天狗使いの小太郎 第1話 『ほたるの灯火』

 

第1話 『ほたるの灯火』


◆◆◆1◆◆◆

「なぜ人を殺してはいけない?」

 夕日に照らし出された教室は燃え上がる炎の様に一面の赤。机も、黒板も、それから立ち尽くす生徒たちも皆、例外なく赤々と萌えていた。赤一色に包まれた教室の中、俺は鴨川卓に馬乗りになり首を絞めていた。

「下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、寄り道せずに帰りましょう」

 妙に間延びした口調の下校放送が流れる。微かに放送に混じる笑い声が酷く場違いに思えた。時の流れは残酷だ。今、この教室をたゆたう時の運行は完全に凍結した。皆、石像のように硬直している。そこは何の音も無い渇き切った空間と化していた。そこには笑いなどは在り得ない。一触即発の緊張感。皆の視線が一斉に俺に集まる。銀行強盗の心境……体験したことは無いが、何故かそんな気がしていた。

「もう一度問う。なぜ人を殺してはいけない?」

 俺は再び問い掛けた。松尾は酷く狼狽した素振りを見せながら、俺の目線と合せることを畏れているようにさえ思えた。だからこそ目は逸らさせない。逃がしはしない。納得できる返答を返して貰うまでは。

「は……離せよっ……い、息が……」

 必死でもがく卓の爪が、さながら巨岩を侵食する雨垂れの如く俺の腕にゆっくりと食い込む。皮膚が切り裂かれる微かな感覚。ゆっくりと、滲んだ血が流れ落ちるのが見えた。痛みは感じなかった。ただ俺の怒りの炎に油を投入しただけに終わった。苛立ちついでに俺はさらに力を篭め、その首を締め上げた。ゆっくりと卓の首に俺の指が食い込む。柔らかな感触。じっとりと滲む汗。頚動脈の脈拍が次第に緩慢になるのが伝わって来る。涙と涎、ついでに鼻血まで垂らしながら卓は嗚咽していた。汚らしい顔だ。さっさと死ね。

「こ、殺してしまったら、もう、嫌いだってことも伝えられなくなってしまうのよ?」

 震える手で眼鏡を押し上げる松尾。ついでに裏返った口調で何とか放った言葉。余程動揺しているのか、汗に濡れた額に汚らしく髪が張り付いていた。残念だ……お前の言葉は俺の心には微塵も届かない。

「……馬鹿か? お前は?」

 俺の返答に松尾は言葉を失う。酷く目が泳ぎ、明らかにうろたえている様子が見て取れる。情けない……所詮、教師なんて存在はその程度の物なのか? 生徒からの問い掛けに、まともに応えられないような出来損ないも死んでしまえ。

 六月。梅雨の終わりの蒸し暑い季節。だが、この教室は真冬の早朝を思わせる程に緊迫した空気に包まれている。生徒達一人一人の動揺し切った吐息も、震える膝の音も、張り裂けそうな胸の鼓動さえも聞こえる。教室は無慈悲な静寂に包まれていた。時折、校庭からは生徒達のじゃれあう楽しげな声が聞こえてくる。場違いな笑い声。それが不快で、酷く苛立たされた。永遠とも呼べる程の沈黙。それでも、俺は手を緩めるつもりは無かった。本気で殺すつもりだったから。それ以外のことは考えられなかったから。

 いよいよ、卓は体が小刻みに痙攣し始めていた。瞳孔が揺らぎ白目を剥き始める。俺の手に突き刺さる爪からもゆっくりと力が失われてゆく。それでもなお、卓は必死の抵抗を見せる。時折思い出したかのように力を篭めていた。生への執着か? そんなもの、お前には無用の長物だ。万物を繋げる摂理から断ち切ってくれよう。

「無駄な抵抗は止せ。俺はお前を殺す……もう、後戻りするつもりもない。悪いな」

 俺は力一杯、卓の目に拳を叩き付けた。親指を突き出し、眼球を狙い力一杯殴り付けた。コリっとした感触。眼球が歪む感触を拳に感じていた。拳に感じられる生温かい涙が不快で、酷く苛立った。

「うわあああーーっ! ああっ……痛ぇ、痛ぇよっ!」

 卓の悲鳴に皆が目を背ける。耳を塞いだまま座り込む女子生徒の姿も見られた。

「汚らわしい……まだ生に執着するのか? さっさと諦めろ。せいぜい懺悔しろ」

 悲痛ぶった悲鳴に苛立った。だから股間にも肘鉄をめり込ませた。深く、深く。一瞬、体中に電気が駆け巡ったかのように激しく痙攣すると、卓は静かに崩れ落ちた。頬から大粒の涙が零れ落ち、空振ったような呼吸が笛の様な音を響かせた。ついでに広がる水溜り。どうやら失禁したらしい。

「あ……あぐっ……あ……ああ……」

「汗も臭ければ、小便まで垂れるとはな……実に惨めだな」

 夕日に照らし出された教室は、誰も彼も皆真っ赤に萌え上がっていた。何もかもが燃え盛る炎のように煌々と赤く染まっていた光景。言葉を失う級友達。立ち尽くす無能教師。口から涎を垂らしながら小さく痙攣する卓。汗と小便の不快な臭気。馬乗りになった俺。そして永遠とも思える程の沈黙。

 あの日、あの時、あの瞬間……俺は笑っていたと思う。多分。鬼……そう。俺が鬼になった瞬間だった。

「ひ、人殺し……」

「……人殺しだと?」

 誰かが呟いた一言。人殺し……そうか。俺は人殺しになったのか。仕方が無かった。煮えたぎるような怒りを静める方法が見当たらなかったのだから。

 キレやすい子供達。オトナ達は何時だってそうやって自分達の物差しで俺達を推し量ろうとする。規格に当て嵌まらない不良品は例外なく爪弾かれる。大して深く考えもせずにキレやすい子供達なんて言葉で一括りにしようとする。オトナはそういう言葉が好きなのだろう。ゴミの分別はできないクセに、子供の分別だけは得意そうなフリをする。残念だけど、ゴミの分別以上にヘタクソだ。

「……どうして、どうして……。どうしてこんなことに……?」

 唐突に松尾が崩れ落ちる。大きく肩を震わせながら、笛のような音で呼吸をしている。過呼吸か。相変わらず度胸の無い教師だ。無駄に小心者だ。事なかれ主義がモットー。絵に描いたような駄目教師だ。確か、お前のような役立たずは「税金泥棒」って言うんだったな。

「コタ……ごめんね、ごめんね! ぼくのために……ぼくの、ぼくのせいで!」

 悲痛な声を張り上げながら輝が泣き崩れるのが見えた。酷く乱れた髪。謝るのは良いから早くズボン履け。お前は見世物じゃないだろ? それに――「輝……お前は悪くない。だから、そんな顔をするな」。俺は目で語り掛けた。お前は「被害者」だ。一連の騒動は俺が、俺のために起こした行動だ。お前のためじゃない。卓がムカついた。だから殺した。それだけだ――ただ、それだけのことだ。

◆◆◆2◆◆◆

 それは「きっかけ」だった。全ての始まりとなった「きっかけ」だった。

 先に仕掛けたのは卓だった。手下達を使い輝の身動きを取れなくした。嫌がる輝のズボンに手を掛け脱がせた。

「嫌だよ、止めてよ! お願い……止めてよ! 嫌だよ!」

 放課後前の教室。帰り支度をする者達もいれば、これから教室の掃除に取り掛かろうとする者達もいる。変わることの無い日常の最中に起こった予期せぬ事件。唐突に響き渡る輝の悲鳴に、皆が一斉に振り返った。手下達数名掛かりで押さえ付け、嫌がる輝のズボンを今まさに下し終えた卓の姿が目に入った。俺は目を疑った。一体、何をしようとしているのか理解出来なかった。

「嫌だよ! 止めてよ! 止めてってばっ!」

 さらには下着まで脱がせようとしていた。顔を真っ赤にし、目に一杯の涙を称える姿。輝の悲痛な叫び声だけが渇いた教室に響き渡った。そんなことに一体何の意味があるのか? 泣き叫ぶ輝を見据える卓は鼻息荒く、酷く興奮していた。

「この変態が……!」

 気が付くと、俺は掃除箱からホウキを取り出すと、その柄に全体重を掛け、卓を殴っていた。

「い、痛ってぇ……」

 驚き振り向いたところに、俺は全体重を篭めて顔面に拳をぶちかました。

「え?」

 柔らかな頬肉に容赦無くめり込む拳の感触に身震いしていた。気持ちの悪い感触だ。

 突然の出来事に、鼻から血を流しながら、卓はただただ狼狽していた。もう一発殴った。今度は顔面に真正面から。鼻骨が軋む不快な感触に再び鳥肌が立った。卓は体勢を崩して膝から落ちた。だから俺は卓に馬乗りになった。迷いは無かった。殺そうと思った。明確な殺意を持っていた。だから迷いは無い。後悔もしていない。

◆◆◆3◆◆◆

 迂闊だった。やはり、迷いを棄て、完全にトドメをさしておくべきであった……。事態は唐突に変わった。俺の手から逃れた卓からの報復。過呼吸の松尾になんか気を取られている場合では無かった。一瞬の隙を突かれ形勢が逆転する。いきなり殴り飛ばされ、自分の身に何が起きたのか理解出来なかった。遅れて伝わって来るじんわりとした痛み。奥歯に肉が減り込む感覚。痛みよりも、痺れに近い感覚だった。目の前がチカチカする。

「こ、この、人殺しがっ! はぁ……はぁ……小太郎! 絶対に許さねぇぞ! ぶっ殺してやるっ!」

 立ち上がった拍子に太ももを伝って行く流れが目に留まった。ようやく失禁したことに気付いたのか、一瞬動揺した素振りを見せたが、すぐに凄まじい眼光で皆を睨み付ける。

 クラスの連中は卓に睨み付けられて互いに顔を見合う。その様子を眺めると、満足そうにほくそ笑みながら卓は机の上にのぼった。ナントカと煙は高い所が好きと聞くが、本当にその通りということか。それにしてもヒドい顔だ。涙に鼻血に涎。ついでに失禁とはな……選挙演説でもするなら、もう少しマシな振る舞いをした方が良い。

「てめぇらに聞く! 悪いのは俺か? それとも小太郎か?」

 答は判っていた。金持ちで権力者の息子。それは生まれながらの特権。つまり俺は生まれながらに敗北していた訳だ。松尾はこれ以上関わりたくないのか、そそくさと職員室へと逃げていった。戦線離脱という訳か。さすがは公務員の鏡だ。

「……臭い」

「なっ!?」

「汗臭い上に、小便臭い……息が詰まるな。ああ、臭い。臭い」

「だ、黙れっ!」

「此処は豚小屋か? 酷い悪臭だ。鼻が可笑しくなりそうだ」

「ぐ……ぐぐっ、てめぇ……絶対に許さねぇからなっ!」

 後の展開は早かった。目の前に立ちはだかる恐怖というものは、元来バラバラであった生徒達をいとも容易く一致団結させた。正義も悪も関係ない。皆、自分が可愛いもの。だから、目の前に迫る恐怖に容易く動かされる。

 判りやすい話だな。俺は「仮想敵」に仕立て上げられた訳だ。共通の敵が出来た瞬間、それまでバラバラだった奴らが驚くほどに一致団結する。以前、輝に貸して貰った「魔女狩り」の物語と一緒だ。自分がやっていることは間違えている。そのことは誰もが理解している。でも、そこで意を唱えれば、今度は自分が魔女に……「仮想敵」に仕立て上げられる。だから目の前にいる魔女を一斉に攻撃する。自分は「魔女の敵」としての存在なのだと皆に知らしめる。判っていないな……目の前の魔女が死んだら、次は自分が「魔女の敵」としての存在になるかも知れないとは考えたことも無いのだろうか?

「人殺し」と罵倒されながら、俺は屋上へと追いやられ、飛び降りることを要求された。あくまでも「自分の意思」ということらしい。殺人未遂に責任を感じた俺は自らの行いを悔いながら自殺する。三流小説の様なシナリオだ。クラス中の全員が一瞬にして敵になった瞬間だった。判っているさ……自らが傷付かずに済むならば、誰かの死などは安いものなのだろう。それに……一致団結して悪を討ち取る「快感」は手放し難い程に甘いものなのだろう? 人の不幸は蜜の味とは良く言ったものだ。自分が傷付くのは嫌だ。でも、正義の名の下に悪を裁くというノリは快感でしか無い。それは、とても簡単なこと。誰かを鬼に仕立て上げれば良い。鬼退治することをためらう奴なんか誰も居ない。正義を行使する。皆との一体感を味わえる。俺は正義の味方だ。悪いことをした奴に正義の裁きを下す……快感だろう? さぞかし皆、気分は高揚していたことだろう。勧善懲悪の世界観。もっとも無知なる単純二元理論。善が悪を退治するという判りやすい御伽噺。頭の悪いお前達にはお似合いだ。もっとも……鬼が存在しないならば、お前達は無理矢理にでも作り上げたのだろう。互いに監視し合い、少しでも可笑しな行動を起こせば、そいつが鬼だ。永遠に終わりは来ない。最期の一人になるまで永遠に繰り返されるだけだ。本当に頭の悪い奴らだ。

 俺は屋上へと向かわされた。無言で従う俺を見つめながら輝は動揺するばかりだった。俺と目が合うと、慌てて目を逸らしていた。良いんだ、お前はそれで……。

「小太郎、お前は鳥になるんだ」

 汚らしく鼻を鳴らしながら卓が叫ぶ。少しは動揺した顔をすることでも期待しているのだろう。判っている。だから俺は見下すようにほくそ笑みながら返してやった。

「……相変わらずくだらない考えしか出てこないな。ま、お前の頭はポンコツだから仕方が無いか」

「うるせぇっ! 人殺しの分際で口ごたえする気か!?」

「飼育小屋で飼い慣らされている家畜顔の分際で口ごたえする気か? ブヒブヒ鼻を鳴らすな」

「うぐぐぐぐ……っ!」

「言い返すだけの言葉も知らないのか? お前、臭いから近寄るな。ああ、臭い、臭い」

 言葉では勝ち目は無いと判ったのか、いきなり俺は蹴り飛ばされた。体勢を崩した俺の襟を乱暴に掴みながら、卓は屋上の扉を開いた。不意に広がる情景。どこまでも続く夕焼け空。碁盤状に駆け抜ける細い路地を歩く買い物帰りの親子が見えた。赤々と照らし出される家々の屋根瓦。遠く目をやれば赤々と萌え上がる東寺の五重塔に、赤々と萌え上がる京都タワーも良く見える。綺麗な夕日だ。

 そのまま襟を引っ張られながら、俺は屋上の端、フェンスの前に突き飛ばされた。腕組みしながら見下ろす卓。それから級友達。汚い物を見るかのように俺を見下す沢山の目。溜め息しか出てこなかった。「早くしろよ」と言いながら、卓は俺の腹を蹴り上げた。吐きそうになったが必死で堪えた。いっそ、目の前の豚野郎に吐瀉物をぶちまけてやれば良かったか? 惜しいことをした。ま、今となってはどうでも良いことだがな……。もはや痛みなど感じなかったし、感情も残されていなかった。恐怖心すら消え失せていた。極限状態の怒りに達した時、人という生き物は人であることを捨て去るものらしい。新発見だな。

「良いだろう。期待通りに振舞ってやる」

 だから俺は皆の期待に応えるべくフェンスを乗り越えた。夕焼け空に照らされた京都の町は、赤々と美しく萌え上がっていた。ふと足元をみやれば校庭を歩む生徒達の姿が見えた。何時もと変わらぬ下校風景。この光景も悲鳴に包まれるだろう。屋上から俺が飛び降りる。飛び散る肉片に、広がる血の海。腕も足も別れ別れになってしまうのだろうか? 見慣れた景色ともこれでお別れか。感覚が麻痺していたのだろう。不思議と怖さは無かった。本当に鳥になれるとでも思っていたのかも知れない。俺も馬鹿の仲間入りをしてしまったのだろうか? 馬鹿馬鹿しくて笑いが毀れる。不意にどこからか微かに漂ってくる線香の香り。良い香りだ。何の線香だろうか? 妙に落ち着いている自分が可笑しかった。死ぬ前に線香を手向けてくれるなんて、どこの誰かは知らんが気が利くでは無いか? ゆっくりとフェンスを乗り越え、今度は降りてゆく。手が震える。思わず真下を見た瞬間、立ち眩みを覚え、そのまま足を踏み外しそうになった。動揺していたのだろう。そのまま転落しても良かったが、それでは意味が無い。不慮の事故になんかさせない。お前達は皆、共犯者だ。俺を殺した殺人犯になるんだ。一生消えない重荷を背負い、残りの人生を後悔し続けながら生きるが良い。ざまぁみろ!

 異常な光景だった。皆、俺が飛び降りる瞬間を待ち望んでいるように見えた。そうか。言うなれば、これは、ちょっとした見世物なのだろう。テレビの中では無く現実の世界で人が飛び降りる。どうなるかなんて、判り切っていることだろう? 熟し過ぎた柿が落ちた映像が見られるだけだ。カチ割られたスイカの真っ赤な飛沫が飛び散る映像が見られるだけだ。道路脇に横たわる、車に跳ねられ、色とりどりの内臓が飛び出した野良猫と同じ映像が見られるだけだ。ぐしゃ。落下の衝撃で骨は砕け、関節は在り得ない方向に曲がる。頭が割れれば脳味噌が飛び散るだろう。血の海と、汚物を撒き散らした最期。そんな物が見たいのか? どこまでも悪趣味な奴らだ。どちらが鬼だか判ったものではない。

「卓、人殺しはお前だ。俺はお前に殺される……お前が死ぬまで恨んでやる。憎んでやる。永遠に消えることのない呪いになってやる。後悔したって、もう遅い!」

 俺は声を張り上げて笑った。怯えて、許しを請う様でも見たかったのだろう? 望み通りの振る舞いなどするものか。一生消えない傷になってやる。何時までも、何時までも、腐食した傷口に痛み続けろ。ゆっくりと壊死してゆく四肢に恐怖しながら泣き叫べ。永遠に許しを請い続けろ。俺は笑いながらお前達の手を握ってやろう……「絶対に許さない」と声を張り上げ、嘲笑いながらな?

 先刻まで盛り上がっていた生徒達に動揺が見られる。ついでに卓も動揺していた。俺の覚悟が本気だということにようやく気付いたのだろう。途中で泣いて、詫びを入れるとでも思っていたのだろう。馬鹿か? お前の貧困な想像力では、こんな展開は予想もしなかったのだろう? もう、遅い。お前は罪人だ。永遠に罪を償い続けろ。

 俺は卓の眼差しをじっと睨み付けたまま、口元を歪ませて笑ってみせた。ようやく自らが置かれている状況を理解したのか、慌てて卓が声を張り上げる。

「て、てめぇら、取り乱すんじゃねぇよ! 俺達がやった訳じゃない! コイツが勝手に飛び降りるんだ!」

 結局、お前は一人では何も出来ない意気地なしだ。そうやって取り巻き立ちの後ろ盾が無ければ何も出来ないのだな。惨めだな。憐れだな。滑稽で、可笑しくて……途方も無く可哀想だな。お前に従う奴なんか、誰も居ないではないか? だから俺はさらに追い討ちを掛けてやった。

「声、震えているぞ?」

「だ、黙れ! 黙れっ! 黙れっ!」

 目を見開き、酷く動揺した声が空しく響き渡った。一致団結して盛り上がった次は、我が身の保身か。人殺しに加担した――なんて騒がれたら、これからの輝かしい未来に傷が付くことになるだろうからな。本当に人は救いようの無い生き物だ。無能なクセに無駄な所だけは打算的だ。

「も、もう、止めようよ! こんなの……こんなの……ううっ、わああああっ!」

 不意に泣き出す女子生徒の姿が見えた。残念だったな。

「今更いい子ぶるなよ。お前ら皆、地獄に叩き落してやるよ。ここにいる連中は、皆同罪だ。罪名は――殺人罪だ!」

 殺人罪……俺の言葉に、ようやく現実を理解したのか皆一斉に、今更ながらに青褪めていた。だが、もう遅い。お前達は全員「人殺し」になるんだ。被害者になんかさせない。全員、加害者にしてやる。連帯責任だ。ざまぁみろ。

「こ、小太郎! あ、謝れば、許してやらないことも無いんだぜ?」

 引きつった様な笑いを浮かべながら、大きく手を広げる卓の姿。夕日に照らされて赤々と燃え上がって見えた。

 怒りという感情は限界を超えると、こんなにも穏やかな気分になれるものらしい。道化のような振る舞いで、今更機嫌を取ろうなど笑止千万。

「……どう足掻いても、お前は人殺しだ。それじゃあ、せいぜい達者で暮らせよ」

 追い討ちを掛けるつもりで、俺は口元を大きく歪ませながら笑ってやった。

「そうだ。いいことを思い付いた……俺が死んだ時間に、お前達を一人ずつ道連れにしてやろう。せいぜい恐怖に怯えながら自分の番を待て。じゃあな」

 あの時……俺は怒りに我を忘れ、恐怖すらも忘れ、本気で地面を蹴り上げた。確かに、屋上から舞い上がった。地上五階。落ちれば即死だろう。痛みを感じる前に死んでいただろう。ぐしゃっという音を立てて、恐らく、手足はあり得ない方向に曲がり、血を撒き散らした肉塊となっていたのだろう。

「うわあーーっ!」

「いやああーーっ!」

「コターーっ! 嫌だよ、ぼくを独りにしないでよーーっ!」

 皆の悲鳴が聞こえたような気がする。それから……輝の悲痛な叫び声も。

 地面に向って急速に落下しながら、俺は妙な映像を見ていた気がする。

 何時も一緒に過ごした輝の笑顔。親父と一緒に足腰を鍛えるために毎朝走った清水寺への参道。お袋に手を引かれながら買い物に出掛けた錦市場……。ああ、短い人生だったな。もっと……生きたかったな……。馬鹿だな、俺……飛び降りてから後悔しても遅いと言うのに……。

 だが、不意に何者かに持ち上げられる感覚を覚えた。落下しようとする直前に、誰かに手を強く引っ張られた。いや、引き上げられたと言った方が適切であろう。

 次に気が付いた時に俺は屋上に座り込んでいた。突然の出来事に、蜘蛛の子を散らしたように、皆一斉に逃げ去ってゆくのが見えた。一瞬、腰を抜かしたかのようにへたりこんだ輝の頬を涙が伝った。結局のところ、俺は死ぬことができなかったのか……。

◆◆◆4◆◆◆

 翌日の朝、言葉に出来ない想いを抱いたまま学校に向かった。微かに落ちる雨粒。どんよりと濁った鈍色の空。すれ違う級友達は誰も声を掛けてくれない。皆、ヒソヒソ何かを囁き合いながら過ぎ去るばかりだった。静かな嫌がらせ。空虚な心で歩き続けた。

 不意に足が止まる。信号が青になったのにも関わらず、どうしても足が動かない。変わりに足元に落ちる雫。涙? 俺は泣いているのか?

(意気地無し……)

 そう。ほんの少しだけ勇気が足りなかっただけだ。鬼として生きていくだけの覚悟が無かった。ただそれだけのことだった。情け無い話だ。必死の覚悟は、どういう訳か「無かったこと」にされていた。だからこそ学校には行きたくなかった。行けばどんな目に遭うかは容易に想像ができた。輝のことを考えれば心配で仕方が無かった。だけど俺は勇気を持てなかった。死に損ないが今更どの面引っさげて皆の前に顔を出せば良い? 死を覚悟していた。確信していた。だから、あれだけの「勇気」が持てた。在り得ないほどに強気になっていた。今の自分は臆病者だ。死のうと覚悟したクセに死ねなかった。生きていることの有りがたみを実感している。馬鹿は俺か……。でも、実際の所、俺は昨日死んだ。死んだ人が皆の前に姿を現してはいけない。怖がらせてしまうから。いや……全部嘘だな。もう、これ以上傷付くのは嫌だから。痛みを知ってしまった。もう、どんなに小さな傷でも、のたうち回らずには居られない程に痛むだろう。怖かった。傷付くことが。だから逃げ出した。この場にいることが居た堪れなくなった。恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。昨日の「勇気」を、少しでも持てていたならば良かったのに。そんなことを考えていた。

 気が付くと俺は走っていた。前も見ずに、ただ、ひたすら走り続けていた。息が切れても、人にぶつかっても、それでも走り続けた。走って、走って、とにかく走り続けた。

 不意に響き渡る急ブレーキの音。何が起きたのか慌てて周囲を見渡す。

(赤信号?)

「馬鹿野郎っ! 死にてぇのかっ!」

 柄の悪そうななトラックの運転手が窓から身を乗り出す。ついでに顔を真っ赤にしながら、俺に罵声を浴びせた。

「……フン。偉そうに。俺をひき殺せば、お前は問答無用に犯罪者だ。殺人者だ。ざまぁみろ」

 多分、無表情だったと思う。台詞を棒読みするみたいな口調だった気がする。トラックの運転手は何かを言うかのように口をパクパクさせると、幽霊でも見たような顔で、慌てて逃げていった。周囲の連中がヒソヒソ声で何かを言っている声が聞こえる。

「俺は見世物じゃ無い。文句があるなら面と向って言えよ。オトナのクセに意気地無し共め」

(意気地無しは俺か……)

 赤信号を俺は平気で横切った。慌てて急ブレーキを踏む音が響き渡る。ヘタクソ共め。うまく跳ね飛ばせよ。苦しまないで済むように殺せよ。どうせ……俺なんか、生きていたって……。

 逃げたかった……。現実から。どうして、昨日、あんなことをしてしまったのか? 今更になって後悔していた。馬鹿は俺自身じゃないか……。四条通の賑わいの中を、俺は一人寂しく歩き続けていた。

(見捨てれば良かったんだ……)

 そうさ。あの時、泣き喚く輝を寒々しい目で見下していれば、こんな想いはしなかったのかも知れない。もしかすると、一緒になって、面白がって輝に悪戯をしていたのかも知れない。

(違う! そんなの……俺じゃない!)

 綺麗ごと言うなよ。結局、一人が寂しくて仕方が無いくせに。臆病なんだ。弱虫なんだ。本当は、物凄く泣き虫なクセに、必死で泣くものかと強がっているだけの嘘吐きなんだ。

「俺は……何て嫌な奴なのだろう」

 その時であった。一瞬、視界が回転するような不思議な感覚を覚えた。神社の鈴緒を馬鹿みたいに振り回したような酷い音が響き渡る。無数の鈴が一斉に鳴り響くような振動が体中に伝わり、骨が粉々に砕け散る様な衝撃を感じていた。

「止めろ! 止めてくれ……ああ、ああっ! 止めろっーー!」

 凄まじい衝撃に体中が引き裂かれそうな痛みを感じていた。不意に魂が抜けるような、眩暈の様な感覚を覚え、体中の力が抜けてゆく。堪えられなくなった俺は膝から崩れ落ちた。

「え?」

 ふと、周囲を見渡せば一面木々に包まれた光景に変わっていた。どこかの森の中。新緑の青々とした木々の香り。風が吹き抜ける。木々の葉が擦れ合い、さざ波の様な音色が響き渡る。ピチャン。不意に何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が響き渡る。その音色を待ち侘びたかの様に周囲の光景は目まぐるしく移り変わる。木々は緩やかに黄色や赤に移り変わる。ピチャン。何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が再び響き渡る。まだまだ変化は続く。やがてハラハラと舞い落ちる落ち葉。何時しか雪が舞い始める。冷たい雪。白い雪。舞い散る雪。涙の様に舞い落ちる冷たい雪。空から静かに舞い落ちる、ほたるの様な淡い色合いの雪……辺り一面、銀世界に変わっていた。ピチャン。何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が再び響き渡る。

(い、一体どうなっている? 狐か狸に化かされているのか?)

 気が付いた時には鞍馬の街並みを歩んでいた。雨。梅雨の季節特有のまとわり着く様な蒸し暑さ。緩やかな坂道。湿気を孕んだ土と石の香りが漂う坂道。人気の無い古びた民家が佇む街並み。サラサラと川の流れる音と、繰り返される蝉の鳴き声だけが響き渡る。振り返れば木々に包まれた山の新緑が目に入った。山はただ静かに、意気地無しの俺を嘲笑うかの様に雄大な姿を誇示していた。俺に比べたらお前はなんと小さいのか? そう揶揄されている様な気がした。

 何で鞍馬にいるのだろう? 考えてみたが判る訳も無い。何故俺は此処にいるのだろうか? 考えた瞬間、辺りは唐突な静けさに包まれた。何の音も聞こえなくなった。

「そっか。俺、本当に独りぼっちになっちゃったのか。そっか……独り、なんだな……」

 哀しかった。もう、誰からも相手にされなくなったことが。生きていても、死んでいるのと変わらない事実が耐えられなかった。感情を棄て気丈に振舞えれば良かった。死人らしく、体温も感情も言葉も、何もかも失ってしまえば良かった。でも……皆の前でうっかり涙を流したら、もう、止められなくなってしまっただろう。

『ごめんね、ごめんね、ぼくの……ぼくのせいで、コタは!』

 赤々と燃え盛る炎の様な夕日の中、涙でぐしゃぐしゃになった輝の顔が脳裏を過ぎる。輝は俺と共に歩んでくれると言ってくれた。決して一人にはさせないと言った。人の去った屋上で、俺に力一杯抱き付きながら、輝は激しく嗚咽していた。恐らく無表情のまま俺は輝のさわり心地の良い髪を撫でていた。自分のせいで、俺が独りぼっちになったと思ったのだろう。一連の出来事のキッカケとなった以上、責任を取ろうというつもりなのだろう。確かに俺は輝を守りたかったし、だからこそ卓のことが許せなかった。見殺しにした連中も、あの無能教師松尾も、皆、皆、許せなかった!

 本当に誰もいないのだろうか? 本当に俺は孤立無援になってしまったのだろうか? 俺は唇をかみ締めながら道を歩んだ。ちっぽけなポストは雨に濡れて哀しそうに佇んでいた。そっと手を触れれば、雨に濡れたポストは酷く冷たかった。

(まるで死体だな……お前も俺と同じ、独りぼっちなんだな……)

 佇む電柱の灰色と駆け抜ける電線が妙に寂しく思えた。古びた木造の家々が立ち並ぶ細い街道。人通りは無かった。雨は音も立てずにシトシト降り続けていた。誰もいない静かな街並みは懐かしさと……それから、途方も無い「優しさ」に満ちていた。雨音に混じる香り。それは何処かで感じたことのある香りだった。青々と茂る木々が放つ柔らかな香り。それから、雨に濡れた道路から漂う湿った土と石の香り。優しい香り。懐かしい香り。もしかしたら……昨日に戻れる。そんな哀しい希望に満ちた香り。

「帰っておいで?」

 優しい声が聞こえた気がした。

(駄目だ……止めてくれ……今、誰かに、優しくなんかされたら、俺は……俺は!)

 不意に涙が一粒、零れ落ちた。ピチャン。涙が水溜りに落ちる涼やかな音色が響き渡った。

「どうして……」

 不意に雨足が強まる。アスファルトの道路に叩き付けながら響き渡る雨音。そっと空を見上げれば大粒の雨が一斉に降り注いだ。不意に俺の頬に雨粒が落ちた。そのまま静かに頬を伝う。これなら涙か雨粒か判らない。ザラザラと木々の葉を叩き付ける豪快な音が響き渡る。カンカンカンカン。雨音がトタン屋根を叩き付ける無機質な音が響き渡る。

 歯が割れる程に食いしばっていた。力の限り握り締めた指の中で、掌に爪が突き刺さる。恐らく、血が滲んでいただろう。酷く染みる。雨に濡れた掌から赤い雫が零れ落ちる。それでもなお、歯を食いしばった。割れても良い。それでも良い。必死で抵抗したさ。抑えようとしたさ。だけど、もう、駄目だ。抑え切れなかった……。そっと掌を開く。恐る恐る開く……掌に浮かんだ小さな三日月形。じわじわと血が滲んでいた。雨に濡れた瞬間、驚くほど鮮烈な痛みを感じ、体中の毛穴が開く感覚を覚えた。昨日、あの瞬間には感じることの無かった酷い痛みだった。

 ああ、そっか。俺、生きているんだ。俺は生きている……生きているのだ。生きているのに……それなのに……!

「どうして俺だけが悪者にされなければいけないんだよ! どうして! どうして!」

 決壊したダムのように、涙が止まらなかった。慰めてくれる優しい木々の香りに包まれて、どうしようもなく、感情を抑えられなくなった。涙は止まらない。止め処なく溢れてくる。

 見下すように嘲笑う卓の顔。申し訳無さそうに俺を見上げた輝の顔。何か汚らしい物を見るかのように俺を見ていた松尾。ああ、そうさ。松尾、俺は忘れない……去り際にお前が放った暴言。「面倒なことするんじゃねぇよ、このクズが……」。教育委員会に密告してやる。そうだな。ありもしない罪もついでに、でっちあげてくれる。確か幼い子供が居た筈だったな。不倫疑惑でも垂れ流してくれようか? 楽しみだな、お前の末路が。評判の悪いお前の未来、確実に破滅に陥れてくれる。

 皆の顔が浮かんでは消えていった。ただ、悔しくて、悔しくて、悔しくて、堪らなかった。

「悪いのは俺じゃない。卓なのに! ちくしょう! ちくしょう! どうして! どうしてこんなことになるんだよっ!? ううっ……ううっ……うわあああああっ!」

 気が付くと、俺は雨で濡れたアスファルトを何度も、何度も殴り続けていた。痛かった……段々とアスファルトに赤い物が混じり始めた。多分、指の皮は剥けていたのだと思う。鋭い痛みが駆け抜ける。それでも俺は殴り続けていた。このまま、ぐちゃぐちゃの肉片になってしまえばいい。そう自分を呪いながら。

「ううっ……痛いよ……痛いよ……」

 止せば良いのに、俺は自分の手を見てしまった。

「ひ、ひぃっ!」

 酷く傷だらけになっていた。ベロンと剥けた皮。抉れた肉の隙間から湧き水の様に滲む血。足元に赤い染みが広がる。死にたいと願っていたのに、こんなにも痛いとは思わなかった。ほんの少し、ほんの少しだけ、指先が抉れただけだと言うのに、皮がめくれただけだと言うのに。こんなちっぽけな傷なのに堪えられない程に痛んだ。一体、死ぬというのは、どれ程までに痛いことなのだろうか? そうさ……小さな、小さな、針の先程のささくれを剥き過ぎただけでも声が漏れる程の痛みを感じるというのに……渇いた唇の皮を、羽蟻の羽程の皮を剥き過ぎただけでも体中の毛穴が開く程に痛みを感じるというのに……死とは、どれ程の痛みなのだろうか? 血に塗れた拳。屋上から見渡した妙に眺めの良かった景色。勢いに身を任せて飛び降りたこと。一気に迫ってくる地面。死の恐怖。考えれば考えるほどに、恐ろしくて、恐ろしくて、恐怖に耐えられなくなっていた。

「う……ううっ……うわあああーーーっ!」

 人は身勝手な生き物だ。皆、卓のことを憎んでいた。だが、自らが手を汚す立場には立とうとしない。自らに火の粉が降り掛かることは何としてでも避けようとする。そのくせ誰かが、その「調和」を乱そうとすると一斉に排斥行動に移る。米粒ほどの幸せのためならば、自分以外の誰かが死ぬことなどどうでも良くなる。それが人という生き物なのだと理解した。

「みんな、みんな卑怯だ! 自分を守るためならば、平気で人を見殺しに出来るのか!?」

 もう、誰も俺の声に耳を貸そうとはしないだろう。今や、俺は卓以上に憎まれているのだから。

 俺は愚かだった。皆から一斉に、憎しみの目を向けられることの辛さを知らなかった……。知っていたら、きっとためらっただろう。輝が陵辱されている光景と、自分自身の保身を天秤に掛けてしまっただろう。俺も卑怯者だ……どうしようも無い程に卑怯者だ。

『人殺しの小太郎は、死ね!』

『死ね! 死ね! 死ね!』

『みんな良く見ておけよ。小太郎が鳥になって、大空に羽ばたく瞬間を!』

『早く飛び降りろよ、この人殺しっ!』

『ははははは! おい、いいザマだな? 早く死ねよ。もう、お前の居る場所なんか無いんだからよ!』

『面倒なことするんじゃねぇよ、このクズが……』

『コターーっ! 嫌だよ、ぼくを独りにしないでよーーっ!』

 死を求めるシュプレヒコールを背に受けた夕焼け空。本気で死ぬつもりだったのに、生き延びてしまった事実が、途方も無く憐れに思えて、涙が止まらなかった。

 判っていた。誰も泣いてくれないなら、せめて……俺だけでも、俺のために泣きたかった。悔しくて、悔しくて仕方が無かった。悔しさは、すぐに憎しみに変わった。殺意に変わった。殺したくて仕方が無かった。卓を、この手で殺さない限り、憎しみの炎が消えることは無いのだろう。

「ちくしょうーーっ! 卓、何時かお前を絶対に殺してやる! 殺す! 殺す! 殺す! 絶対に殺してやるーーっ!」

 不意にすぐ後ろから、カラスが鳴く声が聞こえた。

「ひっ!?」

 一気に現実に引き戻された。静寂の最中に響き渡ったカラスの声は予想以上に大きく、思わず腰を抜かしそうになってしまった。慌てて振り返れば、ポストに佇む大きなカラスは鋭い眼差しでこちらを見つめている。あまりにも大きな声で叫んだから、驚かせてしまったのだろうか? カラスはただ静かに俺を見つめていた。深く、澄んだ瞳。全てを見透かされそうな瞳であった。

 ふと、鞍馬の地に伝わる伝承が頭を過ぎる。カラス天狗……鞍馬山に棲むとされている異形なる存在。大きな翼を背に生やし、数多の術を使いこなす者達。牛若丸に剣術を指南したとされる山に棲む者達。

 ああ、天狗だろうが、物の怪だろうが、妖怪変化だろうが、化け物だろうが、この際誰でもいい! 人で無くても、異形なる存在でも、俺の傍にいてくれるならば、誰だっていいさ! もう、一人は耐えられない! 孤独は辛すぎる! 寂しいんだよ! 哀しいんだよ! 寒くて、悔しくて、痛くて、切なくて……耐えられないんだよ……。頼むよ、俺に一言、言ってくれよ。お前は生きていても良いんだよって!

 心の中で叫んだ。ありったけの力を篭めて叫んだ。

「ならば、共に歩むか?」

「え?」

 それは突然の出来事であった。不意に周囲が一気に静まり返った。雨粒が木々の葉を揺らす音も、トタン屋根を叩く音も。雨の音も、風が木々の葉を揺らす音も、川が流れる音も、ありとあらゆる音が消え失せた。雨はなおも激しく降り続けている。音がしない訳が無い。それに今しがた耳元で聞こえた声は、一体誰の声なのだ?

 唐突に現実に引き戻され、背筋に冷たい物が走る。見えない存在への恐怖。俺の恐怖心に呼応するかのように立ち込める霧。一体何が起きたのか理解出来なかった。見慣れた景色のはずなのに、まるで違う景色に思えた。霧は急速に深まる。もはや一寸先さえ見えない。白一色の世界となっていた。

 何時の間にかカラスは姿を消していた。代わりに背後に人の気配を感じる。俺は恐ろしくて振り返ることが出来なかった。確かに何者かが後ろに佇んでいる。

「お主、独りぼっちなのか?」

 体中の毛穴が開いた気がした。頭から氷水を浴びせ掛けられたかのような感覚を覚えた。

「お主、名は何と申すか?」

 聞き慣れない古風な口調で喋る何者かが背後にいる。だが不思議と恐怖は無かった。得体の知れない何者かが俺に興味を示している様子が伝わって来る。可笑しな気分だった。恐怖心よりも、好奇心が勝ろうとしていた。

 聞いたことがある。名前とは最も短き呪いの言葉と。相手を特定出来るもの。だから名を知ることが出来れば、あらゆる呪いは成り立つとさえ聞いたことがある。ならば答えてみようでは無いか。どうせ、一度は棄てた命。楽に死ねるならば、それも悪くない。

「お、俺の名は小太郎だ……お、お前は何者だ?」

「ふむ。お主の名は小太郎か。フフ、そう怖がるで無い。我はお主を食ったりはせぬ」

 可笑しそうにケラケラ笑う声に、何だか拍子抜けしていた。不思議と心が揺らぐ感覚を覚えていた。確かに得体の知れない相手に恐怖心を覚えてはいたが、それ以上に好奇心の方が勝っていた。この声の主は、恐らく……人ならざる存在なのだろう。それでも良かった。今はただ温もりが欲しかった。孤独には耐えられそうも無かったのだから。

 俺は振り返った。濃い霧に包まれて、はっきりと姿は確認できなかったが、確かに何者かの存在はあった。そいつは静かに手を差し出した。思わず反射的に俺は手を握り返した。とても温かな手だった。

「良しなに頼むぞ、小太郎よ」

「ああ。お前、名前は?」

「我か? 我の名は――だ。」

 不思議な存在だった。握り合った手の感触は確かに残っていた。だが、どうしても思い出すことの出来ない、その声、その姿。そして……その名も。どうしてなのだろうか?

「お主は自分の起こした行動を悔やんでおるのか?」

「そ……そうかも知れない」

「小太郎よ、お主は因果応報という言葉を知っておるか? 善き行いには善き結果が訪れる。だが、悪しき行いには悪しき結果しか訪れぬ。案ずるな。あの者には、ろくな顛末は訪れやせぬ」

 本当に不思議な少年だった。俺は心の中を見透かされて、少し恥ずかしい気持ちになった。何だか、この少年には全てを見透かされそうな気がした。でも、不思議と嫌な気分では無かった。人の心を見透かすなんて普通の人には真似のできない芸当の持ち主なのだから。

 戸惑う俺を見ながら、そいつは腕組みしながら微笑んでいた。

「小太郎よ。お主、大原の地は好きか? 我の遊び場所よ」

 大原……一面に広がる水田の光景。段々畑の様相を呈する水田の光景。古めかしい民家の立ち並ぶ、心安らぐ田舎の風景。ノスタルジックな大原小中学校を後にして歩んだ先に佇む寂光院。幼い頃に何度も両親に連れて行って貰った場所。川の流れる音。山に囲まれた水田。瑞々しい木々の香りが満ちる場所。風が吹けば稲の葉がサラサラと波の様な音色を奏でてくれる。懐かしい山里。心を落ち着かせてくれる場所……この少年とは気が合いそうだ。好きな場所が一致するというのは、何だか秘密を分かち合えたような感じで心地良く思えた。

 不意に、少年が俺の腕を掴む。

「では、参ろうぞ」

「え? え? ちょ、ちょっと……」

「憎しみの心はお主の身を蝕むだけで、何の救いにもならぬ。案ずるな。心が荒れ狂うならば、沈めてやれば良い。共に行こうぞ、大原の地へ」

「ま、待てって……」

「不安に思うことなぞ何も無い。さぁ、我と共に木々に抱かれ、哀しみに満ちた心を癒してやるが良かろう」

 動揺する俺を後目に、少年は軽やかに地面を蹴ると一気に舞い上がった。

 衝撃的な光景だった。鳥という生き物は、日々こういう視点で街並みを見下ろしているのかと実感していた。遠ざかってゆく鞍馬の街並み。ゆっくりと体が浮かび上がってゆく感覚を覚えていた。

「そ、空を飛んでいる!?」

「ほれ、しっかりと掴まっておれ。この高さから落ちれば命は無いぞ?」

 本当に不思議な少年だった。そう、その姿も、声も、名も思い出せなかったが……少年からは木の香りがした。寺に漂う、厳かな線香のような香りだった。気高さと温かさを称えた良い香り……後に、この香りの正体を知ることになる。白檀の香り……俺と、この不思議な少年を繋ぎ止める香り。だから忘れないように必死に記憶に留めた。せめて匂いだけでも手掛かりにしたかったから……忘れないさ。出会いの地は鞍馬。共に歩んだのは大原の地。そして、三千院へと向かう途中の『展望台』と地元の人々が呼ぶ場所に佇み、遠くを見ていた時に投げ掛けてくれた言葉。サラサラと波の様な音色を奏でる稲の葉を見つめながら呟いた言葉。

『我とトモダチになってくれぬか?』

『俺と……トモダチになってくれるのか?』

 ああ、俺とお前はトモダチだ……ずっと、ずっと、トモダチでいてくれよな?

◆◆◆5◆◆◆

 何時の間に眠ってしまったのだろうか? 随分と遠い過去の情景を夢に見ていた気がする。寝汗が酷い。暑さで相当汗を掻いた様子だ。おかげで喉がカラカラだ。ついでに肌に張り付くシャツの感覚の不快さに身震いさせられる。

 俺は起き上がり、枕元に置かれた時計を手に取った。もう夕方だ。随分と長い時間眠っていたらしい。窓に叩き付ける雨音が空虚な部屋に響き渡る。昼前にはシトシトと降っていた雨は、何時の間にか大荒れの様相を呈していた。風も出てきたのか、窓がガタガタと鳴る。梅雨の終わりを告げるかのような激しい大雨。土砂降り。京都市内全域に出された大雨洪水暴風雷警報。随分と豪勢な警報が出されたものだ。今頃は鴨川も相当に荒れている頃だろう。昼過ぎに俺達、全校生徒を帰宅させた学校の判断は中々に懸命であった。窓に叩き付ける雨音が激しく響き渡る。

「それにしても、酷い雨だな……」

 思わず窓から外を覗けば既に道路は水浸しで、川の流れを思わせる様相を呈していた。雨樋はどこかが壊れているらしく、毀れ落ちる雨音が屋根を打ち鳴らす規則正しい音色が響き渡る。強い風。叩き付ける雨。遠くの方で雷が唸る音まで聞こえてくる。やれやれ……梅雨の終わりにしては、随分と派手な宴だ。

 不意に首筋に妙な寒気を感じた。おかしな話だ。もうじき梅雨明けだというのに、真冬のような冷気を感じていた。

(隙間風? いや、仮に隙間風でも妙だ……)

 嫌な感覚だ。取り敢えず明かりをつけよう。薄暗い部屋だからこそ不気味さを感じるのかも知れない。俺は明かりの紐を引いた。だが、明かりはつかない。

(何だ? 電球が切れたのか?)

 何度引いても反応は無い。試しに廊下にある電灯のスイッチを押してみた。階段を照らす電灯もつかない。停電? それとも、ブレーカーが落ちているのか?

(これだけの荒れ模様ならば、停電が起きても不思議では無いな)

 再び部屋に戻ろうとした俺の頬を、何かがふわりと掠めていった。ひんやりとした青白い光を放つ物。慌てて振り返れば、先ほどまでは居るはずの無かった青白いほたるが部屋を舞っている。

(こいつら、どこから入ったんだ!?)

 冷たい光を放ちながら舞うほたる……ほたる?

(違う!……ほたるは、こんな青白い光を放たない!)

 では、一体、これは何なのか? ますます異様な冷気を感じる。得体の知れない存在への恐怖で鼓動が高鳴る。何故か首を絞められているかのような息苦しさを覚えていた。

 不意に何処からか奇妙な歌声が聞こえてくる。あまりにも微かな声で、何を言っているのか聞き取れなかったが、段々と近付いているように思えた。それに呼応するかのように声も大きくなり、何を言っているかが聞き取れるようになっていた。無数の男女の歌声。子供の声から、老人の声まで様々な声が混じっている。何とも言えない不気味な歌声であった。

『とおりゃんせ とおりゃんせ……ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ……』

 とおりゃんせ。聞こえてきた唄はとおりゃんせであった。気味の悪い旋律が響き渡る。

『ちっと通して 下しゃんせ……御用のないもの 通しゃせぬ……』

 先刻まで灯ることの無かった部屋の電灯が静かに明滅する。やがて消え往く灯火のように静かに潰えた。夕暮れ時の薄暗い部屋。響き渡るとおりゃんせの歌声。何時の間にか俺の周囲にもひんやりとした光を放つ無数のほたるが舞っていた。まるで俺を取り囲むかのように。

(い、一体何が起きている!?)

『この子の七つの お祝いに……お札を納めに 参ります』

 地の底から響き渡るような歌声だった。抑揚の無い歌声ではあったが押し寄せる波の様な憎悪が感じられた。背筋に冷たい物が走る。歌声は確実にこちらに近付いている。

 何かの気配を感じ、慌てて窓に駆け寄る。家を包み込むような異様な気配を感じていた。窓の外に俺は信じられない物を見た。次々と家に向かうように列を成して歩む者達……妙に古めかしい装いの者達がゆっくりと歩み寄ってくる。どう考えても今の時代の人々の服装では無かった。それに何故、彼らは裸足なのだ? 肌の色も可笑しい……青みを帯びた灰色の肌の人々。

(……生きている人では無い?)

 皆口々にとおりゃんせを唄いながら近寄ってくる。あまりにも異様な光景に、俺は声を出すことも、逃げ出すことも出来なかった。普通では無い……この土砂降りの中、とおりゃんせを唄いながら裸足で歩む者達。部屋を舞う無数のほたる。一体何がどうなっているのか理解不能だった。不意に一際強い風が吹き、窓がカタカタと鳴った瞬間……奴等が一斉に顔を挙げた。

『行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ!』

「なっ!?」

 般若の能面であった。皆同じ顔をしていた。異様な光景であった。般若の能面をつけた者達。生きている人では無かった。青白い灰色の体……とても、生きている人には見えなかった。能面の者達は叩き付ける様な土砂降りの中で、とおりゃんせを唄っていた。地の底から響き渡るような、深く、暗く、冷たい憎悪に満ちた声で。

 あまりの恐怖で身動きも取れなかった。口の中が異様に渇く不快な感覚。心臓が痛くなる程に、脈拍が上がっている。異様な光景。雨足が一層強まる。現実の中に唐突に現れた非現実。般若の能面を被った者達は、微動だにせずに唄い続けている。相変わらず抑揚の無い声で。隙間風のような冷たい風がどこからか吹き込んでくる。窓は完全に閉まっているはずなのに。それに、窓に叩き付ける程に激しく降る雨の中、とおりゃんせの歌声だけが鮮明に聞こえる。在り得ない事だ。

 恐怖のあまりなのか、一瞬、視界が揺らぐ感覚を覚えた。不意に身を震わす程の振動を感じ取った。水気を孕んだ冷たい空気が頬を撫でる。

(雨音? いや……雨音は、こんな轟音では無い)

 滝であった。四方を滝に囲まれた見覚えの無い本堂。鮮やかな赤と金色に彩られた色彩鮮やかな寺院。細かな意匠の凝らされた天井には大きな曼荼羅が描かれていた。揺らめく蝋燭の灯火の中、荘厳なる黄金の大日如来像が静かに佇む。天井まで届かんばかりの大きな像であった。唐突に蝋燭の炎が激しく燃え上がり、大日如来像が煌々と浮かび上がる。静寂に包まれた寺院には滝が流れ落ちる轟音だけが響き渡る。水気を孕んだ涼やかな風が吹けば、周囲に飾り付けられた鈴が様々な音色を奏でる。一体、ここは何処なのか? 見知らぬ場所であった。いや、この世に存在している場所なのであろうか? あまりにも幻想的過ぎる情景に戸惑いを隠し切れなかった。再び風が吹けば、一斉に鈴が鳴り響く。

 不意に耳元で人の息遣いが聞こえた気がした。いや、気のせいでは無かった。数え切れない程の殺気に満ちた視線を感じ、慌てて振り返った。気が付けば、既に能面の者達に囲まれていた。

「ひっ!」

 驚きのあまり尻餅をついていた。目の前には無数の般若の面。青白い人々が一斉に俺の顔を覗き込んでいたのだから。吐く息も白くなる程の凍て付いた冷気を放つ者達。やがて、ゆっくりと彼らは離れると、入れ替わる様に青い僧衣に身を包んだ者が煙の様に浮かび上がった。唐突に現れた青い僧衣に身を包んだ者が静かに口を開く。不思議なことに顔は暗闇に包まれたように、何も見えなかった。虚空の闇。奈落の底。深い、深い深淵を見た気がした。知ろうなどと思ってはいけない。青い僧衣に身を包んだ者がほくそ笑むのが見えた気がしたから。

『……ようやく見つけたぞ、罪人よ』

 耳元で囁く声が聞こえる。見下す様な、嘲笑するかの様な、不愉快な含みを帯びた声。

『自らが犯した罪から目を背け、逃げ続けた者……だが、我が目に留まった以上は逃しやせぬ』

 声を押し殺すように笑っていた。表情が見えないのに、凍り付くような殺気を感じていた。一体、この青い僧衣に身を包んだ者は何者なのだろうか? 動揺する俺に構うこと無く、青い僧衣に身を包んだ者はゆらゆらと蜃気楼の様に佇んでいた。

『さぁ、忌まわしき過去との邂逅の時よ……』

 そっと伸ばされた大きな手。俺の頬を撫でる濡れた手は氷の様に冷たかった。

「あ……ああ……!」

 駄目だ……止めろ!

 封印したはずの記憶が蘇る。

 あれは梅雨の終わり。漆黒の闇夜のこと。叩き付ける様な雨の貴船神社は奥の院……酷く不細工な藁人形を片手に、ご神木に必死で釘を打ち込んだ記憶。死ね、死ね、死ね! 願いを篭めて釘を打ち込んだ記憶。非力な子供に過ぎなかった自分には、他に思い付く手段なんて無かった。ただ、恨みを晴らしたかった。自分の手で殺せないならば、誰かの力を借りてでも良かった。ただ、ただ、卓に復讐してやりたかった。その一心で俺は雨に濡れながら一心不乱に釘を打ち続けた。

「死ねっ……死ねっ! お前は……苦しんで、のた打ち回って、精一杯の後悔をしながら死ぬんだ! 泣いても、喚いても、絶対に許さないっ!」

 酷く降り頻る雨に髪も、服も、何もかもが濡れながら、俺は自分の惨めさを憎んでいた。いや、それもこれも、何もかもは卓のせいだ。こんなにも惨めで、辛く、苦しく、哀しい想いをさせられたのは、全部、全て、卓のせいだ。

「死ねっ……死ねっ!……死ねーーーっ!」

 判っていた。そんなことをしても、何の救いにもならないことも。後ろ向き過ぎる考えの果てに、希望の道が切り拓かれること等在り得ないこと位、馬鹿な俺でも十二分に理解はしていた。一体、俺は何をしているのだろうか? 惨めで、情けなくて、途方も無い絶望に包まれていた。

 あいつのせいで俺は引き篭もりになった。家から出られなくなった……学校に行くことの恐怖心に襲われて、部屋から出ると真冬の様な冷気に体中を切り刻まれるような感覚を覚えずにいられなかった。どうにか足を踏み出そうとすると、突然、足元が消える。あの日、あの時、目の当たりにした光景……屋上から飛び降りる瞬間に見た光景が蘇る。転落する!

「うわあああーーっ! 嫌だっ! 俺は……俺は死にたく無いっ!」

 馬鹿だと思う。一体どうやったら、家の廊下から奈落の底に転落することが出来るというのか? だが、頭では判っていても体が付いて来なかった。その度に、俺はひたすら取り乱し、時に発狂し、時に泣き喚きながら、頭を柱に叩き付け続けたこともあった。その結果、酷く割れた傷口から血が流れ出し、廊下が血の海に成り掛けたこともあった……。

「そっか。俺はポンコツになってしまったのか。じゃあ、仕方ないよな」

 悔しくて、悔しくて仕方が無かった。我に返って俺は泣いた。声が枯れるまで泣いた。惨め過ぎる自分が哀しくて、ただ途方もなく哀しくて。

 そんな俺を気遣い、輝は何時も俺の傍にいてくれた。人形の様に感情を失った俺を、輝は必死に元気付けようとしてくれた。輝は不器用なりに色々な本を読み漁り、あるいは様々なうわさ話をかき集めては、面白おかしく俺に聞かせてくれた。嬉しかった……同時に、途方も無く惨めな自分が許せなかった。

「全部、あいつのせいだ……何故、俺がこんな目に遭っているのにあいつは生きている? 不公平じゃないか……因果応報だろう? 罪は償わなければならないだろう?」

 俺はありったけの憎悪を織り込むように、釘を打ち続けた。異様な姿だったと思う。一心に釘を打ち続けた姿は。思い出したくも無い光景だった。

「苦しめっ! 苦しめっ! 今際の瞬間まで、俺に謝りつづけろっ! あははははは! あーっはっはっはっはっは!」

 だが卓は死ななかった。代わりに松尾が死んだ。学校の屋上から飛び降りて死んだ。ある雨の降る晩のこと。梅雨の終わりの妙に生暖かい夜のこと。それは酷く雨が降った夜。『私は鳥になる』と、意味不明な書き置きだけを残して、松尾が死んだ。

(お、俺は……)

『あなたが殺したのよ……ねぇ、判る? あたしは駄目な教師だったかも知れないけれど、これでも母親だったのよ? 幼い子供を残して逝くことの意味、あなたに判る? ねぇ、死ぬって……とても痛いのよ。とても、とても痛くて、痛くて、苦しくて、冷たくて……バラバラになっていく感じなのよ。ねぇ、判る? 想像もつかないでしょう?』

 耳元で聞こえる声には覚えがあった……松尾の声だった。間違える訳が無い。

 気が付けば俺は夕焼け空に萌え上がった小学校の校庭に佇んでいた。嫌だ、見たくない! 必死で目を閉じようとするが、俺の意思とは裏腹に目は閉じられなかった。ついでに首がゆっくりと足元へと向けられる。

「あ……ああっ!」

 俺の足元に横たわる松尾の死体。松尾は長い髪をだらしなく垂らしながら横たわっていた。あの日と同じ燃え上がるような夕焼け空の下。足元には血が付着し、割れた眼鏡。あざとく開かれた口元は不敵に歪みながら赤い血を垂れ流していた。血に塗れ汚らしく張り付いた髪。焦点の定まらぬ瞳はあらぬ虚空を射抜いている。割れた爪。飛び散った靴。あらぬ方向に曲がった四肢。じわじわと血溜りが広がる。空気が漏れるような音を発しながら松尾はほくそ笑んでいた。俺をじっと見上げながら不快な声で笑っていた。血の匂いに混じって酷い悪臭が漂う。潰れた臓器からあふれ出す汚物の異臭なのだろうか? 胃の中の物をぶちまけそうになる程に酷い匂いだった。夏の暑さの中で腐敗し切った生ゴミよりも遥かに酷い匂い。死臭というのはこういう物を示すのか? そこには生ある者が腐り往く匂いが立ち込めていた。

『ふふ……うふふふふ……ねぇ、良く見なさい? 死ぬってね……こういうことなの。良く見なさい? あなたがやったのよ? あなたが私を、こんなにしてしまったのよ? もう戻れないの。どうしてくれるのかしら? うふふふふ』

 無数のほたるたちがジリジリと迫ってくる。体の自由が奪われてゆく。痺れるような鋭い冷気に包まれ、ゆっくりと意識が遠退いてゆくのを感じていた。手足の指先がチリチリと痛みながら凍えてゆくのを感じていた。死ぬというのはこういう感覚なのだろうか? ゆっくりと意識が遠退く。その時だった。想像を絶する光景を目の当たりにした。松尾がゆっくりと立ち上がるのが見えた。あらぬ方向に曲がった足は酷く痙攣しながら、辛うじて支えているように見えた。不気味に笑いながら立ち上がると、突然俺の首を絞めた。細く、冷たい指が首に食い込む。

『お前は私のことを忘れたのか?』

(だ、誰だ、コイツは!?)

 松尾だと思っていたモノは、何時の間にか姿を変えていた。般若の面をつけし者。血の様に真っ赤な衣に身を包んだ姿。氷の様に冷たい指が俺の首に食い込む。

『私はお前の願いを叶えてやったのに……お前は私と同じ孤立無援の存在なのに……共に温め合えると思うておったのに、何故、お前は私のことを覚えてすらいない!?』

 真っ赤な衣に、美しい白い指。女だと思っていたが、その声は明らかに男の声であった。

(な、何を言っているのか、サッパリだ……)

『私はお前の願いを叶えてやったのに……同じ境遇に置かれ、同じように心を痛めた者……ずっと探し続けていた。私の心に共感してくれる存在を……さぁ、こちらに来るが良い。独りは寒かろう? お前も私と同じ、孤立無援の道を歩む者。寂しかろう? 寒かろう? さぁ、私と共に温め合おうでは無いか? どこまでも一緒に生きようでは無いか?』

 怒りに震えた声が聞こえた。俺の首に食い込む指に、さらに凄まじい力が篭められる。首を圧し折る程の力を感じていた。

(は、離せっ! この……化け物が!)

『化け物だと?……お前も私を化け物と呼ぶか!? ああ……お前も私を拒むのか……どうして? どうして私を拒む!? いや……そうか。お前は強がっているのだな? そうか。案ずるな……苦しむことなく、楽にしてやろう。少々痛むかも知れぬが、すぐに楽になる……さぁ、私と共に逝こう! 永遠に終わることの無い宵の極楽へ! お前も私と同じ、情鬼になるのだ!』

(い、息ができないっ!)

 般若の面をつけし者に首を締め付けられ、俺は声も出せなくなっていた。次第に手の指先が痺れ始めていた。苦しみは次第に快楽に変わり始めた。ああ……ようやく、楽になれるのだろうか? ふと空を見上げれば、神々しい彩雲が見えた。丁度、夕立の後に雲間から覗く光のように思えた。不意に般若の面をつけし者の背後に、青い僧衣に身を包んだ者が蜃気楼の如くゆらりと浮かび上がる。

『さぁ、憎悪の能面師よ……この者に宿る情鬼を呼び覚ませ! 我らが願いを成就するために!』

『そうはさせぬ!』

 その時であった。確かに誰かの声が聞こえた。般若の面をつけた者とも、青い僧衣の者とも違う声だった。聞き覚えのある声……その声の主に救われたらしい。不意に、玄関の戸が開く音が聞こえたと思った瞬間、玄関先から間延びした声が聞こえてくる。唐突に糸が切れたかの様に、俺は床に崩れ落ちた。

「ああ、じゃじゃ降りやわ。あら? 小太郎、よう帰っとるん?」

 それは母の声だった。買い物から帰ってきたのだろうか? 一瞬途切れた緊迫感。慌てて窓の外に目をやれば、既に般若の能面を被った者達の姿は無かった。体の自由も戻っていた。見慣れた部屋の光景が広がる。

(い、今のは一体、何だったんだ!?)

 一体何が起きたのか、全く理解できなかった。夢の続きとは、とても思えない光景であった。

 呼吸が苦しい。息をするという、当たり前の行為がこんなにも大変なのだろうか。鼓動が酷い。口がカラカラに渇いている。対照的に背中は嫌な汗でべっとりしていた。首に酷い痛みを感じ、鏡を覗き込んだ俺は息を呑んだ。

(ゆ、夢では無い!?)

 首にくっきりと刻まれた真っ赤な指の跡が残されていた。母が階段を上がってくる声が聞こえる。説明のつかない事態だ。俺は咄嗟にタオルを首に巻いた。

「いやいや、外はえらいこっちゃ。こない天気やさかい、学校もはよ終わったん?」

 母はいつもと変わらぬマイペースな振る舞いを見せる。タオルで髪を拭きながら微笑んだ。

 わざとらしく、髪を拭く素振りを見せながら「ああ……」と応えた。

「どないしはったの? なんや、顔色悪いわ」

「な、何でも無い……」

「あら、そう? そうそう。出町ふたばの豆餅買うてきたから、良かったらおあがりやす」

 上機嫌に笑いながら母は階段を下りていった。俺は思わず布団にへたり込んでいた。

 何が何だかサッパリ意味が判らなかった。さっき見た物は一体何だったのだろうか? 般若の面をつけた赤い着物の男に、青い僧衣の男……それから、確かに聞こえた、あの声の主。一体何者だったのだろうか? それにあの光景一体何だったのだ? 松尾の最期の光景? 理解不能だ。松尾の死体を見られる訳が無いのだ。飛び降り自殺したことを知ったのも、松尾の自殺から一ヶ月以上経ってからなのだから。

 目に焼きついて離れない程に衝撃的な光景であった。飛び降り自殺の末路……あり得ない方向に曲がった四肢。あざとく開かれた口。虚空を射抜く瞳。ほくそ笑む声。つまりは――死体。血生臭さと、潰れた臓物が放つ悪臭を思い出すと、何かが込み上げてきた。

(もしも……あの日、あの時……屋上から転落していたら、死んだのは松尾ではなく、俺だったということか……それじゃあ、俺も……あんな最期を?)

 飛び降り自殺の末路……あり得ない方向に曲がった四肢。地面に横たわり、あざとく口を開き、虚空を射抜く瞳を称えた俺自身の姿を思い描いた瞬間、恐怖と絶望と、とにかく言葉に出来ない想いが一気に逆流してきて、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。吐いた。とにかく吐き続けた。胃の中の、ありったけの内容物を吐き続けた。

「はぁ……はぁ……お、俺は……死にたくない。嫌だ……死にたくない!」

 言葉に出来ない不可解な体験。俺の死を思い起こさせる不吉過ぎる出来事。これが全ての始まりだった……。全ての始まりは、梅雨の終わりを告げる激しい雨。変わることの無い日常が死に絶え、変わりに非日常が、その禍々しい産声をあげようとしていたのだ。

 結局、この日は食事もろくに喉を通らず、さっさと眠りについた。相変わらず雨は激しく降り続け、俺の耳からはとおりゃんせの歌声が離れることはなかった。実に不快な夜だった……。朝、目覚めた時には、部屋の中には無数のほたるの死骸が散らばっていた……。

◆◆◆6◆◆◆

 前夜の激しい雨が嘘であったかの如き晴れ渡る空。強い日差しに照らされた朝。気持ちも晴れやかになりそうな天気ではあったが、不思議と心は締め付けられるような感覚で満たされていた。昨日の不可解な出来事が、今朝の不可解な出来事が、俺の心に深い影を落としているように思えてならなかった。今朝も食事を取るどころか逃げるように家から飛び出したのだから……。カラカラになった無数のほたるの死骸は部屋中にバラ撒かれていた。素足でほたるの死骸を踏み付ける乾いた感触に、踏み付けた際に飛び出した体液の湿っぽい感触に、体中の毛が逆立つ気がした。吐かなかったことが奇跡だ……。いや、そもそも胃の中には水しか残っていなかっただろう。

(そもそも、あの「生き物」はほたるだったのだろうか? 見た目が大分違うような気がしたが……)

 とにかく忘れよう。理解出来ないが、理解したいとも思えない。一刻も早く忘れ去りたかった。

 それにしても今日は暑い。じっとしていても汗が滲み出てくるような暑さだ。ジリジリと照り付ける日差しは容赦なく肌を焦がす。空を見上げれば強い日差しに目が眩む。噴出す額の汗を乱暴に腕で拭いながら信号を待っていた。学校へと向かう東大路通りは、今朝はやけに車の通りが多い。俺は排気ガスの香りを堪能させられていた。

 それにしても堪らない暑さだ。俺は胸元を肌蹴させた。肌に当たる風が心地良い。だが、照り付ける太陽は相変わらず容赦無い。影を落とす出来事に心は寒々しい状態ではあったが、照り付ける日差しは強く、容赦なく体を焦がそうとする。焦がして、焦がして、ついでに忌まわしい記憶も焼き尽くしてしまいたかった。

 信号が青になる。あれこれ考えても判らないことだらけだ。もう忘れよう。いや、忘れたことにしよう。そう、自分に言い聞かせていた。七条交差点を曲がり、学校へと続く緩やかな坂道に一歩を踏み出す。俺は長い坂道を力無く歩んでいた。威勢の良い蝉の声だけが響き渡る。

 不意にバタバタと重量感のある足音が迫り来る気配を感じていた。次の瞬間、がっしりと肩に圧し掛かる重圧感。力丸の太い腕の感触だった。

「オッス、コタ。今朝は遅刻じゃねぇみたいだな。わはは」

 満面の笑みを浮かべながら力丸が豪快に笑う。

「おはよう、力丸。朝一番の挨拶がそれか? まるで、遅刻するのがアタリマエみたいな言い方だ」

 実際、常習犯に近いじゃねぇかよ。力丸が再び声をあげて豪快に笑う。

「まったく、暑いのにくっつくな……」

 苦笑いしながら腕を押し退けようとすれば、力丸はにやにや笑いながら、さらに腕に力を篭めてみせた。

「わはは。そう邪険に扱うなって。オレとコタの仲じゃねぇかよぅ?」

 思わず溜め息が毀れる。誤解を招くようなことを言うな……そう、返そうかと思ったが、出掛かった言葉を飲み込んだ。力丸の肉厚な腕は随分と熱気を帯びていた。人の体温……確かな温もりと命の鼓動を感じ、俺は妙な安心感さえ覚えていた。だからだろうか? 何時ものように邪険に扱おうという気持ちが起こらなかった。

 力丸は額の汗を腕で乱暴に拭いながら、思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、昨日はすげぇ雨だったよな。コタのところは大丈夫だったか? こっちは街を流れる明神川があふれ出すんじゃねーかってな勢いでさ、どこまでが道路でどこからが川なのか見分けが付かなくなっていたぜ。風光明媚な社家の街並みも大荒れでな。あー、その水路に危うく転落し掛けたってぇのはナイショだぜ?」

 あの流れに転落したら今頃はニュースを騒がせちゃっていたよな。力丸は豪快に笑いながら、さらにでかい声で話を続ける。

「ありゃ、下手したら浸水しちまった家もあるんじゃねぇかな? ちなみに、ウチのボロい雨樋は完全に大破しちまったぜ。ま、老朽化進んでいたし、派手にぶっ壊れた方が諦めつくもんな。今頃ウチの親父が頑張って修理しているところだろうな。わはは」

「ぶっ壊れたって……」

 思わず吹き出してしまった。確かに力丸の家、京料理屋『比叡亭』の雨樋は老朽化が進んでいた。風が吹けばカラカラと情け無い音を出す始末であったのを考えれば、昨晩の大雨ならば完膚無きまでに大破してもおかしくは無い。

 強風に耐え切れずに大破した雨樋。街の中を明神川が流れる風光明媚な社家の街並みに、壊れた雨樋という組み合わせは実に滑稽であった。しかも、それを汗水垂らしながら修理する図体のでかい力丸の親父さんという登場人物が加わり、何とも奇妙奇天烈な構図に仕上がった物だ。あまりにも間抜けな構図に思わず吹き出さずにはいられなかった。

「な? すっげー面白ぇだろ?」

「ああ、思わず吹き出してしまった」

「へへ。鴨川も大変なことになっていたんじゃねーの?」

「……ああ。鴨川も相当増水していた様子だったな。とは言え、氾濫を起こす程では無かった」

 力丸は頭の後ろに腕を組みながら、俺の表情をしげしげと見つめていた。

「ふーん。なーんか随分と他人事な言い方だよなぁ」

 どこか心配そうな表情を浮かべると、次の瞬間思い切り顔を近付ける。俺は思わず目線を逸らした。その瞬間、再び力丸の腕が圧し掛かる。先程よりさらに力が篭められていた。太い腕。熱い感触。俺は生きている、ということを実感させられた気がした。

「ま、アレだ。なーんかさ、元気無さそうに見えたからさ、何かあったのかなって思ってな。余計なお世話だったよな、わはは」

 予想外に鋭い力丸の言葉に思わず息を呑んだ。そんなにも顔に出ているのだろうか? 自分でも意識しないうちに、表情に現れてしまっているのか。注意しなくては。

 夢か幻か何だか判らないが、とても不吉な気がしてならない。何か悪いことが起こりそうで不安で仕方が無かった。認めたくなかったし、受け入れたくも無かった。ただの悪い夢だった。そういうことにしてしまいたかった。だからこそ俺の中だけで片付けねば……。迂闊に口にすれば禍々しい悪夢が命を手にし、誕生してしまいそうな気がして恐ろしかった。考え込む俺を後目に、力丸は腕時計をチラリと確認した。ふと力丸の方を見れば、大きく息を吸い込んだり吐いたりしながら呼吸を整えていた。

「ん? 力丸、どうした?」

「おう。急がねぇと、そろそろチャイムが鳴る時間だぜ? まーた、あの変態クマ野郎、亀岡のベアハッグを喰らうのは御免だからな。コタ、急ごうぜ!」

「あ、ああ……」

 時の流れはいつだって残酷だ。もう少しだけ待って欲しい。そう願う時に限ってアクセル全快で俺を置き去りにして逃げ去ろうとする。考え込む時間は無いということなのだろうか。いずれにしても、急ぎ校門を抜けなければならない。

 ふと我に返った俺の目には、薄情にも俺を置いて一人豪快に走り抜けてゆく力丸のでかい背中が見えた。俺も慌てて校門を駆け抜けた。追い付きたかったから。親しき友に。それ以上に追い付かれたくなかった。得体の知れない存在に――。

◆◆◆7◆◆◆

 息を切らしながら階段を駆け上がっていた。額から、首から、胸元から、容赦無く汗が噴出した。

 結局、時間切れになってしまった。あと少しで滑り込みセーフとなる予定だったが、想定外にチャイムがなるのが早かった。その結果、違った意味で思い出したくない光景を目の当たりにすることになってしまった……。蘇る情景。

「四条小太郎! アウトーっ!」

「くっ!」

 上下赤のジャージに、首からホイッスルをぶら下げた生活指導の体育教師亀岡。にやにや笑いながら、ついでにあご髭を撫でながら迫ってくる。まったく、このご時勢に使い古された竹刀を片手に校門前で構えるとは、一つ間違えれば暴力教師として訴えられるだろうに。何よりも、手にした竹刀は妙に使い古された感が漂っているのが何とも物騒に思えた。

「さて……四条よ、遅刻した以上は、どうなるかは判っておるな?」

 亀岡が落雷を思わせる無駄にでかい声で俺に問い掛ける。耳がジンジンする。

「あ、ああ……俺も男だ。覚悟は出来ている……」

「ほう? 遅刻したのは頂けないが、覚悟は出来ているということか」

 なおも不敵な笑みを浮かべながら、太い腕を組んでみせる。その威風堂々たる様は仁王門に佇む仁王様そのものだ。

「うむ。それでは、目をつぶり、歯を食いしばれ!」

 いつみても恐ろしい体付きだ。職業を間違えたのでは無いだろうか? 趣味は酒と食事と、それから肉体改造……彼女居ない暦数十年、花嫁絶賛募集中(無期限)というのも頷ける。誰もがツッコミたくなるような厳つい風貌の亀岡は、腕を回しながら準備運動をしていた。風を切り裂く唸りが響き渡り、微かに頬に風圧を感じる。無駄に気合いを入れなくても良いものを……。だが、もはや惹く訳にはいかない。ならば、せめて春の桜の如く潔く散ろうでは無いか。春爛漫、小太郎散る悲哀の朝。

「こ、来いっ!」

「必殺ーーっ!」

 思い出すのおぞましい……。迫り来るクマ野郎の分厚い胸板。生活指導の亀岡秘伝の「ベアハッグ」。何度喰らっても抵抗力のつかない一撃だ。アレを喰らうのが嫌だから、遅刻しないように早起きしているのだが……。

(ううっ、何であの親父……あんなに石鹸の良い香りがするんだ? 汗臭い方が救われた……)

 俺は階段を走り続けた。息が切れる。この息苦しさは嫌いじゃない。生きている……そう、実感できる瞬間でもあったから。教室に着くと、既に力丸は皆と語らっていた。

「お、コタの到着なのじゃ。今朝も遅刻だったようじゃの」

 俺の存在に気付いたのか、大きな団扇を扇ぎながら大地が歩み寄ってくる。背は低いが、ぎっしりと身の詰まった体型。今にもワイシャツのボタンが吹き飛びそうだ。

「おはよう、大地」

 ついつい感触の良い坊主頭に手を置いてしまう。

「おはようさんなのじゃ、コタ」

 頭を撫でられながらも、大地は満面の笑みで応える。

「ワシの頭はさわり心地が良いかの?」

 ついつい手を置きたくなる心地良さだ、と答えながらも、俺の目線は手にした大きな団扇に引き寄せられていた。赤一色のど派手な色使いの団扇は、良く見れば『嵐山旅館』と大きな文字が描かれている。

「恐ろしく個性的な団扇だな……でも、学校で宣伝しても効果はあるのか?」

「おお、さすがはコタなのじゃ。相変わらず目の付け所が良いのう……という訳でプレゼントするのじゃ。ご家族、ご親戚、友人の皆々様から、通りすがりの人にまで、遠慮なく差し上げると良いのじゃ」

 大地は満面の笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに「嵐山旅館」の文字を強調して見せた。一杯あるから自由に持っていけと付け加えるのを忘れずに。なるほど。学校で宣伝しても効果は薄いのは想定済みで、友人一同を宣伝員に仕立てあげるという算段か。さすがは嵐山を生きる商人の息子。意外に有効な戦術かも知れない。

「原色の赤に、無駄にでかい文字……実にセンスが無いな」

 皮肉った冷笑を浮かべながら太助が歩み寄る。肌蹴た胸元に光る自慢の銀のアクセサリーが朝日を受けて殊更にキラキラと光を放っていた。華やかな香りを放つ扇子をはためかせる様に興味を惹かれた。細かな意匠を施した木の扇子。良い香りだ。仄かに漂う香りは、どこか懐かしさを覚える香りだった。

「む。扇子とセンスを掛けたわけじゃな? オッサンギャグなのじゃ」

「その扇子、良い香りだな。何の香りだ?」

 上機嫌に笑う大地を押し退けると、俺は太助に問い掛けていた。とても良い香りだったから。いや、それ以上に、この香りに古い記憶が結びついている感覚を拭えなかったから。不確かな記憶を手繰り寄せずにはいられなかった。気が付くと俺は食い入るように身を乗り出していた。妙に熱心な反応を見せる俺を見て、太助は可笑しそうに笑いながら扇子を手渡してくれた。

「白檀だな。良く線香なんかにも使われる香りだ。良い香りだろう?」

 得意気な表情での解説付きで。

「高校生らしからぬシブい趣味だけどよ、太助の場合、そういうの似合うよなー。あ、それってさ、イイ男の特権ってわけ?」

 太い腕を肩に回しながらにやにや笑う力丸に、太助は涼やかな笑みで応える。

「ま、そういうことにしておいてやろう」

「へへ。そのクールな笑顔で、何人の女を騙してきたんだよ?」

「生憎、俺は女には興味無いのでね」

「硬派だねぇ。それもまたいい男らしさだよなぁ」

 力丸が茶化せば、涼やかな振る舞いで交わす太助。嵐山旅館の団扇で扇ぎながら、大地がその様子を可笑しそうに眺めている。いつもと変わらぬ仲間達の姿がそこにあった。何だか安心した。今日という日はちゃんと訪れてくれたのだ、と。俺一人が置き去りにされて孤立無援な世界に連れ戻されたのでは無かったのだと、安心していた。何だか妙に落ち着いた気分になれた気がした。

 ふと、何気なく時計を見た。何か違和感を覚えた。チャイムが鳴ってから相応に時間は経っている。担任の山科は無駄に几帳面な一面を持つ身だ。時間になれば寸分の狂い無く教室に現れる。それが、今朝は十分も過ぎているのに姿を現さない。嫌な予感に鼓動が高鳴る。やはり、あの異変は何かの始まりを示唆していたのであろうか? 一気に不安になった。

「ふむ。それにしても、今朝の山科は遅いのう?」

 これまた「嵐山旅館」の文字が刻まれた真っ赤な特注腕時計を眺めながら大地が呟く。「何だよ、その時計?」と力丸が笑えば、不意に席を立ち上がる輝の姿が見えた。どうやら何やら事情を知っているかの様子であった。含みのある笑みを浮かべながら俺達の方に近付いてきた。輝はさらさらの赤毛をかきあげながら、目を大きく見開きながら皆の表情を覗き込む。

「山科先生ならば、今日はお休みだよ? うーん、正確には……数日はお休みかな?」

 そのまま、流れるような口調でさらりと手持ちの情報を披露してみせた。

「ほう? 何か知っている様子だな?」

 呼び水に反応するかのような太助の問い掛けに「まぁね」と、輝が笑顔で返す。「それじゃあ、語っちゃおうかなー」早速仕入れた情報を語って聞かせようと、胸を張り、大きく息を吸い込んだ所で唐突に教室の扉が開かれる。

「残念。一時中断だな?」

 にやにや笑いながら太助が言う。

「もうっ、タイミング悪いなぁー」

 輝はブツブツ文句を言いながらも、自分の席へと戻っていった。

 だが、現れたのは山科では無かった。副担任の桃山であった。

 どういうことだ? 何故、山科では無く桃山が来る? 嫌な流れに呑まれ始めた様な気がして落ち着かなかった。考えたくは無かったが、やはり昨夜の体験は何かを告げる物であったのだろうか?

