第1話『詩時記〜日本狼冬の陣〜』

◆◆◆1◆◆◆

 彼は何を見つめているのだろうか? その雄々しき姿、勇壮な姿には、彼の歩んできた歴史が確かに刻まれているように思えてならなかった。

 彼の名は白天。かつて…アイヌの地において、蝦夷の開拓者達を悩ませた狼たちの群を率いた頭領。

 その威風堂々たる姿は、今にも動き出しそうな予感さえさせた。

 道立博物館に剥製となって安置された彼を知る者は、もはや殆ど生き残っては居ないだろう。

 これは彼のために綴られた小さな唄。言うなれば彼への賛歌だ。

 白天よ……今一度目覚めよ。再び凍結した歴史の歯車をその手で動かすのだ……。

◆◆◆2◆◆◆

 雪深い蝦夷の地……今年の冬も静かに雪が降り続いていた。シンシンと降り積もる雪は、静かに森を、ただ真白に染め上げてゆく。白く、白く、静かに。

「わぁっ。すごい雪だ」

 陽気にはしゃぐのは幼い子狼。彼の名は銀。

 やんちゃなイタズラ盛りの子狼の姿を見つめながら、父白天は目を細め微笑んでいた。

 銀は幼いながらも意外にしっかりした一面を見せることもあった。群の中での父の位置を知っているのか、彼は決して白天のことを「父さん」と呼ぶことはなかった。

 あくまでも他の狼達がそうするように「大将」と呼ぶのであった。

「淡夢、はやく来てごらんよ。とっても冷たいんだよ」

 雪の上をゴロゴロと転がってみせる銀を見つめながら、淡夢と呼ばれた子狼が苦笑いする。

 彼女もまた、銀と同時期に生まれた子狼。やはり、そこは女の子なのか? どこか大人びた一面を見せる。

「あたしは銀みたいに子供じゃないもん」

「なに気取っているのさ? ぼくと同じ年のクセに」

 蝦夷の地は雪深い大地。今でこそ「北海道」という呼び名があたりまえになっているが、かつては蝦夷の地と呼ばれていた。

 本州より遥か遠く、海を隔てられた地にある……いわば、巨大な島国とも呼べる場所であった。

 この地は未開拓の地であった。明治維新の流れに乗って、開拓者精神あふれる者達が、次々とこの地を訪れるようになったのも当然の流れであると言えよう。

 未知の世界だからこそ夢がある。無限の希望がある。見果てぬ世界へと馳せる想い……新たな時代の幕開けとも呼べる時期だったからこそ、人々は浮き足立っていたのかも知れない。

◆◆◆3◆◆◆

 その日、白天達は狩りに出掛けていた。

 狩りは群が一丸となって行う。幼い子供たちや、年老いた老狼達は、駆りに行かない群を守る役目を担うのだ。だが銀は、そんな習わしが納得できなかった。幼いながらも気力に満ちあふれる銀には、群の中での留守番というのは、些か退屈過ぎた。

「チェ。ぼくだって……狩りくらいできるさ。一人でネズミだって捕まえられるんだ。そりゃあ……あの時は、失敗しちゃって、逃げられちゃったけど、ぼくだって……父さんの息子なんだ。白天の子なんだ。ぼくにだってできるのにさ」

 不平そうに雪を見つめる銀に気付いたのか、老狼の栗が話し掛ける。

「おやおや、銀は退屈そうだねぇ」

「あ、お婆ちゃん……だって、父さ……じゃなかった。大将はぼくを置いて行っちゃったんだよ? ぼくだって……」

 むくれてみせる銀を見つめながら、淡夢が笑ってみせる。

「だから、あんたは子供なのよ。考えてもみなさいよ? あんたみたいな、のろまで、ドジなのが一緒に行ってご覧なさいよ? せっかく捕れるはずの獲物だって逃がしてしまうわ。判る?」

 淡夢は愛らしい顔とは裏腹に、なかなかの手厳しい言葉をぶつけてみせる。手厳しい言葉に、銀は目を白黒させながら黙り込んでしまった。二匹のやり取りを粟は、可笑しそうに微笑みながら見つめていた。

 栗は白天の母にあたる。つまり、銀にとっては祖母にあたる存在である。群の中でも最も年老いているが、それだけに知識も豊富だ。

「チェ。皆揃ってぼくのことををバカにして。もう、いいよ」

「ああ、銀。どこに行くのよ? 遠くに行っちゃ危ないわ」

「……木の実でも探してくるの。淡夢は付いて来ないでよね?」

 ムスっとした表情で去っていく銀の後姿を見つめながら、淡夢は可笑しそうに笑って見せるのであった。だから子供なのよ、と。

◆◆◆4◆◆◆

 雪深い森は静寂に満ちていた。だが、その静寂を打ち破る者達がそこにはいた。豪快なおとを立てながら駆け回るは、うら若き牡鹿であった。

 冬場ということもあって立派な角が美しい。だが、逆に立派な角が妨げになって、上手く逃げることができない。しかも狼達は実に巧妙に、若き牡鹿の体力を奪うように、執拗に追い回す。

「霜吹! 右手に回れ!」

「了解!」

 狼たちの群が突然左右に分かれた。刹那……唐突に静寂が訪れる。

 吹き抜ける風が、雪を舞い上げる音だけが響き渡る。辺りは異様な静けさに包まれた。

 どこだ……どこから来る!? 牡鹿は不意に訪れた雪の静けさに驚いた。

 明らかに周囲から鋭い殺気を感じるのだ。だが、その姿を捉えることは出来なかった。

 動揺する牡鹿を嘲笑うかの様に、不意に狼達の遠吠えが響き渡った。

「なにっ!?」

「抜かったなぁ!」

 背後から霜吹が飛び掛る。だが浅い。

 生命の危機に瀕した牡鹿は必死の抵抗を試みた。

 渾身の一撃、その見事な角で突き上げられ、白天は宙に舞い上げられた。

 だが、すかさず後続の仲間達が一斉に飛び掛る。疲れ切った牡鹿の体力が減少するのを待っていたのだ。一斉に足を狙い飛び掛る狼たち。動きを封じられても、なおも牡鹿は必死の抵抗を試みた。だが、振り返りざまに驚愕した。

「その首、貰ったぁ!」

 一瞬の隙を狙い、白天は牡鹿の喉下に食らいついたのだ。鋭い牙がグイグイと食い込む。

 瞬時に牡鹿は電撃に撃たれたように激しく飛び上がると、次の瞬間、静かに崩れ落ちた。真っ白な雪に牡鹿の鮮血が吹き飛び、あたり一面、まるで花が咲いたかのように鮮やかな色合いに彩られた。

「ウォオオーーーン!」

 若き牡鹿が絶命するのを見届けた白天は、天を仰ぎ、力強く咆哮した。

 それは残してきた仲間達に狩りの成功を告げる声であった。他の狼たちも真似て声をあげる。まるで、一つのコ−ラスのように森に響き渡った。

「兄さん、なかなかの強敵でしたね。」

「ああ。霜吹……ケガはないか?」

 霜吹は白天の弟にあたる。群の中で唯一、白天を大将と呼ばない狼である。

 狩りの成功を喜ぶかのように若い狼達が喜び勇み、調子はずれな遠吠えをしてみせれば、白天が思わず失笑する。

「おいおい、なんだ……その調子外れな声は? 群が迷子になっちまうぜ?」

「もっと力強く吼えるのさ。腹に力を篭めて、天を仰いで」

 白天が率いる群は、狼の群にしては珍しく三十頭ほどの非常に大きな群であった。それだけに弟である霜吹の存在は、群に取っては非常に重要であった。

 勇猛果敢で、少々攻撃的な気質の白天と、穏やかで思慮深い霜吹のコンビは、兄弟で頭領格であるとも言える。

 銀と仲良しの淡夢は霜吹の娘である。兄弟の仲の良さは、子供達にも受け継がれているのかも知れない。

◆◆◆5◆◆◆

 時を待たずして次々と狼たちが現れる。

 若き牡鹿は、獲物としてはそれほど大きくはなかった。これが鹿の群ならば、話は違っていたのかも知れないが、獲物は一頭だけである。皆の腹を一杯にするには遠く及ば無かった。だが、それでも白天は皆に均等に振舞った。それが群習わし。それが狼たちの社会というものであった。

