天狗使いの小太郎 第3話 『雲間から差し込む希望の光』

 

第4話 『五つの開かずの間』


◆◆◆1◆◆◆

 時刻は午後三時過ぎ。肌に纏わり付くジットリと湿った重苦しい空気ではあったが、こんな重苦しい空気の中でも蝉達の威勢の良い鳴き声が響き渡っていた。空は厚い雲に覆われ、気持ちまで湿ってしまう鈍色一色。拭いても拭いても湧水のように吹き出してくる汗に辟易しながら、ワシは学校前の緩やかな坂道を歩んでいた。

 風が吹き始めたのか、校庭に生える桜の木々の葉がざわめく音色が響き渡った。天候が崩れる前触れを思わせるような生温かい風を受け、ワシはおもむろに空を見上げた。そこには、今にも雨が降り出しそうな空模様が広がるばかりだった。

 危うい空模様を見届けながら、ワシは無意味と知りつつも気象情報を確認してみることにした。

 不意に足元に出来た影が静かに伸びる。驚き、顔を挙げれば、和服姿の小奇麗なお姉さんが手にした日傘が足元に影を作ったらしい。すれ違いざまに笑顔で会釈してみせる。その情景に一瞬、目線を奪われながらも、ワシは再び携帯のニュース動画に目線を戻す。往来する車の音が喧しい。どうにも聞こえにくいこともあり、目一杯顔に近付ければアナウンサーが御決まりのフレーズを口にするのが聞こえた。

「西日本では気温の上昇に伴って大気の状態が不安定になり、局地的に雷を伴って激しく雨が降るおそれがあります。気象庁は落雷や竜巻などの突風、低い土地の浸水などに十分注意するよう呼びかけています……」

 携帯を閉じ、ポケットに仕舞いながらも思わず落胆の溜め息が毀れる。

「十分注意するよう呼び掛けています、なーんて言われても、ワシは一体どーすりゃ良いのじゃーって話なのじゃ」

 大体、注意するように呼びかけてくれても、低い土地を高い土地に変えることなぞ出来る訳も無く、落雷やら竜巻に見舞われたら太刀打ち出来る訳が無い。人は大自然の驚異の前には無力だ。全力で襲い掛かられたら為す術も無い。それだったら、注意しろだなんて玉虫色な表現を使わずに、死に物狂いで全身全霊の力で突っ走って、とにもかくにも高台まで避難して下さいとでも言えば良かろうに。アナウンサーにツッコミを入れても仕方が無いとは思いつつも、そんなことを考えてみた。

 学校を出た時は未だ微かに薄暗い程度だと悠長に歩いていたら、僅かな時間の間に空は埋め尽くさんばかりの暗雲に覆い尽くされていた。今にも雨粒が零れ落ちそうな鈍色の厚みを帯びた雲は、一色即発の悠々たる気配を称えていた。

「むう……。天気予報のお姉さんが告げる通り、今にも雨が降り出しそうじゃの」

 そういえば朝の天気予報でも今日は午後から雨で、夜に掛けて激しく降るでしょうと言っていたことを思い出していた。とは言え、せめて家に帰り付くまでは待ってくれないだろうか? ワシは唸りを挙げる空を目を細めて睨み付けてみせた。しかし、空から返って来た応えは一切の妥協無き返答であった。唐突に唸りを挙げる空に驚いたのか、丁度すれ違った老婆が驚きの表情で眼鏡を掛け直すのが見えた。

「おーおー、空が威勢よく唸っておるのじゃ。にゃはは! 何とも景気良いことじゃのう」

 学校前の緩やかな坂道を下り終え、丁度、東山七条の交差点に差し掛かろうとしていた。不意に信号が明滅して赤に変わる。駆け出したい衝動を抑え、ワシは足を止める。

 時折地響きのような唸りを轟かせながら、空は尚も不穏な色合いを増し続けていた。こうして交差点で信号を待っている間にも、空から響き渡る唸り声は急速に大きくなっていた。ふと、期せずして吹き始めた風にざわめく木々に目線を投げ掛けていれば、智積院の外壁の向こう側、蝉が勢い良く鳴き始めるのが聞こえた。

「蝉さんも暑い中、御苦労さんなのじゃ。じゃが、そろそろ雨が降り出しそうなのじゃ。早めに屋根のある場所に避難するのが宜しいのじゃ」

 往来する車の流れの中に、そこに、確かに息づく虫達の姿が見て取れた。

「お! トンボなのじゃ!」

 唸りを挙げる空を見上げていると、さながら大空を横切る飛行機のようにトンボが舞う姿が目に留まった。

「忙しなく行き交う人を横目に眺めつつ、実に優雅な飛び方なのじゃ」

 東大路通りは何時もと変わらぬ交通量を称えていた。引っ切り無しに往来する車の流れを見ていると、人という生き物は何故にこんなにも忙しなく生きるのだろうかと不思議になる。どうせ短い人生なのだ。焦らずに生きれば良いものを。無駄に焦っているから、要らぬ所で事故を起こすのだ。そんなことを考えていると、救急車が勢い良く通り過ぎていった。ワシは思わず溜め息を就きながら、不意に足元に舞い降りたトンボを見つめていた。

「ふむ、お主は……シオカラトンボじゃな」

 鮮やかな青灰色の体が印象的なシオカラトンボに思わず見惚れてしまった。これから何処へ旅に出ようとしているのか? 是非とも、その行く先を追い掛けてみたかったところではあったが、ちらりと空を見上げれば、急げ、急げと急かすかのように、一際大きな唸り声が響き渡った。一斉に太鼓を打ち鳴らしたかのような轟音。その声に後押しされるかのように信号が青に変わる。

「むう……。せっかちなことなのじゃ。判ったのじゃ。まっすぐ帰ってくれるのじゃ」

 どうやら相当大荒れな天候が予測されるらしく、京都市内各地に大雨洪水暴風警報なる中々に豪快な警報が発令された。これを重く見たらしく、午後に入ると早々に全校に帰宅指示が出された。滅多に無い出来事に不謹慎にも心が弾んでしまうのも事実ではあったが、どうやら、そんな楽しげな祭の到来では無さそうに聞こえた。途方も無くでっかい雨雲が大挙して押し寄せて来ているのだ。少々大袈裟に聞こえてしまう天気予報も、今回ばかりはどうにも真実味を帯びつつあるように感じられた。野生の勘と言うのだろうか? ワシの中では、これは数年に一度あるか無いかの大きな祭になりそうな予感がしていた。しかしながら、それは間違えても歓迎したくなるような楽しい祭からは程遠く、決まってこういった荒れ模様の時には、渡月橋をまたぐ大堰川が氾濫するという凶事に見舞われてきたのも事実であった。

 普段は穏やかな大堰川も一度暴れ出すと、癇癪を起した幼子のように手が付けられなくなる。ましてや嵐山旅館は大堰川の畔に居を構えている。当然、大堰川の氾濫は死活問題に繋がり兼ねない。

「ドドーンと降り出しちゃったらシャレにならなそうなのじゃ。ましてや、道中足止めを食らったら、一貫のオシマイなのじゃ」

 四の五の考える前にさっさと帰ろう。ワシは空を見上げながら信号を一気に駆け抜けた。

「今日の所はお主に勝ちをくれてやるのじゃ!」

 とにかく四条大宮までさっさと抜けよう。普段はおやつを食いがてら、ぶらぶらと四条通を歩いて帰るのだが事態が切迫しているのは明白だ。ここは大人しく文明の力を借りるとしよう。少々細切れなルートとなり、乗り換えが煩雑ではあったが今は時間との戦いになりそうだ。まずは七条まで抜けて祇園四条まで移動。祇園四条から軽く一っ走りして河原町を目指す。後は河原町から大宮まで抜けてしまえば、目指す四条大宮は目と鼻の先となる。手際良く道順を考えたら後は全力で突っ走るのみだ。

(しかし……おやつを食えぬとは、何だかお預けされちゃったワンコの気分なのじゃ)

 走っている間にも空模様はみるみるうちに不穏な色合いへと変貌しつつあった。見ているだけで不安な気持ちにさせられる空模様だった。こうなったらワシと大自然との勝負だ。どちらが先に嵐山まで到達できるか、いざ、尋常に勝負と決め込もう。そう考えると気合いも入る。

 とにかくワシは走り続けた。少々身重な体ではあるが、普段から嵐山の山野を駆け回って鍛え上げた健脚はそうそう容易くへこたれたりはしない。三十三間堂へと出入りする観光客達を横目に見つつ、さらに走り続けた。

「さすがは、三十三間堂じゃな。これから大雨が降り出そうと言うのにも関わらず、相変わらずの人気ぶりなのじゃ。嵐山旅館にもこれ位のお客が来てくれると大儲けなのじゃがのう」

 まぁ、実際にそんな大人数のお客が来てくれても、客室が一杯になってしまうことだろう。これぞ取らぬ狸の皮算用というヤツだ。しょうもないことを考えていると信号が点滅し始めた。これはいけないと、ワシは速度を上げて駆け抜けた。

「にゃはは、滑り込みセーフなのじゃ!」

 そのまま勢いに乗って、ワシはさらに七条通を走り続けた。さすがに延々と走っていると汗も噴き出す。暑さも手伝い、段々と息苦しくなって来た。丁度、通りの向かい側にコンビニがあることを思い出し、ワシは立ち寄ることにした。

「ここで給水するのじゃ」

 しばしの休息。コンビニの利き過ぎたエアコンに一時の癒しを覚えていた。だが、ここで涼んでいる間にも天候は悪化の一途を辿るばかりだ。店の外はさながら夜の訪れを思わせる程に暗くなっていた。これは、あまりのんびりしていると取り返しがつかなくなる。お目当てのペットボトルのお茶を購入した所で再びマラソン再開だ。気合いを篭めてワシは再び走り出した。

