第1話『サンタさんのくれた贈り物(前編)』

◆◆◆1◆◆◆

 今年も熊の被害が報告された。その度に人間達は山へと赴き、彼らの命を奪わなくてはならなくなる。何故……何故、彼らと共存することが出来無いのだろうか? 失われた命は二度と戻ることは無い。冷た過ぎる金属の弾丸に撃たれ、二度と微笑まなくなった熊達をぼくは一体、どれだけ見届ければ良いのだろうか?

 こんな哀しい物語には、出来る限り早く幕を降ろしたいと願うのが人の常。

 人間達は自衛のためには手段を選ばない。自分達は平気で……彼らの住処を占拠する。武器を持たない彼らに、武器を手にして挑む。

 人間達は身勝手な生き物だ。動物達が住処を荒らせば大騒ぎする。そのくせ、自分達が動物達の住処を荒らすことには、なんの迷いも抱かない。

 同じ世界を生きる者同士なのに、一体何処に優劣を決める判断材料があると言うのだろうか? ぼくには……どうしても理解出来無い……。

 これは一人と一匹の出会いから別れまでの物語。命ある者同士の、種族を超えての愛の物語……。

◆◆◆2◆◆◆

 今年の秋田は例年以上に冷え込みが厳しい。

 今年は春先から続いた長雨の影響で作物も不作気味であった。予想通りに、訪れた冬は……哀しいまでに厳しかった。

 山の生き物達も、この寒さと不作のおかげで食糧難になっている様子だ。

 だからなのだろうか? 今年は例年以上に熊の被害が相次いでいるそうだ。

 解せない話だ……人間達の身勝手な開発のおかげで住む場所を失った動物達が、生きるために人里に出てくるのは至極当然の結果ではないか? それなのに人間達は……自らの罪を戒めることなく、あくまでも動物達を物静かに殺めてゆくばかり。

 ぼくには理解出来無い。

 坂上純一と加藤祐樹はその日も山に訪れていた。

 地元で動物学者を営む加藤祐樹は、こうして冬になると猟友会の一員になる。地域の安全を守るため積極的に熊狩りに参戦するのだ。

 獣医を目指す坂上純一が、この山深い農村に訪れたのは去年の冬のことだった。

 都会から山深い農村に移り住んだ純一を最初は村人達もいぶかしんでいた。だが、勉強熱心で真面目な彼の性格に共感を抱いた加藤は、好んで彼の世話をやくようになっていた。

「坂上君、どうかしたのか?」

 加藤さんがぼくに静かに語り掛けてくる。

 早朝から降り始めた雪は、ずいぶんと強まり、気が付けば視界を遮る程の吹雪の様相を呈していた。自慢の口髭にもすっかり雪が纏わり付いている。こうして見ると、どちらが熊なのか判らないくらいだ。

「いえ……少し考え事をしていただけです」

 どこかが痛むような作り笑いに、加藤さんの口元から静かに笑みがこぼれる。

「解せないのだろうな」

 まるで、ぼくの心を見透かすかのように加藤さんが呟いた。呟きながら、加藤さんは顔を見上げる。一段と強まる吹雪を静かに見つめていた。ぼくも真似して空を見上げた。

「加藤さん、こうするしか……他に手段は無いのですか?」

 ぼくは苛立ったような口調でぶっきらぼうに返した。加藤さんは静かに振り返ると、哀しそうな表情で微笑んで見せた。

「そうだな。他に手段があるのであれば、私とて……こんな選択肢は選びたくは無いところだな」

 背に携えた猟銃を撫でながら哀しそうに微笑む加藤さんの心が痛々しく思えた。

 誰かの幸せのために、誰かが不幸になる。誰かの命を守るために……誰かの命が散ってゆく……。頭では判っている。だが、ぼくには、そんな現実を受け入れたくない。

 獣医を志すぼくに取って、この現実は理解出来無かった。

 だが、だからこそ加藤さんは……ぼくに、この現実を見せようとしているのかも知れない。その事実を知っているから。だからこそ、ぼくは辛く思えた。

 そう。加藤さんもかつては、獣医を志した身。だからこそ、ぼくに……自らが果たすことの出来なかった夢を託しているのかも知れない。

 シンシンと雪だけが静かに降り続ける。

 ぼくの心に中にも冷たい雪は降り続けていた。こんな哀しい現実を覆い隠して欲しかったから。

 不意に静寂は打ち破られた。

 木に積もった雪が、木々から勢い良く落ちる音が響き渡った。物静かな静寂を打ち破る、けたたましい音であった。その物音に、ぼくの意識が一瞬途切れた。

「……くん……坂上君?」

「は、はいっ!?」

「ぼーっとするな。冬の雪山は危険に満ちているのだぞ?」

 加藤さんの豪快な笑い声が響き渡った。

 やっと我に返ったぼくを見て、加藤さんは可笑しそうに笑っていた。ぼくも吊られて笑おうとした……まさに、その時であった。

 ぼくの耳に、ぼくら以外の生き物の息遣いが聞こえてきた。幻聴か? いや、そんな訳は無い。

 ようやく、ぼくの視界に不意に飛び込んできた黒い影に気付いた。驚き、振り返ろうとした瞬間、そいつは尋常じゃない力で、ぼく達を跳ね除けたのだ。

 圧倒過ぎる力の前にぼく達は為す術も無かった。

「くっ! 不意討ちとは……だが、我々も命が掛かっているのでね。可哀想だがここでやられる訳にはいかないのでね」

 落ち着いた手捌きで加藤さんは猟銃を構えてみせた。

 だが、不意に出くわした人間に野生の本能を剥き出しの、怒れる熊の動作は想像を遥かに超える早さであった。

「ああっ!」

 突然、地面を跳躍して飛び掛って来た巨体。その鈍重そうな体からは想像も尽かない程の素早さに圧倒させられた。

 次の瞬間、猛烈な一撃を喰らわされた加藤さんの体が宙に舞った。

「か、加藤さんっ!?」

 このままではいけない。

 吹き飛ばされた衝撃で木に強かに叩き付けられたのか、加藤さんは気を失ってしまっていた。

 訓練では猟銃の扱い方は、確かに習ったさ。だけど、実際に使用するのは始めてのことだ。躊躇っている暇は無い……。だが、やらなければ、ぼく達がやられてしまう! ぼくは震える手で必死に猟銃を構えた。

◆◆◆3◆◆◆

 そうさ。威嚇射撃で驚かせて、そのまま退かせればいい。何も……命まで奪う必要は無いんだ。そう考えた瞬間からの、ぼくの動作は機敏だった。

 お互いに共存の道を選ぶんだ。

 それが……ぼくの想いだったから。

 ぼくは甘かったのかも知れない。そんなぼくを嘲笑うかのように、猟銃を構えた指先は驚くほど機敏に動いていた。

『パーン!』

 まるでクラッカーのような、どこか軽やかな、人を馬鹿にしたような銃声だった。

 映画の刑事物で見るような豪快な音はそこには無かった。

 それは拍子抜けするような軽やかな音であった。だが……恐怖に震えていたぼくの指先は、

 あらぬ場所を狙ってしまった。

 威嚇のために、足元を狙って撃った一発は……ぼくの意に反して急所を打ち抜いてしまった。

 時の流れが、一瞬……急激に遅くなったような感覚。まるでスローモーションの映像を見ているようだった。恐らくは一瞬の出来事だったのだと思う。

 ぼくの視界に飛び込んできたのは、口から血の泡を吹き出しながら、静かに倒れる熊の姿であった。

 倒れる熊と入れ替わるかのように、加藤が意識を取り戻した。

「う、うくっ……」

 目の前に倒れる熊の姿を目の当たりにした加藤は、驚愕の表情を浮かべていた。

 ぼくは、あまりのことに体中の力が抜け、気が付けば、情けなくその場に崩れ落ちていた。

「そ……そんな、馬鹿な……」

「……坂上君、君が私を助けてくれたのか?」

 認めたくない現実がそこにあった。

 簡単な話さ。動揺したぼくの撃った一発の弾丸は、威嚇目的の一撃では無く、急所を貫く一撃になってしまったのだ。

 ビギナーズラックと呼べばいいのか? 不幸にも……ぼくの撃った一発は見事に脳天を貫いていた。一体、どうやったら狙い間違えるのか、ぼくが聞きたい位だった。ただただ、ぼくは自分の犯してしまった罪に震えることしか出来なかった……。

「こ、殺してしまった……? あ、ああ……うわあーーっ!」

「坂上君、落ち着くんだ!」

「違うっ!……ぼくじゃない……ぼくじゃないっ!」

「坂上君っ!」

 我を見失うぼくの肩に手をあてると、加藤さんは、ぼくを力一杯揺さ振った。

 認めたくなかった……共存を願っていたぼくが、まさかこの手で……!

「む?」

 不意に何者かの気配を感じ取り、加藤さんが素早く猟銃に手を掛けた。再び駆け抜ける緊迫感。だが、予想に反して茂みから出て来たのは、まだ幼い子熊だった。

「なんだ……子供か。驚かさないでくれ」

 ぼく達など視界に入っていないのか? 小さな子熊は、倒れている巨体の熊に近寄ると、まるでじゃれつくかのように鼻を摺り寄せてみせた。

「ま……まさか……」

 そう。この熊は母親だったのだ。

 この季節になると熊の母親は子供を産む。子供を産んだ直後の母親は我が子を守るために攻撃的になる。誰だってそうだ……我が子を可愛く思わない親なんている訳が無い。

 何も知らない子熊は、母の死を理解出来ていないのか、何時もそうしているように、甘えてみたり、じゃれついてみたりしていた。

 ただただ、ぼくは心が締め付けられるように痛んだ。

(辞めてくれ……きみのお母さんは、もう……死んでしまった……いや、ぼくがこの手で……殺してしまったんだ!)