 強い者だけが獲物を手にするわけではないのだ。それは白天特有の考え方であった。

「風花、銀の姿が見えないのだけど、何処に行ったのか知らないかい?」

「あら? そういえばいないわね……どこに行ったのかしら? いつもだったら、呼んでもいないのにひょっこり現れるのに」

 粟の言葉を受けた、風花は怪訝そうな表情を浮かべて見せた。風花は白天の妻にして、銀の母にあたる。栗が苦々しい笑みを浮かべてみせる。

「木の実でも探しに行くって行っていたけど……でも、それにしては遅すぎる気もするね。淡夢や、どこか心当たりはないかい?」

「あたしにも判らないわ。銀はいつも一人で、どっか行っちゃうんだもの。付いてくるなって言って。ああ、でも……どうしよう。あたしが、銀をからかったから……」

 困った顔をしてみせる淡夢を優しく毛繕いしながら風花が笑ってみせる。

「銀のことですもの。お腹がすけばすぐ戻ってくるはずよ。あの子、食いしん坊なんですもの。さっきの遠吠え、ちゃんと聞こえているはずよ?」

 銀はどこか突っ張ったところがある。素直でいい子なのだが、負けず嫌いな性格と、プライドの高さが問題な部分もある。

 風花は敢えて、普段口にはしないが、白天は我が子を少々甘やかし過ぎだと思っている。皆を統率する大将の子であるからこそ、逆に目が届きにくい。

 判ってはいたが、銀に寂しい想いをさせていないかと心配になることも少なくは無かった。

 困った様な表情を浮かべる白天の耳に、唐突に不穏な声が聞こえてきた。

「!……霜吹、聞こえたか!? 今のは銀の声だ……」

「兄さん、銀の奴に何かあったのでは!?」

「おいっ! お前たち、志あるものは手伝ってくれ!」

 そんな問い掛けは野暮ってもんだろう、とばかりに嬉しそうに男たちが立ち上がる。雪深い森の中を、白天を先頭にして、群は再び走り出すのであった。

◆◆◆6◆◆◆

 銀は必死で走っていた。

 雪を踏み分け、真っ白な息を切らしながら、必死で、必死で走った。

「なんだって、クマなんかと遭遇しちゃうんだよ!? 大体クマの分際で、冬眠しないなんて、どういうこと!?」

 今日はなんてツイてないんだろうか、なんて悠長に考えている余裕は無かった。なんだか判らないけれど、やけに機嫌悪そうに追いかけてくるクマは、小さな銀の一体何倍あろうかという巨大な体であった。しかも鈍重そうな外見に反し、意外に敏速でもあった。

「うあ!」 木の根に躓いて、銀は雪の中に突っ込んでしまった。

 ああ……もう、お終いか……銀は死を覚悟した。

 こんなことなら父さんの言うコトをちゃんと聞けば良かった……目を閉じ、静かに死を覚悟した瞬間であった……。

「ガルルルル!」

「なんてでっかいクマだ!? 兄さん、こいつぁ強敵ですよ」

「へ! 丁度いい。でかさでいけば十二分だ。おぅ、おめぇら……この化け物を仕留めて男を磨きなぁ!」

 威勢良く駆け出す白天。クマの周りに一丸となって円陣をつくりあげて見せた。

 狼の群に囲まれて、クマが戸惑う。

 高速でぐるぐると回転され、どこから攻めてくるのか想像もできない。

 怒りが頂点に達したのか、頭に血が上ったクマが乱暴に払い退けようとした、その一瞬の隙を逃すはずが無かった。狙いを定めた霜吹が、勢い良くクマの足に飛びついた。

「がああーーっ!」

 鋭い痛み、激しく暴れだすクマ。だが狼たちは揺るがない。次々と手、足を狙い執拗に攻撃を繰り返す。

 銀は目の前で繰り広げられている激しい戦いに、すっかり腰が抜けてしまった。

「す、すごいや……狩りって……こういうのを言うんだ……」

「貰ったぁ!」

 一瞬の隙を突き、白天の鋭い牙がクマの首を直撃した。だが浅い、皮下脂肪の分厚いクマには致命傷にはならなかった。

 クマと狼達の死闘は、なおも続いていた。だが、如何に森の王者クマとは言え、多勢には叶わなかった。狼達は執拗にクマを攻撃しつづけた。そして……力尽きたクマは、今、静かに倒れた。

「ひゅぅ……なかなかの獲物だったな。まぁ……お世辞にもクマは美味いとは言えないが、これだけのデカさだ。まぁ、腹は膨れるだろう。おう、お前達、先に食いな。食い終わったら、あっちの連中にも伝えてやれ」

 男たちに短く指示を下すと、白天は目の前で腰を抜かしながら震える銀の側までそっと歩み寄った。叱られる! 銀は頭を両手で覆い静かに震えていた。

「……銀、ケガはなかったか?」

「え?」

「ふふ、どうやらケガはなさそうだな。済まなかったな。あまりお前のことを構ってやれなくて。怖かっただろう?」

 優しく微笑む白天の表情は、群の統率者としての威厳に満ちた表情ではなかった。

 目元が緩み、静かに微笑むその顔は父親の顔であった。銀は何も言わずに、静かにうつむいた。

「……大将、勝手な行動をしてごめんなさい」

「霜吹、ちょっと俺は銀と話がある。後は任せたぞ?」

「判りました、兄さん。皆にもつたえておきます。なぁに、ちゃんと銀の分と兄さんの分は取っておきますよ」

 微笑む霜吹に短く礼を告げると、白天は歩き出した。

「銀、ついて来い。」 「……あ。はいっ」

 どっしりとした足取りであるく白天の姿を銀はジッと見つめていた。

 クマの返り血を浴び、所々、傷を負った箇所から血が出ている父の姿に銀は憧れを感じていた。父さんは強いんだ。ぼくも……はやく、父さんみたいに強くなりたいなぁ……。

 そんな我が子の羨望の眼差しに気付いたのか白天が笑う。

「銀、冬眠前のクマはな、意識が薄らいでいるから意外に簡単に仕留められるものだ。もっとも、さっきの様なのは例外だ。あれは相手が悪かった。いくらなんでも銀には荷が重過ぎたな」

