第2話『サンタさんのくれた贈り物(後編)』

◆◆◆1◆◆◆

 長い冬が終われば、やがて暖かな春が訪れる。

 北国の厳しい風雪に耐えて、それでも静かに芽吹く時を待ち侘びる桜の健気さに、ぼくは敬意を表さずにはいられない。

 誰が褒めてくれるわけでも無いのに、それでも必死に花を咲かせようとする健気さ。

 確かに、桜の花は人間の心を癒し、楽しませてくれる。だが、人間のために桜は花を咲かせるわけではない。あくまでも、自分のために花を咲かせるだけ。それはぼくも同じ。

 誰かのために生きるわけじゃない。ただ、自分のために生きている。次郎と共に歩んでいるのも……結局は自分のため。

 子供達の歓声が聞こえてくる。

 空は抜けるような青空。昨日よりは、少しだけ暖かい気がする。

 それでも、まだ雪は溶け残っている。風が吹き抜ければ、思わず身震いする寒さだ。

 空は本当に青い。だからこそ、ぼくの心は余計に締め付けられる。真綿でゆるゆると締め付けるような苦痛と……哀しみ。

 ぼくの傍らを子供達が駆け抜けていく。ランドセルを背負った新一年生達の姿は眩しく思えた。

 桜の花は入学式の訪れを告げる春告げ花。だからこそ、考えずには居られない。

 だからこそ、痛まずには居られない。そう。加藤さんの一人息子、優弥君も今年から小学一年生になる。眩しいような笑顔で、ランドセルを背負って駆け抜ける。そんな彼を笑顔で見送りながらも、ぼくの心の中は複雑な気持ちで一杯だった。

 次郎が……もしも、次郎が人間だったならば、優弥君と同じ様にランドセルを背負って、一緒に……。そう考えれば考えるほどに苦しかった。どんなに頑張っても、次郎は人間にはなれない。

 逆さまになって考えてみても、次郎が熊であることに変わりはない。それは残酷な真実。どうにも変えようのない現実。

 ぼくの大きなため息が、春の訪れた街に静かな影を落とし、静かな吹雪を巻き起こす。

 次郎もすっかり大きくなった。一年も経てば相当に成長するものだ。だが、次郎はまだまだ大きくなりそうだ。だいぶ大きな体になったとは言え、まだ手や足の大きさが不釣合いだ。つまりは、次郎はさらに大きくなるということだ。

 次郎には可哀想だけど、迂闊に外に出せなくなってきた。

 頭のいい次郎は、間違っても人間を襲ったりしないし、村の人たちは恐らく何も言わないだろう。ただ、何処かでぼくは線引きをしたかったのかも知れない。段々と大きくなっていく次郎を……人間を脅かす獰猛な熊とは違うのだ、と。

 いや……そうじゃない。それもあるけれど、本音は違う。残酷な真実を、哀しい現実を、次郎に見せたくないだけなのかも知れない。そんなの優しさじゃない。ぼくが傷付きたくないだけの極めて身勝手で、利己的なエゴイズムに過ぎない。

 きっと、次郎はそんなぼくの哀しみを見抜いているのだろう。

 ぼくは重い表情を崩しながら、静かに家の戸に手を掛けた。玄関の戸を開ければ、そこには次郎がぼくの帰りを待っていてくれた。

『おかえりなさい』

 そう言わんばかりに、次郎は静かに頬を寄せてくる。かつて、幼かった頃のきみがお母さんにそうしたように。

「次郎……」

 弾かれるようにぼくは呟いていた。同時に、最初に出逢った日を思い出していた。

 もしも……もしも、あの時……次郎のお母さんを死なせずに済んだなら……。あるいは、あの時に次郎、きみを山に置き去りにしていたら、きみは一体どんな奴になっていたのだろうか? 生きることすら出来なかったのだろうか?

 考え込むぼくを、次郎が大きな手で突付いて見せる。まるで、家に入らないの? と言いたそうな表情で首を傾げながら。

「ああ、気遣ってくれてありがとう。お腹空いただろう? そろそろ、お昼にしようか?」

 ぼくと次郎との間には隔てるものは無くなっていた。

 例え言葉は違っていても、ぼくは次郎の思っていることは判る。同時に次郎もまた、ぼくの想いを介しているのだろう。

 動物は言葉が判らない。動物には人間の言葉は通じない。一体誰がそんな曖昧な偏見を作り出したのだろう? 判り合おうとする想いさえあれば、それ以上のものは必要ない。

 次郎はそんなアタリマエのことさえ気付かずにいたぼくに、あっさりと答を教えてくれた。

 どうすれば良いかなんて判らない。ただ、次郎……きみと共に歩みたい。それだけがぼくの願いだった。

◆◆◆2◆◆◆

 風の流れは何時だって残酷で、待って欲しいと願う時ほどアクセル全開で突き抜けていこうとする。

 次郎と一緒に食事をしながら、ぼくは、ふと窓の外を眺めた。

 こんなにも早く夜が訪れるなんてね。ついさっきまで、まだ昼だと思っていたのに。

 お腹が一杯になれば、次郎は相変わらずの寝姿。無防備と言うのか、何と言うのか……何とも締りの無い姿で寝転がっている。気を許してくれているのは嬉しいのだけど、同時に不安にもなる。

「次郎……きみは山へ帰らなくてはならないんだよ? 何時までもぼくと一緒にいられる訳ではないんだよ?」

 自分で想いながら、思わず涙が込み上げて来そうになる。

 ぼくだって……次郎、きみと一緒に居たいさ。でも……。

 揺れ動く理性と本能。頭では判っている。次郎を山に帰らせてあげなければならないことは。ただ、体が着いてこないだけのこと。

 次郎だって、こんな窮屈な家では居心地悪いだろうに。きみはその立派な体で、存分に野山を駆けるんだ。山の王者に相応しい強さを身に付けるんだ。もうきみは、ただの非力な子熊じゃないんだ。もっと、もっと強くなるんだ。ぼくが成し遂げられなかった想いを叶えて欲しい。

 いや……そんな弱気じゃいけない。ぼくは獣医になるという夢を叶える。だから、次郎、きみも王者になるんだ。

 ぼくと共に過ごした時間が少しでも役に立てばいい。そう願わずには居られない。

 何の意味も無い時間だったとは思いたくはないから。

 相変わらず次郎は寝ている時に口が良く動く。そのクセは子供の頃から変わっていない。大きな体躯に不釣合いな、妙なあどけなさ。そんなアンバランスさが可愛らしいと思った。

 確かに体はすっかり大きくはなったけれど、これでも、中身はまだ子供のままなのだから。外見だけが大きくなっただけに過ぎない。その証拠に次郎は、今でも子供らしい振る舞いをする。

 何をするにも何時もぼくの後を着いて来る。料理をしている時も、洗濯をしている時も、

 じっと見つめている。

 何かが出来るという訳ではない。ただ、ぼくのやる事なす事に興味を示す。

 最近は新しい行動を見せるようになった。時折、二本足で立って、ぼくの真似をするようになった。

 並んで背を比べてみれば、もう次郎の方が背は高くなっている。体重は比べ物にならないだろう。熊の体重は人間よりも遥かに大きい。もしも、次郎がじゃれついて飛び乗って来たら、ぼくは窒息してしまうに違いない。それを判っているから、次郎は決して飛び付いて来ない。やはり次郎は賢い子なのだと思った。何よりも、人の心を介することが出来る子だと思った。

 次郎は時に、動物とは思えないほどに繊細な振る舞いを見せる。いや、ぼくら人間が、動物の心を知らないだけなのかも知れない。犬や猫のような哀願動物と違って、熊は元来人に懐くことの無い野生の動物。だからこそ、もっと獰猛な生き物なのかと思っていたが、そんなことは無いのかも知れないと思った。

 現に次郎と一緒に暮らしていて、一度だって、次郎が猛々しい振る舞いをしているのを見た試しが無い。他の熊と見比べた訳では無いから一概に、そうとは言い難い。でも、次郎は少なくても大人しい奴だ。

 山に帰った次郎はどんな奴になるのだろうか? 楽しみな気もするが、それは同時に別れの訪れでもある。

 今更になって加藤さんの言葉の真意……判り始めたのかも知れない。

『坂上君、本当にいいのか? 後できっと後悔することになるぞ?』

◆◆◆3◆◆◆

 半分正しくて、半分間違いだと思った。

 確かに、別れの瞬間を考えれば、身を引き裂かれるような哀しみにどうしようも無くなる。

 でも……次郎と共に過ごせた時間。それは何にも変えようの無い、掛け替えの無い時間でもあった。こんなにも貴重な体験をさせて貰えたことに感謝こそすれど、異を唱えることなんて考えられない。

 ぼくは、良く寝ている次郎の隣に横になった。隣にぼくが来たのに気付いたのか、次郎が静かに顔をこちらに向けて見せる。

「起こしちゃったかい?」

 ぼくの言葉を受けながら、次郎はこれ見よがしに大きな欠伸をしてみせた。

 吸い込まれそうな大きな口に、鋭い牙。野生の動物……それも肉食獣特有の武器。そんな迫力とは不釣合いな丸い目。表情の豊かな次郎は本当に人間のように思える。次郎はぼくの目をじっと見ている。

「大丈夫だよ。何でもないよ?」

 きっと、次郎のことだからこんな上辺だけの嘘なんて軽く見抜いちゃうんだろうな。

 それでもいいさ。嘘でもいいから強がっていなければ、後ろへ進もうとする自分に潰れてしまいそうだから。

 そんなぼくの心を見抜いているのか、次郎は静かに目を逸らした。

「何だか疲れちゃったよ。ぼくも寝ようかな?」

 ぼくの言葉に頷くように、次郎が少しずれて見せる。ぼくは次郎にくっついて横になった。

 桜の咲く季節とは言え、夜は冷え込む。

 こうして一緒に寝られるのも、何時までだろうか?そう考えると、胸が締め付けられそうだった。でも、だからこそ、この一瞬を大事にしたかった。大切な親友と、大切な兄弟と、共に過ごせる貴重な一瞬、一瞬を大事にしたかった。

 時の流れは残酷で、決して待ってはくれないから。だからこそ、ただ必死に縋ってみたかったのかも知れない。無駄なことなんて言わないで欲しい。

 詮無きこと……その事実は、ぼく自身が一番痛感している。だからこそ、もう少しだけ一緒に寝させて欲しい。だからこそ、もう少しだけ甘えさせて欲しい。ただ、それだけ。ただ、それだけがぼくの願いだった。

◆◆◆4◆◆◆

 時の流れは早い。残酷なまでに早く過ぎ去っていく。まるで、時の流れに取り残されようとしているぼくを嘲笑うかのように。

 駆け抜けるように春は過ぎ去り、短い夏が訪れては疾風の如く過ぎ去っていく。

「今年も帰ってこないのか?」

 東京の母親からの電話に、いい加減うんざりしていた。

 ぼくの置かれている状況を知らないからアタリマエのように電話を掛けてくる。悪気は無いのだろうが、正直なところ迷惑だ。少しでも長く、ぼくは次郎との時を過ごしたいんだ。それは誰にも邪魔はさせたくない。

 あの日……次郎を抱き上げた瞬間から始まった物語。

 それは走り続ける列車のようなもの。途中下車の許されない全駅強行突破の超特急。車窓をゆったりと楽しむ暇なんて無い。ただただ駆け抜ける速度に翻弄されないようにするので手一杯にさせられるほどの超特急。

 相変わらず次郎は、無邪気な姿を隠さない。あれからまた、少し大きくなったけれど、やっていることは人間の子供と大差は無い。

 とは言え、以前のように無茶な悪戯はしなくなった。何をすれば叱られるかを心得ているのかも知れない。そういう意味では、少しだけオトナになったのかも知れない。

 成長は元来、喜ばしいもののはず。だけど、ぼくは……その成長を素直に喜べなかった。成長は、即ち、別れへの接近を意味する訳なのだから。

 次郎の成長を微笑ましく思う一方で、抑え切れない哀しみに押し潰されそうになる。

 次郎を見ていると、本当に色々なことを考えさせられる。庭の大きな石を転がしてみたり、

 時々、木にしがみ付いて爪を研いでみたり、そんな無邪気な振る舞いをしている次郎を見ていると、とても恐ろしい猛獣だとは思えない。

 確かに、その立派な爪や牙は肉食獣のものではある。とは言え、熊は他の動物と比べると人間に近い。

 普段は四つ足で歩き回っているが、時々、ぼくの真似をして二本足で立つと本当に人間みたいだ。立ち上がれば、ぼくよりも大分背も高くなった。それでも、相変わらず鼻を摺り寄せるクセは抜けない。こんなにも強そうな奴なのに、意外に甘えん坊な一面は消えない次郎。そんな次郎と過ごす時間は、何にも変え難い至宝。だからこそ……加藤さんの言葉が重く圧し掛かる。

『三年目の冬』

◆◆◆5◆◆◆

 動物は人間よりも成長速度が早い。

 三歳と言えば、人間にしてみれば、まだ幼い子供に過ぎない。しかし、動物に取っては成人したに相応しいもの。

 こんなにも無邪気で、幼く、甘えん坊な次郎がちゃんと成長し切れるのか? 不安も残る。

 だがそれ以上に、ぼくの隣から居なくなる事実が耐え難い……。熊の母親も三年目の冬には我が子との別れを迎えると聞く。巣立ちを迎えさせる熊の母親は、それは、壮絶な「別れの儀式」を演じるもの。

 愛する我が子だからこそ、心を鬼にして、涙を見せることなく、ただ、静かに時の訪れと対峙するのかも知れない。

 それは……本当の愛を知っているからこそ出来ること。

 果たして、ぼくに……それだけの覚悟はあるのだろうか? その時が訪れた時、ぼくは心を鬼に出来るのだろうか? いや……何よりも、逃げ出そうとする自分自身を、何処まで抑え切り、自分自身に打ち勝つことが出来るのだろうか?