 桃山はどこか取り乱したような素振りを見せながらも教壇に立った。何時もはポニーテールに結い上げている長い髪も今朝は下していた。否、結い上げもしていなかったというのが正確なところだろう。酷く取り乱している様からも相当焦っているように見えた。何時もと変わらぬ白いブラウスの清楚な装い。急いで走って来たのだろうか、少々息切れしていた。額にも微かに汗が滲んでいた。ハンカチで汗を拭うことさえ忘れる程に動揺している様子に、只ならぬ状況を理解した。眼鏡を掛け直しながらも慌てた様子で皆を見回す。

「遅くなって御免なさいね。ええと、何から話せば良いのかしら」

 何時もだったら冗談交じりの小話から授業を始める桃山が、息を切らしながら動揺している。これは余程のことがあったのは間違いない。肝っ玉の据わった若き女性教師の動揺。その動揺は皆にも瞬く間に伝わった。じっとりと汗ばむ胸元は朝日を受けて煌いていた。気を抜くと目線がそちらに向いてしまう。俺は慌てて目を逸らした。訳知り顔の輝は、にやにや笑いながらこちらに目配せしている。思わず溜め息が出た。

(輝の奴、今度は一体どんなトラブルを巻き起こすつもりだ……)

 輝が上機嫌な時は、往々にして良からぬ事態が起こる。いや、良からぬ事態を起こすといった方が適切か? 予想通り、太助達も苦々しい表情を浮かべていた。

 自分自身を落ち着かせるかの如く大きく深呼吸をすると、桃山は皆を見渡した。一呼吸置いてから一気に力を篭めた。

「ええっと……率直に話します。山科先生は昨晩、交通事故に遭われてしまい、今は病院に入院中です」

 桃山の一言に教室がざわめく。「静かにしなさい」桃山が焦った口調で皆を静めようとするが、騒ぎは収まる気配を見せなかった。

 俺は再び考え込んでいた。昨晩……前も見えない程の土砂降りの雨の中で起きた交通事故。山科は加害者か、被害者か、どちらの立場なのか? いずれにしても可笑しな話だ。可笑しな話が、出来事が幾つも重なる……そんな偶然ある訳が無い。俺の中で一気に不安が加速する。

「おいおい、マジかよ!? 怪我の具合とか、大丈夫なのかよ?」

 不意に力丸が勢い良く立ち上がった。そのまま驚いた様子で声を荒げた。とにかく落ち着きなさいと桃山が嗜めれば、力丸は静かに席に着いた。説明もせずに静止させるだけの反応に、随分と納得のいかない様子で力丸は乱暴に足を組んでいた。皆のざわめきが止まるの待つと再び深呼吸。一呼吸置き桃山は話を続けた。

「……ええ、怪我はそんなに酷い物では無いらしいので、心配しないでも大丈夫よ」

 明らかに違和感のある終わらせ方であった。まるで、これ以上余計な詮索をしてくれるな、と言わんばかりの振る舞いに見えた。ニュースなどで時々見掛ける光景だ。都合が悪くなった政治家達が、記者会見を強引に切り上げて逃げ出す様子と良く似ていた。何か知られたくない事実を隠しているのだろう。そのくらい頭の悪い俺にも容易に察しがついた。

 俺は逃げるように教室を去って行く桃山の後姿を見つめていた。傍らでは、訳知り顔の輝が涼やかな笑みを浮かべながら赤い髪をいじるばかりだった。

◆◆◆8◆◆◆

 昼休み。窓から差し込む相変わらず日差しは強く、ジリジリと照り付ける様な暑さに皮膚が焦げるような感覚を覚えていた。俺は屋上を目指し階段をゆっくりと登っていた。

 予想通りの輝からの招集。俺を含め仲間達も皆招集されているだろう。輝のことだ。桃山が詳しくは明かさなかった情報も既に入手しているのだろう。朝のホームルーム前に語ることができなった雪辱戦だろうか? その優れた情報収集能力を善行に活かしてくれれば良いのだがと、常々思う。

 額に滲む汗を乱暴に拭う。やっとの思いで階段を登り終え、屋上へと続く扉を開く。扉を開いた瞬間、湿気を孕んだ熱風が吹き込む。蒸し暑さに思わず怯みそうになった。透き通る青空。遮るものなど何も無い、強い日差しに目が眩む。

 日差しの眩しさに一瞬目を細めたが、目が慣れてくれば既に皆集まっているのが見えた。丁度俺が最後だったという訳か。苦々しい笑みで手を振る仲間達に俺も冷めた表情で手を振り返す。

「やぁ、コタ。やっと来てくれたんだね」

 周囲の反応など気にもしないのか、輝は満面の笑みでのお出迎えしてくれた。不意にどこかで蝉が鳴き始める。照り付ける日差しの暑さを肌で感じながら、軽く一呼吸。

「ああ、出来ることならば関わりたく無かったが、だからと言って放置して置けば、何をしでかすか不安で仕方が無い。そんな訳で、気は乗らなかったが来た次第だ。これでも一応、お前の兄貴分だからな」

 俺の言葉がおかしかったのか、皆失笑する。だが輝はまるで動じる様子も無く、不動の構えで腕を組んで見せる。これは相当深刻かつ厄介な話であろう。身構える俺を後目に輝は立ち上がり「まぁ、取りあえず座ってよ」と告げると、早速話し始めた。

「えっとね、みんなに集まって貰ったのは、山科先生の事故の真相について聞いて欲しくてね」

「おいおい。一体どこから、そんな情報仕入れたんだよ……」

 出だしから突っ込みを入れずには居られない。お前は何処の新聞社の記者かと。

「ほら、昨日は凄い雨だったでしょう? ああいう、大荒れの天気の翌日って、海だったら色々と面白い物が浜辺に打ち上げられるじゃない? あの考え方と同じでね。早めに学校に来たら、桃山先生が血相変えて走り回っていてね。ほら、早起きは三文の得って言うでしょ?」

(使い方、絶対に違うだろ!)

 恐らく、皆が心の中でそう突っ込んだことだろう。皆の、声にならない吐息が聞こえた気がした。

 段々と乗ってきたのか、輝は選挙の演説を思わせるかのように、身振り手振りを織り交ぜながら熱く語り始めた。

「それでねー、山科先生は、昨日の晩にバイクで事故を起こしたんだ」

 輝の一言に、驚いたような表情で力丸が立ち上がる。

「ちょっと待て。あの悪天候の中でバイク事故だって? どういうことだよ?」

「ううーん、リキってば良い反応だね。気合い入っちゃうなぁ」

 目を大きく見開き、満面の笑みを浮かべる輝。今度ははっきりと聞こえる皆の溜め息。

(燃え盛る炎に油を注ぐな)

 皆が鋭い眼差しで力丸を睨み付ける。「スマン。軽率だった」と、力丸は苦笑いを浮かべる。対する輝の勢いは止まるところを知らない。水を得た魚の如くさらに熱い口調で語り続ける。

「しかもだよ? 場所は何と、比叡山ドライブウェイ夢見が丘付近なんだ」

 輝の放った言葉に、皆の間に戦慄が駆け巡る。

「本当なのか? そんなこと、在り得ない話だ……」

「でも、事実なんだよ?」

 思わず驚きの言葉が飛び出してしまった。

 比叡山ドライブウェイ――京都市内と比叡山延暦寺を結ぶ道であり、市外からも大分登った先の結構な山奥にある。例え天気が良くても京都市内からの距離は相当ある。その比叡山ドライブウェイにある夢見が丘。高台から見下ろす琵琶湖の景色が素晴らしい場所ではあるが、だからこそおかしな話だ。先も見えないような土砂降りの中で向かうような場所では無い。しかも、そんな場所で事故を起こした。一体、どういうことなのか皆目検討がつかなかった。意味が判らなかった。目に見えない恐怖が、ヒタヒタと迫ってくるような感覚を覚えていた。

「山科先生は、突然飛び出してきた女の人を避けようとして、バイクごと転倒したんだ」

 さらに訳が判らない状況になった。飛び出して来た女の人……つまりは、他にも人が居たということになる。一体何のために? 敢えて事故を起こさせるために? それも意味が判らない話だ。ましてや昨晩の土砂降りならばなおのことだ。不可解過ぎる……いや、あまりにも非現実的だ。普通じゃ無い。昨夜、俺が体験した不可解過ぎる出来事と繋げずにはいられなかった。  

 いや……ちょっと待てよ。もっと、大事なことを忘れていないか? 人気の全く無い山中の道で、事故に遭った。そこから一体どうやって病院に向かった? 自らの足で向かったとでも? 足を負傷した人が? 出来る訳が無い。では、一体誰が?

「なぁ、輝、山科は一体どうやって病院に向かったんだ? 自力で向かったのか?」

「ううん、違うよ」

 にこやかに微笑みながら、輝は笑顔で髪をかきあげた。その涼やかな笑みに俺は背筋が凍り付く思いだった。纏わり付く様な湿気を孕んだ暑さとは裏腹に、どこからか冷気が漂い始めた。背中に嫌な汗が噴き出す感覚を覚えていた。

「救急車で運ばれたんだ。電話をしたのは女の人だったみたい。でね、この女の人も変だったらしくてね」

「ど、どう変だったんだ?」

 もう、これ以上聞くのは恐ろしくて堪らなかった。だけど、聞かない訳にはいかない。そんな矛盾の狭間で、俺は叫びたい位に恐怖で一杯だった。心臓が酷く鼓動を打ち鳴らしている。口の中がカラカラに渇く感覚。握り締めた掌の中にはジットリと汗が滲んでいた。不思議な感覚だった。暑くて、暑くて、汗が止まらないのに背筋は凍り付くように寒かった。

「山科先生、魘されるように繰り返していたらしくてね。その女の人ね、能面を被っていたらしいんだ。般若の面。ね? すごい話でしょ? 不可解なことだらけで、すごく不気味だよね。だから桃山先生も多くを話せなかったのかも。だってさ、あまりにも変じゃない?」

 繋がった!……昨日の出来事と山科の事故。どちらの異変にも能面をつけた人物が関わっている。普通じゃ無い。何か異様なものを感じずにはいられなかった。皆顔を見合わせて、言葉を失っていた。

「それでね、まだ、続きがあるんだ」

 輝はにこやかな笑みを絶やさない。愛嬌のある笑顔も、今の俺には恐怖の対象でしか無かった。皆も動揺を隠し切れない様子ではあったが、抑え切れない好奇心が共存しているのもまた事実であった。

「京都市左京区鞍馬本町……ここでも異変は起きているらしくてね。家の軒先に吊り下がる能面。道端に無造作に放置される能面。その上、響き渡る唄はとおりゃんせ」

 とおりゃんせ!……鞍馬の異変も繋がったように思えた。偶然であるはずが無い。作為的に誰かが仕組まない限り、こんなにも幾つもの出来事が繋がる訳が無い。

「数日前から能面の目撃情報が相次いでいてね。しかも、とおりゃんせの歌声が聞こえてくるらしいんだよね。ね? 何か関係ありそうな気がしない?」

 足元を見据えながら小さく震える俺に気付いたのか、輝がそっと歩み寄る。

「コタ、大丈夫? 真っ青だよ?」

 心配そうに覗き込む輝に、俺は静かに向き合った。

「……俺も昨日、体験したんだ。般若の面を被った奴らに、とおりゃんせの唄をな」

 輝だけでは無かった。皆が思わず声を挙げていた。夢だったと、幻だったと、自分の中だけで片付けるつもりだった。だが一人では抱え切れなかった。あまりにも恐ろし過ぎて、怖くて、怖くて堪らなかった。巻き込みたくなかった……いや、口にしたくなかった。だけど、出来なかった……。情け無いと思った。弱虫だと思った。そんな自分が、悔しかった。

「ど、どういうことなのじゃ!?」

「お、おう……同じ体験したってことは、テルテルの話は作り話じゃねぇってことだよな」

 ただただ怖くて震えていた。皆を失うことが怖くて、また一人になってしまうことが怖くて、ただ無力に震えるしか出来なかった。輝は動揺していた。まさか俺がこんなにも過剰な反応を見せようとは予測していなかったのだろう。

 不意に、太助が俺の肩に腕を回した。

「なぁ、小太郎。幽霊見たり枯れ尾花って諺を知っているか? 幽霊かと思った物は、実はただの枯れた木に過ぎなかったなんて話はざらにある。正体不明だから怖さもある。だったら、文字通り、化けの皮を剥がしてやればいい。放課後、鞍馬に向かうぞ。皆、異論は無いな?」

 太助の心遣いが嬉しかった。力強く微笑み掛けてくれたのが大きな支えになった。同時に自分自身の情けなさが不甲斐なかった。いつから俺はこんなにも弱くなってしまったのだろうか? 俯く俺を勇気付けるかのように、回された腕に力が篭められた。

「ま、時には誰かに守られるというのも悪くは無いだろ?」

 俺だけに聞こえるように小声で囁く。相変わらず涼やかな笑みを称えたまま。

「ど、どうせさ、誰かのつまんねぇ悪戯でしたってぇオチで終わるんだろ?」

「そ、そうなのじゃ。ワシらで怪現象の正体を暴いてやるのじゃ」

「おいおい、お前ら、怖いのか? 声が震えているぞ?」

 能面、とおりゃんせ……では、あのほたるはどう説明すれば良いのか? いや、今は止めておこう。判らないことを無理に追い詰めるのは意味が無い。少なくても判っていることから片付けてゆけば良い。何よりも心強かった。皆が一丸となって俺の恐怖と戦ってくれようとしている。嬉しかった。心強かった。皆の想いに応えなければ……答えは決まった。俺達は鞍馬に向かうことにした。

「べ、別に、こ、怖くなんか無いのじゃ」

「お、おうよ。面白そうだから、ワクワクしているくらいだぜ」

 不意に高らかにチャイムが鳴り響く。思わず飛び上がる二人を残し、俺達は教室へと急いだ。

 心なしか輝が落ち込んでいるように見えた。俺を怖がらせてしまったことを悔やんでいるのかも知れない。いずれにしても真相は放課後に明らかにしよう。それまでに気持ちの整理を付けなければ。そう、自分を奮い立たせながら、俺は皆と共に教室へと向かう階段を力強く駆け下りた。

◆◆◆9◆◆◆

 結局午後の授業は殆ど耳に入らなかった。どこまでも透き通る青空をただ、じっと見つめながら時の流れに身を委ねていた。じっとりとまとわりつくような暑さの中、汗が流れるままに。ただひたすらに俺は空を見つめていた。意味なんか無かった。どう足掻いても、魂が抜けたような感覚からは逃れられなかったのだから。時の流れの狭間に一人放り出されたような孤独感。言葉にできない哀しみと背中合わせになっている。そんな不快な感覚を覚えていた。

 そして訪れる放課後。空虚なまでに時間は過ぎ去っていった。

 何かに誘われるように学校を後にした俺達は、ジリジリと照り付ける日差しを背に浴びながら緩やかな坂道を歩いていた。空を見上げれば入道雲が大きく発達している。蝉の鳴き声が相変わらず威勢良く響き渡る。不意に俺達の横をトラックが轟音を立てながら勢い良く駆け抜けてゆく。地面を伝わる衝撃を肌で感じた。不意に思い出したかの様に、力丸が頭の後ろで腕組みしながら歯を見せて笑う。

「ところでさ、なーんか腹減らねぇ?」

「相変わらず食欲旺盛な奴だな」

「ほら、オレさ、ガンガン育ち盛りだからさ」

「意味が判らんな」

 太助の冷ややかな口調も力丸には効果は無い。「ま、細かいことは気にするな」と力丸が満面の笑みで返せば、太助はやれやれと苦笑いで応えた。外見に似合わず気の回る力丸のことだ。重苦しい空気を打ち破ろうと、気を利かせてくれたのだろう。

 学校を出て七条まで移動する。そこから出町柳まで京阪で一本。歩いても行けるが、この暑さの中を汗だくになりながら歩き回るのはあまり得策とは思えなかった。背筋を漂う不快な寒気は消え失せないが、体が感じる暑さは間違いなく現実のものなのだから。

 七条駅に到着した俺達は地下に繋がる階段を降りた。ひっきりなしに駆け抜ける車の喧騒と強い日差しから逃れ、微かに埃っぽさの混じる、エアコンの冷たい空気に生き返る感覚を覚える。そのまま皆で駅の改札を抜けて、ホームへと向かった。薄暗い構内を生温い風が吹きぬける。

 薄暗さが辛く思えた。あの不可解な光景が再び現れないかと不安で仕方が無かった。幼い頃から柔道を学び、それなりに自身の強さも心得ている身としては、見えない恐怖に怯える姿を見せたくなかった。だが精神というのはこれ程までに脆く、儚く、壊れやすい物なのかと今更ながらに実感させられた。

「間もなく電車が参ります。白線の内側までお下がりください」

 構内に響く空虚なアナウンスの声。やがて、ゆっくりとホームに列車が走り込んで来る。押し出された風に煽られて、髪が、服が舞い上がる。埃っぽい生暖かさが酷く無機的に思えた。

 俺達は訪れた列車に乗り込んだ。すぐに列車は走り出す。生温い扇風機が吹き出す頼り無い風を浴びながら皆他愛も無い話で盛り上がっていた。皆の楽しげな話声に耳を傾けながら、俺は窓の外を駆け抜ける蛍光灯の白い明かりをじっと見つめていた。煌々と灯る駅の明かりとトンネル内を駆け抜ける蛍光灯の白い明かりを交互に繰り返す。

 地下鉄の光景は不安な気持ちを呼び覚ます光景に思えた。途方も無く恐ろしい何者かがひしめく異界へと繋がる入り口の様に思えた。蛍光灯の白い明かりだけが頼りのトンネル。もしも、このトンネルが永遠に終わることなく続いてしまったら、俺はどうなってしまうだろうか? 恐ろしくて堪らなくなる。閉じ込められたら、二度と光を浴びることは出来なくなってしまうだろう。だから、駅に到着すると安心する。蛍光灯の無機的な明かりの中に、確かに人の存在を感じることが出来るから。

 トンネルと駅とを幾度か繰り返せば、程なくして出町柳に到着した。空調の利いている地下のホームから地上に出ると一気に暑さが襲い掛かる。南北に抜ける川端通は相変わらず交通量が多く、市バスが往来する様が目に留まった。ふと、賀茂大橋の下を流れる鴨川に目をやれば三角の中洲。それから飛び石が目に飛び込む。楽しげに水遊びする子供達の姿にしばし目を奪われる。

(水遊びか。涼やかなだな。そういえば、あの橋は……)

 俺はふと思い出していた。此処は去年の夏に皆で訪れた場所。皆で眺めた五山の送り火。ちょうど、賀茂大橋の辺りからは大の字が良く見える。煌々と燃え上がる炎を眺めながら、「また来年も皆で来よう」と約束したことを思い出していた。

(また来年……違うな。ずっと、皆、友達でいよう。来年も、そのまた来年も、ずっと、ずっと……何時までも変わらぬ友達でいよう。そういう想いを篭めた言葉だったのだけれど、皆に伝わっただろうか?)

 燃え上がる炎を眺めていた自分と重ね合わせ、しばし時を忘れていた……不意に、力丸の豪快な笑い声に一気に現実に連れ戻された。

「ほらほら、みんな、さっさと行くぜ! わはははは!」

「ちょっと、ちょっとー、離してよー!」

「うぬー、襟を掴むで無いわーっ!」

 輝と大地を両腕に抱えながら、力丸は強引に店に入った。俺も皆の後を追って店に入った。

 店内は空調が良く利いていた。その涼しさに生き返る感覚を覚えた。

「いらっしゃいませ。何になさいましょうか?」

「えっと……」

 手際良く注文を済ませると、皆の待つテーブルへと向かった。力丸の豪快な笑い声が静かな店内に響き渡る。商談に花咲かすサラリーマンが鋭い眼差しで睨み付けていた。だが、皆まるで動じる様子は無い。

(やれやれ……)

「腹が減っては戦はできねぇって言うだろ?」

「それで、一体何の戦いに行くつもりだ?」

 太助の涼やかな突っ込み。「細けぇことは気にすんな」と、力丸は満面の笑みで笑い返す。それにしても……毎度思うのだが、この男は一体何人前食うのだろうか? ハンバーガー三個にポテト。ナゲットに飲み物、ついでにソフトクリーム。これらをたかだが数分で完食する。体の大きさに胃袋も比例しているのだろう。

 氷が解けた結果なのか元々そうなのかは判らないが、俺は味気無いアイスコーヒーを口にした。皆、楽しそうに談笑していた。俺は窓の外の大通りを往来する車の流を、じっと見つめていた。まるで走馬灯の様だ。見たことも無いのに勝手に走馬灯みたいだと思っていた。車は尚も川端通を無常に往来するばかりであった。

◆◆◆10◆◆◆

 腹ごしらえを終えた俺達は鞍馬を目指して、出町柳より叡電に乗り込んだ。小さな車両には俺達以外に人の姿は無く、静寂に包まれていた。皆の楽しそうな話し声だけが車内に響き渡る。俺は窓の外に目線を投げ掛けていた。

(本当にこれで良かったのだろうか?)

 微かに吐息がこぼれたところで発車のベルが鳴り響く。やがてゆっくりと電車が走り出す。出町柳が少しずつ遠ざかって往く様を俺は静かに眺めていた。

「それじゃあ、鞍馬のうわさ話検証の旅へ、出発進行ーっ!」

「はは……テルテルってば、テンション高けぇな」

「だってー、ワクワクするじゃない?」

(お前だけだ……)

 はしゃぐ輝を後目に、俺は窓から覗く車窓を眺めていた。暮れ往く夕日を見届けながら揺られる叡電は、建物と建物の間の細い線路を駆けてゆく。夕暮れ時の住宅地の景色は活気にあふれていた。夕食の買出しなのか、たくさんの荷物を自転車で運ぶ主婦も居れば、会社帰りのサラリーマンの姿もあった。カンカンカンカン。赤いランプが明滅する踏み切りを通り過ぎる時の何気ない光景が好きだ。その街の生活の匂いが感じられるから。

 叡電は無常にも突き進む。街中を駆け抜ける電車は細い線路を走り続ける。どの駅も線路の向こう側とこちら側に綺麗に分かれている。互いを往来するためには線路を跨いで歩くしかない。

 一乗寺、修学院、宝ヶ池と至るにつれて次第に民家はまばらになる。京都精華大前を越えた辺りから木々に抱かれた大自然の景色に変わってゆく。流れ往く車窓からの眺めに、言葉に出来ない不思議な想いを抱いていた。どんな想いかと問われると、それは恐らくは形に出来ない想いだとしか言えないものであった。

 揺れる列車。楽しそうに語らう仲間たち。萌え上がる赤一色の夕焼け空。ぶつかりそうな程に間近まで生い茂る木々の姿。胸が締め付けられる様な不可解な想いを感じていた。だが、それは嫌な感覚では無かった。何か……思い出すことの出来ない遠い昔の記憶と再び邂逅する瞬間。そんな「含み」を感じさせる、どこか甘美な胸の痛みであった。

「おお、すごいのじゃ。木々がぶつかりそうなのじゃ」

 大地の弾んだ声が響き渡る。叡電の線路は本当に細い。美しい自然を出来るだけ傷付けない様にという配慮なのだろうか。そうだとしたら、その心遣いに共感できる。このまま走り続ければ鞍馬に到達する。

 鞍馬か……周囲を木々に包まれた山々に抱かれた光景。人々がすれ違うだけの祇園の雑踏とは赴き異なる幽玄の世界。川の流れる涼やかな音色と蝉の声。鞍馬は古き時代を感じさせる懐かしい街並み。いつ訪れても良い場所だ。やはり人は土と共に歩み、木々と共に生きるべきなのだ。過ぎた文明は人を破滅に誘い、人を不幸にする。だから俺は自然と共に歩む道を選びたい。こうして生い茂る木々達に包まれていると心が安らぐ。木々は人から何かを奪ったりはしない。木々は人を傷付けたりしない。ただ、俺達に安らぎを与えてくれるだけだ。それなのに人は互いに傷付け合い、人から何かを奪うばかりだ。だからこそ皆と過ごす時を大切に思う。俺達は互いに支え合いながら生きてきた。皆心に傷を負った者達同士。傷付け合うだけの連中とは違う。そんなことを考えながら、俺は窓の外を静かに過ぎ去ってゆく景色を眺めていた。

 どれだけ走ったのだろうか? 列車は市原を後にしようとしていた。市原から二ノ瀬間は紅葉並木が広がる。秋になれば一斉に装いを変える鮮やかな紅葉の赤に包まれた幻想的な光景を楽しめる。去年の秋、皆で混雑した車内から眺めた記憶が脳裏を過ぎる。だが、俺にはどうしても、木々がざわめいているように思えてならなかった。戻ることの出来ぬ片道切符。そんな想いが胸に込み上げ、言いようのない不安に駆られていたのもまた事実であった。

「なぁ、テルテル。この辺りは去年の秋に来たところだよなー?」

「ああ! そうだよねぇ。紅葉の赤が綺麗だったなぁ」

 窓に顔をつけながら力丸が、輝が弾んだ声を響かせる。

「で、はしゃぎながら大地が茶をばらまき、大騒ぎになった場所でもあったな」

「うぬー、そんなこともあったような気がするのじゃ」

 涼やかな笑みを浮かべながら太助がちらりと横目で大地を見れば、わざとらしく呆けた素振りで大地が頭を掻く。皆の他愛も無いお喋りを聞いていると、それだけでも穏やかな気分になれる。ああ、俺はもう孤独では無いのだな。安心感に満たされる。

 やがて電車は貴船口に到着する。この辺りは民家が殆ど無い。貴船は人の気配が感じられない場所。初めてこの駅を降りた時は随分と驚かされた。仙人の住む世界という表現が適切だろうか? 木々と清らかな流れの貴船川に抱かれた場所。人ならざる者達が棲んでいると言われても、何の違和感を覚えることも無い場所だ。貴船口駅の車窓から外の景色を見つめていると、列車は静かに動き出した。次は終点の鞍馬……俺は言葉に出来ない胸騒ぎを覚えていた。目に見えない何者かが迫り来るような危機感を覚え、掌はじっとりと汗をかいていた。

「間もなく鞍馬。鞍馬。終点です。どなた様もお忘れ物をなさらぬように……」

 しばし木々の中を駆け巡れば、やがて車内アナウンスが流れる。鞍馬。叡電の終点。俺達の目的地。静かに列車が止まる。扉が開けば瑞々しい木々の香りが漂う。

(着いてしまったか……)

 駅から降りたら、本当の意味で後戻りできなくなるだろう。行きはよいよい、帰りは怖い、か。……楽しげにはしゃぐ輝の笑顔に、俺はどこかが痛むような感覚を覚えていた。

◆◆◆11◆◆◆

 鞍馬駅は昭和の香り漂うレトロな駅。駅舎の天井から吊り下げられたシャンデリアを模したかのような明かり。物静かな明るさは長い歴史が感じられる格子状の天井と良く合う。壁に目をやれば赤ら顔の天狗の面と黒い顔のカラス天狗の面が掛けられている。額縁に入れられた幾つかの写真が壁を彩っていた。どこか懐かしさを感じさせる、温かみのある写真たちであった。駅舎を往来する人々の声に耳を傾けながら、俺は色褪せたベンチに腰掛け靴紐を結び直していた。どことなく寂しさの漂う駅は、夕暮れ時という時間の影響も相まってノスタルジックな風合いを醸し出していた。

 鞍馬の駅舎を出て少し歩けば小さな広場に出る。視界に飛び込んでくるのは大きな赤ら顔の天狗の像。顔だけの巨大な姿で訪れる者たちを出迎えてくれる。

「鞍馬ならば少しは涼しいかと思ったが、大して気候は変わらないものだな」

 じっと立っているだけでも汗が滲む。夕方だと言うのに暑さは一向に衰える気配を見せない。夕立を予感させるような入道雲も、夕日を浴びて萌え上がる様な赤に染まっていた。出町柳を出た時は赤々と萌えるような夕焼け空であったが、鞍馬に着く頃には日はすっかり沈み燻る炭火の様な色合いを称えていた。夕暮れ時であることを象徴するかの如く蜩の物憂げな鳴き声だけが響き渡っていた。随分と気の早い蜩だ。皆、気付いていない様子だが、蜩の声が聞こえるにしては季節が早過ぎる気がする。違和感を覚えながらも、皆歩を進めてゆく。カナカナカナ。蜩の物憂げな鳴き声だけが周囲の木々に染み渡る。

「ううーん、いいねぇ。何だか、雰囲気出てきたって感じだよねぇ」

 半刻にも渡る長旅に疲れたのか、輝が大きく背伸びをする様が見えた。

「何時に無くご機嫌だな」

「そりゃあねぇ。このまま何事も無く終わっちゃったら、味気ないじゃない?」

 皮肉のつもりで言った口調もこのオカルトマニアには通用しないらしい。輝は目を細め上機嫌そうに笑い返してみせた。

 不意に微かな物音が聞こえた。そっと後ろを振り返れば、大柄なカラスが威嚇するような眼差しでこちらを見つめている。電柱にカラス。ありふれた光景だが何か意味深な物を感じる。随分と大柄なカラスだ。襲い掛かられたら怪我では済まないかも知れない。そんな俺の想いに呼応するかの様にカラスは大きな口を開けると、威勢良く泣き声を響き渡らせた。

「ひっ!……な、なんじゃ……ただのカラスなのじゃ。驚かすで無いのじゃ……」

 突然、背後から発せられるカラスの鳴き声に、大地が驚きの声を挙げれば

「まったくだぜ。いきなり、後ろからカァーってビックリするじゃねぇかよ。心臓が口から飛び出したらどうしてくれるんだっつーの」

 力丸も同時に驚きの声を挙げる。

「安心しろ。人の体の構造上、斯様な事態は起こり得ない」

 それを涼やかな笑みで受け流す太助。扇子から漂う白檀の華やかな香りが鼻腔をくすぐる。皆の間に言葉に出来ない緊張感が張り詰める中、そんなことはどこ吹く風。輝は何時もと変わらぬ調子で駆け回っていた。むしろこのカラスの登場で、さらに背中を後押しされたかのようにさえ見えた。調子付いた足取りで、足元にあった木の枝を拾うと勢い良く振り回しながら皆を先導する。「みんな、張り切って行こう」。輝の明るい声に満場一致で溜め息が毀れる。

 此処、鞍馬はカラス天狗の伝承が色濃く残る地。山と木々に囲まれた静かな街並み。喧騒からかけ離れた静かな場所は、いつ訪れても心を落ち着かせてくれる。幼い頃より良く訪れた場所だ……辛い時、哀しい時、どうすることも出来ない思いを抱え切れなくなった時に、心の拠り所を求めて訪れたものだ。

 そっと頬を撫でる様に一陣の風が吹き抜けた。一瞬の涼やかさに心が潤され、ふと我に返る。

 顔だけの天狗像を後にすれば土産物屋が立ち並ぶ。すぐ向こうには広大な山と木々が広がる。人の手が入らない大自然には想像もしないような者達が住んでいることだろう。賑やかな街並みも夕方になれば静けさを取り戻すものだ。

「うーん、さすがに駅の周辺はふつーな感じだね。しかーし、我々取材陣は、うわさの真相を探るべく、さらに山間の道を歩むのであった!」

 輝の上機嫌な声が周囲の景色に染み渡る。

「だが、得られたものは何も無く徒労に終わった。結局のところ、うわさ話はうわさ話でしか無かったという結論に至った」

 俺の言葉に輝は足を止めると振り返った。夕日に照らし出された赤毛は、文字通りに燃え盛る炎の様に赤々としていた。胸元で煌くペンダントも夕日を浴びて赤い光を称えていた。

「もう、コタってば、雰囲気壊さないでよね。折角盛り上がって来たのにさ」

(盛り上がっているのは輝、お前だけだ……)

 立ち並ぶ土産物屋も夕暮れ時になれば客足も遠退く。商売にならないのに店を開けておいても仕方が無い。慣れた手付きで軒先の商品を片付ける様子が目に付いた。こんな夕暮れ時の来訪者……しかも、観光客でも無さそうな連中はさぞかし、胡散臭い存在に見えたことだろう。片付けをする土産物屋の店員達が、怪訝そうな眼差しでこちらを窺っているのが見えた。一瞬だが、店員達がうすら笑いを浮かべていたようにも思えた。本当に一瞬ではあったが、悪意に満ちた不気味な冷笑を浮かべていた様に思えた。俺の勝手な思い過ごしならば良いのだが……。

 相変わらず上機嫌な輝は、子供のようにはしゃぎ回る。その横顔は童顔なのも手伝い本当に子供のように見える。

 鞍馬駅前の小さな広場を抜け、左手に曲がれば多聞堂。こちらも早々と店仕舞いしたようだ。

「あー、多聞堂はもう閉まっちゃっているねぇ。牛若餅食べたかったなー。アレ、美味しいんだよねぇ。鞍馬に来たら、欠かさずに食べているのだけどなぁ。うーん、残念!」

「輝……何か、明らかに目的が変わっていないか?」

 残念そうに肩を落とす輝に、突っ込みを入れずには居られなかった。

「もう、コタってば、細かいことは気にしない、気にしない」

(気にするよ……)

 妙な視線を感じ後ろを振り返れば、先刻のカラスがまだこちらを見つめていた。何時の間に移動したのだろうか? 何の物音も聞こえなかったが……。不思議な気配を放つカラスであった。何かを伝えようとしているかのように、じっと俺を見つめていた。不思議な感覚だった。このカラスには、どこかで出会ったことがあるような気がしてならない。もっとも、カラスの友人に心当たりは無いのだが……。

「はいはーい、コタ、置いてくよー」

 輝の声が響き渡る。「すぐに行く」と返答し、再び振り返った時には、既に先刻のカラスの姿は無かった。飛び立つ際に何の音も出さずにいられるのだろうか? やはり何かが可笑しい。

 立ち並ぶ土産物屋を抜ければ鞍馬寺に続く参道と大きな仁王門、それから仁王門に至る石段が視界に飛び込む。煌々と燃え上がる様な夕日を受けて、鞍馬寺の入り口に聳える仁王門も、石段も燃え上がる炎の様に赤々としていた。石段の両脇には鮮やかな赤い灯篭が立ち並ぶ。灯籠の放つ仄かな光が夕焼け空の中で幻想的に浮かび上がって見えた。不思議な光景だ。現実にあって現実では無いもの。仁王門の放つ雰囲気は非現実の世界への誘いにさえ思えた。阿吽の呼吸を紡ぎ出す二体の仁王像は、決して開かれることの無い異界への番人……俺にはそう思えた。

 この景色に合うはずの無い自動販売機の、無機的にくすんだ赤が妙に景色に溶け込んでいた。長い年月を経て雨風に侵食された古びた電信柱に、時の流れを感じさせる錆色のバス停。夕刻の鞍馬は現実と非現実の出会う街。この街は時の流れが止まっているように思えた。勇み足で駆け抜ける時代の中に取り残された迷子のように思えた。

 仁王門を過ぎれば緩やかに曲がりくねる道に至る。視界の先には常に山肌が見える光景。道の両脇には人々が生活している香り漂う家屋が立ち並ぶ。流れる川の音色が心地良い。周囲を見渡しながら歩いていると、ふと小さなポストが目に付いた。

(この小さなポストを見ると思い出すな……あの日、あの時、此処を歩いた。哀しみに満ちた記憶だ……)

 いつの間にか蜩も鳴くのを止めたみたいだ。こちらも店仕舞いということだろう。

 俺達は坂道をゆっくりと歩き続けていた。既に日は沈み、辺りは夜の闇に包まれ始めていた。どれだけ歩いたのだろうか? 代わり映えのしない風景だけが続いてゆく。ふと、後ろを振り返れば家々の高低さが鮮明となり随分と登ってきたことが判る。

「なーんか、みんなノリ悪いねぇ?」

 唐突に沈黙を破る輝の声。場違いなまでに明るい口調の輝に対し、皆の表情は暗く重たかった。ノリが悪い訳では無い。何かが可笑しいのだ。普通に考えればこれから夕食の時間帯に差し掛かるはず。料理の準備をしていれば、少なからず何らかの食べ物の匂いがするはずだ。それに、あまりにも静か過ぎる。川の流れる音。俺達が歩く足音。それだけしか音が聞こえないのだ。今の季節であれば、虫の声や蛙の声が聞こえない訳が無い。だが、そうした自然の音が聞こえなかった。突然、廃墟になってしまったかのような不気味な静けさに、皆、緊張感を感じていたのだろう。

「テルテルは異変に気付かねぇのか?」

「え?」

 真剣な表情の力丸に見つめられ、輝は周囲を見渡していた。耳を傾け、目を凝らしながら周囲を注意深く観察していた。

「うーん、静かだよねぇ」

「それだけか?」

「確かに静か過ぎるよね。ぼく達の歩く音しか聞こえないもの」

 蝉の声も聞こえなくなった。もう夜なのだから当然と言えば当然だろう。だが、川が流れる音しか聞こえないというのは妙な話だ。

「車も通らねぇし、人の気配もしねぇ。虫の声も、蛙の声も聞こえねぇんだよなぁ。うーん……何て言えば良いのかな? とにかく、何かおかしいよな」

 力丸の言葉に皆が無言で頷く。確かな違和感がここにはある。静か過ぎるのだ。まるで、長い間放置され続けた廃墟のように人の気配が感じられなかった。この世でありながらも、この世ならざる場所に迷い込んでしまった。あり得ない話なのかも知れないが、表現としては適切なのかも知れない。

 俺はこの光景の中で妙な感覚を覚えていた。視線を感じるのだ。それも一人や二人では無い。無数の視線……殺意の篭められた鋭い視線を感じていた。俺は皆に気付かれぬよう目だけで周囲を伺った。

 異変の正体を理解した気がする。暗闇に紛れる人の姿があった……玄関を少しだけ開けて顔を覗かせる者もいれば、二階の窓から微かに障子を開けて覗きこむ者もいた。車の隙間から目だけ出す子供の姿もあれば、あからさまに家の隙間から覗き込む老婆の姿もあった。

(な……何なんだ、コイツらは?)

 皆、俺をじっと睨み付けながら薄ら笑いを浮かべていた。どうやら皆も視線に気付いたらしく周囲に目線を送り、青ざめた表情を浮かべていた。

「な、何!? 何なの、あの人たち!?」

 いきなりでくわした異常事態によほど驚いたのか、輝が裏返った声を挙げる。俺は思わず輝の口を押さえた。動揺する輝に俺は小声で警告を告げた。

「大きな声を出すな……迂闊に刺激すれば、何をされるか判ったものでは無いぞ」

「驚いたな……何の気配も感じなかった」

 さすがの太助も、この状況には動揺を隠せないらしい。

「ひ、人が居るのに……何故、家は真っ暗なのじゃろうか?」

 大地の震えた声に、俺は改めて家々を目で追った。

 確かに在り得ない状況だ。外はすっかり暗闇に包まれている。人の気配を感じないのも奇異な話ではあるが、この暗闇の中で明かりさえ付けないというのも可笑しな話だ。

「な、なぁ……オレ、さらにおっかねぇ事実に気付いちまったんだけどよ……」

 怯えた表情で力丸が皆の表情を覗き込む。何に気付いたのかと俺は尋ねてみた。

「街灯の明かりもあるけどさ、この辺り殆ど真っ暗だろ? なのにさ、何で……」

 言葉に詰まる力丸。言いたいことは良く判る。周囲はだいぶ暗い。街灯の明かりも頼りない。だが覗き込む人々の姿は照明で照らし出したかのように鮮明に暗闇に浮かび上がっている。冷たく、青白い色を放ちながら。

 気が付くと俺達は必死で走っていた。言葉を発することも無く、ひたすら走った。この場に止まってはいけない。そんな危機感に駆られて、ただただ走り続けていた。

◆◆◆12◆◆◆

 月だけが夜空を優しく照らしていた。まばらにしか無い街灯は、中の電灯が切れ掛けているのかチカチカ点滅している。仄かな月明かりに誘われるがままに、あらぬ世界へと迷い込みそうな感覚に陥っていた。生温い風だけが吹き抜ける中で、皆、肩で荒く息をしていた。

「はぁ、はぁ……い、一体、何がどうなっていやがる!?」

 額の汗を拭いながら力丸が声を荒げる。だが誰も応えられなかった。皮肉なものだ。奇怪な展開を期待していたはずの輝は、あまりの出来事に顔面蒼白になっていた。奇怪な体験を期待して皆で騒ぐのと実際に想像もしない展開にでくわすのとでは大きな隔たりがあるということだろう。輝は青ざめた顔をしながら尚も小さく肩を震わせていた。

「むー。ところで、此処はどこなのじゃろう?」

 周囲を見渡しながら大地が皆に問い掛ければ、

「鞍馬温泉の近くまで来てしまったのだろうな。もう少し歩けば鞍馬温泉に至るだろう」

 太助が返答する。駅から相当移動したことを考えれば、目印が無くても想像がつくのであろう。

「ふむ。随分と奥の方まで来てしまったということじゃな」

 驚いた拍子に俺達は鞍馬の奥地へと向かい逃げてしまったらしい。もう少し歩けば鞍馬温泉に至るだろう。しかし厄介なことに京都市街へ戻るためには一度鞍馬駅に出る必要がある。先程の民家の前を通らなければならない。

(どうしたものか……)

 答えは二つに一つ。このまま鞍馬温泉に一度逃げ込むか、それとも鞍馬駅まで逃げ切るかの二つに一つだ。まともに考えれば鞍馬駅まで逃げ切るのが正解だ。奥地へ向えば袋小路だ。鞍馬温泉を過ぎた先は山道になる。さらに窮地に追い込まれることは自明であろう。ここはやはり多少の危険性を伴う可能性は否定出来ないが、駅へと向うべきであろう。俺は皆に撤収の考えを伝えようとした。だが……。

「皆、このまま鞍馬温泉に向かってみないか?」

 飛び出した言葉は、考えていたものとは正反対の返答であった。皆が驚いた様な顔で俺を見つめる。自分でも何が起きたのか理解出来なかった。

(何故だ? 鞍馬温泉に向うつもりなど毛頭無いのだが……)

 もう一度訂正しようと試みるが、どうしても声が出ない。

(一体どうなっている!? どうして声が出せない!?)

 何が起きているのか理解出来ない現実に俺は焦っていた。苦笑いしながら太助が俺の肩を叩く。

「幽霊見たり枯れ尾花。事態の真相を暴き出したいという訳だな? まぁ、お前は一度言い出したら聞かないからな」

(違う! 違うんだ! 駄目だ……鞍馬温泉に向っては駄目だ! 取り返しがつかなくなる!)

「まったく、コタまでテルテルみてぇなこと言い出しちまうかぁ?」

「うむ。乗り掛かった船なのじゃ。幸い、鞍馬温泉は近くじゃからのう」

 皆には俺の想いが間違えた形で伝わってしまったように思えた。予期せぬ展開に恐怖を覚え、動揺を隠し切れない輝。気落ちした輝を擁護するための行動と受け止められてしまったように思えた。違う!……そうじゃない! こんな薄気味悪い場所にからは一刻も早く立ち去りたい。酷く嫌な予感がしていた。何か、とても良くないことが起こりそうな恐怖感で一杯になっていた。

「コタ……どうして?」

 戸惑った表情で輝が見つめている。だが、応えられる訳が無かった。「自分でも理解出来ないが、思惑とは違う言葉が飛び出した」。一体誰が、そんな言葉を信用するだろうか? こうなった以上は成り行きに任せる他無いのだろう。俺は覚悟を決めた。

「幽霊見たり枯れ尾花だ。安心しろ。何も起こらないさ」

 輝は沈んだ表情で、静かに目を逸らした。ああ、判っているさ……何も起こらない訳が無い。まるで意味を為していない弁明だ。輝は悲痛な表情を浮かべていたが、皆の手前、今更退くことも出来ずにいた。嫌な予感しかしていなかったが、もう後戻りは出来ない。俺達はさらに奥へと進むことにした。

 歩き始めてすぐに「鞍馬温泉」の看板が見えてくる。予想通り、鞍馬温泉は暗闇に包まれていた。異様な光景であった。鞍馬温泉は宿泊設備も抱えている。明かりが一切灯っていない状況などは在り得ないこと。

 仄かな月明かりに浮かぶ鞍馬温泉には異様な空気が漂っていた。寂れた佇まいは、まるで何年も放置された廃墟の様に薄暗く、どこか汚れた印象にも見えた。

「そんな……どういうこと? なんで真っ暗なの?」

「……何を動揺している? こういう展開を期待していたのでは無いのか?」

 皮肉な笑みを浮かべる太助に、輝は言葉に詰まっていた。だが確かに異様だ……まるで人の気配が無い訳では無かった。つい今さっきまで人がいた気配は残っているのだ。例えるならば、皆一斉に俺達を驚かすために明かりを消した。そんな表現が適切とも呼べる雰囲気だった。そして、相変わらず何の音も聞こえない……代わりに妙に肌寒い風が吹き抜けた。背筋が寒くなる感覚が漂っていた。昨日の体験が蘇り、足の震えが止まらない。背筋を冷たいものが駆け抜ける。不安と恐怖。声を張り上げ、叫びたい程に鼓動が高鳴っている。今すぐにでも逃げ出したかった……。だが、皆を置いて逃げる訳にはいかない。

 その時であった。唐突に半鐘のけたたましい音色が響き渡った。

「な、何なのじゃ!?」

「おいおい、今度は何が起きたんだよ!? もう勘弁してくれよ!」

 繰り返し叩かれる半鐘の音色が響き渡る。どこかで火事でも起きたのだろうか? 背筋が凍り付く思いだった。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。

「逃げるぞ! 何か嫌な予感がする!」

 戸惑う俺達を動かしたのは太助の怒号だった。俺は慌てて皆を見回した。

「駅だ! 駅まで走るぞ!」

 何が起きたのかなんて理解する必要も無かった。ただ一つ判ること。この場に止まってはならないということだった。とにかく俺達は必死で駅まで走った。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。一体何が迫ってくるのかは想像も出来なかったが、とにかく走り続けるしか無かった。逃げなければならない。ここに止まってはならない。そんな気がしてならなかったのだ。それに……この辺りには火の見やぐらは何処にも無いのだ。それならば、半鐘の音はどこから聞こえてくるのか、という話になる。誰もそのことを口にしないのは、これ以上可笑しな出来事が起きるのは阻止したかったからであろう。今この状況で何かを口にすれば、不安は形を得て現実の物となってしまう。そんな気がしてならなかったのだろう。

 目指す先も鞍馬駅である以上は一本道。道を間違うことは在り得ない。ひたすら走り続ければ良いだけのことだ。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。俺達の鼓動も、この半鐘と同様に凄まじい早さで刻まれていたことだろう。走って、走って、とにかく走り続けた。息が切れて、肺が痛む感覚を覚えた。立ち止まる訳にはいかなかった。どれくらい走っただろうか? 駅まであとどれくらいだろうか?

「駅はまだ見えて来ないのかよ!?」

「相応の距離はあるはずだ。とにかく急いで逃げるぞ」

 何故こんな事態に遭遇しているのか意味不明だった。だが一つだけ判ること。それは、この場に留まってはいけないという事実。だからこそ半鐘の音に追われる様に俺達は走り続けるしか無かった。足が吊りそうになったが、それでも必死で走り続けた。危険が迫っているのは間違い無かったのだから。

 いよいよ限界が近付いてきたところで、唐突に半鐘の音色が止んだ。何事も無かったかのように突然静まり返る。

「あ、あれ? 鐘の音色、止んだみたいだぜ?」

 力丸は慌てて足を止めた。周囲に耳を傾けながらも、やはり音が止んだことを確認していた。

「一体何だったのだ? どこかで火事が起きたようには感じられなかったが」

 なおも警戒心を解くことなく太助は周囲の異変に気を配っていた。皆突然静まり返った街に警戒心を抱いていた。罠か? 安心させておいて不意を突くつもりか? いずれにしても油断は出来なかった。

 ふと周囲を見れば大地の姿が無かった。慌てて周囲を見渡せば、ある民家の玄関先にしゃがみ込んでいた。水路を流れる水の音だけが妙に鮮明に響き渡る。「大地、何かあったのか?」。声を掛けようと、近付いた俺の視界に異様な物が飛び込んできた。何か、言葉に出来ない禍々しさを放つ楕円形の物体であった。大地は目を大きく見開き、瞬きすらせずにその禍々しき物体を凝視していた。

「おお、コタか。この家の玄関先に何か落ちているのじゃ」

 抑揚の無い口調であった。こちらを振り返ることもなく、棒読みの様に放たれた言葉に戦慄を覚えた。大地はそっと手を伸ばそうとしていた。とても嫌な気配を感じていた。

(駄目だ! 大地、それに触ってはならない!)

 またしても発しようとした声は何者かに阻止された。静かになった街の様子に皆は、ほっと胸を撫で下ろしていた。だが、俺の恐怖は終わっていなかった。何故他の仲間達は大地の異変に気付かないのか?

(誰か! 誰か、大地を阻止してくれ! 気付いてくれ!)

 俺の切迫した想いとは裏腹に大地はゆっくりと手を伸ばす。そして楕円形の物体を手にした。暗くてはっきりとは見えないが、目を良く凝らして見つめてみた。小面の面。噂に聞いた能面がそこにあった。若い女性を象った面はどこか薄汚れており、酷く気味が悪く思えた。異様に赤々とした、濡れた光沢を放つ唇が艶かしい雰囲気を孕んでいた。だが、その妖艶な雰囲気とは裏腹に、能面は氷の様に冷たい眼差しを称えていた。

「ロック、何か面白いでもあったのか? ん? な、何だよそれ?」

 大地の後ろから恐る恐る覗き込む力丸は大地が手にした物に気付いて酷く驚いていた。

「うぉっ!? う、薄気味悪りぃ能面だな……」

 能面……恐らく輝が入手したうわさ話にあった物は此れなのであろう。

「え? それって能面? それじゃあ、うわさ話は……」

 俺の後ろから恐る恐る覗き込みながら、輝が驚嘆の声をあげる。

 ぶつぶつ言いながらも、大地はおもむろに、不器用な手つきで能面をつけようとしていた。何を言っているのか聞き取れない程に小さな声であったが、唄のようにも聞こえた。

「止せ! 駄目だ、大地! それをつけてはならない!」

 俺の声に驚き、皆が大地を止めようとした。だが、時既に遅し。大地は既に能面を身に付けてしまっていた。

「お、おいおい……ロック、大丈夫かよ? そんな気色悪いのつけちまって……」

 力丸が心配そうに声を掛ければ、大地は微かに咳き込んでいた。幾らなんでも玄関先に無造作に置かれた能面に違和感を覚えない訳が無い。だとすると、大地はこの能面に魅入られたのだろうか? そう考えれば一連の行動も説明がつく。理解も、納得も出来ないが……。

「うえっ……か、かび臭いのじゃ」

 我に返ったのか、大地はかび臭さにむせていた。妙な匂いが気持ち悪いのか、大地はさっさと能面を外そうと試行錯誤していた。だが、不器用な手付きにしては、妙に手間取り過ぎているように思えた。

「何なのじゃ、これは!? こんなかび臭いのは、さっさと外すのじゃ……って、おりょ?」

 妙に裏返った声をあげる大地に、輝が笑いながら突っ込みを入れる。

「もう。ロックってば、そんな古典的な手には引っ掛からないよ。ぼく達を驚かそうとしているのでしょうけど、その手には乗らないよー?」

 一瞬、場に笑い声が零れ落ち、緊迫した空気が緩んだ気がした。だが大地の声は酷く震えていた。肩を小さく震わせながら、奥歯をカタカタと鳴らしていた。再び皆の間に戦慄が駆け巡る。

「い、いや、そうじゃないのじゃ。は、外れないのじゃ……」

「えぇっ!? マジかよ? ちょっと待ってな。オレが外してやるからよ」

 冗談では無いことはすぐに判っていた。大地はこんな薄気味悪い状況で、冗談を言って皆を盛り上げるような性格では無い。驚いた力丸が慌てて力を篭め能面を剥がそうと試みた。

「ぎゃー、痛い、痛い! リキよ、止めるのじゃ!」

「おいおい、マジかよ? この能面……顔にベッタリ貼り付いちまってるぜ?」

 力丸が発した驚愕の悲鳴に、皆の間に再びの戦慄が駆け巡る。

 だが、異変はこれでは終わらなかった。不意に霧が立ち込め、周囲は異様な冷気に包まれる。背筋を何か、氷の様に冷たいものが伝っていく感覚を覚えた。緊張に堪えかねたのか、輝が裏返った声で皆を見回す。

「こ、今度は何が起きようとしているの!?」

 それを制するかのように、太助が皆の前に手を突き出す。

「静かにしろ。何か声が聞こえる……」

 俺達は静かに耳を傾けた。何かの物音が聞こえる……耳を済ませて聞いてみれば、どうやらそれは砂利が擦るような音のように思えた。つまりは人の足音だ。それも数え切れない程の。不意に一斉に街灯の明かりが音も無く消えた。辺りは完全な闇夜に包まれる。照らすものは雲間から覗く、頼りない月明かりしか無い。

『とおりゃんせ とおりゃんせ……』

 不気味な歌声が聞こえてくる。抑揚の無い、機械が作り出す音声のような声。ついでに闇夜に浮かぶおぼろげな光。ほたるの光の様にぼんやりとした明かりは、鞍馬温泉の方から列を成して道を下ってくる。慌てて振り返れば、鞍馬駅側からもゆっくりと光の群れが道を上ってくる。おぼろげな光は提灯の明かりであった。人々は手に手にゆらめく光を称えた提灯を持ちながら、ゆっくりとにじり寄ってくる。

『ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ……』

 異様な光景だった。様々な能面を被った人々が道の向こう側と、こちら側とから迫ってきていた。まるで、逃がしはしないと言わんばかりに。能面に隠れて表情は伺い知ることは出来ないが、無機的に紡ぎ出される声は抑揚が無く、冷たい殺気を孕んでいた。

 昨日体験したのと同じ光景だった。言葉に出来ない恐怖に足がすくむ。震えが止まらない。吐き出しそうな程に動揺していた。破裂しそうな程に鼓動が高鳴る。どうすることも出来ない恐怖。耐え難い現実から逃げ出すことしか考えられなかった。信頼できる仲間達が隣にいる。その心強さだけが辛うじて心の支えになっていた。

『ちっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ……』

 ゆっくりと足音が近付いてくる。明らかに俺達を追い詰めるかのように。逃げ道は無い。鞍馬駅から鞍馬温泉までの間は道が一本だけだ。わき道など無い。

『この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります……』

 皆一様に戦慄していた。あまりにも異様な光景は、この世の物とは思えない光景であった。追い討ちを掛けるかのように不意に唸りを挙げる空。轟く雷鳴。空を駆け巡る稲光。

「くっ! こうなったら、手当たり次第殴り飛ばしちまうか!?」

 力丸が皆に向って吼える。それも一つの手かも知れない……我が身を守るためであれば、得体の知れない連中がどうなろうが知ったことでは無い。賛同できる意見だ。

 不意に人々が歩を止める。再びの静寂。何もかもが一瞬沈黙した。雷鳴も、稲光も、人々が歩む音も、それから……不気味な唄も。唐突に頬に雨粒が落ちた。まるでそれが開幕の合図であったかのように響き渡る微かな声……。

『行きはよいよい 帰りはこわい……』

「あ、アレ? 急に静かになったよ?」

 次の瞬間、人々は声を張り上げ、続きを全力で唄い上げた。

『……こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ!』

 刹那……辺り一面を包み込むような稲光の激しい閃光。それに続けて何処か、近くに落雷したかのような凄まじい轟音が響き渡る。体中に衝撃が伝わって来る程の激しい轟音は地面をも唸らせた。山が唸りを挙げたかの様な衝撃が体を駆け巡る。呼応するかの様に、辺りには視界を遮る濃く、冷気を孕んだ霧が立ち込める。雨足も一気に強まった。

 次々と能面を被った人々が迫ってくる。じわじわと距離を縮められながら、俺達は逃げるので精一杯だった。

 叩き付けるような激しい雨。視界を遮る雨と深い霧。轟く雷鳴と駆け抜ける稲光。人々はじわじわと輪を縮める。俺達を包囲するかのように。捕らえられれば命の保障はされないだろう。不安と焦りに支配されそうになる。どうすれば良い? 迷う俺の心を見抜いたのか、唐突に力丸が力強く吼える。

「うぉおおっ! てめぇら邪魔なんだよっ!」

 そのまま体ごと力一杯体当たりをかませば、跳ね飛ばされた能面の人々が倒れる。

「今だ! 皆、駅に向かって走るぞ!」

 力丸の言葉に続き走り出そうとしたが、大地はうずくまりながら何かをブツブツ呟いていた。やはり、この能面と人々の奇行には関係がありそうだ。そうだとしたら一刻も早く鞍馬から逃げ出さなくてはならない。俺は急ぎ、大地に手を差し伸べた。

「大地、立てるか!?」

「だ、大丈夫なのじゃ。それより、早く逃げるのじゃ!」

 こんな展開を一体誰が予測したであろうか? 叩き付けるような雨の中、俺達は必死で走った。相変わらず人々は抑揚の無い声でとおりゃんせを唄い続ける。異常過ぎる光景であった。轟く雷鳴、駆け巡る稲光、それから叩き付ける様な雨。まるで太鼓の音色だ。様々な種類の太鼓を一斉に打ち鳴らすかのような豪快な音色だった。

 俺達はただ必死に走り続けた。駅に逃げ込めば助かる。何の根拠も無いのに、一体どこからそんな自信が湧き上がってくるのか疑問であったが、縋るべき何かが無ければ足が止まってしまいそうな気がしていた。皆を繋ぎとめられるのであれば、どんなに適当な理由でも良かった。今の俺達にとって重要なのは、この局面を逃げ切ること。それだけだ。

 視界が遮られるほどの雨。服も、靴もずぶ濡れになっていた。それでも走り続けた。じわじわと靴下が濡れる不快な感覚に鳥肌が立つ。

 人々はゆっくりとではあったが、確実に俺達を包囲しようとしていた。もう、何が何だか判らなくなっていた。ただ、逃げなくてはいけない。その事実だけは理解していた。

「い、一体、どうなっているの!?」

「うわさ話には、能面被った連中に追い回されるという話は無かったのか?」

「そんな話、一言も聞いてないって!」

「無駄口叩いている暇なんかねぇって。捕まったら、どうなっちまうかわかんねぇぜ?」

「力丸の言う通りだ。余計な詮索は後回しだ。とにかく逃げるぞ!」

 どれだけ走ったのだろうか。土産物屋の看板が見えてきた。もうじき駅だ。雨足は強まる一方であった。人々の群れはなおも執拗に、ゆっくりと近付いてくる。獲物を追い込むつもりなのだろう。鞍馬駅に近付くにつれ、言葉に出来ない違和感に気付き始めた。

 駅の明かりは消えていた。微かな明かり……それは提灯の明かりであった。手に提灯を持つ駅員もまた能面を被っていた。不気味にゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「えぇっ!? うそでしょう!?」

「くそったれ! 絶体絶命かよっ!?」

 何か退路はある筈だ……。こんな時だからこそ冷静さを失ってはいけない。だが平常心を保とうとすればするほどに心は乱れる。どんどん近付いてくるとおりゃんせの歌声に完全に心をかき乱されていた。

(もはや打つ手はなしか……ああ、誰でも良い。俺達を助けてくれ! どうか、頼むっ!)

 叩き付けるような雨。轟く雷鳴。駆け抜ける稲光。もう、何も考える余裕は無かった。早鐘の様に心臓が高鳴る。恐怖の余り、手が、指が痙攣するかのように震える。口がカラカラだ。飲み込もうにも唾さえ出て来ない。額に滲むのは、汗なのか、雨なのか、もはや訳が判らなくなっていた。

 絶体絶命の状況に焦りが頂点に達した時であった。背後から力丸の悲鳴が響き渡った。

「うぉっ!? て、てめぇら、何しやがる! 離せっ! 離しやがれっ!」

「え!? ちょ、ちょっと、何するの!? 止めてよ!」

 輝もまた彼らに捕らえられていた。

 不意に誰かが俺の手を掴む。慌てて振り返れば大地が俺の手をしっかりと握り締めていた。だが、明らかに様子がおかしい。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ……」

「だ、大地、しっかりしろ!」

 とても正気を保てる状況では無かった。いつの間にか太助も能面をつけられていた。仲間達がとおりゃんせを口ずさみながら迫ってくる。

 俺は本気で死を覚悟していた……もっとも縁遠いと思っていた瞬間と再び直面していた。その瞬間というものは唐突に、何の前触れもなく現れる。随分と残酷なものだ。

 後悔というものは、前には立たない物なのだな。そんなことを真面目に考えている自分が滑稽だった。一体、どうして、こんなにも冷静でいられるのだろうか? そうさ……嫌な予感は判り切っていたはずなのだ。昨日の出来事は確実に凶事を告げていたのだ。なぜ、あの時、鞍馬に向かおうという話を阻止しなかったのか!? 鞍馬を散策する前に、無理矢理にでも輝を阻止することだってできたはずだ! 俺が余計な話をしなければ鞍馬に来ることも無かったかも知れない! こんな事態に陥ることも無かったのかも知れない。皆を生命の危機に遭わせないで済んだのかも知れない。やらなかったことを後から悔やむのはただの時間の無駄でしか無い。そんなことは判っている! だが、目の前にいる仲間達……能面を被らされ、抑揚の無い声でとおりゃんせを唄い続ける仲間達。こんな異様な光景を目の当たりにして、何も出来ない自分自身の非力さが悔しかった。

(皆……ごめん。俺が余計なことを口にしたばかりに、危険に巻き込んでしまって!)

 不意に、誰かに突き飛ばされ俺は転倒した。次の瞬間、誰かの手が俺の顔に能面を被せようとしているのが見えた。雨でずぶ濡れになったその手は凍り付く程に冷たかった。

(ああ、これで俺の人生もお終いか……)

 もはや、誰の手なのかも判別は出来ないほどに、人々が折り重なっていた。死を覚悟していた俺は静かに目を伏せた。

◆◆◆13◆◆◆

 唐突に風を切るような音が聞こえた。続いて風が頬を撫でる感触。鋭い動きで何かが目の前を横切った感覚だった。

「か、カラス?」

 それは大柄なカラスであった。夕方、鞍馬の駅で見掛けたカラス……何の根拠も無いがそんな気がしていた。唐突に飛び掛られて誰かが転倒した。チャンスだった。今なら逃げ切れるかも知れない。もはや何も考えることは出来なかった。唐突に飛び出して来たカラスのことも、能面をつけさせられた仲間達のことも。ただ、この場から逃げ出したいという衝動だけしか無かった。俺は慌てて立ち上がると、仁王門を目指してひたすら走り続けた。赤い灯籠が放つ微かな光りだけを頼りに、力の限り走り込んだ。能面の人々が執拗に立ち塞がったが構ってなどいられない。

「うおぉっ! 退けっ! 退けーっ!」

 次々と殴り飛ばしながら俺は必死で逃げ続けた。

 在り得ない話なのは判っていた。鞍馬寺から本殿金堂、木の根道と抜け、魔王殿を経由して貴船へ逃げる。出来る訳が無いのは判っていた。こんな暗闇の中を駆け抜けられる訳が無かったのに。不可能なことは理解していながらも、俺は仁王門へと駆け抜けた。

 俺は最低な奴だ……大切な仲間達を見捨ててまで「生」に縋る。皆を助け出すためなんて都合の良い言い訳だ。都合の良い言い訳どころでは無い。自らの罪を覆い隠すための「偽りの大義名分」だ。臆病者以上に性質が悪い。ああ、そうだ! 俺は逃げ出したかっただけだ! ただ、俺自身の身を守りたかっただけだ! 結局、自分しか愛せない、薄情者で、卑怯者だ! 何が友情だ! 何が命より大切な友だ! 所詮口先だけの奴なのだ! 結局俺はあの時から何一つ変われていない。嘘吐きと罵られ、人殺しと叫ばれた、あの時から! 涙があふれてきた。不甲斐なさと、情けなさと、どうすることも出来なかった無力感に俺は打ちのめされていた。

「俺は……俺は、どこまで最低な奴なんだ! そんなに死ぬのが怖いのか!?」

(ああ、そうさ。死ぬことは怖いさ……)

 仲間達を見捨ててでも、自分だけでも生き永らえようとする。どこまでも人らしい生き方を選ぶ自分の見苦しさが哀しくて、哀しくて、途方も無く可笑しかった。

 あれからどれ位走ったのだろうか? 雨足は相変わらず強く、木々の葉を叩き付ける雨粒の音が響き渡る。光の無い鞍馬山の参道。恐らく、このまま道なりに走り続ければ本殿金堂に辿り付けるだろう。少なくても開けた場所に出れば時間稼ぎも出来る。朝日が昇れば逃げ切ることも出来るかも知れない。だが、そんな俺の浅はかな想いはすぐに打ち砕かれた。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ……」

 追っ手は執拗に追い掛けてくる。逃げるしかない。もはや、息もすっかり上がり、足も酷く痛んだ。大雨のためか、石段は滑り易くなっており、何度も足を取られて転倒しそうになった。

 今の俺を動かしているものはただ一つ。「生きたい」という気持ち。ただそれだけ。生への執着というものは、これ程までに人を醜くするものなのかと実感しながら走り続けた。呼吸が苦しい。肺がひどく痛む。逃げる途中に足を挫いたのか、踏み出す度に左足に刺激的な痛みが走る。

「天神様の細道じゃ……ちっと通してくだしゃんせ……」

 予想以上に能面を被った者達の足は早い。確実に距離を縮められている。それを判っているのか、奴らは焦らすようにじわじわと迫ってくる。もう、逃げられないのかも知れない……。微かな希望は、確かな絶望へと変貌しようとしていた。どこまでも惨めな最期だ。仲間を見捨てて自分だけ助かろうと逃げ延びた。だが追っ手に捕まり、結局助からない。醜い俺には相応しい最期なのかも知れない。だからといって素直に受け入れるつもりは無い。逃げ切ることが出来たならば、皆を助け出す手段を見つけることも出来るかも知れないのだから。絶対に掴まる訳にはいかない。とにかく逃げ延びるしかない。

「はぁっ、はぁっ……絶対に……絶対に逃げ延びる!」

 周囲は完全なる漆黒の世界。辛うじて道があることは判るが、それが正しい道であるかどうかは確かめられない。それに足場が悪い上に、降り注ぐ冷たい雨にゆっくりと体力を奪われ続けている。長くはもちそうに無い……。不意に前方からぼんやりと明かりが見える。

(まさか、先回りされたのか!? 一本道で前後から挟み撃ちでは、逃げようが無い!)

 ゆっくりと近付いてくる人々。とおりゃんせの歌声も次第に大きく聞こえ始めた。もはや逃げ道は他には無い。俺は考えることを止めると、道無き斜面へと向かい走り出した。人が通れるような場所では無い。そんなことは判り切っていた。生い茂る木々の枝に体がぶつかり、酷く痛んだが、それでも駆け登るしか無かった。死にたく無い! 生きたいんだ! 生きて、生きて、何が何でも生き延びるんだ! それだけしか考えられなかった。必死だった。足元を取られ転倒した。それでも必死で逃げ続けた。泥まみれになり、傷だらけになり、さぞかし見苦しい姿になっていたことだろう。

(来るな、来るな! 俺は死にたくない……嫌だ、死にたくない……生きたい、生きたい、生きたいんだ!)

 その時であった。

「え?」

 何者かに足を掴まれた。凄まじい力だ。骨が軋む程に指が食い込んでくる。

「あああっ!」

 凄まじい力で引き摺り下された。驚き、俺は慌てて顔をあげた。

「ひ、輝!?」

 見間違える筈がない。能面を被っているが、そいつは間違いなく輝だった。いや、輝だけじゃない。大地が、力丸が、太助が、すぐそこに佇んでいた。皆一様に俺を見下ろしていた。能面に包まれ、表情を伺うことは出来ないが、判ってしまった。凍えそうな程に冷ややかな眼差しで俺を蔑んでいることが。怒りの感情が。憎悪の感情が!

「違う……違うんだ……決して、見捨てた訳じゃ無くて!」

 滑稽だった……恥の上にさらに恥を塗り重ねる。どこまで俺は見苦しいのだろうか。自分の弱さが本当に情けなくなる。

「……」

 輝は何も言わずに、俺の首に手を掛けた。

「え? ひ、輝、何をするんだ?」

「……」

 ゆっくりと俺の首を絞める冷たい手。再び強まり出した雨粒が木々をかき鳴らす。木々の隙間から零れ落ちる雨粒が容赦なく顔に当たる。

「うぐっ!……く、苦しいっ! 息がっ……! よ、止せ、輝っ……!」

 ギリギリと力を篭めて締め付ける冷たい手。必死の抵抗も、まるで意味を為さない。

 薄れ往く意識の中で、俺はゆっくりと堕ちてゆく感覚を覚えていた。苦しみから解き放たれ、ゆっくりと浮上するような感覚。霧が掛かった様に目の前が段々と白く染まってゆく。

(ああ……これが死ぬという感覚なのか……因果応報だろうな……皆を見捨てた報いか……)

 恐怖からか俺は力強く目を閉じていた。どれ位の時間が過ぎたのだろうか? 不意に、背後から風を感じる。俺は確かに地面に押さえ付けられていたはずだ。背後から風を感じる訳が無い。恐る恐る目を開く。

(こ、ここは……屋上!?)

 一体、どうなっているのか判らないが、この光景には確かに見覚えがある。忌まわしい出来事の最終章……。屋上。フェンスの向こう側。何事も無かったかの様に校庭を歩む生徒達を見下ろしていた光景。二度と思い出したく無かった光景であった。

「早く飛び降りろよ! この人殺しが!」

 俺に罵声を浴びせ掛ける卓。思い出したくも無い、あの場面が克明に蘇る。そっと下を覗き込む。一気に強い風が吹き上げた。五階建ての校舎。何時の間にか校庭には人だかりが出来ていた。当然だろう。人が飛び降りようとしているのだ。気にならない訳が無い。

「鳥になるんだろう? 早く成って見せろよ。それともお前は嘘吐きなのかよ?」

 出来る訳が無い! 今の俺は惨めなまでに、必死に生に執着している。あの時のように頭に血が上った考えに至ることなど出来る訳が無い!

 あの時とは何もかもが違い過ぎているのだ。死というものが、どれ程恐ろしい物かも理解している。だからこそ出来る訳が無いのだ。それに……恐らく、ここから飛び降りれば、地面に酷く叩き付けられ間違いなく即死するだろう。骨が砕け、臓器が破裂し、見苦しく血と体液を撒き散らしながら死んでゆくことになるのだろう。嫌だ! そんなのは絶対に嫌だ!

 不意に冷たい風が吹きぬける。何時の間にか周囲には青白いほたるが舞っていた。

(この青白い光……また、あの時の!?)

 慌てて振り返れば卓は般若の面をつけていた。級友達も皆、般若の面をつけていた。

「小太郎……お前は俺の首を絞めて殺そうとした。判っているのか? お前は人殺しなんだ。罪人なんだ。罪は償われなければならない……。受け入れよ、情鬼になる道を!」

 卓が、級友達が、じわじわと近付いてくる。何時の間にか皆手に長い棒を持っている。それが何を意味しているのか、理解できてしまったからこそ恐怖は一気に最高潮に達する。再び死と隣り合わせになった瞬間であった。

「お前はここで死ね!」

「そうだ、死ね!」

「死ね! 死ね!」

 嘲笑いながら皆が棒で突く。

「や、止めろ! 危ないだろ!?」

「……馬鹿か? お前はここから飛び降りて死ぬんだよ?」

「よ、止せ、止めろ! 頼む、止めてくれ!」

 惨めだ……心の底から殺してやろうと思っていた、あの卓に、命乞いをしている自分がいる。ありったけの憎悪を篭めて、本気で殺そうと首を絞めた卓に詫びを入れ、許しを請うている。そこまでして生に執着する必要があるのか? 誇りよりも、生きることを重んじてしまった自分の弱さが途方も無く情けなく、憐れ過ぎて、自分で自分が嫌になる。

「せーの!」

「!!」

 一斉に皆が棒を突き出した。一瞬、足元がふわりと軽くなる感触。浮かぶような感覚。次の瞬間、俺は一気に頭から落下していくのを感じていた。校庭の方から女子生徒の悲鳴が聞こえた気がする。もうじき地面だ……。

 一瞬感じた凄まじい衝撃。落下の衝撃で軽くバウンドしたのかも知れない。だが痛みは無かった。変わりに手も足も動かせない。妙な感覚だった。被害者が加害者に転じた瞬間、罪も摩り替わるのだろうか? 罪を負うべきは俺では無い……ああ、段々、世界が白くなってゆく。嫌だ……駄目だ……死にたくない……死にたくないっ! 

 薄れ往く意識の中で、駆け寄ってくる輝の姿が見えた。

「どうして! どうして、こんなことに! コタ、駄目だよ、死なないで! ぼくを置いていかないで! 一人にしないでよっ!」

 輝の頬を大粒の涙が伝い、俺の頬に落ちる。そこには確かな命の温もりがあった。「俺は大丈夫だ」。その一言さえも発することが出来なかった。手を伸ばそうにも、まるで動く気配が無い。動揺。焦り。死を実感する瞬間。

(嫌だ! 死にたくない! 俺はまだ、やりたいことが沢山あるんだ! 頼む、輝、救急車を呼んでくれ!)

「ううっ、コタ、コタ! 死んじゃ駄目だよっ! お願いだから、死なないで!」

(ああ、輝! そうじゃない。そうじゃないんだ! 救急車を……救急車を呼んでくれ!)

 だが、想いは形にすらならない。伝えたい想いも、言葉も、何一つ発することが出来ない。不思議なものだ。何時も一緒に歩んで来た輝に対して、最期の瞬間だというのに言葉が見付からない。感謝の気持ちを伝えたい……いや、違う! 諦めては駄目だ! 俺はまだ死ねない! だが、無常にも視界がどんどん白く霞んでゆく。ゆっくりと、ゆっくりと、地面に沈んでゆくような感覚。死にたく無い! お願いだ、誰か、助けてくれっ!

◆◆◆14◆◆◆

 もう助からないのだろうか……希望はすぐに絶望へと変容した。本気で死を確信した瞬間であった。だが、そんな俺の覚悟をも打ち破る事態が起こる。唐突に響き渡る法螺貝の音色。ざわめく能面をつけた人々。否、むしろ動揺していると言ってもいい程にうろたえていた。

(何だ? この法螺貝の音色が、一体何だというのか?)

