かに美しいかも知れない。一郎はそう思った。

 水樹は女顔というわけではなかった。だが目鼻立ちがしっかりしているし、何よりも聡明で澄んだ瞳は、この地上の何にも代え難い美しさだった。

「ぼくさ、一郎のいる遊郭ってどんな所か知りたくて遊びに来てみたの。そしたらさ、に女郎やってみないかって誘われちゃってさ。何だか面白そうだから行ってみたら、こんなきれいな着物着せて貰っちゃって、驚いたよ。どう、似合うでしょ?」

 可笑しそうに笑ってみせる水樹の笑顔に、一郎は驚きを隠せなかった。

 水樹は、血塗れの一郎の顔を見ても驚きもしなかったが、一郎は戸惑いを隠せない。

「……お前、まさか!」

 驚きを隠せない様子の一郎を見つめながら、水樹は微笑んで見せた。袖で口元を隠しながら笑った。

「一郎が心配しているようなことするわけないじゃない? この格好してね、得意の舞踊とか唄とか披露してきたんだ。なんだか、おじさん達大喜びしていた。可愛いなんて言われちゃってね」

 袖で顔を隠しながらクスクス笑ってみせる水樹。

「言うところの、男女郎ってやつでしょう? 男色を好む兄さん達の、ちょっとしたお遊び。ぼくを抱きたいって、言われたけど、それは勘弁して貰ったよ。それよりさ、一郎、どうしたの、その顔? すごいケガじゃない?」

 微笑む水樹の笑顔は、いつもの水樹の笑顔となんら変わりはないように思えた。だが、どこか寂しい笑顔だった。

 水樹も迷っている? そっか。水樹も彷徨っているんだよな。俺も水樹も迷っている。行き場がなくて……。

「……なぁ、水樹。本当にそれでいいのか?」

 一郎は驚いた。自分の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったから。

「どういうこと?」

「お前は、今の自分に満足してないだろう? 男女郎だと? フザけるな……軽々しく自分を売るなよ」

 語気鋭く語り掛ける一郎の目を覗き込みながら水樹は、静かに笑って見せた。

「君にも同じこと言えるよ? 一郎、君は本当にいまの自分でいいの? ぼくは確かに自分を見失っているのかも知れない。でも、一郎。それは君も同じだよ。違うかい?」

 心を見透かすような水樹の言葉に一郎は戸惑った。

 妙な色香が鼻をつく。安物の白粉の香りだ。

 水樹は優しく微笑んでみせた。その表情を見届けると、一郎は空を見上げて笑った。菜の花達を震えさせるほどに大きな声で笑って見せた。

「不思議だな。あの時もあの雨がきっかけで、俺達は友達になった。そして、また今夜も雨に導かれて、お前に逢えた」

「ぼく達、良く似た境遇なんだね。だから仲良くなれたのかもしれない。確かに、ぼくと一郎とでは全然違った生き方をしている。でも、どこかが繋がっているんだね。だから……」

 朗々と語って見せる水樹の唇に、一郎はそっと、自らの唇を重ねてみせた。

 月夜の菜の花畑は、静かに揺れていた。

 風が吹く。ぱぁっと菜の花の黄色い花が揺れる。雲が月を隠したほんの一瞬の出来事。一郎は静かに微笑んで見せた。

「お前に逢えてよかった。俺達、もっと、もっとがんばらないと駄目だな」

 真っ赤になりながら水樹は微笑んで見せた。

「そうだね。ぼく、家に帰るよ。きっと……このままじゃいけない。だから、一郎も負けないでね」

「ああ、負けないぜ」

 菜の花は静かに揺れていた。

 月明かりと、小さな雨垂れを残して、風に揺れていた。

 月夜の中で、その淡く黄色い花を小さく揺らしてみせた。輝くような光彩を残して。

◆◆◆19◆◆◆

 また……俺は嘘を付いてしまった。こともあろうに、水樹を騙しちまった。由美にも悪いことしちまった。あいつ、泣いていた……遊郭の女にだって感情はあるんだ。道具じゃないんだ。なぜ、今の今までそんな当たり前のことに気付かなかった?