 次郎を愛する想い。やがて訪れる別れの時への哀しみ。決断出来るだけの覚悟を持てるかの不安。様々な想いが交錯しては、ぼくの心を締め付ける。

 まだ、壊れるわけにはいかない。逃げ出すことは簡単なこと。だけど、逃げ出してしまえば、ぼくは次郎の未来を奪うことになる。

 結果的にぼくは次郎を二度、死なせることになる。それは絶対に避けたい。

 今は少しでも勇気が欲しい。そんなぼくの心の迷いに気付いているのか、次郎が心配そうにぼくの顔を覗き込んでいる。首を傾げながら、じっとぼくの目を見ている。

「大丈夫だよ。心配要らないよ」

 何が大丈夫なのだろう? 何が心配要らないのだろう? 自分で言って置きながら、思わず自問したくなる。

「あ、トンボだ」

 目の前を赤とんぼが颯爽と滑空していく。

 それを見た次郎が興味深そうに後を追っていく。

 ぼくは静かに空を眺めていた。今日は比較的暑い日だ。この暑さも何時まで続くかな? そんなことを考えるぼくを尻目に、次郎は無邪気に駆け回っている。

◆◆◆6◆◆◆

 北の大地の夏は短く、何よりも素っ気無く地味なものだ。だけど、東京に居た頃に体感した夏とは異なり、どこか小粋な感じがした。

 短い夏だからこそ、花も、草も、木も、動物達も、人間達も、精一杯に生きようとする。命の息吹が色濃く感じられるような気がした。

 少しだけ、ぼくの中での覚悟も固まり始めてきた。

 次郎は確実に成長している。童心なりにぼくを気遣うことを覚え始めてきた。本当に心優しい子だ。ぼくが寂しそうな目をしていると、そっと隣に腰掛けて、同じ空を見てくれる。

 次郎の体温を感じながら、一人じゃ無いことを実感出来る。相変わらず妙な悪戯は直らないみたいだけど。

 子供は悪戯をするものだ。好奇心旺盛な子ならば、なおのこと。

 次郎は本当に好奇心が旺盛な子だ。気になること、興味を抱いたもの、取り敢えずは試さずには居られないらしい。そんな学者肌な一面は悪くは無いと思うのだけど、何しろ腕力が半端ではない。それでなくても次郎は、相当に力の強い子だから、本人には悪気は無くても、結果は甚大なものだったりする。

 障子に映った揚葉蝶の影を追い掛けていたのだろうか? そっと触れたつもりだったのだろうけど、障子の格子が丸く消失していた。ついでに、窓ガラスにまで亀裂が入っていた。

「次郎、もう少しお手柔らかにしては貰えないかな?」

 苦笑いしながら次郎を見つめるぼくを、次郎は上目遣いにチラチラ見つめるばかりであった。必死で目線を逸らそうとする所が、ますます人間の子供みたいだ。

 次郎は叱られると何時もこんな調子の振る舞いを見せる。

 さすがに強い口調で叱られている時は、両手で頭を覆いながら、ごめんなさいするように頭を下げて見せる。その振る舞いに、思わず吹き出して、ついでに怒りもすっ飛んでしまう。判っていてやっているのだとしたら、相当の確信犯だ。

 それにしても、次郎の振る舞いは誰をモデルにしたのか、本当に人間の子供そっくりだ。

 良く遊んでいる優弥君を参考にしているのかも知れないが、それにしても、中々に上手いこと特徴を捉えている。

 そんなことを考えながら、高い空を見上げる。

 夏の終わりは早い。何時の間にか始まっていて音もなく過ぎ去っていく。北の大地の夏は本当に短い。短い夏が駆け抜けていけばすぐに秋になる。秋も終われば再び長い冬の始まりとなる。次郎と出逢ってから、どれだけの時間が過ぎたのだろう? 三年……。

 あまりにも短く感じられた。大学生としての自分。次郎の保護者としての自分。二束のわらじを履きながら駆け抜けてきた三年。飛ぶように過ぎ去った気がする。振り返れば、小さかった次郎と出逢ったのが、つい昨日……ううん、ついさっきのことのようにさえ思える。

 それほどまでに時の流れは早く、途方も無く残酷なものだと痛感させられた。

 加藤さんはぼくの学業を心配してくれていた。大変なのは確かだったけれども、迷いを吹き払うようにぼくは必死で学び続けた。

 皆が遊びたい時にも、ぼくは次郎と過ごした。学業に専念したい想いもあったし、何よりも、次郎と過ごせる一瞬一秒を大切にしたかった。

 何時の日か、笑って振り返れるようになるために。

 その時は……確かに、途方も無く辛くて、想像を絶する哀しみと激痛に襲われるのかも知れない。でも……次郎と過ごせた時間は決して無駄では無かったはず。

 村人たちにも熊と言う生き物の生態を良く知って貰えるようになったのは大きな成果だと言える。

 確かに、熊による被害は減少した。と言うよりも、村人たちの認識が変化したのかも知れない。熊の生態を心得ているからこそ、先手を打って、お互いに被害を回避する手段を講じられるようになったのかも知れない。それはとても大きなこととも言える。被害が起きたから、即討伐に向かうと言うのでは、あまりに血生臭過ぎるのかも知れない。

 問題を解決するのでは無く、問題自体を亡き者にすると言うのでは、あまりにも本末転倒であり、お粗末過ぎる。

 加藤さんも次郎のお陰だと言ってくれた。

 ぼくは誇りに思う。次郎、きみと一緒に過ごせた日々を。だから……きみを送り出すその日まで、ぼくはきみと共に学んでいこうと思う。その時には、次郎、きみに心から「ありがとう」と言いたいから。

◆◆◆7◆◆◆

 日の出の時は、少しずつ遅くなり、日の入り時は、少しずつ早くなる。秋は静かに過ぎ去り、冬が静かに訪れようとしていた。北の大地に本格的な冬が戻ってこようとしていた。

 その日は、夜半過ぎから雪が降り始めた。今年初めての雪。別段珍しさも感じなかったが、ぼくに取っては、それは受け入れなくてはならない旅立ちの時の訪れを告げる雪だった。

 そのことを肌で感じ取っているのか、次郎はどこか落ち着かない様子で外を眺めていた。

 普段はゴロゴロしていることが多いのに、その日は、しきりに部屋の中を歩き回っていた。

 次郎……きみにも判るんだね? でも、ぼくは言葉にしない。決意が崩れてしまいそうな怖さがあったから。その時が訪れて、もう逃げられないと確信出来る瞬間まで、ぼくは目を背けたかった。

 足がすくんで一歩も歩けなくなってしまいそうで怖かったから。臆病なぼくに出来る、精一杯の強がり。それでも、次郎の保護者として旅立ちを祝したかったから。

 正直なところ、かなり無理をしているのは判っている。でも……誰にだってあるはずだ。自分自身を破壊するほどに、無理をしなくてはならない瞬間が。全身全霊の力を以って戦わなければならない瞬間が。

 ぼくに取っては、今、この瞬間が、その時だと思っている。だからこそ退く訳にはいかない。逃げ続けてきた人生に別れを告げたいから。もう、振り返っては後悔するばかりの人生なんて嫌だから。哀しみにサヨナラを告げたいから。だから、ただひたすらに戦いたい。誰かを守るために戦おう。自分自身に決別をするために戦おう。そう心に固く誓う自分がいた。

 不安なのは……ぼくだけじゃない。次郎はれから先は一人で生きていかなければならない。

 厳しい大自然の中で生きていかなければならないんだ。今までは、ぼくと一緒に暮らしていたから暖かい寝床もあれば、豊かな食料だってあったはずだ。

 でも……これからは、怪我をしても、ぼくは助けられない。お腹が空いていても、ぼくは手を差し伸べられない。次郎、きみに取っても大きな戦いになるはずだよ。だから一緒に戦おう? ぼく達の輝ける未来を手にするために。

 そんなことを考えながら、ぼくは加藤さんの家を目指していた。

 すっかり日の暮れた道は暗く、哀しく、まるで……ぼくの本心を象徴するかのように思えた。

 後ろに戻ろうとする弱い自分の心の象徴。哀しいくらいにぼくを描いているように思えた。

 次郎は家に残してきた。不安な気持ちで一杯の彼を一緒に連れてくるのは忍びないと思ったから。

 珍しく、次郎はぼくが出掛けるのを嫌がっていた。

 まだ、子供の頃に見せた仕草……出掛けようとするぼくの足にしがみ付いて、声を出す仕草。

 子供の頃の彼は、ぼくが出掛けようとすると決まって、そんな仕草を見せては、ぼくを困らせてくれた。

 後ろ髪を引かれる想いで何度出掛けたことだろう。此処しばらく、見ることの無かった彼の仕草。此処に来てまた目にすることがあろうとは予想もしなかった。

 次郎も不安で一杯なのかも知れない。彼は鋭い奴だ。きっと、ぼくの想いは見抜いているのだろう。だからこそ「行かないで」とせがんでいるのかも知れない。

 ぼくは浮かんでくる想いを振り切るように必死で走り出していた。暗い夜道は危険なのは判っているけれど、それでも走らずには居られなかった。ただただ、哀しくて、切なくて、走りたかった。

 逃げ出すことは簡単だけれど、今逃げてしまえば、ぼくは本当に駄目になってしまう。だからこそ、ぼくは想いを振り切るように暗い夜道を走り続けた。

 やがて見えてくる家の明かり。加藤さんの家の明かりが見えてきた。ぼくはカラカラになった喉を潤すかのように唾を飲み込み、力一杯手を握り締めながら走り込んだ。

 その時、玄関の戸が開いた。

 加藤さんは穏やかな表情を讃えたまま、静かにぼくを見つめていた。何も言わずに、そっと頷いて見せた。

 ぼくの心の迷いの全てが、読まれたような気がした。加藤さんは、全ての出来事を最初から何もかも見越していたのだろう。恐らくは、こんな日が訪れることも見越していたのかも知れない。

 加藤さんは何時に無く物静かだった。ぼくの想いを虎視眈々と見極めようとしているようでもあった。

 あの時……ぼくが安易に選んだ選択肢の重み、今ならば痛いほどに判ってしまう。だけど、後悔はしていない。次郎と歩めたこと、とても誇りに思っているから。例え、三年目の辛い別れを経たとしても、ぼくと次郎の友情は消えることは無い。そう……信じている。そうでなければ、この別れ……いや、旅立ちはあまりにも過酷過ぎるものになってしまうから。

 加藤さんが静かに煎れたてのコーヒーを出してくれた。ただ、何も言わずに静かな笑みを称えていた。

「……とうとう、三年目が訪れたな」

 ふいに、ぽつりと、弾くように加藤さんが口火を切ってみせた。

「良く、此処まで次郎君を育て上げたものだ。途中で根をあげるか、あるいは……別れの哀しみに耐え切れずに投げ出すか、そのどちらかに転ずるのでは無いかと案じていたのだがね」

「……」

 思わず机の下で、ぼくはズボンを握り緊めていた。力を篭め過ぎた手が微かに震える。

 加藤さんは静かに微笑みながらぼくの出方を伺うような目線を送っていた。

 確かに、ぼくは逃げ出そうとしたこともあった。でも、次郎を想えばこそ、逃げ出せる訳が無かった。自らを犠牲にしてでも守りたい何か、誰か、そんなものに出逢えるとは思っていなかった。だからこそ驚きを隠し切れない部分もあるが、次郎と共に歩めたからこそ体験出来たことなのかも知れない。

