天狗使いの小太郎 第2話 『逆転した果皮と果実』

 

第2話 『逆転した果皮と果実』


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 第2話 『逆転した果皮と果実』

 夜半の森に断末魔の悲鳴だけが響き渡る。激しく火の粉を撒き散らしながら燃え上がるお堂は、さながら闇夜に佇むほたるの様に見えた。差し込む光は微かな月明かりだけ。辺り一面漆黒の闇夜。人気の無い深い森の中で、そこだけが真昼の様に煌々と浮かび上がっていた。

「いやああーーっ! 熱い! 熱いっ! 誰か! 誰か、助けてっ!」

 ただ耳を塞ぎたくなる。俺にどうしろと言うのだ!? これは過去に起きた出来事。俺はそれを垣間見ているだけの存在に過ぎない。ただ無力で、非力な「傍観者」に過ぎない。手を差し伸べることは出来ない。

 衣服が燃え上がり、皮膚が焼かれ、髪が燻る嫌な匂いが漂う。轟々と燃え盛る炎が放つ凄まじい熱気に阻まれ、近付くことさえ出来ない。こうして離れた場所に立っているだけでも顔が、腕が、焼け焦げそうな程にジリジリと痛む。古びたお堂は乾き切った木で出来ている。さぞや良き「薪」となったはずだ。容易く燃え上がることだろう。

 彼女の……露姫の丹精整った容姿を思い出さずにはいられない。雪の様に白く、透き通った柔らかな肌。長く、艶やかな髪も焼け焦げているのだろう。燃え盛る炎の轟音と木々が爆ぜる音。それに混じって時折聞こえてくる人体が焼ける音。艶やかな髪も、透き通った柔らかな肌も、この炎の中で焼かれているのだろう。

「熱い! 痛い! 死にたくない……死ぬのは嫌ーーっ!」

 淡雪の様な指を天高く伸ばす様が見えた。掴むことの出来ない何かを必死で掴もうとしている様にも見えた。だからこそ思わず一歩踏み出す。だが、その瞬間、肺の奥深くまで火傷したかの様な痛みを覚え激しく咳き込んだ。咳き込みついでに涙も込み上げてくる。

「露姫、済まない……俺はお前を救ってやることが出来なかった……」

 そのまま崩れ落ちた俺は無意識のうちに地面に爪を付き立てていた。爪の隙間から小石混じりの土が食い込むが、こんな痛み、露姫の痛みに比べたら至極ちっぽけなものだ。

 ふと顔を挙げれば火の手はさらに勢いを増していた。立ち上る炎は大きく膨れ上がり、天に手を伸ばすかの如く轟々と燃え盛っていた。助かる筈が無かった……露姫は手も足も荒縄できつく縛り上げられていたのだから。燃え盛るお堂は既に赤々とした炭と化していた。梁が崩れ、雪崩を思わせる様な音を立てながら、今まさに屋根が崩落しようとしているのが見えた。燃え盛る炎に包まれたお堂は、ただ赤々と熱を放つだけの木炭と化していた。一気に崩れ落ちれば、天に向い一斉に火の粉が舞い上がる。夏の夜、一夜限りのほたるの宴を思わせる様な幻想的な光景。だが、舞い上がるのはほたるでは無く、露姫の命そのものなのだから。

 もう、悲鳴は聞こえない……酸欠で死んだのか、全身を無慈悲な炎に焼かれて死んだのか、どちらにしても哀し過ぎる結末であることには変わりは無かった。体中から力が抜ける。結局、俺は無力な存在だ。ただのちっぽけな存在に過ぎない。その事実を嫌という程叩き付けられただけだった。

 それから数刻後、炎は消え失せた。赤々と燃え上がっていたお堂はもはや跡形も無く、ただの黒い消し炭と化していた。何故こんなことになったのか? 何故俺が見届けなければならなかったのか? 理由を考える気さえ起こらなかった。

 皮肉なことだ……「火葬」は無事に終わったらしい。俺は焼け跡に歩み寄った。まだ、微かに熱気を放っているが近付けない程では無かった。

◆◆◆2◆◆◆

 それはただの焼け焦げた「何か」でしか無かった。目の前に転がる黒く焼け焦げた「何か」―-それは数刻前までは、確かに人の姿であったもの。

 辺り一面うっそうと生い茂る森。ただ冷たい静寂に包まれた場所。古ぼけたお堂の焼け跡からは今も微かに煙が立ち上っている。何時の間にか夜は明けたらしい。だが、俺の視界に入るのは、気持ちまで沈んでしまいそうな濁った色合いの雲だけだった。そっと空を仰げば今にも雨が降り出しそうな湿気た風だけが頬を撫でて往く。酷く優しく、それから、生暖かい風であった。俺は為すすべも無く、ただ、そこに立ち竦んでいた。無残に焼け焦げた小さなお堂は未だに息が詰まる程の焦げ臭さを放っていた。人が焼けた後の異様な匂いも残されていた。

 事の発端は数時間前に遡る。露姫は両手両足を縄で乱暴に縛られて放置された上に、お堂にも火を放たれた。俺は犯人の素性を良く知っている。

 無念のまま、この世を去った彼女の為に俺は何をしてあげることが出来たのだろうか? 遺された無力感に胸が締め付けられる。不意に、一陣の風が吹き抜けてゆく。露姫だった黒く焼け焦げた何かは砂の様に崩れ落ちた。遺された黒く煤けた灰は何を告げたかったのだろうか?

 そっと黒く煤けた灰を掬い上げてみた。どんなに慎重に掬い上げても、瞬く間に指の隙間から毀れ落ちてしまう。

『露の幸せは、この手に残る白砂のような物。一陣の風の後には何も残りません』

 あの時、平安神宮の境内に敷き詰められた雪の様な白砂を掬い上げながら、露姫は哀しげな笑みを浮かべていた。放り出すように紡いだ言の葉の数々。静かに立ち上がると、空を仰ぎながら続けた。

『愛を求める露の元には、何故、愛を持たぬ人ばかりが集まるのでしょう? 露はただ、人並みの幸せを手に出来れば良いと思っている身なのに。もしも、露が人並みの幸せを願うこと……その願いすらもが『業』だとおっしゃられるのであれば、露には救いなどは何一つ、与えられていないということになるのでしょう』

 生前、露姫が寂しげに口にしていた言葉を思い出していた。その問い掛けに俺は応えることが出来なかった。卑怯者だ。どんな応えを返しても俺か露姫か、どちらかが傷付くことには間違いなかった。だから逃げたのだ。どちらも傷付かないために。否、どちらかを傷付ける哀しみから、俺は逃れたかった。

 あの時、露姫がそうした様に俺も真似てそっと空を見上げる。刹那……不意に雨粒が零れ落ち、頬に冷たい感触を覚えた。まるで涙だ。

「露姫……お前は数奇な運命を嘆いているのか? それとも果たせなかった無念を悲しんでいるのか?」

 応える者は誰も居ない。代わりに雨足が強まる。地面を、木々の葉を叩き付ける雨粒の音だけが響き渡り、生温い風だけが頬を撫でてゆく。

 そっと、黒く煤けた灰を……露姫の遺灰を再びこの手で掬いあげれば、遺灰は無常にも指の隙間からサラサラと零れ落ちるばかり。やがて一陣の風が吹けば、灰は一斉に空に舞い上がる。彼女の体も、この灰と共に風に解けて逝くのだろう。天高く舞い上がった火の粉の如く。

「さようなら……露姫」

 叩き付ける様な雨の音が響き渡る。木々の葉に打ち付ける音、無残な姿となったお堂の残骸を打ち付ける音。何時の間にか雷鳴まで響き渡り始めた。鈍色の空を駆け抜ける稲光。ただ、あるがままに雨に打ち付けられながら、俺は次第に意識が遠退いて行くのを感じていた……。

◆◆◆3◆◆◆

 ゆらゆらと水面を揺らぐ様な感覚を覚えていた。緩やかな流れの中に浮かびあがるような感覚。木々の香りを、土の香りを全身で感じていた。心地良い感覚だった。だが、不意に肩を叩かれる感覚を覚え、思わず俺は振り返った。

「ふむ。立てるか?」

「あ、ああ……」

「唐突に膝から崩れ落ちた。何事かと驚かされたが……ふむ。大丈夫そうであるな」

「あ、ああ。済まない」

 クロは俺の安心を見届けると、再び俺を先導するかのように歩き始めた。

(膝から崩れ落ちただと?……白昼夢か? 否、何か夢のような物を見ていた気がするが……何故、思い出せないのだろう?)

 不可解な感覚だった。いきなり意識が飛び、夢の様なものを見ていた気がする。だが、何を見ていたのか思い出すことが出来なかった。ほんの数秒前まで、確かに見ていた筈なのに。

 雨は夕暮れ前から降り始めた。夕立の様な勢いの良い雨では無い。申し訳無さそうに、儚げにシトシトと降る悲哀に満ちた涙雨。その温かな雨を受けながらも、一段と美しく咲き誇る紫陽花に見とれていた。

 辺り一面、瑞々しい木々の香りが立ち込める三千院の庭園を歩んでいた。鮮やかな苔に包まれた庭園はシットリとした冷気を称えており、微かに霧を纏っているかの様な景色はどこか幻想的な風合いを称えていた。夕暮れ時。誰も居ない庭園には踏み締められる土の音だけが響き渡る。小川のせせらぎ。風が木々の葉を揺らす音。それから、柔らかな雨が葉を打ち鳴らす音。此処には自然の奏でる音色だけが佇んでいる。

 静かに歩みながら、ふと思い出す出来事があった。雨に濡れて物憂げに咲き誇る紫陽花。その涼やかな青い色の中に蘇る情景。

 シトシトと降り続ける雨は妙に温かかった。濡れながらも、心温まる感覚を覚えていた。降り続ける雨。体を濡らす雨。温かな雨……それは、ゆっくりと過去への回想へと誘うものでもあった。ゆっくりと身を委ねる。忘れることも出来ない力丸の告白を、何故か唐突に思い出していた。

 愛を求める者もいれば、愛を持て余す者もいる。大切な者を失う悲しみは果てしないもの。筆舌に尽し難いとは良く言ったものだ。恋が花開き、時が訪れ、枯れる時を迎えたとする。ただ別れただけならば、何時か何処かで再び出会えることもあるだろう。だが、折れた花は二度と同じ花を咲かすことは出来ない。もう……二度と同じ花に出会うことは出来ない。

 降り頻る雨。季節は巡る。季節は巡り巡り、暖かな雨はやがて冷たい雪へと変わる。

 ある大晦日の夜の物語。降り頻る雪。シンシンと降り積もる雪。儚く降り続く雪の夜に起きた物語。地面に落ちた雪は、水溜りの中に静かに消え失せるばかり。それは丁度、露草の葉に光る朝露の様なもの。儚く散った花の物語。儚く散った命の物語……。

◆◆◆4◆◆◆

 嫌な予感しかしなかった。だから、俺は力丸の後をつけていた。

 あれは、今から一年以上前の出来事だった。その日は朝からぐずついた空模様だった。昼を過ぎた頃から唸りをあげ始めた空だったが、学校を出る頃には、とうとう雨が零れ落ち始めていた。嫌な雨だ。恨みを篭めて空を睨み付けても、降り出した雨は止むことは無さそうだった。突然降り出した雨に、道往く人々達が一斉に走り出す。だが、力丸は周囲の様子など見えないかの様に、肩を落としたまま、ふらふらと力無く歩むばかりであった。

 あまりにも普段の姿とは違い過ぎる力丸の姿に、俺は確かな違和感を覚えていた。学校を抜けた力丸は、何かに操られるかの様にふらふらと歩き続けていた。一体どこへ向かおうとしているのだろうか? それ以上に何があったのだろうか? 俺はただ力丸の後を着けていた。不意に、力丸は清水五条駅へと続く階段を降りて行った。すぐさま俺も、清水五条駅に向かう力丸の後に続いた。

 何か、途方も無い出来事が起こってしまいそうな危機感を覚え、俺は慎重に力丸の行動を凝視し続けていた。

 ずっと塞ぎ込んでいたのは知っていたが、こんなにも深刻な事態に陥る程のものだとは予想もしなかった。情け無い話だがあの時の俺は、力丸が何に苦しんでいたかを知らなかったのだから……。

 駅の改札を抜け、ホームへと歩む力丸の背中は、やはり妙に薄暗く思えてならなかった。緩やかな風が駆け抜けてゆく。それでもなお、力丸はゆらゆらとした足取りで歩き続けるばかりであった。やがて、駅のホームに佇むと俺にも聞こえる程の大きなため息を就いた。夕暮れ時の駅のホームは多くの人で賑わっていた。恐らく、観光客もいれば、会社帰りのサラリーマンもいたことだろう。子供連れの母親が楽しそうに子供と語らっている姿に目を取られていた。

 それは突然のことだった。あまりにも突然過ぎて、それ以上に……あまりにも想定外の行動だった。嫌な予感というものは往々にして的中するものだ。外れて欲しいと願うような予感ほど、無駄に的中率が高かったりするものだ。

「まもなく特急電車が参ります。危ないので白線の内側まで……」

 耳に馴染みのある構内アナウンスが響き渡った瞬間のことだった。夕暮れ時の駅は人も多かった。特急電車がホームに走り込む轟音が響き渡る。ゆっくりと力丸が一歩を踏み出す。何をしようとしているか、すぐに理解した。だから俺は必死で走った。

(駄目だ! 力丸、お前を失う訳にはいかないっ!)

 一気に駆け込むと、俺はそのまま力丸に力一杯体当たりをかました。間一髪……目の前を走り去ってゆく特急電車。突然の出来事に目を丸くして驚く人々。顔面蒼白になっていた力丸の表情が、みるみるうちに紅潮してゆく。

「こ、コタ? な、何で……何で! 何で邪魔したんだよっ!?」

 その言葉に俺の頭に一気に血が上った。思わず俺は力丸に馬乗りになると、そのまま乱暴に力丸の胸倉を掴みあげ、力の限り吼えた。

「死んでどうする!? 何があったのか知らないが、死ねば……苦しみから、悲しみから解放されるとでも思ったのか!?」

「こ、コタに何が判るってぇんだよっ! オレの痛みが、苦しみが、悲しみが! 判るのかよ!?」

「判る訳が無い! 俺はお前では無いのだから、判る訳など無い!」

「だったら何で……何で、無責任にもオレを助けたんだよっ!」

「俺は……俺はっ!」

 言葉に詰まった。何で、か……理由なんか判らないさ。否、理由なんか無かった。ただ、お前を失いたくなかった。大切な友であるお前を失いたく無かった。ただ、それだけだ。それだけのことなのに、何も言葉が出て来ない無力さが悔しくて、悔しくて、自分で自分を殴り飛ばしたい気持ちで一杯になった。ああ、そうさ……何にも考えも無く、気が付いたらお前を阻止していた。ずっと苦しんでいたことは知っている。掛け替えの無い誰かを失う哀しみ、俺には正確には理解できていないのかも知れない。無責任だと罵られようとも、何と言われようとも、目の前で、大切な仲間の命の灯火が、消え失せる瞬間を見守るだけの「強さ」は持ち合わせていないのだから……。

 不意に俺の頬を一粒の涙が伝う。涙は頬を伝い力丸の頬に落ちた。

「え……?」

 力丸は酷く驚いた表情を浮かべていた。目を大きく見開き、ただ、じっと俺の顔を見つめていた。

「おい、コタ……お前……」

「力丸! 俺を置いて行くな! お前を失ったら、俺は……俺は! どうやって生きていけば良い!? 答えろっ!」

「う、うう……うわあああああーーーっ!」

 次の瞬間、力丸は人目も憚らずに声を張り上げて泣いた。まるで獣の咆哮の様な雄叫びに、周囲の連中は俺達を奇異の目で見た。このまま此処に居続けるのは得策では無い。ただでさえ精神的に追い詰められた力丸を、これ以上刺激したく無かった。

 周囲の人々は好奇の眼差しを俺達に向けている。駅には様々な人々が集う。仕事中のサラリーマンもいれば、子供連れの主婦もいる。観光客もいれば、俺達と同じような学生達もいる。俺達に向けられた好奇の眼差しに、俺は激しい怒りを、殺意を覚えた。

「お前ら何が面白い? 人の不幸を見届けるのは、そんなに面白いことか!?」

 俺の言葉に皆一斉に目線を逸らす。そのくせ、さも興味が無さそうに振舞いながらも、横目でこちらをチラチラ確認している。薄ら笑いを浮かべて、好奇の眼差しで俺達を見ている。

「自分よりも不幸な奴らを見て、自分より可哀想な奴がいるのかと、安心したいのか!? 納得したいのか!? 俺はこいつらよりは可哀想じゃない。無意味な優劣を付けて、ただ、自分を慰めたいのか!? 下らない奴らだ……お前らこそ、さっさと飛び込んで死ねば良いっ!」

 どいつも、こいつも、救い様が無い程にくだらない奴らだ。力丸の変わりにこいつらが死ねば良い……。駄目だな。そんなことを考えてみても、何の救いにもなりはしない。善人になろうとは思わないが、少なくても、こいつらの様に、可哀想な人種には成りたくはなかった。もっとも、同じような場面に遭遇した時に、今の気持ちを他者に向けられるかどうかと問われれば自信は無かった。所詮、俺もこいつらと同じなのだろうな。同じ穴のムジナだからこそ苛立ちもすれば、怒りも覚えるのだろう。可哀想なのは俺だったか……。

「力丸、場所を変えよう。立てるか?」

「……あ、ああ。済まねぇな」

 ずっと力丸は沈み切っていた。この世の最期だとでも言わんばかりの表情を浮かべたままだった。後になってその理由を知らされることとなった。もっとも、その理由を知ろうが知るまいが、いずれにしても、力丸の自殺を阻止していたことには変わりは無い。

 力丸との付き合いは長い。中学生の頃に知り合い、それから今に至るまでずっと一緒だ。俺と知り合う前は、酷く物静かで内気な性格だったと聞かされた。昔の写真を見せて貰ったが、本当に同一人物なのかと、疑問を抱かずには居られない程に別人に思えた。

 写真の中の力丸は自信無さそうに目線を落とし、怯えたような、憂いに満ちた表情を浮かべた姿で、今の力丸とは異なる全くの別人の様に思えた。人は此処まで変わることが出来るものなのだ。力丸は身をもって俺に教えてくれた。

 そんな力丸を変えたのは一人の少女の存在だった。直接会ったことは無いが、彼女の話は良く聞かされていた。その彼女が事故で亡くなった。否、殺されたのだ……飲酒運転。ひき逃げ。犯人は逃走し、未だに掴まっていない。

 人を殺めておきながら、のうのうと平和な暮らしを送っている輩が存在している。仮に俺がそいつと出会ったとしたら、そいつの命の保障は出来ない。法が裁かないなら俺が裁いてやる。ぐちゃぐちゃになるまで、何度でも轢き殺してくれる。

 「別れ」とは期せずして訪れるもの。心の準備も出来て居ない状態で、唐突に別れを叩き付けられた時、人は心を見失わずにはいられない。亡くした者の存在が大きければ、大きいほど。遺された者の心が弱ければ、弱いほど……苦しみは、悲しみは、真綿で絞め殺すように心を、体をジワジワと締め付ける。

 自らの命を投げ捨てようとした力丸を俺は必死で阻止した。力丸に生きて欲しかったから……否、違うな。大切な友を失うことで、俺自身が同じ苦しみを味わうことが恐ろしかっただけだ。力丸が体験したであろう、途方の無い苦しみを受け入れられる自信が無かっただけだ。俺は卑怯者だ。正義という名の下に、結局は身勝手な「偽善」を執り成したのだから。

 清水五条の駅を後に俺達は言葉も無くただ歩き続けた。先刻まで派手に降っていた夕立も止み、微かな遠雷だけが置き土産にされた。この季節にありがちな通り雨に過ぎなかったのだろう。黒い雲と青空の競演。沈み往く夕日に照らし出され、空は萌え上がる様に赤々としていた。

 夕暮れ時……絶え間なく流れて行く鴨川の流れを見つめながら、俺達は川岸に腰掛けていた。鴨川の流れる涼やかな音色が心地良かった。

「綺麗な夕焼け空だ」

 俺の言葉を受け、力丸も静かに顔を挙げる。赤々と沈み往く夕焼け空に照らし出されて、力丸の表情も赤々と染まっていた。

「……少しは落ち着いたか?」

 俺の問い掛けに力丸は静かに頷いて見せた。大きな溜め息混じりに、そっと立ち上がって見せる。鈍色の雲の隙間から覗く夕日を眺めながらそっと口を開いた。その横顔には、微かな笑みが称えられていた。

「……済まなかったな。可笑しなことに巻き込んじまって」

「気にするな。俺がお節介なのはお前も良く知っているだろう?」

 鴨川の流れに目線を落としながら返せば、力丸は頭を掻きながら苦笑いで応えてくれる。

「なぁ、コタ……その、お節介ついでにオレの話、聞いてくれるか?」

「……ああ」

「可笑しなこと言うかも知れねぇけどさ、ちゃんと受け止めてくれよな?」

 どこか自嘲的な笑みを浮かべながら、力丸は静かに呼吸を整えていた。深い哀しみに満ちた笑顔だった。今にも消え入りそうな灯火の様に思えた。だからこそ揺ぎ無い姿勢で受け止めなくてはならない。俺が最後の防波堤にならなければ、水の泡の如く、儚く散ってしまうだろう。

「肝を潰すには十二分過ぎる体験をした後だ。今ならば、何を聞かされても驚かない自信はある。安心しろ」

 俺の言葉が可笑しかったのか、力丸は大きく口を開けて笑っていた。再び俺の隣に腰掛けると、静かに語り始めた。

「思い出すなぁ。そう、あれは冷たい雪の降り頻る大晦日の夜のことだったんだ……」

 未だに脳裏から離れることの無い哀しみに満ちた表情。じっと、空を見上げる瞳には涙が一杯に称えられていた。気が付くと俺は力丸の肩を力一杯抱いていた。体格差を考えると、なんだか滑稽な構図だった。一瞬、驚いたような表情をしていたけれど、嬉しそうに……ついでに、少し照れ臭そうに笑っていたよな。

「……気にするな。続けてくれ」

「あ、ああ。それでさぁ……」

 本当に大切な物を失った時、人は人では居られなくなる……。あの時、俺は確かに力丸の心の叫びを聞いていた。あの時、力丸はきっと鬼になっていた。無差別に人々を憎んでいた。人の笑い声が羨ましくて、羨ましくて堪らなかった。自分がこんなにも辛い思いをしているのに、どうしてお前達は笑っていられる? 世の中は不公平だ。

 大晦日の晩に起こったひき逃げ事故。恐らく、車の運転主は新年への浮かれ気分で、酒でも呑んでいたのだろう。信号を無視した覚束ない走り方をしていた。白々と雪が降り始めた深夜。鈍い衝突音。急ブレーキを踏み込む音。短い悲鳴。同時に響き渡った急発進の加速音。除夜の鐘が響き渡り、今まさに新年に切り替わろうとする瞬間に、彼女は空高く舞い上がり、そして、二度と動かなくなった。

 街中がカウントダウンの熱狂に燃え、陽気に笑いながら盛り上がる時間。ラジオからも新年を祝う賑やかな笑い声が響き渡っていただろう。人々が歓喜に盛り上がる中、力丸は取り乱しながらも、必死で救急車を呼んだ。大晦日の晩だというのに、すぐに救いの手は訪れた。だが、世の中は何時も身勝手な奴らで満たされている。

「新年、明けましておめでとうございます!」

 違法駐車や浮かれていた奴らが邪魔をしなければ、あの夜潰えた命は救うことが出来たのかも知れない。人の不幸を喜ぶ、最低な野次馬達が道を阻まなければ、あの夜潰えた命は救うことが出来たのかも知れない。

「すげー! リアルにひき逃げ事故だってよ!」

「えぇ。このタイミングで事故だなんて、可哀想だねぇ」

「っつーかさ、人が多過ぎて良く見えねぇよな」

「ほら、ほら! ブログに載せるためにシャメ撮らなくちゃー」

 聞こえてきた野次馬達の声に、力丸は体中の毛が逆立つ様な感覚を覚えただろう。

「救急車が通ります! 道を開けてくださいっ!」

「てめぇら、退きやがれっ! ぶっ殺されてぇのかっ!」

 救急隊員の怒号。力丸の悲痛な叫び。空を掴む様に空回りするばかりだった。新年を喜び、祝い、盛り上がる若者達の熱狂は時として酷く身勝手で、他者を思いやる気持ちさえも忘れさせてしまうものなのだろう。自分が楽しければ他者がどうなろうが知ったことでは無い。早速、目の当たりにした惨状を呟いてみるか? ブログやSNSに公開してみるか? お前達のそうした無責任さが他者の想いを摘み取る。お前達は知らないのだろうか? 一度、茎から折れてしまった花は、もう、二度と咲くことは出来ないという事実を。だからこそ、俺はお前達に問いたい。誰かの幸せが、誰かの不幸せを踏み躙った上に咲き誇ることを、お前達はどう思う? 新年の目出度い祝祭なのだから大目に見ろとでも言うか? 仮に、そんな返答を口にしてみろ……俺がお前達の首を圧し折ってくれる。その薄汚い花が、二度と咲くことの無いようにな?

 病院に着くまでに相当の時間を要してしまった。その結果、初日の出の中で彼女は息を引き取った。

「うわああぁぁーーっ! 結花ーーっ! 何でだよ!? どうしてなんだよ!? 目を覚ませよっ! 一緒に初詣行くんだろ!? オレ達がずっと、一緒に居られますようにって、お願いに行くんじゃ無かったのかよ!? どうして……どうして、こんなことに! うわああぁぁーーっ!」

 力丸に取って生涯忘れることの出来ない最悪の正月になってしまったことだろう。あの一件が引き金となり、力丸は精神的に追い詰められていった。

 俺の前では必死で明るく振舞おうとしていたが、一人になると、孤独の寂しさに押し潰されそうになったことだろう。必死で堪えようとしたけれど頑張り切れなかった。だから、ひき逃げ事件から数ヵ月後、吸い込まれる様に線路に飛び込もうとしたことを、俺は否定するつもりも咎めるつもりもない。人目も憚らずに、駅の構内で一緒になって声を張り上げて泣いたことも、決して、間違えていたなんて思っていない。身勝手な奴らだと、俺達のことを糾弾したい奴らは勝手に糾弾すれば良い。俺はそいつらのことを迷うことなく殺せる自信があるから。「誰か」の幸せは、その「誰か」にしか計り知ることはできない。結局、部外者には本当の意味で痛みを理解することは出来ないのだから。

 力丸の言葉、印象的だったな……。

『花は美しく咲き誇るものでは無い。命を燃やし、限られた時の流れに逆らいながら、ありったけの想いを燃やす。その必死に「生きようと」する想いが美しいのだと思う』

 精一杯の強がりだったのは誰の目にも明らかだった。それでも生きなければならないのだから。それが……死に往く者から遺された者に託された「業」なのだから。

 彼女は、その短い生涯を閉じた。否、自分以外の誰かの手により閉ざされた。無残に摘み取られ、根元からひきちぎられた花は、もう、二度と花を咲かせることはできない。無残に泥まみれになり、道往く人々に見届けられることなく、ただ憐れに枯れてゆくだけ。なんて薄汚い花なのだろう、と人々は顔をしかめるだろう。だからこそ花は願う。もう一度咲き誇ることが出来たとしたら、私は一体どんな花を咲かせられただろう?

 花には生きる権利がある。それを踏み躙る者には報いの雨が降り注ぐことだろう。やがて雨は冷たい、冷たい雪に変わり、氷の牢獄の中に踏み躙った者達を閉じ込めることだろう。永遠に解けることの無い、冷たい、冷たい、氷の牢獄に……。

◆◆◆5◆◆◆

 不意に何処からともなく雨粒が俺の頬に零れ落ちる。冷ややかな感触に、驚きついでに現実に呼び戻された。俺を先導するかのように歩んでいたクロは静かに足を止めると、何時もの様に腕組みしてみせた。

「今一度、状況を整理したい。済まぬがコタよ、今一度事件のあらましを説明しては貰えぬか?」

「ああ、そうだな。まずは、今までに明らかになっている情報から説明するとしよう」

 ――五人目の犠牲者が出た。場所は京都市伏見区深草稲荷御前町の古びた木造アパート。JR奈良線の稲荷駅近く。死亡したのは市内の大学に通う大学三年生。性別はまたしても男。死因は凍死。体の芯まで完全に凍り付いていた状態で発見された。在り得ない死に方だ。どんなに寒い季節でも、そんな死に方はしない。仮に同じ状態を作り出そうとしたならば、大型冷凍庫に人を閉じ込めでもしない限り、こんな死に方には至らない。実に奇異な話だ。クマゼミの鳴き声が喧しく響き渡る暑い朝に、湯気を放っている状態で発見されたそうだ。そう……在り得ない出来事が起こる。在り得ない怪死事件が起こる。その影に居るのは――間違いなく「情鬼」だろう。だからこそ、俺は敢えて「犠牲者」という言葉を選んだ。

 輝が仕入れてきたうわさ話を振り返っていた。舞台は平安神宮。そこに出没するという時代劇をほうふつさせる着物姿の若い娘。体験した奴曰く、長い髪を簡素に結んだだけの髪型。高貴な顔立ちの娘であったと聞く。謎の美しき娘を一目見ようと大勢の人々が平安神宮を訪れると聞く。これだけ聞く分には、新たな心霊スポットを開拓しようという、オカルトマニア達の仕掛けた『遊び』にしか思えなかった。だが、おかしな話は此処からだ。

 実際に夢の中で娘と出会えた男達がいたと聞く。そのうちの何人かが怪死したというのだ。第一発見者の証言によれば、枕元には一房の紫陽花の花が置かれていたとのこと。ドライアイスを思わせる様な白い蒸気を発していたというから、恐らくは凍死というよりも、冷凍状態になっていたというのが正確なところだろう。いずれにしても実に奇異な話だ。梅雨も明けた夏も目前という時節に冷凍死。どう考えても在り得ない死に方だ。京都府警は見解を控えている。何しろ他殺以外考えられない状況であるにも関わらず、一切の証拠が見付かっていないのだ。あまりにも不可解な怪死。奇妙奇天烈極まりない話だ。

 紫陽花と言えば、梅雨明け直後の今の時分に見頃を迎える季節の花。桃色や青、時には白い花も存在する。その土地の土壌に合わせて咲かせる花の色を変える花。雨粒を、朝露を身にまといながらひっそりと光輝く様は、この時節だけに赦された愉しみ。季節を彩る風流な花も、奇妙な事件に使われてさぞかし良い迷惑であろう。

 既に五人が怪死している。場所も、死んだ奴らにも、何の共通点も無い。強いて共通点を見出すとすれば――皆、男であったということ位だろうか。これは俺の憶測だが……恐らく、彼らはその若い娘を一目見ようと、平安神宮を訪れていた。そして、その若い娘に出会い、何らかの出来事が起こった結果として怪死した、といったところだろう。

 数日前までの俺だったら、ただの偶然だろうと一笑に付していた。だが、この街に起こり始めた異変を目の当たりにしてしまった以上、偶然だとは思えなくなっていた。何も無い場所での冷凍死という不可解な死に方は、いずれにしても説明がつかない。連日のニュースでも騒がれている。ワイドショーのネタとしては十二分に視聴率を稼げるネタだろう。人の死が金儲けの材料になる。誰かの不幸を食い物にして、誰かが幸せを手に入れている。嫌な世の中だ。腐肉に集る蛆虫の様な輩が跳梁跋扈している。そう考えると世の中というものは随分に荒んでいるものだ。本当に恐ろしいのは人の心なのでは無いだろうか? 夜な夜な繰り広げられる鬼達の饗宴、百鬼夜行の物語。だが、その演者達は鬼なんかでは無い。鬼の様に角を生やした、醜悪なる人なのだろうから。

 話を終える頃には雨は止んでいた。ふと、顔を挙げれば、空は何時しか夕日に包まれていた。萌える様に赤々とした空。夕暮れ時……いや、少々洒落た言い方をすれば「逢魔が時」という表現を使うそうだ。魔性と遭遇する時間帯という意味合いを含んでいる。別の表現では「大禍時」とも言うそうだ。少々当て字の様な気がするが、魑魅魍魎が跳梁跋扈する時刻という意味を示しているのだろう。なるほど。日没から夜に至る妖しの刻。目に見えぬ物達に怯えていた昔の人々が紡ぎ出した夜伽草子ということなのだろう。

「ふむ。如何に厳しい真冬の寒さの中でも、その様な死に方は到底考えられぬ」

「やはり、クロもそう思うか?」

「うむ」

 クロは腕組みしながら静かに目を伏せていた。険しい表情で何かを考え込んでいる様に見えた。考えを邪魔しないように、しばし口はつぐむとしよう。

 どれ程歩いたのだろうか? 黙々と歩いているうちに、俺達は木々の群れを抜けて不動堂へと訪れていた。開けた場所から臨む空を染める夕日は、今まさに沈もうとしていた。遠くの空が微かに茜色に燃え上がっている様は、まさしく逢魔が時だ。そんなことを考えていた。

「ふむ。犠牲となった者たちが冒したであろう業を否定する気は無いが、情鬼の存在もまた、見過ごせぬ事態であるな」

 クロは怪訝そうな表情を浮かべたまま、沈み往く夕焼け空を見上げていた。やはり情鬼が絡んでいるのだろう。明確に情鬼の存在を示唆した辺りからも窺える。不意にこちらへと向き直ると、クロは不敵に微笑んで見せた。

「目に見える物だけが真実とは限らぬ。さて、あの沈み往く夕焼け空を見た時、コタは何を思う?」

 不敵な笑みを浮かべながら俺の反応を伺う。相変わらず良い性格をしている。俺が困った反応を見せるのを楽しんでいるとしか思えない。さて、どう返答したものか? 迂闊な返答を返したのでは面白味に欠ける。だが、あまりにも奇妙奇天烈な返答を返せば、それはそれで白けさせるだろう。上手い具合に粋な返答を返したいものだ。さてさて、知恵比べの始まりか。

 クロは腕組みしたまま不敵な笑みを浮かべている。俺が小粋な答を返すことを期待しているのだろう。だが、迂闊に的を外せば寒々しい笑みで見下されるだけ。それは何ともお寒い結末だ。気の利いた返答で唸らせてくれようでは無いか。

 俺は静かに夕焼け空を見つめながら考えてみた。目で見たままに感じるのでは答えには至らない。それに人の目という物は容易く騙される、お人好しだ。簡単に信じてはいけない。五感を研ぎ澄まし、野生の勘を働かせながら、大自然の想いをあるがままに受け入れる。意識を集中させていると、不意に万華鏡の様に夕焼け空が揺らぐ感覚を覚えた。煌々と燃え上がる赤い色合い。だが、強い日差しは白くも見える。ああ……この感覚、幻惑される様な感覚は何処かで体感した気がする。見覚えのある二つの情景が、ゆっくりと重なり合おうとしていた。さながら幻想の彼方へと誘う、万華鏡の様な優美なる綻びにも似た感覚であった。

(数日前、随分と早朝に目覚めたことがあった。その時に見た情景もまた、今の情景と良く似ていた。燃え上がる様な赤々とした空模様。そうか! もしも、この空模様が『嘘』を付いているとしたら? 俺を『騙そう』としているとしたら?)

「ほう? 何やら自信に満ちた表情をしておるの?」

 クロは腕組みしながらも、俺の自信に満ちた表情に興味を惹かれている様に見えた。ああ、期待してくれ。我ながら中々に小粋な考えに至ることが出来たと自負しているのだから。

「朝焼けだ」

「ほう? して、その心は?」

 クロが大きく目を見開く。荒い鼻息からも、意表を突いた返答に興味を示している様に思えた。

「朝焼けも夕焼けも、どちらも空が真っ赤に燃え上がる現象だ。もしもだ。今が日の出の時刻であったとしたら、俺が見ている情景を夕焼け空であると『偽る』ことも出来なくは無いだろう。少々無理はあるかも知れないが、人の目は容易く騙されるものだ」

 予想もしない返答であったのか、クロが静かに唸る声が聞こえた。少々悔しそうな含み笑いを浮かべている辺りからして、この勝負は俺が頂いたものと判断しても良さそうな気がした。

「フフ、この勝負、我の敗北であるな。予想もしない一手であった。ふむ。確かに、朝焼けと夕焼けは良く似ておる。日没と日の出、対になる組み合わせよの」

 クロは静かに空を見上げていた。既に陽は完全に沈み、残り香の様な赤々とした色合いだけが、変わり往く夜空を仄かに赤く染め上げるばかりとなった。肉感的な鈍い色合いを纏った夕焼け空の色合いは、何とも卑猥な光景に感じられて、心の奥底で興奮を覚えていた。

 逢魔が時へと俺達を誘う者。巧みに「虚」と「実」の狭間に身を隠す者。なるほど……敵は魔性の存在ということか。そして、そいつは確実に俺達に近付いている。同じ街の中で起こっている異変。姿は見えなくても確実に近付いているのであろう。望もうとも、望まぬとも、確実に向こうから近寄ってくるのだろう。非現実との遭遇……避けて通れないのは判っている。ならば、全力で立ち向かうしかないということか。

 皆が忙しく動き回る夕暮れ時。その一角にぽつんと現れる逢魔が時。それは多分、小さな綻びなのだろう。だが、その小さな綻びは、周囲の時の流れさえも侵食し、やがて大きな穴へと変わってゆく。その穴の先は肉感的な、奈落の底へと繋がっているのだろう。好奇心から、迂闊にその穴を覗き込めば、めくるめく官能の世界へと誘われて、何処までも堕ちてゆくことだろう。一枚、一枚、衣服を脱がしていく様な淫靡な帳を捲ってゆくとは何と甘美なる快楽なのだろう! 今度は一体どんな闇と遭遇するのだろうか? 不謹慎ながらも、輝が抱く好奇心を少しだけ理解している自分がいた。

(なるほど。確かに、こういう官能的な事物には、少なからず、淫らな興奮を覚えるものだな)

「そして、もう一つの糸口となるは紫陽花の花……確か、花言葉は『うつろい』だったな」

「フフ、コタは博識よの。うつろい……花の色が変わるが如く、季節は移り変わる」

「ああ。ついでに京の都も禍々しい暗闇へと移り変わろうとしている。百鬼夜行が超慮跋扈する、妖しげな闇夜へと移り変わろうとしている」

 憂いに満ちた言葉と聞こえたのだろうか? クロは腕組みしながら可笑しそうに微笑んでいた。

「明けの訪れぬ夜は無い。ならば、その暗闇など、我らが打ち払ってくれようぞ?」

「そうだな。俺とお前ならば何だって為し遂げられるだろうな」

 思わずクロと手を合わせていた。

 心強かった。気を抜くと、ついつい不安へと突っ走ろうとする俺を止めてくれる存在がいてくれる。そうさ。鴨川はどんな時でも流れ続けている。雨の日も、晴れの日も、春夏秋冬、幾度となく季節が巡ろうとも変わることなく脈々と流れ続ける。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、元の水にあらず。方丈記の冒頭よの。この鴨川も、人の在り方も同じこと。世の中も、人も常に同じ場所に留まることは無いという訳であるな」

 人は弱い生き物だ。何時だって大河の流れに翻弄され続ける身。いや、流されていることにさえ気付けない奴らだって少なくない。好き好んで流れに身を委ねる奴だっているだろう。俺はそんなのは嫌だ。強引にでも流れを変えてでも、自分の望む場所へと流れ着いてみせるさ。

 不意に脳裏に浮かんでくる情景……見覚えのある場所だ。俺は静かに目を伏せ、流れ込んでこようとする想いに、そっと耳を傾けることにした。この流れには身を委ねる意味はありそうだ。抗おうとする衝動を必死で抑え、あるがままの流れに身を委ねる。そこから見えてくる物があるはずだ。さぁ、俺に語り掛けてくる者よ。お前の姿を曝け出せ。俺を挑発したことを後悔させてくれる。その身を包む衣服を一枚ずつ剥ぎ取り、果てし無き陵辱を与えてくれる。皆の前で乱暴に犯してくれる。

◆◆◆6◆◆◆

 天高く浮かぶ月明かりが、ゆらゆらと琵琶湖疏水に浮かぶ。風も無い夜。俺は見覚えのある場所を歩んでいた。湿気を孕んだ生温い風が頬を撫でてゆく。微かに白粉の甘い香りを孕んだ風だった。だからこそ作為的な思惑を感じずには居られない情景であった。ゆらゆらと月明かりだけが水の流れに見え隠れしてゆく。それは万華鏡の様な情景であった。緩やかな風が吹けば水面に小さな波が立つ。水面の中で、天高く浮かぶ月が二つにも、三つにも分かたれる。再び風が吹き抜ける。そっと顔を挙げれば平安神宮へと至る道にそびえ立つ大きな朱色の鳥居が目に入る。不意に鈴の音色が響き渡る。遠くまで響き渡る透き通った鈴の音色。チリーン。はっきりと耳に入る音色。チリーン。音色が響き渡る度にゆっくりと意識が遠退く。

 再び、意識が戻った俺の目に映る光景。それは平安神宮。夜の闇の中に浮かび上がる、勇壮なる朱塗りの応天門。

「……俺を招いているのか?」

 応天門へと足を運ぶ。応天門を潜り抜け、俺は目の前に広がる一面の白砂を見つめていた。月明かりに照らし出された白砂が静かな煌きを称えていた。どこからか漂ってくる白粉の甘い香り。春の夜を思わせる様な、心揺らぐ甘い、甘い香り。白砂を踏みしめながら歩む人々の足音がしめやかに響き渡る。ゆっくりと闇夜の中にゆっくりと浮かび上がる人々の姿。それは行列であった。ただ一面に広がる白砂の中に、浮かび上がるように現れた人の姿。それは色鮮やかな着物に身を包んだ人々の姿であった。右手と左手に分かれての人々の群れ。その間に作られた花道を歩むは籠を支える者達。雲一つ無い月夜の晩に、平安神宮の白砂の広場を歩む高貴なる者達。何とも幻想的な光景であった。

 舞う様な軽やかな足取りで歩む者達の手により、ゆっくりと籠が下ろされる。やがて下ろされた籠が開かれ、中からゆっくりと人が現れる。淡い桃色を基調とした着物に身を包んだ高貴な顔立ちの少女姫。紫陽花が描かれた美しい扇子を口元に宛てながら、ゆっくりとこちらを向き直る。月明かりに照らされた少女姫は、うわさ通りに美しい顔立ちをしていた。あどけない少女の様な目元ではあったが、色香を孕んだ艶やかなくちびるに思わず怯まされた。

 少女姫はゆっくりと頭を垂れて見せた。間違いなく俺に向けての仕草なのであろう。一体、これは何を意味している情景なのであろうか?

「……露と申します。人からは『露姫』と呼ばれております。小太郎様、以後お見知り置きを」

 鈴を鳴らすような透き通る声であった。不思議な声色であった。幼い少女の様な響きでありながらも、年頃の娘の様な瑞々しい潤いを孕んだ響きにも聞こえた。

「……お前が五人を殺したのか?」

 遠慮等は必要無いと判断した。虫も殺せぬ様な可憐な姫君だろうが、何だろうが、人を殺める存在は敵。ましてや男達の心を巧みに乱す様な、不埒な情鬼に容赦は必要無いはずだ。

「愛を求める露には、どうして会いを持たぬ者ばかりが訪れるのでしょう? 露はそんなものは求めてはいないと言うのに……」

 まるで話が噛み合って居ない。一体、この露姫という女は何を考えているのか? 焦点の定まらない瞳は、何処を見つめているのか判らなかった。敢えて目線を合わせないようにしているとしか思えない振る舞いであった。だが、その目線を合わせることは躊躇させられる。深い、深い、深淵の色合いを称えた瞳は翡翠の様な色合いを称えていた。あの眼差しで見つめられたら正気を保てなくなるかも知れない。俺もまた、男の本能を掻き立てられ、我を見失いかねない。そんな危機感を覚える程に美しい瞳であった。吸い込まれそうな、堕ちてしまいそうな甘美なる雰囲気を称えていた。

「……小太郎様は孤独の寒さを知る身。露の心を理解して頂けると信じております」

「何を言っているのかサッパリだな。残念だが俺はお前の理解者などでは無い……。俺はお前を討ち取る者だからな」

「フフ、お戯れを。お優しい小太郎様が、その様な蛮行に身をお委ねになられる筈がありませぬ」

 雪の様に透き通る白い肌。艶やかな桜色の唇。見れば見るほどに心を奪われてゆく美しさを称えている娘であった。何よりも、触れただけで壊れてしまいそうな儚げな佇まいが、より一層、心を掻き立てる様に思えた。

「今宵は挨拶に参っただけに御座ります。小太郎様、また、お逢いしましょう……」

 どこからか鈴の音色が聞こえる。始めはひとつ。だが、音が鳴り響く度に音が増えてゆく。ひとつがふたつ。ふたつがみっつ……やがて、ゆっくりと意識が遠退く。視界が白々と燃え上がってゆく様な不思議な感覚を覚えていた。

「……タよ……コタよ?」

「あ、ああ……」

「ふむ。一体どうしたというのだ?」

「あ、いや……」

 今目にした不可思議な情景をクロに説明しようと試みた。だが、一体どうしたことなのだろうか? つい今、この瞬間まで見ていたはずの情景をどうしても思い出すことが出来なかった。何が起きたと言うのか? 気のせいか、微かに白粉の甘い香りが漂っている様に感じられた。

「さて。そろそろ戻るとするかの」

「あ、ああ……そうだな」

 俺達は再び家に戻ることにした。歩きながらも、俺は妙な予感を肌で感じていた。ヒタヒタと迫ってくる足音の様なものを感じていたのは事実だが、口には出さなかった。何故か、口に出してはいけない。そんな気がしていた。思い出せない情景……気になったが、追求することが出来ないものならば捨て置く他無い。喉の奥に引っ掛かった小骨の様な感覚を払拭することは出来なかったが、どうすることも出来なかった。微かに遠くで、鈴が鳴ったような気がした。

◆◆◆7◆◆◆

 嫌な夜だった。まとわりつく様な湿気に阻まれ中々寝付けずにいた。嫌な空気だ。ジットリとした重たい空気の中で、眠りに堕ちるその瞬間を待ち続けた。

 どれ程時間が過ぎたのだろうか? 不意に、鈴の音色が響き渡った気がした。一瞬、生暖かい風が吹き抜けた。再び鈴の音色が聞こえる。今度は二つの鈴の音色。覚えのある感覚だった。確かに、間違いなく体験した記憶であった。だが、一体どこで? 間違いなく体験したはずだが、思い出すことが出来ない記憶。酷く不快な感覚だ。何故、こんなことになった? 何故、こんな想いを体験している? 苛立ちを覚えた瞬間、不意に、すぐ横を車が通り過ぎる音が聞こえた。

(車が通り過ぎる音? 馬鹿な! そんなこと、あるものか! 自室の布団の上に寝転んでいるのだ。その横を車が通り抜ける訳が無い……つまり、これは?)

「結花……お前に会いたいよ」

 唐突に脳裏に響き渡る力丸の声。何が起こっているのか、ようやく理解できた気がする。恐らく、俺は夢の中で、力丸の意識を共有しているのだろう。憎悪の能面師の時に体験した現象と同じ様に、俺に何かを伝えるために、敢えて映像を見せているのだろう。逃げることも出来たのかも知れない。だが、それでは解決の糸口は遠ざかってゆくだけだろう。ああ、受け入れてやろう。何者かは知らんが、何らかのメッセージを送ってくる存在のために。

 俺は静かに意識を研ぎ澄ませた。ゆっくりと視界が鮮明に映り始める。

 そこは社家の街並みであった。夜半の街並みは静まり返っており、涼やかな明神川の流れる音色だけが響き渡っていた。時折車が通り抜ける音が聞こえるのを除けば、静けさに包まれていた。ただ明神川の涼やかな音色だけが響き渡る街並みだった。

 力丸はただ宛ても無く歩き回っている様に見えた。何処まで歩き続けるのだろうか? 道なりに歩き続けると、不意に視界の先に大きな木が見えてきた。天を仰ぐ程に雄大なる姿で佇む大樹。それは大きなクスノキ。その根元には小さな社が佇んでいる。藤の木社と書かれた看板が目に付いた。

「今年も大田神社の杜若、綺麗に咲いていたよ。お前にも見せたかったな」

 静かに足を止めると、力丸は大きなクスノキをゆっくりと見上げた。月明かりに照らし出されて、クスノキは威風堂々とした姿を見せつけていた。長い時間を掛けて街並みを見守ってきた大樹なのだろう。この道を往来する人々を、流れ行く明神川の姿を、それから……力丸と結花さんの姿も。

「なぁ、結花。最近さ、この街に妙なうわさ話が流行っていてな」

 誰に語り掛けるでも無く、力丸はただ穏やかな笑みを浮かべながらクスノキに語り掛けていた。普段、俺が目にしている豪快な姿とは大きく異なる力丸の姿は、酷く儚く見えた。うっかり乱暴に扱えば、容易く割れ、砕け散ってしまいそうな程に弱々しく見えた。俺は思わず目を背けずにはいられなかった。否、目を背けるのは力丸に対する非礼でしか無かったが、無性に胸が締め付けられた。

(本当に力丸なのか? 普段、俺が見ている姿とは随分と印象が異なるが……)

「平安神宮にさ、オレ達と同じ年位の女の幽霊が出るって話でな」

 俺はただ、静かに力丸の話に耳を傾けていた。酷く嫌な予感がしてならなかった。言葉に出来ない胸騒ぎを覚えずには居られなかった。何か良からぬ出来事に足を踏み入れようとしていることが判ってしまうからこそ、戸惑いを隠し切れなかった。そんな俺の不安を後目に、なおも力丸は語り続ける。

「平安神宮に行けば会えるのかな? なぁ、その女の幽霊ってさ……」

 静かに立ち上がった力丸は、今にも壊れてしまいそうな憂いに満ちた笑みを浮かべていた。

 不意に鈴の音色が響き渡るのが聞こえた。静まり返った景色の中に、鈴の音色だけが響き渡ってゆく。間違いなく何者かの力が加わっていると考えるべきだろう。

「大田神社に行こうかな。何だか、今夜は不思議な気分だ」

 杜若の季節は過ぎ去っている。今の季節に出向いたところで花は見られない。青々と生い茂る杜若の葉しか見られないはず。だとすると、何かを感じ取ったのか? あるいは導かれたと考えるべきか?

 俺の心配を他所に力丸は再び歩き始めた。夜半の街並みは静まり返っている。社家の街並みには、明神川の流れ行く音と、力丸の歩む重みのある足音だけが響き渡ってゆく。

 夜半の静まり返った街並みを歩くことしばし。この辺りは住宅街であるため夜になると本当に静かになる。住宅街を縫う様に張り巡らされた細い道を歩み続ければ、やがて視界の先に大田神社が見えてくる。力丸は迷うことなく大田神社の鳥居を潜った。境内はひっそりと静まり返っていた。草木の生い茂るうっそうとした佇まい。微かに涼やかな風を感じる気がする。湿気を帯びた場所だけに気温も低くなるのだろうか? 力丸は静かに古びたベンチに腰掛けた。微かに聞こえる吐息は溜め息の様にも聞こえた。

「今は、すっかり青々とした葉だけになっちまったけど、少し前は杜若の紫色が綺麗だったんだぜ?」

 周囲を民家に囲まれた小さな神社。一斉に咲き誇る杜若の鮮やかな紫色。小さく、ひっそりとした場所ではあるが、この世ならざる幻想的な美しさで心を癒してくれる。心が安らぐ場所……力丸は結花さんと一緒に、毎年花の季節になると、此処、大田神社に訪れたと言っていた。

 力丸に続き、俺も境内の中へと歩んでゆく。妙に空気がヒンヤリしているのが気になっていた。此処だけが時の流れから切り離されている。そんな気持ちにさせられる程に、異様な冷気を感じていた。

「こ、これは……!?」

 唐突に力丸の声が響き渡る。何に驚いているのか気に掛かる。そっと力丸の背後から覗き込んだ俺は、予想もしない光景に驚かされた。

(な、何だと!?)

 そこには一面に咲き誇る杜若の姿があった。風に揺られながら、ゆらゆらと揺れる鮮やかな紫色。在り得ない光景だった。杜若が見頃を迎えるのは五月の中旬から下旬に掛けて。少なくても、梅雨明けの頃には花は全て散っている筈なのだ。では、目の前に広がる光景は一体何だと言うのか? 本来、成立することの無いものが成立する……つまり、力丸と俺が目の当たりにしている光景は「現実」の物では無いということか。言うなれば、この光景は「虚構」だということに他ならない。だが、その事実をどうやって力丸に伝えれば良い。俺はただの傍観者に過ぎない。声を掛けることも出来ないのだから。

「い、一体……何が、どうなっちまったってぇんだよ? オレは夢を見ているのか?」

 再び鈴の音色が響き渡る。静まり返った境内に透き通った音色が響き渡る。

「鈴の音色? 誰だ!? 誰かいるのか!?」

「私は愛を求める身……」

 力丸の問い掛けに応えるかの様に女の声が響き渡る。月明かりに照らし出された一角、そこに人の姿がゆらゆらと浮かんで見える。

「お前は誰だ? 誰なんだ!?」

「力丸様、貴方は愛を持つ人。そして、愛を贈りたい人……」

 謡う様な口調で声が応える。時折混じる笑い声が、殊更異様な雰囲気を醸し出していた。人影がゆっくりと振り返る。良く見れば、淡い藤色の着物に身を包んだ少女であった。杜若を模した柄の着物は細かな意匠が施されている様に思えた。

「お、お前は一体何者だ!? なぜ、オレの名を知っている!?」

「……私は道に迷ってしまった身です」

「道に迷っただと?」

 少女は静かな笑みを称えながら、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。得体の知れない少女を前にして、力丸は警戒している様に見えた。当然であろう。こんな夜遅くに大田神社の境内に唐突に現れた人影。その上、道に迷っている等と意味不明な言葉を投げ掛けられて、警戒心を抱かない訳が無い。

「誰からも見捨てられ、帰る場所も失ってしまいました」

「で、でもよ……家族とかさ、知り合いとか……居ないのかよ?」

 動揺しながらも、不憫な身の上話を聞かされて、心を揺れ動かされたのであろうか? 力丸は震える声で、それでも必死に問い掛けようとしていた。だが、少女は哀しそうに俯きながら首を横に振るばかりであった。

「そ、そっか……」

「それだけでは有りませぬ。私は追われている身なのです」

「追われているだって? 何だか物騒な話だけど、一体誰に追われているんだ?」

 力丸の問い掛けに少女は応えようとしなかった。代わりに静かに顔をあげた。月明かりに照らし出された色白の肌に、あどけなさの残る表情。整った顔立ちからも、どこか高貴な身分の生まれの様に感じられた。

「愛を求める露の元には、何故、愛を持たぬ人ばかりが集まるのでしょう? 露はただ、人並みの幸せを手に出来れば良いと思っている身なのに。もしも、露が人並みの幸せを願うこと……その願いすらもが『業』だとおっしゃられるのであれば、露には救いなどは何一つ、与えられていないということになるのでしょう」

 不意に強い風が吹き抜けた。それを合図としていたかの如く、杜若の紫色の花が一斉に散ってゆく。鮮やかな紫色の花弁は、風に巻き上げられるかの様に次々と空高く立ち上る。月明かりの青白い光の中、紫色の花弁たちが一斉に舞い上がる。舞い上がった紫色の花弁は、次々とほたるの様な淡い光を放ちながら風に散っていった。何とも幻想的な光景であった。

「愛を求める者、か……お前は愛を求める身。オレは……オレは……」

 小さく肩を震わせながら、搾り出す様に放たれた力丸の声。

「駄目だ! 力丸、そいつの言葉に惑わされるな!」

 無駄だった……どんなに必死に声を張り上げても、俺は傍観者でしか無い。声が届くことは無かった。

「力丸様……ほんの少しだけで構いません。貴方様のあふれんばかりの愛を、露に分けてくださりませぬでしょうか? ほんの少しだけで良いのです。それで、露は……明日を生きる希望を手にすることが出来るのです」

 もはや力丸の表情には警戒心は微塵も感じられなかった。敵の仕掛けた術中に嵌った瞬間だったのかも知れない。

「……オレなんかで良ければ、しばしの時を一緒に歩んでみるか?」

 力丸は静かに手を差し伸べた。少女は消え入りそうな儚い笑顔を浮かべながら、力丸の大きな手に、壊れそうな程に白く、儚い手を重ね合わせて見せた。その瞬間、少女がこちらを振り向いた。少女は見下す様な不敵な笑みを称えていた。

「フフ、小太郎様……また、お逢いできましたね」

「お前は何者だ!? 何が望みだ!?」

 相変わらず焦点の定まらない眼差しで、こちらに目線を投げ掛けながらも、少女は……否、露姫は可笑しそうに微笑んでいた。

「人は脆く、儚い存在です。再び、ただ残酷なまでに無常な現実世界に戻れば、露と出会った記憶は全て消えてしまいますわ」

「姑息な真似を! 俺の仲間に可笑しなことをしたら、この手でお前を殺してやる!」

 俺からの宣戦布告など、まるで意に介さないのか? 露姫は相変わらず不敵な笑みを浮かべるばかりであった。

「小太郎様、カラス天狗様のお力を手にした貴方は、露に取っては『敵』でしか無い存在。どうぞ、露の行く末を阻むような真似は為さらないでください」

「ふざけるな! お前は……情鬼は討つべき仇敵! どんな手段を講じても、お前を討ち取ってみせる!」

 俺の声には応えなかった。ただ、可笑しそうに笑うばかりであった。ゆらゆらと舞い上がってゆく杜若の紫色。青白い月明かりと紫色の花弁を見つめているうちに、不意に、意識が遠退いて行くのを感じていた。ただ、薄れ行く意識の中で露姫の笑い声だけを聞いていた。抗うことの出来ない力であった。おのれの無力さを憎みながら、ただ、流されるしかなかったのだから……。

◆◆◆8◆◆◆

 何かに驚き、俺は飛び起きた。寝汗が酷い。魘されていたのだろうか? 嫌な気分だった。口の中がカラカラだ。

「どうした? 妙な夢でも見ておったか? 随分と魘されておったが……」

「ああ。可笑しな夢だった……」

 クロは心配そうに俺を見つめていた。夢の内容を語って聞かせようと試みるが、どうしても思い出すことが出来ない。ほんの数刻前まで、確かに見ていた内容なのに思い出すことが出来ない。背筋に冷たいものが走る感覚を覚えていた。

(馬鹿な……何故だ? 目覚める今、この瞬間まで、この目で見ていたと言うのに!?)

 動揺する俺の姿に何かを感じ取ったのか、クロは静かに腕組みしてみせた。

「思い出すことは出来まい。夢とはそういうものであろう?」

「し、しかし……」

「寝て見る物が夢。醒めて見る物は夢には非ずということよの」

 クロは静かに目を伏せ、何かを考え込んでいるように見えた。静かに呼吸を整えながら、意識を研ぎ澄ませていた。ゆっくりと空気の流れが変わり始めた……だが、次の瞬間、静電気が走る様な音が響き渡った。炎の中で爆ぜる木片の如き、大きな音が響き渡った。クロは目を見開き、驚いたような様子で俺に目線を送りながら苦笑いを浮かべてみせた。

「ふむ、実に異なこともあるものよ……頑なに自らの素性を隠し通そうとする者とでも申すか?」

「……情鬼か?」

 俺の問い掛けにクロは静かな笑みを浮かべて見せた。

「さて、な。まるで素性が掴めぬ以上、情鬼であるとは断言できぬ。ただ単に奇異な夢を見ておっただけやも知れぬ。しかしながら……相手が情鬼であるとすれば、何かを意図し、夢という形で見せた可能性も考えられる」

 思い出すことが出来ないが、何か俺の身の回りに関わる危機に直結する内容であった気がする。だからこそ、捨て置く訳にはいかない。気持ちばかりが焦るが、素性が掴めない以上はどうすることも出来ない。酷くもどかしい気持ちに苛立ちを覚える。

「コタよ、不安に思う気持ちは理解出来るが、相手の素性が掴めない以上は打つ手は無い」

「ああ、判っているさ。判っているが……」

「そう不安になるでない。我がお主を守る」

 自信に満ちたクロの言葉は心強かった。嬉しく思う反面、何も出来ない非力な自分にも苛立ちを覚える。何もせずに、ただ待つのは性に合わない。ならば、こちらから仕掛けるまでだ。

「クロ、俺は一眠りしたら伏見に向おうと思う」

「伏見、とな?」

「ああ。一連の凍死事件の最後の犠牲者が出た場所だ。解決の糸口に繋がるとは到底思えないが、何もしないのも落ち着かない」

 俺の表情をじっと、見つめながらクロは微笑んでいた。腕組みしながら、何かを感じ取ったのか静かに頷いてみせた。

「フフ、それでは我もまた鞍馬山に戻り、さらに追跡してみようでは無いか」

「ああ。お互い、何か収穫があると良いな」

「うむ。さて、夜明けまでは時間がある。もう一眠りするが良かろう」

「ああ、そうだな」

「我が守る故、安心して眠りに就くが良い」

「ありがとう、クロ……」

 安心したからなのだろうか? 波のように押し寄せる睡魔に体が耐えられなくなり始めていたからこそ、クロの言葉は有り難く思えた。自分から話を振って置きながら途中退場というのも、随分と締りが悪く思えた。だが、押し寄せてくる睡魔には勝てそうに無かった。だから、俺は再び床に就き、夜明けまでの時間を再び眠りに就くことにした。

◆◆◆9◆◆◆

 そして迎えた早朝。互いの目的を達成するために俺達は各々の目的地を目指していた。

 どうやら、俺が眠っている間に雨が降ったらしい。あちらこちらに水溜りが残っている辺りからして相応の雨量があったことが窺える。シットリとした湿気を孕んだ風は涼やかで、心地良く感じられた。中々気持ちの良い朝だ。

 早朝の四条通。曇り空。点滅する信号が青から赤になる。やれやれ、此処で一旦足止め。一回休みだ。唐突に目の前を乱暴に走り抜けるトラックに驚かされる。

(まったく……こういう危うい運転をするから事故が起こる)

 信号が青になる。思わず左右を確認する。大丈夫だ。信号無視をして突っ込んでくるトラックはいない。祇園四条までの道を歩みながら、ふと空を見上げる。今朝は曇り空。梅雨の残り香を思わせる少し気温の低い朝。地面に目を落とせばアスファルトは微かに湿気を孕んでいるように思えた。微かな涼しさが心地良く思えた。だが、心地良いのも朝早い時間だけ。昼頃になれば盆地特有の纏わり付く様な気候になるだろう。だから、散歩をするには朝が良い。

 朝早いせいか四条通も人通りは少なく、店もまだ開いていない。軒並みシャッターの閉まった通りを歩む。涼やかな風を感じながら南座の向かい側から祇園四条に入る。

 改札を抜け、駅のホームに立つ。すぐに列車が訪れる。朝早いせいか誰も乗客はいない。何だか独り占めしている様で悪くない気分だ。

 今日は一人旅。場所柄色々と問題がありそうな気がしたのと、一人になって気持ちを整理したいという思いもあったから。京阪電車に揺られながら向かった先は伏見稲荷なのだから。伏見名物のすずめ焼きを目の当たりにしたら、クロのことだ。間違いなく卒倒するだろう。

 列車は走る。暗闇に包まれたトンネルを抜け、光に抱かれた明るい駅に着く。何度か同じことを繰り返しながら無機的に走り続ける。地下の長い暗闇も七条を過ぎて東福寺に出る辺りには終わりを告げる。不意に窓の外が明るくなる。どうやら地下から抜け出したのだろう。とは言え今日は曇り空。うっすらと光を感じることは出来ても、雲は厚みを帯びている。東福寺、鳥羽街道と抜ければ目的地の伏見稲荷に到着する。列車がゆっくり減速を初め、ブレーキが掛けられる。金属と金属の擦れ合う軋んだ金属音が響き渡り、ゆっくりと列車が停車する。

 程なくして到着した伏見稲荷駅。俺は静かに列車を降りた。変わることの無い、温かな生活感漂う光景が広がる。この静けさが良い。下手に観光地化しておらず、その土地の生活の香りが堪能できる。駅のホームから改札を覗けば、地元のボランティアなのだろうか? おじさん達の姿があった。ほうきを片手に談笑しながら慣れた手付きで掃除をしていた。良く見れば紙くずやら、何やら、色々と落ちている。中でも目に付くのが煙草の吸殻だった。

(ゴミと共に、人として失ってはならないものまで一緒に投げ捨てるとは。報いは必ず返ってくる。因果応報という言葉の意味を、その身を以って体験するが良い)

 気に入っている景色を汚されるのは、どうにも気分が良い物では無い。俺は掃除の邪魔をしない様に注意しながら改札を抜けた。

 伏見。この辺りは時代の流れから切り離されたような光景が広がる。古びた小さな下町の商店街というのだろうか。祇園の華やかな、誰もが抱く京都らしい装いとは異なり、この辺りは地元の色合いが感じられる。こういう土着の泥臭い風景は温かい。昭和のレトロな風情を感じながら、ぶらぶらと街並みを散策するのも悪くは無い。

(想像できないな……こんなにも平和な街中で忌まわしい「事件」が起きたとは)

 唐突に目の前を猫が横切った。茶色の毛並みの猫。尻尾を立てながら優雅な足取りで歩む。ふと、こちらを見上げた際に目が合った。ついでに主張するかの様に一声鳴く。俺は腰を下し、愛嬌ある旅人と同じ目線で挨拶をした。

「始めましてだな。お前も一連の事件を模索中か?」

 猫はゆっくり歩み寄ってくると、顔を摺り寄せて見せた。俺の顔を見上げながら一声鳴いてみせる。中々に人懐っこい猫だ。

「そうか。お前も俺と一緒という訳か。お互い、良き成果が得られるといいな」

 頭を撫でてやれば再び一声鳴いて応えてみせた。人懐っこい猫に別れを告げ、俺は再び歩き出す。そのまま深緑色の川に架かる小さな橋を通過する。丁度、奈良線の踏切に差し掛かった所で遮断機が下りる。再びの一回休み。遠くから近付いてくる列車の走る音。やがて目の前を勢い良く若草色の列車が駆け抜けてゆく。

 踏切を越えて少し歩くと、老舗のねざめ家が見えて来る。さすがに早朝ということもあって、まだ営業はしていなかった。歴史を感じさせる赴きある店構えを眺めながら軒先を通り抜けた。

(ううむ、スズメを焼いている映像を見たらクロは間違いなく卒倒するだろうな……)

 青ざめて、取り乱すクロの姿を想像すれば思わず笑いが毀れそうになる。

(いかん、いかん。誰も居ない場所で笑っていたら不審者に思われるな)

 ねざめ屋を後に右折。細い通りを道なりに歩めばすぐに稲荷駅が見えてくる。朝早いせいか人通りは少ない。伏見稲荷大社――通称「お稲荷さん」。大きな、大きな赤い鳥居が見えてくる。

「雨上がりの木々の香り、土の香り、それから石の香り。心を落ち着かせるには最高だ」

 独り言を口にしながら、俺はお稲荷さんの表参道に立っていた。涼やかな風が吹き抜ける。雄大な大鳥居を潜り抜ければ、華やかな色彩を称える楼門が朝の日差しを浴びて聳え立つ。

 楼門を抜けて少し歩けば本殿が見えて来る。朝の日差しの中に佇む姿は、やはり、威風堂々とした赴きを感じさせてくれる。悪くない光景だ。

 本殿を後にして俺はさらに歩いた。緩やかな石段は、やはり湿気を孕んでいた。微かに生えている苔も水気を帯びて活き活きとしている様に思えた。やがて俺の目の前には有名な千本鳥居が現れる。無数の鳥居がトンネルの様相を描く様は実に幻想的な光景だ。うっそうと生い茂る木々が織り成す、薄暗い空間の中に連なる朱色の鳥居。目が覚めるような鮮やかな色合いと、妖しげな光景に自然と気持ちが昂ぶる。雨上がりの地面は十分な湿気を孕んでいて、木々の香りが普段よりも豊かに感じられた。俺はゆっくりと千本鳥居の中に足を踏み入れた。

 お稲荷さんは山と共に生きる神社。晴れの日でも明かりの差し込まない境内は深い木々に覆われた森の様な場所。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日を浴びながら、そっと空を見上げる。不意に、木々の葉から零れ落ちた雨粒が頬に当たる。ヒンヤリとした冷たい感触に思わず背筋が伸びた。

 お稲荷さんは、木々の香りに抱かれて、心の底から穏やかな気持ちになれる場所。心がささくれ立っている時には、こうして心を沈めるのも悪くない。

 天を仰ぐように空を見上げれば、穏やかな木漏れ日が差し込む。小鳥の鳴き声。どこかで木々の枝が落ちる音。それから誰かが歩む音。木の枝を踏み砕く軽やかな音がこだまする。

 境内を一頻り歩き回る。緑の息吹を浴びて、良く冷えた手水で手を洗う。大自然の息吹を浴び、少しは気持ちも落ち着いた様に思えた。クロが言っていた言葉の意味、理解できた気がする。木々の存在が情鬼達を癒し、鎮めるという事実。お稲荷さんは心の拠り所だ。疲れ果てた心の止まり木になってくれる場所。情鬼で無くとも心穏やかになれるということだろう。俺は誰も居ないことを見届けてから、天を仰ぎ、目一杯手を広げてみた。少しでも木々の息吹に抱かれたかったから。この木々達と共に語らってみたかったから。

(こういう場では一糸纏わぬ姿になり、肌で感じたいものだが……まぁ、妄想だけに留めて置こう)

 何時訪れても不思議な場所だ。どうも、この場所を訪れると誰かの視線を感じずには居られない。案外、稲荷山に棲まうお稲荷さんが、この社を見守っているとしても可笑しくは無いだろう。実際、此処には確固たる何者かの存在を感じる。それは大自然の化身と呼ぶに相応しい程に、大きな存在感を称えた者の様に思えた。もしかしたら、いずれお目通りが叶うかも知れない。礼儀は忘れぬ方が後々の身の為となるであろう。

 歩き続けるうちに、いつしか千本鳥居を潜り抜けようとしていた。歩き続けるうちに奥社奉納所まで来てしまったらしい。これ以上進むのは時間がある時にしよう。この先は本格的なハイキングコースになる。俺は再び千本鳥居を経て帰路に就こうとしていた。

 再び本殿が見えてきた所で、溜め息混じりに空を見上げてみた。厚い雲に覆われて日差しは見えない。何気なくぶらぶらと歩いていると、ふと、土産物屋の軒先に飾られた面に目が留まった。こちらは狐の面ではあるが、数日前の出来事が鮮明に蘇った。

「能面の化け物の次は、夢の中に現れる娘か……まったく。京の都に一体何が起きようとしているのか?」

 訪れようとしている不穏な物を憂い、嫌な気持ちになる。風が頬を撫でながら吹き抜ければ、お稲荷さんの木々の葉がサラサラとさざ波の様な音色を奏でる。寄せては返す波の様な涼やかな音色であった。静かに目を伏せ、風を感じていると今度はクマゼミの賑やかな声が響き始める。何時の間にか大分気温も上がってきたらしい。首元にジットリと汗が滲み始める。

「だいぶ、暑くなって来たな」

 空を見上げながら、額の汗を拭う。乾いたタオルがみるみる汗に濡れてゆく。

「やはり手掛かりは得られそうも無いか……」

 事件の起きた場所に向わないことには何も得られないか。俺はJR稲荷駅を目指し歩き出した。チリーン。どこかの店の軒先に吊るされた風鈴が涼やかな音色を奏でる。思わず足を止めた。

「ほう? 金魚の絵とは、中々風流だな」

 風鈴の音色は夏の訪れを告げる風物詩と呼べるものであろう。不思議なもので、風鈴の音色を聞くだけで涼やかな気持ちになれる。気の持ちようなのかも知れないが、人の心というものは容易く外部からの影響を反映する。その考え方を基準にすれば、怪死した男達は、自ら異形なる存在を心の内に作り出したのでは無いかとさえ思える。やれやれ。我ながら穿った物の考え方だ。

「言うなれば……『嘘』から生まれた『真』ということだな。否、この場合は、身から出た錆びと言うべきか? 中々皮肉った発想だ」

 其れは掴み所の無い蜃気楼の様な存在。目には見えるが、ゆらゆらと揺れ動き、容易く行方を眩ませる存在。人の所業では無いことは間違いないだろう。

「……やはり、例によって人の手に負えるような代物では無いのだろうな」

 一体どんな相手なのかは判らないが、話の判らない相手ならば戦わない訳にはいかない。それに、放って置いても輝は自ら首を突っ込むだろう。全く……警戒を払わなくてはならないのは、見知らぬ敵だけでは無く、見知った身内までというのは如何なものか。

 あれこれ考えながら、ぶらぶらと歩いているうちにJR稲荷駅に到達した。早朝ということもあり人は少なかった。こちらでも駅の周辺を掃除する人々の姿が見て取れた。

(人々の生活の香りがする良い街だな。こんな長閑な街で事件が起こった……どうにも違和感を覚えずにはいられないな)

 何としても早期の解決を成し遂げたいところだ。だが、俺は改めて無力さを実感するばかりであった。そもそも事件の起こったアパートが何処にあるかも明確に判らない上に、俺にはクロの様な能力も無い。恐らくは徒労に終わるだけだろう。

(これ以上、無駄に首を突っ込むのは危険を伴うな。ここらで潮時だろうか?)

 少なくても、しばしの平和は堪能できた。心の清涼剤とするには十分だったのかも知れない。まぁ、それはそれで悪くは無いことだ。収穫は得られなかったが、よしとしよう。

「後はクロの手を借りながら調査を進めるしか無いか」

 俺は再び伏見稲荷の駅を目指していた。周囲の光景を見渡す。昭和のレトロな雰囲気漂う街並み。何時までも変わらないで欲しいと願う。生きることに疲れ果てた時に帰れる場所は守り抜きたいから。

 程なくして再びの伏見稲荷駅に到着する。陽も登ってきたのか気温も上昇し始めていた。滲む汗は何時しか玉の様な汗に成り始めていた。雲は消え失せ、透き通る青空には大きな入道雲が広がっていた。さらに勢いを増したクマゼミの声がそこかしこから聞こえて来る。命の灯火を燃やすかの様な威勢の良い鳴き声。やはり夏は残酷な季節だ。あらためて、そう実感していた。

 昭和レトロの香り漂う商店街を経て伏見稲荷駅に到達した。額の汗を拭いながら空を見上げれば、丁度ホームに列車が駆け込んできた。変わることの無い街並みに別れを告げ、俺は家路に就くべく列車に乗り込んだ。

「さて、戻るとするか」

 列車の中は空調が利いていて涼やかな空気に満ちていた。列車の席に腰掛け、窓の外を流れ行く景色を眺めていた。程なくして列車が動き出す。ガタンガタン。軽やかな音色を奏でながら列車が走り出す。窓の外を走り去ってゆく景色をただぼんやりと眺めていた。

 帰りの列車の中で何気なく携帯をいじっていた。画面に映されたニュース記事を何気なく読んでいた。不意に俺の目に衝撃的な言葉が飛び込む。思わず、携帯の画面に見入ってしまった。

「な、何だと!?」

 ニュースに刻まれた記事……六人目の犠牲者。場所は京都府京都市左京区南禅寺草川町。またしても若い男であった。

 ガタンガタン。列車はただ走り続けるばかりであった。俺を嘲笑う声が聞こえる気がする。心の奥底に引っ掛かる想い。そう……俺は敵の正体を知っている筈なのだ。一度ならず、二度までも接触を試みたというのに、どうしても思い出すことの出来ない存在! 焦りと不安と、それから苛立ちが体を駆け巡るが俺にはどうすることも出来なかった。ただ、無力な自分に苛立つことしか出来ない存在。非力さが哀しく、悔しく、ただただ哀しかった。

 結局、家に帰り付いた後、クロとも話をしたが何も明らかにはならなかった。一つだけ判ったこと……。敵は巧みに自らの素性を隠しながら、じわじわと目的を達成しようとしている。素性がまるで見えない以上は細心の注意を払いながら振舞うしか無い。見透かされている様な感覚に、揶揄されている様な感覚に酷く苛立ちを覚えたが、それは敵の思惑に嵌ることと同義だ。冷静さを失ってはいけない。忍耐合戦の幕開けということだろう。否、狐と狸の化かし合いの開幕と表現した方が適切だろう。いずれにしても情鬼に屈するつもりは毛頭無い。必ずや白日の下に引き摺り出し、裁きを下してやらねば気が済まない。ふつふつと燃え上がる、怒りにも似た闘志を胸に抱きつつ、俺は学校へと向かうことにした。

◆◆◆10◆◆◆

 伏見から戻り、朝食を終える頃には再び雨が降り始めた。本当に梅雨は明けたのだろうか? 不信感を抱かずには居られなくなる。だが、窓から覗く空を見上げても応える者は誰もいない。シトシトと降り続く雨は気持ちも滅入る空模様だった。この雨を喜ぶのは紫陽花くらいだろう。豊かな土壌とたっぷりの水。どちらが欠けても紫陽花は美しく花を咲かせることは出来ない。この雨は皮肉にも紫陽花の水分補給には貢献しているのだろう。

 窓を開ければ仄かに土の香りが漂う。雨の日ならではの香り。悪くない香りだ。木々の葉の香りと土の香り。それから石の香り。大自然の息吹が感じられる香り。大きく息を吸い込み深呼吸。

「さて、それじゃあ俺は学校に行ってくる」

 そう、クロに告げれば

「ふむ。敵の素性が見えぬ以上、気を付けて行って参れ」

 さらりと返答を返された。見えざる者達の危うい存在を感じることも無かったのだろう。もしも、情鬼の気配を感じたならば、同行することを申し出ていたはず。どの道クロの姿は俺以外には見えないのだから、仮に同行していても特段害は無かったことだろう。

 自室を後にして階段を下りれば、雨のせいなのか、軋む音さえ湿っぽく感じられる。傘を一本取り玄関を後にする。外に出てみれば、予想通り、大きな水溜りがあちらこちらに出来ていた。どうやら相応に雨足は強いらしい。傘に叩き付ける大粒の雨音を聞きながら、俺は学校への道を歩み出した。

 紫陽花を植えている家も少なくは無いらしい。随分と頻繁に目に付くのが気になる。普段は意識しないことでも一度意識し始めると、こうにも気になるものなのだろう。そういうものだ。自分に言い聞かせながら歩く。決して異変などでは無い。自分に言い聞かせながら歩く。

 しばらく細い路地を歩めば、やがて川端通へと至る。そのまま鴨川沿いに歩く。何時もと変わらない道。変わることの無い景色のはずだった。この道は毎日通っている。微かな変化でも気が付くはずだ。だが、言葉に出来ない違和感を覚えていた。

(妙だな……)

 奇異な空気を感じていた。相変わらず傘に叩き付ける雨の音が響き渡る。水溜りに雨粒が落ちる度に水面に波紋が広がる。落ちる雨。傘に叩き付ける音。地面の水溜りに広がる波紋。何時もと変わらぬ道。交通量の多い道。信号が青から赤に変わり、何時もと変わらぬ信号で足止め。時折すれ違う観光客と思しき人々の流れ。鴨川の流れる音。見慣れた風景なのに、何か妙な違和感を覚えずにはいられなかった。

(線香の匂い……)

 唐突に線香の匂いが漂い始めた。ここは東大路通沿い。周辺に寺社仏閣は存在していない。異様なまでに鮮明な線香の匂い。むせ返る程に辺り一面に立ち込めている。何とも嫌な雰囲気だ。異常なまでに濃密な線香の香りは、俺の中で人の死を連想させた。

 唐突に風向きが変わる。頬を撫でるように吹き抜ける生暖かい風が吹き抜ける。傘に叩き付ける雨の音が消え失せる。水溜りが静まり返る。ついでに鈴の音色が響き渡る。ひとつ。チリーン。

(どうやら気のせいでは無さそうだな……)

 何時しか雨足は弱まり、霧雨に変わっていた。線香の匂いがさらに強まる。吐き気を催す程の香気が立ち込める。あまりの匂いに、一瞬視界が揺らいだ。次の瞬間、ゆっくりと浮かび上がる様に着物姿の娘が現れる。行き交う人々の中に見え隠れする娘。誰も彼女の存在には気付いていない様子であった。再び鈴の音色が響き渡る。ふたつ。チリーン。

 娘は淡い桃色の着物を身に纏っていた。様々な花の絵が丁寧に描かれた様から察するに、身分の高さが伺える。鮮やかな赤い傘を手に、こちらに向かいゆるり、ゆるりと歩いてくる。穏やかな表情を浮かべた、顔立ちの整った美しい娘。薄く白粉を施した肌は雪の様に透き通る白さ。対照的に柔らかな色合いの紅をさした唇は華やかな桜色。思わず息を呑む程に妖しい色香を称えていた。俺は慎重に近付いた。慎重に近付きながらも俺は確かな違和感を覚えていた。異様な感覚であった。その娘からどうしても目を離すことが出来なかった。興味を惹かれた? 否、違う。この娘とは何処かで逢ったことがある気がする。だが、それが何処であったのか、どうしても思い出すことが出来なかった。ただ、肌の裏側が逆立つ様な不快な感覚を覚えずには居られなかった。

「あの……」

 足を止め、娘が唐突に口を開く。

「道をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 含みを孕んだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと娘が歩み寄ってくる。体中の毛穴が開くような悪寒を覚えていた。何故だか判らないが、この娘に対して異常なまでの警戒心を抱いている。焦点の定まらない眼差しに、艶やかなくちびる。白粉の甘い香りを感じていた。三度、鈴の音色が引き渡った。みっつ。チリーン。

「私は……私は何処へ向えば良いのでしょうか?」

(な、何を言っている!? この娘……俺をからかっているのか?)

 なおも娘は口元を歪ませながらも不敵な笑みを浮かべている。俺の反応を楽しんでさえ居るように思えた。不思議な光景だった。道往く人々には、この娘の姿は見えて居ないのだろうか? 何事も無いかのように、皆一様に俺達の周りを迂回しながら往来してゆく。

「私は道に迷った身です。一人寂しく暗い夜道を歩むだけの身です。どうか、救いの道を……」

「良いだろう。道案内してやる」

 どうしても思い出すことは出来ない相手ではあったが、体中の毛穴が逆立つ様な感覚に狂いは無い。つまりは、目の前に居るこの娘は敵だ! こいつは情鬼だ……そう、俺は肌で感じ取った。ならば、案内すべき場所はひとつしか考えられない。俺を嘲笑うかの様な不遜な態度にも苛立ちを覚えていた。もしも情鬼ならば此処で殺してしまっても罪には問われないだろう。俺にはクロの様な力は無い……だが、皆を守るためにも、災いの芽は摘み取らねばならない。俺はゆっくりと娘の前に歩み寄った。

「ああ、良いだろう。お前の行くべき場所……彼岸の地へと導いてやろう!」

 娘はなおも嘲笑う様な表情で俺を見つめていた。気に食わないな……その自信に満ちた態度! その不遜な含み笑い! 俺を愚弄しに来たのだろうが、後悔させてくれる。

「フフ、お戯れを。お優しい小太郎様が、そのような蛮行に至る訳が御座いませんわ……」

「やはりお前は情鬼か! 見ず知らずの女が、俺の名を知る訳が無い。さぁ、観念しろ!」

 不意に周囲の空気が張り詰める感覚を覚えた。急激に下がってゆく気温。吐く息さえも白くなる程に気温は下がってゆく。だが、それでもなお、留まることなく気温は下がり続ける。

「カラス天狗様の力無き貴方は、ただの人でしかありませぬ。あまり御自身の力を過信されると……フフ、七人目の犠牲者にお成りになられますよ?」

 唐突に、猛吹雪の様な冷気が吹き付けてきた。あまりの冷たさに身動きさえ取れなくなる。ゆっくりと指先が、爪先が、痺れる様な感覚を覚えていた。極度の冷気の中で体が冷たくなってゆく感覚を覚えていた。

「小太郎様……露を、その手で殺めるおつもりだったのでは無かったのですか?」

 俺の頬に手を宛てると、ゆっくりと顔を近付けてきた。氷よりもなお冷たい感触の手だった。だが、間近で見る娘の表情は、恐ろしく美しく……そして、ゾッとする程に妖艶であった。俺の中で男としての性が、情欲が、炎を噴き出さんとしていた。だが、それが俺の闘争心を一気に焚き付けた。

「くっ! 化け物め!」

 吐き捨てた言葉に娘の表情が崩れる。先ほどまでの不敵な笑みは消え失せた。ゆっくりと顔をあげると、俺の目線に自らの目線を重ね合わせた。光の失われた眼差しは暗く、哀しみに満ちている様に思えた。深い、深い、深淵の闇を称えた瞳に、俺は吸い込まれそうな感覚を覚えていた。いっそ、このまま堕ちてしまうのも悪くない。そんな気分にさせる程に、底の見えない闇を感じさせる眼差しであった。

「化け物……そうですね。確かに、露は人ならざる存在……小太郎様から見れば、露は異形の存在なのでしょう」

(何なんだ、コイツは? その掴みどころの無い振る舞い、一体何が望みなのだ!?)