 いつもの父さんと違うや。なんだか銀は嬉しくなってきた。

 だって……いつもは、群の先頭にたち、皆を率いている位置に立っているのに、今日はぼくだけの父さんでいてくれるんだもの。

「ねぇ、父さ……じゃなかった、大将?」

「ははは、父さんと呼んでもいいのだぞ? お前は俺の大事な息子だ。それに霜吹は俺を

 大将と呼ばないだろう? 気にすることはないんだ」

「でも……母さんは、大将って呼ぶよ? それにお婆ちゃんも」

「お前は将来、この群の大将になる存在だ。そんな小さなことは気にしなくて良い」

 静かに微笑む白天は、どこか優しい目をしていた。

◆◆◆7◆◆◆

 父と二人、どれほど歩いただろうか? いつしか雪も止み、静かな香りが漂って来た。

 不意に白天が歩を休める。

「銀、疲れただろう?」

「……これくらい平気だよ。だって、ぼくは大将になるんだもの」

「ははは。そうか、そうか。それは頼もしいな。ほら、銀……見てご覧?」

 静かに白天が示す方向を見れば……そこは一面の銀世界。

 眼下に広がる広大な大草原は、真白な雪に包まれキラキラと輝いている。遥か彼方には、連なる山々が目に入った。目に入る物の全てが白一色に包み込まれた世界。その雄大なる光景に、銀は声も出なかった。

「わぁ。すごいや……きれいだなぁ……」

「気に入ったか?」

「うん、すごいや。父さんは物知りなんだね」

 嬉しそうに目を輝かせながら、銀は父の顔を覗き込んで見せた。

「ねぇ。あの大きな山の向こうには何があるのかな? あの広い雪の中には何があるのかなぁ? 冷たいのかな?」

 銀は好奇心に満ちた目で、嬉しそうにはしゃいで見せた。

「銀が……もっと大きくなったら、きっと判る。だから、あまり無茶なことをして、皆を困らせてはならないぞ? 皆、お前を息子の様に、弟のように思っているのだからな。皆がお前を我が子のように思っているのだ。群において子は財産だ。お前は皆の子でもあるのだ。だから、決して危険なことはしてはならないぞ?」

 白楽は穏やかな笑みを浮かべながらも、威厳に満ちた眼差しで銀をじっと見つめていた。敢えて、自分と同じ目線で語り掛けてくれる父の優しさに、温かさに、銀は温かな想いを感じていた。

「うん、ごめんなさい」

 謝りながらも、銀は周囲の景色を今一度見渡してみた。

「ねぇ、父さん。ぼくがオトナになって、大将になったら……一緒にあの山の向こうまで歩んでくれる? 何があるのか、ぼく知りたいんだ。見てみたいんだ。ぼくの目で」

 嬉しそうに微笑む銀を、優しく毛繕いしながら白天は微笑んだ。

「ああ、きっとだ。約束だぞ?」

「うん、約束だよ。男と男の約束だからね? もしも約束破ったら……ぼく、もう父さんって呼んであげないからね?」

「おいおい。そりゃあ厳しいなぁ」

 白天は可笑しそうに微笑んで見せた。

「ああ、約束するさ……」

 白天は再び微笑むと、静かに天に向かって咆哮して見せた。

 まるで、それが約束の記しであることを示すかのように。銀も真似して遠吠えしてみたが、どこか様にならない遠吠えであった。

「うーん。ぼくのは、なんかヘンな遠吠えだ」

「ははは。さて戻ろうか? 腹もすいたであろう?」

「うん。ぼく、お腹ペコペコだよ。えへへ、父さん、早く行こうよ!」

 銀はくるりと向き直ると威勢良く走り出した。静かな雪の上に、銀の小さな足跡と白天の大きな足跡が残った。いつまでも、森は静かに、雪はシンシンと降り続いた。

◆◆◆8◆◆◆

 静寂に包まれた森に軽やかな銃声が響き渡る。驚いた鳥たちが、一斉に羽ばたく音が響き渡る。開拓者達が枯れた木々の枝を踏み分けながら森を歩む。足元にはイノシシが力無く横たわっていた。

 未だ蝦夷の地においては、開拓は思うように進んではいなかった。やっとのことで、小さな村が試験的に作られた程度でしか無かった。

「ああ、伏見さん。やりましたよ。見てくださいよ?」

「ほぅ? これは中々見事なイノシシだ。今宵の食事は牡丹鍋だな」

 まだ若さの残る指導者。明治維新の流れにしたがい政府のお偉いさんに成り上がった人物。とは言っても華族の出という訳ではない。生真面目な彼は、その気質を買われこの村を統括するに至ったのだ。

 開拓地は殆ど手付かずで、大半が未開の地という有様であった。

 ましてや政府としても初めての試みという事情も手伝い、アイヌの地とやらに興味がある彼が抜擢されたのだ。

 彼の名は伏見。後に彼は……白天との熾烈な戦いの歴史に、その名を残すこととなる。

「しかし、開拓もなかなか進まないもんですなぁ」

「ああ、無理も無い。何しろ我々にとっても始めての試みだ」

 しかも蝦夷の地は、人跡未踏の世界である。未知の危険性を考えながらの行動ということで、開拓の進行状況はすこぶる芳しくない状況であった。

 中でも土着の動物達は、開拓者達の最大の関門となっていた。

 敢えて、寒さの厳しい冬場を選んだのは、蝦夷の地における獰猛な動物たちの冬眠の時期

 と重ねるためであった。だが、中には冬眠しない動物たちもいる。

 そう。開拓者達を最も悩ませたのが狼たちであった。

 未だ被害と呼べるような攻撃を受けた訳ではないのだが、狼という生き物は群て行動するものである。一度、争いになれば、非常に厄介な相手になる。今はまだ開拓者しかいないから良いが、やがて開拓も進めば住民も増えるようになるだろう。戦う力を持たない住民達や、大自然への畏敬を持たない住民達も増えるだろう。そうなった時に、狼の存在は厄介な問題になるかも知れない。伏見は頭を悩ませていた。無論、共存できるのが最良の策なのであるが……。

「伏見さん、そろそろお昼ですよ。食事にしましょう?」

「ん? もうそんな時間であったか。おーい、皆の者、食事の時間であるぞ!」

 静かに歩みだす伏見を見つめる瞳があった。

 切り立った崖の上から、鋭い眼光で開拓村を睨み付けるのは白天と、霜吹であった。

「人間?……何故、この蝦夷の地にまで侵略してくるのか?」

 白天は苦い顔で霜吹を見つめた。

「ええ。判っていますよ。だけど、兄さん……早まってはいけませんよ?」

「うむ。判っているさ。お前が心配するような、早まった行動に至ることは無い」

 兄弟は静かに開拓村を後にした。

 再び雪が降り出した。静かに優しく、淡い冬の香りを残して。

◆◆◆9◆◆◆

 やがて冬も深まってくれば、蝦夷の地はいよいよ寒さも増し、真冬の様相を放ち始める。そんな中でも子供達の成長は目覚しいもので、銀も随分と大きくなった。とは言え、未だ幼い子供であることには変わりは無い。

 体も一回りも、二回りも大きくなろ、ますますイタズラにも力が入るようになった。だが、以前のような群の秩序を乱すような悪さはしなくなった。その点に冠しては白天も安心しているように見えた。だが、だからこそ、白天の頭の中には人間たちに対する危機感が渦巻いていたのだ。