 一際強く大空を雷鳴が駆け抜けた瞬間、木々の隙間をすり抜けながら何かが一斉に降り立った。空から次々と舞い降りて来る者達の姿。暗闇の中では彼らの姿ははっきりとは判らない。ただ、少なくても敵では無いことだけは判った。

「一人とて逃すで無いぞ。必ずや皆、仕留めよ!」

 次々と舞い降りる人影の中でも一際大柄な人影が声を張り上げる。法螺貝を手にしている所を見ると、先刻法螺貝を吹き鳴らしたのはこの人物なのかも知れない。妙に冷静な判断をしている俺自身が滑稽に思えた。しかし口にした言葉は良く考えれば相当に物騒な内容である。仕留める……つまりは「殺せ」という意味である。正体不明の存在たちではあるが、物騒な言葉が気に掛かった。

 人は本当に身勝手なものだ。生きるためならば何だってすると思っていたクセに、いざ身の安全が確保されれば掌を返したかの様に偽善を口にする。数分前までは皆殺しにしてでも生き延びると思っていた自分は一体何だったのか? 人という生き物が傲慢だという事実を理解させられていた。だからこそ俺は罪人なのかも知れない。そんなことを考えていた。

「そうだ……輝!? 輝、何処へ行った!?」

 突然の騒動で輝の姿を見失った。何時の間に逃げ去ったのだろうか?

 木々の間から次々と舞い降りてきた彼らは白い装束に身を包んでいた。まるで昔の山伏の様な風変わりな服装であった。流れるような動きで、手にした六角柱の棒を振り回しながら次々と能面を被った人々を鎮圧してゆく。良く見れば、狙っているのは人では無く、あの不気味な能面であった。手にした六角柱の棒で器用に能面だけを打ち砕いている。能面を砕かれた人々は次々と意識を失ったかのように崩れ落ちる。呆気に取られていたが、不意に法螺貝を手にした人影が近付いてくるのが見えた。思わず身構える俺にそっと大きな手を差し出した。敵意が無いことを示したいのだろうか?

「その願い、確かに受け取った。これにて『契約』は成立する。永き時を経て……今、邂逅の時」

 刹那、駆け抜ける稲光が彼の姿を照らし出した。大柄な体付き。その人物の背中からはカラスの様な漆黒の、雄大な翼が生えていた。稲光に照らし出されたその顔はまさしくカラスそのものであった。俺は轟く雷鳴の中で意識が遠退くのを感じていた……目の前に佇む者。手を差し伸べた者。そいつの姿は、まさしく伝承の中で目にしたカラス天狗の姿その物であった。

「小太郎よ、済まぬが正式なる邂逅の時は今暫く後になろうぞ。辛い想いをさせることになるが、悪く思うで無いぞ」

(辛い思い? 一体どういうことだ? ああ……駄目だ、意識が遠退く……)

「必ずや我がお主を守る。……あの時に交わした『約束』、次に会う時に確かめさせて貰おうぞ。では、しばしの別れよ……」

(あの時に交わした『約束』だと? 何を言っているのか意味不明だ……それよりも、輝達は一体どこに!? ううっ……駄目だ、意識が遠退く……)

 ゆっくりと地面に沈んでゆく。そんな不可思議な感覚を覚えていた。意識が遠退く……手も、足も、ぴくりとも動かせない。生きているのか、死んでいるのかそれさえも判らない不可解な感覚を覚えながらも、どうやら俺は眠りに就いたようだ。とても深い……深い眠りに。

◆◆◆15◆◆◆

 どれ位の時間眠っていたのだろうか。遠くを流れる微かな川の流れが聞こえる。頬を撫でる水気を孕んだ風を感じていた。ヒンヤリと冷たい石段。俺はそこに横たわっていた。視界に入るのは瑞々しい木々の緑と隙間から覗く青空。良い天気だ。既に雨は止んだのだろう。木々の隙間から朝日が見えた。そっと地面に触れてみれば、昨晩の雨の名残か、地面は水気を孕んでいるように思えた。

(ここは……貴船神社?)

 ようやく意識が鮮明になってきた。俺は起き上がり周囲を見渡した。眼下に広がるのは長い石段と赤い灯籠。見覚えのある景色から、俺は自分がいる場所が貴船神社であることに気付いた。小鳥達のさえずりが聞こえてくる。穏やかな朝の光景。だが、だからこそ理解不能なことだらけであった。一体何故、自分は貴船神社にいるのか? 能面を被った連中はどうなったのか? そして、『約束』と口にした得体の知れぬ存在。理解出来ないことだらけだった。昨晩の出来事を思い出し、服に目線を送る。泥塗れになったはずなのに、まるで汚れていなかった。まさか、あれは……夢だったのか? 考えを整理しようと、立ち上がった瞬間、左足に鋭い痛みが走った。

「!?」

 左足にくっきりと刻まれた指の跡。

(やはり、あれは悪い夢なんかじゃ無かったんだ。だとしたら、皆はどうなった!?)

 考えたくなかった。恐らく、行方知れずになっているだろう。静まり返る景色から察するに、少なくても自分の知っている範囲内には存在してはいないのだろう。

「俺は……これから、どうすれば良いのだろうか? 皆を見失ってしまった……いや、見捨てた、というべきなのか?」

 ようやく現実を理解出来てしまった。皆を探そうにも何の手掛かりも残されていない。皆を見捨てて逃げ出した事実が重く圧し掛かる。

(いや、そうじゃない……皆と共に巻き込まれていたら、俺は皆を救い出すことは出来ない。少なくても、俺は此処にいる。言い換えれば、皆を救い出すことが可能な訳で……)

「つくづく嫌になる……よくも、そんなことを軽々しく言えるものだ。前向きな発想を口にしているように見せ掛けて、本当のところは『都合の良い言い訳を思い付いた』だけに過ぎないのに……」

 一体どうすれば良い? 皆を見付け出さないと……。いや、今の自分に一体何が出来る? あの能面をつけた連中を相手に、為す術も無く逃げ回っただけでは無いか。俺の手に負える様な代物では無いのは間違いない。いずれにしても一度家に戻ろう。ここにいても何も始まらない。

 俺はゆっくりと石段を降り始めた。木々に抱かれた貴船神社は荘厳な雰囲気が漂う場所で、本当に心が落ち着く場所。だけど今の自分に取っては哀しみしか無かった。後悔と言えば良いのか? 足は鉛の様に重たかった。痛むのもあったが、それ以上にじっとりと水気を孕んだかの様に重みを感じていた。

 雨上がりの石段から漂う石の匂い。しっとりとした湿気を孕んだ木々の香り。誰もいない貴船神社はあまりにも静か過ぎた。大きく手を広げるかのような雄大なるご神木の桂。朝日を浴びて一層雄大な姿を描いていた。その光景に俺は確かな『生』を感じていた。瑞々しい苔の香りは目を背けたい現実をありありと浮き立たせる。清々しい木々の香りは言葉にできない哀しみに鮮明な色合いを灯す。一つだけ……一つだけ確かなこと。もう、みんな戻ってこないし、もう、二度と会えないということ。それは確信。そして後悔。だからこその懺悔……。

 不意に何かを踏んだ感触。渇いた「何か」を踏んだ感触。蝉の抜け殻のような感触だった。慌てて足を退ければそこには無残な姿になったほたるの姿が残されていた。渇いた亡骸は踏み付けられて見る影も無く砕け散っていた。

(そうか……『死』とはこういう物なのか。もっと生々しい物なのかと思ったけれど、こんなにも渇いた物なのか。皆が戻って来ない事実も……こんな風に、渇いた現実なのかも知れない)

「帰ろう……」

 誰に対して放った言葉なのか自分でも判らない。自分自身に呼び掛けたのかも知れない。此処にいても何一つ事態は変わることは無い。だったら此処にいる理由は無い。

 皆が行方不明になり俺だけが逃げ延びた。だからこそ役目を果たさねばならない。皆を救出出来なければ俺は本当の意味で「鬼」になってしまうだろう。そんな気がしてならなかった。取り敢えず貴船口を目指そう。家に戻らないことには何も始まらないのだから。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日と、涼やかな風。それから心地良い川の流れる涼やかな音色を感じながら、俺は貴船川に沿って歩き始めた。

◆◆◆16◆◆◆

 早朝の叡電は人気が少なく、空虚さで満たされていた。誰も乗り合わせる乗客もいない列車。ガタンガタン。列車の走る音だけが響き渡る。本当だったら皆と一緒に帰るはずだった帰り道。どうして自分一人なのか未だに理解できずにいた。何時ものように俺の反応を期待しているだけならば少々悪戯が過ぎる。だが、これは悪戯などでは無い。現実に起こってしまった出来事なのだから。避けようが無い真実。受け入れるしか無い現実。

「……静か過ぎるな」

 清々しい朝日を浴びながら叡電は走り続ける。出町柳を目指して、ただまっすぐに。

 木々に包まれた景色からは涼やかな香りが感じられた。流れる川の涼やかな音色。夏の朝。本当に長閑な情景だった。だからこそ余計に胸が締め付けられた。川の流れる音、列車が走る音、木々の葉が風に揺れる音、それから小鳥の声以外は聞こえなかった。

「あの時、逃げ出さなければ……」

 後悔。決して先には立たない物。だからと言って過去の一時点に戻れる訳じゃない。選ばなかった選択肢を悔やんでみても、何も事態は変わりやしない。そんなことは判っている! それでも抑えようの苛立ちを抱え切れずにいた。誰でも良かった。喧嘩でも売ってくれれば、殺すまで殴り続けただろう。あの日、あの時、卓を殺そうとした、鬼としての自分ともう一度向き合えるだろう。

「判っている……そんなことをしても哀しみは消えやしない。余計に傷口が傷むだけだ……」

 窓の外を見上げれば窓から差し込む強い朝日に目が眩む。苛立ちついでに座席を思い切り殴ってみた。軽く拳がめり込んだだけだった。痛みも何も無い、無意味な感覚だった。

「違うな。傷口を痛ませることで、皆を見捨てた痛みを誤魔化そうとしているだけだ。リストカットするのと何ら変わりは無い。そんなの……自己満足の偽善に過ぎない」

 俺は此処で何をしているのだろうか? 時の流れは何時だって残酷だ。どんなに願っても、どんなに祈っても、前に進むことしか許してはくれない。決して後戻りすることは出来ない。だから本当に残酷だ。川の流れが逆流することが無いのと同じなのだろう。判っている。だけど割り切れなかった。頭で判るのと心で判るのとでは全然違う。間にある大きな障壁が行く手を阻む。何よりも、ただ悲観的になり、沈み込むだけの自分が本当に許せなかった。悔しかった。

 空虚な気分の中でも列車は走り続ける。駅から駅へと走り続ける。昨日訪れた道を逆再生するかのような光景が酷く哀しかった。だったら皆も戻してくれよ!……そう、叫びたかった。やはり時の流れは残酷で、決して後戻りはしてくれなかった。

 どうすることも出来ない無力な俺は誰も居ない列車の中で大きく足を投げ出し、ただ呆然と流れ行く景色だけを見つめていた。駅から駅へと繋ぐ線路。変わり往く窓からの車窓をじっと見つめたまま、ただ時の流れに身を委ねていた。どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 何時の間にか日は随分と高い所へと昇っていた。

「……もうじき、出町柳か」

 すっかり景色は街並みの景色に戻っていた。時の流れは全ての存在に等しく与えられるもの。スーツ姿のサラリーマンが、子供を後ろに乗せた自転車の若い母親が何時もと変わらぬ様子で踏み切りを待つ。カンカンカンカン。踏み切りの音が通り過ぎる。やがてゆっくりとブレーキが掛かり、金属が擦れ合う悲鳴が響き渡る。有機的な世界観に染み入る無機的な音が確かな「現実」を告げていた。

「何て説明すれば良いのだろうか……」

 考えれば考えるほどに頭が痛かった。だけど、前に進むしかない。立ち止まろうとしても、時の流れは残酷だ。強引に走らせようとするだろう。

(時の流れを止める手段はたった一つだけ……時の流れから外れれば良い。簡単なことだ。命を棄てれば良い。命無き者には、恐らくは永遠の時が約束されるのだろう……)

「冗談じゃない。そんなことのために死ぬつもりは毛頭無い!」

 やがて扉が開く。誰もいない孤立無援な列車を後にして俺は祇園四条を目指した。

(結局どんな言い訳をしても逃げたという「真実」、それから……皆が居ないという「現実」は逃がしてはくれない。罪を償え、か……。ああ、償うさ。どんなことをしてでも、絶対に皆を救い出すだけだ)

 雲一つ無い空。どこまでも澄み渡る青空。強い日差しに照らされて目が眩む。濁り、澱み切った俺の心とは正反対の空模様が酷く皮肉に思えて仕方が無かった。嘲笑うような空模様を睨み付けながら俺は地下へと続く階段を歩んでいた。日の当たる地上よりも、湿気のある暗い地下の方がよほど俺の性に合っている。そんなことを考えていた気がする。

◆◆◆17◆◆◆

 出町柳から先、俺はどうやって家まで帰り着いたのだろうか? 殆ど覚えていなかった。極限状態の中で酷く体力を消耗したのだろうか。自室に帰り着いた俺は、恐らくそのまま布団に倒れ込んだのだろう。どれだけの時間が過ぎたのだろうか? 次に気が付いた時にはジリジリと照り付ける強い日差しを感じていた。もう昼頃だろうか? 酷い暑さで、喉がカラカラになり目覚めた気がする。

(そうか……俺は寝てしまったのか)

 ふと、玄関の方から人の話し声が聞こえてくる。声の感じから察するに、誰かを責め立てているように聞こえる。聞き覚えのある声……俺の嫌いな奴の声だった。

(原因は間違いなく俺だろうな。仕方が無い。出迎えてくれるか……)

 階段を降り関先へと向かう。そこには予想通り、輝の母親の姿があった。俺と目が合うなり早くも噛み付いてきた。

「あなた! うちの輝が昨日から帰っていないの! 何か知っているのでしょう!?」

 唐突な断定。いきなり人を犯人扱いするとは理解不能だ。輝を見捨て一人逃げたこと。それは曲げようの無い真実ではあった。だが、そこまでの経緯を説明して理解して貰えるとは到底思えなかった。あれは「人」の手に負えるような領分では無い。それは間違いない。それに……この人は俺の話に耳を傾けやしないだろう。固定観念と先入観だけで物事を考える視野狭窄なオトナ。実に可哀想な人だ。

「残念だな。昨日学校で見掛けたきりだ。それに……」

 冷ややかな目で睨み付けながら、見下す様にほくそ笑みながら俺は続けた。

「あんたに嫌気がさして家出したとか考えられないのか?」

「な、なんですって!?」

 それで良い。怒りの矛先は俺に向ければ良い。罪は俺が全て背負う。輝の母はみるみるうちに顔を紅潮させていた。

 それにしても……この人も教師なのを考えると、実に教師という生き物は俺の理解の範疇を超える存在だと思わされる。自らの物差しをせっせと宛がっては、規格内だ、規格外だと喧しく騒ぎ立てる。杓子定規に則った物の考え方しか出来ない頭の固さに嫌気がさす。

「小太郎、何てこと言いはるん? 輝君のお母さんに謝り」

「俺は何も悪いことは言ったつもりは無い。『現実』から目を逸らすだけのあんたに、『現実』を伝えてやっただけのことだ」

(現実から目を背けているのは俺も同じか)

「も、もういいわ! あなたと関わっていると輝がどんどん駄目な子になっていく一方だわ! あの時の出来事だって……!」

「俺のせいだとでも言うのか!? 自分のことは棚に挙げて!?」

 思わず声を荒げてしまった。許せなかった。今回の一件に関しては罪を背負うつもりだった。だが、あの出来事は……輝の自殺未遂に終わったあの出来事は俺のせいじゃない。間逆だ! あんたのせいで輝は追い込まれ、死を選ぼうとしたのだ。それを反省するどころか俺のせいにするだと!? 馬鹿な! 英雄面するつもりは無いが、誰が輝を死の淵から呼び戻したと思っているのだ!? 感謝こそされど恨み言を言われる筋合いは無い!

「うちの子はおたくのドラ息子とは訳が違うの。おかしな道にそそのかすのは辞めてちょうだい!」

「随分な言い分だな。だが、忘れるな! 輝が殺意を持っていたのは事実だ。本気であんたを殺すつもりだったということを忘れるな!」

 輝の母は凄まじい顔で俺を睨み付けた。何か言いたそうではあったが、それ以上は何も言わなかった。

「反論しないということは、認めるということだな!? 自分の罪を!」

 輝の母は乱暴にドアを閉めると帰っていった。

 やれやれ……また勢いに任せてやってしまった。結局、被害を受けるのは俺では無い。母だ。その位判っていたのに俺は駄目な奴だ。だが、どうしても納得出来なかったのだ。険しい顔をして目を落とす俺を見ながら、母は静かに微笑んでくれた。

「まるで嵐の訪れやったなぁ。昨日の大雨とええ勝負やったわ」

 乱暴に閉められたため、反動で微かに開いてしまったドアを閉めながら

「それにしても、小太郎。ほんまに輝君がどこに行ってしもたか知らへんの?」

 心配そうな表情で母が問い掛ける。真実は知っている……だけど、それを話して理解して貰えるとは思えなかった。

「ああ……」

 思わず目が泳ぐ。

「まぁ、ええわ。ささ、お腹空いてはるやろ? ご飯、温めるわ」

 気付いていたのだろう……俺の目が泳いでいたことくらい。だが、母は何事も無かったかのように笑顔で台所に向かった。母は何時だってこんな調子だ。何も考えていない訳では無い。色々と考えてはいるが腹の内に仕舞い込み、表には出さない。それが芸妓のあり方だと良く口にしていた。俺が卓の首を絞めた、あの『事件』を起こした時も何一つ叱りも、咎めもせずに涼やかな笑顔で「なんや、お腹空いたなぁ。おいしい物食べて帰ろ」と受け流してくれた。母は何時だって大きく、そして誰よりも優しかった。それに引き換え……俺は本当にちっぽけな奴だ。

(こうやって、自らの行動を後悔することだけが取り得なのか……)

「違うさ……そんな自分はもう、嫌だ。俺は変わる……変わらなければ駄目なんだ」

 結局食事を済ませた後、俺は再び深い眠りに就いた。自分でも驚く位に良く眠れたと思う。どこかで吹っ切れていたのかも知れない。輝達を見捨てた自分の罪を本気で受け入れようと思っていたのは事実だ。いい加減な振る舞いが招いた結果なのは事実だ。輝を力づくでも阻止しなかったことも罪だと考えていたし、皆を見捨てたのも罪だ。相当の重罪だ。命懸けで償わなければならない。それに考えても無駄なことを必死で考え込んでも答は出ない。生憎そこまでオツムの出来は良くない。

 何時の間にか俺は眠ってしまったらしい。気が付けば翌朝になっていた。どれだけの時間眠り続けたのだろうか? 視界が揺らぐ感覚に包まれていた。取り敢えず学校に行こう。もしかしたら、皆、普通に学校に来ているかも知れない。そんな僅かな希望に夢を託そうとする、頭の悪い前向きさが堪らなく可笑しかった。

◆◆◆18◆◆◆

 翌朝の学校は、いつもと何も変わった様子は無かった。今日は曇り。じっとりと蒸し暑い朝だった。何もしなくても汗が滲む。そんな気候だった。天気予報は梅雨明け宣言を渋っている様子だが、もう明けたのだろうか? そんなことを考えながら流れ落ちる汗を感じていた。

 教室は何時ものように賑わっている。皆の楽しそうな話し声が聞こえてくる。輝の席は空っぽだった。力丸の席も、大地の席も、太助の席も、皆空っぽだった。逃げ出したくなる……。

(何が「変わる」だ。何一つ変われていない。逃げることだけ。自分の身を守ることだけ。傷付くことを遠ざけることだけ。それしか考えられない卑怯者だ……)

 自分が嫌になる。口先だけなら幾らでも強がることはできる。だが、現実はどうだ? こうして誰もいない現実を直視することから目を背けるだけだ。悔しい……弱い自分が惨めで、見苦しくて、どうしようもなく悔しかった。

 唐突に教室の扉が開かれる。昨日と同じく桃山が入ってくる。ただし、昨日とは違い何時もと変わらぬ落ち着きを見せていた。今日はしっかりと髪を結い上げ何時ものポニーテール姿であった。教室を見渡しながら、早くも異変に気付いた様子だった。

「あら? うーん、予想通りかぁ……」

 小さく溜め息をつく。落ち着いていた訳では無かったのかも知れない。異変を改めて確認した。そんな振る舞いにさえ思えた。

「やっぱり輝君達は欠席なのね……。はい、はい、みんな、静かにして。詳しいことは判っていませんが、昨日の夜から輝君達が家に帰っていないとの連絡がありました。まだ警察には連絡していませんが、捜索は続けられています」

 妙に事務的な口調だった。いや、違うな……生徒達に混乱を広げないよう、精一杯平静を保っているように見せ掛けていたのだろう。桃山は何度も俺に目線を送っていた。「何か知っているのだろう?」と。問い掛けるような眼差しだった。目を背けることしか出来なかった。手を貸してくれようとしている桃山のことさえも俺は信用していないのかも知れない。

 桃山は松尾や輝の母親のようなステレオタイプな教師では無かった。年もそれなりに俺達に近いということもあってか、考え方も柔軟だった。教師というよりも皆の姉貴分。そういう立ち位置を取ることを好んでいるように思えた。

 ホームルームは何時もと変わらず、相変わらず事務的な連絡事項だけ伝えて終わった。ただ一つ違ったことと言えば「後で職員室に来い」と言われたことだけだった。目的は判っている。だから俺は黙って言う通りにしようと思った。

 それからの時間は殆ど記憶に残っていなかった。心此処に在らずという奴だろうか。皆のことだけを考えて、ただただ茫然自失とするばかりだった。そして訪れた放課後。俺は職員室へ向かう廊下を歩いていた。夕方前の一際強い日差しが酷く眩しかった。

◆◆◆19◆◆◆

「小太郎君に聞きたいことがあるの」

 職員室の空気は好きになれない。此処は教師達の聖域。生徒達が此処を訪れるのは何か悪いことをやらかした時と決まっている。言うなれば此処は裁判所の様な場所。もっとも俺達には弁護士は付けられない。絶対的権力を持つ検察官に一方的に咎められる場所だ。

 相変わらず桃山は直球で挑んでくる。その男らしい振る舞いは嫌いでは無い。

「輝達のこと……だろう?」

「ええ。今朝も、輝君のお母さんから物凄い剣幕で怒鳴り散らされたわ」

 アレが巷を賑わす『モンスターペアレント』というヤツね。眼鏡を掛け直しながら桃山は可笑しそうに笑っていた。だが、すぐに真顔に戻る。

「……場所を変えましょうか? ここでは話しづらいでしょうから」

 桃山は小声で付いて来いと短く告げた。屋上へ向かう、と。他の教師達の好奇に満ちた眼差しに酷く苛立ちを覚えたが、桃山は全く気にする様子もなく淡々と振舞っていた。

 廊下を歩く桃山は背筋を伸ばし、ただ前だけを見つめていた。頑なな表情を崩さなかった俺を横目で見ながら可笑しそうに笑っていた。

「まぁ、若い男の子に興味が無いと言えば嘘になるけど……」

 思わず吐息が漏れる。

「そんな怖い顔しないで。冗談よ」

 違う。怒っている訳では無い。ただ……その冷静な振る舞いに安心感を覚えていただけだ。

 幼い頃から武術に精通していたという桃山は、普段の振る舞いにも隙が無い。その隙の無さに安心感を覚えた。こんなこと言ったら怒るかも知れないが、俺に取っての桃山は……頼りになる「姉貴」の様な存在であったのだから。

 長い階段を上り切れば屋上へと続く扉が見えてくる。夕焼け空に照らされて真っ赤に萌え上がっているのだろう。夕焼け空の屋上……嫌な思い出しか残っていない。重たい扉を開ければ、不意に流れ込んでくる風の流れ。強い日差しを受けた風は熱気を孕んでいた。

 夕焼け空の向こう側に東寺の五重塔が、京都タワーが見えた。赤々と燃え上がる様な色を称えた姿は、かつての忌まわしい情景と重なり、心の中に棘が刺さったような痛みを覚えていた。だが、此処はあの時見た場所とは異なる場所。俺は痛みを振り払うように大きく息を吸い込んだ。

「夕方になっても暑いわね。もう、梅雨は明けたと思って間違いなさそうな空模様かな?」

「……そうかもな」

 短く返した後、俺は黙ったまま遠くの景色に目線を送っていた。頬を撫でる風が心地良い。くるりと振り返ると桃山はじっと俺の目を見据えた。鋭い眼差しで見つめられ一瞬動揺しそうになった。

「それで、輝君達がどこにいるのか教えて貰おうかしら?」

「……知らないと言ったら?」

「いいえ、あなたは知っているわ。断言しても良いのよ?」

 冗談には聞こえなかった。今まで見たことも無いような鋭い眼差しだった。静かに俺を見つめる桃山は、目線を逸らすことなくさらに力を篭める。しばしの沈黙だけが佇む空間……もとより抗うつもりは無かった。ただ、あのような現実離れした出来事を果たして信じて貰えるだろうか? 俺は乾いたくちびるを舌で潤し、少し息を吸い込み話始めた。

「多分、話をしても理解できないと思うけど……」

「鞍馬、でしょう?」

 何の迷いも無い返答。だからこそ驚かされた。危うく悲鳴を挙げるところだった。小さく溜め息を就きながら桃山は話を続ける。

「昨日、輝君が話を聞きに来ていたから、こちらからも幾つか質問を投げ掛けたわ。鞍馬で起こっている異変。そのうわさ話なら、あたしも知っていたから」

 夕日に照らし出されて俺も桃山も萌える様な色に染め上げられていた。そう。丁度昨日の鞍馬での俺達と同じように。

「うわさ話じゃ無かった。襲われたんだ。能面を被った奴らに。追われて、逃げ続けて、結果的に……俺一人だけが逃げ延びることができた」

 卑怯な言い方だ。逃げ延びることができた……違うな。皆を見捨てて、我が身可愛さの余り、俺は死の恐怖から、たった一人で逃げ延びたんだ。皆を見捨てたんだ。俺はずるい奴だ。こうやって逃げて、逃げて、逃げ延びることしか出来ないんだ。酷く胸が、心が鈍く痛んだ。桃山は腕組みしたまま静かに俺の話に耳を傾けていた。

「輝君達は鞍馬にいるかも知れないということね? それにしても、一体どういうことなのかしら? 誘拐? だとしたら、何らかの動きがありそうなものだけど?」

 桃山は何か勘違いしているのだろう。能面をつけた謎の集団に捕らえられた。それは間違いでは無い。だが、あの集団は本当に人だったのだろうか? もっと、何か異質な存在のように思えたのだが……それに窮地に陥った俺を助けてくれた存在がいた。あの異形の存在の説明もつかない。何から何まで意味不明な出来事に巻き込まれたのだ。そして、俺だけが逃げ延びた……それは、曲げようの無い事実なのだから。

「いずれにしても、何か妙な事件に巻き込まれているのは事実ね。でも、どうしたものかしら……こんな話、警察にしても理解して貰えそうな気がしないのよね。うわさ話が現実となり生徒達が神隠しにあった。こんなトンデモ話しても信じて貰えるのかしら?」

 雲一つ無い透き通るような夕焼け空を見上げながら、溜め息混じりに桃山が呟く。

 確かにそうだろうな。多感な年頃の青年達の短絡的な家出、として片付けられるだろう。そんなことに何の意味も価値も無い。それではどうすれば良いのだろうか?

「小太郎君、お話ありがとう。とても参考になったわ。皆のことはあたしに任せて今日は大人しく帰りなさい」

 俺を不安にさせまいとの心遣いなのだろうか? 桃山は何時もと変わらぬ気丈な笑顔を見せていた。無理だ……あれは人の手でどうこう出来る様な奴らでは無い。そう、主張したところで桃山は聞き入れてはくれないだろう。それに、何かが引っ掛かるのだ。何が引っ掛かるのかと問われても、上手く表現できない何か……としか表現できなかった。

「ああ、判った……後のことは、皆のことを頼む」

(嘘をついてしまった……桃山、済まない)

 だが、気掛かりなモノの正体を掴まねばならないのも事実だった。皆を救い出すための糸口になるのかも知れない。だとしたら、行動を起こす他無いのだから。

 不意に空が唸りをあげる。みるみるうちにどんよりとした暗い雲に覆われてゆく。夕焼け空を呑み込むかのような不穏な黒い雲。誘われているような気がしてならなかった。遠くで雷が唸っている。夕立の訪れを告げているかのように思えた。

(そうさ……簡単なことだ)

 逃げ延びた俺を奴等がみすみす見逃す訳が無いだろう。だとしたら誘われるままに罠に嵌ってやれば良い。危険を伴うが、このまま逃げ延びて生きるくらいならば傷付いても良い。いや、もしかしたら命を失うかも知れない。それでも納得いく結末を迎えたかった。

(思い出す……あの時、屋上から飛び降りた時の感覚と良く似ている)

 俺は桃山に背を向けるとゆっくりと階段を降り始めた。だが、唐突に頭を締め付けるような痛みに襲われた。

「ぐっ……な、何だ……!」

 キリキリと締め付ける様な鋭い痛み。激しい痛みに視界が揺らぐ。不意に金属音の様な甲高い耳鳴りが響き渡る。割れるような痛みが駆け巡る。揺らいだ視界の中に浮かび上がる情景……東福寺駅。見届けると同時に、痛みは速やかに消えていった。東福寺駅……そこに行けば何かが判るのかも知れない。自分の感覚に身を委ねるかのように俺は階段を降り続けた。階段を降り、外に出る頃には雨が降り始めていた。雷鳴が轟く。予感が現実の物になろうとしていた。『邂逅』……何故か思い浮かんだ言葉を胸に、俺は歩き続けた。熱く乾いたアスファルトには往来する車の音と周囲の景色に染み渡る蝉の声、それから俺が歩く足音だけが染み渡っていた。俺が生きた軌跡を刻み込んでいる。何故か、そんなことを考えていた。

◆◆◆20◆◆◆

 唐突に降り出した雨は、まるで、そうなることが定められていたかの如く土砂降りの様相を呈した。道路に幾つもの川の様な流れが出来上がる程の激しい土砂降り。雨に濡れながらも、俺は必死で七条駅への道を走り続けた。こんなことになるなら傘を持って来るべきだった。叩き付ける様な雨に体が濡れてゆく。

 すっかりずぶ濡れになりながらも七条駅まで到着できた。地下へと続く階段を下ってゆく。少し前に此処を訪れた時には皆も一緒だった。その事実が胸に突き刺さる。

 相変わらず地下から吹き付ける生暖かい風。無機的な改札を抜け、駅のホームへとさらに階段を下る。待つことも無く列車が訪れた。俺は急ぎ、列車へと駆け込んだ。誰も乗り合わした乗客の居ない列車。気が楽で良い。奇異な眼差しで詮索されでもしたら、そいつを殴り殺していたかも知れなかったから。

 目的地の東福寺駅は良く使う駅だ。JRと京阪が合流する場所。だからこそ京都駅に向かう際に良く経由する場所でもある。何時もは素通りするだけの駅。二つの道を走る列車が出会う駅。駅のベンチに腰掛け、俺は行き交う列車を静かに眺めていた。駆け抜ける列車の音。ガタンガタン、ガタンガタン。繰り返される旋律を肌で感じていた。ついでに屋根に叩き付ける様な雨音。傘もささずに歩き回ったおかげですっかりズブ濡れだった。肌に張り付く夏服の不快な感覚を覚えていた。

 駅から少し歩けば駅と同じ名を持つ寺、東福寺が静かに佇む。深い谷底に掛かる、天に浮かぶかの様な通天橋からの眺めは実に美しい。新緑の時節には木々の青々とした息吹を感じられ、紅葉の時節になれば色鮮やかな木々の葉に包まれた優雅な景色が広がる。風が吹けば、ハラハラと静かに舞い落ちて往く赤や黄色の色鮮やかな木の葉に感じる無常観。悪くは無いものだ。哀しみに満ちた情景を見届けることで、心の安らぎを覚えていた様な気がする。

(輝は、通天橋から眺める景色が好きだったな……)

「紅葉の赤が綺麗だね」

 満足気な笑みを浮かべる輝の横顔を思い出していた。

「ああ。悪くない光景だ」

 風になびく赤い髪。紅葉にも退けを取らない鮮やかな色彩。俺も隣に並び、同じ景色を一緒に眺めていたっけな……。

(眺めていた?……違う! 過去の出来事になんかさせるものか。過ぎ去った時間に閉じた話になどさせない。必ず救い出す!)

 ああ、きっと皆を助け出す。今年は皆と一緒に訪れようと約束した。誰か一人が欠けても駄目だ。約束したのだから。

 俯いた拍子に髪から雫が落ちた。石造りの地面に落ちると小さな染みになった。

(俺は……こんなところで、何をしている? 過去を振り返るために訪れたのか?)

 電車がホームに近付いているのか? 不意に踏切が点滅しながら鳴り響く。カンカンカンカン。思い出に縋るだけの意気地無し。カンカンカンカン。今此処で立ち止まってしまえばそれまでだろう。感傷に浸るために訪れた訳では無い。この地に何かがあるという期待を託せばこそ、此処を訪れたのだ。だが、応える者は誰もいなかった。ただ呆然と踏切の赤く明滅する光を見ていた。

 程なくして轟音を立てながらホームに列車が入ってくる。雨を纏い濡れた列車の扉が開けば、人々が次々と降りてくる。駅を行き交う人々が奇異な眼差しで俺を見つめる。視線を浴びながらも、俺はただベンチに腰掛けていた。何が面白いのか理解に苦しむ。笑えば良いさ。俺は救いようも無い程に孤立無援な存在だ。可哀想だと憐れめば良いさ。時の流れに逆らおうとする者。いや、時の流れに取り残された迷子と言った方が良いのだろうか? いずれにしても奇異な存在に成り果てていた。

 再び空虚に去ってゆく列車だけを見送っていた。降り続ける雨。屋根に叩き付ける雨の音。水気を孕んだ石の香り。轟く雷鳴。昨晩の出来事を思い出さずにはいられない。ふと皆の笑顔を思いだしていた。鞍馬へ向かう前に立ち寄ったハンバーガー店での一場面を思い出していた。

(過去の記憶になどさせるものか!……皆、済まない。もう少しだけの辛抱だ。俺が何とかする。何とかしてみせる。だから、もう少しだけ我慢してくれ……)

 雨足は強まる一方だった。そっと顔をあげれば、相変わらず留まる所を知らない激しい雷鳴と稲光が駆け抜ける。夕立にしては随分と長い時間降っているように思えた。雨足はまるで衰えるところを知らない。深い鈍色の空からはただ無情にも雨が零れ落ちる。

 何度も列車が訪れた。乗り降りする人々の流れ。列車は再び駅を去ってゆく。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか? 恐らくは、さほど時間は経っていないのだろう。だが、何時の間にか駅には俺以外残ってはいなかった。辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。東福寺……結局、何も起こらなかった。空振りだったのだろうか? 所詮、勘なんて物はその程度の物なのだろうか? 苛立ちと、焦りと不安。どうすることもできない無力な自分への怒り。

「まもなく列車が通過いたします。危ないので白線の内側までお下がりください」

 静かなホームに無機的なアナウンスが響き渡る。

(通過列車か……)

 駅のホームに列車が駆け込んで来ようとしているのが見えた。

(覚悟が足りないと言うならば……)

 俺はそっとベンチを立ち上がった。もうじき列車はホームに到達するだろう。踏み切りの音が響き渡る。カンカンカンカン。明滅する赤い光をじっと見つめていると、何かが込み上げて来る感覚を覚えた。

 絶望? 違う。これは『賭け』だ。もしも、俺に皆を救い出せる力があるならば、何かを為し遂げることが出来るはずだ。そのためには覚悟が足りないのかも知れない。あの日、あの時、屋上から飛び降りた瞬間に、確かに何者かに救出された。他力本願……そうなのかも知れない。だけど、この事態を打開するためには大きな力が必要なのだ。俺にはその力は無い。だが、今まで何度となく窮地は仲間達の協力により切り抜けて来た。

「俺は非力で、無力で、どうしようもない奴だ。だが、友と共にあるならば道は切り拓かれるはず。賭けてみるさ……どうか、俺に力を!」

 思い切り地面を蹴り上げて俺は飛び出した。ためらったら尻込みしてしまうだろう。逃げ出してしまうかも知れない。もう、逃げない! そう決めたのだ。覚悟があれば死だって受け入れられる。いや、生きようとする力が、想いが勝つと思った。信じていた。だから……ホームに今まさに入り込もうとする列車に、俺は飛び込んだ。激しく響き渡る列車の警笛。急ブレーキ。響き渡る金属音。擦れ合う金属の酷く不快な音が響き渡り、耳に鋭い痛みが駆け抜けた。

 次の瞬間異変が起きた。確かな異変であった。恐る恐る目を開ければ、列車は今まさにホームを通過するところであった。慌てて周囲を見渡せば、俺はベンチに腰掛けたままだった。何時の間にか雨も止んでいた。空を見上げれば雲が途切れ始めていた。

(やはり……何者かが力を貸してくれているということか)

「どこのどいつか知らないが、俺に手を貸してくれるお節介な奴よ。もう少しだけ俺に手を貸してくれ! 俺は皆を助け出したい。だから、どうか手を貸してくれ!」

 誰も応える者はいなかった。代わりに、再び脳裏に見覚えのある映像が浮かび上がってきた。細い路地。夜の装いを称えた街並み。月明かりに照らし出された、妖しげな光景。賑やかな笑い声が響き渡る小道。雨上がりだからだろうか? まだ濡れた傘を手にした人々が往来する。店の名を告げる看板や、白い提灯。軒先を飾る小粋な灯籠がぼんやりと照らし出す街並み。しっとりと水気を孕んだ石床を人々が歩く音が響き渡る。そこに入り乱れる笑い声……。鴨川から漂う湿気なのか、雨上がりの湿気なのか、熱気を孕んだ湿気が霧の様に漂う細い路地。

(ここは……先斗町?)

 先斗町。夜の街。多くの飲み屋が集う街。夜な夜な宵の宴が繰り広げられる花街。人の想いの集う場所。そこに行けば何かが判るのかも知れない。何者かが手を貸してくれているのは間違いない。だとしたら、その導きに従う他無い。

「判った。先斗町だな……ああ、すぐに向かうさ」

 一瞬、凄まじい冷気が駆け抜ける感覚を覚えた。酷く禍々しい感覚……左隣に何者かの気配を感じた。禍々しい殺気を放つ楕円形の何かが転がっている。

(これは……能面!?)

 そっと手が伸びて能面を静かに手に取る。雪の様に白い手に、血の様に真っ赤な爪。俺はその手の動きを目で追う。左隣に佇んでいたのは真っ赤な着物に身を包んだ者。ゆっくりと能面をつける姿が見えた。小面の面。真っ赤な着物に身を包んだ者は、こちらに体を向けようとしていた。舞扇で口元を隠しながら静かに向き直った。

『愚かなことを……自ら命を絶って何とするつもりだ? 私はお前の死を望んでなどおらぬというのに……フフ』

「お前はあの時の! 答えろ、お前は一体何者だ!?」

『私が何者か……とな? これはこれは異なることを聞く……私はお前の願いを聞き入れてやった者。それから……フフ、共に歩む者であろう? さぁ、我が元に来るが良い。お前を抱きしめてやろう……永遠にな?』

 男は完全に向き直ると、口元に宛がった舞扇をそっととずらした。不意に能面の口から凄まじい冷気が吹き付ける。あまりの冷たさに俺は、思わず目を閉じてしまった。一瞬、周囲が荒れ狂う吹雪に包まれたような感覚を覚えた。

『勘違いするな? 私はお前を手助けする者などでは無い。お前は奈落の底に堕ちるのだ……情鬼となり、私と共に歩むのだ……安易に死ぬことは、私が許さない……さぁ、這い上がってくるが良い。その時、もう一度、お前のことを慈しんでやろうぞ……』

「き、消えた?」

 再び目を開けた時には、変わることの無い東福寺駅構内の光景だけが空虚に広がっていた。真っ赤な衣の男は消え失せていた。意味の判らない言葉だけを残して勝手に消え失せるとは、一体何がしたかったのか?……否、詮索しても答えは得られないだろう。ならば行動を起こすしか無かった。

 何時の間にか雨はすっかり止んでいた。雨上がりだからこそ、ジットリとまとわり着く様な湿気と暑さを感じずには居られなかった。すっかり汗まみれだ。だが、怯む訳にはいかない。皆が待っているのだから。俺はホームを移動し京阪に乗り換えた。向かう場所は祇園四条だ。

◆◆◆21◆◆◆

 祇園四条。去り往く列車を見届けながら歩き出した。地上に出て鴨川に架かる四条大橋を歩む。列車の中はエアコンが利いていて涼しかったが、外に出れば蒸し暑さが蘇る。そう考えていたが期待は裏切られた。いや……むしろ想定どおりというべきか。

(異様な冷気を感じる。やはり、確実に近付いているということか)

 雨雲は完全に消え失せ、代わりに月明かりが静かに街を照らしていた。賑わう交差点で信号が変わるのを待つ。やはり何かがおかしい。ここ四条通は祇園の中でも最も賑わう大通り。人の波が途切れることは無い場所なのだ。だが南座の前も、にしん蕎麦の松葉の前も人の姿も皆無に等しく気配すら感じることはなかった。

 流れる鴨川の音色。それ以外の音は何も無かった。普段であればこの辺りは夜でも賑わっている。河原町の界隈では同年代の連中が意味も無くたむろしては、無駄な話に花を咲かせる。呑みに訪れる観光客の姿も珍しくは無い。鴨川への納涼床も出ている以上、賑わう場所であるはず。車もひっきりなしに往来する場所なのだ。こんなにも静まり返っている光景は初めて目にする。

 やがて信号が青に変わる。道路の向かい側に抜ければ、すぐに先斗町通りに入る。宵の宴が繰り広げられる賑やかな花街。細い路地の両脇には店が所狭しと立ち並ぶ。昼間は静かな通り。夜になると賑わいを見せる通り。柔らかなオレンジ色の明かりに照らし出され、どこか妖しげな雰囲気を纏いながらも賑わいを見せる。時折、舞妓が行き交う姿も目に留まる場所。だが、ここもやはり妙な静けさに包まれている。賑わいは失われ、まるで誰かの葬式の様な雰囲気に包まれていた。

(ここまでハッキリと主張されると、むしろ潔さすら感じる)

 そう思った瞬間一気に空気が変わる。異様な冷気に包まれ人の姿が煙のように消え失せた。変わりに周囲に舞い始める青白い光。冷たい光を放つほたる達が周囲を舞う。いや、何時の間にか先斗町通りを覆い尽すかの如く無数のほたるが舞っていた。通り全体が青白い、冷たい色合いに包まれる。

 深い色合いを称えた時代を感じさせる黒塗りの建物の立ち並ぶ細道。通りの両側には、普段であれば賑わいを見せる飲食店が立ち並ぶ。人の気配も、物音も、何も無い花街。静まり返った細道は奇異な空気に満ちていた。賑わいを見せるのはほたる達だけ。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ……」

 どこからともなく聞こえてくるとおりゃんせの歌声。

「お約束通りの展開という訳か……俺は此処にいる。さっさと姿を現せ!」

 だが誰も応えはしない。とおりゃんせの歌声だけが聞こえてくる。不意に、何かが足元に落ちる微かな音が響き渡った。そっと足元に目をやる。

「藁人形……!」

 見間違えるはずがなかった。あの時、俺が作った藁人形だった。酷く粗雑な造りで、これが藁人形だと説明されても理解し辛い程のものだった。だが、藁人形の胸に貼られた和紙に刻まれた名前……「鴨川卓」の名前は確かに俺が書いたものだ。憎悪に我を失い作り上げた物だ。まともに作れる訳も無かった。乱暴に刻まれた文字は走り書きそのもの。酷く歪んだ字ではあったが、確かなる憎しみが、怒りがそこには刻み込まれていた。

「もっとも、これは失敗作だった。卓では無く、松尾が死んだのだからな」

 藁人形……少なからず、これは何らかの思惑を意図して投げ掛けられたものなのだろう。敵の正体は判らないが、随分と遠回しな意思の疎通を取ろうとしているように思えた。藁人形から思い浮かぶことを連想してみた。

 藁人形……卓へ向けられた果てしない憎悪。その結果、松尾が身代わりになって死んだ。思い出したくも無い映像。あざとく開かれた口。あり得ない方向に曲がった四肢。砕けた眼鏡。それから、酷く腐臭の漂う汚物の混じった血溜まり。

(違うな……これは結果だ。結果では無く、そこに至るまでの道筋に意味があるはずだ)

 再び記憶を手繰り寄せる。雨の鞍馬……一人寂しく歩いたこと。卓へ向けられた果てしない憎悪。それは怒りに変わる。輝から聞いた話……ああ、そうだ。此処で藁人形の存在を知る。藁人形……至る先は丑の刻参り。丑の刻参りを行った場所……丑の刻参り……丑の刻参り……。

「貴船神社……そうか。なるほど」

 そう。あの日、あの時、卓に対する憎しみを叩き付けたくて仕方が無かった俺は、輝から聞いた話を思い出していた。貴船神社は丑の刻参りで有名な場所だと。意外だった。生まれ育った街に、そんな忌まわしい真実が隠されていようとは思わなかったから。それでも何でも良かった。自分を納得させることが出来るならば、どんなにでたらめな噂でも何でも良かった。だから、俺は行動に移した。幾つもの本を読み漁り、適当な知識ではあったが強引に儀式を行った。藁人形と釘。それから木槌があれば、取り敢えずは形になるだろう。そんな、安易な気持ちで儀式を行った。結局、そんなことをしても気持ちは晴れなかったし、孤立無援な現実も変わらなかった。俺が引き篭もりになってしまった事実も、何一つ変わらなかった。唯一変わったことと言えば――あの儀式を行ってから一ヶ月ほど経った時に松尾が自殺した。丑の刻参りのことなど、すっかり忘れていただけに酷く恐怖を覚えた。

「貴船神社か……良いだろう。行ってやるさ……散々俺を振り回した罪、償わせてやる」

 怒りという感情は、憎しみという感情は実に判り易い感情だと思う。判り易い上にとても大きな力を秘めた感情でもある。人の心が持つ力というものは侮れないものだ。松尾の死で確かな力を俺は実感した。そして同時に理解した。俺は「鬼」なのだということを。「人」であることを棄てたもの。言い換えれば、かつては「人」であった存在だということなのだろう。

 まるで麻薬だ。あの時も……卓を殺そうと、首を絞めていた時も、腕に突き刺さる爪の痛みなど、微塵も感じなかった。後になってから酷く痛んだのを考えれば、怒りという感情は人を「鬼」に至らしめる原点なのだろう。激しい怒りに支配された「鬼」は人としての存在を失う。実際、今の俺を支配している感情は恐怖心などでは無い。むしろ、恐怖心など微塵も感じなくなった。ふつふつと燃え上がるような感覚。俺は酷く心地良い快楽を覚えていた。ふつふつと沸き上がる殺意……。

「馬鹿にしやがって……殺してやるから待っていろ!」

 鬼にだって何にだってなってやるさ。皆を救い出すため? 違うな……あんな、惨めな想いをするのは、孤立無援の寂しさを再び体感する位なら、俺は鬼になることなぞ厭わない。俺の幸せを奪おうとする奴は誰であろうと許さない。邪魔をするなら……ためらうことなく殺す。それだけだ。

◆◆◆22◆◆◆

 再びの出町柳は夜半の闇に包まれていた。辺りは静けさに包まれていた。人生とは実に因果なもので、再び叡電に揺られながら俺は貴船口を目指していた。乗り合わせた乗客は他にはいない。辺りはすっかり暗闇に包まれている。こんな時間帯に貴船神社に向かう奴など極一部の例外を除いてはいない。あの時の俺のように丑の刻参りに向かう奴くらいだろう。

 頼りない明かりに照らされた車内。ガタンガタン。ガタンガタン。列車は、ただ無機的な音を立てながら市街を後にした。市街の風景から景色は段々と木々に抱かれた景色に移り変わる。昨日も見た光景だ。違っている部分といえば隣にいるはずの仲間達が居ない。不安で無いと言えば嘘になる。自らを奮い立たせるために、殺意という感情を起爆剤にしてみたが効果は薄そうだ。

 不気味なまでに静まり返る車内。ガタンガタン。ガタンガタン。酷く揺れる列車の中、俺は何者かの視線を感じていた。それは四方八方から感じられた。得体の知れない存在への不快感。ただ、俺は窓の外を流れる景色を眺めていた。幾つもの無人駅を後にした。外の景色は黒一色。殆ど何も見えない。窓に映る俺の顔さえも、ぼんやりと浮かび上がるようにしか見えなかった。吐息だけが漏れる。ガタンガタン。ガタンガタン。揺れる列車の音を肌で感じながら、ただ静かに、俺は窓の外を眺めていた。

 暗がりの中を列車は静かに走り続ける。駅に着いては、また駅を発つ。叡電は再び暗がりの中を走る。ぼんやりとした明かりの薄暗い駅には、確かに人影はあった。だが俺の乗っている電車に乗ろうとする奴は誰もいなかった。まるで、この電車の存在など見えて居ないかの様に思えた。

 確かに俺の乗っている列車が駅に停車しているにも関わらず、時刻表を神経質そうに眺めながら溜め息を就く若い女性の姿が見えた。退屈そうに遠くを見つめる中学生位の少年達の姿が見えた。やはり、この電車はこの世ならざる物だということなのだろう。

(なるほど……既にこの電車はこの世の物では無いということか。上等だ。受けて立つまでだ)

 暗闇だけが広がる線路を駆け抜けては、思い出したかの様に、仄かな明かり灯る駅に到着する列車。どれだけの時間走ったのだろうか? 俺はずっと車窓からの光景を眺めていた。終わりの無い暗闇だけが何処までも広がっている様に思えた。時折見える民家の明かりや、街灯。通り過ぎる車の明かりだけが、夜空に浮かぶ星の様に心の支えになってくれた気がした。

 やがて、列車がゆっくりと減速を始める。駅が近付いてきたのだろう。到着。貴船口。貴船神社は、貴船口から降りて道なりに歩いた先にある。夏の夜。雨上がり。湿気を孕んだ蒸し暑い空気に満たされている。

「……到着か。もう、逃げやしない」

 ゆっくりと列車が停車する。静かに扉が開く。消え入るような弱々しい明かりだけが駅構内を照らす。近くを流れる貴船川の音と水気を孕んだ空気を肌で感じながら改札を抜ける。石段を下れば既に駅の売店は店仕舞い。閉ざされたシャッターと古めかしいガチャガチャだけが薄明かりの中にぼんやりと佇む。時の流れに取り残されたかのような光景だった。薄暗い通りを抜ければ静寂と漆黒の闇夜に包まれた道路に出る。貴船川のせせらぎの音色が闇夜に染み渡って行く。明かりに釣られて舞い込んできた蛾を避ければ、後はこの道を歩き続けるだけだ。ふと、振り返れば暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる様な駅の明かり。この駅だけが暗闇の中に浮かぶ灯火のようになっていることだろう。つまりは帰るべき道標となる筈だ。

 貴船神社へと至る道は酷く薄暗かった。微かな月明かりだけに照らし出された道をひたすら歩き続ける。まだ木々には雨の痕跡が残っているのか? 時折、木々の葉から雨粒が落ちる音が響き渡る。人気の無いアスファルトの道は風が木々の葉を揺らす音以外は静寂……貴船川の流れる音と、蛙や虫の鳴き声以外は何も聞こえてこない。山肌から染み出す地下水が道路を川の様に這う。水の流れを避けながら俺は貴船神社へと至る道を歩んでいた。

「あれは?」

 どれだけ歩いただろうか? 不意に俺の視界に異様な物が入り込む。遥か先を歩く人影。異様な姿の人影であった。白い装束に身を包んだ女。後姿ではあったが、確かな殺気を放っていた。女はゆっくりと歩んでいた。右手に木槌……それから左手には恐らく藁人形。だが、何よりも異様なのは微かな月明かりしか無い場所であるにも関わらず、その姿が異様なまでに鮮明に浮かび上がっていることであった。まるでほたるのように青白い、冷たい光に包まれているように見えた。

「人では無い存在か……正体を暴いてやる」

 滑るようにゆっくりと移動する謎の女。俺は距離を縮めようと歩幅を広げながら歩いた。迂闊に物音を立てないように、気付かれないように慎重に歩き続けた。少しずつ距離が縮まってゆく。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ……」

 とおりゃんせを口ずさみながら女はゆっくりと移動を続ける。ここで俺は確かな違和感を覚え始めていた。

(この声……聞き覚えのある声だ。だが、誰だ? 顔見知りの誰かであるのは間違いないはずだが……)

 聞き覚えのある声ということは、少なからず顔見知りの誰かであるはず。だが、どうしても思い出せない。顔見知りどころか頻繁に顔を合わせている人のはずなのだ。それにも関わらず思い出すことが出来ない。

 不意に強烈な眩暈に襲われる。世界が揺らぐような酷く不快な感覚。堪え切れず思わず膝から崩れ落ちた。

「くっ!」

 本当に一瞬のことだった。再び顔を挙げた時には、既に白装束の女の姿はどこにも無かった。

「き、消えた!?」

 まるで最初から存在していなかったかのように女は消え失せていた。

「行き先は一緒ということか。いや、むしろ誘いに来たのか?」

 目線を道の奥へと向ける。誰も応える者はいない。

「良いだろう……その化けの皮を剥がしてくれるさ」

 俺は再び貴船神社への道を歩み始めた。涼やかな川の音しか聞こえない静かなる道。微かな月明かりだけが頼りだった。やがて川に設置された川床が見えてくる。料理旅館ふじや。仄かな光を放つ赤い提灯。一度は泊まってみたいと思っている、高級感漂う料理旅館の荘厳なる佇まいを通り過ぎる。ここまで来れば貴船神社本社は目の前だ。だが、目的地は此処では無い。ここから、さらに細くなる坂道を歩き続けた先にある貴船神社は奥宮。あの時、俺が丑の刻参りを行った場所でもある……長い道のりではあるが逃げ出す訳にはいかない。

 唐突に強い風が吹き抜けた。真冬の吹雪を思わせるような肌を切るような冷たい風。その冷たい風に乗って舞い散るのは桜の花弁。あり得ない光景だった。異様な冷気が吹き付ける中を艶やかな桜色の花弁が舞い落ちる。それに呼応するかのように静かに提灯の明かりが消え往く。

「そんな小細工には、もう驚かされないさ。それに決めたのだ……決して逃げないと」

 命を棄てる覚悟――何処までこの気持ちを保てるかは不安ではあったが、逃げたくは無かった。他力本願ではあるが、見えない何者かが支援してくれている。そんな心強さがあったから勇気を保つことができているのかも知れない。恐らく自分一人だったら此処には訪れなかっただろう。いや、訪れることが出来なかったというのが正解だろうか。

 吹き付ける桜吹雪に逆らいながら俺は道を歩み続けた。道は一気に細くなり傾斜も険しくなる。それでもなお俺は歩き続けていた。程なくして貴船神社奥宮が見えてくる。

 暗闇の中に浮かび上がる鮮やかな鳥居を潜りぬけ参道へと向う。暗闇に映える赤い灯籠。灯籠のぼんやりとした明かりが静かに参道を照らし出す。何時の間にか桜吹雪も止み、再びまとわりつくような湿気に包まれていた。異様なまでの静けさ。微かに流れる川の音しか聞こえない。不意に渇いた木の音色が響き渡る。カツーン。カツーン。規則正しく聞こえる木槌の音。聞き覚えのある音だ。

「丑の刻参りか……つくづく演出好きな奴だ」

 朧な光を放つ灯籠を横目に参道を上り切る。奥の方から木槌の音色は聞こえてくる。恐らくは先ほど見掛けた白装束の女であろう。体中の神経を研ぎ澄ましながら俺はゆっくりと境内を伺った。周囲は木々に包まれている。いきなり予想外の場所から襲い掛かられたら一溜まりも無い。ましてや周囲は漆黒の闇夜に包まれている。こちらとしては圧倒的に不利な状況だ。

 カツーン。カツーン……。規則正しい木槌の音色が唐突に途切れれば辺りは静寂に包まれる。そっと風が吹き抜け、木々の葉が揺れる音が響き渡る。俺は石段を登り切り、境内に至った。声はさらに奥から聞こえてくる。

「憎い……憎い! 山科、あいつのせいで!」

 俺は耳に入る声だけを頼りに、暗闇の中を注意深く歩き続けた。やがて暗闇の中に浮かび上がる青白い光。白装束の女が憎悪に満ちた言葉を口にするのが見えた。木槌を握り締めながら、小さく肩を震わせ、嗚咽しているようにも見えた。不意に白装束の女が振り返る。般若の面。激しい恨みを意味する能面。

「……何者かは知らないが、皆を返して貰おうか」

「返して……貰おうだって? 何を言っているんだい……その前に、あたしの武司を返しておくれ! うわあああっ!」

 唐突に女が飛び掛ってきた。とても、人の動きとは思えない動きであった。地面を蹴りあげると、鳥のように宙に舞い上がる。そのまま勢い良く飛び掛かってきた。予想もしない動きに、一瞬動揺させられたが、俺はすぐさま身構えた。

「なめるなよ」

 相手の勢いを活かし、俺は女の腕を握り緊めると、そのまま力一杯投げ飛ばした。大木に背中から派手に叩き付けられ女が呻く。

「この化け物め……」

「う、うう……」

 よろめきながら立ち上がる女。叩き付けられた衝撃で、ゆっくりと能面が剥がれ落ちるのが見えた。

「な!?」

 剥がれ落ちた能面から現れた顔に、俺は驚愕させられた……。顔見知りも何も良く知っている人物だった。錦おばさん……俺達が良く行く河原町の銭湯の主であった。

「に、錦おばさん? どうして……」

 訳が判らなかった。何故、錦おばさんが此処にいるのか? 何故、丑の刻参りをしていたのか? 何もかもが理解出来なかった。あまりにも想定外の出来事に俺はただ困惑していた。

「返せ……」

「え?」

「あたしの……あたしの武司を返しておくれ!」

 理解出来ないことだらけの中で微かに繋がる事実。武司という名に覚えがあった。

 そういえば……以前、錦おばさんから聞いたことがある。錦おばさんの一人息子のことを……彼の名は武司だったはず。比叡山へと続くドライブウェイの一角から転落して亡くなってしまったという話を。

 一人息子を失った哀しみからなのだろうか? 錦おばさんは俺達のことを自分の息子のように可愛がってくれた。世話好きで、気立ての良いおばさん。恰幅が良く、俺達が悩み事を相談すれば豪快な笑い声で笑い飛ばしてくれる。

『なんだい? そんなことで悩んでいるのかい? 美味いモン食って、一晩ぐっすり寝ちまいな。そうすりゃあね、明日の朝には綺麗サッパリ忘れているもんさ。あっはっはっは!』

 あの豪快な笑い声を聞くと自分が抱えている悩みがちっぽけな物であったと気付かされる。俺達にとっては第二の母親のような存在でもあった。だからこそ理解出来なかった。気立てが良く、世話好きで、心優しい錦おばさん。

『ありゃ? どこで暴れて来たのさ? 襟がほつれているじゃないか。これじゃあ、綺麗なお嬢さんとすれ違っても格好付かないじゃないか。ほれ、直しておいてあげるよ。風呂から上がるまでには仕上げておいてやるからさ。え? お代だって? そうだねぇ。出世払いで手を打つよ。あっはっはっは!』

 そんな、錦おばさんと禍々しい丑の刻参りとは、どう考えても繋がらなかった。だからこそ俺は妙に冷静に考えていた。「返してくれ」という一言が気になっていた。事故ならばそんな言い方はしないはずだ。ということは「事故」で無く、何らかの「事件」だと考えるのが妥当だろう。

(武司さんの話は事故では無く何らかの事件ということか?)

「許さない……許さない! あたしは、あんたのことを絶対に許さないよ!」

 一瞬のことだった。強い衝撃を受け、俺は突き飛ばされた。次の瞬間、俺の上に圧し掛かる重圧。木槌を振りかぶった錦おばさんの姿が目に映った。

「錦おばさん、落ち着け! 俺だ、小太郎だ!」

「山科あぁーーっ! 死ねえぇーーっ!」

 思わず目を閉じた。次に来るであろう脳天への衝撃に身構えていた。無駄なことだ。この至近距離で、渾身の力を篭め、木槌で殴られ無傷でいられる訳が無いのだ。だが、衝撃は訪れない……。どういうことだ? 恐る恐る目を開けば、そこは見覚えの無い場所であった。

(またか。一体、どうなっている……)

◆◆◆23◆◆◆

「武司君、早まってはなりません!」

 唐突に響き渡る大声に俺は慌てて振り返った。

(山科?)

 俺に声を掛けたのは山科であった。だが俺は武司さんでは無い。一体どういうことなのだろうか? 必死の形相の山科と、その隣には険しい表情を浮かべた賢一さんの姿があった。学生服を着ている辺りからしても間違いなく過去の情景だろう。

「武司、駄目だ……自棄になるな! 死んじまったら、それまでなんだぞ!」

(もしかして、これは……武司さんが死に至った原因なのでは無いだろうか? だとしたら、これは武司さんの目線ということになるのだろうか?)

 周囲の景色を目で追う。夕焼け空。萌え上がる様な赤。山科も、賢一さんも、それから……多分、武司さん自身も萌え上がる様な赤に染まっていたのだろう。目の前には道路が広がり、時折車が速度を上げて駆け抜ける様子が見えた。ふと背後からは水気を帯びた強い風が吹きつけているのに気付いた。思わず背筋が寒くなる。そっと、後ろを振り返れば、すぐ後ろは急斜面であった。その斜面を降りた、遥か彼方には海を思わせる様な琵琶湖が雄大な姿を広げていた。視界に広がる街並み。雄大な琵琶湖の湖面が、キラキラと夕焼け空を抱く様は幻想的で、酷く哀しみを掻き立てられた。雄大なる自然の美しさに俺の心が大きく揺れ動かされた。緊迫した空気の中で、ただ己の命を燃やさんばかりに鳴き続ける蝉の声が妙に無情に思えてならなかった。

『此処は比叡山ドライブウェイの夢見が丘……』

 誰かが俺の耳元で囁き掛ける。

(武司さん? 駄目だ! 早まっては駄目だ!)

 無駄なことだとは判っていた。過ぎ去った時の流れを変えることは出来る訳が無い。一度刻まれた歴史は変えられないのだ。それに……何も知らない俺なんかに死を決意した武司さんを止められる訳が無い。その気持ち、俺も判るから……本当にどうしようも無くなった時、人は考える力を失う。死んでしまったら、もうどうすることも出来ないことも判っていた。

 あの時、死を覚悟した俺を止められる者は誰もいなかっただろう。判っているからこそ、武司さんのどうすることも出来ない哀しみも理解できてしまう。一体、彼の身に何が降り掛かったのかも判らない。ただ一つ確かなこと……これは本当にあった過去の出来事なのだろう。錦おばさんが深い憎悪を抱くに至った出来事なのだろう。無駄なことは判っている……それでも、何とかして生きて欲しかった。遺される錦おばさんのことを考えれば、何としても阻止したかった。

『綺麗事だけでは生きられない』

 頭の中に武司さんの哀しそうな声が響き渡る。

(武司さん、俺の話を聞いてくれ! 頼む!)

『……では、小太郎君、君に問う。仮に俺の死を阻止出来たとして、その先のことをどう考える? 死を決意した者が死を阻止された時、そいつには何も残らない。生きる希望を失い、死への恐怖だけが残る。生きていても、何も解決手段も見付けられず、俺は生きて、生きて、苦しみ続けなければならない。俺はどうやって生きれば良い? 道を示してくれ』

(それでも、生きていれば! 俺も辛い出来事を体験した。でも、生きて――)

『君には救いの手を差し伸べる人がいてくれた。でも、俺には……!』

(賢一さんも、山科も、本気で考えてくれているはずだ!)

『……君は偽善者だ』

(え?)

『君は恐らく、俺の自殺を阻止した英雄になれるだろう。多くの人から賞賛の声を得られるだろう。その一方で俺は周囲からは好奇の目で見られる。自殺にさえ失敗した惨めな奴だと嘲笑われるだけだ。判るかい? 人は他人の不幸に敏感に反応するものだ。他者の不幸に、自らの幸福を見出す生き物なのだ。死に損なった上に、生きて、生きて……恥を晒し、苦しみ続けろと言うのか!? 自殺に失敗した者の味方など、誰一人として存在しない。親族からは恥さらしと罵られ、いっそ死んでしまえば良かったと蔑まれる! 周囲の連中からは色眼鏡で見られるだけだ! 事態は何も解決しない。苦しみは深まるだけだ。それに俺を虐げた奴らはさらに図に乗るだろう。その時に死の恐怖を知ってしまった俺は、さらなる覚悟を持って自殺に望まねばならない……判るかい? 救いなんか何処にも無い。標的になった者は、こうなることを皆から望まれるだけだ。こうなることは運命だった。定めだった。逃げられる訳が無いんだ。小太郎君、君も知っているはずだ。同じ境遇を体験したことのある君ならばね?』

 何も言い返せなかった。同じ苦しみを知っているからこそ、同じ体験をした身だからこそ、何も言葉が浮かんでこなかった。俺は良き仲間達に支えられてきた。だから生きることができた。確かに武司さんには賢一さんという親友がいたのだろう。でも、だからと言って万人が救いの道を手にできるとは限らない。

『小太郎君。君に……君に、俺の苦しみを背負うだけの覚悟はあるとでも言うのかっ!? あるというなら、示してくれ! 俺が生きるための希望を! さぁ、どうした!?』

 何も反論出来なかった。俺には武司さんを阻止することは出来なかった……無力さが悔しかった。だが、どうすること出来ないのは事実だ。それに……俺は人を救うどころか人を殺めてしまったのだから。直接手を下した訳では無いが、それは曲げようの無い事実。松尾の死は俺のやった行為の結果によるものなのだろうから。

「武司、待ってくれ!」

「武司君、いけません!」

 賢一さんの声が、山科の声が、空しく響き渡った。武司さんは静かに背を向ける。ゆっくりと柵を越える。そっと下を見る。急な斜面だ。だが、これでは上手くやらなければ死ぬことは出来ないだろう。ふと、俺は右手に握られている何かに気付いた。ひんやりとした冷たい感触……それはサバイバルナイフであった。血が付着したナイフ……それも、かなり新しい血だ。誰の血なのだろうか? 一体、武司さんの身に何が起きたのか? ただただ困惑していた。だが俺の想いとは裏腹に、手が勝手に動く。武司さんの一瞬のためらい……。それから、錦おばさんの顔を思い浮かべていた。

『母さん……ごめん』

 頬を大粒の涙が伝う。一粒。また一粒。悔しくない訳が無い。哀しくない訳が無い。好んで死を選ぶ奴なんて誰もいない。生きたい! その叫びが聞こえるからこそ、俺は張り裂けそうな想いで一杯だった。目の前で人が、今、まさに死のうとしているのに何も出来ない無力さが悔しかった。

 覚悟が出来たのか、武司さんは冷静だった。驚くほどに冷静だった。そして、大きく……大きく、深呼吸をすると、武司さんは手にしたサバイバルナイフを首元にあてがった。

(さようなら、小太郎君……)

「駄目だっ! 武司さんっ、どうか、どうか思い留まってくれっ!」

 俺は必死で武司さんの腕を抑えようとした。だが俺の願いは届かなかった。次の瞬間、武司さんは手にしたナイフを力一杯引いた。コンサートの幕開け……第一ヴァイオリンが開幕を告げる瞬間。願いを篭めて、祈りを篭めて、弦を引き寄せるかの様に力強く奏でられた瞬間であった。一瞬の静寂……だが、すぐに首筋を駆け巡る鋭い痛み……いや、火傷したかの様な熱さを感じた。次の瞬間、首筋から赤い飛沫が舞い上がるのが見えた。夕焼け空を染めるかのような、真っ赤な飛沫が空高く舞い上がる。

「武司君っ!」

「武司ーーっ!」

 秋の紅葉嵐を春の桜吹雪を思わせる様に、パァっと真っ赤な飛沫が空を染め上げた。一瞬の出来事だった。哀しい程に赤々と炎上するかの様な夕焼け空。その赤さよりも、さらに赤い飛沫が舞い上がった。ゆっくりと力が抜けて行く。そのまま急斜面を転がり落ちる感覚を覚えていた。不思議と落ち着いていた。諦め……なのだろうか? 速度を上げながら転がり落ちて行く。木々の枝の欠片があちこちに突き刺さり、それでもなお速度は落ちることは無い。骨が軋み、何かが突き刺さる鮮烈な痛みが駆け抜けた。次の瞬間、凄まじい衝撃を感じた。恐らく、急斜面を転がりながら、大きな樹木に頭から突っ込んだのだろう。一瞬軋む様な音が響き渡り、ゆで卵の殻を潰すような感覚が駆け巡った。本当に一瞬のことだった。一瞬、体中に電気が走る様な感覚を覚え、酷く痙攣したが、すぐに意識は潰えていった。痛みは感じなかった……ただ、頭頂部に酷い衝撃と亀裂が生じる間隔、それから……何かが零れ落ちる様な重力感を感じていた。恐らく頭蓋骨が砕け、即死だったのだろう。せめてもの救いは苦しむ間も無く死ねたことだろうか……。ゆっくりと頭から温かな何かが流れ出す感覚を覚えていた。ただただ、脱力感しか残らなかった。言葉に出来ない哀しみで一杯だった。会ったことも無い人ではあるが他人という訳でも無い。だからこそ何かしてあげたかった。判っている……それこそが、『偽善』だというのだろう。

 指を動かそうとしても全く動かない。ゆっくりと指先から痺れが生じ、ジワジワと体が冷えてゆく感覚を覚えていた。こんなにも暑い夏の日なのに、体が冷えるという感覚は酷く矛盾しているように思えてならなかった。

 真っ赤に萌え上がる様な夕焼け空の下。木々に包まれた場所。すぐ、向こうには琵琶湖が広がっている。夏の夕暮れ。強い日差しと暑さ。木々の香り。小鳥達の声。響き渡る蝉の声。それとは対照的にパトカーのサイレンが響き渡る。恐らく山科と賢一さんの悲鳴も聞こえていたのだろう。ゆっくりと意識が遠退いてゆく。死ぬとはこういうことなのか……そんなことを、随分と冷静に考えていた。もう、視界は真っ白で何も見えない。辺りは騒々しくなっていた。

 悔いとは決して前には立たないものなのだろう。自殺に失敗した人の殆どが口にしていた証言。『ああ、やっぱり止めて置けば良かった……』。武司さんの心の叫び、聞こえた気がする……武司さん、首筋に宛がったサバイバルナイフを力一杯引いた瞬間、泣いていた。静かな青空が一転して鈍色の空に変わると、叩き付ける様な土砂降りの様相に変わるのが判った。死ななければ良かった……やっぱり、生きていたかった!

 俺は泣き叫びたかった。声を張り上げて、人目も憚らずに、ありったけの声で泣き叫びたかった。偽善なのかも知れない。偽善でしか無いのかも知れない。それでも……武司さんの哀しみは、あまりにも大き過ぎて、恐らく、俺の体もぐちゃぐちゃになってしまっていたのかも知れない。そんな気がしていた……。

『もう……戻れないのだな。だってさ、ほら……頭蓋骨割れて、中身、出て来てしまっただろう? もう……戻れないんだ……もう……』

 乾いた口調で笑いながら話す武司さんは、時折、嗚咽混じりの声で呟いていた。俺は、ただ、それを黙って聞くことしか出来なかった。それは、あまりにも辛過ぎて聞きたくなかった。ペンで鼓膜を突き破りたかった。鼓膜が破れる痛みの方が……まだ楽だった様に思えていた。

◆◆◆24◆◆◆

 再び場面が変わる。シトシトと降り続ける雨。酷く湿気に満ちた空気だった。嫌な気配が立ち込める。周囲には薄い霧が掛かっているかのような光景。線香の香りが立ち込める。行き交う人々は皆、喪服に身を包んでいる。葬式。誰の葬式かはすぐに判ってしまった。武司さんの葬式。酷く湿気に満ちた空気は、それだけでは無い重みに満ちているように思えた。人の死という物は、これ程までに誰かの人生を変えてしまうものなのだろうか。何度目にしても慣れることは出来ない、黒と白の鯨幕。

「帰れっ!」

「お、落ち着いてください!」

 唐突に響き渡る怒号。動揺した表情で飛び出したのは山科であった。それに続き錦おばさんが現れる。手には包丁を持ち、夜叉の如く髪を振り乱していた。周囲の人々が必死で止めようと試みるが、包丁を持っているせいか思うように阻止出来ずにいた。

「帰ってくれ! あんたに……あんたなんかに、来て貰っても駄目なんだよ! 武司を、武司を返しておくれ!」

「おばさん、落ち着けって!」

 錦おばさんは髪を振り乱しながら、凄まじい形相で山科を睨みながら怒鳴っていた。賢一さんが荒れ狂う錦おばさんを必死で止めようとしていた。壮絶な光景に、俺はただただ言葉を失っていた。憎しみという感情は、ここまで人を狂気に駆り立てるものなのかと感じていた。

「落ち着いてなんか居られるものか! 加害者の名を明かせ!」

「それは出来ません! 加害者の生徒にも、加害者の生徒にも! 未来はあるのです!」

「ふざけるんじゃないよ! うちの武司を殺しておいて……未来だって? そんなもの要らないさ。今すぐ、あたしが、此の手で、殺してやるっ!」

「お、おばさん、落ち着いてくれよ!」

「私が至らなかったばかりに、本当に申し訳御座いません!」

「申し訳ないと思うなら、今の言葉、武司を見てから言ってご覧よ! 首にパックリと開いた傷口を見ても、熟れ過ぎたスイカみたいに無残に割れちまった頭を見ても、そんな台詞が言えるのかい!? えぇ? 答えなよ! 黙っているんじゃ無いよっ!」

「本当に! 本当に申し訳御座いません!」

 激しく降り頻る雨の中、濡れることさえ厭わずに土下座し、地面に頭を擦り付ける山科の姿を見つめていた。叩き付ける様な雨の中で、喪服はびしょ濡れになっていた。地面に頭を擦り付けながら、嗚咽しながら許しを請う山科の姿は、あまりにも痛々しくて目を背けたい光景だった……そこには行き場を失った怒りが、憎しみが、確かに渦巻いていた。誰が悪い訳でも無い。誰もが何も言えない状況だった。

 山科の立場を考えれば、例え加害者が誰か判っていてもその名を明かすことは出来なかっただろう。賢一さんも同じだ。錦おばさんの様子を見ていれば、そんなことは出来なかったはずだ。仮に加害者の名を知ってしまったとしたら、錦おばさんは本気で復讐してしまっただろう。

 一方で錦おばさんの気持ちも判らなくは無かった。大切な一人息子を奪った、憎い犯人を見過ごす訳にはいかなかっただろう。法の下に裁きを下す……それが摂理ではあるが、少年法という大きな壁が立ち塞がる。だからこそ抑えようの無い怒りと、哀しみで八方塞りになってしまっているのだろう。武司さんの葬儀の場には、行き場を失った深い、深い、哀しみが降り注いでいた。空から零れ落ちる雨は容赦無く皆に降り注いだ。俺にはこの雨粒のひとつ、ひとつが武司さんに思えてならなかった。

(泣いているのか、武司さん? 死んでしまったことが哀しくて? それとも……遺された人々を想って?)

「武司を! 武司を、返しておくれ! あああああーーっ!」

 力なく崩れ落ちると、錦おばさんも声を張り上げて泣き叫んだ。

「だったら、せめて、武司の後を追わせておくれーっ! もう、生きていても、仕方が無いんだよーっ! うわあああーーっ!」

 獣の様な声を張り上げて泣き叫んでいた。手にした包丁を首に宛てようとして、周りの人々が必死で取り押さえていた。もみ合いになりながら賢一さんが負傷するのが見えた。包丁の刃の部分を乱暴に握り締めて取り上げる様が、次の瞬間、苦悶の表情を浮かべる賢一さんの足元に赤い雫がポタポタと零れ落ちるのが見えた。雨に濡れた地面に倒れ込みながら、声を張り上げて泣き叫ぶ錦おばさんの姿があった。山科は未だに地面に頭を擦り付け、必死で謝罪していた。見ていられなかった。目を背けるつもりも、逃げるつもりは無かった。ただ、何もしてやれなかった無力さが悔しくて、哀しくて、とにかく苛立った。

「誰か! 誰か、救急車を呼んでくれ!」

「先生も頭を上げてくださいよ!」

「一体、どうなっちまっているってぇんだよっ!? 此処は葬儀の場なのだぞ!?」

 怒号と罵声だけが飛び交っていた。空虚に乾いた、酷く冷たい哀しみに満ちあふれた光景は、凍て付くような寒さに震えているように見えた。

 そうか……判ってしまった気がする。錦おばさんの持つ深い哀しみは、行き場の無い憎しみへと変わったのだろう。その結果として、あの丑の刻参りに至ったのだろう。そう考えると色々と話が繋がる。

(山科のバイク事故……そこに飛び出して来た能面を被った女。その女とは、恐らくは錦おばさんなのだろう)

 逆恨みといえばそれまでなのだろう。山科は直接の原因では無いはずだ。武司さんの自殺を必死で阻止しようとしていたのだから。だが、サバイバルナイフを握り締めた状況で、武司さん自身も完全に腹を括っていた状況で、一体どうやって阻止することが出来ただろうか。

 山科のことは俺自身も良く知っている。教師というよりも僧侶に近い考え方を持つ人物だ。間の抜けた風体とは裏腹に、実に物事を鋭く見ている。ふらりと現れては、心に響く言葉で生徒達を迷いから救い出す存在。校内一の人徳者として誰からも親しまれる人物なのだ。錦おばさんも恐らくは自分の行いが間違っていることは判っているのだろう。だが、どうすることも無い想いというのは誰しもが抱く物なのであろう。行き場の無い想い。その想いが山科に向けられてしまったのだろう。やるせない話だ。誰も悪くない。なのに何故こんなにも哀しみに満ちているのだろうか。

 錦おばさんの行動については、だいぶ明らかになった。だが、説明がつかないこともある。前も見えない程の土砂降りの中を、一体どうやって錦おばさんは比叡山ドライブウェイへと向かったのだろう? 錦おばさんは運転免許証こそ持っているがペーパードライバーだと言っていた。仮に運転できたとして、前も見えない程の土砂降りの中、比叡山ドライブウェイを走れるものなのだろうか? それだけでは無い。とおりゃんせの唄を口ずさんでいた、あの能面の人々は一体何者なのか? 全てが解明した訳では無い。

 考え込んでいると、唐突に何者かに首を絞められた。

(な……何だ!?)