 挑戦的な態度を見せたかと思えば、今度は不意に、深い哀しみに満ちた表情を見せる。一体何が望みで、何を為し遂げたいのか、全く理解出来なかった。

「小太郎様は露と良く似たお方……もしかしたら、判り合えるのかと淡い期待を抱いておりましたが、露の思い過ごしだったのでしょうか?」

「お前は俺の敵。その事実が変わることは在り得ない!」

 一瞬、哀しそうな表情を見せたかと思ったが、次の瞬間、一陣の風と共に娘は消え失せた。後に残されたのは頬を撫でる生暖かい風だけであった。傘に叩き付ける雨の音だけがしんみりと響き渡る、何時もの見慣れた道。交通量の多い道。信号が青から赤に変わり、何時もと変わらぬ信号で足止めを受けた。時折すれ違う観光客と思しき人々の流れ。雨が零れ落ちる度に足元の水溜りに波紋が広がる。見慣れた風景。全てが元に戻っていた。

 あいつは一体何だったのだ? 否、余計な詮索は良そう。判りもしないことを考えるのは時間の無駄だ。それに……こちらが望まなくても、再び会うことになるだろう。再び雨足が強まり出す中、俺は学校へと続く緩やかな坂道を急いだ。

◆◆◆11◆◆◆

 やっとのことで学校に到着した。雨は相変わらずシトシトと降り続いている。階段をのぼり、教室へと向かう。学校は何時もと変わった様子は無かった。教室の扉に手を掛ける。何か嫌な予感を感じ、背筋に悪寒が走る。

(む? 何か嫌な予感がする……)

 予感は的中した。熱弁を奮う輝の姿と、冷ややかな反応を見せる仲間達の姿が目に留まった。

(……やれやれ。色んな意味で、何時もと変わりは無いな)

「あー、コタ、おはよう。ねぇ、聞いてよ」

「ああ。あまり興味は無いが、一応聞いている」

 冷ややかな反応にも、まるで動じる様子が無い程に上機嫌な様子から察するに、また、どこからか妙なうわさ話を仕入れてきたのであろう。恐らく、その話は、俺も先刻知った話だと想像出来る。

「今朝、六人目の犠牲者が出たみたいだよ。本当に不可解な事件だよねぇ」

「枕元には紫陽花。例によっての凍死……だろ?」

 良く知っているねぇ。輝は目を丸くして驚いていた。皆が一斉に溜め息を就く。俺も大きな溜め息を就く。

(驚くも何も無いだろう……ここ数日、同じ話を繰り返し聞かされていれば、嫌でも覚える)

 それに、事件を起こした張本人とたった今、遭遇したばかりだ。それにしても不可解な相手であった。あの女は一体何が狙いだったのだろうか? 考え込む俺を後目に、傍らでは相変わらず輝が熱弁を奮い続けている。

 いずれにしても敵の目的がまるで見えてこないのが気に食わない。犯行声明みたいな物を全く見せない。もっとも相手が猟奇的な思想の持ち主であるならば、行動に理由を見出すことに何の意味も価値も無い。解せない……あの女は何を狙っている?

「不気味な話なのじゃ。それにしても、何故、紫陽花なのじゃろうか?」

 独り言の様に大地が呟く。確かに大地の言う通りだ。何故、紫陽花なのだろうか? この季節に咲く花ならば幾らでも種類はある。それに、花で無ければならない理由も判らない。敢えて紫陽花を選ぶということは、何か意図するところがあるのだろう。こうした行動を取る奴は、花言葉にメッセージを重ねるか、あるいはその花に何らかの想いを重ねる場合が多いはず。紫陽花という花に、何か特別な想いがあるのかも知れない。考えてみても推測の域は出ない。無意味なことだ。こういう難しい話は犯罪心理学者の偉い先生達の管轄だ。俺のような素人が首を突っ込むことでもあるまい。

「それで、熱心にこの話を聞かせるということは、現場検証にでも行こうという魂胆か?」

 冷ややかな笑みを浮かべながら太助が問い掛ければ、ご名答。輝がにこやかな笑顔で応える。思わず皆で大きな溜め息を就く。

「輝、知っているか? 好奇心は猫をも殺すものだぞ?」

 俺の言葉に一瞬怯んだ様に見えたが、輝はすぐに不敵な笑みを浮かべながら向き直ってみせた。

「でもさ、好奇心を失ったら、なーんにも成長も、発展も無くなっちゃうよ?」

「お前がそれを口にするか……」

 無茶苦茶なことを言っている。輝の好奇心は、間違いなく非武装地帯を武装地帯に変える代物だ。せっかく禁猟区にいるのに、好き好んで狩猟区に身を置くようなものだ。勇敢さと無謀さとは、まるで別物だということを相変わらず理解する気は無さそうだ。

(否、理解している上での振舞いだとすると、なおさら性質が悪い)

 皆の気持ちを汲み取ったのか「それで……放課後に平安神宮に行こう、とでも言い出すのか?」と、太助が問い掛ければ、「さすがは太助。良く判っているねぇ」と、満面の笑みで輝が応える。やはり予想通りの返答であった。皆一斉に一際大きな溜め息を就く。

「テルテルの行動パターンは、毎度のことながら、あまりにも判りやすいのじゃ」

 何時も通りの光景。何時ものように騒ぐ仲間達。だが、力丸は浮かない表情を浮かべていた。何かあったのだろうか? 普段であれば面白がってツッコミを入れるのに、心此処に在らずといった表情で窓の外を見つめるばかりであった。太助も異変を感じていたのだろう。時折こちらに目線を送りながら俺の反応を伺っている。

「なぁ、力丸も一緒に来るか?」

「え? あ、ああ。そうだな……オレも一緒に行くよ」

 明らかに目が泳いだ。何かあったのだろうか? 俺の心の中でも何かが引っ掛かっていた。あの女と遭遇したのは初めてでは無かった様な気がする。力丸とも何らかの関わりがあった様な気がするが……ああ、駄目だ。思い出せない。だが、何らかの関わりがあるのであれば、何としても断ち切らねばならない。戦う力の無い力丸に狙いを定められるのはまずい。被害が出る前に討ち取る必要がある。

 その時であった。教室の扉が開き、山科が教室に入ってきた。タイミング良く中断。一時停止だ。続きは後半戦に続くという訳か。否、むしろ延長戦か?

「はいはーい、皆さん、着席してください。ホームルームを始めちゃいますよー」

 窓の外に目線を送りながら、力丸が小さく溜め息を就くのが聞こえた。嫌な予感が脳裏を駆け巡る。勝手な憶測ではあるが……もしかすると?

(力丸は、あの女と既に、何らかの接触をしてしまったのでは無いだろうか?)

 そうだとすると力丸の身に危険が降り注ぐ可能性がある。聞き出すタイミングに注意が必要ではあるが、生命の危機に瀕する状況に陥る可能性を考えれば放置する訳にはいかない。だが、どう聞き出せば良い? 過去の古傷に触れぬように細心の注意を払う必要がある。

 力丸は本当に純粋で一途な一面を持つ。俺しか知らない力丸の真実――それは、未だに癒えることの無い過去の傷跡に起因するもの。傷が痛むからこそ誰かを守りたいと思う気持ちも人一倍強くなる。だが、その優しさが時に仇になることも少なくない。  

 不意に思い出した気がする。そうだ! 何処で聞いたのかは定かでは無いが、確かに意味深な言葉を口にしていた。『愛を求める露の元には、何故、愛を持たぬ人ばかりが集まるのでしょう?』自らを『露』と呼ぶ、あの女は恐らく情鬼なのだろう。だとすれば、あの女を動かす物。それは、愛情を欲する心……それは間違いなく強力な想いなのだろう。情鬼と化す程に。愛情を欲する心……。なればこそ、力丸に白羽の矢を立てたのは頷ける。

 それでは、もう一つの言葉……「愛を持たぬ人」とは何を示しているのだろうか? もしかしたら、殺された六人は「愛を持たぬ人」だったのでは無いだろうか? 段々と話が繋がってきた気がする。何となくではあるが想像が付き始めた。邪な想いを抱く者達のことだ。夢の中で出会ったあの女をかどかわそうとでもしたのであろう。確かに、あの娘は美しい顔立ちをしていた。何も知らなそうな無垢な娘に見えた。憂いに満ちた寂しげな表情は、渇き切った男達の心を潤すには最高の武器となるだろう。都合の良い身勝手な解釈をした男達のことだ。適当な甘言を並べて心揺れ動いたところで手篭めにしようとでもしたのだろう。あるいは無理矢理、力で捻じ伏せたか? 現実世界では赦されないことでも、夢の世界でなら赦される。そう考えたのだろう。全く……実に、浅はかで愚かな考えだ。こういう奴らがいるお陰で、男はケダモノ扱いされてしまうのだ。

(まぁ、俺がケダモノでは無いか? と問われれば、違う! とも言い切れないが……男という生き物は業深き生き物だな)

 そして、恐らくは……その結果、彼女の逆鱗に触れ冷凍死に至ったのであろう。因果応報と言えばそれまでだが、さて、厄介な話になってきたな。どうしたものか?

「ふむ。小太郎君は愛情を欲しているのですか?」

「……へ?」

 ふと振り返れば満面の笑みを浮かべた山科の姿があった。

「よろしければ私がお贈りしましょうか……あふれんばかりの愛情を?」

「え、遠慮しておく……」

 ついつい物思いに耽り過ぎて、またしても心の声が口から飛び出してしまったらしい。

「若い人が遠慮しちゃいけませんよ。いずれにしても、ちゃんと話は聞かなければいけませんねぇ」

 可笑しそうに笑いながら山科が教壇に戻る。妄想が暴走した結果、皆の笑い声を背に受けてしまった。

(ううむ……要らぬところで笑いを取ってしまった。冷静にならなくてはならないということか……)

 良き戒めと捉えよう。気が抜けた状態では、いつ足を取られても可笑しくは無い。因果応報。自業自得。自ら撒いた種の報復を受けては間抜け過ぎる。俺は気を引き締めて一日を迎えようと決意した。

◆◆◆12◆◆◆

 放課後。相変わらず空模様は落ち着かない。雨は降ったり止んだりを繰り返していた。俺達は学校を後に七条を目指した。学校から駅までの短い道のり。先刻まで降っていた雨も止んだらしく、街路樹から時折雨粒が零れ落ちるばかりとなった。水鏡の様な水溜りに木々の葉から雫が零れ落ちれば、緩やかな波紋だけを残す。道を歩みながら、その情景にしばし見入っていた。

 七条から三条まで京阪電車で移動。さらに三条で東西線に乗り換えて東山まで移動。そこからは再び徒歩で移動する。東山から徒歩で平安神宮へ向かう。俺の提示した道順に異を唱える者はいなかった。

 雨上がりの鴨川沿いを歩いていた。雨の影響か川の水位は普段よりも高かった。川の色も土色に濁っていた。上流の方では相応に大雨だったことが窺える。

「しかし、平安神宮に出没する女か。中々に奇異な話だな」

 太助がぽつりと呟けば、予想通りに輝が鋭く反応する。足を止め、好奇に満ちた眼差しで振り返る。

「えー? おかしな話って、どういう意味で?」

 力丸は黙って歩きながら川の流れを見つめていた。俺も隣に並び、濁った川の流れを見つめた。ついでに輝と太助のやり取りに耳を傾けていた。太助は何か思うところがあるのだろう。俺達の気付かない盲点に気付いたのかも知れない。そう考えると俺としても中々に興味深い話だ。

「輝、お前は平安神宮の歴史を知っているか?」

「うーん、あんまり」

 輝はバツが悪そうに微笑んで見せる。その返答は想定していたのか、太助は表情一つ変えることなく話を続ける。

「明治二十八年に博覧会の催し物として、平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。規模としては少々小さ目になったが、こうして出来上がったのが平安神宮だ。博覧会後には平安遷都を行った桓武天皇を祭る神社となった。その後、昭和五十一年に火災に見舞われるという災難に遭遇した。もっとも、その三年後に全国からの募金を土台にして再建された。まぁ、この火災の話は蛇足だな」

 平安神宮は明治の時代に築き上げられた建物ということか。相変わらず太助は博識だな。長年京都に生きてきたが、俺にしてみれば初めて知った話だ。だが、確かに違和感を覚える。意外にも平安神宮の歴史は浅い。あの女が生きていたのは何時の時代であろうか? 時代が符号するか否かが気になる。それ以上に気になることがあった。恐らくは太助のことだ。同じ部分に疑問を抱いたのだろう。ちらりと横目で太助を見れば「同じ考えだ」と言いたそうに含み笑いを浮かべていた。

「ううーん、そんなに深い歴史を持っている訳では無いということは判ったけど、それが何か関係あるの?」

 怪訝そうな顔で輝が問い掛ければ、太助は苦笑いで返す。

「重要なのは歴史が浅い部分では無い。平安神宮は人の住処では無いということだ。先程も言った通り、祭神を祀る場所だ。何故その様な場所に、何の縁も無い女の化け物が出没するか? 平安神宮は霊園や古戦場の様に多くの命が失われた場所でも無い。これらの事実にオカルトマニアは何の疑問を抱かないのか?」

「えっとね、それは……。あははー。まだまだ半人前ってことかなぁ」

(一人前のオカルトマニアというのも、それはそれで扱いに困る……)

 輝は苦笑いを浮かべるばかりで、返す言葉を失った様子だった。

 ふと横を見れば、周囲にやたらと目線を送ったり、溜め息を就いたりと落ち着かない様子の力丸の姿があった。やはり、あの女と接触した可能性が高そうだ。否、もはや可能性では無く、確実に接触していることだろう。

「ふむ。確かに可笑しな話なのじゃ。何故、平安神宮に出没するのか説明がつかないのじゃ」

 力丸の様子を横目で伺いながらも大地が合いの手を打つ。確かに大地の言う通り、矛盾している。自分が住んでいた場所、あるいは、縁のある場所に現れるというのは理解できる。だが、何の関係も無い平安神宮に現れるという部分が解せなかった。もしかすると、もっと違った理由があるのかも知れない。俺達の想像も及ばない様な理由が。しばし考え込みながら、大地が足を止める。

「ふむ……これはワシの勝手な想像なのじゃが、そのお嬢さんは自分の存在を知らしめたいのでは無いじゃろうか?」

「ほう? 意外な切り口から攻めてきたな。中々興味深い解釈だ」

 大地の発想は俺とは異なる視点からの切り口であった。新たな視点からの切り口。それは解決の糸口に繋がるかも知れない。俺も足を止め、大地に続きを聞かせてくれるように促した。

「うむ。ワシが疑問に思っていたのは、平安神宮に奇妙な女が現れるといううわさ話なのじゃ。もしも……その女が、自らの存在を誇示するために情報を流したとしたら、どうじゃろうか?」

 なるほど。何故、平安神宮なのか? 疑問に思ってはいたが、そういう考え方もあったか。見知らぬ場所に現れる存在よりも、有名な場所に現れる存在の方が、遥かにうわさ話も広まりやすくなるだろう。知名度のある場所、それも誰もが知っている場所ならば、多くの人々を集めるには確かに有効な手段だ。それに、うわさ話という物は出所が明らかになることは殆ど在り得ない。自作自演という手段を講じることも不可能な話では無い。

「平安神宮を知る者は多いだろう。そう考えれば、多くの人を集めるには、確かに有効な場所とも考えられるな」

 太助は大地の発想に興味を示した様子だった。皆から賞賛の眼差しを送られ、大地は嬉しそうに微笑んでみせる。どうやら今日は何時になく冴えているらしく、輝の真似を思わせる様な、身振り手振りを存分に織り交ぜながら持論を力説してみせた。

「うむ。その女は誰かを探しているのでは無いじゃろうか? だから、多くの人を集めている様に思えるのじゃ」

「ロックってば、今日はどうしちゃったのさ? 何だか切れ味抜群だよねぇ」

「ふふん、やる時はやるのじゃ」

 やはり一人で考え込むのは得策では無いということだ。往々にして視野狭窄に陥りやすくなる。こういう時に第三者の意見というものは解決の糸口に繋がる可能性を秘めている。自分とは違う考え方。だからこそ、切り口も変わってくるというものだ。見落としていた切り口から攻め込めば、また違った答にも行き着くだろう。一体何が目的なのか理解に苦しんでいたが、大地が力説してくれたお陰で解決の糸口に一歩近付けた気がする。確かに、人探しのために行動を起こしているというのは考えられなくも無い。『愛を持つ人』と口にしていた辺りからして、誰かを探しているというのは可能性としては十分に考えられる。それに、特定の人物を探すのであれば、多くの人を集める方が有効だろう。大量にかき集めれば探し人に出会える可能性も高まるだろう。

(だが、探し人はいなかった。しかも、ろくでもない奴もいた。結果として奴ら六人は殺された訳か。まぁ、因果応報だな。そして、ようやく見つけたのが力丸だった……厄介なことに辻褄は合うな)

 話し込んでいるうちに俺達は七条に到着した。時折雨がパラつく白黒はっきりしない空模様であった。まるで右往左往する俺達を嘲笑っているかの様にも思えた。

 地下に向かう階段を降り、改札を抜ける。駅のホームには埃染みた石の香りが漂う。皆は尚も議論し続けている。ふと、横に目線をやれば、力丸は相変わらず無言のままだった。言葉も無く、ただ静かに線路を眺めていた。皆も異変には気付いている様子であったが、敢えて余計な詮索はしなかった。やはり、普段は賑やかな力丸が、まるで別人の様な振る舞いを見せているのには少なからず違和感を覚えるのだろう。

 やがて列車がホームに入り込んでくる。押し出された、生暖かい風が一気に吹き込んでくる。ゆっくりと減速しながら列車が止まる。扉が開けば、皆で一斉に椅子に飛び込む。

「ううーん、やっぱり文明の利器は素晴らしいよねぇ」

「うむ、うむ。この涼しさの中で、ワシは蘇る気がするのじゃ」

「お前達は悩みが無さそうで羨ましいな……」

 思わず溜め息が毀れる。だが、俺達を乗せて三条へと向かう列車の中は妙な緊張感に満ちていた。涼やかなエアコンの風とは違った冷たさを感じていた様な気がしてならなかった。

◆◆◆13◆◆◆

 三条で乗り換えること数駅。辿り着いたのは目的地の東山。短い列車の旅が終わりを告げる。皆と共に駅の改札を抜ける。そのまま階段を上り地上を目指す。しばらく歩き続ければ地上に出る。東山前の大通り、三条通に出る。交通量の多い道路。相変わらず、引っ切り無しに多くの車が往来している。

「うわっ、外に出ると蒸し暑いねぇ」

「ああ、そうだな。雨も再び降り始めた様子だ」

 俺達は傘をさしながら歩き始めた。力丸は青ざめた表情を浮かべ、微かに息遣いも荒くなっていた。やはり、俺の予感は的中してしまったのかも知れない。悪いな、力丸。先に謝っておく。少なからず俺の取る行動は、お前を傷付ける結果になってしまうかも知れない。だが、このままお前を放って置けば取り返しのつかないことになってしまう。それは絶対に避けなければならない。だからこそ、何が何でも平安神宮に連れて行く必要がある。力丸……お前の性格を良く心得ているからこそ、絶対に逃げられないようにさせて貰うぞ。悪く思うな。

「力丸、顔色が悪いが大丈夫か? 悪かったな。無理に誘ってしまって」

 俺の考えが正しければ、力丸は拒む真似はできないはずだ。万に一つ、予想外の返答を返したとしても「今なら、まだ引き返せる」。そう続ければ、確実に俺の思惑通りの行動を取るだろう。さて……どう応えるか?

「オレなら大丈夫だ。だからさ、仲間外れにしないでくれよ」

 俺の予想に反して、力丸は微かな笑みを浮かべながら応えた。ごねることを予想していただけに、少々拍子抜けしたが、好都合な反応に出てくれた。後は余計な感情を面に出さない様に、さり気なく振舞わねば……。

「判った。だが、無理はするな」

「ああ」

 力丸は短く返事を返しつつ、苦笑いを浮かべて見せた。

「でもよ、自分から誘っておいて、今更引き返せって言うのも可笑しな話だと思うぜ?」

 思わず立ち止まる俺の肩を叩きながら、力丸は何時もの様に豪快に笑い飛ばした。力丸の言う通り、確かに身勝手な台詞だ。誘っておきながら、やばそうだったら帰れとは筋が通らな過ぎるということだ。だが、これで退路は無くなった。前に進むしか無い。だからこそ細心の注意を払う必要があることは言うまでも無い。敵の素性は殆ど明らかには成って居ない。迂闊な行動は取り返しのつかない結末に至るだろう。

「気を引き締めて行こう。何が起こるか判ったものでは無いからな」

 皆、真剣な面持ちで頷く。シトシトと雨の降り頻る中、俺達は平安神宮を目指し歩き続けた。雨は煮え切らない降り方をしている。微かに霧が掛かっているのか、遥か視界の先に広がる比叡山が白々と霞んで見えた。

 やがて白川と、そこに架かる小さな橋が見えてくる。川といっても鴨川の様に大きな川では無い。街中を流れる小さな川。透き通った流れは何とも涼やかな色合いを醸し出す。サラサラと水の流れる心地良い旋律が染み渡る。頑なになった心を沈める一服の清涼剤となった気がする。さらに三条通を歩き続ける。何時の間にか皆無言になっていた。言葉に出来ない異様な気配が漂い始めていた。可笑しな表現だが現実であって現実では無い、見た目の良く似た別の世界を歩んでいる。そんな不可解な感覚を覚えていた。何とも異様な感覚だった。

 やがて大きな交差点に至る。三条通と神宮通が交差する大きな交差点。ここを左折して神宮通へと入る。神宮通の遥か彼方に平安神宮の大鳥居が見えてくる。不意に何処からともなく、微かに線香の香りが漂い始める。異様な雰囲気に皆の緊張も一層高まる。

◆◆◆14◆◆◆

 俺達は神宮通を北上していた。随分と長い時間歩いた気がする。遥か彼方に見えていた平安神宮の大鳥居も大分近付いてきた。何時の間にかうっすらと風が出てきた。肌を撫でる様な生暖かい風だった。雨はもう殆ど降っていない。皆、無言で傘をたたむ。天気の割に交通量は少なく、時折車が往来するばかりであった。見慣れている光景である筈なのに、どこか違和感のある光景だった。

 左手には京都国立近代美術館がそびえる。不思議な光景だった。日本古来の伝統を感じさせる平安神宮の大鳥居と、近代的な面持ちを持つ京都国立近代美術館。過去と現在とが同じ空間に同居しているという何とも不思議な空間だ。そんな風変わりな場所で着物姿の古風な娘が現れるというのだから実に妖しげな話に思える。

 大鳥居を抜けて道路沿いに歩を進める。最後の信号を後にすれば、目的地の平安神宮は目の前に佇む。何時訪れても平安神宮はそのスケールの大きさに圧倒される場所だ。

「ううむ、随分と歩いたのじゃ」

 額の汗を拭いながら大地がぽつりと呟く。

 目の前には平安神宮の玄関口となる応天門が構えている。鮮やかな朱色が印象的な門である。思わず威風堂々とした姿を見上げずには居られなかった。この雄大な応天門は一体どれだけの人々の往来を見届けて来たのだろうか? 勇壮なる佇まいに、歴史の重みに圧倒される。

「皆、応天門を抜けるぞ」

 応天門を通過すれば平安神宮の広大なる境内へと至る。雨が降っていたこともあり、白砂は湿気を孕んでいた。俺達は注意深く周囲を見渡した。小さな異変とて見逃さぬ様にせねばならない。異様なる存在の気配を感じるべく五感を研ぎ澄ます。だが、拍子抜けする程に何も変わった様子は無かった。雨上がりの厚みを帯びた雲だけが空一面に広がる。湿気を帯びた空気を肌で感じながら再び周囲を見渡すが、やはり何一つ異変は感じられなかった。肩透かしを食らった様な気分になる。

「輝、件の女はどの辺りで目撃されたのか判るか?」

 平安神宮は広大な敷地面積を誇る。闇雲に探し回るのは簡単なことでは無い。探索箇所を絞り込まなければ、とても調査し切れる広さでは無い。

「それがね、バラバラなんだよね。平安神宮って凄く広いじゃない? 栖鳳池に架かる泰平閣を歩いている姿を見たという人もいれば、大極殿前で出会った人もいるらしくてね。白砂の広場を歩いている時に見掛けたという話もあってね。どうも特定の場所に現れるのではないみたい」

 何処に現れるのか皆目検討もつかない相手を、ただ闇雲に探し回るのは無理があるだろう。それに……本当に存在しているのか疑問に思い始めていた。平安神宮を訪れてから何の異変も起きていない。気配すら感じられないのだ。これでは俺達が必死で探し回っても、恐らく何の手掛かりも得られないだろう。皆が落胆し始めた頃、沈黙を守り続けていた力丸が不意に口を開いた。

「やっぱりさ、うわさ話なんて、所詮はうわさ話に過ぎないってことだと思うぜ?」

 唐突に放たれた力丸の言葉に皆が一斉に振り返る。先刻までの不安に満ちた表情は消え、どこか安堵しているようにも見えた。だが、輝も黙ってはいない。すぐさま向き直ると切り返すかの様に反論を叩き付ける。

「そんなことないよー。だって、もう六人も変死しているんだよ?」

「根拠は?」

「え?」

「変死したことと、うわさ話の関係性は?」

 予想外の反応……否、ある意味では予想通りの反応と言えるだろう。冷たい眼差しで輝を問い詰める力丸。普段の振る舞いとは大きく異なる冷徹な振る舞いに驚かされた。口を真一文字に結び、腕組みしている様は酷く挑戦的にも見えた。言葉に窮する輝を見下しながら、力丸は尚も鼻息荒く責め立てる。

「説明できねぇだろ? うわさ話なんてさ、所詮はそんなもんだってことさ」

「そうかなぁ?」

「まだ言うか? 大体、現に何も起きていないじゃねぇか? 何だったら、徹底的に調べてみるか? オレはなーんにも見付からないって方に賭けてもいいぜ?」

 何時になく攻撃的な一面を見せる力丸に皆が困惑する。一体どうしたというのだろうか? 心此処に在らずといった振る舞いを見せたかと思えば、今度は一転して敵意を剥き出しにしたかの様な立ち振る舞いを見せた。

 俺の中で憶測が確信に変わった瞬間であった。だが、迂闊な詮索は避けたかった。誰にでもある筈だ。なりふり構わずに隠し通したい真実という物も。それに、全力で隠し通そうとする秘密を無理矢理暴けば、往々にして不幸な結末に陥るのは常だ。鶴の恩返しと一緒だ。知らないということが幸せに繋がる話など無数にある。少なくても今はその時では無い。力丸に真実を叩き付けるのは、頃合を見計らってからになるだろう。悪いな、輝……貧乏くじを引かせることになってしまって。本来であれば、その役目は俺が担うつもりであったが、中々人は思うようには動いてはくれないものだな。

「なら、もう少しだけ調べてみようよ。そうすれば、嘘かホントか判るかも知れ無いでしょう?」

 眉をひそめ、納得していない様子の輝。その振る舞いが、さらに力丸の勢いを加速させた。皆に聞こえる様に大きく溜め息を就きながら、力丸が唐突に声を荒げる。

「諦めの悪い奴だな……」

「え? だって、まだ何も調べていないじゃない?」

「だっても何もねぇんだよ! 大体、テルテルはいつも、くだらねぇオカルト話にオレ達を巻き込み過ぎなんだよ。この間の能面のことだってそうじゃねぇかよ!」

 唐突に声を荒げる力丸の勢いに皆が戸惑う。怒りの炎は尚も激しく燃え上がる。不味いな。あからさまに在らぬ方向へと突き進んでしまおうとしている。何とか軌道修正せねば……。

「お、おい、力丸。止せ……」

 止めようとする俺の手を乱暴に振り解くと、力丸は今にも殴り掛かりそうな勢いで、さらに声を荒げた。

「コタは黙っていろよ! 誰も言わねぇからよ、オレが言ってやるぜ。はっきり言ってな、迷惑なんだよ。判っているのかよ? オレ達を危険に巻き込むだけ巻き込んで置いて、一体何の得があるってぇんだよ? 意味判んねぇぜ。大体、仮に何か明らかになったとしても、また可笑しなことに巻き込まれるだけに決まっているさ。付き合ってらんねぇよ。もう、あんなおっかねぇ想いもしたくねぇしよ!」

「え、えっと……リキ、ごめんね。あの、ぼく……」

 言葉に詰まり動揺する輝に一瞥をくれると、力丸は溜め息混じりに吼えた。

「オレはもう帰るからな。じゃあな!」

 輝はただただ、呆然と立ち尽くしていた。誰も、何も言えなかった。力丸が普通じゃ無いことは判っていたが、これ程までに大きな怒りを抱いているとは予想もしなかった。ありったけの思いをぶちまけると、力丸はそのまま無言で去っていってしまった。肩をいからせ乱暴に去り行く後姿に、誰も何も言えなかった。

(間違いなく此処で接触したのだろう……だからこそ、あの女を守るために、敢えて矛先を自分に向けさせるつもりか? やれやれ、事態は想像以上に深刻だな)

「な、何もあんな言い方すること無いのじゃ。テルテルよ、あまり気落ちするで無いぞ?」

 慌てて大地が声を掛けるが、輝は哀しそうな笑みを浮かべていた。

「あ、あはは……そうだよねぇ。迷惑、だったよね……ごめんね、ロック。おかしなことに巻き込んじゃって、ついでに嫌な想いまでさせちゃって。みんなも、ごめんね」

 随分と手厳しい言葉をぶつけたものだ。力丸らしからぬ立ち振る舞いであった。俺達に文句をいう時も、力丸はあんな手厳しい言い方はしない。むしろ豪快に笑い飛ばす性分であることを考えると、やはり違和感を覚える。遠ざかる力丸の大きな背中は酷く哀しそうに見えた。

 相変わらず不器用な奴だ。互いに気心知れた仲間同士とはいえ、やはり、この問題に関しては自分の手で決着を付けたいということか……だけど、この問題はお前の手で解決出来るような話では無い。相手が相手だけに、人の手には負えないのだから。

「さて……潮時だな。そろそろ平安神宮の参拝時間も終わる」

 時計をちらりと眺めながら太助が声を掛ける。中々気の利いた振る舞いだ。

「えっと……おお! そうなのじゃ!」

 何かを思い付いたのか、大地が声を張り上げる。何を思い付いたのかと振り返れば

「皆よ、小腹は空かぬかの? 帰り道に都路里でパフェを食べて帰るのじゃ!」

 甘味好きな輝に対しての気遣いだろう。もっとも甘味好きという面に関しては大地も輝に退けを取らないのを考えると、大地が単純に食いたかっただけかも知れないが……。まぁ、これはこれで気の利いた振る舞いであった。そのように解釈しておくとしよう。

「それも悪くないな。気持ちを落ち着かせるには、抹茶の苦味と渋みは良いかも知れない」

 皆、何だかんだ言って輝には甘い。やれやれ、兄貴としてはもう少し輝の行動を抑止することも必要かも知れない。安堵の吐息が漏れるが、俺の脳裏には力丸の哀しそうな背中が蘇る。今回は輝に貧乏くじを引かしてしまう結果となってしまった。本来であれば、俺が引かねばならなかった貧乏くじだ。一つ、借りが出来てしまった。何処かで借りは返さなくてはならないな。

 空を見上げれば再び不穏な色合いに染まり始めていた。厚みを帯びた暗い雲からは、いつ雨が降り出してもおかしく無さそうに思えた。

「さて。話もまとまったところで、雨が降る前に引き上げよう」

 平安神宮を後にし、俺達は再び東山を目指した。東山から三条経由で祇園四条へ。目指すは四条通にある茶寮都路里。傷心の輝を元気付けてやるためとは言え、大地も中々に修羅な道を選ぶものだ。心なしか、大地も太助も大勝負に臨む男の顔になっている様に思えた。中々に良い面構えだ。無論、俺も気合いを入れていかねばならない場所だ。

 祇園の都路里本店は色々な意味で強烈な戦場と化す。だからこそ生半可な覚悟で挑むことは許されないのだ。さて……心の準備が出来たところで向かうとしよう。

◆◆◆15◆◆◆

 四条通の一角に佇む甘味処、茶寮都路里祇園本店。早くも戦場の様相が広がる。此処、都路里の祇園本店は甘味好きな女達の戦場と化す。確固たる信念を胸に抱いた強固なる女達が陣営を組む。時に龍を思わせる程の長蛇の列にもなる、と言うのは大袈裟だろうか? いずれにしても此処は甘味好きの女達の聖地とも呼べる場所。あまりの混雑具合に戦線離脱する者も多い様に思えるのだが、意外にも離脱するものは少ない。此処は女達の静かなる戦場。甘味に命を賭ける女達が、そうそう容易く引き下がる訳が無いのだ。中には遠方から遥々参戦するという猛者もいるらしい。やはり生半可な覚悟で首を突っ込んではいけないということだろう。

「ううむ、幸運にも今日はそれ程混雑して居らぬ様子じゃの」

「ああ。この程度なら許容範囲だ」

 大地が、太助が安堵の吐息を漏らす。どうやら最初の関門は無事に突破出来そうに思える。まずは一安心。だが、最初の関門を突破出来ても、その先にはさらなる関門が待ち受けている。何しろ女達の群れの中に混じる数名の男達。浮かない訳が無いのだ。

(気、気のせいだろうか? 女達の冷たい視線が突き刺さる気がする……)

 男女同権が騒がれている昨今の世の中、女性の人権を熱く主張する女達に、だからこそ俺は熱く問い掛けたい! 男が甘味処に立ち寄ることにもう少し寛容になって頂きたい。俺達は決して貴殿らの聖域を侵すような真似はしない。ただ、しばしの間、至福の一時を過ごさせて欲しいだけなのだ。そう! 言うなれば、暫しの間の雨宿りのために、猫の額程の軒先を貸して欲しいだけなのだ! だから、女性専用車にうっかり迷い込んでしまった無知なる男達を蔑む様な、冷ややかな目線を送るのは止めて頂けないだろうか? 俺は声を大にして叫びたい! 男女同権とは斯く在るべき物では無いのだろうか、と!

「……おい、小太郎」

 何時に無く神妙な面持ちで太助が小突く。

「む? 何だ?」

「声を大にして叫びたくなる気持ちは判るが、心の叫びは、あくまでも心の内だけに秘めて置いて貰えないか……」

 またしても何時もの奴をやってしまったか。傍らでは大地が困った表情で、俺を見上げている。

「大地、もしかして……」

「ううむ……皆まで言わずとも良いのじゃ。ただ、少々、お嬢さん方の視線が痛いだけなのじゃ……」

 微かに頬を赤らめながら、周囲の女性陣をチラチラと伺う大地。輝もまた苦笑いしながら俺に目線を投げ掛けていた。やはり、此処は熱き戦場であるのは間違いない。彼の地で殉ずることが出来たのであれば、遠方より訪れし女達も本懐を遂げられたと祝せることであろう。

 それから十数分後……さして待つことも無く、店内へと俺達は案内された。予想はしていたが、周囲は皆一様に女であった。何か悪いことをした訳でも無いのに、妙に居た堪れない気持ちになるのは何故だろうか? まぁ、確かに男達に占領されている牛丼屋に、女達が数名入ってくれば多分に目立つだろう。それと同じ原理なのを考えると間違えた反応には思えないが、やはり肩身は狭く感じられた。

 階段を上り二階へと案内される。細長い店内は女達の活気で満ちあふれていた。俺達は調理場側のテーブルに案内された。白い壁紙には「都路里」の文字がビッシリと描かれていた。竹を使った飾り柱も風情がある。中々に洒落た店内だ。どう考えても、俺達の様な無骨な男集団には似つかわしくない……。

(それにしても落ち着かない空気だ……初めて、如何わしい本をレジに運んだ時の気持ちと良く似ている。あれは何年前だっただろうか? なまじ、レジのお姉さんが小奇麗だったから余計に……って、俺は何を口走っているのだ!? 落ち着け! 俺っ!)

 普段から甘味処に良く出向く輝と大地のコンビは、女達に囲まれることに慣れているせいか、普段と変わらない様子であった。楽しそうに二人でメニューを眺めながら談笑する当たり、中々に余裕が見受けられる。太助もまた普段と変わらないクールな振る舞いを見せていた。むしろ、女達の視線を集めていることだろう。もっとも、太助曰く『俺は女には興味が無い』とのことなのだが……。

(むう、太助よ、それは……事の詰まり、男には興味があるということか?)

 思わず、太助の顔をまじまじと見つめてしまった。

「何だ、小太郎? 俺があまりに男前だから見とれていたのか?」

「ご、誤解を招くような発言をするな……」

 い、いかん……。思わず声が裏返ってしまった。ううむ、事の詰まり、俺だけが妙に緊張していたという結果になったという訳か。何とも小心者な自分が情けなく思えた。

「あ、すいませーん!」

 元気一杯な輝の声が響き渡る。一斉に女達の目線が集まる。丁度、目の前を通り過ぎていった店員を呼び止めるために発した声……否、何のことは無い。少々、音量が大きかっただけのことだ。多分。

「注文良いですかー? えっとね、特選都路里パフェを四人前お願いしまーす」

 涼やかな表情で佇んでいた太助の眉間に、一瞬深い皺が刻まれたのを俺は見逃さなかった。だが、輝は何事も無かったかの様に、軽やかな口調で「以上でーす」と返答してみせた。

(お、おい、輝……せめて皆の返事を確認してから注文しろ。もう、遅いけど……)

 太助はやはりクールな性分だ。一瞬険しい表情を見せたが、すぐに落ち着いた表情を取り戻すと、これまた涼やかな振る舞いで茶を口に運ぶ。そのまま御馴染みの扇子を仰ぐ様は、何とも優雅な振る舞いでは無いか。その悔しいまでに優雅な立ち振る舞いは俺も見習いたいところだ。

「しかし、解せないな」

「周囲のお嬢さん方の視線のことかの?」

 太助の言葉に大地が反応する。その瞬間、再び太助の眉間に深い皺が刻まれる。一瞬、手にした湯飲みが軽やかに軋む音が聞こえた気がして、思わず背筋が伸びる。

「そ、そうでは無い……」

 大地の天然度合いの高さは山科と良い勝負だ。緊迫した状況の中にあれば、ある程に、その天然度合いは鋭さを増す。ある意味、匠の世界を生きる達人の様な存在なのかも知れない。否、大地の場合、ちょっとした珍獣の様な存在と言えよう。

「解せないのはうわさ話だ。輝が入手したうわさ話は、果たして、本当に紛い物だったのだろうかと考えていた」

「ぼくのこと庇ってくれるの? ありがとう」

「太助は優しいのじゃ。ううむ、男前な上に、優しさまで持ち合わせておるとは、男の鏡じゃのう」

 紛い物では無いということは断言できる。そうで無ければ今朝見掛けた情景の説明がつかない。それに……何よりも、力丸の振る舞いが全ての真実を如実に現していると言えよう。言うなれば、そこに「真実」が隠されていると、自らの振る舞いで証明したようなものなのだから。だが、予想以上に事態は深刻だ。力丸は深みに嵌ってしまおうとしている。さて……この厄介な局面を、どの様に打破すれば良いか? 何らかの策を講じねばならない。考え込む俺に同調しているのか、ふと顔をあげれば皆の間に再び沈黙が訪れ、気まずい雰囲気に陥る様が感じ取れた。しばし無言の時が訪れる。

「お待ちどう様です」

 だが、緊迫した静寂を打ち破るべく特選都路里パフェ四人前が運ばれてきた。抹茶を惜し気もなく使った贅沢な逸品。芳醇な抹茶の香りが鼻腔をくすぐる。甘味好きの輝や大地には極上のおやつとなることであろう。無論、俺や太助も美味いものには目がない。楽しい一時を過ごさせて貰うとしよう。

「明日、学校でリキに会ったら、ちゃんと謝らないとなー」

 栗の甘露煮を口に運びながら輝が呟く。

「そうだな。それが良いと思う」

 白玉を口に運びながら俺は返した。

「でも、リキ、許してくれるかなぁ?」

 抹茶ゼリィを口に運びながら再び輝が目線を落とす。やはり滅多に怒ることの無い力丸を怒らせてしまったことを気に病んでいるのだろう。輝の表情が曇る。スプーンを握ったまま遠くに目線を投げ掛けていた。

「誠意を篭めて想いを伝えれば良い。例え傷付けあったとしても、許し合えるのが友達だろう?」

 俺も輝の真似をして抹茶ゼリィを口に運びながら返した。

 許し合えるのが友達――それは俺の中でも『友達』という存在への願望でもあった。友とは、そういう存在であって欲しいという俺自身の切なる願い。否……身勝手な欲望と言った方が正しいだろう。

「そう心配することもあるまい。力丸は体もデカいが、心もデカい男だ」

 抹茶ソフトを口に運びながら、太助が言葉を添えれば

「そうなのじゃ。心配後無用なのじゃ」

 早々と最深部の寒天を穿り回しながら、大地が相乗りする。

「そ、そうだよね」

 後押しを受け勇気付けられたのか、輝の表情に再び笑顔が戻る。ほうじ茶を口に運びながらも、安堵に満ちた笑顔を浮かべていた。その笑顔を見つめながら大地がにやにや笑う。長いスプーンを指揮棒の様に振りかざす手元に、あからさまに何か、不穏な予感がした……。

「まぁ、リキはそういう褒め方をすると『アレもデカいんだぜ?』と返すのが難点じゃがのー」

 力丸のモノマネ混じりに可笑しそうにケラケラ笑う大地。飲んでいたほうじ茶を勢い良く吹き出す輝。眉間に無数の深い皺が刻み込まれる太助。ついでに、握り締めたスプーンが妙な音を発するのが聞こえた。ついでに、一瞬、店内を静寂が駆け巡った。

(大地よ、頼むから周囲が凍り付くような発言は止めてくれ……)

 冗談はさておき……力丸の件はどう対処するのが良いだろうか? 何か良い案は無いだろうか? 力丸は自らの腕一本で多くのことを乗り越えてきた経歴を持つ。納得のいかなかった自分自身の在り方を軌道修正するために多くのことに挑戦してきた。そして、その都度目的を達成させた経歴を幾つも持つ。一度自力で物事を解決することを覚えた者というのは、往々にして仲間に頼る前に、自らの手で物事を解決しようと試みる傾向にある。力丸は少なくてもそういう奴だ。

 だが、全ての事案を一人で解決しようなどと考えるのは無理があるというもの。ましてや情鬼絡みの話となれば、尚のこと手に負えるような代物では無くなる。なまじ自己解決能力が高い力丸だけに、行き詰まっていても俺達には話してくれないということも十分に考えられる。

(やはり、ここは本人に直接聞き出す他、道は残されていないのかも知れないな)

 特選都路里パフェを堪能し終わった俺達は、それぞれの家路に就くことにした。

 都路里の外に出ると、何時の間にか雨が降り出していた。やっと鎮まった痛みが再び蘇ったかの様な強い雨足。それから線香の香りと異様な冷気。やはり、事態は確実に俺達を侵食しようとしているのだろう。のんびり構えている訳にはいかなかった。

「輝、済まない。俺は先に帰る」

「え? あー、ちょっと! 待ってよー!」

「済まない、急ぎの用事なんだ」

 用事がある旨を伝え、俺は大急ぎで花見小路を走った。何時の間にか空は猛々しい唸りをあげていた。時折駆け抜ける稲光。地響きを思わせる様に轟く雷鳴。まるで獣の咆哮だ。傘を片手に俺はひたすら走り続けた。走りながら一日の出来事を振り返っていた。今朝、学校に行く途中に出会った女……あの女こそが事件の鍵を握っているはず。何気なく、あの女の姿を思い出そうとしていたが思わず足を止めた。

(可笑しい……鮮明に記憶に残っているはずなのに、何故、何も思い出せない!?)

 不意に言葉に出来ない不安に駆り立てられた。一体、俺は何に出くわした? 確かに、何か記憶に残る不可解な体験をしたはずだ。だが、何故か思い出そうとすると、肝心の『存在』が見えなくなる。深夜のテレビが終わった後の、あの無機的な灰色の砂嵐に包まれたかの様に妨害される。見えない恐怖に恐れおののき、気が付くと俺は足を止めていた。否、硬直してしまい前に進めなくなってしまっていた。雨は立ち止まった俺に容赦無く降り注ぐ。

(俺は一体、何を見たのだろうか? 何故、思い出せないのだろうか?)

 不意に言葉に出来ない恐怖に襲われた。立ち止まってはいけない。逃げなければ見えない何者かに追い付かれる。強まる雨足の中、体中に電気が走る様な感覚を覚えた。身の危険が迫っている。そんな恐怖感に駆られ俺は走り出した。逃げなくては! とにかく、一刻も早く逃げなければ! 俺は息を切らしながら走り続けた。

「おい、ちょっと待て!」

 不意に俺を呼び止める声。叩き付ける様な雨の音の中で聞こえた声。恐る恐る振り返れば、そこには太助が佇んでいた。酷く取り乱した表情の俺に、やれやれと言った表情を見せた。

「少し、話さないか?」

 断る理由も無かった。俺は太助に導かれるままに再び花見小路を上り始めた。どこへ導こうとしているのだろうか? 俺は黙って歩き出す太助の後に続いた。

◆◆◆16◆◆◆

 雨足は強まる一方であった。この雨の影響だろうか、人通りも少なくなった巽橋まで来た所で太助は足を止めた。激しく降り続ける雨の影響で巽橋の下を流れる白川の水かさも増している様に思えた。白川はゴウゴウと音を立てて流れている。

「小太郎、お前に問いたいことがある」

 濁った色合いの白川の流れに目線を落としながら、太助が問い掛ける。

「そのためにわざわざ、こんな所まで連れて来たのか?」

 俺も隣に並んで白川の流れに目線を落としてみせる。吸い込まれそうな、呑まれそうな流れであった。

「まぁ、そんなところだ」

 何の話かは知らないが、話をしたいならば屋根のある場所を選んで欲しかった。強い雨足の中で足元はだいぶ濡れ始めている。そんな俺の心の声には構うことなく、太助は何時もと変わらぬ振る舞いを見せるばかりであった。

「小太郎、お前は力丸のことをどう思う?」

「どうって……まぁ、普段とは少し違っていたな」

 本当にそれだけか? そう言いたげな眼差しで、太助はじっと俺を見つめている。鋭い眼光で、ただじっと見つめている。無言の圧力に耐えかねて思わず目線を逸らしてしまった。それを見ていた太助が含み笑いを浮かべる。

「本当のところはどう感じている?」

 やれやれ……太助は鋭い奴だから、迂闊に隠し事をしたところで、容易く見破ってしまうだろう。俺と力丸との付き合いが長いことも知っているだけに、余計に隠し事は通用しないだろう。だが、それを知ってどうするというのだ? 輝の様な無駄な好奇心は持ち合わせていないと思っていただけに、意外性を感じていた。

「……この一件には人ならざる者が関わっている。違うか?」

「なっ!?」

 涼やかな表情で予想もしない言葉を発せられて、思わず声をあげてしまった。勘の鋭い奴だとは思っていたが此処まで鋭いとは予想もしなかった。恐らく、何をどう取り繕っても逆効果になるだけだろう。

「口には出さなかったが――先刻、平安神宮を訪れた時、俺は確かに異様な気配と、それから視線を感じた。氷の様に冷たい眼差しだ」

 俺はただ黙って太助の言葉に耳を傾けるしか無かった。ふと、以前太助が口にしていた言葉を思い出していた。『目に見えざる者を敏感に感じ取ることが出来る』と言っていた言葉を。信心深い祖父母の影響で、太助もまた信仰心には厚い身である。だからこそ感じ取れるものもあるのだろう。

「異様な気配に眼差し。取り乱した力丸のこと。それに、数日前に体験した能面絡みの一連の出来事」

 白川の流れに目線を落としながら巽橋を歩んで行く。何時の間にか雨足は弱まり始めた様に思える。足元は既にだいぶ濡れてしまったが、それでも、この話からは離れる訳にはいかなかった。力を借りるためでは無い。太助のことだ。放って置けば、事態の解決のために動き出さないとも限らない。だが、だからこそ要らぬ行動は謹んで欲しい。敵の思惑も不透明な状況で、力丸と太助の二人を守り抜くのは不可能だから。

「俺は小太郎程、力丸との付き合いが長い訳では無い。だが、力丸が良い奴だということ位は判る。馬鹿みたいに真っ直ぐで、無駄に純粋な奴だ。だから……」

 不意に太助が静かにこちらを向き直る。一瞬、ゾっとする程に迫力のある眼差しを浮かべていた。それは敵対する者を激しく威嚇する眼光であった。

「だから、力丸を傷付ける奴は容赦しない。例え相手が妖怪変化だろうが化け物だろうが、例外なく叩き潰す」

 太助と力丸は気が合うらしく二人で出掛けたりしたという話も聞いている。その中で、恐らくは力丸個人から色々と話を聞かされているのかも知れない。もしかしたら、力丸は自身の過去の話さえ伝えているのかも知れない。

「人の弱みに付け込むとは、実に姑息な手口だ。性根の腐った奴のやることだ」

「力丸は……魅入られたのかも知れない。相手の素性は正確には判らないが」

 太助は何処まで事情を理解しているのだろうか? 憎悪の能面師の一件に関しても、それなりに深い所まで理解しているのかも知れない。だけど……未だカラス天狗のことを話すべきでは無い。それはまた次元の異なる話だ。

 話し込んでいるうちに雨はあがったらしく、足元の水溜りに波紋が広がることも無くなった。木々の葉から、忘れ形見の様に零れ落ちる雨粒の音だけが微かに響き渡る。

「平安神宮に潜む魔性、か……六人の犠牲者達も、そいつにやられたのだろうな」

 空を見上げながら太助は何やら不敵な笑みを浮かべていた。相変わらず喧嘩好きな性分だ。俺よりも遥かに攻撃性は高いことだろう。何を考えているのか想像するのも恐ろしい。

「フン。相手はどうせ化け物だ。何をしても罪に問われることも無かろう?」

 どこかで聞いた気がする台詞だ……自分で言う分には気にならないが、他人が口にしているのを聞くと、中々の問題発言に聞こえるから不思議だ。

 不意にどこからか鈴の音色が響き渡った。チリーン。透き通った鈴の音色。慌てて周囲を見渡すが、鈴の音色を放ちそうな物は何処にも無かった。太助にも聞こえたらしく周囲を見渡していた。

「ほう? うわさをすれば何とやらか? 探しに行く手間が省けたというものだな」

「止せ。敵は人を凍り付けにする程の力を持つ相手だ」

 再び鈴の音色が響き渡る。今度は二つ。チリーン。だが、鈴の音色はそれ以上響き渡ることは無かった。警告なのだろうか? 余計な真似をするなという意思表示のつもりなのだろうか? いずれにしても深追いをするべきでは無いことは間違い無いのだろう。そう考えていると、不意に人の足音が聞こえてきた。何人もの人々が走る音。それも一斉にこちらに向かって来ている音であった。水溜りを駆け抜けているのか、バシャバシャと飛沫が舞い上がる音が聞こえる。その音に異様なまでの恐怖感を覚えていた。何故、恐怖感を覚えていたのか自分でも理解出来なかった。捕らえられる! 何故か、そんな恐怖心に襲われた。恐怖心は一気に膨れ上がり、此処に佇むことが恐ろしくて堪らなくなった。

「お、おい……大丈夫か、小太郎?」

「あ、ああ……」

 太助には聞こえていないのだろうか? 駄目だ! 此処に留まっていては大変なことになる! そう察した俺は、慌てて太助の手を引っ張り、四条通を目指して走り出した。

「お、おいっ、どうしたんだよ!?」

「聞こえないのか!? 無数の人々が走り込んで来る音が!」

「走り込んで来る音だと? 俺には何も聞こえないが……」

 太助は怪訝そうな表情を浮かべていたが、只ならぬ俺の態度に危機感を覚えたのか、多くを問い掛けることなく走り続けた。人混みをすり抜けながら、ただ俺達は走り続けた。人通りの多い四条通をひたすら走り続けた。軒を連ねる店は何時もと変わらぬ様子で営業を続けている。道往く観光客達の流れも何時もと変わらない情景だった。

 だが、だからこそ、恐ろしく思えて仕方が無かった。平和な日常の中にジワジワと侵食するかの様に忍び寄る非日常の世界。長い髪を張り巡らせながら、獲物を捕らえようとする様に、どうにも言葉にすることの出来無い恐怖心を駆り立てられていた。走り続けているうちに視界に南座が飛び込んできた。もうじき四条大橋が見えてくるだろう。

「はぁっ、はぁっ、ま、まだ足音は聞こえるのか?」

「否……もう、聞こえなくなった」

 一体何だったのだろうか? 幻聴だったのか? 否、そんな訳は無い。少なくても俺の耳には確かに、足音が聞こえていたのだから。水飛沫を巻き上げて、勢い良く駆け回る無数の足音が、確かに聞こえていたのだから。嘘でも偽りでも無い、確固たる殺気を感じさせる足音であった。

「太助、良いか? 絶対に余計な行動を起こさないでくれ。これは俺達の手に負えるものでは無い」

 腕をしっかりと握り締めながら懇願する俺の姿に焦りを覚えたのか、太助が静かに頷くのが見えた。不安と緊張で手の平は汗で滲んでいた。その熱気を直接肌で感じ取ったのだろう。太助は俺の目をじっと見つめたまま、静かに頷いて見せた。

「ああ。そうだな……生身の人が相手ならば、幾らでも立ち振る舞ってやるが、相手が妖怪変化とくれば、確かに分が悪いな」

 だが、次の瞬間、何時もと変わることの無い飄々とした含み笑いを浮かべて見せた。

「しかし、お前の口ぶりから察するに……俺達だけではどうにも出来ないが、何らかの手段はある。そう言っている様にも聞こえるのだが?」

 にやにや笑いながら俺の反応を伺う辺り、相変わらず性格が悪いことだ。慌てて目を逸らす俺の振る舞いを見つめながら「余計な詮索は止めておくよ」と言い残すと、太助は家路に就いた。釈然としない気持ちは払拭仕切れなかったが俺も家路に就くとしよう。すっかり足元がズブ濡れだ。おまけに散々走り回ったお陰で嫌な汗を掻いた。さっさと着替えたいものだ。夕暮れ時を過ぎ、雨上がりの四条通は賑わいを見せていた。人々の流れを縫う様にして俺は家への道を急いだ。

◆◆◆17◆◆◆

 それにしても、あの足音は一体何だったのだろうか? 必死で走り続けたおかげで息が切れ、胸が酷く痛む。ついでに逃げる途中に傘を何処かに置き忘れてきてしまったのだろうか? 気が付けば、すっかりずぶ濡れになっていた。汗と雨が入り混じった不快な感触に鳥肌が立つ。急いで風呂に入ろう。雨に濡れた状態では気持ちも落ち着かない。考えも整理できないだろう。

 ようやく懐かしの我が家に到着した。ずぶ濡れのまま家に入るのも憚られたので、髪や服に掛かった雨を払ってみたが、ほんの気休めに過ぎなかった。体から滴り落ちる雫で足元にみるみるうちに染みが広がる。

(下着までびしょ濡れになってしまうとは、最悪だな……)

 勢い良く玄関を開けるが明かりは灯っていない。静まり返った廊下からは妙な冷気が漂ってくる。どうやら母は留守らしく家の中は静まり返っていた。致し方在るまい。床を濡らすことになってしまうが背に腹は変えられない。

 肌に張り付く制服の不快な感触に身震いしながら俺は風呂場へ急いだ。心なしか線香の香りが感じられた。だが、留守にすることが判っていながら線香を焚くことは在り得無い。仏間から漂ってくる気がしたが、今は何よりも着替えを優先したかった。

(何か異変が起きている様で気に掛かるが、今はそれ以上にシャワーを浴びたい!)

 シャワーを浴びて一頻り汗を流したところで二階に上がる。やはり湿気のせいなのか? 嫌な音を立てて軋む階段をゆっくり上る。

(それにしても、やはり可笑しい……何か嫌な匂いがする。線香の香り? 否、違う。もっと焦げ臭い匂いだ……)

 異様な気配が漂い始める。何かが焦げたような不快な匂いが立ち込める。うっすらと立ち込める霧……霧!?

(違う! これは霧ではない!)

 それは霧などでは無く、もうもうと立ち込める煙であった。在り得ない匂いに驚き、俺は一気に二階へと駆け上がった。階段を駆け上がると同時に突然吹き付ける熱気。ジリジリと激しい痛みを伴う程の熱気に、思わず腰が抜けそうになった。そして、そこには信じられない情景が広がっていた。

「な……何だ、これは!?」

 そこは見慣れた二階の光景では無く、まるで見知らぬ場所であった。

 隙間から青白い月明かりが差し込む格子状の扉は、所々が雨風に曝されたのか無残に崩れていた。雨漏りの跡が広がる所々が割れた床。酷く湿気を帯びたかび臭い空気。何処かの古びた廃寺のお堂を思わせる光景であった。天井も、床も、何もかもが激しく燃え上がる様が見えた。煙は視界を遮る程に充満していた。凄まじい熱気。呼吸をすれば、唐突に肺が焼けるような痛みに襲われる。

(くっ! い、息苦しい……!)

 煌々と燃え上がる炎。凄まじい熱気と煙に阻まれ、呼吸さえ出来ない。木々が燃え、爆ぜる音だけが響き渡る。不意に視界が揺らぎ、膝から崩れ落ちた。逃げ道を求め振り返ってみるが、既にそこはお堂の内部に閉ざされていた。俺の家から完全に隔離されてしまったのだろう。

(まずい! こんな所にいたら酸欠に陥る! 否、それ以上に、焼死する!)

 必死で逃げ道を探そうと周囲を見渡す。激しい炎と熱気に包まれて一気に汗が吹き出す。唯一の出入り口である筈の格子戸には大きな錠が掛けられている。逃げ道は無い。燃え盛る炎に包まれる部屋。扉を破壊出来そうな何かを探し、周囲を見渡してみた。不意に、お堂の奥に佇む人影に気付いた。

(人影? こんな場所に一体誰が!?)

 激しく咳き込む。煙に目がやられ酷く涙が出る。息を吸い込めば激しい痛みで咳が止まらなくなる。込み上げて来る涙と鼻汁に死を覚悟せざるを得ない光景であった。不意に人影が地面に崩れ落ちる様が見えた。

「おい、大丈夫か!?」

 人の心配をしている場合では無かったが、崩れ落ちた人影を無碍にする訳にもいかない。髪の長い女……桃色の着物。見覚えのある装いだった。何故か、足元には焼け焦げた縄の残骸が落ちていた。

(まさか……あの女か!?)

 不意に女が振り返った。次の瞬間、驚くべき力で俺の手を掴んだ。

「な、何をする!?」

「ああ……満久、やはり露を助けに来てくれたのですね」

 満久だと? 訳が判らなかった。誰と勘違いしているのかは判らないが、満久という名の人物に心当たりは無い。いずれにせよ一刻も早く此処を逃げ出さなくてはならない。

「例え、どんな仕打ちを受けようとも、露には貴方しかいないのです!」

「ちょっと待て! 俺は満久という人物では無い!」

 焦点の定まらない目線で女は薄ら笑いを浮かべていた。理解出来ない行動だ。何故、こんなにも激しく燃え盛る炎の中で何事も無かったかのように振舞えるのかも理解不能であった。動揺する俺に、さらに追い討ちを掛ける一言を告げた。美しい顔を、酷く、醜く歪ませ、悲痛な笑みを浮かべながら……。

「お願い! 待って、満久! 露を見捨てないで! 嫌っ! 一人にしないで!」

 逃げさないとばかりに恐ろしく力の篭められた、細い指が俺の腕に食い込む。

「行かないでっ!」

「人違いだ! 俺は満久では無いっ! この……放せっ!」

「きゃあ!」

 極限状態での予想もしなかった出来事。迫り来る死の恐怖と得体の知れない怒りとで、俺は女を力一杯蹴り飛ばした。その瞬間であった。突然、雷が落ちたかのような凄まじい轟音と共に、真っ赤に燃え上がる梁が崩れ落ちてきた。そのまま、真っ赤に燃え盛る梁が目の前の女を押し潰すのが見えた。

「きゃあああーーーっ!」

「な……!」

 桃色の着物にも火が燃え移るのが見えた。梁の隙間から覗く白い手。一瞬、微かに動いたが、すぐに動かなくなる。人の肉体が焼け焦げる匂い……。長い髪がみるみる炎に包まれてゆく。同時に、耐え難い異臭が辺り一面に立ち込めた。

「し、死んだのか?」

 何が起きているのか意味不明であった。想像したくもなかった。蹴り飛ばした場所……そこが偶然、燃え盛る梁の落下地点であっただけのことだ。俺は突然の出来事に困惑し、為す術も無く脱力していた。今まで体験したことも無い異様な匂いに、俺は手で鼻と口を覆うことしか出来なかった。

(そうさ……この状況で生き延びられる訳が無い。俺が殺した訳では無い)

 妙な言い訳だ。気休めにすらならない。それでも何とか自分の気持ちを落ち着かせないことには、どうすることも出来なかった。取り乱している場合では無い。冷静にならなければ……。

 不意に火の手が一気に強まった。次々と燃え盛る梁が崩れ落ち、真っ赤に燃え上がる柱が倒壊する。凄まじい熱気が肺に入り込み、俺は激しく咳き込んだ。その瞬間、手の甲に鋭い痛みを感じた。慌てて手を見れば、無数の水泡が出来ては破れ、一気に蒸発する様が見えた。落ちてきた炎を受けてしまったのだろう。

「う、うわあああっ!」

 ようやく気付いた。俺の服にも炎が焼け移っていた。自らの体が炎に焼かれ、焼け焦げてゆく様を見届ける恐怖。耐え難い恐怖と想像を絶する痛みに、俺はのたうちまわっていた。あの女から感じられたのと同じ異臭が自分の体から放たれている。死の恐怖に襲われ何も判らなくなっていた。燃え盛る床の上を転がり回れば、背中に鋭い痛みが駆け巡る。真っ赤に焼けた鉄板の上を転がっているような状況だ。考えたくも無かったが背中から煙が上がる感覚を、次々と水泡が出来ては蒸発してゆく感触を覚えていた。

「あ、ああっ……ああっ! あ、熱い! 熱いっ! 嫌だ……嫌だ、死にたくない……死にたくない!」

 情け無い声を挙げるしか出来無かった。何が起きているのかなんて、考える余裕など微塵も無かった。ただ、生への執着。それしか残されていなかった。

「コタ! コタよ!」

 いきなり誰かに力強く肩を掴まれた。今度は何が起きた? 炎の中から、あの女が化け物になって蘇ったとでもいうのか? 耐え難い恐怖に襲われ、俺は力一杯その手を振り解いた。

「うわああーーっ! く、来るな! 来るなーーっ!」

「コタよ、目を覚ますのだ!」

 誰かに激しく肩を揺さぶられた。眩暈がする程の衝撃に、俺は我に返った。早鐘の如き勢いで心臓が鼓動を刻む。額に滲んだ汗が雨の様に零れ落ちる。慌てて手の甲を見れば火傷の痕跡は何処にも無かった。

 恐る恐る周囲を見渡せば、そこは見慣れた景色。俺の部屋であった。目の前には心配そうに俺の顔を覗き込むクロの姿があった。

(い、今のは何だったんだ? 幻? 一体何が起きたのか!?)

「ふむ。落ち着きを取り戻した様子であるな」

「あ、ああ……済まない」

 未だ心臓は早鐘の様に高鳴っている。何が起こったのか皆目検討が付かなかった。

「何か、飲み物でも飲むか?」

 クロの問い掛けに俺は静かに頷いた。煙を大量に吸い込んだのか、喉の奥が焼けるように痛んだ。否……実際のところは、痛む様な気がしていたのだろう。あの火災の光景が幻であったと考えれば、そう考えるのが正しいのだろう。クロに水を差し出され、俺は一気に飲み干した。実際には火傷している訳では無いのであろうが、喉の奥に酷く違和感を覚える。

「一体、何がどうしたと申すか?」

「ああ、済まない」

「ふむ。気にするで無い。斯様な雨模様では心まで湿気に満たされてしまうであろう。それならば清らなる流れの中で、一時の清涼を得るのが良かろう」

 心なしか足元がふらつく俺を気遣ってか、クロが大きな手で引き上げてくれた。俺ならもう大丈夫だ。そう告げれば、穏やかな笑みを浮かべながら頷く。

「では、共に貴船に参ろうぞ」

「ああ、そうだな……」

 俺の言葉にクロは力強く頷くと窓を開けた。何時の間にか再び雨が降り始めていた。遠くの方で雷が唸りをあげているが落雷の心配は無さそうに思えた。俺達は窓から飛び立つと、そのまま北を目指して舞い上がる。目指すは貴船。雨の湿気を孕んだ空気を浴びながら、俺は大きく息を吸い込んだ。呼吸が出来る……当たり前のことが当たり前では無くなった時、人は死を迎える。その事実と背中合わせの状況に陥ったことを思い出し、身震いせずにはいられなかった。未だに足がすくみ、震えが止まらない。遠ざかってゆく四条通の風景を見つめながら、俺は改めて実感していた。生きていて良かった、と……。

◆◆◆18◆◆◆

 貴船口駅前を目指しクロが静かに下降する。俺を気遣う様にゆっくりと降り立つ。涼やかな気候。流れる貴船川の音色。木々の香り。涼やかな空気と木々に包まれた光景の中で、荒れ狂う心がゆっくりと静まってゆく感覚を覚えていた。

 貴船川の流れる涼やかな音色が響き渡る。川から吹き付ける風は湿気を孕んでおり、ヒンヤリと冷たい感触であった。駅には既に人の気配は無く、空虚なまでに静まり返っていた。月明かりだけが周囲を照らす中、俺達はゆっくりと貴船口駅前に降り立った。

 殆ど明かりも無い道ではあったが、やはり、何時訪れても厳かな雰囲気が感じられる場所であった。人が踏み入ることは恐らく不可能な急斜面には木々が生い茂っている。随分と切り立った場所に切り開かれた道であった。急な斜面とヒンヤリとした風を称えた貴船川に挟まれた道。山側の方に目線を向ければ、人を拒むかの様な光景が殊更神秘的に感じられた。

「少しは落ち着きを取り戻すことは叶ったかの?」

 不意にクロに声を掛けられ、俺は慌てて振り返った。

「ああ。涼やかな風を感じられて、気持ちも静まった気がする。感謝する」

「ふむ。では、我と共に少し歩くとしよう。漆黒の闇夜ではあるが、我は夜目が利く故心配は無用と思ってくれて構わぬ」

「ああ。転びそうになったらシッカリ支えてくれよな?」

「うむ。承知した」

 クロの言葉に従い、俺達は貴船神社の方角を目指して歩き始めた。川の流れる涼やかな音色が心地良い。川から吹き付ける風はヒンヤリと冷たい感触で、ささくれ立った心を静めてくれる気がした。

 クロは穏やかな笑顔で俺を見つめていた。それにしても、一体、何がどうなっているというのか? 理解出来ないことだらけであった。今朝の出来事と言い、先刻の出来事と言い理解不能であった。何故、思い出すことが出来ないのか? あの映像は一体何だったのか? 疑問だけが連鎖してゆく不快感を覚えていた。

「ふむ。して、一体何が起きたと申すか?」

「ああ、それが……」

 心配そうに俺を覗き込むクロに事情を説明しようとした。だが、どうしても言葉が出て来ない。酷く狼狽している様に見えたのだろう。クロは穏やかな笑みを浮かべながら助け船を出してくれた。

「む? どうした? 何か、我には言い辛いことであるか? ならば無用な詮索はせぬが」

 違う……そうじゃない。何故だ? 確かに、言葉に出来ない程に強烈な体験をしたような気がするのだ。手の甲に微かに残る火傷の様な痛み、喉の奥に残る異物感……。だが、確かに手の甲には、何の傷跡も残されていない。恐らくは、喉の奥にも何の異変も残されていないのであろう。訳が判らない。一体、どうなっているのだ? つい数分前に体験した出来事であったにも関わらず、全く思い出せない。まるで、記憶の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまった様に、その瞬間の記憶だけが消え失せてしまっていた。動揺せずには居られなかった。目に見えない何かに蝕まれる恐怖に、再び鼓動が高鳴る。足がすくみ倒れそうになる。

 クロは腕組みしながらじっと俺を見つめていた。全てを見透かしそうな眼差しで見つめられ、俺は慌てて目線を逸らした。

「フフ、愛い奴よの。照れておるのか?」

「て、照れている訳では無い……」

 クロは相変わらず涼やかな表情で、腕組みしながら含み笑いを浮かべていた。

「ふむ。それでは……夢の中に現れるという、謎の小娘のうわさ話であろうか?」

 そうだ! うわさ話だ! あのうわさ話こそが一連の出来事の起点であり、一連の出来事の終点でもある。思い出せない記憶の謎も、そこに答があるのだろう。

「中々に奇怪な話よの。興味惹かれる話であるが故、我も調べてみようと試みたのであるが……」

 静かに目を伏せるクロから小さく吐息が漏れる。

「一体どうしたことか、まるで足取りが掴めぬ。実に不可解な話よ」

 クロにも追うことの出来ない相手とは……。敵は一体何者なのだろうか?

「コタよ、これは我の想像でしか無いのだが、一連の出来事は夢の中で起きていると聞く」

 険しい眼差しで語られる内容に俺はただ聞き入っていた。クロの声に呼応するかの様に、一瞬、ゾッとする程に冷たい風が頬を撫でていった。

「夢の中で謎の娘と出会い、その結果、凍死した者達が六名……コタよ、可笑しなことを問うが、夢を見たことはあるか?」

 クロが何を伝えようとしているのか明確な意図が掴めなかったが、俺は即座に返答した。

「ああ。楽しい夢もあれば、恐ろしい夢もある」

 俺の返答を受けながらクロが静かに頷く。腕組みしながら、なおも問い続ける。

「それでは……夢から醒めた時、どの様な夢を見ていたか覚えているものであろうか?」

 クロの一言に俺は驚愕させられた。頭から氷水を浴びせられたような衝撃を覚えた。在り得ない話ではあるが、思い出せない記憶とは即ち『夢』だったのでは無いだろうか? 確かに、どんなに印象的な夢を見ていたとしても、夢から醒めれば忘れてしまうものだ。

「それが答と考えることも出来る。足取りの掴めぬ存在というのも、そう考えれば頷ける」

 クロの想像通りそうだとしたら、かなり厄介な相手だ。夢の中だけに存在する相手では手の出しようが無い。俺の記憶が失われている訳では無く、夢の中で起こった出来事だから思い出せないのかも知れない……ふと、自分で考えながら矛盾に気付く。

「ちょっと待て。可笑しくないか?」

 再び川から風が吹き付ければ、背筋に冷たい物が走る。恐らく、奇妙な矛盾に気付いてしまったからであろう。クロは腕組みしながら、その反応を待っていたかの様に含み笑いを浮かべていた。俺は話を続けた。

「夢とは寝て見るものだろう? 白昼夢というのもあるが、いずれにしても夢は自発的に見るものだ。誰かに見せられる物では無い筈だ」

「フフ、核心に迫ってきた様子であるな?」

「……俺も夢の中で見たのかも知れない。はっきりとは思い出せないが、夢の中で、確かに女に遭遇した筈だ」

 涼やかなる貴船川の流れる音色だけが染み渡る。クロは腕組みしながら静かに目を伏せ、何かを考え込んでいる様に見えた。策を講じているのだろうか?

「……厄介な相手よの。情鬼として存在するには不完全な存在。その上夢の中だけに現れるという振る舞いでは手に終えぬ」

 夢の中だけに現れる存在。夢の中だけでの出来事。目が醒めれば記憶からは抹消される。確かにどうすることも出来ない。そう考えた所で、もう一つの矛盾に気付いた。

「クロ、夢から醒めれば記憶には残らないというのは判るが、それでは凍死した六人のことはどう説明できるのだろうか?」

 俺の問い掛けにクロは目を伏せ、しばし考え込んでいた。しばしの沈黙。涼やかな川の音色だけが響き渡る。唐突に鳥が羽ばたく音が響き渡った。その音に呼応するかの様にクロが顔をあげた。

「矛盾しておるかも知れぬが、夢の中で起きたことが現実になることはあり得るのだ」

「凍死した六人は夢の中で殺された……だから、現実でも死んだということか?」

「うむ。相手が情鬼である以上、為し遂げることは可能であろう」

 こちらから仕掛けられないどころか回避策を講じることさえ困難。相手は自らの存在を明かすことなく、夢の中で人を容易く殺められる。圧倒的に不利な状況だ。逃げ回ることすら難しい相手。しかも、俺は少なからず、この厄介な相手と関わりを持ち始めている。下手をすれば明日の朝には俺が凍死しているかも知れない。

「万事休すよの……良いか? コタよ、仮に夢の中で出会っても、くれぐれも刺激するで無いぞ? 我一人の手に追えるような相手では無い故、他のカラス天狗達の叡智を結集し策を講じる。くれぐれも早まった行動を取るで無いぞ?」

「ああ……判っている」

 空ぶる様な生返事を返していた。

 結局のところ不安な気持ちは消えることは無かった。それどころか、あの女の危険性を再認識するだけに終わってしまった。また、夢の中に現れるかも知れない。素性の判らぬ不気味な相手に狙われるというのは、即ち生命の危機に直結することを意味する。策を講じるまでは、間の抜けた話だが逃げ回るしか無いということだろう。如何にカラス天狗とは言え、夢の中まで入り込むことは出来ないのであろうから。

 不穏な想いを抱いたまま俺達は家に戻ることにした。俺の心を察するかの様に雨足は一層強まっていた。雨粒が豪快に木々の葉を揺らす音に耳を傾けながら、クロの背の上で俺はそっと目を伏せた。

◆◆◆19◆◆◆

 あれから雨はずっと降り続いている。早急に策を講じねば危険にさらされると、俺を送り届けると、クロは再び鞍馬に戻っていった。

「俺を守るため……か。ありがとうな、クロ」

 降り続く雨の音だけが響き渡る部屋。一人になると雨音さえも不気味に感じられる。規則正しく滴る雨の音が、身を潜め近付いてくる何者かの足音の様に聞こえて殊更不安を覚えた。何よりも眠りに就くのが恐ろしかった。そんな杞憂は無意味なことは判っている。何しろ、敵に取って、俺が寝ていようが、醒めていようが大差は無いのだろうから。恐らく、無理矢理相手を夢の世界に引き摺り込むだけだろう。先刻までは不気味に聞こえていた雨音が心地良い旋律に聞こえる様に思えてきた。ポタリ、ポタリと規則正しく響き渡る雨音。降り注ぐ雨の音と流れる水の音。本当に心地良い旋律だ。ゆっくりと堕ちてゆくような感覚に襲われる。緩やかに四肢から力が失われてゆく。心地良い眠りへの誘い。

(まったく……落ち着いて眠ることもできない。安眠妨害とは、最も許し難き罪の一つだ……)

 次第に意識が薄れてゆく。規則正しく打ち鳴らす心地良い雨音を聞きながら、俺はゆっくりと眠りに就こうとしていた。昼間のこともあり、疲れているのだろうか? 心地良い感覚に包まれていた。時計が時を刻む音を聞きながら、何時の間にか眠りに就いていたのだろう。眠りに就いてから、どれ程の時間が過ぎたのだろうか?

「……許し難き罪よの!」

 唐突に響き渡る誰かの怒号に驚き、俺は慌てて飛び起きた。

(な、何だ? 今度は一体何が起きた!?)

 目の前には広がる満天の星空。慌てて起き上がれば辺り一面水田。青々と生い茂った稲の葉が静かに風に揺れていた。間違いなく自室では無い見知らぬ場所であった。どこかの水田の畦道。辺り一面に土気を孕んだ水の香りと、むせ返る様な稲穂の青臭さが漂っていた。何故こんな所に寝ているのか意味不明であった。

「止めなさい! 満久を放しなさい!」

 凛とした若い娘の声が響き渡る。聞き覚えのある声であった。俺は気付かれない様に、身を伏せながら草むらから顔だけを覗かせた。

(やれやれ、予想通りという訳か……)

 見間違う筈が無い。桃色の着物に長い髪。あの女であった。女の目線の先には顔立ちの整った青年が羽交い絞めになっていた。服装から察するに、身分はさほど高くは無さそうに思えた。恐らくこの青年が満久という人物なのであろう。何か緊迫した状況であることは判ったが、事態が飲み込めなかった。一体何が起きているのだろうか? 考え込む俺の目の前を別の男が歩む。錦糸を織り込んだ酷くゴテゴテとした悪趣味な成金趣味の着物が目に飛び込む。

「露よ、何処へ逃げようと申すか? 逃げられやせぬ。観念するが良い」

 見るからに人相の悪い中年男。にやにやと下卑た笑みを浮かべながら、露と呼ばれた女に歩み寄る。

「叔父上……恥を知りなさい! 露は知っているのです。父と母を殺したのは叔父上、貴方なのですね!?」

「ほほう? 何処にそのような証拠があると申すか? おおかた屋敷に侵入した盗賊団辺りにでも殺されたのでは無いのか?」

(この人相の悪いオッサンは、あの女の叔父ということか? いわゆるお家騒動という奴か? 何やら血生臭い匂いが漂い始めてきたな)

 勝手な憶測だが……これは、あの女の生前の記憶なのでは無かろうか? 周囲の風景から察するに、どう考えても時代が古過ぎる。民家も少なく、広大な水田が何処までも広がっている。何よりも目の前に居る人物達の服装が古めかしい。緊迫した空気とは裏腹に、夜半の水田には涼やかな虫達の鳴き声が響き渡っていた。

「さて……満久よ、お主の犯した罪は……許し難き罪よの?」

 ガマ蛙を思わせる様な不気味な笑みを浮かべながら露の叔父が腕組みする。

「地下の座敷牢に閉じ込めておいた、露の逃亡を手引きしたのはお主であるな?」

「旦那様、お許しください! 幼き頃から両親の言い成りに生き、その上、結婚相手まで勝手に決め付けてしまわれては、あまりに不憫に御座ります!」

 叔父の手下達なのであろうか? 多数の男達の羽交い絞めに合いながらも必死で懇願する姿は酷く痛々しく、思わず目を背けたくなった。この満久という青年は恐らくは俺と同年代なのだろう。非力ながらも必死に振舞う様が、酷く哀しく思えた。

「卑しき下男の分際で随分な口を叩きおる。身分を弁えよ!」

 満久に歩み寄ると、露の叔父は力一杯、その顔を殴り付けた。殴られた衝撃で崩れ落ちた満久の傍に立つと、醜い顔をさらに歪ませながら顔を足で踏みつけた。砂利と土に塗れ、頬から血が滲む。

「だ、旦那様、どうか……どうかお許しください!」

「えぇい! 見苦しいわ、黙れ、黙れ!」

 不気味な笑みを浮かべたまま、叔父は何度も何度も満久の顔を踏み付けた。尖った石に引っ掛けられ、顔には次々と傷が出来上がってゆく。滴る血。呻く声。男達の見下し嘲笑う声。自分を抑えるのに必死だった。この最低な男を同じ目に遭わせてやりたくて仕方が無かった。周りの男達も同罪だ。

「叔父上、止めなさい!」

 女の……否、露の叫び声を背に浴びた叔父は、相変わらずの下卑た笑みを浮かべながら振り返った。目を大きく見開き、蔑む様な眼差しで見下していた。だが、露は一歩も引き下がろうとはしない。なおも気丈に振る舞う。真一文字に結んだ口。殺意の篭った眼差しで叔父を睨み付けていた。

「露、お前は人であって人に在らず。我らが一族のためだけに生きれば良いのだ!」

 露は表情一つ変えることなく、鋭い眼差しで叔父を睨み続けている。強い意思を持った女だ。自らの信念を決して曲げることの無い強さに俺は共感を覚えていた。

「そうだ! お前は人形だ! その体だけ在れば良い。人形には魂など過ぎたる物よ!」

 人を人と思わぬ言動に再び怒りが込み上げる。もしも、この手に武器があったならば容赦なく殺していただろう。何しろ此処は夢の中だ。不届きな悪党を殺した所で罪にはならない。

「父と母を手に掛け、一族の実権を握り、それでもなお止まる事の無い欲望……ええ、これで露が嫁げば、さらに一族の所有する土地も、権力も増大することでしょう」

 力強く朗々と声を張り上げながら、露はゆっくりと懐に手を忍ばせた。そっと取り出したのは小さな懐刀であった。

「ほう? その懐刀でワシを殺めるつもりか? はっはっは。中々に勇ましきことよの」

「いいえ。違いますわ……」

 露は勝ち誇った様な笑みを浮かべながら、そっと懐刀を抜いた。そのまま、力一杯自らの腹に突き刺した。

「な、なにっ!? ば、馬鹿なことを!」

「つ、露! ああ……な、何故……!」

 衝撃的な光景だった。自らの想いを貫くために自らの命を絶つとは……。俺は思わず目を伏せた。桃色の着物にみるみるうちに赤い染みが広がってゆく。滴り落ちる血は足元に水溜りの様に広がってゆく。気丈な女だ。細い腕で、なおも、捻り込むかのように刀を食い込ませる。苦痛に顔を歪ませながら、それでもなお気丈にも立っていた。

「お、叔父上……貴方の……野望も、此処までです……」

「露っ!」

 羽交い絞めにしていた男達を突き飛ばすと、満久は慌てて駆け寄る。崩れ落ちようとする露を力強く抱き締めながら頬を重ね合わせた。

「ああ……どうして、どうして、こんなことを……」

「ごめんなさい……こ、今度……生まれ変わったら……貴方と……」

 露は血に塗れた手で満久の頬に手を宛てた。静かに微笑むと、次の瞬間、露はそのまま崩れ落ちた。ゆっくりと露を寝かせると、満久が静かに立ち上がる。

「……許さない」

 ゆっくりと叔父に近寄る満久の表情は狂気に満ちていた。整った顔立ちを酷く歪ませながら歩み寄る。その表情は凄まじい殺気に満ちていた。まさしく修羅の形相その物であった。死の恐怖を察したのか、叔父は情けなく腰を抜かしていた。満久はゆっくりと歩み寄ると、叔父の腰に携えた刀を勢い良く抜き取った。月明かりに照らされた満久の涙が頬を伝っては落ちてゆく。頬を伝う涙は月明かりを受け、儚げに煌きながら、朝露の如く散っていった。

「ひ、ひぃいっ! み、満久よ、乱心したと申すか!?」

「この……この腐れ外道が!」

「ぎゃあああ!」

 何のためらいも無かった。満久の刀が唸りを挙げて叔父の右の眼球を貫いた。

「お前のせいで露が死んだ! 露を……露を返せーーっ! うわあああーーっ!」

 抜いた刀で今度は左の眼球を抉る。血しぶきと共に抉り取られた眼球が夜空に舞い上がった。仄白く幻想的な色合いの月明かりの下、壮絶なる惨劇が幕を開いた。

「死ね! 死ね! 死ねーーっ! うわあああーーっ!」

 修羅の形相を浮かべたまま、満久は何度も、何度も、叔父の体を刀で切り裂き、貫き、その怒りをぶつけ続けた。返り血を浴びた満久の姿は、もはや人の姿では無かった。悪趣味な錦糸は見る影も無い程に血と汚物に塗れていた。叔父はもはや人の形をしてはいなかった。ただの汚らしい肉の塊と化していた。辺り一面に血と汚物の匂いが充満する。必死で耐えたが、もはや堪え切れなかった。俺はその場に激しく嘔吐していた。嘔吐しながら涙も零れ落ちた。何もかもがあまりにも哀し過ぎる結末に終わろうとしていたから。そこには一切の救いの欠片も無かったから。

「……お前達も同罪だ! 一人も逃がさぬ! うわあああぁぁぁーーーっ!」

「ぎゃああーーっ!」

「や、止めてくれ……悪かった! だから、だから! 命だけは……あ、ああ、あああーーっ!」

「ひ、ひぃいっ!」

「一人も逃さぬっ!」

「うわああぁぁーーっ!」

 逃げ惑う叔父の従者達も容赦無く斬り捨てた。辺りには血の匂いが充満していた。満久の怒号と男達の断末魔の悲鳴。水田の水がみるみる血の海に変わってゆく。壮絶過ぎる光景に俺は声も出せなかった。飛び散った返り血を俺も相当浴びてしまったことだろう。生暖かい「何か」が飛沫の如く我が身に降り掛かるのを感じていたから。血と肉と汚物をこの身にも浴びてしまったことだろう。血生臭さと目の前に転がる何体もの死体。その壮絶な光景に、あまりにも惨過ぎる光景に俺はありったけの内容物を吐き出していた。

「露、すぐにお前の元へ向かう……」

 朦朧とする意識の中、次に顔をあげた時に俺が見たのは満久の最期であった。青白い月明かりの光をその身に浴び、仁王立ちしたままの後姿。一瞬、微かに聞こえた蛙を握り潰したような声が響き渡った。直視することの出来ない俺の視界に映ったのは影だけではあったが、その喉からは突起物の様に刀が飛び出していた。やがて、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。それを見届けた所で俺の意識も遠退き始めた……。ゆっくりと目の前が白く染め上げられてゆく感覚を覚えていた。

 気が付けば既に朝になっていた。酷い汗を掻いたものだ。雨に降られたかの様に髪までビッショリだった。布団にもくっきりと、俺が横たわっていた形に汗染みが残されていた。

「ゆ、夢だったのか……」

 早鐘の様に高鳴る心臓。寝ていた場所が鮮明に判る程に掻いた汗。尋常な気持ちでは無かった。そのままトイレに駆け込むと俺は吐いた。ありったけの物を吐いた。異の中の内容物を、恐らく全部、全て、吐き出したと思う。夢の中であれだけ大量に吐いたのに、まだ吐き出せるものなのか。妙に感心していた気がする。ついでに涙も零れ落ちた。苦しくて、苦しくて、耐え難い痛みに自然と涙も零れ落ちた。

(そうだ! 消えていない……確かに夢の中での記憶が残っている! 一体何故だ!?)

 口元を拭きながら、震える足で俺は立ち上がった。よろめく足で台所に向かった。水を飲んだ。とにかく水を飲みたくて仕方が無かった。

(何故だ? 今度は記憶が鮮明に残っている。はっきりと思い出せる。満久の顔も、あの女――そう、露と呼ばれた、あの女の顔も……それから!)

 再び俺はトイレに駆け込んだ。恐らく、今、口にした水以外何も出なかっただろう。それでも、ありったけの水を吐き出した。目の前に転がる無数の惨殺死体の数々。血と汚物の入り乱れた想像を絶する臭い。記憶から今すぐにでも消したかった。何よりも意味が判らなかった。何故、記憶が消えずに鮮明に残っているのか? 目が醒めれば夢からは解放されるはず。だが、記憶から消えなかった。一体どういうことなのだろうか? 俺は階段を上り自室に戻った。頭がくらくらする。眩暈の様な不快な感覚だけが漂う。

 不意に、どこからか鈴の様な音色が響き渡った。

(鈴? 何処からだ? 何処から聞こえてくる?)

 不思議な旋律であった。涼やかな音色が響き渡る。それに呼応するかの様に、うっすらと霧が出始める。家の中で霧が発生するなど在り得ないことだ。一瞬、また火の手が上がったかと背筋が凍り付きそうになった。だが、目を凝らして見つめれば、それは煙では無く、確かに霧であった。霧はさらに濃度を増してゆく。もはや、何も見えない程に霧は深くなる。なおも、鈴の音色が響き渡る。チリーン。チリーン。涼やかな音色だけが周囲に染み渡る。どこからか涼やかな風が吹き始める。隙間風? 否、隙間風にしてはあまりにも鮮明な風だ。今度は一体何が起ころうとしているのだ?