「今日も雪……ああ。まったく、寒いわよね」

 吐く息も真っ白な雪景色のなか、淡夢が震えてみせる。

 傍らには相変わらず銀が控えていた。仲が良いのか、悪いのか、二匹はいつも一緒にいた。群を追って立つ二人だと囁かれれば、淡夢も銀も必死で否定してみせるのであった。

 不意に森の中に、白天の遠吠えが響き渡った。

「あ。父さんが呼んでいる。ま、ぼくはまだ子供だから……」

 苦笑いしてみせる銀。

 判っているんだ。まだ、ぼくは父さんみたいにはなれないもの。もっと、大きくなるまで……。

「そういえば銀、聞いた? 人間達が森をどんどん切り開いているんですって。怖いわね」

 幼い銀には人間という生き物が、どういう生き物なのかは良く判らなかった。

 人間……一体どんな生き物なんだろう? ぼくらよりも強いのかな? でも、どんな奴がきたって怖くないさ。だって、ぼくの父さんは絶対に負けないもの。

◆◆◆10◆◆◆

 白天は皆を集めていた。重々しい口調で語られる言葉は開拓者達の話であった。

 いつしか雪も止み、冷たい風だけが吹き抜けていた。時折、風に巻き上げられるように粉雪が舞った。

「大将、話は……人間共の話ですね?」

 若い狼達が目を光らせながら話を切り出した。

 白天の群だけではない。他の狼たちの群も人間たちを警戒しているのだ。それは、他の群との交信からも明らかになった事実だった。

 中には既に開拓者の攻撃を受けて、壊滅的な状態に陥った群もあるというではないか。

 ここ、蝦夷の地は言うなれば隔離された島国なのだ。領土面積こそ広いものの、隔離された大地であるということは見逃してはならない事実なのだ。

「大将……人間共を退治してやりましょうよ」

「そうだ、そうだ。侵略者を排除しろ!」

「おおー!」

 白天の群では意見が二つに割れていた。真っ向からの対決を望む連中と、あくまでも保守的に考える者たちに割れていた。

 群の中での意見の食い違いは様々な場面において群の中での秩序を乱すことになる。

 だからこそ白天は皆をまとめ、導かなければならなかった。かつてない危機に直面しているからこそ、知恵を絞らねばならなかったのだ。

「大将! 俺達に指示を!」

「我々は直接対決を望まない……我らの目的は戦うことではない。それは、人間とて同じ筈だ。生きるために人間たちはあくまで、自衛のために戦っている筈だ。それは我らとて同じこと。それに……皆が皆、戦いに優れているわけではないのだ」

 白天の言葉に若い衆はどこか納得のいかない表情をしてみせた。

 気持ちは判らなくは無い。我らの領地に土足で踏み入ったのだ。それなりの償いをしてもらうのは至極当然のことと言えよう。

 だが、白天は危惧していたのだ。不用意な争いによって群の仲間を失うことを。無意味な争いがさらに飛び火することを。

◆◆◆11◆◆◆

 伏見は森を視察していた。村の規模も大きくなってきた。

 以前のような荒っぽい管理の仕方では、新たに村に訪れた幼い子供や、女性たちを守ることは困難になることは確実であった。

 それでなくても、土着の得体の知れない病に悩まされる者も現れ始めたというのだから、伏見は尚のこと、焦りを隠せなかった。

 狂犬病という病の恐怖を、伏見は蝦夷の地にくるまで認識していなかった。

 狼に噛まれた猟師が……狂ったように暴れ出したという事実を目の当たりにしたのは、ほんの数日前のことであった。

 その病は狼に起因する病……狂犬病というらしい。

 伏見は決断を迫られていた。上層部は……あくまで、土着の狼の「排除」を命じたのだ。確かに、それは開拓村に生きる者たちの共通の願いでもあった。

 だが伏見は争いを望まなかった。あくまでも……土着の動物たちとの共存を彼は願っていたのだ。元来、ここ蝦夷の地は未開の地。先住していた動物たちを退けてまで、「侵略者」たる人間風情があぐらをかくのはあまりにも理不尽ではなかろうか? ここにきて伏見は政府の考えが見えなくなっていた。

◆◆◆12◆◆◆

 冬……シンシンと降り続く雪は未だ止む気配すら見えなかった。

 雪原には今日も雪が降り続いている。すっかり冬も深まってきた。辺り一面の雪原……厳しい冬は狼たちにとっても非常に過酷な季節であった。

 獲物たちは皆、冬眠についてしまう。だからこそ、食料の確保に必死になるのであった。それは白天たちとて例外ではなかったのだ。

 他の群は……開拓地に飛び込み、間抜けな人間どもを獲物にしたという話を聞いたが、それこそ愚の骨頂だと白天と霜吹は頭を悩ませた。

 そうした行為は、ますます狼と人間との距離を隔たらせることになるのだから。やはり、人間との争いは避けられぬのであろうか?……その日も白天は、何時止むとも知れぬ雪を見つめ憂いていたのだ。

「……霜吹か。どうだ、人間たちの動きは?」

 開拓村の偵察から戻った霜吹の表情は重苦しかった。

「兄さん、大変ですよ。人間たちはいよいよ我々の本格的な討伐に動き出してしまったようです」

 悲しい表情で語る霜吹の言葉に、白天は、もはや一刻の猶予もないことを感じるのであった。やはり戦いは不可避なのだろうか?

「ねぇ、父さん……ぼくたち、何も悪いことしてないよね?」

「ん? どうした、銀……ああ。そうさ。俺達は何も間違ってはいない」

「どうして、ぼく達、仲良くできないのかなぁ……ねぇ、どうしてなのかな?」

 幼い銀は、純真な瞳を輝かせながら、父白天に静かに尋ねた。

 だが白天には応えられなかった。答えなど判らぬ。それが正直なところであった。だが白天はそっと銀を見つめてみせた。

「銀……お前が産まれてから、もう一年が経つのだな。いつか、あの山の向こうに何があるかと、お前は問うたな?」

 静かに、優しく語り掛ける白天の表情に、霜吹は一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。

 父の問い掛けに、銀は嬉しそうに返してみせる。ずいぶん大きくなったが、まだまだ幼い子供であることには変わりは無いのだ。

「うん。いつかきっと一緒に行こうねって、約束したよね」

「そうだ。約束は一日たりとて忘れたことは無い。だから……銀よ。お前も、一つ約束をしてはくれないか? きっとお前との約束は守ろう。だから、一つ……俺との約束も守っては貰えないだろうか?」

 銀は一瞬戸惑った。まさか、父さんから頼み事をされてしまうなんて。

 なんだか、急にオトナになったみたいに思えて、銀は胸が高鳴った。

「う、うん。もちろんだよ」

「銀……あの山の向こうにはな、春があるのだ」

「春?」

「そう。春だ。今は一面銀世界だろう? だがな、春になれば木々は芽吹き、雪は解ける。次いで草が生え、色鮮やかな花が咲く」

 父の言葉に銀は嬉しくなってしまった。

 春……ぼくが生まれた季節。でも、あの頃のぼくは、今よりも、もっと、もっと、小さかったから春がどういう物かは、殆ど覚えていない。

「だからな……銀、お前は生きなくてはいけない。いいな?」

 なぁんだ。そんなことなんだ。銀は思わず拍子抜けしてしまった。

 だが白天はあくまでも真剣なまなざしで、我が子を見つめていた。思わず銀は照れくさくなってしまった。大好きな父に、誰よりも尊敬する父に、あまりにもジッと見つめられていることが、何だか緊張して仕方が無かった。

「父さん、ぼくね……きっと、大きくなったら……父さんの後継ぎになるよ。みんなにね、大将って呼ばれるような勇敢な狼になるんだ。ねぇ、父さんぼくも……父さんみたいに強くなれるかな? 霜吹おじさんみたいに強くなれるかな?」