「あら、一郎さん、おはよう」

「ああ、おはよう……」

 気まずい空気が漂う。由美は相変わらずきれいに化粧をしている。ただ、いつもよりも化粧が濃いような気がした。きっと、一晩中この女は泣いていたのだろう。目の下の腫れを隠すために、いつもよりも白粉を厚く塗っている。遊郭で女達を扱ってきた一郎には、そんな単純な芝居は見抜けないわけがなかったのだ。だが由美は気丈に振る舞ってみせた。そんな彼女の優しさに一郎はますます胸が痛んだ。

「昨日はすまなかった」

「あら、昨日、何かあったの? 昨日はずいぶんと雨の激しく降っていた夜だったわ。それだけじゃない? うふふ、一郎さんったら春の陽気にでもあてられちゃったのかしら? それとも、狐か狸にでも騙されたのかしら?」

 由美は可笑しそうに笑いながら去っていった。

 そうかも知れない。いや、むしろ……そうであったらどんなに楽だったのだろうか。すまない、由美……。一郎は肩を落としながら、歩き続けた。

 由美は微笑みながら唄を口ずさんでいた。

 きれいな花も、切ない花も冬が来れば散っていく定め。私は引き際を弁えた悲しい女。

 一夜だけでも夢を見られて幸せだったわ去っていく素敵なあの人に、私は桜の枝を贈りましょう……。

 由美は笑いながら路地を歩んでいった。

 笑いながら、唄いながら、そっと袖で涙を拭った……

「あら嫌だわ。目に……ゴミが入っちゃったわ。うふふ」

 一郎には聞こえないように、一郎には見られないように、由美はそっと路地を歩んでいった。

◆◆◆20◆◆◆

 俺は最低の男だ。一郎は神社の境内に腰掛けていた。

 道行く人達はいつも以上に賑やかであった。今日は春のお祭り。今年一年の、農業の豊作を祈ってのお祭り。

 下町と言えば、大きな御輿と威勢の良い掛け声。静かな風の吹く神社の境内で一郎は御輿を見ていた。子供達も、粋なねじりはちまきを頭に元気に笑う。

 御輿は威勢の良い掛け声で、担がれていった。

「……御輿か。わっしょい、わっしょい。子供も、大人も、みんな賑やかに歩んでいくか」

 一郎は悲しそうに笑った。今を生きることか。

 見えてきた気がした。川の流れに逆らい生きることも必要かも知れない。でも、今の自分にはそれはできるかも知れないが、してはいけない。そんな気がしてならない。もう……これ以上誰かを不幸にして、自分も傷つくのは辞めにしようじゃないか……。

◆◆◆21◆◆◆

 水樹は一人寂しく朝を迎えた。

 ぼくは一郎に嘘を付いてしまった……あの日、ぼくは勢いに任せて遊郭に行ってみたんだ。

 一郎、嘘をついて御免ね。本当はあの日、ぼくは抱かれたんだ……見知らぬおじさん達に可愛がられたんだ。はじめての経験。でも……空虚な空しさしか残らなかった。知らない方が良かったと思っている。妙に納得しちゃった。だから、一郎には言えなかった。

 ぼくは弱虫だ……結局、一郎を苦しめているのはぼくなのかも知れない。なんでだろう?ぼくは一郎が好き……でも、それはいけないことなの? 判らない……判らないよ。ぼく

 は、結局何も判らないまま、母親に連れられて山上さんの所に来ていた。

「まぁ、水樹さんは語学も堪能なんですのね」

 山上さんのお母さん、よく喋る人だなぁ。水樹は感心しながら、良く喋る口を見つめていた。娘の春子さんは確かに綺麗な人だと思っていた。綺麗な毛並みの狐の女性。頭も切れるし、礼儀正しいし、女性としては最高の人だと思う。ただ……水樹の感情は動かなかった。

