天狗使いの小太郎 第3話 『雲間から差し込む希望の光』

 

第3話 『雲間から差し込む希望の光』


◆◆◆1◆◆◆

 月明かりの綺麗な晩だった。山陰本線の車窓から覗く島原の街明かりを、ぼくはただぼんやりと見つめていた。ガタンガタン、ガタンガタン。車体と線路とが擦れ合う音だけが夜半の街に響き渡る。何時から乗っているのか、何処の駅から乗り込んだかも定かではない。気が付いたら此処に居た。

 微かに霧が掛かっているのか、月明かりを帯びた霧が幻想的な輝きを放っていた。柔らかな光を身に纏う蛍が乱舞する様な情景だった。

 もうじき丹波口に到着する。誰も乗っていない列車。こんな時間に走ることの無い電車。多分、これは有り得ない光景。夢の中の光景。

 夜半の街は静かな眠りに就いている。活気にあふれる中央卸売市場も、夜明け前からのせりに備えて一眠り。そう……これは現実の光景では無い。どうして山陰本線に乗っているのか理解不能だった。夢なんてものは往々にして理解不能な場合が殆どだ。だから、敢えて抗うことは止めた。

 程なくして丹波口の駅に到着する。誰も居ない深夜の駅。切れ掛かっているのか、駅舎の蛍光灯は点いたり、消えたり、不規則な明滅を繰り返すばかり。ぼくはそのまま改札へと向かう階段を歩み始めた。一歩、また一歩。階段を降りるにつれて、次第に霧が濃くなっていく様に思えた。不思議な光景だった。季節は夏。それにも関わらず、霧はしっとりとした湿気と、それから、肌寒さを覚える様な冷気を称えていた。

「ぼくは何処に向かおうとしているのだろう? 誰かが呼んでいる気がする。ぼくに……最期を看取って欲しいの?」

 思わずため息が毀れ落ちれば。哀しい、哀しい、吐息だけが響き渡る。時折、すぐ横を走る道路を車が、バイクが勢い良くスピードを上げて往来してゆくばかりだった。運転する人の居ない無人の機械達。

「判っているのでしょう? ぼくは看取ることしか出来ない。死に往く君達の最期の姿を知らしめたいの? 無意味だよ……救ってあげられる訳でも無いし、それに――」

 ぼくは静かに顔をあげた。孤立無援な夜半の月は青白い光を放つ。

「ぼくの心が痛むだけ。何の救いにもならないよ。でも、君達がそれを望むならば仕方が無いのかな」

 気乗りする訳が無かった。こんな旅、楽しい訳が無かった。死に往く者達の最期を看取り続ける旅。そんなの、ぼくに取ってはちっとも楽しくも無い旅だった。抗っても無駄なのは判っている。だから、ぼくはもう一度だけ大きなため息を就いてから歩き出した。

 夜半の街並みは静まり返っていた。月明かりだけが街並みを優しく照らす情景を、ぼくはただ静かに歩き続けた。何処へ向かおうとしているのかなんて判らない。気の向くまま、風に呼ばれるままに歩き続けるだけ。宛ての無い旅。同時に終わりも無い旅。何て無意味な旅なのだろう。こんな無意味な旅を何時まで続ければ良いのだろう?

 風の赴くままに、月明かりに誘われるままに、ぼくは歩き続けた。導かれるままに細い路地へと入れば、青白い月明かりの下に佇む島原住吉神社が見えてくる。ひっそりと佇む小さな神社。島原の地を往来する者達をどれだけ見届けてきたのだろう? 小さいながらも威風堂々とした風情に感銘を受けた。ぼくはそっと神社に立ち寄り、静かに手を合わせた。

「無駄だとは思うけれど……せめて、今宵の月明かりの下、潰えてゆく命をために祈りを捧げさせて貰うとするよ」

 島原住吉神社を後にして、道なりに歩んでゆく。すぐに島原の街並みが視界の先に広がる。かつては賑わいを見せた花街も今となっては過去の話。今では物静かな民家が集う街並みと相成っている。時代を感じさせる家々が立ち並ぶ様を見届けるのは心地良いものだ。

「本当に静かな街並みだなぁ……」

 ふと周囲を見渡せば、どこからか青白い炎がゆらゆらと近付いてくる。

「そう……。また、近くで誰かの命の灯火が消えようとしているのだね」

 微かな風を感じながら、ぼくは再び道なりに歩き始めた。静まり返った島原の街並みにが突然、赤い光に包み込まれる。何のことは無い。何時ものこと。ただ、何時もの様に、けたたましくサイレンを打ち鳴らす救急車とすれ違っただけ。急に騒がしくなる街並み。誰かの叫び声が聞こえる。死に往く者の名を必死で呼ぶ声が聞こえた。

「無駄だよ。その人は助からないよ。だって、ぼくには見えてしまったのだから。その人の死の瞬間がね?」

 ぼくは人の死を予見する者。これはコタさえも知らないぼくの秘密。幼い頃から、ぼくには人の死が見えていた。死期が近付いている人は普通の人とは何かが異なる。時に輪郭がぼやけて見えることもあれば、時に影が消えて見える時もある。もっと恐ろしい場合は、黒い霧や、明らかに生ある存在では無き者の手や、憎悪に満ちた瞳が見えることもある。ぼく自身、こんな忌まわしい能力、一刻も早く棄ててしまいたかった。だけど……それは叶わぬ願い。一体、こんな能力が何の役に立つと言うの? 誰かの死期を知ったところで、助けてあげられる訳でも無い。知るだけ損な能力だ。それに……この忌まわしい能力のお陰で、ぼくの周りには誰も近寄らなくなっていた。

「理不尽な話だよね。まるで、ぼくが死を呼び寄せたかの様に言われる。ぼくは……疫病神じゃないのにね」

 ふと、ぼくは足を止めた。ぼくの目の前には島原の大門が佇んでいた。今は門しか残っていないけれど、古き時代、ここは一体どんな街だったのだろう? どうせ旅をするなら古き時代を知る旅をしてみたい。誰かの死を見届けるお供養道中には疲れ果てたよ。もっと、楽しい旅をしたいものだ。

(誰かの死を看取るだけ。そんな能力、何の意味も無ければ、役にも立たない、無用の長物に過ぎないさ)

 思わず響き渡る程に大きなため息を就いていた。

 みんなの前では精一杯明るく振舞っているから、一人の時のぼくが、こんなにも絶望に満ちた薄暗い奴だなんて想像も出来ないのだろうな。時の流れは何時だって残酷で、ぼくは何時だって孤立無援だった。冷たい雨に降られるだけ。でも、誰も傘を差してくれない。誰も手を差し伸べてくれない。だから、ぼくはずっと孤独だった。

「ぼくの存在は夜空に浮かぶ月と同じ。自分では輝くことは出来ない。誰かの光を受けて光を放っているかの様に振舞うことしか出来ないんだ」

 『輝』なんて御大層な名前のクセに、輝くことが出来ないなんて皮肉な話だよ。言うなれば、ぼくは翼を折られた鳥の様な存在。ただ、傷を痛み、哀しむことしか出来ない憐れな奴だよ。

 島原の大門の傍に佇む柳の木。その木の下に、哀しそうに俯く女性の姿があった。淡い水色の着物を身に纏った古風な雰囲気の女性だった。

「君は……この柳の木の魂だね? 大分疲れ果てているみたいだね。あまり、無理をしないで?」

 淡い水色の着物を身に纏った女性が、静かに頭を垂れる。

「どうか……せめて、少しでも生き永らえて」

 本当に可笑しな能力だと思う。数年前からは、木々に宿る魂までもが見える様になってしまった。普段あまり意識しないかも知れないけれど、草花や木々にも魂は宿っている。多くの魂はぼくの目には見えないけれど、長い年月を生きてきた草花や木々の魂は、ぼくの目に映ることがある。だけど、彼らの姿が見えるのは幸せなことでは無かった。何故なら、姿が見える様になった草花や木々の魂は、酷く弱っていることが殆どだから。つまり、死期が近いことを意味している。だから、出来るだけ見えない方が幸せなんだ。ぼくに取っても、彼らに取っても。

「でも、最近は以前と比べると、目に映る様になってしまった草花や木々の魂が増えているように思える……」

 判っているんだ。それは、ぼく達、人の傲慢が招いた結果なのだと。ぼく達は生きる上で多くの者達に負担を押し付けている。自分達の幸せと引き換えに多くの者達を傷付けている。判っている。いつか報いは必ず返ってくる。因果応報という考えに従えば当然の結末だと思う。だから、ぼくはその「制裁」を拒むつもりも無ければ、否定するつもりも無い。受け入れるのは……当然の報いだと理解しているから。

◆◆◆2◆◆◆

 ふらふらと歩いているうちに大宮通に出ていた。明滅していた信号が不意に赤になる。交通量は多くは無いとは言え、運転する人の乗っていない車ばかりだから事故を起こされないとも限らない。慎重に行動するべきだろう。

 再び信号が青になったところで、ぼくは歩き出した。大宮通と交差する花屋街通に入る。この花屋街通を少し歩くと、今度は堀川通に出会える。堀川通を右折すれば、御影堂門からお西さんに入ることが出来る。折角だからお西さんの阿弥陀様に挨拶をしていこう。この先、何かあった時に救済を求めることになるかも知れないから。そんなことを考えながら、ぼくは静かに歩いていた。

(どうしたことだろう? 何かおかしな感じがする。空気が急にヒンヤリとしてきた。それに、何か異様な気配を感じる……)

 こんなことは初めてだった。何時も見る夢の中では、ぼくは孤立無援の存在。宛ても無くブラブラと彷徨い、気付いた時には朝を迎えているというのが殆どだった。だけど、今宵は何かが違う気がする。何者かの存在を感じずには居られなかった。ふと、腕を見てみる。

「在り得ないね……凄い鳥肌だよ。このヒンヤリした空気、ただの涼しい風では無さそうだね。何か、嫌な気配を感じるよ」

 ぼくは周囲に意識を配りながら歩み続けた。花屋街通にはお西さんを取り囲む黄土色の土壁が果てしなく広がっている。この外壁のすぐ向こう側はお西さんの広大なる境内になる。異様な気配は明らかに土壁の向こう側、つまりは境内から伝わって来るように思えた。不意に、ぼくの耳に歌声の様なものが聞こえてきた。

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと」

  ぼくは自分の耳を疑った。何かの聞き間違いかと改めて注意を払うが、やはり鮮明に歌声が聞こえてきた。

(唄声が聞こえるなんてあり得ない話だよ。間違いなく誰かが居るということになる。一体どうなっているの?)

 在り得ない話だった。人の夢の中に現れるなんて普通の存在じゃない。木々の魂達や、死に往く者達を夢の中で感じ取ることはあっても、積極的に自ら接触を図ろうとする者は初めてだった。嫌な気配を感じ取り背筋に冷たい物が走る。握り締めた手のひらの中で汗がジットリと滲み出す。正直、途方も無く怖かった。

(お願いだよ! 今すぐ、夢から醒めて! この状況は余りにも可笑し過ぎるよ!)

 でも、どう頑張っても夢から醒めることは出来そうに無かった。

「行くしかないってことだよね……」

 哀しそうに紡がれる歌声は尚も聞こえ続けていた。それどころか段々と声が大きくなっている気がする。ぼくは覚悟を決めて一歩ずつ歩み出した。

 何時の間にか辺りは濃い霧に包まれていた。霧は月明かりを反射しながらゆらゆらと光を放っている。視界を遮る程の濃い霧を手で払いながらぼくは歩み続けた。纏わり付く様な霧が不気味に思えて仕方が無かった。

 やがて見えてくる堀川通をさらに歩む。目指すは御影堂門だ。そこから境内に入ろう。そう考えながらぼくは歩き続けた。唄声は相変わらず大きくなるばかりであった。もう、あと数歩進めば御影堂門に至る。御影堂門まで至ればお西さんの境内が見えてくる。それから、その中に存在する何者かの姿も。

 ぼくは無意識のうちに深呼吸していた。一体何に出くわすのか想像も付かなかった。だからこそ恐ろしくて仕方が無かった。せめて、気持ちだけでも整理をしてから見届けたかった。異形のものとの遭遇か? はたまた妖しの心知る物の怪か? いずれにしても恐怖との対面は不可避に思えた。

 ぼくは覚悟を決めて御影堂門の前に立った。一瞬、視界が揺らぐほどの眩暈を覚え、ぼくはその場にうずくまった。

「な、なに? 立って居られない程の眩暈が……」

 うずくまったぼくの視界には言葉にできない異様なモノが飛び込んできた。何か、得体の知れない黒い泥の様な物が目の前に落ちてきた。

「え? 一体何なの、これは?」

 それは次々と空から降って来た。ベチャっという不快な音を立てながら次々と降り注ぐ、泥の塊の様に見える物体だった。それが雨であることに気付くまでには少々の時間を要した。こんな不気味な雨に濡れるなんて堪え難い。何よりも、雨と呼ぶにはあまりにも不相応な現象に畏れを為していた。ぼくは御影堂門を後に、全速力でお茶所へと駆け込んだ。その間も不快な雨は降り続いていた。恐らくは、ぼく自身の体にも付着したことだろう。

 不意に、頬に何か違和感を覚えた。恐る恐る頬に触れてみれば、指先に残るのは汚泥の様な、黒く、べったりとした液体だった。妙にベッタリとした感触に体中の毛が逆立つ。

「うっ! な、何か……血肉が腐った様な異様な匂いを放っている。何なのこれ!? 気持ち悪いなぁ!」

 仕方が無いのでポケットからハンカチを取り出し、顔が削れる位に擦り続けた。その黒い物体は腐肉の様な、鼻を刺激する酷い悪臭を放っていた。そのあまりの臭気に一気に吐き気が込み上げてきた。

 窓の外は濃い霧に包みこまれ、相変わらず泥の様な黒く、不気味な雨が降り続いている。一体、ぼくの目の前で何が起こっているのか、皆目検討が付かなかった。ただ、何時も見ている夢とは明らかに違い過ぎる。それだけは確かだった。

「霧がどんどん濃くなっていく……。辛うじて御影堂のシルエットが見える位か。この霧も一体、何なのだろう?」

 自分の言葉に大きな違和感を覚えた。その違和感に気付いた瞬間、背筋が凍り付きそうになった。

「まさか……情鬼!? でも、そうだとすると異変の説明がつく。この間の露姫の一件では、コタやリキの夢の中に露姫は現れた。それも自らの意思で。同じ様な状況が起ころうとしているの?」

 それにしても随分と性質の悪い相手だ。黒い霧に、腐臭を放つ黒く、ベッタリとした雨。どう考えても、まともな相手とは思えなかった。

「相手は気が触れちゃった情鬼なのかな? だとすると、ますます問題だよ。ああ、どうして夢から醒めないのかな……。ぼく一人では太刀打ち出来ないよ……」

 考えていると、不意に強い風が吹き始めた。お茶所のガラス戸がカタカタと乾いた音を放つ。風に煽られて霧が晴れてゆく。ゆっくりと晴れてゆく霧に伴い、視界もゆっくりと広がる。寂しげな月明かりに照らし出されたお西さんの境内。そこには、何時の間にか「何か」が大量に転がっていた。

「あ、アレ? さっきまで、あんなの無かった様な……」

 必死で目を凝らして見るけれど、あまりにも周囲は霧が濃過ぎて、それが一体何なのか、皆目見当がつかなかった。

「でも、何だろう? 随分と大きなモノに見えるけれど……?」

 視界は悪く、微かに影の様な姿しか見えなかった。必死で目を凝らしていると、不意に風が吹き始めた。その風が霧をゆっくりと押し流してゆく。段々と霧が晴れてゆくに従い、不可解な物体が何であるかが判ってしまった。

「え? これって……人!? 一体、どうなっているの!?」

 それは人の姿だった。お西さんの境内を埋め尽くさんばかりの人の姿。どう考えても現代の人々では無かった。随分と古めかしい衣服に身を包んでいた。彼らは皆一様に、地面に倒れこんだまま微動だにしなかった。一気に恐怖が押し寄せてくる。嫌な気配しか感じなかった。それでも、ぼくは恐る恐るお茶所の戸を開けた。

「これは、なんて酷い光景なんだ……」

 壮絶な光景だった。秋の紅葉の最中、無造作に散らばった落ち葉の如く人々が横たわっていた。恐らく、皆、生きてはいないのだろう。つまりは、辺り一面に死体がばらまれている様な状況だ。何が起こったのか理解出来そうに無かった。静寂の中、なおも降り注ぐ黒い雨が不快な音を放っていた。為す術も無く、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 ぼくの視線の先には大銀杏の大樹が勇壮なる姿を称えていた。大きな、大きな銀杏の木。空高くに手を伸ばすかの様に張り巡らされた無数の枝。威風堂々とした姿は、月明かりを受けて、なお雄大なる姿を見せてくれた。不意に、月明かりに照らされた人の姿が見えた。

(生きている人? 少なくても、死んでいる人ではない!)

 暗さと濃い霧のお陰で視界が悪く、酷く不鮮明にしか見えなかったが、確かに人の姿が見えた。暗闇の中でも鮮明に浮かび上がる漆黒の喪服。暗闇の中、闇夜と一体化してしまいそうな色合いの着物の人物。どうやら女性の様に思えた。不意に風に乗って女性の声が聞こえてきた。

「……何処に行ってしまったの? 私の大切な……。何処に行ってしまったの?」

 どうやら誰かを探しているらしい。か細い声で名前を呼んでいたが、応える者は居ない。

 相手が何者かは判然としない状態で無闇に近寄るのは危険性を伴う。あの着物姿の女性が情鬼で無いとも限らないのだから。唄を口ずさんでいたのも、この女性なのかも知れない。説明できない不可解な点が多過ぎる。だけど、どうしても気になって仕方が無かった。声を掛けなければいけないような気がしていた。ぼくは魅入られてしまったのだろう。牡丹灯篭の新三郎と同じ末路を辿るのかも知れない。

「好奇心は猫をも殺す、か……コタの言う通りかもね」

 足元に転がる無数の死体を避けながら、ぼくは慎重に女性に近付いた。

 段々と鮮明になってくる女性の姿。月明かりに照らし出された女性の姿を見て、ぼくは危うく悲鳴を挙げてしまうところだった。

(うわっ! こ、この人は!)

 見間違えるハズも無かった。数日前にロックと一緒に歩んでいた島原の街並み。そこで遭遇した、薄気味悪い女性だったのだから。

(どうして、あの人がぼくの夢の中にいるの!?)

 ぼくはただ困惑していた。そのクセ、無駄な好奇心に駆られている自分もいた。好奇心は時として、危険を顧みずに行動を促す厄介な代物になるらしい。ぼくは恐る恐る女性に声を掛けてみた。

「あの……誰か、お探しですか?」

「……何処に行ってしまったの? 私の大切な……。何処に行ってしまったの?」

 返事は無かった。ぼくの声が聞こえないのか、なおもか細い声で誰かの名を呼び続けていた。

「えっと、多分此処には居ないと思いますよ……」

 再度、声を掛けてみるが喪服の女性はやはり、ぼくの声はおろか存在すら見えない様子だった。それならば此処はさっさと退散するべきだと判断した。何しろ、あの時、ぼくを目にした彼女は「ようやく見付けた」と口にしていた。つまり、探し人はぼく自身だ。気付いていないならば、さっさと逃げるべきだ。でも、ぼくの目には気になる物が映っていた。彼女が抱き抱える物……。あの時、目にした人形には見えなかった。もっと、生々しい雰囲気を称えていた……。止せば良いのに、ぼくの姿に気付かないのを良いことに、至近距離まで女性に近づいていた。相変わらず、極度の猫背であるかの様に前屈みになっている様が見えた。そっと顔を突き出した瞬間、彼女が何を抱き抱えているのかが判ってしまった。それは……人形なんかじゃ無かった。

「え? えぇーーっ!?」

 それは蝋人形の様に、異様に青白い肌をした子供だった。生気の全く感じられない蝋人形の様な表情に驚き、思わず目を逸らしてしまったが、再び目を向けてシッカリと確認してみた。あどけない表情から察するに未だ幼い少年の様に思えた。ただ、生きている人では無いことは確かだった。こんなにも月明かりの様に青白い肌をした状態では、間違い無く生きてはいる訳が無かった。

「見つからないのね。何処を探しても見つからないのね」

 不意に女性が顔を挙げた。

「もう、救いは与えられないのかしら? 報いなのかしら?」

 なおも女性は月を見上げたまま、誰に語り掛けるとも無く、哀しげに囁き続けた。

「私を……散々除け者にした街の人々。憎い、憎い、あいつらを呪い殺した報いなのかしらね?」

 ぼくは足音を立てぬ様に、一刻も早くこの場から立ち去ろうと考えていた。だが……。

「ごめんなさいね、輝。お母さんもすぐに……そっちに行くからね?」

(ひ、輝だって!? もしかして、その男の子の名前は輝だと言うの!?)

 自分と同じ名を持つ少年。その事実に気付いた瞬間、ぼくは金縛りに遭った様に身動きが取れなくなった。そんなぼくにはお構い無しに、女性がゆっくりとこちらに向き直る。不意に鋭い腐敗臭が漂ってきた。鼻を突く激しい臭気に何かがこみ上げて来た。不快な蝿の羽音が耳元を駆け抜けてゆく。

「え? そ、そんな……そんな、馬鹿なことって……嘘でしょ?」

 信じられない光景だった。月明かりに照らし出された少年は、信じられないことに幼き日のぼく自身だった。あまりにも信じられない光景に、ぼくは未だ金縛りが解けずに居た。不意に一匹の大きな蝿が少年に止まるのが見えた。

「あ、ああ……!」

 盛んに手を擦り合わせる大きな蝿。それでも、少年は表情一つ変えない。それもその筈だ。死んでいるんだ。何も感じることが出来ないんだ。止めてよ! あっちへ行ってよ! 不愉快に思っても、払うことも出来ないんだ! だって、だって……! ぼくはもう死んでいたのだから!

「う、ううっ……うわあああーーーっ! もう、一体、何が、どうなっているのさ!? 訳が判らないよ! 誰か、教えてよ! 応えてよ! もう、もう……限界だよーーっ! 誰か、誰かーーーーっ!」

 必死の想いを篭めて叫んだ。ありったけの声で叫んだ。その瞬間、唐突に金縛りが解けた。

「あ、アレ? あの女の人は……?」

 ぼくは自分の目を疑った。何時の間にか大銀杏の根元に女性は移動していた。立派な枝から吊るされた縄。その先に作られた丸い輪……。それが何を意味しているかは、幾ら鈍感なぼくにでも克明に判ってしまった。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 駄目だよ! 早まっちゃ駄目だよ! 待ってってば!」

 ぼくは必死で駆け寄った。せめて、この女の人だけでも救い出さなくては。だけど、ぼくの想いも空しく、次の瞬間、縄が張り詰める軽やかな音が響き渡った。

「うわっ!」

 ぼくは思わず目線を逸らした。縄を掛けられた枝が軋む音。木々の葉が擦れ合い、ザワザワと奏でる音。それに続く様に大銀杏の太い枝がキィキィと嫌な音を発する。

「あ、あぐっ……ぐぐっ……ひ、輝……あぉっ、ぐぇっ……!」

 ギリギリと縄が柔らかな皮膚に食い込んでゆく音。恐怖に堪えかね、ぼくはそのまましゃがみ込むと、必死で耳を両手で塞いだ。

「ひ、ひぃっ! ああ、嫌だ……嫌だ! 聞きたくない……聞きたくないっ!」

 ぼくの想いとは裏腹に、響き渡る音はギリギリと濁った音に変わってゆく。恐らく、荒縄が柔らかな首の皮膚に食い込み、肉を引き千切っているのだろう。唐突に、ゴキっとも、グキっとも言える、鈍い音が響き渡った。鈍く響き渡った音に、ぼくは思わず顔を挙げてしまった。

「う……、うわぁーーーっ!」

 そこには。これ以上無い位に目を見開き、牛の様に長い舌を垂らしたまま無残に絶命した女性の姿があった。眼球は今にも零れ落ちそうな程に飛び出し、阿呆の様に開かれた口からは涎がぽたぽたと滴り落ちていた。蓑虫の様に宙ぶらりんになったまま、彼女はゆっくりと風に揺られていた。油の切れたブランコの様にキィキィと渇いた音だけが響き渡る。あまりの情景にぼくは、その場に崩れ落ちた。ついでに、余りの衝撃に失禁してしまったと思う。お尻にじわじわと広がってゆく生温い感触。それから、立ち昇る小便の臭気に噎せ返りそうになった。

「ど、どうして……どうして、こんなことを……」

 不意に女性の足を伝い、何かの液体が流れ落ちてきた。液体は足元にゆっくりと広がり、水溜りを作り上げようとしていた。事切れた彼女の体は、滲み出る尿を抑え切れなくなったのだろう。女性の足元に水溜りを為すように尿が零れ落ちる様を、ただ茫然と見ていた。

 電灯も使い過ぎればヒューズが飛ぶ。これ以上酷使されると大変なことになる。だから、ヒューズを飛ばし、それ以上電気が伝わらない様に伝達を断つ。ぼくも同じだった。全ての感覚が麻痺した今、ぼく自身のヒューズも吹っ飛んだ様な気がした。だからなのだろうか? ぼくは妙に冷静な目で彼女の死体を見つめていた。ついでに、深い、深い、憐れみにも似た哀しみを覚えた。

「どんな……どんな理由があったとしても、自殺するなんて……駄目だよ……」

「君に自殺を否定する権利があるの?」

「え?」

 いきなり背後から乱暴に肩を掴まれて、ぼくは慌てて振り返った。

「ひっ!」

 もう、これ以上驚くことなんか無いと思っていた。だけど、ぼくはまだ許されないらしい。そこに佇んでいたのは、在り得ないことに……ぼく自身だった。もう一人のぼくは、腕組みしたまま、ぼくを見下す様な、揶揄する様な笑みを浮かべていた。

「逃げ続けただけの……しかも、自殺さえも未遂に終わった、出来損ないの君なんかに、他人の自殺をどうこう言えるだけの権利があるの? 君はそんなに偉いの?」

「ぼ、ぼくは……」

「君は嘘つきだ」

「うわっ!」

 ぼくは、唐突に、力一杯突き飛ばされた。その瞬間、まるで崖から転落するかの様な不思議な浮遊感に襲われた。崖から転落なんかしたことは無いけれど、そんな表現が適切であるかの様に感じていた。ただ、抗うことも出来ぬまま、ぼくはゆっくりと落下していった。それに伴い、ゆっくりと意識が遠退いていった……。

◆◆◆3◆◆◆

 全ての始まりは数日前に遡る。あの日も放課後、ぼくはロックと一緒に京都駅の周辺を歩んでいた。学校を出たぼく達は、七条を超え、京都駅の周辺までのんびりと歩んでいた。

「ふぬー、相変わらず暑いのじゃ」

「うん。本格的な夏到来って感じだよねー。あーあ、もう汗でビショビショだよ」

「ワシも同じ様な状況なのじゃ。汗だく、汁だくで、バッチシ食べ頃なのじゃ」

「えっと……何の食べ頃なの?」

「ワシの食べ頃なのじゃ」

「え、えっと……ロックって、時々激しく返答に困窮することを言うよね」

 何時もと変わらない意味不明なやり取りを交わしていた。この界隈には特段変わった甘味のお店がある訳でも無いものの、隠れた名店を発見出来るかも知れないという、ロックの意味不明な言葉に乗って、徒然なるままに二人で歩んでいた。ロックと二人きりで居る時は本当に居心地が良いから、何度も同じ失敗を繰り返しているにも関わらず何故か乗ってしまうぼくがいる。ロックもそれを判っているから、良く判らない理由をつけてぼくと二人きりの時間を作ろうとしている様に思えた。ぼく達は背格好の良く似たコンビ。まぁ、横幅の大きさではロックには負けるけれど、背が低くて、童顔で、甘い物好きという、何だか何処かの芸人コンビの様な組み合わせが今日も街を往く。

「ふむ。やはり今日も隠れた名店と遭遇することは無かったのう」

「まだまだ諦めるのは早いんじゃないかなー? このまま突き進んでいくとー」

「ふむふむ……。お西さんに出くわすのじゃ」

「そうそう。それで、もうちょっと進むとさ、島原の周辺に出るじゃない?」

「ふむふむ。確かに、島原の周辺に出るのう」

「あの辺りってさ、昔ながらの家が立ち並んでいて、どこか下町っぽい風情が残っているじゃない?

「ふむふむ。下町っぽい風情が残っておるのじゃ」

「案外、そういう街並みには、ちょっと洒落た喫茶店とかあったりしてさ、そういう所ってー」

「おお! テルテルよ、お主はやはり違いが判る男なのじゃ。そうした、地元のちょっと洒落た喫茶店では極上のケーキを扱っておったりする。そう、申したいのじゃな?」

 ぼくの話に相槌を打っていたロックが、何かを閃いたかの様に満面の笑みで顔を上げる。ぼくも笑顔で頷き返してみせた。でも、ぼくの考えはあながち間違っていないと思っている。適当なことを言っている訳じゃ無くて、これまでの経験と勘、ついでに似非っぽい統計情報に基づく判断基準であり……。まぁ、早い話、ぼく個人の野生の勘といった所だったりする。そんなこんなでロックと二人、ぶらぶらと宛ても無く島原の街並みを彷徨っていた。

 しかしながら、そうそう簡単に隠れた名店に出会える訳も無く、次第に日も暮れ始めていた。数時間前まで汗でビッショリだったワイシャツも、既に乾き始めてしまっていた。

「うわっ、ぼく、汗臭いや……」

「ほほう。ワシにも嗅がせるのじゃ。クンクン」

「ちょ、ちょっと、ロックってばワンコじゃ無いんだから……」

「良かったら、ワシの胸元もクンクンすると良いのじゃ」

「えっと、ぼくもワンコじゃ無いから……」

 こんな風に何時もの様にじゃれ合っていた時のことだった。収穫も無く、帰路に就こうと島原の大門を過ぎ去った直後に、ぼく達は奇妙な女性に遭遇した。上手く言葉に出来ないけれど、何と言うか……とにかく不気味な気配を身に纏った女性だった。中年の女性だったけれど、中年なんて言葉を使っては失礼に当たる程に綺麗な顔立ちの女性だった。良くテレビのドラマなんかに出ている女優さん並に綺麗な女性だった。ただ、妙に薄暗い気配を称えた女性だった。一体、何に違和感を覚えるのだろう? ぼくは妙に興味を惹かれてシゲシゲと上から下まで観察していた。

「て、テルテルよ、そんなに凝視しては失礼なのじゃ」

「う、うん……」

「それに、何だか気味の悪いオバハンなのじゃ」

 やけに鮮やかな紅の着物という時点で、何処か風変りな印象を覚えた。これだけ日差しが強いのに日傘をさしていないのも不思議に感じた。でも、何よりもぼくが違和感を覚えたのは、何かを抱きかかえている様に見えたことだった。

(何だろ? 何を抱きかかえているのだろう?)

 何時もの如くぼくは妙な好奇心に駆られていた。ロックは気味悪がって関わり合いになるのを何とか阻止しようとしていたけれど、一度火が付いた好奇心は燃え上る一方だった。不気味な雰囲気が、余計にオカルトマニアの血を騒がせてくれる様に思えて、ぼくはゆっくりと歩み寄った。すれ違いざまに確認してやろう。そんなことを考えていた。その時だった。唐突に、ぼくのポケットの中で携帯が鳴り響いた。

「うわっ!」

「お、驚かすで無いのじゃ!」

「えー。ぼくのせいなの? えっと……アレ? コタからだ。どうしたんだろう。はーい、もしもーし?」

「ああ、輝か? 今、何処にいる?」

(うわっ、何か、あからさまにお怒りモードなんだけど……)

 電話の向こうからは、あからさまに不機嫌そうなコタの声が聞こえてきた。一体、何で不機嫌そうにしているのだろう? ぼく、また何かやらかしたっけな? そんなことを考えながら耳を立てていると、電話の向こうでコタは一際大きな溜め息を就いて見せた。

「駅前のヨドバシカメラに買い物に行こうと誘って置きながら、何処へ行った? この蒸し暑い最中、俺は何時まで駅前で時間を潰せば良い?」

「あちゃー、ご、ごめんね! 急いで向かうから! 今ね、ロックと一緒に島原に居るんだ」

「島原だと? まったく……相変わらずお前という奴は……」

 相変わらずぼくは間が抜けている。電話の向こうではコタが雷親父よろしくクドクドと小言を言っているのが聞こえたから、思わず携帯を耳から遠ざけた。やれやれと思っていると、いきなりロックに腕を勢い良く引っ張られた。

「うわぁっ! ちょっと、ロック、なにするのさ!? 転んじゃうじゃない!」

「み、見るのじゃ!」

「え?」

 あまりのことに、ぼくは腰を抜かしそうになった。あの不気味な雰囲気を称えていた女性が、何時の間にか、すぐ目の前に立っていたのだから。これ以上無い程に目を大きく見開き、口をパクパクしながら何かを呟いていた。もう、それだけでもとんでも無い恐怖なのに、その女性が何を言っているのかが聞こえてしまった。

「やっと見つけた……やっと見つけた……やっと見つけた!」

 壊れたテープレコーダーの様に繰り返し同じ言葉を口にしていた。一気に背筋が凍り付きそうになった。恐怖に怯えていると、唐突に女性が手を伸ばしてきた。その時に、手にしていた何かが零れ落ちるのが見えた。

「ひぃっ!」

 ロックが短い悲鳴を挙げた。手から零れ落ちた物……それは、薄汚れた日本人形だった。幼い男の子を象った日本人形には、小さな和紙が釘で打ち付けられていた。そこに描かれた文字……『輝』。

「やっと見つけた……あたしの……輝!」

「て、テルテル、逃げるのじゃ!」

「うわああーーーっ!」

 ぼく達は全力で走り続けた。何度も何度も転びそうになりながら、赤信号の横断歩道を突っ切り、危うく事故に遭いそうになりながらも、ひたすらに走り続けた。とにかくコタの待つ、京都駅前のヨドバシカメラまで逃げ伸びよう。それだけを考えて必死で走った。

「な、何なのじゃ、あのオバハンは!」

「ぼ、ぼくに聞かないでよ!」

 あたしの輝……確かに、ぼくを見て、あの女性はそう呟いた。口元を不気味に歪め、目を大きく見開き、ぼくの顔を焼き付けるかの様に凝視していた。普通の人じゃ無い。どう考えてもまともな人じゃ無い。身の危険を感じずには居られなかった。心臓が破れそうになりながらも、ぼく達はようやく京都駅前のヨドバシカメラに到着した。入り口前に佇むコタの、これ以上無い位に不機嫌そうな表情も、あの時のぼく達に取っては大きな救いとなった。

「……随分と早かったな。電話越しに妙な悲鳴が聞こえたが、何かあったのか?」

「うん、それがね!」

 ぼく達は数分前に目にした奇妙な女性のことを語って聞かせた。そう……。あの人と遭遇してしまったことが、全ての発端となった。

◆◆◆4◆◆◆

 どれだけの時間、意識を失っていたのだろう? 不意に強い光に照らし出されて、ぼくは気が付いた。眩しい光の正体は今まさに沈まんとする夕陽が放つ光であった。余りの眩しさに目が眩み、ぼくは慌てて手で顔を覆った。

(夕焼け空? そんな馬鹿な……。ぼくは夜半のお西さんにいたハズなのに)

 ぼくは慌てて起き上がり周囲を見渡した。何が何だかますます判らなくなってしまった。

「アレ? 此処は……お爺ちゃんの家? どうして、こんな所に居るのだろう?」

 もう、何が何だかすっかり意味不明になっていた。ぼくが立っている場所は、紛れも無く、神戸にあるお爺ちゃんの家だった。北野異人館通りのすぐ近く、高台に佇む洒落た洋館。当然のことながら、お西さんから一瞬で辿り着く事が出来るような場所じゃない。

 静まり返った室内には、大きな古時計が時を刻む音色だけが響き渡っていた。その音色に気付いたぼくはそっと振り返った。

「ああ、懐かしいな。この時計、今でもちゃんと動いているんだね」

 思わず嬉しくなってしまったぼくは、周囲を見渡してみた。何一つ変わることの無い懐かしい光景がそこには広がっていた。

 神戸に遊びに行くのは幼き日のぼくに取っては壮大なる冒険そのものだった。若い頃は船の航海士をしていたお爺ちゃんは冒険好きで、お話好きで……ぼくの手を引き、良く異人館を案内してくれたっけな。心優しいお爺ちゃんは、ぼくのことを誰よりも可愛がってくれた。

 神戸の異人館は本当に異国情緒あふれる場所。赤レンガの色合いが鮮やかな風見鶏の館、萌黄色の外観が物珍しく思えた萌黄の館、ノスタルジックな雰囲気に包まれた香りの家・オランダ館にお洒落な山手八番館。異国情緒あふれる西洋の香り漂う街並み。まるで大海原を旅するかの様にお爺ちゃんに手を引かれて、ぼくは様々な場所を訪れた。その都度、お爺ちゃんは海の上での冒険談を大いに膨らませて、ぼくに素敵な夢をたくさん見せてくれたっけな。

「ああ、懐かしいな……最後に此処を訪れてから何年経つだろう? お婆ちゃんにも全然会いにきて無いな。そうだったね。此処を最後に訪れたのは……」

 不意に夕焼け色に染まったフローリングの床に、雫が一粒、零れ落ちた。

 そう。あの時、ぼくにはお爺ちゃんの死が見えてしまった。だから、恐ろしくて、恐ろしくて、ぼくは神戸に足を踏み入れることを頑なに断り続けた。馬鹿だよね。本当に馬鹿だったと思う。両親はぼくの、この忌まわしい能力のことを知っている。当然、酷く取り乱していたさ。

「お爺ちゃんが死んでしまうってね……」

 夕焼け空の光が背中を焦がす。何時見ても夕陽の色合いは優しい色合いだ。煌々と燃え上がる炎の様な色。その夕日を背に受けて大きく伸びたぼくの影。燃え上る様な夕焼け空を見る度に、言葉に出来ない哀しみに襲われる。ぼくはその理由を知っている。大好きなお爺ちゃんは、この燃え上がる様な夕陽に抱かれて、永遠の眠りに就いたのだから……。

「あ、アレ? おかしいな……涙が、こぼれて来ちゃった。えへへ、ぼく、未だに泣き虫なんだよね……ううっ、お爺ちゃん……ごめんね。最期の時に、会いに来てあげられなくて……」

 思わず崩れ落ちるぼくの頭を、ゴツゴツした大きな、温かい手で撫でて貰った様な気がした。お爺ちゃんは此処でぼくに良く唄を聞かせてくれたっけな。良く通る渋い声で、見た目そのまんまにハイカラな西洋柄のシャツを身に纏って、唄を聞かせてくれたよね。

「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計、百年いつも動いていた、ご自慢の時計さ……」

 気が付くと、ぼくはお爺ちゃんの真似をして唄っていた。お爺ちゃんの良く通る渋い声とは程遠いけれど、それでも、ぼくはお爺ちゃんの足取りを辿る様に唄っていた。

「ぼくがこの大きな古時計を気に入ったから、シチュエーションに合う、この唄を唄って聞かせてくれたんだよね。ホント、お爺ちゃんは意外に茶目っ気たっぷりな一面があったりして、ぼくの自慢のお爺ちゃんだったなぁ」

 再び涙が込み上げて来た所で、唐突に時計が鳴り響いた。ボーン、ボーン。

「でも、この唄は皮肉にも、こう締め括られる。今はもう動かない、その時計ってね……」

 本当に忌まわしい能力だ。この能力のお陰で、ぼくはどれだけ辛い思いをしてきたのだろう。周囲の人々はぼくのことを気味悪がって誰も近寄ろうとしない。そのくせ、ぼくの振る舞いの一つ一つを鋭く監視し続けていた。何しろ、次は自分の番とは限らないという恐怖心に駆り立てられたのだろうからね。ぼくを好奇の色眼鏡で見るクセに、だからといって、ぼくを何処かへ追いやることもしない。本当に人は救う価値が無い生き物だと思った。

「逃げられる訳ないんだよ。誰にだって死は等しく訪れるものなのだから」

 不意に誰かの声が聞こえ、ぼくは慌てて振り返った。そこに佇むのは、もう一人のぼくだった。相変わらず腕組みしたまま気味の悪い笑みを称えていた。

「理不尽な世の中で、唯一、万人に平等に与えられる物。与えられた死という権利から逃げることは絶対に出来ないし、逃げることも許されない」

 もう一人のぼくは夕陽を背に受けながら、じっとぼくを見つめていた。

「不思議な気分だ。ぼく自身と向き合うなんてね」

「君に取っては不思議なことなんだね。でも、ぼくは、ずっと君と共にあったんだよ?」

「そうだったね。そうだね……君はずっと、ぼくの傍にいた」

 もう一人のぼくが哀しそうに微笑む。何とも不可思議な気分だった。何しろ、ぼくは、ぼく自身と語らっているのだから。もしかしたら、彼はぼくが生み出した存在なのかも知れない。ずっと、不安定な生き方をしてきたから、多重人格に陥っていたとしても不思議ではない。ただ、もう一人のぼくは不思議な温かさに満ちていた。言葉に出来ない懐かしさを称えていた。

「ぼくには判るんだ。君が何に苦しんでいるかも、何に憂いを感じているかも、何もかも判るんだ」

「そうだね。だって、君はぼく自身だからね……」

「ねぇ、覚えている? あの日のこと」

「あの日のこと?」

「君が初めて……死を決意した、あの日のことだよ?」

 もう一人のぼくが哀しそうに微笑んで見せる。

「うん。忘れる訳が無いよ……」

「ねぇ、少しだけ、過去を旅してみない?」

「……そうだね。それも悪くないかも知れない」

 もう一人のぼくに応えた瞬間、ゆっくりと意識が遠退いていった。再び過去へと向かうべく時間旅行。ゆらゆらと揺らぐ灯火の様な感覚に包まれていた。

◆◆◆5◆◆◆

 人は自殺を「悪」だと評する。あの時、ぼくは確かに自殺しようとしていた。未遂に終わってしまったけれど、それだけの覚悟は持っていた。本当に死んでしまおうと思っていたのは嘘じゃない。

 何箇所も病院を転々として適当なデタラメをしゃべり続けて、あるいは、敢えて精神病患者みたいな気の触れた振る舞いをしてみせたりした。もちろん、本物の医者達だったら、ぼくなんかの猿芝居なんて簡単に見抜いていたと思う。それでも薬を処方してくれたのは金目当ての貧乏医師か、はたまた腕の悪いヤブ医者のいずれかだったからだと思う。いずれにしても、ぼくは大量の睡眠薬を入手することに成功した。

 無駄なことをやっているのは重々理解していた。一般的な睡眠薬など大量に服用したところで所詮は強い眠気が訪れるだけ。死ねる訳が無かった。その位のことは知っていた。むしろ、そこら辺に生えている植物達が持つ毒物の方がよほど自殺者向けだ。幾らでもあるさ。生命活動を停止させるための毒物なんて、幾らでもね。夾竹桃、福寿草、シキミ、毒空木、鈴蘭、鳥兜……幾らでもある。

「実に滑稽な話だと思う。人の死を知ることが出来るぼくが、自ら死を選ぶなんてね」

 あの日もあの人と激しく衝突した。あの人は何時だってぼくのことを成績でしか評価してくれなかった。教師としての威厳を守るため? 自分自身の存在を守るため? そのためには、ぼくがどうなっても構わなかったの? それとも……ぼくみたいな出来損ないは生まれてこなければ良かったの?

「違うね。あの人はぼくが居なくなることを許さなかった。だって、ぼくが居なくなったら……あの人の怒りの矛先を向ける相手がいなくなってしまうから」

 結局、ぼくはそこまで踏み切れなかった。覚悟を持つことと、その場面に直面した時に、為し遂げられることとは別物だと気付かされた。凄く矛盾しているけれど、結局、ぼくはそれだけの勇気しか手にすることは出来なかった。度胸が無かったから。それに――本当は死ぬつもりなんか無かった。ただの「演技」に過ぎなかった。「あの人」が恐れる「世間体」に傷を負わせることが出来ればそれで良かったのだから。

 「あの人」は教職に就いている身。教師の息子が自殺を試みた。大量の睡眠薬を服用して自殺未遂を行った。上手くやればマスコミ経由でニュースに乗ることが出来ただろうし、仮にそこまで至らなくても、近所のうわさ話好きの主婦達の手によって幾らでも広がっていったと思うんだよね。ほら、主婦なんて生き物は、所詮、暇と時間、ついでに肉体を持て余している「残念な」人種でしょう? 他人のうわさ話、それも不幸にまつわる話は大好物だと思うんだよね。だから、どうぞ広めてやってください。むしろ拡散希望です。あの人は教師でありながら、実の息子に酷い虐待を繰り返していたと。王様の耳はロバの耳だよって、ありったけの声で叫んでください。

「虐待は日常的に繰り返されていた。ぼくは自分の口答えすることを許されなかった。だからと言って、全てに従順になったらなったで、それも違うと、あの人は罵った。ぼくが、ぼく自身の意思で、あの人に付き従っている。そう仕向けたかったのだと思う。でも、残念だったね……」

 力で肉体を縛り付けることは出来ても、思想までを縛り付けることは出来なかった。戦時中のこの国だって同じ過ちを為し遂げたでしょう? 権力で無理矢理縛り付け様としたって、人の心まで縛り付けることは出来ない。

 『殺意』と言えば良いのかな? 幼い頃から蓄積され続けた憎悪は日々膨れ上がり、今ではぼくの心を完全に支配するに至った。

 判るかな? 幼い頃のぼくは確かに非力だった。肉体的な束縛も受け入れざるを得なかった。でもね、時の流れって残酷だよね。あなたは年老いて往き、代わりに、ぼくは成長していった。もう、肉体的な束縛は受けない。何時でも反撃する態勢は整っているんだよ? 反撃の狼煙を上げ、あなたに反旗を翻し、革命を起こし、恐怖政治を敷く王政を転覆させるだけの準備は整っている。今度はあなたが断頭台の露となり、ぼくが革命の成功を声高に叫ぶ番だ。

 さぁ、お逃げなさい。鬼ごっこの始まりだ。ただし、捕まったら命の保証は出来ない。その指の爪を一枚、一枚、優しく引っぺがしてあげよう。その歯を一本、一本、抜き取ってあげよう。それから……もう、必要無くなったであろう、その目に、一本、一本、真っ赤に焼けた鉄の箸を突き刺してあげよう。精々ぼくに詫び続けるが良い。ありったけの断末魔を挙げるが良い。それで……ぼくは少しだけ、ほんの少しだけ満たされるのかも知れないのだから。

「ああ、判っているさ。結局、ぼくは何時だって口先だけなんだ。深い、深い憎悪を抱いているクセに、それを行動に移せない臆病な弱虫さ。ただ逃げることしか出来ない弱虫に過ぎないんだ……」

 そうやって逃げ続けるぼくに、一斉に人々が嘲笑を浴びせ掛ける。

 ねぇ、悪いことなの? 「逃げる」ことは悪なの? どうすることも出来なくなって、出口の見えない無限回廊に迷い込み、行き場を失ったぼくはどうすれば良いの? 戦いもしない奴らに限って、外野から「立ち向かえ」と口先だけの支援を送る。でも、そうすることが本当に正義だとでも思っているの? 結局、みんなそうなんだった……。自分達の言いたいことだけ捲くし立てて、ぼくの問い掛けに応えてくれる人は誰もいない。

『何をアタリマエのことを聞いているのだ?』

 揶揄する様な目で、憐れむ様な、蔑む様な目でぼくを見下すだけだ。

 ねぇ、判る? 君の「アタリマエ」と、ぼくの「アタリマエ」は同じじゃないんだよ? あのね、君とぼくは違う個性なんだよ。考え方だって生き方だって何から何まで全部違うんだよ? ねぇ、個性って一体何のためにあるの? 誰かに踏み躙られ、摘み取られるためにあるの? 誰か教えてよ? 誰か応えてよ。ねぇ? ねぇってば!

「結局……ぼくは孤立無援なんだ」

 夕焼け空の赤々とした日差し。煌々と燃え上がる様な色合い。長く伸びた影。ぼくはただ、為すすべもなくお爺ちゃんの部屋に佇んでいた。後から、後から涙が零れ落ちてくる。次々と床に落ちては、儚く散ってゆく。古時計が時を刻む音だけが響き渡る。

「時の流れは残酷だ……。それなら、いっそ、万物を統べる時の流れを止めてしまえば良いさ」

 その瞬間であった。唐突に時を刻む音が止まった。

「え?」

 再び足元が揺らぐような感覚を覚えた。酷い眩暈に、立って居られなくなった。眩暈はどんどん強まってゆき、やがて世界全体が回っているかのような感覚を覚えていた。ゆっくりと膝から崩れ落ちると、ぼくはそのまま床の上に倒れ込んでしまった。燃える様な日差しを体で受け止めながら、ぼくはゆっくりと気を失っていった。

◆◆◆6◆◆◆

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと」

 不意に、どこから懐かしい歌声が聞こえてきた。それは、とても優しい歌声だった。心が穏やかになってゆく。そんな感覚を覚えていた。どこからか聞こえてくる優しい歌声に勇気付けられるかの様にぼくはそっと起き上がってみた。

「あ、アレ? 今度は一体何処なのだろう?」

 そこには見覚えの無い街並みが広がっていた。いや、雰囲気から察するに京都の街並みなのだろうけれど、どうしたことだろう? 随分と雰囲気が古めかしい気がする。周囲を見回してみれば、夕焼け空に照らし出された街並みは暖かな色合いに染め上げられていた。帰るべき家がそこにある。帰るべき場所がそこにある。何故か、そう確信していた。

(どうしてだろう? 何だか、随分と目線が低い位置にある様な気がするのだけど?)

 どうやら、ぼくは誰かに手を引かれながら歩いているらしい。温かい手の感触に心が落ち着く。心の底から安心できる温かさだった。口ずさむ唄は、どうやら隣を歩く女性が唄っているらしい。優しい歌声だ。

(そうか。どういうことかはよく判らないけれど、ぼくは子供になっているのか。だから、こんなにも目線が低い訳だね。だとすると、この隣にいる女性は、この子供のお母さんかな?)

 段々と状況が判って来た。母と息子が歩んでいる場面を体験しているみたいだった。ぼくは小さな子供になって母と共に歩んでいる。でも、どうして、古めかしい京都の街並みを歩む情景を見届けているのかは判らなかった。

(まぁ、夢なんてものは往々にして脈絡の無いものだからね。こういう不思議な展開もある訳か)

 穏やかな夕焼け空だった。煌々と燃え上がるような夕焼け空は、何処までも果てしなく続いている様に思えた。温かな手の感触と優しい歌声。子供の幸せな心が伝わってくる。心優しい母と共に歩む夕焼け空の道。心温まる情景だった。

「輝、夕食は何を食べようか? 何が良いかな?」

 温かな手が頭に触れる。ぼくは頭を撫でられていた。心が穏やかになってゆく。ささくれだった気持ちが沈められ、癒されてゆく感覚を覚えていた。

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと」

 母の柔らかい歌声を聞きながら歩く帰り道。何気ない光景なのにも関わらず、ぼくは涙が零れ落ちそうな気持ちで一杯になった。それは哀しい涙では無かった。満ち足りた温かさに、不思議と涙があふれてきそうになる。ただ温かくて、心がこれ以上無い位に満たされていて……ああ、これが幸せという感覚なのかな? 幼い頃からずっと、ずっと欲しかった想い。手を伸ばせば届くところにあるハズなのに、どうしても手に入らなかった宝物。夢見ていた宝物が期せずして、ぼくの手の中に転がり込んできた。偶然でも何でも良かった。ただ、温かな愛情に満たされていた。

「夕食はお豆腐が良いかしら? 輝はお豆腐、好きだものね?」

 輝だって? この子もぼくと同じ名前なんだ。豆腐が好きだなんて、何だかぼく自身を投影しているみたいだ。願望が夢になったのかな? 確かに、ぼくは母親の愛情を感じたことが無い。厳密には「あの時」が訪れるまでは、あの人は今の様に乱暴な振舞いは見せなかった。ぼく達は家族として成り立っていた。存在することの出来なかった弟の存在――彼が全てを変えてしまった。

 生まれてくるハズだった弟の存在。でも、彼は生まれてくることは出来なかった――あの日、あの時、あの瞬間から何もかも歯車が狂い始めてしまった。ぼくの目に映ってしまったのは弟の死を告げる映像だった。運命は本当に残酷だと思う。

 それにしても綺麗な夕焼け空だなぁ。どこまでも果てしなく続いている。煌々と燃え上がる様な色合いに包まれて、ぼくの姿も煌々と燃え上がっていた。足元に長く、長く伸びた影。ふと、母の着物が目に留まった。この夕焼け空に負けない程に鮮烈な紅の着物。何処かで見覚えのある着物に思えた。柔らかな手の感触に興味を惹かれ、ぼくは母の顔を見てみたい衝動に駆られた。すぐ隣を歩いているのだから、顔を挙げればすぐに見えるだろう。ただ、その顔を見届けることが恐ろしくもあった。もしも……この手の感触に相応しい、優しい笑顔を称えた母だったら、ぼくの心は酷く軋んでしまうだろう。まともでは居られないほどに軋み、歪み、悲鳴を挙げずにはいられないかも知れない。だからと言って、修羅の形相を浮かべた鬼の様な顔を称えた母だったら、それはそれで希望の無い世界に、ぼくは打ちのめされてしまうかも知れない。でも、結局、好奇心が勝ってしまった。生来からの好奇心の強さは、夢の中でも変わることは無いらしい。

(コタにも言われたっけな。好奇心は猫を殺すって。でも……やっぱり、抑えられないや)

 ぼくは恐る恐る顔を挙げてみた。だけど……。

(うわっ! 眩しい!)

 赤々と燃え上がる様な日差しが強過ぎて、母の顔は見えなかった。逆光になっていた上に、夕日の強い光に覆い隠されて、輪郭しか確認出来なかった。ただ、優しそうな母親像だけは明確に見届けることが出来た。ああ、こんな優しそうな人が母だったら、ぼくの人生は違ったものになっていたのかも知れない。こんなにも絶望に満ち足りた、哀しい人生を歩むことも無かったのかも知れない。でも……この母親、何処かで会ったことがある様な気がする。何故か、見覚えがある気がしてならなかった。デジャブという奴なのだろうか?

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 段々と歌声が遠退いて行く様に思えた。アレ? どうしたことだろう? 何だか段々と歌声が遠ざかっていく様な気がするのだけど?

(違う……ああ、こんな所で寝ちゃ駄目だって……。ううっ、で、でも……耐え難い睡魔だ……)

 唐突に、抗うことが出来ない程に強い睡魔が襲ってきた。こんな場所で寝ては駄目だ。頭では判っているが、どうしても抵抗することが出来ない。

「あら、輝は眠くなってしまったのかしら? 大丈夫よ。お母さんがお家まで連れて行ってあげるからね」

 不意に感じる浮遊感。抱き上げられた瞬間、一気に睡魔が炸裂した。ぼくは抗うことが出来ない眠気にとうとう堕ちてしまった。ガクっと首が落ちるのを感じていた。

◆◆◆7◆◆◆

 次の瞬間、目の前で水風船が破裂する様な感覚を覚えた。驚き、慌てて顔に触れてみるが、濡れては無かった。

「あ、アレ? いきなり周囲の様子が変わっちゃったよ? 一体どうなっているの?」

 目線の高さも普段のぼくと変わらなかった。先ほどまでは子供の姿になっていたが、今度は現在の自分の姿に移り変わっていた。不思議に思ったが、それよりも周囲は随分と賑やかだ。何だか楽しそうな雰囲気が漂う街並みの光景に興味を惹かれた。ぼくは成り行きに任せて、このまま街並みを歩んでみることにした。

 随分と人通りの多い通りだった。人々の笑う声があちらこちらから聞こえてくる。どこからか、琴を奏でる透き通った音色が響き渡る。何とも賑やかな雰囲気に気持ちも昂ぶる。人の波に乗りながら、ぼくは飲み屋が立ち並ぶ通りを歩んだ。ふらふらと歩んでいると、ぼくの視界の先に見覚えのある建造物が飛び込んでくる。

(アレ? これって、もしかして……島原の大門かな?)

 不思議な光景だった。島原の界隈は賑わいを見せていた街並みだったことを考えると、やはり、過去の情景を見ているの様に感じられた。今は大門を残すばかりとなったけれど、古き時代の島原は花街として栄えていたのを考えると、憶測は正しそうだった。

(ふーん。現代では物静かな街並みが広がっているけれど、かつては活気あふれる賑やかな街並みだったんだなぁ)

 街並みに漂う華やかな雰囲気に酔ってみるのも悪くは無さそうだったけれど、それ以上に活気に満ちあふれた街並みに興味を惹かれていた。華やかな着物を身にまとった芸妓達が、これまた裕福そうな旦那を見送る姿が目に留まった。旦那から優美なかんざしを手渡され、嬉しそうに微笑むやり取りが目に留まった。

「へぇー。こういう花街で遊ぶ人達って、やっぱり優雅なお金持ちなんだなぁ」

 そういえば太助から聞いたことがあった。花街を訪れる旦那達は、こうやって自らの財力を誇示することも目的としていると。自分をお金持ちなんだぞって周囲に知らしめることで、自分の権力の大きさをも伝えようとしているのだと。

「お金持ちになると、やっぱり羽振りも良いんだねぇ。ちょっと憧れるかな」

 島原は街並み自体が華やかな雰囲気に包まれており、人々の享楽に彩られている様に思えた。誰も彼も悩みなんか無さそうな楽しげな振る舞いを見せていた。そこには笑い声があった。そこには人々の笑顔があった。馬鹿みたいに騒いで、馬鹿みたいに振舞って、馬鹿みたいに楽しそうに遊戯に身を委ねるばかりだった。

 賑わう人の波の中、ぼくの目には意外な人物達の姿も映っていた。街を行き交う人々と大差の無い見た目ではあったが、少なくても人では無い存在達であった。木々の魂達の姿もまた、賑わう人の波の中に見て取れた。

(そうか……。古き時代には木々も生い茂っていた。今と異なり、自然も豊かだったハズだよね。だから、こうして幸せそうに街並みを眺める木々の魂達の姿もあるということか)

 不思議な光景だった。死に瀕していない木々の魂達の姿を見るのは初めてのことだった。それだけ現代の社会は荒廃が進み、哀しみに満ちているということなのだろう。

 行き交う人々は皆一様に楽しそうに笑い合っていた。人々の笑顔が羨ましく思えた。この人達は心の底から笑っている。楽しくて、楽しくて仕方が無いと言った素振りで笑っている。何だか、この雰囲気にぼくは酔ったみたいだ。何かがあった訳では無いけれど、踊り出したくなる程に陽気な気分になっていた。こういう楽しい夢なら、幾らでも歓迎するんだけどなぁ。そんなことを考えながら、人の波に乗っていた。

 その時であった。不意に空が唸りを挙げたかと思ったら、次の瞬間には勢い良く雨が降り出していた。

「え……? 雨?」

 突然降り出した激しい雨に、道行く人々は蜘蛛の子を散らすかの如き勢いで、家々の軒先へと駆け込んでいった。我先にと逃げ惑いながらも、相変わらず楽しそうな笑い声は絶えなかった。

(本当に、此処にいる人々は楽しそうに振舞っているんだなぁ)

 このまま雨に濡れられて、ずぶ濡れになってしまうのも、お祭り騒ぎみたいで面白そうだったけれど、何か嫌な気配を孕んだ雨だった。だから、ぼくも手近な軒先に避難することにした。

「ふぅ。雨が上がるまで、ここで雨宿りさせて貰うかな。それにしても、雨が降ってきても相変わらず皆、楽しそうに笑っているよね」

「違うのよ……」

「え?」

 何時の間に隣に佇んでいたのか、漆黒の喪服に身を包んだ女性が佇んでいた。可笑しな女性だ。どういう訳か、背を向けたまま話し掛けてきた。麝香の甘い香りがツンと鼻を付いた。

「違うのよ。楽しいから笑っている訳では無いのよ」

「それじゃあ、どうして? どうして、皆、声を張り上げて笑っているの?」

 ぼくは問い掛けた。異変を感じなかった訳じゃない。他の人にはぼくの姿が見えないのに、この女性にだけはぼくの姿が見えている。可笑しくない訳が無かった。それに……何処かで会ったことがある気がして、奇妙な既視感を抱いていた。相変わらず女性は背を向けたまま口を開く。

「笑っていなければ、楽しいフリをしていなければ、辛くて、苦しくて、哀しくて……とても、生きようなんて思えないからよ」

「一体、どういう……」

 その時であった。一瞬、辺り一面が真っ白な光に包み込まれたかと思った瞬間、地響きの様な落雷の衝撃が駆け巡った。

「うわっ!」

 どうやら、かなり近くに落ちたらしい。あまりの衝撃に、ぼくは一瞬、意識を失いそうになってしまった。

「え!?」

 再び目を開いた時、周囲の景色は一変していた。人の気配は全く無く、荒涼とした光景だけが広がっていた。同じ街並みであることは間違い無かったけれど、まるで、廃墟の様な様相を呈していた。生暖かい風だけが頬を撫でてゆく。激しい雨が降っていたにも関わらず、地面はカラカラに乾き切っていた。

「な、何が起きたというの? 今、確かに、凄まじい雷が……」

「この疫病神め! この街からとっとと出てゆけ!」

 突然響き渡った怒号に驚き、ぼくは慌てて振り返った。

「あの人は、さっきの?」

 先刻話し掛けてきた女性の姿がそこにあった。何時の間に現れたのか多くの人々に取り囲まれていた。何が起こったのかは判らなかったけれど、集団で一人の女性を罵るという構図は、あまりにも不快に思えた。

「どうして! どうして、病に苦しむ息子の……輝をお医者様に看させて下さらないのですか!?」

「流行り病に罹った子供を街に入れられるとでも思っているのか!?」

「そうよ! 流行り病が、街中に広まったら、どうするんだよ!? 多くの人々が犠牲になるというのに、あんたは平気なのかい!?」

 流行り病? それに、またしても出て来たぼくの名前……。一体、何がどうなっているのかサッパリ判らなかった。ただ一つ判ったことは、ぼくと同じ名前を持つ少年が流行り病で死に瀕しているということだけだった。

「結局、そうやって、私から何もかもを奪い去ろうとするのですね……。満足ですか? それで、貴方達の心は満たされるのですか!?」

 ぼくは非力な存在だ。自分達の身を守る為に、一人の非力な母親を皆で寄って集って罵っているという、痛ましい光景を見届けることしか出来なかった。哀しいけれど、ぼくは無力だったから。非力だったから……。

(古い時代の医療は現代社会の様に進んでいなかった。必死の想いでの自衛策だったという訳なのだろうなぁ。多くの命を守る為には少数の犠牲は止むを得ない。その考え方は、確かに、正しいのかも知れない。でも、そんなのって哀し過ぎるよ……)

 ぼくにはどうしてあげることも出来なかった。街の人々の側に立ち、多数の命を守るという考えに一票を投じるか、はたまた、憐れな母親を擁護する考えに一票投じるか。でも、ぼくが選んだ答えは「棄権する」という最低のものだった。何の迷いも無く、その選択肢を選ぶことの出来る自分が可笑しくて仕方が無かった。

 紅の着物を身に纏った母親は静かに立ち上がると、何かをブツブツと呟きながら、力無く歩み出した。ゆっくりと、ゆっくりと歩む母親が、今まさに、ぼくの横を通り抜けようとしていた。その時だった。

「オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……」

「えっ!?」

 背筋が凍り付きそうな衝撃を覚えた。彼女が口にしていた言葉は、深い憎しみの篭められた怨嗟の真言であった。あまりの恐怖に身動きが出来なくなる程に、冷たい呪いの言葉であった。後に残された街の住民達は、不安そうな表情で漆黒の喪服を身に纏った母親を見送るばかりであった。

 何となく時系列が繋がって来た様な気がする。あの黒い雨も、あの死体の数々も、全ては、あの母親の放った呪いに起因するものでは無いのだろうか? ぼくが見届けたのは、この街……つまりは島原の街に、過去に起こった凄惨なる惨劇の終焉だったのだろう。

 個を取るか、全を取るか。嫌な選択肢だ。どっちを選んでも、選ばれなかった方は不幸になる。誰かの犠牲の上に誰かの幸せが成り立つ。何て嫌な話なのだろう。でも、それが現実なのだということは、頭の悪いぼくにだって判ることだった。

「そうだよね。ぼく達も同じことをしている……生きる為に、ぼく達は他の生き物達の命を喰らっている。多くの人は知らないのだろうけれど、お肉屋さんで手に入るお肉……どうやって、動物達の姿から、お肉屋さんに並ぶ様に『加工』されているかは、あくまでもブラックボックス化されている。知らないということは罪なんだ。ぼく達の幸せのために、犠牲になっている命があることを知らないなんて……ううん、違うよね。ぼく達はただ、目を背けているだけ。逃げているだけだ」

 なぁんだ、皆、ぼくと同じじゃないか? 誰も彼も皆、卑怯者なんだ。ぼくだけが弱い訳じゃないんだよ。皆、皆、卑怯で、狡賢くて、結局は他人を踏み台にして生きているんじゃないか。ぼくは悪くない。ぼくだけが悪い訳じゃ無いんだ。

「輝……そんな所に居たの?」

「え?」

 再び周囲の光景が移り変わってゆく。何時の間にか、ぼくはどこかのお屋敷に佇んでいた。長い、長い渡り廊下の一角に佇んでいた。

(また、場面が変わったよ? 一体、何がどうなっているの? もう、訳が判らないよ……)

「輝、私の可愛い坊や、さぁ、こっちへいらっしゃい……」

 聞き間違えるハズが無かった。あの漆黒の喪服を身に纏った女性の声だった。先ほどの憎悪に満ちた声とは全く異なる優しげな声だった。むしろ……酷く、妖艶な、色香に満ちた声だった。

 廊下の向こう側からは、ぼんやりと灯篭のぼんやりとした明かりが見えていた。部屋の雰囲気から察するに寝室の様に思えた。随分と広い寝室だ。身分の高い人が使いそうな部屋なのが殊更不思議に思えた。

 良く判らないながらもぼくは歩き続けた。相変わらず、ぼくを呼ぶ女性の声は妙に淫らな声に聞こえた。時折、微かな喘ぎ声の様な吐息が混ざり、その度に、ぼくは思わず足を止めてしまっていた。

「さぁ、輝、早くこっちへいらっしゃい。お母さんの所へいらっしゃい……」

 ぼくのことを死んだ息子と勘違いしているのかな? でも、幾らなんでも無理がある。少なくても、ぼくは幼い子供では無い。確かに、同年代の子達と比べれば背は低いかも知れないけれど、でも、子供と比べれば遥かに背丈はあるハズだ。

 そっと障子に手を掛けた。ぼくのことを勘違いしているのか何だか、良く判らないが好奇心に駆られていたのは事実であった。何しろあの女性は実に妖艶な色香に満ちた、美しい女性だったのだから。子を持つ母親とは思えない程に淫らな色香に満ちあふれた女性だった。そんな女性が、微かな喘ぎ声混じりに自分の名を呼んでいる。一体何が起きているのか、興味を惹かれない訳が無かった。

 障子を開けると、そこには大きな金の屏風が佇んでいた。この屏風のすぐ向こう側には、あの女性がいるのだろう。不意に、屏風の隙間から、白くすべらかな足が突き出された。

「うわっ!」

 どう考えても母親が息子を呼び寄せるような仕草では無かった。あまりの光景に、ぼくは思わず息を呑んだ。

「えっと……あの、ぼくは、多分、あなたの息子の輝君では無いと思うのですが……」

「うふふ、何を言っているの、輝? お前の母さんは、此処にいるでしょう?」

「え? で、でも……」

「暴力を振るい、世間体を気にし、愛情の欠片さえ持たないような、あんな、紛い物の母親! 母親を名乗る資格なんか無いの……うふふ、判るでしょう、輝?」

「え!? ど、どうして……あの人のことを……?」

 なおも、屏風の向こう側で、漆黒の喪服に身を纏った女性は可笑しそうに笑う。

「母親が息子のことを知らないで、どうして、母親であることが出来るのかしら?」

 もう、ぼくの心は決壊寸前のダムと化していた。今、まさに、音を立てて崩壊しようとしていた。

 そうだよ……何を迷う必要があったのだろう? 疑う理由何か、何一つ無かったじゃないか? この人こそ、ぼくの本当の母親だったのでは無いのか!? ずっと、ずっと! 探し求めていた、心優しい母親は、目の前にいるじゃないか!?

「さぁ、輝、こっちへおいで?」

「か、母さん……」

「ええ、そうよ。お前の母さんよ?」

 きっと、ぼくは頭が可笑しくなっていたのだと思う。普通に考えたら在り得ないことだ。見ず知らずの女性がぼくの母親の訳が無い。でも、あふれ出てくる想いをどうしても抑えることが出来なかった。不意に、ぼくの頬を熱い涙が伝って落ちた。

(涙? ぼくの……ぼくの本能が、この人が本当の母親だと告げているの?)

「母さん!」

 金の屏風の向こうに身を乗り出した瞬間であった。唐突に強い光に包み込まれた。

「うわっ!」

 あまりにも強過ぎる日差しに目が眩んだ。それは夕陽の光であった。煌々と燃え上がる様な色合いの日差しであった。堪えられなくなったぼくは、慌てて目を伏せた。

◆◆◆8◆◆◆

 次に気が付いた時には、ぼくは自室の布団の上に横たわっていた。見慣れた天井の景色に、妙な安堵感を覚えた気がする。

「此処は……ぼくの部屋? なんだ。全部、夢だったのか……」

 それにしても不思議な夢だったな。夢の中でぼくは子供になっていた。それに母の姿を見届けた。不思議な夢だったけれど、あんな優しそうな人がぼくの母親だったら、ぼくの人生も違ったのかも知れない。

「ああ、嫌だ、嫌だ」

 頭を振ってみたけれど、夢に見た情景が消え失せることは無かった。

「ぼくは本当に弱い奴なんだね……」

 道を切り拓く強さも無ければ、明日を思い描く強さだって無いんだ。非力で無知なぼくは、ただ、あの人に抗い続けることしか出来ないんだ。

「ただ、ぼくは誰かに愛されたいんだ。それが誰でも構わないんだ……ぼくを可愛がってくれるならば、相手が誰かは厭わないさ」

 節操無しだよね。その相手が男でも、女でも……ううん、人でも、人ならざる者でも、誰でも良いんだ。ぼくのことを可愛がってくれるならば、ぼくは誰にでも尻尾を振るんだ。

「また、そうやって偽るんだね、ぼくは……綺麗ごとばかりを並べては自分を正当化する。違うよね? 誰でも良いんだ。ぼくを受け入れてくれるならば……。現実が辛過ぎるから、誰かに救いを求めているんだ。ただ、逃げることしか出来ない弱虫なんだ。だから、ぼくを愛してくれるならば、どんなことだってするさ」

 不意に扉がけたたましくノックされた。

「はぁ、現実に引き戻しに来たか……さっさと死ねば良いのに」

 ぼくは怒りに身を震わせながら扉を開けた。この手に鈍器を握っていたら、醜い肉塊になるまで殴り続けていたことだろう。

「何? 何か用?」

 ぼくの顔を見るなり、あの人は大きなため息を就いて見せた。

「輝、勉強はどうなっているの? そんなんだから、何時まで経っても成績が伸びずに、お母さん、どれだけ恥ずかしい想いをすれば良いのか判らないわ」

(始まったよ。見栄と体裁、ついでに世間体ばかりを気にする哀れな存在。なんでこんなのがぼくの母親なんだろうか。成績でしか人を判断出来無いなんて間違えている)

「大体、あなたは長男なのに自覚が無いのよ。弟の暁は……」

「成績優秀な優等生。まぁ、ぼくは川の下から拾われた失敗作だから、そりゃあ、仕方がないよねー」

 もう、ウンザリだった。この人はただの壊れたテープレコーダーだ。繰り返し、繰り返し、同じ様な言葉を繰り返すだけの存在。ぼくに取ってはただの障壁でしか無い。毒でしか無い存在。一刻も早く消えて欲しいだけの存在。そっちが消えないなら、ぼくが消えるまでだ。

「ちょっと、輝、待ちなさい! まだ話は終わって無いのよ!」

 背後から肩を乱暴に掴まれて、ぼくの頭に一気に血が上った。ぼくは思わず条件反射的に襖を殴った。

「ひっ! ひ、輝……暴力は――」

「また、殴られたいのか? 前髪掴まれて、何度も、何度もボロ雑巾の様に床に顔擦り付けたいのか? 血塗れになるまで蹴られたいのか? 全部、全て、あんたが教えてくれたことなんだよ。判っているのか?」

「ひ、輝……あれはお前のことを思えば……」

 今度は襖を力強く蹴り上げた。古びた襖が空しく軋んだ音を放つ。

「ひぃっ!」

「虐待の数々が、ぼくのためを思えば? はぁ? あんた、頭可笑しいんじゃ無いの? あの頃の様にはいかないよ。腕力だって体力だってあんたを遥かに凌いでいるんだ。それに、お父さんは味方にはなってくれないよね? あの人はただ日和見をするだけの無能な傍観者。所詮、会社でも窓際に追いやられただけのリストラ組でしょう? あんたを助けてくれる奴なんか誰もいない。あんたは孤独だ。一人ぼっちだ。そのまま憐れな人生を、老後を過ごすが良いさ! ざまぁみろ!」

 もう、どうやっても抑えることが出来なかった。後から後から湧き上がってくる怒りを抑えることが出来なかった。本当はこんな汚い言葉、口にしたくなかった。違う! こんなのぼくじゃ無い! 必死で叫びたかった。必死で抗おうとしていた。だけど、どうすることも出来なかった。

 これ以上、この憐れな人に言葉を浴びせ続けるのは哀し過ぎた。幼い頃は腕力も体力も、どう足掻いても太刀打ち出来なかったけれど、ぼくも成長した。コタ達と比べたら背は低いけれど、それでも、この憐れな中年女よりは遥かに腕力も体力も成長した。だから、何時の間にか立場は逆転し、ぼくの反撃が開幕した。

 幼き日の忌まわしい情景が蘇る。消したくて、消したくて仕方が無い史実。でも、それは紛れもない史実であり、ぼくが歩んできた道に他ならない。

(忌々しい! 何時になったら、ぼくは解放されるの!?)

「ごめんなさい! もう、しません! だから許してください!」

 馬鹿みたい。本当に馬鹿みたいだ。何も悪いことをしていないのに、まるで呪文の様に、その返答を繰り返すばかり。壊れたテープレコーダーそのものだ。

 あの人は、呼吸をするかの様に虐待を繰り返した。もっとも、ぼくが、それを「虐待」と呼ぶということを知ったのは、ずっと後になってからだったけれど。

 洗濯物を干そうとしたら雨が降ってきた。お届け物が来るのが遅い。散歩中の犬が吠えた。理由は何でも良かったのだと思う。その度に、ぼくは暴力を振るわれ、意味も無く謝罪の言葉を繰り返すばかりだった。実に滑稽な構図だと、今ならば笑い飛ばせるけれど、幼き日のぼくは本当に無力だった。あの人に縋らなければ生きられなかった。当たり前のことだが、人は物を食べなければ生きられない。逆らえば食事さえも与えられなかった。だから、ぼくは必死で謝り続けた。そう。これは、ぼくが悪いことをしたから叱られるのだと思っていた。そう思い込まなければ、理不尽過ぎる現実を受け入れられそうに無かったから。だから、ぼくはウソばかりの生き方を選ぶ様になった。人を騙すために自分を騙す。騙し、騙して、ウソで塗り固められた人生。その成れの果てが、今のぼくの姿だ。矮小で、ちっぽけで、気弱で、卑怯で……最低最悪な失敗作に成り上がってお終いだった。

 ただ、ぼくは他の子供達がそうして貰えるように、母親の愛情を欲しただけだった。だけど、あの人は母親には成れなかった。いつしか、ぼくは求めることを諦めていた。代わりに……復讐を計画するようになった。幼い子供に過ぎなかったぼくでも復讐とはどういった物かは理解していた。オカルトを追い求めていた理由の一端は此処にも起因している。非力な子供に出来る復讐の手立てなんか限られている。だから、ぼくは『調伏』という言葉を知った時に、大きな感銘を覚えた。これならば非力なぼくにでも為し遂げることは可能だと思ったから。

 積年に渡る仕打ち。それに対する復讐計画は次第に形を為し始めていた。だけど、ちっとも心は晴れなかった。ぼくの成長に伴い、あんなにも恐ろしかったあの人は、惨めなまでに小さくなっていくばかりだったから。

 ある日のことだった。手を挙げようとしたあの人を反射的に突き飛ばしていた。突然の出来事に、あの人は悲痛な悲鳴を挙げながら必死で赦しを懇願していた。その姿を目にした時、ぼくの中に言葉に出来ない哀しみが噴き出してくるのを覚えた。怒りよりも、遥かに大きな哀しみが噴き出していた。何て惨めで、何て憐れな姿なのだろうと思った。あんなにも恐ろしかった強敵が呆気なく沈む瞬間を見てしまった。その時、ぼくの復讐計画は音を立てて崩落した。

 結局、ぼくは幸せになることなんか出来ないと気付いた。だから、どうしようもない現実にただ、激しい苛立ちを覚えるばかりだった。その矛先はあの人に向いている。だから、あの人に対する感情は「殺意」を除いて何一つ無い。精々あるとすれば「憐れみ」の感情くらいだろうか?

「……出掛けてくる」

「こんな時間に? 何処に行くの!?」

 なおも口やかましく騒ぎ立てる、あの人の胸倉を掴んだ。

「やかましいんだよ、クソババァ。本気で殺すぞ?」

 辛かった。ただただ、辛くて、苦しくて、痛くて、痛くて! 叫び声を挙げたかった。

 何を被害者ぶった表情しているんだよ!? 哀しみに満ちた顔で目線を逸らすな! 大袈裟に怯えるな! 被害者はぼくの方だ! あんたの所に生まれてきたから、こんなにも哀しみが連鎖する。こんな汚い言葉を母親に向ける、ぼくの痛みが判るか!? 太刀打ち出来るようになった所でぼくの心が晴れることは全く無かった。雨、雨、雨! ぼくの心の中には何時も冷たい雨が降っているんだ。どう頑張って振舞おうとしても、毒と棘のある罵詈雑言しか出てこない。冷たい雨に打たれ続けて、体の芯まで冷え切って、痛くて、苦しくて、辛くて、息も出来なくて、必死で言葉を絞り出せば、全部、憎悪に満ちた言葉に変換されるんだ! その度に、ぼくは、ぼく自身を傷付けている。あの人を傷付けながら、ぼく自身を傷付けている。もう、辞めにしたいんだ! こんな不毛な争いは! 何も生み出しはしない。ただ、連綿と続く憎悪と悲憤の螺旋を生み出すばかり。抜け出すことの出来ない永遠の石段を登り続けるだけだ! それがどれだけ絶望に満ちたものか、判って堪るものか……。

 ぼくは財布をポケットに突っ込み、乱暴に階段を下った。丁度、会社から帰ってきた父と玄関先で出くわしたが、ぼくとは目線すら合わせようとしなかった。そこに、ぼくが居ることなど無視しているかの様な振る舞いだった。

「……何処かに出掛けるのか?」

 返事をする気も起きなかった。ぼくは背後に父の哀しげな視線を感じながら家を後にした。

「あまり、遅くならないうちに帰って来なさい。風呂は沸かして置くから」

 何を今更、良き父親像を演じているんだよ? 出掛かった言葉を飲み込んだ。怒りの余り、握り締めた拳の中で爪が突き刺さりそうだった。最悪の気分だ。どうして、ぼくがこんな嫌な想いをしなければいけないのだろう? もう、何もかもが判らなくなっていた。ただ、無性に苛立って仕方が無かった。だから、ぼくは言葉無く玄関を後にし、乱暴の戸を閉めることしか出来なかった。酷く呼吸が荒く成っていた。

 知らない他人からすれば、誰のお陰で此処まで成長できたと思っているのか? 両親に感謝することを忘れたのか? そう、お叱りを受けることだろう。金で解決出来るなら、幾らでも稼いで叩き付けてやる。何も知らぬ他人が偉そうに講釈を垂れる。さも、自分が偉くなったかの様に、当たり前の様に正論を展開するのは止めろ。同じ立場に立ってみろ。ぼくの想い、少しは理解できるだろう。世の中には正論では片付けられない問題なんか腐るほどあるんだ。無責任な外野共は己の見識の狭さを知ると良い。

 始まりは幼き日の頃から……。

 幼い頃からぼくはずっと虐待を受けて育ってきた。生まれてきたことを否定され、存在することを否定され、死ぬことも許されない。その理由だってヒドイものさ。

「ご近所様の笑い者、晒し者になるだけじゃない!? どうして、お前はお母さんの言うことを聞けないの!?」

 大きな声でキーキー喚いて、叫んで、次の瞬間には唸りを挙げて手が飛んでくる。痛みに耐えながら必死で涙を堪える。ぶたれた頬がジンジン痛くて、手で抑えていれば、さらに大きな声で、気が狂った様に悲鳴を挙げる。

「そんなに大袈裟に振舞って! まるで私が悪いみたいじゃないか!? 大して痛くも無いのに、仰々しく振舞わないで頂戴! 切れても無ければ、血が出ている訳でも無いじゃない? そうやって憐れみを買うような振る舞いはお止め。近所の人が見たら何事かと思われるじゃない?」

 近所の人、近所の人、近所の人! あなたはどこまでも可哀想な人だ。可哀想過ぎて涙が毀れるよ。あなたの元に生まれてきてしまった不幸を、あなたという人の可哀想過ぎる生い立ちを、無様な生き様を見届けていると涙が毀れてくる。そんなに他人の目が怖いか? だったら、片っぱしから他人の目を潰してやれば良い。そうでなければ、あなたの目に、ぼくが親指を突っ込んであげよう。そうすれば、二度と厭な物を見ないで済むだろう? 他人の声が怖いか? だったら、裁断ばさみを突っ込んで両の鼓膜をぶち抜いてやろう。そうすれば、二度と厭な声を聞かないで済むだろう?

「どうして、お前は成績が悪いのかしらね! 弟の暁は、こんなにも成績優秀だというのに!」

 あの人は成績に関しては特に気が狂った様な執着を見せていた。滑稽な話だよね。成績という数値が、偏差値という数値が、順位という数値が――ぼくの存在価値を左右しているなんてね。ぼくはただの数値なの? パラメータなの? つまりは、ただのデータなの? まるでゲームの世界のキャラクターそのものだ。あなたの存在自体がファンタジーだから、ぼくはあなたに「真実」を叩き付けてやるしか無いんだ。あなたが目を背け続けようとする真実を、ただ強引に叩き付けてやるんだ。

「――存在するハズの無い弟と比較することに、一体、何の意味があるの?」

「な、何を言っているの!?」

「ぼくには弟なんか居ないよ。暁は確かに産まれてきた。でも、産まれた瞬間から、呼吸をすることを忘れていた。心臓だって止まっていた。つまりは、時を止めたまま産まれてきた。それは……死んでいるということと同義でしょ?」

「ば、馬鹿なことを言わないで!」

「……じゃあ、暁はどんな顔をしているの? 背丈は? 好きな食べ物は? 戸籍上はどうなっているの?」

 蒸し暑い夏の日の昼下がりのことだった。郵便屋さんのバイクが何処かの家の前に止まる音が聞こえてきた。そこら中から響き渡る蝉の鳴き声。縁側から覗く透き通るような青空と、大きく発達した入道雲。何処にでもある夏の日の情景だった。ふと、風が吹く。軒先に吊るされた風鈴が涼やかな音色を奏でる。再び、郵便屋さんが別のお届け先へとバイクを走らせる音が響き渡った。何も変わることの無い日常の最中に、ぽつんと生じた非日常の情景。軒先で涼むぼくと、修羅の様な形相を称えた母。これを異様な光景と言わずして、何と言えば良いのだろう。

「そ、それは……」

「答えられないでしょう? 答えられる訳が無いんだ……居るはずの無い弟のことなんて」

「ああっ! くだらないことを言っていないで、さっさと勉強しなさいっ!」

 あの人が大きく手を振りかぶる。だから、ぼくは目一杯口元を歪ませて、嫌な薄笑いを浮かべながら、こう返してやった。

「だから暁は死んだ。あんたの息子になるのは嫌だと自ら辞退したんだ。つまりは……フフ、見棄てられちゃった訳だよね」

「こ、このっ!」

 蔑む様な、憐れむ様な、見下す様な目でぼくは嘲笑った。

「……ざまぁみろ、クソババァ」

 気が狂った様に逆上した「あの人」は、何を思ったか布団叩きを持って来ると、狂った様にぼくを叩き続けた。何度も、何度も叩き続けた。当たり所が悪くて、ぼくの額は無残に割れて畳が血まみれになった。それでも、あの人は叩き続けた。全身に波の様に襲い掛かる激しい痛みに、ぼくは声も出せなかった。あの人の狂った様な叫び声に気付いたコタのお母さんが、ぼくの家に入り込んできた時には、既に体のあちこちが傷だらけになっていた――あの時の一件でぼくに右腕にヒビが入った。

「後白河さん! これは、立派な虐待やないですか! ああ、輝ちゃん……こない傷だらけになって、痛かったやろ……」

「ぎゃ、虐待……ですって?」

 コタのお母さんは顔中ぐしゃぐしゃにしながら泣いていた。ただ、無表情に俯くぼくのこと、力一杯抱きしめてくれた。不思議と、ぼくは涙すら流せなかった。痛みを感じる神経は壊死してしまったのかも知れない。哀しむ心も壊死してしまったのかも知れない。その代わり、ぼくの中では殺意だけが成長していた。

「……殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやるっ!」

 聞こえない様に、繰り返し呟いていたことを記憶している。一枚の言の葉が刃となり、あの人の首を優しく切り落とせば良い。そう切に願っていた。

「し、四条さん……児童相談所になんか連絡したら、どうなるか判っているでしょうね?」

「な、何を言うてはりますの!? 今はそないことより、輝ちゃんを病院に!」

「余計なことはしないで頂戴っ! さぁ、出て行って! 不退去罪で訴えますよ!」

 正気の沙汰じゃ無かった。この人には何を言っても無駄だ。だから、ぼくの中には「希望」なんて物は無かった。一人で生きていこうと誓った。少なくても、この人には頼らない。ぼくを大切にしてくれるコタと二人で歩めればそれで良いと思っていた。今思うと、恐ろしく冷めた子供だったなぁ。

 何時だったかな? 学校で出された作文の課題のこと。「将来の夢」という題材だったけれど、ぼくは一言、こう書いた。

「あの人を呪い殺すこと」

 当然、あの人は学校に呼び出され、それから、ぼくは再び激しい虐待を受けた。

 父親も同罪だ。気が狂った「あの人」に畏れを為して、ただ、他人の様に振舞うだけだったのだから。

「安心して。あなたには何もしないから。そう、虐待されるぼくのことを、ただ見過ごしていたのと同じ様に、ぼくも何もしないから」

 ぼくは足元に目線を落としたまま、家を後にした。

◆◆◆9◆◆◆

 神隠し事件が京の都を騒がせている。それも中学生から高校生の少年ばかりが神隠しに遭っている。どうにも不可解な事件で、何の手掛かりも掴めていない。だが、僅かに数日間の間に、随分と多くの少年たちが行方不明になったのも事実だ。当然、地元の学校は戦々恐々とした状況を過ごすことを余儀なくされており、既に集団登下校を行う学校も出始めていた。

「迅速な判断が命を救う。的確な判断よの」

 相変わらずクロは飄々とした態度を崩さない。

 俺達は夕暮れ時のお東さんに向かうべく烏丸通を歩んでいた。通りを行き交う車の流れも多く、ふと、後ろを振り返れば京都タワーも燃え上がらんばかりに赤々と染まっている。傍らに佇み、腕組みするクロの姿も赤々と染まっている。まるで京の都が大規模な火災に襲われたかの様な光景に思えた。赤という色合いは人の心を不安に駆り立てるものだが、不思議と夕焼け空の赤は心地良く思えるから不思議だ。

「神隠し被害に遭った奴らは、この時間帯に集中しているらしいな」

「うむ。そのようであるな。しかし……」

 腕組みしながらクロがにやにや笑う。また、何か不謹慎なことでも考えているのであろう。可笑しな事件が起きているというのに、どうにも楽しげに振舞っている様自体が不謹慎であると言えるが……。

「若い少年達ばかりをかき集めるとは、中々に粋な趣味の持ち主よの」

(お前の発想の方が、色んな意味で粋だと思うが……)

 お東さんは既に閉門されていたが、何事も無かったかの様にクロに運ばれて、俺はお東さんに境内に侵入した。夕暮れ時の境内は静まり返っており、塀の外を車が往来する音と、俺達が砂利を踏みしめる音だけが響き渡っていた。

(それにしても、相変わらずだが……閉門後に不法侵入するというのは、如何なものか)

「む? 何か申したか?」

「否、何も言っていない……」

 あまり真面目に考えると疲れる。ここは割り切って考えるとしよう。

「こ、コタよ、我と割り切った関係に至りたいと申すか? むぅ、何とも奥深い発言よの。しかし、お主が望むのであらば――」

「……本気で投げ飛ばされたいのか?」

(ついでに、何処で覚えてきた、その表現! 日を追う毎に妙な語彙が増えているのは、見過ごせない事態と捉えるべきだな……)

 憮然とする俺の肩に腕を回しながら、クロは相変わらず不敵な笑みで応えてみせる。

「そう、怒るで無い。折角の男前が台無しであろうぞ?」

「……冗談はさておき、神隠し事件のことで何か手掛かりは掴めているのか?」

「我を誰と心得ておる? ふふ、抜かりは無い」

 俺が問い掛けると同時に、カラスの鳴き声が響き渡った。不意に顔を挙げれば、御影堂の一角から大きなカラスがこちらを見下ろしていた。鋭い眼光のカラスは、静かに俺達を見据えていた。

「あれは同胞よ。伝令に飛ばしていた仲間ぞ。何か情報を掴んだ様子。さてさて」

 カラスは不意に舞い降りてくると、クロの肩の上に乗った。そのまま何かを囁く様にクロに寄り添っていた。クロは腕組みしたまま静かに目を伏せ、時折頷いている。

(なるほど。こういった諜報部員の手を借りて情報収集をしている訳か)

「ふむ。貴重な情報展開、感謝するぞ」

 クロの言葉を受けて、再びカラスは夕焼け空へと舞い上がっていった。一体どんな情報を手にしたのか、少なからず興味は惹かれる。輝の様に無駄な野次馬根性で接しているつもりは無いが、やはり、何が起きているのかは知りたくなる。俺の好奇に満ちた眼差しに気付いたのか、クロが満足そうに微笑んで見せる。

「気になる情報を得た」

「気になる情報だと?」

「うむ。神隠しに遭った者達は、ある共通点を持っておる」

 嫌な話だ。神隠しに遭った連中が持つ共通点――それは、言い換えれば作為的に狙いを付けているということに他ならない。またしても何者かが、誰かを探しているという話なのであろうか? だとしたら、そいつは一体何者で、何が目的なのか? それを明らかにしなければ解決の糸口には至らないだろう。

「コタよ、心して聞くのだぞ?」

「あ、ああ……」

 妙な前置きが気になった。だが、クロの表情は何時も以上に険しく思えた。取り乱さない様に、心を強く持つ必要があると判断した。

「神隠しにあった少年達は皆、『ひかる』という名を持っておる」

「な、何だと!?」

 身構えていたつもりではあったが、俺は思わず声を荒げていた。俺は何て嫌な奴なのだろうか。見知らぬ他人が被害に遭う分ことに関しては、正直、どうでも良いと思っていた。見知らぬ他人がどうなろうが知ったことではないのだから。だが、俺の仲間に被害が及ぶとなれば話は別だ。

(仲間と、それ以外の者達を色分けする。何とも未熟な物の考え方だな)

「当然、お主の傍らに居る……輝も対象に含まれるであろう」

 クロは遠回しに言葉を選んでくれているように思えた。相応に俺を気遣ってくれているのだろう。その気遣いは嬉しく思うが、俺の中では既に覚悟が固まろうとしている様に思えた。

「俺には、輝が狙われている様にしか聞こえないのだがな」

「むう、やはりそう断ずるのが的確であるか……」

「ああ。何よりも輝は奇妙な女に遭遇したと言っていたからな」

「奇妙な女とな?」

「ああ。島原で遭遇したらしいが、輝を目にした瞬間、ようやく見付けた、と意味深な言葉を口にしていたらしい。しかも、輝の名まで呼んだというのだ。危なく輝も連れ去られる所だったことを考えると、敵は確実に輝に狙いを付けているとしか考えられない」

「むう……。事態は想定外に深刻であるな」

 クロは腕組みしながら静かに空を見上げた。何時しか夕日は沈み、辺りには夜の帳が舞い降りて来ようとしていた。夜が訪れる。月明かりに照らされた都を人の心から剥がれ落ちた鬼達が跳梁跋扈する時へと誘う刻。今宵も百鬼夜行の宴が始まろうという訳か。

「それに、輝は表裏のある奴だからな」

「ふむ……」

「人前で見せる姿と、本当の姿との間に大きな乖離を持つ身だ」

 クロは静かに目を伏せたまま、俺の言葉に耳を傾けていた。

「クロ、お前に言われるまでも無く、俺には判っている。輝は心に鬼を宿している身だ。情鬼に狙いを付けられても可笑しくは無い」

 クロは腕組みしたまま、静かに俺に向き直った。じっと俺の目を見据えていた。何を考え、何を思い、それから……何に迷っているのかを見透かすかの様な鋭い眼差しであった。

「母親に対する尽きることの無い憎悪か。なまじ血の繋がりがあればこそ、憎しみの炎はより一層激しく燃え上がるもの」

「ああ。輝が母親に抱いている感情は、殺意以外には何も無いからな……」

 根が深い問題になりそうだな。長い年月を経て育て上げられてきた憎悪という物は、そうそう容易く潰える様な代物では無い。それは、俺自身が良く判っている感情だ。だからこそ、輝には同じ道を歩んで欲しくない。何としても守らねば……そのためには、敵よりも先に行動を起こすことが肝要となるだろう。

「コタよ、今は沈黙を守り続けよ」

「何故だ? 輝の身には危険が迫っているのだぞ?」

 俺の問い掛けにクロは静かに微笑む。

「では、コタよ、お主に問う。今、我らが動いたところで、何の手掛かりが得られると申すか?」

「そ、それは……」

「相手も我らの存在を見越した上で行動しているのは明白よ。その上、自らの足取りを知られることが無いことまで見越して居るのであろう」

「フザけた奴だな」

「うむ。しかしながら、同時にそれは解決の糸口にも繋がる」

 クロは腕組みしたまま不敵に微笑んで見せた。

「なるほど。敵は俺達を侮っている。だからこそ隙が出来るのを待つ。そういうことか?」

「うむ。敢えて輝には罠に嵌って貰う」

 何とも大胆な作戦をさらりと口にしてくれる。相変わらずクロは度胸が据わっている。俺にはそんな大勝負に挑めるだけの度胸は無い。一人だったら、今頃は何も考えずに走り出していただろう。だが、傍らには信頼出来る友がいてくれる。度胸は持てなくても心強さはそこにあった。少々他力本願ではあるが、クロの手を借りないことには事態は解決できない。上手く進めていく必要があった。

「敵の尻尾を掴んだら、後は全力で叩くのみ。実に簡単な話ではあるまいか?」

「ああ。今回も頼むぞ、クロ」

「うむ! 我とお主、力を合わせて事態を解決しようぞ!」

 俺達は堅く手を組み合わせた。日も落ちたお東さんの境内は既に闇夜に溶け込もうとしていた。俺達の姿も闇に隠れ、誰の目にも留まることは無いだろう。だが、闇夜というのは同時に有用なる武器にもなる。相手に知られることなく静かに背後に忍び寄り、油断した隙に一撃を喰らわせる。まぁ、正義の味方の発言では無いが、相手は情鬼だ。礼節を尽くす必要など無い。さて……それでは敵が動き出すまで、しばし静観を決め込むとしよう。

◆◆◆10◆◆◆

 夕暮れ時の花見小路は人通りも多く、賑わいを見せていた。人混みは好きじゃないけれど、今みたいにささくれ立った気分の時には、こういう賑やかな雰囲気も悪くは無い。人々の笑い声が響き渡る中に身を置くことで、少しでも気持ちを持ち上げたかった。

 行き交う人達は皆笑顔に満ちている。浴衣に身を包んだ恋人同士も居れば、これから飲みにでも繰り出そうかという人々の姿もあった。時折、御座敷へと移動する舞妓さんともすれ違った。皆楽しそうだ。幸せって何だろうな? ぼくは一人不幸を背負っていた。

 ふと空を見上げれば、半刻前までは広がっていた夕焼け空が、今は厚い雲に覆い尽くされていた。唸りを挙げる空は、今にも雨が降り出しそうに思えた。ぼくの心を象徴しているみたいで思わずため息が零れる。

「今にも泣き出しそうな空だ。ぼくの気持ちと一緒だね。まったく……空までぼくを嘲笑うんだね」

 ぼくはただ呆然と、何も考えずに花見小路を歩んでいた。人通りは相変わらず絶えることは無さそうだ。往来する人々の賑やかな笑い声に混ざりながら、ぼくは静かに考え込んでいた。

 皆の前で過ごす時の明るく振舞う自分と、暴力的な本当の自分と……。表と裏、二つの顔を使いこなしながら生き続けることが、本当に息苦しくて仕方が無かった。ああ、そうさ。ぼくの本性は怒りに満ちた暴力的な自分。どうして、こんな生き方しか出来ないのだろう? どうして、こんなことになってしまったのだろう? どうして、ぼくは生まれてきてしまったのだろう?

 ぼくが今まで生きてきた時間の中でも幾つかの転機があったのは事実で、そうした転機は少なからず、ぼくのその後に「変化」を与えてくれた。良い「変化」もあれば、悪い「変化」もあった。そうした数多の変化を経て、今のぼくがある。

 花見小路は相変わらず賑わいを見せている。日も落ち、厚い雲に覆われていることもあって、辺りはすっかり暗くなっている。暗闇の中で、建物が放つ明かりが柔らかな光を称え、幻想的な空間が広がる。碁盤目状の石造りの道は広く、道の両側には黒や朱を基調とした落ち着いた風合いを称えた店が立ち並び、行燈の様な仄かな明かりが古都の風情を演出する。

 ぼくは足を止めて、建物を照らす明かりをじっと見つめてみた。穏やかな光を見つめていると、不意に意識が遠退いていった。体がゆっくりと浮かび上がる様な、不思議な感覚を覚えていた。目を背けたい過去が呼び覚まされる感覚に、ぼくは必死で抗っていた。だけど、所詮は無駄な抵抗だった。

「嫌だよ、止めてよ! お願い……止めてよ! 嫌だよ!」

 ああ……よりにもよって、この情景を振り返ることになろうとは……。ぼくの中で、もっとも忘れたかった情景だよ。恥ずかしかったからじゃない。そうじゃ無いんだ……あんなにも興奮したのは、生まれて初めてのことだったから。そんな自分の真実を受け止めることが恐ろしくて、哀しくて、ぼくは記憶の中からあの光景を抹消しようと何度も試みた。

 あれは放課後前の教室。帰り支度をする子達もいれば、これから教室の掃除に取り掛かろうとしている子達もいる。変わることの無い日常の最中に起こった予期せぬ事件。唐突に響き渡るぼくの悲鳴に、皆が一斉に振り返った。数名掛かりでぼくを押さえ付け、嫌がるぼくのズボンを強引に脱がした。どうして、そんなことをするのか、あの時のぼくには理解出来なかった。鼻息荒く興奮した様子の卓君の姿が、ただ怖くて、怖くて堪らなかった。

「嫌だよ! 止めてよ! 止めてってばっ!」

 今度は下着まで脱がされようとしていた。だから、ぼくは必死で抵抗した。だって……あの時、ぼくのおちんちんは、これ以上無い位に硬くなっていて、それに……後から後から、ぬるぬるとした熱い汁が湧き出していた。そんなことになっているのを見られるのは嫌だった。でも、その半面、すごく興奮していたし、ドキドキもしていた。

「この変態が……!」

 怒りに満ちた声。大きく肩を震わせながら、コタはいきなり掃除箱からホウキを取り出した。そのまま全体重を掛けて、卓君を力一杯殴っていた。

「い、痛ってぇ……」

 あれが惨劇の始まりになってしまった。コタまで巻き込んでしまって、本当に大変なことになってしまった。元を正せば卓君がいけなかったんだ。そうさ。彼があんなことをしなければ、コタが巻き込まれることも無かったんだ。

◆◆◆11◆◆◆

「ぼくは卓君とは仲良くしたくない」

 あれは、騒動が起こる数日前のことだった。薄暗い空は一面に雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。放課後の人気の無くなった薄暗い廊下は、静まり返っていて薄気味悪さを孕んでいた。風が出始めたのか、窓の外では校庭に植えられた桜の木の葉が酷く揺れていた。夕立前の情景だ。唐突に吹き荒れ始めた風の流れに、桜の木の葉もぼくも翻弄されていた様に思えた。

 険しい表情を浮かべたまま、ぼくは卓君と向き合っていた。互いの呼吸する音さえ鮮明に聞こえる程、廊下は静まり返っていた。

「何で、俺とは仲良くしたくないんだよ?」

 卓君は哀しそうな顔で怒っていた。酷くむきになっていた。

 誰もがぼくとは距離を開けようとしていた。皆余所余所しかった。誰だって嫌だよね。虐待されている様な、可哀想な子とは仲良くしたくないよね。一緒にいたら、自分達まで暗い気持ちになっちゃうもんね。でも、卓君は違った。不器用で、無骨で、荒々しくて、乱暴だったけれど、ぼくの気を惹こうと必死になっていた。それが、嬉しかった。ぼくなんかに興味持ってくれていることが嬉しかった。今思えば、何て間抜けな勘違いをしていたのだろうと思うけれど、当時のぼくはそれ程までに追い詰められていた。

「何でだって?」

 卓君の表情を見据えたまま、静かに呼吸を整えた。そのままぼくは続けた。

「ぼくに意地悪ばかりするからだよ。意地悪する子とは仲良くなんかなれないよ」

 本当に友達になりたいって思ってくれているのかどうなのかを確かめたかった。でも、卓君は急に声を荒げた。だから、ぼくは思わず目を見開いて驚いてしまった。丁度、窓の外からも、雷が大きな唸りを轟かせた瞬間だった。地響きの様な衝撃も手伝い、尚のことぼくは驚いていた。口の中がカラカラに乾いて、それから、握り締めた手の中に汗がジワっと湧いた瞬間だった。

「俺が仲良くしてやろうって言っているのに……俺の誘いを断るなんて、どうなるか判っているんだろうな?」

 卓君、凄みを利かせた声で威嚇しているつもりなのかな? でも、そういうのって何か違う。ぼくは哀しくなった。だから、溜め息を就きながら目を伏せた。そのまま静かに顔を挙げて、憐れむ様な目で卓君のことをじっと見つめた。とても哀しい気持ちになった。ぼくの気持ちに呼応するかの様に雨が降り出した。ポツリ、ポツリ。降り出した雨はすぐに土砂降りとなり、窓を割らんばかりに叩き付ける荒れ模様の様相を呈した。

「ねぇ、脅迫することが仲良くすることになるの? 違うよね? だから、ぼくは君とは仲良く出来ないよ」

 友達なのに上下関係あるのって、やっぱり可笑しいと思う。ぼくは友達とは平等な関係でありたかった。

 窓を叩く雨粒の音と、ぼくの声。それから雷の唸り声だけが廊下に哀しく響き渡った。ぼくはそのまま踵を返すと歩き出した。廊下にはぼくの歩く足音だけが虚しく響き渡っていた。窓に叩き付ける雨の音だけが空しく響き渡っていた。友達になれると期待したけれど、やっぱり駄目だったか。哀しみに満ちた吐息を就いた瞬間だった。

「俺は……俺は、お前のことが好きなんだよーーっ!」

「え……?」

 駆け巡る稲光に照らし出されて、薄暗い廊下が一瞬、真っ白に染め上げられた瞬間だった。続いて響き渡る、大地を揺るがす様な落雷が轟いた。あまりの衝撃に、思わずぼくは驚き、振り返った。卓君は肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら、肩で荒く息をしていた。あまりにも予想外の言葉にビックリしたぼくは、たぶん、目を大きく見開き、酷く動揺した表情を浮かべていたと思う。

「ど……どういう意味?」

 やっとのことで搾り出した言葉だった。

「俺が知りてぇよ! とにかく、俺はお前のことが好きなんだ!」

「そう……なんだ」

 ぼくはもう、必死だった。どう振る舞い、どう応えれば良いのか、ただただ訳が判らなくなっていた。ぼくのことが好き? えっと、それって……友達として? それとも? 頭が混乱していた。ただただ、動揺するぼくと目線を合わすことさえせずに、卓君は尚も肩で荒く息をしていた。酷く興奮していた様に見えた。言葉を発しようとしたけれど、いきなり卓君は走り出した。

「あ! 待って!」

 ぼくは慌てて走り出した卓君の後を追い掛けた。言うだけ言って、そのまま逃げちゃったのでは、何を伝えたかったのかが理解不能だった。それに、どうしても彼の心が知りたかった。どういう意図が篭められていたのか聞かない訳にはいかなかった。馬鹿だったと思う……世の中には知らない方が良いことなんて幾らでもあるというのに。この時選んだ選択肢が、ぼくの中で何時までも消えることの無い、最悪の悲劇を招くことになろうとは予想もしなかった。

◆◆◆12◆◆◆

 どれだけ追い掛けただろうか? 卓君は何を思ったか、土砂降りの渡り廊下を全速力で走り抜けると、そのまま体育館へと走り込んでいった。

「待ってよー!」

 放課後の体育館は明かりも灯されておらず、随分と薄暗かった。ガランと広い体育館に卓君と二人きり。不思議な光景だった。広い体育館に、ぼく達だけがぽつんと佇んでいた。叩き付ける雨音が不気味に思えた。救いを求める無数の人々が体育館の屋根を叩いている。助けて、助けてと叫び声を挙げている。そんな情景が思い浮かび、思わず背筋が寒くなってしまった。

「はぁ、はぁ……何で、何で! 追い掛けて来るんだよ!?」

「卓君の気持ち、知りたかったから。良く、理解出来なかったから……」

「はぁ!? 馬鹿じゃねぇの! さっき言っただろ!?」

「判らないよ! 判らないから、ちゃんと話して欲しかったんだよ!」

 もう、必死だった。ぼくを駆り立てていたのは好奇心だけだった。まるで芸能リポーターだ。逃げ惑うアイドルを追い回して、強引にインタビューに持ち込むのと同じじゃないか。良く考えたら、ぼくは自分の興味だけを優先させて、卓君の気持ちなんか何一つ考えていなかった。そう。振られた子の傷の痛みなんて何一つ考えていなかった。

「だから……お前のことが、好きなんだよ!」

「友達になってくれるってこと?」

 空気が読めないのは子供の頃からだったなぁ。まぁ、今も変わらないけれど。そうじゃ無かったんだよね……卓君が、ぼくに望んでいたことって。そうじゃなかった……。でも、あの時のぼくは馬鹿だったから、そんなことに気付くことが出来なかった。何よりも、男の子が、男の子に恋をするなるなんて、あるはずが無いと思い込んでいたから。所詮、子供の浅知恵だもの。そんな難しいことなんか、あの時のぼくには知る由も無かった。

「へっ。まぁ、良いや。どうせ、ここには誰も来ねぇだろうし」

「え?」

 卓君は不気味な笑いを浮かべながら、ぼくに歩み寄ってきた。その不気味な笑顔が恐ろしく思えて、ぼくは慌てて逃げ出そうとした。何か、良くないことを企てているのは判ってしまったから。このまま、此処にいたら大変なことになる。ぼくは慌てて逃げ出そうとした。

 だけど、次の瞬間、卓君に腕を掴まれた。唐突に雨足が強まる。体育館の屋根に叩き付ける様な雨の音が響き渡る。続いて雷が響き渡る。大きな、大きな雷の音だった。

「ひっ!」

「こっちに来い、輝! 俺がお前のことを『好き』だという理由を説明してやる!」

 卓君は信じられない程に強い力で、ぼくを体育倉庫へと引っ張った。普段はマットレスとか、バスケットボールとか、色々な道具が置かれている薄暗くて、カビ臭くて、埃っぽい場所。何だか、此処に閉じ込められそうな恐怖感が沸き上がり、ぼくは必死で抵抗した。

「も、もう、良いよ! だから離してよ!」

「うるせぇっ!」

「あっ!」

 いきなり乱暴に頬を叩かれた。哀しい条件反射だよね……何時も、あの人に頬を叩かれていた。何時も、何時も、ぼくは頬を叩かれた。同じ場面、同じ状況……あの人の修羅の形相が蘇り、ぼくは恐怖の余り、身動きが取れなくなってしまった。

「ううっ……コタ、助けて……」

 思わず口から零れ落ちた言葉。だが、その言葉を耳にした瞬間、唐突に卓君の表情が変わった。激しい怒りと、深い哀しみに満ちた、複雑な表情だった。

「やっぱりお前は小太郎のことを……!」

「え?」

「どう頑張っても俺はアイツに勝てないのかよ……くそっ、くそっ、くそーっ! アイツさえ、アイツさえ居なければ! 小太郎さえ居なければ、お前は俺に振り向いてくれたのに!」

「……違う。違うよ……そんなの、違う……」

「なに!?」

 ぼくは本当に空気の読めない子だった。こういう場面では、ウソでも、デタラメでも、何でも良かった。とにかく適当に言い繕ってでも逃げることを最優先にするべきなのに、それなのに、ぼくは馬鹿正直に答えてしまった。もう、ぼくの中では友達になろうとか、そんな感情はすっかり消え失せていた。ただ、恐怖で一杯だった。

「ぼくは……卓君のこと好きじゃない。こんなヒドイことする子なんて嫌いだよっ! それに、コタのことを悪く言わないでよ!」

「ああ、そうかよ……そうかよ! わざわざ俺のこと追い掛けてきたのは、そんなにも、俺のことが嫌いだってことを伝えたかったのかよ! ムカ付くぜ……すげー、ムカ付くんだよ!」

 突然のことだった。いきなりぼくに飛び掛ってくると、卓君はぼくに馬乗りになった。

「な、何するの! 止めてよ!」

「どうせ俺の物にならないなら! 俺のことを馬鹿にしやがって! 恥をかかせやがって!」

「うっ、く、苦しい……! や、止めてよ!」

 卓君の手がぼくの首にグイグイ食い込んでくる。必死で抵抗を試みたけれど、卓君は体も大きいし、力も強い。ましてや我を見失っている状態では力の加減も出来ない。

「い、息が……出来……ないっ!」

 段々と視界が白々としてきた。苦しい感覚が段々と遠退き、不意に、宙に浮かび上がる様な感覚を覚えた。

(駄目だよ! ぼくはこんな所で死ぬのは嫌だよ!)

 ああ、不意に気味の悪い映像が次々と脳裏を駆け巡ってゆく。道路脇で無残に血を吐いて倒れている猫の死骸、車に撥ね飛ばされたのかグチャグチャに潰れたカラスの死骸。

(嫌だよ……嫌だよ! 死にたくない! 死ぬのは嫌だよっ! 止めて! 止めてよっ!)

 もう無我夢中だった。生き延びる為には手段なんて選ぶことは出来なかった。ぼくは必死で力を篭めた。その瞬間、ぼくの右足が一気に卓君の体を蹴り上げた。

「ぐわっ!」

 突然、強い力を加えられて卓君は派手に倒れた。後頭部をしたたかに打ち付ける鈍い音が響き渡った。

「痛ってぇ……」

「はぁっ、はぁっ、く、苦しかった……えぇっ!?」

 必死の思いで立ち上がり、卓君を見下ろしたぼくは思わず息を呑んだ。卓君の後頭部からは微かに血が滲んでいた。派手に打ち付けてしまった際に、傷が出来てしまったのかも知れない。体育倉庫の床に残る血痕。ぼくは不意に恐ろしくなった。ああ、そうさ。悪いのは卓君なんだ。いきなり乱暴なことをしたから、ぼくのことを殺そうとしたから! これは正当防衛だ。ぼくは何も悪くない!

「あ、ああ……ああ……」

「こ、このっ! 殺してやる……絶対に殺してやるーーっ!」

「うわぁーーっ!」

 もう、人の顔をしていなかった。恐ろしいまでの怒りに満ちた形相は、凄まじいまでの殺意に満ちあふれていた。もう、ぼくは生きた心地がしなかった。だから、必死で逃げた。とにかく必死で走り続けた。もう少しで体育館の扉が見えてくる。急いで逃げなければ! だけど、後少しという所で、不意に肩を掴まれた。振り向きざまに、ぼくの頬に鋭い痛みが駆け巡った。どうやら卓君に力一杯殴られたらしかった。奥歯にジンと響き渡る痛みに涙があふれてきた。

「はぁっ、はぁっ、もう……逃がさないぞ。今度こそ、今度こそ! お前を殺すっ!」

「きゃああーーっ!」

 これ以上無い位にニタニタと気味の悪い笑みを浮かべながら迫ってくる卓君。半ば腰が抜けてしまったぼくは、立ち上がろうにも立ち上がれなかった。ゆっくりと迫ってくる手。不気味な笑顔。ぼくはもう限界だった。あまりの恐怖に、ぼくはただ泣きじゃくることしか出来なかった。

 次の瞬間、ぼくは信じられない情景を目の当たりにした。

「え……?」

 何を思ったか、卓君は突然、着ている服を乱暴に脱ぎ去った。裸になった卓君の体に、ぼくは目が釘付けになっていた。おちんちんに毛が生えていた。どうしてか判らないけれど、ぼくは凄く興奮していた。胸が高鳴ってドキドキしていた。

「お前も全部脱げ!」

 拳を振りかざされて、ぼくは恐怖の余り、声も出せずに卓君の指示に従うことしか出来なかった。服を脱ぎ終えたぼくの目の前には、あろうことか、卓君のおちんちんがあった。生え掛けの毛、微かに先っぽが向けた真っ赤なおちんちん。ぱっくりと開いた口の様な部分に釘付けになっていた。そこから、何かぬるぬるした汁が滴り落ちているのが見えたから。

「ほら、口を開けろ」

「え!? い、嫌だよ!」

「また殴られたいのか!?」

「わ、判ったよ……」

 ぼくは目を閉じて、精一杯に口を開けた。次の瞬間、口の中に温かな感触が広がる。同時に、おしっこ臭さと、しょっぱさが口一杯に広がり、ぼくはむせ込んだ。

「げほっ! げほっ! や、やっぱり嫌だよ! おちんちんなんて汚いよ!」

「うるせぇっ!」

 また、殴られた。もう、ぼくは怖くて仕方が無かった。卓君が一体何をしようとしているのか、理解不能だった。

 そのままぼくは頭を掴まれ、強引に卓君のおちんちんをしゃぶらされた。鼻の下に毛がチクチク当たって、おしっこ臭さが広がって、物凄く気持ち悪かった。でも、卓君はぼくに無理矢理しゃぶらせて、酷く興奮していた。

「仰向けに寝ろ!」

 もう、ぼくは抵抗することは無駄だと判断した。卓君の言う通り、仰向けになった。ただ、怖くて目を閉じることしか出来なかった。でも、不意に、ビックリするような感覚に襲われた。

「うわっ! あ……ああ……」

 体中の毛穴が開く様な感覚だった。

(うわっ、た、卓君が……ぼくのおっぱい舐めている?)

 想像を絶する気持ち良さに、ぼくは恐怖心を失い掛けていた。ああ、もっとして欲しい……。そんなことを考えていた。もう、ここまで来ちゃったらどうでも良く成っていた。さらに、卓君はぼくのおちんちんもしゃぶって見せた。

「だ、駄目だよ! 汚いよ! 止めて! お願いだから!」

 興奮し切った卓君には、ぼくの声は届かなかったと思う。卓君におちんちんの先端を舐められて、何やらモソモソと動かされて、段々、変な気分になってきた。おしっこが出そうな感覚を覚え、ぼくは声を挙げた。

「ああ、た、卓君、止めて! お願い! おしっこ、出ちゃうよ!」

 でも、その言葉を聞いた卓君は、さらに鼻息荒く、乱暴に扱い始めた。

「あ、ああっ!」

 もう、我慢出来なかった……。こんなところで漏らしちゃうなんて、何てことをするんだよ……。そう思ったけれど、出てきたのはおしっこでは無かった。

「へへ。輝、お前、こんなことするの初めてだろ? これが精子って奴だ。気持ち良かっただろ?」

 二度と思い出したく無い体験だった。あれが、ぼくの初めての精通だった……。気持ち良さに溺れた自分と、恥ずかしさと、それから、途方も無く悪いことをしてしまった罪悪感とで、ぼくの背筋は凍り付きそうな位に強張っていた。でも、悪夢は終わらなかった……。

「さぁ、今度は俺の番だ」

 そう言いながら卓君は仰向けに寝転んで見せた。ふと、腕を挙げた際に卓君の脇に微かに腋毛が生えているのが見えた。体の大きい卓君は成長も早かったのだろう。何故か、妙に冷静に考えていた。同時に……こんなにも酷い仕打ちを受けていたにも関わらず、ぼくはドキドキしていた。多分、卓君に腋毛が生えていたから……卓君に興味を覚えたのだと思う。好きという感情と似ていたのかも知れない。でも、それは愛情とは程遠い……性欲という感情でしか無かったと思う。

 結局、ぼくは卓君のおちんちんを口に含んだまま、顔を上下に動かしてあげた……。凄く嫌だった。涙、後から後からあふれていたと思う。でも、逆らえば何をされるか判ったものじゃ無かった。だから、ぼくは早く終わって欲しいと切に願いながら続けた。それから数分経った頃、卓君の息が段々荒く成って来た。

「はぁ、はぁ、そろそろ出るぞ」

 ぼくは慌てて口を離そうとした。でも、強引に頭を鷲掴みにされた。

(え? え、ちょっと待ってよ! そんなことしたら――!)

 もう、遅かった。

「ああっ! 出る、出る、出るっ!」

 ぼくの口の中にドロっとした熱いモノが流し込まれた。口一杯に生臭い匂いが広がる。しかも、ぼくは驚いた拍子に、それを飲み込んでしまった。

「ううっ!」

 喉の奥に広がる苦い味……。もう、今すぐにでも死んでしまいたい気持ちで一杯だった。

 そんなぼくを見下す様に卓君は、さっさと服を着ると、何も言わずに去って行ってしまった。

「気持ち良かったぜ、輝。また、してくれよな。へへへ」

(どうして!? どうして、ぼくがこんな目に遭わなければいけないの!?)

 理不尽過ぎる運命をただただ恨むことしか出来なかった。誰も居ない体育館の中、煌々と白熱灯に照らし出されて、ぼくは一人、これ以上無い位に惨めな気持ちで一杯だった。震えが止まらなかった。上手く動かせない手を使い、ぼくは必死で服を着た。手が震えて、ボタン、上手く止められなくて、何度も、何度も失敗した。涙、あふれて止まらなかった。

 誰も居なくなった体育館は静まり返っていて、途方も無く恐ろしく思えた。こんな広い体育館に、ぽつんと取り残されたぼく。ふと、足元に目線を落とせば、搾り出された、ぼくの精子が、ぼくを嘲笑う様に光を称えていた。ぼくはハンカチを手に取り、乱暴に拭き取った。何度も、何度も!

「うわあああああーーーーっ! どうして! どうして! ぼくが、ぼくだけが、こんな目に遭わなくちゃいけないのさーーーっ!」

 叫んだ。ありったけの声で叫んだ。それから、泣いた。

 不意にぼくは冷静になった。こんな姿、誰かに見られたら大変だ。こんな、辱めを受けたという事実は、誰にも知られたく無かった。ただ、怖くて、怖くて仕方が無かった。雷鳴が激しく鳴り響き、打ち付ける様に雨が降り注ぐ中、ぼくは体育館を飛び出した。叩き付ける様な雨にびしょ濡れになりながら走り続けていた。あの一件以来、ぼくは雷が怖くなった……雷の音、叩き付ける様な雨の音、あの時の恐怖感が克明に蘇ってしまうから。卓君にいやらしいことをされて、途方も無く気持ち悪かったのと……それ以上に、体が震える程の気持ち良さを知ってしまったことの罪悪感と、色んな感情が入り乱れて、差し迫っていた死の恐怖が蘇って、身動きが取れなくなってしまうから……。

 あの時の一件が原因で、ぼくは異様なまでに性行為に興味を抱く様になった。最悪な体験だったけれど、射精の瞬間の気持ち良さ……。忘れられなかったから。ついでに、あの時からだった。完全に女の子への興味を失ったのは。全部、卓君のせいだ。違うね……。卓君の「お陰」だった。ぼくは……汚れてしまったんだ。そう、心の底から実感したのを、今でも克明に覚えている。

◆◆◆13◆◆◆

 激しく雨が降り頻る中、ぼくは家路への道をとぼとぼと、力無く歩んでいた。あの後、ぼくは必死で口をゆすいだ。あの生臭い匂いが、途方も無く気持ち悪くて、何度も、何度も、吐いた。吐いて、吐いて、それから、また、泣いた……。

 叩き付ける様な雨の中、四条通を行き交う人の流れ。その人の流れの中を、ぼくは力無く歩んでいた。もう、何も考えることは出来なかった。ただ呆然と歩み続けることしか出来なかった。傘もささずに、ただ、俯いて歩くぼくは、さぞかし違和感のある存在だったことだと思う。

「輝!」

 不意に背後から声を掛けられた。コタの声だった。雨にかき消されそうになっても、コタの声を聞き間違える訳が無かった。でも、ぼくは振り返れ無かった。コタにだけは……こんな自分の真実を知られたくなかったから。

「どうした? 随分と帰りが遅かったな? 傘はどうした? びしょ濡れじゃないか!」

「う、うん……」

 矢継ぎ早に語り掛けられて、ぼくは動揺するばかりだった。ぼくはコタの顔を見ることが出来なかった。兄の様に思っているコタだからこそ、絶対に、真実を知られたくなかった。だけど……。

「鴨川卓に何かされたのか?」

「え!?」

「……見ていたんだ。お前達が廊下で話しをしているのを」

 コタの声は酷く震えていた。顔を見なくても判る。燃え上がる炎の様な怒りを胸に抱いているハズだって。

「輝、何があったんだ?」

「う、うう……」

「その顔……殴られたのか!? あの野郎……」

「ううっ、ううっ……」

 コタの問い掛けに、ぼくは何も答えられなかった。代わりに、肩を小さく震わせ、あふれ出る涙を流すことしか出来なかった。ぼくの異変に驚いたのか、コタが声を荒げた。

「輝? どうしたんだ? 殴られただけじゃ……ないのか? 何があった! 答えろ!」

 肩を乱暴に掴まれ、力一杯揺さぶられた。もう、逃れることは出来ないと判断した。だから、ぼくは顔を挙げ、コタに全ての事実を伝えた。卓君にされた……いやらしいことも含めて、全部、全て話した。

 コタのことだから、きっと怒り狂うと思っていた。コタはぼくのことを実の弟の様に思ってくれている。何時だってぼくの味方で、ぼくのことを体を張ってでも守ってくれたから。ぼくの首元に目線を投げ掛けていたコタの表情が一気に険しくなる。驚愕した様な表情で息を呑むのが聞こえた。ぼくを不安にさせない様に、出来る限り堪えていたのかも知れない。でも、ぼくの首には鮮明に指の形が付いていたらしい。くっきりと跡が残っていたと聞かされた。改めて死の恐怖が蘇ってくる。

「あの馬鹿、本気で輝のことを殺すつもりだったのか?」

「そ、そんなにハッキリと跡、残っているの?」

「あ、ああ……済まない。不安にさせてしまったな。だけど、もう大丈夫だ。俺が居る。だから安心しろ」

「ねぇ、コタ。ぼく……汚い子なのかな? だって、ぼく……だって……」

 安心したからなのかな? 温かな涙が後から後からあふれて出てきた。怖かった。本当に怖かった。死んでしまったら、もう二度とコタと会うことも出来ない。それに、ぼくはあんなにも汚らしい行為をされてしまった。あの時の情景が蘇り、途方も無い恐怖が波の様に押し寄せてきた。今にも崩れ落ちてしまいそうな位にぼくは震えていた。怖くて、怖くて仕方が無かった。ただ、情けなく震えるぼくの肩を、コタはしっかりと抱き締めてくれていた。ようやく安堵出来た瞬間だった。だけど、次の瞬間、コタは意外な言葉を口にした。

「輝、祇園さんまで向かうぞ」

「え? で、でも……」

「頼む、一緒に来てくれ。人通りのある場所じゃ駄目なんだ……」

 静かに振り向いたコタは、口を真一文字に結び、目一杯に涙を称えていた。もう、それだけで、ぼくは何も言えなくなっていた。ただ、コタの言うとおりにしようと思った。それに、すぐに家に帰ったのでは、首に残された跡が鮮明に判ってしまうことだろう。そうなってしまえば、また、あの人に追求されるだろう。あの人のことだ。ぼくが殺されそうになったという事実よりも、周囲の反応を気にするだろう。ぼくが学校でいじめに遭ったなんて思われたら、間違いなく逆上するだろう。それは目に見えて判っていた。だから、家に帰りたくないという目的を果たすには有効だと判断した。

「うん、判ったよ……」

 ぼく達は言葉も無く、降り頻る雨の中、祇園さんを目指して歩き続けた。歩き続ける間、ずっと、コタはぼくの手を握ったままだった。ジットリと汗ばんだ手で、それでも力強くぼくの手を握り続けていた。熱い手のひらの感触から、コタの想いが伝わってくるのを感じていた気がする。

 コタは相変わらず怖い顔をしたまま、前だけを見つめて歩いていた。程なくしてぼく達は祇園さんに到着した。雨が降り頻っているお陰で、境内は人の気配も無く、不気味に静まり返っていた。コタは周囲を見回しながら、屋根のある場所を探していた。

「本殿へ向かうぞ」

「う、うん……」

 本殿の一角、屋根のある場所にぼく達は並んで佇んでいた。コタは相変わらず、一言も口を開こうとしなかった。どう振舞えば良いのか、ただただ、ぼくは迷っていた。時折、横目でコタの表情を覗き見るが、怒りを通り越した無表情な顔付きで、静かに空を見上げていた。

 雨は止み始めていた。ポツリ、ポツリと、微かに雨が零れ落ちていた。夕立は短い時間で止むもの。残り香の様に木々の葉から、雨が零れ落ちる様子だけが見えていた。雨上がりの木々の中から、再び蝉が鳴き始める声が響き渡った。

「えっと、コタ?」

「……何だ?」

「卓君のこと、怒っているの?」

 返事は無かった。代わりに静かな吐息だけが聞こえた。

「ごめんね……」

「何故、お前が謝る? 悪いのは鴨川卓だろう?」

「そ、そうだけど……」

 コタは怒りに満ちた表情を崩さなかった。それにしても、コタはどうして、雨が降り頻る中をわざわざ祇園さんまで連れてきたのだろう? かと思えば今度は黙り込んでしまったり、何を、どうしたいのだろう? そんなことを考えていた。不意に雷鳴が轟いた。

「ひぃっ!」

 どこかに落ちたのだろう。凄まじい轟音が響き渡った。驚きついでに、ぼくはコタに抱き付いてしまった。コタは一瞬、困った様な笑みを浮かべて見せたが、不意に口を開いた。再び空を見上げたまま、憮然とした表情でぽつりと呟いて見せた。

「……今日あったことは忘れろ」

「え?」

「覚えていても何の得にもならん。お前は何も体験していない。そういうことにしろ」

「で、できる訳無いよ! ぼく、あんな……恥ずかしい想いを……汚い想いをしたんだよ!? ぼく、汚れちゃったんだよ!? ぼく、ぼく……」

「そうだったな。それならば、より一層大きな出来事で塗り潰してしまえば良い。そうすれば、くだらない記憶など消え失せるだろう?」

 人事だと思って無茶苦茶なことを言っている。段々とぼくの中で、コタに対する怒りが湧き上がってきた。大体、無かったことにしろなんて無理があり過ぎる。当事者じゃないコタからすれば、適当なことが言えるかも知れないけれど、ぼくは死ぬ程怖い体験をしたんだ! 最低の辱めを受けたんだ! 早々簡単に記憶から抹消出来る訳が無い。苛立ち混じりにコタの表情を窺えば、何かを考えているのか、ぼくを見つめたまま、妙に真剣な表情を浮かべていた。

「そうか……そうそう簡単に消せる記憶では無いだろうな。じゃあ、これならどうだ?」

 そう言い放つと、いきなりコタに抱き締められた。突然のことに、ぼくは困惑させられた。

「え? え? い、一体どういうこと?」

「輝、俺はお前のことが好きだ……」

 もう一つの忘れられない体験をした日だった。気付かなかった……コタがずっと、ぼくのことを想ってくれていたなんて。予想もしなかった。仲の良い兄弟の様な存在だとしか思っていなかったから。まさか、そんな感情を抱いているなんて思いも寄らなかった。

「鴨川卓の好きと、俺の好きとは訳が違う。それは判るな?」

「ば、馬鹿にしないでよ。その位、ぼくだって判るよ……」

「そうか」

 耳元から聞こえるコタの声は、どこか、安堵した様に聞こえた。びしょ濡れになった体越しに伝わってくるコタの体温と、激しく刻み込む鼓動。ぼくを抱き締める腕に、さらに力が篭められた。

「俺は輝、お前のことが好きだ」

「う、うん……」

「幼馴染としてでも、友達としてでも無く、だ」

「う、うん……」

 コタはぼくのことを力強く抱き締めてくれた。性格そのままに、荒っぽくて、無骨で、乱暴だったけれど、でも、とても安心出来た。生きているって実感できたから。死んでいないって判ったから。

「ぼくも、コタのこと好きだよ」

 でも、あの時のぼくは……嬉しさよりも、焦りや不安といった感情の方が圧倒的に強かった。兄弟として好きだという意味ならば、何も迷うことなく受け入れられたと思う。でも……ぼくは本当に臆病だったから、この先、どうなるのかを考えると、不安で仕方が無かった。男の子が男の子に想いを告白されて恋人同士になる。人々の好奇の目に晒されながら生きるだけの自信が無かった。多分、その想いは、憂いは、言葉にも鮮明に現れてしまったのだと思う。だから、あの時、コタは本当に寂しそうな表情を浮かべていた。今にも消えてしまいそうな、哀しげな表情だった。忘れられない表情だよ。普段は、あまり感情を表に出さないコタが、あんなにもハッキリと感情を見せたのは初めてのことだったから……。

「なぁ、輝。俺の家に来ないか?」

「え? コタの家に?」

「ああ。今日はうちの両親は大阪まで出掛けていて、夜遅くまで帰らないからな」

 コタが何を言わんとしているのか、ぼくには良く理解出来なかった。

「俺が塗り替えてやる」

「ど、どういうこと?」

「つまり……こういうことだ」

 そう言うと、コタは自分のズボンを下ろして見せた。微かに毛の生えたおちんちんが姿を露わにした。

「え? えぇっ!?」

「輝、さっき体験したのと同じことをするぞ。俺がお前の精子を飲む」

「な、何言っているの!? そんなことしたら!」

「俺も汚い。そうなるか?」

「こ、コタは……違うよ。コタだったら、汚く無いよ……」

「じゃあ、輝。俺のも……飲んでくれるか?」

「う、うん。良いよ……」

 無茶苦茶なことを考え付く物だと、心の底から驚かされた。でも、コタは一度言ったことは絶対に実現する子だったから、この時も、本気なのは良く判っていた。ぼくのためになら、コタは本当に何でもやって退ける子だった。多分、コタは本気でぼくのことを好きで居てくれたのだと思う。嬉しかった。だから、また泣いた。

 まだ子供なのに、ぼく達はこんなにもいやらしいことをしている。そのことが怖くて、怖くて仕方が無かった。でも、コタの一言でぼくは救われた気がする。

「トモダチってさ、辛いことも、哀しいことも、全部、分かち合えるものなんだ」

「うん……」

「楽しいことも、嬉しいことも、全部、分かち合えるものなんだ……だから、輝、お前の痛みも、哀しみも、俺が半分背負う」

「うん……」

「だから、もう泣くな。可愛い顔が……台無しだぞ?」

「うん……。コタ……」

「何だ?」

「ありがとう……」

  あの後、コタの家にぼく達は向かった。カーテンを閉めて、二人で裸になって、コタの布団に入って……。それから、初めてキスした。二人で一杯エッチなことして、最初にコタが……ぼくの精子を飲んでくれた。それから、ぼくも……コタの精子を飲み干した。凄く興奮したし、あんなにも深い快感を覚えたのも初めてのことだった。でも、コタとは……その一度きり。多分、お互いに恥ずかしかったというのもあったし、何よりも、ぼくの傷に触れない様に気遣ってくれたからだと思う。

 この時、ぼくは本気で誓った。何があっても、ぼくは生涯、コタのことだけは絶対に裏切らない様にしよう。それから、二人が死んでしまう時まで、ずっと傍にいようと。

 あの日のことをぼくは一日だって忘れたことは無い。今なら言えるから。コタのこと、本当に好きだって……。でも、あの日から数日後、コタに取って最低最悪の日が訪れてしまった……。

◆◆◆14◆◆◆

 不意に我に返った時、ぼくは花見小路の一角に佇んでいた。今にも雨が降り出しそうな空を、ただ静かに見つめていた。相変わらず人通りは絶えることが無い。賑やかで、活気にあふれた道だ。往来する人々を眺めながら、ぼくはただ茫然と歩き続けていた。

 あの一件から数年後、ぼくは自殺を試みた。本当に愚かな行為だったと思う。でも、あの日、あの時、あのまま死んでいたら、今、こんなに苦しまずに済んだのかも知れない。死んでしまえば全ての罪が赦される。そんな甘っちょろいことを考えていた。だから、自殺しようなんて思えたのかも知れない。とんでもなく甘ったれた考えを持っていたと反省している。

 ぼくの命を救ってくれたコタのこと、あの時ばかりは激しく憎んださ。憎んで、憎んで、憎んださ! どうして、ぼくのことを助けたんだって、怒りに身を震わせた。ついでに、初めてコタと殴り合いの喧嘩しちゃったっけな。でも、それでも……ぼくはコタのことが好きなんだよね。ぼくの大切なお兄ちゃんだから。そう――ぼくは卑怯な奴だ。敢えて自分の立場を明確にすることを避けている。そのクセ、コタの想いを独り占めしようとも考えている。ぼくは気に入った相手には無節操に尻尾を振るのに。本当、最低だよね……。

 だから、何時も思う。言葉は悪いけれど、コタは本当に馬鹿な子だと思う。どうして、ぼくなんかのために何時も必死になってくれるのだろう? 何時だってそうだったさ。ぼくが苛められた時には必ず助けてくれた。ぼくのために自分が犠牲になることを厭わなかった。ただ、一途にぼくのことを守ってくれようとする。コタがぼくのお兄ちゃんだから? ぼくがコタの弟だから? 判っているんだ。それ以上の想いを持って接してくれていることくらい。だから……ぼくがコタに望んでいるのも多分、兄としてのコタでは無いのだと思う。ずるいよね。卑怯だよね。そうやって、曖昧な立場に身を置くことで、ぼくは傷付くことから逃げている。

 判っているんだ。こうやって、おちゃらけて生きている方がずっと楽だから。変に傷付かないで済むから。そうやって自分自身からも目を背け、偽りの自分を一体何人生み出せば気が済むのさ? 変わっていない……ちっとも変わっていない。嫌な自分から、駄目な自分から、一歩も脱却できていないじゃないか。

「変わりたい、変わりたいと、願うだけでは駄目なんだよね。髪の色変えてみたり、アクセサリ付けてみたり、香水使うようになったり……でも、そんなの、結局は表面的な変化でしか無かった」

 ぼくは、やっぱり駄目な奴だなぁ。それに、曖昧な立場を貫いている以上、何時の日かコタがぼくを見捨てて離れて行ってしまったとしても文句は言えない。

「……やっぱり、ぼくは馬鹿だなぁ。本当に救いようが無いよね」

 夕暮れ時の花見小路は風情に満ちた佇まいを称えていた。人通りは絶えることなく、楽しげに振舞う人々が往来している。

「違うね。救われることを、自ら拒んでいるだけなんだ」

 一人、沈んだ気配を放つぼくだけが異質な浮き方をしている様に思えた。ぼくはただ、ふらふらと花見小路を歩み続けた。花見小路を歩みながらも、ふと細い路地に目が行く。この界隈は夕暮れ時になると、より風情が漂う景色が広がる様になる。黒を基調とした建物の外壁や、細工を施された街灯も、祇園ならではの光景。賑わう人々の流れに乗っているうちに少しだけ気持ちも晴れ渡った様に思える。

(道行く人達は皆、楽しそうだね。気持ちが少しだけ明るくなれた気がするよ)

 なおも花見小路を歩み続けた。やがて、ぼくの前には建仁寺の門が見えてくる。此処も好きな場所のひとつだった。

 ただ、ぶらぶらと歩きたかった。行く宛も無い無謀な旅路。そういうのも嫌いじゃない。ぼくは堅く閉ざされた門を横目に、建仁寺の裏を抜ける細道を歩んでいた。この界隈は人の通らない細道にも風情が感じられる。猫達はこういう細道を散策しながら、人の知らない光景を楽しんでいるのだろうな。生まれ変わったら猫になる。それも面白いかも知れない。

(でも猫になっちゃったら、ロックと仲良く出来なくなっちゃうか。それは嫌だなぁ)

 極度の猫アレルギーのロックが声を張り上げて身悶える様を思い出し、思わず吹き出しそうになった。そのまま、人通りの多い通りを後に、徒然なるままに細道を歩み続けた。碁盤目状の形式の街並みは注意しないと簡単に現在地を見失う。でも、それはそれで面白いものだ。そんなことを考えながら、ぼくは気の向くままに路地裏を歩き回っていた。

 ふらふらと散策していると何時の間にか霧が出始めた。視界を遮る程の濃い霧は何だか幻想的な風合いに思えた。霧に続いて、不意に鼻腔をくすぐる仄かな香りが漂ってきた。良い香りだ。どうやら裏道の方から漂って来ている様子だ。何処かで体感したことのある良い香り。その良い香りに導かれて、ぼくはフラフラと花見小路から裏道へと足を運んでいた。

「へぇー、こんなお店が近所にあるなんて知らなかったよ」

 そこは匂い袋を扱う古風な店だった。白檀、桂皮、麝香……色とりどりの愛らしい袋からは、華やかな香りが漂っている。柔らかな光が毀れる店内はどこか洒落た印象を受けた。元々は町屋であった店を改装し、西洋風に仕上げたような印象であった。最近は、こういうリフォームが流行っているみたいだね。それにしても良い香りだなぁ。どこかで記憶に残っている甘い香りに引き寄せられる様に、ぼくはフラフラと店に近付いた。

「アレ? リフォームしたにしては、何だか……?」

 近付いてみて気付いたけれど、何だか妙に歴史を感じさせる店構えだった。洒落た雰囲気はそれなりに近代的に思えたけれど、内装や、商品を陳列する棚、それから、店の主の女性もどこか古めかしい風合いを称えている様に思えた。何だか古い時代に栄えたであろう洒落た店が、時を超えて今この時代に現れてしまった。そんな不思議な感覚に包まれた店だった。

「何だか不思議な雰囲気を感じるね」

 ぼくは殊更に興味を惹かれ、店をじっくりと見回していた。ただ、やはり、女性客に縁がある店に足を踏み入れるのは少々勇気が居る様に思え、ぼくは二の足を踏んでいた。

「あら?」

 不意に声を掛けられて、ぼくは驚いて振り返った。

「輝君じゃない? へぇ、珍しい場所で出会うものね」

「も、桃山先生!?」

「案外、これは運命的な出会いだったり? なーんてね」

 突然の桃山先生の登場に、ぼくは口から心臓が飛び出すのでは無いかという位に驚いた。しかも花見小路の表通りでは無く、裏通りの風変わりな場所での遭遇とくれば殊更に慌ててしまう。

「こんなところで何をしているのかしら? あまり……男の子に縁のありそうな場所には思えないけれど?」

 ぼくの動揺ぶりが可笑しくて仕方が無かったのか、桃山先生は笑いを堪えながら問い掛けてみせた。

「え? えっと……そう。あのね、ぼくね、自分探しの旅をしているところなんだよね」

 止せば良いのに馬鹿丸出しな発言をしてしまった。あまりにも意表を付いた言葉に、店員の若い女性がクスクス笑い出す。ぼくの動揺は最高潮に達していた。言葉が出て来ずに、ただ真っ赤になるばかりであった。そんなぼくに気付いたのか、やれやれといった仕草をしながら桃山先生が助け舟を差し出してくれた。

「ふーん。面白そうね。自分探しの旅、あたしもご一緒させて貰おうかしら?」

 冗談で言った言葉に真面目に乗って来られると、それはそれで困る。まぁ、自分探しの旅というのも間違いでは無いか。ぼく自身の在るべき場所を求めて右往左往しているのは事実なのだから。

 顔を見合わせて笑ったのも束の間だった。不意に空が暗くなると、そのまま勢い良く雨が降り出した。危うい天気だとは思っていたけれど、とうとう限界に達してしまったらしい。降り出した雨に、道行く女性達が慌てた様子で走り出すのが見えた。

「あらあら、降り出しちゃったみたいね。危うい天気だとは思っていたけれど、困ったものね」

 言葉とは裏腹に余り困っている様には見えなかった。周囲の女性が慌てて走り出す中でも、桃山先生は淡々と店内を物色していた。

「どうせ、ただの夕立なのだから、敢えて降り出しの一番雨足が強い時に行動する必要も無いのにね」

「桃山先生は相変わらず落ち着いているよね」

 ぼくの言葉を受けて、桃山先生は可笑しそうに笑い返してくれた。

「そりゃあねぇ、輝君達みたいな問題児を日々相手していれば、度胸もつくというものよね?」

「あ、ヒドイなぁ。それじゃあ、ぼく達が悪い子みたいじゃない?」

「あら? まさか、違うとでも言うの?」

 苦笑いを浮かべ、頭を掻くぼくの姿を桃山先生は笑いながら見つめていた。可笑しそうに笑いながら、桃山先生は再び店内を物色し始めた。

 こういう場所は男であるぼくには無縁な場所だと思ったけれど、意外な時にチャンスは巡ってくるものだ。普段訪れることも無い店内に、ぼくはすっかり興味を惹かれていた。色とりどりの匂い袋は見た目も可愛らしく思えた。

「ふーん。巾着型のとか、ひょうたん型のとか、色々あるんだねぇ」

「そうね。輝君が見ている様な、小柄なものはバッグに着けたりするのに適しているのよ」

 広い店内を見回せば、お部屋に置くタイプの少々大き目の匂い袋もあった。中々種類も豊富らしい。見ているだけでも楽しい気持ちになれるお店だった。何よりも大小様々な匂い袋が放つ、良い香りに興味を惹かれていた。

「これなんか、どうかしら?」

「うわっ!」

 いきなり目の前に突き出されて、ぼくは思わず顔を引っ込めた。桃山先生は可笑しそうに笑いながら、再びぼくに差し出した。

「輝君ってば、リアクションが大仰ねぇ。案外、芸人向きなのかも知れないわね」

「芸人? えっと……そっち方面に進む予定は無いんだけどねぇ、えへへ……」

 それは淡い桃色の可愛らしい匂い袋だった。そっと鼻先に持って行けば麝香の甘い香りが鼻腔をくすぐる。

(アレ!? この匂いって、夢の中で見た母さんが着けていたのと同じ香りだよ!)

「どうかしら? あたしね、麝香の香りが好きなの」

「え、えっと……ぼくに意見を求めるのは、どうして?」

 桃山先生は一瞬考え込む様な素振りを見せたが、可笑しそうに笑って見せた。

「そりゃあ、輝君に気に入って貰える香りの方が良いでしょう?」

「え!? ぼ、ぼくに!?」

 意外な返答に、ぼくはすっかり翻弄されっぱなしだった。思わず返答する声まで裏返ってしまう。

「輝君ったら、本気で困っちゃって可愛いわねー」

「か、からかわないでよ……」

「フフ。自分が好きな香りが、他の人にはどう感じられるものなのか興味を抱いたってのが本当のところよ?」

「ううーん、何か安心した様な、ガッカリした様な……」

 少々振り回されている感一杯のぼくにはお構いなしに、桃山先生は淡々とお会計を済ませていた。ふと、外を見れば何時の間にか雨足はだいぶ弱まっていた。

「ほらね? 慌てて駆け回っても無意味なのよ。夕立なんざ、放って置けばすぐに止むのだから」

「そう、みたいだね……」

「ほら? 泣き止まない子供も、放って置けばそのうち疲れ果てて泣き止むのと一緒よね?」

(何だか手慣れた母親みたいな発言だよね……)

 桃山先生と二人店を出た所で、何だかドっと疲れが出た様な気がする。桃山先生は意外にマイペースな人の様に思えた。ぼくのマイペースさに振り回されているコタが「疲れる」と口にしていたのが何となく理解出来た気がした。

「フフ、目的の品も購入出来たし、気分も上々ね」

「えへへ。それは良かったね……ふぅっ」

「ねぇ、輝君、この後ってお暇かしら?」

 思わず溜め息が出たけれど、続く桃山先生の言葉に思わず背筋が伸びてしまった。

「え? この後?」

「そうよ。もしかして、自分探しの旅にお忙しいのかしら?」

 桃山先生は相変わらず屈託の無い笑顔で微笑み掛けてくる。

(えっと……これって遠回しに、デートに誘っているってこと? えぇーっ!? ど、どうしよう……)

「この近くにね、あたしのお気に入りの喫茶店があるの。良かったらどうかしら?」

(既に一緒に行くって方向で話しが進んでいるのだけど!)

「う、うん。それじゃあ、ぼくもご一緒させて貰おうかな」

(ああ、何でそこで、ぼくはこんなにもノリノリな気分で返事しちゃうかなぁ……)

 でも、何故か断れなかった。迫力に圧されてとか、勢いに呑まれてとかじゃなくて、ただ、どうしても断りたくなかった。どうせ家に帰っても「あの人」と顔を合わせるだけの、窮屈な空間で過ごすだけだ。それだったら桃山先生と一緒に居た方が、ずっと楽しいに決まっている。ぼくはそう、自分に言い聞かせていた。

「それじゃあ、張り切って行きましょう」

 桃山先生は何時もこんな調子だ。でも、桃山先生の明るく振舞える姿は羨ましく思える。ぼくも桃山先生みたいに生きることが出来たのならば、新しい自分に出会えたかも知れない。変わることの出来ない駄目な自分にウジウジすることも無くなったかも知れない。変われるかな? 僅かな時間かも知れないけれど、桃山先生と一緒に過ごしたら何か変われるかな? ぼくは他力本願な期待を胸に抱きながら桃山先生の後に続いた。もしかすると、麝香の甘い香りに、ぼくはすっかり魅了されていたのかも知れない。

◆◆◆15◆◆◆

 ぼくは桃山先生に案内されるままに花見小路を上がり、そのまま四条通へと抜けた。南座前の大きな交差店を越えて四条大橋を渡り切る。先斗町通のさらに一本向こう、細道へと曲がって行く。

「へぇー。何か隠れ家的な感じだ。桃山先生ってばお洒落だねぇ」

 思わず感嘆の声を漏らすぼくに、桃山先生が笑いながら振り返った。

「あら? 普段のあたしのイメージってどういう感じなのかしら? 牛丼屋に抵抗無く入れて、なおかつ、問答無用で汁だけ、大盛りを軽ーく頂いちゃう様なワイルドな男前イメージでも抱いているわけ?」

(うわっ! ぼく達が抱いているイメージそのままだよ! でも、そうだとは口が裂けても言えないよね……)

「えぇっ!? そ、そんなこと無いよ! 桃山先生、何時も奇麗だし、お洒落だなぁって思うよ」

(ああ、ぼくはこんな場面でも嘘つき……イヤ、これは嘘も方便だよね!)

「ふーん」

「な、何?」

「褒めて置けば機嫌良くなるとでも思っているのかしら?」

「そ、そんなことは……」

 桃山先生にすっかり翻弄されている気がする。何だか、ぼくのことを弄んで楽しんでいる様に思えるんだよなぁ。まぁ、良いけどね。それにしても先生は何時も奇麗だ。パリっとした白いブラウスに丈の長いブラウンのスカート、ついでに何時もと変わらぬポニーテール。ちょっと古風な感じだけど良く似合っていると思う。

「さ、ここが目的地よ。喫茶ポワレってお店ね」

「へぇー。何だか童話に出て来そうな外観だね。何か、凄くお洒落な感じだなぁ」

「フフ、中に入ればもっと驚くわよ?」

 桃山先生は何の迷いも無く、西洋風な雰囲気を持つ喫茶ポワレに入っていった。ぼくも慌てて続く。何とも風変わりな喫茶店だった。ここ、お気に入りの店なの。そう付け加えるのを忘れずに。まるで、自分だけの隠れ家にお客を招待するかの様なよそ行きの笑顔で。

 店内は透き通るような青い照明に照らし出されて、何とも幻想的な情景に包まれていた。深い海の底に訪れたかの様な雰囲気に吸い込まれそうになっていた。天井から吊るされたシャンデリアも、落ち着いた店の内装も、何ともノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。

 涼やかな色合いの店内には、やはり、店の雰囲気に合う小奇麗な若い女性の姿が見受けられた。中には恋人同士なのだろうか? やはり余所行きの服装に身を包んだ人達の姿もあった。何だか気遅れしてしまう場所だった。小奇麗な桃山先生はそうでも無いかも知れないけれど、ぼくみたいに子供染みた奴は不釣り合いな気がしてならなかった。でも、幻想的で素敵な情景に、ぼくはすっかり舞い上がっていた。

「うわぁ……何て幻想的な喫茶店なんだろう。近所に住んでいるのに、初めて来たよ」

「そりゃあ、小太郎君達と一緒に遊んでいる様な子達が訪れるお店では無いでしょうね」

(ううーん、否定できない自分が哀しい。確かにコタの好む様な店とは対極に位置している気がする……)

「確かに、ぼく達の行き着けのお店は四条通にある一銭洋食の店だからねぇ」

 ぼくの言葉を受けて、桃山先生は可笑しそうに笑った。

「ああ! あの強烈なまでに個性的かつ前衛的カオスなお店!? いかにも小太郎君らしいわ」

 予想通りの反応に、ぼくはただ引きつった笑みを浮かべるしか出来なかった。幻想的という意味では、ある意味共通しているかも知れないけれど、昭和レトロの怪しさ爆発な雰囲気のお店と、この店を比較しちゃいけない気がする。

「この喫茶店はね、ゼリーポンチというメニューが有名なの。ほら、あちらのテーブルのお客さんが食べているのがそうね」

 桃山先生が指差す先には、この喫茶店の雰囲気に良く似合う涼やかな逸品だった。涼やかなボトルの中には色とりどりのゼリーが煌いている。芸術品の様な食べ物に、甘味好きとしては多大なる興味を惹かれた。

(ふむふむ。これは今度ロックを連れて来てあげなくちゃ。こんな洒落た店を知っているなんて、自慢出来るよね)

「美味しそうだね。ぼくもゼリーポンチが良いな」

「じゃあ、そうしましょう」

 振舞いの一つ一つが繊細で、桃山先生はやっぱり美人だと思う。物憂げな横顔に思わずドキっとして、多分ぼくは頬を赤らめていたと思う。ぼくの目線に気付いたのか、振り向きついでに笑顔を投げ掛けてくれた。ますます、ぼくは顔が熱くなる感覚を覚えていた。でも、本当に不思議な感覚だった。ぼく、女の人には興味無いハズなんだけどなぁ……。

 桃山先生はコーヒーも好きらしく、京都市内の色々な喫茶店を巡っているらしい。多くの店を知っているらしく、お奨めのお店を案内してくれると約束してくれた。ちなみにぼくはコーヒーが苦手。お子様だから苦味の利いたコーヒーはどうしても飲めないんだよね。ぼくが好きなのは紅茶かな。香り豊かな紅茶に、たっぷりの砂糖とミルクで頂くのが好きだなぁ。ちなみに、コタは渋みの利いた宇治抹茶が好きらしい。コタって、やっぱり趣味がオジサン臭いんだよねぇ。

(あ、アレ? 今更ながらだけど、色んなお店を案内してくれるって……これからもデートしたいってこと!?)