 動かない母に戸惑った様子の子熊は、不思議そうに首を傾げながら座り込んでいた。

「そうか……この熊は君の母親だったのか……坂上君、辛い想いをさせてしまったね」

 加藤さんは静かに帽子を取った。そのまま、倒れた母熊を弔うかのように、静かに目を伏せた。

 加藤さんは現実から逃げていなかった。ただ、目を背けるだけのぼくは弱虫だ……。

◆◆◆4◆◆◆

 雪は変わることなくただ静かに降り続いていた。だからこそ、真白な雪に血の赤い色が余計に映えて見えた。

 ぼく達の存在に気付いたのか、子熊がこちらに向かって慣れない足取りで近付いてきた。

 ぼくに興味を示したのか、足元をぐるぐる回ってみたり、小さな手で引っ掻いてみたりしている。

 北国の山は厳しい。小さな子熊が一匹で生きられる訳も無い。

(辞めてくれ……ぼくはきみのお母さんを殺してしまった憎い奴なんだよ? きみのお母さんの仇なんだよ? どうか……どうか、ぼくを憎んでくれ。そんなに無邪気にじゃれつかないでくれ……)

 ぼくは自らの手を見つめながら、ただただ涙が溢れそうだった。

 気が付いた時には、ぼくは……その子熊を抱き上げていた。

 いきなり抱き上げられて、子熊は何が起きたのかと戸惑った様な表情を浮かべていた。小さな外見に反して、ずっしりとした重みを感じられた。まだ小さな子供とは言え、力も強いし、爪も立派だ。

「坂上君……その子は……」

 加藤さんが驚いたような表情でぼくを見つめる。

「ぼくが……この子を育てます」

 今思えば、何て軽はずみなことを言ってしまったのだろうかと思う。

 ただ、自分の犯した罪から逃げたい一心で、ぼくは……自分の罪を相殺するためだけに、あの時、彼を……次郎を抱き上げていたのかも知れない。

 ぼくは知らなかった。

 野生の動物を育てるということが、どういうことなのかを。犬や猫を飼うのとは全然訳が違うということを。

 だからだったのだろうか? 加藤さんはしっかりとぼくの目をを見据えながら、力強く問い掛けた。

「坂上君、本当に良いのか? 後できっと後悔することになるぞ?」

「後悔なんてしません。このまま放って置けば、この子は死んでしまいます」

 知らないということは、それ事態が罪なのかも知れない。ぼくは迷うことなく、加藤さんに強気に応えた。

「……残酷な言い方かも知れないが、この子を育てるということ。それは、何時か、きみ自身の手で決着を付ける時が訪れるということを意味するのだぞ?」

 考えたくなかった。何も考えたくなかった……。甘かったと思う。大自然の厳しさを誰よりも良く心得ている加藤さんの言葉の意味、もっと深く考えるべきだったのかも知れない。 

 もう、何もかもが遅かったのだ。

 ぼくは次郎を力強く抱きしめていた。ずっしりと重い体からは、確かな体温を感じられた。命の鼓動を感じられた。

 唇を真一文字に結んで、静かに空を見上げるぼくに、もはや何を言っても無駄だと判断したのか、加藤さんが静かに溜め息を就いてみせる。

「いいだろう。獣医を志す以上はこういう経験も大事なのかも知れないな。責任を持って、しっかりと育てあげて見せるといい」

 しっかりと……その一言に重みが感じられたことが気になった。

「だが……忘れてはいけないことが一つだけある。知っているかも知れないが、子熊は産まれた冬から、三度目の冬の訪れと共に旅立ちの時を迎えるのだ」

「判っています……覚悟、出来ています」

 良く言えたものだと思う。実に軽々しく言えたものだ。知らないとは恐ろしいことだ。

 何が覚悟だ……加藤さんの言葉の真意も知らないぼくの口から飛び出した言葉は、所詮、刹那的な意味合いしか持たない薄っぺらい言葉だった。

 いや、加藤さんは、そんなぼくの甘さを見抜いていたからこそ、次郎を育てて見せろと言ったのかも知れない。

 それは……加藤さんの優しさであり、同時に、途方も無く厳しい想いでもあった。

 こうして、ぼくと次郎の物語は始まりを迎えた。

 どうして『次郎』と言う名前を付けたか? ぼくは独身だ。加藤さんのように家庭を持つ身では無い。心の何処かで、父親になる自分――そんな幻想を抱いていたのかも知れない。

 次郎、どうか大きく育ってくれ。生きて、生きて、そして……何時の日か、ぼくに復讐してくれ。

 酷く歪んだ愛情なのかも知れない。

 だけど、それが……次郎のためにしてあげられる、たった一つの選択肢だったのだから。

「さて、坂上君。下山しよう。だいぶ吹雪いてきた。このままでは遭難してしまう危険性もある」

「あ……はい」

「その子も一緒に連れて行きなさい」

 何気なく放たれた一言だった。

「決して……後ろを振り返ってはいけない。いいね?」

「……はい。」

 この時、加藤さんが言ってくれた、この一言。その一言に篭められた本当の意味に、ぼくは気付いていなかった。

 次郎に母の亡骸を見せないためじゃない……その言葉は、むしろ……ぼくに向けられたものだった。

 そんな事実に気付くのが、今更になってからとは、運命とはどこまでも皮肉なものだと思う。

 腕の中で、何時しか眠りに就いてしまった次郎を抱きながら、ぼくは加藤さんの後を追って下山していた。

 ただ雪だけがシンシンと降り続いていた。もう、血に染まった雪は完全に埋もれてしまったことであろう。そのまま、雪と共にぼくの罪も埋もれてしまえば良いと思った……。

◆◆◆5◆◆◆

 一夜明けた朝。昨日の大雪が夢のように思えてしまうほどに、澄み渡る青空が広がっていた。だが、昨日の大雪は夢なんかじゃない。

 次郎がそのことを教えてくれた。

 目覚めると、傍らには次郎がいた。

 夢なんかじゃない。ぼくは……この子の母を殺めてしまった罪深い奴だ。

 暖かい布団が気に入ったのか、次郎は良く眠っていた。山奥の寒さに比べれば、人間の住処は暖かいだろう。無邪気に眠る次郎の顔を見ていると、人間と言う生き物が憐れに思えて仕方が無い。

 一体、何の権利があって……他の動物達の住処を、命を奪うことが出来るのだろう?

 判っているのさ。人間もまた、他の命を喰らいながら生きている身。そんな聖人のような言葉を口に出来るほど人間は崇高な存在じゃないことくらい、良く心得ているさ。

「ああ、起こしちゃったかな?」

 次郎は静かに目を開いてみせた。そのまま、のっそりと座り込むと、大きな欠伸をして見せた。

 大きく開かれた口の中に覗く牙は、子供とは言え鋭く、野生の生き物であることを如実に示していた。哀しいけれど、ぼくと次郎との間にそびえる隔たりは、とても大きい物のように思えてしまう。

 考え込むぼくをちらりと見つめると、次郎は再び深い眠りに就いた。

 そういう所は人間と変わらないのだな。そんなことを考えていた。

 子供は寝て育つものか……。そっと突き出された手を握ってみた。次郎の手は子供の熊にしては少々大きく思えた。母親に似たのだとしたら相当に大きくなるだろう。彼は一体どんな奴になるのだろうか? ぼくは次郎の成長に興味を惹かれていた。

 さて……そろそろ起きなくては。

 今日は、次郎のことを村の人々に話さなくてはならない。正直、気が重たかった。

 田舎の人々は村の外から来た存在に対しては強い警戒心を抱く傾向にある。ぼく自身も未だ、警戒心を抱かれていることは否定できない。ただでさえ不穏な奴だというのに、そんな不穏な奴が子熊を育てるとなれば、ますます波風が立つことは避けられないだろう。

 それを考慮に入れた上での、加藤さんの采配だった。

 こっそり育てるなんてことは、どうやっても不可能なことだ。それならば、最初から了承を得て置いた方が良い。

 もっとも……村人達に反対されたならば、ぼくは山に住居を移してでも次郎を育てるつもりだった。

 命はお金じゃ買えない。それに次郎を育てると言ったのはぼく自身だ。ならば、それくらいの覚悟を背負うのは当然のことだと思っていた。

 次郎のことは、ぼくが命を掛けてでも守りたいと思っていた。だからこそ、幼い彼を一人残して家を空けるのは少々不安でもあった。

 だが、そんなに長い時間空けるつもりは無い。

 幼い次郎を一人で残して置いたのでは何が起こるか予想も出来無い。そんな不安なことをするつもりは無かった。とは言え、次郎を連れて村を歩き回るのも問題になる。

「次郎。ちょっと留守にするけど、いい子にしているんだよ?」

 ぼくの言葉が聞こえて居るのか、居ないのか、次郎は布団の中でもぞもぞしながら元気良く顔を出して見せるのであった。

「お? 次郎、もしかして、ぼくの言葉が判るのかい?」

 まさかね……そんなことを考えながら、ぼくは玄関の戸締りをしっかりと確認した。戸締りを確認したところで、ぼくは家を後にした。

 冷たい風が頬を撫でてゆく。体の芯まで凍りそうな寒さに震えながら、ぼくはふと考えていた。

 動物が人間の言葉を判らないと思い込んでいるのは、案外、人間だけなのかも知れない、と。そんな風に思えるようになったのは、本当に、つい最近のことなのだが……。

◆◆◆6◆◆◆

 小さな集会所の戸を開ければ、既に村人達は集まっていた。

 皆の目線が一斉に集中し、思わず圧倒されそうになる光景であった。だが、次郎のためにも退く訳にはいかない。

 少々遅れてきたぼくを見つめながら、加藤さんが静かに笑っていた。

「本日の主役がご到着の様ですので、話し合いを開始したいと思います。まずは、昨日の警備の結果報告から入ります」

 加藤さんは静かに語り初めて見せた。

 村人達に取っても生活に直結する話だけに、皆、真剣に耳を傾けていた。

 ましてや、地域の生態系についての研究もしている加藤さんの話となれば、ますます興味深い物となることだろう。

「今年は熊の被害が相次いでいます。しかしながら、必ずしも熊を討伐することが解決策に繋がるとは限りません」

 何時もとは少々話の流れの異なる加藤さんに、村人達も戸惑ったような表情を隠し切れない様子であった。村人達の反応を後目に、加藤さんは臆することなく、淡々と話を続けていた。

 やはり加藤さんは強い人だ。何があっても軸はブレない。ぼくとは大違いだ。

「昨日、私と坂上君とで警備に行って参りました。不慮の事故と言うべきでしょうか? そこで熊に襲われた我々は自衛のために熊を討ち取りました。彼女は……幼き熊の母親でした。昨日は皆さんもご存知の通りの悪天候でしたので、亡骸はそのまま放置して来ましたが、先程回収して参りました」

 淡々と語る加藤の言葉に、思わず坂上は背筋が凍り付きそうになるのであった。

 回収!?……命ある者に対して使う表現では無いと思った。回収だなんて……まるで、粗大ゴミを片付けたかのような冷たい表現だと思った。

 とは言え、実害を被る村人達からすれば、被害をもたらす厄介な熊は……その程度の存在なのかも知れない。

(そんな考え方……絶対、間違っている!)