「じゃあ、後は若い人達に任せて年寄りは退散しましょうか? ねぇ、山崎さん?」

「まぁ、そうね。じゃあ水樹、春子さんとしっかりお話してくるのですよ? 退屈させないようにね」

 水樹は気のない顔で静かに頷いて見せた。春子は水樹に気があるのか、微かに頬を赤らめながら「よろしくお願いします」なんてか細い声で囁いてみせた。水樹も愛想笑いしてみせる。

 山上家は旧家でありながらも、昔ながらの裕福な家庭であった。武家の出身であるという主人は、今の警察隊の偉い人だと聞かされた。なるほど。ずいぶんと厳しく育てられたのか、本当に、絵に描いたような女性に育ったのだな。

 山上家の庭を歩む水樹は、その作り物の様な造形美を悲しい目で見つめていた。

「あの……水樹様、この庭はお気に召しませんか?」

 物静かに語りかけてくる春子に向き直ると、水樹はそっと微笑み掛けて見せた。

「草達も、木達も、泣いているね」

 水樹はわざとらしく嫌味に言って退けて見せた。お上品なお嬢様の笑顔がどんな崩れ方をするのか見てみたい衝動に駆られたのだ。

 だが春子は笑って見せた。だからこそ水樹の心は酷く痛んだ。

「そうですわね。こんな狭苦しい庭に人の手が加えられて作られた自然なんて、本物の自然じゃないと思いますわ」

 春子はどこか悲しげに微笑んで見せた。

「水樹様は春の草原に咲き乱れるヨモギはお好きかしら? 子供の頃、良くヨモギ摘みに行きましたわ。淡い香りのヨモギ餅、大好きでしたの。あら、私ったらペラペラお喋りしてしまって……すいません、水樹様。私は見ての通り、不作法者で」

 ばつの悪そうな笑顔を浮かべてみせる春子に対し、水樹の中で、微かに感情が揺れ動いた。

 この人も自然を愛する人、春を愛する人なんだ。自分と良く似ている。

 だからこそ水樹は余計に悩んでいた。生きること……本当に今のままで良いのだろうか?

「あら、水樹様? どうかなさいました?」

「いえ。良かったらもっとお話しましょう。ぼくは春の草原に咲き乱れる菜の花が好きでして……」

 そこまで言いかけて水樹はハッとした。

 菜の花……淡い黄色の花……あの時、はじめて目にした光景。

 淡い春の香り。雨に導かれて彼と出逢った場所……彼を愛してしまった場所……彼に偽ってしまった場所……ぼくは、もう戻れないのかな? ねぇ、ぼくは間違っているのかな? 誰か教えてよ。あんな汚らわしいおじさん達に抱かれたままでなんて、終わりたくないよ。愛することの意味、人を好きになること……色々なことを教えてくれたあの人。でも……そうだよね……。

「水樹様、どこかお体の具合でも悪いのですか?」

「あ……いえ。何でもありません。少し外の空気にあたりすぎたみたいです。中に入って、お茶でも飲みましょう。まだ春とは言え、外は意外に寒いものです。風邪でも引いてしまっては、お母様に申し訳が立ちません」

「まぁ、水樹様はお優しいのね。ええ、そうしましょう」

 だからこそ、ぼくはぼく自身に、サヨナラを告げた……。

 何もかもが正しかったなんて、判らないよ。ただ、ぼくは……自分の生きたいように

 生きることを放棄するわけじゃない。妥協するわけじゃない。少しばかり理想が高すぎただけなんだ。仕方が……ないのかな? 水樹は春子と共に、梅の甘い香りが風に流れる小道を歩んでいた。

◆◆◆22◆◆◆

 運命とは数奇なものだと人は言う。

 雨に導かれ、二人は再びこの場所で再会していた。

「つくづくぼくら、腐れ縁なんだって思うよ」

「ああ、どうしてまたこの場所で逢うかなぁ?」

 一郎の表情は固く、強張っていた。水樹には一郎が何かを隠していることだけは判っていた。

 何に迷っているのだろうか? ぼくには弱さを見せないつもりなのかな? なんか、悲しいけれど、でも仕方ないんだよね……落胆の溜め息を就こうとしたところで、一郎が話を切り出した。