 一人動揺するぼくとは裏腹に、桃山先生は相変わらず涼やかな笑みを浮かべるばかりであった。

「それで、自分探しの旅の目的地はどちらになるのかしら? 興味あるなぁ」

 桃山先生が手にしたグラスの中で、溶けた氷が渇いた音を奏でる。グラスと同じ様に、桃山先生は手の平の上で転がす様にぼくを扱うばかり。まぁ、それも悪くは無いかな。

「そうだねぇ、旅の目的地があるとしたら、口やかましい母親のいない国かな」

「え……?」

 サラリと言ってしまってから、ぼくは自分の言葉を後悔した。いきなり、桃山先生に家の内情を伝えることになってしまうことになろうとは、何て間抜けなのだろう。でも、吐き捨てる様なぼくの口調に、桃山先生は悲しげな眼差しを浮かべていた。そのままグラスを手にすると、ゆらゆらと浮かぶ氷を、ただ静かに眺めて見せた。

 程なくして色とりどりのビー玉をちりばめたかの様な、涼やかな色合いのゼリーポンチが運ばれてきた。近くで見て気付いたけれど、サイダーの中にカラフルなゼリーが浮かんでいることに気付いた。何とも風流な食べ物だ。

「ふぅーん。口やかましいだけの母親ねぇ」

 桃山先生はゼリーを口に運びながら遠い目を見せた。

「でも、文句言えるだけ羨ましいと思うわ」

「え?」

 桃山先生は静かな笑みを浮かべたまま話を続けた。

「母はあたしが高校生の頃に亡くなっているの。父はあたしが幼い頃に家を出て行ってしまってね。だから、あたしは天涯孤独の身。何処に行くのも、何処でのたれ死ぬのも自由気ままな風来坊。毎日が自分探しの旅かしらね?」

 桃山先生の口から放たれた予想もしない言葉に、ぼくはただ言葉を失ってしまった。桃山先生の置かれた境遇と、ぼくの置かれた境遇はあまりにも違い過ぎる。

(桃山先生は、ぼくよりずっと辛い道を歩んできたんだね。ううん、こういうのは優劣の問題じゃないけれど……)

 思わず俯いてしまったぼくに気付いたのか、桃山先生は穏やかな笑みを浮かべて見せた。

「別に、あたしは自分が不幸だとか思っていないし、天涯孤独の身も悪くは無いものよ?」

「桃山先生、強いんだね……」

 上手く言葉が出て来ないぼくが、もどかしくて、悔しくて、仕方が無かった。

「強い、ね……。でも、一体どういうものかしらね? 強さって?」

 カラフルなゼリーを口に運びながら桃山先生は静かに微笑んで見せた。ぼくも真似してカラフルなゼリーを口に運ぶ。涼やかな色合いに良く似合う食感のゼリーは、この喫茶店同様にノスタルジックな風合いを称えていた様な気がした。

「うーん、改めて言われてみると何だろうね、強さって?」

「あら? 判りもしないのに追い求めていたの?」

「そ、そうだよねぇ。ぼく、何ていい加減なんだろう。えへへ」

 思わず声を挙げて笑っていた。桃山先生も釣られて可笑しそうに笑っていた。

「でも、あたしは思うのよね。判らないことを追い求めるからこそ、楽しいんじゃないかしら?」

「桃山先生ってば詩人みたい。何か格好良いなぁ」

 ぼく達は他愛も無いお喋りをしながら、ゼリーポンチを堪能した。学校で過ごしている時の桃山先生と、今こうして目の前に座っている桃山先生とは、見た目こそ同じだったけれど随分と印象が違って見えた。何ていうか、今、ぼくの目の前に座っている桃山先生は、心優しいお姉さんの様な、包み込む様な優しさに満ちあふれた存在に思えた。そんなことを考えていると、不意に桃山先生がこちらを向いた。思わず目が合ってしまい、ぼくは慌てて目を逸らした。

 店内の涼やかな青い照明に照らし出されて、ぼくも桃山先生も深い海の底にいる様な透き通る青一色だったと思う。そんなことを考えながら、目を逸らすのと同時に、頭の上に手が乗せられる感覚を覚えた。桃山先生はいたずらっぽく笑いながらぼくの頭を撫でてくれた。妙にヒンヤリとした手の感触に、思わず腰が砕けてしまいそうな程に力が抜けてしまった。頭に乗せられた冷たい手の感触が熱くなった体を冷ましてくれた様な気がした。

「ねぇ、輝君、良かったらあたしと一緒に、自分探しの旅に行かない? どうせ家に帰ってもガミガミママゴンと喧嘩になるだけなんでしょ?」

「が、ガミガミママゴンって……」

 何とも言えない言葉遣いに、思わず体中の力が抜ける感覚を覚えた。

「でも、何処に旅に行くの?」

「宇治川よ。輝君、行ったことある場所かしら?」

 桃山先生が提案した場所は宇治川だった。

(宇治川かぁ……良い場所だけど、こんな時間に? 真っ暗で何も見え無そうだけど……。それに、宇治川と言えば、ぼくとコタに取っても大きな思い出の残る場所。何か、奇妙な偶然だなぁ)

「この時間だから、暗くて良く見えないかも知れないけれど、宇治川の雄大な流れを見るの、好きなの。嫌なことも、辛いことも、哀しいことも、全部、全て、押し流してくれちゃう。そんな気がしてね。まぁ、図々しいまでに他力本願な考え方だって言われちゃったらそれまでだけどね」

 相変わらず桃山先生は上機嫌に振舞っていた。折角上機嫌に振舞っているのに、水を差してしまうのも申し訳無い気がした。

「うん。桃山先生、一緒に宇治川、見に行こう?」

「お! そう来なくっちゃ! それじゃあ、祇園四条の駅まで歩いて向かいましょう」

◆◆◆16◆◆◆

 ぼく達は再び四条大橋を渡り、南座前から祇園四条の駅へと潜っていった。煌々と光を放ちながら、雄大に構える南座は何時見てもドッシリと構えている。そんな南座とは対照的に、改札への階段を歩むぼくの脳裏には不意にコタの顔が浮かんできた。

(コタ、どうしているかな? 今、何をしているのだろう? ああ、どうして急に不安になってきちゃったのだろう。何かあったら助けて欲しいなんて、虫が良すぎる話だよね……)

「ほら、輝君、のんびりしていると置いて行っちゃうわよ」

「あ、ちょっと待ってよー!」

 結局、ぼくは変わりたい、変わりたいと口にするだけの弱虫。でも、本当は変わることが恐ろしくて仕方が無いんだ。変わってしまったぼくを見てコタはどう思うだろうか? 皆はどう思うだろうか? 結局、ぼくもあの人と何ら変わりは無いんだ。個性、個性と口にしながらも、その実、世間体という「他者の目」から逃れ切れていないんだ。何て憐れで、情け無くて、弱く、儚く、何よりも格好悪いのだろう!

 駅のホームは閑散としていて、どこか物悲しい光景に思えた。人気の少ない無機的な地下鉄の駅。そこにぽつんと佇む、時の流れに見捨てられた迷子が二人。見慣れた景色なのに不思議な光景に思えた。何時もだったら隣に居るのは仲間達なのに、今日は桃山先生と二人旅。楽しい冒険のハズなのに、どこか落ち着かない気分で一杯だった。程なくして駅構内にアナウンスが響き渡る。

「あら? 電車、来たみたいね。ささ、乗りましょう」

「う、うん……」

 何だか不思議な気分だった。どうして桃山先生はぼくと一緒に行きたいのだろう? それに、余りにも成り行きが都合良すぎる。偶然街中で出会い、喫茶店で語らい、それから、ぼくと二人で宇治へ向かう。違和感を覚えずには居られなかった。不意に、ぼくの脳裏に嫌な言葉が浮かび上がった。

(まさか、情鬼!?)

 数日前にコタから聞かされた鬼の存在を思い出していた。人の心から生まれ出る鬼……情鬼と呼ばれる異形の存在。桃山先生に憑依していないとも限らない。ぼく自身心の中に深い、深い闇を抱いている。誰だって同じなのだろう。人に見せている「表」の顔と、人には見せない「裏」の顔の両方を持っているハズだ。桃山先生も人である以上、裏の顔を持っていても可笑しくないハズだ。不安な気持ちを胸に抱かずには居られなかった。

『まぁ、何か変わったことがあったら、その時は一人で抱え込まずに皆で共有しようぜ』

 不意にリキの言葉が蘇った。

(そうだよね……これは、間違いなく「変わったこと」なんだよね。どうしよう……ぼく一人で抱え込むのは危険過ぎる気がする。でも、もしも、情鬼じゃ無かったら……?)

 ぼくはそっと横目で桃山先生の表情を窺った。普段は見せることの無い、楽しげな笑みを浮かべていた。ぼくと一緒に旅をすることを本当に楽しんでくれている様に思えた。

(桃山先生、楽しそうだなぁ。ぼくなんかと一緒に旅することを楽しんでくれているのに、ぼくの勘違いで水を差すのは忍びない気がする……)

 ただの思い過ごしだよね。本当に楽しそうに振る舞っているし、余計な詮索をするのは止めよう。

 それにしても、麝香の甘い香り……とても良く似合っている。だからこそ、何だか妙な気分になる。

(普通に考えたら、結構凄いことなんだよね。若くて綺麗な女性教師と教え子が二人旅……。何か、いけない展開だよね)

 ふと、桃山先生の横顔に目が行き、ぼくは自分の耳が熱を放ちながら赤くなる感覚を覚えていた。他に乗客は誰も居ない。静まり返った車内だったからこそ、余計に落ち着かなかった。ガタンガタン、ガタンガタン。無機的な列車の音がトンネル内にこだまする。

「あら? そろそろ地上に出るみたいね。とは言っても、夜だから真っ暗ね」

 桃山先生、本当に楽しそうに振舞っている。そうだよね。無理も無いんだよね。天涯孤独の身、なんて笑っていたけれど、寂しくない訳無いじゃないか。家に帰っても独りぼっち。話し相手もいない空間で、一人寂しく夜を過ごす。ぼくは耐えられそうにない。寂しくなれば、隣の家にはコタがいる。他の仲間達だって声を掛ければ応じてくれる。ぼくが独りぼっちじゃないことを教えてくれる。

(そっか……桃山先生、寂しいのかも知れないなぁ)

 そんなことを考えていると、不意に桃山先生がぼくに向き直った。

「フフ、楽しいものね。普段は一人での帰り道なの。誰もいない寂しい帰り道。でも、今日は輝君が一緒にいてくれるから楽しいわ」

「桃山先生でも……寂しいって思うんだね」

「あたしも普通の人だからね。血も流せば、涙だって流すわ。寂しさだって感じるわ」

「そ、そうだよね。ごめんなさい……」

 ぼくは反射的に謝っていた。何気ない一言だったつもりだけど、良く考えたら随分と失礼な言葉だった。言葉は言の葉。放たれた言葉には魂が宿る。良い言葉には良い魂が、悪い言葉には悪い魂が宿る。人を傷付けるつもり無く放った言の葉でも、受け取る側が悪意を感じたならば、その言の葉は悪意ある魂に変わってしまう。太助の受け売りだけど、本当にその通りだと思うな。

「輝君は弟みたいね」

「ぼ、ぼくが!?」

「そう。小太郎君達と一緒にいても、皆の弟って感じじゃない?」

「え、えっと……」

「だったら、あたしの弟にもなってくれるかしら?」

 どこか痛むかの様な寂しげな笑みだった。胸が締め付けられるような感覚を覚えずには居られない程の痛々しい笑みだった。うっかり乱雑に扱ったら木っ端微塵に砕け散ってしまいそうな、そんな儚気な笑顔だった。ぼくは酷く胸が痛んだ。

「え、えっと……ぼ、ぼくなんかで良いの?」

「ええ。輝君が弟ならば、嬉しいわ」

 でも、それも悪くないと思った。ぼくには姉がいない。もしも、姉が居たならば、桃山先生みたいに強くて、優しい姉であって欲しかった。そういう意味では悪くないかも知れない。ぼくと桃山先生、二人だけの秘密。何だかドキドキしてきた。でも……それは、嫌な気持ちでは無かった。心の奥深くにぽっかりと空いた穴を満たしてくれるような、幸福感に満ちたドキドキだった。ぼくは気が付くと、自分から桃山先生の手を握っていた。冷たい手だ。桃山先生はただ穏やかな笑みを称えたまま、ぼくの手を握り返してくれた。それだけで、ぼくは明日を生きる力を手に出来たような気がする。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか? やがて、終点の中書島に到着する。宇治に行くためには中書島で乗り換えなければならない。ちょっと照れくさかったけれど、ぼくは手を繋いだまま電車から降りた。もしも、誰かに見られたとしても、それでも良かった。恥ずべきことは何一つ無い。やましいことも何一つ無い。姉弟が手を繋いで歩いて何が可笑しい? ぼくは自信を持って反論出来るから。少しだけ……ぼくは変わることが出来た。そんな気がした。

◆◆◆17◆◆◆

 神隠し事件の手掛かりは何も掴むことは出来なかった。荒っぽい手口の割には用意周到に振舞っているらしく、何の痕跡も残されていなかった。だが、要所要所に放ったカラス達からの情報を基に、俺達は行動を起こしていた。

 その日は夕方過ぎから厚い雲が広がっていた。時折唸りをあげる雲は、何とも不穏な気配を称えており、何時雨が降り出すか判らない様相を呈していた。俺達は南座前を歩んでいた。四条通は相変わらず賑わいに満ち、人も車もひっきりなしに往来していた。曇っているとは言え夕刻の祇園。この界隈が最も賑わう時間帯だ。行き交う人々の雑踏に混じり、周囲を警戒しながら歩き続けていた。

 クロの話では、この界隈から異様な気配を感じ取ったらしい。それまで用意周到に自らの存在を隠し続けた者が、わざわざ存在を誇示してくる。それは俺達に対する挑戦なのだろう。探せるものなら探してみろとでも言うのだろうか? 随分と舐められたものだ。

「ふむ……強い殺気を感じる」

「情鬼の存在か?」

「うむ。恐らく、数刻前にこの周辺を通過した筈」

 数刻前……随分と最近、この場所を訪れたのだろう。それにしても、訪れたとは……中々に奇異な表現を使う。神隠しが起こった訳でも無い場所に、何故、情鬼が姿を現したのか? クロの言葉に奇妙な違和感を覚えた俺は、すかさず問い掛けてみた。

「妙な物の言い方をする。まるで数刻前に、この場所を情鬼が通ったみたいな言い方だ。誰かに憑依し、行動を共にしていたとでも言いたいのか?」

 俺の問い掛けに、クロは満足そうに微笑みながら腕組みしてみせた。

「ほう? コタも中々に勘が鋭くなってきた様子よの」

「それでは、やはり?」

「うむ。誰かを媒介として、何らかの行動を起こそうとしているのであろう」

 誰かを媒介として行動を起こす……実体を持たない存在だからこそ出来る芸当。だが、行動を起こし始めたというのは厄介な話だ。輝が危険に巻き込まれようとしていることを意味している。一刻も早く足取りを追わねば、取り返しのつかないことになる。焦りを見せる俺に呼応するかの様に、クロの表情が険しくなった。

「ううむ……。此処から先の足取りがまるで追えぬ。完全に、自らの気配を断った様子」

「俺達も随分と舐められたものだな」

「ふむ。しかし、一介の情鬼風情に、この様な器用な真似が出来るのであろうか?」

 クロの言葉が妙に気に掛かった。そう言えば、憎悪の能面師と対峙した際にも、気になる言葉を口にしていた。そう――。

『せ、折角手にした再びの命! ああ、何故だ!? 何故、助けて下さらぬか!? 私は貴方様の言葉に従い此処まで振舞ったと言うのに! お……おのれ! く、口惜しや! この恨み、決して忘れはせぬ!』

 憎悪の能面師が明示していた黒幕の存在。それに、俺が夢で出くわした青い法衣に身を包んだ謎の僧のことも明らかにはなっていない。もしかするとただの夢なのかも知れない。だが、そうでは無かったとしたら?

「黒幕の存在……」

「我も同じことを考えておった。この所、情鬼が各地で現れては悪さをしておる。故に、鞍馬山の天狗達も各地で対応に当たっておる」

「なるほど。俺の他にも天狗使いは存在するということか」

「うむ。もっとも、今では数える程の天狗使いしか居らぬ。古き時代には随分と大勢の天狗使いが居ったのだがな。これも時代の流れという奴であろうか?」

「感慨に耽っている場合ではない。素性の判らない黒幕よりも、今は輝のことが先決だ」

 息巻く俺を、クロは相変わらず涼やかな眼差しで見つめるばかりであった。

(ああ、判っているさ。手掛かりも無いのに、どうやって追い詰めれば良いかなんて、俺にも判らない。当然、打つ手も無い……)

「焦っても仕方が無い。悔しいが静観し続けるしか無さそうだな」

「済まぬな、コタよ。我もまた駆け出しの身に過ぎぬ。戦経験豊富な先人達には遠く及ばぬでな」

「そう、気を落とすな。言っただろう? 俺達で力を合わせて解決していこうと」

「うむ。そうであったな。気落ちしておる場合では無かったの」

 一瞬、哀しげな表情を浮かべていたが、俺の言葉で再び勢いを取り戻した様に思える。やはり、クロはこうで無ければいけない。傲慢なまでに自信過剰に振舞ってくれている方が、余程お前らしい。そんなことを考えながら、俺はクロの表情を見つめていた。

 その時であった。クロの背後に何かが落下してくるのが見えた。一体、何が落下してきたのだろうか? 俺の視線に気付いたのか、クロも静かに振り返ろうとする。

「きゃあ! な、何これ!?」

「か、カラスの死体だ……」

 道行く人々が足を止め、ざわめく様子が聞こえてきた。カラスの死体……。不穏な言葉に嫌な予感を覚えた俺は、野次馬共を跳ね除けながら駆け込んだ。

「こ、これは……!」

 見るも無残な姿であった。見覚えのある顔立ちから察するに、お東さんで俺達に情報提供してくれたカラスなのであろう。全身を鋭利な刃物で切り刻まれたかの様な無残な姿となっていた。さらに異様なことに、血で描かれたかの様な文字を刻んだ和紙が、異様に長い待ち針で留められていた。恐らく針は体を貫通していることだろう。衝撃的な光景に、クロが息を呑むのが聞こえた。

「酷いことをする!」

 俺はカラスに歩み寄り、突き刺さっている長い針を抜いた。まだ体温の残るカラスに残された傷跡から、ドロっとした血の塊が湧き出した。温かな血の感触を感じながら、俺は言葉に出来ない哀しみを抱いていた。

 道往く人達が俺を奇異な目で見つめる。カラスの死体に臆することもなく触れた俺は、さぞかし、異常な存在に映っていることだろう。その猟奇的な光景に、聞こえよがしに悪態をつく声も在った。俺は怯むことなくカラスの体に括り付けられていた和紙を広げてみた。そこには大きく文字が刻み込まれていた。

「……ふざけた真似を!」

 俺の中では怒りの炎が一気に噴き上がろうとしていた。そこに刻まれていたのは、紛れも無く『輝』の名であった。これは俺達に対する宣戦布告以外の何者でも無かった。

「クロ、相手は既に輝と接触している!」

「うむ、その様子であるな」

 既にクロは何時もと変わらぬ冷静さを取り戻していた。非情とも言えるほどの切り替えの早さに、俺は動揺を隠し切れなかった。だが、クロは腕組みしたまま静かに微笑んで見せた。ゾっとする程に鋭い怒りに満ちあふれた笑みだった。

「ふふ、我らも随分と愚弄されたものよの。それも、我が同胞を手に掛けるとは……断じて、許す訳にはゆかぬ」

「クロ……」

「何、コタよ……焦らずとも良い。久方ぶりに我をここまで怒らせたのだ。例え、その罪を認めたとしても、我が断じて許さぬ! 五体を切り刻み、彼岸の地へと、その亡骸を投げ捨ててくれようでは無いか!」

 クロは仲間を本当に大事にする奴だ。その一面は俺と良く似ている。同胞を殺められて平常心を保てという方が無理があると言えるだろう。物静かに振舞ってはいたが、滲み出てくる凄まじい殺気に俺まで焼き尽くされそうだった。

「ああ。断じて許すことは出来ないさ」

 怒りに体中が震えあがる感覚を覚えていた。だが、その前に為すべきことがある。俺達のために犠牲になってしまった仲間のために、俺にも出来ることがあるのだから。

「クロ、このカラスを弔ってやりたいのだが」

 無残に切り刻まれたカラスを俺はそっと抱き上げた。道往く人々が一段とざわめき出す。あまりの騒ぎに通り掛った警察官が何事かと立ち止まる。

「道を開けろ……」

 だが、俺は相手にするつもりは無かった。迂闊に口を開けば、俺はこいつらを呪い殺さんばかりの罵詈雑言を放つことになるだろう。

「道を開けろと言っているっ!」

 怒りに身を震わせていた相手は、情鬼だけでは無い。野次馬根性丸出しに俺達を好奇の眼差しで見つめていた、こいつらにも罪は背負わせるさ。

(このカラスは、こんな馬鹿な奴らのために身を挺したのだ。輝に及んだ危害は、お前達に及ばないとも限らないのにな)

 このカラスは立派に使命を果たしてくれた。何の見返りも求めずに、ただ、仲間のために殉じたのだ。それに引き換え、この役立たずな野次馬共は一体何をしてくれた!? 志半ばで死んでいったカラスを弔うでも無く、感謝の言葉を添えるでも無く、ただ一言「気持ち悪い」等と罵詈雑言を口にしやがった。ああ、お前達に言葉を贈ってやろう。

「下らぬ野次馬共よ、針に貫かれて死ぬのが、お前達ならば良かったのにな!」

  俺の叫びに野次馬共がざわめき出す。さも、汚い物を見るかの様に振舞っていた薄汚い中年女。口をモゴモゴさせながら何かを呟いていたボケ老人。ただ動揺するばかりの無能な警官。皆まとめて地獄へ堕ちるが良い!

(悪いな、カラスよ……俺はお前の様に立派には生きられそうに無い。こんな腐った奴ら、まとめて始末してやりたい気分だ。だが、俺達のために殉じてくれたお前への感謝の気持ちを優先させよう……)

 青に変わった信号を渡り、俺達は鴨川の川辺に移動した。こんな賑やかな場所に埋葬するしか無いのは心苦しいが、放って置いて野良猫に喰われてしまうのも哀しく思えた。

「クロ、ここら辺で良いか?」

「うむ。手を汚させてしまって済まぬな」

 確かに、俺の手は血塗れだった。温かな血の感触ではあったが、不思議と気分の悪さは無かった。

「なに、気にするな。俺から、このカラスへの感謝の気持ちだと受け取ってくれ」

「有り難き言葉よ。我が同胞への良き餞と成る」

 クロは俺に小さく一礼をすると、静かに手を組んだ。

「さて、それでは始めるとしよう」

 そのまま静かに目を伏せる、真言を唱え始めた。俺もクロに教わり、共に真言を唱えさせて貰うことにした。クロと違い、不慣れな素人が紡ぐ真言に、どれだけの効力があるのかは判らなかったが、何もしないでいるのも辛かった。このカラスのために、俺も少しでも祈りを捧げたかった。

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!」

 不動明王の真言が辺り一面に染み渡ってゆく。鴨川の畔に築き上げられた浮世離れした川床からは、人々の賑やかな笑い声が聞こえてくるばかりであった。何とも対照的な構図だ。

(どいつも、こいつも、呑気なものだな。お前達の様な馬鹿が窮地に陥っても、俺は絶対に手を差し伸べないから、そのつもりでいろ! 愚物は情鬼共々、地の果てに堕ちるべきだ)

 ゆっくりと真言が周囲に響き渡る。不意にカラスの体から微かな煙が立ち上ったかと思った、次の瞬間、一気に噴き上げる火柱と化した。俺はただ、その炎に包まれて焼かれてゆくカラスを見届けることしか出来なかった。黒い煙をあげながら、カラスは次第に原型を失ってゆく。やがて、クロが真言を唱え終わる頃には、もはや、黒く煤けた消し炭と化していた。

「友よ……何処かでお前と再会出来る日を楽しみにしている」

 俺は微かに目に涙を称えていた。そっと、クロに肩を抱かれ、俺は思わずクロにもたれ掛かった。俺の頭を撫でながら、クロが穏やかな笑みを見せた。

「自然にそうした言葉が出てくる。やはり、お主は我の見込んだ者だけあるな」

「からかうな。ただ、短い時とは言え、共に歩んだ同胞だ。クロの友ならば、同時に俺の友でもあるのだからな」

「ふむ。我が同胞に代わり、我からも礼を告げさせて貰おう。コタよ、お主の心遣いに感謝する」

 結局、情鬼の手掛かりを掴むことは出来なかった。だが、情鬼は確かな証拠を残していった。この血で描かれた和紙。少なからず情鬼が触れたものであろう。容易く追うことは出来ないかも知れないが、解決の糸口には繋がるはずだ。それに、執念に燃えるクロのことだ。必ずや、何らかの手段で情鬼の足取りを掴むことだろう。俺達はただ静かに、鈍色の空と、風に乗って蛍の様に天に上ってゆくカラスの魂を見つめていた。

◆◆◆18◆◆◆

 ぼく達は中書島で乗り換えて宇治へ向かうべく列車に乗り換えた。相変わらず車両には誰も乗り合わせていない。何だか不思議な情景だったけれど、ぼくは今この瞬間を大事にしたかった。傍らには桃山先生がいてくれる。とても満たされている。温かな気持ちで一杯になれる。だから、誰にも邪魔されたくなかった。

「そろそろ電車が出そうね」

 発車を告げる音色が流れるのが耳に入った。

「うん、そうだね」

 何気ない会話が嬉しく思えた。

「フフ、それにしても……若い男の子とデートなんて、何が、ウキウキするわね。ほら、若い子から元気を分けて貰って若返るって話、あるじゃない? アレって案外本当だったりするのかも知れないわね」

(わ、若い子から元気を分けて貰うって……)

 相変わらず、桃山先生はどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、皆目検討がつかないから恐ろしく思える。人はこういう振る舞いを「魔性」と呼ぶのだろう。お陰でぼくはずっと紅潮しっ放しだった。横目で、ちらりと桃山先生の表情を見てみれば、相変わらず楽しそうに微笑むばかりであった。こうして隣に並んでみて気付いたことがあった。

(……桃山先生、良い香りだなぁ。香水? それとも、さっきの匂い袋? それだけじゃ無い気がする。でも、良い香りだなぁ)

 やがて、列車がゆっくり動き出す。窓の外はすっかり暗くなっている。ゆっくりと、ゆっくりと動く列車。それに連れて流れてゆく車窓。窓に映るぼく達の姿。外は暗く、鏡の様にぼく達の姿を映していた。ゆらゆらと揺れ動く光景。不意に、強い睡魔に襲われようとしていた。

(あ、アレ? 何か、急に……眠くなってきちゃった……)

「あら? 輝君、眠くなっちゃったのかしら?」

「え? う、うん……でも、大丈夫……」

「無理しなくても大丈夫よ。駅に着いたら起こしてあげるから」

「で、でも……」

 必死で抗おうとした。でも、「大丈夫だよ」。そう言い終ることは無かった。凄まじい睡魔に襲われたぼくは、抗うことも出来ずに、一気に落ちてしまった。意図的に眠らされたような不思議な感覚だった。一体、何が起こったのか理解することも出来ないままに、ぼくは眠りに落ちてゆくのが判った。不思議な感覚だった。自分が眠りに落ちてゆく様を、こんなにも冷静に見届けたのは始めての体験だった。

◆◆◆19◆◆◆

「あのオジちゃん、もうじき死んじゃうよ」

「ちょ、ちょっと! 輝、何てことを言うの!」

「本当だよ。ぼく、嘘付いていないもん」

 このやり取りには覚えがある……随分と昔の記憶だ。幼い頃から、ぼくには忌まわしい能力が宿ってしまっていた。特に幼い頃は、自分の能力を制御することもままならず、その上、見た物そのままに口にしてしまったため、トラブルが絶え無かった。

 ぼくが指差して言葉を発したのは、隣の家に住んでいる子供好きのおじさんだった。幼い頃のぼくのことを良く可愛がってくれたおじさんだった。唐突なぼくの言葉にも、おじさんは取り乱すことも無く、可笑しそうに笑うばかりだった。

(信じて無かったんだろうな。所詮は、小さな子供の発した言葉。大して意味も無いと思っていたのだと思う)

 でも、おじさんはそれから二日後に亡くなった。不慮の事故だった。仕事先へと向かう車の中で、突然の発作が起こったらしい。それが引き金となっての高速道路での玉突き事故。結果、おじさんを含めて五人が亡くなる大惨事になったらしい。ニュースでも大々的に報じられていた。後から知ったのだけど、おじさんは心臓に大きな持病を持っていた。その持病が突然牙を剥いたらしい。

 母も周囲の人々も、怪訝そうな表情でぼくを見つめていた。これが、ぼくが最初に予見した死だった。その後も、ぼくは突然に出会う人を指差しては死を予見することがあった。知り合いだろうと、見知らぬ人だろうと、誰彼構わず予見してしまった。抑え切れなかった。ぼく自身の持つ忌まわしい力を。そして、ぼくが予見した人は例外無く死んだ。少なくても見知らぬ人に限っては、どうなったかは定かではない。でも、恐らくは同じ運命を辿ってしまったことだろう。

 何時しか周囲の人々はぼくを気味悪がり、誰も近寄らなくなっていった。実の両親さえも、ぼくの存在を薄気味悪がるようになった。手遅れになっていたのは判っていた。でも、それでも幼いぼくは必死で知恵を絞った。

(そうだよ。例え悲惨な結末が見えてしまったとしても、何も口に出さないようにしておこう……)

 所詮、小さな子供の浅知恵に過ぎなかった。口には出さなくても、ぼくは幼い頃から考えていることが、すぐに表情に出てしまうクセがあった。そのお陰で、どうしても死期が迫った人を見てしまうと、あからさまに目線を逸らしてしまったりした。だから、結局のところ、あまり意味を為さなかった。

 そんな、ある日のことだった。ぼくに弟が生まれるという話を母から聞かされた。

「輝、お前はお兄ちゃんになるのよ?」

「お兄ちゃんに?」

「そうよ。弟が生まれるの。だから、シッカリしないとね」

 この頃の母は、ぼくの不可思議な振る舞いに振り回されて少々疲れてはいただろうけれど、一番充実した時期を過ごしていたことだろう。家庭内は明るく、家族も仲は良かった。

 昔の話になってしまうけれど、当時のぼくは少なくても優等生だった。幼稚園に通っていた時代のぼくは、あまり目立つ子供では無かったけれど、手の掛からない子供だったらしい。良く、一人で「見えないお友達」と遊んでいたりと、奇怪な行動を取ることも少なく無かったらしいけれど、それを覗けば扱いやすい子供だったらしい。今思えば、泣いたり、笑ったりといった喜怒哀楽に乏しい子供だった気がする。

 だけど、ぼくは母の姿を見るのが恐ろしくて仕方が無かった。見えてはいけない映像が見えてしまった。どんなに、その映像を訂正しようと試みても、映像が変わることは無かった。

 それは酷い惨劇の映像だった。映像の中で母は洗濯物を干していた。ぼくは遠くからその様子を眺めている。良く晴れた、夏の暑い日のことだった。洗濯物を干していると、不意に、お届け物がくる。

「御免下さーい」

「はーい」

 母は急ぎ、ベランダから階段を駆け降りようとしていた。一体、何が届いたのかは判らないけれど、随分と嬉しそうに駆け出していた。何か大切なものが届けられたのだろう。だけど、惨劇はこの直後に起こってしまう。

 既にお腹の大きくなっていた母は、動き回るにしても難儀な状況だった。階段の昇り降りは特に気を配っていた。それにも関わらずに、母は階段から勢い良く足を踏み外した。

「え? ああっ!? きゃあああーーーーーっ!」

 何度も、何度も、大きなお腹を階段に打ち付けてしまった。

「きゃあ! 嫌っ! 痛いっ! 痛いっ! ああっ! ふぐぅっ! ぐぇっ!」

 階段という物は、同時に突起物にもなる。転落した衝撃、階段の突起部分に衝突した衝撃、床に打ち付けられた衝撃……。お腹の中の弟が無事だった訳が無い。

「ああ……ああっ。痛い……痛い、お腹が……痛いっ!」

 階段から転落した母はうずくまり、小さく唸り続ける。

「後白河さん? 大丈夫ですか……って、えぇっ! だ、大丈夫ですか!? ああ……ああっ! 誰か! 誰か! 救急車を! 救急車を呼んでくださいっ!」

 その様子に気付いたのか、郵便配達に来たお兄さんが慌てて駆け寄る。足元からじわじわと広がる血。

(もう、見ていられなかった。幼き日のぼくには、この光景は恐怖以外の何者でも無かった。ただ、ひたすらに恐ろしくて仕方が無かった……)

 大急ぎで救急車が駆け付けた。だけど、恐らく、弟は既に母のお腹の中で絶命していたのだと思う。助かる訳が無かったんだ……。見るも無残な、ただの肉の塊と成り果ててしまっていた。そして、映像の最後は……手術室で、母の中から引き摺り出された血塗れの塊と、それを目にし、割れんばかりの絶叫を挙げながら、激しく嘔吐する母の姿で締め括られた。

「い……いっ! いやああああーーーーーーっ! うぇええええーーーーっ!」

 耐えられる訳が無かった。こんな映像を、何度も、何度も、ぼくは見せられていたのだから。眠っている時、部屋に居る時、ぼくの置かれた状況に関係無く映像は再生され続けた。

「輝、おやつ食べないの?」

「ひぃっ!」

 幼い子供らしからぬ振る舞いだった。ただ、自分が見た壮絶な光景を悟られてはいけないと、必死になっていた。だから、ぼくは家で過ごす間は殆ど口も聞かず、部屋で呆然としていることが多かった。そんなぼくを母は心配してくれたのだろう。母のことだ。幼稚園でぼくがいじめられているとでも勘違いしたのだろう。

(そんなこと、ある訳無いのにね。第一、ぼくをいじめようなんて勇気のある奴がいる訳が無かった。そんなことをすれば、すぐにコタが飛んできて、殴り飛ばしていただろうから)

 母も馬鹿では無い。ぼくの異様なまでの驚き方に、違和感を覚えない訳が無かった。

「輝、もしかして……また、誰かが亡くなるのが見えてしまったの?」

「ち、違う! 絶対違う! ぼく、ぼく、何も知らないし、何も見ていないよ!」

 異様なまでの取り乱し方だった。ホントに馬鹿だと思う。他人の死を涼やかな顔で予見する奴が、こんなにも激しく取り乱している。ましてや、四六時中ぼくと一緒に過ごす母に、その意味が判らない訳が無かった。

「も、もしかして……家族の誰かが亡くなるのが見えてしまったの?」

「違うよ! 違うんだ! ただ、ただ、怖い夢を見ただけなんだ!」

「怖い夢? 一体どんな夢を見たの!?」

 段々と母の口調が厳しくなってくる。それまで見せたことも無かった様な怖い顔で迫ってくる。ついつい、ぼくは母の腹部に目が行ってしまった。何しろ、母の腹部からは懇々と湧き水の様に、温かな血が滴り落ちている様に見えたのだから。ぼくには、その光景が恐ろしくて堪らなかった。

「ひぃっ!」

「まさか……お父さんなの!? それとも、お母さんなの!?」

「知らない! 知らないよ! ぼく、何にも知らないよ!」

「良いから答えなさいっ!」

「あ……!」

 次の瞬間、ぼくの頬は鋭い痛みが駆け巡った。母がぼくに対して、初めて手を挙げた瞬間だった。余りのことに、ぼくはその場に崩れ落ちると、言葉を失ってしまった。蝉の鳴き声だけが響き渡っていた。ワシャワシャワシャワシャ。クマゼミの特徴ある鳴き声だったと、妙に鮮明に記憶している。

(放心状態って言うんだよね。こういう状況。もう、ぼくはヒューズが飛んだ電化製品状態だった)

 だけど、母の詰問は終わることは無かった。夏の日の静かな午後。涼やかな風が風鈴を鳴らし、相変わらず蝉の鳴き声だけが響き渡る。透き通るような青空の下、その光景には似つかわしく無い惨劇が繰り広げられていた。

「良いから、さっさと言いなさい! 早く言わないと、もう一発打つわよ!」

「うわあああああーーーん!」

 もう、ぼくはどうして良いのか判らずに、ただただ、泣くことしか出来なかった。大好きだった母に打たれたこと。その痛み、その哀しみ……言葉に出来なかった。だけど、初めて手を挙げたことで、母の中でも何かが吹っ飛んでしまったのかも知れない。恐らくそれは、ずっと、ずっと、溜め続けた思いだったのだろう。限界水位を超えた河川が、氾濫した瞬間と良く似た状況だったと思う。

「大体、お前は薄気味悪いのよ! 人の死が見えるですって!? そんなことが、ある訳無いでしょう!」

 母は叫びながら、喚きながら、何度も、何度も、ぼくの頬を殴り続けた。

「文明の発達した! 今のこの時代に! そんな、非科学的な話が! ある訳無いでしょうっ!」

 蝉の声に紛れて響き渡る、頬を打たれる音。母の怒号。それから、ぼくの鳴き声。異様な光景だった。空は抜ける様に青く、透き通り、蝉達は命を燃やして鳴き続けていた。ぼくはただ、火が付いた様に泣き続けていた。その声に逆上した母は、尚も激高し続けた。

「はぁ、はぁ……強情な子ね! これでも白状しないつもり!?」

 この時、既に母は気が狂っていた。無理も無かったのかも知れない……。ずっと、後から知ったことだけど、ぼくの予見のお陰で、母は半ば村八分状態になっていたらしい。弟の出産に臨むために産休を取っている母に取っては、この家だけが自分が存在出来る唯一の場所だった。唯一の安住の地に居ても、近隣住民の嫌がらせを受け続けていた。心無い誹謗中傷のビラを貼られるのは日常茶飯事だった。無言電話は昼夜問わず続き、すっかり衰弱し切っていたのだと思う。

(全部、ぼくのせいなんだ……ぼくが、こんな忌まわしい力を持ってしまったから……)

 チリーン。風鈴が涼やかな音色を奏でる。母は何を思ったか裁縫道具を持ってきた。ぼくには、母が何を考えているのか判らずに、だからこそ、余計に恐怖心を煽られていた。

「言いたくないなら黙っているが良いわ。その代わり、二度と! 可笑しなことを喋れない様に、その口を封鎖するだけよ! さぁ、輝、観念しなさい。お前はもう逃げられないのだから……」

 次の瞬間だった。ぼくのくちびるに縫い針が突き刺された。

「きゃああああーーーーーっ!」

 凄まじい痛みに、ぼくは気が狂った様に泣き叫んだ。さすがに近所の人達も異変に気付いたのか、玄関先が騒がしくなる。

「後白河さん、何があったんです!? 上がらせて貰いますわ!」

 この惨状を目の当たりにしたコタのお母さんは、恐らく、気を失いそうになったことだろう。

「ひ、ひぃっ!」

 髪を振り乱しながらぼくを抑え付ける母。糸の付いた縫い針を突き刺している母。口元からは酷く血を垂れ流し、林檎の様に真っ赤に腫れ上がったぼくの顔……。火が付いた様に泣き続けていたぼくの姿。まともな光景の訳が無い。さすがに気丈なコタのお母さんも、この時ばかりは割れんばかりの悲鳴を挙げていた。

「ひ、輝ちゃん!? い、一体、何がどうなってはりますのっ!?」

 その悲鳴に、ようやく母は我に返った。だけど時既に遅し。近所中の人々が、一体何事かと玄関先に訪れていた。中には威勢良く部屋の中まで駆け込んできた人もいた。

「輝ーーっ! 輝ーーっ!」

「小太郎! お前は来たらあきまへんっ!」

「いや、あの……これは……違うんです! 私は、何も、悪く無いんです!」

「ひ、輝ちゃん! く、口から血が!? 一体、何がどうなってはりますの!? し、しかも、それ、縫い針や無いですか!?」

 この時、ぼくの口から隠し通そうとしていた言葉が飛び出してしまった……。まるで、この時を待ち侘びていたかの様に。より多くの人達に証人になって貰うことを望んでいたのでは無いかと思える状況だった。

 照り付ける昼下がりのこと。真夏の暑い日のこと。辺り一面から響き渡る蝉達の鳴き声。クマゼミのワシャワシャという独特な鳴き声が響き渡る、蒸し暑い日のこと。空に広がる大きな入道雲。電信柱。送電線。ありふれた日常の中に、突然口を開けた魔物の叫び。

「弟は……暁は生まれてこないよ……」

「お、お前! 何で、弟の名前を……知って居るの!?」

 そう。ぼくは生まれてくる弟のために用意された名前を知るハズが無かった。何よりも、幼稚園児に過ぎないぼくに『暁』なんて、難しい漢字は書ける訳が無い。ぼくはわざわざ、紙と鉛筆を手に、弟の名を漢字で綴って見せた。居合わせた皆の顔色がみるみる青ざめてゆく。あまりにも信憑性のある言葉だったから。

「ひ、輝ちゃん? い、今のは……どういう意味なのかしら?」

 コタのお母さんは、強張る表情を必死で抑えながら、あくまでも、優しく問い質した。ぼくは夢に見た情景の全てを語って聞かせた。知ってしまえば回避出来るのでは無いかと思ったのだ。だから、克明に状況の全てを語って聞かせた。母は今にも倒れそうだった。

「は、治子さん、輝ちゃんの言葉が現実の物にならひん様、振舞えば良いと違いますのん?」

「そ、そうですよ。お洗濯物を干す時に注意する。出来れば……お庭に物干し竿用意するとか、すれば、予見された未来は回避出来ますよ? ね? ね? 皆さん、そうですよね?」

「だ、大丈夫ですって。せやから、そない気落ちせんといて下さいやー」

 皆、必死で母を励まそうとしてくれていた。不思議なものだった。あんなに、母のことを忌み嫌っていた人達が、心優しく接してくれている。ぼくは嬉しかった。新しく生まれてくる命に罪は無い。そう思って貰えたならば、ぼくの能力も意味はあったと思う。でも、現実というのは本当に判らないものだ。この後、ぼくは、ぼくの持つ能力の本当の恐ろしさを知らされた。その残酷過ぎる能力の、桁違いなまでに恐ろしい威力を……。

 その日の内に近所の方に手伝って貰い、庭に物干し竿を移動した。以後、洗濯物は庭で干すようになった。布団も一階に運び込み、階段の昇り降りの必要を無くした。少なくてもこれで、階段を踏み外すという惨劇は逃れられるだろう。誰もがそう安心していた。だけど、その日は訪れてしまった……。

 それは、ぼくが予見した日から二週間程過ぎた日のことだった。母は何時もの様に夕食の買出しに出掛けていた。当然、ぼくの予見のこともあったから、母は何時も以上に慎重に行動するようになっていた。

 その日は夕方頃から急に天気が崩れ始めた。夏も終わりに近付いているというのに、異様に蒸し暑い日だった。家で留守番をしていたぼくは、何か、言葉に出来ない、嫌な胸騒ぎを覚えていた。家で何時もの様に絵を描いていると、唐突に、脳裏に映像が浮かんできた。

(え!? 何で!? 物干し竿も、お布団も、持ってきたのに、どうして!?)

 信じられない光景だった。突然降り出した雨に、荷物を両手に抱えた母は急いで走っていた。出掛けた時には、夕焼け空が広がる綺麗な空模様だったから、傘は持っていかなかったのだろう。突然降り出した雨に焦り、走る様が見えた。雨に濡れてしまうからと、急ぎ、走っている母の姿が見えた。道往く人々もまた、突然の雨に焦り、急いでいる様に見えた。不意に、母の背後から自転車が速度を上げて走り込んでくる。服装の感じから、どこかの中学生達の様に見えた。歩道なのにも関わらず、随分な速度で走っている。しかも友人同士でお喋りに夢中になっているらしく、運転が覚束ない。母は四条堀川の大きな交差点で信号待ちをしている所だった。

(ま、まさか!)

 背後から自転車に激突された母。小さな悲鳴を挙げて道路に放り出される。響き渡る急ブレーキの音。母の悲鳴。それは本当に一瞬の出来事だった。手にした袋を放り出し、うつ伏せに倒れた母はピクリとも動かない。倒れた母の太ももの辺りから、じわじわと血が広がってゆく。突然の出来事に驚き、逃げ惑う中学生達。通行中の若い女性が悲鳴を挙げる。事故に気付き駆け込む警察官。捕えられる中学生達。必死で無実を叫ぶ中学生達。そのまま連行される中学生達。集まる野次馬。倒れた母はピクリとも動かない。血の海だけがジワジワと広がってゆく。

「まぁ、どうしたのかしら?」

「事故ですって」

「まぁ、怖いわねー」

「あの人、大丈夫かしら? あらあら、凄い血ね」

「何でも、妊婦だったらしいぜ?」

「うわっ、マジかよ? じゃあ、腹ん中のガキもグチャグチャだな」

「おい、止めろよ。飯、食えなくなるじゃねぇかよ」

 四条堀川の大きな交差点は、あふれ返る人々でパニック状態に陥っていた。中には携帯片手にシャメを写す者の姿もあった。

「そこ! 不謹慎でしょう! 止めなさい!」

「うるせぇなー。ブログのネタに使うんだよ!」

「これ、すっごいスクープよ! さっそくネットに公開しなくちゃー!」

「こら! そこの女子高生も! 何を考えているっ!?」

 警察官に咎められ、此処でも揉め事が始まる。最悪の情景だった……。

「あ……ああ……う、ウソだよね? どうして……どうしてこんなことに……」

 放心状態になったまま、ぼくは茫然とすることしか出来なかった。息をすることさえ忘れてしまう程に動揺していた。不意に、玄関先に誰かが駆け込む足音が聞こえた。ガラガラと引き戸を開ける音が響き渡る。

 次の瞬間、ぼくの目の前に母が血相を変えて飛び込んできた。ぼくは何が何だか判らなくなっていた。目の前にいるのは母の亡霊か? 恐怖のあまり、心臓が止まり掛けた所で、母から事情を聞かされた。見知らぬ女性が病院に搬送されたと。一体、どういうことなのだろう? ぼくが見た予見が外れたのかどうなのかは定かでは無かったけれど、母は無事だった。戸惑うぼくを後目に、母は何事も無かったかの様に台所に向かった。そのまま、何時もの様に夕食の支度を初めた。忙しそうに駆け回る姿を見ながら、ぼくは密かに安堵していた。予見が外れた。犠牲になった人のことなんか、どうでも良かった。予見が外れた。そう解釈していた。何よりも、あの忌まわしい能力からも、きっと解放されるに違いない。そう考えると、嬉しくて仕方が無かった。そう……ぼくが助かるのであれば、見知らぬ他人が何人死のうが、どうなろうが、そんなことはどうでも良かった。最低な奴だと非難されるかも知れないけれど、それは偽らざる本心だったのだから。

 でも、結局、暁は助からなかった……。不届きな考えを抱いたぼくに対する、戒めだったのだろうか? いずれにしても、ぼくの見た光景は、どんなに抗おうとしても必ず現実のものとなる。その忌まわしい事実を明確に裏付けるだけだった。

 見知らぬ女性が事故に遭ったその日の晩、母は病院に搬送された。夜中に突然、苦しみ出したらしい。そして、そのまま暁は産まれた。見た目は、本当に綺麗な姿をしていた。だからこそ、お医者様も最初は驚いたらしい。稀に、産まれた瞬間に泣かない赤子はいるらしい。でも、根本的に違っていた。暁は呼吸をしていなかった。心臓は時を刻まなかった。つまり、既に、お腹の中に居た時に死んでいたということにらしい。死因は全く以て不明。どうして、こんなことになってしまったのか、誰にも判らない。響き渡ったのは、あの人が放った高笑いだけだった。きっと、心が壊れてしまったのだと思う。

「やっと、産まれてきてくれたのね、暁。ほら、輝、お前の弟だよ? あーっはっはっはっは! やっと産まれてきてくれたのねー! まぁ、こんなに可愛い顔して。あーっはっはっはっは!」

 そして、母はぼくを憎むようになった。何もかも、ぼくが招いた結果なのだと信じて疑わなくなった……。あの日、ぼくの家からは一切の希望が消え失せた。全ての明かりが消えた。もう、二度と明かりは灯らないだろう。

◆◆◆20◆◆◆

 不意に意識が戻って来ようとしていた。ふと、目が覚めた時、目の前に桃山先生の顔があった。

「うわっ! び、ビックリした……。も、桃山先生、何しているの!?」

「うーん、ほら? 童話の世界だと、永遠の眠りに就いた蛙の王子様を、お姫様がキスして起こすでしょう? 同じこと、通用するかなーって思って」

「えぇっ!? え、えっと……そういう末恐ろしい実験を、ぼくで試すのはどうかと思うのだけど……」

「あら? 嫌だった?」

「……桃山先生、ぼくみたいに純情可憐な男の子を弄んで楽しい?」

「ええ。とても楽しいわね」

(やっぱり、桃山先生は色んな意味で恐ろしい……)

 馬鹿みたいなやり取りをしながらも、ぼくは過去の情景を振り返っていた。

(嫌な記憶が蘇ったものだ。本当に、この忌まわしい能力をどうにか出来ないのだろうか? こんな能力、ぼくを不幸にするだけだと言うのに……)

「ねぇ、輝君? そろそろ到着するみたいよ。さ、忘れ物は無いかしら?」

「うん、大丈夫だと思う」

 まもなく宇治に到着する。何か、ぼくの想像を遥かに超える出来事が起こりそうな気がしていた。それが良い出来事なのか、悪い出来事なのか、そこまでは見えなかったけれど、微かにぼくの行く末が見えた様な気がしていた。車窓から覗く風景は何時の間にか深い霧に包まれていた。遠くに見える信号も霞んで見えた。深い霧の中、信号が黄色から赤に変わるのが見えた。

◆◆◆21◆◆◆

 カラスを弔った後で、俺はクロと共に先斗町周辺を調査していた。先斗町の細い通りを歩いていると、唐突に太助から電話が掛かってきた。勘の鋭い太助のことだ。既に神隠し事件のことも知っているのだろう。それならば、情報共有をして置いた方が懸命だ。今後、皆の協力を仰がないとも限らないのだから。

 俺はクロに手短に太助からの電話の内容を説明し、それぞれの目的地へと向かうことにした。此処からは単独行動になる。互いに注意を払いながら行動する必要がある。

「コタよ、皆にも注意喚起を呼び掛けるが良い」

「ああ。しっかりと事態に関しては説明してくるつもりだ」

「うむ。我は一度鞍馬山に戻り、他のカラス天狗達からの情報収集を進めよう」

「互いに収穫があると良いな」

「うむ」

 クロは鞍馬山に戻り、俺は地下鉄に揺られながら太助の家を目指していた。三条まで徒歩で移動し、そこから東西線に乗った。もうじき醍醐の駅に到着する。

 少なからず情鬼には俺達の存在は捉えられている筈。そう考えれば、何時狙われても可笑しくはない。あるいは、カラス天狗の助力無き天狗使いに狙いを定めるというのは、策としては有効な筈だ。俺自身が狙われないとも限らない。そう考えると、危険を伴う行為ではあったが、何も行動しなければ何も得られるものも無い。危険は承知の上での行動だ。

 やがて列車は醍醐の駅に到着する。列車から降りた俺は、そのまま改札を抜けて地上へと続く道を歩んでいた。夕暮れ時も過ぎ去った駅は人通りもまばらで静まり返っていた。広大な敷地を誇るショッピングセンター、アル・プラザを後にして、俺は醍醐寺を目指して歩んでいた。陽の落ちた街並みは暗闇に包まれていて、不気味なまでに静まり返っていた。大通りを往来する車の音だけが虚しく響き渡っていた。

 この辺りは四条周辺とは異なり、住宅街としての様相を呈している。大規模な団地が立ち並び、多くの人々が住んでいるであろう様子が窺える。丁度、買い物を終えて帰ろうとする子供連れの主婦の姿が目に留まった。自転車にまたがりながら、幼い我が子と語らう母親の姿が印象的に思えた。

「平和な街だ……。だからこそ、俺達が守り抜かなければならないな」

 改めて気合いを入れながら、俺は醍醐寺へと続く緩やかな坂道を歩み始めた。

 辺りは静寂と漆黒の闇夜に包まれていた。俺が歩む足音だけが響き渡る。どれだけ歩き続けただろうか? やがて俺の行く先には、醍醐寺の広大な木々の群れが見えてくる。太助の家はもう間近だ。

「既に皆は集まっているのだろうか? 馬鹿騒ぎして、お婆さんを困らせて無ければ良いが」

 思わず笑いが毀れてしまう。力丸、大地が訪れているのを考えれば、馬鹿騒ぎをしていない訳が無い。

「さて、俺もその馬鹿騒ぎの輪に加えて貰うか」

 程なくして辿り着いた太助の家。俺は呼び鈴を鳴らした。

 太助の家は大きな日本家屋。歴史を感じさせる家だが、どっしりとした重厚感を称えている。この広い家に、太助は祖母と二人で暮らしている。太助の祖父は数年前に他界している。やはり、これだけ広い家に二人きりでは寂しくもなるのだろう。こうして、俺達を呼び付けては、皆で騒ぐことも少なくない。俺達のたまり場の一つと化しているのは否めないが、世話好きの太助のお婆さんにはむしろ喜ばれているらしい。

 不意に玄関の戸が開いた。ガラガラガラという古めかしい音を耳にすると、帰ってきたという気持ちになれるから不思議だ。

「あら? 小太郎ちゃん。いらっしゃい。ささ、どうぞ、お上がりやす」

「お邪魔します」

 太助とは似ても似つかぬ、穏やかな表情のお婆さん。菩薩様の笑顔を持つ者との呼び名も誇張表現ではあるまい。予想通り、居間からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。

「ようやく到着したか。待ち侘びたぞ」

 居間から顔だけ出して、太助が声を掛ける。

「良く言う。唐突に呼び出しておいて、ようやくも、何も無いだろう?」

 俺も靴を脱ぎながら返答する。相変わらず太助は飄々とした振る舞いを崩さない。

「それで、俺を呼び寄せた理由を聞かせて貰おうか? ただ、皆で馬鹿騒ぎをしようという趣旨でもあるまい?」

 部屋に入れば、何やら皆、妙に深刻な表情を浮かべていた。どうやら馬鹿騒ぎをしているのでは無さそうだ。それに……輝の姿が見えないことが、殊更に俺を不安にさせた。俺の顔を見るなり、大地が沈痛な面持ちで語り始めた。

「コタよ、数日前のことがあったからの。ワシは不安で、不安で、居ても経っても居られなくての。こうして皆の協力を仰いだのじゃ」

 なるほど。大地らしい物の考え方だ。確かに、一人で考え込んでいても解決には至らない。速やかに情報展開を行い、皆の協力を仰ぐ。適切な判断だ。

「テルテルにも電話したのじゃが、何度電話しても繋がらんでのう……」

「もう、既に怪しい女に遭遇した訳だろう? そう考えるとさ、万が一ってこともあるよなーって話になってな」

「力丸から話を聞かされてな。一連の神隠し事件は少なからず俺も知っている話だ。既に輝の身に何かが起きてしまった可能性もあると踏んでな。それで、小太郎にも来て貰った次第だ」

 なるほど。その話の流れで俺が呼ばれたという訳か。話が早くて助かる。既に皆、神隠し事件のことも、輝が遭遇したという不可解な女の存在も知っている訳か。だが、此処で俺は気になる話を聞かされた。

「着いて早々になるが、近所に『光』という名を持つ中学生がいる。だが、数日前から消息不明になっていてな」

「ワシの方も同じ様な話があるのじゃ。弟の大樹の友達に『晃』という子がおるのじゃが、やはり、一週間程前から行方不明での」

「うわさの通りだよな。神隠しに遭った奴らは、皆、『ひかる』という呼び名だってさ」

 身近な場所でも神隠し事件が起こっているのを目の当たりにすると、他人事には聞こえなくなる。やはり、情鬼は確実に迫って来ているという訳か。その上、輝がこの場に居ない。嫌な予感ばかりが先行してゆく。そんな俺の想いを察したのか、太助が俺に笑い掛けた。

「確かに、輝はこの場にいない。だからといって、即事件と結び付けるのは早計では無いか?」

「それもそうだな。それにしても……皆、俺よりも遥かに情報を収集しているな。あいにく、俺はそこまでの情報を収集仕切れてはいないのでな。実に有力な情報となった」

 だが、気に掛かることもある。先程の大地の言葉にもあったが、何故、輝に連絡が付かないのだろうか? 本当に神隠しに遭ってしまったのだろうか? ああ、駄目だ。此処で熱くなったら相手の思う壺だ。そんなことを考え込んでいると、不意に玄関先から重低音が響き渡った。その音を耳にした太助は、立ち上がると、急ぎ玄関先へと向かった。

「ふむ。もう一人のお客人が来た様子じゃの」

「そうみてぇだな。おお! ついでに、お婆ちゃんご自慢の料理も出来たみたいだぜ?」

 力丸が言い終わると同時くらいに、太助のお婆さんが食事を運んできた。

「暑い夜やから、涼しい素麺がよろしゅう思いましてね。ささ、天ぷらも用意したから、お上がりやす」

 素麺を食べながらの作戦会議というのも何とも締まりが無い気がしたが、だからと言って、日本酒片手にというのは、間違いなく、あらぬ方向へと突っ走る要因を招くだけに違いない。

「お! 悪ガキ共が雁首揃えて、悪巧みでもしていたのか?」

 賢一さんは相変わらず豪快な人だ。よっこいしょと、わざわざ口にしながら座ってみせるあたり、何ともお茶目な人である。

「賢兄、発言がオッサンだな……」

「何だとー? 京都一の男前捕まえて、オッサン呼ばわりするたぁ、ヒデェ野郎だ」

(な、何か……賢一さん、既に呑んでいたりしないだろうな?)

 賢一さんは不敵に笑いながら皆の表情を見渡してみせた。思わず、皆の間から言葉が失われる。何を企てているのかと、皆の間に妙な緊張が駆け抜ける。

「お? 今日は輝ちゃんはいねぇのか?」

 なおも賢一さんは不敵な笑みを崩さなかった。何かを知っている……そんな訳知り顔に、皆が固唾を呑んで次の言葉を待つ。

「それで、賢兄、その表情から察するに何か情報を掴んだ。そういうことか?」

「わはは、そんな訳あるかいな」

(おいっ!)

 恐らく満場一致でハリセンチョップをお見舞いしていたことだろう。だが、相変わらず賢一さんは訳知り顔を崩さない。皆の顔を見回しながら、なおも含み笑いを浮かべていた。

「神隠し事件だったっけ? 街を騒がせているみてぇだよなー」

 賢一さんは不敵な笑みを浮かべたまま、皆の顔を見回してみせる。

「今、この場に居ない輝ちゃんが神隠しに遭っていないとも限らない訳だよな。呼び名が『ひかる』という条件も満たしているからなぁ。それに……数日前には、島原で薄気味悪い女に遭遇したって話しだろう? 怪し過ぎだよなぁ」

 皆の間に戦慄が駆け巡る。

(賢一さんは相変わらず抜け目が無いな……。既にその情報を掴んでいるとはな。何か、もっと深い情報さえ知ってそうに思える)

「あらあら、お素麺伸びてはりますわー」

 太助のお婆さんが、相変わらずの菩薩の笑みを称えたまま顔を出す。その笑顔に、思わず皆で顔を見合わせた。

「そうだな。折角、用意してくれたのだから、先に夕食を頂こう」

 こうして俺達は夕食を頂くことにした。皆、言葉少なに食事を進めていた。後半戦は食事を終えてからにするとしよう。素麺を頂きながら、俺はそれまで得た情報を頭の中で整理していた。

◆◆◆22◆◆◆

 夕食を終えた俺達は再び情報を整理することにした。賢一さんの下には時折、メールが送られてくるらしくマメに確認していた。その都度にやにや笑いながらメールを見つめていた。

「ほぅ? こりゃあ、中々に興味深い情報が流れてきちゃったぜ」

 皆が真剣に議論を交わす中で、どこか浮いた素振りを見せる賢一さんの振る舞いが気に掛かって仕方が無かった。空気が読めない訳では無いことは良く判っている。だが、相変わらず、この人は底知れない人だ。太助以上に考えていることが読めない人だ。

「……皆の衆が絶賛捜索中の輝ちゃんの目撃情報があったぜ?」

「なんじゃと!?」

「おいおい、マジかよ!?」

 太助は苦々しい表情を崩さなかった。相変わらずの振る舞いとは言え、賢一さんの奇想天外な行動には悪戦苦闘していることだろう。

「何か、奇麗なお姉さんと一緒に歩いている所を目撃されたらしいぞ。薄気味悪い女では無いみたいだな」

「賢一さん、目撃された場所が何処かは判るか?」

 思わず俺は身を乗り出していた。賢一さんは相変わらず飄々とした含み笑いを浮かべながら、俺の顔をじっと覗き込んでみせた。

「場所は花見小路らしいぜ? 美人のお姉さんと二人きりでデートねぇ。へぇー、輝ちゃん、大人しい顔して意外とやるねぇ。ああ見えても中身は男の子なんだなぁ。お兄さん、ちょっと見直しちゃったぜ」

 輝が知っている相手で、髪の長い女だと? まさか……!

 真っ先に俺の頭の中に浮かんできた顔があった。それは、紛れも無く桃山の顔だった。他に思い当たる相手も居なかった。だが、そうなってくると新たな疑問が浮上する。何故、輝は桃山と? あの二人に接点の様なものは無さそうに思えるが?

「ううむ……。それにしても、おにーさんは、一体どこからそんな情報を入手してくるのじゃ?」

「ああ、俺かい? 大地ちゃんは好奇心旺盛だねぇ。今度、もっと面白ぇ情報も教えてやろうな」

 ふと隣を見れば、太助の眉間には保津峡を思わせるような深い皺が刻み込まれていた。思わず俺は後退りしてしまった。

「まぁ、アレだ。市内のあちこちに『草』を放っているからな」

(く、草って……あなたは何時代の人だ……)

「おいおい、賢一のアニキ、草って……発言がファンタジー過ぎじゃねぇか?」

「賢兄、胡散臭い性分だとは思っていたが、何時から忍者になったんだ……」

 情報の出所等々気になる部分は幾つもあったが、俺に取って最も重要なのは輝の身を守ることだ。情鬼が狙っているのは、やはり輝なのであろう。不意に、クロの言葉が脳裏に蘇る。

『誰かを媒介として、何らかの行動を起こそうとしているのであろう』

 理由は定かでは無いが、桃山が媒介となり情鬼と繋がる。こちらも理由は定かでは無いが、情鬼は輝を狙っている。考え方としては正しそうだ。

「ほう? 小太郎ちゃんってば、渋み走った大人の男の顔しちゃっていたけど、何か思い当たる節でもあるのかい?」

(一体、どんな顔をしているのだ、俺は……)

 賢一さんの言葉に体中の力が抜けた気がする……。

「け、賢兄……少し黙っていてくれ。さもなければ、本気で黙らせることになるが?」

「お! 武力行使か? 若者は血の気が多くていけないねぇ」

(そういう賢一さんも、まだ二十代だろうが)

「は、話をしても良いか?」

 賢一さんの妙なペースに呑まれない様に、俺は必死で自分を貫き続けた。頑張れ、俺!

 ついでに、良い機会だ。賢一さんにも情鬼の存在を知って貰った方が良さそうだ。少々人格に問題がありそうに思えるが、浮世離れした行動力や、警察組織を凌駕する情報収集力は、極めて大きな武器となる。是非とも協力を仰ぎたいところだ。

「情鬼ねぇ。ま、可笑しな事件が起こっているとは思ったけれど、さすがに人外の化け物相手じゃ、警察も太刀打ち出来ない訳だな。ほら、アレだろ? 数日前まで起こっていた、若い男達の凍死事件。アレも情鬼って奴らの仕業な訳だろ? あー、その前にもあった鞍馬での能面騒動も同じ様な理由に行き着く訳だ」

「そういうことになるな」

「いやいや、世の中、どーなっちまっているんだろうねぇ」

 相変わらず、この人の柔軟性には驚かされる。普通の人だったら、先ずは疑って掛かるだろう。そんな馬鹿な話あるものかとなる筈だ。だが、賢一さんは何の違和感も無く、俺の話を受け入れた。やはり、普通の人が体験しないような出来事と奇縁があるからなのであろう。

 俺は賢一さんに情鬼についての話を一通り聞かせた後で、桃山についての話を聞かせた。賢一さんが学校に在籍していた頃には、まだ桃山は居なかった。だから、どういう人物なのかを聞かせる必要があるように思えた。ついでに、今回の事案にも情鬼が関与していること。手掛かりが皆無に等しいことも聞かせた。途中、シレっと桃山のスリーサイズを問い、太助の鉄拳が炸裂するというハプニングがあったが、まぁ、これは何時ものことだから気にせずに話を進めよう……。

「ふーん。何だか、厄介な話になっちまっているな」

 目を伏せながら、賢一さんは何かを思案している様に見えた。

「ところでさ、その情鬼ってぇ奴は何だって神隠しをしているんだろうな? ついでに、狙いを付けているのは『ひかる』の名を持つ少年達ばかりなのだろう? 相手の目的が良く判らないな」

 そう。そこが問題なのだ。相手の目的が皆目検討付かないから、こちらも迂闊に動き出すことが出来ずにいる。実にもどかしい話なのではあるが、どうにも手掛かりも掴めていない。

「なぁ、小太郎ちゃんさ、こういう考え方ってどうだろうな?」

 賢一さんは皆の表情を見回しながら、話を続けて見せた。

「その、薄気味悪い女っつーのは、結局の所、輝ちゃんを探し求めているのだろう? 気になるのは、その目的だよな。何故、輝ちゃんなのか? 例えば……輝ちゃんが恋人、あるいは愛人だったいうケースが考えられる。まぁ、恋愛に年齢なんざ関係ねぇからな。無いとは限らないだろう?」

「確かに、そういう可能性も考えられるな」

 話の筋としては正しい気がする。だが、どう考えても違う様な気がしてならなかった。第一、輝は年相応とは言い難い程に、見た目も、内面も子供の様な奴だ。余程年下の男好きというならば成り立つかも知れないが、それでも、何か違和感を覚える。

「何か違うってな顔しているな。まぁ、俺も明らかに違う様な気がするけどな。それじゃあ、もう一つの考え方を聞いてくれ」

 賢一さんは、妙に自信に満ちた表情で語り始めた。皆も身を乗り出して耳を傾ける。

「探し求めている相手が家族というケースも考えられる。それも……輝ちゃんの年齢から考えるに、その情鬼は母親で……まぁ、件の薄気味悪い女だよな? その女は息子を探し求めている。こういう考え方はどうだろうか?」

 賢一さんの言葉に、皆が一斉に息を呑む声が聞こえた。

(そうか! 母親が息子を探し求めている。これならばシックリ来る)

 事情までは定かでは無いが、母親が我が子を探し求めているとすれば辻褄が合う。憎悪の能面師も、露姫も縁のある人物を探し求めていた。同じ様な考えを持っていたとしても不思議では無い。生き別れになった、あるいは死別した等の理由で離れ離れになってしまった。だからこそ、もう一度会いたい。そう考えるのは自然な流れなのかも知れない。

「そ、そう考えると、手当たり次第に神隠しに遭っているのも判る気がするのじゃ」

「おう。言葉は悪りぃけど、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるからな」

「随分と乱暴な手口だな。片っ端からかき集めて、其の中から本物を探し出すつもりでいたが、幸か不幸か、本物の輝に出会えてしまった訳だ。だが、別人だった『ひかる』達はどうなるのだろうな?」

 此処は善意で解釈するのは危険な気がする。無用になったから開放しよう。そういう考えに至れば良いが、無用になったから、もはやどうでも良いとなったら厄介な話だ。最悪、自分の素性を知ってしまった彼らを抹消しようとするかも知れない。だが、やはり疑問は残る。何故、桃山なのだろうか? 随分と回りくどいやり方をする。輝の顔を判っているのであれば、直接狙いを定めれば良い物を……。考え込む俺に気付いたのか、太助が静かに続ける。

「輝の周囲にいて、なおかつ、輝が警戒心を抱かない女なんざ、他にはいないだろう?」

「確かに、桃山先生ならば警戒心を抱くことも無いじゃろう」

「まぁ、普段から関わりも多いからな。半ば、オレ達の姉貴みたいな感じになっているもんな」

 果たして、それだけなのだろうか? 皆には言えなかったが、俺には、もっと深い何かがあるように思えてならなかった。人の心の中を垣間見ることは不可能な話だ。だけど、輝と桃山の間には、何か、俺の窺い知らない関係性があるように思えてならなかった。特に輝は母親に対して強い憎悪を抱いている。その反動で、母親像を持った女に興味を惹かれないとも限らない。否、それさえも見越した上で情鬼が行動しているとしたら、厄介な話だ。だが、どう手を打てば良い?

「でもよ、結局は憶測だけの話なんだよな」

「うぬぅ、そうかも知れんのじゃが、その情鬼は桃山を介しておる上に、テルテルと一緒に行動しておる。そうなれば、テルテルは危険と背中合わせなのじゃ」

 相手は俺とクロのことも知っていた上で挑発してきた。駄目だな……これは当事者となっている輝自身の口から、話を聞かないことには何も見えてきそうに無い。

「そうだな。結局のところ、輝自身から話を聞くしか無さそうだな」

「む? 何故、俺の心を読める?」

「……読めるも何も、今、お前が自分で言った言葉だが?」

 皆の目線が一斉に俺に集中する。いかん、いかん。夢中に成り過ぎて、何時ものアレをやってしまったらしい。まったく、節操無しなことだ。自ら情報を垂れ流すというのも如何なものか。

「何れにしても、輝ちゃんは何処にいるのか判らない訳だろ? 追い掛けようにも手掛かりも無し。ならば、ここは待つしか無いかも知れないな」

 無力な自分がもどかしかった。一刻も早く、輝を救出したいところではあったが、何しろ何処に向ったのかが全く検討が付かない。結局、憶測ばかりが飛び交う情報共有会となってしまったが、少なからず収穫はあった。それだけでも良しとしよう。後はクロが得た情報を加味した上で、さらに捜査を進めるとしよう。こうして、この日はお開きとなり、俺達は各々の家路に就くことにした。

◆◆◆23◆◆◆

 ゆっくりと列車が減速する。もうじき京阪宇治の駅に到着するのだろう。窓の外は漆黒の闇夜に包まれていて、街並みを照らし出す月明かりだけが寂しそうに瞬いている。少しJRの宇治駅方面へと歩むとネオンライトが鮮やかなパチンコ屋さんが立ち並んでいたりして、不思議な光景が広がっている。宇治。過去と現代が出会う景色……太助が、そう表現していたっけな。

「さぁ、到着したみたいね」

「うん、降りよう」

 京阪の宇治駅は何度もコタと訪れた場所。嫌なこと、哀しいこと、辛いこと……それから、言葉に出来ない想いに疲れ果てた時にコタと共に訪れた場所。どうして此処なのかは判らない。ただ、壮大な流れを称えた宇治川の流れに想いを馳せると、痛む心が緩やかに癒されていく様な感覚を覚える。そんな気がするから……。だから、ぼくは宇治という場所が好き。

 桃山先生と一緒に人気の無い改札を抜ける。京阪宇治駅の無機的ながらも、同時に有機的な風合いを称えた情景は、何だか不思議な雰囲気が漂う場所で、ぼくの好きな場所だった。無機的なコンクリートで形作られた駅舎を照らす有機的な温かみを持つ照明。駅名を表示する看板は海の中に居るかの様な透き通った青い色。それらが組み合わさり、紡ぎ出す情景が何とも不思議な風合いを称えている。そんな幻想的な光景に包まれていると、何だか体がふわりと浮き上がるような感覚を覚える。古き良き伝統を残す街に現れた幻想的なる現代の使者……。

「いつ訪れても幻想的な駅ね。こういう不思議な風景、好きだな」

「桃山先生も好きなんだ。ぼくも、この駅の風景が好きだなぁ」

「あら? 好きな物が一緒だなんて、何だか嬉しいわね」

 桃山先生は相変わらず上機嫌に振舞っていた。天井を照らす照明を見上げながら、ぼくも隣に並んで階段をゆっくりと降りていた。階段を降りながらも、ぼくは人の気配が感じられない駅の気配を肌で感じていた。

 幻想的な駅舎を後にすれば、そこにはバスターミナルが広がっていた。漆黒の闇夜の中、バスターミナルは静けさを称えていた。何時の間にか空は厚い雲に覆われ、時折月が顔を覗かせるばかりとなっていた。ぼくの視界には客待ちのタクシーが一台飛び込んできた。明滅するウィンカーの明かりもまた人工的な色合い。古き時代の風合いを称える街並みには不釣合いな様に思えてしまう。

「確かに、自然界には存在しないものよね。でも、それを言い出したら、現代社会そのものがひっくり返るわね」

「あ、アレ?」

 どうやらコタの妙なクセは、ぼくにも伝染し始めているらしい。心の中で思っていることを、無意識のうちに口にしてしまうのは、やはり恥ずかしい。

「何だか、輝君って小太郎君と良く似ているわね。心の中の呟きを口にしちゃうところとか」

 桃山先生は可笑しそうに笑っていた。

「良く似ているのは、二人が兄弟みたいな間柄だからなのかしらね?」

「ううーん、そういう変な部分は似なくても良いのだけどねぇ」

 ぼく達はバスターミナルを後に、広大なる宇治川に掛る宇治橋を歩き始めた。橋の欄干から身を乗り出してみるけれど、やはり、暗いせいか、宇治川の流れは鮮明には見えなかった。それでも微かな月明かりに照らし出された雄大な流れは橋の上からでも確認することができた。暗がりの中を流れ往く川の流れ。ゴウゴウと轟く音に想いを馳せていると、思わず吸い込まれそうになる。夜の川は魔性だ。生ある者を招く恐ろしい死者の流れと化す。うっかり呑み込まれたら、ぼくはもう二度と陽の目を浴びることは無くなるだろう。やはり、夜の川は魔性だ。昼間の顔とは一風違う。

 勢いある宇治川の猛々しい流れは、やはり鴨川とは違う色合いを称えている。水の量も多く、流れも速い。その荒れ狂う宇治川の音色を聞いていると、ついつい、隠し通そうと思っている本音があふれ出そうになってしまう。いけない、いけない。桃山先生には、やっぱり見られたくない……。ぼくの本当の姿、見られたら嫌われてしまうかも知れない。そんなの嫌だから……。

「兄弟がいるのって羨ましいわね」

 桃山先生も宇治橋の欄干から身を乗り出してみせた。「あまり、身を乗り出すと危ないよ」。ぼくの言葉には耳を貸すことも無く、優雅に風を感じていた。

「あたしには兄弟がいないから、良いなぁって思う。時に喧嘩したり、時に一緒に笑い会えたり。時に一緒に泣いたりするのね。皆、良い子達だから、余計に羨ましいわ」

 川の流れにかき消されない様に、桃山先生は声を張り上げて見せた。

「そうだね。コタ達とは付き合いも長いし、何だって話せるし……」

 いけない、いけない。気を抜くと、余計な言葉が口から飛び出してしまいそうになる。駄目だよ。桃山先生には、絶対に話しては駄目だ。良いんだ……ぼくは、このままの姿で捉えて貰えれば。馬鹿みたいに振舞って、オカルトを追い求めて、何時も問題を起こして……そんな、何も考えていなそうな、頭の悪いぼくで良いんだ。今までだって、そうやって演じ続けてきたのだから。同じことだよ。変わる必要なんか無いんだ。変わることなく演じ続けていれば、それで良いのだから。

「でも、ぼくは……」

 ああ、抑えられない! どうして? どうしてなの!? 駄目だよ! 絶対に駄目なんだ。駄目だ! 駄目だ! ぼくの真実は口にしては駄目なんだ。知られたくない、知られたくないんだ! ぼくの……ぼくの本当の姿は、誰にも……。

「でも、ぼくは家族が嫌いなんだ」

 もはや抗うことは、多分出来なかったと思う。一度あふれ出した想いは、もう、留まる所を知らなかったと思う。必死で抑えようと思ったけれど、もう、諦めた……。もしかしたら、桃山先生に賭けていたのかも知れない。ぼくのことを助けて! ぼくのことを救って! そう、叫びたかったのかも知れない。なまじコタ達では距離が近過ぎてしまって、逆に話せないこともある。桃山先生とは、言葉は悪いけれど相応の距離感がある。だから、逆に冷静に話せるのかも知れない。

「ねぇ、輝君、もう少し歩かない?」

「え?」

「この橋の上、後を車がビュンビュン走っているでしょ? 排気ガスの充満した場所でお話するなんて、何だか、お肌に良くない気がするのよね?」

 桃山先生は冗談めいた口調で、可笑しそうに笑って見せた。

(やっぱり、とても温かいね……桃山先生、本当にお姉さんだよ。良いのかな? ぼくの本当の姿、見せちゃっても良いのかな? もしも、駄目だったら、其の時は仕方が無いよね)

 そうだよね。コタ、何時も言っているものね。

『やらないで後悔する位なら、やってから後悔する道を選ぶ』

 コタらしいよね。後先考えない無謀な物の考え方は、コタ譲りなのかも知れない。

 不意に桃山先生の手がぼくの肩の上にそっと置かれた。予想外に冷たい手に、思わず背筋が伸びてしまった。

「冷え性なの。こんな暑い季節でも、手足の指先がすぐに冷えちゃってね」

「桃山先生の手、冷たいね……。ぼくの手とは、だいぶ違うよ」

 もっとも、ぼくの手は極度の緊張の連続続きで、だいぶ汗ばんでしまっていたけれど……。

「ほら? 手が冷たい女は、心は温かいって言うでしょう?」

 思わず言葉を失ってしまった。どう返せば良いのか悩んでしまう。

「嫌ねぇ。そんな困った顔しないでよ? ここはツッコミを入れる所よ?」

 とは言え、そうそう上手く立ち振る舞える程器用でもない。困りながらも、何とか笑顔で返そうと思った。だけど、不意にぼくの頬を温かな涙が零れ落ちる感覚を覚えた。

(え? 涙? どうして……? ああ、どうしよう、涙が……涙が、後から、後からあふれて来る)

「ひ、輝君?」

「……情け無いよね。男のクセに、先生の前で涙流すなんて……。えへへ、格好悪いよね」

 どうすることも出来なかった。ただ、抗えない感情に胸が一杯になっていた。自分でも理解出来なかったけれど、色んなことが走馬灯の様に過ぎってゆく。ずっと、誰かの優しさに飢えていた。誰かの愛情に飢えていた。寒かったんだ。雪の降り積もった雪原に、ぼくは裸足で放り出された身。雪の底は鋭く尖った氷の棘。ぼくが一歩歩く度に、柔らかな皮膚を切り裂き、血が滲む。痛くて、痛くて、必死で助けを請うのだけれど、凍り付いた喉では声も出せない。やがて、冷え切った体のまま、ゆっくりと心臓さえも凍り付いて、ぼくは死んでゆく……。でも、今、この瞬間だけは違った。桃山先生が手を差し伸べてくれた。「辛かったわね。痛かったでしょう? 苦しかったでしょう?」。そう、語り掛けてくれた。温かな暖炉の様な笑顔で。「先生の胸の中で、泣いても良いのよ?」。手を大きく広げて、ぼくを抱き締めてくれた。だから……ぼくは壊れてしまった。駄目だ、駄目だと判ってはいたけれど、溶けてしまった。もう……後戻りは出来ない。

 ぼくの中で、女の人は恐怖の対象でしか無かった。だから、どうしても女の人とは距離を空けずには居られなかった。例外があるとすれば、錦おばさんや、桃山先生くらい。他の女の人は怖くて、怖くて仕方が無かった。あの人と同じ様に、ぼくに酷い仕打ちをするのでは無いだろうか? そう、身構えながら接するのは本当に疲れる。お店の店員さんでも、道行く人々でも、女の人は畏怖の対象でしか無かった。当然、女の人が恋愛対象になることなんて有り得なかった……。だから、コタに想いを寄せた。同時にぼくは愛情を求めていた。ずっと欲しかった、誰かの愛情。優しさを常に追い求めていた。どんなに欲してもぼくの手には入らない物。だからこそ必死で追い求めていた。でも、こうして不意に優しくされると、本当に脆く、儚く壊れてしまう自分に気付かされた。桃山先生の笑顔は本当に温かかった。永い間凍り付いていた心が、ゆっくり溶けていく感覚を覚えていた。この涙は雪解け水なのだろうか? ただ、止め処なくあふれる涙を、ぼくは静かに受け止めていた。

 ぼくの涙に驚いてしまったのだろうか? 桃山先生は慌てて宇治川に向き直った。ついでに、穏やかな笑みを浮かべたまま、橋の欄干から身を乗り出し、空を見上げてみせた。

「今日は星がとても綺麗ね。ああ、郊外の方だと星が良く見えるわ。満天の星空が綺麗ね」

 夜空を見上げながら桃山先生は髪を解くと、そのまま、そっと髪をかき上げて見せた。風に揺れて、長い髪がふわりと舞い上がる。麝香の甘い香りが風に乗って辺りに漂う。

 先生、今夜は厚い雲に覆われていて、星は見えないよ……。そう、ツッコミを入れたかった。でも、判ってしまったから、無粋なことは言いたくなかった。

 先生、貰い泣きしちゃったんだね。その事実をぼくに気付かれたく無かったのだと思う。意外だなぁ。先生、何時も明るく振舞っているし、堂々としている。だから、涙なんか見せないって思っていた。でも、違ったんだね。ねぇ、先生? 先生も何か、哀しい過去があったの? だから、一緒に泣いてくれているの? ぼくには先生が同情で泣いているとは思えなかった。理由は判らない。でも、何か違う様な気がしてならなかった。何の根拠も無い自分に都合の良い解釈に過ぎなかったけれど。

「先生……。ぼく、もう……」

 自分でも訳が判らなかった。どうして、こんなにも涙があふれて来るのだろう? 妙に冷静に考えていた。ただ、頭の中には幼い頃から今に至るまでの哀しみの場面が、次から次へと、激流となって襲い掛かっていた。先生、ぼくに向き直って、大きく手を広げてくれた。ぼくは抗うことも出来ずに、そのまま先生に抱き付くと、子供の様に泣きじゃくっていた。恥ずかしいなんて思わなかった。先生は、ずっとぼくの頭を撫でてくれていた。良い香りのする先生に抱き締められて、ぼくはただ泣き続けていた。ぼく、一体どうなっちゃったのだろう……?

◆◆◆24◆◆◆

 宇治橋を渡り切ったぼく達は信号を渡り、平等院への道のりを歩んでいた。もちろん、この時間帯に平等院に入れる訳も無く、ぼく達は宇治川に浮かぶ中洲へと向かおうとしていた。

 コタと何時も訪れていた場所。中洲に佇み、宇治川の流れ往く音色に、ただ静かに耳を傾ける。川の流れと一体化することで、ささくれ立った心が沈んでいくような気持ちになれる。だからぼくはこの場所が好き。どうしようも無くなった時に心を癒せる、数少ない場所だから。

 平等院へと至る参道は何所も既に店仕舞いしている。土産物屋が遅くまで経営していても仕方が無い。だから、通りは静けさに包まれていた。ぼんやりと道を照らす街灯の光を頼りに、ぼく達は歩き続けていた。先程のこともあったから微妙に気まずい空気が立ち込めていた。何とかお互い話を切り出そうとするも、微かな吐息となって四散してしまうばかりであった。

 ぼく達は平等院への参道を抜けて宇治川沿いに到ろうとしていた。宇治川のすぐ傍を走り抜ける小道は、祭りの準備でもされているのか色鮮やかな提灯が飾られていた。すぐ、向こう側には宇治川が流れている。ゴウゴウと豪快な音色を立てて流れている様が月明かりに照らされて映し出されている。豊かな流れを称えた宇治川。その雄大な光景を見つめていると、色々な想いが心を過ぎってゆく。

 口にしてはならない想い……。でも、だからこそ、口に出したい衝動に駆られる。相変わらず、桃山先生は涼やかな表情で宇治川の流れを眺めていた。ぼくはただ静かに拳を握り絞めていた。結果はどうでも良かった。やらないで後悔するくらいなら、やってから後悔しよう。当たって砕けてしまっても、それはそれで、何かは得られる筈だ。

(そうだよね。ぼくはこうやって、何時も、選択を迫られる場面になると逃げ続けてきた。でも、逃げて、逃げて、ひたすら逃げ延びた先に答えはあっただろうか? 何か得られただろうか?)

 結局、何も得られなかったさ。ただ、後になって、あの時こうしていれば良かったな、と後悔するばかりだった。本当に学習機能が無い。自分が嫌になる。だから、ぼくは変わるんだ。だから……。

「ねぇ、先生?」

「あら? 何かしら?」

 もう、後戻りは出来ない。ううん、後戻りしたくないんだ。ぼくは張り裂けそうな心臓を必死で抑えていた。握り絞めた拳の中、汗がジットリと滲み出す。口の中がカラカラだ。酷く緊張しているのだと思う。

「ねぇ、先生。人の死を予見できる力がある……なんて話、信じる?」

「え?」

 桃山先生は目を大きく見開いて、驚いた様な表情を浮かべていた。当然だと思う。いきなり、こんな意味不明な発言をされて、驚かない方が不思議というものだ。

「ぼくね、人が死ぬ瞬間を予見できるんだ。とても、とても、忌わしい能力。この能力のお陰で、ぼくは周りの人々から気味悪がられ、忌み嫌われ、厄病神扱いされてきたんだ」

 必死だった。声を震わせ、肩を震わせ、ついでに、零れ落ちそうな涙を抑えながら、一気に言葉を放った。ためらったら、立ち止まったら、言えそうになかったから。勇気を持てずに、途中で言葉を濁してしまいそうだったから。逃がさないために。すぐに逃げようとする弱い自分を逃がさないために。

「信じるわ」

「え?」

 予想に反して、桃山先生はあっさりと返事を返してくれた。怪訝そうな顔を見せるでもなく、疑いの眼差しを持って問い詰めるでもなく、何も聞かずに、さも当然かの様に受け入れてくれた。むしろ、ぼくの方が驚かされてしまった。

「どんなに科学や文明が発達しても、解明し切れない出来事なんて幾らでもあるじゃない? 先日の鞍馬で起こった能面騒動。それに若い男の子達の凍死事件。どちらも、現実に不思議な出来事が起こっていて、その上、原因も解明されていないわ」

 桃山先生はにこやかな笑顔を称えたまま話し続ける。

「ねぇ、輝君。京都市の面積って、どれだけの物か知っている?」

「え、えっと……」

「それじゃあ、日本地図の中での京都府の大きさはどれ位かなら、想像できるでしょう?」

「う、うん……」

「日本全体から見れば、京都は小さな敷地面積しか持っていないわ。その小さな面積の中にある、さらに小さな街でさえも、解明出来ない不可思議な出来事が起こっている。世界全体から見たら、日本なんか米粒みたいなものよね」

 何を言わんとしているのか、いまいち、ぼくには理解出来なかった。困った様な表情をしていたのだろうか? 桃山先生は可笑しそうに笑いながら、ぼくの頭に手を乗せた。その手の感触は、やはりヒンヤリと冷たく感じられた。

「世の中は広いわ。当然、あたしの知らないことなんて幾らでもある。輝君の能力も、あたしの知らない知識の一つなのでしょうね。そう考えれば、全然不思議でも無いわ」

「そ、そうだよね……」

 何だか妙に味気無い返答で、多分、ぼくが求めていた答えとは違ったのだと思う。甘えだよね。そんなの……。どれだけ多くのことを、ぼくは先生に求めているのだろう? 図々しいにも程があるよね。

 そんなことを考えていると、どこからか蝉の鳴き声が聞こえてきた。

「あ……。蝉の鳴き声だ」

 普通に考えれば、蝉は夜には鳴かない生き物だったように思う。でも、良く考えてみれば、この辺りも大分人の手が加わっている。周囲を見渡せば家々から漏れる明かりが周囲を照らし出している。これでは、蝉からしてみれば昼夜の区別がつかないのも無理はない。

(蝉……夏は残酷な季節だったよね、コタ……)

「あそこの橋から中州の方に行けそうね」

「そうだね。中洲に行けば、より身近に宇治川を感じられるよ」

「涼やかな雰囲気を体感するには良さそうね」

 桃山先生は相変わらず楽しそうに振舞うばかりであった。でも、これで良かったのかも知れない。誰かに、多くのことを求め過ぎるのは失礼なことだ。少なくても、ぼくの想いを話すことが出来ただけでも意味はあったと考えるようにしよう。

 中州まで来ると、家々の明かりも届かず、辺りは月明かりが照らし出すだけとなる。宇治川の流れる豪快な音色が、すぐ近くから聞こえてくる。また一歩、大自然に近付くことが出来た気がした。

「人の死を予見できる、か……」

「え? ああ、さっきの話?」

「ええ。確かに、ちっとも嬉しく無い能力よね。誰かに幸せな出来事が訪れるのを予見できるならば、お互いに幸せになれそうだけど、誰かの死が見えてしまうなんて、嫌なものね」

「う、うん……」

 風が吹き始めたらしい。穏やかな風がそっと吹き抜ければ、川からの涼やかな空気が運ばれてくる。心地良い涼しさに心が解きほぐされていくような感覚を覚えていた。

「その能力が原因で、周囲からは疎まれ、忌み嫌われ、孤立無援、か……」

「うん。救いなんか無いんだ。仮に、未来が見えたからと言って、その未来を回避しようとしても、運命からは逃れられないんだ。必ず、死が訪れちゃうんだ。だから……」

 涼やかな風は、優しさに包まれていた。だから、ぼくの心はもう、抑えられなくなっていた。柔らかな月明かり。涼やかな風。そして、雄大なる宇治川の流れ。ぼくの心は決壊寸前だった。再び、ぼくの頬を涙が伝った。一粒。温かな体温が頬を伝って、地面に零れ落ちた。

「でも、逃れることが出来ないとしても、自分の最期の瞬間が判ることの意味はあると思うな」

「え?」

「少なくても心の準備は出来るわ。お世話になった人達にお礼を伝えたり、挨拶に行ったり。それから、悔いを遺さない様に身辺整理を行ったり、やりたかったことを、頑張ってやり遂げたり」

 桃山先生は、どんな時でも前を向いて生きているのだと思った。避けることの出来ない、絶望に満ちた未来でさえも希望に変えてしまう。その強さ、ぼくも見習わなければと思った。

「なーんて、偉そうなこと言っているけれど、そんなの、第三者だから言えることよね。他人がどうなろうが、知ったことでは無いもの。でも――」

  一瞬、ためらった様な素振りを見せたけれど、桃山先生はそのまま話を続けて見せた。

「あたしが自分の死の瞬間を教えられたら、平常心を保てないと思う。取り乱すと思うし、もしかすると、そんな、残酷な真実を教えてくれた輝君を憎むかも知れない」

 ぼくの心の中で何かが砕け散った様な気がした。桃山先生の反応、あの時の、あの人の反応と同じだったから。

「……ぼくには弟が生まれてくるハズだったんだ」

 気が付くと、ぼくは振り返りたくもない過去の話を口にしていた。鋭く尖った刃物の様な口調に気付いたのか、桃山先生はぼくの手を引き、ベンチへと誘ってくれた。

「見えちゃったんだ。転倒する母、それから、母のお腹の中で死んで往く弟の姿を。ぼくは必死で隠し通そうとしたんだ。でも、駄目だった……。結局、母に白状させられ、ぼくは真相を語らずには居られない状況に陥ってしまった」

「輝君……」

「全てを告げて、事態を回避出来るようにしてみたんだ。なんとか、最悪の事態を回避しようとした。確かに事態は回避できたかの様に見えた。でも……結局、逃げられなかった。弟は産まれたけれど、死んだ状態で産まれてきたんだ。そして、あの人の心は壊れてしまった……」

「そう。それでお母さんとの関係が壊れてしまったのね?」

「うん……。それから、ぼくに対する激しい虐待が……ううっ……」

 もう、堪えることなんて出来なかった。ぼくはただ、あふれ出る涙のままに、泣き続けた。男のクセにとか、そんなの関係無かった。ただ、抑えられない想いが、後から、後から、湧水の如くあふれ出てきた。突然、桃山先生がぼくのことを抱き締めてくれた。

「せ、先生?」

「良いから、何も言わないで!」

「え?」

 ぼくの頬にぴったりと付けられた、桃山先生の頬。柔らかな頬を温かい感触の何かが伝っていった。ついでに桃山先生は小さく肩を震わせていた。

(せ、先生……泣いているの? ぼくのために、泣いてくれているの?)

「世界中を敵に回しても良い。あたしが輝君のことを守る!」

「せ、先生?」

「あまりにも……救いが無いじゃない! こんなにも、輝君は純粋で、良い子なのに、どうして、こんな残酷な能力を! 残酷な道を歩まなければならないの!? 可笑しいじゃない!」

「せ、先生……」

「あたし、何にも知らなかった。輝君がこんなにも辛い想いを背負って生きてきたなんて……」

「先生……」

「何時も明るく振舞っていて、子供っぽくて、可愛らしくて、みんなの弟みたいで……。その笑顔に、あたし、何時も勇気づけられていた。輝君の笑顔に、何時も、元気を分けて貰っていた」

「う、うん……」

「ごめんね、輝君。こんなの、同情でしか無いかも知れない。すごく、失礼な振舞いなのかも知れない。でも……誰も味方がいないなんて哀し過ぎるじゃない。だから……」

 最後まで言い終わることは無かった。桃山先生も声を張り上げて泣いた。月明かりの下、ぼくと桃山先生は涙が枯れるまで泣いた。泣いて、泣いて……涙が枯れるまで泣いた。先生の体温と、ぼくの体温が混ざり合う感覚、ぼくは絶対に忘れない。

 それからしばらくの間、ぼく達はずっと抱き合ったままだったけれど、不意に桃山先生がぼくから静かに離れた。

「あーあ。あたし、教師失格ね」

「え? どうして?」

「フフ、未成年の教え子を連れ回して、挙句の果てには抱き合って、声を挙げて一緒に泣いて。知らない人が見たら、間違いなく、あたしは性犯罪者になるわ」

「……ごめんね、先生。可笑しなことに巻き込んで」

「あら? 謝るってことは、後悔しているの?」

 桃山先生はいたずらっぽく笑って見せた。ぼくはどう返したら良いのか判らず、慌てて目を逸らした。酷く耳が熱くなる感覚を覚えていた気がする。一際、宇治川の流れ往く音色が大きくなった気がした。それとも、桃山先生にだけ向けられていた意識が、ようやく周囲にも向けられる様になったのかな? それだけ、ぼくは気が動転していたのかも知れない。恥ずかしいな……。桃山先生に、ぼくの本当の姿を見せてしまった。もう、後戻りは出来ない。それならば――。

「自分探しの旅、か……このまま、先生と一緒に堕ちてしまうって結末もあるのかな?」

「輝君ってば、随分と大胆な発言するのね」

「え!? あ、い、イヤ、ぼくは……」

 再び桃山先生は、ぼくを再び力強く抱き締めてくれた。

「でも、それも悪くないわね」

「え?」

「……いずれ話すわ。あたしの秘密を。だって、あたしは輝君の秘密を聞かせて貰っちゃったのに、輝君はあたしの秘密を知らない。そんなのフェアじゃ無いもの」

「え、えっと……」

 戸惑うぼくのくちびるに、桃山先生はそっと人差し指を宛がって見せた。

「弟は姉さんの言うことを聞くものよ? 判ったかしら?」

「わ、判ったよ……」

 穏やかな月明かりだけが、ぼく達の物語の目撃者になっていたのだと思った。これは、ぼくと桃山先生、二人きりの秘密。誰にも知られてはならないし、誰にも知られたくない秘密。ぼくはもう、二度と戻れない場所まで来ちゃったのかも知れない。でも、後悔はしていない。このまま、一緒に堕ちてしまうのも悪くない。そう、思えたのは事実だから……。

◆◆◆25◆◆◆

 言葉に出来ない想いを抱えたまま、ぼくは帰りの電車に揺られていた。桃山先生の残り香を感じながら、ただ、夜半の列車に揺られるばかりだった。心此処に在らずというのは、今のぼくの様な気持ちを示すのかも知れない。さっきまで一緒だった桃山先生と離れての帰り道。どうしてだろうね。こんなにも胸が締め付けられるなんて。

(ぼく、桃山先生に……恋愛感情を抱いているのかな?)

 自分でも良く判らなかった。列車の窓に映るぼくの顔。窓の向こうは漆黒の闇夜に包まれた街並みだけが広がっている。暖かな家々の明かりと重なるのは憂いに満ちたぼくの顔。あーあ、何て顔しているんだろうなぁ。情けないな、ぼくは……。

 窓の外を駆け抜けてゆく街の明かり。その、仄白い色合いをジッと見つめていると、ふと、先程の光景が蘇ってきた。

(そういえば、中州から駅へと向かう途中、綺麗な花が咲いていたっけな)

 その花は月見草という植物の花。風に揺られて、ゆらゆらと咲き誇る様が幻想的に思えた。月明かりと良く似た、淡雪の様な真白な花。桃山先生、意味深なこと言っていたっけな……。

『あら、綺麗な花が咲いているわ。これは……月見草ね』

『月見草? この花の名前?』

『ええ、そうよ。可愛らしい花でしょう?』

 生憎、ぼくは草花に関してはコタみたいに詳しくはないけれど、月見草と呼ばれる、その花は夕方になると咲き始めて、翌朝には萎んでしまうという、その性質から月見草という名が付けられたのでは無いかと桃山先生は言葉を添えた。

 月明かりの下で咲き、日の出と共に萎んでしまう。何だかぼくと似ている気がして、共感を覚えた。でも、意味深だったのはその部分では無かった。

『月見草の花言葉……』

『え?』

『あたしの輝君に対する想いよ』

 どこか寂しそうな笑みを称えていたのが気になった。駅でぼくを見送る際に、桃山先生がぼくに添えてくれた言葉だった。妙に意味深に思えて、ぼくの中では鮮明に付けられた。

(花言葉か……これも、コタと違って詳しくない知識だなぁ)

 そんなことを考えながら、ぼくは携帯片手に月見草の花言葉を調べてみた。どうやら月見草という花は何種類かの花言葉を持っているらしい。その中のどれかの意図を篭めて、ぼくに授けたのだと考えた。

「えっと……美人、自由な心」

 これじゃあ、桃山先生の個性そのものだよね。違うような気がする。ぼくは他に当てはまりそうな花言葉が無いかを調べてみた。その中で、ぼくの目に留まった花言葉があった。

「打ち明けられない恋……!」

 全ての音が止ったような気がした。一瞬の静寂。でも、次の瞬間には、線路の上を駆け抜ける列車の轟音が響き渡った。ガタンガタン、ガタンガタン。ついでに踏み切りの警笛の音色。カンカンカンカン。やがて列車がゆっくりと減速し始めた。次の駅に到着するのだろう。

「ど、どういうこと?」

 不意に桃山先生の笑顔が蘇る。

『弟は姉さんの言うことを聞くものよ? 判ったかしら?』

 麝香の甘い香りが蘇ってくる。頭に載せられた冷たい手の感触、抱き締めて貰った時に感じた体温、それから……重ね合わせた頬で感じ合った互いの涙の温度。

(さっきは、勢いでトンでも無いこと口にしちゃったけれど……桃山先生、本当にぼくと堕ちてしまうつもりなのかな?)

 ぼくの中で一気に体温が上がってゆくのを感じていた。途方もなく照れ臭くて、気恥かしくて、どうしたら良いのか、ただ、途方にくれるばかりだった。嬉しいことだったのかも知れない。ずっと、誰かの愛情を求めていたのだから、その願いが叶って、心の底から喜べたハズだったと思う。でも、何かが違っていた。

「判らない……ぼくは、どうしたら良いのだろう? 嬉しいハズなのに、どうして、こんなにも恐ろしい気持ちで一杯なのだろう?」

 何となく判っていた。恐怖を感じるのも理解出来ていた。手にした幸せが、何時、ぼくを見限って何処かに行ってしまうのか。それを考えると途方も無く恐ろしく感じられて仕方がなかった。自分でも可笑しな奴だと思う。でも、桃山先生のこと……好きだからこそ、怖くて仕方がなかった。

「ああ、ぼくは何て弱いのだろう! 何で、どうして、ぼくはこんなにも情けないのだろう! 男のクセに泣き虫で、臆病で、弱虫で、それから……!」

 最後の言葉を口にすることは出来なかった。不意にコタの顔が浮かんできたから。何時もムスっとしていて、不機嫌そうで、無愛想で、無骨で、不器用で……でも、誰よりもぼくのことを理解してくれる兄の様な存在で……。

「……ぼくの想い、やっぱり桃山先生には向けられない」

 ぼくの脳裏にはコタの笑顔が浮かんでいた。

「結局、ぼくはこうやってウソで塗り固めてきたんだ。桃山先生に恋心を抱いている……フリをしているだけなんだ」

 時に声を荒げて、ぼくを叱ってくれたこともあった。

「あの時、コタはぼくに想いを伝えてくれた……」

 卓君に危うく殺され掛けた後、祇園さんでコタがぼくに言ってくれた言葉が蘇る。

「応えたかったよ。コタの想いに、応えたかった……。ぼくはどこまでも最低な奴だ。ごめんね、コタ……。ぼくは、本当に卑怯な奴だ」

 相変わらず、窓に映る景色は無情に流れ去ってゆくばかりだった。もうじき東福寺に着く。そこから先は、再び真っ暗なトンネルの中だ。ぼくの生き方とそっくりだ。お似合いだよね。輝なんて名前のクセに、自らは光を放つことが出来ない意気地無しなんだ。だから……コタに照らし出して欲しかったんだ。コタと共に歩みたかったんだ。でも――。

「もう、遅いよね? 散々待たせたのに、今更、ぼくの想いを伝えようなんてズルいよね。虫が良過ぎるよね……」

 誰もいなくて本当に良かった。ガタンガタン、ガタンガタン。駆け抜ける列車の音に混じって、ぼくのすすり泣く声が消え入る様にこだましていた。

「ううっ、ううっ……ぼく、コタのこと、本当に……」

 ガタンガタン、ガタンガタン……。足元にぼくの涙が零れ落ちてゆく。一粒、また一粒……。

◆◆◆26◆◆◆

 多分、ぼくは幽霊の様な足取りで歩んでいたと思う。賑わいを見せる南座を後にして、人々の笑い声が絶えない花見小路を抜けて、ようやく、ぼくの家が見えてこようとしていた。月明かりに照らし出された人影が視界に飛び込んできた。

「コタ……」

「輝、一体何処へ行っていた? 心配したのだぞ?」

 見られたくなかった。ずっと泣き続けていたから、多分、酷い顔をしていたと思う。ぼくは月明かりしか無かった幸運に感謝していた。でも、コタの顔を見た瞬間、ぼくの中では言葉に出来ない想いが一気に膨張しようとしていた。判っていた。それは身勝手で、理不尽な想いだということも。でも、ただただ、湧き上がってくる想いを抑えることが出来なかった。

「心配していた? ぼくのことを?」

「ああ。何処に行ったかも判らなければ、何度電話しても通じない。不安で仕方がなかったさ」

 止めてよ……そんな、優しい言葉聞きたくない! ぼくは、コタの想いに応えてあげられなかったんだ。その上、優しくしてくれた桃山先生に、尻尾を振って、喉を鳴らして見せたんだ。ぼくは……ぼくは最低な奴なんだ!

 初めて教えられた気がした。誰かに愛されるということを。桃山先生に抱きしめられた時、本当に温かかった。こんな感覚、今まで知ることは無かった。世の中には、知らない方が良いこともあることは知っていたけれど、愛されるという感情は、その一つになるのかも知れない。知らなければ、ぼくは今までと変わらずに生きられたかも知れない。でも、ぼくは既に知っているんだ……。それよりも、誰よりも、深い愛情を……。あの日、あの時、コタと初めて肌を重ねた日のこと……。コタが与えてくれた愛情を超える愛情なんて、あるハズが無かったんだ。ただ、ぼくはどうしようもなく臆病だった……。それだけのことなんだ。

 喉の渇きと似た様な感覚なのかも知れない。愛情を欲するという想いは、渇きと似ている気がする。どんなに潤っても、潤っても、なお渇きが癒えることは無い。幾らでも欲しくなってしまう。そして、それが無いのが途方も無く辛くなる。麻薬と一緒だ。

 急激に心拍数が上がってゆく。口が渇き、指先が痺れる様な感覚を覚えていた。ぼくは足元に転がっていた空き缶を乱暴に蹴り飛ばした。静かな路地裏に渇いた金属音が響き渡る。

「コタは、ぼくの一体何なのさ?」

「え?」

 判っていたんだ。ぼくが本当に、ぼく自身のことを理解して欲しかったのはコタだったんだ。ずっと一緒に過ごしてきたコタにこそ、桃山先生に見せたぼくの全てを見て貰いたかったのかも知れない。ぼくの全てを理解して欲しかったのかも知れない。ずっと、傍にいたからこそ判って欲しかったのかも知れない。判って欲しかった。他の誰よりも、コタに……。馬鹿みたいだよね。他の誰よりも、ぼくのことを判ってくれているコタに、全ての想いをぶつければ良かったのに、そうすることから逃げていた。ぼくが本当に想いを寄せているのは……コタなのにね。ううん、ぼくが想っているのは……コタしか居ないのにね……。

 自分自身の心を上手く表現することが出来ない自分がもどかしくて、酷く苛立っていた。それは、本当のぼくを知って欲しいと思う、哀しくも不器用な想いだった。極めて身勝手な独りよがりだってことも良く判っていた。でも、焦れば焦る程に言葉が出て来なくなる。必死で絞り出した言葉は、あまりにも自分の想いとは掛け離れていた。

「何だよ、偉そうに兄貴面しちゃってさ! ぼくの保護者にでもなったつもりなの!?」

「ひ、輝……」

「判っているんだよ? ぼくが可哀想な奴だから、同情してくれているのでしょう!?」

「お、おい、輝、落ち着け!」

「黙れ! いつも、いつも、偉そうに、ぼくに指図して! そういう偽善者ぶった振る舞いが、一番ムカつくんだよ!」

 ぼくは一体何を口走っているの? 何でコタに対して、こんな酷い言葉をぶつけているの? ああ、違うんだ……違うんだよ! コタ! ぼくは、ぼくが言いたいことは、こんな事じゃないのに……どうして、どうして、こんな言葉が出てくるの!? もう、訳が判らないよ! 必死で言葉を探そうとするけれど、どうしても言葉が出て来ない。もどかしさに苛立ち、ますます感情が昂ぶってしまう。

「輝……そんな風に思われていたのか。済まない、差し出がましい真似をして……」

「謝らないでよ! ぼくが、ますます馬鹿みたいじゃないか!」

 ぼくは堪え切れなくなって、慌てて家へと駆け込んだ。乱暴に玄関を閉めて、そのまま自分の部屋へと駆け込んだ。どうして、あんなにも取り乱してしまったのか自分でも理解出来なかった。ただ、コタは本当に哀しそうな顔をしていた。

「最低だよ……ああ、ぼくは最低な奴だよ。だから、ぼくのことなんて……ううっ、嫌いに……どうして、どうして、こんなことに……」

 涙、止らなかった。後から、後からあふれてきた。

 ぼくはそっとカーテンの隙間から、外の景色を覗いてみた。今まで見たことも無い程に、コタは気落ちした表情でくるりと踵を返すと、ゆっくりと玄関の引き戸に手を掛けるのが見えた。ガラガラガラ。渇いた音だけが静かな路地に響き渡る。

 コタ……ごめんね。でも、これで良かったんだ。ぼくみたいな最低な奴は、一人で生きていけば良いんだ。一人で生きて、一人で死んでゆく。そうすれば、誰にも迷惑を掛けずに済む。これで良かったんだよね……。コタのこと好きだよ? 誰よりも好きだよ? でも、だから、これ以上、迷惑を掛けたくないから……。

◆◆◆27◆◆◆

 ただただ衝撃的だった。まさか、輝にそんな風に思われているなんて夢にも思わなかった。図々しい思い上がりだったのだろうか? 結局、俺がやっていたことは、ただの恩着せがましい偽善に過ぎなかったのだろうか? 力無く自室に戻った俺の背後に、不意に人の気配を感じた。

「クロ……」

「随分と派手に打ちのめされた様子よの?」

「茶化すな。今の俺は最高に機嫌が悪い。いかにお前とは言え、何を仕出かすかは保障出来かねるぞ?」

 怒りに震える声を耳にしながらも、クロは何時もと変わらぬ振る舞いを見せていた。

「ふふ。左程大袈裟なことでもあるまい?」

「何だと!?」

 俺は思わずクロの胸倉を掴んでいた。だが、クロは静かな眼差しを俺を見下ろしていた。

「……コタよ、お主、輝との付き合いはどれ程になる?」

「え?」

「昨日今日の付き合いでもあるまい。頭に血が上り過ぎて冷静さを失ってはおらぬか? 前にも申した筈よ。目に見える物だけが全てではあるまいとな?」

 クロは穏やかな笑みを浮かべていた。俺は慌ててクロに頭を下げた。

「済まない。取り乱していた……」

「何、気にすることでもあるまい」

 クロにそっと肩を抱かれて、俺は穏やかな気持ちを取り戻しつつあった。

「若き時分には時として心が酷く揺れ動くことも珍しく無い」

「……まるで、既に体験済みと言いたげな言葉だ」

「ふふ、我の体験談よの。ましてや輝は只でさえ情緒不安定な身。むしろ――」

 クロはにやにや笑いながら俺の肩に腕を回して見せた。

「輝のことに関しては、コタよ、お主以上に理解している者は居らぬと思うのだが?」

「そ、それもそうだな……」

 生まれた頃からの長き付き合いだ。兄が弟の心を理解出来ずに、どうして兄が務まろうか。ああ、判っているさ。お前が俺にどういう感情を抱いているか、俺とどう在りたいのか、幾ら鈍い俺でもその位のことは判っているさ。

「だが、気になる点があったことも事実よ」

「気になる点だと?」

「うむ。輝からは麝香の甘い香りが感じられた。ついでに――髪の長い、眼鏡を掛けた女の姿が感じられたのだが、コタよ、何か心当たりはあるか?」

 クロの言葉を受けて、俺は背筋が凍り付きそうになった。賢一さんが得た情報では、輝は桃山と出合っていたと聞かされた。少なくても、クロはあの場にはいなかった。当然、賢一さんの話を聞くことなど出来ない筈だ。やはり、桃山が輝に接触しているのは間違いなさそうだ。そして、桃山が情鬼の媒介となっているのも間違い無いのだろう。

「ほう? 何やら心当たりがある様子よの?」

「ああ。俺達の学校にいる、桃山という若い女教師だ。既に太助達も別の方法で情報を得ている」

「ふむ、双方の情報が合致したということであるな。信憑性が極めて高いと言えようぞ」

 だが、やはり解せない所だ。何故、桃山が輝に接触しているのだろうか? 偶然とは考え難い。俺は賢一さんの推測をクロに聞かせてみた。

「なるほど。中々の洞察力の持ち主であるな。子を探し求める母親であるか……。だが、やはり不鮮明であることには変わりはありまい」

「ああ。桃山が輝に接触を試みた理由が判らない」

「ふむ。まだまだ事実は深い闇に隠されておるように思えてならぬ」

 輝から詳細な話を聞き出す予定であったが、想定外の事態により、断念せざるを得なくなった。いずれにせよ、明日、学校で皆と共に輝から話を聞き出さないことには話が始まらなそうだ。桃山との間に何があったのか、俺には皆目見当も付きそうにない。

「ふむ。賢明な判断であるな」

「あ……」

「気にするでない。何時ものことゆえ、我も慣れたものよ」

(気にするよ!)

「桃山と輝の間に接点があり、情鬼と輝との間にも接点がある。ここは、輝から真相を確かめることが肝要であろう」

 輝と輝の母親との間には、もはや修復不能な溝が生じている。輝は母親のことを酷く憎んでいる。否、むしろ殺意とも呼べる感情を抱いている。だが、逆の考えも出てこないだろうか? 憎むという感情と愛するという感情は、丁度鏡に写したかの様に相反する感情だ。あの母親に愛情を求めるのが不可能だと断じたならば、他者に愛情を求めるというのは十分に道理に叶った発想だろう。輝が母親以外に愛情を抱ける相手がいるとしたら? あるいは、その相手に母親像を見出していたとしたら?

「利害は一致するな……」

「む? コタよ、何か思うところがあったのか?」

「ああ。あくまでも俺の勝手な憶測であるが……」

 俺は、頭の中に描いていた構図をクロに説明した。クロは腕組みしながらも、静かに頷いていた。

「なるほど。今回の情鬼は子を探し求める母親である。輝は母親像を求めておる。桃山に対して、母親像を重ね合わせていたとすれば、ふむ。確かに、三者の関係性は繋がる」

「だが、裏付けが何一つ無いのも、また事実だ」

「ふむ。ここから先はお主らの腕の見せ所と言えようぞ」

「ああ。大丈夫だ。情鬼なんかに輝は渡さない。俺達の大切な仲間なんだ。絶対に守って見せる」

「ほう? 『俺の大切な』の、間違いではあるまいか?」

「なっ! 何を……唐突に……!」

 動揺する俺を見て、クロは一頻り笑って見せたが、すぐに、腕組みしたまま険しい表情を浮かべて見せた。

「コタよ、注意せねばならぬことがある」

「何だ?」

「以前も聞かせたが、時間の経過と共に情鬼は媒介となった者と、次第に一体化してゆく。錦おばさんの例を見届けたであろうが、同じ様な事態に陥ることになる」

「時間は限られているということか……」

「うむ。恐らく、桃山は自らが媒介になっておることすら気付いておらぬであろう。だが、時間の経過と共に次第に精神を乗っ取られてゆく。そして……完全に一体化してしまった時には、桃山ごと討ち取らねばならなくなる」

「最悪の事態を何としても回避しなくてはならないということだな」

 やるしか無いさ。輝を失うのも、桃山を失うのも、俺に取っては絶対に避けたい事態だ。何よりも人の心の弱みに付け込むような手口が気に食わない。俺の仲間に危害を加え様としているだけでも既に十二分に死罪に値するが、断じて逃がす訳にはいかない。

「コタよ、輝のことなのであるが……」

「む? 輝がどうかしたか?」

「母親に向けられた憎悪の念、桁違いに強い想いであるな。今すぐに情鬼と化しても可笑しくない程に強い憎しみの念よ。だが、それだけでは無い様に思えての。輝は……何か、我の窺い知らない不可解な能力を持っているように思えるのだが?」

 クロは腕組みしながら静かに目を伏せてみせた。微かな呼吸だけが響き渡る。

「輝にしても、桃山にしても、話を聞く限り、どちらも深い闇を抱いている様に思えてならぬ」

「桃山が? 輝はともかく、桃山が心に闇を抱きそうな話なぞ聞いたことが無いが?」

「さて、どうであろうか? 先入観で物事を断ずるのは関心せぬ。口にせぬだけやも知れぬぞ? 輝と同じよ。自らの心の闇を、好んで話す者はそうそう居らぬであろう?」

「まぁ、そうだな。俺も、自分の心の闇を、わざわざ語って聞かせるつもりも無いけれどな」

 クロは何やら不敵な笑いを浮かべながら俺の表情を窺っていた。興味を抱いていると言わんばかりの表情だ。まったく、好奇心旺盛なのは結構だが、好奇心は猫をも殺すものだ。迂闊に首を突っ込むのも如何なものかと思うのだが。

「興味津々と言わんばかりの顔をしているな。一連のゴタゴタが片付いたら聞かせてやる。クロは……俺に取って、特別な存在だからな」

「ほう? 特別な存在とな? 何やら、酷く興味を駆り立てられる言葉を耳にした気がするのであるが?」

 さらに不敵な笑みを浮かべながら、クロはガッシリと肩を組んで見せた。

(まったく……俺が何を思っているか等、十二分に知り尽くしているのだろう? それでも、俺の口から言わせたがる。相変わらず、良い性格をしている)

 耳が熱くなってゆく感覚を覚えていると、クロがにやにやと厭な笑みを浮かべて見せる。

「良い性格なのは、お互い様であろう?」

「……詮索好きで、うわさ話好き。その上、性悪な性分のカラス天狗か。何とも、因果な身分であるな」

 大きな溜め息混じりの言葉を受けながらも、クロは可笑しそうに笑っていた。やれやれ……この分だと、すぐには眠れそうには無さそうだ。しっかりと話を聞かせて貰おうと言わんばかりの表情で、ついでに、ドッシリとあぐらまで掻いてみせたか。口は災いのもと、か。要らぬことを口にしない方が長生き出来そうだな。

「まぁ、先ずは一杯どうであるか?」

「……何故、酒が出てくる?」

「ふむ。酔いに任せて、口を滑らせるのもまた一興であろう?」

「……本気で締め落とされたいみたいだな」

「ほう? 我と朝まで寝技にて歓楽……否、享楽の遊戯に臨もうと申すか? コタも業が深いな」

「な、何の話だ!」

 結局、この後も延々と無駄話に花が咲き、相変わらず、俺は寝不足のまま朝を迎えることになりそうな気がした。何だか、このやり取りが定着化しているのが、何とも先行き不安な気持ちにさせられるのであった。

◆◆◆28◆◆◆

 翌朝、ぼくは重い足を引き摺りながらも学校へと向かっていた。朝から抜けるような青空。強い日差しで、威勢の良いクマゼミ達の鳴き声が辺り一面から響き渡る。ワシャワシャと鳴く個性的な鳴き声が響き渡る。そっと顔をあげれば、強い日差しに目が眩む。

(学校に行くの、色々な意味で気が重いな。コタには酷いこと言っちゃったし、桃山先生と会うのも、何だか気まずさが残るし……)

 それでも時は待ってはくれない。だから、歩き続けるしか無かった。一際クマゼミの声が大きくなった様な気がした。

「時の流れは残酷、か……。コタが何時も口にしていたっけな」

 そうだよね。待って欲しいと願う時に限ってアクセル全開で突き進もうとする。止めることは誰にもできない。

「ああ、一つだけあったね。時を止める手段――」

 生きている限り、時の運行が留まることはありえない。でも、死んだ人の時は止る……。

「無意味だね。ぼくは未だ死ぬつもりはないもの」

 さて、無意味なことを考えるのは止めて、学校へと向かおう。ぼくは額に滲む汗を拭きながら、学校へと向かう道を歩んでいた。相変わらず、東大路通は賑やかだ。朝早くから観光客達の姿を見掛ける。往来する車の量も少なくない。ぼくもその流れに乗る様に歩き続けた。

 歩いて、歩いて、ただひたすらに歩き続けた。次の交差点を左に曲がれば学校だ。往来する車の流れを見届けながら、ぼくは緩やかな坂道を登り始めた。相変わらず蒸し暑い。

(皆、どうしているかな? 何だか、無性に気になって仕方が無いよ……)

 もう、二度と皆と会えなくなってしまうのでは無いか? 何の根拠も無いのに、妙な恐怖感に駆られていた。急に恐ろしくなったぼくは、一瞬呼吸を整えた後で一気に坂道を走り抜けた。

「おうっ、後白河。今日は元気が良いなぁ!」

「ああ、亀岡先生、おはよう。もう、皆、学校に来たかな?」

「おうっ、既に教室に向かったぞ。最近は皆、早々と来るようになったな。遅刻も無く、実に良い傾向だ。これも一重に教育の……」

「ありがとう!」

 自分に酔い痴れているかの様な表情を浮かべながら、亀岡先生は朗々と語り始めた。でも、ぼくに取って重要なのは、亀岡先生の熱過ぎる演説を聞くことでは無くて、皆の顔を見届けることだった。そんな訳で、ぼくは短く礼を告げ、さらに急いで走り続けた。

「おーい、後白河、あんまり急いで走って転ぶなよー。わはは!」

 相変わらず、亀岡先生は豪快なキャラクターだ。ぼくの不安な心を豪快な勢いで吹き飛ばしてくれる。そんな気がした。何だか嬉しくなったぼくは、背中越しに亀岡先生に手を振っていた。

 下駄箱で靴を履き替え、ぼくは大急ぎで教室へと向かった。息を切らしながら階段を駆け上り、廊下を駆け抜ける。やがて見えてくる教室の扉。その前に立ち、ぼくは呼吸を整えていた。不意に緊張感を覚えた。皆に会ったら何を話そうか? コタには昨日のことを何て謝ろうか? あれこれ考えていると、どうにも体が動かなくなった。時間にして、せいぜい十数秒のことだったと思う。でも、ぼくの中では随分と長い時間に感じられた。

(よし、開けよう!)

 扉を開けようとした、その瞬間であった。

「オッス、テルテル。そんな所で突っ立ってどうした?」

「うわぁっ!」

「うぉっ!? い、いきなりデカい声出すなよ。ビックリするじゃねぇかよ」

「むむ? 取り乱す辺りからして、さては、何か良からぬことでも考えておったのじゃな?」

 慌てて振り返れば、そこには何時もと変わらぬ仲間達の姿があった。皆一様に、ぼくを品定めする様に見つめながら、笑っていた。

「もうっ、驚かさないでよね」

「おいおい。そりゃあ、こっちの台詞だぜ……」

 可笑しそうにリキが笑う。ぼくは周りを見回してみた。可笑しなことにコタの姿が見当たらなかった。昨日、怒りに身を任せて想いをぶつけてしまっただけに、言葉に出来ない不安で胸がいっぱいだった。今、この場に居ないことは、むしろ幸運だったのかも知れない。

「俺を探しているのか?」

「こ、コタ!」

「この暑さだからな。喉が渇いていけない。飲み物を買ってきたところだ」

 昨日のことなど何も気にしていないのだろうか? コタは何時もと変わらぬ振る舞いで接してくれた。でも、ぼくには、それが逆に不安に思えて仕方が無かった。本当に嫌われてしまったのでは無いだろうか? そんな不安に駆られていた。

(判っているんだ。矛盾しているってのは自分でも良く理解している。でも……ああ、自分の想いを上手く表現出来なくて悔しいな)

「ところで、輝。お前に問いたいことがある」

「ぼくに? な、何?」

 コタは何時に無く真剣な表情だった。鋭い眼差しで、ぼくの目をじっと見据えている。射抜かれそうな程に鋭い眼光だった。でも、体温の感じられない冷たい眼差しだった……。

「昨日、桃山と会っていたな?」

「な、なな、何の話っ!?」

(ああ、ぼくは何て馬鹿なのだろう……こんな派手なリアクションしたら、バレバレじゃない……)

「相変わらずテルテルは判りやすいよなぁ」

「うむ。ウソのつけぬ性分じゃな」

「フフ、教師と教え子の道ならぬ恋、か。中々のやり手だな」

「ぼ、ぼくは桃山先生と、そんな……やましいことは、して……」

(ああ、何処までも馬鹿なんだ! そこはキッパリ否定するところなのに! ああ……皆、悪意に満ちた笑みを浮かべているし……)

 相変わらずコタは腕組みしたまま、険しい表情を崩さなかった。

「おいおい、マジかよ!? それで、桃山とどんなコトしちまったんだぁ!?」

「力丸……発言が下品なオヤジと化しているぞ」

「ううむ、テルテルは大人しい顔に似合わず、意外にも大胆かつマニアックなのじゃな」

「え、えっと……そろそろ本気で怒って良いかな?」

 まぁ、詳しい話は後でじっくり聞かせて貰おう。コタの一言には何の感情も込められていなかった。とても冷たい言葉だった。判っている。悪いのはコタじゃない。ぼくは自分で招いた結果なんだ。自分からコタに嫌われるように振舞ったんだ。悪いのはぼくだ。全部、全てぼくが悪いんだ。

「はーい、それでは皆さん、ホームルーム始めますよー」

 しかも、ますます厄介なことに今朝は桃山先生がホームルームを仕切るみたい。ああ、意識しちゃうと、まともに先生の顔見られないよ。でも、桃山先生はそこは、やはり教師。何時もと何ら変わりなく立ち振舞っていた。女優魂とでも呼ぶのだろうか? 桃山先生は見事な役者だと思った。ぼくも、ああいう風に上手に立ち振舞えていたら、もう少し違った人生を歩めたのかも知れない。

 でも、不思議な気分だった。桃山先生を見つめていると、心が安らぐのは事実だった。同時に、心が酷く締め付けられる感覚も覚えていた。相反する二つの感情。揺れ動く感情の中で、ぼくは自分自身をどうしたいのか、どう振舞えば良いのか、一人、悩み続けていた。そうこうするうちに昼休みになってしまった。授業の内容も、皆と語らった内容も、殆ど記憶に残っていなかった。茫然自失というのは、今のぼくみたいな状態を示すのかも知れない。そんなことを考えていた。

 結局、コタはぼくと目線を合わそうともしなかった。何時もとは異なる冷たい振舞いに、ぼくは改めて、ぼく自身の愚かさを実感せざるを得なかった。何もかもぼくが自分の手で撒いた種なんだ。全ては自分自身の行動の結果なんだ。受け入れなくちゃダメなんだ。それが……行動を起こしたことに起因する結果への責任だから。

◆◆◆29◆◆◆

 そして迎えた昼休み。ぼくは皆に、夢で見た不思議な情景を話して聞かせた。もちろん、人の死を予見できる能力に関しては触れなかった。伝えるべき話では無いと考えていたから。ううん、ぼくの中で、未だ口に出すだけの勇気を持てなかったから。

 それにしても、改めて思い出すと不可思議な夢だ。お西さんの大銀杏で見た喪服の女性。幼き日のぼくと同じ顔の男の子を抱いていたこと。首を吊って死んだこと。そのまま誘われた神戸のお爺ちゃんの家の光景。続いて目にした島原の情景と続いた。しかも、夢の中に現れたのは、あの時、ロックと一緒に島原で遭遇した薄気味悪い女性だった。あの女性が全ての異変に関与している。もっと言ってしまえば、一連の神隠し事件に関与しているのは、間違い無くあの女性なのだと思った。

「夢の中で遭遇した謎の女か。何だか、数日前の露姫との一件を思い出すなぁ」

「ふむ。しかし、奇異な夢じゃの。随分と回りくどいのじゃ」

「そうそう。オレも同じことを思った。だってさ、お目当てはテルテルなんだろ? だったらさ、手っ取り早く、かっさらっちまえば良いのにさ」

「おい、力丸……」

 太助に小突かれたリキが、慌ててぼくに向き直った。

「あ、イヤ、済まねぇ。勢いで可笑しなこと言っちまったな。気に障ったら謝る。スマン」

「気にしないで。あの人と暮らす日々から逃れられるなら、それも悪く無いと思っているから」

 冷たい言葉だった。何のためらいもなく、呼吸するかの様に怒りを吐き出していた。一瞬、皆の間に戦慄が走ったけれど、このことは皆も知っている話。今更、驚くことも無いでしょ? むしろ、皆にも改めて知って欲しかった。ぼくがあの人に対して、どういう想いを抱いているか。殺意しか持っていないってことを改めて認識付けたかった。

(ほら、ぼくは臆病だから、皆の後押しが無ければ何も出来ないからね)

 違うよね。またウソをついた。皆を共犯者に巻き込みたいだけだ。自分ひとりで背負うには重た過ぎるから、皆にも肩代わりして欲しいんだよね。

(――なんてこと、言える訳が無い。やっぱり、ぼくはウソつきだ……)

「小太郎、お前はどう見る?」

 太助が問い掛ければ、先刻まで険しい表情で腕組みしていたコタが静かに口を開く。

「確かに回りくどいな。何故、直接手を出さないのか、不可思議ではあるな。何度も好機は訪れた筈なのにも関わらず、だ。何か意図する所がありそうだな」

 強い日差しが照り付ける昼休みの屋上。相変わらずクマゼミの個性的な鳴き声が響き渡る。照りつける日差しは強く、容赦無く肌を焦がす。皆、盛んに汗を拭いながら、ぼくの話に耳を傾けていた。コタは皆の顔を見回しながら、続きを語り始めた。やはり、ぼくを見る目は酷く冷たく思えた。

「先ず、輝が夢の中で最初に歩んでいたのは島原の街並みだ。その中で、輝は女と出会った。場所はお西さんではあったが、この部分も何か意図する所があるのだろう」

「ふむ。その女は島原に関連した人物ということじゃな。ワシも島原で遭遇したでの」

「そうだったな。島原に生きる者……生前は芸妓だったのかも知れないな」

 ぼくはただ静かにコタの話に耳を傾けていた。

「その女に関しての推理は、俺が話そう」

 語り手が太助に代わり話を続けてくれた。聞けば、コタ達は昨日の晩に、皆で太助の家に集まり、京都市内を騒がせている神隠し事件について語り合ったらしい。その中で、あの女性……ううん、コタ達の推理では情鬼の話題になったらしい。

 あの情鬼は母親で、亡き息子を探し求めていると考えたらしい。その息子の名は、多分、ぼくと同じ『輝』という名前なのだろう。ううん、間違い無く、あの情鬼が探し求めている息子の名前は『輝』なのだと思う。だって、あの時に見た小さな男の子のことを、あの女の人は『ひかる』と呼んだのだから。もちろん、音で『ひかる』と呼んだ場合、例えば『光』という字や、『晃』という字も当て嵌められる。必ずしもぼくと同じ名前とは限らない。でも、探し求めているのは『輝』だ。ぼく自身だ。そうとしか思えなかった。あの時、人形に打ち付けられていた字も『輝』だった。何よりも、そうで無ければ、「やっと見つけた」という言葉の意味が説明できない。

「情鬼は人を媒介して行動を起こすことも出来る」

「何が言いたいの?」

 挑発するようなコタの口調にぼくは苛立ちを覚えた。気が付けば、棘のある口調で返していた。

「桃山は情鬼の媒介になっているということだ」

「仮にそうだとして、ぼくと桃山先生が会ったことに何か関係があるの?」

 敢えて皆が追求し辛い様に問うた。要らぬ詮索はされたくなかったし、昨日の夜の出来事が明るみになれば桃山先生にも被害が及んでしまう。ぼくの身勝手な甘えのために、桃山先生を巻き込みたくなかった。

「誰が目撃したのか知らないけれど、確かに、ぼくは昨日桃山先生と会ったよ。あれは花見小路さ。偶然、散歩していたら買い物途中の桃山先生に会った。丁度良い機会だから、授業で教わった中で、どうしても理解出来なかった箇所を聞かせて貰ったんだ」

 本当に自分でも感心する。どうやったらこんなにも流暢に、ためらいも無くウソをつけるのだろう? 身を守るための手段として体得した技術は、今もなお衰えるどころか鋭さを増すばかりだった。良いことには思えなかったけれど、身を守るためには必要な能力なのだから、仕方ないよね。

「教えて貰った場所だって話せるよ。先斗町の近くにある喫茶ポワレ。そこでお話をして、後は祇園四条の駅まで桃山先生を送り届けた」

 コタは相変わらず鋭い眼差しで、ぼくを見つめていた。ぼくは直視することが出来ずに、思わず目を背けてしまった。

「……それでは、なぜ、携帯が繋がらなかった? それに、随分と遅い時間に帰ってきた。これは、どういうことだ?」

「携帯が繋がらないなんて、電波の調子次第だよね? それに、ぼくが長時間散歩をするのはコタも良く知っているよね? あの家には居たくないんだ。だから外を散歩する。何時も行く宛ても無く、哀れに街を彷徨い続ける。良く知っているはずだよね、コタならば?」

 退いたら負けだ。必死の思いで築き上げた籠城が呆気なく崩れ去ってしまう。何しろ、この籠城は砂で出来ている。だから偽らなければならない。この籠城は堅牢なる建材で築き上げたのだと。

「輝、その言葉に偽りは無いな? 信じても良いのだな?」

「ぼくがウソを付いているとでも言うの?」

「否、そうは思っていない」

 相変わらずコタは冷ややかな態度を崩すことは無かった。

「疑う様な真似をして悪かったな、輝。ただ、情鬼はお前を狙っている筈だ。くれぐれも用心してくれ」

「判っているよ。ぼくなら、大丈夫だから」

 ウソ、ウソ、ウソ! 何もかもがウソで塗り固められていた。ぼくを気遣ってくれるコタの想いを退け、差し伸べられたコタの手を払い除けた。自分の身は自分で守る。口で言うのは本当に容易いこと。でも、現実はどうなの? ぼくは結局、誰かに泣き付くことしか能が無い奴なんだ。無能で、非力で、可哀想な奴のクセに、その事実を受け入れることを頑なに拒否する。自分の弱さを受け入れられないんだ。

「そろそろ昼休みも終わるな。皆、教室へ戻ろう」

 何時に無く冷徹な振舞いを見せるコタに、皆も戸惑いを見せていた。ぼくとコタとの間に生じた、微妙な間。こういう繊細な物には誰も触れたがらないもの。当事者同士の問題だと人は割り切る。当然と言えば当然か。他人の良く分からないイザコザに巻き込まれても、何ひとつ得することは無いのだから。要らぬことはしない方が長生きは出来るというものだと思う。

 結局、何だか煮え切らない想いを胸に抱いたまま、午後の授業に臨むことにした。そっと顔を見上げれば、ぼくの気持ちとは対照的な青空が広がっている。雲ひとつ無い青空。響き渡るクマゼミの鳴き声に、強い日差し。ジリジリと照り付ける日差しに汗が止らない。

 皮肉な天気だと思った。今のぼくの心の中は荒れ狂う夕立。叩き付けるような大粒の雨と、響き渡る雷鳴。大荒れの夕立の中、ぼくは傘もささずに一人佇んでいる。人の気配が無い花見小路を。ううん、違うね。土砂降りの中、増水した流れを見続けているんだ。宇治川の中州からね。何もかも押し流してしまえば良い。ぼくのことも押し流してしまえ。そんなことを考えていた。

 不意に足元が揺らぐ様な感覚を覚えた。強い日差しに当てられたから? もしかして熱射病になろうとしているの? 階段を下りて往く皆に救いを求めることも出来ないまま、ぼくの意識は遠のいていった。不思議な感覚だった。何度も体験している感覚だった。恐らく、再び、誰かがぼくに情景を見せようとしているのだろう。それならば、抗わずに見届けよう。ぼくは流れに身を委ねることにした。

「え? ここは何処なのだろう?」

 そこは、まるで見覚えの無い場所だった。どこかの家の風呂場だった。一体、何故、風呂場を見ているのか、全く理解出来なかった。浴槽には中学生と思しき少年が浸かっていた。可笑しな気分だった。何故、他人の入浴風景を垣間見ているのか、理解に苦しんでいた。

「輝彦、着替えは外に置いておくからね?」

 聞き覚えのある声に、ぼくは驚きを隠し切れなかった。

(い、今の声は、桃山先生? それじゃあ、この目の前にいる男の子は一体、誰なの?)

「姉さんも一緒に入ろうよ」

「え?」

「一人で入るの寂しいよ。ね? 良いでしょ?」

「しょうがない子ね。良いわ。体洗ってあげるわ」

 信じられないやり取りだった。桃山先生は家族のことを、詳しくは話さなかったけれど、弟が居るとしたら? でも、まるで恋人同士の様なやり取りだ。とても、冗談で言っている様には聞こえなかった。ああ、ぼくは大変な情景を目の当たりにしようとしているのか!? 踏み入ってはならない、桃山先生の秘密を、見届けてしまおうとしているのか? そう考えると、堪らなく恐ろしい気持ちになった。同時に……桃山先生の体を見ることが出来てしまうという事実に、ぼくは興奮を覚えていた。哀しかった。他人の秘密を、喜んで見届けようとしている自分自身がいることが。情けなかった。でも……本能は本当に正直なのだと思う。ぼくは、痛い程にカチカチになってしまったおちんちんを必死で押さえ付けていた。

 程なくして、衣服を脱ぎ去った桃山先生が入ってきた。直視することは出来なかった。そんな姿を見てしまったら、もう、桃山先生とはまともに話をすることが出来なくなってしまう。そんな気がしてならなかった。同時に、これは自分自身の妄想が具現化した情景なのでは無いかという恐ろしさもあった。もしも、妄想が形を為したものだとしたら、それはそれで、受け入れ難い現実だった。自分自身の中に眠る、獣の本性を見届けることが恐ろしかった。

「さぁ、こっちへいらっしゃい。綺麗にしてあげるわ」

 仲の良い姉弟の構図からは掛け離れていた。楽しそうに戯れる桃山先生と、輝彦と呼ばれた少年。抱き合いながら、楽しそうにじゃれ合う二人のやり取りを耳にし、最初のうちは興奮を覚えたのは事実だった。だけど、段々と想像を絶する情景に、ぼくは恐怖心を覚え始めていた。ううん、もっとハッキリ言ってしまえば嫌悪感さえ覚えていた。姉と弟なのに、何故、こんな淫らな関係にあるのだろうか? 桃山先生の性癖を知ってしまった気がした。そして、何となく判ってしまった気がした。その矛先が、ぼくに向けられているということも……。だからこそ、興奮よりも嫌悪感が優勢になったのかも知れない。

 場面は変わり、風呂から上がった桃山先生と輝彦君は、そのまま、楽しげに布団に入って行った。そこは寝室だった。裸で抱き合う姉と弟。布団に包まって、その格好で行うことなんて一つしか無かった。

「フフ、輝彦は甘えん坊ね。さぁ、今日も姉さんが、たっぷり可愛がってあげるわね……」

 鼓膜を突き破りたかった。両の目を潰したかった。それは壮絶な光景だった。蛇の様に、絡み合いながら、互いが互いを求める構図。桃山先生と輝彦君の淫らなやり取り、淫らな声。今よりも若い姿の桃山先生は、恥じらいも無く、悦びの表情を浮かべていた。一糸纏わぬ桃山先生の姿……。昨日、ぼくを抱き締めてくれた時に感じた感触。あの薄いブラウスのすぐ下に隠されていたであろう、白く、滑らかな肌。

(止めて……止めてよ! こんなの、見たくない! 聞きたくない!)

「ああん、輝彦、そんなに乱暴にしちゃ駄目よ?」

「でも、姉さん、ぼく、我慢出来なくて……」

「フフ、聞き分けの無い悪い子は御仕置きしちゃうわよ?」

 桃山先生の股ぐらに顔を埋める彼の姿を、ぼくは後ろから見つめていた。水気を孕んだ淫らな音が部屋中に響き渡っていた。でも、ぼくが興味を示していたのは、むしろ、ぼくと良く似た風貌の輝彦君に対してだった。大きく広げた足。他の男の子のお尻の穴を見てしまったこと。そして、大きく膨張したおちんちんの先から糸を引いて滴り落ちる汁。心臓が割れる程に興奮していた。仰向けにされた輝彦君のおちんちんを、桃山先生が舐め回す様に、ぼくは我慢出来ない程に興奮していた。下半身が痺れ、腰が砕ける様な感覚さえ覚えていた。多分、無意識のうちに、ぼくはズボンの中に手を突っ込み、おちんちんを掴んで、上下に揺さぶっていたと思う。柔らかな皮を剥いたり、戻したりしていたのだと思う。

「ああん、駄目だよ……。姉さん、ぼく、もう出ちゃいそうだよ……」

「うふふ。良いわよ? ほぅら、一杯出しなさい? 姉さんが、全部綺麗に舐め取ってあげるから……」

「ああっ! 出る、出る、出るっ!」

(嫌だ! 嫌だ! 桃山先生を……まともな目で見られなくなってしまう! ああ……こんな情景に、興奮を覚えているぼく自身も許せなくなってしまう! うわああああああーーーっ!)

 次に気が付いた時、ぼくは屋上に横たわっていた。時間にして、コタ達と離れてから数分も経過していなかった。

「い、今のは一体、何だったの?」

 足が震えて、まともに立ち上がれなかった。酷く汗ばんでいた。射精した直後の、脱力感にも良く似た感覚に駆られていた。股ぐらがヒンヤリと冷える様な、妙な感触を覚え、ぼくは慌てて下着の中に手を突っ込んでみた。

「あ……ああ……う、ウソでしょう!?」

 認めたく無かったけれど、その感触には覚えがあった。恐る恐る匂いを嗅いでみれば、生々しい精液の匂いだった。体中の力が抜ける様な感覚を覚えていた。

「あ……ああ……。ぼ、ぼくは、どこまで最低なのだろう……。まさか、あんな情景を見せられて、出しちゃったなんて……」

 いっそ、このまま屋上から大空に散ってしまいたい衝動に駆られた。でも、そんなことをしても何にもならない。

「と、取り敢えず戻ろう。授業が始まっちゃうよね……」

 ぼくは必死で、階段の手摺にしがみ付きながら、教室を目指した。クマゼミの鳴き声だけが虚しく響き渡っていた。ワシャワシャと泣く、独特の声。透き通る青空に、照り付ける日差し。何もかもが、皮肉なまでに、変わることの無い日常のままだった。

◆◆◆30◆◆◆

 放課後になったところで、ぼくは急いで学校を後にした。皆に色々と詮索されるのも嫌だったし、何よりも一人になりたかった。昼間の一件もあったから、何よりも急いでトイレに駆け込みたかった。もう、渇いてしまったかも知れないけれど、それでも不快な感覚は残ったままなのだから。

 こんな姿、絶対に見られたくなかったし、取り乱した姿はもっと見られたくなかった。何よりも一人になって気持ちを整理したかった。だから、ぼくは急ぎ学校を飛び出した。皆の視線を背に受けながらも、ぼくは必死で教室を飛び出した。声を掛けられたら口を滑らせてしまうかも知れない。だから、声を掛けられる前にぼくは飛び出していた。怖くて、怖くて仕方が無かったから。

 昼過ぎまでは晴れ渡っていた空は、何時の間にか濁った色合いに移り変わっていた。今のぼくの心を揶揄しているかの様な空模様。良いさ。ぼくは自分を否定するつもりは無いから。ただ、ぼくは校庭を走り続けた。校門を抜けて、緩やかな坂道を駆け下りる。やがて見えてくる東山七条の交差点。相変わらず車が引っ切り無しに往来している。

(そうだ。哲学の道ならば人も少ないだろうし、気持ちを落ち着かせるには良いかも知れない)

 ぼくは丁度バス停に訪れたバスに乗り込んだ。銀閣寺前で降りれば、哲学の道までそう遠く無い。緩やかに流れる水の音を聞きながら、気持ちを落ち着かせよう。そんなことを考えながら、ぼくは観光客に混じり、バスの吊皮に手をかけた。

 程なくして走りだしたバスは、何事も無かったかの様に市内を駆け抜けてゆく。相変わらず日差しは強く、行く先々で蝉の鳴き声が響き渡る。観光客も多いのだろう。バスの中は混雑していた。大勢の人と共に、ぼくもバスに揺られていた。

 しばらく走り続ければバスは、ようやく終点の銀閣寺前に到着する。やはり、銀閣寺は人気があるのだろうか? 途中のバス停で降りる人は少なかった。観光客達は予想通り銀閣寺に向かって歩んでゆく。人力車のお兄さん達が道行く女性陣に声を掛ける光景を横目に、ぼくは哲学の道へと歩を進める。桜の季節では無いためか、哲学の道には全く人の気配が感じられなかった。

(まぁ、静かな方がぼくとしてもありがたいのだけどね)

 人の流れは皆、吸い込まれる様に銀閣寺へと向かって進んでゆく。賑わう場所は好きじゃない。ふと、顔を見上げれば青々と生い茂った桜の木々の葉が日差しを遮っている。涼やかな水の流れも手伝い、多少は涼しく感じられた。

「やっぱり、この季節の哲学の道は静かだね」

 ここ、哲学の道は春になると桜が綺麗に咲き誇る場所。この長い道一面に咲き誇る桜。流れる琵琶湖疏水に映る桜も重なり合い、辺り一面、桜色になる。風が吹けば一斉に桜吹雪が舞い上がる幻想的な光景が広がる場所。だから、ぼくのお気に入りの場所のひとつ。良く、コタと一緒に遊びに来たな。辛いこと、哀しいこと、どうすることも出来なかった時、コタが一緒に歩いてくれた。コタにだけはぼくの弱い姿も見せていた。この道を歩きながら、何度、一緒に考えたのかな。

「コタ、やっぱり昨日のこと、怒っているのかな?」

 不意にコタの冷たい眼差しが蘇る。自分で撒いた種とは言え、やはり、コタに冷たく振舞われるのは本当に辛かった。身勝手なのは判っている。でも、それでも、やっぱり堪え難い程に辛かったし、それ以上に、寂しかった。

「はぁ。結局、ぼくは何をしたいのだろう……」

 コタに悪態をついたり、桃山先生に甘えてみたり、本当に身勝手だと思う。こんなことを続けていれば、いつか、皆もぼくに愛想を尽かしてしまうだろう。そうなったら、ぼくは本当に孤立無援だ。誰にも関わらずに生きていくなんて、ぼくには出来ないよ。

(皆、どうしているかな? 自分から飛び出してきたのに、気になっちゃうなんて、どこまで馬鹿なのだろう……)

 水の流れるサラサラという音色が響き渡る。風が吹き抜ければ、涼やかな風が頬を撫でてゆく。相変わらず人は誰もいない。悪くないものだと思った。こういう静かな場所で、木々の香りに抱かれ、川の流れる音色に耳を傾ける。少しだけ、荒ぶる心が落ち着いた気がした。

 今の季節は桜の木は豊かな葉に包まれる。ふと、足元を流れる疏水に目を落とせば、流れ往く水路の中には、ゆらゆらと水草が漂っている様が見えた。力強い生命力を感じる木々の葉に、水の中で揺らめく水草達に、力を貸して貰っている様な気持ちになれる。

(コタは、こういう自然の豊かな場所が好きなんだよね)

 結局、ぼくはコタのことばかり考えている。何時も傍にいてくれたから、それが当たり前のことの様に思っていた。でも、そんなの、ぼくの身勝手な思い上がりに過ぎなかったんだね。コタはコタであって、ぼくでは無い。ぼくみたいに嫌な奴の傍にずっといる筋合いも無い訳だよね。

「結局、ぼくの行動が招いた結果だったのか……」

 再び風が吹き抜けた。涼やかな風が髪を撫でてゆく。ぼくは静かに風を感じていた。心地良い感覚だった。ぼくは目を閉じて静かに空を仰いでいた。その時だった。突然、誰かに肩を叩かれた。ぼくは驚き、慌てて振り返った。

「こ、コタ!? あ……アレ?」

「小太郎じゃなくて申し訳なかったな」

 慌てて振り返ったぼくは、違った意味で驚かされた。そこに居たのはコタでは無く、太助だった。太助は苦々しい笑みを称えたまま、困った様な表情を浮かべていた。勝手にコタと間違えられた上に、残念そうな表情を見せられたのでは堪ったものでは無かっただろう。

(あちゃー。もの凄く気まずい空気が立ち込めてゆく。うう、空気が恐ろしく重い……)

 どうやって話を切り出そうかと、まごまごしていると、何時もと変わらぬ様子で太助が笑って見せる。

「悪いな。後をつけさせて貰った」

「え?」

「一人で色々と抱え込んでいそうに見えたからな。小太郎が相手では、感情的になってしまうだろう? だから、俺が輝の話を聞かせて貰おうと思ってな」

 やっぱり、普段とは違う姿は誰の目にも明らかに判っちゃうんだろうなぁ。ほんと、ウソ付きのクセに、こういうことに関してはウソが付けないから不便だと思うよ。

「確か、こういう行動をストーカー行為と称するのであったな?」

「太助、それって、シャレにならない発言だから……」

 あ、アレ? ぼくをストーカーする? えっと、ストーカーって、確か、想いを寄せている相手に振り向いて貰えない悔しさから一方的に想いを寄せた結果の行動であって、えっと……コトの詰まり、どういうことなのだろう? な、何だか訳が判らなくなってきちゃったよ?

「ほう? 輝、一人で楽しそうだな?」

「もうっ、目一杯悩んでいるのに、楽しそうな訳無いでしょ」

「まぁ、そう苛立つな。話ならば、気が済むまで聞いてくれる」

 まるで子供を嗜めるかの様に、太助はぼくの肩をポンポン叩いて見せた。

(はぁ、やっぱりぼくは皆の弟なんだね)

 そんなことを考えていると、不意に太助がぼくの目の前に手を差し出して見せた。その手の平の上には無残に散らばった数珠が乗せられていた。

「これは? な、何だか、とっても不吉な雰囲気がプンプン漂っているのだけど……」

「愛用の数珠が突然切れたのさ。丁度、お前が慌てて教室を飛び出しですぐのことだ。不吉な予感を覚えてな。まぁ、それもあって、お前のストーカーに名乗りを挙げた次第だ」

(す、ストーカーに名乗りを挙げたって……いやいや、突っ込み所満載なんだけど)

 でも、数珠の紐が切れるなんて、確かに凄く不吉な気がする。確か、数珠って所有者の身代わりになって散るって、以前、太助が言っていたよね。太助の身に何か起ころうとしていたのかな?

「所有者、あるいは、その近親者だな。俺に取って輝は大切な仲間だからな」

 何やら含み笑いを浮かべている太助に、一言、二言突っ込みを入れてやろうかと思ったけれど、止めておこう。ぼくを心配して追ってくれたことが嬉しかったから。それに、照れ臭過ぎて、上手く言葉にならなそうな気がしてならなかったから。

「感情的になっているから、皆の前では耳を貸すことも無かっただろうが……」

 言いながら、太助は静かにぼくの目を見つめていた。見定めているのだろう。冷静に話を聞けるのか、どうなのかを。

「今の輝ならば大丈夫そうだ」

 太助は真剣な眼差しをぼくに投げ掛けたまま、話し始めた。ぼくは太助の話に耳を傾けることにした。

「何か嫌な予感がしてならなくてな。桃山がキッカケとなり、お前の障害となる。俺にはそう感じられてな」

「桃山先生が……ぼくの障害に?」

「ああ。それに……」

 太助は静かに桜の樹木の幹に触れて見せた。そのまま静かに目を伏せたまま続けた。

「輝、桃山との間に何かあったのだろう?」

「え?」

「安心しろ。小太郎には話さないさ。それに……隠したって無駄だぞ? 何しろ、俺は何でもお見通しだからな」

 太助は可笑しそうに笑って見せた。だけど、その目はシッカリとぼくを捉えていた。逃がさないという強い想いがヒシヒシと伝わってくるような眼差しだった。

「相変わらず鋭いんだね。でも、本当に何も無かったんだよ?」

「そうか? それにしては、随分と目が泳いでいる。まぁ、話したくないことを無理に話させる様な真似をするつもりは無い。誰だってある筈だ。心の奥に仕舞って置きたい想いなど。往々にして、そういった想いを無理矢理こじ開けた結果、双方共に不幸になる話は古今東西、至るところから聞こえてくるからな。俺はそんな間抜けなことはしないさ」

 やれやれ。どう頑張ってもぼくは太助には勝てそうな気がしなかった。押したり、退いたり、巧妙に相手の心を揺さぶって情報を引っ張り出す。駆け引きの巧さでは、やはり、太助は桁が違う様に思えた。それに、何時もながら、その鋭い目には圧倒される。相手の些細な動きでも見逃すことは無い。それに、ここまで引っ張っておいて、退かれると、逆に追い掛けたくなっちゃうじゃない? まぁ、何時ものことだけど、時には罠にハマってみるのも面白いかも。

「ねぇ、迷惑じゃ無かったら……ちょっとお話しない?」

「フフ、何だ? 俺とデートしたくなったのか?」

「そ、そんなんじゃ無いよっ!」

「冗談だ。真に受けるな」

(ううっ……相変わらず、太助はイイ性格しているよね。こういうのは絶対長生きできないタイプだよね。あー、いやいや。案外長生きしちゃったりするのかも知れないね。ほら、昔から憎まれっ子は長生きするって言うもんね)

 不意に涼やかな風が吹き抜ける。木々の葉を揺らす風は、妙に纏わり付く様な湿気を孕んでいた。何時の間にか、空には不穏な暗雲が立ち込め始めていた。

「まぁ、昔から、人に憎まれる奴は長生きすると言うからな」

 太助の言葉に呼応するかの様に空が唸りを挙げた。見事に重なった切り返しに、ぼくは言葉を失い、思わず息を呑んだ。

「あ、アレ? もしかして……」

「心の中の呟きは、心の中だけにした方が良いかも知れないな」

 太助はぼくの表情を覗き込みながら、不敵な含み笑いを浮かべてみせた。きっと、ぼくは真っ赤になっていたと思う。コタの妙なクセはぼくにも伝染しているみたい……。ああ、何て微妙なクセが伝染しているのだろう。ペットは飼い主に似るというけれど、ううーん、どっちが飼い主だろう? ぼくがペットなのかな? うわー、それって何か、凄く嫌だなぁ。

 アホなことを考えていると、今度ははっきりと空が唸る音が聞こえた。夕立が降り出しそうに思えた。慌ててカバンを探れば、折り畳み傘がしっかりと存在感を主張していた。不測の事態に備えて準備しておいたのは正解だった。日頃からの準備の良い自分を褒めてあげたいところだ。そんなことを考えていると、不意に、太助がぼくの隣に並ぶ。そのまま太助は力強くぼくの肩に腕を回してみせた。

(あ。香水の良い香りがする。大人っぽい香りだなぁ。やっぱり、悔しいけれど、太助は格好良いよね。ぼくも太助みたいに男前に成りたいなぁ)

「褒めてくれるのは嬉しいが、似合わぬ演技をするのは止めた方が良いぞ?」

「あ、アレ? ぼくってば、またしても心の声を?」

 返事は無かった。ただ、相変わらずの含み笑いを浮かべたまま、組んだ腕に力を入れてみせた。ぼくは太助の熱い体温が伝わってくる様を確かに感じていた。太助は穏やかな笑みを称えたまま、ぼくの表情を覗き込んでいた。

「人には個性がある。俺には俺の、輝には輝の個性がある。考えてみろ? 俺みたいな振舞いをする力丸や、大地みたいな振舞いをする小太郎はどうだ?」

 思わず想像してしまった。妙にクールで役者染みた振舞いをするリキに、ロックの特徴あり過ぎる口調で陽気に喋くり回るコタか……。うーん、想像してみると、違和感ありありだよね。

「そうだろう? 輝は輝の個性を大事にすれば良い」

「そっか。そうだよね」

「輝は子供染みた自分を嫌っている様子だが、俺からしてみれば、愛嬌のある姿は羨ましく思える。警戒心を抱くこと無く、親しみを持って接することが出来る。それは、輝の持つ大きな武器だと思うぞ?」

「え? えへへ。そうなのかなぁ?」

 やっぱり太助は口が達者だよね。何だか、上手い具合に良い気分にさせられちゃった気がする。そんなこんなで、徒然に他愛も無い話しをしているうちに、ぼく達は法然院に訪れていた。哲学の道は、確かに、一人で考えごとをするには良さそうな場所だけれど、雨が降り出しちゃったら遮る物が何も無い。こんな所でびしょ濡れになっちゃうのは困る。そう考えた時に、この近くで、屋根のある場所。なおかつ、お話するのに適した場所。そう考えたら、丁度、法然院が思い浮かんだ。だから、ぼく達は法然院を目指すことにした。

 それにしても、太助はまるで、ぼくの心が読めているみたいに思えた。他に選択肢が多く無いこともあるけれど、もしかしたら太助自身のお気に入りの場所の一つなのかも知れない。そんなことを考えていた。

「御名答。法然院は俺の好む場所のひとつだ。この寂莫とした風情は、俺の好みに合う場所でな」

  法然院の山門が見えてきた所で、得意げに笑って見せた。やはり、太助はぼくの心が読めるのだろうか? ううーん、一体どういうカラクリなのだろうか? ますます好奇心を掻き立てられるなぁ。

「まぁ、色々と話したいこともあるだろうから、このまま法然院に入るとしよう。屋根がある場所ならば、雨露も凌げるというものだ」

「そうだね。それじゃあ、法然院に向かおう」

 太助は相変わらず不可思議な子だと思う。強さと儚さ、相反する二つの姿が共存している様に思える。ぼくと二人だからなのかな? 何だか皆と一緒に居る時の太助とは、どこか雰囲気が違う様に思えた。普段の押しの強い、強気な振舞いが鳴りを潜め、素顔の自分が姿を現している様に思えた。

「俺も、輝も、似た者同士ということだ」

「え? どこが似ているの?」

「共に月の様な存在だ。自らは光を発することは出来ず、他者が放つ光をその身に浴びて、光っている様に見せ掛けるだけの存在。言うなれば、存在自体が虚ろで、曖昧なのかも知れないな」

 何だか太助は、ぼくの反応を見て楽しんでいる様にしか見えなかった。でも、同時に嬉しくもあった。普段はあまり感情を表に出さない太助が、感情を表に出してぼくに接してくれている。照れ臭いから口には出さないけれど、ぼくからすれば、太助は憧れの対象だ。成りたい自分の理想像と言っても良い。どんなに手を伸ばしても届かない、遥か遠くにいると思っていた存在が、手の届く距離に歩み寄ってくれるのって何だか凄く嬉しいことに思えた。そんなぼくの心の内さえも見抜いているのだろうかと、ドキドキしながら表情を窺えば、太助は穏やかな笑みを称えるばかりであった。

(今更だけど、ぼく、そんなに心の声を無意識のうちに喋っちゃっていたのかな? 何か、自然に受け答えしちゃっていたけれど、良く考えると何とも不思議な気がする。ま、細かいことはどうでも良いか。ただ、ひたすらに今を生きるとしよう)

 ぼく達は緩やかな石段を登り、静まり返った法然院の山門を潜り抜けた。視界の先には白砂壇が静かに佇んでいた。何時訪れても変わることの無い、綺麗に整えられた砂は、だからこそ、目にした時に安堵感を覚える。

 周囲の景色に目線を投げ掛けている時であった。唐突に天地が逆転するかの様な浮遊感を覚えた。

「え?」

 天と地が逆転して、大空目掛けて一気に墜落してゆくような不思議な感覚を覚えていた。

「う、うわっ! お、落ちる! 落ちる! うわああーーーっ!」

 ぼくは必死で何かに掴まろうとした。無駄な足掻きでしか無いことは重々承知している。掴めるもの何か何も無い筈だ。でも、このままでは奈落の底に墜落してしまう。慌てて手を伸ばした瞬間、誰かに腕を掴まれた。

「だ、誰っ!?」

 唐突に電波ジャックされるかの様に、ぼくの視界が揺らぐ。酷く電波の悪い場所でテレビを見ている様な不思議な映像が映し出された。何処までも続く大空の情景と、どこかの家の情景とが交互に混ざり合う不思議な情景を静かに見つめていた。不思議と、自分でも驚くほどに冷静に振舞っていた。

 不意に、喉に酷い違和感を覚え、ぼくは激しく咳き込んだ。体中が震えるほどの衝撃を覚えながら、酷く痛む胸を押さえながら、ぼくは何度も、何度も咳き込んだ。慌てて息を吸いこもうとするが、それさえも阻むかの様に咳が飛び出してくる。

(ま、まずい! このままじゃ窒息しちゃうって!)