 目の前には般若の面を被った錦おばさんの姿があった。凄まじい力で首を絞められていた。息を吸い込もうにも、あまりにも強く締め付けられているために、全く抵抗が出来ない。酸欠からなのだろうか? ゆっくりと……ゆっくりと視界が霞んでゆく。

◆◆◆25◆◆◆

 雨足は相変わらず強い。梅雨の季節特有の生暖かい気候の中で、哀しみに満ちあふれた雨だけが容赦なく降り続く。どこからか湿気た線香の煙が漂ってくる。葬式の香り……だが、不気味なまでに周囲は静まり返っている。ゆっくりと意識が戻ってきたところで、俺はしっかりと地面を踏みしめながら周囲を見渡した。

 視界に飛び込んで来るのは白と黒の鯨幕。大きな花輪も雨に降られ、哀しげに濡れていた。周囲が白々と見えるほどに線香の煙が立ち込めていた。

(おかしい……妙に静まり返っている。それに人の気配がまるで無くなった……何が起きている?)

 不意に雨足が強まり、さらに視界を遮る。線香の煙も一段と濃くなり始めた。異様な冷気を肌で感じずには居られない。不意に俺の視界に、思考回路を停止させる物が飛び込んできた。

「ま、松尾……かよ子だと!?」

 首筋に雨粒が落ちたのか、背筋を冷たい雫が伝ってゆく。あまりにも在り得ない光景であった。松尾かよ子……忘れることの出来ない名前。忌まわしい名前。ああ、そうさ……屋上から飛び降り自殺した小学校の教師。いや、これは絶対に在り得ない光景なのだ! 松尾は俺が中学生になった頃に自殺したのだ。どう考えても松尾の葬儀に出くわせる訳が無いのだ。だとしたら、目の前に広がる光景は一体何だというのか? 偶然、同姓同名の誰かが死んだとでも言うのか?

「お前が殺したんだ!」

「え?」

 唐突に誰かに言葉を投げ付けられ、俺は驚き振り返った。何時の間に現れたのか、俺のすぐ後ろに傘もささずに佇む少年が居た。少年は険しい眼差しで俺を睨み付けながら、しっかりと俺を指差していた。まだ幼い少年は目に一杯の涙を称えながら、ただ静かに俺を睨み付けていた。怒り、憎しみ、それから……途方も無い哀しみに満ちた眼差しだった。

「お前がお母さんを殺したんだ!」

「な、何を言っ……」

「お前がお母さんを殺したんだ! 返せ! ぼくのお母さんを返せ!」

(ま、まさか……この少年は松尾の!?)

 一段と線香の煙が濃さを増す。まるで濃霧の中に佇んでいるかの如く、視界は白々と染め上げられていた。

「お前が私の妻を殺したんだ!」

「え?」

 何時の間にか数え切れない程の人々がそこにいた。まるで最初からそこに居たかの様に違和感無く佇んでいた。皆一様に喪服に身を包んでいた。黒、黒、黒! ただただ黒一色の世界に摩り替わろうとしていた。

「返してくれ! 私と息子の人生を!」

「私達の友達を返しなさいよ!」

「お母さんを返せ!」

「娘を……あたしの娘を返しておくれよ!」

「あ……ああ……違う……違う、俺じゃない……俺じゃない……」

 もう、どうすることも出来なかった。一斉に取り囲まれ、皆に口々に罵声を浴びせられ、俺はただ、小さくうずくまることしか出来なかった。雨は強く降り続き、線香の煙は濃さを増すばかり。返せ!返せ! 繰り返し、畳み掛けるように浴びせられる様々な人々の放つ言葉。そう……それは立派な「呪い」であった。

(そうか……俺が松尾を殺してしまったために、こんなにも多くの人たちが哀しんでいるというのか? いや、違う! そうじゃない! 松尾を殺したのは俺じゃない! あいつが勝手に自殺なんかするから!)

 不意に周囲が静寂に包まれる。耳に入る音に意識を集中してみた……道路に叩き付ける雨の音以外、何の音も聞こえなくなった。憎しみに満ちた言葉は、もはや何処にも感じられなかった。今度は一体何が起きたと言うのか? 見つめたくなかった。どう足掻いても逃げ切ることの出来ない八方塞りの状況の中で、救いの手が差し伸べられるとは到底考えられなかった。だが、好奇心とは恐ろしい物で、こんな状況に置かれていても……いや、こんな状況に置かれているからこそ、何が起きているかを把握しない訳にはいかなかった。俺は恐る恐る、目を開いてみた。

「ひっ!」

 何時の間にか俺の周囲を取り囲むように喪服姿の人々が覗き込んでいた。これ以上無い程に口元を歪ませながら不気味に笑っていた。

「お前が悪いんだ! お前が全部、全て悪いんだ!」

「お前が呪いを掛けたせいで死んだんだ!」

「お前が死ねば良かったんだ!」

 一斉に憎しみに満ちた言葉を叩き付けられ、どうすることも出来ない程に追い詰められていた。馬鹿にするような嘲笑いと、憎しみに満ちた言葉を叩き付けられ、体中が燃え上がる様に熱くなっていた。もう、どうなっても構わないと思っていた。もう、どう足掻いても抑え切れそうに無かった。

「止めろーーっ! 俺じゃない! 俺のせいじゃない! 俺は! 俺は! 俺は悪くないっ!」

 見苦しい言い訳にしか過ぎないことは判っていた。それでも抑え切れなかった。どうすることも出来なかった。叫び声を挙げなければ、俺自身が壊されてしまったかも知れない。いや、もう既に……俺は壊れてしまったのかも知れない。哀しかった……俺が俺で無くなってしまう気がして。

 再び周囲は静寂に包まれる。また、同じ手で俺を苦しめるつもりか? それが復讐なのか? 逆恨みでしか無い……俺は被害者だ! どうやったら、被害者が加害者になるというのか!?

「被害者が加害者に転ずることは、珍しいことでは無いよ。俺が良い例だろう? 違うかい、小太郎君?」

 突然背後から誰かに声を掛けられた。それは聞き覚えのある声だった。驚き、振り返れば、何時の間にか周囲の光景は変わっていた。そこは埃っぽい体育倉庫であった。驟雨の如く響き渡る蝉の声。微かに隙間から差し込む日差しの色合いから察するに、どうやら夕焼けの時間帯のように思えた。妙な蒸し暑さを感じる場所であった。

「い、痛てぇ……て、てめぇ……何てことを!」

「あ……ああ……!」

 人の声に驚き振り返れば、何時の間にか数名の人が存在していた。一際大きな体格の生徒が額に汗を滲ませながら苦悶の表情を浮かべていた。太ももに宛てられた手、滴り落ちる真っ赤な血……驚愕の表情を浮かべる、彼の仲間達が見つめる先に佇む生徒。

(た、武司さん!?)

 見間違える筈が無い……錦おばさんの家に遊びに行った時に、何度か線香を上げさせて貰った武司さんの顔を見間違える筈が無かった。あの時、俺は武司さん自身と一体化して、武司さんの最期を見届けたのだから。

 だが、だからこそ意味が判らない光景であった。武司さんが手にしたサバイバルナイフからは、確かに血が滴り落ちていた。

(これは……まさか、武司さんが刺したのか!?)

「ひ、人殺し!」

「え……ひ、人殺し……?」

「このクソッたれが! ナイフで人を刺すなんて、何を考えてやがる!」

 大柄な生徒が凄まじい形相で吼える声が響き渡る。それを皮切りに、取り巻き達が一斉に声を張り上げる。

「人殺し!」

「武司が竜二さんを刺した!」

「誰かーっ! 人殺しの武司を捕まえてくれ!」

 皆が声を張り上げる。肩を小さく震わせながら、武司さんは虚空を見つめるばかりであった。

「違う……違うんだ……違うっ!」

「何が違うってぇんだよっ!? てめぇが俺を刺したんだろ!? くそっ! 誰かさっさと救急車を呼びやがれっ!」

 夕暮れ時の体育倉庫で起こった惨劇。不意に、誰かが勢い良く倉庫の扉を開ける。目が眩む程に赤々とした日差しが飛び込み、全てを赤々と染め上げる。なおも蝉は激しく鳴き声を張り上げる。命の灯火を焼き尽くさんばかりに激しく、猛々しく、狂おしく。

「武司っ! こ……これは一体っ!?」

「違う……違うんだ……」

「見たかよ、賢一……武司が俺を刺したんだ! そのサバイバルナイフでなっ!」

「何だと!? それは、俺がお前に贈ったナイフ……何故、こんなことを……」

「俺じゃない……俺は悪くない……」

 武司さんはうわ言のように、震えた小声で何かを呟き続けていた。足を抑えながらも、なおも出血が収まらない様子の竜二はうめき声をあげていた。呆然と立ち尽くす賢一さん。何が何だか、訳が判らなくなる情景だった。一体、何が起こったというのか? これが武司さんの自殺に繋がった事件だとでも言うのか? ただ、一つ判ったこと……武司さんは、どうすることも出来ない状況に陥ってしまったのだということ。

「うわああああーーーっ!」

 突然、悲鳴を挙げると武司さんは突然走り出した。

「ああ、おい、武司! 待てよ!」

 すぐに後を追い掛ける賢一さんの姿を、俺は呆然と見ていることしか出来なかった。誰かが呼んだのか、救急車のサイレンの音と、警察のパトカーのサイレンの音が入り乱れていた。校舎の方から救急隊員と教師達が駆け込んで来るのが見えた。

 どうすることも出来ない絶望……そこに置き去りにされた、どうすることも出来ない哀しみに俺は押し潰されそうだった。

 不意に俺の足元に一匹の蝉が落ちてきた。そっと手を伸ばしてみたくなった。指が触れた瞬間、蝉は微かに鳴き声を挙げると、それを最期に動かなくなってしまった。何処を見つめているのか判らない空虚な眼差しだけが遺された。俺はそっと身を起こし空を見上げた。綺麗な夕焼け空だ。涼やかな風がそっと吹き抜けた。一瞬の心地良さ。蝉達の鳴き声だけが響き渡る。

(一体何が起きたのかは判らないが、どうすることも出来ない四面楚歌の状況に陥ったのは間違いないのだろう……)

 何が何だか俺も理解不能だった。一体俺は何を見ているのだろうか? これは現実なのか幻なのか? 誰が何のために、こんな映像を俺に見せているのか? 意味不明だった。意味不明過ぎて、ただただ恐ろしくて俺は叫びたい衝動に駆られていた。

◆◆◆26◆◆◆

 再び気が付いた時には、やはり目の前には般若の面を被った錦おばさんの姿があった。凄まじい力で首を絞められていた。微かに戻ってきた意識の中で、俺は必死に抵抗した。食い込む指を何とか引き剥がそうとしていた。だが、とても人とは思えない力で指は食い込んでくる。

「に、錦おばさん……何故!?」

「さぁ、どうした小太郎よ? 武司の最期を見届けたのだろう? ナイフで刺したことも、自殺したことも全て真実だ! 判るか? お前の呪いを、その身に受け止め鳥になった、あの女教師のこと! 良く思い出せ! 他の誰でも無い……お前が殺したのだ! お前が、お前が殺したのだ! お前も、あの松尾という女教師の葬儀の場で頭を擦り付けるが良い!」

 明らかに錦おばさんの声では無かった。

「や、止めろ! それ以上言うな! それ以上……俺を怒らせるな!」

「あっはっはっは! そうだ! それで良い! もっと憎め! 怒れ! 激しく燃え上がる憎悪の炎に、その身を焦がし、理性など捨て去れ! 本能に忠実になれ! 良く思い出せ……お前がこんなにも傷付いているのは誰のせいだ?」

 必死で抵抗を試みるが、ギシギシと凄まじい力で指が食い込んでくる。骨が軋む程に強い力。ゆっくりと意識が遠退く。

「ほら……良く見ろよ、小太郎? 俺の顔に覚えがあるはずだろう? ひゃーっはっはっは!」

「き、貴様は鴨川卓! ああ……ああっ! 俺は……お前に復讐することだけを希望とし、糧とすることで此処まで生き続けて来た! 今度こそ、お前に引導を下してやるっ!」

「ひゃーっはっはっは! どうした? どうした? お前の怒りはその程度か? ほら、さっさと反撃しないと、お前の首を圧し折るぞ? そうしたら、今度こそ輝は俺の思い通りだ! 悔しいだろう? 妬ましいだろう? 嫉妬の炎で、その身を焦がし、燃え尽きちまうが良いさ! ひゃーっはっはっは!」

◆◆◆27◆◆◆

 卓の忌まわしい笑い声を聞きながら、俺の意識が再び遠ざかってゆく感覚を覚えていた。目の前が白々と歪んでゆき、ゆっくりと体の力が奪われてゆく感覚を覚えていた。

「ぼくは卓君とは仲良くしたくない」

 はっきりと聞こえた声。その声は輝の声であった。再び周囲の景色が変わっている。そこは見覚えのある光景……思い出したくもない小学校の光景であった。薄暗い曇り空は、今にも雨が降り出しそうな空模様であった。夕方の廊下で対峙する輝と卓の姿を見ていた。険しい表情を浮かべたまま輝は卓と向き合っていた。

「何で、俺とは仲良くしたくないんだよ?」

「何でだって?」

 輝は眉をひそめながらも、じっと卓を睨み付けていた。

「ぼくに意地悪ばかりするからだよ。意地悪する人とは仲良くなんかなれないよ」

 俺の知らない場所でのやり取りだった。確かに、卓は輝に妙に興味を抱いていた。理由は俺にも、輝にもサッパリ判らなかった。だが、今の俺ならば何となく判る気がしなくない。

(いずれにしてもお前は歪んだ心の持ち主だ……輝がお前を拒むのも頷ける)

「何でだよ!?」

 不意に卓が声を荒げる。輝が思わず目を見開くのが見えた。

「俺が仲良くしてやろうって言っているのに……俺の誘いを断るなんて、どうなるか判っているんだろうな?」

 卓は凄みを利かせた声で威嚇しているつもりなのだろうが、輝は哀しそうな表情で溜め息を就きながら目を伏せた。静かに顔を挙げると、憐れむような目で卓をじっと見つめる。

「ねぇ、脅迫することが仲良くすることになるの? 違うよね? だから、ぼくは君とは仲良く出来ないよ」

 輝の凛とした声が廊下に静かに響き渡る。くるりと踵を返すと、輝は歩き出した。廊下には輝の歩く足音だけが響き渡る。唐突に雨が降り出した。窓に叩き付ける雨の音が響き渡る中、後に残された卓は両手を握り締め小さく肩を震わせていた。

「俺は……俺は、お前のことが好きなんだよーーっ!」

「え……?」

 肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら放たれた言葉に驚愕したのか、輝が振り返った。目を大きく見開きながら、酷く動揺した表情を浮かべながら。

「ど……どういう意味?」

「俺が知りてぇよ! とにかく、俺はお前のことが好きなんだ!」

 卓が口にした「好き」という感情が一体どのような色合いの物かは俺には想像も出来なかったし、想像したくもなければ、理解も共感もしたく無かった。ただ……言葉通りの意味だとしたら、なおのこと卓の行動は理解不能だ。想いを寄せた相手が振り返らないから、壊そうとでも考えたのだろうか? いずれにしても意味不明な思考回路の持ち主だ。

 まったく……何処までも気色悪い奴だ。こんな奴に輝は想いを寄せられていたとはな。背筋が寒くなる。ますます殺したくなる相手だ。今すぐに息の根を止めてやろう。

 再び激しい眩暈に襲われた。立っていられないほどに激しい眩暈……俺は思わず膝から崩れ落ちた。背中に感じる冷たい感触……雨? 叩き付ける程に強い雨。そっと顔を挙げれば、そこは四条大橋の下であった。静かに流れる鴨川の音色を肌で感じていた。強い雨……妙に生暖かい湿気のまとわりつく気候。妙な胸騒ぎを覚える雨であった。鴨川に降り注ぐ雨の音色。四条大橋を行き交う車の音だけが響き渡る。往来する人々の流れは途切れることは無い。観光客もいれば、地元の人達もいた。変わることの無い時の流れがそこにはあった。誰も、この場所で人が死のうとしているなんて微塵も予想していないだろう。

(この光景……この空模様……まさか!?)

 予想通りの光景であった。それは過去の一時点で起こった惨劇。四条大橋の下に力無く横たわる輝の姿があった。川の向こう側では、納涼の季節特有の川床が組まれている。人々の賑わう声が聞こえて来る。だからこそ理解出来ない光景だった。変わることの無い日常の中に、ぽつんと現れた哀しみが……。

(駄目だ、輝! お前を死なせる訳にはいかない!)

 あの日、あの時、お前は大量の睡眠薬を飲んで自殺を試みた。輝、お前は知っていたはずだ。睡眠薬を大量に飲んだところで死ねる訳が無いことを。致死量に達する前に吐き出してしまうだろうから死ねる訳が無い。もっとも、その事実を知ったのは皮肉にもお前の自殺未遂の後だったが……だが、急いで吐き出させなければ後遺症が残る。あの母親に対しての意思表示なのだろうが、それにしては代償が大き過ぎる。急ぎ、吐き出させなければ!

「そうはさせねぇぞ、小太郎」

 唐突に背後から何者かに羽交い絞めにされた。凄まじい力で腕を締め上げられる。思い出したくも無い不快な声の持ち主……何故かは判らないが、卓に羽交い絞めにされていた。

「お前は此処で、輝がじわじわ死んでゆくのを見届けるのさ」

「離せっ! 邪魔をするな!」

「俺を振り解いて、輝のところへ行けばいいじゃねぇかよ? ひゃーっはっはっは!」

 不快な笑い声が頭に響き渡る。だが、卓は恐ろしい力で俺を締め上げる。必死で抵抗を試みるが、まるで動じる様子が無い。一体どうしたと言うのか?

「ほれ、ほれ、急がないと死んじまうぜ?」

「この腐れ外道が! 殺してやる! 殺してやる!」

「ほう? やれるもんなら、やってみろよ! 所詮、お前は口先だけなんだよ。何も出来ねぇんだよ! ひゃーっはっはっは!」

 雨だけが降り続ける。輝は微動だにせずに横たわったままだった。気持ちばかりが焦る。だが、卓の力は凄まじく、まるで身動きが取れない。

「悔しいか? 俺が憎いだろう? 殺したいだろう? ほら、もっと怒りに身を燃やせよ! お前の中に眠る情鬼を目覚めさせちまえよ!」

「言われなくても……てめぇのことを絶対殺してやる! 覚悟しろよっ!」

 口だけじゃない! 俺は口だけじゃ無いんだ! 輝を助け出さなければ! くそっ! 何で、こんなにも凄まじい力で締め上げるんだ! 殺す! 殺す! 絶対、貴様のことを殺してやる!

「やれやれ……これじゃあ面白くねぇな。それじゃあ、俺がお前を殺してやろうか?」

 次の瞬間、背後から物凄い力で首を絞められた。異様に大きな手が首に食い込んでくる。凄まじい力で指が肉に食い込み、骨が軋む感覚を覚えていた。必死で怒りの感情を燃やそうとするが、首を絞められているおかげで息が出来ない……抵抗する指にも力が入らなくなる。視界が白く、白く霞み始める。

(くそっ! ああ……何てことだ……意識が遠退き始めた……)

 ごめん……輝、お前のことを見捨てることになってしまうな。向こうで出会えたら、その時にはお前に詫びなければならないな……済まない、輝……俺は口先だけだったのだろうか……。

「……ああっ!」

 次の瞬間、卓は唐突に何者かに弾き飛ばされた。首を締め付ける手も解ける。一体、何が起こったのか理解出来なかった。激しく咳き込みながら、急ぎ、呼吸をする。ゆっくりと色を帯びてくる世界。

(此処は……貴船神社? 夢を見ていたのか? それとも幻だったのか? そうだ! 錦おばさんは?)

 再び気が付いた時、俺は貴船神社に佇んでいた。夜半の貴船神社。何故、此処にいるのか?ああ、そうか……そうだった。仲間達を助ける為に、俺は導かれるように貴船神社を訪れた。そして、錦おばさんに襲われたのだ。その錦おばさんは地面に崩れ落ちている。俺の前に佇む大柄な人影。大きな翼を背に持つ者は錦おばさんを静かに見下ろしていた。

◆◆◆28◆◆◆

「……怪我は無いか?」

 錦おばさんを見つめたまま、そいつが俺に語り掛ける。そいつはゆっくりと振り返った。額には頭襟、首からは結袈裟、腰には引敷を巻き、袖無しの鈴懸から覗く丸太の様に太い腕。体付きもひどく大柄に見えた。山伏を思わせる様な服装。黒く、大きな翼。カラスの顔を持つ者。見間違えるはずがない。あの時……鞍馬で俺を窮地から救ってくれたカラス天狗のことを。

 俺の無事を見届けると、カラス天狗は錦おばさんに向き直った。

「さて……情鬼よ、此処にお主の居場所は無い。覚悟するが良い!」

 身の丈ほどもある六角柱の棒を手にすると、カラス天狗は静かに構えた。大きな翼を目一杯広げた姿は勇壮の一言に尽きた。対する錦おばさんは明らかに動揺しているように見えた。後ずさりしながらゆっくりと距離を空ける。次の瞬間、唐突に周囲の木々が紅葉してゆく。みるみるうちに、木々の葉が赤や黄色に染まる。一斉に降り注ぐ落ち葉。つむじ風が巻き起これば、周囲は色とりどりの落葉に包まれ視界が遮られる。しばしのつむじ風。風が過ぎ去った時には、錦おばさんの姿は無かった。

「……逃げ失せたか。まぁ良い。いずれ仕留めてくれよう」

 カラス天狗がゆっくりと近付く。俺の前に佇むと、そっと手を差し伸べた。

「大丈夫か? 立てるか?」

「ああ。また……お前に助けられたな」

「無事で何よりであった」

 俺は不思議と落ち着いていた。理由は判らなかったが、目の前に佇むカラス天狗が見知らぬ他人には思えなかったのだ。どこかで、過去に出会ったことがある……そんな気がした。不思議な感覚だった。少なくても、カラス天狗の知り合いは一人もいない。だが、どこかで……遠い昔に一度、出会ったことがある。そんな、不可解な感覚を覚えていた。

(遠い昔に……何処かで出会った気がするのだが、何故思い出せないのだろう?)

 動揺する俺を後目に、カラス天狗は腕組みしながら口を開いた。

「さて……小太郎よ、我はお主に手を貸すために現れた」

「昨晩もそうだったが……何故、俺の名を知っている?」

 静かに俺の表情を覗き込みながら、カラス天狗は可笑しそうに微笑む。

「今、重要なのは、その理由を知ることであるか?」

 確かに、カラス天狗の言う通りだ。俺は何のために此処まで来たのか? 理由は一つしか無い。行方の判らなくなった仲間達を救出するためだ。俺の心を見透かしているのか、カラス天狗は腕組みしながら俺の表情をじっと見つめていた。

「情鬼を討ち取るには、我らカラス天狗の力が必要となる」

 聞き覚えのある言葉だ……あの能面をつけた、不気味な男が何度も口にしていた言葉。「鬼」という言葉が気に掛かった。情鬼とは……一体どういう存在を指しているのだろうか? 不可解な思惑が心の中で引っ掛かり、不快な感覚で一杯になっていた。

「情鬼……あいつも口にしていた言葉だ。情鬼とは一体何者なのだ?」

「いずれ説明しよう。今は、一刻も早くお主の仲間達を救い出さねばならぬ」

 カラス天狗は実に冷静に物事を判断してみせた。そこには余計な感情は含まれておらず、虎視眈々と目的を達成しようとしているように思えた。

「そうだな……残念だが、俺は非力だ。皆を救出するための力も、知恵も、何も無い。だから……」

「本当にそうであろうか?」

 相変わらず不敵な含み笑いを浮かべたままカラス天狗は俺を見つめる。鋭い眼差しだ。何もかもを見透かすかのような澄んだ瞳。些細な嘘など容易く見抜いてしまうのだろう。だが、その言葉の真意は何なのだろうか?

「悲観すること等何一つ無い。友を想う強い気持ち……その気持ちがあればこそ、彼らとの絆を手繰り寄せることも出来得るであろう」

 否定しようかと思ったが、重要なのはそんなことでは無いはずだ。

「フフ、判っているでは無いか?」

「……人の心を見透かすな」

 返事は無かった。相変わらずの含み笑いを浮かべながら、カラス天狗は大きな手を差し出してみせた。

「我の名は小太刀だ。小太郎よ、よしなに頼むぞ」

「……ああ、よろしく頼む」

 大きな手は力強く、温かな感触だった。心強い気持ちになれる感触だった。しかし――小太刀という名……何処かで聞き覚えがあるように思えた。何処かと問われると、正確なことは思い出せない。ただ、遠い昔……何処かで出会ったことがあるように思えてならなかったのだ。今、重要なのはそんなことでは無い。言われなくても判っているさ。俺の心を見抜いたのか、小太刀は満足そうに微笑んでいた。

 良い香りがした。記憶に残る香り……白檀の香を思わせる香りであった。懐かしい香りだ。心安らぐ香りに、しばし時を見失いそうになる。

「小太郎よ、鞍馬に向かうぞ」

 だが、唐突に現実に連れ戻される。ついでに小太刀の言葉に驚かされた。

「鞍馬に?」

「うむ。お主の友は未だ鞍馬の地におる。急ぎ、参るぞ」

 小太刀は俺の腕を掴むと、力一杯地面を蹴り上げた。

「え? え? ちょ、ちょっと……」

「ほれ、しっかりと掴まっておれ。この高さから落ちれば命は無いぞ?」

 力強く大空へと舞い上がる。みるみる貴船神社が遠退いてゆく。

(やはり、このやり取り、何処かで体験した気がする……!)

 いや、余計な詮索は止めておこう。皆を救出することだけを考えるべきだ。目の前にある物に向き合わなければならない。

(皆、もう少しだけ待っていてくれ)

 やがて眼下には見覚えのある巨大な天狗像の赤ら顔が見えてくる。漆黒の闇夜の中でも良く目立つ赤ら顔。目指すは鞍馬の駅前広場。小太刀は狙いを定めると一気に急降下する。一瞬、目の前が白くなるような感覚を覚えた。遠退く意識。だが、それも唐突に終わりを告げる。次の瞬間、俺達は鞍馬の駅前広場に降り立っていた。さあ、反撃開始だ。

◆◆◆29◆◆◆

 鞍馬の駅前広場に降り立った小太刀は静かに目を伏せ腕組みをしていた。どうやら先刻まで雨が降っていたらしく、肌にまとわり付くような湿気だけが置き去りにされていた。不気味なまでに静まり返る街並みからは完全に人の気配は消え失せていた。明かりも消え、人の気配も消え、この場所だけが取り残されたかのようになっていた。明らかにおかしい。駅の明かりはやはり消えたままであった。頬を撫でるようにすり抜ける風に思わず背筋が伸びる。

 ふと傍らを見れば、静かに小太刀が目を開く。微かな吐息混じりに俺に目線を投げ掛ける。

「奇異なことだな。殺気がまるで感じられぬ。奴ら、身を隠しているのやも知れぬ」

「俺達を警戒しているということか?」

「うむ。姑息な奴よの。真正面から挑んでも勝ち目が無いと判断したのであろう。懸命なことよ」

 小太刀は相変わらず涼やかな含み笑いを絶やさない。確固たる自信の表れなのだろう。その自信に満ちた振る舞いは、確かに心強く思えた。悔しいが人ならざる者達との戦いにおいて、自分の存在は本当に無力だと思い知らされた。精神を揺さぶる攻撃……人の精神は本当に脆く、儚く、壊れやすいものだ。僅かな衝撃でも容易く揺らぐ。何度と無く不可解な仕掛けに翻弄され続けてきたのだから。

「ふむ。埒が開かぬ。周囲の様子を伺うぞ。小太郎よ、我の傍から離れるで無いぞ?」

「あ、ああ……」

「なに。そう、身構えるな。我がお主を守る。何も不安に思うことは無い」

 今更ながらだが小太刀は不思議な奴だ。何故、俺のためにそこまで体を張れるのだろうか? カラス天狗という存在は、恐らくは人よりも遥かに優れた能力を持っているのだろう。それに……何故人のために、俺のために行動を共にしてくれているのか不思議でならなかった。そんな俺の眼差しに気付いたのか、小太刀は静かに足を止めた。好奇に満ちた、透き通る瞳で俺を見据えていた。心の奥底まで容易く見抜けそうな程に、深い色合いを称えた眼差しであった。思わず吸い込まれそうになる感覚を覚える。

「何故……我がお主と共に歩もうとするか? 何故、お主を守ろうとするか? 疑問に思うておる。そのような表情を浮かべておるな?」

「……ああ。それに、昨日、鞍馬の山中で奴らに襲われた俺を守ってくれたのも、お前なのだろう?」

「うむ。いかにも」

 小太刀は静かに腕組みしたまま、俺の目をじっと見つめている。吸い込まれそうな程に深い色合いを称えた瞳だった。俺が何を考えているかなど容易く見抜ける。涼やかな色合いを称えた、それでいて刃物の様に鋭い眼差しだった。

「では、我からも問い掛けさせて貰おう。小太郎よ、何故お主は命の危険を賭してまで仲間達を救出しようと思ったのか?」

「そ、それは……一人になるのは嫌だからさ。孤独の寂しさには耐えられない。だから……」

 静かに腕組みをしながら小太刀は俺の返事に耳を傾けていた。相変わらず鋭い眼差しで、じっと、俺の瞳を見つめていた。

「果たしてそうであろうか?」

「え?」

「それならば我に全てを任せて置けば良い。小太郎よ、お主は家で待っておれ。我が全てを片付けてお主の仲間達を奪還してくれようぞ」

「し、しかし、それでは!」

 涼やかな振る舞いを見せる小太刀とは対照的に、俺は思わず声を荒げていた。そんな俺の反応を見届けた小太刀はどこか満足そうに微笑んでいた。

「な、何がおかしい……」

「矛盾しているとは思わぬか? 返答としては実に奇異な返答よの」

「そ、それは……」

 目が泳ぐ俺の隣に佇むと小太刀は力強く肩を組んで見せた。驚くほどに温かな感触だった。

「理由など無い。強いて理由を挙げるとすれば……彼らがお主の『トモダチ』だからであろう?」

 何も言い返せなかった。小太刀の言っている事はその通りであった。本当の理由は……皆、俺の大切な『トモダチ』だからだ。どこか小恥ずかしく思っていたのだろう。この考え方に至った理由は実に薄暗い考えに基づくものなのだから。はっきり言えば、俺には他に心を通わせられるトモダチなど居なかった。だから大切に思うのだ。一度何もかもを失ったからこそ、こういう考えに至ったのも事実なのだから。

「……それならば、小太刀、お前が俺と共に歩もうと思うのも?」

「さてな。我にも真相は判らぬ」

 小太刀は再び、どこか皮肉った含み笑いを浮かべて見せる。何だか上手い具合に煙に撒かれたような気がする。相変わらず小太刀は馴れ馴れしく肩を組んだまま、そっと空を見上げて見せる。

「まぁ、我は人の生活や文化に興味を抱く身。そういうことにしておいては貰えぬか?」

「おかしなカラス天狗だな」

「おかしな人に言われたくは無い」。

 相変わらずの含み笑いで小太刀が応える。

 一つだけ判ったことがある。俺は小太刀に興味を惹かれている。カラス天狗という人ならざる存在……異なる世界を生きる者達。御伽噺という虚構の世界を生きるだけの、架空の存在と思っていた存在は、以外にも人と大差の無い存在であることが判った。だが、確かに人には無い不思議な力を持つのも事実なのだろう。そういう意味では小太刀の言う通り、俺は「おかしな人」なのだろう。変わり者という表現が適切なのかも知れない。

 異変に遭遇しなければ、こうして共に歩むことも無かったのかも知れない。良く考えてみれば実に現実離れした構図だ。カラス天狗と共に夜の鞍馬を歩む。そんな構図、一体誰が想像しただろうか? 自身の環境への適応能力の高さに驚かされる。

「ふむ……まるで気配を感じなくなったか」

「一体、どうすれば良い?」

「フフ、容易いことよ。身を隠してなど居られぬ状況を作り出してやるまでよ。小太郎よ、場所を変えるぞ。我が背に乗るが良い」

「あ、ああ」

 一体、今度は何処へ向かうと言うのだろうか? だが、小太刀のことだ。何か策があっての行動なのであろう。俺は小太刀の策に想いを託し再び鞍馬の夜空へと舞い上がった。

◆◆◆30◆◆◆

「ふむ。此処は中々に良い眺めよの……鞍馬の地が一望できる場所であるな」

 訪れたのは金剛床。鞍馬寺の高台に位置する場所。小太刀に連れられて降り立った場所。「床」の名の通り、舞台を思わせる様な場所。振り返れば鞍馬寺の本殿金堂が勇壮なる姿で佇む。黒塗りの門に、鮮やかな朱色の柱。おぼろなる明かりを称えた明かりが周囲を緩やかに照らし出す。仄かに香の残り香が漂う場所であった。

「ああ、確かにこの場所からならば鞍馬を一望できるな。だが、これが策なのか?」

 俺の問い掛けに小太刀は静かに頷いた。

「お主には……舞の心得があったな。我が笛を吹くゆえ、ひとつ舞を見せては貰えぬだろうか?」

「ああ。確かに、舞の心得はあるが……」

 小太刀がどんな作戦を講じているのか、俺には皆目見当もつかなかった。舞……少なくても、戦うための手段としては使い道が思い浮かばなかった。さぞかし怪訝そうな顔をしていたのだろうか? 小太刀が静かに歩み寄る。

「ふむ。では、小太郎よ、ひとつ問う。能面とは何のために使う道具であるか?」

「能面……その名の通り、能を演ずるために使うものだ」

 そうか。一連の出来事には能面が関わっている。つまりは……。

「敵は能に通ずる者。そういうことだな?」

「うむ。その通りだ。奴は自らの舞に絶大な自信を誇っておる。用心深い奴ではあるが……その反面、極めて直情的な面も持ち合わせておる」

 まるで敵の素性を知っているかのような言葉に確固たる信頼を感じていた。如何なる策かは皆目検討は尽かぬが天狗の講じる戦術。お手並み拝見といこうではないか。

「小太刀、お前の言葉に希望を託させて貰うぞ」

「うむ。それでは始めようぞ」

 小太刀は懐から笛を取り出すと静かに息を吹き込んだ。緩やかに吹いていた風が一瞬止まる。全ての時が止まったかのような不可解な感覚。月明かりさえも時を休めたかのように思えるような不可視の一瞬。次の瞬間、木々の香りを孕んだ風が駆け抜けてゆく。続いて透き通った音色が響き渡る。月明かりに照らし出された阿吽の虎達もまた俺の姿を見届けているように思えた。

 木々の葉と同調するかのような笛の音を背に受けながら、俺は想いを篭めて舞を披露した。聞いたことも無い程に透き通った音色に心が沸き躍る。何かを考えていた訳では無い。何かを演じようとしていた訳でも無い。不思議なことに体が自然に舞を描こうとしていた。月明かりしか無い鞍馬寺の舞台。焦るな、焦るな……まずは深呼吸。はやる気持ちを抑え、沸き上がる熱情に身を委ねる。眼下に鞍馬の街並みを見据えながら、ただ、静かに精神を統一して一歩を踏み出した。

 舞は元芸妓の母に幼い頃から教え込まれたこともあり、心得はあるつもりだ。能の舞とは恐らくは異なるものなのであろうが、舞を演じるという心に差は無いだろう。どちらも芸能という繋がりはある。ならば志とて通ずるものはあるはずであろう。

 舞い始めて暫く経つ。周囲の異変に驚かされていた。吹き抜ける風に乗るかの如き桜吹雪に包まれていた。季節は確かに夏の始まり。少なくとも桜の季節では無い。だが、俺は心を乱されることなく舞い続けた。緩やかな湖面に自らを重ね合わせる。小さな波紋すら、立てぬように心を穏やかにする。母に教わった心を今一度かみ締めながら。

 小太刀はなおも涼やかな旋律を奏でている。木々の葉と同調するかの様な笛の音は、何時しか月明かりとも、鞍馬山とも同調しているかの様に思えた。木々の葉が奏でる音色は、川の流れの様に涼やかに波打ち、月明かりに煌々と照らし出されている感覚を覚えていた。

 周囲はいつの間にか満開の桜に包まれていた。不思議な光景であった。月明かりと満開の桜。風に乗って散り往く桜吹雪。此の場所だけが摂理から切り離されているかのような感覚。桜の花の甘い香りを肌に感じる。心が緩やかにかき乱される様な不思議な感覚。だが、不快な感覚では無い。懐かしさを覚える柔らかく、優しい旋律。まどろむ様な甘美な感覚が爪先まで痺れ渡る。

 不意に風向きが変わる。山から人里へと吹き下りる風の流れ。次第に強まる風。それが一体何を意味しているのかは判らなかったが、明らかに空気が変わった。それに呼応するかのように遠くから風に乗って流れてくる禍々しき歌声。

「とおりゃんせ とおりゃんせ……ここはどこの細通じゃ 天神様の細道じゃ……」

「フフ、宴につられて現れた様子よの」

 そっと笛を下すと、小太刀は腕組みしながら、自信に満ちた笑みを浮かべていた。

「小太刀、あいつらは一体何者なんだ?」

「情鬼と呼ばれる存在ぞ」

「こいつらが情鬼……」

「うむ。人の心より生じる悪意の化身よ。怒り、憎しみ、哀しみ……人が持つ、あらゆる負の感情より生まれた存在達よ。お主も見たであろう? 憎しみに我を見失った者の姿を」

(錦おばさんか……)

 驚愕の表情を浮かべる俺を見つめながら、小太刀は静かに、力強く頷いた。

「小太刀、錦おばさんは……助かるのか?」

 小太刀は腕組みしながら静かに頷いた。

「あれは情鬼では無い。諸悪の権化たる情鬼に操られておるだけのこと……だが、心に深い憎しみを持つ身。故に時間が経ち過ぎればもはや身も心も完全なる情鬼と成り果てるであろう」

 小太刀の言葉に背筋に冷たい物が走った。だが、最悪の事態も想定して行動しなければならないのは事実なのであろう。動揺する俺に、さらに追い討ちを掛けるかのように小太刀が続ける。

「先に言って置かねばならぬが……もしも、完全に情鬼と化した場合、救い出す術は無い。その時は……残念だが、討ち取ることになる」

 それは輝達にも当て嵌まるのかも知れない。だとしたら、なおのこと急がなくてはならない。小太刀が急いでいた理由をようやく理解した。それにしても情鬼とは不可解な存在だ。疑問を抱く俺の表情に気付いたのか、小太刀は地面に絵を描きながら説明を始めた。

「情鬼とは人の心から生まれいずる存在。怒り、憎しみ、哀しみ……あらゆる負の感情が集いて誕生する鬼のこと。中には情鬼に取り込まれ、自らが情鬼となる者も存在する。同時に情鬼は負の感情を持つ者を自らと同じく情鬼に変える能力も持つ。我らカラス天狗一族はこの情鬼を討つことを生業とする身」

 情鬼……俺の中にも存在しているのかも知れない。いや、俺自身が情鬼なのかも知れない……。否定出来なかった。迷い、憂い……。不意に、小太刀が俺の腕を掴む。

「さぁ、覚悟は出来ておるか? これ以上、時間を稼がせる訳にはゆかぬ。参るぞ、小太郎よ」

 ああ、そうさ。悔やむことは後からしか出来ない。だったら、悔いを残さないように、必死で今を生きるしかないんだ。何しろ時の流れは残酷だ。待って欲しいと願えば願う程に、急ぎ足で俺を置き去りにして逃げ延びようとする。だったら……!

「ああ。行こう、小太刀。皆を助け出すぞ」

 再び俺達は夜空に舞い上がった。月明かりに照らされながら、一気に鞍馬を目指して舞い降りた。

◆◆◆31◆◆◆

 再び舞い降りた鞍馬は妙に静まり返っていた。だが、先刻とは異なりそこら中から殺意を帯びた鋭い視線を感じる。空は厚い雲に覆われており、嫌な空気が漂っていた。纏わり付く様な湿気の中、ゆっくりと雨が降り始めた。静かに空を見上げながら小太刀は不敵な笑みを浮かべていた。

「さて……今度は一人とて逃がしはせぬ」

 小太刀は懐から数枚の深緑色の符を取り出すと、鋭く宙に放った。符は風を切り裂き、大空高くへと舞い上がっていく。続けて小太刀は聞き慣れない言葉を呟いた。その瞬間、符は一気に青い炎を噴き上げると、数え切れない程の落ち葉に姿を変えた。

 桜吹雪の如く大空高くに舞い上がった落ち葉は、一斉に鋭いつむじ風となって周囲を包み込む。あまりの風の勢いに、とても目を開けていられる状態では無かった。

 風に乗った落ち葉は刃の如く次々と家々や地面に突き刺さる。それと同時に、落ち葉は淡い光を放ちながら周囲を巻き込む様に氷の花と化した。一瞬、辺り一面が銀世界に包まれたかのような光景に移り変わった。それは一瞬の光景であった。次の瞬間、軽やかな音を放ちながら白銀に凍り付いた落ち葉が砕け散った。サラサラと周囲に冷たい氷の残り香が舞う。

「い、今のは一体!?」

 ただただ、驚かずには居られなかった。これがカラス天狗の能力だというのであろうか? 人には為し得ぬ不思議な力を使いこなす姿に圧倒された。

「限定的ではあるが、この一体に結界を張った。『奴』からの干渉を防ぐためにな。さて……鬼ごっこと決め込ませて貰おう」

 腰に括り付けた巨大な法螺貝を手にすると、小太刀は力一杯息を吹き込んだ。法螺貝の音色が辺り一面に響き渡る。染み渡る音色に呼応するかの如く不意に空が暗くなったかのように思えた。だが、よく見れば空が暗くなったのでは無かった。

 次々と鞍馬山から舞い上がる黒い人影。大空高く舞い上がったかと思えば、次々と鞍馬駅前の広場に舞い降りる。圧倒的な光景だった。小太刀と良く似た服装のカラス天狗達が次々と舞い降りてきたのだから。

 カラス天狗達は静かに隊列を組む。狭い広場に集結する数え切れない程のカラス天狗達。黒い翼と対照的な白い装い。皆、手には同じように六角棒を握り締めていた。ただただ、俺は言葉を失っていた。あまりにも現実離れした光景だったのだから。

 何時しか雨は本降りになっていた。降り頻る強い雨の中、小太刀は六角棒を力強く掲げると、声を張り上げた。

「皆の者、鞍馬の人々はこの地に封じた。一人でも多くの人を救出する。いざ、戦いの時!」

 小太刀の言葉に呼応するかのように、天狗達が鬨の声をあげる。地響きを思わせる程の衝撃を肌で感じていた。圧倒的な光景に俺は腰が抜けそうになっていた。

(こんなにも大勢の仲間達を従えるとは……やはり、小太刀は凄い奴なのかも知れない)

 同胞達に向けられていた力強く、鋭い眼差しを見つめていた。まじまじと見つめる俺の視線に気付いたのだろう。小太刀はゆっくりと振り返ると、腕組みしながら静かに微笑んでみせた。

「小太郎よ、良く見ておくが良い。これが我等の使命よ」

 空中から奇襲を掛ける天狗達に追われ、能面を被った人々が逃げ惑う。何も知らない者が見れば、明らかに天狗達が悪者のように思えてしまうだろう。だが、真相はそうではない。

 燃え盛る炎を背に纏い、憤怒の形相で睨み付ける不動明王。その姿が不意に脳裏に浮かんでいた。

(不動明王を始めとする明王達は、猛々しい怒りを持って人々を救済すると聞く。俺のように聞き分けの悪い奴には、時には厳しい教えも必要ということなのだろう)

 大柄な体付きとは裏腹にカラス天狗達の動きにはまるで無駄が無かった。流れるような動きで駆け抜け、あるいは大空高くに舞い上がりながら次々と人々を追い詰める。そして、手にした六角棒で顔面を力一杯突く。

(実に器用なものだな……狙っているのは能面だけ。その下の顔には、傷を付けない様に細心の注意を払って狙いを定めている。絶妙な力加減。熟達した身だからこそ為し得る芸当なのだろう)

 能面の人々は完全に防戦一方であった。ただ、無意味に逃げ惑うだけの烏合の衆と化していた。天狗達の敵では無いということであろう。多数の天狗達が逃げ惑う人々を包囲しては、次々と能面を砕いてゆく。辺り一面、能面の破片だらけだ。もはや、能面をつけている人は残り少なくなってきた。大多数は既に解放されていたのだから。

「ふむ。だいぶ数も減ってきたように見える。良き頃合よの……一気に打ち崩してくれようぞ!」

 大きく翼を広げ、空を見上げながら小太刀は力強く吼えた。

「お主の仲間達は、だいぶ魅入られておる様子。少々手荒だが強引に引き摺り出すぞ!」

 小太刀は乱暴に六角棒を構えると、懐から何枚も符を取り出した。毒々しい紅い符は見た目からしても、何か禍々しい雰囲気を放っているように思えた。今度は一体何をしようというのか? 何枚もの紅い符を手にしながら、小太刀は静かに何かを呟いていた。耳を澄ませ、良く聞けば真言であった。真言を唱えることで何かの術を成し遂げようとしていた。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 唐突に吹き荒れる風。その風に乗って舞うは儚き色合い称えた桜の花。春の宵を思わせる様な優雅な光景がそこにはあった。鞍馬山から雪の様に舞い落ちる桜吹雪。淡い桜色に周囲は包まれ、甘い香りが立ち込めた。一年の年月を待ち侘び、ようやく咲き誇る桜。数日と持たぬ命を風に散らしながら、ただ儚く消え往く花。潔さがあるからこそ、儚い寂しさが生まれる。それは春の宴。一夜限りの恋文。俺は胸が締め付けられるような想いに包まれていた。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 なおも小太刀は真言を唱え続ける。勢いを増す桜吹雪に包まれ夜半の鞍馬は華やかな光景に彩られていた。柔らかく、甘い香りが周囲に立ち込める。ささくれ立った心が解けていく。そんな感覚を覚えていた。安らぎを覚える香りと光景であった。

 小太刀の声に呼応するかのようにカラス天狗達が一斉に集い、共に真言を唱える。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 空からゆっくりと舞い落ちる桜の枝。たんぽぽの綿毛のようにふわりと舞い降ちてくる。次々と木の枝の端に小さな炎が灯る。柔らかな桜色の炎。穏やかな香りが周囲に立ち込める。線香を思わせる木々の枝が、柔らかな煙を発しながら舞い落ちてくる。不思議な光景であった。

「愛染明王の真言なり」

「愛染明王?」

「うむ。情欲を司る明王の力を借り、『あの者』からの想いを断ち切ったのだ。あの者は他を呪う心だけが一人歩きした存在。決して叶うことの無い恋の願いが転じ、愛憎に身を投じた修羅と化しておる。何故この地に降り立ったのかは判らぬが、鞍馬の地は完全に異界と化していた。まずは奴からの呪縛を解き放つ。力が及ばなくなれば、もはや人々を操ることも出来まい」

 なおも吹き荒れる桜吹雪は幻想的な光景であった。夏の暑さと瑞々しい木々の緑。この暑さには不釣合いな桜吹雪ではあったが、月明かりに照らし出された桜の花は美しく、そして、深い哀しみに満ちているように思えて仕方が無かった。

 不意に、駆け抜けるように勢い良く風が吹き抜けていった。それは禍々しさを孕んだ黒い霧のような風であった。どうしたことだろうか? 風が吹き抜けた瞬間から周囲の雰囲気が変わったような感覚を覚えていた。憑き物が取れたという表現……実際にそうした体験をしたことが無いが、俗にいう憑き物が取れたという表現が近しいのかも知れない。ふと、小太刀に目線を送れば、満足そうに腕組みしながら頷いて見せた。

「これ以上、この地に留まることを避けたのであろう。実に姑息な奴よの……自らの手は汚さずに、婉曲的に仕掛けるのみ。そして、いざ、自分の身に災いが降り掛かる予感を感じ取れば、鼠の様に逃げ去る……さて、小太郎よ。行ってやるが良い。皆も直に正気を取り戻すであろう」

「本当か!?」

「うむ。最初に能面と遭遇した場所……そこに皆は居る筈だ」

 満足そうに微笑む小太刀。大勢のカラス天狗達が静かに俺を見つめていた。早く行ってやれ……そんな想いが伝わってくるような気がした。

 恩知らずなのかも知れない。所詮、人は自らの役目さえ果たせれば他者のことなどどうでも良くなる生き物なのだろう。割り切れない想いではあったが俺はひたすら走り続けた。

(そうさ……皆と再会できたら、その時は小太刀には礼を告げよう)

 図々しい考え方だった。だが、嫌な自分に構っている余裕は無かった。とにかく皆の無事を確かめたかったのだ。ひたすら、息を切らしながら俺は走り続けた。ジットリとした気候に汗が吹き出す。俺は額の汗を乱暴に拭いながらも走り続けた。

(もう少しだ……この先の緩やかなカーブの先だ)

 やがて俺の視界に見覚えのある姿が飛び込んでくる。気を失っているのか、四人はぐったりとしていた。体の大きな赤い斑点があるのを除けば外傷は見られなかった。この赤い斑点は恐らく、藪蚊にでも襲われた痕跡なのであろう。

「みんな、しっかりしろ!」

 肩を揺すり意識を取り戻させる。必死だった。もしも、皆の身に何かが起こってしまっていたら取り返しがつかない。焦りと不安。とにかく必死で皆を揺すって叩き起こした。やがて、皆ゆっくりと起き上がる。

「ううーん、へへっ、オレ、もう腹いっぱいだぜ? そんなに食えねぇっつーの」

 まだ半分寝ぼけている力丸は口元から涎を垂らしながら、不気味な笑みを浮かべたまま大地に抱き付いた。予期せぬ展開によほど驚いたのか、大地が飛び上がるのが見えた。

「ぎゃっ!? り、リキよ、わ、ワシに想いを寄せておったのか!? なななな、なんと!?」

「うぉっ!? ろ、ロック、お、オレと仲良くしたい気持ちは良く判るが、ちょーっと落ち着け。な?」

「何を言うか? それはワシの台詞なのじゃ!」

(良かった。本当に良かった……皆、無事だったのだな)

 じゃれ合う二人を、太助は生暖かい眼差しで見つめていた。

「……小太郎、俺達は一体どうなっていたのだ?」

 なるほど。記憶が残っていないということか。それならば状況を説明せねば……。俺は手短に皆にこれまでの状況を説明した。無論、小太刀の存在は伏せて。何しろ若干一名、無駄に反応する奴がいるからな……。

「うわぁ、凄いよ! リアルに体験しちゃったよー! ああー、感動だなぁ!」

(……輝、この状況を喜べるお前の図太さに、俺は心の底から感動する)

 とにかく戻ろう。安心した瞬間、急激に疲れが出てきた気がする。ふと、隣を見れば輝が険しい表情を浮かべながら、ゆっくりと後ずさりする。

(まさか……まだ、何か起きているとでもいうのか!?)

 思わず身構える俺を後目に、輝は苦笑いを浮かべながら

「えっと……コタってば、ものすごーく汗臭いよ……」

 唐突にとんでもない暴言を吐いてくれた。

「な……っ!?」

 凍り付く俺を見ながら力丸が豪快に笑う。

「いやいや、そういうオレ達も……う、うおっ!?」

 首筋の辺りの匂いを嗅ぎながら力丸が険しい表情を浮かべる。仕方が無いだろう……何しろまとわり着く様な湿気の中で、一昼夜しっかりと熟成されたのだ。相応の状態にはなるであろう。だが、それは言い換えれば、皆が無事であったことの証でもある。その程度で済んだのだ。幾らでも取り返しがつく。汗臭さは……男らしさの証だ。

「……おい、お前ら。さっさと駅に向かうぞ」

 涼やかな顔で太助が先陣を切れば、皆が慌てて後に続く。

 駅へと続く緩やかな下り坂。正気を取り戻した人々の姿が目に入る。次々と人々は意識を取り戻していたが、同時に酷く困惑しているように見えた。当然のことであろう。いきなり、気が付けば家の外にいるのだから。それも、この一帯の家々の人が皆同様の状態に陥っているのだから。理解に苦しむのは当然だろう。やがて俺達は駅に着く。駅の周りは、特に賑わっていた。まるでお祭騒ぎだ。駅員達も狐につままれた様な表情ではあったが、慌てた様子で駅へと戻っていった。これならば出町柳まで戻れるだろう。

 不思議なことに桜の花びらは一枚も残されていなかった。砕かれた能面の破片も残されていなかった。痕跡を微塵も残すことなく事を為し遂げる……これも天狗の為せる技なのであろうか?

 改めて礼を告げようかと思ったが、小太刀は何時の間にか姿を隠していた。この混乱の中で、さらなる混乱となることを避けようという心遣いなのだろうか?

「それにしても……何か、あちこち痒いのじゃ……」

「何か、派手に蚊に刺された跡があるぜ……うぉっ、か、痒い!」

 大地が、力丸が騒ぎ出す。落ち着いた所で気付いたのだろう。あちこちを薮蚊に刺されたのが痒み出したのだろう。騒ぐ二人を後目にしながら太助が含み笑いを浮かべる。

「相変わらず落ち着きの無い連中だ……」

(お前は落ち着きが有り過ぎだ……)

「どうやら電車も動き始めた様子だな。小太郎、出町柳まで戻るぞ」

「ああ、そうだな。余計なゴタゴタに巻き込まれるのは避けたいからな。皆、出町柳に戻るぞ」

 鞍馬駅前は相変わらず祭でも開催しているかの様な賑わいを見せていた。後は皆で何とかしてくれることだろう。少々無責任ではあるが、迂闊に介入すればさらなる混乱を招かないとも限らない。此処は地元の人々に任せ俺達部外者は退散するのが正しいだろう。それにしても……色々なことがあり過ぎた。どっと疲れた気がする。取り敢えず出町柳まで移動することにした。大地の提案で、とりあえず一銭洋食でも食べに行こうという話に落ち着いた。今までの経緯を説明するのは腹が落ち着いてからにしよう。若干一名やたらと盛り上がっているのがいるが……他は皆、怪我をすることも無く無事に戻れそうだ。

 列車の中は時間帯も時間帯なせいか閑散としていた。皆思い思いの席に座り込む。窓の外には静かな夜の景色が広がる。列車の照明に照らし出され、俺の顔が窓にぼんやりと浮かび上がった。皆、賑やかに騒いでいた。駆け回ったせいか汗と泥に汚れた顔が映っていた。皆が無事ならばそれで良い。思わず安堵の吐息が零れ落ちた。

(ふぅ……ようやく落ち着ける)

「おー、ロック! ここにスッゲーでかいのがあるぜー!」

「ぎゃー、触るで無いっ! せ、折角落ち着いて来たのに、あー、再び痒みが!」

「わはは! こりゃあ面白ぇや」

「うぬぬ、反撃なのじゃ!」

「う、うぉっ!? 耳の裏とは、またマニアックな部分を狙いやがって!」

「……楽しそうだなお前ら。俺達はあくまでも赤の他人だ。くれぐれも声を掛けるなよ?」

 じゃれる大地と力丸にチラリと目線を送りながら、太助が苦笑いを浮かべる。

 何故、俺だけ蚊に刺されていないのか、皆不思議がっていたが余計な真実は知らなくても良い。やがて発車のベルが鳴り響き電車が動き出す。窓の外に浮かぶ景色は、どこまでも続く闇夜だけであった。皆を無事に救出することが出来た。安堵からだろうか、不意に強い睡魔に襲われた。少しだけ寝させて貰うとしよう……俺は襲い掛かる睡魔に身を委ねると、しばしの眠りに就いた。

◆◆◆32◆◆◆

 夜半の叡電に揺られ、半ば夢見心地な気分ではあったが、心地良い眠りは唐突に終焉を告げられる。何のことは無い。ことのつまり、出町柳に到着し、ついでに皆に放置されただけのことであった。おまけに車掌に苦笑い交じりに起こされただけのこと。酔い潰れていた訳では無いが、誰もが知る有名な台詞で起こされたのは人生初のことであった。何だか一気に老け込んだ気がした。それにしても、起こしもせず物陰から悪意に満ちた笑みを浮かべる辺り、皆実に良き友達だ。

 階段を下り京阪の出町柳へと移動する。出町柳から祇園四条までは大した距離では無いが、とにかく外は暑い。しかも嫌な汗を掻いたこともあり、少しでも涼やかな場所に身を置きたかった。そんな訳で、俺達は出町柳を後にし京阪電車に揺られながら祇園四条まで向かうことにした。

 機械音だけが響き渡る無機質な改札を抜け、石の香りが漂うホームへと降り立つ。皆、何時もと変わらぬ様子で楽しそうに談笑している。どこかで信じ切れない自分がいた。こいつらは本当に俺の仲間達なのだろうか? あの能面の奴らに未だ惑わされてはいないだろうか? そんなことを考えながら、皆の振る舞いを注意深く観察していた。

(色々なことがあり過ぎたから、少々疑心暗鬼に陥っているのかも知れ無いな)

 少なくても奇異な振る舞いや、何らかの異変は感じられなかった。ただの取り越し苦労であったか。再び安心していた。やがて列車がホームに近付いてくる。暗いトンネルの向こうに光が差し込み始め、ついでにトンネル内に金属音が反響する。ブレーキを踏みながら駆け込んでくる列車の音が響き渡る。やがて列車は完全に停車し扉が開いた。皆、我先にと空いている席に急ぐ。そんなに焦らなくてもホームには俺達以外いない。心配せずとも占領状態になるだろう。

 祇園四条までのしばしの旅路。俺はただ静かに窓から駅の電光掲示板をみつめていた。微かに薄暗いホームの明かり。流れ往く電光掲示板の文字。言葉に出来ない無機的な光景に無限の哀しみを感じていた。随分と無機的な景色だ。鞍馬で感じた景色とは大きく色合いの異なる、人々の息吹が感じられない景色であった。ここには命の息吹は無い……ようやく手にした平和なのに、何故か言葉に出来ない空虚さを覚え、心がしんみりと冷えてゆくような気がした。

(何だろう? 言葉に出来ない哀しみに満ちてゆく。離れてゆくから? 鞍馬から? いや……違う。そうでは無いような気がする。では一体? この感覚は一体何なのだろうか?)

 やがて列車が走り出す。みるみるうちに駅の明かりが遠ざかり、漆黒の闇に飛び込む。

 地下鉄の景色は嫌いじゃない。駅は明かりがあり煌々と照らされているが、駅と駅の間は漆黒の闇。電車の音だけが反響する不可思議な閉鎖空間になる。時々思う。例えば駅と駅の間で列車が事故か何かで唐突に停止。なおかつ停電が発生し、安全地帯であるはずの列車内さえもが闇に呑まれたら……どれ程の恐怖なのだろうか? 遭遇してみたいとは思わないが、その時、俺はどんな行動を起こすのだろうか? 窓の外を駆け抜ける規則正しく並ぶ電灯の白い光を眺めながら妄想だけが駆け巡っていた。

「ねぇ……コタってばさ、さっきからブツブツ言っているけど、どうしたの?」

 輝が怪訝そうな表情を浮かべながら俺を覗き込む。

「お得意の妄想が暴走しているのだろ」

 にやにや笑いながら、ボソっと太助が呟く。

「おー、いつものアレじゃな」

 人差し指を立てながら大地が笑う。

「心の中だけにして置けって。虚空に向かって森本レオ口調で語るの、すげー不気味だぜ?」

 やれやれといった表情で、何時ものように力強く肩を組む力丸。

(……こいつらも何時か、妄想の偉大さに気付くはずだ)

 やがて祇園四条に到着する。俺達は改札を抜けて地上への階段を歩んでいた。すれ違う人もいない空虚な光景。階段の先からはうっすらと街明かりが覗いていた。

 ようやくの思いで地上に出れば、目の前に広がる南座。城を思わせるような圧倒的な存在感。紫の垂れ幕に赤い提灯。月明かりを背に今夜も威風堂々と佇んでいた。懐かしの四条の町並みが視界に飛び込んで来る。賑わう四条通は人も車も引っ切り無しに往来する。その光景は京都一の繁華街の名に相応しい情景であった。非日常な体験をしてしまうと変わらない日常の世界が如何に大切であるかを思い知る。良き教訓になった。

 頬を撫でてゆく風は生暖かいと呼ぶにはあまりにも暑過ぎる。湿気を孕んだ熱気はただでさえ汗ばむ体に纏わりつくような感覚で、茹だる様な気候に思わず力が抜ける。

「ひー、外に出ると暑いのじゃ……」

「夜になっても観光客の足は途絶えねぇなぁー。さすがは祇園だぜ」

 静かに周囲を見渡せば見慣れた景色がそこにはある。揺るぎ無き四条大橋の光景も、橋向こうに続く賑やかな街明かりも何一つ変わっていない。俺達は、ふらふらとにしんそばの松葉に向っていた。南座の賑やかさについ惹かれてしまった。こういう景色を見ると本当に心から安心できる。やっと忌まわしい悪夢から解き放たれたのだと実感できる。大袈裟かも知れないが……助かった。本気でそう感じていた。懐かしい景色が現実の物であることを確かめる様に、周囲を見渡していると不意に鼻腔をくすぐる香ばしさが漂ってくる。

「うーん、何か美味しそうな匂いするねぇ。ふむふむ、これは鰻の松乃だねぇ」

 鰻を焼く香ばしさに、ついつい引き寄せられてしまう。空腹には勝てないものだ。

「お目当てはそんな高級品では無いだろう? ほら、こんな所に立っていても暑いだけだ」

 皆が汗だくの中でも太助は相変わらず涼やかな振る舞いを見せる。色んな意味で変わらない光景であった。振る舞いも言動も涼やかな太助は殆ど汗をかかない。本人曰く決して代謝が悪い訳では無いらしいのだが、毎度のことながら不思議に感じる。やはり白檀の香り漂う、あの風情あふれる扇子の賜物なのだろうか? 興味津々な眼差しを向ける俺に気付いたのか、太助は涼やかな含み笑いを浮かべて見せる。白檀の香り漂う扇子で風を扇ぎながら静かに歩み寄る。

「何だ、小太郎? 俺があまりに良い男だから見とれていたか?」

(見とれてはいたのはお前の扇子だ……相変わらず、誤解を招く表現が好きな奴だ)

 祇園の街は相変わらずの賑わいを見せる。夜だというのに人の波は一向に途絶える気配を見せはしない。漂ってくる鰻の良い香りにしばし足が止まりそうになりながらも、俺達は一銭洋食の店を目指し、信号で待っていた。やがて信号が青に変わる。往来する人の波に混じり俺達も歩き出した。

◆◆◆33◆◆◆

 一銭洋食。お好み焼きの原型となった食べ物。此処の店では甘辛いタレが印象的な一銭洋食が楽しめる。メニューはこれだけ。少々妖しげな店構えも洒落が利いていて悪くは無い。軒先には犬にパンツを引っ張られる男の子のマネキンが得も言われぬ異彩を放つ。中々捻りの利いた光景に怯まされながらも、店内に入れば目のやり場に困る絵が描かれた、これまた洒落の利いた絵馬が埋め尽くす光景に遭遇出来る。何故か和服姿のマネキン人形が椅子に腰掛け佇んでいたりと、昭和のレトロな風景を描いたのだろうが、それにしてはかなり風変わりな光景である。これはこれで非日常の光景だ。

「何時来てもカオスな店だよなぁー」

 頭の後ろで手を組みながら、力丸がにやにや笑う。

「いらっしゃいませ。五名様でしょうか?」

 その背後から、不意に店員に声を掛けられ、驚きついでに慌てて振り返る。余程驚いたのか、条件反射的に応えていた。

「ああ。五人前頼む。それで、皆、飲み物は何にする?」

 皆、満場一致でラムネを頼む辺り中々に粋な反応だ。

 この店にはメニューが一品しか無い為、席に着けば、何人前注文するかを聞くだけだ。今回は珍しく力丸は一人前しか頼まなかったな。普段なら三人前は軽く食うのだが、やはり、奇妙な体験をしたことが影を落としているのだろうか?

 そんなことを考えていると、店先から一銭洋食を焼く小気味良い音が聞こえてくる。ついでに良い香りに思わず腹が鳴る。恐怖と空腹との間にさしたる関連性は無さそうだ。どうやら恐怖とは関係なく腹は減るものらしい。

 レトロな店内に懐かしい曲が流れる。あみんの「待つわ」。その時代には俺はまだ生まれていなかった気がするが、何故懐かしい曲なのだろう? これは懐メロ好きの親父の影響だな。そういうことにして置いた方が幸せだろう。

「それでさ、あの後どうなったの?」

 目を輝かせる好奇心旺盛なトラブルメーカーに再び現実に引き戻され、思わずため息が毀れる。輝の好奇心は留まる所を知らない。ましてや非日常の体験をした後だから、なおのことだろう。これは迂闊な返答は出来ない。重要な部分を避けながらも、上手い具合に本筋を伝えない限り引き下がらないだろう。全く……身近な所に事件リポーターモドキがいるのは、それはそれで疲れる。

「能面を被った人がうじゃうじゃ出てきて、それから……えっと、どうなったんだっけ?」

 輝は何やら記憶が曖昧な様子であった。操られていた時の記憶は鮮明には覚えていないのだろうか? それならば、なおのこと必要以上のことを喋らない様に細心の注意を払わないといけない。何しろ輝の勘の鋭さは半端じゃない。知恵を絞って考えた嘘を一瞬で見抜く辺りは、恐ろしい才能だ。女の勘は鋭いと聞くが、輝の勘の鋭さはそこいらの女の比では無い。占い師の如く的確に見抜き、その上確実に当てる。まるで心の内を見透かされているかのように。

 輝曰く、霊感が非常に優れているらしく、簡単に見抜けてしまうらしい。まったく……どこのインチキ霊能者に告げられたのか知らないが実に迷惑な話である。

「そうそう。思い出したよ。確かロックが能面をつけたら……」

「うむ。剥がれなくなってしもうて、路頭に迷った所までは覚えておるのじゃ」

 大地は何故かマネキンのかつらを被りながら不敵に微笑んでいた。

「うぬっ!? このかつらもカビ臭いのじゃ!」

 だが、唐突に漂ってくるカビ臭さに動揺したのか、慌ててかつらを地面に叩き付ける。その様子を見ながら、輝が可笑しそうに笑う。

「あはは。もう、ロックってば何しているのさー」

 笑いながらも、ふと何かを思い出したかのように輝が身を乗り出す。

「アレ? でも……そうだよねぇ? ぼくも、その辺りまでの記憶しか無いんだよねぇ。何でだろう? ううーん……」

 腕組みしながら考え込む輝の姿に、何やら不穏な物を感じずには居られなかった。余計なことを口にするのは、燃え盛りたい炎にわざわざ油を注ぐようなものだ。要らぬ行動は慎むのが長生きの秘訣。ここは、ひたすらに沈黙を貫き通すか、そうで無ければシラを切り通すとしよう。

 それにしても……皆、気付いていたのだろうか? 一昨日の晩に鞍馬で起きた一件から一晩経ったという事実に。記憶が無いから仕方が無いのだろうか? 落ち着いた所で説明するとしよう。

「はーい、お待たせしましたー」

 丁度、ラムネが人数分運ばれてきた。皆条件反射的にラムネを口にしながらも、考え込んでいた。立ち込める沈黙。だが、すぐに沈黙は輝の好奇心で打ち破られる。

「えっと……その後、何がどうなったんだろう?」

「さぁな。次に気が付いた時には、このザマだ」

 太助は苦々しい表情を浮かべながら、腕に出来た赤々とした大きな斑紋を睨み付ける。

「あー。余計なこと思い出させるから、まーた痒くなってきちまったじゃねぇかよ」

「ほら。リキは一番肉厚だから、美味しそうに見えたんじゃない?」

「表面積のでかさでいったら一番じゃからのぅ」

「肉厚だの、表面積のでかさだの、失礼な野郎共だぜ。大体、オレはだな……」

「はーい、お待たせしましたー」

 やがて一銭洋食が人数分運ばれてくると、皆一斉に無言になった。熱弁を奮おうと立ち上がった力丸も「まぁ、今日はこんな所で勘弁してやろう」と、ぶつぶつ言いながらも大人しく椅子に腰掛けた。

「いただきまーす」

 一斉に割り箸を割る軽やかな音色が響き渡る。こうなると後は動かすのは口だけ。ただし喋り目的では無く目の前の美味いご馳走をたいらげるためにだ。

 男という生き物は実に単純である。旨い物を目の前にすれば、ぴたりと会話は止まる。囀る小鳥のように、喋り続けながら食を進める女という生き物の価値観は、恐らく未来永劫理解出来ないだろう。

 焼きたてだけに口中に熱さが染み渡る。一銭洋食の甘さと辛さの入り乱れるタレは何度食べても好きな味だ。子供の頃から何度も食べているのもあるのかも知れない。学校からも近いし、放課後に小腹が好いた時には、何時もご厄介になっている馴染みの店だ。九条ねぎの芳醇な香りが堪らない。やはりねぎは万物の頂点に立つべき存在だ。うどんでも蕎麦でもねぎは大量に、だ。ねぎ焼き等は最高のご馳走の一つだ。ラーメンには埋まるほどねぎを入れないと気が済まない。皆からはヒンシュクを買うが、好きなものは好きなのだ。仕方が無い。

「やはり出来たては熱々だな」

「コタの大好きな、九条ねぎもたっぷり入っているよ」

「この玉子の半熟加減は、匠の技だよなー。オレも腕を磨くぞー」

 皆、汗だくになりながらも黙々と食い続ける。これが女子高生の集団ならばもっと賑やかなのかも知れないが、男子高生の集団なぞこんなものだ。先行するのは食い気という訳だ。

「それにしても、謎が深まるよねー」

 輝は相変わらず話を元に戻そうと必死で軌道修正を試みる。ふと横を見れば、余程話に夢中なのか……口の周りがソースだらけだ。それはネタなのか? 思わずコケそうになる。

(おいおい、輝……口の周りがソースだらけだぞ……)

 目で促したのに気付いたのか、慌ててお手拭でゴシゴシしてみせる。全く、その集中力をもっと別のことに活かせば良い物を……と、説教臭いのはオッサンの証拠だったか? 要注意だな。

「えっと……ぼく、何を話そうとしていたんだっけ?」

「初恋の相手について、熱く語ろうとしていたのだろう?」

 空になったラムネのビンの中をふらふらと転がるビー玉を眺めながら、太助が含み笑いを浮かべる。

「ああ、そうそう、ぼくの初恋の相手は……って、あ、アレ?」

(惜しいな、太助よ……もう少し、上手く誘導尋問していれば、口を滑らせていただろう)

 外から吹き込む風は相変わらずジットリとした湿気を孕んでいる。だが、どこか違和感を覚えずには居られなかった。何に違和感を覚えるかと問われると返答に窮するのだが。

 不意に輝の視線を感じ、そっと顔を挙げれば、何やら妙に目を輝かせている。にこにこ笑いながら、じっと見つめる目線には嫌な力が篭っている。これは警戒水位を突破したな。要注意だ。

「そういえばさ、どうしてコタだけ全然蚊に刺されていないの?」

 予想通り、そこを攻めてくるか。だが、真相は語らない。

「さぁな。俺みたいな捻くれ者には、蚊も興味を示さないのかも知れないな」

 太助流の含みを篭めてさらりと交わす。そもそも蚊に刺される訳が無い。ひたすら走り続けていたのだから、蚊が刺せる隙等あるはずがない。対する輝達は、どういう状況であったかは定かでは無いが、あの蒸し暑い気候の鞍馬に一晩中居た訳だ。当然、蚊に刺される確率は高くなるだろう。

「それにしても奇怪な話だ。皆が同じ光景を見ているのだから、夢では無いだろう。それに、あの能面をつけた集団に襲われようとは予想もしなかったな」

 皆を見回しながら、太助は一連の出来事を振り返っていた。お冷で喉を潤すと、俺の表情を覗き込みながら問い掛ける。

「そういえば、確か――山科を襲ったのも能面を被った女だったな?」

 さすがは太助。やはり着眼点が鋭い。真相を知っていたならば俺の口から説明することも出来たのかも知れないが、生憎真相は藪の中に潜んだままだ。小太刀は何かを知っている様子ではあったが黙して語ろうとはしなかった。仮にあの極限状態で余計な話をされても、恐らく俺は混乱して取り乱していただけだろう。まったく……小太刀も中々にいい性格をしておられる。

(あの冷静さは、太助以上かも知れないな……)

 チリーン。小太刀の飄々とした含み笑いを思い出した所で、不意に風に乗って、涼やかな鈴の音色が響き渡った。

(鈴の音?)

 俺は驚きついでに立ち上がり、周囲を見回した。だが何も見当たらない。皆が怪訝そうな顔で俺を見ていた。

「おいおい。コタ、いきなり立ち上がって、どうしちゃったんだよ?」

「鈴の音色、聞こえなかったのか?」

「いや? 猫でも通ったんじゃねぇのか?」

 俺の問い掛けに力丸は苦笑いしながら首を傾げていた。どういうことだ? 俺にしか聞こえなかったのか?

「な、なぬぅ!? ねねね、猫じゃと!? あ、ああっ……そ、その言葉だけで体中が痒くなるのじゃっ!」

 猫アレルギーの大地は、猫の接近を感じ取ったのか、一人身悶えしている。

『その通り……お主にしか聞こえぬ音色よ』

(その声は小太刀か?)