 七条通を全速力で走っていると、不意に、大きな犬を連れたお姉さんとすれ違った。足を止め、思わず振り返ってしまった。

(大きなワンコだったのう。ハスキー犬、格好良いのじゃ。お友達になりたいのじゃ)

 よそ見をしながら走っていれば、トラックから積み荷を下ろす宅配便のお兄さんに激突しそうになってしまった。

「うわっ!?」

「ご、ごめんなさいなのじゃーっ!」

 危ない、危ない。ちゃんと前は見て走ろう。早くも吹き出す額の汗を拭いながらワシは走り続けた。

 往来する車の音と、それに混ざり合う蝉の鳴き声を背に受けながら走り続けていると、ようやく七条駅の入り口が見えてきた。風に揺れる鴨川沿いの柳の木が何とも怪しげな雰囲気を称えている。怪談をする際の雰囲気を盛り上げるには、やはり、柳の木は欠かせない気がすると、要らぬことを考えつつ、ワシは七条駅へと続く階段を駆け下りた。

(そういえば、大樹も学校は早々に終わったのじゃろうか? 何か、妙な胸騒ぎがするのじゃ。ふむ。電話を入れてみるとするのじゃ)

 地下へと続く階段を歩んでゆく。ふと、来た道を振り返れば、今にも雨粒が零れ落ちそうな程に空は不穏な色合いを称えていた。すれ違う人々にぶつからないよう、ワシは再び前に向き直り階段を下った。地下から吹き抜けて来る風は石の香りと、適度な涼やかさを孕んでいて心地良く感じられた。すれ違う人々は皆それぞれに色鮮やかな傘を手にしていた。

 破滅へと至る螺旋階段。荒野に打ち捨てられた、もはや誰も住まなくなったであろう、空虚で殺風景な廃墟。そんな場所を一人寂しく歩んでいるような気持ちになった。どうにも言葉に出来ない不安に駆られたワシは大樹の無事が気になって仕方が無かった。ポケットから定期入れを取り出しつつ、もう片方の手でササっと大樹へ電話を掛けた。

「ふにゃーっ!?」

 パリコレモデルよろしく改札をモデル歩きで華麗に駆け抜けようとしたが、定期が上手く当たって居なかったらしく、物静かに突っ返された。駅員に冷ややかな目で見つめられる中、もう一度、定期を当てようとした瞬間であった。無機的に繰り返されていた呼び出し音が唐突に終わりを告げると、大樹が電話に出た。何ともタイミングの悪いことだ。

「ああ、兄ちゃん? どうしたの? 何か面白い事件でもあった?」

「……たった今、改札に駄目出しを食らった所なのじゃ」

「え? 何それ?」

「むう、冷めた反応じゃのう」

「それで、要件は何?」

 受話器から聞こえて来る事務的な反応に反発心を覚えつつも、ワシは必死で平常心を保った。

「そ、そっちも、学校は早々と引き上げなのじゃろう?」

「あー。それじゃあ、兄ちゃんも、これから帰る所なの?」

 笑い声混じりに聞こえてくる大樹の声にワシは安堵感を覚えていた。

「そうなのじゃ。今にも雨が降りそうなのじゃ」

「うん。早く帰らないと、今日は大雨になるみたいだよ」

「判っておるのじゃ。じゃから、おやつも我慢して絶賛全力疾走中なのじゃ。お預け喰らって、キュンキュン鼻声で許しを請う可憐なるワンコの心境なのじゃ」

 ワシは額の汗を腕で乱暴に拭いながら返した。すると、ワシの言葉が余程可笑しかったのか、電話の向こうから重なり合う笑い声が聞こえてきた。

(おりょ? もしかして大樹は友達と一緒じゃったのか? ううむ、ちと恥ずかしかったかのう……)

「もう、兄ちゃん……オレの友達のウケを狙ってどうするのさ?」

「べ、別にウケを狙っているワケじゃ無いのじゃ」

「それより、余計な寄り道してちゃ駄目だよ? 途中で帰れなくなっちゃっても誰も迎えにいけないからね」

 冷淡な反応にワシは思わず息を呑んだ。相変わらずの教科書通りの対応に何かツッコミを入れてやろうと思ったが、さらなる笑いを招きそうに思えたから思い留まった。

「わ、判っておるのじゃ! ワシを放浪ワンコ扱いするで無いわ!」

(ああ、再び電話の向こう側から、威勢の良い笑い声が聞こえて来るのじゃ……)

 アホなやり取りをしていると、丁度ホームに列車が走り込んでくるのが見えた。乗れる電車ならばさっさと乗り込んで帰るべきだ。

「電車が来たのじゃ。それであ、大樹よ、シー・ユー・アゲインなのじゃー!」

 何だかさらに大きな笑い声が聞こえた気がするが、もはや、どうでも良かった。とにかくさっさと電車に乗って帰る。さっさと帰って腹一杯におやつを食う。それだけだ。そう。ワシが向かう先には桃源郷が待っている。桃源郷だけに良く冷えた巨大な桃が待っているに違いない。そんなことを考えながらワシは颯爽と電車に乗り込んだ。だが、一体どうしたことか、途中から巨大な桃が何故か大樹の桃尻へと変貌し、ワシは危うくずっこける所であった。

(うぬぬ……大樹め。ワシの妄想ワールドにまで進出してくるとは、恐ろしい奴なのじゃ)

 こうして、ほんの一駅限りの短い旅路への第一歩を踏み出した。車内を見回してみれば、何だか妙にガラガラだった。とは言え、空いている列車の中は空調も良く効いていて、走り回って汗だくになっていた体には心地良く感じられた。

 汗が退くのを待つまでも無く、瞬く間に列車は祇園四条の駅に到着しようとしていた。ほんの一時ではあったけれどフカフカの椅子に座れて、涼やかな風に当たって、少しだけ生き返った気がした。さて、次なる目的地を目指して再び全力疾走だ。

◆◆◆2◆◆◆

 祇園四条から河原町へと向かうべく地上に出てみれば、既に雨は降り出していた。

「うぬぬ……気の早い奴なのじゃ」

 夕立と呼べるほどの激しい大雨では無かったものの、雷鳴轟く光景は不安な気持ちを掻き立てるには十分過ぎた。四条通を行き交う車も派手に水飛沫を挙げながら駆け抜けてゆくばかりであった。そっと振り返れば、心なしか雄大なる南座も、どこか、物憂げな表情を称えているように感じられた。遠く、鞍馬山の方には不穏なる色合いを称えた暗雲が集結していた。恐らく、雨雲は北から舞い降りて来るのだろう。

「そういえば、大樹は傘を持って行ったのかのう?」

 そんなことを考えながらカバンをゴソゴソやってみるが、一向に手応えが無かった。

「あ、ありゃ? そ、そんな訳は無いと思ったのじゃが……」

 慌ててカバンの中を覗き込んで見るが、そこに探し物が見つかることは無かった。

「か、かく言うワシが傘を忘れておるとは、何とも締まらない話なのじゃ……」

 時間の経過と共に事態は悪化する。周囲を見渡してみるが、そうそう救いとなりそうな手段なぞ転がっている訳も無い。無情にも観光バスが派手に水飛沫を巻き上げながら駆け抜けてゆくばかりであった。

「むうぅ……世間の風は冷たいのじゃ」

 仕方が無い。覚悟を決めて、屋根の無い部分は可能な限り急いで走り抜けることにした。

(そもそも、四条大橋前の出口から出れば良かったのに、何故に、敢えて南座の向かい側に出てしまったのじゃろうか?)

 自分の間抜けさを憂いても事態は好転する訳も無い。もう後には退けない。目の前に佇む信号が赤から青へと変わりゆく様を見届けた所でワシは力の限り走り出した。

「ひー! 人より当たり判定がデカい分、ジャンジャン濡れるのじゃ!」

 間の抜けた発言が可笑しかったのか、すれ違った女子高生達がクスクス笑っているのが聞こえ、ワシは小恥ずかしさの余り、耳がジワジワと熱くなってゆくのを感じていた。

「き、気を取り直して急ぐとするのじゃ……」

 勢いに任せて四条大橋を死ぬ気で突っ走った。途中何人か跳ね飛ばした気がしたが、細かいことには構っていられなかった。必死で駆け抜け、何とか河原町の駅へと続く階段に駆け込んだ時には既にびしょ濡れになっていた。

(水も滴る……止めておくとしよう。また、要らぬ失笑を買うのじゃ……)

 何だか一人、妙に小恥ずかしくなり、ワシは小さく咳払いしつつ周囲の視線を気にして見た。お笑いキャラを自負しながらも、お笑いキャラになり切れないピュアなハートが胸キュンモードの自分を何とも痛々しく思いながら階段を駆け降りた。そのまま切符を購入し、駅の改札を颯爽と駆け抜けた。

 古めかしい駅のホームは妙に湿気を孕んでいて湿っぽい匂いに満ちあふれていた。ワシは駅のホームに立ち、列車が訪れるまでのしばしの時を待ち侘びていた。ふと、足元に目線を投げ掛ければ、腕から滴り落ちる水滴が足元に小さな染みを作ってゆく様が見えた。その何とも言えない空虚な光景を呆然自失とした気持ちで見つめていた。傘を持っている周囲の人々の視線が妙に冷たく感じられて、ワシは居た堪れない気持ちに陥っていた。

 列車よ、さっさと来てくれ。そんなワシの切なる願いが届いたのか、実にタイミング良く駅のホームに列車が走り込んできた。列車はゆっくりと減速し、やがて目の前で静かに停止した。空気が抜けるような音が響き、扉が開く。

 ワシはさっさと列車に乗り込むと目一杯腕を広げて椅子に腰掛けた。すっかりずぶ濡れなのを考えると、椅子に水気が移ってしまいそうな気もしたが、構ってなど居られなかった。汗と雨の水気が混ざり合い、シャツが肌にピッタリと貼り付く不快感に鳥肌が立つ想いを抱かずに居られなかった。思わず身震いしながら、ワシは駅のホームの殺風景な情景を、ただ呆然と見つめていた。

 程なくして列車が動き出す。だが、さしたる時間を要することも無く、すぐさま大宮駅に到着する。雨に濡れ、体だけで無く心まで湿ってしまいそうではあったが、さすがに、この場で服を絞る訳にはいかない。そんなことをすれば、ワシのダイナマイトバディが炸裂……いやいや、止めておこう。(放送コードに触れそうなのじゃ。一体、何の放送じゃろうな?)