「なぁ、水樹。俺の話聞いて貰えるかな?」

「うん、ぼくで良ければ」

 一陣の風が吹き抜けた。

 菜の花を静かに激しく風が揺らした。突然吹き付ける風に、菜の花の黄色い花が無残に舞い散ってゆく。

「俺達の出逢いは確かに運命的な出逢いだったのかも知れない。まだ逢ってから一月も経っていないのに俺達ずいぶん仲良くなれたじゃないか? 格好悪い話だけどよ、この年になってはじめて友と呼べる男と出逢えた。それは俺の中では、とても大きな出来事だった」

 一郎はあくまで空を見つめたまま悲しそうに語って見せた。まるで他人の話をするような素っ気ない話し方は、妙に殺風景で渇いていて、そして途方も無い寂しさに満ちていた。

「……ぼく達は出逢わなければ……良かったのかな?」

「そんなことはない。俺はお前と出逢って多くのことを学んださ。はじめて自分って、なんなんだろうって考えてみた」

「言いたいこと、判る。ぼく達は……当たり前だけど同じじゃないでしょう? だから違った道を歩まなくちゃいけない」

「……おい、水樹……」

 一郎の言葉には耳を貸さずに水樹は屈託のない笑顔で語り続けてみせた。

「楽しかったよ? なんかさ、すごく仲のいい兄弟ができたみたいで嬉しかった。ぼく、一人っ子だからさ、一郎がお兄さんみたいに思えていた。お兄さんであって、親友であって……ううん、これでいいんだと思う。出逢えて、良かった!」

 水樹は背伸びをしてみせた。

 菜の花の淡い香りに包まれ、静かな風に包まれ風に髪をかき分けられながら、自然をその身で感じていた。

「水樹、俺……」

「同情はやめてって言ったはずだよ? 綺麗に生きなくたっていいんだ。泥まみれの雑草でも良いんだ。強く、生きられればそれでいい。そしたらさ、いつかまた逢おう? 出逢わなければ良かったなんて、思いたくないから」

 あくまで気丈に笑顔を絶やさない水樹の強さに一郎は由美の笑顔を思い出していた。

 必死で寂しさを顔に出さずに、惚れた男のために精一杯尽くす路傍に咲く一輪の花。

 華やかな光彩を放つ花だけど、その心は名も知られることのない悲しい雑草のように、強く優しかった。

 遊郭に生きる遊女の心は、ほんとは繊細で優しく、どんな花よりも綺麗なんだ。一郎は真実を見た気がした。

「水樹、握手してくれよ。さよならなんて言わないぜ。離れていたって、俺とお前とは親友だ。この菜の花が、俺達の友情の証だ。この花を見るたびに俺のことを思い出してくれよな。じゃ、元気でな」

 一郎は固く水樹と握手を交わした。

 水樹は微笑みを絶やさずに、静かに背を見せると、歩き出した。決して後ろを振り返らずにどこまでも、どこまでも。

 一郎は彼の背が見えなくなってしまうまでずっと、見つめていた。

 いつしか、空が轟き、雨が降り出した……。冷たい春の雨に一郎は身を任せていた。濡れるままに、心枯れるまで一郎は菜の花を見つめていた。

 これでいいんだ。これで良かったんだ。

 俺は救いようが無い馬鹿野郎だ! またしてもあいつに嘘を付いてしまった……どうして素直になれない? どうして正直になれない? 俺は雑草になりきれない自分を、心の底から可哀想だと思った。