◆◆◆20◆◆◆

 ゆっくりと霧が晴れてゆく。辺り一面に漂う線香の香り。夜空には青白い月が浮かんでいる。そこは見覚えの無い道であった。多くの木々が道の両側に広がる場所。不思議な光景であった。紅白の縄が木々の間を縫う様に縦横無尽に駆け巡る。その紅白の縄のあちらこちらに大きな鈴が括り付けられている。

(なるほど……鈴の音色の発信源はコイツか)

 何気なく紐に吊るされた鈴を叩いてみれば、先刻確かに耳にした音が響き渡った。

 次々と意味不明な出来事が起こるものだ。あの『露』と呼ばれた女の望みは一体何なのだ? 少なくても俺を惑わすことでは無いはずだ。解せない……何を欲して行動しているのか、まるで見えてこない。断片的に見せられる映像も繋がりが判らなかった。

 古びた神社の様な場所で見た露の最期。赤々と燃え盛る炎の塊となった梁に押し潰されて死んだ。だが、先刻見た映像では水田の最中のあぜ道で自害した。

「解せないな……何が真実だ? 何が偽りか?」

 同じ人物が二度死ぬなど在り得ない話だ。信じ難い出来事が起こっている。それだけは確かであった。それにしても――見知らぬ場所で考え込むというのも奇異な話だ。呼吸を整えながら再び歩き出そうとしたところで、不意に木々の間に吊るされた鈴が一斉に鳴り始める。何かの仕掛けなのだろうか? 誰かが罠に掛かったことを告げるかの様に鈴は激しく鳴り続けていた。

(何だ? 今度は一体何が起きている?)

「はぁ、はぁ、一体あいつらは何なんだよっ!?」

 聞き覚えのある声。目の前を駆け抜けていった大きな体に驚かされた。

(今のは力丸!? 何故、こんな所にいる!?)

 夢の世界というのはこれ程までに無法地帯なのであろうか? あらゆる摂理が無視されるとは聞かされていたが、あまりの出来事に言葉を失わずには居られなかった。

「きゃあ!」

 足がもつれたのか、力丸の背後で女が転倒するのが見えた。慌てて駆け寄ると力丸は慌てて肩を抱いた。

「早く逃げねぇとやべぇぜ。大丈夫か? 立てるか? 怪我とかしてねぇか?」

「ええ……大丈夫です」

「そっか。じゃあ、急いで逃げようぜ」

 走り去る力丸の姿を、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。力丸の姿を見間違える訳が無かった。何かの間違いであって欲しいと思っていたが、やはり、力丸もまた夢の世界に迷い込んでしまった……否、あの女に連れ込まれた結果なのだろう。

(そうか、そういうことだったのか)

 色々な事実が繋がった瞬間であった。落ち着きが無かったのも、輝に対して怒りをぶつけたのも、全ては此処に繋がっていたのだろう。そして、こちらも見間違える筈が無かった。先刻力丸が手を差し伸べた相手……あの女は予想通り、露であった。

 このままでは力丸が殺される危険性もある。何としても助け出さなくてはならない。力丸達は森の奥へと走り去っていった。だが、不可解な話だ。何をそんなに急いでいたのであろうか? 不意に何時か夢の中で見た光景がゆらゆらと、脳裏に描かれ始めた。最初は霧が掛かった様に不鮮明であったが、ゆっくりと霧が晴れ、情景も鮮明に描かれてゆく。

(そうだ……確かあの時、夢の中で確かに見たはずだ! 力丸と露が語らっていた情景を!)

『それだけでは有りませぬ。私は追われている身なのです』

『追われているだって? 何だか、物騒な話だけど、一体誰に追われているんだ?』

 不意に、静寂に包まれた森が騒がしくなる。

「追え! 追えーっ!」

「そんなに遠くへ行ける訳が無い! 草の根を掻き分けても探し出せ!」

 俺は慌てて木の陰に身を潜めた。駆け抜けて行った男達は見覚えのある服装であった。

(あの服装……露の叔父に従っていた部下達が着ていた物と同じだ。やはり、露の叔父が関与しているのだろうか? そうか……先刻見た「情景」に繋がる「過程」ということか)

 今は深く考え込んでいる場合では無い。不穏な空気が立ち込めているのは火を見るより明らかだ。誰が仕掛けたかなど考えるまでも無い。露の叔父であろう。夢の中で見た光景通りの出来事が起きていると考えれば、露を連れ戻して、望まぬ相手との結婚を執り成そうとしているのであろう。これだけであったら夢の中で見た惨殺事件に至る過程であったと思えた。しかし解せない……何故、力丸が露を連れて逃げ回っているのだろうか? 力丸はあの情景の中には登場しなかったはずだ。露を連れ出したのは「満久」という人物のはずだ。当然、この後の展開も異なったものになるだろう。過去が変われば未来は変わるのだから。

「ああ、考えれば考えるほどに意味が判らなくなる。いずれにしても真相を知るためには二人を追い掛ける他無いということか……」

 二人が何処に逃げたのかは定かでは無いが、後を追う以外に道は無い。二人と追っ手が駆け抜けて行った道を辿ることにした。

(それにしても一体此処は何処なのだろうか? 見慣れない場所だ……)

 木々の生い茂る道を駆け抜ける。力丸達が駆け抜けて行ってから、それ程時間は経っていない。露を庇いながら走り去っているのを考えれば、それ程の距離を稼げる訳も無い。追い付けないことは無いだろう。俺は二人の足取りを追って、木々に包まれた道を走り続けた。

 どれ位走り続けただろうか。二人の足取りを完全に見失ってしまった。分かれ道など無い一本道で見失うことは考えられなかった。仮に道を外れ、森の中へと駆け抜けて行ったら探す術は無いだろう。だが、それは考え難かった。無数の追っ手に追われながら逃げるのに、走り難い場所を選ぶ訳が無い。ましてや、力丸一人ならばまだしも、露を連れていることを考えると、やはり在り得ない選択肢になるであろう。

 段々と疲れてきた。息も上がってきた。宛ても無く走り続けるのは過酷だ。二人の足取りは、まるで手掛かりが見付けられない。一体、どうした物か……足を止め、しばし考え込む。

 不意に風が吹き始める。シットリとした水気を孕んだ涼やかな風。走り続けて、火照った体を冷ましてくれる心地良い風であった。しばし、風を浴びながら涼やかな心地を楽しんでいた。不意に空気が変わった様な感覚を覚えた。

(気のせいだろうか? 何か……空気が変わった気がするのだが?)

 視界の先に広がるのは森の中を駆け抜ける道の終端。ぼんやりと青白い光に包まれていた光景。真昼の太陽の様に明るいが、月明かりの光の様に思えた。ようやく森も終わろうとしているのか。俺は気を取り直して再び走り出した。

 森の終端、その先には想像もしない光景が広がっていた。そこは平安神宮へと続く参道であった。理解不能であったが、唐突に変わった景色に篭められた意味があるのだろう。ご丁寧にも交差点の信号が赤に変わる。俺は溜め息混じりに立ち止まる。車も無く人も無い参道。あまりにも奇異な風景であった。後ろを振り返れば、確かにそこには駆け抜けてきた広大な森が広がっている。森の道を抜ければ今度は信号機が明滅する交差点に出くわす。過去の風景と現代の風景を無理矢理合成したかの様な風景であった。あまりにも在り得ない話だ。

 恐らく今見届けた光景、あの紅白の縄が駆け巡っていた森は過去の情景なのだろう。露が生きていた時代の情景なのだろう。そして、今、俺の目の前に広がるのは現代の風景に間違いは無い。過去と現代が出会う場所……そこで、一体何が待ち受けているのだろうか? 疑いを持たずにはいられなかった。何が起ころうとしているのかを考えると、身構えずには居られなかった。

「くそったれ共がっ! 何十人もで、武器を持って挑んでくるなんて反則だっつーの!」

 唐突に背後から、力丸の怒号が響き渡った。

「り、力丸!?」

 不思議な気分だった。力丸には俺の存在は見えていないらしい。姿も声も届かない。俺の横を勢い良く駆け抜けていった。露を背負ったまま必死で走り続けていた。

「力丸さん、露のことはどうか忘れてください……」

「おいおい、何言っているんだよ!? 弱気になるんじゃねぇよ。オレが絶対、助けてやるから!」

 胸が締め付けられる想いだった。額の汗を拭いながら、必死で駆け抜ける力丸の純粋な気持ちが辛かった。同時に体中が熱くなる程の怒りも覚えていた。疑うことを知らない、馬鹿みたいに真っ直ぐな力丸の心を弄ぶ露の歪んだ心が許せなかった。怒りに肩が震えて止まらなかった。頭に一気に血が上る。

(この腐れ外道が……力丸のことを何だと思っていやがるっ!)

 気が付くと、俺は怒りに我を忘れて力丸に駆け寄ると、背負われた露の襟を力一杯掴んでいた。

「え?」

 力一杯引っ張られた衝撃で、露が力丸の背から転落する。

「きゃあ!」

「お、おい!? 大丈夫かよっ!? ほら、掴まれって。早く逃げるぞ!」

 慌てて手を差し伸べる力丸。だが、すぐ近くから怒号が響き渡る。

「見つけたぞーっ!」

「逃がしはせぬ!」

 露を追ってきた奴らの姿が視界に飛び込んできた。俺の頭はすっかり混乱していた。露に触れることが出来てしまったこと。今、まさに追い付こうとしている追っ手の姿。目を丸くしながら、露は驚愕の表情で俺を見つめていた。

(こいつ……もしかして、俺の姿が見えているのか?)

 そう思った瞬間であった。露は慌てて立ち上がると、唐突に力丸を突き飛ばした。

「なっ!?」

 驚愕の光景であった。突き飛ばされた力丸は、崖から転落するかの如く地面に吸い込まれて、そのまま姿を消したのだから。

「小太郎様、貴方も現実の世界にお帰りなさいっ!」

 露に突き飛ばされた瞬間、一気に視界が白くい光に包み込まれた。眩しい、眩しい光に包み込まれてゆっくりと意識が遠退いてゆく。凄まじい速度で転落してゆく。どんどん露の顔が遠ざかってゆく。遠ざかる景色と意識の中で、追っ手達に捕らえられる露の姿が見えた気がした……。

◆◆◆21◆◆◆

 次に目が醒めた時、俺は自室に横たわっていた。傍らには、何時の間にか戻ったのかクロが腕組みしながら座り込んでいた。

「ふむ。目が醒めたようだな」

「クロ……戻ったのか?」

「うむ。禍々しい気配を感じての……コタの身を案じ、急ぎ戻った次第よ」

 クロは静かな笑みを称えながら俺を見つめていた。恐らく、何かを察しているのだろう。だから、俺は問われる前に答えた。

「あの女……露と出会った。夢の中でな」

「ふむ。予想通りということか」

「ああ、それに……力丸とも出会った。夢の中でな」

 この言葉は予想していなかったのであろう。クロは目を大きく見開き、動揺した様な表情を浮かべていた。険しい表情を浮かべたまま唸る。

「むう……事態は想像以上に深刻であるな」

「ああ。露が何を求めているのか、俺にはさっぱり理解出来なかった」

 俺は今までに見た情景を全てクロに伝えた。打ち棄てられた神社での露の最期と、水田の間を走る畦道での最期。同じ人が二度死ぬなどということは在り得ない。

 クロは静かに目を伏せて何かを考え込んでいた。少なくても俺には意図する所が全く理解出来なかった。恐らく、クロも意味不明なメッセージの解釈に苦しんでいるのであろう。だが、クロからは意外な返答が返って来た。

「偽り、であろうな」

「どういう意味だ?」

「夢の世界ではあらゆる摂理が成立しなくなる。例えば……コタが夢の中で、カラス天狗になることも可能であるということよ」

「そんなこと出来るのか?」

「うむ。夢の世界では何でも出来てしまう。そう……偽りの情景を描き出すことも、偽りの歴史を創り上げることも可能であろうぞ」

 俺は言葉を失った。在り得ない話では無い。いきなり森の道が平安神宮の表参道に繋がっていた。何の違和感も無く、ごく自然に。普通に考えれば在り得ない光景だ。だが、その在り得ない光景が現実になるのも夢の世界なのだろう。

「理解不能だな。何故、真実の歴史と、偽りの歴史を織り交ぜたのだろうか……」

 何気なく発した一言に興味を示したのか、クロは俺の顔をまじまじと見つめた。

「中々に興味深い発言よの。むしろ、それはコタの方が……人の方が、その答えには近いのでは無かろうか?」

「どういう意味だ?」

「過去とは決して変えられぬ物。それならば……」

 クロは腕組みしながら含み笑いを浮かべていた。俺がどういう返答をするのかに興味を抱いている様に思えた。

「過去を変えたいと願った時、コタならばどうするか?」

 過去を変えられるならば……真っ先に頭に浮かんだのは、あの日の情景であった。ああ、俺ならば全ての凶事の始まりとなった、あの出来事を無かったことにしたい。あるいは、あの日、あの時、あの場面で、今度こそ鴨川卓の息の根を止めてやりたかった。

「新たな史実に塗り替えたいと願う……」

 過去を塗り替えた所で、また別の未来が誕生するだけのことだ。問題のすり替えにはなれど、根本的な解決には繋がりはしない。現に俺は良き仲間達に囲まれた今の状況を幸せだと感じている。仮に過去を変えたとすれば、現在の俺の在り方も変わってしまうだろう。それに、新たな未来では、今の仲間達と共に歩めるかどうかの保障など何処にも無い。そう考えれば歴史を塗り替えることに何の意味も価値も無い。

 だが、誰もが果たしてそう思えるだろうか? 過去が足枷となり、前へ進む障害となっているなら――例えば何かの事故で人を死なせてしまったとしたら、その事実は未来永劫付き纏うだろう。事故を起こす前に戻り、事故の無かった歴史を作り上げられたとしたら……。否、そんなことに何の意味がある? また別の事故を起こさないとも限らない。所詮は可能性だけの話では無いか。

「全く持ってくだらない話だ。気休めにしかならない」

「うむ。確かにその通りであるな。恐らく、その露という娘も、そのことは理解しておるのであろう。だが、その先に何かを求めているからこそ、一連の事件を起こしている――そういう風に考えることは出来ぬであろうか?」

 いずれにしても煮え切らない相手だ。何を求めているのか抽象的過ぎて理解不能であった。ただ、少しだけ判ったことがある。露は俺の姿を認識した。接触を繰り返せば、繰り返す程に真相に近付いているのも事実だ。

「クロ、あの夢の中で、露は俺の存在を認識していた」

「何と!? それはまことか?」

「ああ。それだけじゃない。俺は露に触れることも出来た」

「ううむ……これは予期せぬ所に解決の糸口が見えてきた気がするの」

 クロは険しい表情を浮かべながら、俺に向き直ってみせた。

「コタよ、我の考えを伝えようと思うが……気を悪くするでないぞ?」

 何か判ったことがあるのだろうか? 意味深な前置きをしながらも俺の反応を鋭く観察していた。此処まで妙な体験をしたのだ。今更、何を聞かされても驚かない自信はある。

「コタと露姫は良く似た心を持っておるのやも知れぬ」

「何だと!? 俺と露が似ているだと!?」

 前言撤回。あの性悪女、露と似ている等と言われるのは無礼極まりない。思わず声を荒げずには居られなかった。俺の反応は想定通りであったのか、クロは苦笑いしながらも、何時もの様に腕組みしてみせた。相変わらず良い性格をしている。

「どちらも孤独の寂しさを知る身……友を何よりも重んじるコタと、愛する者を探し求める露とは良く似ておる。恐らくは、露自身も意識して居なかったであろう。よもや、コタと心が通じ合おうとは思いも寄らぬことよの」

 ずっと頭に血が上っていたから冷静に考える時間など微塵も無かった。その上、衝撃的な映像の数々を見せ付けられて尚のこと困惑させ続けられていた。間違えても判り合えるとは考えても見なかった。露は敵でしか無い。そう思い込んでいたが……視野狭窄なのは俺の方だったのかも知れない。俺の脳裏に露の言葉が蘇る。

『……小太郎様は孤独の寒さを知る身。露の心を理解して頂けると信じております』

 露は俺に理解を求めていた。同じ寒さを知る身だからこそ、共感を求めていた。

『小太郎様は露と良く似たお方……もしかしたら、判り合えるのかと淡い期待を抱いておりましたが、露の思い過ごしだったのでしょうか?』

 否、思い過ごしでは無いのかも知れない。判り合えるのかも知れない。解決の糸口に繋がるかも知れない。だからこそ、露が何を求めているのか? 何を願っているのか? そこから調べる必要がありそうだ。それに……こんなにも苛立つのは、クロの言う通り、良く似ているからかも知れない。似た者同士は衝突するものだ。だが、これは有効な話かも知れない。露の目線を力丸から俺に向けさせる。そうすれば、心の深層まで判ってやれるかも知れない。討ち取るという発想では駄目だ。救い出す……考えを切り替えた方が、案外上手くいくのかも知れない。

「クロ、聞いてくれ……露の矛先を力丸から俺に向けさせる」

「何と!? ううむ……しかし、それは賢い選択肢とは思えぬ。何よりコタよ、お主の身に災禍が降り注ぐことになろうぞ?」

 予想通りクロは俺の提案に難色を示していた。自分でも驚くほどに大きく出たものだ。だが何も考えずに提案した訳では無い。少なくても話合う余地はありそうに思えた。ならば、先ずは相手の要求を聞き出すことが重要だと考えた。怒りや憎しみ、迷いや未練が情鬼の根源であるとすれば、心が満たされれば、露も救われるのでは無いかと考えた上での選択肢であった。

「……果たしてそう上手く事が運ぶであろうか? 我は、より深い闇が潜んでいるように思えてならぬ」

 クロは相変わらず難色を見せる。判らなくも無い。俺の憶測が、まるで見当違いであったら身の危険と対面することになるだろう。だが、このまま放置して置けば、力丸の身に危険が及ばないとも限らない。いずれにしても今回もまた乗り掛かった船だ。見えない敵に怯えて暮らすのは本意では無い。ならば、こちらから仕掛けるという策もあるはずだ。俺は渋るクロを根気強く説得し続けた。

「ふむ……コタは中々に頑固であるな。止めても聞かぬのであらば、無理に止めはせぬ。我もコタを支援するべく、さらなる情報を集めるとしよう」

 外からは明るい日差しが差し込む。どうやら夜が明けてしまった様子だ。体は休まってはいないが、時間は待ってはくれない。学校に向かうとしよう。力丸の様子も気になるところであった。少なくても、力丸は俺の存在には気付いていない様子ではあったが、何らかの異変が起きていないとも限らない。俺は身支度を整え学校に向かった。

◆◆◆22◆◆◆

 結局のところ、どれだけの時間眠ることが出来たのかは定かでは無いが、まともに眠ることが出来たとは言い難い。今朝はどんよりとした曇り空。蒸し暑さに眩暈を覚えているのか、襲い掛かる睡魔に誘われているのか、どちらなのか定かでは無かった。ふらつく足取りで俺は東大路通を下っていた。曇っているだけに湿っぽさも増すのであろうか? 肌に纏わりつくジットリとした感覚に苛立ちを覚えながら、ただひたすらに歩き続けていた。

 点滅し始めた信号が青から赤になり立ち止まる。立ち止まりついでに考える。幾つかの事実が明らかになったのは事実。だからと言って全てが解決したという訳でも無い。それでも幾つかの取っ掛かりが出来たのは大きな収穫であったと言えよう。明らかになった事実の中でも、特に力丸に関わる部分は慎重に扱う必要がある。どんな結果になろうとも力丸を露に渡す訳にはいかない。必ずや阻止しなければならないのだから。

 さて……手にした情報を、どうやって皆に伝えるかが問題だ。夢で体験したことを伝えたところで、果たしてどこまで伝わるだろうか? 恐らくではあるが……憎悪の能面師の一件で、良くも悪くも耐性が出来ている筈であろう。案外すんなりと受け入れられるのかも知れない。迂闊に余計な手を加えずに、あるがままの事実を伝えた方が良さそうな気がしてきた。

 再び信号が赤から青に変わる。色んなことを考えているうちに七条前の交差点に差し掛かる。学校へと続く緩やかな坂道を歩んでいた。何時に無く蒸し暑い気候に辟易しながらも、ただ、ひたすらに歩き続けた。やがて見えてくる校門。力丸を必ずや救い出す。そのことだけを考えて今日一日は振舞おう。俺は亀岡がドッシリと構える校門を抜けて校庭へと足を運んだ。

「ほぅ? 最近は遅刻が無いようだな。良い傾向だ。今日も一日、しっかり頑張れよ。わっはっは!」

「ああ、頑張るよ」

 亀岡の豪快な笑い声に気分を押し上げて貰えた気がした。まぁ、遅刻が無いのは……お前のベアハッグを喰らいたく無いというのが最たる理由だ、とは言えなかったが。

 朝の校庭は登校してくる生徒達で一杯だった。その群の中に混じりながら下駄箱へと至る。上履きに履き替えて、教室へと続く階段を一歩ずつ上っていた。

「あら、小太郎君。おはよう」

「おはよう」

 階段を上りながら桃山に声を掛けられた。妙にニヤニヤ笑いながら腕組みしてみせる。何か言いたそうな笑顔を浮かべていたのが気に掛かり、俺は足を止めた。

「相変わらず可笑しな事件が起こっている様子ね」

「……何が言いたい?」

 もったいぶった様な含み笑いを浮かべながら、桃山はじっと俺の表情を窺っていた。

「また、貴方達のことだから、巷を騒がせている件のうわさ話に首を突っ込んでいるんじゃ無いかと気になっただけよ」

「無駄に行動力があるのが若干一名いるからな」

 苦笑いを浮かべながら悪態を付いて見せれば、「やっぱりね」と可笑しそうに笑い返された。

「さっき、すれ違ったけれど、何だか元気無さそうな顔していたのよね。輝君、何かあったの?」

 何かあったかと聞かれれば、「まぁ、何かあったな」としか答えられない。恐らく力丸のことを気にしているのだろう。まったく……強引に人を巻き込む割に、妙な所で傷付きやすかったり、落ち込んでみたりする。輝は扱いが難しい奴だ。

「心配は無用だ。それに……何か困ったことがあったら相談する。その時は頼むな?」

「フフ、嬉しいこと言ってくれるじゃない? それじゃあ、また後でね」

 上機嫌に鼻歌混じりで歩み去ってゆく桃山の背を、俺は冷ややかな視線で見ていた気がする。

(相変わらず扱いが簡単な奴だ……頼りにしている。その一言に喜びを覚えるのだろう。ううむ……桃山よ、やはりお前は男気あふれる女だな)

 そのまま何時もと変わらぬ階段を登り切った。桃山から聞かされた話を受けて、妙に緊張しながら俺は教室の扉に手を掛けた。扉を開ければ何時もと変わらぬ光景が広がっていた。皆、何時もの様に楽しそうに談笑している。まずは一安心だ。此処は少なくても偽りの世界では無いということなのだろうから。

 あの夢のお陰で、何が「現実」で、何が「虚構」なのかが判らなくなり始めていた。無駄に疑心暗鬼になる必要は無いが、だからといって警戒を怠ることは出来なかった。慎重に周囲を見渡す……可笑しい。皆の姿が何処にも見られなかった。

(どういうことだ? やはり、あの夢には何か意図する所があったのだろうか?)

 考え込んでいると不意に誰かに肩を叩かれた。驚き、振り返れば、そこには皆の姿があった。

「おはようさんなのじゃ、コタ」

「お前達……驚かさないでくれ。てっきり、何か可笑しなことでも起きたのかと……」

 言いながら皆を見渡して異変に気付く。俺の表情が曇ったのに皆も気付いたのだろう。皆、顔を見合わせながら俯いていた。

「あのね、リキ……学校に来ていないみたいなんだよね」

「おいおい、輝。お前まで落ち込んでどうする。さっきも言ったがお前のせいではない」

「そうなのじゃ。昨日の雨に濡れて、風邪でも引いただけに違いないのじゃ」

 太助が手短に状況を説明してくれた。朝、学校に来てみれば輝の姿も、力丸の姿も無かった。そこで勘の赴くままに屋上に向かってみれば、落ち込んだ表情で佇む輝の姿があった。仕方が無いので大地と二人で励ましていたらしい。そろそろ俺が来る頃だろうと判断して降りて来てみたものの、やはり力丸の姿は無かったとのこと。

「やっぱり、未だ怒っているのかなぁ? ちゃんと顔を見て、謝りたかったんだけど……」

 力丸の安否も心配なところではあるが、輝の沈み具合も中々に重症な様子に思えた。まぁ、これに懲りて大人しくなってくれるならば、意味も価値もあるとは思うのだが。

「ところで……小太郎、何か収穫があった様子だな?」

 相変わらず太助は鋭い。早速、何かを感じ取ったことだろう。そういう意味では力丸がこの場に居ないのは、むしろ好都合であったのかも知れない。

「まぁ、確かに収穫はあった……詳しくは昼休みに話させて貰う」

 ちょうど山科が教室に入ってくるのが見えた。一旦中断だ。続きは昼休みまで持ち越しだな。しかし……俺の睡魔も限界まで達している気がする。ううむ、迂闊に桃山の授業で居眠りすると、後で悲惨な想いをすることになる。取り敢えずコーヒーでも用意しておくか。自販機に向かおうとする俺の目の前に、太助がそっと缶コーヒーを差し出した。

「何の真似だ?」

「必要だろうと思ってな。事前に用意しておいた物だ」

 さらりと涼やかな笑顔で俺に缶コーヒーを手渡すと、太助は颯爽と去っていった。

(い、幾らなんでも手回しが良過ぎやしないか?)

 ううむ……やはり「現実」なのか「虚構」なのかが、不明確になってきた気がする。単純に気が利きすぎるだけなのかも知れないが、やはり、太助よ……お前は抜け目が無さ過ぎる。

「コタよ、寝不足な様子じゃの?」

「む。何故判った?」

「ふふん。随分とまぶたが腫れぼったい感じなのじゃ。太助がコーヒーを準備していたのは偶然なのじゃ。コタのまぶたを見て、寝不足であることに気付いたのじゃろうな」

 種明かしをされれば何のこともない。だが、一つ判ったことは太助の観察眼が相当の物だということだ。さて、缶コーヒーを頂いたところで、何とか午前中の授業を乗り切るとしよう。

 こうして、何だかんだ言いながらも無事に午前中の授業を乗り切ることが出来た。太助の機転には感謝だ。そして迎える昼休み。このためにお膳立てをして来たようなものだ。俺達は昼休みに入ると速やかに学食に昼食を買いに走った。無事に昼食を手にした俺達は、何時もの様に屋上へと向かっていた。今回の相手は早々容易く切り崩せるような相手では無い。皆の協力無くして力丸を救出することは不可能だと判断した。だからこそ皆一同に集まって貰った。昼食を食べながら、俺は今までに判ったことを説明していた。

「平安神宮には確かに、うわさ話の女が存在している」

 唐突に放たれた言葉に皆は思わず顔を見合わせていた。無理も無いだろう。昨日、平安神宮に赴いた時には姿を確認することは出来なかったのだから。

「恐らく六人の犠牲者達は皆、その女――露姫の手によって殺されたのだ」

 露姫……「露」という名で呼ばれていたが、最初に出会った時の情景が何故か今になって脳裏に蘇る。そう、確か……「人からは『露姫』と呼ばれております」と口にしていた筈だ。だから、俺は今からお前のことを、他者からの呼び名に従い『露姫』と呼ばせて貰おう。お前と徹底的に戦う意思表示とでも受け止めてくれ。

「え、えっと……それじゃあ、ぼくが聞いたうわさ話は?」

 動揺した表情を浮かべながら、上擦った声で問い掛ける輝に俺は冷静に返した。

「うわさ話では無かったということになるな」

「じゃ、じゃあ、何故に彼らは命まで奪われる結果に陥ったのじゃろうか? 露姫を目撃し、無事に帰って来た者達もおるじゃろう?」

 怪訝そうな表情で問い掛ける大地に俺は向き直った。中々良い問い掛けだ。そう……命を奪われた者もいれば、命を奪われずに済んだ者もいる。その差は何か?

「憶測でしか無いが……」

「何処にでも無粋な男というのは存在するものだ。恐らくは、邪な下心を持って露姫に接した……結果、露姫の逆鱗に触れた者達が殺された。そういうことだろう?」

 フフと含み笑いを浮かべる太助に思わず吐息が漏れる。まったく……お前は人の心が読めるのか? ある意味では、お前も魔物なのかも知れないな。

「憶測でしか無いが、おそらくお前の言う通りなのだろう」

「えっと……それじゃあ、露姫の目的って一体なんなのだろう?」

 核心を突く問い掛けだ。その問い掛けの答こそが、力丸が巻き込まれた理由に直結する。そして、何よりも皆に伝えるべき内容が、輝の問い掛けに対する返答になる。最も重要な話だ。大きく深呼吸をして息を整えながら皆を見渡す。

「昨日、大地が的確な意見を述べてくれたが、露姫は人を探している。否、正確には……『探し人の代用品』を探している」

 敢えて抽象的な表現を選んだ。予想通り、皆には何のことだかサッパリ理解出来ない様子であったが、それで良い。此処から明らかにしてゆく。

「この部分に関しては、まだ正確には判ってはいないが、露姫は人を探している。だけど、どう頑張っても見付かることは在り得ない。何故ならば、その人物は生きている人物では無いからだ」

 そう。露姫の生きていた時代を考えれば、彼が生きていたとすれば数百歳を超えることになる。自然の摂理を無視した生き方を為し遂げられる生き物など存在しない。

「なるほど……見付けることの出来ない相手だからこそ、『代用品』を求めているという訳か。それで、露姫の目に留まったのが力丸という訳か……」

 溜め息混じりに太助が吐き捨てた言葉。そのまま静かに立ち上がると、腕組みしながら話を続ける。

「事態は想像以上に深刻だな……それにしても、小太郎、随分と詳しいな? まるで自分の目で見て来たと言わんばかりだが?」

 相変わらず良いところを突いてくるな。そういう問い掛けが来るのを待っていたのだ。否、むしろ狙っていたと言った方が正しいのだろうか?

「ああ、夢の中で直接出会ったからな。露姫と……それから力丸にな?」

 俺の言葉に皆が思わず声をあげる。当然の反応だろう。誰もが予想しなかった言葉だったのだろうから。世の中は確かに不思議なことに満ちている。だが、此処まで奇異な出来事に遭遇することはそう在り得ることでは無い。

「い、一体どういうことなのじゃ!?」

「つまり、こういうことだ。力丸は露姫に魅入られている……代用品として、狙われているということになる。このままでは力丸は命さえ危ういだろうな」

 俺の言葉に太助が鋭く反応する。

「牡丹灯篭の世界そのものだな」

 大きな溜め息混じりに語られる言葉は、実に的確な表現で事態を捉えている様に思えた。

「う、うん……。で、でも、あのお話の結末って……!」

 言い掛けて、輝は思わず息を呑んだ。

「ああ、その通りだ。事態はかなり深刻だ。だからこそ早急に手を打つ必要がある」

 だが、厄介なことにこの部分が一番の問題なのだ。何しろ相手は夢の世界にしか姿を見せない。こちらから積極的に干渉しようとするのは非常に困難な話なのだ。早い話、打つ手が無いのだ。

「そんな……それじゃあ、リキを助けてあげられないじゃない!?」

 此処から先は悔しいが俺達だけではどうすることも出来ない領分だ。クロの手を借りないことにはどうすることも出来ないだろう。皆が顔を落としたところで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「済まないな、皆……俺達は非力で無力だ。だが、露姫は再び俺に接触を試みる筈だ。憶測でしか無いが、そんな気がしている」

「俺達には残念だがどうすることも出来ない。だが、何か出来ることがあったら何でも言ってくれ。全力で俺達も支援する」

 太助の言葉は心強かった。ああ、その時は必ずや訪れるはずだ。その時には是非とも力を貸してくれ。俺は短く礼を告げ、午後の授業に臨むべく屋上を後にしようとした。

 不意に太助が俺の肩を掴んだ。慌てて振り返れば、太助が目一杯顔を近付けながら小声で囁いた。

「小太郎、力丸を必ず救ってやってくれ。お前と……それから、お前を支援する何者かの力でな?」

 太助の言葉に俺は背筋が凍り付く想いを感じていた。戦慄とはこういうことを言うのだろうか? やはり太助は勘が鋭い奴だ。クロの存在を薄々は感じているのかも知れない。

「心配するな。口は堅いほうなんでな。余計なことは口にはしないさ。それよりも力丸のこと、頼むぞ」

 相変わらずの含み笑いを浮かべながら俺の肩を叩くと、太助は颯爽と階段を下りて行った。

「ああ……必ずや救い出すさ」

 俺も皆に続くように階段を下った。チリーン。俺達が去った後の屋上から、不意に鈴の音色が響き渡った気がした。だが後ろは振り返らない。姑息な挑発には乗らない。正面から正々堂々と挑むまでだ。悪いな……力丸は返して貰うぞ。無駄な抵抗をしなければ穏便に事を済ませよう。だが、要らぬ抵抗をすれば武力行使で挑むしかなくなる。良く考えておくことだな。

 俺の言葉に呼応するかの様に再び鈴の音色が響いた。今度は二つ。俺は振り返ることなく階段を下った。

◆◆◆23◆◆◆

 落ち着かない空模様だった。今にも雨が降り出しそうな曇り空が何処までも広がっていた。まるで俺達の心を象徴しているかの様に思えた。煮え切らない空模様だ。雨を降らせるならば降らせれば良い。そうでないなら雲を晴らして欲しい。どちらにも倒れることの出来ない優柔不断な空模様は、むしろ……。

「俺達の心、というよりも露姫の心に近いのかも知れないな」

 何処までも広がる空を見上げながら俺は家路への道を歩んでいた。四条通を抜け花見小路へと至る。この界隈は一日中賑わいを見せるが、夕暮れ時からは特に混雑し始める。夜になれば花街としての本当の姿を現すということを考えれば、混雑も頷ける。それにしても蒸し暑い……いっそ、景気良く夕立になってくれた方が涼しさも増すことだろう。そんな俺の想いに呼応しているのか、濁った雲間の隙間から雷鳴が響き始めた。その音が聞こえたのか、不意に人の流れが変わり始める。皆これから降り出すかも知れない夕立に備えているのだろう。そんな様子を後目に俺は家へと至るわき道へと抜けた。

 表通りとは異なり、この界隈はわき道に逸れれば人通りも減り、静けさを増す。こんな賑やかな花街にも民家は多々存在している。否、民家を縫う様にして花街が佇むという方が正しいのだろう。煮え切らない空を見上げながら、そんなことを考えていた。

 ようやく辿り着いた家は明かりすら灯していなかった。誰も居ないということを示していた。母は恐らく今日も近所の料理教室に通っているのだろう。無論、教わる側では無く教える側として参加している。玄関を開けて靴を脱いでいると、家の奥から線香の様な匂いが漂ってくるのを感じた。

「おいおい……勘弁してくれよな」

 昨日の出来事が鮮明に蘇り、思わず階段を上ることをためらってしまう。だが、二階に上がらないことには何も為し遂げられない。意を決し二階へと上れば、そこにはクロの姿があった。どうやら、クロが線香を焚いていたらしい。

「ふむ……コタよ、戻ったか」

「ああ。皆にも話はしてきた。蚊帳の外に追いやるのは妥当とは思えなかったからな」

 俺の言葉にクロは力強く頷いた。

「うむ。正しい選択よの。今回の事案に関しては、殊更皆にも知って貰う必要があろう」

 それにしても何故線香を焚いていたのだろうか? 不思議そうに見つめる俺の表情に気付いたのか、クロは静かに線香を差し出して見せた。

「良き香りであろう? 心を落ち着かせてくれる香りよの。我の好きな香りよ」

「俺の心を落ち着かせてくれようという、粋な心遣いか?」

 俺の問い掛けにクロは苦笑いを浮かべながら応えた。

「無駄とは知りながらも我なりに露姫の足取りを模索してみておったのだ」

「それで、何か判ったのか?」

 好奇に満ちた俺の問い掛けに、クロは苦笑いを浮かべるばかりであった。

「フフ、中々に手強い相手よの。守りには相当長けておるらしく、まるで尻尾を掴めぬ。やはり、こちらから仕掛けるのは無理がありそうに思える」

 守りが堅い、か……何だか、ますます自分と似ている気がしてきた。あの事件の後、俺はすっかり人間不信に陥ってしまい何も信じることが出来なくなっていた。救いの手を差し伸べてくれようとする家族や輝の言葉さえも真っ直ぐに受け止めることが出来ず、ひたすら自分の殻の中に閉じ篭っていた記憶がある。言うなれば自らの手で鉄壁の篭城を築き上げ、救いの手さえも弾き飛ばしてしまっていたのかも知れない。

 その篭城は非常に強固で堅牢なるもの。強引に抉じ開けようとすれば、さらに堅さを増すばかり。恐らく、クロの仕掛けたやり方も同じようなものであったのだろう。やはり同じ傷を持ち、同じ痛みを知った者で無ければ篭城から解き放つことは難しいのかも知れない。そんなことを考えていると、不意に俺の携帯が鳴り響いた。

「誰からだ?」

 携帯の画面に表示された名は力丸であった。丁度良かった。今日、学校に来なかったからこそ、逆にこちらからも聞き出したいことは色々とあったのだ。これ幸いなり。俺はクロに少し待っていてくれと告げ、電話にでた。

「あ、もしもし? コタか?」

「ああ。今日はどうした? 風邪でも引いたか?」

 事情は判っているが一つ確認したいことがあった。悪いな……かまを掛けるような真似をすること、許せよ。

「あ、いや……そういう訳じゃねぇんだけどさ、はは……」

 なるほど。やはり、あの夢の中で俺の姿を確認出来たのは露姫だけということか。少なくても力丸には俺の姿は見えなかったということだろう。それにしても随分と歯切れの悪い受け答えだ。何かを言いたいが、切り出すタイミングを窺っているといったところか? それならば、こちらから呼び水を差し出してくれるまでだ。

「何か相談したいことでもあるのだろう?」

「え!? あ……えっと……」

 随分と勿体ぶることだ。普段の力丸ならば細々と悩む前に、さっさと打ち明けて楽になろうとするが、今回は妙に立ち振る舞いが異なる気がする。無理も無いだろう。想像も出来ないような不可解な体験をしているのだ。それに、力丸からしてみれば俺が事情の真相を知っているとは想像も付かないだろうから、話を切り出すことを渋るのも無理は無い。

「えっと……なぁ、コタ。良かったら、オレの家に泊まりに来ないか? あー、いや、そうじゃねぇな……ううーん」

 何やら電話の向こうで一人、熱く議論している様子が手に取るように判る。色々とつっこみ所満載な振る舞いではあったが中々に面白そうだ。此処は取り敢えず見守ってみることにしよう。

「よし! コタ、オレの家に泊まりに来い! いや、来てくれ! 頼む!」

 やれやれ……実に判り易い奴だ。確かに電話では込み入った話をするのは難しいだろう。それにしても相変わらず強引な奴だ。此処で突き放すのも、それはそれで面白いが、今は冗談をかましているような状況では無い。少なからず切迫した状況であることは事実だ。

「相変わらずお前は強引だな。そうやって結花さんという難攻不落の城を落城させたのか?」

「な!? ちょ、ちょっと待て! あのな、結花との話は……」

「こっちの準備が済み次第向かうから、いい子で待っていろよ?」

「い、いい子でって……ま、まぁ、来てくれるっつーのは感謝感激雨あられだけどな」

 ううむ、相変わらず判り易い奴だ。面白いからもう少しおちょくりたい所ではあるが、この辺で勘弁してやるとしよう。取り敢えず夕食を済ませてから向かう旨を伝えて電話を切った。まぁ、料理自慢の力丸に夕食をご馳走して貰うのも悪くは無いが、恐らく今はそんな気分でも無いだろう。それに夕食を要らない旨を伝えようにも母は留守だ。しかも恐ろしいことに、うちの母は携帯を持っているクセに、出掛ける時に持ち歩かない。何のための携帯なのかサッパリ意味不明である。

「フフ、中々に面白い奴であるな」

 電話を終えた俺にクロが微笑み掛ける。

「露姫と深く関わりを持つ二人が一同に介す。接触してくる可能性は高くなるであろうな」

「ああ。それが狙いだ。こちらから接触を取ることは困難だが、向こうから接触を取ることは容易なはず。ならば、敢えて接触し易い状況を作り出す」

 良い感じになってきた。いよいよ狐と狸の化かし合いの様相を呈してきたな。上手い具合にこちらの舞台に引き摺り上げてしまえば後は如何様にもなるであろう。何よりも重要なのは、如何にして力丸を露姫から引き剥がすかという部分になるだろう。力丸が露姫の肩を持っている以上、事が上手くまとまることは無いだろう。責任重大だな……俺がしくじれば力丸の身に危険が及ぶ。その上、露姫は警戒心を高め、俺との接触を避ける様になるだろう。そうなってしまえば、もはや打つ手は無くなる。

「今宵はコタの立ち振る舞いに賭けるとしようでは無いか」

「余計なプレッシャーを与えるな……」

「フフ、そう言ってはおるが、随分と楽しそうでは無いか?」

 お前と一緒にするな。そう言いたかったが、確かに、どこかで楽しんでいる自分がいることを否定出来なかった。もしかしたら俺は、自分と良く似た心を持つ露姫と接してみたいと願っているのかも知れない。もっと言ってしまえば露姫に興味を惹かれているのかも知れない。どういった興味かと問われれば、あの妖艶過ぎる雰囲気に、男として興味を抱いているのは事実なのであろう。だからこそ、接触できることに期待を抱いているのだろう。無論、そんな事実、俺は受け入れたくは無かった。友を救出するという理性と、妖艶なる露姫に向けられた淫靡なる本能。

(もっとも、俺は冷凍死させられるつもりは毛頭無いが)

「だが、コタよ、くれぐれも油断するで無いぞ? 相手は虚と実を巧みに使い分ける者。巧みに自らの姿を、表情を使い分けてはお主を翻弄せぬとも限らぬ。不用意に信ずるで無いぞ?」

 俺のことを想っての言葉なのだろうが、すんなりと受け入れることは出来なかった。クロの考えはそうなのかも知れない。だけど、俺の考えは違う。騙されることを恐れて、不用意に身構えれば余計に危険に曝されることになるだろう。露姫は救いを求める身……ましてや、多くの者達に翻弄され、騙され、時に虐げられた身なのであろう。そう考えれば、やはり嘘偽りの無い姿で接するのが筋というものでは無いかと思うのだ。

「フフ、相変わらずコタは頑固であるな」

「ああ。それが俺だからな」

「ならば我もお主に託そう」

 クロの助力を借りる訳にはいかない。露姫は恐らく俺達よりも遥かに鋭い感覚を持っていることだろう。安っぽい小細工など、すぐに見破ってしまう筈だ。それに、正々堂々と接したいと考えているのに小細工などは必要無いと考える。

 不意に玄関の戸が開かれる音が聞こえて来る。どうやら母が戻って来た様子だ。

「あら、小太郎帰ってきはるの? 雨降って来はったから急いで洗濯物取り込んでくれる?」

 母の言葉を聞きながら思わずクロと顔を見合わせてしまう。にやにや笑う俺に何か嫌な予感を察したのか、クロは引きつった笑いを浮かべていた。

「という訳だ。手分けして取り込むぞ」

「わ、我に洗濯物の取り込みを手伝えと申すか?」

「何だ? 不服か?」

「い、否……承知した」

 ベランダに出て俺達は洗濯物を取り込むことにした。ついでだから洗濯物も畳んでおくとしよう。苦笑いを浮かべるクロに俺も負けじと苦笑いで返す。二人で洗濯物を取り込み、二人で洗濯物を畳む。二人ならば半分の時間で済むというものだ。しかし、良く考えてみれば……我ながら中々凄いことをやっている気がしてきた。古今東西広しといえどカラス天狗に洗濯物を取り込ませ、なおかつ畳ませた奴等存在したのだろうか?

「ふむ……コタは意外に人使い、もとい、天狗使いが荒いの」

「何か言ったか?」

「い、否。何も申しては居らぬ」

 意外にもクロは手先が器用な様子で、俺よりも遥かに綺麗に畳んでいた。ううむ……これでは、どちらが畳んだか一目瞭然で判ってしまうな。まぁ、細かいことは置いておこう。

(それにしても頼んで置いてアレだが……何と、微妙な絵なのであろうか……)

 でっかい図体のカラス天狗が、妙に器用な手付きで次々と洗濯物を片付けてゆく様は、あまりにもシュール過ぎて笑いを堪えるのに必死だった。しかも、何とも寂しげな、憂いに満ちた表情が、この上なく滑稽で、哀れで、何とも言葉に出来ない光景であった。

(ううむ、クセになりそうだな……)

「む? 何がクセになると申すか?」

「な、何でも無い……」

 そうこうするうちに夕食時となった。力丸が首を長くして待っているであろうことを考えれば、早めに出向いてやりたいところであった。俺は力丸の家に泊り掛けで出掛ける旨を伝えて、家を後にするべく玄関で靴を履いていた。不意に背後に忍び寄る不穏なる影……何やら不敵な笑みを浮かべた父の姿に嫌な予感しか抱けなかった。

「小太郎、友達の家に泊まりに行くならば手土産の一つでも持っていけ」

「……手土産ならば菓子辺りが一般的な気がするが?」

「まぁ、堅いことを言うな。男二人で朝まで晩酌するのも、また一興……」

「お父さん、何が一興や言いはりました?」

 背後から聞こえて来る声に、親父の猫背が一気に伸びる。親父が恐る恐る振り返れば、そこには満面の笑みを浮かべた母の姿があった。恐ろしいまでに迫力のある笑みであった。

「あ、イヤ……その、おお、そうだ! 小太郎、美味しいお菓子があった。ちょっと待っていろ?」

 ううむ、相変わらず学習機能の無い人だ。

「ふむ。どこの家庭でも母という存在は最強の存在と言えようぞ」

 クロよ、そんな微妙な文化は理解しなくても良い……。妙に感慨深そうに頷くクロに、俺は一言、言葉を添えてやりたかった。

 準備も整った所で俺は力丸にメールを入れることにした。これから家を出る、と。此処からは一人での戦いになる。気を引き締めて挑まなくてはならない。家を出た俺はそのまま花見小路を上がることにした。四条河原町まで徒歩で移動し、そこからバスで上賀茂神社前まで移動する。力丸の家は上賀茂神社のすぐ近くだ。さて、親友を奪還するための戦いに出発するとしよう。

◆◆◆24◆◆◆

 随分と蒸し暑い気候だった。雨も降り出した。吹き出す汗を拭いながら俺は四条大橋を渡っていた。どんよりと暗い色をした空は時折唸りを挙げている。嫌な気候だ。時間帯も夜に移り変わり、辺りはいよいよ漆黒の闇夜に呑まれようとしていた。逢魔が時に再び夜半の街に繰り出すことになろうとは、中々に因果な話だ。

 相変わらず河原町周辺は人通りが多い。賑わいを見せる四条通を歩みながら、俺は四条河原町のバス停を目指し歩き続けた。時間に関係なく、この道には人が引っ切り無しに往来し続ける。こういう賑わいも嫌いでは無い。

 程なくしてバス停に到着する。幸運にも、さして待つことなくバスが訪れた。この蒸し暑い気候では汗を掻いて仕方が無い。早々にバスが到着してくれたのはありがたいことだ。

 四条河原町を後にして、バスはゆっくりと走り出す。夜の街並みを駆け巡るバス。バスの窓から流れ往く景色を静かに眺めていた。空調の利いたバスの中は涼しくて、心地良く思えた。

 夜の景色というのも嫌いでは無い。昼間とは違った装いを見せる街並みに心惹かれる想いがある。確かに、夜の景色というものは人の手が作り出した人工物の結晶体でしか無いが、それはそれで悪くは無い。毎年夏が近付いてくれば、鴨川沿いの店々は競い合うかの如く川床を用意する。鮮やかな色合いの提灯が彩る鴨川の夕べ。夏の風物詩と言える光景だ。人が創り上げた造形美など、カラス天狗達の様に大自然に生きる者達からしてみれば、所詮は、大自然の上に敷かれた墓標でしか無いのかも知れないが……。

 バスは夜の街をただ静かに走り続ける。停留所に止まる度に人が往来する。バスに乗り込む人もいればバスから降りて行く人もいる。俺はのんびりと窓の外を流れる景色を楽しんでいた。今回に限って言えば停留所の名前に注意も払う必要は無い。他の場所を目指すのであれば、うっかり降り過ごすと頑張って歩く羽目になる。だが、今回は四条河原町から上賀茂神社前までの経路であるため、目的地は終点となる。つまり、最後まで乗っていれば目的地に到達する。故に降り逃す心配は無い。

「次は上賀茂松本町。お降りの方は……」

 車内アナウンスが響き渡る。そろそろ力丸にメールを入れて置くとしよう。上賀茂松本町を出れば下岸町、そして終点の上賀茂神社前と至る。わざわざ迎えに来て貰わなくても力丸の家には何度も遊びに行っている。それに上賀茂神社前から見える場所にあることを考えれば、余計な配慮は必要無いのだが、そろそろ到着するということを伝えて置いてやった方が安心するだろう。何しろ力丸は良く言えば直情的な奴、悪く言えばせっかちな部分もある訳だ。今か、今かと俺の到着を待ち侘び、そわそわしている様子が容易に思い浮かぶ。まったく……実に判り易い奴だ。

「次は終点、上賀茂神社前。どなた様もお忘れ物をなさらないように……」

 バスの旅も此処で終幕。荷物を忘れないように周囲を見渡しながらバスを後にした。雨は一端止んだものの、いつ降り出すか予測もつかなかった。厚みを帯びた雲は今にも雨が降り出しそうな、不穏な様相を呈していた。再び周囲を見渡せば不意に視界に飛び込んで来る力丸の巨体。思わず大きな吐息が漏れてしまう。

(やれやれ。満面の笑顔で手を振りながら駆け寄ってくるとは、どれだけ待ち侘びていたのか……)

 何時もと変わらぬ熱血漢な振る舞いから察するに、それなりに気持ちは落ち着いているのだろう。そういう面では安心できた気がする。

「悪りぃな、わざわざ来て貰っちまってさ」

 言葉とは裏腹に随分と嬉しそうだな。少々意地の悪い突っ込みを入れようかと思ったが、今日は力丸をからかいに来た訳では無い。

「な、コタ、夕飯まだだろ?」

「へ?」

「いやー、わざわざオレの我侭で泊まりに来て貰うってぇのに、何にも持て成さないってのもさ、あんまりだと思うだろ?」

「い、否、あのな、力丸……」

 すっかり気分が乗っているのか、力丸は俺の言葉などまるで聞こえていないかの如く、勢い良く喋り続けていた。

「オレもさ、夕飯まだでさ、腹が減っちまってなー。わはは」

「は、はは……そうか。それは楽しみだな」

「おうよ! オレが気合い入れて作るからよ、楽しみにしていてくれよな!」

 もはや誰にも力丸を止めることは出来ないだろう。言うなれば、力丸は恋する暴走機関車的乙女な一面を持っている身。走り出したら止まらない上に、暴走機関車の如き破壊力と推進力を持って突き進むという凶悪な性質を持っている。まぁ、これも力丸のためだ。頑張って腹を空かせねば……。

 上賀茂神社を後に、俺達は力丸の家、つまりは京料理屋『比叡亭』を目指して歩き始めた。ふと空を見上げれば、厚みを帯びた雲の隙間から微かに唸りをあげている音が響き渡る。

「お? 今にも雨が降り出しそうな空模様だな」

「そうだな。早めに移動した方が良さそうだ」

 夜だというのに夕立を思わせる様相を称えた空模様だった。生暖かい風が吹き始めた辺りからして、天候の崩れは間近ということだろう。明神川の傍に佇む柳の木の葉もゆらゆらと揺れていた。雰囲気は十分だ。幽霊が出そうな状況というのはこういう状況を指すのだろう。

 不意に俺達の横を車が通り過ぎて行く。夜の社家の街並みを照らし出すのは、雲間から覗く月明かりだけ。サラサラと流れる明神川の流れに、すれ違う車の無機的な赤いテールランプが色を添えてゆく。

「ううーん、何かさ、過去と現代が交差する風景って感じだよな」

「フフ、何だかお前が言うと様にならないな」

 思わず失笑すれば、力丸も一緒になって豪快に笑いだす。

「あー、やっぱり? 太助が言うと様になるんだけどなー。やっぱり、アイツ、格好良いもんな」

「俺はお前の、そういう温かさも嫌いでは無いがな」

 力丸は一瞬、照れ臭そうに頭を掻いて見せたが、不意に真顔になり、ついでに苦笑いを浮かべて見せた。

「それってさ、暗にオレは格好良くないって言っているってことだろー?」

「まぁ、そうなるな」

 何時もと変わらぬ力丸の姿がそこにあった。豪快に笑い、陽気に立ち振る舞い、無駄に身振りを織り交ぜた仰々しい振る舞い。少し安心した気がする。完全に心を見失った訳では無いということが判っただけでも一安心だ。だが、力丸よ、お前も判っているはずだ。本当に話したいことは他にあるはずだ。それとも、俺から助け船を出してやろうか? そんなことを考えていると不意に力丸が足を止めた。足元を見つめたまま、静かに吐息を就いて見せた。

「なぁ、コタ。テルテルさ、どうしている?」

 何時もの調子とは明らかに異なる、覇気の感じられない口調であった。だからこそ俺は力丸の目をじっと見据えたまま、問い掛けてみた。

「気になるのか?」

 俺の問い掛けに力丸は一瞬言葉に詰まっていたが、搾り出すように返してみせた。

「そりゃあな……あんなこと言っちまった後だからさ、落ち込んだりしてねぇかなぁって」

「輝は相当落ち込んでいたな」

 言い終わるか終わらないかのうちに即座に返された俺の言葉に、力丸はがっくりと肩を落としながら「そりゃ、そうだよなぁ」と、苦々しい表情で笑みを浮かべていた。図体のでかい力丸が気落ちしている姿というのは、やはり、外見のでかさがあるからだろうか? 見ているこっちまで沈んだ気持ちにさせられる。普段の豪快な姿とは余りにも異なる姿は久方ぶりに目にした気がする。

「なぁ、コタ。テルテルはオレのこと許してくれるかな?」

 なおも力無く放たれる力丸の言葉を聞きながら空を見上げれば、不意に大きな雨粒が零れ落ちてきた。どうやらそろそろ限界らしい。此処まで派手に降り始めれば後は崩れるのは早いものだ。一気に雨足は強まる。涼やかな流れを称える明神川に雨が激しく叩き付ける。

「さぁな。俺は輝では無いから何とも言えん」

「そ、そうだよなぁ……」

 力無く答えるばかりの力丸に俺は段々と苛立ちを覚えてきた。らしくない姿を見ることが忍びなくなって来たのかも知れない。身勝手だと言われればそれまでかも知れないが、やはり、力丸の辛そうな姿を見るのは心苦しい。それに……誰も輝の行動に、全く落ち度が無かったとは想って居ないことだろう。

「力丸、お前は謝らなくてはいけないようなことを言ったのか?」

「え? いや、オレは……」

 力丸は慌てて俺から目線を逸らした。良くも悪くも、お前はあくまでもお前なのだな。俺は小さく息を吸い込みながら逃げようとする力丸の目を見据えた。

「はっきり言えば良い。輝の無茶な立ち振る舞いは、時として皆を危険に巻き込むこともある。俺は少なくても良いことだとは思っていない」

 俺の言葉に力丸は再び考え込んでしまった。安っぽい弁明にしか成らないが、済まないな、力丸……お前を傷付けたくて意地悪なことを言っているのでは無い。ただ、どうしても事実関係を明らかにしなければならない。そのためには、お前の口から事実を聞き出す他無いのだから。

「だいぶ降り出したな。あそこにある軒先に避難しよう」

 雨は容赦なく降り続ける。取り敢えず俺達は、手短な薬局の軒先に非難した。だいぶ濡れてしまった。俺は服に降り掛かった雨粒を手で払い除けていた。

 俺の言葉を受けて力丸はどう応えれば良いのか考え込んでいた。しばし、思案していた様子ではあったが、ようやく重い口を開き始めた。

「迂闊に首を突っ込むべきじゃ無いんだ、今回のうわさ話は……マジでヤバいんだ」

「ほう? 普段のうわさ話とどう違うと言うのだ?」

 良い傾向だ。ようやく聞きたかった話が出始めてきた。このまま一気に後押しする。

「平安神宮には……本当に、女の幽霊が出没する。そして、その女の幽霊を目撃した。違うか?」

 俺は力丸の眼差しを、じっと見据えたまま続けた。一瞬、力丸が息を呑む音が聞こえた。もはや、此処まで追求されたのであれば、後は観念するしか無いと気付いたのだろう。もう一押しだ。俺はただ静かに力丸の眼差しを見つめていた。言いたいことはそれだけなのか? もっと重要なことがあるのでは無いか? 俺は力丸が自らの言葉で真実を語り出すのを静かに待った。否、むしろ、話してくれとの願いを篭めていた。

「夢の中でさ……」

 そうだ! その話を聞きたかったのだ! ようやく核心に迫る部分を語り始めた力丸の言葉に、俺は思わず身を乗り出しながら耳を傾けた。

「可笑しな女に出会ったんだ」

「可笑しな女?」

「ああ、可笑しな奴なんだ。そいつ、名前は露って言ってな」

 ずっと、一人で抱え続けていたのだろう。王様の耳はロバの耳と、声を大にして叫びたかったことだろう。だからこそ、語り始めた力丸は堰を切った様に一気に語り始めた。何時も以上に力の篭った早い喋り口調で、捲くし立てるように語り続けた。

 やはり、俺があの時、夢の中で見た光景は間違いでは無かった。力丸は露姫との接触を持っていた。しかも、少なからず露姫を庇う様な素振りさえ見せている。魅入られているとは、こういった状況のことを指すのだろうか。いずれにしても深刻な事態にあることには変わり無い。

「可笑しな奴なんだ。夢の中でしかその姿を目にすることは出来ない。判っているんだぜ? アイツは人じゃ無いってことも。ただ……オレを頼ってくれて、オレに縋ってくれて……ただ、それだけで、オレ、嬉しかったんだよな……」

 何時の間にか力丸の目には大粒の涙が称えられていた。

「オレ、馬鹿だよな……すっげー馬鹿だと思うよ」

 力丸の隣に並ぶと、俺は力丸の肩を抱いてやった。俺なんかに、こんなことをされても嬉しく無いかも知れないが、どうしても放っておくことが出来なかった。済まないな、力丸……所詮、俺の自己満足だ。

「情けねぇよな……オレ、未だに結花のこと、忘れられなくてさ……」

「情けなくなんか無い。それだけお前に取って大切な人だったのだろう?」

 俺の言葉を受けた力丸は声をあげて泣いていた。大丈夫だ……此処には俺とお前しかいない。それに、雨に濡れた姿ならば、涙を流していても判りはしない。そう考えると、俺にはこの雨が力丸の心の象徴の様に思えてならなかった。

「予期せぬ別れ……ましてや、誰かの手で摘み取られた幸せを、どう、割り切れと言うのか?」

「オレさ、あいつのこと守ってやれなかっただろ?」

 力丸の口から語られる複雑な想い……恐らくは結花に対する想いを、果たせなかった無念を露姫の中に見出してしまったのだろう。そう考えると一連の行動も辻褄が合う。

「そうか……それで、皆で平安神宮を訪れた時に怒りを見せた訳か」

「ああ。変な探りを入れられて露のことが明らかになるのも避けたかったし、こんな可笑しな話に皆を巻き込むのも避けたかった。それに……」

 言い終わることは無かった。力丸は出掛かった言葉を慌てて呑み込んだ様に見えた。安心しろ。無粋な詮索をするつもりはない。これは俺の勝手な憶測だが、何よりも、結花との思い出に触れて欲しくなかったというのが一番の理由ではなかったのだろうか?

「露のことを守ってやりたくてな……判っているんだ。あいつは結花では無いし、そんなことしたって、オレ自身が惨めなだけだってこともさ……馬鹿だよな、オレ……へへ、どうしようもねぇくらいに馬鹿だよな」

 必死で涙を拭いながら語る力丸の言葉を、俺はただ静かに受け止めていた。

「ああ、お前は本当に馬鹿だな」

「はは、相変わらずコタは容赦ねぇな……」

「勘違いするな」

 俺の中では激しい怒りが渦巻いていた。抑え切れない程に激しい怒りだった。力丸は本当に良い奴だ。こんな良い奴を我欲のために欺き、騙し、陥れようとした露姫の行為に怒りを覚えずには居られなかった。そして、誰にも相談することなく一人で解決しようと試みた力丸自身に対しても怒りを覚えていた。複雑な想いだった。その複雑な想いが、そのまま口調にも現れてしまったのだろう。目を丸くして、力丸は驚いたような表情を浮かべていた。

「俺が馬鹿だと言ったのは、全てを自分一人で解決しようとした行為に対してだ。良いか? 相手はお前も気付いている通り、人ならざる者だ。お前一人で幾ら頑張ったところで絶対に解決することは無い。それどころか……お前は、露姫に連れ去られるところだった。もう少しで、命さえも奪われていただろう」

「命を……奪われるって、い、一体どういうことなんだ!?」

 力丸は酷く驚いた表情で俺に問い掛けた。いよいよ核心に迫る所だ。力丸に一連の出来事の真相を語って聞かせようと、気合いを篭めるが如く、大きく息を吸い込んだ時であった。唐突に響き渡る地響きの様な音色。一瞬雷鳴かと思ったが、それにしては随分と低い位置から……というより、俺のすぐ隣から聞こえてきた気がする。豪快に鳴り響く腹の音に、俺の口からは情け無い音を発しながら吐息が漏れていった。

「は……はは、えっと、その……」

「確か……腹が減っては戦は出来ぬ、だったな?」

 憮然とした俺の表情に動揺したのか、必死で作り笑いを浮かべながら肩を組んでみせる力丸。

「そ、そんなにおっかねぇ顔すんなって! お、オレさ、コタのこと大好きだからさ!」

「……こんな場面で告白されて、どう応対しろと言うのか?」

「こ、告白!? いやいやいやいや、そーいう意味じゃ無くてだな!」

「判っている」

 ううむ、この男……実に弄び甲斐があるな。そして、やはり、シリアスな場面がこの上なく似合わない男だ。憐れみさえ覚える。いずれにしても、派手に雨の降る中、見知らぬ家の軒先で語るような内容でも無いだろう。目一杯力丸をからかいながら、俺達は力丸の家、つまりは京料理屋『比叡亭』へと急いだ。

◆◆◆25◆◆◆

 京料理屋『比叡亭』に着く頃には俺達はすっかりずぶ濡れになっていた。雨足は今なお強さを保ったままの様に思える。窓の外を覗けば叩き付ける様な雨が降り注ぐ様が見て取れた。次々と地面に落ちては次々と波紋を作り上げる雨粒が、雨の勢いを物語っていた。

「いやぁ、ひでぇ雨だな。あーあ、ビショビショだぜ」

「水も滴る良い男、とでも言ってみるか?」

「ははは。コタはそうかも知れねぇな」

 冗談だ……。そう、真に受けられると、言った方も恥ずかしくなるでは無いか。そこはセオリー通りにツッコミを入れる場所だ。耳まで熱くなりながら小恥ずかしさに喘ぐ俺など眼中に無いのか、力丸はさっさと家の中に走り込んでいった。

(しかも、俺の存在はスルーか!?)

 何やらあちらこちらを駆け回っているのか、重量感のある足音がそこかしこから響き渡る。一体、あの男は何をしているのだろうか? 考え込んでいると、賑やかに駆け回っていた力丸が唐突に戻って来た。

「いやぁ、待たせちゃったな。先、風呂入っていて貰って良いか?」

「この家の主はお前だろう? 俺のことは構わなくても良い。先に入って来ると良い」

「いやいや、遠慮しないでくれ。コタはお客人だからさ。それに、オレは夕食の準備もあるからさ」

 確かに、客人を招いておきながら、ずぶ濡れの状態で待たせると言うのも気が退ける。此処はお言葉に甘えさせて貰うとするか。

「悪いな。それでは、先に風呂に入らせて貰うとする」

「おう。ゆっくりして来てくれて構わないからなー」

 力丸は短く言い残すと、再び重量感のある足音を轟かせながら家の奥へと入っていった。取り敢えず俺は風呂場を目指すことにした。

 力丸の家は一階の大部分は店になっているが、奥の方の一角は住居部分となっている。此処に風呂場や洗面所などの水周り関係の設備が固まっている。二階が力丸一家の住居となっている。それにしても、相変わらず落ち着きの無い奴だ。力丸が駆け回る度に天井がミシミシと軋んだ音を放つ。ただでさえ図体がでかい奴が走り回ると相当な物がある。いきなり二階から床を突き破って落ちて来ないか、真面目に不安な気持ちになる。

「大丈夫なんだろうな、この家……」

 脱衣所で服を脱いでいると、再び豪快な足音が近付いてくるのが聞こえてきた。身の危険を感じさせる程に豪快な足音であった。ついでに豪快に着替え場の戸を開く音が響き渡る。

「おりょ? まだ入ってなかったのか?」

「あ、ああ……」

 脱ぎ途中という、何とも間抜けな姿で硬直してしまった。

「そっか。オレもビショビショだし、汗も掻いちまったから一緒に入らせて貰うぜ」

「ああ……それは構わないが、風呂場、大丈夫か? 壊れないか?」

 細けぇことは気にすんな、と豪快に笑いながら力丸は一気に服を脱ぎ捨てた。そのまま、豪快に浴槽に飛び込む音が響き渡った。

(本当に大丈夫なんだろうな……)

 俺も力丸に続き風呂場に足を運ぶ。

 力丸の家の風呂はウチの風呂と比べるとだいぶ広い。まぁ、父子揃って似たような体付きなのを考えれば、一般的な風呂では物足りないのだろう。力丸は大きく手を広げながら、ゆったりと寛いでいた。

「ううむ……温泉を楽しむ野生動物の特集とか時々テレビでやっているが、そういった情景を思い出す絵だな」

 思わずシゲシゲと見入ってしまう。中々に雄大な光景だ。

「わはは。野生的な男だってか? いいね、いいね。オレに取っては褒め言葉だぜ」

 素直に喜べる辺りが、やはり、力丸が力丸たる姿であると言えよう。多少は気持ちも落ち着いて来たのかも知れない。

 ふと、何気なく窓の方に目をやれば、外は何時の間にか静けさを取り戻している様に思えた。隣の家から聞こえてくる食器と箸のぶつかり合う音以外、何も聞こえて来ない程に辺りは静まり返っていた。

「雨、上がったみたいだな」

「ああ、そうだな。随分と静かになったと思ったが、止んだみてぇだな」

 丁度良い。俺は先程出来なかった話の続きを切り出そうと考えていた。

「なぁ、力丸。さっきの話の続きだが……」

「おう。男同士の裸の付き合い。互いに無防備な状態だからな。今なら何でも話せるぜ」

「そうか。それは好都合だ。なら、遠慮無しでいかせて貰うぞ」

 前置きを置いてから一呼吸。

「露姫は人探しをしている。そのことはお前も知っている筈だ」

「ああ。露……いや、露姫も、そのことは口にしていたからな。同時に、追っ手に追われているという話も聞かされたっけな」

 話しながら力丸が手招きする。隣に俺が入れるスペースを確保しているのを考えれば、一緒に湯に浸かれということだろう。まぁ、肩を並べて話した方が話し易いというのはあるな。俺は力丸の隣に肩を並べながら話を続けた。

「この人探しという部分が問題の部分だ」

 俺の言葉に力丸が険しい表情を浮かべる。核心に迫る部分だ。特にしっかりと聞いて欲しい話だけに、こちらとしても心して話さねばならなかった。

「露姫は満久という人物を探し求めている。だが、その満久という人物は露姫が生きていた時代の人物だ」

「つまりは、もう存在していねぇってことだよな?」

「そうなるな」

 露姫も生きている人では無いが、此処では議論の対象からは外す。まったく異なる時間軸を生きている露姫を混ぜると話が理解し辛くなるからだ。

「露姫は人探しをしている。だが、その相手は満久では無い。言い換えれば、『満久の代わり』となる存在を探し求めている」

「どういうことだ?」

 俺の言葉に力丸の表情が険しくなる。だが、俺は怯むことなく話を続けた。

「露姫は自らの存在を知らしめる為に平安神宮という場所を選んだ。その上で、誰もが知る平安神宮という場所に幽霊が出現するといううわさ話を流した。インパクトのある話だ。当然、露姫の思惑通り、瞬く間に京都市内中に広まっていった訳だ」

 淡々と語り続ける俺の言葉に、力丸はただ静かに聞き入っていた。だが、次第に表情が青褪めてゆくのが見て取れた。話の流れが見えてきたのであろう。つまりは、事態の深刻さを理解し始めたと言えよう。俺は畳み掛けるように語り続けた。

「多くの人々が平安神宮を訪れた。そして……中には、露姫と遭遇した者達もいたことだろう。恐らく、遭遇したのは全員若い男だ。だが、中には不届きな行動に出る者もいたと想定される。当然、露姫が求めているような存在とは対極に位置する存在だ。露姫の逆鱗に触れた彼らは、露姫の手により殺められた……それが例の六人、ということになる」

 肩を並べているせいもあるのだろうが、俺には力丸の胸の鼓動が聞こえていた。それ程までに動揺しているのだろう。否、同時に生命の危機を間近に感じ、此処に来てようやく恐怖心を覚えたのだろう。

「そ、それじゃあ、オレが今こうして生きているってぇことは?」

 自分で口にしながらも、恐ろしい結末を理解したのだろう。思わず息を呑む力丸の様子からも、恐らくは同じ結論に至ったことだろう。

「露姫の目に留まったということだろうな……つまりは、奇しくも力丸は露姫の探し求める相手そのものだったということだろう」

 俺の言葉に力丸は言葉を失い、ただ黙り込んでしまった。

「愛を求める露姫に……愛を贈りたい力丸。皮肉にも双方の利害は一致する訳だ」

 だが、続けて口にした俺の言葉に青褪めていた力丸の表情がみるみる紅潮してゆくのが見て取れた。無理も無いだろう。「他に頼る相手が居ない」等と、恐らくは力丸の気持ちを惹き付ける為に相応の立ち振る舞いをしたことだろう。露姫は無垢な顔立ちとは裏腹に、男を狂わす狡猾さを持ち合わせている魔性の女。良くも悪くも直情的な力丸は、さぞかし手玉に取り易かったことだろう。

「ば、馬鹿にしやがって……オレの結花を想う気持ちを逆手に取って、弱みに付け込むとは最低な女だぜ! ふざけやがって……絶対に許せねぇ!」

「力丸、落ち着け。気持ちは判るが、俺の憶測に起因する部分も多々含まれている。まだ……露姫の本当の目的は、誰にも判ってはいないのだ。憶測だけで行動を起こすのは危険過ぎる」

 怒りに我を見失いそうになる力丸の肩を叩きながら、俺はさらに続けた。

「それに……露姫は人を容易く凍り付けにするだけの力を持つ身。迂闊に喧嘩を売れば、返り討ちに遭うだけだ」

「でもよ!」

 怒りに我を忘れるのは理解出来る。もしも、俺が力丸の立場であったとしたら正気を保つことは出来なかっただろう。こうして冷静に立ち振る舞えるのは、俺が第三者だったからに他ならない。

「焚き付けて置いて、こんなことを言うのは奇異に感じるかも知れないが……露姫が救いを求めている気持ちは、決して偽りでは無いと思う」

「なんだよ、コタ。あの女の肩を持つ気か?」

 憮然とした表情を浮かべる力丸の肩を組みながら、俺は「それは違う」と返した。

「俺にも良く判らない。ただ……俺もまた、孤独の絶望感を知る身。露姫は俺と似ている気がしてな」

 ここから先の話は腹ごしらえをしてからの方が良さそうだ。長くなるだろうし、人は空腹の状態では正確に物事を考えることは出来ないものだ。相変わらず力丸は不機嫌そうな表情を崩さない。それならば作戦を変えるとしよう。俺は話題を変えることにしてみた。

「ところで、力丸。今宵は一体どんなご馳走を用意してくれたのか? 実は先刻から酷い空腹に見舞われていてな。早く、お前の料理を堪能したいと、腹が唸りを挙げている」

「お!? 嬉しいこと言ってくれるねぇ。それじゃあ、さっさと風呂から上がって飯にしようぜ! わはは、オレも腹へっちまったからな!」

 予想通り、力丸は容易く機嫌を直してくれた。良くも悪くも力丸は直情的な奴だ。お前のそういう一面、嫌いじゃない。だからこそ俺が守り抜く。お前のことも……それから、露姫のこともな?

◆◆◆26◆◆◆

 取り敢えず手短に汗を流した俺達は店の方へと向かった。料亭と言えば高級なイメージが伴うものだが、比叡亭も勿論のことながらその範疇に含まれる。

 掃除の行き届いた綺麗な和室。温かな照明が演出する穏やかなお座敷。そこに俺は腰掛けていた。落ち着いた雰囲気の高級感漂う店内に思わず背筋が伸びてしまう。

「良いのか? こっちは店なのだろう?」

「あー、平気、平気。オレ達しかいねぇし、後でちゃんと片付けるからよ。何より、今日はウチの親達は知り合いの葬式で、どっか地方の方に出掛けちゃったからな。ま、今夜はオレの天下ってぇワケだな。わはは」

(どっか地方の方にって……大丈夫なのか、そんな曖昧な情報で)

 長い付き合いではあるが、相変わらずこの男の中では「細かいことを気にしない」という考え方と「ガサツ」という考え方が一体化しているような気がしてならない。細か過ぎる奴はそれはそれで面倒くさいが、あまりにも大雑把過ぎるのは、それはそれで心臓によろしくない。

 何時の間にか力丸の姿が見えなくなっていた。何やら厨房の方から物音が聞こえてくるが、食事の準備でもしているのだろうか? 邪魔にならないようにそっと厨房に顔を出してみる。

「へへ。コタに電話した時から準備していたから、それなりに色々と作れたんだぜ?」

 自信に満ちた表情で力丸が示してみせたのは、少々いびつではあるが確かに懐石料理の形を為した料理の数々であった。見事な料理に思わず感嘆の声が漏れる。

「ほう。見事なものだな。力丸が一人で作ったのか?」

「ああ。まだまだ半人前の仕事しかできねぇけど、これから腕は磨いていくから勘弁してくれよな」

「これで半人前とはな。一人前になれる時が楽しみになるな」

「へへ。期待して待っていてくれよな? でさ、コタ。悪りぃんだけど、一緒に座敷まで運んでくれないか?」

「ああ、任せておけ」

 力丸と共に大人数向けの座敷に料理を運んだ。不思議な気分だ。こういう高級感漂う場所での食事は経験の無いことだけに殊更に不思議な気分であった。

 運び終えた所で、ようやくの夕食となった。もっとも、俺に取っては本日二度目の夕食ではあったが、力丸の見事な料理を目の当たりにして、少なからず食欲は刺激されたことは言うまでも無い。

 それにしても、中々に緊張する光景だ。高級感漂う料亭の広いお座敷に、俺達二人分だけの食事が並べられている。何とも贅沢な体験をしていることだ。

「見事な食事だな。楽しい夕食になりそうだ」

「へへっ、そう言って貰えると嬉しいな。自分の作った料理をさ、誰かに振舞うのが楽しくてな。まぁ、料理人目指しているワケだから、当然と言えば当然なんだけどな」

 そうは言いながらも、力丸は人を喜ばせるのが好きな奴だ。誰かの笑顔を見ていると自分もつられて幸せになれる。以前、口にしていた言葉を思い出していた。

「それじゃあ、折角だし、冷めないうちに食べてくれよ」

「ああ、そうだな。それでは、ありがたく頂くとしよう」

 少々荒っぽさは否めない無骨な見た目ではあったが、力丸の想いが感じられる料理の数々であった。短い時間ではあったが丹念に作り込んだのが良く判る品々であった。

「これは……美味いな」

「はは。随分とシンプルな感想だなぁ? もっと、他に無いのかよ?」

 味気無い感想に力丸が突っ込みを入れる。確かに、少々味気ない感想ではあったが……ううむ、改めて考えてみると、意外に言葉が出て来ないものだ。料理番組のリポーターという人種は、一体どうやったらあんなにも流暢に言葉が出てくるのだろうか? 俺も見習いたいところだ。

「まぁ、コタは普段からそんな感じだもんな」

「済まない。繊細な味を表現出来るだけの語彙力に乏しい身でな。悪く思わないでくれ」

 困り顔で返答したのが面白かったのか、力丸は可笑しそうに笑っていた。

「そういう所、コタって生真面目だよな。ま、無骨ながらも義理堅い一面、オレは好きだぜ」

「告白か? 真に受けるぞ?」

「へ!?」

 俺の言葉に力丸は目を大きく見開き、息を呑む。

「俺の愛は剛球だぞ? シッカリと受け止めろよ?」

 にやにや笑いながら切り返せば、動揺した表情で「ま、まぁ、落ち着け」と上擦った声で返された。悪くないものだな……こういうやり取りも中々に楽しいものだ。今、この瞬間は俺に取って掛け替えの無い時間だ。今を守り抜くためには何としても事態を解決せねばならない。その一方で事態を掌握するには未だ不完全な部分が多過ぎる。正確に事実を理解するためには、より多くの情報が必要だ。そのためには露姫と直接関わった力丸からの情報が必要不可欠となるだろう。

 丁度雨も上がったことだ。今一度情報を整理し、露姫との交渉のネタに使いたい。俺の頭の中で着々と戦略が組み上がろうとしていた。

「なぁ、力丸。お前は露姫のことを、どれだけ知っている?」

「どれだけって……ううーん、難しいこと聞くなぁ」

 少々抽象的な問い掛けであったか。力丸は腕組みしながら考え込んでいた。少し間を置いて考え込みながら、静かに俺の顔を見つめて見せた。

「イマイチ整理し切れていねぇから、上手く話せるかどうか判らねぇけど、取り敢えず順を追って話してみるな」

「ああ、そうしてくれ」

 時系列に従って話を聞かせて貰えた方が、状況を正確に把握できるだろう。むしろ好都合だ。俺達は料理を口に運びながらも話を続けた。懐石料理とは元来茶の席でのお茶菓子的な料理だ。潤滑に話を進めるために考案された料理だと聞く。ならば、料理を楽しみながら話をするというのは理に叶っている。

「数日前のことだな。オレは可笑しな夢を見ていたんだ」

 黙々と食事を口に運びながら力丸が語り出す。

「結花のこと、どうしても忘れられなくてな……今でも時々、結花と過ごした時間を夢に見ることもある」

 遠い目をしながらも語り続ける力丸の言葉に、俺はただ静かに耳を傾けていた。

「ああ、また何時もの夢かなぁって思いながら夢を見ていたんだ。ま、可笑しな話だよな。取り敢えず夢の中のオレは妙に冷静だった」

 力丸の話を中断させたくなかったから、敢えて顔には出さなかったが……良く考えれば中々に奇異な話だ。露姫の件はともかくとして、夢とはそんなにも具体的なものなのだろうか? 少なくても俺は目覚めれば綺麗サッパリ忘れ去ってしまっている。そこは人に寄って異なるものなのだろうか? それとも強い想いは形に成り易いというのだろうか? どうにも引っ掛かるが、今は追及することは辞めて置こう。

「これまた変な表現だけど、何時もの様にオレの家の周辺、つまりは上賀茂神社周辺だな。この辺を歩いていたんだ。夢の中でも結花の面影を求めて右往左往するなんて情け無い話だろ?」

 照れ隠しなのだろうか? 苦笑いを浮かべる力丸の表情を俺は静かに見つめていた。力丸は静かに呼吸を整えると続きを語り始めた。

「でも、あの日の夢はいつもと違っていた」

 力丸は大きな溜め息を就きながら微笑んで見せた。

「社家の街並みを歩きながら、大田神社に向かってみたんだ。コタも知っていると思うが、五月頃になると杜若が見頃になる神社でな。結花は花が好きだったからな。もしかしたら……また、会えないだろうか? なんて、馬鹿だよな……オレ。へへ……」

 もう二度と会うことが出来ない大切な人……力丸は俺には計り知れない程の哀しみを背負っているのだろう。自嘲的な笑みを浮かべる姿が痛々しくて、思わず目を背けた。

「そこで出会ったんだ。露姫とな」

 俺が夢の中で見た光景と符合する。やはり、あの時に力丸は露姫と接触していたということか。

「それからも、何度となく夢の中に現れたんだ。最初に会ったのは大田神社だったんだ。だけど、どういう意図があるのかサッパリ意味不明なんだけどさ、二回目以降は毎回、平安神宮の中で出会っていたんだよな」

 どうやら露姫は何度も力丸の夢の中に姿を現した様子だ。じわじわと力丸の心を侵食してゆくつもりだったのだろうか? 相変わらず解せない行動を取っている様子だ。しかし、毎回同じ様な夢を見続けているとは一体どういうものなのだろうか? 俺は率直な疑問を力丸にぶつけてみた。

「それで、その夢とは、一体どんなものなんだ?」

 おおよその予測は出来ていたが、やはり此処は確実な裏取りが必要だ。憶測だけで物事を進めていると意外な所で落とし穴に嵌る可能性がある。

「おう。それがさ、可笑しな夢でな。見知らぬ森の中を露姫と一緒に走っている夢なんだよ。何だか良く判んねぇけど、変な奴らに追われるって内容でな。そいつら、どうやら露姫を狙っているらしくてな。オレは露姫を守りながら必死で逃げ惑う。ただ、それだけの夢なんだ」

 やはり、俺が見た情景と符合する。だが、逃げ惑うだけの夢に一体、何の意味があるというのだ? やはり露姫の考えは理解出来ない……もしも、満久の代わりとなる存在を探しているのであれば、ただ逃げ惑うだけでは願いは成就しない気がする。そう考えると別の意図があるのだろうか? 解せないな……やはり掴みどころの無い奴だ。直接会って、何を考えているのかを問うてみたいところだ。否、そうしない限りは、堂々巡りから抜け出せないのでは無いだろうか?

「お陰で、夢の中でも走りっぱなしだから、全然、疲れが取れなくてな」

「本来であれば、睡眠とは失われた体力を回復するための行為であることを考えれば、肉体的な疲労は取れるのかも知れない。だが、度々夢の中に現れられては精神的な疲労は蓄積するばかりだろうな」

 意図がまるで見えて来ない。何が狙いなのか、何を成し遂げたいのかさっぱり判らない。やはり本人に直接問い質す他、道は無いのかも知れない。

 ちょうど食事も終わった所だ。今の所、露姫が行動を起こす様子は無さそうに思える。ならば、こちらから出向き、露姫自身に行動を起こさせるように仕向けるのが妥当だろう。

「力丸、食事も終わったところで夜風に当たらないか?」

「ああ。ちょうど雨も上がったみたいだしな。へへ、オレ、コタと夜の街並みを散歩するの好きなんだぜ?」

「ほう? それはデートのお誘いと受けとめて良い訳だな? お手柔らかに頼むぞ?」

「いやいやいやいや。何の話だよ!?」

「何って、散歩の話だろ?」

「う……。なぁ、コタ……オレをおちょくって楽しいか?」

「楽しいな」

「だよなー。その満面の笑み、悪意が感じられるもんよ」

「褒め言葉だな」

 冗談交じりの頭の悪いやり取りをしながらも、俺達は軽く後片付けを済ませ、外に出ることにした。先刻まで雨が降っていたせいか外は纏わりつく様な重たい湿気に包まれていた。嫌な気候ではあったが、何も行動を起こさなければ解決の糸口も得られないことだろう。

◆◆◆27◆◆◆

 俺達は上賀茂神社を目指して歩んでいた。この界隈では最も自然の豊かな場所であることを考えれば、露姫とも接触し易いのでは無いかと考えていた。何の根拠も無かったが、社家の街並みを歩き回るよりかは可能性がありそうな気がしていた。そんなことを考えながら上賀茂神社への道を歩んでいた。

 明神川の流れも涼やかな社家の街並みを抜けて、俺達は上賀茂神社前まで訪れていた。玄関口となる大きな鳥居を抜ければ本殿へと至る長い参道に出る。両脇には広大な芝生が広がる光景。夜に訪れれば周囲は静けさに包まれている。時折風が吹けば、木々の葉が揺れる音色だけが響き渡る。この広大な芝生も先刻までの雨のお陰で、多分に水気を孕んでいることだろう。

「雨が上がれば月明かりも綺麗なものだな」

「ああ。悪くない景色だよな。こうやって結花とも一緒に散歩したな。思い出すなぁ」

 今は亡き恋人、結花の話を語る時の力丸は、何時だって言葉には出来ない寂しげな表情を浮かべていた。恐らく本人はその事実に気付いていないのだろう。

 そういえば結花は花が好きだったと力丸は言っていた。一連の事件には花が絡んでいる。この季節に咲き誇る季節の花と言えば、やはり代表格は雨を好む紫陽花の花であろう。同時に露姫が殺めた奴らの傍にも、紫陽花の花が手向けられていた。何故、紫陽花の花なのだろうか? 結局のところ判然としていないのが実情だ。何らかのメッセージを篭めているのか、それとも、ただ単に気まぐれに死に往く者に花を手向けているつもりなのか? 考えれば考えるほどに解せない奴だ。

 考え込んでいると不意に携帯が鳴った。慌てて取り出してみれば、画面に表示されたのは太助の名であった。

「こんな時間に電話か? 誰からだ?」

 画面を見つめたまま硬直する俺に気付いたのかと、興味深そうに力丸が覗き込む。何か嫌な予感を察した俺は、力丸にも状況を手短に伝えた。

「太助からだ。何かあったのだろうか? 済まないな。しばし待っていてくれ」

「ああ、オレのことは気にしなくて構わないぜ」

 何か妙な胸騒ぎを覚えずには居られなかった。言葉には出来ない、何か嫌な予感がしていた。そもそも露姫が行動を起こさないことに違和感を覚えていた。その上、さらに突然の太助からの電話とくれば、果たしてこれは偶然なのだろうかと疑わずには居られなかった。俺は恐る恐る電話に出てみた。

「もしもし。小太郎か? こんな時間に悪いな」

 電話の向こうからは、激しく息を切らした太助の声が聞こえてきた。何か不穏な気配を感じずには居られなかった。冷静沈着が身上の太助にしては珍しく取り乱している様にも感じられる息遣いであった。

「何かあったのか?」

 否、何かあったから電話してきたのだろう。的外れな問い掛けではあったが、俺も動揺していたことは否定できない。

「ああ。厄介なことになってな……輝の奴、俺の制止も聞かずに大地と一緒に平安神宮に乗り込んだみたいでな。俺も賢兄と一緒に急ぎ平安神宮に向かうところだ」

 馬鹿な! 輝の奴、一体何を考えているのだ!? あれ程要らぬ行動は起こすなと言ったにも関わらず、何故無謀な行動に出たのか! 俺の苛立ちを感じ取ったのか太助がすぐに切り返す。

「小太郎、輝のこと、あまり咎めないでやってくれ」

「どういうことだ?」

「力丸のことで輝は輝なりに悩んでいたみたいでな。自分の手で真相を究明して、力丸を安心させようと考えて行動に至った筈だ。悪気があっての行動では無い。そこは理解してやってくれ」

 まったく……どいつもこいつも、単独行動好きで困ったものだ。輝の気持ちは、確かに嬉しくは思うが、今回の件に関しては相手が悪い。だが、一体どうすれば良い? 迂闊な行動を起こして露姫の怒りを買えば取り返しが尽かない事になる。俺と太助との緊迫したやり取りを、隣で聞いていた力丸も動揺を隠せない様子であった。慌てて輝に電話を掛けようと試みていた。

「くそっ! 何でテルテルに繋がらねぇんだよっ!? なら、ロックに電話するまでだ!」

 一体どうすれば良い!? 悔しいが俺達だけではどうすることも出来ない……結局、俺達はカラス天狗の、クロの手を借りなければ、どうすることも出来ないという事実が悔しく思えた。

「駄目だ! ロックにも繋がらねぇっ! くそっ! 一体どうなっちまっているんだよっ!?」

「力丸、落ち着け! 俺達が取り乱してどうする!?」

 電話の向こうからバイクのエンジン音が響き渡る。どうやら、平安神宮を目指して太助と賢一さんも動き出した様子だ。

「何が出来るか判らんが、取り敢えず現場に向かう……あと……れ……任し……」

「お、おい! 太助? 砂嵐の様な音が混じって、聞き取れないぞ? 太助!?」

 駄目だ……電話の向こうからは砂嵐の様な音しか聞こえなくなってしまった。次の瞬間、唐突に電話は切れてしまった。確実に異変が起こり始めている。今や俺達は三手に分断されてしまっている。どこに露姫が現れたとしても、まともな対処をすることは不可能だろう。万事休すか……否、諦めている場合では無い。打開策を模索するしか無い。クロの手を借りる訳にはいかないのだから。俺の覚悟を判っているからこそ、俺を信頼して手出しをしないクロの想いに応える為にも! だが、一体どうすれば良い!?