 そんなこんなで、一人上手しているうちに列車は無事に大宮駅へと到着した。

 列車を降りる乗客達に混ざり、ワシも列車を後にする。多少渇いた気がするが、ベタベタ感は消え去ることは無かった。歩く度に靴が湿った音を放ち、その度に体中の毛穴が開きそうな不快感に辟易させられた。とは言え、如何ともし難い事実に変わりは無い。さっさと家に帰り付く以外に救いは無いのだから。

 改札を抜けて、地上への階段を必死で駆け上がった。地上へと出た所で柱の隙間から恐る恐る外の状況を確認してみるが、事態はさらに悪化しているように思えた。雨足はますます強まり、叩き付けるような雨が視界を白々と染め上げていた。

「むう……」

 溜め息しか出て来ない状況だった。

「うぬぬ、四条大宮駅は見えておるのじゃが、相応に距離があるのじゃ……」

 ぼやいてみても雨が手を緩めてくれる訳も無い。良く考えてみれば、ワシの視界の先には別の出口が見えていた。

「そうなのじゃ。普段使わない、あの出口から出れば近いのじゃ。地下から回り込むとするのじゃ」

 ワシは再び地下へと戻り、別の出口を目指すことにした。

 再び地上に出たものの、仕方が無いので信号が変わるのを待ち侘びた。青になるのを見届けたら全力で駆け抜けよう。

  雨足は強く、通りを行き交う車も霧が掛ったように白々と見えていた。叩き付けるような雨の中、車が駆け抜ける度に飛沫が舞い上がる。天気予報通りの激しい雨模様だった。

「これは一気に駆け抜けなれば、ビショビショになるのじゃ」

  やがて信号が赤から青に変わる。往来する車が停止線で停車するのを見届けたワシは一気に地面を跳躍し、走り出した。このまま全力で横断歩道を駆け抜ける。だが、遠目で見ていたのよりも遥かに雨足は強かった。大粒の雨が容赦無く叩き付ける中を、ワシは全力で走り続けた。

「ひーっ! 凶悪な雨なのじゃ!」

 やっとの想いで四条大宮の交差点を駆け抜ければ、ようやく嵐電の四条大宮駅へと到達できた。後はこのまま嵐山まで一本だ。多少は気が楽になれた気がする。

◆◆◆3◆◆◆

 改札を抜けるのと、列車が駅のホームに到着するのとは、ほぼ同時位のことだった。実にタイミングの良いことだ。いそいそと訪れた列車に乗り込んだ時には、思わず安堵のため息が毀れた。

「ふぅっ……。これで、後は嵐山まで一本道なのじゃ」

 程なくして列車が四条大宮を発つ。静かに遠ざかる家々の景色をワシはただ呆然と見つめていた。すっかりびしょ濡れになりながらも何とか無事に四条大宮を発つことが出来て一安心だ。

 ふと、窓の外に目線を投げ掛けてみた。外は相変わらずの荒れ模様で、列車の窓に叩き付ける雨が、幾つもの小さな筋のような流れを為していた。流れゆく雨粒の流れを見つめながら、ワシは数日前の記憶を思い出していた。

(そう言えば、数日前にテルテルと一緒にこの駅を訪れたのじゃ)

 あの時とは進行方向が逆になるが、静かに揺れる車内でワシはテルテルの笑顔を思い浮かべていた。そういえば、テルテルはもう家に帰り着いたのだろうか? 後で電話してみよう。そんなことを考えていた。

 列車の窓に肘を付きながら、ワシは流れ往く景色を眺めていた。列車は家々に挟まれた線路をただ静かに駆け抜けるばかりだった。窓に叩き付ける雨粒に見入っていると不意にメールが届く。慌ててポケットから取り出してみれば差出人は大樹だった。

『大樹、無事帰宅ス。兄ノ帰還ヲ待ツ』

「な、何じゃこのビミョーなメールは。何の遊びのつもりじゃ……」

 何とも言い難い、妙に古めかしい文体に思わず敬礼しそうになりながらも、ワシは携帯をポケットに戻した。大樹からの珍妙なメールのせいなのか、ひたすら走り続けたせいなのか、ようやく腰を下ろすことの出来た安堵感から、どっと疲れがでてきた気がする。おまけに、雨に濡れた状態で居続けるのも気色悪くて仕方が無かった。滴る雨粒が汗の呼び水となり不必要に汗も掻いた気がする。べた付いたシャツが肌に張り付く度に、全身の毛穴が開きそうな悪寒を覚えた。派手に濡れているせいか、最初は心地良かった涼やかな空調も、段々と肌寒く感じられるようになっていた。

 これは一刻も早く帰って着替えなければ風邪を引いてしまうかも知れない。そんなことを考えながらも、ただ、呆然と窓の外を過ぎ去る景色を眺めていた。もっとも、景色とは言っても街中を駆け抜ける列車からの風景に過ぎない。別段、面白い物が見られることも無かった。毎日眺めている、変わることの無い人々の生活の風景なのを考えれば、そうそう興味を惹かれるような出来事など起こる訳も無かった。

 そう言えば、最近、嵐山には妙なうわさが流れるようになった。普段は人々で賑わう観光地たる嵐山なのだが、ここ数日の心霊騒動で客足が遠退きつつある。代わりに毎晩、無駄に騒ぎ立てるオカルトマニア共が来訪するお陰で、ワシら地元の住民達は要らぬ不安感を掻き立てられている。奴らは傍若無人に騒ぎ立て、渡月橋でクラクションを鳴らしてみたり、駅前に集団で座り込みをしてみたりと、まるで性質の悪い不良集団そのものだった。心霊騒動で只でさえ皆ピリピリしている所に土足で踏み込み、無神経に不安を掻き立ててくれる。その上、また今夜もこいつらの中から犠牲者が出るのかと考えると、どうにも落ち着かない気分にさせられた。傍若無人の限りを尽くすオカルトマニア共が何人死のうがワシにはどうでも良い話だった。自ら危険に首を突っ込んでいる上に、恐怖体験を求めているのであれば、少なからず、その願いは無事に叶えられたハズだ。自らの行く末の手向けられた一輪の花となったことだろう。ただ、無責任に街を掻き回さないで欲しかった。それに、そうした無責任なオカルトマニア共のお陰で治安も悪化する可能性もあり、挙句の果てには、騒ぎついでにばら撒いてゆくゴミも、街に取っては実に頭の痛い問題となっていた。幽霊どころか地元住民の祟りの方が勝ちそうな勢いである。

「心霊騒動とは、何とも可笑しな話なのじゃ」

 地元に生き、その上、旅館を経営している身としては、あまり嬉しく無いうわさだった。悪評は人を遠ざける。何かしらかの対策を講じなければと皆も焦り始めている。ワシにも何か出来ることは無いだろうか? そうだ。明日、皆にも話をして一緒に考えて貰うとしよう。ワシ一人で考えても妙案が出ないだろうが、皆の力を借りれば事態を解決する手段も見つかるかも知れない。

「ふむ。良い策なのじゃ。そうなると――」

 必要なのは情報だ。対策を講じるためには先ずは情報収集だ。ワシは携帯を取り出した。テルテルから教えて貰った、オカルトマニア達が盛んに情報交換を交わすという掲示板を確認してみることにした。世の中には物好きな奴らがいるらしくて、わざわざ、心霊スポットを訪れては心霊体験を求めているらしい。皆、有ること無いこと関係無しに盛んに情報を交換している。傍から見れば滑稽意外の何者でも無い。掲示板に綴られた文字をワシは冷ややかな目で見下していた。

「ふふん、幽霊がなんぼのものなのじゃ。こっちなぞ、リアルな鬼と絶賛対決中なのじゃ。恐れ入ったか!」

 一体、ワシは何の勝負しているのじゃ……。思わずツッコミを入れずには居られなかった。一人で可笑しなことを考えながらワシはにやけていた。こんな顔、誰かに見られたら、馬鹿丸出しではないか。

 少々焦りながらも顔を挙げてみれば、列車が不自然なまでに空いていることに気付いた。それに、気のせいだろうか? 椅子に腰掛けている老紳士も、俯いたまま窓に向き合っている若い女性も、妙に顔色が悪く感じられた。おまけに、普段よりも列車の中が薄暗く感じられた。外が薄暗いせいもあるのかも知れないが、そういった質の暗さとは少々異なる暗さに感じられた。

(おりょ? つい、さっきまで誰も居なかったのじゃが? むう……。それに、何だか薄気味悪い人達なのじゃ……)

 列車は何時の間にか道路上を駆け抜けていた。このまましばらく道路上を駆け抜けることになる。気のせいか、外の景色もどこか薄暗く感じられた。嫌な雰囲気だ。雨のせいなのだろうか? 怖い怖いと思う気持ちが生み出した、気の迷いに過ぎないのだろうか? そんなことを考えながらも再び掲示板に目線を戻した。