◆◆◆23◆◆◆

 また、何事もない毎日が戻ってきた。

 忙しく駆け回る下町の兄さん達。子供達は春ののどかな暖かさを楽しむかのように走り回ってみせる。下町は活気に溢れていた。

「どうしちゃったの、一郎さん、元気ないわね?」

「ああ、由美……なぁ、俺と一緒になってくれないか?」

 川の流れを見つめながら、ぽつりと一郎の口から零れ落ちた言葉に由美は思わず吹き出した。

「やぁだ、一郎さんったら、その手には乗らないわよ? いくら暖かくて、いい陽気だからって、あたしを化かそうなんてダメよ」

 可笑しそうに微笑みながら、由美は袖を翻してみせた。

「あら、そろそろお昼ね。お腹空いちゃったわ。お食事でもご一緒にどう? この前お客さんからおいしいお寿司屋さん教えて貰ったのよ。行きましょうよ。ね? ほらほら、そんな狐に化かされたような顔していないで、行きましょうよ」

 由美は可笑しそうに笑いながら一郎の手を引いてみせた。

 本当にこれでよかったのだろうか? 俺は自分が判らなかった。素直じゃ無くなれば無くなるほどに周りの誰かを傷つけてしまう。そんな自分がもどかしく思えてならなかった。

 由美は大人だ。俺みたいな、どうしようもないバカの相手をしてくれる。優しい奴だ。母親の様な甘い香りがする。それのに俺は……!

 不意に凄まじい揺れが街を揺るがした。

「きゃあっ!」

「うわっ!」

 突然の地震で足下がおぼつかなくなった一郎は、よろけた瞬間に由美の胸に顔を突っ伏してしまった。一郎は思わず真っ赤になった。

「ご、ごめん」

「嫌だわ、一郎さんったら。そんなにあたしが魅力的なら、そう言ってくれればいいのに。うふふ、素直じゃないのね?」

 可笑しそうに笑う由美の顔が、再び激しい地震によって揺らいで見えた。

「こ、今度のはでっかいぞっ!」

「きゃあっ!」

 かつて経験したことの無いような凄まじい地震は、全てを揺るがした。

 家々は地震の衝撃に絶えきれずに崩れだした。あちらこちらから悲鳴が聞こえてくる。凄まじい揺れに、人々は完全に足を取られてしまっていた。

 昼時の家々は、崩れた衝撃から次々と崩れ去っていく。食事の用意をしていた家庭も多い。

 あっと言う間に木造の家は、火を吹いた。悲鳴がとびかう。

「おいっ! 火消しを呼べっ!」

「あんた! 誰か、うちの人が家の下敷きにっ!」

 あちらこちらから悲鳴が聞こえる。怒号が聞こえる。罵声が聞こえる。

 かつて経験したことのないような凄惨な光景が目の当たりに広がった。

 一郎は何がなんだか事態を把握できなかったが、由美の手を引き逃げ出そうとした。だが由美は悲しそうに微笑んだ。

「……あたしのことはいいの! それよりも一郎さん! 貴方の愛しい人を大事にしなさい。人を騙せても自分を騙すことなんてできないのよ! あなたに抱かれて判ったの……あなたの心の中には誰か、素敵な人がいるって。悔しいけれど……あたしには勝ち目が無さそうですもの」

「由美……」

「早くお行きなさい。こんな大惨事なのよ? もう逢えなくなっちゃうかもしれないわよ。いいの!?」

 由美の言葉に俺は全身の毛が逆立つ想いで一杯だった。こいつは何もかも見抜いていた。

 俺は何処まで馬鹿だったのだろうか? やっと……やっと本当の自分に気付いた。行くしかない!

 一郎は由美に軽く礼を告げると走り出した。

 あっと言う間に広がった火の海は、家々を恐ろしい勢いで焼き払っていった。カンカンカンカン、半鐘の鐘は鳴り止まない。

「火消しはまだ来ないのかっ!?」

「これだけの規模のでかさだ。すぐには無理だっ!」

「おいっ、あの家の下から子供の声がするぞっ!」

 街は大混乱を呈していた。

 一郎は人々の流れに逆らって坂道を駆け登っていた。人々を押し退け、時にぶつかった人々に罵声を浴びせられながら、殴られながらも一郎は走った。負けられない! ここで負ければ、俺は一生負け犬のままだっ!