「おい、コタ……妙な音が聞こえないか?」

「妙な音?」

 辺りは静まり返っている。だが、警戒心を剥き出しに周囲を見渡す力丸の姿から察するに、少なからず冗談等では無さそうだ。耳に意識を集中し、感覚を研ぎ澄ます……。

(聞こえた! 足音だ……それも無数の足音だ)

 そこまで考えたところで、何が起ころうとしているのか想像が就いた。露姫は俺達を狙っているのだ。現実であって、現実では無い世界……再び夢の世界に俺達を誘おうというのだろう。だが、一度夢の世界に入ってしまえば、そこは露姫の領域。あらゆる嘘が成立する世界では俺達には万に一つも勝ち目は無い。何としても逃げ切らねばならない。

 仮に夢の世界に誘われたとしても、対話する意図があるのであれば俺の作戦が通用したかも知れない。だが、予想に反して、露姫は攻撃の意思を見せている。これでは交渉どころの話では無い。図らずとも、機転を利かせたつもりの輝達の行動が裏目に出ようとは予想もしなかった。

「コタ、あっちだ! 森へ抜けて、そのまま社家の街並みへ逃げ切るぞ!」

 力丸に案内されるままに俺は全力で走った。足音は水音を立てながら、凄まじい勢いで接近してくる。どう考えても人の早さでは無い。これも夢の世界ならではの「偽り」の賜物なのだろうか? 要らぬことを考えながらも俺達はひたすらに走り続けた。

 境内を流れる川に足を踏み入れながらも、ひたすらに走り続けた。辺りは微かな月明かりしか光りの無い漆黒の世界。どこを走っているのかさえ定かでは無かった。向かう先に家々の温かな明かりが見えるのを考えれば、もうじき上賀茂神社を抜けるだろう。

 だが、近付くにつれて違和感を覚え始めた。この辺りは何度も訪れている。力丸とも何度も夜の散歩をしている。この辺りの景色はそれなりに判っているつもりだ。それにも関わらず目の前に広がる景色は、明らかに見覚えのある景色とは異なった景色であった。これは一体どういうことなのだろうか?

「おい! マジかよ……この景色って……!」

 力丸が思わず立ち止まる。違った意味で見覚えのある景色であった。そこは平安神宮の参道へと繋がる道であった。丁度、東山の三条神宮道を曲がり、神宮道へと至った風景そのものであった。

「どうやら、俺達を何が何でも平安神宮へ誘導したいのだろうな」

 思わず立ち止まってしまったが、ふと後ろを振り返れば、手に手に武器を握り緊めた屈強なる男達が水飛沫を舞い上げながら追い掛けて来るのが見えた。その手に握られた刀が、月明かりを受けて妖しい煌きを放つ。

「えぇっ!? マジかよ!? しつこ過ぎだろ!」

「力丸、逃げるぞ! 掴まったら、間違いなく無事では済まされないぞ!」

「わ、判っているって!」

 露姫……お前は一体何が望みなんだ? 俺達を翻弄して楽しんでいるのか? 俺にはお前が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、まったく理解不可能だ。それとも……お前は俺達を討ち取るつもりなのか? 話し合いなど無駄だとでも言うのか!? お前がそのつもりならば俺も考えを改めねばならない。クロの手を借り、お前を奈落の底へ叩き落さねばならない。答えろ! 露姫! お前の目的は一体何なんだ!?

 心の中で吼えた瞬間であった。チリーン。透き通るような鈴の音色が響き渡った。その音に驚き、俺は思わず足を止めた。

「お、おいっ! コタ、立ち止まっている場合じゃねぇって!」

「あ、ああ……だが、今、確かに鈴の音色が聞こえた」

「鈴の音色だって? オレには何も聞こえなかったが? とにかく、さっさと逃げるぜ!」

 額から、体中から汗が噴き出したが、それでも俺達は走り続けた。追っ手は恐ろしい早さで、確実に俺達との距離を詰めてきている。だが、逃げているうちに妙なことに気付いた。追っ手の男達は、確かに距離を縮めてはいるが、ギリギリの距離を保ったまま移動しているように思える。露姫には戦う意思は無いと言う事なのだろうか?

 心の中で問い掛けた瞬間、再び鈴の音色が鳴り響いた。今度は二つ。チリーン。今度は力丸にも聞こえたらしく、一瞬、驚いたような表情でこちらの反応を窺っていた。

「聞こえた! 確かに、今、鈴の音が聞こえたぞ!」

「ああ……それに、気付いたか? あいつら、一定の距離を保ったまま俺達を追い掛けてきている」

「つまりは、オレ達を平安神宮に追い込むことが目的ってぇ訳か」

「その様子だな」

 平安神宮前の大鳥居を駆け抜ければ、やがて遥か彼方に応天門が見えてくる。だが、此処にもまた明らかな違和感があった。月明かりに照らし出されたとしても、自らが煌々と光りを放つことは在り得ないだろう。応天門前に佇む者……淡い桃色の着物には見覚えがあった。辺りは何時しか先も見えない程の濃霧に包まれていた。

「お前は露姫! 良くもオレの前に姿を現せたものだな!」

 怒りに身を震わせ、声を荒げる力丸を露姫は哀しそうな眼差しで見つめるだけであった。

「力丸様、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした……」

 深々と頭を垂れる姿に驚いたのか、思わず力丸が足を止める。不意に、俺達のすぐ後ろを走っていた男達も霧の中に音も無く消え失せた。

「力丸様……貴方の心の中には一人の女性の姿が見えます。残念ですが、露の求めるものは、貴方の中には見つけられませんでした。どうぞ、お引取りください」

 静かに露姫が手にした扇子を振りかざすと、不意に強い風が吹きつけてきた。

「う、うわあああーーっ!」

「り、力丸!?」

 風に煽られた力丸は、ゆっくりと煙の様に消え失せていった。そして、先程まで力丸が立っていた場所には一房の紫陽花の花だけが残されていた。

「……力丸に何をした? 事と次第によっては、お前のその首、俺の手で圧し折るぞ」

 露姫はただ静かに俺の顔を見つめていた。涼やかな表情で、微かな笑みを浮かべながら。

「俺を愚弄しているのか? 答えろ……お前の目的は一体何なんだ!」

「露の願い……それは……」

 露姫はゆっくりと歩みながらこちらに近付いてきた。一歩、歩く度に涼やかな鈴の音色が響き渡る。三つ、四つ、五つ……歩く度に鈴の音色が重なりを増してゆく。ゆっくりと歩みながら俺の前まで近付いた露姫は、静かに微笑んで見せた。

「小太郎様、貴方様が一番良く理解されているのでは無いのでしょうか?」

 相変わらず焦点の定まらない眼差しを称えていた。赤々とした唇は、柔らかな月明かりに照らし出されて殊更に艶かしさを増していた。何を考えて居るのか、何を求めているのか、相変わらず予想も付かなかった。だが、月明かりに照らし出された露姫の姿は相変わらず美しく、異様なまでの色香を称えているようにも思えた。うっすらと開かれた赤々と煌く艶かしい唇に、微かに開かれた胸元に、月明かりに照らし出された淡雪の如き白く透き通った肌に、ついつい目線が吸い寄せられる。俺は慌てて頭を振って、誘われようとする気配を振り払った。

「えぇい! この性悪女が! 今度は俺をたぶらかす気か!?」

 怒りに身を任せて殴り掛かろうとした俺の腕を、露姫は驚くべき早さで掴んだ。

「うっ! ぐぐ……っ!」

 その細い腕の一体どこから、その様な力が出されるのか、恐ろしい程の腕力で俺の腕を受け止めた。それどころか抵抗しようとする俺の腕にぐいぐいと指が喰い込む。

「仮にも女である露に手を挙げるなんて……お優しい小太郎様らしくありませんわ」

 クスクスと可笑しそうに露姫は笑っていた。

(一体、何なんだ、この女は!? 気が触れているのか? それとも、元々こんな意味不明な思想を持つ不気味極まりない女なのか!?)

 動揺する俺の眼差しを見つめながら、露姫は尚も可笑しそうに微笑んでいた。

「……鏡で御座ります」

「鏡、だと?」

「ええ。露は鏡に御座ります」

 月夜の中でも赤々と輝く、艶かしい唇を歪ませながら露姫は微笑んでいた。

「鏡とは……そこに映る者の姿を描くものです」

 相変わらず、焦点の定まらない眼差しで俺を見つめていた。

「小太郎様? 小太郎様の目に映った露は……どのようなお姿だったのでしょう? 小太郎様がご覧になられている露は……」

 あくまでも、俺の眼差しをじっと見据えたまま、露姫は口元を歪ませて微笑んで見せた。

「小太郎様がご覧になれている露は、小太郎様自身の姿そのものなのです」

 適当なことを言って俺を惑わそうとでも考えているのだろうが、そうはさせない。そんな子供騙しに引っ掛かる程俺は馬鹿では無い。

「嘘だとお思いですか? ならば、嘘なので御座いましょう」

「さっきからお前は何が言いたい? サッパリ意味不明だ」

 俺の問い掛けに露姫は静かに顔をあげながらも、不気味な笑みを浮かべるばかりであった。尚も口元を歪ませながら、静かに微笑んで見せるばかりであった。

「判りませぬか? 小太郎様がご覧になっている露は、小太郎様の心が描いた露なのです。露のことを恐ろしい娘だと、何を考えているか判らない薄気味悪い娘だとお思いなのでしょう?」

 コイツ……俺の心が読めるとでも言うのか!? 俺の心の動揺さえも、手に取る様に判っている。そう言いたげに、露姫は再び不気味に口元を歪ませて見せた。俺の中で露姫に対する恐怖心が強まっていく。得体の知れない存在というものは、往々にして恐ろしい姿に変わって往くものだ。太助の言葉では無いが『幽霊見たり枯れ尾花』という表現の通り、人は自らの心の中に勝手な幻想を創り上げてしまうのだから。

 そうか……段々判ってきた気がする。露姫が紡ぎ出す「偽り」の情景とは、露姫自身が紡ぎ出しているのでは無い。俺達が勝手に自分の心の中に描き出した幻に過ぎないのではないか?

「御名答です。やはり小太郎様は物事の真理を心得て居られるのですね。露の目に狂いは御座いませんでした」

 穏やかに微笑む露姫の表情からは、先程までの不気味さは消え失せていた。柔らかな表情を称えた、顔立ちの整った美しい娘の姿に成り代わっていた。同じ人物とは、とても思えない程に変容していた。一体どういうことなのだろうか? 露姫の言う通り、俺自身が自らの中に紡ぎ出してしまったというのか?

「小太郎様のお考えの通り、小太郎様がご自身の手で露の姿を描き、紡ぎ出しているので御座います」

 穏やかな笑みを浮かべたまま、露姫が一歩ずつ、ゆっくりと近付いてくる。俺は身構えずには居られなかった。確かに、目の前に佇む者は娘の姿をしたモノであることには間違いない。だが、見た目に騙されて、迂闊に気を許せば、俺は七人目の犠牲者に成り果てるだけであろう。油断はしてはならない。こいつは情鬼だ。討つべき仇敵だ。既に六人もの男達を殺めてきた恐ろしい鬼に他ならないのだから。

 にじり寄る露姫とは対照的に、ジリジリと後退する俺のことを露姫はじっと見据えていた。焦点の定まらない眼差しでは無く、獲物を捕らえるが如き鋭く、冷たい眼差しであった。逃れよう、逃れようとする俺の眼差しに、強引に眼差しを重ね合わせようとしていた。それは、穏やかな、美しい少女の顔には似つかわしくない、殺意の篭められた酷く鋭く、冷たい眼差しであった。

「小太郎様……悪いことは申しませぬ。可笑しなお考えはお棄てください」

 穏やかな笑みと柔らかな口調とは裏腹に、背筋が凍り付かんばかりの迫力の篭った言葉であった。尚も静かな笑みを浮かべながら露姫は一歩ずつ近付いてくる。何時の間にか俺は身動きが取れなくなっていた。金縛りというのはこういう物を指し示すのか? と、妙に冷静に下らないことを考えていた。

「小太郎様には万に一つの勝ち目は御座いませぬ。それに……フフ、大切なお友達は露の手の中にあるのですよ? お忘れでしたか?」

 そうだった! 輝達は平安神宮に訪れてしまったのだ。露姫の領分に足を踏み入れている以上、輝達の身柄は拘束されているに等しい状況なのだ。それに、その気になれば力丸にも手を下せるのだろう。あの六人に制裁を下したのと同じように。

「実に姑息な戦術だ」

 見下すように放った俺の言葉に、露姫の表情が一気に険しくなる。

「姑息ですと? 小太郎様は……露が姑息だと申されるのですか!?」

「他に誰がいる?」

「フフ……これは、これは、面白いことを申されるのですね」

 扇子で口元を隠しながら露姫は見下す様な笑みを浮かべていた。冷たい眼差しであった。だが、何故だろうか? そこには言葉に出来ない想いが感じられた気がする。その冷たさは俺に向けられている物ではなく、露姫自身に向けられている。何故かそんな気がしてならなかった。不意に吹き抜けた風は真冬の木枯らしの様な冷たさを孕んでいた。思わず背筋が凍り付きそうになる。露姫は相変わらず、穏やかな笑みを絶やすことなく俺のことをじっと見つめている。

「鞍馬山のカラス天狗様達の何人居られるのでしょう? 小太郎様のお友達は何人居られるのでしょう? 露は……露は、独りぼっちです。露は……ずっと、ずっと、長い間、ずっと独りぼっちでした!」

 先程までの冷静さは失われ、酷く感情的な姿を曝け出していた。優雅な振る舞いはそこには無かった。声を張り上げ、目に一杯の涙を称えながら露姫は崩れ落ちた。綺麗に磨かれた爪を地面に突き立てながら、肩を小さく震わせていた。

 残念ながら俺は冷徹な奴だ。憐れみを、同情を誘おうとでも考えているのだろうが、そんな下らない猿芝居に惑わされる訳が無い。俺も随分と馬鹿にされたものだ。

「卑怯なのはどちらでしょう!? 武力に物を言わせ、たった一人の露を討ち取るために多くの軍勢を差し向ける! 貴方達のやっていることは、露の叔父がやったことと何ら変わりは無いのです!」

 髪を振り乱しながら、怒りの形相で睨み付ける露姫の頬を次々と涙が零れ落ちてゆく。

「満久は……満久は、たった一人で露のことを守ろうとしてくれました……露は……露は、ただ……!」

 ただ力無く崩れ落ちると露姫は声を張り上げて嗚咽した。嫌な気分だった。目の前に居るのが例え討つべき敵であったとしても、非力な娘の姿で涙まで流されたのでは決意が鈍るというものである。非力な上に無抵抗な者を手に掛ける……俺はそこまで非情に成り切れるのだろうか? あの時クロが俺に言った言葉の意味、本当の意味で理解出来た気がする。戦いとは斯くも非情で、残酷な決断を迫られる時もあるのだな……俺は戦い抜けるのだろうか?

 迷いが脳裏を駆け巡った瞬間、唐突に輝達の叫び声が響き渡った。突然のことに驚かされた俺は、急ぎ耳に意識を集中させ何処から声が聞こえてきたのか周囲を確認した。

(応天門の向こう……白砂の広場から声が聞こえてきた気がする!)

 俺はなおも泣き崩れる露姫には構うことなく、急ぎ応天門を潜り抜けた。

 何時の間にか、そこには煌々と灯された無数の篝火が仕掛けられていた。数え切れない程の人々の波。その中心に輝達の姿が見えた。

◆◆◆28◆◆◆

 目を疑う光景だった。見覚えのある顔……ガマ蛙を思わせる露姫の叔父が、仏頂面でふんぞり返っていた。両手を後ろ手に縛り付けられ皆の前に正座させられている輝達を、醜い笑みを浮かべながら見下していた。

「お前達が露姫の逃亡を手引きしたことは判っておるのだぞ?」

 にやにや笑う露姫の叔父に向かい、輝達が応える様子が見えた。

「だから、ぼく達は何も知らないって言っているでしょ!?」

「そうなのじゃ! ワシらは平安神宮を訪れていただけなのじゃ!」

「フン。その様な戯言を誰が信ずると申すか!?」

 露姫……お前は何処まで最低な女なのだ! 俺は怒りに身を任せ、急ぎ、露姫の下へと駆け抜けた。未だ地面に突っ伏したままの露姫の髪を乱暴に引っ張り、顔を挙げさせると俺は力一杯露姫の頬を殴った。

「きゃあ!」

「今すぐ輝達を解放しろ! さもなければ、俺がお前をこの場で殺す!」

「小太郎様にそんなことが出来る訳が……きゃあ!」

 相手が女だろうが何だろうが関係無かった。仲間に危害を加える奴は敵だ。俺は露姫を強引に押し倒すと、その細い首に手を掛けた。

「こ、小太郎様? な、何を?」

「最後通告だ……今すぐ、輝達を解放しろ! さもなければ、お前の首を圧し折る!」

「フフ……『あの時』と同じ状況ですのね。露を殺すおつもりなのですか? あの日、あの時、為し遂げられなかった『歴史』を『塗り替え』られるのですね? 小太郎様も、露と同じ……」

「き、貴様ぁああーーーっ!」

「う、ううっ……」

 怒りに身を任せて、俺は力一杯露姫の首を絞めた。忘れたくても、忘れることの出来なかった感覚が蘇る。ゆっくりと露姫の首に俺の指が食い込む。柔らかな感触。じっとりと滲む汗。頚動脈の脈拍が次第に緩慢になるのが伝わって来る。涙と涎、ついでに鼻血まで垂らしながら露姫は喘いでいた。ああ、あの豚野郎とは違い露姫の肌は柔らかく首も遥かに細い。容易く息の根を止めることが叶ってしまうであろう。

 ふと、露姫の表情に目を向ければ静かな笑みを称えていた。胸元は酷くはだけており雪の様に白い柔肌を覗かせていた。今にも、零れ落ちそうな豊かな乳房に思わず息を呑んだ。この光景を他人に見られたら、間違いなく、俺は強姦しているように見えたことだろう。露姫に対して不埒な行動に至った男達と、俺は何ら変わらないということだ。

 露姫は静かに微笑んでいた。その表情には一切の迷いも未練も感じられなかった。ただ、何もかもを諦めたかのような哀しい笑みだけを称えていた。乱れた髪にはだけた胸元。口元からは暖かな血を流し、何処を見ているか判らぬ眼差しに潤んだ目元……。

(俺は一体何をしているのだ!? 無抵抗な女相手に……俺は……俺は!)

 気が付くと俺は露姫の上に自らの体を重ね合わせ、力一杯露姫を抱き締めていた。

「こ、小太郎様……?」

「何も言うな! 良いから何も言わずに、このままにさせてくれ! 頼む……!」

 最初は驚いた様な表情を浮かべていたが、静かに露姫の細い腕が俺の背中に触れるのを感じていた。そっと俺の頭を撫でてくれていた。酷く……穏やかで、慈愛に満ちた表情だった。だが、露姫の体は驚く程に冷たかった。まるで氷の塊を抱き締めているかの様な、異様な冷たさに背筋が凍り付きそうになった。

 どれくらいの時間、露姫を抱き締めていたのだろうか? 俺はそっと露姫を起き上がらせた。殴られた衝撃で口元からは血が滲んでいた。透き通るような白い肌には不釣合いな絵だった。

「済まない……女に手を挙げるなんて、俺は最低だ」

「小太郎様、先程小太郎様がご覧になられた輝様達は……露が作り出した偽りです」

 ああ、そんなことは最初から判っていた。だが……偽りだと判っていても、どうしても抑えることが出来なかった。大切な仲間達を傷付けられたことが。

「フフ……小太郎様は天狗使い、失格ですわね」

「ああ。そうだな。俺は……何をしても中途半端で駄目な奴だからな」

 吐き捨てるように言い放った言葉を受けながら、露姫は可笑しそうに微笑んでいた。そのまま俺の隣に並ぶと、そっと俺の手を握って見せた。酷く冷えた手だった。透き通るような白い手は驚く程に柔らかな感触だった。

「氷の様に冷たい手だな……」

「露が……もう、『人』では無い証で御座います」

 そんな言い方止めてくれ! ますます俺の決意が鈍ってしまう。そう言い放ち手を跳ね除けたかった。だが、俺が取った行動は自分でも驚くものだった。

「もう片方の手も寄越せ」

「え? で、でも……」

「良いから、さっさと寄越せ」

「はい……」

 俺は何も言わずに露姫の両手を合わさせると、その上から俺の手を重ね合わせてみせた。

「少し位は温かいだろう?」

「小太郎様……」

「乱暴なことをしたこと、本当に済まなかった。謝る」

 俺は頭を下げ、侘びを入れていた。次の瞬間、露姫は声を出して可笑しそうに笑い出した。頭上から降り注ぐ笑い声に驚いた俺は、思わずまじまじと露姫の表情を覗き込んだ。露姫は困った様な俺の表情を見て、さらに可笑しそうに笑って見せた。

「小太郎様? 露は、小太郎様の……カラス天狗様の敵ですのよ?」

 そんなことは判っている。どこまでも俺は惨めなのだ。敵であるべき露姫に情けを掛けられることになろうとは……。クロには絶対に見せられない姿だった。腑抜けになった俺の姿を見たら、クロはきっと、俺のことを軽蔑するだろう。俺を信頼し送り出してくれたクロに、俺は一体何と詫びれば良いのだろうか。

「露姫、お前は……本当に情鬼なのか?」

 俺の問い掛けに、露姫は静かな笑みを称えたまま頷いて見せた。

「ええ。小太郎様を騙し、共に奈落の底へと落ちようとしている恐ろしい情鬼で御座います」

 何故だ? 何故、お前はそんなにも堂々と振舞っていられる? 恐ろしくないのか? 俺はお前を討ち取る存在だ。情鬼も人と同じでは無いのか? 仮初めの物とは言え、その命を摘み取られれば消滅してしまうのだろう? 仮に全てが「偽り」だったとしても、俺にはお前を討ち取ることは出来そうに無い……意気地無しだと罵られても、軽蔑されても、お前を討ち取ることなど出来ない! それに、此処まで見事に騙されたのだとしたら、その潔さを俺は咎めることは出来ない。むしろ、その立ち振る舞いの妙に敬意さえ示すだろう。

 俺は必死で考えていた。情鬼とは、一体どのようにして誕生するのか? クロから聞かされた話を必死で模索していた。どんな法則であっても、『絶対』には成り得ない。必ず『例外』という名の『抜け穴』は存在している筈なのだ。

「……カラス天狗の力を使ったのでは、確かに、情鬼を滅ぼすことしか出来ないだろう」

「小太郎様? 急に、どうなさったのですか?」

「可能性はあるかも知れない」

「え? あの……何の話なのか、露には良く判りませぬ……」

 一人で盛り上がる俺に取り残された露姫は、ただ、事態を理解出来ずに困ったような表情を浮かべていた。ああ、そんな顔をするな。今、思い付いたことを説明する。俺は再び露姫の両手をしっかりと握り締めながら、考えを語って聞かせた。

「情鬼とは、無念や未練が形を為した姿なのだろう?」

「え、ええ……」

 俺の勝手な浅知恵で捻出した考えだ。何処まで通用するかなんて判らないが、希望を棄ててしまったら後には何も残らない。

「露姫、お前の無念や未練を晴らしてやろう」

「露が……果たせなかった願いを、叶えて下さるのですか?」

「ああ。そうすれば、お前も無事に、天に昇ってゆけるだろう」

 一人で勝手に舞い上がる俺を見つめる露姫の表情は、どこか悲痛な笑顔であった。静かな笑みを浮かべる露姫の頬を大粒の涙が零れ落ちた。

「小太郎様は本当に、お優しい方なのですね……小太郎様にお会い出来て露は本当に幸せです」

「何を言っているんだ? 心配するな。俺が必ずお前を……」

「救えませぬ! 無理なのです!」

 露姫の言葉が俺の言葉を割って入る。鋭い口調だった。俺は思わず露姫の顔を覗きこんでいた。

「え?」

 穏やかな笑みを浮かべながらも、その頬を次々と涙が伝っては落ちていった。

「露の願いを叶える……それは、小太郎様の永遠の死を意味するのです」

「なっ!?」

 俺はどこまで馬鹿なのだろう。露姫は共に歩める存在を探し求めていた。願いを叶えるということは、永遠に歩まねばならないということだ。露姫と共に、俺が……。

「小太郎様、あなたにそれだけの覚悟が御座いますか!? 昨日、今日出会ったばかりに過ぎない露のために、その命を投げ出せますか!? 大切なご友人達を棄ててまで、露のために命を投げ出せますか!?」

「そ、それは……」

「それに、天に昇ることは叶いませぬ。露は情鬼なのです。既に人を六人も殺めてしまいました。露が、情鬼が向かう先は地獄。それ以外には御座りませぬ……」

 頭から氷水を浴びせ掛けられたような気分だった。何故だ!? 一体どうして!? どうして、こんなにも残酷な運命を辿るしか無い!? 露姫は、自ら選んで情鬼になった訳では無い筈だ! 何故、果たせぬ未練を残したまま非業の死を迎えた者が情鬼にならねばならない! その上、行き先は地獄だけしか無いだと? 理解不能だった。何故、辛い想いをして死んだ者達に、さらなる重苦を背負わせる必要があるのか? だとしたら、この世には神も仏もあったものでは無いでは無いか!?

 唇をかみ締めたまま、鼻息荒く無言の怒りを露わにする俺の気持ちを介したのか、露姫が静かに俺の手を掴む。

「小太郎様はやはり、お優しい方なのですね……露は、小太郎様に出会えて幸せでした」

 静かに微笑み掛ける露姫に、俺は掛けてやる言葉が見付からなかった。むしろ、俺の方が勇気を貰った位だ。何故そんなにもお前は気丈に振舞える!? 何故そんなにも黙って、あるがままに運命を受け入れられる!? 俺にはお前の強さが、到底理解出来そうに無い……。

 気が付くと、露姫はふらふらと応天門を潜り抜けて白砂の広場へと歩を進めていた。俺も露姫の後を追い白砂の広場へと歩を進めた。

 しゃがみ込みながら、露姫は静かに白砂を手で掬い上げてみせた。だが、指の隙間から白砂は静かに零れ落ちてゆくばかりであった。

「露の幸せは、この手に残る白砂のような物。一陣の風の後には何も残りません」

 平安神宮の境内に敷き詰められた雪の様な白砂を掬い上げながら、露姫は哀しげな笑みを浮かべていた。放り出すように紡いだ言の葉の数々。静かに立ち上がり空を仰ぎながら続けた。

「愛を求める露の元には、何故、愛を持たぬ人ばかりが集まるのでしょう? 露はただ、人並みの幸せを手に出来れば良いと思っている身なのに。もしも、露が人並みの幸せを願うこと……その願いすらもが『業』だとおっしゃられるのであれば、露には救いなどは何一つ、与えられていないということになるのでしょう」

 ただ、静かに哀しげな笑みを浮かべるばかりであった。今にも消えてしまいそうな、風前の灯を思わせる様な笑みであった。胸が酷く締め付けられる感覚を覚えた。

「小太郎様、一つだけお願いが御座います」

「願い? ああ。俺に出来ることならば、何でも言ってくれ」

 露姫は可笑しそうに微笑みながら、そっと歩き出した。

「それでは、小太郎様。参りましょう」

「参るって、何処へ案内してくれるつもりだ?」

「……露の、露の住む屋敷に御座ります」

 露姫の屋敷? 俺の目の前に広がるのは白砂の広場。露姫が指差す先は、丁度、白虎楼の先になる。つまりは庭園への入口ということになる。一体どういうことなのだろうか? もしかして、露姫が生前住んでいた屋敷というのは、此処、平安神宮と似たような場所だったのであろうか? 考えが読めぬ行動を前に、あれこれと考えてしまった。そんな俺を後目に、露姫は楽しそうに手招きしながら俺を手招きしていた。早く来い、と。

◆◆◆29◆◆◆

 俺はただ、少しでも露姫の願いを叶えてやりたかった。だから、露姫の願い通りに俺は平安神宮を……否、露姫の屋敷を案内して貰うことした。

 白虎楼の近く、神苑の入口から庭園へと歩を進める。俺を先導する様に弾んだ足取りで露姫は歩き続ける。先程から俺はずっと露姫が手にしている扇子が気になっていた。随分と大事そうに扱っている辺りからして、お気に入りの逸品なのであろう。

 男の俺には女の気持ちというのは今ひとつ理解出来なかったが、思い入れのある逸品を大事にしようと思う気持ちは理解出来なくも無い。俺の目線に気付いたのか、露姫は足を止めると、そっと扇子を差し出して見せた。

「小太郎様は、この扇子に興味がお有りなのですか?」

「ああ。綺麗な逸品だと思ってな」

 俺の言葉を受けた露姫は誇らしげな笑顔を称えながら、そっと扇子を広げて見せてくれた。

「ほぅ……。実に見事な絵柄だな」

 予想通り、手にした扇子に描かれていたのは紫陽花の花であった。淡い青紫色の色合いからして、何となく予想はしていたが、実物を見て確信できた気がする。

「その扇子、お気に入りの様子だな」

「ええ。母の……母の形見なのです」

 涼やかな笑みを浮かべながら露姫は空を見上げてみせた。再びゆっくりと歩き出しながら庭園を奥へと進んで行く。

「母は叔父に殺されました。いいえ、母だけではありませぬ……父も、叔父の手に掛かり殺されました」

 静寂に包まれた庭園の中、露姫の凛とした声だけが響き渡る。不意に風が吹き抜けていった。露姫の長く、艶やかな黒髪が風に舞い上がる。ふわりと舞い上がる白粉の甘い香りに、思わず胸が高鳴った。

 歩き続けているうちに俺達は西神苑に訪れていた。小さな池には、生い茂った草達が月明かりを受けながら佇んでいた。俺の脳裏に、唐突に露の叔父の醜悪な笑みが蘇った。あの叔父はやはり見た目そのままに極悪人だったということか……露姫の両親だけで無く、満久を、そして……露姫までも手に掛けた張本人ということか。何処までも性根の腐った奴だ。

「露は裕福な家系の一族として、この世に生を受けました。でも、露は人としては扱っては貰えませんでした」

 夜空に浮かぶ月を見上げながら、露姫は静かに自らの生い立ちを語り始めた。俺は露姫の隣に立ち、静かに語り始めた露姫の肩をそっと抱いていた。何故、そうしたかは自分でも判らなかった。ただ……支えていてやらないと、唐突に壊れてしまいそうな気がしてならなかった。露姫は、その存在自体が儚い身。朝露の如く光っては消えるだけの存在……数奇な運命に翻弄され続けた過去の重みを感じずには居られなかった。

「露の家系は、この辺り一帯を治める権力ある家系でした。大きなお屋敷に住み込みで働く人達も大勢いました」

 露姫の屋敷は一体、どんな屋敷だったのだろうか? 平安神宮と似た造りというのを考えると、様々な種類の草や木々が生い茂り、野鳥達が戯れる大きな池もあったのだろう。花が好きな露姫のことだ。四季折々の花にも囲まれて居たのかも知れない。

「住み込みで働く人達の中には、満久も居りました」

 満久……ただ一人の露姫の理解者であり、露姫の味方となった少年。だが、家の者達は良くは思わなかったことだろう。身分の違いというのは、露姫の生きていた時代背景を考えれば、現代社会よりも遥かに大きな比重を占めていたことだろう。

 年の近かった露姫と満久は、何時しか兄妹の様な関係となり、やがて恋仲へと落ちていったのだろう。

「ええ。小太郎様のご推察の通りですわ。でも……周りの者達は誰一人として、露達を受け入れてはくれませんでした」

 予想した通りだ。歩む道はいばらの道。その上、露姫には望まぬ結婚相手が突き付けられた。一度も会ったことも無い相手と結婚する。それが、どれ程屈辱的で、人の道に反したことなのか位は俺でも判る。

「婚礼の準備は着々と進んでゆきました。ええ。露の見知らぬ所で、勝手に」

 政略結婚という奴か。何時の時代も大人達は身勝手だ。一族の為だと容易く口に出来る。その一族を構成しているのは一体何なのだ? 人では無いのか? 人の存在を無碍にして置きながら一族を語るとは……まったく、権力という魔性に魅入られた者は、人としての尊厳さえも見失うとでも言うのだろうか。人であることを放棄するような代物ならば、俺は手にしたいとは思わない。まるで麻薬では無いか? 権力の亡者というのは、実に救いようの無い哀れな魑魅魍魎達だ。好き者達だけで夜な夜な百鬼夜行に興じるが良かろう。そういった愚物共こそ地獄へ堕ちるべきだ。

「……そんな時のことでした。あの事件が起こってしまったのです」

 あの事件……恐らくは、俺が見たのが『あの事件』とやらの顛末だったのだろう。

「ええ。その通りです……」

 静かに呼吸を整えながら、それでも気丈な態度を崩すことなく露姫は語り続けた。

「父と叔父の間は険悪な関係でした。どちらも一族の覇権を一手に収めたかった身……何時しか父と叔父とは醜い権力争いまで始めてしまいました。一族は二手に割れ、叔父の陣営と父の陣営とに分かれて、本格的な争いになってしまったのです……」

 一族の覇権を握るためには、当然のことながら相手よりも大きな力を手にする必要があった。その狭間に位置したのが露姫だったのであろう。何しろ、権力ある家系に露姫を嫁がせれば、両家の力が一つになる。当然、一族の覇権どころか、それ以上に大きな権力を手にするに至ったであろう。

「ええ……所詮、露の存在価値など、そのためだけの物だったのです」

「人の所業とは思えないな。お前の家族を悪く言うつもりは無いが、叔父も、親父も、どっちも腐った奴らだな」

「いえ……悪いのは全部、全て、叔父なのです」

 露姫の言葉に俺はただ、黙って耳を傾けていた。語り始める露姫の言葉を、俺はしっかりと刻み込もうと考えていた。全ての未練が消えた時、露姫は俺の前から姿を消すことになるだろう。だから……せめて、俺の記憶の中だけでも、生き続けて欲しかったのだ。思い出にしたかった、と言った方が正確なのだろう。雨の降る季節……咲き誇る紫陽花の花を見る度にお前のことを思い出す。俺にはそんなことしか思い浮かばなかったから。

「争いを好まなかった父は、あくまでも叔父の要求を呑もうとしていました。ですが、叔父は……もはや人では無くなってしまっていました……」

 壮絶な物語であった。屋敷の唯一の水源に毒を盛ったと言うのだ。時間は夕食時。何も知らずに食事を口にした露姫の親父らは呆気なく毒殺されたことであろう。その上、叔父は屋敷に火の手を放ったのだ。自分に付き従わぬ反体制派をもろとも始末しようという魂胆だったのだろう。人とは思えぬ思想の持ち主だ。

「燃え盛る火の手の中、道久は露を連れて逃げてくれたのです。どこか……誰も知らない、遠い地まで逃げよう、と。そして、逃げ切ることが出来た時に……」

 感極まってしまったのであろうか? 露姫は袖で顔を隠しながら小さく肩を震わせていた。俺はただ、力強く肩を抱いてやることしか出来なかった。やはり氷の様に冷たい体だった……。その冷たさが、露姫が人では無いことを非情なまでにありありと俺に示していた。

「後は……小太郎様がご覧に成られた通りで御座います」

「ああ。希望を断たれたお前は自害し、腐れ外道共を始末した後、満久もまたお前の後を追った」

「ええ……」

 微塵の救いも希望も見出すことが出来なかった。自分という存在自体を否定され、ただ道具としてだけ育てられてきた。それが、どれだけ哀しみに満ちているのか、俺には遠く想像が及ばなかった。

 幸運にも俺は父と母に大切に育てて貰い、今に至っている。道中、「不幸な事故」に遭遇し、一度は道を踏み外したこともあった。だが、それでも、仲間達に支えられて此処まで来ることができた。

 歩き続けているうちに俺達は蒼龍池に訪れていた。睡蓮の葉が池を彩っている様が印象的に思えた。月明かりを受けてキラキラと煌く水面。この池もまた太田神社同様に杜若の名所である。初夏の頃には美しい光景が広がることであろう。池の中に点々と浮かぶ臥龍橋を歩んでいた。ふと、傍らを見れば、露姫は扇子を大事そうに抱えながら俺に微笑んでくれた。

「この扇子は母が露に下さった大切な贈り物。露の大切な、大切な宝物に御座ります」

 広げた扇子に描かれた絵を見つめながら、露姫は静かに微笑んで見せた。

「此処に描かれているお花……小太郎様、笑わないでくださいね? 露は、このお花の名前すら知らないのです。母が下さった大切な宝物……それなのに、このお花の名前も知らないのです。可笑しいでしょう?」

「紫陽花だ」

「え?」

「紫陽花だ……紫の陽の花と書く」

 丁度、露姫が佇む場所に後ろに咲き誇っているのが見えた。お前の後ろに咲いている花が紫陽花だ。そう告げれば、静かに露姫が振り返る。目の前に咲き誇る淡い青紫色の花と、扇子に描かれた花の絵柄を見比べて、少女の様に嬉しそうに、無邪気に微笑んで見せた。青白い月明かりに照らし出された紫陽花の花は、何処か寂しそうに咲き誇っている様に思えた。

「まぁ……このお花が、紫陽花なのですね? 露の扇子に描かれた絵と変わらないお姿ですのね!」

 興味深そうに花を愛でながら、露姫は様々な角度から花を覗き込んでいた。

「土壌の性質により咲かせる花の色が変わる。此処に咲いているのは青紫色だが、桃色の花を咲かせもするし、白い花を咲かせることもある」

 そっと言葉を添えて見せれば、露姫は少女の様な笑みを浮かべて振り返った。

「フフ、小太郎様は博識であられるのですね。露は何も知らない憐れな身です。屋敷から殆ど外出したことも無いのです。世間という物も、人という物も、何も知らない無知なる身……フフ、露の様な娘を『箱入り娘』と言うのでしたね?」

 露姫は体の何処かが痛むかの様な悲痛な笑みで俺に問い掛けて見せた。

「露と言う名、皮肉な名前で御座いましょう?」

「皮肉な名前だろうか? 俺は良き名だと思う」

「フフ、小太郎様はお優しいのですね。物を知らぬ露でも、僅かながらの知識は御座います……露とは朝露のことに御座りましょう?」

 哀しげな笑みを浮かべながら問い掛ける露姫の問い掛けに、俺は思わず目を背けた。良き名だと思っているなんて嘘でしか無い……ああ、その通りだ。何て皮肉な名前なのだろうかと思ったさ。

「日の出と共に、朝露の如く儚く散ってゆく……露の人生は、そんな物でした」

「ならば、永遠に終わることのない月夜の世界を生きれば良い。月明かりの下でならば、露が散ることも無いだろう?」

 俺の言葉を受けて露姫は可笑しそうに笑っていた。口元を扇子で隠しながら、声を出して笑っていた。

「フフ、小太郎様には叶いませんわ」

 露姫と語らいながら東神苑を歩んでいた。広大な栖鳳池は小さな湖の様に思えた。水面には夜空に浮かぶ月がゆらゆらと反射していた。何とも優雅な光景だった。時が止まったかの様な光景だった。

 歩き続けているうちに俺達は栖鳳池に掛かる橋の様な泰平閣へと至っていた。池の水面にはゆらゆらと月が浮かび上がっていた。

「まぁ、綺麗な月ですわ」

 相変わらず少女の様に無邪気に振舞いながら、露姫は橋から身を乗り出す。だが、次の瞬間、静かに振り返った。その表情はどこか哀しそうに思えた。

「小太郎様?」

「あ、ああ……何だ?」

 俺は露姫の傍らに立ち、露姫と共に池に浮かぶ月をみつめていた。月明かりをじっと見つめながら、露姫は穏やかな笑みを浮かべていた。

「露が生まれたのは六月で御座います。紫陽花というお花は、露の命そのものなのかも知れませぬ」

 じっと月を見上げたまま、露姫は穏やかな笑みを浮かべたまま続けて見せた。

「小太郎様、ひとつだけ……ええ。ひとつだけお願いがあるのです」

「願いだと? 何だ?」

 露姫は、今まで見せたことも無い程の、深い哀しみに満ちた笑みを浮かべていた。そっと俯く露姫の頬を、一粒の涙が伝って落ちた。月明かりに照らし出された涙は夜半の月に咲く『露』そのものであった。

「紫陽花のお花、見る度に……時々で良いのです。露のことを思い出してくださりますか?」

 俺は思わず息を呑んだ。露姫が口にした言葉は遺言そのものだった……。うろたえる俺を後目に、露姫はなおも続ける。

「小太郎様、露は小太郎様にお逢い出来て、本当に嬉しゅう御座いました」

「お、おい! ちょっと待て!」

 俺の制止には耳を傾けることなく、露姫は静かに微笑むばかりであった。

「お兄様が出来たみたいで、露は幸せ者です」

「お、おいっ!」

 待ってくれ! まだ、俺はお前に聞きたいことが沢山あるのだ! お前の哀しみを、苦しみを……少しでも和らいでやりたかった。まだ、俺はお前に何もしてやれていない! 伝えたい想いも、言葉も、幾らでもあるんだ! ああ、なのに、どうして言葉が出て来ないっ!? 何故、想いは形にならないっ!?

「力丸様がお待ちですわ。そろそろお別れです……小太郎様、本当に、本当に……ありがとう御座いました……」

 その言葉を聞きながら、ゆっくりと体が沈んでゆくような間隔を覚えていた。ゆっくりと、ゆっくりと、地面に体がめり込んで行く感覚を覚えていた。重たい石にでもなったかの様にズブズブと地面に沈んでゆく感覚。どんどん露姫の姿が遠ざかってゆく。遠ざかるに連れて、強い光に照らし出されてゆく。あまりの眩しさに、もはや目を開くことさえままならなかった。ゆっくりと、ゆっくりと……意識が遠退いて行くのを感じていた。

「小太郎様……お別れです。さようなら……」

 消え失せて往くかの様な、露姫の微かな声だけが響き渡った気がした。

◆◆◆30◆◆◆

 次に気が付いた時には俺は力丸の部屋に横たわっていた。周囲を見渡してみれば窓からは強い日差しが差し込んでいる。小鳥の鳴き声に混じり、聞こえて来るのは早朝の蝉の声だけ。

(一体どうなっていると言うのだ? 何故、俺は力丸の部屋にいる!?)

 そうだ。力丸はどうした? なぜ、この部屋に力丸が居ない? 俺は自分が置かれている状況を把握出来なかった。一体何がどうなっているのか、あまりにも意味不明であった。考え込んでいると不意に階段を駆け上がってくる重量感のある足音が響き渡った。

「おうっ! コタ、起きたみてぇだな。へへっ、朝食の準備はバッチリだぜ」

 動揺する俺を後目に力丸は、胸を張りながら上機嫌に笑ってみせる。

「なぁ、コタ。オレさ、絶対良い旦那様になれるって思うんだよなー?」

 何時もと変わらぬ豪快な姿に、逆に俺は言葉を失っていた。戸惑った表情の俺を見つめながら力丸は照れ臭そうに頭を掻いていた。

「いや……悪かった。今のは、ちと痛々しかった。だから、そんなに冷ややかな目でオレを見ないでくれ」

「否、そうじゃないんだ……」

 俺の頭の中では、何もかもが理解不能な状況に陥っていた。冷静に考えようとすればする程に、深みに嵌っていく様な不可解な感覚を覚えていた。

「おおー? コタ、どうしちまったんだよ? 元気ねぇな? あー、判ったぞ。さては、何か……変な夢でも見ちまったか?」

 夢? そうだ! 俺達は昨日の夜、上賀茂神社で姿無き足音に追い回された。そして逃げ惑っているうちに平安神宮へと誘われ、そこで露姫と……そうだ! 露姫はどうした!? 否、あの時、力丸は地面に吸い込まれるように消えていった筈だ。

「なぁ、力丸、怪我とかしていないか?」

「ははは。見ての通り、何時もと何ら変わりは無いぜ? なぁ、どうしちまったんだよ? なーんか、今朝のコタ、ちょっと挙動不審だぜー?」

 訳が判らなくなっていた……何が正しくて、何が間違えているのか? 何が「実」で、何が「虚」なのか? もはや見分けがつかなくなっていた。そうさ……俺の記憶が正しければ、力丸も同じ体験をした筈だ。それならば……。

「なぁ、力丸? 昨日の夜のことなのだが……」

「ああ、昨日の夜の話か? やっぱり、この時期の夜の上賀茂神社は独特の風情があって良いよなー。流石はオレのお気に入りの風景だぜ」

 違う! 俺の記憶と力丸の記憶とが食い違っている! 何故だ!? 一体、何が、どうなっていると言うのだ!?

「おりょ? コタってば、なーんか寝ぼけているみてぇだから、ちゃんと説明するぜ?」

「あ、ああ……。済まないが、頼む」

「雨上がりの上賀茂神社は中々の涼しさでな。心地良い木々の中を二人で散歩したって訳さ」

 楽しそうに語る力丸の表情を見ている限り、作り話でも偽りでも無いことは間違いないだろう。

「それでさ、二人で散々くだらねぇ話した訳さ。何だかんだと喋っているうちに、すっかり夜も更けちまってな。じゃあ、そろそろ寝ようぜ、となり、今に至った訳だな……って、コタ、大丈夫か!? 顔色悪いぜ?」

 俺の中で血の気が引いていくのが手に取るように判った。何故、力丸の記憶と俺の記憶との間にこんなにも違いがあるというのだ? 否……ここは一度、既成観念を捨て去って冷静に考えてみよう。力丸が体験したことは間違いなく本当の話なのだろう。だからと言って俺が体験したことが偽りかと言えば、それは違う筈だ。どちらも本当の話の筈だ。ただ……その舞台となった場所が違うだけのことなのだろう。力丸は現実世界で体験し、俺は架空の世界で体験した。そういうことなのだろうか?

 普通に考えれば在り得ない話だ。だが……夢の世界では在り得ないことが現実のものとなる。露姫……俺は確かにお前と共に過ごした筈だ。共に過ごした時が偽りだったとは思えない。一体、何がどうなっていると言うのだろうか……。考え込んでいると微かに焦げ臭いような匂いが漂ってきた。

「力丸よ。何やらヤバげな焦げ臭さが充満し始めたのは気のせいか?」

 その瞬間、何かを思い出したかの様に力丸が慌てた口調で声をあげる。

「うぉっ!? やべぇ! 魚、焼いているんだった! ああっ、コタ、悪りぃな。顔洗ったりとか、準備済んだらさ、下に降りてきてくれよ。うぉっ! 本格的にヤバい匂いになってきやがったぞ!?」

 再び豪快な足音を響かせながら、力丸は慌てて階段を下っていった。

「ううむ、階段が良く抜け落ちないな……力丸家七不思議の一つに間違いない」

 考えても判らないことだらけだ。あれこれ考えるのは止めて力丸の手伝いをしよう。そう考えながら俺は布団を畳んでいた。不意に鈴の音色が響き渡った。チリーン。窓の方から聞こえた音色に思わず振り返れば、そこにはクロが立っていた。

「く、クロ! どうして此処に!?」

「我が何故此処に居るか? 重要なのはそんなことではあるまい」

 何時に無く険しい表情を浮かべながらクロは腕組みをして見せた。苛立ちを感じさせる吐息を就きながら、じっと俺の目を見据えていた。

「我が此処に居る理由、既に心得ていようぞ?」

「あ、ああ……」

 クロが俺に対して苛立ちを……否、怒りを向けたのを始めて目にした。クロは物事を冷静に判断する奴だ。意味も無く怒りを露わにすることは考えられなかった。射抜く様なクロの眼差しに俺は目を合わせることが出来なかった。

「今回の件、我は表舞台に姿を現すつもりは無いと申した。コタよ、それはお主を信ずればこその行動であった」

「ああ、判っているさ」

 何も反論出来なかった。俺は自分の立つべき場所さえも見失っていた。都合良く弱者に手を差し伸べるような振りをしているが、結局俺が守りたいのは俺自身だったのでは無いのだろうか? 傷付くことを恐れ、辛い想いをすることから自らの身を退ける。一見善人を装っているが、実際にはただの偽善者に過ぎないのだ。自分でも判っていたさ……自分の為すべきことを決め兼ねていることくらい。ただ、露姫を救いたいという想いは偽りでは無い。もっとも、そんな俺の薄っぺらな心など見透かしているのか、クロは静かに吐息を就いた。

「一つだけ忠告しておく……『優しさ』と『甘さ』とは似て非なるものよ」

 クロは鋭い眼光でじっと俺を見つめていた。射抜かれそうな程に鋭い眼光であった。

「くれぐれも惑わされるで無いぞ? あの娘は途方も無く壮大な『嘘』をついて居る」

「露姫が……嘘をついているだと? 何を根拠に、そんなことを言う!?」

 俺の反論に、クロは寂しげな表情を浮かべたまま首を横に振って見せた。

「今のお主には何を言っても無駄であろう。あの娘に……心を奪われたお主にはな?」

 クロの言葉に怒りを覚えた俺は、気が付くとクロの胸倉を乱暴に掴んでいた。

「俺が……心を奪われているだと!?」

「違うと申すか? あの娘に入れ込み、心奪われ、色香に惑わされておる。否定出来ると申すか!?」

「お、俺は……」

「凍死した六人と何ら変わらぬ淫らな欲望に、男としての本能に突き動かされただけであろう!? コタよ、お主はあの娘と結ばれたいのであろう! 本能の赴くままに!」

「い、幾らクロでも言って良いことと悪いことが……!」

 必死で反論しようとした所で、クロはいきなり六角棒を突き付けてきた。俺は思わず息を呑んだ。そこには一切の迷いの欠片も見られなかった。情鬼に向けられるのと同じ冷酷無慈悲な殺気だけが向けられていた。

「否定出来ると申すか!? 応えよ、コタよっ!」

「お、俺は……俺は!」

 クロは哀しそうな表情で溜め息を就きながらも、冷淡な振る舞いを崩すことは無かった。

「一度、痛い目を見れば判るであろう……情鬼が、何故、情鬼と呼ばれるかの所以がな?」

「おおーい、コタ、朝飯の準備出来たぜー!」

 力丸の声に気を取られ目線を逸らした瞬間、クロは音も無く消え失せていた。後には、微かな線香の香りだけが残されていた。

(クロ……俺はどうすれば良いのだろう? ああ、判っているさ。その答えは自分の手で探し出さなければならないこともな。自ら撒いた種だ。自らの手で刈り取るさ……)

「うぉっ!? 味噌汁こぼしたーっ!」

 力丸の悲鳴が響き渡る。その豪快な声に思わず吐息が毀れる。俺は布団を畳み、急ぎ階段を降りた。クロの言葉が気に掛かってはいたが、何も行動を起こさなければ、ただ時の流れに呑まれて行くだけだろう。自分で決めたのだ。自ら撒いた種は自らの手で刈り取ると。悔しいが今の俺は余りにも半端過ぎて、俺を糾弾するクロの目を見据えることが出来なかった。

 先刻のクロは怒っていたのでは無い。哀しみに暮れた、酷く寂しげな眼差しを称えていた。友と信じていた俺との信頼関係が崩れたことを哀しんでいたのだろう。

(ああ、俺は俺の手で決着を付ける。俺を信じてくれたお前の想いを無駄にしないためにも)

◆◆◆31◆◆◆

 少々焦げてはいたが中々に美味い焼き魚であった。手際の良さも見事なものだ。短い時間で焼き魚に赤出汁の味噌汁。ふっくらと炊き上げたご飯に、煮物、和え物などの幾つかの小鉢。これらを一人で作り上げたのだから、力丸の料理の腕は尊敬に値する。

「オレ的には、さわらの西京漬けが少々焦げちまったのが悔しいところではあるけどな」

「俺は気にならないがな」

 これまた、力丸お手製という梅干の蜂蜜漬けを堪能しながら返した。

「お? コタは優しいなぁ。へへっ、そういう所、コタの良い所だよな」

 言い終わると同時に、力丸は少々焦ったような表情で俺の動向を窺っていた。また、上手い具合にからかわれるとでも思われたのだろうか? 妙に動揺した様子の力丸が可笑しくて、思わず笑いが毀れる。俺が笑ったのに便乗して力丸も笑いながら切り替えした。

「コタってさ、普段はムスっとしていて、何時も不機嫌そうに見えるんだよな。でもよ、時々そういう意外な一面を見せられるとさ、ドキっとしちゃうよな」

「ううむ、褒められているのか、けなされているのかサッパリ判らない表現だな……」

 そうか……力丸の言葉で何となく判った気がする。何気なく振舞っている行動というものは、自分の目線で見たのと他人の目線で見たのとでは、見え方も違うものなのか。そう考えると昨晩の現象も同じような物なのかも知れない。否、だから何だと言われたらそれまでなのだが。そんなことを考えながら窓の外に目線を投げ掛けてみる。良い天気だ。透き通る様な青空には大きく膨れ上がった入道雲が見て取れた。今日も暑くなりそうだ。

 そういえば輝達は無事だったのだろうか? あの夢の中で見た光景が俺の中だけに閉じた世界だったのだとすれば、他の皆には何の影響も無かった筈だ。確認してみる必要がありそうだな。俺は力丸に一つの案を提案してみることにした。

「なぁ、力丸」

「おうっ、何だ? 食後のデザートもちゃんと用意してあるんだぜ?」

「否……そうでは無い」

 思わず吐息が漏れる。気を取り直しながら再び話を続けた。

「今日は良い天気だ。皆を呼んで何処かに出掛けるのはどうだろうと思ってな」

「お! そいつぁ妙案だなぁ。うしっ! そうと決まれば、皆にババっと電話して呼び出しちまうかなー」

 再び吐息が漏れる。力丸の卓越した行動力は評価に値するが、もう少し落ち着いて考えることも必要だ。大体何処に向かい、何処で待ち合わせするのか、何も決めていないでは無いか。

「なぁ、コター。何処に行こっかー? ついでに、何処で待ち合わせするかなー? わはは!」

(す、既に電話していたのか……)

 その状態で悩まれたのでは、電話の向こうでも間違いなく頭を抱えていることだろう。俺にも聞こえて来そうな気がする。電話の向こうで放たれたであろう大きな溜め息が。

 とは言え何処を目指すべきか? しばし考え込む俺の脳裏に不意に見覚えのある映像が浮かび上がる。

 叡電の一乗寺駅を降りて街並みをゆっくりと歩む。一乗下り松を経由して坂を上って行く。静かな住宅街を抜けた先にあるのは……詩仙堂か? 何故、詩仙堂の映像が脳裏に浮かんだのかは判らないが何者かの意図の様な物を感じた気がする。

「力丸、詩仙堂はどうだろうか? 風情のある庭園と、その界隈の景色を堪能するのも悪くない」

「ははっ、コタってば相変わらずシブい所をチョイスするなぁ。でも、悪くねぇな」

 力丸はにやにや笑いながら携帯を持ち直す。

「あー、もしもし? 聞こえているか? 目的地は詩仙堂だな。ああ、そうだな。一乗寺の駅で待ち合わせしようぜ。おうっ! じゃあ、また後でなー!」

 勢い良く話し終えると力丸は笑顔で俺の方に向き直った。

「へへ、いきなりの電話でロックの奴、すげー動揺してて面白かったぜ」

「ほう? なら、輝には俺から電話しておいてやろう。直接は話しづらいだろう?」

 にやにや笑いながら力丸の表情を窺えば、苦笑いを浮かべながら頭を掻いて見せた。丁度良い機会だ。力丸と輝の和解の場としても使えるだろう。

 人に言わせれば俺の趣味は年寄り染みているらしい。確かにそうだろうな。俺と同年代位の連中がわざわざ好き好んで寺社巡りなどする筈も無いだろう。だが、俺は人混みが好きでは無い。それに……同年代の連中が好む様な人の手で作られた交遊施設には興味を抱けない。年寄り染みていようが何だろうが好きな物は好きなのだ。それに、斯く言う力丸達とて俺の趣味に同調すればこそ、こうして行動を共にしているのであろう。問題は無い筈だ。

「俺は輝に電話を入れる。力丸は太助に連絡を入れてくれ」

「おうっ、ガッテン承知だぜ」

 少なくても大地の無事は確認できた。夢の中で輝は大地と一緒に行動していた筈だ。大地が無事であった以上、輝も無事だと考えるのが妥当であろう。やはり……昨日見た光景は俺だけが見ていた物なのかも知れない。

(確かに、露姫は輝達の存在を幻だと言っていた。疑う訳では無いが、無事を確認しないことには気持ちが落ち着かないからな……)

 そんなことを考えながら俺は輝に電話していた。何回かコール音が鳴っているが中々電話に出る気配が無い。

(本当に輝は無事だったのだろうか? 何も無かった筈なのだが……)

 嫌な予感だけが駆け巡る。何故だ? 今日は休日だ。未だ眠っている可能性もある筈だ。否……そうかも知れないが、そうでは無いかも知れない。頼む、輝! 無事を確認させてくれ!

 焦りが段々と増してゆき、背中がジットリと汗ばむのを感じていた。携帯を握り締める手にも汗が滲む。緊迫した空気が流れ続けていたが、その瞬間は唐突に終焉を告げた。

「ああ、もしもしー? あー、コター?」

 何時もと変わらぬ間延びした声に、体中の力が抜け、思わず俺はへたり込んでしまった。

「あはは、ごめんねー。丁度、今、シャワーを浴び終わったところなんだよね」

「ああ、そういうことだったのか……」

「湯上り玉子肌―、なんてねー」

(思わず絶句してしまう発言だ……)

「あ、あははー。そんなにドン退きしないでよー」

「言葉を失うだろ……」

「ほら? 昨日の夜、雨降っていたでしょう? 蒸し暑くてねー。えへへ、汗かいちゃったから、シャワー浴びていたの。えっと……それで、どうしたの?」

 良くも悪くも輝は相変わらずマイペースだ。そのマイペースさに燃え盛る炎の様な苛立ちを覚えたのは気のせいでは無かろう。

「いや……昨日から力丸の所に泊まりに来ていてな」

「あー、判った! 二人だけじゃツマンナイから、皆で心霊スポット巡りに行こうって言うのでしょう? もうっ、コタも好きだよねぇー」

 間延びした声に明確な殺意を覚えた。

(輝よ、お前の恐ろしくズレ過ぎた価値基準で物事を考えるのはどうかと思うぞ……)

 全然懲りて居ない素振りから察するに、力丸が怒るのも無理は無い気がしてきた。

「冗談だよー。だからさ、そんなに機嫌悪くしないでよー」

 可笑しそうに笑う輝の声が電話越しに聞こえてくる。

(む? 何故、俺が機嫌悪いと判ったのだろうか?)

 自分では意識していないが、やはり態度に出易いのだろうか? 先程の力丸からも意外な振る舞いを指摘された。ううむ、色々と注意した方が良さそうだ。要らぬところで腹の内を覗かれるのも仲間内ならば良いが、敵対する者との対決時には致命傷になりかねない。用心するに越したことは無い。

「皆で詩仙堂に向かおうと思っている」

「詩仙堂? ああ、いいねぇ。今日は暑いから涼やかな気分になれそうだよね。それで、何処で待ち合わせなの?」

「一乗寺で待ち合わせだ」

「うん、判ったよ。ぼくもすぐに支度して向かうね。それじゃあ、また後でねー」

 やはり、輝の身には何も起こっては居なかった様子だ。俺だけが体験したというのはこれで確実な物になった。その事実は明らかになったが、今朝、クロが俺に言った言葉が引っ掛かる。露姫は「嘘」をついているという一言が、俺の中ではどうしても気に掛かって仕方が無かった。

 詭弁かも知れないが「嘘」という物は、それが「嘘」だと見抜けなければ「実」と呼べる物に変貌する。凍死した六人も俺と同じだったのでは無いだろうか? クロも言っていたが、例え夢の中での出来事であったとしても、それを「嘘」と見抜くことが出来なかった。そして、自らが凍り付けされたことを受け入れてしまった。だから、彼らは凍死したとも考えられる。

 だが、露姫の嘘とは一体どういったものなのだろうか? 何を偽っているというのだろうか? クロは全てを知っている様な素振りを見せていた。恐らく、既に全ての真相を理解しているのだろう。だが、敢えて手出しをしないと言っていた。

『一度、痛い目を見れば判るであろう……情鬼が、何故、情鬼と呼ばれるかの所以がな?』

 クロの言葉が脳裏から消えることは無かった。何かが引っ掛かって仕方が無かったのだ。露姫と共に過ごした時間の中に何らかの取っ掛かりが無いのだろうかと、俺は昨晩の出来事を模索してみた。

 確かに、露姫は全てを明らかにしてくれた訳では無い。死んだ六人に関しては殆ど語らなかった。否、意図的に語ることを避けていたのかも知れない。そう考えると、一体どの部分を偽っていたのであろうか? また、何故偽る必要があったのかも理解出来なかった。

 今になって良く考えれば、説明が着かない場面が幾つかある。今更ながらではあるが露姫の最期に関して矛盾があった。何故、露姫の死に方が「二通り」あったのであろうか? 露姫が語って聞かせてくれたのは、そのうちの片方の最期であった。満久と逃げ惑ったが、最終的に追い詰められて自害したという話であった。

 それでは何故、もう一方の説明を聞かせてくれなかったのだろうか? あの時、俺が見た光景では、露姫は体中を縄で縛られた上に、お堂に火を放たれて焼け死んだ筈だ。ああ、それに……その「犯人」の顔を俺は見たことがある筈だ。露姫に縁のある人物の中に、確かに犯人が混じっている筈だ。それでは、一体誰なのだろうか? 何故そこまで、露姫に対して強い憎しみを、深い悪意を抱いていたのだろうか? 手足を縛り自由を奪った上に火を放つ。これは途方も無く深い憎悪を抱いていなければ考えられない殺害方法だろう。

「偽る」ということは、恐らくは何か受け入れ難い「事実」を湾曲させることで歴史を塗り替えようとしていたのでは無いだろうか? 炎に焼かれて死んだ露姫に向けられていたのは、深い「憎しみ」であった。憎しみという感情と対になる感情……。そうか! だからこそ露姫は愛情を求めていたのかも知れない。

「露姫か……そういやぁ、昨日は可笑しな夢を見なかったな」

 また、何時もの悪いクセが発動してしまったらしい。心の声が口から飛び出してしまったらしい。何時の間にか出掛ける支度を終えた力丸が、俺の正面に腰掛ける。頭の後ろで腕を組みながら、俺に目線を送って見せた。

「へへ。お陰様で昨日はぐっすり眠れたぜ。コタが来てくれたお陰かも知れねぇな」

「ああ、そうかも知れないな」

「だとしたら、コタには感謝しねぇとな」

「ああ。崇め奉れよ」

 さて、色々と思案するのは此処までだ。幾ら俺が考え込んだ所で、所詮そんなのは猿知恵に過ぎない。勝手な解釈で全く的外れな目的地に突っ走っているだけかも知れない。

 不意に俺の中で一つの「疑念」が浮上してきた。何故、今まで違和感を覚えなかったのか? そのこと自体が気になる。そう、俺が疑念を抱いた相手――それは露姫の最も近くに居た者、満久であった。何処に違和感を抱いたかと問われれば、満久の、そのあまりにも完璧過ぎる姿であった。

 露姫が語った満久の姿は、夢の中で俺が見た満久の姿は、さながら聖人君子そのものであった。露姫を想う気持ち……それは理解出来る。だが、何か違和感を覚えずには居られなかった。否、同年代でありながらも、完璧な立ち振る舞いを見せる満久に、俺は同じ男としての惨めな嫉妬心を抱いているだけなのかも知れないが……。

「おーい、コタ。そろそろ出発しようぜ。言い出しっぺが遅刻してくるなんざ、笑い話にもならねぇからな」

 相変わらず力丸の行動力は桁違いだ。既に玄関先で靴を履いているのか、声が遠くから聞こえて来る。余計な詮索は此処までだ。気持ちの切り替えは必要な筈だ。皆と共に出掛けることで何か発見することもあるのかも知れない。いずれにしても油断は禁物だ。警戒しつつ出掛けるとしよう。

「ああ、そうだな。済まない。すぐ支度してくる」

◆◆◆32◆◆◆

 俺達は上賀茂神社前を抜けて御薗橋を歩んでいた。昨日の悪天候が嘘の様な空模様であった。雲は少なく、透き通る様なさわやかな青空が広がっている。照り付ける日差しは強く、肌を焦がさんばかりの暑さであった。賑やかな蝉の声が余計に暑さを掻き立てる。強い日差しとは対照的に、涼やかな音色を立てて流れる加茂川に目を惹かれる。俺はそっと足を止めて鞍馬山の方を向き直ってみた。往来する車の流れの向こうに望む雄大な山の景色。新緑の季節ならではの命の息吹を感じさせる光景であった。新緑の緑に透き通るような青空。それから大きく膨れ上がった入道雲。今日は良い天気だ。相当に暑くなるだろう……否、既にかなりの暑さだ。汗が後から後から吹き出してくる。

「ううーん、今日は良い天気だよな。かーっ、強烈な日差しだ! こいつぁ今日も暑くなりそうだぜ!」

 俺の隣に立ちながら、力丸は大きく背伸びをしてみせた。

「ああ。既に汗ばみ始めている。さっさとバス停へ向かおう」

「おう、それもそうだな。へへっ、オレさ、もう汗だくだぜ?」

「……悪いな。もう少し、離れて歩いてくれ」

「コタってば連れねぇなぁ? オレとコタの仲じゃねぇかよぅ」

 妙な笑みを浮かべながら肩を組んでみせる力丸。目の前から歩んできた観光客と思しき女子大生達が怪訝そうな眼差しで俺達を見つめながらすれ違って行った。その眼差しを、むしろ楽しむかの様に力丸は殊更ガッシリと肩を組んできた。

(この男にはシッカリとした教育が必要だと判断した……)

 何時もの様にじゃれ合いながら俺達は橋を渡り切った。最初に目指す場所は上賀茂御薗橋のバス停であった。此処からバスを利用して出町柳へと向かおうと考えていた。

 既に陽は高く上り、強い日差しが容赦無く照り付けてくる。強い日差しに曝されて腕がヒリヒリし始めていた。隣に並ぶ着物姿の女性もバスを待っているのだろう。綺麗に結い上げた髪に、真っ赤な日傘を手にしている様が印象的であった。辺りには車が往来する音に混じり、威勢良く鳴く蝉の声が響き渡る。風も殆ど無く、どこか湿気を孕んだ気候に汗が噴き出す。

「こりゃあ、危険な暑さだな。今朝のさわらの西京付けみてぇにコンガリ焼けちまいそうだぜ」

 仰々しく額の汗を拭いながらデカい声を発する力丸の珍妙な姿に、隣に佇む女性がそっと笑うのが見えた。口元を袖で隠しながら可笑しそうにクスクス笑っていた。力丸は、相変わらず恥ずかしい奴だ。取り敢えず他人の振りをしておこう。目線を逸らしたところで丁度バスが到着した。

「おーう。バスの中は涼しいなぁ」

 相変わらず力丸は豪快な振る舞いでバスに乗り込んでいった。俺もそのすぐ後に続く。ふと、何気無く後を振り返った俺は目を疑った。

(な、何だと!?)

 俺達がバスに乗り込む瞬間まで、俺達の隣には着物姿の女が佇んでいた筈だ。ほんの一瞬で唐突に消え失せることなど在り得ない。戸惑う俺に気付いたのか力丸がこちらに歩み寄ってくる。

「おいおい、コタ。そんな所に居たら、バスが出発出来ないぜ?」

「あ、ああ。そうだな……」

 俺は力丸に促されるままにバスに乗り込んだ。何となく結果は判っていたが、俺は力丸に先程の女性のことを問うてみた。

「へ? 着物姿の女だって? いや、オレ達二人だけだったぜ? お! これが……俗に言う蜃気楼ってぇ奴か!?」

「激しく違うだろ……」

 クロの言っていた言葉はやはり、真実を告げているということか。まだ、全ての事態が収集したという訳では無いのだろう。異変は未だ続いているということに他ならない。早くも異変が襲い掛かってくるとはな。いずれにしても油断はしない方が良いということだろう。だが、誰が、一体何のために?

(露姫……応えてくれ。お前は何を隠しているのだ? 俺では……お前の力には成れなかったのか? それとも……)

 その後、バスは何事も無かったかの様に走り続け、やがて出町柳の駅が見えてきた。何が起こるか判らない状況下で、常に周囲に注意を払い続けるのは楽なことでは無い。酷く体力を消耗した気がする。

「うしっ! 再び叡電に乗り換えて、目的地の一乗寺を目指すぜ!」

「ああ。皆を待たせる訳にはいかないからな。急ごう」

 この気候よりも遥かに暑く……もとい、暑苦しく振舞う力丸と共に切符を購入して、俺達は駅のホームへと移動した。丁度ホームへと入って来た折り返し電車に乗り込み、発車の時を待つことにした。

 車内は空調が利いており、中々に快適な涼しさであった。傍らでは力丸が冷風を浴びながら、胸元をハタハタさせながら涼んでいた。玉の様な汗が日差しを浴びて煌いていた。相当暑かったのだろう。

 しばしの時が過ぎた所で列車が動き始めた。目指すは一乗寺。見慣れた出町柳の景色を後にして、俺達は目的地へ向かい移動し始めた。相変わらず日差しは強く、窓から差し込む日差しに肌がジリジリと焼かれる感覚を覚えていた。

 俺の中で気持ちが晴れることは無かった。今度は何が起こるのか? そう考えると身構えずには居られなかった。心、此処に在らずといった感覚が晴れることは無かった。

 列車は何事も無かったかの如く走り続ける。相変わらず上機嫌に話し掛けてくる力丸に、俺はただ適当に受け答えをするばかりであった。心、此処に在らずとはこういう状況を示すのであろう。絶えず周囲に意識を張り巡らせることに段々と疲れて来た。疲れついでに睡魔が襲ってきた。力丸の話では無いが、本来睡眠状態にある時間帯を露姫と過ごしていた。その影響なのだろうが、波の様に押し寄せる睡魔に次第に抗えなくなってきた。適度に揺れる電車での感覚が、それをさらに後押しする。

「お? コタ、眠くなっちまったのか?」

「あ、ああ……」

「へへ。それなら、心配しなくても大丈夫だぜ。着いたらさ、起こしてやっから、安心して寝てて良いぜ?」

 未だに胸元をハタハタさせながら力丸が笑う。

「ああ、済まないな……」

 一乗寺までは数分もあれば着いてしまう。殆ど無意味なことは判っていたが、強烈な睡魔には抗い切れなかった。襲い掛かる睡魔の中で俺は可笑しなことを考えていた。

 自分が歩んできた「歴史」を塗り替える……平たく言えば、人生をやり直すといった表現になるのだろうか? あの時、確かにクロは俺に問うた。

『過去を変えたいと願った時、コタならばどうするか?』

 その答は一つだ。歴史を塗り替える以外に方法は無い。だが、俺にはその考えは理解出来なかった。歴史を塗り替えることで、さらなる深みに嵌らないとも限らない。それに、歴史を塗り替えてしまえば、今の自分が手にすることが出来た全ても消え失せてしまうことになる。果たしてそれが幸せなのかと問われれば、俺にはそんな結末は幸せだとは思えない。

 そう――かつて、こういった議論を交わしたことがある。俺は大地と共に語らった日のことを思い出していた。大地もまた、自らの置かれた境遇に疑問を抱き、時に悩み、時に迷い、否……未だに答えを出せずに彷徨い続けていると聞かされた。それでもなお前に進むしか無い。あるがままの現実を受け入れるしか無い。そんな結論に至ったとも聞かされた。だが、俺は思う。ただ、あるがままの現実を受け入れるだけでは、歴史を塗り替えることと大差は無い。抗えない現実などは在り得ない筈だ。例え、力及ばずに抗い切れなかったとしても、抗おうとしたことには少なからず意味も価値もある筈だ。

 過去の情景の中に何らかの答があるというならば、今一度過去の情景へと重ね合わせてみよう。そこで何かしらかの解決の糸口が得られるかも知れない。何の手掛かりも得られずに徒労に終わるかも知れない。だが、大事なのは結果では無い。そこに至るまでの過程だと俺は思う。だからこそ再び、あの日の場面に遡り、あの日の場面に俺自身の身を置いてみるとしよう。少なくても、あの頃の俺と今の俺とでは価値観にも違いがあるだろう。何らかの発見があることを願い、旅立つとしよう……。大地、お前と語らった時の流れの中に、何かしらかの手掛かりがあらんことを願うぞ。

◆◆◆33◆◆◆

 豊かな流れを称えた桂川。その桂川に掛かる雄大なる橋、渡月橋。この橋を往来する人々の流れは途絶えることは無い。絶えず変わることの無い流れ。豊かな水量を称えた川の流れ。賑わいを見せる嵐山駅の周辺を経て、野宮神社の先に広がる竹林へと至れば、風の通り道を思わせる風情あふれる情景に出会える。この場所を大地と共に何度歩んだことだろうか? 共に歩みながら、涼やかな風を感じられる情景に触れた日々が蘇る。だからこそ、今、こうして思うことがある。

 もしも、あの時……違う選択肢を選んでいたら、どうなっていただろうか? 今の自分とは違う自分に出会えたのかも知れない。誰もが一度は考えたことがあるだろう……。

 あの日、俺達は嵐山の竹林を歩んでいた。風が吹き抜ける度に竹の葉が揺れる音色が響き渡る。さざ波の様な音色だ。目を閉じれば、まるで海辺に居るかの様な錯覚に駆られる。涼やかな情景の中で、大地はつぶさに思いの丈を語ってくれた。

 何時だって皆を楽しませようと大地は明るく振舞ってくれる。だけど、人は必ずしも「表」の顔だけでは生きることが出来ない。誰だって心の奥底には、決して人に見せることの無い深淵なる「裏」の顔を持っているもの。皆を楽しませようと明るく振舞う大地が見せた意外な一面。そこにもまた「虚」と「実」が織り交ざっていることも、曲げることの出来ない真実なのであろう。

 旅館の息子に生まれたくなんか無かった。弟なんか欲しくなかった。何もかもが嫌になった時期もあった。もしも、旅館の家に生まれなかったら……。だけど、それは自分であって、自分で無い別の誰かになってしまうことと何ら変わりは無い。本当にそれで良かったのだろうか? 楽しいことばかり、嬉しいことばかりだけに囲まれた人生。本当に幸せなのだろうか? そんな「夢物語」、幸せな訳が無い。そうは思わぬかの、コタよ?