 それでもぼくは必死で息を吸い込んだ。当たり前の様に出来るハズの呼吸という行為が出来なくなる。それが、こんなにも恐ろしいことなのかと、妙に冷静に考えていた。だが、必死で力を篭めても、息は中々吸い込めなかった。いよいよ目の前が白々と染まり上げたかと思った、次の瞬間、一際大きな咳が出た。体中を震わせる程に深く、重たい咳をした瞬間、胸に信じられない程に激しい痛みが駆け巡った。ついでに、何かが口から吹き出した。液体が逆流する様な感覚に驚き、慌てて両手で抑えた。手の平からは妙に血生臭い匂いがした。妙にベタベタした感触に、恐る恐る手を広げてみれば、両の手は真っ赤な鮮血に染まっていた。

「う、うわぁっ! な、ナニ、これっ!?」

 ああ、どうしたことだろう……。酷く意識が朦朧とする。そもそも此処は一体何処なのだろう? そこは見覚えのある光景だった。どこかの家の中。随分と大きな部屋に、ぽつんと敷かれた布団。そこにぼくは座り込んでいた。周囲を見渡すぼくの目に金色の屏風が留まった。

(やはり、この場所は以前見た情景と同じだよ。それじゃあ、今、ぼくは……前世のぼく自身になっているということなのかな?)

 やはり胸がジンジンと酷く痛む。呼吸をするのも困難な程に締め付けられる感覚を覚えていた。咳き込んで血を吐くとは、余程酷い病に侵されていることは間違いない。それに、今、気付いたけれど随分と小さな手だ。まじまじと手を見つめてみる。どう考えても、ぼくの手とは比べ物にならない大きさだ。間違い無く子供の手の大きさだった。やはり、前世のぼくになっているのは間違い無さそうだ。

(ああ、それにしても……血を吐いたせいか、喉に何かが張り付く様な感触が気持ち悪い。水、水を飲みたい……)

 水を求めて起き上がろうとするが、まるで力が入らない。起き上がろうと必死でもがくが、どんなに頑張っても体は石の様に重く、硬く、まともに動きそうに無かった。酷い高熱に見舞われているのか、視界さえも揺らいで見えた。

(どうしよう……うう、凄く苦しいよ……)

 呼吸をするという当たり前の行為が、こんなにも困難になろうなんて想像もしなかった。喉を掻きむしりたくなる程に苦しかった。誰かに首を絞められている様な、喉に何か縄の様な物が巻き付いている様な感覚で、満足に息を吸うことも、吐くことも出来なかった。苦しみ、喘いでいると、不意にぼくの視界には、見たことの無い女性の姿が飛び込んできた。深い色合いの紫の着物を身にまとった女性だった。

(この人は誰だろう? 見知らぬ人だ)

「ああ、輝ちゃん、こんなに血を吐いちゃって可哀想に……。痛かっただろう? 苦しかっただろう? すぐに楽にしてあげるからね」

 妙に緊迫した表情が気になった。何か、酷く切羽詰まった様な険しい表情。額には玉の様な汗が滲んでいた。

(この女性は一体何をそんなに、動揺しているのだろう? ぼくが血を吐いたから?)

「さぁ、これをお飲み。楽になるよ」

「ああ、飲み物! 欲しかったんだ。飲み物が。胸が苦しくて、苦しくて……」

 差し出された湯呑を手にするぼくの表情を、その女性は相変わらず険しい表情で見つめていた。かと思えば、不意にポロポロと涙をこぼし始めた。

「え? おばちゃん、どうして泣いているの?」

「輝ちゃん、ごめんよ。本当にごめんよ! どうか、あたしを……あたしを恨まないでおくれ!」

(この人は一体何を言っているのだろう? ああ、それよりも今は水分が欲しい……)

 少々、異様な匂いが気になったが、喉の渇きにいよいよ耐えられなくなったぼくは、一気に湯呑の中身を飲み干した。

「うぐっ!?」

 喉を駆け抜ける凄まじい刺激と激痛に、ぼくは咳き込んだ。ただひたすらにむせ込んだ。

(こ、この飲み物は一体、何!?)

「ああ、輝ちゃん……。どうか、あたしを許しておくれ! こうするしか無かったんだ! ううっ、どうか、どうか……」

 畳に額を擦り付けながら謝罪をされても、苦しみが消えることは無かった。それどころか、喉から胸に掛けて、一気に燃え上る様な激痛が駆け巡って行った。多分、胃の中まで酷く焼け爛れていたと思う。煌々と燃え盛る木炭を呑み込んだとしか思えない様な激痛を覚えていた。咳が止まらない。

「げほっ! げほっ! うぇえっ! はぁっ……はぁっ……」

 どんどん視界が赤く染まってゆく。多分、激しく咳き込みながら血を吐いていたと思う。息も吸えない程に酷く咳き込み続けていた。やがて、指先がチリチリと痺れながら、冷たく、冷たく、体温を失ってゆくのを感じていた。ゆっくりと視界が白々と染まってゆき、次第に痛みさえも感じなくなろうとしていた。

「嫌だ……嫌だよ……。死にたく無い……死にたく無いよ! 誰か! 誰か! 助けて! お願い……ああ……あ……」

 薄れ往く意識の中、必死で救いを求めて手を伸ばそうとしたけれど、それも叶わなかった。あの紫の着物の女性が、取り乱した様子で走り去ってゆく姿を微かに見たのが最後だった……。

(ああ、このまま……ぼくは、死んでゆくの? どうして……どうして、ぼくが殺されなくちゃいけないの? ねぇ、あなたは一体何者なの?)

「おい、輝、大丈夫か?」

「え? あ、アレ?」

「どうした? 貧血か? いきなり倒れそうになるから、驚いたぞ。大丈夫か? 立てるか?」

「あ、ああ。うん、大丈夫だよ」

(今のは一体何だったのだろう? あの女の人に関わる光景なのかな? 子供の姿をしたぼくが死んだ理由なのかな? ああ、深く考えるのは止めよう。意味が判らないだけだよ)

 再びぼくは太助と共に歩き出した。ぼく達は今まさに、法然院の入り口となる山門を抜けようとする所だった。

◆◆◆31◆◆◆

 法然院の山門を潜り抜けるのと、夕立が降り始めるのとは、ほぼ同時だった。

「予定調和のシナリオ通りに雨が降ってきたな」

 法然院の境内を回ろうかと思ったけれど、この雨ではいかんともし難い。仕方が無いので、ぼく達は再び山門まで戻ってきた。茅葺きの山門に雨が降り注ぐ柔らかな音色が響き渡る。白砂壇にも雨は容赦無く降り付けていた。辺り一面に良い香りが漂い始める。土の香り。石の香り。苔の香りに、木々が呼吸する香り。雨の香りは心を鎮めてくれる一服の清涼剤だと思う。このシットリとした、水気を孕んだ香り。すごく好きな香りだよ。

 法然院は紅葉の季節になると多くの人で賑わう。でも、ぼくは緑の息吹に包まれた夏の装いも好きだなぁ。木々達の必死で生きているという想いが伝わってくるから。どこかでヒグラシが鳴いているのかな? 物憂げな鳴き声が、この寂莫とした風情に良く合う。カナカナカナカナ。ずっと聞いていたく成る鳴き声だ。

 法然院の本堂は年に二度だけ開けられる。今の時期は閉ざされているけれど、でも、ただゆらゆらと境内を歩き回るだけでも心が落ち着く場所に思えた。綺麗に整備された玉石を埋め込んだ道も、地表を覆い尽くす瑞々しい苔の緑も、木々達の息吹も、心を穏やかにしてくれる。奇しくも夕立。激しく降り注ぐ雨。山門の茅葺きからも、規則正しく雫が零れ落ちる音が響き渡る。水の流れる音。雨粒が木々の葉に降り付ける音。雫が零れる音。大自然の音色が此処に集っていた。

「雨の法然院も、中々に趣があって悪くないものだ。もともと湿気の多い場所だが、なお一層の水気を孕んだ気候だ。この地に生きる木々や草花、苔達も喜んでいることだろう」

「そうだね。それに、少しだけ、気温も下がった様な気がするかな」

「ああ。辺りの木々達が呼吸をしているのだろう。涼やかなる木々達の息吹。こういう涼やかな空気も悪くはないものだ」

 太助は愛用の扇子で風を仰ぎながら、涼やかな顔で境内を見渡していた。思わず吸い込まれてしまいそうな横顔だった。絵になる姿と称しても、言い過ぎでは無いと思った。

「太助、あのね……」

「ああ。安心しろ。耳はしっかりと傾けている。それとも……蛇に睨まれた蛙の気持ちを味わいながら、告白したいのか? フフ、中々に倒錯不能な甘美の誘いを心得ている様子」

「ぼ、ぼくは、そんなマニアックなシュミは持ってないから!」

 返事は無かった。代わりに空気が抜ける様な、静かな含み笑いを浮かべて見せた。丁度、何処かで小鳥がさえずる声が響き渡った。静けさに満ちた新緑の木々の中、小鳥の甲高い声が色を添えてゆく。恐らく鳥達も雨宿りをしているのだろう。姿形は見えなくても、同じ場所に居る以上、ぼく達とも友達だ。

「昨日、ぼくは桃山先生と花見小路で出会った。それは本当に偶然だったんだ……」

 太助は聞いているのか、聞いていないのか、良く分からない素振りで景色を眺めるばかりであった。ぼくは軽く呼吸を整えながら話を続けた。雨が茅葺きから零れ落ちる規則正しい水音が響き渡る。心地良い旋律だ。雨は嫌いだけど、時には、悪く無いかも知れない。

「桃山先生、匂い袋を買い物に来ていてね。そこで偶然に出会ったんだ。それで、丁度今みたいに派手な夕立に見舞われてね。そのまま、しばらくはお店で一緒に匂い袋を見ていたんだ」

 相変わらず辺り一面からは、雨粒が木々の葉を叩く音が響き渡る。此処まで話をしたところで、不意に太助がこちらに向き直った。少々驚いた素振りで、目を大きく見開いていた。思わず、ぼくは挙動不審なまでに動揺してしまった。

「え、えっと……ぼく、何か、可笑しなこと言った?」

「話の腰を折ったことは謝る。だが、昨日は夕立など無かったぞ?」

「え? でも、ぼく、確かに……」

「ウソを付いているとは言っていない。だが、その時間帯、賢兄は買い物がてらに四条の界隈を走っていた筈だ。丁度、賢兄から電話があったタイミングだからな。良く覚えている。だが、俺の家に到着した時、賢兄は全く濡れていなかった。バイクで走っていて夕立に遭ったならば、相応に濡れる筈だ」

「え、えっと……どういうことなのかな?」

 ぼくは一気に背筋が寒くなってゆく感覚を覚えていた。ウソを付いている訳では無い。確かに、派手に降り頻る雨を見届けたのだから。でも……良く考えてみれば、可笑しな点がある。あの時は意識しなかったけれど、改めて、冷静になって考えてみれば不可解な点が幾つもある。

「あ! そういえば、昨日立ち寄った匂い袋の店、昨日初めて見た気がするんだよね。ほら、新しいお店が出来ることは珍しいことでは無いけれど、それでも、近所なのに気付かなかったって、何か変だよねぇ」

 ますます背筋が寒くなる。涼やかな湿気を孕んだ雨は、先刻までは心地良い清涼感を覚えていたが、今は、薄ら寒ささえ覚える程にヒンヤリとした冷気を孕んでいる様に思えた。同時に、何時しか辺りには濃い霧が立ち込めていた。視界を遮る程の濃い霧のお陰で、ぼく達の佇む山門だけが隔離されてしまった様に見えた。先刻まで、すぐ視界の先にあった白砂壇さえも隠されてしまう程に濃い霧だった。しかも、冷凍庫の中から湧き出してきたかの様な異様な冷気を孕んでいた。

「フフ、何やら奇妙な話になってきたみたいだな。数珠が散ったのと関係があるかも知れない。輝、周囲の異変には構うな。そのまま昨日あったことを全て聞かせてくれ」

「え? う、うん……」

「大丈夫だ。小太郎には絶対に口外しない。俺と輝、二人だけの秘密だ」

 二人だけの秘密……。その一言に、ぼくは妙な喜びを覚えた。太助とぼく、二人だけの秘密。秘密を共有し合う関係だなんて、何だか、凄く親しい間柄になった様な気がした。これまで、ぼくは誰かを距離を近付けたくても近付けることが出来ないもどかしさに、何度も苦しめられた。それも、これも、全部、あの忌まわしい能力のせいだ。でも……太助は、ぼくに「約束」してくれた。何だか、とても嬉しい気持ちで一杯になった。太助ならば信じても大丈夫だろう。むしろ、全部、聞いて欲しかった。ついでに、ぼくは間違えていないと言って欲しかった。図々しいのは判っているけれど、やはり、一人で抱え込むのは辛かったから。

 何時の間にか、ぼく達の周りには木々の魂達も集っていた。明確に姿を確認することは出来なかったけれど、確かに、ぼく達の周囲に佇んでいた。命が尽きようとしているのでは無いのは法然院の木々を見ても良く判る。ぼくを気遣って姿を現してくれたのかも知れない。あるいは力を貸してくれようとしているのかも知れない。木々の魂達に後押しされて、ぼくは確かな勇気を貰った様な気がした。だから、ぼくは思い切って、何もかもを話そうと考えていた。大丈夫。ぼくは一人じゃないのだから。

「雨が上がった後、ぼく達は喫茶ポワレに向かった。そこで、ぼくは自分の母親の話を聞かせたんだ。それから、桃山先生自身の身の上話も。それでね、その後で、一緒に宇治に行こうって話になってね」

「宇治? 宇治川を見に行こうとした訳か」

「うん。ぼく達は宇治に向かって、宇治川を眺めていたんだ。色んな話をした。その中で、ぼくは……」

 ああ。いざ、この話をしようとすると、やはり緊張する。すごくドキドキするし、太助に変な奴だって思われないか凄く怖いよ。でも……逃げてばかりの人生の中で、ぼくは何も得られなかった。変わるんだ。ぼくは変わるんだ。昨日までのぼくにサヨナラを告げるんだ。

「桃山先生と一緒に泣いた。それから、抱き締めて貰って、頭撫でて貰って……。桃山先生の手、とても冷たくてね。でも、ぼくを抱き締めてくれた時、桃山先生の体、とても暖かかった。嬉しかったんだ。ぼく、ずっと誰かの愛情に飢えていたから。優しくされたかったから……」

  ちょっとでも迷ったら、話せなくなってしまいそうな気がした。だから、勢いに任せて一気に捲し立てた。

「えへへ、ぼく、格好悪いでしょ? 男のクセに……情け無いよね」

 半ばしどろもどろになりながら語った言葉だけに、支離滅裂だった気がする。果たして、伝えたい情景はちゃんと伝わったのだろうか? 心配になりついでに思わず吐息が零れる。

 何時しか雨足も弱まり始めていた。ザーザーと派手に降り付けていた雨も、ポツリ、ポツリと残り香の様に降るばかりであった。相変わらず、妙な冷気を孕んだ濃い霧は立ち込めたままだった。

「格好悪くないさ。仮に――」

 太助はぼくの肩に腕を回しながら、力強く笑って見せた。

「輝のことを馬鹿にする奴がいたら、俺が黙って無い」

「え? い、意外な反応だなぁ」

「自らの弱さを誰かに見せる。それは、途方も無い勇気を要する行為だ。輝は俺に勇気を見せてくれた。俺は輝の勇気に応えたい。男として。友として」

「えっと……な、何か、仰々しいよね」

「ふふ。義理堅いと言ってくれ」

 太助は可笑しそうに笑いながら、ぼくの肩に回した腕に、さらに力を篭めて見せた。間近に顔を近付けられて、ぼくは思わず照れ臭くなって俯いていた。

「輝、改めて昨晩の出来事を振り返ってみて、どう感じた? 奇異に感じないか?」

「うーん、言われてみれば……妙だよね。確かに、普段の桃山先生は、ぼく達のお姉さんみたいな振舞いをしていたけれど、昨日の桃山先生の振舞いは……」

 言い掛けながら、ぼくは思わず、屋上で目の当たりにした情景を思い出し、背筋が寒くなった。太助に気付かれないように、ついつい、両手が股間に移ってしまう。変なシミとかになっていないか、急に不安になった。幾らなんでも、そんな格好悪い姿までは見て欲しく無かったから。だが、考え込むぼくを後目に、太助が鋭く割って入った。

「ああ。教え子に接する態度では無いな。教師としての桃山では無く、一人の女として輝に接していた。それも、色香で堕とすかの様な振る舞いだ」

 抱き締めてくれたことと言い、涙を流して見せたことと言い、昨晩は、ぼくもすっかりのぼせ上っていたから、冷静に受け止めることは出来なかったけれど、冷静になって考えてみると、かなり可笑しな話だと思う。それに、昼過ぎに屋上で見た情景……。もしかしたら、あの情景こそが、昨日、桃山先生が何時か語ると言っていた「秘密」だったのかも知れない。でも、どうしてそんな情景を目の当たりにすることが出来てしまったのだろう? それも……情鬼の仕業なのだろうか?

「偶然、花見小路で出会い、偶然、夕立に降られた。その上、見知らぬ匂い袋の店へと至った。随分と、話が出来過ぎてはいないか? いや、むしろ、仕組まれたと言った方が正しいかも知れないな」

 桃山先生の行動、何処までが本心で、何処までが偽りだったのだろうか? あの温もりも、あの優しさも、偽りだったのかな? そうだとすると、すごく哀しいよ。ぼく、先生に抱き締められて、本当に嬉しかったのに……。ぼくは、輝彦君の変わりなの? それとも、桃山先生もぼくと同じなの? 気持ち良ければ、何だってしちゃうのかな? ぼくに……桃山先生を非難する権利は無いけれど、でも、純粋な気持ちを踏み躙られたのは、とても、とても哀しいよ。

「輝、我を見失うな。牡丹灯籠の話、その末路がどういう物であるか、良く心得ているだろう?」

 牡丹灯籠―-哀しい恋の物語。恋の果てに死んでしまったお露。想いを寄せる新三郎の下に夜な夜な通い詰めるという物語。でも、欲に目が眩んだ使用人のお陰で、最終的に、新三郎も殺されてしまう。新三郎のほんの僅かな慈悲心が招いた結末……。

(ぼ、ぼくも……殺されてしまうの!? 駄目だよ! 嫌だよ! そんなの、絶対に、困るよ!)

「しかし、妙な話だな。情鬼は我が子を失った母親だと考えていたが……母親の振舞いとしては、余りにも違和感があり過ぎるな。何か、俺達の窺い知らない裏事情でもあるのだろうか?」

 雨はすっかり上がり、雲間から日差しが覗き始めていた。何とも幻想的な光景だった。厚い雲の隙間から差し込む光が美しかった。深い霧が立ち込める境内に差し込む日差し。霧が濃いからこそ、より一層幻想的な光景に思えた。

「うわぁ……何て幻想的な光景なんだろう」

 身に迫る危機をそっち退けで、ぼくは思わず、大自然が織り成す幻想的な自然現象に見入ってしまった。

「薄明光線という現象だな。一般的には『天使の梯子』とも呼ばれる」

「相変わらず太助は博識だね。尊敬するよ」

「フフ、無駄な雑学だ」

 二人で笑い合っていると、不意に、ぼくの携帯が鳴り響いた。静けさに包まれた新緑の景色の中に、何とも違和感のある人工的な音色が響き渡る。慌ててポケットから取り出してみれば、見慣れない番号が表示されていた。

「アレ? 見たこと無い番号だよ? まーた迷惑な勧誘かなー?」

「ほう? またしても妙な偶然だな。輝、出てみろ」

「うん。あ、もしもし?」

「もしもし……フフ、輝君? 判るかしら? 桃山よ?」

 これも偶然の産物なのだろうか? 電話の向こうから聞こえてきたのは桃山先生の声だった。何やら、頻りに声を押し殺した様な笑い声が混じるのが、何とも不気味に思えた。それよりも、何よりも、ぼくは桃山先生に携帯の番号を教えていないのに、これも偶然だとでも言うの? 幾らなんでも有り得ないよ。ぼくは思わず太助に目で訴え掛けていた。太助が小声で、話を続けろと言った。ぼくはその言葉に従うことにした。

「あ、ああ、桃山先生。どうしたの?」

「輝君、今晩……お時間あるかしら? 良かったら、お夕食でも一緒にどうかしら?」

 電話の向こうから聞こえてくるのは、確かに桃山先生の声だった。でも、どうにも、桃山先生であって、桃山先生では無い異質な存在に思えて仕方が無かった。何よりも、ハキハキした口調が特徴の桃山先生とは、まるで異なる別人の様な口調だった。妙に艶めかしい、どこか湿気を孕んだ声だった。時折混じる喘ぎ声の様な甘い吐息に、背筋が寒くなる感覚を覚えていた。ゾッとする様な異様な色香を孕んだ声色に、ぼくはむしろ恐怖を覚えていた。

(こ、この感覚……輝彦君に向けられていた姿と同じだよ。ああ、桃山先生、一体何を考えているの? やっぱり、昨日の涙もウソだったの? 演技だったの?)

 問い質したいことは幾らでもあった。でも、これは同時に好機なのかも知れない。もしも、桃山先生に情鬼が関与しているのだとしたら、隙をついて追い出してしまいたい。そうさ。全部、全て、情鬼がそう仕向けているに違いない。可笑しな幻を見せて、ぼくの気持ちを揺さぶるつもりなんだな? 思い通りになって堪るものか。ぼくの心を弄んだこと、絶対に許さない! 今のぼくには仲間達がいてくれる。桃山先生に悪さをするつもりならば、尚更見逃す訳にはいかなかった。ついでに、ぼくの心を弄んでくれた代償も支払って貰わないことには納得できそうにない。

「そ、そうだね。ぼくも、桃山先生ともっとお話ししたかったからね」

「フフ、可愛いこと言ってくれるじゃない?」

「そ、それで、場所は何処にしようか?」

 ぼくと桃山先生のやり取りを横目に、太助は携帯片手に誰かと話をしている様子だった。恐らく、コタ達に連絡を取っているのだろう。

「場所は祇園四条の南座前にしましょう。それじゃあ、また後でね」

「うん、判った……」

 既にぼくの背中は汗でビッショリだった。何とも言えない不快な感覚で、体中の毛が逆立ちそうになっていた。どう考えても、電話の向こうにいるのは桃山先生に思えなかった。声だけを精巧に真似した得体の知れない存在にしか思えなかった。

「太助、場所は南座前だよ。皆を呼び集めて!」

「既に小太郎に連絡を入れた。後は小太郎が呼び集めてくれるだろう。俺達は待ち合わせの場所に向かうぞ」

 不意に、ぼくの背に何か重みのある物が乗っかった様な感覚を覚えた。巨大な石を背負っているかの様な、強烈な重圧感に、ぼくは立っていられなかった。思わず膝から崩れ落ちていた。太助はぼくの身に振り掛かった異変には気付いていない様子だ。

「おい、輝? 大丈夫か?」

「あ、う、うん。ちょっと、立ち眩みしちゃった。えへへ」

  一体、何だったのだろう? 体中の力が抜き取られる様な感覚を覚え、立っていられなくなった。これも情鬼の仕業なのだろうか? いずれにしても、何を企んでいるのかは判らないけれど、ぼくは逃げたくなかった。少なくても、桃山先生を守り抜かない訳にはいかなかった。全然、無関係なのに、情鬼に便利に利用させる訳にはいかなかった。大丈夫。皆で力を合わせて、確実に討ち取るのだから。

(木々の魂達、どうか、ぼくに力を貸して! 何も恩返し出来ないかも知れないけれど、何度でも、この場所を訪れるから。だから、どうか、力を貸して!)

 結局、誰かの手を借りないことには、どうすることも出来ないのは悔しいけれど、ぼくは非力だ。無力だ。その事実は受け入れなくちゃ駄目だ。一人で立ち向かって勝てる相手じゃないし、相手は、ぼくが単独行動を取るように挑発している。相手の術中に嵌ってはお終いだ。ぼくは受け入れるさ。弱さも、儚さも。

◆◆◆32◆◆◆

 ぼく達は銀閣寺前まで急ぎ移動し、そこからバスで四条河原街まで移動することにした。

 バスに揺られながら、雨上がりの、透き通る様な夕焼け空を見つめていた。今のぼくとは対照的なまでに穏やかな茜色。微かに残された暗雲の切れ端の様な雲をまたいで、鳥達が巣に帰ってゆく様を、ただ静かに見届けていた。不思議な気分だった。空はこんなにも透き通っているのに、どうして、ぼくの心は澱み、濁っているのだろうと。どうすることも出来ない感情に、ただ駆られるばかりであった。

「輝、不安か?」

「え?」

 不意に太助が声を掛けてくれた。多分、酷く不安そうな表情を浮かべている様に見えてしまったのだろう。憂いを覚えていたのは事実。だから否定するつもりは無かった。

「うん、そりゃあね。やっぱり、情鬼と対峙するのは怖いよ」

「そうだな。だが、輝の後ろには俺達がいる。信じろ……俺達が必ず守る」

「う、うん。ありがとうね」

 どうして皆、ぼくみたいなウソ付きのために振舞ってくれるのだろう。皆、本当にぼくに良くしてくれる。だからこそ、何時も、不安で仕方が無かった。本当のぼくの姿を知った時、皆、今までと変わらぬ接し方をしてくれるのだろうか、と。

「もうじき四条河原街に着く。俺達は周囲から様子を窺う。だが、何かあったら全力で逃げろ」

「うん。判っている。ぼく一人では立ち向かえる相手では無いからね」

「それを聞いて安心した」

 窓の外は夕焼け空の茜色に照らし出されて、街並みも、人も、皆萌え上がる様な色合いに包まれていた。通りの両脇に立ち並ぶ店々を見つめながら、バスはただ無情に街並みを走り続けて往く。相変わらず四条の界隈は人が多い。何時だってこの界隈は賑わいを見せる。同年代の子達が集団で歩いている姿が目に留まった。買い物帰りの地元の主婦達の姿も目に留まった。観光客も往来すれば、地元の人々も往来する。変わることの無い人々の日常。変わることの無い人々の暮らし。時の流れ。見慣れた景色。でも、そこに現れてしまったのは非日常の存在。情鬼。討ち取るしか無いんだ。ぼく達の変わることの無い日常を取り戻すために。やがてバスは祇園四条に到着しようとしていた。ここからは、ぼく一人の戦いになる。細心の注意を払って立ち向かわなければならない。

「確か、南座前で待ち合わせであったな」

「うん。そうだよ」

「俺達は少し離れた場所に集まることにする。後は上手くやれよ?」

「任せておいて」

 他の皆の姿を確認することは出来なかったけれど、太助は鴨川の方へと歩いて行った。鴨川で皆と合流する手筈になっているのだろう。ぼくは不安な気持ちを抱きながらも、横断歩道の前に立った。信号は赤。鼓動が急激に速まってゆく。恐怖心? 不安? 焦り? それとも……再び桃山先生に抱き締めて貰える喜び?

(はぁ……。ぼくはどうすれば良いのだろう)

 イヤ、答えは判っているんだ。情鬼に屈してはならない。桃山先生から情鬼を追い出さなくちゃ駄目なんだ。こんなところで、うずくまっている場合じゃないんだ。これは他の誰でも無い。ぼくの戦いなんだ。

 不意に信号が青になる。周囲の人々が一斉に歩き始める。少々出遅れたけれど、ぼくも慌てて人の流れに乗る。四条大橋を背に、南座前へと歩を進めてゆく。一歩、また一歩。ただひたすら慎重に歩んでいた。どこから奇襲を仕掛けられるか判らない以上、周囲への警戒を払わずには居られなかった。程なくしてぼくは南座前に到着した。

(アレ? 可笑しいな。南座前で待ち合わせのはずなんだけど?)

 もしかして、早く来過ぎたのかな? ぼくは慌てて時計を確認した。多少待ち合わせの時間よりは早いとは言え、極端に早い訳でも無い。恐らく、ぼくの方が先に着いてしまった。ただ、それだけの話なのだろう。仕方がない。出鼻を挫かれた感は否めなかったけれど、しばし待つことにしよう。

(何だか、凄く不安な気持ちになるなぁ。嫌な間だよね……。あーあ、心臓がバクバク言っているよ)

 早鐘の様に脈動を刻み続ける心臓を、抑える様に手を乗せてみれば、予想通りの振動が伝わってくる。不意に、甘い香りが風に乗って漂ってくる。覚えのある香りに、ぼくは慌てて振り返った。

「遅くなって御免なさいね」

「ああ、桃山先生。ぼくも、今到着したと……」

 言葉、最後まで言い終わること出来なかった。余りの驚きに。予想もしない光景に。

(え? い、一体どういうこと? 桃山先生、一体何を……?)

 異様な光景だった。道行く人々も皆、ぼく達にあからさまに怪訝そうな眼差しを向ける。

「え、えっと……桃山先生、その服って……」

「フフ、素敵でしょう?」

「で、でも……その服、喪服だよね。どういうこと?」

「さぁ、どうしてなのかしらね? フフ……」

 黒い和服に、綺麗に結い上げた髪。相変わらず、桃山先生は可笑しそうに笑うばかりだった。何故喪服なのか、違和感ばかりが募る。どう、問い掛ければ良いのだろうか? ぼくはただ、動揺することしか出来なかった。相変わらず、桃山先生はゆらゆらと揺らめく灯火の様に不穏な立ち振舞いを見せるばかりであった。それにしても、一体、誰の喪に付しているのであろうか? 不可解な感覚を覚えずには居られなかった。

「輝君、着いてきて。お店へ向かいましょう」

「う、うん……」

「今日は暑い一日だったからね。川床での食事というのも悪くないものでしょうね」

 やはり、奇異な雰囲気を否定することは出来なかった。桃山先生の姿形をしているけれど、感じられる気配がまるで違う。普段の桃山先生とはあまりにも異なる姿に違和感を覚えずにはいられなかった。だからと言って、下手に抗うのもまた危険性を伴う様に思えてならなかった。ぼくは仕方無く、桃山先生に案内されるがままに歩き出していた。

 信号を渡り、四条大橋へと歩を進める。桃山先生は髪を気にしているのか、時折手で具合を確かめている様に見えた。ただ、穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと四条大橋を歩み続ける。往来する人々は皆、一様に、怪訝そうな表情で桃山先生を見つめていた。共に歩むぼくにも奇異な眼差しは向けられた。どうにも肩身が狭い想いで、胸が一杯だった。そんな目でぼくのことを見ないで! 思い切り怒りをぶつけてやりたかった。でも……そんなことをすれば、ますます、皆の好奇の感情を満たしてしまうだけのことだろう。

(人は皆同じなんだ。自分よりも不幸な奴らを追い求めているんだよね……)

 喪服姿で歩む桃山先生の奇異な姿は、さぞかし皆の渇きを潤していることだろう。ああ、こんなにも憐れな奴らがいる。頭の可笑しい奇妙な奴らがいる。すれ違う人々の嘲笑う声が聞こえてくる気がする。自分よりも不幸な奴がいる。少なくても自分は、こんな可笑しな奴らより幸せなんだ。そうやって安心したいのでしょう? 少なくても、自分は最底辺にいる訳では無い。そうやって自分を納得させたいだけなんだ。納得することで今日を、明日を生きる糧にするんだよね。判って無いね。そういう君達こそ、本当に可哀想な人種だと思うよ。さっさと生きることに見切り付けちゃって、死ねば良いのにね。何だったら、ぼくが君達の無様な死を予見してあげても構わないんだよ?

 道行く人々には目をくれることも無く、桃山先生はあくまでも淡々と歩き続けていた。異様な光景だった。夕涼みする人々は皆、浴衣に袖を通している。団扇を片手に優雅に歩き回る姿に、確かな夏を感じる気がする。でも、少なくても喪服で歩き回るのは、あまりにも奇異な気がした。誰かの葬式に参列する訳でも無いのに喪服とは一体……。

(いや、先入観で物事を考えては駄目だ。確かに、ぼくは見届けたのだから。ぼくと同じ名前を持つ、幼い男の子の死体を。喪に付している……それって、もしかして、前世の輝の喪に付しているとでも言うつもりなの?)

 だとしたら、情鬼の振舞いとしては正しい様に思えた。そう。これは、ぼくに対する……ううん、ぼく達に対する意思表示なのだと考えれば辻褄が合う。言うなれば宣戦布告な訳だ。桃山先生の体は乗っ取った。自分の意のままに操ることが出来る程に、乗っ取っているのだと意思表示をしているのかも知れない。でも、好きにはさせない。桃山先生は返して貰うよ!

「輝君、こちらのお店はどうかしら? 鴨川の流れを眺めながらの夕涼みなんて、悪くないと思うけれど?」

 桃山先生が指さす先には、鴨川沿いに建てられた川床があった。華やかな提灯に彩られた様は、砕けた表現を使えばビアガーデンを思わせる雰囲気だった。貴船川の川床の様に風流な雰囲気では無く、やはり、ビアガーデンの様な活気と賑わいを見せていた。人々の笑い声が此処まで響き渡ってくる。忙しそうに往来する店の従業員の姿に目が留まった。

「え? あ、ああ。うん、そうだね」

「フフ、それじゃあ、行きましょう……」

 ああ、どうしたことだろう。何処を見ているのかさえも、判らない様な虚ろな眼差し……。その眼差しで見つめられた瞬間から、ぼくまで操られている様な感覚に陥った気がする。抗えないよ。ううん、違うよね。もっと、もっと、堕とされてしまいたい衝動に駆られるんだ。ああ、駄目だよ……。ぼくは桃山先生を救いたいのに、甘い誘惑に抵抗することが出来ない。判っているんだ。それは毒なのだと。ぼくを駄目にする、恐ろしい猛毒なのだと。でも……とても、とても甘い毒に、ぼくは触れてみたくて仕方が無くなっている。良いじゃないか? 毒に侵されて死んでしまっても。だって、そこには……心優しい母さんがいるのでしょう? ぼくを甘えさせてくれて、ぼくを抱き締めてくれて、ぼくの頭を撫でてくれて。そして、誰よりも、ぼくの幸せを、願いを叶えてくれる、ぼくを満たしてくれる、優しい、優しい母さんの存在があるのだから……。ごめんね、太助。ぼくを信じてくれたのに、ぼく、やっぱり駄目な奴だよ。目の前の誘惑に、あっさりと呑まれちゃったよ。違うよね。それもウソだよね。ぼくは……自分から、甘美な毒を口にしたんだ。死ぬかも知れないと判っていたけれど、それ以上に、ぼくは目先にある甘いお菓子に手を出したんだ。ただ、満たされたくて。ただ、愛が欲しくて……。全部、全て、偽りなのにね。

◆◆◆33◆◆◆

 夕暮れ時の店は賑わいを見せていた。やはり、こういう暑い季節には、涼やかな川床で涼を楽しみたいというのは人の常なのだろう。予想通り、賑やかに騒いでいた人々も、桃山先生を目にした瞬間、静まり返っていた。嫌な感覚だった。まるで見世物にでもされたかの様な気分で、酷く不快だった。対する桃山先生は、相変わらず涼やかな振舞いを見せるばかりであった。

「さぁ、ここにしましょう。輝君も座って」

「う、うん……」

 それでも、やっぱり桃山先生は綺麗だった。それに、麝香の甘い香りに包まれて、段々と可笑しな気分になってきた気がする。相変わらず、桃山先生は焦点の定まらない眼差しで、ぼくのことをジッと見つめていた。

「な、何?」

「照れているのかしら? フフ、可愛いわね」

「か、からかわないでよ……」

 もう、完全に桃山先生の術中に嵌っている様な状態だった。抗うことは出来そうにない。その、眼差しで見つめられる度に、矢で射抜かれた様な感覚を覚える。一体、どうしてしまったのだろう? 普段から見慣れている先生の姿なのに、どうして、こんなにも緊張するのだろうか。

「それにしても、今日は暑いわね……」

「そうだね……!」

 返事をしながら、何気なく桃山先生に目線を投げかけたぼくは、思わず凍り付きそうになってしまった。可笑しそうに笑いながらも、大きく肌蹴た胸元に、思わず目線が吸い込まれてしまいそうになった。周りには他にも人がいるのに、そんなこと、お構いなしに桃山先生は胸元を大きく肌蹴させてみせた。あの時、夢の中で見た桃山先生の一糸纏わぬ裸体が蘇ってくる。ぼくは思わず、股間を力一杯抑えていた。抑えながらも、必死の抵抗を見せることしか出来なかった。

「ちょ、ちょっと、先生! 幾ら暑いからって……そんな、肌蹴させちゃ駄目だよ……」

「あら? 何をそんなに動揺しているのかしら? フフ、可笑しな子ね」

 お、可笑しな子って……。何だか、桃山先生は悪酔いしているのでは無いかと、疑わずには居られない振舞いを繰り返すばかりであった。

(桃山先生が髪を結い上げた姿、初めて見たな。女の人って髪型ひとつで随分と印象が変わるんだなぁ。そ、それにしても……喪服って、何か妙に色気を感じちゃうんだけど……)

 ああ、こんな時にぼくは何を考えているのだろう。余計なことに気を取られている場合では無いよ。太助達と協力して、桃山先生の中に潜む情鬼を引き摺り出さなくちゃならないのだから。桃山先生を守るために、それに、ぼく自身の身を守るためにも。

(ぼくは変わるんだ。皆に頼るだけの弱い自分にはサヨナラするんだ。ただのオカルトマニアじゃないって、皆にも判って貰いたいんだ。それに……誰よりもコタに、もう、心配は要らないって安心して貰いたいんだ……そのための一歩なんだ。逃げる訳にはいかない!)

「フフ、輝君ってば、ここに興味があるのかしら?」

 桃山先生は尚も可笑しそうに笑いながら、さらに胸元を肌蹴させてみせた。何時の間にか、周囲の人々まで、イヤらしい目線を投げ掛けていた。わざとらしく、こちらをチラチラ見る人もいれば、あからさまに好奇の眼差しを投げ掛ける人もいた。確かに、ぼく達は酷く浮いた存在に見えたことだろう。親子でも無ければ、同年代の恋人同士でも無い。少々年の離れた姉弟にしても、それにしては、あまりにも妖艶な姉の姿に違和感を覚えることだろう。嫌な気持ちだった。酷く苛立って仕方が無かった。好奇の眼差しを向けられていることに酷く腹が立った。それ以上に、桃山先生を下品な目で穢そうとする輩の存在に腹が立った。

(怒り? 憎しみ? ううん、違うね。この想いは……殺意だよ!)

「輝君、周囲の人々のことなんて、どうでも良いじゃない? ふふ、あたしのおっぱい吸いたいのかしら? 輝君なら……好きなだけ、楽しませてあげても良いのよ?」

「な、何言っているの! もう、桃山先生、ほら、ちゃんとしてよ! 幾ら、暑いからって駄目だよ!」

 テーブル越しに思わず、身を乗り出した瞬間であった。いきなり、桃山先生の手が伸びてきた。「ひっ!」

 恐怖のあまり、ぼくは間抜けな声を挙げてしまった。ぼくの頬に宛がわれた桃山先生の手。やっぱり、ヒンヤリと冷たい感触だった。でも……何だか、妙な湿気を孕んでいて、まるで別人の手の様に思えた。正直、気持ち悪いとさえ思ってしまった。

「ほら? 手が冷たい女は、心は温かいって言うでしょう?」

「ねぇ、桃山先生……。もう、可笑しなお芝居は止めにしない?」

「お芝居? フフ、何を言っているのかしら?」

 なおも可笑しそうに桃山先生はクスクス笑いばかりであった。だから、ぼくはシッカリと座り込んで、桃山先生の目を見据えたまま、静かに問い質した。

「……それじゃあ、こう言えば良いのかな? 桃山先生に憑依する情鬼、と」

 それでも、桃山先生は相変わらず可笑しそうに笑うばかりであった。

「情鬼? もう、輝君ってば、何の話? 特撮物か何かのお話? 可笑しな遊びに誘うつもりかしら?」

「え?」

 可笑しいな……。もしかしたら、本当に、ただの勘違いだったのだろうか? 単純に、桃山先生は、ぼくをからかって楽しんでいるだけなのかな? だとしたら、何だか滑稽な話だなぁ。ぼく、一人で妙に必死になっちゃって、何だか馬鹿みたい。

「えっと……ちょ、ちょっと妄想が暴走しちゃっただけだから。あははー」

 嫌なやり取りに、ジットリと汗を掻いた気がする。ついでに……おちんちんの先も、じんわりと濡れてしまった。先生のおっぱいに吸いつく自分……想像したら、我慢出来なくなってしまいそうだった。輝彦君がそうしていた情景が鮮明に蘇り、ぼくは慌てて股間を抑えた。柔らかで、大きな、桃山先生のおっぱい。吸い付き、舐め回す輝彦君。その口からは白い液体があふれでていたと記憶している。子供、産んだ訳でも無いのに出るのかな? ああ、ぼくも……先生のおっぱい、吸ってみたいなぁ。桃山先生の母乳、飲んでみたいかも……。

 本当にぼくは駄目な奴だ。色仕掛けに容易く落とされるなんて、牡丹灯籠の結末と同じになってしまうだけだ。慌ててぼくは首を振って、可笑しな道へと誘う気配を振り払った。

「フフ、可笑しな輝君ね。さて、何か注文しましょうか? 暑いから涼しい物が良いわね」

 何時の間にか桃山先生は、肌蹴ていた胸元をきちんと正していた。本当に暑かっただけなのかも知れない。偶然が重なると、何だか不思議な現象が起こった様な気持ちになる。でも、それは都合の良い錯覚なのかも知れない。

(でも、数珠が切れちゃったことと言い、昨日の匂い袋の店に、夕立の件……。何か、不可解な出来事の謎が解明していないのが気になるな)

「会席料理なんか良さそうね。見た目にも涼しいでしょうし」

「えー、大丈夫? 高くない?」

「大丈夫よ。輝君が払えなかったら、あたしが奢ってあげるわ。ま、出世払いで良いわよ?」

「そういうのって、出世しそうな人に言うものでしょう? ぼくみたいにパっとしないオカルトマニアが出世する訳ないじゃない? 先生、人を見る目無いよね」

 何だ。何時もの桃山先生と変わらないじゃないか。確かに、少々風変りな服装だけど、意外性を求めているだけなのかも知れない。桃山先生は、妙にいたずらっぽい一面があるから、可笑しな行動を取って、周囲の反応を楽しんでいるのかも知れない。まったく、傍迷惑なことだよね。

「ふふ、知っているかしら?」

「え? 何を?」

「着物の下には、下着は着けないのが基本なのよ。今の、あたしもね……」

 ぼくの目を見つめたまま、テーブルの下でぼくの股間を足で優しく撫で回してみせた。

「ひっ!」

 思わず、テーブルの下を覗き込んだぼくは、またしても悲鳴を挙げてしまう所だった。艶めかしく伸ばされた真っ白な足。

「も、桃山先生! 可笑しな冗談は止めてよ!」

「ふふ、輝君って本当に可愛いのね。本当に相手してあげようかしら? 見てみたく無い? 輝君が産まれて来る時に通った場所を……」

「なっ!?」

 もう、ぼくは言葉を失うばかりだった。情鬼に立ち向かうとか、桃山先生を救うとか、色々なことを考えていたけれど、何もかもが吹っ飛んでしまった様な気がしてならなかった。

「それにしても……鴨川の流れる音、涼やかで良いわね」

「そ、そうだね。後は、周囲の喧しいオッサン達がいなければ、もっと涼やかなんだけどね……」

 再び素知らぬ顔で、何時もと何ら変わらぬ振る舞いを見せていた。いったい、何が真実で、何が偽りなのか、ぼくには訳が判らなくなっていた。ぼくを困惑させることが目的なのだとしたら、作戦は見事に成功しているとしか言えなかった。ご覧の通り、ぼくは面白い程に相手の術中に嵌っている。これでは皆に何と弁明すれば良い物か判った物では無い。ぼくは何処までも駄目な奴だ……。

「あら? 周囲の人々の話声が無いのでは、何だかお葬式みたいだわ」

「そうかな? ぼくは静かな場所の方が良いな。先生と二人っきりで食事。安心できるもの」

 調子に乗って軽口を叩いてしまったけれど、自分の言葉を改めて振り返り、ぼくは思わず耳まで真っ赤になりそうな感覚を覚えていた。勢いに任せて何て事を言ってしまったのだろう。これでは、自ら罠に嵌りに行くようなものでは無いか。慌てて桃山先生の表情を覗き込んでみれば、何時に無く穏やかな笑顔を見せていた。包み込む様な柔らかな笑顔に、ぼくはゆっくりと意識が遠のいて往く様な感覚を覚えていた。

「ねぇ、輝君?」

「ん? なに?」

 再び桃山先生は、ゆっくりと胸元を肌蹴させながら、うすら笑いを浮かべていた。先刻までの桃山先生の穏やかな笑顔とはまるで異なる妖艶な笑みだった。唇を盛んに濡らしながら、艶めかしく、ぼくの手を握って見せる。テーブルの下、桃山先生のヒンヤリとした手が、ぼくの指を一本、一本、捉えて往く。指先からゆっくりと、溶けていく様な、堕ちていく様な、甘い、甘い感覚を覚えていた。

「あ……ああ……せ、先生……駄目だよ……」

「ねぇ、輝君……あたしのこと、『お母さん』って呼んでも良いのよ?」

 だが、その言葉で、ぼくの体中の毛穴が一気に逆立った。目の前に座っているのは、間違い無く桃山先生だ。なのにも関わらず、ぼくの中では最大級の警戒心が鐘を打ち鳴らしている。こいつは危険な存在だと、ぼくの本能が語り掛けてくる。慌てて手を引っ込めようとしたけれど、信じられない位に強い力で握り締められ、身動きが取れなかった。

 不意に、辺りが静寂に包まれた。驚き、周囲を見回してみる。皆、時が止ったかの様に、硬直していた。ジョッキを片手にしたまま固まってしまっているサラリーマン風の男性。御膳に料理を載せ、運んできた状態で固まってしまったお店の女性。川の流れも、空を飛ぶ鳥達も、雲の流れも、何もかもが硬直していた。まるで、ぼく達以外の全ての時が止ってしまった様な情景だった。

(い、一体、どうなっているの!?)

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 桃山先生は静かに俯いたまま、唄を口ずさんでいた。どこかで聞き覚えのある歌だった。

「如何にいます父母、恙無しや友がき、雨に風につけても、思ひ出づる故郷……」

 なおも、不気味な笑みを浮かべたまま桃山先生は唄い続けている。

「も、桃山先生! しっかりして!」

「志を果たして、いつの日にか帰らん、山は青き故郷、水は青き故郷……」

 ぼくの声は届かないのか、桃山先生は尚も唄い続けるばかりであった。

「先生! ぼくの声が聞こえる!? お願い! しっかりしてよ!」

「……さぁ、輝? お母さんと一緒に帰りましょう?」

「ひっ! い、イヤだよ……ぼくは……ぼくは、皆と共に歩むんだ……」

「……どうしたの、輝? お母さんと一緒にお家に帰りましょう?」

「ち、近寄らないでっ!」

 その瞬間、桃山先生が……いや、情鬼が一気に顔を挙げた。結い上げた髪がパサリと崩れ落ちる。凄まじい眼光だった。射抜かれそうな程に、怒りの篭められた眼差しで、ぼくを睨み付けていた。忘れもしない顔だった。あの日、あの時、島原で遭遇した、あの薄気味悪い女本人だった。

「う、うわぁっ!」

「輝? 何をそんなに怯えているの? お母さんの顔が見えないのかしら? それならば、もっと傍で見せてあげましょうね……」

 絶体絶命の危機に直面していた。ゆっくりと伸びて来る手。ぼくは死を覚悟し、頭を抱えたまま、ただ情け無く悲鳴を挙げるばかりであった。ああ、ぼくは何処までも駄目な奴だ……。最期まで格好付かなかったな。ごめんね、コタ……。ぼく、もう助からないかも知れないよ……。

 その時であった。不意に、どこからか力強い声が響き渡った。

「鬼子母神! オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ……」

 聞き間違える訳が無かった。コタ達の声であった。静かに、力強く紡がれる真言は、大地を揺るがすかの様な脈動にも似た振動を孕んでいた。緩やかに周囲に染み渡ってゆく真言。心地良い旋律であった。

「くっ! 鞍馬山のカラス天狗の仕業か!? お、おのれ……邪魔はさせぬっ!」

「オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ……」

 桃山先生の姿をした何者かは、苦しそうに膝から崩れ落ちた。喉を酷く掻き毟りながら、何か、聞き取れない罵詈雑言を口にしていた。ぼくは腰が抜けて、逃げるに逃げられなかった。

「オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ!」

 一際真言が強く響き渡った瞬間、コタ達が一気に駆け込んできた。同時に止っていた時が、再び流れ始めた。

「きゃあ!」

「うわっ! な、何だ、何だ!?」

 川床を楽しむ人々の間を縫うようにして、コタ達が一気に駆け込んできた。

「輝、大丈夫か!?」

「ああ、コタ……。うん、助かったよ。でも、桃山先生は?」

「逃がしたか! 逃げ足の速い奴め……」

 太助が慌てて周囲を確認するが、微かな麝香の残り香以外、何も痕跡は残されていなかった。

「おい、コタ、どうするっ!?」

「一度、祇園さんに向かう」

「逃げた桃山はどうするのじゃ!?」

「後回しだ。今は輝を安全な場所に誘導することが先決だ。輝、立てるか?」

「う、うん……」

 結局、桃山先生は何処に消えてしまったのか、足取りは掴めなかった。ついでに、いきなり乱入してきたコタ達は、当然のことながら、お店の人から相応の苦情を言われ、その上、皆にも飲食代の援助をして貰うことになってしまうとは……。はぁ、ぼくは何処まで間が抜けているのだろう。でも、それ以上に、ぼくは桃山先生のことが心配だった。あの異形の情鬼が、桃山先生に何かしらかの悪さをしないとは限らなかったから、心配で、心配で仕方が無かった。でも、ぼくはコタ達と共に祇園さんへと案内されている身。今、ここで単独行動を取っても、何も良い結果は得られないだろう。少なくても、あの情鬼に襲われた時、ぼくは恐怖で身動きすら取れなかったのだから。本当に、ぼくはどうしようもなく駄目な奴だ。何が桃山先生を助けたいだ。何が皆を守るだ。自分の身も守れないクセに、偉そうなことを言えないよね……。ただ、ひたすらに無力で、非力な自分が悔しくて、悔しくて、それから……殺してやりたい程に憎かった。

◆◆◆34◆◆◆

 ぼく達は祇園さんに集まっていた。既に日も落ち、時刻は丁度逢魔が時に突入しようとしている頃だった。既に周囲は薄暗くなり、祇園さんを訪れていたであろう人達も帰り支度を始めていた。人の流れに逆らう様に、ぼく達は西楼門を抜け、本堂へと至る境内を歩んでいた。誰も口を開く者は無かった。皆、しっかりと前だけ見つめて歩み続けていた。重く張り詰めた嫌な空気だった。

「小太郎、この辺りで良いだろう」

 口を開いたのは太助だった。ぼく達は丁度、舞殿の前まで訪れていた。月明かりに照らし出された舞殿では、誰かが舞を振舞っているようにさえ思えた。幻想的な光景だった。ぼくは月明かりに照らし出された舞殿から目を離すことが出来なかった。

「輝、大丈夫か?」

「う、うん。ぼくならば大丈夫。怖かったけれど、皆が助けてくれたから……」

 結局、心を乱されたぼくのせいで、情鬼を取り逃がしてしまった。色仕掛けという、甘い誘惑に簡単に陥落した自分自身の心の弱さが浮き彫りになった。その揺ぎ無い事実が苦しかった。それ以上に、桃山先生に情鬼が憑依してしまったことの方が心配だった。このままでは桃山先生の身に何かが降り掛かるかも知れない。恐らく、非力なぼくでは何の役にも立てないだろう。そう考えると、悔しくて、悔しくて、ただ悔しくて仕方が無かった。あまりにも力を篭めて握り締めた拳の中で、今にも爪が突き刺さりそうだった。

「しっかし、厄介なことになっちまったな。確かに、さっき見た桃山さ、どう見ても化け物と化していたよな!」

 化け物……確かに、髪を振り乱した桃山先生の姿は、とても恐ろしかった。ぼく自身も死と隣り合わせの恐怖を覚えたのは事実だった。優しい桃山先生が異形の化け物になった。その事実からは目を背けることは出来ないのは判っている。それでも、ぼくの中では何かの間違いであったと思いたかった。受け入れたく無かった。そう……ぼくの得意の「ウソ」だったで、全て片づけてしまいたかった。言葉に出来ない程に深く、重苦しく、哀しい気持ちだった。ぼくが無力だったから? ぼくの手では解決出来なかったから? ぼくのせいだとしたら本当に申し訳が立たない。

「じゃが、どうするのじゃ? 桃山の行方は不明なのじゃ」

「心配には及ばない。未だ情鬼は完全に桃山を乗っ取った訳では無い。普段の行動を手繰ってゆけば自ずと答には至る筈だ」

 桃山先生……どうして情鬼に? ねぇ、桃山先生、ぼくのことを弟みたいだって言ってくれたことも、抱き締めてくれたことも、一緒に泣いてくれたことも、全部、ウソだったのかな? 情鬼がやらせたことなのかな? ぼくを惑わせるため? ぼくを……甘い罠に堕とすため?

 ぼくの中では目に見えない怒りの炎が燃え上がり始めていた。それは酷く身勝手で、弱いクセに虚勢ばかり張るぼく自身を咎めるかの様な、ううん。違うよね。ぼくを嘲笑うかの様に燃え上がる炎だった。体中が焼け焦げて行く様な痛みが駆け巡る。チリチリと炎に当てられて、ぼくの皮膚がゆっくりと捲れあがって縮んでゆく。このまま黒く煤けた消し炭になるまで、ぼくは怒りの炎に焼かれてゆくのかな?

「輝、大丈夫か? どこか痛むのか?」

 止めてよ……。どうして、優しい言葉なんか掛けるのさ。余計に惨めになるじゃないか。優しい言葉を掛けてくれているのに、温かい想いで接してくれているのに、今のぼくには、その振舞いが、その想いが激しく痛く感じられて仕方がないというのに。

「う、うん。大丈夫だよ。まだ、震えが止まらなくてね……えへへ」

「無理もない。唐突に情鬼に襲い掛かられたのだからな。だが、怪我が無くて何よりだった」

 コタはあくまでも淡々と振舞っていた。既に全ての事実を想定していたかの様な立ち振舞いに、ぼくは安堵感よりも強い嫉妬心を覚えていた。

(コタはやっぱり強いなぁ。ぼくとは全然違うよ……。はぁ、ぼくはこうやって、自分を責めることしか出来ない能無し。悔しいなぁ……)

「ねぇ、どうして……どうして、ぼくを助けてくれたの?」

「え?」

 どうしたことだろう? 心の中に渦巻く炎が凄まじい勢いで成長してゆく。怒りの炎? それとも嫉妬の炎? ああ、駄目だよ! 止めてよ! ぼくの心がかき乱されてゆく……。抑えることの出来ない激しい怒りに、憎悪に、体中が支配されてゆく。このままでは大変なことを口走ってしまう。ああ、駄目だよ! 誰か……誰か、ぼくを止めて!

「あ、あの時だって……そうだったよね? ぼくは助けてくれなんて頼んだ覚えは無いんだけどさ」

 イヤだ……。駄目だよ! 皆にひたすらに隠してきた自殺の事実まで口にしてしまうなんて、ぼくの心は一体どうなってしまっているの!? ねぇ、どうして、こんなにも訳の判らない動きをするの!? 怖いよ……怖いよ! ぼくが、ぼくで無くなってしまうみたいで、どうしようも無く怖いよ……。

(これが……ぼくの本心なのかな? 偽らざる、本当の想いなのかな? ぼくの……本心なの?)

 ぼくはそこまでしてコタに嫌われたいのかな? そこまでして皆と距離を開けたいのかな? 違うよ! 一人ぼっちはもうイヤなんだ! 孤立無援の寒さも、白さも、明日さえ見えない深い霧も、全部、全て、もうイヤなのに……。ぼくは、自分の手で築き上げた全てを壊してしまおうとしているの? どうして? 砂上の楼閣の最期を見届けたいの? 馬鹿だよね……。本当に救いが無い。そんなの甘えでも何でも無い。身勝手な思い上がりに過ぎないんだ。何の救いも無いのに……。

「皆もそうだよね? 結局、誰もぼくのことなんか判ってくれない。本当のぼくの想いを判ってくれなかった……」

 どうして、皆にまで怒りの矛先が向けられてしまうのだろう。違う……ぼくは、そんなこと、思っていない! でも、果たして本当にそうなのかな? ぼくは自分の本心にさえもウソを付いているの? ああ、もう判らないよ。何も判らないよ。何が正しくて、何が間違えているのか。

「お、おい、テルテル。落ち着けって! オレ達はお前の仲間じゃねぇかよ?」

「そ、そうなのじゃ。ワシらはちゃんと、お主のことを見ておるのじゃ!」

「黙って!」

 思わず声を荒げてしまった。皆一様に驚いた様な表情でぼくを見つめていた。もう、ぼくは取り返しのつかない所まで迷い込んでしまった。もう、どうしようもないんだ。このまま皆に嫌われて、嫌な奴と思われて消えて往くのが皆の為なのかな? あの情鬼と二人で暮らせば、もう、辛い想いも、苦しい想いも、しなくて済むのかな? 何か……もう、色々疲れちゃった。

「皆もさ、正直になろうよ。心の中では思っているのでしょう? ぼくのこと、ただのくだらないオカルトマニアだって、面倒くさいトラブルメーカーだって。そう思っているのでしょう!?」

 ああ、一体何をぼくは苛立っているのだろう。どうして、ぼくのために危険を顧みずに立ち向かってくれた仲間達に、こんな暴言を吐いているのだろう。見えない怒りに駆り立てられて、ぼくは自分の思いとは裏腹の振舞いをするばかりだった。でも、果たして、心を掻き乱されて暴言を口にしているのか、それとも、これが本心なのか、自分自身の心なのにぼくはすっかり見失いそうになっていた。暗く、深く、一寸先さえ見えない漆黒の闇夜。歩いている足元さえ見えない程に暗い道を、ぼくはただ、哀しく彷徨うばかりだったのかも知れない。

 でも、行動には結果が伴う。だからこそ当然の結果だった。それは、当然の結果であり、報いだった。皆、静かにぼくから目線を逸らした。そらみたことか! 思っていたことが当たっていたから、ぼくのことを正面から見据えることが出来なかったんだ!

(馬鹿みたい……)

 本当に、ぼくはどこまで馬鹿なのだろう。皆、そんなことを思っている訳も無いのに、勝手にそうじゃないかと決め付けた。行動に現れたから、そうに違いないと、間違えた根拠を得たつもりになっている。

(それで、ぼくは救われるのかな? 何の救いも無いよ……。差し伸べられた手を、ぼくは自ら突っぱねてしまったのだから)

「ああ、本当にお前は面倒な奴だな!」

「え? こ……コタ?」

 ぼくは思わず自分の耳を疑った。コタは冷たい眼差しで、ぼくを見つめたまま吐き捨てる様に言い放った。そこには一切の感情も篭められていなかった。ただ、氷の様な冷たさだけが存在していた。

「何故、ひとりで学校を抜け出した? 俺達からの追求を逃れるためか!? その結果、情鬼に憑依された桃山に襲われた。太助の機転が無ければ、今頃は、お前の願った通りに、彼岸の地に辿り付けていたことだろう」

「こ、コタ……」

「悪かったな。お前の願いが叶おうとした瞬間を邪魔して。だが、自らの手で引導を下せなければ、誰かに引導を下して貰うか。随分と甘ったれた考え方だな。そして、桃山は晴れて、お前を殺した犯罪者となる。暗い牢獄に閉じ込められて寂しい末路を辿ることになったことだろうな」

「も、桃山先生が……犯罪者?」

「そうなる筈だ。情鬼に操られて輝を殺した。そんな話、俺達以外の誰が信じる? 頭のイカれた奴だと一蹴されてお終いだ。そんな結末に至るであろうことすら、考えが及ばなかったのか? お前の下らない行動が、誰かの人生を破滅へと導く! その事実を、お前はどう償うつもりだった!? 応えろ、輝っ!」

 何も言い返せなかった。本当にぼくは身勝手な奴だ。そうさ……。さっき、皆が助けてくれなければ、ぼくは殺されていたかも知れない。本当の犯人は情鬼だ。だけど、そんな話、誰も信じる訳が無いんだ。ぼくを、その手に掛けてしまったことを桃山先生は一生悔みながら生きていく。それを止めることを出来なかったコタ達も、ずっと、苦しい想いを背負いながら生きて往く。

「輝、何も判っていないみたいだから言っておく。お前は一人で生きていると思い込んでいるのかも知れないが、それは、途方も無く大きな思い上がりだ」

「思い上がり……?」

 コタは皆を見回しながら話を続けた。静寂に満ちた夜半の祇園さん。月明かりだけが照らし出す、薄暗い境内の中、静かに風が吹き抜けてゆく。風が木々の葉を揺らす、涼やかな音色だけが染み入る様に響き渡った。

「そうだ。俺達は一人じゃない。相互に関係性を保ちながら生きている。誰か一人が欠けても、上手く機能しない。それが仲間というものだ。お前は自らの手で、その『絆』さえも否定しようとしている。つまりは、俺達の存在自体を否定するということに他ならない。その意味、判らないとは言わせないぞ」

 コタのこんな姿は初めて見た気がする。普段は物静かなコタは、一度怒り出すと手が付けられない程に荒れ狂う。燃え盛る炎の様に烈火の如き勢いで怒りをぶつけてくる。でも……怒っているにも関わらず普段と変わらない物静かな口調に、ぼくは並々ならぬ想いを感じていた。恐らく、そこにある感情は怒りじゃない。哀しみなのだと思う。ぼくのこと、誰よりも理解してくれていたコタだからこそ、ぼくの心無い言葉に、酷く傷付いてしまったのでは無いだろうか?

「ぼくは……」

 もう、訳が判らなくなっていた。ふと、皆の顔を覗きこめば、皆一様に哀しそうな目でぼくを見つめていた。恐らく、言葉すら出てこない程に衝撃を受けてしまったのだろう。全部、全て、ぼくのせいだ。ぼくが身勝手な行動を取り、助けて貰ったにも関わらずに、ありったけの暴言をぶつけたから。怒りに駆り立てられていたなんて言い訳にもならない。心のどこかで、皆のことをそんな風に見下しているのは事実なのだろうから。

(こんなの、ぼくの本心じゃない。そう、主張したって、誰も判ってくれないと思う……)

「皆、ごめんね。ぼく、最低だよね……。ごめんね……。他に、何も言葉、出て来なくて……」

 言葉の代わりに涙が込み上げてきた。もう、何がどうなっているのか、自分でも、自分の感情を見失っていた。どうして、あんな酷いことを口にしてしまったのだろう? 後悔だけが押し寄せる波の様に、繰り返し、繰り返し、ぼくを打ちのめしてゆく。

「皆、迷惑掛けて、本当にごめんなさい!」

 ありったけの力を篭めて、ぼくは叫んだ。皆、さらに困惑した表情を浮かべるばかりであった。静かに目線を逸らす皆の姿に、ぼくは自分の為し遂げたことの顛末を見届けた気がした。もう、戻ることは出来ないんだ。ぼくが悪いから。ぼくのせいだから。全部、全て、ぼくが悪いのだから!

「あ、ああ……」

 耐えられそうに無かった。気がつくと、ぼくは皆に背を向けて、走り出していた。暗闇に包まれた祇園さんの境内に、ぼくが走る足音だけが響き渡っていた。聞こえるのはぼくの足音だけ。当たり前だよね。誰も、ぼくの後を追い掛けて来る訳が無かったんだ。それさえも期待するなんて、ぼくはどこまでも図々しい奴だ。最低な奴だ。孤立無援の呪いから逃れられないのは当然の報いだ。因果応報。悪意ある行為には悪意ある結末しか与えられない。自業自得だ。全部、全て、ぼくの招いた結果なんだ。

(こうなるのを望んでいたのでしょう? 良かったじゃない。願い通りになって)

 何時しか、自分自身で自分を傷付けていた。だから、ぼくは走り続けた。立ち止まったら追い付かれてしまいそうで怖かった。救い様の無い自分自身に……。だから、ぼくは走り続けた。前も見ないでひたすらに走り続けた。何処を走っているのかさえ定かではなかった。それでも、ぼくは暗闇の中をただ、ひたすらに走り続けた。走って、走って、とにかく走り続けた。

◆◆◆35◆◆◆

 もう、何処を走っているのかさえも定かでは無かった。暗がりの中を、ぼくは前も見ずに、ただ、ひたすらに走り続けていた。皆から逃げて、現実から逃げて、自分と向き合うことからも逃げて。お似合いじゃないか? ぼくみたいな憐れな奴には、こんなお寒い結末しか与えられないんだ。こんな悲惨な顛末しか許されないんだ。こんな奴だから、誰かの死を見届けるなんていう忌々しい能力を授かったんだ。ぼくは……存在しては駄目な奴なのかも知れない。皆、本当に……ごめん。

 気が付けば、祇園さん前の大きな交差点に佇んでいた。信号が点滅して青から赤に変わる。丁度、ぼくの視界には速度を挙げて交差点に飛び込んでくるトラックの姿が飛び込んできた。

(ああ、あのトラックならば、確実にぼくを粉々に砕いてくれるだろう。哀しみも、苦しみも、全部、打ち砕いてくれるだろう。ごめんね、皆。本当にありがとう……。それから、さようなら!)

 覚悟を決めて、呼吸を整えて、道路に飛び出そうとした瞬間であった。

「え?」

 一瞬、宙を舞う様な感覚。次の瞬間、ぼくは派手に地面に叩き付けられた。

「うわっ! いたたたた……」

 一体何事かと慌てて起き上がれば、そこには涼やかな笑みを浮かべた太助の姿があった。戸惑うぼくに、そっと手を差し出して見せた。

「手荒な真似をして済まなかったな。だが、ああでもしなければ、今頃は交差点上に散らばる肉片と化していただろうからな」

「に、肉片?」

 壮絶な言葉に、ぼくは一気に背筋が寒くなった。

(え? ちょっと待って……どうして、ぼくは道路に飛び出そうとしたの? どうして、ぼくは死のうとしたの!?)

「え? えぇっ!? あ、ああ……な、何がどうなっているの?」

「輝、落ち着け」

 太助は相変わらず落ち着いた振舞いを見せる。

「立てるか?」

「あ、うん。ありがとう……」

 太助の手を借りて、ぼくは立ちあがった。握り締めた太助の手は凄く熱かった。燃え上がる炎に触れたかの様な、熱さにぼくは思わず目を見開いていた。

「手、凄く熱いんだね……」

「ああ、俺の手か? 能力を発揮している時は、手にも意識が集中するからな」

 能力? 発揮? 一体、何のことを言っているのか、ぼくはサッパリ理解出来なかった。怪訝そうな表情に気付いたのだろうか、太助が静かな笑みを浮かべる。

「なぁ、輝。法然院で語らった時、何故、考えていることを俺が理解出来ていたのか不思議に思っていただろう?」

「え? でも、それはぼくが無意識のうちに想いを口にしていたからじゃないの?」

「一部はそうだ。だが、全てでは無い」

 笑いながら太助に肩を叩かれた。少し歩くぞ。目で告げる太助の言葉に従い、ぼく達は夜半の東大路通を歩き始めた。人通りは少ないが、交通量は多い。道路を速度を上げて走り抜けて往く車の流れを、ぼくは見つめていた。

「俺と輝は、やはり良く似ている」

「ぼくと太助が?」

「そうだ。俺もまた、忌まわしい能力を持つ身だからな。誰にも理解されない苦しみ、一人で抱えなければならない絶望感、良く判る」

 どこか痛むかの様な自嘲的な笑みだった。太助は哀しそうに微笑みながら、そっと空を見上げてみた。ぼくも真似して空を見上げれば、綺麗な夜空が広がっていた。月明かりが優しく街並みを照らし出す。

「人の心が読めるのさ。見たくもない、人の心が勝手に見えてしまう」

「え?」

「見たくも無ければ、知りたくも無かった他人の心が見えてしまう。だから、相手が俺のことをどう思っているかも、何もかも見えてしまう。俺が人を拒む理由はそこにある」

 言いながら、太助は可笑しそうに笑いながらぼくの顔を見つめてみせた。

「まぁ、小太郎達と一緒にいるのは、居心地が良いからというのもあるのだけれどな?」

「……う、うん。それは、ぼくも同じだから」

「祇園さんでの出来事、確かに輝自身の本心だったのかも知れない」

 二人で並んで歩きながら、太助は前だけ見つめたまま独り言の様に呟いて見せた。

「まぁ、ここ数日、可笑しな体験に散々振り回されていたみたいだからな。人の心は本当に脆くて、儚くて、簡単に壊れる物だ。特に精神的な打撃というのは、例え小さな力でも呆気なく致命傷になる」

「う、うん……」

「皆を巻き込まぬ様、自分の手で何とか解決しようとしてみた。だけど、力至らずに失敗の連続。そんな自分に嫌気がさしていた」

「う、うん……」

「どうしてぼくはこんなに駄目な子なのだろう? それなのに、皆、ぼくのことを責めるどころか、優しく接してくれた。ああ、何てぼくは駄目な子なんだろう?」

「う、うん……」

「で、自分に向けられた怒りの矛先が、困惑ついでに皆に向けられた。そんな所だろうか?」

 太助は立ち止まると、可笑しそうに笑いながら、ぼくの肩に腕を回してみせた。ぼくはただ俯いて、涙がこみ上げて来るのを必死で抑えることしか出来なかった。

「ぼくは……ぼくは……」

 悔しくて、情け無くて、弱い自分が許せなくて……多分、自分でも、自分の感情が理解出来なかったと思う。湧き上がってくる感情に、ただ翻弄されることしか出来なかった。視界がジワっと滲む。涙、今にも零れ落ちそうだ。そんなぼくの肩を抱いたまま、太助は優しく微笑んでくれた。

「なぁ? 輝が成りたい自分とは、一体、どんな自分なのだろう?」

「え? ぼくが……成りたい自分?」

「ああ、そうだ。何だか輝の考えから汲み取ると、一人でも万事を完全無欠にこなせる、全知全能の存在に成りたがっている様にしか聞こえないのだが、俺の読みは間違えているか?」

「あ……」

 ほんと、ぼくは何処までも馬鹿だった。あまりにも馬鹿過ぎて、もはや、自分の馬鹿さ加減に呆れるばかりだった。呆れついでに思わず笑いがこみ上げて来る。

「あはは……無茶だよね、そんなの。成れる訳……無いのにね」

「ああ。それに、そんな一切の欠点も無い様な奴とは、俺は友でありたいとは思えないな。そんな奴、一緒にいても俺が惨めになるだけだ。血も涙も無い冷徹な、完全無欠野郎なんか、ちっとも面白味も無いさ」

「そ、そうだよね……」

 太助は相変わらず静かな含み笑いを浮かべるばかりであった。多分、余計な言葉は要らなかったのだと思う。何しろ、ぼくの心を容易く読み解いてしまえるのだ。だから、何も言わなくても判ってくれるに違いない……。でも、それに甘んじていては駄目だ。同じ立場に立って、一緒に歩きたいのだから。

「ぼくは、間違えていたんだね」

「良いじゃないか? その間違えに気付けたんだ。それに……小太郎も言ったが、俺達は仲間だ。皆で支え合って生きて行く。それで良いと思う。時には、俺達のことも頼ってくれて構わない。代わりに、俺達が困った時には、手を貸してくれ。そういうものだろ?」

「うん!」

「それに……。あんなこと言っていたけど、誰よりも輝の身を案じていたのは小太郎自身だったさ。あれでも、相当動揺していたのだぞ? 輝に万が一のことがあったら、俺は生きていけないって、派手に取り乱して大変だったのだからな?」

「えぇっ!? 本当!?」

「ふふ。大幅に脚色したけどな?」

「もうっ!」

 結局、ぼくは自分の弱さを見せることを畏れて、自分の本心を伝えることを畏れて、傷付くことから逃げ続けていただけだった。その結果、ぼくは何時だって自分の望まない道ばかりを歩む羽目になっていた。全部、全て、ぼく自身の歩んだ道なんだ。誰かのせいじゃないんだ。結局、ぼくは自分の手で不幸になろう、不幸になろうと、無駄な努力をしていただけだった。

「ほう? 少しは判った様子だな」

「うん……。でも、ぼく、皆に酷いことを言っちゃったし……」

「心を掻き乱されていたことは、皆も重々は判っているだろうさ。まぁ、気付いていない鈍感な奴がいたら、俺から説明してやろう。説明しても理解を示さなかったら、校舎裏でビシっとシメてやるさ。なんてな?」

「えへへ。でも、それじゃ駄目だよ。ぼく、自分の言葉で皆と向き合いたいから」

「ほう? ようやく何時もの輝らしくなってきたな。ああ、きっと上手くいくさ。皆、物分かりの良いお人好しばかりだからな」

 太助は静かに微笑むばかりであった。少しだけ、自分に自信を持てた気がする。ぼくは一人じゃないんだ。だから、しっかりと歩まなくちゃ駄目なんだ。

「太助も、そのお人好しの一人だよね」

「まぁ、そうなるかも知れないな」

 徒然に歩き続けているうちに、ぼく達は三条の周辺まで歩んできてしまった。こうやって、夢中になって語らっていると時間が経つのを忘れてしまう。ぼくは夜空を見上げながら、月と向かい合っていた。変わらなくちゃ。ぼくが歩みたい道を、自分で歩まなければ道は出来上がらない。誰かに何かをして貰おうなんて考えは、もうオシマイ。これからは、自分で考えて自分で歩むんだ。道が無ければ切り拓けば良い。コタが良く口にしていた言葉。大丈夫だよ。ぼく、もう逃げないから。

「ああ、婆ちゃんか? 悪いな。夕飯、二人分用意してくれるか?」

「あ、アレ?」

「ああ、そうだな。豆腐料理を用意してくれるか? 豆腐好きの輝を連れて帰るから。ああ、よろしく頼む。じゃあ、また後で」

「え、えっと……何のお話なのかな?」

 何かを企てる太助の想いに、内心焦りを覚えながらも、ぼくは問い掛けてみた。太助は不敵な笑みを浮かべながら、再び、力強くぼくの肩に腕を回して見せた。

「輝、醍醐に向かうぞ」

「えぇ!? えっと、話の流れが良く分からないのだけど?」

「まぁ、そういうことだ」

「え? えっと……何が何だかサッパリなんだけど?」

 太助は応えなかった。上機嫌な足取りで、戸惑うぼくの腕をグイグイ引っ張ってゆく。悪戯好きの子供が何やら悪だくみをする時の様な、妙な上機嫌さに思えた。でも、普段そんな姿を見せることの無い太助が、意外な姿を見せてくれていることに興味を覚えた。

「ね、ね、太助。これってさ、黙って俺に着いて来いって、やつ?」

「ああ。格好良いだろ? 何だったら、俺に惚れてくれても構わないぞ? 輝なら大歓迎だ」

「え、えっと……えぇーっ!?」

 な、何か物凄いコトを口走っていた様な気がしたけれど、こんなにも上機嫌な振舞いを見せる太助は初めて目にした。普段は、淡々とした振舞いしか見せない太助が見せた意外な姿。秘密を分かち合った者同士だからこそ、見せられる姿なのかな? それだけ、ぼくのことを信用してくれているんだね。凄く、嬉しかった。何だか良く判らない流れになっちゃっているけれど、それはそれで面白そうだった。自分探しの旅、いよいよ佳境へと差し掛かろうとしている。窮地に陥った輝の逆転劇の開幕だね! 何だか、気合いが入っちゃうよね。何時しか、ぼくまで上機嫌になりながら地下鉄のホームへと向かっていた。ふと、振り返れば、やはり穏やかな月明かりが街を照らしてくれている。力強く瞬く、本当に綺麗な月明かりに思えた。

◆◆◆36◆◆◆

 皆と別れた後、俺はクロと合流した。そのまま逃走した桃山の足取りを追って、京の街並みを駆け巡っていた。

「クロ、奴の足取りは掴めそうか?」

「うむ。進行方向から察するに京都駅に向かっておる」

「厄介な場所に向かう。人混みに紛れ込まれたのでは、とても探せるものでは無い」

「我らが追ってくるのを見越しての行動と考えれば合点がいくというものよ」

 どさくさに紛れて逃げ伸びるつもりか? 姑息な真似を。輝を苦しめたこと、クロの同胞のカラスを殺めたこと、いずれにしても一寸足りとも許すつもりは無かった。同じ苦しみを味わせてやらねば気が済まなかった。何よりも、人の心の隙間を狙う様な姑息な手口に苛立ちを覚えていた。

「コタよ、我の背に乗るのだ。一気に京都駅まで飛ばすぞ」

「ああ、頼むぞ」

 俺はクロの背に急ぎ飛び乗る。地面を力強く蹴り上げ、クロが一気に舞い上がる。

「しっかりつかまっておれ! 全力で飛ばす!」

 こうしてクロに触れていると、その想いがヒシヒシと伝わってくる。激しい怒りに身を震わせているのも、高鳴る鼓動も、ありのままに伝わってくる。クロに取って仲間という存在が如何に大きな位置を占めているかが見え隠れしている気がした。やはり、クロは俺と良く似ている。友を想う気持ち、その熱い想いは共感を覚える。淡々とした振舞いを見せるが、その心の奥では、熱い怒りが燻っていることだろう。勢い良く燃え上がる瞬間を、今か、今かと待ち侘びているに違いない。

「それにしても、何故、あの情鬼は遠回りな手段を講じる? 輝と接触出来たのであれば、さっさと連れ去れば良い物を……」

 クロの背にまたがりながら、俺は疑問に想っていることを問い掛けてみた。

「強引に連れ去ったところで、あの情鬼の願いは叶わぬからであろう」

「どういう意味だ?」

「あの情鬼は『前世の輝』を求めておる。今の輝自身を求めておる訳では無い」

「前世の輝を? だから、妙に婉曲的な振舞いを見せているのか?」

「そうだと我は考えておる。仮に前世の記憶が戻らずとも、輝自身の意思で自らの下を訪れることを願っておる。故に桃山をけし掛け、色香という甘い鎖で繋ぎ止めようと考えておるのやも知れぬ。桃山の体を乗っ取ることが出来れば、それはそれで輝を繋ぎ止めることは出来るでの」

 とんでもないことを企てているものだ。人物関係を正確に掌握した上で策を企てたとしか思えない。何とも計画的な振る舞いだ。前世の記憶など、普通に考えれば戻る訳が無いものだ。だとすれば、桃山を餌に振舞うのは、確かに有効な策かも知れない。輝は母親の愛情を求めている身なのを考えれば、輝の心を動かすには十分な威力を発揮するだろう。そう考えると……輝の母も操られているのだろうか? 十数年も前から狙いを定めていたとでも言うのか? 信じ難い相手だな……。

「コタの考え、あながち間違えとは言い切れぬ。我らの目に触れぬ様に、水面下で地味に策を巡らせて居ったのかも知れぬ。それも、これも、全ての段取りが整うまでの策なのかも知れぬ」

「そうだとしたら信じられない程の執着心の持ち主だな。まぁ、良い。いずれにしても、あんな気色悪い奴に輝は渡さぬ」

「ふふ。『俺の輝は渡さぬ』が、正しい所であろう?」

「……口の減らないカラス天狗だな」

 顔を赤らめる俺をチラリと確認すると、クロは満足そうに笑って見せた。だが、次の瞬間には、再び険しい表情に戻った。

「コタよ、間もなく目的地に到着する! 一気に急降下する故、飛ばされないようにしがみ付いておるのだぞ!」

「おいおい、お手柔らかに頼むぞ?」

「フフ、少々手荒な方が好みであろう?」

「な、何の話だ!」

「ははは! 続きは寝屋の間にて聞かせてくれる!」

 クロは高らかに笑い声を挙げながら、言葉通りに一気に急降下を始めた。墜落するかの様な凄まじい風圧に飛ばされないように、俺は必死で耐えた。やがて、ゆっくりと風圧が緩まれば、既に地面に足を付いていた。

「さて、ここからは正念場よの。逃げ失せた姑息な情鬼を探し出すぞ」

「ああ。絶対に逃がさん!」

 クロの言葉に俺は力強く吼えた。だが、桃山をわざわざ探し出す必要は無さそうに思えた。何しろ俺の視界の先には、違和感のあり過ぎる喪服姿が目に留まっていたのだから。

「ほう? 探すまでも無かったか。好都合と取るか、はたまた、自信の表れと取るか?」

「いずれにしても、探す手間が省けたのは好都合だ」

 喪服姿の桃山は広場を抜けて、駅の改札へと向かおうとしていた。夜半の京都駅はガラス張りの壁面に月明かりが当たり、穏やかな色合いを称えていた。人通りも少なくなり始めた駅前に、喪服姿の桃山の姿が異彩を放つ。俺はいきり立つクロを制し桃山に駆け寄った。

「桃山、今お帰りか?」

「あら? 小太郎君。珍しい場所で会うわね」

 情鬼の気配はそこには感じられなかった。喪服姿という異様な装いではあったが、桃山は普段と変わらぬ立ち振舞いを見せていた。此処まで追い詰められてなお、つまらない猿芝居をするつもりか? まぁ、良いさ。お手並み拝見と行かせて貰うぞ。

「ああ、意外な場所でお前の姿を目撃してな。気になって後を追って来た次第だ」

「え? あたしを目撃? イヤねぇ、小太郎君ったら、何時からあたしの追っ掛けになったの?」

 あくまでもシラを切るつもりか? 見え透いた嘘は寒いだけだ。無駄な足掻きは無意味だと、何故に気付かない? 俺は一部始終を見届けたのだ。その様な安っぽい猿芝居など、既に見抜いているというのに。

 京都駅のビル一面に貼られたガラスに、月明かりが映っていた。行き交う人々も多い夕暮れ時の京都駅前。俺の背後にはバスロータリーが佇む。多くの人々を運ぶ市内の重要な足だ。当たり前の様に人が生活する場所。そこで対峙するのは、存在することを許されない情鬼。どんな手段を使ってでも、此処でお前を殺す! 絶対に逃がしはしない!

「……桃山、先刻、輝と共に居ただろう? 場所は鴨川沿いの川床だ。これでもまだ、とぼけるつもりか?」

 俺の問い掛けに、桃山は狐に摘まれた様な表情を浮かべながら、首を傾げて見せた。

「え? 輝君と? いいえ。今日は知り合いのお葬式があって、確かに、先斗町の近くには居たことは居たけれど……」

「何だと?」

 一体どうなっている? どうにも話が噛み合わない。もしかして、本当に桃山には記憶が残っていないのだろうか? 情鬼に支配されていた時の記憶が、そもそも残っていないのであれば、この問答には何の意味も価値も無いということになる。否、だが、これだけは確認しておかねばならない。

「桃山、話は変わるが、ひとつ聞かせてくれ」

「え? ええ。何かしら?」

「お前は輝に対して、個人的な興味を持っているみたいだな。まさか……教師のクセに、生徒との禁断の愛を貫く――なんてフザけたこと言わないだろうな?」

 あまりにも直球過ぎたか? だが、輝のことを想えばこそ、その本心を確かめない訳にはいかなかった。輝はああいう性分だ。自ら、桃山に真意を問い質す様な真似は出来ないだろう。それならば、俺が汚れ役を背負うまでだ。この程度のこと、仲間を守りたいという想いに比べれば軽いものだ。

「フフ、輝君のことは弟みたいに思っているけれど、でも、それは小太郎君達も皆、同じよ?」

「……可笑しな感情は抱いていない。そう受け取って良いのだな?」

「そんな怖い顔しないでよ。あたしに取って、皆、弟みたいなものよ? 姉が実の弟に恋愛感情を抱くことは無いでしょう? 皆、あたしに取っては可愛い弟達よ。平等な存在ね。だから、小太郎君が心配している様な展開にはならないわ」

 少しだけ安心出来た気がする。過保護なのかも知れないが、輝の歩む上での障害となるのであれば、問答無用で排斥するつもりでいたから、助かった気がした。無用な争いは避けたいところだ。ましてや、桃山は俺に取っても姉の様な存在だ。仲間と呼んでもよい存在だ。仲間同士で傷付け合うのは、あまりにも哀し過ぎる。

 不意に背後にクロの気配を感じる。腕組みしたまま静かに桃山を見つめているが、異変を感じ取ることは出来ないのかも知れない。背後からクロが語り掛けて来る。

「奇異なことよの。情鬼の気配が消えた」

「やはり、そうか。普段の桃山と何ら変わりが無い様に思えて仕方が無かった」

「むう、奴は一体何処へ行方を眩ましたのか? 逃げ足の速い奴め……」

 クロが残念そうに呟いた瞬間であった。不意に桃山が俺の腕を掴んだ。

「も、桃山?」

「ふぅん……。小太郎君はカラス天狗とお友達なのね」

「な!?」

 あり得ないことだった。桃山にはクロの姿が見える訳が無いのだ。だが、目の前の桃山は、確かにクロの存在を見抜いている。否、目の前にいるのは桃山では無く、情鬼ということか!? 俺は慌てて桃山から距離を開けた。こんな至近距離にいたのでは、敵の間合いから逃れられなくなる。

「あの烏の様な無残な姿で死にたいのかしら? 全身を、針で貫いて欲しいのかしら?」

「ほう? 我も随分と甘く見られたものよの」

 桃山は可笑しそうに微笑みながら、大きく両手を広げて見せた。まるで、敵意が無いことを示すかの様な振舞いに、俺は訳が判らなくなっていた。一体、何の真似だ? 意味不明な行動を示し、俺達を困惑させることが目的か? そんなことに何の意味がある?

「何故、この場所を選んだか判るかしら? 頭の悪いカラス天狗には、理解出来ないでしょうね」

「どういう意味だ?」

「小太郎君にも判らないのかしら? ここで立ち振る舞えば、多くの無関係な人々まで巻き込むことになるわ。それに……フフ、戦えるのかしら? 傷付くのは、この女の体なのに?」

 クロは静かに唸っていた。確かに、ここで派手に立ち振舞えば相応の被害は出てしまうことだろう。人通りはそれなりに多い。それ以上に、桃山の体を傷付けることになってしまうのも問題だ。どうする? どうすれば良い!?

「その様な挑発、我には利かぬ。悪いな、コタよ。少々手荒ではあるが、桃山もろとも討ち取るぞ!」

 クロは法螺貝を手にすると、力一杯、息を吹き込んだ。辺り一面に法螺貝の音色が響き渡る。道行く人々が一体何事かと一斉にこちらに目線を向ける。一体、何を考えているのか、俺には理解出来なかった。だが、クロは微塵の動揺も見せずに立ち振舞う。そこには確固たる自信が見え隠れしていた。

「何も、蛮行を繰り広げるだけが我らの戦い方では無い。我を甘く見たことを後悔するが良い!」

 クロは懐から黄金色に輝く、小さな鐘を取り出した。その鐘を手にすると、静かに鐘を打ち鳴らした。透き通る音色が辺りに響き渡る。心地良い音色であった。クロは何度も、何度も、鐘を打ち鳴らした。その度に涼やかな音色が響き渡ってゆく。

 何度か鐘を鳴らした所で、不意に、通行人達が次々と崩れ落ちて往くのが見えた。ゆっくりと、力無く崩れ落ちた通行人達が、次々と地面に横たわってゆく。

「少々手荒ではあるが、我らの姿が人目に触れることは避けたい。悪く思うで無いぞ」

 俺の中でクロの言葉が気になっていた。確かに「我ら」と言った。先刻、吹き鳴らした法螺貝は同胞達を呼び寄せるためのものだったのであろうか? 不意に、月明かりを覆い隠すかの様に黒い流れが空を包む。次の瞬間、次々とカラス天狗達が舞い降りてくる。皆で円陣を組むと、一斉に桃山を取り囲んだ。

「情鬼よ、我らカラス天狗一族の物の考え方は心得ていようぞ?」

「……多くの犠牲のためならば、小さな犠牲は厭わない。相変わらず、頭の固い考え方をするのね。小太郎君、聞いたかしら? カラス天狗達は多くの人々を守るために、この女ごと、あたしを討ち取るつもりみたいね。ねぇ、小太郎君、本当にこれで良いのかしら? あなたの望む世界って、こういうものなのかしら?」

 桃山は何時もと変わらぬ笑みを浮かべていた。クロ達が為し遂げようとしている行動の結末は判っていた。確かに情鬼を追い詰めた絶好の好機だ。だが、桃山はどうなる? 多くの人々の身の安全は守られるかも知れない。神隠しに遭った少年達も戻ってくるかも知れない。だけど、そのために桃山を犠牲にするというのは、何かが違う気がした。判っている。二つの選択肢のうち、両方を選ぶという卑怯な答は許されないことくらい。だが……俺はどうすれば良い?

(否、クロを信じよう。仮に……悲惨な結末になったとしても、俺はクロに全てを托す!)

「クロ、遠慮することは無い! 桃山もろとも情鬼を討ち取れ!」

「な!?」

 驚愕の表情を浮かべる桃山。次の瞬間、一斉にカラス天狗達が舞い上がり、桃山に奇襲を仕掛けた。その瞬間、俺は確かに見た。一瞬、桃山の体から情鬼が抜け出した瞬間を。この好機を逃す訳は無かった。俺は地面を蹴り上げ、一気に桃山に体当たりをかました。桃山は派手に転倒したが、情鬼から切り離すことに成功した。

「皆よ、今だ! この好機を逃すで無いぞ!」

 クロの声と共に、駆け寄ったカラス天狗達が、全身全霊の力を篭めて、情鬼を空高くに打ち上げた。これで、桃山との間に、さらに距離を空けることに成功した。

「くっ! お、おのれーーっ! ようやく本物の輝と出会えたというのに、邪魔はさせぬ!」

 髪を振り乱しながら、情鬼は凄まじい力で、次々とカラス天狗達を叩き落してゆく。とても女とは思えない、化け物染みた力の強さであった。

「鬼子母神! オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ!」

 カラス天狗達が一斉に真言を唱え始める。苦しそうに呻き声をあげながらも、情鬼は尚も、必死の抵抗を繰り出そうとする。

「情鬼、泣き女郎よ! 観念するのだ! もはや、お主の逃げ道は無い!」

「許さない……許さない! あの時、あたし達を死に追いやった、あいつ達と同じことをすると言うのか!? そうまでして私の往く手を阻むつもりか!? 私の前に立ち塞がるならば、容赦はしないぞ!」

 泣き女郎が吼える。だが、クロ達も必死の覚悟で挑んでいる。その程度の脅しに屈する筈が無かった。こうなることは見越していたのか、泣き女郎は動じた様子も無く、相変わらずの鋭い目線でカラス天狗達を睨み付けるばかりであった。

「あたしをそこらの情鬼と同列に扱ったこと、後悔させてやろう。かつて、島原の地を滅ぼした、我が蠱毒の呪い、その身で受け止めるが良い!」

 泣き女郎の高笑いに呼応するかの如く、不意に月夜を覆い尽くすかの様な、厚みを帯びた暗雲が立ち込める。その異様なまでに濃密な黒さに、只ならぬ感覚を覚えていた。何か、異様に禍々しい殺気を放つ雲だ。

「クロ! 不味い、此処は退くべきだ! あの黒雲は何か危険だ!」

「もう、遅いわ! 皆まとめて、無残な亡骸に成り果てるが良い!」

 次の瞬間、空から一斉に黒い雨粒が降り注いだ。地面に叩き付けられる度に、ビチャ、ビチャと、不快な音を放つ雨粒であった。妙な粘性を帯びた雨が、辺り一面に降り注ぐ。黒い雨を身に浴びたカラス天狗達が一斉に叫びを上げる。次々と付着する雨。体に付着した雨からは、黒い煙が立ち上ってゆく。

「な、何だこれは!?」

「か、体が! 体が焼け焦げる!」

 辺り一面からカラス天狗達の絶叫が響き渡る。不意に、降り注いだ雨粒が、俺の腕にも付着した。次の瞬間、俺の腕からも黒い煙が立ち上った、激しい痛みが駆け巡る。同時に、何かが腐った様な異様な臭気を感じた。

「ぐっ! な、何だ、これは!?」

 想像もしなかった惨状に、傍らに佇むクロもまた戸惑いを隠し切れずにいた。

「くっ! 皆の者、この場は一旦撤退する!」

 クロの怒号に呼応するかの様に、次々とカラス天狗達が離散してゆく。

「あーっはっはっは! 所詮、駆け出しのカラス天狗風情に、あたしを討ち取ることなど不可能さ! せいぜい、手を拱いて成り行きを見守るが良い!」

 泣き女郎の高笑いだけが響き渡る中、俺達も急ぎ、この場を撤退することにした。クロの体からも、俺の体からも雨粒が付着する度に、黒い煙が噴き上がっていた。

「くぅっ! クロ!? 大丈夫か!?」

「コタよ、分が悪過ぎる。我らも退却するぞ!」

「ああ、このままでは被害が甚大なことになる。急ぎ、逃げよう!」

「所詮、その程度のものか? 良く聞け、無能なるカラス天狗よ! 愛情に飢えた子供達など、掃いて捨てる程に大勢いる。彼らは自分自身の判断で、実の両親と決別する道を選んだ。もう、二度と戻ることは無い。本当の意味で愛情を与えたい母親の下に向かうだろう。力で縛り付けるお前達のやり方では、絶対に救うことは出来ない! 私の邪魔をしたこと、後悔するが良い! 見せしめに……従わぬ子供達を懲らしめてお目に掛けよう!」

 泣き女郎の解き放った捨て台詞が、あまりにも意味深過ぎて、俺は振り返らずには居られなかった。これ程までに強い力を持つ者だ。有言実行に至るのは確実だろう。だが、それでもクロは羽ばたき続けていた。賢明な判断だと思う。正面から挑んでも勝ち目のある相手では無い。挑発に乗り、立ち向かえば、この場で皆、朽ち果てていることだろう。多少の犠牲は止むを得ない。仕方が無いのだ。

 無謀にも戦いを挑み、勝ち目が無いと知った瞬間に退却する等、あまりにも無責任なのかも知れない。罪もない通行人達も巻き込んでしまったのは事実だ。もしかすると、あの場に居合わせた通行人達も、無傷では済まなかったのかも知れない。だけど、俺達はあまりにも無力だった。想像以上に、凄まじい力を誇る情鬼を前に、あれだけの大群でも撤退を余儀なくされた。無力な自分への苛立ちなのだろうか、それとも、無関係の人々を巻き込んでしまった罪悪感なのだろうか、クロは一言も口を聞くことは無かった。

 俺を家に送り届けると、クロは無言でいずこかへと飛び去って行った。恐らく、鞍馬山に戻ったのであろう。負傷した仲間達のこともあったのだろうが、それ以上に、これまでの情鬼達とは明らかに異なる強さを持つ情鬼への対策を講じに向かったのかも知れない。情鬼、泣き女郎……。恐ろしい相手と戦わなければならなくなってしまったのかも知れない。だけど、俺は絶対に退かない。輝のためにも、桃山のためにも……。焼け焦げた様な傷跡。その痛み、絶対に忘れないぞ。必ず、お前に返してやるから、絶対に、この手で殺してやるから、精々首を洗って待っていろ!

◆◆◆37◆◆◆

 地下鉄に揺られながら、ぼく達は醍醐を目指して移動していた。太助は相変わらず、妙に上機嫌な振舞いを見せている。普段はクールな太助の意外な一面に、ぼくまで釣られて上機嫌になっているから不思議だ。そう考えると、本当にぼくは単純な構造の様に思えてならない。

「そんなことは無いのでは無いか? 本当に単純明快な構造ならば、複雑に絡み合った悩みなど生じやしないだろう?」

「あー! またしても、ぼくの心を読み取ったのー? もうっ、迂闊なこと考えられないじゃない。太助のエッチ!」

「ははは。案外そうかも知れん。表面上はクールに振舞っているが、羊の皮を被った狼かも知れんぞ? まぁ、男なんて生き物はみんなそうだ。鋭い爪や牙を隠して、あくまでも紳士然と振る舞う。それに、性欲の無い男など、男の色気の大半をかなぐり捨てた様なものだ」

 何だか、普段の太助とは別人の様な言動の数々に、ぼくは焦りを隠し切れなかった。強張った表情のぼくを見つめながら、太助は相変わらず可笑しそうに笑うばかりであった。

「それで、迂闊なことって何だ?」

「へ!? え、えっと……それは……」

「まぁ、隠した所で全て筒抜けだ。諦めろ」

「うう……」

 笑いながら問い掛けられて、ぼくは再び言葉を失ってしまった。だからと言って、うっかり可笑しな想像をすれば、太助に見抜かれてしまう。細心の注意を払う必要がありそうだ。

「まぁ、そう身構えるな。以前と違って、今は上手く制御出来るようになった。相手の心を見抜いて、何か得をしたことがあるかと問われれば、さて、得したことなど殆ど無かったからな」

「ぼくと同じだね。可笑しな能力は、ちっとも役に立たないし、ぼくを苦しめるだけだった」

 ガタンガタンと地下を駆け抜ける電車の音だけが虚しく反響している。規則正しく蛍光灯が並ぶだけの光景と、煌々と明かりが灯る駅の情景。それの繰り返し。空虚な光景だった。電車は丁度、小野駅を経とうとしていた。次は醍醐。太助の家からの最寄り駅。ぼく達の旅の目的地になる。

「人の死を見届ける能力か。確かに、何の利益も生み出しそうに無いな」

「この能力のお陰で、ぼくは悲惨な生き方を強いられてきた。本当に忌々しい能力だよ」

「文句を言うだけ無駄だろ? 消せる訳じゃない以上、共存するしか無いのだから」

「そう……だよね」

 再び空虚な光景が広がる。規則正しく繰り返される蛍光灯の明かりが、走馬灯の様に流れ去ってゆくばかりだった。耳に入る無機的な電車の音。その規則正しい音色に意識を傾けながら、ぼくは不意に気になったことを問い掛けていた。

「ねぇ、太助はどうやって自分の能力と共存する道を見つけたの?」

「俺か?」

 列車の天井を見つめたまま、太助はしばし考え込んでいた。

「そうだな。先ずはひたすら遠ざけ様と試みた。そんな中で賢兄と出会い、多少制御出来るようになった。小太郎達と共に過ごす時間が増えてからは、殆ど制御できるようになったな。まぁ、気合いだな」

「き、気合いって……。えー、そんな仕掛けなのかな?」

「輝、こういうのは物の考え方だ。悲観的になっていると、悪いことばかりがやってくる。それに、あまり意識し過ぎるのも良くない。輝は妙に生真面目なところがある。目の前にあること、全てに向き合う必要など何処にも無いんだ。面倒だったら見なかったことにすれば良い。立ち塞がるなら、殴り飛ばしてやれば良い」

「でも、ぼくには、そんな勇気無いし……」

 ああ、こういうのが良くないのだろうな。判ってはいるけれど、変わることが出来ない。弱い自分。情けない自分。すぐに逃げ出す自分。そして、何よりもウソつきな自分。

「ウソ付きか……。良いんじゃないか?」

「え?」

「ウソを付くと考えれば悪い印象しか残らない。それでは駄目だ。演じるんだ」

「演じる?」

「そうだ。成りたい自分を演じる。こういう姿に変わりたい。そう、演じ続けてみろ。段々と演技なのか、本当の姿なのか、自分でも見分けが付かなくなる。そうなれば締めたものだ」

 それは太助自身の体験談だと、付け加えてくれた。普段、ぼくが目にしている太助の姿も、もしかしたら、演じ切った末に出来上がった姿なのかも知れない。元の姿は一体どんな姿だったのか? それは、もはや太助自身も覚えていないのだろうと思った。

 演じると言えば、リキも同じ様なことをやってのけたと聞かされたっけな。リキの場合、見た目を大きく変えることで、新しい自分に出会えたと言っていたっけな。そう考えると、やり方は色々あって、これが正解だというのも無いのかも知れない。

「さて、そろそろ醍醐に到着するぞ。忘れ物するなよ?」

「うん、大丈夫だよ」

「輝、今度、俺と一緒にアクセサリやら、香水やら見に行くか?」

「え? 良いの!?」

「ああ。まぁ、可笑しなモノを選ぶと、後から俺が、小太郎のお叱りを受けることになるかも知れないけどな」

 程なくして電車は醍醐駅に到着しようとしていた。短い時間だったけれど、随分と色々な話を出来た気がした。本当に、二人だけの秘密の会話の数々だった。太助の不思議な能力のこと、知っているのはぼくだけらしい。あんなに仲良しの賢一さんでさえ知らない秘密まで聞かされてしまった。だからこそ、ぼくは迷っていた。そう……。ぼくに取って、もう一つ足枷となってしまっている秘密。その秘密を、やはり太助には聞いて欲しいと思っていた。もしかしたら、凄く嫌な想いをさせてしまうことになるかも知れない。でも、行動を起こさずに後悔するのはイヤだから。迷惑掛けちゃうかも知れないし、もしかしたら、傷付けちゃうかも知れない。でも、それでも、ぼくは太助に聞いて欲しかった。地上へと向かう階段を歩みながら、ぼくは気持ちの整理をしていた。地上に出たら、伝えよう。それまでに、気持ちは整理する。ぼくは静かに深呼吸をしていた。

 時の流れは本当に残酷だと思う。待って欲しいと願う時に限って、ぼくを急かすばかりだった。徒然なるままに話し込んでいるうちに、ぼく達は地上に出ていた。大きなショッピングセンター、アル・プラザを後に、太助の家へと続く道へと歩を進めていた。

「……輝、何か話したいことがありそうだな?」

「え? ああ、うん」

「済まない。勇気を出して、一歩を踏み出そうとする想いに水を差してしまったな」

 太助には、ぼくの全てが見えているのかも知れない。でも、太助に組み取って貰うのでは、何にもならない。心を読めるなんて、太助にしか与えられていない能力なのだから。

「あのね、ぼくの話、聞いて欲しくてね」

 太助の家は醍醐寺のすぐ傍に佇む。この辺りはマンションが立ち並ぶ、都会的な装いを呈しているけれど、太助の家の周辺は昔ながらの家々が立ち並ぶ情景へと移り変わる。こういう景色、好きだな。そんなことを考えながら、ぼくは静かに呼吸を整えた。軽く深呼吸。よし、話、始めよう。

「ぼくの弟のお話なんだ」

「弟? 初耳だな。輝に弟がいるとはな」

 太助は少々驚いた様な表情を浮かべていた。ぼくは笑い返しながら首を横に振って見せた。

「正確には、弟ができるハズだったと言うべきなんだよね。弟は産まれて来ることが出来なかったんだ。しかも、彼の死を見届けたのも、ぼくなんだ……」

 太助は行く先をジッと見つめたまま、何も言わずに歩き続けていた。太助なりに、ぼくを精一杯気遣ってくれているのだろう。その心遣いが嬉しく思えた。だから、ぼくは過去の物語を話した。

「今から何年前になるのかな? ぼくがまだ幼稚園にいた頃に遡るんだ。弟が産まれると母から聞かされたんだ」

 太助は静かに耳を傾けたまま、歩いていた。静まり返った街並みには、ぼく達の足音と吐息だけが響き渡っていた。

「本当に小さい頃から、ぼくは人の死を予見できちゃってね。その人がね、死ぬ瞬間が見えてしまうんだ。そうすると、数日のうちに間違い無く、その人は死んでしまってね。何時しか、ぼくが殺したかの様に思われてね。ぼくは周囲からは気味悪がられて、忌み嫌われるようになった。だから、子供の頃からぼくには友達なんか居なかった。友達と呼べる存在は、コタだけだった……」

 時折車がすれ違うのを除けば、醍醐の街並みは本当に静かだった。温かな家々の明かり。そこにはきっと、温かな家庭があるに違いない。家族と共に暮らす人もいれば、友人同士で楽しく夕食を楽しむ人もいるだろうし、もしかしたら、一人でのんびり過ごす夕食もあるかも知れない。そう。きっと、そこには、ぼくが欲しかった温かな幸せが佇んでいるのだと思う。そう考えると、胸が締め付けられる様に苦しくなった。でも、ぼくは呼吸を整えながら、続きを話すことにした。

「小学校の時には、可笑しないじめにも遭った。ぼくのことを好きだって言ってくれた、ある男の子。やっと、コタ以外の友達が出来るのかな? 期待に胸を膨らませていた。でも、それは、ぼくの勘違いだった。危うく殺され掛けて、それから……生涯、忘れることの出来ない辱めを受けたんだ。あの事件が引き金となり、ぼくだけじゃ無くて、コタまで大きな傷を背負うことになってしまってね」

 静かな街並みには、やはり、ぼく達の歩く足音だけが響き渡っていた。夜空には綺麗な月が浮かんでいて、ぼく達を優しく照らしてくれている様に思えた。

「弟の死を引き金に、あの人からの酷い虐待が始まってしまったんだ。日常的に繰り返されてね。呼吸をするかの様に、あの人はぼくに暴力を振るった。理由なんか、何でも良かったんだと思う。弟が死んだのは、全部、ぼくのせいだと思い込んでいるみたいだから、あの人」

 不意に、どこからか緩やかな風が吹き始めた。木々の香りを纏った香りは心地良く思えた。やはり、木々と共に歩みたい。こういう自然が豊かな場所に暮らすのも悪く無いかも知れない。そんなことを考えていた。

「何度もね、自殺しちゃおうって思ったこともあってね。一度、行動に移してみたけれど、結局、死ねなかった。ほら、ぼく臆病者だからね。えへへ」

 何だか、取り留めのない話だった。時系列も、話題も、細切れにしたものを、無理矢理くっつけたような素人丸出しの編集。きっと、こんな話じゃ、まともに伝わらなかったんじゃないかな? あーあ。ほんと、ぼくは何をやっても駄目な奴だよね。下手くそな話だった。でも、それでも、太助はただ、静かに耳を傾けてくれた。

 ようやく話し終えた時、張り詰めていた緊張の糸が解けたのか、ぼくは崩れ落ちそうになってしまった。慌てて、太助が支えてくれたお陰で事無きを得た。

「大丈夫か?」

「えへへ……。うん、大丈夫。ちょっと、酸欠気味になっちゃっただけだから」

 太助はただ、静かにぼくの顔を覗き込んでいた。ゆっくりと、ぼくは立ち上がる。大丈夫。もう、フラついたりはしなそうだった。

「輝……」

「ん? なにかな?」

 何気なく振り返れば、そこには、今まで見せたことも無い様な、太助の哀しげな表情があった。驚きの余りぼくは思わず息を呑んだ。今にも夕立が降り出しそうな夏の空。そんな憂いと、哀しみに満ちた表情だった。

「え、えっと……」

「辛い想い、してきたんだな。本当に……辛い想いを……」

 最後まで言い切ることは出来なかった。言い終わるより先に、太助の頬を一粒の涙が伝って落ちた。初めて目にした太助の涙。一気に、ぼくの心を何かが駆け巡る様な感覚を覚えた。一気に膨れ上がる様に体中が熱くなり、燃え上がる様に熱くなり、ぼくは自分を抑えることが出来なくなっていた。心が静かに崩落してゆくのを感じていた。見境無いのかも知れない。でも、それでも抑えられなかった。

 身長差を考えれば、何だか滑稽な構図だったのかも知れない。でも、気が付いた時には、ぼくは太助に抱き付いていた。

「輝……同情でしか無いかも知れない。でも……」

 そっと髪を撫でてくれた太助の手は、びっくりする程に熱かった。ただ、優しく頭を撫でられて、ぼくは涙が止まらなかった。恥ずかしいなんて思わなかった。ただ、嬉しかった……。

 丁度、そこは緩やかな坂道を登り切ったところ。立ち並ぶマンションからは、温かな光が零れ落ちている。そこには家族の温かな暮らしがあるのかも知れない。ぼくは目を細めながら、目に映る情景を見つめていた。時折、車がすれ違った。その度に、目も眩む様なヘッドライトに照らし出されたけれど、それでも、ぼくは腕に篭めた力を緩めることは無かった。

「壮絶な想いをしてきたのだな。知らなかった。輝に、そんな過去があったとは……」

「一人で抱え込むの、本当に苦しかった……」

「ああ……」

「一度は、本気で自殺だって試みたんだ。未遂に終わっちゃったけど……。コタに助けられて、こうして、今も生き永らえている」

 太助は無言でぼくを、さらに力強く抱き締めてくれた。驚く程に体温、熱かった。

「でも……少し、楽になれた気がする。太助に聞いて貰えたから」

「そうか。それは良かった。少しでも、輝が救われたのであれば、俺も嬉しく思う」

「うん。ありがとうね。ぼくを無理矢理、連れて来てくれて」

「少々強引だったかと、今更ながらではあるが反省していた所だ」

「ううん。醍醐に連れて来てくれたから、お話することが出来た。えへへ」

 喜びに満ちた笑みを浮かびついでに、思わず、ぼくは猫みたいに目一杯伸びをしてみせた。いきなりの行動に、太助は目を大きく見開き戸惑っていた。

「あはは、ぼく、挙動不審だよねー。でも、本当に楽になっちゃった。ぼくの秘密、太助に聞いて貰えて本当に嬉しかった。本当にありがとう」

「誰かに秘密を打ち明ける。ついでに、秘密を分かち合う。そうすることで、随分と楽になれるものだろう?」

「うん。太助のお陰だよ」

「その笑顔、やはり、可愛いな」

「え?」

「ふふ。輝の笑顔は何時見ても可愛らしいと思っていた。俺はその笑顔、好きだな」

「え、えっと……もうっ、何言っているのさー。顔、真っ赤になっちゃうよね」

 何だか何時もの太助とは別人の様に思えた。柔らかな笑顔で、ぼくをじっと見つめていた太助の表情。何時もの太助とはどこか違って見えた。

「ぼくは今、演じていない太助と対面しているんだね」

「ああ、そうさ。素顔の俺は、ご覧の通りの奴だ。こんな締りの無い姿、賢兄にしか見せたことが無かったさ」

 やっぱり、賢一さんは太助に取っては特別な人なのだろうな。本当の兄弟みたいに仲良いものね。ぼくにも……弟がいたら、賢一さんと太助みたいに振る舞えたのかな?

(駄目だね。叶うことの無い絵空事の出来事を思い描いたって、惨めになるだけだ。ぼくは変わるって決めたんだ。もう、後ろは振り返りたくないから……)

「輝、今夜は泊っていけ。どうせ帰りたくない家なのだろう?」

「え? まぁ、帰りたくは無い家だよね。あの家にいると、本当に息が詰まるもの」

「それは良かった。輝とは、まだまだ話したいことがあるからな。今度は俺の秘密を聞いて貰おう。だが、その前に腹ごしらえだな」

「うん。太助のお婆ちゃん、料理上手だから期待しちゃうよー」

 すっかり、ぼくは元気を取り戻していた。太助のお陰だよ。本当に、ありがとう。でも……自分でも驚く程に大胆な振舞いを見せることが出来てしまったこと、自分でも驚いているよ。太助が文字通り、体当たりで接してくれたから、ぼくの頑なに封鎖されていた心も解き放つことが出来たのかも知れない。やっぱり、仲間って良いものだなぁ。ぼくの宝物だよ。何時までも、ずっと、ずっと、大事にしていかなくちゃ。

 道なりに歩いているうちに、ぼく達は醍醐寺の周辺に到達していた。広大な敷地を誇るだけあって、敷地の端が全く見えて来なかった。

「夜の醍醐寺かー。中々風情があるものだね」

「さすがに、中に入ることは出来ないぞ? ま、強引に忍び込むという手もあるけどな」

「えー。それって、明らかに駄目な気がするけれど……」

「賢兄と過去に何度か忍び込んだことはあるが、まぁ、昔の話だ。既に時効だろう」

 ううーん、賢一さんは今も、昔も、破天荒な立ち振舞いは変わらないみたいだね。賢一さんがお兄ちゃんだと、確かに楽しそうだけど、何だか……波乱万丈過ぎて、ぼくは着いていけそうに無い気がする。

「どうした?」

「え? あ、あははー。何でもないよー」

「さて、無事に到着したな。さあ、遠慮することは無い。上がってくれ」

「あら、輝ちゃん? いらっしゃい。お夕食、出来ているから、居間で待っていて頂戴」

「お婆ちゃん、こんばんは。夕食、楽しみにしているからねー」

 こうして、ぼく達は無事に太助邸に到着した。醍醐駅に到着してから、此処に至るまでは結構な道のりだった。そう考えると、毎日、家と学校を往復している太助は、結構な距離を日々歩いていることになる。中々に大変な生活だ。そんなことを考えながら、玄関先で靴を脱いでいると、美味しそうな香りが漂ってきた。これは楽しみな夕食になりそうだ。ぼくは太助に続き、居間へと足を運んだ。

◆◆◆38◆◆◆

 やはり、太助のお婆ちゃんの料理は美味しかった。しかも、わざわざ豆腐料理をお願いしてくれる辺り、太助のありがたい心遣いに感謝だった。人を持て成すのが好きだという、太助のお婆ちゃんらしく、相変わらず料理の量は相当のものだった。皆、食が太いから呆気なく食べ切っちゃうけれど、流石にぼくはリキ程、お腹の容量が大きい訳では無いので、少々苦しい位だった。

「ひゃー、お腹一杯だよ」

「ああ。盛り上がりついでに、少々食い過ぎてしまったな」

 美味しい料理は人を幸せな気分にしてくれるものだ。お腹一杯になって、ぼく達は多分、幸せに満ちあふれた表情を浮かべていたことだろうと思う。甘味処から帰る際のロックの、至福に満ちあふれた笑顔には勝てそうも無かったけれど、それでも、十二分に幸せだった。

「なぁ、輝。腹も満たされたところで、少し歩かないか?」

「そうだねぇ。それも悪くないかな」

「だが、学生服のままでは動き辛いだろう? 俺の服を貸してやろう」

「うん。ありがとう……。あ!」

 今更ながらだけど、学校を飛び出してからずっと学生服のままだったことに気付かされる。夏服とは言え季節は夏。どんなに頑張っても汗を抑えることは出来ない訳で……。恐る恐る胸元の匂いを確認したぼくは、思わず息を呑んだ。

(うわっ、汗臭っ! ということは、もしかして、さっき太助に抱き付いた時にも……?)

 違った意味で顔から火が吹き出しそうだった。

(は、恥ずかし過ぎる! うわぁ……で、でも、そんなことを太助に問い掛けるのも、それはそれで、恥ずかし過ぎるし……)

「輝、どうかしたか?」

「えぇっ!? えっと……何でも無いよ。えへへ」

「そうか。ちょっと二階まで来てくれるか? 好きな服を選んでくれ」

 服を貸してくれるのは良いのだけど、太助の選ぶ服を、ぼくみたいなお子様が着ても似合うのかな? そんなことを考えながらも、ぼくは階段を上がっていた。

「ふふ。さっき、輝が抱き付いた時……。輝の匂いを堪能させて貰った」

「うわっ……ご、ごめんね。汗臭かったでしょ?」

「ふふ。中々、本能を掻き立てられる匂いだったな。悪く無かったぞ?」

 太助の言葉に、ぼくは多分、耳まで真っ赤になっていたと思う。そのまま、太助は笑いながら階段を登って行った。ぼくもその後に続く。

 部屋の明かりを付けて、太助がぼくを部屋に招く。それにしても……服を貸してくれるのは有難いのだけど、太助はぼくと違って背が高いから、何を借りても丈の長さが余ってしまうのは、どうすることも出来ない。こういう時、もうちょっと身長欲しかったなぁと切に思う。

「輝はどういう服が好みだ?」

「え? ぼく?」

「ここで着ぐるみと応えられたら、俺は輝のことを見直していたのだがな」

「え、えっと……そういう役回りは、ロックが担当だと思うな、ぼくは……」

「輝、こういう服はどう思う?」

 太助は、あからさまに怖いお兄さん系の派手な柄シャツ着て見せてくれた。

「うわー、すっごく……良く似合っているよ……うん」

 色々な意味で良く似合っている様に思えた。

(うん、とても良く似合っているけれど、そのシャツを着て、サングラス掛けていたら、街中で出会っても、多分ぼくは声を掛けられないと思う)

「まぁ、これはネタ的な服だからな。もう少し、まともなのに着替えるさ」

 ぼく達は当たり障りの無い服に着替えて、出掛ける準備を整えた。太助は棚からメッシュキャップを取り出すと、それも被って見せた。

(お! 帽子被ると印象変わるね。えへへ、太助、ますます男っぽくなっちゃって、格好良いなぁ。思わず見とれちゃうよね)

「どうした、輝?」

「ううん。何でも無いよ」

「そうか。それじゃあ、行こうか?」

「うん!」

 そんなこんなで、着替え終わったぼく達は、当初の目的通りに夜半の街並みを歩き回ってみることにした。この辺りは本当に静かな場所で、涼やかな風が心地良く思えた。辺りは住宅街ということもあり、夜半の醍醐の街並みは静まり返っていた。時折、思い出したかの様に通りを車が往来するけれど、その数も数えるほどだった。相変わらず、何処まで続いているのか判らない醍醐寺に沿ってぼく達は徒然なるままに歩んでいた。やはり夏の夜らしく、この時間帯になっても蒸し暑さは変わらない。街灯や商店の明かりには縦横無尽に虫達がたむろしているのが目に留まった。虫は好きじゃない。そういう場所の近くを通る際には、必要以上に距離を空けながら歩いていた気がする。

「秘密を分かち合うというのも、中々に楽しいものだな」

「えへへ。今度は太助の秘密を打ち明けちゃうの? 大丈夫だよ。ぼくが、シッカリと受け止めるから」

「フフ、頼もしいな。だが、改めて真摯に向かい合おうとするのも中々に照れ臭いものだ。だけど、俺は輝のことを信頼している。だから、輝にならば見せても良いと思ってな。そう……俺の秘密を、俺の真実をな?」

 随分と仰々しい前置きをするものだと思いながら、ぼくは耳を傾けていた。そもそも、人の心が読めてしまうという、その能力自体が凄い秘密なのではないかと思ったけれど、話したいことは違う内容なのだろう。

 太助はぼくの心と真正面から向き合ってくれた。だから、ぼくもシッカリと受け止めたいと思っていた。それが、太助に対する精一杯の感謝の気持ちだと思っていたから。

 それにしても……。無地の黒いTシャツという地味な服装なのに、やはり太助は体格がシッカリしているから、シンプルな服装が余計に太助の姿を引き立てている様に思えた。真っ暗な街並みに、黒いTシャツだなんて、何だか保護色みたいに思えた。太い腕、厚い胸板……男らしい体格の良さに、やっぱり憧れを抱かせられる。それに、普段は着けていないレザーのブレスレットも良く似合っていて、本当に格好良く思えた。そんなことを考えているぼくとは裏腹に、太助は相変わらず涼やかな振舞いを崩さなかった。

「フフ、心が読める話も相当の秘密であろうハズなのに、まだ何かあるのかと言いたそうな顔をしているな?」

「え? う、うん。まぁ、ね……」

 不意に太助は足を止めると、不敵な笑みを浮かべながら、ぼくに向き直って見せた。何かを企てるかの様な含み笑いに、恐怖心を覚えずには居られなかった。

「何だったら、もっと凄い、二人だけの秘密でも作ってみるか?」

「え? えっと……もっと凄い秘密って、ナニ?」

 恐る恐る問い掛ければ、太助はこれ以上無い位に、悪意に満ちた笑みを浮かべて見せた。ついでに、ぼくの肩に腕を回しながら、妙に挑発する様な表情で含み笑いを浮かべる。その振舞いにぼくはますます焦りを覚えていた。

「ほう? それを俺に言わせるのか? 輝は大人しい顔に似合わず、中々に攻めてくるのだな」

「な、何の話!?」

「フフ、まぁ、その手の話は夜が更けてからの方が盛り上がるだろう? 今はもう少し、徒然なるままに歩くとしよう。この辺りは、静かで良い場所だからな」

(よ、夜が更けてからの方が盛り上がるって……な、何か、違った意味でドキドキしちゃうんだけど……)

 何だか上手い具合にはぐらかされてしまった気がするが、太助の言う通り、醍醐寺の周辺は本当に静けさに包まれた場所だった。醍醐寺の玄関口たる総門前には外壁に沿って緩やかな水路が流れていて、涼やかな水の流れが響き渡る。この水路の一角には、蓮の花が咲いていたりもしている。規則正しく立ち並ぶ松の木々達もまた涼やかな風情を称えている様に思えた。醍醐寺を覆う白い外壁は何処までも果てしなく続いていて、相当先まで歩かないと終端は見えて来そうになかった。醍醐寺は本当に広いお寺さんで、境内を奥の方へと進めば山へと続いている。こうして、総門前から見上げるだけでも広大な山の情景が良く見える。

「まぁ、輝の話に比べたら、俺の話は大した話では無いかも知れないな」

 帽子を被り直しながら太助が微笑み掛ける。

「それでも、シッカリと受け止めさせて貰うね」

 ぼくも笑顔で返して見せた。

「ああ。そうしてくれると、俺も救われる」

 月明かりに照らし出されながら、ぼく達は徒然に歩き続けていた。相変わらず、街並みは静まり返っていて、ぼく達の歩く足音だけが響き渡っていた。

 醍醐寺は威風堂々たる存在感のあるお寺に思えた。広大な敷地面積を誇っているのもあるのかも知れないけれど、やはり、木々達の確かな息吹を感じられる場所の様に思えた。姿こそ見えないけれど、木々達の力強い、確固たる息遣いが聞こえて来そうに思えた。静かに目を伏せて、ぼくは風の流れを感じていた。木々達の息吹は本当に心地良く思えた。ぼくの心を癒し、時に傷付いた想いに寄り添ってくれる。だから、ぼくは木々と共に歩みたい。心からそう思える。

「醍醐寺は良い場所だね」

「ああ。幼い頃から、良く訪れている場所でな。俺に取っては庭の様な場所だ。信仰心の厚い祖父母の影響で、俺も良く訪れたものだからな」

「ここは、木々達の息吹が感じられる場所だね」

 ぼくの言葉に太助は興味を示したらしく、静かに足を止めた。そのまま醍醐寺に向き直ると、静かに空を見上げた。ぼくも太助の隣に並び空を見上げてみた。雲ひとつない済み渡る空模様。やはり何処かで昼と勘違いしているのか、数匹の蝉が鳴く声が聞こえてきた。

「綺麗な月明かりだね。この辺りは静かだし、木々の香りもする。木々達も活き活きしている感じがするよ」

「ほう? 判るのか?」

「うん。ぼく、木々達の魂も見えるんだ。市内の木々達の多くは、傷付き、命尽きて往くばかり。でも、人の手の入らない場所では、木々達の生命力を感じられるよ」

 これもまた、ぼくの秘密の一部なんだ。普通の人には見ることの出来ない、木々達の魂。その姿を見ることが出来る。同時に、彼らの死も見えてしまう。本当に厄介な能力だと思う。

「他人には見えない物が見えてしまう輝に、他人には聞こえない心の声が聞こえてしまう俺、か。フフ、不思議な縁だな。こんな可笑しな能力を持っているのは、俺だけだと思っていた」

「うん、ぼくも同じ。何か、安心できるよね。一人じゃないんだって」

 ぼくの言葉を受けて、太助は満足そうに微笑んでいた。力強く頷くと再び歩き始めた。ぼくも太助に並んで歩き始めた。夏の夜とは思えない程に心地良い気候だった。あまり蒸し暑いと汗を掻いてしまう。ベタベタになってしまうのは心地良いとは言えない。

「忌まわしい能力だった。望みもしないのに、人の心の中が見えてしまう。滑稽なものだぞ? 絵に描いた様な偽善を口にしている奴らの心の中は、金と権力、他人を陥れようとするドロドロとした汚泥に満たされている。虫も殺さなそうな大人しそうな小娘が、心の中では平然と友人の小娘達を呪い殺さんばかりに憎んでいたりする。知らない方が良いんだ。他人の心の中なんて。ろくなことにならないからな」

 穏やかな笑みとは裏腹に、太助の口から飛び出した言葉には、確かなる怒りが篭められていた。燃え盛る炎の様な猛々しい怒り……でも、同時に、薄氷を割って歩くかの様な、儚い哀しみも感じられた。始まるんだね。真実を告げる物語が。大丈夫だよ。ぼくは絶対に逃げないから。必ず受け止めて見せるから。

「俺は母親の顔を殆ど覚えていない。産まれた街は北海道の札幌。時計台が有名な街だな。広大な面積を誇る県の、これまた大きな都市だ。冬になると何時も雪に覆われた白銀の世界が広がる街でな」

 太助は北海道の出身だったのか。確かに、地元の生まれでは無いというのは聞いていたけれど、随分と遠く離れた場所が故郷なのだと驚かされた。札幌……太助の言う通り、冬は寒い場所なのだろう。北海道か。行ったこと無い土地だよ。何時の日か皆で旅してみたいな。北の広大なる大地に、思わず想いを馳せていた。でも、今は太助の話を聞かせて貰いたいところだ。余計な妄想は、またの機会にしよう。

「俺の父親は最低な奴だった。多額の借金だけ残して、どっかに消えちまった。お陰で残された俺達は悲惨な極貧生活を強いられてね。まったく……あのクソ親父。どこかで出会ったら刺殺してやるさ」

 ゾっとする程に殺気に満ちた眼差しだった。うすら笑いを浮かべながらも、恐怖を覚える程の強い殺気に満ちた眼差しだった。太助は普段から目付きが鋭い。だから、怒りの感情を露わにしている時の表情は、慣れているぼく達でも思わずゾっとさせられる。

「その母親も俺の面倒を見るのは疲れたのだろうな。ある日、俺は祖父母に連れられて京都にやってきた。最初はちょっとした小旅行みたいなものだと思った。だが……その旅は、今なお終わりを告げることは無い。つまり、俺は見捨てられた訳だ。まだガキだった俺には、京都に来てからの生活は、とにかく信じられない事態の連続だった」

 あまりにも衝撃的な内容に、ぼくは呼吸をすることさえ忘れていた。慌てて気付いて、必死で息を吸い込んだ。まるで酸欠状態の水槽の金魚みたいだ。でも……その位、衝撃的過ぎる話だった。さらりと笑顔で語って聞かせてくれたけれど、予想外に壮絶な内容だった。何となく判ってしまった気がする。どんな場面でも冷静さを失わない太助の姿。その姿の原点は子供時代の体験にあったのかも知れない。誰だって、こんなにも衝撃的な体験をしたら、少々のことでは驚いたりしなくなるるのでは無いだろうか? 何だかぼくまで鼓動が高鳴っている。酷く緊張していたのかも知れない。こんな話、現実に耳にすることなんて無いだろうと思っていたから。

「ガキの時分は誰もが平気で残酷な振舞いができるものらしくてな。父兄参観日は最高に嫌な行事の一つだった。何しろ、周りは母親が来てくれているのに、俺には婆ちゃんが来てくれる。当然、好奇から転じて、いじめに至る訳だよな。孤独だった。皆から馬鹿にされてさ。肩身の狭そうな婆ちゃんの姿見るのも辛かったし、俺を馬鹿にする奴らにも腹が立った」

 何時の時代も子供達の社会というのは、学校という閉鎖空間の中に鎖された、極めて特異な世界となる。そこでは一般的な法律も、ルールも関係無く、力ある子供達が牛耳ったルールだけが支配する。当然、平等なんて有り得ないし、理不尽な例外パターンやら、反則行為なんか日常茶飯事だった。太助の話、目に浮かぶ様でぼくも胸が締め付けられる程に辛い気持ちを共有していた気がする。何だか居た堪れなくなって、気が付くとぼくは太助の手を力強く握り締めていた。太助は一瞬驚いた様な表情を見せたけれど、微かに顔を赤らめながら照れ臭そうに笑っていた。

「厄介なことに、俺はガキの頃から喧嘩が強くてな。伊達に柔道やっていた訳じゃ無かった。腕っ節も強かったから、喧嘩になる度に相手に怪我を負わせることも珍しく無くてな。その度に、婆ちゃんが頭下げて回った」

 立ち振舞いこそ違えど、ぼくと良く似ている様に思えた。だからなのか、ぼくは言葉に出来ない想いで、体を焦がされる様な感覚を覚えていた。体の中がチリチリと焼かれる様な痛みを覚えていた。自分のことでは無かったけれど、幼き日の太助の苦悩が判ってしまった。恐らく、同じ痛みを抱いていたのだと思う。だから、余計に苦しかったし、同時に、やり場の無い怒りに打ち震えていた。

 この路地に入るぞ。細いわき道に入りながらも太助は饒舌に語り続けていた。周囲は静かな民家ばかり。人の姿がまるで見られない街並みを、ぼく達はただ静かに歩んでいた。ぼく達が歩む足音だけが時を刻む時計の針の音の如く響き渡っていた。

「何時の間にか、俺は不良グループとつるむ様になっていた。何だか、世の中の全てに苛立っていてな。俺がこんな惨めな想いをするのは、オトナ達が悪い。こんなフザけた社会に仕立てたオトナ達のせいだ。何の根拠も無い頭の悪い価値観に従って生きてきた。無駄に喧嘩も強かったから、そういう連中とは話が合ってな。まぁ、今思えば、そんなの負け犬共の傷の舐め合いでしか無かったんだよな。何度も警察の世話にもなったよ。煙草もやったし、酒もやった。万引き、かつ上げ、喧嘩なんざ日常茶飯事だった。まぁ、女絡みのトラブルは起こしたことは無かったな。もともと、女になんか興味は無かったからな。今の俺からは想像もつかないだろう? 今すぐにでも、消し去ってしまいたい俺の暗い歴史秘話だ」

 太助の普段の立ち振舞いや言動から、何となくは想像できていたのかも知れない。でも、こうして本人の口から聞かされると、やはり衝撃を受けずには居られなかった。一瞬、ぼくの中で太助が酷く遠い存在になってしまったような気がした。距離を空けたくなったのかも知れない。人は自分とは異なる生き方をする誰かを畏れるものだから。閉鎖的な村社会の因習というものは、今でも根深く人々の心を蝕むものだと思う。特に京都は閉鎖的な街だから。上辺は上品な人達も、腹の中では何を考えているか判らない。そういう文化、ぼくは好きじゃない。狐と狸の化かし合いみたいな関係は何だか油断ならなくて、本当の意味で腹を割って話せない気がする。ぼくが求めているのはそんな関係じゃない。それに、隠されていた真実を知った瞬間、掌を返したかの様に態度が変わる様な最低な人種にだけは成りたくないと思っていた。そう、ぼくを蔑み、見下し、化け物扱いした奴らと同じ様な生き方だけは絶対にしたくなかった。だからと言って、義理だけで接する様な渇いた関係も、ぼくの望む関係では無かった。

「な? 退いただろ?」

「え? そ、そんなこと無いよ」

「無理しなくても良いさ。警察から顔を覚えられる程の筋金入りの不良だったからな。過去は消せないものだ。例え、俺の中で消し去ったつもりになっても、周囲の連中がそれを許さねぇ。結局、俺の様な奴は、社会のゴミってレッテルを貼られてそれまでさ。どうやっても、あいつらは俺の様な生き方をしている奴を認めやしねぇんだ。一度でも汚れた奴は、ずっと、汚れたままって訳だよな」

 何だか放り投げる様な、投げやりな言い方だった。自分のことを話しているのに、見知らぬ他人のことを揶揄する様な口調が痛々しく思えた。それに、一瞬だけど、口調が変わったのもドキっとした。何て言うのだろう? 不良が使う様な、威嚇する様な喋り口調に驚いたのは事実だった。

「ふふ。口調まで昔を思い出してしまったな。いかん、いかん。あの頃の俺はもう死んだのにな」

「うん……」

「まぁ、これもまた俺の真実の一端という訳だ」

 動揺するぼくの表情を鋭く窺いながら、太助は笑って見せた。でも、目は笑って無かった。凄く鋭い眼差しだった。少しだけ、太助のこと……怖いって思ってしまった自分を否定出来なかった。

「所詮は過去のことだ。そう言い切りたいところだが、人はそれを容易く許容したりしない。前科者と同等の扱いを受け、世間から爪弾きされるだけだ」

 ぼくが動揺したのを踏まえてなのだろうか? 太助は同じ内容を、今の太助の言葉で言い直してみせた。でも、やっぱり他人事の様な言い方だった。一切の体温を感じられない冷たい言葉だった。何故だろう? 不意に、ぼくの中で何かが一気に燃え上がる様な感覚を覚えた。体中が熱くなり、耳が燃える様に熱くなって、体中の毛が逆立つ様な感覚に包まれていた。ぼくはふと、足を止めると、思い切り太助の手を両手で握り締めた。

「お、おい、どうした?」

 突然の行動に、太助は目を丸くして驚いていた。多分、ぼく自身でも驚いていたと思う。どうして、そんな行動に出たのか、自分でも良く判らなかった。ただ、どうしても伝えなくてはならない気がした。熱く噴き上げてくる様な、ぼくの想いを。

「自分のこと、そんな風に悪く言わないで!」

「ひ、輝……?」

「何か、そんなの、卑怯だよね! 自分はこんな奴だから、嫌われて当然だって、最初から予防線張って人付き合いする。確かに、傷付かないで済むかも知れないけれど、そんなの寂しいよ……。ぼくは違うよ? 同情とか、そんなのじゃない。えっと……上手く言えないけれど、ぼく、太助と一緒に歩んでみたいと思っているから!」

 太助は静かにぼくの目を見つめていた。どこか哀しみに満ちた眼差しだった。

「もう、ここまで言っちゃったから、勢いに任せて全部言っちゃうよ」

 あーあ。ぼくは何をこんなに熱くなっちゃっているのだろう。でも、燃え上る様な想い、後から後から噴き上がってくる想いを、ぼくはどうしても抑えられなかった。数日間、一度もオナニーすることも無くて、どうにもムラムラを抑えられなくなっちゃう瞬間と良く似ていた。何て下品な例えだろう。でも、とにもかくにも、訳判らなくなっちゃう位に、ぼくは熱くなっていた。ついでに、何故か、おちんちんもビンビンになっていた。格好悪いなぁ、ぼく……。ほんと、恥ずかしい奴だと思う。

「ぼくね、ずっと、太助に憧れていたんだよ? どんな場面でも取り乱すことなく冷静に振る舞える強さに憧れていた。体格も良いし、見た目も男らしいし、格好良いなぁって何時も思っていたんだ。ぼくも、太助みたいになれたら、どんなに素敵だろうって何時も思っていた」

 太助は目を丸くしたまま、驚いた様な表情でぼくの言葉に耳を傾けていた。

「例え、他の子達が太助のこと、可笑しな目で見たとしても、ぼくはずっと傍にいるから。ううん、傍に居させて欲しいんだ。だって、ぼく、ずっと太助に憧れていたんだもの。影があるヒーローの方が、意味不明な正義の味方より、ずっと、ずっと格好良いと思うから!」

 何だか急に恥ずかしく成って来た。多分、今のぼくは暗がりでも判るほどに、真っ赤になっていると思う。良く熟したトマトみたいになっちゃっていると思う。あーあ。やっちゃった。でも、後悔はしない!

「それに……ぼくの話聞いて、太助、涙を流してくれた。本当に心が冷たく、荒んでいる子だったら……涙なんて、流せなかったと思うから。あの涙が、太助の本当の姿だったと思うんだよね」

 太助は照れ臭そうに頬を赤らめていた。夕方の一場面、思い出していたのだと思う。

「えへへ、あーあ。言っちゃった。こんなこと想っていたなんて、知られたくなかったけどさ、ぜーんぶ言っちゃった。ほら、本人を目の前にして、こんな発言するなんて恥ずかし過ぎじゃない? あー、こんな発言、口にしちゃうぼくも、十分恥ずかしい子だけどね」

「輝……そんな風に俺のことを見ていてくれたのか。だが、俺は輝が思う様な強さは持ち合わせていない。持ち上げ過ぎだ。俺はそんな、御大層な男じゃ無いさ」

「うん。でも、だからこそ、一緒に歩いても良いのかなって思えた」

「ふふ、どういう意味だ?」

「だってさー、あまりにも雲の上の存在過ぎちゃうと、ほら。ぼくみたいな、成り損ないのお子様じゃ釣り合わないでしょ? えへへ。こんなこと言ったら怒るかも知れないけど、ぼくね、何か嬉しかったんだ。なーんだ、太助もぼくと同じなんだって判っちゃったから」

 ぼくの言葉を聞きながら、太助は困った様な笑みを浮かべていた。照れ臭そうに目を逸らしたけれど、ぼくはシッカリ向き合いたかった。だから、握り締めた太助の手、さらに力一杯握り締めた。

「だから、約束して! もう、二度と、自分のことを悪く言わないって! ぼく、太助の友達だよ? もう、独りじゃ無いからさ。だからね、えっと……うーん、上手く言えないけれど……あははー」

 あーあ。本当に格好悪いよね。どうして、こういう場面になると、急に言葉が出て来なくなっちゃうのかな。上手く立ち振舞えないならば、最初から何もしなければ良い。そのくせ、前へ出たがる出しゃばり。だから、何時も格好悪い醜態を晒すばかりだ。あーあ。格好良く立ち振舞いたいものだよね。折角の表舞台なのに、カミカミな喋りしか出来ないなんて、相変わらず残念な子だ、ぼくは。でも、太助は本当に嬉しそうに笑ってくれた。ぼくの肩に腕を回すと、力強く肩を組んでくれた。とても熱い感触だった。

(ううーん、やっぱり、腕、太いよね。格好良いなぁ。憧れるなぁ。ぼくも太助みたいになりたいなぁ)

「嬉しいな。輝に想いをぶつけて貰えた。こんなにも、必死になって俺に想いを伝えてくれようとしてくれた。なぁ、輝。言葉なんて、ただの飾りに過ぎない。そう思わないか? 言葉なんか無くても、輝の想い、俺のここにしっかりと伝わったさ」

「太助……」

 太助は自分の胸を叩きながら、ぼくに笑い掛けてくれた。

「今の振舞いは、力丸が好む振舞いだったな」

「あー! リキってば、そういう暑苦しくて、恥ずかしい表現、大好きだもんね」

「俺も恥ずかしい男だったか?」

「うーん、太助がやると、格好良いんだよねー。不思議だなぁ」

「ははは。そういうものなのか?」

 それにしても、こんなに熱くなった姿を誰かに見せたの初めてだよ。何か、恥ずかしいなぁ。こんなにも興奮した姿を誰かに見せたのは初めてのことかも知れない。ぼく、太助の力になることが出来たのかな? でも、こんなにも喜んでくれているのだから、少なくても失敗では無かったよね? それに……太助が声を出して笑っているの、初めて見た気がする。凄く貴重な姿、見た気がする。やっぱり、笑顔も男前なんだね。えへへ。ぼく、ちょっと、太助に惚れちゃいそうだよ。

「輝、凄い汗だな」

「え?」

 太助に笑われて、ぼくは慌てて首筋や、額に触れてみた。相当興奮していたのだろう。こんなにも、派手に汗を掻く程に興奮していたなんて、改めて振り返ると恥ずかし過ぎて、耳が熱くなる気がした。あーあ。脇まで汗でビッショリだよ……。何か、やっぱり恥ずかしい子だよねぇ、ぼくは……。

「輝、帰って風呂に入ろうか」

「え、ああ、うん。そ、そうだね」

 くるりと踵を返すと、太助は背を向けたまま口を開いた。

「輝、ありがとうな。共に歩めること、俺は本当に嬉しく思う」

「え、えっと……ああーっ、もう、照れるから、この話題はオシマイ!」

「ははは。それならば違う話題に変えるとしよう。そうだな、最近、賢兄から聞かされた背筋も凍る、本当にあった怪談を聞かせてやろう」

「えー!? こ、こんな雰囲気抜群の状況下で、その話題? うう、リアル過ぎて怖いかも……」

 心が満たされるというのは、こういう気分なのかも知れない。そんなことを思いながら、ぼくは歩き続けた。酷く汗を掻いてしまったけれど、清々しい気分だった。誰かのために必死になれること。それは、その誰かだけじゃなく、ぼく自身も幸せにしてくれるものだと今更ながら気付かされたから。穏やかな月明かりが照らす醍醐の街並みを、ぼく達は静かに歩き続けていた。静かな街並みに、ぼく達の足音だけが染み渡っている様に思えた。

◆◆◆39◆◆◆

 夜半の醍醐の街並みを散策するのは、中々に楽しい冒険だった。こういう色合いの自分探しの旅というのも悪くない。それでも、やはり夏の夜は暑い。ジットリと纏わりつく様な湿気のお陰で、ぼくは既に汗でベタベタになっていた。

「やはり、夜とは言え暑いな」

「ねぇ、何で、太助は汗掻いてないの? もしかして、途方も無く代謝が悪いとか?」

「無礼なことを言ってくれる。良い男は汗を掻かないものなのさ」

 突っ込みどころが満載過ぎて、ただただ、ぼくは渇いた笑いで返すことしか出来なかった。それでも、相変わらず飄々とした態度を崩さない辺り、やはり、良い男は違うのかも知れない。

「風呂、沸いているみたいだな。一緒に入ろう」

「え!? 一緒にって……えっと、ぼくと?」

「他に誰がいる?」

 さも、不思議そうな顔をされてしまえば、返す言葉を失ってしまう。意外な展開になった気がする。でも、考えてみれば何時も錦おばさんの銭湯に一緒に行っている訳だし、今更恥ずかしがることも無いか。

「ねぇ、太助ってさ、賢一さんとも一緒にお風呂入ったりするの?」

「ほう? 輝はやはり、攻めて来る性分だな。大人しい顔をしているが、実は羊の皮を被った……ということか。フフ、意外な本性を見た気がするな」

「え、えっと……本気で怒っちゃっても良いかな?」

 可笑しそうに笑いながら、太助はさっさと風呂場に向かった。慌ててぼくも後を追った。何だか、上手い具合にはぐらかされちゃったけれど、興味惹かれるなぁ。好奇心は猫をも殺す、か。ううーん、こうやって余計なことに首を突っ込んでは、トラブルの火種になっているのも事実か。

「でも、やっぱり気になるよね」

「おい、輝。どうした? 早く来いよ」

「はーい、今行くよー」

 何だか不思議な気分だった。今までは、ぼくに取って太助は雲の上の存在だった。こうなりたいと思える憧れの対象だった。だから、ちょっと遠い存在に思えていた。太助が有名人だとしたら、ぼくは、その有名人を追っ掛けるだけの一般人みたいなものだった。でも、たった数時間のやり取りで、何だか肩を並べて歩けるようになった気がする。本当の意味での友達ってのは、こういう関係なのかも知れない。何か、意外な展開に、ぼくはすっかり舞い上がっていた。既に浴室に入った太助の後を追って、ぼくも浴室の扉を開けた。

「ふぅ、汗を掻いた後の風呂は良いものだな」

 浴槽に浸かりながら、太助はゆったり寛いでいた。取り敢えず、汗でベタベタなぼくは、体を洗うことにした。やはり古典的な日本家屋に良く似合う……アレ? ぼくの予想に反して、そこには古めかしい浴室には似つかわしく無い、ハイカラなボディソープが置かれていた。

(えっと……何か、突っ込みを入れなければいけない気がするのは、気のせいかな?)

「ああ、それは賢兄のシュミだ。勝手に置いて行ったものだから、好きに使ってくれ」

「あー、賢一さんのシュミか。うん、なら納得だよ」

 ぼくの言葉に、太助は可笑しそうに笑っていた。何時もながら、賢一さんは掴み所の無い不思議なお兄さんだと思う。良い男は謎に満ちているモノだと、サッパリ意味の判らない台詞を平然と口にする。芸人みたいな立ち振舞いとは裏腹に、妙に眼光鋭かったり、時折、ゾクっとする程にきつい目をしている時もある。現代版必殺仕事人の様な人だと思う。

「確かに、そうかも知れないな。登場シーンには、あのテーマ曲が良く似合いそうだ」

「あー! また、ぼくの心の中を覗いたの!?」

「嫌か?」

「え? え、えっと……嫌じゃ無いけど」

 ああ、何でぼくはこんなにも乙女チックな振舞いをしているのだろう。ううーん、太助の掴み所の無さもまた、賢一さんと良い勝負なのかも知れない。さすがは仲良し兄弟だよね。

 体を洗いながら、ぼくは何度も目にした不思議な情景を振り返っていた。ただの夢とは、とても思えない程に鮮明だった情景の数々は、あまりにも薄気味悪くて仕方が無かった。

(そうだよ。太助に話して、一緒に考えて貰おう)

「ねぇ、太助。可笑しなお願いだけど、ぼくの心の中を覗いてくれる?」

「ほう? 何か見せたいものでもあるのか?」

「うん。言葉で説明しても、ぼくが見た物を伝えるのはそうそう簡単じゃ無さそうだから。それに、こんなこと出来るの、太助しかいないから」

 最初は茶化す様な表情で笑っていたけれど、ぼくの想いを汲み取ってくれたのか、不意に真剣な表情に変わる。静かに目を伏せて、精神を集中しているように思えた。

「輝、悪いが俺の隣に来てくれないか。直接触れた方が、より鮮明に読み取れるはずだ」

「うん、判ったよ」

 ぼくは急ぎ、体を洗い流すと、太助の隣に並んだ。そっと、ぼくの肩に触れた太助の手は驚く程に熱かった。とても人の体温とは思えない程熱い手からは、不思議な波動の様な感覚が伝わってきた。太助は静かに目を伏せたまま、なおも精神を集中しようとさせているように思えた。

「……見えてきた。夜半の街並みを歩む輝の姿……此処は、島原か? 大門が見える」

「そう。最初にぼくが見た情景は島原を歩んだ情景なんだ。そして、そこからお西さんに向かったんだ」

「ああ、見える、見えるぞ。降り注ぐ黒い雨……ぐったりと力尽きた子供、そして……首を吊る女の最期だな」

 思わず、あの時の情景を思い出し、ぼくは吐き出しそうになってしまった。思い出したくも無い壮絶な光景だった。誰かが首を吊って死ぬ瞬間なんか見届けたく無かった。その上、酷く鮮明過ぎて、思い出すだけで鳥肌が立つ。軋む大銀杏の枝の音。だらりと牛みたいに伸びた舌。これ以上無い程に見開かれた目からは、今にも眼球が零れ落ちそうだったのも、尿が滴り落ちて水溜りを作っていたのも、全部、鮮明に思い出していた。

「なるほど。この女が一連の騒動の張本人という訳か。実に禍々しい殺気を感じるな……」

 正直、桃山先生との思い出は見られたくなかったけれど、全ての真実を紡がない限り、真実には至らないと考えていた。だから、ぼくは全てを太助に曝け出すことにした。必死で、ここ数日の記憶の全てを手繰り寄せていた。太助を信じればこその芸当だった。本当に信用していなければ、ぼく自身の真実を見せることなんて出来なかったから。

「やはり、賢兄の推理した通りか。この子供は前世の輝自身、そして、女は前世の輝の母親という訳か……」

 太助は静かに息を吸い込みながら、なおも精神を集中させていた。

「随分と古い時代の街並みだな。この場所は、古き時代の島原か? 子供の手を引きながら歩く女の姿が見える。夕焼け空の中、燃え上がる様な情景だな」

 だが、穏やかな口調が次第に揺らぎ始める。そっと横目で太助の表情を確かめれば、眉間に皺を寄せながら、険しい表情を浮かべていた。額に汗が滲むのが見えた。

「周囲の女達の声が聞こえるな。そうか。この女は芸妓か。嫉妬と羨望、渦巻く妬みと憎悪に満ちた罵詈雑言が聞こえて来る。酷く不快な雑音だな……。多くの女達の憎しみを背負わされようとしているな。これが引き金となったということなのだろうか? くっ、酷く穢れに満ちた声だな。俺の心まで蝕まれていくような感覚だ……」

 なおも、意識を集中して、耳を傾けようと試みていたが、不意に太助の呼吸が荒くなった。呼吸が浅く、苦しそうに呼吸を繰り返していた。

「た、太助? 大丈夫!?」

「くっ! こんなにも断続的に力を使ったのは初めてだからな……。済まぬ、輝。限界だ……」

 太助は静かに目を開くと、力が抜けた様に沈みそうになった。ぼくは慌てて、太助を抱え上げた。

「だ、大丈夫!? ごめんね、無理をさせちゃって」

「ああ、俺なら大丈夫だ。だが……最後に見た情景は、随分と意味深な情景だった。前世の輝が病に侵されていたのは判るが、あの女は何者だ? 何故、前世の輝に毒を盛って殺した? 放って置いても、あれ程までに病が進行しているならば、長くは持たないだろう」

「うん。でも、意味が判らないんだよね。どうして、ぼくに、こんな情景を見せつけるのだろう? 何を伝えたいのかサッパリ意味が判らないよ。ぼくには、薄気味悪い情景以外の何物でも無いし……」

 ぼくの言葉を受けて、太助は腕組みしながら静かに俯いて見せた。静かな浴槽には、ぼくと太助の二人だけ。時折、風が吹けば、外からは木々の葉が揺れる涼やかな音色だけが響き渡る。

「確かに、意図が見えないな。だが、確かなことが一つだけ判った」

「なに?」

「前世の輝と、あの女との間に起こった一連の悲劇を回想している。そうは考えられないだろうか?」

「回想か……。確かに、断片的ではあるけれど、時系列に沿って並べれば、そうなのかも知れない」

 もっとも、何故、過去の回想を見せつけているのか、その理由は判らなかった。もしかすると、前世のぼくが辿った道を見せることで、ぼくの中に眠るであろう、前世の記憶を蘇らせようとでもしているのだろうか? そんなことに、一体何の意味があるのだろう?