 そんなことを考えながら、ぼくは静かに唇を噛んだ。あからさまな苛立ちを覚えていたのかも知れない。加藤さんは、ぼくの表情をちらりと窺うと、再び話を続けた。

「そこで我々は一頭の子熊に出逢いました。そう。我々が仕留めた彼女の息子です」

 村人達がざわめき出した。皆が皆、顔を見合わせながら戸惑ったような表情を浮かべていた。

 加藤さんは静かに皆の表情を見回しながら、静まり返るのを待っていた。

 自分達を見つめる視線に気付いたのか、村人達は再び静まり返った。

「熊の生態系についてはまだまだ研究の余地はある。それが私個人の見解でもあり、同時にこの地域の傾向でもあります。誰も好んで、熊を仕留める訳では無いでしょう? 被害から身を守るために仕方なく仕留めた……それが実態だと思っています」

 加藤さんの話を聞きながら、ぼくは考えを巡らせていた。加藤さんが何を考え、何を伝えようとしながら話をしているのかを考えていた。

 もしかして……加藤さんは、次郎のことを話すために、前振りを語っているのであろうか? そんなことを考えている間にも、加藤さんは流れるような口調で語り続けていた。相変わらず巧みな話術だ。その見事な話術、ぼくも見習いたいものだ。

「坂上君の家に、今の話に出てきた子熊の坊やがいます」

 唐突に放たれた加藤さんの言葉に、村人達は一気にざわめき出した。

「加藤さん、何だって熊の子供なんかを?」

「そうさ。大きくなれば、熊は被害をもたらすかも知れないじゃないか?」

 ぼくは戸惑っていた。加藤さんは一体何を伝えようとしているのだろうか? どういう方向に話を持って行こうとしているのだろうか? 何を考えているのか、その考えが判らなかった。

 だが、加藤さんは笑顔で村人達を見回して見せた。

「ええ。被害をもたらす存在だからこそ共存する意味があるのだと思いませんか? まだ話が通じる子熊と共に暮らすことで、熊の生態系を、より深く研究することが出来ると思うのです」

 ようやく加藤さんが何を考えて居るのか、見えてきた気がする。

「良いですか? 我々は大自然の中で生きています。こんなにも美しい大自然の中で生きているのに、争いを持ち込むのもあまり芳しく無いでしょう? だからこそ、駆除の方向では無く、共存共栄の方向へと持っていく。それこそが、同じ土地に暮らす者同士のあるべき姿だと思いますが……如何でしょうか?」

 加藤さんの話に、村人達は静かに黙り込んでいた。此れ幸いとばかりに、加藤さんは大きく息を吸い込んだ。ぼくの方にチラリと目線を投げ掛けると、再び語り始めた。

「坂上君は獣医を目指している身です。普通に暮らしていたのでは熊の子育て体験など、まず出来ることの無い体験になるはずです。動物学者と、獣医、双方の目線から生態系の調査をする。それは結果的にはお互いに共存する道への近道となるでしょう」

 村人達はただ静かに、加藤さんの言葉に聞き入っていた。

「それに、母親の居ない子熊が生き延びることは不可能です。今の時期は熊の母親達も子育ての最中です。さて……そんな時期に、子熊の亡骸を目にしたら……彼女達はどう思うでしょう? どのような――行動に出るでしょうか?」

 加藤はにやりと笑いながら村人達を見回してみせた。

 加藤さんは、ぼくが考えて居るよりも遥かに策士であった。まさか、このような展開に持ち込もうとしているとは予想もしていなかった。

 次郎と暮らす良い口実を発見することで、村人達への理解を深めると言う訳か。

「皆さんは、動物達が人間の言葉を判らないとお思いでしょうか? だとしたら、それは大きな間違いであると、私は思います。同じ地域に暮らす生き物同士である以上、判り合えないことは無い。少なくても、私は、そうありたいと願っています」

 もはや村人達は身を乗り出しながら、加藤さんの話に耳を傾けていた。

 まるで政治家の演説の様な響きを帯びた言葉ではあったが、確かに、心揺さぶられる話であった。ただ、ただ圧倒されるぼくに目線を送りながら、加藤さんは静かに微笑んで見せた。

「坂上君には、獣医になると言う目的の他に……少々お手数ですが、私の研究を手伝って貰おうと考えています」

 加藤さんは静かに微笑みながら、最後の駄目押しだと言わんばかりに村人達をぐるりと見渡してみるのであった。

「皆さん、異存は……無いですね?」

 加藤さんは誇らしげな笑みを浮かべながら、ぼくの肩を叩いた。

「それでは坂上君。大変かと思うが、これも村のためだ。彼を……次郎君を、しっかり育ててやってくれ。それから、時々は次郎君を連れてうちにも来てくれ。何しろ彼は、我々と大自然を繋ぐ和平への親善大使になるのだろうからね」

「加藤さん……頑張ります」

 ぼくは力強く頷いて見せた。ぼくのために、立ち振る舞ってくれた加藤さんの想いを無駄にしないためにも。ぼくの言葉を受けながら加藤さんは満足そうに笑ってくれた。

「ああ、彼を無事に育ててやってくれよ?」

 加藤さんの機転の利いた話のお陰で、ぼくと次郎は無事に生活することが出来そうに思えた。全てが上手く行っている。そう思えていたのは事実だった。

 これから歩む道には、恐らくは数多の困難が待ち受けているのであろう。それでも、ぼくは後には退けない。次郎を一人前に育て上げるまでは。

 大変なのは判っている……大学へ通うだけでも、この僻地からでは相当大変なことだ。だけど、自分で選んだ道を無碍にしたくは無かった。

 やってみせるさ。いや、やり遂げなければならない。それが……次郎への、せめてもの償いだから……。

 こうして、ぼくと次郎との物語は本格的に動き出した。

 それは往くことは出来ても、引き返すことは出来ない片道切符の道。苦難の道になることは判っている。でも、ぼくはもう引き返さない。そう……決めたのだから。

◆◆◆7◆◆◆

 ようやく家に戻って来たが、妙に静まり返っていた。周囲を見渡してみるが……何かが破壊されているような形跡は見られない。どうやら、次郎は予想に反しておとなしくしていてくれたのであろう。

 何しろ、彼は小さな見た目に反して力が強い。軽く引っ掻いただけでも、十分に物を壊してしまう可能性は十分に考えられる。

「いい子にしていたかい?」

 そっと部屋を覗き込んで見れば、次郎は静かに寝息を立てながら、気持ち良さそうに眠っていた。

「なんだ、寝ていたのかい?」

 やはり、まだ幼い子供なのだろう。気持ち良さそうに寝息を立てながら、良く寝ている。人間も、動物も、何ら変わりは無いということなのだろう。

 それに、子供に罪は無い。次郎だって子供だ。罪など何一つ無いんだ。

 こんなにも無邪気な顔をしている次郎に何の罪もある訳が無いんだ。

「ふふ、可愛いもんだね」

 無邪気な顔をして眠っている次郎は、本当に可愛らしく思えた。

 時折、口元がむにゃむにゃする様子は、思わず笑いを誘ってくれた。

 頭を撫でてやりたいと思った。でも、良く寝ている次郎を起こしてしまうのが忍びなかったから、ぼくはそっと部屋を後にした。

 コーヒーを煎れながら、ぼくはふと考えていた。

 どうして人間と動物とが争わなければならないのだろうか? どちらが偉いとか、偉くないとか、そんなことは関係ないのでは無いだろうか?

 人間は罪深い存在だ。次郎、ぼくは……事故とは言え、きみのお母さんを撃ち殺してしまった。あの瞬間を、ぼくは生涯忘れることは出来無いだろう。いや、決して忘れてはいけないんだ。ぼくの……この手で、きみのお母さんを殺めてしまったと言う事実を……身を守るためとは言え、哀しい結果になってしまったという事実を。

 あの時、ぼくが動揺していなければ、威嚇射撃で……追い払うだけに留められたのかも知れない。悔やんでも悔やみ切れない事実に押し潰されそうだった。

 不意に足音が聞こえてきた。目を覚ましたのだろうか? ぼくが戻って来たことに気付いたのか、這うようにしながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。歩み寄りながらも、不意に立ち止まった。

 次郎は頭の良い子なのだろう。ぼくが……自分の母親じゃないことを理解しているのか、

 じっと見つめる目が、静かに牽制しているのが判ってしまった。

 哀しいけれど、きみの瞳に映っているのは……きみのお母さんじゃない。

 ぼくはきみにどう謝ったらいいのか判らない。許してくれなんて言うつもりは無い。むしろ、大きく育って、ぼくに復讐してくれ。きみに殺されるのならば、ぼくは本望だ。

 ぼくの心の叫びが聞こえたのか、次郎は鼻を摺り寄せながら、じゃれついてみせた。

 まるで、ぼくのことを……きみのお母さんの仇であるぼくを、慰めるかのように。そんな彼の優しさが、ぼくの心に響き渡った。

「何故……きみの母の、憎き仇であるはずのぼくに……?」

 まだ幼いのに、次郎は頭のいい子だ。生きるために何が必要なのかを、良く心得ている。

 そうさ。それでいい。ぼくを利用してくれ。生きて、生きて……そして、ぼくに復讐をするんだ。ぼくはただ、きみに償いたいんだ。

「ごめんね、次郎……ぼくのことを憎んでくれ。だから……だから、生きるんだよ? きみのお母さんの分まで……生きて、生きて、生きるんだよ?」

 ぼくの言葉が判るのか、次郎は嬉しそうにぼくの頬に手を宛ててみせた。

 堪え切れなくなって、思わず抱き上げれば、ずっしりとした重みを感じた。

「それにしても、こんな体験出来るとは思わなかったよ」

 次郎の無邪気な振る舞いを見ていると、自然と笑いが込み上げてくる。

「熊の子供を育てるなんて体験、普通に暮らしていたのでは無理な話だもの。形はどうあれ……貴重な体験をさせてくれたこと、感謝しているよ」

 次郎は相変わらず、ぼくの顔に鼻を押し付けながら、じゃれている。

「次郎……きみのこと、ぼくが……きっと一人前に育て上げて見せるからね」

 ぼくに抱き上げられて、次郎はご機嫌なのだろうか? その表情は嬉しそうに見えた。

 動物にも表情はあるし、感情だってある。人間の言葉だってちゃんと伝わるんだ。

 そうか。だとしたら……次郎は、ぼくが自分の母親じゃないことも、ぼくが……次郎に、償いの想いを篭めて、こうして接していることも、全部、全て、理解しているのかも知れない。

 不意に、次郎のお腹の音が鳴るのが聞こえた。

「次郎もお腹空いちゃったんだね? ぼくもお腹空いたよ。そうだ。一緒にご飯にしようか?」

 その言葉が判るのか、次郎が嬉しそうにはしゃぐのが見えた。

 ぼくは次郎を布団の上に降ろすと、食事の準備に取り掛かった。

 幸い、次郎は乳離れしているお陰で、普通に人間の食事も食べられるおかげで、食事の準備に頭を悩ませる必要は無かった。

 熊の食性は人間と良く似ている。とはいえ、人間との生活に慣れていない部分もあるだろうから、熊が好みそうな果物を用意しようと思った。

 料理はそれなりに出来るけれど、なるべく自然に近い食べ物の方が、お腹を壊さないだろう。さて、何か良さそうな果物は無いかと台所を漁ってみれば、鮮やかなオレンジ色が目に付いた。これならば気に入って貰えるだろうか?