『……深夜零時、八坂神社にて待つ』

 皆と共にいるのを気遣っての振る舞いなのであろうか? いずれにしても深夜零時に祇園さんで待つとは、何か判ったことがあるのかも知れない。どうにかして時間までに向う必要がある。真相を知りたかった。何も判らないまま取り残されるのは、酷く不安な気持ちにさせられるだけだから。

「コタってば、どうしちゃったの?」

「あ、ああ……ちょっとトイレに行きたくなってな」

 苦し紛れな返答を返す俺を、輝は怪訝そうな笑みを浮かべながら見つめていた。だが、不意に何かを思い出したのか、険しい表情で時計を凝視していた。微かに聞こえた溜め息。

「ぎゃー、痒いのじゃ!」

「何時までやっているんだ……」

「わはは、にゃーってか? にゃー、にゃー。わはははは!」

「にゃー、痒いのじゃ……って、にゃーじゃ無いのじゃ! ぎゃー!」

 痒がる大地を冷ややかな笑みを浮かべながら見つめる太助。面白がり便乗する力丸。

(おいおい、お前ら……店を壊すんじゃ無いぞ)

 輝は勘が鋭いから、俺が何か隠し事をしているのは既に気付いているのだろう。不意に話題を変えると、何事も無かったかのように一銭洋食を食べ続けてみせた。それ以上に、時計を目にした時から妙に落ち着きがなくなっていることの方が気になっていた。理由は判っている。だからこそ俺は何も言えなかった。

 結局、一銭洋食を食べ終わった所でこの日はお開きとなった。

 俺は輝と二人、四条通を歩んでいた。だいぶ人気は減ったが、それでも人通りは少なくは無かった。輝はずっと、足元を見つめたまま静かに歩むばかりであった。俺の目には、輝は敢えて能面の話題には触れないようにしているように見えた。変な気を使わせてしまったか? だが、逆に気になる。気を使っている背景には何があるのであろうか? 余計な詮索は止せと、何処からか声が聞こえそうな気がした。店を去った後も俺の耳から、あみんの「待つわ」が何時までも消えることは無かった。

◆◆◆34◆◆◆

 一銭洋食の店を後にし、俺は輝と共にただ静かに家へと続く道を歩んでいた。

 輝は家が隣ということもあり、幼い頃から何をするにもずっと一緒だった。見慣れた四条の大通りを共に歩んでいたが、何かが違うような不可解な違和感を覚えていた。

 祇園さんへと向かう道を歩む俺達の間に言葉は無かった。あの母親のことを考えれば、輝も落ち着かないだろう。

「山科先生の怪我、早く良くなると良いね」

 足元に目線を落としたまま、呟くように輝が口を開く。

「あ、ああ……そうだな」

 辺りは妙な静けさに包まれていた。俺達の歩む足音だけが周囲に響き渡る。

「そうだ。明日さ」

 不意に輝が顔をあげた。街灯に照らし出された輝の表情は、どこが寂しげに見えた。

「みんなでお見舞いに行こうよ。きっと、喜んでくれると思うんだよね」

 今にも壊れそうな笑顔だった。四条通の街灯に照らされて輝の赤い髪がくっきりと浮かび上がる。柔らかな光の中に浮かぶ笑顔を俺はただぼんやりと見つめていた。輝の笑った顔は本当に子供みたいに思えた。何も知らない奴には、輝はただの子供染みた奴だとしか思えないのだろう。童顔で背丈も低いから余計に子供っぽく見えてしまうのかも知れない。

 俺に取って輝は弟の様な存在だ。手の掛かる問題児としての一面は頂けないが、それもまた輝の個性だ。兄の気苦労は絶えないが、それも悪くは無いと思っている。

 祇園さん前の大通りは相変わらず交通量が多い。此処は四条通と東大路通が出会う場所。交通量の多いT字路で信号が変わるのを待つ。祇園さんの西楼門。鮮やかな赤が夜半の街に浮かび上がっていた。祇園さんの玄関口とも呼べる西楼門を見つめながら、俺は先刻の小太刀の言葉を思い出していた。暗い晩の中でも燃えるような赤い色を称えた西楼門は、ゆらゆらと揺らぐ俺の心を見透かしているかのように思えた。

(深夜零時に祇園さんで待つ、か……今が二十二時。風呂に入る位の余裕はあるかな)

「あー、もうっ、すっかり汗でベタベタだよー」

 輝は笑いながら、腕で汗を拭っていた。

「色々なことがあったからな」

「……家、帰りたくないなぁ。あの人、きっと怒っているだろうなぁ……」

 唐突に輝の表情から笑顔が消え往く。そのまま静かに立ち止まると、足元に目線を落とした。無理も無いだろう。輝の母親は、いきなりウチに乗り込んできて、ついでに喚き散らすような人物なのだ。行方不明になり一晩家に戻って来なかった事実を黙って受け入れるとは到底考えられなかった。あの人は子供の心配をする以上に世間体を心配する。輝が可哀想で仕方が無かった。だからこそ俺は決意していた。どんな状況になっても、必ず俺が輝を守ると。それもまた兄の務めだ。誰も守ってくれないなら、俺が守らなければ誰が輝を守る? 絶対に守るさ。

「輝……大丈夫か?」

「あ、ああ、うんっ。平気。平気だよ……。ほら、もう……慣れているからさ。あはは……」

 どんな返答が返ってくるかなど、判り切っていたのにわざわざ問い掛けていた。俺も嫌な奴だ。

 やがて信号が青に変わる。時の流れは本当に残酷だ。少しくらい手加減してくれても良いでは無いかと思う。だが、そういう時には決して手加減はしてくれない。時の流れというものは本当に残酷だと思う。

「輝、信号が変わったぞ?」

「あ、うん……」

 目線を落としたまま歩き出す輝の足取りは酷く重たく感じられた。つられて俺の足も重たくなる。お前が悪い訳じゃない。それに俺も同罪だ。俺も背負う。お前だけに背負わせはしない。罪……償わない訳にはいかないから。それに俺は兄貴だからな。兄が弟を守るのは当然のことだ。絶対に守り抜くから心配するな……そう言ってやれれば、輝はどれだけ勇気付けられたことだろうか。言えない自分の情けなさに腹が立った。何をいまさら照れているのか……理想と現実の境界線。それもまた残酷な現実なのかも知れない。

「時々さ」

 嬉々とした笑みを浮かべたまま輝が顔をあげる。頭の後ろで手を組んだまま話を続ける。

「ニュースとかで見掛けるじゃない? 子供が親を殺しちゃったって事件。何かさ、共感出来るんだよね。あー、その気持ち判るなーって思っちゃうんだよねー」

 信号が点滅し始める。輝を促し足早に駆け抜けた。

「ちょっと、嫉妬しちゃうよね。ほら、ぼくには、そんな勇気無いからさ。えへへ……」

 言葉に窮する俺を後目に、妙に嬉々とした表情で輝は喋り続けた。不自然なまでに活き活きとした表情に不安を覚えていた。だが、その表情とは裏腹に輝の足取りは重かった。無言で険しい表情を浮かべる俺に気付いてのか、輝は慌てた様子を見せていた。

「で、でもさ、理解も出来るし、共感も出来るけど、実行に移すのは別問題だよね」

「……」

 無意識のうちに険しい表情を見せてしまっていたのかも知れない。不意に輝の笑顔が固まった。慌てて腕を下すと、慌てた様子で強張った笑顔を見せた。

「あははー。ごめんね、変なこと言っちゃって……」

 違うんだ、輝。何か気の利いた言葉の一つでも言ってやれない自分に苛立っているだけなんだ。「俺はお前の味方だ。俺がお前を守る」。何故、その一言が言えないのか? ただただ悔しかった。

 再び輝は黙り込んでしまった。やはりあの母親のことを危惧しているのだろう。輝の両親は二人とも教師。だからこそなのだろうか? 人一倍成績に関しては口やかましい。特に母親が……反発するかのように髪を染めたのは大分昔のこと。愛嬌のある顔立ちに良く似合う赤毛の髪。当然、あの母親とは衝突したらしい。もっとも本人は髪の色を戻すつもりは毛頭無いらしい。童顔に良く似合っているし、俺は悪くないと思う。

 最近は太助に憧れて、アクセサリーにも興味を示している。変わりたいのだろう。その気持ちは良く判る。人は本当に非力な存在だ。多勢に無勢。力無き者は、力ある者に虐げられ続けるしか無いのだ。親なんて生き物はどこもそうなのだろう。子供のクセに……そうやって俺達の意見など、何の価値も無いかのように斬り捨てる。ろくに耳も貸さずに良し悪しの判断が出来るのだろうか? それこそが傲慢というものである。子供は親の言いなりになれば良い。そういう身勝手なことばかり主張するから、追い詰められ過ぎた子供に殺されるのだ。判っていない。押さえ付けられたバネという物は、押さえ付けられる力が強ければ、強い程……反発した際に跳ね返す力も強まるのだ。良く言うでは無いか。『因果応報』と。

 だからこそ変わりたいという気持ちを抱くのは理解できる。大きな変化は望めない。ならば小さな変化を為し遂げながら外堀を埋める。外見を変えるだけでも心の持ちようは変わるものだ。力丸は外見を変えることで、思い描いた自分を作り上げる事に成功した。昔の力丸の写真を見た奴らは、一瞬、それが誰だか判らなかったと皆一様に口にする程に変化したのだ。

 輝にだって出来るはずだ。変化することを時に不安に感じている様子ではあるが、何も心配することは無い。どんなに変わったとしても輝は輝のままだ。俺の弟であることには変わりは無い。

 夜半の大通りには俺達の歩く音だけが響き渡る。言葉無く肩を並べて歩く俺達の横を遠慮無しに車が走り抜けてゆく。明らかなスピード違反だ。事故でも起こして勝手に死ねば良い。だが、俺達を巻き込むなよ。その中に無駄に爆音を轟かせるバイクの集団がいた。凄まじい爆音に思わず耳を塞いだ。

「うわっ! 耳がキーンとしちゃったよ」

「暴走族か……くだらない烏合の衆め。事故でも起こして死んでしまえばいい」

 暴走族……大人に成り切れない子供達。ニュース記事で以前読んだな。頭の悪い記事だった。読んだ瞬間、俺は記事を破り捨てたくなる衝動に駆られた。学者という人種やジャーナリストという人種は嫌いだ。上から目線で見知らぬ者達の心を見透かしたつもりになっている。お前達は神にでも成り上がったつもりか? 笑止千万。図々しいにも程がある。机上の空論を展開するだけでは、どんなに頑張ったところで真実からは程遠い結論にしか至らない。それが判らぬ以上、お前達はあの暴走族と何ら変わりは無い。

 突然の喧騒が過ぎ去れば再び訪れる沈黙。相変わらず車がスピードを出して駆け抜けてゆく。東大路通を抜けて細い路地に入るまでは油断は出来ない。俺達は青になった信号を渡り、建仁寺の方角を目指し路地裏に入った。ようやく大通りの喧騒から開放される。

 花見小路は酔っ払った観光客達のお陰で賑わう。何の言葉も浮かんで来ない不器用な俺達には、この酔客達の賑わいは救いになったのかも知れない。

 路地裏に入れば静かな街並みが広がる。観光客からすれば意外な場所に住んでいるように思われるが、地元に住む者はこれが日常の風景なのだ。不思議でも何でもない。ありふれた光景だ。小道に入り、幾つ目かの曲がり角を過ぎれば目的地に到着する。

「はぁ……帰って来ちゃった」

「……」

 相変わらず、気の利いた言葉の一つも口に出来ない不器用さに苛立つ。だが、輝は何時もと変わらぬ笑顔で応えてくれた。

「コタ、また明日ね。夜更しして、寝坊しちゃ駄目だよー?」

「判っているさ。また明日」

「うん。また明日ねー」

 輝の作り笑いが哀しい程に痛々しく思えた。俺に何かしてやれることは無いのだろうか……。

 追い詰められ過ぎて、あの日のような事件を起こさなければ良いのだが……。人は極限まで追い詰められた時に、想像を絶する行動に出ることがある。後から冷静になって考えれば、それが如何に無謀な行動であったか判るのだが、頭に血が上っている時はそこまで考えられない。

「輝!」

「え?」

 思わず輝を呼び止めていた。驚き、振り返る輝。今……此処で想いを伝えられなければ、俺は本気で自分を許せなくなっていただろう。だから、勢いに任せて想いを伝えることにした。

「理不尽な難癖つけられたら俺に言えよな……ボコボコにしてやるからさ」

「コタ……」

「何があっても俺は味方だ。絶対にお前のことを守るから。だから、心配するな」

「……コタ、ありがとう」

 朝露の様に消え入りそうな表情だった。微かに見せた笑み。それだけでも十分、想いは伝わったと感じていた。不意に哀しそうな笑みを浮かべる輝に動揺させられた。

「あのね……」

「なんだよ。言いたいことあるならハッキリ言えよ」

「うん。もしも……もしもだよ? ぼくがトンでもないコトやらかしそうになったら止めてね」

 意外な言葉だった。だが考えてみれば可笑しな話でも無い。幼い頃の輝だったら、あの母親には抵抗出来なかっただろう。だが、今の輝には十分に立ち向かう力がある。否……十分過ぎる程の力があるはずだ。一つ間違えればニュースにあがった様な事件にもなり兼ねないだろう。それに……輝は過去に一度、あの母親を殺害し掛けている。未遂に終わったが、もはや修復不可能な親子関係に陥っている。壊れた家庭なのだから可笑しな話では無い。

「安心しろ。お前が手を下す前に、俺が手を下している」

 正義の味方の発言では無いな。我ながら実にセンスの無い言葉であった。だが、あながち間違いでは無いし、少なからず本心ではある。俺の物騒な発言が可笑しかったのか、輝は声をあげて笑っていた。

「コタってば無茶苦茶だねぇ。ま、そんなことにはならないから安心して」

 輝は手を振りながら帰っていった。俺も手を振りながら見送った。何だか大袈裟な話だ。隣に住んでいて、何時も一緒にいる兄弟みたいな関係なのに随分と仰々しい見送りだ。輝を見送り、俺も家に戻ろうと玄関に手を掛けようとした瞬間であった。

 唐突に玄関が開いた。俺の声に気付いたのか母が出迎えてくれた。

「あら、小太郎。遅かったやないの? ご飯、食べはるやろ?」

「あ、ああ……」

「そう? ああ、ほなら、すぐ用意するからなー」

 母は何時もと変わらぬ上機嫌な振る舞いを見せる。うちの母は本当にマイペースだ。無茶なことばかりする俺を相手に苦労が絶えないことも判っている。この母だったからこそ俺は平和な日々を過ごせているのだろう。ふと、隣に佇む輝の家に目をやれば、二階にある輝の部屋に明かりが灯るのが見えた。

(もしも、輝の母親が俺の母親だったら、俺は既に犯罪者になっていたかも知れないな)

「小太郎、何してはるん? 早うしぃや」

「あ、ああ。判っている」

 余計なことを考えないようにした。難しく考えれば、考えるほどに、深みに嵌りそうな気がしたから。ふと、時計を見れば時間は確実に過ぎている。あまり、のんびりもしていられない。

◆◆◆35◆◆◆

 居間に入れば既に食事の準備は終わっていた。相変わらず種類が豊富だ。思わず怯んでしまう。傍らでは日本酒片手に赤ら顔の父が座っている。

「おお、小太郎。帰ったかー。わははは」

(既にだいぶ出来上がっている様子だな……)

 浴衣が微妙に肌蹴ている様子から察するに、今日は既に相当呑んでいると見た。迂闊に関わると面倒ではあるが、放置するとそれはそれで寂しそうな顔をする。父は中々に扱いが難しい。ちらちらこちらを見ながら、何が楽しいのか妙な笑みを浮かべている。酒の肴に用意した枝豆を口に放り投げながらも俺に差し出す。やれやれ、仕方が無い。付き合ってやるか。

「中々に美味い枝豆だぞ。お前も食え」

「ああ、頂くよ」

 一人息子ということもあり、父は俺のことを本当に可愛がってくれる。図体もでかければ懐もでかい。そんな父は俺の最も尊敬する存在であり、時には親友にも、時には人生の師匠ともなる存在である。我が家程、息子と親父との仲の良い家庭というのも珍しいだろう。それに色んな意味で親父はいい男だ。普通に男前なのもあるが、柔道でしっかり鍛え抜かれた肉体美を誇っているというのもある。まぁ、少々崩れてきているが、それも愛嬌の内だ。元は父の影響で俺も幼い頃から柔道を嗜んでいる。そういう面でも自慢の親父だ。

「おお、小太郎は随分と汗かいているなー。そうかそうか。そりゃあ喉も渇いているだろう?」

(ううむ……予想通り、面倒くさい絡み方してきたぞ……。異様なまでの酒癖の悪さが無ければ本当に、最高の親父なのだが……やはり人は完璧にはならないものなのだな)

 親父は酒を呑むと元より年中上機嫌な性分にさらに磨きが掛かる。良く言えば人当たりが良くなり、悪く言えば面倒な酔っ払いになる。

「小太郎は、今夜は何を呑むのかなー?」

(今夜は何を呑むって……普段から呑んでいるかのような言い方は、どうかと思うぞ)

「お父はん……ええかげんにしぃや?」

 低い、妙にドスの利いた声に猫背の父は一瞬にして、背筋がシャンと伸びる。ついでに裏返った声で俺に向き直った。心無しか、赤ら顔が少々青褪めているようにも見えた。

「は、ははは……良く冷えた麦茶でいいかな?」

(父よ、そこで冷蔵庫から麦茶を持ってくる時点で見事に敗北しているな……)

 そんな父を後目に母は手際良く食器を並べる。ついでに豪華に山盛りなご飯を持ってくる。相変わらず盛り方が半端じゃない。仏壇に供えるアレと良い勝負だ。

「今夜はお魚のたいたんに、ひろうずの煮物に、おなすの田楽……それから、シジミのお味噌汁や。ささ、冷めない内におあがりやす」

 一つ一つの皿が妙にでかいのは何時ものことだが……何だ、この異様にでかい魚は。何の魚かは判らないが、皿からはみ出す程に大きな魚の煮物。美味そうな香りを放っている。母曰く、大きなブリが手に入ったので、自ら捌き煮魚にしてみたらしい。

 こんな大きな魚を捌ける元芸妓というのも、かなり微妙過ぎる気がする……。間違いなく、世の男達の夢と希望と、それからロマンと呼ばれる妄想を台無しにしているだろう。

 一口箸を付けて見る。うむ。これは、食が進みそうな味だ。生姜の香りと深い甘味のある味わい。箸で簡単に解れる程に柔らかく煮込まれている。これは見事な逸品だ。

 母は料理自慢で近所の主婦達相手に料理教室を催したりもしている。腕は確かなのだがサービス精神が旺盛過ぎて大量に食事を作るのが難点だ。で、それを親父と俺で食う訳だ……。ふと、横を見れば、最近腹が出てきたことを妙に気にしている親父のたわわに実った腹が目に入る。

(俺も数年後にはこうなるのか……ううむ、悩ましい)

 何だかんだと言いながら俺は黙々と食事を進めた。傍らでは親父が黙々と一升瓶を開けようとしていた。

 それにしても今日は暑い……。エアコンが利いていても、やはり暑さには叶わない。食事をしながらも汗が滴ってくる。

「いや! 小太郎、えらい汗かいたなぁ」

 乱暴に腕で汗を拭う俺を見て何を思ったのか、慌てて風呂場に向かう母。相変わらず落ち着きが無い。しばし俺を見つめながら親父はニヤニヤ笑っていた。

「わはは。良いでは無いか。汗は青春の証だ。ちょっと位の汗臭さは男らしさの証だ」

(いや、その考え方も可笑しいから……)

 汗……思わず、数日前に遅刻した際に喰らった亀岡のベアハッグを思い出し、危うく新鮮なお好み焼きの具材が誕生する所であった。危ない、危ない……。

「ど、どうした? 大丈夫か?」

「あ、ああ……ちょ、ちょっと、禍々しい映像が蘇っただけだ……」

「ま、禍々しい?」

「あ、いや……何でもない」

 いかん、いかん。必要以上に親父の好奇心に火を点けるような発言は避けねば……目を大きく見開き、身を乗り出しながら興味津々に耳を傾ける様はまるで子供だ。面倒なことになる前に、俺はさっさと食事を済ませた。食事を終えて食器を流しへ運んでいると、満面の笑みを浮かべた母が乱入してくる。柔らかな笑顔を浮かべながら、ビシっと無言で風呂場を指差す。

(ああ、言わなくても判っている……さっさと風呂に入るさ)

 判ればよろしいと頷きながら母は台所へと向かう。

 俺の目線の先には、モソモソと野生の熊の様に酒を求めて台所へ忍び込んでゆく父の姿が見えた。母の不在を確かめながら、コッソリ忍び込もうとしているつもりなのだろう……だが、次の瞬間、ピシャっという軽やかな音と「痛っ!」という短い悲鳴が聞こえた。それだけで何が起こっているのかが容易に想像がついた。

(親父の酒好きは半端じゃないからな……俺も親父みたいになるのか? ううーん、親父のことは尊敬しているが、ああいう一面は尊敬したくない……特に、母にピシャリと撃沈される様は何とも格好悪いでは無いか)

 対岸の火事だと思って油断していれば明日は我が身だ。早く風呂に入らないと無敵艦隊の矛先がこちらにも向けられる危険性がある。背後に母の鋭い視線を感じた気がして、思わず背筋がシャンと伸びた。

「あ……」

(こ、このリアクションは親父と行動パターンが一緒ということか? ううむ……ああはならんぞ、多分。いや、絶対に)

「小太郎、早うお風呂入りや。洗濯でけへんからなー」

「わ、判っている」

 とにかく、ここは素直に言うことに従おう。恐る恐る振り返れば、顔は笑っているが目は笑っていない母の表情が見えた。なまじ口調と表情が柔らかい分、迫力もあるというものだ。母、強し。

 俺は急いで風呂に向った。すっかり汗でベタベタだ。服を脱ごうにも貼り付いて中々剥がれない。服を脱ぎながら洗面台の鏡に映る自分の姿に目が留まる。少し日焼けしたのだろうか? 腕の色合いが少し変わっているように思えた。ついでに腕も、胸も肉付きが良くなったように思える。ふむ、力丸直伝の筋トレの賜物だろうか? 中々に良い感じになってきた気がする。思わず力を篭めポーズを決めてみた。

(こ、この行動パターンは力丸の行動パターンだな……何か、周囲に毒されているのか、俺?)

 汗ばんだ胸元はベタベタしていて、ついでに芳しい香りを放っていた。

(う……真面目に汗臭いな。ツーンと来たぞ、ツーンと……これが男らしさの証か? ううむ、在り得ないな。さっさと風呂に入ろう)

 そそくさと脱ぎ終え浴室へと向かう。湯気に混じって漂う仄かな石鹸の香りに、再び亀岡の笑顔が浮かんできたが瞬殺した。清々しい入浴タイムに禍々しい映像は必要ない。

(そうさ。汗臭い方が救われただろうに……何故、ベアハッグを喰らった瞬間に、亀岡の胸元から爽やかな石鹸の香りがしたのか? 余計に気色悪いぞ……ううむ、学校七不思議の一つだな)

 思わずボディーソープのボトルを握り締めたまま、唸ってしまった。

 夜だと言うのにどこかで蝉が鳴いている声が聞こえる。どうやら外は相当暑い様子だ。

◆◆◆36◆◆◆

 ゆったりと浴槽に浸かっていた。こうしてゆったりと浴槽に浸かっていると、気持ちも安らぐ。賑やかな蝉の声はそこかしこから聞こえてくる。蝉達が主催する唄の大会……そう考えると中々に趣があるでは無いか。しかし、あまりのんびりもしてはいられない。小太刀に指定された時刻は、刻一刻と近付いているのだから。

「小太刀、か……やはり、あれは夢でも、幻でも無いのだろうな」

 カラス天狗。物語の中でしか見たことの無い存在。予期せぬ存在との出会い。今更ながらではあるが疑問が残る。初対面のはずなのに小太刀は何故、俺の名前を知っていたのであろうか? いや、小太刀は不思議な術をも使いこなす身。それ位のことならば、容易く調べられそうな気がする。だが、それだけでは説明がつかない思惑が残る。

「初対面のはずなのに……何故懐かしさを覚えたのだろうか? まるで、遠い昔に知り合ったきり、長い時間を経た友人同士が出会った。そんな感覚だったな……邂逅?」

 では、一体何処で出会った? そもそも人ならざる姿をした存在と過去に友達になった記憶等は残っていない。小太刀……お前は本当に不思議な奴だ。

「余計な詮索は止せ……また、澄ました顔で俺を諭すのか?」

 思わず小太刀の低く、渋い声を真似てみた。

 慌てて周囲を見回し誰も見ていないことを確認する小心者な自分が少し可笑しかった。もっとも、此処は風呂場だ。覗き見するような変態でもいない限りは目撃者など存在する筈がない。

 安心して再び浴槽に浸かろうとした所で、不意に猫の鳴き声が聞こえた。思わず、俺は窓から顔を出していた。

「目撃者か!? 俺の秘密を知った以上は、生かしておく訳にはゆかぬ!」

(……いやいやいやいや、俺は何をしているのだ?)

 果てしない恥じらいを覚え、思わず我に返った。

 それにしても判らないことだらけだ。小太刀が『奴』と呼んでいた黒幕らしき存在と錦おばさんとの関わりも……山科の事故のことも、武司さんの過去の記憶も、全部、全て、判らないことだらけだ。

「小太刀……根拠など全く無いが、お前のことを信じても良いのだろうか?」

 再び猫の鳴き声が聞こえてきた。タイミング良過ぎだろう……。いや、小太刀のことだ。案外、どこかで俺を見ている可能性も否定出来ないな……油断ならぬ。

 取り敢えず体を洗おう。顔も、体もベタベタだ。

 蝉の声を聞きながら俺は体を洗っていた。色々と考えるのは止めだ。小太刀の言う通り、無駄な詮索をしたところで答には至らないのであろう。俺が直面している問題は多分、そんなに簡単な結論で片付くような代物にはとても思えなかった。色々な要因が複雑に絡み合い、互いに干渉し合い、時に密接に関わり合っている。そんな複雑な仕掛けの様な気がしてならなかった。

「いずれにしても、祇園さんに行かないことには話が始まらないという訳か……」

 シャワーを捻り、あふれ出す水で乱暴に顔を洗い終えると俺は風呂場を後にした。

◆◆◆37◆◆◆

 風呂から上がった俺は、こっそりと家を抜け出した。迂闊に母に気付かれると色々と面倒なことになるのは避けられない。親父に気付かれるともっと面倒なことになる……。忍び足で家を抜け出し、そっと玄関の戸を閉めた。外は静寂に包まれていた。酔客達も家路に就いたことであろう。人気の無い街並みだけが広がっていた。

 外に出ると深夜にも関わらず相変わらず蒸し暑かった。まとわりつくような不快な湿気と熱気に再び汗が噴き出す。だが、怯んでいる場合では無い。約束の時間までそうそう時間は残されていない。細い路地を歩み抜けながらも祇園さんへ向かい急いだ。

 賑わっていた花見小路は既に静まり返っていた。一夜の宴が終われば、再び静けさを取り戻す。静まり返った花見小路を駆け抜けながら四条通へと抜ける。後は祇園さんまで一直線だ。信号を渡り、時計を確認する。深夜零時丁度。祇園さん前の鳥居に到着。良し。無事に到着できた。だが、小太刀は一体何処に居るというのだろうか? 不意にけたたましい爆音が背後を駆け抜ける。驚き振り返れば、暴走族が爆音を轟かせながら走り去るのが見えた。少し遅れて、その後を追い掛けるパトカーのサイレンの音と警官の声。

「速やかに止まりなさい!」

(やれやれ。夜だというのに騒々しい街だ)

 相変わらず湿度は高く、立ち止まっているだけでも汗が噴き出す。風呂に入ったばかりなのに、既に着替えたばかりのシャツは汗でぐっしょりだ。それにしても暑くていけない。袖をめくり、肩を出す。多少は肌で直に風を感じられる分ましになるだろう。しかし厳しい暑さだ。本音を言えばシャツを脱ぎ捨てたいところではあったが、幾らなんでもそれは慎むことにした。

(小太刀は一体何処にいるのだろうか? さすがに人目につく場所にはいないか)

 八坂神社の玄関口、鮮やかなる朱色の西楼門を潜り抜け境内をさらに奥へと進む。

 昼間は人通りも多く、賑わいを見せる八坂神社も、さすがに深夜になれば静まり返る。暗い境内を宛ても無く歩くが、相変わらず小太刀は姿を見せる気配すら無い。これでは埒が明かない。目印としては最も有効と思われた本殿前で待つことにした。風の無い夜。雲間から微かな月明かりが覗く。

(それにしても、厳しい暑さだな……)

 額の汗を拭った時であった。不意にどこからともなく笛の音が響き渡った。驚き、振り返れば、舞殿に佇む人影。見覚えのある後姿に思わず息を呑む。仄かな月明かりに照らされながら、色鮮やかな紅の舞扇を手に舞う姿。大柄な体付きに似合わぬ繊細かつ、妖艶な動きに思わず見とれてしまった。

「フフ、待っておったぞ、小太郎よ?」

 含み笑いを浮かべながら小太刀は手にした鈴を鳴らす。涼やかな音色が風に乗って吹き抜ける。不思議な音色だった。その音色を耳にした瞬間、静かに汗が引いてゆくのを感じていた。

「これは驚いた。実に見事な舞だ」

「些細な余興よの。お主の舞を見よう見真似で演じてみただけのもの」

 満更でも無さそうな表情で、小太刀は腕組みしながら含み笑いを浮かべていた。俺も小太刀の真似をするかの様に腕組みしながら含み笑いで応えて見せた。

「いやいや、見事な腕前だ。俺の方が教えを請いたい位だ」

「フフ、随分と謙虚なことよの」

 振る舞いを真似されたのが可笑しかったのか、小太刀は静かな笑みを浮かべながら腕を組みし直して見せる。

「……黒幕について、先ずは説明せねばならぬ」

 黒幕……それは一連の事件を巻き起こした張本人。自らの手を汚さぬ狡猾なる存在。何も知らなければ素通りできたのかも知れないが、少なからず関わりを持ってしまった。輝では無いが好奇心を掻き立てられる。もっとも、好奇心は猫をも殺す。判っているさ、そのくらい。

「情鬼『憎悪の能面師』……それが一連の事件を巻き起こした情鬼なり。そして先にも話した通り、情鬼を討ち取ることが出来るのは我ら天狗一族の者のみ」

「ああ。小太刀が討ち取ろうとしているのは、まさしくそいつなのだろう?」

「うむ、その通りだ。そして……もう一つ、重大な事実を伝えねばならぬ。だからこそ、こうして夜半の八坂神社まで足を運んで貰ったのだ」

 わざわざ呼び出してまで伝えたいこととは、少なからず何か良からぬ内容なのだろう。不安になる俺の気持ちに呼応するかの様に、不意に一切の音が消え失せる。風が止み、木々の葉を揺らす音が聞こえなくなる。

「小太郎よ……憎悪の能面師は間違いなく、お主を狙っておる」

「俺を? どういうことだ?」

「何故、お主を狙うのか? その意図までは汲み取れぬ。だが、奴は必ずやお主の前に姿を現すであろう」

 小太刀はじっと、俺の眼差しを見据えていた。鋭い眼差しだ。判ってはいたが認めたくなかった事実。何故あのような化け物に狙われなければならないのか、皆目検討が尽かなかった。ただ、厄介なことは間違いない。執念深く俺を狙い続けるだろう。俺を「情鬼」とやらにさせるために。そこに一体どのような意図があるのか? 知りたくも無ければ、知る価値も無い。

「ふむ……確実なことは一つ」

 小太刀は人差し指を立てながら、真剣な眼差しで俺を見つめていた。思わず溜め息がこぼれる。理由は判らなくても、やるべきことは一つだけだ。

「ああ。あいつを退治しない限り、俺達の平和は保障されない訳だ」

「うむ。そういうことになるな」

 随分と気安くに言ってくれる。戦う力を持つ小太刀は良いかも知れないが、俺は本当に非力な存在だ。また襲われたとして、今度は無事でいられる保障は何処にもない。焦る心の声を聞いていたのか、あるいは最初から策を講じていたのか、小太刀は懐から数枚の札を取り出した。何やら不思議な文字が刻まれた白い札であった。

「これは?」

「お主に授けておこう。憎悪の能面師に出くわしたらその札を叩きつけよ」

 一体どういう効果があるのかは判らないが、小太刀が授けてくれたものだ。効果は確実であろう。だが、奴は一体どういう形で関わってくるのであろうか? 予測が出来ないだけに気味が悪く思える。

「我らが前面に出ていては、奴は警戒して姿を隠すであろう。言葉は悪いが……小太郎に囮になって貰い奴を油断させる。間抜けにも姿を現した時が奴の最期よ。我ら天狗一族総出で今度こそ息の根を止める」

 小太刀は涼やかな顔でさらりと戦術を口にしてみせた。餌を撒き、間抜けにも引っ掛かった相手に一斉に襲撃を仕掛ける。えげつない戦術ではあるが、確実に仕留めることが出来るだろう。物事を為し遂げるのに綺麗も汚いも無い。戦いの基本だ。確実に勝つための戦術……それは、アタリマエ過ぎるが、相手よりも優位な状況に立てばよい。例えば毒で相手を弱らせてから仕留めるという手もあるだろうし、一人の相手に多数の味方で挑むという手もある。手段などは幾らでもあるのだ。手を汚す覚悟が出来るか出来ないかだけの話だ。

 いとも簡単に割り切れる自分自身の心が可笑しく思えた。やはり俺の心にも「鬼」は棲んでいるのだろう。俺達の幸せのためならば、情鬼が無様に死のうが何だろうがどうでも良かった。微塵の慈悲さえ不要だと考える。身の安全さえ……自分達の幸せさえ守れるならば、他者の犠牲等どうでも良い。息をするかの如く他者を平気で踏み付けられる。本当の意味での鬼は、むしろ俺なのだろう。だが、それでもよかった。所詮、綺麗事だけでは人は生きられないのだから。

「良いだろう……俺が囮になる。明日にでも山科の所に見舞いに行く予定だ。好都合だろう」

 小太刀は俺の目をじっと見据えたまま力強く微笑んで見せた。必ず守る。だから、何も不安に思うことなく行動しろ、と言葉を添えながら。言われなくてもやってやるさ。乗り掛かった船だ。途中で降りるのも負けた気がする。それ以上に、皆に危害を加えるというならば容赦はしない。俺の仲間に危害を加えるならば、そいつは敵だ。敵ならば殺すしかない。和解出来るような柔軟な考えは持っていないのだろうから。

 輝が見舞いに行くことを提案したのは何かを察したからなのかも知れない。それに、これは俺自身の問題でもある。避けようの無い障壁ならば殴ってでも破壊するしかない。明日につなげるため、俺は戦う覚悟を決めた。もう畏れないさ……。

「そうそう、言い忘れたが……」

「む? 何だ?」

「その……ありがとうな。お前が助けてくれたお陰で皆を助けることが出来た。本当に感謝する」

 素直に伝えた感謝の気持ち。一瞬、戸惑ったような表情を浮かべながらも、小太刀は力強く腕を組むと満足気に微笑みんで見せた。

「フフ、気にするで無い。まぁ、何かの機会に人の世の美味い食い物でも奢ってくれれば良しとしておこう」

「ああ。何か良さそうな物を選んでおく」

 その言葉を聞きながら、小太刀は満足そうに微笑んでいた。不意に一陣のつむじ風が境内を駆け抜けた。突風の様な強い風であった。再び顔をあげた時には既に小太刀の姿は無かった。

「相変わらず、気まぐれな奴だ……」

 さて、戻るとしよう。母に見付かると面倒だからな。

 夜の祇園さんは相変わらずの湿気を孕んだ気候であった。既にシャツが肌に張り付き始めていた。不快な感覚。戻ったら再び風呂に入ろう。妙に静まり返る境内を歩みながら、俺はそっと月を見上げていた。

◆◆◆38◆◆◆

 翌朝は透き通る様な青空に包まれていた。朝から良く晴れており、賑やかな蝉の声もあちらこちらから聞こえてくる。相変わらずじっとりとまとわりつく様な暑さに包まれていた。

 昨晩は不安を抱いていたせいか良く眠れなかった。だが、時間は待ってはくれない。生きている以上は時の流れに従うしかないのだ。俺は眠い目を擦りながら通い慣れた道を走っていた。カバンの中には小太刀から授かった札も仕舞い込んである。噴き出す汗を拭いながら七条の交差点を曲がる。緩やかな上り坂も一気に駆け上がり、今朝は颯爽と校門を抜けた。

 相変わらずの亀岡は、今朝も直立不動の構えを崩すことなく不敵に笑っていた。時計をちらりと眺めながら不敵にわらうばかりであった。今朝は見事関門を通過出来たか、と。

 亀岡を後に俺は教室へと急いだ。下駄箱で靴を履き替え、階段を駆け登る。教室の扉を開けば、皆も早々と到着していた。

「ああ、コタ。おはよう」

 輝がにこやかな笑顔で挨拶をすれば皆も後に続く。俺も皆に「おはよう」と返す。

「皆、今朝は妙に早いな」

「何だか良く眠れなかったのじゃ。能面がまだ顔に張り付いている様な気がしてのう……」

 顔を手でペタペタやりながら大地が苦笑いすれば、力丸が豪快に笑いながら大地の肩を組む。

「そいつぁ災難だったな。まぁ、オレは蚊に刺された跡が痒くて、痒くて眠れなかったぜ」

 皆それぞれに思惑は抱いている。それは喉の奥に引っ掛かった魚の骨の様な物。日常の中に唐突に現れた非日常。不安感を皆一様に感じているのは間違いない。何としても早期に解決を目指す必要がある。だからこそ俺は皆に提案する。悪いな、拒否権は無いぞ。解決するためには絶対に必要なのだから。

(小太刀……お前に託すぞ)

 信じているからこそ迷うことなく、自分でも驚くほど自然に言葉が出てきた。

「放課後、山科のところへ見舞いに行くぞ」

 一瞬、皆目を丸くして戸惑っていた。互いに互いの顔を見合わせながら動揺した表情を見せる。やはり皆も感じていたのかも知れない。山科への見舞い……そこに繋がる存在も。

「マジかよ? 俺も同じことを考えていた」

 不意に太助が口を開く。珍しく少々驚いたような表情を浮かべていた。

「ワシもなのじゃ。それを皆に話したくて……」

「早々と学校に来ちまったってか? おいおい、オレもだぜ?」

「えー、一体どうなっちゃっているの? 皆で同じことを考えているなんて」

 日常が非日常に変わる瞬間……普通に考えたらあり得ないことだ。皆が同じことを考えていた。事前に示し合わせた訳では無い。どこかで通じ合っているのかも知れない。同じように、この世ならざる者に関わってしまった同士ということだろうか。

 俺は迷っていた。真相を皆に伝えるべきか否か。だが……此処まで足を踏み込んでしまったのだ。ならば、もはや当事者だ。それに情報は多い方が良い。皆の身を守るためにも。

「皆に伝えていなかったことがある」

 唐突に切り出す俺を見つめる皆の表情が険しくなる。だが、話さない訳にはいかない。俺は怯むことなく話を続けた。

「大地が能面をつけ、その後大勢の人々に襲われた。そこから先の話だ」

 俺は皆の顔を見回した。皆一様に真剣な眼差しで俺の話に耳を傾けてくれていた。

「話を続けるぞ……無事に逃げ延びた俺は、皆の足取りを追って貴船を訪れていた」

「貴船だと? 鞍馬では無いのか?」

 眉をひそめながら、太助が鋭く切り込んできた。「ああ、貴船だ。鞍馬の間違いでは無い」。俺は短く説明すると、さらに続きを聞かせた。そう……ここからが話の核心に迫る部分だ。皆の注意を引き付ける為に俺は敢えて前置きをした。

「そこで、俺は錦おばさんに出会った」

「え? えっと……話のつながりが良く判らなくなったよ?」

 皆、互いの顔を見合わせていた。確かに輝の言う通りだ。普通に考えたのでは理解出来ないだろう。だから、俺は皆に告げた。実に可笑しな注意喚起だ。「普通では無いことが起こっている。そう解釈してくれ」。さらに俺は話を続けた。かつて起こったであろう武司さんの悲劇と、その顛末。葬儀の場面で起きた出来事。そして……錦おばさんが、山科に対して並々ならぬ憎悪を抱いていること。

 皆、言葉を失っていた。当然だろう……誰も予想もしない真実なのだから。無論、俺は皆に絶対に口外するなとも伝えた。

「そんなことがあったとはな。賢兄からも、それらしい話は聞かされていたから、ある程度は知っていたが……」

 太助は酷く動揺していた。ある程度は事実を知っていただけに、余計に驚いたのであろう。

 不意に何かに気付いたのか、輝が不意に声を挙げた。

「ああ!」

「な、何だよ……びっくりするじゃねぇかよ」

「テルテルよ、一体どうしたと言うのじゃ?」

 勘の鋭い輝のことだ。恐らく山科の事件と錦おばさんの関連性に気付いたのであろう。

「もしかして、山科先生が事故を起こすキッカケになった女の人って……」

「恐らくそうだろう」

 俺の言葉に再び皆の表情が凍り付いた。

 しかし改めて考えてみると理解不能な話だ。仮に、大雨に紛れて山科への復讐を果たすのであれば、事故を起こした山科を放置した方が確実では無かったのだろうか? わざわざ救急車を呼び出す意図が見えなかった。何を考えているのかが見えない……だが山科は今、病院に入院している。殺害とまではいかなくても、途方も無い恐怖心を与えるのが目的だとしたら、病院に入院している山科の前に姿を現すのが効果的だろう。事故を起こさせた張本人が病院まで押し掛けて来たならば、誰であろうとも多大な恐怖を感じることだろう。いずれにしても確実に病院に現れる……そう考えたからこそ、皆と病院に向うことを提案したのだ。

 憎悪の能面師は俺を狙っている。錦おばさんは山科を狙っている。そして憎悪の能面師は錦おばさんを操ろうとしている……憎悪の能面師の目的は良く判らないが、病院に向えば狙われている二人が同じ場所に存在することになる。危険性は伴うが囮作戦としての意味はあるだろう。

 不意に教室の空気が変わる感覚を覚えた。俺達五人以外は誰も気付いていない様子だが、明らかに吹き抜ける風が冷気を伴っている。良くないことが起こる予兆は確かにそこに存在していた。此処には似つかわしく無い異様な気配が立ち込める。辺りを警戒するかのように皆の表情も険しくなる。何かが起こるのか? 一斉に身構えたところで唐突に日常に連れ戻された。

「はーい、授業を始めますよー」

 勢い良く教室のドアを開く音。響き渡る桃山の声に俺達は我に返った。ついでに見えない何かから解放されたような不思議な感覚を覚えていた。

「あら?」

 教室を見渡していた桃山の目線が止まる。輝達の存在に気付いたのだろう。

「輝君達、無事だったのね」

 一瞬、目を丸くする桃山であったが、次の瞬間、何か言いたげな眼差しで俺を見つめていた。何を言わんとしているかはすぐに想像がつく。だから、俺は静かに頷き返した。

 それでいい。そう言いたげな表情を浮かべると、桃山は再び皆を見渡した。

「はーい、それじゃあホームルーム始めるわよ」

 何事も無くホームルームが終われば、変わることの無い一日が始まる。だが、正直授業には身が入らなかった。山科のこと、錦おばさんのこと……二人の間に起きた出来事を考えると落ち着かない気持ちで一杯だった。山科と錦おばさんとの間に存在する、言葉にすることが出来ないわだかまりを考えると、ただ居た堪れない気持ちになるばかりであった。同時に憎悪の能面師が俺に狙いを定めているという事実……その事実もまた、俺をどうしようも無い程に不安な気持ちを掻き立てられる原因となっていた。

 桃山からの追求をどう避けようか? 憎悪の能面師からどう逃げようか? ろくでもないことばかりが頭を占領し、心が落ち着くことは無かった。囮になるなんて……威勢良く言って退けたが、いざ、現実に直面すると不安で仕方が無くなる。人は本当に身勝手な生き物だ。

 結局、魂が抜けたような気持ちのまま一日が過ぎ去っていった。そうして迎えた放課後。

「皆、悪いが先に校門で待っていてくれるか?」

 皆に校門で待つよう告げ、俺は職員室へと向った。

 放課後の廊下は強い日差しに照らし出されて鮮明な白に包まれていた。職員室へと続く廊下に足音が響き渡る。落ち着かなかったのだろう。廊下の向こうからゆっくりとこちらに向かって歩む桃山の姿が見えた。

「あたしと小太郎君は通じ合っているのかしらね?」

 静かな笑みを浮かべながら、相変わらず桃山は返答に困る表現を使う。

「教師と生徒の道ならぬ恋、か……まぁ、それも悪くは無いな」

 窓の向こうに目線を投げ掛けながら返してみせれば、「それも悪くないわね。考えておくわ」と、可笑しそうに笑いながら、桃山は窓に腕を重ねてみせた。遠く目線を投げ掛ける横顔に、俺は思わず見とれていた。

「余計な詮索をするつもりは無いわ。皆も無事に戻ってきたことだし」

 先手を打たれた。桃山は外の景色に意識を向けているように振る舞いながらも、横目でしっかりと俺の反応を伺っている様にも見えた。やれやれ……これは迂闊なことは言えないな。

「ねえ、小太郎君。一体、何が起きたのかしら?」

「さぁな……」

 予想通りだ。一旦退いたように見せ掛けて、しっかりと詮索を仕掛けてきた。だが、まともに応えるつもりは無い。巻き込みたくなかったのだ。これは人の手に負えるような話では無い。迂闊に興味本位で首を突っ込めば取り返しがつかなくなる。

 俺が何を考えているかなど、既に見抜いているのであろう。桃山は可笑しそうに笑いながら、こちらに向き直って見せた。

「何か知っている。でも、あたしには教えてくれない。そういうことかしら?」

「かもな……」

 桃山は窓を開けるとそっと顔を出した。風に揺れて長い髪がなびいていた。良い香りが風に乗って漂う。桃山は遠くを見つめたまま可笑しそうに笑って見せた。

「フフ。何だか、仲間はずれにされた気分ね」

 お前は子供か。思わず突っ込みを入れたくなったが、出掛かった言葉は飲み込んだ。

 何だか桃山は俺とのやり取りを楽しんでいるようにも見えた。根掘り葉掘り追求してくるかと身構えていたが、意外にもあっさりと手を引いて見せる。だが、油断は出来ない。

 俺は以前、桃山が妙なことを口にしていた言葉を思い出していた。

『いい女ってね、変に追及したりしないものなのよ? ほら、男の人ってそういう女をうっとうしいと思うでしょう? だから、あたしは待つの。何時か口を滑らしたくなったら、黙って聞いてあげるの。あたしは港になるの。疲れ果てた男の人達の帰る場所になるの。ほら、ね? いい女でしょ?』

 自分で自分のことを「いい女」と評するのはどうかと思うが……まぁ、確かに無駄に詮索好きな女よりも、口を滑らせたくなるまで待つ女の方が魅力的ではある。追われれば人は逃げたくなる物だが、さも興味が無いといった振る舞いをされると、逆に興味を惹かせたくなるものだ。まったく……そういう振る舞いを好むから、周囲からも妙な目で見られるのだ。

「まぁ、いいわ」

 諦めたように見せ掛けつつも、恐らくは諦めていないのだろう。そう考えると桃山のにこやかな笑顔は案外、怖い含みを帯びた笑顔なのかも知れない。

「でも……あまり危ないことはしないで欲しいわね。もっとも――そんなこと言われて、はい、そうですか、なんて言ってくれるとは期待していないけれど」

 窓の外、風に揺れる木々の葉を見つめたまま、桃山は可笑しそうに笑っていた。今度は母親の様な振る舞いを見せる。緩急自在に操る変幻自在の投手。それもまた「いい女」の在り方なのか? 問い詰めようかと思ったが、要らぬ地雷を踏むのは賢くない。止めておこう。

「山科先生のところにお見舞いに行くのでしょう? 気をつけていってらっしゃい」

 その一言だけ告げると桃山は鼻歌混じりで廊下を歩んでいった。一体何が言いたかったのだろうか? 桃山が考えていることは理解できなかった。ただ、俺達のことを心配してくれていることだけは判った。

(その気持ちだけはありがたく受け取らせて貰うとしよう)

 俺は皆の待つ校門を目指し、桃山に背を向け歩き始めた。

「小太郎君!」

 不意に、背後から桃山の呼び止める声が聞こえ、俺は静かに足を止めた。

「困ったことがあったら何時でも来なさい! あたしは小太郎君達の味方だからね!」

 背を向けたまま俺は黙って手を振った。桃山の想い、本当に心強かった。ああ、困った時には相談に乗って貰うさ。何だかんだ言って頼りにしているからな。去り往く桃山の背に向けて、俺は心の中でそう告げた。

 既に陽は沈み始めている。ゆっくりと赤々と萌え上がり始めた空を見つめていた。皆を待たせたままだ。俺は急ぎ廊下を駆け抜けた。

◆◆◆39◆◆◆

 足止めを食ったが俺達は予定通り山科の病院に向かうために京都駅を目指していた。皆一様に黙り込んでいた。判っていた。俺達が向かおうとしている先には、確実に非日常の現実が待ち構えている。厄介な蟻地獄だ。一度迷い込んだ者は、その蟻地獄の中から抜け出すことは出来ない。俺達は踏み込んではいけない領域に足を踏み込んでしまったのだ。逃げ出すことは出来ないだろう。逃げられないならば立ち向かうしかない。恐らく、皆、同じことを考えていたのだろう。

 学校から京都駅を目指して俺達は歩いていた。七条から京都までは大した距離でも無い。

 何時の間にか空は異様な様相を称えていた。渦を巻くような入道雲。どんよりと深く、重々しい灰色の空。唸りを挙げている。もはや、予感は確信に変わっていた……。

◆◆◆40◆◆◆

 京都駅に着いた俺達はそのまま駅前のバスターミナルを目指した。バスターミナルは相変わらず人が多く、各方面へと向うバスも目まぐるしく出入りを繰り返していた。

 ふと顔を見上げれば、ガラス張りの駅ビルに映る空模様は不気味な色合いを称えていた。ゆらゆらとうごめく様に、命の躍動を感じずには居られなかった。夕立前に見せる大きく膨れ上がった灰色の入道雲とは、何かが違うような危機感を覚える光景であった。酷く嫌な雰囲気が漂っていた。そっと空を見上げればぽつりと雨粒が一粒、頬に零れ落ちる。

「一雨来そうだな。急いだ方が懸命だ。小太郎、行くぞ」

 空を見上げながら太助が呟く。

「あ、ああ。そうだな……」

 俺はどこか他人事の様な口調で返答していた。

「……悪い。皆、先に行ってくれるか?」

 心此処に在らずといった風に見えたのだろうか? 皆に先にバス停に向かうように告げると、太助が足を止める。何時もと変わらぬ涼やかな眼差しで俺を見つめていた。

「不安か?」

 心の奥底まで見透かしそうな眼差しで、太助は静かな笑みを称えていた。鋭い眼差しだった。俺の挙動の全てを捕らえるかの様な眼差しだった。

「不安じゃない……といえば嘘になるな」

 これ以上心の中を見透かされる前に、俺は返した。

「そうか。俺も不安だ」

 俺の真似をしているつもりなのか、空を見上げながら太助が呟く。意外な言葉だ。怖いものなど、何一つ無いと思っていた太助が不安を口にしている。空を見上げながらも、横目で俺を窺いながらも、太助は静かな含み笑いを浮かべていた。微かに呼吸をしながら続けて見せる。

「信じられないような出来事ばかりが起こっている。一体、何が起きているのか気になって仕方が無い。当事者の首根っこ捕まえて、真相を吐くまで尋問してやりたい心境だ」

 相変わらず物騒な発言を好む奴だ。しかも、その言葉には妙な真実味があるから始末に終えない。

「尋問ね……お前の場合、武力行使という名の脅迫だろう?」

「フフ、そうかも知れんな」

 不安を口にしながらも、やはり太助は真っ直ぐに現実と向き合っている。何かある度にすぐに揺れ動く俺とは大違いだ。その威風堂々とした在り方に俺は何時だって憧れを抱いていた。身近に憧れる存在がいる。判り合える友として傍にいてくれる。本当に光栄なことだ。

「なぁ、小太郎……俺達は何時だってお前の傍にいる。それに――あの時、お前は俺に言ってくれただろう? 『お前は一人じゃない』……フフ、あの時のお前の言葉、今でも覚えているぞ」

「なっ!?」

 耳が熱くなる感覚を覚えた。わざわざ小恥ずかしい思い出話を穿り返さなくても良いでは無いか?

 蘇る太助との過去の思い出……。降り頻る雨の中、太助と殴り合い寸前の状態での言い争いをした記憶だった。喧嘩では無かった。ただ――互いの想いをぶつけ合い、互いの腹の内を見せ合いたかった。不器用な二人には、それしか術は無かったのだから……。

 遠い目で動揺する俺を見つめながら、太助は何時もと変わらぬ涼やかな笑みを浮かべていた。

「急ぐぞ、小太郎。あいつらに置いていかれるぞ」

「足止めしたのはお前だ」

「そうだったか? どっちでも良いでは無いか」

「良くない」

 不意にバスが停車する音が聞こえた。振り返ればバス停には何時の間にかバスが到着していた。丁度、輝達が停車したバスに乗り込む姿も見えた。茶化すような笑みを浮かべながら俺に向かい手まで振って見せていた。

「急ぐぞ、小太郎。バスに置いて行かれては困るからな」

「足止めしたのはお前だ」

「そうだったか? どっちでも良いでは無いか」

「良くない」

「フフ」

「わ、笑うな」

 おかしなやり取りをしながらも、皆に続き俺達も急ぎバスに乗り込む。目的地は京都市立病院。桃山に聞いた話によると、その病院に山科は入院しているらしい。

 ふと窓の外に目をやれば、京都駅のガラス張りの駅舎には暗く、厚い雲が反射して見えた。見る者全てを不安に陥れるような雲であった。これから起こる何かを示唆するかの様な暗く、厚い雲であった。

 嫌な予感はというものは的中するものだ。俺達が乗り込むのと同時に雨が降り始めた。最初は、窓にポツポツ当たるだけだったが、すぐに勢いを増し、叩き付ける様な勢いで降り始めた。轟く雷鳴。駆け抜ける稲光に、鞍馬での記憶が蘇る。

「おーおー、派手に降って来たのじゃ」

 京都駅前を発車したバスは烏丸通りを北上してゆく。雨足は強まる一方である。どこかで雷が落ちたのか、一瞬、目の前が真っ白になる程の稲光が見えた。続いて、爆音の様な凄まじい落雷の音が響き渡る。凄まじい轟音に力丸が腰を抜かしそうになるのが見えた。

「うぉっ!? ま、マジか……こ、腰が抜けるかと思ったぜ……おいおい、今のヤバくねーか?」

 力丸の声に呼応するかの様に、大地が慌てた様子で振り返る。窓に顔をつけたまま、大地が震えた声で言葉に出来ない不安を口にする。

「間違いなく何処かに落雷したのじゃ! ビックリなのじゃ!」

 窓の外は既に土砂降りになっていた。往来する車が大きく水溜りを撒き挙げる。

「それにしても、この天気……鞍馬の悪夢再びじゃの」

 確かに大地の言う通りだ。この空模様は鞍馬で起こった悪夢を思い起こさせるには十分な光景であった。嫌な予感ばかりが膨れ上がってゆく感覚を覚えた。

「ううっ……雷は苦手なのに……」

 雷が苦手な輝は頭を抱えて震えていた。まるで子供の様な怯え方だ。だが、誰にでも苦手な物の一つ位はあるものであろう。だが、輝の気持ちも判らなくは無い。鈍色の空を駆け巡る稲光に、凄まじい雷鳴の轟音を響かせられれば誰でも不安を駆り立てられる。ましてや鞍馬の悪夢を思い出すような天候ならば尚のことだ。

 それにしても異様な悪天候だ。大地の言葉では無いが鞍馬での出来事を思い出さずに居られない。この世にあって、この世ならざる何かを肌で感じる空間であった。何に対して異変を感じているのだろうか? 考えながら周囲を注意深く見渡してみた。街中を駆け抜けるバス。何時もと変わることの無い、見覚えのある地元の光景であった。観光客もいれば地元の人々もいる。変わることの無い情景の中、一体何が可笑しいのだろうか? 周囲に漂う気配に意識を集中させた時、ようやく異変に気付かされた。肌を刺すような異様なまでに鋭い冷気に包まれていることに。やはりこのバスは何かがおかしい。いくら暑いからといって、こんなにもバスの空調が強くなるとは考え難い。体の芯まで冷え込むような妙な肌寒さ。異変を感じていたのは俺だけでは無かった。皆一様に小さく震えている。まるで極寒の気候だ。雪でも降りそうな冬の日の情景が思い浮かぶ程に。

「な、何かさ、随分と空調きつくね? すげー寒いんだけどさ……」

「か、環境に優しくないバスなのじゃ……くしゅんっ!」

 力丸が、大地が肌を刺す様な冷たさに身震いしているのが見えた。この寒さは普通では無い。周囲から漂ってくる異様な気配に警戒していると、不意に太助が小声で耳打ちする。

「小太郎、耳だけ傾けろ……バスの最後尾席に錦おばさんが座っている」

「何だって!?」

 そっと横目で確かめれば、確かに錦おばさんの姿が目に入った。錦おばさんが一連の事件に関わっているのは事実……そして、俺達と同じバスに乗っている。とても偶然とは思えなかった。やはり俺の予想通りに姿を現した。となれば間違いなく目的地は俺達と同じはずだ。警戒を怠る訳にはいかなかった。何かの間違いで錦おばさんが山科に危害を加えてしまったら、罪を償うのは錦おばさんになってしまう。情鬼に操られていた……そんな話を信じる者など居る訳が無いのだから。敵の動向に注意を払いつつ、同時に錦おばさんの動向にも注意を払う必要がある。俺の中でさらに緊張感が高まるのを感じていた。

 バスは何事も無かったかのように烏丸七条の交差点を曲がる。後は病院までは一直線だ。

 時折人の乗り降りがある様子だが、やはり錦おばさんが降りる気配は無い。それにしても、錦おばさんの表情は随分とやつれているように見える。何処か憔悴仕切っているようにも見えた。

 不意に太助が再び耳打ちする。

「あからさまに見るな。気付かれるぞ」

「あ、ああ、すまん」

「謝るな」

「あ、ああ、ごめん……んん?」

「……フフ」

「わ、笑うなっ!」

 雨はなおも降り続けている。バスに乗り込んでくる乗客達も見事にずぶ濡れだ。

 異様な冷気に包まれたまま、バスは京都リサーチパーク前を発車した。次は京都市立病院のはずだ……だが、バスの外を流れる景色を何気なく眺めていた俺は、自分の目を疑った。バスは何事も無かったかのように、烏丸七条の交差点を曲がったのだ。

 思わず振り返り、通り過ぎてきた道を振り返らずには居られなかった。そんな馬鹿なことがある筈が無いのだ。

(どういうことだ!? 何故、再び烏丸七条の交差点を曲がる!? では、一体俺達はどこを走ってきたのか!?)

 訳が判らなくなっていた。見間違うはずが無い。此処は見知らぬ場所では無く、あくまでも良く見知った地元の光景であったのだから。この異変には皆も気付いた様子だった。動揺した様子で大地が慌てて振り返った。

「こ、コタよ。可笑しなことを聞くのじゃが……」

「ああ、言わなくても判っている。だから、落ち着いてくれ」

 力丸ももまた「マジかよ!?」と小声で呟きながら、動揺した様子で外を見回していた。

 だが、異変はこれだけでは終わらなかった。異様な冷気は消える様子は無く、何時の間にか青白いほたるが周囲を舞い始めていた。

「一体どうなっているんだよ。意味不明だぜ……」

 どうやら皆には周囲のほたるは見えない様子であった。だが、ほたるの数を増すばかりであった。青白い光がバスの中に立ち込める。次第に立ち込める青白い光は強さを増し、バスの中は何時しか月明かりの様な青い光に包み込まれていた。俺は異様な殺気を、何者かの突き刺さるような殺気をヒシヒシと感じていた。

(厄介な状況だな。このまま俺達を封じるつもりか? 冗談では無い)

 ふと、小太刀から授かった符の存在を思い出した。俺はカバンの中に忍ばせた符を、そっと一枚、取り出した。

「熱いっ!」

 一瞬、掌に迸る火傷のような熱さを感じた。その瞬間、脳裏に小太刀の姿が浮かんだ。小太刀とその後ろに佇む数え切れない程の天狗達。激しく燃え盛る護摩壇を囲みながら皆が一斉に真言を唱える映像が見えた気がした。そこは深い木々に囲まれた場所であった。

『オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク、オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……』

 鞍馬山に染み渡る真言の響き。遥か遠い地より小太刀らが唱える真言の音色が響き渡る。

 小太刀らが奏でる真言がバスの中に染み渡ってゆく。それに伴い、ゆっくりと異様な空気が解けてゆく感覚を覚えていた。気が付くとほたるの姿も完全に消え失せていた。

(小太刀が鞍馬から俺達を助けてくれたのか?)

 窓に叩き付ける雨の音。耳に入る音色に興味惹かれ、俺は何気なく窓の外に目線を送った。バスは丁度京都リサーチパーク前を発車するところであった。

「次は京都市立病院。終点です……」

 案内の空虚な音声が告げる声が聞こえるのと、降車ボタンが押されるのとはほぼ同時だった。京都市立病院は終点なのだから降車ボタンを押さなくても確実に降りられるはずだ。それなのに敢えて押した誰かが居る。

 俺は錦おばさんの動向に目をやった。間違いなく錦おばさんが押したのだろう。俺達の誰もが押していないし、他の乗客が押したとは考えにくい。それにしてもやはり奇異だ。人がそれなりに乗っているとは言え俺達に気付かないのだろうか? 錦おばさんはの目線は、ただ前だけを凝視していた。まるで顔を固定されているかの如く一点だけをじっと凝視し続けていた。瞬きさえしない表情は酷く気味悪く思えた。

 やがてバスは病院内へと到達する。俺達は荷物を確認しながら他の人の流れに混じって降りた。どうやら皆も錦おばさんの存在には気付いた様子だが、そのあまりにも異様な雰囲気に戸惑っていた。

◆◆◆41◆◆◆

 間違いなく異変は続いている。小太刀の言っていた憎悪の能面師とやらの仕業なのだろう。山科に会われては都合が悪いのであろうか? 一体奴が何を企んでいるのか皆目検討が尽かなかった。いずれにしても皆も異変を体験してしまった。動揺した素振りは見せなかったが警戒するに越したことは無い。遠隔地から助力してくれたとは言え、小太刀は此処に居ない。もしも鞍馬の時のように、大勢の敵に一斉に襲い掛かられたら太刀打ち出来ないだろう。

 皆周囲に警戒を払いながらバスを降りる。雨は既に上がった様子だが、どうにも重たい空気が立ち込めていた。京都市立病院に到着した俺達は、そのまま受付を目指した。受付で山科のいる病室を確認し階段を登っているところであった。階段を歩きながら、ふと受付でのやり取りを思い出していた。何しろ……。

『ああ、あの山科さんですね?』

 確かに「あの」と言ったのを聞いた。「あの」山科、と。

(……受付のお姉さん、失笑していたぞ? あの男……既に有名人になっているのか? 今度は一体、何をやらかしたのか?)

 窓から見える外の景色は相変わらず大荒れの空模様であった。土砂降りの雨に激しい雷鳴。加えて駆け抜ける稲光。嫌な予感しかしなかった。だが、幸いにして病院の中は特に変わった様子は無さそうだ。少々拍子抜けしながらも階段を登ってゆく。山科が入院している部屋は六階なので、それなりに高さもある。当然、階段もそれだけ登る必要がある。エレベーターもあるのだが、図体のでかい男達五人でエレベーターを使うのも迷惑かと思ったので自粛した。

(まさかこの病院だったとはな……此処を訪れるのも久しぶりのことだな)

 ちらりと横に目をやれば輝と目が合った。

「な、なに……?」

「あ、いや。何でもない……」

 俺と目が合うと、輝は慌てて目を逸らした。

(やはり、あの時のことが気になっている様子だな。心配するな。皆には話さないさ……。これは、俺とお前との間の最高機密だからな……)

 親しき友達とは言え、知らぬ方が良いことなど幾らでもある。鶴の恩返しの物語と一緒だ。知らない方が良いこと等この世の中には幾らでもある。

 見覚えのある光景が気になるのか、輝は何時も以上に落ち着かない様子であった。そんな振る舞いをすれば余計に皆の興味を掻きたてる。予想通り、にやにや笑いながら大地が歩み寄る。ピッタリとくっ付かれ輝はますます動揺しているように見えた。

「むう……テルテルよ、さてはアレじゃな?」

 にやにや笑いながらつつく大地に、輝は動揺した様子で問い掛ける。妙にぎこちない作り笑いに不安を駆り立てられる。俺が不安を覚えても何にもならないのは判っていたが……。

「あ、アレって……な、なにかな?」

 緊張した面持ちで返す輝とは裏腹に、大地は可笑しそうにニヤニヤ笑い返すばかりであった。

「フフフ、とぼけても駄目なのじゃ」

 なおも大地は不敵にニヤニヤ笑いながら続ける。

「ずばり! トイレに行きたいのじゃな! 判るのじゃ。バスの中は冷え冷えで、ワシもトイレに行きたくてのぅ」

「あ、あはは……そ、そうだねぇ」

 意表を突いた返答を受け、輝は困った笑顔を浮かべていた。唐突に緊張の糸が切れた俺も、危うく階段を踏み外すところであった。危ない危ない……。

「おいおい。コタ、大丈夫かよ? 病院で怪我しちまったなんて、シャレになんねーぜ?」

「あ、ああ。ちょっと足を取られただけだ……」

 やがて俺達は六階に到着する。車椅子をゆっくりと押す看護師とすれ違った。にこやかな笑顔で軽く会釈をされた。やはり病院だからか人はそれなりに居る。洗面所で花瓶を洗い、新しい花を生けている女性の姿もあった。松葉杖を駆使しながら、額に汗しながら歩行訓練に励む少年の姿もあった。恐らくこの場所には人の数だけの物語があるのだろう。そう考えると、病院という場所は実に赴き深い場所だと思った。

 俺達は部屋番号を確認しながら山科を探していた。病院内は広く、中々目的の部屋を見付けることが出来なかった。慣れない病院の中をぶらぶら歩みながら、ようやく山科の病室を発見することができた。

「おーっと、発見。この病室みたいだよ?」

「ああ、そうだな。確かに山科と書かれているな」

 そっと病室に顔を突っ込めば山科の姿が見えた。少々小太りの体型に丸い眼鏡。坊主頭。相変わらず冴えない顔をしている。狐みたいに細い目。その細い目で捉えながら、丸っこい手でせっせとりんごの皮を剥いている。相変わらずツッコミ所が満載過ぎて途方も無く声を掛け辛い……。

 そんな俺達に気付いたのか、りんごを剥く手を止めると山科は子供のような笑みを浮かべた。

「おやおや。これは、これは……皆でお見舞いに来てくれたのですね」

 どうやら予想していたよりも元気そうで一安心した。

 錦おばさんとの過去のいさかい……目を背けたくなった映像が、ふと脳裏に蘇った。その影響だろうか? 皆が必死で抑えようとしていたが、俺は本能の赴くままにツッコミを入れていた。

「……で、何故、りんごの皮剥き中なんだ?」

 俺のツッコミに皆が失笑する。だが、山科は相変わらず得意そうに微笑むばかりであった。

「ああ、これですか? いえね、桃山先生がお見舞いに来て下さった時に頂いた物なのですが、ほら、アレですよ! 私、独り身でしょう? 誰もりんごの皮剥きなんかしてくれないから、こうして自分のためにですね、りんごの皮を剥いていた所です。どうです? 途中で皮が途切れることなく綺麗に剥けるなんて、中々の器用さだとは思いませんかね?」

 思わず皆一同に大きな溜め息が毀れる。この人の天然度合いは半端じゃない。天変地異が起こったところでも、間違いなくりんごの皮を剥き続けるだろう。しかも、途中で皮が途切れないことに感動を覚えながら。毎度の事ながら、この人は本当に凄い人だと思う……色々な意味で。

「それでさ、怪我の具合はどうなんだよ?」

 苦笑いしながらも、本題を忘れることなく問い掛ける力丸。

「ふむ。それはですね……」

 丁度皮を剥き終えた山科はりんごをまな板の上に置くと、今度は鮮やかな手付きでりんごを綺麗に切って見せた。その華麗な手付きに思わず力丸が目を丸くする。悪い癖が出たな……力丸は料理屋を継ぐ身。料理のことになれば状況の如何に関わらず迷わず興味を惹かれる。その癖を理解していて、シレっと狙い定める山科も人が悪い……。

「っつーか、包丁裁き鮮やかだなー。思わず魅入っちゃったぜ?」

「ははは。何を仰いますか。私は力丸君に弟子入りしたいと思っている位なのですよ?」

 話題があらぬ方向に脱線しようとしている。これは軌道修正が必要だ。

「……りんご談義は置いておいて、怪我の具合はどうなんだ?」

「おお、そうでした。少々派手な擦り傷ではありましたが、順調に回復しています。もう数日で退院出来ると思いますよ。やはり、私が居ないと、皆さん寂しいのでしょ……」

「聞きたいことがある。事故が起きた晩のこと、詳しく聞かせてくれないか?」

 ほくほく笑顔で再び話を脱線させようとするが、そうはさせない。山科が言い終わるよりも先に、俺は間髪いれずにこちらからの質問事項を叩き付けた。主導権は握らせない。間髪入れぬ俺の鋭い切り込みに、皆が失笑する声が聞こえてきた。

 無い知恵を必死で絞って考え出した策であった。相手は俺達を侮っているのであろう。だからこそ可能な限りの挑発を行うことにした。事件のことをあからさまに調べあげてやれば、敵も苛立ち、俺達に攻撃を仕掛けてくるだろう。危険は覚悟している。悪いな……皆、巻き込むぞ。

「はて? 事故のことですか? ははは、まるで現場検証人ですね」

 山科は妙に慣れた手付きで包丁を拭き、傍らに置くと、真剣な表情を見せた。

「ふむ。そうですね……」

 しばし思案しながら山科は事故当時の様子を回想した。窓の外の荒れ狂う景色を見ながら、何かを思い出したらしく、にこやかな笑顔で俺に向き直った。

「おお、そうです」

 その笑顔に俺は期待を託さずには居られなかった。

「丁度、今日の様な大荒れの天気でした。ただね、とても不思議なことがありましてね……普通に考えたら、こんな悪天候の中わざわざ出掛けたりしないでしょう? ですが、本当に自分でも不可解なのですが、何故か……どうしても行かなくてはならない気持ちになったのです」

 山科の口から語られる言葉に、皆が息を呑む音が聞こえる。

「想いとしては、酷い空模様でしたから家から出たくなんか無かったのですが、何故か体が勝手に……というのも、変な話ですが、そう例えるのが適切だったのです」

 やはり、自分の意思では無かったのだ。普通に考えたら理解に苦しむ。大雨洪水暴風警報が出ている状況で、わざわざ延暦寺に向かう理由が説明出来ない。それに、そんな悪天候だったならば、比叡山ドライブウェイ入り口となる田の谷峠料金所が通行止めになっていてもおかしくない筈なのに事故現場に向かった。まだ不可解な点は残る。

 山科は気が付いた時には救急車で運ばれていたと言っていた。能面を被った女……恐らくは錦おばさんなのであろう。だが、裏付けが欲しかった。山科はそいつの姿を見ているはず。俺はさらに質問を続けた。まるで警察の取調べみたいだと笑われたが、どうしても必要な情報なのだ。引き下がる訳にはいかない。

「女性の方ですか? ふむ……」

 山科は記憶の糸を手繰り寄せるかの様に考え込んでいた。皆が固唾を呑んで見守る中、不意に顔を挙げると、にこやかな笑みで皆を見回して見せた。

「おお、そうです、そうです。突然のことでした。雨で、視界は良くなかったのですが、あれは丁度、夢見が丘に差し掛かった辺りですね。突然のことでした。目の前に女性の方が飛び出してきたのです。私は驚き、避け損なって転倒したのです」

「飛び出して来た女……山科、その女の外見は覚えていないか?」

「ええ、覚えていますとも。あんなに印象的な姿をしている人は、そうそう居ないですからね」

 いいぞ。話は一連の事件の核心に近付きつつある。皆がそう確信していた。

「その女性は……能面を、般若の面を被っていました……」

 山科が言い終わると同時に、唐突に病院内の電気が一斉に消えた。落雷の影響でブレーカーが落ちたのだろうか? はたまた停電か? それにしては、あまりにもタイミングが良過ぎる。

「もー、ここから盛り上がるって所だったのにー!」

「おいおい、何だよ!? 何が起こったんだよっ!?」

 突然の出来事に皆が動揺していた。だが、大地は妙に落ち着いた様子で周囲を見回していた。

「ふむ。停電じゃろうか?」

 なおも大地は周囲の様子に耳を傾けていた。

「しかし……何じゃろうな? こんなに病院内は静かであったかのぅ?」

 大地の言葉に何かを感じた俺は、急ぎ病室を飛び出した。予想通りだ……人の姿は全く無くなっている。しかも病院内だというのに妙な霧が立ち込めていた。月明かりの様な光を放つ青白い霧が立ち込めていた。何が起こっているのか調べる必要がある。そう考えながら身構えた時だった。

「うわっ、山科先生、しっかりしてよ!」

「おい、大丈夫かよ!?」

 突然病室から聞こえてくる輝達の声に嫌な予感を覚え、俺は病室に駆け込んだ。不可解なことに山科も気を失っていた。憎悪の能面師の仕業以外には考えられなかった。こんな芸当は普通の奴には出来る訳が無かったのだから。

「山科は大丈夫か?」

「何が起きたか判らないが、意識を失っている様子だ」

「ちょっと、ちょっと……何か、この雰囲気、覚えがあるんだけどさ……」

 静まり返った病院内……人の気配はしないはずなのだが、どこからか聞こえてくる無数の足音。予想通りの展開だ。いや、狙い通りというべきか……それに、誰も錦おばさんが降りた所を確認していない。つまりは俺達の知らない所で独自に行動したのであろう。

(良い動きだ。上手いこと罠に掛かった様子だな)

『とおりゃんせ、とおりゃんせ……』

 錦おばさんの声だ……機械の様な抑揚の無い声が廊下に響き渡る。

 皆の間に戦慄が走る。唐突に吹き荒れる風。雨が飛沫となり、窓に叩き付けられる。駆け抜ける稲光に照らされた瞬間、俺達は確かに見た……窓一面に張り付く般若の面を。一瞬だけではあったが確かに見えた。その光景に大地が腰を抜かして崩れ落ち、輝が悲鳴を挙げる。

「な、何じゃ、今のは!?」

「もうー、病院にまで追い掛けてくるなんて、しつこ過ぎるってっ!」

『ここはどこの細道じゃ……天神様の細道じゃ……』

 声は確実に近付いている。微かに廊下の角の向こう側に人影が映る。間違いなく誰かがそこにいる。声の主が錦おばさんなのを考えれば間違いない。だが、映し出された影に、皆はさらに戦慄する。

「お、おいおい、あ、あれって……」

 力丸が震えた声で皆の表情を見回す。

「包丁だな……」

 太助は相変わらず冷静な表情で、含み笑いを浮かべる。

「此処で一気に復讐を果たすつもりか?」

「えぇ!? 冗談じゃねぇって。絶対、阻止しなくちゃヤバいぜ!?」

 後ずさりしながら皆を見回す力丸とは対照的に、太助は静かに含み笑いを浮かべていた。

「阻止するさ。あの能面をつけられて、正気を失っているだけだろうからな……」

 皆が動揺する中、俺は皆に気付かれぬように小太刀に貰った符をカバンから取り出した。再び稲光が駆け抜けると、窓に一斉に映し出される般若の面。笑い声まで聞こえてくる。それも一人や二人じゃない。数え切れない程の人々の気も狂わん程の高笑いが病院内に響き渡る。

『ちっと通して下しゃんせ……御用のないもの通しゃせぬ……』

 唄は次第に近付いてくる。影では無く本人の姿が見えてきた。予想通り、錦おばさんであった。般若の面を被り、その手には大きな包丁を握り締めていた。憎悪の能面師……お前の思い通りにはさせない。

『この子の七つのお祝いに……お札を納めに参ります』

 錦おばさんはゆっくりと近付いてくる。能面からは表情は伺えないが、恐ろしいまでの殺意を感じた。本気で人を殺そうとする殺意……恐怖で足が竦む。だが相当接近しなければ符を叩き付けることは出来ない。もっとだ……もっと、ぎりぎりまで引き付ける必要があるのだ。

『行きはよいよい帰りはこわい……』

 凍り付くような冷たい風が吹き抜ける。

『こわいながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ!』

 その瞬間……全ての音が消え失せた。錦おばさんの歩みも止まる。

 静かに風が吹き抜ければ、甘い香りが漂う。風に乗って淡い色合いの桜吹雪が舞う。次の瞬間、地面を激しく蹴り上げると一気に錦おばさんが突進してきた。走るというよりも、滑るような動きで一気に距離を縮める。驚き、皆が慌てて身をかわす中、太助は涼やかな含み笑いを浮かべながら錦おばさんを凝視していた。

「生憎、こっちは喧嘩慣れしているんでね。殺すなら、此処だ。此処を狙え?」

 自らの喉を指差しながら嘲笑う。

 今のうちだ……太助が上手いこと時間を稼いでくれている。今のうちに小太刀から授かった符を使い一気に追い詰める。そういう算段であった。だが、事態は唐突に変わる。

 何者かが廊下を駆け抜ける無数の足元が聞こえてきた。次第に足音は確実に増えてゆく。嫌な予感がする。敵を甘く見過ぎていたのかも知れない。雷鳴に映し出された影……車椅子を押す看護師の影もあれば、花瓶を手にした女性の影もあった。松葉杖の少年の影もあった。

 迂闊だったのかも知れない。一斉に駆け込んでくる病院の人々。やはり、皆一様に般若の面をつけていた。やがて影ではなく人の姿が現れる。確実にこちらに向かって駆け込んで来ていた。

(不味いな……こんなにも大勢の相手に襲い掛かられては、どうすることも出来ない)

 俺は小太刀から授かった符を握り締め必死で祈っていた。

(小太刀! 頼むっ! 俺達を守ってくれ!)

「くっ! 小太郎、これ以上時間を稼ぐのは厳しい!」

 錦おばさんと対峙する太助も、段々と限界に近付いていた。何しろ相手は凶器を手にしている。その上本気の殺意で挑んでいる。防戦一方では時間を稼ぐのは難しい。

「病室には入らせぬのじゃっ!」

「もー、みんな止めてよーっ!」

「病人相手じゃ、手を出すこともできねぇし、絶体絶命かよ!?」

 輝達もまた、襲い掛かる能面の者達を病室に入れないように必死で食い止めていた。だが、それも長くは持たないだろう。

(もはや、此処までか……すまない、皆、巻き込んでしまって)

 その時であった。何かが俺の背後に舞い降りたような不思議な感覚を覚えた。

(小太刀? 小太刀なのか!?)