「いずれにしても、もうじき次郎君は山に帰さなくてはならない。立派な姿に成長したとは言え少々不安な部分もある。次郎君は魚が好きだったね? 以前、ニジマスを捕まえた時から、すっかり魚通になった様子に見える」

 加藤さんはコーヒーを口に運びながら、ぼくの目をじっと見つめていた。

「そこでだ。最後の訓練と……坂上君、きみに取っての大きな思い出になるようにと、ちょっとしたプランを考えさせて貰ってね。さて……どうだろうかな、とね?」

 加藤は静かに微笑んでみせる。盛んに湯気を放つコーヒーを奨めるのを忘れずに。

「と、言いますと?」

 ぼくは、おずおずと切り出して見せた。

 その言葉を、その反応を待ち侘びたかのように加藤さんがにっこり微笑んでみせる。

「この次期になると、北海道は石狩川には毎年のように鮭が帰って来るそうでね。中々に壮大な光景らしい。次郎君も喜ぶだろう」

 以前のニジマスは、確かに多分に過保護だった。小規模な囲いを作って、そこにニジマスを放流したのだから。

 だが、今度は完全に野生の鮭。しかも川幅も大きく、秋田とは環境も異なる石狩川。

 次郎に取って野生の感を取り戻す、良い練習になるかも知れない。

 そして……ぼくに取っても、次郎と過ごす、最後の良き思い出になるのかも知れない。

 こんな時になってまで、自分のことしか考えずに居られない弱さに、少し腹が立った。

 でも……野生に還ってしまえば、次郎はぼくのことを忘れてしまうかも知れない。それはあまりにも哀し過ぎるから。だから、せめてもの、必死の抵抗だったのかも知れない。

 見苦しいと罵られても構わない。惨めだと嘲笑われても構わない。次郎との思い出は、ぼくに取っては本当に掛け替えの無い物なのだから。

 その事実だけはどんなに頑張っても変えることは出来無い。そして誰にも邪魔はさせない。

 どこか遠くを見つめているぼくを気遣うかのように、加藤さんが静かに声を掛けてくれる。

「最後の時まで……」

「え?」

「最後の時まで、次郎君と過ごす時間を大切にするんだ」

 ぼくに向けられた言葉なのか、それとも違う誰かに向けられた言葉なのか、何処か、意味深な含みの感じられる一言だった。

 心無しか加藤さんも、何処か遠くを見つめるような目線に思えた。ぼくの心の揺らぎが伝わるのだろうか? どんなに努めて平静を装うとしても所詮は哀しい猿芝居に過ぎない。隠し切れないものもあるさ。

 ただ、ぼくは次郎と過ごした時間を無駄にしたくはない。次郎に取っても、ぼくと過ごしたがために不幸になったという結末を迎えて欲しくない。

 石狩川か……そこできみは最後の試練に立ち向かうことになる。冬の北海道の川。広大な石狩川は、途方も無い極寒の地だろう。だけど、次郎、きみは戦わなければならない。王者に相応しい強さを手にするためにね?

 ぼくは加藤さんに軽く礼を告げると、静かに帰路に就いた。

 漆黒の闇夜だけ広がっている。吐く息だけが白く輝いて見えた。月明かりに照らされて、一瞬だけ仄白く瞬く。ぼくのため息をも凍らせる程に冷たい風。大丈夫。

 何が大丈夫なのか、良く判らない。でも……そんな気がした。ただのハッタリ……強がりなのかも知れない。でも、次郎に伝えたい想いが、確かにそこにある。

 大丈夫。ぼくがいるから大丈夫。次郎、きみは独りぼっちじゃ無いから。最後の時まで、ぼくがシッカリと見届けるから。

 ぼくは冷たい風に立ち向かうように、ギュっと握り締めた拳に、息を吹き掛けると次郎の待つ我が家へと駆け出した。ただただ、後ろを振り返らずに走りたかったから。

◆◆◆8◆◆◆

 動物の勘と言うのは想像以上に鋭いもので、上辺だけの笑みなど、いとも簡単に見抜かれてしまうものだと思った。

 あの夜、加藤さんの家で話をして帰った後から、次郎はそれまでとは明らかに異なる振る舞いを見せていた。

 普段は部屋でゴロゴロしているか、庭でのんびり遊んでいるかのどちらかだったが、あの夜から次郎は落ち着き無く、四六時中ぼくの後を着いてくるようになった。別れの時の訪れを肌で感じ取っているのかも知れない。

 或いは、何時もと違う、ぼくの振る舞いに何かを感じ取っているのかも知れないと思った。

 いずれにしても、次郎は勘の鋭い子。ぼくのような大根役者の演じる、三文芝居などでは到底通用する訳も無いのであった。

「次郎、美味い魚を食べたくは無いかい?」

 ぎこちない作り笑いを浮かべるぼくを、次郎は怪訝そうな目で見上げてみせる。

 何か隠し事しているでしょう? そんな、疑いに満ちた眼差しが辛かった。

 動物にも表情はある。いや、動物は人間以上に表情が豊かだ。次郎もその例には漏れない。澄んだ瞳で見つめられると心の奥底まで見透かされそうだ。それでもぼくは引き下がらない。引き下がる訳にはいかない。

「此処よりも、ずっと北にある広大な川。石狩川って場所。そこに行くんだよ? 長い旅から還って来る新鮮な鮭を採りに行くんだ。どうだい?」

 相変わらず浮かない表情の次郎。そんな話には興味は無いと言った感じで、溜め息を就いて見せた。それよりも、ぼくの心の中に秘めた想いを鋭く感じ取っているのか、首を傾げながら見つめてくる。大きな両手で、ぼくの足をシッカリと押さえている。

「次郎……」

 ぼくにもまた、次郎が何を言おうとしているのか、哀しい程に判ってしまった。だからこそ余計に切なく、辛く、胸が締め付けられた。

「きみには隠し事は出来無いね」

 ぼくは苦笑いしながら、戸惑う次郎の隣に座って見せた。何時に無く甘えた様子の次郎は、鼻を摺り寄せながら、ぼくに体を押し付けてくる。

「次郎、きみは鋭い子だから……もう判ってしまっているのかも知れない。だから、もう逃げずにきみに全てを話すよ」

 ぼくの言葉に、次郎は静かにぼくの目を見つめてみせた。

「次郎、きみと出逢って……今年で三年目の冬になる。寂しいけれど……きみとは違う世界を生きなくてはならない。もう、残された時間は短いのかも知れない。でも、最後まで、ぼくはきみを守り続ける。だから、次郎? きみも強く生きるんだ。大丈夫だよ。例え離れ離れになっても……ぼくらの心は一つだから……」

 精一杯の笑顔を作って見せるぼく見つめながら、次郎はただただ、静かに、ぼくの瞳を見つめていた。

「判っているよ……ぼくだって、きみと離れるのは辛いよ……。でも、きみは山に帰らなくてはならない。それが……きみのお母さんとの約束だから……」

 出来ることなら、時計の針を止めてしまいたかった。

 それでなければ、このまま逃げ出してしまいたかった。

 次郎を手放す哀しみに、ぼくは耐えられるだろうか? ぼくの下から離れて次郎は果たして、ちゃんと生きられるだろうか? 抑え切れない不安だけが噴出してくる。

 ただただ、逃げ出したかった。もちろん……そんなことをすれば、ぼくも次郎も共倒れになってしまうだろう。だから、ぼくは自分の心を……逃げ出そうとする自分を撃たなければならなかった。

 そう。あの日、あの時、きみのお母さんを撃ってしまったように、ぼくは、ぼくの手で、ぼく自身を撃たなければならない。

 きみのお母さんへの償い……同時に、次郎、きみへの感謝の想いを込めてね? 次郎……きみも戦わなければならないんだ。大丈夫。ぼくが着いているから。それに次郎、きみはこんなにも逞しく成長した。山の王者になるに相応しいだけの強さを手にしたはずさ。

「次郎……大丈夫だよ?」

 何が大丈夫だったのか、自分でも良く判らない。心にも無い言葉で取り繕ったつもりなのだろうか? そんな薄っぺらい嘘など易々と見抜かれるだけだ。

 ぼくの浅知恵の裏に隠された、どうしようもない無力感と、非力だからこその哀しみに、

 次郎は気付いているのだろう。

 静かに目を伏せながら、次郎はぼくに圧し掛かって見せた。ぼくは静かに次郎の頭を撫でながら、残酷に時を刻み続ける時計を、ただじっと見つめていた。

◆◆◆9◆◆◆

 その日は朝から雲一つ無い空模様だった。

 あまりにも青過ぎる、冬晴れの空が余計に切なさを掻き立てるように思えた。あの日と同じ様に、加藤さんの車で出発した。

 大きなキャンピングカーも、次郎が乗れば車体が思わず傾いてしまう。

「ははは。次郎君が乗ると、車体が傾くね」

 加藤さんに笑われて、次郎は少々困った様な表情を浮かべていた。そんな彼の愛嬌が自然と笑いを誘ってくれる。或いは次郎もまた、何とかしてこの重苦しい空気を打ち破ろうとしていたのかも知れない。登紀子さんも助手席で可笑しそうに笑っている。

「次郎ちゃん、本当に大きくなったものね。ちゃんとお弁当もたくさん作って来たから安心してね」

「お心遣いありがとうございます。」

 もちろん。そのお弁当は、次郎の物では無く、ぼく達、人間のために用意してくれたもの。

 判っている。判ってはいるけれど心が微かに痛んだ。

 線引きをしなければならないのは判っている。次郎は熊で、ぼくは人間で、その間には超えようの無い種族の壁がある。そんなもの、無意味だと叫びたかったけれど……その境界線を間違えると、人間、動物、双方が不幸になる。

 かつての村人と熊達との間にあった非友好的な関係に繋がる。

 差別はしたくはないけれど、区別は必要なのかも知れない。動物達には動物達の領分があり、人間達には人間達の領分がある。難しいのは、双方の領分の境界線であった。この境界線を曖昧にすると、再び双方の争いが生まれてしまう。

 次郎はその哀しい争いの調停役になってくれた。言うなれば和平の使者に相当するようなものだ。

「ほら、優弥も乗りなさい」

「はーい」

 優弥君は次郎の隣に腰掛けて見せた。次郎に取っては仲のいい友達。次郎は、何時ものように鼻を摺り寄せながら、挨拶している。もっとも、大きさで言えば、比較にならない程に次郎は大きくなってしまったが。

「それじゃあ、出発しようか。目的地は北海道の石狩川だ」

 加藤さんが静かにアクセルを踏み込む。

 きっと、高速道路ですれ違った車は驚くのだろうな。キャンピングカーに乗って、ドライブする熊なんて、それこそ映画かマンガの世界でも無ければあり得ない話なのだろうから。もっとも、車に乗り慣れた熊と言うのも前代未聞ではある。

 次郎が乗っているせいか、やたらと揺れが酷かったが、何時もの村を後にして、ぼくらは山道へと抜けていく。

 夏には緑色一色のこの広大な山道も、冬には銀色一色の雪景色に移り変わる。

 抜けるような青空に照らされて雪が光を反射する。キラキラと輝く雪景色は、とても幻想的で美しく思えた。

 長い山道を抜ければ、やがて車は大きな国道に出る。

 次郎は静かに窓の外の景色を眺めている。何時に無く大人しいのが妙に気に掛かった。

 次郎も馬鹿では無い。恐らく、色々なことを考えているのだろう。ぼくは次郎の心までは読めない。とは言え、おおよそ何を考えているかは判る。だからこそ、ぼくは次郎の肩を抱きながら微笑んでみせる。

「次郎、北海道は此処よりずっと寒いんだ。広い川一面に、海から帰って来た鮭が登る。

 中々に壮大な光景だと思うぞ? 楽しみだな」

 ぼくのから笑いが余計に場の空気を重くしそうな気がした。それでも、何かをせずには居られない不器用な自分がいる。

 ぼくは非力な奴だ。何かを成し遂げるだけの力は無い。でも、何もしないのでは何も変わらない。無意味でも構わないさ。布石を投じ、僅かながらでも波紋を起こせればそれでいい。それで、少しでも変化が現れれば幸いだ。

 次郎は静かに顔を上げながら、ぼくの顔を覗き込んでみせる。

「さぁ、そろそろ高速に入るぞ」

 加藤さんが静かに微笑む。

 高速道路を抜けて北海道へと向かう。青函トンネルを抜ければ、もう北の大地だ。

 とは言え、かなりの距離はある。ぼくは次郎の傍に寄り添い、全てを記憶に残そうと思っていた。目に入る光景全てを焼き付けようと思っていた。

 一瞬、一秒でも、次郎との思い出を鮮明に残したかったから。きみと過ごした時間を風化させたく無いから。

◆◆◆10◆◆◆

 どれだけ時間が経ったのだろう? 秋田を出てから数時間。高速道路を走り続けたけれど、何故か、不思議と時間の経過を感じなかった。次郎と過ごす時の終わりが近付きつつあるからだろうか? 