 火の勢いは凄まじかった。荷物を荷台に乗せ走る女達。あまりのことに泣くことすら忘れてしまった子供達の手を引き走って行く。

◆◆◆24◆◆◆

 一体、なにがどうなったのか一郎には理解できなかった。火の勢いは凄まじく、東京の街は瞬く間に真っ赤に燃え上がっていった。

「ぎゃああ、熱いっ! 熱いよぉっ!」

「……助けて……ううっ、お母さん……」

 いつしか聞こえてくる声は、断末魔の叫びに変わっていた。

 痛みに泣き叫ぶ声、火傷の苦痛に、両親を失った悲しみに、あちらこちらから泣き声や

 悲痛な叫びが聞こえてくる。

 火の着いた体を抱え川に飛び込めば、水に溺れ人々は死んで行く。

 その光景は、まさに修羅の光景。地獄絵図と呼ぶにもまだ足りないほどの光景であった。

 我先にと逃げる人。火に襲われ命を落とす人。一郎は、その誰にも目をくれなかった。ただただ走った。自分を兄と呼んでくれたあいつを守るために。はじめて出逢えた親友の笑顔をもう一度見つめるために一郎は走った。

「っ!?」

 不意に目の前に、真っ赤に燃えた柱が倒れてきた。だが、一郎は怯むことなく走った。髪が火に焼かれる嫌な臭いを発した。服についた火を払い、火傷を負いながらも一郎は走った。顔中ススだらけになりながらも。

 もう、この辺りには人は残っていないのか、木々の燃える音だけが、やけに耳に聞こえてきた。

「ここは危ない!早く非難しなさいっ!」

「ばかやろう、俺の親友がまだいるかも知れねぇだろうっ!? そこを退きやがれっ!」

 一郎は制止する火消しをはね除けると必死で走った。

 水樹の家には訪れたことはないが場所は大体判っていた。一郎はこの街の隅々まで知っていると自負するくらいに、街を知っているのだから。

◆◆◆25◆◆◆

 どれくらい走ったのだろうか? 不意に目の前が真っ暗になったかと思ったら、次に目が覚めたときは、目の前には青空が広がっていた。ここはどこだろうか?

 起きあがろうとした瞬間、全身に激痛が走った。

「いてっ!」

「ああ、まだ寝ていなきゃダメよ」

 目の前には見知らぬおばさんがいた。

 誰だ、このおばさんは? それにここはどこだ?

「やっと気付いたようだね。あの地震で東京の街は火の海に包まれてね……いっぱい

 人が亡くなったんだよ。倒れていたあんたを街の人が連れてきてね。ここは、ちょうど

 生き残った人達が集まっている広場みたいな所さ」

 俺は痛む体を支えながら、そっと起きあがってみた。

 周囲を見渡してみて、一郎は目を疑った。空は青く、澄み渡りいつもとなんら変わらない素敵な青空さ。なのに、その景色はあまりにも異様な光景であった。

 黒い煙をあげる真っ黒い炭になった家々……川は、人々の死体で流れが完全に埋まっていた。一体、何が起きたというのか?

「一郎、無事だったんだね」

 背後から聞こえてくる声に、聞き間違えはなかった。

 そこには水樹が立っていた。

 全身真っ黒なすすだらけになっちまって、せっかくの色男も台無しって感じだが、俺は

 思わずあいつを抱きしめていた。

 傍らには妙に品の良さそうなお嬢さんが立っていた。

「この人は山上春子さん。うちの母の知り合いの娘さんなんだ。もっとも、あの家事で

 うちの家族は……みんな焼け死んじゃったけどね」

「はじめまして、一郎様。水樹様からお話は伺っていますわ。ちょうど東京の街を離れていたので、私達はそれほど被害を受けなかったのですが、東京に戻って驚きました。大変なことになってしまっていて、私も最初は目を疑いました」