「次郎、少し待っていてね。ちょっと台所で、柿を切ってくるからね」

 少々過保護なのかも知れないけれど、熟れた柿は手元には無い。そうなると、皮が固くて、喉に引っ掛かっても困るし、食べ難いのも問題もありそうだから、軽く四等分してあげようと思った。

 可能ならば、きみのお母さんに聞いて置きたかったよ。きみがどういう食べ物が好物なのかね? ぼくは陽気に微笑みながら台所へと向かった。

◆◆◆8◆◆◆

 次郎は本当に食欲旺盛な奴だ。

 果物が好きな様子で、今も隣で柿を元気に食べている。少々元気が良過ぎるのは困り者ではあるけれど。

「次郎、もう少し大人しく食べてくれないかな?」

 苦笑いするぼくの声なんか聞こえていないのか、両手に柿を握りながら、元気に頬張っている。何しろ食べながら歩き回るから、あちこち毀れた柿の汁だらけになっている。動き回る次郎の後を追い掛けながら、必死で雑巾掛けするぼくの気持ちも少しは理解して欲しいものだ。

 次郎は元気過ぎるほどに、暴れん坊のお子様だ。無邪気に振舞う彼を見ていると色々な考えが頭を過ぎる。

 憶測でしか無いけれど、次郎は大きくなると思った。見た目だけじゃない。色々な意味で、大きくなると思った。

 幼いながらも、きっと……母を殺めた憎い人間の顔を理解しているに違いないだろうに。それでも、生き残るために、人間であるぼくのことを上手く利用している。

 だが、そこは野生の勘なのか? 懐いているように見せ掛けて、何処かで牽制している。強さだけじゃない。賢さも持ち合わせている。

 ふと、足元に目をやれば食べ終わった後の、皿の香りを熱心に嗅いでいる次郎の姿が目に入った。

「はいはい。次の柿をお持ちしますよ、お坊ちゃま?」

 やはり、彼はぼくの言葉が判るのか、それでよろしい、とばかりに腹を見せながら、寝転んだ。その尊大なるふてぶてしさも、何だか大物の貫禄を感じさせてくれた。

 都会と違ってここは田舎の村だ。わざわざスーパーまで買いに行かなくても、近所の庭掃除でも手伝えば、庭の柿を食べ切れない程持たせてくれる。

 放って置いても、熟れて落ちてしまうだけだ。だったら、喜んで食べて貰えた方が柿も幸せだろうと。

 甘柿はそのまま食べればいい。渋柿は天日干しして、干し柿に加工すれば冬場の保存食にもなる。田舎の人達の知恵は馬鹿には出来無い。物に溢れている現代社会からは想像も出来無い知恵だと思った。

「……だからこそ、ぼく達は自然と共存出来なくなったのかな?」

 何気なくぽつりと呟いた、ぼくの言葉に、次郎が戸惑ったような表情で反応した。戸惑ったような表情でぼくの表情を見つめていた。ぼくは次郎の頭を撫でてやった。

「何でもないよ。ほら、一杯食べて良いんだよ?」

 ぼくの笑顔を見て安心したのか、次郎は再び元気に柿をかじり始めた。相変わらず、盛大に食べ散らかしながら……。

 良く考えて見れば、冬の山奥にはまともな食べ物なんか無いのだろう。

 水気も多く、甘味の強い柿なんて滅多に食べられないのだろう。こんな哀しい出逢いが無ければ、次郎は体験することが無かったかも知れない味かも知れない。そう考えると、なんだか複雑な気分になった。

 窓の外に、ふと目をやれば今日は風が強そうだ。僅かに木に残った、柿の葉が千切れそうになっている。

 その光景をじっと見つめていると、不意に過去の情景が頭を過ぎった。

 そういえば、あの日も風は強かったな――ぼくが東京に別れを告げたあの日も。

◆◆◆9◆◆◆

 幼い頃からずっと、獣医になりたいと思っていた。

 子供の頃に、家で飼っていた犬が怪我をした。あの事故は、幼いぼくに取っては、生涯忘れることの出来ない忌まわしい記憶となったのだから……。

 それは散歩中の出来事だった。

 まだ、小さかったぼくは犬の散歩にも慣れて居なかった。ぼくも、アイツも、同じ子供同士だから……そんな油断がいけなかったのかも知れない。

 都会は混み合った作りになっている。実家の周辺は古くからの住宅街ということもあり、判り辛い、迷路のような道路が張り巡らされていた。

 都会のドライバー達は、何をそんなに急いでいるのか、狭い道なのにも関わらずに、容赦なくスピードを出す。アタリマエのように携帯で電話をしながら運転をする。

 一瞬の不注意だった。ぼくも、ドライバーも、どちらも。どっちが悪いなんて、どうでも良かった。ただ……ぼくは、ぼくの大切な弟の事故の方が重要だった。

 力無く救いを求めるような声で、アイツは泣いていた。「痛いよ、痛いよ」。そう、泣いているようにしか聞こえなかった。血がたくさん出ていた。

 ぼくはただ恐怖のあまり、助けを求めることが出来なかった。身動きすら出来なかった。無力で、非力で、どうしようもない程に、救い様がない、惨めで、哀れで、ちっぽけな子供だった。

 大手術だったそうだ。

 アイツは、命は取り留めたものの……もう、歩けなくなってしまった。

 どんなに優れた獣医でも、治せないものがある。万能だと思っていた獣医が、万能では無いことを知った。オトナは子供に出来ないことを、何でも出来る凄い存在だと思い込んでいただけに、ぼくは途方も無い哀しさに打ちのめされた。

 そっか……人間は万能な存在にはなれないんだ。その事実を知ってしまったことが、酷く苦しくて、辛くて、息が詰まりそうだった。いや、それ以上に、アイツを治してやれなかったことが悔しかった。何も出来ずに、ただ、うろたえるだけの自分が許せなかった。

 だから、ぼくは獣医になろうと思った。都会での生活に嫌気がさしていたということも後押しし、ぼくの想いは堅牢なるものへと変わっていった。

 自分のあるべき姿を、進むべき道を思い描いてみた。何度も、何度も描いては、消して、を繰り返し、白地図にぼくの進むべき道を描き出した。ようやく至った結論――狭苦しい都会で獣医を目指すよりも、大自然に囲まれた環境下で獣医への道を志したいと思った。

 あの日……とても風の強い冬の日のことだった。冬休みの間、必死で考えた末の結論だった。東京を棄てて、名も知らぬ田舎の村で夢を叶えたい。そう思った自分がいた。理想だけは無駄に大きかったのかも知れない。

 親の反対を押し切り、無理矢理に飛び出した都会の街。流れ着いたのは山間の小さな村。

 気が付いたら、一年が過ぎていた。

 あの時……加藤さんに出逢えなかったら、ぼくは今も路頭に迷っていたに違いない。

 冬の寒さの中で、敢えて北を目指すという考え方は、生き物の摂理に反している。愚かなのは、自分自身だったのかも知れない。

 考え込むぼくを後目に、相変わらず次郎はやんちゃ坊主振りを披露している。

 食事が終わったら、今度は仰向けになって、毛布と格闘している。

「おいおい、次郎。程々にしてくれよ?」

 ぼくの失笑も上の空。遊ぶことに夢中になっている次郎には、ぼくの声は届かなそうだ。

 でも、同時にそういう姿を見ると、やっぱり子供なのだなと安心出来る。

「何が獣医になる、だ……あろうことか、ぼくはきみのお母さんを手に掛けてしまったのだから。きみ達を救う立場にあるというのに……」

 思わず、ぼくは自分の両の手のひらを見つめていた。血に塗れた手……次郎のお母さんを手に掛けてしまった汚れた手。

 加藤さんは気を落とすなと言ってくれた。

 確かに……村を守るためには仕方が無いのかも知れない。それに、あの時……ぼくが撃たなければ、加藤さんも、ぼくも……この場に居なかったかも知れない。

 人間の命と動物の命――どちらも同じ命で、どちらも同じ重さ……。それなのに、ぼくは自分達の命を選んでしまった。

 今でも判らない。この選択肢が正しかったのか、間違いだったのか。

「次郎? はは、眠っちゃったのかい?」

 遊び疲れたのか、毛布にくるまって、何時の間にか夢見心地のやんちゃな王子様。

「ほらほら。今日は寒いから、ちゃんと布団に入らないと」

 眠りに就いた次郎を抱き上げてみたが、やはり重みを感じる。小さな見た目に反して、ずっしりとくる。

 彼を見ていると、その純粋さに色々なことを教えられる気がする。自分が如何に小さいかを思い知らされる。

「ぼくも、もう一眠りしようかな。」

 次郎と一緒に布団にくるまると、ぼくは今一度、次郎と一緒に夢心地気分を味わおうかと思った。

 まだ小さいうちじゃなければ、こうして一緒に寝ることも出来無い。子熊のうちだからこその楽しみ。短い期間だからこそ大事にしたい。そう想いながらしばしの眠りに就いた。

◆◆◆10◆◆◆

 夢を見ていた。どこか切ないセピア色の夢を見ていた。

 時の流れが止まってしまえばいいと思った。次郎……きみがこのまま子供のまま、時の流れが止まってしまえばいいと思った。訪れなければいいと思った、三年目の冬なんて……。

 その時さえ訪れなければ、ぼくはきみとずっと一緒にいられるのに……。

 歪んでいることは判っているさ。ぼくは……きみのお母さんの憎い仇なのに。ぼくはきみのことを、これ以上ないほどに愛しく思っている。

 動物の子供は罪なまでに可愛らしいものだ。いや、ただ可愛いだけじゃない。純粋だからこそ、無垢だからこそ、色々なことを教えてくれる。

 ぼくが如何にちっぽけな存在なのかを教えてくれる。自分の罪を責め続けるだけの弱さ、

 至らなさ、惨めさ、色々なことを教えてくれる。

 次郎は大自然の王者にでもなれそうな子だ。

 王者の風格と言うのか、実に威風堂々とした雰囲気を称えている。無邪気なだけじゃなくて、何かを理解し切っている一面がある。大きな奴になってくれる。そんな希望を見出せる子だ。不謹慎かも知れない。でも……きみに逢えて良かった。きみに逢えて、本当によかった。きみにありがとう。ただただ、ありがとう。そう伝えたい。

 こんな形で出逢えてしまったことは、本当は嬉しいことじゃないのかも知れないけれど、こんな形でも無ければ、ぼくは、次郎……きみに出逢うことは無かったかも知れない。

 ぼくらは出逢えてしまった。それは、とても不幸な形での出逢いだったのかも知れない。

 次郎は悲観的なぼくを良く見ている。

 無邪気に遊んでいるように見えて、色々なことを考えているのかも知れない。

 もっと大きくなれよ。次郎……きみに逢えて、本当によかった。きみにありがとう。ただただ、ありがとう。そう伝えたい。

 不意に、ぼくの目の前に次郎が現れる。そのまま、ゆっくりと歩き始めた。

 ああ……次郎、何処へ行くんだい? ぼくを残して、何処へ行くんだい? ぼくを置いていかないでよ。ああ、駄目だ! 次郎、そっちは危ないっ! 吹雪く山の中を、奥へ奥へと突き進んでいくのはお止しよ。そっちは危ない。その先は崖だよ。せっかく拾われた命、無駄にしちゃ駄目だ!