 大地はただ静かに俯き、沈んだ表情を見せていた。ずっと、誰にも言えなかった想いなのであろう。小さな溜め息を就きながら足元に落ちていた竹の葉を拾い上げてみた。幹から切り離された葉は、もはや命を失った亡骸に過ぎない。後は時の流れに委ねられるままに朽ち果ててゆくだけなのだろう。

「もしも――もしも、旅館の息子として生まれなかったら、今のワシは居らんかったのじゃろうな」

 持ち上げた竹の葉からそっと手を離せば、ヒラヒラと宙を舞うように落ちてゆく。

「そうなっておったら、こうして此処でコタと語らうことも無かった訳じゃな」

「ああ、そうさ。俺は……大地に出会えて良かったと思っている」

 何気なく言った俺の言葉に、大地は照れ臭そうに笑っていた。こういう場面でも素直に、無邪気な笑顔を見せてくれるのが大地の良い所なのかも知れない。

「そう言って貰えると、ワシも嬉しいのじゃ」

 再び風が吹き抜ければ竹林はさざ波の様な音色を奏でる。サラサラと涼やかな音色だけが響き渡る。穏やかな海岸に佇み、静かに目を伏せているかの様な音色を肌で感じ取れる場所。嵐山の竹林は涼やかな風に包まれた場所。何時訪れても心を沈ませてくれる場所に思えた。

 旅館の一家に生まれるという生活は俺には理解出来なかったが、大地が抱えていた悩みや迷いの様なものは感じることは出来た。幼い頃から家業を継ぐための手伝いばかりで、友達を作ることさえ出来なかった。旅館の経営は多忙を極め、殆ど両親にも構って貰う事も無かったと、大地は身の上話を語って聞かせてくれた。

 今までこんな話は誰にも出来なかったのだろう。家族には当然こんな話は出来ない。陽気な性格ではあるが、幼い頃から友と接する機会の無かった大地は、人との距離の取り方が判らずに中々打ち解けられる相手も出来なかったらしい。

「こんな話をしたのは、コタが始めてなのじゃ」

 ずっと一人で抱え込み続けるのは楽なことでは無い。蓄積され続けた想いは、限界水位を突破した瞬間に決壊し、一気に押し寄せてきてしまうことだろう。

「コタは不思議な奴なのじゃ」

「ほう? 中々興味深いな。是非、見解を聞かせて欲しいものだな」

 俺の眼差しにたじろいだのか大地は少々困った様な笑みを浮かべて見せた。照れ隠しと思しき笑みを浮かべながら、再び足元に落ちている竹の葉を拾い上げては落としてみせる。竹の葉はやはりヒラヒラと宙を舞うように落ちてゆく。

「上手く言えないのじゃが、コタならばワシの話をちゃんと聞いてくれる。そんな気分になるのじゃ」

「自分では良く判らないが、大地が言うのであればそうなのだろうな」

「それに、コタと一緒に居ると、何だか風を感じられる気がするのじゃ」

「ほう? 随分と持ち上げられたものだな。そこまで持ち上げられると気恥ずかしいものだ」

 竹林の中を歩んでいると涼やかな風を感じる。風が竹の葉を揺らすさざ波の様な音色。空高く背伸びした竹の葉の隙間から覗く木漏れ日。この場所は大地のお気に入りだというが、良い趣味をしていると思う。俺もこの場所は気に入った。実に良い場所だ。

 嵐山は不思議な街だ。駅前は人通りも多く、雄大なる渡月橋もある。賑わいを見せる場所であり、人通りが絶えることも無い。だが、駅から少し歩けば、この場所の様に竹林が広がっている一角もある。さらに歩き続ければ、この世とあの世の境界線を思わせる化野念仏寺の様に寂寞とした寺もある。嵐山という地は歩き回るには実に赴き深い場所だ。

 徒然なるままに話し込んでいるうちに俺達は竹林を抜け、嵐山駅前の通りへと至っていた。活気のある通りは渡月橋へと至る道に出る。この通りは嵐山駅に面しているためか常に賑わいを見せている。通りの両脇には様々な店が立ち並び、人の流れも途切れることは無かった。

「相変わらず凄い人通りだな」

「うむ。ここは嵐山の中でも最も賑わいを見せる場所なのじゃ」

 往来する人々の流れに目を向けてみた。行き交う人々は誰一人として同じでは無い。先程の大地の話を重ねるならば、過去に戻り選択肢を選び直したいと願う者もいれば、そう願わない者もいることだろう。

「誰もが皆過去に戻り、選択肢を選び直したいと思う訳では無いのかも知れないな」

「うむ、確かに。じゃが、中には選び直したいと願う者もおると思うのじゃ。人それぞれの道があるのじゃから、選ぶ道も千差万別という訳なのじゃろうな」

 大地は言っていた。偽らずに生きることが出来るならば、確かにそれが一番の道なのかも知れない、と。

「じゃが、ワシの様に偽り続けた結果、意外な目的地に流れ着いてしまう奴もいるということじゃ」

 「虚」が全て悪で、「実」が全て善などという考え方は浅はか過ぎるということなのだろう。確かに俺自身もそうだったのかも知れない。否、違うな。人の生きる道ほど曖昧で、その上抽象的なものは無い。恐らく、殆どの人は「虚」と「実」の境界線を見失って生きているのだろう。むしろ……明確に切り分けられる奴など存在する訳が無い。仮にそんな奴が存在するとしたら――それこそ、絵空事の世界の話、架空の世界での戯言に過ぎないということになるだろう。

「さて、難しい話はおしまいにするのじゃ。普段使わない頭を使ったから、ちと疲れてしまったのじゃ」

「なるほど。それでは、疲れた頭に効果的とされる甘味を求めて三千里と行こうか?」

「如何に健脚自慢のワシとは言え、そんな長距離は歩けないのじゃ」

 徒然なるままに語らいながら俺達は抹茶風味のアイスを購入した。苦味と渋み、そこに折り重なる甘味に一時の幸せを見出した気がする。

「人の幸せとは、こんなもので良いと思うのじゃ」

 使い捨ての匙を掲げ、満面の笑みを浮かべる大地の表情はどこか満足そうに見えた。どこまでも透き通る青空に良く似合う笑顔だった。語らう俺達の前を人力車が威勢良く駆け抜けていった。この通りは何時だって賑わいを見せている。悪くないものだ。こうして人々の活気に触れるというのも。

「……中々に深い発言だな」

「うむ。楽しいことばかり、嬉しいことばかりに囲まれた生き方が幸せな訳が無いのじゃ」

 再び匙でアイスを掬うと、大地は口に運んでみせる。

「辛いこと、嫌なことの中に見出す小さな、小さな幸せ。ワシはそれで十分なのじゃ」

「荒れ果てた荒野の中に咲く一輪の花、か。フフ、中々に粋な考えだな」

「そんな表現を思い付くコタもまた、粋なのじゃ」

 二人で声をあげて笑った。こういう馬鹿みたいな付き合いは楽しいものだ。変に肩肘張らずに付き合える関係……つまりは「友」と呼べる存在。俺もずっと探し求めていた存在だった。すぐ近くにある筈なのに俺には遥か彼方にある物のように思えていた。だからこそ、友と過ごせる一時は掛け替えの無い宝物なのだ。随分と大袈裟なことだと、何も知らぬ人は俺を揶揄するだろう。だが、だからこそ俺はそういう連中に言ってやりたい。人の幸せは他者には決して計り知れぬもの。誰かの幸せが別の誰かの幸せと一致するとは限らないのだから。自らの物差しを他者に宛がっても計り知ることなどは出来ない。それこそ愚の骨頂というものであろう。

 煌びやかな虹彩を放つ美空ひばり座を後にして、俺達は渡月橋前の交差点に到達しようとしていた。赤信号で一時の休息を堪能させて貰っていたが、再び信号が青になる。多くの人の波に混じって俺達も歩き出す。目の前に広がるのは渡月橋。雄大なる桂川に掛かる大きな橋。人も車も、時に人力車も往来する大きな橋であった。遠くの方で子供達が水遊びをしている様子が見えた。賑やかな笑い声が此処まで聞こえて来る。人々の生活と共に在る渡月橋。この橋を行き交う者たちをどれだけの時間見つめて来たのだろうか? 橋を行き交う者達の数だけ物語を見届けてきたことだろう。楽しい物語もあれば悲哀に満ちた物語もあったことだろう。だからこそ、ただ此処に在るだけなのに、此れほどまでの存在感を醸し出すことが出来るのかも知れない。

「何時見ても渡月橋は雄大だな」

「うむ。毎日、此処をシロとお散歩したものじゃ。懐かしいのぅ」

 渡月橋の欄干から身を乗り出しながら、大地は流れ往く桂川の流れを見つめていた。俺も隣に並び、水の流れを見つめてみた。四条の街並みを流れる鴨川とは色合いの違う景色だった。四条の街並みを優雅に流れる鴨川とは対照的に、大自然の中を流れる桂川はどこか猛々しい風情を称えていた。古き時代より大雨の度に氾濫を起こし、多くの命を呑み込んできたとされる荒ぶる流れ。その暴れん坊の上に掛かる渡月橋は、やはり、相応の迫力を以って対峙しているのであろう。この橋の勇壮さに魅入られそうだ。

「良い景色だな」

「うむ。ワシのお気に入りの景色なのじゃ」

「今日からは俺も、そのお気に入り仲間に加えて貰おう」

「ふむ。コタならば大歓迎なのじゃ」

 『友』とは、本当に掛け替えない無い宝物だと俺は思う。全てを失い、生きることからも逃げて、ただひたすらに現実から逃げ続けたあの頃……あの頃の俺だったら、間違いなく選択肢を選び直すことを願い出ただろう。だが、今の俺は選択肢を選び直そうとは思えない。選択肢を選び直した時、そこに大地はいるのだろうか? 他の仲間達もいるのだろうか? やはり、俺は選択肢を選び直したいとは思えない……ましてや、そのために、無関係の人々までをも巻き込むなど考えられないことだ。

「やはり、ワシはコタに会えて良かったのじゃ」

「フフ、唐突にどうした?」

「こんなにも、自分のことを自然に話すことが出来たのはコタが初めてなのじゃ。何と言えば良いかのう? ワシの全てを見て貰えた気がするのじゃ」

 思わずマジマジと大地の体を見回してしまった。途方も無い天然ボケを見せてしまった気がして、思わず照れ臭くなった。大地もまた、もじもじしながら困った様な笑みを浮かべていた。

「そ、そんなにジロジロ見られては困ってしまうのじゃ……」

「あ、ああ。済まない」

 どうも、大地は同じ年には見えない。輝とは色合いこそ異なるが大地も相当の童顔である。その上立ち振る舞いが妙に子供っぽい部分があるため、高校生なのかと疑われることも少なく無いらしい。いずれにしても大地は人を笑顔にしてくれる存在だ。照れ臭くて面と向かっては言えないが、俺もお前と会えて良かったと思っている。何時までも、子供の様な無邪気な心と、人を幸せにする笑顔を絶やさないで欲しいと願う。

「やはり、過去を変えてしまいたいとは、今は思えないのじゃ」

「ほう? それは……」

 俺が言い掛けた所で、大地は照れ臭そうに笑い返してくれた。

「皆まで言わせようとは、コタも無粋なのじゃ」

「フフ、そうだな。少々無粋であったな。大地と俺、二人で前を向いて歩いていこう」

「うむ。何処までも歩いてゆくのじゃ」

 あの時クロは俺に言った。「優しさ」と「甘さ」は似て非なるもの、と。その真意をようやく理解出来た気がする。露姫よ……俺は間違えていたのかも知れない。お前に対して「甘さ」を以って接してしまった。だが、それではお前のことを本当の意味で救い出すことは出来なかったのだろう。済まない。俺の未熟さ、弱さ、そして……至らなさを許して欲しい。お前が為し遂げようとしていること、そして紡ぎ出そうとしている「壮大な嘘」と俺は真正面から向き合わなければならなそうだ。そのためにお前と戦うことになったとしても俺は後悔しない。約束したからな――お前を救ってみせると。

◆◆◆34◆◆◆

 不意に目が覚めたようだ。再び意識が戻った時には、そこは叡電の車内であった。出町柳を発ってから、まだ数分しか経過していないとは思えなかった。不思議と体が楽になった様な気がした。

「お? 狙ったかの様に良いタイミングで目を覚ますとは中々見事だな」

「どういうことだ?」

 にやにや笑う力丸に問い掛けた瞬間、車内に車掌の声が響き渡る。

「次は一乗寺、次は一乗寺……」

 なるほど。確かに良いタイミングだ。さて、皆と合流して詩仙堂を目指すとしよう。

 ブレーキを掛けながら減速する列車は、ゆっくりと一乗寺に停車しようとしていた。程なくして列車は駅に到着する。

 俺達は列車から降りた。再び後続列車が迫っているのか踏切が閉じようとしていた。カンカンカンカン。踏切の警笛が周囲に響き渡る。何故か懐かしい気分になる音色だった。

 照り付ける日差しとそこら中から聞こえて来る蝉の大合唱。一気に噴き出す汗を感じながら俺達はしばしの時を待つことにした。どうやら皆はまだ到着して居ない様子であった。

「うしっ! どうやらオレ達が最初だったみてぇだな!」

「否、そうでも無さそうだぞ?」

「なにぃっ!?」

 俺が指差す方向に目線を投げ掛けながら、力丸が驚愕の表情を浮かべる。

 どうやら輝達はさらに早く到着していたらしく、皆で甘味処一乗寺中谷の名物、でっち洋かんを頬張っていた。可笑しそうに笑いながら手を振る輝に、力丸は苦笑いを浮かべながら手を振り返した。

「まぁ、想定通りだったな」

「……だな」

 輝達と合流した俺達はそのまま皆で詩仙堂を目指すことにした。わざわざ俺達の分も用意してくれておいたらしい。つまりは、輝達に取っては想定通りであったということだろう。空振ってしまったことに少々気落ちする力丸に、輝はでっち洋かんを差し出した。

「はい、でっち洋かん。ここの洋かん、結構シッカリしているから、意外とお腹に溜まるんだよ」

「おっ! こいつぁ美味そうだな。サンキューな、テルテル!」

(おいおい……食べ物を貰っただけで、何の言葉も無しに和解成立か? 力丸よ、お前は相変わらず食い物に弱いな。食い物一つで和解が成立するとは、相変わらず単純明快なことだ。だが、俺はお前のその判り易い性格、嫌いじゃない)

 満場一致で皆が同じことを思ったであろう。思わず皆で顔を見合わせながら笑いが毀れる。輝よ……お前も中々の悪党だな。否、何よりも無意識のうちに、その行動を取れていること事態が俺は末恐ろしいと思う。天然も此処まで来ると、ある種の凶器と化すものなのだな。当の本人は、何故に皆が強張った笑みを浮かべているのか、理解出来ていない様子であった。

「なになにー? 皆揃って、変な顔しちゃって? どうしたのー?」

「否、お前の天然さは最終兵器と呼ぶに相応しいと思っただけだ……」

「えー? ナニそれー?」

 一瞬、納得いかなそうな表情を見せたが、すぐに何時もと変わらぬ笑顔に戻った。

「それじゃあ、皆、張り切って行きましょうー!」

 時折人々が往来する商店街に輝の弾んだ声が響き渡れば、思わず皆で顔を見合わせる。

「あ、アレ? ぼく、なんか変なこと言った?」

 奇しくも、ちょうど横を通り過ぎた自転車がベルを鳴らす。チリンチリン。絶妙過ぎるタイミングに再び皆の間に笑いが訪れる。

「えっと、な、何か笑いが聞こえて来るのは、なんでなのかなー?」

「い、否、お前が先導すると、どんなに平和な旅であっても、数多の危険に満ちあふれた波乱万丈の大冒険に聞こえるから何とも不可解な現象だと思ってな」

 そんなこと無いよね、と輝は皆の顔を見渡してみたが、皆は満場一致で深々と頷いて見せた。

「ま、まぁ、皆、気を取り直して行こうぜ」

 力丸に先導されて俺達は詩仙堂に向かうことになった。少々複雑な表情を浮かべていたが、輝もその流れに加わった。

(仲直りはウヤムヤのままになっているが、誰一人ツッコミを入れないのだな……)

 俺達は鄙びた雰囲気漂う曼殊院道を歩んでいた。歴史を感じさせる古びた看板やレトロな色合いを称えた自動販売機が立ち並ぶ光景は、時間の流れから切り離された様な雰囲気を漂わせていた。商店街を思わせる道の両端には店と民家とが混在しながら立ち並んでいる。人々の生活に密着した街造りなのであろうが、やはり市内の中心部と比べると田舎らしさが残る。もっとも俺達はそうした空気が好きで、こういうレトロな街並みを歩むことを楽しく思える身なのも事実である。

「相変わらず、この辺りは昭和の時代から時の流れが止まっているな」

 こういう雰囲気が好きなのだろうか、太助は満足そうな表情で周囲を見渡していた。

「太助よ、お主はこういう風情が嫌いでは無いのじゃろう?」

 わざわざ刺激するかの様に、にやにや笑いながら大地が声を掛ければ

「ああ。俺は生まれる時代を間違えたのでは無いかと、時々思うのでな」

 風を感じながら太助は静かに目を細めていた。思わず見とれてしまう横顔であった。相変わらず太助は男前だ。その格好良さに微かな嫉妬心を覚えずにはいられなかった。

「かーっ! 嫌だねぇ!」

 静寂を打ち破るかの如く、力丸がにやにや笑いながら太助の肩に豪快に腕を回す。

「生まれる時代を間違えたなんて、普通は言わねぇよなぁ。で、お前が言うと、悔しい位に格好良く聞こえるもんな。でさ、オレが同じ台詞を口にしたら、ぜってぇお前ら笑うだろ?」

 思わず皆で力強く頷いてしまった。静かな含み笑いを浮かべる太助の反応を窺いながらも、力丸はさらに続けてみせる。

「やっぱり世の中は平等じゃねぇよな。オレも、もうちょっと男前だったらなぁ」

「フフ、俺はお前の男らしい体付きに憧れを抱いているのだがな?」

 力丸の肩に腕を回しながら太助はわざとらしく吐息を漏らしてみせる。中々の大根俳優振りだ。だが、力丸の心には見事に響き渡ったらしい。

「お!? マジで!? へへっ、なんだよ、もっと褒めてくれちゃっても構わないんだぜ?」

 目一杯鼻の穴を膨らませながら、妙なポーズを決めて見せる力丸を後目に、太助は再び周囲の景色に目線を投げ掛ける。静かな含み笑いを浮かべながらゆっくりと景色を楽しんでいた。その様子を見ながら俺は考えていた。

(俺はお前がこの時代に生まれてくれてよかったと思っている。同じ時代に生まれていなかったら、俺達はこうして肩を並べて歩くことも無かった。まぁ、お前の男前さは時々悔しくも思えるのだが、そのことは置いておくとしよう)

 話し込んでいるうちに俺達は白川通に到達していた。多くの車が往来する幹線道路。もっとも、輝達は先程にも通った場所なのを考えると、妙な気分になっているのかも知れない。俺達は青になった横断歩道を渡った。

 横断歩道の向こう側には「狸谷山不動尊」と記された案内板が佇んでいる。ここから緩やかな坂道をひたすら上ってゆけば、目的地の詩仙堂へと辿り着く。狸谷山不動尊は詩仙堂のすぐ近くに存在していることを考えれば、この案内に従って移動していれば間違いは無いだろう。

「あ! 此処が甘味処の一乗寺中谷だよ」

「おう、さっきの餅みてぇな羊かんを買ったという店か?」

 中々赴きある店構えであった。店内では飲食も出来そうな造りになっている。こういう小粋な店で一時を過ごすというのも悪く無さそうだ。そんなことを考えていると、店内で甘味を楽しんでいるであろう女性達の姿が目に付いた。店の軒先では従業員と思しき若い娘が打ち水を撒いているのが目に入った。水を手桶で撒く度に、さんさんと照り付ける日差しに反射して水がキラキラと光っていた。強い日差しを浴びているせいか、額の汗を拭いながらも打ち水を続ける。夏の照り付ける日差しの中で打ち水をする娘。民家に囲まれた赴きある日本家屋の甘味処。中々絵になる光景では無いだろうか?

「綺麗なお姉さんなのじゃ」

「ほう? 大地はああいう女性が好みか」

「へ!? な、なんのことなのじゃ……」

 太助にからかわれて、大地は照れ臭そうにもじもじしていた。

「なるほど。これが青春という奴か」

「うわっ! コタってば今の発言、オジさんだよねぇ」

「誰がオジさんだ……」

 大きな声で頭の悪い振る舞いをしている俺達を、店の娘は横目で怪訝そうな目で見つめるばかりであった。駄目押しの如く輝が手を振れば、殊更に引きつった笑みで会釈して見せた。

(いかん、いかん……これでは立派な営業妨害だな。先を急ごう)

「皆、先を急ぐぞ」

 はしゃぎ回る皆を促し、先を急ぐことにした。

 一乗寺中谷を抜けてしばらく道なりに歩んでいくと俺達の視界に、天を掴むが如く雄大に聳え立つ一本の松の木と、その隣に佇む立派な石碑が飛び込んでくる。住宅街の中にひっそりと佇む歴史的な史跡というのも悪くは無いものだ。違和感無く佇む様は地域と密着しているという証なのであろう。

「これは一乗寺下り松だね」

 皆の前に躍り出ると、妙に自信に満ちた表情で輝が講釈を垂れ始める。こういう観光周りの知識を探求、蓄積している分には平和的で良いと思う。オカルト方面から少々路線変更するだけで皆が幸せになれるのだ。輝よ、路線変更も視野に入れて欲しいと俺は切に願うのだが……まぁ、聞く耳は持たないのだろうな。

「此処、一乗寺下り松は宮本武蔵ゆかりの場所でね」

「ほうほう。それで、一体どんなゆかりがあるってぇんだ?」

 興味を惹かれたのであろうか? 力丸が肩を組めば輝は嬉しそうな笑みで語り始める。

「剣豪、宮本武蔵が吉岡源次郎と一戦を交えた場所なんだ」

「ふむふむ。それで、武蔵は……どうなったのじゃ?」

 大地も興味を惹かれたのか、身を乗り出しながら輝に問い掛ける。

「うん。宮本武蔵は此処で、吉岡源次郎に見事に勝利したんだ。吉岡源次郎が所属していた吉岡道場の門弟達……実に七十数名と対決したのだけれど、その全てに勝利したんだ。凄く強い人だったんだよねー」

 胸を張って意気揚々と語ってみせる輝の傍らに立ちながら、太助が不敵な含み笑いを浮かべながら腕組みする。少々強張った笑みを浮かべる輝の様子に、なにやら不審な物を感じずには居られなかった。まぁ、何となく想像はつくのだが……。

「輝が朗々と語った内容は、道中の暇つぶしに俺が語って聞かせた話だ」

「あー、やっぱり? そうじゃねぇかなぁって思ったんだよな」

「フフ、テルテルよ、受け売りとはまだまだじゃのう?」

(やはり、予想通りの展開であったか……)

 どうやら観光方面への路線変更は極めて難航しそうだな。だが、俺は諦めない。お前を必ずや更正させるべく、みっちりと教育してくれよう。

「えっと……コタ、ぼくに何の教育を? 更正って……何の話?」

「フフ、輝よ、そういう話はお前達、二人きりの時にするべきだと思うぞ?」

 太助がにやにや笑いながら俺に目線を送る。

「な、何の話だ……」

「教育じゃとか、更正じゃとか、中々に意味深なのじゃ」

「へへ。お前ら仲良いもんなー」

「えー? なに、なにー? 何か意味深だよねぇ。どういうことなの?」

 判っていてボケているのか、本当に判らずに天然全開な反応をしているのか……恐らくは、後者の様な気がする。それにしても何と言う切り返し方をしてくるのか……。

(こいつらには一度、正義の名の下に裁きの鉄槌を下す必要がありそうだな……)

 一乗寺下り松を後に、俺達は民家を駆け抜ける細い通へと右折した。「詩仙堂」の案内を示す看板が佇んでいる。皆で騒ぎながら俺達は坂道を上り続けた。時間の経過に伴い日差しは強まっていく一方であった。詩仙堂を始めとするこの界隈の寺社は住宅街の中にひっそりと佇んでいる。人々の日常生活の中に寄り添うような在り方は心が落ち着く。だからこそ、こうして静けさに包まれた場所を選んだのかも知れない。

 確かに市内にある寺社は観光地化しており、華やかさはあるだろうし、当然のことながら人も大勢来る。土産物屋が所狭しに立ち並び、時にはバスガイドが観光客を案内するという情景も目にする。だが、それは今の俺達が求めているものでは無い。地域に密着した静かなる山寺……そうした場所に身を、心を置きたかったのだから。

「それにしても今日は日差しが強いねぇ。ヒリヒリしちゃうよ」

「ふむ。それ以上に細い道ゆえ、注意が必要じゃの」

 詩仙堂は小高い丘の上に佇む寺。寺に至るまでの道は住宅街の中を駆け抜けている。俺達は住宅街の中を通り抜ける細い道を歩んでいた。車一台でもすれ違うのに難儀しそうな細い道。時折行き交う周辺の住民達の邪魔にならないように、俺達は一列になって歩んでいた。ジリジリと照り付ける日差しの強さに呼応するかの如く蝉の声が辺り一面から響き渡る。少々不便な場所にあるが、この辺りの静かな雰囲気は自らの足で歩みながら感じたいと思う。

「もうじき目的地が見えて来るんじゃねぇのか? 確か、大して距離無かったもんな」

「話し込んでいるうちに見えてきたな」

 道は一本道であり、途中の分岐も無い。そうそう迷うような場所では無い。

「こういう絶対迷いそうも無い場所でも、コタは迷子になれるんだよねー」

「そうそう。コタの方向音痴は国宝級だもんな」

「判ってないな。これだから素人は困る。旅とは迷い、迷うことにこそ、真の価値があるというものだ」

(……こいつらも何時か、方向音痴の偉大さに気付くはずだ)

 ふと、後ろを振り返れば京の街並みを見下ろすことが出来る。

「お! 皆、見てみろよ。オレ達の歩んだ軌跡だぜ!」

「うわぁ。これは、中々の景色だねぇ。カメラ、持ってくれば良かったなー」

「ああ。山の麓に広がる街の景色……悪くないものだな」

 しばし皆で見入っていた。緩やかな坂道であったせいか、それほど高度を稼いだ気はしなかったが、こうして高台から見下ろしてみると、歩いてきた軌跡が良く判る。歩んできた道の遥か彼方に広がる街の光景。色とりどりの家々が立ち並ぶ様が一望できる。その中でも特に目立つのが京都タワーであった。良い光景だ。こういう光景は夜にこそ真価を発揮するものだ。もっとも、この細道を夜に散策するのは中々難しいかも知れない。

「さて、詩仙堂に到着するぞ」

「おうっ。皆、早速入ろうぜ」

 程なくして俺達は詩仙堂に到着した。小さな門を潜り抜け木々に抱かれた小道へと至る。小道は生い茂る木々が強い日差しから身を守ってくれる。木々の隙間から覗く木漏れ日を背に受けながら俺達は拝観窓口を目指した。木々があるからなのであろうか? 多少は涼しさを感じられる気がした。木々の隙間から差し込む光を受けながら、蝉が一斉に鳴く声が響き渡る。

◆◆◆35◆◆◆

 拝観窓口を抜け、靴を脱いだ俺達は詩仙の間を訪れていた。畳の香りが心地良い。古き良き日本の建造物と言った赴きを感じていた。日差しを直接浴びることが無いため、涼やかな風に生き返る感覚を覚えていた。時折、庭園から響き渡るししおどしの音色が殊更涼しさを増している様に思えた。俺達は畳の間に腰掛けて庭園の景色を眺めていた。

「小太郎、今更ながらの話になるのだが」

「ああ、何だ?」

 白檀の香り漂う扇子で扇ぎながら、太助が問い掛ける。

「いや、何故に詩仙堂に、皆と共に訪れようと考えたのかが気になってな」

「そうだな。そろそろ理由を明確に明かした方が良さそうだな」

 俺の顔を見つめながら、どこか憂いを孕んだ表情で力丸が問い掛ける。

「なぁ、コタ。もしかして、露姫に関する話か?」

「鋭いな。その通りだ」

 俺の言葉に皆の表情が一気に険しくなる。無理も無いだろう。皆に取っては掴み所のまったく無い、うわさ話だけの存在に過ぎないのであろうから。だが、どう説明すれば良いだろうか? 露姫と直接語らったのは俺だけなのだろう。

「その話ならオレが説明するぜ。テルテルには嫌な思いさせちまったってのもあるしな」

「ああー、えっと……アレはぼくも悪かったから、そんなに気にしないで?」

「ありがとうな。ただ、うわさ話だけの存在じゃあ、サッパリ意味不明だろ? オレは露姫と会い、言葉も交わした身だからな。皆もきっと知りてぇだろうからさ。だから、話させて貰うな?」

 そうであった。力丸もまた露姫と直接出会い、語らっているのだ。ならば此処は先ずは力丸に話をして貰うとしよう。その上で俺の体験を付け加えるとしよう。

「露姫と出会ったのは数日前のことだった。会ったと言っても、会ったのは夢の中だったんだ」

 力丸は皆に一連の出来事を話して聞かせた。夢の中で出会ったこと。孤独だった露姫を守り抜くために平安神宮に近付けさせたく無かったこと。そして、夢の中で兵士達に追い回されたこと。体験したことの全てを克明に語って聞かせた。皆一様に言葉も無く、ただ静かに聞き続けていた。

「……とまぁ、オレが体験したのはこれで全てだ。ついでに言うと、昨夜を境に一切の気配が消えた様な気がしてな。なんつーか、憑き物が取れたっつーのかな?」

 話し終えた力丸に対して、輝が手を挙げる。まるで学校の授業そのものだ。

「ね、質問しても良い?」

「おう。オレで判ることなら答えるぜ」

「えっと……結局のところ、昨日の夜にリキは追い回される体験をしたけれど、それきり露姫の夢を見ていないんだよね?」

 輝の問い掛けに、今更ながら気付かされたのか? 少々考え込んでから力丸は口を開いた。

「ああ。コタが泊まりに来てから、ぷっつりと途絶えちまったんだよなぁ」

 観光客達が訪れているのだろうか? 人の話し声が聞こえてきた。あまり人に聞かれたくない話であることを考えると、ここに鎮座しているのは賢くない。俺は皆に庭園へ向かうことを提案した。

 詩仙の間を抜け、俺達は庭園へと向かった。途中すれ違った観光客達が軽く会釈した。俺達も会釈で応えた。そのまま靴を履き、庭園へと足を踏み入れた。

 詩仙堂の庭園は小奇麗な風情を称えていた。様々な種類の草花が植えられており、四季折々の顔を楽しむことが出来る。ししおどしの涼やかな音色を聞きながら、俺達は庭園をゆっくりと歩くことにした。

 抜けるような青空は逆に遮る物が無いだけに容赦無く照り付けてくる。強い日差しに肌が焦がされ、玉の様な汗が後から後から噴き出してくる。辺りの木々からは蝉達の声が響き渡る。良い空模様ではあるが、だからこそ暑さも相当のものだ。雄大に発達した入道雲が大きく迫り出している様子を、俺はただ静かに見つめていた。

「解せない話だな……結局、その露姫とやらは、何が望みだったのだ?」

 歯切れの悪い展開に苛立ちを覚えているのであろうか? 不機嫌そうな表情で問い掛ける太助に力丸は考え込んでいた。

「そうそう。そこなんだよなぁ。結局のところ、オレにも良く判らないままなんだわ」

 力丸は最後まで真相を見切った訳では無い。中途半端に巻き込まれ、中途半端な場所で打ち切られた。これでは確かに何が何だかサッパリ判らないことであろう。

「露姫は兵士達に追われていた訳でしょう? それってさ、掴まっちゃったから姿を見せなくなったということじゃないのかな?」

 輝にしては珍しく中々鋭い所を突いてくる。当たらずとも遠からずと言ったところであるが。

「つまりは、その兵士達に掴まってしまった。じゃから、姿を現すことが出来なくなった。こういうことじゃろうか?」

 力丸は腕組みしたまま唸っている。納得出来ない、というよりそんな展開は受け入れたくないといったところだろう。守り抜こうと思った女を結局守れなかった。その事実は少なからず力丸の心に黒い影を落としてしまったことだろう。そう……かつて為し遂げられなかった無念を、再び晴らすことが出来なかったのだから。

「俺は別の部分で気に掛かることがある」

 腕組みしながら太助が皆を見回す。俺と目が合ったところで、じっと俺の目を凝視していた。鋭い眼差しだった。蛇に睨まれた蛙というのはこういう状況を示すのだろう。適当な御託を並べて逃げ切ることは許さん。そんな強い意思を感じさせる眼差しであった。

「……昨夜、小太郎が泊まりに来てから異変が収まった。先刻、お前はそう言ったな?」

「あ、ああ」

「誰も妙だとは思わなかったのか?」

 不敵な笑みを浮かべたまま太助は皆の表情を見渡す。皆、太助の言葉に再び考えを巡らせていた。もっとも答が出ることは在り得ないだろう。その答を知っているのは、俺以外には存在しないのだから。否、俺が見た情景は答とは言えないのかも知れない。露姫が全ての真実を告げて居ない以上は……。

「ふむ。ワシの勝手な意見なのじゃが、コタが泊まりに来た晩から異変が収まった。つまりは……」

「……俺が解決の糸口になった。まぁ、そういうことになるだろうな」

 大地が言い終わるよりも先に、俺は自分から話を切り出した。敢えて隠し通すような必要は無く、むしろ皆に全てを話して、共に考えて欲しいと願っていたのだ。好都合であったと言えるだろう。

「力丸には話さなかったが、俺もまた、夢の中で露姫の姿を目撃している……何度もな?」

「マジかよ!? 何で話してくれなかったんだよ!?」

 驚きと怒りと複雑な感情の入り乱れた表情を浮かべていた。恐らくは真実を隠していた俺に不信感を抱いていることだろう。だからこそ俺は話を続けた。

「言い訳にしか聞こえないだろうが、話すことが出来なかった理由はある。その理由はこれから皆にも説明する」

 ししおどしの音色だけが響き渡る静かなる庭園。先刻までは賑わっていた人の話し声は、何時の間にか聞こえなくなっていた。またしても何らかの力が働いているのであろうか? 皆に真実を話すということ……それは少なからず危険に巻き込むことも意味している。妙な事態に巻き込むことになるかも知れぬが、悪く思わないでくれ。

「俺が見た情景の中にはお前達も登場していた。だが、それは俺だけに見せられた幻であった」

「うーん、つまりはコタが見た夢ということになるのかな?」

「ああ。そうなるな。だが、今回の件は『夢』という媒介を通じて、様々な出来事を実現している。そこで、これから俺が話す内容を注意深く聞いて欲しい。身に覚えが無いのか、あるいは何らかの体験をしたのか。それを踏まえて聞いて欲しい」

 可笑しな前置きなのは判っている。だが、全ての事実関係を洗い出すためには、俺の見た情景が真実であったのか虚構であったのかを的確に色分けする必要がある。そのためには皆からの情報が必要不可欠だった。

「心の準備はできているか? それでは話すぞ」

 先ずは力丸の家に泊まりに行った際の夜の出来事――つまりは昨晩の出来事から話さなくてはならない。この部分に関して関係するのは力丸だけである。故に、俺は力丸に対し注意深く聞いてくれるように再度注意を促すことにした。

「お、おう。心の準備は万端だぜ」

 力丸の返事を受け、俺は小さく頷き返した。

「俺と力丸の記憶には食い違いがある。それを最初に言っておく」

「お、おう、大丈夫だぜ……」

「雨が上がった後、俺達は上賀茂神社へと向かった。そこまではお前の記憶とも符合する筈だ。だが此処から先が異なる……」

 俺は自らが体験したことを可能な限り詳細に語って聞かせた。

 唐突に足音に追い回されて、社家の街並みへと逃げようと試みたこと。だが、何時の間にか、そこは平安神宮へ続く参道に摩り替わっていたこと。平安神宮の応天門前で露姫と遭遇したこと。露姫に突き飛ばされた力丸が消え失せたこと。その全てを語って聞かせた。皆、一様に強張った表情で俺の話に耳を傾けていた。力丸もまた、呼吸が荒くなりながらも真剣に俺の話を聞き逃さない様にしていた。

 聞き終わった時、皆の吐息が漏れる音が一斉に周囲の木々に染み渡る感覚を覚えた。無理も無いだろう。普通じゃ無さ過ぎる話なのだ。そうそう容易くは受け入れられないだろう。力丸に至っては当事者であったことを考えると、さらに驚きを隠し切れないのだろう。否、それにしては随分と動揺しているように見える。何か、俺の窺い知らない体験でもしていたのだろうか?

「は、はは……マジかよ。シャレになってねぇって……」

「どういうことだ?」

 今度は俺が動揺させられる番だ。震えが止まらないのか、不安と恐怖に満ちた表情を浮かべた表情を浮かべていた。俺はしばしの間待つことにした。否、心の準備が必要なのはむしろ俺の方なのかも知れない。

「実は……オレも同じ体験をしていたんだ」

「やはり、そうだったのか……」

「隠そうとしていた訳じゃ無い。それは判ってくれよな?」

「ああ、判っているさ」

 力丸にしてみれば、夢なのか現実なのか定かでも無い情景を口にすることは憚られたのであろう。憶測だけで物事を語れば可笑しな方向に突き進まないとも限らない。或いは、俺を気遣っての振る舞いだったのかも知れない。何れにしても二人が同じ夢を見ることなど在り得ない話なのだから。

「昨日の夜、上賀茂神社で足音に追い掛け回されて、コタと一緒に逃げ回った。いきなり平安神宮前に放り出されたことも覚えている。その後、露姫に駄目出しされたこともな……」

 そうなってくると、力丸の体験を聞く必要が出てきた。俺の窺い知らない所で起きた出来事。それも把握しておかなければ正確な情報には成らないのだから。

「夢から覚めた時、オレは自分の部屋に居た。どういう訳か……コタも部屋に倒れていてな」

「ああ、それで……俺はどうなった?」

「おう。何だか、酷く魘されていてな。どんなに揺さぶってみても起きやしねぇ。こりゃあ、何か起きているのだろうって思ったのさ」

 結局、昨夜は俺の身を案じて一睡も出来なかったことも聞かされた。

(無茶なことをするものだ……その気遣いは嬉しく思うが)

 段々と雲行きが怪しくなってきた気がする。そうなってくると、輝達の話にも裏があるのかも知れない。俺は呼吸を整えながら再び皆の顔を見回す。

「もう後戻りは出来ない。覚悟は出来ているか?」

 俺の問い掛けに、皆が神妙な面持ちで頷いて見せた。

「上賀茂神社に力丸と訪れた時のことだ。姿無き足音に追い回される前に、俺の下に一本の電話が入った……」

 静かに目を伏せながら、太助が小さな溜め息を就いて見せた。

「やれやれ……悪い夢でも見ていただけなのだろうと思ったが、そうでも無さそうな感じだな」

「やはり、お前達の身にも何かが降り掛かったのか?」

 俺の問い掛けに、太助は静かに頷いて見せた。

「唐突に輝から電話が掛かってきた。嫌な予感しかしていなかったが、予想通りだった」

 太助の言葉を待っていたかの様に、輝はバツの悪そうな笑みを浮かべながら、話を続ける。

「情け無い話だよね。リキに悪いことしちゃったから、何とかしたいって思ったんだ。でも、一人じゃ、どうしても不安で仕方が無くてね」

「それで、ワシが馳せ参じたワケなのじゃ」

 やはり、昨晩、輝達も平安神宮に存在していた。もっとも、俺達が存在していたのは「虚構」の世界に築き上げられた、言うなれば「もうひとつの平安神宮」と呼べる場所であったのだろう。輝達は「現実」の世界に存在する平安神宮を訪れていた筈だ。

「輝からの電話を受けた時には生きた心地はしなかった。それで、すぐさまお前に連絡したのさ」

「なるほど。それで……平安神宮では何か異変は起こったのか?」

 俺の問い掛けに対して、輝は力強く首を横に振った。

「異変も何も入館時間過ぎていたからね。そもそも入ることなんて出来る訳が無かったんだよ」

「そうなのじゃ。ワシもすっかり、そのことを忘れておっての。何とも抜けた話なのじゃ」

 今更ながらだが色々な矛盾に気付いた。露姫の目撃情報は夜の平安神宮の境内で起こった話の筈。だが、実際には夜に平安神宮に入り込むことは不可能。何故、目撃した者達が存在していたのだろうか?

(否、違う!)

 ああ……俺は何て間抜けだったのだろうか。固定観念で物事を考えている限り、今回の事案に関しては答には永遠に辿り着けないということなのだろう。何とも皮肉な発見であった。真相が俺のことを見下しながら、嘲笑う声が聞こえてきそうだ。

「皆、聞いてくれ……うわさ話のことなのだが、実際に露姫を目撃した者達は例外なく凍死している筈。つまり、現実世界の平安神宮で露姫を目撃した者など、誰一人存在していないということになる」

 俺の言葉に、輝が首を傾げながら問い掛ける。

「え? でも、うわさ話では、平安神宮に女の幽霊が出るっていう話だったけど……あ!」

「そう。そのうわさ話を流したのは誰なのか、という話だ。実際に目撃した奴なんか誰一人としていないんだ。最初から存在しなかった……ただ、うわさ話だけが一人歩きしていたということだ。否、むしろ……そう思わせる様に、うわさ話を垂れ流した訳だ。つまりは、実に巧妙に情報操作をしたと言えるだろう」

 それにしても随分と回りくどい手口だ。何故そんなにも婉曲的な振る舞いをする必要があったのだろうか? 恐らく、その答こそが、クロが口にしていた「壮大な嘘」に繋がるのだろう。

「実際に俺と賢兄が平安神宮に到着した時には、門の前で立ち尽くす間抜けな二人の姿を確認したに過ぎなかったからな」

 それにしても実に不可解な話だ。事実が明らかになればなるほどに、複雑に捻じ曲げられている事実の数々に気付かされる。どうにも解せなかった。「虚」と「実」を織り交ぜて、何が何だか判らない状態にすることが目的なのだろうか? だとしたら、何故そんなにも面倒なことをするのだろうか? 俺達が考えている以上に事態は複雑怪奇な様相を呈しているように思えてきた。

「皆、場所を変えよう」

 あまり長時間庭園で話し込んでいるのも挙動不審に思われる危険性もありそうに思えたのと、それ以上に気持ちを切り替えたいというのもあり、俺達は詩仙堂を後にした。

 詩仙堂から出た所で俺は力丸の異変に気付いた。妙に気落ちした表情に一抹の不安を覚えずには居られなかった。やはり、露姫のことで迷っている部分があるのだろうか? まだ引き摺っている想いがあるのだろうか? そんなことを考えていると再び視界が揺らぎ始めた。立っていられない程に激しい眩暈を覚えた俺は、そのまま膝から崩れ落ちた。皆の叫ぶ声が微かに聞こえていたが、遠退いてゆく意識に抗うことは出来なかった……。

◆◆◆36◆◆◆

 力丸との付き合いは輝に次いで長い。知り合ったのは中学生の頃に遡る。

 その日も丁度、今日みたいに暑い夏の日だった。抜けるような青空。雲も微かに存在するばかりで、朝から蝉が威勢良く鳴く朝だった。輝のお陰で、ようやく引き篭もり生活から脱した頃だった。周りは見ず知らずの奴らばかりで孤独さを感じていた。もともと人付き合いは得意な方では無かったが、それでもやはり孤独の寂しさを感じずにはいられなかった。

 小学校時代の連中とは関わりたく無かった。否、むしろ向こうも関わりたくは無かったことだろう。何しろ、あの事件の中で俺は『死んだ』ことになっているのだから。

 一年にも渡る引き篭もり生活の日々。その引き篭もり生活に別れを告げてから暫く経った日のことだった。毎日、毎日、変わることの無い日々だった。あの頃の俺だったら歴史を塗り替えることを願ったことだろう。生きるのが辛くて仕方が無かったのも事実だった。生きることが辛くて、哀しかった……すれ違う誰もが俺の存在を否定する。まるでそこに、何も存在していないかの様に振舞われた。結局何一つ終わってなんかいなかった。俺の中で勝手に終わったつもりになっていたが、現実は残酷で無慈悲なものだ。救いなんか一切与えられていないのだろう。

 その日も俺は薄暗い教室で一人寂しく昼飯を食っていた。皆、楽しそうに談笑する中で、俺の居る空間だけが孤立している様に思えた。もう慣れてしまったが、逆に考えればそんな状況に慣れ切ってしまったのも哀しい話だった。

 そんな中、昼飯時になると興味を惹かれる奴がいた。図体もでかく、存在感はある奴だったが、俺と同じ様に人を寄せ付けない雰囲気を放つ奴だった。物静かな振る舞いで殆ど目立たない奴であった。だが、どうにも俺はこの図体のでかい男に興味を惹かれてならなかった。何処に興味を惹かれたかと問われれば、その食事量の多さであった。

 俺も食はかなり太い方ではあったが、それを遥かに凌駕するものがあった。毎日昼飯時になる度に興味を駆り立てられ続けていた。好奇心とは猫をも殺すもの。何時しか俺の中で、この図体のでかい男に対する好奇心は次第に膨れ上がっていた。相手も俺の好奇に満ちた眼差しに気付いているのだろう。昼食時になると俺の反応を楽しんでいるようにさえ思えた。今になって思えば実に奇妙な関係だったが、不器用過ぎる俺達にはそれが精一杯のことだった。

 そんなある日のことだった。こいつとだったら友達になれるのかも知れない……そんな希望を胸に抱き、俺は声を掛けてみることにした。人からすれば些細なことに、そんなにも必死になる俺はさぞかし滑稽に見えたことだろう。他者には理解出来る筈が無い。何もかもを失い、引き篭もりにまで堕ちてしまった俺に取っては、大きな勇気が必要だったのだ。

「それだけ体がでかいと、相応に腹も減るものなのか?」

 おかしな声の掛け方だった。面白い行動を取った奴に対して、ツッコミを入れるかの様な声の掛け方だった。さながら喧嘩を吹っ掛けるような台詞だった。だが、そんな俺の想いとは裏腹に、そいつは可笑しそうに笑ってみせた。仰々しい身振り、手振りが印象的だった。

「しっかり食わねぇとさ、大きくなれねぇだろう?」

「フフ、それ以上大きくなってどうするつもりだ?」

「野性味あふれる、良い男に成長するだけさ」

 互いに、意外な程に違和感なく話すことが出来た。何となく肌で感じていたのかも知れない。野生の勘とでも言うのだろうか? こいつとなら仲良くなれる。そんな感覚を肌で感じ取っていたのかも知れない。俺だけじゃなく、こいつもまた同じことを思っていたのだろう。

「なぁ、お前……名前は?」

「同じクラスなのに名を尋ねられるなんて、俺はそんなにも存在感薄いのか? まぁ、良いさ。俺は四条小太郎だ」

「知らないことは無いけど、お前の口から聞いてみたかった」

「可笑しな奴だ」

 そいつは臆した様子も無く、あくまでも淡々と振舞い続けた。

「まぁ、同じクラスだから知っているだろうけど、オレは比叡力丸だ。よろしくな、小太郎」

 差し出された手は驚くほど大きかった。随分と仰々しい振る舞いをする奴だとは思ったが、どこか古典的な振る舞いに好感を覚えた。俺は差し出された力丸の手を握り返した。力丸の手は、物静かな素振りには似つかわしくない熱い感触だった。普段の物静かな振る舞いとは裏腹に、いざ喋り始めると、随分と普段の印象と異なることに気付かされた。

「なぁ、小太郎。良かったらさ、屋上で話、しねぇか?」

「ああ、そうだな」

 力丸に先導されながら、俺は屋上へと続く階段を登っていた。それきり黙り込んでしまった力丸は、酷く無骨に思えた。だが、本来の姿は饒舌な奴なのだろう。大きな背中で、次々と俺に問い掛け、あるいは語り掛けてくる様にも思えていた。階段の踊り場を抜ければ眩しい光が差し込んでくる。やがて、俺達は屋上に到達した。

(それにしても、いきなり下の名前で呼ぶとは……随分と馴れ馴れしい奴だな)

 屋上への扉を開けると、力丸は大きく背伸びをして見せた。日差しを受けてのシルエットは、何も知らない奴が見たら野生の熊と見間違えるかも知れない程に大きく思えた。

「お前は普段の印象とは、随分と異なる奴だな」

 俺の言葉が可笑しかったのか、力丸は声をあげて笑っていた。あまりにも普段の姿とは異なる様子に俺はすっかり圧倒させられていた。力丸はこちらに向かってくると、しげしげと俺の顔を覗き込んでみせた。こうして間近で見ると一際大きく見える力丸は、向き合うだけでも迫力をヒシヒシと感じさせてくれた。

「ふーん。お前、近くで良く見ると中々に男前だな?」

「お、俺が?」

「ああ。ちょっと古典的だよな。不機嫌そうに真一文字に結んだ口元とかさ、ちょっときつめの目線とかさ。それに……」

 さらなる興味を抱いたのか、力丸は目を大きく見開きながら俺の腕を乱暴に掴んだ。

「長年、格闘技をやっているってな体付きだよな」

「ほう? 判るのか?」

「ああ。オレもな、似たようなもんだからさ」

 力丸は、わざわざ丸太の様に太い腕を誇示してみせた。殴り合いの喧嘩をしたら、無事には済まないだろう。凶器にもなりそうな見事な体付きであった。

 つい数分前に声を掛けた相手とは思えない程に、俺達はすっかり打ち解けていた。互いに互いの存在が肌に合うのかも知れない。俺の中では驚きの連続であった。此処まで打ち解けて腹の内を見せることが出来たのは、輝以外では力丸が始めてだったのだろう。

「人の外見など、あまり参考にはならないものだな」

 屋上の端に立ち、じっと空を見つめながら力丸は小さく頷いて見せた。

「結局さ、肉を取っ払っちまったら、後は骨しかねぇ訳だろ? 大事なのは……ここだよな?」

 目一杯歯を見せて笑いながら、力丸は、その厚い胸板を力強く叩いて見せた。

「お前は暑苦しい奴だな」

「熱いハートを持った男と呼んでくれ」

「……ついでに、恥ずかしい奴だな」

 相変わらずの仰々しい身振り、手振りの数々が個性的だ。力丸は面白い奴だと思ったのは事実だ。同時に不思議な気持ちで一杯だった。何故、こんなにも面白い奴が他の連中と馴染めないのだろうか、と。力丸は真っ直ぐな奴だ。だから、俺は率直に疑問を投げ掛けてみた。俺の問い掛けに、力丸は可笑しそうに笑いながら応えて見せた。

「なんつーのかな? 合わねぇんだよな。オレの趣味とさ、あいつ等の趣味と」

「ほう? どういった趣味だ?」

 力丸は相変わらず興味津々な眼差しで俺を見つめていた。不意に、静かにフェンスの向こう側に向き直る。俺も真似して向き直る。屋上から見下ろす京の街並みは、途方も無く広く思えた。この街並みの全てを踏破することが出来るのだろうか? そんなことを考えて居ると、不意に隣に力丸が立った。一瞬、感じる微かな風圧。

「京都は寺社仏閣も多ければ、ちょいと山の方に行けば大自然も豊かだったりするだろ? オレ、そういう所を歩き回るのが好きなんだよなぁ」

 何となく判った気がする。確かに同年代の連中で、そういった場所を好む奴らは珍しいだろう。それに力丸は物事を本質で見極める性分の様に思えた。紙の様に薄い交友関係には興味は無いのだろう。本音で語り合える相手、否、力丸の言葉を借りれば、心で語り合える相手で無ければ駄目なのだろう。そういう意味で、俺は力丸の求める存在であったのだろうか?

「お前の話はさ、クラスの連中が陰口叩いているから知っていたのさ」

 不意に、力丸は俺の肩に太い腕を乗せた。ずっしりと重量感のある感覚だった。

「妙な体験、させられちまったみてぇだけどさ、そういうのを影でコソコソ馬鹿にする奴らってぇのは、一番ムカつくんだよな。言いてぇことがあるなら、面と向かって言いやがれってな? それも出来ずにコソコソと陰口を叩く。そんな奴らとは、頭下げられたってオレはつるむ気はねぇのさ」

 自分で言う通り、力丸は熱い心を持った熱血漢の様に思えた。不器用で無骨、自らの正義に忠実に生きるという野生的な立ち振舞いに、俺の心は大きく揺さぶられた。

「それにさ、実際に話してみたら、中々に面白い奴じゃねぇか? 少なくてもオレは、お前のことを気に入ったぜ?」

 肩を組みながら、力丸はじっと俺の眼差しを見つめていた。少々熱血漢過ぎて小恥ずかしい一面もある奴だが、悪い奴では無さそうだ。その古典的な熱血漢振りは、接しているこちらまで熱い気持ちにさせられそうで、共に歩んでみたい気持ちに駆られる。

「……それで、今のは告白と受け止めて良いのか?」

「へ?」

「まぁ、お前が望むならば、前向きに受け止めてやらぬこともない。こう見えても懐は深いのでな」

「ななな、何の話だ!? お、オレと……えっと……えぇー!?」

 耳まで真っ赤になりながら、しどろもどろになる辺り、恐ろしく純情な奴の中も知れない。なかなかにからかい甲斐のありそうな奴だ。

「お、オレには……一応、付き合っている彼女が居てだな、ま、まぁ、その……振られちゃった時には、お願いすることに……」

「ほう? 彼女が居るのか? どんな娘だ?」

「へ!? え、えっと……だぁっ! その話は、また今度聞かせてやっから、許してくれ!」

 顔の前で手を合わせ「堪忍な」と言わんばかりの振る舞いが可笑しくて、思わず顔を見合わせて、俺達は声をあげて笑った。力丸は本当に面白い奴だ。それに、こんなに笑ったのは久しぶりだ。やはり、俺の目に狂いは無かったようだ。力丸は本当に良い奴で、何よりも、良き友になれそうに思えた。共に歩んでみたいと思った。力丸と一緒にどこまでも。この男と一緒に、色々な景色を見たいと思った。

「こうして仲良くなれたのも何かの縁だ。良かったら、今度の休みの日にでも一緒に出掛けないか? 俺のお奨めは鞍馬だが……どうだろうか?」

 俺の言葉にしばし何かを思案していたが、力丸は嬉しそうな顔で頷いて見せた。

「へぇー。中々シブい所を選ぶなぁ。鞍馬だったらさ、そのまま山を隔てて貴船まで抜けるハイキングコースも悪くねぇな」

「ああ。俺の足に着いて来られるならばそれも悪くないだろうな」

「なら決まりだな。うしっ! 当日はオレが弁当作って持っていくから、楽しみにしていてくれよな?」

「弁当を作る? 料理出来るのか?」

 驚いたような表情で問い掛ける俺に向かい、力丸は目一杯胸を張りながら微笑んで見せた。

「おうっ! オレの家は料亭やっていてな。まだまだ修行中の身ではあるが、それなりに自信はあるんだぜ? まぁ……毒見っつーか、実験台になって貰っちまうことになりそうだけどな。へへっ」

 豪快に笑っていた力丸の笑顔は今も昔も何一つ変わらない。そして……これからも変わらないだろう。否、力丸の笑顔が曇らない様に俺達の手で守っていかねばならないのだ。仮に、俺達の往く手を阻む障壁が存在するとしたならば、俺は大切な仲間達を守る為に、その障壁を打ち砕かなくてはならない。例え相手が誰であろうとも……。

 二つの選択肢のうち、どちらか一方を選ばなくてはならない。生きていく上では、こうした残酷な状況に出くわすことも少なくは無い。可能であれば、どちらの選択肢も選ばない、あるいは両方の選択肢を選ぶという返答にしたいところではあるが、そのような流れになることは皆無に等しい。言い換えれば……仲間達を守るか、露姫を救うか、俺はどちらかの立場に自らの身を置かねばならない。どちらも守り抜こう等と中途半端な立ち居地を選んだ結果、どちらにも救いは訪れなかった。情鬼と戦うためには、俺自身も心の中に鬼を宿さねばならぬということか……実に非情な話だな。だが、俺はもう後には引かない。もはや腹は括った……露姫、お前の行動次第では、俺はお前を討ち取らねばならない。どうか、どうか……俺達の往く手を阻まないで欲しい。

◆◆◆37◆◆◆

 ゆっくりと目を開けば、皆が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。何が起こったのか俺には理解出来なかった。輝が心配そうな表情を見せながら、水で濡らしたハンカチを俺の額に宛がってくれた。

「コタ、大丈夫? 気分、悪くない?」

「ああ。大丈夫だ……」

 輝はなおも心配そうに俺の表情を覗き込んでいる。俺はゆっくりと起き上がろうとした。一瞬、軽い眩暈を覚え、崩れ落ちそうになった。幸い力丸がしっかり受け止めてくれたお陰で、地面への衝突は免れられた。

「おいおい、コタ、大丈夫かよ?」

「ああ……済まない」

 気を利かせてくれたのか、大地がにこやかな笑みを浮かべながら飲み物を差し出す。

「コタよ、これでも飲むのじゃ。今日は暑いからのう。熱中症になってしまっては一大事なのじゃ」

「ありがとう、大地。頂くよ」

 冷たい飲み物を喉に流し込めば、一気に体の中から冷えてゆく感覚を覚えた。大地の言う通り、熱中症になりかかっていたのであろうか?

(ああ、そうだ……確か、詩仙堂から出たところで視界が揺らぎ、夢の中で力丸との出会いを振り返っていた筈だ)

 呼吸を整えながら俺はゆっくりと立ち上がった。今度は足元が揺らぎはしなかった。気を取り直して空を見上げてみた。何時の間にか空一面厚みのある鈍色の雲で覆われていた。雨が降ろうとしているのだろうか? 酷く湿気を帯びた風が吹き抜ける。まとわり付く様な不快さを覚えずにはいられなかった。

「随分と蒸し暑いな……」

「見ての通りの空模様だ。湿気に満ちあふれているだろうからな」

 太助の言う通り酷く湿気に満ちた感触であった。遠くの方では空が唸りを挙げている。不意に、稲光が空を駆け巡るのが見えた。

「ひ、光ったのじゃっ!?」

「うわー、雨降り出しちゃうのかなぁ。もー、天気予報、全然大外れじゃない?」

「当たるも八卦、当たらぬも八卦と言うであろう?」

「いやいや、太助よ、天気予報は占いじゃねぇからさ……」

 俺達の行く末を暗示するかの様な暗く、厚い雲であった。嫌な雰囲気が漂っている。だが、俺は退く訳にはいかない。前へ進むしか無いんだ。俺達が立ち止まる時……それは俺達が情鬼という勢力に敗れたということを意味するのだから。

「皆、俺ならもう大丈夫だ。先へ進もう」

 今にも雨が降りそうな空を見上げながら俺達は道なりに歩み始めた。

 さて。何処へ向かおうかと、次なる目的地を決める必要に迫られていた。何しろ雨は今にも降り出しそうな様相だ。残された時間は長くは無い。

 雨露を凌げるという意味では目的地は詩仙堂の先にある寺、曼殊院が妥当だろうと満場一致で議決された。

 雨が本格的に降り出す前に辿り着きたいと考えていた。纏わり付く様な湿気に辟易しながらも、俺達は細い路地を歩き続けた。やがて見えて来る圓光寺を越えて、俺達はさらに歩き続けた。

 民家が立ち並ぶ細道を越えて、水田を眺めながら駆け抜ける。さらに曼殊院へと続く長い坂道を抜ける。木々に包まれた参道を歩み、勅使門を後にする。参拝者入口の看板に従い、俺達は曼殊院の庫裡へと足を進めた。庫裡の中に入るのと、勢い良く雨が降り始めるのとほぼ同時であった。雨足は待ち侘びたかの様に一気に強まった。叩き付ける様な激しい雨が降り、雷鳴が響き渡った。

「あーあー。こりゃあ派手に降ってきやがったな」

「仕方が無いのじゃ。雨が上がるまで、此処で過ごさせて貰うとするのじゃ」

 ふと傍らを見れば、太助が何やら考え込んでいる。腕組みしながら何かを思案しているかの様に思えた。不意にこちらに向き直ると、皆の表情を見渡してみた。

「庫裡の奥にある庭園が良さそうだな。此処から庫裡内を道なりに歩んだ先になる」

 靴を脱ぎ、俺達は庫裡の内部へと歩を進めた。ふと、振り返れば地面は既に池を思わせるかの様な様相を呈し、叩き付ける様な激しい雨音だけが響き渡っていた。薄暗い庫裡内部は微かに涼やかな空気に包まれていた。庫裡内部を歩みながら、俺達は静かに耳を済ませていた。建物の中に居ても聞こえて来る程に雨足は強かった。

「それにしても、すげぇ雨だよな」

「ううむ。ちょっとやそっとでは止みそうも無いのじゃ」

 やがて辿り着く枯山水の庭園。その軒先から外を窺ってみるが、強い雨足は一向に静まる様子は無かった。地面に落ちた雨粒が次々と地面に吸い込まれてゆく。木々の葉を揺らす雨の音。屋根から滴り落ちる雨粒。時折響き渡る激しい雷鳴と駆け抜ける稲光。吹き始めた風が木々の葉を大きく揺らす。

 地面に次々と零れ落ちる雨粒。次々と空から舞い落ちてくる。規則正しく響き渡る雨音を聞いていると、段々と意識が遠退いてゆくような感覚を覚えていた。ゆっくりと意識が遠退き始めた所に、聞き覚えのある鈴の音色が響き渡った。チリーン。慌てて周囲を見渡すが、鈴など何処にも見当たらなかった。嫌な予感を感じ取った俺は、言葉にできない程に鮮烈な悪寒を感じ始めていた。皆にも聞こえたのだろうか? 皆一様に周囲を見回している。

「い、今、鈴の音が聞こえたよね!? チリーンって!」

「た、確かに聞こえたのじゃ! 一体、どうなっているのじゃ!?」

 露姫だ……間違いない。何度と無く同じ手を使っているのだから、間違い無い筈だ。だが、一体何のために!? 今度は何故、皆を巻き込む!? ああ……駄目だ。冷静さを失ってはならない。何を伝えようとしているのか、露姫からの想いをしっかりと受け止めねばならない。誤った解釈をすれば、皆にも被害が及ぶ可能性を否定することが出来なくなる。俺は神経を研ぎ澄ませ、露姫からの想いを必死で受け止めようと考えていた。だが、何故なのだろうか? 言葉に出来ない、恐ろしいまでの禍々しい殺気が漂っていた。

「露姫! お前なのだろう!? 伝えたい想いがあるならば、もう一度姿を現してくれ! オレ達で出来ることならば、何だってしてやる! だから、姿を現してくれ!」

 力丸の声が辺りに染み渡る。だが、応える者は無かった。応えは無かったが、変わりに鈴の音色が響き渡った。今度は二つ。チリーン。雨足は強まる一方であった。横殴りの激しい雨。屋根に、壁に叩き付ける雨音だけが庫裡の中に、反響するかの如く響き渡る。

 穏やかな露姫の気配はそこには無かった……長い髪を振り乱し、怒りに身を震わす露姫の姿が見えた気がする。俺の知っている露姫の表情からは酷く掛け離れていた。深い怒りに満ちた表情であった。否、激しい怒りの奥底に俺は確かなる哀しみを感じていた。怒りと哀しみ……相反する二つの感情が入り乱れた姿を感じていた。一体、彼女の身に何があったというのだろうか? そう考えていると、不意に俺の耳に力強い声が響き渡った。何十人……否、何百人もの男達が一斉に真言を唱えている声であった。力強く、荘厳な声が響き渡る。打ち鳴らす鈴の音色。燃え盛る護摩炊きの炎の音と爆ぜる薪の音。

『降三世明王! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!』

 燃え盛る激しい護摩壇の炎、クロを筆頭に一斉に真言を唱え続けるカラス天狗達の群れ。俺の脳裏に浮かぶ映像は、恐らくは鞍馬山で行われている儀式の模様なのであろう。

(馬鹿な! クロ達は強引に露姫を消し去るつもりなのか!? 何故だ! 何故、強行突破に出た!? 何故だ! そんなことをすれば露姫の怒りを買うだけだ!)

 だが、想いは届かなかった。変わりに鈴の音色が響き渡る。今度は三つ。チリーン。

「ま、また聞こえたのじゃ!?」

「えぇっ! 一体、何がどうなっているの!?」

 大地が、輝が驚きの声を発した瞬間であった。唐突に凄まじい轟音が響き渡った。まるで何かが破裂したかの様な凄まじい音に、腰が抜けそうになった。

「ひっ! こ、腰が抜けたのじゃ……」

 突然のことに腰を抜かした大地がヘナヘナと座り込む。その様子を見ていた力丸が慌てて駆け寄る。

「ま、マジかよっ!? い、今のは、間違いなくどっかに落ちたぜ!? ロックも大丈夫かよ!?」

「ああ。しかもかなり近くだな……気になるな」

 唐突に、庭園に臨む小部屋を後にして走り出そうとした太助を、俺は慌てて阻止した。

「待て! 太助!」

「どうした? 何故止める!?」

 判らない……判らないが、今、此処から出てはいけない。そんな衝動に駆られたのだ。なおも異変は続く。不意に建物内の明かりが音も無く、静かに消え失せてゆく。

「こ、今度は何、何ーっ!? 何が起きているのーっ!?」

「こ、こ、怖い訳じゃ、な、無いのじゃっ!」

 その時であった。鈴の音色が響き渡った。だが、今度は一つや二つでは無い。数え切れない程の鈴が一斉に激しい音色を放ち始めたかの様な凄まじい音が響き渡った。あまりの轟音に頭が割れそうな痛みが襲い掛かる。

「一体、どうなっていやがるんだよ!? 何だよ、この鈴の音は!?」

「くっ! 凄まじい衝撃だな……いかん、酷い眩暈だ……立って居られない程の!」

 次々と皆が膝から崩れ落ちてゆく。だが、鈴の音色は一向に止む気配を見せなかった。体中の骨までもが砕かれる程の振動が伝わってくる様な感覚だった。響き渡る衝撃に、次第に意識が遠退いて行くのを感じていた。

(ああ、駄目だ……力が、体の力が抜けてゆく……くっ!)

 ゆっくりと体の力が抜け、体が何処かに沈んでゆく感覚を覚えていた。白々とした光に包まれたまま、ゆっくりと地面に沈んでゆく感覚を覚えていた。ゆっくりと、ゆっくりと沈んでゆく感覚であった。目を開けていられない程の強い光に包まれていた。その光の中で、穏やかな笑みを浮かべて微笑む者の姿を見ていた。それは穏やかな笑みを浮かべたまま、大きく、大きく手を広げ……俺を受け止めようとする露姫の姿であった……。

◆◆◆38◆◆◆

 そこは見覚えの無い場所であった。穏やかな日差しに包まれた小さな屋敷であった。見覚えの無い場所ではあったが、そこは露姫の屋敷だと直感的に感じた。だが、何か……そう。何かが違う様に思えてならなかった。随分とこじんまりとした、どこか質素な色合いさえ称えた屋敷であった。平安神宮とは似ても似つかない程に小さく、粗末な屋敷であった。

「露姫……また、お前に会えるとはな」

 だが、露姫は憂いに満ちた笑みを浮かべるばかりであった。

「ああ、判っているさ……お前が言いたいことは判っている」

 俺の言葉を受け、露姫は静かに頭を垂れて見せた。不思議な感覚であった。どこか寂れた感じのする屋敷の雰囲気に、何故か俺は興味を惹かれてならなかった。

「小太郎様……こうなることは、最初から判っておりました。どうか、どうか、目を背けないでください」

 俺は何も言えなかった。先程までとは打って変わり、穏やかな笑みを浮かべながら向き合う露姫の表情は、何かを決意したかの様に思えた。

「露は討ち取られる運命にあるのです……」

「露姫……俺は……」

 露姫に向かい一歩歩み寄った瞬間、唐突に険しい表情に変わると、露姫は声を荒げて俺を恫喝した。

「近寄らないでください!」

「つ、露姫……」

 露姫は哀しそうに袖で顔を隠しながら、声を殺してすすり泣いていた。判っている……判っているんだ、頭では。お前は情鬼。そして、俺は天狗使い。共に歩む道などは無いことも。

「別れが……別れが、辛くなるだけで御座います……」

 俺はただ唇をかみ締め、爪が突き刺さらん程に拳を握り緊めることしか出来なかった。どんなに残酷な運命であったとしても、これは俺が選んだ道。背を向けることは出来ない。

「露は……露は嘘をつきました。ですが……どうか、その嘘は詮索なさらないでください。どうか、何も聞かなかったことにして露を殺してください……露は六人の殿方達を殺めた、恐ろしい魔性の情鬼です。最後まで……最後まで、悪しき情鬼として殺してください! どうか、どうか! 小太郎様、露の……最期の! 最期のわがままを聞き入れてください!」

 俺は再び強い光に包まれた。そのまま、ゆっくりと、ゆっりと体が浮かび上がって往く感覚を覚えていた。ゆっくりと、ゆっくりと浮かび上がって往く。それに伴い、意識が遠退いて行くのを感じていた。

(露姫……済まない。俺はお前を討ち取る……せめて、せめて! 俺の手でお前を……楽にしてやるからな! もう少しだけ……もう少しだけ、待っていてくれ!)

◆◆◆39◆◆◆

 次に目が覚めた時、俺は見覚えのある場所に倒れていた。そこは平安神宮の入口、応天門の前であった。降り注ぐ雨の中で俺はゆっくりと立ち上がった。一体、何がどうなっているというのか? 辺りを見渡してみるが、辺りは暗闇に包まれていて何も見えなかった。ただ、シトシトと降り続ける雨の音だけが無情に響き渡るばかりであった。だが、次の瞬間、皆の悲鳴が響き渡った。

「皆! 何処だ!? 何処にいるっ!?」

 不意に響き渡るのは露姫の高笑いと、仲間達の悲鳴であった。だが、明かりも無い上に酷い雨に曝されている。視界も遮られ、足場も酷くぬかるんでいた。必死で皆の足取りを追おうと、周囲を見渡してみるが何も見える訳も無かった。

「ぎゃーっ! 一体、どうなっているのじゃ!?」

「頼むっ! 露姫! オレの、オレの話を聞いてくれっ!」

 姿無き仲間達の悲鳴が俺の心を酷くかき乱す。だが、辺りは漆黒の闇夜に包まれている。何も見えなかった。不安だけが大きく膨れ上がる中、俺は白砂の広場に歩を進めた。だが、皆の姿は相変わらず見えてこない。ただ、皆の悲鳴と露姫の高笑いだけが響き渡っていた。

(何処だ! 何処にいるんだ! 露姫……俺はどうすれば良い!? どうすれば……どうすれば、お前を救ってやることが出来る!?)

 俺はひたすら意識を集中させ続けた。ただ、ただ祈り続けていた。祈りは天に届いたのかも知れない。不意に庭園の一角から煌々と赤い光が放たれるのが見えた。盛んに煙を噴き上げている様から察するに、激しく炎上している様子が窺えた。何の根拠も無かったが、そこに露姫が居るに違いない。そう確信した俺は火の手の上がる方向目指して走り続けた。

 相変わらず辺りは暗闇に包まれていた。雨足は依然として強い勢いを保ったままで、足元を何度も取られた。視界も悪く、殆ど手探りで走り回るしか無かった。辛うじて煌々と燃え盛る炎の塊だけが行く手を知らせてくれた。

 どれだけ走り続けただろうか? 次第に木々が燃える焦げ臭い匂いが漂い始めてきた。煙の濃度も高まり、息を吸う度に肺が痛むような感覚を覚えていた。何度も咳き込みながらも、それでも俺は必死で走り続けた。走って、走って、走り続けているうちに周囲の異変に気付いた。

(雨、一体何時の間に止んだのだろうか?)

 異変は確かに起きていた。何時の間にか雨は止み、周囲を月明かりが照らし出していた。月明かりに照らし出された周辺の景色は、明らかに平安神宮の庭園の情景とは異なっていた。

(そうか……そういうことか。ああ、大丈夫だ。全て、理解した)

 恐らくではあるが、何時の間にか夢の世界に切り替わったのであろう。そう考えれば辻褄が合う。そうなってくると、炎上しているのは、やはり露姫の屋敷なのだろう。何故、露姫の屋敷が炎上しているのか? 否、余計な詮索はしないと約束したのだ。後はただ露姫を探し出し、俺の手で全てを終わらせてやる。それだけのことだ。今一度、自らの決意を確かめながらも、俺は一歩ずつを確実に踏み出していた。

 長屋の様な風貌の大きな屋敷は、激しく火の粉を放ちながら炎上していた。勢い良く廊下を駆け回る人々の足音と、誰かを探し求めるかの様な怒号と罵声が響き渡っていた。

「おのれぇーっ! えぇい、探せ! 探せ! 奴を探し出せーっ!」

「えぇい! 火消しは!? 火消しは未だなのかーっ!?」

 切迫した状況がヒシヒシと伝わって来る。何者かは判らないが、誰かを探し出そうとしていることだけは判った。緊迫した空気が伝わって来る。だからこそ気を引き締めていかねばならない。これは本当の意味での真剣勝負なのだ。仮に、此処、夢の世界で何らかの傷を負った……或いは、最悪の場合、命を失ったとすれば、現実世界の俺にも同じ影響が及ぶことになる。

「そこの者、止まれ!」

(まずいな……こんなにも早く、見付かってしまうことになろうとは……)

 考えて居る余裕などは無かった。ためらったら俺が殺される。失敗の代償は命を以って償われることになる。

「貴様、一体何者だ!?」

「えぇい、構わぬ! 斬り捨ていっ!」

 有無を言わさずに手にした刀で斬り掛かって来る兵士達。間一髪、身を交わしたが、顔の寸前を刀が掠った。微かな風圧……次の瞬間、頬を駆け抜ける鋭い痛み。

「くっ!」

 そっと頬に手を宛がってみれば、手のひらには血が滲んでいた。ジットリと滲む血……俺の中で何かが弾け飛んだ瞬間であった。

「おい……お前、今、何をした?」

 俺は斬り付けた奴を静かに睨み付けながらにじり寄る。頬を斬り付けられた痛みが、俺の中で死への恐怖を鮮明に、克明にさせてくれた。殺らなければ俺が殺られる……それに、こいつらは過去の時代を生きた者達に過ぎない。例え殺したとしても、何ら罪には問われないだろう。ならば、もはや一切の迷いは不要。この手で引導を下してやるまで!

「おい、聞いているのかよ? 答えろよ?」

「な、何なんだ、こいつは!?」

「えぇい、構わぬ! 斬り棄ててしまえ!」

 丸腰の俺に対して、刀を手にした連中が数名で挑むとはな……武士の名が聞いて呆れる。だが、俺も命が掛かっている。うかうか殺される訳にはいかない。

 俺に向かい斬り掛かって来た兵士の腕を掴み、俺はそのまま力一杯背負い投げを喰らわせた。激しく地面に叩き付けられた兵士が呻き声をあげる。手元から転がり落ちた刀を俺は慌てて拾い上げた。見た目以上に重量感のある感触に、異様に冷たい手触りに鳥肌が立った。だが、もう一歩も退く訳にはいかなかった。殺すしか無いのだ。俺が生き延びるためには!

 剣術の心構え等皆無な身。刀の……それも真剣の構え方など知る由も無い。だが、とにかく俺は敵の目をじっと見据えたまま、力一杯、刀を振り下ろした。

「ぎゃあああーーーっ!」

 斬り付けた相手に目線を送れば、顔から、胸から鮮血が滴り落ちるのが見えた。左目の辺りから袈裟懸けに斬られたらしく、兵士は左目を抑えたまま悲鳴を挙げていた。

 もはや、俺を止められる者等誰も居なかった。断末魔の悲鳴が俺の中に眠る修羅を目覚めさせたらしい。苦しそうに金切り声を挙げる兵士に、今度は力一杯刀を突き刺した。皮膚を突き破り、肉を切り裂き、内蔵さえも貫く感覚に身震いせずには居られなかった。恐らく、俺は返り血を浴びて文字通り、修羅の様相を呈していたことだろう。俺が手にした刀に貫かれ、崩れ落ちた兵士は小さく痙攣していたが、やがて口から大量の血を吐くと、ピクリとも動かなくなった。

「……さぁ、次に死にたい奴は誰だ!? 我は貴様らを地獄へと叩き落とす修羅なり!」

 俺の威嚇に恐れを為して逃げ出した奴らもいた。残るは二名。それでもなお勇猛果敢に襲い掛かる奴らに俺は斬り掛かった。

 一人は腹を力一杯貫き絶命させ、もう一人は身を翻した際に首筋に刀を喰い込ませて絶命させた。噴水の如く頚動脈から脈打つ血の流れを俺は見届けていた。自分でも驚く程に抵抗無く人を殺せることに、逆に俺は途方も無い恐怖心を抱いていた。俺は生涯、忘れることは無いだろう……刃物で人の体を、肉を切り裂き、内蔵を貫いた感触を。時代劇の様には、容易く斬り落とすことの出来なかった人骨の感触を……。

 事切れた兵士の衣服の端で刀に着いた血を拭い、激しく燃え上がる建物内へと足を踏み入れた。近付くことさえままならぬ程の灼熱の世界。俺の耳には微かに聞こえていた……救いを求める露姫の声が。それは間違いなく、屋敷の奥の方から聞こえていた。俺は露姫の話を思い出していた。

 確か、地下の座敷牢に囚われの身になっていたところを、満久に助け出されたと言っていた。それならば、露姫が存在しているのは地下と考えて間違い無いだろう。だが、一体何処にあるというのだろうか? それ以上に、このような燃え盛る炎の中に飛び込むことが出来るのだろうか? 俺はどうすれば良いのか、考えが及ばずに途方に暮れていた。

「居たぞーっ!」

「えぇい、皆の者よ! 曲者を生きて帰すでないぞ!」

(ただでさえ時間が無いと言うのに、俺の行く手を阻むとはな……。そちらに覚悟があるならば、遠慮無く斬り捨てるまでだ!)

 静かに後ろを振り返れば、血相を変えて駆け込んでくる数名の兵士達の姿が目に飛び込んできた。槍投げの要領で俺は力一杯刀を投げ付けた。刀は先頭を走っていた兵士の大きく開かれた口に突き刺さった。そのまま俺は刀を握り締めると、全体重を篭めて刀を貫通させた。すぐさま刀を引き抜き、背後に立った兵士を袈裟懸けに斬り付けた。だが、一瞬の油断が生じた。

「うぐああーーっ! き、貴様ぁーっ! 殺してやるーーっ!」

 上手く姿を眩ませた兵士に右足を斬り付けられた。赤々と燃え盛る鉄の棒を押し付けられたかの様な鮮烈な痛みを感じ、俺の右足から血が滴り落ちるのが見えた。斬り付けた兵士を力一杯蹴り倒すと、俺はそいつの背中に何度も、何度も刀を突き刺し続けた。憎しみの限りに滅多刺しにした。もはや、そいつの背中は見る影も無い程にズタズタになっていた。

「このっ! さっさと死に曝せっ!」

 墓標の如く、左耳から刀を力一杯突き刺した。頭蓋骨を砕き、硬い土に刀が突き刺さる感覚が両手を駆け巡った。

 しかし、厄介なことになった。激しく痛む右足では到底歩むことも叶わない。ジリジリと火の手は強まる一方で、もはや俺にはどうすることも出来なかった。

(くそっ! 此処までなのか!? 俺は……こんなところで死ぬのか!?)

 いよいよ俺は本気で死を覚悟していた。軽く力を篭めただけでも右足には激痛が走り、歩くことすら困難に思えた。

「ううっ……あ、熱い……」

 不意に聞こえてきた微かな声。消え入りそうな程に小さな、小さな声であった。聞き覚えのある声に、俺は慌てて周囲を見渡した。

「露姫!? 何処だ! 何処にいる!?」

 激しく燃え盛る炎の熱気に阻まれながらも、俺は足を引き摺りながら周囲を見渡した。

「ああ、熱い……苦しい……」

 声の聞こえる方向へと進んでゆくと、地下へと至る階段が視界に飛び込んできた。声はその奥から聞こえていた。

 それにしても不可解な点が多過ぎる。何故、屋敷が炎上しているのか? 一体、誰が火を放ったというのか? だが、今は余計なことを詮索している場合では無かった。救いを求める声を無碍にすることは出来なかった。俺は足を引き摺りながらも必死で階段を下った。一歩、一歩、踏み出す度に足には凄まじい激痛が走った。俺は体中から脂汗が噴き出すのを感じていた。次第に意識が遠退く程の痛みと、恐らくは、それに伴う出血もあったのだろう。必死の想いで階段を降り切った所で、床に露姫がうずくまっているのが見えた。俺は足の痛みも忘れて、急ぎ、露姫に駆け寄った。

「露姫!」

「こ、小太郎様……ううっ、い、息が……」

 露姫は口元を抑えながら、酷く咳き込んでいた。ここも長くは持たないだろう。急ぎ脱出しなければ俺達の命も無い。牢屋は既に開け放たれていた。恐らく、露姫は必死の想いで這い出してきたのだろう。

「大丈夫か!?」

「は、はい……ですが、突然崩れてきた天井に足を……」

 苦しそうに荒く呼吸をする息遣いに気付いた。辺りは光も無く、それまで気付かなかったが、露姫の左足は崩れて来たであろう瓦礫の下敷きになっていた。

「い、今、瓦礫を避けるから、もう少しだけ辛抱してくれ!」

 酷く痛む右足に体重を掛ける度に、意識が遠退きそうになった。それでも俺は必死で、露姫の足に覆い被さった瓦礫を横に避け続けた。

(急がねば……俺自身も長くは持ちそうに無い……ああ、視界が霞む……!)

 やっとの想いで瓦礫を避けた俺は、露姫の手を引き、立ち上がらせた。

「ああ、小太郎様……ありがとうございます……あ、ああ、その足は……負傷されているのですか!?」

「お、俺なら……大丈夫だ。それより……早く、逃げるぞ」

 とにかく逃げなければ。俺は痛む足を引き摺りながらも必死で階段を上った。露姫と共に、互いの肩を支え合いながら階段を上り続けた。もはや限界に達しようとしていた。右足からは次第に感覚が失われてゆき、酷く冷え切った感覚さえ覚えていた。もしかしたら……俺の右足はもう使い物にならなくなってしまったのかも知れない。壊死!? 絶望感に、思わず足が止まりそうになる。

「ううっ、こ、小太郎様……」

 ああ、駄目だ……此処で倒れる訳にはいかない。露姫を……無事に救い出さなければ……。

「きゃあ!」

 階段を上り切った所で、唐突に露姫が転倒した。燃え盛る炎に照らし出されて、ようやく露姫の姿を確認できた。だが、俺は思わず目を疑った。

「なっ!?」

 想像以上に露姫の足の損傷は酷かった。思わず目を背けたくなる程に傷は深く、膝から下が在り得ない方向に曲がっているのが確認できた。この状況では歩くことなど不可能であろう。

「こ、小太郎様……つ、露はこれ以上……歩けませぬ。せめて、小太郎様だけでも……」

 肩で息をしながら、露姫は苦悶の表情を浮かべていた。透き通るような白い柔肌には、玉の様な汗が滲んでいた。

「弱気になるな! 俺がお前を救い出す! だから……うっ!」

 その瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。視界が酷く霞んで見える……確かに、辺り一面黒煙に包まれており、視界は良くは無かった。だが、それ以上に白々と霞む様を感じていた。

(もはや……此処までなのか? 済まない……)

◆◆◆40◆◆◆

 膝から崩れ落ち、力無く倒れた俺にゆっくりと露姫が這いながら近寄ってくる。

「小太郎様……貴方は本当にお優しい方なのですね。小太郎様……貴方様が此処に参られた目的、お忘れになられたので御座いましょうか?」

「わ、忘れてなど居ないさ……」

 ああ、俺は何処までも馬鹿な奴だ。そうさ……此処に来たのは露姫を討ち取るためだった。それならばあのまま地下牢に捨て置けば良かったのだ。辛い想いをしてまで、この手で露姫を斬り捨てる必要も無かったのだ。それなのに俺はあろうことか露姫を救出してしまったのだ。何処まで俺は甘いのだろうか。一時の感情に振り回され、容易く大儀を、大局を見失う。

「つまりは因果応報という訳か……」

 どっち着かずの振る舞いをし続けたことへの裁きであったのかも知れない。

「小太郎様、露は小太郎様に『嘘』をついて居りました……」

 異様な感覚を覚えていた。燃え盛る炎に包まれているにも関わらず、まるで熱気を感じない。それどころか厳冬の最中に唐突に放り出されたかの様な猛烈な冷気を感じていた。ゆっくりと指先が痺れる感覚を覚えていた。

(何だ!? 一体、何がどうなっているというのだ!?)

「小太郎様……貴方様は露が求めていた理想の方、その者でした」

「露姫……お前は一体、何を言っている?」

 目に見えない恐怖と言えば良いのだろうか? 露姫は穏やかな笑みを浮かべて微笑んでいたが、俺には途方も無く恐ろしい笑みに感じられた。今更になって理解した気がしてきた。一連の振る舞いも、仕掛けも、全て『嘘』だったのでは無いだろうか? 壮大な嘘とは……これ程までに大掛かりな嘘のことを示していたのでは無かったのだろうか?

(ああ……クロ、済まない。俺は間違えていたのかも知れない……今更になって、お前の言葉の真意に気付くことになろうとは……)

「小太郎様は本当にお優しい方……でも、迂闊でしたね」

「俺が迂闊だったと?」

「ええ……人の手で、情鬼を討ち取ることは出来ませぬ……フフフ」

  露姫は口元を歪ませて微笑んでいた。焦点の定まらない眼差しで、俺を射抜くように見つめていた。穏やかな笑みの裏に秘められた禍々しい殺気を肌で感じずには居られなかった。

「此処は露が創り上げた世界……現実世界の忠実なる模倣品『平行世界』ですわ」

「へ、平行世界だと?」

「ええ……此処ではあらゆることが露の思い通りに動くのです。全ては露の決めた摂理に従うのです」

 露姫は最初から俺に殺されるつもり等毛頭無かったのだろう。ただ、確実に俺を『騙す』ために、壮大なる嘘を演じ切ったのだろう。何故そこまでして俺に拘るのだ? 疑問を抱いた瞬間、一気に露姫が俺の目の前に移動してきた。

「なっ!?」

 ゆっくりと白く、柔らかな手を伸ばすと愛おしそうに俺の頬に手を宛てた。まるで氷そのものだ。驚く程の冷たさに背筋が凍り付いた。

「此処では時間の流れも止まっております。フフ、小太郎様……露と共に生きましょう? 永遠に……」

 まるで口付けをせがむかの様に露姫がゆっくりと迫ってくる。俺は指一本さえ動かすことが出来なかった。もはや……此処までなのだろうか? 本当の意味で覚悟を決めた瞬間であった。ただ、このまま終わらせたくは無かった。何故俺を騙したのか? その理由を知るまでは少なくても死んでも死に切れないと思った。

「何故だ……何故、俺を騙した? 答えろ、露姫!」

 残された微かな力を振り絞り、やっとの思いで発した声。露姫は俺から目線を逸らしながら、動揺した素振りを見せていた。それでも俺は目線を逸らすことなく、じっと露姫の眼差しを見つめ続けていた。もしかしたら、この場に居たのは俺では無く力丸だったのかも知れない。そう考えれば尚のこと曖昧なままにさせる訳にはいかない。何が何でも理由を語らせるまでだ。例え……どんな手を使ったとしても。

「露は……小太郎様の……いえ、正確には小太郎様とカラス天狗様に討たれる覚悟は出来ておりました。もとより、そのつもりで御座いました……」

「それならば、何故!」

 俺は思わず声を荒げていた。目線を逸らしていた露姫であったが、静かに顔をあげ、俺と目線を合わせた。静かに微笑む露姫の頬を、涙が一粒、伝って落ちた。

「小太郎様……小太郎様は、本当にお優しい方で御座います……。露が、ずっと……ずっと、望んでいた理想のお方でした。露の夢など叶う筈が無いと思っておりました」

 哀しそうに微笑みながらも露姫は語り続ける。

「力丸様にお逢い出来た時に、ようやく出会えたかと思いました。でも……力丸様は露の願った方ではありませんでした」

 決意が揺らいだ……それは俺だけでは無かったのでは無いだろうか? 今更になって俺の心の中で一つの疑問が浮上し始めていた。

「因果なもので御座います。小太郎様は露に取っては忌むべき敵の筈でした。ですが……小太郎様は我が身を顧みることなく、騙されていることにすら気付かずに、露のために一生懸命になって下さいました。露の心は、もはや深い霧の中に閉ざされてしまったのです。せめて、最期は潔く、小太郎様に討たれて死のう……そう、思っていました。ですが……」

「決意が揺らいでしまった。そういうことか?」

 返事は無かった。代わりに露姫は袖で顔を隠しながら、静かに頷いて見せた。

「小太郎様……露は長い時を隔てて探し続けておりました……ようやく、ようやく出逢うことの叶った小太郎様! 露は貴方と共に歩みたいのです! ですから……小太郎様……」

 露姫は静かな笑みを称えたまま、ゆっくりと俺に近付いてきた。

「よ、止せ! 近寄るな!」

 何をしようとしているかは容易に想像がついた。だからこそ、俺は受け入れる訳にはいかなかった。俺の甘さが招いた結果ではあったと言え、受け入れることは出来なかった。

「大丈夫です……苦しみは一瞬で終わります……さぁ、小太郎様……」

 俺は自らの死を覚悟し、耐えようの無い恐怖から思わず目を閉じた。不意に、俺のくちびるに氷の様に冷たい舌の感触を覚えた。潤いを孕んだ露の柔らかな感触に、身も心も堕ちてしまいそうになった。甘美な誘惑に負けてしまいそうになった。

 その時であった。唐突に兵士達の悲鳴が響き渡った。俺は反射的に露姫を突き飛ばしていた。

(な、何だ? 何が起きているのだ!?)

 唐突に巻き起こった出来事にも、動揺した素振りも見せることなく、露姫は静かに佇んでいた。乱れた胸元を正しながらも、ただ静かに不敵な笑みを浮かべていた。

「えぇい! 幻の分際で我が前に立ち塞がるとは良い度胸よの! 成敗してくれるっ!」

 次々と兵士達を打ち倒しながら、威勢良く駆け込んでくる足音を聞いていた。聞き慣れた声を耳にし、情け無いことに俺は微かな安堵を覚えていた。

「クロ!」

 静かな怒りを篭めた眼差しでクロは俺を見つめると、語気鋭く吼えて見せた。

「コタよ、惑わされてはならぬ! 全ては幻想に過ぎぬ!」

 全ては幻想……つまりは、これは真実では無いということか? 俺は恐る恐る右足に目線を送ってみた。何時の間にか傷は消え失せていた。否、最初から傷など負っていなかったのだ。傷を負ったと錯覚していた……違うな。傷を負ったと思い込まされていたのだ。それも嘘だったというのか?

「忌々しいカラス天狗様……愚かにも露の夢の世界へ、自ら足を踏み入れられるとは。勇敢と無謀とは似て非なるもので御座いましょうに?」

 露姫は見下したような眼差しでクロを睨み付けていた。口元を酷く歪ませ、不敵な笑みを称えながら。

「情鬼風情が我に教えを説くつもりか? 笑止千万! 心優しきコタの想いをも踏み躙り、邪なる我欲を満たさんがために命まで奪おうとするとは、実に情鬼らしき愚行よの!」

 クロは歩み寄りながらも、静かに俺を見つめていた。

「クロ、俺は……」

「何も言うで無い! 説教ならば、後で幾らでも聞かせてくれよう! それよりも、今はこの性悪なる情鬼を討ち取ることが先決ぞ!」

 クロは静かに目を伏せると、力強く真言を唱え始めた。

「降三世明王! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 燃え盛っていた炎が次々と消え失せてゆく。後に残されたのは、無残に焼け焦げた露姫の屋敷だけであった。

「所詮、お主の力なぞ偽りを描き出すだけに過ぎぬということよの」

「フフフ、それはどうで御座いましょう?」

 不敵な笑みを浮かべながら、露姫は静かに屋敷の一角を指差した。示された方向に目線を送った俺は、想像もしない光景に硬直させられた。

「なっ……!」

 そこには縄でぐるぐる巻きにされ、天井から、さながら蓑虫の様に吊るされた皆の姿があった。

「こ、コタ……すまねぇ。オレ達、しくじっちまってよ……」

「惨めな話だ。こんな化け物風情に囚われの身になるなんてな」

 何故だ……何故、そこまでして!? 其れ程までに俺なんかが必要なのか!? 俺が犠牲になれば、皆は助かるのか!? まともに物を考えられなくなった俺は、ふらふらと一歩を踏み出した。

「コタよ、気をしっかりと持つのだ!」

「しかし! 皆を人質に取られているのだぞ!」

「我を信じよ! 必ずや皆を守る!」

 力強く吼えるクロの言葉に、俺は体が痺れるような感覚を覚えていた。ビリビリと伝わって来るクロの想いを、確かに感じた気がした。

「コタよ……今一度、お主に言う! 優しさと甘さとは似て非なるもの! 永き時を彷徨い続け、自らが探し求める存在を模索し続ける。自らの想いとは異なる者達を殺め続けるだけ。そのような生き方の果てに、救済等与えられる筈が無かろう!? 悪因悪果の連鎖、断ち切ってくれるのもまた、一つの救済では無かろうか!?」

 なんて底の浅い考え方だったのだろう。願い事を聞き入れてやれば、それで万事が解決する。俺はそう考えていた。だが、それは……物を欲しねだり続ける子供に、物を与え続けることこそが幸せだと考える、薄っぺらい考えに過ぎなかった。

「カラス天狗様、どうぞ、露を殺めてください……ですが、この方達の身の安全は保障し兼ねます」

 露姫は勝ち誇った様な高笑いを響かせた。気が触れたかの様な酷く耳障りな笑い声であった。だが、それでも俺は引き下がることは出来なかった。皆を守るため、そして……露姫を本当の意味で救うためにも、決して身を退いてはならないのだ。

「愚かな……お主が我に勝つことは不可能な話よ。精々、お主が犯した罪の重さを悔いるが良い」

 クロは腕組みしたまま、冷淡な笑みを浮かべるばかりであった。鋭い眼光で、露姫を見下しながら、ただ、静かに含み笑いを浮かべるばかりであった。何らかの策があるのだろうか? 思案する俺に、ちらりと目線を送ってみせた。

「コタよ、我は以前お主に教えた筈だ。この者が描き出した壮大な嘘という物の存在を」

 不敵に笑うクロの表情をじっと見つめていた露姫の表情が、唐突に険しくなる。

「この者がひた隠す、真実の歴史……我が紡ぎ出してくれよう!」

「よ、止すのです! いえ、どうか……どうか! それだけはお許しください!」

「……聞く耳など持たぬ! 迷える情鬼よ、永き時を経て、お主の記憶も風化していよう? 案ずるな。我が克明に過去の情景を紡ぎ出してくれようぞ! お主の歩んできた全てを、お主が想い寄せたコタに見せ付けてくれようぞ!」

 力強く吼えると、クロは懐から見覚えのある扇子を取り出して見せた。

「あ! それは!」

 見間違える筈が無かった。露姫が何時も大切に持ち歩いていた、あの扇子であった。クロは扇子を力強く宙に放り投げると、そのまま真言を唱え始めた。

「降三世明王! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 俺の脳裏には鞍馬山で護摩壇を焚くカラス天狗達の姿も重なって見えた。それは壮大な光景であった。燃え盛る護摩壇の炎。爆ぜる薪の音。それから、カラス天狗達が一斉に唱える真言。それら全てが重なり合い、波の様に一気に押し寄せてくる感覚を覚えていた。体中が沸き立つ程の旋律を全身で感じていた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 クロの声に呼応するかの如く、仲間達の体を縛り付けていた縄が消失してゆく。地面に放り出された仲間達も、響き渡るクロの声に耳を傾けていた。宙に浮かぶ扇子は次第に強い光を放ち始めた。真昼の太陽の日差しを思わせる、強い、強い光であった。そのまま光は膨張し、何時しか、煌々と燃え上がる炎の様に、一気に噴き上がった。

「いやあああーーーーっ!」

 露姫の悲鳴が響き渡るのと俺の意識が唐突に遠退いてゆくのとは、ほぼ同時であった。凄まじい速度で、落下するが如く俺の体が沈んでゆくのを感じていた。何処までも深く沈んでゆく。そんな感覚であった。

◆◆◆41◆◆◆

 大海原にたゆたう感覚……どこか見知らぬ海を彷徨っているかの様な感覚を覚えていた。辺り一面見渡す限りの大海原。透き通る青空には雲ひとつ無く、ただひたすらにどこまで続く大海原。穏やかな風が吹き抜けるばかり。ただ静かな大海原を、ただ静かにたゆたうばかりであった。

(何故、俺は此処にいる? 此処は一体どこなのだろうか?)