「再び、輝を自分の子として受け入れるためだろう」

 静かに放たれた太助の言葉に、ぼくは背筋が凍り付きそうになった。想像もしない返答だった。でも、そう考えることが正しい様に思えて仕方が無かった。

「冗談じゃない! ぼくは、あんな気味悪い奴とは、関わりたくも無いのに!」

「落ち付け、輝。あくまでも推測の域を出ない」

「う、うん……」

 生命の危機と隣り合わせになっている。そう考えると、途方も無く恐ろしくて仕方が無かった。相手は情鬼だ。それに、何人もの少年が神隠しに遭っている。恐らく、ぼくも同じ様に連れ去るつもりだろう。冗談じゃない! そんなことされたら、ぼくはどうなる!? こうして皆と共に歩んでいるのに、敢えて引き離される。そんなの身勝手だ。ぼくの気持ちはどうなる? 本当の母親ならば……そんな、傍若無人な真似をする訳が無い。所詮、情鬼は情鬼でしか無いということか。ぼくの敵でしか無いんだ。あの人と何ら変わりは無いんだ……。

「あの人と……何ら、変わりないじゃないか……」

「そうかも知れないな。だが、輝、忘れるな。輝の敵は、俺の敵でもある」

「太助……ありがとうね、ぼくのこと気遣ってくれて」

 でも、不安は尽きなかった。桃山先生にも関与している。何故、無関係な桃山先生にまで手を出そうとしているのだろう? ああ、考えれば考える程に訳が判らなくなる。

「輝、そろそろ風呂から上がらないか? 続きは部屋に戻ってから考えるとしよう」

「う、うん。そうだね」

「ああ、服なら心配するな。例によって俺の服を貸してやろう」

「うん、ありがとう」

 太助のお婆ちゃんが何時の間にかぼくの学生服を洗濯してくれたらしい。何時の間に服を持って行ったのだろう? この暑さだ。夜に干しても、朝になればすっかり渇いているのかも知れない。でも……まさか、下着まで洗濯してくれるとは思わなかった。これには、さすがに背筋が凍り付きそうになった。深刻な面持ちの太助に、その事実を聞かされた時、ぼくは本気で絶望の海に沈んだ気がした。

(さ、さすがに下着は借りられないし……ううむ、こ、これは、どうしよう)

「ううむ、婆ちゃんよ、気を利かせてくれるのは有難いのだが、まさか、下着まで洗うとは予想外だな。本気で不測の事態に直面してしまったか。ううむ……」

「え、えっと……どうしよう?」

「さすがに、俺の下着を……ってのは嫌だろう? まぁ、俺は構わないが」

 苦笑いを浮かべながら見つめられて、ぼくも思わず苦笑いで返すしか出来なかった。

「ま、まぁ、ハーフパンツならあるから使ってくれ……」

(うわっ、ま、まさかの……ノーパンですかー!? えー、で、でも……他に道は無い訳だよね)

 妙に風通しが良過ぎて、落ち着かないことこの上なかったけれど、他に道は無かった訳で……。あー、太助に下着を借りるという選択肢もあったのかも知れないけれど、さすがに、それは、ちょっと気が退けた。何か、激しく興奮しちゃって、大変なコトに成っちゃいそうだし……。そんなことを一人考えながら、一人身悶える、これまた一人上手なぼくにはお構い無しに、相変わらず飄々とした振舞いで太助は二階へ向かった。

「あー、ちょっと、置いていかないでよー」

「ああ、済まない。だが……後ろを歩かれるのも、それはそれで嫌だろうと思ってな。階段、昇るわけだから……」

「あー、そうだねぇ」

 な、何で、こんな面白い展開になっちゃうのだろう……。可笑しいなぁ、ぼく、こういう役目を担うタイプでは無いと思っていたのだけれど……。はぁ、切迫した話も台無しだよ。もう、後は野となれ山となれ。ぼくはスースーする股間を必死で押さえながら、階段をゆっくりと昇って行った。

◆◆◆40◆◆◆

 太助の部屋は羨ましい位の広さで、ぼく達が皆で泊まりに来ても、余裕で雑魚寝出来てしまう程に広かった。さながら、どこかの民宿の大部屋みたいな広さの部屋と表現しても過言では無いと思う。元々は太助の祖父母と、太助のお母さんが暮らしていたこともあり、また、兄弟の人数も多かったらしいから、家も当然大きくなったらしい。でも、皆家を巣立ってしまうと、逆にその広さが寂しく思えてしまうもの。そう考えると、太助が学校に行っている間は、太助のお婆ちゃんは一人でこの家に居ることになる。寂しく無い訳が無いのは、鈍感なぼくにも判る。だから、ぼく達が遊びに来ると、お婆ちゃんは本当に嬉しそうに持て成してくれる。あの心優しいお婆ちゃんがいたからこそ、太助は此処まで生きてこられたのかも知れない。

「唐突に可笑しな展開に陥り、話が途切れてしまったな」

「う、うん。そうだね……」

「まぁ、些細なことだ。そう、気にすることも無い」

(気にするよ!)

 それにしても、貸してくれたのは妙にサイズが小さく感じられるメッシュ生地のTシャツだった。しかも、素材が薄いのか、微妙にスケているような……。色も白いし……。その上、貸してくれたハーフパンツも、妙に丈が短い上に、ピッチリしている。い、一体どういう意図を篭めて貸してくれたのだろう? もしかして、太助はぼくに興味津々なのかな?

「意外と似合うと思うけどな?」

「そ、そうかなぁ?」

 その言葉に、ついつい嬉しくなり、安易に乗せられてしまったことを激しく後悔していた。相変わらず、太助はぼくの素振りを楽しんでいる様にしか思えなかった。にやにや笑いながら、ぼくの行動を眺めている様に思えて、ますます落ち付かなかった。それにしても……その黒いタンクトップ、目のやり場に困る……。はぁ、ぼくのマニアックなフェチを知りながら選んだのでは無かろうか? どう考えても、ぼくを挑発しているとしか思えなかった。しかも、やたらと露出度が高く、さっきからチラチラと覗かせる乳首に、ぼくは興奮しっぱなしだった。おまけに、しきりに腕を挙げては、ぼくに脇の下を見せ付けている様にしか思えなかった。女に興味が無いと、良く口にしているけれど、本当の意味で言っていたんだね。つまり、太助も……ぼくと同じ「人種」ということか。何か、安心した様な、余計に不安に陥ってしまった様な、微妙な感覚だった。

「さっきの話の続きだが、腑に落ちない点があってな」

「腑に落ちない点?」

 互いにこんな格好なのに、真面目な話をされても、いまいち集中出来ないから困る……。しかし、そこは役者な太助。時折、微妙なアピールを織り交ぜながらも、冷静な表情で話をしてくれるから、本当に凄いと思う。

「そうだ。何故、桃山が巻き込まれているのか、そこが不可解だな」

「うん。ぼくも、そこは不思議に思っていた。どうして、桃山先生が巻き込まれるのか? どう考えても関係しているとは思えないんだよね」

 太助は静かにぼくの表情を見つめていた。何もかもを見抜いてしまいそうな鋭い眼差しだった。透き通る様な瞳でじっと見つめられて、ぼくは思わず目を背けてしまった。

「先入観は捨てた方が良いかも知れないな。相手はまともな存在では無い。当然、まともな常識が通じるなどとは思わない方が賢明だろう」

「うん、ぼくもそう思う」

 太助はなおも鋭い眼差しでぼくを見つめている。その行動が何を意図しているのか判らずに、ぼくは段々と不安な気持ちになってきた。桃山先生への想いも、体験した出来事も、全て包み隠さずに見せたつもりだった。だから、もう、既に隠し事は何もないハズだった。

「まぁ、桃山のことは掴み所が無さそうだから、今は置いておくとしよう。それよりも、もう一つ、気になったことがあってな」

「気になったこと?」

「ああ。輝も見たはずだ。あの黒い雨に、お西さんで見た数え切れない程の死体の数々を」

 思い出したくも無い光景だった。思わず、鮮明に脳裏に過ぎり、吐き出しそうになってしまった。でも、確かに、あの黒い雨は異様なものだった。どう考えても普通じゃなかった。雨にしては、有り得ない程に酷い腐臭を放っていたし、何よりも、ベチャっという音を立てて降り注ぐ雨など聞いたことが無い。

「我が子を毒殺された母の憎しみ。その、壮絶な憎しみが呪いに姿を変えた。だが、どんなに憎しみが深かったとしても、此処まで大々的な呪いを実現させるのは、普通に考えたら不可能な話だ。もっとも、この手の話に関しては、俺よりも、むしろ輝の方が詳しいだろう?」

「う、うん。確かに、あまりにも変過ぎるとは思っていた。ぼく、思うのだけど……あの黒い雨、雨じゃなくて、血だったのじゃないかなって。そうでなければ、腐敗臭を放つ雨なんて考えられないもの」

 言いながら、再び戻しそうになってしまった。深過ぎる憎悪が体現した結果、文字通り、血の雨が降ったという訳か。計り知れない程に深い憎しみがそこにあったのだと思う。でも、どう考えても、たった一人で為し遂げられる様な規模では無かった。例えば、数多の人々が一斉に呪いを放ったとすれば、多少は考えられなくもない。でも、それでも、あまりにも規模が大き過ぎる。一体、どんな手段を使ったのだろうか? 情鬼だから為すことが出来た。その考えは妥当な気がする。でも、こんなにも絶大な力を放つ呪いを実現出来る手段、何かあるのだろうか?

「一般的に知られている様な呪いの術では無さそうだな。より、専門的で、なおかつ、絶大なる威力を誇る呪い……。そう考えた方が妥当であろうな」

 太助の言葉を受けて、ぼくは呪いの手段から考えてみることにした。一般的に知られている様な、丑の刻参りの様な簡易的なものでは無い筈だ。相当、深い知識を要する呪術を施したと考えるのが妥当だと考えていた。それも、これ程までに大規模な呪いの術……。

「あ!」

 古い文献には、その名が登場することもあった。仮に普通の人が使ったとしても、絶大な効力があったとされる禍々しき呪いの秘術。只でさえ強大なる力を情鬼が使ったとすれば、血の雨を降らせる程の力を持っても可笑しく無いと思えた。それは、ぼくが知る呪いの秘術の中では、恐らく、最強だろうと思われる手段だった。

「蠱毒だよ」

「蠱毒? 初めて聞く言葉だ。一体、どういった呪いの秘術なのだ?」

「うん、古代の文献に残されている、とても強力な呪いの術でね。その名の通り、虫を使った術なんだ。器の中に多数の虫を入れて、互いに食い合わさせる。つまりは共食いさせる訳だよね。虫同士で食らい合う。その結果、最後に一匹だけ残る。この、最後まで生き残った、最も生命力の高い一匹の虫を使って呪いを放つんだ」

「話を聞く限り、外法の中の外法と言った感じだな。その、異様なまでの禍々しさに寒気を覚える……」

「うん。それはもう、桁違いの力を誇る呪いの秘術だよ。一寸の虫にも五分の魂というでしょう? 当然、虫の数が多ければ多い程に、犠牲になった魂の数は増える。魂の数が増えれば増える程に、爆発的に威力も増す筈だよ。蠱毒の呪いならば、あるいは、実現させることも出来るのかも知れない」

 自分で語りながらも、想像を絶する思いだった。むしろ、あり得ないと考えていた。こんな、特殊過ぎる呪術を知る者が、そうそう存在する訳が無かったのだから。ましてや、この手の特殊性の高い呪術は、そうそう表社会に出回るものでは無い。裏社会を生きる、極一部の、本当に特殊な呪術師位しか知るハズの無い知識であるはず。我が子と共に平和な暮らしをしている、一介の町人が知ることの出来る様な知識では無いと思っていた。

「輝、先入観で物を考えるのは危険だ。相手は普通では無いのだから」

「そうだね……。誰かが、良からぬ想いを胸に抱き、入れ知恵したのであれば、成り立つ話だからね」

 何だか、深入りすることを憚られて仕方が無かった。これ以上、迂闊に介入するのは危険過ぎる気がしてならなかった。もはや、人の手でどうこう出来る領分を逸脱しているとしか思えなかった。

「ああ、輝の考える通りだ。俺達の手に負える様な話では無いな。桁が違い過ぎる」

「うん。相手は正真正銘の鬼だからね……。でも、そんな恐ろしい相手に、ぼくは狙われているのか……」

 今のぼくは、正に死と隣り合わせになっている。そのことに気付かされた瞬間、ぼくは、どうしようもない恐怖心に駆られた。体中が冷たく凍り付く様な恐ろしさに包まれて、どうすることも出来ない程に怖くて、怖くて、仕方が無くなってしまった。

「ぼく……死にたくないよ……」

「死なせるものか。それに、俺の大切な仲間に指一本でも触れてみろ。死ぬよりも、なお、恐ろしい目に遭わせてやるさ」

 太助は力強く笑ってくれた。嬉しかった。何よりも心強かった。でも、それでも、ぼくの中での恐怖心は膨れ上がる一方だった。蠱毒……。どういう呪術が知っているだけに、恐ろしくて仕方が無かった。想像するのも恐ろしかった。逃げることも出来ない絶望に満ちた暗い壺。何も見えない壺の中で互いが互いを喰らい、必死で生き延びようとする。生きたい! 死にたくない! その想いを胸に抱く虫達が、同じ想いを抱く虫達を喰らう。虫には心なんか無い? そんな訳無い! 命ある生き物ならば、生存本能を持っていない訳が無い。蠱毒は、そうした「絶望」を利用した呪術なのだから。当然、外法の中の外法と呼べる。それに、蠱毒とは言え、使うのは虫だけじゃない。蛙や蛇だって使うことが出来る。より生命力の強い、より知能の高い生き物を使えば、威力は劇的に増大する。

 死と背中合わせになっているという事実が、ぼくの中で一気に膨れ上がり、大きな、大きな恐怖になろうとしていた。あまりにも大き過ぎる恐怖に、ぼくは溺れてしまいそうになっていた。心が酷く掻き乱される。あの女の人が放った呪いの力は本当に大きな物で、恐らく、呪い殺された人達の怒りや悲しみ、無念の想いが重なり合って、呪いの力だけが独り歩きしてしまったのでは無いかと考えていた。恐怖に打ち震えていると、唐突に思い出してはならない情景が蘇ってきてしまった。

(まずい! この情景を思い出しては駄目だ! 太助に見られるのはマズ過ぎる!)

 それは、桃山先生と輝彦君との関係が紡ぎ出された情景であった。一緒に風呂で戯れ、そのまま部屋へと移り繰り広げられた淫らな関係。ぼくも子供じゃない。何をしているか位は判ってしまった。そして、気が付いた時には下着を汚してしまったという事実も……。

「なるほどな。桃山が関与している理由という訳か……」

 太助は天井を見つめたまま、不敵な笑みを浮かべていた。

「あ、ああ……。え、えっと、こ、これは……」

「輝、これはお前が思い描いた妄想などでは無い。実際にあった史実と考えて良さそうだな」

「も、もしかして……最後まで全部、見ちゃったの?」

「済まないな、輝。あまりにも強過ぎる想いだったのか、俺の中に一気に流れ込んできてしまった。弁明するつもりは無いが、無理に垣間見るつもりは無かった」

 ああ、何て恥ずかしい姿を見られてしまったのだろう……。奇しくも、今は下着をはいていない状況。なおのこと意識せずには居られなくなる。だけど、意識しない様に必死に掻き消そうとすれば、する程に鮮明に情景が蘇り、ぼくの想いとは裏腹に興奮が高まってゆくばかりだった。

「全ては、あの情鬼の思惑なのだろうな」

「ど、どういうこと?」

「人の欲望というのは色々とある。食欲、睡眠欲、それから……性欲だな」

 太助は目線だけ、こちらに向けながら含み笑いを浮かべていた。何だか、全てを見透かされてしまった様で、もはや無駄な抵抗は必要無いのかも知れない。どこか、諦めに似た感覚を覚えていた。だけど、同時に、ぼくの恥ずかしい真実を知られてしまったことに、ぼくは妙な興奮さえ覚えていた。相変わらずぼくは変態だ……。

「温かな愛情を欲する輝の心を惹き付けるには、性欲を刺激するのが最も有効だろうな。桃山の裏の素顔を悪用しているのは間違いない」

 語りながら、自分の言葉に何かを見出したのだろうか? 太助が静かに息を呑むのが聞こえた。

「そうか……。あの情鬼は桃山に乗り移っている。色香で輝をかどかわし、桃山と輝を結びつけようとしている。これは憶測だが……それこそが狙いでは無いのだろうか?」

「え? どういうこと?」

「桃山と輝が結びつく。それを見届けた上で、桃山を乗っ取る。結果的に、輝と共に歩むという願いを叶えることが出来る」

「そ、そんなことって……」

「ああ。普通の母親が考える様なことでは無いな。まぁ、あれ程までに気が狂った姿を考えれば、もはや、手段などは選ばないと言った所なのだろう」

「最低だよ……。そこまでして、ぼくを手に入れたいの? 馬鹿みたいだよ。馬鹿みたい……」

 自分が惨めで仕方が無かった。そんな安っぽい挑発に載せられて、散々惑わされたことも、桃山先生に喉を鳴らして尻尾を振って歩み寄ったことも。全部、全て、仕組まれたことだった。薄々勘付いてはいたけれど、その事実を明確に認識した時、本当に自分が惨めであることを思い知らされた。悔しさのあまり涙が出てきた。悔しくて、悔しくて、ただ悔しくて仕方が無かった。

「済まないな。一緒に風呂に入ったのは、敢えて、俺が仕組んだことだ」

「え? どういうこと?」

「微かに見えていた。だから、同じ情景を作り出せば、より鮮明に見えて来ると思ってな」

「そ、そうなんだ……」

「まぁ、半分は今話した通りだ。残りの半分は……ふふ、俺の欲望を果たすためだな」

 ふと、横を見れば、太助は不敵な笑みを浮かべながら、ぼくの顔をじっと覗きこんでいた。不敵な笑みに、何を想っているのか不安に駆られた。一体、何をしようとしているのか? 目の前に差し迫る、目に見えない恐怖にぼくは動揺させられていた。次の瞬間、太助は部屋の明かりを消した。そのまま、ぼくに圧し掛かってきた。

「うわっ! ちょっ……んんっ!」

 突然のことに、ぼくは思わず悲鳴を挙げそうになった。だけど、太助に口をしっかりと押さえ付けられて、ぼくは声を出すことも出来なかった。

「ふふ、驚いたか?」

「し、心臓……止まるって! い、いきなり、何するの!?」

 暗がりの中で、太助が可笑しそうに笑う表情が見えた。

「死と背中合わせになっているという恐怖。そこに付け込んだ情鬼の思惑。色香で勝負という訳か。まぁ、俺は桃山には負けるつもりは無いけどな?」

 妙に自信に満ちた笑みを浮かべる太助に、ぼくはますます困惑していた。一体、何を伝えようとしているのだろう? そんな、ぼくの疑念に気付いたのか、太助は可笑しそうな表情で笑い掛けた。

「色香で繋ぎ止めるならば、俺が輝を繋ぎ止めてやる」

「え……えっと、ど、どういうこと?」

「さぁな?」

 何となく想像は出来たけれど、その先の展開を考えると、動揺せずには居られなかった。色々な考えが脳裏を過ぎって行った。再び、桃山先生と輝彦君との一線を越えた関係が、鮮明に脳裏に浮かんだ。だからこそ、ぼくは一気に体温が下がる思いで一杯だった。

「そう、怖がるな。半分は冗談だ」

「は、半分は?……え、えっと、それじゃあ、残りの半分は?」

「冗談では無いということになるな」

 突然の展開に、もしかしたら、ぼくは変な期待を胸に抱いていたのかも知れない。今もまだ、ぼくの心臓は破裂しそうな程に激しく震えていた。傍らでは、太助が横になっている。

(ぼ、ぼくは、一体何を期待しているのだろう……。じ、自分でも、良く判らなくなってきたよ)

 太助は相変わらず、不敵な笑みを浮かべてまま、天井をじっと見つめていた。何だか、堪らなく恥ずかしくなって、ぼくは太助に背を向けていた。相変わらず、心臓は激しく震えていた。

「それにしても、探れば探る程に深い闇が見えて来るものだな。人の心は深淵の闇に包まれている。何処まで続いているのか、本当に底の見えない暗闇だ」

「うん、そうだね……」

「周囲の女達から憎しみを買っていた母親。恐らくは、その憎しみが転じ、その結果として我が子を毒殺された母親。人が鬼に変わるには十分に正当な理由だと思わないか?」

 ようやく手にした幸せなのに周囲の勝手な妬みや僻みに潰されてゆく。自分は何の努力もしないクセに、他人の成功だけを羨む人の心の醜さ。その上、徒党を組んで潰しに掛る。そんなことをして手にした勝利に一体どれだけの価値があるのだろう? 結局、同じことを繰り返されるだけだ。また、別の誰かの手で壊されるだけだ。

 大空を羽ばたく鳥には地べたを這いずり回る蟻の気持ちは理解出来ないのかも知れない。でも、何の努力もせずに、努力をして大空を羽ばたく鳥に成長できた人を、再び地べたに引き摺り落とそうとする人達の心なんて、ぼくは理解出来ないし、共感したくもない。

(でも、あの母親……あまりにも救いが無いよ……)

「輝、同情は棄てろ。そんなのは、ただの甘さでしか無い」

「ただの甘さか……」

「そうだ。相手は輝の命を狙っている。同情するべく過去を持っていたとしても、だからと言って、輝に危害を加え様とする存在を見過ごす訳にはいかない」

「うん、そうなんだよね……」

「輝、良く覚えておけ。甘さと優しさは似て非なる物だ。混同すれば、取り返しの付かない事態に陥ることもある」

「そうだね。ぼくは甘いのかも知れない……」

 言い掛けたところで、太助が静かにこちらに体を向けると、穏やかに微笑んで見せた。

「もっとも、輝のその甘さ、俺は嫌いでは無いけどな」

「えー。何か、言っていること矛盾してない?」

「そうかも知れないな。だが、筋を通すことだけに固執してガチガチな生き方をするのもツマラナイと思うぞ?」

「それもそうだね」

 あーあ。改めて間近で見ると実感させられるよ。やっぱり太助は男前だよねぇ。普段は、殆ど笑いもしない太助の笑顔。何だか、意外な感じがするけれど、やっぱり、格好良いよね。ぼくも、もっと強くならなくちゃ。腕も太いし、体格も良いし、憧れるなぁ。

「ふふ、俺に惚れたか?」

「えー、そんなこと言っちゃうの? えへへ。でも、そうかも知れないね」

 何か、妙な気分だった。本当に、太助に惚れているのかも知れない。興味を抱いているのかも知れない。あーあ。本当に節操無しだなぁ。自分に優しくしてくれる相手ならば、誰にでも尻尾を振るんだなぁ。でも、少し位だったら、それも悪く無いのかな? そんなことを考えていると、太助がそっと腕を伸ばした。

「え? なに?」

「本当に、この能力は厄介なものでな。見なくて良い物まで見えてしまう。例えば、今、輝が何をあ考えているのか? 俺のことをどう思っているのか? そういう裏の事情まで見えてしまう。迂闊に相手の秘密を知ってしまうのも、中々厄介な話だな」

 返事することが出来なかった。自分のことなのに、ぼくは、自分自身のことを良く理解出来ていない。コタを好きという想いは真実なのだと思う。太助のことを好きというのも、もしかすると近い感情なのかも知れない。でも、それは友達として? それとも……?

 あの人のせいで、ぼくは女の人全般に恐怖心を抱いてしまう。当然、興味も失われてゆく。認めたく無かったのかも知れない。ただでさえ人と違う生き方を強いられているのに、これ以上、道を外れたくなかった。だから、ぼくはどうすれば良いのか、何時も悩み、迷い、揺れ動いている。

「輝、腕枕してみるか?」

「え? もうっ、太助こそ、ぼくに興味を抱いているんじゃないの?」

 何時もの様にぼくをからかっているのだろう。そう思ったぼくは、笑いながら返した。だけど、太助はしっかりとぼくの目を見つめていた。冗談を言う時の表情では無いこと位、いくら鈍いぼくでも判った。

「そうかも知れないな。一糸纏わぬ裸の俺を見せたのは輝が初めてだからな。賢兄にも見せたことがない姿だ。俺の全てを見せた相手に興味を抱くなという方が、無理があるというものだ」

 心臓が張り裂けそうになっていた。少しだけ……。ほんの少しだけ、甘えてみようかな。ぼくはそっと、太助の腕に頭を乗せてみた。太助に優しく肩を抱かれ、何だか、ぼくは安心し切っていた。誰かに守っていて貰える。自分よりも強い誰かに守って貰っている。だからこそ、とても心強く思えた。

「自分より強い相手に憧れを抱く。人は誰でも自分より強い相手に興味を抱くものだ」

「野生動物みたいだね。でも、人も動物も、同じだものね。どちらも命ある存在だし」

「そうだな。もっとも、俺は輝が思う程、強くは無いけどな」

「それでも、ぼくは太助の姿を追い求めていたんだよ。こうなりたいって想いを重ね合わせて。えへへ、何か、変だよね、ぼく」

 太助は天井を見たまま可笑しそうに笑っていた。

「そんな風に持ち上げて貰えるなんて光栄だな。だが、小太郎が、今の発言を耳にしたら怒るだろうな」

「えへへ。そうかも知れないね」

「輝、これは俺達二人だけの秘密だ。良いな?」

「判っているよ」

 ぼくは天井を見上げたまま、静かに呼吸を整えた。自分の中で気持ちの整理を付けたかったのは事実だし、中途半端な気持ちで太助に向き合うのも嫌だったから。

「コタとは小さい頃から、ずっと一緒にいたからね。兄弟みたいなものだよ」

 自分でも良く判っている。ぼくはコタに対して特別な感情を抱いている。それは恋愛感情と言える感情だと思う。でも、コタはぼくのこと、どう思っているのかな? やっぱり、ただの兄弟と思っているのかな? それとも……。

「フフ、要らぬ詮索は止めておけ。知らなくて良いことを知った時に、間違い無く後悔するぞ」

「それもそうだね」

 何だか、修学旅行の夜を思い出す光景に思えた。こうして、徒然なるままに他愛もないお喋りに花を咲かせる。こういうのって楽しいものだと思う。ただ……修学旅行の夜に、誰かに腕枕をして貰う。そんなことを天と地がひっくり返っても有り得ない展開だ。そんなことを考えていると、太助が不意に問い掛けて来る。

「なぁ、輝。腕枕はどんな気分だ?」

「え? う、うん……。えっと、凄く……ドキドキしているかも」

 何だか妙な気分だった。でも、今は二人しかこの場には居ない。誰にも知られることの無い、ぼくと太助、二人だけの秘密。ぼくはただ、心臓が張り裂けんばかりに興奮していた。

「やっぱり、太助、腕太いね。この感触、良く眠れそうだよ」

「フフ、桃山より、俺の方がずっと良いだろう?」

「もう、何の勝負なのさ?」

「そうだな。どっちが、輝の心を繋ぎ止めるかの勝負だな」

 ずっと否定したかった自分自身の真実。人と違う自分というのを認めたく無かった。ただでさえ、人と違う能力を持っているのに、これ以上、人と違う自分になりたくなかった。でも、そうやって自分を否定して、ウソをつき続けるのは本当に苦しかった。良いのかな? 太助にならば、全てを見せてしまっても……。

「安心しろ。二人だけの秘密だ」

「う、うん……」

「ついでに、教えてやろう。俺も輝と『同じ』だ。そうで無ければ、こんなことはしないさ」

 明言することは避けている様に思ったけれど、そうか。やっぱり、そうなんだよね……。太助、本当にありのままの自分を見せてくれるのだね。嬉しいな。ぼく、今まで誰かとこんなにも、深く関わったことが無かったから、本当に嬉しく思えた。ずっと、この忌まわしい能力が引っ掛かって、人と距離を近付けることが出来なかった。だから……。

「弁明する訳では無いが、輝のことを好きだという感情はウソでは無い」

「お互いの話を聞いたから?」

「それは一部に過ぎないさ。俺とは対照的な一面を持っていること。笑顔が可愛らしいのにも興味惹かれていたし、何よりも、俺がそれまでに接してきた連中とは全く違っていたことも興味を惹かれた一因だ」

 何となく判る気がする。ぼくと太助は、色んな部分が対照的だと思う。外見にしても、中身にしても、対照的な部分が多い。人は自分に無い物を持つ誰かに興味を惹かれるものだと聞いたことがある。そう考えると、太助がぼくに興味を持ってくれたのも判らなくない。

 多分、普段の太助の姿しか見ていなかったら、これ程までに心は動かなかったと思う。ぼくの心を大きく動かしたのは……意外だけど、太助の『弱さ』だった。何時も冷静に振舞っていて、強気で、何よりも格好良くて……そんな姿に憧れを抱いていたけれど、飾ることの無い姿を目にした時、ぼくは太助のことを支えてあげたくなった。何か、図々しい表現だけど、でも、ぼくの素直な気持ち。一緒に寄り添いながら、少しでも力に成りたいと願っていた。これが……好きという感情なのかな?

「色んなことに繊細で、脆くて、傷付きやすくて。そんな壊れ物の様な一面を見ていると、俺の手で守ってやりたくなってな。ふふ。今日、祇園さんでの一件の後、輝の後をつけたのは絶好の好機だと考えたことも理由のひとつだ」

「そ、そうなんだ……。え、えっと……何か、意外だなぁ。ちょっと、驚いたかも」

 予想もしなかった。太助がそんな風にぼくのことを想ってくれているなんて思わなかった。迷惑掛けてばかりの面倒な振舞いばかりしているから、困った子だなぁと思われている位だと思っていた。

「輝が相手だったら、俺は付き合わせて貰いたいとも思っているさ」

「えぇっ!?」

「まぁ……こんな場面でというのも、締まらないが、告白という奴だな」

 太助は照れ臭そうに笑っていた。初めて見たかも知れない。太助のこんな姿。それに……ぼくに想いを寄せてくれているなんて、予想もしなかった。すごく嬉しかったけれど、同時に、物凄く迷った。

「いきなり過ぎるよな。まぁ、返事は気長に待たせて貰うとするよ」

「え、えっと……」

「ふふ。小太郎への想い、断ち切れないのだろう?」

「全部、お見通しなんだね……」

「済まないな。まぁ、俺の想いには応えてくれても、応えてくれなくても構わないさ。勇気を持って、俺に接してくれた輝への感謝の意味も篭めての告白だ。まぁ、俺の勇気を認めてくれれば、それだけでも十分救われるさ」

「ごめんね……」

「構わないさ。ただ、俺は輝のことが好きだ。それだけは頭の片隅にでも置いておいてくれ」

 何だか、太助は迷いの晴れた表情を浮かべていた。多分、今まで誰にも話したことの無い話を、ぼくに打ち明けることが出来て、本当に気持ちが軽くなったのだと思う。少なくても、ぼくは凄く気持ちが軽くなった。きっと、今、このタイミングだから打ち明けることが出来たのだと思う。過去の自分自身の話とか、生い立ちとか聞かせてくれたのも、ぼくに太助のことを判って欲しいという願いを篭めていたのだと思う。

「ねぇ、太助。この場面で、こんなこと聞くのも変かも知れないけれど……」

「ん? 何だ?」

「ぼくを挑発するような格好しているのは……そういうこと、したいからなの?」

 恐る恐る問い掛けて見せれば、太助は可笑しそうに笑って見せた。

「ははは。俺も男だからな。既に、俺のはこういう状態だ」

「えっ!」

 可笑しそうに笑いながら、太助はハーフパンツをめくって見せた。いきなりの大胆過ぎる振舞いに、ぼくは腰を抜かしそうになっていた。いきり立った太助のおちんちんに、思わず目が釘付けになってしまった。

「ななな、何て大胆な!」

 笑いながら太助は再び仕舞って見せたけれど、ぼくの興奮は最高潮に達していた。心臓が痛い程に脈打っているのを感じていた。

「何だったら、俺のお楽しみの情景を一方的に見せてやるだけでも良い。興味、あるのだろう? 俺に?」

「う、うん……」

「それに、さっきも言った通り、俺は輝が好きだ。好きな奴と、こういう行為をしたいと思うのは自然なことだ。違うか?」

「そ、そうだけど……」

 やっぱり、ぼくは臆病者だ。此処で太助と一線を越えてしまったとして、果たして、今まで通りに仲良く出来るだろうか? どうするのが正解なのかは判らなかったけれど、太助とはずっと、良い友達で居たかったから。

「輝は毛が無いのだな」

「う、うん……体中の毛、全部剃っているからね……」

「ほう? 元々色白な肌に、柔らかな感触。先刻、風呂で見ていた時から、存分に興味を抱かせて貰っていたが……なるほどな。そういった舞台裏がある訳か。ますます興奮するな」

 獲物を狙う様な笑みを浮かべながら、太助の手がぼくのシャツの中に侵入してくる。ぼくは抵抗出来なかった。ううん、抵抗したく無かった……。

「た、太助……くすぐったいよ……」

 必死の想いで絞り出した声は、まるで喘ぎ声だった。これでは、余計に太助を興奮させるだけだ。そんなことを考えている間にも、太助の手は段々と上へ、上へと登って来て、ぼくの胸を撫で回していた。

「ふふ、中々に良い肉付きだな。この柔らかな感触、滑らかな肌の感触……実に興味深いな」

「……脱いで見せる? ぼくの……毛の無い体、良く見る?」

「輝、先に言っておくことがある。今なら未だ引き返せるからな」

 ぼくの体をまさぐる手を抜くと、太助はゾっとする程に真剣な表情を見せた。ぼくは太助の腕枕に頭を乗せたまま、体を太助の方に向き直した。

「俺はこういういい加減な男だ。輝とこういう行為に至ったのも、もしかしたら、ただの性欲のはけ口を求めているに過ぎないかも知れない。それでも平気か?」

 衝撃的な言葉だった。俗に言う割り切った関係というものなのだろうか? でも……多分、ぼくも似た様なものだと思っている。結局、コタに想いを寄せてはいるけれど、上手く立ち回れない酷く不器用な自分がいる。それに、ぼく自身、多分、恋愛感情という物を理解できていないと思う。コタに対する想いが果たして本当に恋心なのかと問われれば、ぼくは再び迷いに嵌ってしまいそうな気がしていた。もしかしたら、ただ単純に、ぼくは外見的に好みなコタと肌を重ね合わせたいだけなのかも知れない。あの時、コタと互いの精液を飲み合ったこと……また、やりたいだけなのかも知れない。兄弟の様に共に歩んできた関係なのは事実だ。でも、互いが気持ち良いことをするために、互いの想いを果たす。そういう関係だって現実には存在しているのだから。コタの想い……ぼくは明確に知ることが出来ていない。だとしたら、本当にそれが恋心なのか知る術は無い。

 結局、色んな理由をつけているけれど、ぼくはただエッチなことをして、気持ち良くイきたいだけなのかも知れない。そこには余計な感情は必要無い。そんな気がした。

「ねぇ、太助……聞いても良い?」

「何だ?」

「他の子達とも……こういうコトしているの?」

 ぼくの問い掛けに太助は殊更不敵な笑みを浮かべて見せた。

「さぁな? その質問に応えるつもりは無い。それに……知らない方が良いことなど幾らでもある。一つだけ言えることは、俺は輝が思っている様な誇り高き、孤高の一匹狼の様な男じゃない。性欲の赴くままに立ち振る舞うだけのケダモノだ。それに、輝のことを想いつつも、他の男への興味を捨て去ることは出来ないだろう。だからこそ言う。純粋なる恋愛を求めているのであれば、俺は輝に対して申し訳が立たなくなる。だから、この先には進まない方が賢明だと伝えておこう」

 これが太助の言っていた二人だけの秘密の正体なのだろうか? 割り切った関係か。ぼくが堅過ぎるのかな? それとも、太助が軽過ぎるのかな? いずれにしても、太助の真実の全てを目の当たりにした今、ぼくはもう、二度と戻れない場所にまで足を踏み入れてしまったのかも知れない。

「だが、卑怯を承知で先に言っておく。俺が輝のことを好きだという感情も偽りでは無い」

「ぼくのこと……も?」

「ああ。皆の前ではクールな姿を見せているが、真相はこんな奴だ。輝にはウソを付きたくないから先に言っておく。俺は、輝を含めた仲間達四人全員に興味を持っている。あいつらが俺を受け入れてくれれば、俺は喜んで相手をさせて貰うだろう」

 ぼくは太助の話に静かに耳を傾けていた。

「結局、俺は皆のことが好きなのさ。ただ、俺は誰かの物になることを嫌う身でな。気に行った奴ら全員と、好きなだけやりたいと願っている。な? 最低な男だろう?」

「太助が最低ならば……ぼくも同じだよ。コタのこと、想っているけれど……結局、上手くいかなかった。それに、何となく判るんだ。コタの心の中に、ぼくはもう居ないって」

「小太郎が誰かに想いを寄せている。そう考えているのか?」

「うん……。根拠は無いけれど、勘、かな? えへへ。ぼくの鈍い勘なんか、全然宛てに成らないけれど」

 照れ隠しに笑って見せたけれど、太助は尚も険しい表情を称えたままだった。多分、ぼくの覚悟を推し量っているのだと思う。でも、太助が抱いている感情は真実だと思えた。やっぱり、ぼく達は良く似ている。陽の当らない道を歩むという、報われない立ち位置まで良く似ている。こうやって互いに傷を舐め合って、慰め合って、ついでに、気持ち良く射精して……。気持ちは晴れるのだろうか? でも、ぼくは変わりたかった。きっかけが欲しかった。

「輝、今一度問う。俺は輝の体に興味は示したが、俺はこういう価値観を持っている。肉体は満たされても、心は満たされないかも知れない。それでも、俺と手合せしてくれるか?」

 本当だったら、身も心も両方満たされたかった。でも、多分、それは贅沢な願いだと思う。ぼくはコタの代わりを追い求めて、太助は性欲を満たせる相手を無作為に求めて……。この年にして、随分とスレた関係を求めているものだと、改めて自分の醜さに絶望させられる。でも、多分、ぼくは退き下がる気は無かったと思う。諦め……とは少し違う。そう信じたかった。多分、生来の好奇心と、それから、何よりも快楽主義な変態としての自分の血が、太助との関係を求めているのだと思う。

「後悔なんか、しないさ」

「そうか……。じゃあ、始めようか」

「うん……」

 ぼくはシャツを脱ぎ、再び太助の腕枕に頭を乗せた。太助はぼくの胸を揉んでいた。ゴツゴツとした男らしい手から伝わる熱気を感じていた。

「輝が喜ぶと思って、タンクトップを着てみたが……ふふ、どうだ?」

「え? う、うう……脇、良く見せて欲しいな」

「ああ。好きなだけ見るが良いさ」

 太助は腕を挙げて、ぼくに脇の下を見せ付けてくれた。太い腕に適度に生えた腋毛。ぼくは堪らず、太助の脇に顔をうずめ、その匂いを堪能した。ボディソープの良い香りに混じって、男の匂いを感じた。一気に、ぼくのおちんちんの先から淫らな汁が滲み出た。

「ああ……堪らないよ、凄く良い匂いだよ……。男の匂いだ……」

「悪いな。これも全て輝の心を覗き見た結果だ。どういうものに興奮を覚えるのか、全て知った上での振舞いだ。俺のことを卑怯者と罵れ」

「か、構わないさ……。ぼく、ずっと太助に憧れていた。だから……こんな関係になれたの、凄く嬉しいよ?」

 太助の体は肉厚ながらも筋肉質で、本当に男らしい体付きだった。本当言っちゃうと、リキの体付きにも興味心身なんだ。何しろ、リキは何時もタンクトップ着ているし、自分の体をアピールすることに執着を覚えているから、何時だってぼくは違った意味で楽しませて貰っている。

「ふふ。力丸は男好きには堪らない体付きをしているからな」

「え? 太助もリキのこと……?」

「ああ。あいつのこと、何時か落としてやろうと思っているさ」

「そ、そんな話されたら、興奮しちゃうよ……あっ!」

 太助は笑いながら、ぼくの柔らかな乳首を摘んで見せた。指先でクリクリと弄くり回されて、ぼくは可笑しく成ってしまいそうな快感に溺れていた。

「小太郎も美味そうな体付きをしている。あいつも何時か、食ってやるさ」

「こ、コタは……駄目だよ。ぼ、ぼくが……ああん!」

 不意に、太助がぼくの上に乱暴に乗る。次の瞬間、体を駆け巡る鮮烈なる快感がぼくを襲った。太助がぼくのスベスベになった脇から乳首に掛けて、舌を這わすように舐め回していた。

「ほう? 輝は殆ど匂いが無いのだな。その姿そのままに子供みたいだ。綺麗な体だな……。実に俺の好みを満たしている、いやらしい体だ」

「あ、ああっ! ああっ!」

 押し寄せる波の様な快感に、ぼくは抵抗することが出来なかった。思わず太助の背中を抱き締める手に力が篭った。太助の背中に爪が突き刺さりそうな程に、力を篭めてしまったかも知れない。そのまま太助はぼくのハーフパンツを乱暴に脱がせた。ぼくの、あまり大きく無いおちんちんが月明かりの下に晒し出された。濡れた先っぽを指で撫で回しながら、太助が笑って見せた。

「どうした? 小太郎に手を出されるのは悔しいか? ふふ、もっと嫉妬しろ。むしろ興奮しているのでは無いか?」

「そ、そうかも知れない……あんっ!」

 返事をすることは出来なかった。ぼくの大好きなコタを貶め、穢れさせるケダモノの様な太助。

「ああっ、ぼくのコタが、ぼくのコタが……エッチなことされてるなんて、想像したら!」

 抵抗すればする程に深身に嵌ってしまう様に思えた。妙に手慣れた手付きで、ぼくのおちんちんを優しく握ってくれた。不意に、乱暴な上下運動に襲われる。その度に押し寄せる波の様な快感が断続的に襲って来た。

「あ、ああん! き、気持ち良いよ!」

「はぁっ、はぁっ……ほら、輝、見ろ。俺も……一緒に、扱いている」

 何時の間にかハーフパンツを脱ぎ去った太助が、くちゃくちゃといやらしい音を立てながら、太いおちんちんを扱いていた。

「あ、ああ……やばいよ、凄い……気持ち良いよ!」

 現実離れした情景だった。窓から差し込む穏やかな月明かり。畳張りの大部屋で、ぼく達は並んで淫らな吐息を漏らすばかりだった。ぼくも太助のおちんちんを握り締めて、精一杯、扱いてあげた。驚く程に熱い体温を称えていた。

「ああ、輝……気持ち良いぞ……」

「ぼ、ぼくも……ううっ!」

 何度も、何度も、イきそうになった。でも、その都度、太助は絶妙なタイミングで手を止めた。違和感を覚えずには居られない程に手慣れている様に思えてならなかった。多分、ぼくの相手をするのが初めてでは無いのだろう。でも、だとしたら誰の相手をしたのだろう? 他の仲間達の顔を思い浮かべ、ぼくは背徳感の中で、これ以上無い位の快感に溺れそうになっていた。

「た、太助のおちんちん……舐めたいよ。精液、飲みたいよ……」

「ふふ。駄目だ。それは、次にする時までお預けだ」

「せ、せめて……匂いだけでも……」

「仕方がないな。だが、匂いを愉しむだけだぞ? 舌を這わせたら、その場でお終いだ」

「んん、太助の意地悪……。ああ、凄い……」

 ぼくは太助のおちんちんに顔を埋めて、その香りを楽しませて貰っていた。先端部からは濃密な雄の匂いが漂っていた。もう……理性が持ちそうに無い。判って居ながら、太助は何度も、太いおちんちんでぼくの頬を叩いて見せた。

「輝、起き上がれ。向き合って……扱き合うぞ」

「う、うん……」

 月明かりに照らし出された障子張りの部屋。そこで、ぼく達は汗を掻きながら向かい合っていた。

「ほら、俺の足に輝の足を乗せるんだ」

「こ、こう……?」

「そうだ。ふふ、綺麗な穴だな。ピンク色だ」

「あ、ああ! み、見ないでよ……そんな所!」

「俺のも丸見えだ。ほら、好きなだけ見ろ?」

「うわっ……太助のお尻の穴も……」

 ぼく達は向かい合う様にして体を組み合わせていた。互いに、互いのおちんちんを扱き合う様を見せ付け、挑発し合う。何て、いやらしい格好をしているのだろう。月明かりに照らし出された太助の体に、ぼくの目は釘付けになっていた。太助も、ぼくの柔らかな体をじっくりと見つめてくれた。

「ひ、輝、そろそろ、出そうだ……良く、見てろよ!」

「う、うん……」

「あ、ああっ! で、出るっ! 出るっ!」

 次の瞬間、太助のおちんちんから、弧を描く様に温かな飛沫が宙を舞った。月明かりに照らし出されて、鮮明にぼくの瞳に焼き付いた情景だった。ぼくのおっぱいに、お腹に、おちんちんに、熱い精液がドロっと放出された。ぼくの中でも、もはや我慢が限界に達し様としていた。お腹に出された太助の精液を指で掬い取って舐めてみた。口一杯に広がる、濃密な味と香りに、ぼくは壊れてしまいそうな程に興奮を覚えた。

「ああ、駄目、ぼ、ぼくも出ちゃう、出ちゃう!」

「輝も出せ! 俺が見届けてやろう!」

「ああっ! う、ううっ!」

 自分でも驚く程の量の精液を放出したと思う。視界が揺らぐほどにぐったりとしてしまった。そんなぼくを見つめながら、太助が可笑しそうに笑った。ぼくの精液を指で掬い取ると、ぼくの目の前で舐めて見せた。

「これが輝の味か……。ふふ、悪く無いな」

 月明かりに照らし出された太助の表情は、どこか寂しそうに思えた。判っているんだ。所詮、ぼくは『道具』に過ぎないんだ。でも……恋人同士には成れなくても、良き友達で居られることは事実だと理解していた。

 有り得ない展開の数々に、すっかり翻弄されてしまったのだろうか? 不意に、猛烈な睡魔が襲って来た。ぼくは太助からティッシュを貰うと、手際良く拭き取った。

「ああ、駄目……睡魔が襲って来たよ……」

「そうか? それじゃあ、俺の腕枕の中で眠ると良い」

「うん。ありがとう……」

「輝、俺はお前のことが好きだ。それだけは……忘れないでくれよな?」

「うん。ぼくも太助のこと好きだよ。えへへ……オヤスミ」

 二人でくちびるを重ね合わせた……。でも、本当にこれで良かったのだろうか? 今更ながら微かに後悔していた。本当にぼくは駄目な奴だ。目先の快楽に目が眩んで、またしても道を踏み外してしまったのかも知れない。でも、もう後悔しても無駄だ。だって、ぼくはもう後戻り出来ない所まで来てしまったのだから。もう、良いんだ……。コタ、ごめんね。ぼくは自分の手で、退路を断ち切った。これからも、良きお兄ちゃんでいてね。もう、恋人になろうという願いは……抱かないから。ごめんね、コタ。大好きだよ……。

 微かな月明かりを感じながら、ぼくはゆっくりと眠りに就いた。太助の腕に抱かれながら。ぼくも、太助も、どちらも月明かりの中を彷徨う迷い子だ。想いを寄せる相手の幻影を互いに見出すだけの、可哀想な迷い子達だ。でも、それでも良かった……。ねぇ、太助。次はもっと、気持ち良いことしようね……。

◆◆◆41◆◆◆

 あの黒い雨の正体は一体何だったのだろうか? 焼け爛れた様な傷が酷く痛んだ。効果があるかは定かでは無かったが、俺は傷薬を片手に、酷く痛む傷の手当てをしていた。恐らく、気休め程度の効果しか期待できないだろう。何しろ相手は普通の存在では無いのだから。

 布団に身を横たえ、傷の痛みに呻きながら、俺は窓から覗く月明かりを眺めていた。街は静まり返っている。時折風が吹く音と、気まぐれに四条通を行き交うであろう車の音。それから、囁く様な虫の声。それ以外は静寂。それ以外は何も聞こえない程に静まり返った夜だった。

「しかし、恐ろしい相手だ……」

 俺は自分の手を見つめていた。

「憎悪の能面師や露姫とはまるで異なる相手だ。圧倒的に強い力を持つ相手……果たして、俺達に勝ち目はあるのだろうか?」

 弱気になってはいけない。それは判っている。だが、圧倒的過ぎる力の差を見せ付けられて、俺は少なからず不安になっていた。一人でこうして、部屋に佇んでいるのも不安で仕方が無かった。今、もしも、あの情鬼に襲われたら、俺は間違いなく殺されるだろう。

 考え込んでいると、不意に携帯が鳴り響いた。俺は携帯を手に取ると、電話に出た。

「ああ、夜遅くに済まないな。俺だ」

 電話の相手は太助であった。何か変わったことでもあったのだろうか? 解決の糸口は意外な所から開かれるものだ。こうして力を貸してくれる仲間達に何度救われたことだろうか。

「太助か。どうした? 何かあったか?」

「輝のことを伝えようと思ってな。心配しているだろうからな」

 俺は思わず布団から飛び起きていた。

「輝の行方を知っているのか!?」

 後悔していないと言えばウソになる。きついことを言い過ぎてしまった……。悪い癖だ。後から後悔する位なら、ろくでもない行動を取らなければ良い。俺は相変わらず、学習しない馬鹿な男だ。

「ああ。祇園さんでの一件の後、輝を家に連れて来てな。色々と話を聞かせて貰った」

 祇園さんで喧嘩別れしてから、どうしているかと心配していたが、なるほど。太助が面倒を見てくれていたか。どうしたものかと大地達と真剣に悩んでいただけに、本当に安心出来た。

「そうか。済まない。世話を掛けるな」

「なに、気にするな。俺も輝とはサシで話してみたかったからな」

 今の輝は情鬼の関与もあり、大きく心を揺さぶられている。俺が相手では言いたいことも喋れずに、ついつい棘のある対応しか取れなくなってしまうことだろう。それに、祇園さんでぶつかり合ったことを考えると、こういう場面でこそ、仲間の重要性を改めて認識することになるものだ。

「色々と聞かせて貰った。存在しない架空の弟の存在とか、虐待を受けていた事実とかな?」

 太助の言葉に俺は思わず身構えてしまった。意外だった。自分のことを滅多に人に語ろうとしない輝が、架空の弟の話を聞かせるとは。太助と輝の関係性……これと言った接点は見えなかったが、俺の窺い知らない繋がりがあるのだろうか? 深い話を太助に打ち明けたことを考えると、胸の奥が焼ける様に痛む感覚を覚えた。嫉妬しているのか? 馬鹿な。輝は俺に取っては兄弟の様な存在だ。それに、俺には……。

「驚いたな。輝が、その話をお前に聞かせるとは……」

「一人で抱え込むには、あまりにも重た過ぎる話だ。ずっと、誰かに話しかったのだろう。だが、内容が内容だけに、そうそう容易く話せる内容でも無い」

 電話の向こうで、微かに太助の吐息が漏れる音が聞こえた。

「同じ様な境遇を持つ身だからな。俺にならば、話をしても違和感無く聞いて貰えると思ったのだろう」

「なるほどな。確かに、お前もまた壮絶な道を歩んできた身だからな。共感を覚える部分もあったのだろう」

「ああ。まぁ、驚かなかったと言えば嘘になるが、少なくても、シッカリと話を聞くことは出来たさ。代わりに、俺の話も聞いて貰った」

 輝と太助。どちらも口にしたく無い過去を持つ身。同じ様な境遇を歩む身だからこそ、腹を割って語り合うことが出来たのかも知れない。

 何も知らない奴らは、過去を振り返ることに一体何の意味があると思われるかも知れない。だけど、その過去に、何時までも束縛されている弱い奴らも存在しているのだ。そうした弱い連中は、逃れられない過去から逃れるために必死で試行錯誤を繰り返すもの。傍から見れば、酷く滑稽な姿にしか見えないかも知れないが、逃げようとしている方は必死なのだ。俺も、その弱い連中の一人だから良く判る。

「随分と根の深い家庭環境みたいだな」

「ああ。輝から聞いているだろうが、あの母親は精神に異常をきたしていてな。もっとも、俺は微塵の同情心も持ち合わせていないがな?」

 あの心の壊れた母親のお陰で、輝がどれだけ辛い想いを強いられてきたか! 自殺未遂にまで至ったことを考えれば、到底、同情する気持ちなど失せるというものである。

「だからこそ、輝は誰かに救いを求めているという訳か」

「そうだ。あの情鬼は、その心の隙間を突こうとしている。人の弱みに付け込む、最低な奴だ」

 苛立ち混じりの口調に反応したのか、電話の向こうから声を押し殺す様に、太助が笑う声が聞こえた。

「何がおかしい?」

「いや、済まん。小太郎は輝のことになると、随分と感情的になると思ってな」

「あ……」

「似ているのだろうな。俺と賢兄の関係と、小太郎と輝の関係。どちらも兄弟みたいな関係だ。まぁ、賢兄も俺のことになると妙に感情的になるからな。そこには、確かな情があるということか」

 何だか見透かされているみたいで、少々照れ臭い気持ちになったが、敢えて平常心を貫いた。いちいち取り乱していては、また太助にからかわれるネタを増やすだけだ。

「情鬼が桃山を操る理由も頷けるだろう? 輝は桃山のことを姉の様に慕っているからな」

「フフ、あんな女の何処が良いのやら。俺の方が、余程色気に満ちていると思うけどな?」

 どう突っ込みを入れれば良いのか、悩ましい発言をしてくれる。電話越しに微かに聞こえて来る太助の含み笑い。やれやれ、勝負を挑む相手が違うだろうに。

「フフ、心中穏やかでは無さそうだな? 小太郎でも、嫉妬心を抱くとは意外だ」

「からかうな。俺も一人の人だ」

 何故、嫉妬心を抱いているのか? やはり、心の何処かで輝に対して特別な感情を抱いているからなのだろう。だが、重要なのはそんな話では無い。俺個人の勝手な感情は、今は必要無い。抑えなくてはならない。

「それよりも、何か伝えたいことがあって電話をしてきたのでは無かったのか?」

「ああ。例の情鬼について、輝と話をしながら色々と見えてきたことがあってな。断片的にしか明らかにはなっていないが、小太郎も知っておく必要があると思ってな」

 太助は鋭い奴だから、輝と語らう中で色々な事実を見付け出したのだろう。その鋭い鑑識眼に、今回も力を借りることになるか。やはり、太助は頼もしい奴だ。

「あくまでも憶測の域を出ないが、あの情鬼は島原に生きた女だ。恐らく、生前は芸妓だったのだろう。此処までは皆も知っている話だ」

 学校の屋上で輝から聞かされた話だ。この部分に関しては、皆も知っている話だ。改めて前置きした上で、太助はさらに詳細な情報を語り始めた。

「だが、そこは女達の世界。醜い権力争いもあったことだろう」

 しばしの間を開け、太助がさらに続ける。

「やがて、前世の輝は流行り病に侵される。恐らく、結核の様な病だろう。だが、前世の輝は病気で死んだのでは無い」

 意味深な含みを感じさせる所で話を止める。俺の理解が追い付くのを待っているつもりなのだろう。有難い心遣いではあるが、少々焦らされて、俺は段々と興奮気味に成り始めていた。相変わらず俺はせっかちで気の短い性分だ。

「権力争いだ……。嫉妬と羨望、女達の見苦しく、憐れな権力争いに巻き込まれた。そして、ある女に毒を盛られて死んだ」

 毒を盛られて死んだだと? 馬鹿な。他殺だったというのか?

「……ここまでが、前世の輝が死に至ったまでの経緯だ」

 驚く程に細かな情景まで把握している。どう考えても、ただ鋭いだけで、此処までの情報を得ることが出来る訳が無い。その情景を、実際に自分の目で見てきたのでも無い限り、これ程までに詳細な情報を手にするなど、到底あり得ない話だった。否、あるいは、以前、俺が体験したのと同じ様に、輝は過去の情景を見せられたのかも知れない。その情景を太助に語って聞かせた。そうとしか考えられなかった。否、それ以外、有り得なかった。

「我が子を殺された女は怒り狂い外法の呪術に手を染めた。これは輝の見解だが、蠱毒と呼ばれる呪術を使ったのでは無いかと推測している」

「蠱毒だと!?」

 嫌な言葉だ……。あの時、京都駅前で対決した俺達に、吐き捨てる様に言った言葉。同じ言葉を太助の口から聞くことになろうとは、予想もしなかった。だが、蠱毒とは一体どういった物なのだろうか? 桁外れな力を扱う身で為し遂げる業だ。生易しい代物で無いことは確かだ。黙り込む俺を気遣ってくれたのか、太助が得た知識を語り出した。

「俺も詳しくは知らないのだが、何でも虫を使った呪術らしい」

「虫だと?」

「ああ。密閉された壺の中に、無数の虫を閉じ込める。光無き世界の中で、虫達は互いに喰らい合う。最後に生き残った一匹は、他の虫達の想いを背負っている。つまり、凝縮された憎悪を持つということになる。その、生き残った一匹を使って呪いの術とするらしい」

「聞く限り、何とも禍々しい呪術だな」

「敵は蠱毒を扱う身だ。生半可な相手では無さそうだな。だが、生憎、判ったことは此処までだ」

「否、十二分に参考になった。感謝する」

「気にするな。俺達は親友だろう? 小太郎の役に立てるならば、俺は嬉しく思うからな」

「口の減らない奴だな……」

「何か新たに判明したことがあったら連絡する」

「ああ、太助……」

 電話を切ろうとする太助を、俺は慌てて制止した。驚いた様な口調で太助が聞き返す。

「なんだ?」

「……輝のこと、頼むぞ」

 一瞬、間を開けてから太助が問い掛ける。

「フフ、可笑しなことを言う。一体どういう意味だ?」

「可笑しな意味など無い。ただ……輝が俺以外の誰かに、自分自身の身の上話をしたのは初めてのことだからな。変わりたいと願い続ける輝に取って、大きな一歩になる様に思えてな。どうか、輝のことを支えてやってくれ」

「……やはり、輝の兄貴なのだな。ああ、俺に任して置け。それに――」

 一瞬の間を開けると、空気が漏れる様な声で笑うのが聞こえた。

「万が一、情鬼に襲われても、俺が返り討ちにしてくれるさ」

「実に頼もしい限りだ……。だが、くれぐれも無理はするな。相手は恐ろしい奴だからな」

「心配するな。後が上手く立ち振舞って置いてやるからさ」

 電話を切ろうとした所で、不意に太助が声を発した。

「なぁ、小太郎。お前は輝のことをどう思っている?」

「……可笑しなことを聞く奴だ。輝は俺に取っては弟の様な存在だ」

「ほう? 特別な感情は持ち合わせていない、と?」

「……回りくどいな。何が言いたい?」

「いや、何でも無い。夜分遅くに済まなかったな。何か変わったことがあったら、援護を要請する。その時はよろしく頼むぞ」

「ああ。任せておけ」

 何やら妙に含みのある言い方なのが気に掛った。まぁ良いさ。何時もの太助の気まぐれな振舞いなのだろう。妙な含みで俺の気を惹き、反応を楽しんでいるだけだろう。相変わらず魔性を知る男だ。

 電話を切った後、俺は大きな溜め息を就いた。そっと体を起こし、窓から覗く夜の景色に目線を投げ掛けた。外は静まり返っている。活気ある賑わいを見せる花街、祇園とは言え、都会の歓楽街とは訳が違う。夜も更ければ静けさに包まれるものだ。

「今の俺は……」

 言い掛けて、俺は言葉を呑んだ。止めておこう。こういうのは迂闊に口にするものでは無い。それに、輝にも、いずれ想いを伝える時が訪れるだろう。

「輝、お前の兄であることしか出来そうに無い。それに、俺はお前の想いに応えることは出来ない。だから、俺への想いなどさっさと棄てて、その想いを別の奴に向けてくれ」

 今は要らぬ考え事は止そう。重要なのは俺自身の想いでは無い。布団から起き上がり、俺はそっと窓に歩み寄った。そっと手を伸ばし窓に手を掛けた。窓を空けようと、軽く力を篭めただけでも腕の傷が酷く痛んだ。

「くっ! 予想以上に酷い怪我だな……」

 黒く焼け焦げた様な傷跡が見れば見る程に、何とも不可思議な傷跡に思えた。切り傷や、擦り傷で無いのは、専門的な知識を持たない俺にも判る。それでは一体どういう傷か? 体験したことは無いが毒物による傷というのは、こういう傷に至りそうに思えた。少なくても、あの黒い雨は普通の雨では無かった。もっと、酷く禍々しい殺意の篭められた雨に思えたから。

 静まり返った街並み。夜の暗闇に包まれた街並み。不意に、この暗がりの中で、独り孤立してしまっている状況が恐ろしくて堪らなくなっていた。目に見えない脅威が、ゆっくりと忍び寄ってきている様な恐ろしさに耐えられなくなっていた。情けない話だ。結局、俺は一人では何も出来ない非力な存在なのだから。今、情鬼に襲われたら、ひとたまりも無い。為す術も無く無残に散ってゆくだけだろう。

「結局、クロがいなければ、俺は何も出来ないということか。クロ、今、お前はどうしている? 鞍馬山で作戦を講じているのか? それとも、傷を癒しているのか?」

 常に一緒に存在している仲間が居なくなると、こんなにも心細くなるものなのか。自分自身の弱さを改めて実感させられた気がする。俺はこんなにも弱い奴だったのか。そう考えると、居た堪れない気持ちにさせられた。

「すっかり、クロに依存し切ってしまっているな。否、依存だけでは無いか……」

 自分の気持ちに嘘をつくことは出来ない。他者を欺くことは容易いが、自分自身を欺くことは並大抵のことでは無い。ましてや、俺みたいに不器用な奴に、そんな芸当が出来る訳も無かった。

「ああ、認めるさ。俺が抱いている想いを……それに、お前は既に判っているのだろう?」

 夜も更けてきたが、こうして部屋で一人佇んでいるのも落ち付かなかった。さっさと眠りに就けば良かったが、そういう気分にもなれなかった。

 少し夜風に当たるとしよう。そうすれば気分も変わるかも知れない。俺は部屋を後にし、階段を下った。玄関先で靴を履き、寝静まった両親を起こさないように、静かに玄関の引き戸を開けた。

「さて、夜の旅にでも出るとしよう」

 俺は静まり返った路地裏を歩み、花見小路に向かった。帽子を目深に被り直しながら夜空に瞬く月を見上げた。少々長い旅になるが京都駅に向かおうと思った。何か痕跡が残されているかも知れない。同時に……惨劇の結末を見届ける責任があると考えていたから。

◆◆◆42◆◆◆

 家を出た俺は徒然なるままに花見小路を歩んでいた。どの店も既に明かりは消え、夕暮れ時に賑わいを見せたであろう通りは、今は人の気配も無く静まり返っていた。静まり返った通りに俺の足音だけが静かに響き渡る。夜だというのに相変わらず蒸し暑い。こうして歩いているだけでも汗が滲んでくる。それでも構うこと無く、俺は歩き続けた。

 静まり返った花見小路を抜ければ、やがて四条通に至る。夜も更けているせいか、人の気配は感じられなかった。既に店仕舞いを終え、明かりの消えた店を横目に見やりながら俺は歩き続けた。時折、往来する車が速度を挙げて走り去ってゆく。風の無い夜に走り抜ける車の音だけが虚しく消えてゆく。

 そのまま通りを進んだ俺は、南座を後に、鴨川沿いに歩むことにした。川の傍ならば多少は涼やかな風を感じられるかも知れない。そんな淡い期待を抱いていたが、左程変わりは無かった。だが、それでも鴨川の流れる涼やかな音色、静かな街並み、時折往来する車の流れ……何一つ変わらない光景がそこにあることを確かめることは出来た。そう。俺の見慣れた景色は、確かにそこにあった。その光景に俺は安堵感を覚えていた。

「街は何時もと何ら変わりは無い。だが、確実に情鬼の脅威は迫っている。守らなければ……。皆と過ごした思い出を壊させやしない。否、これから築き上げるであろう思い出も含めて、必ず守り抜く」

 恐ろしく無いと言えば嘘になる。でも、それでも守ることが出来るのは、カラス天狗の力を借りることの出来る、極限られた存在だけなのだから。だからこそ、俺に課せられた使命は決して軽いものでは無い。

 どれだけ歩き続けたのだろうか? ラフな服装で挑んでみたが、既に汗でビッショリになっていた。額の汗を乱暴に拭いながら、俺は青になった信号を渡った。ようやく七条の辺りまで辿り着いた。

「こう暑いと、体力の消耗も厳しいな。中々の長旅になりそうだ」

 灯台の様にそびえ立つ京都タワーが夜半の町に煌々と明かりを振り撒いている様が目に留まる。もうじき京都駅と静まり返ったバスターミナルが見えて来るだろう。

「無責任だったな。自分達の身を守るためとは言え、多くの無関係の人々まで巻き込んでしまったのは事実だ。あの黒い雨に打たれた人達は、果たして無事だったのだろうか?」

 戦いには犠牲は付き物ではあるのかも知れないが、だからと言って、それを見過ごす訳にはいかなかった。俺達があの場所で戦いを繰り広げなければ、無関係の人々を巻き込むことも無かったのだから。

「今となっては、どうすることも出来ないが、戦う場所は選ぶ必要があるということか。今後の反省点として活かすことにしよう」

 俺は再び道なりに歩き始めた。この辺りは人工的な建物も多く、夜でも賑わいを見せる。飲み屋の看板、ネオンの明かり、往来する車のヘッドライトにテールライト。夜でも明るい街並みは、どこか落ち付かない気分になる場所だった。だが、同時に安心感も覚えていた。人は本能的に暗い場所を怖がるものらしい。だから、夜でも街明かりに包まれた場所を歩むのは、安心出来るという訳か。人通りもそれなりに多く感じられた。飲み屋から赤ら顔で出て来るサラリーマン達の姿が目に留まった。

「やれやれ。平和なものだな……」

 失笑ついでに吐息が漏れる。

「だが、無理も無い。この街で起きている異様な事件を知る者すら、未だ少ないのが現実なのだろうからな」

 言葉に出来ない複雑な想いを抱きながら俺はさらに歩き続けた。やがて京都駅前の広大なバスターミナルが見えて来る。ガラス張りの京都駅は、夜半の街明かりを反射して、昼間とは一味違った煌びやかな明かるさを称えていた。

「……ようやく辿り着いたか。さて、恐怖との対面という訳だな」

 何時もと変わらぬ光景が広がるばかりではあったが用心を怠るべきでは無い。何処に敵が潜んでいるかは皆目見当付かないのだから。俺はゆっくりと駅へと歩み寄った。数時間前に泣き女郎と対決した場所。恐るべき威力を誇る、黒い雨の降り注いだ場所。近付くに連れて、段々と緊張感が高まってきた。数時間前の恐怖が蘇ろうとしているのかも知れない。あれだけ大勢のカラス天狗達と共に挑んだにも関わらず、一瞬にして惨敗に至った。それ程までに、あの情鬼は恐ろしい力を持っているということに他ならない。考え込んでいるうちに、改札前の広場に到着した。静かに見上げれば、ガラス張りの駅ビルが夜空を反射しているのが見えた。月の綺麗な晩だった。

「さて、何か手掛かりが残されていないか、周囲を探ってみるとしよう」

 もしかしたら、何の手掛かりも無いのかも知れない。こうして此処まで来たのだ。何もしないで戻るのも気が退けたし、同時に、多くの人々を巻き込んでしまった罪の意識も棄て切れなかった。

 俺の予想に反して、駅前は人の気配も無く、不気味なまでに静まり返っていた。だが、確かな異変がそこには残されていた。人気の無い駅前を歩む俺の足元には、目を疑う様な光景が広がっていた。

「な、何だこれは……!」

 足元には無数の蛾が散らばっていた。皆、一様に命を失った亡骸なのか微動だにしなかった。

「まさか……」

 慌てて辺り一面に目線を投げ掛ければ、予想通り、至る所に蛾の死骸が転がっていた。数多の種類の毒々しい色合いの蛾の死骸。秋の落ち葉を思わせる様な不気味な光景に、俺は凍り付きそうになっていた。

「馬鹿な……先刻、見た時には、こんなものは無かった筈! 一体、何がどうなっている?」

 背筋を冷たいものが伝ってゆく感覚を覚えていた。戦慄というのは、こういう感覚を示すのだろうか。いずれにしても生きた心地がしない情景だった。ふと、異様な気配を感じ、背後を振り返れば、ガラス張りの壁面には、血の様に赤い色をした月が映し出されていた。

「い、一体、何がどうなっていると言うのだ!? まさか、嵌められたのか!?」

 何時の間にか周囲には濃い霧が立ち昇っていた。続けて、ゆっくりと視界が奪われていく様な感覚を覚えた。キラキラと月明かりを浴びて、何か光り輝く粉の様な物が宙を舞っている。

「これは、鱗粉か!? くっ! ま、まずい! 体が痺れて……」

 月明かりを浴びて、真っ赤に燃え上がる様な色合いの鱗粉が宙を舞う。地面に落ちていた蛾達が一斉に舞い上がり、空高くに舞い上がってゆく。ますます勢いを増した鱗粉が、キラキラと光を放ちながら空から舞落ちて来る。息を吸い込む度に、ゆっくりと体の自由が奪われ、意識が失われようとしていた。

(ま、まずい……体の自由が……くっ!)

「鬼子母神! オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ! オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ、オン・ドドマリ・カキテイ・ソワカ!」

 聞き覚えのある怒号が響き渡る。

(クロ……助けに来てくれたのか? ああ、俺は何処まで非力なのだろう……)

 力強いクロの真言が辺り一面に染み渡る。

「不浄なる思念よ、消え失せるが良いっ! ぬんっ!」

 クロが握り締めた数珠が気合いと共に一気に四散した。解き放たれた数珠は、宙に舞い上がると、一気に巨大化し、そのまま煌々と燃え盛る火の玉となった。

「さぁ、浄化の炎よ! 禍々しき縁者達を焼き尽くせ!」

  巨大な火の玉は周囲を駆け巡りながら、夜空を舞う不気味な蛾達を次々と焼き尽くした。やがて、霧がゆっくりと晴れ、俺の体の自由も戻ろうとしていた。

「コタよ、無事であるか!?」

 クロが急ぎ駆け寄ってくる。安堵からか、俺は思わずクロの腕の中に崩れ落ちてしまった。

「ああ、俺なら大丈夫だ。済まない……クロの居ない状況で、単独行動を取るなど、不用心極まりなかったな」

 クロは穏やかな笑みで俺を見つめていた。俺の無事を知り、安堵したのだろう。

「立てるか?」

「ああ、済まない」

 クロの手を借り、俺は何とか立ち上がった。未だ、体のあちこちに違和感は残っていたが、少なくても外傷は見られなかった。

「それにしても、実に良いタイミングで来てくれた。文字通り、危機一髪だった」

「鞍馬山にて今後の策を講じて居ったが、異様な気配を察知してな。コタの身に何かがあっては一大事故、全速力で駆け付けた次第よ」

「済まない、俺のために」

 クロは腕組みしたまま、静かに微笑んで見せた。

「それにしても……蠱毒とは、中々に厄介な呪術を知って居る。一介の芸妓風情が知ることの出来る様な知識では無い。さては、何者かの入れ知恵があったとしか考えられぬ」

「やはり、さっきのは蠱毒なのか?」

 俺の言葉に、クロは驚いた様な表情で、目を丸くして見せた。

「ほう? 意外であるな。コタの興味が及ぶ様な分野の知識では無いと思っておったが」

「ああ、俺の知識じゃないさ。太助から話を聞かされたのさ。正確には輝が見聞きした話を、太助が俺に伝えてくれたというところだな」

 さすが、輝はこの手の分野に関しては本当に詳しいな。自他共に認めるオカルトマニアの呼び名は伊達では無いということか。だが、情鬼、泣き女郎……何処までも恐ろしい相手だ。

「ふむ、色々と情報を得た様子であるな。コタよ、少し我と共に歩まぬか?」

「ああ、そうだな。色々とお前にも伝えなければいけない情報も得たからな」

「うむ。それでは、風の赴くままに歩むとしよう」

 本当に不思議な感覚だった。クロと共に歩める。それだけで、何故、これ程までに勇気が持てるのだろうか? 一人で居る時の俺は、途方も無い臆病者と化してしまう。だが、クロが隣に居てくれる。それだけで、何だって出来そうな気持ちになれる。戦う力を持つカラス天狗であるからだろうか? ああ、判っているさ。それだけでは無いということ位。なぁ、クロ。俺の気持ち、もう判っているのだろう?

「フフ、どうした、コタよ? そんなに見つめられると、照れてしまうでは無いか」

「あ、ああ、否、べ、別に何でも無い……」

「まぁ、我が見とれる程に男前であることは否定せぬが?」

「……少しは謙遜しろ」

 改めて不思議に思う。クロと出合ったのは、つい最近のことだ。だが、俺にはどうしても、そうは思えなくて仕方が無かった。ずっと昔から俺とクロは共に歩んでいた。そんな気がしてならなかった。共に歩んだ時間の長さで言ったら、輝以上に付き合いの長い奴は他に誰も居ない。だが、クロと共に歩んだ時間は……。否、時間だけの問題では無い。絆の深さとでも言えば良いのだろうか? 俺に取ってクロの存在は輝よりも、遥かに近い存在に思えてならない。何故なのだろうか? 実に不思議な話なのだが……。

 俺がこんなことを考えていることなど、クロは気付きもしないのだろう。否、案外、気付いていながら飄々と振舞っているだけなのかも知れない。だとしたら、嫌な性分だな。まぁ、その話は後回しだな。今は目の前の問題と向き合わなければならない。現実問題として、泣き女郎は途方も無く危険な相手だ。断じて、手放しにしておく訳にはいかないのだから。

◆◆◆43◆◆◆

 京都駅を後にした俺達は七条通をお西さん方面に向けて歩んでいた。この界隈は脇道に入ると、風情ある街並みが広がっている。夜半の散策というのも、中々に風情があって悪く無い。

 静けさに包まれたお東さんを後に、俺達は通り沿いに歩んでいた。七条通は大きな通りであるためか、夜遅い時間であるにも関わらず交通量は多かった。不思議な光景だ。人の手が創り出した人工的な明かりや、ネオンが賑わう七条通。だが、僅かに脇道に抜けただけで、昔ながらの赴き称えた家々が立ち並ぶ住宅街へと至る。過去と現代とが出会う場所であり、大自然と人工物とが語らう場所でもある。七条通を覆い尽くす、煌々と人の手が創り出した光の中を、俺達はただ静かに歩み続けていた。

「フフ、我が不在であった故、心細かったであろう?」

「な、何の話だ……」

「照れておるのか? やはり、コタは愛い奴よの」

 相変わらず、クロは微妙な所から切り崩してこようとする。わざわざ触れて欲しく無い場所から攻めて来る辺り、何とも手強い相手である。

 夜も遅いこともあり、脇道の先に広がる光景は静まり返っている。立ち並ぶ家々の住民達も、当然、既に眠りに就いていることであろう。そんなことを考えながら、俺達は宛てもなく歩き続けていた。このまま歩んでいけばお西さんを経由して島原方面に出る。一連の出来事の発端となった場所だ。泣き女郎が、かつて暮らしていた街並みに至るとは、これも因果なのであろうか?

 ふと、隣を歩むクロの腕に目が留まる。たかが数刻で傷が癒える訳も無く、ましてや、俺を庇いながら立ち回っていたのを考えると、クロの傷が殊更痛々しく思えた。

「なぁ、クロ。傷は未だ……痛むのか?」

「うむ。戦いの最中での負傷は止むを得ぬ。だが――」

 険しい表情を称えたまま、クロが静かに夜空に視線を投げ掛ける。

「それよりも痛手となった事実から目を背けることは出来ぬ。我らは大きな被害を出してしまった。それも、全ては敵を侮った思い上がりに起因したものであるからな」

「ああ。先の二人の情鬼とは、まるで異質な相手だからな……」

「うむ。我の同胞達も深い傷を負い、鞍馬山に戻っておる。さて、しかし、どう戦えば良いものか?」

 クロは腕組みしたまま険しい表情を浮かべていた。自信に満ちあふれたクロの表情からは、すっかり自信が失われてしまった様に思えた。だが、無理も無いだろう。圧倒的な力の差を見せ付けられたことを考えれば、戦意を喪失しても可笑しくは無い。

「コタよ、我らは大きな思い違いをしていた」

「思い違い?」

「うむ。見た目は一体の情鬼であるが、実際には無数の情鬼が合わさっておるということよ」

「どういうことだ?」

「恐らく、あの情鬼も最初は非力な存在であったのであろう。だが、多くの情鬼達を喰らい、その力を飛躍的に増幅させたのであろう」

 情鬼が情鬼を喰らう。その表現に、俺は思わず背筋が寒くなった。

「そんなことがあるものなのか?」

「元々実体の無い存在故に可能な話ではある。他の情鬼を喰らった情鬼は、喰らった情鬼の能力を純粋に受け継ぐことになる」

「つまり、大量に他の情鬼を喰らえば、その力も爆発的に強まる。そういうことか?」

 俺の問い掛けにクロは静かに頷いて見せた。

「加えて、あの黒い雨……。あの雨には、途方も無い呪いの力を感じた。あの雨は腐敗した人の血そのものであった。まさしく、蠱毒の呪術が為せた業よ」

 腕組みしながら、クロは溜め息を就いて見せた。苦々しい笑みが印象的に思えた。

「一体、何があの情鬼を生み出したのか? その原点を探らないことには、解決の糸口も得られぬであろう。無論、真正面から挑んで勝てる相手では無いのは明白。さて、どうしたものか?」

 情鬼は人の心から生まれ出るもの。なればこそ、その原点となった人の物語を紐解く必要があるということか。結局、人の心に寄り添うためには、人を知らなければならない。俺としては、輝に危害を加える様な不穏な存在は、さっさと討ち取りたいところではあるが、仮に無理矢理力で捻じ伏せても、さらなる怒りを増長するだけの結末に終わってしまうのだろう。遠回りになるかも知れないが、地道に攻め落としてゆく必要がある。先ずは周囲の外堀を埋める。落城までの道のりはそう容易くは無いということか。

 考え込んでいると不意にクロが口を開く。鞍馬山の天狗達の力を終結し、何かしらかの情報を得た結果という訳だろう。俺は歩きながら耳を傾けた。

「あくまでも憶測の域を出ぬが、あの情鬼は島原に生きた女であろう。恐らく、生前は芸妓だったと推測される。この辺りは、既にコタ達も周知の事実であろう」

 学校の屋上で輝から聞かされた話。この部分に関しては、皆、知っている話だ。前置きした上で、クロはさらに詳細な情報を語り始めた。

「だが、そこは女達の世界。醜い権力争いもあったことであろう」

 俺は思わず息を呑んだ。クロ達は一体どの様な手を使ったのだろうか? まるで、その情景を見てきたのでは無いかと思わせる程に確信に満ちた言葉に聞こえた。驚く俺を後目にクロはなおも淡々と語り続ける。

「幸せな暮らしは長くは続かなかった。やがて、前世の輝は流行り病に侵される。恐らく、結核の様な病であろう。だが、前世の輝は病気で死んだのでは無い。恐らく、権力争いに巻き込まれたのであろう。ある女に毒を盛られて死んだ。ここまでが、前世の輝が死に至るまでの経緯よ」

 驚く程に細かな情景まで把握している。どう考えても、ただ鋭いだけで、此処までの情報を得ることが出来る訳が無い。その情景を、実際に自分の目で見てきたのでも無い限り、あり得ない話だった。否、あるいは、以前、俺が体験したのと同じ様に、クロは情景を自ら手繰り寄せたのかも知れない。そうとしか考えられなかった。

「輝も同じ情景を見たらしい。クロと輝、二人が同じ情景を見たのであれば、やはり史実ということになりそうだな」

「ふむ、なるほど。我が子を殺された女は怒り狂い、外法の呪術に手を染めた。先にも語って聞かせた蠱毒の呪術よの。無論、この辺りの話も既に聞き及んでおるということであるか」

「ああ。そうなるな」

 それにしても、改めて冷静に話の流れを振り返ってみるが、実に壮絶な話だった。情鬼に同情するつもりは無いが、だが、それでも理不尽な話であることには変わりは無かった。世の中の流れというのは何時の時代も似たような物だ。持たざる者が、持てる者を羨み、妬み、そして、引き摺り落とす。何故、自ら高みに登り詰め様と考えないのであろうか? 努力もしないクセに、成功した者を羨み、妬む。俺には到底理解の出来ない考え方だった。否、理解も、共感もしたくない腐った物の考え方だ。

 しかし、幾つかの情報が判った所で、やはり決定打には繋がりそうには思えなかった。複数の人物が複雑に絡み合っている。その複雑な関係性の中に隠された真実を探し求めない限り、本当に知るべき情報には至らないだろう。

「話が複雑になっておる。こういった複雑な話を、頭の中だけで片付けるのは少々無理がある。コタよ、このまま西本願寺を目指すぞ」

「ああ、判った」

 あれこれと考えを巡らせながら俺達はお西さんを目指した。クロが、何をしようとしているのかは判らなかったが、お西さんは静かな上に、広大な敷地を誇る寺だ。考えを整理するのにも適した場所であろう。

 車が往来し続ける七条通を抜け、七条堀川の大きな交差点を曲がる。すぐ目の前には夜の景色に佇むお西さんが見えて来る。

「さて、では参ろうか」

 例によって、クロの手により俺達は目出度く不法侵入に成功した。もはや、突っ込みを入れること無く、自然体で受け入れられる様になってしまったのは、人道的見地から考えるに如何なものかと思うが、今は余計な口を挟むのは控えるとしよう。

 お西さんの境内に降り立ったったところで、一体どこから用意したのか、クロは何やら大きな半紙を広げて見せた。大きな筆を手にしながら、地面に置かれた半紙に静かに向き合って見せた。

「人物関係が複雑であるからな。こういう場面では相互関係を整理する必要がある」

「ああ、そうだな。頭の中だけで考えるのは、少々難しそうだ」

 クロは半紙に関係する人物の名を綴って見せた。輝、輝の母、桃山、それから……泣き女郎。先ず、クロは輝と輝の母が、敵対関係であることを綴った。これは既に周知の事実だ。

「まぁ、確かにそうだな」

 頷く俺を後目に、クロは尚も淡々と描き続ける。輝と桃山の関係。教師と教え子の関係……だが、クロが綴る通り、二人の間には、何か別の関係性もありそうだ。

「輝は桃山のことを姉の様に慕っている。桃山もまた輝のことを弟の様に可愛がっている節がある。双方の利害は一致する訳だ」

 そう。この二人の間には、共に姉、弟を求め合うという関係性が存在している。

 さて、ここで問題になるのは泣き女郎の存在だ。クロは泣き女郎と桃山との間に、関係性があることを綴った。

「そうだな。桃山は泣き女郎に操られている。確かに、お前が綴った通りだ」

「泣き女郎が探し求めているのは前世の輝の魂を持つ者……。つまりは、コタの良く知る輝となる」

「まぁ、そうだな」

「だが、恐ろしい姿をした泣き女郎に輝は恐怖心を抱くばかり。当然、泣き女郎に歩み寄ることは考えられぬ」

 確かにその通りだ。だから、泣き女郎は桃山を使うことを考えたという訳か……。

「その通り。輝が姉の様に慕って居る桃山に、さらなる興味を抱かせ、自らは桃山と同化する。これで泣き女郎は自らの願いを叶えることとなる」

 やはり、桃山と輝、双方の動きに注意を払う必要があるということか。恐らく、手当たり次第に「ひかる」の名を持つ少年達を探し求めていたのは輝本人を見付け出すための手段だった。そして、手当たり次第に探している中で、ようやく本物の輝を見つけることが出来た。後は、果たせなかった想いを果たすだけか。だが、それは輝の身にも、桃山の身にも危険が迫ることとも同義である。

「目的は見えてきたが、輝も、桃山も危険に晒されているのも事実だ。一刻も早く、泣き女郎を討ち取らなければ、取り返しの付かないことになる」

「うむ。しかし、厄介なのは、泣き女郎の異常なまでの強さよの。そうそう簡単に打ち取れる相手ではある無い」

「ああ。だが、必ず討ち取ろう。俺とクロ、二人で力を合わせて討ち取るぞ」

「うむ。必ずや討ち取ってみせよう」

 気持ちまで負けてしまっては、どうひっくり返っても勝ち目は無いだろう。だから、せめて、気持ちだけでも勝っている必要がある様に思えた。正直なところ、何の勝算も見い出せない相手だった。だけど、引き下がったら、そこでお終いだ。輝を失うことだけは何としても避けなければならない。俺達はさらなる糸口を求めて調査を進めることにした。

◆◆◆44◆◆◆

 どれだけ眠ったのだろうか? ぼくは強い光を浴びていた。目も眩む程の強い日差しに、思わず手で顔を覆った。

「え?」

 ぼくは慌てて飛び起きた。

「そんな……どうして、此処に?」

 見間違える筈が無かった。そこは神戸の祖父の家だった。何故、再びこの場所に立っているのか不思議で仕方が無かった。確かに、ぼくは太助の部屋で眠っていたはずだった。それなのに、再び神戸にある祖父の家に佇んでいる。一体、これが何を意味しているのか理解出来なかった。

 窓から差し込む光は、やはり沈み往く夕陽の光だった。家具も、床も、部屋も、全てが燃え上がる炎の様に煌々と照らし出されていた。

「どうして、此処に戻ってくるのだろう? これも、あの情鬼が見せている情景なのかな?」

 でも、意図が見えなかった。どの道ぼくには抗うだけの力も無い。このまま流れに身を任せる他無い。

「取り乱しても仕方が無いってことか……。それにしても、変わらないなぁ」

 焦って取り乱しても何も事態は解決しない。それならば、あるがままに流れに身を委ねてみよう。ぼくは部屋の中を歩き回ってみた。あの当時から何一つ変わらない部屋だった。木製の大きなテーブルに、アンティークな家具の数々。お爺ちゃんの趣味がそのまま家に投影された姿だった。そっと窓の傍に立ってみた。周囲の家々も、道も、街灯も、何もかもが真っ赤に燃え上がっていた。時が止まっているのか、沈み往く夕日は、ある一点で立ち止まったまま、それ以上動くことは無かった。

「綺麗な夕日だなぁ。この部屋はやっぱり木々の良い香りに包まれているよね。それに……」

 ぼくは微かに埃を被った古時計に、そっと手を乗せてみた。深い色合いの木で造られた古時計。時は止まったまま動かなかった。そっと、目を伏せれば懐かしい情景が蘇る。ボーン、ボーンと鳴り響く古時計の音色。時を刻む針の音に、時を告げる鐘の音。

「止まったままだね……。皮肉な話。ぼくを揶揄しているのでしょ?」

 そうかも知れない。ぼくは時を止めたまま、そこから動くことを頑なに拒否し続けている。コタ達と過ごせる今。今が本当に幸せだから、変わることを極端に恐れている。

「判っているんだ。もう、辛い想いをしたくないし、苦しい想いもしたくない。閉じた時間軸の中で、永遠に変わることの無い友情物語を楽しみたいだけなんだ。そう。弱いから……。ぼくは本当に弱いから……」

 気が付けば、どこからともなくお爺ちゃんの歌声が聞こえてきた。

「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計、百年いつも動いていた、ご自慢の時計さ……」

 え? そんなこと、あるハズが無いよ。だって、お爺ちゃんは……。ううん、ここは夢の中だ。有り得ないことだって成立するんだ。ぼくが望む物の全ての願いも此処ならば叶えられる。

「そうか……。そうなんだよね。此処ならば、ぼくの全ての願いが叶う……」

 一瞬、甘美な誘惑に呑まれそうになった。このまま時を止めて、今のままの自分で在り続けることも悪く無いかも知れないと思った。皆とも永遠の時を過ごせるかも知れない。オトナになって、あの人の様に薄汚れていく自分を見届ける必要も無く成る! ああ、何て夢の様な話なんだろう!

「でも、そんなの、間違えている! ウソだよ! ああ、そうさ……。こんなの、全部、全て、ウソなんだ! 醒めた時に、余計に辛くさせるだけの紛い物の幸せ! それが夢という代物さ!」

 堪え切れなくなったぼくは、惑わそうとする想いを断ち切るかの様に、力一杯叫んだ。大きく息を吸い込み、腹の底から力を篭めて叫んだ。変わるんだ……ぼくは変わるんだ。コタ達と一緒に歩むんだ。だから、逃げるだけの生き方は、もう、お終いにしたいんだ!

「おじいさんの生まれた朝に買ってきた時計さ、今はもう動かない、その時計……」

 尚もお爺ちゃんの歌声が響き渡る。懐かしい情景に、もう二度と戻ることの無い情景に、ぼくの心は酷く揺れ動いた。

(ああ、そうさ。あの時、例えお爺ちゃんの死を予見しなかったとしても、何時かは、その時は訪れたんだ……。避けられる訳が無かったんだよ……)

「暁のことだって同じことだよ。ぼくが悪い訳じゃ無い。誰だって、何時かは必ず死を迎える。その時が早いか、遅いか、それだけの違いなんだ!」

 必死だった。もう、形振り構っていられる余裕は無かった。必死でぼくを過去へと誘おうとする想いを、強引にでも断ち切らなければ悪夢は終わらない。だから、ぼくはありったけの力を篭めて叫んだ。力の限り叫んだ。

「こんなの……ただの都合の良い、絵空事だけの、夢物語じゃないかっ! ぼくを馬鹿にするなーーっ!」

 次の瞬間、部屋の中に懐かしい音色が響き渡った。

「え? 時を刻む……針の音?」

 恐る恐る後ろを振り返ってみれば、ゆっくりと動き出した時計の針が目に留まった。

「時が、動き出した? それじゃあ……」

 急ぎ、窓まで駆け寄り、外の情景を見渡してみた。そうそう、すぐに日が沈むことは無いが、少しだけ……。ほんの少しだけではあったけれど、先程よりも日が沈んでいる様に思えた。

「やっと、動き出した」

 ほっと胸を撫で下ろした瞬間、今度は時を告げる鐘の音色が響き渡った。ボーン、ボーンと。懐かしい音色が部屋一杯に染み渡ってゆく。

「これで、ずっと止まっていた時も流れ出すハズだよ。でも……」

 夢から醒めることは無かった。まだ、何か思い残したことでもあるのだろうか? 何よりも、一体誰がこの情景をぼくに見せようとしているのか? それも明らかでは無かった。誰が、一体何の目的で、ぼくにこの情景を見せ付けているのか? あの情鬼の仕業だとしたら、意図がサッパリ判らない。でも、違う誰かが、ぼくにこの情景を見せ付けているとしたら、ますます訳が判らなくなる。

「こうして考え込んでいても始まらないよね。せっかく、神戸に足を踏み入れている訳だし、周辺の景色でも眺めてみるとしようかな」

 自分でも驚く程に落ち付いていた気がする。色々と吹っ切れたというのもあるし、何よりも、身近な場所に、本当の意味で心を分かち合える仲間がいる。そのことを再認識出来たことが、ぼくの気持ちを押し上げてくれた様に思える。

 懐かしい思い出の残る部屋を後にして、ぼくは廊下に出た。玄関へと繋がる廊下を経て、ぼくは外に出てみた。辺り一面、夕焼け空に照らし出されて燃え上る様な色合いに包まれていた。人の気配は無く、通りは静まり返っている。

「不思議な光景だ。この辺りは異人館目当てに訪れる観光客達で何時も賑わっていたのに、全然人の気配が無い。こんな景色を見たのは初めてだよ」

 不意に、緩やかな風が吹き始めた。そっと髪を撫でる様に駆け抜けて行く風の流れ。ぼくは髪を撫でて往く風の心地良い感触に、思わず目を伏せてみた。

「うーん、良い風だなぁ」

 神戸の異国情緒あふれる街並み。外国に訪れたかの様な不思議な情景に、幼心なりに冒険の世界を描いた時代もあった。祖父が良く唄ってくれた、大きな古時計の唄。唄は人の心を繋ぐ。ぼくは再び目を空けて、周囲の景色をもう一度見回してみた。

「何時か、この場所に皆を連れて来たいな。ぼくの好きな景色、皆も気に行ってくれるかな? 京都からそんなに遠い訳でもないし、ちょっとした小旅行ってのも悪く無いかも知れないよね。ね? そう思うでしょ?」

 応える者は誰もいない。それは判り切っていたこと。だけど、問い掛けずには居られなかった。再び風が吹き抜ける。髪を撫でる様な風を感じながら、ぼくはそっと目を伏せてみた。微かに潮の香りが混ざる風の香り。懐かしい情景が脳裏を過ぎってゆく。

「必ず戻ってくるから。今度は、ぼくの大切な仲間達を連れて戻ってくるから」

 燃え上る様な夕日に煌々と照らし出される、懐かしい祖父母の家。本当の意味で、ぼくの帰る場所なのかも知れない。そうさ。ぼくが帰る場所はこの場所に違いない。あの家に……ぼくの居場所なんて何処にも無いのだから。

 不可解なことに、夢は一向に醒める気配が感じられなかった。本当にこれは夢なのだろうか? 何処か異質な閉鎖空間に閉じ込められてしまったのでは無いだろうか? 孤立無援の恐怖は嫌という程に味わってきた。気持ちが強くなれるのも、信頼出来る仲間達がいてくれればこそのもの。一人になると途端にメッキが剥がれてしまう。

(やっぱり、ぼくは太助の様に強く生きることは出来ないのかな……)

「だから、俺がお前とトモダチになってやろうって言っているだろ?」

「え!?」

 不意に背後から声を掛けられて、ぼくは驚きのあまり硬直した。二度と思い出したくない声だった。鴨川卓……ぼくに最低な行いをし、コタを絶望に追い込んだ憎い相手! ああ、そうさ。確かに、あの時、ぼくは予想もしない体験に興奮したさ。でも、今になって考えれば、あんな屈辱を与えられた上に、興奮まで覚えてしまった自分が、憎くて仕方が無かった。もう、二度と関わりたくなかった。出来ることなら、この手で殺してやりたいと切に願っている存在!

「忌々しい奴め……ぼくの夢の中にまで、図々しくも現れるか!」

 ぼくは怒りに身を任せて後ろを振り返った。そこには、あの頃と比べると外見こそ変わっていたが、忘れることの出来ない顔があった。

「そう、連れないことを言うなよ? 俺はずっと、お前のことを想っていたんだぜ?」

「ああっ、気持ち悪い! お願いだから、今すぐ、ぼくの前から消えろ! さもなければ、君を殺す!」

「ほう? 怒った顔も中々に可愛らしいな。興奮するぜ……」

「なっ……!」

 背筋が凍り付きそうな思いだった。ただでさえ向き合いたくない相手と、誰も居ない空間で再会してしまった。絶体絶命の状況だ。でも、ここは夢の中だ。仮に、卓君を殺してしまっても、ぼくは罪に問われることは無い。でも、逆に考えれば……卓君に、取り返しの付かない辱めを受けたとしても、彼は誰からのお咎めも受けずに済む。冗談じゃない。ぼくに取って、これ以上不利な話は無い。逃げるしかない! 真正面からやり合ったら、ぼくよりも体も大きく、力も強い卓君には叶う訳が無い。

 ぼくは卓君に背を向けると、一気に走り出した。この辺りならば十分に土地勘はある。裏道を駆け回って、何とか逃げ切らなくては!

「ひゃーっはっはっは! 鬼ごっこか? 俺から逃げ切れるなんて思うなよ!」

 背後から響き渡る卓君の声を浴びながらも、ぼくは必死で走り続けた。何時の間にか、日も沈み、辺りは次第に暗くなろうとしていた。不気味なまでに静まり返った街並み。明かりを灯さない家々は、さながら見捨てられた街並みの様に思えて殊更に気味が悪かった。何度目の曲がり角を曲がった時だろうか? 突然、目の前から卓君がゆっくりと歩み寄って来るのが見えた。

「ど、どうして!? どうして先回りしているの!?」

 それならば、別の道に迂回するだけだ。慌てて身を翻そうとした瞬間、ぼくは信じられない光景を目の当たりにした。

「い、一体、どうなっているの!?」

 迂回しようとした道の先からも卓君が歩いて来るのが見えた。驚き、振り返れば、もう一人の卓君が迫ってこようとしていた。驚き、走り出そうとするぼくの目の前には、次々と卓君が現れた。地面から、壁から、ゆっくりと這い出して来る無数の卓君達に、ぼくは完全に囲まれてしまっていた。

「どうした? もう、鬼ごっこはお終いか?」

「あ、ああ……」

「輝、嬉しいだろう? こんなにも大勢の俺に囲まれて!」

「卓君……何度でも言ってあげるよ……。ぼくは、ぼくは君のことが、嫌いだってね!」

 必死で想いを叫んだ。ありったけの怒りを篭めて叫んだ。だけど、卓君は相変わらず気味の悪い笑みを浮かべるばかりであった。いよいよぼくの中では恐怖心が勝ちそうになっていた。

「目一杯拒絶するが良いさ。だがな、幾らお前が俺を拒絶しようとも、無駄なことには変わりは無い」

「ひっ! ぼ、ぼくに近寄らないでっ!」

「ほう? さっきまでの威勢の良さはどうした?」

 無数の卓君達は、まるで機械の様に同じ動きをしている。有り得ない光景だった。これ以上無い位に不気味な光景だった。一斉に舌を出して、口元を舐め回して見せた。糸を引くのが視界に入り、ぼくは死の恐怖さえも覚えていた。

「さぁ、輝……俺がお前を温めてやろう。永遠に!」

 一斉に卓君の手が伸びて来る。べた付いた手がぼくの頬に触れる。次々と伸びて来る手が、一斉にぼくの体中に触れる。

「ひ、ひぃっ! 嫌だ……嫌だよ……止めて、止めてよ!」

 卓君の手が、ぼくの体を撫で回す。やがて、服を強引に脱がそうとし始めていた。ぼくはもう、ただ、恐怖の余り、抵抗することさえ出来なかった。ただ、恐ろしくて、恐ろしくて、歯を噛み締めることしか出来なかった。やがて、ゆっくりと服が脱がされてゆく。ぼくはもう、恐怖のあまり失禁しそうにさえなっていた。ただ、無力に怯えるぼくを見下す卓君の表情は、もはや人の表情では無かった。これ以上無い位に口元を歪ませて、だらしなく涎を垂らしていた。

「へへ、輝! 嫌がっている割には……こんなになっているじゃねぇか!?」

「違う……違うっ! 違うんだよ!」

「何が違う? 心の底から拒絶している俺に、辱めを受けて、凌辱されて、興奮さえ覚えている。輝、お前は大人しそうな顔をした、生粋の変態なんだよ! へへっ、俺とお前は……何ら変わりは無いんだ! 同じなんだよ! ひゃーっはっはっは!」

 最低だ……最低だ! こんなことして、ただで済むと思うな……。確かに、ぼくは非力な存在なのかも知れない。だけど、人の強さは容易く計れるものじゃ無いんだ。呪ってやる……呪い殺してやる! もう、二度と、ぼくの夢に現れることが出来ない様に、ぐちゃぐちゃの肉片になるまで叩き潰してやる! 粉々に切り刻んで、川に流してやる! 土に還れ……この世から、消え失せて、無くなれっ!

「さぁ、輝? お楽しみの時間の始まりだぜ? 俺達、皆でお前のことを犯してやるからな」

「あの時と同じ様に、たっぷりと、俺の精液を飲ませてやるぜ」

「ほぅら? 嬉しいんだろ? 興奮しているんだろ?」

「ひゃーっはっはっは! 輝、お前は生粋の変態なんだよ! 認めちまえよ!」

「うわあああーーーーーっ! 殺す! 殺す! 殺してやる! 殺してやるーーっ!」

 ありったけの想いを篭めて祈りを放った瞬間だった。誰かに激しく体を揺さぶられる感覚を覚え、ぼくは慌てて目を開いた。

「うわぁっ!」

 気が付くと、そこは太助の部屋だった。突然、声を荒げたぼくに、太助は余程驚いたのか、目を大きく見開いていた。

「だ、大丈夫か? 酷く魘されていたが……」

「ああ、良かった。夢だったんだね……」

 思い出すことさえ忌まわしい情景だった。神戸の懐かしい光景は良かったけれど、寄りによって、あんなにも忌まわしい存在が土足で踏み入るなんて、許し難いことだった。もしかしたら、ぼくの心が生み出した幻に過ぎなかったのかも知れない。でも、いずれにしても気分は最悪だった。

「何やら嫌な夢でも見た様子だな」

「うん……。最低な夢だったよ。ぼくの一番嫌っている相手に追い回されて、淫らなことをされそうになった……。ううん、強引に服を脱がされ、ただ、気持ち悪くて、触れられるのも嫌だったのに……これ以上無い位に興奮していた」

「輝……」

「その彼に、変態呼ばわりされたけれど……えへへ、案外、否定出来ないのかも知れないよね」

 太助は何も言わずに、ただ、静かに天井を見つめていた。静まり返った部屋の中、太助とぼく、二人の呼吸する音だけが染み渡ってゆく。そこに微かに混じる、ぼくの心臓の鼓動。不思議な感覚だった。酷く不快な気分のハズだったのに、何故か、落ち着いていた。隣にいるのが、信頼出来る仲間だったからなのかも知れない。

「……綺麗な街並みだな」

「え?」

「輝の帰る場所さ」

「ああ、神戸のお爺ちゃんの家のこと?」

「何時か、俺達を連れて行ってくれよな?」

 そう言い終えた所で、太助が力強くぼくを抱き寄せた。

「……俺と二人で行こうぜ、と言った方が良かったか?」

 太助は天井を見たまま、何時もと変わらぬ含み笑いを浮かべて見せた。皮肉った様な含み笑いが可笑しくて、ぼくも釣られて笑っていた。

「ふふ。ホント、太助ってズルいよねぇ。そういう台詞、似合っちゃうんだもの。あーあ。ホント、悔しくなっちゃう位に格好良いよね」

「そんなこと無いさ。ただ、人よりも口が達者なだけだ」

 でも、ぼくのことを想っての心遣いは嬉しく思えた。同時に、何でもかんでも追求すれば良いものでは無いということを、ぼくは今になってようやく理解出来た気がする。知らない方が良いことなんて、幾らでもある。知ってしまったがために、不幸になることだってある。ただの貰い事故に過ぎなかった。そう断じて、あんな忌まわしい夢のことは、さっさと忘れてしまうとしよう。

 太助には、ぼくの色んな話を聞いて貰ったけれど、あの事件のことだけは話したく無かった。どうしてだか判らない。でも、太助には本当に申し訳ないけれど、君とぼくとの間には、まだ越えられない壁がある気がする。ごめんね、太助……。

「まだ夜明け前だ。もう一眠りすると良いだろう」

「うん。そうだね」

 再び瞼を閉じた瞬間、一気に睡魔が襲ってきた。多分、墜落する様な早さで、ぼくは眠りに就いたと思う。今度は気味の悪い夢を見ないことを願いながら。

◆◆◆45◆◆◆

 あの後、特に可笑しな夢を見ることも無く、無事に朝を迎えることが出来た。翌朝、目が覚めた時には窓からは明るい日差しが差し込んでいた。早い時間にも関わらず、既に日差しは強く、蝉の鳴き声が辺り一面から響き渡っていた。変わることの無い平和な日常がそこにあった。でも……ぼくの傍らには何も身に纏っていない太助が横たわっている。ぼくも同じ格好をしている。昨日のこと……夢なんかじゃ無かった。改めて、そう実感させられた。

「良く眠れたか?」

「ああ、太助。おはよう。うん、今度は妙な夢を見ることは無かったよ」

 笑顔で返せば、太助もまた笑顔で返してくれた。それは良かった、と微笑んでくれた。でも、不可解な話だ。神戸の情景を思い出すのは、それなりには理解出来たけれど、敢えて思い出したくも無い相手が夢に出て来るのは、どうにも納得できなかった。もっとも、納得出来る、出来ないに関わらず、ぼくの夢の中に一方的に乱入されてしまったのでは、どうすることも出来なかった。どう足掻いても、ぼくには抵抗することは出来なかったのだから。

「輝、出掛ける支度をしろ。朝食は道中、何処かで済ませる」

「え?」

 何処に向かうのかも明らかにせずに、出掛ける支度をしろとは中々に強引なことだ。でも、太助のことだから、何か考えがあっての行動なのは間違いない。一体、何処に向かうつもりなのだろうか? 考え込んでいると、太助が静かに肩を組んで見せる。

「糺の森に行ってみようと思ってな」

「糺の森? ふーん、意外な場所を選ぶね」

 生い茂る木々に包まれた躍動感あふれる森。確かに、大自然を生きる木々達はぼく達の心を静め、傷を癒してくれる力を持つ存在達。内なる力を増幅し、体の中から浄化を促す。漢方薬の考え方に由来する想いの様に思えた。木々の多い森という意味で考えるならば、醍醐寺の方が、余程広大な様に思える。でも、敢えて糺の森を選んだのには、太助なりの理由があるのだろう。

「可笑しなことを言う様に思うかも知れないが、昨晩、何者かが俺の夢枕に立ってな。こんなことは初めてのことだ……」

 太助は立ち上がると、静かに窓に手を掛けて見せた。窓から、そっと風が吹き込んでくる。周囲を見回しながら、太助は続けて見せた。

「少なくても、敵では無さそうに思えた。そいつは、意図的に俺の心に糺の森の情景を映し出してみせた。輝をそこに導け。そう、伝えようとする想いが感じられた」

 窓の外を見つめたまま、太助はそっと髪を掻き分けてみせた。朝の陽ざしに照らし出された太助の横顔。やっぱり絵になるな。そんなことを考えると、こちらに向き直った太助が静かに微笑んでくれた。

「一人で赴く訳では無い。そういう意味では、多少は道中の不安も軽くなるだろう?」

 太助の力強い笑顔に、ぼくは大いに勇気を貰えた。本来ならばこれはぼく自身の問題なんだ。ぼく自身の手で片付けなければならなかったもの。でも、こうして手を貸して貰えるのは、とても心強い。仲間ってやっぱり素敵なものだよね。

「何時か、太助が歩む道を阻む者が現れたならば、その時は、今度はぼくが力になるから」

「ああ。期待しているぞ」

 恐らく、少し前のぼくならば、これは自分の問題だから、自分ひとりの手で片付けなければいけない。そう、思い込んでいたのかも知れない。それこそ、敵の思い描く筋道に従って歩んでいるに他ならない結果に陥るのは自明の理。でも、それは勇気でも、強さでも、何でも無かった。意地っ張りで、子供染みた弱さでしか無かったのだから。

 ぼく以外の誰かに、ぼくの弱さを見せることを恐れていた。一人で何でも為し遂げられると思い込むなんて、思い上がりも甚だしかった。ぼくは非力で、貧弱な存在に過ぎない。ううん、ぼくだけじゃない。強い、強いと思い込んでいた太助だって、一人では何も出来なかった。皆、等しく弱いんだ。だから、ぼく達は手を取り合って歩んでいかなければならない。

 自分の弱さを受け入れること……それは簡単なことでは無かった。目を背けたい自分自身の弱さも、醜さも、全部、全て、受け入れなければ駄目だということに気付くことが出来た。

「どうやら輝の下着も無事に渇いた様子だな」

「へ? え、えっと……」

「服は俺のを貸すから自由に選んでくれ。学生服はカバンにでも突っ込んで、持ち帰れば良いだろう」

 何事も無かったかの様に、ぼくの下着を持って来てくれた太助に、あれこれ考えていた想いが、一瞬にして消し飛ぶ感覚を覚えた。

(うーん、太助は色んな意味で、冷静沈着過ぎて、時々常人離れした動きを見せるよね……)

「輝、身支度が済んだら出掛けるぞ」

「え、えっと……ちょっとだけ、部屋を出ていて貰っても良いかな?」

「フフ、今更照れる様なことでも無いだろう? まぁ、良いさ。俺は顔を洗ってくる」

 そういう問題では無いと思うのだけど……。切り返そうかと思ったけれど、ぼくは出掛かった言葉を飲み込んだ。まぁ、あんなことをした後なのを考えれば、本当に些細なことでしか無い。些細なことなのかも知れないと言いながらも、さり気無く気遣ってくれる太助にぼくは感謝していた。結局、太助が言っていた通り「割り切った」関係に思えた。昨日のことなど、何も覚えていないかの如く、何時もと変わらぬ振る舞いで接する太助。その異様なまでに冷静な切り替えに、ぼくは違和感を覚えていた。でも、それは受け入れた上での行為だったのだから、そのことを蒸し返すつもりは無かった。

 身支度が整ったところでぼく達は太助の家を後にした。まだ朝早い時間であるにも関わらず、日差しは強かった。今のぼくを象徴するかの様な透き通った青空に、自ずと明るい未来が切り開かれそうな予感を抱いていた。

 再び太助の家から、緩やかな坂道を経由して醍醐駅へ。醍醐駅から三条を経由して出町柳を目指すことにした。糺の森は出町柳の駅前から程近い場所にある。ぼく達は強い日差しの照り付ける中を歩いていた。

「今日は日差しが強いね。まだ、朝早い時間なのに、汗が噴き出すよー」

「ああ。確かに強い日差しだ。糺の森に着く頃には、さらに日差しも強くなっているだろう」

 不思議な気分だった。事態は未だ何一つ解決していない。それでも、不思議と心は落ち付いていた。誰かと深い所で心が通じ合っているという事実が、安心感に繋がっている様に感じられた。

 ぼく達は丁度、昨日、太助にぼく自身の過去を打ち明けた辺りを歩んでいた。時間帯が変われば、目に映る情景も変わるものなのだろう。そう考えると、不思議な気持ちになる。日の暮れた夜に見た情景と、日の当たる朝に見た情景とでは、こんなにも雰囲気が異なるものなのか。意外性を実感しながら、ぼく達は歩んでいた。太助は何時もと何ら変わりのない立ち振舞いを見せていた。

「弱者は自らが弱者であることを覆い隠すために、殊更に大きな声で吼えるものだ」

「え?」

「フフ、昔の俺のことさ。賢兄に何時も咎められていた。無駄吠えは敗北の証でしか無い、と」

「うん。ぼくも同じ道を歩んでいたから、良く判るなぁ」

 遠くに目線を投げ掛けながら、太助は穏やかな笑みを浮かべていた。

「人の道から離れた生き方をしていたのも、弱さを隠すための哀しい虚勢に過ぎなかった」

「でも、今の太助は変わることが出来たのでしょう?」

「ああ。信頼出来る仲間達がいてくれればこそ、為し遂げることが出来たことだ」

 結局、人は一人では何も為し遂げられない。だから、こうして手と手を取り合い、為し遂げられないことを、為し遂げられる様に模索するものなのかも知れない。少しだけ、前に進めたことを、実感出来た気がした。

「死ぬのが怖いならば生きるしか無い。実に簡単な話だろう? 生きるか、死ぬかの二択だ。それさえも選べない奴は、一生負け犬のまま過ごすしかない」

 太助の言葉を聞きながら、ぼくは静かに歩き続けていた。

「それって、賢一さんの言葉?」

「ああ。賢兄はこういうことに関しては情け容赦無かったからな。負け犬で終わるのが嫌ならば、抗うしかない。だから、俺は抗い続けた」

 普段の飄々とした姿からは到底想像も出来ない一面に思えた。でも、賢一さんは壮絶な道を歩んできたと聞いている。だからこそ、得ることが出来た強さなのかも知れない。自分の足で歩んできた道こそ、本当の強さと言えるのだと思うから。

「あの当時の賢兄とのやり取り、今でも鮮明に覚えている……」

 太助は笑いながら、当時のやり取りを聞かせてくれた。当時の太助は、少し前のぼくと同じ様に、強く生きることを模索し続けていた。でも、何をやっても上手くいかず、周囲からも孤立し切ったままだった。終わることの無い絶望の中で、次第に生きる希望を失いつつあった。そんな中で、賢一さんに言われたのが先の負け犬の話だったそうだ。

『やっぱり賢兄は強いよな。俺はそんな風には割り切れられないさ……』

『なら、一生負け犬のまま過ごせば良い』

『冷たいなぁ……』

『ならば、お前はどうして欲しい? 誰かに生きる道を決められたいのか? お前は自由を選んだ。判るか? 自由という選択肢ほど残酷な選択肢は無い。何しろ、全ての責を自らで背負わねばならないのだからな。お前はその覚悟を持って、その選択肢を選んだ。違うのか?』

 『自由』を選ぶ『覚悟』……。確かに、自由に生きることと、責任を背負うことは背中合わせなのかも知れない。ぼくも同じ道を歩もうとしている……。様々な束縛から解き放たれ、自らの歩むべき道を模索する。そこには確かに自由はあるのかも知れない。でも、同時に、大きな責任も背負わなくてはならない。

(ぼくが選んだ自由……。ぼくが選んだ選択肢……。太助はぼくの選んだ選択肢に付き合ってくれたんだ。自由と責任、その重みを身を持って教えてくれた。変われるさ。ぼくだって)

「大丈夫だ。俺達が輝を支える」

「うん、ぼくも皆のこと、必ず支えて見せるから」

「ああ。それで良い。それで良いと俺は思う」

 朝から日差しは強かった。透き通るような青い空の中、太助の横顔を眺めながら、ぼくは歩んでいた。やっぱり、太助は男前だなぁ。憧れるよ。

「輝、次はもっと、過激な遊戯の手解きをしてやろうな」

「ちょ、ちょっと! こ、こんな所で何を言っているの!?」

「何って……夜の営みの話さ?」

「うわっ! あはは……は、反応に困るよね……」

 照り付ける日差し、威勢良く鳴き声を響かせる蝉の声を背に受けながら、ぼく達はアルプラザの中にある醍醐駅を目指していた。目的地は糺の森。そこで何が起こるのか、ぼくには想像も付かなかった。ただ、姿無き支援者がいるのは事実なのだろう。ならば、その導きに従うまでだ。生きるために、自由を手にするために、ぼく達はゆっくりと歩み続けた。

◆◆◆46◆◆◆

 ガタンガタン、ガタンガタン。耳に入る地下鉄の音。ただ無機質に鳴り響いていた。死に関すること……ぼくに取っては決して、無縁な話では無かった。未だ太助には詳しくは聞かせていなかった物語。あの日、あの時の出来事を話していた。そう、ぼくが睡眠薬を手に自殺を図ったあの日のことを。こんな場所にするような話じゃないことくらい、空気の読めないぼくにも判っていた。でも、それでも話を聞いて欲しくて仕方が無かった。多分、ぼくは太助に全てを見て貰いたいと願っている。それが迷惑な行為なのは判っていたけれど、一糸纏わぬ裸のぼくを見て欲しかった。もっとも、既に裸以上に恥ずかしい姿まで見せてしまったけれど……。

 頭では判っている。ぼくが求めていることは一方的な甘えに過ぎないってことも。でも、距離感を上手く掴めないぼくには、殻の中に閉じ籠るか、全て曝け出すかの、どちらか両極端な道しか選べなかった。

「……人は産まれ落ちた、その瞬間から、修行の旅が始まるものと聞く」

「あ、それ、ぼくも知っているかも」

「生命を抱き、歩み始める。それは、前世での罪を償うための修行行脚の始まりでもある」

「うん。だから、自殺という行為は、最も重い罪の一つなんだよね……」

 あの時のぼくは逃げ出したい想いに駆られ、完全に我を見失っていた。辛く、苦しい現実から逃れるために選んだ道。ほんの一瞬の救いを求めるために、全てを投げ出そうなんて愚か過ぎるとしか言えなかった。

「因果なものだな。前世の輝は毒を盛られて死んだ」

「そうだね。ぼくも毒を口にして死のうとした。でも……そもそも、致死量には遠く及ばない毒だったけどね」

 所詮、睡眠薬で死ぬことなんて出来る訳が無かったんだ。ううん、元よりそれも計算した上での行動だった。ただのパフォーマンスだった。だから、あれで良かったんだ。前世のぼくが盛られた毒は本当に熾烈なものだった。死の苦しみというのを、間接的にではあるけれど体験したのは事実なのだから。

 ガタンガタン、ガタンガタン。変わることなく地下鉄は揺れ動いている。人の少ない地下鉄の車内は空調が利いていて涼しかった。この涼しさのお陰で汗も引いていた。

「自殺か……。そういえば、賢一さんの親友だった、武司さんは自殺を為し遂げちゃったんだよね」

「ああ。今でも賢兄の中では大きな傷として残っている。大切な仲間を守れなかった。何時までも罪の意識に苛まされる。何度も同じ情景を夢に見る。そう、言っていたな」

 前世のぼくもまた、流行り病に侵され、毒を盛られて死んでいった。生まれることすら許されなかった暁。ぼくは多くの人々の死を見届けてきた。嫌な能力だ。本当に忌まわしい、不吉な能力だ。どうして、こんな可笑しな能力を持って生まれてきてしまったのだろう? これもまた、修行の一環だとでも言うの? 冗談じゃない! 前世のぼくが、一体何をしたと言うのさ? 不治の病に蝕まれ、毒を盛られて非業の最期を遂げた、非力な子供でしか無かった前世のぼくが、一体どんな罪を犯したというのか教えて欲しいものだった。

 ゆっくりとブレーキが掛りどこかの駅に列車が停車する。暗闇に包まれたトンネルを駆け抜けて、光に包まれた駅に至る。地下鉄の構造を考えれば、当然の作りだけれど、中々に奥深い様に思えた。結局、地下鉄も人も同じなんだ。皆、光を求めて走り抜けている。もっとも、ぼくは誰かの光が無ければ光を放つことの出来ない存在だけど。輝なんて、御大層な名前を持っているクセにね。

「それならば、俺が輝を照らす光になろうか?」

「もう、太助ってば、遠慮なくぼくの心の中を覗き見しちゃうんだね」

「フフ、そうは言うが、嫌では無いのだろう?」

 ぼくは笑いながら横を向いた。肯定も否定もしない。どの道、ぼくの心の中は完全に筒抜けなのだろうから、そんなことに何の意味も無かったのだから。

「あの情鬼も俺達と一緒なのだろうな」

「ぼく達と一緒?」

「ああ。あの情鬼に取って、前世の輝は光だったのだろう。光が無ければ人は暗闇の中を歩くことは出来ない。光を失った時から、あの情鬼は暗闇に包まれたのだろう。歩むべき道も、何もかも閉ざされた、一切の光も漏れ入らない暗夜行路だ」

 そう評されると確かに憐れに思える。でも、同情はしない。迂闊に手を差し伸べれば、ぼくの身に危険が及ぶ。それだけじゃない。ぼくの周りにいる太助達にも被害が及ぶ。見過ごす訳にはいかない。それに、我が身に降り掛かる火の粉は打ち払わなければならない。和解出来るかもなんて、甘い考えは棄てよう。せめて、ぼく達の手で引導を下してあげよう。先に見えない暗闇の中で乱心し続けることに何の救いも無い。苦しいだけの存在ならば、終わらせてやることも慈悲なのかも知れない。そう割り切って考えられる様になっていた。昨晩の一件が影響しているのか、ぼくの価値観も変わり始めたのかも知れない。あの時、神戸のお爺ちゃんの家で見た、時計と同じなのかも知れない。永らく止まっていた時が動き出した。そう感じていた。

 程なくしてぼく達は三条に到着した。エアコンの効き過ぎていた東西線を後に、京阪に乗り換えるために移動し始めた。三条京阪から出町柳までは目と鼻の先だ。コンコースに出ると、エアコンの利きが悪いのか、微かに暑さが蘇る。纏わりつく様な重たい空気に思わず力が抜ける。先刻までの涼やかな空気は何処へやら。湿気を孕んだ暑い空気に汗が噴き出す。首元に滲む汗を拭いながらぼく達は歩んでいた。

「確かに、今日は蒸し暑いな。地下にいても、これだけ暑いのを考えると、外は相当暑いのだろう」

「ちょっと気が退けちゃうよねぇ。でも、行かなくちゃならないんだ」

「ああ。俺も最後まで付き合おう」

「うん、ありがとうね」

 様々な人が往来する三条京阪のコンコース。部活帰りなのだろうか? 賑やかに笑い合う女子中学生達とすれ違った。太助に興味を惹かれたのか、すれ違いざまに妙に熱い目線を感じた気がする。

「生憎、俺は女には興味は無いのでね」

「うわっ。バッサリと、一刀両断しちゃったよね」

 この駅は地元の人達も、観光客達も使う大きな駅。何一つ変わることの無いコンコースを抜けて、ぼく達は京阪の改札を潜り抜けた。

 地下へと向かう階段を居りれば、丁度タイミング良く、電車がホームに走り込んで来るのが見えた。

「お! 乗れそうだねー」

「ああ。輝、走るぞ」

 太助と顔を見合わせ、階段を急ぎ駆け下りた。そのまま滑り込みで京阪電車に乗り換えた。何とも迷惑な滑り込みではあったが、無事に乗ることが出来た。駆け込み乗車はお止めください。車内放送を聞きながら、思わず二人で顔を見合わせて笑った。

「ふぅ、無事に乗れたねー」

「ああ。少々、強引ではあったけどな」

 程なくして列車は三条の駅を出発した。窓の外をゆっくりと流れて往く駅の情景。数分も経てば目的地の出町柳に到着する。短い旅ではあったが、本当に意味があるのはこの先に待ち受けているハズなんだ。気を引き締めていかなければいけない。何が起ころうとしているのか、誰にも判らないのだから。

 トンネルの中を駆け抜けて往く列車。窓の外は暗闇に包まれている。列車の窓に映る自分の顔と向き合っていた。

(ぼくは、もう、逃げない。逃げないと決めたのだから!)

 やがて列車は出町柳の駅に到着しようとしていた。ゆっくりと速度を落としながら、電車は止まろうとしていた。やがて列車は完全に停車し、扉がゆっくりと開く。ぼくは呼吸を整えながら太助の顔を覗き込んだ。静かに、力強く頷いてくれた。大丈夫。ぼくは一人じゃ無い。ぼく達はそのまま人の流れに混ざり、改札を抜けた。

◆◆◆47◆◆◆

 出町柳の駅から外に出ると一気に強い日差しが突き刺さる。余りの眩しさに、思わず、顔を覆わずには居られなかった。

「ひゃー、予想以上に気温、高いみたいだね」

「ああ。ジリジリと照り付けて来るな」

 あちらこちらから威勢良く蝉の鳴き声が響き渡る。頭の中で反響しているのでは無いかと思う程に、大きな鳴き声であった。一体、この界隈だけで何匹の蝉が居るのだろうか? 丁度目の前を颯爽と通り過ぎて行ったバスを見送りながら、そんなことを考えていた。

「夏は残酷な季節、だったな」

「ああ、コタの言葉?」

「……小太郎らしい言葉だ」

 静かに空を見上げながら、太助が微笑んで見せる。不意に、ぼく達の目の前をバイクが轟音を響かせながら走り抜けて行った。往来する車の無機的な金属音。駆け抜けてゆく子供達の笑い声。鴨川の流れ往く音色。それから、今まさに出発しようとしている叡電の発車ベルの音色。みんな、死に往くモノ達ばかりだ。夏という限られた時間だけに許された情景。時の流れと共に数多の命が散ってゆく。この蝉達も、命の灯を燃やして、必死で鳴いているハズだ。次の世代に繋げるための命のリレー。恐らく、そこには余計な感情などは存在していないのだろう。考える余地なんか無いハズだ。数年もの月日を暗い土の中で過ごし、ようやく光の差し込む地上に出てみれば、僅か二週間程の命。時が過ぎれば、物言わぬ亡骸になり、彼らの物語は幕を閉じる。

 コタが言っていたっけな。蝉という昆虫は人の生き方の縮図の様だと。ほんの一握りの幸せを手にするために、人は数え切れない程の苦労を積み重ねる。

 夜空に咲き誇る花火も、一夜の宴を奏でる蛍も、命の灯火を燃やしている。一瞬の幸せのために命を焼き尽くす。だから、夏は残酷な季節。コタの言葉、ぼくも共感するよ。

「だが、再び次の世代が、新たな物語の幕を開く」

「その繰り返しなんだよね」

「ああ。俺達も行こう。時を無駄にしてはならない」

「うん。数多の死を無駄にしないためにもね」

「その前に、腹ごしらえといこう」

 太助はにやにや笑いながら、あの時訪れたファーストフード店を目指して歩き始めた。そう。一連の出来事が始まったのは、二週間位前の話。あの時は夕焼け空を背に浴びながらだったけれど、鞍馬に向かう際に立ち寄った店だった。

(あの出来事も、仕組まれたものだったのかな?)

 ううん、余計な詮索は止めよう。知らない方が良いことだってある。それに、無駄に色々と知り過ぎてしまうと、足が止まってしまいそうに思えた。無鉄砲なまでに何も知らずに突っ走る。その位の心構えが無ければ、引き戻そうとする弱い自分に負けてしまいそうな気がした。だから、ぼくは後ろを振り返らずに太助に続き、店に足を踏み入れた。

 ファーストフード店の中は空調が良く利いていて涼しかった。少々、利き過ぎな気もしなくも無かったけれど、まぁ、涼しいのは嬉しいことだ。こうした文明の利器の数々が地球温暖化という大規模な自然の死を招いている一端を担っている。そう考えると、違った意味でも薄ら寒くなった。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

「えっと……」

 相変わらず太助は決断が早い。既に席に腰掛け、優雅にアイスコーヒーを口に運んでいた。適当にハンバーガーとポテトを選んで、飲み物はもちろん、ミルクティーで。まぁ、こういうお店だから過度の期待は禁物なのだろうけど。太助とあれこれ話し込んだせいで、すっかりお腹空いちゃった。もう一品、何か付けちゃおうかな。うーん、相変わらずぼくは優柔不断だな。変わらなくちゃ。

 そんなこんなで注文を終えたぼくは、窓際の席に太助と並んで座った。窓の外は鴨川沿いに川端通りが南北に伸びている。相変わらず交通量は多い。ぼく達は車の流れに目をやりながらハンバーガーをせっせと口に運んでいた。

 気のせいだろうか? 窓の外をジッと眺めていると、駅前のバスロータリーを、鴨川の上を過ぎ往く、空気の流れが見える様な気がした。一瞬、目の錯覚かと思って思わず目を擦ってみたが、どうやら目の錯覚では無さそうだ。

「ほう? やはり、輝にも見えるか?」

「え? それじゃあ、太助にも?」

「ああ。これは一体何なのだろうか? 俗に言う木々の息吹という奴か?」

 木々の息吹……確かに、その表現は適切なのかも知れない。微かに緑色を帯びた風の流れは、呼吸するかの様に規則正しく、緩急付けながら流れている様に見えた。寄せては返す波の様な流れ。窓越しに木々の透き通る香りを感じていた。

「木々の香りがするよ。とても、活き活きとした力強い香りだ」

「ああ。やはり、糺の森で何者かが俺達を待っているみたいだな」

 少なくても、その相手は敵では無い。それは確かだと思えた。あの情鬼が放っていた禍々しい気配とは正反対の力強い活力を感じる。それに、ぼくには微かに聞こえている気がした。寄せては返す風の流れに乗って、微かな歌声が聞こえて来るのが。何を言っているのかは鮮明には聞き取れなかったけれど、とても心地良い声だった。

(男の人の声かな? 地の底から響き渡る様な力強い声。心に響く渋い声だなぁ)

「ねぇ、太助にも聞こえる? 風に乗って聞こえて来る微かな歌声が」

「歌声? いや、俺には風の流れしか見えないが?」

「アレ? ぼくの勘違いかな?」

「いや、勘違いでは無いだろう。その声の主は、輝に語り掛けようとしている。だから、輝にしか聞こえないのだろう」

「ぼくに語り掛けようとしている誰か? うーん、一体誰なのだろう?」

「どうやら、それを確かめに行くのが旅の目的となりそうだな」

「うん。きっと、ぼく達の大きな力になってくれる存在だよ」

 また、騙されているのかも知れない。不思議とそんなことは微塵も考えなかった。力を貸してくれる存在。そう信じて疑わなかった。根拠なんか何一つ無かった。でも、そうだと確信していた。この歌声も、この風の香りも、ぼくに呼び掛けようとしているとしか思えなかったから。そこに確かな想いを感じていたから。ただただ期待に胸が膨らむ。ぼく達は少々急ぎ目に朝食を終え、ファーストフード店を後にした。

「うっ! あ、暑過ぎる……」

「アスファルトは熱を吸収するからな。ああ、確かに熾烈な暑さだ……」

 再び外に出ると、やはり、強烈な日差しに怯まされる。鮮明に聞こえて来る蝉の声が、殊更に暑さを助長している様に思えてならなかった。遠く、鞍馬山の方に目線を投げ掛ければ、大きく成長しつつある入道雲の姿が目に留まった。夏の風物詩にして、夕立の使者とも呼べる雄大なる雲。

 信号待ちをしている間にも、次第に風の香りが強まって行くのを感じていた。何時しか、木々の香りは、力強い土の香りに変わりつつあった。嫌がる人も少なく無いのかも知れないけれど、ぼくは土の香りが好きだったりする。石の香りも悪く無い。夕立の最中、地面から漂ってくる大自然の息吹を感じると、心の底から沸々と湧き上がってくる情念を感じずには居られなくなる。賑やかな収穫祭の情景。豊穣を祝う人々の笑い声と、包み込む様な大地の力への感謝の念。太古の時代から連綿と受け継がれてきた習わしの様な「祈り」を肌で感じる。だから、ぼくは土と共に歩み、土と共に生きて行きたい。

「輝、信号が青になったぞ」

「あ、ああ。うん、行こう」

「一瞬、何かが降臨しようとしているのが見えた気がする」

「え?」

「大きな翼を背に生やした、肉感的な体付きの……いや、止めておこう。これは輝に届けられた『文』だ。部外者の俺が手出しをする様な無粋な真似をしてはならないな」

「うん。大丈夫だよ。しっかりと、想いを受け取って見せるから」

 無理に詮索する必要なんか何一つ無かったんだ。ぼくを招き入れようとしている存在がいる。敢えてぼくを呼び出そうとしている。ならば、無理に素性を暴く必要も無ければ、その様な振る舞いは、無礼極まりない振舞いとなってしまうことも判っていた。力を授けてくれようとしている相手だ。こちらも相応の礼節を保たなければいけない。

◆◆◆48◆◆◆

 糺の森へと続く路地へと入れば、歌声も、木々の息吹も、なお一層強まって行くように感じられた。自ずと緊張も高まる。糺の森にて何者かが待っている。その何者かは、ぼく達の窺い知らない様な大きな力を持った存在にして、人ならざる存在なのだと感じていた。何故、ぼくに力を貸してくれようとしているのかは判らなかったけれど、大きな力を持つ者が協力してくれるのは心強く思えた。民家の間を抜ける細道を、ぼくは一歩ずつ、踏み締める様に歩み続けていた。ゆっくりと、ゆっくりと。不意に、涼やかな風がぼくの頬を撫でていった。心地良い涼風だった。照り付ける様な日差しの中、一粒の清涼剤とも呼べる様な風を体中で感じていた。

「どうやら、俺達のことを歓迎している様子だな」

「うん。そうみたいだね。ああ、緊張するなぁ。一体、どんな存在が待っていてくれるのだろう?」

「ふふ。それは行ってみてのお楽しみだろう」

 糺の森は下鴨神社の一部。人の手の入らない、ありのままの大自然が残された場所。だからこそ木々達も実に活き活きとしている様に思える。此処には数多の生き物達が暮らしている。今の季節ならば多くの昆虫達も、木々と共に暮らしていることだろう。反響するかの如く鳴り響く蝉達の声に力強い大自然の声を聞いた気がする。原初のまま手付かずの木々達だからこそ、蝉達も安心して過ごすことが出来るのかも知れない。

 やがて、ぼく達の目の前には糺の森が姿を見せる。だけど、何か妙な光景だった。一体、何が妙なのだろうか? 考えるまでも無く違和感に気付いた。

「人、誰もいないね」

「ああ。妙だな……。この森は、何時でも人が大勢見受けられるのだが?」

 先刻までの涼やかな風から一転して、辺りには微かな異変が漂い始めていた。不意に、厚い雲が広がってゆく。まるで木漏れ日を遮断するかの様に一気に広がってゆく。先刻までの強い日差しが照り付ける情景は何処へやら、今にも雨が降り出しそうな、厚く、黒い雲に覆い尽くされてしまった。唸りを挙げる雲に、ぼくの中で一気に不安感が募った。

「一体、どうなっているのだろう? 天気も急変しちゃったし……」

「輝、周囲への警戒を怠るな。何か異様な気配を感じる」

 やはり太助も異変を感じているのか、鋭い眼差しで周囲に警戒を配りながら、短く告げて見せた。何時しか周囲は深い霧に包まれていた。霧は驚くべき速度で密度を増してゆき、気が付けば、もはや一寸先さえ見えない程の濃霧へと変わり果てていた。

 蝉達は一斉に泣き止み、変わりに空が轟く様な唸りを挙げる。ただただ不安を掻き立てられる情景だった。ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、何時の間にか太助の姿さえも消え失せていた。

「あ、アレ? 太助? 何処に行っちゃったの!?」

 不味い……とてつもなく不味い状況に陥ろうとしている。考えたくは無かったけれど、ぼくに手を貸してくれようとした存在、それさえも偽りだったと言うの!? それも、ぼくを陥れるための罠だったと言うの!?

「どうして……どうして、そこまでして、ぼくに執着するの! ああ、ああーっ! 理解出来ない! 全くもって理解出来ないよ! もう、何なのさ!」

 不意に深い霧の中、誰かが歩む足音が響き渡る。木々の葉を、木々の枝を踏み締める渇いた音だけが響き渡る。

「誰? 誰かいるの?」

 返事は無かった。代わりにゆっくりと忍び寄ってくる足音。

「情鬼だね? ぼくを……捕まえに来たの? 良いさ……やれるものなら、やってみるが良いさ。力で肉体を縛り付けることは出来ても、心まで縛り付けることは出来ない。例え死んでも、ぼくはお前には屈さない……絶対に!」

 すぐ目の前で、空気が漏れる様な声で、静かに笑うのが聞こえた。

「そんな乱暴なことするわけ無いじゃない?」

「も、桃山先生!? どうして、此処に!?」

 違う! こいつは桃山先生じゃない! 偽物だ……情鬼が化けているだけなんだ。騙されるものか……騙されてなるものか。ぼくは皆と共に歩むんだ。惑わされるものか!

「フフ、輝君ったら、そんなに怖い顔して、どうしたっていうの?」

「だ、騙されないよ……お、お前は、桃山先生じゃ……」

 言い終わることは無かった。言い終わるよりも先に、桃山先生の手が、ぼくの頬に触れていた。ヒンヤリとした水気を孕んだ冷たい手。忘れるハズも無い感触だった。

「こ、この手の感触は……」

「思い出したかしら? それとも、こうした方が良かったかしら?」

 桃山先生が可笑しそうに笑いながら、ぼくの頭に優しく手を乗せた。

「あ、ああ……」

「フフ、これでも思い出さないかしら?」

 ああ、駄目だよ。止めてよ……。抗えなくなっちゃうじゃないか。思い出さない訳、無いじゃない……。宇治川でのこと、一緒に泣いてくれたこと、抱き締めてくれたこと、頭を撫でてくれたこと、良い香りがしたこと、ああ、それから、それから……。ああ、ぼくは何て、駄目な奴なのだろう。罠だと判り切っているのに桃山先生に抗うことが出来ない……。

「う、ううっ、どうして……。どうして、抗うことが出来ないんだよ!」

 悔しくて、ただ悔しくて涙が止まらなかった。ぼくを信頼してくれて、一緒に歩もうとしてくれた太助のことを、こんなにも簡単に見捨てることが出来るなんて……。偽物だと判り切っているのに、頭を撫でられただけで、もう、どうすることも出来なくなってしまったことも、ただ、ただ、情けなくて仕方が無かった。

 いや、まだ逃げ出すチャンスはあるハズだ。抵抗するんだ。精一杯、抵抗するんだ! そうさ……幼く、非力だったぼくは、あの人に抗うことなんて到底不可能だと断じていた。だけど、形勢は唐突に逆転した。あれ程恐ろしかったあの人が、泣きながら許しを請うた。そうさ……出来ない訳が無いんだ。相手は所詮は女だ。腕力勝負ならば、絶対にぼくが負ける訳が無いんだ。

「どうしたの、輝君?」

 にこやかな笑みを浮かべながら、桃山先生はゆっくりと手を伸ばす。ぼくを捕えるつもりなのだろうけど、そうはいかない。

「ぼくに近寄るなっ!」

 ぼくは桃山先生を力一杯突き飛ばした。不意を突かれた桃山先生が驚きの声を挙げる。

「ひ、輝君? な、何をするの?」

「うるさい! 判っているんだぞ、お前の本性は! 実の弟と淫らな関係にあった変態女教師だ! その汚らわしい手で、二度とぼくに触れるな!」

 胸が激しく痛んだ。木端微塵に砕け散ってしまいそうな位、激しい絶望で満たされていた。多分、足が激しく震えていたと思う。自分でも信じられない暴言を吐いてしまった……。その見た目が、ぼくを惑わせる。敵だと判っていても桃山先生の姿を取られるのは辛かった。憎い化け物の姿をしていたのであれば、何のためらいも無く殺すことが出来たのかも知れない。でも、あろうことか、桃山先生の姿で迫られると弱さが露呈する。間違い無くこの情鬼はぼくの弱みを理解している。理解しているからこそ、桃山先生の姿で迫っているんだ。判っているさ。その手口も、何を企てているかも、何もかも判っているんだ。後は……覚悟だけだ。敵を殺めるという、確固たる覚悟だけなんだ!

「輝君……。そう。知ってしまったのね、あたしの秘密を……」

「だ、黙れ! どうせ、ぼくのことなんて……輝彦君の代替え品にしか思ってないのでしょう!? 本当の意味で、ぼくを判ってくれるつもりなんか、微塵も無かったクセに……ぼくに、いやらしいことをするのが目的で近寄ってきただけなのでしょう!? この、変態教師が! だから、女なんて信じられない! だから、女は嫌いなんだ!」

 心臓が破れそうだった。どうして、こんなにも激しく息切れしているのだろう? 極度の緊張から? それとも、こんなにも酷い暴言を口にしているから? こんなこと、望んで言っている訳無いじゃないか……本物の桃山先生に対して、こんなこと、絶対に言える訳が無いんだ。目の前にいるのは、所詮、姿だけを似せた化け物に過ぎないんだ。怒らせれば、きっと本性を見せるハズ。そうなったら、こっちのものだ。全力で叩いて、この訳の判らない幻を消してやる。

「そうね……あたし、最低の変態教師よね。フフ、ごめんね、輝君……。偉そうな顔して、上から目線で輝君に接してみたりして。でも、所詮、自己満足でしか無かったのよね」

「止めてよ。謝らないでよ。どうして、謝るのさ!? 怒ってよ! ぼく、こんなにも酷いこと言っているんだよ!? 何で!? 何で!?」

「輝君……。ごめんなさい……」

 桃山先生、泣いていた。直視できなくて、ぼくは思わず目を背けた。

「あ……!」

 ああ、判っている。この時点で、ぼくはもう負けているってこと……。必死で、暴言を吐き続けたのも所詮は負け犬の遠吠え。ああでも言わなければ、自分自身を保てそうに無かったから。あれは桃山先生に向けた言葉であって、同時に、ぼく自身に向けた言葉でもあったのだと思う。

「輝君、もう気付いているのかも知れないけれど、輝彦は交通事故で死んだの」

「やっぱり……」

 薄々はそうじゃ無いかとは思っていた。宇治川で語らった時、桃山先生輝彦君のことは一言も口にしなかった。それどころか弟の存在さえも否定してみせた。多分、口に出来なかったのだと思う。ぼくに輝彦君の面影を重ねてしまっている非礼を考えれば口にすることは出来なかったのだと思う。でも、それって……言い換えれば、本当にぼくに想いを寄せていたのかな? でも……仮に、ぼくに想いを寄せていたとしても、輝彦君と同じ様な「在り方」を望んでいるのだとしたら、それはそれで哀しいことだと思う。

 それに、ぼくは桃山先生に興味を抱けなかった。だって……やっぱり、ぼくは女の人に興味を持てないって気付いたから。

 そういう行為に興味が無い訳じゃない。ああ、正直に言っちゃえば、興味なんか幾らでも持っているさ。むしろ、ぼくは性欲の塊だ。昨日の夜だってそうさ。何も知らない、純情少年ぶっていたけれど、太助が相手だったから、あのまま一線を越えた。コタのこと想っているのは……ウソじゃ無いけれど、でも、コタは……ぼくのこと、弟としてしか見てくれていないと思う。それに、判るんだ。コタ、既に誰かに想いを寄せている。ぼくなんかじゃ絶対に勝てない相手だって判っている。ああ、判っているさ! それに、ぼくは、そんな純潔を貫ける様な、小奇麗な奴じゃ無いんだ……。全部、ウソなんだ。ああ、ぼくだって立派な変態さ! 大切な友達なのに、皆のことを「性欲の対象」として見てしまっている。皆のことを想い浮かべながら自分を慰めたことなんか、数え切れない位あるさ。だから、女になんか興味無いんだ。全部、あの人のせいなんだ! あの人のせいで、ぼくは女の人が恐ろしくて、恐ろしくて仕方が無いんだ……。あの人と同じ様に、ぼくに危害を加えるのでは無いか? そう考えると、恐ろしくて、恐ろしくて居られなくなる。そんな恐ろしい生き物達に、興味を示すことが出来る訳が無い。

 でも、桃山先生は違った……。自分でも、本当に不思議な思いで一杯なんだ。判らないんだ。どうして、そんな感情を抱いているのか、本当に判らなくなる。ああ、ずっと桃山先生には興味惹かれていたさ。初めてのことだった。ぼくが女の人に興味を抱いた最初の人だった。だから、弟の様に可愛がって貰えるのが、とても嬉しかった。それは偽りの無い真実なんだ。でも、やっぱり……桃山先生には、お姉さんで居て欲しい。卑怯な言い方かも知れないけれど、ぼくの……帰る場所であって欲しい。それ以上には、なって欲しく無いんだ。あくまでも、お姉さんでいて欲しいんだ……。多分、体の関係に至ったら……ぼくの中で桃山先生は、一気に、不潔な物に変わってしまうと思う。やっぱり、女の人には興味を持てない。ううん。女の人には性的な興味は持てないよ。

「輝君、随分と身勝手なのね」

「え? ぼくが……身勝手?」

「ええ。自分の理想だけをあたしに押し付ける。それを身勝手と言わずして、何と言えば良いのかしら?」

「え、えっと……」

「それに判らないのかしら? 小太郎君は輝君の願う通りになんか動かないわ」

「え? そ、そんな訳無いじゃない! でたらめなこと言わないでよ!」

 桃山先生は、ただ静かにぼくを見つめていた。不気味なまでに冷たい眼差しだった。偽物なのは判り切っている。それなのにぼくは酷く畏れていた。何かの間違いで、今、目の前にいるのは本物の桃山先生だったとしたら、ぼくは取り返しが付かないことをしてしまったことになる。それ以上に気になるのが、太助やコタについての一言だった。ああ、ぼくは何て情けないのだろう。結局、大切な仲間達なのに、心の中では疑っているということが明るみに出てしまう。やはり、ぼくは何処までもウソつきなのか……。

「知っているのでしょう? 小太郎君が本当の意味で想いを寄せている相手がいることは?」

「な、何で、そのことを!?」

「いずれ、小太郎君は大切な誰かと共に歩むことになる。そうなった時に、輝君はどうなるのかしら?」

「え……?」

「太助君だって同じよ。力丸君だって、大地君だって、皆、皆、同じなの」

「そ、そんなことある訳無いじゃない!」

「人は薄情な生き物よ。大切な何かが見つかったら、それ以外の存在なんか、どうでも良くなってしまうもの。輝君のことも、きっと、どうでも良くなってしまうのでしょうね。そして、一人寂しく忘れ去られてゆくの」

「そ、そんなこと……」

「可哀想な輝君。また、独りぼっちになっちゃうのね」

「ううっ……」

 何も言い返せなかった。代わりに、涙が一粒、ぼくの頬を伝って落ちた。恐らく、その涙がぼくの答だったのかも知れない。

(結局、ぼくは一人、勝手な夢を見ていたに過ぎなかったんだね……)

「馬鹿みたい……。結局、ぼくは孤立無援のままだったんだ……」

 もう、どうでも良くなっていた。目の前にいるのが、例え偽物でも良いじゃないか? どうせ、みんなウソ付きなんだ。ぼくだけが悪者だって思い込んでいたけれど、そうじゃ無かった。皆、皆、ウソ付きだったんだ。それならば、もう、何も迷うことなんて無かった。自由に生きれば良いのかも知れない。

「ねぇ、輝君。周囲の景色を見て御覧なさい?」

「え?」

 不意に、桃山先生に声を掛けられて、ぼくは静かに振り返った。

「わぁ……」

 そこは一面に色付いた木々に覆われた情景だった。燃え上る様な華やかな赤、思わず目を奪われる鮮烈の橙色、秋の空の様に透き通る黄色。色鮮やかに衣替えをした糺の森は、夏の緑一色の情景とはまるで異なる情景だった。ハラハラと舞落ちて往く色とりどりの木々の葉。その美しさにぼくはただ釘付けになっていた。でも、不思議と、胸が締め付けられる様な想いになっていた。言葉にすることの出来ない哀しみで、体中が凍り付きそうになっていた。激しい痛みを感じる程の哀しみだった。

(この色合い……神戸のお爺ちゃんの家で見た、あの情景と重なる。ぼくは一体どうしてしまったのだろう? 酷く、寂しい気持ちで胸が張り裂けそうだよ……)

「さぁ、輝君。こっちにいらっしゃい?」

 何時の間に移動したのか、ぼくの視界の先の方から声が聞こえてきた。ぼくは声に導かれる様に、紅葉に様変わりした糺の森を歩んでいた。その一角に、自然豊かな森には不釣り合いな、煌めく金の屏風が置かれていた。まるで、何かを覆い隠すかの様な置かれ方に違和感を覚えた。

「輝君、こっちよ。さぁ、いらっしゃい?」

 声は、明らかに金の屏風の向こう側から聞こえてきた。嫌な予感しかしなかった。金の屏風の向こう側から聞こえて来る桃山先生の声は、輝彦君と戯れていた時と同じ声色だったから……。でも、同時に好奇心も掻き立てられていた。もしかしたら、輝彦君と同じ様に、ぼくも先生に愛して貰えるのだろうか? そんな愚かしい期待を胸に抱いていた。ぼくは呼吸を整えながら、そっと、金の屏風の向こう側を覗き込んでみた。

「なっ!」

 自分の目を疑わずには居られなかった。広大な糺の森の一角、そこに置かれた金の屏風。それだけでも十分に異質なのに、金の屏風が覆い隠す様にしていたのは、華やかな色合いの布団と、妖しげな色合いを放つ行燈であった。枕元に置かれた香炉からは麝香の甘い香りが漂っていた。そして、布団の上には血の様に赤い着物を身に纏った桃山先生が横たわっていた。

「さぁ、輝君、こっちにいらっしゃい」

「な、何をしているの!?」

 ぼくの言葉に応じること無く、桃山先生はうすら笑いを浮かべたまま、ゆっくりと着物を肌蹴させて見せた。ぼくは目を背けることが出来ず、直視していた。自分で呼吸が荒々しくなってゆくのが、手に取る様に判ってしまった。自分自身の理性を、次第に抑えられなくなっていた。嫌だ、嫌だと、必死で抗えば抗う程に、痛い程におちんちんが硬くなってゆくのが判ってしまった。

「さぁ、こっちへ……こっちへ、いらっしゃい……」

 着物を脱ぎ去ると、そのまま大きく足を広げて見せた。柔らかな毛と、その隙間から滴り落ちる雫。ぼくの目はその一点から逸らすことが出来なかった。でも……激しい嫌悪感を覚えた。

「ち、違う……こんなの、絶対に違う!」

 必死の想いを篭めて叫んだ。確かに、すぐ目の前に、桃山先生がぼくを迎えるべく体を横たわらせている。でも、冷静に考えるんだ。これは、桃山先生じゃ無い。あの、異形の情鬼なんだ。それに……ぼくに取って、やはり、桃山先生はお姉さんであって欲しい。身勝手なのかも知れないし、卑怯なのかも知れない。でも、それでも、ぼくは、自分の道を歩むと決めたのだから! その時であった。

「良くぞ申した、輝よ! 我が守護せし地にて奔放に振る舞った罪は重い! 禍々しき情鬼よ、早々に退散するが良いっ!」

 突然、大地が唸りを挙げて揺れ動いた。立っていられない程の激しい震動が轟き、次の瞬間、地面から次々と土色の巨大な岩が飛び出してきた。次の瞬間、激しい轟音を立てながら、土色の巨大な岩が一斉に桃山先生に襲い掛かった。

「ぎゃあああーーーーっ!」

 響き渡る断末魔に、ぼくは思わず耳を塞いだ。激しい震動は、なおも続いていた。何もかもが崩れ落ちてしまうのでは無いかと思う程に激しい衝撃を感じていた。それに呼応するかの様に、ゆっくりとぼくの意識が失われていった。消え往く意識の中で、ぼくは確かに、彼の姿を見ていた。とても大きな翼を背に抱いた……雄々しき存在の姿を。その神々しき姿は鮮明に脳裏に焼き付いたことだろう。白く光り輝く彼の姿は、あまりにも眩し過ぎて輪郭しか判らなかったけれど、ぼくの網膜に克明に焼き付いた。やがて、視界がゆっくりと白々と染まってゆき、ぼくの意識は完全に途絶えた……。

◆◆◆49◆◆◆

「おい! 輝、しっかりしろ!」

 唐突に降り注いだ太助の声。ぼくは静かに目を開けてみた。酷く頭が痛み、視界が揺らぐ様な感覚を覚えた。周囲の情景を目で追ってみる。どうやら此処は、やはり糺の森らしい。周囲の木々の葉は新緑の色合いを称えていた。少なくても紅葉の時節の赤や黄色に色付いた情景では無かった。行き交う人々が好奇に満ちた眼差しを投げ掛ける。こんな所で悠長に昼寝をする奴なんて居るハズがないから、さぞかし不可思議な存在に見えたことだろう。ぼくは力を篭めて立ち上がった。まだ、視界は揺らいでいたけれど、立っていられない程では無かった。

 そっと風が吹き抜ければ、一斉に木々の葉が風を受けてさざ波の様な音色を奏でる。肌で涼やかな風を感じながら、ぼくはそっと、木々の隙間から覗く空を見上げていた。降り注ぐ木漏れ日が眩しくて、ぼくは思わず目を覆った。

「あ、アレ? ぼく……夢でも見ていたのかな?」

「夢では無い」

「どういうこと?」

「突然、空が黒い雲に覆い尽くされ、唸りを挙げたかと思ったら、次の瞬間には辺り一面が濃い霧に包まれていた。一寸先さえ見えない程に濃い霧の中で輝を見失ってしまってな。必死で探していたら、突然霧が晴れた。道の端で倒れている輝を見つけ、慌てて声を掛けた次第だ」

 神隠し……。一連の騒動に付き纏っていた言葉が鮮明に蘇る。そうか。ああやって、濃い霧で目を眩ませて、連れ去ったのかも知れない。いずれにしても、もう少しで、ぼくも危うく連れ去られる所だった。誰かは判らないけれど、ぼくを救ってくれた存在に感謝しなくては。

「輝、大丈夫か? 怪我はしていないか?」

「う、うん……。ぼくは大丈夫だよ」

 太助の顔、まっすぐに見られなかった。騙されていたとは言え、ぼくは太助のことを疑ってしまったのだから。命懸けでぼくに接してくれた太助の気持ちを、ぼくは踏み躙る様な感情を抱いてしまったのだから。

「一体何が起きた?」

「そ、それは……」

 興味を示さないハズが無かった。何しろ、今まさに、ぼくは連れ去られようとしていたのだから。何が起こっていたのか、知ろうとするのは当然の流れだと思う。敵の素性を知らなければ打つ手を講じることも難しくなる。それ以上に、事実を探求したいと願うのは人の常。好奇心を抑えることが難しいのは、他の誰よりも、ぼく自身が良く心得ているハズだ。

 道行く人々の目線を気に掛けているのに気付いたのか、太助がぼくの肩を叩く。

「下鴨神社まで移動するぞ」

「う、うん……」

 木々の香りを体中で受け止めながらぼく達は歩き続けた。糺の森を南北に走り抜ける表参道。玉砂利を踏み締める音だけが静寂の中に響き渡る。言葉を交わすこと無くぼく達は歩き続けた。やがて、下鴨神社へと続く南口鳥居に到着する。派手さの無い静かな神社。鮮やかな朱色が映える楼門を抜けて、境内へと足を運ぶ。太助は何も言わずに、ぼくを先導するかの様に御手洗池へと歩み寄ってゆく。涼やかな水の流れを目にして、気持ちが落ち着いてきたぼくは、思い切って話を切り出すことにした。

「……深い霧に包まれたぼくは、必死で逃げ道を模索した。そうしたら、予想通り、桃山先生が現れたんだ」

「やはり、桃山の姿を取るか……」

 糺の森一帯から、割れんばかりの蝉の声が響き渡る。その声にかき消されない様に、ぼくは力を篭めて話を続けた。

「偽物だってことは判り切っていた。でも、甘い言葉を掛けられて、抱き締められて、頭を撫でられて……最低だよね。ぼく、喜んで尻尾を振ったよ。甘えさせて貰って、心から安堵していたと思う」

 太助はただ、静かにぼくの話に耳を傾けてくれていた。だからこそ、ぼくは余計に苦しかった。胸が締め付けられて、張り裂けそうな想いで一杯だった。

「頭では判っていた。目の前にいるのは情鬼だって。桃山先生の姿形だけを真似した情鬼なんだって。だから、ぼくはありったけの罵声を浴びせた。汚い言葉で罵り続けた。だけど……ビクともしなかった。それどころか、結局、ぼくは上手い具合に丸め込まれて……」

「輝、そんなに自分を責めるな。相手は人の心の弱みを巧みに突く、卑怯な戦術の使い手だ。抗うことが難しいのは当然だ。だから……」

「でも、ぼくは、太助のことを疑ってしまった!」

 太助の言葉を遮る様にぼくは割って入った。罪悪感? どうすることも出来なかった怒り? 悔しさ? それとも……惨めな自分を必死で弁明しようとしている? いずれにしても、情けないことこの上なかった。余りにも無様な振る舞いでしか無かった。

「……どういうことだ?」

「太助にも、コタにも、皆にも想っている誰かがいる……あの情鬼は、そう囁き掛けた。大切な何かを見つけたら、それ以外の物はどうでも良くなる。そう言われて、ぼくは……見捨てられると思ってしまった……また、独りぼっちになっちゃうのかと、怖くて、怖くて堪らなくなった」

 太助は静かにぼくを見つめていた。何かを考え込む様な深い眼差しだった。

「信頼というものは言葉で示すものでは無い。俺のことを信じてくれなんて薄っぺらいことは言わないさ。輝の目で見届けてくれ。その上で俺と共に歩むか、それとも別の道を歩むか、選べば良い」

「自由を選ぶ……責任?」

「ああ、そうだ。輝は自由を手に入れた。だが、自由という権利は、酷く残酷なものだ。全ての責を自ら背負わなければならない。無論、俺も同じだ」

 やはり、情鬼が口にしていた言葉なんか、ただ上辺だけを繕っただけの物に過ぎなかった。太助はシッカリとぼくに向き合ってくれている。口先だけの情鬼とは大違いだ。ただ……情鬼の巧妙な手口に抗うことが難しいのも事実だった。あからさまに騙されていると判っているのに、ゆるゆると術中に嵌ってしまう。だからこそ、余計に悔しくて、悔しくて仕方が無かった。

「あの情鬼、桃山先生の姿で……ぼくを貶め様としたんだ」

「ああ……」

「ゆっくりと衣服を脱ぎ去り、大きく足を広げて……淫らな姿でぼくを挑発してみせたんだ」

「それで、輝はどうした?」

 辛かった。自分自身の最低な姿を太助に見せるのは。でも、それは自らへの戒めになると断じた。だから、二度と醜態を晒さないためにも、ぼくは自らの全てを曝け出すことにした。僅かにでも、疑ってしまった太助に、ぼくの想いを伝えたかったから。

「……興奮したよ。凄く、興奮した」

「ほう? どう、興奮したのか?」

「おちんちんが凄く硬くなって……痛い程に膨張して、それから、多分、シミが出来る位に濡れていたと思う……」

「だが、思い留まった。違うか?」

「うん……。太助の顔が浮かんできて、それから、コタや、皆の顔が浮かんできて……」

 太助は静かな笑みを称えたまま、じっと、ぼくの目を見据えていた。思わず照れ臭くなって、ぼくは目を背けた。

「そうしたら、誰かが手助けしてくれた。地面から一斉に岩の塊が飛び出して、桃山先生を……ううん、情鬼を押し潰したんだ」

「なるほど。それで、妙な術が解けた訳か」

 太助は感慨深そうに頷いていた。落ち着いて来た所で、強い日差しにジリジリと焦がされていることに気付いた。ふと見れば腕が赤く成り始めていた。時の流れ……どんなに願っても、決して止まることの無い流れに改めて気付かされる。

「それにしても、随分とフザけた真似をしてくれるものだ」

「情鬼のこと?」

「ああ。人の感情の中でも、最も繊細な部分を容赦なく抉っていく。輝の心を弄び、振り回し、何よりも……深く傷付けた!」

 ぼくはただ、項垂れることしか出来なかった。

「人の心は脆く、壊れやすいものだ。特に内部からの攻撃には本当に弱いものだ。だから、そう落ち込むな」

「う、うん……」

 太助はぼくの反応等お構い無しに、淡々と語り続けた。何のためらいも無く、静かに現実を見据え、受け入れられる姿に、ぼくは戸惑いを隠し切れなかった。だけど、それは太助自身が、自分自身の真実の姿から目を背けていないからこそ出来る芸当なのかも知れない。それが、ぼくと太助の差なのだと考えると、悔しい気持ちがあふれて来る。弱点があるから敵に良い様に使われてしまう。もしも、同じ様な挑発を太助に仕掛けたとしても、恐らく、狙った通りの効果は得られないだろう。むしろ、徒労に終わるだけの様に思えた。

「やっぱり、太助は強いなぁ。自分をシッカリと持っている。あんな、誘惑には揺るがないんだろうね」

 静かに佇む舞殿に向かいゆっくりと歩きながら、ぼくは太助に語り掛けていた。

「そうでもないさ。仮に輝に挑発されたら、俺も容易く堕ちていただろう」

 振り返りながら、太助が可笑しそうに笑って見せた。その笑顔に、その言葉に、ぼくは思わず耳が熱く成るのを感じていた。

「も、もうっ、な、何言っているの!?」

 相変わらず太助はシレっと恐ろしい発言を口にする。確かに、昨晩のことを振り返れば、少なからずぼくに興味を抱いていることは判っていたけれど、改めて、面と向かって口にされると反応に困る。丁度、舞殿の上に舞い降りたカラスが、何とも絶妙なタイミングで軽やかな鳴き声を響かせた。

「ぼ、ぼくに挑発って……え、えっと、何て反応すれば良いのかな?」

 どう考えても、ぼくの反応を見て楽しんでいるとしか思えなかった。

「フフ、少しは気持ちも晴れたか?」

「もう、太助が可笑しな話するから、必死で考えていたこと、全部吹っ飛んじゃったよ」

「そうか。それは良かった」

「良く無いよー」

 言い返しながらも、確かに気持ちが落ち着いていることに気付かされた。

「でも、少し落ち着いたよ。ありがとう」

 人は忘れる権利を持っている。そんなことを考えていた。嫌なこと、辛かったこと、苦しかったこと、哀しかったこと……。そうした、数多の記憶を「忘れる」ことは、時としてとても重要なことなのだと判った気がする。だって、ずっと、心に抱え持ったままでは、人の心は沈んでゆく一方だ。だから、時に、こうして不真面目に投げ捨ててしまうことも必要なのかも知れない。

 今までぼくは、ずっと、馬鹿正直に全てのことに向き合ってきた。全てを捌き切れるだけの力量も、度量も無いクセに、馬鹿みたいに挑み続けてきた。そんなの無謀なだけだと気付いた。コタにも言われたっけな。勇敢と無謀は似て非なる物だって。もっと、肩の力を抜いて生きても良いのかも知れない。

「なぁ、輝。俺も妙な気分になってきてな。二人の親交、もっと深めたくないか?」

「こ、こんな所で?」

「ああ。そうだ。野外での遊戯というのも、それはそれで興奮するだろう?」

 情鬼に抗うことは出来たけれど……太助に抗うのは難しそうな気がしてきた。

「都合が良いことに人気も無い。何ら問題無いだろ?」

「え、えっと……そ、そんなこと言われちゃうと、ぼく……」

「ほほう? 既に臨戦態勢だな?」

 太助はぼくに抱き付くと、相変わらず妙に慣れた手付きで、ぼくの股間を撫で回してみせた。

「ちょ、ちょっと! た、太助ってば、こんな場所で何てことしちゃうの!」

「なら、糺の森に移動しよう。神社の境内では気が引けるのならば、森の中なら良いだろう?」

「えっと……糺の森は下鴨神社の境内の一部だから……」

「ほう? なら、再び俺の家に戻るか? 人目を気にせずに楽しめる」

 耳元で囁き掛ける声に、ぼくはどんどん我を見失いつつあった。

「本当に輝は可愛い奴だな……」

「あっ! ちょ、ちょっと……」

 耳たぶに舌を這わされて、ぼくは体中の力が抜けて往くのを感じていた。

「ふふ。今度はもっと、恋人らしい可愛がり方をしてやろうか?」

「こ、恋人って……!」

 ああ、もう、完全に呑まれようとしている自分が、そこに居るのを認めざるを得なかった。相変わらず太助は、何処まで本気で、何処まで冗談なのか、さっぱり判らない振舞いを見せるばかりだった。

「ふふ、やはり輝は可愛いな。その困った顔を見たくて、もっと困らせたくなる」

「うわっ……。太助ってば、発言が怖いよね」

「それで、どうする? 選択肢を選ぶ自由も、責任も、輝に托されている。俺はその選択肢に従おう」

「あー。なんかズルいこと言っているし! 此処までジラして置いて、そんなこというの卑怯だよー」

「ああ。俺は卑怯な男だからな?」

「うー。た、太助の家に……」

「何だ? 良く聞こえなかったが?」

「もうっ、意地悪なんだからぁ……」

 下賀茂神社の一角で、太助とじゃれ合っているのと同じ時間帯に、大変な事態に陥っていたことを、ぼくは数時間後に知ることとなった。

 行方不明になっていた「ひかる」の名を持つ少年の一人が鴨川の河川敷で発見された。発見当時、彼は酷く衰弱していた。何よりも異常だったのが、全身を鋭い針の様な物で滅多刺しにされた様な酷い傷を負っていたことだ。当然、彼はすぐさま救急搬送されたが、今なお予断を許さない状況にあると夜のニュースが報じていた。改めて思い知らされた気がした。あの情鬼の本当の恐ろしさを……。ぼくに対する振舞いは、所詮は『戯れ』の域を出ていないということを。その気になれば、発見された少年と同じ様に、容易くぼくの命を奪うことも出来たのだろう。どうやら、ぼくは、途方も無く恐ろしい化け物に魅入られてしまったということになる。ぼくの生殺与奪は、あの情鬼の手で如何様にも出来る。その事実だけが重たく圧し掛かっていた……。

◆◆◆50◆◆◆

 今日もまた、何時もの様にクロの背にまたがり京の夜空を舞っていた。何か話したいことでもあるのだろう。色んな意味で夜の不法侵入にも慣れてきてしまった。否、犯罪行為に慣れてしまうというのも、それはそれで問題なのだが……。

「む? コタよ、何か申したか?」

「否、何も言っていない」

「そうか。間もなく大徳寺の上空を通過する」

 その日は何時も以上に蒸し暑く感じられる晩だった。月明かりの綺麗な晩ではあったが、全く風が無かった。じっとりと湿気を帯びた蒸し暑い空気が肌に纏わり付く。心落ち着く景色とは裏腹に汗が噴き出す気候だ。市街から離れる方角へと進んでいるだけに、次第に街明かりも少なく成ってゆく。北西の方角へと向かっているのは何となく判っていたが、果たして何処に向かおうとしているのかは皆目見当がつかなかった。大徳寺を超えた先にある寺社仏閣……すぐには思い浮かばなかった。一体、クロは何処を目指しているのだろうか? それにしても、何時に無く上機嫌な様子なのが気になって仕方が無かった。また、何か妙なことを企てているのだろう。クロは普段から大人びた振舞いを見せるが、俺と同じ年なのを考えれば、年齢相応の個性を持つのも納得出来る。

「む? 何を笑っておるか?」

「ああ、済まん。俺とお前は同じ年なのだと、改めて思い出してな」

「フフ、何を今更。そう、浅い付き合いでも無かろう?」

「まぁ、それもそうだな」

「夜な夜な熱い契りを交わし合う……」

「そこまで深い付き合いでも無い」

「むぅ、コタは詰まらぬ奴よの」

(お前が面白過ぎ……もとい、不謹慎過ぎるだけだ……)

 頭の悪いやり取りをしているうちに、見覚えのある光景が視界に広がってきた。

「ああ。なるほど。目指していた場所は鷹ヶ峰か」

「うむ。源光庵に向かっておる所よ」

 平安神宮やお西さんと比べると小さな寺だ。どちらかと言うと大き目な民家の様な広さであることを考えると、より一層不法侵入している想いが強くなる。何だか、何時も以上に申し訳無い気持ちになる。だが、クロは相変わらず、俺の憂いなど気に留めることなど無く颯爽と夜空を舞ってゆく。本当に良い度胸をしているものだ。

「目的地に到着する。地表に降り立つゆえ、飛ばされぬ様に掴まっておれ」

「ああ、心得ている」

 クロもすっかり手慣れたものだ。どう、地上に降り立てば俺に負担が掛らないかを心得ながら振る舞ってくれる。荒っぽい一面もあるが、こういう細やかな気配りは俺も見習いたいところだ。

 ゆっくりと空気抵抗を感じながら俺達は地上に降り立った。当然のことながら夜半の鷹ヶ峰は静まり返っている。夜空には綺麗な月が浮かび、辺り一面を柔らかな月明かりが照らし出している。既に閉ざされた門を後に、俺達は建物へと続く静まり返った庭園を歩んでいた。力強く手を伸ばす松の木に、綺麗に形作られたツツジの木。夜空に浮かぶ月明かりに応えるかの様な穏やかな光を放つ灯篭を後目に、俺達は本堂へと足を運んだ。

「静かなものであるな。虫の声と風の音しか聞こえぬ」

「ああ。静かな夜には、やはり、静かな場所が好ましいな」

「では、参ろうぞ」

 さも、自分に家を案内するかの様に先導するクロの立ち振舞いに、段々と違和感を覚えなくなっているのもそれはそれで問題の様な気がする。余計な口出しをしてもクロはまるで意に介さない奴だ。その図太さはある意味尊敬に値する。

 靴を脱ぎ、微かに軋む廊下を歩みながら奥へと進む。丸い悟りの窓と、四角い迷いの窓。二つの窓からはやはり、柔らかな月明かりが差し込んでいた。幻想的な情景に俺は思わず息を呑んだ。窓の外には枯山水の庭園が広がる。静まり返った庭園は心を落ち着かすには良い場所に思えた。俺はそっと畳の上に腰を下ろした。すぐ隣にクロも腰を下ろす。

「人の煩悩とは、実に因果なものよの」

「今日は煩悩の話か?」

「うむ。快楽とは、抗い難い煩悩の一つよの」

「人の本能に直結する部分だ。抗うのは容易いことでは無いだろう」

 悟りの窓と迷いの窓。この寺を建てた人物は何を想い、この二つの窓を作ったのだろうか? 俺は窓から差し込み、畳に静かに語り掛ける月明かりにしばし見入っていた。人の生きる道には迷いは少なからず存在する。迷い続けた果てで人は悟りを得る。悟りを得るまで歩み続ける。それが人の一生……つまりは、業を打ち払うための修行の道ということに他ならない。

「あの情鬼は巧みに甘い快楽を与えては輝を惑わしておる」

 同じ月明かりを見つめたまま、クロが静かに呟いた。

「姑息な手だ。如何にも性悪女が好みそうな手口だな」

 吐き捨てる様な俺の言葉を受け、クロは可笑しそうに笑っていた。月明かりに照らし出されたクロの姿は幻想的に思えた。青白い月明かりに照らし出された黒光りするくちばしに、鍛え抜かれた太い腕。少々珍妙な性分ではあるが頼りになる友だ。こうして間近で見ると、改めて人との違いを実感させられる。俺の眼差しに気付いたのか、静かな笑みを称えたままクロが俺に目線を投げ掛ける。

「甘い快楽を前にした時、さて、人は何処まで抗うことが出来るであろう?」

 お前なら何処まで抗える? 挑戦的な笑みを浮かべたクロに、俺は小さな吐息混じりに返してみせた。

「難しい問い掛けだな。俺は抗える自信は無い」

 ついでに体ごとクロに向け、俺もクロの真似をして腕組みしてみせた。

「まぁ、今更お前の前で格好付ける必要も無いからな。先に打ち明けておくさ」

 俺の言葉が余程面白かったのか、クロは声を挙げて笑いながら俺の肩に腕を回して見せた。

「コタは気持ちが良い位に正直な男であるな」

「褒めているのか? それとも、貶しているのか?」

「ああ、否、済まぬ。やはり、コタも男であるのだなと改めて実感しただけよ」

「何が言いたい?」

「本能の叫びを抑えることなど不可能な話。男であるコタならば、共感も出来ようと思うてな」

 日の落ちた時間帯とは言え、随分と直球な話の振り方をしてくれる。今回の事件に纏わる話をしようと試みているのは判っているが、それにしても何と言う話題を持ってくるのか……。如何に親しき仲とは言え、どうにも、受け答えし辛い話題に俺は焦りを隠し切れなかった。

「初めて自慰行為を覚えた時、コタよ、お主はどうであった?」

「な、何の話だ!」

 意表を突いた一撃に、俺は多分耳まで真っ赤になっていたと思う。あまりに動揺し過ぎたせいで、一気に嫌な汗が噴き出した気がした。

 月明かりの綺麗な静まり返った晩に、静けさに包まれた風情ある寺で何と言う話題を振ってくるのか。迷いと悟り……もしかしたら、クロは一緒に「迷い」に立ち向かおうとしているのか? ううむ、それにしても……真面目に返答するのは、相当に憚られる内容。さて、どうしたものか?