 投稿された書き込みの中には心霊写真やら、心霊動画も併せて投稿している人も見受けられた。どうせ、こんなのは見間違えか合成だったりするのだろう。下らない遊びに興じる暇人達も居るものだ。その無駄な労力を他のことに費やせば、さぞかし大きな成果を挙げられるだろうに。そんなことを考えながら適当に流し読みしていたが、どうにも馴染みのある地名がやたらと出て来ることに違和感を覚え始めていた。

(小倉池に化野念仏寺、竹林に大堰川上流……)

 嫌な感じだ。どれもこれも、そう遠く無い場所ばかりだった。それに、ここ一週間位、投稿数がやたらと増えているのが気になった。偶然にしては少々違和感があるように思えた。段々と言葉に出来ない恐怖に襲われ始めたワシは、そっと携帯をポケットに仕舞い込んだ。妙なうすら寒さを感じ始めたのと、この世ならざる異様な雰囲気に包まれ始めたこともあり、不安に押し潰されそうになっていた。しかも今は一人だ。その上、列車という密室空間に置かれている。自分で自分の首を絞めるような真似は避けるべきだ。

 落ち着かない気持ちで一杯だった。掲示板への投稿数が示す通り、嵐山では可笑しなうわさが絶えなくなっている。うわさだけでは無く、ここ数日の間にも何件もの奇怪な事故が起こっている。いずれも心霊スポットを訪れた者達なのであろう。だが、気になるのは事故の内容だった。どう考えても普通に事故を起こしただけとは考え難い事故だったのが気に掛った。

 昨晩遅くにも清滝トンネルで交通事故があったことを、今朝、おとんから聞かされたことを思い出していた。掲示板には、御丁寧にも、おとんの話よりも詳細に事故の内容が記載されていた。その書き込みによると、一体どれだけの速度を出していたのか、事故を起こした乗用車は普通に考えたら有り得ない程に派手に潰れていた。その乗用車の中からは男女合わせて四人の遺体が見つかった。発見された時、遺体は原形を留めていない程に潰れていたらしく、丁度、遺体同士がプレスされたような状態になっておったらしい。どの部位が誰の物であるのか判別することすら出来ない程に悲惨な状態だった。そう記されていた。何しろ車の座席やフロントガラスと完全に一体化してしまっていたという話なのだから、只ならぬ事態であることは間違いなさそうだ。

(うう、ヤバい。吐きそうなのじゃ……)

 思わず、その凄惨過ぎる状況を思い浮かべ、ワシは込み上げて来る物を感じていた。

 その他にも化野念仏寺付近、嵯峨鳥居本町の橋から夜中に悲鳴と共に人が転落死する事故も起きた。偶然なのか何なのか、落ちた先は丁度民家の柵が立ち並んでいた場所で、しかも、悪いことに金属製の尖った部分が規則正しく繰り返される形だったらしく、発見された時には、顔面を串刺しにされた状態になっていたらしい。

 その事件の数日前には小倉池から若い男達の溺死体も見つかった。見つかった時には小倉池の水を全身に吸って、緑色のぶよぶよの水死体になっていたらしい。どちらも想像したく無い光景だ。

(明らかに異常なのじゃ……。嵯峨鳥居本町の橋も、小倉池も、事故を起こすような場所では無いのじゃ。それに、ワシにはどうしても事故には思えないのじゃ。心霊スポットを訪れた者達が次々と怪奇な死を遂げておる。何か、嫌な裏事情があるように思えてならないのじゃ……)

 程なくして列車は帷子の辻へと到着しようとしていた。何時の間にか雨足は大分強まっていた。窓の外が霞んで見える程に強い雨へと移り変わり、窓を伝う雫達は消え失せていた。代わりに、叩き付けるような雨粒が窓を叩く、冷え切った音だけが響き渡っていた。

「本当に嫌な雨なのじゃ。何も起こらなければ良いのじゃが、どうにも不吉な空模様じゃのう……」

 ふと、何気なく車内に目線を向けたワシは危うくその場に崩れ落ちそうになった。

「な、何じゃと!?」

 何時の間にか乗客の姿が無くなっていた。幾ら、携帯に夢中になっていたとは言え、人が乗り降りする物音位は気付くはずだ。それなのにも関わらず、音も無く乗客達が消え失せた……。そこまで考えた時、ワシの頭の中には不吉な単語が浮かんでいた。

「……情鬼の仕業なのじゃろうか?」

 いずれにしても今は自分一人の状況だ。こんな状況で狙われたら太刀打ち出来る訳も無い。だからと言って、今、この悪天候の最中にコタ達を呼び出すのもまた有り得ない選択肢だった。

「前へ進むしか無いじゃろうな。さて……無事に帰れると良いのじゃがのう」

 だが、異変はワシを容易く見逃してはくれなかった。

 何時の間にか列車の中には何とも言えない異様な空気が立ち込めていた。知らぬ間に、列車の中は異様なまでの湿気に包まれていた。しかも、池の水を思わせる独特の生臭さが漂っていた。

「ううっ、な、何じゃこれは……。ジットリ湿っておる上に、異様な匂いまでするのじゃ……」

 嫌な気配に包まれていた。どうしたものかと迷ったが、一刻も早く家に帰りたかったワシは仕方無く耐えることにした。何気なく椅子に手を掛けたワシは思わず飛び上がった。

「な、何じゃこれは!?」

 シートに手を掛けた瞬間、ジワっと水気がにじみ出た。しかも、その色合いは明らかに緑色だった。もう一度、恐る恐るシートに手を乗せ、力を掛けて見る。やはり、澱んだ緑色の液体が滲み出てきた。

「この色と言い、匂いと言い……小倉池の水を思わせるのじゃ」

 動揺したがもう遅かった。静かに列車のドアが閉まり、列車は走り始めてしまった。これでもう、次の駅まで途中下車は出来なくなった。最悪、窓から飛び降りるという手もあるだろう。だが、窓もまた異様な水気を孕んでおり、酷く錆付いているかのようにびくともしなかった。おまけに妙なヌルヌル感まであり、気色悪さのあまりワシは慌てて手を引っ込めた。

「い、一体、何なのじゃ、この列車は!? 異様過ぎるのじゃ!」

 ワシはどうすることも出来ず、窓際に立ち一刻も早く嵐山に到着することだけを祈り続けた。

 不気味な現象が起きているとは言え、駅に到着すれば普段と変わらず扉も開閉していた。つまり逃げ出すことは可能だということになる。無論、途中下車したところで、事態が変わることも無かったのだろう。

 異変はさらに続く。唐突に首筋に水滴が落ちるのを感じ、思わず悲鳴をあげそうになった。驚き、列車の天井を見上げれば、信じられないことに天井は一面に結露していて、ポタポタとまるで雨粒のように雫が滴り落ちていた。

「ひぃっ! 可笑し過ぎるのじゃ! ワシに一体、何の恨みがあると言うのじゃ!」

 恐怖のあまり、必死に叫びを挙げるが応える者は誰も居なかった。ただ、ひたすらに、一刻も早く嵐山に到着してくれることを祈ることしか出来なかった。

 さらに異変は続く。滴る雨粒の音に紛れてゴボゴボという妙な音まで聞こえて来るようになった。水気を孕んだ奇妙な音は、時折、救助を求める声のようにも感じられて、余計に気味が悪くて仕方が無かった。両手で力一杯耳を抑えてみるが、それでも声は聞こえてきた。

「だ、誰か……。助け……! し、死にたく……。だ、だれ……」

 間違い無い。今にも溺れようとしている者が救いを求めている声でしか無かった。それも、一人では無さそうに感じられた。数多の人々が必死に救いを求めているように感じられた。

「わ、ワシには、どうしてあげることも出来ないのじゃ!」

 必死で救助を求める叫び声を挙げながらも、濁流にでも呑まれているのだろうか? 悲痛な叫び声が聞こえて来る。ワシは必死で目を閉じ、しゃがみ込んでいた。恐ろしくて、恐ろしくて、立っていることさえ出来なかった。そんなワシに追いうちを掛けるかのように周囲の情景が変わった。

「へ?」

 どうしたことか、何時の間にかワシは小倉池の畔に立っていた。しかも、辺りは漆黒の闇夜。カエルの鳴き声と虫達の涼やかな鳴き声しか聞こえてこない、静かな夜だった。

「い、一体、どうなっておるのじゃ……」

 戸惑っているとワシの耳に先程よりも遥かに鮮明に若い男達の声が聞こえてきた。どうやら、小倉池で溺れているらしい。しかし、良く考えてみれば有り得ない話だった。誰も好んで小倉池に入り込んだりしないだろう。昼間でもうっそうと茂った木々に覆われた見るからに不気味な場所である上に、その池の水も澱み濁っており、一体どんな生物が棲んでいるかも皆目見当が着かない場所である。自ら飛び込んだので無ければ……誰かに突き落された?