 不意に穏やかな風が吹き抜ける。サラサラと波が巻き起こる。寄せては返す波の音……大海原に浮かびながら、俺は静かに目を閉じてみた。

(この音色……何処かで聞き覚えがある音色だ)

 似ていると思った。そう……。

(ああ、そうだ。この音色、嵐山の竹林で感じた音色と良く似ている……)

 穏やかな音色に耳を傾けていた。静かに目を開く。何時の間にか空には不穏なる暗雲が立ち込め始めていた。みるみるうちに空を覆い尽す鈍色の雲。厚い雲に覆い尽くされ、唐突に空が唸りをあげる。時折、暗雲の中を駆け巡る稲光を見つめていた。やがて、一気に状況は変わる。唐突に降り出す雨。叩き付ける様な豪快な雨が降り注ぐ。波飛沫を上げながらも雨は降り続ける。強い雨……叩き付ける様な雨。大海原にたゆたいながら、俺は再び静かに目を伏せた。

(力丸……あの晩、お前と共に歩んだ社家の街並みも、確か、こんな雨であったな……)

 一体、此処は何処なのだろうか? 何故、こんな場所を彷徨っているのか? 色々なことを考えているうちに、何処からとも無く人の話し声が聞こえてきた。

「随分と激しく降ってきてしまったのね」

 聞き覚えのある声であった。不意に、足元が揺らぐ様な感覚を覚えた俺は、必死でもがいた。だが、不思議と海中へと沈んでいる筈なのに苦しさを感じなかった。

 気が付けば俺は見覚えのある場所に立っていた。周囲の雰囲気から察するに露姫の屋敷の様に思えた。俺は何時の間にか小奇麗に片付いた畳の部屋に佇んでいた。

(何の損傷も見られない……屋敷の全焼事件の起こる前ということか?)

 窓際に腰掛けながら露姫は静かに外の景色を眺めていた。どこか思い詰めた様な、憂いに満ちた表情を浮かべていた。

「満久は無事かしら? 雨に濡れていないかしら?」

 静かに溜め息を就く音だけが聞こえた。

「露はこのお屋敷から外に出ることも許されない……もしも、露が鳥の様に翼を手にすることが出来たのならば、どこか遠くへ羽ばたくことが出来たのでしょうか?」

 哀しげな笑みを浮かべながらも、そっと窓の外に手を伸ばして見せた。雪の様に白い手に雨粒が哀しく降り注ぐ。

「お前には翼などは無用の長物であろう?」

 不意に現れたのは見覚えのある顔であった。ガマ蛙を思わせる醜悪な顔を持つ、露姫の叔父であった。付き従えた二人の部下達も、全くその通りだと言わんばかりに揶揄した様な表情で露姫を見下すばかりであった。

「……露に何か用で御座いますか?」

 聞こえよがしに溜め息を就きながら、露姫がゆっくりと振り返る。

「仮にだ。お前が翼を手にしたとしたら、何としても、その翼を折らねばならぬでな?」

 にやにやと下卑た笑みを称えながら、蛙の様な声で叔父が笑う。露姫の叔父は相変わらず悪趣味なゴテゴテの錦糸を纏っていた。顔も悪ければ、服装の趣味も酷いものだ。

「精々、女に生まれた不幸を呪うが良い」

「これは、これは、可笑しなことをおっしゃられるのですね。叔父様は、露が女に生まれたことを幸運に思って折られる様子で御座いますが?」

 露姫の凛とした声が響き渡る。だが、叔父は動じた様子も無く、ただ静かに露姫を見下すばかりであった。不意に、俺は背後に人の気配を感じ、慌てて振り返った。何時からそこに居たのであろうか? 物陰に身を潜める様に様子を窺う満久の姿があった。ただ、じっと唇をかみ締めながら、満久は小さく肩を震わせるばかりであった。

「確かに……お前が女であったからこそ、出来ることもあるというものよの?」

 相変わらず品の無い薄ら笑いを浮かべながら、叔父は露姫を見下すばかりであった。

「お前の父が病弱であったことも、ワシに取っては幸運であったと言えよう。露よ、今日はお前に縁談の話を持ってきたのだ。お前は嫁に嫁ぐのだ。実に目出度いことでは無いか?」

 俺の傍らに佇む満久が驚いた様な表情で顔をあげた。先程とは比べ物にならない程の怒りを感じさせる凄まじい形相であった。まさに修羅と呼ぶに相応しい程の怒りに満ちた形相であった。

(やはり、満久に取っては露姫の存在は特別なものだったということか……)

「体の弱いお父様でしたから、叔父様の様な不埒な小悪党風情でも容易く権力をその手に出来たことでしょうね」

 露姫は口元を酷く歪ませながら、蔑むような表情で叔父を睨み付けていた。

「叔父様は因果応報というお言葉をご存知で御座いましょうか?」

「フン。下らぬ……良いか、露よ? この世の中を支配するのは、その様な絵空事の様な信仰心等では無い。権力と富さえあれば、鴨川の流れを逆流させることとて叶うのであるぞ?」

 露姫は可哀想な人を見下す様な眼差しで、可笑しそうに笑って見せた。静かに首を振りながら返してみせる。

「叔父様の様な極悪人には今に天からの裁きが下りますわ。その時にどんなに許しを請うても、御仏は叔父様をお許しにはならないでしょうね」

「はっはっは! 何とでも申せ! 露よ、所詮お前は籠の中で飼われるだけの憐れな小鳥に過ぎぬ。どんなに抗っても、お前が嫁ぐ運命を変えられはせぬ! 精々、負け惜しみを吼えておくが良いわ!」

 叔父は下卑た笑い声を轟かせながら去っていった。叔父の姿が見えなくなるまで、あくまでも気丈に振舞っていた露姫であったが、不意に畳の上に崩れ落ちた。そのまま顔を袖で隠したまま露姫は声を押し殺して泣いていた。

「どうして……どうして、露はこんな家に生まれてきてしまったのでしょう? どうして、露は女に生まれてきてしまったのでしょう? 露が男だったら……あの忌まわしい叔父を、この手で、今すぐにでも斬り捨ててやったでしょうに……どうして……どうして!」

 降り続く雨だけが、ただ静かに露姫の哀しみに満ちた泣き声をかき消していた。見るに耐えなかったのであろうか? 力強く唇をかみ締め、拳を握り緊めたまま満久は静かに歩み去っていった。その背中からは恐ろしいまでの殺気が放たれている様に思えた。

 降り続く雨の音と露姫のすすり泣く声だけが染み渡ってゆく。こんなにも立派な屋敷なのに、俺には途方も無く薄暗く思えてならなかった。日が差さないからだけでは無い。もっと、何か言葉に出来ない……人の業にも良く似た、湿った空気に満たされているような気がして、心底うすら寒くなる想いで一杯だった。

◆◆◆42◆◆◆

 何時の間にか俺は中庭に佇んでいた。降り続いた雨は止んだらしく、微かな月明かりが雲間から覗いていた。夏の雨上がり特有のジットリと纏わり付く様な湿気に、じっとしているだけでも汗が噴き出す。広い屋敷であるにも関わらず随分と明かりは薄暗く、どこか葬儀の場面を思わせる様な情景であった。

 相応に広い屋敷にも関わらず、人の気配が、生活の香りが感じられない屋敷であった。中庭を見渡せば綺麗に整備されている。季節の花が咲き乱れ、広大な池もあり、周囲は静かな木々に囲まれている。心が安らぐ場所の様に思えるのだが、どうにも不穏な空気が漂っている様が否めなかった。

 今の時代も古き時代も大差は無いのだろう。物が充足し裕福になればなるほどに、人の心は貧しくなるもの。確かに、この家には莫大な富も権力もあるのだろう。だが、ならば何故こんなにも辛気臭い雰囲気が漂っているのであろうか? 此処に住んでいる者達は皆、心を持たない様に思えてならなかった。あの叔父にしても、その付き人達にしても人の顔をしていなかった。

「人の姿をした鬼達の住む場所、か……皮肉なものだな」

 不意に誰かの話し声が聞こえてきた。ゆっくりと近寄ってくる足音から察するに、こちらに向かい近付いているのは確かであった。向こうには俺の姿は見えないとは言え、気分は良くなかった。手身近な場所にあった大きな紅葉の大樹に身を潜めた。ゆっくりと近付いてくる足音と、聞こえて来る声。ようやく声の主が露姫と満久であることに気付かされた。

「露は……どうするのが良いのでしょうか?」

 微かに震えた声が聞こえて来る。月明かりに照らし出された露姫は、うっかり触れれば容易く壊れてしまいそうな哀しい笑みを称えていた。

「力があれば……露は自由を手にすることも出来たのかも知れない。でも、露は非力な身。哀しい位に非力で、何も知らない世間知らず。女に生まれた露は……幸せになることを望んではならないのでしょうか?」

「そんな馬鹿な話があるものか!」

 静かに露姫の話を聞いていた満久が、不意に声を荒げる。

「なら! 露はどうすれば良いのですか?」

 露姫もまた、感情的な振る舞いを見せていた。無理も無いだろう……生まれてから、恐らくはずっと、この屋敷の中で「飼われ」続けてきたのだろう。自由を夢見るなという方が間違えている。誰もが生きている以上は、自らの幸せを望むものだ。それは極めて自然の流れであり、自然の摂理とも言えるだろう。それを阻害する権利など誰にも無い。

(そうか……そういうものなのだろうな)

 儚いまでの哀しみに満ちた露姫の姿を見ていると、自分とは違うということを鮮明に見せ付けられた気がする。淡雪の様に白く細い腕に、容易く折れてしまいそうな首。確かに、露姫は可憐な美しさを称えた身に思える。だが、俺と露姫は決定的に違う。体格も違えば、腕っ節の強さも全然違うだろう。

 露姫の言葉では無いが、仮に俺が露姫の立場であったとしたら、あの叔父のことを殴り飛ばしていただろう。顔の形が原型を留めなくなるまで殴り続けていただろう。だが、露姫にはそれは叶わぬ願い。女に生まれることの不幸を何となく理解できた気がする。

「露、俺がお前を守る。だから、もう、そんな顔をするな?」

「満久……でも、露はもうじき……お嫁にいかなくてはならないのです」

 政略結婚というものは権力者の自己満足に過ぎない。結局、何時の時代も権力を持った奴が、権力を持たない奴らを振り回す。その構図は変わらないということなのだろう。

「行きたくなければ行かなければ良い」

「ええ……そうなのでしょうね。でも、露にはそれだけの力は無い。叔父様に逆らうだけの力も、知恵も、何も無い……」

 満久は険しい表情を浮かべたまま、じっと月を見上げていた。

「ごめんなさい。どうにもならないことなんて、幾らでもあるものね……」

「もしも……大旦那様が、病を患うことが無かったら、こんなことには成らなかっただろう」

(大旦那様……つまりは露姫の親父殿のことか。確か、露姫の親父とあの叔父とは権力闘争の敵同士であったはず。病に倒れた露姫の親父殿により、力関係が崩れたのだろう。だからこそ、あの様な傍若無人な振る舞いを取ることが出来たという訳か……)

 運命なんて言葉で容易く割り切ることは出来る訳が無い。こんな運命、受け入れられるものか。反旗を翻し、立ち向かうこともまた一つの道なのだろう。だが、誰もがそれを為し遂げられる程の強さを持っている訳では無い。ましてや、相手はあの叔父だ。人の心など遥か昔に棄てたであろう鬼が人の言葉に耳を貸すであろうか? 実に理解し難い話だ……何故、あの叔父の様な腐り切った奴が情鬼にならずに、不幸どん底を歩む露姫が情鬼にならなければならない? 世の中はあまりにも理不尽で、不公平過ぎて理解に苦しむ。

「露、聞いてくれ」

「……なにかしら?」

「所詮、俺はこの屋敷に仕える奉公人の一人に過ぎない。何かを為し遂げるような力なんて何処にも無い。だけど、俺はお前のことを本当に大切に思っている」

「満久……」

「一度も会ったことも無いような奴にお前を渡しはしない。どんな手を使ってでも必ずお前を守る!」

 力強く意思表示を見せる満久の言葉に、俺も少なからず共感を覚えていた。出来る、出来ないといった類の問題では無いのだろう。大切な者を守る為に力の限りを尽そうとする満久の言葉に、想いに、俺も手を差し伸べたい気持ちで一杯だった。だが、露姫は哀しそうに微笑みながら首を横に振るばかりであった。

「ありがとう、満久……その気持ちだけでも、露は幸せです」

 諦めたような笑みを浮かべる露姫の肩を掴むと、満久は乱暴に露姫を揺さぶった。突然の行動に驚かされた俺は、危うく飛び出してしまうところであった。もっとも、彼らには俺の姿は見えないのだろうが……。

「露、諦めては駄目だ! 希望を棄てては駄目だ!」

「露は……露は、貴方の様に強くはなれませぬ……」

 煮え切らない態度に満久は苛立っている様に見えた。少なくても、俺も同じ気持ちであった。何故、そこまでして自らの可能性を否定するのであろうか!? 自由は欲しくないのか!? 希望は欲しくないのか!? 翼を欲していた気持ちは嘘だったのか!?

 だが、同時に少しずつ理解していたのも事実であった。そう……俺と露姫では、生い立ちも、考え方も異なっている筈だ。必ずしも俺がやって除けたように、誰もが逆境を跳ね除けるだけの強さを手にすることが出来る訳では無いのだ。俺は、あくまでも自分の尺度で物事を考えていたのだろう。俺に出来るから、お前にも出来る筈だ。それは……大きな勘違いというものだろう。

「そうか……判ったよ、露。ああ、お前はそれで良い……」

「満久? 一体、何をしようというつもりなのですか?」

「露、お前は何も心配しなくても良い。俺が全て為し遂げよう。お前の代わりに俺が鬼になる。だから、お前は何も心配しなくても良い」

 満久は俺と本当に良く似ている……皮肉にも、心の中に鬼を宿している部分まで良く似ているとは……。満久の表情は明らかに変わっていた。静かなる怒りを称えた修羅の形相だった。ああ、判っているさ。力の使い方を誤っていること位……それでも、俺は心の何処かで満久を支援したい気持ちで一杯だった。自分の生き方を否定しなくないというのもあった。ただ、露の叔父だけが……傷を追うことなく、自らの野望を粛々と達成してゆくのを見届けるのも許せなかった。

 自らの中に棲む修羅を否定するつもりは無い。ただ……誰も裁くことの出来無い悪ならば、誰かが悪を裁く為に、その手を血に染めるのは……正当なる理由だと、俺は思う。それに、露の叔父が死んだとしても哀しむ者など誰も居ないだろう。むしろ、あの腐れ外道を裁いた者は多くの者達から英雄視されることだろう。

 だが、俺の中では満久に対する疑いの感情が再燃し始めていた。確かに、始めは完璧過ぎる満久に対する憧れ……そこから転じる嫉妬の様なものかと思っていたが、そうでは無いような気がして成らなかった。理由も見当たらなければ、何故、そう思うに至ったかも判らない。こうして、面と向かって満久の挙動のひとつひとつを目の当たりにして、憶測が確信に変わろうとしていた。恐らく、満久は俺と似ている様で決定的に違う部分があるように思えてならなかった。何か……言葉に出来ない深い闇を抱えているように思えてならなかった。そして、その闇こそが、本当の意味で露姫を奈落の底へと突き落とすに至った原因なのでは無いだろうか? 自分の中に生じ始めた、目に見えない疑念が気に掛かって仕方が無かった。

「満久、一体何をするつもりなの?」

「言っただろう? お前を守ると」

「でも……」

「俺を信じてくれ。必ず、お前を連れ出してやるから。この屋敷の外の世界に連れ出してやる。そしたら、誰にも邪魔されない場所で二人一緒に暮らそう」

「満久……」

「良いか、露? お前には幸せになる権利がある。その権利は誰にも奪うことは出来ないし、奪わせもしない。俺がお前を守る。だから、俺を信じろ。良いな?」

 やはり、満久からは何か嫌な気配を感じる。その原因が見えてこないことが、殊更に俺の不信感を募らせるばかりであったが、何の根拠も見出せない以上あるがままの流れに従う他無かった。いずれにしてもこれは過去に起きた情景を垣間見ているに過ぎない。全く異なる時代を生きる俺には、どう足掻いても手出しは出来ない光景。ただ、見せられる光景を見続けるしか無いのだ。ある種、今の俺が置かれた状況は露姫の置かれた状況と同じである様に思えた。

◆◆◆43◆◆◆

 夕暮れ時に降り出した雨は止むことは無かった。もう、二度と晴れ渡る空と対面することは出来ない……そんな気持ちにさせられる光景であった。一面に広がる暗い雲は、ただ平坦にどこまでも広がっているように思えた。それは、完全に空が雨雲に覆い尽くされていることを示していた。この屋敷を包み込む空気と良く似ている。閉塞感とでも言えば良いのであろうか? この屋敷は大雨で増水し、氾濫寸前の河川に見捨てられた中州の様な存在。人が人を監視し合う、古き悪しき因習の存在を確かめずには居られない場所の様に思えた。

 あれから三日程が過ぎた。不思議とまるで空腹感にも疲れにも襲われることなく、ただ淡々と無機質な映画を早送りで見せられているような感覚であった。

(露姫の叔父と親父との対立は、この屋敷に身を置くもの全てに影響している……否、この屋敷に生きる者達の歩むべき道すら狂わせているように思える)

 数日間、俺は誰にも見えないことを良いことに屋敷の中を自由気ままに「拝観」させて貰うことが出来た。その中で、露姫の叔父と親父との間に生じた確執が相当に根深いのであろうことも判った。その確執は「亀裂」となり、この屋敷に住む者達を二つに分断している。即ち……叔父の勢力と親父殿の勢力。何時の時代にも醜い権力闘争というものは、切り離すことなく存在するものなのであろう。

 酷く重苦しい空気だけが立ち込めていた。この気候のせいなのか、はたまたこの屋敷を包み込む確執のせいなのか、息苦しさを感じずには居られない程に「湿った」空気に包まれていた。

(そう……色んな意味で「湿った」空気だな。あらゆる物にカビを生じさせる空気だ。恐らく、此処に住む連中の心の中は、黒く、土臭いカビに蝕まれ切っていることだろう。こんな所……頼まれても俺は絶対に住みたくない)

 それにしても気になるのは露姫の母の存在であった。まるで姿を見掛けることが無かった。さほど広くも無い屋敷なのに、何故、その姿を確認出来ないのか? 俺の中で小さな疑問が生じていた。

 屋敷の中を歩き回っているうちに奇妙な建物が存在することに気付いた。木々に囲まれていたこともあって、建物の存在自体に気付かなかった。時折露姫が行き来するのを見て、ようやくそこに建物があることに気付かされた。

 離れと呼ぶには随分と粗末な造りに思えた。悪く言えば物置小屋の様にさえ思えた。その理由に俺はようやく気付かされた。好奇心に駆られた俺は露姫に続き、その建物へと足を踏み入れていた。

「お父様、露で御座います」

「おお……露か。さぁ、こちらへ」

 声の主は、恐らくは露姫の親父殿なのであろう。病の床に就いていると聞かされていたこともあり、空気が漏れるような声にも違和感は覚えなかった。

 露姫がそっと障子を開ければ、そこには露姫の父が横たわっていた。傍らには、恐らく露姫の母であろう人物が座していた。

 酷く疲れ切った表情を浮かべていた。なるほど……屋敷の中で、その姿を見掛けることが無かったのは、此処で看病を続けていたからなのであろう。この部屋は、さらに酷い湿気に包まれていた。病人が床に付していることもあるのだろうが、それだけとは思えない程に異質な空気に包まれていた。

「お父様、お体の具合はいかがで御座いましょうか?」

「露よ……ワシはもう、長くは無いだろう」

 医者では無い俺にも判る程に、親父殿には死期が近付いているように思えた。時折、酷く咳き込む様から察するに、胸を蝕まれているのであろう。人は息をしなければ生きられない生き物。息を司る呼吸器が重篤な病に冒されば、人は生きられなくなる。古き時代に猛威を奮ったとされる不治の病……結核という病は、この様な症状を呈するものなのだろうか? 痛々しい程に青褪めた顔をした親父殿を直視するのは心苦しく思えた。

 ガマ蛙の様な醜悪な顔をした、あの叔父と実の兄弟とは信じられない程に、露姫の父は端正な顔立ちをしていた。恐らく病に冒される前は相当に豪胆なる人物であったことだろう。立ち振る舞いの一つ一つが威厳に満ちているように思えた。あの性根まで腐り切った叔父とは、まるで異質の雰囲気であった。人の上に立つ者が持つ、他者を惹き付けるだけの威風堂々とした雰囲気であった。

(この人が主であったからこそ露姫の一族は栄えたのだろう。あの腐れ外道には真似の出来ない芸当だ)

「露、縁談のお話があったそうですね」

「はい……」

 ずっと目を伏せたままの母が静かに顔をあげた。永きに渡る闘病生活を支えてきたのであろう。疲れが蓄積し切った表情を浮かべていた。だが、確かに露姫の母親であることが窺える。ひとつひとつの振る舞いが実に優雅な物腰を称えているように思えた。露姫と良く似た、美しい女性に思えた。

「望みもしない縁談の先に、一体どんな明日が切り拓かれると言うのでしょう? 貴女には辛い想いばかりさせてしまい、本当に申し訳が立ちませぬ」

「お母様、露は……どう歩めば良いのか、もはや道を見失ってしまいました。往けども、往けども、月明かりすら見えない暗い、暗い夜道ばかりが続いております」

 口にしたところで何かが変わる訳では無いこと位、理解しているのであろう。だが、それでも縋らずには居られなかったのだと感じていた。この屋敷の中で、露姫の味方と呼べる存在は殆ど居ないのだから……。

(掬い上げた砂は皆、この手の隙間から零れ落ちてゆくばかり……お前には「希望」は与えられなかったのだろうか……)

 運命とは数奇な物――そんな言葉で容易く片付けたくは無かった。だが、俺は無力な存在だ。ただ、露姫の身に降り掛かった史実を見届けることしか出来ない。その無力さが悔しく思えた。

(過去の情景とは言え、遺された時間は長くは無いのだろう。部外者は席を外すとするか……)

 遺された時間を邪魔したくは無い……違うな。居た堪れない空気に触れることが、耐えられなくなっただけだ。俺も強くは無い。ましてや、何の手も差し伸べることが出来ない史実に向き合うのは、悪く言えば、俺に取っては「拷問」でしか無かった。済まない、露姫……。

 その日の夜遅く、不意に屋敷が騒がしくなった。唐突に行き交う人々、焦りと不安に満ちた叫び声。それから……屋敷中に響き渡った露姫の声。もう、それだけで俺には何が起きたのか判ってしまった。

 露姫の父はその日の夜遅くに息を引き取ったらしい。だが、俺はどうしても腑に落ちなかった。時同じくして、叔父が行方不明になったと騒ぎになっていた。二人の主のうち、一人は他界し、一人は消息不明。あまりにも不可解な出来事に、俺は作為的な何かを感じずには居られなかった。誰かの手が介入していない訳が無かったのだから……。

◆◆◆44◆◆◆

 翌朝早くに、長らく降り続いていた雨が止んだ。雲間からうっすらと覗く日差しの気配に、俺は何か言葉に出来ない不穏な気配を感じていた。屋敷の中は相変わらず騒然としていた。引っ切り無しに人が駆け回っている。

「旦那様の消息はつかめたのか!?」

「いえ……何の手掛かりも見付かりません」

「一体何処に行ったのだ!? 長らく続いた大雨で河川も氾濫していたというのに!」

 河川の氾濫……月明かりも無い深夜に消息不明になったこと……。露姫の言葉では無いが、因果応報の報いが降り注いだとでも言うのか? それにしては、あまりにも都合が良過ぎはしないだろうか? この屋敷に住み込んでいる連中は、俺が抱いている違和感とは無縁の様に思えた。やはり、この屋敷を包む異様な空気に侵食され切ってしまっているのだろう。何とも憐れな話だ。

(不可解なのは昨晩から満久の姿を目撃していないことだな。やはり、奴が……?)

 考え込む俺の横を、不意に誰かが駆け抜けていった。

「大変だ! 大変だーっ!」

「おい! どうした!? 何があった!?」

 血相を変えて駆け抜けて行ったのは満久であった。髪を振り乱し、酷く取り乱した様子で喚き散らしていた。その様子に気付いた家の者達が一斉に満久を取り囲む。頭を抱えたまま、その場に崩れ落ちた満久に皆の緊張感が一気に高まる。

「お、落ち着いて話せ。一体……何が、どうしたのだ?」

「だ、旦那様が……旦那様が……!」

「旦那様が一体どうしたと申すか? 落ち着いて話せ!」

 一瞬の静寂の後、大きな波が押し寄せるかの如く、屋敷の者達が一気に転がり込んできた。皆、激しく息を切らしていた。屋敷内は騒然としていた。頭を抱え、うずくまったまま震えるばかりの満久に、次々と外から駆け込んでくる者達。何が起きたのか、まるで理解出来ない屋敷の者達の焦りも最高潮に達していた。

「えぇい!? 一体、何が起きたのだ!」

「旦那様が……旦那様が水死体となって発見されたのです……」

 一瞬の静寂。だが、次の瞬間、騒ぎは一気に膨れ上がった。皆が一斉に絶叫するのを、俺はただ冷静に見つめていた。突然の出来事に、皆一様にうろたえるばかりであった。蜂の巣をつついたかのような騒ぎの中に、俺は人という生き物の業を見出していた。

「大旦那様に続き、旦那様まで亡くなられるとは、一体どうなっているのだ!?」

「そんなことより、明日から俺達はどうやって暮らしていけば良いのさ!?」

「大体、何故、あんな大雨の晩に旦那様は外出されたのだ!?」

 意味も無く憶測を巡らせる者もいれば、雇い主を失ったことへの危機感を募らせる者達もいた。実に皆、自己愛精神に満ちあふれているのだろう。まぁ、自然な流れだと言えよう。あの叔父の支配下にあった者達に忠誠心などある訳が無い。あの叔父と配下の者達を繋ぐ物など金以外には在り得なかったのだろうから。

「こうなったら、露に取り入るか!?」

「馬鹿な! 今更、俺達のことを許す訳が無いだろう?」

「ああ。それに、あの娘はもうじき嫁ぐ手筈になっている」

「この一族は最早、お終いということか……」

 聞いていて、ただただ不快になる言葉の数々であった。皆、実に身勝手で、自分のことしか考えていなかった。当然の結果といえばそれまでなのかも知れないが、こういう状況に直面した時に人は本性を表す。上辺だけの忠誠心など容易く剥がれ落ちることだろう。

(それにしても……満久の行動は何を意図しているのだろうか? あれだけ大々的に振舞えば、少なからず疑惑の目を向けられるはずだが?)

 満久はなおも、頭を抱えたまま震えていた。どうにも、満久の不可解な行動が解せなかった。もしかすると、俺の勝手な思い込みなのかも知れない。冷静になってきたところで俺は考えを巡らせていた。

 何故、あの叔父が雨の夜に外出したのか? そこが先ずは理解不能だ。河川が氾濫する様な大雨の中を外出する必要など、普通に考えたら在り得ない話だ。屋敷の傍を川が流れている状況を考えれば尚のこと在り得ない話だ。身の危険以外に得られるものなど何も無い筈だ。

(それでは一体何故? 何のために?)

 相変わらず皆は騒ぎ立てるばかりであった。結局、こいつらは自分達では何一つ物を考えて居ないのだろう。明日の我が身の心配から、何時の間にか叔父への責任転嫁に切り替わる者がでてきた。

「大体、俺達を残して勝手にくたばるって、どういうことなのだ!?」

「人を使う者としての責務を果たさずに何とするか!?」

「まぁ、良いさ。その分の保障はシッカリと耳を揃えて払って貰うだけのことだ」

(……何処までも救いようの無い奴らだな)

 自ら考えて行動することはしない。全ては管理する側の問題だと主張する。つまりは、俺達は「被害者」だという論理になる訳か。あの叔父の下に集う奴らなど、所詮はこの程度の連中ということか。浮かばれないな、叔父よ? お前が蒔いた種が芽を出した。でたらめにかき集めて、適当に放置して置いた種が芽吹いたのだ。結果は見ての通り。腐り切った雑草しか生えてこないとは中々に皮肉な顛末だな。もっとも、お前の葬儀に手向けるには十分過ぎる『餞』かも知れないな。

 騒ぎを聞き付けて姿を現した露姫は、一体何が起こったのか理解出来ずに困惑していた。だが、皆は露姫の姿を見付けると、一斉に露姫を取り囲んだ。

「一体、何が起こったというのですか!?」

「行方不明になっていた旦那様が水死体で発見されたんだ!」

「ど、どういうことなのですか!?」

 突然知らされる事態に、露姫は困惑するばかりであった。唯一の頼みの綱であった父を亡くした直後に聞かされる叔父の死。まともな状態でいられる訳が無い。だが、露姫を取り囲む者達は、次々と好き勝手なことを言い始める。

「そんなことよりも、明日から俺達はどうやって生きていけば良いんですかい?」

「しっかりと! 出す物は出してくれるのでしょうね?」

「い、今はそんな話をしているのではありません!」

 声を荒げる露姫に向けられる皆の表情が一気に険しくなる。じりじりと皆が詰め寄る中、唐突に満久が立ち上がった。

「皆、落ち着かれよ! 大旦那様に続き、旦那様まで亡くなられたのです! 少しは露の気持ちを考えてやってください!」

「たかが下男の分際で何を偉そうに!」

「そうだ! それならば、お前が俺達の生活を保障してくれると申すのか!?」

「それよりも、露様! どうなさるおつもりなのですか!?」

「そ、それは……」

 見るに耐えない光景であった。互いに互いを罵倒し合うばかりの大人達。声を発した満久は徹底的に叩き潰され、露姫もまた、皆に迫られて困惑するばかりであった。そこには何一つの救いも無ければ、自ら考えて行動しようという意思も存在していなかった。皆一様に、自分には一切の非は無いことを主張するばかりであった。自分達は被害者なのだ。巻き込まれただけなのだ。互いに擦り付け合い、自らの保身を主張するばかりであった。誰一人として、事態を収拾させようという気概のある者はいなかった。皆、誰よりも自分が大切なのであろう。何とも滑稽な情景であった。人の本性を垣間見るという、実に業の深い光景であった。

◆◆◆45◆◆◆

 時間の流れというのは実に不思議なものだ。叔父の死からさらに三日が経過しようとしている。過去の情景を見ているからというのもあるのだろうか? 時間の流れが異様に早く感じられる。丁度、映画のフィルムを早送りしているような感覚であった。

 露姫の父と叔父の死は、この屋敷内のあらゆる人々の多大なる影響をもたらした様に思える。互いが互いの本性を知った。その結果、今まで以上に緊迫感の立ち込める雰囲気に陥っていた。屋敷内の空気は目に見える程に澱み、濁り切っている様にさえ思えた。互いが互いにけん制し合う嫌な感覚に息が詰まりそうであった。

 そんな中、露姫が動き始めた。確かに、ここ数日の間に起きた数々の出来事はどれも不可解な部分を残したままだった。中でも叔父が死に至った経緯は不可解極まりなかった。確かに、恨みを買いそうな人物ではあったが、それにしても合点がいかない部分も少なくない。そして、露姫は父の死についても何かしらの疑念を抱いているように思えた。

(叔父と父……家を司る二人が同じ日の、同じタイミングに死んだ。偶然だと片付けることは無理があり過ぎる。やはり、作為的なものが秘められていると考えて間違えないだろう)

 露姫は屋敷の者達に対し次々と質問を投げ掛けていた。一連の出来事に違和感を覚えていたのは俺だけでは無かったということであろう。露姫もまた違和感を覚えたのであろうか? 自ら調査に乗り出していた。

 だが、有力な情報は何一つ手に入ることは無かった。所詮この屋敷に住む者達は皆、あの叔父の配下の者達に過ぎない。自らのことしか頭に無い、権力と金の亡者達に過ぎない。皆、自分達のことで手一杯で、他の者達に迂闊に自身の弱みを握られないようにすることしか頭に無かったのだろう。有力な情報は得られないままに時間だけが過ぎ去ってゆく。それでもなお、露姫は諦め切れなかったのであろう。執拗に話を聞き続けた。

 執念の賜物なのであろうか? 少々気になる証言を手にすることが出来た。それは露姫の父の身の回りの世話を支援していた者であるだけに、信憑性はあるように感じられた。

「それは本当なのですか!?」

 身の回りの世話を手伝っていたという、その中年女性はしきりに周囲を警戒していた。無理も無いだろう。迂闊な行動を取ったことが知れ渡れば、今度は彼女の身に不幸が降り掛からないとは限らなかったのだから。それでもなお気丈に話を聞かせようとするのは、一重に露姫の父親への忠義心の現われなのであろう。

「はい。私は何時もの様に大旦那様へお薬を運んでおりました。大旦那様は……私がお薬を運んでから、間もなく苦しみ出されて……」

 露姫の父親の死に繋がってしまったことに、酷く罪悪感を覚えていたのだろう。しきりに哀しそうな眼差しで、何度も、何度も露姫の顔を覗き込む様が印象的であった。

「お話、ありがとう。貴女は……何も悪くはありません。恐らくは何者かが薬の中に毒でも仕込んだのでしょう」

 険しい表情で口を開く露姫の言葉に、女性は目を大きく見開き、驚きを露わにしていた。

「ど、毒で御座いますか!? い、一体誰が? 何のために!?」

 思わず声を荒げる女性を制しながら、露姫は哀しそうな表情で首を横に振った。

「あくまでも憶測の域は出ておりません。ただ……あまりにも不自然に思えたのです。確かに、父は長らく病との闘いを続けておりました。ですが、あまりにも突然過ぎたのが気になって仕方が無かったのです」

 露姫の言葉に女性は真剣な表情で耳を傾けていた。

「そして……叔父も後を追うかの様に死んだという事実も……」

「で、では!?」

 そのまま二人は黙り込んでしまった。硬直したまま見つめ合う二人を後目に、俺は一人考えを整理していた。

 叔父は恐らくは殺されたのであろう。恨みを買うには十分過ぎる人物だ。むしろ、心当たりが多過ぎて誰が犯人かの目星すら付け難いだろう。もっとも、俺には思い当たる人物が一人いる。そいつが叔父を殺したと考えるのが妥当だろう。しかし解せないのは、何故、露姫の親父まで殺されたのかという部分にあった。 

(違うな……表面的な「先入観」で捉えている限りは答えに行き着かないだろう。そんな簡単な話では無い筈だ。もっと、もっと……複雑な何かが交錯しているに違いない筈だ)

「貴重な証言、ありがとう御座いました」

「あ、あの……お嬢様?」

「心配には及びません。貴女から話を伺ったことは誰にも口外しませんから」

「い、いえ、そうでは無くて……」

 何かが引っ掛かる様子ではあったが、露姫は彼女を遮ると急ぎ足で歩き始めた。だが露姫が幾ら探しても見付けることは出来なかった。それは、あたかも自分が一連の事件の犯人だと、皆に知らしめようとしている様にも思えた。俺の中で、ますますそいつの考えが判らなくなってきた。ただ、一つだけ判ることがあった。俺の想像を遥かに超える真実が、そこに秘められているだろうということであった。

◆◆◆46◆◆◆

 その晩は満月であった。雲一つ無い夜空に佇む満月という構図は絵になる。そんなことを考えながら俺は中庭で夜風に吹かれていた。言葉には出来ない感覚ではあったが、どうにも落ち着かなくて仕方が無かった。屋敷中が殺気立っているのは仕方が無いことに思えていた。舵を取るべき船頭を失ったことにより、皆が皆、進むべき道を見失ってしまったからであろう。だが、俺はより鋭い殺気を感じていた。燃え盛る炎の様な赤々とした殺気では無く、燻る炭火の様なジリジリと伝わってくるような殺気であった。炭火は地味ではあるが、放つ熱気は赤々と燃え盛る炎よりも強い。それと同じく、漂ってくる殺気は半端なものでは無かった。

(今度は一体何を仕出かすつもりだ? 何がそこまでお前を駆り立てる? お前が抱く憎しみの対象は、あの叔父だけでは無かったのか?)

 夜半の屋敷は不気味なまでに静まり返っていた。だが、俺はどうにも落ち着かずにいた。このまま無事に朝を迎えることは出来ない。どこか確信めいた気配を感じていた。何を根拠にと問われれば返事に窮するが、俺の勘が危険を告げているように思えてならなかった。それは何時訪れるのであろうか? 俺はただ静かに神経を研ぎ澄まし、僅かな異変にも気付けるように身構えていた。

 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 異変は何も起こらなかった。思い過ごしであったのだろうか? 無駄に神経を研ぎ澄ませているからこそ、過剰に反応し過ぎているのでは無いかという想いを抱き始めていた。このまま何事も無く、朝を迎えられればそれに越したことは無い。そんなことを考えながら、ただ静かに庭を散策していた。

 静寂は唐突に響き渡った悲鳴によりかき消された。

「火事だーっ! 火事だーっ!」

 予感は現実の物となってしまった。

「うわーっ! こっちからも火の手が上がったぞーっ!」

 否……予想以上に悲惨な事態になっているのは間違い無さそうだった。随分と手の込んだ仕掛けを作り上げたものだ。平安神宮で……否、露の屋敷で俺が見た情景、あれは現実にも起こった情景だったのだろう。此処は広大な屋敷だ。人も大勢居る。仮に一箇所から火の手が上がったとしても、恐らくは最悪の事態に陥ることは無かったであろう。だが、複数個所から一斉に火の手が上がったとなると話は変わってくる。人が大勢居るとは言え、皆が寝静まった深夜の時間帯。初動に出遅れることは確実と考えられる。

「きゃーっ! 誰かーっ!」

「えぇい! 火消しは未だ来ないのか!?」

「こ、こっちからも火の手が上がったぞーっ!」

 次々と火の手が上がる。あちらからも、こちらからも火の手が吹き上がる。皆、為すすべも無くただ呆然と立ち尽くすばかりであった。これ程までに激しく炎上している状況では打つ手も見当たらないだろう。

「誰かーっ! 助けてーっ!」

「熱い! 熱いっ! 嫌だ! 死にたくない!」

 逃げ遅れた奴らもいることだろう。救いを求める悲鳴が響き渡る。救出しようにも火の手の回りが早過ぎる。もはや救出することは不可能であろう。響き渡る断末魔の悲鳴……手を差し伸べることも出来ずに、ただ見届けることしか出来ない人々の姿。地獄絵図というのはこういう状況を示すのであろうか? 燃え盛る炎は天まで届かんばかりの勢いで燃え上がっていた。木々が爆ぜる音。人々の断末魔の悲鳴。必死で仲間達の名を呼ぶ声。もう、助からないと判っている筈なのに、それでもなお励まし続ける声。耳を塞ぎたくなる光景だった。

「大丈夫だ! きっと助かる! だから希望を棄てるな!」

「うわああーっ! 熱い! 熱いっ! 誰か助けてくれーっ!」

「えぇい! 火消しは! 火消しは未だ来ないのかーっ!?」

 一体何が望みなのだろうか? 俺にはどうしても理解することが出来なかった。何故、これ程までに無関係の人々を巻き込む必要があるのか? 何故、そこまでしなければならなかったのだろうか? 不意に俺の脳裏に露姫の顔が浮かんできた。

(そうだ! 露姫はどうした!?)

 この騒ぎの中で俺は露姫の姿を目撃していない。一体何処にいるのだ!? まさか、この火事の中で焼け死んだのか!? まさか、露姫は此処で最期を迎えたのか!? 俺は焦る気持ちを必死で抑えながら、屋敷を駆け回った。だが、探し出せる訳が無かったのだ。燃え盛る炎が屋敷の木々を焼き、木々が爆ぜる音が響き渡る。人々の悲鳴が、怒号が響き渡る中で、一体どうやって露姫の声を聞き分ければ良い? それに、既に死んでいる可能性も否定できないのだ。それでもなお、俺は必死で駆け回った。

(そうだ! 母のいる場所だ。つまりは、あの小さな離れに向かった筈だ!)

 皮肉なものだ。幻の筈なのに激しい熱気を感じる。息を吸い込めば肺の中まで焼け焦げる程の熱気に、咳き込まずには居られなかった。それでもなお、俺は離れへと急いだ。この状況で助かるとは到底思えなかった。

(ああ、無駄なことだとは判っているさ! これは過去に起きた出来事……今更、俺が動き回ったところで歴史が変わることなど在り得ない! それでも……それでも!)

 離れもまた激しく燃え盛っていた。その中に、炎に包まれながら佇む露姫の姿を俺は見た。そして、力無く崩れ落ちる、露姫の足元に横たわる人影も……。見覚えのある着物であった。

(あれは……露姫の母か?)

「どうして? どうしてお母様まで……どうしてーっ!?」

 そこには露姫の母親が倒れていた。ぐったりと力無く放り出された手から察するに、既に生きている状態では無いのだろう。だが、この火事で逃げ遅れた様には思えなかった。数日前に姿を見たが少なくても足が悪いということは無かった筈だ。それでは、何故、唐突に彼女は死んだ? ふと、俺は露姫の母の違和感に気付いた。見た瞬間から何かが可笑しいとは思っていたが、どこが可笑しいのか判らなかった。だが、ようやくその違和感に気付いた。

(首筋に……こ、これは縄の跡? まさか……それでは他殺ということか!?)

「お母様? お母様、どうして……どうしてこんなことに!?」

 その時であった。誰かが勢い良く駆け込んでくる足音が響き渡った。慌てて振り返れば、そこには満久の姿があった。

「み、満久……」

「露! 此処は崩れるぞ! さぁ、早く逃げるぞ!」

 満久は露姫の手を乱暴に引き、連れ出そうとした。だが、露姫は満久の手を乱暴に振り払った。

「お母様を遺して! 露だけ逃げることなど出来ませぬ! 満久、貴方一人で逃げてください!」

「何を言うか!? お前を置いて俺一人で逃げられるものか! お前を……俺はお前を嫁に貰いたい! だから!」

 露姫は唇を真一文字に結んだまま、険しい眼差しで満久を見つめるばかりであった。燃え盛る炎の音だけが響き渡る。時折響き渡る爆ぜる木々の音と人々の悲鳴。炎に照らし出された二人はただ静かに対峙していた。

「……判りました。ただ、少しだけ時間をください」

 露姫は急ぎ部屋の奥へと駆け込んだ。母の腰帯に手を突っ込みながら、何かを探しているように見えた。必死の形相だった。しばらく模索し続けたところで不意に手が止まる。

「あった!」

 露姫は哀しそうな笑みを浮かべながら、そっと、何かを取り出した。それは見覚えのある物……小奇麗に畳まれた扇子であった。

(母の形見、か……そうか。実際には直接、貰った訳では無かったのか……)

「満久、お待たせしました。さぁ、行きましょう……」

 何かを決意したかの様な、哀しみに満ちた表情を浮かべたまま、露姫は静かに立ち上がった。燃え盛る炎に包まれた離れを後に、満久と共に露姫は走り出した。その時、俺には確かに聞こえた……消え入りそうな声で露姫が放った言葉が……。

「お母様、露は……露はお母様の下に生まれることが出来て幸せでした……」

 風が吹けば消え入りそうな声であった。だが、その言葉はまるで遺言だった。恐らくではあるが、露姫はこの時、これから歩むであろう自らの運命を受け入れていたのだろう。運命に抗うことなく、ただ静かに受け入れようと。否、実際には抗おうとしていたのだろう。その決意表明とも取れる言葉であるようにも思えた。

(露姫は対決するつもりなのだろう……受け入れ難い「現実」と)

 何時までも此処にいることは出来そうも無かった。もはや、この屋敷は炎の塊と化していたのだから。それ以上に、露姫と満久の後を追わねばならなかった。全ての真実を見届けるために……俺にはその責任がある。俺は露姫達の後を追い掛けるべく走り出した。

 不意に空が唸りをあげたかと思えば、次の瞬間には勢い良く雨が降り出した。視界を遮り、行く手を阻むかの様な強い雨だった。それでも俺は怯む訳にはいかなかった。だから、ただひたすらに走り続けた。雷鳴が轟き、雷光が空を引き裂くかの様に駆け巡る。それでもなお、俺は走り続けた。

◆◆◆47◆◆◆

 どれだけ走り続けたのだろうか? 屋敷を抜け、深い森の中を走り続けていた。木々の隙間から降り注ぐ雨が髪に、服に零れ落ちる。視界を遮る程の強い雨が木々の葉を叩く音だけが響き渡る。それでもなお露姫達は走り続けた。二人は一体何処へ向かおうとしているのか? 俺はただ、二人の後を追い掛けることしか出来なかった。

(夢で見た情景が過去の史実と一致するというならば、恐らくはこの先には……)

 やがて森の終わりが見えてくる。微かな光に導かれる様に俺は急ぎ、走った。俺には見届ける義務がある。そんな気がしてならなかった。頼まれた訳では無い。だが、それでも露姫は、僅かでも俺に心を開いてくれた。その想いを無駄にする訳にはいかなかった。だから……目を背けたくなる凄惨な結末であったとしても俺は目を逸らしたくは無かった。

 森を抜ける頃には雨足は弱まっていた。厚みを帯びた雲の隙間からは、微かに穏やかな月明かりが光を覗かせていた。不意に風が吹き抜ければ、木々の葉がさざ波の様な音を一斉に奏でる。

(やはり、此処は露姫の最期となった場所……)

 夢の中で見た古びたお堂が、やはりそこに静かに佇んでいた。打ち棄てられてから相当年月を経ているのであろう。埃にまみれたお堂は哀しげな雰囲気に満ちていた。

「酷い雨だな……少し、此処で雨宿りをしていこう」

 満久は露姫の手を引き、お堂の中へと案内した。俺も二人の後を追い、そっとお堂に歩み寄った。お堂の悲惨な状況は近付くと良く判る。長年雨風にさらされたのであろう。お堂の木々は酷く侵食されておりボロボロになっていた。軽く手を触れただけでも崩れそうに思えた。

「満久……露を何処へ連れて行ってくださるのでしょう?」

 問い掛ける露姫に向き直ると、満久は微笑んで見せた。

「遠くへ行こう。遠くへ……誰も俺達のことを知らない場所へ行こう」

 雨に濡れた髪を掻き分けながら満久が微笑んでいた。

「ええ、行きましょう……ですが、その前に、貴方にお話を伺いたいことがあるのです」

 露姫は穏やかな笑みを浮かべたまま、じっと満久の表情を見つめていた。鋭い眼差しであった。しっかりと満久の姿を捉えながらも、露姫は凛とした態度を崩すことは無かった。

「叔父を……叔父を殺したのは……」

 満久の表情を伺いながら、露姫は静かに語り続ける。

「満久、貴方なのですか?」

 露姫の問い掛けに、満久は表情一つ変えることなく笑い返す。

「露、一体何を言っているのだ? 旦那様は川に落ちて水死したのだろう?」

「本当に……本当にそうなのでしょうか?」

 露姫はあくまでも満久の言葉を退け続けようとしていた。確かに満久が叔父を殺したという証拠は何処にも無い。だが、それは同時に、満久が叔父を殺していないという証拠が何処にも無いことも示している。

「露、お前は籠の中で飼われる鳥としての生活を続けたかったのか?」

「そんな訳はありません。ええ、正直なところを申せば、叔父が死んだのは露に取っても有り難いことでした。でも……」

 俯きながら、露姫は小さく肩を震わせていた。

「ですが、何故、お父様や、お母様まで……命を奪われなくてはならなかったのでしょう!? それに……屋敷に火まで放つなんて! 無関係な命まで、たくさん失われました……!」

 満久は静かに露姫の話を聞いていた。不意に、再び雨足が強まる。地面を、木々の葉を叩き付ける様な音が響き渡った。風が吹けばお堂のそこかしこからの隙間風と、カタカタと渇いた音が響き渡った。

「露……大切な家族を失う哀しみ、俺にも判る。だからと言って、何時までも過去に縛り付けられていては前に進むことは出来ない。俺では……駄目なのだろうか? 俺はお前を幸せにしたいんだ!」

 抑え切れなくなったのだろうが、満久は力強く露姫を抱きしめた。露姫は静かな笑みを浮かべながら、満久に寄り添っていた。だが、満久の振る舞いを注意深く観察していた俺は、信じられない物を目にした。ゆっくりと袖の中から取り出されたのは細い、紅白の紐であった。

(い、一体何をするつもりだ?)

 嫌な予感だけが脳裏を駆け巡る。満久は、それまで見せたことも無いような不気味な笑みを称えたまま、ゆっくりと露姫の首に紐を回した。そして、次の瞬間……力一杯、紐を締めた。

「な……何を? み、満久、何を……何をするのです……く、苦しい……!」

「言っただろう? 誰も俺達のことを知らない場所へ連れて行くと言ったろう?」

 満久は力を篭めて紐を締め続けていた。これ以上無い程に目を見開き、耳障りな声で高笑いを響かせていた。

「ひゃーっはっはっは! さぁ、苦しめ! もっと苦しめ! 命乞いをしろ! 許しを請え!」

 何処を見ているのか定かでは無い、焦点の定まらない眼差しで露姫を見つめていた。力を篭めて首を絞められているせいか、次第に露姫の抵抗も弱まり始める。

「な、何故、こんなことを……!」

 満久の手に爪を食い込ませながら、必死に声を絞り出す露姫の言葉を聞いた瞬間、満久の表情が唐突に変わる。一切の感情を棄てたかの様な冷たい表情だった。乱暴に露姫を突き飛ばすと、その目の前に座り込んで見せた。痛む首を押さえながら、露姫は激しく咳き込んでいた。

「何故? 何故だと? そうか……お前は……クックック、何も知らないのか? 所詮、お前は箱入り娘に過ぎなかったということだな」

 それまで見せていた姿とは、まったく別人のような姿に俺は圧倒されるばかりであった。心の中に宿していた本性を見せた。そんなところだろうか? だが、一体何が彼をそこまで狂気に駆り立ててしまったのだろうか? これ程までに心が崩壊してしまう様な過去を持っている……満久は確かに俺と良く似ている。似なくても良い部分まで良く似ている……怒りに満ちた心の奥底に眠る、凍えそうな哀しみを感じていた。

「何故……何故、こんなことを……!」

 露姫の震えた声だけがお堂の中に響き渡る。満久は見下す様な眼差しで露姫を睨み付けるばかりであった。

「俺の両親は俺が幼い頃に世を去った。その話は聞かせたことがあったな?」

「え、ええ……」

「だが、どの様にして死んだか? それはお前には聞かせたことが無い」

 満久はじっと露姫の眼差しを見つめたままだった。雨は相変わらず激しく降り続けていた。時折、空が唸る音が響き渡る。風が木々の葉を揺らすさざ波の様な音色を感じていた。

「聞かせてやろう。俺の両親は……俺の目の前で死んだ。自害したのさ」

「え? ど、どういうことなのです……?」

 動揺した様子の露姫とは裏腹に、不気味なまでに落ち着き払った振る舞いで、満久は淡々と語り続ける。

「何故、お前の一族は栄えたのか? そのことを露、お前は少しでも考えたことがあるか?」

 返事に窮する露姫を後目に、満久は淡々とした口調で語り続ける。

「お前の叔父は……最低の人種だった」

 満久はゆっくりと過去の情景を手繰り寄せるかの様に語り始めた。静かに、静かに、過去を手繰り寄せるように……。

◆◆◆48◆◆◆

 満久は無表情のまま静かに語り始めた。自らの過去の史実を、過ぎ去った時の流れを手繰り寄せるかの様に……。

 満久の話を聞いて、俺は始めて露姫の一族のことを知った気がする。代々香道の仕入れ問屋を営んできたことを知らされた。なるほど、どこか風流な振る舞いを好む露姫を見ていると、品のある仕事を営むのだろうとは思っていたが、予想していた構図と近しいものがあったように思える。

 確かに、香道の材料は高級な品々も少なくは無い。伽羅を初めとする高級な品々を扱っているのであれば、財を成すというのも頷けなくは無い。あの屋敷の大きさを考えれば、その他にも手広く事業を仕切っていたことだろう。今で言う所の実業家の様な一族だったことだろう。だが、そうした華やかな家業の影には往々にして表沙汰には出来ない様な闇の一面もあるものだ。

「確かに華やかではあっただろう。だが……その裏でお前の叔父は、人の道から外れた行いにも手を染めていた」

 満久は静かな笑みを浮かべたまま、舐めるような眼差しで露姫を見つめていた。相変わらず、どこか焦点の合わない眼差しだった。露姫はただ俯いたまま小さく震えていた。これから聞かされるであろう壮絶な真実に備えて身構えているようにも思えた。

「……金貸しだ。あの腐れ外道は言葉巧みに人々を騙し続けた。一体、何処から探し出してくるのか? 異様な嗅覚の持ち主だった」

 なおも雨は激しさを増し続けていた。

「俺の一家は反物を扱う、ちっぽけな店を営んでいた。だが、親父は事業に失敗した。後に残されたのは莫大な借金だけだった……」

「お、叔父様は……?」

「ああ、そうだ。あの糞野郎は人の不幸に群がる蝿の様な奴だった」

 満久の表情は酷く歪んでいた。露姫の叔父のことを「腐れ外道」や「糞野郎」と表現し始めたのが気に掛かっていた。そのことからも、満久の中では途方も無い憎しみの対象だったのは容易に想像が出来る。

「ああ、お前の予想通りだ。親父達も馬鹿だったさ。世の中には、こんなにも出来た人も居るものだと涙流して感謝したさ。だが、それが……あいつの手口だった!」

 何時しか露姫は涙を流し始めていた。居た堪れなくなったのだろう。如何に腐り果てた奴とは言え、実の叔父であることには代わりは無いのだから。

「この世の中には仏なんか居ないんだ……何一つ不自由することなく育ったお前には、俺の様な貧乏人の苦しみは判らないだろうな!」

「つ、露は……」

「全ては仕組まれた罠だった。莫大な量に膨れ上がった借金は払い切れずに、日々借金の取立てが押し寄せてくるようになった。後は……ククク、どうなったか判るだろう? フフ……フフ、ハハハハハ!」

 何が可笑しいのか、満久は口元を抑えて声を押し殺して笑いを堪えていた。

「い、嫌、やめて。もう、もう、聞きたくない……!」

 露姫は両手で耳を押さえ、しゃがみ込んでしまった。だが、その様子を見た満久は声を張り上げて笑っていた。お堂中に満久の耳障りな甲高い笑い声が響き渡る。

「ヒヒヒ……取立てに耐えられなくなった俺の親父と、お袋は、俺を残して死んじまったのさ! ひゃーっはっはっは! ある朝目覚めたら、梁から縄引っ掛けて、蓑虫みたいにぶら下がって死んでいたんだよ! 首を吊ってな!」

「いやあああーーーーっ!」

「牛みたいに舌をだらしなく伸ばして、小汚い汚物を垂れ流しにして死んでいたんだ! 目ん玉とか、飛び出しそうになっちまっていて、そいつらが俺の両親だとはすぐには気付けなかったんだよ! あーっはっはっは!」

 狂っている……表向きは冷静沈着で紳士的な振る舞いをする身ではあるが、その本性は怒りと憎しみに駆られ、すっかり我を見失った修羅の姿であった。あまりにも痛々しい姿で、直視することが憚られる程であった。

「いや……どうして……どうして……」

 打ちひしがれる露姫を見下しながら、満久はなおも不気味な笑みを浮かべるばかりであった。

「なぁ、露……話は、まだ終わっちゃあ、いないぞ? クックック……まだ、話は続きがあるのさ。だから……最後まで聞け! 何しろ、お前が……あの一族の最後の生き残りなのだからな!」

「いや……どうして露が……」

 体を小さく震わせながら、酷く怯えた様子を見せる露姫を睨み付けながらも、満久は可笑しそうに笑うばかりであった。

「お前のお優しい叔父様はなぁ、俺を引き取ってくれたのさ。あの屋敷で下働きさせてくださるという温情を下さった訳だ。判るか? 実の両親の敵に買われて、俺はあの屋敷で働き続けたのさ。どんなに屈辱的な仕打ちか……露、お前に判るか? 判る訳無いよなぁ!?」

 満久から語られた話はあまりにも壮絶過ぎて、俺は吐き気さえ覚えていた。あの叔父のやったことは、人の道からあまりにも外れた行いだった。許されることでは無い……だが、他の者達は何処までその事実を知っていたのだろうか? 知りながらも目を背けていたのだろうか? だとしたら……皆、同罪であったと糾弾されても反論は出来ないのかも知れない。だからと言って彼らの命を奪うまでの仕打ちが適切だったと言えるのだろうか?

「そんな……露は何も知らなかった……いえ、知らなかったでは済まされないのですね……」

 もはや流す涙さえも枯れてしまったのだろうか? 露姫の表情からは、一切の感情が失われたように見えた。ただ淡々と無機的に紡ぎ出される言葉は深い哀しみに満ちていた。

「満久、ひとつだけ教えてください……」

「何だ?」

「露への……露への、満久の想いも……紛い物だったのでしょうか?」

 露姫の口から零れ落ちた一欠けらの言の葉。満久は先程までの憎悪に満ちあふれた表情からは一転して、穏やかな笑みを浮かべていた。

「紛い物では無い。お前のことを本当に想っているのは事実だ。ああ、だからこそ俺は悩んださ!何故、お前のことを好きになってしまったのだろうかと! だが、どうすることも出来なかった……。だからこそ……!」

 満久は露姫を抱き締め、その耳元に顔をつけた。酷く口元を歪ませながら不気味な笑い声を響かせた。

「判るだろう? 愛くるしい子犬を見ていると、だからこそ、首を絞めて殺したくなるという衝動が! 大切な、大切な物だからこそ壊してしまいたくなる。失った時に俺は一体どれ程の哀しみを手にするのだろうか? 声も枯れんばかりに泣き叫び、地面に爪を深く、深く突き刺し、その余りの勢いに爪が割れ、血が吹き出す! 天を仰ぎ、今すぐにでも落雷に打たれて絶命したく成る程の壮絶な哀しみ! 痛み! 命乞いをしながらも、それでも、最期の瞬間まで無垢にも人を信じ、請い続け様とした儚き願いを、この手で摘み取るのだよ! 二度と咲くことが出来ない様に、長い年月を経て、やっとの思いで咲かせようとしていた花を、この手で無残に摘み取る! 願いを乱暴に踏みにじる! ああっ! 想像しただけでも心が沸き立たないか? 興奮しないか? 燃え上がらないか!? 懇々と湧き出す情欲で濡れてくるだろう!? シットリと淫らに! ただ淫らに咲き誇るだろう! ああ、俺は今にも噴き出さんばかりに熱くたぎっている!」

「み、満久……何を言っているの?」

 露姫はただ恐怖に肩を震わせていた。無理も無いだろう。吐き気を催す程に正気を見失ったこの男を目の前にして、正気を保てというのは無理があるのだろう。もはや、俺の中で戦意は消失しようとしていた。余りにもこの男は狂っている……。

「ひゃーはっはっは! 独りぼっちは寂しいだろうから、お前の大好きな父上の、母上の下へ送ってやるよ! お前の愛した、この俺の手でな!」

 耳障りな笑い声だけが響き渡る。もはや満久には、人の心は微塵も残って居ないのであろう。否……あの屋敷に連れて来られた時から既に、心は木っ端微塵に砕け散っていたのだろう。復讐計画はその時から画策し続けていた。そう考えるのが妥当な気がした。露姫への愛情……それは、恐らくは酷く歪み切った物だったのでは無いだろうか? その想いは……復讐の計画の一端に過ぎなかった。そんな気がしてならなかった。満久の心は純粋な憎悪にだけ満たされているのだろう。それ以外の感情が一切存在することを許さない程に……。

「そうだ。露……このまま死なせるのも忍びない。クックック……お前、俺を慕っているのだろう? だったら、死ぬ前にお前に最高の屈辱を味あわせてやろう。かつて、俺がアイツにされた様にな!」

「いやああーーーっ! な、何をするの!? 嫌っ! お願い! やめてーーっ!」

「愛する男と一度位は結ばれたいだろう? 死ぬ前に一度くらいは! ひゃーっはっはっは!」

 露姫の叫びが、ただ空しく空回りする。満久は乱暴に露姫の頬を何度も殴り飛ばすと、そのまま床に横たわらせた。悲鳴を挙げる露姫に高笑いを浴びせながら、満久は乱暴に露姫の着物を脱がせた。

「嫌あああーーーーっ!」

 信じられない光景だった。俺をこの場から何処か別の場所に移してくれ! 悲痛な叫びを挙げずには居られなかった。泣き叫ぶ露姫を横たわらせると、大きく足を広げさせた。お堂の格子状の扉から差し込むうっすらとした月明かりに照らし出されるのは、可憐な花々よりも尚美しき露姫の肉体であった。すらりと伸びた四肢は触れたら壊れてしまいそうな程に白く、透き通っていた。肌蹴た着物からは、露わになった体だけが月明かりに白く照らし出されていた。

 恐怖に打ち震え、ただ、静かに涙を流す露姫の前に立つと、満久は何ら、ためらうことなく自らも衣服を脱ぎ捨てた。口からは涎を垂らしながら、荒い息遣いで露姫に覆い被さった。

「嫌あああーーーっ! 嫌っ! 嫌っ!」

「あーっはっはっは! 良いぞ! もっと鳴け! 叫べ! 喚け! 己が人生の全てを憎め! 呪え! あーっはっはっは!」

「嫌っ! 痛い! 痛いっ!」

 高笑いを響かせながら露姫を陵辱し続ける満久。それは、想像を絶する地獄絵図であった。許されるならば、今すぐ満久を殺してやりたかった。そんなに楽になりたいなら、この手で楽にしてくれる! 耳を塞がずには居られなかった。目を背けずには居られなかった。お堂の格子から差し込む月明かりに照らし出された露姫の体は、仄かに汗ばんでいて、あまりにも美し過ぎて……俺の中での男としての性を克明に認識させられた。認めたくなかった……こんな最低の光景を目の当たりにして、酷く興奮を覚えている俺もまた、俺はこの手で斬り捨ててやりたかった。目の前で初めて目にする他人の性行為。

(こんな場面なのに……こんなにも興奮し、今まで体験したことが無い程に燃えたぎる俺自身を、俺は許したく無い……くっ! 願い叶うならば、満久、お前の四肢を一本ずつ切り落としてやる! ああ、もちろん、最後は貴様の、その、不潔極まりない愚物の皮を剥ぎ、少しずつ刻み切ってくれる! 畜生ーーっ! 俺は……俺は、お前を殺したいっ!)

 俺は最低だ……強がる言葉とは裏腹に、俺はズボンを脱ぎ去り、熱くたぎる俺自身を握り締めていた。手が……止まらない。刺激的な快楽が体中を駆け巡ってゆく。

「ひゃーっはっはっは! 露、せっかくだからお前の叔父の最期も聞かせてやろう!」

 露姫を獣の様に四つん這いにさせると、今度は背後から攻め続けた。耳障りな高笑いを響かせながら、時折、背筋も凍り付かんばかりの吐息を就きながら、それでもなお、満久は口を塞ぐことは無かった。これ以上無い程に、止め処なく饒舌に語り続けていた。

「もう……嫌……もう、嫌ーーーっ! お願い! 許してーーっ!」

 それは壮絶な話だった。あの雨の晩に満久は叔父を連れ出したらしい。刀を手に叔父の寝室に乗り込んだ。突然の出来事に叔父は助けを呼ぶことすら出来なかったのだろう。

『ひっ! な、何をする!?』

『静かにしろ! 死にたくなければ、俺の言う通りにしろ……』

 満久は実に用意周到な男であった。眠っている叔父に馬酔木の毒を飲ませたのだ。幻覚作用のある毒だ……。抵抗する力さえも奪われ、猿ぐつわを噛まされた叔父が声を発すること等出来る訳も無かった筈だ。

 そして、雨の晩に増水した川に連れ込んだ。後の話は早い。川岸に叔父を立たせ、懺悔の言葉を延々と喋らせ続けたらしい。

『さぁ、詫びろ! 俺の両親にした仕打ちを! 罪も無い人々にしてきた、貴様の仕打ちの数々を!』

『この様なことをして、ただで済まされると思うな!』

『誰が勝手に口を開いて良いと言った? 口、臭ぇんだよ。ついでに、てめぇの置かれている状況、判っているのかよ? 何だったら、その指を一本、一本、切り取ってやろうか? それとも……耳から引き裂かれたいか? 眼球をえぐられたいか? 歯を一本、一本、引っこ抜いてやろうか?』

『ひぃいっ! わ、判った……』

 人は惨めな生き物だ。自らの命よりも高い物は無い筈だ。満久は叔父を散々脅したのであろう。助かりたければ俺の両親に詫びよ、と。そして散々恐怖を味あわせたところで、自ら川に飛び込む様に命令したのだろう。

 満久は、叔父が間違い無く水死すると見越していた。馬酔木の毒で体の自由は利かない筈だ。ましてや、大雨で氾濫を起こす程の川に飛び込み、無事で居られる筈が無いのだ。仮に、無事に生き延びたとしても、次の手も考えていたことだろう。過去の悪事の全てを明らかにされれば……どの道、あの叔父が生き延びる道は無くなる。もっとも、満久がそんな悠長な手を使うとは思えなかった。例え、無事に生き延びたとしても、また新しい手を講じ、確実に仕留めたことであろう。

 だが、満久の恨みは叔父の殺害だけでは留まることは無かったのであろう。積年に渡る憎しみは大きく膨れ上がり、一族を根絶やしにしなければならない程になってしまっていた。だから……。

「諸悪の権化は露、お前の叔父だった。だが……見てみぬ振りをしたのは重罪だ。判るだろ、露? お前の親父は、あの叔父のやったことを見過ごし続けた。だから……俺が裁きを下してやった」

「な、何故……その様なことを……」

 もはや俺の中では誰が正しくて、誰が間違えているのか、俺には判らなくなっていた。ただ、一つだけ判ったこと……それは目の前で、泣き叫ぶ露姫を犯し続ける満久のことを、俺は許すことが出来ないということだけだった。

「そんな……お母様まで……どうして! どうしてーーっ!」

 悲痛な叫びをあげる露姫に一瞥をくれると、満久は激しく突き上げながら、再び耳障りな声で高笑いを響かせた。

「もう、どうでも良いだろう? すぐに……会える。フフ……ハハ……ひゃーっはっはっは!」

 満久は一体何度、果てたのだろうか? 露姫の足元には汚らわしく濁った水溜りが出来ていた。柔らかな太ももを伝い、滴り落ちる液体をただ見つめていた。完全に放心状態になった露姫の背後に回ると、満久は耳障りな高笑いを響かせながら露姫を縄で縛り始めた。

「嫌……イヤっ! な、何をするの?……嫌、やめて……満久、お願いっ! 止めてーーっ!」

 露姫の悲鳴を聞きながら、満久はこれ以上ない位に歓喜に満ちた笑い声を響かせた。

「何をするか教えてやろうか? このお堂に火を放つのさ」

「な、何で? どうして? 嫌……イヤっ!」

「残念だったな、露姫。あの一族の家に生まれて来なければ、お前は死なないで済んだのかも知れなかったな」

「つ、露はっ!」

「命乞いでもしてみるか? こんなにも惨めな辱めを受けてなお、それでもなお、生き延びたいか? それとも、もっと気持ち良いことして欲しいのか!?」

「……あ、貴方は……可哀想な人です! 命乞いなど、しません! 露は……貴方のことを憎み、恨み、呪い続けます。末代まで……例え、貴方に子孫が出来ようとも、露は決して、許しはしません!」

「やはり、お前にも……あいつらと同じ血が流れているのだな。金持ちには貧乏人の苦しみなんか理解出来ないだろうな。良いだろう。望み通り死なせてやろう」

 満久はいきなり刀を取り出すと、ゆっくりと露姫の眼前に突き出してみせた。

「ひっ!」

「俺はお優しいから……万に一つ、お前が逃げられないように、その足もシッカリと縛っておいてやろうな……」

「露は貴方のことを決して、忘れはしません。未来永劫、恨み続けます!」

「ひゃーっはっはっは! そんな淫らな姿じゃ、格好付かないな! それとも……まだ、物足りなかったか?」

「貴方は……最低です!」

 もう、俺には直視することはできなかった……。きつく縛られてゆく露姫は、あくまでも気丈に振舞っていた。その姿が痛々しくて、あまりにも哀し過ぎて、どうすることも出来なかった。もう、俺は訳が判らなくなっていた。ああ、犯され続ける露姫を目の当たりにしながら、俺もまた、何度も、何度も……果てたさ。抑え切れない興奮に抗い切れず、何度も、何度も、自らを慰めてしまった。俺も同罪だ。お前を犯したのと何ら変わりは無い……。

(否、俺も……本当はお前と交わりたかったのかも知れない……)

 俺もお前と同じ罪を背負おう……。ああ。俺の足元にも無数の飛沫が飛び散っていた。体温を感じさせる飛沫は月明かりを浴び、哀しく光を反射するばかりであった。

 満久は露姫の両手、両足を縛り終えると、静かにお堂の外へと出て行ってしまった。俺は、何もしてやることは出来なかった。ただ、これから死に往くであろう露姫の最期を見届けることしか出来ないのだろう……。やがて、お堂に煙が立ち込め始める。古びたお堂は良く乾いていることだろう。驚く程早く、火の手は回ってゆく。

「いやああーーっ! 止めて! お願い! 助けて! 助けてーーっ!」

 露姫の悲痛な叫び声だけが響き渡った。俺はどうすることも出来なかった……。ただ、急ぎズボンを履き、逃げることしか出来なかった。俺自身から、それから、露姫の哀しみから……。

◆◆◆49◆◆◆

 夜半の森に断末魔の悲鳴だけが響き渡る。瞬く間に炎は広がり、一気にお堂を包み込んだ。激しく火の粉を撒き散らしながら燃え上がるお堂は、さながら闇夜に佇むほたるの様に見えた。さしこむ光は微かな月明かりだけ。辺り一面漆黒の闇夜。人気の無い深い森の中で、そこだけが真昼の様に煌々と浮かび上がっていた。

「いやああーーっ! 熱い! 熱いっ! 誰か! 誰か、助けてっ!」

 ただ耳を塞ぎたくなる。俺にどうしろと言うのだ!? これは過去に起きた出来事。俺はそれを垣間見ているだけの存在に過ぎない。ただ無力で、非力な「傍観者」に過ぎない。手を差し伸べることは出来ない。

 衣服が燃え上がり、皮膚が焼かれ、髪が燻る嫌な匂いが漂う。轟々と燃え盛る炎が放つ凄まじい熱気に阻まれ、近付くことさえ出来ない。こうして離れた場所に立っているだけでも顔が、腕が、焼け焦げそうな程にジリジリと痛む。古びたお堂は乾き切った木で出来ている。さぞや良き「薪」となったはずだ。容易く燃え上がることだろう。

 彼女の……露姫の丹精整った容姿を思い出さずにはいられない。雪の様に白く、透き通った柔らかな肌。長く、艶やかな髪も焼け焦げているのだろう。燃え盛る炎の轟音と、木々が爆ぜる音。それに混じって、時折聞こえてくる人の体が焼ける音。艶やかな髪も、透き通った柔らかな肌も、この炎の中で焼かれているのだろう。

「熱い! 痛い! 死にたくない……死ぬのは嫌ーーっ!」

 淡雪の様な指を天高く伸ばす様が見えた。掴むことの出来ない何かを必死で掴もうとしている様にも見えた。だからこそ思わず一歩踏み出す。だが、その瞬間、肺の奥深くまで火傷したかの様な痛みを覚え、激しく咳き込んだ。咳き込みついでに涙も込み上げてくる。

「露姫、済まない……俺はお前を救ってやることが出来なかった……」

 そのまま崩れ落ちた俺は、無意識のうちに地面に爪を付き立てていた。爪の隙間から小石混じりの土が食い込むが、こんな痛み、露姫の痛みに比べたら至極ちっぽけなものだ。

「しかも……陵辱されるお前の姿に興奮さえ覚え……何度も、何度も! 済まない、露姫……俺は……俺は最低だ……」

 地面に次々と涙が、鼻汁が、零れ落ちては次々と吸い込まれてゆく。もう、訳が判らなくなっていた。

 ふと顔を挙げれば、火の手はさらに勢いを増していた。立ち上る炎は大きく膨れ上がり、天に手を伸ばすかの如く轟々と燃え盛っていた。助かる筈が無かった……露姫は手も、足も、荒縄できつく縛り上げられていたのだから。燃え盛るお堂は、もはや赤々とした炭と化していた。梁が崩れ、雪崩を思わせる様な音を立てながら、今まさに屋根が崩落しようとしているのが見えた。燃え盛る炎に包まれたお堂は、もはや赤々と熱を放つだけの木炭と化していた。一気に崩れ落ちれば、天に向い、一斉に火の粉が舞い上がる。夏の夜、一夜限りのほたるの宴を思わせる様な幻想的な光景。だが、舞い上がるのはほたるでは無く、露姫の命そのものなのだから。

 もう、悲鳴は聞こえない……酸欠で死んだのか、全身を無慈悲な炎に焼かれて死んだのか、どちらにしても哀し過ぎる結末であることには変わりは無かった。体中から力が抜ける。結局、俺は無力な存在だ。ただのちっぽけな存在に過ぎない。その事実を嫌という程叩き付けられただけだった。それに……満久も、俺も、同類だということを叩き付けられた。悔しかった。でも……それは真実なのだから。事実なのだから。目を背けてはいけない。

 それから数刻後、炎は消え失せた。赤々と燃え上がっていたお堂は、もはや跡形も無く、ただの黒い消し炭と化していた。何故、こんなことになったのか? 何故、俺が見届けなければならなかったのか? 理由を考える気さえ起こらなかった。皮肉なことだ……「火葬」は無事に終わったらしい。俺は焼け跡に歩み寄った。まだ、微かに熱気を放っているが、近付けない程では無かった。

◆◆◆50◆◆◆

 それはただの焼け焦げた「何か」でしか無かった。目の前に転がる黒く焼け焦げた「何か」―-それは数刻前までは、確かに人の姿であったもの。

 辺り一面うっそうと生い茂る森。ただ冷たい静寂に包まれた場所。古ぼけたお堂の焼け跡からは、今も微かに煙が立ち上っている。何時の間にか夜は明けたらしい。だが、俺の視界に入るのは、気持ちまで沈んでしまいそうな濁った色合いの雲だけだった。そっと空を仰げば、今にも雨が降り出しそうな湿気た風だけが頬を撫でて往く。酷く優しく、それから、生暖かい風であった。俺は為すすべも無く、ただ、そこに立ち竦んでいた。無残に焼け焦げた小さなお堂は、未だに息が詰まる程の焦げ臭さを放っていた。人が焼けた後の、異様な匂いも残されていた。

 今頃になってようやく全てを理解できた気がする。

「そうか……そうだったのか……あの時、俺が夢の中で見た情景……それは、この情景だったのか……」

 世の中の摂理というのは、実に理不尽なもので、本当に裁かれるべき悪党が裁かれずに、無関係な被害者達が、その責を肩代わりすることになる。何故なのだろうか? 俺にはどうしても理解が出来なかった。

 本当の悪党は露姫の叔父だった筈だ……だが、その叔父の手により人生を歪められた満久が、今度は悪党の役目を受け継いでしまった。結果的に、露姫から全てを奪い去ってしまったのは満久だったのかも知れない。では、一体誰が、本当に悪かったのだろうか? 誰が正しかったのだろうか? その答えは俺には判らなかった。容易く答えを出すことが出来ないからこそ、人は迷い、憂い、今日を、明日を右往左往し続けるだけなのだと。因果応報など、必ずしも成立するものでは無いのかも知れない。そう考えると、本当の意味での……「救い」って何なのだろうか?

「頭の悪い俺にも判ることがある」

 平安神宮で露姫がそうしたように、俺は再び黒い灰になった露姫を掬い上げてみた。だが、指の隙間からサラサラと灰は零れ落ちて消えて往く。

「結局……露姫は一切の救済も、手にすることが出来なかった」

 そして、もう一つ明らかになったことがある。露姫の過去の真実を見届けたことにより、露姫の目的が理解できた気がする。

 露姫の人生にはあまりにも救いが無さ過ぎた……だからこそ、過去の忌まわしい記憶と決別し、新たなる史実で塗り替えたいと願ったのだろう。これ程までに凄惨な過去を歩んできたのであれば、過去を塗り替えたいと願うのも無理は無い。

 露姫は……あれ程までの仕打ちを受けてなお、満久のことを想っていたのだろう。どこまでも一途な人生を歩み続けたのだな。だからこそ、満久と同じ様に自分を想ってくれる力丸に声を掛けた。だから、満久と同じ様に自分を見知らぬ世界へと誘ってくれるであろう俺を選んだ。救われないな。どの選択肢を選んでも、全てが非業の最期に繋がるばかりでは無いか。

「露姫は判っていたのだろう。どんなに良く似た相手を見つけたとしても、それは、所詮は紛い物に過ぎないということに」

 否、露姫は頭の良い娘だ。理解していなかった訳が無いだろう。全てを理解した上で、それでもなお、抑え切れない想いに迷い続けた結果、一連の騒動に至ってしまったということなのだろう。

 不意に俺の脳裏に再び映像が浮かんできた。それは鞍馬山で護摩壇を焚くカラス天狗達の姿であった。壮大な光景であった。燃え盛る護摩壇の炎。爆ぜる薪の音。それから、カラス天狗達が一斉に唱える真言。それら全てが重なり合い、波の様に一気に押し寄せてくる感覚を覚えていた。体中が沸き立つ程の旋律を全身で感じていた。

「降三世明王! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 クロの声が聞こえてきた。力強く真言を唱え続ける声であった。その声に伴い俺の意識が唐突に遠退いていった。不意に凄まじい速度で、浮上するが如く俺の体が浮かんでゆくのを感じていた。何処までも高く浮んでゆく。そんな感覚であった。

◆◆◆51◆◆◆

 再び気が付いた時、俺は平安神宮の白砂の広場に戻っていた。周囲を見渡せば、力強く腕組みするクロの姿があった。クロはただ静かな表情で俺を見つめていた。

「無事に戻ったようだな。少々……酷な情景ではあると思ったが、悪く思うで無いぞ?」

「あ、ああ……」

 俺のことはどうでも良かった。あまりにも衝撃的な情景の数々であり、言葉に出来ない苦しみを、痛みを感じたのは事実ではあったが、露姫が感じた苦しみに比べればたいしたことは無い筈だ。そう考えながら周囲を見渡した。露姫は一体何処に行ったのだろうか? 周囲を見渡せば、すぐ近くに崩れ落ちているのが見えた。心配そうに覗き込む俺に向かい、静かに微笑み返してみせた。酷く哀しみに満ちた、消え入りそうな笑みであった。

「小太郎様……全部、見て……しまったのですね……フフ、露のこと……お嫌いになってしまったでしょう?」

「露姫……」

 言葉を掛けようとする俺を遮るかのように、露姫は哀しそうに首を横に振って見せた。

「露は……汚らしい女です。力丸様を騙し、小太郎様を騙し……露自身の醜い史実を塗り替えようとした身です」

 露姫はただ静かに、哀しみに満ちた笑みを浮かべていた。もう、何も偽る必要は無くなった。哀し気に微笑む露姫の頬を涙が伝って落ちた。

「満久に……辱めを受けた、露は……小太郎様の目に、どう映り……」

「もう止せ!」

「小太郎様?」

「そんなに……自分を責めるな。それに、俺はお前のことを嫌ってもいなければ、汚らしいとも思っていない」

 ああ、汚らしいのは俺自身だ……。露姫、お前も見たのだろう? 獣の様に理性を失い、快楽に身を委ねた俺の最低な姿を。だからこそ、声を荒げてしまったのだろうな。俺は……お前では無く、俺自身を守りたかっただけだ。正当化したかっただけなんだ……。

 俺達のやり取りをクロはただ黙って見つめていた。静かに腕組みしながら、俺の表情を窺っていた。全てを見透かしそうな鋭い眼差しだった。だが、俺は考えを曲げるつもりは無かった。例えクロが相手であったとしても、善悪の判断まで委ねるつもりは無い。俺は俺の意思を貫く。ただ、それだけのことだ。

「その情鬼が六人を殺した……その事実は理解しておるのか?」

 不意にクロが口を開く。俺は露姫の眼差しを見つめたまま頷いて見せた。

「カラス天狗様……そのお話は露の口から説明させてください。せめてもの、罪滅ぼしのつもりです……」

「それで罪が軽くなるなどと、愚かな考えは棄てることだ」

「はい。心得ております……」

 露姫はクロに深々と頭を垂れると、再び俺に向き直った。一歩ずつ俺に歩み寄ると静かに手を差し出して見せた。まるで、手を握ってくれと言っているかの様に思えた。俺はそっと露姫の手を握った。やはり氷の様に冷たい手だった……その冷たさに、涙が込み上げてきそうになった。だが、俺は必死で抑え込んだ。自らの感情を剥き出しにしてしまえば、露姫を傷付けてしまうことになる。だから……。

「小太郎様、あの方達は……お堂で満久が露にしたことと……同じことをしようとしたのです」

「やはり、そうだったか……」

 非力な者を、力で捻じ伏せる様な蛮行は最も恥ずべき行為の一つだ。人が人であることを棄てた時、後には一体何が残るというのだろうか? 当然の裁きを受けたに過ぎない。

「人が業を犯せば、裁きが下るのは道理だとは思わないか?」

 俺は露姫に返答しながらクロの反応を窺っていた。俺の返答を聞いたクロは険しい表情を浮かべていた。意に反する返答であったことは間違いないのだろう。

「あの方々は皆一様に愛を持たない人達でした。露はただ、愛を欲する身……それなのに、露に近付いてくるのは愛を持たない人達ばかり」

 露姫はただ、自分の身を守りたかっただけなのだ。自らに危害を加えようとする者から身を守ったに過ぎない。それを罪と呼ぶことが出来るのだろうか?

「お前は何も悪くは無い。降り注ごうとする雨から、ただ、その身を守っただけに過ぎない。傘が無ければ無いなりに身を守った。ただ、それだけじゃないか……」

「フフ、小太郎様……露は罪人で御座います。後に遺されるものなど何一つ御座いません」

「ほう? 良き心掛けよの」

「カラス天狗様、お手数をお掛けします」

 全てを話し終えた露姫は、ただ静かに自らの運命を受け入れようとしていた。抗うことはせずに、ただ、静かに受け入れよう。俺にはそう思えた。だが、本当にそれで良いのか? カラス天狗と情鬼との関係というのは、そんなにも非情なものなのだろうか? 狩る者と狩られる者。言うなれば……食う者と、食われる者の関係そのものだ。

(そんなの……何か、間違えている! そんな簡単なものなのか!? 一人の魂が持つ「重み」とは、其れ程までに軽んじて良いものなのか!?)

「違う……」

「小太郎様?」

「違う! こんなの、ぜったい間違えている! 露姫、お前はこれで良いのか!? 散々運命に翻弄され続けて、それでもまだ、あるがままの運命を受け入れようというのか!? 俺には理解出来ない! 何故、お前はそんなにも聞き訳が良いのだ! これはお前の物語だ。お前自身が歩む道だ。それなのに……それなのに! そんなに投げ槍で良いのか!? 良い訳が無いっ!」

 一体、何を一人で熱くなっているのだろう? 客観的に考えれば、俺の言動、行動は我を通そうとするだけの無能な子供と何ら変わりは無かった。何を一人で暴走しているのだろうか? 間が抜けた行動が恥ずかしく思える。だが、それでも、どうしても納得出来なかった。気が付けば、俺はさらにクロを動揺させる行動に出ていた。それは、不意に思い付いた行動……だが、自分の中ではこれ以上無い位の妙案であった。だから実行に移していた。

「クロ、俺の我侭を聞いてくれ」

「ふむ……申してみよ」

 今度は一体何を言い出すのかと、眉をひそめながらクロはじっと俺の目を凝視していた。だが、俺は一歩も退くつもりは無かった。だからこそ、俺はクロに正面からぶつかる覚悟で想いをぶつけてみることにした。

「露姫と二人だけの時間を過ごさせてくれないか?」

 さすがにこれはクロも予想しなかった返答なのだろう。目を大きく見開き、酷く動揺した素振りを見せていた。

「な、何を申すかと思えば……仮に、駄目だ、と申したところで実行に移すのであろう?」

「判っているじゃないか?」

「ふむ、困ったものであるな。お主の頑固さは並々ならぬものがある。その想いの強さは……鴨川の流れを逆流させる程のものかも知れぬ」

 苦笑いを浮かべながらも、クロは露姫をじっと見つめていた。

「聞いての通りである。これも……裁きの一環として命ずる。露姫よ、コタと共にしばしの時を過ごすが良い」

「か、寛大なるご配慮……カラス天狗様、感謝いたします」

 俺は何処までも馬鹿な奴だ。自分でも呆れる程に馬鹿な奴だ……それで無くても、露姫には思い入れしている部分がある。情が深くなれば深くなる程に、別れが辛くなる。目の前に迫っている別れなのに、さらに傷を深くするような真似をしている。愚か過ぎる自分が嫌になる。それでも、何かをしてやらずには居られない不器用な自分が憎く思えた。

 俺が傷付くのは大きな問題では無い。後で、クロに目一杯愚痴を聞かせてやればそれで済む。だが、露姫にはそういう相手が居ない。それならば俺が何とかするしか無い。

 しかし、露姫のために何をしてやれるだろうか? あまり大それたことをしてやることは出来ない。さて……どうしたものか? あれこれ考えているうちに、ふと脳裏に浮かんだ映像があった。

(そうか! 良い場所を思い付いたぞ!)