 背後から二人羽織の如く操られるままに、俺は手にした数枚の符を飛ばした。符は俺達の周囲を旋回しながら舞っていた。体に起こった異変はまだ終わらない。

「臨・兵……」

 体が勝手に動く。俺は声を発しながら次々と指で印を結んでいた。

「闘・者……」

 空中に次々と光輝く文字が刻み込まれてゆく。

「皆・陳……」

 体が燃え上がる様に熱くなる。沸き上がる力が一気に体中を駆け巡る様な感覚を覚えていた。

「烈・在・前!」

 九種類の文字と印の組み合わせ……何かの本で見たことがある九字護法印。宙に刻み込まれた九つの文字が円を描き、舞い踊る符が光を放ちながら一気に破裂した。九つの文字が次々と錦おばさんの能面に刻み込まれてゆく。光輝く文字が一際強く光を放つと同時に、錦おばさんは身動きを封じられていた。

「お、おのれ! 天狗の仕業か!? ううっ、じゃ、邪魔は……!」

 鎖に縛られたかの様に身動きを封じられた錦おばさんは、酷く苦しそうに悶えていた。だが、俺の体に起こった異変はまだ終わらない。静かに呼吸を整えながら腹に力を篭めると、俺は力一杯の想いを放った。

「急々如律令!」

 どこからか吹き込んできた桜の花弁は桜吹雪となり、つむじを作り上げながら錦おばさんの周囲に集結してゆく。次々と集いながら光はどんどん強くなる。昼間の太陽の様な眩し過ぎる光に包まれ、目を開けていられなくなる。光に包まれた錦おばさんはゆっくりと浮かび上がると、次の瞬間には廊下の窓を突き破り、凄まじい速度で何処かへと飛び去っていった。何が起きたのか理解出来ない輝達が呆然と立ち尽くすばかりであった。

『小太郎よ、五条大橋に向かうぞ……そこで決着をつける』

「皆、五条大橋だ。五条大橋に向かうぞ……な、何だ!?」

 言い終わるよりも早く、小さな光の球がまとわり付く。一瞬意識を失ったが凄まじい速さで引っ張られた感覚だけは残された。小太刀の仕業か!? 目を丸くして驚く仲間達の顔が見えたのは一瞬のことだった。凄まじい速度で引っ張られ、俺は何も抵抗出来なかった。唐突に開け放たれた窓から、俺は一気に大空へと舞い上がっていった。皆の叫び声も遠退いていった。

◆◆◆42◆◆◆

 目的地は五条大橋なのは間違いなかった。ゆっくりと下降しながら、俺は五条大橋に降り立とうとしていた。段々と近付いてくる地表の景色。不意に足元の揺らぎが消え失せる。しっかりと足場を確認して俺は立ち上がった。厚い雲に包まれているが、もう雨も、雷も過ぎ去ったようだ。気が付けば俺の傍らには小太刀が腕組みしながら佇んでいた。小太刀の言葉通り、俺は五条大橋に運ばれてきたらしい。

「手荒な真似をして済まなかったな、小太郎よ」

「ああ、もうちょっとお手柔らかに頼みたいものだな」

「フフ、考えておくとしよう」

 小太刀は相変わらず涼やかな含み笑いを浮かべていたが、静かに錦おばさんに向き直った。

「さて……憎悪の能面師よ、もはや逃げ場は無いぞ?」

 錦おばさん……いや、憎悪の能面師が後ずさりする。分が悪いことは明白であろう。いかなる抵抗を試みたところで、もはや逃げ場は無いのだから。

 五条大橋は時が止まったかのように、俺達以外は誰も身動き一つ取らなかった。これもまた、小太刀の不思議な能力によるものなのだろうか?

「鞍馬に続き、またしても私の邪魔をするか……天狗風情が!」

 憎悪の能面師は唇をかみ締めながら、体を小さく震わせていた。激しい怒りの表情を見せたかと思えば、次の瞬間には揶揄するような笑みを見せた。だが、能面の向こう側から感じられる確固たる殺意に満ちた眼差しに背筋が冷たくなる。

「のぅ、カラス天狗よ、私はこの者の『願い』を叶えてやった身……お前も知っておるであろう?」

 憎悪の能面師は俺の眼差しから、目線を逸らそうとはしなかった。ぞっとする程に冷たい狂気に満ちた眼差しであった。吸い込まれそうな程に暗く、深い色合いに心まで奪われそうになった。呑まれそうになる恐怖心から、俺は慌てて目線を逸らした。

「お主は錦おばさんを操り、山科を殺めようとしておった。そうであるな?」

 淡々とした口調ではあったが小太刀の声には確かな力が篭められていた。その言葉を聞いた憎悪の能面師は体を酷く歪ませながら高笑いを響かせた。耳障りな甲高い声が響き渡る。

「それがどうした?……この女の心には汚泥の如き憎悪が渦巻いておる。小太郎の時と同じように、私は手を貸しただけのこと」

 止めろ……気安く俺の名を呼ぶな! 俺は言葉に出来ない気味の悪い悪寒を覚えていた。酷く不快な感覚だった。此の目の前にゆらゆらと佇む妖しげな魔物を殴り飛ばしたかった。だが俺が苛立てば苛立つほどに、憎悪の能面師は悦びを感じているようにさえ感じられた。まとわりつくような振る舞いに、肌の裏側がざらつく程の嫌悪感を抱かずにはいられなかった。そんな俺の想いを見抜いているのか、なおも艶かしく指先を動かしながら俺を舐めるように見つめていた。

「……のぅ、小太郎よ、まだ判らぬとでも申すのか? まだ思い出せぬと申すのか? 私に取って、この女の願いなどは微塵の価値も無きものぞ?」

 憎悪の能面師は口元を酷く歪ませながら笑っていた。見透かすような、嘲笑するような、悪意に満ちあふれた笑いであった。それでいて年増女が色目を使うかの様な、甘ったるい口調で畳み掛けてくる。揶揄するような、誘惑するような、相反する感情の入り乱れた酷く不快な声色であった。体中の毛穴が開きそうな感覚に襲われていた。

「それに……何故、夢見が丘で山科に手を掛けなかったか、お前は疑問を抱いたはずだ」

 憎悪の能面師はなおも俺から目線を逸らすことなく、淡々と話を続ける。

「私はお前に会いたかったのだよ。それなのにお前は私のことを思い出せないと申す。だから、この者を使うことにしたのだ。そう……お前と同じ『感情』を持つ、この者をな?」

「どういうことだ?」

 ただただ俺は動揺していた。一体何を言わんとしているのか、まるで理解出来なかった。嫌悪感を露にする俺を見届けると、さらに口元を歪ませながら憎悪の能面師は高笑いを響かせた。

「思い出せぬというならば教えてやろう……かつて、お前は貴船神社で丑の刻参りを行った。必死の思いで呪いを掛けようと試みたであろう?」

 頭から氷水を浴びせ掛けられたかのような衝撃を覚えていた。思い出したくも無かった出来事……考えたく無かったが、意味の判らなかった映像の数々が一つに繋がろうとしていた。

 松尾の死の原因は、やはり俺だったということか? あの時見せられた、小学校の校庭に横たわり無残に死んでいた松尾は「真実」だったのであろう。

 口元を酷く歪ませながら笑っていたが、憎悪の能面師は突然、怒りを露にして見せた。

「私はお前と共に歩みたいのだ。だが、お前は私のことを覚えてすら居ない……挙句の果てには、お前の願いを叶えてやった私を、化け物扱いし、憎み、拒み、討ち取ろうとさえした!」

 共に歩みたいだと? 理解不能だ……その感覚、俺には全く以って理解出来ない。いや、理解したくも無ければ、同じ空気を吸っていることすら気持ちが悪い。一体何なんだこいつは? ただの変質者なのか? 頭が可笑しい奴なのか? 人の姿をした異形なる心持つ者……理解不能な想いに、俺の足は震えていた。あまりにも理解出来ない存在に、体が激しく拒絶反応を示していた。

「さぁ、小太郎よ。私と共に歩もうでは無いか? 今の私ならば、お前の『本当の願い』を叶えてやれる……憎いだろう? あの者が! 今度こそ殺してやろうぞ……愛しきお前のためにな!」

 止めろ! 気安く俺の名を口にするな! 叫び声は空しく消え失せた。発することすら出来なかった。体中からにじみ出る汗。手足の指先も酷く痙攣し始めた。深過ぎる憎悪とは、これ程までに人を恐怖に陥れるのであろうか? 戦意はとうの昔に失せていた。ただ、逃げ出したかった。あまりにも気持ち悪すぎる存在の前から、一刻も早く。

「フフフ……強情なことよのぅ」

 憎悪の能面師は赤く煌く唇を歪ませながら、不気味に微笑んで見せた。

「ならば仕方あるまい。お前の大事な者を奪ってやろう! そうすれば、お前は今度こそ情鬼と成り果て、私と共に歩む外、道が無くなる。そうであろう?」

 不穏な言葉を口にしていた。俺の大事な者を奪う? 止めろ! 仲間達は関係ないはずだ! 叫んだ所で何の意味も為さないだろう。こいつは今、俺を恐怖に陥れることを快楽だと感じているはずだ。ああ、全身に鳥肌が立つ。殺してやりたいという気持ちすら沸き起こらない。吐き出しそうだ。何もかも、胃の中の内容物を洗いざらい吐き出したい程に不快な気分だ。

「だ、黙れ! 俺は……俺は、お前とは違う! 俺は……俺は情鬼などにはならない!」

 やっとの思いで飛び出した一言であった。だが、憎悪の能面師は声を押し殺したように笑っていた。口元に手を当て、肩を小さく震わせながら笑っていた。一頻り笑い終えると、再び鋭い眼差しで俺を見つめていた。冷たい、冷たい眼差しだった。

「これは、これは異なことを申す。つまり、お前はお前自身を否定すると申すのか? 情鬼を否定する……それは即ち、お前の存在を否定することになるのだぞ? フフ、中々に滑稽なことを申すものよのぅ」

 もはや言葉は出てこなかった。駄目だ……こいつは気が狂っている。情鬼という存在は、これ程までに異常な存在達なのだろうか? 対話が成立するとはとても思えなかった。俺を見つめる憎悪の能面師が唐突に声を張り上げた。

「あーっはっはっは! 堪らぬな……実に堪らぬぞ! その冷ややかなる振る舞い! 私の心を酷く沸き立たせてくれる。のぅ、小太郎よ、孤立無援の氷獄は寒かろう? 畏れることは何も無い。私が温めてやろう。一緒に温め合おう。二人で永遠の舞を紡ごうでは無いか!?」

 気が動転していた。心がかき乱されていた。焦り、不安、迷い、恐怖。あらゆる感情が一斉に押し寄せてくる感覚を覚えていた。心が崩落しそうな感覚さえ覚えていた。もう限界だった……あまりの恐怖に俺は発狂しそうになっていた。動揺し切った俺を見かねたのか、隣で話を聞いていた小太刀が静かに前に出る。

「くだらぬ話をベラベラと……さらに罪を重くするつもりか?」

 小太刀は静かに六角棒を構えた。背中から感じる強い怒りの想い。俺の気持ちを理解してくれたのだろうか? 不敵に笑う憎悪の能面師に向けて、小太刀は静かに真言を唱え始めた。

「ほう? 私を討ち取るつもりか? おお、怖い、怖い。戦う力を持たぬ非力なる私を、武力で捻じ伏せようと申すか? 何と野蛮な! 所詮、天狗なぞ野蛮なる夜盗と何ら変わりは無いということか!」

 唐突に地面を蹴り上げると、憎悪の能面師は一気に跳躍した。

「フフ、天狗よ、先に仕掛けたのはそちらであるぞ? 私は野蛮なる者から身を守ろうとした。それだけのことよ……ぬんっ!」

 憎悪の能面師の手から、赤と金、鮮やかな色合いを称えた舞扇が次々と飛び掛ってくる。鋭利な刃物の如き煌きを放ちながら、燕の様に孤を描きながら宙を舞う。くるくると回転しいながら、舞扇は一斉に俺に向けて襲い掛かってきた。

「うわっ!」

 慌てて身を翻して避けた。ふと振り返れば、舞扇は橋の欄干に深々と突き刺さっていた。こんな物が体に当たれば無傷では済まない。

「相変わらず姑息な戦法を好む奴よの。狙うなら我を狙え!」

 吼える小太刀を後目に、憎悪の能面師は高笑いを響かせながら再び宙に舞い上がる。今度は掌から白く光輝く蜘蛛の糸を放った。一斉に広がる蜘蛛の糸に絡み取られ小太刀が転倒する。

「小太刀! 大丈夫か!?」

「このような子供騙しで我を足止め出来るとでも思うておるか!?」

 しっかりと地面に足を踏み込みながら、小太刀が真言を唱える声が聞こえた。次の瞬間、蜘蛛の糸は小太刀もろとも激しく炎上した。驚く俺を後目に小太刀はなおも真言を唱える。炎はさらに激しく燃え上がると、次々と雀に姿を変えた。煌々と燃え盛る火の玉となった雀が、憎悪の能面師に一斉に襲い掛かる。

「な、何!?」

 無数の雀達が一斉に終結したかと思った次の瞬間、大きな火柱へと姿を変えた。突然空中に現れた巨大な炎の柱。強烈な熱気に顔が焦げる様な痛みを感じていた。

 だが、まだ終わっていなかった。それどころか憎悪の能面師は無傷であった。ゆらゆらと橋の欄干に舞い降りると再び不敵に微笑んで見せた。その手には妖しく光る包丁が握られていた。不気味な笑い声をあげながら、憎悪の能面師は包丁をゆっくりと喉元に突き付けた。

「何の真似だ?」

 小太刀が険しい口調で問い掛ければ、憎悪の能面師はさらに高笑いを響かせる。

「今、この手に力を篭めれば……この女は容易く死ぬ。試してみるか? この女を傷付けても、私は痛くも痒くも何とも無い。さぁ、どうした? 掛かって来ぬと申すならば、こちらから仕掛けるぞ?」

 どこまで最低な奴なのだろうか。やること、為すことの全てが苛立つ相手であった。苛立った拍子に、俺はポケットに手を突っ込んでいた。ポケットの中で何かが手に当たる感覚を覚えていた。

(この感触は……そうか! まだ勝機はありそうだ)

 俺は一歩、前へと歩み出た。

「憎悪の能面師、もう止めてくれ……どう足掻いても、俺はお前に叶わない」

「ほう? ようやく事態を理解してくれた様子であるな?」

「ああ……だから、錦おばさんに危害を加えるのはやめてくれ」

 大きく手を広げ、敵意が無いことを示しながら一歩ずつ歩み寄った。

「小太郎よ! そやつの言い成りになってはならぬ!」

 小太刀が必死で俺を阻止する声を背に受けていた。

(頼むぞ、小太刀……俺の想い、読み取ってくれよ……)

 恐らく小太刀は、俺の考えを理解しているのだろう。だからこその迫真の演技。お前も中々の役者だな。

 憎悪の能面師は静かに橋の欄干から舞い降りた。俺を受け入れるかの様に、大きく手を広げながら。俺はゆっくりと、ゆっくりと近付いた。ぎりぎりまで近付かねば攻撃が届かない。あと少し……あと少し……手が届く所まで来た所で俺はポケットの中に手を突っ込んだ。そして、そのまま護符を力一杯、能面に叩き付けた。

「死にさらせ、この腐れ外道がっ!」

「ぎゃああああっ!」

 何て間抜けな奴なのだろうか。俺は心の中で目一杯、憎悪の能面師を嘲笑っていた。能面は白い煙を上げながら崩れ始めていた。この好奇を逃す訳も無く小太刀が一気に駆け込む。俺と入れ替わるようにしながら、六角棒で手にした包丁を叩き落した。弾かれた包丁はそのまま鴨川に落ちた。水が跳ねる音が聞こえたから間違いない。その音を耳にした小太刀は、舞い上がると、欄干の上に立って見せた。不敵な笑みを称えながら腕組みしながら憎悪の能面師を見下していた。

「敢えて此処、五条大橋を選んで貰えたことを光栄に思うのだな!」

 小太刀が高らかに声を張り上げる。

「此処、五条大橋はかつて弁慶と牛若丸が対決した由緒正しき場所。小太郎が牛若丸ならば我は弁慶ぞ。一度は死闘を繰り広げた両雄が手を取り合ったのだ……観念するが良い。どう足掻いたところで、お主に勝機は無い。その身に刻むが良い。我が名は小太刀なり! 末代まで、我らが名を受け継ぎ、称えるが良かろう!」

(な、何かが激しく違う気がする……牛若丸と弁慶は対決した同士であって、別にタッグを組んだ訳では無い……それに、何だ、その時代劇の台詞の様な口上は……)

 小太刀は橋の欄干に立つと一気に跳躍した。そのまま全体重を掛けて、憎悪の能面師の顔面目掛けて六角棒を力強く突き立てた。能面に亀裂が生じる音が聞こえたかと思われた次の瞬間、能面は真っ二つに割れて、錦おばさんの足元に落ちた。そのまま錦おばさんは力無く崩れ落ちた。

「錦おばさん、大丈夫か?」

 ふと、気が付けば時が再び流れ始めている。威勢よく飛ばしてゆく車の群れ。行き交う通行人達。すれ違う人々は皆怪訝そうな眼差しをこちらに向ける。無理も無いだろう。五条大橋の上に倒れたまま、微動だにしない人の姿がある。非日常の光景以外の何者でも無い。

 相変わらず小太刀は行方を眩ますのが好きな様子で、振り返った時には既に姿は無かった。入れ替わるように輝達が走り込んでくる姿が見えた。病院から五条大橋まで相応の距離がある。一体どういうことだ? これもまた小太刀の仕業か? 落ち着いたら締め上げて白状させてやる。

「コタ、やっと追い付いたよ……って、アレ? 錦おばさん!?」

 息を切らす輝の視界に錦おばさんが飛び込む。驚き目を見開く。ぐったりと倒れ込む姿に驚いた力丸が慌てて携帯を取り出す。

「おいおい、大丈夫なのかよ? 救急車呼んだ方がいいんじゃねぇか?」

 動揺する皆を尻目に錦おばさんはゆっくりと起き上がった。

「う、うーん……あら、イヤだ。ここは何処だい?」

 何時もと変わらぬ表情に安心したのか、大地が歩み寄る。手を差し伸べれば「大丈夫だよ」と言いながら錦おばさんが立ち上がる。

「ここは五条大橋なのじゃ」

「えぇ!? 五条大橋だって!? おかしいねぇ、錦市場に買い物に出掛けたはずなのに?」

 どうやら買い物に行っている最中に巻き込まれたのであろう。あまり余計な説明をすると、さらに混乱するかも知れない。何か適当な説明で言い包めて納得して貰いたい所ではあるが……ううむ、こういうアドリブに弱い自分が本当に情けない……。

「今日は暑かったからな。熱射病にでもやられたのかも知れないな」

「あら、イヤだ。熱射病って意外とおっかないんだねぇ」

 納得するのか? 太助の意味不明な説明で納得しちゃっていいのか? ツッコミ所しか無かったが、本人が納得したのならばそれはそれで良かったことにしておこう。不思議そうに、一生懸命考え込みながらも錦おばさんは帰っていった。

「やれやれ……一体、何が起こっているのか意味不明過ぎるな」

 太助は大きな溜め息を就いた。その表情は、どこか憔悴しているようにさえ見えた。

「あの能面の連中はどうなった?」

 此処にいるということは、恐らくは無事に逃げ延びられたのだろう。だが、だからこそ気になる。一体あの後何が起こったのか。

「それはこちらの台詞だ。唐突に眩しい光に包み込まれたかと思ったら、次の瞬間には、あの能面の連中は皆倒れていた。一体何が起きたのかサッパリだ」

「患者さんも、看護師さんも、みんな廊下に倒れちゃっていてね。騒ぎになるのは目に見えていたから、さっさと病院を抜け出してきたんだ」

「大変だったのじゃ。とにかくワシらは大急ぎで病院から逃げ出したのじゃ」

「そしたらさ、急に眩暈に襲われてな。気付いた時には五条大橋だんだよな。訳が判らねぇよな」

 皆、疲れ切った表情を浮かべていた。無理も無いだろう。立て続けに意味不明な出来事に遭遇したのだ。理解できる訳も無く、ただただ戸惑うことしか出来ないのだろう。俺は唸ることしか出来なかった。これから一体どうすれば良いのか? 焦りと不安だけが入り混じる。

 その時であった。微かな鈴の音色に混じり、俺の耳元に小太刀の声が聞こえてきた。

『済まなかった……我の力が至らぬばかりに、皆を危険に晒してしまった。本当に申し訳ない』

(小太刀、憎悪の能面師はどうなった? 見事、討ち取ったのか?)

『詳しいことは後で説明する。ただ、安心して欲しい。奴からの干渉は完全に断ち切れた……いや、断ち切られたといった方が正確なところであろう』

(どういうことだ?)

『奴は我らの策を見抜いたのであろう。だから、敢えて手を引き、身を隠した。ほとぼりが冷めるのを待ち、次なる手段を講じてくるつもりであろう』

 警戒心が強く、狡猾な戦術を好む者……そんな奴がわざわざ危険を冒すような真似はしないだろう。厄介な相手を逃がしてしまった。暫くは泳がすしか無いということだろう。嫌な展開になってしまった。憎悪の能面師を討ち取らない限り、操られる恐怖に怯えながら暮らすしか無いということになる。何か策を講じなくてはならない。

『次なる手は、また考えるとしようぞ』

 小太刀の声は、それ以上は聞こえなくなってしまった。訳の判らない事態に俺は苛立ちを覚えていた。小太刀が悪い訳では無い。憎悪の能面師と呼ばれる情鬼のお陰で、こんな目に遭わされていることは理解している。では、この行き場の無い苛立ちは誰にぶつければ良いのか? 皆、疲れ切った表情を浮かべていた。本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。

「皆、済まない。俺が山科の見舞いに行こうと言わなければ、こんなことにはならなかった」

 俺の言葉に、皆一様に顔をあげる。

「何が起きたのか良く理解出来てはおらんのじゃが、コタが悪い訳では無いのじゃ」

「ああ、そうだぜ。そんなに自分を責めちゃ駄目だぜ?」

 太助は静かに目を伏せながら橋の欄干に手を掛ける。そっと鴨川に目を落としながら含み笑いを浮かべて見せた。

「普通じゃ無い出来事が起きているということだろう? 常識なんざ通用しないだろうし、多分、後戻りも出来ない。既に鞍馬での一件から始まっていると考えれば、まだ何も解決はしていないはずだ。いずれにせよ、首謀者を締め上げるしか無さそうだな」

 やはり太助は鋭い。冷静に事態を分析し、理解の取っ掛かりを求めているように思えた。解決への糸口が何処にあるかなど皆目検討もつかなかったが、一つだけ明らかなことがある。この場でこれ以上議論したところで、恐らくは答には至らないのであろう。ならば、やれることは一つ。それぞれの家に戻り消耗した体力を回復する。無策のように思えるが、無知なる俺達にはこんな選択肢しか選べないのだ。非力な自分が悔しかった……だが、どうすることも出来ないのは紛れも無い事実なのだから。結局、俺達は煮え切らない想いを胸に、各々の家に戻ることにした。

◆◆◆43◆◆◆

 一人になりたかった。色々と想いを整理するには一人が都合良い。何時もの振る舞いだから、輝も多くは問わずに先に帰ってくれた。飾らない心遣いが嬉しく思えた。

 鴨川沿いにゆったりと歩く。相変わらず、この時期になるとカップルが等間隔に「置物」の様に立ち並ぶ。これもまた夏の風物詩とでも言うのだろうか。今の俺にはそんなものはどうでも良かった。 ただ憎悪の能面師の言葉だけが重く圧し掛かっていた。

 鴨川の流れる涼やかな音色に、川端通を往来する車の音。風が吹けば、木々の葉が微かに揺れる音だけが響き渡る。置物達が語らう小さな声が混ざり合う。俺はジャリジャリ足音を立てながら歩いていた。わざと音を立てていた訳では無い。ただ、足が妙に重く感じられただけのことだった。

 情鬼……人の心から生まれる存在。あいつが言うように俺もまた『情鬼』なのだろう。否定はしない。卓に対する激しい憎悪は事実なのだから。憎悪の能面師の言葉を否定することも出来なかった。鞍馬で小太刀が現れなかったら……俺は能面をつけ、卓を殺しに行っただろう。奴の家を知らない訳では無いから出来ないことは無かったはずだ。それに、俺が奴の居場所を知らなかったとしても、憎悪の能面師が的確に案内してくれたことだろう。錦おばさんが山科の病室に迷うことなく辿り着けたのと同じように。そして、俺は憎悪の能面師の願い通りに振舞い……情鬼になってしまっただろう。それが奴の狙いなのか? 俺を情鬼に仕立て上げたいのか? あいつと同じ道を歩ませるため? ああ、駄目だ。理解不能だ。あいつの考えなど理解できる訳も無いし、理解したくもない。相変わらず、川の流れは変わることなく響き渡る。

 それにしても厄介なことになった。憎悪の能面師を取り逃してしまった……奴は用心深い奴だ。もはや簡単には足取りを掴めなくなるであろう。取り逃がしたことが重く圧し掛かる。危機は回避されたのでは無く、ただ一時的に見えなくなっただけに過ぎないということだ。

 だが、未だ解せないことが多々消え残っている。憎悪の能面師が俺を狙っていることは確実な事実となった。それは理解できたのだが、鞍馬の街を巻き込んでまでの大騒動にまで発展させた意図が見えない。何故、鞍馬の街を巻き込む必要があったのだろうか?

『あーっはっはっは! 堪らぬな……実に堪らぬぞ! その冷ややかなる振る舞い! 私の心を酷く沸き立たせてくれる。のぅ、小太郎よ、孤立無援の氷獄は寒かろう? 畏れることは何も無い。私が温めてやろう。一緒に温め合おう。二人で永遠の舞を紡ごうでは無いか!?』

 肌に纏わり付く様な笑い声に、冷たい眼差し。思い出すだけで背筋が寒くなる。止そう……奴のことは思い出したくも無い。

 ふと夜空を見上げれば月明かり。穏やかな光で周囲を照らしてくれていた。鴨川は静かに流れ続ける。生温い風。川から漂う水の香りを肌で感じていた。風情を感じる光景ではあったが、それをぶち壊す「置物」たち。

(何だか落ち着かないな……それに、俺のような通行人は邪魔者だろう。さっさと退散してくれるか)

 川から川端通りへと続く石段を登る。微かに吹き抜ける風が心地良く思えた。川端通は相変わらず車の往来が激しい。それに負けない程に人の往来も激しい。賑やかな街、祇園。夜になっても人通りは絶えない。人混みは好きじゃない。細道を通って家に向かうことにした。暗い通りに立ち並ぶ停められた車が目に付く。暗がりの中に浮かぶ車のテールライトの赤に、ウィンカーの黄色。無機的な、人工の光が妙に温かく思えた。

◆◆◆44◆◆◆

 酔客で賑わう優雅な花見小路……祇園の夜ならではの光景を目の当たりにしながら俺は歩いていた。時折すれ違う人々は、妙に生気の失せているように見えた。不思議な感覚だった。夜半の細道を照らす街明かりの無機的な明かり。疲れ果てていた俺はうなされるように歩き続けていた。人々の声とすれ違いながらも、幾つも細道を潜り抜けてゆく。

 歩き続けてようやく帰り着いた家。だが父も、母も顔を出さない。珍しいこともあるものだ。明かりも灯っていないのを見ると、家には居ないように思えた。

(二人で飲みにでも行ったのか?)

 玄関の鍵を開けて、戸を開ける。静けさに包まれた細道に戸を開ける音が響き渡る。靴を脱ぎ玄関の戸を閉める。そのまま二階へと向かう階段を歩む。相当疲れていたのか、酷く足が重く感じた。ようやく、ゆっくり眠れる。安堵からか気持ちが緩んでいた。緩やかな睡魔に誘われ、今にも眠りに落ちそうな感覚を覚えていた。そっと部屋の扉に手を掛ける。ゆっくりと扉を開けた。部屋の扉を開け切った瞬間、不意に強い眩暈に襲われた。

(くっ!? 今度は何が起こった!?)

 次の瞬間、俺は清水寺へと至る産寧坂の前に佇んでいた。

『清水寺にて待つ。参道を登ってくるが良い』

 耳元に響き渡る小太刀の声。やれやれ……今度は清水寺に誘うとはな。どの道退くことは出来ない。ならば、ただ前へ前へと進む以外の選択肢は無いのだろう。俺は静まり返った産寧坂を歩み始めた。

 この辺りは市内でも最も賑わう観光地。清水寺へと続く参道は朝早くから人で一杯になる。だが、夜の参道は静寂に包まれている。緩やかな坂道を俺は歩き続けた。風が出始めたのか、涼やかな風が心地良かった。どれだけ歩き続けたのだろうか? 細い道の両脇には店が立ち並んでいる。夜も遅い時間だ。どの店も明かりは消えひっそりと佇んでいた。時折見かける自動販売機だけが微かな明かりを放っていた。店の軒先に飾られた旗が風に揺れている。緩やかな風が吹き始めた。心地良い風だった。風を感じながらも、そっと振り返れば遥か彼方に見下ろす京の街並みの夜景が目に留まった。ずっと眺めて居たい衝動に駆られる光景であった。雲一つ無い月明かりの元に照らし出され、瞬く街明かり。家々から零れ落ちる明かりは、ほたるの様にどこか儚げな、壊れそうな寂しさに包まれた光景であった。それは帰る家々があることを告げる柔らかな街明かりであった。家々の柔らかな街明かりをじっと眺めていると、時が流れるのを忘れてしまいそうになる。このまま眺めて居たかったが、小太刀を待たせる訳にはいかない。大きく息を吸い込みながら、俺は清水寺に向き直った。

「……小太刀が待っている。清水寺へ急ぐとしよう」

 しばしの休息を終え、俺は再び坂道を登り始めた。辺りは静まり返っている。俺の歩く足音だけが周囲に染み渡ってゆく。やがて目指す先に仁王門の鮮やかな朱色が見えてくる。月明かりに照らし出される仁王門。月明かりを背に、門の前で腕組みしながら佇む小太刀の姿が見えてきた。

「待っておったぞ、小太郎よ。ようやく時が訪れた。今、邂逅の時」

 小太刀は満足そうな眼差しで、穏やかな笑みを浮かべていた。俺は額の汗を拭いながら問い掛けた。

「……それで? 奴の足取りが掴めたのか?」

「否。奴は身を隠すことに長けておる身。そうそう容易く足取りを掴めはせぬ」

「だったら、何故俺をこんな所に呼び寄せた?」

 疲れも手伝い、俺は苛立ち混じりの口調で小太刀をなじっていた。俺の言葉に小太刀はしばし目を伏せて見せたが、次の瞬間にこやかな笑顔と共に大きな手を差し出して見せた。

「何のつもりだ?」

「これからも良しなに頼むとの意だ」

 ますます俺の頭の中は困惑していた。これからもよろしく頼むとは、一体どういう意味なのだ? 一体何を意図しているのか理解に苦しんだ。

「言葉通りの意味だが、何か問題があったか?」

 相変わらずマイペースな小太刀は、こちらの反応などお構いなしに淡々と話を進めようとする。実に強引なことだ。いや、こちらの考えは置いておいても突き通したい想いでもあるのだろう。

「小太郎よ、お主に頼み事があるのだ」

 頼み事? 小太刀が俺に対して? 思わず身構えずには居られなかった。俺よりも遥かに優れた力を持つ小太刀が、情鬼と戦う能力を持つ小太刀が、何の知恵も力無い俺なんかに頼み事だと? 戸惑いながらも気が付くと俺は思わず正座していた。

「頼み事?……俺に一体何を頼むつもりだ?」

「お主の生き方に関わる重要な頼み事ぞ。此れはお主にしか頼めぬこと……」

 小太刀は静かに俺を見据えていた。戦いの時に見せる表情とは、だいぶ異なる穏やかな表情に俺は動揺させられていた。まるでお伺いを立てるような振る舞いが意外に思えた。戦いの時に見せていた高圧的な振る舞いとは随分と異なる振る舞いに見えた。どこか消え入りそうな、憂いに満ちた振る舞いの様にも思えた。

 カラス天狗という存在は、俺達とはまるで異なる存在だと感じていた。悪く言えば「遠い存在」に思えていた。

 完璧過ぎる相手と接していると、自分の駄目さ加減が気に掛かりついつい卑屈になりそうになる。失礼な言い方だが……小太刀は冷静に物事を的確に判断する。だからこそ冷たい奴だと思っていた。だが、意外にも体温を感じさせる振る舞いを見せてくれた。それは言い換えれば、俺に対する信頼を意味しているのだろう。もっと言えば、俺に対して心を開いてくれたということなのだろう。そう考えれば悪い気はしない。親しみを覚える友好的な振る舞いを悪く思う奴はいない。

「小太郎よ、我がお主に求める物……それは『契約』ぞ」

「契約?」

「うむ。契約というのは、我らカラス天狗を行使する『天狗使い』になるということ」

 また馴染みの無い言葉が飛び出した。天狗使い……何やら言葉の響きからだけ考えるに、俺が小太刀を行使するということか? 何だか妙な気分だった。俺は小太刀に助けて貰ったのに、俺が小太刀を行使する。随分と偉そうな立場に立ってしまうような気がした。主従関係という構図は好きでは無い。対等な立場にありたい。そう考えていたからこそ、無意識のうちに表情にも表れてしまったのであろう。小太刀はどこか寂しげな表情を浮かべていた。

「フフ、一度は『契り』を交わしたのは事実ではあるのだがな」

「何か言ったか?」

 一瞬、小太刀の呟くような声が聞こえた気がした。

「何も言っては居らぬ。して、小太郎よ……返答はいかに?」

「俺はお前とトモダチでありたい。だから、何だか主従関係みたいな関係というのは違う気がする」

 俺の言葉を受け、小太刀はなるほどと、何かを納得した表情を浮かべていた。

「ふむ。主従関係では無い。我と共に歩んで欲しいということぞ」

「何だ、そんなことか。容易いことだ」

 俺は深く考えずに返答した。だが、小太刀は静かに腕組みしながら険しい表情を見せる。

「小太郎よ……『天狗使い』とは、戦いに身を置くことをも意味する。つまり……」

 小太刀は言葉に詰まりながらも、じっと俺の目を見つめていた。どこかぎこちない、酷く不器用な振る舞いに思えた。だが、その不器用さは何だか他人事に思え無くて妙に親しみを覚えていた。

 本当ならば良く考えるべきことだったのだろう。小太刀と共に歩むこと……それは、天狗の使命を分ち合うことと同義なのであろう。情鬼を退治し続ける……修羅の道を歩み続けることを意味するのであろう。気掛かりなこともあった。聞きたいこともあった。だから俺は遠慮することなく問い掛けた。

「小太刀、お前に聞きたいことがある」

「うむ。遠慮なく聞くが良い」

「何故、俺を選んだ? 自慢では無いが俺には何の能力も無い。むしろ足手まといになるだけのような気がするのだが?」

 小太刀には戦う力があるが、俺には戦う力は無い。普通に考えれば俺は足手まといにしかならないだろう。それなのに俺を選んだ。一体、どんな根拠があって選んだのか? 実に気になるところであった。小太刀は腕組みしながら静かに目を伏せた。

「誰でも良い訳では無い。それだけは言っておく」

「ああ」

「大自然を愛する心……それから京の都を愛する心。我と同じ考えを持つ身に出会えた。故に共感を覚えたお主と共に歩もうと考えたのだ」

 本当にそれだけなのだろうか? 随分と安易な理由のように思えた。だが余計な詮索は止めておこう。こうして出会えたことも、共に歩むことも、一つの縁なのだ。そのことに理由を求めるのも無粋なものだ。俺の反応を見届けながら、小太刀はさらに話を続ける。

「それに……我らカラス天狗は、お主らが思う程万能なる存在では無い。人の世にて我らが力を発揮するには、お主ら人の力が必要なのだ」

 意外な事実であった。錦おばさんを相手にしていた時の小太刀の立ち振る舞いを見た限りでは、俺の存在など無用なように思えた。だが、小太刀は嘘を言うような奴では無い。その言葉は真実なのであろう。

「我らの操る力は人の世では体現出来ぬもの。お主に見せた術の数々は……小太郎よ、お主が我と心を一つにしてくれたからこそ為し得ることが出来たもの」

「意外だな……」

「うむ。人に憑依した情鬼を討つには、人の力が必要不可欠なのだ」

 カラス天狗という存在は決して万能な存在では無い。驚くべき真実であった。「完全に剥離された情鬼であればカラス天狗達だけでも討ち取れる」。小太刀はそう続けて見せた。

「だが、今までにも数多くの情鬼を討ち取ってきた筈だろう? 憑依したままの状態の情鬼と対峙することもあったのでは無いか?」

 恐る恐る問い掛ける俺の言葉に、小太刀は静かに吐息を就きながら微笑んで見せた。

「天狗使い無きカラス天狗は、人に憑依した情鬼をどう扱ってきたのだ?」

「ふむ……聞きたいか?」

 小太刀は妙に悪意に満ちた笑みを浮かべながら、俺の反応を窺っていた。

「や、止めておく」

 何となく想像は就いた気がする。剥離出来くても、情鬼は討ち取る必要はある。つまりは……そういうことなのだろう。だからこそ、小太刀は俺の手を借りようとしているのであろう。避けられる事態ならば避けようと考えるのは当然のことだろう。実に壮絶な話だ……。

 もう一つ気になることがあった。何故、今になって情鬼の被害が出てきたのだろうか? 俺はもう一つの疑問を小太刀に投げ掛けてみた。

「情鬼は古き時代から存在し続けた存在……代々のカラス天狗達が討ち取ってきた。だが、その数は多くは無く、また大きな力を持つ情鬼も多くは無かった」

「そうか。昔から情鬼は存在していたということか」

「……これは我の憶測であるが、唐突に憎悪の能面師の様な、大きな力を持つ情鬼達が現れ始めたというのは不可解に思える」

 情鬼……俺の心にも潜んでいるかも知れない存在。確か、情鬼は人の心の悪意から誕生する……小太刀から聞かされた言葉が脳裏を過ぎる。憎悪の能面師を討ち取ったとしても、また新たな情鬼が誕生するのだろう。仮に人の心から一切の悪意が消え失せれば、情鬼は二度と誕生することは無くなるかも知れない。だが、そんなことは現実にはあり得ない話だ。どう足掻いても、再び新たな情鬼が誕生し、新たな被害が広がるだけだろう。俺は皆と共に歩みたいし、京都という街が好きだ。それに真実を知ってしまった以上、此処で逃げ出しては自分を許せない。傷付き倒れる方がよほど救いはある。傷付くことから逃げ伸び、誰かが傷付くのを見届けるだけ……それは耐えられない。ならば……

「これが……俺の答だ」

「それでは?」

「ああ。共に戦おう」

「……ふむ。小太郎よ、場所を変えようぞ。本堂は舞台に参る」

 一瞬、何か言いた気な表情を見せたが、小太刀は俺を先導するかのように歩き始めた。人気が無いとは言え、勝手に忍び込んで良いものなのか。微妙な気がしたが、恐らくは小太刀のことだ。言うだけ無駄なのだろう。俺は黙って小太刀の後に続いた。

 轟門を抜ければ、すぐに目の前には雄大なる舞台が姿を現す。木々の香りが漂う舞台。夜半の清水の大舞台は当然のことながら人の気配は無く、月明かりだけが照らしていた。

「さて……それでは正式に契約を交わそうぞ」

 小太刀は静かに腕組みしながら、俺の表情をじっと見つめていた。契約……一体、何をさせるつもりなのであろうか? 張り詰めるような緊張感を覚えていた。

「フフ、そう身構えることも無い。天狗使いとなるに辺り、知って置かねばならぬ知識を伝授するに過ぎぬ。先ずは……小太郎よ、お主の中に眠る『想い』を呼び覚ましてみようぞ」

 小太刀は静かに目を閉じると、懐から数珠を取り出した。力強く握り締めながら、静かに真言を唱え始める。

「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 小太刀の声だけが静寂の景色に染み渡ってゆく。繰り返し唱えられ続ける真言を聞いているうちに、段々と体の中で何かが燃え上がる様な感覚を覚え始めていた。燃え盛る炎を背にまとったかの様に鋭い熱気が体中を駆け巡る。不意に、俺の周囲を舞う青白い光に気付いた。

(これは……あの時見た、あの青白いほたるか!?)

 虫の様な姿は確認出来なかった。ただ青白い光が次々と舞い上がってゆく。

(この光は……俺の体から出ているのか?)

 次々と体から舞い上がってゆく青白い光。小太刀はさらに、力を篭めて真言を唱え続けた。周囲を見渡せば、辺り一面に青白い光が舞っていた。幾千幾万もの青白い光が舞う様は幻想的に思えた。

 やがて青白い光は周囲の木々に着地してゆく。一斉に周囲の木々に青白い光を放つ果実が実ったかのような光景になった。数え切れない程の青白い光に包み込まれ、清水の舞台は月明かりの様な青白い光に包み込まれていた。ほたるのように明滅を繰り返す青白い光達。一体、この光は何なのであろうか? 青い光に照らし出された清水の舞台からは、変わることの無い市街の夜景が見えていた。現実と非現実の巡り合う不思議な光景の中に、俺は取り残されたように佇んでいた。

「この青白い光は人の『想い』そのもの。あらゆる人の感情が形を為した者達よ……これらの中には怒り、憎しみ、哀しみ。そうした感情も含まれておる」

 何時の間にか小太刀は俺の隣に佇んでいた。腕組みしながら、目を細めていた。青白い光に照らし出された小太刀の横顔もまた、青白い光を放っているように思えた。

「小太郎よ、大自然の『目』となり、大自然の想いを受け止めてみせよ」

 大自然の『目』となる? 一体どういうことなのだろうか? 大自然の想いを受け止める……小太刀が何を伝えようとしているのかは判らなかったが、乗り掛かった船だ。それならば最後まで突っ走るしか無いだろう。俺は小太刀に向かい、力強く頷いて見せた。小太刀もまた力強く頷くと、再び目を伏せ、真言を唱え始めた。心地良い旋律が体中に染み渡る。ゆっくりと、ゆっくりと、眠りに就くような感覚を覚えていた。涼やかな風が吹き始める。不意に体が浮かび上がるような感覚を覚えた。

◆◆◆45◆◆◆

 薄れ往く意識の中で、小太刀の声が聞こえた気がする。「『水』の一生を旅するが良い」。そうか……この浮かび上がる感覚は、広い湖に浮かぶ感覚なのだろう。周囲を生命の息吹感じさせる木々の緑に囲まれた湖。ゆっくりと、ゆっくりと木々と共に一体化してゆく感覚を覚えていた。どうやら完全に水と一体化した様子だ。体を持っているという感覚が無い、ふわふわとした不思議な感覚を覚えていた。

 強い日差しを浴びていた。夏の昼下がりを思わせる強い日差し。周囲の水温も次第に上昇してゆく。気が付けばゆっくりと浮上していた。

(なるほど……水は蒸発して水蒸気となり、雲となるということか)

 考えているうちにも、どんどん浮上してゆく。周囲を見渡せば、次々と湖面から浮かび上がる水蒸気達。ゆっくりと、ゆっくりと上昇してゆき、手と手を取り合い集結してゆく。さんさんと照り付ける日差しの中で、やがて集い集まった水蒸気達は雲となり、膨張しながら発達してゆく。

 やがてチリチリとした感覚を覚える。厚みを帯びた雲は鈍色の雨雲となり唸りをあげていた。夕立の始まりを告げる雷鳴、それから駆け抜ける稲光。次々と鈍色の雲から零れ落ちてゆく雨粒。落ちて行く雨粒を眺めていた。不意に、速度を上げながら落下してゆく感覚を覚えた。恐らく、次々と落ちて行く雨粒のうちの一粒になったのだろう。

 みるみる迫って来る街の景色。地面に落下し、土と土の隙間を掻い潜るようにしながら流れている感覚。土に抱かれた温もりを感じながらも、ゆっくりと流れに身を委ねていた。土と土の隙間を駆け抜けているうちに、不意に早い流れに巻き込まれる。どうやら地下水と合流した様子。

 不思議な光景であった。幾つもの水と水が出会い、流れが出来上がり、川の様に連なってゆく感覚を覚えていた。流れ流れて何処へ辿り着くのだろうか? 

 考えていると、不意に地上に飛び出した。地上の周囲は既に夜になっていた。夜空には月明かりが浮かんでいる。広い川に合流したようだ。周囲の景色から察するに、鴨川の上流に出たように思えた。長い旅路を経て鴨川へと戻って来たように思えた。

 出町柳周辺で二つの川が合流する。ゆらゆらと揺らめく夕日に赤く染め上げられながらも、ゆっくりと流れ続けていた。やがて見えてくる四条大橋。水の流れと一体化しながら、ただ静かに流れてゆく。人々の賑わう声が聞こえてくる。夏の鴨川にはビアガーデンも設営される。盛り上がりを見せる季節ならではの風物詩を肌で感じていた。さらに流れ流れて、五条大橋が近付いてくる。

 一体何処まで流れてゆくのだろうか? このまま海まで到達するのだろうか? そんなことを考えていると、一瞬、視界が揺らぐ感覚を覚えた。

 再び気が付いた時には清水寺に戻っていた。周囲を見渡す。何時の間にか舞台は遥か視界の先に存在している。後ろを振り返れば水の流れる涼やかな音色。サラサラと流れる三筋の滝。心地良い音色が月明かりに染み渡る。

「ここは……音羽の滝か。舞台の下に移動してきたということか」

 小太刀は一体何処に行ってしまったのだろうか? 周囲を見渡すが、小太刀の気配を感じることは出来なかった。唐突に事態は予期せぬ展開を迎える。荒々しく響き渡る太鼓の音色。

「な、何だ? 何が起こっている?」

 視界の先、清水の舞台から響き渡る太鼓の音色。何が起きているのか見届けるべく、俺は急ぎ石段を駆け上った。少し離れた場所から望む清水の舞台。幾つもの篝火が焚かれ、盛んに火の粉を吹き上げている。篝火に照らし出されているにも関わらず、影の様に黒い者達が、一様に異様な舞を振舞っている。

(あいつらは一体何者だ?)

 篝火の炎に照らし出されているにも関わらず、まるで影絵の様に黒一色の姿を保った者達。吸い込まれそうな程に暗く、重苦しい色合いを称えた者達。そいつらが清水の舞台で禍々しい舞を振舞っている。

 こいつらは一体何者なのだろう? 考え込んでいると、不意に空からカラス天狗達が舞い降りてきた。その手には六角棒を握り締め、黒い者達を静かに見据えている。唐突に一人のカラス天狗が飛び掛る。それを皮切りに、他のカラス天狗達も一斉に黒い者達に襲い掛かった。逃げ惑う黒い者達を、次々と六角棒で撃退してゆく。瞬く間に黒い者達は、力尽きて舞台に崩れ落ちてゆく。次の瞬間、黒い者達の体から、青白い光が次々と放たれて行く。崩れ落ちるように影が消え去り、破片が全て青白い光へと変わってゆく。

(情鬼を討ち取るということは、こういうことを意味しているということか……確かに人と同じ姿をしているが、やはり、人ならざる存在達ということか……)

 不意に俺自身の体からも青白い光が舞い上がってゆくのが見えた。体中から舞い上がってゆく青白い光は、やがて俺の目の前に集い、一つの塊になろうとしていた。ゆっくりと塊が人の形に変わってゆく。俺はただ静かに目の前の塊を見つめていた。否、目を逸らせる訳が無かったのだ。何しろ、目の前に佇む塊は、みるみるうちに見覚えのある姿に変貌しようとしていたのだから。

(こ……これは、子供の頃の俺自身か!?)

 部屋の隅に座り込み、哀しげに窓の外を眺めている姿……忘れもしない光景だった。卓の首絞め事件の後、俺は結局、部屋から一歩も出ることの出来ない状態に陥ってしまった。そうした状態を『引き篭もり』と呼ぶことも知っていた。思い出したくない姿だった……自分自身の弱さを見せ付けられるのは耐え難い苦痛を伴うものだ。

 不意に、昔の俺が顔を挙げる。俺も慌てて目線の先を追う。ゆっくりと迫ってくるカラス天狗達の姿が目に留まった。

(ま、まさか……俺を討ち取るつもりなのか!?)

「止せ! 止めろ!」

 それは一瞬の出来事であった。逃げようと立ち上がった瞬間、カラス天狗達は手にした六角棒で次々と俺を叩き付けた。何の迷いもためらいも無く、表情一つ変えること無く、力一杯叩きのめした。

「や、止めろーーっ!」

 一瞬、俺の声にカラス天狗達の動きが止まったが、すぐさま執拗に殴打を再開し始めた。

「や、止めろ! 痛いっ! 痛いよっ! 誰か! 誰か助けてーーっ!」

 耳を塞ぐしか出来なかった。目を背けることしか出来なかった。俺が飛び出したところでカラス天狗達に勝てる訳が無いのだ。無表情のまま昔の俺を撲殺しようとしているカラス天狗達が、俺には鬼に思えてならなかった。

「はぐっ! ぐえっ! い、痛い……あ……ああ……た、助けて……」

 微かに搾り出すように発していた声も、やがて消え往く様に消え失せていった。

(死んだのか? 昔の俺は……何ということを……)

 恐る恐る目を開けば、今まさにゆっくりと青白い光へと還って行こうとしていた。憎しみに満ちた目からは血の涙を流していた……まるで俺を非難するかのように力強く突き出された指先に、心が酷く痛んだ。

(どうして……どうして、俺は……俺は勇気を持てない!?)

 一瞬、目を背けた瞬間、何かが羽ばたく音が聞こえた。次の瞬間、突然目の前に突き出された六角棒に息を呑んだ。まさか、俺まで討ち取るつもりか? 恐る恐る六角棒を手にした者に目線を向ければ、そこには険しい表情を浮かべた小太刀が佇んでいた。

「小太郎よ。情鬼と戦うとはこういうことよ」

「小太刀……俺は……俺は……」

 力無く膝から崩れ落ちた俺を、小太刀は腕組みしながら静かに見つめていた。

「済まぬな。油断させておいて、壮絶なる光景を見せ付けた非礼は詫びよう。だが、情鬼と戦うとは、このような苦しみをも受け入れねばならぬということぞ」

 小太刀は俺を見つめたまま、静かに語り続ける。

「情鬼は人と同じく『命』を持つ身。否、命だけで無く『心』をも持つ身。生きようと願うのは、命ある者の摂理よ……情鬼を討ち取ることと、人を殺めることに大差は無い。小太郎よ、お主にそれだけの覚悟はあるか? 多くの屍を乗り越えてまで、守ろうというだけの覚悟はあるか?」

 今なら未だ引き返すことは出来るのだろう。小太刀と出会わなかったことにして、今までと何ら変わらぬ暮らしを営むのも悪くは無いのかも知れない。だが、その結果、小太刀は共に歩むべき相手を失い、俺では無い誰かが同じ苦しみを背負うことになるだけだろう。

(本当にそれで良いのか?)

 良い訳が無い……そんなのは嫌だ……誰かが苦しむのを見るのは、俺自身が苦しむのよりも、遥かに、遥かに辛いことだ。だったら、俺が背負うべきだ……逃げないさ。逃げて、逃げて、ただひたすらに逃げ続けた結果、俺は何もかもを失った。もう、何も失いたくない……だったら、答えは一つだ。

「……覚悟ならあるさ」

「ほう?」

「俺は……あの日、あの時、あの瞬間、何もかもを失った。生きることへの希望さえも捨て去ろうとした。だが、それでもなお俺は生きることができた……ならば、もう畏れる物は何も無いさ。修羅にだろうが、鬼にだろうが、何にだってなってやるさ!」

 小太刀は満足そうに微笑みながら、そっと手を差し出した。俺はその手を力一杯握り締めた。 これで俺と小太刀は運命共同体になった訳だ。生きるも死ぬも一緒だ。随分と安易に答えを出してしまった。だが、深く考えれば答えは遠退いていっただろう。我が身を守ることだけを優先しようとしてしまう、自分の不甲斐無さを目の当たりにするだけなのは判っていた。迷ってしまえば、自ずと逃げてしまうだけだ。ならば、自ら退路を断てばよい。変わるんだ……俺も仲間達の様に、なりたい自分になるんだ。そのための第一歩だ。もう逃げ道は無い。だから突き進むだけだ。

 運命共同体か……それならば。俺は手を握ったまま続けた。

「俺は皆から『コタ』と呼ばれている。小太刀は見た目が黒いから『クロ』とでも呼ばせて貰おう。 あだ名はトモダチの証だ」

 小太刀は……いや、クロは俺の手を力一杯握り締めた。温かな感触のする手だった。涼やかな表情を見せていたクロだったが、大きく目を見開き、ついでに大きく翼を広げていた。良く判らないが……何やら、妙に興奮しているようにも見えた。握り締めた手にも、かなり力が篭っている。身を乗り出しながら迫ってくるクロの気迫に俺は動揺し切っていた。

(な、何がどうしたのだろうか?)

「我の夢……それは、人と友達になることであった。そして、コタは我を友と呼んでくれた! 何と嬉しきことよ……」

「そ、そんなに喜んで貰えると、俺も……」

「今宵は祝祭と参ろうでは無いか!」

「ひっ!」

 目一杯顔を近づけながら、迫ってくるクロの迫力に思わず俺は尻餅をついた。それでもなおクロはぐいぐい迫ってくる。ついでに妙に鼻息が荒くなる様子に少々焦りを覚えた。よほど嬉しかったのだろう。涼やかな表情は崩れ、見せたことの無いような笑みを浮かべていた。小躍りし出しそうな勢いから察するに、クロに取っては大きな意味を持っていたのだろう。

「コタよ、良ければ我のお気に入りの場所を散策せぬか? 友とは自らが気に入っている物を分かち合うものと聞く。是非、我のお気に入りの場所を共に歩んで欲しいのだ」

 冷静さはすっかり失われ、妙に熱の篭った口調で語り掛けるクロは、これまで見た姿とは大きく異なっていた。戦いに身を置いている時は敵を討ち取るべく気持ちを昂ぶらせているのだろう。だからこその冷徹な振舞いなのだろう。こうして普段の素顔を見るのは、当然のことながら初めてのことだが、クロは意外と面白い奴なのかも知れないと感じていた。それに、カラス天狗のお気に入りの場所というのも興味惹かれる。

「ああ、それじゃあ案内して貰おうか」

 俺の返事を受けて嬉しそうに笑うクロの表情は、今まで見た彼のどんな表情よりも良い表情に思えた。その笑顔の中に俺は言葉に出来ない感覚を覚えていた。それは今までに感じたことの無い不思議な感覚だった。胸が締め付けられるような、息苦しくなるような……それでいて満たされる様な、本当に表現し難い感覚だった。分かたれた欠片同士が出会い、再び一つに納まる感覚。少々大袈裟過ぎる表現だがそんな感覚を覚えていた。もしかすると俺達は遥か昔からの親友同士だったのかも知れない。そう考えると歴史ロマンとでも言うのだろうか? 確かに、熱い想いのような物を感じた気がする。

 クロと間近に向き合い改めて感じること。何やら良い香りがすることに気付いた。その香りはお香の様な、大自然の木々を思わせる香りがする。普段使っている道具の影響だろうか? 心が落ち着く良い香りを感じていた。

「クロは良い香りがするな」

「ふむ。白檀の香りよの。我が使っておる道具に起因するものぞ」

 白檀の香り……太助が使っている扇子の香り。いや……もっと昔にも同じ体験をした気がするのだが? 思い出せない。思い出せない……ううむ、何かを忘れているような気がする。とても、重要な何かを。不意に思い出したところで、俺は思わず我に返った。

「なあ、クロ……」

「うむ? 何だ?」

「憎悪の能面師はどうするつもりだ?」

 盛り上がるクロの熱情に水を差すつもりはなかった。だが、奴を討ち取らない限り不安は消え去らない。不安を抱く俺とは裏腹にクロは涼やかな笑みで応えてみせた。

「足取りが掴めぬ以上は泳がせておく他無い。それに――天狗と天狗使いとの間の絆の深さが無ければ、真の力は発揮できぬ。故に腹積もりを分ち合うことは極めて肝要なることぞ」

「そ、そういうものなのか?」

 何だか都合よく丸め込まれてしまった気がするが、クロの強烈な押しの前に俺は太刀打ち出来る気はしなかった。

「さて。それでは参ろうぞ」

「あ、ああ……」

 俺も歩み出そうとした瞬間、唐突に腕を力強く引っ張られた。凄まじい力に引っ張られ、俺の体が宙に舞い上がる。すぐさまクロがその背で受け止める。

「おいおい。随分と乱暴なことだな。もう少しお手柔らかに頼みたいものだが……」

「ふむ。細かいことは気にするな」

(気にするよ!)

 月明かりを受けながら俺達は京の空を飛んでいた。こんな景色、当然のことながら生まれて初めての体験だ。人は鳥で無ければ、鳥にはなることも出来ない。鳥は普段こういった景色を眺めているのだろうか? そんなことを考えていた。夜空に瞬く朧なる月。普段とは違う場所から見る月も、やはり月であることには変わりは無い。だが、今宵の月からは物悲しさは感じなかった。穏やかな想いを感じていた。共に歩む仲間と共に見る月は、同じ月であっても違う顔を見せる物なのか。俺はただ静かに感慨に耽っていた。

◆◆◆46◆◆◆

 次第に風が出てきたのか、俺は湿気を孕んだ心地良い涼風を肌で感じていた。静かなる月夜の晩。俺は夜空に浮かぶ月を眺めていた。

「我ら天狗一族は閉鎖的な一族でな」

 唐突にクロが語り始める。俺は月を見つめながら耳を傾けた。

「人の世を守ることを使命とする一方で、人と関わることを好まない者達が多い。そんな一族の中では我は変わり者として見られておる。幼き頃より鞍馬の集落をコッソリ抜け出しては、人の世の中に身を置いたりしておったからな」

「ほう? どこかの誰かと良く似ている気がする」

 好奇心旺盛な性分なのだろう。判らなくも無い。俺の身近なところにも無駄に好奇心旺盛なのが一人いるからな……。

 だが、小太刀と接していると確かに好奇心を惹かれる。鞍馬の集落とは一体何処にあり、どのような生活を送っているのだろうか? 普段は何をしているのか? 好きな食べ物はあるのか? 急にクロが身近な存在に思えてきた。

「随分と北の方角に向かっているな。すっかり市街から離れた景色だ」

 何時の間にか眼下に広がる景色は明かりの殆ど無い場所だった。これだけ暗いと、一体どの辺りを飛んでいるのか皆目検討もつかない。

「フフ、そろそろ目的地に到着する。着陸するゆえ、しっかりつかまっておるが良い」

 クロは静かに身を翻すと、俺を気遣いながらゆっくりと着陸した。ゆっくりと地表が近付いてくる。舗装された道路と、まばらに佇む家々が目に飛び込んでくる。クロは慎重に着陸した。そこは何処かの小さなバスの待合所のように見えた。屋根と椅子のある簡素な外観。見覚えのある景色の様に思えたが暗過ぎて判然としない。周囲を見回せば看板が目に飛び込んできた。「京都バスのりば」と書かれた看板から、そこが何処であるかに気付いた。

「そうか。ここは大原か?」

「うむ。良くぞ判ったな」

 クロは腕組みしながら嬉しそうに微笑んでいた。不思議なものだな……気が合いそうな気はしていたが、早くも好きな場所が一致するとは驚きだ。

「奇遇だな。俺も大原は好きな場所だ」

「ほう? これは奇遇なり。実に嬉しいことよの」

「ああ。子供の頃から何度も来ている場所だ」

 目を閉じて風を肌で受け止めれば緑の息吹を感じられる。静かな景色には少し離れた場所を流れる川の音色だけが染み渡る。あの川の向こう側には中学校があったな……そんなことを考えながら、しばし目を伏せて風を感じていた。

「なぁ、少し歩かないか?」

「うむ。共に行こうぞ」

 俺の提案に、クロは腕組みしたまま静かな笑みを称えていた。

 バス停を後にして横断歩道を渡す。そのまま緩やかな坂道へと向かう。少し歩けば見渡す限りの田園風景が広がる。静寂の景色の中で、静かに風を受けて揺れる稲の緑。時に紫蘇の鮮やかな赤紫。大原は柴漬けで有名な街だ。こうして地元で育てた野菜を活かして柴漬けを作るのであろう。

 俺達は三千院へと向かう緩やかな参道を歩んでいた。小川の流れる涼やかな音色が静かに染み入る。道中に存在する土産物屋は夜なので閉まっているが、明るい時間帯であれば此処は賑わいを見せる参道となる。立ち並ぶ土産物屋が往来する参拝客に声を掛ける光景が見られる。観光客に人気の高い三千院は、この参道をまっすぐ行けば到達する。この参道は三千院を往来する数え切れない程の人の流れを見届けてきたのだろう。

「この先に景色の良い展望台がある。高台より大原の地を一望できる場所ぞ」

 参道の途中でクロは横道へ俺を案内しようとした。何処に案内しようとしているか判ってしまうからこそ思わず笑いが毀れる。

「お前は本当に面白い奴だな」

「うむ? 何が面白いのだ?」

「その展望台、俺もお気に入りだ。俺とクロは趣味が良く似ているな」

 俺の言葉を受けながらクロは嬉しそうに微笑んでいた。本当に面白い奴だ。情鬼と対決していた時のクロは何だか気難しく、高飛車な印象しか受けなかったが、こうして普段の姿と見比べると中々に面白い奴だ。

 そういえば、ふと気になっていたことがある。展望台へと続く小道を歩きながら俺はクロに興味を投げ掛けてみた。

「なぁ。クロってさ、人の年に換算すると何歳位になるんだ?」

 一瞬困ったような表情を見せながらも、クロは可笑しそうに笑いながら返してみせる。

「我は十と七つであるが……コタはどうなのだ?」

「へ? 同じ年だったのか? ますます意外だな」

「ふむ。ということは、コタも十と七つか。なるほど」

 妙に落ち着いている一面があったり、変に度胸があったりと、明らかに年上だろうと思っていたが意外にも同じ年とは驚いた。同じ年という事実にさらに親近感が沸いた気がした。

「さぁ、コタよ。展望台に到着するぞ」

 展望台なんて呼び名ではあるが、良くあるテーマパーク的なご立派なものでは無い。地元の人々が勝手にそう呼んでいるだけの小さな広場だ。そもそも手書きの看板で「展望台」と書かれている辺りが、何とも地元を愛している感じで温かい気持ちになる。

「夜とは言え、意外にも月明かりは明るいものだな」

「うむ。風情があるな。こういう景色も悪くは無い」

 闇夜の中、月明かりだけが優しく里を照らし出す。大原は平地では無いため斜面に田畑を作る。緩やかな斜面であるため階段状に水田が作られている。段々畑と呼べる程明確な段差がある訳では無いが、表現としては適切であろう。この段々畑の光景……子供の頃から好きな景色だった。山々の裾野に広がる広大なる若草色の敷物……大自然の作り上げる情景の中に、俺は生命の息吹を見出す感覚が好きだった。

 不意に、静かに風が吹き抜けた。その風に呼応するかの様に新緑の葉を伸ばした稲がサラサラと揺れる。寄せては返す、さざ波の様な音色に二人でしばし聞き入っていた。何時までも聞いていたい音色であった。心地良い風であった。そっと頬を撫でる様な風が吹けば、その度に稲がサラサラと揺れる。

 零れ落ちそうな程に瞬く星空に穏やかな月明かり。新緑の緑を称える稲達。風が吹けば青臭いような香りと共に、さざ波の様な涼やかな音色が響き渡る。いつまでも聞いていなくなる涼やかな音色だった。

 心安らぐ光景であった。その一方で、ずっと胸の奥に支えている違和感は次第に膨れ上がってゆくばかりであった。

(おかしい……やはり、クロとは遠い昔に、出会ったことがあるような気がしてならない。何故、俺を大原に連れてきたのか? 本当に、単純に好きな景色を共有したかっただけなのだろうか? それとも、俺の心の奥底に眠る記憶を蘇らせようとでもしているのだろうか?)

 そっとクロの表情を盗み見てみる。俺の眼差しに気付いたのか、腕組みしながらも温かな眼差しで応えてくれた。

「フフ、我の顔に何か付いておるか?」

「あ……いや。そういう訳では無い」

 俺の勝手な勘だが、クロは何もかも知っているのでは無いだろうか? 一連の事件の真相も、俺の胸の奥に支えている言葉に出来ない想いも、全部、全て。

「フフ、コタよ、そんなに見つめられると照れてしまうでは無いか?」

「あ、ああ……ごめん」

 だが、予想通りはぐらかされてしまった。その振る舞いは、俺の中に芽生えた思惑を確信へと導くには十分であった。

 月明かりに照らされたクロの横顔。大きなくちばしに月明かりが反射している。穏やかな笑みを浮かべるクロの表情は、無垢過ぎて、あらぬ疑いを掛ける自分が恥ずかしくなった。

「良き景色よの……」

「ああ、そうだな」

 時が経つのを忘れてしまいそうになる光景だった。

 陽の光に照らし出される景色は、強い日差しと蝉の声に照らし出され活力ある印象を受ける。此処には確かに生命の息吹が宿っている。そう主張するかのような力強い印象を受ける。だが、月明かりの下の景色というのは、また違った趣がある。眠りに就く木々や草花の吐息。静けさの中に微かに染み渡る稲の葉が奏でる、さざ波の様な音色。こういう涼やかな情景も悪くない。

 此処でこうしてクロと佇む……やはり、心の何処かで何かが引っ掛かる。もしかすると俺は昔、クロと大原の地を歩んだのかも知れない。幼い頃から大原には何度も訪れている……。

 一つだけ――そう。一つだけ思い出した記憶がある。確か遥か昔……俺がまだガキだった頃に、この地を見知らぬ少年と歩んだ記憶がある。その少年と……確か、この周囲を歩いたはずだ。その後、俺達は――。

「コタよ」

 回想への誘いは唐突にクロにより断たれる。

「あ、ああ。何だ?」

「友とは秘密を共有する物と聞く」

「は?」

「我だけが知る秘密の場所に案内しようと思うのだが、いかがであろうか?」

 何かズレている気がする……。人の世に首を突っ込み、様々な文化を学んでいるだろうことは想像がつく。だが、その価値観はズレている。秘密を共有するのが友なのか? 何か違うような気がする……。友だからこそ、人には言えないような秘密を共有することもある。これなら、理解出来るのだが、ううむ……。

 相変わらずクロは掴み所の無い奴だ。妙に強引な一面を見せたかと思えば、今度は俺の表情を伺いながら提案をしてみせたりする。姿形こそ違えど、内面は人と大差は無いのかも知れない。表情豊かなカラス天狗とは実に親しみ深いでは無いか。

「今度は、どこに案内してくれるのかな?」

 笑顔で応えれば、クロも嬉しそうな笑顔で返してくれる。

「フフ、それは行ってのお楽しみよの。次の機会に案内するとしようぞ」

「ああ。その時は、よろしく頼むぞ」

 小太刀は静かに月を見上げながら穏やかな笑みを称えていた。月明かりに照らし出されたクロの横顔は穏やかな月明かりに照らし出されていた。クロはそっと月を見上げながら小さく囁いた。

「ふむ。今宵はもう暫く、この地と共に在りたい」

「ああ。俺も同じこと考えていた」

「ほう? 奇遇であるな」

 一陣の風が吹き抜ける。新緑の稲が奏でる涼やかな音色。青臭い香りを堪能しながら、俺達は景色と一体になれるように心を落ち着かせた。溶け込みたかった。一つになりたかった。大原の雄大な自然と共に、母なる大自然に還りたかった――大袈裟でも、何でもなく、そう表現するのが恐らくは最も適切だった。俺達を照らし出すのは満天の星明かりと柔らかな月明かりだけだった。風は、ただ静かに吹き抜けるばかりであった。

◆◆◆47◆◆◆

 クロは俺と生活を共にすると言った。戸惑いはしたがクロの姿は俺にしか見えないらしい。少なくても家族を驚かすことにならなければ問題は無いだろう。随分ろ安易な考えではあったが、こうして俺とクロとの共同生活が始まった。その最初の夜は打ち寄せる波の様な睡魔に勝てず、俺は呆気なく沈黙した。色々なことがあったお陰で、すっかり体力を消耗してしまったのだろう。家に戻った俺は、布団に横たわるとすぐに眠りに就いてしまったようだ。

 どれ位眠ったのだろうか? 心地良い眠りは唐突に打ち破られる。耳元を往来する不快な羽音……聞き覚えのある音だ。この不快な羽音の正体は蚊か? 人の安眠を妨害するとは許し難き蛮行。ええい、そこに居直れ!

 ゆっくりと眠りから覚め始める。気が付いた時には、驚愕の表情を浮かべる小太刀の姿があった。

「んん? おお、クロか。良い朝だな」

「お、お主は一体どんな夢を見ておったのだ?」

 クロは妙に動揺した表情を見せていた。一体何のことを問われているのかは寝起きの頭では良く判らない。

「いきなり……『ええい、そこに居直れ!』 とは、悪党を成敗する夢でも見ておったか?」

 可笑しそうに笑うクロの反応に、先刻の自分自身の行動を振り返る。

(い、いつものアレをやってしまったか? ううむ……は、恥ずかしい……)

「わ、若気の至りという奴だ……」

「ふむ。良く判らぬが、まぁ良しとしよう。それよりも、コタよ。朝だぞ」

 クロが窓の外を指差す。中々良い時間に目覚めることが出来たものだ。だが先刻の蚊の存在は見過ごす訳にはいかない。敵を討ち取らない限りは落ち着いて過ごせない。頻りに部屋を見渡す俺を見つめるクロは、腕組みしながらにやにや笑っていた。

「フフ。目覚ましには、実に効果的であったという訳だな」

「何の話だ?」

「蚊の音で目覚めたのであろう?」

 何やら話の流れが読めてきた気がする。ことのつまり、俺を起こすためにクロが仕掛けたという訳か……効果はあったが何か納得出来ない。

 不意に母が階段を登ってくる軽やかな足音が聞こえる。いつものように、俺を起こしに来たのであろう。既に目覚めている俺を見て、母が驚いたような表情を浮かべる。

「あら? 今朝はちゃんと起きれたんか? 朝食の準備は出来てはるから、早うお上がりやす」

 何事も無かったかのように去ってゆく母。再びにやにや笑いながら腕組みしてみせる小太刀。

「フフ、言った通りであろう? 我の姿はコタにしか見えぬ」

「……なおのこと、要らぬ行動を起こすなよ?」

 クロは俺の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、相変わらずにやにや笑うばかりだった。さて、クロと戯れている場合では無い。せっかく早起きしたのだから遅刻しないように準備をしなければならない。

 それにしても目覚めた部屋にカラス天狗が居ることに、こうも違和感を覚えることなく、何事も無かったかのように過ごせるとは我ながら適応能力の高さに驚かされる。

 朝食を済ませた俺はシャワーを浴びた。この蒸し暑さの中で一晩過ごせば相応に汗もかく。よし。これで身支度は万全だ。

◆◆◆48◆◆◆

 着替えを済ませて玄関を出れば、どんよりと曇った空模様。沈んだ空模様とは裏腹に蝉の声が響き渡る暑さ。今日も暑くなりそうだ。早くも滲み出す汗を感じていると、不意に背後から声を掛けられる。

「おはよう、コタ。今朝はちゃんと起きられたみたいだねー」

 振り返れば、にこやかな笑顔を浮かべる輝が佇んでいた。俺は苦笑いを浮かべながら返す。

「人を寝坊の常習犯のように言うな……」

「んんー?」

 ふと、輝が俺の後ろをじっと凝視していることに気付いた。どこか怪訝そうな表情を浮かべていた。

(もしかして、輝にはクロの姿が見えているのか?)