「春子さんのおかげで、ぼくは無事に生きて戻ってきたよ。一郎、ぼくはずっと自分にうそをついてきた。春子さんにはもう、全てを話したんだよ。ぼくの話に共感してくれてね。いろいろありがとうね、春子さん。きっと、お父様も、お母様も生きていると思う。がんばって探してあげてよ。それじゃ、元気でね」

「水樹様も、希望を捨てずに……なんて余計なお世話でしたかしら? ふふっ、じゃあね」

◆◆◆26◆◆◆

 あれからすぐに耳に入ってきた話だが由美は、あの火事で……あの世へ逝っちまったらしい。勿体ない話だ。あれほどのいい女はそうそういない。俺は胸が痛んだ。最後まで、あいつにありがとうを言えなかったことを……。

 焼け跡の路地を子供達は賑やかに走っている。

「子供達はいつだって、無邪気だね」

「ああ、あんな恐ろしい災害さえも遊び場にしてしまう。強いな、子供達は」

「ぼくらも、無邪気な子供みたいになれるかな?」

「ああ、そうだな。もう自分を偽ることはやめるよ」

 力強く微笑む一郎の心には、もはや迷いはなかった。

 澄み渡る青空のように晴れ渡っていた。迷いの晴れた一郎を見つめながら水樹も笑った。

 あの夜のことは……一郎には黙っておこう。だって、ぼくも、あの無邪気な子供達のようになりたいから。

「菜の花も焼けちゃったみたいだね」

「なぁに、俺達で植えてやればいいさ。前のよりも、もっと広大な菜の花畑をつくろうぜ? 

 俺達に希望をくれた菜の花だ。もっと、大きくつくって、もっと多くの人達に希望を持って欲しいからな」

「ああ、それいいね。じゃあ、ぼくも手伝うよ」

 嬉しそうに微笑む水樹を見つめながら一郎は力強く笑って見せた。お前が手伝うのは当然だろう? 一郎はわざと意地悪く微笑んでみせた。

「出逢わなければ良かった、なんてもう言わせないぜ? これから始まるんだからよ」

「うん。そうだね。ねぇ、一郎……」

 照れくさそうに笑ってみせる水樹を見つめながら一郎は微笑んで見せた。

「何も言わなくても判っている。俺とお前とは親友だ。最高の友達だろう? もう離れないぞ。いや、地獄の底までお供させてやるから覚悟しておけよ。それに……あの時の借りは未だ返して貰ってないから、それも返して貰わなきゃいけないからな? 忘れたなんて言わせないぜ?」

 一瞬、一郎が何を言っているのか水樹には理解できなかったが、それがあの時の昼食を奢った話だと思いだし吹き出した。

「意外と細かいこと覚えているんだね」

「あったりめぇだろう?」

「まぁいいや。それよりさ、菜の花畑はどこに作ろうか? 場所、探しに行こうよ」

「それもそうだな。よしっ。水樹、行くぞ!」

◆◆◆27◆◆◆

 出逢わなければ良かったなんて言わせない。全てはこれからはじまるんだ。俺達は今、この場所から歩き出すんだ。そうだよな、水樹?

 吹き抜ける風は暖かく、春の優しさを教えてくれた。自分が何か、誰かなんていいじゃないか? この荒れ果てた大地に一面の菜の花を咲かせようよ。ぼくらは一人じゃないんだ。

 淡い黄色の花がぼく達に希望をもたらしてくれた。出逢って……良かったと、誇りに思っている。

「なぁ、水樹……俺さ……」

「言わなくても判るよ」

「同情なんかじゃ無くてさ、俺……お前のことを……」

 真っ赤になる一郎を見つめながら、水樹は静かに微笑んで見せた。

 二人は青空の向こうまで、歩いていった。ずっと、ずっと、歩いていった。新しい希望を

 胸に抱きながら、黄色い菜の花を咲かせるために……

  終わり