 そう考えた瞬間、止せば良いのにワシは思わず目を凝らしてしまった。何時の間にか周囲には数え切れない程の蛍が舞っていた。ふわりと目の前を横切る青白い蛍の光を目で追っていたワシは信じられない物を目の当たりにした。

「ひぃっ! な、な、な、何なのじゃ!?」

 池の水面から青白い肌をした人々が、楽しそうに若い男達を池の底へと沈めようとしている光景を目の当たりにした。皆一様に、不気味な笑みを浮かべながら、楽しそうに若い男達を引きずり込もうとしていた。

「だ、誰か……助け……!」

「し、死にたく無い! おねが……!」

「あ、ああ……。わ、ワシは何も見て居らん! 何も見ていなければ、聞いても居ないのじゃ!」

 耐えられそうに無かった。恐らく、数日前に小倉池で起こった事故の情景なのであろう。イヤ、これは事故では無く立派な殺人事件だ。ただ……犯人は生きている人では無い。彼らは幽霊達に殺されたのだ。その顛末として、この池の水を全身で大量に吸い込み、ぶよぶよになった緑色の水死体となって発見されたのだろう。

 必死で救いを求める声。楽しげに若い男達を鎮めようとする無数の人達の笑い声。闇夜に響き渡るカエルの声に涼やかな虫達の鳴き声。不意に一陣の風が吹き抜け、竹林がサラサラと川の流れを思わせる涼やかな音色を奏でた。その瞬間から若い男達の声は完全に消え失せた。

「し、死んだのかの?」

 ワシは恐る恐る目を開いた。

「ひいっ!」

 既に物言わぬ体となった三人の若い男達がうつ伏せになったまま、ゆっくりと水面に浮かび上がってくるのが目に留まった。ぷかぷかと朽ち掛けた枯れ葉のように浮かぶ姿に、ワシは腰を抜かした。逃げることも出来ずに、ワシはただ悲鳴を挙げることしか出来なかった。

「一体、何が起こっているのじゃ! ワシは悪く無いのじゃ! 何の関係も無いのに、どうしてなのじゃー!」

 叫びを挙げると同時に周囲の空気が一転した。そして、ワシの耳には不意に車掌の声が飛び込んできた。間もなく嵐山に到着しますという無機的な声が虚しく響き渡った。何時の間にか車内に漂っていた異様な湿気も、滴り落ちていた雫も、何もかもが消え失せ見慣れた車内の光景へと変わっていた

「ゆ、夢でも……見ておったのじゃろうか?」

 呆然と立ち尽くすワシを後目に、列車はやがて嵐山の駅に到着しようとしていた。

 夢だと信じたかった。怖い、怖いと思う想像力が紡ぎ出した産物に過ぎなかったと思いたかった。だが、それにしては何故、こんなにも手がジットリと濡れているのだろうか? 恐る恐る顔に近付け、手の匂いを嗅いだワシは危うく悲鳴を挙げるところだった。

「こ、この匂い……!」

 何も終わって無かった。イヤ、これは悪夢の終わりどころか悪夢の始まりに過ぎないのだろう。情鬼が巡って来た。目的なんか判らないけれど、ワシを恐怖のどん底に突き落とそうとしているに違いない。逃げられないなら立ち向かうしかない。でも……何の力も無いワシに立ち向かうことが出来るのだろうか? そこにあるのは絶望だけだった。

◆◆◆4◆◆◆

 それでも前に進むしかない。ワシは大きな溜め息を就きながら列車を後にした。視界一面に広がる友禅染めの飾り物も、叩き付けるような雨に濡れて寂しそうに佇んで見えた。

 そのまま改札を抜ければ見慣れた駅舎の情景が目に留まる。普段であれば賑わいを見せる嵐山の駅舎も、この悪天候のせいか、人の気配は感じられなかった。立ち並ぶ店の店員達も退屈そうに振舞うばかりであった。閑散とした雰囲気の中、ワシは静かに歩き続けた。

 やがて駅舎を抜ければ、視界の先には見慣れた街並みが広がる。だけど、何かが違って見えた。何と言えば良いのだろうか? 嵐山の街全体が異様な気配に包まれているように思えてならなかった。どこか異様な空気感を肌で感じていた。一刻も早くこの場から離れたかった。嵐山旅館まで全速力で駆け抜け、家族の下へと帰り付きたかった。

 呼吸を整える。そのままワシは見慣れた地元の街並みを見回してみた。想像を絶する体験をしたお陰で、全身の力が抜けそうな感覚で一杯だった。体中の力が抜け、まともに歩くことさえ出来ない程に疲弊していた。だが、異変はそれでもなお、ワシを見逃すつもりは無かったらしい。

 静まり返った駅舎とは裏腹に嵐山の駅前は妙に賑わっていた。賑わっていたと言えば聞こえは良いが、実際は、酷く物々しい、言葉に出来ない殺伐とした雰囲気が感じられた。背筋に冷たい水滴が滴り落ちたような感覚を覚えていた。駅前には救急車や警察の車両らが集まり、明らかに可笑しな緊迫感が漂っていた。野次馬達も集まっていたが、これ以上、可笑しなことに関わりたく無かったワシは足を速め、さっさと通り過ぎようとした。

「なっ……!」

 狙っているとしか思えなかった。目の前から救急隊員がこちらに向かって駆け込んでくる。担架に乗せられた人の姿が目に留まり、ワシは凍り付きそうになっていた。担架の上の妙な膨らみはピクリとも動かない。息を切らしながら駆け込む救急隊員がワシの横を勢い良く駆け抜けてゆく。見ては駄目だ! ワシはただ必死で目を背け、前だけを見つめていた。急ぎ足ですれ違おうとした。大丈夫だ。何も見なかったことにして、すれ違えばそれでお終いだ。余計なことを考える必要は無い。そう、自分に言い聞かせながらワシはやりすごそうとした。目の前からは担架が近付いて来る。そして、今、まさにすれ違おうとした、その瞬間のことだった。突然、担架から腕がダラリと零れ落ちた。

「ひぃっ!」

 ワシの悲鳴になど臆することも無く、消防隊員達は手慣れた様子で走り去って行った。だが、ワシは確かに見てしまった……。ぶよぶよに膨れ上がった新雪のように白い腕と、そこに刻まれた、幾つもの、幾つもの、人の物と思しき歯型。それから、噛み千切られたであろう腕の傷跡を。抉られた腕の傷跡から覗く真っ赤な肉からは、血が微かに滲むばかりだった。普通に考えれば、微かに血が滲む程度で済むとは到底思えない程に深い傷だったのに、何故? それは……もはや命が失せたことの証なのでは無いだろうか? ワシは死体とすれ違った? それも、普通ではない、壮絶な姿をした死体と!

「うえぇっ!」

 ワシは道路脇に急ぎ駆け込み、排水溝目掛けて勢い良く吐き出した。あまりにも生々しい水死体の惨状に堪えられなかった……。人々が往来する通りで、何時もと何ら変わらない通りで、ワシはうずくまっていた。往来する人々には、さぞかし奇異な情景に見えたことだろう。だけど、どうにも堪えられなかった。恐怖で足が震え、心臓が激しく鼓動を刻んでいた。嫌な汗が後から後から噴き出した。

 想像したくも無かったが、担架に乗せられた被害者が運ばれてきた方角から察するに、大堰川に転落した上で、川に潜んでいた何者かに腕を噛まれ、肉を引き千切られたのだろう。その情景をうっかり思い描いてしまったワシは、もう、どうにも堪え切れなくなった。

「おえぇぇぇーーーっ!」

 目一杯嘔吐した。多分、胃の中の内容物の全てを吐いた。ついでに涙が出た。体中の震えが止まらなくなっていた。うわさ話に聞いていたよりも、遥かに壮絶な体験だった。何しろ、生々しい傷跡を、死体の姿を目の当たりにしてしまったのだから。うわさ話は本当のことなのだろう。情鬼が嵐山の地に息衝いている。何らかの目的を持って生者達を狙っている。ワシの中で憶測が確信へと変わろうとしていた。

「はぁっ、はぁっ……。こ、今度はワシの番ということか……」

 とにかく今は一刻も早く家に戻ろう。一刻も早く家族の顔を見て安心したかった。今、ワシは明確なる死と隣り合わせになっている。その現実に向き合った瞬間、恐怖で足がすくんで、動くことさえ出来なくなりそうだった。もしかしたら、次は自分が、あの水死体と同じように担架で運ばれるかも知れない。ぶよぶよの水死体に成り果て、体中を食い荒らされるかも知れない。そんな無残な姿で家族との対面を果たすなど、想像するのも恐ろしかった。そう考えたら、恐ろしくて、恐ろしくて、叫ばずには居られそうに無かった。

 ワシは無意識のうちに携帯を取り出し、震える手でテルテルに電話を掛けていた。あまりにも手が震え過ぎて、上手くボタンを操作出来ずに、ますます焦りが募っていた。それでも、ふらつく足で体を支えながらもワシは必死で歩き続けた。雨は相変わらず容赦無く降り続いている。叩き付けるようにザーっと音を立てて降り続いている。辺りには何時しか霧が立ち込め始めていた。

 こんな悪天候の最中でも、蝉達は命を燃やすかのように鳴き続け、駅前の通りには場違いなまでに呑気な音楽が流れていた。現実と非現実が出会う異質な空間……そこに置かれている事実が途方も無く恐ろしくて、恐ろしくて、震えが止まらなかった。ただ一つ思うこと。死にたく無い! あの無残な死体のような姿にはなりたくない! その想いだけは間違い無かった。恐怖に戦いていると、唐突にテルテルが電話にでてくれた。

「あー、もしもーし。ロック? どうしたの?」

 電話の向こうから聞こえて来るテルテルの陽気な声。その声を聞いた瞬間、ワシは安堵から、その場に再び崩れ落ちそうになってしまった。

「もう、家に着いたのかな? 雨、凄いよねー」

「ああ、テルテル……。それがじゃな、大変な目に遭ったのじゃ」

 ワシは思わず、大きく息を就いた。険呑な雰囲気を察したのか、テルテルが慌てた口調で問い掛けた。

「え? 何かあったの? 大丈夫?」

「それがじゃな――」

 だが、話を続けることは出来なかった。唐突に電話が途切れると、それきり、繋がらなくなってしまった。

「テルテル? テルテル? 聞こえておるかの!? 駄目じゃ……」

 孤立してしまった恐怖感に堪え切れなくなったワシは、後ろを振り返ることなく走り続けた。傘も持たず、降り注ぐ雨にびしょ濡れになりながらも走り続けた。視界の悪い道を駆け抜けていると、唐突に走り込んできた車にはねられそうになった。急ブレーキを掛ける音が響き渡り、クラクションが鳴り響く。何かを叫んでいるのは聞こえたが、そんなことに構っているだけの余裕も無かった。とにかくワシは走って、走って、走り続けた。