「お、俺は……その晩から、狂った様に行為に耽ったな。色々と試行錯誤を重ね、さらに気持ち良くなる手段を求めたりしたな……」

 目一杯顔を赤くしながら応えたのが可笑しかったのか、クロは俺を見つめたまま笑っていた。

「我も、初めて自慰行為を覚えた晩、波の様に押し寄せる快楽に溺れそうになった。否、溺れてしまったと言った方が事実に即して居るかの?」

 クロの突拍子の無い返答に思わず、腰を抜かしそうになった。

(と、とんでも無い話を打ち明けられた気がするのだが……。そ、そもそも、カラス天狗も……そういう事をするものなのか?)

「ほう? 意外に思うておる様子であるな?」

「当たり前だ!」

「何ら不思議なことなど在るまい? 見ての通り、我らカラス天狗は、翼を背に持つことを覗けば人と大差は無い身よ」

 顔がカラスそのものなのと、肌の色が黒いのを覗けば外見的な差異は無い。手や足も人と変わら無い身なのを考えれば、クロの言う通りなのかも知れない。

「確かに、我らは人とは異なる能力を持って居るが、根源的な部分は人と大差は無い」

「そ、それは判ったが……」

「日々、自らを慰めておるのは我も同じよ」

「そ、そうなのか……」

 もはや平常心は完全に吹っ飛んでいた。何故、こんなにも静かな夜半の寺で、俺はクロと二人、こんな下世話な話題に花を咲かせているのだろうか……。何とも言えない脱力感に、体中の力が失われてゆく感覚を覚えていた。同時に、激しく脈打つ鼓動にも気付いた。

(ああ、否定はしないさ……。これが俺の偽らざる、本当の想いであり、本当の姿なのだから)

「ふふ。コタよ、お主とて日々、自らを慰めておるのでは無いのか?」

 俺の目をじっと見据えたまま、クロは含み笑いを浮かべて見せた。思わず、大きな溜め息がこぼれてしまう。だが、今更クロとの間に隠し事など必要無いだろう。無理に隠したところで、好奇心旺盛なクロのことだ。遅かれ、早かれ、自力で探り当ててしまうことだろう。それならば、無意味なことに労力を割く必要も無いのかも知れない。なるほど。これこそが、迷いが悟りに変わる瞬間か。ううむ、絶対に違う気がするが……。

「否定はしない……」

「のう、コタよ? 仮に、我がお主に……快楽の手解きを、と申したらどう振舞う?」

 クロは好奇に満ちた眼差しで、俺のことをジッと見据えている。気のせいか、肩に回された腕に次第に力が篭っている様に思えてならなかった。だが、否定するつもりも、拒絶するつもりも無かった。恐らく、クロは俺の心の内を全て理解した上で問い掛けているのだろう。まったく、相変わらず性根の悪い奴だ。

「さぁな? 先ずは抗ってみようと無駄な足掻きを見せるだろう」

「ほう? 抗うと申すか? フフ、それは興味深い返答よの」

「だが、お前が相手では抗い切れそうに無い。容易く、堕ちてしまうだろうな」

 俺の言葉を受けながら、クロは嬉しそうに微笑んでいた。最初から、俺がどう応えるかは判っていたのであろうが、俺自身の口から聞きたかったのだろう。まったく、今更、改めて問うまでも無いだろうに……。

「なぁ、クロ。お前……もしかして、俺が自慰行為をするのを、何処からか覗き見ているのか?」

 腕組みしたまま、コタは可笑しそうに微笑んで見せた。

「やれやれ……。悪趣味な奴だな」

「こういう時、姿を隠せる能力は便利であるな」

「立派な犯罪だ……」

「なに。お主の淫らな行為を眺めながら、我も共に果てておるでな」

 俺の言葉を受け、クロは再び可笑しそうに笑って見せた。

「まぁ、俺も男だからな……。抗うことも出来なくてな」

 恥ずかしさを必死で抑えながら返答すれば、何やら、クロも妙に落ち着きの無い素振りを見せていた。

「わ、我はコタに興味を抱いておる……。それは打ち明けよう。覗き見したことへの謝罪の意と取ってくれて構わぬ……」

 妙に真顔で受け答えするクロの立ち振舞いが可笑しくて、俺は思わず吹き出していた。

「可笑しな告白の仕方だ。もう少し、取り繕った振舞いもあっただろうに?」

「むう……。済まぬ。上手い言葉が見つからぬでな」

「謝ることは無い。それに――」

 今度は俺が仕掛ける番だ。クロの腕に、俺の腕を絡めて見せれば、一気にクロの鼻息が荒くなった。相変わらず面白い奴だ。自分から仕掛ける際には驚く程に強気なクセに、いざ、俺から仕掛けられると立場が一転する。クロのそういう一面、俺は嫌いでは無い。

「知っているのだろう? 俺がお前にどういう感情を抱いているか」

 返事は無かった。普段見せることの無い、少々動揺した様な素振りでクロは窓から覗く月に視線を投げ掛けて見せた。相変わらず、俺の肩に回された腕には力が篭る一方だった。これは面白いと、敢えて下から覗き込む様に振舞って見せれば、慌てて目線を逸らそうとしていた。微かに照れ臭そうに振舞っている辺りからも、クロの不器用ながらも、直情的な想いが伝わってくる気がした。

「こ、今度は……我の行為も……見せる故、それで許してはくれぬか?」

「お前は本当に野性的な男だな? 今の微妙過ぎる一言は、もしかして、俺に想いを打ち明けているつもりか?」

「む、むぅ……。そ、そういうことになる」

「そうか。光栄だな。俺もお前のことを想っている。友としてでは無く……一人の男としてだ」

 俺も目一杯、動揺しながら想いを打ち明けていたと思う。可笑しな気分だった。普段過ごしている時は、互いに、互いを想っていることは判ってはいるものの、それを敢えて明言する様なことは無かった。互いに不器用な身。気恥かしさも手伝い、上手く伝えることも出来ずに居る。

「コタには未だ話してなかったな。カラス天狗と天狗使いの関係というものを」

「何となく想像付くさ。言うなれば、夫婦の様な関係とでも言いたいのであろう?」

 俺の言葉に、クロが息を呑む音が聞こえた。

「そ、そう直球で返されると、我も言葉を失うというものよ……」

「何だ? 今更照れているのか? てっきり俺は、こういう場を設けたくてこの場所に俺を連れてきたとばかり思っていたのだがな? ふふ、クロは意外と可愛い一面もあるのだな」

「む、むう! そ、それ以上申すと、その口を力づくで塞ぐぞ!」

「ははは。本気で照れているのだな。面白い奴だ」

 クロは俺の肩から腕を離すと、何時もの様に腕組みしてみせた。余程、照れ臭いのか、そのまま何も言わなくなってしまった。まぁ、良いさ。言葉なんか必要無い。お前が何を想い、俺に何を願っているかは手に取る様に判る。だが、俺はお前の様に一途な生き方は出来ない身かも知れない。そのことも踏まえて、クロには俺の考えを伝えなければならない。それが真正面から向き合ってくれるクロに対する、俺なりの覚悟の表明となるのだから。

「……なぁ、クロ。可笑しなこと、聞いても良いか?」

「ふむ? 何なりと申してみよ」

「俺が、他の奴と……一夜を共にしたら、お前は怒るか? 哀しむか? それとも、俺を軽蔑するか?」

 俺の言葉にクロは戸惑った様な表情を見せていた。無理も無いだろう。俺の様な不謹慎な価値観を持つ奴の言葉は、クロの様に一途な生き方をしている奴には理解出来ないだろうから。

「お前のことを想っているのは事実だ。だが、俺は同時に仲間達にも興味を抱いていてな……」

「輝のことを申して居るのか?」

「ああ。輝も……その中の一人だ」

 俺は最低な奴だ。クロに想いを告白しておきながら、こんな最低な告白まで打ち明けている。でも、俺は、俺の中に眠る抑え切れない本能を否定することが出来なかった。だから、それも含めてクロには伝えなければならないと考えていた。他の奴らなら欺くことも出来ただろうが、クロを欺くことは不可能だ。だからと言ってコソコソ隠れながらというのも、それはそれで可笑しな話に思えた。早い話、俺は自らの浮気性な一面を否定もせず、肯定もせず、ただ、あるがままに、本能の赴くままに生きたいだけなのかも知れない。最低最悪の淫乱野郎だ。

「ふふ。コタは恋多き男であるな。力丸にも同様の想いを抱いておる。違うか?」

「流石だな。やはり、お前には隠し事が出来そうにない」

 当然、こんなことを他の連中に言える訳が無かった。正直な所、仲間達には大なり小なり興味を抱いているのは事実だ。力丸とは特に仲が良いということもあり、多大なる興味を抱いているのは事実だ。

「ああ、俺は男にも、女にも興味を示す性分だ。輝には幼いころから想いを寄せていたが、多分、それは恋愛感情とは違う様に思えてならなかった。俺が輝に抱いている感情は、もっと歪んだ感情だ。兄弟の様な輝に抱く……近親相姦の様な情念。砕いた言い方をすれば、俺は輝の体に興味を示しているとでも言うべきなのだろう」

「ふむ……」

「力丸とは付き合いも長いからな。あいつに最初に声を掛けたのは、単純に、友達になれそうだからというだけの理由では無かった。一途に結花に想いを寄せていた力丸の、飾ることの無い純真さに興味を惹かれてな。それに……あいつの肉感的な体付きには、多大なる興味を抱いているのも事実だ。もっとも、力丸にそんな気があるとは思えないがな」

 俺は一体何を口走っているのだろうか? 俺自身の最低過ぎる下半身事情をクロに打ち明けているだけだ。何て間抜けな告白なのだろう。所詮、俺は性欲だけに突き動かされる身だ。確かに、仲間達と共に過ごす時間を大切に思っているのは事実だが、水面下では、こんな醜悪な情念を抱いているのも事実だ。

 それに……あの日、あの時、俺は輝と既に関係を持ってしまった。荒れ狂う輝の心を鎮めるための苦肉の策だったと言えば聞こえは良いが、多分、事実は違うのだろう。都合良く輝を言い包めて、俺は自分の為し遂げたかったことを為しただけだ。事情はどうあれ、鴨川卓との間に、そういう関係が生まれてしまった。その事実に俺は激しい憎悪と共に、嫉妬を抱いただけに過ぎないのかも知れない。

「もしかしたら、俺がクロに抱いている感情も、恋愛感情では無いのかも知れない。お前の見事な体付きに、性欲を掻き立てられるのは事実だからな」

 俺は何を口走っているのだろう? 自分でも自分が憐れに思える。

「クロ、俺はこういう男だ。自分で言うのも可笑しな話だが、性欲に忠実に生きるケダモノの様な男だ」

 クロは腕組みしたまま静かに俺の話に耳を傾けていた。だが、不機嫌そうな表情は微塵も見せることは無かった。むしろ、興味深そうに俺の話に耳を傾けていた。人の文化に、人の社会に、多大なる興味を抱くクロに取っては、人という生き物の醜悪さを目の当たりにして、また違った興味を抱くに至ったのでは無かろうか?

「ふふ、コタは実に面白い男であるな。ますます、我のコタに対する想いが深まった様に思えた」

「ほう? お前も中々に可笑しな趣味の持ち主だな。クロはゲテモノ好きなのか?」

「無礼なことを申してくれる。だが、コタが誰と何をしようと、我の想いは変わらぬ。無理にお主を阻止するつもりも無ければ、咎めるつもりも無い」

 言い終えてから少々思案しながら、良い言葉を思い付いたのだろうか? 笑みを浮かべながら、クロが俺に向き直って見せた。

「そうだな……。我は大海原に佇む漁港になろう」

「漁港になる? 中々に意味深な表現だな」

「我らカラス天狗に取って、肉体的な繋がりは殆ど意味を為さぬ。故に、コタが誰と一夜を共にしようと、我は別段気にも留めぬ。だからと言って、コタの想いを無理に縛り付けるのも我の望む道には在らず。さればこそ、我は待ち侘びる身となろう。コタが我の下に戻ってくる。それを待ち侘びるのも、中々に楽しいものよ」

 なるほどな。漁港か……。大海原に旅路に出た船が帰ってくる場所でありたい。それがお前の想いということか。考えようによっては、中々に恐ろしい考えだ。それほどまでに、俺のことを深く想っているということになる。ただ、一途に待ち侘びる。俺が何処で何をしようと、それを咎めることも無く待ち侘びる、か。

「やはり、お前は大きな男だな。お前になら……全てを任せても良いと思えた」

「ふふ。我はコタと共に歩める。それだけでも、これ以上無い程に満ち足りておる」

「良く言う。俺の自慰行為を眺めながら、お前も楽しんでいるのだろう? 俺の体に興味があるのは事実だろ?」

「否定はせぬ。だが、我は他の者達には興味は無い。カラス天狗は天狗使いにだけ想いを抱く。それが、カラス天狗の在り方であり、至上の幸福であるでな」

「お前は一途な男だ。それに……互いに、互いを想っている。それが判った以上、もはや、格好付ける必要も無くなったな」

 俺の言葉を受けたクロは嬉しそうに微笑みながら、俺を静かに押し倒して見せた。そのまま畳の間の上で、俺を優しく抱き締めてくれた。肉感的なクロの体と、俺の体が重なり合い、密着する。微かにクロの鼻息が荒くなった様な気がする。それにしても……クロは良い香りがする。使っている道具の匂いなのか、はたまた、カラス天狗特有の物なのか、俺は木々に抱かれている様な感覚を覚えていた。

「なぁ、クロ。また、大原に行きたいな。あの展望台……お前と一緒に、大原の大自然に触れた場所で、再び風に吹かれ、緑の香りを感じたい」

「ふふ、同じことを考えておるとは、意外であるな」

「それだけ、俺達の関係が深いということだ」

 俺の言葉にクロは応えなかった。変わりに、俺を抱き締める腕に強く力が篭められた。だから、俺はクロの腕の中に崩れ落ちてみせた。

「なぁ、クロ。輝は長らく虐待に遭っていた身だ。誰かの愛情や、優しさに枯渇している。俺があいつの心を満たしてやれれば良かったのだが、長らく共に歩み過ぎたせいか、どうしても、俺は輝を弟としてしかみることが出来なくなっている。少なくても、俺は不適合者だ」

 全てを見通しているのか、クロは力強く微笑み返してみせた。

「嵐山の地……コタも良く知る地であると思うが、かの地にもまた、カラス天狗一族が暮らして居る。愛宕山を守護する、太郎坊と称される一族である。我ら、鞍馬山の僧正坊と同族の身。彼らに援護を頼もうと考えておる」

「嵐山のカラス天狗達の力を借りるのか?」

「うむ。厳密には、輝を匿って貰うと説明した方が適切であろう。泣き女郎と輝との間の接点を消す。その上で、泣き女郎を討ち取る」

 言うなれば、今の状況では輝を人質に取られているに近い状況と言える。その様な状況では、輝の身に危険が及ぶことを考えれば、派手な戦術を取ることは難しい。先ずは、泣き女郎からの干渉を断ち切る。確かに、有効な戦術なのかも知れない。

「当初はそうした策を講じておった。だが、より有効な戦術を見出しての」

「ほう? それは一体、どういった策だ?」

「嵐山の地には太郎坊よりも、さらに輝の力となれる存在がおる」

「カラス天狗以上の能力を持つ者か? 一体、何者だ?」

 俺の問い掛けに、クロは何やら意味深な笑みを浮かべるばかりであった。

「意外にも身近な所に居る者よ。輝の歩む道に大きな支えとなる存在……コタよ、お主も良く知っておる者なのだが?」

 嵐山に縁があり、俺が良く知る存在……まさか、大地が? 否、有り得ない話では無い。大地と輝とは仲も良い。二人で出掛けることも少なく無いことを考えると、俺よりも大地の方が輝を支える上で優位に立てるのも頷ける。それに、俺の様に不埒な生き方をしている男よりも、馬鹿が付く程に一途で、まっすぐな生き方をしている大地の方が輝には合うのかも知れない。

「コタよ、念のために問うて置く」

「何だ?」

「輝と大地、二人が契り合うこととなっても……コタよ、お主に依存はあるまいな?」

 クロが一体何を言わんとしているのか、俺には今一つ理解が出来なかった。輝と仲の良い大地だからこそ、輝の心を支えられるとは考えていたが、一体何を意味しているのだろうか? 解せない表情をしている俺に気付いたのか、クロは静かに微笑みながら続けて見せた。

「愛情や優しさと……快楽は、相応に結び付くもの。否、今回の事案を考えるならば、むしろ、その方が好都合よ。目に見えぬ存在から与えられる快楽よりも、身近な存在から与えられる快楽の方が、より強い力となる。必ずや、輝の心を繋ぎ止めるであろう」

 何となく理解出来た気がする。敢えて抽象的な表現を選んだのは、俺に対する気遣いなのだろう。だが、俺には輝を止める権利など無い。本当の意味で力になることは出来なかったのだから。それに、俺が本当に想いを寄せているのは輝では無い。かつては、そうだったのかも知れないが、今の俺は悪く言えば心変わりした身だ。止める権利も、咎める権利も無い。

「それは、俺が決めることでは無い。ただ、俺は兄として、弟を最後まで守り抜くだけだ」

「ふむ。お主の想い、しかと見届けた」

「ああ。明日にでも大地に、それとなく頼み込んでおくとしよう」

 皆、俺に取っては掛け替えの無い仲間達だ。だからこそ、皆と共に歩むために、俺は、俺に出来ることを為し遂げたいと願う。同時に、皆の進む道が明るく開かれた道になってくれることを切に願うばかりであった。俺も、俺の歩むべき道を歩みたいと、切に願うから。

「なぁ、クロ。今夜はもう少し、旅を続けないか?」

「ほう? それでは、大原の地に向かうか?」

「ああ、そうだな。そうしてくれ。また、一緒に風に吹かれよう」

「風に吹かれるだけであるか?」

「……最後まで言わせたいのか?」

「ふふ、これは失礼した。無粋な問い掛けであったな。では、参ろうぞ」

 後ろは振り返らないさ。振り返っては駄目だと判っていたし、何よりも、前を見て歩み続けたかった。クロと共に何処までも歩む。それが俺の歩む道だと信じて疑わなかったから。迷いの窓と悟りの窓。どちらの窓からも、淡く、儚い月明かりが覗いていた。何処までも続いている、そんな気持ちになる夜だった……。

 大原の地、あの展望台で俺はクロと初めての体験を為した。とは言え、肌を重ね合わせる様なことはしなかった。共に獣の姿になり、互いの行為を見せ合い、挑発し合い、そして、共に果てた……。だが、それだけだったが俺の中では魂が震えた。

 クロと本気でそういうことをするのは、もっと時を経てからにしたかった。俺に取って、クロの存在は本当に特別な存在だ。浮気性の分際で、こんなことを口にするのもおこがましいが……本当の意味で、誰かを愛する意味を理解してから、クロとは一つに成りたかった。多分、クロも同じ気持ちを抱いていてくれるのだろう。そう信じている。

 大原から戻った後、夜遅くに大地から電話が入った。丁度、俺も話したいことがあったから好都合であった。それにしても、大地から打ち明けられた話は衝撃的な内容だった。偶然の一致とは実に恐ろしいものだ。だが、俺からしてみれば好都合な内容だった。むしろ願っても無い内容だった。だから、俺は全てを託し、大地に賭けてみることにした。この事件を解決する最大級の解決の糸口となることは間違いない。そう、俺は判断した。

◆◆◆51◆◆◆

 不安な気持ちは拭い切れなかった。あの情鬼が本気で挑んできたら、ぼくは太刀打ちする術を持たない。一人でいると不安と恐怖に押し潰されそうになる。だからなのだろうか? だから、どうにも落ち着かなくて、ぼくは早々に家を飛び出した。

 朝から曇り空。厚い雲に覆われた空は、ぼくの憂いを嘲笑っているかの様に思えた。今にも雨が降り出しそうな、黒く、厚い雲は、それだけでも不安な気持ちにさせられた。急いで駆け抜け様としているにも関わらず、信号が容赦無く赤に変わる。まるで、ぼくの往く手を遮るかの様に思えて落ち着かなかった。焦り? 不安? 動揺のあまり息が上がってしまう。何時もと変わらぬ東大路通も、どこかに情鬼が潜んでいるのでは無いかと疑心暗鬼にならずには居られなかった。引っ切り無しに往来する車の流れ。排気ガスの匂い。ジットリと汗ばむ様な湿った暑さ。でも、何時も以上に嫌な汗が噴き出していた。その度に、首を、顔を擦る様に乱暴に拭っていた。

 東大路通りをひたすら走り続け、何時もの交差点が見えて来る。すっかり息が上がってしまい、胸が、足が酷く痛んだ。多分、足は既にパンパンに膨れ上がっていることだと思う。それでも、ぼくはひたすら走った。走り抜けるぼくの背に蝉達の威勢の良い鳴き声だけが残されてゆく。緩やかな坂道は、まだ人通りも少なく、朝連に励む子達の姿しか見られなかった。

 やがて視界に飛び込んでくる校門には未だ亀岡先生の姿は無かった。逆に考えると、それだけ早い時間に学校に到着したことになる。怖くて仕方が無かった。あの家にはぼくを守ってくれる様な奴は誰もいない。むしろ、閉鎖された空間だけに、余計に危機的状況に陥る危険性さえ感じられた。皮肉な話だと思う。本来であれば最も心安らぐべき安住の地が、ぼくに取っては主戦場と化しているのだから。全部、全て、あの人のせいだ。そうさ……あんな恐ろしい情鬼に見初められたのも、きっと、あの人の責任なんだ。どこまでぼくを苦しめれば気が済むのだろう。許し難い話だ。

 学校に来るというだけで妙に体力を使ってしまった様な気がした。朝連に励む子達を後目に、ぼくは校庭の脇を駆け抜けた。下駄箱で急ぎ靴を履き替え、教室へと至る階段を駆け上がっていた。朝早いこともあり、人の気配の感じられない校舎は静まり返っていて不気味に思えた。ぼくの荒い息と駆け抜ける足音だけが哀しく響き渡る。階段を駆け上がり、廊下を走り抜けた。勢い良く教室の扉を開き、自分の椅子に腰掛けた所で、思わず大きな溜め息が出た。焦りと不安、そういった感情は何も生み出さないことは重々承知している。それに、取り乱せば取り乱す程に付け入る隙を作り出すことになる。

 学校も安全とは言い難い。桃山先生が居る場所でもあるのだから。だから、油断することは出来ない。

「はぁ……。何処に行っても、ぼくの安全は確保されないのか。本当に落ち着かない……」

 頭を抱えずには居られなかった。昨日の晩も本当に不安で仕方が無かった。いっそ、このまま呑まれてしまった方が楽になれるのだろうか? そんなことを考えずに居られなかった。弱気になる自分も嫌だったし、だからと言って、立ち向かう術を持っている訳でも無い。

「一体、ぼくはどうすれば良いのかな……」

 気が付くとぼくは小さく震えていた。寒くも無いのに震えが止まらなかった。迫り来る死の恐怖を感じるからこそ落ち着かなかった。もしかしたら、ぼく自身の死を予見してしまいそうな気がして、迂闊に意識を集中することも出来なかった。うっかり意識を集中した際に自分自身の死を予見してしまったとしたら、ぼくは正気を保つことは不可能になるだろう。不安と恐怖、絶望に満ちた時間だけが過ぎ去ってゆく。

 不意に、誰かが教室に向かって歩いて来る足音が聞こえ、ぼくは思わず身構えていた。

(誰だろう? こんな早い時間に? 止めてよ……ぼくはもう、自分を制御できなくなっているのだから……)

 段々と足音が迫ってくる。やがて、誰かが勢い良く教室の扉を開き、教室へと駆け込んできた。ぼくは思わず目を閉じた。

「おりょ? テルテルは早起きさんなのじゃ」

「ろ、ロック!? もう、驚かさないでよ……」

 ただただ、動揺するぼくを見つめながら、ロックは困った様な表情を浮かべていた。

「お、驚かす? 何の話なのじゃ? ワシはそんな、しょーもない悪戯をしたりしないのじゃ」

 ちょっと待って。どうしてロックはこんな早い時間に学校に来ているのだろう? もしかして、今度はロックの姿でぼくを油断させようとしているのだろうか? ああ、もう、誰が本物なのか、偽物なのか、サッパリ判らなくなっちゃったよ。今、ぼくの目の前にいるロックは本物なんだよね? 偽物じゃ無いよね? 疑いの目でロックを見定めていると、不意に、太助が教室に入ってくるのが見えた。

「安心しろ。輝の目に映る大地は偽物では無い」

「そうなのじゃ。産地偽装表示の無い、嵐山産の本物なのじゃ」

 どうして太助まで、こんな早くに学校に来ているのだろう? そこまで考えて、ようやくぼくは理解出来た気がした。ようやく理解できた所でコタとリキが教室に入ってくるのが見えた。

「正義のヒーロー、華麗に参上っ!」

「朝から暑苦しい奴だ……」

「わはは! そう、邪険に扱うなって。コタがオレのこと好きなの、判っているからよ」

「……本気で締め落とされたいみたいだな」

「皆、もしかして……?」

「ああ。俺が皆を呼び集めた。余計な御世話だったか?」

 何時もと変わらぬ不機嫌そうなコタの笑顔に、深い安堵感を覚えることが出来た。コタがぼくを守るために皆を呼び集めてくれた。その事実をようやく理解することが出来たのだから。

「余計な御世話じゃないよ……不安で、不安で仕方が無かったから、救われたよ」

「まぁ、細けぇことは気にすんな。オレ達でしっかり、周囲は固めるからさ」

「何故、お前が率先して仕切っている……」

 そこには確かな笑いがあった。何時もと変わらぬ安心感があった。皆一緒。それは、今のぼくに取って本当に心強いことだった。

「さて、皆に朝早くから集まって貰ったのは理由があってのことだ」

 コタが皆の表情を見渡す。もう、皆、起こっている事態のことは知っているハズだった。だからこそ、こうして集まってくれたことも判る。事態は切迫している。あの情鬼は明らかにぼく達に宣戦布告を叩き付けた。ううん、厳密には、狙っているのはぼく自身だ。ぼくに向けて宣戦布告を叩き付けたと言った方が正しいのかも知れない。

「ああ、昨日ニュースでやっていた話だろ? まったく、ヒデェことしやがるよな」

「輝を手にするためだったら如何なる手段をも講じる。そのデモンストレーションを見せ付けてくれた訳だ。売られた喧嘩は買わないとな。そうだろう、小太郎?」

 不意に、ロックがぼくの前に歩み寄ると、満面の笑みを浮かべて見せた。

「テルテル、今夜はワシの所に泊まりに来るのじゃ」

「え? ロックの家に?」

「そうなのじゃ。コタから聞いたのじゃ。テルテルは自然の豊かな場所と相性が良いのじゃろう? 嵐山ならば、竹林もあれば、大きな川もあるのじゃ」

 不思議とあまり違和感を覚えることも、驚きを感じることも無かった。ただ無邪気に、嬉しそうに笑うロックの笑顔を見ていると、ささくれ立った心が鎮まってゆく感覚を覚えていた。

 普段から一緒に食べ歩きをしていることもあり、ロックと共に過ごす時間は決して短くは無かった。むしろ、他の仲間達と過ごす時間よりも遥かに長いと言える。他愛も無いお喋りから、時に互いの悩みを相談し合うことも少なく無かった。もしかすると、コタよりも近しい関係なのかも知れない。

 太助にぼく自身の本当の姿を見せてから、ぼくはずっと考えていた。図々しい考え方なのかも知れないけれど、ぼくと一緒に歩んでくれる相手って誰なのだろう? そんなことばかり考えていた。でも、死の恐怖と背中合わせだからこそ、余計に意識せずには居られなかった。それに、太助と共に過ごした一夜は、ぼくに取って大きな転機となるには十分過ぎる程のインパクトがあったから。ぼくが本当に想いを寄せている相手……。自分では余り意識したことも無かったけれど、もしかすると? ううん、自分の想いを確かめる絶好のチャンスでもありそうだ。これは何が何でも嵐山に行くべきだね。

「一緒に、甘いお菓子、食べ歩きの旅に出るのじゃ」

「もう、ロックってば、強引だなぁ」

 敢えて困った顔で笑い返して見せる。

「む? 迷惑じゃったかのう?」

 本当に残念そうに顔を俯かせるロックの素振りが、ぼくの心を強く牽引してくれた。やっぱり、ぼくはロックに特別な感情を抱いているのかも知れない。こんなこと考えているなんてロックには知られたくないけれど……ロックの体付き、ぼくの中では一番、興味をそそられるのも事実だったりする。昨日の一件で、何だか歯止めが利かなくなったぼくは、欲望の赴くままにロックにもエッチなことをしてみたくなった。多分、ロックのことだから、何時もの遊びの延長線上程度に捉えてくれるだろう。時々ロックの家に遊びに行っては、良く二人でじゃれ合っていたりするから、それ程敷居も高く無いだろう。あーあ、身の危険が迫っているのに、ぼくは本当に本能に忠実な奴だ。つい数分前まで死の恐怖に怯えていたぼくは、一体何処に消え去ってしまったのだろうか?

「ううん。迷惑な訳ないじゃない?」

 だって、ぼく、ロックとエッチなことしたいから。危なく、勢いに任せて恐ろしいことまで口走りそうになってしまった。だから、ぼくは慌てて出掛かった言葉を飲み込んだ。こんな想い、他の誰かに知られたら大変なことだ。それに、ぼくが男好きだってことは、未だ太助とコタ以外は知らないハズだ。自ら墓穴を掘る様な真似は避けなくては……。

 相変わらずロックは上機嫌に目を細めていた。何だか本当に嬉しそうにしている姿を見ると、ヨコシマな考えを抱いている自分が憐れに思えてきた。ロックは本当に無邪気な子だ。良く、弟の大樹君にもからかわれているけれど、見た目も、性格も、本当に子供だったりする。でも、だからこそ、ぼくとも判り合える部分も多いのだろうと感じていた。

「大地、無理を言って済まないな。だが、これはお前で無ければ頼めない話でな」

「うむ。任せておくのじゃ。事情は学校に至るまでの道中に聞かせて貰っておるでの。安心するのじゃ」

「え? 何の話?」

「まぁ、細かい話は嵐山への道すがら、ゆっくりするのじゃ」

「う、うん……」

 何だか、ぼくの窺い知らない所で話が出来あがっていて、後は、そのシナリオ通りに動いてくれ。そう言われている様な気がして、あまり、良い気分では無かった。だけど、知らない方が良いこともあるというのは、ここ数日で確かに学んだことだった。必要以上に知り過ぎてしまうと、余計な情報が足枷になってしまうこともある。コタのことだから、ぼくの性格を理解した上で適切な戦略を練ってくれたのだろう。ならば、ぼくに出来ること。それは、皆を信じることだけだ。

「ぼくは皆を信じて行動するよ」

「ああ。済まないが、そうしてくれ」

 そう告げた後で、急にコタは真顔になって、ぼくの目をじっと見据えてみせた。ゾっとする程に鋭い眼光に、ぼくは思わず怯みそうになってしまった。だが、コタは臆することなく続けた。

「真実は、誰かから聞かされるものでは無く、自分の目で確かめるものだと思うからな。悪く思わないでくれ」

「大丈夫だよ。きっと、頼りになるロックが、ぼくのことを守ってくれるだろうからね」

 ぼくの言葉が何かに響いたのか、ロックは鼻息荒く胸を張って見せた。ちょっとお腹の辺りのボタンが吹っ飛びそうになっていて、思わず吹き出しそうになってしまった。

「うむ。大船に乗った気分で、嵐山に来るのじゃ」

「へへっ、ロックの場合、ドロ船に乗った気分になっちまいそうだけどな」

「大丈夫なのじゃ。沈む時は一緒じゃからの」

「えー。沈みそうになったら、ぼくは一人でも逃げるから」

「むう。テルテルは連れない奴なのじゃ。沈む時は一緒なのじゃ」

 何時もと変わらない空気がそこにあった。情鬼の脅威が無ければ、本当に何時もと変わらない楽しい空気だった。皆とこうして、馬鹿みたいに笑い合って、お昼は皆で一緒に食事。放課後になれば宛ても無くブラブラと街を歩き回りながら、くだらないトークに花を咲かせる。邪魔して欲しく無かった……。ぼくの安住の地を奪わないで欲しかった。でも、太助と語らって理解したこともある。自由を選ぶということは簡単なことでは無いということも。そこには、確かな責任が伴う。同時に、誰かの自由を阻む権利は誰にもなく、自由を阻む存在であれば、如何なる手段を講じてでも叩き潰せば良いということも。ぼくは非力な存在だ。真正面から正々堂々と、なんて戦い方は出来ない。姑息だと罵られようが、卑怯だと揶揄されようが、そんなことはどうでも良かった。討ち取るさ。ぼくの歩むべき道に立ち塞がるというのであれば、どんな手を使ってでも。

◆◆◆52◆◆◆

 無事に迎えた放課後。大地に輝を任せ、先ずは一安心と言った所であった。だからと言って俺達がやれることが無いかと言えばそうでも無い。一連の出来事には深い闇が潜んでいる。あまり深く関わっていない力丸にも事情を知って貰う必要がある。俺達が立ち向かうべき相手は生易しい相手では無い。一枚岩となって挑まねば到底勝ち目が無い相手と言える。だからこそ、力丸にも話を聞いて貰いたいと考えていた。

 敢えて先斗町通りを選んだ。この界隈は日が出ている内は殆ど人通りも無い。通りの両脇には飲み屋が広がる夜の歓楽街。俺達の様なガキには無縁の場所だ。四条通の様に人通りが多い場所では関係無い通行人にも話を聞かれるかも知れない。かと言って開けた寺社仏閣で腰を据えて話すのも妙に気が退けた。だから、こういった人気の少ない、少々怪しげな香りのする場所で語らいたかった。否、どちらかと言うと聞き流す位に留めておいて欲しかった。矛盾しているが、話題が話題だけに、あまり鮮明に記憶に残したくは無かった。

「それにしても、わざわざ怪しい場所を選ぶよな。なぁ、コタ。何だってこんな場所にオレを連れて来たんだ? まさか、景気付けに一杯! とかじゃねぇよなー?」

「まぁ、そう文句を言ってくれるな。俺なりに無い知恵を必死で絞った末の考えだ」

「……空模様が怪しい。手短に済ませた方が良さそうだな」

 相変わらず、太助は涼やかな態度を崩さない。その冷静さには何時もながら敬意さえ覚える。

「今回の事件に関わる情鬼について知って貰おうと思ってな」

「確かに、オレは殆ど今回の話に関わっていねぇからな。知りてぇと思っていたから、助かるわ」

 恐らく、太助は色々な話を輝経由で聞いている筈だ。俺の知らない話すら語って聞かせてくれた辺りからして、相応に詳しく知っていることだろう。大地には既に概要は伝えてある。詳細な話は輝本人から聞くことになるだろうから、こちらも問題は無い。だからこそ、力丸には説明しなければならなかった。それにしても、深刻な事態に陥っているにも関わらず、好奇心旺盛に振舞える力丸の度胸は、ある意味見習うべき所なのだろうか。

「子を求める母親……そこまでは以前、賢一さんと話をした通りだった。もう少し判ったことがある。今から、それをお前にも伝える。心して聞いてくれ。太助、お前の知らない情報も含まれている。共に耳を傾けてくれ」

「おう。ガッテン承知だぜ」

 どうにも、調子の狂うテンションの高さではあったが、沈んだ想いなど一撃でふっ飛ばしそうな力丸の豪快さは良き突破口になるかも知れない。

「何故、桃山を媒介にしているのか? その部分に俺は疑問を抱いていた。情鬼に幾つかの情景を見せられた輝の話からの推測になるが、先ず、あの情鬼の正体は前世の輝の母親の情念そのものとなる」

 子を探し求める母親の執念。その執念が情鬼になったという部分に関しては、それほどの違和感も無く受け入れて貰えた様子だった。だが、これから聞かせる内容は、そうそう容易く想像の及ぶ範疇の話では無い。動揺することは間違いないだろう。

「此処で一つの疑問が浮かんだ。輝と桃山、輝と情鬼、これの関係に繋がりがあるのは容易に想像が出来る。では、桃山と情鬼との間には一体どんな繋がりがあるのか? 何らかの共通点があるからこそ、情鬼は桃山を選んだ」

 予想通り、俺の説明に力丸は腕組みしたまま考え込んでしまった。太助もまた、驚いた表情で俺に振り返った。動揺しない訳が無かった。あまりにも突飛な話なのだから。

「な、何だか、こんがらがってきた気がするぞ? えっと……つまり、どういうことなんだ?」

「ああ、俺も良く判らなくなった。桃山が何故、執拗に輝を色仕掛けで陥落させようとする? 桃山はそういった趣味嗜好の持ち主なのか?」

 太助が疑問を抱く部分……それこそが、今回の事件を複雑にしている部分なのだ。だからこそ、この部分を丁寧に紐解き、理解して貰う必要があると考える。

「情鬼は永きに渡り輝を探し求めていた。そして、ようやく、探し求めていた『本物の輝』に出会えた。ようやく出会えたのだ。絶対に逃がしたくない。そう考えるのは人の常だろう? では、絶対に逃がさないためには、どうやって繋ぎ止めるのが最も効果的か? そう考えた時に、一つの答に行きついた」

 先斗町の細い路地を、ただ静かに歩むだけの俺達。時折、店の準備に勤しむ人々の姿も目に留まった。逆に、彼らの目に留まったであろう俺達を、さも怪訝そうな表情で見つめていた。無理も無い。ここは高校生達の溜まり場などでは無い。少なくても、俺達の様なガキの来る場所では無い。そんなことは判り切っている。だが、この場所を歩みたかった。ただ、それだけのことだ。そう邪険に扱ってくれるな。数年後には俺達は立派な上客と化しているかも知れないからな。

「輝は母親の愛情を欲している。だが、同時に輝は女に多大なる恐怖心を抱いているのも事実だ」

「母親の愛情を欲している? 何だ、そりゃ? テルテルはマザコン趣味でもあったりするのか?」

 苦笑いを浮かべながら可笑しなツッコミを入れる力丸を、俺は思わず睨み付けていた。

「わ、悪りぃ。話、続けてくれよ」

「ああ。訳あってな。輝の家庭環境は酷く荒廃し切っている。だからこそ、輝は母親の愛情を求めている」

「ほう? 母親の愛情とは限らないのではないか? 単純に誰かに愛されたい。そうした願いを抱いている。少なくても、俺はそう聞かされたけどな……本人からな?」

 輝が泊まりに行った晩から、妙に太助が挑戦的な態度を見せる様になった。ううむ、俺は何か太助の気分を害する様な振舞いを取ってしまったのだろうか? 気付かないうちに他人を不快にさせているとしたら、気を付けなければならないな。

「まぁ、判る気するよな。テルテルって妙に可愛らしい所あるからな。えへへ。あの振舞いで桃山の興味を惹いているってぇ訳か。大人しい顔して、テルテルって意外とおっかねぇ奴だな」

 相変わらずの力丸の軽はずみな言動に少々苛立ちを覚えたが、俺の眉間に刻まれたシワに気付いたのだろう。力丸は慌てて咳払いしてみせた。まったく、どいつもこいつも……。

「力丸、中々良い所を突いてきたな。ああ、その通りだ。輝は桃山のことを、実の姉の様に慕っている部分がある。輝には兄弟が居ないからな。兄弟の居ない俺にも、姉を欲する輝の気持ちは十分に理解出来る」

 段々と核心に迫って来たということは二人にも判っていたのだろう。何時の間にか二人は食い入る様な眼差しで俺を凝視していた。

「姉が弟を慈しむ感情、母が子を慈しむ感情、どちらの感情にも共通点はある」

「なるほどな……それで、色仕掛けという訳か」

「まぁ、本来であれば兄弟間に色情など芽生えないだろうが、実際の兄弟では無いからな。そうした感情も成立する訳だ」

 何やら納得した様な面持ちで太助は腕組みしたまま頷いて見せた。

「んん? あー、ちょっと待て待て。お前ら、オレを置き去りにするなっつーの。全然、意味が判んねぇんだけどさ?」

 怪訝そうに眉をひそめる力丸に向き合いながら、太助が可笑しそうに笑う。

「ほう? 恋愛経験のある力丸の方が、むしろ、俺達よりもこの手の話には理解を示すと思ったのだがな」

「へ? オレが? ううーん、ますます訳判んねぇぞ?」

「力丸、露姫のことは覚えているか?」

 ここは判りやすい例を出して説明した方が良さそうだ。俺は力丸に露姫の話を引き合いに出して説明してみることにした。

「情鬼は人の心の隙間を狙ってくる。力丸、つい最近体験したお前ならば、判るだろう?」

「ああー。露姫にも痛い所を上手く突かれたからな。可笑しい、可笑しいとは思っていたが、悲哀に満ちた眼差しで懇願されちまったら、男としちゃあ、邪険に扱うことも出来なくなっちまうからな」

「輝も同じ境遇に置かれている」

 俺の言葉に一瞬太助が反応した様に見えた。射抜く様な鋭い眼光で俺を見ていた様な気がした。だが、俺は天狗使いだ。友としての情を優先するよりも、事態を解決するために、如何に大局的に物事を見据えるかが問われる身。時に憎まれ役を買うことも必要となる。

「輝は不遇な家庭環境で育った身だ。だから、本来満たされるべき物が全く満たされていない」

「不遇な家庭環境? へ? テルテルの生い立ちに、何か不幸な出来事でもあったのか?」

 力丸の問い掛けに太助が目線を逸らす。此処は俺の出番だな。俺は力丸に輝の生い立ちを語って聞かせた。生まれて来る筈だった弟が死んだ状態で生まれたこと。そこから始まった、母親からの理不尽な虐待の数々。母親に殺意を抱いているという事実。崩壊している家庭環境のこと。その全てを語って聞かせた。本来、こういう繊細な話は他人の口から語られる様な内容では無い。だが、今回の事件を語る上では避けては通れない。

「……マジかよ? 重てぇ話だな。確かに、露姫と似ているな」

 やはり、普段の輝の姿しか知らない力丸には衝撃的な内容だったのだろう。先刻までの、どこか浮いた様な振る舞いは消え失せ、代わりに悲痛な表情で肩を落としていた。

「愛に飢えている身、か……。はぁ、オレ、テルテルのこと何にも知らなかったんだな。何時もさ、明るく振舞っているから、全然気付かなかったぜ」

「無理も無い。輝は、そうした弱い自分を人に知られることを、極端に畏れていたからな」

 さらりと太助が語って見せた輝の一面に、今度は俺が驚かされた。やはり、太助は随分と輝のことに詳しくなった気がする。皮肉な物だな。一番傍にいる筈の俺が、だからこそ、逆に一番遠い存在にも成ってしまっているとは。だが、余計な私情は持ち込むべきでは無い。あくまでも、最善の策を考えよう。

「そっかー。コタの話を聞いてようやく理解出来た気がするぜ」

「む? 何の話だ?」

「ずっと昔のことなんだけどさ、ほら、コタは知ってるだろ? オレが為し遂げた壮大なる変貌までのサクセスストーリーをさ?」

「ああ。確かに、昔の力丸の面影を完全に消し去る程に、大きな変貌を遂げたからな」

 窺い知らない話に興味を示したのか、太助が一歩前に出る。

「ほう? 俺の知らない話だ。興味深いな」

「えへへ。太助にも聞かせてやるな」

 力丸の言葉に興味を示したのか、ポケットに手を突っこんだまま、太助が静かに微笑んで見せる。

「コタ達と知り合う前のオレはさ、体型こそ今と変わらねぇけど、外見は全然別物でな。なんつーのかな? 図体はでかいけど、とにかく地味で、目立たない奴だったんだよな。で、結花と出会って、色々と助言を貰っているうちに、オレの手でオレ自身を変えてみたくなってな。そこで、先ずは外見から変えてみたんだ。そしたらさ、段々と中身も、その変化に伴って変化してきてな。その話を、テルテルに聞かせてやったことがあるんだ」

 誰もが今ある自分自身に納得しているとは限らない。こういう自分に変わりたい。違う自分に出会いたい。そう、切に願う奴らは居る筈だ。女達が整形という手段で変貌を遂げるのと同様に、男達だって、何らかの手段で変貌を遂げたいと願う時もある筈だ。かつての力丸も、そうした願いを胸に抱いていた男の一人だった。力丸の場合は、外見を変えてみる所から入り、無事に願い通りの変化を遂げることに成功した。

 そうか……。輝も変わりたいと、常々口にしていたからな。弱い自分に別れを告げて、強い自分に生まれ変わる。事あるごとに「生まれ変わる」という言葉を口にしていた気がする。

「何だかんだ言ってもさ、皆、結局の所、色んなもん背負っているんだな。変わりたいって、確かに、テルテル言っていたっけな。だから、オレの真似して髪を染めてみたりした訳か」

「ああ。俺も力丸も、太助も皆、背負っているものがある」

 俺の言葉に力丸が、太助が、静かに空を見上げて見せた。

「……今にも降り出しそうな空だよな。嵐山でさ、テルテル達も同じ空、見ているのかな?」

「ああ、大地と一緒に見ているだろうな」

「なぁ、コタ。オレ達はテルテルのために、何をしてやれるかな?」

 力丸の言葉が風に乗って流れて往く。俺は静かに目を伏せ、風の流れを感じていた。すぐに言葉が出て来ないもどかしさを感じていた。そんな不器用な俺の想いは太助が代わりに語ってくれた。

「輝は自分の足で立とうとしている」

「輝が?」

「ああ、そうだ。ずっと、周囲に頼ることばかりだった輝は、自らの足で立とうとしている。何もかも、誰かに責任転嫁し続けて歩んできたことを悔やみ、だからこそ、自立した生き方を選んだ。俺達が為すべきこと……それは変わろうとする輝を、静かに見守ることだ」

 ずっと傍にいると、だからこそ、小さな変化には気付くことが出来なくなってしまうらしい。悪い意味で鈍感になってしまう。まだまだ、俺は物事を大局的に捉えることが出来ていない。変わり切れていないのは、むしろ、俺の方なのかも知れない。

「でもよ、今のテルテルは情鬼の脅威に直面している訳だろ? 昨日のニュースを騒がせていた、発見された神隠しの被害者の話だってさ、他人事でもねぇんだろ? 少なくても、今は手が必要だと思うぜ?」

「ああ。だからこそ、大地にその役目を頼んだ次第だ」

「ちぇっ。オレの出番は無しか。つまんねぇなー」

「ふふ。その時が来たら、お前にも協力を請うさ」

「おう! そん時が来たら、オレがビシっと決めちゃってやるぜ!」

 俺の言葉を受け、力丸は目一杯鼻の穴を膨らませて見せた。だが、不意に真顔に戻ると、再び空を見上た。そのまま呟く様に言葉を放った。

「なぁ、コタ、テルテルさ、大丈夫だよな? 昨日のニュースみてぇな事にはならないよな?」

「そうならないように全力で阻止する。そうだな、小太郎?」

「ああ。もちろんだ」

 俺達に何が出来るのだろうか? もしかしたら、何の意味も為さない程度のことしか出来ないのかも知れない。結局、クロの手を借りなければ俺は非力な存在に過ぎない。だが、それでも、何もしないというのも心苦しかった。僅かでも良い。何か解決の糸口に繋がる情報を得たいと考えていた。

「なぁ、コタ。舞台となっているのは島原なんだろ? 現場検証とはいかねぇかも知れないけどさ、島原に行けば、何か判ったりしねぇかな?」

「そうだな。何も得られないかも知れないが、ただ手を拱いているのも心苦しいな」

「ほう? 次の目的地は島原か? だが、この天気だ。事前に何処かで傘を用意しておいた方が良さそうだな」

 太助の提案に従い、俺達は道中のコンビニで傘を購入しつつ島原へと向かうことにした。恐らく、島原を訪れた所で徒労に終わってしまうだろう。だが、それでも意味はある筈だ。敵は俺達の結束を打ち破ろうとしてくる。心の隙間を突く様に絆の隙間を狙ってくるだろう。逆に考えれば、姑息な戦術しか取れない相手だ。守備を固めて敵の隙を狙う。反撃開始と行こうではないか。

◆◆◆53◆◆◆

 空模様が急激に悪化してゆく。まだ、夕方だというのに既に夜になったのでは無いかと思う程に暗く、どんよりと沈み切っていた。不穏な空模様だった。獣の咆哮を想わせる様な、地響きにも似た唸りが轟く。思わず肩をすくめずにはいられなかった。

 学校を出たぼく達は徒然なるままに東大路通を北上し、四条通の商店街沿いをひたすら歩いた。甘いお菓子に飢えていると、声高に主張するロックに半ば強引に連れて行かれて、散々各地を転々とする羽目になった。四条から嵐山までの道はそれほど複雑では無いハズだけど、ロックの気まぐれ過ぎる振舞いのお陰で、やたらと複雑な物になってしまった気がする。

 ぼく達は随分と長い時間を掛けて四条通を抜けた。そのまま四条大橋を経て河原町周辺を通り過ぎ、四条大宮まで向かっていた。相変わらずこの商店街は賑わいを見せる。引っ切り無しに往来する人の波に乗りながら、ぼく達は他愛も無いお喋りに花を咲かせていた。

 四条大宮から列車に乗り込んだぼく達は、四条大宮から帷子の辻を経て、ようやく目的地の京福嵐山に到着した。本当にロックはマイペースな子だと思う。無類の犬好きだからなのか、お散歩コースは譲れないみたい。でも、犬好きなのは結構だけど、自分自身がワンコになっちゃうのってどうなのかと思うのだけど……。

「ふむ。中々に長旅じゃったのう」

「うん……本当に長旅だった気がするよ。色々と波乱万丈だったし……」

 長旅になったことなど気にする程些細なことでも無いのか、相変わらずロックはのんきな振舞いを崩さない。ぼくもマイペースだと人には言われるけれど、ロックには勝てる気がしない。

「アレ? 何だか、雨、降り出しそうだね」

「ふむ。まぁ、降り出したら、降り出した時なのじゃ」

「はは……ロックって、ホント、後先考えずにまっすぐ突っ走るよね」

「むう。変に脇道があると迷っちゃうのじゃ。一本道の方が判り易くて良いのじゃ。もっとも、ワシはコタ程強烈な方向音痴では無いからの。それでも何とかなってしまうのじゃ」

 ロックは何時だってこんな感じだった。何も考えていないのか、それとも、表情を隠すのが巧いのか、中々本心が読み取れない。もしかすると裏も表も無いのかも知れない。ぼくみたいに裏表が両極端な奴からしてみれば、表しかないという感覚はどういう物なのか、とても興味を惹かれる。

 相変わらず空は大きな唸り声を挙げている。一瞬、空を駆け巡る様に稲光が駆け抜けるのが見えた。強大な獣が力一杯爪で引き裂いた傷跡の様に思えて、殊更に背筋が寒くなった。雨だけならばまだ耐えられる。でも、雷は勘弁して欲しい。思い出したくない情景が嫌でも蘇ってしまうから。怖くて仕方無くなっちゃうから……。

「ふふ、考えごとなのかの?」

「うわっ!」

 考えごとに夢中になっていたのか、ロックがすぐ目の前に来ていることに気付かなかった。いきなり目の前に顔があって、心臓が飛び出しそうな位に驚いた。危なく、もう少しで尻もちを着いているところだった。

「お、驚かさないでよ……」

「おお、それは済まんことをしたのじゃ。そんなに驚くとは思わなかったでの」

 相変わらずロックは笑顔を崩すことは無かった。いたずらっぽく笑みを浮かべる、ロックの丸い顔は何だか満月の様に思えて、思わず吹き出しそうになってしまった。不意に太助とのやり取りが脳裏を過ぎった。

『俺も、輝も、似た者同士ということだ』

『え? どこが似ているのかな?』

『共に月の様な存在だ。自らは光を発することは出来ず、他者が放つ光を、その身に浴びて、光っている様に見せ掛けるだけの存在。言うなれば、存在自体が虚ろで、曖昧なのかも知れないな』

 他者が放つ光を浴びて、あたかも自分が光っている様に見せるだけの存在、か……。ロックは何時も明るく振舞っている。もしかしたら、ぼくはロックに……ぼくの光になって欲しいと願っているのかな? まったく、ぼくは本当に節操無しだ。桃山先生に甘えたがり、太助と一線を超えた関係を持ち、今度はロックに想いを馳せている。まったく、ぼくは誰でも良いのかな? 何だか締りの無い奴だよね。

「むう。テルテルよ、大丈夫かの? どこか具合が悪いのかの?」

「ああ、うん。大丈夫だよ」

「そうか。それなら安心なのじゃ」

 相変わらずロックは満面の笑みでぼくを見つめている。それにしてもロックって、こんなにも人の目をじっと凝視する子だったかな? ああ、人とお話をする時は相手の目を見て話す。礼儀作法の基本だよね。やっぱり、旅館を経営している身だから、そういう礼儀作法はシッカリ身に着いちゃっているのだろうな。ぼくもロックの礼儀作法、学ばなくちゃ。

「勢いに任せて遊びに来ちゃったけど、この後どうしようか? もしかして、まだ甘い物を求めて三千里の旅は続いちゃっているの?」

「ふむ。甘いお菓子の誘惑も魅力的ではあるが、少し歩くのはどうかの?」

 これ以上、甘いお菓子を求めて……と言い出したら、どうしてくれようかと考えていたけれど、さすがにお腹いっぱいらしい。多分。

(既にワイシャツのボタン、ギリギリ頑張っちゃっている感じになっているし……大丈夫なのかな?)

 思わずロックのお腹をムニっと掴んで見せれば、裏返った声で「お腹は駄目なのじゃー」と、可笑しそうに笑い返してくれた。相変わらずリアクションが仰々しくて、ますます悪乗りしたくなっちゃうよね。

「ちょっと天気が気になるけれど……まぁ、雨が降り出したら、考えれば良いんだよね? えへへ」

「フフ、テルテルよ、良きノリなのじゃ。そのまま勢いに乗って、嵐山の果てまで駆け抜けるのじゃ」

 どうしてだろう……。何時も一緒に過ごしているのに、今日のぼくは何かが可笑しく感じられた。ロックの笑顔を見ていると可笑しな感情が湧き上がってくる。この感情、太助と二人で過ごした時にも湧き上がっていた気がするけれど、もっと穏やかな……でも、心から温かいと思える感情だった。

 今更になって気付かされた感情だった。ぼくはロックに対して何か特別な感情を抱いている様な気がする……。多分、今までも同じ感情を抱いていたのだろうけれど、気付かなかったのだと思う。ううん、否定し続けたのかも知れない。ずっと、自分に嫌悪感を抱いていたから。男の子を好きな自分を……受け入れたく無かったから。でも、太助との一夜を経て、もう、そんなことはどうでも良く成っちゃった。自分を押し殺して生きるより、自分の想いのままに生きた方がずっと良い。そう悟ったから。

 自分から相手に感情を向けるだけの勇気は無いクセに、相手から向けられる感情には敏感だったりする。太助の時もそうだったっけな。太助がぼくに想いを寄せている。その事実に気付いた瞬間から、ぼくは一気に崩落してしまった。それじゃあ……ロックも同じなのかな?

「テルテルよ、渡月橋に向かうのじゃ」

 考え込んでいると、再びロックが目一杯顔を近付けてきた。不意を突かれたぼくは思わず息を呑んだ。

「う、うん。行こう」

 嵐山の駅前を走り抜ける通りは、それほど長い通りでは無かった。でも、通りには土産物屋から飲食店まで、ずらりと立ち並んでいる。時々、街並みに似つかわしく無い風変りな食べ物を売る店もあったりするけれど、そうした不協和音も含めて、嵐山の街並みが出来あがっている様に思えた。特に駅前は無国籍な感じがして、異国情緒あふれていると評しても間違いでは無さそうに思えた。

「何時、訪れても不思議な街並みだよねぇ」

「うむ。珍妙な飲食店が増えての。最近では何故かコロッケだの、さつま揚げだの、意味不明な店も増えてきたのじゃ。何ともカオスな感じなのじゃ」

「うん。とってもカオスだよね」

 通りを歩んでいると不可思議な匂いが漂って来た。恐らくは、個々の店が無国籍な食べ物を用意しているお陰で、それらの匂いが混ざり合い、何とも言えない不可思議な匂いを紡ぎ出しているのだと思った。嵐山駅前、カオスなり。

「でも、ワシはこの街が好きなのじゃ。少し歩けば涼やかな竹林が広がっておる。渡月橋の下を流れる桂川も雄大な川なのじゃ。人も大勢訪れる街での。この街に生まれたことを誇りに思うのじゃ」

 街並みを見据えるロックの表情は、確固たる自信に満ちあふれていた。何だか、普段見ているロックの表情とは少し違う表情で、ぼくの心が揺れ動いた。ロックは本当にこの街を大事に思っている。旅館の経営という使命を背負っているのもあるのかも知れないけれど、それだけじゃない。生まれ育った街を愛し、共に歩んでいこうとしている。嵐山の街並みはロックに取っては心の拠り所であり、大切な故郷でもある様に感じられた。

 空は相変わらず一触即発な色合いを称えていた。時折獣の様な唸りを挙げる空からは、何時、雨粒が零れ落ちて来ても可笑しく無い様に思えた。嵐山の街並みを覆い尽くす厚い雲。時折、雲の合間を引き裂く様に稲光が駆け巡ってゆく。空が唸りを挙げる度に、ぼくは思わず目を伏せ、体がすくみそうになっていた。

 ロックと共に丁度通り掛った美空ひばり座からは、懐かしい音色が流れてきた。そっと耳を傾けながらぼく達は歩み続けた。

「人力車のお兄さん達も、空模様を気にしているみたいだね」

「うむ。商売に直結してしまうからの。天気と観光には、深い縁があるのじゃ」

 信号待ちをしている際に、不意に視界に飛び込んできたのは人力車のお兄さん達の姿だった。時折、人力車に乗って観光しているお姉さん達を見掛ける辺りからしても、結構、定着してきているのかも知れない。でも……ぼくとロックが二人で人力車に乗る図は、多分、皆の笑いを誘うに違いない。ううーん、ロックと一緒にいると、ぼくまでお笑いキャラになってしまう気がする。可笑しな妄想を巡らせていると、不意にロックに肩を叩かれた。

「ささ、信号が青になったのじゃ」

「ああ、うん。行こう」

(ううーん、妄想は偉大なり。コタの気持ちを少し、理解出来た気がする。でも……コタみたいな珍妙なキャラに成るのは嫌だなぁ)

 ロックに促されてぼくは再び歩き出した。視界の先には渡月橋が広がっている。何時訪れても雄大な橋だと圧倒される。桂川に掛る長く、雄大なる渡月橋は車も人も往来する大切な道。どっしりと身構えた渡月橋に足を運べば、端の下からは川の流れる涼やかな音色が聞こえて来た。向こう岸まで続いている長い、長い渡月橋を歩みながら、ぼくは全身で自然の息吹を感じていた。ささくれ立った想いが、ゆっくりと癒されていく様な感覚を覚えていた。やはり、人は自然と共に歩まなくてはいけない。文明は確かに生活を便利なものに変えてくれた。でも、自然が失われれば人は生きていけなくなる。共存共栄の道を選ぶ必要がある。そんなことを考えながら、ぼくは周囲を見渡していた。姿こそ確認出来なかったけれど、この一帯には未だ多くの木々の魂達が息づいている様に感じられ、そのこともあり、ぼくの心は静かなる湖面の様に穏やかになっていた。

「良い流れだね。あー、川遊びしている子供達もいるんだね。涼しそうだなぁ」

 川の流れの中、楽しそうに水遊びをしている子友達の姿が目に留まった。ぼくは思わず立ち止まって、楽しそうに遊ぶ子供達に視線を奪われていた。ロックもぼくの隣に並び、同じ情景を見ていた。

「ワシらも一緒に遊ぶかの?」

「えー。幾らなんでも、この年になって、川遊びはちょっと恥ずかしいかなー」

「じゃが、保津川のキャンプに行った際には、皆で遊んだのじゃ」

 にこやかな笑顔で反論されて、思わず言葉を失ってしまった。

「えっと……あの時は、周りに人も居なかったし……」

 言いながら何だか妙な気分になっていた。ロックと二人きりで川遊び。誰にも見られない場所で……。二人で肩を並べて抱き合ったり、それから……それから……。段々と可笑しな妄想が頭の中を支配してゆく。思わず首を振って、妙な妄想をかき消したが、すっかり、ぼくのおちんちんは一人、元気になってしまった。お陰でロックに気付かれない様に、少々挙動不審な歩き方に成らざるを得なくなった。一人、焦るぼくとは対照的に、ロックは相変わらずマイペースにスタスタと歩いていく。

(うう……。明らかにコタに洗脳されている気がする。も、妄想は……でも、確かに、偉大だと思う!)

「おお、そうなのじゃ! この辺りは人通りが多過ぎて喧しいのじゃ。折角じゃから、少し、川の上流の方に歩んでみるのじゃ!」

「え? ああ、ちょっと……」

「なーに、地元の地理はワシの頭の中に完全に入っているのじゃ。そこいらのカーナビより、遥かに高性能じゃ。迷子になったりはせぬから、安心するのじゃ」

 半ば強引にロックに手を惹かれ、ぼくは上流へと至る道へと向かうことになった。ぼく達は今来た道を引き返し、信号待ちをした十字路まで戻った。そのまま桂川の上流を目指してぼく達は歩き始めた。途中まではボート乗り場があったりと、この辺りはまだまだ賑わいを見せている。ぼく達はボート乗り場を後に、さらに歩き続けた。相変わらずロックは人目を気にすることなく、ぼくの手をシッカリと握ってくれていた。ぼくは小心者だから人とすれ違う度にドキドキさせられていた。

「ねぇ、ロック。この先には何があるの?」

「ふふん。行ってみてのお楽しみなのじゃ」

「えへへ。何だか大冒険の幕開けって感じで、ワクワクしちゃうね」

「大冒険! むぅー、良い響きなのじゃ! 気合い入っちゃうのじゃ!」

 ほんと、ロックって妙な所が幼かったりする。これじゃあ、小学生の友人コンビみたいだ。でも、ぼくもロックも童顔だから、案外違和感無かったりするのかも。えへへ。ロックってば、何か子供みたいで可愛いよね。多分、ぼくは傍目から見たら、途方も無く気色悪い笑みを浮かべていたと思う。何だか、妙に幸せで、ついでに照れ臭くて、自然と笑いが込み上げていた。コタと一緒に居る時には感じたことの無い感覚だった。やはり、ぼくに取って、ロックは特別な存在なのかも知れない。

「何やら、上機嫌な様子じゃな」

「うん。ロックと一緒だから、かな?」

「嬉しいことを言ってくれるのじゃ」

 ロックも、ずっとにこやかな笑顔を称えたままだ。何だろうなぁ、この感覚。すごく満たされている気がするよ。幸せって……こういう感情を言うのかな? だとしたら、ぼくがロックに抱いている、この言葉に出来ないモヤモヤとした感情。これが……恋愛感情と言うのだろうか? 何だか、照れ臭い様な、くすぐったい様な気持ちで、やっぱり締りの無い笑みがあふれてきた。

「この辺りで舗装された道とはお別れなのじゃ」

「そうだね。歩いている人達は、皆右手に曲がっていくものね」

「この道を右手に曲がると、この辺りでも人気のお豆腐料理店があるでの。恐らく、皆のお目当てはそちらじゃろうな」

「人気のお豆腐料理店かー。えへへ。興味惹かれるなぁ」

「ふむ。今度、リキに頼んで美味しいお豆腐料理を作って貰うのじゃ」

「そうだね。リキに頼めば安上がりだし、何だかんだ言って、リキの料理は素人レベルでは無いものね」

 お豆腐の話に盛り上がり、二人してお腹が鳴ってしまった。思わず顔を見合わせて、吹き出しながらも、ぼく達は道を外れて歩き続けた。ここからは桂川の畔を歩くことになる。当然、観光客が足を踏み入れる様な場所では無い。だからこそ、自然も手付かずのままで、木々も生い茂っている。もちろん、全く舗装されていない自然のままのゴツゴツとした道だった。

  桂川はあくまでも静かな流れを称えている。この辺りは高低の差が無いらしく、湖面の様に穏やかな表情を称えたまま川は流れ続けていた。木々の息吹。時折聞こえる鳥達が囁き掛ける声。そっと目を伏せれば本当に穏やかな木々達の声が響き渡る様な感覚を覚える。ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、ロックは相変わらず上機嫌に笑うばかりであった。

(ぼくの手、汗ばんでベタベタなのに気持ち悪く無いのかな? アレ? 今気付いたけれど、ロックの手って柔らかいなぁ。フフ、何だか猫の肉球みたい)

「むむ? 何やら、テルテルの手がモゾモゾしているのじゃ」

「えへへ、ロックの手って良い感触だよねぇ。猫の肉球を想わせる様な……あ!」

 ロックに取っての禁句を口にしてしまった。予想通り、唐突に直立不動したかと思うと、次の瞬間には見る見るうちに青ざめた。そのまま悲鳴を挙げながら、勢い良く体中を掻き始めてしまった。

「なぬぅ!? ね、猫じゃと!? ぎゃー、か、体中が痒いのじゃ!」

「うわぁ、ろ、ロック、大丈夫だって! 此処には、猫はいないから!」

 『猫』という言葉だけで反応してしまうとは、一体どれだけ猫と相性の悪いアレルギーなのだろうか? しかも、ロックの一家は全員、同じアレルギーを持っているらしい。だから、とにかく猫は苦手らしい。好きとか嫌いとか以前に、体中が痒くなってしまうので、それどころでは無くなるらしい。ううむ、無類の犬好きだから猫とは相性が悪いのだろうか?

 派手に騒ぎながらも、ぼく達は桂川の上流を目指して、さらに歩き続けていた。もう少し進んだ先にも美味しい湯豆腐のお店があるらしい。店内からは桂川の静かな流れを眺められるそうで中々の人気店みたい。美味しい豆腐懐石に舌鼓を打ちながら、流れ往く桂川の流れに目線を投げ掛ける。多分、時の流れさえも止まって見える程に、優雅な一時になるのだろうなぁ。ま、ぼくには似合わなそうな場所だということだけは良く判ったけれど、一度位は訪れてみたいかな。少しだけ背伸びしてオトナに近付いた自分。それも悪く無いな。そんなことを考えながらも、ぼくは木々の息吹を感じながら歩いていた。

◆◆◆54◆◆◆

 川幅の広い桂川。その両岸には木々達がありのままの姿で枝を生やしていた。この辺りは人の手が入らない場所だけに、木々達の強い生命力を感じられる場所だった。川の流れは穏やかで、対岸までの果てしない距離の合間に、川の流れが優雅に広がっていた。此処には人の喧騒は無い。川が流れる音と、風が木々の葉を揺らす音、それから時々聞こえる鳥の鳴き声だけが周囲の景色に色を添えていた。クマゼミ達の威勢の良い声を背に受けながら、ぼく達は砂利を踏み締めて往く。ふと、足を止めて、ついでに目を伏せて空を仰いでみた。涼やかな風の流れが頬を優しく撫でて往く。本当に心地良い場所だ。

「良い場所じゃろう?」

「うん! 本当に良い場所だよねー」

「ふふ。ワシのお気に入りの場所のひとつなのじゃ」

「えへへ。それじゃあ、ぼくもお気に入りの仲間入りだね」

 ぼくの言葉を受けて、ロックは嬉しそうな、どこか照れ臭そうな笑みを浮かべていた。微かに顔を赤らめている姿に、ぼくは思わずドキリとさせられた。ロックの笑顔は見る者を幸せな気分にさせてくれる。それは持って生まれた能力なのかも知れない。ぼくの持つ、暗く、湿った能力とは大違いだ。許されるならば、このまま此処で想いのままにロックに抱き付きたかった。人の気配が無い以上、何をしてもばれる心配は無い。でも……ロックはどうなのだろう? ぼくと『同じ』なのかな? でも、もしも、ぼくと『同じ』じゃ無かったら……。そう考えた時に、その一歩を踏み出すことをためらわずには居られなくなる。この楽しい時間が、幸せな関係が、音を立てて崩れ去ってしまうことが恐ろしくて仕方が無かったから。やっぱり、ぼくは臆病者だ。

 ロックの満面の笑みを見つめながら、ぼくはふと考えていた。人は自分に無い物を持っている誰かに興味を惹かれると聞く。それならば、ぼくとは対照的な能力を持っているロックに興味を惹かれるのは可笑しな話では無さそうに思えた。もっとも、もっと違う興味を惹かれているのは間違い無かったけれど……。歩く度に弾力のある揺れを見せるロックの胸……。気を抜くと、ついつい、ロックの胸に目線が行ってしまう。ぷるぷると揺れ動く様を見る度に、ぼくは必死で意識を逸らすので精一杯だった。何だか、無駄なことに全精力を注いでいる様な気がして、そんな自分が間抜けで、滑稽で、それから……不憫でならなかった。

 考え込んでいると唐突に空が、一際大きな唸りを轟かせた。地響きにも似た轟音が、周囲の木々さえも揺らした様に思えた。肌に感じる程の衝撃に、ぼくは思わずロックと顔を見合わせていた。

「うわっ! い、今、何かヤバそうな音しなかった!?」

「むむむむむ……本格的に危うい状況なのじゃ! これは、もしかしなくても絶体絶命の危機なのじゃ!」

 必死で堪え様としてくれたのかも知れないけれど、どうやら、そろそろ限界が近付いているようだ。不意に、静まり返った川の流れに雨粒が零れおちた。

「おりょ!」

「うわっ!」

 それを皮切りに、一斉に雨が降り始めた。ポツポツと静かな音を奏でていたのは、ほんの一瞬で、すぐさま流れ往く桂川に叩き付ける様にザーザーと雨が降り始めた。雨足は一気に強まり、一寸先も見えない程の豪雨になっていた。

「うわっ! とうとう降り出しちゃったよ!」

「うぬぅ、これは一大事なのじゃ! やばいのじゃ! 大変なのじゃ! とにかく逃げるのじゃ!」

「に、逃げるって、一体何処へ!?」

 引き上げるにしても相応の距離を歩んできてしまった。優雅な情景にすっかり気を取られて、どれだけの距離を歩いたのか、もはや皆目見当つかない。渡月橋が全く見えない辺りから察するに、相当な距離を移動してきたことは想像に難くない。ロックの家、嵐山旅館は渡月橋の向こう側にある。どう頑張っても、そうそう容易く到達出来る距離では無い。

「……これは諦めた方が良さそうだねぇ」

「うう、済まないのじゃ。ワシが強引に連れてきたばかりに……」

「気にしないで。ほら、暑い季節だし、どうせ汗でビッショリだったし」

 なんて強がってみたけれど、この雨では下着まで濡れてしまいそうな気がした。手身近な木々の下に身を潜めていたけれど、雨宿りにはまるで意味を為さなかった。みるみるうちに髪が、体が雨に濡れてゆく。

 その時であった。不意に、空が真っ白になる位に光った。次の瞬間、どこかに落雷したのか、凄まじい轟音が響き渡った。雷の音……その音が、思い出したくも無い、あの日の情景を鮮明に蘇らせてしまった。

「うわーーっ! こ、来ないで! 来ないでーーっ!」

 落ちた雷の音に負けない程の悲鳴を挙げてしまった。不意を突かれて、どうすることも出来なかった。抵抗するも何も、まったく意識していない状況下だったから、一気に恐怖が蘇ってしまった。

「て、テルテル、大丈夫なのじゃ!」

「嫌だ! 嫌だ! 来ないで! 来ないでーーっ!」

「何も来ないのじゃ! 落ち着くのじゃ!」

「え? あ、アレ?」

 しまったと思ったけれど、もう遅かった。ロックに見られてしまった……。雷を極度に恐れる姿。その真実を。でも……ある意味、幸運だったのかも知れない。ぼくの『真実』を語るキッカケを得ることが出来たのだから。

「もう、ずぶ濡れだよね。色んな意味で……」

「大丈夫かの?」

「えへへ、ごめんね。取り乱しちゃったりして。雷、嫌いなんだ。昔のね、嫌な記憶が蘇ってくるから……」

「嫌な、記憶とな?」

 ロックはぼくを気遣っているのか、壊れ物を扱うかの様な、慎重な面持ちでぼくを見つめていた。

「ぼくが小学校の頃の記憶なんだ……」

 聞きたいかどうかの同意は聞かなかった。どんな返事だったとしても、ぼくの話、聞いて貰いたかったから。

 今更だけど、ようやく気付いた気がした。多分、ぼくがずっと探し求めていた者は、目の前にいるロックなのだと確信していた。コタとは付き合いが長過ぎた。何度かチャンスはあったけれど……その都度、ぼくは適当な返事ではぐらかしてしまった。それに、今更、コタに想いを打ち明けるなんて虫が良過ぎる。多分だけど、コタには誰か想っている人がいるみたいだし、困らせるだけの結末になるのは目に見えている。太助に想いを抱いていたのも事実だった。でも、多分、太助の中に居るぼくは、どう考えても仲の良い友達止まりだと思う。ただの性欲処理の捌け口では無いのは判るけれど、でも、やっぱり、友達止まりなのだと思う。結局二人とも、多分、ぼくが求めている存在とは違う気がした。

 本当、ぼくは皆の心を掻き乱すだけで、迷惑な存在だったよね。でも、それも、もう終わろうとしている。そう思えた。ロックの想いにも気付いた気がする。ううん、結果はどうでも良かった。嫌な想いさせちゃうかも知れないけれど、許してね、ロック。ぼくのこと、どうか、嫌いにならないでね。

 ぼくは切なる願いを篭めて、あの日、あの時、卓君との間に起きた全てを語って聞かせた。叩き付ける様な雨に打たれながら、ぼくは一体何を話しているのだろう? 滑稽な気持ちになりながらも、ただ、無心に話し続けた。ロックはそんなぼくの相手をしっかりとしてくれた。目を逸らすこと無く、ぼくのことを見つめていてくれた。

「……これが、その時に起きたことの全てなんだ」

 ロックは静かに呼吸を整えていた。多分、動揺した気持ちを落ち着かせようとしているのだと感じていた。一際大きな吐息を漏らしたけれど、ロックは何時もと変わらぬ笑みで応えてくれた。相変わらず叩き付ける様に雨は降り注ぐ。情けも容赦も無く、ぼく達に降り注ぐ。桂川の流れも、何だか怒り狂っているかの様に思えて、少し怖く感じられた。

「嫌な体験をしたのじゃな」

「うん、確かに、嫌な体験だよね……」

「嫌な記憶を消すことは不可能かも知れぬ。じゃが、新しい記憶で塗り替えることも出来るのじゃろう」

 ロックは多分、必死で平常心を保とうとしてくれていたのだと思う。あんな壮絶な話を聞かされて、驚かない訳が無いんだ。でも、ぼくを気遣い、必死で自分を抑えてくれている。申し訳無い気持ちと同時に、ぼくは、とても嬉しい気持ちでも一杯だった。ロックは言葉を選びながら語り続けた。ぼくの顔を見ること無く、叩き付ける様な雨の向こう側だけを見つめて、語り続けてくれた。

「ワシが……テルテルと共に歩むのじゃ。ううむ、少々違う気がするの。共に歩ませて欲しいのじゃ」

「え、えっと……どういう、こと?」

 どういうことなのか理解出来なかった。予想もしない展開に、ぼくはただ、動揺させられるばかりであった。ロックはぼくの手をシッカリと握り締めると、静かに微笑んで見せた。

「ふふん、それはナイショなのじゃ」

 何だかにこやかな笑顔ではぐらかされてしまった気がする。でも、この時、ロックは意味深な言葉を口にしていた。消え入るような声で、雨の音に殆ど掻き消され掛けていたけれど、確かに聞こえた。「夜になれば明らかになる……」。一体、どういう意味なのだろう?

「おりょ? 雨、上がって来た様子じゃの」

 何だか、良い所で話をはぐらかされてしまった気がする。でも、だからと言って深追いするのも気が退けた。逃げる者を追い掛けるのは止めた方が良い。あの時も、逃げる卓君を追い掛けた結果、ぼくは最悪の事態に直面した。もう、あんな想いはしたくない。ロックが言う通り、夜を待つとしよう。「すっかり、ずぶ濡れになっちゃったね。うへー、パンツまでビショビショだよー」

「ううむ、上から下まで水浸しなのじゃ。これは……また、おかんの雷は覚悟せねばならぬということじゃの……」

 それ以上に、こんなびしょ濡れの格好で渡月橋を駆け抜けなければいけないのも、何とも間抜けな話に思えた。どこか服を干せる場所があれば、これだけの暑さなのだから、相応には渇いたことだろう。とは言え、その様な場所が都合良く存在する訳も無く、ぼく達は仕方無く、びしょ濡れのまま歩き出した。

「むう……焼け石に水かも知れんのじゃが」

「へ? うわっ! ちょ、ちょっと、ロック!」

「止むを得ぬのじゃ!」

 突然の出来事に、多分ぼくは卒倒しそうな位驚いていたと思う。突然、何を思ったのか衣服を全て脱ぎ去ると、ロックは力の限り絞り始めた。さながら雑巾絞りをする様な光景だった。幾ら人気が無いとは言え……こんな大自然豊かな場所で、下着まで脱いじゃうなんて……。ぼくは必死でロックの方に目線を向けない様にしながら、ロックの真似をして全部脱ぎ捨てた。多分、ぼくのおちんちんは完全に皮が剥けちゃう位に、ビンビンになっていたと思う。絶対に見られる訳にはいかなかった。

「おりょ? ふふ、テルテルの可愛いお尻とご対面なのじゃー」

「きゃっ! ちょ、ちょっと、ロック! お尻、撫で撫でしないでよっ!」

「にゃははー、照れておるのか? 何じゃったら、ワシのプリプリのお尻も触らせてあげちゃうのじゃ」

「え、えっと、そういう問題じゃ無くて……」

  ロックの天然度合いの激しさは、皆も良く知っているけれど、悪意が無いだけに本当に扱いに困る。今、ぼくがどんな気持ちでロックと戯れているのかなんて、多分、想像もしたことないのだろうな……。

 最低限の応急処置を終えたぼく達は、人の無力さを痛感せざるを得ない事態を、ただ受け入れることしか出来なかった。一歩一歩、足を踏み込む度に靴からは異様な音が響き渡る。水気を孕んだ音と共に足の裏に伝わる不快な感触。背筋も凍る感触に、その都度、体中の毛穴が開きそうな感覚に襲われる。

「うう、く、靴が……さ、最悪な感触なんだけど……」

「し、仕方が無いとは言え、過酷な話なのじゃ……ああ、ワシの判断が甘かったのじゃな。済まぬのじゃ、テルテルよ」

「これ……。足がクサくなっちゃいそうだよねぇ……」

「そしたら、ワシがクンクンするのじゃ」

「ロックってば、やっぱりワンコでしょ?」

 ぼく達は本当に悲惨な状況のまま歩き続けた。渡月橋を渡り切るまでの間、往来する人々の視線が本当に痛かった……。まぁ、確かに、かなり目立つ姿であったことは間違いない。それは否定しない。言うなれば、服を着たまま川で泳いで、再び陸地に上がってきた様な姿だったから、何とも形容し難いものがあったと思う。ぼく達の歩んだ後には、文字通り、足跡が刻まれていった。かなり湿った足跡で、ちっとも嬉しく無かったけど……。

 ようやくロックの嵐山旅館に到着した時には、桂川の上流で体験した雷よりも遥かに恐ろしい、ロックのお母さんの雷が落とされた。

『あんた達、ええ加減にしいや』

 それにしても、ロックのお母さん……声を荒げた訳でも無いのに、あんなにも物静かな喋りなのに、しかも、たった一言だったのに、凄まじいまでの殺気を感じさせるとは驚きだった。いや、むしろ、派手に怒鳴り散らされた方が余程気が楽だった。やはり京都の女性は恐ろしい……。物静かな怒りというのが、こんなにも怖い物だとは思いも寄らなかった。ぼく達は小さく、小さく、縮こまりながらお風呂へと続く、長い廊下をヘコヘコと歩んでいた。

◆◆◆55◆◆◆

 さすがにびしょ濡れの状態で居続ける訳にはいかなかったので、お風呂を貸して貰うことにした。幸か不幸か、この日はお客の予約が無かったらしい。嵐山旅館としては頂けない話ではあっただろうけど、ぼくに取っては幸運な話だった。宿泊客がいないので広い露天風呂を使わせて貰える。家のお風呂じゃ足を伸ばせないから、大きなお風呂というのは嬉しいものだ。しかし、大きなお風呂への楽しみの前に大きな試練が待ち受けていた。ぼく達は脱衣所で貼り付く衣服と悪戦苦闘していた。湿気を帯びた服というのは、どうして、こうも脱ぎ難いものなのか? ぼくは必死で張り付くシャツを脱ぎ終えたところだった。

「む? テルテルよ、随分と上機嫌そうじゃな」

「そりゃあ、ロックの体を、こんなにも間近でジックリと……」

「な、なぬ!?」

「あー! いやいや、えっと、ほら? ぼくの家のお風呂じゃ、足伸ばせないからね。景色の良い露天風呂だし、ゆったり出来ちゃうからね。えへへー」

 危うく、トンでも無いことを口にしてしまう所だった。駄目だ。駄目だ。油断は禁物だ。濡れた衣服を脱ぎながら、ついでに気持ちまで緩んでしまったけれど、臨界点は絶対に死守せねば。

 そんな険呑なことを考えるぼくとは裏腹に、ロックは相変わらず上機嫌そうに笑うばかりであった。ロックの思惑が確認出来ない以上、本当の自分を曝け出すことに不安が残る。何となく、ロックもぼくと『同じ』なのだとは思ったけれど、確証が得られない以上、迂闊に冒険しない方が良い気がした。もっとも、仮に違っていたとしてもロックのことだ。今までと変わらぬ、仲の良い親友でいてくれることは間違いない。それは絶対だと確信していた。

 ぼく達はさっさと濡れた服を脱ぎ捨てて、ロックと一緒に露天風呂に向かった。空は相変わらずどんよりとした空模様ではあったけれど、やはり、露天風呂は心地良かった。少々お湯は熱く感じられたけれど、歩き回って疲れた足には殊更心地良く感じられた。不意に、ぼくの隣にロックが座ってみせた。

「風呂から上がったら、取り敢えずは、ワシの服を使ってくれなのじゃ」

「うん、ありがとう。でも、ロックの服だと……多分、ちょっと緩いよね? 特に、お腹周りとか……」

「むう、そこは言っちゃ駄目なのじゃ」

「えへへ、ロックのお腹、柔らかいよねー」

 思わずお腹を触れば、ロックは困った様な笑みを浮かべてみせた。

「お、お腹は、駄目なのじゃ」

 何だか、間の抜けた反応が可笑しくて、ぼくは図に乗って、さらにお腹を撫で回したり、掴んでみたりした。くすぐったいのか、ロックはどこか上擦った様な声を挙げていた。その声が、何だか喘ぎ声みたいに聞こえてきて、段々と可笑しな気分になってきてしまった。止せば良いのに段々と悪乗りしてしまう自分がいた。無意識のうちに段々と手が上へ上へと移ってしまっていたが、それでも本能が勝ってしまっているのか、歯止めは利かなかった。

「ロック、肌綺麗だよねー。つるつるで羨ましいなぁ」

「て、テルテルよ、どさくさに紛れて、何処を触っておるのじゃ……。そ、そんな所、駄目なのじゃ……」

 気が付くと、ぼくはロックの弾力ある胸を撫で回していた。思わず、慌てて手を引っ込めた。

(あ、危ない、危ない……!)

 手に残るロックの弾力ある胸の感触を振り返り、ついつい、興奮してしまいそうになった。

「むう、やはり、甘いお菓子の食い過ぎかのう? 最近、ちょっと筋トレをサボっているのもイカンのかも知れんの」

「そ、そうかも知れないね」

 改めて間近で見ると、ロックの肌は子供みたいに思えた。毛の無いつるつるの体。張りのある腕、良いなぁ。ぼくも鍛えたら、ロックやリキみたいになれるのかな? うーん、今度、リキに指南して貰おうかな。

「えへへ、ぼくも鍛えたら、リキみたいになるかな?」

「むう……ワシは今のテルテルが好きじゃな」

「え? ね、ねぇ、ロック、今、何と?」

「わぁー! な、何でも無いのじゃ! あ、頭と、体と、色んな所をキレイキレイして、そろそろ上がるのじゃ」

 ロックは相変わらず判りやすい性格だ。段々と憶測が確信に変わろうとしていた。ぼくも風呂から上がり、体を洗うことにした。雨に降られて、すっかりベタベタだったから、気持ち悪くて仕方が無かった。ついでに、あの濡れた靴のお陰で、嫌な汗を掻きっぱなしだった。

 体を洗いながらも、何だか妙にロックの視線を感じる気がしてならなかった。面白がって、ぼくはわざとらしく、ロックに良く見える様に振舞って見せた。その度にロックが息を呑む声が聞こえて可笑しくて仕方が無かった。でも、何だかんだと言いながらロックも存分にアピールしていた様に思える。何だか、二人して段々と変な気分になってきて、次第に言葉も無くなっていた。

 何となくぼく達は並んで湯船に浸かっていた。雲はすっかり流れ去り、綺麗な夕焼け空が広がっていた。ぼくもロックも、夕焼け空に照らし出されて燃え上る様な色合いに包まれていた。

「改めて気付いたのじゃが、テルテルもスベスベじゃのう」

「えへへ。ここだけの話だけど、色んな所の毛、剃っているからね」

 ぼくの体は子供と同じ。脇も、あそこの毛も、全部剃っている。だから、ぼくはわざとらしく両腕を挙げて、ついでに大きく足も広げて見せる。予想通り、ロックが息を呑むのが聞こえた。

「も、もともと毛が無いだけに、剃っても違和感無いのう……」

 すっかり声が裏返っている。ぼくは笑いを堪えるので必死だった。

「そういうロックも、ぼくと大差無いじゃない? ロックの場合、元々毛が無いものね」

「すね毛とかはあっても良いのじゃが、ご覧の通り、子供みたいなのじゃ」

 さすがに毛の処理はしていないみたいで、脇やあそこには微かに毛が生えていた。多分、ぼくもロックも、すっかり可笑しな気分になっているのは間違い無かった。後は仕掛けた者勝ちな気がした。

「良い……景色だよね」

「そうじゃな。綺麗な夕焼け空なのじゃ」

「このまま時が止まってしまえば良いのにね」

 ぼくの言葉にロックが静かに笑うのが聞こえた。そのまま、ぼくの肩を抱いてくれた。何だか、凄く幸せな気持ちで一杯だった。ぼくはそのまま、ロックに寄り添った。ロックの腕に一段と強く力が篭められた気がした。

「奇遇じゃな。同じこと、考えておった」

「うん……」

 それ以上は言葉、出て来なかった。無理に想いを口にしたら、言葉では無くて……涙が毀れてしまいそうで、折角の良い雰囲気を台無しにしたくなかった。だから、ぼくはもう片方の手でロックの手を握った。ロックもぼくの手を優しく握ってくれた。本当に幸せな気持ちだった。このまま時が止まってしまえば良いのに……。本気でそう思った。

 風呂から上がるのと夕食の準備が整うのは殆ど同時だった。丁度、お客さんも居ないということもあり、新しく考案している献立を用意して貰った。あんまり参考にならないかも知れないけれど、ぼくなりに感じたこと、気付いたことを、板長さんに伝えさせて貰った。えへへ。美味しい夕食を頂いたお礼になれたかな? ちょっとだけ料理番組のリポーターの気分を満喫させて貰った。

 早めの夕食を済ませたぼく達は、ロックの部屋で寛いでいた。それにしても、ロック、それは色んな意味で狙い過ぎでしょ……。白いタンクトップに迷彩柄のパンツ。ううーん、これでオニギリを頬張っていたら、どっからどうみても裸の大将なんですけど……。いや、むしろ、裸の大将のコスプレなのかな? やっぱり、ロックは如何なる場面でも笑いを忘れない子だよね。テレビのお笑い番組見ながら豪快に笑っている姿を、ぼくはじっと見つめていた。

「むう? テルテルよ、何をそんなに見つめておるのじゃ?」

「え? うん、何か……その格好、裸の大将そのものだよねぇ」

「む? い、言われてみれば……おお! 意外な発見なのじゃ!」

(いやいや、そうじゃ無いでしょ……)

 ロックは肉付きが良いから、ますます良く似ている気がする。ロックは相変わらず満面の笑みで向き合ってくれる。ぼくにはその笑顔が羨ましく思えて仕方が無かった。ぼくの笑顔は所詮作り物の笑顔。多分、本当の意味で心の底から笑ったこと、無いのかも知れない。

 ロックは何時だって表裏の別が無いから誰からも好かれる。似た様な身長の二人。似た様な童顔の二人。趣味も良く似ているし、仲も良い。でも、似ている様で似ていないぼく達。ロックの笑顔は、ぼくと違って屈折した想いが感じられない。だからこそ羨ましく思う。

 太助に本当の姿を見せて、少しは変われたのかと思ったけれど、全然変わっていない。哀しいね。必死で受け止めてくれたのに申し訳が立たない。結局、ぼくは何時だって、誰かに憧れを抱き、羨ましく想い、妬み、僻み、それから……。ロックは、どうして、こんな嫌なぼくと仲良くしてくれるのだろう?

『むう……ワシは今のテルテルが好きじゃな』

 そんなことを考えながらも、夕方、ロックが口にした言葉が気になって仕方が無かった。

(好きって……どういう意味でなんだろう? 友達として? それとも……)

 不意に、ロックがぼくの隣に腰掛ける。肩に腕を回しながら、相変わらずの笑みで、ぼくを見つめてみせた。

「ワシはテルテルのこと、好きなのじゃ」

「え? えぇっ!? え、えっと……そんな、直球ストレートで挑まれると……」

「だから、自分のこと、嫌っては駄目なのじゃ」

 動揺するぼくにはお構い無しに、淡々と自分の言葉を口にしてみせた。だから、ぼくも気になっていることを問い掛けてみることにした。遠慮なんか要らないよね?

「ねぇ、どうして、ロックは何時もそんなに明るく振る舞えるの? どうして?」

 ぼくの問い掛けに、ロックは静かに天井を見上げて見せた。

「ワシとて悩みが、迷いが無い訳では無いのじゃ」

「そ、そうだよね……。ごめんね、変なこと言って」

「気にすること無いのじゃ。ただ、皆とこうして歩める。それは、ワシに取っては幸せなのじゃ。ただ、それだけのことなのじゃ」

 あっけらかんと振る舞える姿。多分、自然に笑顔が滲み出てくるのだろう。やはり、ぼくとロックは似ている様で似ていない。表裏の無いロックのことが羨ましく思えた。どうして、こうも違うのだろう? 家庭環境の違い? 確かに、それはあるかも知れない。ロックの一家は家族の仲が本当に良い。コタ達も羨む程に家族の仲は良いと思う。うちとは……大違いだ。

「テルテル、何を思い悩んでいるのかワシには判らんのじゃが、思っていること、全部、吐き出してしまうのじゃ」

「え? 思っていることを?」

「そうなのじゃ。ワシが全部、聞かせて貰うのじゃ」

「聞いて、どうするの?」

「一緒に考えるのじゃ。一人で考え込んでも、どうしても、上手くいかんものじゃ。じゃから、ワシは悩んだり、迷ったりした時には、皆に聞いて貰っておるのじゃ」

 意外だった。ロックでも悩みや迷いを抱くことがあるのか、と。でも、考えてみれば、当然のことなのだと気付く。一切の悩みも迷いも無く生きている人なんかいる訳が無いのだから。ぼくは勝手な思い込みでロックの姿を捻じ曲げて理解していただけに過ぎない。

「テルテルよ、難しく考えるのはお終いにするのじゃ。ワシらは友達なのじゃ」

「う、うん。そうだよね。ありがとう」

 太助に全てを見せた様に、ロックにも全てを見せてしまっても良いのかも知れない。そんなことを考えていた。多分、何を聞いても、何を話しても、ロックはしっかりと受け止めてくれることだろう。

「えっと……珍しいよね。普段のロック、そういうの着ないじゃない?」

「家にいる時は暑いでの。涼しい格好でおるのじゃ」

「ふーん。本当にそれだけ?」

 ぼくは上目使いにロックの表情を覗き込んでみた。必死で目線を逸らそうとするロックが可笑しくて、ぼくはロックの腕に自分の腕を回して見せた。照れ臭そうにしながら、そっぽを向いて見せる辺りからして、やはり、ぼくの予想に間違いは無さそうに思えた。夕方の露天風呂で殆ど確信していたけれど、やはり、予想通りだった。

「ねぇ、ロック?」

「ん? どうしたのじゃ?」

「ぼくと、キスしてみない?」

「ななな! 何じゃと!?」

「嫌?」

「い、嫌じゃ……無いのじゃ……」

 うん。予想が確信に変わった気がする。不意を突かれたロックは、トマトの様に真っ赤になって、ひたすら動揺している様に思えた。段々乗って来たぼくは、さらに追い打ちを掛けてみることにした。

「えへへ、ぼくもロックと同じ服、着てみたいな。ロックが選んでくれたのが良いな」

「へ!? ちょ、ちょっと待っているのじゃ……」

 何やら、鼻息が荒くなっている辺りからして、ロックはぼくと同じ趣味嗜好を持っているのだろう。可笑しな話かも知れないけれど、情鬼の色香に酔わされて、あらぬ方向に突っ走るよりも、ロックと共に堕ちてしまった方が、ずっと幸せだと感じていた。ぼくはロックに想いを寄せている。多分、今まで、その事実を認めようとしなかっただけなのだと思った。確かに、二人で遊ぶことも多かったし、二人で遊んでいる時は本当に楽しい一時を過ごせたのも事実だから。

(ウソつくの、止めるんだものね……)

「テルテル、これなんかどうじゃな?」

「お! 迷彩柄だね。えへへ、格好良いなぁ。ぼくにも似合うかな?」

「き、着てみるのじゃ!」

「うん。それじゃあ……」

 ロックが選んでくれた服を着てみた。丁度、ロックのハーフパンツと対になる感じで、ちょっと嬉しかった。普段のぼくは、こういう露出度の高い服は絶対に着なかった。ううん、着れなかったというのが正解かな。自分自身に自信無かったし、何よりも、恥ずかしいというのが一番の理由だった。だって、ぼく、色んな部分の毛、処理しているし……。でも、ロックが喜んでくれるならば、ぼくも嬉しい。ううん、ぼくも……興奮する、といった方が正確な所に思えた。

 ぼくはそのまま、ロックの布団に寝転がってみた。すぐさま、ロックもぼくの隣に寝転がって見せたけれど、何を思ったのか、ロックは慌てて飛び起きると、驚く程の早業で部屋のカギを締めた。これでこの部屋は完全に二人だけの世界。現の世から切り離された世界。だからこそ出来る芸当。こんな姿、コタ達には絶対に見られたくなかった。

「ねぇ、さっきの話だけどさ、ロックはぼくのこと……好きなの?」

 ぼくは体をロックの方へ向けて、思っていることを問い掛けてみた。

「むう、いきなり直球で挑んできたのじゃ」

「うん。ロックの言葉に従って、思っていること、全部話してみようと思うんだ」

 ロックは要らぬことを言ってしまったと、言わんばかりの困った笑顔を浮かべていた。太助を相手に、大分大胆な姿も見せちゃった今、改めて、ロックに自分自身の『秘密』を語って聞かせることに、それ程の抵抗は感じられなかった。

「ワシは、テルテルのこと……好きなのじゃ」

「そっか、嬉しいな」

 ロックの飾らない言葉が嬉しくて、ぼくは再び天井を見つめながら微笑んで見せた。そっと、ロックの手がぼくの手に重なり、優しく握ってくれた。柔らかな弾力が心地良く思えた。

「ぼくもロックのこと好きだよ。友達としてでは無く、ね……」

 ロックは静かに天井を見つめていた。微かな吐息だけが聞こえていた。

「一緒にさ、色んな所に出掛けたり、美味しい物食べに行ったり。そういう何気ない一時が本当に幸せなんだ。ずっと、ずっと……何時までも傍に居て欲しい。そう、思っているんだ」

 ちらりと横目で盗み見れば、相変わらずロックはぎこちない笑顔を浮かべたまま天井を見つめるばかりだった。きっと、相当緊張しているのだと思う。ロックのそういう素朴で不器用な一面、可愛らしいなぁと思う。

「だから、怖かったんだ。ぼくの本当の想い、知られちゃうの……」

「ワシも同じなのじゃ」

 天井を見上げたまま、微かな吐息が漏れる声が聞こえた。

「友達で居られなくなってしまうかも知れぬ。そう、考えると、どうしても手が引っ込んでしまうのじゃ。もう少しだけ、手を伸ばせば手に入る。そう、判っていても、失敗したら、どこか遠い場所に飛んでいってしまうのでは無いか? そう考えると、不安で、不安で仕方無くなっちゃうのじゃ」

 人と違った生き方をすること。それは、相応の勇気が必要になる。自由な生き方には相応の責任を伴う。誰も責任を取ってなんかくれない。全部、自分で背負わなくちゃ駄目なんだ。

(やっぱり……ロックはぼくと『同じ』なんだ。何か、ぼく、涙出ちゃいそうだよ……)

「リキと友達じゃったワシは、コタを経由してテルテルと知り合ったのじゃ」

 ロックの言葉に思わずぼくは起き上がった。過去を懐かしむロックの穏やかな笑顔、ただじっと見つめていた。

「ああ、そうだね。懐かしいなぁ。そう考えると、ロックと知り合ってから、それなりに経つんだね」

「そうじゃな」

 ロックは天井を見つめたまま、照れ臭そうに笑って見せた。そのままぼくの方に体を傾けると、顔を真っ赤にしながら、続けて見せた。

「い、今だから言ってしまうのじゃが、最初会った時から、ワシはテルテルに惹かれていたのじゃ……」

「そ、そうなんだ……」

 ぼくまで顔が真っ赤になる。

「そうなのじゃ。じゃから、嵐山に一人で遊びに来てくれた時、ワシは本当に嬉しくもあり、同時に、照れ臭さと、嬉しさと、気恥ずかしさで、しどろもどろだったのじゃ」

 あー。思い出すなぁ。ロックに、嵐山に遊びに来ないか、と誘われて、一人で遊びに来たんだっけな。確か、あの時も二人で渡月橋を眺めて、それから、ずーっと北上して行ったっけな。ロックの一押しだという竹林を眺めて、それから、小倉池を経由して化野念仏寺まで向かったっけな。ぼくがオカルト話好きだって言ったから、曰くありな場所を選んでくれる辺り、ロックらしいよね。

「えへへ。懐かしいねー! 竹林、一緒に歩いたよね。ほら、ロックの一押しだって場所!」

「うむ。色んな場所を巡ったのじゃ」

 穏やかな笑みを称えたまま、ロックは懐かしそうに天井を見上げていたけれど、不意に勢い良く起き上がった。

「おう、そうなのじゃ! テルテルよ、竹林に行かんかの? 夜の竹林は涼やかで、風情あるのじゃ!」

 懐かしい場所を巡る。あの時と同じ様な季節と時間帯。でも、違っているのは、ぼくとロックとの間にある距離だった。何かが起こる。そう確信していた。そして、それはぼくに取って大きな意味を為すと確信していた。行こう。そして……ロックとぼくの想い、重ね合わせるんだ。

「えへへ。夜の竹林か。良いね。風情ありそうだものね。うん、行こう!」

「うむ。そうと決まったら、支度するのじゃ」

 変わりたいと願うぼくがいて、変わるための手助けをしてくれるロックがいる。難しく考えることは無いのかも知れない。物事は単純な構造であれば、ある程に解決しやすくなる。複雑な迷宮の様な構造だと、解決し辛くなる。だったら、単純な生き方をする。これで良いのかも知れない。

「テルテルよ、冒険に出掛けるのじゃ!」

 相変わらずロックの行動力は桁違いで、振り返った時には既に姿は無かった。代わりに一階の玄関先からロックの声が響き渡った。

「冒険に出掛けるって……兄ちゃん、幾つになっても子供だよなぁ」

「や、喧しいのじゃ!」

 玄関先での大樹君とのやり取りが聞こえてきた。思わず、可笑しくなって吹き出しながら、ぼくは階段を下って行った。玄関先で靴を履き、颯爽と歩んでゆくロックの後に続いた。玄関先には嵐山旅館前の明かりに誘われてきたのか、蛾が何匹か壁に張り付いていた。皆、光を求めて生きているんだ。そんなことを考えていた気がする。

◆◆◆56◆◆◆

 外に出ると、この季節特有の蒸し暑い風が纏わり付く。やはり、夜とは言え相応の暑さがあるのは仕方が無い。

「うわっ、外に出ると蒸し暑いねぇ」

「こ、こういうのは気持ちの問題なのじゃ……多分」

 良く判らない理論を展開してくれたけれど、暑いものは暑い。気持ちだけでは解決出来ないのは間違いない。そんなぼくを後目に、ロックはスタスタ歩んでゆく。ぼくは慌ててロックの後を追い掛けた。

 昼間とは違って、夜の嵐山は静まり返っている。特に、この一角は民宿、旅館の立ち並ぶ場所だけに静かなものだ。渡月橋も辛うじて輪郭が見える程度で、辺りには明かりとなる物は殆ど存在していない。

「うわぁ、夜になると全然雰囲気変わるんだね」

「フフ、そうなのじゃ。じゃから、夜の散歩をする際には、懐中電灯があると良いのじゃ」

「さすが、準備良いねぇ」

 昼間と違って全く明かりの無い夜の渡月橋。人通りは全く無く、辺りには照明も無いため殆ど暗闇に包まれた状態だった。虫の鳴く声と、川の流れる音しか聞こえなかった。時折、光に釣られて飛んでくる虫達を追い払いながら、ぼく達は歩き続けた。やがて、駅前へと出る通りに至る。ここも人の気配は無くなり、微かな明かりだけに包まれていた。駅の照明だけが辺りを煌々と照らしている。

「うわっ……この辺りも真っ暗だね」

「うむ。夜は店も閉まってしまうから、人通りも無くなるでの。嵐山が賑わうのは日中帯だけなのじゃ」

「ふーん。でも、こんなに暗いと、ちょっと怖いよね……」

 不気味さを感じずには居られない暗さだった。駅の明かりを除けば光を放つ物は無い。人通りの絶えた通りは、昼間の賑わいとはまるで別世界に思えた。不安な気持ちを胸に抱いていると、そっと、ロックがぼくの手を握ってくれた。

「ロック、ぼくの手、汗でベタベタしているよ?」

 返事は無かった。ただ、ロックは前を向いたまま微かな笑みを称えるばかりであった。それ以上追及するのは何だか恥ずかしくて、ぼくは何も言えなかった。人気の無い暗い道とは言え、ぼくは顔が紅潮するのを感じていた。

 暗がりの中、ロックが手にした懐中電灯の明かりを頼りに、ぼく達は小道に曲がった。この先には野宮神社が存在している。さらに先には小さな踏切と線路が存在している。踏切を超えれば竹林へと至る。嵐山の竹林は本当に風情あふれる場所で、ロックと一緒に何度も訪れた場所だ。風が吹けば、さざ波を聞いているかの様な涼やかな音色が響き渡る、涼やかな風情あふれる場所。

「大樹は泣き虫じゃったからの。こうして一緒に手を繋いで歩いたものじゃ。高校生にもなって、手を繋ぐなんて小恥ずかしいじゃろう? じゃが、こうすると大樹は何時も安心して泣きやんだのじゃ」

 随分と昔の話なのでは無いだろうか? 多分、まだ、ロックの弟の大樹君も小さかった頃の話だと感じていた。昔話をするような年でも無いじゃないと突っ込みを入れようかと思ったけれど、出掛かった言葉を飲んだ。ロックと大樹君。仲の良い兄弟の関係を羨ましく思ったのも事実だから。

「この辺りはシロとのお散歩コースだったのじゃ」

「シロ君とも、此処を歩いたんだね」

「うむ。毎日のお散歩コースじゃったな。渡月橋を抜けて駅前の賑わう通りを歩んでいく。途中で小道に左折して野々宮神社を経由。小さな踏切を越えて竹林を抜けて、最終的には化野念仏寺の辺りまでじゃな。今思えば結構長いお散歩コースだったのじゃ」

 不意に風が吹き抜ければ、それに呼応するかの様に竹の葉達が一斉に、さざ波の様な涼やかな音色を奏でる。目を閉じれば、海辺に居る様な感覚に陥る。

「嵐山には色んな思い出が眠っているんだね」

「うむ。これまでも、それから、これからも、思い出は増えて行くのじゃ」

「そうだね。一緒に作ろうね、思い出、一杯」

 これからは一人じゃ無いんだ。ぼくと一緒に歩んでくれる仲間がいてくれる。とても心強くなれそうに思えた。

 不意に、何やら意味深な笑みを浮かべながらロックがぼくの正面に立つ。暗がりの中でも、その表情は鮮明に判ってしまった。微かに顔を赤らめながら、ついでに、息遣いも荒かった。ぼくも釣られてドキドキしてしまう。何を言おうとしているのか想像出来てしまっていたから。

「ずっと、テルテルのこと、想っておったのじゃ」

「う、うん……」

 握り合った手に、一際強い力が篭められた気がした。手を伝って、ロックの鼓動が波の様に伝わってくる。時が止まってしまった様な感覚だった。辺りは静けさに包まれている。ぼく達の荒い息遣い意外、何の音も聞こえなかった。

 部屋にいた時とは打って変わり、随分と熱の篭った振舞いに思えた。先刻聞かされたのと同じフレーズのハズなのに、どうして、こんなにも胸が締め付けられるのだろう? 息が出来なくなる位に緊張していた。ぼくは体中が熱くなる様な感覚を覚えていた。

「こんなこと、いきなり告白されてテルテルも驚いておるじゃろうけど、偽らざるワシの想いなのじゃ」

 それにしても色々な偶然が重なっている気がする。ずっと疑問に感じていた。こういうのはキッカケが無ければ、中々話を切り出すことも難しい気がする。何も無い状況で気まぐれに思い付いたというには、あまりにも違和感があり過ぎる様に思えた。そう考えると、こうなるように仕向けたのは、間違い無くコタとしか考えられなかった。まったく、随分と大きな賭けに出てくれる。ぼくのこと、理解しているとは言え、失敗した時のことを考えなかったのだろうか? ううん、そうじゃないんだろうな。あの情鬼は色香でぼくを惑わそうとしている。無理矢理にでもぼくのことを繋ぎ止めようとしている。普通に正面から挑んでも打ち勝つのは簡単なことじゃない。そのために、もっと大きな色香で心を繋ぎ止める……。そうか、それを判っていたから、太助は敢えて、ああいう行動に出たのか……。

「テルテルよ、コタを責めないで欲しいのじゃ」

「え? どういうこと?」

「ワシからコタに話をしたのじゃ。名乗りを挙げるなら今しかない。そう、思ったのじゃ」

「ろ、ロック……」

 今まで見せたことも無い様な、哀しみに満ちた表情だった。初めて、見たかも知れない。憂いや、哀しみ、それから……怒りに満ちたロックの表情を。笑っている顔以外、殆ど見たことが無かっただけに、驚きを隠し切れなかった。

「悔しかったのじゃ」

「え? 悔しかった?」

「そうなのじゃ……」

 ロックは静かに呼吸を整えながら、大きく息を吸い込むと、気迫に満ちた表情でぼくに向き合った。

「桃山なんかの、何処が良いのじゃ! ワシの方が、ずっと、ずっと、テルテルのことを想っておったのじゃ!」

 初めて見た気がする。ロックの、こんなにも熱の篭った真剣な表情を。

「祇園さんでのこともそうなのじゃ。太助に先を越され……ワシは悔しくて、悔しくて、涙さえ流したのじゃ」

「そ、そんなにもぼくのことを?」

「何時も、何時も、コタと仲睦まじく振舞って居る姿、見る度に、ワシはコタに殺意さえ覚えておったのじゃ……」

「ロック……」

「惨めな話じゃが……ワシは本気でテルテルのことを想っておった。むぅ……。違うのう。テルテルのことしか見えて居なかったのじゃ」

 意外だった。争い事を嫌うロックが、こんなにも強い執念を抱いていようとは思わなかった。

 太助のことだ。ロックの想いさえも見抜いた上で、ぼくに接してくれたのだろう。考え過ぎかも知れないけれど、太助はそういう気遣いが出来る子だ。それに、人の心を読めることを考えれば不可能な話では無いのかも知れない。恐らく、ロックがぼくに想いを寄せていることを知った上での、予行練習的な振舞いを見せてくれたのでは無いだろうか? だから、敢えて、ぼくの想いが太助に向かない様に振る舞ってくれたのでは無いだろうか? 荒っぽい手段ではあったけれど、しっかりと意味を為してくれた。馬鹿みたいだ……。皆、ぼくのことを、こんなにも大切に思ってくれているのに、一体何を迷う必要があったのだろう? 今度こそ、ぼくは皆の想いに応えなくちゃいけない。ううん。皆の想いに応えさせて欲しい!

「そんなに、ぼくのこと……想っていてくれたんだね」

「こ、こんな、暗がりでも無ければ、多分、ワシは一生、想いを口に出来なかったの思うのじゃ。ワシは臆病者じゃからな……」

 多分、こういうのは理性で動く様なものでは無いと思う。一つの試練なのかも知れない。凄くご都合主義かも知れないし、仮に誰かの与えた試練だとしたら、随分と荒っぽい試練だと思う。でも、多分、ぼくはもう想いを抑えること出来なかったと思う。ううん、ぼくだけじゃない。ロックも同じだったと思う。握り締めた手の感触。ロックの手、驚く程に熱くなっていた。震える様な脈動、シッカリ伝わっていた。凄く、不安と緊張で一杯だったのだと思う。今度は、ぼくが応える番だ……。

「理由なんかさ、無いと思うんだよね。ぼく、ずっと迷っていた。自分のこと、凄く嫌っていた。人と違う自分、怖かった。ただでさえ、ぼくは多くの人達から迫害されてきた身だから……」

 ぼくは一呼吸置いてから、ロックの目をしっかりと見据えた。

「ねぇ、ロック。聞いて欲しい話、あるんだ」

 ぼくは打ち明けた。死を予見する能力のこと、木々の魂が見えること、桃山先生の淫らな誘惑に落ちそうになったこと、全部、全て、包み隠さずに話した。淫らな映像を見せられて、興奮のあまり、夢精しちゃったことも打ち明けた。ロックには全てを見て欲しかった。ぼくの全てを受け入れて欲しかったから。だから、これも告げた……。

「あの人のこと……ぼくは殺したいと思っている。幼い頃からの虐待の数々、忘れることは出来ないんだ」

「壮絶な体験をしてきたのじゃな。ワシに、何処までのことが出来るかは判らないのじゃ。じゃが、ワシはテルテルの可愛らしい笑顔、好きなのじゃ。じゃから、ずっと、笑っていられる様に、一緒に歩んでいきたいのじゃ」

「うん。一緒に、歩もう?」

 でも、さすがに……太助とエッチなことしたのは、言えなかった。だって、ロックってば……。

「し、しかし……うぬぬ、太助の奴め、ワシのテルテルに腕枕をしたじゃと! ぬぬぬ……許し難いのじゃ!」

 太助の家に泊まりに行った際に、腕枕して貰ったことを、うっかり喋ってしまったら、もう、それだけでも、手が付けられない程に顔を真っ赤にしていた。でも、意外な一面を見付けた気がする。ロックって表面上は何時も穏やかな笑みを称えているけれど、中身は案外、リキに似ているのかも知れない。物凄く、負けず嫌いなんだなぁ。

(ごめんね、ロック。卑怯かも知れないけれど……太助との間にあったことは、さすがに言えないよ。だって、ロック、本気で太助のこと、どうにかしちゃいそうだったし。悪いのはぼくだから。卑怯な振舞い、本当にごめんね)

 そんなことを考えていると、不意に風が吹き抜けて行った。風が駆け抜けて往けば、竹の葉達も一斉に掻き鳴らされる。さざ波の様な音色が一斉に、辺り一面に響き渡った。幻想的な音色に思わず感嘆の吐息がこぼれる。寄せては返すさざ波の様な音色。広大な大海原の真っただ中に抱かれている様な、深い、深い、慈悲に包まれている様な感覚を覚えていた。尚も、風が吹き抜けて往く。寄せては返すさざ波は途切れることなく、何時までも、何時までも、響き渡っている様に感じられた。大自然の息吹、木々達の想い、色々な感情が膨れ上がって、一気に破裂した気がした。今、ぼくは大海原を想わせる様な竹林と一つになった。ロックと一緒に竹林に抱かれている。幻想的で、壮大で、心が沸き上がる様な思いで一杯だった。声を挙げて叫びたくなる程に、心が激しく震えているのを感じていた。

「うわぁ、凄いよ! まるで海辺にいるみたいだ! ああ、何て幻想的なんだろう!」

 静まり返った竹林に響き渡るぼくの声。それに呼応するかの様に、ロックは唐突に懐中電灯の明かりを消し、足元に置いた。完全に光が失われ、辺り一面漆黒の闇夜に包みこまれた。

「うわっ! ろ、ロック、真っ暗になっちゃったよ。怖いって」

「……大丈夫なのじゃ」

 先程とは打って変わって、妙に落ち着いた口調だった。微かに目の前にロックが佇んでいる。それしか判らない程に、辺り一面完全な闇夜に包まれていた。

「明るい所では、恥ずかしくて問えない話なのじゃ。じゃから、暗闇に包まれたまま、話をさせて欲しいのじゃ」

「うん、判ったよ。でも、何の話? まさか、この状況で怖い話するの? 雰囲気あり過ぎて、本当に恐怖体験出来ちゃいそうだよね」

 茶化す様なぼくの言葉にロックは可笑しそうに笑っていた。何だか、妙な雰囲気になってきたのが耐えられなくて、つい、場の空気を変える様な発言をしてみた。でも、ロックは既に何かを覚悟したかの様な、確固たる表情を浮かべていた。ならば、ぼくもシッカリ向き合おう。

「可笑しなことを問うでの。怒らないで聞いて欲しいのじゃ」

「う、うん。判った」

「テルテルは……コタとは、どういう関係なのじゃ?」

 本当に、言葉通り、凄い所から突いてきてくれる。普段のロックからは想像も出来ない姿だった。ロックもぼくと似ているのかも知れない。皆から好かれる様にするために必死で演じていたのかも知れない。でも、今のロックはぼくと同じく本当の自分で接している。だから、普段の姿と違うのは当然と言えば当然なのかも知れない。

「ずっと、コタのこと……好きだったよ」

 一瞬、ロックが震えた様に見えた。でも、ぼくは続けた。

「何時も、ぼくのことを守ってくれる兄の様な存在だった」

 ロックは俯いたまま、ぼくの話に耳を傾けてくれている。

「何度かコタからもね、想いは打ち明けられたんだ。でも、ぼく、勇気が無かったから、結局うやむやにしちゃってね」

 何時の間にか、暗闇の中でも、鮮明に判る程に強い眼差しを感じていた。ロックはきっと、ぼくのこと、じっと見ているのだろう。それ程までに、ぼくのことを想ってくれていたんだね……。本当にありがとう。

「今は、普通の兄弟みたいな感じになっちゃっているよ。ほら、丁度、ロックと大樹君の関係みたいな感じだよね。それにね、コタには既に想っている誰かいるみたいだからね」

 これで、ロックも安心出来るだろう。そんなことを考えていたけれど、相変わらず、ロックは鋭い眼差しでぼくを見つめている。今まで見せたことも無かった姿が、少し怖く思えた。

「その……コタや太助とは、それだけの関係なのかの?」

 何となく、ロックが問いたい内容が見えてきた気がする。尚のこと、本当のことを言う訳にはいかなかった。ウソ、つくの止めるつもりだったけれど……でも、知らない方が良いことがあるのも事実だから。それに、ロックとこんな関係になれると事前に知っていたら、ぼくは全力で太助のことを拒否していたと思う。だって……やっぱり、ロックの哀しむ顔、見たくないから。それに……コタとの間にあったこと。あの事実も打ち明ける訳にはいかなかった。卑怯者と罵られても良いさ。あれは……ぼくとコタ、二人だけの哀しい秘密だから。

「ほら、ロックも知っての通り、ぼくは臆病者だからね。そんなことするだけの、度胸、ある訳無いじゃない?」

 こういう場面では自分でも嫌になる位に流暢なウソが飛び出すものだ。でも、同じ興味はぼくも抱いている。だから、今度はぼくが問い掛ける番だ。

「……そういう、ロックはどうなの?」

「ふむ。ワシにそんな度胸がある様に見えるかの?」

「えへへ。見えないよね」

「むう……。随分とハッキリと言ってくれるのじゃ」

 ずっと立ったままなのも段々と疲れてきたぼくは、ロックに腰掛けようと声を掛けた。あれから雨も降っていないし地面には竹の枯れ葉が敷き詰められている。そうそう汚れる様な感じには思えなかったから、そっと腰を下ろしてみた。暗くて鮮明には見えなかったけれど、ロックもぼくの隣に腰掛けるのが見えた。腰掛けたロックは、そのまま、ぼくの手を握ってくれた。

「ねぇ、ロック。ぼくも可笑しなこと聞いても良い?」

「む? う、うむ。何でも聞くのじゃ」

 こんなにも自分のことを想ってくれている相手がいる。もっと、仲良くなりたいと願うのは人の常だと思う。それに……段々と本能を抑え切れなくなってきた。奇しくも此処は漆黒の闇夜。人の気配も全く無い場所。理性を保っている意味など、さほど無いのかも知れない。だから、ぼくは本能の赴くままに、ロックに問い掛けていた。

「あのさ……普段はさ、どうやって処理しているの?」

「ほ、ほえ!? わ、ワシは……」

 ロックは顔を真っ赤にしながら語り始めた。握り締めたぼくの手に一段と力が篭められた気がした。

「て、テルテルの……画像や、写真をネタにして……」

「え……ぼ、ぼくを?」

「そ、それとか、皆で一緒にお風呂に行った時に見た、テルテルの体を想い浮かべたりとか……してじゃな……」

 ロックは本当に一途にぼくのことを想ってくれていた。オナニーのネタに使われちゃっているって、ちょっと複雑な心境だったけれど、でも、それだけぼくのこと、想っていてくれたんだ。

「時々は、夜の渡月橋とか、中之島公園とか、竹林とかでの……人目を忍んでコッソリとか……」

「えへへ、外でオナニーしちゃったりしているの? うわぁ、ロックってばエッチだなぁ。ぼく、興奮しちゃうよ」

「あうぅ……。て、テルテルよ、わ、ワシは恥ずかしくて……死んでしまいそうなのじゃ」

 真っ赤になりながら、必死でぼくの顔色を窺うロックの素振りが可笑しくて、ぼくは思わず吹き出してしまった。笑われて余計に恥ずかしくなったのか、ロックは俯いたまま固まってしまった。何だか妙に照れた素振りが可愛らしくて、ぼくはロックに寄り添ってみせた。ロックは、そっとぼくの肩を抱いてくれた。

「ロック、退かないでね? ぼくね、自分で言うのも変だけど、凄い変態なんだよね……」

「へ、変態、とな?」

「うん。携帯でね、裸の自分を写したり、動画に撮ったり。濡れてきた汁とか、出ちゃった後の精液とか舐めるのも好きなんだ。変態でしょ? 部屋でさ、裸になって、そうやって楽しんでいるんだ」

 偽らざるぼく自身の真実……。あの情鬼は、ぼくの隠された一面さえも見抜いていた上で、桃山先生をけし掛けてきたのだろうか? もしも、ぼくの秘密さえも知り尽くしているとなれば、本当に恐ろしい相手だ。同時に、何が何でも抹殺しなければならない。ぼくの秘密を知る以上、絶対に生かして置く訳にはいかないから。

 ぼくの言葉に余程驚いたのか、ロックの荒い息遣いが聞こえて来る。

 ああ、快楽を求め続けたのには理由があるさ。あの母親にしろ、周囲の人々にしろ、ぼくの周りには敵しか居なかった。痛みを与える者達しかいなかった。傷を癒してくれる相手も誰も居なかった。だから、ぼくは必死で自分を慰め続けた。快楽を追い求めたのは副産物に過ぎないけれど、でも、それでも、ぼくには他に楽しみが無かったんだ。言い訳するつもりも、弁明するつもりも無いさ。でも、ぼくは気持ち良いことが好き。それは事実だから否定するつもりは無い。事実と言えば……ぼくがこんなにも淫らになったのも、明確に男の子に興味を抱く様になったのも、皮肉なことに、卓君に辱めを受けたことが原因だった。最低な出来事だったけれど、同時に、最高に興奮したのも事実だった。ああ、何度もあの場面を思い出して楽しんださ。卓君のことを憎めば、憎む程に興奮も覚えた。もしかしたら、ぼくは卓君に辱めを受けたいのかも知れない。多分、これ以上無い位に興奮して、気持ち良く射精して、その後は多分、卓君のことを撲殺すると思う。血に塗れて事切れた卓君にたっぷり、ぼくの精液を飲ませてあげるよ。ぼくの夢の一つかな。なんて禍々しい夢なんだろう。

「えへへ。見る? ぼくの……恥ずかしい姿。画像も、動画も、色々あるんだ」

「な、なぬ!?」

 一気にロックの鼻息が荒くなった。多分、凄く興奮してくれているのだと思う。ああ、ぼくも興奮してきちゃったよ。どれを見て貰おうかな? 出来るだけ、変態なぼくを見て欲しいなぁ……。

「み、見たいのじゃ……」

 蚊の鳴く様な声でロックが呟くのが聞こえた。だから、ぼくは淫らなぼくを写した動画を見せてあげることにした。場所はぼくの部屋。座ったまま、大きく足を広げて、いやらしくオナニーしている動画を見せた。

『ああ……ああん……んんっ!』

「す、凄いのじゃ……」

 動画の中で、ぼくは自らの胸を鷲掴みにして、乳首を指で撫で回しながら、おちんちんを扱いていた。足を挙げているから、お尻の穴まで何もかも丸見えになっている。丁度、ぼく達が見ているのは、あふれ出る先走りを指で掬い取りながら、舐めている所だった。

『ああ……美味しいよ……おちんちんの汁、美味しいよ……』

「はぁっ、はぁっ……」

 もう、言葉も出て来ない様子だった。ロックは画面にくぎ付けになったまま、荒く呼吸をしていた。薄ら笑いを浮かべたまま挑発し続けるぼくの姿を、ぼくはロックと一緒に見つめていた。

『ううん……ああっ……出ちゃいそうだよ……ああん、ぼくの精液、出ちゃう……ああっ!』

 いやらしい言葉を口にしながら、ぼくは犬の様に四つん這いになっていた。

『出ちゃう! 出ちゃう! ぼくの、ぼくの……いやらしい精液が、ああっ、ああん! 見て? 良く見ていてね? ああっ! ああっ! 出る! 出る! あ……』

 そのままフローリングの床に、ぼくは大量の精液を放出した。何度も、何度も、ビュルビュル出続けていた。でも、この動画は未だ終わらない。変態なぼくがこれで終わらせる訳が無い。

『ああ……んんっ、精液、美味しいよ……ぼくの……精液』

 ジュルジュルといやらしい音を立てながら、ぼくは自分の精液を舐め回していた。まるで犬の様に……。

 一段と荒々しく呼吸するロックの吐息が響き渡る。いきなり、ロックは立ち上がると、ぼくの手を掴んだ。力一杯引き上げられて、ぼくも思わず立ち上がった。

「て、テルテルよ、済まんの……。ワシはもう、抑え切れそうにないのじゃ!」

 いきなり、ロックはぼくの手を掴むと、そのまま股間にぼくの手を宛がってみせた。温かな肉の感触……。少なくてもハーフパンツも下着も着けていない感触だった。ぼくの鼓動が一気に最高潮に達した。ぼくも真似してハーフパンツを下ろした。上は着たままの方が良いかな? ロックの趣味に合ってそうだし。自分でも驚く程に冷静だった。

「無理にとは言わんのじゃ。ただ、ワシは……もう、抑え切れぬでの……」

「ぼくも、同じだよ……」

 暗がりの中、ロックが何をしようとしているのか、ぼくには判っていた。抗うつもりも無かったし、こんな場所でという背徳感が余計にぼくの理性を失わせた。どうせ、誰も通らない夜道だ。それに、こんなにも興奮しちゃっているのに、今更、退き下がることなんて出来そうも無かった。こういう行為が愛情に繋がるのかどうかなんて判らなかった。ただ、ぼくはもう、自分を抑え切れなかった。真正面から向き合ったロックの腕を持ち上げ、脇の下をじっくりと観察させて貰った。

「えへへ。ぼく、脇の下フェチなんだよね。ロックの体、やっぱり綺麗だなぁ。すごく興奮するよ」

「そ、そういうテルテルも、見せて欲しいのじゃ」

 ロックはぼくがしたのと同じことをしてみせた。鼻息荒く、多分、興奮してくれているのだと思う。

「うん。好きなだけ見て? もう、ぼくはロックの物だよ。好きに壊しちゃって……」

「テルテルは童顔じゃから、本当に子供みたいなのじゃ。ううっ、こ、興奮するのじゃ……」

 そう言いながらロックは犬の様にぼくの脇の匂いを嗅いで見せた。何だかくすぐったいのと、照れ臭いのと、それから……恥ずかしさが、一気に興奮へと変わっていった。

「えへへ、ぼくにもロックの匂い嗅がせて?」

「あ、ああっ! く、くすぐったいのじゃ!」

「ふーん。じゃあ、これは?」

 今度は舌を這わせてみせた。ロックの脇の香りを堪能しながら、ぼくはロックの脇を舐め回した。そのままタンクトップを捲りあげてみた。ロックのおっぱいは凄く好みだった。大きな乳輪……ピンク色で滑らかで、凄く綺麗だった。ロックは太っているというより、筋肉の上に脂肪が乗った様な体型だから、見た目以上に弾力も張りもある。

「綺麗だなぁ……。ねぇ、ロック、おっぱい、感じる?」

「た、試したこと……無いのじゃ……」

「そっか。それじゃあ……」

 ぼくは、あの時、太助がしてくれたのと同じ様に、ロックの乳首に舌を這わせてみた。滑らかな感触が、微かな汗の味が口いっぱいに広がってゆく。

「あ、ああっ!」

 電気に打たれた様にロックが身悶えている。多分、気持ち良いのだと思った。舌先で頃がして見たり、吸い付いてみたり、色んなことを試してみた。気持ち良さそうな声を挙げていたけれど、突然、ロックがぼくの腕を掴んで見せた。

「テルテルばかり、ズルいのじゃ。ワシにもやらせるのじゃ」

 脇の部分を乱暴に引っ張り上げれば、ぼくのおっぱいもプルンと露呈する。ロックの熱い鼻息を感じていた。

「て、テルテルのも……綺麗なピンク色なのじゃ」

「あっ!」

 荒々しかった太助の攻め方とは違い、ロックは大切な物を愛でるかの様に、優しく、ゆっくりと舐め回してくれた。太助の時とは比べ物にならない程の快感が体中を駆け巡った。多分、漏らしているのでは無いかという位に、ぼくのおちんちんからは、止め処なく、いやらしい汁が滲み出ていたと思う。

 不意に、列車が駆け抜けてゆく音が響き渡った。踏切の鳴り響く音。カンカンカンカン。続けて、列車が駆け抜ける轟音。微かに列車の明かりに照らし出されるぼく達の姿。もしかしたら、見られているのかも知れない。そう考えると、余計に淫らな気分が駆り立てられる。

 暗がりの中、ぼくはロックと肩を組みながら握り締めた。今まで体験したことも無い程に興奮していた。痛い程に、はちきれんばかりに燃えたぎっていた。だから、ぼくは精一杯扱き続けた。ロックと肩を組んだまま、互いの荒い息遣いに興奮しながらも、扱き続けた。後から、後から、いやらしい汁が湧き出してくる。すっかりベトベトになっていたけれど、手は止まらなかった。

「て、テルテル……ワシ、こんなに、興奮したの、初めてなのじゃ……」

「う、うん。ぼくも、初めてだよ……」

 普段、学校で共に顔を合わせる仲の良い親友。昨日までは何一つ変わったことの無い極普通の友人同士だった。こんな展開になろうなんて夢にも思わなかった。確かに、好きだとは思っていたけれど、それは淡い恋心の様な物で、こんな俗物に塗れた、淫らな想いでは無かった。

「あ、ああ、テルテル……こ、腰が抜けそうなのじゃ……」

「う、うん。ぼくも、凄く、気持ち良いよ……」

 日常が非日常に変わる瞬間と出会うことは、そうそう滅多にあることでは無い。でも、そうした瞬間と出会えた時、ぼくは大きく価値観や生き方が変わってきた。そういう出会いを求めて、ぼくは自分探しの旅を続けるのだと思う。でも、もう、綺麗事を口にするのは止めよう……。ぼくはただ性欲に突き動かされるだけの変態に過ぎない。良い子ぶるの止めよう。真実から目を背けたって何も良いことは無いんだ。

 それに判ったんだ。誰かを愛する想いと、快楽を求める想いは重なり合うものなのだと。綺麗事だけの純愛なんてぼくには似合わないし、そんなウソに塗れた付き合いは嫌だ。好きな相手とは、やっぱり、気持ち良く成りたい。気持ち良く成りたいから、もっと好きになれる。多分、そういうことなのだと思う。そうなのだと感じていた。そう考えると、不謹慎だけど……太助がぼくを好きだという気持ち、本気だったのかも知れない。そんなことを考えていた。

「うう、あ、あまり……長くは持たなそうなのじゃ」

「ぼ、ぼくも……」

 波の様に押し寄せる快感に、ぼくはただ身悶えていた。抗うことなんて到底出来る訳が無かったんだ。こんなにも気持ち良いのに、こんなにも興奮しているのに、阻止出来る訳が無いんだ。ああ、もっと、もっと、気持ち良くなりたい! あの情鬼が作り上げる絵空事の誘惑になんか二度と屈しない位に酔わせてしまおう。もう、どうなっても良いんだ。麻薬の様に中毒症状に陥っても構わない。もっと、もっと! 狂って、壊れて、何もかもを見失ってしまいたかったから。

 再び踏切が鳴り響く。カンカンカンカン。視界の端に入る明滅する赤い光。列車が線路を打ち鳴らしながら近付いて来る音が響き渡る。

 ぼくは興奮を抑え切れずにロックに抱き付いた。二人で互いを二度と離れない様に、しっかりと抱き締め合い、激しく舌を絡ませ合った。

「も、もう、持ちそうに無いのじゃ!」

「ぼ、ぼくも、そろそろ限界だよ!」

「そ、それじゃあ、一緒に出すのじゃ!」

「う、うん……」

「あ、ああっ! 出る! 出るっ!」

 列車が駆け抜ける音にかき消されない様にぼくは必死で歓喜の声を張り上げた。多分、ロックも同じ気持ちだったと思う。今、ぼく達の心が一つになった。その瞬間、ぼくとロックの想いが弾け飛んだ。腰が抜けそうになる位に激しい感覚だった。多分、今まで生きてきた中で一番淫らな想いをした瞬間だったと思う。もう、後戻り出来なくなってしまった気がした。でも、それも悪く無かった。ああ、今のぼくならば、あの情鬼の子供騙しな色香に何か動じないさ。もしかしたら、ロックの姿を取るかも知れない。でも、ぼくはもう揺るがない。絶対に揺るがないさ。

 ガタンガタン、ガタンガタン……。微かに駆け抜けて往く列車の音だけを聞いていた。暗がりの中でハッキリとは判らなかったけれど、ぼく達の足元には、混ざり合う二人の、温かな精液が小さな水溜りを呈していたことだろう。こんなに沢山出たのは生まれて初めてのことだった。密着したまま、勢い良く出したため、二人ともベタベタになってしまっていた。

「ううっ、大変なことになったのじゃ……」

「ロックの家に戻ったら、もう一度お風呂に入ろう」

「その後は、どうするのじゃ?」

「もっと色んなお話しよう? 一杯お話して、一杯……うーん、お話じゃ無くなっちゃうかも?」

「ずっと……テルテルとエッチしていたいのじゃ」

「もう、ロックってば! でも……うん。ぼくのこと、ずっと抱き締めていて欲しいな……」

 勢いに任せて、とんでもない行動に出ちゃった気がする。微かな後悔と、新たな展開へと馳せる希望。手段はどうかと問われれば、少なくても、正しい手段だったとは言えないのかも知れない。異質な道を歩み始めてしまったのは事実。それは受け入れるさ。不浄な生き方だと罵られるかも知れない。でも、ぼくはもう、後ろを振り返りたくない。進む道はイバラの道なのかも知れない。感情よりも欲情の方が先走ってしまったのは事実だけど、否定はしない。もう、形だけの優等生な生き方には疲れた。ぼくは、ぼくの道を歩む。文句がある奴は勝手に言っていれば良い。立ち塞がるならば容赦なく殺す。だって、これが……ぼくの生きる道なのだから。やっと、見付けた、ぼくの生きる道なのだから。邪魔する奴は容赦無く殺すだけさ。罪なら幾らでも背負おう。どうせ、ぼくは呪われた身なんだ。もう、畏れる物なんか、何一つ無いのだから……。

◆◆◆57◆◆◆

 明けてみれば空は灰色一色だった。どんよりと厚みを帯びた雲に覆い隠されていた。何だか気が滅入る空模様だった。厚い雲からは盛んに雨粒が降り落ちていた。傍らではロックが一糸まとわぬ姿のまま、静かな寝息を立てて寝ている。窓の外に目線を投げ掛けていると、背後に微かな風を感じた。そっと振り返れば、丁度ロックも目が覚めたところだった。

「ふむ、良く寝たのじゃ。む? もう既に起きておるとは、お主、中々に出来るとお見受けしたのじゃ」

「ロックってば、何の話だかサッパリなんだけど? それより、朝から雨模様だね」

「ううむ、嫌な空模様なのじゃ。こういう時は、雨でも気兼ねなく遊べる場所に行くのじゃ」

 何やら自信に満ちた笑みを浮かべている辺り、どこかお気に入りの場所に案内してくれるつもりなのだろう。さて、何処へ向かうのだろう? 考えていると、ロックは机から地図を持ってきた。

「別段、珍しい場所でも無いのじゃが、錦市場に行ってみるのじゃ」

「確かにアーケードに覆われているから雨の影響は受けないよね。でも、何で錦市場なの? 嵐山旅館で使う食材の買出しを頼まれているとか?」

「ふむ。あまり深い意味は無いのじゃ」

「あはは……ロックらしいねぇ」

 錦市場といえば、リキの所に遊びに行った時に何度か一緒に行ったっけな。ぼくには無縁な場所だけれど、料理人を目指しているリキに取っては宝の宝庫の様な場所らしい。確かに、色んな食材を見ながら歩き回るのって、ちょっとワクワクするよね。きっと、料理を作る人は、ずらりと並んだ食材を見ながら、何を作ろうかをあれこれ考えたりするんだろうなぁ。ぼくも今度リキに料理を教えて貰おうかな。えへへ。何か美味しいお菓子作って、ロックに食べさせてあげたいな。「はい、あーん」とかやっちゃって……。余計な妄想が脳裏を駆け巡り、ぼくは思わず真っ赤になっていた。

「フフフ、テルテルよ、錦市場にはワシらの聖地、『こんなもんじゃ』があるのをお忘れかの?」

「あー! すっかり忘れていたよ。豆乳ドーナツに、豆乳ソフト! ううーん、お腹が鳴っちゃうよね」

「俄然やる気になった様じゃの? それでは、朝食を済ませて、颯爽と冒険に出掛けるのじゃ」

「うん。でも、その前に……」

「あー、そうじゃな。風呂に入るのが……先かのう?」

「う、うん……。ちょっと、アレな匂いしそうだからねぇ……」

 枕元のゴミ箱を埋め尽くさんばかりの、ティッシュの山を見つめながら、思わず二人で笑いあった。笑って、真っ赤になりながら、ぼく達はもう一度、舌を絡ませ合った。ついでに、ティッシュの山……少しだけ増えちゃった気がする。

 こうしてぼく達はロックのお母さんが準備してくれた朝食を頂き、嵐山旅館を後にした。

 外に出てみれば雨足は意外に強く、傘をさしていても濡れてしまいそうな程に降っていた。シトシトと降り続く雨の影響なのか桂川の水かさも大幅に増していた。土色の濁流となってゴウゴウと流れる様は、大自然の脅威を思い知らせるには十分に思えた。ぼく達は渡月橋の上で足を止め、川の流れにしばし見入っていた。

「雨降ると、やっぱり増水するんだね」

「そうじゃな。この桂川は過去に何度も氾濫しているのじゃ。その度に周囲の家々を呑み込んできた歴史を持つという中々の暴れん坊での」

 何だか、背筋が寒くなる話を聞かされて、ぼくは慌てて身を退いた。川の中から無数の手が伸びて来る……そんな感覚を覚えた。思わず、再び川を覗き込んでみたが桂川は変わることの無い流れを称えていた。

「ど、どうしたのじゃ?」

「な……何か、川の中からぼく達を連れ込もうとするかの様な、無数の手が見えた気がして……」

「こ、怖いことを言うで無いのじゃ!」

 思わず二人、顔を見合わせて、慌てて渡月橋を駆け抜けた。何だか妙な気配を感じて仕方が無かった。恐る恐る渡月橋を振り返ってみるが、別段変わった様子は見られなかった。もしかしたら、本当に其処に居たのかも知れない。氾濫した桂川に呑まれて命を失った者達が。

「と、とにかく駅に向かおう?」

「そ、そうじゃな……」

 ぼく達は後ろを振り返らない様にしつつ嵐山駅を目指した。朝早いせいか立ち並ぶ店は何処も閉まっており、シトシトと降り続ける雨模様も相まって殊更薄気味悪く感じられた。

 良く考えてみれば、嵐山という地は生きる者達と、死に往く者達の交差する場所でもある。多くの人々の命を喰らって来た荒ぶる桂川もそうだけど、化野の周辺は古き時代の風葬地であった訳で……嵐山という土地は明るい雰囲気とは裏腹に深い歴史を持つ場所でもある。ぼくの能力が、そうした者達の存在さえも鋭敏に感じ取らせるのかも知れない。

(畏れるだけじゃ駄目だったね。この忌まわしい能力、少しでも有効活用しなくては……)

「彷徨える死者を畏れるだけでは駄目だよね。成仏出来るように祈りを捧げることも必要かな」

「ううむ、確かにそうかも知れぬの。畏れておるだけでは駄目じゃな」

 何を、どう出来るかは判らなかったけれど、ただ、心の片隅に置いておくだけでも違うのでは無いだろうか。そんなことを考えながら、ぼく達は嵐山駅の改札を抜けた。雨だから人通りも少なかったけれど、土産物屋は煌々と明かりを灯していた。

 先ずは嵐山から帷子の辻を経て四条大宮へと向かう。四条大宮で乗り換えて河原町まで移動。そこから少々歩いて寺町通を経由して錦市場へと入る。丁度、昨日通ったルートを遡る様な形になりそうだ。

 雨は相変わらずシトシトと降り続いていた。ぼく達は列車に揺られながら、窓を伝っては落ちてゆく雨粒の流れを静かに見つめていた。

 ようやく到着した四条大宮駅。改札を抜ければ、目の前の大通りを車が引っ切り無しに往来していた。やはり、雨足は強かった。

「相変わらず、派手に降り続いているみたいだね」

「ううむ、じゃが心の中まで湿気てしまわぬ様に、突き進むのじゃ」

「そうだね。それじゃあ、行こうか」

 大宮駅の改札へと入るべく、ぼく達は地下への階段を歩んだ。ここから河原町まで再び列車の旅。今度は地下を駆け抜けることになるので雨の心配も無い。

 ぼくの傍らには何時もと何ら変わらないロックの姿があった。でも、少しだけ違っていること。ぼくとロックとの間の距離が変わったこと。昨晩のことを改めて思い出すと、恥ずかしさが蘇ってしまう。でも、後悔はしていない。道中、ロックはずっとぼくの手を握っていてくれたから。そのことが、こんなにも心強くなれるとは思わなかった。誰かの想いを、誰かの温もりを感じながら生きること。ぼくが知らない感情だったけれど、多分、これが「幸せ」という感情なのだと思う。満面の笑みを浮かべながら歩むロックの横顔を、ぼくは見つめながら歩いていた。

「ど、どうしたのじゃ?」

「ううん。何でもないよ?」

「そ、そんなに、ジッと見つめられると……困っちゃうのじゃ」

 遮る物は何一つ無い。だからこそ、こうして共に歩むことが出来る。コタ達と一緒に過ごす時は、注意しないといけない。こんなにも仲良くなってしまったこと、気付かれたくなかったから。多分、無駄な足掻きでしか無いと思うけれど……。

 そうこうするうちにぼく達は河原町に到着した。此処から地上に出て、賑わう四条通をしばし歩む。アーケードに包まれた商店街の寺町通を経て、ようやく、目的地の錦市場に到着する。ロックの言葉では無いけれど、意外と大規模な冒険になっている気がしなくもなかった。

「これだけ歩き回ると、お腹空いちゃうよね」

「ふむ。そろそろ甘味が欲しくなる頃なのじゃ」

「やっぱり、豆乳ドーナツと豆乳ソフトだよね」

「フフ、テルテルは違いの判る男なのじゃ」

 改めて自分を見つめ直してみると、随分と単純な構造だと気付かされる。食欲と性欲。何だか、この二つだけで生きている様な気がしてならない。でも、単純な生き方って幸せだと思える。憎しみだとか、拭い切れない過去のこととか、複雑な要素が絡み合い、ぼくは段々と自分を見失っていたのだから。ロックは教えてくれた。単純な生き方こそが本当の意味で幸せな生き方なのだと。

 ただ、嫌なことから目を背けるだけでは何の解決にもならない。それは事態の先延ばしでしか無く、根本的な解決からは遠ざかるばかり。そして……何よりも、ぼくの進む道を阻もうとする情鬼の存在。絶対に屈しない。ぼくは自分の道を歩むのだから。

「そろそろ錦市場に到着するのじゃ」

「うん。段々と人通りも増えてきたよね」

 雨は多分、相変わらず降り続いているのだろう。人々の歩む音に混じって、天井を覆い尽くすアーケードに雨粒が当たる音が響き渡る。

 変わることの無い日常。ロックと二人、何も考えずに、ただ徒然なるままに歩んでいる。きっと、あの人は、こういう姿を見たら気が狂わんばかりに怒り狂うのだろう。遊んでいる暇があったら、勉強しろ、と。

 ぼくはあの人の言いなりには成らない。育てて貰った恩義とか、誰のお陰で此処まで生きて来られたのかとか、何も知らない外野の連中は好き放題に言葉を口にするだろう。そうやって、自分があたかも名のある評論家にでも成った様な錯覚に陥るんだ。そうやって他者を批判、非難することで、少なくても自分は至極真っ当な、品行方正な生き方をしていると勘違いするのだろう。オトナはみんなそうだ。そうやってステレオタイプな価値観ばかりを押し付けて来る。多分、ぼくとロックの関係だって容赦無く批判するのだろう。ガキのクセに淫らな行為をするなんて言語道断だと。ならば、ぼくは逆に問いたい。

『あなたは本当に幸せなのですか?』

 誰かが敷いたレールの上を何も考えずに走り続けるだけ。スケジューラに管理されるだけのシステムみたいな生き方をするだけじゃないか。朝になったら起床し、身支度を整えて仕事に向かう。陽の出ている時間帯は仕事に精を出し、陽が沈めば家に帰る。夜になれば眠りに就き……後は同じことの繰り返しだ。

 勉強って何? 常識って何? ガキのクセに? まともに物事も考えられないオトナ達が何を偉そうにぼくの生き方に意見出来るのか。ああ、ぼくは異端児だ。優等生の道から外れた不良品だ。だから不良品らしくエラーを起こし、社会という腐り切ったシステムに挑戦状を叩き付けるだけだ。

 あの人を殺す。法に引っ掛からない様に。ぼくの手を汚さない様に。誰の目にも判らない様に。ようやく手にした幸せなんだ。誰にも奪わせない。ぼくは……鬼になる。そう、決意したのだから。ロックと共に歩むためだったら、ぼくは何だってするさ。邪魔する奴らは、皆、殺してやる……。

◆◆◆58◆◆◆

 錦市場は朝早いこともあり準備中の店も見受けられた。少々フライング気味だったかなとロックは苦笑いしていたけれど、何だか舞台裏を見れた様な気がして、得した気分になれたから良しとしよう。

 赤、黄、緑の三色が繰り返される特徴あるアーケード。細い通りの両脇には店がビッシリと立ち並んでいる。漬物を売る店、煮豆を売る店、花屋もあったりする。焼き鳥を売る店からは香ばしい煙が立ち上り、青果を扱う店は品を並べるのに忙しそうにしていた。寿司屋は店先に商品をせっせと並べ、魚屋では新鮮な魚を捌いていた。色んな店が立ち並び、恐らくは、そこに生きる人達の数だけ物語もあるのだろう。活気に満ちあふれた錦市場は、ただ歩いているだけでも、何だかちょっとした遊園地に訪れた様な気分になれる場所に思えた。

「……昨晩のことはワシとテルテル、二人きりのヒミツなのじゃ」

「え? フフ、いきなりどうしちゃったの?」

 返事は無かった。そっぽを向いて、顔を真っ赤にしながら、ロックは頬を掻いて見せた。

 こんなお茶目な姿を見せるロックも、昨日の夜、部屋に戻ってからはケダモノの様な振舞いを見せていた。ぼくも人のことは言えないけれど……。

 竹林での出来事の後、部屋に戻ってからも、ぼく達は快楽の限りを尽くした。考え得ることを全て試してみた。夢の様な一夜だったさ。理性なんていう『咎』なんか洗いざらい棄ててしまって、本能という『業』を背負い続けた方が、余程幸せだ。空けたてのティッシュを一晩で使い切った。もっとも、ティッシュを使うまでも無い処理の仕方もしたけれど。

「ま、また……ワシの相手をしてくれるかのう?」

 照れ臭そうに、こちらを窺うロックの表情が可笑しくて仕方なかった。

「何だったら、鴨川の土手でやっちゃう?」

 冗談っぽく笑えば、ロックは急に前屈みになり、挙動不審な歩き方になった。まぁ、ぼくも同じ状況になっているのだけどね。

「て、テルテルは意外に肝っ玉が座っておるのじゃな。わ、ワシにはそんな度胸は……」

 何だろうな? 必死に自分を抑え付ける生き方から脱したら、こんなにも体が軽くなれるものなのかと驚かされた。重たい鎧を着込んで、吹き付ける向かい風に必死に抗いながら生きてきた。重たいだけの役立たずな鎧を脱ぎ捨て、向かい風に押されてみたら、こんなに楽に生きられるでは無いか。そのことに気付いた。ただ、それだけのこと。もう、人の評価なんか気にしない。自由を選んだのだから……。無論、責任は全て背負うさ。その結果、傷付くことも畏れやしない。命を失う結果になったって後悔しないさ。

「テルテルよ、ワシの全てを見せたのは意味があるのじゃ」

「意味? どんな意味なの?」

「言うなれば、ワシとテルテルとの一騎打ちみたいなものだったのじゃ」

 一騎討ち……何かの勝負事みたいだ。でも、ロックの言わんとしている事は、何となく理解出来ていた。確かに、昨日のぼく達の行為は、どこか勝負の様にも思えた。お互いを曝け出すために、互いの手の内を予測しつつ攻めを繰り返す。攻防一体の最中で想いも寄らない真実が浮き彫りになったのも事実だった。

「ワシが全てを曝け出すことには、抵抗は微塵も無かったのじゃ。それで、テルテルが救われたのであれば、ワシも救われるというものなのじゃ」

 不思議なことを言う……ぼくはロックの顔をじっと見つめていた。何時だってそうだった。ロックは皆のためならば、何だってやって退けてきた。それが、自分に取って不利益な結果となる行動でも、深い傷を追ってしまう結果でも、一切の迷いすら見せずに立ち向かって来た。ぼくがロックに心を惹かれた一番の要因とも呼べる姿。気にならない訳が無かった。

「ねぇ、ロックって、どうしてそんなにも自分を犠牲にしてまで、誰かのために生きられるの?」

「好きだからなのじゃ」

「え?」

「皆のことが好きだから出来るのじゃ」

 理解出来た気がする……。多分、ぼくが同じ立場に立ったとしたら、やはり、仲間達のために生きたいと思ったに違いない。価値観は少し違うかも知れないけれど、ぼくは皆を守りたい。今までずっと迷惑を掛けたり、心配を掛けたりし続けてきたから。だからこそ、皆を守ることで、受けた恩義を返したいと考えていた。やはり、ぼくとロックは良く似ているのかも知れない。

「少々可笑しな表現に聞こえるかも知れぬが、テルテルも、コタも、リキも、太助も、皆、ワシの大切な家族なのじゃ」

 家族……ぼくは雷に打たれた様な衝撃を覚えた。ずっと探し求めていたもの。欲しくて、欲しくて仕方が無かったもの。願っても、望んでも、決して手に入らなかったもの。そうか……そうだったんだ。ようやく全てを理解した気がする。どうして、ロックにずっと興味を惹かれていたのか? どうして、一緒にいて、こんなにも心が穏やかになれるのだろうか? 長らく考え続けていた問い掛けに対する答を見付けたが気がした。

 何を大袈裟なと、何も知らない人はぼくのことを笑うかも知れない。でも、ぼくには家族なんて存在、居ないに等しかったから……。そりゃあ、幼い頃は家族としても機能していたかも知れない。でも、暁の死から……全てが音を立てて崩落してしまった。あの人は、全ての元凶がぼくだと断定し、執拗に攻撃を繰り返してきた。長らく非力だったぼくは防戦一方だった。もっとも、今は立場も変わり、今度はこちらから宣戦布告を叩き付ける番になった。でも、そこには冷たい残骸しか転がらない。ぼくが欲しかったのはそんなものじゃない。帰るべき場所がある。ぼくが居ることを喜んでくれる誰かが居る。それだけで良かったんだ。たった、それだけ……。なのに、手に入れるために、一体、ぼくはどれだけの時間と労力を費やしたことだろう。だから、絶対に守る! ぼくの身も、ようやく手に入れた大切な家族も!