「露姫、俺と一緒にしばしの時間、一緒に歩んで欲しい場所がある」

「ええ。どちらに露を案内してくださるのでしょうか?」

 露姫は嬉しそうな笑みを見せてくれた。あどけない少女らしい無垢な笑みだった。心を奪われそうな優しい笑みに、俺は思わず息を呑んだ。

「哲学の道だ」

「ほう。中々に粋な場所を選ぶでは無いか?」

「俺からの『想い』を表現するには最高の場所だと判断した」

「ふむ。平安神宮からでは少々距離がある。どれ、我らが近くまで運んでくれよう」

「済まないな」

 こうして俺と露姫はクロ達の協力を得て哲学の道の南側、大豊神社周辺に運んで貰うことにした。伝えたい想いは幾つもあった。だからこそ、良く整理する必要があった。伝えたい想いを確実に伝え切るためにも幾つかの工夫が必要であった。移動している間も必死で知恵を絞っていた。

 露姫と直接話を出来る最後の機会となる筈。だからこそ、心残りになるような結末を迎えることはしたくなかったし、何よりも露姫のためにも何かを残してやりたかった。俺に出来ることは、こんなこと位しか思い付かない。ならば出来る範囲で全力を尽したいと考えていた。程なくして大豊神社周辺に着陸しようとしていた。一世一代の大勝負と決め込もうでは無いか。

◆◆◆52◆◆◆

 静かな風だけが吹き抜ける。夜半の哲学の道はその名の通り、物事を思案するには相応しい静けさに包まれている。木々の葉が揺れる音、水が流れる音、それから俺達が歩く音だけが響き渡る。虫の声を聞きながら俺達はゆっくりと歩いていた。

「水の流れる音……本当に涼やかな音色ですのね」

 露姫はそっと目を伏せながら、涼やかな音色に耳を傾けていた。俺も傍らに並び、露姫の真似をしてみることにした。そっと目を閉じれば、涼やかな水の流れる音だけが響き渡るような気がした。このまま時が止まってしまえば良い。そう、考えれば考えるほどに、目の奥が焼けるように熱くなる気がした。

「人は……目に見えるものばかりに頼ってしまうものなのですね」

「何か、見えたのか?」

「フフ、いいえ。でも、こうして穏やかな風を肌で感じ、水が流れる音に耳を傾ける。そうすると……」

 露姫が可笑しそうに笑う。その微かな声が風に乗って耳に染み入る。

「見えて来るのですね。本当に……色々なものが」

「ああ。目に見える物だけが真実だとは限らない」

 水の流れに自らの存在を重ね合わせる様に、俺は静かに息を吸い込んだ。

「それを教えてくれたのは露姫、お前だ」

 目に見える物なんて嘘吐きばかりだ。本当の姿を、幾らでも偽って紡ぎ出そうとする。そうやって見たままの物だけを信じる愚かな人を嘲笑うだけなのだろう。否、違うな。

(命まで奪われるのだろう……あの愚かな叔父の様に)

「なぁ、露姫。お前は花が好きだったよな?」

「ええ。お花は本当に美しいものです。誰かを喜ばせるために美しく咲き誇り、時に誰かの傷を癒し、時に誰かを慰めてくれる……露は、花という存在にどれだけ救われたことでしょう」

 花を愛する可憐なる姫君、か。残酷な運命から逃れることの出来なかった露姫は、そうなることが定めであったのだと、自らの運命を受け入れた。俺には真似の出来ないことだった。露姫は強いのだろうな……俺よりも、ずっと、ずっと……。

「露姫、お前は桜という花を知っているか?」

「さくら? いいえ。露は、あのお屋敷から殆ど外に出たことも無い身です。お屋敷に咲いていないお花では、名前どころか、その姿、形すら判りませぬ」

 再び俺の中で何かが燃え上がる様に熱くなった。気を抜けば声を張り上げて叫んでしまいそうだった。運命は数奇なるもの? それが定めだと? ふざけるな! そんな理屈、受け入れられる訳が無い! たとえ露姫が受け入れたとしても、俺は断じて許すことは出来ない。

「小太郎様? どうかされましたか?」

「あ、否……何でもない」

「フフ、可笑しな小太郎様ですこと。それで、小太郎様? さくらとは、どのようなお花なのでしょう?」

 露姫は子供の様に無邪気な笑みを浮かべながら、俺の顔を覗き込んでいた。まるで子供だ。悪戯好きの少女の様な振る舞いだった。あどけなさと妖艶さが共存する姿に思えた。その白い肌は魔性の名を欲しいがままにしているように思えた。あぶない、あぶない。気を抜けば、魂を抜き取られてしまいそうな感覚に陥る。

「答を教えるのは容易いことだ。だが……お前はそれで納得出来るのか?」

 意地悪く笑って見せれば、露姫は可笑しそうに笑い返してみせた。

「フフ、それもそうですわね。目に見える物ばかりを信じるだけでは、本当の姿は見えてこないでしょう」

 微笑む露姫の表情を見つめながら、俺は足元を流れる琵琶湖疏水を指差してみせた。

「この琵琶湖疏水の中に桜は存在している」

「え? 水の中に……咲く花なのですか?」

 戸惑ったような表情を見せる露姫を見て、俺は思わず笑い出しそうになっていた。

「目に見えるものだけが真実とは限らない」

 しばし考え込んでから、露姫は静かに顔をあげた。

「あ! 小太郎様、さくらのお花とは……琵琶湖疏水の両岸に立つ、この木々のことですか?」

「ああ、正解だ」

「まぁ、この立派な樹木達がさくらなのですね? でも……お花、咲いていませんわ?」

 月明かりを受けながら、瑞々しい葉を揺らす桜の木々を見て、この無骨な樹木達が美しい花を咲かせようとは、一体誰が想像できたことだろうか? ああ、だからこそ俺はこの場所を選んだ。この季節に花の見頃を迎えるような草花では駄目なのだ。今の季節に咲くことの無い花……それも、夏という季節から最も遠い季節、即ち春に花咲かす草花で無ければ俺の思い描く物は伝わらない。それに……出来るだけ華やかな美しさを持ちながらも、言葉に出来ない儚さを知る花を選びたかった。そう考えた時、この花しか無いと考えた。

「この桜という樹木は春になると花を咲かせる。花が散れば葉が生い茂る。丁度、今見ている光景だ。秋になれば葉は赤や黄色に色を変え、冬になれば葉は全て散る」

「また、春が訪れれば花を咲かせる。そういうことなのですね?」

「ああ。だから……露姫、桜の花を見たければ、春に再び此処を訪れなければならない」

 俺が何を言わんとしているのか理解したのであろう。物珍しそうに桜の幹に触れていた露姫の手が止まるり、暗がりの中でも判る程に肩を震わせていた。

「小太郎様……背を向けたままお話をする無礼、お許しください」

「ああ」

「露は……露は小太郎様と一緒に、さくらの花という物を見とう御座います」

「ああ。見られるさ。約束しよう。春になったら、この哲学の道をもう一度案内する。それは壮観な光景だ。きっと、お前も気に入る筈だ」

「でも、露はもうじき消え行く定め……朝露の如く、儚く散って往くのですよ?」

 微かに震えた露姫の声を聞きながらも、俺は話を止めなかった。否、止めるわけにはいかなかった。想いを伝えられる最初で最後の瞬間なのだ。此処で失敗したら俺は一生後悔することになっただろう。

「哲学の道は長い道だ。流れ往く琵琶湖疏水、その両岸を埋め尽くす桜の花。風が吹けば一斉に桜の花弁が舞い上がる。桜吹雪と称される、それは幻想的な光景だ」

 情け無い話だ。男のクセに……そう思いながらも、あふれ出す想いを抑えることは出来なかった。もう、抗うことは出来なかった。ああ、遠慮なんかしないさ。奇しくもお前は俺に背を向けている。どんなに情け無い顔をしていてもお前には見えないのだろう。だから……。

「小太郎様、露は……小太郎様にお会い出来て、本当に幸せで御座います。ただ、どうして、運命とは斯様に残酷なので御座いましょう? もしも、露が小太郎様と同じ時代に……」

「……それ以上は口にするな」

 俺はそっと露姫の後ろに立ち、静かに露姫を抱きしめた。少しでも力を入れれば崩れ去ってしまいそうな程に、露姫は小さく、儚く思えた。

「そうでしたね。目に見えるものだけが、真実とは限らないのですから……」

 心を潤してくれる様な涼やかな風だった。そっと耳を澄ませば琵琶湖疏水が静かに流れる音だけが響き渡っていた。時の流れが止まってしまえば良い。そんなことを考えていた……だが、それでは露姫が道を踏み外したのと何ら変わりは無くなる。

「露姫、紫陽花という花が意味するところを知っているか?」

「紫陽花の花が意味するところ……ですか?」

「ああ。粋な表現を使えば『花言葉』というものだ」

 俺の話に興味を示したのか、露姫はただ静かに俺の話に耳を傾けていた。

「露の母上が愛した花……そして、露に託してくれた花、その……花言葉とは一体?」

「紫陽花の花言葉……それは『移ろい』だ」

「移ろい?」

「ああ。移ろい……この琵琶湖疏水と同じだ。何が起きても、こいつは黙々と流れ続ける。ただ上流から下流へと向かい長い、長い旅路を続ける。露姫……お前も同じだ」

 もしも、何もかもを見越した上で、露姫に紫陽花を託したのだとしたら――露姫の母親は、露姫に最高の贈り物をしたことになる。もっとも、これは俺の勝手な解釈でしか無いのだが。

「時の流れが移ろい往く様に、お前の置かれた境遇も移ろってしまえば良い。そんな想いを篭めていたのかも知れないな」

「お母様……」

「哀しみも、苦しみも、全部、時の流れと同じように移ろいゆくものだ。全部、全て、移ろい切った時に……お前の下に、流れ着いてくるのかも知れないな」

「露の下に、一体何が流れ着いてくるのでしょう?」

「聞きたいか?」

 俺は笑いながら露姫の手を取った。その手の平に、俺は人差し指で二文字の漢字を描いた。

「え? 小太郎様……判りませぬ」

「判らないか?」

「小太郎様、意地の悪い振る舞いは好ましくありませぬ」

 少々拗ねたような口調を聞きながら、俺は声をあげて笑った。

「なら、しっかりと応えてやろう。お前の下に流れ着くもの……それはな?」

 俺は露姫を後から力強く抱き締め、耳元でそっと、その言葉を囁いた。

「え……!?」

 次の瞬間、露姫はくるりと向き直ると、声を張り上げて泣き出した。琵琶湖疏水の流れる音も、風が木々の葉を揺らす音も、何もかもを消し去ってしまいそうな程に、大きな、大きな泣き声だった。それは……生れ落ちた赤子が、生命の誕生を告げるかの様な泣き声であった。俺も一緒になって泣いた。もう、何も判らなくなっていた。ただ、ただ、込み上げてくる想いに付き従うことしか出来なかった。俺も、露姫も、この琵琶湖疏水と一緒だ。ただ、上流から下流へと流れ続けるだけ。そして……流れ、流れ着いた先に――移ろい、移ろい続けた先に、その言葉が流れ着く日も訪れることだろう。そう遠くない未来に。俺はそう信じている。

◆◆◆53◆◆◆

 不意に周囲が明るく照らし出される。赤や黄色、緑に紫。色とりどりの花火が次々と討ちあがっては俺達の歩む哲学の道を照らし出す。

「こ、これは一体?」

「まぁ、一体何が起きたと言うのでしょう? 夜空に大輪のお花が咲いたみたいですわ」

 次々と夜空に浮かんでは消えてゆく色鮮やかな花火。

(クロ達の仕業か? まったく……中々に手の込んだことを)

 ささやかと呼ぶには少々壮大過ぎてはいたが、露姫への餞のつもりなのだろう。ただの無骨な奴かと思っていたが中々粋な計らいを見せてくれるものだ。露姫の生きた時代には花火など無かったことを考えれば、夜空に浮かんでは消える花火の映像はさぞかし不思議な光景に見えたことだろう。

 天狗達は鞍馬山から打ち上げているのだろうか? 静まり返った哲学の道に花火の豪快な音が響き渡る。次々と打ち上げられる色鮮やかな花火の数々に、露姫はただ見とれていた。

「まぁ、とても幻想的な光景ですわ」

「鞍馬山の天狗達の仕業だろう」

「え? 天狗様達が……?」

 露姫は驚いたような表情で俺を覗き込んでいた。天狗達が何を考えて居るのかは、露姫には理解出来なかったのかも知れない。だが、少なくても、そこに篭められている想いは理解できたことだろう。クロ達は僅かながらの時間ではあるが俺達が共に歩む時間を許してくれた。その最後のメッセージがこの花火なのであろう。口では手厳しいことを言っていたが、本心は言葉通りでは無い様子。中々粋な計らいだ。

「でも、とても不思議なお花ですわ」

「不思議な花か。フフ、確かにそうだな」

「夜空に大きく一瞬だけ咲き誇り、すぐに散ってしまうお花達……」

 なおも夜空には次々と色鮮やかな花火達が静かに咲いては、儚く散ってゆく。俺の傍らで静かな笑みを称えたまま、夜空に咲く花火を見つめていた露姫が不意に口を開く。

「夜空に明るく咲く花……だけど、それは一瞬の瞬き。命とは……あの夜空に咲く花火の様なものなのでしょうか?」

 不意に、力丸が以前口にしていた言葉が脳裏を過ぎる。儚い物語を歩んできた力丸だからこそ口にすることが出来た言葉なのかも知れない。

 輝ける時を知るからこそ花は美しく咲き誇れる。紫陽花の花もまた自分が最も美しく咲ける時期を選んでいる。人も、花も同じだ。咲き誇れる場所と、咲き誇れる時間を見付けられたとしたらそれは「幸せ」と呼べるものなのでは無いのだろうか?

「命とは儚いものだ。失われた命は二度と戻ることは無い」

「小太郎様……」

 不意に露姫が俺の手を力強く握る。思わず、俺は露姫の顔を覗きこんだ。

「どうぞ、露の分まで……生きてください。命のある限り」

「ああ、約束するさ。俺がお前の分まで生きるさ」

 露姫は静かな笑みを浮かべながら頷いて見せた。

「降り始める雨の中で見る紫陽花の花……美しき花達は、皆、輝ける時を知っている。梅雨の時節だけに許された美しさ。終わりがあるからこそ、輝けるのでは無いだろうか? 思い通りに咲くことが出来なかった。だったら、また咲き誇ればよい。他者を踏み付けるのでは無く、さらに自分自身を輝かせて」

 そうさ。紫陽花の花は季節が過ぎれば、花は枯れ、哀しく散ってゆくばかりであろう。だが、また次の年になれば葉を芽吹き、再び可憐な花を咲かせることだろう。どれだけの時間を要するのかは判らないが、何時の日かまた会える日が訪れるのだろう。

(さて、コタよ……そろそろ平安神宮へ戻って参れ)

 不意にクロの声が俺の脳裏に響き渡った。ゆっくりと周囲の景色が溶ける様に消えてゆく。ゆっくりと、ゆっくりと……何時の間にか俺達は平安神宮の白砂の広場に佇んでいた。

「コタよ、並びに情鬼露姫よ……供養の儀を取り仕切らせて貰うこととしようぞ」

 険しい表情で俺達を見下ろしながらも、クロは毅然とした振る舞いを見せていた。

「カラス天狗様……心の準備も、覚悟も出来ております」

「ほう? 良き心掛けよの」

 クロは静かに目を伏せながら真言を唱え始めた。

「降三世明王! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 クロの声に呼応するかの様に次々と真言が重なってゆく。次々とカラス天狗達が空から舞い降りてくると、クロに併せて真言を唱える声が重なってゆく。不意に背後から炎が燃え上がる音が響き渡る。後ろを振り返れば、そこには大きな護摩壇が組まれていた。盛んに火の粉を巻き上げながら護摩壇からは炎の柱が高く立ち上る様子が見えた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 カラス天狗達の声が次第に大きくなってゆく。平安神宮全体に染み渡ってゆく真言の音色……空には月明かりが広がり、雲がゆっくりと晴れ渡ってゆく様が見えた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 何時の間にか周囲の景色は露姫の屋敷に移り変わっていた。慌てて周囲を見渡せば、炎に包まれる屋敷の情景に移り変わっていた。燃え上がる炎の中を逃げ惑う人々の姿があった。燃え上がる炎。響き渡る人々の叫び声。燃え上がる炎は一気に勢いを増し、周囲は真っ赤な炎に包み込まれる。あまりの熱さに目を覆わずにはいられなかった。轟々と燃え上がる炎の中から、突然、氷像が現れる……六体の氷像は、何かを訴え掛けるかの様に哀しそうに佇んでいた。赤々と燃え盛る炎の中でも、微塵も溶けることなく佇んでいた。

 俺は慌てて露姫の表情を覗き込んだが、露姫は凛とした表情を崩すことなく目の前の氷像達をじっと見つめていた。

「小太郎様……この者達は露がこの手で殺めた者達で御座います……」

「ああ。目を背けたりしないさ」

 露姫は穏やかな笑みを浮かべていた。ただ静かに。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 クロ達の真言が一際強く響き渡った瞬間、目の前の氷像たちは一斉に砕け散った。そして、そこに現れた光景に俺は愕然とした。

「こ、この場所は!」

 露姫の最期となった場所……あの深い森の奥に佇む、古びたお堂がそこに存在していた。

 驚く俺を後目にゆっくりとお堂の扉が開く。次の瞬間、お堂の中からは凄まじい勢いで吹雪が吹き付けてきた。あまりにも冷たさに、俺は思わず目を閉じた。

「さて……情鬼露姫よ、お主に与えられた罪はお堂の中にある」

「はい、カラス天狗様」

「さぁ、行くが良い」

 露姫は草履を綺麗に揃えると足袋も脱ぎ捨てた。素足になったところで、露姫はゆっくりと俺に向き直った。どう、足掻いたところで運命を変えることは出来ないのだ……。ここで俺が抗ったところで、露姫を救い出す術などは何処にも無いのだ。運命は非情なものだ。露姫に下された裁きの顛末さえも、俺に見届けろというのだから……。

「露姫……」

 凄まじい冷気が辺り一面を包み込む。地面は凍結しており、露姫が一歩、歩み出した瞬間、その足を無残に凍り付かせた。情け容赦の無い冷気に切り刻まれ、白く、柔らかな足から血が滲むのが見えた。俺は思わず目を背けた。見ていられない……あまりにも残酷過ぎる。だが、そんな俺の心の迷いを見抜いたのか、クロが力強く吼えた。

「目を背けるな! 最期まで見届けるのだ! コタよ、お主が命を投げ打ってまで救ってやろうと思った相手よ。最期まで責任を持つのだ。最期まで……新たな旅立ちを見届けてやるが良い」

「ああ、済まない。目を背けたりしない……」

 露姫は激しい痛みに表情一つ変えることなくゆっくりと足を踏み出す。一歩、また一歩。お堂へと続く階段に足を踏み入れた。露姫が歩いた後には凍り付いた鮮血が花の様に咲き誇っていた。

「情鬼露姫よ、花を愛するお主なればこそ、その地で見事、花を咲かせて見せよ。どんなに小さき花でも花であることには変わらぬ。たった一輪の花……その命をお主自身の手で紡いで見せよ。それがお主に下された裁きよ」

 クロの言葉を受け、露姫はゆっくりと俺に向き直った。あくまでも凛とした表情を崩すことは無かった。何て強いのだろうか……其れに引き換え、俺の情けなき事!

「小太郎様、今度こそお別れで御座います……」

 露姫が深々と頭を下げる。頭を下げながら、露姫はそっと何かを差し出して見せた。俺はクロの反応を窺う。行ってやれ……クロが静かに頷くのが見えた。

「……これは?」

「紫陽花の扇子に御座います。小太郎様、大切に保管しておいてください」

「……そうか。そういうことか。ああ、判った。大切に保管する」

 何時の日か、お前に再び出会えた時に、俺の手からお前の手へと受け渡そう。そう、言えなかった……顔をあげられなかった。声を発することも出来なかった! ただただ胸が一杯で……代わりに俺の足元に大きな雫が零れ落ちた。一粒、また一粒。すぐに吹き荒れる冷気の中で、零れ落ちた涙は小さな氷柱に変わって行った。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ! オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 一際強くカラス天狗達の真言が響き渡るのと同時にお堂の扉が勢い良く閉じた。

「はっ!? 露姫ーーっ!」

 その瞬間、吹雪は止み、後に遺されたのはただ静寂だけであった。

「露姫……」

 恐る恐るお堂の中を覗き込んでみたが、もはやそこには何も残されていなかった。ただ、微かな月明かりに照らし出されるだけの、暗い堂内しか見ることは出来なかった。

 不意に背後に人の気配を感じた。クロが静かに俺の肩に手を乗せる。大きく、温かな感触だった。俺はただ、流れるがままに涙を流すばかりであった。

「コタよ、我は冷酷なのかも知れぬ」

「え?」

 先程までの気迫に満ちた口調はそこには無かった。穏やかな口調で自戒の念を語るクロの表情を、思わず覗き込んでいた。月明かりに照らし出されたクロは柔らかな笑みを浮かべていた。

「お主の持つ、暖かな優しさ……我も見習わねばならぬのかも知れぬ」

 じっと俺の眼差しを見つめながらクロは続ける。

「甘さというのも、中々に人らしい感情では無いか。我も一つ、学ぶことが出来た。感謝するぞ、コタよ」

「俺……情け無いよな。泣くことしか出来なかった……格好悪いよな」

 必死で搾り出した声だった。本当に自分でも情けなくなる。俺はこんなにも弱かったのかと。

 だが、クロはそんな俺の表情を静かに覗き込むと、次の瞬間、力一杯俺のことを抱きしめてくれた。

「え?」

「コタよ……辛い想いをさせて済まなかった」

「く、クロ?」

 微かにクロの声は震えていた。俺は酷く驚かされた。クロの淡々とした振る舞いは、俺には非情なものとしか写らなかった。だが、今、クロは心を揺れ動かされているように思えた。こうして、ぴたりと密着することで、クロの想いが俺の中に奔流となって流れ込んでくるような気がした。

「フフ、奇妙な話よの。我が情鬼に……討つべき仇敵に、情を抱くことになろうとはの……この様な振る舞い、他の者達に見られてしまったら、我は笑い者になるであろう」

「笑い者でも良いさ……俺は、そんなお前と共に歩めることを嬉しく思える」

「コタよ……」

「体温の感じられない、冷酷無慈悲なカラス天狗だったら、俺はトモダチになりたいとは思わなかったと思う」

 一生懸命腕を回そうと試みるが、やはりクロの体は俺よりも大きい。腕が回り切らなかった。

「トモダチってさ、辛いことも、哀しいことも、全部、分かち合えるものなんだ」

「うむ」

「楽しいことも、嬉しいことも、全部、分かち合えるものなんだ……だから、クロ、お前の痛みも、哀しみも、俺が半分背負うよ」

 クロはそっと俺から離れると、嬉しそうな笑みを浮かべながら腕組みしてみせた。

「コタよ……その心遣いに感謝する」

「俺達、トモダチだろ?」

「うむ! そうであったな!」

 口にすることは出来なかった……否、口にしてはいけなかった。

 憎悪の能面師と対峙した時のクロは一切の迷いすら見せなかった。だが、露姫と対峙した時のクロは、表面上は冷静さを保っていたが、少なからず迷いを見せていた。俺は微かな不安を覚えていた。

(俺と出会ったことで、クロは本来発揮できる力を発揮できなくなったりしないだろうか? 俺の存在が……クロの足枷になったりしないだろうか?)

「さて、戻ろうぞ。コタよ、皆がお主を待っているであろうからな」

 クロは何時もの様に自身に満ちあふれた含み笑いを浮かべていた。その笑みを見つめながら、俺は考えていた。もしかしたら、クロの反感を買うことになってしまうかも知れない。勝手な行動を取るなと怒らせてしまうかも知れない。でも……トモダチとは全てを分かち合うものだ。きっと、お前なら判ってくれると信じている。

「ああ、行こう」

「うむ」

 俺はクロの背に乗せて貰うと、そのまま上空へと舞い上がった。そこは平安神宮の上空。目指すは此処から鞍馬方面に移動した先、皆が待つ曼殊院を目指して俺達は夜空を駆け抜けて行った。

◆◆◆54◆◆◆

 雨はすっかり上がっていた。晴れ渡る夜空は見慣れた光景で、安心出来る情景であったはずなのだが、どうにも心は晴れ渡らなかった。やれることは全てやった筈。だが、それでも……俺の中では割り切ることの出来ない想いを抱いていた。そんな俺の心の内を見抜いているのか、クロは俺に語り掛けることも無く、ただ静かに夜空を舞っていた。

「もうじき曼殊院に着く。皆に怪しまれぬよう、庭園に降ろす」

「ああ。気遣い、感謝する」

 ゆっくりと地表に近付いてゆく。生い茂った木々の葉は先刻まで降り続いていた雨の名残を残しているのか、水気を孕んでいた。曼殊院を囲む木々の香りを感じながら、俺達は庫裡の奥にある庭園へと舞い降りた。

 庭園から庫裡を覗き込めば皆の姿が確認できた。皆、ぐったりと横たわっている様から察するに、相当体力を消耗してしまったことだろう。

 ふと振り返れば、クロが腕組みしながら静かに頷いて見せた。仲間達の下へ行ってやれ。そんな想いを感じ取ったからこそ、俺は皆の下に急いだ。クロも俺の後に続いた。

「おい。輝、しっかりしろ」

「う、ううーん……あ、アレ? ここは何処?」

 意識が戻ったのか、輝がゆっくりと起き上がる。

「此処は曼殊院だ」

「アレ? 確か平安神宮に居たような気がするのだけど?」

 周囲の情景を確認しながら、輝は怪訝そうな表情を浮かべていた。

 皆、意識が戻ったのか、力丸達も次々と起き上がる。

「おー? 此処はどこだ?」

 皆、一様に困惑した表情を浮かべていた。だから、俺は皆に状況を説明することにした。

「全部、終わったんだ。俺達は此処、曼殊院に訪れたところで、露姫の手により夢の世界へと誘われた」

 何が起きたのかを思い出したのか、力丸が慌てて飛び起きた。

「あー! 思い出したぞ! 露姫はどうした!? あの性悪女め、散々オレ達のことを追い掛け回しやがって!」

「いや、力丸よ、落ち着け。露姫の姿は何処にも無い。それに、ここは曼殊院だ」

 太助が言葉を添えてくれた。事態をそれなりに理解出来ているのだろう。相変わらず鋭い奴だ。

「露姫ならば、もう存在していない」

 俺の言葉に、力丸はますます怪訝そうな表情を浮かべた。

「存在していない? 一体、どういうことだ?」

 疑問に抱くのも無理は無い。露姫が一体どういう存在なのか? 先ずは此処から説明しなければならない。そのためには露姫の素性を話す必要がある。俺は傍らで腕組みしながら成り行きを見守るクロの表情をちらりと覗き込んだ。

(悪いな、クロ。勝手な行動を取ることになるが、怒らないでくれよ)

「数日前に遭遇した能面の騒動を覚えているか? 今回の一件と、前回の能面の騒動との間には繋がりがある。天神さんで皆も見たはずだ……般若の面を扱っていたお面屋を」

「おお。あの不気味なお面屋のことじゃな? うむ。鮮明過ぎる程に覚えて居るのじゃ」

「そうだ。あのお面屋は人では無い」

「おいおい。一体、どういうことだよ? 人では無いってことは、一体何者なんだ?」

「それは『鬼』と呼ばれる存在だ。正確には『情鬼』と呼ばれる存在だ」

 俺の言葉に、背後で息を呑む声が聞こえた。後ろに目線を送れば、腕組みしたまま、クロは大きく目を見開いていた。

「クロ、情鬼の素性に関しては皆にも知って貰う必要がある。俺だけでは無く、皆も当事者になってしまった以上、何も知らないのでは身を守ることも出来ない。安心しろ。カラス天狗のことは、時が訪れるまでは口にはしないさ」

「相変わらず、お主は我の肝を潰す様な振る舞いを取ってくれるものよの。しかしながら、お主の言う通り、皆にも知って貰う必要はあろう。ふむ。続けるが良い」

 事後承諾ではあるが、クロの了解を得られたところで俺は皆にさらに話を聞かせた。

「能面騒動の一連の首謀者は『憎悪の能面師』と呼ばれる、古き時代を生きた能面師が鬼と化してしまった姿。そして、今回の露姫もまた、運命に翻弄され続けた古き時代の娘が鬼と化した姿だ」

 鬼という存在……皆、顔を見合わせていた。無理も無いだろう。唐突に、この様な話を聞かされて、すぐに理解することも難しいだろう。

 雨上がりの木々の隙間からはヒグラシの物憂げな鳴き声が響き渡っていた。

「人ならざる者が相手だとは思っていたが、なるほど。鬼という存在か……。皮肉な話だな。六人の凍結死事件は決して解決することは無いという訳だな」

「そうなるだろうな。警察の……否、人の手に負える相手では無い」

「人の手には負えない相手か。そして、その情鬼と戦う力をお前は持っている。そういうことだな?」

「そうなるな」

 俺は皆の表情を見回した。皆一様に俺の話に真剣に耳を傾けていた。

「えっと、その情鬼と戦う力って、一体どういうものなの? それに、どうしてコタにそんな力が?」

 予想通り、輝の興味を惹く話題であったことだろう。俺は背後から突き刺さる様なクロの鋭い視線を感じていた。

「今は詳しく語ることは出来ない。悪く思うな」

「そっか。それじゃあ、いつか、聞かせてね」

 予想に反して輝はあっさりと食い下がった。恐らくは、輝も判っているのであろう。知らない方が良いこともあるということを。それに、憎悪の能面師の一件では、それなりに怖い目に遭った筈。迂闊に首を突っ込まない方が無難であることを学習したのであろう。

「いずれにしても、皆が知りたいのは一連の出来事の真相であろう?」

「そうだな。特にオレはあの性悪女に散々振り回された身だからな。真相は知りてぇよな」

 性悪女か……。力丸の辛辣な言葉に胸が痛んだが、むしろ、そう思われていた方が露姫も救われるであろう。壮絶過ぎる彼女の過去の真実は俺だけが知っていれば良い。

「露姫の目的に関しては、先刻、詩仙堂で聞かせた通りだ。露姫は探し人を求めていた。その中で、力丸も一度は狙われた」

「おう。そのお陰で、散々おっかねぇ目に遭わされたんだからな」

「だけど、力丸は探し求めている者では無かった。そして、露姫は何を血迷ったか俺に狙いを定めた」

 俺の言葉に皆が驚いた様な表情を浮かべていた。少なくても嘘は言っていない。露姫が俺を狙ったのは事実だ。多くを語る必要は無い。俺を狙う露姫から身を守る為に、俺は露姫と戦った。そして、俺が勝利した。皆に伝える真実はこれで十分であろう。

「……という訳だ」

 どこか拍子抜けした様な表情で、力丸は事の顛末に耳を傾けていた。

「随分と大袈裟な仕掛けを講じた割には、呆気ない結末だな」

「悪党の最期なんて、そんなものだろう?」

「まぁ、それもそうだよな」

 露姫の話は手短に切り上げたかった。重要なのは終わってしまった話では無い。これからの話なのだから。

「皆に情鬼のことを話したのは理由がある。むしろ、ここから先の話の方が重要だ」

 そう。むしろ皆に聞かせたいのは此処から先の話なのだ。だが、此処から先の話はそれなりに長くなるだろう。曼殊院の拝観時間を大きく越えてしまったことを考えると、早々に引き上げねば迷惑になってしまうだろう。俺は皆を促し庫裡を後にすることにした。

◆◆◆55◆◆◆

 外はすっかり暗くなっていた。雨上がりの湿気を孕んだ空気は纏わり付く様に重たく、汗ばむ感覚を覚えていた。

「ひゃー、すごく湿っぽいねぇ。汗かいちゃうよー」

「可笑しな体験したお陰で、オレは既にビショビショだぜ」

「……力丸、もう少し離れて歩いてくれないか?」

「何だよ、コタ。オレとお前の仲じゃねぇかよぅ」

 重量感のある感覚が背中に圧し掛かる。何時もと変わらぬ絡み方をしてくる辺りからして、すっかり落ち着いた様に思えた。やはり、力丸はこうでなければいけない。

「そうだな。俺とお前との仲だからな。あの晩も熱い一夜になった。生涯、忘れ得ぬ体験だ」

 にやりと笑いながら切り返せば、目を大きく見開いて動揺していた。

「お、オレ、こ、コタとそんなにも深い仲になっちまったっけ!?」

「ほう? 力丸、しっかりと責任を取ってやれよ?」

「た、太助まで、変な援護射撃しちまうかー!?」

 そこには笑いがあった。何時もと変わらぬ俺達の姿があった。もっとも、俺の背後にはクロが歩んでいるのを考えれば何時もとは少々異なっているが。

「ところで皆よ、腹は減っておらぬかのう?」

「うんうん。何だか可笑しな体験しちゃったし、お腹空いちゃったよねー」

「久方ぶりに、ひさごで親子丼でもどうじゃろうか?」

 京都市内に数ある飲食店。その中でも、よりによって、その店を選んでくれる辺り、やはり大地の天然さは恐ろしいものがある。予想通り、聞き慣れない食べ物の名称に興味津々な表情のクロの姿があった。背後から小声で問い掛けられて、俺はどう返答すれば良いか激しく悩んでいた。

「コタよ、親子丼とは一体どういった食べ物であるのか?」

「お、親と子を合わせて作る丼ものだ。判り易い例で言えば鮭の親子丼が有名だな。鮭と鮭の子供、つまりはイクラとを合わせて親子丼と言う」

 必死で返答する俺の説明に違和感を覚えたのであろうか? クロは怪訝そうな表情を浮かべていた。

「ふむ? それは漁師町での話ではあるまいか? それに、もっと庶民的な食べ物では無いのか?」

(こ、コイツ……無駄に人の世のことに詳しいから、説明に困る……)

 必死で冷や汗を掻く俺の振る舞いに疑問を抱いたのか、クロはにやにや笑いながら俺の肩に腕を回す。

「して、本当の所は、どうなのであるか?」

「ひさごの親子丼は、やはり、あの出汁が上品であるな」

 太助よ、要らぬ発言をしてくれるな……俺は今、崖っぷちで孤立無援の戦いを繰り広げているのだぞ? その状況下で、背後からの友軍の援護射撃。それも、俺に向けて誤射とはどういうことだ……。

「ぼくは、あのフワフワの玉子の感触も好きだなぁ」

「ふ、フワフワの……玉子、とな?」

(あーあー。例によって、クロの奴、真っ青な顔で硬直しているし……)

「おうおう。それにさ、あの柔らかな鶏肉も堪んねぇよなぁ」

「や、柔らかな……鶏肉とな!?」

(俺は無実だ。一切、犯罪には関与していないぞ)

「な、何をニヤついておるか? わ、我は、断じて『鳥』では無い……ぞ」

 ううむ。クロもまた、力丸並に弄び甲斐がありそうだな。とは言え力丸と違って冗談が通じない奴だからな。あまり迂闊なことをすると手痛過ぎる反撃を受ける目に遭う。

「アレ? コタ、どうしたの? 置いて行っちゃうよー」

 気が付けば、皆、俺を残して歩き出していた。すっかり置き去りにされた俺は慌てて皆の後を追い掛けた。相変わらず青褪めた表情で硬直しているクロもまた、慌てて俺の後に続く。

 俺達は一乗寺の駅を目指して、すっかり暗くなった道を歩んでいた。高台から望む京の街並みは綺麗な夜景に包まれていた。

 一乗寺から出町柳まで叡電で移動。出町柳から京阪で四条京阪まで移動。そこから先は頑張って歩くことになる。この暑さの中、それなりの距離を歩くのは気が退けたが、まぁ、腹が減っては戦は出来ぬ。力丸よ、お前の名言、我が格言辞典に登録しておこう。

◆◆◆56◆◆◆

 シトシトと降り続ける雨の中、俺達は一乗寺まで戻って来た。辺りは日も落ち、だいぶ暗くなっていた。雨足は収まるところを知らない様に思えた。梅雨明けをした割には良く降る雨だ。所詮、天気予報なんて宛てにならないものだな。そんなことを考えながら呆然と駅のホームに佇んでいた。湿気を孕んだ生暖かい風だけが吹き抜けてゆく。不快な感触だ。さっさと風呂に入りたい。そんなことを考えていると、すっかり雨に濡れた叡電が駅のホームにゆっくりと訪れる。

「ひゃー。電車の中は冷房が利いていて涼しいなぁー」

 相変わらず場を弁えない力丸の大きな声が響き渡れば、一斉に皆が振り返る。一瞬、焦ったような表情を見せる力丸であったが何事も無かったかの様に乗り込んだ。

「まったく、賑やかな奴だな……」

「ほら? 怖い体験して、ようやく恐怖から解放されたから、安心感から盛り上がっているんじゃないかなー?」

「ほう? さすがはオカルトマニアだな」

 夕暮れ時ということもあり、それなりに列車の中は乗客が多く、混み合っていた。俺達は端の方に固まって皆で窓の外の景色を見つめていた。窓に叩き付けられる雨が次々と筋となりて流れとなってゆく。ゆらゆらと流れ往く、か細い水の流れを俺はただ静かに見つめていた。

「そういえば、コタよ、どうしてワシらに情鬼の話を聞かせたのじゃ?」

 夕暮れ時の混み合う列車の中、俺達の周囲だけ唐突に空気が変わった気がする。まぁ、そんなことは些細なことだ。さして重要なことでは無い。大地の言葉に興味を惹かれたのか、皆がこちらに身を向ける。

(まったく、人の多い場所でするような話では無いのだがな……)

 俺の傍らに佇むクロもまた、腕組みしたまま苦々しい笑みを浮かべている。

「知らないことが罪になることも、世の中にはあるということさ」

「危険が及ぶということなのじゃろうか?」

「まぁ、そうなるな。憎悪の能面師、露姫……既に二体の情鬼と、俺達は関わりを持ってしまっている。当然、この先も情鬼に遭遇する可能性は高まる。だからこそ皆にも、情鬼にまつわる話を聞かせた訳だ」

 そう。どの様な形で関わるかは判らないが、少なくても今回の一件では、露姫は力丸に積極的に関わろうとしていた。他の仲間達の誰に白羽の矢が立つかは予測不能なのだ。だからこそ、この先、対峙することになるであろう敵のことを知る必要は大いにある。

「人の心から生まれる者か……随分と皮肉な存在だな」

「皮肉だって? どういう意味で皮肉だって思うんだ?」

 興味深そうに問い掛ける力丸に向き直ると、太助は静かな含み笑いを浮かべて見せた。

「長い人の歴史の中で、人の罪が消え失せた時代があっただろうか?」

「あー、なるほどな。人の罪は消えない。だから、当然、情鬼も消えないっつー訳か。まぁ、そう考えると、随分と皮肉な存在達だよなぁ」

 そう。情鬼達は俺達、人を皮肉った存在達なのだ。そして……同時に途方も無く哀しい存在達なのかも知れない。否、そんな情鬼達を討ち取る使命を抱くカラス天狗達は、もっと哀しい立場にあるのかも知れないな。俺の言葉を聞きながらクロは感慨深そうに頷いていた。

「そうかも知れぬ。だからこそ我らは必要以上の情報を与えられてはおらぬ。情鬼とは討つべき敵……それだけを教えられて、育ってきたのだから」

 カラス天狗一族にも、何か深い闇の様な物を感じずには居られない。言葉は悪いが、一族と言う立場を考えれば、露姫の一族とも同じ様な現象が起こらないとも限らない。一族を統括する者は必ずしも万能であり、完全な存在であるとは限らない。当然、道を踏み外すことも、道を誤ることもある筈だ。

 夕暮れ時の叡電の沿線風景は旅愁的で、どこか物悲しい旋律を感じさせる風景だ。こういうノスタルジックな情景が好きだ。原点回帰と表現するのは少々大袈裟な気もするが、価値観としては間違えてはいないだろう。

「いずれにしても、可笑しな単独行動を取ったり、無謀なことに首を突っ込まなければ大丈夫ってことだよねー」

 輝がにこやかな笑顔で綺麗に締め括ろうと試みるが……。

「お前が言うかー!?」

「うわっ! みんなで声揃えてツッコミ入れちゃうー!?」

 場を明るくしようとして口にした言葉なのか、予想通りの天然発言なのか、どちらかは定かでは無いが、ちょうど出町柳に叡電は到着しようとしていた。

「さて、そろそろ出町柳に到着するな。京阪に移動するとしよう」

「ああ、ぼくの発言は、こうして流されて行くのだねぇ」

「テルテルよ、明日は明るい日と書くのじゃ。気を取り直して向かうのじゃ」

 クロは目を細め、俺達のやり取りを見つめていた。そのまま静かに俺に微笑み掛けた。

「良いものだな、友という存在は。楽しいことも、嬉しいことも、全部分かち合える。フフ、お主らの輪の中に、何時の日か我も混ざりたいものよの」

「その時はそんなに先では無い。違うか?」

 俺の言葉に、一瞬目を丸くして驚いた様な素振りを見せたが、クロは嬉しそうに微笑んで見せた。

「うむ。そうであったな」

「おーい、コター! 早くしねぇと、置いて行くぜー」

「力丸が空腹過ぎて、今にも倒れそうだ。悪いが急いでやってくれ」

「おい、こら! 可笑しな脚色付けるんじゃねー!」

 皆のやり取りを見届けながらクロは穏やかな笑みを称えていた。思わず、俺も穏やかな気持ちになれる。ああ、そうさ。皆がいてくれたからこそ俺は此処まで来ることができた。否、これから先もずっと、皆一緒に歩こう。

◆◆◆57◆◆◆

 出町柳で京阪電車に乗り換えた俺達は祇園四条まで移動した。そこから先は少々気合いを入れて歩かなければならないが、それでもなお、美味い物の為ならば頑張れるというものだ。頑張って歩き続けて、ようやく俺達は東山安井にある蕎麦屋ひさごに到着しようとしていた。すっかり辺りは暗くなっているが、店は今日も混雑していた。やはり、訪れた客達は皆一様に親子丼を食べている。店内には親子丼の香りが立ち込めている。色々と思う所があったのだろうか、クロは一度鞍馬山に戻ると言い残すと、青褪めた顔で大急ぎで飛び去っていった。

(ううむ……鳥では無いと主張しつつも、相応に気にしている辺り、中々に複雑な奴だ)

「皆の者よ、親子丼で良いかの?」

「ああ。頼むよ」

 やはり、この店に来たからには親子丼を頼まない訳にはいかない。

「さて、今日は小太郎の失恋祝いと決め込もうか?」

「何故、そうなる……」

 失恋か。そんな感情は抱いてはいない。露姫に対して抱いていた想いは、少なくても恋愛感情では無い。否……完全に否定できるのであろうか? ただ、俺は、俺と良く似た生き方をしてきた露姫の生き方に共感を覚えただけだ。そう……共感を覚えただけだ。

(何故だ? 何故、恋愛感情では無いと、一刀両断出来ないのだろうか? 自分で自分の感情が見えなくなっているというのか?)

 では、この胸が締め付けられるような想いは一体何なのだろうか? 大切な何かを失う感覚……。そうか。今ならば、力丸、お前の気持ちを少しだけ理解出来る気がする。

 もう、露姫と出会うことは出来ない。もう、お前と語らうことも出来ないのだな。何かを失うことの哀しみというのは、こんなにも苦しい物なのか? 身を引き裂かれる様な壮絶な痛みとはこういう感情を指し示すのだろうか? 俺は無意識のうちに露姫から授かった扇子を握り締めていた。

(桜を見ようと持ち掛けたのは俺なのに、今更になってこんなにも胸が苦しくなるとは……)

「コタ、どうした? 何だか顔色悪いぞ?」

 俺の表情を覗き込みながら、力丸が思わず息を呑むのが見えた。

(やはり、お前には見抜かれてしまうか……)

「ふぅー、それにしても、腹減ったよなー」

「リキは何時でも空腹なのじゃ」

「おうよ! この体を維持するためには、それなりのエネルギーが必要な訳さ!」

「維持するの、大変な体なんだねー」

「随分と燃費の悪い体だな」

 力丸は何事も無かったかの様に何時もと変わらぬ振る舞いを見せてくれた。その心遣いが嬉しくて再び涙が零れ落ちそうになってしまった。

「ところで、小太郎。その扇子はお前の物か?」

「この扇子か?」

「そうだ。お前にしては随分と繊細な見た目の扇子だからな。意外に思ったのさ」

「まるで俺のセンスが悪いみたいな言い方だな……」

 太助に言い返した瞬間、大地が、輝が、飲み掛けの水を吹き出した。

「なぁ、コタ……今の、もしかしてシャレのつもりか?」

 引きつった笑みを浮かべながら力丸が問い掛ける。俺は憮然とした表情で返した。

「シャレ? 俺は何時だって大真面目だ。ふざけているつもりなど毛頭無い」

 丁度、そこへ親子丼が運ばれてきた。盛んに湯気を上げる親子丼は良い香りを放っていた。たっぷりの出汁で仕上げた親子丼の玉子はフワフワした感触で、箸で持ち上げると崩れ落ちる程に柔らかく仕上がっていた。

(崩れ落ちる感覚……思い出すな。白砂の広場で砂を掬い上げていたお前のこと……幸せは、何時だって、指の隙間から零れ落ちてしまうものなのだな)

 俺は皆に見せるために扇子を広げて見せた。一瞬皆の手が止まり、次の瞬間、感嘆の吐息が響き渡る。俺は何度も見ているから俺は見慣れてしまったが、描かれている紫陽花の絵は実に意匠が凝らされており、見事な絵柄なのだ。思わず、皆が息を呑むのも理解出来る。

「ほう。これは驚いた。見事な品では無いか?」

「ああ。これは露姫の……形見だからな」

 形見……自分で言いながら、心の奥底に何かが突き刺さる様な痛みを覚えていた。

「とても綺麗な紫陽花の絵だね。でも、何だか哀しげな絵だよねぇ」

「ふむ。しかし、見事な絵なのじゃ」

「形見、か……何だか、哀しい気持ちになるな」

 力丸が哀しそうな笑みを浮かべる姿に、俺の心も酷く痛んだ。そんな俺の想いを見抜いているのか、力丸は静かに箸を置くと天井を見上げながら口を開いた。

「露姫、聞こえていたら許してくれ。性悪女は撤回する。スマン! お前はただ、愛されることを欲していた。ただ、それだけだったんだよな」

 何時の間にか楽しい筈の夕食は、通夜の様な雰囲気に変わってしまっていた。

「でもさ、オレには判る気がする。本当に悪いのは露姫では無いんじゃないか?」

「そ、それは……」

 力丸の言う通りだ。少なくても俺はお前と同じ考えだ。そう考えた時に、不意にクロの言葉が脳裏を過ぎった。『優しさ』と『甘さ』とは似て非なるもの――俺が抱いている考えは『甘さ』なのでは無いだろうか? 俺の甘さが油断を、隙を招いた。あの時クロが参戦してくれなければ、俺はこの場には居なかったことだろう。露姫と共に、永遠に終わることの無い贖罪の日々を過ごしていただけだろう。やはり、『甘さ』では誰も救うことは出来ない。

「答の無い問答というのも、それはそれで粋なものだろう。それよりも折角の親子丼が冷めてしまう。皆、食べよう」

 話題を逸らすことが今の俺に出来る精一杯のことだった。所詮、そんなのは『甘さ』に過ぎない。結局、俺は露姫に対する自分自身の想いを明確にすることは出来なかった。ただ、こうして逃げることしか出来なかった。所詮、俺はただの意気地無しだ。

「うむ。やはり、ひさごの親子丼は最高なのじゃ」

「ああ。この品のある出汁が、やはり最高だな」

 不意に傍らを見れば、意外にも力丸がキュウリの漬け物をかじっていた。

「力丸、お前、キュウリは食えなかったんじゃ無いのか?」

 俺の問い掛けに、力丸は妙に自慢げな顔で向き直ってみせる。

「へへ。確かにキュウリは嫌いだけど、ほら? この漬け物、結構シッカリ浸かっているだろ? だからキュウリの匂いっつーか、味がしねぇから食えるのさ」

 なるほど。キュウリの味や匂いが苦手ということか。当然、大原名物のアイスキュウリの様な浅漬けの類は苦手なのだろう。柴漬けやピクルスの様にシッカリ浸かっているのは好きらしい。ううむ、人の好みというのは中々に複雑なものだ。

 ふと、目を正面に向ければ、親子丼を食べながら輝は何かを考え込んでいる様に思えた。心此処に在らずといった表情で天井を見上げながら、何かを思案している様に思えた。不意に、目線をこちらに向けると嬉しそうに微笑んで見せた。

「紫陽花って、雨が似合う花だよねぇ」

「どうした、急に?」

「うん。蒸し返しちゃうみたいで申し訳ないのだけれど、その扇子、紫陽花の絵が描かれているでしょう? きっと、露姫は紫陽花の花が好きなんだよね?」

「ああ。格別の思い入れを持っているな」

 まるで極親しい間柄の誰かのことを紹介しているみたいだ。自分で言いながら、微かに自分の心の奥底に眠る本心を垣間見た気がする。

「コタが持っている、その扇子。形見なのでしょう? どこかのお寺に奉納してあげれば露姫も嬉しいんじゃないかな?」

「ほう? お前にしては珍しく、平和的な発言だな」

 太助が可笑しそうに笑って見せれば、輝もまた笑い返す。

「珍しくって、ヒドイなー」

「紫陽花が好き、か」

 丼片手に力丸は目を伏せながら、何かを思案していた。

「丼片手に思案って、どういう絵柄なのじゃ……」

 大地の突っ込みにも動じることなく、力丸が嬉しそうに笑う。

「おう。思い付いたぜ。三室戸寺はどうだ?」

「ほう? また、中々に通好みな場所を選ぶな」

 力丸の言葉に太助が感心していた。だが、悪くは無い場所だ。三室戸寺は花の寺としても知られる寺だ。同時に広大な紫陽花の花畑も保有する寺である。紫陽花というキーワードから、俺は真っ先に三千院を思い浮かべた。だが、花を愛する露姫のことだ。三室戸寺の方が、好みに合うかも知れない。

「悪くないな。さすがは力丸だ」

「自称、愛に生きる男というのも伊達では無さそうだな」

「お前ら、褒めているのか、茶化しているのか、どっちなんだよ?」

 何だかんだ言って、皆、露姫のことを肯定的に受け止めてくれている様で嬉しかった。情鬼は、ただ討つべき存在。そんな物の考え方は哀しいと思うからこそ、表面的な姿だけでは無く、物事のあるべき姿を見届けられる様になりたいと切に願う。

 食事も終えた所でこの日は流れ解散となった。店を後にして輝と共に家路に就こうとしたところで、不意に太助に声を掛けられた。

「小太郎、少し話をしないか?」

「ああ。構わないが」

「……それじゃあ、ぼくは先に帰っているね」

「ああ。済まないな」

 何か、話したいことでもあるのだろう。俺は太助に誘われるままに、再び巽橋を目指し歩いていた。夜空は何処までも晴れ渡っていたが、ジットリと纏わり付く様な湿気は残されていた。見た目上は晴れているが、何か、すっきりと晴れ渡らない、俺自身の心を揶揄している様に思える気候に思えた。

◆◆◆58◆◆◆

 太助に誘われるがままに俺は再び巽橋を訪れていた。再びこの場所を選ぶ辺りから察するに、此処は太助に取ってお気に入りの場所なのであろう。

「それで、話とは一体なんだ?」

「まぁ、そう急くな」

 太助は相変わらずの飄々とした振る舞いだ。雨もすっかり上がったが、辺りは雨上がり特有の湿っぽさに包まれていた。周囲は古き時代の面影を残す雅なる情景であった。花街と呼ばれる賑やかな界隈ならではの情景。時の流れが止まった様な景色は俺もお気に入りの場所だ。

 サラサラと涼やかな音色で流れる白川に掛かる小さな巽橋。その欄干から流れ往く白川の流れを見つめる太助の横顔。悔しいまでに絵になる光景であった。俺の視線に気付いたのか不意に太助が振り返った。

「あの娘は悲哀の姫君と呼ぶに相応しい雰囲気を身に纏っていたな」

「判るのか?」

「ああ。多分、俺と似ているからなのだろうな」

 微かな吐息を就きながら太助は欄干に手を着いて見せた。ゆらゆらと流れ往く白川は家々の明かりを受けながらキラキラと光を反射していた。往来する人々も少なくない、賑わいを見せる祇園の街並み。そんな街並みの中に俺達も溶け込む様に佇んでいた。

「過去を変えたい。もう一度、あの時に戻ることが出来たのならば……」

 太助は普段は見せることの無い、哀しげな笑みを浮かべていた。その笑顔は消え往く灯火の様な、ほたるの光の様な哀しみに満ちていた。丁度、白川の流れに写る月の様に酷く儚く、か弱い光にも思えた。

「そんな心の叫びが聞こえた気がしてな」

「そうか。お前にも聞こえていたのだな……」

「一つだけ願いを叶えることが許されるとしたら……俺は、俺自身の過去を変えたいと願ったかも知れない」

 意外な言葉だった。太助の過去を知る俺だからこそ判ることが出来るのかも知れない。だが、それでも太助がその様な言葉を口にしようとは想像もしなかった。

「意外だな。お前がそんな言葉を口にするとはな」

「からかうな。俺はお前達が思っているよりも、ずっと、ずっと、弱く、儚く、情け無い奴だ。何時だって、こうありたいと願う自分を演じているに過ぎない」

 何だか今日の太助は何時もの姿とはまるで別人の様に思えた。だが、俺は内心、そんな姿をさらけ出してくれたことを嬉しく思っていた。それだけ俺に対して心を開いてくれているのだろう。だから、俺も太助の隣に並び同じ景色を眺めていた。ゆらゆらと川面に揺れる月明かりは温かな色合いに感じられた。

「俺に対する第一印象は『変な奴』だったな?」

「フフ。今でも、小太郎。お前のことは変な奴だと思っているがな?」

「変な奴でも良いさ。それが俺なのだからな。お前みたいに男前では無い。だからと言って道化にも成り切れない半端者に過ぎないさ」

「過去を変えていたら、お前みたいに変な奴と知り合うことも無かった訳だ」

 何度も繰り返し、俺のことを変な奴扱いしながら太助は可笑しそうに笑っていた。

「無礼な奴だ」

「だが、気を悪くした訳では無いのだろう?」

「まったく……相変わらず性格が悪いな」

「褒め言葉だ」

 素直じゃない奴だ。まぁ、俺も人のことは言えないけどな。

「なぁ、小太郎。お前は過去を変えたいと思ったことはあるか?」

 今宵は月が綺麗な晩だ。太助は月を見上げながら静かに問い掛けて見せた。酒に酔ったオトナ達の話し声が白川の流れに混ざり合う街並み。サラサラと流れ往く白川の流れを肌で感じながら、俺も月を見上げてみた。

「ああ。過去を変えたいと願ったことはあるさ……」

「そうか。やはり、お前は俺と良く似ているな」

「そうかも知れないな。だから、こうして腹を割って語らうことも出来る」

 一瞬、こちらに目線を投げ掛けたが太助は再び月を見上げていた。柔らかな月明かりと街の明かりに照らされた太助の横顔を俺は静かに見つめていた。

「馬鹿なことをしたと今でも後悔している」

「昔の話か?」

「ああ。あの頃の俺は本当にガキだった。この世の中で俺以上に不幸な奴など居ないと本気で思い込んでいた。だから、何に対しても苛立っていた」

 棘のある口調だった。自分自身に向けられた言葉にすることの出来ない憎悪の念。それは怒りという感情と同一の物だったのかも知れない。

「散々、大暴れして、悪いことをして、その度に警察の世話にもなった。毎度の様に迎えに来てくれる婆ちゃんを随分と困らせたものだ」

 自嘲的な笑みを浮かべながら、太助は声を出して笑っていた。

「なぁ? 俺の過去を知ったら、あいつらはどう思うだろうか?」

「さぁな。俺はあいつらでは無いから判らん」

「お前は相変わらず手厳しいな」

 吐息交じりに笑う太助の声を聞きながら、俺は静かに息を吸い込んだ。

「だが、そんな程度でお前から離れていくような奴らでは無いさ」

 俺の言葉に太助は不意に真剣な眼差しを浮かべて見せた。こちらに向き直り、じっと俺の目を見据えていた。こうして間近で向き合うと、その鋭い眼光に身が竦む。慣れているとは言え、相変わらず迫力のある眼光だ。

「過去を変えたい……やはり、俺にはその気持ちは理解出来ないな」

「今のお前に取っては、だろ?」

「ああ。確かに、消し去りたい過去ではあるが――」

 不敵な含み笑いを浮かべながら太助は歩き始めた。着いて来いと言わんばかりの足取りで、賑わいを見せる白川南道へと歩んでゆく。

「過去を変えていたらお前達と出会うことも無かった」

「ああ。それに、賢一さんとも知り合うことも無かっただろうな」

 俺の言葉に太助は微かに照れくさそうに、空を見上げて見せた。

「そうだな。賢兄に出会えなかったら、俺はずっと馬鹿な生き方を続けていたかも知れない」

 歩きながら太助は静かに微笑んで見せた。

「そう考えると、あの露姫という娘の想いは、あまりにも哀し過ぎるのかも知れないな」

「そうだな……」

「本気で過去を変えたいと願う。それ程までに一切の救済無き暗夜航路を歩み……そして、短い生涯を終えてしまったのだろうな。そんなのって、余りにも哀し過ぎるよな……」

 太助は俺と良く似た一面を持つ。無骨で不器用でぶっきらぼう。だから、人に誤解されることも少なくない。自分でも判っているクセに敢えてその姿を貫こうとする。本人も判っていて敢えて演じる。自分では無い、偽りの自分を演じ続ける。数多の自分を演じ切る太助だからこそ、露姫の心の奥底に眠る哀しみにも気付くことが出来たのかも知れない。

「そうだな。何時だって弱者は哀しみを背負わされるばかりだな」

「救ってやりたいな。そういう奴らこそ」

「ああ。だから、そのためにも手を貸してくれ」

 俺の言葉に一瞬驚いた様な表情を見せたが、太助は静かに微笑み返した。

「何の力も持たない俺だが、何かの役に立てるならば全力で挑ませて貰うさ」

「ああ。頼りにしているぞ」

 だいぶ夜も更けてきた。賑わいを見せる祇園の街を後に俺達は祇園四条を目指していた。俺にとっては帰り道。醍醐に住む太助を見送り、家路に就こうと考えていた。色々なことがあり過ぎて、正直、体が悲鳴を挙げている。露姫との一件で途方も無く体力を消耗したのは事実だ。徒然なるままに街並みを歩いているうちに南座前まで到達していた。

「それじゃあ、また明日な」

「ああ。また明日」

「……小太郎」

 手を振り、別れを告げたところで、唐突に太助に呼び止められた。

「何だ? どうした?」

「また、一緒に語り合おうな」

「ああ。お前と語らうのは嫌いでは無い」

 こうして俺は太助に別れを告げ、家路に就いた。南座は相変わらず不夜城を思わせる様な豪華絢爛な存在感を誇示している。まさに祇園の顔だ。そんなことを考えながら、俺は点滅し始めた信号を急いで渡った。

◆◆◆59◆◆◆

 家路への道を歩みながら俺はクロのことを考えていた。唐突に鞍馬山に戻ると言ったきり、まるで姿を見せる気配が無い。何かを企てている様な気がして落ち着かなかった。

(クロのことだからな……ただで済むとは、到底思えないのだが)

「ふむ。我のことを四六時中想っておるとは、中々に愛い奴よの」

 唐突に背後から声を掛けられ、驚きの余り、危なく悲鳴を挙げてしまうところであった。

「お、驚かせるな……」

「我は驚かせたつもりは無い。コタが勝手に驚いただけのことよ」

 腕組みしながら不敵に笑う様子から察するに、やはり、先刻のことを怒っているのであろうか? ううむ……変な所で繊細だったりするから、クロは扱いが難しい。

「フフ、コタよ、我と共に夜半の街を旅せぬか?」

「生憎、体力も限界に差し掛かろうとしているところなのだけどな」

 クロは腕組みしたまま、静かに俺を見つめている。

(その選択肢には、どうやら拒否権は無さそうだな……まったく、相変わらず良い性格をしている)

 花見小路は夜が更けても賑わいを見せている。相変わらず、人々が往来する様が見て取れる。表通りで立ち止まるのも、少々奇異な存在に見られてしまう。俺はクロの手を引き、わき道へと逸れた。

「それで、今宵はどこに旅立つつもりだ?」

「フフ。そう邪険に扱うで無い。今宵の旅の地……それは平安神宮ぞ?」

 平安神宮――露姫を巡る連の事件の発端となった場所。だけど、それは現実世界の平安神宮では無く、露姫の屋敷が舞台となっていた筈だ。今更平安神宮を訪れた所で一体何を得ることが出来るのであろうか? 否、クロのことだ。何か考えがあってのことなのだろう。

「まぁ、良い。お前も俺と同じで、一度言い出したら考えを変える気など毛頭無いのだろうからな」

「フフ。良く判っておるでは無いか? それでは平安神宮に参ろうぞ」

 半ば強引にクロの背中に放り投げられると、そのまま俺は平安神宮へと運ばれることになってしまった。それにしても、今夜のクロは普段とは一味違った強引さというか、妙な勢いの様な物を感じる。何よりも、普段は感情を表に出すことが無いクセに、どこか不機嫌そうに振舞っているのが気になった。

 京の都の夜景を眺めているうちに俺達は平安神宮に到着しようとしていた。四条から直線距離で考えれば大した距離も無い。ましてや、クロの速度で大空を舞えばすぐに辿り着くだろう。

 地上に降り立った所で、俺は目の前に佇む広大なる応天門と向き合っていた。胸が締め付けられる想いで一杯だった。

「この場所を訪れるのは辛いな……」

 俺の言葉を聞きながらも、クロは静かな含み笑いを浮かべながら腕組みしてみせた。

「まったく、俺はもう既に体力の限界に差し掛かろうとしているのだぞ? 無理をすれば三途の川の向こう側に旅立つやも知れないところだ」

「ふむ。それならば……これを飲むと良い」

(な、何だその竹筒は? というか、懐から取り出した様に見えたのだが……)

「なぁ、クロ……これ、生暖かいのだが……」

「ふむ。細かいことを気にするで無い」

(気にするよ!)

 相変わらずクロは不敵な笑みを浮かべたまま俺のことを見つめている。まぁ、カラス天狗の秘薬だと考えれば効果は期待できそうだ。俺は竹筒の封を開けてみた。だが……。

「お、おい……クロ、コレは一体何が入っている?」

 俺の中に眠る野生の勘が危険を告げている。一体何の匂いなのか全く想像が尽かないが、明らかにヤバい匂いがする。異臭などというレベルでは無い。強烈な刺激臭に、ますます意識が遠退きそうになった。

「ふむ。騙されたと想って飲んでみるが良い」

「まぁ、お前がそう言うならば……」

 俺は鼻をつまみ、一気に飲み干した。喉を駆け巡る凄まじい刺激。何かを漬け込んだ酒であることは間違い無さそうだが、恐ろしい異臭が体中を駆け巡る。それと同時に一気に燃え上がる様に体が熱くなった。

「……驚いたな。一気に力がみなぎった気がする」

「ふむ。肉体疲労時の栄養補給という奴よの」

 得意げに微笑むクロを見つめながら、違った意味で力が抜けそうになった。

(一体、コイツはどこから、そういう言葉を覚えてくるのだろうか?)

「何を使っておるかは知らぬ方が良いかも知れぬ。世の中には知らない方が良いことなぞ幾らでもあるからの」

 軽く殺意を覚えた気がする。

「さて、それでは平安神宮の中に入るとしようぞ。フフ、この程度の門なぞ我の前では何の意味も為さぬ」

「敢えて犯罪行為を、声を大にして叫ぶというのも如何なものかと思うぞ?」

 まったく……無駄に妙な振る舞いを見せられたお陰で、色々と考えていたことが消え失せてしまった気がする。否、もしかしたら俺を気遣って、敢えて道化を演じているというのか? だとしたらクロの想いに感謝だ。

「さて、参るぞ」

 唐突にクロに引っ張り挙げられ、俺は宙に舞い上がった。突然のことに、思わず悲鳴を挙げそうになったが、あっという間に応天門の中に舞い降りた。

「相変わらず手荒なことだ」

「まぁ、良いでは無いか?」

「自分で言うか?」

 俺の突っ込みに動じることも無く、クロは腕組みしながら静かに空を見上げて見せた。

「月の綺麗な晩であるな」

「ああ。雲一つ無い空模様だな」

 白砂の広場から眺める月夜――不謹慎ではあるが、クロが居なければ見ることの無かった情景であった。クロには翼がある。大空を自由に羽ばたくことの出来る雄大なる翼がある。恐らく、何処へでも行けるのだろう。

 俺達は白砂の広場を歩み、白虎楼の脇から庭園へと入っていった。夜半の庭園は生い茂る木々の為か、光の差し込まない暗闇が広がっていた。足元すら判らない程の暗闇の中、俺はクロと共に歩んでいた。静けさに包まれた庭園の中には俺達が歩む音だけが響き渡っていた。

 歩きながら俺はクロに確かめたいことがあった。それは、どうしても確かめなくてはならないことであった。今更ながらになってしまうがクロの心を知りたかった。

「クロ、何故、あの時、強引に露姫に攻撃を仕掛けようとした?」

 俺の問い掛けに、少し前を歩んでいたクロが静かに足を止める。

「ふむ。やはり、そのことを問うか……」

 クロは静かにこちらを振り返ると、哀しそうな表情で空を見上げて見せた。夜空には穏やかな色合いを放つ青白い月が瞬いていた。水の流れる音と、風が草や木の葉を揺らす涼やかな音色だけが響き渡っていた。

「言い訳にしかならぬが、露姫を力づくでも阻止したかったのだ。コタを引き摺り込もうとする意思が見て取れたのでな」

「そうか。俺を守るためだったのか」

「フフ、しかしながら、逆効果に終わっただけであったの。結果的に露姫の怒りを買ってしまったのだ。その結果、焦った露姫が一気に行動に出てしまったのであるから」

 皆が皆、自身の正義に従って行動している。そこには正解も間違いも無かったのだろう。少なくても、俺を……否、皆を想っての行動だというのが嬉しく思えた。

「だが、仮に露姫が心を乱すことが無ければ、我は露姫の創り上げた夢の世界に侵入する術は無かった。コタを助けることにも失敗していたであろう」

 優しさと甘さとを履き違えてはならないという教訓、これからの戦いにも活かすことにしよう。

 そういえば、もう一つ聞きたいことがあった。あの時、夜空に咲いた大輪の花火のことを。

「花火をあげたのはクロ達なのだろう?」

「さて、何のことであろうかの?」

 腕組みしながらも、クロは可笑しそうに笑っていた。

「中々粋な計らいだった。俺からも感謝するよ」

「……コタに取って、あの露姫という情鬼は、特別な存在になった様に思える」

 不意に、クロが鋭い眼差しを向ける。全てを見透かすかの様な鋭利な眼差しだった。

「お前の言う通り、俺と露姫は良く似ている。だからこそ、力になってやりたいと思った。かつての自分を見ている様な気持ちになってな。無我夢中だった」

 クロは静かに腕組みしながら、再び夜空に浮かぶ月を見つめていた。

「友を欲する想い、か。その想い、我も共感を覚えた」

「そうか。クロは人と友達になることを、長い間願い続けた身だものな」

 自分で言いながらも俺は内心、意外に感じていた。露姫は情鬼だ。クロ達、カラス天狗にとっては討ち取る対象でしか無かった筈だ。だが、今、クロは俺の予測を打ち砕いた。否、変わり始めているのだろうか? 人である俺と関わったことにより、クロの心の中にも人の感情が芽生え始めているのかも知れない。否、これは無礼な表現だな。まるで、カラス天狗には心が無い様な言い方だったな。

「そういえば、クロには家族はいるのか?」

「鞍馬山に住むカラス天狗は一族全体が家族の様なものよ」

「なるほど。一族全体が家族みたいな存在ならば、やはり、明確な友と呼べる存在を欲するのは理解出来るな」

 露姫に取っては唯一心を許すことが出来た存在が満久であった訳か。だが、その満久は復讐に燃えるあまり、心を見失ってしまった。救いなんか何処にも無かったのだな。

「露姫は幸せであったのかも知れぬな」

「露姫が……幸せだった?」

 そんなことあるものか。信じていた、たった一人の存在に裏切られた露姫は、何処までも孤独だった。哀しみに、不幸に満ちあふれていただけの人生だった。それなのに幸せだったとは、一体どういうつもりだ? 俺は憮然とした表情でクロを睨み付けていた。だが、クロは力無く微笑んで見せた。

「コタの寵愛を、その身で一心に受け止めておった。我の存在を見失う程の寵愛をな? これを幸せと呼ばずして何と呼べば良い?」

 哀しげな、どこか苛立ちの篭められた口調だった。中々自分の感情を表に出さないクロが、これ程までに鮮明に自らの想いを見せるとは驚きだ。

 力丸の家で出くわしたクロが口にした言葉、今思えば随分と辛辣な言葉の数々であった。

『俺が……心を奪われているだと!?』

『違うと申すか? あの娘に入れ込み、心奪われ、色香に惑わされておる。否定出来ると申すか!?』

『お、俺は……』

『凍死した六人と何ら変わらぬ淫らな欲望に、男としての本能に突き動かされただけであろう!? コタよ、お主はあの娘と結ばれたいのであろう! 本能の赴くままに!』

 なるほどな……それがお前の想いということか。

「クロ、お前は露姫に嫉妬しているのか?」

「嫉妬? そうか……これが嫉妬という感情? ううむ、言葉にすることの出来ぬ、何とも不快な感情よの」

 自ら口にした言葉にクロ自身も戸惑いを覚えている様に思えた。恐らくは、自分で自分の感情が見えなくなっていることに不安を覚え、同時に苛立ちを覚えているのだろうと思った。

「光栄だな。俺はお前に、そんなにも想われているのだな」

「か、からかうで無い……」

「ほう? クロが動揺する姿を目にするとはな。クロの言葉を借りれば『愛い奴』だな」

「な、何を申すか! わ、我は……ただ……」

 何時に無く動揺した姿が可笑しくて俺は声を挙げて笑っていた。クロは照れ臭そうに目線を逸らしながらも、何時もの様に腕組みしてみせた。必死で憮然とした表情をつくろうとしている様が手に取る様に判り、可笑しくて仕方が無かった。

「人の感情を抱く様になるとはの。コタと出会い、我は変わり始めたのかも知れぬ」

「ああ。そうだな。だが、同時に不安になる」

「不安、とな?」

「ああ。なまじ人の感情を知ったがために、戦いの手が揺るがないかが気になる。俺の存在がお前の足枷になっていないかが気に掛かっている」

 思わず目線を落とす俺の隣に並ぶと、クロは力強く俺の肩に腕を回して見せた。

「何を申すか? お主と出会えなければ我は大切なことを何も知ることは無かった。お主と出会えて、本当に良かったと思っておる」

 知り合えたことを喜んでくれるのは光栄だが、こうも直情的な想いをぶつけられると、照れてしまうというものである。だが、これは中々に面白いことになってきた。俺は思わず悪乗りしていた。

「なぁ、クロ。お前は俺のこと、どう思っている?」

 明らかに息を呑むのが聞こえた。だが、クロは必死で平静を装おうと試みていた。

「さ、さて、コタよ。眠れぬ日々を過ごし、相当に疲れておることであろう?」

(お? 声が裏返っているし。しかも話題を変えてきたな? ううむ、実に面白い奴だ)

「ああ。一連のゴタゴタのお陰で、安心して眠れなかったからな」

「フフ。もはや、眠りを妨げる脅威は去った。今宵は存分に眠るが良い」

「そうさせて貰うよ」

 やはり、蓄積された疲労はそうそう容易く消え失せるものでは無かった。安堵したところで一気に疲れが出てきたような気がする。

「さて、戻ろうぞ」

「ああ。帰り道も頼むぞ」

 俺はクロの背に揺られながら家路に就いていた。恐れるものは何も無い。少なくても、クロが傍に居てくれる。それだけで心強かった。月明かりの綺麗な晩だ。夏の蒸し暑い夜。だからこそ、月明かりが余計に映えて見える気がしていた。

◆◆◆60◆◆◆

 家に帰った俺は布団に崩れ落ちると、そのまま意識を失ったらしい。やはり、生身の身に過ぎない俺には荷が重すぎたのだろうか。体力には自信があったつもりではあったが、やはり、人の体は内面からの攻撃には脆いものだと実感させられた。

 穏やかな笑みで俺を見守るクロの表情を微かに記憶しているだけだった。

 一瞬のうちに意識を失った俺が次に目を覚ました時には、既に窓からは明るい日差しが差し込んでいた。相当疲れ切っていたのだろう。こんなにも深い眠りに就いたのは久方ぶりのことであった。だが、無情にも朝は訪れる。生きている以上、時の流れを止めることは出来ないのだから。否、言い換えれば、それは俺が生きているという証なのだから。

「ふむ。良く眠れたかの?」

「ああ。むしろ、寝足りない位だ」

 クロと語らいながらも俺は身支度を進めた。朝食を済ませシャワーを浴びた。クロに短く別れを告げ、俺は学校を目指した。ああ。今日は露姫も一緒だ。少しだけ待っていてくれ。お前が気に入ってくれるであろう寺に連れて行ってやるからな。

 晴れ渡る空は澄み渡る青一色。大きく膨れ上がった入道雲は夏の装いを紡ぎ出していた。じっとしているだけでも汗が滴り落ちてくる。俺は乱暴にタオルで汗を拭いながら学校への道を歩んでいた。

 暑い朝だ。蝉の鳴き声がそこかしこから響き渡る。クマゼミの独特の鳴き声が響き渡る。汗を拭いながら俺は東大路通を歩き続けた。往来する車の流れを見送りながらも、ただ、ひたすらに歩き続けた。東山七条を左手に曲がれば学校へと続く坂道に至る。不意に、誰かが駆け込んでくる足音が聞こえる。

「おはようさんなのじゃ、コタ」

「ああ、大地。おはよう。今朝も暑いな」

「うむ。そんなコタには、これを授けるのじゃ!」

 ああ、ありがとうと言いながら、受け取った団扇を見て、思わず息を呑んだ。

(出たな、嵐山旅館団扇……眩しいまでの原色の赤! だな……)

「こういう場面でも商魂魂を失わない、お前の逞しさには、毎度感服させられるな」

「そうかの? まぁ、団扇は常時大量に持ち歩いているのじゃ。幾らでもプレゼントするのじゃ」

「否、一つあれば十分だ……」

 何だか安心する。大地の恐ろしいまでのマイペースさを肌で感じる。つまりは、ここは虚構の世界では無く、紛れも無い現実の世界だということの証になる。全ての種明かしは判っているとは言え、露姫との一連の出来事は虚と実の区別を見失うには十分過ぎる体験であった。

「大地、昨晩は良く眠れたか?」

 思わず大地の坊主頭を撫でながら問い掛けていた。大地は可笑しそうに笑いながら返す。

「うむ。ワシは何時も良く眠れるのじゃが、昨晩は何時も以上に良く眠れた気がするのじゃ。中々に衝撃的な体験じゃったからのぅ。まぁ、夢の中にまで露姫が出てこなかったのは幸いだったのじゃ」

 満面の笑みを見せる大地の表情に、何だか俺まで笑いが込み上げて来る。人を笑わすことの出来る笑顔の持ち主。その素朴な温かさは、沈んだ心も温かく照らしてくれるような気がした。大地はそういう一面を持つ。だが、それは大いに尊敬に値する能力だと感じる。皆が笑顔で居られたとしたならば、争いは起こらなくなるのだろうから。情鬼という哀しい存在を討ち取る必要もなくなるのだろうから。

「お! コタよ、少々急ぐのじゃ!」

「む。もう、そんな時間か」

「ふむ。折角の清々しい朝に……」

「ああ。禍々しい体験は避けたいところだな」

 俺は大地と顔を見合わせると、力強く地面を蹴り上げた。そのまま勢いに乗って坂道を一気に駆け上がる。登校中の仲間達を次々とごぼう抜き。やがて見えて来る、仁王門の守護者の如き亀岡の姿。相変わらず威風堂々とした殺気を放っている。その姿はまるで壁だ。時の流れから脱落した者達を容赦なく阻む、堅牢なる壁だ。だが、俺達は一気に駆け抜ける。

「ほう? 今朝は随分と元気が良いことだな」

「ああ。そうそう何度も、お前の必殺技を喰らいたくは無いからな」

「という訳で、今日はワシらの勝利なのじゃ」

 俺達の言葉に亀岡は苦笑いを浮かべていたが、遅刻をしないのは良いことだ。少なからず俺達は間違えたことは言っていない。

「口の減らない奴らだな。まぁ、次に遅刻した時には、五割増しで挑んでくれよう!」

「ご、五割増し……」

「ぬう、亀岡よ。そんな振る舞いじゃから、何時まで経っても独り身のままなのじゃぞ?」

 やれやれと言った表情で笑う大地の言葉に、みるみるうちに亀岡の表情が険しくなってゆく。無防備にも亀岡に背を向けたまま可笑しそうに笑う大地は、その身に迫る深刻なる危機に全く気付いていない様子であった。

(よ、余計なことを……敢えて休火山を噴火させる様な真似をするとは、中々に勇気ある行動だな。だが、俺は逃げるぞ……スマン、大地よ)

 俺に向き直りながら可笑しそうに笑う大地。その背後から忍び寄る野生の熊を思わせる亀岡の姿。俺は何も見なかったことにして校庭を早足で突き進んでいた。一瞬――そう。一瞬だが、亀岡の目が怪しく光り輝いた様な気がした。そして、次の瞬間……。

「必殺ぅーーっ!」

「ふんぎゃー!」

 友の屍を乗り越えて俺は皆の待つ教室を目指した。決して、後ろは振り返らない。俺は前だけを目指して歩むと誓ったのだから。

(大地よ、お前の笑顔……俺は忘れない。安らかに眠れ)

◆◆◆61◆◆◆

 教室に着くと、既に輝達が語らっている姿が見えた。

「ああ、コタ。おはよう」

「皆、おはよう」

「今日は皆で三室戸寺に行くのでしょう? 一応、皆で地図を確認していたところなんだ」

「そうそう。何しろ若干一名、迷子の人間国宝がいるからよ」

「い、いきなり無礼な発言だな……」

 苦笑いを浮かべていると、既に力尽きそうになった大地がふらふらとした足取りで歩み寄ってきた。

「おいおい、ロック、どうしちまったんだ!? 今にも死にそうだぜ!?」

「うう……。な、何で、亀岡は……石鹸の良い香りなのじゃ? 汗臭い方が、まだ救われたのじゃ……ガクっ」

「ほう。大地がくたばったぞ」

「あー。アレ、やられちゃったんだねぇ」

 変わることの無い日常がそこにあった。何時も、こうやって五人集まっては馬鹿なことばかりしている。だけど、こんなくだらないことをしている時が、本当に幸せなのだと改めて実感する。皆がいてくれて本当に良かった。そんなことを考えていた。

「今更なんだけどさ、三室戸寺にいきなり押し掛けて行って、ちゃんと話聞いて貰えるもんかな?」

 力丸にしては珍しく慎重な姿勢を見せていた。何時もだったら当たって砕けてみてから考えようという考え方を見せるだけに、少々意外な感覚を覚えていた。

「まぁ、適当に袖の下でも貢げば、言うことは聞くだろう」

(そ、袖の下って……太助よ、相変わらず、問題発言だな)

「それで駄目なら、軽くシメてやれば良いだけのことだ」

「お前が言うと、真実味があり過ぎて笑えねぇな……」

 皆は心配している様子だったが、俺の中ではどこか確信を抱いていた様な気がする。きっと、三室戸寺の住職殿は快く聞き入れてくれるだろう、と。一体何を根拠に、その様なことを言っているのかと問われれば答に窮してしまう。勘、とでも言えば良いのだろうか?

「はーい、皆さん、ホームルームを始めますよー」

 そうこうしている内に山科が教室に入って来た。まぁ、詳しい話は昼休みにでも決めれば良いだろう。目的地も決まっている以上、今更何かを決める必要など何も無いのだから。

 時間の流れが過ぎてゆくのは早いもので、何時もと変わらぬ時間だけが過ぎ去ってゆく。疲れもあって、何度と無く意識が途切れながらも俺は授業に必死で耳を傾けていた……つもりであった。多分。正直な所、殆ど記憶に残っていない辺りから察するに、豪快に居眠りをしていた可能性は否定出来なかった。そして迎えた昼休み。俺達は食料片手に屋上への階段を歩んでいた。

「うぉっ!? こりゃあ、気合いの入った日差しだぜ!」

「ひゃー。暑いねぇ。一気に汗が噴き出しちゃったよー」

 一瞬、クラっとする程の強い日差しに、思わず視界が揺らぐ感覚を覚えた。確かに、強い日差しだ。いよいよ本気で夏に突入しようとしているのだろう。威勢の良い蝉の声が辺り一面から響き渡る。俺達は出来るだけ日の当たっていない場所を選んで腰掛けた。

「ひっ! あ、熱いのじゃ! 手が焦げそうになったのじゃ!」

「ああ。この日差しだからな。地面の温度も相当高くなるだろう」

 とか言いながらも、相変わらず涼やかな立ち振る舞いを見せる太助に、俺は疑問を抱かずには居られなかった。コイツは暑さを感じないのだろうか、と。太助の真似をして俺も露姫の扇子で扇いで見た。だが、纏わり付く様な暑い空気をかき回したに過ぎなかった。

「露姫の扇子にさえ特別な力が無いのに、太助は何時だって涼やかにしているよな」

「ふむ。つまりは、その扇子に秘密があるのでは無いという訳じゃな」

「……お前達、俺のことを一体どういう目でみている?」

 蝉の声が響き渡る中、俺達は昼飯にしていた。どんなに暑かろうが何だろうが腹は減る。だから、こうして食事を採る訳だ。実に判り易い構図では無いか。生命を維持するために食事を採る。俺達が生きていることの証に他ならない。

「これだけ暑いと、雲も元気一杯に発達するのじゃ」

 大地が指差す先には大きく膨れ上がった入道雲が見えた。夏の風物詩とも呼べる光景。もう一つの夏の風物詩とも呼べる夕立にはご用心という訳だ。何もせずとも汗が滴り落ちる程の暑さということは相応に雨雲も発達する。今は澄み渡る青空だが、夕暮れ時になれば何処からともなく音も無く忍び寄る者がいる。何時の間にか頭上に現れた時には、もう既に臨戦態勢となる。響き渡る雷光に轟く雷鳴。次の瞬間には滝の様な夕立に襲われるというのは良くある話だ。

「おう、皆、傘は持ってきているか? こりゃあ、夕方になれば、派手に降るかもだぜ?」

「ふふーん。こんなこともあろうかと思って、ちゃんと準備してきたよ」

 楽しげに振舞う皆の姿を見届けながら俺は静かに空を見上げていた。雨か……。雨も悪くないかも知れない。叩き付ける様な雨をこの身に感じる時、少なからず心が晴れやかな気持ちになれるから不思議に思える。中途半端な小雨程度では何ら感じることも無いが、潔く叩き付ける様に降る雨には清々しささえ覚える。

「夕立如きでは小太郎の燃える情熱を止めることなど、出来やしないだろう」

「ああ。雨が降ろうが、雷が落ちようが、俺は露姫を三室戸寺まで送り届ける。それだけだ」

「へへ。今日のコタは何時にも増して、熱いよな」

「茶化すな。ただ、俺は露姫のために出来ることを為し遂げたいだけだ」

「ああ。判っているさ。だから、オレ達もお供させて貰うからよ、大船に乗った気分で行こうぜ」

「リキが乗る船では、何だか重みで沈んでしまいそうなのじゃ」

「わっはっは。良いじゃねぇか。冒険ってぇものは、波乱万丈じゃ無きゃ面白くねぇだろ?」

(ううむ……力丸よ、輝に毒されていないか? その物の考え方は危険な香りがする)

 響き渡る蝉の声。何処までも続く青い空。山々に抱かれた木々の緑。屋上から見渡す景色は、広大な情景で心が広くなった気持ちになれる。

 さて、三室戸寺までどう向かおうか? 学校からの位置関係で考えれば、まずは七条まで移動する。そこから京阪で一本というルートが妥当だろうか。途中、中書島で乗換えが発生するのが少々面倒ではあるが他のルートは無い。厄介なのは三室戸の駅から三室戸寺まで相当距離があるという部分だろう。

「放課後になったら、さっさと向かうとしよう」

「そうだな。天気が崩れる前に到着したいところだからな」

 昼食を終えた俺達は午後の授業に向かうべく階段を下っていた。変わることの無い日常の景色。だからこそ、露姫のことを想わずにはいられなかった。

 午後の授業も殆ど意識を保っては居られなかった。やはり、蓄積し切った疲れというものは、そうそう容易く消え去ってくれるものでは無いのかも知れない。そんなことを考えながらも、何時の間にか放課後になっていた。

 窓の外に目線を投げ掛ければ、昼前の澄み渡るような青空は何処へ行ったのか、空は厚い雲に包み込まれていた。深い鈍色の空は見る者の気持ちをも沈ませる程に深い色合いに思えた。

「何時の間に、こんなにも雲が広がったのか?」

「やっぱり、こういう暑い日は夕立が付き物なのかも知れないねぇ」

「いずれにしても、目的地に辿り着くまで降らないと良いのじゃが」

「おいおい。目的地は駅からすげー遠いんだぜ? せめて、駅に戻ってくるまでは踏ん張って欲しいよな」

 思わず笑いが毀れてしまう。皆、大自然を相手に随分と好き勝手なことを言っているでは無いか。何時だって大自然は気まぐれな上に、強大な力を持っている。俺達が幾ら抗おうとしたところで、到底太刀打ち出来る様な相手では無い。判っているが、それでも不平不満をこぼさずには居られない。何しろ単純な力関係で見ても、どう考えても俺達は圧倒的に分が悪い。

 露姫の扇子を広げながら外の景色を眺めていると、不意に背後から声を掛けられた。

「あら? 素敵な扇子ね」

 桃山の妙に可笑しそうな口調に、俺は何か嫌な気配を感じ取っていた。

「カタブツだと思っていたけれど、実は、実は、違っていたりしたのかしら?」

「……何の話だ?」

「もう、とぼけちゃって。そんな素敵な扇子を贈る相手なのだから、お相手はさぞかしお上品なお嬢様なのでしょう?」

 予想通り、妙な勘違いをして喜んでいる様子であった。思わずため息が毀れる。

(そういう物の考え方は、あからさまにオバサン的な思考回路だな……)

「何だ、何だ? 楽しそうに賑わっているでは無いか」

(ここに、さらに亀岡まで乱入してくるか? 面倒過ぎる展開になるのは間違いなしだ……)

「お!? 朴念仁の四条にもとうとう春が訪れたか!?」

「何故、そういう展開になる!」

 俺の憮然とした表情に気付いたのか、輝達が悪意に満ちた含み笑いを浮かべていた。こいつらも共犯者に成り下がるか? ならば、皆まとめて成敗せねばならなくなるな。

「それで、お相手はどんな娘なのかしら?」

 可笑しそうに笑い掛ける桃山に向けて、輝はとんでもないことを口走った。

「嫌だなぁ。コタが想いを寄せているのは、桃山先生なんだよ?」

「な、何だと!?」

(お、おい、亀岡よ……何をそんなに動揺している? まさか、お前!?)