 渡月橋を抜けるのは余りにも恐ろしかった。水のある場所から出来るだけ身を退けたかった。だから大きく迂回しつつ嵐山旅館を目指した。確かに、果てしなく無駄に遠回りすることになったが、とにかく、今は大堰川には極力近寄りたく無かった。

 判っている。どんな道を選んだとしても、嵐山旅館に辿り着くためには大堰川を超えなければならない。ただ、出来る限り渡月橋から離れたかった。無意味なことは重々理解している。ただ、一体どんな化け物が潜んでいるかも判らない、土色に濁り、ゴウゴウと不穏な唸りを轟かせる大堰川の流れに歩み寄るのは恐ろしかった。大きく顎を開いた得体の知れない化け物の棲み家に自ら足を踏み込むような愚行に思えて仕方が無かった。少しでも気持ちを落ち着かせながらも、嵐山旅館に戻りたかった。

◆◆◆5◆◆◆

 幾つかの曲がり角を曲がり、大幅に迂回したが、何とか嵐山旅館に帰り付こうとしていた。ようやく懐かしい我が家に再び帰ってくることが出来た。駅から大して離れて居ないにも関わらず、随分と果てしない旅路になってしまったような気がする。もう、恐怖と疲労とで、今にも倒れそうだった。体中の力が抜け、気を抜けば膝から崩れ落ちそうだった。それでも、疲れ切った体に必死で力を篭め、ワシは最後の力を振り絞って歩き続けた。

 周囲からは叩き付けるような雨音に混じって、それでも威勢良く鳴き続けるクマゼミのワシャワシャという個性的な鳴き声が響き渡っていた。命を燃やして今を生きる者もいれば、命を失い彷徨う者もいる。普段意識しないだけで……イヤ、意識することを避けているだけなのかも知れない。目に見えない物は恐ろしい。それに、ワシは命ある身だ。命失った者達の住む世界とは関わりたく無い。何よりも、まだ……死にたくない。

 小さく呼吸を整えながら、ワシは嵐山旅館の玄関のガラス戸を開いた。ガラガラガラと軽やかな音が響き渡り戸が開く。腕から、頭から滴り落ちる雫が足元に吸い込まれては幾つもの染みを作ってゆく。玄関のガラス戸を開いた所で唐突に声を掛けられた。突然のことにワシは危なく悲鳴を挙げるところだった。

「ああ、兄ちゃん、おかえりー」

 ずぶ濡れになったワシを目にして、さぞかし驚いたのだろう。大樹が思わず息を呑む声が聞こえた。何も言い返せずにいるワシを後目に、大樹は相変わらず威勢の良い口調で声を挙げる。

「うわっ、何でそんなにずぶ濡れになっているの!? 雨降るの判っていたのに、何で傘持っていかないかなー」

 「驚かすな!」と、怒りをぶつけたかったが、大樹の顔を見た瞬間、安堵感からワシは一気に力が抜けてしまった。立っていられない程に力が抜けてしまった。

「って……ありゃ? 兄ちゃん!?」

「にゃ、にゃはは……。ちょ、ちょっとだけ脱力モードなのじゃ……」

 情け無い話だったが、大樹の顔を見た瞬間、ワシは思わずその場にへたり込んでしまった。ようやく家に帰り着いた安堵感と、弟の無事を知ることが出来て一気に力が抜けてしまった。何とも、締りの無い話だ。これでは兄の威厳もガタ落ちというものだ。

「兄ちゃん、大丈夫!?」

「あ、ああ、ワシなら大丈夫なのじゃ」

「バスタオル持ってくるから、ちょっと待っていてね」

 大樹が持って来てくれたバスタオルで体を拭き終えたワシは、大樹に先導されるように自分の部屋に戻って来た。見慣れている自分の部屋が、こんなにも大切な場所なのかと改めて気付かされた。ワシが生きていることの証とも呼べる部屋だと改めて実感させられる。大樹はワシの布団の上にドカっと座り込むと、ワシのことを心配そうな眼差しで見つめていた。

「わ、ワシの着替えシーンに興味津々とは、お前も悪趣味なのじゃ」

 冗談交じりに語り掛けて見せても、背後からは微かな吐息しか聞こえてこなかった。それだけ大樹もまた緊迫感で一杯なのだろう。ここは無駄におどけてみせても逆効果だ。取り敢えず濡れた服を脱ぎ、さっさと着替えだけ済ませることにした。

 窓の外は相変わらず叩き付けるような雨が降り続いている。普段は穏やかな表情を見せる大堰川も、全てを呑み込む濁流と化していた。こうして離れた場所から見ているだけでも、今にも吸い込まれそうな錯覚に陥る。普段見せることも無い姿を見せたせいか、大樹はワシの布団の上に座り込んだまま、心配そうな表情を崩すことは無かった。

「ああ、大樹よ。バスタオル助かったのじゃ。ありがとさんなのじゃ」

「それは良いんだけどさ……顔、真っ青だよ? 何かあったの?」

「へ?」

  大樹とて子供では無い。ここ数日の間に起きた数々の事件のこと、知らない訳が無かった。そこにきて、ワシがこのような振舞いを見せたのでは、さらに不安を煽ってしまうことになるだろう。

「あ、あー、イヤ、な、何にも無いのじゃ。ちと、雨に濡れたからかのう?」

 何とも苦しい言い訳だった。何かあったということを、むしろ強調しているようにしか思えない振舞いだった。何時もながらワシは大根役者だ……。大樹はワシの表情を覗き込んだまま、小さく溜め息を就いて見せた。

「駅の方、何か騒ぎになっていなかった?」

「む? 何故それを知っておるのじゃ?」

「ああ。やっぱり、そうなんだ」

 大樹は俯いたまま再び小さな溜め息を就くと、戸惑うワシをジッと見つめたまま続けて見せた。

「凄かったんだ。救急車も、パトカーもさ、総出で渡月橋を勢い良く駆け抜けて行ってね。水難事故だって騒いでいた。また、人……死んだのかな?」

 そう、一気に言い放って見せた。やはり大樹は街で起きている異変のことを鋭く察しているように思えた。不安になるのも無理は無いだろう。

「馬鹿な連中が何人死のうがどうでも良いのじゃ。自業自得じゃからのう。じゃが、ワシらの生活を脅かすのは許し難いのじゃ」

「嫌なんだ。嵐山はさ、オレ達の生まれ育った街なんだ。だから、外から来た奴らに荒らされなんて許せないんだ」

 小さく吐息を就きながら、大樹はぽつりと呟いて見せた。まるでワシには聞かれたくないかのような、小さな、小さな呟きだった。

「兄ちゃんとの思い出、誰にも壊されたくないよ……」

 口を尖らせたまま、憮然とした表情を浮かべる大樹が妙に可愛らしく思えた。

(ワシとの思い出か……。ふふ、可愛いことを言うのじゃ)

「なぁに、心配すること無いのじゃ。ワシが何とかするのじゃ」

「え? 兄ちゃんが?」

 唐突に力強く胸を張るワシを目にした大樹は驚いたような顔を見せた。だが、次の瞬間には可笑しそうに吹き出して見せた。

「でも、兄ちゃん、何か頼りないからなぁ」

「む! 何と無礼なことを言うのじゃ!」

 思わず顔を見合わせて再び二人で吹き出した。ついでに笑った。嬉しい気持ちで一杯だった。ようやく恐怖で一杯の状況から解放された。実際には何も解決していないのだろうけれど、少なくても、少しでも恐怖から遠ざけられるならばそれでも良かった。結局、ワシは非力な存在に過ぎない。立ち向かえる程の強さなど微塵も無い。だから、こうやって楽しいことだけを追い求める。それはこれまでも、これからも、変わることは無いのだろう。

 何やら不敵な笑みを浮かべながらワシを見つめる大樹もまた、同じことを考えているのだろう。こんな状況下だからこそ、少しでも恐怖から身を遠ざけたいのだろう。だから、ワシは笑いながら大樹を押し倒した。

「うわっ!」

「そんなことを言う悪い子は、お仕置きなのじゃー」

「ちょっと、兄ちゃんってば、子供じゃ無いんだからさー」

 嫌がるような素振りを見せながらも、何だかんだ言って大樹は楽しそうに笑っていた。どんな場面でも笑うことは大事なことだ。何しろ、笑いながら喧嘩をすることは出来ない。だから、常日頃からワシは思う。世界中が笑いに包まれたとしたら、きっと、それだけでも色んな問題が呆気なく片付いてしまうのでは無いだろうかと。諍い合う者同士も、主義思想の食い違いから対立する者同士も、笑いながらの喧嘩では何だか締まらなくて、途中で仲直り出来てしまう気がする。だから、ワシは皆に笑っていて欲しい。そう切に願う。

「ありゃー?」

 じゃれ合っていると、不意に大樹が不敵な笑みを浮かべて見せる。

「な、何じゃ? 薄気味悪い笑いを浮かべおってからに……」

「兄ちゃん、最近また太った?」

「な、何じゃと!?」

「うわぁ、この感触……」

 大樹は笑いながらワシの腹の肉を鷲掴みにしてみせた。

「癒されるー」

「こ、コラ! お腹は駄目なのじゃ! それに、大樹よ、お前とて……」

 負けじとワシも大樹の腹の肉を鷲掴みにしてみせた。

「うわぁっ! な、何するんだよっ!」

「むふふ……ワシと似たような物なのじゃー」

「に、似てないよ!」

「似ているのじゃ。大体、ワシら兄弟は双子なのでは無いかという位、見た目がそっくりなのを忘れたのかのう?」

 ワシの言葉を耳にした大樹は、不意に神妙な面持ちになると、そのまま頬を赤らめながら天井を見つめてみせた。頻りに腹の感触を気にしている素振りを横目で見ながら、ワシはにやにや笑っていた。