 気が付くと、ぼくの頬を温かな涙が伝っていた。頬を伝い、涙は地面に零れ落ちた。突然の涙に、動揺したのか、ロックが目を丸くして、息を呑むのが聞こえた。

「あ、えっと……哀しくて、泣いている訳じゃ無いから」

「そ、それでは、ああ、この様な問い掛けは無礼かも知れぬが……」

「えっと、言葉じゃ上手く言い表せないけれど、つまり、こういうこと」

 ぼくは思わずロックに抱き付いた。不意を突かれたロックは危うく転倒しそうになってしまった。突然の出来事に、道行く人々が何事かと怪訝そうな目でぼく達を見つめていた。でも、ぼくはロックから離れたく無かった。

「ななな、て、テルテルよ、い、いきなり、どうしたというのじゃ!?」

「えへへ。ロックってば、照れちゃって可愛いね」

「うむむ……わ、ワシは、か、可愛く……無いのじゃ……」

「ねぇ、ロック。ずっと、ずっと……ぼくの家族でいてね?」

 自分で言いながらも再び涙がこみ上げて来てしまった。もう、抑えることは出来なかった。突然泣き出したぼくに、ロックはただただ動揺するばかりで、道行く人々も無遠慮に好奇の眼差しを投げ掛けていた。でも、これが偽らざるぼくの本当の想いだったのだから。どうすることも出来なかった。ただ、あふれてくる想いを抑え切れなかった。涙を拭おうとした瞬間、不意に誰かとすれ違った。

「え?」

 明らかに異質な存在であった。人では無い存在。確かにぼくの視界に、その姿が残った気がした。山伏の様な衣服に身を纏った大柄な体付きの男。その男の背中には雄大なる翼が生えていた。一瞬、周囲の時が完全に止まった様に感じられた。

「え? えぇっ!? い、一体どうなっているの!?」

 表情が固まったままのロック。道行く人達も、まるで凍り付いたかの様に、そのままの姿で固まっていた。一体、何が起きたのかと慌てて周囲を見回していると、その不思議な男がゆっくりと振り返った。その男の顔を見た瞬間、ぼくは腰を抜かしそうになった。信じられない姿をしていたから……。カラスの頭に人の体を持つ者。その姿は伝承にあるカラス天狗そのものだった。だが、一般に聞くカラス天狗とは異なり、雪の様に白い毛並みを称えていた。微かに黄色い光に包まれた姿からは、恐ろしさどころか神々しささえ感じていた。

「も、もしかして、糺の森でぼくを助けてくれた人?」

 彼は問い掛けには応えなかった。ただ、穏やかな笑みを浮かべたまま、ぼくを見つめていた。

「……良き家族に出会えたな、輝よ」

「ど、どうして、ぼくの名前を知っているの!?」

「いずれ……共に歩む日も訪れよう。その時は、我もお主の家族の一員よ」

 微笑み掛けた瞬間、目も眩む程の強い光に包み込まれた。あまりの眩しさにぼくは思わず目を覆った。ほんの一瞬の間に彼は忽然と消えてしまった。引き換えに、再び時の流れも動き出し始めていた。

(今のは一体何だったのだろう? 夢? でも、あんなにも鮮明な姿だったのに、夢の訳が無い)

「テルテルよ、大丈夫なのかの?」

「う、うん。ぼくは大丈夫だよ」

 深く考えるのは止そう。彼は言っていた。いずれ共に歩む日が訪れると。だったら、その時に全部聞かせて貰えば済むことだ。

「ねぇ、ロック、豆乳ドーナツと豆乳ソフト食べたくない?」

「むむ? 果てしなく唐突に話題が変わったのじゃ」

「だってさ……ほら? えへへ」

 思わず笑いながらロックの後ろを指させば、ロックがゆっくりと振り返る。偶然の一致というのは、中々に不思議なもので、奇しくも、ぼく達は「こんなもんじゃ」の目の前まで来ていたのだから。

「おお! これは、何が何でも食せという、天からの思し召しに違いないのじゃ!」

「うん。それじゃあ、さっそく注文しちゃおう」

 色々と不思議なことは重なるものだと思う。でも、そういう不思議が幾つも重なり合って、ぼく達の物語が成り立っている様に思えた。ロックと深く関わってぼくは大きく変わることが出来た気がする。そう言えば、錦市場と言えばリキとも良く遊びに来たな。ぼくは懐かしい情景を振り返っていた。

◆◆◆59◆◆◆

 あの日、リキは普段見せない様な鋭い眼差しで、軒先に立ち並ぶ品々を見定めていた。まるで獲物を狙う肉食動物の眼差しだ。やはり、料理を作る立場だと目線も変わってくるのだろう。ぼくやロックでは色々な品々がズラリと立ち並ぶ光景に華やかな好奇心しか抱けなかったと思うけれど、きっと、リキの頭の中では、食材をどう扱って、何を創り上げるかを考えているのだろうと思った。

「へへ、テルテル、ちょいと違うんだなー」

「え? 違うの?」

「どう振舞って、どう喜んで貰うか。食べてくれる相手が楽しんでくれる姿を思い描きながら創り上げるんだ」

 芸術家を思わせる言葉に、ぼくはただ圧倒されていた。道を極めるというのは、目に見える部分だけでは無く、目に見えない部分にまで、細部にまで拘る必要があるのだという事実に驚かされた。

  言葉に言い表せない想いで一杯になった。同じ年で、同じ様に生きてきているハズなのに、ぼくとは全く異なる道を歩んでいる。きちんと将来を見越した上で、一歩一歩、自らの歴史を築き上げている姿に驚きを覚えた。同時に自分の小ささが哀しく思えて仕方が無かった。

「おいおい、なーにヘコんでいるんだよ?」

 リキは笑いながら、ぼくの肩を叩いて見せた。

「だって……ぼくはリキみたいに、色んなこと考えている訳でも無いし、今が楽しければそれで良いなんていう刹那的な考えしか持っていなくて。えへへ、格好悪いよね」

 苦笑いで受け答えすることしか出来なかったぼくは、酷く惨めで、何だか居た堪れなかった。でも、ぼくの想いとは裏腹に、リキは大きな溜め息を就いて見せた。

「あのさー、他人の姿なんざ、誰の目にも良さそうな物に映るもんだぜ?」

「そういうものなのかな?」

「おうよ。大体、考えてみろよ? オレの進む道はオレが生まれた瞬間から既に定められていたんだぜ? オレの意思じゃなくてさ、親の意思でな? もちろん、反対することだって出来たんだぜ? でもよ、一代で店を構えるまでに這い上がってきた親父の想いをよ、無碍にすることは出来なくてな」

 昔からぼくはこういう奴だった。無意識の内に、大切な仲間達を傷付けてしまう言葉を平気で口にする。しかも無意識に口にしているだけに余計に性質が悪い。悪気の無い悪意程厄介なものは無い。それでもリキは大らかに、嫌なぼくのことを受け止めてくれる。外見動揺に心も大きい。だからこそ、不思議に思う。どうして、ぼくなんかと仲良くしてくれるのだろうと。

「どうして仲良くしてるかってか? へへ、相変わらずテルテルは応え辛ぇことを、容赦無く聞いてくれるんだな」

「あ、えっと……ごめん」

「へへっ、謝んなって。別に、気にしちゃいねぇからさ」

 夕暮れ前の錦市場は賑わいを見せていた。ここは地元の人達も買い物に来る場所だから、夕食の買出しに来ている主婦達も少なく無い。まぁ、ぼく達も似た様なものではあったけれど。活気あふれる錦市場。談笑しながら往来する人々と客引きの声を張り上げる店の人々。沈み往く夕焼け空よりも、煌々と明るい光を放っているであろう場所なのに、ぼく一人だけが底の見えない暗闇を撒き散らしている。何だか申し訳無い気分になって、ぼくは思わず足元に目を落とした。

 次の瞬間、ぼくの肩にリキの腕が回された。ズシリと重厚な感触を覚え、思わず、よろめいてしまった。

「なぁ、テルテル。ちょっと場所変えねぇか? 鴨川に行こうぜ。ここは人が多過ぎて、喧しくていけねぇぜ? 色々と話し込むには、もうちょい静かな場所が良いよな」

「う、うん……」

「ほらほら、そんなシケた顔するんじゃねぇっての。な? とにかく行こうぜ」

「うわっ、ちょ、ちょっと!」

「わはは! ほらほら、キビキビ歩けよー」

 リキは相変わらず豪快な笑い声を響かせながら、ぼくの手を引っ張っていくばかりだった。人混みを豪快に掻き分けながら、リキはグイグイぼくを引っ張るばかりだった。何時もながらリキは本当に豪快な子だと思う。でも、話したいことって何だろう? 不安な想いを抱いていたのは事実だけれど、上機嫌な笑い声を響かせるリキが何を考えているのかにも多大な興味を惹かれていた。

 錦市場から四条大橋を経て川の畔に至るまでの間、リキは他愛も無い話を話し続けていた。とても無礼な話だけれど、あの時、リキが何を話していたか、ぼくは殆ど覚えていなかった。悪い癖だよね。興味を惹かれちゃうと、それしか見えなくなってしまう。良くも悪くも、途方も無い集中力だと思う。

 夕暮れ時の鴨川は燃え上る様な夕日の色を反射し、やはり燃え上る様な色合いになっていた。鴨川の土手を歩くぼく達も、燃え上る様な色合いになっていたと思う。人気の少ない鴨川沿いを歩きながら、不意にリキが足を止めた。

「へへ、それじゃあ、テルテルに……オレの昔話を聞かせてやろう」

「リキの昔話?」

「おう! まぁ、その、アレだ。過去に傷を背負った男の物語っつー奴だよな」

 リキの言葉に、ぼくは思わず鼻息が荒くなってしまった。過去に傷を背負った男の物語! 何だか凄く格好良さそうな響きに思えて、ぼくの中で何かが沸々と燃えたぎる感覚を覚えていた。

「へへ、良いノリだな。そうそう。その調子だぜ?」

「うん! それで、どんな話なの?」

「先ずは、此れを見てくれ」

 携帯を片手に何かの画像を示してくれているのが判った。秘密の画像? も、もしかして、リキのエッチな画像とかだったり!? 可笑しな期待を胸に抱き、何だかドキドキしてきてしまった。だって、そこに映し出されている物は、凄い過去を残した歴史的記録なのかも知れないのだから。そこにリキの歩んできた確かな歴史がある。興味も興奮も覚えない訳が無かった。自信に満ちた笑みでリキが見せてくれた一枚の画像。

「あ、アレ? え、えっと……」

 ぼくは言葉を失ってしまった。見覚えの無い人物の姿がそこに映し出されていた。その少年はリキと一体どういう関係なのだろう? 体型を見た限りではリキと良く似ている様に思えた。広い肩幅に、ガッシリとした骨格。何よりもシッカリと鍛え抜かれた太い腕に見覚えがあった。

「あ、判った。この写真に映っているのは、リキの弟?」

 ぼくの問い掛けにリキは一瞬黙り込んで見せたが、次の瞬間、豪快に空を仰ぎながら笑い出した。声を張り上げて笑うリキの豪快な声だけが響き渡る。辺りはすっかり夕焼け空。流れ往く鴨川にも夕焼け空の煌々と燃え上る様な赤が映し出されていた。リキの笑顔も真っ赤に萌え上がっていた。多分、ぼくも同じ様に真っ赤に萌え上がっていたのだと思う。

「へへ。テルテル、聞いて驚けよ? そこに映っているのはな、何と、過去のオレ自身なんだ」

「え、えっと……どういう、こと?」

 リキの言っていること、ぼくにはサッパリ理解出来なかった。リキは太助とは色合いは違うけれど、ぼくが憧れを抱いている存在だった。身近な場所にいて友達として一緒に歩めることが、とても嬉しく思える。豪快な振る舞いも、大きな体も、ぼくには無いもの。だからこそ憧れていた。

  そう。あの写真に映っているのは、確かにリキ本人だった。ただし、今から数年前の姿だった。今のリキに変わる前の姿。自分自身への決別の意味を篭めて、歴史に刻んだ映像達の中の一枚だと聞かされた。

「へへ、意外だろ? 変わったんだ、オレは。いや、変えて貰ったと言った方が正解かな?」

「えっと……結花さん?」

「ああ。あいつがオレを変えてくれたんだ」

 多分、その話題には触れたくなかったのだと思う。大切な人だったと聞かされていたから……。事故で亡くなったという話を、以前、聞かされたことがある。大切な人の死を受け入れるには、時間が浅過ぎるハズだと感じていた。辛く無い訳が無い。痛まない訳が無い。それでも、リキは笑顔で語ってくれた。どうして、そこまでしてくれるの? どうして、ぼくのためにそこまでしてくれるの? 問い掛けたかったけれど、リキの想いを踏み躙ってしまうことになる。だから、問い掛けることは出来なかった。

「その写真のオレさ、地味でさ、暗そうでさ、全然男前じゃねぇだろ?」

「そ、そんなこと……」

「へへ、可笑しな遠慮はいらねぇぞ? そんなもん、ちっとも嬉しくねぇからな」

「う、うん……。確かに、今のリキとは別人だよね」

「変わりたかったんだ。写真に映っている時代のオレは、自分に何の自信も持てなかった。結花にも言われたんだ。もっと自信持てって。オレは、そんなん無理だって言ってやったんだ」

 リキはドカっと土手に座り込んでみた。つべこべ言わずに隣に座れよ。そう、目で言われた気がした。だから、ぼくも隣に腰掛けた。鴨川は変わることなく上流から下流へと流れて往く。穏やかな流れを称えたまま、煌々と燃え上る様な夕焼け空をその身に抱きながら。

 リキは変わりたいと願っていた。結花さんに目一杯励まされて、自分に自信を持つことが出来る様になってきた。だからこそ、結花さんの思い描くリキの姿になってみたいと思う様になった。それまで自分で服さえ選んだことも無かったらしいけれど、結花さんの指導の下、共に色々な服を見に行くようになったらしい。リキ曰く、まるで着せ替え人形になった気分だったらしいけれど。

 あれこれ試行錯誤するうちに今の姿に落ち着いたらしい。髪の色を変え、牛乳瓶の底みたいな眼鏡からコンタクトに変えて、目立たないTシャツから自慢の体付きを誇示出来るタンクトップに変えた。色も地味なグレーや黒、深い青と言った色合いから、赤やオレンジ、黄色といった鮮やかで、活発な色合いを好む様になった。外見を変えたことにより気持ちにも変化が表れ始めた。成りたい自分を自ら描き、それを現実の物へと変えた。一連の経緯をリキは克明に語って聞かせてくれた。

「見た目から入るってのも、一つの手段だよな」

「うん。実際にリキは、自分自身を変えることに成功したものね」

「おうよ。今のオレ、自分でも結構気に行っているんだぜ?」

 写真の中のリキの姿、もう一度見せて貰った。確かに同一人物なのだろうけど、全くの別人にしか見えなかった。それ程までに、リキは大きな変化を為し遂げることに成功出来たのだから。

「何でこんな話したか? 知りてぇだろ?」

「うん、そりゃあ、もちろん」

「あの頃のオレと今のテルテル、良く似ているって思ったんだ」

「あ……」

 意外な共通点だった。でも、確かに、昔の写真に映るリキの姿は、今のぼく自身と良く似ている様に思えた。自分に自信を持てず、何もかも他人のせいにする。そうやって、自分が傷付くことから逃げ続けるだけの弱虫。幾ら「願って」も駄目だったんだ。「行動」に移さなければ、願いは現実の物には成らないのだから。そのことを、ぼくに教えるために……。でも、ぼくは、やはり穿った物の見方しか出来ない。捻くれた奴だと、自分で自分を揶揄するばかりだった。リキが言っていることは、早い話、嫌いな自分に別れを告げるようなもの。それは、何だか、ただ逃げているだけの様な気がしてならなかった……。

「ただ逃げているだけだって? いやいや、テルテルよ、そいつぁ違うぜ? 良いんだよ。逃げたってさ」

「え? 逃げても良いの?」

「ああ。第一、そんなに生真面目に考えているとさ、腹減るぜ? あ、そりゃオレか! わはは!」

 逃げることも必要、か……ぼくは全てのことに馬鹿みたいに向き合い続けてきた。何もかも、自の力で解決しなければいけない。そんな強迫観念に駆られていた。そんなの、絶対に無理なのにね……。でも、一縷の望みは見えた気がする。変われるのかな? ぼくもリキみたいに変われるのかな? ううん、変わりたい。変わるんだ!

「お! オレみてぇに変わりたいってか? まぁ、その、アレだ。そのよ、丸太でガツっと後頭部を殴られる位の衝撃があれば、間違いなく変わることは出来ると思うんだよなー」

「えっと……そんなことしたら、ぼく、死んじゃうと思うけど……」

「わはは。今のは冗談だけどよ、そうだなぁ……」

 不意にリキはぼくの正面に立つと、ぼくの顔をしげしげと覗き込み始めた。妙に真剣な眼差しを向けられて、ぼくは思わず照れ臭くなって目線を逸らした。

「例えばだぜ? テルテルの髪の毛って、サラサラな髪質だろ? 色、変えてみるとかどうだ?」

「えっと……リキみたいに?」

「ああ。オレもちょいと色抜いているけどよ、テルテルもやってみる価値あるぜ。見た目が変わればさ、印象も結構変わるもんだぜ? アクセサリとかさ、香水とか、服とか、オレが見立ててやっからさ、一緒に見に行こうぜ」

「本当!? うわぁ、嬉しいなぁー」

 リキはぼくを変えてくれた大切な仲間だよ。あの時、リキの言葉に従って髪の色を変えたことで、ぼくは変わり始めた。本当にゆっくり、ゆっくりとした変化の速度だった。でも、今こうして、ロックの協力もあって、ぼくはようやく成りたい自分に出会えた気がする。

◆◆◆60◆◆◆

 再び現実に戻って来た時、ぼくの隣ではロックが至福の表情で豆乳ドーナツを口に運んでいた。一体、何個注文したのだろう? どう考えても、家族で食べるサイズを平気で食べ続けている。これじゃあ、お腹もポヨンポヨンになっちゃうよねぇ……。

「む? テルテルよ、ワシの腹を見ておったな」

「うーん、大トロに改造中?」

「むむ! 美味い物を食ったら、頑張って筋トレするのじゃ」

「うん。ぼくもロックと一緒に筋トレにも挑戦してみたいなー」

 こうやって皆と関わり合って、ぼくは少しずつ変化を遂げている。きっと、これからも変化し続けるのだろう。やっと出会えたから。変わりたい自分と……。だから、同時に……決別しなければいけない自分もいるのだと思う。せめて手厚く供養してあげよう。消え往くだけのもう一人の自分を。もっとも、ぼくに刃向った場合は、遠慮無く、この手で殺してあげるから。それもぼくの役目だから。

「ねぇ、ところでさ、何で『ロック』って呼び名なの?」

「何と! 今になってそれを問うと申すか?」

「うーん。最初に出会った頃、リキがずっと、ロック、ロックって呼んでいたから、すっかり定着しちゃったけれど、ロックって『岩』って意味だよね? 『大地』だったら……あっ」

 最後まで言い終わることは無かった。目を伏せ、大きな溜め息を轟かせたロックの余りにも深い哀しみに満ちた、その沈痛な表情に、ぼくは出掛かった言葉を呑み込んでしまった。

「全てはリキのせいなのじゃ。英語がからきし駄目なクセに、妙な見栄を張りおっての……」

 何でも当時のリキは、格好良い呼び名で互いを呼び合うことに妙な幻想を抱いていたらしい。そこで、ロックの下の名前から呼び名を考えたらしいのだけど……ロックの言う通り、リキは英語が壊滅的なまでに苦手だったらしい。それで、何を勘違いしたのか、『大地』を英語に直すと『ロック』になると思い込んでいたらしい。思い込みとは恐ろしいもので、リキの壮大なる勘違いにより、ロックという呼び名が定着してしまった。ロックも、もはや訂正するのも面倒になったらしく、受け入れた結果が今の状態らしい。ちなみに、ぼくの呼び名を『テルテル』と呼ぶ発端になったのも、やはり、リキだった。ううむ、恐るべし、リキ。そのネーミングセンスに色んな意味で恐怖を覚えるよ。

  話が在らぬ方向に脱線してしまったが、降り頻る雨の中、ぼくの頭の中には一つの考えが芽生えていた。生憎の雨ではあるけれど、だからこそ、条件としては整っている様にも思えた。ぼくはロックに考えていることの全てを打ち明けた。リキと関わり変わることが出来たこと。太助と関わり変わることが出来たこと。そして、ロックのお陰で、さらに変わることが出来たこと。遣り残したことを為し遂げるため……全ての物語が始まった、鞍馬の地に再び舞い戻ってみたいと考えていた。理由なんか無かった。もしかしたら、何も得る物は無いかも知れない。でも、行動しないで後悔する位なら、行動してから後悔したかった。コタが教えてくれた想い、今でもぼくの羅針盤になってくれているんだよ?

「ワシは何処までもお供するのじゃ」

「うん。ありがとう、ロック。一緒に来てくれると、とても心強いよ。ぼく一人では立ち向かえないかも知れない。ちゃんと向き合えないかも知れない。だから、傍に居てくれると勇気が持てるから」

「なぁに。ワシがずっと、テルテルの手を握っておるのじゃ。心配ご無用なのじゃ」

「そうだね。それじゃあ、行こう。全ての始まりの地、鞍馬へ!」

 ぼく達は再び錦市場を抜けて、祇園四条を目指していた。辿るのはあの時と同じ道順。祇園四条から出町柳へ抜け、そこから叡電に乗り換えて終点鞍馬を目指す。ぼくはもう逃げない。立ち向かうと決めたのだから……。

◆◆◆61◆◆◆

 祇園四条を発ったぼく達は出町柳に到着した所だった。地下の改札を抜けて、地上へと続く道を歩む。雨ということもあってか、人通りもそれなりに多かった。往来する人々の流れとすれ違う。多分、もう二度と逢うことが無い人達とすれ違う情景は、ぼくが歩んできた時の流れとすれ違うかの様な感覚を抱いていた。時の流れ……何時だって残酷にぼくを翻弄し続けてきた時の流れ。本当に痛かった……。ただ、ぼくは母親から愛されることを欲していた。そんな幻想を抱いていた時代もあった。でも、哀しいけれど、今のぼくは殺意しか抱いていない。だから、決別する。もう、二度と戻らない時の流れならば、そんなものは、ぼくを苦しめるだけだ。だったら、この手で断ち切るだけだ……。

「大丈夫じゃ。ワシが居るでの」

「う、うん……」

「まぁ、ワシは非力な身じゃからの。何も出来ないかも知れんけど、傍に居るのじゃ」

 ロックの言葉、本当に心強かった。ぼくは足元を見つめたままくちびるを噛み締めていた。判っていた……。こんなことを決意することは正しいことでは無い。本当は嫌なんだ。でも……再び戻るかも知れない温かかった時代に夢を馳せて、また裏切られとしたら、ぼくはもう誰も信じられなくなる。それならば、頼る価値の無い希望など消えてしまった方が良い。所詮、そんなのは夢であり、幻であり、無駄な幻想でしか無いのだから。

 不意に涙がこみ上げて来る。頭で割り切るのと、現実を受け入れるのとでは大きな隔たりがある。でも、ぼくは前へ進む。ぼくは光を浴びて輝くだけの存在じゃ無くなる。この名の通り、輝ける光になる。さようなら……ぼくにこの名を授けてくれた母さん。ぼくは鬼になります。貴方に死を誘う鬼になります。

「テルテルよ。忘れないで欲しいのじゃ」

 地上へと続く階段を上っている時に、不意にロックが口を開いた。ぼくは前を見たまま、静かに耳を傾けた。微かな吐息の後でロックが続ける。

「勢いに任せて……いや、そうでは無いの。本能の赴くままに、テルテルとあんな行為に至ってしまったのは事実じゃが、ワシがテルテルと共に歩みたいと願っているのは本当のことなのじゃ」

「うん、判っているよ。ぼくも……同じ」

「上辺だけの言葉に聞こえるかも知れんのじゃが、テルテルよ、ワシは何時も一緒に居るでの」

「うん……」

「鬼になると申すのであれば、ワシも同じ道を歩むのじゃ」

 どうしてそこまでするの? 言い掛けた言葉をぼくは呑み込んだ。代わりに、ぼくの手を握ってくれているロックの手を力一杯握り返していた。ジワっと汗が滲んだと思う。きっと、自分でも制御できない程に緊張しているのだと思う。不安? 焦り? ううん、迷いかな。でも、迷いは断ち切る。もう、二度と戻れない所まで進んでしまえば、迷う必要は無くなるでしょ? リキの言っていた言葉……。ぼくも同じ。ぼくも生まれた瞬間から既に定められていたんだ。こういう道を歩んでしまうということは。修羅の道を。イバラの道を。もう、背負う覚悟は出来た。だから、突き進むだけだ!

「えへへ、不謹慎だよね」

「む? 何がじゃ?」

「今、この場で、多くの人が見ている中で、ロックとエッチなことしたくなった」

 偽らない本当の気持ち。昂ぶった感情を抑えられなかった。嬉しかったから。ぼくが甘えることを許してくれる仲間が居てくれる。ぼくが居ることを許してくれる仲間が居てくれる。ぼくが帰る場所になってくれる仲間が居てくれる。嬉しくて、嬉しくて、感情が昂ぶって……こういう時、男としての自分を憐れに思う。本当に、どうしようもない位に哀しく、虚しくなる。ほんの僅かな体液を放出するだけの、ほんとうにちっぽけな行動に、どうして、これ程までの情熱を傾けられるのだろう。

「フフ、テルテルは面白い奴なのじゃ」

「ぼくね、男に生まれたことをね、哀しく思っていたんだ」

 エスカレーターに揺られながら、ようやく地上に出た所だった。雨足は一層強まっていた。視界を遮る程の強い雨。不快な湿っぽさに包まれた蒸し暑い気候の最中、視界は白く染め上げられていた。幻想的な光景だった。ぼく達の目の前には、あの時、リキに強引に引っ張られて入ったファーストフード店が佇んでいた。太助とも数日前に訪れた場所だ。あの時とは、何もかもが変わってしまっていた。ぼくの置かれている状況も、ぼく自身の物の考え方も……ううん、ぼく自身も変わってしまった。でも、女には生まれたくなかった。あの人みたいな生き方をするのは絶対に嫌だった。だからと言って、男に生まれた自分を肯定するつもりも無かった。多分、ぼくは子供であるという立ち位置に拘っていたのだと思う。子供なら多くのことが許されるから。子供だから……その逃げ口上で全てを塗り固めてきた。でも、もう目は背けない。ぼくは大人になる。ぼくは男になる。否定しない。ぼく自身を。

「初めてオナニーを覚えた時、ぼくは何て汚らわしい奴になってしまったのだろうと、自分自身に激しい嫌悪感と憎悪を抱いた。でも……何よりも、その気持ち良さに溺れてしまったぼく自身が嫌で、嫌で堪らなくてね」

「その気持ち、判るのじゃ……。ただの子供でしか無かったワシが、大人に、男になってゆく過程を見届けてしまう。穢れ無い姿が失われてゆく哀しみ、ワシも体験したのじゃ」

「でも、もう後ろは振り返らない。ぼくは罪人だ。これからも数え切れない程の業を積み重ねていくと思う。ぼくの行く末は……きっと、地獄なんだろうなぁ」

 可笑しくも無いのに笑いがこみ上げてきた。傍らではロックも微笑んでいた。

「なら、ワシも一緒に堕ちるのじゃ」

「え? そういうことって、軽々しく口にしちゃ駄目だと思うよ?」

「ふふん、言うことを聞く様なワシじゃと思うかの?」

「うーん、思わないねぇ」

 ぼくの言葉を受けて、ロックは可笑しそうに笑っていた。

「汚れちゃったんだね、ぼく……」

「上辺だけ小奇麗な奴には興味無いのじゃ。そんな奴はウソの塊じゃからの」

  ウソ、か……。ぼくはずっと、ウソで塗り固められた道を歩んできた。もう、ウソは付きたくない。傷付いても良いんだ。本当の自分で生きたいから。

「あーあ。もう、おちんちんがヌルヌルだよ。ほら、触ってみて?」

 ぼくは人目を盗んで、ハーフパンツの中にロックの手を導いた。

「おおっ、な、何と大胆な行動に出るのじゃ!」

「とか言いながら、ぼくのおちんちんを弄くりまわしている、その手は何なのさ?」

「にゃはは。ワシも本能には抗えないのじゃ」

「ねぇ、何か、飲み物でも飲んでいく? あの時のファーストフード店でさ」

「うむ。それも悪く無いの。じゃが、その前に……」

「えへへ。むしろ、そっちが本音かな?」

 もう否定しない。もうウソはつかない。

「我慢……出来なくなっちゃったから」

「奇遇じゃの。ワシも同じなのじゃ」

 ぼくはこんなにも穢れている。醜く、汚らしい生き方しか出来ない奴だ。本能の赴くままに生きるさ。快楽を貪り、業を背負い、ロックと共に地獄に堕ちるだけだ……。

「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」

「えっと――」

 ぼくは手身近に注文を済ませた。あの時と同じミルクティー。ミルクも砂糖も大目でね?

「あ、それから……お手洗いって何処ですか?」

◆◆◆62◆◆◆

 ガタンガタン、ガタンガタン。揺れ動く叡電に揺られながらぼく達は鞍馬を目指していた。雨足は相変わらず強く、窓を伝っては落ちて往く雨粒が流れを為す。不思議なことに叡電の中はぼく達二人以外、誰も乗り合わせていなかった。駅には確かに何人かの人がいた。でも、誰もこの車両には乗り込もうとしなかった。ううん、この車両の存在にすら気付いていない様に思えた。違和感を覚えたけれど退き下がるつもりは無い。

「雨、止まぬのう」

「そうだね。ぼくの心の中と一緒かなぁ」

「ふむ。それならば、今度はワシが傘をさしてあげるのじゃ。二人で相合傘するのじゃ」

 したり顔で語って見せるロックが可笑しくて、ぼくは思わず吹き出した。吹き出しついでに涙が一粒、零れ落ちた。

「ロックってば、面白過ぎだから」

「あははー、やっぱりテルテルは笑顔が可愛いのじゃ」

 仲間の存在は本当に温かい。だから、ぼくは歩む。何処までも歩み続ける。多分、ぼくの歩みは誰にも理解して貰えないと思う。理解も共感も必要無い。でも、やっぱり誰かに理解して欲しいし、共感もして欲しい。図々しいかも知れないけれど、ぼくは業を背負う身だけれど、それでも夢を見たい。願いを叶えたい。ぼくは仏では無いから……鬼になる身だから。

(アレ? そう言えば……ロック、『今度は』って言っていたけれど、どういう意味なんだろう? ぼく、ロックに傘をさしてあげたことあったっけな?)

  列車はただ走り続ける。街中の景色から次第に山里の景色へと移り変わってゆく。雨足は相変わらず強い。列車のワイパーがせっせと雨を拭い去ってゆく。繰り返される機械的な動きにただ、目を奪われていた。茫然と見つめているうちに、どれ程の時間が過ぎ去ったのだろうか? 周囲の景色は既に木々に包まれた光景に移り変わっていた。

「今、貴船に着いた所じゃな。次じゃな。次が目的地の……」

「うん、鞍馬だよ。気を引き締めていかないとね」

 何かに立ち向かうという訳では無いけれど、あの情鬼に狙われないとも限らない。脅威は立ち去った訳じゃないんだ。油断は禁物だ。それに、今はロックも一緒にいる。ぼくが狙われるということは、同時にロックが危険に晒されること同義なのだから。

(でも、あの時、あの情鬼はあくまでもぼくだけを狙っていた。糺の森では桃山先生の姿でぼくを陥落させようとした。あくまでも狙いはぼく一人なのだろう)

 考え込んでいるうちに列車がゆっくりと減速してゆく。やがて、列車は鞍馬の駅に到着しようとしていた。改札では駅員さん達が慌ただしく定位置に着くのが見えた。変わらない光景だった。あの時、皆で訪れた時と何一つ変わらない光景だった。素朴な山里の風情も、木々の香りも、雄大な鞍馬山の姿も、何一つ変わらなかった。

「着いたね。さぁ、降りよう」

「うむ。心して往くのじゃ」

 ぼく達は列車を居り、改札を抜け、駅舎へと足を運んだ。この場所も変わらない。ぼんやりとした明かりの古風なシャンデリアの様な明かりも、壁に飾られた天狗の面も、駅の周辺を写した写真達も、何一つ変わらなかった。シトシトと降り頻る雨の音。木々の葉の香り。土の香り。石の香り。流れ往く水の香り。此処は本当に心が安らぐ場所だった。

 あの時も皆で訪れた場所。萌える様な夕焼け空の下、皆で能面のうわさ話を調べるために訪れた場所。思えば、あの事件に足を踏み入れなければ、情鬼と関わることも無かったのかも知れない。ぼくが余計な好奇心を抱いたために皆を危険に巻き込んだ……ううん、そうじゃない。そうじゃないんだ。自分の行動を正当化するつもりは無いけれど、避けられなかったと思う。ぼくが予見する死の映像と同じ。どんなに抗おうとしても、多分、同じ場所に辿り着いてしまったと思う。道は幾つもあるけれど、往き付く先は同じなんだ。多分、違った手段で、ぼく達は皆、同じ運命に誘われたと思う。理由なんか無い。ただの勘。でも、そう信じて疑わなかった。

「それにしても、蒸し暑いねぇ……」

 雨にも関わらず、蝉達の鳴き声は威勢良く響き渡っていた。命の灯火を燃やしながら鳴いていた。

(皆、こうやって生きているんだ。自分を偽ること無く生きている。ぼくも同じ道を歩むよ)

 傘をさしながらぼく達はあの時と同じ道を辿った。駅前に立ち並ぶ土産物店を抜けて通りに出た。通りに出た所で、ぼく達の目の前を車が雨水を巻き上げながら走り抜けて行った。激しく降り続ける雨の中、それでも、ぼく達は歩き続けた。鞍馬寺を越えて、あの時歩んだ鞍馬の街並みを歩き続けた。降り頻る雨の中、変わることの無い民家が立ち並んでいた。ぼく達は言葉を交わすこと無く歩み続けた。やがて、記憶に残る、ある民家の前に辿り着いた。

「ロック、この家、覚えている?」

「むう、忘れられないのじゃ……。この家の前に置かれていた能面が、全ての始まりだったのだからのう」

「そうだね。あの時、ロックが能面を被って、そこから始まっちゃったんだよね」

 ぼくの物語が始まってしまったのは、能面騒動よりも遥かに昔に遡る。もっとも、未だ「昔」なんて言葉を使う程、ぼくは長い年月を生きてきた訳ではないけれど。

 優しかった母親の姿を知っている時間は短かった。人は哀しい生き物で、楽しかった時代の記憶よりも、辛かったり、苦しかったり、哀しかったりした時代の記憶の方が鮮明に残ってしまう。もう、優しかった母の顔は思い出せない。思い出せるのは……修羅の様な形相で怒鳴り声を挙げる顔ばかりだった。

 そんなぼくを理解してくれたのは、神戸のお爺ちゃんだけだった。何度も神戸の異人館を案内してくれたっけな。お爺ちゃんだけがぼくを理解してくれた。でも、そのお爺ちゃんもこの世に居ない。あの時からぼくは孤立無援になってしまった。誰とも関わり合いの無い、閉ざされた島国の住民と化してしまった。限界集落に独り取り残された最後の生き残りになってしまった。丁度、そんな感じだった。

「……神戸の異人館かぁ。ワシは行ったことが無い場所なのじゃ」

「そうなんだ? そんなに遠くでも無いんだよ?」

「そうじゃな。京都から神戸まで、それほど遠くは無いのじゃ」

「うん。あのね、落ち着いたら、皆で旅行に行きたいと思っていてね。皆を案内してあげたいんだ」

 ぼく達は鞍馬の街並みをただ静かに歩んでいた。次第に雨足は弱まり始めてきた。空も少しずつ明るさを取り戻してきた気がする。

 お爺ちゃん、言っていたっけな。止まない雨は無い。明けない夜も無いって。そうだと思う。変わらないものなんて無いんだよね。時の流れも、人の在り方も、もちろん、ぼく自身も変わっていくんだ。変わり続けて行くこと……変化することを畏れては駄目なんだ。

「えへへ、ほら? ぼく、可笑しな場所にばかり皆を案内しているでしょ? 心霊スポットだったり、怪奇現象の目撃場所とか、うわさになっている廃墟とか。だから、時にはまともな場所にも案内してあげたいと思ってね。ううん、ぼくの好きな場所、皆にも見せてあげたいんだ。気に行って貰えたら、ぼくも嬉しいし」

「そうじゃな。ワシも行ってみたいのじゃ、テルテルの思い出の場所に」

「うん。一緒に行こう?」

「うむ。一緒に行くのじゃ」

 ぼく達はさらに歩き続けた。このまま道なりに進んでいくと鞍馬温泉の建物が見えて来る。あの時、異変の起こった場所。今は明るい時間帯だし、あの時の事件は解決している。だから、ぼく達は不安感を抱くこと無く歩き続けていた。

 降り続く雨。シトシトと降り続ける雨音。雨水の流れる音……嫌な記憶ばかりが蘇る。気が付くと、ぼくは自殺未遂に至った、あの夜のことを思い出していた。

 あの夜、ぼくは何時もの様に成績のことで咎められていた。もう、大分慣れていたとは言え、畳み掛ける様に繰り返される咎めに、ぼくはすっかり憔悴し切っていた。あの当時のぼくは刃向うことが出来なかった。幼いころから刷り込まれた恐怖というのは簡単には抗えないもので、十二分に抵抗する力を身に付けたとしても、幼い頃から長い時間を掛けて刷り込まれた恐怖は簡単には消えるものでは無い。極限まで追い詰められたぼくは、あの時、初めての抵抗を試みた。存在しない弟のことで母を追い詰めた。耐えられなかったから。限界だったから。一体、ぼくが何をしたと言うのか!? 理不尽な肉体的な虐待と、精神的な虐待の繰り返しに崩落寸前になっていた。だけど、初めて試みた反撃は失敗に終わった。逆に、激昂したあの人から猛反撃を受け、ぼくは追い詰められていった。

『お前みたいな出来損ない、暁の身代わりになれば良かったんだ! お前が死ねば良かったんだ!』

 その一言で、輝は完全にぼくは完全に我を見失った。あの人との間を繋いでいた、細い糸の様な絆がプツリと音を立てて千切れた瞬間だった。

『そっか……ぼくは要らない子だったのか。良く判ったよ』

 下らない理由だと、何も知らない人はぼくを嘲笑うかも知れない。何故、自殺なんかするのか? ぼくを理解することは出来ないと思う。何も知らない人は、自殺するだけの度胸があるならば、相手を殺してでも生きようとは思わなかったのか、等と平然と無責任な言葉を口にしてくれる。あのね、それが出来ないから、自分で道を閉ざそうとするんだよ? そう。弱いんだ。自殺する子は、本当に弱い子なんだ。相手を傷付ける業を背負う位ならば、自分が消えることで業を背負ってしまおうと思うんだ。甘さだよね……ううん、それこそ、ウソなんだよね。本当の所はね、どうしたら良いか判らずに、ただ、逃げたいだけなんだ。自分からも、危害を加える相手からも、世間からも、何もかもを閉ざして、終わらせて逃げ出したいんだ。究極の現実逃避。それが自殺という行為なのだと、ぼくは思う。

「そんなことが、あったのじゃな……」

「うん。コタが偶然通り掛からなかったら、ぼくは取り返しがつかなくなっていたと思う。致死量に達しない睡眠薬では、確かに、死ぬことは出来なかったかも知れないけれど、後遺症が残る可能性は十分にあったからね……」

「それにしても壮絶な話じゃな。幾つもの病院を回り回って、睡眠薬をかき集めるとはのう」

「今思えば凄い話だよね。良く、医者もぼくなんかの猿芝居に騙されてくれたものだよ。まぁ、医者からすれば、薬を処方する……つまりは薬を売り捌く。それで金儲け出来れば、それで良かったんじゃないかな?」

「でも、死ななくて良かったのじゃ」

 ふと足を止めてロックが振り返った。目を細めて満面の笑みを浮かべていた。見ているぼくまで、思わず笑みがこぼれてしまう温かな笑み。ぼくが好きなロックの笑顔。

「そうだね。あの時、何かの間違いで死んじゃっていたら、今こうして、ロックと一緒に歩むことも出来なかったものね」

「そうなのじゃ。だから、生きて欲しいのじゃ」

「うん、ぼくは生きるよ。生き続けるよ。ロックのために」

 軽く呼吸を整えながら、ぼくは言葉を続けた。もう、うそは付きたくないから……。

「それから――あの人に復讐するためにね」

 ロックは表情を変えることは無かった。動揺した素振りさえ見せなかった。ただ、静かに、力強く頷いて見せた。

「ワシは間違えておるのかも知れぬ。本来ならばテルテルのことを阻止するのがワシの役目なのじゃろう。じゃが、ワシは家族を守りたいのじゃ。テルテルはワシの家族じゃからのう」

「うん。ぼくも正しいことをしているとは思っていない。それに、復讐した所で、ぼくの気持ちは晴れるどころか、余計に苦しくなるかも知れない。でも……こういうのは理屈じゃないんだ」

「判るのじゃ。感情なのじゃろう?」

 ぼくは黙って頷いた。

「法に引っ掛からずに、足も付かない方法。極めて合法的かつ合理的な方法で復讐を為し遂げる。容易く死なせたりしない。永遠に苦しみを与え続ける」

 恐ろしい言葉を口にしているにも関わらず、不思議な程に心は穏やかだった。狂っているのかも知れない。ぼくは本当の意味で鬼になろうとしているのかも知れない。あの情鬼とも対等に戦えるさ。だって、ぼくも同じ情鬼なのだから。

「策は……あるのかの?」

「ある。ぼくの一言で……あの人の物語は完全に終わる。そのまま、永遠に終わることの無い悪夢の中でもがき苦しませる。永遠にね? ぼくが受けた仕打ち、そのまま返すんだ」

「後悔は……無いのじゃな?」

「無い」

 ロックはぼくの顔をじっと見つめていた。ぼくもロックの顔をじっと見つめ返した。雨は既に上がっていた。空からは微かに青空が覗き始めていた。清々しい光景の中、ぼくは禍々しい言葉を口にしていた。舞い降りてきた雲が山の頂上付近を掠めている姿が何とも幻想的に思えた。

 鞍馬の街並みは時の流れから切り離された様に思える。どこか古めかしい民家が立ち並ぶ、静かな街並み。辺り一面を山に抱かれ、透き通った流れを称えた川が流れ、田舎特有の温かくて、懐かしい香りがする。鞍馬の街は時が止まっている様に思えた。不思議な街並みだ。カラス天狗達が棲む山に抱かれた街。だからこそ、こうした一種独特の雰囲気を称えているのかも知れない。

「因果応報、じゃな。報いは必ず返ってくるのじゃ。これも運命と言えるのであろうな」

「そうだね……」

 ぼくはそっと顔を挙げ、周囲の山々に目線を投げ掛けてみた。やはり、山は、ぼくの様な禍々しい怒りを抱く者などには語り掛けてくれることは無かった。

「きっと、復讐を果たした時、ぼくは堪え切れない哀しみに押し潰されると思う。自分の犯した罪の重さに耐えられなくなるかも知れない。でも……もう、後戻りはしたくない。前へ進むための通過儀礼。なーんて、虫が良過ぎる話だよね」

「それも良いのじゃ。テルテルが生きていてくれるならば、ワシはそれで十分なのじゃ。それ以上は、ワシが口を出すことでは無いと思うのじゃ」

「そうだね。これはぼくの選んだ道だからね。ありがとう、ロック。ぼくは歩むよ」

 すっかり雨も上がり、空には青空が広がっていた。可笑しな光景だと思った。ぼくが選んだ道は明らかに人の道に外れた道。それでも、雨は上がり、空は晴れ渡っている。皮肉のつもりなのだろうか? それとも、本当にぼくを受け入れようとしているのだろうか? いずれにしても他者が口にする雑音に耳を貸すつもりは無い。所詮ぼくは子供だ。体だけが成長してしまい、心だけが取り残された憐れな子供だ。もう、どんな弁解にも耳は貸さない。慈悲なんて必要無い。あの人に裁きを下し、ぼくは自分の道を歩む。それだけのことなのだから。

◆◆◆63◆◆◆

 その夜、俺達は清水寺から夜半の街並みを見下ろしていた。静まり返った夜半の街並みを高台から見下ろす。涼を求めての優雅な散歩であれば、これ程までに心が掻き立てられることは無かった。だが、今宵の目的はもっと切迫した事態と対面するためであった。

 昼の間は賑わいを見せる清水寺へと続く緩やかな坂道は静まり返っていた。土産物屋も閉まり、人通りも無い通りは、微かに街灯が照らし出すに過ぎなかった。見下ろすのは京の都の街明かり。夜でも京都タワーは一際目立って見えた。どうか、この街を照らし出す明かりであり続けて欲しい。何しろ、今、まさにこの街は深い闇に沈もうとしているのだから。

 俺達は焦りを隠さずには居られなかった。あれから泣き女郎は完全に成りを潜めてしまった。何の動きも見せないことが逆に不気味に思えて仕方が無かった。クロの同胞達も敵の足取りを追っているそうだが、まるで足取りを掴めないでいる。不安で仕方が無かった。敵が一体何を企てているのかまるで見えてこないこと。その事実が俺の中で、さらに不安感を増長させていた。大地からも連絡は全く入ってこない。輝と上手く話を進めてくれているのであれば良いのだが……。

「輝達は鞍馬に訪れた様子であるな」

「鞍馬に? 一体、何をしに行ったのだ?」

「さてな。そこまでは我にも判らぬ。我は同胞から目撃情報を得たに過ぎぬ。ただ……同胞の言葉に寄れば、輝は何か禍々しい感情を膨らませておる様子であったと聞く」

「母親への憎しみか……。無理も無い。話の合う大地と話し込んでいるうちに、自分自身の感情を抑え切れなくなったのだろう」

「だが、コタよ、これは見過ごせぬ話でもある。このままでは、輝は情鬼に成り果てて仕舞いかねぬ」

「なに?」

「輝と大地との間に何があったのかは我にも判らぬが、輝は怒りの感情を武器に情鬼と戦う腹積もりの様に思える。全く、随分と思い切った考えに至ったものよの……。理論上は、同等の立場に立てば戦うことも出来よう。だが、情鬼に成り果ててしまったとしたら、我は輝を討たねばならなくなる」

 俺の采配に問題があったのだろうか? 大地と輝ならば、似た様な一面を持つ者同士、互いに想いを打ち解け合えると考えていたが、その矛先が在らぬ方向へと向いてしまうことになろうとは予想もしない展開であった。

「何としても阻止しなくては!」

「止すのだ。無意味な行為にしかならぬ」

 思わず駆け出そうとする俺を、クロが鋭く制した。

「何だと?」

 苛立ち混じりに振り返れば、クロは目を伏せたまま哀しげな表情を浮かべていた。

「鋼の様に堅牢なる意思を感じる……。ゆらゆらと灯火の様に揺らいでいた非力な想いは、今や、数千の時を経た大樹の如きまっすぐで、強固なる想いに成り果てておる。ここ数日、太助と語らい、大地と語らい、迷い続けていた心から遂に迷いが失せたのであろう。こうなってしまっては、如何にコタと言えど、輝の心を動かすことは不可能であろう」

 俺は輝の一体何を理解出来ていたのだろう? 誰よりも傍にいる輝の兄貴なのだ。そういった思い上がりが、正確な判断能力を失わせてしまっていたのかも知れない。多分、俺は輝の姿を正しく見据えていなかったのだろう。あの母親と何ら変わりは無い。勝手な価値観で、本来あるべき姿を歪めて捉えてしまっていたのかも知れない。もはや、俺の出る幕は無いと言うことか?

「そうかも知れぬ。悔しいかも知れぬが、コタよ、お主が輝にしてやれることは何も無いかも知れぬ。だが、輝自身が何らかの動きを見せた際には、手を貸してやるが良い」

「ああ。俺の出る幕は終わったのかも知れないからな」

「なに。そう落ち込むで無い。輝はようやく、自らの足で歩むだけの勇気を手にしたのだ。幼く、弱々しい光でしか無かった輝が、皆を照らし出す光になろうとしておるのだ。我らは精一杯、後方支援をする。それで良いではないか?」

 クロの言う通りだ。熱くなる矛先を俺は取り違えているのかも知れない。感情的になっていては駄目だ。何よりも俺は輝と共に歩む道を放棄したのだ。ならば、輝の歩む道を見守るというのが在るべき姿であろう。それに、俺は天狗使いという立場に在る身。自らの為すべき責務を見誤っては成らないということだろう。

「うむ。良く心得ておる。流石は、我が見込んだ者よの」

「茶化すな。それより、泣き女郎を何とかしなくてはならない。奴を討ち取ること。それは、俺達にしか出来ない最重要の任務だ。これ以上被害が拡大する前に、奴を討ち取らなければ大変なことになる」

「うむ。ここ数日、何の音沙汰も無いことが殊更に薄気味悪く思える。何か、良からぬことを企てているとしか考えられぬ」

 気掛かりなことだらけだった。泣き女郎がどういった動きを企てているのかは皆目見当がつかない。ここ数日の静けさも余計に不気味に思えて成らなかった。手を退くことは間違いなく有り得ないだろう。相手は相当に粘着質な執念の持ち主。いとも簡単に引き下がることなど、到底考えられなかった。皆からも何の連絡が無いのを考えると、完全に成りを潜めているのであろう。

「持久戦よの。相手は我らの出方を窺っておるのかも知れぬ。痺れを切らし、無為に先手を打たんとすれば、逆に相手の意の中に飛び込むことになるだけであろう」

「なるほどな……。性悪な考えの持ち主だな」

 だが、俺達はこの時とんでもない思い違いをしていた。泣き女郎は成りを潜めたのでも、様子を窺っているのでも無かった。俺達の気付かない水面下で動きを繰り広げていたのだった。それも極めて大規模な行動を。ただ、俺達の情報収集能力が、泣き女郎の動きを捉えるに至らなかっただけのことだった。翌日、俺はとんでもない事態に陥っていることを知ることになった……。

◆◆◆64◆◆◆

 良く晴れ渡った朝だった。何時もと変わらぬ照り付ける様な強い日差しの中、俺は何時もと変わらぬ時間帯に学校に到着した。皆も何時もと変わらぬ様子で登校してきた。輝の様子が気になっていたが、別段、何時もと変わった所も見受けられなかった。どこか、迷いの晴れた様な表情を浮かべているのが気にはなったが、要らぬ詮索をするのは思い留まることにした。大地からも特段、変わった話を聞くこともなかった。聞けたことと言えば、輝と一緒に市内各所を巡って、何時もの様に甘味を堪能してきたという土産話位であった。だが、色々と輝が世話になったのは事実だ。いずれ、何らかの礼をしなければ成らないだろう。もっとも、あまり目立った礼の仕方をすれば、輝にも、大地にも、要らぬ気遣いをさせることになる。こういうのはささやかに行うべきだ。

 そうこうしているうちにホームルームの時間になろうとしていた。だが、変わることの無い小さな教室でも異変は起きていた。時計でも内蔵しているのでは無いかと思われる程に、時間に律義な山科が一向に姿を見せる気配が無かった。俺の中で湧き上がる嫌な予感を否めなかった。

「今日は山科の奴、遅ぇな。どうしちまったんだろうな?」

「さぁな。あの男のことだ。この暑さですっかり痛んでしまった食い物でも口にして、今頃、腹痛に喘いでいるかも知れないな」

「わはは。そりゃあ、ありそうな話だな……っと、笑っていたら、ご本人の登場みてぇだぜ?」

 だが、遅れて教室に姿に現した山科は、傍目から見ても一目で判る程に青ざめた顔をしていた。

(ううむ……太助の恐ろしく間抜けな予測が的中したのか? 何処までも面白い奴だ……)

 だが、どうやら、そんな滑稽な話題では無さそうであった。大きな溜め息混じりに切り出された話に俺達は驚愕させられることになった。

「ええ……遅くなってしまい、申し訳御座いません。朝の職員会議が大幅に伸びてしまいまして……」

 何時もの流暢な喋りはそこには無く、考えを整理し切れぬままに、ぶっつけ本番で喋っている様な、妙なぎこちなさがあった。違和感を覚えずには居られなかった。講談師にも匹敵する程の巧みな喋りを持つ山科らしからぬ、何とも歯切れの悪い姿を目の当たりにしていたのだから。

「ええ、近隣の学校で大変な事件が起こってしまいました。現在確認されているだけでも、数校の小中学校にて、子供達が一斉に神隠しに合うという事件が起こっております」

「何だと!?」

 耳を疑わずには居られなかった。泣き女郎は一体何を企んでいる? 無差別に子供達を連れ去ることに一体何の意味がある? 否……そうでは無い。人質だとしたら? 輝を差し出す代わりに、連れ去った子供達を解放する。そういう話であれば十分に考えられる。何処まで気が狂っている奴なのか……。とうとう誘拐犯紛いの策に出るとは、予想しなかった動きであった。動揺している所へ今度は桃山が血相を変えて駆け込んできた。今度は一体なんだ? 何が、どうなっているというのだ? 俺まで取り乱しそうになっていた。

「も、桃山先生、一体どうしました?」

「行方不明になっていた少年達が、先程発見されたとの連絡がありました。ただ、皆……」

 皆、どうなっていたのか? その部分に関しては小声で山科に告げていたため俺達には状況は判然としなかった。もしかしたら、皆、物言わぬ状態で見つかったのかも知れない。あの情鬼ならば、そうした派手な行動に至っても可笑しくは無かった。もはや、目的を実現するためには手段を選ばないということであろう。これは厄介なことになった。輝を手にするための大々的な行動であると同時に、鞍馬山のカラス天狗達への宣戦布告の意も篭められているのであろう。

「と、取り敢えずホームルームはこれにて終わりにします。皆さんは、一時間目の授業の準備をしてください」

 そう言い残すと、再び山科と桃山は大急ぎで走り去って行ってしまった。後に残された俺達は、ただ、茫然と立ち尽くすばかりであった。依然として打つ手は見つかりそうにない。何しろ敵は虫を意のままに操り、自らの姿を晒すこと無く行動を行える相手である。討ち取ろうにも、姿を捉える事が出来ない以上は、どうすることも出来ない。

「……卑怯な手を使う奴だよね。ぼくが出て来るのを待っているのでしょう?」

「輝、早まるな。お前が出て行けば、敵の思い通りになってしまう」

 驚く程に輝は冷静に振舞っていた。普段の輝だったら、どうすれば良いのかと、慌てふためいていただろう。あるいは、勢いに任せて飛び出していた筈だ。だが、俺の目の前に佇む輝は、まるで意に介さないかの様に、不気味なまでに冷静に……否、冷徹に振舞っていた。

「ぼくは出て行かないよ。こんなこと言ったら、冷たい奴だと思うかも知れないけれど、見知らぬ子達がどうなろうがぼくには関係無いもの」

「おいおい、随分と冷めた言い方だなぁ。でもよ、そうは言っても、放っては置けねぇよな」

「ううむ……じゃが、ワシらに一体何が出来るのじゃろうか? あくまでも、ワシらは非力な存在じゃからのう。気持ちだけ先行しても、地に足が付いていないのでは、どうにもならんのじゃ」

 随分と冷めた物の考え方だ。人は人、自分は自分という考え方か。否定はしないが、肯定することも出来ない。確かに、見知らぬ他人がどうなろうが知ったことでは無いが……否、俺の価値観を押し付けるのは良く無いことだ。戦う力を持つ俺だからこそ、戦いを挑もうという考えも浮かぶというものだ。だが、大地の言う通り、戦う力が無い身ではどうすることも出来ないのは事実だ。それにしても、輝……数日の間に随分と変わってしまったものだ。一体、お前の身に何があったというのだ?

「嫌な言い方だったよね。でも、ぼくは……無謀な行動を起こして、不必要に傷付くのは嫌だから。自分のことだけでも手一杯なのに、ぼくの手に負えないことにまで、手を出すだけの余力は無いから……」

「まぁ、オレも熱くなっちまったけれど、良く考えたら、オレ達の手に負える相手じゃねぇよな。せめて、対等にやり合えるだけの力があるならば、話は違ったかも知れねぇけどなぁ」

「同じ土俵に立つことが試合のルールだ。そう考えれば、反則行為を繰り返す相手と向き合うのは、確かに困難な話だな」

 もどかしさに苛立った。結局、俺達はクロの手を借りなければ何も為せない。あの時だってそうだった。俺にも何か出来ることは無いだろうかと、泣き女郎の足取りを追い京都駅まで訪れた。だが、結果はどうだった? 生命の危機に瀕し、結局の所、クロに救われるしか無かった。結局、俺達だけでは情鬼とは戦えないのだ。その事実が悔しくて仕方が無かった。輝のことを冷たい奴だと断じてしまった俺自身も、結局は同じでは無いか。輝はただ、本来あるべき等身大の自分を見極めることが出来る様になっただけのことだ。むしろ間違えているのは俺自身だった。

「おりょ? 何だか、妙な虫が居るようじゃの?」

「うぉっ!? な、何か、耳元を飛んで行ったぜ!?」

 何? 虫だと? 嫌な予感は的中するものだ。耳を澄ましてみれば、確かに、何かの虫の羽音らしき音が聞こえて来る。一体何の虫なのであろうか? 考えていると、不意に目の前を一匹のトンボが飛んで行った。大きな、黒い羽を持ったトンボであった。

「ほう? 見たことが無い種類のトンボだな?」

 教室の中を飛ぶトンボを鋭く捕えた太助が、俺達にその姿を見せてくれた。

「ううむ、見たことが無いトンボなのじゃ」

「でもよ、何か、気味悪いよな。黒い羽根だぜ? なぁ、そのトンボ……大丈夫なのか? ヘンな毒とか持ってたりしねぇよな?」

「力丸、試しに食ってみるか?」

「えぇっ!? いや、と、トンボはちょっと、食えねぇかなぁ……」

 嫌な雰囲気だった。教室の中を縦横無尽に飛び回る黒いトンボの集団。皆、気味悪がって必死になって追い払おうとしている。中には、うっかりトンボを叩き潰してしまった奴らもいる様子だった。潰されたトンボからは、不気味な黒い体液が滴っていた。得も言われぬ不快な臭気が教室に立ち込めてゆく。

(む! この臭い……覚えがある。そうだ。あの黒い雨と同じ臭いだ!)

「うわっ、この臭い! これって、あの黒い雨の臭いと同じだよ!」

 やはり、輝も身に覚えがあるということか。不味いな……こんなものをばら撒かれたのでは、俺達の身にも危険が及ぶ。

「皆、悪いが雑巾を手に、あのトンボから飛び散った体液を拭き取るんだ。出来るだけ撒き散らさない様にしてくれ。その際、くれぐれも肌に付着しない様に注意しろ!」

 俺は皆に手短に指示を出した。あの黒い雨と同じ成分が含まれているのだとしたら、皮膚に触れれば焼け焦げた様になってしまう。中には、うっかり手に付着してしまった奴らも見受けられた。

「黒い汁に触ってしまった奴は、大急ぎで水で洗い流してくれ! そのまま放っておくと火傷みたいな傷跡が残ることになる! 急いでくれ!」

 教室内はパニックに陥っていた。騒いでいるうちに黒いトンボ達は姿を消してしまった。相変わらず姑息な手を好む奴だ。俺達の居場所は掌握している……そういう意思表示なのだろう。馬鹿にしやがって。絶対に許さん!

「ねぇ、コタ。ちょっとだけ、お話、良いかな?」

「どうした?」

「えっと……ここでは話し辛い内容でね。ちょっと、屋上まで来てくれるかな?」

「ああ、判った。済まない、皆、少し席を外す。授業が始まったら、適当に言い繕っておいてくれ」

「おう! コタとテルテルは、空腹に耐え兼ねて飯を食いに言ったってことにしておくぜ」

「……妙な脚色をするな」

 皆に後のことを任せて、俺は急ぎ輝と共に屋上へと向かった。一体何を話したいのだろうか? いずれにしても、放って置く訳にはいかなかった。

 屋上へと訪れた俺達は、街を見渡せる場所まで移動した。空は何処までも広がっていて、異様な事件が街を騒がしているとは、到底思えない程に平和な空模様であった。照り付ける様な日差しの中、蝉の鳴き声が威勢良く響き渡る。

「それで、輝、話って何だ?」

「うん……。あのね、可笑しなこと言うかも知れないけれど、笑わないで聞いてね?」

「ああ、大丈夫だ」

「糺の森で、錦市場で、ぼくは不思議な存在と出会ったんだ」

「不思議な存在?」

 輝は俺の反応を窺っていた。色々と不可思議な物と縁ある身だ。今更、些細な話では驚きはしないさ。それに、輝は情鬼とも接触があることを考えれば、それ程、意外な話でも無いのだろう。

「うん。カラスの頭を持ち、背中に大きな翼を生やした者……」

 輝の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。

「やっぱり、コタにも心当たりあるんだね。カラス天狗……」

「会ったのか?」

 クロが輝と直接接触を試みたのか? どういうことだ? そんな話は一言も聞かされていないが?

「うん。でも、カラス天狗とは言っても……その姿は真っ白でね。微かに黄色い光を身に纏った神々しい存在だったんだ。ねぇ、コタ。ぼく達に手を貸してくれているのは、カラス天狗なの?」

 俺の勝手な一存で返答して良い物か迷った。ただ、白いカラス天狗だと? クロの仲間達は皆一様に黒いカラス天狗達であった。一体、何者なのだろうか? だが、いずれにしても手を貸してくれる存在であることには間違いないだろう。

「済まないな、輝。今はまだ、全てを話すことは出来ない。ただ……俺が必ずお前を守る。だから、不安かも知れないが、俺を信じてくれ」

「うん、判ったよ。ありがとうね、話、聞いてくれて」

「ああ。それじゃあ、教室に戻ろう。皆も心配しているだろうからな」

 俺達は再び教室に戻ることにした。だが、気になる話だ。白いカラス天狗……一体何者なのだろうか? 後でクロに話を聞いてみることにしよう。何か知っているかも知れないからな。さて、取り敢えずは相手の動向を窺いつつ、こちらも作戦を練り直すこととするか。

 その後、放課後まで特段変わったことも起こらなかった。だが、気持ちは全く落ち着かなかった。何しろ、泣き女郎は常に俺達の動向を監視している筈だ。何時でも行動を起こすことは出来る。ただ、行動を起こさずにいるだけなのだ。そう、主張していることが手に取る様に判るからこそ、落ち着くことは出来そうに無かった。皆に別れを告げて俺は急いで家に戻った。クロと急ぎ次なる策を講じるために。

◆◆◆65◆◆◆

 学校を後にした俺は家へと至る道をただひたすらに急いでいた。時間は多くは残されていない。時間が過ぎれば過ぎる程に事態は悪化してゆく。そう考えると、いても立ってもいられなかった。息を切らしながら、噴き出す汗の流れるままに、俺は家へと続く道を走り続けていた。道中、お届け物を運ぶ運送屋の青年が汗を拭う横を駆け抜け、楽しげに語らう地元のおばさん同士の会話を背に受けながら、ひたすら走り続けていた。奇しくも空には、俺の不安感を掻き立てるかの様な不穏な暗雲が立ち込め始めていた。青空を覆い尽くす暗く、黒い雲。獣の唸り声の様な音を轟かせている。それでも俺は走り続けた。東大路通を北上し小道から花見小路方面へと抜ける。赤信号を突っ切り、あわや事故に遭遇しそうな場面もあったが、構うこと無く走り続けた。やがて俺の家が見えて来た。この暑さの中で全力で走り続けるのは楽な話では無い。息が切れ、足も引きつり始めていた。もうじき家に到着するというところで、俺の目の前に唐突にクロが舞い降りてきた。

「随分と慌てている様子であるな?」

「はぁっ、はぁっ……。丁度良い所で出会えたものだ」

 俺は堪え切れずに、その場に座り込むと、必死で呼吸を整えた。汗が後から、後から噴き出してくる。それでもクロは相変わらず涼やかな表情で腕組みしてみせるばかりであった。

「く、クロ、お前も既に知っているだろうが……」

「うむ。皆まで言わずとも全て判っておる」

「はぁっ、はぁっ……」

 相変わらず呼吸の荒い俺を静かに下ろしたまま、クロが語り続けて見せる。

「いよいよ、大掛かりな行動に出始めた。神隠しに遭った者達は、皆一様に体中に針が突き刺さった状態で発見された。命を落とす者も出るやも知れぬ」

 クロは背筋が凍り付きそうなことを、いとも簡単に述べて見せる。

「不動の構えを見せる輝の動向に、いよいよ痺れを切らせ始めた様子であるな」

「クロ、落ち着いている場合では無いだろう!? 異常事態に陥っているのだぞ! 俺達しか立ち向かえないんだ! 何とか、何とかしなければ!」

 焦りに身を任せ、思わず声を荒げる俺とは対照的に、クロは腕を組んだまま静かに俺を見つめていた。その冷静さに触れて、頭に血が上っていた俺も段々と冷静さを取り戻しつつあった。ようやく呼吸も、早鐘の様に刻まれる鼓動も落ち着いてきた。

「す、済まない。取り乱して悪かった」

「焦るな、というのも難しい話であろうが……」

 俺をじっと見つめたまま、クロは静かに手を差し出してくれた。俺はクロの手を借り、立ちあがった。

「こういう時こそ焦ってはならぬ。敵の術中に嵌るばかりよ」

「そうだな……」

「コタよ、我と共に大原の地へ向かおうぞ」

「大原へ? ああ……そうだな。静かな場所の方が話し易いな」

 吹き荒ぶ嵐の様な頭では、まともに物事を断ずることは難しい。クロは相変わらず冷静さを失わない奴だ。こういう場面でも冷静さを失わない奴とタッグを組めていることを幸運に思う。だが、だからと言って穏やかに事態を見届けているかと言えば、それは違う。クロは何時だってそうだった。物静かな振舞いとは裏腹に、内なる怒りを秘めた奴だ。今も腹の中では、泣き女郎を討ち取るために必死で策を巡らしていることだろう。

(否、それじゃ駄目だ。クロに全てを托すのはでは俺の気が済まない。俺には戦う力は無いが、知恵を出すこと位は出来るかも知れない)

「雨、降り出しそうだな」

「なに、夕立程度の雨では、我らの怒りの炎を消すことなど出来やせぬ。そうであろう?」

 クロが俺の目を見据えたまま力強く微笑んで見せる。内なる怒りを見せられると、俺も自ずと気合いが入る。まったく……本当に俺のことを良く理解しているのだな。どう扱えば、冷静さを保ったまま、熱い血潮をたぎらせることが出来るかを良く心得ている。

「ああ。その通りだ。クロ、俺はお前と共に戦う。足手まといにしかならないかも知れないが、是非とも共に戦わせてくれ」

「ほう? 中々に猛々しい意思表示であるな」

「当然だ。あいつの振舞いを、断じて許す訳にはいかない!」

「ああ、その通りだ。コタよ、是非とも我と共に戦ってくれ。共に力を合わし、あの性悪女を討ち取ろうぞ!」

「ああ、無論、そのつもりだ!」

 珍しくクロが情熱的な振舞いを見せていた。鼻息荒く、笑い声を轟かせるのは上機嫌な証だ。皆を守るんだ。傍若無人な振る舞いの数々、俺達を散々挑発したこと、断じて許す訳にはいかない。絶対に、この手で討ち取ってくれようぞ!俺達は堅く腕を組み合わせていた。気合いが入る。

「さぁ、コタよ。我の背にまたがるが良い。目指すは大原! いざ参らん!」

「おうっ!」

 俺達は大原を目指して、大空高くに舞い上がった。みるみる遠ざかってゆく花見小路の情景を見下ろしながら、俺は微かに涼しくなった空気を感じていた。やはり地表と比べれば、高度をあげた方が気温も下がるらしい。それでもすっかり汗だくだった。今すぐにでも服を脱ぎたい程に汗ばんでいた。胸元からは今も汗がにじみ出ている。

 空は相変わらず不穏な唸りをあげている。それでも俺達は一歩も退く訳にはいかなかった。この事態を集結させるためには、クロの手を借りなければどうにもならない。つまり、俺達が最終防衛線だ。ここを突破されれば後は無い。輝を奪われ、連れ去られた奴らもどうなってしまうか判らない。そんな最悪の事態だけは何としても避けなければならなかった。

(大丈夫だ。俺とクロが力を合わせて挑めば、絶対に事態は解決できるはずだ!)

「大原のバスの停留所が見えてきたの。あの場所に降り立つぞ」

 やがて俺達の視界に大原のバスの停留所が見えて来る。クロはゆっくりと高度を下ろしてゆく。天気が崩れる予兆なのか、不意に強い風が吹き抜けて行った。

「くっ! 何と言う風よ!」

「お、落ちる所だった……」

「ああ、コタよ、済まぬ。少々油断しておった。だが、万に一つ振り落とされても、地表に叩き付けられる前に我が救出する故、そう不安になることも無い」

(ち、地表に叩き付けられるって……。笑えな過ぎるぞ、クロよ……)

 再度、気を取り直し、俺達は地表を目指して下降した。

 無事に大原のバスの停留所に到達出来た所で、俺はそっと空を見上げてみた。今にも雨が零れ落ちそうな程に、空は暗い色合いに包まれていた。静かに空を見上げる俺の肩にクロが手を乗せた。

「さて、少し歩くとしようぞ」

「ああ、そうだな。行こう」

 信号を渡り、三千院へと至る緩やかな坂道を上っていると、不意に雨がポツリ、ポツリと降り始めた。静かに降り始めた雨は、一気に雨足を強め、瞬く間に地面に叩き付ける激しい雨へと移り変わっていた。それでも、俺達はただ無心に歩き続けていた。雨に濡れることも厭わずに、ただ、歩き続けていた。俺達の視界の先には赤紫蘇の小さな畑が広がっている。鮮やかな色合いの赤紫蘇も雨に打たれていた。ふと周囲を囲む山々を見渡せば、呼吸しているかの様に薄い雲を、その身に纏っている様が見て取れた。どうやら雨雲はだいぶ低い位置まで降り立っているらしい。

「ここまで潔く濡れると、むしろ気持ち良い位だな」

「フフ、その格好では、また家に戻ってから、母上のお叱りを受けることになろうぞ?」

「渇くまで待つさ。夕立ならば直に止む。止んだら木の枝にでも干せば良いだろう?」

「現代を生きる身とは思えぬ程に野性的な発言よの?」

「ああ。お前と一緒に過ごす様になってから、文明を棄てた生き方も悪く無いと感じ始めた。まぁ、俺は今の時代にはそぐわない古風な男だからな」

 誇張表現では無く、本当にそう思いながら日々を過ごしている。文明は発達し、様々な物が充足し、世の中は便利さの海に沈没し様としている。俺にはそう思えてならなかった。だが、だからこそ時々思う。古き時代に生まれていたら、俺はどういう生活を送っていたのだろうか? 昭和レトロの時代を生きた親父の話を聞くのが好きだった。酒を飲む度に上機嫌に語って聞かせてくれる古き時代の物語は、今でも俺に取っては飽きることの無い話だ。

 親父は東京で生まれ育った身だから、やはり京都での暮らしぶりとは違いは在る様に感じられたが、今でも俺は切に願う。僅かな時間でも良い。親父が生きた時代、俺もその時代に身を置いてみたい。叶わぬ願いだからこそ、俺は追い求めたくなるのかも知れない。妄想の原点は……案外、こういう部分に起因しているのかも知れない。

 先も見えない程に白々と降り頻る雨の中を、俺達はただ歩き続けていた。土産物屋の主達が怪訝そうな顔で俺を見つめている。何しろ傍目にはクロの姿は見えないから、確かに、一種異様な光景に見えたことであろう。傘もささずに仏頂面で歩き回る若い男が一人。一体、こいつは何をしているのだろうか? まぁ、誰もが疑問を抱かずには居られなくなるだろう。

「気のふれた奴が歩いている。そんな眼差しで俺を見ているな」

「フフ、中々に愉快な構図ではあるまいか? あの者達には我の姿は見えぬ。さぞかし、奇異な光景に思えて居ることよの」

「笑われているのは俺だぞ? 他人事だと思って良い気な物だ」

「だが、言葉とは裏腹に、随分と楽しんで居る様に見えるが?」

「気のせいだ。さ、このまま展望台まで向かおう」

 俺達はくだらない話をしながら歩き続けた。可笑しな話だ。数分前までは泣き女郎を討ち取ることで頭が一杯だったが、こうして大自然の息吹を感じながら、雨の恵みをその身に受け止めながら、大原の地を歩むのも悪くは無いものだ。いっそ、余計な衣服など脱ぎ捨ててしまいたかった。だが、可笑しな趣味嗜好の持ち主だと、要らぬ所に通報されるであろうから控えて置くとしよう。まぁ、クロのことだ。俺の珍妙な戯言にも付き合ってくれることだろうから、愉しみはいずれ実現するとしよう。

 ようやく展望台に着く頃には賑わっていた祭りも終わりを告げようとしていた。空は白く染まり、微かに雨粒が零れ落ちるばかりとなった。参道の横を流れる小さな川の流れが少々勢いを増し、道路には即席の小さな流れが出来ていたが、直に再び落ち着きを取り戻すことであろう。

 木々の葉から滴り落ちる残り香の様な雨粒を肌で感じながら、俺達は展望台へと到着した。見渡す限りの稲の葉。波打つ様な一面の緑に思わず言葉を失ってしまう。むせ返る様な稲穂の青臭さも、今の俺に取っては最高に心落ち着く香りだった。

「こうして目を閉じていると、海辺に身を置いている様な心地になれる」

「うむ。寄せては返す波の音……確かに、良く似た音色であるな」

「ああ。心が落ち着く場所だ。それに、稲穂の青臭いまでの緑の香りも心地良い。やはり、人は土と共に生き、大自然の恩恵と共に歩まなければならない。俺は心からそう思う」

「フフ、コタは本当に人にしておくのが惜しい男であるな。その価値観、我ら天狗一族に通ずるものがある様に思える」

「ほう? 俺の価値観は天狗一族の価値観に通ずるか? 光栄だな」

 天狗一族……危うく、忘れてしまう所だった。輝から聞かされた話。今回の事案とは直接関係は無いのかも知れないが、気になるのは事実だ。丁度良き機会だ。クロに問うてみるとしよう。

「なぁ、クロ。鞍馬山のカラス天狗一族は、皆一様にクロと同じ様な姿をしているのか?」

「む? 天狗一族に興味を抱いたのであるか? フフ、いずれ我らの故郷を案内してくれよう」

「ほう? 実に興味深いな。その際には、是非とも、他の天狗達とも語らってみたい」

「ふふ。好奇心旺盛なことよの。さて、お主の問い掛けに対する返答であるが、多くのカラス天狗達は我と同じ様な姿をしておる。まぁ、我らとて個性はあるでの。個々の個性は現れるが、概ね似た様な外見よの」

「なるほどな。それでは……白いカラス天狗は居るのか?」

 俺の問い掛けにクロの表情が一変する。目を大きく見開き、驚いた様な表情で、慌てて俺に向き直ってみせた。いきなりの動揺ぶりに俺の方が驚かされた。

「な、何か……無礼なこと、聞いてしまったか?」

「コタよ、お主が見たのか?」

「否、俺では無い。見たのは輝だ」

「何と……輝が? ううむ、一体、どういうことなのだ?」

 険しい表情を浮かべたまま、クロは唸り込んでしまった。どうしたら良いのか判らず、俺はただ、徒然なるままに景色に目線を投げ掛けることしか出来ずにいた。

「ああ、済まぬ。コタには未だ我らカラス天狗一族の構成を話しては居らなかったな」

「カラス天狗一族の構成?」

「うむ。人の世には『会社』という物があろう? 我らカラス天狗一族も似た様な構成になっておる。会社を構成する者達の様に、階級を持つ者達で構成されておる。我の階級は、お主も知っての通り、カラス天狗である」

 吹き抜ける風を感じながら、俺はクロの話に耳を傾けていた。

「天狗一族は初めは木端天狗と呼ばれる小さな姿から始まる。やがて、修練を積みカラス天狗へと進化する。そして、我らカラス天狗が目指す最高位の階級が、鞍馬天狗と称される者達である」

 カラス天狗の階級……。考えてみれば不思議な話でも無い様に思えた。人が集まり、集団が出来れば、自ずと集団を維持するための決め事の様な物は出来上がる。ましてや、クロ達カラス天狗は、情鬼と戦うことを生業とする身。言うなれば、人の社会の軍隊と似た様な構成を持っていたとしても、何ら不思議は無い筈だ。

「鞍馬山には東西南北、四方を守護する鞍馬天狗が居る。言うなれば、我ら一族の族長とも呼べるべき者達であるな」

 密教の世界の考え方と良く似ている気がした。密教に於いても、道を志す者達は修練を積み重ね、明王、菩薩、如来と言った具合に位が上がってゆく。それと同じ様な流れが組まれているということか。では……輝が出会ったという白いカラス天狗は?

「お主の想像する通り、鞍馬山を守護する四天たる、鞍馬天狗であろうな」

「四天?」

「うむ。東西南北を守護する四人の鞍馬天狗達を総称して、我らは『四天』と呼んでおる。東西南北を守護する四天は、各々が土、水、火、風……即ち、万物を構成する四つの力を根源として担う身である」

 何だか良く判らないが、早い話、鞍馬山を守護するカラス天狗達の総大将と出会った。そういうことになるのだろう。しかし、何故、輝が? 別段信仰心が高い訳でも無く、どちらかと言えば……オカルトマニアという、むしろ、無礼な立場の様な気がするのだが……。

「四天と言えど、在り方はカラス天狗と変わらぬ。天狗使いと共に歩まねば、その力を為すことは出来ぬでの」

「輝が、天狗使いになるとでも言うのか?」

「可能性の話よの。しかし……」

 クロは戸惑った様な表情を浮かべてみせた。

「元来、四天は滅多なことでは動かぬ身。我らとて殆ど姿を目にすることは無い、言うなれば雲の上の存在であるからの。何とも不可解な話もあることよ」

 だいぶ話が脱線してしまった気がする。今、俺達が考えなければいけないのは、この話題では無い。輝に害為す話では無いことが判明した以上、この話題は一旦切り上げるとしよう。

「その前に、そこら辺の木の枝に俺の服を掛けて貰っても良いか? 段々渇いて来ると、何とも言えぬ気色の悪い肌触りがしてな……」

「ふむ。少々待って居れ。手頃な枝に干してきてやろう」

「ああ、済まないな」

 クロに頼み込んで置きながら、改めて周囲を見回してみた。幾ら開放的な場所とは言え、すぐ近くには土産物屋もある。下着一枚で佇むことになろうとは、見知らぬ人の目に留まったら色々と問題になりそうだ。

「ああ、クロ。済まないがもう少し、上まで移動しないか? 人の訪れない場所の方が好ましい」

「なるほど。それでは、音無しの滝まで参ろうぞ」

 音無しの滝か。さすがに、そこまで山奥まで入れば、おいそれと登ってくる様な物好きも多くは存在しない筈だ。少々木に覆われた場所ではあるが、まぁ、雨上がりの蒸し暑さに耐えながら語らうより、涼やかな滝の音色を耳に抱きながら語らう方が良さそうだ。下着一枚という少々間抜けな姿のまま、俺は再びクロの背に乗せて貰い、音無しの滝を目指すことにした。

◆◆◆66◆◆◆

 静かに流れ往く滝の音色……。辺り一面を木々に覆われた光景に、大自然の恩恵を存分に感じていた。ふと、傍らを見ればクロもまた衣服を枝に掛けていた。やはり、カラス天狗とは言え、この茹だる様な暑さには耐えられないのであろう。褌一枚になると、その場に座り込んで見せた。

「ふぅ……。酒でも酌み交わすが如き格好で済まぬな」

「ああ、構うことは無いさ。ここには俺とお前しか居ない。こんな蒸し暑い夕暮れには涼も必要ということだ」

 互いに下着一枚という、少々間の抜けた姿で語らうこととなるが、まぁ、細かいことは置いておこう。いずれにしても、此処には俺達しか居ないのだから。

 静かに流れ往く音無しの滝。舞い上がる水飛沫が涼やかな風になり、俺達の暑くなった体を冷やしてくれる。俺達は心地良い涼を感じながら、汗が退くのを待ち侘びた。

「さて、今一度状況を整理するとしようぞ」

 再びクロが取り出したのは人物関係を整理した和紙であった。輝と母親、それから桃山の関係を示した構図である。

「桃山は情鬼の媒介となりて、輝に関与する存在で……あったと言った方が、現状を適切に評することとなろう」

「輝との間の関係性が消えたということか?」

「ふむ。一体、どうした心変わりがあったのか我には見えなかったが、少なくても輝は桃山からの干渉を受けることは無くなったであろう。友と共に築き上げた絆の強さ……所詮、紛い物の鎖では、深き友情の絆には遠く及ばぬということであろう」

 友情の絆……果たしてそれだけなのであろうか? 輝の母親に対する憎悪の念は、今まで以上に確固たる物に成り果ててしまった様に思えた。決意とも取れる様な態度を見せていたことが気に掛る。迷いが失せたとは……まさか、本気であの母親を抹消するつもりなのか?

「ふむ。確かに、輝からは禍々しいまでの殺気を感じた。何かを為し遂げようとしておるのは事実であろう」

「俺に、輝を阻止することは出来るだろうか?」

「……止めておくのだな」

 腕組みしたまま静かに俺を諭すクロに反論しようと思った。だが、出掛かった言葉を思わず呑み込んだ。

(そうだったな。俺も同じ立場にある……。未だに消えぬ、鴨川卓への憎悪の念。何時の日か必ず復讐を為し遂げる。その気持ちは消せない。輝も俺も……同じなんだ)

「我はコタの為そうとしていることを阻止するつもりは無い。何故なら、コタよ、お主がそれを望んで居らぬからよ」

「良く理解しているな……。ああ、お前の言う通りだ。情けない話だが、今でも鴨川卓の存在が足枷になっている部分がある。どうしても消し切れない俺の汚点となり、今なお暗い影を落としている。受けた仕打ち……このまま済ますことは出来ぬ。因果応報……天が裁きを下さないなら、俺が裁きを下す」

 クロは静かに俺を見つめていた。

「まったく、俺は小さなことに何時までも拘る惨めな奴だな」

「だが、それが人が人である証であり、同時に……業である。違うか?」

「ああ、その通りだ。俺達に出来ること……それは、輝が帰ることの出来る場所になる、ということか」

「うむ。それが良かろう。さて……再び話を戻させて貰うぞ?」

「ああ、話の腰を折って済まない」

 木々の隙間から差し込む木漏れ日は、次第に燃え上る炎の様相を呈し始めた。日暮れ時なのであろう。差し込む日差しは燃え盛る炎の様な色合いとなり、俺達もまた、燃え上がる炎の様な色合いに染まっていたことだろう。クロは相変わらず腕組みをしたまま俺の姿を見つめていた。

「泣き女郎は新たな策を講じた。下らぬ小細工で輝の心を動かすことが不可能と理解した奴は、今度は無関係な者達に危害を加え始めた」

「ああ。人質を取り、輝が出て来るのを待ち侘びている。随分と世俗に塗れた策を講じてきたものだが、輝の意思は固く、奴の想いは空回りしている」

「うむ。だが、目的を果たすためには手段を選ばぬ相手。さらなる被害の拡大が懸念されるであろう。その上、泣き女郎は姿を見せずに行動を為し遂げられる。さて、どうした物かという話になる訳であるな」

 そうだ。そこが何よりも厄介な話なのだ。奴は遠隔地から攻撃を仕掛ける手段を選ぶ身。当然、その姿を見せる必要は無い訳であり、足取りを追うことも困難である。何とか、奴の姿を捉える必要がある。そのためにはどうするのが最善の策であるか?

「輝が奴との接触を試みれば、必ず、奴は姿を見せる筈であろう」

「囮になれと?」

「ふむ。言葉は悪いが、最も的確な手段であろう」

「難しい話だな。今の輝は、くだらぬ策では微動だにしない」

 考え込む俺を後目に、クロは何やら含み笑いを浮かべている。夕日に照らし出されて真っ赤に萌え上がる様な姿。腕組みしたまま含み笑いを浮かべる姿は、猛々しい怒りに満ちた明王の姿の様にも思えた。優雅な振る舞いの中に覗かせる確固たる怒りの念。さて、どんな策を張り巡らせているのか? 狐と狸の化かし合いの始まりか。

「狐と狸の化かし合いに挑むのは我では無い。輝と泣き女郎との対決になるであろうぞ」

「なるほど。当事者同士の戦いということか」

「うむ。あわよくば尻尾を掴んだ所で、我らが上前をかっさらうという手筈よ」

「フフ、正義の味方が使う言葉では無いな?」

「なに。悪の黒幕というのも、中々に味わい深き役所よ」

「確かに、それも悪く無いな。大体俺には正義の味方なんて肩書きは似合わん。悪役であった方が余程演じやすいというものだ」

 俺の言葉を受け、クロは可笑しそうに笑っていた。自分も同じ考えだと。

 しかし、こうして打つ手も無く、手を拱いているのも落ち付かないものだ。元来、俺は気は長くは無い方だ。来る筈も無い待ち人を待ち続けるというのは性に合わない。何か良い策は無い物だろうか? 考えながら、ふと、クロが色々と書き込みを加えた和紙に目線を落とす。

(関係するのは輝、母親、それから桃山か。桃山……視点を変えてみよう。少なからず輝と関わりを持っている桃山のことだ。何か、取っ掛かりにはならないだろうか?)

「なぁ、クロ。桃山のことを、もう少し調べることは出来ないだろうか?」

「む? 桃山のことを? 取っ掛かりの起点を変えるということであるか。ふむ……確かに、我らは桃山の素性を良く心得てはおらぬ。情鬼が媒介に選んだ身であることも踏まえれば、何か突破口見えてくるやも知れぬ」

 少なからず俺も桃山の素性には興味があった。事件のことを調べるというのもあったが……まぁ、下衆な話ではあるが、桃山自身の素性に個人的に興味があるのは事実だ。普段の振舞いを見ていても、やはり、輝に対しては何処か特別な感情を抱いている様に思えて仕方が無かった。恐らく、泣き女郎もその一面を利用したのであろう。ならば、そこから探っていけば、何か見えてくるかも知れない。もっとも、俺が桃山に興味を抱いているのは、女としての興味では無い。輝に害為す存在に成り得るのであれば、排除しなければならない。それに、再び泣き女郎の媒介にされると、こちらとしても動き辛くなる。注視しなければいけない存在は少なければ少ない程良い。今回の事案の様に複雑な動きを取る相手ならば尚のことだ。

「クロ、これは俺の勝手な考えなのだが、桃山は果たして、どこまで媒介として機能していたのであろうか?」

「む? どういう意味であるか?」

「桃山は少なからず輝に好意を抱いている。泣き女郎の思惑で動いていたのでは無く、自らの意思で動いているのだとしたら? 無論、相応の干渉は受けているだろうが、果たして、そこまで変幻自在に人の心を操れるものなのだろうか?」

 今更になって気付かされるとは何とも抜けた話である。だが、泣き女郎の立ち振舞いから察するに、そこまで深く考えて行動していたのであろうか? 執念に身を燃やすあまり、随分と手荒な手口が目立つ。輝の心を揺さぶるのであれば、もっと直接的な手を取るのではないだろうか? 色仕掛けで挑ませるような奴が、敢えて二人で語らわせたり、宇治まで誘ったりするだろうか? もしかしたら、泣き女郎はそこまで桃山を扱い切れていないのでは無いかと考える様になっていた。

「確かに、振舞いだけ見ていると、双方の振る舞い方には差がある様に思える。ふむ……姑息な手段であり、あまり好ましい手ではあるまいが、桃山の素性を探ってみるとしよう」

「そんなことが出来るのか?」

「うむ。ただ、あまり気は進まぬ手段ではある。何しろ、他者の心の中を覗き見る様な手段であるからの」

「まぁ、確かにそうだな……」

「ただ……桃山の心には、僅かではあるが悪意が潜んで居る」

「悪意? 桃山の心に?」

「うむ。輝を手籠にしようと試みる悪意よの」

 やはり、桃山は輝に対して良からぬ想いを抱いていたのか。それならば、排除する必要があるのかも知れない。考えが変わった。輝を守るためならば、障害となる存在は討ち取る必要がある。そんなことを考えていると、クロが静かな笑みを浮かべながら俺を見つめてみせた。

「む? 何か言いたいことでもあるのか?」

「フフ、コタよ、不思議に思わぬか? 何故、輝はこれ程までに多くの者達の心を魅了しているのか? まるで、源氏物語に登場する光源氏そのものではあるまいか? 奇異なこととは思わぬか?」

 言われてみれば、確かに輝は不思議な一面を持っている。幼い頃から共に歩んできた俺にしてみても輝は不思議な存在に思えてならない場面が少なからずあった。鴨川卓の一件から特にその色合いが強くなった気がする。守ってやりたい……そういう気持ちにさせられるのは事実だった。兄弟の様な存在だから、兄が弟を守る。それは至極当然のことと考えていた。もっとも、俺には兄弟がいないから、一般的な兄弟の価値観とは異なる価値観なのかも知れぬが。

 他の仲間達はどうだろうか? 輝と共に過ごした太助は少なからず輝に心を動かされていた。大地に至っては輝に想いを寄せている身に成り果てている。世話好きな力丸は以前から、俺と似た様な接し方をしていた。そして、今度は桃山か……。まぁ、俺もその輪の中に含まれるのだろう。

「改めて考えてみると、随分と多くの奴らの心を動かしているな。まぁ、輝は幼い子供の様な一面を持っているからな。皆から弟の様に思われても不思議では無い」

「それだけであろうか? 我が何よりも不思議に感じたのは、四天が関与した部分である」

「鞍馬山の総大将が興味を示したという部分か?」

「うむ。我が思うに……輝は何か、特異な能力を持って居るのでは無かろうか? 恐らくはコタさえも知らぬ、何か特異な能力を。そうで無ければ四天が関与することなど有り得ぬ」

 特異な能力か……。共に過ごした時間が長過ぎて、だからこそ逆に気付くことが難しいのかも知れない。ただ、改めて輝の生い立ちを考えてみると、極めて特殊な環境下で育ったのは事実だ。

 生まれて来る筈だった弟の死から始まってしまった母親からの虐待。もともと、輝は周囲との居り合いも良く無かった。明らかに周囲からは孤立していた。む? そういえば、何故、輝は周囲から孤立していたのだろうか? 改めて考えてみれば、皆、輝のことを酷く気味悪がっていた。何故だ? 俺の目から見ても、輝は人当たりの良い愛嬌のある性分だ。俺の様に気難しく、常に不機嫌そうな振舞いを見せる奴とは大違いな筈だが?

「そう言えば、俺がまだ幼かった頃に聞いた気がする。輝は……人の死が見えてしまうと。だから周囲の連中は薄気味悪がって近寄らなかったと」

「やはり、そうであったか……。元来、人が身に付けることの無い特異な能力を持ち、母親からの虐待を受け続けたこと。そうした特異な環境下に置かれた輝は、例えるならば、荒野に棄て置かれた憐れな花の様な人生を歩んできたことであろう」

 クロが何を言わんとしているのか俺には今一つ理解が出来なかった。荒野に棄て置かれた憐れな花? 何を例えてその様な表現を選んだのだろうか? 怪訝そうな俺の表情に気付いたのか、クロは笑みを称えたまま話を続けた。

「数多の栄養を与えられ手厚く育てられた花と、一切の手も与えられず荒野に棄て置かれた花と、どちらの方が生存本能は強くなるであろうか?」

「言うまでも無い。荒野に棄て置かれた花だ。限られた土地の栄養を、ありったけの力で吸収し、何とか生き残ろうと……。そうか。そういうことか」

 判ってしまった気がする。皆から忌み嫌われ、母親からも見捨てられて、極限状態まで追い込まれた輝は、生き延びるために無意識のうちに数多の策を講じていたのだろう。それが、輝の持つ特殊な一面なのだと考えると辻褄が合う。魅力的な人物というのは確かに存在する。人を惹き付ける力を持つ者というのは確かに存在する。惹き付ける一面は千差万別であるが、輝の場合は独特の『色香』の様な物を身に纏っているのだろう。だから、多くの者達を惹き付ける。挙句の果てには……情鬼さえも。

「俺もまた魅了された一人だった。俺は輝のことを弟としてでは無く、恋愛対象として見ていた。ああ、クロが相手だから、もっと率直に言うが……俺は輝のことを、性欲の対象として見ていた。否、見ている……と言った方が適切だ。本音を言えば、俺は輝と、あの時為したことと同じ行為に再び至りたいと強く願っている」

「ふむ。恐らく、桃山もまた、似た様な一面を持って居る筈よ。不遇の立場にある者同士が強く惹かれ合うのは常というもの。さて、コタよ……覚悟は出来ておるか? 桃山の心にあるのは、間違い無く深淵なる常闇の世界であろうぞ?」

「ああ……。乗り掛った船だ。それに、深い闇を持つ者ならば、輝の脅威になるかも知れぬ。桃山には悪いが、その腹の内を探らせて貰うことにする」

「うむ。では、始めようぞ」

 俺の言葉を受け、クロは静かに意識を統一し始めた。静まり返った木々の世界に、微かな真言が染み渡ってゆく。

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!」

 何時しか周囲は完全に静寂に沈もうとしていた。やがて、ゆっくりと視界が揺らいでゆく感覚を覚えていた。体がゆっくりと浮き上がり、音無しの滝を流れる水の流れと一体化しようとしているのを感じていた。静かに、俺の意識が遠退いてゆく。深淵の常闇への旅路の始まりだ。

◆◆◆67◆◆◆

 結局、ぼくは非力で、無力で、一人では何も為し遂げられない奴なのだと、改めて認識させられるばかりだった。

 夕暮れ時。ぼくの部屋は夕日に照らし出されて燃える様に赤々と染まっていた。独りぼっち。こうやって布団の上に寝転がって、馬鹿みたいに天井を眺めるのが好き。生きている意味を否定しているみたいで、何だか小気味良かった。

 カラス天狗と共に歩むコタ。恐らくは、あの能面事件の時も、露姫騒動の時も、コタが事態を収拾してくれたのだろう。もちろん、情鬼が相手である以上、ただの人でしか無いぼく達には何かを為し遂げることなんて不可能なことは良く判っている。でも……これは、ぼくの問題なんだ。たとえ情鬼が討ち取られたとしても、ぼくの心の中を吹き荒ぶ想いが消えることは無い。何時の日かぼくの心から情鬼が生まれることになるのかも知れない。それを阻止するためには、溜まりに溜まった怒りの感情を放出するしか無いんだ。

「止まった流れは次第に濁り、やがて澱みを生じ始める。澱みは時の流れと共に腐敗し、腐臭を放つ」

 それが今のぼくの心だ。皆の協力で、ぼくの心は楽になれたのかも知れないけれど、それも今だけ。時間の経過と共に、再び澱みは蓄積されていくと思う。だって、根源たる元凶を取り除けていないのだから。

「前へ進もうとするぼくの足を掴んで離さない存在……」

 正しい答だとは思っていない。もしかしたら、本当の原因は違うところにあるのかも知れない。無理矢理にスケープゴートに仕立て上げようとしているだけなのかも知れない。

 犯人が見つからない時、人は無理矢理にでも誰かを犯人に仕立て上げようとする。そうすることで、さっさと事件を解決したことにしようとする。安心したいから。平和が戻ってきたと思いたいから。

「違うね。『思い込みたいから』、の間違いだよね。そうやって仮想的を作り上げて、皆で一丸となって悪を討つ。そういうシナリオを描き続けながら、人は安心感を得ようとする。誰でも良いんだ。犯人なんて。存在しないなら作為的に作り出せば良い。人が幾度となく繰り返してきた暗い歴史も、それを証明してくれている」

 結局、ぼくも同じだ。そうやって自分を正当化しようとする。

「そうやって、安心を、平和を手にしようとする。だって……苦しむ時間は短い方が良いから」

 答の見えない問題に悩み、迷い、振り回されるのには疲れた。ぼくは楽になりたい。もう、苦しむのは嫌だから。それに……あの人が相手ならば、裁きを下した所で誰もぼくを咎めはしないだろうから。

「はぁ、何か、疲れちゃったな……。色々なことが在り過ぎて、考えるのに疲れたよ。少し、眠るかな」

 多分、体が悲鳴を挙げていたのだと思う。ここ数日の間に、嬉しいこともたくさんあった。同時に、情鬼に振り回されて、精神的に大幅にすり減ったのも事実だった。涼しい顔して振舞って見せていたけれど、やっぱりウソはつけない。ぼくのせいで見知らぬ子達が傷を負っている。悪いのはぼくなのに何ら関係が無い子達が理不尽な目に遭っている。理不尽な現実に散々振り回されてきたぼくだから判る。矛先を向けることの出来ない怒りや哀しみ程厄介な物は無い。ああ、何とかしたいのだけど……。

 あれこれ考え込んでいるうちに、ぼくは眠ってしまったらしい。疲れていたのだろう。気付かないうちに意識が遠退いていたらしく、再び目が覚めた時には外は漆黒の闇夜と化していた。

 妙な感覚だった。沸々と湧き上がってくるのは抑え切れない殺意だけだった。今のぼくならば、多分、何も畏れること無く「計画」を為し遂げられるだろう。ようやく楽になれるのかな? それならば前に進むしか無い。やっと、時が訪れたのだろう。

「確か、近所の家の庭に、夾竹桃が植えられていたっけな」

 夾竹桃。鮮やかな桃色の花を咲かせる樹木。空気の悪い場所でも生きられることから、街路樹や公園に植えられることも多い樹木。

「怖いよね。こんなにも身近に、容易く人を殺せるだけの毒性を持つ樹木が、アタリマエの様に植えられている。コタが教えてくれた知識、こんな所で役に立つことになろうとはね」

 不思議な程に冷静だった。こんなにもスラスラと考えが浮かんでくるなんて、普段のぼくには考えられないことだった。きっと、天がぼくの背中を後押ししてくれているのだろう。やるならば今しかない、と。勢いがある時は勢いに乗るべきだ。きっと上手くいく。そんな確信にも似た想いに突き動かされていた。

「大きな賭けだね。あの時は中途半端な量の睡眠薬だったから、致命傷には至らなかった。大体の目分量でしか判らなかったけれど、少なくても致死量には遠く及ばないと想像していた通りだった。でも……」

 夾竹桃の毒性はとても強い。僅かな量でも簡単に人を殺せる。むしろ、生き残れる可能性の方が低い。

「でも……だからこそ意味があるんだ。ぼくが生き伸びるための大きな賭けさ」

 シナリオが頭の中で次々と組み上がってゆく。次々とパズルを解き明かしているような感覚だった。全てを為し遂げるんだ。そうさ……このまま怒りに突き動かされて、突っ走れば、ぼくは情鬼になれるかも知れない。そうなれば、あの忌々しい情鬼と同じ土俵に立てる。散々、ぼくを振り回してくれた情鬼。ぼくの手で殺したかった……。もう、非力な自分に哀しむ必要は無くなるんだ。弱かった自分に別れを告げて、ぼくは変わるんだ。強い、強い、自分に変わるんだ。憧れていた自分に成るんだ。もう、過去には縛られないさ。

「でも、本当に危険な賭けだよね。失敗すれば、ぼくは死ぬ……」

 自分でも理解できない程に気持ちが昂ぶっていた。絶対に成功する。何の根拠も無い自信に突き動かされていた。多分、大きな力を手にすることに目が眩んだのだと思う。大きな力は人を狂わせる。大きな力を手にしたために、取り返しの付かない過ちを犯した人達はたくさんいる。歴史上に名を残す程の大事件を起こした人達もたくさんいる。

「その一方で、完全犯罪を為し遂げた人達も少なからずいる。事件は迷宮入り……その犯人達は勝者になったんだ。ぼくにも為し遂げられる。ああ、そうさ。ぼくには幸せになる権利があるんだ。長らく続いた虐待の日々! ぼくの全てを歪めてしまった、拭い切れない過去……でも、もう、お別れだ。ぼくは死ぬ。弱かったぼくは死んで、強いぼくに生まれ変わる。もう、悔しい想いも、哀しい想いもしたくない!」

 後は全てのシナリオを順番に進めて行くだけだ。夜が更けるのを待とう。途中で誰かに目撃されれば全てが失敗に終わる。最初の一歩目で完全犯罪が崩れる様なヘマはしたくなかった。だからぼくは再び目を閉じた。気持ちが昂ぶって眠れないかも知れないけれど、夜が更けるまでに眠り続けよう……。

 次に目が覚めたのは日が変わろうとする直前だった。不思議なことに、普段はうるさく干渉してくる「あの人」が今日は何の動きも見せなかった。むしろ、家に誰も居ないのでは無いかと思える程に静まり返っていた。まぁ、そんなことはどうでも良かった。些細なことだ。それに、気まぐれな「あの人」のことだ。何処で何をしようとぼくには関係無かった。

「どうせ、もうじき死ぬんだ。精々、今のうちに思い残したことでも為しておけば良いさ」

 ぼくがぼくで無くなっていく様な感覚を覚えていた。一体、何がどうなってしまったのだろう? もしかすると、このまま突っ走れば、本当にぼくは失われてしまいそうな気がした。でも……もう後戻りは出来ない。忌まわしい過去に決別を果たすんだ。苦しむことの無い日々を生きるんだ。

「ようやく、成りたい自分に出会えるんだ。それなのに……どうして、こんなにも心が冷たいのだろう?」

 ためらっていた。本当に、これがぼくの望んだ展開なのだろうか? 本当に、このまま突っ走って大丈夫なのだろうか? でも……もう後には退けなかった。やるしかないんだ。前へ突っ走るしか無いんだ。そう、自分に言い聞かせて、ぼくは起き上がった。

「コタも言っていた。やらないで後悔するくらいなら、やってから後悔した方が良いんだ」

 迷いはあったけれど、ぼくは突っ走ることにした。布団から起き上がったぼくは、部屋の扉に手を掛けた。一瞬、誰かに呼ばれた様な気がして、ぼくは思わず振り返った。でも、そこには何時もと変わることの無い景色だけが広がっていた。月明かりに照らし出された部屋。もしかしたら、もう、二度と見ることは出来なくなるかも知れない情景。死んでしまったら、もう、そこでお終いなんだ。それでも、ぼくは前へ進みたかった。だから、部屋を後にして階段へと足を運ぶ。階段が軋む音だけが静まり返った家に響き渡る。

「これで……良いんだ。もう、迷わないと決めたのだから……」

 自分に言い聞かせるように呟きながら、ぼくは一歩ずつ階段を下った。

 玄関で靴を履き、そのまま外に出た。静まり返った街並み。湿気を孕んだ蒸し暑い風が頬を撫でて往く。そっと空を見上げれば青白い月が夜空を飾っていた。何も変わることの無い景色。後は計画通り、近所の庭から夾竹桃の葉を採取し、コンビニか何処かで飲み物を買って夾竹桃の葉を飲み干せばお終いだ。問題はその量だ。少しでも多く摂取すれば本当に死んでしまう。計画を為し遂げるためには致死量を超えてしまったらアウトだ。ギリギリの量……そんなの、素人のぼくに判る訳が無かった。逆に、足りな過ぎれば作戦は失敗する。難しい賭けだった。

 程なくしてぼくは近所の家の前に到着した。目の前には夾竹桃が佇んでいる。華やかな桃色の花は月明かりに照らし出されて、どこか哀しそうな色合いに見えた。

「こんなに綺麗な花を咲かせるのに、人を容易く殺せる恐ろしい毒の持ち主とはね」

 周囲の人の気配が無いことを確認し、ぼくは数枚の葉を採取した。恐らく、一枚でも十二分に致死量に達するのかも知れなかったけれど、足りなくなるよりは良いと考えた。

「無事に採取出来た。次は四条大橋へ向かおう。誰かに発見されなければ、何の意味も為さないのだから……」

 誰にも発見されなければ何の意味も為さない。だからこそ、人通りの多い場所を選ぶ必要があった。後は、夾竹桃の葉をどうにかして体内に入れる必要があった。恐ろしいことを為し遂げようというのに、ぼくは不思議と落ち着いていた。もしかしたら、感覚が完全に麻痺しちゃっていたのかも知れない。痛みを感じるだけの心も、恐怖を感じるだけの心も、すっかり壊死しちゃったのかも知れない。それならそれで好都合だった。

 ぼくは静まり返った花見小路まで出ると、そのまま四条通を目指すことにした。すっかり静まり返った花見小路には人の気配は全く無かった。

「宴の後なんてこんな物なんだね。本当に大丈夫なのかな……。人が全然いなかったら話にならないのだけど……」

 ただ、ひたすらに必死だった。前に進むためにぼくが出来ること。その全てを為し遂げるしか無かったのだから。道中見掛けた自販機でペットボトルのお茶を購入した。後は夾竹桃の葉をどうにかするだけだ。ポケットの中に忍ばせた夾竹桃の葉に触れてみる。ゴワゴワとした硬い感触で、どう考えてもそのまま飲み込むのは不可能に思えた。せめて、小さく刻んでならば、飲めるのかも知れない。そんなことを考えながら、ぼくは四条通を歩き続けていた。時折、すれ違う人もいたけれど、人通りは殆ど無かった。

 やがて、ぼくは四条大橋前に信号に辿り着いた。交通量はそれなりにあったが、やはり、昼間と比べると静かだった。

「この場所だったよね。あの日、あの時、ぼくが自殺未遂をした場所は……」

 失われ往く意識の中、確かにぼくはコタの声を聞いていた。

『輝! 水だ! 水を飲め! 大量の水を飲んで、吐き出せ!』

『こ、コタ……うう……』

 強引だったなぁ、コタってば。ぼくの髪を鷲掴みにして、鴨川の水を無理矢理飲ませようと試みたっけな。確かに、夕立のお陰で増水していたけれど、意識が途切れ掛けていたぼくは自分の力で水を飲むことさえ出来なかったんだ。

『輝、悪く思うなよ!』

 相変わらずコタの考え付くことは無茶苦茶だった。ねぇ、覚えている? あの時、コタは必死に、口移しでぼくに川の水を飲ませたんだ。何度も、何度も、口移しで飲ませてくれたよね。そのまま喉の奥に乱暴に指を突っ込んで引っ掻き回した。

『さぁ、輝! 吐け! 全部吐き出せっ!』

 あの時は本当に苦しかった。馬鹿みたいだよね。睡眠薬の効果が出始めてから、ああ、何で自殺なんてしようと思ったんだろう。酷く後悔していた。

 その後、偶然、川の近くを通り掛った人々の協力で、救急車を手配して貰うことが出来た。

『最初からそうしていれば良かったのに……』

  コタに向けて放った精一杯の悪態。でも……あの時、コタが見せた微かな笑顔、ぼくは生涯忘れない。朝露の様に消え往こうとしていたぼくを包み込むコタの笑顔。ぼくは生涯忘れない。

『もう、コタってば……無茶苦茶なんだから……』

『あ、ああ……。済まない』

 謝らないでよ。悪いことしたのはぼくなのだから。

『輝、どうした? 何か言いたいことがあるのか?』

 どさくさに紛れての行動だったよね。ぼくに、そっと顔を寄せてくれた時のこと。ぼくはコタの首に腕を巻き付けるようにして、一気にコタを抱き寄せた。それから――。

『お、おいっ!?』

『コタ……。あの時の……コタの想い、その想いに対する……ぼくからの返事だよ……』

 すっかり冷え切ってしまって冷たくなってしまっていたけれぢ、ぼくは忘れない。ヒンヤリとしたぼくのくちびると、鴨川の水のお陰で温くなってしまったコタのくちびるの感触を。えへへ。アレ、一応、ぼくに取っては初めてのキスだったんだよ?

 必死になってぼくを助けてくれようとしたコタの姿、今でも鮮明に覚えている。あんなに取り乱した姿を見たのは、後にも先にも、あの瞬間だけだったのかも知れない。そう考えると、貴重な体験だった。

 もっとも、あの後は救急搬送されて、胃洗浄という二度と体験したくない壮絶過ぎる体験をしたことも違った意味で貴重な体験だった。壮絶過ぎて今でもトラウマだよ。ホースを見る度に条件反射的に身震いしてしまう。もう、馬鹿な真似をするなよ。そう、咎められている気がするんだ。

 青になった信号を渡り、ぼくはあの時と同じ様に鴨川へと降りて行った。一歩、一歩、歩みながら皆の顔を思い浮かべていた。もしかしたら、もう二度と会うことも叶わないのかも知れないのだから。

「ロック……ごめんね。本当にぼくは身勝手だ。自分のことしか考えていない。そうでなければ、こんなこと出来る訳が無いもの」

 ロックの笑顔を想い浮かべていた。何時だって、皆を笑わせようとしてくれたこと。自分を押し殺してでも皆のために振舞う、その明るさが羨ましかった。ぼくには真似の出来ない芸当だったからこそ近付きたいと思っていた。上辺だけの明るさしか持てなかったぼくとは対照的だったよね。

 鴨川を眺めながら、ぼくは手にした夾竹桃の葉をちぎっていた。細長い夾竹桃の葉を出来るだけ小さく、小さく刻んでいた。出来るだけ早く吸収される様に。ぼくはペットボトルの蓋を開けて、中にちぎった葉を入れた。とても、飲み込める様な感触には思えなかったから、葉から染み出た汁を飲もうと考えていた。何しろ、夾竹桃の枝をバーベキューの串代わりに使っただけで、人が死んだという事例もある位に強い毒性を持っていることを考えれば、これでも十二分に致死量になるのだろう。

「こんなことしても何にも成らないのにね。ぼくは何処まで馬鹿なのだろう。また、同じ失敗を繰り返すんだね」

 思わず自嘲的な笑みが零れ落ちる。

「それに、下手をすれば、本当に死んでしまうことになるのかも知れない。皆を哀しませるだけだ……」

 どうしてこんな展開になってしまったのか、自分でも良く判らなくなっていた。ぼくはただ静かに、流れ往く鴨川を見つめていた。青白い月が流れ往く川の流れに反射してキラキラと揺らめいていた。綺麗な光景だった。ふと、四条大橋に目を投げ掛ければ微かに行き交う人々の姿が目に留まった。

「人の流れ、時の流れ、川の流れ……皆、同じ様に流れて行くんだね」

 本当に、ぼくは殺意を抱いているのかな? 不意に我に返った気がした。本当に、こんなことを望んでいたのかな? ぼくは改めて鴨川の流れに目を凝らしてみた。

「宇治川の流れとはやっぱり違うなぁ。穏やかな流れ。街の中を流れる川……もしも、死んじゃったら、この流れを見ることは、もう出来なくなる。宇治川の流れだって見られなくなる……」

 でも、もう後には退けないんだ……。ぼくが、ぼくであるために! 往く手を遮る物は何であろうと容赦はしない。打ち砕くのみだから! 行くしか無いんだ! もう、後戻りは出来ないのだから!

 ペットボトルを両手で握り締めた。夾竹桃の葉が沈んだお茶。色の変化は特には無かった。ただ、ぼくの手は小さく震えていた。多分、心臓も割れんばかりに鼓動を刻んでいたと思う。死の恐怖と対面だ。

「笑っちゃうよね。散々人の死を見届けてきたクセに、いざ、自分の番となると怖くて堪らなく成る」

 ああ、今ならば未だ間に合うさ。取り返しのつかない事態は回避できる。でも、それだけだ。それだけで、後は何も変わりはしない。

「積年に渡る憎しみの日々……ぼくはあなたに受けた屈辱を、痛みを、苦しみを、忘れない。さぁ、お別れだ!」

 ぼくは目を瞑り、一気にペットボトルのお茶を飲み干した。見た目はお茶と変わらないけれど、鋭い刺激が喉を駆け巡る。針で刺すような痛みが駆け巡る。

「はぁ、はぁ……の、飲み干したよ。後は……人目に付く場所に移動しなくちゃ……」

 気のせいだろうか? 視界が酷く揺らぐ様な感覚を覚えた。喉の奥から胃に掛けて、燃え上る様な痛みが駆け巡る。

「い、痛いっ! くっ! こ、こんなにも熾烈な効き目が出るなんて、想定外だったか!」

 駄目だ! 何としても四条通まで出なければ。ここで倒れてしまったら、ぼくの為し遂げようとしたことは、何の意味も為さなくなってしまう。ああ……マズい。首を絞められているみたいだよ。息が……息が出来ない! 次の瞬間、胸を鋭い痛みが駆け巡った。

「ああっ! い、痛い! 痛いっ!」

 心臓が膨張していく様な感覚を覚えていた。今にも破裂しそうな程に膨れ上がった心臓が勢い良く鼓動を刻んでいく。その度に全身を鋭利な刃物の様な物で突き刺される様な痛みが駆け巡った。

「ま、マズい……意識が……遠退く……!」

 四条通へと続く階段。その中腹辺りで、多分、ぼくは膝から崩れ落ちたのだと思う。鋭い痛みが体中を駆け巡り、息も出来なくなっていた。必死でぼくは喉に爪を突き刺していた。もう、この際、後はどうなっても構わない! 無理矢理にでも穴を空けなければ! 空気の通り道を……息が、息が! く、苦しい……嫌だ……嫌だよ! 死にたくない! ぼくは生きるんだ! 生きて、生きて、皆と一緒に……。

 もう、そこから先は記憶には残っていなかった。白々と世界が白く染まってゆくのを、ただ、茫然と見届けるだけだった。可笑しなことに、段々と苦しみが消えて行く様な感覚さえ覚えていた気がする。それは手足の指先が冷たくなり、ゆっくりと体温が失われてゆく感覚だった。

(そっか……このまま、ぼくは死んでしまうのだね。皆、本当にごめんね……)

◆◆◆68◆◆◆

 次に気が付いた時には、ぼくは病室の上に横たわっていた。白い天井をただ茫然と見つめていた。不思議な感覚だった。あれ程酷く痛んだハズなのに、痛みは大分和らいでいた。

「ああ、気が付いたのじゃ!」

「テルテル! 判るか!? オレだ。力丸だ!」

「皆……どうしてここに?」

 涙ぐむロックとリキの姿が視界に飛び込んできた。

「救急車でお前が搬送されたと連絡が入ってな。すっかり取り乱したお前の母親が大きな声で喚き散らしていた。その声から何が起きたか察した次第だ……」

 まるで抑揚の無いコタの言葉。多分、途方も無く怒っているのだと思った。一度ならず、二度までも愚かな行為を為し遂げたんだ。むしろ、怒る気力すら残っていないのかも知れない。

「いずれにしても無事で良かった。今は何も考えず、自分の体のことだけ考えろ」

 穏やかな笑みを浮かべて見せる太助の姿に、ようやく、ぼくのやったことの重大さを改めて認識した。誰もぼくのことを咎めたりしなかった。無理も無いさ。この場面で、迂闊に咎めたりすれば、再び自殺に挑む可能性が高まる。だから、皆、その話題には触れない様にしてくれているのだろう。その位、頭の悪いぼくでも判るさ。ただ、本当に来るべき人の姿が無かった。頻りに病室を見回すぼくに気付いたのだろうか、コタが溜め息混じりにぼくの顔を見つめる。

「あれだけ喚き散らして置きながら、未だに来ないとはな。正真正銘の人でなしだな」

「むしろ好都合だろ? 輝を追い詰めた張本人の顔など、見ない方が良いに決まっている」

「それもそうだな。取り敢えず……生きていてくれて、本当に良かった」

「コタ……」

 ようやく見せた笑顔。その瞬間、コタの頬から涙が零れ落ちるのを見てしまった。コタは慌ててそっぽを向いて見せたが、ぼくには確かに見えてしまった。

(勢いだけで行動を起こしたけれど……そうだよね。あの時、ぼくは本当に死んでいたかも知れない。偶然、誰かが救急車を呼んでくれたから、こうして生きていられるのかも知れないけれど……)

 思わず布団の中で両手を重ね合わせてみた。大丈夫だ。少なくても、指先に感覚も、体温も戻ってきている。生きている……ぼくは生きている。最大の関門は通過出来た。だからこそ……絶対に後には退けない。こうして皆が同席してくれていることも実に好都合な展開であった。

 不意に廊下が騒がしくなる。何かを喚く声。必死で止めようとする看護師さんの声。

「輝は! 輝は、何処にいるの!?」

「落ち着いてください! ここは病院なんですよ! それに、もう、消灯時間も過ぎているのです! 輝さんとは、どの輝さんですか!?」

「うちの輝よ! ああ、もうっ、じれったいわね! 自分で探すわ! この役立たず!」

「ああ、ちょっと! お待ちください!」

 やれやれ……。ようやく到着か。良い身分だよね。でも、ぼくが自殺に至った原因が自分だという自覚はあるみたいだね。だからこそ腰も重くなったのかな? 普通に考えれば、我が子が死に瀕しているのに、今更、世間体も何も関係無いじゃないか……。やはり、ぼくは所詮、要らない子に過ぎなかった訳か。

「ああ、輝! 無事だったのね……。良かった……」

 見苦しい顔のまま、その場に崩れ落ちるあの人に、皆が冷たい視線を浴びせる。少し遅れて入ってくる父の姿もあった。

「輝……。良かった、無事だったのだな……」

 相変わらず空気の読めない人達だ。でも、だからこそ……ぼくは復讐を為し遂げる。本当の意味での復讐だ。もう、絶対に逃がさない。法に触れることなく、確実に「あの人」を殺せる手段。必死で考えた末に見付けた答なんだ。そして、今こうして何も知らずに現れた。さぁ、全てを終わらせよう。

「遅かったね。所詮、ぼくは出来損ないの役立たず。つまりは要らない子な訳で、世間体やら何やら、立ち振舞いを考えていたのでしょう? だから、ここに来るまでに時間が掛った。そうでしょう?」

「輝、何を言っているの? お前に何かあったら、母さんも、お前の後を追うつもりで来たのよ?」

「白々しいことを……。でも、良かったよ。こうして最期に会うことが出来て」

 ぼくの言葉に皆が一斉に振り返る。多分、太助とロックは判ってしまったのだと思う。死を予見するぼくの能力のこと、二人には話したから。そして、絶対に逃れられないということも。

「輝? 一体、何を言っているの?」

「丁度良い。皆も聞いて! 夢の中、ぼくは見たんだ。あなたの……死の瞬間を」

「え? 輝、何を……」

「黙って聞いてくれる? どういう死に方をするのか、何時死ぬのか、それは知っているけれど、敢えて伏せておくよ」

 病室に戦慄が駆け巡った。多分、ぼくの言葉で場の空気が凍り付いたと思う。でも、この好機を逃す訳にはいかない。だから一気に捲し立てる。

「知っているでしょう? ぼくの予見する死からは、絶対に逃れられないことも」

「ひ、輝……え、えぇ!? わ、私が……死ぬ?」

「良かったね。会いたくて、会いたくて仕方が無かった、あなたの大切な暁にようやく会える。精々その日まで、思い残したことが無い様に生きて行くが良いさ!」

「あ……ああ……私が……死ぬ? 嫌……嫌っ! 嫌ああーーーっ!」

 よっぽど驚いたのか、あの人は大きな声で喚き散らしながら再び何処かに消えて行った。やっと果たせた。積年に渡る恨みを、ようやく晴らすことが出来た! でも……何でだろう? まるで、嬉しい気持ちが湧いてこない。ちっとも嬉しく無かった。それどころか、再び首を絞められる様な感覚さえ覚えていた。皆、ぼくを哀しげな眼差しで見つめていた。

「ねぇ、皆、どうしたっていうの? どうして、そんな顔しているの?」

 誰も応えなかった。先程までの雰囲気と一転して、病室は妙に重苦しい空気に包まれていた。

「後白河さん、もう消灯時間も過ぎているんですよ! 大きな声を出さないでください!」

 ちらりと顔を覗かせて憤った口調で言葉を吐き捨てて行った看護師。ただ、それだけ。皆一様にぼくから目を背けようとしていた。

「ねぇ! みんな、どうしちゃったって言うの!?」

 何時の間にか父の姿も消えていた。恐らく、あの人を追い掛けて行ったのだろう。そんなことを考えていると、静かにコタがこちらに向き直った。

「輝……もしかして、あの人に復讐を為し遂げるために、こんなことをしたのか?」

「え? そ、そうだけど……」

「そうか……」

 先刻までと打って変わり、コタは沈痛な面持ちで目線を落とした。敢えて、ぼくとは目線を合わさない様にしているとしか思えない振舞いだった。

「輝、悪いな……俺はもう、これ以上、お前を守ってやることは出来そうにない」

「え? ど、どういうこと?」

「輝、信頼とは何だと思う? 絆とは何だと思う? お前のやったことは途方も無い裏切り行為だ。俺達の想いを踏み躙った……。だが、それがお前の選んだ道ならば、俺はもはや何も言えない。済まないな、輝。どうやら歩むべき道を違えてしまったようだ」

 信じられない言葉だった。ずっと、ぼくの傍に居てくれたコタが、ぼくに愛想をつかせたと言うの? ぼくがやったことはそんなにも悪いことだったの!? 復讐を果たしたい……その想いは、知っていたハズなのに、どうして!? どうしてこんな結末になってしまうの!?

「さすがに、そりゃあねぇぜ。有り得な過ぎだろ? 何が悪りぃのか、サッパリ判らねぇって顔しているけどさ、すげードン退きだぜ。オレもコタと同じ気持ちだ。もう、一緒には歩めそうにねぇや」

「傷付きながらも、それでも健気に生きる。そういう輝だったからこそ、俺は共に歩みたいと思えた。だが……復讐など、所詮は醜い自己満足でしか無い。輝の想いを否定するつもりは無いが、他の手段はあった筈だ。それなのに……残念だな」

「え? ちょっと、皆、待ってよ! ぼくを置いていかないでよ!」

 皆、ぼくの声に応えることは無かった。聞こえて来るのは、ただ、大きな溜め息だけだった。

「ぼくが何をしたと言うのさ!? ぼくが、ぼくが、悪かったとでも言うの!?」

「テルテルよ……」

「ロック……ロックなら判るでしょう? ぼくの想い、ぼくの気持ちが。幼い頃からずっと虐待を受け続けていた。その時の悲惨な記憶、どんなに頑張っても消せなかった。ただ、苦しくて、苦しくて、仕方が無かった。その気持ち判るでしょう!?」

 ロックは応えなかった。代わりに、哀しげな表情に浮かべられた涙。

「ロック……」

「ワシは本当にお主と共に歩みたいと願っておった。似た様な生き方をしていることにも共感を覚えたのじゃ。共に、少しずつでも成長していければ……そう、願っておった。少なくてもワシは半端な気持ちで接したつもりは無かったのじゃ。まぁ、ワシの様にいい加減な奴が言っても、説得力に欠けるかも知れんのじゃが……」

 ロックもまた、大きな溜め息をついて見せた。違うよ……こんな結末、ぼくは望んでいなかったのに、どうして? どうしてこんな結末になってしまったの? 何が悪かったの? 何が失敗したの? ああ、判らない……判らないよ! 悪いのは、全部、あの人なのに! ぼくは被害者なのに! どうして、皆、判ってくれないんだよ! ぼくと同じ境遇に置かれてみろ。偉そうなことは絶対に言えなくなる! 絶対にだ!

「同じ生き方をしている身だから……ぼくとただ、エッチなことしたかっただけなんでしょ? 気持ち良いことしたい。誰もがそう願いものね。ああ、判るよ。ぼくも男だからね。ロックは、ぼくの体に興味があっただけなのでしょ? 都合良くヤらせてくれる、ぼくに出会えて嬉しかったでしょ? でも、ぼくはご覧の通りの最低、最悪な奴だった。だから見捨てる。つまり、そういうことでしょ!?」

「最低なのじゃ……」

 今まで見せたことも無い程に哀しそうな表情を浮かべていた。両の目からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。後から、後から、涙があふれていた。

「あ……」

「ワシの愛したテルテルは、もう、この世には居らんのじゃな。さようならなのじゃ……」

「ちょっと! 待ってよ! 未だ話は終わっていないよ! 逃げるなっ!」

「……その台詞、そっくりそのまま返すのじゃ」

「な!?」

「テルテルよ、ワシが最後に言えること……。自分から逃げ続けた先には何の救いも無いのじゃ。これはワシ自身の経験なのじゃ。同じ様にならぬ様に生きるのじゃぞ?」

「ろ、ロック……」

 哀しみに満ちた言葉だった。微笑みながら流し続けた涙で、口下手なロックは一体何を伝えようとしたのだろう? 散々酷い言葉をぶつけたのに最後まで怒らなかった。あくまでも全てを受け入れて自分が犠牲になる道を選ぼうとしたロック。海の様に深く、優しい想いさえも、ぼくは踏み躙ってしまった。もう、ぼくには何の希望も遺されていない。ぼくはもう……本当の意味で独りぼっちになってしまった。本当に取り返しのつかないことをしてしまった。

「ちょっと待ってよ! ロック! ぼくを……ぼくを一人にしないでよ!」

 無情にも時だけが流れ去ってゆく。ロックは哀しそうに背を向けたまま、静かに病室を去って行った。もう、この病室には誰も残っていない。空虚に過ぎ往く時の流れだけが置き去りになった。

「ううっ……どうして……どうして、こんなことになっちゃったの……ぼくが悪いの? ねぇ、違うでしょ? あの人が……あの人が、全部、全て悪いのに……理不尽だよ。そんなの……理不尽過ぎるよ……」

 後から後からあふれて来る涙を流れるがままに、ぼくはただ茫然と置き去りにされることしか出来なかった。その時だった。不意に窓の外を何かが落下していくのが見えた気がした。

「え? い、今のは一体!?」

 次の瞬間、何かが地面に叩き付けられる様な鈍い音が響き渡った。ドンという衝撃音と、グシャっという何かが潰れる様な、水気を孕んだ異様な音が聞こえた。背筋が凍り付きそうな想いで一杯だった。不意に病院無いが騒々しくなる。

「きゃー! ひ、人が!」

「おい! 誰か! 誰か! 人が……屋上から人が飛び降りたぞ!」

「自殺か!? ああ……これは駄目だ。もう、救える様な状況じゃない……」

「こりゃあ、ヒデェな。ぐちゃぐちゃだぞ? おい。どう、処理するよ?」

 病院の外から聞こえて来る人の声。その会話の内容から、何が起こったのかは容易に想像出来てしまった。

「ま、まさか……!」

「輝、母さんが……母さんが、屋上から飛び降りた……」

「え?」

 沈痛な面持ちで病室に入ってきた父の顔は青いというよりも、白に近い血の気が完全に失せた表情だった。

「必死で止めたのだが、間に合わなかった……」

 短く告げると、父はそのまま力無く床に崩れ落ちた。

「輝、この手紙をお前にと遺していった……」

 震える手で差し出された一通の封筒。ぼくは恐る恐る、それを受け取った。

「済まなかった、輝……私は……私は、お前の父でありながら、何一つ……ううっ!」

 小さく肩を震わせながら父は静かに嗚咽していた。他の病室の人達を気遣うかの様に。

「そ、そんなことって……うそだ……うそだよ……うそだっ!」

 手の震えが止まらなかった。ぼくは恐ろしくて、恐ろしくて、窓の外を見ることが出来なかった。集まった野次馬達の話し声は絶えることが無かった。やがて、パトカーのサイレンが響き渡り、窓からは赤い光が差し込むのを感じていた。

「あるハズが……無いじゃない? あんな、最低最悪な生き方をしてきたクセに……こんなに簡単に自殺する? ウソだ……ウソだ! そうやって、未だぼくを苦しめるのか!? どこまで、あなたはぼくを嫌っている!」

 ぼくは何処までも馬鹿な奴だった。こうなることを願っていたハズなのに震えが止まらない。ああ、確かに法的にはぼくは大した罪には問われないのかも知れない。いや、あの場に居合わせた皆は、もう、ぼくに関わることも無いだろう。だって、ぼくは復讐を為し遂げたのだから。積年に渡る恨みを晴らしたのだから。こうなることを、ずっと、ずっと願っていたのにね……。

 放心状態になりながらぼくは静かに、あの人が遺した手紙……つまりは遺書を手に取っていた。封を空け、そっと、中に仕舞われた手紙を広げてみた。

「な、何でだよ……何で、今更! 今更、謝罪の言葉なんか聞きたくなかった! ぼくを愛しているなんて言葉、もう、手遅れだったんだよ! 暁のことで、ぼくに今更謝っても遅過ぎたんだよ!」

 違う……あの人は気が狂って飛び降りたんじゃない。来るのが遅くなったのは、この手紙を書いていたからなのかも知れない。こうなることをあの人は予見していたのかも知れない。だから、ぼくが死の予見をした時、あの人は、あの人なりに、ぼくに想いを伝えようとしてくれたんだ……。

「遅かったんだよ……どうして、どうして、もっと早く……その言葉を伝えてくれなかったの? もう、遅いんだよ……」

 あふれ出る涙が零れ落ち、手紙に綴られた文字が滲んでゆく。

 どんなに悔やんでも、もう、時は戻らない。判っている。死んだ人は二度と蘇ることは無い。ましてや屋上から飛び降りたのだ。まともな状態では無かったハズだ。さっき聞こえた、グシャっという音は、体が激しく損傷した音だったのだろう。つまり、地面に叩き付けられて、憐れな肉片になることを願ったのだろう。ぼくの記憶から、完全に、一切合切の記憶を消し去るために。奇しくも病院の外はさらに騒がしく成っていた。何台も、何台も、パトカーが駆け付けていた。赤い光が病室まで差し込んでいた。夜の病院を照らすパトカーの赤い光。それが物語の終焉を紡ぎ出していた。そう。ぼくの物語は終わった……。最悪のバッドエンドという形で。

「結局……ぼくは独りぼっちになっちゃったんだね……」

 あの時、太助、言っていたものね。自由を手に入れるというのは、相応の責任を背負うことだと。ああ、確かにぼくは、途方も無く大きな自由を手に入れた。でも、その代償は途方も無く大きかった……。

 不意に、布団の横に崩れ落ちていた父が立ち上がった。でも、それは父では無かった。

「お、お前は!」

「おいおい、そんなに驚くなよ」

 二度と見たくない顔だった。鴨川卓……何故、こんな所にいる!?

「何しに来たのさ? 今度こそぼくを自分の物にするために現れたの? 生憎、今のぼくはご覧の通り抵抗すら出来ないさ。さぁ、好きにするが良いさ」

 相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべながら、卓君は腕組みしてみせた。

「なーに寝ぼけたこと言ってやがる。情鬼と化した、てめぇなんかに興味はねぇさ」

「な、情鬼だって?」

「それよりさ、窓の外見てみろよ。お客人が来ているぜ?」

「お客人だって?」

 慌てて振り返ってみれば、窓の外には漆黒の闇夜に紛れて、カラス天狗が羽ばたいていた。そして、その背に乗っているのはコタだった。

「こ、コタ!?」

 次の瞬間、窓ガラスを乱暴に割って、カラス天狗とコタが病室に飛び込んできた。

「うわっ!」

 鋭い眼光でぼくを睨み付ける大柄なカラス天狗。傍らではコタが哀しそうな表情を浮かべていた。

「泣き女郎ならば、先刻俺達が打ち滅ぼしてきた。もう、お前と同じ名を持つ少年達が被害に遭うことは無くなるだろう」

「そ、そうなんだ……。それは、良かった。ぼくも、安心したよ」

「ああ、安心して眠ってくれ。せめて、最期の引導は俺の手で下してやるから……」

「え? ちょ、ちょっと、コタ? 何を言っているの?」

「お別れだな、輝。今まで、ありがとう……」

「え? ちょっと、待って……!」

「お別れだ……。クロ、頼む」

「輝よ、迷わず成仏せよ! ぬんっ!」

「え……?」

 次の瞬間、カラス天狗が振りかざした大きな棒が、空を切って降り下ろされた。ブンっと空を切り裂く音。一瞬、スイカが割れる様な音を耳にした気がした。すぐに意識は途切れ、ぼくは真っ白な霧に包まれた様な感覚を覚えていた。

(そっか……。これで、もう、ぼくの物語はお終いなんだね……。あーあ。悲惨な人生だったなぁ……)

◆◆◆69◆◆◆

 その日、俺は桃山を呼び出していた。無礼だとは思ったが、過去の出来事、その一部始終を覗かせて貰った。正直、人の過去になど要らぬ首を突っ込まない方が長生き出来る。そう実感させられる程に壮絶かつ重たい内容だった。桃山の過去もまた愛情の一つの形なのだと考えると、随分と歪んだ愛情の様に思えた。姉としてでは無く、女として弟と向き合ってしまった桃山……。だが、誰かの真実を知るということは、誰かの真実を背負って生きて行くことにも等しくなる。今の俺は言うなれば弁護士の様な立場に立った訳だ。守秘義務という奴だな。墓の中まで俺が見た真実は持っていこう。大丈夫だ。決して、誰にも口外したりしないさ。

「ふむ、待ち合わせの時間はとうに過ぎておるのだが」

「俺が意図していることに勘付いたのだろうか?」

「否、それはあるまい。幾ら勘が鋭いとは言え、よもや過去の真相を知られようとは、夢にも思わぬことであろう」

「まぁ、それもそうだな」

「フフ、うわさをすれば何とやら……ほれ? 随分と慌てた様子で走っておるでは無いか?」

「ああ、何時もと変わらぬ姿で安心した」

「さて……コタのお手並み拝見と参ろうか?」

 高みの見物とは、相変わらずクロは良い性格をしている。だが、俺はクロに授けられた策を講じてみようと考えた。少なくても、桃山の過去には絶対に触れてはならない。迂闊に過去を曝け出せば、どう足掻いても立場に優劣が出来てしまう。そんな卑怯な結末には絶対にさせない。

 夕暮れ時のお西さんには夕涼みを楽しむ人々が時折往来していた。煌々と街を照らし出す京都タワーの光と、行き交う車や人の喧騒とが交わり合い、言葉に出来ない不思議な空間を生み出していた。広大な敷地を誇り、ゆったりとした雰囲気を醸し出す夕暮れ時のお西さん。そんな風情とは相容れない近代化の波。だからこそ、ここは夕暮れ時になると不思議な空間になる。そんな不思議な空間の中を、砂利を踏み鳴らしながら桃山が歩み寄ってくる。

「遅れちゃってごめんなさい。でも――」

 桃山は髪を掻き上げながら、可笑しそうに笑って見せた。

「あたしを呼び出すなんて、小太郎君も意外にやるじゃない?」

「……何の話だ?」

「まぁ、良いわ。それで、あたしに聞かせたい話って何かしら?」

「境内を少し歩くぞ。蒸し暑い中を急いで来たのだろう? 少し落ち着いてからの方が良い」

 桃山は可笑しそうに笑うばかりであった。まぁ、普段の俺の振舞いから考えても、まさか、デートのお誘いだとは到底思えないだろう。無論、俺もそんなつもりで呼び寄せた訳では無い。一連の事件を解決へと導くためには、桃山を媒介にされるのは都合が悪い。本丸を攻め落とすには先ずは外堀を埋める。戦の基本であろう。

「本丸を攻め落とす? 外堀を埋める? 嫌ねぇ、小太郎君ってば、見た目そのままに肉食系なのね」

「……み、妙な妄想に盛り上がるな!」

「硬派な子だと思っていたけれど、実はムッツリだったりするの? うわぁ、怖いわねぇ。男の子はやっぱり、皆、狼さんってのは本当なのねぇ」

 ううむ……実にやりにくい相手だ。否、判っていて俺を翻弄しているのか? イカン、イカン……呑まれたら負けだ。不意に目線を感じ、慌てて振り返れば、傍らではクロが必死で笑いを堪えていた。姿が見えないことを良いことに好き放題振舞うとは実に良い度胸だ。後で渾身の力で投げ飛ばしてくれる。覚悟しておけ。

「……以前、輝のことをどう思っているか問うたことを覚えているか?」

「ええ、覚えているわ」

 俺の問い掛けに、桃山はにこやかな笑顔で返したものの、すぐに表情が曇った。

「そのことなんだけどね、あたしも不思議に思っていることがあってね」

 ほう? これは良い展開だ。もしかすると、操られていた時には意識が残っていたのかも知れない。それならば、そこから話を切り開いた方が、こちらとしても好都合だ。良し良し。これは有難い展開だ。このまま上手い具合に波に乗ろう。

「不思議に思っていること? それは興味深いな」

「小太郎君だから、口、滑らせちゃうけれど……正直なところ、結構ショックだったの」

 砂利を踏み鳴らしながら俺達は広い境内を徒然なるままに歩き続けていた。丁度通り掛かった、大銀杏から威勢の良い蝉の声が響き渡った。俺は思わず顔を挙げ盛大な蝉の声に聞き入っていた。流れ往く時の中でしばし足を止める。そういう生き方も悪くは無い。

「数日前の夕方のことだったわ。何だか、言い訳みたいだけど、不思議な体験だったわ。輝君と会ったのは本当に偶然だったのだけれど……」

 桃山に取っては何か引っ掛かる話なのだろう。話そうか、どうしようか、ためらっている様に思えた。迷っている時には迂闊に触れない方が良い。少なくても俺はそう考える。頼まれもしないのに手を差し伸べるのは余計なお世話というものだ。時には、無理矢理にでも介在してくれる様な世話焼きも良いのかも知れないが、あまり人の心に土足で踏み入るのは気分が良い物では無い。

「自分でもね、不思議なのだけど、輝君と話し込みたくなってしまってね。有り得ない話でしょう? 教師が、それも異性の生徒と個人的な付き合いをする。こういう言い方は冷酷に聞こえるかも知れないけれど、仕事に私情を挟むなんて許されないことなのよね。ましてや、あたしは教師なのよ? 尚のこと……」

「誰かに操られていた、だから、あれはお前の本心では無かった。そういうことか?」

 大銀杏を見上げたまま独り言の様に呟いて見せた。桃山も真似して大銀杏を見上げる。不意に、数羽のカラスが御影堂に降り立つと、一斉に歌うかの様に鳴き声を響かせて見せた。その声に呼応するかの様に、一瞬、桃山が驚いた様な表情を浮かべたのを俺は見逃さなかった。

「そうね。可笑しな感覚だったわ。あたしがあたしでなくなる……まるで、誰かの操り糸に操られるかの様に、あたしは輝君の気を惹く様な振舞いを見せて……そ、それから……」

「話したくないことは無理に話さなくても良い。まぁ、仮に話したところで、俺は誰にも口外するつもりは無い。その点は安心しろ」

 やはり、泣き女郎は完全には桃山を扱い切れなかったということか。とは言え、操り糸で操られる様に振舞われるのは厄介な話だ。

「その後も可笑しな出来事は続いたわ。一瞬、意識を失ったかと思ったら、何時の間にか輝君と一緒に食事をしようとしていたこともあってね。ほら、小太郎君と駅前で出会った日よ?」

 桃山は言葉を選びながら、俺の動向を窺いながら、次の言葉を慎重に選んでいる様子だった。

「しかも……その時、あたし、輝君を挑発するかの様に胸を肌蹴させて……。ふぅ、これじゃあ、立派な変態女教師よね。何だか、もっと可笑しなことを仕出かさないか、ここ数日、不安で仕方がなくてね。まともに寝られないの。また、自分の意識が途切れた瞬間に、可笑しなことをしないか怖くてね」

 段々と浸食が進んでいるということだろう。あの性悪女らしい攻め方だ。ジワジワと毒で弱らせていく。何とも姑息な戦術を好む奴だ。だが、桃山が意識をしていることは好都合だ。自らの置かれている状況を明確に理解している。それならば話も入り易いかも知れない。良し。そろそろ俺の方から仕掛ける番だ。桃山、お前ならば受け入れてくれると信じているぞ。

「……以前、俺達が関わっている存在に興味を抱いたことがあったな。覚えているか?」

「ええ。鞍馬での能面事件の時のことでしょう? まったく、人ならざる者の仕業としか思えない出来事ばかり続くものよね。能面事件の次は凍死事件。今度は神隠し事件だなんて……一体、この街はどうなってしまったのかしらね?」

「簡単な話だ。皆、人ならざる者達の仕業だからな」

「え?」

 一瞬、全ての音が止まった様な感覚を覚えた。風の流れも、カラス達の鳴き声も、蝉の声も、通りを往来する車の音も、何もかもが止まったかの様な感覚を覚えた。この世界の時が止まり、俺達だけの時間が流れている。そんな、異様な感覚だった。桃山もそれに気付いたのか、驚いた様子で周囲を見回していた。呼び寄せ合うのだろう……異形の者達の呼び声が、さらなる異形を呼び寄せる。逢魔が時という呼称も、あながちデタラメでも無さそうだ。

「人の心から生まれる鬼達がいる。怒り、憎しみ、哀しみ……あらゆる感情から生まれる者達、情鬼と呼ばれる者達がいる。俺達は、その情鬼を討つために戦っている」

「情鬼……ですって?」

「ああ。唐突にこんな話を聞かされた所で、何の事だかサッパリだと思うが、紛れも無い事実だ。そして、お前を操ったのもまた、情鬼だ」

 不意に風が頬を撫でて往く。吐息の様に生温かい風の流れを皮切りに、止まっていた時が再び流れ出した。突然の出来事に桃山は酷く驚いた様子で周囲を見回していた。無理も無い……。普通に生活していれば情鬼の存在にすら気付かない。大多数の人はそうなる筈だ。ああ、俺の様な極一部の例外を除いてな。

「……小太郎君の話、信じるわ。だって、そうで無ければ説明が出来ないもの。あまりにも不可解過ぎる出来事の数々に出くわした以上、信じるしか無いじゃない」

「俺の話を信じてくれるのか? ありがたいことだ。だが、多くの奴らは情鬼の存在にすら気付いていない。いつ、その身に災禍が降り注ぐかも知れないというのに、随分と間抜けな話だ。だからこそ知る必要がある。何時、誰が被害に遭っても可笑しく無いのだから。神隠しにあった奴らの様に、何ら関係無い奴らが当たり前の様に巻き込まれる。そういう事態が現に起きている訳だからな」

 目に見えない存在への恐怖心。人は何時の時代であっても暗闇を畏れる。一寸先さえ見えない暗闇には、どんな魔性が息を潜めているか誰にも判らない。だからこそ、人は暗闇を本能的に畏れるものだ。だが、そこに魔性が潜んでいることを知れば、戦う知恵を手にすることが出来る。知らなければ戦うことは出来ないが、相手を知れば、立ち向かう術も講じられる。だから、多くの人に知らせる必要がある。これは決して対岸の火事ではないのだと。

「情鬼は人の心の隙を狙う。どんなに注意深く身構えていても、隙は必ず生じる」

 語りながら俺は桃山の表情を覗き込んだ。しっかりと目を見据え、逃げられない様に。

「桃山、お前は輝に何か思う所があるのでは無いか? その小さな迷いを狙って情鬼が付け込んだ。悪意を持ってお前を操った。お前の意識とは裏腹の行動が、その証拠だ」

 出来るだけ言葉を選ぶ必要がある場面だった。俺の口から過去を暴く様なことを言ってはならない。情鬼の奇襲に備えるためには「気付き」が重要なのだと俺は考えた。自らの心にぽっかりと開いた大きな穴。その穴を塞ぐためには、自らの心の隙間を知らなければならない。それは、多くの人に取って非情なまでに苦痛を伴うだろう。誰もが目を背けたくなる自身の心の闇。だが、向き合わない限り、情鬼が攻撃を仕掛ける弱点を封ずることは絶対に不可能だ。

「……小太郎君が相手ならば、話しても良いかしら? あたしの弟のお話」

 核心に迫ってきた。今まで以上に慎重に接しなければいけない。大きな賭けだ。桃山の心の闇を封じ、自らと向き合う時間を設け、可能であれば俺達と共に戦って貰う。そのための戦いだ。大きな痛みを伴うだろう。下手をすれば精神が崩壊し兼ねない程に繊細な話だ。細心の注意を払う必要がある。失敗すれば俺も無傷では済まない。

 いつしかクロも腕組みしたまま真剣な眼差しで、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。大丈夫だ。俺に任せておけ。必ずや、お前の期待に応えて見せよう。

「弟は事故で死んだの。仲の良い姉弟だっただけに本当にショックだったわ……。体の一部を失った様な喪失感って言うのかしら? もう、どんなに願っても語らうことも出来ない。その事実が本当に辛かった。何年も受け入れられずに苦しみ続けたわ」

 どこか遠くを見つめながら、桃山は語り始めた。俺は桃山の後に続いた。余計な言葉は必要無い。ただ、今は静かに、桃山の思い出話に耳を傾けよう。それで、少しでも心が楽になれたのならば、俺も救われる。

「事故に遭ったと聞かされていたから、正直、弟の姿を見るのは怖かったわ。でも、実際は正反対だったの。外傷らしい外傷も無くて、何だか、呑気に眠っている様にしか見えなくてね。でも……やっぱり、現実だったのよね。彼、その時にはもう息、していなかったの……。柔らかかった頬はカチカチに固まって、ビックリする程にヒンヤリとしていてね」

 燃え上る様な夕焼け空を見上げながら、桃山は静かに微笑んでいた。その目に光る物に気付いたからこそ、俺は気付かれぬ様に目を逸らした。

「何時もね、あたしの後を着いて回る甘えん坊な弟でね。もう、すっかり、大きくなっても、ずっとあたしの後ばかり追い掛けていたの。変でしょう? 姉弟なのにね」

 不思議な気持ちだった。燃え上る様な夕焼け空を眺めている筈なのに、叩き付ける様な土砂降りの最中に佇んでいる様な感覚を覚えていた。穏やかな笑顔の裏に隠された悲痛な叫び。俺が頼りないから本気で泣けないのか? 俺みたいなガキでは役不足なのか? 俺はただ、桃山が抱く痛みを何とかしてやりたい。それだけを願っていた。過去がどうとか、そんな下らない話はどうでも良かった。

「俺には兄弟が居ないから、兄弟という存在に憧れを抱いていた」

「そう……」

「もしも、俺に姉が出来たとするのであれば……普段は男勝りで、自立した生き方を見せながらも、時には、そっと涙を見せる様な儚い一面を持つ、美人の姉を願ったかも知れないな」

「え?」

 驚いた様な表情で桃山が俺に向き直った。俺はただ、じっと桃山の目を見据えていた。

 こんな立ち振舞い、卑怯なのかも知れない。多分、酷くずるくて、姑息で……下手をすれば、傷付けてしまうかも知れない振る舞いだった。でも、自然と、そう振舞わずには居られなかった。俺では無い誰かに操られる様な感覚……。なるほど。桃山が言っていたのは、こういう感覚なのだろうか?