 銀の問い掛けに、霧吹は優しい笑みを浮かべながら、頭を撫でてみせた。

「ああ、なれるさ。銀は……兄さんの自慢の子だからね」

「そっか。えへへ、良かった」

 嬉しそうに銀が微笑んだ瞬間、静かな森の中を銃声が駆け抜けた。

 一瞬のうちに森に戦慄が走る。ザッザッザ……枯れ枝を踏み分ける音。その音は無数の足音であった。

 まさか……人間が!? 白天の表情が一気に険しくなる。もう……こんな山奥まで開拓の手は伸びてきてしまっているとでも言うのか? なんということだ。

 だが、白天をさらに驚愕させたのは、まったく別の場所から聞こえてきた咆哮であった。それは……間違いなく、戦いを告げる鬨の声であった。

「霜吹、今のはまさか!?」

「愚かな! 月光の奴め……この地で争いを巻き起こす気か!?」

 月光は、白天の群の中でも若いながらも、力のある狼であった。

 少々無鉄砲で短気な部分が、白天は以前から気になっていたのだ。若さ故の無茶な行動……その気持ちは判らなくも無い。だが、群で生きるということは、秩序を乱してはならないのだ。

 既に幾つかの群が消滅したという話も入ってきたのだ。いずれも、群の中での内乱が原因とのこと。白天は自らの力の至らなさ、不甲斐なさを嘆いた。だが、時は流れが止まることは無かった。

「けッ! 人間共め……好き勝手させるかってんだ!」

「おうっ、白天の旦那にゃあ悪いが……俺達にはもう、後は無いんだ」

 ザッザッザ……静かな森に響き渡る音。若い狼たちは静かに雪に紛れて人間共が接近してくるのを待った。

 先頭を歩むのは毛皮を着込んだ数人の狩人。その後ろを歩むのは伏見であった。

 伏見は森を頻りに見渡していた。

「……なにやら妙な気配だ。あまりにも静か過ぎる」

「言われてみりゃあ、確かにそうですな。こいつぁ、案外、近くに狼が潜んでいるかも知れないですな。気を付けないと……」

「ああ。先日の狼の襲撃以来、村は完全に混乱状態だからな」

 伏見は、そっと目を閉じて苦い過ちを思い出していた。

 そう……ほんの数日前のことなのだ。あの一夜の戦いを、伏見は忘れることが出来なかった……多くの命を失ったあの夜の惨劇を。

◆◆◆13◆◆◆

 夜更けの開拓村は静かな静寂に包まれていた。

 冬の夜は静かに更けてゆく。いつしか雪がチラチラと舞い降り始めれば、寒さも増してゆく。

 雪に紛れるように静かに近づく脅威……切り立った崖の上から眼下の開拓村を見下ろす狼たちの群。不敵に微笑んでみせる。

「フン、人間風情が我らの領地に土足で踏み入った罪を償うが良い……我らが血となり、肉となり、永遠に生きるが良い……フフフ」

 一匹の狼が、天を仰ぎ力いっぱい咆哮してみせた。

 その叫びは森を震撼させるほどの、圧倒的な呼び声であった。やがて群が集うと、頭領格の狼が静かに駆け出した。一斉に他の狼たちも後に続いた。

 夜更けの開拓村は平和な静寂を保っていた。だが、その静寂を打ち破る喧騒があった。

 狼の遠吠えは、低く響き渡り、体に振動として感じた。異変に気付き目を覚ました者たちは、その脅威に気付くのであった。

「あ、あ!……お、狼だぁ!」

 人々は慌てて駆け出すと、慌てて半鐘を叩いた。静寂に包まれた開拓村に、震撼が駆け巡る。次々と家々に明かりがつく。

 だが狼たちは怯まない。村の中を我が物顔で駆け回って見せた。幼い赤子が火のついたように泣き出す。不意に頭領が足を止めると、鋭く反応する。

「ウオオォォォォン!」

 その威圧的な吼え声は、明らかに攻撃に意を示すものであった。

 家の戸を体当たりで打ち砕くと、狼達は一斉に転がり込んだ。

 おびえる母と、泣き叫ぶ赤子。その光景を目の当たりにした狼達が嬉しそうに笑う。

「おい、野郎共……ゴチソウだ……掛かれっ!」

「きゃあああ!」

 狼たちは一斉に、無抵抗な母に、幼い赤子に食らいついた。

 一瞬で勝負は終わった。他の動物たちと異なり人間は非力だ。

 そのことに早くから気付いていた頭領は、この村を襲撃する機会をじっと窺っていたのだ。容易く食料を調達できて、なおかつ侵略者の排除にも繋がる。一石二鳥ではないか? 不敵に笑う頭領であったが、人間たちの反撃に一気に旗色が悪くなった。人間たちは一斉に銃を構えた。

「ひ……ひぃいい!」

 軽やかな銃声と共に、撃たれた狼が花火のように散った。

 目の前で腹を割かれた仲間の姿を目の当たりにし、狼達は震撼させられた。

 人間共め……こんな力を持っていたのか!?……だが、我らとて森に生きる者! こうなれば、刺し違えても構わぬ! 我らの誇りに掛けて貴様らを討つ!

「ガルルル!」

 狼達は目の前で仲間が撃たれたのを見て、怯むどころか、ますます勢いを増して攻撃を仕掛けた。

 不慣れな狩人の喉笛をかっ切れば、別の人間に撃たれ、また一匹、また一匹と、その数を失っていくのであった。

 もはや逃げ道などないわ……それならば、責めて……一矢報いてくれる!

 狼たちの必死の攻撃は熾烈であった。命を掛けての攻防戦は悲惨な争いとなった。村は大騒ぎになっていた。

 その怒りに満ちた獰猛さで狼たちは必死で戦った。それは、まさに……戦時中の特攻隊を思わせるほどに勇敢で、死を恐れることなく戦った。

 森に生きるもの、蝦夷の大地の守護者として狼達は必死で戦った。

 日が昇る頃……狼達は全滅した。だが、人間達も無事では済まなかった。

 無残に転がる、人間だった者達の「破片」と土に深く染み込んだ鮮血だけが残された。

 ことの報告を政府に告げなければならなかった。この惨状に伏見は肝をつぶした。偶然にも彼は、新たな開拓地を求めて、他の仲間たちと共に野営に出掛けていたのだ。そのため、村の惨劇を知ったのは、村に戻ってきた翌朝のことであった。

 大自然の脅威とは良く言ったものだ。伏見は遠い目で、何処までも晴れ渡る、透き通った青空を見つめていた。空は……憎しみを感じるほどに、青く、美しく澄み渡っていた。

◆◆◆14◆◆◆

 別の群の全滅の報は、最後まで生き延びた頭領格の狼が最後に放った、全身全霊の怒りを込めての咆哮であった。

 その声は白天の耳にも届いた。だが白天は同情の感情など微塵も抱かなかった。

(愚かな……ますます戦火を拡大させるとは、何ということをしてくれたのだ……)

 白天は傍らで静かに眠る、我が子を優しく毛繕いしてみせるのであった。

「銀よ……お前は、生きろ! 俺の分まで……いや、他の仲間たちが皆、生き絶えたとしても、お前だけは生き残れ! お前は……蝦夷に生きる日本狼たちの……最後の希望なのだ」

 むにゃむにゃと愛らしく寝ぼける我が子を見つめながら、白天は再び静かな眠りに就いた。

◆◆◆15◆◆◆

 それから数日は完全なこう着状態が続いていた。

 開拓村はあくまでも静寂を守っていた。村人達は家々に篭もり、戸を堅く閉ざしたまま、一歩も外に出ることはなかった。

 白天たちも、このまま人間たちが静寂を保ってくれれば平和な共存は可能であるのではないかと考えていた。

 伏見も……これでいいのだと考えていた。確かに、村は狼との対峙という非常に危険な状態にはあったが、人間側が危害を加えなければ問題はないと考えていた。だが、厄介な前例が出来てしまったのだ……狼たちが加害者側に立ってしまったのだ。これでは伏見の説得もまるで効果を示せない。