「ぼくの母さんの仇……」

「え?」

「傲慢な人間の、瑣末な我欲を押し付けないでよ」

「次郎……」

 次郎は吐き棄てるように言ってのけた。そして、そのままゆっくりと崖へと歩み寄ってゆく。

「じ、次郎っ!」

「母さんの所へ行くよ。じゃあね」

 とても冷たい目だった……ぼくを見下すような、蔑むような、哀しいくらいに冷たくて、凍り付きそうな眼差しだった。静かに口元を歪めながら微笑むと、次郎はそのまま崖から転落してしまった。

「次郎ーーーっ!」

 ぼくは自分の声に驚いて夢から覚めた……

「夢か? 嫌な夢だったな……」

 早鐘のように打つ胸を撫で下ろしながら、静かに周囲を見渡してみる。

「あ……あれ? 次郎?」

 再びぼくの背筋を冷たいものが走った。

 夢が……現実のものになったのだろうか? 不意に、ぼくの頬を撫でるように走り抜ける冷たい風を感じた。慌てて振り返れば、しっかりと閉めたはずの窓が開いていた。

 昼になれば日差しも出てくる。とは言え、積もった雪の冷たさは半端な物じゃない。考えたくは無い現実がそこにはある。

「次郎っ!」

 ぼくは布団を蹴り上げると、大慌てで外へと飛び出していった。

 次郎を探さなくては。早く発見してあげなければ、それこそ命に関わることだ。

 早鐘のように高鳴る鼓動を必死で抑えながら、ただただ、ぼくは次郎の無事を祈り続けるばかりだった。

◆◆◆11◆◆◆

 何ということだ……ぼくの僅かな気の緩みが、きみを窮地へと追い込んでしまうことになるなんて。捜さなくては。

 抜けるような青空とは言え、昨日の大雪は、未だ殆どが溶け残らずに残っている。晴れ渡る青空は、だからこそ急激な気温の低下も招く。大雪の翌日の晴天は、途方も無く気温を下げてくれる。

 ましてや窓の下は雪かきをしていない。深い雪の中に埋まってしまえば発見は困難になる。如何に次郎が熊の子供と言え、まだ体力はそれほど無い。長時間に渡り、冷気に晒され続ければ、それこそ生命の危機にさえ直結し兼ねない。

 冗談じゃない。せっかく助かった命、この手で救うどころか、奪うことになろうなんて、そんなことは、絶対にあってはならないこと。

 ぼくは大慌てで、上着も羽織らずに、サンダルを履いたままで玄関を飛び出した。頭の中が真っ白だった。ただただ次郎を救い出すことしか考えていなかった。ぼくは周囲の目線など気にすることなく、ひたすらに走り続けていた。

 次郎が落ちた窓は、ちょうど玄関の真裏に当る場所。

 距離にして、それほどの距離では無いのだが、何しろ昨日の大雪のおかげで、完全に雪の砦が出来上がっている。家の裏手に回るだけで、こんなにも苦労するとは思わなかった。普段ならば、容易く回り込める家の裏手も、この状況下では、実に困難を極めるものだと思った。

 泳ぐようにしながら、必死で雪を掻き分けていた。ひたすらに家の裏手を目指した。近所の人々が怪訝そうな表情でぼくを見つめていた。物珍しい光景を見つめるような奇異な瞳であった。何故、誰も……「どうかしましたか?」。その一言を掛けてくれない? ぼくが新参者だからか? それとも、村の外から来た異端者だからか? 熊の子供を育てようなんてことを言い出したからなのか? 人間なんて所詮そんな生き物なのか? 改めて哀しみに打ちひしがれそうになった。人の心の冷たさを実感していた。

 いいさ! 誰も助けてくれなくていいさ! ぼくの手で次郎を救ってみせる!

 どうにかして家の裏手へと回りこんだ。家の裏手は急斜面に面している。当然のことながら、大雪の後に家の裏手に回り込むのは危険を伴う。それは良く承知していた。万に一つ、急斜面を雪が崩れ落ちてきたら、恐らくぼくは次郎と共に生き埋めになってしまうだろう。

 雪の勢いは鋭い。助けを求める声さえも、雪崩は飲み込む。僅かな希望の光さえも、深淵の闇へと飲み込まれる。それでもぼくは雪を掻き分け続けた。次郎を探し出さなくては。彼を……彼の命を救うためであれば、ぼくは死んでも構わない。本気でそう思っていた。

 ただただ、彼を助けたい。その一心だった。

 やがて、雪を掻き分けるぼくの手に、明らかに雪とは異なる感触の何かが触れた。それは水気を帯びた毛皮のような感触だった。

「次郎!」

 ぼくは、残りの力を振り絞って必死で彼を、次郎を助け出そうとしていた。手が悴んで、もはや感覚が無くなっている。痛みも、痒みも、何も感じない。厄介なことに力が入らない。手の感覚が無くなり、凍傷を起こしているのかも知れない。お願いだ! もう少しだけ、もう少しだけでいい! だから……どうか、ぼくの手よ、動いてくれ!

 一瞬、次郎の体がピクリと動くのが判った気がする。

「次郎!」

 駄目だ。急がなければ、本当に彼の命の灯火は尽きる。まだお母さんの下へ、きみを旅立たせる訳にはいかない。ぼくは、ただただ精神を集中させ、最後の力を振り絞り、彼の背中へと手を伸ばした。そのまま一気に彼を担ぎ上げた。

「ああ……良かった、次郎……」

 まだ息はしている。とは言え、明らかに呼吸が乱れている。急激な体温の低下が招くものは少なからず危険な結末。急いで彼を暖めなくては。

 でも、それだけで果たして十分なのか? 此処に来て、再びぼくの頭の中は真っ白になった。次郎を救出したところで、その先は? 何も考えていなかった。

 ああ、それに、足が凍り付いたように動かない。そんな馬鹿な……もはやこれまでだと言うのか? そんな結末は嫌だ。ぼくは必死で走ろうとした。だが、足には全く力が入らず、ぼくはその場に力無く崩れ落ちた。ぼくの背から次郎が転げ落ちた。

 幸いにも、次郎は雪の上に放り出されたから怪我は無かった。玄関の近くまで出られれば助けも求められるというのに。何て間抜けな話なのだろうか。これも報いなのだろうか? そう思った瞬間だった。

「坂上君っ!」

「か、加藤さん……」

 ああ、地獄に仏とは、こういう状況を呼ぶのだろうか? 村の人から連絡を受けたのだろうか? 細かい状況はこの際どうでも良かった。目の前に加藤さんが居る。それだけでも、ぼくらは助かったのだと思った。

 考えて見れば、実に抜けた話だ。村の中で、それも自分の家の裏手で遭難仕掛かるなんて。前代未聞の、珍妙なニュースになることは間違いない。

「次郎を……」

 ぼくの言葉を受け、加藤さんは何も言わずに、次郎を抱き上げた。

「誰か、坂上君を助けてやってくれ!」

 加藤さんの声が響き渡る。そこから先は良く覚えていないが、誰かに肩を抱かれながら、何処かに運ばれたような気がする。

 ただただ、次郎のことが気掛かりだった。そのことだけは良く覚えているような気がする。

 彼は……次郎は、無事に助かったのだろうか? 心配だけが胸を過ぎって行くのが判った気がする。

◆◆◆12◆◆◆

 一体どれほどの時間が過ぎ去ったのだろうか? 夢を見る余裕さえ無い程にぼくは眠っていた。不謹慎かも知れない。でも、それは現実。ぼくは次郎との慣れない生活に疲れていたのかも知れない。そうでも無ければ、こんな状況なのに深い眠りに就くなんて考えられない。

 罪の意識以上に、生存本能が勝ってしまった。原罪……そんな言葉が頭を過ぎった。

 人間はやはり罪深い生き物なのかも知れない。そんなことを考えていた。

「う……」

「ああ、坂上さん」

 目覚めたぼくの目の前には見覚えのある顔があった。

「登紀子さん……?」

 聞くまでも無かった。目の前にあった顔は、加藤さんの奥さん、登紀子さんの顔であった。気を失ったぼくを誰かが部屋まで担いできてくれたのだろう。まったく、前代未聞もいいところだ。自分の家の裏で遭難仕掛かるなんて。

 だが、安心するのは未だ早い。そう……。

「次郎!? 次郎はっ!?」

 慌てて起き上がろうとするぼくを、登紀子さんが静かに制する。

「落ち着いて、坂上さん。次郎ちゃんなら隣で寝ているわよ?」

 クスクス笑う登紀子さんの指差す先を見てみた。

 毛布に包まって、何時ものように静かに寝息を立てる次郎の姿があった。 それならば……さっきのは一体何だったんだ? 夢? 幻? いや、そんな筈は無い。

「野生の動物って逞しいものなのね。体が冷え切っちゃって、一時はどうなることかと思ったけれど、遭難した人の救助法をそのまま当て嵌めてみたら上手く行ったわ。」

「と言うと?」

 静かに語り出す登紀子さんの言葉を受けて、思わずぼくは問い掛けていた。登紀子さんは可笑しそうに微笑んでいた。

「山の男の機転かしらね? 加藤がね、次郎ちゃんをお風呂で温めてあげたのよ? 小さな外見に似合わず、随分と次郎ちゃんは重たいのね。でも、良かったわ。何しろ、熊を看られる獣医さんなんて聞いたこと無いですもの。次郎ちゃんはご覧の通り、元気に寝ているわ」

 登紀子さんは次郎の頭を撫でながら、可笑しそうに微笑んでいた。

「この子……きっと強くなるわね。こんなにも威風堂々とした顔して寝ているんですもの」

「加藤さんが? そっか。良かった……」

 優しそうに微笑む登紀子さんの言葉に、ぼくは安堵を覚えた。同時に体中の力が抜けるような脱力感に襲われた。緊張の糸が途切れたのだろうか? 

 まったく……次郎は確かに、大物になるかも知れない。生命の危機に瀕していたと言うのに、そんなことは、全く覚えていないといわんばかりに静かに寝息を立てているのだから。

 子供は寝るのが仕事だと言うが、次郎はきっと、大きな熊に成長することだろう。

 ぼくは薄れ行く意識の中で、次郎の寝顔を瞳に焼き付けていた。焼き付けたなんて言うと、何だか今際の瞬間を迎えるみたいで縁起悪く聞こえてしまうかも知れないが、ぼくが、次郎と過ごす一瞬、一瞬を大切にしたかった。ただ、それだけだった。それが図々しい自己満足に過ぎないということも、良く理解していたから。

◆◆◆13◆◆◆

 安らかな眠りは、不意に打ち破られた。

 いきなり頬に強烈な一撃を喰らったぼくは、驚いて飛び起きた。

 この世の終わりかと心の底から動揺したが、何のことは無かった。目が覚めた次郎が、何時ものようにじゃれてきただけのことであった。それにしても、この小さな手の一体どこに、こんなにも強い力があるのだろうか?