 日の出と共に出発したのに、もうすっかり陽は登っている。国道を抜ければ、車はやがて大自然へと入っていく。

「さすがは北海道ね。秋田よりもずっと寒いわ。でも、この寒さが鮭たちを故郷へと呼び込むのね」

 登紀子さんは感慨深そうに窓の外の景色を眺めていた。

 心無しか次郎も好奇心旺盛に外を眺めているように思えた。やはり大自然に生まれた身の次郎には、広大な景色は懐かしさを呼び覚ますのかも知れない。

 それでいい。きみは人の住処なんて狭苦しい場所で生きるには相応しくない奴なんだ。その立派な体躯に相応しく、広大な大自然の山々の中で、王者として生きるんだ。それがきみには相応しい道の筈さ。

「そろそろ石狩川が見えてくる頃だな」

 ハンドルを握りながら、加藤さんは嬉々とした表情で振り返って見せた。

 道路は何時しか舗装されたアスファルトから足場の悪い砂利道になっていた。車は酷く揺れている。枯れ草の群れの中を突き抜ける獣道のような細道を車が静かに駆け抜けていく。

 やがて眼前に広がるは、豊かな水流を讃えた河川であった。

「次郎、石狩川だよ」

 川幅も広く、水量も多い。何よりも水の流れが綺麗なのが良く判る。

 澄み渡った清流だからこそ、鮭も戻ってくる。なるほど。ぼくは静かに頷いた。次郎は、ぼくの顔と川とを交互に眺めていた。好奇心旺盛な次郎には、初めて目にする広大な川が興味深くて仕方が無いのかも知れない。

 確かに、あの時のニジマス採りの川とは比べ物にならないスケールだ。

 良く見れば、時折川の流れに混じって飛び跳ねる何かの姿が目に入る。

「あれは……鮭?」

「幸運だな。絶好のタイミングに出逢えた様子だ。今ならば軽々と鮭も採れる筈だろう。さぁ、次郎君。頑張って鮭を採って、腹一杯食べてくれ」

 加藤さんの言葉を受けながら、次郎は耳をピクつかせていた。驚く程鋭い眼光で川面を跳ねる鮭を捉えている。一瞬、ゾっとする程に迫力のある表情だった。野生の王者としての姿に目覚めつつあるのか? 次郎の鋭い気迫が感じられる。

 程なくして車は河川敷に止められた。

 扉が開くと同時に、流れるような早さで次郎が飛び降りる。周囲を見回しながら、北の大地の空気を感じ取っているように思えた。

 吹き抜ける風は冷たく、張り詰めた銀色の気配を讃えていた。

 北の大地での戦い。やがて次郎の目線が止まる。川面を凝視したまま、しばし立ち止まる。士気を高めているのだろうか? 何時もの大人しい次郎の姿はそこには無かった。

 ぼくも車を折り、彼の隣に立って見せる。

「さぁ、次郎。行くんだ。きみの手で鮭を捕らえて見せるんだ」

 ぼくの言葉に呼応するかのように、次郎はゆっくりと川に向かって歩いていく。

 ぼくは加藤さんに目配せした。加藤さんは優しい笑みを讃えたまま、静かに頷いて見せる。

 次郎はゆっくりと川へと向かう。流れる川の水は、氷のように冷たいだろう。だが、それにも臆することなく次郎は川へと足を踏み込む。あの時の様に、水の冷たさに驚く姿は無かった。

 目の前には無数の鮭が飛び跳ねている。命。一瞬、ぼくの脳裏にその文字が浮かんだ。生まれ育った川を後にし大海原へと旅に出る若き鮭たち。やがて年月を経て大きく成長した彼らは、再び生まれ育った川へと戻ってくる。

 命を賭けて、彼らは川を上る。ある者は途中で息絶え、力尽き、また、ある者は旅の途中で人間や動物に捕獲され、旅を終える。

 体中、傷だらけになりながらも、無事に辿り着いたところで、子供達に願いを託し、その命を散らしてゆく。

 それは命のリレー。バトンを渡す者と、バトンを受け取る者との物語。

 ぼく達も同じだと思った。次郎の母親を不幸にも殺めてしまったのは事実だ。そこから次郎は、ぼくと共に歩む道を選んだ。人間の村と言う大海原で、人の情に触れながら育った彼は、再び生まれ育った山へと帰っていく。その体を傷だらけにしながらも、その心を傷だらけにしながらも、子供達に想いを託すため、自らの命を賭して。

 言うなれば、これからきみの前に立ちはだかる試練は、この石狩川のようなもの。

 無数の石の中、流れに逆らって登って行くんだ。刹那……一瞬の静寂。全てが無音と化した瞬間、次郎の手元で水飛沫が巻き上がった。

 次郎は川の流れの中に佇んでいた。広大な川の景色の中で、次郎は一際目立つ存在であった。

 緑色の木々と、青い空、澄み渡る川の色の中、明らかに異彩を放つ深い茶色の巨体。背を向けたまま次郎は鮭と格闘しているように見えた。精一杯の想いを胸に抱きながら、必死で川を登ろうとする鮭を無慈悲な熊がむさぼり食うと言う図。

 それは自然の摂理。誰にも捻じ曲げることの出来無い真理。

 ゆっくりと次郎が、こちらに向かって歩いてくる。

「お、次郎君、大漁じゃないか?」

 加藤さんが笑いながら手を叩いて見せる。ゆっくりと川から上がってきた次郎の姿が見えた。その口には、今まさに事切れようとしている一匹の鮭が咥えられていた。生きることへの執念なのだろうか? なおもピクピクしながらも、必死でもがく鮭の姿があった。

 運命は残酷なものだ。もしも、次郎に捕らえられなければ、上流へと登り、目的を達成出来たのかも知れない。

 残酷かも知れないが、それが自然の摂理なのだから。今のぼくには、そう理解することが出来る。

 きっと……次郎と出逢った頃の自分であったならば、鮭に対し同情の念を抱くと同時に、次郎の猛々しい野生の姿に畏怖の念さえ抱いていただろう。

「次郎……中々の獲物だね。」

 ぼくは次郎の検討を讃えたかった。何よりも、大自然に旅立つ次郎に自信を着けて欲しかった。ぼくの想いが伝わっているのか、次郎は静かにぼくの下へと歩み寄る。

 そっと足元に捕えた鮭を置くと、上目遣いにぼくを見つめてみせた。

「次郎?」

 次郎は鮭を爪の先で指差すような仕草をしながら、盛んにぼくの目を見つめていた。

「次郎……ぼくと一緒に食べようって言うのかい?」

 一瞬戸惑った。幾らなんでもこんな野生的な食料にはさすがに腰が引けてしまう。戸惑うぼくを見ながら、加藤さんが大声で笑う。

「はっはっは、次郎君らしいじゃないか? 普通に生きてきた熊ならば、恐らくこんな行動は示さないだろう。母熊が子熊に食料を取って来たという状況ならば、母熊が今の次郎君のような行動も見せることはあるだろう。だが、子熊が親のために食料を獲ってくると言う話は聞いた事が無い。つまりは、次郎君は、坂上君のことを兄弟のように思っているということなのだろう」

 加藤さんの言葉を受けながら、ぼくは苦笑いするばかりだった。

「兄弟のように思っているのは、ぼくも同じですけど、丸ごとの鮭はちょっと野生的過ぎますね……」

 戸惑うぼくを見つめる次郎の表情は何処か寂しそうだった。

「……そうだったね。次郎、きみに取って、ぼくと過ごす思い出は何にも変え難いものだものね。大丈夫。ぼくもまたきみと同じ気持ちだから。なに。無人島に漂着した気分になれば、問題は無いだろう」

 ぼくも次郎の真似をして四つん這いになった。何時も次郎がぼくの真似をする間逆のことをして見せた。

 新鮮とは言え、何の処理もしていない鮭は生臭い。

 ぼくが並んだのを見計らって次郎が一口かじって見せる。立派な次郎の歯を持ってすれば、鮭の厚い鱗も平気で貫く。

「坂上君、調理用のナイフと調味料はあるが?」

 加藤さんが苦笑いしながら助け舟を出してくれる。でも、ぼくは……人間としての坂上純一では無く、次郎の兄の純一として、次郎に想いを伝えたかった。だから……。

 ぼくは目を瞑ると、力一杯、鮭に噛り付いて見せた。先にも後にも、こんな体験、最初で最後だろう。

 生臭さが気にはなったし、鱗の処理もしていないから口の中に鱗が残る。だが、新鮮な鮭は確かに美味い。

 本当ならば、北海道らしくちゃんちゃん焼きにでもして食べたかったが、今のぼくは人間、坂上純一では無い。

「うん。次郎が採ってくれたから美味しいよ」

 ぼくは精一杯の笑顔で、次郎に応えて見せた。心無しか次郎が一瞬笑ったように見えた。いや……気のせいじゃ無かったと思う。ぼくと次郎との間にもはや隔たりなんて物は無いのだから。だから、もう何も恐れるものなんて無いさ。例え離れ離れになっても、住む場所が、住む世界が違っていても、ぼくと次郎は永遠に兄弟なんだ。何時までも解けることの無い友情の絆で結ばれた仲なんだ。だから……もう振り返るのは止そう。

 ふと見れば、次郎は盛んな食欲で、しっかりと余す所無く鮭の半身を平らげていた。手馴れた職人が裁いたかの如く、骨以外、実にきれいに食べていた。それは、命ある者への敬意の象徴にも思えた。

 大自然に生きる者としての心は、ぼくと共に暮らしていても忘れることは無かったのだね。ぼくも次郎を見習わなくてはいけない。そう思いながら、ぼくも鮭をかじり続けた。そんなぼくに気を使ってか、加藤さんは一声掛けると家族の下へと向かった。

 河原で炭火を起こして登紀子さんはバーベキューの準備をしていた。坂上君の分もたっぷり用意してあるから、後で次郎ちゃんと一緒に食べなさい。そう言ってくれたけれど「気持ちだけ有り難く頂きます」とぼくは返した。今のぼくは人間では無いのだから……。

「次郎、まだまだ食べられるだろう? 好きなだけ採って来て食べるといいよ」

 ぼくの言葉を受けながら、次郎は再び川へと向かっていった。

 それでいい。きみは強く、強くなるんだ。もちろん。ぼくも強くなるから。

 最後の時が来るまで……涙は見せたくないから。気を許すと、ついつい込み上げてきてしまう涙。だからこそ、気丈に振舞いたかった。何があっても次郎の兄貴で居たかったから。

 一体、何匹の鮭を平らげたのだろう? ぼくは一匹食べるのでも、とても無理だったのに、

 次郎は実に良く食べていた。普段、見せることのない強烈な食欲に思えた。

 何時しか、陽は傾き、やがて訪れた落日の時のことであった。それは目を張る光景だった。

 広大な石狩川が燃え上がるように赤々としていた。川の流れる音。夕日の燃える様な赤い色。ぼくはこの光景を生涯、忘れることは無いだろう。次郎と共に過ごした大切な一ページとして。

◆◆◆11◆◆◆

 燃える様な夕日を背にぼく達は北の大地を後にするのであった。

 帰り道ぼくは無性に強い眠気に襲われていた。一体、何が起きたのかと思うほどに

 抗い切れない程に強い睡魔に襲われていた。とうとう、抗えなくなったぼくは、何時の間にか夢に落ちていた。

 夢を見ていた。きっと、次郎も一緒に寝ていたのだろう。次郎の暖かな毛皮に触れていたのを微かに覚えている。

 不思議な夢だった。夢の中、見覚えのある大きな熊が目の前に佇んでいた。猛々しさの中に見え隠れする慈悲深さが感じられる熊であった。

「貴方は……次郎のお母さん?」

 ぼくの問い掛けに、目の前の熊は静かに目を伏せた。

 何かを伝えたかったのだろうか? ただ、静かにぼくの目を見つめていた。

「あの時は、本当に申し訳ないことをしました……」

 気が付くと、ぼくは静かに語り掛けていた。

 ぼくの言葉に呼応するように、次郎の母親は静かに目を伏せて見せる。

「事故だったなんて逃げ方はしたくなかった。だから、次郎を……貴方の大切な息子さんをぼくが預からせて頂きました。立派に育て上げられたか、正直……自信はありません。ただ、次郎は……とても優しい子に育ちました。大きな体に、途方も無く強い力を持っている子です。だからこそ……強さを心得ているからこそ、弱者に対する思い遣りの心を持てるのかも知れません」