 大樹はワシより三つ年下の中学生。それを考えると、やはり、色々なことが気になるお年頃というヤツなのだろう。

(む? ちょいと待つのじゃ。ワシとそっくりなことに恥ずかしさを覚えるとは……むうぅ。物凄く複雑な心境なのじゃ。つまり、ワシは恥ずかしい兄貴ということなのじゃろうか? ま、真面目に減量を検討するかのう……)

 大樹は天井を見上げたまま、何かを思い出したかのようにぽつりと呟いて見せた。

「ねぇ、兄ちゃん」

「む? どうしたのじゃ?」

「兄ちゃんが帰ってくる少し前に、変な奴らが訪ねて来てね」

「変な奴らじゃと?」

 ワシは思わず体を起き上がらせていた。明らかに不穏な気配を感じる言葉に警戒心を覚えずには居られなかった。大樹は相変わらず天井を見つめたまま、抑揚の無い口調で話を続けた。

「何か……辛気臭い坊さんが四人、うちを訪れてね」

 大樹は相変わらず無表情のまま、抑揚の無い口調で続けて見せた。

「ほら? 雨、凄いでしょ? 土砂崩れが起きて道が塞がっちゃったらしくてさ。今晩、一晩泊まらせて貰えないだろうかって……」

 嫌な話だ。偶然にしては妙な話に聞こえる。その坊さん達というのは、本当に、人なのだろうか? 得体の知れない異形の存在では無いのだろうか? まさか……情鬼!? 思わず在らぬ考えが頭を過ぎったが、ワシは慌てて考えを掻き消した。

(いかん、いかん。ワシは何という無礼なことを考えておるのじゃ……)

 偶然だ。ただの偶然に過ぎない。偶然、坊さんが大雨のせいで足止めをくってしまい、偶然、嵐山旅館を訪れた。ただ、それだけのことだろう。それよりも、何よりも、今はとにかく、大樹の不安を払拭しなくては。そんなことを考えながらワシは必死で話を合わせた。

「それにしても……土砂崩れとは。愛宕山の方じゃろうか? 確かに、盛大な雨ではあるのじゃが、そんなにも酷いことになっておるのかのう?」

「どうなんだろう? でも、土砂崩れが起きる程の山奥に、お寺なんかあったっけ? どう考えても変だと思うんだよなー」

 確かに、どうにも可笑しな点が多いことは否めなかったし、何よりも薄気味悪い話に聞こえた。だが、もしも、本当に困っている坊さん達だとしたら、こういう場面だからこそ、シッカリとお持て成しをしてあげるべきだ。困っている時はお互い様という言葉もある。それに、こういう事件が起きているからと言って不当にお客人をけなすような態度は好ましく無い。一般の身であればいざ知らず、旅館を経営する身としてはあまり良く無い考え方に思えた。

「大樹、お客様は神様なのじゃぞ? 相手が例えどのようなお客であっても、キッチリとお持て成しをする。接客業の基本なのじゃ」

 強気に振舞って見せたが、本当はワシも不安で仕方が無かった。だからこそ、強気に振舞わずには居られなかった。それに、本当に困っている坊さん達なのであれば、尚のこと、邪険に扱う訳にはいかなかった。

 ワシの言葉に大樹は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、次の瞬間には憮然とした表情を浮かべたまま立ち上がった。

「兄ちゃんもあいつらの姿見れば判るよ。オレの言っていること、ウソじゃ無いって」

「ああ、大樹、待つのじゃ!」

 ワシの言葉に振り返ることなく、大樹は乱暴に部屋の戸をピシャリと閉めた。

「大樹……」

 後に残されたワシは居た堪れない気持ちで一杯になっていた。ワシは兄の威厳を優先する余り、大樹の気持ちを無碍にしてしまったらしい。仲良しの兄ならば、不安な気持ちも共感してくれると思っていたのであろう。予期せぬ反論を受け、大樹は不機嫌そうに頬を膨らませたまま、ワシの部屋を去って行ってしまった。何とも寂しげな戸を見つめながら、ワシは居た堪れない気持ちになっていた。

「うぬぅ……。ワシの布団を温めていきおってからに……」

 呟きながら布団に寝転がってみれば、鳥肌が立ちそうな生温さを背に感じずには居られなかった。

「ひぃいっ! ひ、人肌なのじゃ……。しかも、ちと湿っぽいのじゃ……」

 精一杯の悪態をついてみても、何だか気持ちはちっとも晴れることは無かった。

 窓の外は視界さえも遮る程の激しい雨が降り続き、時折、地響きのような雷鳴まで轟いている。まだ夕暮れ前だと言うのに、外は夜のように暗く、重苦しい気配を称えていた。不意に、突風が吹き抜けた。窓に勢い良く雨粒が叩き付けられ、ワシは思わず飛び上がりそうになった。

「や、やめてくれなのじゃ……」

 高鳴る心臓を抑えながら、そっと考える。

「ふむ。こんな荒れ狂う天候では、不安になるなという方が無理があったのかのう。少々、キツく言い過ぎたかも知れないのじゃ……」

 後で機嫌を窺いに行くとするか。そんなことを考えながら、ワシは未だ温もりを称えたままの布団の上で天井をただ呆然と眺めていた。静まり返った部屋の中にいると雨の降り頻る音が実に良く聞こえる。シトシトと降り続く雨の音。それに重なり合う大堰川の流れるゴウゴウという濁った音が響き渡る。人の呻き声すら聞こえて来そうな不気味な雰囲気に、ワシは思わず息を呑んだ。

 それにしても土砂崩れとは……。本当に起きたのだろうか? もしも、土砂崩れが起きたのであれば、もっと、大騒ぎになっていても可笑しく無いような気がした。改めて冷静になって考えてみると色々と不可解な点が多いように思えて、殊更に不安を掻き立てられるばかりであった。あながち大樹の感じた不安というのも否定し切れるものでは無かった。手を伸ばし、枕元に置いた携帯を手にして見るが、相変わらず無情にも「圏外」表示を保ったままだった。

「携帯が使えないということが、こんなにも不安になるものとはのう……。如何に現代人が文明の利器に依存しているかを皮肉っているのじゃ」

 それは本当に突然のことだった。テルテルと話をしようとした瞬間、唐突に電話は切れてしまった。

『あー、もしもーし。えへへ。ロック? どうしたの? もう、家に着いたー? 雨、凄いよねー』

『ああ、テルテル……。それがじゃな、大変な目に遭ったのじゃ』

『え? 何かあったの? 大丈夫?』

『それがじゃな、可笑しな事故に遭遇してのう……って、ありゃ?』

 慌てて携帯の画面を確認してみれば、アンテナが消え失せ、代わりに「圏外」の文字が嘲笑うように表示されていた。以後、終始、圏外の表示が出たまま電話が繋がることは無くなってしまった。

 外は相変わらず荒れ狂った空模様だった。窓から覗く空は、厚みを帯びた暗い雲に覆い尽くされていた。窓の外からは雨が降り注ぐ音と、水かさの増した大堰川の流れる濁った音、それから雨粒に打ち付けられた木々の葉の音以外、何も聞こえて来ることは無かった。

 このまま雨足が弱まることが無ければ大堰川が氾濫する可能性も出て来る。そうなってしまえば被害の規模も広がる。仮に嵐電や阪急、バスが止まってしまえば移動手段も失われる。考えれば考える程に不安に駆られるばかりであった。だからと言って雨雲を吹き飛ばすようなことを為せる訳も無い。

 時折、吹き付ける強い風が、電線を打ち鳴らしながら甲高い悲鳴を挙げる。ついでに窓がガタガタと激しく揺れ動く。思わずワシは体中の毛穴が開きそうになっていた。

「シャレにならんのじゃ……」

 恐怖に震え上がった瞬間、一際強い風が吹き付け、大きな家鳴りが響き渡った。

「雰囲気出まくりで、ワシはさぶいぼ出まくりなのじゃ……」

 正直、今すぐにでも逃げ出したい程に怖くて、怖くて仕方が無かった。天井を見上げたまま恐怖に戦いていると、不意に、廊下から何かを引き摺るような妙な物音が聞こえてきた。

「な、何の音じゃろうか?」

 何かを引き摺るような音。時折混じる人の吐息。ワシの中で一気に恐怖が膨れ上がった。心臓が異様なまでに高鳴り、早鐘の如く激しく脈動を刻み込んでいた。

(ま、まさか……。此処にも得体の知れぬ化け物の手が伸びて居るとでも言うのじゃろうか?)

 異様な物音の正体を暴かないことには不安で仕方が無かった。恐怖心よりも好奇心が勝ってしまったワシは、音を立てないようにそっと戸に近付くことにした。戸を隔てた向こう側に居るであろう何者かに気付かれぬよう、ゆっくりとほふく前進で畳の上を這いながら近付いた。

(そ、そっちがそのつもりならば、ワシも全力で迎え撃つのじゃ……)

 音はどんどん近付いて来る。

(一体何なのじゃ……。嵐山旅館にまで押し寄せて来るとは、許し難いことなのじゃ)

 ゆっくり近付いて来る異様な物音は、ワシは部屋の前まで来た所で止まった。

(く、来るのか? 来るのじゃな!? わ、ワシは逃げも隠れもしないのじゃ!)