 本人からしてみれば、軽くじゃれたつもりなのだろうが、何しろ腕力が桁違いだ。子供とは言えその腕力は半端なものでは無い。

 次郎はぼくの驚きなど知ったことでは無いといわんばかりに、毛布に潜ってモゾモゾしている。

「まったく……人騒がせな子だ」

 毛布をめくりあげて、抱き上げて見せれば、ますます上機嫌な次郎は、嬉しそうにぼくの顔を叩いてみせる。

「でも、良かったよ。きみが無事で」

 安心したぼくの気持ちが判るのか、次郎は、一瞬きょとんとした顔を見せたが、いつもの様に顔をこすりつけてきた。

 電気に撃たれたような衝撃を覚えていた。それは、あの時……動かなくなった母熊に対して、次郎がしていた仕草。ぼくに対しては初めて見せた仕草。

「次郎……」

 それは、ぼくに対する警戒心が消えたことを示すもの。

 嬉しかった。憎むべき相手である筈のぼくに対して、次郎が心を開いてくれたことが。

「ありがとう……次郎」

 だが、嬉しい話ばかりでは無かった。村と言う閉鎖された空間では、ヒソヒソ話でさえも

 風に乗ってどこからとも無く聞こえてきてしまうもの。

『何故、熊なんかを助けたんだ?』

 そんな何気ない一言が、ぼくの心に深く突き刺さった。

 確かに……村人からすれば、熊は恐ろしい猛獣であり、作物を荒らす厄介者でもあるのかも知れない。

 でも、そんな考え方は寂しいと思った。優劣を着けている様な考え方が嫌だと思った。

 同じ土地に暮らす生き物同士なのに、まるで人間様は偉い生き物であるかのような――そんな錯覚に満ち溢れた考え方が堪らなく嫌だった。

 村人達は冷たかった。

 もしかしたら、あのまま、ぼくも凍死していれば良かった。本当はそう思っているんじゃないのだろうか? そんな疑心暗鬼に満ちた考え方しか出来無い自分も哀しかった。でも……そう思わずには居られない程に寒々しかった。この村の気候よりも、冬の寒さよりも、村人達の心の寒さの方が、ずっと辛く思えた。

 人間の本心なんて知らない方がいいと思った。だからこそ、と言うべきなのだろうか? ぼくは次郎だけは守り抜こうと思った。いや……守りたいと思った、と言うべきなのだろうか? 哀しい程にぼくは非力で矮小な、ただの人間に過ぎない。そう。所詮、一介の人間風情に過ぎない。一人では何も出来ず、冬の寒さの中で容易く命尽きる非力な人間。次郎の方がずっと逞しいのかも知れない。それでも、ぼくは次郎を守りたかった。次郎と共に過ごせる時間を守りたかった。

 村人達に理解して貰えなくても構わないさ。ただただ、ぼくは次郎を守りたかった。それだけのこと。

◆◆◆14◆◆◆

 次郎は日毎に大きく成長している。一緒に暮らしているぼくの目にも判るほどに成長している。

 とにかく次郎は食欲旺盛だ。あまり人間の食べるものを与えてはいけないと加藤さんに言われているから、出来るだけ山で採れる果物を中心に与えている。

 とは言え、それだけではどうしても栄養が偏ってしまう。だから、魚を焼いたものを与えたりもする。

 生の魚や肉を食べさせるのは気が退けた。

 心の何処かで、次郎を野生から遠ざけようとしている、ぼく自身の身勝手な抵抗がそこにあったのかも知れない。言い換えれば、それはぼく自身の弱さ。次郎の母を手に掛けてしまった罪悪感と、次郎と一緒にいたいと願う人間の勝手なエゴと……その狭間でぼくは苦しんでいた。

 次郎は頭のいい子だ。ぼくの浅知恵などはすぐに見抜いてしまうだろう。

 澄んだ瞳で、何もかもを見透かしてしまうだろう。

 少し前までは軽々と抱き上げられた次郎も、今では抱き上げれば、思わず仰け反ってしまいそうな程に重たくなっている。

 熊は成長すれば人間よりも遥かに大きくなる。

 ましてや次郎はかなり大きくなるだろう。体の大きさに、あまりにも不釣合いに大きな手足がそれを物語っている。

 だが、次郎と一緒に過ごしていると、熊が猛獣だと言う話が信じ難い物になってくる。

 確かに腕力は桁違いかも知れないが、それでも次郎は遊ぶ時は十二分に手加減をしている。子供の次郎でさえ手加減を知っているのだから、大人の熊はもっと力の加減は判っているはず。それに次郎は理由も無く暴れたりしない。

 熊は凶暴で恐ろしい猛獣だ……そんなこと一体誰が言い出したのだろうか?少し考えて見れば判ることじゃないか。山は熊に取っては、ぼく達に取っての家に相当する場所だ。

 人間だって誰かが勝手に家に侵入すれば大騒ぎするじゃないか? それは熊に取っても同じこと。

 見知らぬ人間が勝手に領地に侵入すれば不愉快にもなる。それも人間が必要以上に騒ぎ立てるから熊も驚く。

「結局、人間が自分の手で捲いた種じゃないか……」

 ぼくは何時ものように柿の皮をむきながらぽつりと呟いていた。

 足元では次郎が不思議そうな顔をしながらぼくを見ている。

「ああ、次郎のことじゃないよ。ここは寒いだろう? コタツで暖まっているといい」

 ぼくの言葉を聞くと、次郎は静かに歩きながらコタツの中に足を突っ込んで寝転がって見せた。

 動物が人間の言葉を判らないなんて思っているのは、案外、ぼくら人間だけなのかも知れない。次郎はぼくの言葉をちゃんと理解している。それに、コタツで暖まる熊なんて、何とも人間みたいじゃないか?

 次郎はモゾモゾしながらも、目だけはしっかりとぼくを捕えている。

「そんなに急かさなくても、ちゃんと持っていくから」

 それでいい。そう言いたそうに、次郎は大きな欠伸をして見せる。

「ホント、誰に似たのかね?」

 苦笑いするぼくを尻目に、次郎は再び眠りに就いた。

 この態度の大きさと言うか……ふてぶてしさも大物の証なのか? 剥き終えた柿をテーブルに置いて、ぼくも腰掛けた。食べ物の到着を感じ取ったのか、次郎がゆっくりと置き上がって見せる。

「現金な奴だね。」

 ぼくの言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、次郎は柿を食べるのに夢中だ。

 色んな物を食べさせてみたけれど、次郎はどうやら柿が一番のお気に入りの様子。これで甘党だったりするのだろうか? ますます人間っぽい奴だと思った。

 今日の柿は随分と汁気が多いのにも関わらず、次郎は器用に食べていた。上手いこと汚さないように綺麗に食べている。意外な成長振りに驚かされた。

「何だよ。やれば出来るじゃないか?」

 食べ終わると、綺麗に手のひらと爪も舐めてお掃除してみせる。ついでに、不敵な表情を浮かべながら、ぼくを見つめていた。これで次郎は意外に几帳面な奴なのかも知れない。

 そんなことを考えながら目を細めるぼくを、次郎は不思議そうに見つめながら大きな欠伸をして見せた。

 窓がカタカタ鳴っている。今日は風が冷たい。夕暮れ前から降り始めた雨は、また雪になるかも知れない。そういえば天気予報で言っていたな。夜半頃から雨は雪に変わると。

「雪か……」

 また積もるのだろうか? ついつい、数日の遭難騒動を思い出さずにはいられない。

 一頻り柿を食べ終わると、次郎は横になって見せた。

「お腹一杯になったら寝ちゃうのかい?」

 クスクス笑うぼくの顔を片目だけ開いてちらりと眺めると、再び眠りに就いた。

 風が強まってきたのか? 窓が一層強く、カタカタと鳴っている。

 次郎はすっかり夢の中。ぼくは次郎が火傷しないようにコタツを切った。

 時計の針だけが静かに時間を刻んでいる。そう。時間は刻まれていく。残酷なまでに。決してその流れを止めることは出来無い。無情にも時だけが流れていく。

 次郎は何も知らずに呑気な顔で寝ている。

 考えたくは無かった……次郎と過ごせる時に、終わりがあることを知るのは辛かった。

 認めたくはない真実だった。それは受け入れたくない事実だった。ぼくは……全てを忘却したくて、次郎の隣に寝転がった。いいさ。このまま寝てしまっても。次郎と一緒ならば、ぼくは……

◆◆◆15◆◆◆

 ある日の晩、ぼくは次郎を連れて加藤さんの家にお邪魔していた。

 犬のように首輪を着けるのは忍びなかった。だからと言って手放しで歩かせれば、また村人達から要らぬ反感を買うだけだろう。

 結局、ぼくは次郎を抱き上げながらの移動を選んだ。

 外は寒い。過保護かも知れないけれど、ぼくはコートで次郎を包みながら雪道を歩いていた。

 次郎もすっかり重たくなった。幸い、抱き上げている時は大人しくしてくれているから助かる。

 ようやく加藤さんの家に到着した。

「ああ、坂上君。良く来てくれたね」

「あ、はい……」

 ぼくを見つめる加藤さんの表情、どこか険しかったような気がする。だけど、加藤さんは何も言わなかった。今思えば、それは加藤さんの優しさであり、同時に――途方も無く深い厳しさだったのかも知れない。あの時のぼくは、そんなことには気付くことは無かった。

「あら。次郎ちゃん、いらっしゃい」

 嬉しそうに出迎えてくれる登紀子さん。加藤さんの一人息子の優弥君も出迎えてくれる。

 まだ幼いとは言え、優弥君はやはり、加藤さんの息子なのだろう。次郎のことをまるで怖がる様子も無かった。

「次郎君、こんばんは」

 親しみを込めて挨拶をする優弥君に、次郎は顔を摺り寄せて見せる。

 背丈は同じくらいでも腕力が違う。その重みのある一撃に優弥君は尻餅をついた。

「おいおい。次郎、手加減しろよ?」

「はは。次郎君は順調に成長している様子だな」

 どこか含みのある口調に聞こえた。素直には喜べない何かを、ぼくは肌で感じていた。

「まぁ上がりなさい。玄関は寒いだろう」

「お邪魔します」

 加藤さんに案内されるままにぼくらはリビングへと向かった。

 日曜大工が得意だとは聞いていたけれど、まさか家の改築までやってのけてしまうとは、加藤さんの腕前は下手な大工よりも遥かに優れている。

 まるで北海道のログハウスを思わせるような内装は、自然を愛する加藤さんならではのデザインに思えた。

 次郎は優弥君と遊んでいる。

 普通に考えれば、子供とは言え熊である次郎と、同じく人間の子供である優弥君を遊ばせておいて平気な顔をしている親なんて考えられないだろう。だが、次郎は優弥君を友達だと思っている。だから乱暴なこともしなければ、別段変わった様子も無く、普通に遊んでいる。少々普通の子供よりも腕力が強い程度の違いしか無い。

 登紀子さんが気を利かせてコーヒーを煎れてくれた。挽きたてのコーヒーはいい香りがする。

「隣町で……」

 重々しい口調で切り出したのは加藤さんだった。

「隣町で今日もまた熊の被害があったらしい」

 どうして、今、そんな話をするんだ……。ぼくの心は酷く痛んだ。ぼくは次郎を熊だと思わないようにしている。判っている。そんなの間違っていると言うことくらい。そんなぼくの思惑を知っているのだろうか? 加藤さんは、ぼくが現実から逃れようとすればするほどに力強く、現実へと引き戻そうとしてくれる。

「次郎は……違います」

「ほぅ? 何故……そう言い切れる? 次郎君とて野生の生き物だ。他の熊がそうするように人を襲うかも知れんぞ?」

「……」

 精一杯反論したかった。違う! 次郎は、次郎だけは、絶対に違う! そう叫びたかった。でも……喉まで出掛かっている言葉はどうしても飛び出しては来なかった。否定出来無い自分がいた。

 次郎を信じていない訳では無い。でも……否定も出来無い自分がいるのも事実だった。

 人間は弱い生き物だ。本当に弱い生き物だ。その事実を認めるのがとても辛く思えた……。

「坂上君、次郎君は……どんなに頑張っても熊だ。決して、人間とは同じようには生きられないのだよ。それが自然の摂理と言う物。辛いかも知れないが、現実から逃げてはいけない。最後まで見届けてあげるんだ。次郎君が、どんな道を選び、どんな生き方をするのかをね?」