 ぼくの言葉を聞きながら、次郎の母親は満足そうに頷いて見せた。

「本当のことを言えば……ぼくは次郎と離れたくはありません。どんなに背伸びして、どんなに無理しても、やっぱり、本心は隠しようが無いものなんです」

 ぼくは何を口走っているのだろうかと思った。

 次郎のお母さんに自分の心の内を見せるのは、弁明を通り越し、勝手過ぎるエゴイズムに過ぎないと思っていた。それでも、ぼくは誰かに自分の本音を話さずには居られなかった。

「王様の耳はロバの耳」

 秘密を知ってしまったからこそ、その秘密を口に出さずには居られない。そんな心理と何処か似ているようにも思えた。

「あまりにも自分に都合の良い解釈かも知れないけれど……生みの親が貴方ならば、ぼくは育ての親です。大切に育てた弟であり、息子である次郎と離れるなんて、とても、とても……耐えられるものではありませんでした。だから、迷いました。一人で必死に悩み、考え、何度も壁にぶつかり……それでも、やっぱり最後に考えなくてはいけないのは、次郎の幸せなんだと言う結論に至りました。こんな駄目な自分ですが、最後まで役目、果たさせて頂きます」

 ぼくは自分の想いを、決意を、必死に語って見せた。嘘も偽りも無い、本当の気持ち。次郎の母親に、ぼくは償わなければならなかったから。そんなぼくのことを、次郎の母は静かに見つめていた。

「……とても、辛い想いをさせてしまうかも知れません。」

「え?」

 ぼくは自分の耳を疑った。次郎の母親が静かに語り出したのだから。それも、ぼく達人間の言葉で。ぼくは彼女の言葉に耳を傾けた。

「元来、母親である私が……旅立ちの時に、縁を断ち切る儀式を取り仕切らねばならぬもの。ですが、私は志半ばで倒れてしまった身です。貴方を責めるつもりはありません。ただ……私に代わり、お辛い想いをさせてしまうこと、心苦しく感じている次第でございます。純一さん、その時が訪れたのであれば……心を鬼にするのです」

 慈悲深い瞳を讃えながら、次郎の母親は静かに語り続ける。

「親元から巣立てぬ子供の行く末は哀しいもの。生きる術を知らぬまま大自然に放たれた、未熟過ぎる子供は……そのまま飢え死にするしかありません」

「……」

「だから、母は涙を呑んで、我が子との縁を切るのです。駄々をこねる子供には……目を閉じ、力一杯の傷を負わせてでも……」

 次郎の母は、力強い眼差しでぼくを見つめていた。

「お辛いでしょうけれど、どうぞ、息子をよろしくお願いします。本来ならば、私がその役目を担うもの。しかしながら、それは叶わぬ願い……。どうか……どうか、あの子をよろしくお願いします……」

 強い光が降り注ぐ。あまりにも眩し過ぎて、目を開けていられない。

 次第に次郎の母親の声と気配が消えていく。気が付くとぼくは車の中にいた。

「やぁ、坂上君、お目覚めかい? 随分とうなされていた様子だけど大丈夫か?」

 心配そうに笑い掛けてくれる加藤さんの笑顔が目に飛び込んできた。傍らでは、お揃いでお目覚めの次郎が大きな欠伸をしていた。

「さすがに……生の鮭は、少々刺激が強かったですからね。妙な夢に魘されていました」

 ぼくは適当な嘘で誤魔化しながらも、今の夢は何だったのだろうか? ただただ、不思議な想いで一杯だった。

 次郎の母親……彼女の姿は、ぼくの心が生み出した幻だったのだろうか? それとも、本当に彼女が夢の中に現れたのだろうか? いずれにしても、少なからず夢の中で聞いたことは間違いでは無いと思った。

 何かの本で読んだことがある。熊の母親は、我が子が巣立ちの時を迎えた時に……我が子を旅立たせるために、それこそ、憎む敵を相手にするが如き勢いで迫るそうだ。

 自分は恐ろしい敵だ。だから、お前は自分の下を去り強く生きるんだ。そんな想いを込めて拳を振り下ろす、と。

 海よりも深い愛情を知らなければ、決して真似の出来無い芸当だと思った。上辺だけの優しさや、見せ掛けだけの愛情……ましてや、身勝手なエゴイズムでは決して真似は出来無いことだ。

 果たしてぼくに出来るのだろうか? 不安は尽きない。だけど……共に歩んでくれた次郎のためにも、ぼくは戦わなければならない。自分自身と。

 失敗すれば……考えたくは無いけれど、次郎と共に、奈落の底へ堕ちるようなもの。ぼく自身のためにも、次郎のためにも、ぼくは大舞台での一幕を成功させなければならない。

 そう誓いながら、ぼくは窓の外の景色を見ていた。

 そんなぼくの想いを、静かに汲み取ってくれる加藤さんの穏やかな笑顔が、潰れそうな想いを支えてくれるように思えた。

◆◆◆12◆◆◆

 一夜が明けた。昨夜から降り続いている猛吹雪は今日も続いている。昨日の天気が嘘のようだ。

 窓は夜通しカタカタと鳴り続けていた。風も強く、気温も極端に下がっている。こういう悪天候の日は、外には出ないのが通説ではあるが、ぼくには、どうしてもやりたいことがあった。

 次郎を起こさないように、ぼくはそっと起き上がった。だが、次郎は素早くぼくの行動に気付いた。

「驚いたな。普段だったら叩いても起きないのに、今日はどういう風の吹き回しなのかな? 悪いけれど、次郎。今日は家でお留守番しているんだ」

 ぼくの言葉を受けながら、次郎は納得できないと言った表情を見せていた。だけど……これは、ぼく一人で片付けたいことでね。どんなに次郎が、連れて行って欲しいと願っても、その願いを叶えることは出来無いんだよ。あの場所へ……決断をするために、最後の迷いを振り払うために行くのだから。

 何時ものように足にしがみ付いて、次郎は嫌々をしてみせた。だけど、今日はきみの我侭は聞き入れることはできない。

 それにしても運命というものは本当に皮肉なものだね。次郎、きみは知らないかも知れないけれど……今日は命日だよ。次郎、きみのお母さんのね?

 一昨年も、去年も、同じ日に……命日に、次郎のお母さんに花を手向けに行ったんだ。そして、とうとう三年目の冬が……三度目の命日が来てしまった。だからこそ、ぼくは報告に行きたいんだ。

 例え荒れ狂う大吹雪であったとしても、ぼくは決意を変える訳にはいかない。

 次郎……きみとの縁を切る儀式に比べれば、この程度のこと、微塵の痛みにも感じられないよ。だからこそ、ぼくは立ち向かわなければならない。ここで失敗するようならば、きみの旅立ちを見届けることなんて出来無い。

「さ、次郎。その手を離すんだ」

 ぼくは少々乱暴に次郎の手を振り払った。

 今まで見せたことの無い冷たい接し方に次郎が戸惑う様子が見えた。

 心が酷く痛んだ。だけど……次郎、ごめんね。明日、きみの旅立ちの時には……もっと、もっと、想像を絶するくらい、残酷な仕打ちをきみにしてしまうかも知れない。許してくれなんて言わない。どうか……どうか、強く生きて欲しいとだけ、言いたい。

 ぼくは次郎を残して家を出た。吹き付ける吹雪は途方も無く強く、数歩先さえも見えない程の荒れ模様だ。下手をすれば、道を踏み外し山道から転落する危険性も孕んでいる。それでもぼくは行かなければならなかった。

 何故、そこまでするのか? 他人には判らないだろう。でも、それが……ぼくの精一杯の覚悟なのだから。

 次郎を残してきたことが心残りだったが、今、彼を一緒に連れてくれば、決意が緩んでしまう気がした。

 本当ならば、晴れの舞台を迎えるということを次郎のお母さんに報告したかったが、非力で、気弱なぼくには、そこまでの勇気は持てなかった。

 ぼくは一歩、一歩、雪山へと足を踏み込んでいく。一歩、一歩、確かめるように。

「思い出すな……初めてきみと出逢った日を」

 きみを抱き上げた瞬間から物語が始まったのだから。

 最初は小さくて可愛らしい奴だと思った。動物も、人間も、子供の頃は可愛いものだ。でも……立派に成長したきみもまた、あの頃とは違った可愛らしさがある。

 普段だったら、何でもない山道でも、これだけの猛吹雪だと、すぐに息が切れる。

 極端な低温のおかげで、肺が凍傷を起こしそうな位に痛む。

 それでも、ぼくは登り続けた。次郎のお母さんの眠るあの場所へ。この猛吹雪の中を、花束を片手に雪山を登るなんて、正気の沙汰では無い。

 それでも、ぼくは歩み続けた。深い雪に埋もれてはいるが微かに墓標が見えてきた。

「ああ、やっと辿り着いたか……」

 ぼくは額の汗を拭いながら、凍て付く寒さの中でそっと手袋を外した。さすがにこの荒れ模様では、線香を焚くどころでは無い。だから、ぼくは吹雪に飛ばされないように、しっかりと、雪の奥に花束を差し込んだ。

「次郎のお母さん、今年も命日が訪れました。とうとう三年目の冬です。どうか……どうか、ぼくに、勇気を少しだけ分けて下さい」

 ぼくは荒れ狂う吹雪の中、一心に手を合わせて祈り続けた。

 ヒュオオオと風が鳴いている。吹き付ける吹雪は情け容赦無くぼくを凍えさせる。それでも、ぼくは必死で祈り続けた。ただただ、次郎の幸せを願いながら。

 そっと瞳を開きながら、ぼくは踵を返す。そのまま、ひたすらに歩き続けた。決して後ろを振り返ることなく。それは自分自身への願掛けでもあったのかも知れないし、同時に、正念場を迎える自分自身への言葉だったのかも知れない。

◆◆◆13◆◆◆

 猛吹雪は夜になって急に止んでしまった。山の天気は変わりやすいとは言うけれど、これほどまでに天気が急転するのも珍しい。何かを暗示しているのでは、と勘繰りたくもなる。

 今日が次郎と過ごす最後の夜。

 壮絶な痛みも……不思議なもので、喉下を過ぎ去ってしまうと、案外静かなものになる。いや……今更、という諦めにも似た妥協の賜物だろう。

 笑顔で見送ってあげたいものだけど、ぼくはそこまで強くはなれなかった。今日は次郎と一緒に過ごそうと、ひっそりとした食事を済ませた後は、ただただ、次郎の傍から離れないようにしていた。

「こうして一緒に寝転がれるのも今日で最後なんだね」

 自分で言いながら、思わず涙が込み上げてきそうになる。いけない、いけない。次郎を見送るまでは、ぼくは涙を見せたく無かった。大自然へと巣立っていく次郎を見送るのに涙は相応しく無いと思ったから。

 日の出と共に、最後の瞬間は訪れる。

 最後の夜だから……ぼくは、ずっと次郎と過ごしたいと思った。このまま永遠に時が止まってしまえばいいと思った。時の流れが止まってしまえば永遠に朝が訪れることは無い。この寒空の下、ぼくの家だけが時間の流れの中に取り残されてしまえばいい。そんなことを考えていた。

 次郎はどこか不安そうな表情で、時折、ぼくを下から見上げるようにしている。

「大丈夫だよ、次郎。きみなら出来るさ」

 何の支えにもならない、取り繕うような気休めしか言えない自分が情けなかった。

 何時の間にか、荒れ狂うような吹雪は収まったみたいだ。外は静寂に包まれた漆黒の闇夜。ただ、途方も無い冷気だけが窓越しに伝わってくる。今夜は暖房も、何もつけていない。少しでも、次郎を大自然の環境に慣らせようという、苦肉の策を講じてみた。ぼくの浅知恵で考えたような代物に過ぎない。ろくな意味など無いかも知れないけれど、少しでも、ぼくの想いを届けたかった。