 酷く狼狽した素振りを見せる亀岡に一斉に皆の冷ややかな視線が注がれる。ますます悪意に満ちた笑みを浮かべる輝達。そんな中、一瞬だがあからさまに険しい表情を見せた桃山。

(なるほど……。お前の素振りを俺は見逃さなかったぞ)

 俺の冷ややかな目線に気付いたのか、はたまた妙な展開になろうとしている場を打ち砕こうとしたのか、桃山は目一杯胸を張りながら眼鏡を掛け直して見せた。

「あたしに惚れるのは構わないけれど……道は険しいわよ?」

「だってさ、亀岡先生」

 にこやかな笑顔で輝が茶化せば、耳まで真っ赤になりながら亀岡は動揺していた。何とも判り安過ぎる立ち振る舞いだ。満場一致で皆が同じ事を思ったに違いない。

「なななな、何を言っておる!? も、桃山先生に失礼では無いか……」

 これは面白い発見だ。これからは亀岡をおちょくる時は桃山を引き合いに出してやろう。

 そんなこんなで珍妙なやり取りを繰り広げながらも、俺達はさっさと学校を後にした。空は既に唸りを挙げていた。これは、そうそう長くは持たないかも知れない。妙に生暖かい風が頬を撫でてゆく感覚に思わず鳥肌が立ちそうになりながらも、俺達は七条の駅を目指して歩んでいた。

◆◆◆62◆◆◆

 変わることの無い日常の光景がそこに佇んでいた。道路を往来する車の流れ。夕暮れ時の街並みを行き交う人々の流れ。変わることの無い日常がそこにある。そう、何一つ変わることの無い日常が。だけど、同じ時が二度巡ることは在り得ない。この道をすれ違った人達が再び出会うことがあり得るのだろうか? 二度、同じ巡り合わせが起こることなど在り得ないことだろう。

 時の流れは残酷だ。一度過ぎ去ってしまった時の流れは二度と戻ることは無い。あくまでも時の流れは突き進むだけのもの。戻ってくることは在り得ないもの。だからこそ、過ぎ去った時の流れを「やり直したい」と考える者が存在するのだろう。

「なーんか腹減らねぇ?」

「相変わらず、リキは食欲旺盛じゃのぅ」

「とは言っても、三室戸の周辺に食べ物屋さん、あるのかなぁ?」

「マジか!? ううむ……何か買い込んで置けば良かったか……」

「お前は一体、何処の山に冬篭りするつもりだ……」

 こうやって何気なく言葉を交わしている、今この瞬間とて二度と戻ることは無い。

(刹那な時の流れだからこそ、今を生きている意味がある。露姫……お前も、そのことは判っていたのだろう?)

「何だか、今にも雨が降ってきそうだねぇ」

 輝の言葉に不意に我に返った俺は慌てて空を見上げてみた。次の瞬間、頬に零れ落ちる雨粒の冷たい感触。

「今、ポツリと来たな」

「おいおい、マジかよ! こりゃあ、急がねぇと、びしょ濡れになっちまうぜ?」

「お前は既にびしょ濡れだな」

 太助の突っ込みに、力丸が声を挙げて笑う。

「なーんて笑っている場合じゃねぇぞ。さっさと移動しようぜ!」

 急ぎ走り出す力丸に続く様に俺達も急ぎ地下への階段を駆け下りていた。それにしても、敢えて雨模様とは、何か意図の様なものを感じなくも無い。そんなことを考えながらも俺はひたすらに走り続けた。

 駅の改札を抜け、地下のホームへと降り立った。日差しが無いとは言え、空調の利きがイマイチなのかあまり涼しさは感じられなかった。汗を拭いながら電車が到着するのを心待ちにしていた。ただでさえ暑いのに、勢い良く走ったお陰でますます汗が噴出していたのだから。

「うおぉ……階段を駆け下りたお陰で、一気に暑くなったぜ」

「こんなにも蒸し暑いのに、走ったりするから、ぼく達まで汗だくじゃない?」

 やれやれ。相変わらず騒々しいことだ。騒いでいるうちに構内アナウンスが響き渡った。もうじき電車も来ることだろう。そして、アナウンスの予告通り、電車がホームへと走り込んできた。後はこのまま中書島までゆったりと揺られながら移動することになる。七条を抜けて少し走れば、地下を駆け抜ける京阪電車も地上に姿を現すことになる。

「何とか持ってくれると良いのじゃがのぅ」

 列車の窓の外を眺めながら大地が呟く。確かに空はすっかりと厚い雲に覆われており、いつ雨が降り出しても可笑しく無さそうに見えた。走り往く列車の外には活き活きと生い茂った木々の葉が見受けられる。今にも雨が降り出しそうな空模様の中、俺達は京阪電車に揺られながら走り続けていた。

「確か……夏は残酷な季節、だったな?」

 不意に太助が意味深な笑みを浮かべながら俺に向き直った。確かに、俺は色んな奴らに、その言葉を伝えてきた気がする。そう。夏は残酷な季節だ。この季節は祭も多く、行楽にも良い季節だ。だが、だからこそ残酷な季節だ。人々の享楽に紛れてしまい、本当に目を向けるべき「哀しみ」達は、その存在さえも覆い尽されてしまうことになる。

「そうだ。蝉も、ほたるも、皆、命短き者達。人々は享楽に浮かれるが、だからこそ哀しみ達が忘れ去られてしまう」

「何か、その感覚判る気がするなぁ。ほら、祭りが終わっちゃった後ってさ、どうしようもない位に寂しい気持ちになるじゃない? それに花火とかもそうだよね。一瞬だけ夜空に花を咲かせて、次の瞬間には儚く散ってしまう」

 花火か……。だからこそ、あの時、鞍馬山のカラス天狗達は花火を挙げてくれたのだろうか? だとしたら、中々に深い意味の篭められたメッセージということになる。

「だが、哀しみだけでは無いだろう? こういう暑い季節だからこそ、木々の葉は潰えてもすぐに新たな葉を着けようとするはずだ」

「そうなのじゃ。嵐山の竹林の道は、この季節は最高の観光名所になるのじゃ。青々と茂った竹の葉達の瑞々しい色合いに、香りに『涼』を感じるのじゃ」

 やり取りを横目で見ていた力丸が不意に口を開く。頭の後ろで両手を組みながら静かに微笑む。

「でもよ、散っていった葉は、散っていった命は、もう二度と戻らないんだよな」

 力丸の言葉に皆が静かに顔を落とす。誰もが皆、心に傷を持っている。少なくても俺達は皆、未だに消し去ることの出来ない傷を持っている。その傷はふとしたきっかけで突然痛み出すものだから。

「だけど、オレは過去をやり直したいとは思えないな。少なくても今は、だけどな」

 力丸は可笑しそうに笑いながら皆の表情を見回していた。皆、思わず黙り込んでしまう。静まり返ってしまった場の空気に、力丸は動揺していた。

「だからこそ、今、この一瞬を大事にしたい。俺はそう思う」

 自分で振って置きながらも、この話題は皆の古傷に触れてしまうことに気付いた。だからこそ軌道修正しなければならない。それは俺の責任だから。

「妙な体験をしちゃったけれど、これも、ぼく達の思い出になってゆくんだよね」

「うむ。そうなのじゃ。今、この瞬間を大事にするのじゃ」

 皆で話し込んでいるうちにも、電車はどんどん突き進んでゆく。一体、どれ程走り続けたのだろうか? 不意に車内アナウンスが流れる。もうじき中書島に到着する。

「そろそろ着くみたいだな。皆、忘れ物は無いか?」

「コタってば、遠足を仕切る先生みたいだよね」

「そういうコタこそ、露姫の扇子、忘れてねぇか?」

 にやにや笑う力丸の言葉に、俺は慌ててカバンの中を探った。大丈夫だ。露姫の扇子は確かにカバンの中に存在している。少々窮屈かも知れないが、何処かで落としてしまったら取り返しがつかなくなる。悪く思わないでくれ。

 俺達は中書島で京阪宇治行きの電車に乗り換え、三室戸を目指していた。空模様は相変わらず不穏な色合いを保っていた。雨さえ降らなければ行動に支障は出ない。何とか持ち堪えてくれ。そんなことを考えながら俺は窓の外の景色を眺めていた。

「あー。そういえばさ、三室戸と言えば、その隣は宇治じゃない?」

「うむ。宇治と言えば抹茶なのじゃ」

「さすがはロック。良く判っているねぇ。抹茶とお茶菓子なんてのも悪くないよねぇ」

「ふむ。最近、マニアの間で静かなブームを呼んでいる『ほうじ茶カキ氷』も捨て難いのじゃ」

「えー、ナニそれー!? すごく興味惹かれるんだけど!」

 何だか本来の目的から段々とズレている気がしなくも無いが、まぁ、それも悪くないだろう。しかしながら、空模様は相変わらず不穏な色合いを称えている。いつ降り出すか判らない空模様に行く末を案じずにはいられなかった。

「……次の駅だな。もうじき、三室戸に到着する」

「さて、皆。ここから三室戸寺まで頑張って歩くとしよう」

 俺達はゆっくりと停車した電車から降りた。ここから三室戸寺まで長い道のりを歩き続けることになる。それでも俺達は退くつもりは無い。露姫のために俺達が出来ること。それを為し遂げたい。それは皆、共通の願いだったのだから。

◆◆◆63◆◆◆

 三室戸の駅を出て三室戸寺への道を歩む。途中までは通行量も多い道路を歩んでゆく。ずっと歩んでゆくと次第に道は細くなり、民家の中を駆け抜けてゆくことになる。さらに歩んでゆくと、ようやく三室戸寺に到着する。つまり駅から三室戸寺まで相応の距離がある。

 空は相変わらずどんよりとした厚みのある雲。深い鈍色の雲は完全に空を覆い尽していた。辛うじて持っている様にしか思えなかった。

 三室戸駅はひっそりとした駅である。改札を抜けて外に出れば周囲には店も少なく、人通りも少ない。踏切を越えて、さほど広くも無い通りへと歩を進めていた。

「それにしても、蒸し暑いな……」

「雨が降り出しそうな気候なだけに、半端じゃない湿気だな」

 太助が心配そうに空を見上げていた。未だ何とか持ち応えてくれそうに思えた。

「ううむ……蒸し暑いのじゃ。あまりの蒸し暑さに、ワシは既に梅雨姫なのじゃ」

 大地の言葉に思わず皆の足が止まる。ついでに駆け巡る沈黙。不意に沈黙を打ち破るかの様に力丸が苦笑いを浮かべながら振り返る。

「おいおい、『梅雨』と『露』を掛けたってぇ訳か?」

 何時も以上に、妙に自信に満ちた笑みを浮かべながら

「扇子だけに……センスがねぇなぁ」

 と、力丸が口にしてみせた。再び皆の背筋が一気に伸びる。張り詰めた緊張感。周囲の空気が一瞬にして凍結したかの様な、異様な冷気に包み込まれた。

「えっと……な、何か、今、霊が通過したよね……」

「魑魅魍魎が跳梁跋扈した瞬間だったな……」

 凍り付く皆を後目に太助が静かに歩き始める。

「さて。それでは、先に進もうか」

 流石は太助だ。どの様な場面でも冷静さを失わない。俺もまだまだだな。この程度の寒いネタに、身震いを覚えている様では、まだまだ修行が足りないということか。

「えっと……コタ、何の修行が足りないの? それに、身震いとか何の話ー?」

「な、何でもない。さ、俺達も行くぞ」

 こうして俺達は三室戸寺へと続く長い道を歩み始めた。今にも降り出しそうな空に警戒を払いつつ……とは言っても、雨が降り出したら俺達には抗う術は無い。精々傘を片手に雨を凌ぐ程度のことしか出来ない。

 長い、長い道を歩みながら俺達はただ、三室戸寺を目指していた。国道七号線との交差点を超えてそのまま歩き続ける。次第に細くなってゆく道を歩んでいた。やがて、目の前に石で出来た案内が姿を現す。案内に従い民家の中を縫う様に走り抜ける道へと至る。どれだけ歩き続けただろうか? ようやく俺達の目の前に三室戸寺の駐車場が見えてきた。駐車場を後に、俺達は受付で拝観料を払った。

 三室戸寺は受付から本堂までの間が長い寺。受付から本堂までの間には山門がある。この一帯を囲う様に佇むあじさい園には無数の紫陽花が咲き誇る。此処、三室戸寺は『あじさい寺』と称される程に紫陽花の名所としても有名な場所である。だからこそ紫陽花という花に、格別の思い入れがある露姫にも喜んで貰えるのでは無いかと考えるに至った。

「ひー! ようやく着いたのじゃ!」

「ああ。長い、長ーい道のりだったよなぁ」

「三室戸寺は来るまでが大変な場所だけど、お花が素敵なお寺だよねぇ」

 紫陽花の見頃は過ぎてしまっていることが少々心残りではあった。全盛期にはそれは見事な光景を紡ぎ出してくれたことだろうが、今は梅雨も明け、蝉が威勢良く鳴くような季節になってしまった。流石に紫陽花に取っては暑過ぎる季節になってしまったことだろう。

「見頃は過ぎ去ってしまったか」

「仕方が無いことだ。季節は巡る。今年の見頃が過ぎても、また来年がある」

 そう。来年になれば春先には桜が見られるだろう。来年になれば、露姫、お前に見せたかった哲学の道の桜も見事に咲き誇ることだろう。

「見頃が過ぎたとは言え、中々に見事な紫陽花だよな」

「うむ。涼やかな色合いなのじゃ」

 俺達は紫陽花を眺めながら本堂を目指していた。露姫の願いを叶える為には、この寺の住職の理解と協力が必要となる。そのための交渉に訪れたというのが真の目的なのだから。

 本堂へと続く参道を歩みながら、俺は一連の出来事を振り返っていた。

 最初、お前は俺の夢の中に現れた。一体何を為し遂げたかったのか全く理解出来なかった。何度と無く俺の前に姿を現しては挑発する様な振る舞いを繰り返したな。

『愛を求める露には、どうして会いを持たぬ者ばかりが訪れるのでしょう? 露はそんなものは求めてはいないと言うのに……』

 お前が口にしていた言葉、鮮明に覚えているさ。否、その声も、その表情も、良い香りも……ぜんぶ、全て、鮮明に覚えているさ。

 握った手は酷く冷たかった。

『露が……もう、『人』では無い証で御座います』

 哀しみと絶望に満ちたお前の言葉。あの時、握った手の冷たさ。俺はお前のことを忘れやしない。救い様の無い人生を歩んできたお前の想い、俺が……否、俺達が何時までも抱え持って生きよう。

 共に哲学の道を歩みながら約束したこと……絶対に忘れはしない。約束は必ず守るから。ああ、何時になるかは判らないが、春になったら共に哲学の道に咲き誇る桜を見に行こう。俺とお前、二人きりでな? フフ、またクロに嫉妬されてしまいそうだな。

「いやぁ、本堂に着いたね。ううーん、流石に立派な本堂だねぇ」

「お! 何とも都合良く、あちらからお坊さんが歩いて来たのじゃ」

「うしっ。早速話、着けて来ようぜ」

「交渉が決裂したならば、実力行使に出るまでだな」

「いやいや、実力行使は問題だろ……」

 問題発言に苦笑いしていると、不意に太助が坊さんの方を指差した。こっちまで聞こえるデカい声で力丸が事情を説明しているのが聞こえてきた。

(お前は、どんだけデカい声で説明しているのだ……)

 何やら力丸の表情が明るくなってゆく様子からも上手く話はまとまっている様に思えた。豪快過ぎる力丸の振る舞いが可笑しかったのか、坊さんは可笑しそうに笑いながら話を聞いていた。

(本来ならば俺がやるべきことだったのだが、今回はお前の熱意に感謝だな)

 不意に坊さんがゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。まだ若い坊さんは人の良さそうな笑みを浮かべて見せた。

「話は聞かせて貰いました。花を愛した亡き友人の形見の品、我が寺で大切に保管させて頂きましょう」

「よろしくお願いします」

 静かに雨が降り始める音が響き渡った。一粒、一粒、木々の葉に叩き付ける様な雨の音。だが、不意に雨の音は勢いを増す。木々の葉を揺らしながら次々と零れ落ちる雨粒。歴史を感じさせる本殿の軒先へと雨宿り。少々高台にある本殿から臨む景色は、雨もまた格別に思える風情を称えていた。

「あちゃー。とうとう降り出しちゃったねぇ」

「一気に、気合い十分な土砂降りなのじゃ」

 叩き付ける様な雨に呼応するかの様に空が唸りを挙げた。周囲を揺るがす様な雷鳴が轟く。

「ほう? 雷まで鳴り出すとは中々に豪勢なことだな」

「どうしたものか……駅まで相当距離があるな」

 突然の雨に動揺する俺達に坊さんは親切にも傘を用意してくれた。

「どうぞ、お持ちください」

「え? しかし……」

「良いのです。参拝客達の忘れ物ですから。処分する予定の物でしたから、こうして使って貰えた方が喜ぶでしょう」

 坊さんの言葉を聞きながら太助が感慨深そうに頷く。

「九十九の思想だな」

「ほう? 良くご存知ですね。物も長い時を隔てれば魂が宿る物です。大切に扱えば恩義にも応えてくれるかも知れないですが、粗雑に扱えば報いがある。即ち、『九十九』とは『付喪』とも表しますからね」

 観光客達の忘れ物では大した時間を生きたことには成らないのかも知れないが、物を大事にするという心は大切な心だろう。それにこの傘だって、長い年月使い続けていれば、露姫が大事にしていた紫陽花の扇子の様に魂を宿すのかも知れない。

「お心遣い、ありがとうございます」

「さて。用も済んだことだし、駅まで戻るとしよう」

 勢い良く降り続ける雨は何かを意図している様に思えてならなかった。それは、露姫からの手紙だったのであろうか。雨……それが意図するのは涙なのか? だとしたら、それは哀しい涙なのか? 否、勝手な思惑ではあるが、喜びの涙であって欲しい。そんなことを考えていた。

 露姫が流した涙。その涙が集いて想い川となる。何処へ流れてゆくのであろう? その想い川の流れ、流れ往く先を見届けたい。そんなことを考えながら俺は空を見上げていた。

「オレ達に取っては厄介者の雨も、紫陽花達にしてみれば、恵みの雨ってぇ訳なんだろうな」

「そうだねぇ。また、来年も綺麗な花を咲かせてくれると良いね」

「ああ。露姫に届く様に盛大に咲き誇って欲しいものだ」

 シトシトと雨の降り続ける中、俺達は三室戸駅を目指し、三室戸寺を後にした。

 ずっと、手元にあった露姫の扇子……三室戸寺に奉納した以上、当然手元から離れてしまった。俺は言葉に出来ない寂しさを感じていた。露姫は、もう何処にもいない。その事実をありありと突き付けられたみたいで心の奥が酷く痛んだ気がした。

 ふと、俺は考えていた。「幸せ」とは指の隙間から儚く零れ落ちるだけの物。どんなに頑張って掬い上げても、指の隙間から容易く零れ落ちてしまう。それでも、人は幸せに縋らずには生きてはいけない生き物。因果なものだ。露姫、俺はお前のために祈り続けよう。何時か桜の花をお前に見せる、その日まで、ずっと……。雨は尚も降り続けていた。シトシトと絶え間なく。やはり、この雨は露姫の涙なのであろう。集い、集いて、想い川になれ。お前の願いが叶う、その日へと届く様に。

◆◆◆64◆◆◆

 三室戸の駅に着く頃には雨はさらに勢いを増し、一寸先さえ見えない程の豪雨に変わっていた。空は深い鈍色の雲に覆い尽され、雷鳴が轟く中大粒の雨が叩き付ける様に降り続いていた。俺達は電車が来るのを待ちながら静かに雨を眺めていた。

「それにしても勢いの良い雨だなぁ。夏の夕立って感じだよな」

「感じというか、そのものじゃな。しかし、夕立にしては中々に長命なのじゃ」

 雨は尚も勢い良く降り続けている。不意に踏切が鳴り響く。どうやら列車が到着するらしい。

「さて、ようやく電車が訪れたな。取り敢えず東福寺まで目指そう」

「東福寺? えっと、東福寺で乗り換えて京都に向かうってこと?」

「ああ。そういうことだ」

 何故、京都まで向かおうと思ったのかは判らなかった。ただ、京都に向かわなければいけないような気がしていた。否、呼ばれた……と表現した方が正しいのかも知れない。勝手な、しかも図々しい憶測ではあるが、露姫が何かを伝えようとしている様に思えた。そこで何かを伝えたい。だから京都まで来いと呼んでいる。そんな気がしていた。

 勢い良く降り頻る雨は電車の窓に次々とぶつかる。雨粒はやがて複雑な流れの様相を呈し、窓には幾つもの水の筋が出来上がっていた。窓を伝う水の流れ。叩き付ける雨の音。それから、規則正しく響き渡る列車の振動音。ゆっくりと意識が遠退いて行く感覚を覚えていた。それは惑い。ゆっくりと、ゆっくりと過去へと誘うさざ波の様な音色。思い出したくない過去ばかりが蘇る……。抗うことは出来ない。夢の中では人は無力だ。どうやっても抗うことなど出来ないことは既に散々思い知った筈だ。だから、俺は受け入れることにした。どうせ、逃げることが出来ない情景ならば真正面から向き合ってやろうでは無いか。

 夕立の後に広がる残り香の様な雲の姿。微かに響き渡る遠雷の音色。置き忘れられた雨粒が時折頬に毀れ落ちてくる。

(見覚えのある光景だ……。そうか。この光景は、あの日、あの時、輝と共に見た五山の送り火の光景か)

 俺に取っては大きな、大きな分岐点となった瞬間だった。決して、忘れることの出来ない光景だった。それは五山の送り火を見送った夜。今から数年前の情景……。鴨川卓の事件が鮮明に蘇る時節。あの頃の俺は自分の部屋から一歩も出ることが出来なかった、あの頃。今までの人生の中で最も忌み嫌っている暗黒の時代。思い出すことも憚られた時代。

(そうだったな……。あの頃の俺は、あの「一瞬」に戻って「全てをやり直したい」と願っていた)

「否、違うな。鴨川卓に、確実に引導を下してやりたいと切に願っていた」

 そんな状況に置かれた俺のことを、輝、お前だけは見捨てなかった……。

「やっぱり出町柳の周辺は混み合うね。みんな、良く見える場所を心得ているって訳だねぇ」

 何時も変わることの無かった、その笑顔。

「ああ。そうだな……」

 輝は傍にいてくれた。無骨で、不器用で、上手く自分の想いを口に出来なかった俺の傍にいてくれた。何時も、どんな時でも。

「でも、五山の送り火は夏の風物詩だからねぇ。シッカリ、見て置きたいじゃない? もしかしたら何かご利益があるかも知れないからね」

「ゲンキンな奴だな。そんな欲深い奴のところにはご利益も訪れやしないだろう」

「コタってば、相変わらず現実的だねぇ」

「悪かったな」

 変わらないな、お前は……。幾つになっても子供の様な外見は変わらない。否、内面も変わっていないか。何時だって馬鹿みたいに振舞って、お調子者で、後先考えない無謀な一面は今も昔も変わっていない。臆病なクセにオカルトネタが好きで……。俺は知っている。お前が何故、オカルトネタを追い求めるのかを。その本当の理由も。それから、そこに隠されたお前の本当の想いも。あの時の俺はどうにかなっていた……。

 夕立の上がった後のジットリと纏わり付く様な湿っぽい夜。五山の送り火を眺めていた出町柳の情景。逸れない様にするのがやっとな程に人であふれ返っていた。だから……俺は、想いをぶつけてしまった。誰にも言わずに、自分の中だけに仕舞って置こうと誓った「感情」を……。

「え? えっと……、ゴメンね。ぼく、コタの言いたいこと、ちゃんと理解出来ていないかも知れない」

「済まない、輝。今の言葉は……忘れてくれ」

 過ぎ去った時の流れは、もう、どうすることも出来ない。二度と戻ってくることは無い。残酷なものだ。何度、選択肢をやり直すことが出来たら、過去を変えることが出来たら、どんなに幸せだろうかと本気で思ったさ。

「……忘れちゃっても良いの?」

「え?」

「きっと、すごく勇気が必要だったと思うんだ。ぼくが、もしも……コタの立場だったら、そんなにも大きな、ヒミツを打ち明けるだけの勇気、無かったと思うんだ」

「輝……」

 輝は何時もと変わらぬ笑みを浮かべていた。五山の送り火に照らし出された横顔を俺は生涯忘れることは無いと思う。子供の様にあどけない表情に見え隠れしていた、お前の想いを。

「ぼくは勇気が無い、臆病で、卑怯な奴だから……こんな返事しか返せないけれど、何時か必ず、コタと真正面から向き合うから。だから、今はこんな返事で許して欲しい」

 輝は可笑しそうに笑いながら、俺の隣に並んで見せた。雑踏に紛れて何かを呟いていたのは判ったが、何を言っていたかは聞き取れ無かった。否、聞き取れなくて良かったのかも知れない。微かに聞き取れた言葉……。

「ぼくも、同じ想い、抱いていたから……」

 その時々に選んだ選択肢をやり直すことは出来ない。ゲームの世界みたいにリセット出来たらどんなに良かっただろうかと、思い悩んだ回数は計り知れない。でも、それでも、前だけ目指して突っ走っている方が良い。確かに、辛い想いをすることは多くなってしまうかも知れない。だけど、それでも俺は過去をやり直したいとは思えない。

 生きている以上悩むこともある。迷うこともある。痛みを感じることなんか数え切れない程あるだろうし、時には誰かを傷付けてしまうことだってある。でも……だからこそ、俺は想う。もしも、悩みも、迷いも、痛みも、一切の艱難辛苦を放棄してしまったとしたら、その時、そいつは人であることも放棄してしまうことになるのだと。

「なぁ、輝。俺……学校に行ってみようと思う」

「え!? で、でも……」

「判っている。ろくでもない目に遭うかも知れない。でも……こうして、殻に閉じ篭っていても、何一つ事態は解決しない。時間が傷を癒してくれるなんて嘘だと思う。ただ、無碍に時間が過ぎ去っても、何も変わらないことも少なく無いのだから。それならば、傷付いてでも突っ走るまでだ」

 俺の言葉に、輝は酷く驚いていたっけな。でも、これが今の俺の偽ることの無い想いだ。だから、俺は自分の信じた道を歩むさ。

 そう。こうやって自分の信じた道を歩んだ結果、俺は皆と友達になることが出来た。行動を起こさなければ何も変わらなかった。もしかしたら未だに引き篭もっていたかも知れない。

 変わることが出来た奴らは、当たり前の様に自分の歩んで来た道を語ることが出来るものだ。未だに抜け出せない奴らからしてみれば、俺の様な奴は、ただムカ付くだけの存在なのかも知れない。なまじ同じ様な立場にありながらも、抜け出すことが出来ただけに、余計に腹正しく思うかも知れない。

(もっとも、進むべき道を少しでも誤っていたら、俺は許されることの無い罪を犯してしまっただろう)

 何しろ、這い上がろうという気持ちの最大の起爆剤は……鴨川卓に対する、尽きることの無い「殺意」だったのだから。俺は良い意味での臆病者で良かった。もしも、間違えた勇気を手にしてしまっていたならば、俺は、あいつのことを殺していただろうから。

「コタ、起きてー」

「うう……」

「ほら、東福寺に着いたよー」

「へ?」

「早くしないと、置いて行っちゃうからねー」

 可笑しそうに笑いながら、輝は颯爽と列車を降りて行った。慌てて周囲を見渡せば、既に駅のホームに降り立った仲間達がにやにや笑っている。俺は大慌てで、今、まさに閉まろうとする扉をこじ開けるかの如く列車から飛び降りた。

「おいおい、大丈夫かよ?」

「列車のドアを破壊しかねない程の勢いだったな」

「もう、コタってば、シッカリしてよねー」

「輝よ、お前にだけは言われたくない……」

「あー。せっかく起こしてあげたのに、そんなこと言っちゃうの?」

「あ、否……感謝する」

 夢だったのか? まったく、何処までも夢に縁があることだ。さて、気を取り直して京都に向かおう。間違いなく何かが起こる筈だ。俺の中で予感が確信に変わろうとしていた。

◆◆◆65◆◆◆

 東福寺では相当慌てていた。だからこそ、こんなにもあからさまな異変にも気付くことが出来なかった。まったく……情け無い話だ。真っ先に異変に気付いたのは、やはり、太助であった。列車の中が異様な冷気に包まれていると口にしたことに端を発する。だが、それだけでは無かった。何故、乗り合わせた人々が一切存在しないのであろうか? 俺達が乗っている車両だけでも珍しいことだが、どうやら、どの車両にも誰も乗っていない様子であった。俺の不安を掻き立てるかの様に、空は再び深い、深い鈍色の暗雲に呑み込まれ様としていた。

「ただならぬ空気に包まれているな……」

 鋭い眼差しで太助は周囲の様子を伺っていた。皆、静かに身構える。実に異様な光景だ。夕暮れ時の奈良線に誰も乗客が居ない等、考えられない事態だ。作為的な「何か」が働いているとしか思えなかった。

「静まり返っているよね」

「うむ。列車が走る音以外何も聞こえてこないのじゃ」

「おいおい、マジかよ。まだ終わって無かったってぇのかよ?」

 そんな馬鹿な話があるものか。露姫を軸としての一連の騒動は幕を閉じた筈だ。今更、一体誰が穿り返そうとしているのか? 甚だ理解に苦しむ。

「もうじき京都に着く。俺の予感が正しければ、京都の駅もまた何らかの異変に包まれていると思うけどな」

 こんな場面でも飄々とした笑顔を浮かべられる太助の度胸には、毎度のことながら敬意を覚える。だけど、一体誰が何のために、こんな妙な演出をしているというのだろうか?

「そ、それにしても……真冬の様な寒さなのじゃ」

「お、おう。な、何だか震えが止まらねぇぜ」

 この異様なまでの冷気は一体何なのだろうか? 普段は聞こえて来る車内アナウンスも無く、列車はただ静かに京都の駅に到着した。予想通り、駅には人の姿が一人も無かった。異様なまでの寒さに包み込まれた京都の駅は不気味なまでに静まり返っていた。

「こんな光景見たこと無いよ。一体、何がどうなっているの?」

 何が待ち受けているかは皆目見当が付かない。だからこそ、最大限の警戒を怠ってはならない。俺達は周囲に警戒を配りながら駅ビルへと足を運んだ。エスカレーターを上り、改札までの道を歩む。

「やはり、誰の姿も無いな……」

「うぬぅ。吐く息まで白いのじゃ。まるで真冬の寒さじゃの」

「ホントだぜ。一体何がどうなっちまっているのか、意味不明だぜ」

 こんなにも静まり返った京都の駅を見るのは、生まれて初めての体験となっただろう。観光客はもちろんのことながら、中心地に位置する大きな駅であることには変わりは無い。人の姿が全く見られないという光景は、あまりにも想像がつかない光景であった。

 不気味なまでに静まり返った駅の構内。改札前にも誰の姿も見られなかった。ただ、照明だけが煌々と明かりを灯していた。売店には、ついさっきまでそこに人が居たことを思わせる様な光景が広がっていた。開けっ放しのレジ。包装途中の土産物。カートに乗せられた状態のドーナツなど、性質の悪い悪戯にしか思えない情景だった。

「改札を抜けたら右手へ向かうぞ」

「やはり、玄関口に何かがありそうな気がするよな」

「ふむ。それに、右手の方から冷気が流れてきている気がするのじゃ」

 皆の勘は間違えていないだろう。俺も同じことを考えていた。恐らく、普段は賑わうバスターミナルも人気は無いのだろう。さて、一体何が現れるか? 相手の素性も思惑も判らない以上は最大限の警戒を怠る訳にはいかなかった。

 俺達は人気の失せた駅ビル内を歩んでいた。北と南とを繋ぐ駅ビル内の道。普段は引っ切り無しに人が往来する賑わいを見せる道なのだが、不気味なまでに静まり返っていた。吐く息さえ白く見える程の異様な冷気に包まれた中を、俺達は言葉も無くただ黙々と歩き続けた。駅の中を縦断する吹き抜け部分、何時もは賑わいを見せるカフェテラスにも、やはり人の気配は感じられなかった。

 やがて薄明かりが見えて来る。この階段を下ればバスターミナル前に出る。皆で顔を見合わせると、俺達は階段を下り始めた。バスターミナルから吹き付けてくる風は冷たく、凍り付きそうな程に鋭く思えた。

 頬を切り裂くような冷たさの中、不意に一際冷たい風が吹き付けた。風に乗って何かが舞ってゆく様を感じられた。

(何だ? 何かが視界の端を吹き抜けて行ったが?)

「こ、これって、桜の花弁!?」

 不意に輝が声を発する。この異様なまでの寒さには、あまりにも不釣合いな桜の花弁という言葉。だが、異変は終わらなかった。再び風が吹き抜ける。今度は明らかに判る程に勢い良く、桜吹雪が吹き抜けた。

「ど、どうなっているんだ!?」

「輝の言う通り、これは紛れも無く桜の花弁だな」

 太助が足元に散らばる桜の花弁を静かに拾い上げる。見間違う訳が無い。淡く、柔らかな色合いの桜の花弁を見間違える訳が無かった。

「……バスターミナルまで出れば全ての答が明らかになる筈だ。皆、階段を駆け下りるぞ!」

 俺は先陣を切って階段を駆け下りた。もはや、憶測は確信に変わっていた。だからこそ、俺は急ぎ階段を駆け下りた。

 何時しか、肌を切り裂くような寒さは収まっていた。穏やかな暖かさに包まれた、柔らかな風が吹き抜けた。緩やかな風に乗って、なおも桜の花吹雪は舞い続けている。

「何だか、不思議な光景だよね」

「ああ。何とも幻想的な光景だな」

 穏やかな風に乗って舞散る桜吹雪。辺り一面、桜色に包まれる程に舞い散る桜吹雪。辺り一面の景色さえも覆い尽すかの様な桜吹雪。何とも浮世離れした幻想的な情景であった。

「桜の花とは儚き花……」

 聞き覚えのある声が響き渡った。鈴を鳴らすかの様な凛とした声……。

「露姫、やはりお前なのか!?」

 俺の声が聞こえているのか、いないのか露姫の声は尚も語り続ける。

「寒空の下、身を切るような寒さの中……。春の夜明けは、まだ寒く、ただ寒く……。それでも、なお、桜の花は健気に咲き誇る」

 風は暖かさを取り戻し始めていた。露姫の声は尚も響き渡る。皆の表情にも動揺の気配が見え隠れしていた。

「わ、ワシらにも聞こえるのじゃ。一体、どうなっているのじゃ?」

「幻聴……じゃねぇよな? あまりにもハッキリ聞こえるもんよ!」

 緩やかな風に乗って尚も桜の花弁が舞い続ける。柔らかな香りを称えた桜吹雪。その光景は幻想的であり、同時に、酷く物悲しい光景でもあった。

「花の姿でいられる時間は短くて、すぐに散り往く花吹雪……。桜の花は、露の生き方と良く似ているのですね。とても素敵な花ですわ」

 不意に勢い良く桜吹雪が舞い上がった。視界を完全に遮る程の桜の花弁が、一斉にふわりと舞い上がる。一瞬、時が止まったかの様な感覚に、思わず目を伏せた。響き渡る鈴の音色。桜吹雪がゆっくりと収まり、透き通るような鈴の音色が響き渡り始める。

「皆様には迷惑をお掛けしたにも関わらず、露のために扇子を奉納してくださったこと、心より感謝します……」

 鈴の音色が響き渡る中、ふと目を開ければ、そこは平安神宮の白砂の広場に変わっていた。突然の出来事に、皆が慌てて周囲を見回していた。俺からしてみれば別に驚くことでも無かった。露姫と最初に出会った場所。そこに俺達を案内した。ただ、それだけのことなのだから。

 俺は目の前に広がる一面の白砂を見つめていた。月明かりに照らし出された白砂が静かな煌きを称えていた。どこからか漂ってくる甘い香り。春の夜を思わせる様な心揺らぐ白粉の甘い、甘い香り。白砂を踏みしめながら歩む人々の足音が聞こえ始める。ゆっくりと闇夜の中に浮かび上がる人々の姿。それは行列であった。ただ一面に広がる白砂の中に浮かび上がるように現れた人の姿。それは色鮮やかな着物に身を包んだ人々の姿であった。右手と左手に分かれての人々の群れ。その間に作られた花道を歩むは籠を支える者達。

 やがて籠が下され、ゆっくりと中から人が現れる。淡い桃色を基調とした着物に身を包んだ高貴な顔立ちの露姫。最初に出会った時と変わらぬ笑みを称えていた。紫陽花の絵柄の描かれた扇子を口元に宛てながら、ゆっくりとこちらを向き直る。

「つ、露姫!?」

 力丸が驚いた様な声を挙げる。無理も無い。力丸に取っては忌まわしい存在に過ぎないのだろうから。

「お久しぶりで御座います、力丸様……。とは言っても現の世では、それ程の時間は過ぎていないのでしょうね」

「い、一体、何がどうなっているの!?」

「輝、こういうのは頭で考えるものでは無い。肌で感じ取るものだ」

「フフ、小太郎様は相変わらず、粋な物の考え方を為さるのですね」

 一頻り微笑んだ後で、露姫は静かに皆を見回して見せた。

「露は幸せで御座ります。こうして、皆に見送って頂く事ができて」

「お前にしてやれることは、こんなこと位しか思い付かなかった。力至らなくて済まない」

 俺の言葉を聞きながら、露姫は、あの紫陽花の扇子で口元を抑えながら微笑んで見せた。

「小太郎様、露は心から感謝しています。光が見えた気がするのです。露を想って下さる温かく柔らかな光が。露は、露の道を歩みます。小太郎様と……何時の日か、本物の桜をこの目で見届ける日まで」

 穏やかな笑みを称えたまま、露姫はゆっくりと頭を垂れた。

「皆様、お別れで御座います。また、何時の日か、何処かで出会えるその日まで……」

 再び、視界を覆い尽すほどの桜吹雪が舞い上がった。待ってくれ! 露姫を止めようと思ったのは、紛れも無い事実であった。だけど、今、そんなことをしても露姫の苦しみが増すだけだ。俺は俺の身勝手な思惑で、また誰かを傷付けようとしてしまっていた。愚かな話だ……。

 桜吹雪が止めば夕立上がりの蒸し返る様な暑さが戻ってくる。周囲を見渡せば、ひっきりなしに往来する人々の流れが目に留まる。

「此処は……」

「どうやら、元通りの世界に戻って来たらしいな」

「ああ。境目は判らなかったが、俺達は夢の世界に誘われていたのだろう」

 バスターミナルにはバスが訪れては再び去ってゆく。今の季節特有の蒸し暑い風が吹き抜けてゆく。間違いなく俺達は現実の世界に戻ってきたのだろう。

「驚いたなぁ。また、露姫と出くわすことになろうとは思わなかったからねぇ」

「オカルトマニア的に貴重な体験が出来たな」

 太助の言葉に、輝は目を輝かせながら喜んで見せた。

「おー! そうだよね! うわぁ、感動だなぁ。リアルに体験できちゃったんだもの!」

 輝の底無しの天然度合いも、此処までくると敬意すら覚えるな。色々な意味で凄い奴なのかも知れない。

 だが、再び露姫に逢うことが出来て良かった。少なくても、あちらの世界で非業の最期を遂げた訳では無いことが判っただけでも良かったとしよう。

「蒸し暑い中わざわざ三室戸寺まで行った甲斐があったな。これで、露姫も少しは救われたかも知れねぇな」

「うむ。ワシらの想いが届いたことじゃろう」

 色々なことがあった。露姫との出会いから別れまでの物語は、俺の心に刻み込まれた。忘れはしないだろう。露姫、お前のことは――時が過ぎようとも、俺が大人になろうとも、永遠に。

 不思議な感覚だ。少なくても恋愛感情では無い。最初に出会った時は敵対関係でしか無かったが、紆余曲折を経て友としての存在に成り上がった。だからこそ離れることは辛く、寂しく、そして……言葉にすることが出来ない程に苦しく思えた。身を引き裂かれるような痛みとは、この様な気持ちなのかも知れない。

「皆、今日は付き合ってくれてありがとう」

 俺の言葉に、皆が顔を見合わせた。

「色々あったけれど、これで露姫も少しは気持ちが晴れてくれれば良いよな」

「そうだねぇ。それにしても蒸し暑いよねぇ。早く帰って、シャワー浴びたいよー」

「さて。それでは、今日はこの辺りで解散、ということで良いな?」

 太助の言葉に俺は力強く頷いた。

「もう、可笑しな夢に襲われることも無くなるだろう。安心してくれ……と言いたいところだが、情鬼は絶えること無き存在。この先も、どんな情鬼が姿を現すかは予測もつかない。警戒だけは怠らないでくれ」

 皆、安堵の表情を浮かべてはいたが、俺の言葉に再び表情が強張る。気休めだけでは情鬼が現れた際に身を守ることは出来ない。だからこそ、嫌な奴だと思われても警戒を呼び掛ける必要があったのだ。

「まぁ、何か変わったことがあったら、その時は一人で抱え込まずに皆で共有しようぜ」

「そうだな。俺達一人一人で立ち向かうことの出来るような相手では無いのだからな」

 こうして俺達は皆、各々の家路に就くことにした。

 そんな中、京都駅を後に俺は輝と共に七条方面へと歩み始めていた。

「ううーん、綺麗な夕焼け空だねぇ」

「ああ。そうだな」

 素っ気無く返せば、輝は何やら好奇に満ちた眼差しで俺を見つめて見せた。

「な、何だ?」

「情鬼って、確か人の心から生まれるものなんだよね?」

「ああ。それがどうかしたか?」

 俺の問い掛けに輝は可笑しそうに笑いながら向き直って見せた。すっかり雲も晴れ渡り、鮮やかな夕焼け空が広がっていた。夕焼け空に照らされた輝の顔も煌々と燃える炎の様な色合いを称えていた。

「ぼくの心からも生まれるのかな?」

 返答に窮してしまった俺は、思わず足を止めた。

「……急にどうした?」

「うーん、ちょっとした好奇心かな? ぼくの心からも生まれたりするのかなーって思ってね。でも、ぼくの心から生まれる情鬼だったら、オカルトを追い求めたりするのかな? あははー。何だか、そんな情鬼だったら平和的だよねぇ」

 顔は笑っていたが、目が笑っていなかったのが酷く気になった。何か思う所があるのだろう。だが、だからと言って憶測だけで触れるには、輝の心はあまりにも脆過ぎる。迂闊な言動を取って、要らぬ傷を付ける羽目になることは避けたかった。壊れ物を扱うような振る舞いは止めよう、止めようと何時も思っているのだが、中々実現に移すことの出来ない臆病者な自分がいるのも事実だった。

「夕焼け空、綺麗だね。明日も夕焼け空、見られるかな?」

 何気なく放たれた輝の言葉。だけど俺には酷く意味深に感じられた。考え過ぎなのかも知れない。俺の勝手な思い込みなのかも知れない。ただ、明日も同じ景色を見られるだろうかという問い掛けは深い意味を孕んでいる様に思えてならなかった。生きていなければ、何事も無く平穏無事に過ごせなければ、明日も同じ夕焼け空を見ることは出来ない。

(考え過ぎか……。輝がそこまで考えて喋っているとは思えない)

「いずれにしても、さっさと帰るぞ。雨に濡れた上にこの暑さだ。汗でベタベタでな」

「あー、そうだったねぇ。ぼくも汗でベタベタだよー。それじゃあ、張り切って帰ろう!」

 やはり、輝は輝か。何時もと変わらぬ振る舞いを見ていると、それだけでも安心出来る。色々なことがあり過ぎて少々疑心暗鬼になっているみたいだ。ゆっくりと寝て明日を迎えよう。明日になれば気持ちも切り替わるであろう。そんなことを考えながら俺達は四条を目指して歩き続けた。

◆◆◆66◆◆◆

 色々と片付いたのは事実であった。だが、どうにも心が晴れ渡らなかった。何時までも引き摺っているなど情け無いことだとは自分でも良く判っている。頭では判っていても体が着いて来ないという事象は身を持って体験している。何とも抜けた話だ。そんな俺を気遣ってか、クロに連れられて俺は鞍馬を訪れていた。

「夜半の鞍馬は、実に静まり返っておるの」

「ああ。とは言え、じっとりと纏わり付く様な暑さは変わらないな」

「フフ、今は夏であるからの。暑いのは自然の摂理であろう」

「まぁ、それもそうだな」

 辺り一面静まり返っていた。穏やかな風が吹き抜ければ木々の葉が静かに揺れる音だけが響き渡る。賑やかな虫の声が響き渡る中、俺達の歩く足音だけが響き渡る。

「人とは中々に難しいものよの」

 夜空に浮かぶ月は仄白く瞬いている。淡い色合いの月をじっと見上げながらクロは腕組みしてみせた。穏やかな笑みを浮かべたまま静かに口を開く。

「人と出会い、我は『迷う』という感情を覚えた」

 クロは腕組みしたまま、穏やかな笑みを浮かべて俺に向き直った。

「元来、我らは与えられた使命を果たすことだけを考えて生きる。当然、情鬼を討ち取ることに一切の感情を抱くことも無い」

「冷静に聞かされると中々に怖い発言だな。一切の迷いも無く、討ち取るべき情鬼を討ち取る。ただ機械的に黙々と討ち取ってゆくのか。荒地に生い茂った雑草を刈り取るのと何ら変わりなく、か……」

 命とは一体どういうものなのだろうか? 改めて考えさせられる。もしも、露姫の真実を知らなければ、恐らく俺は何の迷いも無く露姫を殺していただろう。何しろ人では無い存在なのだ。仮に殺したところで俺は罪には問われない。それでは、露姫の屋敷で襲い掛かって来た兵士達はどうだったか? 身を守るためとは言え、俺は何の迷いも無く殺すことが出来た。

(俺も……迷いを持つことは出来なかった。少なくても、鴨川卓を殺すことに関しては一切の迷いを持つことが出来なかった。ためらい無く、殺してやりたいと思ったさ……)

「人はどこまでも不完全な存在で、絶えず姿を変えながら存在している」

 俺達はゆっくりと鞍馬の街を歩んでいた。やがて俺達の歩む右手に川の流れが見えて来る。もっとも、夜半の暗闇の中では川が流れる音しか聞こえない。微かに川が流れている様子だけが見えていた。

「迷い、悩み、時に苦しむ。それが人というものなのであろうな」

「ああ。お前の隣にいる俺がその代表だな。俺は迷い、悩み、苦しんでばかりだ」

 皮肉に満ちた口調が可笑しかったのか? クロは興味深そうに俺の顔を覗き込んで見せた。

「我も今迷っておる。これから、我はどこへ向かえば良いのだろうか、とな?」

「ならば、俺と同じだ。一緒に迷ってみようではないか?」

 月明かりに照らされたクロの横顔は穏やかな表情に見えた。俺達はそのまま言葉も無く、ただ呆然と歩き続けていた。俺達の歩む足音だけが鞍馬の街並みに響き渡る。

 ただ穏やかな川の流れを耳にしながら、俺は静かに考えていた。それが、自分達の生きる道、歩む道と信じて疑うことも無いカラス天狗達には理解出来ない考えかも知れない。だけど、俺には酷く奇異な考えに思えてならなかった。

 人の世の中にも罪人は少なからず居る。だが、彼らは生まれながらにして罪人だったのだろうか? そうでは無い筈だ。では、情鬼はどうなる? 生まれたこと自体が罪だと称されて、ただ、討ち取られるためだけに生きるのか? そんな話、容易く受け入れること等不可能な話だ。

 俺が目にした情鬼は未だ二人だけだ。憎悪の能面師に露姫。憎悪の能面師はどうだっただろうか? 本当に忌むべきは道雪では無く、勝頼だった筈だ。人の道から外れた仕打ちを受け、因果応報を果たすべく呪いの儀に手を染めた。道雪は一方的に鬼として裁かれるべきだったのだろうか? 露姫だって同じだ。あの叔父や満久の存在が無ければ、彼女は悲哀に満ちた道を歩むことも無かった筈だ。だとしたら、俺達のやっていることは本当に正しいのだろうか?

「ふむ。コタは情鬼の存在に疑問を呈するか……」

「あ……。ああ。何時ものクセが出てしまったが、考えて居ることは、その通りだ」

「命ある者達は皆、生きる理由を背負って生きておる。理由も背負わずに生きておる者はおらぬ」

 クロは静かに立ち止まると、再び夜空に浮かぶ月を見上げた。俺も隣に並び、クロが見ている景色を見上げた。

「そうで無ければ……救われないな」

 川の流れる音だけが響き渡る。静かに風が吹けば、木々の葉が揺れる音が響き渡る。

「今回の露姫の様に大人しく罪を受け入れる者であれば、こちらとしても手荒な真似はせずに済むというものよ」

「因果応報、だな。自らの行いを省みることもなく、無為に抗おうとするならば相応の報いを受けることになる。それは当然のことか」

 なるほど。クロはクロなりに考えているということか。無条件に、情鬼とあらば斬るといった価値観を持っていないことが判っただけでも安心できた。

「この先、まだまだ情鬼との戦いは続く。だからこそ、我はコタより学んだ人の心を大切に抱いていくとしよう」

「ああ。そうしてくれると俺の存在意義もあるというものだ」

 月明かりの下、クロは満足そうに微笑んでいた。何時までも過ぎ去った場所に拘っていてはいけない。ある一時点に固執し過ぎるということ……それは言い換えれば、過去を変えたいと願うことと同義とも言える。それでは前に進むことは出来ない。露姫のこと、もう気に病むのは辞めよう。出来る限りのことはしたのだから。後は露姫自身が道を切り拓かねばならない。理不尽な話ではあるが、事の顛末を今更変える事も出来ないのだから。

「さて、コタよ。腹は減ってはおらぬか?」

「え? ああ、まぁ……そうだな」

「ふむ。丁度良い。我らカラス天狗一族が営む料理屋で、食事を振舞おうぞ」

「カラス天狗の料理屋か。何だか期待できそうだな。ああ。是非、ご招待願おう」

 クロなりに色々と気遣ってくれているのだろう。こうした細かな気配りをさり気なく振舞える所は尊敬できる。俺も見習わなくてはならないな。

「それでは、鞍馬の地に別れを告げ、貴船の奥地へと参るぞ」

 俺は再びクロの背に乗せて貰い、クロの案内により貴船の奥地を目指すこととなった。周囲は穏やかな景色に包まれている。家々から漏れる明かりと微かな街灯。仄かに照らす月明かりを覗けば明かりと呼べる物は何一つ無い。山々は漆黒の闇に呑まれ、ただ、静かに佇むばかり。月明かりに照らし出されながら、俺達は鞍馬の夜空を優雅に舞っていた。

◆◆◆67◆◆◆

 鞍馬温泉の辺りから舞い上がった俺達は鞍馬寺を眼下に臨んでいた。普通に生活していたならば絶対に目にすることの出来なかった光景であった。月明かりに照らし出された本殿金堂の金剛床が視界に飛び込む。

「ほう? あの場所はコタが舞を披露した場所よの」

「ああ。つい数日前の出来事とは思えないな」

「フフ、それだけ密度の濃い日々を過ごしておるということに他ならぬ」

「ああ。寿命が縮みそうな日々を過ごしているからな」

 俺の言葉を受け、クロは可笑しそうに笑っていた。

 なおも勢い良く鞍馬の山中を羽ばたき続ける。やがて貴船神社の赤い灯籠が視界に入ってくる。貴船の地に足を踏み入れた証であろう。だが、それでもなお羽ばたき続ける。何処まで向かうのだろうか? 貴船神社よりもさらに北上するということは、かなりの山奥なのだろう。人が立ち入る様な場所では無いとは予想していたが予想よりも遥かに北上する。辛うじて月明かりに反射している様から貴船川沿いに移動していることは間違い無さそうだ。予想通りクロは時折眼下を流れる貴船川を確認しながら羽ばたいている。それでもなお羽ばたき続け、貴船神社は奥の院をも通過しようとしていた。

「奥の院か、クロと最初に出会った場所だな」

「うむ。貴船神社は奥の院であるな。フフ、確かに数日前の出来事には思えぬから不思議よの」

 奥の院を越えてから数分が経過する。何時しか辺りには霧が立ち込め始めていた。水気を孕んだ木々の息吹なのであろうか? 重みのある湿気の感覚が酷く不快に思えた。

「霧が出てきたな。視界が悪くなっているが大丈夫か?」

「フフ、案ずることは無い。この程度の霧では我の視界を遮ることなど出来やせぬ」

 注意深く地上の景色を確かめながら、何かを発見したらしい。クロが地表の一角を指し示して見せた。俺には何を発見したのか全く判らなかった。

「何か目印でもあったのか? 俺にはサッパリ判らなかったが」

「微かな明かりが見える。そこを目指して降り立つ」

 クロは木々に引っ掛からない様に慎重に下降してゆく。どうやら川沿いらしく、近くを貴船川が流れる涼やかな音色が聞こえる。

「直に到達する」

 確かに、そこは人の入れるような場所では無かった。道は舗装されているが、恐らくは外からの進入は出来ない様に作り上げているのだろう。砂利で綺麗に舗装された道を歩みながら森の奥へと進んでゆく。やがて貴船川が見えてくる。だいぶ上流なのであろう。微かな月明かりに照らし出された川の流れは透き通って見えた。キラキラと光りを反射する月明かりが幻想的に思えた。その貴船川の上に丁寧に築き上げられた川床が目に留まった。

「凄いな……。貴船の料理旅館を超える造りだな」

「フフ、そうであろう? 我らカラス天狗が築き上げた料理処の一つであるぞ」

 意外にも人の文化を上手く取り込み、その上で、さらにカラス天狗流に創意工夫をもたらしたのであろうか。仄かな光を放つ赤い灯籠は電気では無く蝋燭を使っている。ゆらゆらと揺らめく炎が幻想的な雰囲気を感じさせる。入り口に飾り付けるかの様に立てられた大きな赤い和傘。さながら高級料理旅館のような外観に期待も膨らむ。

「良いのか? 何だか随分と高級そうに見えるのだが……」

 あまりにも高貴な雰囲気に圧倒されていた。見る者全てが手の込んだ意匠を施されており、玄関前に飾られた小さな折り紙で作り上げた鶴など細かい部分への配慮も忘れていない。思わず吐息が漏れる。

「凄いな……」

「我らは人の様な文化を持ち合わせては居らぬ故、少々古めかしい造りやも知れぬ」

 クロに案内されるままに俺は玄関で靴を脱ぎ、仄かな明かりに包まれた廊下を歩む。中庭にも拘りがあるのか、白い玉石が綺麗に敷かれていた。ガラス張りの引き戸もまた、重厚な歴史を感じさせる深い色合いの木を惜しげもなく使用していた。引き戸を開けば涼やかな空気に満たされた川床との対面と相成った。

 夜の川床もまた風情に満ちあふれていた。山奥らしい景色が広がっている。周囲を見渡せば木々に包まれた光景が広がっている。川から吹き抜ける風はヒンヤリとした冷気を称えていて、心地良いどころか少々肌寒く感じられる程であった。子供の様にキョロキョロと周囲を見回す俺を見つめながら、クロは腕組みしながら満足そうに微笑んでいた。

「ふむ。それでは早速料理を運んで貰うとしよう」

 俺達は木目が美しい机に腰掛ける。クロは机の上に置かれていた鈴を鳴らした。透き通るような涼やかな音色が響き渡る。周囲の木々の葉まで染み入るかの様な涼やかな音色が響き渡る。貴船川の流れる涼やかな音色と、水気を孕んだヒンヤリとした空気を肌で感じていた。潤いを感じさせる木々の香りに包まれて、心が穏やかになってゆくのを感じていた。

「直に料理も運ばれて来るであろう」

 それにしても凄い所に案内されてしまった。普段の冷静さを失い動揺する俺が面白いのか、クロは上機嫌な笑みを浮かべながら俺を見つめていた。

「な、何が可笑しい……」

「可笑しいのでは無い。嬉しいのだ」

 クロの飾らない言葉が照れ臭くて、俺は足元を流れる川の流れを見つめた。なおもクロは嬉しそうに微笑んでみせた。

「こうしてお主と共に此処に居る。実に嬉しいことよ」

「俺を此処に招いたことが、嬉しいことなのか?」

「うむ。我らの住む地に案内できるのは、我らと共に歩む天狗使いだけであるからの。最近では滅多に訪れることも無くなったお客人に、皆も実に楽しげに準備をしておる様子よの」

 カラス天狗達が料理を作っている姿というのも想像し難いものがあった。それ以上に此処を訪れてから人の気配をまったく感じていない。気配すら感じさせない存在達なのであろうか。考え込んでいると不意にクロが語り掛けてきた。

「コタよ、紫陽花という花を知っておるか?」

「ああ。この季節は特に綺麗に咲き誇る。大原の三千院にも咲き誇っている花だな。この間、クロと共に三千院を訪れた時にも目にした花だ。そして、露姫が愛した花だ」

 俺の返答を受けてクロの表情が緩んだ。不意にカラス天狗が茶を運んで来た。俺とクロの前に置くと、一礼して去っていった。足音を立てずに、気配さえ感じさせずに歩む様に酷く驚かされた。

「紫陽花は自らが住む土壌の質により花の色を変える。同じ紫陽花という花でありながらも、時と場合によりその姿を巧みに変化させる、役者の様な花よの」

 クロが俺に説明し終わるのと同時に再びカラス天狗達が現れる。今度は竹筒に紫陽花を活けた物を運んできた。華やかなピンク色、涼やかな青紫。二種類の紫陽花はその葉に露を称え、美しく輝いていた。

「……それでは、コタよ。紫陽花という花が持つ、その恐ろしき魔性の力を知っておるか?」

 クロは不敵な含み笑いを浮かべたまま、紫陽花の葉を愛で始めた。静かに、葉を一枚抜き取ると、そっと光にかざして見せた。

「魔性の力か……不勉強だな。その部分に関しては、知識を持ち合わせていない」

「人を殺める毒よ」

 クロはにやにや笑いながら、再び葉を光にかざして見せた。

「毒だと?」

「うむ。紫陽花という植物は、その身に人を殺める毒を抱く植物よ」

 クロの言葉に俺は頭から氷水を浴びせられたかの様な衝撃を受けた。幼き頃から慣れ親しんできた花に人を殺める毒があるとは予想もしなかった。当たり前の様に民家や寺社にも生えている花に毒があるとは驚きだ。

「巧みに自分を見せ、しかも、毒を持つ身……」

「うむ。そういうことよ」

 クロは可笑しそうに笑っていたが、俺は背筋が凍り付く想いで一杯だった。一体何故このタイミングで、そのような話を聞かせたのだろうか? クロが何を意図して紫陽花にまつわる話を聞かせてくれたのか真意が見えなかった。だからと言って、面と向かって問い掛けるのも無粋な話だ。それでは俺の敗北は免れられない。探るような眼差しでクロの表情を伺うが、相変わらず表情からは考えは汲み取れなかった。

「……さて、そろそろ食事の時よの」

 クロの言葉を待っていたかの様に次々と料理が運ばれてきた。此処は気持ちを切り替えなければならない。流れに逆らうだけでは何も得られない。時には、流れに身を委ねるのも手なのかも知れない。

「さて、腹ごしらえとしようぞ」

「ああ。在り難くご馳走になるとするよ」

 運ばれてきた料理は見た目にも華やかな品々ばかりであった。繊細な色合いが美しい先付け。色鮮やかな八寸に、季節を感じさせる鱧の落とし。油物は川海老に子茄子、丁寧に炊き上げられた米もまた見事な逸品であった。華やかな料理の数々は実に見事であった。

 実に見事な料理の数々に、しばし時を忘れていた。どの料理も見事な味わいであった。一通り食事が終わったところで再びカラス天狗が何かを運んで来た。なるほど、最後は水物で締め括るという訳か。そんなことを考えながら、目の前に置かれた水物を見て、俺は背筋が凍り付きそうになった。

「お、おい……クロ、これはどういうことだ?」

「フフ。見ての通り、風流な水羊羹であろう?」

 クロは可笑しそうに俺の反応を楽しんでいた。確かに風流な水羊羹だ……だが、その水羊羹の下に敷かれている、涼やかな色合いの、瑞々しい葉は……。

「この葉は、紫陽花の葉だろう?」

「うむ。紫陽花の葉であるな」

 動揺する俺を後目に、クロは美味そうに水羊羹を食って見せた。

「お、おい! だ、大丈夫なのか? 紫陽花には毒があるのだろう?」

「中身を食わねば問題無い」

「へ?」

「葉の表面に毒がある訳では無い。紫陽花の身の中に毒はある。葉や茎を刻んだり、傷付けたり、あるいは断面に触れねば問題は無いということよの」

 俺は返す言葉を失っていた。最後の最後に微妙な仕掛けを持ってくるとは……相変わらず、クロは油断ならない奴だ。思わず溜め息が零れ落ちる。俺は紫陽花の葉を傷付けない様に慎重に水羊羹を頂いた。

「目に見えるものだけが真実とは限らぬということよの」

「まったく……相変わらず性格が悪いな」

「フフ、褒め言葉よの」

(ううむ、何処かで聞いた様なやりとりの様な気がする……)

 クロは竹筒に挿された紫陽花の花を愛でながら可笑しそうに微笑んでいた。

「今回の件は虚と実の織り成した物語であった。この紫陽花という花も、中々に因果な花であると言えようぞ」

「虚と実か……。確かに、散々翻弄されたのは事実だからな」

 クロは尚も静かな笑みを称えたまま、俺の表情を見つめていた。川の流れる音に身を委ねながら、俺はクロに問い掛けてみたくなった。

「クロ、露姫とは再び……」

 俺の問い掛けは完結することは無かった。言い終わるより先に眼前に紫陽花の花を突付けられ、思わず息を呑んだ。驚いてクロを見上げれば、クロは静かな笑みを称えたまま首を横に振って見せた。

「お主が露姫に託した言葉……その想いを偽りに変えるつもりであるか?」

 クロの言葉に俺は何かを思い出した気がした。忘れてはならない想いを。あの時、露姫と共に歩んだ哲学の道。あの道で願った祈りを見失ってはならない。

「そうだったな。俺が授けた言葉を、俺自身で破ってしまっては本末転倒だな」

「うむ。それで良い」

「ああ。優しさと甘さを履き違えてはならなかったな。クロ、ありがとう」

「フフ、今日の日に抱いた心……この先の戦いに於いても意味のあるものとなろう。今宵は我とコタとの決意の証となった。良き日であったな」

「ああ。やはり、お前と出会えて良かった……本当にな?」

 俺の言葉を受けたクロは、照れ臭そうに目線を逸らした。ああ。大丈夫さ。俺とクロが手を組めば為し遂げられぬことなど無い筈だ。紫陽花の花言葉は『移ろい』。今日から明日へ、明日から明後日へと、時の流れは絶えず移り変わってゆく。夏が終われば秋が訪れる。秋が訪れれば冬が訪れ、そして春が訪れる。こうして季節は巡り、時は流れて行く。信じているさ……。露姫、お前もまた、俺の掛け替えの無い「友」なのだから。

◆◆◆68◆◆◆

 あれから数日が過ぎた。京都の街は静けさを取り戻していた。少なくても情鬼に纏わる異変は起こってはいない。少なくても俺が知る限りは……。

 その日は夕方頃から天気が崩れ始めた。あの日と同じ様に俺は力丸の家を目指してバスに揺られていた。何でも今度は知り合いの息子の結婚式で、どこか地方の方に出掛けたらしい。相変わらず力丸はアバウトな奴だ。窓の外、向かい側の道路を往来する車の流れを見つめながら、そんなことを考えていた。もうじき上賀茂神社前に到着することだろう。中々に幻想的な光景だ。人の築き上げた人工物が織り成す街の景色。

(以前も、天神さんに向かうバスの中で、クロと街並みを眺めながら語らった内容だな)

 窓を伝って流れ落ちる雨の雫。すれ違う車のヘッドライトの白い光とテールライトの赤い光。窓を伝う水の流れに滲んだ様に見えていた。不思議な光景だ。俺はただ静かに窓の外を眺めていた。やがて、バスは上賀茂神社前に到着しようとしていた。

 ゆっくりと停車したバスから降りて、俺は傘をさした。バスの中から見ていた感じでは、さほど降っている様には見えなかったが、いざバスから降りてみると意外に雨足は強かった。

「ようっ、コタ! 悪りぃな、わざわざ雨の中来て貰っちまってさ」

「ああ、気にするな。今回は、むしろ俺がお前と話したくて押し掛けて来たようなものだ」

「お! 嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか」

 こんな雨の中でも力丸は相変わらず元気一杯に振舞っている。否、俺を元気付けてくれようとしていたのかも知れない。雨の晩か。この間、力丸の家に泊まりに来た時も雨が降った。これも何かの因果なのだろうか?

「そういやぁ、今日は……」

「悪いな。泊まらせて貰うぞ」

「ははっ、コタってば、今日はノリ良いなぁ。どうしちまったんだ?」

「普段の俺は、そんなにノリが悪いのか?」

 思わずマジマジと力丸の顔を覗き込めば、力丸は困った様な笑みを浮かべながら頭を掻いて見せた。

「言い方が良くなかったな。悪い」

「……相変わらず、お前はいじくり甲斐があるな」

「おうよ、単純明快、明朗活発、今日も明日も元気一杯な力丸様だからよ!」

「意味が判らん……」

 良く判らないやり取りをしながらも俺達は力丸の家を目指していた。さすがに勢い良く雨が降り頻る中を歩き回りたいとは思えなかった。何よりも雨のお陰で湿度も高く、じっとしていても汗が滲んでくるような不快な気候であった。

「丁度、こんな晩だったよな。露姫と出会ったのは」

「ほんの数日前のことだな。もっとも、何日も経ったかの様に思えるから不思議だな」

 情鬼と関わるようになり俺の暮らしは大きく変わった。クロと共に歩む様になったのも大きな変化だと感じていた。否、それだけでは無いのかも知れないが……。

 雨足は強まっていた。シトシトと静かに降っていた雨は、地面を叩き付ける様な強い雨に変わろうとしていた。俺達は力丸の家を目指して夜半の道路を歩んでいた。

「最初はオレのこと騙して、ふざけんなって思ったけどよ……」

「ああ。俺も同じだ。哀しいことだな。非力だということは」

「そうだな。オレ達はそれなりに環境も整っているし、自力で何かを為し遂げるだけの力もある。だけど露姫には、そのどちらも無かった。おまけに身内は敵だらけだ。やるせねぇよな……」

 振り返って、痛む傷を慰め合うために会いに来た訳では無い。だが、ついつい後ろ向きになってしまう自分がいる。情け無くて、弱々しくて、格好悪い。だけど、これが俺なんだ。背伸びも出来なければ、格好付けることも出来ない等身大の俺なんだ。嘘偽りの無い、真実の姿を曝け出しているだけのことだ。だけど、人は他者の弱さを忌み嫌う。自分自身の弱さを棚にあげて。

「オレは変わることが出来ていないな。結花の死から、もう二年も経つのにな」

「なぁ、力丸。変わることだけが全てなのだろうか?」

「え?」

「無理矢理変えようとして、必死で演じることが果たして正解なのだろうか?」

 俺は太助の言葉を思い出していた。

『からかうな。俺はお前達が思っているよりも、ずっと、ずっと、弱く、儚く、情け無い奴だ。何時も、こうありたいと願う自分を演じているに過ぎない』

 演じることを「逃避」と評することも出来るのかも知れない。だけど、それは悪いことなのだろうか? それでもなお、必死で、無我夢中で振舞うことしか出来ない不器用な奴らだって少なくない筈だ。俺達は良く似ている。だから、こうして共に歩むことが出来るのかも知れない。

「そうだな……。無理して、強がって生きても、絶対に何処かで破綻が生じる。露姫は……非力だった自分自身を受け入れ、だからこそ、周囲を巻き込んでまで自分の願いを果たそうとしたのだろうな」

「そうかも知れない。俺達は弱くて、儚くて、情け無い奴ら同士だから、こうして共に歩もうと思えたのかも知れない」

「そうだよな。もしも、オレが……自力で全てを乗り越えられるだけの強さがあったならば、違った生き方をしていたかも知れない」

 過去に遡って歴史を変えることは出来ない。時の流れは何時だって無情にも流れてゆくだけだから。だが、これから訪れるであろう未来には幾つもの可能性が生まれる筈だ。より良い可能性を求めて、俺達は必死で這いずり回れば良い。人にどう思われるかが重要なのでは無い。醜くて、不器用で、無骨で、格好良く無くても、それでも生きたいんだ。そう……俺達は生きている。だからこそ命の限り必死で生きなければならない。ほたるの様に命の灯火を燃やし、蝉の様に命の限り叫びを挙げてでも生きるんだ。

「オレの中での時計は止まったままだな。結花を失ったあの日から、ずっと」

 雨足は衰えるところを知らない。叩き付ける様に降り続ける雨に明神川の水かさも増している様に思えた。道路には幾つもの水溜りが出来上がっていた。気が付けば俺達もすっかりずぶ濡れだ。ゆっくりと、ゆっくりと俺達は力丸の家を目指して歩いていた。

 力丸の中では確かに時が止まってしまっているのかも知れない。結花さんを失ったあの瞬間から、ずっと。

「でも、コタと出会えたことは大きな救いになっているんだぜ?」

「俺との出会いが?」

「おう。何しろ、コタは……オレの命の恩人だからな」

「忘れもしないな。あの日のことは……」

 シリアス顔にも疲れたのか、力丸は声を挙げて笑って見せた。だが、不意に真面目な表情に戻る。

「ああ。忘れちゃいけねぇよな。それに、あの時死ななくて本当に良かったと思っている」

「そうだな。あの場で死んでしまっていたら、今、こうして俺と歩むことも語らうことも出来なかっただろう」

 俺達は生きている。生きている以上、時は流れ続ける。露姫の様に死んでしまった者達の時とは違い俺達の時は流れている。今日を生き、明日を生きることが出来るのだから。

 話し込んでいるうちに俺達は力丸の家に到着した。雨を払い、俺達は力丸の家へと入った。

「まぁ、誰もいねぇから気楽にやってくれや」

「ああ。お邪魔させて貰うとしよう」

 さて、今宵は何を語らうとしようか? 露姫のことを語るのも、結花さんのことを語るのも良いだろう。何時もの様に頭の悪い話に花を咲かせるのも良いだろうし、話したいことならば幾らでもある。明日へと託すべく無限の可能性を胸に抱きながら、俺は力丸の後に続いた。

◆◆◆69◆◆◆

 今日もまた力丸の見事な料理を楽しませて貰った。段々と料理の腕も上達しているように思える。日頃の修練の積み重ねという物が如何に大切なものであるかを改めて教えられた気がする。

 上手い食事の後で、俺は雨の中、力丸と語らっていた話題を振り返っていた。

 あの日、あの時、力丸は京阪電車に飛び込んで自殺を図ろうとしていた。今ならば、あの時のお前の気持ちを理解出来るかも知れない。本当に大切な誰かを失うことの哀しみ……。今の俺ならば理解出来る。だからこそ、あの時、力丸が取ろうとした行動も理解出来そうに思えた。

(否、俺の哀しみなど力丸の哀しみとは比べ物にならないだろう。積み重ねた時間も違えば、想いの深さも、まるで異なっているのだろうから)

 ただ一つだけ判ること。居なくなってしまった者には、もう二度と会うことは出来ない。どんなに会いたいと願っても、叶うことの無い願いなのであろうから。もしも、俺達の中の誰かを失ったら? それも、予期せぬ別れとなったら? 想像することすら恐ろしく思えてならなかった。その時、俺は果たして正気を保っていられるだろうか? 少なくても俺には……それだけの強さは無いだろう。

「何でも無いようなことが幸せだったと思う……。結花が好きだった唄の一節だ」

 食事を口に運びながら、力丸は懐かしそうに微笑んで見せた。

「深い歌詞だな。変わることの無い日常こそが、本当の意味での幸せなのかも知れない、か」

 皆と過ごせる日常は、何でも無いようなことなのかも知れないけれど、本当の幸せってそういうものなのだろうと実感していた。

 あの頃の俺は何もかもが嫌になっていて全てを投げ出していた。外界との接点を退け、ただ、薄暗い部屋に引き篭もっていた。あの頃の俺には絶望しか無かった。もう、二度と日の光を浴びることなど無いだろうと思っていた。だからこそ、こうして仲間達に囲まれて過ごせるのは幸せなことなのだ。

「オレはまだ結花の一件から、完全に立ち直れた訳じゃねぇんだよな」

 力丸はどこか哀しげな笑みを浮かべながら、飲み物を口に運んだ。

「今だって、時々、楽しかった頃の夢を見ることがあってな。コタ達に囲まれていてさ、幸せな筈なのにさ、どうしようもねぇ位に苦しくなっちまう時もある。で、朝まで涙し続けたりすることもあったりしてな……」

 無理に強がらなくって良いさ。そう言ってやろうと思ったが、言葉が出て来なかった。上から目線で偉そうなことを口に出来る程、俺は自分に自信を持てるのだろうか? そんなにも偉いのだろうか? そう考えると、ためらわずには居られなかった。

「哀しい時は、俺を呼ぶと良い」

「え?」

「トモダチってさ、辛いことも、哀しいことも、全部、分かち合えるものなんだと、俺は思う」

 俺の言葉に力丸は目を大きく見開いていた。一瞬、驚いた様な表情を見せたが、シッカリと俺に向き直って見せた。少々照れ臭い気分になったが俺は続けた。

「楽しいことも、嬉しいことも、全部、分かち合えるものなんだ……だから、力丸、お前の痛みも、哀しみも、俺が半分背負うよ」

 力丸は嬉しそうに笑っていた。そのまま俺の手を、でかい手でガッシリと握り締めてみせた。

「コタってさ、そういう恥ずかしい台詞をサラっと口に出来るよなぁ。でもさ、コタのそういう所、オレ、大好きだぜ」

「告白か?」

「……そうかも知れねぇな。案外、オレはコタに惚れちまったのかも知れねぇぜ?」

「ほう? それは光栄だな」

 思わず顔を見合わせて、二人で声を挙げて笑った。家が壊れるんじゃないかって位の大声で俺達は笑い合った。やはり俺達にはシリアスな空気は似合わないらしい。こういう場面になると、ついつい笑いがあふれて来る。どちらが先に笑い出すかを競い合ってみたりする。俺達は良く似ている。こういう暑苦しい一面も、恥ずかしい一面も、良く似ているのだろう。

「やべぇ、やべぇ、家がぶっ壊れる位に笑っちまったぜ。おう、そうそう。豪快に笑ったついでにさ、去年の夏のことを思い出したぜ」

「去年の夏のこと?」

「おう。ほら、みんなで出町柳駅前の橋からさ、五山の送り火、見に行っただろう?」

 去年の夏に皆で訪れた出町柳の駅前。皆で眺めた五山の送り火。ちょうど三角洲の辺りからは大の字が良く見える。煌々と燃え上がる炎を眺めながら「また来年も皆で来よう」と約束したな。

「おう、それそれ。今年も見に行こうぜ」

「ああ。もちろんだ」

 外は何時しか静けさを取り戻していた。どうやら雨も上がったのだろう。窓に映る外の景色を見つめながら力丸は何やら考え込んでいる様に思えた。妙に不穏な笑みを浮かべているのが気になった。良からぬ企てを考えているのは明白であった。

「なぁ、コタ。これから出町柳へ向かわねぇか?」

「……本気で言っているのか?」

「おう。オレは何時だって本気だぜ?」

 無茶苦茶なことを言っている。上賀茂神社から出町柳までは相当な距離がある。この時間帯にはバスも走っていない。つまりは頑張って歩いていこうと言っているのか? 夜とは言え、雨上がりの蒸し暑い最中を歩き回るのは正気の沙汰では無い。だが、力丸はこれ以上無い位の笑みを浮かべていた。そう。それは、まさしく……戦いに臨む男の顔だった。

(良い顔だな、力丸よ。戦いに臨む男の顔になっているな)

 出町柳の駅前か……随分と昔のことになるが、輝と共に歩んだ夜のことを思い出していた。

(懐かしいな。あの時も、夕暮れ時から雨が降っていたな……)

 夕暮れ時から突如として降り出した雨。雨天だからと言って延期される様な柔な行事では無い。とはいえ雨の中を巡るのは少々厳しい。憂いを胸に抱いていたが、夜には雨もあがり、俺の不安も杞憂に終わった。

 夕立の上がった後のジットリと纏わり付く様な湿っぽい夜。五山の送り火を眺めていた出町柳の情景。逸れない様にするのがやっとな位に人であふれ返っていた。輝は何時に無く、楽しそうにはしゃいでいた。

 忘れもしないさ……。あの場所で、ずっと隠して置こうと思った想いを輝に打ち明けてしまった日のことを。輝は結局、肯定も、否定もせずに、曖昧な返答でその場を逃げ去ってしまった。だけど、それでも良かった。結果のために行動した訳じゃない。ただ、自分の想いを伝えたかっただけだから。それで良かった。それだけで良かったんだ。

 生きているということ――今日という日の終わりに「また、明日」と言葉を交わす。また、明日は訪れるだろう。何の疑いも無くそう受け止めていた、あの頃の自分自身の認識の甘さを思い知らされる出来事が起こった。

 何でもないようなことが、幸せだったと思う――。

 本当にその通りだと思った。「また、明日」と言葉を交わす。だけど、あの日は訪れなかった。明日が……。

「輝っ! 輝っ! しっかりしろ!」

 多量の睡眠薬を服用して自殺を図った、あの日。そう。あの日も夕暮れ時から激しい雨が降っていたっけな。四条大橋の下。当然のことながら、道路からは完全に死角になる場所。そこでお前は最期の時を迎えようとしていた。何故そんなことになってしまったのか俺には理解出来なかった。否、理解したくなかった。自ら物語に終止符を打つなど許される行為では無いのだから。

 俺は必死で輝の頬を殴った。睡眠薬を大量に飲んだ所で死ねる訳が無い。致死量の睡眠薬は半端な量では無い。何よりも致死量に至る前に体が拒絶反応を起こし、全てを吐き出してしまうことだろう。輝がそのことを知らなかった訳が無い。恐らく、これは自らの体を傷付けての意思表示だったのだろう。そう……そういったカラクリがあることを知ったのは、随分と後になってからのことだった。

 あの時の俺は、ただただ気が動転していた。このままでは輝が死んでしまう! 本気でそう思い込んでいた。普通に考えれば、先ずは救急車を呼ぶのが最優先事項だ。だが、あの時の俺には、そんな当たり前のことさえ選択肢に浮かんでこなかった。

「輝! 水だ! 水を飲め! 大量の水を飲んで、吐き出せ!」

「こ、コタ……うう……」

 駄目だ! 睡眠薬の効果が出始めてしまっている! 既に意識が混濁し始めているのか!? 俺は迷った。ただただ迷った。だが、この状況で足踏みをしていれば確実に死が訪れてしまう。だから、俺は思い付いた策を強行することにした。ああ。今思えばとんでもない発想だ。あまりにも在り得無すぎる発想だった。だが、非力で無知な俺にはそれしか思い浮かばなかった。幸い、大雨のお陰で川の水は大幅に増水している。少々濁っているが、背に腹は変えられない。

「輝、悪く思うなよ!」

 俺は自らの口に目一杯鴨川の水を含むと、輝に口移しで飲ませた。何度も、何度も、繰り返し飲ませ続けた。ある程度飲ませたところで、今度は輝を水面スレスレにうつ伏せにさせた。喉の奥に乱暴に指を突っ込んで引っ掻き回した

「さぁ、輝! 吐け! 全部吐き出せっ!」

 今思えば、随分と無茶なことをしたものだ。何度も、何度も、俺は繰り返し輝に水を飲ませては、吐き出させた。偶然、川の近くを通り掛った人々の協力で、救急車を手配して貰うことが出来た。

「最初からそうしていれば良かったのに……」

 輝の力無く笑った笑顔……。今にも消えてしまいそうな、朝露の様な笑顔を、俺は生涯忘れることは無いだろう。

 人の命が、こんなにも呆気なく散ってしまうとは想像したことも無かった。

 朝日の中で煌く朝露。葉から毀れ落ちれば、呆気なく散ってしまう。人の命と同じだ。死んでしまったら、もう、二度と会えないのだから……。例え、それが、どんなに憎い相手であろうとも、憎しみを伝えてやることは出来なくなる。大切な仲間ならば、どれだけ俺が想っているかを、伝えてやることが出来なくなる。

「もう、コタってば……無茶苦茶なんだから……」

「あ、ああ……。済まない」

 俺も輝も、雨に濡れて全身びしょ濡れだった。輝の綺麗な、サラサラの赤毛も哀しく濡れ、乱れていた。俺の足元に横たわっていた輝が、不意に震える手を何とか伸ばそうとしていた。

「輝、どうした? 何か言いたいことがあるのか?」

 そっと、顔を寄せた時のことであった。輝は俺の首に腕を巻き付けるようにして、一気に俺を抱き寄せた。

「お、おいっ!?」

「コタ……。あの時の……コタの想い、その想いに対する……ぼくからの返事だよ……」

 すっかり冷え切ってしまって冷たくなってしまっていたが、俺は忘れない。お前が俺に示してくれた、お前の勇気を……。お前の想いを……。ヒンヤリとしたお前のくちびるの感触、忘れないさ。

「よーっし! それじゃあ、張り切って行こうぜ! ほらほら、コタ。ボーっとしていると、置いていくぜ?」

「え? ああ、おい! ちょっと待て!」

 何でも無いようなことが幸せだったと思う、か。本当にそうだな……。やれやれ。折角甘美な思い出に浸っていたというのに、相変わらず無粋な男だ。

「あー? 無粋な男だって? オレが?」

「他に誰がいる……」

「な、なぁ、コタ? もしかして、機嫌悪いか?」

「別に」

「いやいや、機嫌悪いだろ? なぁ、機嫌直してくれよ。オレとコタの仲じゃねぇかよぅ」

「なっ!? 抱きつくな!」

「わはは! 汗ビッショリだぜ!」

「……良い度胸だな。天に代わって成敗してくれる!」

「お、おい、コタ!? ちょ、ちょっと落ち着けって! うおぉっ!?」

 すっかり雨も上がった夜空には、穏やかな色合いの月が浮かんでいた。馬鹿なやり取りをしながら騒ぐ俺達を、さぞかし冷ややかに見つめていたことだろう。結局、俺達はこの後、無謀にも出町柳までの道のりを歩き続けた。無論、再び力丸の家に戻ってくる頃には、雨に降られた訳でも無いのに、ずぶ濡れになった俺達の姿があったことは言うまでもない。

◆◆◆70◆◆◆

 結局のところ六人の凍死事件の件は、それ以降ニュースを賑わすことも無くなった。どう頑張った所で警察には真実を知ることは不可能だったのだから。このまま時の流れと共に風化してゆき、いずれ、白砂の様にサラサラと流れてしまうのだろう。史実からも、人々の記憶からも……。恐らく、事件は「迷宮入り」という顛末で締め括られる筈だ。

 週末も終わり、再び訪れる週の始まり。どう足掻いた所で時の流れが止まることは在り得ない。だから何時もの様に俺は身支度を整えていた。無駄に筋肉痛になった両足の痛みに耐えながら。

「それじゃあ、行ってくる」

「うむ。気を付けて行って参るのだぞ」

「ああ。心遣い、ありがとうな」

「なに、気にするでない。我とコタの仲では無いか」

(ど、どこかで聞いた様なフレーズだな……)

 思わず背筋に冷たい物が走る。

 こうしてクロに別れを告げて、学校に向かうのも日常のことになろうとしていた。大切な今、この一瞬を守る為ならば俺は鬼にでも、修羅にでも成れるだろう。

 家を出て何時もの道を歩む。ふと、視界に紫陽花が留まった。照り付ける様な日差しを浴びて、少々くたびれた様にも見えたが、やはり綺麗な花を咲かせている。

「紫陽花、か……。この花を見る度に、お前のことを思い出すな、露姫……」

 俺はそっと紫陽花の花に触れてみた。毒があるとは言え、やはり、紫陽花の花は美しい。魔性の美しさは露姫に通ずるものがある様にも思える。だからこそ、その葉をかじり、毒に身悶えてみたくなる衝動に駆られてしまいそうにもなる。無論、思い留まるが……。

「花言葉は『移ろい』か。俺も、お前も、それから、仲間達も皆、移り変わって行くのだろうな」

 仲間達と共に過ごす時間。変わることの無い、普遍的な時間では無いのかも知れないけれど、それでも大事に守って生きたい。何でもないことが幸せなのだと知ったからこそ。

「また、会える日を楽しみに待っている。無論、約束も果たすつもりだ」

 紫陽花の花に別れを告げて俺は歩き出した。強い日差しが照り付け、ジリジリと肌を焦がす様な感覚を覚えていた。燃えて、燃えて、燃え尽きて、そして、ただの焼け焦げた「何か」になってしまうその日まで、俺は皆を大事に守って生きたい。

「露姫、お前も……俺の友達の一人だ。だから、必ず、戻って来い」

 さて、今日も一日暑くなりそうだ。悔いを残さぬように、今日という日を大切に生きよう。

 第三話に続く