 そう。それが、ぼくの選んだ選択肢の重み。言い換えれば……命と言う物の重み、そのものなのだから。

 あの時、安易に情に流されて選んだ選択肢。だが……その選択肢の重みは半端な物では無い。命と言う物は掛け替えの無い物。半端な覚悟で挑め、望めるような代物では無いのだから。

 窓の外から見える景色は漆黒の闇夜。何処までも暗い夜の闇の中、ぽつりぽつりと民家の明かりが見える。そんな幻想的な情景に心が温まる気がした。

◆◆◆16◆◆◆

 何時もは次郎と二人きりでの夕食だ。だけど、今日は加藤さん家族と一緒だから、どこか賑やかなように感じられた。そんな暖かな空気が心地良く感じられた。次郎も落ち着くのだろうか、何時も以上に良く食べる。

 ただ……加藤さんが何かを考えているのが気になって仕方が無かった。静かに目線を落としながら食事を続ける姿にそれが表れていた。

 今日はニジマスを焼いたものを出してくれた。わざわざ手間の掛かる魚料理を出してきた辺りに、加藤さんの考えが見え隠れしているように思えた。

 次郎は豪快な奴だ。焼き魚がよほど気に入ったのか、頭からバリバリとかじっている。

 ぼくの心が少しだけ痛んだ。そう。魚の骨が喉に詰まったらいけないと考えて、ぼくはついつい、魚の身をほぐしてから次郎に与えていた。

 それがどんなにエゴに満ち溢れた振る舞いなのか、それがどんなに次郎に取って有り難くない行為なのか、重々判っていた筈なのに……。

「逞しいものだな。ニジマスの骨はかなり固いはずなのに、次郎君は何事も無いかのように、バリバリ食べている」

 ニジマスをよほど気に入ったのか、次郎は欠片さえ残さずに綺麗に食べつくして見せた。ぼくが普段食べさせないような……丸ごとの焼き魚がよほど気に入った様子だ。

 皮肉な話だと思った。ぼくのやっていることは優しさじゃない。ただ……彼を、次郎を、少しでも過保護に育てて、自分の手元に置いておきたいだけの欺瞞と虚飾に満ちた、実に体裁の悪い、見苦しい偽善に過ぎないということに、改めて気付かされた。

「忘れてはいないだろうが、次郎君は野生に生きる動物だ。野生に生きる動物は何時かは野生に還さなくてはならない」

「……」

 ぼくが一番受け入れたくない事実を、ぼくが最も目を背けたい真実を、加藤さんは、これでもかと就き付けてくる。判っているのだろう。ぼくが必死で逃げ続けていることくらい。だからこそ、逃がさない様に八方を見事に塞いでくる。

「次郎君はニジマスがよほど気に入ったみたいだね?」

 笑顔で問い掛ける加藤さんに、次郎はまんざらでもなさそうな顔をして見せる。盛んに舌を出しては、物足りないと誇示して見せていた。

「そうか、そうか。だがな、次郎君? 魚は自分で採るものだ。どうだろうか? 今度はきみの手で採った魚を食べてみては?」

「!」

 加藤さん!……言い掛けたぼくを、鋭い目線で加藤さんは制した。

「……坂上君、約束を忘れた訳ではないだろうね? 三年目の冬には……次郎君は、山に還さなくてはならない。人間の生活に慣らし過ぎてしまっては、次郎君は厳しい自然の中で生きる術を見失ってしまう。本当に次郎君の幸せを願うのであれば、避けては通れないのだよ。人と動物との生きる道は違うと言う事実からね?」

 静かに語る加藤さんの言葉は……とても、とても、重く感じられた。

 加藤さんは大自然の雄大さを良く知っている。同時に、大自然の厳しさもまた、良く心得ている。

 本当に心優しい人だってことは良く判っている。動物が好きなんだ。好きだからこそ……皆が嫌がるような仕事もする。

 本当に動物が好きだからこそ、時に猟銃を構え、人々を守るために……動物を討ち取らなくてはいけない時だってあるんだと思う。

 ただ、次郎と一緒に居たいから……そんな身勝手な理由で、次郎を可愛がるだけの、表面的な愛情しか知らないようなぼくとは違う。

「坂上君……きみが選んだ選択肢は、決して軽い物では無いだろう。だが、何も知らなかったとは言え、その選択肢を選べたことは少なからず賞賛に値すると思っている」

 加藤さんはじっと、ぼくの顔を見つめたまま静かに語り始める。

「最後まで、必ずや成し遂げるんだ。身を引き裂かれるような、哀しい結末になるだろう。恐らく、想像以上に辛い、辛い……結末になるだろう。だが、その苦難を乗り越えられた時に、次郎君と共に過ごせたこと、きっと大きな宝になるはずだろう」

 逃げ出したかった。現実から、加藤さんから……ぼくは思わず目線を逸らした。堪えられなくなっていた。そんな、ぼくの想いを見抜いているのか、加藤さんは穏やかな口調で、ぼくを諭すように締め括った。

「大丈夫だ。私も可能な限り応援はしよう。だから、次郎君のためにも、精一杯の愛情を持って接してあげて欲しい」

「判っています。次郎は……次郎は、ぼくの大切な弟です」

 ぼくは堪え切れなくなって、思わず次郎を抱き上げていた。いきなり抱き上げられて、次郎は驚いた様に、目を大きく見開いていた。

 だけど……ぼくの心が判るのか、次郎は静かにぼくの頬に鼻を摺り寄せてくれた。

 次郎の口元からはニジマスの香りがして、思わず笑いが毀れた。

「次郎。お前、魚臭いぞ?」

 ぼくにからかわれて、困ったような表情を見せながら、照れ臭そうに目線を逸らす次郎がたまらなく可愛かった。

 このまま時の流れが止まってしまえばいい。何時も以上に、この時は……そう、切に願った。逃げ出したかった。本音を言えばそうなる筈だ。このまま自分の想いを乗せて突っ走ることも可能だった。

 恐らく、加藤さんはぼくを止めないだろう。例え、その選択肢を選んだとしても、今までと変わらない振る舞いを崩すことは無いだろう。

 そんなことはどうでも良かった。ただ、次郎のために、ぼくは傷付こうと思った。

 暗い奴なのかも知れない。悲観的で、後ろ向きの発想しか出来無いぼくは、途方も無く弱虫なのかも知れない。

 それでも、そうでもしなければ、ぼくは……前に踏み出せそうに無かったから。

 そんなぼくの心さえも、次郎の澄んだ瞳は見抜いてしまいそうで怖かった。

 遠くに見える街明かりが、妙に心に染み渡る気がした。このまま朝なんて永遠に来なければいいと思った。

 世界中の時計を壊せば時が止まるだろうか? そんなことを真面目に考える、馬鹿な自分がそこにいた。

◆◆◆17◆◆◆

 その日、ぼく達は加藤さんの車に揺られながら国道を駆け抜けていた。

 覚悟を決めて腹を括ることと、いざ、その場で立ち向かうことが、こんなにも違うものだとは思わなかった。

 加藤さんは厳しい人だ。ぼくの決意が揺らぐ隙どころか、あれこれ考えさせる暇さえ与えてはくれなかった。

 いや……今思えば、それは加藤さんの深い優しさだったのかも知れない。

 立ち止まれば立ち止まるほどに……その時の訪れが辛く、苦しい物になってしまうことを

 加藤さんは誰よりも心得ていたのだから。

 初めて乗る車が興味深くて仕方が無いらしく、好奇心旺盛な次郎は、盛んに鼻を押し付けてみたり、大きな手で触ってみたり、色々と試しているみたいに見えた。そんな次郎の姿が、何だか研究熱心な学者みたいに思えた。

 高速に入り、車が速度を上げると、次郎は何やら興奮したような様子で、窓の外を見つめていた。何時も以上に上機嫌な様子が、ぼくにも良く伝わってきた。

 不思議なものだ。動物の心も、人間の心と大差は無いのだと実感した。

 窓を開けると冷たい風が吹き込んできた。次郎も興味深そうに窓に顔を近付けて風を感じている。

 木々の香り。雪の照り返しの、冷たい光と風。抜けるような青空が、だからこそ切なく思えた。

 加藤さんは何も言わずに静かに運転を続けている。

 葉の落ちた木々で作り上げられた森を抜ければ、何時しか水音が聞こえてくるようになった。

 川が見えてきた。広大な川。豊かな水を讃えた広大な川。

 ここで次郎の特訓をするのだろうか? 加藤さんの考えていることが、ぼくには判ら無かった。加藤さんは、あまりにも色々なことを考えられるから、ぼくは何時も取り残されていた。

 何も知らない次郎は、見知らぬ土地に好奇心を惹かれるのか、盛んに興味を示している。避けられるものならば避けて通りたい道だった。それは嘘でも無ければ、偽りでも無い、正直な本心。だけど、それは次郎のためにはならない。もっと言えば、ぼく自身のためにもならない。

 あまり色々と考えるのは辞めようと思っていた。考えても答えには行き着かないだろうし、それ以上に、考えれば考えるほどに辛くなっていく。

 ぼくは弱い奴だ。同じ痛い思いをするのであれば、少しでも楽な道を選ぼうとする。消えてしまえ。弱虫な自分を、そう罵りたかった。それさえも……もしかしたら、逃避の現われなのかも知れない。

 やがて車が速度を落としながら、ゆっくりと止まる。

「この辺りでいいだろう」

 加藤さんが車を止めた。次郎が興味深そうに加藤さんを見つめる。振り返りながら、加藤さんが笑顔を見せる。

「次郎君、今日はきみの好きなお魚を好きなだけ食べていいんだぞ?」

 加藤さんの言葉を理解しているのか、次郎は嬉しそうに瞳を輝かせている。

 でも、その瞳の輝きは何時もの次郎の瞳とは明らかに違っているように思えた。その瞳は、ぼくが目を背け続けたかった、野生の獣の瞳だった……

 次郎はぼくの弟だ。そう思いたかった。せめて、人間と普通に暮らしている犬や猫のような存在。そんな存在であって欲しいと願って止まなかった。

 だが加藤さんの用意した特訓は、言うなれば残酷な試練のようなもの。ぼくと次郎との間に広がる、果てしない壁の高さを証明するもの。

 生の魚を食べさせる。それも、自らの手で採らせて……。

 矛盾していると思った。わざわざ野生の本能を引っ張り出して、血の味を、生の肉の味を覚えさせることは……どう考えても、危険な行為でしか無いと思った。

 何故、加藤さんはそんな危険な行為をわざわざ選んだのか? ぼくにはどうしても理解出来なかった。

 次郎は車から降りると、深く積もった雪の中に顔を突っ込んで遊んでいる。

 こうして遊んでいる分には可愛らしいのにな……そんなぼくの想いを知ってか、知らないでか、加藤さんは河原へとゆっくりと歩んでいく。

「次郎君、こっちだ。さぁ、早く来なさい」

 加藤さんの声に呼応するかの如く、次郎は雪の中から顔を抜き出した。柔らかな雪の上を、次郎はたどたどしい足取りながらも、四つの足でひたすらに走っていくのであった。

 何だか……ぼくだけが時の流れに残されたような孤独感に襲われて、ぼくも慌てて次郎の後を追い掛けた。

 柔らかな雪が足に絡まり前に進み難く思えた。まるで、ぼくの心を象徴するかのように。

◆◆◆18◆◆◆

 実にシンプルな仕掛けであった。だからこそ知恵を巡らせたことは容易に察しが付く。

 川の一角を石で囲い、ちょっとした囲い池を作る。そこにニジマスを放流すると言う仕掛けだ。早い話、天然に近い形の釣堀を作るようなものだ。

 ニジマスの養殖を営む人まで知人にいるとは、加藤さんの顔の広さには毎度のことながら驚かされる。

 天然の川に作られた、人工の釣堀にニジマスが放流される。

 一斉に冷たい川へと泳ぎだすニジマスをぼくは、ただ静かに見つめることしか出来なかった。自分でも何をどうしたいのかが判らなくなっていた。

 ただ、静かに……目の前の光景を見つめていた。ただ、吸い込まれるように魚の流れを目で追っていた。そんな自分が妙に可笑しかった。同時に、そんな自分が途方も無くちっぽけで、可哀想に思えた。遠い空の上から自分を見下して嘲笑いたかった。