 大きくなった次郎を眺めていると、色んなことを思い出す。

「きみは悪戯ばかりしてくれたよね? まったく……障子に、ふすまに、物干し竿に……

 一体、幾つ壊してくれた? 挙句の果てには、壁に付けてくれた爪痕。中々の暴れん坊だったね、きみは。フフ……でも、きみの残してくれた思い出にはなるかな?」

 ぽつりと語り出すぼくの顔を、次郎はただ、静かに見つめていた。何時もの如く、鼻を摺り寄せている。

「大きくなっても、甘えん坊なところは変わらないんだね。心配になってしまうじゃないか? ちゃんと暮らしていけるのか……」

 ぼくは苦笑いしながら、次郎の頭を撫でてやった。次郎はなおも強く鼻を摺り寄せてくる。

 いいさ。今のうちに精一杯、甘えて置くといいさ。もう数時間もすれば……夜明けが訪れて、きみとの別れの時が訪れる……。ぼくは、その瞬間の訪れが恐ろしい。

「次郎? 山に帰っても、ぼくと過ごした日々を……人間と共に生きた時間を……忘れないでくれよな?」

 どうしたことだろう? 次郎の顔が少しずつぼやけて見える。輪郭が歪み、色が薄れてゆく……。

 ほんの、一瞬、眠りに堕ちただけだと思った。だが、そうでは無かった……。

「な、何てことを……」

 ぼくは愕然とした。

 もう、空は白々と明け始めていた。慌てて時計を見れば、大分時間が過ぎている。

 何ということだ……ぼくは次郎と過ごせる、最後の夜だと言うのに、こともあろうに、眠ってしまったのか……。だが、後悔は先には立たないもの。

 傍らでは、相変わらず心配そうにぼくを見つめる次郎の姿があった。だからこそ、ぼくは気丈に振舞わなければならなかった。

 加藤さんとの約束……目が覚めたら、電話を欲しいという約束。ぼくは自分の至らなさを、無力さを、非力さを、弱さを、何もかもを! 憎み、悼み、蔑みながら受話器を手に取った。

「あ……もしもし、お早う御座います。坂上です。今、起きた所です。はい。次郎も起きています。出発の準備、すぐに整えますので、お願いします」

 短く用件を告げると、ぼくは受話器を置いた。

「……次郎。しっかりと、聞いてくれ」

 何時に無く力強い口調のぼくに、次郎も何かを感じたのか、静かに座ってみせた。

「……きみと出逢ってから、三年が過ぎた。あの頃は、まだ……本当に小さかったきみも、もう立派に成長した。本当に大きくなった」

 次郎はなおも鼻を押し付けている。ぼくは、すっかり大きくなった次郎の頭をただ、静かに撫でていた。

「……きみと過ごせた時間、本当に楽しかった。出来ることなら……ぼくは、きみと離れたくない。だけど……このまま、この家に居ることも出来無い。次郎……今日からきみは山へ帰るんだ。ぼくは……村でこのまま暮らすから」

 不意に次郎が顔を挙げた。今まで見せたことも無いような哀しみに満ちた表情だった。

「次郎、今日まで本当にありがとう。楽しかったよ……」

 その瞬間まで……その瞬間までは、泣かないでいようと思った。でも、でも! もう限界だった!

 ぼくは見た……次郎の目には、確かに、涙が称えられていた。次郎の涙を目の当たりにした瞬間、もう、抑えられる訳が無かった。

「次郎ーーーっ!」

 ぼくは次郎に抱き着き、ただただ泣き叫んでいた。

 理解出来無い! 納得出来無い! どうして、どうして! 次郎と、離れなくてはならないんだ!? そうさ……このまま次郎を連れて逃げてしまえばいい……。誰にも見つからないように、そっと抜け出し、山奥で、ひっそりと一緒に暮らせばいいさ。名案じゃないか?

 そう思った。心のそこから、そう思ったさ。でも、だけれど……本当はそうしたいけれど……ぼくは静かに立ち上がると、そっと次郎の頭を撫でて見せた。

 もう、これ以上喋るのは辛かった……だから、ただ機械的に、淡々と出掛ける準備を整えた。丁度、加藤さんの車が到着する音が聞こえた……。

◆◆◆14◆◆◆

 これから起こること……恐らく、次郎は全部、全て、理解していた筈だ。

 その瞬間、彼の中で憶測が確信に変わったのだろう。あらゆる疑問の答が判ってしまったのだろう。彼は頑なに車に乗ることを拒絶していた。何時になく強い力で必死の抵抗していた。大きな声を響かせながら抵抗していた。涙が止まらなかった。あふれて、あふれて止まらなかった。

 だけど……ぼくは、だからこそ、感情を押し殺し、必死で次郎を車に乗せた。

 ごめんね、次郎。だけど……ぼくは、これから……きみにもっと、ずっと酷い仕打ちをしなくてはならない。それに比べたら、こんなものは小さなものだから……。

「加藤さん、お願いします」

 加藤さんは静かに頷くと車を出した。少しずつ小さくなっていくぼくの家の光景。次郎は何時までもじっと見つめていた。とても、とても……寂しそうな目で……。目を潤ませながら見つめる次郎の横顔を見るのは辛すぎて、ぼくの心は張り裂けそうだった。

 もしも、許されるならばナイフで切り刻みたかった。見えない何かの力で、途方も無く胸が痛んだ。心が張り裂けそうだった。ただただ、叫びたかった。

 何時も、思うことと正反対な流れになる運命を呪いたかった。無駄なこと……だからこそ、ぼくは振り返らなかった。

 次郎のどんな言葉にも、目線にも、想いにも、決して気を配ることはしなかった。此処まで来てしまった以上、もう後には引き下がれない。ならば、必要以上に痛むことは辞めようと思った。ただそれだけ。

 それは加藤さんからの提案だった。次郎が生まれ育った山に帰すのが妥当ではあるとして、

 何時も通っている道を使ったのでは次郎が戻って来易くなってしまう。

 もしも……次郎が戻って来てしまったら、最後の試練となる、縁切りの儀式は失敗に終わり……考えたくはないけれど、次郎。きみをぼくはこの手で始末しなければならなくなってしまう。

 だから……今は、ぼくのことを血も涙も無い修羅と思ってくれていい。それできみが生きられるならば、ぼくは修羅にでも、悪鬼羅刹にでも、何にでもなろう。

 ぼくの家から見て山の正反対へと向かった。この辺りは人間が入山するような場所では無い。だから、殆ど獣道状態と化していて、入り込むのはかなり大変な場所である。逆に言えば人間と遭遇する可能性も低く、また、野生に戻るべき次郎には適した場所なのかも知れない。

 加藤さんは荒地の中で、何とか車を止められそうな場所を探していた。

 心拍数が急激に上がっていく。判っていても……頭で理解するのと、体で理解するのとでは、大きな隔たりがある。覚悟するのと、いざ、その場面に直面するのとでは、大きな隔たりがある。

 手のひらの中に嫌な汗が噴き出す。口が渇き、喉が痛いほどにカラカラだ。だけど、ぼくはもう、一歩も引き下がれないから。

「よし、この辺りに止めよう」

「……」

 加藤さんは静かに車を止めた。

 ブレーキの音だけが、静寂の中に響き渡る。

「坂上君、私は此処で待っているから。何も心配することなく立ち向かって来なさい。温かいコーヒーでも用意して待っているよ」

 加藤さんは敢えて、向こうを向いたまま呟いて見せた。何の感情も篭められていない、抑揚の無い口調だった。ありがたい心遣いだった。事務的に立ち振る舞って貰えて、どれほど救われたことだろうか。

「大丈夫だ。きみなら出来る。次郎君を此処まで育て上げられたこと、そして……共に過ごした日々を想えば、出来る筈だ」

「はい。坂上純一、行って参ります」

 まるで戦場に向かう兵士の様な言葉だと思った。あながち、その感覚に間違いは無いと思う。

「次郎、着いて来るんだ……」

 ぼくは前を向いたまま、吐き捨てるように強い語調で呟いて見せた。

 次郎は何時に無く辛辣な接し方をするぼくに戸惑っているのか、静かに従って見せた。車から降りると、ゆっくりとぼくの後ろを着いて来た。

 この険しい山道を、出来るだけ奥まで登らなければ……憎いほどに澄み渡る青空だけど、昨日の吹雪のお陰で道は全く見えない。目の前に広がるのは一面の雪と斜面だけ。

「さ、行こうか……」

 ぼくは一歩、一歩、歩き始める。最後の場所へと向かうために。

◆◆◆15◆◆◆

 山道は険しかった。雪の影響で、ただでさえ酷い獣道なのに、足元が雪で覆われて見えないだけに余計に険しく思える。

 ぼく達が歩く度に足元で枝が折れる渇いた音がする。次郎はまだ抵抗する素振りを見せている。何度も、何度も立ち止まっては、ぼくの反応を窺っていた。

 だけど……もう、今更後には退けない。何よりも、今引き下がれば、二人とも不幸になる。それは嫌だから。次郎、ぼくだって辛いんだ……だから、どうか、きみも戦ってくれ。

 逃げ出そうとする自分自身と。残酷過ぎる運命と。ぼくは可能な限り奥まで登るつもりだった。帰り道が大変になるかも知れなかったが、そんなことはどうでも良かった。

 今はただ、次郎のことだけを考えたい。

 ふと、ぼくの脳裏を妙な考えが過ぎった。

(そうさ……何故、加藤さんは車の中に猟銃を用意していたのだろうか? 何時でも使える状態にしてあったのも気になる)

 ふと、次郎を眺めながらぼくは思った。

(そうか。万に一つ、次郎が野生に帰ることを頑なに拒み、ぼくに襲い掛かった時のためと言うことか……)

 なおのこと、ぼくは失敗する訳にはいかないと思った。

 だからこそ、ぼくは次郎を連れて、ただ黙々と登り続けた。もう、加藤さんの車は見えない。

 かなり登ってきたのかも知れない。心無しか気温が一段と低くなった気がする。

 静かに周囲を見渡してみる。深い森の中……なのだろう。

 針葉樹林と異なり、落葉樹林は秋には葉を散らす。この辺りは落葉樹林なのだろう。剥き出しになった木々の枝には雪が積もり白く輝いていた。どこか哀しみに満ちた、殺風景な景色に思えた。

 こんな場所に、果たして食料があるのだろうか? 急に心配になってきた。次郎は人間と共に暮らしてきた身だ。冬眠すると言う習性を忘れてしまってはいないだろうか? 実際、一緒に過ごしていた頃は、冬眠する筈も無かったのだから。

 本当に大丈夫なのだろうか? ただただ、不安だけが押し寄せる波の如く押し寄せてくる。

「次郎、きみは一人で生きなくてはいけない」

 気が付くと、ぼくは静かに足を止めて、足元を凝視したまま、ぽつりと呟いていた。無意識に零れ落ちた言葉に、自分自身でも驚いた。

 ふと周囲を見渡せば、一面、雪に包まれた銀世界しか見えなかった。もはや、どうやって登ってきたかも判らない。下手をすれば、ぼくはこのまま遭難し、凍死してしまうかも知れない。それも悪くないかも知れない。それならば次郎と共に居られるでは無いか? そんなことを考えながら、自嘲的な笑みを浮かべた瞬間、何処からか鳥達が一斉にはばたく音が響き渡った。

 いや、駄目だ! そんなことをしたら、次郎のお母さんとの約束を果たせなくなる。

 次郎は山に帰してあげなくてはいけないんだ。それが約束なのだから……。

 いよいよか……ぼくは静かに息を呑んだ。立ち止まったまま、拳を握り締め、肩を震わせるぼくに次郎が戸惑ったような表情を見せる。

 だが、自分を振り切れなければ何一つ始まらない。

 ぼくは静かに振り返ると、次郎をしっかりと見つめた。

「……さぁ、次郎。これからはこの山がきみの家だ」

 ぼくの言葉に次郎が怪訝そうな表情を見せる。何時も、そうしているように鼻を摺り寄せてこようとした……だが、ぼくは力強く次郎の頬を叩いた。

 次郎は驚愕したような表情を見せた。明らかに困惑していた。

「駄目だ! 次郎、きみは此処で暮らすんだ!」

 なおも、嫌々をしながらぼくの足を掴んで離さない次郎に、ぼくは語調を強めて、明らかに威嚇する態度を見せた。それでも次郎は力一杯しがみ付いて、嫌々をしながら、必死で鼻を摺り寄せてくる。