「なぁ、桃山。俺の我儘を一つ、聞いて貰えるか?」

「え、ええ。何かしら?」

 今、俺の目の前に立っているのは教師としての桃山では無かった。一人の女として俺のことを見ているのだろう。俺のことも一人の生徒としてでは無く、一人の男として見ているのだろう。そう……丁度、桃山と弟の関係を重ね合わせているのだろう。それで良い。それで良いんだ。そのまま、ありのままに心を解放しろ。苦しみは一瞬で終わる……。後は俺がお前を全力で支えよう。

「俺の姉さんになってくれないか?」

「な……」

 緊張しない訳が無かった。あらぬ方向に話が転ばないとも限らなかった。桃山の女としての本能が炎上してしまったら、最悪の結末を迎えることになる。そうなってしまったら、どう回避すれば良いのか俺には思い浮かばなかった。最悪、その場の成り行きで、淫らな展開にならないとも限らない。だが、そんなことになれば、桃山は大きな傷を負うことになる。そうならない様に上手く立ち回らなければならない。薄氷の上を駆け回る様な、恐ろしく際どい立ち振舞いが要求される場面に思えた。傍らに佇むクロからも緊迫感に満ちた鼓動が聞こえて来そうな気がした。だが、俺を信頼してくれているのだろう。だからこそ、ただ静かに腕組みしながら成り行きを見守っていた。大丈夫だ。お前の出番が来ることが無い様に食い止める。

「フフ、それって、あたしに告白しているのかしら?」

「少し違うな」

「ま、それもそうよね。でも……フフ、良く考えたら、普段から小太郎君達とは姉弟みたいな関係じゃ無い? 手の掛る弟達が五人。お陰で、あたしも毎日楽しくやらせて貰っているわ」

 想定とは異なる振舞いに出たか……。やはり、俺を警戒しているのだろうか? あくまでも、本当の姿は曝け出さずに、一人の教師として俺に接し続けるつもりか。だが、それでは狙いから逸れてしまう。時間を掛ける訳にはいかない。少々手荒ではあるが、こうなったらクロの手を借りるとしよう。百聞は一見にしかず。その目で情鬼の真実を見届ければ考えも変わるだろう。目配せする俺に気付いたのか、腕組みしたままクロが静かに頷いて見せた。準備は整った。さて、始めようか。

「桃山、さっき俺の話を信じる。そう言っていたな?」

「ええ。情鬼という存在のことでしょう?」

「そうか。百聞は一見にしかずと言う。実際に、その目で見てみれば、考えも変わるだろう」

 俺の言葉に呼応するかの様に一陣の風が吹き抜けた。駆け抜ける風を待ち侘びていたかの様に、一斉に蝉達の鳴き声が静まってゆく。代わりに木々の葉がざわめく音が響き渡る。俺は桃山の目をじっと見据えていた。これは脅しなどでは無い。真実を導くための一手だ。そっと傍らに佇むクロに目配せをすれば、静かに両手を合わせ真言を唱え始めた。

「こ、小太郎君、一体何をするつもりなの?」

「頑なに自らと向き合うことから逃れようとする、お前に真実を見せてやろうと思ってな……」

 俺は静かに呼吸を整えていた。あの時、憎悪の能面師と対決した際にクロの手を借りて為し遂げた術。クロの力を借りて再び為し遂げる。

「言葉に出来ない程の苦痛と恐怖を味わうことになる……。悪く思うなよ」

「え? ちょっと、小太郎君、どういう意味なの?」

 静かに呼吸を整える。俺の背後からクロが唱える真言が響き渡る。その言葉に俺も想いを重ね合わせる。二人の呼吸を整えて、為し遂げる! クロの呼吸に合わせ、俺は両手を組み合わせた。

「臨、兵、闘……!」

 一言ずつ刻みこまれてゆく両手で作り上げる印。唐突に風が旋風を巻き起こす。空が唸りを挙げ、カラス達が一斉に鳴き声を発する。俺の祈りに呼応するかの様に力強い声が響き渡る。空はさらに唸りを挙げ、暗雲が立ち込め始めていた。

「者、皆、陳……!」

 さらに刻みこまれてゆく両手で作り上げる印。やがて雲が集い、集いて、雷鳴が駆け巡ってゆく。風は尚も勢いを増し、旋風は竜巻の様相を呈し始めていた。今にも雨が降り出しそうな空は、轟く咆哮を放っていた。

「烈、在、前……!」

 全ての文字を紡ぎ出した所で、宙を舞う九つの文字が桃山を縛り上げる。あまりのことに桃山は声を挙げることすら出来ない程に驚愕していた。だが、これは前座に過ぎない。本当に向き合うべき相手とはこれから御対面となる。さぁ、腹を括れ! 今こそ、真実と向き合う時だ!

 俺は呼吸を整えながら、腹に一気に力を篭めた。必ず救い出す。その想いだけを糧に猛々しき怒りの体現者に呼び掛けよう。俺の想いの全てを叩き付けて!

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!」

 俺とクロの声に呼応する様に、ゆっくりと桃山の体から青白い光が飛び出してくる。宙を舞う蛍の様な青白い光。

「な、何なの!? これは、一体どうなっているの!?」

 桃山が驚愕の声を挙げる。だが、俺もクロも手は緩めない。強引にでも引き摺り出す……桃山、お前の中に潜む鬼を! さぁ、もう一息だ。姿を現せ……淫らな欲望に我を見失いし情鬼よ!

「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 俺達はさらに声を張り上げ、真言を唱え続けた。桃山は……否、情鬼は必死の抵抗を試みていたが、所詮、抵抗など無駄な足掻きでしか無い。白日の下にお前の真実を引き摺りだす。絶対に、逃がさん!

「嫌! な、何なのよ、これは!? ああ……な、何か、引っ張り出される! こ、小太郎君、止めなさい!」

 だが、俺はさらに腹に力を篭めて、全身全霊の力を掛けて真言を唱え続けた。あと一息だ。あと一息で、桃山がひた隠そうとする情鬼が姿を現す。

「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 目の前では次第に青白い蛍の様な光が集っていた。ゆっくりと光が集いながら、一つの形になろうとしていた。その光景に桃山はただただ驚愕させられている様に思えた。

「な、何なの……え? う、ウソでしょ……これは、あたし!? な、一体、何が、どうなっていると言うの!?」

 桃山と向き合うかの様にして、もう一人の桃山が姿を為した。驚く桃山を見下すようにほくそ笑みながら、もう一人の桃山……否、桃山の心から生じた情鬼が桃山に歩み寄る。

「何をそんなに動揺しているのかしら? あたしは貴女自身なのよ? 言うなれば……貴女が必死で隠し通そうとした、いえ、存在さえも抹消しようとした正真正銘の、貴女自身なの」

「な、何を言っているのか理解不能だわ。小太郎君、こいつは一体何者なの!?」

 何時に無く桃山は酷く取り乱していた。無理も無いだろう。普通に生活している限り、自分と全く同じ姿形をした者と遭遇することは、まずあり得ない。他人の空似どころの話では無い。何から何まで同じ姿形をした存在なのだ。畏れを為さない訳が無い。

「桃山、信じられないかも知れないが、こいつもまた桃山なのだ」

「え? えぇっ!? あたしが……もう一人?」

「厳密には人では無い。こいつは……情鬼だ」

 俺の言葉を聞きながら、情鬼の桃山は可笑しそうに笑っていた。そのまま、品定めする様に俺を見つめながら、ゆっくりと俺に歩み寄って見せた。

「ふぅん。貴方が小太郎君? 初めまして、なのかしら?」

「まぁ、そうなるな。お前と会うのは、確かに初めてだからな」

「たった今、生まれたばかりだもの。まぁ、当然よね。でも、あたしは殺されるために生まれた存在。そうでしょう? 判っているわ。小太郎君も……そちらにいる、馬鹿みたいに口を開けている間抜け面のあたしも、あたしの死を願っている。そうでしょう?」

「ほう? 話が早くて助かるな。まぁ、そういうことだ」

 冷たく笑い返してやれば、情鬼の桃山は声を張り上げて笑って見せた。姿形こそ同じではあるが、その中身は大分異なる。なにしろ、情鬼の桃山は本物の心の一部分しか有していない存在。言うなれば、桃山の女としての本能だけが一人歩きした様な存在。当然、まともな判断や価値観を持つ訳が無い。何よりも、本人が自覚する通り、殺されるためだけに生み出された存在なのだから。

「な……何なの? これが、あたし? 冗談じゃないわ。あたしは、こんな下品な振舞いをする様な、安っぽい女じゃ無いわ!」

 怒りに身を任せ、声を挙げる桃山。そんな桃山とは対照的に、情鬼の桃山は冷たい眼差しで見据えながら、ただ不敵に微笑むばかりであった。

「教え子の前だから格好付けたい訳? ふぅん。それじゃあ、あたしが代わりに口を滑らせてあげるわ」

「や、止めなさいよ!」

 情鬼の桃山は、桃山に背を向けると、静かに髪を解いて見せた。月明かりに長い髪がふわりと舞い上がる。それに伴い淡い香りが周囲に漂う。ゆっくりと俺に向き直ると情鬼の桃山はブラウスのボタンを外し、胸元を大きく広げてみせた。そのままゆっくりと歩み寄ると、俺の首に腕を掛けて見せた。

「ちょ、ちょっと! あ、あんた、何しているのよ!?」

 だが、情鬼の桃山はあくまでも不敵な笑みを崩すことは無かった。その傲慢なまでに不遜な態度は中々に新鮮に思えた。普段の桃山とはまるで異なる姿。落ち付ける訳が無いだろう。何しろ、必死で隠そうとしていた本当の姿の自分が、目の前で俺を淫らに挑発しているのだから。

「ふぅん。小太郎君は輝彦とは随分と雰囲気が違うのね」

 笑いながら、情鬼の桃山は俺の首筋に顔を寄せて見せた。

「男の匂い……荒々しい男らしさを感じるわ。ああ……濡れて来ちゃうわね」

 情鬼の桃山の振舞いに、桃山は戦慄の表情を浮かべるばかりであった。

「ねぇ。あたしのこと、乱暴に辱めてくれるのかしら? 本能の赴くままに、あたしを虐げてくれるのかしら? ケダモノの様にあたしを犯してくれるのかしら?」

「ほう? お前は乱暴に扱われたいのか? 興味深いな。どう、扱われたい? はっきりと言って見せろ」

 俺は敢えて挑発に乗った振りをして見せた。予想通り、本物の桃山は声も出せない程に動揺している。ただただ顔を赤らめながら身悶えている。そっと目線を投げ掛ければ、慌てて目線を逸らした。違う! これは自分じゃ無い! 自分は無関係だ! 尚も無駄な抵抗を見せようとしていた。だからこそ、俺はさらに悪意ある振舞いを見せた。情鬼の桃山の顎に手を宛て、無理矢理俺の方を向かせた。

「あら? 随分と乱暴な振舞いね」

「……口を開けて、舌を出せ」

「こう、かしら?」

 わざとらしく唇を舐め回しながら、桃山はゆっくりと舌を出して見せた。俺は本物の桃山を横目に見ながら、ゆっくりと顔を近づけさせた。

「俺が欲しいのか? 既に俺のはこういう状態だ」

 情鬼の桃山の手を乱暴に掴み、体を一気に抱き寄せ、俺は股間に手を強引に宛がわせた。

「まぁ? フフ、若いだけに元気一杯ね。あたしの中で荒れ狂ってくれるのかしら? あたしを精一杯歓喜の悦びで泣かせてくれるのかしら? ああ、もう……我慢出来ないわ!」

「もう、止めてーーーっ!」

 限界が訪れたのだろうか? 本物の桃山が突然、情鬼の桃山に掴み掛った。そのまま乱暴に胸倉を掴むと、力一杯平手打ちを放った。いきなり頬を打たれて、情鬼の桃山は派手に転倒した。そのまま馬乗りになりながら桃山が俺に向き直る。涙でぐしゃぐしゃになった顔に振り乱した髪。どちらが鬼なのか、何も知らぬ誰かが見たならば勘違いしたことであろう。

「えぇ、認めるわよ! 認めてあげるわよ! これがあたし! これがあたしの本性よ! 小太郎君、もう十分でしょう!? それとも、最後までお楽しみの続きを為し遂げたかった!?」

「そうかもな。俺も男だ。本能の叫びには抗うことは出来ないからな」

 俺はわざとらしく、腕組みしながら桃山を見下す様にほくそ笑んで見せた。

「はっきり言おう。俺はお前を犯したい。乱暴に辱め、お前の中に俺の精液をぶちまけたい。桃山、お前も本心ではそう願っているのだろう?」

 俺の言葉を受け、怒りに我を忘れた桃山の矛先は、俺にでは無く情鬼の桃山に向けられようとしていた。

「ええ。受け入れるわ……これが、これがあたしの真実! あたしの本当の姿よ! ええ、あたしは輝君に恋心にも似た様な感情を抱いていたわ。亡き弟と良く似ていた輝君に! 同時に……同時に、輝君と、淫らな遊戯に耽りたいとも願っていたわ! かつて、実の弟とそうした様に、淫らに絡み合い、交わり、一つになりたいと願った! あたしの中に、熱い物を出して欲しいと願ったわ! でも、それも終わりよ! 貴女を……いえ、あたし自身を、この手で殺すわ! 過去の過ちも、受け入れ難いあたし自身の性癖も、全部、全て、まとめて消し去ってやる!」

 異様な光景だった。普段は小奇麗な女教師が髪を振り乱して、もう一人の自分の首を絞めている。普段は皆に笑顔を振り撒く心優しい女教師が、修羅の形相を称えたままもう一人の自分の首を絞めている。それを、ただ見守るだけの俺が居る。この情景を異様と言わずして何と言えば良いのだろうか?

「な、何、するのよ……っ!」

「黙りなさい! 貴女は存在しては成らない存在! このまま、首を絞めて殺してあげる!」

「か……勝手な言い分ね。あたしは……貴女自身なのに……」

「だからこそ、貴女の存在は必要無い! 必要無いの! 貴女は生きていてはならない存在。だから、あたしがこの場で貴女に引導を下すわ! 大丈夫よ……貴女の存在は忘れない。しっかりと受け止めるわ! さぁ、死になさい!」

 桃山は額に玉の様な汗を滲ませながら、それでも力を篭めた両の手を離すことは無かった。必死の抵抗を見せる情鬼の桃山ではあったが、怒りに我を忘れた桃山の力の前に推されている様に見えた。

「じょ、冗談じゃないわ……こ、このまま、みすみす殺されて……堪るものか!」

「きゃあ!」

 生命の危機に瀕した時、命ある者は想像を絶する力を発揮するものなのだろう。情鬼の桃山とて、みすみす死を受け入れられる程、達観した存在でもあるまい。命の灯火を誰かに吹き消されること。それを容易く受け入れられる者がいる筈が無い。命ある身である以上、必死で生きたいと願うものだ。そう。ただ、食われるためだけに育て上げられた家畜達とて、死を受け入れることが出来る訳が無い。必死の抵抗を見せるのだろう。だが、それを力で捻じ伏せる。生きたい、生きたいという、切なる願いは無碍に握り潰される。その事実を知らない者達も、その事実を知りながらも目を背ける者達も、等しく罪を背負うべきなのだ。殺めた者だけが業を背負うのは間違えている。だから、俺も業を背負おう。桃山、お前が負うべき業は、俺が……否、俺達が分かち合う。

「悪いな。俺もお前の敵になる。二対一の戦いだ。反則行為だと罵りたければ、精々彼岸の地で罵れ」

 俺はクロの手から縄を授かると、力一杯、情鬼の足首を絞めた。

「桃山、そのままそいつを絞め殺せ。俺も手伝おう。過去との決別だ」

「か、過去との決別って……」

「どうした? 出来ないのか? お前の覚悟はその程度なのか? それとも……お前が、この情鬼の変わりに死ぬか?」

「冗談じゃないわ! 偽物の分際で生き永らえるなんて、図々しいにも程があるわ!」

 クロも人が悪い。わざわざ微妙な小道具まで準備しているとはな。だが、戦いとは掻くも残酷なものだ。目を背けることは出来ないし、目を背けるつもりも無い。正義の味方? 馬鹿馬鹿しい。そんな歪んだ勧善懲悪の世界など絵空事のドラマの中だけにしておけ。現実はこう在るべきだ。勝者が生き残り、敗者は無様に殺される。この賭博は命を掛けて為し遂げられる。「生きる」とはそういうことだ。弱肉強食を残酷だとしか思えない様な馬鹿と組む気は毛頭無い。

「ちょ、ちょっと! な、何考えているのよ!? こ、こんなことしたら、貴女はブタ箱行きよ!」

「残念だったな。情鬼であるお前を殺しても法で裁くことは出来ない。良く覚えておけ。犯罪とは法という網に引っ掛かるからこそ、犯罪と相成る物だ。網に引っ掛からぬ罪……あるいは、罪を犯したところで発覚しなければ罪には問われぬ。残念だったな……さぁ、桃山。こいつを殺せ!」

「うあああああーーーーーっ! 死ねーーーっ!」

 最期まで見届けようと思った。情鬼とは言えクロの力により物理的に実体化している。そして、情鬼とは何から何まで人の姿を再現したもの。血も流せば涙も流す。ただ、人との違いは……死した時に、再び青白い蛍の様な光に戻るだけだ。「想い」という残響だけを遺して消えて行く定めだ。

 桃山は馬乗りになったまま、さらに両手に力を篭めようとしていた。身に覚えのある光景が蘇り、俺は胸が締め付けられる想いで一杯だった。

(この情景、あの時と同じだ。あの日、あの時、全てが狂い始めてしまった、あの事件と……)

 あの時の俺は、鴨川卓を殺すことしか考えていなかった。その後、何がどうなってしまうかなんて想像力を巡らせるだけの余力も無かった。そこにあったのは明確な殺意だけだった。本気で殺そうと思っていた。あいつが生へのくだらない執着さえ見せなければ……否、あの時の俺に、もっと力があれば事を為し遂げていただろう。桃山、お前は為し遂げろ。俺が為し遂げられなかった無念を!

「ひ、卑怯よ! 両足を縛り付けるなんて! うう、く、苦しい……忘れないわ、貴女のこと。絶対にね……憎んで、憎んで、憎しみ続けてやる。絶対に幸せになんかさせるものか……!」

「黙れ! 黙れ! 黙れーーっ! 貴女は……貴女はあたしじゃない! あたしじゃない……存在してはならないのよ。貴女は存在してはならない! 在ってはならないの。過去は抹殺する。そして、あたしは――」

「変われる訳無いじゃない。あたしを殺して、そこに居る小太郎君とホテルにでも行くつもり? それとも、このまま屋外で淫らに犯して貰いたいのかしら? いずれにしても、貴女は最低な女よ。色情魔と化すが良いわ。精々、朝まで子作りに励むが良いわ! この変態女教師がっ!」

「黙れ! 黙れ! 黙れーーっ! お前は死ぬ! その定めは変わらない!」

 もはや理性を失っているようにしか見えなかった。俺の知っている桃山とは全くの別人の姿に成り変わっていた。髪を振り乱し、荒々しく肩で息をしながらも怒りに満ちた表情は、途方も無い哀しみに満ちている様に思えてならなかった。本当にこれで正しいのか? 恐らく、桃山は必死で考えを巡らせているのだろう。だが、その考えを阻むのが怒りであり、憎しみであり、何よりも殺意という強い感情なのだろう。実に滑稽な話だが、文字通り、桃山は自らの手で自らの首を絞めている。それも焦れば焦る程に、その手には力が篭められ、ますます四面楚歌の様相が強まっていく訳か。俺達は何とも残酷な仕打ちをしてしまったのかも知れない。

「殺してやる! 絶対に、貴女を殺すわ!」

 言葉とは裏腹に、次第に呼吸が乱れ始めていることに気付いた。不思議な感覚だった。首を絞められ、次第に顔色が青褪めてゆく自分自身の顔を見つめているうちに、桃山の中で何かしらかの感情が芽生え始めたのかも知れない。

「殺してやる……殺して、貴女を……貴女を……」

「ううっ、い、嫌よ! あたしは死にたく無い……あたしは!」

「出来ない! やっぱり、あたしには出来ない……」

「な、何よ……あたしを憐れんでいるの? 馬鹿にしているの!? どうして、あたしを殺さないのよ!? 何処までも……何処までも、貴女は嫌な女ねっ!」

「そう。あたしは嫌な女……」

 哀しげな笑みを称えたまま、桃山がゆっくりと情鬼の桃山に向き直る。

「小太郎君、彼女の縄……解いてくれるかしら? あたし自身とお話したいの」

「ほう? お前が望むならばそうしよう」

 これは意外な展開になってきた。桃山の中で何か思う所でもあったのだろうか? 情鬼の桃山をゆっくりと起き上がらせると、向き合う様に座り込んで見せた。自分自身と向き合う光景は、さながら鏡に映し出された情景の様に思えた。穏やかな笑みを称えたまま、情鬼の桃山の頬を撫でる桃山の姿が印象的に思えた。月明かりに照らし出された瓜二つの二人の桃山。一体、何を為し遂げようと言うのだろうか? 俺は桃山の想いを遮らぬ様に、要らぬ水を差さぬ様に、数歩後ろに下がった。

「な、何なのよ? 貴女、あたしをそんなに馬鹿にしたいの!?」

「違うわ。謝りたいの……」

「え?」

「ずっと、あたしは自分自身を拒み続けてきた。弟を愛したあたし、姉としての生き方を棄てたあたし、女としての欲望に忠実に生きたあたし、教師という生き方に救いを求め、縋り付いたあたし……全部、嫌なことを貴女にだけ押し付けて、あたしだけがのうのうと陽の当たる道を歩み続けた。ええ、貴女の言う通り、あたしは嫌な女よ」

 桃山は情鬼の桃山を静かに抱き締めていた。一瞬、情鬼の桃山は抵抗する様な素振りを見せたが、静かに桃山の想いを受け入れようとしている様に見えた。

「温かい……」

 情鬼の桃山の言葉を耳にした桃山は、穏やかな笑みを浮かべたまま、情鬼の桃山の手を握った。

「手が冷たいのは貴女も一緒なのね。ふふ、不思議な気分だわ。こうして、自分と向き合っているなんて。でも……あたしは貴女に全てを押し付けてしまった身。本当にごめんなさい。辛い想いしか貴女には無かったでしょう? 絶望と、哀しみと、それから……何時訪れるか判らない救いを待ち侘びる日々を過ごさせてしまった。でも、それもお終い。あたしは貴女を受け入れるわ。これからは……あたしと一緒に歩いてくれるかしら? ごめんなさいね、乱暴なことをして。苦しかったでしょう?」

 驚くべき光景だった。情鬼の桃山の頬を伝う一粒の涙。言葉は無かったが、その涙が全てを物語っている様に思えた。桃山は自分自身を殺めるのでは無く、受け入れる道を選んだ。恐らく、それが最良の選択肢だったことは疑う余地も無かった。

 情鬼は心の一部。確かに、情鬼を消し去れば、邪なる想いは消え失せる。だが、それは自分自身の欠落をも意味する。仮に、この情鬼を滅ぼしてしまったとしたら、俺の知る桃山を殺してしまうことと同義になる。果たして、それが本当に救いだったのだろうか? 改めて冷静になって考えてみれば、取り返しの付かない結果をもたらすところだったのかも知れない。

「あたし、もう自分を否定しないわ。輝君に想いを寄せるあたしも、小太郎君に迫られて淫らな情念に駆られたあたしも、全部、本当のあたし。否定しないわ……だから、一緒に歩いて? 嫌な女を演じるあたしと一緒に考えて? そしたら、きっと、今まで見えなかった物が見えて来そうな気がするから……」

「あたしを殺そうとする程に憎んでいたのでしょう? 拒んでいたのでしょう? 存在を否定したかった筈なのに、今更都合が良いと思わないの?」

「ええ、そうね。都合が良過ぎるわね。あたしは最低で、卑怯で、何よりも快楽至上主義な淫らな変態女よ。何だったら、この場で小太郎君にあたしの痴態を見せてあげても良い位よ? その位の覚悟は出来ているもの。貴女に酷い仕打ちをしたのも事実。否定もしなければ、逃げもしないわ」

「開き直るの?」

「そうかもね。これがあたし。嫌な女なあたし。もう、否定しないわ」

 情鬼の桃山は静かに、桃山の目を見据えていた。桃山もまた穏やかな笑みを称えるばかりであった。二人が見つめあったまま、一体どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 恐らくは僅かな時間しか過ぎていなかったのだろうが、俺には果てしなく長い時間だった様に感じられた。

「今の貴女とならば共に歩める気がする。良いわ。一緒に生きましょう」

 二人の桃山は力強く抱き合っていた。

「……想いは再び、青白い蛍の様な光になり、天に昇っていくだろう」

 俺の言葉を受けながら、桃山は静かに頷いて見せた。俺の言葉通り、目に一杯の涙を称えたまま情鬼の桃山は静かに光を放ち始めた。次の瞬間、無数の青白い蛍の様な光になり、ゆらゆらと空に舞い上がって行った。後には俺達だけが遺された。

◆◆◆70◆◆◆

 放心状態の桃山に肩を貸し、俺達は駅ビルの中にあるコーヒーショップ店まで移動してきた。エスカレーターで少し登った場所。ガラス張りの駅ビルの中にあるコーヒーショップは天井が吹き抜けになっていて開放的な空間に思えた。広大な駅の構内を、俺はそのフロアから静かに見下ろしていた。往来する人の流れ。長いエスカレーター。格子状の金属で飾られた天井と壁面。古都の玄関口とは思えない程に近代的な構造の駅ではあったが、俺はこの駅の光景が嫌いでは無かった。こういう過去と現代とが交差する様な空間は、俺の好みに良く合う。

 桃山を椅子に腰掛けさせ俺はアイスコーヒーを購入してきた。賑わう店内には不釣り合いな、どこか沈んだ二人。若き女教師と教え子の組み合わせに、店を訪れる人々が、通路を通り過ぎる人々が遠慮無しに好奇の眼差しを向ける。もっとも、そんなことに動じる程、俺も桃山も細やかな感情を持ち合わせていないことが救いではあったが。

「大丈夫か?」

「ええ。ありがとう。あたしなら平気よ。もう、落ち付いたわ」

 気丈に振る舞う姿に、確かなる想いを見出した気がする。やはり、桃山は強い女だ。男の俺から見ても、憧れと敬意を抱かずには居られない程の強さに思えた。

「それにしても、驚いたわ。ふわっと光になって消えてしまったんですもの。でも、今でもしっかりと、両手にはあたし自身の感触が残っているわ。冷たい手の感触も、あたしが使っている匂い袋の麝香の香りも……」

「何時も強気に生き、明るく振舞い、本当の自分を必死で隠し続けた。それが、あの情鬼を生み出す結果となった。否、無理矢理引き摺り出したというのが正しいところか」

 俺の言葉を聞きながら、桃山は駅の改札を往来する人の流れを静かに見つめていた。

「でも、何かスッキリした気分。憑き物が取れたって、こういう感じなのかしら? 信じられない体験したけれど……小太郎君は、ああいう戦いに身を置いているのね?」

「あんな穏やかな展開になることは殆ど無い。相手は人の心から生まれた鬼だ。血生臭い戦いは避けられない場合が殆どだ」

 話し合いで解決出来るとは限らないものなのね。俺の言葉を受けながら、桃山は可笑しそうに笑っていた。笑いながら、そっとアイスコーヒーに口を付けて見せたが、不意に驚いた様な表情を浮かべる。

「あら? 意外と苦いのね?」

「コーヒーは苦手だったか?」

「違うわ。茫然としていて、砂糖もミルクも入れずに口をつけたからよ。あたし、結構な甘党なの。そういう部分でも輝君と気が合うのかも知れないわね」

  可笑しな意味では無くてね、と付け加えながら、再び笑って見せた。確かに、今の桃山には迷いは微塵も感じられない様に思えた。やはり、過去の経緯が足枷となってしまい、本来あるべき姿を曇らせてしまっていたのは事実なのだろう。

「それにしても……どういう手段で知ったのかは、敢えて言及するつもりは無いけれど、あたしの過去、全部知っているのでしょう?」

 唐突に俺に向き直ると、桃山は可笑しそうに笑いながら再びコーヒーを口に運んだ。やっぱり苦いわねと笑いながら、砂糖とミルクを入れて見せた。深い色合いのコーヒーにミルクが混ざり合い、ゆっくりと色が変わってゆく様を、俺は静かに見つめていた。

「ああ。済まないな」

「ふふ、あたしの過去に興奮した? それとも、退いちゃったかしら?」

「……それを俺に問うのか? お前はやはり性悪な女だな」

「あら。話、逸らしたわね? まぁ、良いわ」

 桃山は相変わらず可笑しそうに笑いながら、再びコーヒーを口に運んで見せた。

「それにしても、自分自身と喧嘩することになろうなんて、思いも寄らなかったわ。世の中には、まだまだあたしの知らない真実が幾らでも隠されていそうね」

 やれやれ。相変わらず好奇心旺盛なことだ。要らぬことを知れば、さらに深い傷を負うことになるかも知れないというのに、随分と勇敢なことだ。

「もう、何を知っても畏れないわ。傷付くことを畏れていたら人は絶対に変われない。そう気付かせて貰えたから。それに、小太郎君だけが罪を背負うなんて、可笑しな話だもの。ほら? あたしは、小太郎君のお姉さんだからね」

 いたずらっぽく笑う桃山に、危うく、飲み掛けのコーヒーを吹き出すところだった。

「なにを、そんなに動揺しているのかしら? まぁ、小太郎君が、あたしと『そういうコト』を望むならば、考えてあげても良いけれどね」

 どこまで本気で、どこまで冗談で言っているのか、窺い知ることは出来なかったが、少なくても俺の肝を冷やすには十分過ぎる言葉に思えた。今の桃山は自分自身の全てを受け入れている。その言葉に託されているのは、飾ることの無い本当の想いなのかも知れないが、それにしても驚きは隠し切れない。

「……本気で言っているのか?」

「ええ、本気よ。もっとも、小太郎君に、それだけの度胸と覚悟があるのならばね? まぁ、使い古しな感は否めないけれど、そこまで値落ちしているとも思っていないわ。それに……小太郎君に興味が無いかと言えばウソになるわ。乱暴に辱めを受けたいって思っているの、事実だから」

「……やはり、お前は男気あふれる女だな。女にしておくのが勿体無い程だ」

「なーんか、それって、あたしが女として魅力無いみたいな言われ方よね」

「い、否、そういうつもりでは……」

「あら? じゃあ、魅力的なのかしら?」

「……俺をからかって面白いか?」

「まぁ、良いわ。からかうのは、この辺で許してあげる」

 やれやれ……。これでは、俺の方が推されていることになる。しかし、逞しいものだな。先刻の体験はそう簡単に受け入れられる様なものでも無かっただろうに。少なくても、俺が同じ体験をしたならば、長い間動揺し続けることになっただろう。それなのに、随分とサバサバ振る舞っているものだ。そんな俺の疑念に気付いたのか、再びコーヒーを口に運びながら桃山が微笑む。

「どうして、こんなに平然としているのか不思議そうね」

「ああ、まぁな」

「何度も同じ体験しているからかも知れないわね」

「どういうことだ?」

「うーん、語弊があるわね。夢の中でのお話よ?」

「夢の中だと?」

「そう。あたし、自分のことが嫌で嫌で仕方が無かったの。思い描くのは理想の姉としての姿。でも、現実のあたしはまるで違う姿。だからね、あたし、自分自身を殺したくて、殺したくて仕方が無かったの」

 笑顔でさらりと語られた言葉は、信じ難い言葉であった。だが、本人が言うのだから嘘では無いのは確かだろう。

「何時も、あたしは夢の中で理想の姉を演じていた。でも、それを妨害しようとするもう一人の淫らなあたし。だから、理想の姉たるあたしは、もう一人の淫らな魔性のあたしを馬乗りになって殴り続けるの。そして、その後で首を絞めて殺す。同じ夢。同じ場面。何度も、何度も見ていたから、それが現実のことになっても、あまり動揺していないのかも知れないわね」

 人の数だけ物語があるということか。それにしても、夢の中での体験とは……。世の中にはまだまだ、俺の知らないことが幾らでもありそうだ。

「否定しないわ。そういう暴力的で、血を見るのが好きなあたしがいるのも事実。しっかりと受け入れるわ」

 今ならば判る気がする。情鬼の手で操り切れなかったのでは無い。桃山の持つ強靭な精神力が情鬼の干渉を遮断した。そう考えた方が正しい様に思えてきた。やはり、桃山は本当に強い奴だ。ますます憧れを抱かずにはいられなかった。否、本気で……姉になって欲しいと願っているのかも知れない。こんなにも強く、逞しく、その上美人の姉が居たならば、俺は幸せな日々を過ごせたかも知れない。

「自分自身を乗り越えることが出来た。だから、もはや情鬼から操られることもなくなるだろう」

「今のあたしだったら、何をされても動じない自信があるわ。それどころか、可笑しな真似をしたら、馬乗りになって殴り続けるだけの覚悟もあるわ。フフ、怖いわね。慣れって」

 可笑しそうに笑う桃山はどこか遠い目をしていた。また、そうやって強がって見せるのか? 弱さを見せてしまえば楽になるだろうに。何故、俺を頼らない? 何故、本音を見せない?

「多分、家に帰って一人になったら、あたし自身の真実に苦しんで、骨が軋む程に震えるのでしょうね。幸い家は一軒家。ちょっと位奇声を発したり、泣き喚いたりした所で、一人身女の狂った自傷行為だと片付けられてお終いでしょうし」

「だったら、何故……」

「小太郎君が頼りないからでは無いわ。もしも、小太郎君に優しくされたら、あたし、多分、小太郎君を最後まで導いてしまうと思うの。嫌でしょう? そんな理由であたしと寝るなんて? だから、良いの。これで。痛みを……哀しみを抱いて眠るわ」

 あくまでも自らの手で自らを制するか。強いな……お前は、本当に。

「何時の日か、苦しみを本当の意味で乗り越えた時、その時まだ……小太郎君があたしのこと、好きで居てくれたら、その時はお相手願うわ。まぁ、その頃にはあたしもオバさんよね。売れ残りで良ければ、相手してやってよ?」

 そんな年でも無いだろうに……。それに、年を取ったお前は、多分、今のお前とは違った美しさを身に着けているのかも知れない。そうなったら、俺も何処まで抗えるか判ったものではない。事実、俺は姉という存在に憧れを抱いている。それに、俺も桃山と同じだ。兄弟と呼べる存在と淫らな関係に陥りたいと願っている身だ。やれやれ、俺も相当な節操無しだな。

「でも、大丈夫よ。仮に小太郎君が誰かと恋に落ちていたとしたら、絶対に地に足が着かない様にしてあげるから」

 口元にコーヒーを運んだまま、思わず凍り付きそうになる俺の姿を、桃山は可笑しそうに笑いながら見つめていた。「前払いって訳じゃ無いけどね」と言葉を添えながら、桃山はそっと手を差し出して見せた。穏やかな笑みを称えたまま俺の目をじっと見据えている。何を意図しているのか判らずに、俺は恐る恐る桃山の手を握って見せた。細く、長い指。その外見同様に、ひんやりと冷たい感触だった。

「意外だな。随分と冷たい手だ」

「冷え性なの。こんな暑い日でも冷たい手なのよ?」

 桃山は尚も可笑しそうに笑って見せた。だから、俺も釣られて笑い返す。ついでに、脳裏に浮かんできた、少々気恥かしい気障な言葉を織り交ぜながら返した。

「だが、手が冷たい女は、心が温かいと聞く。お前は、心が温かいのだろうな」

 俺の言葉を受け、桃山は声を挙げて笑った。

「嫌ねぇ。それ、あたしが輝君に言った言葉よ。まさか、輝君から聞いたの?」

「い、否、ただの偶然だ……」

 桃山は静かに手を引っ込めると、そのまま髪を解いて見せた。風に舞う長い髪から麝香の甘い香りが漂う。良い香りに心までが引き込まれそうになっていた。

「あたしね、ずーっと、弟の死から目を背けてきたの。違う。こんなの現実じゃ無い。そうやって、都合良く自分を騙してきたのね。だから、無理して明るく振舞っていた。だって、そうやって無理にでも気丈に振舞っていないと、涙、毀れて来ちゃうから。前に進めないから。明日を生きられないって思ったから」

 桃山は可笑しそうに笑いながら、静かに俺を見つめていた。笑いながら、桃山の頬を一粒の涙が伝って落ちた。隠そうともせずに、むしろ堂々と俺に泣き顔を見せ付けている様にさえ思えた。

「母は過労で死んだの。無理も無いわよね。女手一つであたしと弟を育てるために身を粉にして働いていたのだから。あたしは何にも親孝行出来なかった。それに、多分……母は知っていたのだと思う。あたしと弟の狂った関係を。同じ女ですもの。気付かない訳が無かったのでしょうね。多分、女であることを見失った母に……見せ付けていたのかも知れない。あたしは、こんなにも色香に満ちた女なのよ、と。馬鹿みたい……大切な母だったのに、あたし、多分、女として敵視していたのね」

「もう、過ぎたことだ。そんなに自分を責めるな」

「そんなに自分を責めるな、なんて言わないで。これが、あたしなの……あたしの真実なのだから」

 強い生き方をしている訳では無い。そう、弁明している様に聞こえてならなかった。本当の桃山は強い女では無い。脆くて、儚くて、弱々しい女なのだろう。俺の勝手な想像だが、償うために敢えて辛い道を歩んでいる。そんな気がした。もっとも、それが償いになるのかどうかは他人には計り知れない。ただ、桃山はそれが償いになる。そう信じて生きている。否、それこそが彼女が生きる原動力なのだろう。原罪意識……。人は生まれながらにして罪を背負って生きている。それを忠実になぞっているのだろう。だから、部外者が要らぬ手助けをすることを望んではいないのだろう。だが、必要とあらば俺を呼べ。俺が全力でお前を……否、全力で姉さんを支えるから。

 多分……恋愛感情とは少し違う感情なのだろう。ただ、俺は桃山のことを、尊敬すべき姉として見ている。俺も何時の日かお前に追い付きたい。その時は、俺のことを抱き締めてくれ。お前の溢れんばかりの慈悲の心で、俺を慈しみ、包み込んでくれ。その時は、俺は、俺の全てをお前にぶつけよう。夜が明けるまで二人きりで愛し合おう。愛でも、恋でも無く、友情と敬意の証として……。

「輝君、弟と良く似ていてね。だから、弟の面影を重ね合わせていたのね。でも、それって、輝君に対する侮辱よね。誰かの姿を重ね合わされるなんて無礼の極みでしか無いものね」

「良いじゃないか? それがお前の本当の姿だ。泣きたい時に我慢する意味など微塵も無い。誰もお前を受け入れないなら、泣きたくなったら俺を呼べ。お前が泣き止むまでずっと傍にいてやる」

「ふぅん。言ってくれるじゃない? あたしが泣き止んだら、どうするつもり?」

 挑戦的な笑みを浮かべる桃山に対抗するかの様に、俺もまた、目一杯挑戦的な笑みを浮かべてやった。

「そうだな……。お前が泣き止んだら、一緒に夕焼け空を見よう」

 俺の言葉を受け、桃山は可笑しそうに声をあげて笑っていた。ああ、そうだ。それで良い。感情の赴くままに生きた方が良いに決まっている。泣きたい時に泣く。笑いたい時には笑う。人という生き物はそういう生き方が自然なのだから。あるがままの姿に逆行して生きるから破綻が生じる。破綻が生じついでに、そこから情鬼も誕生する。誰も救われなくなってしまうだけだ。

「弟もね、夕焼け空を見るの好きだったの。良くね、宇治川を歩きながら夕焼け空、眺めたっけな」

 何時の間にか桃山の表情には温かな笑顔が戻ってきた。俺は桃山の話に耳を傾けることにした。弟と共に過ごした日々のこと。優しかった母との思い出話に。

 桃山は幼くして父に見捨てられ、それから母と弟と共に育った。女手一つで大きなトラックを乗り回して、桃山達を育て上げてくれた逞しい母のこと。男気あふれる母の背中を見て育った桃山だからこそ、今の桃山の様な強さを手にすることが出来たのだろう。だが、そんな中で目覚めてしまった女としての自分。奇しくも、年頃の弟に手を出されたことで、火が付いてしまったとは……。その弟もまた、酷いいじめに遭い、引き篭もりになっていた身と聞く。何だか、他人事には聞こえない話だ。俺もまた同じ道を歩んだ身だから孤独の寒さは良く心得ている。どうすることも出来ない、空虚で狭い世界の中で桃山の弟は足掻き続けたのだろう。その中で見出した一筋の光……それが奇しくも、実の姉に対する歪んだ愛情だったのかも知れない。否、歪んだ愛情と評して良いかは、俺には判らなくなっていた。純粋な愛情だったとも言えるのかも知れない。それは俺には窺い知ることの出来ない想いなのだろう。無理に憶測だけで理解しようとしてもいけない。何しろ、家庭の事情と言うのは、他人が容易く介在出来る様なものでは無いのだから。一人の母と、二人の姉弟の家族は傍から見れば慎ましくも健気に生きている様に見えたのだろう。だけど、どこかで歪が生じた。小さな歪はやがて大きな歪となり、家族の在り方も可笑しな物になってしまったことだろう。では、一体、幸せとは何なのだろうか? 輝の置かれた家庭環境が本当に不幸なのだろうか? 俺の置かれた家庭環境が本当に幸せなのだろうか? 俺は段々と判らなくなっていた。

「あら? もう、こんな時間? 時の流れは早いわね」

「ああ。待って欲しいと願っても、時の流れを止めることは出来ないからな」

「そうね。小太郎君、今日は本当にありがとう。想像を絶する体験をしたけれど、得る物は確かにあったわ。弟は、もう、死んでしまったし、もう、二度と会うことも出来ない。その事実と向き合うことが出来たわ。それに、弟の代わりになれる人がいないということも判ったわ。何よりも、あたし自身の心の闇を向き合えたことが大きかったわ。これで、明日からまた前を向いて生き続けられる」

「お前の弟の代わりには程遠いかも知れないが、俺達はお前の弟だ。困った時、苦しい時、辛い時、哀しい時……お前を頼って相談に行くかも知れない。その時は、俺達が泣き止むまで傍にいてくれ」

「ええ。泣き止んだら、一緒に夕焼け空を見てあげるわ」

 桃山の笑顔は本物だった。これならば本人が言う通り、心を揺さぶられることも無いだろう。それに、辛くなったら今度は遠慮することなく俺達を頼ってくれるだろう。かなり荒っぽいやり方ではあったが、上手く事を為し遂げることが出来た。俺は桃山を見送って駅まで向かった。

◆◆◆71◆◆◆

 桃山を見送り終えた俺達は家路への道を歩んでいた。辺りはすっかり日も落ち薄暗く成り始めていた。仕事を終えて駅へと向かうサラリーマン達の流れに逆行する様に、俺達は歩んでいた。通りを往来する車の音と蝉達の鳴き声だけが響き渡る。不意にクロがにやにや笑いながら、俺に語り掛けた。

「喫茶店での立ち振舞い、退く程に手慣れた立ち振舞いであったな」

 何やらからかうような素振りに、俺は気恥かしさも手伝い憮然とした表情で返す。

「……本気で投げ飛ばされたいみたいだな?」

「そう怒るで無い。コタの必死な想い、我にもヒシヒシと伝わってきた。間違い無く、桃山の心にも響いたことであろう」

 喫茶店での一連の立ち振舞いを思い出し、俺は体中が一気に熱くなるのを感じた。必死の立ち振舞いだったとは言え、改めて振り返ると何とも恥ずかしい振舞いをしたものだ。出来ることならば、今すぐにでも記憶から忘却してしまいたい位であった。

 例えばの話になってしまうが――あのまま道を踏み外したまま突っ走っていたら、俺と桃山は、本当の過ちを犯してしまったのだろうか? 桃山と過ごす一夜か……興奮しない訳が無いな。不必要に持ち上げるつもりは無いが、桃山は普通に綺麗な女だ。それに、あの肉感的な体付きは、男であれば興味を抱くなという方が無理がある。興味が無いと言えば嘘になるだろう。だが、今の俺は――。

「少々名残惜しそうな表情をしておるな?」

「何の話だ……」

「あのまま桃山と共に情事に至りたかった様子であるな」

「何かの間違えでそんな展開になったら、お前が黙っていなかっただろう?」

「我は何とも思わぬ。以前も伝えたが、我はお主を待ち侘びる身。仮にお主が我以外の者と情事に至ったとしたら、我はそれ以上の想いを持ってお主に接するだけのことよ」

 相変わらずクロは自信に満ちあふれた表情で俺を見つめるばかりだった。まるで、どう足掻いても最後には自分の所に帰ってくるのだろう? そう、言わんばかりの不遜なまでの態度に、俺はむしろ圧倒されていた。

「大した自信だな」

「なに、お主が我しか見えぬ様にしてくれれば良いだけのこと。そう在り続けられる様、我は日々修練を怠っておらぬ。仮に我が敗北を帰したとすれば、それは我が至らなかった。それだけのことよの」

 やはりクロは性格が悪い。俺がどういう反応を見せるかを知っているクセに、敢えて、俺を困らせる様な問い掛けを投げ掛ける。結局、どんな聖人君子であっても、本能に抗うことは難しいということなのだろう。否、違うな。それは俺が未熟だからに他ならない。所詮、俺は世俗に塗れた身だ。快楽至上主義か……否定出来そうに無い。俺だって同じだ。男なんか皆同じなのだと、必死で自分を納得させようとしてきた。そういう自分の一面、俺は受け入れたく無かった。だが、事実は事実であって、如何に覆い隠そうとも、事実が事実であることには変わらない。

「しかし、人は、同じ人に対して想いを抱くというものよの」

「ほう? 今度は妙に悲観的だな」

「そうかも知れぬ。我はカラス天狗であり、コタは人である。やはり、そこには越えられぬ壁があるということであろう」

「越えられぬ壁だろうか? 俺はそうは思っていない。それに、俺とお前の間に壁があるとは思ったことも無い」

「……嬉しいことを申してくれる」

 不意にクロが見せた笑顔は、普段の力強い笑顔とは異なり、どこか儚さを感じさせる笑顔だった。飾らない笑顔に触れて、俺の中で、何かが大きく揺れ動いた気がした。

「それに……俺に取って、お前以上の色香を放つ者は他にいない」

「な、何を申すか! と、唐突に……その様なことを言われると……」

 珍しくクロが動揺している姿を見た気がする。腕組みしたまま、必死で何時もの様に涼やかな顔で受け流そうとしているが、明らかな動揺は隠し切れない様子だった。この手の話題を俺に振るのは好きな様子だが、いざ、切り返されると弱みを露呈する。そういう一面、俺は嫌いでは無い。必死で完璧な自分を演じようとするが故に生じる隙。精一杯背伸びしている子供となんら変わりは無い。クロも俺と同じだ。年が同じなのを考えれば、そういった一面も良く似るのだろう。

 それにしても、俺が道を踏み外しても受け入れようとは、中々に懐の深い発言だ。俺が必ず戻ってくることを確信しての自信の表れなのか、それとも、何か違う意図があるのか、窺い知らなかったが、敢えて問い掛ける様な無粋な真似は止めておこう。無用な好奇心は往々にして身を滅ぼす物だ。ろくでもない結果に繋がる可能性の方が高い。

「しかし、コタと共に歩むことで、我は学びの日々を過ごさせて貰えておる」

「俺から一体何を学ぶというのか? 誰かの参考になるような生き方などしていないと思うが?」

 クロは静かに微笑んで見せた。

「我らカラス天狗は情鬼を討ち取る術しか持たぬ。だが、コタは平和的な対話という手段で、情鬼の根源ともなる人の心を静めて見せた。此れは我らには無い戦術。故に、多くのことを学ばせて貰って居る」

「そんな御大層なことは考えて無かったさ。ただ……桃山の心に触れて、深い哀しみに気付かされた。だから、何とかしてやりたかった。それだけのことだ」

 俺の言葉にクロは腕組みしたまま、満足そうに頷いて見せた。

「フフ、考えずとも、自然に行動に至る。やはり、コタは我の見込んだ者だけあるな」

「褒めても何も出ないぞ?」

「では、代わりに我が労ってくれよう。慣れぬ立ち振舞いで疲れたであろう? ならば、我がコタの背中を流してくれよう。さて、これで如何であろう?」

「ほう? 悪く無い話だ。お前の御自慢の温泉ならば、疲れも吹き飛ぶだろう。その上、天下のカラス天狗殿に疲れを解きほぐして貰えるとは、中々に至高の幸福だな。代わりに、俺もお前の背中を流してやろう」

「フフ、コタよ、お主との関係も仲睦まじい兄弟の様になってきたの」

「クロが俺の兄貴か。それも悪く無いな?」

「ほう? 弟の地位に納まるとは、お主も中々に我の悦ぶツボを心得てきた様子よの」

「相変わらずお前の発言は節々に、卑猥な響きが織り交ぜられているな……」

「まぁ、色々な意味で我を悦ばせてくれても構わぬ」

 腕組みしながら、意気揚々とした笑みを浮かべるクロに、俺は顔が赤くなる想いを抱いていた。まぁ、この頭の悪いやり取りも、クロが居てくれればこそのものだ。失いたくない一時だな。お前と過ごす時が永遠であって欲しい。俺はそんなことを考えていた。無論、間違えてもクロには、そんな想いを抱いていることを口にするつもりは無かったが。

「では、参ろうぞ」

「ああ。少々長旅になるかも知れないが、よろしく頼むぞ」

 目的地を変更し、俺はクロの背にまたがり鞍馬山の奥地にあるという、クロが築き上げた温泉へと案内して貰うことにした。カラス天狗が愛用する湯だけに、何やら、不思議な効能があるらしく、疲れも、傷も、たちどころに回復するそうだ。それに、クロに背中を流して貰えるというのも、中々に悪く無い話だ。少々夕食には遅くなりそうだ。早いうちに母にメールでも入れておくとしよう。もっとも、携帯電話を家に置き去りにしたままの母のことだ。何処まで役に立つかは微妙ではあるが。

「ところで、先刻、我と過ごす時が永遠であって欲しいと申しておったが……」

「ななな、何の話だ!?」

「そう、照れるで無い。コタは本当に愛い奴よの。なに、お主が拒んでも我は地獄の果てまで共にある。畏れることは何一つ無い」

 心の中での囁きが、無意識のうちに口から零れ落ちるという、何とも厄介な癖……。どうにか治さないと、迂闊なことを考えることすら出来なくなる。ううむ、真面目に対策を講じねば。

「うむ、今宵は実に良い気分であるな」

「そ、そうか……。それは良かったな……」

 何も返答することは出来なかった。やはり、クロには勝てそうな気がしない。だが、まぁ……それも悪くは無い。お前にだけは負けてやっても構わないさ。何しろ、お前は俺の兄の様な存在だからな。兄弟というのも悪く無い物だ。

◆◆◆72◆◆◆

 何もかもが、全部、悪い夢だった。

 再び目を覚ましたのは、夜も更けてからのことだった。思い出すことを憚られる程に恐ろしい夢だった。一体、何がどうなって、あの様な夢を見るに至ったのか、自分でも全く理解出来なかった。ただ――。

「夢の中で振る舞ったこと、思ったこと、それから……発した言葉の数々。全部、全て、ぼくの本当の想いの裏返しなんだよね……」

 外はすっかり夜。月明かりの綺麗な夜だった。茹だる様な蒸し暑さの中、ぼくは鴨川の流れを、ただ静かに眺めていた。川の流れに月の光がキラキラと反射して幻想的に思えた。

 考えたくなかった。幾らあの人に復讐するためとは言え、その為のお膳立てに、命の危険を冒してまで服毒しようとしたことも、あの人に死の予見を叩き付けたことも。何よりも、皆がぼくから遠ざかって行ったこと。絶対に現実の物にはしてはならない「未来」だと肝に誓った。だから、ぼくは考えを改めることにした。

「復讐なんて、もう、止めにしよう。得られる結果は……多分、どう足掻いてもぼくを苦しめるだけだよね。それに、今更、あの人に復讐しても何も得られるものは無い。仮に復讐を為し遂げたとしたら、その時には、ぼくは再び孤立無援を手にすることになる。得られる物と失う物……天秤に掛けるまでも無いよ。得られる物は何一つ無い上に、失う物はあまりにも大き過ぎる。何の意味も、価値も無い」

 流れ往く川の流れが再び元の場所に戻ることはあり得ない。潰えた命が再び蘇ることもまた、到底、あり得ないことだから。そんなことを考えていた。丁度、足元には渇いた落ち葉が落ちていた。そっと拾い上げてみれば、土に塗れてカサカサに渇いていた。

「この落ち葉も同じことだよね。木から落ちた葉は、もう、二度と戻ることは無い。こうやって、哀しく、渇いていくだけなんだ」

 再び顔を挙げれば、やはり、鴨川は変わることの無い流れを称えていた。

「もう少しで、ぼくは取り返しが就かない愚を犯すところだった。もしも、あのまま勢いに任せて復讐を為し遂げていたら……」

 思わず先刻夢に見た情景が蘇ってくる様な恐怖感を覚え、慌てて頭を振って、在らぬ妄想をかき消した。

「駄目だね。ろくなことにならないよ。あの夢は警告だったんだろうなぁ。ろくでもないことを考えていたぼくに、恐ろしい未来が待ち構えていることを示してくれた。もしかすると……死の予見に近い物だったのかも知れない」

 ぼくは戦うべき相手を間違えていたことに気付かされた。本当に悪いのはあの人では無い。今となっては、あの人は脅威には値しない。

「ああ、そうさ……。執拗にぼくを追い回し、心を掻き乱し、挙句の果てにはろくでもない夢まで見るに至った、その全ての元凶は他にいる。本当に討つべき相手はあの情鬼だ。復讐計画を断ち切った分、上乗せして仕返ししてあげるよ」

 実に都合の良い相手だ。何しろ、どんな仕打ちをした所で、ぼくは絶対に罪を背負うことは無い。ましてや、相手は人ならざる化け物だ。どんな残虐な行為をした所でぼくは許される筈だ。ああ、丁度良いサンドバックじゃないか。散々振り回してくれた礼も兼ねて、しっかりと裁きを下してあげよう。

 そう考えると、やはり状況を整理する必要がありそうだ。非力なぼくが、絶大なる力を誇る敵と戦うためには、やはり敵の素性を知らなければならないと考えていた。どういう意図を持っているのかは定かではないけれど、あの情鬼は、ぼくに幾つかの情景を見せ付けた。ただ、時系列順に見せたのでは無さそうに思える。今一度情景を整理し直し、何が起こったのかを明確にする必要がありそうだ。それを知ったところで一体何の意味があるのかと問われれば微妙なところではあるが、今のぼくが知り得る情報はそんなものしか無い。雲を掴む様な相手と戦うことを考えれば、何の拠り所も無いのでは苦し過ぎる。

「よし、取り敢えず時系列に沿ってまとめてみるとしよう」

 こういう時に携帯の様にメモを出来る機能があるのは助かる。情鬼が見せた情景を時系列順に整理してみることにした。幾つか見せた情景のうち、一番先頭に来るべき情景……。それは、この情景だろう。

「島原の街並み、そこに生きていた母と子の情景……その子供の名前は輝。ぼくと同じ名前」

 ぼくは単語を連ねてメモを記録した。あの情景を見る限り、何一つ変わることの無い幸せな日々を過ごしていた様に思えた。恐らく、あのまま何事も無く過ごしていたならば、惨劇に至ることは無かったに違いない。でも、現実はそうでは無かった。あの親子を狂気へと駆り立てる様な事態が巻き起こってしまった。そう、その引き金となったのが次の情景だろう。ぼくはメモに言葉を加えた。

「前世の輝は流行り病に冒された。放って置いても助からなかったのにも関わらず、前世の輝は毒殺された。あの女性が一体誰なのかは定かでは無いけれど、普通の出来事では無いよね。幼い子供に向けられた殺意……人と人との間に生じた濁り、澱んだ想い。何らかの憎しみがそこにあったのは間違いないよね」

 恐らく、前世の輝の殺害事件が全ての引き金となってしまった。哀しみの余り、我を見失った母は人の道さえも見失ってしまった。蠱毒――どう考えても、普通に生きている人が選ぶ様な呪術とは思えないけれど、あの母親は蠱毒を行使した。そして降り注いだ黒い雨。あの黒い雨が島原の人々を無差別に呪い殺した。

「復讐を果たしたって心は晴れない。どうやっても、死んだ者が戻ってくることは無い。哀しみに暮れた母はお西さんで首を吊って自害した。こんな所だね」

 携帯に刻み込まれたメモを見つめながら、ぼくは考えを巡らせてみた。ただ淡々と時系列順に並べてみても、これだけでは何の手掛かりも得られないだろう。あの情鬼に対抗するべき手掛かりを得ない限りぼくには勝ち目は無い。それに、真正面から立ち向かっても勝てる訳が無い。では、一体どうすれば? ぼく一人では太刀打ちできないのは確かだ。

「一人では太刀打ちできない……ならば、大人数ならば太刀打ちできる?」

 正しい考え方かも知れないけれど、それじゃあ、その大人数って一体誰なのさって話になってしまう。これじゃあ駄目だよ……。

「あ、アレ?」

 何時の間にか、辺り一面、濃い霧に包まれていて何も見えなくなっていた。確かに、鴨川の流れる涼やかな音も、四条大橋を往来する車や人の音も聞こえる。だけど、辺り一面、濃い霧に包み込まれて何も見えなくなっていた。状況が理解出来ずにぼくはただ動揺していた。ふと、考えた。

「も、もしかして、ぼくは白昼夢でも見ているの? 夜なのに白昼夢? そんなことってあるものなのかな?」

「夢などでは無い……」

「え? だ、誰? 誰かいるの?」

 不意に聞こえてきた声。聞いたことの無い声だった。男なのか、女なのか、それさえも判然としない声だった。慌てて周囲を見回してみるが、やはり濃い霧に阻まれて殆ど何も見えない。再びぼくは注意深く周囲を見回してみた。やはり、一面白一色の濃い霧に包まれた光景しか見えなかった。

「私達は、あの人が放った呪いにより、無差別に殺された者達……」

 今度は鮮明に耳元で聞こえた。若い女性の声だった。ぼくは慌てて振り返った。不意に、緩やかな風が吹き始めた。風に煽られて、霧が次第に晴れ渡ってゆく。

「あ! この場所は……」

 そこは島原の街並みだった。丁度、ぼくは島原の大門の前に立っている格好になった。街並みは明らかに古めかしく、少なくても、現代の島原の街並みとは異なっていた。ただ、あまりにも異様な光景だった。目の前に広がる島原の光景は、まるで打ち捨てられた廃墟の様に、人の気配の無い情景だった。立ち並ぶ家々もまた、長年の風雨に晒されたかの様な姿に成り果てていた。一体、どういうことなのだろう? そう思いながら、再び周囲を見回した時に、ぼくはある異変に気付いた。

「うっ! こ、この臭いは……」

 風に乗って漂ってくる何かが腐敗した、強烈な臭気。あの黒い雨が放っていた、異様な臭いそのものだった。あの黒い雨が放っていた異様な臭いと全く同じ不快な臭いだった。良く見れば、周囲の家々の屋根には黒い染みの様な跡が残されていた。周囲の地面にも黒い染みの様な跡が点々と残されていた。

「そんな……それじゃあ、此処は……」

「ああ、そうさ。『あの惨劇』の後の島原の街並みさ」

「酷い物だろう? たった一晩でご覧の有様だ。あの女の放った呪いが、無差別に人々を殺した結果だ」

「もう、判ったでしょう? さっきも言った通り、私達は、あの黒い雨に打たれて死んだ身なの」

 信じられない情景だった。想像を絶すると言えば良いのだろうか? ぼくは恐る恐る周囲を歩んでみることにした。目を背けたい光景だった。でも、これが真実なのだとしたら、受け止めなければならない。こうしてぼくに、この情景を見せているということは何か伝えたい想いがあるハズなのだから。それは……死を予見することの出来る、ぼくに課せられた使命なのだと思っていたから。

「ううっ!」

 近寄るまでそれが何であるかは判らなかったが、足元に転がるそれは、既に腐り果ててドロドロに腐敗した猫の死体だった。ぼくの気配に気付いたのか、無数の蠅が一斉に舞い上がった。

「ううっ! あ、ああ……ぐっ!? う、うぇえええええっ!」

 申し訳無いとは思ったけれど、不意を突かれたぼくは、多分、胃の中のありったけの物を吐き出していたと思う。周囲の腐敗臭に重なり合う様に吐しゃ物の臭いが重なる。このまま立ち止まっていたら、さらに吐いてしまいそうだったから、ぼくは慌ててその場を離れた。

「はぁ、はぁ……ど、どうしてこんなことになってしまったの? 一体、何が起きたと言うの?」

「突然のことだった。空を覆い尽くすかの様な禍々しい黒い雲が島原の地を覆い尽くした……」

「次の瞬間、空が唸りを挙げ、叩き付ける様に黒い雨が降り注いだ」

「妙にベタベタした気持ちの悪い雨だと思っていたのも束の間だったの……」

「先ず、雨をその身に浴びちまった奴らから、次々と倒れていったんだ。雨を浴び無かった奴らも、立ち込める黒い霧を吸い込んだ。そうしたら……」

「次々と、皆、血を吐きながら倒れていった。そして、そのまま、皆、死んだのだよ……」

「ここまで酷いとは……これが蠱毒の威力だと言うの? 壮絶過ぎるよ。確かに、我が子を毒殺された憎しみは理解出来る。理解出来るけれど……無関係な人まで無差別に巻き込む必要が、本当にあったのかな?」

 どちらか一方だけが悪いということはあり得ないことは判っていた。ただ、あまりにも凄惨な事実を知った時、ぼくの中では、どうしても恨みを正当化することが出来そうに無かった。どちらが悪いとか、悪く無いとか以前に、こんなにも多くの人々が無差別に殺された。その事実があまりにも重く圧し掛かっていた。その事実がぼくの心を酷く掻き乱していた。不意に、ぼくは背後に誰かが立っていることに気付いた。

「誰? そこにいるのは誰?」

 そこには一人の女性が佇んでいた。彼女の顔を見たぼくは驚きの余り、声を挙げてしまう所だった。見間違えるハズが無かったのだから。あの女性の顔を、幼き輝に毒を盛った張本人の顔を!

「あ、あなたは……」

「お察しの通り、私が輝ちゃんに毒を飲ませた張本人に御座います。そして……全ての事件の引き金となったのも、私で御座います」

 深々と頭を下げる女性の表情は、夢の中で見た表情と比べると随分と疲れ果てている様に思えた。無理も無いだろう。自分の起こした行動の結果が、とんでもない惨劇を招いたのだ。その責を背負わずには居られなかったのだろう。でも、どうして彼女は余命いくばくも無い前世の輝に毒を盛ったのだろう? 恐らく、彼女一人の想いで起こした行動では無いのだろう。もっと……深くて、酷く澱み、濁り切った人の情念が絡んでいるハズだ。彼女はその狂気に巻き込まれた犠牲者の一人なのだろう。俗に言う実行犯という存在だろうか? そうだとすれば、本物の黒幕が居るはずだ。

「輝様のお察しの通りで御座います」

「やはり、そうなんだね」

「はい。輝様、貴方には全ての事実をお話せねばなりませぬ。それが私のせめてもの償いに御座ります」

 自らの名を語ることさえしない彼女の振舞いに苛立ちを覚えていたのは事実だった。上辺ばかり綺麗に取り繕い、さも、自分は被害者だと言わんばかりの立ち振舞いが気に食わなかった。だから、ぼくは威嚇する様に腕組みしながら歩み寄った。ただ、自分の身だけを案じ、逃げ続けようとする生き方は、自分自身を見ているみたいで不快で仕方が無かった。

「ちょっと待ってよ。勝手にぼくを巻き込んで置きながら、さも、自分は無関係な被害者ぶるのは卑怯だよね。何だったら、この場であなたに制裁を下してやっても構わないのだけど?」

「も、申し訳御座いません。ただ……あまりにも長い時間が経ち過ぎてしまいました。私が、私である意味など、もはや何処にも御座いません。輝様、どうか、私はただの雑草だと思ってください」

 何をそんなに不安になっているのかぼくには理解出来なかった。ただ、目に見えない恐怖に死してなお縛り付けられる彼女を不憫に思ったのは事実だった。この人も、ぼくと同じなのだろう。命を失った今、黒幕の目を気にする必要も無いのだろうけれど、それでも、恐怖という感情は大きな鎖になる。死してなお彼女を縛り付けるには十分な威力を誇っているのだろう。そう考えると、何だか憐れな気持ちで一杯になった。それに、今、ぼくに必要なのは彼女が何者かという情報では無い。あの情鬼に太刀打ちするための手段だ。大事の前の小事に目をくれる必要は無いのだから。

「判ったよ。その代わりというのも可笑しな話だけれど、ぼくが今必要なのは情報だ。あの情鬼に打ち勝つための知恵と力が欲しい。協力してくれないかな?」

「判りました。全てをお話しましょう。彼女の身に振り掛かった悲劇を、彼女が歩んできた物語を……」

 ようやく明らかになる。当事者が語る事実なのだから、そこには嘘も偽りも含まれていないのだろう。真実を明らかにする。それは、少なくても解決の糸口への第一歩となるのは間違いない。もう、お終いにしたいんだ。こんな訳の判らない事態に巻き込まれることも、付け狙われ、生命の危機と背中合わせの状況も、一刻も早く解決したかった。だからこそ、彼女が何者かなんて些細な話に過ぎない。ぼくが本当に知りたい情報に比べたら、そんなちっぽけな情報はどうでも良かった。やがて、彼女が語り出した。一連の事件の全貌がようやく明らかになる。ぼくは意識を集中させ、耳を傾けることにした。

◆◆◆73◆◆◆

 彼女は静かに語り出した。ぼくはただ、彼女の言葉に耳を傾けていた。

 ようやく全ての事実が明らかになる。当時の時代を生きた人の話だから、憶測では無く、真実が語られることは間違いない。ずっと追い求めてきた真実。例え、そこに残酷な事実が秘められていたとしてもぼくは目を背けない。知らなければいけないという使命感を覚えていた気がする。それよりも、何よりも、あの情鬼を討ち取らないことには戦々恐々とした日々の終わりは訪れない。だからぼくは知ろうと思う。過去に何が起こったのか、あの情鬼が何を思っていたのかを。

「彼女は……美月という名で呼ばれていました。彼女は地方から流れてきた身でした」

 美月……それが、あの情鬼が人であった時代の名なのか。

「故郷のことは殆ど口にすることも無かったので詳しい出身地は不明ではありますが、美しい顔立ちに加えて、器量も良かったこともあり、芸妓としてすぐに頭角を現すと、瞬く間に人々にその名を知られる様になりました。」

 地方から流れてきた身――何故、地方から流れて京都まで訪れたのか? そこまでは彼女は窺い知らない様子だった。地方から流れて来る理由など、人それぞれなのだろう。出稼ぎに訪れた者もいれば、何か、故郷に居られなくなる様な事態に巻き込まれた者もいるかも知れない。あるいは自らの力を試すために出向いた者もいるかも知れない。いずれにしても、情鬼……いや、美月が京都に訪れたというのは一つの事実であることには変わりは無かった。

「程なくして、彼女に、ある若旦那が興味を示しました。島原の地で古くから呉服屋を営む家系に生まれた若旦那でした。この界隈でも特に有名な家に生まれたお方で、それはそれは裕福な家系の身の方でした。当然、大きな権力を持っておりました」

 この若旦那という人物が、後に美月を娶ったと彼女は付け加えた。

 なるほど。大きな権力を持ち、同時に資産家でもある家系の若旦那に見初められた美月。目的がどうであったかは定かでは無いけれど、少なくても、随分と容易く成功の道を歩み始めたことは事実だったように思われた。何だか嫌な臭いが漂い始めた様に感じられた。元々芸妓の世界は封建的な世界であったことは、無知なるぼくにでも想像は出来る。女達の社会というのは、多分、男達の社会よりも薄暗い情念の渦巻く世界だったのでは無いだろうか? そう考えると、地方からの新参者にして、とんとん拍子で成功を収めてしまった彼女を快く思わない女達は少なく無かっただろう。嫉妬や羨望といった感情は往々にして憎悪へと変わってゆくものだ。ましてや、この若旦那という人物は人としても大層良く出来た人だったらしい。権力を持ちながらも、それを乱用することも無く、奢り高ぶることも無い平身低頭な方だったらしい。島原の子供達からも人気を集めていたという辺りからも、彼の人柄の良さが窺える気がする。子供達は正直な生き方をしている身。大人達の嫌な一面など容易く見抜いてしまう。その子供達に慕われるということは、間違い無く、本当に良い人柄を持つ人物であったことだろう。

「程なくして美月さんは若旦那の下に嫁いで行かれました。それは、それは、盛大なる婚礼の儀と相成りました。明るい前途が開かれる。誰もがそう信じておりました。ええ、私も地方から訪れた身。美月さんとも仲が良かった私としても、姉妹の様な存在であった美月さんに訪れた幸せは、羨ましくもあり、同時に、嬉しくも思えたものでした」

 確かな違和感を覚えずには居られなかった。姉妹の様に仲が良かったという彼女と美月。彼女は美月に対して、別段、妙な感情を抱いていた訳では無さそうだ。少なくても、彼女が美月に何か、恨みを晴らす様な展開になることは考えられなかった。やはり、黒幕は別の場所に居るのだろう。確かに、土着の芸妓達からしてみれば、これ程面白く無い話は無かったことだろう。ある日突然、地方から訪れた新参者の芸妓が、島原の地でも良く知られた人徳者の若旦那に見初められた。しかも、とんとん拍子で幸せを手にしたとなれば、美月のことを快く思わなかった者達も少なく無いだろう。

 人は業の深い生き物だ。誰かの成功を素直に喜ぶよりも、誰かの成功をぶち壊したいと願う者達の方が遥かに多い。血のにじむ様な努力の結果、大きな成功を手にしたとしても、そういった人種は途中経過には目をくれることもなく、あくまでも結果だけに目をくれる。何故、あいつは成功したのに、何故、自分は成功出来ないのだろうか? そう感じた瞬間から妬みの情が生まれる。自分も登り詰めて、いつか彼女の様に成功者となりたい。何故、そう思えないのか、ぼくには理解出来なかった。途中経過はどうあれ成功を手にした彼女の存在は面白く無い。そうだ、引き摺り落としてやろう。皆平等に生きるべきだ。誰かだけが幸せになるなんて、不平等な話だろう? そんな薄ら寒い心の声が聞こえて来そうな気がしてならなかった。実際に、そういう感情を抱いた女達も少なく無かったのであろう。華やかな舞台も、舞台裏に回ればおどろおどろしくも、生々しい人の情が渦巻いていることだろう。成功者は引き摺り落とす。間違えた平等の概念が、人を狂気へと駆り立ててゆく。それは幾つもの時代が証明している史実でもあるのだから。

「幸せな時間というものは、どうしても、急ぎ足で走り去ってゆく性分な様に思えてなりません。古き時代……私達が生きていた時代には、多くの人達が病を患い、命を失っていました。丁度、その当時も流行り病が猛威を奮って居りました。ええ、結核という恐ろしき不治の病に御座ります。それはもう、多くの者達が命を落としてゆきました……」

 美月が生きた時代がいつの時代であったのかは明確には判らない。ただ、結核という病は、歴史を紐解けば、近代に至るまでは恐ろしい不治の病であった。一度、結核に冒された者は、後はただ静かに死を待ち侘びるしか無かった。それも、他の者への伝染を防ぐために隔離された場所に置き去りにされて、ただ、孤独に死を待つことしか許されなくなる。前世の輝もまた結核で命を落とし掛けていたということになるのか。それにしても……確実に訪れたであろう死をも早めた張本人と、向き合っているなんて、何とも皮肉な話だ。

「若旦那もまた、結核に冒された一人でした」

「その若旦那という人も、結核に冒されてしまったの?」

 彼女の話に、ぼくはただ静かに聞き入っていたけれど、核心に迫る言葉を耳にして、ぼくは思わず身を乗り出してしまった。彼女は一瞬、酷く動揺した様な表情を見せていたが、すぐに冷静さを取り戻すと、静かに、哀しそうに頷いて見せた。

「はい……。若旦那もまた、不幸にも結核を患ってしまったのです」

 話の流れが読めてきた気がする。大きな後ろ盾を失った美月が一転して不幸への坂道を転がり落ちて行ったことは容易に想像ができる。何しろ、それまでは若旦那の存在があったからこそ、周囲の人々も良く振舞っていたのかも知れない。人徳者であり、なおかつ権力者でもあった若旦那だからこそ、迂闊に機嫌を損なう様な振舞いをすれば、少なからず損をすることになる。だが、その若旦那を失った今、美月の後ろ盾は消え失せることになる。

  恐らく、美月を快く思わなかった連中にとって、これ以上無い程に幸福な展開が訪れたことであろう。登り詰めた美月を引き摺り落とし、それまで、自分達が味わって来た辛酸を舐めさせる。酷く理不尽な話だが、そう考えたに違いない。どこまでも人の心というものは腐り果てることが出来るものだ。背筋が凍えそうに成る程に不快な想いを抱かずには居られなかった。人の不幸に歓喜するのもまた人という事実。鬼は人の心に棲むのでは無い。人そのものが鬼なのでは無いか? そう、断じられても否定は出来なかっただろう。

「輝様のお察しの通りに御座ります。美月さんは、すぐさま、若旦那の屋敷を追い出されました。ええ、まだ年端も行かぬ輝ちゃんと二人きり。全ては……芸妓達の仕業でした」

「一体、彼女達は何をしたのさ? 今となっては、あなたのことを咎めても仕方が無いけれど、その部分にこそ真実が隠されているハズなんだ。是非とも、詳細に聞かせて欲しい」

 まるで取調官だ。正義の味方にでもなったつもりか? 自分で自分を断じたかった。ただ、どうしても知りたくて仕方が無かった。美月が蠱毒という途方も無い呪いの手段を手にするに至った動機を知りたかった。

 一度、頂点まで登り詰めた者が奈落の底に落ちてしまった時、その時に感じるであろう絶望は果てしない物になったことだろう。芸能人の在り方が特に判り易い例だろうか? 一時期は誰からも持てはやされ、脚光を浴び続けたアイドルも、数年後にはその名さえも知られない現実に直面することも少なく無い。それでもなお、彼ら、彼女らは、一度手にした栄光を忘れることが出来ずに、現実を否定する。違う! こんな現実は間違えている! 滑稽で憐れな構図がそこにある。裸の王様になってしまったことにも気付かずに、なおも王様気分が抜け切らない者達と、冷ややかな目で裸の王様を見下す者達との構図が。美月とて同じだったのだろう。手にした幸せが容易く崩落した瞬間、受け入れ難い現実と向き合い切れずに苦しんだことだろう。もっとも、それが誰かの手に寄って仕組まれた物だとしたら――。

「芸妓達はこぞって根も葉もないうわさを流したのです。美月さんが若旦那を殺したのだ、と」

「何だよそれ! そんなの事実無根の話じゃないか! 病で死んだのに、一体、どうやって殺したと言うのさ!?」

「……呪いです」

「呪いだって?」

「はい。確かに事実無根の、荒唐無稽な話では御座いましたが、瞬く間に広まってしまいました。美月さんが放った禍々しい呪い。その呪いにより島原の街には流行り病が猛威を奮う様になってしまったと。若旦那は美月さんの放った呪いで殺された。病に苦しむ者達も皆、美月さんの放った呪いに起因するものだと。当然、美月さんは否定しました。何故、自ら不幸になる様な真似をする必要があったのかと。ですが……人の心とは恐ろしい物です」

「渦中に置かれた美月を犯罪者に仕立て上げるのは、さぞかし楽しかったでしょう? 皆の気持ち、判る気がする。一度、栄華を手にした誰かを奈落の底に引き摺り落とす。それは何処か、悪者を退治する正義の味方の気分と似ている一面がある。皆、さぞかし、鼻息荒く美月を責め立てたのだろうね。何しろ、共通の敵が出来た瞬間、人は恐ろしいまでの団結力を見せるものだから」

 彼女は静かに頷いて見せた。集団心理というのは実に恐ろしい物で、善悪の価値基準さえも麻痺させてしまう。ぼくも同じことをしているから、良く判る。卓君のこと……ぼくはロックに語って聞かせた。もちろん、本当にあった事実しか話してはいない。でも、ロックは卓君に対して、激しい怒りを覚えたに違いない。同じ様に太助やリキに語って聞かせても、結果は同じになるだろう。それどころか、ぼく達の結束はさらに強まるだろう。悪者を退治する大義名分を手にし、なおかつ、皆の仲間である、ぼくに危害を加えた存在となれば、皆もぼくと同じ様に怒りの感情に突き動かされるだろう。

 美月を若旦那の下から追い出すのは、容易いことであっただろう。それに、そうした状況では、もはや誰が流言を流布した張本人なのかは皆目見当もつかなくなる。恐ろしいものだね。時代は変わっても人の心には鬼が棲み続けている。現代社会の闇と謡われる様なネットの世界での匿名性を盾にしての個人攻撃も同じことだよね。目に見えない無数の人々が、ある日、突然、自分に牙を向ける。理由なんか何でも良いのだろう。ただ、集団で誰かを攻撃する。皆と一致団結しているという快楽。悪者を退治するという快楽。人は何時だって快楽を求めている。そのために、誰かが、どうなろうが知ったことではない。日々の生活の最中で上手くいかない苛立ちを他者にぶつける。自分の身は安全な場所に隠したまま、集団で責め立てる。無事に、自殺にまで追い込めればミッションコンプリートと相成る訳だ。そして、また次なる獲物を探す。これの繰り返しだよね。だって、誰だって気持ち良いことするのは好きだろうから。ムシャクシャした感情を、うっぷんを晴らすのだって、どちらも気持ち良いことだからね。可笑しな話だけれど誰しもが鬼になれる訳だ。こんなにも簡単に。

「そんな折でした。私もまた、あらぬ疑いを掛けられそうになっておりました」

「美月と仲が良かったあなただからこそ、同様の目を向けられた訳だ。ふぅ、吐きそうになるね。人の心の醜さに。想像するだけで、今にも吐いてしまいそうになる。何処までも醜く荒んだ人の心にね」

「……私が憎いでしょう? 幼き輝ちゃんを殺めた張本人なのですから」

「今となっては、そんな感情はどうでも良いさ。あなたを擁護するつもりは無いけれど、だからといって赦す訳でも無い。さぁ、話を続けるんだ」

 ぼくは嫌な奴だ。何を一人、被害者ぶっているのか? 何を一人、正義の味方気取りになっているのか? 同じだよ。ぼくも、美月を責め立てた者達も。同じ穴のムジナに過ぎない。ただ、自分だけは違うと叫びたいから抗う。やれやれ、鬼はぼく自身じゃないか……。

「私もまた美月さんと共謀して呪いを放った張本人なのでは無いか? そんな疑いを掛けられました。ええ、後は輝様のご覧になられた情景のままに御座ります」

「幼き日の輝もまた流行り病に冒された。あなたは、自分は無関係であることを証明するために、敢えて、幼き日の輝に毒を盛り、殺めた訳だ」

「はい……。輝ちゃんに取って、私は良く見知った伯母の様な存在でしたから、何の疑いも持たなかったことでしょう。今でも……うう、私の脳裏には、輝ちゃんの最期の瞬間が克明に、刻まれて……」

 自らの手を汚すことを避け、自らの姿が表に出ることを避けようとした芸妓連中に、彼女もまた動かされたのだろう。彼女も最初は強く拒否したのかも知れない。でも、拒否すれば、次は自分に矛先が向けられてしまうかも知れない。今も昔も変わらない。いじめの構図と全く同じ原理だ。人は所詮自分が一番大事な生き物だ。自分が傷付くことと、美月が傷付くことを比べた時に、答は容易に出てしまったのだろう。多分、微塵の迷いも無く。一瞬にして判断は下されたことだろう。

 彼女はそのまま泣き崩れてしまった。きっと、その瞬間に我に返ったのだろう。正義のための行動だと自分に言い聞かせていた想いは容易く解けてしまったのだろう。何の罪も無い幼き日のぼくが、喉をかきむしり、血を吐きながら、それでもなお必死に救いを懇願した。疑うことも知らぬ幼子を手に掛けたという、その事実は彼女を永らく苦しませ続けたことだろう。そして、その様子さえも、物陰から覗き込みながら、ほくそ笑んでいる奴らがいた訳だよね。どこまでも救い様の無い人々だ。呪い殺されても文句は言えないだろうに。

「私が存じているのは此処までに御座ります。その後、美月さんは唐突に行方を眩ませてしまいました。ええ、幼い輝ちゃんの葬儀を挙げることすら許されず、物言わぬ身となってしまった輝ちゃんと共に、街を彷徨っていた姿も見られなくなった頃に……あの、黒い雨が降ったのです」

「自業自得だよね。あなた達の発した流言が本物の呪いを巻き起こした。そうでしょう? 同情の余地すら無いね」

「確かに、その通りで御座います。ただ……中には本当に無関係だった者達もいなかった訳ではありませぬ」

「無関係だったって? 見て見ぬフリをした奴らも、その事実を知りながらも、余計ないざこざに巻き込まれたくないと静観していた奴らも、皆、同罪だと思うけれど? どっちが悪いとは一概には断じることは出来ないよね」

 それにしても……余計な話を知ってしまった気がする。何も知らなければ、ぼくに取っての脅威たる美月を――あの情鬼を討ち取ることに何の迷いも無かったことだろう。でも、彼女をとりまく悲惨な事実を知ってしまった以上、手が緩まずには居られなかった。黒い雨により呪い殺された者達は、その無実を晴らすためにぼくに語り掛けてきたのだと思う。彼らからして見れば、自分達は正当なる被害者であり、恨みを晴らすのは至極当然のことだと主張して見せることだろう。それは理解できる。立場の違いを考えれば、そう主張するのが当然だろう。

 でも、だからこそ迷いを抱かずには居られなかった。どちらかだけが悪いとは言い難い事実であることも明確に判ってしまった。では、ぼくはどうすれば良いのか? 恐らく、そこにも答は無いハズだ。殺された者達の側に立ち、情鬼を滅ぼすという立場もある。では、逆の立場は?

(有り得ないか……。このまま、被害が拡大するのを静観しろということになってしまう。必要なのはぼくの価値基準じゃ無いということか。結局、理不尽な選択肢を選ぶしか無い訳なんだね……)

 ぼくは立ち向かう道を選ぶしか無いのだろう。皮肉な話だが、あの情鬼は敵でしかない。何よりも、ぼくを狙っている存在だ。放っておけばろくなことにならない。そう、どこかで割り切ろうとした瞬間であった。不意に彼女がとんでもない事実を口にした。

「輝様は死を予見する能力を……お持ちで御座いますね?」

「な、何でそれを知っているの!?」

 驚かずには居られなかった。彼女には、ぼくの持つ忌まわしい能力については一言も話していない。それなのに、何故、その事実を知っている? まさか、彼女は、ぼくがこの忌まわしい能力を持つに至った事実さえも知っていると言うの?

「輝様ならば良く御存じだとは思いますが……呪いとは、一体、どの様な物で御座いましょう?」

「呪いとは……怒りや憎しみ、哀しみや恨みといった負の感情を力に変えて、相手に仕掛ける術のことを示す。だけど、呪いは諸刃の剣でもある。他者を討ち滅ぼすだけの力は、自身をも傷付ける。人を呪わば穴二つ。相手を埋める墓穴と、自分を埋める墓穴の二つ、必要になるものさ」

 言いながら、ぼくの背中を氷の様に冷たい物が流れて往くのを感じた気がした。彼女は険しい表情で、静かに、だが力強く頷いて見せた。ぼくの目をじっと見据えたまま。

「元来、放った呪いの代償とは、呪いを行使した本人に返ってくる物で御座います」

「ま、まさか……」

「美月さんの放った呪いは、それは、それは、絶大なる力を持っておりました。ですが、呪いを為した時点で美月さんは既に、人ならざる身と成り果ててしまっておりました。そのためで御座いましょうか? 鬼となった美月さんに返らずに、あろうことか、輝様……あなたの下に呪いは返ってきてしまったのです」

「そ、そんな馬鹿な! どうして、そんなことに!? 理不尽じゃないか……ぼくには何の罪も無い! ぼくは何も悪いことをしていないのに!?」

「輝様、お言葉に御座りますが……自分は無関係だと仰られますか? それは違います。あなたもまた、澱み、濁った池に棲まう住人であったことは事実に御座います。故に、あなた様も無関係とは言い難い存在……。同じ穢れた池に棲む、同郷の身に御座います」

「な、納得出来る訳が無い! ぼくも関係あるだと? ふざけるな!」

 ぼくは彼女の胸倉を掴んでいた。それでも、彼女は哀しげな笑みを称えたままであった。動揺した素振りも、驚いた素振りも見せずに、ただ、哀しげに微笑むばかりであった。

「……受け入れ難い事実に御座りましょうが、私が語ったことは全て真実です。どうぞ、私を気が済むまで殴ってください。あわよくば、そのまま殺めて頂ければ、私も苦しみから解放されるやも知れませぬ」

 頭の中が真っ白になっていた。あまりにも信じられない話だった。ぼくは無関係だと思っていた。前世でのことなど、現世のぼくには窺い知らない話なのだから。でも、彼女の言っていることは実に理に叶っている。確かに、今のぼくには前世の記憶など微塵も残っていない。ただ、魂とは有限の存在であり、輪廻転生を繰り返すことで成り立っている。実に皮肉なことだが、世の在り方その物では無いか。知らなかったから許されるとは成らない罪など幾らでもある。ぼくの置かれた立場も、そう考えると間違いではない。

「間違いでは無いかも知れないけれど……受け入れられる物じゃない! 何で……何で、こんなことになる!? ああ、美月の下に産まれてきたことが全ての間違いの始まりだったと言うのか!? ならば、今すぐにでも過去に戻って、美月がぼくを生む前に、斬り捨ててやる!」

 判っていた……。そんなこと、出来る訳が無いことくらい。過去は変えられない。仮に、時の流れを遡ることが出来る様な能力でもあれば、話は別かも知れないけれど、時の流れは残酷だ。鴨川の流れと同じで、上流から下流へと流れて往くだけだ。時の流れが戻ることは絶対にあり得ない。

「……あなた達の肩を持つつもりは毛頭無い。馬鹿馬鹿しい諍いに巻き込まれて、ぼくとしては良い迷惑以外の何物でもない。ただ、ぼくはあなた達とは違った理由で、美月に殺意を覚えた。計り知れない程に深い憎悪を抱いた。だから、ぼくの手で美月を滅ぼす。二度と輪廻転生さえ出来ない様に魂さえも噛み砕いてみせる」

「輝様、一体何を為さるおつもりで御座いますか?」

 もう、迷いは消え失せていた。最初から彼女は……いや、此処にいる報われぬ魂達は、ぼくが行動を起こす様に仕向けたのだろう。炊き付けて、炊き付けて、後戻りできない様に突っ走らせたかったのだろう。それならば、それでも良いさ。この怒りを否定することは出来そうにない。何よりも、この忌まわしい能力を授かるに至った張本人が討つべき相手だとは、何処までも救われない話だ。あまりにも馬鹿げた話のために、多くの魂達が巻き込まれてしまった。静観することは出来ない。手段など選んで居られない。確実に討ち滅ぼすさ……。オカルトマニアを甘く見るなよ? 最強、最大の怒れる祟り神の力を借りて、お前を滅ぼす!

「……あなた達にはぼくの手足になって貰う。美月を斬り捨てるための刀にね?」

 ぼくは静かに呼吸を整え、可能な限りに息を吸い込んだ。腹に力を篭めて、想いを轟かせた。

「此処にいる者達よ、良く聞け! あなた達の考えに同調するつもりは無いが、討つべき敵は同じ。なればこそ、ぼくの力になって欲しい! 最強、最大の怒れる祟り神の手を借り、美月を討つ! どうか、忌まわしき情鬼を討つために、もう一度死んでくれ!」

 割れんばかりの鬨の声が響き渡るのをぼくは肌でヒシヒシと感じていた。体中を奮わせる程の凄まじい声が響き渡った。皆、覚悟は出来ているのだろう。

(ごめんね、皆……。ぼくがやろうとしていることは間違っているのかも知れない。でも、この怒りをどうしても抑え切れそうに無い。それに、非力なぼくに出来ることは、こんなことしか無いから……)

 次の瞬間、ゆっくりと霧が晴れていった。気が付いた時には、ぼくは鴨川の流れに寄り添う様にに佇んでいた。

「い、今のは……夢だったの?」

 いや、そんな訳が無い。全部真実だったハズだ。だとすれば、ぼくが次に起こすべき行動は一つ。情鬼に対抗するための大きな力を為し遂げるとしよう。ぼくは祇園さんに向かい、ゆっくりと歩き始めた。

◆◆◆74◆◆◆

 数え切れない程の人とすれ違った。賑わいを見せる夕暮れ時の祇園の街並み。そんな賑やかな街並みの中をぼくは歩いていた。行き交う人々は楽しげに笑い合っている。不思議と何の感情も抱けなかった。楽しげな彼らを疎ましく思う感情も、妬む感情も失せてしまった気がする。多分、ぼくの心の中は枯れ果てた荒野の様に渇き切っていたのだと思う。あるいは――これから為し遂げようとする禍々しい「呪い」の儀式に既に心を奪われていたのかも知れない。

(牛頭天王……多くの人はその名さえ知らないのだろうね)

 ぼくらは祇園さんと呼んでいるけれど、本当の名前は八坂神社という名前。奉っている神がいるからこその神社という存在。だけど、多くの人々は、そこに祭られている祭神のことを知らない。それどころか、毎年催されている祇園祭は、荒ぶる牛頭天王の怒りを鎮めるために行われる様になったという史実も知らないのだろう。牛頭天王とはそれ程までに強い怒りの力を内に秘めた存在。そして、ぼくは、そんな荒ぶる神の怒りの力を借りようとしている。

(判っているんだ。こんなやり方、絶対に間違えていることは……。でも、ぼくは、走り出そうとするぼく自身を止めることが出来ないから)

 忌まわしい死を予見する能力。その発端となったのも、あの情鬼なのだと考えると、体が燃え上る様に熱くなった。怒り? 憎しみ? 自分のことなのに、自分でも良く判らない程に荒ぶっているのを感じていた。もしかしたら内なる怒りを持つ者同士、手を貸してくれようとしているのかも知れない。

(違うね……。そんなの、ぼくの都合の良い解釈でしか無いさ)

 暴れたがっているだけなのかも知れない。怒りを解き放つ格好の相手がいるのだから。

 考え込んでいるうちに、ぼくは祇園さん前の大きな交差点に差し掛かっていた。呼吸を整えながら、ぼくは周囲を見回してみた。いつも通っている道。いつも見ている景色。賑わう街並みも、引っ切り無しに往来する観光バスも、人々の流れも、何時も目にしている情景だった。もしかしたら、壊してしまうかも知れない。無関係の人まで巻き込むことになるかも知れない。結局、ぼくは、あの情鬼と同じことを為し遂げようとしているだけなのかも知れない。血で血を洗う抗争劇。何て愚かなのだろう。繰り返してはならない歴史を、ぼく自身の手で繰り返させようとしているなんて……。

 やがて信号が赤から青に変わる。浴衣姿の観光客達が当たり前の様に信号を往来する様を横目で眺めていた。

(ごめんね。平和な街並みを、暮らしを、ぼくは破壊してしまうかも知れない。でも、どうか許して欲しい。ぼくには、こんな手段しか思い浮かばなかったから)

「とうとう着いてしまったね。もう、後戻りは出来ない。ぼくの想いと、それから――」

 恐らく、ぼくの後ろに列を為しているであろう、目に見えない人々の残留思念が為し遂げる禍々しい儀式。不意に、生ぬるい風が頬を撫でて往く。ぼくは異変に臆することなく、西楼門をくぐり抜けた。

「空気が変わったね。でも、ぼくはもう逃げないから」

 ぼくはもう逃げない。逃げ続けた先にある物は悲惨な結末でしか無いことを知ったから。立ち向かうさ。例えどんなに深い傷を負うことになろうとも、その痛みさえも怒りに変えてお前を討つ!

 ゆっくりと祇園さんの中を歩む。人の気配は完全に失せていた。これから起こるであろう惨劇を予見して、皆、本能的に逃げ出したのかも知れない。賢明な判断だと思う。この場所はこれから起こる惨劇の中心地となる。まともな状況では無くなるだろう。

「……それじゃあ、始めようか」

 どうか、ぼくに力を貸してくれ! 悪しき鬼を討つための、より強大な呪いの力を!

「聞け! 牛頭天王! 我は蘇民将来の末裔なり!」

 ぼくは力の限り声を張り上げた。周囲は漆黒の闇夜。木々の香りと風の音。それ以外何も聞こえなくなった。多分、人の気配も完全に消え失せてしまった。今、この瞬間、祇園さんは人の世とは切り離されたに感じられた。空気が明らかに変わった。纏わり付く、吐息の様な生温かい風を肌に感じながらぼくは静かに目を伏せた。そのまま、そっと両手を天高くかざした。

(感じる……。猛々しい怒りの波動を。近付いている。感じるよ。途方も無く荒々しい怒りを!)

 もはや誰が正義で、誰が悪かなんてどうでも良かった。ただ、自分の想いを為し遂げるためだけに、ぼくは儀式を行う。

 どうか、ぼくに力を貸して欲しい。人とは異なる見た目で生まれたがために迫害され続けた牛頭天王、貴方ならばぼくの想いに共感してくれると願っている。どうか……忌まわしき呪いの力を、この身に刻まれし、憐れな迷い子に救いの手を!

「牛頭天王! オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……」

 一瞬、風の流れが止まった。次の瞬間、荒れ狂う突風が境内を駆け抜けて行った。木々の葉がザワザワと激しく揺れ動く音色が響き渡り、虫も、鳥も一斉に静まり返る。荒れ狂う突風の中で、目も空けてられなかった。ぼくの髪も派手に風に煽られていた。それでもなお、ぼくは真言を唱え続けた。

「オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……」

 終わらせるんだ。ぼくの手で終わらせるんだ。こんな馬鹿げた流れ、何としても断ち切らなければいけないんだ。ぼくの手で終わらせる! もはや手段なんて選べ無い。ぼくは立ち向かう。全力で! ああ、終わらせるんだ。何が何でも終わらせるんだ。この手で、ぼくの手で、死の予見などという忌々しい能力を授けてくれた張本人に調伏を為し遂げる。精々泣いて許しを請え! ぼくはそんな言葉の全てを跳ね除けてでも、お前を討ち取る!

「オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……」

 ぼくはさらに腹に力を篭めて、絞り出す様に真言を唱え続けた。体中から一気に汗が噴き出した。単純な暑さだけでは無いことは、ぼくにも判る。恐らく、目には見えないけれど、ぼくの後ろに立ち並ぶ者達も必死で真言を唱えていたと思う。変な話だけれど、ぼく達の想いは一つになろうとしていた。単純な話さ。立ち向かうべき共通の敵が生まれた時、いがみ合っていた者同士でも手を取り合える。敵の敵は味方という逆転の構図が生じる訳だ。何とも皮肉な話だけれど、ぼく一人で立ち向かうことは不可能だ。誰かの後ろ盾を得るか、あるいは、共に戦ってくれる仲間達の存在が必要だった。もっとも、ぼくは、島原の地を彷徨う残留思念達を仲間だとは微塵も思っていない。あくまでも彼らは「道具」に過ぎない。彼らに取ってのぼくの存在も同じだろう。

「オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……」

 空気は完全に変わっていた。ここは人の棲む場所では無くなっている。ぼくは確かに感じていた。ぼくの背後に佇む存在を。恐らく、彼こそが牛頭天王なのだろう。突き刺さる様な激しい怒りの波動を感じていた。身震いが止まらない。人の手に負える様な生半可な力の持ち主では無いこと位、ぼくにも判る。

 そっと空を見上げてみた。今まさに、月明かりは荒々しく立ち篭める暗雲に呑み込まれようとしていた。異様な殺気を感じずには居られなかった。背後に無数の人の気配を感じ、ぼくは静かに振り返った。そこには、生前の姿を取り戻したであろう島原の人々が佇んでいた。皆一様に静かにぼくを見据えていた。

「時は来たれり! 彷徨える者達よ、百鬼夜行となりて、忌まわしき情鬼と成り果てた美月を討て!」

 青白い光に包み込まれた彼らが、静かに、だが力強く頷くのが見えた。その時であった。唐突に夜空を包み込む暗雲が立ち込める。黒よりも尚、深い黒を身に纏った禍々しい暗雲。見覚えのある雲だった。

「……ようやくお出ましだね。待っていたよ、美月!」

 美月は姿を見せることは無かった。代わりに、唐突に黒い雨が降り始めた。不快な音を立てて地面に叩き付けられる黒い雨が祇園さんに降り注いだ。ぼくはただ静かにその情景を見つめていた。雨はぼくには当たらない。当たる訳が無い。ぼくの周囲には荒ぶる風が龍の如く渦を巻いているのだから。降り注ぐ雨は全て鋭い牙で噛み砕かれ、大きく開かれた顎に飲み干されてゆく。

「勝ち目あると思っているの? 此処にいるのは皆、あなたに敵対する者達ばかりなんだよ? さて……今度はこっちから反撃と行こうか。さぁ、あの情鬼を討ち取れ! 我は蘇民将来の末裔なり! 同胞達よ、禍々しき不浄の力で、敵を討ち取れ!」

 なおも美月は姿を見せようとはしなかった。もしかすると、遠く離れた場所から術を行使しているのかも知れない。だけど、そんなことはどうでも良かった。実に頼もしいでは無いか? 次々と地面から這い上がってくる亡者達がぼくを守護する様に取り囲む。

「……さぁ、百鬼夜行の始まりだよ!」

 美月も黙ってはいなかった。立ち篭めた暗雲から、今度は一斉に毒々しい赤い蛾が一斉に飛び掛る。そんな攻撃、もはや何の意味も為さなかった。亡者達は鬨の声を発しながら、次々と赤い蛾を喰らってゆく。何とも頼もしいでは無いか。蠱毒の呪いを体現する者達を喰らう程に、強い力を秘めているなんて。

「いい加減姿を現したらどうなのさ? もっとも、あなたには絶対に勝ち目は無い。自らが犯した罪を憎みながら潰えてゆくが良い!」

「ああ、輝……。どうして、どうして……そこまで母を拒むの? ずっと、探し求めていたのに……」

「戯言を! ぼくを表に出させるために、散々、罪も無い子達を傷付けたこと。その罪は軽くは無い。ぼくが引導を下してあげるさ!」

「あくまでもあたしに刃向うつもりなのね。しかも、事もあろうに、憎き敵達と手を組むとは……!」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ。無実の人までも巻き込んで、挙句の果てには、ぼくにまで影響を及ぼしてしまった蠱毒の呪い……。絶対に許すことは出来ない!」

 赤い蛾達が一斉に集い、一つの塊となった。毒々しい赤い鱗粉を放ちながら、一つの赤い塊と成り果てた。やがて、その赤い塊は人の姿を為してゆく。ようやく姿を現した情鬼の姿がそこにあった。再び顔を覗かせた月明かりを仰ぎながら、美月は哀しそうな表情を浮かべていた。

「輝……お前は何も覚えていないというの? あたしと共に生きた日々も、共に過ごした時も?」

「下らない戯言は止めろと言っている。あなたはぼくの敵。ただ、それだけのことだ」

「少々手荒な真似も止むを得ないということみたいね。輝、何が何でもお前を私の世界へと連れて行く!」

「望む所だ! さぁ、亡者達よ、あの情鬼こそ、お前達が積年の恨み募らせていた憎き仇敵! 今こそ復讐を為し遂げろ!」

 美月は哀しげに微笑むばかりだった。ただ、ぼくの心は微塵も動かない。動く訳が無いんだ。こいつは忌々しい敵でしか無い。ならば、この手で討ち滅ぼすまでだ。精々自分が犯した罪を悔いながら消え失せて往くが良いさ。

「あたしも随分と甘く見られたものね。輝、お前がそのつもりならば、母は全力でお前に挑むまで!」

 次の瞬間、美月の背後からざわめく黒い霧が舞い上がった。良く見れば、それは小さな虫達の集合体であった。黒い渦を巻きながら次々と人の姿をした亡者達の口から吸い込まれてゆく黒い霧。次の瞬間次々と亡者達が悲鳴を挙げた。

「い、一体、どうなっているの!?」

 無数のカマキリ達が人の姿をした亡者達の腹を突き破って這い出して来る様が見えた。響き渡る人の姿をした亡者達の断末魔の叫び。叫び声と共に、人の姿をした亡者達は淡く光り輝く蛍になり果てては散っていった。そのあまりにも凄惨な光景に、ぼくは戻しそうになるのを必死で堪えることしか出来なかった。

「負ける訳にはいかない……負ける訳にはいかないんだ! 例え……この身が果てようとも、刺し違えようとも、絶対にお前を殺すっ!」

 とうとう始まってしまったのだね。ぼくと美月との全面対決が。だけど、ぼくは絶対に退かない。ぼく自身の覚悟が、想いが、揺ぎ無いものだと示すために!

◆◆◆75◆◆◆

 夜も更けた頃、俺は途方も無い殺気に気付き、飛び起きた。とんでもない殺気が辺り一面から感じられる。空気が震え、鳴いている。そんな表現さえも生易しく思えるほどに異様な空気に包まれていた。傍らではクロが険しい表情を浮かべたまま、静かに唸っていた。

「クロ、一体何が起きている!? ただならぬ気配を感じる!」

「むぅ……輝の仕業ぞ」

「なに? 輝が何かしでかしたのか?」

「愚かなっ! 輝は京の都を戦場に変えるつもりであるか!? 確かに、造詣の深さに関しては認めるが、それが仇になろうとは……」

 珍しくクロが額に汗を滲ませていた。その様子からも、ただならぬ事態に陥っていることは容易に想像できた。

「事もあろうに牛頭天王の真言を為した様子よ……」

「牛頭天王? 一体何者だ、そいつは?」

「牛頭天王とは――」

 クロが手短に教えてくれた知識。古き時代に生きた荒ぶる祟り神のこと。それが牛頭天王。牛の頭を持って生まれてきた牛頭天王は多くの者達に畏れられた存在であった。だが、同時に、途方も無く強大なる力を持った存在であり、クロ達鞍馬山の天狗達にとって、関わり合いになることすら恐ろしいとされている存在でもあると聞かされた。疫病を司る獰猛なる祟り神。そんな恐ろしい神に語り掛けるべく、輝は真言を為したのだと聞かされた。

「無論、一介の人でしか無い輝が真言を口にしたところで、威力はたかが知れておる。だが、輝の背後には数え切れない程の存在を感じた」

「一体、何者だ?」

「百鬼夜行よ。泣き女郎の放った呪いの力により、無残に殺された者達の無念。彼らが輝を総大将としての大規模な戦を始めようとしておる。無論、立ち向かうべき相手は泣き女郎よ」

「愚かなことを! 憎しみに、憎しみで挑んだ所で、燃え盛る炎は、さらに勢いを増すだけ! 何の解決にもならないと言うのに!」

「コタよ、此れは言うまでも無く非常事態ぞ! このままでは輝だけでは無く、京の都全体が異界と化してしまうであろう!」

 ただでさえ焦らずには居られない状況にも関わらず、クロの口から聞かされた言葉はさらに想像を絶するものであった。京の都全体が異界と化す? 一体、それはどういう事態なのだ? 少なからず尋常では無い状況に陥っていることは理解した。目を背けたくなる話ではあったが、逃げる訳にはいかなかった。輝を何としても守り抜かなければならないのだから。

「異界と化すとは、一体どういうことだ?」

「文字通りの状況よ。情鬼達が無尽蔵に跳梁跋扈する街と化す。憎しみや怒り、哀しみや嘆きといった負の感情は連鎖する。その上、そうした感情は連鎖することで爆発的に勢いを増す。抜け出すことの出来ぬ永遠の螺旋の誕生と相成る訳よの」

「呑気に構えている場合じゃない。クロ、急いで中心地を目指すぞ!」

「うむ。間違い無く、輝は八坂神社にて儀を為した筈。急ぐぞ、コタよ!」

 何時に無くクロが取り乱していた。口調や振舞いこそ、必死で冷静さを保とうとしていたが、それも所詮は上辺だけの物であることは容易に察しがついた。少しでも俺を動揺させない様に振舞っているのだろう。何しろ、俺達はタッグを組んでいる同志だ。片方が崩れればもう片方も崩れてしまう。俺も気をシッカリと持たねばならない。それこそ、命懸けで挑む位の覚悟が必要なのかも知れない。俺は急ぎ階段を駆け下り、玄関の扉を開けた。

「うっ! な、何だ、これは!?」

 勢い良く玄関の戸を開けた俺は、信じられない情景に思わず息を飲んだ。

 まるで深い濃霧の真っただ中に放り出された様な情景だった。だが、ただの霧では無い。毒々しい暗紫色の色合いを孕んだ霧は、間違い無く異質の物であることを物語っている。

「瘴気よ。情鬼達が放っている負の念が具現化しておるのであろう」

「……事態は深刻だな」

「うむ。元来、人の目に見ることは出来ぬ思念が、こうして、霧の様に鮮明に姿を現して居る。いうなれば八坂神社を中心に、負の感情が一気に呼び寄せられておるのであろう。このままでは輝の身すら危うい。コタよ、少々手荒ではあるが容赦しろ!」

「ああ。少々荒っぽい位の方が、興奮するというものだ!」

「ははは! 実に頼もしい言葉よ! 無事に生きて戻って来られたならば、祝杯でも挙げようぞ!」

「ああ、それも悪く無いな。クロ、何時でも大丈夫だ!」

「うむ。それでは力の限り羽ばたき、八坂神社へと突入する!」

 俺はクロの背にまたがり、しっかりとしがみ付いた。

「うぉおおおーーーっ!」

 咆哮を轟かせながらクロが駆け抜ける。そのまま勢いを着けた状態で、俺達は一気に大空へと舞い上がった。

「信じられない事態に陥っているな……」

「うむ。瘴気の螺旋よ」

 まるで竜巻の様に巨大な黒い渦が出来あがっていた。その中心地にあるのは、予想通り祇園さんであった。空を覆い尽くす暗く不吉な雲は、祇園さんに向けて螺旋状に降り立っている様に見えた。余りにも奇異な光景だった。空は時折、呻き声の様な唸りを挙げていた。時折響き渡る断末魔を耳にする度に、身の毛がよだつ想いで一杯になった。それにしても、恐ろしく毒々しい色合いの雲だ。辺り一面に広がる暗紫色の霧と同じ色合いの雲は、何とも不気味で、不吉な風合いを称えていた。クロの言う通り、あれが瘴気の渦なのであろう。つまりは情鬼達の思念が寄せ集まった濃度の高い殺気が渦巻く場所なのであろう。よもや、これ程までに深刻な事態に陥ろうとは想像も出来なかった。相手はたった一人の情鬼だ。憎悪の能面師も、露姫も、これ程までに莫大な力は持ち合わせていなかった。否、今までの相手とは状況が圧倒的に異なっている筈。何しろ、この地には呪い殺された数多くの者達の思念と、それから、さらに呼び集められた無数の思念とが居合わせていることになる。それこそ、数え切れない程の人の念が一点に寄せ集められているのだ。普通に考えたら、絶対にあり得ない状況が起きていることになる。

(本当に、俺達の手に負える様な相手なのだろうか?)

 不安に成らずにはいられなかった。あまりにも圧倒的過ぎる力を前にしたした時、人は己の無力さを受け入れずには居られなくなる。戦う前からの敗北宣言……。そんな情け無い展開にはしたくなかったが、これ程までに強大な光景を目の当たりにして、平常心を保てという方が無理があるというものだ。

「畏れておるのか?」

「ああ、情け無い話だが、震えが止まらない。死の恐怖という奴だろうか?」

「ふふ、無理に強がる必要も無い。我とて、こうして気丈なフリをしておるが、内心、今すぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯よ」

「クロ、増援を請うべきでは無いのか?」

「うむ。既に鞍馬山より我の仲間達が一斉に飛び立って居る。四天が輝に干渉したのも、こうした事態を見越して居ったからであろう」

「四天という奴らは、鞍馬山を統べる程の力を持っているのだろう? だったら、何故、輝がこんな無謀な真似をするのを阻止しなかったのだ?」

「むう……確かに奇異な話よの。何故、阻止しなかったか? 我の窺い知らぬ考えがあっての行動だと思うのだが……」

 手を拱いている間にも瘴気はますます強大な渦を為そうとしていた。

「なぁ、クロ。あの黒い渦、段々大きくなっていないか?」

「ふむ。増援を待っている猶予は無さそうであるな」

「仕方無いか……。腹を括るしか無さそうだな」

「止むを得ぬ」

「クロ、お前と友達になれて嬉しかった。ありがとうな」

「ふふ、まるで遺言では無いか? その様な言葉、断じて受け取る訳にはゆかぬ」

「それもそうだな。さて……迷惑千万な性悪女に裁きの鉄槌を下して、のんびり温泉にでも行くとするか!」

「悪く無い話よの。では、参るぞ!」

「おうっ、何時でも構わん!」

 静かに呼吸を整えると、クロは一気に急降下した。さながら一発の弾丸の如く、身を守ることもせずに、ただ一心に中心地目掛けて俺達は突撃した。激しく木々の枝に体を打たれながらも俺達は勢いを緩めることはしなかった。当然、まともに着地など出来る訳も無く、クロの背から放り出された俺は派手に地面に叩き付けられた。だが、それでも、俺達は中心地となっている祇園さんの本殿前へと突入することに成功した。さて、本当の戦いはここからだ。

「クロ、一体どうなっている? 濃い霧に阻まれて、何も見えないぞ!?」

「むう……あくまでも我らを蚊帳の外に追い遣るつもりか!?」

「くっ! 輝はすぐ傍にいるというのに、これではどうすることも出来ない!」

「焦るな、コタよ! 必ず……必ず道は開かれる筈! 何とか突破口を探し求めるぞ!」

 この状況で焦らずに居られる訳が無い。強引に霧の中に突っ込もうとしても、堅い感触に阻まれて近寄ることも出来ない。良く見れば無数の甲虫達が壁を為す様に蠢いている。その身の毛もよだつ様な光景に、俺は思わず腰を抜かしそうになった。

「な、なんだこれは!?」

「くっ! 虫の分際で道を阻むとは! えぇい、退けっ! 退くのだっ!」

 俺は力一杯蹴り飛ばしてみたが、まるで、硬質な金属の壁を叩いたかの様な衝撃に跳ね返されるばかりであった。クロも六角棒で殴っているが、まるでびくともしない。

「えぇいっ! どうすれば良いと申すか!? 万事休すとでも申すかっ!?」

 クロもまた、この状況に取り乱さずには居られなくなっていた。

「輝! 輝! 何処に行ったの!?」

 唐突に聞き覚えのある声が響き渡った。俺は思わず驚き、振り返った。

「ああ、小太郎君、うちの輝を見なかったかしら!?」

 そこには輝の母親が立っていた。酷く取り乱した様子に動揺を隠し切れなかった。何よりも、どうしてこの場に居るのだろうか? 輝の後をつけていたとしか思えなかった。色々と問い質したいことはあったが、ここは間違いなく戦場と化している場所だ。こんな場所に居させる訳にはいかなかった。だが、どう説明して帰って貰えば良いだろうか? 少なからず、俺と輝の母親は敵対関係にある身。要らぬことを口にすれば、火に油を注ぐ結末となることは避けられそうに無かった。

「嫌な夢を見たの。輝が祇園さんの本殿前で、恐ろしい形相の女に殺される。あまりにも鮮明な夢に恐ろしくなって……。部屋に輝の様子を窺いに行ってみれば居なかったのよ。ああ、あたしはどうすれば……」

「ここは危険だ。後は俺達に任せて、家で待っていてくれ」

 だが、俺の制しを振り切り、輝の母は虫の壁へと歩み寄って行った。

「ああっ! 輝! それに……あの人は夢で見た女! 駄目よ、輝をあなたに渡しはしない! 例え、この命に変えても!」

「なっ、何だと!?」

 信じられない光景だった。まるで何事も無かったかの様に、虫達の壁を突き抜けて輝の母は走り込んでいった。あまりの出来事にクロも目を丸くして驚いていた。だが、俺達が再び壁に触れてみても、やはり、壁は堅牢なる守護を保ったままであった。

「い、一体どうなっていると申すのか!?」

「俺にも判らん。それに……あの母親が輝の身を案じるだと? ああ、何がどうなっている!? 何もかもが理解不能だ! クロ、何としてもこの壁を突破するぞ!」

「うむ。考え得る限りの手段を講じてみようぞ!」

 あまりにも予想外の展開に、俺はただただ動揺することしか出来なかった。何故、輝の母親が夢で情景を知ることが出来たのか? 何故、輝の母親が虫の壁を通過出来たのか? 何よりも、輝の母親が輝の身を案じるという事実が理解不能だった。焦り、不安、動揺、そういった全ての感情が入り乱れ、俺はただひたすらに怒りに我を見失うことしか出来なかった。人は……己の力の及ばない窮地に直面した時、こんなにも弱くなってしまうのかと痛感することしか出来なかった……。

◆◆◆76◆◆◆

 異様なまでに余裕に満ちている美月の表情が気になって仕方が無かった。相手はたった一人。こちらは数え切れない程の頭数だというのに、まるで歯が立たない程に強い力を持っていた。次々と放たれる数多の虫達に阻まれ、ぼく達は防戦一方だった。

「あらあら、さっきまでの威勢の良さは何処に行ったのかしら?」

「そんな……こんなにも力の差が歴然としているなんて……」

「輝、呪術の知識を持つお前ならば知っているはず。調伏返しという手段もあるということを」

「くっ! さすがに蠱毒を知る程の身ならば、やっぱり知り尽くしているのか……」

「つまり、どう足掻いてもお前に勝ち目は無い。良く覚えておくことね。呪いとは力の大小だけで勝敗が決まる様な代物では無い。知っているか、知らないかの差で勝敗が決まる物。何よりも、不完全な力で牛頭天王の真言を扱える訳も無いでしょう?」

 美月は相変わらず余裕に満ちた笑みを崩すことは無かった。

「それにしても……目障りな奴らね。死してなお、あたしに罵詈雑言をぶつけようとするなんてね」

 不気味に微笑みながら美月は、一際大きな一匹のカマキリを手に乗せて見せた。

「輝、カマキリという昆虫はどうやって誕生するか知っているかしら?」

「……卵から孵化する昆虫だよ。一つの卵から、数え切れない程にたくさんのカマキリが生まれる。それが一体何だと言うのさ?」

 精一杯強がって見せたけれど、正直、圧倒的過ぎる力の前に、ぼくは本気で死を覚悟していた。美月が、ほんの少しでも力を解き放てば、ぼくも虫に食い荒らされて無様に死んでゆくことになるかも知れない。でも、それでも、譲れないものがあった。確かに力では肉体を制することは出来る。でも、主義、思想までは制することは出来ない。例え、殺されることになったとしても、ぼくは想いを捻じ曲げたく無かった。皆に支えられてここまで来たのだから。何よりも、皆のお陰で出来上がった想いを否定するということは、皆の存在さえも否定することになる。そんなのは絶対に嫌だったから。

「無数のカマキリの卵を光を遮った壺の中に閉じ込めておく。やがて、カマキリ達は孵化する」

 うすら笑いを浮かべながら語るのは、恐らくは蠱毒の術を為し遂げるまでの内容なのだろう。もっとも、美月は様々な虫を操っている。カマキリの他にも幾つもの虫達で同様のことを為し遂げたのだろう。想像するのも気持ちが悪い話だ。我が子を育てるかの様に呪いを育て上げた狂乱の母。もはや、こいつには人としての感情など微塵も残されていないないのだろう。ただ、亡き息子の面影を追い求めるだけの狂った影と化している。そこには何の感情も無い。どこまでも憐れな人なのだろうか……。

「だけど、フフ……生まれたばかりのカマキリ達は、何も食べる物が無い。さぁ、どういう展開になるか判るかしら?」

「くだらない……。カマキリは肉食の昆虫だ。当然、共食いを始めるだろうね。何百、何千、下手すれば何万もの兄弟達の血肉を食らって這い上がってきたのだろうね。そして、そこにいるカマキリこそが、最後の生き残り。そう言いたいのでしょう?」

「ええ、その通りよ。この子は数え切れない程の屍の頂点に立つ存在。王者の中の王者ということになるわ。途方も無い怒りと憎しみ、形にすることさえ憚る程の絶望を背負って生きてきた身よ」

 愛おしそうにカマキリに頬に擦り寄せる美月の姿を目にした時、もはや狂気染みたなどという生易しい言葉で評するには値しない程の嫌悪感に駆られた。

「それで、そのカマキリをどうするつもりなのさ?」

「お前に見せてあげよう。本物の呪いの威力を! さぁ、行きなさい。あの者達を一人残らず斬り捨てておやり!」

 見た目は普通のカマキリと変わらないが、明らかに異様な殺気を称えていた。静かに美月の手から降りたカマキリは空を斬り裂く様な動作を見せた。

「え?」

 次の瞬間、空気の塊が刃の様な形を為し、次々と亡者達を切り裂いていった。ほんとうに一瞬の出来事だった。微かな風が吹き抜けた様な感覚の後には、胴体から真っ二つになった者や、首を跳ね飛ばされた者、頭から左右に真っ二つに斬り裂かれた者など、見るに堪えない無残な光景が広がった。耳をつんざくような断末魔が響き渡る。

「……何度も言うけれど、ぼくはあなたの下には戻らない。第一、あなたはぼくの敵だ!」

「あたしが……敵?」

「そうさ。ぼくに取ってあなたは忌むべき存在でしか無い!」

 昂ぶる感情を抑え切れなかった。ううん、抑える必要も無かった。何しろ目の前にいるのは、討つべき仇敵でしか無いのだから。こいつのお陰で、ぼくがどれだけ苦しい想いをさせられたか……。絶対に許すことは出来ない。だから、ぼくは怒りに身を委ねて、ありったけの想いを叩き付けた。

「判っているの!? あなたが気の触れた行動を起こしたおかげで、ぼくは忌々しい能力を授かることになった。そのことで、ぼくがどれだけ辛い想いをすることになったか……。それだけじゃない! あなたは極めて身勝手な理由で、何の関係も無い子達を傷付け、ぼくを追い詰め、その上、今もこうして、島原の地で志半ばで命を落とした人達を何のためらいも無く斬り捨てた。あなたはただの気違いだ。可哀想で、憐れで、どうしようも救いの無い罪人だ。そんな人がぼくの母親だって? ふざけるなっ! さぁ、ぼくを殺せ! 例え肉体を失うことになろうとも、心までは支配出来ない! さぁ、どうした? ぼくを殺せ! ぼくは未来永劫、あなたのことを呪い、憎み、二度と輪廻転生出来ない様に魂さえも煉獄の炎で焼き払ってくれる!」

 美月はただ哀しげな表情を浮かべていた。目線を落とし、力無く項垂れる様に、一瞬気の迷いが生じた気がした。だけど、そんな猿芝居には騙されるものか。所詮、こいつは死に往くだけの定めにある身。一切の迷いも、慈悲も必要無い。

「どうして……どうして、そこまでして母を拒むの? 輝、お前に逢うことだけを願い、何十、何百という年月を待ち侘びたというのに、母の想いはお前に届かないと言うの?」

「黙れ! 化け物の分際で、未だ母であると主張するか!? 恥を知れ! お前は情鬼だ。鬼なんだ! 人では無く鬼だ! 人々に仇為すだけの存在であり、毒をばら撒くだけの異物であり、存在そのものを否定されて然るべき存在でしか無い。さぁ、大人しく滅びを受け入れろ……万物がお前が消え往くことを望んでいる。理解しろ。お前の存在は誰も必要としていない。つまり、お前は存在することさえ否定された存在なんだよ!」

 あふれ出る怒りを抑えることは出来なかった。ただただ憎しみを抱きながら、ぼくはありったけの罵詈雑言を叩き付けていた。こんな奴が母親だって? 冗談じゃない……気持ちが悪い! 化け物の寵愛を受ける程ぼくは落ちぶれていない!

「……輝、何故、そんなことを言うの? 記憶が無いからなの? それならば、記憶が戻るまで母が共に歩んであげよう」

「はぁ? ぼくの話聞いているの? お前はただの汚物に過ぎないと言っている! これ以上、ぼくを怒らせるな! これ以上、ぼくの醜悪な一面を引き摺り出すな! 不浄なる情鬼の分際で、母親面するのは止めろと言っているっ!」

「ううっ、輝……どうして判ってくれないの? ただ、お前と再び巡り合うことだけを夢見て生き永らえてきたと言うのに、何故、お前はそんなにも辛らつな言葉をぶつけるの? どうして……どうして……」

 なおも憐れみを誘う様な振舞いに、ぼくの心が微かに揺れ動かされた。でも、そんな慈悲心を持っている自分が嫌で、嫌で仕方が無かった。虫唾が走るというのはこういう気持ちを示すのだろうか? 今すぐにでもこいつを葬り去りたい。ただ、ぼくには力が無いから止めを刺すことは出来ない。

「牛頭天王! どうか、どうか……ぼくに力を! ぼくの怒りを刃に変えて、仇敵を討ち取る力と成れ! オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ、オン・牛頭・デイバ・誓願・随喜・延命・ソワカ……!」

 信じられないことが起こった。それは奇跡としか言い様の無い出来事だった。一瞬、ぼくの目の前に牛の頭を持った存在が浮かび上がった様な気がした。座禅を組んだまま静かに手を組み合わせた、その姿は途方も無い力に満ち満ちている様に思えた。ぼくと向き合って佇む牛の頭を抱いた存在……彼こそが牛頭天王なのかも知れない。ぼくの瞳をじっと見据えたまま、彼は静かに、力強く頷いて見せた。次の瞬間、彷徨える亡者達が一斉に断末魔を挙げた。一体何事かと思えば、牛頭天王が彼らを両の手に取り、次々と喰らい始めた。次々と吸い込まれてゆく魂達と響き渡る断末魔。生きたまま咀嚼され往く者達の断末魔の悲鳴に、滴り落ちる血肉に、粉砕される骨の音に、ぼくは腰を抜かしそうになっていた。それでも、牛頭天王は無表情のまま、彼らの魂を喰らい続けた。やがて悲鳴が収まると同時に、牛頭天王は口から一振りの光輝く刀を取り出して見せた。

『輝よ……お主の想い、確かに受け止めた。業を受け入れるだけの覚悟あらば、その刀を手にし、彷徨える亡者に裁きを下すが良い』

「牛頭天王……本当に存在するなんて……。でも、これが現実ならば、ぼくは立ち向かう……。死んでいった者達の無念が生み出したこの刀で、美月、お前に裁きを下そう……」

 迷いは無かった。ぼくは静かに刀を手にしてみた。驚く程に熱い感触に、思わず手を離しそうになったけれど、絶対に離してはいけないと感じたからこそ、必死で握り締めた。その刀身には夥しい量の血糊が見受けられた。思わず背筋が凍り付きそうな程に妖しくも、美しい刀身だった。

「あ……ああっ!」

 力を篭めて握った瞬間、ぼくの体中に響き渡る怨嗟の声、断末魔の叫び、罵詈雑言の響き……あらゆる想いを感じていた。ぼくに恨みを、無念を晴らせと叫んでいる様に思えてならなかった。

「美月、覚悟しろ!」

「なっ!?」

 刀なんか当然のことながら、生まれて初めて手にする物だった。なのに、不思議と重さも感じなければ、扱いも判らなかったハズなのに、ずっと昔から知っていたかの様に容易く扱うことが出来た。これもまた背中を後押ししてくれた牛頭天王の想いなのだろうか?

 それは一瞬の出来事だった。パァっと舞い散った赤い花弁の様な血飛沫。見事な袈裟斬りだった。多分、命を奪われた者達の中に侍を生業としていた者達がいたのだろう。彼らの想いがぼくに手を貸してくれたのだろう。

「あ、ああっ……ぐっ、ど、どうして……どうしてこんなことを……?」

「黙れと言っている! 次はその首を跳ね飛ばしてくれる!」

 ぼくは再び刀を振り上げた。もはや抵抗する余力は残されていないだろう。真っ赤な着物を染め上げて往く血の流れは、もはや小さな池と化していた。湧水の様に滴り落ちる血の流れを見つめるぼくの中に、慈悲の感情は微塵も残されていなかった。次の一手で全てが終わる。もう、迷うことも無くなる。そうだね……これは慈悲だ。ぼくからの最初で最後の慈悲だ。せめて苦しまずに済む様に殺してあげるよ。

「さぁ、覚悟しろ!」

 その刀が振り下ろされることは無かった。

「うわっ! な、何だ、こいつらは!?」

 突然襲い掛かった無数の蛾に視界を遮られた。金属の様な光沢を放つ銀色の蛾が鱗粉をばら撒く。うっかり吸い込んでしまったら、たちどころに体中の力が失われていった。

「ま、まずい……。力が……力が抜けて往く……」

「ま、まさか……牛頭天王が、輝に手を貸したと言うの? そ、そんなことが……ううっ! ち、力が、失われてゆく! くっ! 此処まで来たのに……退き下がれるものかーーっ!」

「な、何!?」

 不意にぼくの周囲は、何時の間にか真っ赤な蛾に取り囲まれていた。月明かりに舞う血の様に鮮やかな色合いの鱗粉がキラキラと輝きを放つ。一瞬、視界が揺らぐ様な感覚の後で、静かに力が抜けて往くのを感じていた。

「こ、この程度の術しか使えなくなるとは……で、でも、身動きを封じるには十分ね」

「貴様! ぼくに、何をした!?」

「こ、この子達がばら撒いた……麻痺性の毒が効いてきただけのことよ。さぁ、輝……ゆっくりと記憶を取り戻してあげよう。大丈夫よ。時間は幾らでもあるのだから……力は失われても、まだ、為せることはあるから……」

「待ちなさい!」

「……ほう? あたしの築き上げた結界を通過してくるなんて驚きね」

「ど、どうして……!?」

 てっきりコタが助けにきてくれたとばかり思っていたが、ぼくの視界に飛び込んできた人物は、ぼくの想像を完全に裏切る存在だった。目を疑わずには居られなかった。何故、あの人が此処に? 一体、何がどうなっていると言うの?

「どうして? 我が子の危機を静観する母親が何処にいるの? この性悪女が……うちの息子に指一本でも触れて御覧なさい。あたしがお前を殺す!」

「ふん。たかが人の分際で情鬼に叶うとでも思っているのかしら?」

「輝……お前のことは命に変えても守って見せる。あたしが絶対に守る!」

 多分、ぼくの頭は燃え尽きそうな程に困惑していた。何故、あの人がぼくを守ろうとしているのか、理解に苦しんだ。ぼくのことを忌み嫌っていたのでは無いの? ぼくが……暁の死を予見したから。そして、史実はぼくの予見をなぞる様に描き、紡ぎ出された。

「何故、お前に辛く当たったのか? 何故、お前の存在を否定するような振舞いをしたのか? その全てを聞かせる時が訪れたのかも知れない。輝、生きて帰れたら、その時は何もかもを聞かせよう」

「無駄よ! お前は此処で死ぬ。蠱毒の呪いをその身で受け止めるが良いわ!」

「あなたは本当に図々しい人ね。それで良くも母親面出来たものだと感心するわ」

「何ですって?」

「我が子のことを想えばこそ、我が子のために振る舞えるもの。あなたは見下げた私利我欲のためだけに振舞っている。我が子を愛する母親ですって? 笑えない冗談ね。無理矢理連れ去ったところで、一体何が生まれるというの? あなたがやろうとしているのは所詮、欺瞞と自己満足に満ちあふれた恐怖政治に過ぎない。諦めなさい。輝はあなたの敵でしか無いの!」

「えぇい、黙れ、黙れ! 散々、輝に残酷な仕打ちをしてきた分際で、何を偉そうに!」

 ぼくはどうすることも出来なかった。あまりにも困惑し過ぎて、何を、どうするべきなのか迷い続けていた。そんなぼくの肩を誰かが叩いた。驚いて振り返れば、そこにはコタが佇んでいた。

「こ、コタ!?」

「待たせたな輝」

「ひっ!?」

 コタの後ろに佇む大柄な人影に、ぼくは危うく腰を抜かす所だった。筋骨隆々とした太い腕で、腕組みしながら佇む存在は、まさしくカラス天狗そのものだった。鋭い眼光でぼくを見下ろしながら、彼は静かに微笑んで見せた。

「お初にお目に掛る。我は小太刀。コタと共に歩むカラス天狗一族の者よ」

「輝、クロの……小太刀の紹介はいずれ詳しくさせて貰う。今は目の前の情鬼を討ち取るのが先決だからな」

「輝の母上には退場願おう。此処に居るのは危険を伴うでな……」

 小太刀と名乗ったカラス天狗は、目を伏せると静かに何かを呟き始めた。はっきりとは聞き取れなかったけれど、それは何らかの真言の様に聞こえた。次の瞬間、地面に落ちた木々の葉が風に煽られながら、あの人を包み込む。吹き付ける風に思わず手で目を覆ったけれど、再び目を開けた時には、あの人の姿は消え失せていた。

「い、一体何をしたの!?」

「案ずるな。お主の家に送り届けたまでのことよ」

 小太刀……何とも不思議な存在に思えた。最初に目にした時は、不意を突かれたから腰を抜かしそうになったけれど、今はそんな感情を抱いていない自分がいる。むしろ神々しささえ感じる、その威風堂々たる姿に、ぼくは安堵感さえ覚えていた。

「さて……ようやくご対面叶ったな、情鬼、泣き女郎よ。随分と手間を掛けさせてくれたが、今度こそ彼岸の地に叩きこんでくれよう」

「一介の天狗風情があたしを止められるとでも思っているのかしら? 思い上がりも甚だしいことね。牛頭天王のお陰で、大分力を奪われたけれど……それでも、お前達を討ち取るには十分だ!」

 見下すような含み笑いを浮かべたまま、美月は再びカマキリを手に乗せて見せる。

「先に忠告してあげよう。お前達に勝ち目は無い。今のうちに退くならば、深追いはしないわ」

「俺の話を理解して貰えなかった様子だな。俺達はお前を滅ぼしに来たのだ」

「……やれやれ、頭の悪い子達ね。それならば、あたしも本気で挑もう。さぁ、カマキリよ、あいつらをズタズタに斬り裂いておやり!」

 結局、ぼくはどうすることも出来なかった。せめて、コタ達の足手まといにならないように物陰に逃げ込むことしか出来なかった。無力で非力な自分が悔しくて、悔しくて、気付いた時にはぼくの頬を温かな涙が伝っていた。ぼくに力があれば、あいつを討ち取ることが出来たのに……。結局、ぼくは場を掻き回すだけの迷惑なトラブルメーカーでしか無いのかな? 牛頭天王の手を借り、弱らせたとは言え、美月は強さを称えたままだ。勝利に想いを托すことしか出来ないのであれば、せめて、コタ達の勝利を信じて祈り続けよう。それしかぼくに出来ることは思い浮かばなかったから……。

◆◆◆77◆◆◆

 俺はクロと共に情鬼、泣き女郎と対峙していた。小さなカマキリが放ったカマイタチの様な一撃。だが、木々の幹に刻み込まれた傷の深さからも、その途方も無い威力は推して知ることが出来た。正直、焦りを覚えていた。あれ程の一撃をまともに喰らえば、無事には済まない。動揺する俺達とは裏腹に、不気味なまでの余裕を見せる泣き女郎に不安感を隠し切れなかった。迂闊に攻撃を仕掛ければ蠱を仕掛けられ、一気に窮地に陥るだろう。クロもまた、それを理解しているからこそ、相手の出方を窺っていた。そんな俺達を見下す様に泣き女郎が不敵に笑う。

「どうしたのかしら? 先刻までの威勢の良さは何処へやら。そちらから仕掛けないなら、あたしから仕掛けてあげよう。さぁ、カマキリよ、あいつらを真っ二つにしておやり!」

「くっ!」

 次々と放たれるカマイタチから身を翻すだけで精一杯だった。接近するどころでは無かった。なまじ小さなカマキリだけに、動きが見え辛く、隙を見出すことが極めて困難な状況であった。

「むう……。姑息なだけの相手かと思うておったが、少々侮り過ぎた様であるな」

「ああ。あいつの懐に飛び込めれば、一撃をかませられるのだが」

 圧倒される俺達を後目に、泣き女郎が高笑いを響かせる。

「あーっはっはっは! 所詮、鞍馬山のカラス天狗も大したことは無いわねぇ? 所詮、口先だけじゃない!」

 敵は虫……。その虫を巧みに使いこなす泣き女郎。さて、どう攻めれば良い? あいつの懐に飛び込めれば、全力で投げ飛ばしてくれるのだが……。

(敵は虫か。虫ならではの決定的な弱点でもあれば良いのだが……)

 虫の弱点か……。そういえば、季節と虫との間には関係性がある様に思える。夏場は確かに虫の数は多い。だが、秋口から冬に掛けて虫達は一気に減る。もしかして……虫達は寒さに弱いのか?

「クロ、耳だけ傾けてくれ」

「む? どうした?」

「今の季節は虫達に取っては全盛期と呼べる季節だ。だが、秋口から冬に掛けて一気に、虫の数は減る。虫達は寒さに弱いのでは無いだろうか?」

「むう、なるほど。何らかの手段で冷気を生じさせてやれば、あの虫達の動きを封じることが出来るやも知れぬ。そう申すのであるな?」

「ああ。賭けてみる価値はあるかも知れん。良いか、クロ。良く聞け。俺が全力で駆け込む。その隙に一気に冷気を呼び寄せてくれ」

 俺の言葉にクロが険しい表情を浮かべる。そんな危険な策を、そう言いたげな表情を浮かべていたが、俺はあくまでも表情を崩さずに向き合った。

「良いかクロ。俺はお前を信じる」

「むう……責任重大であるな。だが、その任、我が背負った」

 小声で語らう俺達を、泣き女郎は相変わらず見下すばかりであった。勝利を確信した者の強みなのであろう。だが、奢り高ぶった者は、何時の時代も奈落の底へと転落するは時の定め。史実もそれを裏付けてくれている。むしろ好都合だ。隙が生じれば俺達にも勝機は訪れる。

「泣き女郎よ、良く聞け! これから俺がお前を地面に叩き付けてくれる。精々覚悟するのだな」

「ふふ、やれるものならばやってみるが良いわ。あたしは此処にいるわ。さぁ、駆け込んでくるが良い!」

 大きく手を広げて、俺を揶揄する様な態度を見せる泣き女郎。だが、その自信に満ちた態度はむしろ好都合だ。

(ふん。すぐに、その自信に満ちた笑みを叩き割ってくれるさ)

 背後に控えるクロに聞こえる様に、俺は可能な限りの咆哮を轟かせた。振り返ってしまえば、合図を送っていることが容易く判ってしまう。この叫びは合図などでは無い。あくまでも泣き女郎の注意をこちらに惹き付けるための行為だ。予想通り、泣き女郎は口元を酷く歪ませながら、手を振り上げた。その瞬間、一斉に真っ赤な蛾が地面から舞い上がる。異様な熱気を放つ蛾達に触れた部分が焼け爛れる様に痛んだ。だが、俺はクロを信じている。この痛み、怒りに変えてお前に放つ。

「うぉおおおおおーーーっ!」

「舞い上がれ! 白銀の地吹雪よ、この地に参れ!」

 クロの叫びと共に、突然周囲の景色が移り変わる。激しく荒れ狂う吹雪に包まれた周囲の景色が、白一色に染まってゆく。指先まで痺れる程の鮮烈な冷気。凍て付く冷気が周囲を駆け巡ってゆく。

「な、何ですって!?」

 予想通りだ。次々と真っ赤な蛾が地面に落ちてゆく。やはり、虫達は冷気に弱い。無敵の威力を誇る蠱毒。だが、意外な弱点を見出した今、もはや畏れる物は何もない。驚愕の表情を浮かべる泣き女郎の胸倉を力一杯握り締めると、そのまま俺は、目の前にあった樹木目掛けて泣き女郎を叩き付けた。

「ああっ!」

「はぁっ、はぁっ……これで終わったなんて思うなよ? 俺の怒りはこんなものでは無い。本気でお前を殺してやるから、覚悟しろ」

 俺は泣き女郎に馬乗りになると、そのまま怒りに身を任せて、泣き女郎の顔を何度も、何度も殴り続けた。先刻までの恐ろしい姿はそこには無かった。ただの無様な中年女の姿だけがそこにあった。だが、俺の怒りはこんなものでは収まらなかった。クロの仲間のカラスへの仕打ち、罪も無い少年達を傷付けたこと、何よりも輝を散々振り回した罪、その全てを俺は許すことは出来そうにない。

「ぐぐっ……そ、そんな馬鹿な! 忌々しき牛頭天王め……力を奪われなければ、お前達如きに敗れはしなかったのに……。あたしはただ、輝を……」

「まだ言うか!? このまま首を絞めて、お前を本気で殺してくれる!」

 俺は馬乗りになったまま、泣き女郎の腰帯を解いた。そのまま帯を泣き女郎の首に回し、俺は渾身の力を篭めて首を絞めた。

「くっ! く、苦しい……!」

「自らが犯した罪を背負いながら、死んでゆけ!」

 必死で俺の腕を振り解こうとする手から、次第に力が抜けて往く。直に泣き女郎も死んでゆくだろう。そう、確信した瞬間であった。

「うわっ! な、何するんだよっ!」

「な、何と!? おのれ! 姑息な真似をっ!」

「ひ、輝!?」

 突然響き渡る輝の叫び声。何かと戦うクロの怒号が響き渡った。慌てて振り返った俺は信じられない情景を目の当たりにすることになった。無数の蛾に取り囲まれる輝の姿があった。迂闊だった。泣き女郎は虫を操ることの出来る身。泣き女郎の意思に従い蠢く虫達が輝を捉えていた。

「ああ、そうさ。お前達の考えた通り、虫達は冷気に弱い。でも、迂闊だったわね……あたしの意思一つで虫達は変幻自在に動く。残念だったわね」

「くっ! き、貴様ーーっ!」

 俺は怒りに身を任せて泣き女郎の顔面に、力一杯拳をめり込ませた。だが、それさえも虫達が阻んだ。蠢く虫達が退けば、口元を酷く歪ませた泣き女郎の勝ち誇った表情が視界を占領する。白銀の景色に包まれた祇園さんに泣き女郎の高笑いが響き渡る。

「さて……そこを退いて貰おうかしら?」

 泣き女郎が含み笑いを浮かべると同時に、無数の虫達が突風となって俺を弾き飛ばした。

「ぐわっ!」

 その隙を着いて泣き女郎が逃げ伸びる。ゆっくりと立ち上がりながら、尚も見下す様な眼差しで俺を見据えるばかりであった。

「あーっはっはっは! 輝はあたしが連れて行く。精々、お前達の無力さを憎むが良い!」

 一陣の風が吹き抜けると共に、泣き女郎と輝は姿を消してしまった。俺達はただ、力無く崩れ落ちることしか出来なかった。泣き女郎の言う通り、俺達は本当に愚かだったのかも知れない。怒りに身を任せて隙だらけになっていたのは、泣き女郎では無く、俺達だったのでは無かったのだろうか? 泣き女郎はあくまでも冷静に俺達の動きを見定めていた。大きな力を持つ者だからこそ、微塵の油断さえも見せなかったのだろう。

「コタよ、済まぬ……。我も油断しておった。輝が連れ去られたのは我の責任ぞ」

「クロ、お前が悪い訳じゃない。俺も迂闊だった……」

 何処までも抜け目の無い相手だ。こうも変幻自在に虫達を行使することが出来るとは、俺達には勝ち目がないのか? あまりにも手強過ぎる相手を前に、俺はいよいよ戦意を喪失しようとしていた。

「輝……済まない。俺はお前を救ってやることが出来ないかも知れない……」

「コタよ、弱気になってはならぬ。輝はお主を信じ、必ずや待っておるはず。我も共に立ち向かう故、今一度、作戦を講じよう」

 俺を気遣う様に手を差し伸べてくれるクロの想いが嬉しかった。だが、だからこそ俺は悔しくて、悔しくて仕方が無かった。地面に爪を付きたてながら、ただ、俺は肩を小さく震わせることしか出来なかった。激しい怒りが体中を駆け巡り、さながら痙攣を起こしているかのような状態に陥っていた。

「クロ、俺はどうすれば良い? この行き場の無い怒り、どうにかしなければ、俺は、この手で俺自身を破壊してしまいそうだ……」

「我も同じ気持ちよ。どこまでもコケにされたこと……断じて許す訳にはゆかぬ。鞍馬山のカラス天狗の意地に掛けても、必ずや、あの情鬼を討ち取ろうぞ!」

 そうさ……。俺は一人では無い。クロと共に歩む道を決意した時から、俺達は何時だって二人三脚で歩むと決めたのだ。

「友とは全てを分かち合う物……そうであろう? 怒りも、哀しみも……全てを分かち合おうぞ」

 クロの言葉、心強かった。俺は静かに立ち上がり、力一杯、クロの手を握り締めた。

「ああ、そうだったな。立ち向かおう。俺とお前、二人で!」

 だが、これから一体どうすれば良い? これから何が起ころうとしているのだろうか? 改めて冷静になって考えた時、状況を把握しなければならないという事実に。何よりも輝が何処へ連れ去られたのかを探る必要があった。だが、何の取っ掛かりも無い以上、どうすることも出来ない。焦らずには居られなかった。だが、焦っても事態が変わることは無い。

「今の我らには、どうすることも出来ぬ。済まぬ、コタよ。我の力では泣き女郎の逃げた先を負うことが出来ぬ」

「お前が悪い訳では無いさ。ただ、奴は輝を連れ去って一体、何をするつもりなのだろうか?」

 俺の問い掛けにクロはしばし目を伏せ、考えを巡らせていた。静かに目を開いたクロは、微かな溜め息混じりに考えを語り始めた。

「憶測でしか無いが、輝は泣き女郎のことを酷く拒んでおった。加えて泣き女郎の言葉が気に掛った。輝の記憶を蘇らせる……そのようなことを口にしていた筈」

「馬鹿なことを……第一、前世の記憶など蘇ることがあるものなのか?」

「在り得ぬ話よの。だが、泣き女郎は狂気に駆られて居る。もはや、人としての心など微塵も残って居らぬであろう」

 蘇る筈の無い前世の記憶を必死で蘇らせようとは、何とも滑稽な話だ。傍から見ている分には、馬鹿げた話ではあるが……当の本人からしてみれば、さぞかし必死になっていることだろう。恐ろしいのは、その願いを果たすことが不可能だと気付いた瞬間、奴は輝を手に掛けようとするかも知れない。何を仕出かすか判ったものでは無い相手だ。

(ああ……尚のこと、一刻も早く足取りを負わねば、取り返しのつかないことになる)

「コタよ、輝を信じてやるのだ」

「輝を信じるだと?」

「うむ。信じられないことではあるが、輝は牛頭天王さえも動かし、泣き女郎の力を大きく削いだのは事実よ」

「それでも、あの強さか……」

「唐突に牛頭天王の真言を扱おうとした行動力と勇猛さ。その無謀過ぎるまでの振舞いは、泣き女郎の力を削ぐ程の威力を見せた。これ程までの力を見せられたとあらば、泣き女郎の精神は大きく掻き乱されたことであろう。情鬼は心だけが一人歩きした存在。故に、生身の人よりも遥かに精神の振幅が大きくなる。つまりは、輝が、さらに大きく、泣き女郎の心を掻き乱す様な行動を起こせば、泣き女郎はさらに我を見失うであろう。そうなれば、大きな隙が生じるやも知れぬ」

「なるほど……。先刻、虫の壁が突然崩落した様に、心が掻き乱されれば突破口も生じるかも知れない。そういうことか?」

「うむ。全ては輝の立ち振舞いに依存することになるが……我らには他に打つ手は無い」

 嫌な状況だった。ただ手を拱いて待ち侘びるしか無い。気の短い俺に取っては拷問以外の何者でも無かった。だが、他に突破口が見い出せない以上、輝に願いを託す他無いということか……。

「コタよ、輝を信じるのだ。我らには他に手段は無い」

「ああ、そうだな……。信じよう、輝を」

 不気味に澱み、渦を巻く空が果てしなく不安な気持ちを掻き立ててくれた。それにしても、泣き女郎……恐ろしい相手だ。力を奪われて、なお、あれ程の強さを見せるとは。だが、奇異な話だ。たった一人の情鬼が、これ程までに破壊的な力を手に出来るのだろうか? 何か俺達の窺い知らない事情がありそうな気がしてならなかった。黒幕の存在――やはり、何者かが泣き女郎を支援しているように思えてならない。その目的を窺い知ることは出来なかったが、少なからず、壮大なる悪意を感じる。いずれ対決することになるのだろう。その黒幕とも……。強く成らなければ。俺も、クロも、そうした凶悪な敵と戦うために。

「クロ、一旦退こう」

「うむ。来るべき時に備えて、我らも存分に体を休ませよう。体を休ませることも戦術の一つ。コタよ、困難かも知れぬが気持ちを切り替えるのだ」

「ああ、判っているさ。もう、ヘマをすることは出来ないからな」

 俺達は祇園さんを後にすることにした。もはや、この場所に居続けることに何の意味も無い。後に残された無数の虫達の死骸も、直に風に解けて往くだろう。呪いの残留思念を残すのは少々気が退けたが、今の俺達にはどうすることも出来ないのだから。家路へと続く道を、俺達は言葉を交わすことも無く、ただ、静かに歩き続けた。

◆◆◆78◆◆◆

 俺達の思惑とは裏腹に、事態は想像以上に深刻な状況に成り変わろうとしていた。敵の動向を窺うことで、今後の対策を講じようと考えた俺達を嘲笑うかの様に、泣き女郎は大々的な行動に出た。市内各所の学校で次々と無差別に起こる神隠し騒動……。もはや、見境無く少年達が次々と行方不明になっている。実に奇異な話だ。突然、友人の前から煙の様に消え失せてしまった少年達の目撃情報が後を絶たず、京都市内は大変な混乱状態に陥っていた。恐らく、その情景を遠くから見つめながら、泣き女郎はそっとほくそ笑んでいることだろう。全ては俺達の失態が原因だ。あの時、如何なる手段を講じてでも泣き女郎を逃がすべきでは無かったのだ。だが……今となっては、どうすることも出来ない。

 俺はクロに情報収集を頼み、学校へと向かうことにした。家に居た所で何ら情報は入って来ないだろう。クロの様に何らかの情報収集の手段を持つならば、いざ知らず、所詮、俺は一介の若造に過ぎない。それに、皆にも情報を伝えない訳にはいかなかった。そう考えると、やはり学校に行くのが最も妥当だと判断した。気を付けて学校に行けとクロは言っていたが、一体、どう気を付ければ良い物か? 泣き女郎は遠隔地から変幻自在に神隠しを起こしている。不意を突かれたならば、俺達に回避策は無い。まぁ、そうなった時はそうなった時だ。今度こそ、息の根を止めるまで殴り飛ばしてくれる。女相手に手を挙げるのは気が退けたが、あいつは普通の女では無い。所詮は情鬼に過ぎない。何ら気兼ねする必要など無いのだろう。

 教室へと入った所で、さっそく仲間達が駆け寄って来た。無理も無いだろう。昨晩の異様な情景、恐らくは皆の目にも留まったことだろう。

「なぁ、コタ。一体何が起こっているんだよ?」

「それに、輝の姿も見当たらない。まさか、輝の身に何かあったのか?」

 畳み掛ける様に問い掛ける仲間達に、俺は起こったことの全てを語って聞かせた。祇園さんで泣き女郎と戦ったこと。輝が連れ去られたこと。多発する神隠しを起こしている張本人もまた、泣き女郎であることを語って聞かせた。

「マジかよ……なぁ、コタ。オレ達に、何か出来ることはねぇのかよ?」

「残念だが、今は俺達に出来ることは何もない。相手が行動を起こすのを待つしかない」

「でもよ、そんな悠長なこと言ってられねぇぜ? このままじゃあテルテルの身に危険が及ぶんだろ?」

「……信じるしか無いのじゃ。テルテルは必ず戻ってくる。ワシらが信じてやらねば、誰がテルテルを支えられると言うのじゃ?」

「でもよう……」

「大地の言う通りだ。迂闊に体力を消耗する様な真似をするのは賢いとは思えない」

 力丸は納得がいかなそうに見えたが、大地や太助は輝のことを待つと言ってくれた。ああ、俺だって、今すぐにでも何とかしたいさ。だが、それは敵の術中に嵌ることを意味している。それでは敵の思い通りの展開になってしまうことだろう。持久戦になる以上、先に動いた方が負けだ。泣き女郎が迂闊に振舞う瞬間を見逃してはならない。輝のことだ……何か考えている筈だ。そう信じる他、道は残されていないのだから。

「む? 賢兄から電話だ。何か判ったことでもあったのだろうか?」

 太助の表情が険しくなる。やはり賢一さんの行動力と情報収集能力は桁が違う。俺達以外知らない筈の情報を既に察知しているとでも言うのか? やはり只者では無い。太助の電話に皆で思わず聞き耳を立ててしまう。何ともシュールな光景ではあったが、笑える様な状況では無い。少しでも関連する情報は知りたいところであった。

「おう、太助か? まぁ、すぐ近くに他の悪ガキ軍団も居る物と考えて話させて貰うぞ」

 こちらの状況まで手に取る様に理解しているとは、やはり、どこか身近な場所に「草」と呼ばれる面々が潜んでいるとしか思えなかった。まぁ、今はそんなことはどうでも良かった。わざわざこのタイミングで連絡を入れたのだ。何か、重大な事実でも掴んだに違いない。俺の中で期待感が膨れ上がってゆく。

「妙な情報を掴んでな。何でも、祇園さんで幽霊を見たって報告が各方面から寄せられていてな。それも、昨日の夜から突然、降って湧いたかの様に目撃情報が多発している。こりゃあ、何か可笑しなことが起きているんじゃねーかと思ってな。で、何か心当たりあるんだろ?」

 断定系で問い掛けて来るとは、既に確信しているような物だ。俺は静かに太助に目で頷いてみせた。

「ああ。賢兄の推測通り、昨日の晩、祇園さんで化け物と一戦交えたのは事実だ。恐らく、その幽霊という奴らは島原の地で呪い殺された連中だろう」

「ほう。なるほどねぇ。つまり、そいつらは敵の敵って訳だろ? まぁ、事の詰まり俺達の味方とも言える連中なんだろうな」

 どうも、賢一さんと話していると緊迫感のある状況なのにも関わらず、何とも言えない空気に変わってしまうから、毎度のことながら非常に不可思議である。太助の眉間に刻まれた、深い、深いシワが全てを物語っている様な気がする。皆も、何とも言えない表情を浮かべながら聞き耳を立てている。

「……なぁ、賢兄。毎度思うのだが、一体、どこからそんな詳細な情報を入手してくるのか? 当事者しか知らない様な話だというのに」

「まぁ、細かいことは気にすんな。それより、重要なのは俺の情報収集能力じゃなくて、一気に拡大化した神隠し事件についてじゃねぇのか? 輝ちゃん、神隠しに遭っちまったんだろ? 事の詰まり、敵の……いや、情鬼の手元に居るんだろ?」

 もはや言葉を失うしか無かった。何故、情鬼という言葉を知っているのだろうか? 一体、誰からその情報を入手したのか? 不思議に思っていると、電話越しに賢一さんが俺に語り掛けてきた。

「小太郎ちゃん、何で俺が『情鬼』っつー言葉なんざ知っているか、不思議に思っているんだろ? 簡単な話さ。俺と山科は今でもちょこちょこ呑みに行く関係でな。で、その山科は桃山っつー小奇麗な女教師から話を聞かされたらしいぜ。まぁ、その結果、巡り巡って俺の所にまで情報が流れ着いたってぇ訳だな」

 桃山が情報を流してくれたのか。まぁ、好都合と言えば好都合だ。少なくても、山科、桃山、亀岡の三者は俺達の協力者となってくれる教師達だ。知って置いて貰った方が何かと好都合だ。これは水面下で動き回ってくれた桃山に感謝だ。

「あちこちから山科が情報を収集してくれたお陰で、俺も事情を知ることが出来た訳だな。いずれにしても、祇園さんの一件を放って置く訳にはいかねぇだろ?」

「確かにそうだが、今は輝のことを優先するべきだ。輝の一件が片付けば、神隠し事件も終わりを告げる。祇園さんの幽霊騒動を何とかするのはそれからでも遅くは無いだろう?」

 少々苛立ち混じりの口調で、太助が電話口に語り掛ける様を見つめていた。太助の言い分はもっともな意見だ。だが、賢一さんのことだ。俺達とは全く異なった観点から切り込んでいるに違いない。

「おいおい、太助。お前も急がば回れって諺くらいは知っているだろ? 良いか? こういった厄介な事件を解決する時と、小奇麗なおねーさんをホテルに連れ込む時は、外堀から埋めて行くのが基本なんだよ。お判りー?」

 前言撤回……。一気に俺達の力が抜けたのは、賢一さんの仕業以外の何物でも無い。既に受話器を握り締める太助の肩が小さく震えている。眉間に刻まれたシワは保津峡駅を凌駕する程に深く、深く刻まれたことだろう。怒りに身を震わせる太助から、思わず俺達は一斉に離れた。

「賢兄……真面目に怒って良いか?」

「わははは。まぁ、まぁ、そんなにカリカリするなって。それじゃあ、真面目な話に戻すぞ? 神隠しが起こっている場所は京都市内の各所に渡っている。その前提で考えた時に……敵は一体どこに匿っているのか? お前達は何ら疑問に思わなかったのか?」

「そ、それは……何処に隠れているか判らないから神隠しなのだろう?」

 憮然とした口調で太助が返して見せれば、電話の向こうからは微かな溜息が聞こえてきた。

「あーあー、頭堅ぇなぁ。良いか? 男が堅くて良いのは信念とアソコだけで良いんだよ。それに、お前も若いんだから、もうちょっと柔軟に考えてみろよ」

 無言で肩を大きく震わせる太助に、俺達は何時でも逃げられる様に身構えることしか出来なかった。

(賢一さん……判っていて、そういう風に振る舞う辺りに、途方も無い悪意が感じられるのだが)

「よぅ、小太郎ちゃん。俺の話、シレっと聞き耳立てて聞いているだろ?」

(お、俺に振るか……?)