 妙な焦りからか、嫌な汗が噴き出す。

「ねぇ、コタ……あれから、何か変わったこと起きていない?」

「どういう意味だ?」

「うーん……何かの気配を感じるんだよねー。ちょうどね、コタの斜め後ろ辺り」

 輝は好奇に満ちた笑みを浮かべたまま俺を見上げていた。そんなやり取りを見ていたのか、背後からクロが語り掛けてくる。

「輝は中々に勘が鋭いな。我の姿を感じ取っている様子」

 なるほど。自称霊感少年というのも、あながち間違えてはいないのであろう。輝の意外な才能にクロは興味を惹かれたように見えた。やはり人の世のことには興味津々なのだろう。

「それにしても、可笑しな出来事が続出するよね」

「世の中は不思議に満ちているからな。良かったじゃないか? 不思議な体験できて」

「良くないってー。もうちょっと、穏やかなので良かったんだけどなぁー」

 振り返りざまに輝が笑ったところで、タイミング悪く信号が赤に変わる。ここで一時停止。やはり、クロの言う通りその姿は輝には見えていないのだろう。微かにクロの気配を感じているといったように思えた。

 ふと顔をあげれば空は静かに唸りをあげていた。深い灰色の空模様は見る者の心さえも濁らせるように思えた。

(嫌な空模様だな……)

 深い灰色の空模様は晴れ渡ることの無かった俺の心を揶揄しているようにさえ思えた。透き通ることの無い濁った心模様。何かが引っ掛かっているのだが、その何かが明確に見えない不快感を覚えていた。静かに唸る空模様は気持ちを沈める忌々しい存在にしか思えなかった。思わず吐息が毀れる。

「曇っているせいか蒸し暑いよね。汗かいちゃうよ」

 額の汗をハンカチで拭いながら輝が笑う。

「汗臭さは男らしさの証らしいぞ?」

「えー、ナニそれー」

「うちの親父の格言」

 そういうのは格言とは言わないよ。輝は可笑しそうに笑っていた。

 信号が青になる。再び学校を目指し一歩を踏み出せば、ぽつりと一粒の雨粒が頬に零れ落ちた。冷たい感触に一瞬足を止めそうになったが、後ろは振り返らない。前へ進むことしか出来無いのだから。道は俺達の前には出来やしない。道は俺達が歩いた後に出来るということだ。

◆◆◆49◆◆◆

 教室に着いたが、窓の外は相変わらず落ち着かない空模様だった。鈍色の空は重く圧し掛かるかのように幾重にも渡って重なり合っているかのように見えた。時折小雨混じりの雨が降る、梅雨の残り香のような空模様だった。気象庁は梅雨明け宣言することをためらっている様に思えた。「明けた」と明言してしまえば色々と面倒なことになるのだろう。まぁ、俗に言う「オトナの事情」という奴だろう。

 それにしても気が滅入る空模様だ。ふと昨夜のことを思い出す。クロと共に大原を歩んだ光景の中に、そっと佇んでいた川原の紫陽花の青紫色。

(紫陽花の綺麗な季節だな。今度、クロと一緒に三千院に紫陽花を見に行くとするか)

 そんなことを考えながら窓の外の景色を眺めていた。不意に扉が開くと、桃山が勢い良く教室に入ってきた。今日の桃山は落ち着いているように見えた。何時もと変わらぬポニーテールを綺麗に結い上げている様子からも、落ち着いている様は伺えた。予想通り、数日後には山科が退院するという連絡があったことを伝えてくれた。

「ま、あたしが担任じゃあ色々と不安だったかも知れないけどねー」

 山科が戻れば桃山も再び副担任に戻る。手放さなければならない担任の立ち位置が少々名残惜しそうに思える笑顔であった。

 その後は何事も無く一日が過ぎ去っていった。そして迎えた放課後。だが、まだ非日常から俺達は完全に逃げ切れた訳では無かった。錦おばさんの件は結局のところ何一つ判ったことは無いのだから。無理に穿り返すつもりは無い。ただ、錦おばさんがあの後どうなったのか、気掛かりだった。あの事件に巻き込まれたのは事実なのだ。だとしたら、その後の状況が気にならない訳が無い。それに――避けて通ることが出来ない道であることは間違いない。ふと、横に目をやれば、クロは何かを考え込んでいる様子であった。そっと、目を開くと俺に向かい力強く頷いて見せた。なるほど……。ならば答は一つだ。皆で歩む帰り道。会話の途切れた瞬間を見計らい、俺は皆に提案する。

「なぁ、皆。錦おばさんの所に行かないか?」

 俺の提案に皆快く賛成してくれた。心配な気持ちは一緒だということだろう。俺達は皆で錦おばさんの銭湯を目指すことにした。無論クロも一緒だ。

◆◆◆50◆◆◆

 夕暮れ時になっても暑さは一向に退く気配を見せない。人通りの絶えない街並みに蝉の声が染み渡る。東大路通を北上し祇園さん前の交差点を曲がり、四条通へと入ろうとしていた。ここは特に人通りの多い賑やかな通りだ。飲食店も多く立ち並ぶ。

 そろそろ輝の心霊話にも飽きてきたのか、立ち並ぶ飲食店に目線を送りながら力丸が話題を変える。

「そういえばさ、この間さ、亀岡の所に遊びに行きついでに、伏見の鳥せいに行って来たんだよ」

 伏見の鳥せい……また、微妙な話題に切り替えてくれたものだ。有名な店だ。地酒と――それから、鶏肉料理の店。ふむふむと、腕組みしながら興味津々に耳を傾けるクロであったが、俺はクロの反応が気になって仕方が無かった。

「伏見の鳥せいと言えば、酒蔵じゃのう。さては、リキよ……お主、酒を呑みに行ったのじゃな?」

「まぁ、酒豪の亀岡と出掛けて、酒を呑まない訳は無いな」

 畳み掛けるような大地と太助の突っ込みに、一瞬、怯む力丸であったがすぐに否定する。

「酒を呑んでいたのは亀岡だけ。オレは焼き鳥を食ってただけだっつーの。大体酒呑みはおめぇらだろ?」

 一瞬、取り乱したような素振りを見せたが、すぐに二人に対して切り返す。

「俺は梅酒が好きだな」

 フフと笑いながら太助が返答する。

「ワシは地酒が好きじゃな」

 したり顔で胸を張りながら大地が返答する。

「二人とも問題発言だな……」

 シレっと放たれる問題発言に突っ込みを入れずには居られなかった。

「や、焼き鳥……とな?」

 背後からぽつりと聞こえる裏返った声。嫌な予感を覚えつつ恐る恐る背後に目線を送れば、予想通り、立ち止まったままクロは硬直していた。

(あー、やっぱり反応する内容だよな……)

「な、何をニヤついておるか?……わ、我は、断じて『鳥』では無い……ぞ」

 クロは心中穏やかでは無い様子であった。ここまで取り乱している姿は始めて目の当たりにした。何しろやたらと目が泳いでいる。鳥では無いと主張はするものの、やはり「焼き鳥」という表現には多分に反応する様子。意外な弱点を見つけたが、迂闊に刺激すると反撃が恐ろしそうだ。何やらブツブツと文句を言っている様子だが、良く聞こえないので放置しておくとしよう。

「焼き鳥かー。ううむ、やはり焼き鳥には、やはり地酒じゃな」

 あくまでも地酒を推す大地に、輝が苦笑いしながらツッコミを入れる。

「えっと……ロックはまだ、未成年でしょ?」

「フフ、軟骨のコリコリを堪能しつつ、地酒を頂くと言うのはじゃな、中々に良いものなのじゃ」

「ななな、軟骨を、コリコリ!?」

 再び背後から聞こえるクロの裏返った声。そっと振り返れば予想通り、再び硬直していた。

(おーおー、目を真ん丸くしてみたり、青ざめてみたり、クロは意外に表情が豊かだな)

「お前は酒呑みのオッサンか……」

 フフと笑いながら太助が突っ込みを入れれば、力丸が頭の後ろで手を組みながら満面の笑みで応える。

「オレはやっぱり、焼き鳥だったら肉食うかなー。あー、でも、皮も棄てがたいんだよなー」

「に、肉を食う!? そ、それに、か、皮となっ!?」

 段々とクロの表情が険しくなってきたぞ……。この話題は少々危険性を孕んでいる気がする。ううむ……それにしても、随分と盛り上がっている様子。後でこいつらは酷い目に遭わされるだろうな。ま、俺じゃないから後は頑張って耐えてくれ。

「こ、コタよ……ひ、人と友になるというのは、意外なる衝撃の連続なのだな……」

「ま、まぁ、そうだな。文化の違う者達同士が手を組めば、驚くこともあるよな」

 全然フォローになっていない気がする。少々クロには重た過ぎるカルチャーショックだった様子。これはクロと一緒に出掛ける際には注意が必要だな。すぐに思い浮かんだが、伏見のお稲荷さんは絶対に駄目だろう。何しろ名物は「スズメ焼き」だからな。店先から漂う香ばしさ。肉の焼ける音、脂が焦げる香り。香りは焼き鳥そのものなのだが、どうにも、あの見た目は好きになれない。以前、親父と一緒に伏見に出掛けた時に、愛想の良い店のおばさんに薦められたが、店先で思わず硬直してしまった記憶が蘇る。

『頭蓋骨はね周りのお肉だけ食べたら、棄ててねー』

 シレっと言われた壮絶過ぎる一言に、ますます硬直させられた。あの光景を目の当たりにしたらクロは倒れてしまうかも知れない。くれぐれも気をつけよう……。

 何時もと変わらぬグダグダなトークを繰り広げているうちに、俺達は錦おばさんの銭湯に到着しようとしていた。四条通から錦市場方面に抜けた先に佇む昔ながらの銭湯。四条通りや錦市場を表通りとするならば、ここは裏通りになる。

 人通りの絶えない四条通は人の往来の絶えない賑やかな通りで、車も人もひっきりなしに往来する。四条通から錦市場方面への道に入ると、道幅は一気に狭くなる。

 錦市場は食材を売る店が立ち並ぶ賑やかな通り。様々な食材を扱う店々が立ち並ぶ活気あふれる場所。力丸のお気に入りの場所のひとつでもあった。

 この界隈は路地裏に入ると人々の生活の香りが漂う。古めかしい木造の家々が立ち並ぶ情景は温かみに満ちている。美味い食い物屋も多く、力丸や太助に色々な店を教えて貰った場所でもある。

 錦おばさんの銭湯は錦市場を使う人々に古くから親しまれている場所でもあり、俺達も良く活用している場所でもある。少々古びた外観ではあるが昭和の赴きを残す味のある佇まいは何時訪れても心が落ち着く。時の流れは残酷で、何時だって走り抜けてゆくばかり。だから、時の流れが止まった様な赴きは心が安らぐ場所でもあった。大きな煙突は、盛んに黒煙を吐き続けている。湯を沸かすために薪を燃やす。それもまた、この街のあるべき姿なのだろうから。

「それじゃあ、皆で入るぞ」

 俺が先陣を切れば皆が後に続く。

「ふむ。ここが銭湯か。中々に味があるではないか」

 銭湯という物に興味があるのか、クロは興味深そうに周囲を見回していた。着いて来いと声を掛ければクロも皆に続いた。

◆◆◆51◆◆◆

 比較的早い時間帯なのもあり、俺達の他には誰も訪れていない様子だった。むしろ好都合だ。他の人がいたのでは、錦おばさんと込み入った話も出来ない。だからといって腰を据えて話し込むのもそれはそれで怪しまれる。適度に引き際を心得る必要がある。その微妙なさじ加減が難しい。

「あら。皆揃って、いらっしゃい。良く来てくれたねぇ」

 錦おばさんは何時もと変わらぬ豪快な声で出迎えてくれる。だからと言って五条大橋での事件のことを覚えているかと直球ストレートな聞き方は絶対にまずい。少々変化球で挑む必要がある。

「この間は無事に帰れたのか? 熱射病を甘く見ない方が良い」

 俺は何食わぬ顔でさらりと話を切り出した。

「無事に帰って来られたわ。心遣いありがとうね」

 クロは俺の背後で腕組みしながら、静かに錦おばさんの動向を見据えていた。

「あれからね、ちゃんと外を歩く時には帽子を被るようにしたのよ」

「そうか。なら一安心だな」

 中々切り出せる雰囲気では無かった。だからと言って下手に聞き出し、警戒されてしまうことは避けたい。そんな俺の想いを知ってか知らずか、やれやれと言った表情で太助が救いの手を差し伸べる。

「そうそう。バイク事故で入院していた山科は、数日後には退院するらしいぞ」

「そ、そうなのかい? ま……まぁ、大事に至らずに良かったじゃないか」

 一瞬……本当に一瞬だったが、錦おばさんの目が泳いだ。やはり、一連の出来事が記憶に残っているのだろうか? 考え込む俺にクロが背後から語り掛ける。

「ふむ、これはどうしたことか?」

「どういうことだ?」

「ふむ……見えぬ。心の内が見えぬ。深い霧の中にいるかのような光景よの」

 回りくどい言い回しに少々不安を覚えた。だが、クロの鑑識眼は少なからず俺達のそれよりも遥かに鋭く、的確に事実を見極めている。深い霧の中にいるかのような光景……それは、一体何を意味しているのだろうか? 疑問を抱く俺の問い掛けに応えるかのように、クロが向き直る。

「深い……実に深い霧で、自らの本心を隠しているように見える。霧が深過ぎて、まるで本心を見抜くことが出来ぬ。相当、隠したい想いなのであろう」

 脳裏を過ぎる想い……蘇る記憶。武司さんの死。錦おばさんと山科との間に起こったすれ違い。唐突に響き渡った怒号。動揺した表情で葬儀場から飛び出した山科。それに続き、包丁を手にした錦おばさんが罵声を浴びせた光景。

『帰ってくれ! あんたに……あんたなんかに、来て貰っても駄目なんだよ! 武司を、武司を返しておくれ!』

 髪を振り乱し山科を怒鳴り付けた錦おばさん。自らの手を負傷してまで、必死で止めようとした賢一さん。それから――降り頻る雨の中、濡れることさえ厭わずに土下座し、地面に頭を擦り付けていた山科。

『武司を! 武司を、返しておくれ! あああああーーっ!』

 忘れたくても忘れることの出来ない程に鮮烈な情景。目を背けたい程に悲痛な出来事であった。

 必死で隠し通そうとする錦おばさんの悲痛な想い。それが判ってしまうからこそ深入りすることは出来なかったし、真相を明かすつもりも無かった。いや……俺達、部外者が無理矢理こじ開けるような真似をしてはならないと確信していた。

「閉ざされた扉を無理にこじ開けようとすれば、扉は酷く壊れてしまい二度と開かなくなるであろう。時が来るのを待つのが良かろう。だが、忘れてはならぬぞ?」

 クロの言いたいことは判っている。判っているからこそ余計に迷いが深まる。

 その深い憎悪は理解している。触れてしまったからこそ見えてしまう想いもある。

 恐らく、錦おばさんは意図的に隠そうとしているのでは無いだろう。深過ぎる憎悪……もしかすると、霧が深いことの意味は違うのでは無いだろうか? 憎悪が深過ぎるからこそ暗過ぎて何も見えなかっただけなのでは無いだろうか? 決して覗き込むことの出来ない自らの心は、あまりにも深過ぎて、奈落の底は光さえも届かない程に遠く、暗い場所になってしまっているのだろう。錦おばさんの心の闇は、もはや見ることすら叶わない程に深くなってしまったのだろう。情鬼……いや、人事では無い。俺にも……。

 錦おばさんの想いは判らなくも無い……もしも仲間達を失うことになったら……それが誰かの手によるものだったら? 俺は絶対に、そいつを許すことは出来ないだろう。そいつを殺して俺も死ぬだろう……。俺が何を考えているのかに気付いたのか、クロは静かに俺をみつめていた。

「おーい、コタ、何しているんだー? 早く入ろうぜー」

 風呂場から力丸の豪快な笑い声が響き渡る。

「あ、ああ。すぐ行く」

 余計な詮索はここらが潮時だろう。俺は制服を籠の中に脱ぎ捨てると、急ぎ皆の後を追った。無論クロもまた服を脱ぎ捨てると俺の後に続く。服の上からでも判る見事な体付きは、服を脱ぐと実にはっきりと判る。思わず見とれてしまった。そんな俺の視線に気付いたのか、クロが照れ臭そうに笑い返す。

「こ、コタよ……そんなに見つめられると照れるというものぞ」

「あ、いや、スマン」

 微妙に気まずい空気が流れる中、風呂場から輝の弾んだ声が響き渡る。

「あー、やっぱり広いお風呂はいいねー」

「足が伸ばせるってのが、何よりも幸せだよなー」

「ううーん、いい湯だねぇ。ますます、可愛くなっちゃうよねー」

 輝の発言に思わずコケそうになった。

「ならないだろっ!」

「うわっ! みんなで声揃えて、全否定しちゃうー? 傷付くー」

(いやいや、傷付くような性分でも無いだろ……)

 相変わらず輝の発言は微妙過ぎる。さすがは自称アイドルだな……。

 俺も皆に続き風呂場に向かう。湯をかぶり、体を軽く流す。ふと、横を見ればクロも俺の真似をしていた。銭湯を訪れるカラス天狗……中々に珍妙な光景だ。

 皆がくつろぐ浴槽に足を入れる。相変わらず結構な熱さだ。だが、この熱さが無いと錦おばさんの銭湯に来たという感じがしない。

 傍らではクロが気持ち良さそうに翼を広げている。

「ふむ。これが銭湯という物か。温泉のようなものであるな」

「温泉とは少し違うな。もっと人工的なものだ」

「なるほどな。だが、これはこれで中々味があって悪くない」

 広い浴槽が気に入ったのか、クロは上機嫌な様子だ。

「あ、良いこと思い付いたー」

 風呂場に輝の明るい声が響き渡る。

 刹那、安堵に満ちた皆の表情が一瞬にして戦々恐々な殺気を感じ取り強張る。

「ほう……それで、次なる戦場は何処だ?」

 湯で顔を潤しながら太助が冷ややかな口調で問い掛ける。

「嫌だなぁー、その手の話じゃないよ。ほら、丁度今日は、天神さんで縁日やっているじゃない? お風呂上りに夕涼みも兼ねてみんなで行かない? って思ってね」

 輝は可笑しそうに笑いながら返してみせた。

 思わず皆一斉に顔を見合わせる。ついでに顔を寄せ合い緊急の作戦会議が開催される。

「ふむ……天神さんの周辺で、その手の話は聞こえては来ておらぬの」

「まぁ、そういう話題とは縁遠そうな場所だから、大丈夫だよな」

 ここ数日、特に強烈な体験をしているせいか、皆、妙に慎重になっている。冷ややかな反応を輝は苦笑いしながら受け止めている様に見えるが、数日もすれば綺麗さっぱり忘れるだろう。しっかりと記憶しているならば、可笑しな事態には陥らないはず。だが、何度も繰り返しているのは何故か? 人は忘却する生き物なのだ。そんな哲学論で自らの行いを性善説に持ってゆくのは如何なものかと思う。

「縁日か……風情があって悪くないな。折角だから浴衣で向かうのも粋だな」

 危険性が無いと判れば盛り上がるのが常。憎悪の能面師の足取りも掴めないのも事実。病は気からと言う。見果てぬ恐怖に怯えるよりも攻めに転じるべし。それに人の世の文化を知る良い機会だ。クロも案内しよう。予想通り、ちらりと目線を送れば嬉しそうに肩を組んでくる。

「浴衣で縁日か。ふむふむ。実に興味を惹かれるな」

「縁日には露店もある。露天では様々な物が売られる。ちょっとしたお祭りみたいなものだな」

「ほう? それは楽しみよの」

 縁日とは元来は神仏と縁のある日を指し示す言葉であるが、それは昔の話と化している。今では小規模な祭と化しており露天も多数出される。縁日には皆とも良く出掛けるが、行動パターンが実にハッキリと表れる。輝はあんず飴など甘い物、大地はイカ焼きなど酒のつまみ系、力丸は焼きそばやらフランクフルトやら腹に溜まりそうなもの。で、それを涼やかな目で見届ける太助といった具合に個性がハッキリ分かれる。俺はカキ氷があれば満足。ねぎ焼きが売っていれば、何が何でも食べる。ねぎは万物の頂点に立つ食い物だと信じて疑わないからな。

 縁日はその雰囲気が良い。賑わう感覚が皆と繋がっていることを再認識出来て安心出来るのだ。夜の街に賑わいを見せる縁日と来れば、クロも興味も惹かれることだろう。しかし、浴衣か……まぁ、探してみるか。

 皆で話し合った結果、現地に集合という段取りになった。皆、住んでいる場所もバラバラなのを考えれば妥当な案であろう。言い出した輝には幹事の役を担って貰うという名目上の大儀を与えた。俺達は時間差で現地到着を目指すことにした。クロと一緒に行動する以上は、出来るだけ余計な気配りをせずに移動したいという想いもあった。

「えー、なに、なにー? ぼくだけ先に行くのー?」

「言い出したのは輝、お前だろう?」

「う……仕方ないなぁ。判ったよ。でも、みんなも早く来てよね」

 輝は少々不満そうではあったが幹事の役目は果たして貰う必要はある。何しろ現地に着いたが誰も居ないのでは路頭に迷うから……と、もっともらしい理由を付けて、上手い具合に輝を煙に巻いたところで一旦解散となった。

◆◆◆52◆◆◆

 家に戻ってきた俺は浴衣を探していた。そういえばクロの姿が見えないが何処に出掛けたのだろうか? 相変わらず気まぐれなことだ。

(それにしても……「出掛けて来る」と言いながら、窓から飛び立つのはどうかと思うのだが……)

「おかしいな。何処に仕舞いこんだか……」

 思い付く場所は大体探したが、探し物は中々見付かる気配を見せない。こういう時は捜査の基本に帰るべきだ……と考えるまでもなく、まだ探索していない場所に答があるのだろう。まだ探していない場所……タンスの奥を探ってみた。すぐに見覚えのある藍色が見えてきた。

「よし、無事に浴衣を発見したぞ」

 これで準備は万端だ。それにしてもクロは何処に行ったのだろうか? チリーン。緩やかな風が吹けば軒先に飾られた風鈴が涼やかな音色を放つ。暑さ対策の扇子も用意した。これは太助の真似。これで少しは男前度上がるだろうか?

「良し。取り敢えず着替えるとするか」

 鏡の前に立って帯を締めていれば、不意に玄関の戸を叩く音が聞こえる。

(お届け物でも来たのか?)

 俺は急ぎ、帯を締め終えた。玄関に向かえば、どこか見覚えのある大柄な人影が写る。何となく想像は出来たが、恐る恐る戸を開けてみれば

「コタよ、我も浴衣に袖を通してみたのだが、いかがであろうか?」

 予想通り、そこには涼やかな笑みを浮かべるクロが佇んでいた。それにしても、浴衣に袖を通してって……一体どこから調達してきたのだろうか? 余計な詮索はさておき、よくよく見れば中々に渋好みな若草色の浴衣。体格の良さも手伝ってか良く似合っていた。

「ほう、意外に様になっているな。男前度も上がったんじゃないか?」

 階段を登りながら軽口を叩いて見せれば、クロは笑いながら応える。

「フフ、我に惚れるなよ?」

(コイツ……意味判っていて言っているのか? いや、意味判っていて言っているとしたらそれはそれで悩ましい……いやいや、色々と問題だな)

 頭を抱える俺を、首を傾げながら見つめるクロ。悩ませているのはお前だ。それにしても上手い具合に翼を収納するとは中々に器用なものだ。

「クロは見事な体格だから、何だか外国人が浴衣を着ているみたいだな……」

「む。何を申すか。我は国産ぞ?」

(こ、国産って……おいおい、それじゃあ、ますます鶏肉の産地だ。それで良いのか?)

 さすがに翼を収納した状態で空を飛ぶことは出来ないだろうし、何よりも目的地の天神さんは人も集まる場所である。そんな所に大空から着陸という構図は要らぬ問題に繋がることは間違いない。ここは大人しく陸路で向かう作戦とするべきであろう。

「クロ、四条河原町からバスで移動するぞ」

「うむ、了解した。それでは早速参ろうぞ」

 部屋を後にしようとした所でクロが足を止める。険しい眼差しで虚空を見つめたまま、しばし何かを思案している様子。

(もしや……憎悪の能面師の気配を感じ取ったのだろうか?)

 緊張が走る。俺は慎重に周囲を見渡していた。

「ふむ。コタと二人きりでの旅路とはな……これが俗に言う『逢瀬』という奴であるな?」

 危なく階段を勢い良く踏み外すところであった。

(コイツ……意味判っていて言っているのか? いや、意味判っていて言っているとしたら、それはそれで悩ましい……いやいや、極めて深刻な問題だろ……)

「まぁ、良い。軽くボケたところで、北野天満宮を目指すとしようぞ」

 軽くボケたところで……やはり、クロは途方も無く中途半端に人の世のことを理解している様に思えた。お笑いにも通じていそうな辺りが、どうにも珍妙な奴だ。例えるならば外国人留学生と共に暮らすような感覚か? お国が違えば文化も異なる。ううむ……これは本格的に教育しなければならなそうだ。少々悩ましい気持ちを胸に抱きながらも、俺達は家を後にした。

「ふむ。コタよ、折角であるから腕でも組むか?」

「……あのなぁ」

「フフ、コタは愛い奴よの。照れておるのか?」

 全身全霊の力を篭めて、それこそ命を賭して教育しよう。上機嫌なクロの笑顔からは、どこまで本気で言っているのか判らない辺りが恐ろしい。単純に俺の反応を見て楽しんでいるだけなのか? それとも……本気で言っているのか? クロは感情を隠すのが巧いだけに注意が必要そうだ。何だか出掛ける前から無駄に汗をかいた気がした。

◆◆◆53◆◆◆

 外に出れば、すっかり夕暮れ時になっていた。今日は湿気が多いらしく酷く蒸し暑い。せっかく銭湯でサッパリしてきたというのにまた汗ばんでしまいそうだった。先刻のクロとのやり取りでも無駄に汗をかいた気がする。

 雲は消え失せ、夕焼け空が街並みを照らしていた。路地裏は夕方の風情を感じさせる光景。夕食の支度をしながらも窓は開けておかないと暑くていけない。窓の傍に蚊取り線香を灯す家も目に付いた。クロは興味を持ったのか不思議そうに蚊取り線香を見つめている。

「これは線香か? ふむ。ぐるぐる渦巻きとは中々に風変わりな線香であるな」

「ああ、これは蚊取り線香だ。蚊を寄せ付けないようにするものだ」

「ふむ。なるほど。人の世には我らの知らぬ文化が多々あるものよの。実に興味深い」

 夕暮れ時の路地裏。打ち水をしている小料理屋の女将さんの姿が見える。涼やかな風に心が穏やかになる。俺達に気付いたのか笑顔で会釈をしてくれた。俺も会釈で返す。和服の女将さんが打ち水をする。こういう風情ある光景は涼やかな気配りに満ちていて悪くない。

 皆が忙しく行き交う路地裏。夕暮れ時になるとこの界隈は特に賑わう。花街らしい光景だと考えながらも花見小路へと抜ける。

「この辺りは賑わいを見せておるな」

「ああ。花街だからな。夜になると、賑やかになる」

「ふむ。確かに酒の香りがする」

 クロは酒好きなのだろうか? 偏見かも知れないが天狗達は酒豪揃いのような気がする。恐らくはクロも凄まじい酒豪なのであろう。俺の詮索混じりの眼差しに気付いたのか、腕組みしながらクロが笑い返す。

「フフ、コタの父上は中々の酒豪とお見受けした。我らが里に是非とも案内したいものだな」

「カラス天狗達は酒豪揃いなのか?」

「ふむ。我は呑まぬが、底なしの酒豪揃いであるのは事実よ」

 勝手な想像だがクロには呑ませない方が良さそうだ。何やら危険な香りがする。

 夕暮れ時の花見小路は店開きの準備に忙しい。観光客だろうか? 人通りは何時も以上に多く感じられた。規則正しく並ぶ石の床に、黒を基調とした店がずらりと立ち並ぶ。ぼんやりとした明かりは控え目に辺りを照らし出している。夕焼け空の赤と、黒を基調とした街並み。控え目の明かりが通りを華やかなに描き出している。わき道に目をやれば、やはり雰囲気を感じられる景色が広がる。こういうわき道には興味を惹かれる。ついつい吸い込まれそうになる衝動を抑えながら、俺達は歩き続けた。

 クロと他愛も無いお喋りをしているうちに花見小路を抜けて四条通へと至る。この道は祇園さんから始まる長い道。土産物屋や飲食店が所狭しとならび賑やかなる繁華街。人の波に混じりながら俺達は四条河原町のバス停を目指した。

 南座を過ぎればやがて見えてくる四条大橋。鴨川の流れは涼やかな音色を称えていた。人の往来の多い四条大橋を抜け、さらに賑わう四条通を歩き続ける。河原町通の交差点を過ぎれば、ようやくバス停に到着する。それにしても暑い。歩き回ったおかげで余計に暑くなった。額の汗を拭いながら早くバスが来て欲しいと願っていた。俺の願いが届いたのか、すぐにバスが到着する。後はこのままバスに揺られて北野天満宮前まで向かえば良い。俺達は出来るだけ人目に付き難い最後尾の座席に並んで腰掛けた。幸いバスはそれ程混雑していない様子であった。

 日はすっかり沈み、辺りには夜の帳が見え隠れし始めていた。夜の街並みは人工的な明かりに照らし出されて、これはこれで風情があって悪くないものであった。街灯の明かりに飲み屋の看板。パチンコ屋の派手なネオンに信号の明かり。人の作り出した街を彩る、人の作り出した景色。クロは興味深そうにバスの外を流れ往く景色を眺めていた。

 バスという閉鎖空間は時として人生模様を照らし出す鏡にもなる。殆どの乗客はすれ違うだけの存在達ばかりで、二度と会うことも無いであろう一期一会の人々なのだろう。だからこそ、こういう場所には物語があるのでは無いかと考える。

 観光客も乗っていれば仕事帰りのサラリーマンだって乗っている。もしかすると、俺達と同じく天神さんの縁日に向かう人々も乗っているのかも知れない。人と人が交差する場所には物語が生まれるものなのだろう。そう考えると感慨深い気持ちになる。だからなのだろうか? ついつい停留所に着く度に乗り込む人々、降りて行く人々をまじまじと見てしまう。

 傍らでは相変わらず興味津々に街を見つめるクロの姿があった。

「クロは大自然の守人でもある訳だろう? 人の築き上げた街に違和感を覚えたりしないのか?」

「少なくても我は違和感を覚えぬ。だが……」

 俺の問い掛けにクロはしばし考え込んでいたが、どこか哀しみを孕んだ瞳で俺を見つめながら、身振り手振りを織り交ぜ語り始めた。

「多くの天狗達はこうした文明を嫌う」

 クロの言葉に俺は、思わず振り返っていた。だが、クロは静かな笑みを称えたまま話を続ける。

「自然を破壊し、その上に築き上げられた街並み。いうなれば人の築き上げた街は『墓標』そのもの……そんな見方をする者達も少なくは無い」

 街は墓標そのもの……衝撃を覚える表現だった。だが、確かにそうなのかも知れない。人は大自然を破壊し、その上に街を築き上げた。大自然を生きる者達からすれば、とんでもない略奪行為だ。人の幸せのために、どれだけの木々達が、草達が、あるいは、そこに住んでいた生き物達が犠牲になったのだろうか? 知らぬことは罪。知らなかったから無罪放免等ということは在り得ないのだ。

「ごめん……」

 思わず謝る俺に向き合うと、クロは静かな笑みを称えながら肩を組んでくれた。

「謝ることはあるまい。人は過ちを犯す生き物であるが、同時に罪を償うこともできる生き物である。我はそう信じておる」

 クロは本当におかしな奴だ。視点の切り替えとでも言えば良いのだろうか? 天狗としての視点と、人としての視点を巧みに切り替えながら物事を考えている。だから、視野の広い考え方が出来るのかも知れない。その器用さは学びたいものだ。

「こんな狭いバスであっても様々な人々が存在する。バスに乗り込む者もいれば、バスを降りる者もいる。人の数だけ物語があるということよの」

「へぇ。クロは詩人だな」

「フフ、我に惚れたか?」

「……そういうことにしておこう」

 自然に言葉が零れ落ちた。俺の肩に回されたクロの腕にも不意に力が篭った気がした。不思議な気分だ。クロとならばそれも悪くないと思えた……自分で自分の考えが見えなくなってきた。クロは本当に不思議な奴だと思った。冷静沈着な一面もあれば、とても純粋な一面もある。時に子供の様な無垢一面を見せることもあれば、心をかき乱す振る舞いを見せることもある。

「我がコタを守る。何があってもな?」

 不思議な感覚だった。遠い昔にも、同じ台詞を耳にしたことがある気がする……。

「守る、か……俺、男なんだけどな?」

 クロは微笑みながら俺の顔を覗き込んで見せた。

「ならば、コタが女であったならば違和感は無かったであろうか? そうでは無かろう? 友とはもっと普遍的なものであると我は認識している」

 確かにその通りだと思った。どうやら人という生き物は一度自らの価値基準が定まると、その物差しでしか物事を推し量れなくなるらしい。俺が嫌うオトナ達の在り方と何ら変わらないでは無いか。やはり、クロと接していると多くのことを学ぶことが出来そうだ。

「フフ、クロは人よりも、ずっと人らしいのかも知れないな」

「褒め言葉であるな」

 クロは満足そうな笑みを浮かべながら窓の外を眺めていたが、不意にこちらに向き直る。

「コタよ、我はコタと共に多くの場所を歩んで見たい」

「ああ、俺もお前と一緒に色んなことを学びたいな。クロと一緒にいると色々と学べそうだ」

「ふむ。そうであるな。我とコタならば多くのことを共に学べるであろう」

 大自然を生きる身であるからなのだろうか? クロは本当に大きく感じられた。見た目も確かに俺よりも一回り大きいが、そんなことは関係ない。見た目なんて所詮は仮初の器に過ぎないのだから。

「悪くないものだな。クロとの二人旅というのも」

「フフ、そうか? 光栄よの」

「ああ……自分でも良く判らない感情だけど、クロと出会えて良かったと思っている」

 クロは窓の外の景色をみつめていた。駆け抜けるバスと同じく外の景色も駆け抜けていた。時の流れを。人が築き上げた『墓標』という名の街明かりの中を。窓の外を流れる景色を見つめながら、クロは静かに微笑んでいた。満たされているのだろうな……俺も同じだ。何だろうな、この感覚。言葉に出来ない感覚。だけど決して悪い感覚では無い。また言われてしまうだろうか? 『余計な詮索は止せ』と。そうだな……詮索なんて無粋な行為だ。あるがままの流れを肌で感じ取り、あるがままの流れを肌で受け止めれば良い。

「もう、すっかり夜だな」

「うむ。良き夜よの」

 周囲は何時しか完全な夜になっていた。バスは夜の街を淡々と走り続けていた。暗闇の中に人が築き上げた文明の光だけが瞬き続ける。飲食店の看板であったり、ガソリンスタンドの照明であったり、パチンコ屋の派手なネオンであったり。煌びやかな景色を見ながら、『墓標』という表現が俺の中で重く圧し掛かってくるのを確かに感じていた。

◆◆◆54◆◆◆

 何時の間にか雲が出てきたらしく月は完全に隠れていた。湿気が酷いらしく、空調の利いたバスの中でさえ汗が滲んでいた。当然のことながら、空調の利いたバスから降りると同時に一気に汗が噴き出した。

「酷い湿気だな……」

 これは、さっさと輝を探し出さなければ。急がないと汗だくになってしまう。

 天神さんへの正面入り口は大通りに面しており大きな石の鳥居が立っている。多くの人もここから中に入るので見落とすことは無いだろう。もっとも探すまでも無く、既に皆は石の鳥居の下に集まっていた。四人共色違いの浴衣姿。ついでに皆で何かを食っている様子が見てとれた。何を食っているのか興味を惹かれた。

「おー、コタ。遅かったのじゃ」

 相変わらず大地の浴衣は派手な赤。お約束どおり、その背中には大きな文字で「嵐山旅館」と刻まれていた。無論、手にした団扇も「嵐山旅館」であった。その商人魂には感服させられる。

「皆で何を食っているんだ?」

「ちゃんとコタの分もあるよ。近くのね、粟餅処澤屋で粟餅を買ってきたの。細長い黄粉餅が二つに、丸い餡餅が三つだよ」

 輝は自他共に認める甘党である。オカルト話のチェックは欠かさないが、甘味処情報のチェックも欠かさない。なるほど。確かに天神さんと言えば澤屋は有名だ。餅を食べながら、さっそく本命の縁日に向かう。

 甘過ぎずさっぱりとした食感の黄粉餅に、しっとりとした舌触りの餡餅。どちらも棄てがたい美味さだ。さすがは輝。甘味に関しての目利きぶりは評価できる。皆に気付かれないように、俺は串に餅を刺しクロにも差し出した。

「ふむ。中々に絶妙なる味わいよの。人の世の食い物も悪くは無い」

 夜の天神さんはライトアップされていて昼間の装いとは、また一味違った活気に満ちていた。色とりどりの露天もまた目を楽しませてくれる。行き交う人々も浴衣姿の者達が多い。カメラを片手に熱心に撮影に勤しむ人もいれば、大家族で賑やかに縁日を楽しむ姿もあった。地元の人々なのか、警備を兼ねてのゴミ掃除を担う婦人会の姿も見て取れた。皆、思い思いの気持ちを胸に抱きながら縁日を楽しんでいるように思えた。ふと隣に目をやれば、縁日の賑やかな光景を興味深そうに見回すクロの姿もあった。まるで子供の様に目を輝かせながら周囲を見回している。

「ううむ、実に興味深いな」

「縁日は賑わっているだろう?」

「うむ。それもあるが、北野天満宮は地元と一体化した場所。人々の信仰の厚さを感じられる場所でもあるな。ここの梅の木々は実に穏やかな表情をしておる。人々が大自然への畏怖を抱いている限りは世も安定するであろう」

 縁日よりも梅の木々に興味を示す辺りが彼らしい。クロが興味を示していたのは表面的な賑やかさだけでは無かった。ここに人と天狗との考え方の差が見え隠れする。やはり天狗達は、より大自然に近い場所で生きているだけに物事を広い視点で見るのだろう。

「うーん、いい香りがするのじゃ」

「腹が減るよな。食い物屋がたくさんっていうのも縁日の醍醐味だよな」

「フフ、お前達は色気よりも食い気か。相変わらず判りやすいな」

 早くも大地と力丸は食欲が炸裂している。まぁ、それも悪くは無い。こうして皆で過ごせる時間は本当に貴重な時間なのだから。大地と力丸は二人揃って露店に向かった。

「おーっと、あんず飴発見。ぼくも買ってくるね」

 二人に続くかのように輝も走り出す。その様子をみつめながら、やれやれといった表情で太助が涼やかに笑う。

「ここ数日、色んなことがあったからな。あいつらも、緊張の糸が解けたのだろう」

「解け過ぎている気もするけどな」

「まぁ、良いじゃないか」

 太助は相変わらず涼やかな振る舞いを見せる。冷静沈着。クールな皮肉屋と自称するが、概ね間違えてはいないだろう。

「鞍馬での騒動。山科の見舞いでの不可解な体験。フフ、随分と豪勢な懐石料理になったものだ」

 振り返って見れば、いかなる場面でも太助は取り乱すことは無かった。度胸があるというか、肝が据わっているというか。まぁ、色々な意味で尊敬できる奴だ。

「俺の思い過ごしならば良いのだが……」

 太助にしては珍しく、憂いを孕んだ眼差しで俺をみつめる。

「どうした? 何か不安なことでもあるのか?」

「一連の出来事は未だ終わっていないのでは無いだろうか? 嫌な予感がしてならない」

 やはり太助は鋭い鑑識眼を持っている。確かに憎悪の能面師は行方を眩ましたままだ。何も解決してはいない。だからこそ警戒を解く訳にはいかないのだ。

「まぁ、いいさ。行きはよいよい、帰りは怖い。足を踏み入れた以上、もう後戻りは出来ないのだろう。ならば最後まで見届けなければ気が済まないよな」

 どこまでが本心でどこからが強がりなのか、太助もまた想いが表情に現れない性分だからこそ本心が見えない。もっとも余計な詮索をするつもりも無かったが。

「おー! 後少しであったのに……うぬぬ、悔しいのじゃ」

「うしっ。それじゃあ、オレがロックの無念を晴らしてやるぜ!」

「リキ、頑張れー」

 遠くから聞こえる輝達の声に、俺達は目線を投げ掛けた。どうやら輝達は三人で賑やかに騒ぎながら、金魚すくいに挑戦しているようだった。クロもまた俺の背後からも興味深そうに覗き込んでいた。敗退し悔しさを大袈裟に表現する大地の姿に、腕を捲くり上げ気合い十分の力丸の姿が見えた。

「それにしても……あの能面は一体何者だったのだろうか? 嫌な予感が消え去らない」

 太助は何時に無く憂いに満ちた表情を見せていた。やはり、何か感じるものがあるのだろう。

「鞍馬での一件、それから病院での一件は……始まりに過ぎなかったのでは無いか? そんな気がしてならなくてな」

「どういうことだ?」

「上手く説明出来ないが、まだ、同様の怪事件は続くのでは無いだろうか? そんな気がしてならない」

 何時の間にかクロは俺の後ろに佇んでいた。腕組みしながら興味深そうに太助の表情を見つめている。

「ふむ。太助は我らに近いな」

「どういうことだ?」

「大自然への想いの強さ……だからこそ、感じているのだろう。京の都で起ころうとしている異変をな? 中々の勘の鋭さよの」

 クロと話し込んでいると輝達が戻ってきた。どうやら金魚すくいでは何の戦利品も得られなかった様子であった。

「むぅ……予想通りに惨敗なのじゃ」

「あの金魚掬い、何か仕込んでいるんじゃねぇか?」

「リキは何でもかんでもパワーで片付けようとするのがイカンのじゃ」

 皆と過ごす時間は楽しいものだ。今日は皆揃って浴衣姿。夏ならではの装いだ。四季の中では夏が最も好きな季節だ。賑わいを見せる華やかな季節。皆が盛り上がり行事も多い季節。薄着で過ごせるのも好きな理由。何だか開放的な気分になれるのが好きだ。開放的と言えば……。

「力丸は何を着ても、腕捲くりするんだな」

「普段は捲くる袖もねぇ服だけど、袖があるとさ、何だか暑くていけねぇんだよなぁ」

 白い歯を見せながら力丸が豪快に笑う。暑いというのもあるのだろうけれど、その自慢の体を見せ付けたいのだろう? 気持ちは判らなくも無い。俺にもそういう一面はあるからな。

「お前はいつも暑苦しいな」

「おうよ、今も汗だくだぜ? へへへ……何だったら、抱きついてやろうか?」

「……ほう? 命が惜しくなければ掛かって来い。触れる前に投げ飛ばしてくれる」

 相変わらず扇子で風を送りながらも涼やかに交わす。太助は俺と同じく柔道を嗜む身。不器用で無骨な俺とは対照的に、華麗な技で魅せてくれる。今の所、俺と太助との勝負は五分五分といったところか。

 久方ぶりに訪れたが天神さんの縁日は本当に賑やかだ。地域に密着しているからこそこれだけ多くの人が訪れるのであろう。すっかり、この街に根付いている様子が伺える。人々の信仰心の厚さなのだろうか? 時が変わり、街が様変わりしても変わらない想いがあるというのはそれだけでも安心できるものだ。

「この地に生けるは見事な梅の木々よの。春先にはさぞかし美しい花を咲かすのであろう」

 クロの興味は境内に植えられている梅の木に向けられていた。此処、天神さんは春先には白梅、紅梅が咲き誇る美しい光景を見せる。大自然を生きるクロに取って木々や草の花というのは興味惹かれるものなのだろう。そういう一面も俺と同じだ。繋がっている感じが嬉しくなる。

「今は花の季節では無いから、梅の木も緑色の葉ばかりだけどな」

「ふむ。だが、これはこれで生命の躍動が感じられる。瑞々しい木々の葉……これもまた、風情ある光景では無かろうか?」

 クロは俺の反応を窺いながら、静かな笑みを称えていた。

「生命の躍動か……なるほど。夏の間に力を蓄えているからこそ、春先に可憐な花を咲かせる訳か。万物に無駄な物は無いということだよな」

「フフ、判っておるでは無いか? 春になったら、この地を訪れようぞ?」

 ああ、約束だ。俺の言葉を受けクロは目を細めながら腕組みしていた。

 相変わらず縁日は賑わいを見せていた。こういう賑やかな場所に身を置くのはそれだけでも楽しいものだ。ふと、大地が足を止める。何か興味深い露天でも見つけたのだろうか?

「うぬぬ……何やら不気味な露天があるのじゃ」

「確かに。何か薄気味悪いし、嫌な気配感じるよなー」

 大地が指差す先には、確かに少々異彩を放つ妖しげな露天が店を構えていた。他の露天からは明らかに外れた場所に存在している。しかも妙に薄暗い場所に陣取っている。扱っている商品はお面……。だが、並んでいるお面はどれも妙に薄汚れており異様な気配を放っていた。しかも良く見れば全て能面であった。全て……小面の面。あまりにも気味の悪い雰囲気を放っている。今にも喋り出しそうな能面達は、どこか土埃を被ったかのように薄汚れていた。

(何だ、この露店は? 何か、普通では無い物を感じる……)

「嫌な気配を感じる。この露店……何か奇異な物を感じる」

 クロは鋭い眼差しで目の前に佇む怪しげなお面屋の主を睨み付けている。まるで狐の様に細い目に、生気の感じられない真っ白な肌。白粉でも塗っているのでは無いかと思える程に白い顔に明らかな違和感を覚える。

「解せぬ……この者には心が無い」

 クロはなおも険しい表情でお面屋の主を見据えている。

 不意に消え入るような小さな歌声が聞こえてくる。

◆◆◆55◆◆◆

『とおりゃんせ とおりゃんせ

 ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ

 ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ

 この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります

 行きはよいよい 帰りはこわい

 こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ』

 お面屋の主が発する唄声……いや、良く耳を澄ませばお面屋の主では無い。背後に佇むお面達が唄っていた。微かにお面の口元が動いているような気がした。

 不意にお面屋の主が立ち上がる。不気味な笑みを浮かべながら恭しく会釈して見せた。

 その瞬間であった。唐突に凄まじい勢いで風が吹きぬけた。真冬の寒さを思わせる異様な冷気であった。驚く俺達の視界には、さらに驚くべき光景が飛び込んできた。吹雪……視界を遮る程の凄まじい猛吹雪が吹き荒れていた。在り得ない光景であった。夏の暑さにはあまりにも不釣合いな光景であった。ふと、隣を見ればクロが六角棒を握り締め、身構えていた。

「……気配を消して我らに近付いたか。実に姑息な振る舞いよの」

「その姑息な情鬼の存在に気付かぬお前は、無能なカラス天狗ということよの」

「何とでも申すが良い。我はお主を討つ……それだけのことよ」

 異様な光景であった。凄まじい吹雪に包まれた境内。新緑の葉に覆われた木々。吹雪の中に佇む木々の姿からは、あまりにも掛け離れた光景であった。

「なるほどな。てめぇが一連の事件の黒幕ってわけか」

 太助が皆の前に出る。拳を握り締めながら、鋭い眼光でお面屋を睨み付けていた。お面屋は狐の様に釣りあがった目で、じっと太助を見つめていた。

「ほう、威勢が良いな……」

「随分とフザけた真似をしてくれたな。俺を怒らせたこと、後悔させてやる」

 太助は鋭い眼光でお面屋を睨み付ける。だが、お面屋は太助には興味を示すことは無かった。ゆっくりと手を持ち上げると、輝を指差しながら笑った。

「残念だがお主には用は無い。お前……そこのお前よ」

「え、え!? ぼく!?」

 なおも激しい吹雪の中で憎悪の能面師は輝を指差した。耳まで釣りあがった口に糸の様に細く歪んだ眼差し。人の顔では無かった。悪意に満ちた異様な顔であった。

「のう、カラス天狗よ……知っておるか? 人という生き物は、自らを傷付けられるよりも、大切な誰かを傷付けられることに怒りを覚えるもの」

 雪はなおも強まる。もはや一寸先さえ見えない程に周囲は白く染まっていた。次第に手足が痺れてきた。あまりの冷たさに四肢の感覚が失われ始めていた。

「さて……散々私の邪魔をしてくれた、親愛なる小太郎よ……今度こそお前の中に潜む情鬼を引き摺り出してくれようぞ。フフフ……ようこそ、我が宴へ!」

 静かに立ち上がると災いの能面師は小面の面を被った。ふわりと身を翻せば、次の瞬間には鮮やかな赤い着物に身を包んでいた。舞扇を手にゆっくりと立ち上がると、優雅なる舞を披露し始める。猛烈な吹雪は収まり、何時の間にか桜吹雪へと変わっていた。

 美しき桜吹雪。優雅なる舞。幻想的な光景であった。だが、穏やかなる光景は唐突に狂気へと変わる。お面を掲げていた棚から一斉に小面の能面が宙に舞う。次々と襲い掛かる能面に、皆は完全に翻弄されていた。

「うぉっ!? い、一体どうなっているんだよっ!?」

「ぎゃー、能面が襲ってくるのじゃ!」

 ケラケラと薄気味笑い声をあげながら能面が周囲を飛び回る。桜吹雪に包まれ周囲の視界が遮られた中で襲来する能面達。クロは必死で能面を叩き壊すが次々と増殖し続けるが、延々と終わることの無く襲い掛かる能面達に翻弄され続けていた。

(くっ! 姑息な奴め! 殺してやる! 絶対に殺してやる!)

 襲い掛かる能面を必死で叩き落す。だが、叩き落され割れた面は、それでもなお不快な笑い声をあげながら周囲を舞い、俺達を翻弄する。憎悪に満ちた声で何かを呟きながら憎悪の能面師は舞い続けていた。

「うわっ! ちょ、ちょっと、何するの!?」

 唐突に輝の叫び声が響き渡る。慌てて振り返れば憎悪の能面師の手からは無数の紅白の紐が放たれる。命があるかのように紐は宙を這いながら輝を締め付ける。次々と紅白の紐が輝の体を絡め取る。

「き、貴様ぁっ!」

「小太郎よ……この者は、お主に取っては、最も大切な存在なのであろう?」

「黙れ……化け物。てめぇ……絶対殺してやる。殺してやるーーっ!」

 紅白の紐ごと、輝を手元まで手繰り寄せると、憎悪の能面師は口を醜く歪ませながら笑った。

「もう……遅い。クックック」

「嫌だ……嫌だよ、止めて……止めてよ!」

 悲痛な叫びを挙げる輝。あの日の……あの日の、あの忌まわしい光景が蘇り思わず足がすくんでしまった。

 手下達数名掛かりで押さえ付け、嫌がる輝のズボンを今まさに下し終えた卓の姿が脳裏に蘇る。顔を真っ赤にし、目に一杯の涙を称える輝の姿が……泣き叫ぶ輝を見据える卓は鼻息荒く、酷く興奮していた卓の姿が脳裏に蘇り、俺は体中に電気が走ったような衝撃を覚えた。

 輝を助ける為に手を差し伸べようとも、どうしても体が動かなかった。

(こんな時に、どこまで俺は情け無いのか……!)

「嫌だよ、嫌だよっ! コタ、コター、助けてーっ!」

 燃えるような夕焼け空の教室。卓の首を絞めながら、本気で殺そうとしたこと。皆の突き刺さるような冷たい視線。走馬灯の様に、あの日の忌まわしい光景が鮮明に蘇る。あまりにも鮮明に蘇り過ぎて、身動きが取れなかった。過去の古傷が大きな足枷になってしまったことは否定できない。

「この者もまた……深い憎悪に駆られた身。我が手駒として操ってくれよう」

 憎悪の能面師は俺をじっと見つめながら、ゆっくりと能面を手にする。

「止せ! 止めろ!」

 身動きの取れない俺を揶揄するかの如く、ゆっくりと能面を輝の顔に被せた。

「輝! 輝ーーっ!」

 顔に般若の面を被らされた輝は、そのまま憎悪の能面師の足元に崩れ落ちた。なおも憎悪の能面師は舞いを振舞い続けていた。耳障りな高笑いを響かせながら。激しく舞い散る桜吹雪。ぴくりとも動かない輝。もう……抑えることなど出来なかった。一瞬、眩暈がするような感覚。だが、次の瞬間、体が燃え上がるように熱気を帯びてゆくのを感じていた。憎しみ……怒り……もう、抑えることなど出来なかった。

「いかん! コタ! 早まってはならぬ!」

 クロの声、確かに聞こえていた。だが、頭に血が上り切った俺には届かなかった。唐突に視界が揺らぐ。一瞬、見えた光景……真っ赤な袖を翻しながら憎悪の能面師が高笑いする声が聞こえた。

「掛かったな! 愚か者め!」

「え?」

 次の瞬間、一斉に能面が俺に向かって飛び掛ってきた。体中を飛来する能面に打ち付けられ、視界が揺らいだ。殴打の嵐が収まった瞬間、今度は何者かが首を絞める感覚を覚えていた。凄まじい力で指が食い込む。必死で抵抗を試みるが、どうすることも出来ない程の力であった。

(うっ!……は、離せ……離せっ!)

「コタ……ごめんね、ごめんね……」

(ひ、輝!? どうして……どうして俺の首を……!?)

「止められないんだよ……勝手に、勝手に手が……ああ、ああっ! どうして……どうしてっ!?」

 凄まじい力で首を絞められ、ゆっくりと意識が遠退く。

「こ、コタよ、しっかりするのじゃ! ああっ、邪魔な能面達なのじゃ!」

「おい、テルテル、止せっ! そんなことしたら、コタが死んじまうぜ!」

 大地の、力丸の悲痛な叫び声が虚しく響き渡る。だが、輝の動きは止まらない。

 憎悪の能面師の高笑いだけが響き渡る。怒りに身を震わせながら、太助が飛び掛るのが見えた。

「この……化け物が!」

「無駄なことよ」

 再び憎悪の能面師の手から紅白の紐が解き放たれる。宙を舞いながら太助に襲い掛かる。憎悪の能面師に届く前に紅白の紐が首に絡み付き、太助は身動きを封じられた。ギリギリと締め上げる音が聞こえてくる。太助は必死で抵抗したが紐はまるで緩まらない。

 成り行きを静かに見守っていたクロが動き出す。だが、ゆっくりとこちらに近付いてきた。

(お、おい……クロ、敵は向こうにいるのに、何故、こちらに近付く?)

「コタよ、輝よ……済まぬ!」

 次の瞬間、クロの六角棒が力一杯、振り下ろされるのが見えた。

「え?」

「ぎゃああーーっ!」

 ぐしゃ、という音。耳を劈く輝の絶叫。輝の手は激しく痙攣しながら俺の首からゆっくりと離れていった。割れた能面が崩れ落ち、見慣れた顔が現れる……割れた額からは、温かな血が湧き水の如く噴出す。頬を伝う赤い物。地面に涙の様に血が滴り落ちる。これ以上無い程に見開かれた目に涙を称えたまま、輝はゆっくりと崩れ落ちていった。

(嘘だろ? おい、クロ……笑えない冗談止めろよ。それに輝まで一緒になって……ああ……ああっ……な、何でこんなことになった? なぁ、どうしてだよ? 誰か答えろよーーっ!)

「て、テルテルーっ! しっかりするのじゃ!」

「な、何が……何が、一体どうなっているんだよっ!? 訳がわかんねぇよっ!」

「輝……お前は死んだのか……? 笑えない冗談は止せ……目を開けろ! 頼む!」

 もはや、何もかもが意味不明だった。憎悪の能面師の勝ち誇ったような高笑い。太助達の絶叫。目の前に横たわる輝。何時の間にか周囲の景色は小学校の校庭に変わっていた。あの日と同じ、燃え上がるような夕焼け空の下。風になびくサラサラの輝の赤い髪。あざとく開かれた口元は不敵に歪みながら赤い血を垂れ流していた。焦点の定まらぬ瞳は、あらぬ虚空を射抜いている。割れた爪。飛び散った靴。あらぬ方向に曲がった四肢。じわじわと血溜りが広がる。空気が漏れるような音を発しながら輝はほくそ笑んでいた。俺をじっと見上げながら不快な声で笑っていた。血の匂いに混じって酷い悪臭が漂う。潰れた臓器からあふれ出す汚物の異臭なのだろうか?

(ああ、この光景見覚えがある……松尾が死んだ時の光景と一緒だ……)

 やがて、目の前がどんどん白くなる。眩しい光に包み込まれ、宙に浮き上がるような感覚を覚えていた。

(このまま……俺も死ぬのか? それも……悪くは無いのかも知れない。罪、これで償えただろ? だからさ、もう……許してくれ……)

◆◆◆56◆◆◆

 ゆっくりと戻る意識。まだ首には鋭い痛みが残っていた。目を開けば見慣れた光景がそこにはあった。

(ここは、俺の……部屋?)

「おお、コタ……目を覚ましたか?」

 疲れ切った表情のクロが佇んでいた。酷く落胆した表情を浮かべていた。一体何が起きたのか? 必死で記憶を手繰り寄せる。

 皆で天神さんに向かった。そして、そこで出くわしたお面屋。だが、お面屋の正体は憎悪の能面師であった。憎悪の能面師……襲い掛かる能面達と戦い、そして輝が……。

「そうだ!? 輝! 輝はどうなった!?」

 クロは俯いたまま静かに目を伏せた。憂いに満ちた表情であった。その表情を見ただけで全てを察した気がした。

「そんな……どうして……」

「我は敵を甘く見過ぎておった。我は己の力を過信し過ぎていたのだ……」

 哀しげな表情であった。何の言葉も浮かんでこなかった。いや、何の感情すら沸き上がってこなかったと表現するのが正しいところだろう。

(そうさ……何故、奴が輝を選んだのか、判ってしまった気がした)

 その理由は輝の心に潜む憎悪だったのかも知れない。輝は母親に対して殺意を抱いている。輝の弟の暁は成績優秀。幼い頃から常に弟と比較され続けた輝。落ち毀れと罵られ、俺達との関係も快くは思われていない。何時だって、あの母親との間に諍いは絶えなかった。

 忘れやしないさ……あの日、あの時追い詰められた輝が自殺を試みたことも。母親を殺害しようとしたことも。どちらも脅し等では無かった。輝は本気で死ぬつもりだった。輝は本気で母親を殺害するつもりだった。迷うことなく出刃包丁を手にした輝は母親の腹部を刺した……。それ程までに母親への憎しみを抱く輝の心には――恐らく、俺と同じく『鬼』が棲んでいるのだろう。憎悪の能面師……何処までも姑息で、卑怯な奴だ。

「済まぬ。我の力が至らなかったばかりに……本当に済まぬ!」

 クロは床に頭を擦り付けながら謝罪していた。小さく肩を震わせ、とても……とても小さく、小さくなった気がした。

(謝らないでくれ……)

 悲痛な表情で頭を下げるクロを見ていると、居た堪れない気持ちになる。酷く哀しい気持ちになって、沸々と怒りの感情が沸き上がってくる。平身低頭、必死の想いを篭めて謝罪するクロの頭を、力一杯蹴り上げたくなる衝動に駆られた。六角棒で力一杯殴り、額をかち割ってやりたい衝動に駆られた。

(違う! クロが悪い訳じゃない! 誰かが……悪い訳じゃないんだ。そうか……そういうことか……)

 今なら、少しだけ理解できる気がする。葬儀の場に弔問に訪れた山科を追い返した錦おばさんの気持ち……。ようやく判った気がする。山科に謝罪された時の錦おばさんの感情。二度と戻って来ない武司さんを失った、言葉にすることも出来ない程に深い哀しみ。考えれば考えるほどに、どうしたら良いのか判らなくなってしまう。恐らく極限まで追い詰められていたのだろう。だから、あの時、錦おばさんは本能の赴くままに、山科に怒りをぶつけてしまったのだろう。謝られても武司さんが戻ってくる訳では無い、と……。

 不意にクロの言葉を思い出していた。

『我らカラス天狗はお主らが思う程、万能なる存在では無いのだ。人の世にて我らが力を発揮するには、お主ら人の力が必要なのだ』

 万能な存在など何処にもいる筈が無かった。それなのに俺は全てをクロに任せていた。一緒に戦うだと? 違うな……俺は嘘吐きだ。全部、全て、クロに押し付けて、嫌なことは全部押し付けて、自分が傷付くことから逃げていただけだ。本当に身勝手な奴だ……。

「クロ、済まない。俺も悪かった」

「コタ……何故、お主が謝るのか?」

 クロは大きく目を見開きながら、俺の顔をじっと見つめていた。俺はクロが、そうしてくれたように、クロの肩に腕を回した。少しでも想いが伝われば良い……そんなことを考えながら。

「クロ……お前は言っていた。カラス天狗は決して万能な存在では無い、と。俺は自分が非力な存在と決め付け、全部、全て、お前に託していた。それに、俺の力が無ければクロは本領を発揮出来ないことも理解していた。挙句の果てに俺は怒りに我を忘れ身勝手な行動を取った……輝を奪われたのは俺のせいでもある」

「コタ……」

「二人三脚だな。共に力を合わせて今度こそ奴を討ち取ろう」

 少しだけクロの表情に明るさが戻る。だが、輝は生きているのだろうか? あの時、確かにクロは力一杯、輝の面を割った。勢い余り、輝の頭まで砕いてしまった……。輝は生きているのか? 真実を知ることは恐ろしいが、真実から目を背けているだけでは何も変わらない。

「なぁ、クロ、聞かせてくれ。輝は……輝は、生きているのか?」

「まやかしぞ。お主が見せられた情景は、奴が紡ぎ出した偽りの情景よ」

 憎悪の能面師が持つ厄介な能力だとクロは告げた。恐らく、錦おばさんも奴の描き出すデタラメな映像で心を揺さぶられ、我を見失っていたのだろう。人の心というものは本当に脆く、儚く、壊れやすいものだ。微かな衝撃を加えられただけでも、いとも簡単に操られる。

(そうか……。松尾が死んだ情景も、あいつが作り出した幻という訳か)

「最低な奴だな……人の心を弄びやがって。絶対に殺してやる……」

 違う……駄目だ。心をかき乱していては奴には絶対に勝てないだろう。これでは再び、奴の思惑通りの展開に陥ってしまうだろう。心を沈め、怒りを沈め、透き通る湖面の如く揺ぎ無い心で挑まねばならない。憎しみに対し、憎しみで挑めばさらに憎悪の炎は燃え上がるだろう。沈めるためには憎しみを以って挑んではならない……慈しみ、許しを以って向き合うことが必要なのだろう。

 難しいことを要求されていることは良く判った。脆く、壊れやすい心を壊れないように支え切るのは簡単なことでは無い。だが、それが出来なければ輝を取り戻すことは出来ないのだろう。

「クロ、輝の足取りは掴めそうか?」

「済まぬ。再び奴は気配を消し去ってしまった。そうなってしまうと、我には追跡できぬ」

 心がささくれ立っていたから隙だらけだった俺と、敵を侮ったがために本来あるべき力を発揮仕切れなかったクロ。俺達は本当に良く似ている。奇しくも欠点までもが。

(ならば、共に欠点を克服し切ることが出来れば、奴を仕留めることが出来るだろう)

 だが、輝は一体何処にいるのだろうか? 不意に俺の脳裏に一つの映像が浮かぶ。勝手な憶測だが、輝が救いを求めているのではないだろうか? 勘でも何でもいい。今は藁にも縋る思いなのだから! 静かに目を伏せ意識を統一する。

 どこかの川の情景が浮かび上がってきた。景色は夜。豊かなる川の流れ。遠くに見える大きな朱色の橋。小さな茶店を抜け民家沿いの小道を歩んでゆく……朱色の橋を渡れば、そこは豊かなる川の中州。その場所から見渡す木々の情景。流れる川の音色。

(そうか!……やはり、そこか。ああ、そうだったな……辛いことや、嫌なことがあった時、何時も二人で訪れた場所だからな。輝、少しだけ我慢してくれ。すぐに、助けに行く)

「クロ、宇治へ向かうぞ」

「宇治……とな?」

「ああ。俺と輝に取っては、大きな意味を持つ場所だ。確信は出来ないが、輝は宇治にいる。そんな気がする」

 クロは静かに、力強く頷いて見せた。コタが言うのならば間違いないだろう、と。その根拠の無い自信は何処から来るのだろうと思ったが、恐らくは俺と同じなのだろう。なるほどな……信じるという行為は、人の見えざる力を開花させるためのキッカケになるのだろう。信じる者は救われるというのは、此処に根拠があるのかも知れない。ならば、信じるだけだ。輝のことも、クロのことも、ただ何も考えずに信じてみよう。

 俺はクロと共に祇園四条を目指した。空を飛べばすぐに辿り付けただろう。だが、重要なのは輝との思い出を手繰り寄せる部分にあると考えた。だから、遠回りになることは判っていたが輝と共にあることを前提として行動することにした。

◆◆◆57◆◆◆

 俺達は京阪電車に揺られていた。七条を過ぎてしばらく走れば京阪電車は地上に出る。窓の外には鈍色の空だけが広がっていた。ジットリとまとわりつく様な気候。幾重にも渡って重なり合う雲から雨粒が零れ落ちる。ポツリ、ポツリ。雨足は一気に強まり、すぐに土砂降りに変わった。窓に叩き付ける雨は、まるで俺達を拒むかのように思えた。だが退くつもりは毛頭無かった。今までの人生の中で逃避の先に道が切り拓かれたことは一度だって無かった。それに――俺の隣にはクロが居てくれる。一人だったら途方にくれていたかも知れない。でも、今は違う。もう、逃げるだけの人生はお終いにする。そう決めたのだから。

「嫌な雨だな」

「うむ……だが、この程度の雨で、我らの情熱の灯火は消せやせぬ」

「強気の発言だな」

「さてな。我の隣におるのがコタだからであろうか?」

 俺と同じ気持ちを抱いてくれていることが、さらに心強くさせてくれた。ああ、俺達なら絶対に勝てる。だから、輝……もう少しだけ待っていてくれ。

 列車は夜の光景を走り続けていた。流れ往く景色。街明かりを走り抜けては駅に立ち止まる。明かりの灯った駅を後に次なる駅を目指す。俺達は流れ往く景色を静かに見つめていた。

 家々からは穏やかな光が感じられる。暖かな時間を過ごしているのだろう。家族と共に、あるいは大切な人と共に。もしかしたら一人の寛ぎの時間を楽しんでいるのかも知れない。そう考えると心が痛んだ。羨ましいという想いと、だからこそ輝を一刻も早く救い出さなくてはという想いと。

(結局、またしても皆を置き去りにしてきてしまった……輝を救い出したら、報告しなくては)

 宇治までは相応に時間が掛かる。幾つもの駅を通り過ぎた。駆け抜ける車窓の景色を俺はただ、じっと眺めていた。時の流れは意地が悪く、急いでいる時に限って速度を落とす。待って欲しい時には全速力で駆け抜けるクセに。世の中の流れというものは何時だって因果なものだ。

 雨は次第に弱まり始めてきた。先刻までは流れる雨に滲んでいた車窓の景色も、今は鮮明に見えるようになってきた。窓に次々と付着する雨粒。列車の光と外からの光を受けながら光っていた。雨が上がり、視界がはっきりとした窓の外に目をやれば大きな道路が線路と並走している。交通量も多い。道路を駆け抜ける車の白いヘッドライトと赤いテールライトが幻想的に思えた。

 ガタンガタン。ガタンガタン。列車は音を立てながら走り続ける。どれ程の時間が経ったのだろうか? 今、俺達はどこを走っているのだろうか? 微かに不安になる。また山科の病院へ向かうバスの時の様に出口の無い無限ループに誘われてはいないだろうか? 気が付くと俺は祈っていた。どうか、どうか輝と再会させてくれ、と。

「……次は宇治。宇治」

 願いが届いたのだろうか? 次の瞬間、静かに車内アナウンスが流れる。気持ちが引き締まる。戦いに臨むというのはこういう物なのかと考えていた。そうか……何かに似ていると思ったら、これは試合前の感覚に似ている。試合前の高鳴る緊張の感覚と良く似ている。心地良い緊張感を覚えていた。引き締まる想いを肌でヒシヒシと感じていた。もっとも、これは試合のようにルールがある物では無い。戦いとはそういうものだ。真剣勝負にルールも何もありはしない。強いてルールがあるとすれば――生き残った者が勝者ということになる。それだけのことだ。ちらりと横を見ればクロが力強く頷いた。

「うむ。それで良い」

 ゆっくりと減速しはじめれば、やがて列車は停車する。扉が開けば外からはシトシトと降り続ける雨の音が聞こえる。土砂降りの様相では無くなったが雨はしつこく降り続けていた。地面に落ちては、波紋となり消えてゆくだけの雨粒達の叫び……雨はシトシトと降り続けるばかりであった。

 列車を降りて人気の無い改札を抜ければ、剥き出しの無機的な石造りが印象的な駅の光景が広がる。柔らかな黄色の照明と、コバルトブルーの看板が印象的な光景。人気の無い駅は、過去と現代が出会うかのような風変わりな情景であった。冷たさと暖かさが共存する情景。何度も目にした情景。絶対に負ける訳にはいかない。

(此処は輝と共に何度も訪れたな……ああ、きっと一緒に帰るからな)

 旅愁を呼び覚ます光景。階段を歩きながら俺は見慣れた光景を目に焼き付けていた。

 改札を抜けて駅を出る。目の前にはバスのロータリーが広がる。ちょうど駅を後にバスが出発しようとしている様子が見えた。相変わらずシトシトと音も無く雨は降り続けている。宇治川の涼やかな音色が道路に響き渡る。宇治川に掛かる大きな宇治橋。車が引っ切り無しに往来している。道往く人々も傘を指して歩いていた。

「宇治川に沿って歩く」

 俺の言葉にクロは静かに頷いた。降り続ける雨。傘もささずに俺達は歩き始めた。横断歩道。信号が赤から青に変わる。歴史を感じさせる通圓茶屋の左手から民家を抜ける細道に入る。静けさに包まれた細道は宇治川の流れる音色が響き渡り、心が落ち着く感覚を覚えていた。髪を伝い雨粒が滴り落ちる。一粒、また一粒。立ち並ぶ民家のすぐ向こうには宇治川が流れている。川の流れる普遍的な音色を肌で感じていた。宇治川は生命の鼓動を感じさせる清らかなる流れ。川幅も広く、水量も豊かな宇治川の流れは輝と俺の言葉に出来ない哀しみをさえ流してくれた。川の流れを見つめながら、川の音色を聞きながら、輝と共に支え合った記憶達……ふと、過去の記憶が鮮明に蘇る。

『コタ……ぼくは、やっぱり、出来損ないなのかな? 不良品なのかな?』

『お前が不良品なら俺は粗悪品だな。ま、ポンコツ同士支え合って生きていくとしよう』

 輝は泣き虫で、いつも辛いことや嫌なことがあると涙を見せていた。他人の居るところでは表情すら変えなかったが、俺の前だけでは感情を露にしていたっけな……。

『何だかコタとぼくの関係ってさ、兄弟みたいだよね』

『オカルト好きの弟に、無骨で無愛想な兄貴か。ろくでもない兄弟だな』

『えー、ナニそれー』

 兄弟か……俺には兄弟がいないから、それも悪くないと思った。実際、俺達は何時も、何をするにも一緒だった。だが、それを快く思わなかった奴もいたな。輝の母、それに……卓も。色々なことがあり過ぎて……本当に、色々なことがあり過ぎて、繊細で純粋な輝の心は耐え切れなくなっていた。そしてあの日、お前の心が音を立てて砕け散ったあの日――。

『何であんなことをした……答えろっ!』

『コタに……コタになんか、ぼくの気持ちは判らないでしょっ!?』

 初めて……初めて輝に手をあげてしまったのも宇治川だったっけな。輝は声を張り上げて泣いた。俺も負けじと声を張り上げて泣いた。悔しかったし、寂しかった。俺、輝の兄貴に成り切れなかったのかなって。泣いて、喚いて、罵り合って……まるで兄弟喧嘩だった。

 今更になって思う。兄弟という表現は言い訳だったのかも知れない。俺と輝の関係は本当のところは負け犬同士の傷の舐め合いに過ぎないのかも知れない。人はそうした振る舞いを非難するだろう。人は弱い者を嫌う。自分自身の弱さから目を背けたい弱虫たちが、他者の弱い振る舞いを否定することで、自分だけは違うのだと安心したいのだ。だから他者を否定する。言いたい奴は勝手に言っていれば良い。傷の舐め合いすら手にすることが出来ずに無様に死ぬくらいならば、傷の舐め合いでも生きられるならば良いと思う。人はそんなに強い生き物では無い。弱い者同士支え合いながら俺達は生きてきた。それを否定する権利等、誰にも無い。

 やがて道が少し開ける。視界に飛び込む鮮やかな朱の橋。朝霧橋。宇治川に浮かぶ中州、中ノ島へと続く橋。この橋を何度、輝と共に歩んだだろうか。皆と仲良くなってからは太助達とも何度も訪れた場所だ。太助も宇治川を気に入ったと言っていた。水のある場所が好きだと言っていたっけな。

 中ノ島へと続く朝霧橋に足を踏み入れる。刹那、空気が一転する。宇治川に掛かる橋の上だから湿気があるのは不可解なことでは無いが、それにしては異様な冷気が立ち込める。橋を歩くに連れて、次第に周囲の気温が下がってゆくような感覚を覚えていた。夏から秋、秋から冬へと季節が巡り往くかの如く、冷たさが増してゆく。何時しか周囲には深い霧が漂い始めていた。青白いほたるの光が見え隠れし始めていた。それに呼応するかの様に、微かに人の声が風に混じるように感じられていた。老若男女、様々な人々の声であった。一様に憎しみや、恨みを訴える様な禍々しい声であった。

「異様な空気よの。そこら中から殺気を感じる」

「憎悪の能面師か?」

「うむ。奴の手により命を失った、数多の者達が集まっているのであろう」

 憎悪の能面師の手により命を失った者達? どういうことなのだろうか? いや、今は余計な詮索は止めよう。目的を見失ってはいけない。

 周囲には強い冷気が立ち込めていた。何時の間にか雨は上がり、雲間から時折月が覗いていた。静寂に包まれた朝霧橋を抜け中ノ島に到達する。明かりは何も無い。川の音に混じり、砂利を踏み付ける音だけが響き渡る。雲間から覗く微かな月明かりだけが頼り。消え入るような、か細い光だけを頼りに中ノ島内部を歩む。

 ゆっくりと光が見えてきた。闇夜の中に浮かぶ仄かな光。周囲には何時しかほたるが舞い始める。クロは六角棒を握り締めたまま、周囲に気配を配っていた。近付くにつれて光の正体が明らかになり始める。

「コタ……来てくれたんだね。待っていたよ」

 暗闇の中でベンチに腰掛ける輝。ぼんやりとほたるの様な光を発しながら佇んでいた。不気味な笑みを浮かべたまま、こちらを見つめていた。射抜くかのような鋭い眼差しで俺達を睨み付けていた。

「フフフ……駄目だなぁ、コタ。お人好しにも、こんな所まで来ちゃうなんて」

 ただ静かに輝は薄ら笑いを浮かべていた。口元を酷く歪ませながら佇んでいた。

(動揺してはならない……心をしっかりと持たなくてはならない)

「ねぇ、コタ。此処は何処だか知っている?」

「……此処は宇治川の中洲、中ノ島だ。何度も訪れた場所だ。悩みも、迷いも語り合った。覚えているだろう? 此処は俺とお前との数多の思い出の残る場所だ!」

 相変わらず輝は不気味な笑みを浮かべている。口元を酷く歪ませながら、射抜くような目で威嚇し続けていた。不意に足元から風が吹き上げるような感覚を覚えた。

(こ、ここは……屋上!?)

 忌まわしい出来事の最終章……。二度と思い出したく無かった光景……。

 萌え上がる様な夕焼け空。小学校の屋上……フェンスを乗り越え、向こう側に俺は立たされていた。あくまでも自分の意思として。忘れることの出来ない、あの場面が克明に蘇る。そっと下を覗き込む。一気に強い風が吹き上げた。クロの姿は何処にも無い。

 フェンスの向こう側で輝は不気味な笑みを浮かべていた。その手には長い棒を握り締めていた。

「コタ、残念だよ。此処で君は死ぬんだよ。あの時、自分で言ったでしょ? 鳥になるって……嘘は良くないよね……」

「何が言いたい?」

「嫌だなぁ。判っているクセに……」

 口元を歪ませながら輝が棒を構える。ゆっくりと後ろに下がる。助走を付けて、力一杯俺を突き落とすつもりなのだろう。

 この期に及んで俺は迷っていた。目の前に広がる光景。その光景のどこまでが真実で、どこからが虚構なのかの見分けが付けられなかった。憎悪の能面師は心の奥底に眠っている物を的確に描き出す術に長けている。俺の前に対峙している輝が、もしも偽者ならば騙される訳にはいかない。だが、もしも本物であるとしたら? もしも本物ならば迂闊なことをすれば取り返しが付かなくなる。どうすれば良い……。

「さぁ、コタ。今度こそ、ちゃんと鳥になってね!」

 憎悪に満ちた眼差しで俺を見据えながら、輝が勢い良く駆け込んでくる。俺は咄嗟に身を翻した。だが、輝は口元を酷く歪ませながら、ゆっくりと後ろに下がる。再びの助走。そして今度こそ俺を突き落とそうと、勢い良く棒を突き出す。

「くっ!」

「中々器用だねぇ……往生際悪いなぁ。さっさと飛び降りて死んでよねっ!」

 駄目だ、駄目だ。心をかき乱した状態では万に一つの勝ち目も無い。それに、こんな押し問答を繰り返していても道は切り拓かれないだろう。だったら賭けるしか無い。

 そうさ……輝との付き合いは十数年になる。たかだか数日前に現れたばかりの情鬼風情が俺達の絆を超えられる訳が無い。信じるさ……輝、お前の心に全てを託す。

「判ったよ、輝……俺はもう逃げない。受け入れる」

 大きく手を広げ、無防備であることを主張してみせた。俺を睨み付ける輝の表情に、一瞬、迷いが見えた。棒を握り締める手が微かに緩むのが見えた。

「さぁ、俺は此処だ。外さないようにしろ。それとも……これは俺の物語だ。俺自身で決着をつければ良いか? どちらでも受け入れるさ。お前の下す裁きならば受け入れよう」

 精一杯の強がりだった。足の震えが治まらない。しっかりと踏ん張っていないと、このまま落下してしまいそうだ。だが表情には表さない。あくまでも気丈に、心に揺らぎが無いことを示す。それも憎悪の能面師に対してでは無く、輝に対してだ。俺はお前のことを信じている。その想いが届いた時、形勢は逆転するはず。輝……俺はお前を信じる!