 駄目だ……。辞めてくれ。辛くなる……きみを山へ返さなくてはならないのに……不意に、ぼくの脳裏に、それまでの思い出が走馬灯の如く駆け抜けていった。

 あの日、山できみのお母さんを撃ってしまったこと……。

 初めて、きみを抱き上げた瞬間の記憶。

 一緒に暮らし始めた頃のこと。

 柿が好きで、何時もふてぶてしい態度だったきみのこと。

 窓から転落し、危うく生死の境を彷徨ったこと。

 ニジマスを採りに行ったこと。

 一緒に遊んだこと。

 時に悪戯をしたきみを叱ったこと。

 きみのお母さんに、大きくなったきみを見せに来たこと。

 北海道に鮭を採りに行ったこと。

 そして、昨日の夜のこと……振り返れば、振り返るほどに、愛しく思えてしまう。だからこそ、断ち切らなければならない。

◆◆◆16◆◆◆

「駄目なんだよっ! うああああっ!」

 一体、何をどうしたのだろうか? 次の瞬間、ぼくの手に鈍い衝撃が走った。

「がああああっ!」

 同時に響き渡る次郎の鋭い叫び声。

「えっ!?」

 何てことを……ぼくは……何時の間に手にしたのだろうか? 大きな石を手に、次郎の頭を殴ってしまったのだ。次郎の左耳の辺りに血が滲んでいるのが見えた。

「次郎っ!」

 ぼくは思わず、次郎に駆け寄ろうとした。

 だが……次郎の鋭い怒りの眼差しに足が硬直した。

(何て恐ろしい目をするんだ……)

 裏切られたことへの憎しみなのだろうか? それとも、自分を愛してくれたぼくの豹変振りに対する怒りなのだろうか? とにかく次郎は、ただただ、ぼくを鋭い目で見つめながら、静かに後ずさりして見せた。口元から牙を除かせ、鼻に皺を寄せて唸り声を挙げていた。

 心が砕け散りそうなくらいに、激しく痛んだ……。

「次郎、すまない……ぼくは、なんということを!」

 だが、次郎はただただ、悲憤に満ちた眼差しで、ぼくを蔑み、見下し、何よりも……哀しむ眼差しで見ていた。

「次郎……お別れだ。元気でな……」

 不意に、ぼくの頬を熱い涙が伝って落ちた。後から後から零れ落ちてくる。

 ぼくを一目睨み付けると、次郎は二本足で立ちあがった。そのまま、目の前にあった一際立派な大樹に力一杯爪を立てた。立派な幹に刻み込まれる深い爪痕。

 同時に、透き通った青空を仰ぐと、力一杯の咆哮を轟かせるのであった。思わず腰が抜けそうになる程の、迫力に満ちあふれた咆哮であった。

 大樹に力一杯掘り込まれた爪痕は、次郎の途方も無い腕力を如実に示していた。響かせた遠吠えは、我こそが、この山の王者なのだと言わんばかりの威厳と迫力に満ちあふれていた。

 そのまま次郎は、茂みの奥へと消えていった。

 その後は、どうやって下山したのか何て覚えていない……。

 ただ、気が付いたら、ぼくは何時の間にか下山していた。ぼくの姿に気付いたのか、加藤さんが静かに歩み寄ってくる。

 ただただ、ぼくは放心状態で、何時倒れても可笑しくないような足取りだった。このまま、死んでしまってもいいかな? そんなことを真面目に考えていた。

「坂上君、良く戻ってきた」

「加藤さん……」

「何も言わなくていい。きみは立派に、最後の役目を果たせたんだ……」

 加藤さんは泣いていた。穏やかな笑みを浮かべる、その目からは大粒の涙が次々と零れ落ちていた。

「良く頑張った、坂上君。辛かっただろうが、本当に良くやった」

 加藤さんは、ぼくの手元に付着した、血糊を見て何もかもを理解したのかも知れない。

「うわあああああ!」

 何もかもが終わった。別れは……本当に呆気ないものだった。

 そして……ぼくの下には、もう次郎は戻っては来ない。そっか。今日から、ぼくは一人で過ごすのだな。

 色んな想いが取り留めもなく溢れてきて、今更になって、壮絶な痛みが体中を駆け抜けた。

 ぼくは、何もかもが判らなくなって、ただ子供のように激しく泣き崩れていた。後から後から、熱い涙が毀れてくる。

 加藤さんが居るのに、とか……もう、そんなことを考える余裕なんて無かった。もう、何がどうなっても良かった。ただただ、途方も無い哀しみと、大切な存在を失ってしまった喪失感に、全身が鋭く引き裂かれるようだった。

 いっそ、あの大樹の代わりに、ぼくを切り裂いて欲しかった……

 大切に育てたきみの手で、きみを育てたぼくを殺めて欲しかった。きみのお母さんの仇を討って欲しかった。

 あの場ならば、他に邪魔する者なんて居なかったはずだ。

 次郎、きみの力があれば容易かった筈じゃないか?

 なぁ、次郎? ぼくは……ぼくはこれからどうすればいいのかな?

 そんなことよりも、これからのことよりも、今、身を引き裂く、この凄まじい哀しみと痛みに、ぼくは耐え切れずに、ただただ激しく嗚咽するばかりであった……。

 見苦しいと揶揄されても構わないさ。これが……ぼくの本当の真実なのだから……。

 全てが終わった。ぼくはこれからどうすればいいのだろうか? ヒュオオオオ。冷たい風が吹き抜けていった。風に巻き上げられ、積もった雪が地吹雪となる。白く、冷たく、哀しい地吹雪の中で、ぼくは、ただただ泣き崩れるばかりだった……

◆◆◆17◆◆◆

 哀しいほどに広かった。

 こんなにも、ぼくの部屋は広かったのかな? 見知らぬ家に越してきたかのような感覚だった。途方も無い虚脱感と喪失感……。

 次郎の居なくなった部屋はあまりにも広過ぎて、どうすることも出来無い哀しみに潰されそうだった。毛布には次郎の温もりは残っていなかったが、次郎の匂いは残っていた。だからこそ、余計に心が引き裂かれそうになった。広過ぎる空間は壮絶なまでに寒々しく、まるで心が凍結して、崩れ落ちそうだった。

 日がな一日、ぼくは何も出来ずにうずくまるばかりだった。

 立派なことを言っても、次郎を送り出すための精一杯の強がりも、所詮はその場凌ぎの都合のいい演技に過ぎない。

 涙さえ出てこなかった。何もやる気が起きなかった。

 判っている。このままでは……獣医になるどころか、ぼくは卒業さえ危うい状態だった。

 だけど、不気味なまでに危機感は無かった。あまりにも力が抜けすぎてしまって、もはや、何がどうなっても良かった。

 大山鳴動、過ぎ去った後は静寂街道。祭りの後の物悲しさ残る街並み……いや、そんな郷愁に浸れるようなものじゃない。大切な家族を失った哀しみ……それも、この手で壊してしまった哀しみ……。

 いよいよ、ぼくは死神と対峙し始めるようになってきたのか? 酷く憔悴し切り、痩せこけ、青白い顔色は死人のようで、以前のぼくを知る誰もが驚いた。あの日から、殆ど何も食べていないし、殆ど眠ることもできない。

 加藤さんは、もう……何も言ってはくれない。

 見放されてしまったのかも知れない。いや、或いは……ぼくが戻るのを待っていてくれるのかも知れない。今となっては、そんなことはどちらでも良かった。大差はない。

 大切なのは……次郎が居ないということ。もう、一緒に寝転がることも出来無い。

 途方も無い悪戯の数々に、肝を潰すことも無くなった。外出時に、今度は何をやらかしているだろうかと気を揉むことも無くなった。

 だけど……それは、ちっても幸せなことじゃない。ちっとも幸せじゃ無い変わりに、途方も無い哀しみと、何よりも絶対零度の静寂と絶望だけが残った。

 こんなに苦しむ位なら死んだ方が良い。そんなことを真面目に考えている自分がいた。

 きっと、次郎は……こんなぼくを見たら、哀しむだろうな。偉そうなことを、図々しく言えたものだと罵るだろう。それとも冷たい目で蔑むだろうか? 憐れむだろうか?

 こんな情けないぼくには……もう、何時もそうしていたように、鼻を摺り寄せてくることも無いだろう。

 想像以上だった……あの時の哀しみ、身を切り裂かれるような絶望。麻酔も無しに腕を、足を、縦横無尽に切り裂かれる様な壮絶な痛み、それが延々と弛まなく続くのは拷問以外の何者でも無い。だからこそ哀しい……。

「次郎……」

 瞼を閉じれば、何時でも浮かんでくるのは、まだ幼かった頃のきみの姿だけ。

 ぼくに取って一番印象的だった頃のきみの姿。

 時の流れに取り残された漂流者。一体、何処に漂着するのだろうか? そこに次郎が居ないならば何もかもが同じだ。

 寒さに……この途方も無い寒さに、ただただ、ぼくは凍えながら、今際の時は何時か? 何時か? と、ただ待ち焦がれているだけなのかも知れない。

 可哀想なぼく……冬の寒さに討たれて、死んでしまえばいい。

 そんなことを考えながらも、不気味な早さで月日は巡る。

 次郎が山に帰ってから、最初の春が訪れ、走り去るように夏が訪れ、何時の間にか秋が駆け抜ければ……再び雪が降り止まない冬が戻って来た。次郎が一緒にいたならば、四年目の冬になっただろう……

 当然のことながら、ぼくは留年した。それでも退学しなかったのは、浅ましい未練なのだろうか? ぼくを退き止めたのは、獣医になりたいという熱い想いなんかじゃない。この道を見捨ててしまったら次郎とは永遠に離れ離れになってしまう。そんな畏れがあっただけのことだ。どこまでも情け無い奴だ。

 不思議なことが起きた。そう。とても不思議なことが起きた。それは四年目の冬のことだった……。

◆◆◆18◆◆◆

 前日から降り続いていた雪は止むことなく、延々と降り続いていた。

 こんな日だったね。次郎、きみと逢ったのは……。

 また、ぼくは誰も居ない空間に話し掛けていた。虚ろな目で、哀しみに満ちた薄ら笑いを浮かべながら。誰の目から見ても奇異な姿だったに違いない。

 前にも進めず、後ろにも退けず、ぼくは、いよいよ駄目になり切ろうとしていた。

 ドサっと言う水気を孕んだ音に驚いて、ぼくは我に返った。

「何だ……雪が落ちた音か。脅かさないでくれよ」

 ほっと胸を撫で下ろした瞬間だった。

 何かが雪を踏み固める音が響き渡った。それは間違いなく、何かの生き物の足音だった。それも相当大きな生き物だ。こんな悪天候の最中に歩き回る生き物? すぐにぼくの頭に浮かんで来た生き物の姿があった。

「次郎!?」

 あり得るはずが無かった。でも、足音の感じから察するに相当大きな動物のはずだ。人里まで下りてくる動物は少ない。鹿は確かに行動範囲が広いが人里には近寄らない。それに足音の感じから考えるに、どう考えても違う筈だ。

 一番妥当に思えるのは、やはり熊だ。

 それも子供の熊では無く、十分に成長した大人の熊の筈だ。

 判っている……次郎は野生に還ったんだ。ぼくのことなんて、覚えている訳もない。

 危険なのも承知だった。だが、ぼくは気が付いたら裸足のまま玄関から庭へと飛び出していた。

 確かに、何かしらかの生き物が歩いたような足跡が残っている。大きさと形状から察するに、間違いなく熊だ。

「……そんなことがあるものか」

 ぼくは頭を振って、自らの考えを……あるはずの無い僅かな希望を振り払おうとした。不意に、ぼくの目に不思議なものが飛び込んできた。

「何だろう? これは?」

 軒先に置かれていた不思議なもの。

 笹の葉で何かを包んだような感じに見えた。

 ぼくは、そっと笹の葉を解してみた。中からは沢山のどんぐりが出てきた。

「これは……椎の実?」

 どんぐり、もとい……椎の実は、冬の間に冬眠する動物達が食料として溜め込む備蓄食の一つである。無論……熊とて、冬の間の食料として使うこともあるだろう。

「まさか……次郎が?」

 いや、そんなことある筈が無い。大体、どうやって、こんな器用な芸当をするのか? 人間の器用な指先でならば可能かも知れないが、動物の……それも、熊のような不器用な手先で、こんな細かい作業が出来る訳が無かった。だが、近所の子供達の悪戯にしては手が込み過ぎている。そもそも、こんな猛吹雪の深夜に出歩く子供は居ない。

「では、一体誰が?」

 考えれば考えるほどに判らなくなる。

 でも……ぼくは、こう考えたかった。次郎は人間らしさに満ちあふれた頭の良い熊だ。これは次郎が作ったのかも知れない。そして……ぼくに逢いに来たことを告げたかったのだろう。直接逢えば驚かしてしまうかも知れない。そう考えたから、こんな小粋な仕掛けを考えたのだ、と。

 些か出来過ぎている感は否めない。まるで御伽噺の世界の話だと、揶揄されてお終いだろう。でも、ぼくは信じたかった。次郎はぼくのことを……忘れては居ないのだと。そう考えた方が夢があるでは無いか?