「小太郎ちゃんだったら、どう考えるさ? 既成の概念に捕らわれることなく考えてみてくれ」

 賢一さんの言葉をヒントに、俺は以前、輝が聞かせてくれた話を思い出していた。自称オカルトマニアだけあって、この手の知識に関しては、本当にマニアックな領域まで輝の知識は及んでいる。

 神隠しという現象は古くから伝承にも残されている。ある日突然行方不明になったきり、以後、消息不明になってしまうという怪奇現象であり、遭遇した者も少なく無い。だが、中には神隠しから戻ってきた奴らもいる。居なくなっていた時の記憶は往々にして消え失せているが、行方不明になっている間の目撃情報は無いに等しい。何故、目撃情報が無いのか? 輝に言わせれば、神隠しとは異なる世界へと運ばれてしまう現象のことを示すらしい。この世界には、幾つもの良く似た世界が並走しているらしい。俗に言うパラレルワールドという奴なのだろう。パラレルワールドに送り込まれた、あるいは、引き摺りこまれたとしたら目撃情報が無いのは当然のことだろう。

「そうか……異なる世界に連れ去られた。普通にやったら、異なる世界との接点なんか無いから、当然、見付け出すことも不可能な筈だ」

「お! さすがは小太郎ちゃん。俺もそう考えている。その情鬼ってぇ奴らは、時代を超えて現代に現れた奴なんだろう? 能面事件も、凍死事件も、どちらも古風な時代の連中が巻き起こしたものだ。だったら、並行世界を使っているとしても可笑しくは無いだろ?」

「突拍子も無い話だな……。仮にその通りだったとしても、何処に居るかは見当もつかないだろう?」

「果たしてそうだろうか? お前達が戦う情鬼は何処から訪れたのさ? 幽霊騒動になっている連中は何処から訪れたのさ? 共通点がある筈だと思うのだが?」

「そうだ。島原だ……」

 俺の言葉に皆が一斉に目線を向ける。

「ああ、そうさ。島原に居ると考えるのが妥当だ。ただし、俺達が生きている、この時代の島原では無い。情鬼、泣き女郎が築き上げた並行世界に居る筈だ。そうさ……泣き女郎は古き時代を生きた身。輝を追い求めていたのは親子として為し遂げることの出来なかった歴史を、再び歩みたいからに他ならない。例え贋作の世界だったとしても、それでも、泣き女郎は輝と共に歩みたいと願っている筈だ。見届けることの出来なかった未来を……」

 俺の言葉に賢一さんが可笑しそうに反応するのが聞こえてきた。

「俺と同じ回答に行き着いたな。ああ、恐らくそうなのだろう。この世界に自分達の居場所は無い。何しろ、奴が生きていた時代とは大きく様変わりしちまっているだろうからな。だから、奴は島原の街並みに寄り添う様にもう一つの島原の街並みを築き上げた筈だ。だが、俺達は招かれざる客……おいそれと乱入することは出来ない。だが、当時を生きていた連中ならば、もしかしたら、侵入することが出来るかも知れない。ましてや、奴に仕返ししてやりたい連中なのだろう? 尚更、役に立ってくれそうな気がすると俺は踏んだ訳だ」

 これからどうするべきかの策は固まった。賢一さんに感謝だ。俺達だけだったら、ただ頭を抱えて唸るだけだっただろう。だけど、こうして知恵を授けてくれたことは大きな意味を、価値を持つ。叶うかも知れない……。俺達が為し遂げようとしていることが。

「ちなみに、俺は今、祇園さんで待ち合わせをしているところだ」

「待ち合わせ? 誰とだ?」

「お前達の良く知る小奇麗な女教師と、そのお供の小汚いオッサン二人とだ」

 手際の良さに脱帽だ。まったく、掴み所の無い人だが、こういう場面では本当に頼りになる人だ。後で、何かお礼をしなくてはならなくなった。だが、桃山達も集まっているならば尚のこと好都合だ。その上、場所が祇園さんとくれば俺達の為すべき行動は一つだ。俺は急ぎ真言を調べることにした。そう……牛頭天王の力を貸して貰うとしよう。ただし、俺達だけの力では無い。クロ達、鞍馬山の天狗達の手を借りるとしよう。泣き女郎程の相手ならば、こちらも相応の武器を手にしなければ太刀打ちは難しい。それに……少々引っ掛かる部分がある。昨日の惨劇の最中を生き伸びた亡者がいるのだとすれば、もしかしたら、俺達に何か伝えたいことがあるのでは無いだろうか? 可笑しな表現ではあるが、敵の敵は味方となる筈。俺達に無念を晴らして欲しいと願っている奴らならば、間違い無く力になってくれることだろう。まぁ、こんなやり方、カラス天狗達が許容してくれるか定かでは無いが、助力を得られなかった場合は、俺達だけでも何とかするさ。輝、済まない……。もう少しだけ耐え忍んでくれ。

 俺達は急ぎ、祇園さんを目指すことにした。恐らく、クロにも俺達の動向は伝わっていることだろう。現地で落ち合えると信じて俺達は走り続けた。

◆◆◆79◆◆◆

 学校から祇園さんまでの距離は、決して短い物では無かった。だが、一刻も早く事態を解決しなければ取り返しがつかなくなる。その想いに駆られて俺達は祇園さんを目指してひたすら走り続けた。息を切らし、汗だくになりながら、それでもなお必死で走り続けた。もしかしたら、何の意味も為さない結果になるかも知れない。そんな不安な想いが脳裏を駆け巡ったが、それでもなお走り続けた。必ず事態は解決する。根拠の無い自信に突き動かされていたのかも知れない。今思えば、随分と曖昧な「希望」に賭けたものだ。

「はぁっ、はぁっ、やべぇ……そろそろ、三途の川が見えて来そうだぜ……」

「ううっ、こ、こんなに過酷だとは、思いもしなかったのじゃ……」

 学校を経ち、全力で走り続けて十数分。俺達は息も絶え絶えになりながらも、誰一人脱落することなく、無事に祇園さんに辿り着いた。

「お! 悪ガキ達が雁首そろえて参上ってか? わはは。汗だくだな、お前ら。おーおー、青春真っ最中の青少年って感じで中々悪くねぇ絵だな」

 憮然とした表情は見せたものの、流石に息が切れ掛かっている太助は無言の圧力を放つに留まっている様に見えた。

「おやおや、皆さんお揃いで。そんなに急いで走って来なくても、バスなり、タクシーなり使えばよろしかったでしょうに」

「あっ!」

 どうやら俺達は脳味噌まで筋肉で出来ているらしい……。そうさ。何も気合いと根性を糧に全力疾走する必要も無かったのだ。学校の周辺から祇園さん方面に至るバスは、何系統も存在している。対して待つことなく、なおかつ、走り抜けるよりも早々と到着できたに違いない。あるいは、タクシーを使ったにしても、この頭数で割れば一人当たりの出費などは微々たるものだった筈。ああ……既に俺達は敗北しているような気がしてならなかった。こんな小さなことにさえ気付かない程に追い詰められている。泣き女郎がほくそ笑む様子が思い浮かび、殊更に腹が立った気がした。

「なんだ、なんだ、貴様ら日頃の修練が足らんのでは無いのか? 取り敢えず、桃山先生が飲み物を購入してきて下さった。ほら、温くなっちまう前に頂いておけ」

 桃山の心遣いに感謝だ。だが……ようやく落ち着いてきた所で気付いたが、明らかに、異様な気配が漂っていた。この世にあって、この世ならざる雰囲気。それは昨日、この地を訪れた際に肌で感じた感覚となんら変わりは無かった。不意に、俺の背後に人の気配を感じた。振り返ろうとする俺を静かに制する声に、俺は心強い助っ人の参戦を感じていた。

「案ずるな。皆には我の姿が見えやせぬ。我の声もコタよ、お主にしか聞こえぬ故、我に語り掛ける際には小声で呟くが良い」

「ああ、お前が来てくれて実に心強い」

「うむ。それにしても……あの賢一という男、中々に鋭い男であるな。我らがようやく手繰り寄せた正答を、自らの足にて完結させおった。見事なものよ」

「賢一さんの人脈は半端なものでは無いからな。何でも各地に『草』と呼ばれる諜報員を解き放っているらしい」

「く、草とな? むう……あの男は何時の時代の生まれであるか? さながら伝説に謡われし忍者の世界ではあるまいか」

 俺達と同じ様な反応を示すクロに、思わず笑いが毀れそうになったが、慌てて表情を引き締めた。この場で一人にやにやしているのは、余りにも浮き過ぎている気がしてならなかったし、何よりも不謹慎だろう。

「昨日の攻防戦の最中に、何とか逃げ伸びた者達がおる。どうやら、我らに何かを伝えようとしている様子。生前、泣き女郎と何らかの関わりがあった者達やも知れぬ。だとすれば、貴重な情報が得られよう」

「ああ、是非ともそんな有難い奴らとは、一刻も早くお会いしたいものだ」

 そんな俺の考えを見抜いているのか、賢一さんが不敵な笑みを浮かべながら俺を見つめていた。何だか、賢一さんにはクロの姿さえも見抜かれていそうな気がして、落ち付かなかった。

「それじゃあ、全員揃った所で中に入るとしようか。どうも、さっきから妙な気配を感じて仕方がない。何が出ても、皆、驚かない様にしてくれよな?」

 颯爽と皆を先導するかの様に歩き出す賢一さんに俺達も続いた。こうして俺達以外の誰かに仕切って貰うのは何とも新鮮な感覚であった。もっとも、先導しているのが賢一さんだったからこそ、皆、黙って従ったことだろう。そうでなければ自己主張の強い俺達が、そうそう容易く従う訳も無かった。

 祇園さんの境内に入った瞬間から、明らかに空気が変わった様に思えた。どう変化したかと問われても、上手く説明することが出来そうには無いが、ただ、明らかに空気が変わったのは事実であった。妙に湿気を孕んだヒンヤリとした感覚は、鍾乳洞などの様な場所に足を踏み入れた感覚に良く似ていた。

「何か、雰囲気がガラリと変わったわね。人ならざる者達とのご対面なのかしら?」

「例えどのようなお相手であったとしても、私達に協力して下さるのはありがたいことです。いずれにしても、感謝の気持ちを忘れない様にしないといけませんね」

「ええ。ここの所の奇妙な事件に関わっているとされる情鬼達。そいつらと戦うためにも、是非とも情報は欲しい所です。協力者には相応の礼を振る舞わねばなりませんな」

 こういう場面でも物怖じしない辺り、やはり、桃山は頼もしい存在だ。女にして置くのが惜しい程に肝っ玉が座っていることだ。山科にしても、亀岡にしても、俺達の予想通り、柔軟に受け入れてくれているのが嬉しく思えた。同志の数は多ければ、多い程に心強い。実に頼もしいことだ。こうして多くの仲間達と共に戦えることを俺は光栄に思う。

「そろそろ本殿に到着するな。それにしても……異様な冷気だな」

「おい! 皆、見ろよ! 誰か人が立っているぜ!」

 力丸の指さす先、そこには一人の女が佇んでいた。俺達の存在に気付いたのか、静かに、深々と礼をしてみせた。

「……お待ちしておりました」

「ふぅーん」

 礼儀正しい振舞いを見せる女とは裏腹に、賢一さんはあからさまに挑発するような態度で歩み寄って見せた。にやにやと品定めする様な眼差しを投げ掛けていたが、一体、何を企んでいるのだろうか?

「無礼を承知で問うぞ? あんた、早い話、生きている人じゃ無いな?」

 本当に無礼な問い掛けだった……。何もそこまで直球な問い掛け方をしなくても良かったのでは無かろうか? 思わず硬直する俺達を後目に、あくまでも飄々とした態度を崩すことなく賢一さんは続けて見せる。

「まぁ、あんたが何処の誰かなんて無駄な詮索をするつもりは無い。あんたは俺達の協力者だ。丁重に礼を為すつもりはあっても、無粋な真似をするつもりは毛頭無い。少なくても、俺達はあんたの協力者だ。どうか無知なる俺達に知恵を授けてくれ」

「……判りました。私は名も無き一人の芸妓に御座います。あなた方が追い求めている『泣き女郎』こと、美月さんの古き友に御座います」

 美月……それが情鬼、泣き女郎が人であった時代の名前か。前世の輝の母にして、現世の輝の仇敵と化してしまった人物。なるほど。かつての友人として、情鬼に成り果ててしまった友へのせめてもの慈悲を俺達に授けてくれようとしているのか。安心しろ。お前の想い、俺達が必ず叶えて見せる。

「少々長くなりますが、皆様に美月さんの歩んできた道をお話しましょう……」

 女は静かに語り始めた。泣き女郎……否、美月の歩んできた物語を。

 地方より京の都に訪れた美月は、芸妓になることを夢見て上京した。幼き頃から美しい姿を磨き続けてきた美月は、同時に芸の道も究めんとしていた。そんな彼女だったからこそ、新参者ながらも一気に頭角を現した。そんな中、美月は、ある裕福な若旦那の目に留まる様になり、やがて、恋が始まった。二人は直に生涯を共にすることを誓い合い、程なくして輝が生まれた。だが、時の流れは残酷なものだった。島原を襲った流行り病を患うに至った若旦那は呆気なくこの世を去った。残された美月に残されたのは周囲の女達からの嫉妬だけだった。何時の時代にも不届きな輩はいるもので、美月は、あろうことか、病を流行らせた張本人であるとされてしまった。人は残酷な生き物だ。不安な状況に陥った時、安寧を得るために、存在する筈の無い罪人を自らの手で作り上げる。そうして、皆ででっちあげた罪人を責め立てる。自分は一人では無いという安心感と、悪を討ち取るという正義感。暴走した正義というのは、何時の時代に於いても、目を覆いたくなる程に醜悪なる顛末にしか至らないのが常か……。挙句の果てには、たった一人残された輝も父と同じく病に侵され、余命幾ばくも無かったにも関わらず、毒殺されることになろうとは……。女は語った。輝に毒を飲ませたのは自分なのだと……。

 俺達には、この女を責めることは出来なかった。この女も、言うなれば、時代に翻弄された被害者に過ぎない。嫌な話だ……。誰も悪く無いとも言えるし、皆が皆、罪人だったと断罪することも出来るだろう。

「恐ろしいものだな。荒れ狂った人の心と言う物は。何時の時代も、真の悪党は、やはり人……史実は如実に現実を叩き付けてくれるものだ」

 感慨深そうに冷笑を浮かべる太助の表情に薄ら寒いものを覚えたが、太助もまた、そうした荒波の中を生きてきた身だ。

「確かに同情する話だと思うぜ? でもよ、だからと言ってテルテルを連れ去って、無理矢理、果たせなかった無念を晴らそうとするなんて、絶対に間違っているぜ!」

「そうなのじゃ。何としても、テルテルを取り戻すのじゃ!」

 俺達の想いなど、最初から見抜いていたのであろう。女は静かに目を伏せると、哀しげな表情で俺達を見据えてみせた。

「どうか……美月さんを楽にしてあげてください。もはや、あの人には、微塵の心も残っておりませぬ。これも、全ては強大なる呪いに手を染めた代償なのでしょう。あの人はただ、意思も無く輝ちゃんを追い求めるだけの、ただの亡骸と化してしまった身。今も恐らく、前世の輝ちゃんの記憶を取り戻すために罪も無い子供達を連れ去っていることでしょう」

「ちょっと待て。今、お前が口にした言葉の真意、詳しく聞かせて貰おうか?」

 聞き捨てならない一言だった。前世の記憶を取り戻させるために、何故、何ら関係の無い奴らを無作為にかき集めているのか? その目的は知る必要がある情報に思えた。

「……ええ、無関係の子供達をかき集めることで、輝ちゃんの心を掻き乱そうとしているのでしょう。輝ちゃんのために、こんなにも数多くの子供達が犠牲になっている。だから、一刻も早く、前世の記憶を取り戻せ。さもなければ、さらなる犠牲が増えると、脅しを掛けるつもりなのでしょう」

「おーおー。壮大なまでに馬鹿なことを考えつくものだねぇ。そんなことをしたところで、前世の記憶が蘇る訳が無い。あの女は輪廻転生の理さえも否定するつもりか? それとも、輝ちゃんの心をぶっ壊して、無理矢理にでも、前世の記憶を植え付けるつもりか?」

「恐らく……後者の流れを期待しているのでしょう。賢一様の仰る通り、人の魂が再び現世に現れる時には、前世の記憶が失われていることが殆ど。極めて稀に、前世の記憶が残存している方も居られますが、その数は極めて少数でしょう」

 早い話、もはや人としての感情すら持たない、ただの抜け殻が一人歩きして、ついでに暴走しているのがあの情鬼の真実だと言うのか。全く以って迷惑千万な存在だ。だが、痛みを感じる心さえ無いのならば微塵の慈悲も必要無いということか。思う存分戦うことが出来そうだ。だが、問題はどうやって、奴を白日の下に引き摺り出すかだ。姿を捉える事すら出来ない以上、俺達にはどうすることも出来ない。

「小太郎様、此処、八坂神社を選んだのは理由が御座います」

「理由だと?」

「はい。この地は牛頭天王を祀った場所。しかも、牛頭天王は、確かに、輝ちゃんの声に応じてくださいました。その上、この地には牛頭天王を信仰する人々の想いが集って居ります。中には、私達の様に救いを求め彷徨う魂達も居ることでしょう」

 一体、何を言わんとしているのか、俺には良く判らなかった。だが、女は尚も表情を崩すことなく話を続けて見せた。

「私達はもはや往き場を失った憐れな迷い子に過ぎませぬ。このまま時が過ぎ去った所で、天に召されることも無き身……。それならば、せめて、美月さんの想いへと繋がる道になりましょう」

「道になるだと?」

「はい。どうぞ、牛頭天王のご真言にて私達を人柱にしてください。もはや、これ以上、在り続ける意味など私達には御座いませぬ。精々地獄に参りて、犯した罪を償うだけに御座ります」

 俺の傍らにて腕組みしたまま、事態を静観していたクロであったが、その言葉に鋭く反応した。

「お主、それがどのような事か判っていて口にして居るのか?」

「はい……。それが、せめてもの美月さんへの償いに御座ります」

「良かろう。丁度、我らが同胞もこの地に集ったところだ。だが、牛頭天王の真言を為すということは……想像を絶する苦しみを、幾百、幾千もの時を掛けて、その身に刻むことになるが、本当に後悔は無いのだな?」

「はい……。どうぞ、カラス天狗様、私達を牛頭天王への供物としてください」

「うむ、了解した。コタよ、我らと共に真言を唱えるのだ。その際、くれぐれも意識を持って行かれぬよう注意するのだ」

「意識を持っていかれるだと?」

「うむ。この者達の魂を牛頭天王への供物として捧げる。その見返りに泣き女郎の下への突破口を築き上げる」

 恐ろしい策を軽々と口にしてくれるものだ。一瞬、動揺させられたが、背に腹は代えられない。これも輝を救出するための手段だ。割り切って受け止めるしかない。

「好都合なことに牛頭天王は輝の声に応じた。元来、在り得ぬことではあるが、策としては使える。だが、聞いての通り、酷く荒っぽく、乱暴な儀と相成ることであろう。故に、皆の心を一つにするのだ。良いな?」

「ああ、任せておけ」

 クロの言葉を皆にも伝えた。無論、クロの存在は伏せたままではあったが、為そうとしていることの意味は理解して貰えた筈だ。後は皆で全身全霊の力を糧に、牛頭天王の慈悲を請うこととなる。何しろ相手は途方も無い暴れん坊だ。生半可な覚悟で挑めば俺達も巻き添えに遭うだろう。だが同時に、牛頭天王は義理堅い存在でもある。必死の祈りには必ずや応えてくれることであろう。

「それでは皆、始めるぞ!」

 俺の掛け声と共に、皆、一斉に牛頭天王の真言を唱え始めた。どうか、この想い……輝に届いてくれ。切なる願いを胸に、俺達は皆で心を一つにし、ひたすらに絶唱し続けた。ただただ、何もかもを忘れて絶唱し続けた。大丈夫だ。祈りは必ず届く!

◆◆◆80◆◆◆

 此処は何処なのだろう? 何処かで見覚えのある光景が目の前には広がっている。ぼくは静かに周囲を見回した。考えるまでも無く、今自分が居る場所が何処であるかに気付かされた。

(そうか……この情景、見覚えがあると思ったけれど、島原の街並みだ。それも古き時代の)

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 どこからか歌声が聞こえて来る。言葉に出来ない憂いを孕んだ歌声を、耳に入る歌声に静かに聞き入りながら、ぼくは再び周囲を見回してみた。

(どうしてだろう? 何か、妙な違和感を覚える……)

 寂莫とした光景が広がっていた。何処までも広がる透き通った青空。雲ひとつ無い空模様だった。静まり返った街並みは、長い年月を雨風に晒された様相を呈していた。まるで廃墟の様に思えた。だからこそ、透き通った青空に途方も無い違和感を覚えた。一陣の風が島原の街並みを駆け抜ける。応える者は誰もいない。そう……誰も居ないハズだった。だからこそ、ぼくは大きな違和感を覚えた。

(人の気配がする……それも一人や二人じゃ無い。一体どうなっているのだろう?)

 ぼくは周囲に警戒を払いながら、街並みを歩いてみることにした。確かな違和感の正体は、多分、すぐ近くにある様に感じられた。

「え……? えぇっ!?」

 目を疑う様な情景がそこには広がっていた。打ち捨てられた家々の残骸……そこに居る筈も無い少年達の姿が視界に飛び込んできた。ただ、彼らは普通では無かった。どの少年達も大きな蜘蛛の巣に捕らわれていた。ぼくの姿に気付いた少年達が、必死で救助の叫びを挙げる。

「あぁっ、どうか、どうか! ぼく達を助けて!」

「た、助けてって、そんなことを言われても……」

「お願い! 見捨てないで!」

 一体どうすれば良いのか迷った。少なくても、普通の蜘蛛の巣じゃ無い。ましてや素手で触れることは多大なる危険を伴うことになるだろう。せめて、何か棒の様な物でもあれば救い出すことも叶っただろうに……。ぼくは無力さに激しい怒りを覚え、ただ、肩を震わせることしか出来なかった。

「ごめん……。今のぼくには君達を救い出すだけの力は無いんだ……」

「えぇっ!? 見殺しにするつもり!?」

「待ってよ! 行かないでよ!」

 ぼくは耳を塞ぎ、目を閉じ、必死でその場から走り去った。どうすることも出来ない自分の無力さを呪い、ぼくの為に巻き込まれてしまった少年達に必死で詫びていた。そう、今目にした少年達は明らかに幼い少年達だった。小学生位の男の子達だった。ぼくには、美月が何を考え、何を願っているのか、さっぱり判らなくなっていた。ただ一つだけ判ること……美月に対する、途方も無い殺意だけは偽りでは無かった。

「一体、あなたは何を望んでいるのさ……無関係な子達まで巻き込んで、そこまでして身勝手な想いを叶えたいとでも言うの?」

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 ぼくの声に呼応するかの様に、風に乗って聞こえて来る美月の歌声。この荒涼とした、殺伐とした情景とは、あまりにも混ざり合うことの無い、穏やかな歌声だった。だからこそ、ぼくの怒りはさらに大きく掻き立てられた。

「人を馬鹿にした態度! 一体、あなたは何様のつもりなんだ!?」

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

「応えろーーっ!」

 不意に訪れる完全なる静寂。その静まり返った景色が、途方も無く恐ろしくて仕方無かった。先刻まで微かに聞こえていた少年達の鳴き声も、呻き声も、救いを求める声も、一切の音が消え去った。

「あ……ああ……」

 駄目だ、駄目だ。負けてはならない。この空気に呑まれたら、ぼくは……ぼくは!

「うわあああああーーーーーっ!」

 恐怖に耐え兼ねて、ぼくはありったけの叫び声を挙げた。だが、一瞬だけ響き渡ったぼくの声も、すぐに虚しく、風に消されてゆく。

 空には雲ひとつ無かった。どこまでも透き通る青空。吹き抜けて往く穏やかな風。夏の暑さではあったけれど蝉の声は聞こえなかった。ただ、空虚なまでに静まり返った街並みだった。聞こえて来るのは、捕らわれの身となった子供達の嗚咽する声ばかりだった。この透き通るような青空が、余計に薄ら寒く感じられた。此処には何もない。多分、これこそが美月の心なのだと感じた。あらゆる物を失ってしまった成れの果てとなった姿なのだろう。

(皆、ぼくは……ぼくはどうすれば良いのかな? このまま、美月と一緒に暮らすことで事態は解決するのかな? ぼく一人が犠牲になれば、罪も無い少年達は解放されるのかな?)

「本当にそう思うの?」

「え?」

 ぼくは自分の目を疑った。不意に声を掛けられて、驚きついでに振り返った視線の先……そこには、もう一人のぼくが佇んでいた。

「ぼ、ぼくが……もう一人?」

「相変わらず、君はウソ付きだ」

「ぼ、ぼくがウソ付きだって?」

「ああ、そうさ。君は本当は自分だけでも助かりたいと思っているのでしょう? 見ず知らずの少年達が何人犠牲になろうが知ったことじゃない」

「違う……違う、そんな訳……」

「違わないさ。一刻も早く此処を抜け出して、また皆と共に過ごしたい。そう考えているのでしょう?」

「違う! そんな訳無い! 何の関係も無いのに巻き込まれた子達を見捨てて……」

「巻き込まれた子達を見捨てて、自分だけでも助かればそれで良い。そうでしょう?」

「違う……違う……」

「違わないさ。これは事故だ。不幸な事故だ。ぼくは何には何の関係も無い。この子達はただ単に運が悪かっただけなんだ……」

「違う! ああっ、黙れ! このウソ付きが!」

「黙らないよ。だって、ぼくは君の本心だからね」

「まだ言うか!? お前はぼくじゃない! この偽者め! 殺してやる!」

 ぼくは、もう一人のぼくを突き飛ばすと、そのまま馬乗りになった。そのまま力一杯首を締め上げた。でも、もう一人のぼくは、全く動じた様子も無く、ただ、不気味な薄ら笑いを浮かべるばかりだった。

「ぼくだって理不尽な呪いで苦しい想いをしているんだ。少し位、手を抜いたって良いじゃないか? もう十分に苦しんだんだ。世の中は平等じゃなくちゃいけない。ぼくの苦しみ、今度は君達にも分かち合って貰うよ。それに、これはぼくがやったことじゃない。ぼくは可哀想な被害者だ」

「未だ言うか!?」

「大体、子供達が何人か居なくなったって、どうせ、また作れば良いだけじゃない? ぼくは痛くも痒くも無い。どうぞ、遠慮無く殺しちゃってください」

「黙れと言っている! 本気で殺すよ!」

「不幸は平等に降り注ぐべきなんだ。ぼくだけが悪いんじゃない。そうさ、君達だって悪さをしたハズだ」

「ああ……黙れ……黙れと言っているのに……」

「だから、ぼくの身代わりになって死んでよ。もう、十分生きたでしょ? どうせ、君達なんか、生きていたって何の価値も無い無駄な存在に過ぎないんだ。自殺を試みたことすらない、甘ちゃん達なんでしょう? 温室でぬくぬく育っただけの、無能で、役立たずで、皆同じ顔をしているだけの存在だ。『学校』という『生産工場』で、まるで金太郎飴の様に、同じ価値観、同じ個性、同じ生き方で創り出されただけの、ただの『人形』に過ぎないんだ。代わりなんか幾らでもいる。だって、また『創れ』ば良いのだからね」

「お願いだよ……もう、止めてよ……」

 もう、何も言い返すことが出来なかった。全部、真実だ。ぼくはこの状況でも綺麗事を口にしようとしているだけの偽善者に過ぎない。

「ああ、そうさ。君の言う通りだ……。ぼく意外の子達がどうなろうが、そんなこと、知ったことじゃないさ。運が悪かっただけなんだ。たまたま選ばれちゃっただけなんだ。それに、ぼくがやった訳じゃ無い。神隠しに誘ったのは美月だ。ぼくは非力で、無力で、戦う力も無いんだ。それなのに、どうしてぼくが、見ず知らずの君達のために危険を冒さなければ成らないの? ぼくは……自分の身が守れれば、それで良いって思っているさ……」

 気が付くと、ぼくは泣いていた。もう一人のぼくの頬に、次々とぼくの涙が零れ落ちて往く。もう一人のぼくは、涙でぐしゃぐしゃになったぼくを見上げながら、静かに微笑んで見せた。

「ウソ付きはぼくも一緒だよ、兄ちゃん?」

「え……? 兄……ちゃん? き、君はもしかして……!」

「そうだよ。ぼくは輝兄ちゃんの弟、暁だよ。良く似ているのは当然さ。だって、ぼく達は兄弟だからね」

「そ、そんな馬鹿な……」

 静かに起き上がると、暁はそっとぼくを抱き締めてくれた。

「えへへ。会いたかったよ、兄ちゃん」

 不思議な感覚だった。自分自身と抱き合っている様な情景が、何とも不思議に思えて仕方が無かった。

「ずっとね、ずっと会いたいと願っていたよ。こんな形でしか会えないのが、悔しいけど」

「嘘みたいだよ……。だって、ぼくと瓜二つじゃないか?」

「それはそうだよ。だって、ぼくは兄ちゃんの弟だもの」

 不思議な感覚だった。まさか、こんなにも自分と良く似た姿をしているとは思わなかった。もしかすると、これは、ただの幻なのかも知れない。あるいは……そうか。そういうことか。

「うん、その通り。ぼくは生まれる前に死んでしまった身。だから、兄ちゃんの姿を真似ているだけ。つまり、ぼくもウソ付きってことになるね」

「で、でも……どうして、ぼくの前に姿を現したの?」

「兄ちゃんとお話したかったからだよ」

 そうか。生まれて来ることも無く死んでしまった身なのを考えれば、ぼくに会ってみたい。お話してみたい。そう願うのは可笑しなことでは無いと思う。本当だったら……ぼく達は兄弟として過ごしていたのかも知れないのだから。ああ、そうさ。ロックと大樹君は本当に仲の良い兄弟で、時々、凄く羨ましく思ったりしていたさ。暁が無事に生まれていたら、ぼくも辛い想いをしないで済んだかも知れない。一緒に出掛けたり、服を見に行ったり、美味しい物食べに行ったり……。本物の弟が

 いたら、どんなに幸せだっただろうか。何時だって考えていたさ。

「えへへ。こうして兄ちゃんに会えるなんて、嬉しいなぁ」

 暁は可笑しそうに笑いながら、ぼくに抱き付いて見せた。本当に不思議な感覚だった。何から、何まで、自分と同じ姿をしている暁と向き合っている。

「リキにアドバイス貰った、お気に入りの赤毛の髪……。こんな風に見えるんだね」

「うん。良く似合っていると思うよ」

 何だか、このまま時の流れを止めて仕舞いたい衝動に駆られた。暁と……もっと、もっと、色んなことを話してみたかった。十数年分の時を埋めるべく、夜通しでもお話したかった。でも……。

「ねぇ、兄ちゃん。ぼくが兄ちゃんを助けてあげる。だから、ぼくのお願い聞いてくれる?」

「お願いだって?」

「そう。無事に帰ることが出来たら、ぼくに会いに来て欲しいんだ」

「暁に……会いに行くだって?」

「そう。簡単なことだよ。ぼくが眠っている場所に来て欲しい。兄ちゃん一人で。だって……他の人が一緒だったら、ぼく、嫉妬しちゃって、その人のこと、殺しちゃうかも知れないからさ」

 にこにこ笑いながら、恐ろしい言葉をさらりと口にする辺り、やはり兄弟なのだろう。嫌な一面まで、ぼくとそっくりだ。所詮ぼくはウソ付きだ。目の前にいる暁と名乗った存在も、本当はウソなのかも知れない。極限状態に追い込まれたぼくが勝手に作り出した幻なのかも知れない。でも……ウソから真が生まれることもあるハズだ。信じてみよう。賭けてみよう。ぼくの弟の言葉に。

「約束するよ。暁……君に会いに行くよ。ぼく一人で」

「そっか。えへへ。嬉しいな」

 可笑しそうに笑いながら、暁は再びぼくに抱き付いて見せた。抱き付きついでに、耳元でそっと囁いて見せた。まるで内緒話をするかの様に。

「あのね、美月にはもう、心は残っていないんだよ」

「え?」

「今のぼくと一緒。アレは美月の姿形だけを真似た、ただの亡骸。本当はからっぽなんだ」

「か、からっぽだって?」

「そう。あの人も途方も無いウソ付きなんだよ。壮大なウソに色んな人達を巻き込んでいる。ただ、あまりにもウソを演じ続けたために、その姿が実体化してしまった。それが今のあの人の姿なんだよ」

 驚くべき話だった。演じ続けていれば、いつの間にか、ウソはウソでは無くなってしまう。太助が言っていたことが現実の物になろうとは思いも寄らなかった。だとしたら、あいつは美月では無いということなのだろうか?

「それも違うんだ。判り易く言えば、彼女は美月が見ている『夢』に過ぎないんだ。夢は覚めるものだよね。ましてや、それが悪夢ならば、一刻も早く夢から覚めたいと願っているハズだよ。だから……兄ちゃん、あの人を救ってあげて」

「救ってあげるだって!? 傍若無人の限りを就くし、多くの人々を傷付けたあいつを救うだって!? 有り得ない話だよ。打ち滅ぼしこそすれど、救ってやる義理など無い!」

 怒りに打ち震えるぼくとは裏腹に、暁は相変わらず冷静な素振りを崩すことは無かった。そっと、ぼくに顔を近付けると、今にも、口付け出来そうな距離まで顔を近付けると、可笑しそうに笑って見せた。

「理不尽だと思うでしょ? でも、他に方法は無いんだよ。ねぇ、兄ちゃん。情鬼という存在は人の心から生まれるものなんだよ」

「うん。それはコタから聞いたから知っているよ」

「例えばのお話だけど、もしも、兄ちゃんが山の中で迷子になっちゃって、食べる物も、飲む物も、何にも無くなっちゃったとする。そのまま、死んじゃったとするよ?」

「う、うん……」

 一体、何の話をしようとしているのだろう? 話の意図が読めずに怪訝そうな表情を浮かべて見せたけれど、暁は表情一つ変えること無く、楽しそうに話し続けて見せた。

「はい。ここで小太郎兄ちゃんが、輝兄ちゃんをお弔いに来てくれたとして、輝兄ちゃんは何を捧げて貰えるのが嬉しいと思う?」

「え? そりゃあ、腹ペコで、喉カラカラで死んじゃったから、食べ物とか、飲み物が欲しいと思うかな?」

「うん。そうでしょう? そういうことなんだよ」

「ううーん、ごめんね。暁が言いたいこと、良く判らないよ」

「情鬼は肉体を持たない精神だけの存在なんだ。無念が晴らされれば、哀しみに満ちた心が満たされれば……情鬼は消滅する。腹ペコで、喉カラカラの兄ちゃんは食べ物や飲み物で無念が晴らされる。美月も同じなんだよ」

「な、なんだって!?」

「えへへ。兄ちゃん、驚いた顔も可愛いんだね」

「な、何の話だよ……」

「ぼく、兄ちゃんのこと好きだよ? ずっと、傍で見ていたんだ。泣いた顔も、笑った顔も、全部ひっくるめて、ぼく、兄ちゃんのことが好きだよ?」

 思わず真っ赤になるぼくを見つめながら、相変わらず飄々とした態度で話し続けてみせた。

「えへへ。兄ちゃんのこと……これ位、好きなんだ」

「わっ!」

 暁は可笑しそうに笑って見せると、次の瞬間、唐突にぼくのくちびるに自らのくちびるを重ね合わせて見せた。そのまま舌を絡まされて、ぼくは思わず興奮してしまった。興奮と、驚きとで、慌てて暁を引き離した。

「な、何するんだよ!?」

「嫌……だった?」

「い、嫌とか……そういうのじゃ無くて……」

 何だか判ってしまった気がする。ぼくは、ぼくのことが好きなんだ。それも……そういう意味で。だからこそ、何だかお預けを喰らった様な気分で、物足りなさを否定することは出来なかった。本当は、このまま……道を踏み外してしまいたかった。このまま暁と、もっと戯れたかった。でも、それは今、為すべきことでは無い。今、ぼくが為すべきことは、此処から生きて戻ること。ああ、そうさ。結局、ぼくは快楽のためだけに行動をしている。ぼくの行動原理の原点は快楽にある。その事実を否定することは出来なかった。でも……もう、否定はしない。そういう「変態」な自分が、本当のぼく自身なのだから……。

 鏡に映った自分の姿に欲情するのも、射精した後に自分の精液を舐めるのが好きなのも、本当は、兄弟である暁のことを愛していたからなのかも知れない。結局、出会うことの出来なかった弟のこと……ぼくは追い求めていたのかも知れない。ぼくの性癖は、多分、桃山先生と同じだったのだと思う。相手が男だからとか女だからとかじゃない。兄弟という存在に欲情し、興奮するのだと気付かされた……。だからこそ、ロックに想いを抱くことが出来たのだろう。だからこそ、コタと添い遂げたいと願ったのだろう。あーあ。何だか全部、判っちゃったよ。恥ずかしいなぁ……。でも、ぼくは、もっと、もっと、ぼく自身のことを知りたい。だから、何としても此処から抜け出す!

「さぁ、兄ちゃん。此処からは兄ちゃんの役者魂で演じ切るんだ」

「演じ切るだって?」

「そう。前世の輝を演じ切るんだ。美月の心に寄り添い、美月の想いを受け入れ、そして、満たしてあげる。そうすれば、カラス天狗の手を借りなくても情鬼を消し去ることが出来る」

「ほ、本当!?」

「まぁ、ぼくはウソ付きだからね。信じる、信じないは兄ちゃんの自由さ」

「……信じるよ。君はぼくの弟だ。兄であるぼくにウソを付く訳が無い。何よりも君はぼくを愛している。そうだろう? だから、ぼくは君を信じているからね」

 自信に満ちた笑みで応えてやれば、暁は初めて驚いた様な表情を見せた。目を大きく見開き、一瞬、戸惑った様な表情を見せたが、再びぼくに抱き付いて見せた。

「ありがとう、兄ちゃん……。ぼくを受け入れてくれるんだね」

「うん。だって、君はぼくの弟だからね。無事に戻れたら……必ず会いに行くから」

「牛頭天王が手を貸してくれたお陰で、美月にはもう殆ど力は残っていない。今なら、辛うじて残された……人だった時代の『心』にも触れられるかも知れない。でも、同時に、時間も殆ど残されていない。僅かな時間だけど、上手く、救ってあげてね」

「判ったよ。ぼくが……必ず救ってみせるから」

「うん。兄ちゃん、ぼく、兄ちゃんが会いに来てくれるの、楽しみに待っているからね」

 ああ、受け入れるさ。ぼくはぼく自身の全てを。不意にぼくの腕の中から、何かが浮かび上がる様な感覚を覚えた。気が付いた時には暁の姿は何処にも見えなくなっていた。でも、ぼくは君の存在を疑わない。腕の中に残る体温は、確かに君の物だ。約束を果たすためにも、必ず帰るさ。

「……美月、本当の意味での戦いの始まりだよ。怒りも、憎しみも捨てよう。代わりにあなたの歩んできた道を……精一杯、慈しむとしよう。納得いかないけれど、それで、事態が解決するならば、ぼくはウソを演じて見せるから」

 さぁ、舞台の開幕だ。舞台の壇上でぼくは演じ切ろう。そして、無事に幕を下ろさせてあげるよ。哀しみに満ちた、美月、あなたの物語に相応しい幕引きを執り成そう。永きに渡る舞台の千秋楽だ。それじゃあ、始めようか。

◆◆◆81◆◆◆

 必死でぼくに助けを求める少年達の悲痛な叫びを背に受け止めながら、ぼくは静かに空を仰いだ。この荒涼とした街並みとは対照的な空は、むしろ皮肉ささえ感じる程に透き通って見えた。空が透き通っているからこそ、余計に、街並みの寂しさが伝わってくるように感じられてならなかった。ぼくは静かに呼吸を整えながら、声を張り上げた。

「美月! いや、母さん! どうか、その姿を見せて欲しい。あなたと……話をしたい。危害を加えるつもりは無い。だから、どうか、姿を現して欲しい」

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 相変わらず微かな歌声が響き渡るばかりであった。一体、どこで歌っているのか、間近で歌っているのか離れた場所で歌っているのか、それさえも検討が付かない不思議な聞こえ方をしていた。それもまた、この、時間軸から解き放たれた不思議な空間だからこその情景なのかも知れない。

「母さん、どうか……ぼくの話に耳を傾けて欲しい。姿が見えないのでは話をすることも出来ない。それに、この瞬間を待っていたのでしょう? ご覧の通り、ぼくは無防備だ。危害を加える様な物は何一つ持ち合わせていない。だから、どうか、姿を現して欲しい」

「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川、夢はいまもめぐりて、忘れがたきふるさと……」

 返事は無かった。代わりに返ってくるのは、やはり、抑揚の無い機械的な歌声だけだった。暁の言う通り、やはり、亡骸に過ぎないのだろうか? もはや明確な意思も持たず、ただただ、少年達をかき集めるだけの存在と化してしまっているのだろうか? だとすれば、極めて事態は深刻だ。この閉鎖空間から抜け出す手段など思い浮かばない。コタ達が何らかの手段で強引にこじ開けてくれれば抜け出すことも叶うのかも知れない。でも、それは本当に最終手段だ。もっとも乱暴で、もっとも選びたくない選択肢だった。憎しみに、憎しみで挑んだのでは、燃え盛る怒りの情念に、さらなる油を投下するだけに終わってしまう。それでは駄目だ。哀しみの連鎖は終わらずに、また、時を隔てて再び同じ事件が巻き起こるだろう。そんな結末、ぼくは望まない。もう、こんなあまりにも哀しく、馬鹿げた物語はぼくの代で終わらせなければならない。そう決めたのだから。そのために、こうして平和的な解決に挑もうと試みたんだ。

「ぼくは、やはり紛い物に過ぎないのだろうか……」

「……輝? そこに居るの?」

「母さん!? 此処だよ。ぼくは此処に居るよ!」

 喰らい付いた! ぼくの仕掛けた罠に喰らい付いた。でも、だからこそ、ここからが本当の戦いになる。微塵の失敗も許されない。心だけになった存在が相手なのだ。ほんの些細な違和感にも、鋭く気付いてしまうことだろう。ぼくは必死で湧き上がってくる想いを抑え込んだ。本当は殴り飛ばして、鈍器でグチャグチャになるまで叩き潰してやりたかった。積年の恨みを晴らしたかった。でも……それじゃ駄目だと気付いた。理不尽だと思う。ああ、途方も無く理不尽な話だ。何の関係も無いのに、巻き込まれて、その上散々な目に遭わされた。怒りを覚えるなという方が無理がある。でも……考えようによっては、この人も、極めて理不尽な想いの果てで亡骸になった憐れな人なんだ。そして、彼女を癒し、鎮め、成仏させてやれるのもぼくしか居ない。だから、ぼくは立ち向かう。絶対に退いたりしない。それが、あなたへの最大限の「想い」だと思っているから。

 不意にぼくの目の前に静かに美月が姿を現した。ゆっくりと歩み寄ってくる美月は、ぼくが夢の中で見た心優しい母の表情に戻っていた。自然とぼくの中でも気持ちが解けて往く。

「もう、何もかもが無駄だということに気付いてしまった」

「え?」

「戦う力はもう殆ど残っていない。それに、判っているの……。例えあたしがどんなに頑張っても、お前の記憶が蘇ることは無い。お前も、島原のあいつらも、皆、あたしの滅びを願っている。そうでしょう?」

「……否定しないよ」

「ええ、判っているわ。何もかもが無駄だったの。結局、どうすることも出来やしなかったの……。もう、疲れちゃったわ。あまりにも永い時を待ち侘び過ぎたから。ご覧の通り、今のあたしはただの抜け殻よ。間抜けな話ね。散々苦しめたお前に、さらなる気遣いをさせることになろうとは」

「母さん……」

「ふふ、もう良いのよ? 無理して演じなくても良いわ。全部、受け入れようと思ったのだから……」

 美月はただ哀しそうに笑うばかりだった。信じられなかった。あんなにも恐ろしい敵だったハズなのに、今の美月からは、彼女の言葉通り一切の殺気を感じることが出来なかった。

「輝とは、もう二度と巡り合うことは出来ない。だから、ありったけの子供達をかき集めた。その中から、一人でも、あたしを慰めてくれる子供が現れることを願って。だけど、無駄な足掻きでしか無かった。皆一様に、あたしに向ける想いは怒りや憎しみ、殺意だけだった……」

 哀しそうに溜め息を就きながらも、美月は……ううん、母さんは想いを語り続けた。

「当然よね。力で支配出来るのは肉体だけで、心を支配することなど出来やしない。だから、もう、お終いにする。あたしは……あたし自身の手であたしを滅ぼす。そうすれば、お前も無事に元の場所に戻れるでしょう……」

 花は散る時期を心得ているからこそ、美しく咲き誇ることが出来る。美月もまた芸妓であった身。芸の世界のことは、ぼくよりも遥かに良く心得ていることだろう。それとも、彼女の精一杯の「抗い」だったのだろうか? 思い通りに生きることの出来なかった人生の、時の流への、精一杯の「皮肉」だったのかも知れない。

 でも、果たしてそれで良かったのだろうか? ウソでも良い。演技でも良い。ここは舞台だ! さぁ、母さん、開幕だよ。どうか……ぼくと一緒に舞台を演じ切って欲しい。ウソは、自らがウソであることに気付かない限りは本物なんだ。正真正銘のウソ付きのぼくが言うのだから本当の事実さ。さぁ、始めよう……。微塵の救いにでもなってくれれば光栄だ……。

「……何を言っているのか、ぼくにはサッパリ判らないよ」

「え?」

「だって、母さんは、ぼくの母さんなんでしょう?」

「ひ、輝? 一体何を……言って?」

「夕焼け空の下、ぼくの手を引いて歩いてくれたこと、忘れて無いよ?」

 美月が静かに息を呑む音が聞こえた。多分、ぼくが何を為し遂げようとしているのか、ぼくよりも遥かに鋭い美月ならば見抜いていることだろう。

「大好きなお豆腐料理、何時も作ってくれたでしょう? 夕焼け空を眺めながら、唄を聞かせてくれたでしょう? 他にも一杯あるんだよ。母さんとの思い出。ようやく思い出せたのだから……」

 静かに顔を挙げた美月の表情は大きく変わっていた。今、ぼくの目の前にいるのは、恐ろしい情鬼としての美月では無い。幼き輝を何よりも大切な宝物の様に想ってくれた、心優しい母としての美月に戻っていた。ああ、そうさ。それで良い。そのまま演じてよ。ぼくが……あなたを救ってあげるから。

「ああ、輝……。ずっと、ずっと……この時を待ち侘びていたのよ」

「母さん……会いたかった……」

 自分でも驚く程に自然に振る舞っていた。地面を蹴り上げ、走り込むと、そのままぼくは母さんに抱き付いた。後から後からあふれて来る温かな涙。演技とは言え見事な立ち振舞いだ。ぼくには役者としての才能があるのかも知れない。でも……涙まで流そうなんて思わなかったのに、どうしてだろう? もしかしたら……本当に前世の記憶が蘇ったのかも知れない。変な気持ちで一杯だった。ぼくなのにぼくでは無い誰かの想いが重なり合う様に思えた。実に不思議な感覚だった。空の上、雲の上をふわふわと漂う様な不思議な浮遊感を覚えていた。一つの体に宿る、二つの想い。でも、その想いは……色んな部分で繋がっている。そんな感覚だった。とにかく、言葉に出来ない不思議な気持ちで一杯だった。ただ、不快な感覚では無かった。温かな湯に抱かれている様な幸福感で満たされていた。不思議な気持ちだった。それは、本当の意味でウソが真になった瞬間だったのかも知れない。

「ああ……輝、しばらく見ないうちに、母さんよりも大きくなってしまったのね」

「うん。あの事件から月日は流れたからね。何だか、不思議な感覚だよ。こうして……夕焼け空の下を、母さんに手を惹かれながら歩んだ思い出、確かにあるのに、今はぼくの方が大きくなってしまった」

 微笑むぼくの目をじっと見据えたまま母さんは穏やかな笑みを称えていた。その頬からは止め処なく涙が零れ落ちていた。懇々と湧き出す泉の様に湧き上がってくる涙に、ぼくも釣られて、涙が止まらなくなっていた。

 不意に周囲の景色が変わった気がした。

 そこに広がっているのは、あの活気にあふれた島原の街並みだった。夕焼け空に照らし出され、人々が往来する賑やかな街並み。可笑しな情景だった。その人々の流れの中で、抱き合い、互いに涙を流し合う親子がいる。行き交う人々が怪訝そうに、ぼく達を横目に見ながら過ぎ去ってゆく。

「母さん、泣き虫ね。もう、ただ、ただ……お前に会えたことが嬉しくて……嬉し……」

 言葉は言い終わることは無かった。感極まった母さんは、思わずしゃがみ込むと、そのまま声を張り上げて泣き出してしまった。ぼくも堪え切れなかった。ずっと欲していた母の愛情……。こんなにも温かいものだなんて思わなかった。ずっと欲しかったんだ。子供の頃からずっと、ずっと、欲しくて、欲しくて仕方が無かった。でも、どうしても叶うことの無い願いだった。愛情に飢えたまま、ぼくは体だけが成長してしまった。心だけが取り残されたぼくも亡骸の様な存在だ。でも、周囲はぼくを子供扱いはしない。当然だよね。見た目はもう、立派な高校生なのだから。まさか、この年になって母親の愛情に喜び、咽び泣くことになろうとは思わなかった。でも、恥じらいなんか必要無いって思えた。失われた空虚な時間。十数年にも渡る永き時を、こんなにも短い時間で体感しようとしているんだ。体が悲鳴を挙げるのも無理は無い。この涙……ぼくは一生忘れないと思う。こんなにも気持ちの篭った涙を流したのは、多分、生まれて初めてのことだったと思う。

「母さんは、良い香りがするね……」

 ぼくの言葉を受け、そっと顔を挙げると母さんは可笑しそうに笑って見せた。ぼくの頬に両の手を宛てながら、もう一度可笑しそうに笑って見せた。とても冷たい手だった……。母さんの手に、ぼくの手を重ねてみた。随分とシワのある、ゴツゴツとした感触に、一気に涙がこみ上げて来てしまった。堪え切れなくなって、ぼくも、獣の様に声を張り上げて泣いた。母さんも釣られて泣いていた。あーあ。何て格好悪い親子なのかなぁ。親子揃って良く似た泣き虫だよ。蠱使いの母さんまで虫になっちゃうなんて冗談きついよね。母さんは泣き虫という虫だ。母さんの子供のぼくも泣き虫だ。親子揃って泣き虫だ。ぼくの言葉を受けて、母さんは声を挙げて笑った。笑って、それから……また、泣いた。想いを伝えるのに言葉なんて必要無い。心から、そう実感していた。

「麝香の匂い袋よ。ほら、これよ?」

「あ!」

 思わず言葉を失った。その匂い袋は、あの時、桃山先生が購入した匂い袋と全く同じ物だった。もしかしたら、あの時、ぼく達が訪れた匂い袋の店は、この時代に実在した店だったのかも知れない。本当に不思議な出来事の連続だ。

「母さん、輝に謝らないといけないわね」

「え? ぼくに?」

「そうよ。母さんの身勝手な想いが一人歩きして、結果的に、多くの人達の命を奪う結果となってしまった。判っているの。誰が悪いとか、そういう話じゃないことは。ただ、どうすることも出来なかった……」

 こんな話をするのは、途方も無く辛いことだろうと思った。でも、それでも母さんは必死に話してくれた。ぼくもしっかりと向き合うよ。もう、逃げないと決めたのだから。

「蠱毒……こんなにも恐ろしい力を秘めているとは思いも寄らなかった。今となっては言い訳に過ぎないけれど」

「ねぇ、母さん。一体、誰が……蠱毒なんていう、一般的に知られていない特殊な呪術を教えてくれたの?」

 そう。ぼくは、この部分に関しても知りたかった。普通に生きている人が知るには、あまりにも深過ぎる知識だ。誰かに入れ知恵されたと考えるのが妥当だろう。

「旅の陰陽師に教わったの。確か……その方は『風詠み』と名乗っていたわ。哀しみに暮れ、島原住吉神社で、ただただ泣くことしか出来なかった母さんの前に、ふらりと現れてね」

 陰陽師『風詠み』……どうにも危険な相手の様に思えてならなかった。大きな力を手にしてしまったがために、力に溺れ、力でしか自己を表現出来なくなってしまった様な危険な人種の様に思えた。もしかすると、いずれ、対決することになるかも知れない。そんな危険な相手が、おいそれと死を、時の流れを受け入れるとは思えなかったから……。ぼくにも良く判らないけれど、肌の裏がざらつく様な違和感が、それを物語ってくれているような気がした。

「母さん、すっかり見境なくなってしまっていた……。輝、お前に出会うために手当たり次第に子供達をかき集めた。お前の記憶を取り戻すために、また、手当たり次第に子供達をかき集めた……。怒りと悲しみにすっかり、我を見失ってしまっていた……」

「母さん……」

「それに……お小夜さんが、あたしに会いに来てくれたの。ええ、あの時のこと、全部、全て、心の底から謝罪してくれたの。それに……牛頭天王に祈りを捧げて、失われてしまった、あたしの心を取り戻してくれた。その身を犠牲にしてまでね? だから、こうして、あたしは人の頃の感情を取り戻してお前とお話をすることが出来た」

 小夜……それが彼女の名前だったのか。決して、その名を語ろうとしなかった彼女。今となっては、どうして名乗ろうとしなかったのかは判らない。でも、多分、彼女もまた、魂すら滅するだけの覚悟があったのだろう。牛頭天王に自らを供物として差し出した。その代償に、美月の……母さんの心を取り戻して貰ったのだろう。多分、極短い時間だけしか許されなかったのだろうけれど、自らの命を賭して挑んだ。精一杯の謝罪の意なのだろう。ぼくには全ての裏事情が判ってしまった気がした。本当に救い様の無い、哀しみに満ちた物語だった。でも、本当にこれで……良かったのだろうか?

「ありがとう、輝。最後にお前に会えて、もう、思い残すことは何もないわ。それに……もはや、情鬼と成り果ててしまった今、これ以上、存在し続ける訳にはいかない」

 目の前にいるのは鬼なんかじゃ無かった。ただ、心優しい母が一人、静かに佇むばかりだった。だからこそぼくの心は揺れ動いていた。判っている。心をシッカリと持たなければいけないことも。でも……でも、そんなの、あまりにも残酷じゃないか! 他に手段は無いのだろうか? いや、牛頭天王が気まぐれにでも手を貸してくれた。それだけでも、殆ど奇跡と呼ぶに等しい出来事だ。それ以上のことを願うのは傲慢というものだろう……。過ぎた我欲は、例外無く身を滅ぼす。引き際は肝心だ。花は……散る時を心得ているからこそ、美しく咲き誇る。そういうことなのだろう。

 それにしても、牛頭天王は本当に実在したのか。ぼくなんかの中途半端な願いを聞き入れてくれるなんて有難いことだった。いずれ必ずお礼に行くよ。ぼくなんかに手を貸してくれた恩、決して忘れないから。

「輝、お前は心優しい子に育ってくれたのね。母さん、嬉しいわ」

「母さん……」

「でも、同じ母親だから良く判る。我が子の行方が判らなくなった母親達が半狂乱になる姿が、手に取る様に見えてしまう。それに……輝、お前の友達たちもお前を取り戻そうと、必死に祈りを捧げている。ほら、輝、ご覧? 八坂神社で必死に祈りを捧げる皆の姿を……」

 そっと、母さんがぼくの目に手を宛がってくれた。流れ込んでくる情景……。そこは祇園さんの本殿前だった。コタ達が座り込み、一心不乱に真言を絶唱している光景だった。それこそ、命を賭しての祈りだった。皆、本当に必死になって祈ってくれていた。その想いが嬉しくて、また、涙があふれてきた。

(みんな……ぼくのために……)

「花は……散る時を心得ているからこそ、美しく咲き誇れるもの」

「え?」

「もう、未練は残っていない。『あの方』の手により、再び生を受けた身ではあるけれど、もう、これ以上、情鬼が生き永らえてはいけない」

「か、母さん? 何を――!」

 ぼくは目を疑った。何時の間にか辺りには数え切れない程の虫達が舞っていたのだから。種類も様々な虫達は、母さんを取り囲むように円陣を組んでいた。響き渡る不快な羽音……。足元にもびっしりと虫達が取り囲んでいた。

「輝、今のお前の母さんの所へ、待っている皆の下へ帰りなさい……」

「ま、待って! まだ、話したいことはあるのに!」

「御免なさいね、輝……。もう、二度と会うことは叶わないけれど、成長したお前の姿、かつてのあたしの目で、情鬼としてのあたしでは無く、お前の母としてのあたしの目で見届ることが出来て、本当に嬉しかった……さようなら、輝。強く……生きなさい!」

「母さーーん!」

 美月が何をしようとしているのか判ってしまった。ぼくは完全に騙されていた。演技では無かった。一時的にではあったけれど心を取り戻したのは事実だった。だからこそ、ぼくは必死で阻止しようと試みた。でも、どうしても体が動かなかった。何時の間にか、ぼくの後ろに現れたコタが、必死でぼくのことを締め上げていたから……。

「こ、コタ!?」

「輝、邪魔をするな! 泣き女郎は自ら、滅びの道を選んだのだ! 人として残された僅かな良心を糧に、お前との最期の時を過ごしたんだ! こうなる道しか……残されていない。だから、どうか、行かせてやってくれ!」

「離してよ! 嫌だよ! 嫌だ! 母さん! 母さーーんっ!」

 母さん、笑っていた……。本当に幸せそうな笑顔で……。どうして? どうして、そんな顔、見せられるの? ねぇ、母さん? もう、会えなくなっちゃうんだよ? 消えちゃうんだよ? 輪廻転生の輪からも外れちゃうんだよ!? それなのに……どうして? どうしてだよ……。

「さぁ、虫達よ! 私を喰らえ! お前達を使役し、呪いの道具として扱った、憎き、巫蠱師美月を!」

「輝、済まない!」

「ちょ、ちょっと、コタ! どうして、目を、耳を覆うの!」

「壮絶過ぎる光景になる! それが……お前の母への、せめてもの情けだ!」

 コタは全力でぼくの顔を抑え付けていた。多分……その光景を見ることも、聞くことも、しなくて良かったと思う。心優しい母さんのまま、ぼくの目に焼き付けておきたかったから……。ありがとう、コタ。ありがとう……母さん。

「ふむ、全て終わった様だな」

「ああ。クロ、此処から運び出してくれ。皆が俺達の帰還を待ち侘びているだろうからな」

(クロ? あのカラス天狗の呼び名なのかな? コタと共に戦っていたカラス天狗……本当に実在していたんだ。あの時、錦市場で出会った白く光り輝くカラス天狗……彼とも、また、会えるのかな? 今度会えたら、君と友達になりたいなぁ)

 不思議な気分だった。さっきまでの感情がゆっくりと昇華していくのを感じていた。多分、母さんが、ぼくの前世の記憶を持ち去ってくれたのだろう。無駄に哀しまずに済む様に……。やっぱり、母さんは、ぼくの母さんなんだね。

 多分、居なくなった子達も皆、元の場所に戻れると思う。これで……何もかもが終わったんだね……。そう、このまま何もかもが終わるハズだったんだ。でも――。

「何と愚かな! 我が授けた『命』を、無碍に捨て去るとは!」

 聞き覚えの無い声だった。妙に仰々しい喋り口調の、どこか、古風な風合いを感じさせる喋り口調。だけど……途方も無く恐ろしい殺気を放っていた。コタが慌ててぼくの顔から手を離す。驚愕の表情で声の主と向き合っていた。不思議な奴だった。空中に浮かぶ姿。全身を透き通る様な青一色の法衣に身を包んだ僧の姿だった。顔まで覆い尽くす法衣のお陰で、表情まで窺うことは出来なかったけれど、その背には大きな翼を持っていた。一体、何者なのだろう?

「クロ……こいつだ! 以前、俺の夢の中に現れた青い法衣の僧と言うのは、こいつだ!」

「何と!? この者が? むう……お主が何者かは知らぬが、桁違いの殺気を放つ者。少なくても、我らの味方とは思えぬが?」

 青い法衣の僧は、ただ静かに沈黙を守っていた。表情こそ窺えなかったけれど、恐ろしいまでの殺気を放っていることだけはぼくにも判った。不意に、青い法衣の層の周囲を青白い蛍の様な光が舞い始める。次第に数を増やし、数え切れない程の蛍が舞い始める。それに呼応するかの様に、透き通っていた空は、突然唸りをあげると、叩き付ける様な雨模様に移り変わった。

「泣き女郎……あの者もまた不遇なる最期を遂げることとなったか」

「なに!?」

「憎悪の能面師、露姫、彼らの後を追うことになろうとはの……」

「貴様、一体何者だ!? お前が……お前が道雪や、露姫をけし掛けた張本人か!?」

 コタが凄まじい形相で睨み付け、咆哮を轟かせるのが見えた。ぼくには窺い知らない事情があるのかも知れない。いずれにしても、目の前にいる青い法衣の僧は、少なくても味方では無さそうに思えた。

「哀しみに暮れる美月の生き方に道を示すために、我は再びの生を授けた。だが、結局、非業の最期を遂げることになったか……」

 青い法衣に身を包んだ僧が哀しそうに呟く声が響き渡った。

「だからこそ、お主ら、鞍馬山の天狗達に問う! 応えよ、小太刀よ! お主らは、情鬼はただ討つべき存在に過ぎぬと思うて居る様子であるが、真実はどうであった!? 情鬼は悪? 討つべき存在? その目で見て、お主はどう感じた!? 応えよ!」

 凄まじい怒りの想いが体中を駆け巡っていった。一体、彼は何者なのだろう? ぼくは恐怖の余り、腰を抜かさんばかりに震えることしか出来なかった。

「所詮、お主らは真実を知る権利を放棄した愚か者共に過ぎぬと申すか!? さぁ、我の問いに応えよ、小太刀よ!」

「わ、我は……」

「応えられぬと申すか!? 何処までお主らは愚かなのか……。まぁ、良い。いずれ『真実』を知るであろう。四天らがひた隠す、途方も無く壮大なる『真実』をな!」

「何のことだかサッパリだが、一つだけ判ることがある……。貴様は俺の敵だ! さぁ、降りてこい! 俺がお前のことをぶちのめしてやる!」

 怒りに身を任せてコタが怒号をぶつけた。でも、青い法衣の僧は、相変わらず不気味に沈黙を守るばかりだった。コタの声に応えること無く、ゆっくりと舞い上がっていった。そのまま、青い法衣の僧は無数の蛍と共に空中に溶けて行くように消え失せてしまった。一体、彼は何者なのだろう?

「何なんだ、あいつは!? 馬鹿にしやがって……次に会った時には、何もかも、自白させてやる!」

 何だか、ぼくは状況も呑み込めずに、ただ、茫然とすることしか出来なかった。何よりも、コタの隣に佇む大柄なカラス天狗の小太刀の存在が気になって仕方が無かった。不意に、ぼくの視線に気付いたのか、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「輝よ、我と……カラス天狗と出会ったこと、決して口外するで無いぞ?」

「え?」

「未だ我らの存在は世に広めるべき時では無い。隠密行動故に為せることもあるのでな」

「わ、判ったよ。大丈夫だよ。余計なことは口にしないから……」

 間近で見ると、物凄く迫力がある姿に思えた。迂闊に口を滑らせたりしたら、命が無いかも知れない。間違えても口外しない様にしなければ……。

「コタよ、戻ろうぞ。皆が我らを待ち侘びておる。あの者のこと、気に掛るやも知れぬが、それは後ほど我と共に考えようぞ」

「あ、ああ……。済まないな、取り乱して」

「気にするで無い」

 何だか……コタと小太刀は、ぼくなんかが割って入る隙も無い位に、深い絆に結ばれている様に思えた。

(そうか。コタが想いを寄せている相手というのは……)

「輝。立てるか?」

「うん。大丈夫だよ、一人で歩けるから……」

 ぼくは手を差し伸べてくれたコタの手を断った。そう。かつて、コタがぼくに想いを伝えてくれた時と同じ様に。何処までもぼくは子供なんだな。何だか色んなことが在り過ぎて、ぼくの心の中はこの空模様と同じ、叩き付ける様な土砂降りだった。色々と片付いたハズなのに何故か、言い表せない想いが引っ掛かっている様な不快感が消え失せることは無かった。コタ達に続いて歩き出そうとした瞬間、唐突に世界が白く、白く染まってゆく感覚を覚えた。ゆっくりと意識が遠退いて往く……。

◆◆◆82◆◆◆

 次に目覚めた時、ぼくは祇園さんの本殿前に倒れていた。

「うっ……。ここは、祇園さんの本殿前? ぼくは無事に、戻って来れたの?」

 微かに人の気配が残り香の様に漂っていた。夢の中で見た情景から察するに、此処で皆が必死に真言を唱えていたのだろう。未だ強い想いが残っている様に感じられた。ぼくを救ってくれようとした必死の願いが、今なお温もりの様に感じられた。

(皆……本当にありがとう。お陰で、ぼくは無事に戻って来られたよ)

 何だか色々と在り過ぎて疲れ果てていた。ぼくは少々眩暈を覚えながらも何とか立ち上がった。とにかく家に帰ろう。随分と体力を消耗してしまった気がする。雲の上を歩いている様な妙な浮遊感を覚えずには居られなかった。

「ああ、駄目だ……。目が眩む。予想以上に体力を消耗してしまったみたいだね……」

 変わることの無い日常生活を退屈だと思っていたけれど、此処まで想像を絶する体験をし続けることになろうとは思いも寄らなかった。暑ければ涼を求め、寒ければ暖を求める。人という生き物は本当に我儘な生き物だ。色々と考えたいことはあるけれど……何よりも、最も身近な場所にある問題から片付けたいと考えていた。

(そう……あの人の真意を確かめ無ければならない。何よりも優先して)

 どうしてもぼくには理解出来なかった。美月と対峙していたぼくの前に、突然姿を現したかと思ったら、普段の姿とはまるで違う一面を見せた。何が真実で、何が虚構なのか、サッパリ判らなくなっていた。でも、だからこそ本人に問い質したい。そこには多分、ぼくが知らない事実が秘められているのだと思うから。目を背けて、このまま、あの人を悪物のままにしておくのも一つの選択肢なのは判っている。知らない方が良いことなんて幾らでもある。此処まで必死に隠し通してきた秘密なのを考えれば、多分、知らない方が良いのだと思った。

「そう。目を背けるのは容易いこと。あの人に全て背負わせておけば、ぼくは傷付かずに済む。でも……」

 暁とも約束したから。ぼくはもう逃げないと。傷付くと判っていても敢えてウソと向き合う。それもまた、今までずっと逃げ続けて、偽り続けてきたぼく自身への決別になるのかも知れない。

 祇園さんの西楼門を抜けて階段を下る。そのままT字路を左手へと曲がる。ぼくは歩き慣れた道を歩み続けた。微かに視界が揺らぐ様な感覚を覚えていたが、それでも必死に歩き続けた。相変わらず気温は高く、歩いているだけで汗が噴き出す。多分、ぼくの手の平の中は汗でビッショリだ。

「そうさ……。向き合うんだ。ずっと、隠されてきたであろう真実と。それが……ぼくに課せられた罪であるならば、ぼくは受け止めなくてはならない。それが多分、美月の、ううん、前世の母さんの無念を晴らすことに繋がるのだろうから」

 相変わらず車は速度を挙げて道路を往来するばかりだった。どう考えてもスピード違反だよね。さっさと捕まっちゃえば良いのに。可笑しな事故でも起こして巻き込まれるのは最悪だから。死ぬなら一人で死ねって話さ。

 見えない誰かに精一杯毒づきながらも、ぼくはゆらゆらした足取りで歩き続けていた。通りの向こう側に渡り、そのまま細い路地へと入っていく。月明かりが意外に明るいことに驚きを覚えながらもぼくは歩き続けた。やがて、ぼくの家が見えて来る。

「……え?」

 暗くて良く見えなかったけれど、玄関先に「あの人」が立っているのが見えた。遠目からも判るほどに落ち付きが無く見えた。せっかちに腕時計を眺めたり、空を見上げてみたり。同じ場所をぐるぐる回ってみたかと思えば、大きな溜め息を就いてみたり。本当に……全くの別人になってしまったかの様に思えて、ぼくは、そこが自分の家では無かったのでは無いかと疑いさえ抱いていた。

(多分、信じられない事実と対面することになる。でも……もう、ぼくは逃げたく無いから)

「……ただいま」

「あ、ああ! ひ、輝! 無事だったの? 怪我は? 大丈夫なの?」

 突然、涙が溢れそうになった。見覚えのある振舞いだったから……。そう、ぼくがまだ幼かった頃、ぼくの姿が見えなくなることは頻繁にあったと思う。幼い頃から好奇心が旺盛過ぎたぼくは、ちょっとでも興味惹かれる物があれば、すぐに一人で突っ走ってしまった。その度に、あの人は必死になってぼくを探してくれた。ようやく見付けたぼくを目にした時、あの人は、何時だって、今の様に派手に取り乱していた。懐かしい情景が不意に蘇って、不覚にもぼくは涙があふれてきそうだった。今、ぼくの目の前にいるのは「あの人」では無くて、「母さん」の姿に戻っていた。だからこそ、ぼくは畏れていた。隠された真実は、多分、ぼくが想像しているのよりも遥かに大きな内容なのだろうから。

「怪我は無いよ……」

 自分でも笑ってしまう程に違和感のある振舞いだった。何てぎこちない喋り口調なのだろう。自分が自分で無くなっていく様な感覚が酷く恐ろしく思えた。このまま、ぼくという個性が消失してしまうのでは無かろうかという恐怖感にすら駆られていた。

「そう。さ、家に入りなさい。お茶でも煎れるわね」

 ぎこちないのはぼくだけでは無いということか……。恐怖との対面だね。もう、逃げないと決めたけれど、その決意さえも揺らぎそうに思えた。でも、だからこそ立ち向かう必要がある。そう感じていた。

 ぼくは靴を脱いで家に入った。緊張の連続で手の平も、足の裏も汗でジットリ湿っていた。子供の頃からずっとそうだった。恥ずかしい体質だと思うけれど、自分の意思ではどうにもならない。だからこそ余計に厄介に思えた。

 居間に入ると、あの人が慣れた手付きでお茶を煎れている様子が見えた。アールグレイだろうか? 心を落ち着かせる穏やかな香りが立ち込める。

「コーヒーは苦手だったでしょう? だから、紅茶にしてみたけれど、お口に合うかしら?」

「う、うん……」

 何だか妙に他人行儀な振舞いに思えた。まるで見知らぬ来客を持て成すかの様な立ち振舞いに思えてならなかった。でも……ぼくがコーヒー飲めないの覚えていてくれたこと、嬉しく思えた。紅茶の好みまで覚えているなんて……。

「お母さんも紅茶、頂いてみるわね」

 ぎこちない笑みが何とも心苦しく思えた。そういえば笑った顔なんて、一体どれだけ見ていなかっただろう? 顔を会わせる度に罵詈雑言の応酬ばかりだったから、とうの昔に親子としての関係は終わっていると感じていた。

「……祇園さんでのこと、聞いても良い?」

「え? ええ。そうね……。お話すると約束したからね。ええ、それじゃあ、お話を始めましょうか」

 あの人は軽く紅茶を口にすると、そのままティーカップを静かに机の上に置いた。

「今更、弁明するつもりは無いわ。お前に虐待をしたのは、事実なのだから」

 不思議な光景だった。穏やかな笑みを称えたまま、話出した内容は多分、過去の経緯の裏事情についての話なのだろう。どうしてそんな笑みを称えたまま話せるのか? やはり、この人は人格が崩壊しているのだろうか? そんなことを考えながら、ぼくは適当に耳を傾けることにした。あまり真面目に聞いていると、怒りに我を見失いかねなかった。だから、適当に聞き流すことにした。

 どこかが痛むかの様な哀しげな表情を浮かべたまま、あの人は語り続けた。ぼくはただ無機的にその話を聞くばかりだった。言葉に言い表せない不思議な感覚で一杯だった。でも、何故だろう? やはり、この話からは目を背けてはならない気がしてならなかった。まぁ、良いさ。真相はこれから明らかになるはずだからね。

「……平和な家庭だった。お父さんは当初からあんな感じでね」

 軽く紅茶を口に運びながら、あの人が遠い目を浮かべる。どこか哀しげな笑みだった。真顔で話すのは辛かったのかも知れない。だから精一杯の作り笑顔だった様に思える。

「まぁ、輝からして見れば、何に対しても関心も見せない、無口で、ツマラナイ父親にしか見えなかったでしょうね。でも、ああ見えて色々と考えていたりするのよ。不器用なのだけなの。多分」

 父親の話なんかどうでも良かった。何に対しても興味無さそうに振舞うばかりの、うだつの上がらない影の薄い父。何でぼくはこんなにも、ろくでもない親の下に生まれてきたのだろうか。そればかり考えていたことを思い出させて貰った気がする。ぼくの心を暗雲が覆い尽くそうとしていた。それでもなお、面白味の無い話は続くみたいだ。それなのにも関わらず、ぼくは何故か耳を傾けずに居られなかった。これもまた呪いの残響だとでも言うのだろうか?

「そうこうしているうちに輝が生まれた。どこかぎこちなかった家庭の中が一気に明るくなってね。本当に幸せだったこと、今でも良く覚えている。ようこそ、我が家へ。そんな気持ちで一杯だった」

 確かに、記憶に残っている限り、ぼくは随分と溺愛されていた様に思えた。まるで壊れ物に触れるかの様に接していた父と、対照的に、ぼくにせっせと干渉し続けた母が居た。思えば、当時は口やかましいだけにしか思えなかったけれど、母はシッカリとぼくと向き合っていてくれた。楽しい時は共に喜び、ぼくが悪さをすれば本気で叱ってくれた。

(優しい母だった……。でも、怒ると、本当に怖くて……。学校の先生だけあって、何を教えるにしても、根気良く、丁寧に教えてくれたっけな。ぼくが度を超えた好奇心の塊になったのも、母さんの教え方がキッカケだったのかも知れない……)

 気が付くとぼくは泣いていた。ぼくの頬を大粒の涙が静かに伝っては落ちてゆく。温かな感触が頬を撫でて往く。どうして泣いていたのか自分でも判らない。ただ、平和だった日々を懐かしんでいること……それだけは確かだった。あの人は相変わらず、ぎこちない笑みを浮かべたまま語り続けてみせた。

「……平和で、楽しい日々だった。だけど、それをぶち壊す出来事が起こった」

 不意に、ぼくの眼差しをじっと見つめたまま、あの人の表情が変わってゆく。さながら、夕立前の空模様の様に移り変わってゆく。穏やかだった空模様は成りを潜め、代わりに、不穏なまでの暗雲が空を埋め尽くしてゆく。穏やかな笑みは消え去り、険しい表情へと移り変わっていた。今にも空が唸りを轟かせそうな、そんな気持ちにさせられていた。

「お前も鮮明に覚えていることだろう。最初の予見……そう。お隣のおじさんの死を予見してしまった。それが、全ての始まりだった……」

 あれはぼくが幾つの時だったのかな? かなり昔の出来事だったと思う。そうだったね。ぼくは隣の家のおじさんの死を予見してしまった。予見してから僅かに数日後、予見は現実の物となった。それからだった。ぼくのことを可愛がってくれた人達が、手の平を返したかの様に、ぼくに冷たく当たる様になった。唯一変わらなかったのは……コタの家族だけだった。哀しみに満ちた時代の幕開けだった。

「ただの偶然だ。最初はそう思っていた。だけど、お前は次々と周囲の人々の死を予見してしまった」

 そう。本当に馬鹿な子供だったと思う。見た物の全てを語って聞かせる必要なんか無かったんだ。避けられない死の予見。そんなもの、知っても何の得にも成らない。ただ……その瞬間までが克明に見えてしまうことが、恐ろしくて仕方が無かった。言わないで置こう、言わないで置こう、何度も、何度も、そう誓ったさ。でも、周囲の大人達は、あの手この手でぼくの口を割ろうとした。ある人は甘いお菓子を餌にぼくの口を割らせ、また、ある者は誘導尋問の如く巧みな話術でぼくの口から情報を引き出した。中には威圧的にぼくに迫る者も居たっけな。結局、皆、わざわざ、ぼくの下を訪れては、自分の手で情報を引っ張り出したんだ。遠方からわざわざ訪れる人達も少なく無かった。わざわざ遠方から来てまで、ぼくの家族を非難する者達も増え続けていた。

 ねぇ、悪いのはぼくなの? 情報は自らの意思で取捨選択することが出来る物でしょう? 無理矢理ぼくの口を割らせておきながら、死が訪れたことを非難する。ねぇ、ぼくが招いたのでは無いんだよ? 可笑しいと誰も思わなかったの? 本当に間違えているのはぼくでは無くて、自分達だと、どうして、誰ひとりとして口にしなかったのだろう……。だから、オトナ達は嫌いだった。だから、ぼくはオトナになることが恐ろしかった。この人達みたいに心を失った『可哀想な』存在になる位ならば、いっそ、自分自身の死を予見してやりたかった。夢も希望も断たれ、哀しみだけに満ちあふれた幼少時代だった……。

「……弱かった。あたしは本当に弱かった」

「え?」

「母親であるあたしが、何としてもお前を守り抜かなければならなかった。それが母の使命だった筈だった。でも……あたしは周囲の人々からの声に負けて、気が付けば、お前の敵になってしまっていた」

 虐待が起こる様になったのも同時期だった。好奇の目に晒されたのは、ぼくだけでは無かった。父も母も、まるで、同罪であるかの様に周囲の非難の声を受け止め続けた。そう……父も母も、必死でぼくを人目から遠ざける様にしていた。それなのに、結局、あいつらは自分から近付いてきた。そのくせ、死の予見が現実のものとなると、ぼくを責め続けた。心無い人達の誹謗中傷は続いた。ビラを貼られることもあれば、無言電話は昼夜を問わなかった。中にはマスコミ染みた怪しげな連中だって訪れることもあった。誰もが皆、ぼくの死を願った。皆同じことを言っていたっけな。

『お前は何時、お前自身の死を予見するのか?』

 楽しみにしていたのでしょう? ぼくが死んでゆくのを。何しろ、ぼくを攻撃した奴は、京都の街を救った英雄になれただろうからね。死を予見する恐ろしき鬼の子を退治した。素晴らしい正義だ。褒め称えてあげるよ。ついでに、君の死も予見してあげよう。

 父も母も疲弊し切っていた……。多分、頭では判っていたのだと思う。悪いのはぼくでは無いと。でも……こういうのは理屈じゃないんだ。感情の問題なんだ。抑え切れなくなった感情は、さながら決壊したダムの様なもの。自分の手ではどうすることも出来なくなることだってあっただろう。

 全てを受け入れたつもりでは無かったけれど、美月の物語に寄り添い、歩いているうちに、世の中の理不尽さに気付かされた。本当に大人達は醜悪で、薄汚い存在だ。鬼は確かに存在している。人の心の中に鬼が宿る。そう思っていた。でも、真実は違った。人の存在そのものが鬼なのだと気付かされた。だからなのだろうか? あの人の気持ち、少しだけ理解出来た気がする。

「もちろん、そんなことは弁明にも何もならない。ただ、あたしはほんの僅かでも、お前なんか生まれて来なければ良かったのに……そう、思ってしまった」

「……うん」

 一体、何が「うん」なのか、自分でも良く判らなかった。でも、ぼくは静かに頷いていた。

 自分でも思う。この忌まわしい能力があるお陰で、皆が不幸になる。皆を不幸にするだけの能力……そんな物は必要無かった。ぼくが消えてしまえば良いのかな? 皆もそれを心から願っている。生まれて来てはいけなかったのかな? ぼくが本当に全ての諸悪の権化なのかな? ぼくが死ねば万事解決するのかな? そんなことばかり、何時も考えていた。早く、自分の死が現実の物になれば良いのに。そう願っていたけれど、一度も、自分の死を予見する様な映像は見ることが出来なかった。アレは作為的に操作することが出来る様な物では無かったのだから。

「今でも後悔している。何て、あたしは弱かったのだろうか、と。お前の母である以上、世界を敵に回してでもお前の味方であるべきだった。でも……あたしは負けてしまった」

 何か言葉を掛けてやろうと思ったけれど、何の言葉も出て来なかった。それどころか、何時もの様に口汚い言葉で罵ってしまいそうな自分が怖くて、ぼくは出掛かった言葉達を片っぱしから呑み込んでいた。ぼくも……弱いんだね。うん。否定しないよ。これが……真実なのだから。

「追い詰められていたあたしは、我を見失っていた。今でも後悔している。だけど、その考えが変わる時が訪れてしまった。そう……暁の死が、あたしに全てを気付かせてくれた」

 暁の死……あの頃から母はすっかり可笑しくなってしまった様に思っていた。でも、それは違ったのかも知れない。受け止めることが出来ない程に大きな哀しみ……限界を超えた時、ダムは決壊する。同じことだったのかも知れない。ただでさえ、ぼくのせいで追い詰められていた母への止めの一撃となったのが暁の死だったのだろう……。生まれることの叶わなかった、ぼくの弟。あの時、島原の情景の中で出会った彼は、やっぱり本物の暁だったのだろうか?

(ねぇ、暁? 君はどう考える? ぼくと母が和解する道……それは君が望む「未来」なのかな? 君が望むならば、ぼくは歩み寄ろう。ううん、違うね。これはぼくの意思だ。君のせいにするのは卑怯だよね)

「今だから冷静に受け止められるけれど、暁は死に、お前は生きている。あたしに残されているのは……輝、お前しか居ない。そう悟った瞬間だったさ」

 矛盾した話だ。それならば、何故、なお一層ぼくに辛らつに当たる様になった? 何故、あの頃から本格的な虐待が始まった? 危なく、声を張り上げて、勢いに任せて罵声を浴びせてしまう所だった。多分……この部分に、全ての真相が秘められているに違いない。だからこそ、母は一人で背負い続けた。苦しみも、哀しみも、何もかも。まるで自分が全ての罪を償うかの様に。多分、これから母が口にする言葉……その言葉に全ての真実が眠っている。決して目を背けてはならない真実が。ああ、大丈夫だよ。ぼくはもう、逃げないから。

「だからこそ、あたしは考えた。今になって思えば……何て馬鹿なことを考えたのかと後悔している」

 哀しげに微笑みながら、母は再び紅茶を口に運んでみせた。ぼくも紅茶を口に運ぶ。何だか不釣り合いな熱さだった。こんな蒸し暑い夏の夜に、こともあろうに熱い紅茶。当然、中々冷める訳も無く、猫舌なぼくは苦戦しながら紅茶を口にしていた。どうせなら、良く冷えたお茶にしてくれれば良かったのに。どこか間の抜けた母の想いが可笑しくて、でも、ぼくの好物を出してくれようとした想いが汲み取れるから、嬉しくて、嬉しくて、やっぱり、涙があふれてきた。本当にぼくは、男のクセに泣き虫だなぁ。

「輝を、お前を、何としても守らなくてはならない。ただ、それだけしか頭に無かったの」

「うん……」

「それも、お前が成長した後のことも含めて、守らなければならないと考えた。下らないウワサというのは何時までも残り続ける。それをどうにかしなければ輝の未来は閉ざされる。だからこそ、必死だった」

 情け無くなる程に言葉、出て来なかった。本当にぼくはこういう場面に弱くて、何も言えなくなってしまう。気の利いた言葉の一つも出て来ない自分が悔しくて仕方が無かった。

 終始興奮しながら語り続けていた母は静かに呼吸を整えていた。息が途切れてしまったのかも知れない。妙な沈黙が続く。口を真一文字に結んだまま、母は静かにぼくの顔を見つめていた。哀しげな笑みを称えた表情はあまりにも沈痛に思えて、どうしても言葉が出て来なかった。

「あたしは演じることにした。気が狂った母親を……そのために、輝、お前への虐待を行う様になった」

「……え? ど、どういうこと?」

 耳を疑う言葉だった。一体、どういうことなのか? 何を言わんとしているのか、ぼくには理解出来なかった。

「皆の目はお前に向けられていた。正確には、お前が持つ忌まわしい力……死を予見する力に向けられていた。皆がお前を忌み嫌い、お前を排斥しようとしていた」

 ぼくはただ、静かに耳を傾けることしか出来なかった。

「だから、あたしは狂った母を演じた。虐待し続け、訳の判らないことを口にし、時に奇声を発してみせた。全ては皆の目をあたしに向けさせるための演技だった」

「そ、それじゃあ……」

「ええ。気は確かだったわ。ただ演じていただけだから。お前に目が向けられないようにね。ついでに……お前が憐れな子に見える様に演じ続けた。気が狂った母と、虐待され続ける憐れな一人息子。世間の好奇の目を向けさせるには、この位のことをする必要があった。そう……演じ続けなければならなかった。家の中でも、外でもね?」

 体中に電気が走る様な感覚を覚えていた。頭から氷水を浴びせ掛けられたかの様な衝撃を覚えていた。演技だって? その演技を徹底させるために、家の内外を問わず、あんな風に振舞い続けたと言うの? 何故? どうして!? どうして……どうして、そんなことを……。

「予想通り、周囲の人々は動いてくれた。皆がお前を憐れに想い、同情するようになった。代わりに、皆があたしに怒りの眼差しを向ける様になった。狙った通りの展開になった。後はお前に憎まれ、何もかもを一手に引き受けるつもりだった」

「そ、そんな……」

「現にお前は、周囲の人々から好奇の目で見られることは無くなったろう? ふふ、あたしは気が狂った母のまま、誰にも看取られること無く消え去ってゆく。それで良いのよ」

「い、良い訳……無いじゃない!?」

「輝……」

「どうして……どうして、そんなことを……」

 言葉、出て来なかった。代わりに涙が零れ落ちた。一粒、また一粒。止め処なく流れ落ちる温かな涙が、ぼくの代わりに全てを物語ってくれたのかも知れない。

「それじゃあ……ぼくが自殺しようとした晩のこと、アレは、どう説明するのさ!?」

「申し訳無かったとしか言えない。まさか、お前をそこまで追い詰めてしまうことになろうとは、想像もしなかった。あの時は……本気で後を追おうと思ったわ。それならそれで、楽に成れるのかしらってね」

 一歩間違えれば、ぼくは本当に死んでしまっていたんだ。ごめんなさいじゃ、済まされないんだ……。でも、今なら判る……。人は本当に極限状態に追い詰められた時、思考回路が誤動作を起こす。多分、母も想定外の事態に、さぞかし動揺したことだろう。後を追おうと思ったというのは……誇張表現の無い、本当の気持ちだったと思う。

「あの頃、ぼくは神戸のお爺ちゃんの死まで予見してしまった。もう、ぼくには……救いは何もないと、本気で絶望していた。だから……本当に辛かったんだ……」

 多分、顔中ぐしゃぐしゃにして泣いていたと思う。あの時の気持ち、蘇ってきて、ぼくは声を張り上げて泣いた。母さんも顔を両手で覆いながら、声を挙げて泣いていた。何度も、何度も、ごめんね、ごめんねと繰り返しながら。

「……暴力振るったこと、謝るよ。ぼく、母さんに……手を挙げてしまったから……」

「良いのよ。もう、済んだことだから……。お前が今、こうして生きてくれている。母親に取って、子供が生きていてくれる。もう、それだけで十分過ぎるほど幸せなの。だから……」

 母は尚も泣き続けていた。ぼくも泣き続けていた。

 どれ程の時間が過ぎたのだろう? ぼくはこれからのことを考えていた。頭では判っていた。あの虐待も、全てはぼくを守るための不器用過ぎる立ち振舞いだったのだと。確かに、頭では判っていた。でも……やはり、ぼくは弱い奴だ。頭では判っていたけれど、体がそれを受け入れることを拒んでいる。偽ることは止める……そう決めたんだ。だから、非情かも知れないけれど、ぼくは想いを率直に伝えた。こんなの間違えているのは判っている。でも……もう、ウソは嫌だから……。

「頭では受け入れ様としている。でも、非力なぼくには……あの虐待の日々は、決して、消えることの無い痛みなのもまた事実なんだ。だから……」

「ええ。それで良いの……。お前はお前の道を行きなさい」

「……その償いのために、あの時、ぼくを守ろうとしてくれたの?」

「輝、それは違うわ」

「え? それじゃあ、どうして?」

「言い訳にしか聞こえないと思うけれど……あたしには輝、お前しかいないの。子を愛さない母親が一体何処にいると思う? それこそ、命を棄ててでも守りたいと思えるものよ。あの時、本当に命を棄てる覚悟はあったわ。せめてもの償い……何て言うのは図々し過ぎるわね」

 また、涙が込み上げてきた。抑えられなかった。男のクセに泣き虫な自分が格好悪くて、嫌いだった。でも……これが偽らない本当のぼくの姿だから。泣きながら、ぼくは想いを口にした。精一杯の想いを、ぼくの言葉に託して。

「……許すことは出来ないと思うし、すぐには割り切ることも出来ないと思う。憎しみは容易く消え失せる物では無いから」

 偽らざる言葉という物は、どうして、こうも容易く人を傷付けることが出来るのだろうか? どうして、こうも棘のある物になってしまうのだろう? 人を傷付ける言葉を容易く選べる自分が哀しかった。でも……演じることも、偽ることも止めにしたのだから。これがぼくの選んだ道ならば、そこから外れる様な行動は選びたく無かった。

「でも、少しずつ時間を掛けて、もう一度やり直したい。心の底からそう願っている」

「輝……」

「あなたは世界中を敵に回してでも、ぼくを守ろうとしてくれた……。その結果、本当に世界中が敵になってしまった。でも、だからこそ! ぼくだけでも、あなたの……母さんの味方でありたい」

 そこから先は、もう、何も言葉にならなかった。会話にもならなかった。ただ、二人で声を挙げて泣き続けていた。あふれ出る涙が、何もかもを許してくれる様に思えた。都合の良い話でしか無いのは判っている。でも、この後の母さんの言葉で色々と辻褄が合った気がする。

 母さんは責任を感じていた。死を予見する能力……それを授けてしまった原因が自分にあると思い込んでしまったらしい。何の根拠も無いけれど、ただ、責任だけを背負ってしまった。

 それと……これは憶測だけれど、母もまた蠱毒の呪いの影響を受けていたのでは無いだろうか? 負の感情は連鎖し、また、同じ場所に集うものだ。確かに、最初は演技で振舞っていたのかも知れない。だけど、演じる母に、人々の悪意の矛先は向けられて居た筈だ。言うなれば、母は避雷針の様に、人々の悪意を掻き集めてしまっていたのでは無かろうか? だから、次第に演技に拍車が掛り、虐待が激化していった。予想外の展開に父も、もはや手を出せない状態に陥っていたのかも知れない。同時に、激しい虐待を受け続けたぼく自身も、避雷針の様に人々の悪意を掻き集めてしまったのかも知れない。大きな悪意を持つ者同士がぶつかり合う。結果、悪意はどんどん膨れ上がってしまった。

 美月を中心に始まった物語は、予想もしない程に大きく膨れ上がってしまったのだろう。ぼく達一家を壊滅的な状況に追い込む程に。そう考えれば、母の気が触れた様な振舞いも説明が付く。本人の意思とは無関係に、苛立ちだけが掻き立てられていたのだから、母も相当困惑していたのだろう。

 結局、不器用な者達が紡ぎ出した不器用な物語の顛末は、やはり、どうしようも無い位に不器用な物だった。でも……まだ時間はあるハズだ。紡ぎ上げた物ではあるけれど、紡ぐことが出来るならば、解くことも出来るハズだ。そうしたら、もう一度、紡ぎ直せば良いさ。満足いくまで何度でも……。一連の呪いは消えたのだから。長い年月を要したけれど、ようやく終わったのだから。

 人を呪わば穴二つ。自分の墓と相手の墓、二つ必要になる。改めて『呪い』という行為の恐ろしさを知った。負の連鎖を繰り返し、やがて、誰の手にも負えない程に巨大化してしまう。巻き込まれた全ての人を不幸にしても、なお、留まる所を知らずに成長を続ける。結局、鬼は誰の心にも宿っていて、誰もが鬼になる可能性を秘めている。人の心とは……本当に恐ろしいものだ。今回の一件で、ぼくは改めて、人の心の恐ろしさを知った気がする。同時に……人の心が秘めている、無限の可能性にも気付くことが出来た……なんて考え方は、性善説過ぎるのかな?

「もう一度、歩み直そう」

「ええ、そうね……。十数年を取り戻すのは、簡単な話では無いかも知れないけれど……そうね。せめて、うちの家族内だけでもやり直しましょう」

 周囲の目を変えることは不可能に近い。一度放たれた想いは、そうそう簡単に塗り替えることは出来ない。ましてや人は、そういった攻撃対象にしやすい他者の存在を『大切』にするものだ。都合の良いスケープゴートを、仮想敵を仕立て上げることで、自らが正義であると錯覚出来るだろうし、皆とも一致団結できる。麻薬の様な物だ。一度、その快楽に目覚めた者は、二度と抜け出せない。それこそが人が人である業なのだと、ぼくは思う。

 でも、ぼくは諦めない。せめて、家の中だけでも変えて行く。

 ぼくを産んでくれた母のことを……憎しみながら生きて行くなんて、哀し過ぎる。だから、もう一度歩み直すさ。ぼくの物語を、母の物語を、ぼく達家族の物語を……。皆にも、この事実を伝えよう。散々心配を掛けてしまった。だからこそ、ぼくの新しい物語を伝えて、安心して貰いたかったから。何よりも、ぼくの母を悪者のまま、皆の記憶に残したく無かったから。さぁ、明日から忙しくなりそうだ。物語を再び描き直す日々が始まるのだから。輝の物語、第二幕の始まりだ。

◆◆◆83◆◆◆

 事件の終焉から数日後、ぼく達は再び島原に訪れていた。蝉の鳴き声だけが響き渡る夕暮れ時の街並みは蒸し暑かったけれど、汗を拭いながらぼく達は街並みを歩んでいた。今の街並みは、過去の情景とは大きく様変わりしてしまっている。でも、過去に惨劇が起きた場所であることには違いなかった。一連の騒動の発端となった場所でもある。そして、この地には多くの人達の魂が眠っている。その中には美月……ううん、前世の母さんも含まれている。この数日間、本当に色々なことがあった。ぼくに取っては激動の数日間だった。ぼくも少しはオトナになれたかな? そんなことを考えながら、ぼくは皆と共に歩んでいた。

「それにしても、随分と大々的な事態にまで陥ったもんだよなー」

 頭の後ろで手を組みながら、リキが溜め息混じりに呟いて見せる。大々的な事態か。そうかも知れない。街のあちらこちらで一斉に神隠し事件が起こったのだから、改めて振り返ってみれば規模の大きさに驚かされる。多くの子供達は無事に戻ることが出来た。でも、無事に戻ることが出来なかった子達が居たのも事実だった。全身を針の様な物で刺されていたのだから、急所に当たってしまった子達もいたのだと思う。彼女のやったことは許されてはならなかった。

「でもよ、何よりもテルテルが無事に戻って来たことが、オレは嬉しく思うぜ」

 豪快に笑い声を挙げながら、皆に振り返って見せる。相変わらずリキは豪快な子だ。でも、その豪快な振舞いを再び見ることが出来てぼくも嬉しいよ。あのまま、事態が悪化していたら、こうして皆と一緒に歩むことも出来なかったのかも知れないから。犠牲になってしまった子達には本当に申し訳無いけれど……悔やんでいるだけでは始まらない。情鬼の被害を最小限に抑え、出来るなら完全に根絶やしにしたい。それがぼくの願いだから。

「だが、輝。お前の後先考えない無謀過ぎる振舞いの数々に、俺達は終始生きた心地がしなかったことは忘れてくれるな?」

「う、うん……。ごめんね、コタ。一杯心配掛けちゃったよね?」

「謝るのは俺に対してだけか?」

 眉をひそめながら、憮然とした表情でぼくを見据える素振り。ついでに小さな溜め息。コタの不機嫌そうな振舞いも、こうして無事に戻って来れたからこそのもの。ぼく達のやり取りを見ながら皆が可笑しそうに笑っていた。やっぱり、ぼくとコタは兄弟みたいだ。

「テルテル、おっかない兄貴にお叱り受けちまったなー」

「うむ。やはり小太郎と輝は兄弟だな」

「……何か不都合でもあったか?」

「おりょ? コタがちょっと赤くなっておるのじゃー」

「……赤くなって無いっ」

(でも……コタの言う通り、後先考えない無謀な振る舞いは問題だったなぁ。結局、皆を巻き込んじゃったし、下手をすれば、より一層被害を拡大しちゃったかも知れない)

「皆もごめんね。もう、無茶なことはしないよ」

「だが、それはそれで、輝らしく無い様に思えるがな?」

 ぼくの肩に腕を回しながら、太助がにやにや笑って見せる。そんなことを言われると返答に困る。

「えっと……ぼくはどう振舞えば良いのかな?」

 変わることの無い仲間達がいて、変わることの無い日々が成り立つ。一人じゃ無いって、本当に幸せなことだと思う。

「あのね、皆に聞いて貰いたい話があるんだ」

 そう。皆に聞いて欲しい話がある。だからこそ、こうして島原に一緒に来て貰ったのだから。話したいこと……それは母のこと。美月のことでは無く、今のぼくの母のこと。皆に聞かせた母の姿と、実際の母の姿が違うことを伝えたかった。高校生にもなって仲間達に母親の話をするなんて格好悪かったけれど、でも、悪者のまま終わらせたく無かったから。だから、ぼくは母と色々な話をしたことを皆に語って聞かせた。予想通り、皆、驚いていた。中でもコタの驚き方は相当の物だった。無理も無いよね……。度々、ぼくを守るために母さんと衝突してきた身だけに、信じられないというのが率直な気持ちだったと思う。

「信じられないな。あの母親が、そんな想いを抱いていたとは……」

 でも、ぼくの口から語られた話だから、コタは信じてくれたと思う。ううん、信じてくれただけじゃない。ぼくの想いに共感もしてくれただろうし、理解もしてくれたと思う。

「人の想いというのは複雑なものじゃな。じゃが、これで、テルテルも復讐劇を企てずに済むのじゃ」

「うん。そのことに関しては、ロックにも心配掛けたよね」

「今だから言ってしまうのじゃが、もしも、復讐なんぞ企ておったら、ワシは殴ってでもテルテルを阻止していたのじゃ」

「この、立派な腹で阻止してたのじゃーってか?」

「ふぬっ、リキよ……鉄拳パンチをお見舞いされたいのかの?」

「わはは。そんなに怒るなって」

 じゃれ合う二人の様子が何だか面白くて、ぼくは声を挙げて笑って見せた。

「でもね、ぼく、気付いたんだ。復讐なんてさ、為し遂げた所で、何も良いことなんか無いって。結局、後に残るのは哀しみだけなんだよね。これは美月がぼくに遺してくれた想いなのだと思う」

「何も良いことなんか無い、か……。確かにそうだな」

 ぼくの言葉にコタはどこか痛むかの様な沈んだ表情を見せたのが気に掛ったけれど、皆の居る前だから、余計な話には触れないで置こうと考えた。

 丁度、皆も集まっているから、ぼくは自分の本当の姿を伝えた。怒りに我を見失い、憎しみだけを追い求め続けたこと。本気で復讐を果たそうとしたことから、醜くねじ曲がった心まで、全部、全て、ぼくの本当の姿を聞いて貰った。あの夢のことも話した。復讐劇を企て、皆に見捨てられたこと。それがキッカケで復讐劇を諦めたこと。とにかく、想いの全てを語った。皆、真剣な眼差しでぼくを見ていてくれた。やっぱり、皆、素敵な仲間達なんだよね。ぼくの……大切な、本当に大切な仲間達なんだよね。

「へへ、テルテルってさ、そういう部分が妙に生真面目だよなー」

「ぼ、ぼくが生真面目?」

「おうよ」

 笑いながらリキがぼくの肩に腕を回す。何もこんな蒸し暑い所で、そんな暑苦しい振舞いを見せなくても良いのに……。そう思いながらも、肩越しに伝わる体温に、リキの熱い想いを感じていた。リキの熱い想いと、ついでに体温を感じて、ちょっとドキドキしちゃったのはナイショだけど……。

「大体さ、品行方正、公明正大な正義の味方なんざ、気色悪いぜ。そんな聖人君子みてぇな奴は、一緒にいても息苦しいだけだとオレは思うけどな」

「ふむ。力丸にしては、中々に難解な言葉を使いこなしたものだな。意味を正しく理解していることに、俺は甚だ驚きを禁じえないな」

「おい、コラ、太助! そこは突っ込む所じゃねぇだろ! しかも、政治家のセンセーみてぇな小難しい表現で感想述べるんじゃねぇっつーの!」

 涼やかな笑みを浮かべながらの太助の突っ込みが可笑しくて、思わず、ぼくも声を挙げて笑っていた。

「あ! テルテルまで笑ったな!」

「うわっ! リキ、痛い、痛い! 締め上がっちゃうよ!」

 ますます力の篭る腕に、ぼくは危うく締め上げられそうになってしまった。まったく、力の加減の出来ない子なんだから……。

「オレが言いてぇのはさ、誰だって、心に鬼を飼っていると思うんだよな。いや、オレ自身が鬼かも知れねぇ。そう思う時だってあるさ。だからさ、自分だけが間違っているとかさ、自分だけが悪者だとか、そーいう考え方は止めにしようぜ? 何しろ、オレ達は仲間なんだからさ」

 リキの豪快な笑い声に、ロックが苦笑いを浮かべて見せた。

「なんというか、相変わらずリキは暑苦しい男なのじゃー」

「暑苦しい男じゃなくて、熱い男って言ってくれよな? オレは熱い男なんだからさ。わはは!」

「相変わらず、力丸は自分がお笑いキャラであるという自覚に欠けているな」

 太助がボソっと呟けば、皆が力強く頷いて見せる。

「お、オレ、そういうキャラなんだっけ?」

「自覚が無いというのは、厄介なものだな」

「おい、コラ! コタ、ボソっと呟くんじゃねぇよ!」

 本当、色んな意味でリキは熱い子だと思う。でも、その熱さが、ぼくを変えてくれる一因になってくれたのも事実なんだよね。皆の協力があってこそ、今のぼくがある。そうだよね?

「テルテル、ワシらは家族なのじゃ。じゃから、辛い時、哀しい時、それから、苦しい時には……」

「うん。遠慮無く、頼らせて貰うね」

「うむうむ。良く心得ておる様子じゃな。ならば、一安心なのじゃ」

 ロックが見せてくれる満面の笑み。ああ、やっぱり、その笑顔が良いよね。ぼくを照らしてくれる太陽だ。これからもずっと、ぼくのことを照らし続けて欲しいな。ね、良いよね、ロック?

「お! ロックってば、たまには良いこと言うじゃねぇか?」

「むー、お主は何時もながら一言余計なのじゃ」

「だが、家族か……。ふふ、そういう付き合いも悪くは無いものだな。なぁ、小太郎?」

「……だから、何故、俺に振る?」

 時は何時だって残酷なまでに流れ去ってゆく。待って欲しい時に限って遠慮無く、過ぎ去ってゆく。でも、変わらない物は確かに存在している。仲間達と過ごす時間、築き上げた友情。変わらないで欲しいな。ううん、そうじゃないよね。変わらない様に、色褪せない様に、しっかりと抱えながら生きて行くよ。やっと手にすることが出来た幸せなんだ。もう、絶対に離したりしないさ。

 この後、ぼく達は島原住吉神社を訪れた。もしかしたら、ただの自己満足で終わってしまうかも知れない。でも、今回の事件で、数多くの迷える魂達が消滅する事態に陥ったのは事実だから。弔うなんて考え方、ちょっと違うのかも知れないけれど、でも、少しでも、居なくなってしまった人達のために祈らせて貰いたかった。今日、こうして皆で島原を訪れた理由の一つ。少しでも救いになれれば良い。そう願いながら、ぼく達はしばしの間祈りを捧げた。祈りを捧げ終えたところで、さて、これからどうしようかという話題に盛り上がっていた。早速、何時もの如く、ロックが話を切り出していた。

「しかし、今日は暑いのじゃ。皆もすっかり汗だくであろう? 何か、涼やかな物でも食いに行くのじゃ」

「良いね、良いね。ぼく、宇治金時白玉添えが良いなー」

「ふむ。既に選択肢がかき氷一択になっている気がするのは俺だけか?」

「まぁ、テルテルが言うんじゃ仕方無いんじゃねぇの?」

「ということらしいが、輝、お前はどう考える?」

「へ? え、えっと……。やっぱり、ぼく、かき氷が食べたいな。ねー、ロック?」

「そ、そうじゃな。良し、皆の衆、かき氷を求めて、何処かに向かうのじゃ」

「おい、コラ、ロック。これから探すとか言い出すんじゃねぇだろうな?」

「人生とは是、往く先知れずの冒険そのものなのじゃ!」

 ゆっくりと暮れて往く夕焼け空。あの日、あの時、幼き日のぼくが目にした夕焼け空と、どこかで繋がっているのかな? 母さん、輝は幸せに暮らしています。素敵な仲間達に囲まれて、今を精一杯生きています。だから、どうか、遠くから見守っていてください。何時の日か、あなたの下に戻れた時に、たくさんお話を聞かせられる様に、ぼくも精一杯、今日を、明日を生きようと思います。

◆◆◆84◆◆◆

 あれから数日が経った。一連の騒動は解決し、街は再び平和になった。結局、美月が残した痕跡は、驚く程あっさりと忘れ去られてしまった。たった数日で風化してしまうとは、時の流れは本当に残酷だと痛感させられた。ぼく達は何を為し遂げることが出来たのだろう? 色々なことがあって、色々な体験をして、ぼくは少しだけオトナに近付けた気がした。ずっと嫌だと思っていたオトナへの道。少しだけ……ほんの少しだけだけど、前へ進めた気がする。

 相変わらず照り返す様な日差しの強い夕暮れ、ぼくは四条通を歩んでいた。隣にはロックが居て、相変わらず何時もと変わらないお喋りに花が咲いていた。何時もの様に、ロックは焼き立てのお団子を頬張りながらも、せっせとぼくに語り掛けていて、ぼくも笑いながら受け答えしていた。平和な時が戻って来た。そう実感していた。

 判っているんだ。それは多分、そんなに長い時間では無いことも。情鬼は人の心から生じる存在。また、次の情鬼が生まれて、また、コタと小太刀が戦いを挑む。ぼく達はそれを静観することしか出来ない。悔しいけれどぼくは本当に非力だ。何も出来ないただの子供だ。だから……オトナになることを、受け入れようと思えたのかも知れない。皆のこと守りたいから。ぼくの大切な仲間達を、ぼくの大切な家族を、ぼくの……ぼくの手で守り抜きたかったから。

 徒然に話し込んでいるうちに、何時の間にかぼく達は花見小路に至っていた。他愛も無いお喋りが楽しくて、多分、無意識のうちに此処まで来てしまったみたい。相変わらず、ぼくはいい加減な奴だ。でも、ぼくは、ぼくのこと、少しだけ好きになっても良いかなと思えるようになった。多分、皆のお陰だと思う。

「むう、やはり見当たらないのじゃ」

「おかしいなぁ。確か、この辺りに小道があってね、そこを入った所に匂い袋の店、確かにあったんだけどね」

 近くを通り掛かりついでに、ぼく達は桃山先生と訪れた匂い袋の店を探していた。そもそも小道があった場所は民家の塀に覆われた場所だった。やはり、店を見付けることは出来なかった。あの時ぼくが桃山先生と訪れた場所は一体何だったのだろう? やっぱり不思議な体験をしたことは事実だったみたい。

「そういえば、テルテルが話しておった、喫茶ポワレとやらに行ってみたいのじゃ」

「えへへ。凄く幻想的な場所だったよ。後で行ってみよう?」

「うむ。楽しみなのじゃ」

 でも、今日は高台寺に行ってみようと考えていた。特に何か目的があるという訳では無いけれど、高台から見渡せる京都市内の景色は、ぼくの好きな景色の一つだから、ロックと一緒に見たいと考えていた。それに、ロックとは色々とお話したかったから。まぁ、あまり堅苦しく考えるつもりは無かったけれど、それでもこうして一緒に歩める。それが本当に幸せだった。

 こうしてロックと二人で並びながら歩くのは楽しい一時だ。ずっと手は握り締めたまま。時々腕組みしたり、人目を忍んでこっそり道路でキスしてみたり。もう、人にどう思われようと関係無いと思っていた。少なくても皆と一緒に居る時は恥ずかし過ぎるから、そんなことしないけれど、多分、皆も既に気付いているのだと思っている。それでも、ぼく達は普段からこういう調子だったし、明確に「恋人」という振舞いをしなくても、今とあまり変わりは無かったから。

 花見小路から脇道を抜けて、再び東大路通を目指していた。徒然なるままに話ながら歩いていると、ぼく達の目の前から小奇麗な舞妓さんが歩いて来るのが目に留まった。

「うわぁ、舞妓さん。お化粧も綺麗に決まっていて、綺麗だね」

「うむ! 殺風景な街中の景色に咲いた、一輪の花なのじゃ!」

 思わず、ロックが感嘆の声を挙げるのが聞こえた。でも、聞こえたのはぼくだけじゃ無くて……。

「ねぇ、ちょっと……。ロック、今、すれ違いざまに、舞妓さん笑っていたよ」

「む? 何か面白い物でも見たのかの?」

「……ロックの言葉が面白過ぎて、笑われたんだって」

 ほんと、ロックは自分が天然だってことを自覚していない、文字通りの天然キャラだから、こういう小恥ずかしい体験は日常茶飯事のことだった。でも、ロックと一緒にいると、本当に笑いが絶えなかった。まぁ、それだけでロックのことが好きだって訳では無いけれど、一緒にいるのは本当に楽しい。だからこそ、この幸せな日々を守り抜かなければならない。そう痛感していた。

 やがて、ぼく達は東大路通に再び合流した。往来する車の量は多く、夕暮れ時らしく人の通りも多かった。

「舞妓さんかぁ……」

「む? 美月のことを思い出しておったのかの?」

「うん。舞妓は修行を積んで芸妓になる。華やかな世界だけど、舞台裏は薄汚いものなんだよね。ああ、皆が皆そうだとは思っていないけれど、何だかそういうのって哀しいなぁって思ってね」

 ぼく達は横断歩道で信号が変わるのを待ち侘びていた。こうして、ただ立っているだけでも汗は滲んでくる。

「そうじゃな……。どの様な場所においても、人の集う所には念も集うのじゃ。特に負の感情は連鎖するでの。澱んだ念が集まり、やがて情鬼となる。何とも因果な話じゃのう」

「うん。本当に深い哀しみに満ちた事件だったね……」

 不意に信号が赤から青に変わる。歩き出した人の流れに乗って、ぼく達も歩き始めた。哀しんでみたところで、何かが変わる訳でも無い。それは良く判っている。でも、やっぱり人である以上は痛みも感じるし、哀しみだって感じる。

「ワシらは、ワシらに出来ることから為してゆけば良いのじゃ」

「うん。それもそうだね」

「お! こちらのパン屋さんには、何とも美味そうなあんドーナツが並んでいるのじゃ!」

「えっと……ロック、また食べるの?」

 苦笑い混じりに問い掛けてみたけれど既にロックは店の中。テルテルの分も買ってくるのじゃ、なんてご機嫌な声を響かせている。

(だから、声が大きいんだって……。あーあー、店員のお姉さん、笑っているし……)

 ロックは甘いお菓子に本当に目が無い子だ。で、それに付き合っちゃうぼくがいる訳だ。

 そんなこんなで戦利品を片手に、ぼく達はさらに東大路通りを進んだ。

(ロックってば、何個買って来たのだろう? 袋が妙に大きい気がするけれど……)

 それにしても、こういう地元の小さな商店で扱っている食べ物って、どうして、こんなに美味しいのだろう。何だかんだ言いながらも、ぼくも美味しいあんドーナツを堪能していた。でも、何もこんな暑い日に、思い切り喉の渇きそうな食べ物を頬張るのってどうなんだろう? まぁ、美味しいから良しとしよう。なんて考えていると、颯爽と自販機でお茶を購入してきたロックの姿に気付いた。

(一体、何時の間に? ほんの一瞬、目を離しただけなのに……恐るべし早業だ!)

「こういう隠れた名店を発掘するのは楽しいものだよね」

「む? テルテルもワシと似てきたのじゃ」

「まぁね。でも、本当にそう思うからさ。ほら、有名な土産物とか、お菓子とか扱っているお店って、ガイドブックに載ったり、テレビに出たりするじゃない? だから知名度も上がり易いけれど、でも、そうした有名店の影に隠れちゃっている、小さな個人商店も悪く無いと思うんだよね」

 太陽の日差しは確かに色々な物を明るく照らし出してくれるけれど、ぼくが好む光は少し違う。最近、そう気付かされた。『輝』という名に恥じない様に生きよう。そんな御大層なことを考えてみたけれど、ぼく一人が放つことの出来る光なんて大して大きな物じゃ無い。何で、こんなことを思う様になったか? 数日前、皆で島原を訪れた日の夕方にあった出来事に起因する。

◆◆◆85◆◆◆

 皆で島原を訪れた日、ぼくはコタに連れられて宇治へと向かっていた。ぼく達に取っては沢山の思い出が残る場所だから、そこでコタはぼくに何かを伝えたかったのだろうと考えていた。道中、コタは終始無言で、でも、不機嫌という訳でも無くて、多分、色々と考えを整理していたのだと思う。

 京阪宇治駅に着いて幻想的な駅の風景を眺めていた時のことだった。唐突にコタが口を開いた。

『俺はずっと、お前のことが好きだった』

 可笑しな話だけれど、ぼくの中ではコタは兄弟の様な存在として割り切れたけれど、コタの中では、どこか迷いが残っていたと聞かされた。ずっと……ぼくのこと、想っていてくれたことを改めて聞かされた。正直、凄く動揺させられたし、どうして、今更、という想いもあった。

『済まないな、輝。今更、こんなことを言われても困惑するだけなのは判り切っていた。だが、どうしても俺の中では迷いが消え去ることが無かった。未練に執着する惨めな男だと嘲笑ってやってくれ』

 普段見せることも無い哀しげな表情を見せられて、ぼくはそれ以上何も言えなくなってしまった。多分、凄く迷ったのだと思う。情鬼との一件があったから、とにかく、ぼくを救い出すことだけを念頭に置いて行動してくれていたのだと思うけれど、こうして落ち着きを取り戻した時、置き去りにされちゃった気持ちが、どうしようもなく噴出してきちゃったのだと思う。こういうのは論理じゃ無いと思うから。だって、誰かを好きになることに理由なんか無いから。

『宇治川の中州、そこで話をしよう』

 蒸し暑い気候の中、蝉達が命を燃やして鳴いている声が響き渡る。夏は残酷な季節。コタの言葉が蘇る。

 あの時、桃山先生と歩いたのと同じ道をぼく達は歩んでいた。むしろ、その道はコタと何度も何度も歩んだ道だったから、だからこそ、思い出を手繰り寄せる様に歩いていた。夕暮れ時の細道は静まり返っていて、立ち並ぶ土産物屋も店仕舞いの準備に勤しんでいた。そんな中を、ぼく達は言葉も無く歩み続けていた。相変わらずコタは無言のまま少し俯き加減で、妙に小さくなった背中を見つめていた気がする。

「あの時、憎悪の能面師との一件でも、この場所を訪れたよね」

 コタは黙って頷いて見せた。

「ぼくが自殺未遂をした時、病院から退院した日にさ、此処を訪れてさ……」

 懐かしい情景が蘇る。思い出すなぁ。あの中州でコタに初めて殴られたっけな。鬼の様な形相でコタは怒りをぶつけた。自殺しようとしたぼくのことを本気で怒ってくれた。ううん、今、聞かされたけれど……それだけじゃ無かったんだね。

『もう、二度と、こんな馬鹿な真似をするな! お前が居なくなったら……俺は……俺は! どうやって生きて行けば良い!? だから……頼む。俺を……一人にしないでくれ……』

 ぼくのこと殴って、殴って、それから、声を張り上げて獣の様に泣いて……。初めて、見たんだよね。コタが涙流す姿……。

「ねぇ、コタ。今でも……ぼくのこと、想ってくれているの?」

 思わず、ぽつりと問い掛けてしまった。静かに歩んでいたコタが足を止めた。返事、無かった。代わりに……力一杯抱き締めてくれた。暑い日差しの中歩き回って、すっかり汗でベタベタだったのに、お構い無しに抱き締めてくれた。ぼくはコタの汗の匂い感じていた。

「ぼく、汗でベタベタだよ?」

「構うものか」

「えへへ。こんな場所で……恥ずかしいよ」

「す、済まない……」

 やっぱり、今日のコタは何時もとは明らかに違っている。ぼくはどうしたら良いのか、頭を抱えて叫びたい位に焦っていた。でも、ぼくが取り乱してしまったら、コタはもっと追い詰められてしまう。こういう時って、好きになられた方より、好きになってしまった方が苦しいのだと思う。コタにしてみれば背水の陣だったのだと思う。でも、ぼくはコタに心無い言葉をぶつけてしまった。気になって仕方が無かったのは事実だったし、今、この場面を逃したら、多分聞くことは出来なかったと思うから。だから、ぼくは遠慮無しに直球ストレートに問うてみた。

「ねぇ、コタ。小太刀とは……どういう関係なの?」

 コタは一瞬困った様な表情を見せた。目が泳ぐのが見えた。もう、それだけで二人の関係、判っちゃった気がした。多分、そういう仲なのだろうと。

 珍しくコタが弁明した。小太刀とは戦友の様な関係であり、そこには明確な恋愛感情は無いのだと。だから、他の相手に想いを寄せようが、そういう関係を持とうが、小太刀は気にしないと言っていたのだと。その言葉を聞いた時、ぼくは勢いに任せて、コタのことを殴ってやろうかと思った。どうして、そんなことを口に出来るのだろうと。その言葉を額面通りに受け止めるコタの馬鹿さ加減に、ぼくは途方も無く腹が立った。

「本当に、そうだと思うの? そんな風に思っているのだとしたら、コタは最低だと思う」

「……俺だって、最低だということ位、理解している」

「でも、想いを抑えられない。そういうこと?」

「そうなるな」

「だから苦しいの?」

「そうだな……。ふふ、俺は何を言っているのだろうな?」

「ううん。可笑しなことじゃないと思うよ。ぼくも、その気持ち……痛い程判るから」

 握り締めた手に、ギュっと力が篭められた。

 そのまま、ぼく達は再び歩き出した。宇治川の中州へと続く橋の上。そっと橋から身を乗り出せば、雄大なる宇治川は変わること無き流れを称えていた。ゴウゴウと唸りを挙げて流れる宇治川の姿。水の量も多く、荒々しい流れは、鴨川の流れとは対照的に感じられた。今のコタの気持ちを現すかの様な、繊細ながらも、荒々しい流れだった。

 中州に辿り着いたぼく達は、やっぱり言葉無く佇んでいた。

 ぼく達の視界の先には、今まさに沈み往こうとする夕日が見えていた。奈良線の鉄橋。丁度、宇治へと向かい列車が走り抜けて往く所だった。奈良線の淡い黄緑色の車体も、夕日を浴びて真っ赤に燃え上っている様に見えた。雄大で、幻想的な光景だった。

 沈み往く夕陽の日差しが、水平線に広がる宇治川一面に反射して、キラキラと燃え上る炎の様な色合いが一面に広がっていた。木々も、街並みも、それから多分、ぼく達も、燃え上る様な色合いに染まっていたと思う。水の流れに反射する夕焼け空の赤い色。胸が締め付けられる程に綺麗な情景だった。本当に壮大な光景で、でも、一日が終わってゆく。それを物語る様な、どこか物哀しい情景だった。その情景を二人で見つめていると、コタがそっとぼくの肩を抱いて見せた。ぼくはコタにもたれ掛かった。でも、同時にロックの満面の笑みが蘇ってきて、ぼくは……どうしたら良いのか判らずに、ただただ動揺するばかりだった。

「輝、お前は俺に取って、雲間から差し込む希望の光だった」

「え? ぼくが……希望の光?」

「そうだ。覚えているか? 俺が引き篭もりになった時のこと」

「忘れる訳、無いじゃない……」

 皆の前で卓君に辱めを受けた日。あの時も、今と同じ様な光景だった。沈み往く夕陽に、ちっぽけな教室が照らし出されて、燃え上る様に赤く染まっていたのを鮮明に覚えている。辱めを受けたぼく。それを示唆した卓君。逆上して、卓君を本気で殺そうとしたコタ。あの後から、周囲の子達は皆ぼく達の敵となり、ぼくとコタは二人きりで生きて行くことを余儀なくされた。

「お前は、引き篭もりになった俺を心配して、毎日顔を出してくれた」

「だって、ぼくのせいで……」

 違うよね。あれは卓君に全ての非がある。それなのに、どうしてぼくが罪悪感を背負わなければならないのだろう? やはり、世の中は理不尽で、不条理で、何より……人の心は本当に恐ろしいものだと思わされる。

「お前の存在が、俺の唯一の命綱となっていた」

 止めてよ……そんな言い方。心、揺れ動くよ。でも、結局ぼくは……。

「五山の送り火、一緒に見に行った日のこと覚えている?」

「ああ。俺が引き篭もり生活を脱するきっかけとなった日だ」

 五山の送り火を見に行きたかった。だから、コタを一緒に誘った。それ位の感覚だった。

「俺の脳裏には鮮明に送り火が燃え上る情景が描き出されてな。輝と一緒に見に行きたい。そう思ったら、次の瞬間には部屋から飛び出していた」

 その日はコタの引き篭もり生活に終わりを告げた日でもあった。それからしばらく経って、リキと友達になったと聞かされたことを思い出した。

「機会は幾度となくあったのに、俺は想いを伝えきれなかった」

 どこか寂しげな笑みを称えたまま、コタがポツリと呟いて見せた。

(違うよ。コタは想いを伝えてくれた。受け止めきれなかったのは、ぼくが弱かったからだ……)

「輝は俺の弟みたいな存在だ。そう、割り切ろうとして、受け止めようとして……」

「でも、出来なかった?」

「そうだな。未だ何処かで未練を残しているのだろうな」

 可笑しそうに笑いながら、ぼくを抱く腕に力が篭めてみせた。ぼくはどう応えれば良いのか迷っていた。適当に取り繕う様なことは口にしたく無かったし、可笑しな期待を持たせる様なことも口にしたく無かった。でも、こうやって考えて、考えて、出来上がる返答は、何だかウソに塗れた返答になってしまいそうに思えた。それならば、想いをそのまま伝えた方がずっと良い。せめて、少しでも変わったぼくを見て貰いたい。そう考えていた。

「ぼくもコタのこと、好きだよ」

「ああ……」

「コタと……恋人に成りたかったよ」

 ぼくの言葉を聞きながら、コタは穏やかな笑みを浮かべながら、静かに頷いて見せた。

「でも、コタは小太刀のこと想っているのでしょう?」

「ああ。そうだな。あいつは俺に取って特別な存在だ」

 遠慮無く言ってくれる。沈み往く夕陽をじっと見据えたまま、コタは力強く言い放って見せた。何か無性に悔しくなった。ぼくの方が一緒に居た時間、長いハズなのに。そんな子供染みた苛立ちを……嫉妬心を抱くぼくが哀しかった。

「だが、輝も俺にとっては特別な存在だ」

 笑いながら言われて、ぼくも思わず吹き出してしまった。

「なにそれー? あ! もしかして、それでぼくの機嫌取ったつもり?」

 あーあ。結局、ぼくとコタはこういうノリになっちゃうんだなぁ。やっぱり、兄弟みたいな関係で居るのが楽しいのかな。堅苦しいの似合わないと思うし、でも、何だかんだ言って、やっぱりコタのこと好きだな。普段は頼りになる格好良いお兄ちゃんなんだけど、どこか間が抜けていて、時々こういう弱い一面を見せてくれる。ぼく、コタの光になれたのかな?

「ああ。輝がいてくれたお陰で俺は救われたからな」

「ぼく、足引っ張ってばかりだったよ?」

「確かに、後先考えないお前の行動には、何時も肝を冷やしていた。だが、それでも、共に歩んでくれたことは大きな意味を持つ。これまでも、それから、これからも……俺と一緒に歩んで欲しい」

 何時の間にかコタの表情には笑顔が戻ってきていた。少しずつかも知れないけれど、気持ちに整理が付いた様に思えた。ぼくとコタは、今の関係を維持してゆくのが良いのかも知れない。そんなことを考えながら、ぼくは沈み往く夕陽をジッと見つめていた。もう、日は殆ど沈み掛っていて、微かに残り香の様に赤い色合いを残すばかりとなっていた。丁度、鳥達が巣に帰って往く様子が見えた。夕日に照らし出された鳥達の姿は精巧に出来た影絵を思わせる情景で、ぼくは思わず息を呑んだ。

「……ねぇ、コタ、あのさ、どさくさに紛れて何処触っているの?」

 幻想的な情景に見とれていると、何故か肩を抱いていたハズのコタの手がぼくの胸元に移っていた。可笑しそうに笑いながらコタはぼくの胸を揉んでいる。何だか、くすぐったいような……ちょっと変な気分になっちゃいそうな、何とも言えない状況だった。

「輝の胸は柔らかいな。良い感触だ……中々、堪らないものがあるな」

「もう、コタってば、せっかく良い雰囲気になっていたのに、台無しだよ」

「ほう? もうちょっと恋人気分を満喫したかったか?」

「とか、何とか言いながら、コタってば手付きがやらしいんだけど」

 やっぱり普段のコタとは少し違う様に感じられた。今までのコタは、ぼくの前でも格好付けていたのかも知れない。ぼく達は良く似ている。自分の姿を良く見せようと、何処かで演じていたのだと思う。だから、どこかぎこちない、絵空事の関係に陥ってしまったのかも知れない。常にコタとの間に生じていた微妙な距離……。それを作り出してしまっていたのは、ぼく自身であり、コタ自身だったのだと今更ながらに気付かされた。だから、後一歩を、どちらも踏み出せなかったのだろう。

「輝の体に興味があるのは事実だからな」

「体目当て!? うわっ、コタってば狼さんだ! 身の危険感じちゃうよね!」

「お、俺も男だからな……その、何だ……」

 何だか可笑しな気分だった。コタに肩を抱かれて、妙な悪戯されて、でも、嫌な気分じゃ無かった。もしかしたら、このまま一線越えちゃっても、ぼくは後悔しなかったと思う。コタがぼくのことをどう想ってくれているのか、ぼくがコタのことをどう想っているのか、お互いに判り合うことが出来た気がした。やっぱり、ぼくはコタのことが好き。ずっと一緒に歩んでいこうと思う。

「えへへ、コタ、ぼくとエッチしたいの?」

「そうかもな? 何だったらここでするか?」

 何処まで冗談で、何処まで本気で言っているのか、コタは可笑しそうに笑うばかりだった。

 日も暮れてきたところで、そろそろ帰ろうという話になった。駅までの道中、ぼくはずっとコタに寄り添って歩んでいた。コタも満更では無かった様子で、ぼくの肩をずっと抱いていてくれた。

「なぁ、輝。今日は俺の家に泊まりに来ないか?」

「えへへ。コタの家に泊まりに行くの、久しぶりだね」

 隣同士という距離の近さがあったから、会いたい時には簡単に会えた。だから、こうして泊まりに行く機会は多くは無かった。母との関係も最悪の状況だったし、だからこそ、コタの家は何時でも怒鳴り込んで来れる場所にあっただけに、余計に泊まり込みで遊びに行くのが難しかった。もう、今は母も余計な干渉をすることは無くなったから、気にすることなく泊まり込みでも遊びに行ける。

「楽しみだなぁ」

「そうだな。ずっと、お前のことを抱き締めているかも知れないな」

「うん。コタなら良いよ」

「大地に申し訳ない気がするが……」

「二人だけの秘密ってことで」

「ふふ。お前も性悪な奴だな」

 ロックのことを気遣いながらも、自分の想いを否定しないコタも性悪だと思う。

 道中、適当に夕食を済ませ、そのままぼく達はコタの家に向かった。家に着いた後、ぼく達は軽くお風呂に入って、後はずっとコタの部屋で抱き合っていた。

 不思議とそれ以上のことをしようという雰囲気にはならなかった。割り切った関係……なのかな? でも、ぼくもコタも判っていたのだと思う。それ以上先に進んでしまったら、今の良好な関係が壊れてしまうと。だから、ギリギリの所で思い留まりながらも、互いの想いを満たせる「距離感」を見出したのだと感じていた。

 凄く幸せな気持ちで一杯だった。もちろん、こんなこと、ロックには口が裂けても言えないけれど……。あんなに幸せそうな顔をしているコタ、初めて見た気がする。それだけでも、ぼくは本当に嬉しかった。コタのこと、やっぱり好きなんだと改めて実感した。

「話し込んでいるうちに、夜が明けてしまったな」

「そうだね。でも、悪く無い気分だよ。さすがに眠くなってきちゃったけどね」

「俺も同じだ。少し、眠るか? どうせ今日は休みだ」

「うん。その前に……」

「ああ。お休み、俺の可愛い輝」

 ぼくが目を伏せれば、コタがそっとくちびるを重ね合わせてくれる。ぼく達だけの秘密。

 コタの腕に抱かれて、ぼくは深い眠りに就こうとしていた。オヤスミ、ぼくの大好きなコタ。また、こうやってぼくのこと抱き締めてね? 時々は、コタの家に泊まりに来るからさ。あーあ。これって浮気になるのかな? それでも、黙っていれば判らないよねと考えるぼくは、コタの言う通り「性悪」なのかも知れない。

 一つ明らかになったこと。こんなぼくでも、コタの希望の光になれたということ。少しだけ、自分に自信を持てた気がする。もっと、もっと大きな光になって皆を照らしていこう。そんなことを考えながら、ぼくはコタの腕に抱かれながら眠っていた気がする。

◆◆◆86◆◆◆

「むうう。これだけ暑いと、アイスが食べたくなるのう」

「えー? ロックってば、まだ食べるつもり? そんなに食べてばかりいると……」

 ロックの背後に回り込みながら、ぼくは笑いながらロックの胸を鷲掴みしてみせた。

「ますます、おっぱい、おっきくなっちゃうよー」

「にゃはは、そしたら、テルテルも大喜びなのじゃー」

 ぼく達は東大路通から八坂通へと抜けていた。緩やかな坂道の先には、勇壮なる八坂の塔が佇んでいる。思わず顔を上げて、二人で見入っていた。

「夕焼け空に五重塔か。うーん、何か、絵になる風景だね」

「ふむ。風情ある景色じゃのー」

 ぼく達は足を止めて、しばし夕焼け空を背に浴びていた。響き渡る蝉の声。通りの両脇に立ち並ぶ店も明かりを灯し始めた。夜の営業へ繋げていく。そんな雰囲気を感じながら、吹き抜ける風を肌で感じていた。

「夕暮れ時になると、多少は涼やかになるのじゃ」

「そうだね。この風景……何だか、鐘の音色が聞こえて来そうだよね」

 ぼくが、その一言を口にした瞬間だった。

「え?」

 不思議な出来事が起こった。本来、鳴るはずの無い鐘の音色が響き渡った。

「ど、どうなっておるのじゃ?」

「ぼくにも判らない……。何が起きているのだろう?」

 でも、理由なんかどうでも良かった。夕日を浴びて煌々と燃え上る様に浮き上がる八坂の塔。昼の装いから夜の装いへと移り変わる街並みに響き渡る鐘の音。辺り一面から響き渡る蝉の声。本当に、この街に生まれて良かったと思える瞬間だった。目を伏せて、そっと風を感じていると、ロックがぼくの手をそっと握ってくれた。だから、ぼくもそっと握り返す。思わず二人で顔を見合わせて、二人で頬を赤らめながら、ぼく達は再び歩き始めた。

 鞍馬での能面騒動を皮切りに、ぼく達は不思議な出来事を幾つも体験してきた。今更驚く様なことの方が少ないというものだ。暮れ往く夕陽に抱かれながらぼく達は歩き続けた。緩やかな坂道を歩む中で観光客達ともすれ違った。この界隈は特に人気のある寺社仏閣が密集している地域だけに、特段珍しくは感じられなかった。中には浴衣姿で観光する人達も見受けられた。

「浴衣か。涼しそうで良いね」

「ふむふむ。今度はワシらも浴衣で遊びに出掛けるのじゃ」

「そうだね。この季節ならではの装いだものね。うん、そうしよう」

 夏の間しか着ることの無い浴衣。京都は盆地だから夏になると、琵琶湖から吹き付ける湿気のお陰で蒸し暑くなる。その上、日差しも強いお陰で肌を焦がす程の暑さになる。こうして街中を歩いていると、時々、打ち水をしている涼やかな風景にも遭遇する。暑い夏を乗り切るための工夫は、昔から語り継がれている人々の知識なのかも知れない。

 季節は巡る。どんなに待って欲しいと願っても、時は残酷に過ぎ去ってゆくばかり。春先には咲き誇る桜を見るために皆と各地に出掛けた。ぼくは寒い季節は苦手だから、早く暖かくならないかかとそればかりを待ち侘びていた。待ち侘びている時間というのは意外と楽しいものだったりする。でも、その半面、一日千秋の想いで待ち侘びていた季節が、いざ訪れると、今度は終わりが訪れることが辛くなる。夏が過ぎ、秋が訪れ、再び苦手な冬がやってくる。季節は一巡りし、ぼくも一つ年を取る。何だか、それが無性に哀しく思えて仕方が無かった。思わず、握り締めたロックの手に力が篭ってしまう。

「ふにゃ? テルテルよ、どうかしたのかの?」

「うん……。夏は、寂しい季節だよね」

「唐突にどうしたのじゃ?」

 屈託の無い笑みで、ロックが問い掛けてくれる。

「季節は移り変わってゆくでしょ? 夏は多くの生き物達が生まれて、それから、死んでゆく……」

「そうじゃな。蝉にしても、蛍にしても、短い命なのじゃ」

「ねぇ、ロックは……居なく成らないよね?」

 自分でも不思議なことだった。ロックと二人並んで歩き、本当に幸せな一時なのに……違うね。幸せな一時だからこそ、時が過ぎ去るのが怖くて仕方が無かった。夜になればロックは家に帰る。また明日と言って家に帰る。でも……それが成り立たなくなった時、ぼくはまた独りぼっちだ。ロックと出会い、こうして仲良くなり、本当に幸せな日々を過ごしている。

 ようやく高台寺の前に辿り着いたぼく達は、台所坂の緩やかな石段を登ってゆく。木々に包まれた石段はヒンヤリとした冷気を孕んでいる様に感じられた。石段の両脇を流れ往く緩やかな水路。そこから聞こえて来る、水の流れる音が涼しさを運んでくれている様に感じられた。

「笑わないで聞いてね。ぼくは永い間、哀しみに満ちた閉鎖的な環境で暮らしてきた。だから、こうして……誰かに優しくして貰ったり、幸せな想いをさせて貰ったり、そういうのに慣れて無くてね。怖いんだ。ある日、ふと目を覚ましたら、全部夢で、また……悪夢に包まれた日々が、ぼくを呑みこもうとするんじゃないかって。ロックとも……会えなく成っちゃったりするのかなって」

 石段をゆっくり登りながらも、ロックはただ静かにぼくの話に耳を傾けてくれていた。時折、すれ違う人達が奇異な目でぼく達を見る。変でしょ? 男同士なのにね。気持ち悪いって思う? ごめんね。でも、これがぼくなんだ。偽らないぼくなんだ。だから、どうか……そっとしておいて上げてください。

「涙、拭くのじゃ」

「え?」

「ずっとポケットに入れておった故、クサかったら許してくれなのじゃ」

 得意げに満面の笑みでハンカチを差し出されて、ぼくは思わず吹き出してしまった。奇をてらった一撃に、ぼくは敢え無く撃沈させられた。でも……笑って、笑って、それから、また、涙、毀れてきた。

「もう、ロックってば、最悪だよね。思わず、吹き出しちゃったじゃない」

「にゃはは。テルテルはやっぱり、笑った顔が可愛いのじゃ」

「もうっ、まだ言うの?」

 ロックは何時だってこんな調子で皆のことを笑わせてくれた。本当に絶妙なタイミングで上手い具合に言葉を選び、立ち振舞いを添えるから、誰もが不意を突かれて笑ってしまう。自然にそういう振舞いが出来るところは、多分、ロックの凄い才能なんだと思う。

 背が低くて、肉付きが良くて、子供みたいに童顔のロック。笑うと目が線みたいに細くなる。人を笑わせる才能に関しては、ぼく達の中でロックに叶う子は誰もいない。クールな太助も、何時も不機嫌そうなコタも、ロックには太刀打ち出来ない。笑っているうちに、ぼく達は石段を登り切ってしまった。

「ささ、テルテルよ、境内に向かうのじゃ。いざ、前進なのじゃー」

「ロックってば、相変わらずテンション高いよねぇ」

「むふふ。ワシは何時だって高血圧なのじゃ」

「えっと……それって、健康に問題ありってことでしょ?」

 ロックの珍妙な返答に、ぼくは終始笑いっぱなしだった。お陰で、違う意味で涙が出てきた。

 笑いながらも、ぼく達は高台寺の境内へと歩を進めていた。方丈へと至る前庭を経て、ぼく達は方丈を訪れていた。古き時代の面影を残す厳かなる情景に、しばし目を奪われていた。観光客の姿は無く、何だかぼく達二人で占拠した様な気分を味わえて悪い気分はしなかった。

「さっきの話の続きじゃがの、ワシも不安だったり、寂しかったりしているのじゃ」

「え? ロックが?」

「意外かの? ワシとてテルテルと同じ弱い存在なのじゃ。じゃから、こうやって馬鹿みたいに振る舞って居らぬと、不安に押し潰されてしまいそうなのじゃ」

 ぼくは大きな勘違いをしていた。そうだよね。ロックもぼくと同じなんだ。ただ、ぼくのことを気遣って明るく振舞ってくれているだけなんだ。それなのにぼくは、自分のことしか考えていなかった。

「ぼくは絶対に、ロックから離れないよ」

「ありがとうなのじゃ……」

「あ!」

 嬉しそうに笑うロックの頬を伝って落ちた一粒の涙。ぼくは驚きのあまり、思わず声を出してしまった。だから、ぼくは慌てて庭園に向き直った。

「え、えっと……。ああ、そうだ! 臥龍廊を見に行こう」

「ふむ。では、張り切って参るのじゃ」

 ぼくの中でのロックの存在が少し変わった気がした。ロックの涙に見出した想い……。何があっても絶対傍にいよう。ぼくの全てを賭けてロックのことを守ろう。そう、心に深く誓った瞬間だった。今度はぼくがロックを支える番だ。ぼくはロックの手を力強く握り締め、今度はぼくが先導した。ロックは最初、ちょっと驚いた様な表情を見せたけれど、すぐに笑顔を取り戻すと、ぼくの後に続いた。

 臥龍廊に訪れた後、ぼく達は道なりに庭園を歩んでいた。臥龍池を後にして、緩やかな階段を登ってゆく。ぼく達の視界の先には連なる傘亭、時雨亭が見えてきた。息を切らしながら、ぼく達は階段を登りつめ、しばしの時を此処で過ごさせて貰うことにした。一気に登って来たから、息も切れれば、汗も噴き出していた。

「ひゃー、さすがに一気に登り詰めたから暑いね。汗、ビッショリだよ」

「ワシも同じなのじゃ。中々に過酷な階段だったのじゃ……」

 汚れるかも知れないとは思ったけれど、足が疲れたぼくは通路に座り込んだ。人も居ないし問題無いでしょう。ぼくが座ったのを見たロックも隣に座って見せる。

「あ、風が出てきたねー」

「むう。涼やかな風なのじゃ。気持ちが良い風じゃ」

「うん。蝉の声も、心地良く感じられるよ」

 しばしの間、言葉無く、二人で涼やかな風を堪能していた。

 ぼくの隣にロックが居てくれる。それだけで、こんなにも心が満たされるなんて不思議な気分で一杯だった。ぼくは地面に置かれたロックの手に、ぼくの手を重ね合わせて見せた。

「えへへ。ベタベタでしょ、ぼくの手」

「テルテルの手じゃから、ワシは全然嫌じゃないのじゃ」

「ありがとう。こうして、手を触れ合っていると、すごくね、安心するんだ。ロック、言っていたよね。大樹君も手を握ってあげると安心するって」

「まだ、大樹が小さかった頃の話じゃ。もっとも、今、大樹の手を握ったりしたら、ぶん殴られること必至なのじゃ」

 一頻り笑ってから、しばしの間の沈黙が続いた。蝉の鳴く声に混じって、不意に、ぼく達の頭上から鳥の鳴き声が響き渡った。驚き、顔を上げれば大空を我が物顔で舞う鳶の姿が目に留まった。

「うわー。大きな鳶だよ。格好良いなぁー!」

「ほほう? テルテルは大きな鳥が好きなのかの?」

「うん! 強そうな姿に憧れるんだよね。ほら、ぼくは童顔だし、男らしくもないからさ」

「ワシはテルテルの愛らしい表情が好きなのじゃ」

 思わず言葉を失ってしまった。照れ臭くなったぼくは、再び大空を旋回する鳶の姿に見入っていた。ゆっくりと大空を舞いながら、鳴き声を放つ姿。その雄大なる姿に、ぼくは目を奪われていた。

「ああいう大きな鳥と友達になれたら良いなぁって、時々思うんだよね」

「うむ。その気持ち判るのじゃ! 大空を飛ぶ鳥達は、一体、どういう景色を見ておるのじゃろうか? 興味を惹かれるのじゃ」

 眼下で自分の話をされていることなど想像もしないのだろう。鳶はあくまでも悠々と大空を舞っていた。ぼく達は空を見つめたまま、ただ静かに互いの手を握っていた。

「じゃが、あの鳶は独りぼっちじゃな」

「そうだね」

「猛禽類は群れで行動する鳥では無い故、あれが普段の姿なのじゃが、独りぼっちなのは寂しいのう」

 ロックは穏やかな笑みを称たまま、何処か遠い目をしていた。ぼくにはロックが何か話したがっていることがある様に思えた。だから、ぼくは場所を変えることにした。ここからでは、ロックと一緒に見たい光景を見ることは難しかった。建物の陰に隠れてしまい上手く見えそうにない。人が多く居る場所になってしまうけれど、それでも一緒に見届けたい光景があった。だから、ぼくはロックに声を掛け、その場所に移動することにした。

「ふむ。テルテルが一緒に見たい場所ならば、ワシも興味惹かれるのじゃ」

「うん。それじゃあ、移動しよう」

 ぼく達は、来た時に通ったのとは反対側の階段を下ることにした。竹林を横目に見ながら階段を下り、途中にある茶店を後にする。一旦、境内から出ないことには、その景色は見えないため、ぼく達は高台寺の境内を後にした。

◆◆◆87◆◆◆

 意外に思うかも知れないけれど、高台寺の駐車場からは京都市内が一望できる。その寺の名前の通り、高台寺の境内は高台にある。そこに隣接する駐車場も、もちろん高台にある。しかも、この駐車場からだと遮る物が無いから、景色が本当に良く見える。背後からは、ぼく達と同じ様に霊山観音像が景色を眺めている様に思えた。

「おおー! 絶景なのじゃ!」

「えへへ。意外でしょ? でもさ、此処からだと京都タワーも良く見えるんだよ。ほら、それに……さっき、ぼく達が見てきた八坂の塔も見えるでしょ?」

「うむ! 夕焼け空に沈み往く街並み。何とも物憂げな景色で、儚さが身に染みるのじゃ! むう、絶景なのじゃ!」

「ロックってば、詩人だねぇ」

「じゃが、本当に良い景色なのじゃ……。ずっと眺めていたいのじゃ」

 こういう場面では、ロックは本当に子供の様に無邪気に喜びを表現してくれる。目を糸の様に細くしながら、嬉しそうに周囲を見渡す姿に、ぼくも釣られて嬉しくなる。

「やはり、テルテルはワシの希望の光じゃ」

「え!?」

「雲間から差し込む希望の光なのじゃ」

 驚きのあまり、ぼくはその場に凍り付きそうになった。偶然の一致なのかな? コタとロック、二人が全く同じ表現を選んだ。不思議な気分で一杯だった。誰かが、そう考える様に仕向けたとしか考えられなかった。ただひたすらに、ぼくは驚かされていた。

「ど、どうしたのじゃ? わ、ワシ、何かヘンなこと口走ったかの?」

「あ、い、いや……そ、その、あははー。そんなにヨイショされちゃうと、照れちゃうよね」

 途方も無くぎこちない笑みだったと思う。それでも、必死で平常心を保ち切ったつもりだった。でも、改めて冷静になって考えると、色々と気になる言葉に思えた。コタに関しては過去に色々あったのは、ぼくも一緒に体験してきたから良く知っているけれど、ロックに取っての『雲』とは、一体何なのだろう? 誰だって辛い過去や、哀しい過去はあると思うけれど……そういえば、ロックからは、そういった話を全く聞いたことが無いことに気付いた。それどころか、ぼくはロックが今までの人生を、どうやって生きてきたのかさえも知らなかった。もっとも、そういうのは迂闊に詮索するものでは無いと感じていたから、敢えて聞こうとも思わなかった。

「ちょっと汚れてしまうかも知れんのじゃが、端っこの方に腰掛けて、この景色を眺めたいのじゃ」

「うん。良いけど、駐車場だからね。邪魔にならないような場所にしないとね」

 ぼく達は邪魔にならない様に駐車場の端に移動し二人並んで腰掛けた。周囲の木々からは相変わらず蝉達の威勢の良い鳴き声が響き渡る。再び鳶の鳴き声が辺りに響き渡った。驚き、頭上を見やれば、先程と同じ様に鳶が大空を舞う雄大なる姿が確認できた。

「テルテルよ、ワシらが知り合った頃のこと、覚えておるかの?」

「ロックと知り合った頃?」

「うむ。少々昔に遡るかの。ワシとテルテルが初めて、二人きりで歩んだ日のことじゃ」

 照れ臭そうに頬を赤らめながら切り出された話。一体、どういう状況だったのだろうか? ぼくは必死で記憶を手繰り寄せた。きっと、ロックに取っては印象に残る出来事だったのだろう。その記憶を思い出せないというのも、何とも間抜けな話に思えた。必死で記憶を手繰り寄せるうちに、ぼくの中に、ある情景が蘇って来た。それは学校が終わり、皆が学校を後にしようとした時のことであった。

「あ! もしかして……下校間際になって、唐突に雨が降り出した日のこと?」

 恐る恐る問い掛けて見せれば、ロックはこれ以上無い位に照れ臭そうな笑みを浮かべながら、力強く頷いて見せた。

 あれはぼく達が中学生になった年のことだった。コタとリキが友達になり、そこから、ロックとも友達になった年のことだった。丁度、梅雨の季節だったと記憶している。校庭に植えられた紫陽花が涼やかな青い色合いの花を咲かせていた時期だった。

 その日は梅雨の時期にしては珍しく、朝から雲一つ無い空模様だった。でも、ぼくは何故か不安な想いに駆られて傘を持って学校へと向かった。折り畳み傘では無く普通の傘だった。そそっかしいぼくは度々傘を置き忘れては、その度に母に叱られていたので、必要無い場合に傘を持ち歩くことはまず有り得なかった。でも……予感と言うのだろうか? 何故か、夕方前から土砂降りの雨になる。そんな映像が脳裏に浮かんでいたのを覚えている。奇しくも、その傘を持って行ったことが、ロックと仲良くなるきっかけになろうとは想いも寄らなかった。

 あの日、ロックは下駄箱前で困り果てた表情で空を見上げていた。空を見上げた所で、降り頻る雨が止む訳も無く、茫然と立ち尽くすばかりだった。誰もロックに声を掛ける子は居なかった。何だか取り残された様な感じで、居ても経っても居られなくなったぼくは、迷うことなくロックに歩み寄った。

『はいっ!』

『へ?』

 ぼくは傘を差したままロックに並んで見せた。驚いた様な表情で、ロック、ぽかんと口を空けていたっけな。だからぼくは笑いながら声を掛けた。

『えへへ。一緒に帰ろう? 大地君の家は何処なの?』

 何だかくすぐったい様な、恥ずかしい様な気持ちで一杯だ。『大地君』。あの頃は未だ、リキが可笑しなあだ名を付ける前だったから、ぼくはロックのことを下の名前で呼んでいた。もちろん、ロックもぼくのことを下の名前で呼んでいたっけな。『輝君』。あー! 駄目、駄目! 耳が熱くなって来ちゃったよ。こんな間抜けな顔、ロックに見られたく無いかなー。

『へぇー。嵐山なんだ。しかも、お家は旅館を経営しているんだね。うわー、凄いなー!』

『ぜ、全然凄く無いのじゃ。家の手伝いがあるから、他の子達とも中々遊べないのじゃ。じゃから、ワシには友達が居らんのじゃ……』

 そうそう。あの当時のロックは、今とは全然別人だったっけな。見た目はあの当時から全く変わっていないけれど、中身は本当に別人だった。まぁ、中学生の頃から見た目が全く変わって無いのはぼくも一緒か。ついでに、身長もあんまり変わって無いんだよねぇ……。

『ふーん。じゃあ、今度、ぼく遊びに行っても良い?』

『え?』

『ぼくね、此処だけの話だけど……』

 わざわざロックの耳元に顔を近付けながら、ぼくは勿体ぶって見せた。内緒話に興味津々なのか、沈んでいたロックの表情が一気に明るくなった。

『あのね、ぼくね、すっごいオカルトマニアなんだよね』

『ほ、ほぇ? お、オカルトマニア……とな?』

 あの時のロックのドン退き顔、今でも良く覚えているよ。物凄いヘンな奴を見る様な目で見られちゃったっけな。でも、あの当時からぼくは馬鹿な子だったから、そんなこと全然お構い無しだった。

 友達、全然居ないの……ぼくも一緒だったからね。リキはコタが選んだ子だけあって、本当に面白い子だった。今と違って、だいぶ物静かな子だったけれど、料理の話になると突然、人が変わったかの様に熱弁を奮っていたっけな。身ぶり手ぶりを目一杯織り交ぜて、鼻息荒く喋る姿が本当に面白い子だった。当然、そんな面白いリキと仲が良かったロックだから、絶対面白い子に違いない。ぼくとも友達になってくれるに違いない。そんな根拠の無い期待を抱いていた。まぁ、随分と身勝手で、一方通行で、図々しい期待だったと思う。

 ドン退きしているロックのことなんかお構い無しに、ぼくは傘を差したまま歩き出していた。ロックは物凄く困った顔で、終始目が泳いでいた。良く考えたら、殆ど話したことも無いロックと二人で相合傘状態で、ぼくはいきなり危機的状況に追い込まれていた。何しろ、勢いに任せて学校を飛び出したは良いけれど、コタもリキも居ない状況だったから、どうにか場を持たさなければならない。そんな奇妙な使命感に駆られたぼくは、これ以上無い位に空回りしていたと思う。しかも、止せば良いのに渾身のオカルトトークで、ロックを恐怖に震え上がらせるばかりだった。

『嵐山だったら、まずは小倉池が有名だよね』

『小倉池? わ、ワシの旅館から……左程遠く無い場所なのじゃ……』

『あの池、身投げした人がさ、沈んだきり浮かんでこないという曰くアリアリの場所なんだよねー。幽霊の目撃情報も後を絶たなくてさ、京都府県警も要注意のポイントだってウワサなんだよねー』

 多分、ロックは生きた心地がしなかったと思う。勢いに乗ったぼくは、化野念仏寺の心霊話から、風葬地として知られる嵐山の数々の逸話を、次々と語って聞かせていた。みるみるうちにロックの表情が青褪めていたのを良く覚えている。ようやく清水五条の駅に着いた頃には、ロックは真っ青になっていた。ようやく此処に来て、ぼくは自分の過ちに気付かされた。

『あ、アレ? 顔色悪いけど大丈夫?』

『あ、あまり……大丈夫じゃ……無さそうなのじゃ……』

 もう、ロック