 実際……無残に命を失った者たちの数は、相当の数にのぼったのだから。

 そして……さらに、彼の苦悩に追い討ちを掛けるかのように彼のもとに一通の手紙が届いたのだ。差出人は……山辺と書かれていた。政府のなかでも、開拓に特に力をいれ、期待をしている人物だ。上層部の人間からの直々の手紙が、どれほどの権力を持つかを伏見は心得ていたのだ。恐らくは、絶大なる権力を片手に、逆らうことの出来ない命令を下すおつもりであろう。伏見は大きく溜め息を就いた。

◆◆◆16◆◆◆

 東京。蝦夷の地ほどの寒さこそないものの冬の厳しい寒さに、都会の街並みは賑やかな様相を呈していた。

 どこまでも続く大平原はそこにはなかった。大勢の人々の住む街。

 その中には、蝦夷の開拓地に希望を抱く者たちも多く存在した。中でも、戦火で家を失ったもの……あるいは、新しい時代に夢幻の希望を抱く若い男たちが、開拓地への移転願いに殺到していたのだ。

 だが……現状は決して思わしくない。そう。狼たちによる大規模な被害は、あくまでも人間側の被害だけを強調して報じられたのだ。

 その結果、開拓地への進展を断念する者たちが後を絶たなくなったのだ。これでは開発事業に、莫大な資金をつぎ込んだ政府としては赤字になってしまうと断念した。そこで、政府は伏見に指令を下したというのだ。

 都会の喧騒をも静かに見下ろす、静かな屋敷。

 山辺の屋敷は静かな木々に囲まれた煉瓦造りの旧家であった。書斎にて彼は、伏見からの開拓地の報告書に目を通していた。静かに報告書を読んでいた山辺であったが、そっと眼鏡を外した。

「一体、どれほどの被害を出せば気が済むというのだ? 伏見君は何を考えているのか?私には君の考えは理解できぬ」

 山辺は大きなため息を就いて見せた。腕を組み、静かに考えると……静かにペンを手にして、手紙を書き始めた。

「いいか、伏見君。理想論だけでは机上の空論に過ぎんのだよ」

◆◆◆17◆◆◆

「なんということだ……上層部は、あくまでも自然との共存では無く、自然を服従させる道を選ぶというのか?」

 手紙を読み終えた伏見は、静かに崩れ落ちた。肩を落とし、小さく体を振るわせていた。

「伏見さん?……大丈夫ですか?」

 手紙を持ってきた猟師が怪訝そうな顔をしてみせる。

「上からの命令だ。この地に住む狼たちを……一匹残らず全滅、駆除し、住民たちが安全に暮らせるように。速やかに任務を達成するようにと……」

「なんと!? しかしながら、伏見さん。それは正論かも知れませんな。狼たちは確かに危険な動物だ。我らを……」

「バカな!……もともと狼たちは、この地に生きる土着の動物たちなのだぞ? 生態系の破壊は我らにも影響を及ぼす。第一、我らが狼たちを完逐しても良い権利などどこにもないではないか!? 人間はそんなに偉いのか!?」

 いきり立つ伏見を冷たい目で見つめながら、猟師は嘲笑してみせた。その渇いた笑いに伏見は目を失った。

「伏見さん……理想論じゃあ、人は生きられない。俺達は生きるために戦っているんだよ。あんたは甘すぎるんだよ。現実を見据えていない。それに……上からの命令なんだろ?

 残念だが、仲間たちは皆一同に、上の命令に従うぜ。お上に逆らったら、飯食えなくなっちまうんでね」

 もはやここまでなのか。済まぬ、狼たちよ。恨むなら私を恨め。力なき私を憎め。許せとは云わぬ。せめて……最後まで、この身を掛けて、人が犯した罪を償おうではないか。

◆◆◆18◆◆◆

 その日は静かな冬の朝であった。昨晩遅くまで降り続いていた派手な吹雪も止んだ。

「わぁー。いいお天気だ」

「あら、銀。今日は珍しく早いのね?」

 背後から可笑しそうに笑う声に気付き、振り向けば淡夢が佇んでいた。相変わらず、きれいな毛並みの少女は、朝日の光を受けて、殊更美しい毛並みを輝かせて見せた。

「えへへ。お腹すいちゃってさ、目がさめたんだよ。」

「まぁ、呆れた。なんて食いしん坊なのかしら?」

「でもさ、最近、天気が悪くて、父さんたちは狩にも出掛けられないからさ、まともな食事してないんだ。お腹すいちゃって、お腹すいちゃってね。でも、雪も止んだからね」

 銀は嬉しそうに微笑んで見せた。確かに、言われてみれば自分もお腹空いたなと、苦笑いしてみせる淡夢であった。 「あら、二人とももうお目覚めなの? 今朝は寒いわね。銀、お腹空いたんじゃないの?」

 銀の顔色を伺いながら、穏やかに微笑む母、風花であった。やんちゃ坊主銀も母、風花には決して頭が上がらなかった。母は穏やかな笑顔を絶やさないが実にしっかりとしていて、抜け目がない。そういう意味では白天よりも、ずっと怖い存在であった。何しろ、銀の考えなどすべてお見通しなのであるから。だからこそ銀は頭が上がらなかった。

「あれ? 父さんたちは?」

「ふふ、寝坊助なあなた達よりも早起きして狩りに出掛けたわよ。銀もそろそろ狩りに参加する頃ね。でも……フフ、もっと、早起きできるようにならないと、いつまで経っても

 一緒に連れて行ってもらえないわね? ちゃんと、頑張らないとね」

「う……頑張って早起きするよ」

 横で淡夢にクスクス笑われて、ますます格好悪い銀はわざとそっぽを向いて見せるのであった。

 だが、森は静けさを失いつつあった。ザッザッザ……忍び寄る侵略者達の不吉な足音。

 銀たちは、まだ気付いていなかった……迫り来る者達の存在に。

◆◆◆19◆◆◆

 時同じくして、白天達もまた獲物を追い掛けていたのだ。

 丁度、目を覚ましたばかりの鹿だ。それも数頭まとめてだ。これは大きな収穫だ。いつにも増して白天たちは注意深く、そして執拗に獲物達を追い掛けていた。これだけの獲物をみつけられるのは滅多なことではないはずだ。銀にも腹いっぱい食わせてやれる。

「霜吹、風下に回れ!」

「了解、兄さん!」

 雪に足を取られ、身動きすらまともに取れない。鹿たちは、群れているからこそ、ますます身動きが取れなくなる。その絶好の好機を逃すわけもない。白天達は一斉に飛び掛ろうとした。

 まさに、その瞬間であった! パ−ン! 静寂を打ち破るような派手な銃声が響き渡った。どこかで木々に積もった雪が落ちた。鳥達が一斉に羽ばたいていく音が響き渡った。

 そして……どこからか、狼たちの断末魔の悲鳴が響き渡った。

 白天の、霜吹の体に激しい衝撃が走った。目の前の鹿が慌てて逃げ出したが、狼達はしばし身動きが取れなかった。そう。その声は……間違いなく、白天の群の方角からであった。白天は全身を駆け巡る激しい衝撃に震撼した。しばし、身動きを取ることさえ出来なかった。

 それは恐怖、それは怒り、それは祈り、それは……命の叫びであった。

「……し、霜吹! 戻るぞ!」

「はいっ! みんな撤収だ!」

◆◆◆20◆◆◆

 静けさを保ったまま、森は静かに鳴いていた。

 痛みに震え、怒りに身を焦がし、何かを唄い続けていた。

 シンシンシンシン……再び雪が降り始める。うずくまる狼達は真白な雪に、鮮血の赤い花々を咲かせていた。その美しさ、その儚さに、森が鳴いていた。

「……!」

 息を切らし、必死で走りこんできた白天は想像を絶する光景を目の当たりにしてしまったのだ。

 そこには……無数の狼達が倒れていた。馬鹿な! 一体誰がこんなことを!?……そうか……人間か……人間どもが、俺の仲間達を! 俺の家族達を!