「……はは。奇しくも今日はクリスマスイブじゃないか? あまりにも出来過ぎている。なぁ、次郎。まさか、それさえも計算の内だって言うのかい?」

 ぼくは空を見上げながら高らかに笑っていた。あまりにも出来過ぎた、次郎からのプレゼントが嬉しくて。高らかに笑いながら……あふれ出る涙を、抑えることなく、ただ、ただ流れに身を委ねていた。

「次郎。ありがとう……」

 言葉を口にした瞬間、さらなる奇跡が起きたのだった。

 ぼくは我が目を疑った。見間違う訳は無かった。

 そう。あの時、ぼくが付けてしまった傷……微かに痕が残ってしまっていたのだから。

「そ、そんな……どうして?」

 ぼくは言葉が出なかった。

 目の前には立派な体躯の巨体の熊が佇んでいた。あれから、さらに一回りは成長したのだろうか? 大きくなっても、野性味を帯びても、澄んだ瞳までは変わることは無い。

「次郎……おかえり……」

 ぼくは静かに次郎の下へと歩み寄っていた。野生の血を取り戻した次郎が、ぼくのことを覚えている訳がないかも知れない……。そんなことは微塵も考えなかった。

 身の危険よりも、何よりも、ぼくは次郎に再会出来たことが嬉しかった。だから、ぼくは次郎の下へと歩み寄ったのだ。警戒心は微塵も無かった。

「次郎……逢いに来てくれたんだね?」

 ぼくの言葉に次郎が静かに頷いて見せる。

「ああ……きみは何も変わっていないんだね……」

 言いながら、ぼくは自分自身の堕落振りを顧みて、急に途方も無い哀しみに襲われた。

 次郎は立派に一人でも生きているのに、ぼくは一体、何をしていたと言うのだ!? 不意に、次郎の背後から、静かにもう一頭の熊が現れた。そっと歩み寄ると、次郎の横に並んで見せた。次郎よりも一回り小柄な熊。荒々しさよりも、どこか懐の深い慈悲深さを感じさせてくれた。

 この感覚、何処かで体験したような気がする……。

 そうか。次郎のお母さんと接した時の感覚と良く似ている。と言うことは……。

「そうか。次郎、この熊は……いや、彼女は、次郎……きみの奥さんということか?」

 ぼくの言葉に、次郎は何処かはにかんだ様な仕草を見せた。

 軽くぼくに挨拶をすると、彼女は再び去って行った。ぼく達のことを知っているのだろうか? その上で気配りをしてくれたと言うのだろうか? ますます、人間らしい振る舞いだと思った。

「次郎……きみは立派に成長したのだね。奥さんまで出来たとはね。それに比べてぼくは……いや、止めよう。何を言っても言い訳に過ぎない。次郎、きみはぼくを励ましに来てくれたのだろう? そして、今の自分の姿をぼくに見せに来てくれたんだね?」

 ぼくの言葉に次郎が静かに頷いて見せる。

 確かに……あの時は、壮絶な別れを選ぶしかなかった。だが、次郎もそのことは良く判ってくれたのだろう。

 例え、あの瞬間は、途方も無い怒りと哀しみに襲われたとしても、ぼくと共に過ごした三年間という時間は無駄では無かったと言うことだろう。

「次郎、約束しよう。ぼくはもう一度立ち向かうよ。そして、今度は……ぼくがきみに見せる番だ。成長した、ぼく自身の姿をね? きっと、きみに見せるよ。ああ、約束するさ」

 ぼくの言葉を聞きながら、次郎は満足そうに頷いて見せた。そのまま静かに山へと向かい、姿勢を変えた。

「次郎、帰るのかい? また……きっと、遊びにおいでよ」

 ぼくの言葉を受けながら、次郎が静かに振り返った。

「うん。きっと帰ってくるよ」

 彼は……そう、言ってくれたのだと思う。夢のような話だと思うだろう? 疲れ果てたぼくが見た、都合の良すぎる幻覚だろうと揶揄したい奴は揶揄すればいい。ぼくだけは信じている。これは……サンタさんのくれた贈り物なのだと。ぼくは変わるよ。次郎……きみとの約束を果たすため。

 そして、ぼくの本当の戦いが始まった……

◆◆◆19◆◆◆

 出逢いは、確かに皮肉なものだった。数年前の冬の日。あの山で、もしも一頭の熊に遭遇しなければ……もしも、ぼくの銃の腕が確かで、威嚇射撃に失敗しなければ……この物語が綴られることは無かっただろう。変わることの無い日常を過ごしていたことだろう。

 幾つもの偶然が重なって出来上がった物語。

 それは、本当に物語と呼ぶに相応しいものだと思える。サンタさんは本当にいるのかも知れないと思えた物語。秋田の山奥でサンタさん云々なんて、かなり的外れな気がする。だけど、これ以上に的確な表現をぼくは思い浮かばなかったから。

 人間に拾われ……それも、自らの母を目の前で射殺した、憎むべき人間に拾われ、育てられた一頭の熊。本来持ち得る筈も無い、人間としての情を手にした一頭の熊。彼は本来あるべき一固体としての、一種族としての姿を超越し、想像を超える行動を見せてくれた。

 憎むべき筈の人間に心を許し、あろうことか、その人間を慕い、共に歩もうと考えた。

 別々の世界を生きることとなってもなお、その人間を慕い、成長した自らの雄姿を見せに来たのだ。

 一度野生に還った熊が、再び人間の下に現れ、なおかつ、情を失わずにいるなど、あり得ない話なのだろう。

 社会性のある行動習性を持つ犬科の動物ならば、或いはその可能性も否定は仕切れないが、元来、単独行動を選ぶ熊と言う種族に於いて、そのような行動習性を示したことは、ただただ驚きだと言える。

 だからこそ、物語としての意味合いを為したのかも知れない。

 そして、物語はまだ終わってはいない。この物語には、さらなる続きがあるのだから……

◆◆◆20◆◆◆

 次郎と出逢ってから、丁度四回目の春。

 あの日……次郎が逢いに来てくれてから、ぼくは変わった。まるで、何かに憑かれたか如き勢いで勉学に励み、昼も夜も忘れ、ひたすらに猛勉強をし続けた。そして、四年目の春……。

「おめでとう、坂上君」

「ありがとうございます」

「次郎君が去った後のきみは、まるで魂が抜け去った、抜け殻のようになっていた。正直……私も、もはやこれまでかと思ってはいたのだが、ある日を境に、別人のように覇気に満ちあふれ、栄光の勝利を手にするという偉業を成し遂げたか」

 加藤さんは、あのクリスマスの日の夜に起きた出来事を知らない。

 だから、ぼくの異変の意味にも気付いていない。

 そう。これはぼくと次郎、二人だけの秘密なのだから。加藤さんにも話してはいない真実。常識の範疇では考え切れない話なのは間違いない。だからこそ、次郎との物語は二人だけの秘密にしたいと考えた。

 まぁ、何時の日か、ぼくが物語を綴り終えるその日……その日に全ての真実が白日の下に明かされることになるだろう。それでいい。

「今日は坂上君の祝勝会だな」

 嬉しそうに微笑む加藤さんに、ぼくは少々困った笑顔で返して見せた。

「それがですね、今日は先客が入っていまして……」

「先客?」

「ええ。ぼくの……ぼくのとても大切な親友なんです。ですから……祝勝会は、気持ちだけ頂いて置きます」

 加藤さんはぼくの表情を見つめていた。鋭い加藤さんのことだ。何もかもを察したのかも知れない。あるいは、字面の通りに受け止めてくれたのかも知れない。いずれにしても、ぼくは吉報を手に家に戻ることにした。

◆◆◆21◆◆◆

 次郎は本当に不思議な奴だ。

 ぼくの想いを何処かで読み取っているのでは無いか? そう思わずには居られない程に、絶妙なタイミングで姿を現す。そして、その日の夜も次郎が遊びに来てくれた。

 ぼくは次郎に、勝利を手にしたことを報告した。念願の獣医になれたことを。そして、次郎に誓った。

 掛け替えの無い命の重みを……命の大切さを肝に銘じ、次郎と過ごした時間を忘れることなく、情を忘れない獣医であり続けることを。

 そして、その日はもう一つ、お目出度いことがあった。

 何時もは次郎と、奥さんの二頭で逢いに来るのだが……。

「次郎……その子達は?」

 ぼくの言葉を受け、次郎が小熊達の背を鼻で押し、ぼくの目の前へと押し出して見せる。

 きょとんとした表情を見せる二頭の小熊。どちらも、次郎に良く似た凛々しい表情の小熊だった。

「そうか。きみの息子達なんだね? はは。まるで、子供の頃のきみ、そのままじゃないか? どちらも強い奴に成長しそうだ。既に王者の貫禄もあるじゃないか?」

 物怖じすることなく興味深そうに、ぼくに歩み寄って見せる二頭の小熊達。敵意を見せるでもなく、ただただ好奇心を見せていた。その姿は幼い日の次郎、そのままだと思った。盛んにぼくの匂いを嗅いでいた。そのまま、かつての次郎がそうしたように、兄弟揃って鼻を押し付けながらじゃれついてみせるのであった。

「ははは。やはり親子なんだね。仕草まで一緒だ」

 可笑しそうに笑う、ぼくを見つめる次郎は、少々照れ臭そうにしていた。

「次郎……きみも父親になったんだね。ああ。ぼくも獣医として頑張っていくさ」

 ぼくの言葉を受け、次郎は満足そうに頷いて見せた。

 そして、再び次郎一家は山へと帰って行った。

 まったく、きみは本当に不思議な奴だ。元来、熊の父親は子育てには無縁の筈。だけど、次郎にはそんな慣例的な常識は通用しないのだろう。子育てに参加する、父熊なんて前代未聞さ。だけど……次郎は、そんな大役でもきっと成し遂げるだろう。

◆◆◆22◆◆◆

 不慮の事故で出逢ってしまった一人と一匹。

 出逢った瞬間から離別する瞬間を知ってしまっているという、残酷で、数奇で、哀しみに満ちた物語。そうなのかも知れない。だけど……ただの哀しい物語では終わらせたくは無かった。

 ぼくは、ただただ次郎のことを信じ続けてきた。共に歩んだ時間が彼を変えたのかも知れない。そして……彼だけでは無く、ぼく自身をもね?

 きっと、人には信じては貰えない話だろう。信じる、信じないは、その人の自由だと思う。

 ただ一つだけ言えること。これは真実の物語であり、本当にあった史実の記録なのだと言うこと。

 次郎は、あれからも度々姿を見せるようになった。

 それが虚か実かは、その人が判断すればいい。ただ、ぼくは……一人の獣医として、命の大切さを伝えて生きたいと考えている。

 これは、そんな掛け替えの無い命が織り成す、一つの物語。

 まさしく、サンタさんの贈り物と呼ぶに相応しい物語。

 動物には言葉が通じない。動物には人間の想いは判らない。そう信じている人がいるのだとしたら、それは大きな間違いだと主張したい。伝えようとする想いさえあれば、伝わらない想いなど無いのだから。

 そして、動物は人間以上に繊細な心を持っている。

 動物達の声に耳を貸さずに、一方的に武力行使で事態を片付けるなど、人間の傲慢、怠慢、思い上がりのエゴイズムの極み以外の何者でも無い。

 同じ大自然と言う大舞台に生きる者同士、同じ土俵に立っているのだから。必ず、ぼく達が共存共栄する道はあるはずだから。

 どうか……彼らの想いに、声に、耳を傾けて欲しい。

 通じ合えると信じれば、必ず通じ合うことはできるのだから。

「今日はいい天気だな」

 獣医業の傍ら、物語を綴り終えたぼくは机から立ち上がり、大きく伸びをした。

 窓から吹き込む初夏の風は、芽吹く新緑の香りを称え、とても心地良く感じられた。少々疲れてはいたが、悪くはない疲労感だ。

「おっと、そうだ……」

 おもむろに、ぼくは書き終えたばかりのノートを開き、最後のメッセージを書き足すのであった。

 そう。ぼくに大切なことを教えてくれた……言うなれば、この物語の共同著者である彼へのメッセージをね。


『心優しき親友へ


きみに逢えたおかげで、ぼくは大切なことを知ることが出来た。

本当にありがとう。そして、きみの栄誉と健闘をここに讃える。親愛なる親友……熊の次郎へ 


坂上純一』


                                おしまい