「こ、コタ……ぼくは……ぼくはっ! あああーーっ!」

 突然、輝が頭を抱えて崩れ落ちる。棒の転がる、無機的な渇いた音が響き渡る。

 続けてクロの声が脳裏に響き渡った。クロだけじゃない。数え切れない程の天狗達も、一斉に声を張り上げている。真言……

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク!」

 ゆっくりと、足元が崩れ始める光景を見ていた。紛い物だったのだろう。学校の風景も、夕焼け空も。割れた鏡の様に目の前に入る全ての光景が音を立てて砕け散るのを見届けていた。足元も崩れてゆく。俺は転落していた。屋上であった場所が遥か彼方に過ぎ去ってゆく。辺り一面が黒一色に包まれてゆく。

◆◆◆58◆◆◆

 気が付くと目の前には輝が崩れ落ちていた。

「ひ、輝!? しっかりしろ!」

「心配には及ばぬ。気を失っておるだけぞ」

 唐突に背後からクロの声が聞こえた。周囲を見渡せば先刻までの光景に戻っていた。立ち並ぶ木々の影と宇治川の流れる音。中ノ島の光景に戻っていた。

「な、何故だ!? 何故、我が術を打ち破ることが出来た!?」

 憎悪の能面師は酷く取り乱していた。こいつも同じだったということだろう。己の力を過信し、勝利は絶対だと驕っていたのであろう。盛者必衰の理を得ずという表現もある。どんなに優位な立場にあったとしても、ほんの僅かな油断から一気に崩れ落ちるものだ。

 俺達の心を容易く操ることが出来たために油断が生じたのであろう。人と人との心が紡ぐ絆というものは理論では片付けられるものでは無い。そのことを見失っていたのだろう。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 何時の間にか中ノ島にはたくさんのカラス天狗達が舞い降りていた。一斉に唱えられる真言。心地良い旋律であった。彼らが紡ぎ出す真言が輝の背中を押してくれたのだろう。だから、俺は再び輝と邂逅することが出来た。邂逅出来てしまえば後は偽りの糸を手繰り寄せることは無くなる。まやかしも通用しなくなる。

「事を急ぎ過ぎたために無用な隙が生じた。それがお主の敗因よの」

 クロは腕組みしたまま冷たい眼差しで見下していた。酷く冷たい、慈悲心の感じられない眼差しであった。

「残念であったな。お主にはコタは渡さぬ。それに……お主には、もはや希望は与えられぬ。永きに渡る仮初の命、どうやら此処までとなりそうよの」

 冷たい眼差しだった。揶揄するような含み笑いを浮かべるクロの表情は、恐怖を覚える程に冷たく感じられた。自信に満ちていた憎悪の能面師は我を見失い、ただ動揺するばかりであった。

 憎悪の能面師は酷く動揺していた。焦りのあまり、在るべき能力を制御出来なくなっていた。酷く焦りを見せる憎悪の能面師。それを見下すクロの冷徹な眼差し。腕組みしながらクロは口元を歪ませて、悪意に満ちた含み笑いを浮かべて見せた。

「口惜しいか? ならば我を見事討ち取ってみせよ。そうすれば、お主は逃げ切れるであろう。さらなる罪を重ねることも出来るであろう」

 なおも見下す様な眼差しで、クロは憎悪の能面師を嘲笑っていた。

「憎いか? 我が憎かろう? さぁ、どうした? お主の怒り、我にぶつけてみせるが良い!」

 静かに顔を伏せたまま憎悪の能面師は怒りに身を震わせていた。再び顔をあげた時、その顔には般若の面を被っていた。激しい憎悪の念がビリビリと伝わって来る。その様子を見届けながらクロは不敵に笑っていた。

「憎悪の能面師よ、お主の想いは……所詮はただの『勘違い』だったのであろう? 想い人にはお主の心は届かず、お主は罵倒され、嘲笑され、そして……フフ、無様な死を受け入れるという結果に終わった。確か、人は……それを『逆恨み』と呼ぶのであったな。もっとも、お主はもはや『人』では無くなっておるがな?」

「き、貴様ぁあ! 私を……私を! 愚弄するか!?」

「見苦しきことよの。全ては真実ではあるまいか?」

 返事は無かった。怒りに我を見失った憎悪の能面師は地面を蹴り上げると、宙に向かい大きく跳躍した。そのまま身を翻しながらクロに飛び掛った。

「愚かな……」

 クロは表情一つ変えることなく六角棒を構える。素早く潜り込むと、力一杯腹を突き上げた。

「ぐぶっ!」

 跳ね飛ばされた衝撃で憎悪の能面師は背中から激しく地面に打ち付けられた。うずくまりながら肩を小さく震わせていた。その姿には何の余裕も感じられなかった。そこには、数多の手を使い俺達を翻弄し続けた恐ろしい敵としての威厳は何処にも無かった。今、目の前に崩れ落ちているのは、惨めな姿を曝すだけの憐れな存在でしか無かった。

「まだやるか? 手加減などせぬぞ……我はお主を殺める存在であるからの」

 クロは六角棒を構えたまま、その場で静かに佇んでいた。憎悪の能面師は、もはやうめき声をあげることしか出来なかった。慌てた様子で袖に手を突っ込み紅白の紐を取り出した。その手から解き放たれる紐。だが、紐は微かに宙を舞うとそのまま落下した。

「馬鹿な……こんなことが!?」

「愛憎に満ち満ちたお主の心……愛染明王の真言にて鎮めた。憎しみが損なわれれば、力も費え往くであろう。全ては、お主が招いた顛末よ」

 クロは懐から小さな鏡を取り出した。そっと宙に投げ上げれば、鏡は砕け湖面の如く広がる。そこには見覚えの無い舞台が映し出された。歴史を感じさせる光景であった。高貴な者達が集う舞台を思わせる場所のように思えた。

「見覚えのある場所であろう? 生前、お主が舞を披露した場所よの」

 クロの言葉を聞きながら、俺も目を凝らし映し出された情景に目線を送る。そこには整った顔立ちの青年が佇んでいた。

「き、貴様は!……か、勝頼! 何故、未だに生きて居るのだ!?」

 勝頼と呼ばれた青年は、憐れむような、見下す様な眼差しを浮かべていた。その口元を酷く歪めたままこちらをじっと見つめている。

「残念だったな。所詮、お前のやろうとしたことなど、まやかしに過ぎなかったということだ。俺はこの通り、生き延びることが出来た。お前のやろうとしていたことなど、何もかもが無駄だったということだ。分相応という言葉を知っているか? お前のような非力で無能な奴は、紙切れの様に、無様に討ち棄てられるのがお似合いということだな! あっはっはっは!」

 勝頼と呼ばれた青年が見下す様な眼差しで、声を挙げて嘲笑っていた。憎悪の能面師は顔を落としたまま地面に爪を突立てていた。力を篭め過ぎた爪が割れ、血が滲むのが見えた。

「許せぬ……未だに私を愚弄することは断じて許せぬ! 呪いで殺めることが出来ぬのならば、この手で今度こそ奈落の底に突き落としてくれるわ! 鬼となった以上、これ以上失う物など無い身! ならば、さらなる修羅道を駆け抜けてくれるまで!」

「止せ、止せ。お前の様な半端者には何も為し遂げられる訳が無い。現にお前の言葉なぞ、誰一人として信じなかっただろう? 世の中は権力者のためにあるんだ。お前達のような存在は、俺達に虐げられるためだけに在るんだ。良く判っただろう?」

「き、貴様ーーっ!」

 勝頼は身分の高い青年に思えた。深い緑色の着物は良い素材を使っているのであろう。意匠の施された美しい様相を呈していた。整った顔立ちに良く似合う着物であった。立ち振る舞いの一つ一つを見ても、無駄の無い優雅な振る舞いに見えた。茶の席に慣れているものなのであろうか? 気品あふれる高貴な立ち振る舞いから、茶人の風情を感じ取った気がする。 だが、発する言葉の数々は風情からは程遠いものがあった。高みに立ち、ただ人を見下すだけの最低の人種。見ている俺まで不快になる相手であった。

「さぁ、道雪よ。どうした? 俺は此処にいる。見事、討ち取って見せよ?」

「えぇい! 黙れ、黙れ! 貴様の様な外道がいるから、私は非業の最期を迎えるに至ったのだ! この極悪人め、今度こそ我が手で殺してくれるっ!」

 勝頼は可笑しそうに嘲笑いながらも、華麗に身を翻した。頭に血が上った憎悪の能面師は、その動きにすっかり翻弄され続けていた。ようやく、手にした舞扇が首筋を掻っ切ったかと思った瞬間、勝頼の姿はみるみるうちに崩れてゆく。風に吹かれて舞う粉雪の様に消え去ってゆく。そして、その中から現れたのは大柄な風貌の人影。不敵な笑みを浮かべながら腕組みするクロの姿であった。

「フフフ……ようやく気付いたか? 我らが築き上げた『偽りの真実』が」

 鏡の中から憎悪の能面師を嘲笑うクロの声が響き渡る。

「き、貴様ら! 私を騙したのか!?」

「残念であったな。だが、もはや、手遅れよの」

 クロは手にした鈴の音色を響かせると、手にした数珠を力強く握り締めた。そのまま真言を唱え始める。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 後に続くように、他のカラス天狗達も一斉に真言を唱え始める。煌々と燃える炎が視界に飛び込む。組み上げられた立派な護摩壇が火の粉を噴き上げていた。クロ達の真言に伴い、炎は次第に勢いを増す。煌々と燃え上がる炎は半ば火柱と化していた。火傷する程の熱気が伝わり皮膚が痺れる感覚をも覚えていた。

「我はお主の得意とする戦術を真似ただけのことよ。相手の心をかき乱し、出来た隙を突く。お主の好む戦術であったな。自らの策に嵌るとは、実に憐れな奴よの」

「お、おのれ……! ああ、力が……力が奪われてゆく……!」

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 クロは数珠を鳴らしながら、なおも真言を唱え続ける。響き渡る真言に呼応するかの如く、憎悪の能面師の体から青白い光が抜け出してゆく。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 真言の勢いに伴い、青白い光も次々と体から抜け出してゆく。

「事を急ぎ過ぎたな。永き時間を掛けて慎重に築き上げてきた過程を、最後の最後で焦ったことが敗因よの」

 憎悪に満ちた怒りを浮かべながら憎悪の能面師は崩れ落ちた。クロは無表情のまま六角棒を突きつける。

「情鬼はその存在自体が悪。生まれたその瞬間から死を望まれる存在であることは、お主自身が良く心得ているはず。所詮、無駄な足掻きでしか無かったということよの。さて……憎悪の能面師よ、お主は償えぬ程の罪を犯した。行く末は覚悟出来ておるな?」

 他者を欺き、時に操り、自らの意のままに振舞わせることには長けているのだろう。だが、自らは戦う力を持たない。憎悪の能面師の存在は実に因果な存在だといえる。自らの姿を隠し、誰かを行使して戦う分には恐ろしい相手ではあるが、自らが矢面に引き摺り出された時には無力となる。

「憎悪の能面師よ……実に見事な振る舞いで我らを翻弄してくれたが、一瞬の隙が全てを台無しにしたな。さて……別れの時ぞ」

 クロは再び真言を唱え始めた。周囲に佇むカラス天狗達も一斉に後に続く。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク! オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク!」

 クロが、周囲に佇むカラス天狗達が一斉に真言を唱え始めた瞬間、異変が起きた。唐突に空気が変わる。どこからか異様な冷気を帯びた霧が出始める。それに呼応するかの様に宇治川の流れから、次々と青白い光が浮かび上がる。次々と浮かび上がった無数の青白い光は、周囲の木々に次々と降り立つ。やがて集った青白い光は、一斉に燃え上がると、冷たい色合いを放つ炎へと姿を変える。周囲は辺り一面を凍えさせようとする青い炎に包み込まれていた。

(一体何が起きているというのだ?)

 青い炎の中に見覚えのある景色が浮かび上がる。そこは鞍馬の街並みであった。前も見えない程に強い雨の降り頻る中、人々が妙な舞を振舞っている様が見えた。

(いや、これは舞では無い?)

 それは舞では無かった。降り注ぐ雨の中、皆一様に胸元を押さえながら呻き声を挙げていた。一体何が起きているのか理解不能な光景であった。だが、皆一様に胸元を押さえながら呻き声を挙げていた。やがて次々と人々が倒れてゆく。口からは夥しい血を吐き出しながら。壮絶な光景であった。何が起きたのかは理解出来なかったが、次々と人々が倒れてゆく。

「憎悪の能面師の放った呪いにより、命を落とした鞍馬の人々の無念よの」

 何時の間にかクロは俺の傍らに佇み、腕組みしながら静かに成り行きを見守っていた。

「どういうことだ?」

「憎悪の能面師は呪いを放った。雨の降る晩に降り注ぐ雨が無数の針となりて、心臓に突き刺さるという呪いをな? 浮かばれぬ者達が共に馳せ参じたのであろう」

 再び目線を人々に投げ掛ければ、皆何時の間にか能面をつけていた。死んだ者達の血を吸った能面達は血に塗れ、月明かりの中で赤々と妖しく輝いていた。

「この能面達が……」

「うむ。鞍馬での一連の騒動を起こした張本人よの」

 カラス天狗達はまるで動じる様子も無く淡々と真言を唱え続けていた。周囲に染み渡る真言の声に伴い人々は再び青白い光へと変わってゆく。やがて、ゆっくりと天を目指して舞い上がってゆこうとしていた。その様子を見つめながらクロは可笑しそうに笑っていた。

「愚かな……救いが与えられるとでも思ったか? お主らは皆、罪を犯したがために呪い殺された身。よもや自らが犯した罪を忘れたとは申さぬであろうな? 因果応報……自らが撒いた災禍の結果、その身で受け止めるが良い!」

 皆に加わり、クロは再び真言を唱え始めた。カラス天狗達の力強い声が周囲に染み渡ってゆく。その声に伴い、ゆっくりと浮上していた青白い光達が次々と地面へと向かい落ちて行く。青白い光は再び人の姿を取り戻していた。皆凄まじい形相を浮かべながら、地面へと引き摺り込まれていった。さながら抜け出すことの出来ない底無し沼に陥ってしまったかのように。最期まで天を仰ぎながら、手だけになっても必死で抵抗する者達の姿はただただ見苦しいだけであった。

 そして最後まで残ったのは、やはり憎悪の能面師であった。地面に倒れ込んだまま、肩を小さく震わせながら息をしている様子が見て取れた。

「せ、折角手にした再びの命! ああ、何故だ!? 何故、助けて下さらぬか!? 私は貴方様の言葉に従い此処まで振舞ったと言うのに! お……おのれ! く、口惜しや! この恨み、決して忘れはせぬ!」

 なおも憎悪の能面師は鬼の顔を見せ付けていた。もはや、力は殆ど残されていないのだろう。それでも永き時を掛けて敷き詰めてきた物を、他者の手により壊されるのは許せないのだろう。最期の瞬間まで煌々と燃え盛るような憎悪を抱き続けられる執念。その執念の深さに驚かされる。だが、青白い光は抜け出し続ける。それに伴い憎悪の能面師の姿も次第に薄くなってゆく。

 随分と振り回してくれたが物事の顛末という物は意外に呆気ないものなのか。舞い散る桜吹雪の中、クロは尚も真言を唱え続けていた。

「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」

 やがて、ゆっくりと、ゆっくりと……憎悪の能面師の姿は消えていった。何もかもが終わったのだろう。一連の騒動が幕を下した瞬間であった。一瞬の安堵……だが、唐突に視界が揺らぐ。

(な、何だ……立っていられない程の、眩暈が……!)

「何処までも往生際の悪い奴め……コタを強引に情鬼に貶める気か!? 皆よ、急ぎ、護摩炊き供養の儀を取り仕切るぞ!」

 本当に執念深い奴だ……何処まで、俺達を苦しめれば気が済むのか。俺は薄れ往く意識の中で、そんなことを考えていたような気がする。

◆◆◆59◆◆◆

「なぜ人を殺してはいけない?」

 夕日に照らし出された教室は燃え上がる炎の様に一面の赤。机も、黒板も、それから立ち尽くす生徒たちも皆、例外なく赤々と萌えていた。俺は鴨川卓に馬乗りになり首を絞めていた。

「下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、寄り道せずに帰りましょう」

 妙に間延びした口調の下校放送が流れる。微かに放送に混じる笑い声が酷く場違いに思えた。時の流れは残酷だ。今、この教室をたゆたう時の運行は完全に凍結した。皆、石像のように硬直している。そこは何の音も無い渇き切った空間と化していた。そこには笑いなどは在り得ない。一触即発の緊張感。皆の視線が一斉に俺に集まる。銀行強盗の心境……体験したことは無いが、何故かそんな気がしていた。

「もう一度問う。なぜ人を殺してはいけない?」

 俺は再び問い掛けた。松尾は酷く狼狽した素振りを見せながら、俺の目線と合せることを畏れているようにさえ思えた。だからこそ目は逸らさせない。逃がしはしない。納得できる返答を返して貰うまでは。

「は……離せよっ……い、息が……」

 必死でもがく卓の爪が、さながら巨岩を侵食する雨垂れの如く俺の腕にゆっくりと食い込む。皮膚が切り裂かれる微かな感覚。ゆっくりと、滲んだ血が流れ落ちるのが見えた。痛みは感じなかった。ただ俺の怒りの炎に油を投入しただけに終わった。苛立ちついでに俺はさらに力を篭め、その首を締め上げた。ゆっくりと卓の首に俺の指が食い込む。柔らかな感触。じっとりと滲む汗。頚動脈の脈拍が次第に緩慢になるのが伝わって来る。涙と涎、ついでに鼻血まで垂らしながら卓は嗚咽していた。汚らしい顔だ。さっさと死ね。

「こ、殺してしまったら、もう、嫌いだってことも伝えられなくなってしまうのよ?」

 震える手で眼鏡を押し上げる松尾。ついでに裏返った口調で、何とか放った言葉。無駄なことを……生きていることで苦しみ続ける者も存在するのだ。武司さんが教えてくれた真実。中には自らの手で、自らの物語を終わらせることの出来ない者もいるだろう。だから、俺は手を差し伸べてくれてやっているのだ。『救済』を妨害するとは、愚かな。

「……コイツには生きる価値など無い。生まれてきたこと事態が間違いだった。だから、裁きを下す。正しい道へと救済するためにな?」

「な、何てことを……自分がやっていることが判っているの!?」

「救済だ。……松尾、お前にも救済を与えてくれようか?」

 引きつった表情のまま松尾は崩れ落ちた。情け無い奴め。己の想いも貫き通せないような弱者如きが俺に意見するなど笑止千万。

「さて、卓……今度こそ、引導を下してやる!」

「や、止めろ……」

「はあ? 『止めろ』だと?」

「や、止めて……止めてくだ、さい……ぐっ……ああ……」

 一人、一人の動揺し切った吐息も、震える膝の音も、張り裂けそうな鼓動さえも聞こえる程に教室は静寂に満ちていた。永遠とも呼べる程の沈黙。それでも俺は手を緩めるつもりは無かった。本気で殺すつもりだったから。本気で救済をくれてやるつもりだったから。

 いよいよ卓は体が小刻みに痙攣し始めていた。瞳孔が揺らぎ、白目を剥き始める。俺の手に突き刺さる爪からもゆっくりと力が失われてゆく。それでもなお卓は必死の抵抗を見せる。時折、思い出したかのように力を篭めていた。生への執着か? そんなものお前には無用の長物だ。万物を繋げる摂理から断ち切ってくれよう。

「無駄な抵抗は止せ。俺はお前を殺す……もう、後戻りするつもりもない。悪いな」

 俺は力一杯、卓の目に拳を叩き付けた。親指を突き出し、眼球を狙い力一杯殴り付けた。コリっとした感触。眼球が歪む感触を拳に感じていた。拳に感じられる生温かい涙が不快で、酷く苛立った。

「うわあああーーっ! ああっ……痛ぇ、痛ぇよっ!」

 卓の悲鳴に皆が目を背ける。耳を塞いだまま座り込む女子生徒の姿も見られた。

「汚らわしい……まだ生に執着するのか? さっさと諦めろ。せいぜい懺悔しろ」

 悲痛ぶった悲鳴に苛立った。だから股間にも肘鉄をめり込ませた。深く、深く。一瞬、激しく痙攣したが、卓は体中に電気が駆け巡ったかのように痙攣すると、静かに崩れ落ちた。頬から大粒の涙が零れ落ち、空振ったような呼吸が笛の様な音を響かせた。ついでに広がる水溜り。どうやら失禁したらしい。

「あ……あぐっ……あ……ああ……」

「汗も臭ければ、小便まで垂れるとはな……実に惨めだな」

 夕日に照らし出された教室は、誰も彼も皆真っ赤に萌え上がっていた。何もかもが燃え盛る炎のように煌々と赤く染まっていた光景。言葉を失う級友達。立ち尽くす無能教師。口から涎を垂らしながら小さく痙攣する卓。汗と小便の不快な臭気。馬乗りになった俺。そして永遠とも思える程の沈黙。俺は力一杯、手に力を篭めた。断続的な鈍い感触が伝わる。もしかしたら首の骨が折れたのかも知れない。それならそれで話は早い。楽に死ねるならその方が良いだろう? 万力の如く締め上げる。信じられないくらいの力が沸き上がる。ゆっくりと、脈拍が緩慢になってゆく。次の瞬間、卓の手から一気に力が抜けた。ガクンと落ちる首。口からは血の混じった涎が零れ落ちた。一粒の涙。そして、その光景を見届けた松尾が悲鳴を挙げる。

「ひ……人殺し……人殺しっ!」

 いちいち騒々しい奴だ。喚くな。騒ぐな。殺したのだから死ぬのは当たり前だ。馬鹿か。お前は?

「クックック……四条小太郎よ、これがお前の真実よ」

 死んだ筈の卓が不気味な声で笑う。糸の様に細い眼。耳まで釣り上がった口。その異様な表情は、まさしく憎悪の能面師であった。

「お前は人を殺めた。判るか? お前も『情鬼』に成り果てるのだ。時間の問題だ……フフ、あのカラス天狗も人を見定める力が無い。情鬼になるであろう存在と共に歩むことを願うとはな」

「黙れ……」

 卓はなおも声を張り上げて笑い続けた。耳障りな甲高い笑い声が響き渡る。

「必死で自分自身の罪に被せ物をして、自分は違う。自分だけは違う。強引に価値観を捻じ曲げようとしても無駄なこと。お前は情鬼になるのだ。私と同じだ。お前も情鬼に……ぐぶっ!」

 何時の間にか俺の手には六角棒が握られていた。

 抑え切れなかった……燃え上がる様な怒りの感情を。憎悪の感情を。殺意を! 気が付くと俺は六角棒で、卓の頭を力一杯殴っていた。グシャっという骨が砕ける嫌な感覚が手に伝わる。飛び散る血と柔らかな破片。頬に付着したヌルっとした感触の「何か」を感じていた。恐る恐る手で拭い取ってみれば、それは何かの肉片が混じった卓の返り血であった。

「人殺しーーっ!」

 誰かが悲鳴を挙げた。誰かが教室から慌てて飛び出した。誰かが、我先にと逃げようとして、他の生徒を壁に押し付けた。力一杯。悲鳴。叫び声。嗚咽。萌え上がる様な夕日に照らし出された、静かな教室はパニックに陥っていた。

 あまりの恐怖からか、気が動転して窓から逃げ出そうとする生徒もいた。それを慌てて阻止する生徒もいた。

(何だよ……これじゃあ、俺は、まるで……)

「情鬼だろ? お前自身が一番良く判っているはずだろう?」

 卓が起き上がった。割れた額から酷く血を垂れ流しながら、不気味な笑みを浮かべていた。

「お前は情鬼になったんだよ。カラス天狗一族の……いや、人の敵にな! もう、輝はお前のところには戻って来ないさ。何しろお前は正真正銘の『鬼』になったのだからな! あーっはっはっは!」

 気が狂いそうだった。どうすれば良い? ああ、そうか……余計なことを口外される前に、証人を皆殺しにすれば良い。死人には口は無い。何て俺は賢いのだろうか。皆、殺してしまえばいい。そうと決まれば、まずは――。

◆◆◆60◆◆◆

 酷い痛みを感じて俺は飛び起きた。光の無い、暗い場所。川の流れる音色が聞こえてくる。

「コタ! ああ、良かった……ようやく気が付いてくれたよ」

(輝? それじゃあ、此処は?)

 事態が呑み込めなかった。周囲を見渡す。恐らく此処は中ノ島なのだろう。つまりは宇治……憎悪の能面師は消え失せたのだろうか? クロの姿も、大勢のカラス天狗達の姿も無かった。

「輝……怪我は無いか?」

 俺は慌てて輝の肩を掴んだ。

「え? 嫌だなぁ。ぼくのことよりも、自分のことを心配してよー」

 動揺した俺を後目に輝は困ったような笑みを浮かべていた。

 現実と虚構とを行ったり来たりしたお陰で、何が何だか意味が判らなくなっていた。

「天神さんで、変な奴に能面を被せられた所まではハッキリ覚えていてね」

 小さな溜め息混じりに輝が口を開く。宇治川に目線を投げ掛けながら。遠く、暗闇の中で月明かりを反射しながら宇治川はキラキラと光を放っていた。

「ぼく……コタに酷いことをしちゃったよね。体がね、勝手に動いて……凄く、怖かったよ」

 目に一杯の涙を称えながらも、輝は精一杯の笑みを浮かべていた。見られたくなかったのだろう。こちらを向くこと無く、夜空に浮かぶ月を見上げながら輝は笑っていた。

「もう……終わった。もう、何もかもが終わった」

「え?」

「余計な詮索はするな……兄貴からの命令だ。判ったな?」

「で、でも……」

「……返事はどうした?」

「う、うん。コタがそういうなら余計な詮索はしないよ」

「ああ。それでいい」

 余計な詮索はされたくなかった。余計なことを話したくなかった。受け入れられなかったから……幻の中でのこととは言え、思い出すと途方も無く恐ろしくなる。何の迷いも、ためらいも無く……卓を殺せた自分の姿が。自覚していたとは言え、あれ程までに鮮明に見せ付けられると否定出来なくなる。俺も……憎悪の能面師のように成り果ててしまうのだろうか? 怖くて、怖くて仕方が無かった。

「うーん」

「どうした? どこか痛むのか?」

「えへへ。お腹空いちゃったよねー。でも、この時間でしょう? 何食べようかなーって思ってね」

 やはり輝は輝のままが一番だ。唐突に力が抜けるような発言も輝らしくて安心出来る。

「そうだな。帰り道の途中で適当に食って帰ろう」

「それもそうだねぇ」

 嬉しそうに笑いながらも、輝は不意に自らの身に降り掛かった異変に気付いた様子であった。

「アレ? 何か……あちこち濡れているけど、どうしてだろう?」

「さてな。暑さにやられて、宇治川にでも飛び込んだのでは無いか?」

「えぇー!? いくらなんでもそんな訳無いって……思いたいけれど、自信が無いなぁ」

「何だって良いじゃないか? ほら、置いていくぞ」

「あ、アレ? ちょ、ちょっと、こんな暗い所に置き去りにしないでよー!」

 世の中には理解不能なことが本当にたくさんある。自分自身の心の内にすら見知らぬ場所が存在している。恐らく、まだまだ見知らぬことなど無数に存在しているのだろう。俺は輝と共に歩みながら周囲の景色を眺めていた。やがて細い道を抜ければ宇治駅へと到達する。

 ようやく戻って来た宇治駅。無事に帰還できたことに安堵感を覚えていた。

(クロ、お前のお陰で輝を救い出すことが出来た。感謝する)

 宇治駅の石造りの壁と黄色い明かり。コバルトブルーの看板を眺めながら、そんなことを考えていた。

◆◆◆61◆◆◆

 その日の夜、俺は再びクロと共に大原を訪れていた。悠久の時の流れを見続けてきた三千院。水気を称える苔に包まれた庭園を歩いていた。

「……なるほどな。そのようなことが起こっていたとはの」

「ああ。最期の最期まで嫌な終わり方をしてくれる奴だった」

 憎悪の能面師に投げ掛けられた言葉が脳裏を過ぎる。俺が情鬼になるのも時間の問題だという言葉が妙に引っ掛かっていた。大きな木の幹に手を宛てながらクロが静かに振り返る。

「ふむ。程度の差こそあれど、心に怒りや憎しみを持たぬ人など存在せぬ。つまりは……いかなる聖人君子であろうとも情鬼になる可能性は秘めておる。所詮、奴の死に際の負け惜しみに過ぎぬ」

 本当にそうなのだろうか? 考え過ぎればさらに迷いは深まる。その結果、情鬼に成り果てる可能性は高まってしまうのかも知れない。そうか……死に際の負け惜しみに過ぎないということか。他者を逆恨みするような奴のいうことに、耳を貸す必要など無いということだろう。

 俺達は再び庭園を歩き出す。三千院は深い木々に包まれた心落ち着く場所だ。木々の緑に、水気を孕んだ香り。穏やかな気持ちになれる場所だ。特にこの季節は紫陽花が見頃を迎える。紫陽花の華やかな青い色に心も休まる。

「しかし、奇異なこともあるものよ」

 不意にクロが足を止める。

「憎悪の能面師……手強い相手であった。あれ程までに強い力を持つ情鬼は、初めて相手にした」

「ああ、確かに恐ろしい相手だったな……」

「うむ。だが、解せないのはその部分だけでは無い。古き時代を生きたはずの憎悪の能面師が……何故、この時代になって現れたか? あれ程の力を持つ情鬼を我らが見過ごす訳が無い。討ち取れなかったのでは無く、その存在すら知らなかったのだ。実に奇異なことよ……」

 考えてみれば確かにそうだ。あれ程までに大々的に周囲を巻き込む力を持つ情鬼が目立たない訳が無い。クロの言う通りだとすれば、既に討ち取られていて然るべき相手のはず。それが今の時代になるまで気付かれないというのは確かに奇異な話だ。

「憎悪の能面師が誕生したのは、恐らくは遥か昔のこと……」

 クロは再び歩み出す。そっと空を見上げながら呟いた一言に驚かされた。

「……何者かが暗躍している。そんな気がしてならぬ」

 暗躍する何者かの存在……俺達が考えて居るよりも、事態は遥かに根深いのであろうか? 不安に駆られた俺の心をさらに後押しするかの如く、クロは言葉を続ける。

「覚えておるか? 憎悪の能面師が最期に放った言葉を。『再び得た命』……それに、『貴方様』という言葉……我の中でずっと引っ掛かっておる」

 そうだ。不意に思い出せた記憶が脳裏を過ぎる。あの時見せられた、謎の情景……身を震わす程の振動。頬を撫でる水気を孕んだ冷たい空気。滝。四方を滝に囲まれた見覚えの無い本堂。赤と金に彩られた色彩鮮やかな寺院。荘厳なる黄金の大日如来像が静かに佇む場所。滝が流れ落ちる轟音。鈴が鳴り響くこの世とは思えぬ幻想的なる場所。

『自らが犯した罪から目を背け、逃げ続けた者……だが、我が目に留まった以上は逃しやせぬ』 耳元で囁く声が聞こえる。見下す様な、嘲笑するかの様な、不愉快な含みを帯びた声。

『さぁ、忌まわしき過去との邂逅の時よ……』

 そっと伸ばされた大きな手。俺の頬を撫でる濡れた手は氷の様に冷たかった。

「青い僧衣に身を包んだ者、とな?」

「ああ。青白く輝くほたるを従えた奴だ。心当たりは無いか?」

 クロは険しい表情を浮かべたまま、考え込んでいた。

「ふむ……心当たりの無い相手よの。一体何者であろうか? 話を聞く限り実に禍々しい気配を感じるが」

 幾つもの謎だけが残された。判っていた……。これは全ての始まりなのだと。鶴の恩返しと一緒だ。知らなければ平和に生きられたかも知れないが、知ってしまった以上、もはや後戻りは出来ない。前へ突き進むしか無いのだ。

「憎悪の能面師……一体何が望みだったのだろうか?」

 静かに風が吹きぬけ、木々の葉が涼やかな音色を奏でるのが聞こえた。

 クロは腕組みしながら、しばし考え込んでいた。険しい表情を見せていた。心配には及ばない。俺は今更退く気も無ければ、驚かないだけの覚悟は出来ているつもりだ。知らなければならない……そんな使命感さえ覚えていた。俺の想いを理解したのか、クロはしっかりと俺の目を見つめながら話し出した。

「憎悪の能面師は自らと良く似た境遇を歩んだコタに共感を覚えていたように思える。孤立無援……孤独の寂しさに耐えかね、あの者は誰かの温もりを求めておった。丑の刻参りという忌まわしき儀式がコタと憎悪の能面師を繋いでしまったのであろう。だが、コタは憎悪の能面師を受け入れることは出来なかった。故に、力づくでも情鬼に仕立て上げようとしたのであろう」

 今になって振り返って見れば憎悪の能面師の行動の数々が意味する真実が判る気がする。

 鞍馬に俺達を導いたのも、俺だけを逃げさせたのも、全ては仕組まれたことだったのかも知れない。その後も直接手を下さずに、心を揺さぶるような攻撃を仕掛け続けてきたことも。輝を操り、俺に衝撃的な光景を見せつけたのも、全ては奴の狙いだったということか? どこまでもおぞましい奴だ……だが、奴の思惑通り、俺は情鬼に成り果てる寸前まで追い詰められていた。実に恐ろしいことだ。

 ここで新たな疑問が浮上した。憎悪の能面師……孤立無援に陥ったのは一体何故なのだろうか? それに、あの勝頼という青年に対する異常なまでの殺意……奴が情鬼に成るに至った真実は、間違いなく、過去の一時点に存在している筈だ。

「ふむ。それは憎悪の能面師本人の記憶を手繰り寄せるのが良かろう」

 俺が何を考えているのか理解したのか、クロは懐から小面の能面を取り出して見せた。思わず目を背けたくなる能面であった。その表面には赤黒い染みが流れ落ちるように走り回っていた。明らかに人の血であろう。一体この能面にはどのような憎悪が篭められているのだろうか? 深淵なる心の闇を覗くことにためらいはあった。自分の心ならば、まだ納得出来るかも知れない。だが、あれ程までに化け物染みた心を持つに至る相手の内面……知らない方が良いことであろう。だが、俺はどうしようもなく愚かな奴なのだろう。それでもなお知りたいと願ってしまった。そんな愚か過ぎる俺の心を察したのか、クロはそっと目を伏せると静かに真言を唱え始めた。

◆◆◆62◆◆◆

 不意に周囲の空気が変わる。冷たい風が吹きぬける。続けて桜の花が舞う。それは春。それは宵の宴。桜の花に囲まれた草原。月明かりの下、桜吹雪を身に纏いながら俺は舞っていた。どうやら憎悪の能面師……いや、道雪の目線から情景を見ている様に思えた。今宵の道雪の着物は白一色。桜の花を立たせるために敢えて地味な色合いの着物を選んだのだろう。何もかも忘れて、道雪は一心に舞を振舞い続けていた。

 判っている……この想いは決して届く訳が無いこと位。天と地が引っくり返ってもあり得ない出来事。届くことの無い想いと知りながらも、胸を焦がす熱情を抑えることなど出来る訳が無い。

 視界の中心に佇むは……凛々しい顔立ちの勝頼の表情。

(これは一体何を意味しているのか? 勝頼に舞を披露しているというのだろうか?)

 そこまで考えて、微かにではあるが道雪の心を理解した気がする。

(道雪は勝頼に……想いを寄せていたのだろうか?)

 頭で割り切るのと体で理解するのとは似て非なる物。幾ら理性で理解しようと試みても、本能に抗うことは容易いことでは無い。ましてや誰かを想う気持ちを抑えることは、極めて難しいだろう。その願いが届かないことを知りながらも道雪は舞い続けていた。何時間も……いや、下手をすれば、何日も舞い続けていたのかも知れない。それ程までに道雪は、その熱い想いに駆り立てられていたのだろう。

(誰かを慕う想い……それが困難な物であればあるほどに燃え上がる。その気持ち、理解出来なくも無い)

 不意に場面が変わる。どこかの工房を思わせる小部屋であった。道雪は能面を片手に様々な角度から覗き込んでいる。真剣な表情であった。

(そうか。舞を披露する者であるならば「能活師」といった呼び名が付くのが通例であるのにも関わらず、「能面師」という呼び名は奇異に思えたが……なるほど。道雪は確かに、能面を創る者……つまりは「能面師」であったということか)

 此処は何処なのだろうか? 目の前にそびえる雄大な山は鞍馬山か? ということは、ここは鞍馬ということか。道雪は鞍馬に暮らしていた身ということか……だからこそ俺達が最初に出くわした場所も鞍馬ということか。一つ謎が解けた気がする。

「ようやく出来上がった……私の魂を篭めて創り上げた面。この面ならば、ようやく私の想いを表現することが出来そうだ」

 子供の様に無邪気な笑みを浮かべる道雪の表情を見ていると、とても、憎悪に満ちあふれた姿とは繋がらなかった。だけど、人は見掛けに寄らないこともある。豪快で陽気な錦おばさんの心には、あふれ出しそうな程の憎しみが渦巻いていた。人の腹の内など他人には判らないということだろう。

「道雪さん、いるかい?」

「ああ、田丸さん。えっと、運んできて貰った木材は……」

「いつものように、倉庫に入れておいたよ」

「ああ、お気遣いありがとうございます」

「一応玄関先で声は掛けたんだけどね、返事が無かったから勝手に上がらせて貰ったよ」

 田丸と呼ばれた人の良さそうな男が歯を見せて笑う。木材ということは恐らくは能面の材料のことを示しているのであろう。いや、もしかしたら風呂を沸かすのに使う木材かも知れないが。

「お。そいつぁ、新しい能面かい? 見事な作品だねぇ」

「ええ、少し前に仕上がりました」

「それにしても能面を創っているうちに、自分でも舞を演じてみたくなった。それで、いざ舞を演じてみれば意外な才能ときたものだ。才能ってぇのは面白いもんだよなぁ」

 田丸は畳に腰掛けながら豪快に笑う。物腰柔らかな振る舞いで道雪は茶を煎れていた。どこか照れ臭そうな笑顔が印象的に思えた。

「私が創る面には魂を篭めているつもりです。能とは自らの心を演じるもの。面は顔そのものですからね」

 茶を口にしながら道雪は微笑んでいた。

「作り手が舞を振舞えたら、その想いも演じやすいのではと考えた。未熟者の浅知恵に過ぎませんよ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、道雪は出来上がったばかりの能面を大事そうに愛でていた。

 その能面は小面の面。若き女性を演じる際に使う面……道雪の想いを描き切るための顔ということか。道雪は慈愛に満ちた穏やかな笑顔を浮かべながら、能面を大事そうに愛でていた。

(判らないな。一体何が引き金となり、道雪が憎悪の能面師に成り果ててしまったのだろうか?)

 場面は切り替わり、何時の間にか夜になっていた。薄暗い工房に篭った道雪は出来上がったばかりの能面を手にしながら、窓から覗く夜空に語り掛けていた。今宵は美しい下弦の月。空虚に掛けた道雪の心を象徴しているように思えた。

「始まりは何時の頃からだったのだろうか?」

 そっと窓に歩み寄る道雪は、哀しそうな笑みを浮かべていた。

「能とは実に奥深いもの……知れば知るほどに、その深淵に気付かされてしまう。いつしか私は自らの舞に呑まれてしまっていたのかも知れない。始めは演じるあまりに役に成り切っていただけだと思っていた……だけど、そうでは無かった」

 道雪の心を共有しているのか、俺の目には道雪が思い描いた情景が映し出されていた。その場所はどこかの舞台であった。春の穏やかな青空の広がる景色。広い舞台。そこは勝頼を含めた多くの者達に演舞を披露する場なのであろう。必死に舞う道雪。だが勝頼は見向きもしない。さも興味等無いと言った振る舞いで冷たく返すばかりであった。

 儚さ故の美しさ。散ってゆく者の儚さを感じさせる哀しみに満ちた舞であった。その悲哀に満ちた舞いは、恐らく俺には到底到達することの出来ない程に優雅で、そして……美しくも哀しみに満ちた舞であった。

「やよいさん。今日いらしていた、あの深緑色の着物をお召しの方をご存知ですか?」

 やよいと呼ばれた物腰豊かな娘が静かに微笑む。

「あの方は勝頼さんよ。茶房の若旦那さんね。ほら、街の北側に大きな、大きなお屋敷があるでしょう? あそこに住んでらっしゃるのよ」

「勝頼さんとおっしゃるのですね」

「ええ。きっと凄いお金持ちなのでしょうね」

 金持ちにはろくな奴がいない……少なくても俺はそう思っている。鴨川卓もまた金持ちの家に生まれた一人息子。何一つ不自由することなく育った奴らは、人の心の痛みを知らない奴が多いのだろうか? いや、違うな……卓は何一つ不自由ではあったが、俺が思うに……あいつは何一つ手に入れることは出来なかったのだろう。憐れな奴だ。

(別に私はお金に興味がある訳では無い……ただ熱心に通ってくれるにも関わらず、冷たい眼差しを向ける。その理由を知りたいだけのこと)

 道雪は貧しい暮らしをしているように思えた。立派なのは工房だけで、住んでいる部屋は隙間風の酷い古びた部屋でしか無かった。自らの信ずる道のためには全てを犠牲にする。だからこそ、あれ程の舞を演じるまでに達することが出来たのだろう。

 貧しいながらも道雪は周囲に恵まれているように思えた。誰に対しても分け隔て無く惜しみない笑顔を振りまく道雪は誰からも慕われ、愛されているように思えた。その人柄の良さを知れば知る程に、俺の理解は遠ざかってゆくばかりであった。だが、気になるのは勝頼という人物だ。

(あいつは気に食わないな。何か腹の内に企てているような気がしてならない。道雪に向けられている眼差しは、悪意で満ちているように思えてならない。あいつが引き金になるのは間違いないだろうな。注意して動向を伺うとしよう)

 再び場面が変わる。大きな桜の大樹の根元。恐らく皆が去った後なのであろう。時間も夜になっていた。道雪は面を外すと、静かに袖を濡らしていた。声を押し殺し、誰にも知られないように、大きな桜の大樹の根元に佇んでいた。

 何度も舞を披露しては、その度に冷遇され続ける。いい加減諦めれば良い物を、それでもなお道雪はさらなる修行を積み、何度も、何度も舞続けた。

 シンシンと冷たい雪の降る冬の日でも、寒さに足が凍傷を起こしても、それでもなお必死で舞い続けた。足の爪が割れ、床に赤い染みを残す様も見て取れた。恐らく足も酷く腫れ上がっているのだろう。遠目に見ても浮腫みが酷い。

(足の腫れが酷いな……あれでは歩くことすら困難だろう。それでもなお、修練を絶やさない……その心意気、もはや鬼気迫る物があるな)

 道雪は狂っているとしか思えない程に舞い続けていた。それこそ命の全てを燃やしてでも舞おうとしているようにさえ思えた。彼は死を求めていたのだろう。舞に生き、舞に死ぬ。恋敗れた今、彼はただ、静かな……安らかな死を追い求めているのだろう。

「私は罪深き身だ……貴方を愛してしまったこと、そのことが既に罪だというのか?」

 道雪は哀しみに満ちた舞を振る舞い続ける。

「ああ、そうさ。どんなに……どんなに美しく着飾っても、私が男であるという事実は変わらない!」

 想いを叩き付けるかのように、道雪は儚い舞を演じていた。

「……どう、足掻いても、その事実は変わることは無いのだ……何故、世はこれ程までに残酷なのか……私は……私は、ただ……」

 冷たく冷え切った舞台の床に雫が零れ落ちる。一粒、また一粒。声も出さずに、誰にも気付かれぬように静かに泣いていた。絹の様に柔らかな着物に爪を付き立てながら、叶うことの無い願いを憐れみ、小さく肩を震わせていた。真っ直ぐな想いが伝わって来るからこそ心が酷く痛む。哀しいまでに純粋な気持ちを持つ能面師の恋心。あの哀しみに満ちた舞の理由を、そこに見た気がする。

◆◆◆63◆◆◆

 涼やかな夏の日。蝉の声が割れんばかりの勢いで響き渡る。周囲を見渡せば、鮮やかに萌える木々の緑に包まれた場所であった。流れる川の音色が涼やかに感じられる場所。見覚えのある風景から考えるに、この場所は貴船のように思えた。

(勝頼様自ら、私に声を掛けてくださるなんて)

 嬉しそうに能の準備をする道雪の姿を見ていた。嫌な予感しかしなかった。道雪も薄々は勘付いていたのでは無かっただろうか? それでもなお信じようとする純粋な心が余計に不安を掻きたてる。川床に築き上げられた舞台。確かに見た目は涼やかな風情に満ちていたが、どう考えても可笑しい。

(ここが舞台だというのか? 馬鹿な……随分と足場が緩いでは無いか。これでは僅かな衝撃でも崩れ落ちてしまう)

 そこまで考えて俺はようやく気付いた。

(そうか……あの勝頼という男、最初からこれが目的だったということか? 何故、こんなことを……こんなことをして、一体何の得があると言うのだ!?)

 舞台に姿を現した道雪もまた、恐らくは異変を感じていたのだろう。どこか落ち着きの無い様子で舞を演じていた。道雪の後ろで笛や太鼓を演ずる者達も不安に満ちた表情を浮かべていた。普通に考えれば、このような場所で能を振舞うことなどは在り得ないのだから。

 何時もは興味無さそうに振舞っている勝頼も、今日は好奇に満ちた眼差しで道雪を見つめていた。酷く口元を歪ませながら、仲間達と共に悪意に満ちた笑みを浮かべていた。間違いなく、何かを企てているのだろう。だが、一体何をしでかすつもりだ? 俺は周囲を見渡してみた。

(舞台を支えている支柱に縄が括り付けられている? 一体何のために……まさか!)

 道雪が舞に集中しているのを見届けた勝頼が、周囲の仲間達に小声で何かを伝える。皆、悪意と好奇に満ちた眼差しを舞台に向ける。その時であった。茂みに潜んでいた者達が、一斉に縄を引いた。激しい音を立てて舞台が崩れ落ちる。悲鳴を挙げる道雪。その様子を見届けながら、勝頼達が一斉に笑い声をあげる。

(何と言うことを……こいつら最低だ! 道雪が一体何をしたというのだ!?)

 殴ってやりたかった。目の前にいる外道共を許せなかった。だが、惨事はまだ終わってはいなかった。唐突に道雪の悲鳴が聞こえてきた。

「だ、誰か! 助けてくれ! わ、私は泳げないんだ!」

 声のしたほうに俺は急ぎ駆け寄った。上流で雨でも降ったのか、川の水量が大幅に増えていた。泳げない身である上に、能の衣装を身に纏った状態ではなおのこと身動きは取れない。衣装は水を吸って重みを増し、重石の様になってしまっているだろう。

「あっはっは! ざまぁ無いな、道雪!」

「誰か! 誰か、助けてくれ!」

 勝頼も、仲間達も、誰一人として動こうとはしなかった。それどころか溺れそうになる道雪を見下しながら声を張り上げて嘲笑っていた。必死で助けを求める道雪。嘲笑う勝頼達。俺には理解出来なかった。何がそんなに可笑しいのか、何故そんなことをしたのか、何もかもが。在り得ない光景であった。

「……お前、気持ち悪いんだよ」

 棄て台詞の様に勝頼が放った一言。その一言に全ての真実が篭められていたような気がして、俺は怒りすら消えてしまった。あまりにも理解出来ない感情を、無理に理解しようとしても、理解出来る訳が無い。こいつの心など理解できる訳も無いし、理解したくもなかった……。

◆◆◆64◆◆◆

 どれほど流されたのだろうか? 必死の想いで岸に這い上がった道雪は激しく咳き込んでいた。咳き込みながら嗚咽していた。水を吐き出しながら涙も流していた。

(どうして……どうしてこんなことに……)

 誰かが歩み寄る音が聞こえる。そっと顔を挙げれば、そこには勝頼の姿があった。にやにや笑いながら道雪を見下していた。

「どうして……どうして、こんなことを!」

 道雪が怒りに満ちた声をぶつける。だが、勝頼は相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、道雪を見下すばかりであった。

「勘違いして俺に気を持ちやがって……お前みたいな奴に興味を持たれるなんて、それだけでも気持ちが悪いんだ。だから、お前を奈落の底に突き落としてやろうと思ってな」

「そ、そんな……」

「まったく……何の疑いも無く現れるなんて、何処までおめでたい奴なんだ!」

 溺れてもなお大事そうに抱えていた小面の能面を、勝頼は乱暴に奪い取った。

「何をする!? それは私の大切な物なのだ! 返してくれ!」

 道雪の悲痛な叫び声を聞きながら、勝頼は鼻で笑った。

「貧乏人の分際でいい気になるな」

「私はいい気になどなっていない! 勝頼殿はお家柄も恵まれているであろうし、私よりも遥かに幸せを手にしているのでは無いのか!?」

 道雪の言葉を受けた瞬間、勝頼の表情が唐突に険しくなる。憎悪に満ちた眼差しで道雪を睨み付けると、乱暴に胸倉を掴んだ。

「俺が幸せだと? そんなことあるものか! どいつもこいつも俺の金だけが目当てなんだ! 言い寄って来る女達は皆、俺自身では無く、俺の財産目当てだ! どうせ、こいつらだって、俺の財産が目当てでヘコへコしているだけだろう。俺は……俺は幸せなんかじゃない!」

 勝頼は凄みの利いた眼差しで周囲の仲間達をも睨み付けていた。皆、動揺した表情で後ずさりするのを見ると、勝頼の言葉通りなのだろう。

(何て憐れな奴だ……だが、同情することは出来ない)

「私とて何もせずに今の地位を手にした訳では無い! 血の滲むような努力をして、此処まで這い上がってきたのだ! 人にとやかく言われる筋合いは無い!」

 怒りに満ちた道雪の表情は深い哀しみに満ちていた。こんな展開を望んでなんかいなかっただろうし、自らの在り方を否定されようとも思っていなかったのだろう。哀しいまでに晴れ渡る空模様であった。だが、道雪の心の中には冷たい雨が降っていたことだろう。

「努力? くだらないな……所詮はただの能面師に過ぎないくせに。舞を披露する? こんな薄気味悪い能面に何が出来る? 腹も膨らまなければ、金にもならない」

「それでも私の大事な宝物なのだ! さぁ、返してくれ!」

 必死で懇願する道雪の言葉を受けながら、何かを思いついたのか勝頼は乱暴に能面を放り投げた。

「うるせぇな。ほれ、返してやるよ!」

 慌てて手を伸ばそうとする道雪。悪意に満ちた笑みを浮かべると、勝頼はその手を蹴り上げた。次の瞬間、道雪の手から零れ落ちた能面を力一杯踏み付けた。

「ああ! な、何ということを!」

 能面は乾いた音を立てて粉々に砕け散った。

「あははははは! こんな気色悪い面、どうなったって構わないじゃ無いか? こんな木の欠片には何も出来やしないのだろう?」

 道雪は俯いたまま小さく肩を震わせていた。果てしない怒りと哀しみ。周囲の音が完全に消え失せる程の殺気を感じていた。ゆっくりと顔を挙げた道雪は、何時の間にか般若の面をつけていた。

「次の満月の晩、夜半過ぎから雨が降る。私の涙が数え切れない程の雨となり、数え切れない程の針となり、貴方の心臓に突き刺さるだろう!」

 ゆっくりと立ち上がると道雪は舞った。ずぶ濡れになった衣装とは思えないほどに軽やかな動きで。だが、その舞は禍々しい殺気に満ちていた。唐突に空が暗転する。次の瞬間、雨が降り始めた。激しく轟く雷鳴。それでもなお道雪は舞を止めなかった。何かに憑かれたかの様に、ひたすらに舞い続けていた。唐突に雨は叩き付けるかのように様相を変貌させる。叩き付ける様な雨の中でも、それでもなお道雪は怯むことなく舞を振舞い続けていた。何かに突き動かされるかの様に、ただ一心に振舞い続ける舞。そこに篭められた確かな「想い」を、ひとつずつ織り込むかの様に。

「お、おい……何かおかしいぞ」

「ちょっと、やばいんじゃないの? あたしらも逃げようよ」

 勝頼の仲間達が口々に恐怖を口にする。勝頼は蛇に睨まれた蛙の様に身動きが取れなくなっていた。

「お、おい……お前ら、俺を置いていくなよ……」

 次の瞬間、空が光ったかと思ったのと同時に落雷が巻き起こった。地響きの様な轟音が響き渡る。皆一斉に逃げ出した。

「お、おい! お、俺を置いて行くなよ!」

 目の前ではなおも、狂ったように舞い続ける道雪の姿だけが残されていた。

「う、うわあああっ!」

 勝頼が悲鳴をあげながら逃げ去ってゆくのが見えた。

 ふと振り返れば、なおも道雪は憎しみに満ちた舞を振るまっていた。だが、勝頼の姿がすっかり見えなくなると、静かに崩れ落ちた。

「どうして……どうしてこんなことになってしまったのだろうか? 私は夢を見てはならないのか? 貧しい者は……報われてはならないというのか? 裕福な者達の慰み者でなければならないのか? そんなの……そんなの間違えている!」

◆◆◆65◆◆◆

 場面は変わり、道雪は工房へと向かい力無く歩んでいた。街はいつもと変わらぬ賑わいを見せていた。夜の街並みは酔客達であふれ返っていた。人々の笑い声がそこら中から聞こえてくる。提灯の赤い色が良く映えた街並み。ずぶ濡れになった道雪は、人目を避けるように裏道を歩んでいた。

(こんな惨めな姿を見られれば、皆に要らぬ心配を掛けてしまう。私の中だけで食い止めなくては……)

「あれ? 道雪さんじゃないか?」

 不意に背後から声を掛けられて振り返れば、そこには田丸が佇んでいた。ずぶ濡れになった道雪を見て驚いたような顔をしていた。だが、不意に表情が険しくなる。蔑むような、見下す様な眼差しで道雪を見つめていた。

「あんた……大変なことをしてくれたねぇ」

「ど、どういうことですか?」

 田丸の声に気付いたのか、酒場から人々が次々と顔を覗かせる。道雪の姿に気付くと、皆一斉に顔をしかめる。嫌な者を見てしまったような、嫌悪感に満ちた表情であった。一体何が起きたのか道雪には理解出来なかったことだろう。

(一体どうなっているというのか? まさか……勝頼が何か仕掛けたのか?)

「貧しい暮らしを送っているのはみんな、同じさ。だからと言って、人の道を踏み外すような真似をするとはねぇ……あんたのこと信じていただけに残念な気持ちだよ」

「な、何を仰っているのか、私にはさっぱり判らないのですが……」

 動揺した表情を見せる道雪を見つめる人々が顔を寄せ合いながらヒソヒソと小声で話す。

 何を言っているかは鮮明には聞こえないが、悪意に満ちた言葉が聞こえてくる。田丸は小さく溜め息をつくと、そっと道雪の肩を叩いた。

「街中で持ち切りになっているよ? 勝頼さん、あんたに乱暴されたそうじゃないか……しかも、金を巻き上げようとしただけでは無く、勝頼さんに……これ以上、言わせないでくれよ」

(違う! 私はそんなことはしていない! どうして……どうして、こんなにも酷い仕打ちを受けなければならない……私は何も悪いことをしていないというのに……)

「良い人だと思っていたのにねぇ。人は見掛けに寄らないものだねぇ」

「何でも毒を以って、体の自由を奪ってから強姦しようとしたらしいぜ?」

(わ、私が……勝頼殿を……強姦しようとしただと!?)

「いや、気持ち悪い。こっちを見ているわぁ」

「此処にはもう、住めねぇだろうな。お気の毒に……」

 馬鹿な……あの男、何処まで腐っているのだろうか。ありもしない話を面白可笑しく吹聴して回ったのだろう。道雪が一体何をしたというのだ!? お前に何か危害を加えたか!? いや……違うのだろうな。あの男は勝手に道雪に恨みを抱いている。嫉妬……自らは何もしていないクセに、必死で自らの生きる場所を手にした道雪に一方的に嫉妬の念を抱き、そして陥れた。そんなに楽しいか? 一生懸命生きている奴を陥れることが、そんなにも楽しいのか!? もはや誤解であることを説明できたとしても、道雪の運命は暗く閉ざされた物になるだろう。何しろ、人は他人の不幸を何よりもの幸福と考える生き物だからだ。

 俺と同じだ……道雪も俺と同じように、力ある者に陥れられたのだな。卑怯だ! 多くの人々を巻き込んで、徹底的に追い詰める。孤立無援の哀しみを、高い所から見下しながら嘲笑うのだろう? 俺には理解出来ない……そんなことに「幸せ」を感じる、勝頼! お前の価値観が!

「待ってくれ! 私の言い分も聞いてくれ! 私は……」

 必死に自らの無罪を主張しようと立ち上がる道雪の姿に皆が振り返る。声を荒げる道雪にそっと歩み寄ると、田丸は哀しそうな眼差しで道雪の肩を叩いた。

「田丸さん……?」

「みんな判っているさ。あんたが、そんなことをするような人じゃあ無いってことは」

「じゃ、じゃあ、何故!?」

 表情一つ変えることなく、田丸は驚くべき言葉を口にした。その言葉に俺は思わず耳を疑った。

「……良いかい? 物事を丸く収めるためには誰かが貧乏くじを引かねばならない。道雪さん、あんたは運が悪かったんだ。たまたま不幸にも貧乏くじを引く役目を背負っちまった」

「な……何を言っているのか、私には……」

「理由なんか、どうでも良いのさ。勝頼さんを敵に回しちまったら、うちらは生きていけねぇからな。悪いな……ま、あんた一人が我慢してくれれば、皆は今まで通りに平和に暮らせるのさ。そう……あんた一人が犠牲になってくれれば、それで良いんだ。黙って受け入れておくれ。運が悪かっただけなんだからさ」

 信じられない言葉だった。道雪は何一つ悪くないというのに、全ての責任を無理矢理背負わされた。そこまでして勝頼に尽さなくてはならないのか? こいつらには人としての誇りも、信念も、何も無いと言うのか? 犠牲者を決めてしまえば話は早い。たった一人の犠牲者に全てを背負わせ、自分達は今までと変わらぬ平和を手にする。理解に苦しむ考えだった……。

 皆、まるで何事も無かったかのように、その場を後にしようとしていた。異物は道雪ただ一人。その他大勢の者達には一切の罪は無いかの様な振る舞い。人の心に潜む深過ぎる冷たさを見届けた気がした。道雪だけがただ、取り残されていた。そこだけが時間が止まっているかの様に思える程に。

「フフ……フフフフ……そうか。そういうことか……そちらがそういう考えならば、こちらにも考えはある。みんな同罪だ……良く聞け! 次の満月の晩、夜半過ぎから雨が降る。私の涙が数え切れない程の雨となり、数え切れない程の針となり、貴方達の心臓に突き刺さるだろう!」

 聞く者全てを震え上がらせる程の憎悪に満ちた声であった。小さく震えた声は、途方も無い哀しみに満ちていた。口元を大きく歪ませながら道雪は高らかに笑い声を放った。次々と人が顔を出す。一体何事かと驚き、顔を出す。

「あーっはっはっは! みんな、みんな! 殺してやる! 呪い殺してやる! 一人残らず!」

 誰も言葉を発しなかった。変わりに誰かが石を投げた。

「!」

 次々と皆が石を投げる。道雪は必死で身を守るが、人々の勢いは止まらない。

「気持ち悪いんだよ!」

「さっさと町から出て行け!」

「気が狂った奴は、さっさと出て行け!」

 皆が石を投げ付ける。異様な光景であった……つい数時間前までは道雪を陰ながら応援していた人々が、道雪に向けて石を投げ付けている。出て行けと罵声を浴びせる。不意に大きな石が飛んできて、道雪の額に当たる。小さな悲鳴と共に、額から血が流れる。恐る恐る手を触れれば、赤々と流れ出す血であった。

「血……?」

 湧き水の様に滲む血。やがて顔を幾つもの血が筋を為して流れてゆく。

「血が……流れているのか?」

 ゆっくりと顔をあげる道雪。月明かりに照らし出された顔は、血に塗れていた。乱れた髪、濡れた衣。血塗れの顔。

「ひっ! お、鬼だ!」

「みんな、逃げろ!」

「鬼だ! 鬼が出たぞ! うわあああ、殺される!」

「鬼? 私が鬼? フフフフフ、これは面白いことを言う……私の言葉に耳を傾けることもせずに、一方的に私を悪者だと決め付けるお前達の方が、よほど鬼らしいでは無いか!? 良いだろう……能とは演じること。ならば、私は鬼を演じよう……修羅となりて、本当の意味での鬼と成り果てようでは無いか!」

 道雪は傷付いた体を引き摺りながら、ゆっくりと歩き出した。向う先は貴船神社だろう。鞍馬から、そう遠い場所でも無い。

◆◆◆66◆◆◆

 傷付いた体を引き摺りながらも、道雪は必死の想いで貴船神社の奥を目指していた。神社では無く、神社の先に広がる広大な森へと向っていた。深い哀しみと憎しみがヒシヒシと伝わって来る。理解も共感もするつもりは無かった……少なくても、道雪の受けた仕打ちを見届けるまでは。だが、俺の中で考えが変わっていた。あれ程の仕打ちを受けて、鬼になるなという方が無理があるだろう。いや、俺の中では勝頼や村人達こそ、本当の意味での鬼だと感じていた。

「もう、私は人として生きることは出来ないのだ……ならば、残りの命全てを賭してでも舞を振舞おう。奴らの望みどおり、私は鬼になり、ひとり残らず皆殺しにするべく呪いを撒き散らそう……」

 道雪は静かに般若の面をつけると、ゆらゆらと舞い始めた。哀しみに満ちた舞だった……苦労して手にした技を、こんなことのために使わなければいけなくなってしまった悔しさ、信じていた人達に見捨てられた絶望、なによりも、このような状況に追い込んだ勝頼に対する憎しみ。あらゆる想いを織り交ぜて、紡ぎ出される舞は冷たい哀しみに満ちていた。

 どれ程の時間、舞い続けただろうか。何時の間にか日が昇ろうとしていた。あれから僅かの休息も取ることなく、道雪は何かに憑かれたかの如く舞続けていた。次第に足元は覚束なくなり、疲労が困憊しているのであろうか、呼吸も乱れているように思えてならなかった。

(道雪は、このまま死ぬつもりだ……自らの命を以って呪いを完成させようとしているのだろう。執念と呼べば良いのだろうか? 凄まじい想いの強さだ……)

 不思議な感覚であった。一体どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 昼と夜を何度か繰り返した筈なのに、さほど時間が経っていないような感覚を覚えていた。

 最初に舞い始めてから三日と三晩……もはや限界に達していたのだろう。道雪は静かに崩れ落ちると、か細い声で何かを呟いていた。俺は近くに駆け寄り、その声に耳を傾けた。

「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ……」

 微かに聞こえてきた声。それは、とおりゃんせを口ずさむ歌声であった。俺はそっと道雪の能面を外してやった。白く透き通った肌を一粒の涙が伝って落ちた。地面に落ちると涙は静かに吸い込まれていった。微かに差し出された手が、力無く崩れ落ちた。

「道雪……逝ってしまったか……」

 ふと空を見上げれば静かに雨が降り始めた。音も無く木々の隙間を縫う様に針のような雨が降り始めた。

「雨……降り始めたか。道雪、お前の放った呪いが成就しようとしているのか?」

 力尽き、倒れた道雪を弔う者は誰もいないのだろう。此処、貴船神社の奥に広がる森では、人も立ち入らないだろう。元よりこうなることを望んでいたのだろうから、願いは叶った訳だ。後は……あの腐れ外道共の最期を見届けてやるだけか。

◆◆◆67◆◆◆

 再び場面が変わる。道雪の死から数日経ったある日のこと……道雪の、いや、憎悪の能面師の言葉通りの満月の晩となった。雲ひとつ無い空模様。広大な庭園に面した部屋に俺は佇んでいた。目の前には酷くやつれた勝頼の姿があった。あの時の言葉を恐れているのだろう。

「嫌だ……嫌だ、嫌だ! 俺は死にたくない……死にたくない! 正勝も、三成も、お雪も、みんな死んじまった……今度は俺の番だ! ああ……頼む、道雪、どうか……どうか俺を許してくれ!」

 不意に空が唸りをあげる。ふと振り返れば何時の間にか、夜空の満月を覆い隠すかの様に厚い雲が膨れ上がっていた。ポツリ、ポツリ。庭に降り注ぐ雨粒の音が聞こえてくる。

「ひ、ひぃっ! あ、雨! あ、ああ……もうお終いだ!」

 雨足は一気に強まり叩き付ける様な雨に変わっていた。ゆらゆらと何かが揺らめく姿が見えていた。良く目を凝らして見れば、それは憎悪の能面師の姿であった。漆黒の衣に身を包み力強く舞っていた。ふと顔を挙げた瞬間に駆け抜ける稲光が照らし出す。

「う、うわああっ! は、般若の面! 道雪、俺が悪かった! 本当に悪かった! だから、だから、どうか命だけは! 命だけは……あぐっ!?」

 不意に聞こえる勝頼の悲鳴。だが、唐突に混じる妙な声が気になった。俺は慌てて勝頼に駆け寄った。勝頼は左胸を必死で抑え、その額には玉の様な汗が滲んでいた。

「はぁっ、はぁっ……い、痛てぇ……な、何なんだよ!?」

 慌てて服を脱ぎ捨て自らの体に起きた異変を確認するが、何の異変も見られなかった。

「ああっ! うぐっ! ぐっ!」

 勝頼は次々と苦しそうな声を発していた。やがてゆっくりと、口元から黒い血が流れ出す。そっと手を口に宛てれば、べったりと張り付く黒い血。

「な、何だよ、これ!? うっ! い、痛てぇ! 痛てぇよ! 誰か! 誰か!」

 勝頼の悲鳴に応える者は誰もいなかった。俺には見えてしまった……廊下に倒れる人々の姿が。恐らく、既に皆、生きてはいないのだろう。つまり勝頼を救い出せる者は誰一人いない。この広い屋敷の中で、いくら悲鳴を挙げても誰も気付かないだろう。憎悪の能面師はなおも狂ったように舞を振舞い続けていた。雨足は強まる一方であった。雨足が強まるにつれて、勝頼が悲鳴を挙げる感覚も短くなってきた……段々と声は小さくなってゆく。もう、助からないだろう。程なくして勝頼は、静かに崩れ落ちた。その口からは、それまでよりも遥かに大量の血が流れ出た。墨の様に真っ黒な血であった。

「……お前の様な腐れ外道の血は、赤くないんだな」

 ふと庭先を見れば、既に憎悪の能面師の姿は消え失せていた。ゆっくりと雨も止めば、再び雲間から満月がその姿を覗かせていた。柔らかな月明かりに辺りが照らし出される。柔らかな月明かりは、無様に事切れた勝頼の姿をも照らし出していた。

◆◆◆68◆◆◆

 再び場面が元の場所に戻る。涼やかな木々の香りと、水気を孕んだ苔の香り。土と石の香りに、胸につかえていた不快な澱みが消え失せてゆく感覚を覚えていた。

「見届けたか? お主が見た情景こそが、事の真相ぞ」

「……後味の悪い情景であった。これが奴の真実という訳か」

 憎悪の能面師は情鬼の中でもかなり力の強い部類に入るだろう、とクロが補足した。そうあって欲しいものだ。あんな恐ろしい奴が跳梁跋扈しているとは考えたくも無かった。

「憎悪の能面師が放った呪いは強大なものであった。呪うという感情だけが一人歩きしてしまったのだ……情鬼となってな? その結果、貴船から鞍馬一帯の人々が次々と死滅することになってしまった。表向きは『疫病の流行』とされているが実際はそうでは無い」

 人の想いという物は時として凄まじい力を発揮するに至るということを知った。たった一人の想いが、数え切れない程の人の命を奪い去った。恐ろしいことだが、それもまた曲げようの無い真実ということになる。憎悪の能面師の深淵なる哀しみの想いは直視するには辛過ぎるものであった。だが退く訳にはいかない。情鬼とは言え、その命を刈り取ったのは事実なのだ。誰かの命を刈り取るということ……それは言い換えれば、その者の命を背負わなければならない。それだけの覚悟が無いならば、俺にはクロと共に戦うだけの資格は無いと思った。

 大丈夫だ。心の準備は出来ている。もう、何を見ても畏れないし逃げもしない。憎悪の能面師、お前の想い……俺が背負い生きてゆく。それがお前に対する精一杯のはなむけだ。

◆◆◆69◆◆◆

「ふむ。もう一つの種明かしもしようぞ」

「もう一つ?」

「うむ。あの童謡に篭められた想いよの」

 とおりゃんせ……一連の出来事の中で何度も登場した童謡。確かに、この童謡の謎も何一つ解けてはいない。四条に戻るぞ。クロの言葉に従い俺は再びクロに背にまたがり夜空に舞い上がった。

 祇園に舞い降りた俺達は先斗町通を歩んでいた。人通りの絶えない賑やかな夜の街。クロは周囲の様子に興味を抱いている様子だった。

「ふむ。賑やかな街並みよの。華やかなる夜の街といったところであろうか?」

「ああ。この界隈には飲み屋も多いが、同時に小料理屋も多い。この季節は鴨川に向かい川床も設置される」

 クロは人の文化に随分と深い興味関心を抱いている様子だ。好奇心旺盛で、見知らぬ物を指差しては、あれは何だ? これは何だ? 熱心に質問を投げ掛けていた。

「人の世とは中々に楽しい場所よの。さて……本題に入るとするか」

「ああ、そうだったな」

「あの唄の一節にあるくだり……恐らくその部分に意味があるのでは無いかと我は考える」

 あくまでも憶測ではあるがと前置きしてから、クロは自らの見解を述べ始めた。行き交う人々の流れに混ざり俺達もゆるりと歩いていた。

「丑の刻参りとは、これ即ち他者を呪い殺すための呪術の手段。憎悪の能面師も、錦おばさんも、自らの行いが正しくないことなど重々承知しておったのであろう。だからこそ……行きはよいよい、帰りは怖いと続くのであろう」

 クロは含み笑いを浮かべながら俺をちらりと見た。なるほど。「お前はどう捉えるか?」そういうことだな。「行きはよいよい、帰りは怖い」。実に意味深なフレーズだ。ただでは帰っては来られない。そういう意図が篭められているのだろう。だからこそ唄はこう続くのだろう。「怖いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせ」と。

「因果なものだな……錦おばさんも、憎悪の能面師もこの唄を口にしていた。時代を超えて二人の思惑は何処かで重なり合っていたのかも知れない」

 俺の見解に興味を示したのか、クロは腕組みしながら聞き入っている。

「ほう? 中々に興味深い解釈であるな。続きを聞かせてはくれぬか?」

「ああ、もちろんだ」

 恐らくは二人の思惑は何処かで重なり合っていたのだろう。行きはよいよい……丑の刻参りに至る前、つまりは呪いに手を染める前の自分は少なくても人であった。だが、丑の刻参りを行った後の自分。人を憎み、恨み、その想いを呪いに託す……もはや、この時点で人が人であることを棄てていると解釈できる。だからこそ畏れていたのかも知れない。情鬼に成り果ててしまうことを。それでもなお、心を抑え切れなかったからこそ、何度も何度も繰り返し通い詰めてしまった。だから……怖いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせと続く。

「……俺には、こういう風に解釈出来た」

 クロは腕組みしながら静かに俺の仮説に耳を傾けていた。聞き終えたクロは静かに唸っていた。

「ふむ……なるほど。人ならではの解釈ということか。フフ、中々に興味深い。我も学ぶ所があった。しかし……因果な出来事であったの。憎悪の能面師もまた道を踏み外してしまったのであろう。色恋沙汰は人を盲目にすると聞く。時にあらぬ道へと人を誘う想い……抜け出せぬ迷い道に入り込んでしまったのが運の尽きであったろう」

 人の心さえも見抜ける鋭い鑑識眼を持つ身。クロはもしかすると、俺の過去の真実も全て知っているのでは無いだろうか? あの時……鞍馬で出会った、思い出せない少年とは……クロ自身では無かったのだろうか? 問い掛けたい思いはあったが「鶴の恩返し」を思い出していた。

(そうだったな……要らぬ詮索は人を不幸へと誘う。道を踏み外しあらぬ場所へと転落するのは避けたい。要らぬ詮索は止めておくとしよう……)

「ふむ。だが、憶測は憶測よの。人の心は実に複雑怪奇な玉手箱よ。我らが幾ら知恵を巡らせたとしても、それは真実とは程遠いものかも知れぬ」

 そうかも知れない。俺達には憎悪の能面師の心も、錦おばさんの心も、本当の意味では見透かせやしないのだから。所詮、憶測は憶測に過ぎないということだ。

 徒然に歩いているうちに何時の間にか先斗町通を抜けていた。俺達はそのまま涼を求めて鴨川へと降りていった。どうやら人混みが苦手というのは、俺もクロも一緒らしい。やはり俺達は良く似ているのかも知れない。

「コタよ、疲れたであろう?」

 にやにや笑いながらクロが語り掛ける。

「ああ。あまりにも非日常過ぎて、身がもたなそうだ」

「フフ、そうであろうな。だが……我らの戦いはまだ始まったばかりぞ。長く、険しい道になるやも知れぬ。だが、どうか我と共に歩んで欲しい」

 そう言いながら、大きな手を差し出した。

「まだ共に歩んだ時間は短いかも知れないが、乗り掛かった船だ。最後までお供させて貰おう」

 俺はその手をしっかりと握り締めた。

 月明かりが綺麗な夜だった。雲ひとつ無い透き通るような夜空。もう梅雨は明けたのだろう。渋っていた気象庁も、ようやく見切りを付けたのか、翌日には梅雨明け宣言が出された。夏の始まりだ。これから、どんどん暑くなってゆくのだろう。

◆◆◆70◆◆◆

 今になって思う。憎悪の能面師となってしまった道雪は、同じ境遇に陥っていた俺を救いたかったのだろう、と。都合の良い解釈なのかも知れない……それでも、独りぼっちになることの哀しみは俺自身も良く心得ている。いびつな感情なのかも知れないが、俺に理解して欲しかったのでは無いだろうか? 同じ痛みを知っている俺に、自らの行いが間違いでは無かったと、嘘でも良いから言って欲しかったのかも知れない。

「憎悪の能面師……人の想いというのは実に難しい。正しく生きている奴が、ある日突然陥れられる。昨日の味方が今日の敵になることもある……」

 判っていたのだろう? 仮に俺がお前と共に歩んでいたとしても、お前は救われなかっただろう。ただ無碍に、さらなる深みに嵌ってしまっただけだろう。

「釈然としない最期だったな……人として破綻していた勝頼。そんな勝頼に恋心を抱いてしまった道雪。『生きる』ということは深い哀しみに満ちた道を、ただ無常に歩き続けるということなのだろうな」

 それにしても不思議な体験をした……あの青白い光は例えるならば、ほたるの灯火の様な物だった。ほたるという生き物と一緒だ。夜半の景色の中に、儚く光り、すぐに散ってゆくだけの存在。ほたるか……切ない生き物だ。だからこそ好きになれたのかも知れない。幼虫の時は他の生き物を食らう捕食者としての生き方をするが、成虫になれば水以外は口にしない。幼虫の時に蓄えた命だけで生き永らえる。皮肉な物だ。水しか口にしない……それは「死に水」を意図しているのかも知れないな。儚い命、儚い物語だ。

 人はいつか必ず死ぬ……その時が早いか、遅いか、それだけの違いしか無いんだ。もしも……もしも、皆を失ってしまったとしたら……その時、俺は……果たして、俺のままで居られるだろうか? それとも儚い命を、あの青白いほたるの灯火の様に燃やして、すぐに冷たく乾いた存在に成り果ててしまうのだろうか? 『生きる』とは出会いと別れの連続なのだな。でも、やはり別れは……哀しいな。

 ああ、何だか眠くなってきた……なぁ、憎悪の能面師。いや、道雪よ。生まれ変われたら、お前の舞を教えてくれないか? 悲哀に満ちたお前の舞……俺の心の中で何時までも大切に仕舞って置くとしよう。再び出会えるその日を楽しみに待っている。その時まで、しばしの別れだ……。

◆◆◆71◆◆◆

 翌日は朝から澄み渡る晴天であった。朝から暑い一日であった。ここ数日非現実の世界を体験し過ぎたせいか、まともな日々のありがたみを改めて実感していた。変わらぬ日常というものが如何に大切なものであるかを感じていた。

 早くも蝉が鳴き始めている。七条交差点を曲がり学校へと続く緩やかな坂道を駆け上がる。辺り一面から蝉の鳴き声が響き渡る。坂の途中にある喫茶店の軒先に飾られた風鈴。少々不釣合いな見た目ではあるが、そこはご愛嬌。風が吹けば涼やかな音色で涼やかな気分にしてくれる。店先に置かれた朝顔の鉢植えも風情があって悪くない。鮮やかな紅や紫、紺の花は目にも涼やかであった。

 校門を潜り抜け校庭を駆け抜ける。下駄箱で靴を履き替えて教室へと駆け上がる。予想通り、皆既に登校していた。

「ああ、コタ。おはよう」

 何時もと変わらぬ輝の笑顔。それに続くように力丸が、大地が、太助が声を掛けてくれる。皆、変わり無さそうで一安心だ。大袈裟な気もするが、妙な出来事の後だからこそ気になってしまうものだ。

「何かさ、今日は暑いよねぇ」

 輝が切り出せば、嬉しそうに笑いながら力丸が相乗りしてくる。

「暑過ぎだよな。ウチの近所の上賀茂神社からさ、朝早くから蝉の声が大音量で聞こえてくるんだぜ? もう、その声聞いているだけで暑くて、暑くてよ」

「ふむ。それで今朝も汁だくというワケじゃな?」

 お馴染みの嵐山旅館団扇を力丸にお裾分けしながら、大地が笑う。

 そうこう話し込んでいるうちに教室の扉が開く。今朝は桃山では無く山科がホームルームに現れた。無事に退院出来たのであろう。

「はーい、皆さん着席してください。ホームルームを始めます」

 何時もと変わらぬ一日が始まった。山科の怪我も完治し無事に復帰できた。ようやく平和が戻ったのだろう。いや……水を差すつもりは無いが、一時的な平和なのであろう。クロが言っていた言葉を思い出す。人の心から情鬼は誕生する。怒りや哀しみ、憎しみや迷い。負の感情が消え失せることなど在り得ない話なのだ。情鬼は幾らでも誕生するはずだ。それに……憎悪の能面師が口にしていた「あのお方」と呼ばれる黒幕の存在も明らかになっていない。あの青白いほたるや、青い僧衣に身を包んだ謎の人物の素性も明らかにはなっていない。本格的な戦いはこれからになるだろう。

 もう一つ、クロの言っていた話が気になっていた。

 情鬼と大自然との間には大きな関わりがあるという話。昔と比べて、今の街は随分と栄えている。便利にもなった。多くの天狗達が言う通り、俺達は大自然の墓標の上に暮らしている。大自然は癒しの力を持っている。即ち、木々や草花の存在は、人だけでは無く情鬼達も癒してくれる存在である。現代社会は古き時代の社会と比べて圧倒的に大自然が減少している。だからこそ、情鬼達を静めるための力も弱まり、情鬼達が生まれやすい状況に陥っていると聞かされた。このことも念頭に置きながら今後のことを検討していかねばならないということだろう。

「ふむ、小太郎君。環境問題について熱く検討するのは良いことですが、私の話にも耳を傾けて頂きたいものですがねぇ?」

「へ?……あ、アレ?」

 相変わらず、何時ものアレをやってしまったらしい。傍らでは輝達がにやにや笑っている。

「あ、ああ。済まなかった」

 変わることの無い平和な一日であった。皆も平和をかみ締めている様に見えた……。

 そして迎えた放課後。実に平和な一日であった。梅雨明け宣言の通りに空は晴れ渡っていた。夕方から夕立の可能性があると、天気予報が言っていたのを思い出していた。確かに、大きく膨れ上がった黒い雲がせり出してきているのも事実。雨が降り出す前に帰るのが懸命であろう。

「ね。ね。みんな、ちょっと良いかな?」

 輝の軽やかな声に皆が一斉に立ち止まる。ついでに戦々恐々とした表情で振り返る。中々の警戒態勢だ。今回の一件で危機意識は相当高まったことであろう。皆の険しい表情に、大いに怯みながらも輝は笑顔を絶やさない。

「え、えっと……今日すごく暑いじゃない? 何か冷たい物でも食べたいなぁと思ってね」

 再び皆が顔を見合わせる。

「冷たくなるような体験をしたいという訳では無さそうじゃな」

「いや、必ずしもそうとは限らないぞ? 以前も、似たようなフリ方で嵌められた記憶がある」

「でもよ、今回は妙な捻りは無いと思うぜ? あんな体験したばかりだしな」

(おーおー、皆疑り深いな。さて、輝はどう切り返すのか?)

 皆一様に目を細めながら輝を見つめている。無言の圧力にたじろぎながらも、輝は精一杯の笑顔で無実を主張する。

「か、鍵善良房のくずきり食べたいなーって思っただけなんだけど」

 意外にも普通な発言に皆一様に、安堵の吐息と共に賛同の意を示した。オカルトの次は甘味という訳か。平和な方向に興味が向けられるのであれば、それに越したことは無い。俺達は四条通の鍵善良房を目指して歩き始めた。

 夕方ということもあって車の通りは多い。皆で他愛も無い話をしながらだと、移動時間もさほど気にはならないものだ。やがて祇園さん前の大きな交差点に出る。鍵善良房も此処まで来れば目と鼻の先だ。だが、異変は信号で起こった。赤信号から青信号へと変わる。そして……。

 信号機から響き渡る音楽に俺達は凍り付きそうになった。流れてきた音色は忌まわしい音色であった。機械音ではあったが聞き間違うことは無い……「とおりゃんせ」であった。

「誰か……ボタン押したか?」

 珍しく動揺した口調で太助が皆に問い掛ければ

「い、いや。誰も押してねぇよ。そ、それによ……」

 力丸が青ざめた表情で皆を見回す。それを受けた大地が震えた声で

「この信号、とおりゃんせは流れなかったような気がするのじゃが?」

 輝は言葉を失っていた。俺達も、ただただ硬直していた。やがて信号が点滅して赤になる。

 どうやら、まだ俺達は解放された訳では無いのかも知れない。日常の中に潜む、非日常はすぐ後ろに立っているのかも知れない。

 第二話に続く