「ううっ、は、白天……」

 木々の葉に隠れる様にうずくまった、風花が、消え入りそうな声を枯らして囁く。

「ふ、風花!?」

 もう助からないことを悟ったのか、風花は静かに微笑む。その優しさに満ちた微笑は、慈愛に満ち溢れた母親の笑みであった。

「は、白天……大変よ。人間どもが……責めて来たの……それだけじゃないわ……銀と……淡夢が……連れ去られたの……」

 息も絶え絶えに、苦しそうに語る風花の言葉に白天は驚きを隠し切れなかった。なんだと!? 銀が……銀が!

「ああ、白天……あたしはもうダメみたい……お母さん、きっと近くにいるから……捜してあげて……それから……銀を、守ってあげて……白天、後は頼んだ……わよ……」

 風花は静かに目を閉じた。真白な雪原には

 無数の仲間たちの遺体が転がっていた。その異常な光景、無残すぎる現実に白天は、もはや我を見失っていた。

「人間どもよ……許さぬぞ……我が同胞たちの痛み……怒り、憎しみ、悲しみ……お前たちに教えてやろうではないか!」

「兄さん、落ち着いてください! そんなに熱くなった頭で、人間どもの群に飛び込めば犬死も同然! 仲間達の敵討ちどころか、あっけなく我々がやられてしまいます! それに……銀を救出するほうが先です。兄さん、冷静に考え直してください!」

 霜吹はあくまでも冷静であった。悲しみを隠すためなのか、怒りを抑えるためなのか、努めて冷静に振舞っていた。その言葉に白天は静かに息を吐いた。そのまま空を見上げた。

「良かろう。銀は……我らの希望の星。きっと……」

◆◆◆21◆◆◆

 銀と淡夢は猟師達の手により捕らえられてしまっていた。

 銃を手にした人間たちに追い掛けられ、狼達は必死で抵抗を試みたのだ。だが、銃を手にした人間にはとても叶わなかった。力なく倒れ往く母の姿を目にした銀は、涙さえもでなかった。ただただ、恐怖の余り、身動きが取れなかった。

「離せよーっ! くそぉっ!」

 銀と淡夢は必死で抵抗をした。だが、非力な二匹は、呆気なく人間の手に捕らえられてしまったのだ。

 子供である銀と淡夢は未だ、大人の狼のような殺傷力は持ち合わせていない。

 だからこそ子供の遊び相手にとでも、思ったのであろうか? はたまた見世物にでもするつもりであったのか?

「何よ、離しなさいよ! あんた達なんか、パパと白天おじさんがやつけちゃうんだからね!」

 威勢良く吼える二匹を見て、猟師達は不敵に笑うばかりであった。

 開拓村の広場で二匹はおろされた。まるで見世物だ。

 猟師達の行動に伏見は渋い顔をしてみせた。上の命令とはいえ……なぜ、このような!

「……うわぁっ!」

 急に落とされて、銀は思わず悲鳴をあげてしまった。

 その声を聞き付けた、村の大人達が、子供達が、一斉に集ってきた。あの恐ろしい狼の子供など捕まえてきて、一体何をするのだろうかと不思議そうに見つめていた。そんな彼らを見回しながら、猟師は高らかに叫んだ。

「みんな、見てくれ! 狼は……群で行動をする習性を持つ生き物だ。こいつらが何だか判るな? そう。狼の子供さ……こいつらが生け捕りにされている限り、奴らは襲撃を仕掛けてくることなど、出来やしないのさ!」

 馬鹿な……何と浅はかな認識なのだ……まったく逆の展開になるだけだ。

 狼達は確かに群で行動をする習性がある。だからこそ……こんなことをすれば、ますます彼らの怒りを刺激することになるに違いない。

 なんと愚かなことを思い付くのか……思い上がったその行い、裁かれるが良い……。

 伏見は静かに目を細め、幼い二匹を見つめた。見れば、なんとも愛らしい顔をしているではないか? この狼たちは……無意味に人を襲うような野蛮な行為などしないはずだ。全ては人間が悪いのだ。そう。彼ら、先住の者達が済む楽園に、土足で踏み込んだ人間が悪いのだ……。

「うわぁ。子供の狼って可愛いんだねぇ」

 好奇心を抱いたのか、一人の少年が檻に近づいて見せた。

 そっと檻に指をいれた瞬間、淡夢が飛び掛った。渾身の力でその指を噛んだのだ。幼い淡夢とて決して力がないわけではない。こと狼の牙は鋭いのだ。

「うわああああああ!」

「きゃああ! うちの子が! うちの子がぁー!」

 もはや広場はパニックと化していた。怒りに身を震わせ猟師が檻を開いた瞬間、渾身の力を込めて淡夢が叫んだ。

「銀! 逃げるのよ!」

「駄目だよ! 君を置いて逃げるなんてできないよっ!」

「んもう、こんな時にまで、何言っているのよ!? 早く逃げるのよこのノロマ! さっさと逃げるのよ!」

 吼える淡夢を鷲づかみにすると、猟師は怒りに満ちた目で睨んだ。

「この……クソガキめ、フザけたことを……!」

 なおも怒りに身を震わせながら、淡夢は激しい攻撃を繰り返した。猟師の顔に鋭い爪を走らせると、辺り一面の人間達に手当たり次第、襲い掛かった。

「早く! 早く! 助けを呼んできてよっ! お願いよ、銀!」

「わ……わかったよ!」

 今まで見せたこともなかった、淡夢の険しい表情に銀は恐怖さえ感じていた。

 追い掛けてくる人間たちを振り切ると銀は必死で走った。必死で走った。決して、後ろを振り向かずに……。

「……銀、あたしの分まで生きてね? 離れちゃっても、ずっと、友達だよ? あたしとあんたは……ずっと友達なんだからね……」

「この、クソ狼め!」

 猟師は力いっぱい鉈を振り下ろした。

 刹那……幼い狼の、悲しい遠吠えだけが響き渡った……。

◆◆◆22◆◆◆

 森の奥では無数の狼たちの亡骸に寄り添うように生き残った狼達が佇んでいた。

 静かな夜は、雪の降る音さえも聞こえないほどに静かであった。静寂に満ちた森の中に、木の枝を折る音が響き渡る。

「誰だっ!?」

 白天が険しく牽制してみせる。他の狼達も低い唸り声をあげて威嚇をはじめた。だが……そっと現れたのは、疲れ果て、憔悴しきった表情の銀であった。

「ぎ……銀っ!? 無事だったのか!?」

「……と……父さん……うう、ううっ、淡夢が……淡夢が!」

 銀は今まで堪えていた感情が、すべて溢れ出したのか、力ない自分を呪い、現実を憎み、ただただ泣いていた。

◆◆◆23◆◆◆

 もはや白天には後戻りする気持ちなど、微塵も残されていなかった。

「みんな、聞いてくれ……もう、ここまで来た以上……退くことはできない。森はどんどん侵略されていく。仲間たちも次々と命を失っていく……それならば、このまま明日に怯え生きるよりも、華々しく散ってやろうではないか?」

「……淡夢……すまなかった。お前の敵……父さんがきっと取るからな! 絶対に、許さんぞ! 人間どもめっ!」

 冷静な霜吹でさえ、もはや闘争心を剥き出しに怒りを見せていた。

「銀……着いて来い。お前に……狩りの仕方を教えてやる。チャンスは一度きりだ。良いな……失敗すればお前の命を失うことになる。判ったな?……よし、みんな行くぞ!」

 ザッザッザッザ、真白な粉雪を掻き分け、狼たちの群は走った。

 先頭には白天、そして……その傍らには銀がぴったりと寄り添うように走っていた。

 夢にまで見た、父との戦いは皮肉にもこんな形で実現しようとは……だが、銀は自分が

 許せなかった。実の妹とも呼べる淡夢を目の前で殺された悔しさを!