 この雄大な大自然の中で、ぼくと言うたった一人の人間の存在が、こんなにも非力で、矮小で、ちっぽけなものだとは思わなかった。いや、思いたくなかったと言うのが正解だろう。

 次郎は興味深そうにニジマスの群れを見つめている。

 ぼくの心の中で、何かがざらつくような感じがしている。毛を逆さに撫でられるような、そんな不快感に胸が苦しくなる。手のひらの中で、生暖かい汗がじっとりと噴き出す。口の中が渇いていく。吐き出しそうな程の緊張感。

「さぁ、次郎君。きみの手で魚を採るんだ」

 静寂を破ったのは加藤さんの言葉だった。ぼくは唇を噛み締めたまま、ただ、俯くことしか出来なかった。出来ることなら次郎から目を背けたかった。いや、認めたくない現実を……受け入れたくない真実を、抹消したかっただけなのかも知れない。

 次郎はゆっくりと川へと歩み寄って行く。

 恐る恐る川へ、そっと手を入れてみる。あまりの冷たさに、慌てて後退りする次郎の姿に、

 何時もの次郎らしい、何処か人間らしい愛らしさを覚えた。

 再び気を取り直した次郎は、今度はゆっくりと川の中へと歩み込んで行く。

 敵の接近に気付いたニジマス達が慌てて逃げ惑う。その様子を次郎は静かに目で追っていた。次の瞬間……。

「!」

 鋭い手付きで川の中へ、次郎は思い切り手を突っ込んだ。

 跳ね上げるような鋭い動きは、空中に弧を刻み込む。だが、少々見切りが浅かったのか、狙いは外れ、したたかな水飛沫を舞い上げただけだった。

「次郎君、焦らなくていい。今度はもっと、慎重に狙いを定めるんだ」

 腕を組みながら笑い掛ける加藤さんに振り返りながら、次郎は目線を投げ掛けた。

 でも、次郎が見ていたのは加藤さんじゃなかった……。まるで、ぼくに向かって微笑むかのように、次郎は一瞬、ぼくの目を力強く見つめていた。

「逃げないで。ぼくから、現実から、逃げないで」

 次郎の声が聞こえた気がする。ぼくは……ぼくは、どうすればいい? ますます、ぼくの中で、見えない何かがザワザワと騒ぎ始めるのが聞こえてくるような気がした。

 凄まじい勢いで、何かの根が、ぼくの体の中を侵食していく。そんな言葉に出来無い奇異な不快感が走り抜けた。

 次の瞬間、鋭い水の音が聞こえた。

 跳ね上げると言うよりも、まるで、川の流れを切り裂くような鋭い音であった。

「おお。次郎君、やったじゃないか。」

「え?」

 一瞬、川に反射した太陽の光で目が眩んだ。

 ぼくの視界に飛び込んできたのは、ピクピクと切な気に必死の抵抗を見せるニジマス。そして、それを咥える次郎の姿だった。口元から水と、血を滴らせながら、次郎はゆっくりと、ぼくの足元へと歩み寄ってくる。ぼくの足元にニジマスを置くと、次郎は再び川へと向かっていった。

「次郎……?」

 戸惑うぼくに、加藤さんが穏やかな笑みを見せる。

「野生の動物とは思えない行動だ。次郎君は、坂上君のためにニジマスを採ってきてくれたのだろう。子供の熊が、初めて捕らえた獲物を誰かに分け与えるとは驚きだな。次郎君は立派に成長しているじゃないか? 坂上君、きみの愛情を一心に受けて成長していると言う何よりの証だな」

 加藤さんは、驚いたような、どこか興奮したような口調だった。

 野生の動物が見せる意外な一面に強い興味を覚えたのだろう。立派に次郎を育て上げられていること……素直には喜べなかった。次郎の成長を微笑ましく思う以上に、ぼくは次郎の姿を見て、恐ろしいと思ってしまった。

 口元から血を滴らせながら、ニジマスを生け捕りにし、口にしているその姿は……ぼくには、ただただ恐怖でしか無かった。

 ぼくがずっと遠ざけたかった野生への回帰。だが、目の前では次郎は採れたてのニジマスを……生のニジマスを食べている。黒い毛皮を、血で赤く染めながら。

 それはまさしく、野生の獣の姿そのものだった。

 ぼくは目を背けたかった。ぼくは逃げ出したかった。ただただ、その真実を忘却したかった。次郎は怯えるぼくに気付いたのか、もう一匹のニジマスを咥えたまま、ぼくの隣に座り込んで見せた。まるで、一緒に食べないの? と誘うような表情で。

 判っているさ。次郎に悪気は無い。ただ、兄弟のように思っているぼくと一緒に獲物を食べたかった。それだけのことだ。だけど、この時のぼくは哀しい程に無力で、臆病で、ただただ震えることしか出来なかった。あんなにも可愛がっていた、次郎との間に大きな溝が出来た瞬間に思えた……。

◆◆◆19◆◆◆

 時に離れ、時に近付き、寄せては返す波のように、ぼくと次郎は、同じ時を歩み続けた。

 すっかり次郎は、ぼくに心を開いてくれるようになった。最初の頃は寝ている所に近付くと、警戒感を煽ってしまい、目を覚まさせてしまったが、今では次郎の方から一緒に寝ようとしてくれる。

 次郎は大人しい奴だけど、寝返りを打った拍子に手痛い一撃を受けてしまうことも少なくはない。悪気は無くても腕力は人間とは桁違いだ。

 それでも、ぼくと次郎は何時も一緒だった。何時も一緒に行動しているから、次郎は冬眠もしない。寒い冬の間は一緒にコタツに入ったりもしていた。

 早いものだ。次郎と出逢ってから、もう半年が過ぎようとしていた。もはや子供と呼ぶには、あまりにも大きな姿に成長した。それでも、その大きな外見に似合わず、やっていることは子供のままだ。

 力勝負では到底叶わない程に成長したが、相変わらず色んな悪戯をしては、ぼくを困らせてくれる。

 叱られる度に、上目遣いでぼくの顔色を伺う仕草が何とも人間染みていて愛嬌がある。

 次郎はとても表情が豊かだ。言葉は通じなくても、何を考えているかはお互いに手に取るように判るようになっていた。

 大きくなるに連れて、腕力が飛躍的に強くなっていく。当初の予想通り、次郎はかなり大きく成長している。

 村人達から奇異な目で見られることも無くなった。体は大きいし、見た目は野生の熊と何ら変わりはない。確かに、その腕力は人間など比較にならない程のものだ。

 次郎は意外に人間好きな奴だ。と言うより、自分が熊だと言う認識が薄いのかも知れない。可笑しな光景かも知れないが、普通に犬と散歩するような感覚で、次郎と出掛けることも少なくは無くなった。

 村の外から来た人は、当然のことながら驚くが、村の中では次郎は今では誰もが知る有名人になっていた。最も、有名熊とでも言った方が正しいのかも知れないが。

 それでも次郎はまだまだ子供だ。野生の熊がそうであるように、熊の子供時代は意外に長い物だ。外見は大きく成長しても中身は子供のままだ。そんな不釣合いな一面が、また愛らしくも思えた。

 だからこそ、ぼくは願っていた。ずっと、ずっと……子供のままであって欲しいと。何時までも、手の掛かる、世話の妬ける、甘えん坊で居て欲しい、と。

 長く厳しい冬はやがて終わる。こんな寒い北国にも夏はやってくる。時の流れを止められないのと同じ様に、季節が巡ってくるのも止めることは出来無い。それは当然のような、自然の摂理だからこそのもの。夏は静かに訪れる。音もなくやってきて、そして、また音もなく去っていく。

 季節は巡る。季節が巡れば、また冬がやってくる。雪国の、北国の、長く厳しい冬。冬が訪れると、ぼくはあの日を思い出さずにはいられない……

 そう。次郎、きみの母さんの命日をね。いや……厳密には、ぼくが罪を犯した日と呼ぶべきだろう。

 次郎はすっかり逞しく成長した。まだまだ、遊びたい盛りの子供に過ぎないが、出逢った頃とは比べ物にならない程に立派になった。

 もう、あの頃のように抱き上げられるような大きさじゃない。

 逆にぼくが抱き上げられてしまいそうだ。それも軽々と。今の次郎の腕力ならば、ぼく如き、軽々と持ち上げられてしまうだろう。

 あの時……次郎、きみと共に歩む道を選ばなかったならば、今、こうして、きみとこの場所に立つことも無かっただろう。

「次郎……ここが、どこだか判るかい?」

 雪が降っている。何時しか風も吹き始めた。ヒュオオオ。風が鳴いている。強い雪は、次第に吹雪になりつつあった。

 舞い上がる冷たい雪で、ぼくも、次郎も真っ白だ。

 次郎は何かを感じるのか、何処か落ち着かない様子だ。普段は大人しい次郎もこの時だけは違っていた。しきりに耳を立てて、何かの音に耳を傾けている。

 ぼくは、そっと次郎の肩に手を宛てて見せた。静かに次郎がぼくの方を向き直った。

「次郎のお母さん……」

 ぼくは、あの日の光景を思い出していた。

 まるで、時の流れが止まったかのように、その一点だけは草も木も生えていなかった。

 その場所を間違える筈が無かった。その場所に……あの時、次郎の母さんが息絶えた場所に向かって、ぼくは語り掛けていた。

「見て下さい。次郎は……次郎はこんなにも立派に成長しました。本当ならば……あなたに取って、ぼくは憎むべき存在だ。それは次郎に取っても同じはずです」

 ぼくは静かに目を伏せた。

「でも……ぼくは、どうしても、この場所を訪れたかったのです。貴方の忘れ形見の……次郎と一緒に。もう、すっかり大きくなった次郎を……貴方に見て貰いたかったのです」

 ヒュオオオ。風が一層強まってきた。

 ますます荒れ模様の吹雪の中、ぼくと次郎は静かにその場に佇んでいた。何時までも、何時までも、ずっと……。

 不思議な光景だった。こんな酷い吹雪の日に山中に佇む一人の人間と一匹の熊。

 そう。ただ、連れて来たかった。次郎をこの場所に。ただ、見せたかった。すっかり大きくなった次郎をあなたに……。

                                後編へ続く