 銀は……狼の野生を思い出していたのだ。もはや彼は幼い子供ではなかった。勇敢なる英雄、白天の後継者となるに相応しき存在になろうとしていたのだ。

「目標は……開拓村だ! 人間どもめ……一匹足りとも逃しはせぬ! 全員まとめて血祭りにしてくれようでは無いか!」

「ああ! 我らは蝦夷の地を生きる、誇り高き狼一族! 汚らわしい異端の人間どもに、この地を明け渡してはならぬ!」

 狼達は鬨の声を挙げながら、何度も、何度も、怒りに満ちた咆哮を轟かせながら走り続けた。闇夜に紛れ、雪を掻き分け、ひたすら走り続けた。命の限り走り続けた。一匹足りとも群を乱すことなく。それは蝦夷の大地の守護者としての誇りを掛けての、最期の勝負なのであった……。

◆◆◆24◆◆◆

 村は静まり返っていた。警戒態勢の構えを見せているのか、夜でも見張りを絶やすことは無かった。だが、白天達は敢えて正面から突っ込んできた。

 その怒りに満ちた赤い瞳は、闇夜に燃え上がる沖火のようでもあった。

「ふぁーあ、見張りも退屈なもんだな……早く交代の時間に……」

 再び大きなあくびを仕掛けたところで、門番は恐ろしい光景を目の当たりにするのであった。無数の狼たちの群が怒りに満ちた目で、一斉にこちらに向かって突っ込んでくるではないか!?

「う……うわああああ!」

「ガルルルゥ!」

 突っ込んできた白天の鋭い一噛みで、門番は事切れた。

 狼たちの怒りは底知れぬものがあった。愛する家族を殺された憎しみ、愛する友を失った悲しみ、愛する者を守れなかった痛み、そのすべてが怒りの奔流となっていた。

「わああああ!」

 狼達は手当たり次第人間をかみ殺した。

 例え銃で撃たれ、仲間達が倒れようとも決して怯むことはなかった。

「たたたた、大変だ! 狼達が! わあああ!」

 人間達は必死で逃げ惑った。だが狼達は一切容赦しなかった。

 例えそれが幼い子供であれ、負傷した人間であれ、情け容赦なく噛み殺していったのだ。冬の夜半には人々の断末魔の悲鳴だけが轟いていた。

「絶対に許さんぞ、人間ども!……我が仲間たちの怒りを、哀しみを、思い知れ!」

 だが人間達も負けてはいなかった。

 銃を手に、必死で狼たちを狙うのであった。そして、この人物も……

「伏見さん!大変です!」

「……そうか、ついに来たか……この日が……」

 疲れきった表情の伏見は、静かに立ち上がった。寝着のまま外に向かって歩き出したのだ。

 気でも触れたのか!? 猟師は慌てふためくが、伏見は笑ってみせた。

「……さぁ、狼たちの頭領よ……私はここだ。私を……殺せ。私を、殺すのだ……頭領よ、さぁ来い! 全ての罪は、私が受け入れようでは無いかっ!」

 伏見は両手を広げて、静かに狼たちの群を向かい入れた。

「上等だぜ!」

 瞬時に白天の牙が伏見の命を奪い去ったのだ。

「……そうだ……それでいい。私のせいで……お前達に、辛い想いをさせてしまったのだ。せめて……あの世で、お前たちに、詫びることとしようではないか。粋な計らいだろう……」

「くっ! 人間どもめ!」

 何時しか戦況は、人間に有利になりつつあった。

 銃で撃たれ、狼達は次々と数を失っていった。

「……わぁ! か、火事だぁっ!」

 何かの拍子で倒れてしまった、かがり火が家屋に燃え移り、開拓村は一気に炎の海に包まれた。

「わああああ、熱いよ、熱いよ!」

 狼達は、炎に焼かれようとも必死で戦った。火の手は一気に村を駆け巡り、何時しか村は真っ赤な炎の塊となっていた。

 それでも、なお、人間どもは手を休めなかった。必死の想いを篭めて、銃での攻防戦を繰り返していた。

(……戦況は不利だ。このままでは……双方共倒れになってしまう……それならば!)

 白天は傍らに寄りそうに走る銀に向かい、力の限り叫んだ。

「銀……良いか? 良く聞け! お前はここから逃げるんだ! お前は生きるんだ!」

「イヤだ! ぼく、もう逃げないよ! 最期まで戦うよ!」

「銀、お前が居なくなれば……狼たちの命運は、すべて尽きるやもしれぬ。だから、お前は生きろ……生きて、生きて! そして……真実を見極めろ!」

 白天の表情は険しかった。今まで見たこともないほどに厳しい顔をしていた。銀はためらった……逃げるのは、もうイヤだ……淡夢を守れなかったのは、ぼくが臆病だったからだ。だから、ぼくは……。

 戸惑う銀に、白天は力一杯噛み付いた。

「お前みたいな役立たずには用はないっ! さぁ、往け! 今よりお前は、俺の子などではないっ! 生きろ……お前の、その足で!」

 刹那、銃弾が霜吹を直撃した。真っ赤な花が咲く様に霜吹の体が飛び散った。

 銀は涙を拭うことなく、必死で走った。走って、走って、どこまでも走りつづけた!

 そして……村を抜けたところで……銀の耳に咆哮が聞こえた……それは、紛れもない父……白天からの最期の「言葉」であった。

 銀は、涙を拭うと……天を仰ぎ、かつて父が目の前で見せたように力強く吼えるのであった。静かに、静かに、力強く!

「ウオオオォォォォオンンン!」

 幼い銀の様にならない咆哮ではなかった。

 山を震撼させ、森を震撼させ、雪さえも黙らせるほどの激しい沈黙に、すべてが揺れ動いた。

 我が子の成長を確かめると……白天は、静かに倒れた。その表情は……安らかな笑顔であった……。

◆◆◆25◆◆◆

 時は経ち、幼かった銀も……一人前の狼に成長していた。

 彼は人間どもの積荷に隠れ本州にまで侵入していたのだ。

 そう。最後の日本狼として、彼は必死で生きたのだ。

 父の遺言通り、生きて、生きて、そして、ひたすらに生き抜いたのだ……。

 彼は勇敢だった。彼は何処までも勇猛であった。いかなる状況でも誇り高く生きた。

 そして……彼は死んだ。時の流れにだけは逆らえ切れなかった。その末路は、あまりにも惨めなものであった……食料に困り、人里に現れた彼が……最後の日本狼であろうなどと、

 気付くはずもない村人に、あっけなく射殺されたのだ……。

 だが、彼は生きている。今も雪の中で生きているのだ。蝦夷の地に多くの群を率い、生きているのだ。

 彼の名は銀……真白な雪よりもなお白く、美しく輝く守護者。

 ウオオオォォォォォンンン!

 今日も蝦夷の地に、狼の遠吠えが響き渡った。彼の名は銀。最後の日本狼……勇敢な白天の息子……人よ、彼の生き様を忘れるな。彼の命を尊ぶのだ。

  終わり