 次の瞬間、何者かが襖に手を掛けた。ガタリと渇いた音を放ち、そして、ゆっくりと襖が引かれる。

 戦いの基本は先手必勝だ。相手が得体の知れない化け物ならば尚のことだ。殺られる前に一撃必殺だ! ワシは大きく息を吸い込んだ。そのまま力一杯襖を開けると、相手を怯ませるべく声を張り上げた。無論、ワシは小心者だから、恐ろしくて目を開けることなど出来なかったが、相手が怯んで逃げ出してくれればワシの作戦勝ちと相成る。

「にゃあーーーっ!」

「う、うわぁっ!」

(お、おりょ? 随分と呆気なく退治した気がするのじゃ。それに……えらく間の抜けた声であったのう。果て? どこかで聞き覚えのある声であったよーな気がするのじゃが……)

 何やら、果てしなく嫌な予感を覚えながら、ワシはそーっと目を開けてみた。

「にゃにゃにゃにゃんとっ!?」

 そこには腰を抜かし、今にも泣き出しそうな表情を称えた大樹がへたり込んでいた。

「お、お前、こんな所で一体、何をしているのじゃ!?」

 返事は無かった。代わりにブンと鈍い音を放ちながら鉄拳が炸裂した。重量感たっぷりのパンチに、ワシは呆気なくマットに……では無く、畳の上に撃沈した……。

「う、ううっ……。な、中々に良いパンチなのじゃ。お前なら、せ、世界を狙える……ガクっ」

 と、アホなリアクションを見せながらも、ワシは大樹に事情を問うことにした。

 事実は小説より奇なりというが、大樹の口から語られた話は、何とも言い難いものがあった。

「にゃんと! そんなビミョー過ぎる理由とは……」

 なんのことは無かった。ワシの言葉にすっかり苛立った大樹は一人、部屋で不貞寝していた。だが、荒れ狂う悪天候の中、一人で部屋に居るのが不安で不安で堪らなくなった。それで、ワシの部屋で今夜は一緒に過ごさせて貰おうと布団を運んでいたというのが、事の顛末らしい。

 あの、何かを引き摺るような音は布団を引っ張る音で、可笑しな息遣いは恐怖でドキドキモード全開の大樹の熱い吐息だったらしい。まったく、何とも間の抜けた話だ。幽霊見たり枯れ尾花とは、まさしく、こういう状況を示すのだろう。

「危なく、兄ちゃんの部屋が洪水に見舞われる所だったね」

 人の部屋に図々しく布団を運び込みながらも、大樹はムスっとした表情を崩さなかった。

(トイレに行きたいなら、さっさと行けば良いじゃろうに……。ぷぷっ、恐怖の余りトイレに行けぬとは、まるで子供なのじゃ)

「な、何、にやにやしているんだよ」

「お前は意外と可愛い所があるのう。ほうか、ほうか……」

 ワシは大樹の後ろに回り込み、後ろから抱き付いて見せた。抱き付きついでに下っ腹を押して見せれば、大樹が声にならない悲鳴を挙げるのが聞こえた。

「此処がええのんか? 此処がええのんか? にゃはははー!」

 ついでに、本日二度目のパンチが炸裂した。

「お、お前は乱暴な子なのじゃ……」

「兄ちゃんが可笑しなことするからだろ」

 大樹をからかって喜んでいたが、実際、ワシ自身も途方も無い恐怖に駆られていたのは事実だった。宿泊客がいるというのにも関わらず、厨房も、廊下も静まり返っている。渡り廊下を隔てた先の母屋にある客室からも、風呂場からも何の物音は聞こえて来なかった。居住区と調理場は、ワシがいる離れにある調理場からも、おとん達の部屋からも何の音も聞こえて来ない。少なからず夕食の準備はしているハズなのだが、それにしても、余りにも静か過ぎる気がした。

 こういうのは厄介な物で、一度気になりだすと際限無く気になってしまうものである。とは言え、迂闊に首を突っ込んで、さらなる恐怖体験をするのも避けたかったし、仮に本物のお客様であったとしたら、ワシらは後からおかんの雷を受け止める羽目になる。両者を天秤に掛ければ、どちらが恐ろしいかは自明だ。思わず大樹と二人顔を見合わせ、納得と合意の溜め息を就いた。

「大樹、大人しくしておるとしよう……」

「そ、そうだね……。母ちゃんの雷の方が、よっぽどおっかないし」

 そんなこんなで、ワシらは大人しくテレビでも見ることにした。不気味なまでに静まり返る中、一体何が起きているのか判らないワシらは、ただ不安な気持ちに駆られるばかりであった。

◆◆◆6◆◆◆

 こういう時、兄弟が居るのは本当に救われる。ワシは大樹と二人で並んでテレビを眺めていた。どの番組も、この時間帯はニュースを放送している。中でも気象情報に関するニュースは、兄弟揃って大いに興味を惹かれる内容だった。知らぬ街の話ならば聞き流しても問題無いが、さすがに自分の住む街が危機的状況に陥っているのを放置することは出来なかった。だが、気象情報は深刻過ぎる情報を、さも他人事であるかのように事務的に告げるばかりで、ワシらの不安は膨らむ一方であった。

「雨、これから本格的に強くなるみたいだね」

「嫌な話じゃのう……。これ以上雨足が強まったら、本気モードになった大堰川が氾濫するのじゃ」

「大丈夫かなぁ?」

「ううむ、こればかりは、どうにもならんのじゃ。人は自然災害の前には無力じゃからのう」

 それにしても、少し前から妙に大樹がモソモソと挙動不審な動きを見せているのが気になって仕方が無かった。あれから結局トイレにも行けていないのを考えると、さすがに大樹の貯水タンクも決壊寸前なのであろう。このままでは、ワシの部屋でも氾濫が起こる危険性があるというものだ。

「ところで、大樹よ、トイレは大丈夫なのかの?」

「え? えへへ……。もうちょっとで、限界水位に達する予定みたいだねー」

「……さっさとトイレに行って来るのじゃ」

 獅子は我が子を千尋の谷へと突き落すことで鍛えると聞く。それならば、可愛い弟のために、時には心を鬼にすることも必要なのであろう。しかし、大樹はワシの腕にしっかりとしがみ付いて、何やら意味深な意思表示を見せるばかりであった。

「……その気色悪い笑みは一体何の真似なのじゃ?」

「もう、兄ちゃんのい・け・ずー」

 妙に可愛い声を出されて、危うくハリセンチョップを炸裂させそうになった。だが、ワシは大堰川の如く雄大なる心を持つ身。此処は寛大なる心で思い留まってくれるとしよう。

「仕方ない奴なのじゃ。ほれ、ワシが付き添ってやるから、さっさとトイレに向かうのじゃ」

 やれやれと立ち上がれば、大樹もまた上機嫌に笑いながら立ち上がった。頭の後ろで手を組み、ワシの顔を覗き込みながら

「兄ちゃんもトイレに行きたいなら、そういえば良いのにー」

 と図々しいことを口にして見せた。

「お前……果てしなく良い性格をしておるのじゃ」

 何とも間の抜けた話ではあるが、同じ場面に直面した時に、今度はワシが危機に晒されることになる。こういう場面では一刻も早く和平条約を締結した方が双方の利益に繋がるというものなのだろう。

 普段は気にも留めない家鳴りも、こういう状況下では実に不気味な物に感じられる。妙に軋んだ音を放つ廊下を歩みながら、二人で何度も顔を見合わせた。風が吹けば窓がガタガタ鳴る。時折、勢い良く雨が叩き付けられれば、外から壁を叩いているかのように思えて、思わず背筋が伸びてしまった。間抜けな振舞いを繰り返しながらも、ワシらはようやくトイレに到着した。

 無事にトイレを終えた大樹は気持ち悪い位に爽やかな笑みを浮かべていた。ついでだからワシもトイレに行くことにした。

 不穏な気象情報の示す通り、雨も、風も、確実に強まっていた。窓の外はまるで台風が直撃したかのような荒れ模様と化していた。風は甲高い声で鳴き続け、周辺の木々も折れんばかりに軋んでいた。嵐山旅館とて例外では無く、強い風が吹く度に微かに揺れ動いていた。時折、勢い良く雨粒が窓に叩き付けられる度に悲鳴を挙げそうになった。

「雨、凄いことになっちゃっているね」

「ふむ……。無事に、明日の朝を迎えられるのじゃろうか?」

 どうにも不安な気持ちで一杯になる。傍らでは大樹が涼しい顔で振舞っているが、内心、恐怖のどん底で喘いでいることであろう。

「ところで、大樹よ……」

 ワシは大樹に声を掛けた。少々震えた声に驚いたのか、大樹が目を丸くしてワシの顔を覗き込む。

「何故に、そんなにもワシに密着するのじゃ?」

 ワシの言葉に動揺したのか、大樹の目が泳いだ。だが、そのまま上擦った口調で続ける。

「え? えっと……。ああ、ほら。兄弟だからさ、仲良くするのは当然でしょ?」

 何が楽しくて、こんな蒸し暑い夜に弟とピッタリと密着しなければならないのだろうか。これがテルテルだったら、ワシはムフフな気分になれたのだろうが、大樹のサンサンと降り注ぐ愛情を感じてもムムムな気分にしかなれなかった。

「それに……」

 ワシは指で脇腹をつつきながら、にやにや笑い掛けて見せた。

「お前、ちと汗臭いのじゃ」

「え!? ほ、本当!?」

(まぁ、ウソじゃがの……ウシシ)

 ワシの一言に焦りを覚えたのか、大樹は慌てて離れると、そのまま勢い良く匂いチェックを始めた。座り込んで足の匂いを嗅ぐ仕草に、ワシは生温かい笑みを浮かべることしか出来なかった。

(行動パターンがワンコそのものなのじゃ……)

「確かに、汗臭いや。足とかさ、軽く人を殺せる匂いしたよ」

「な、何でそんなに嬉しそうなのじゃ? さては、お前……匂いフェチじゃな?」

 何だか面白くなってきて、ワシは思わず「シッシ」とやって見せた。だが、これが大樹の悪戯心に火を付けたのか、何やら妙な悪意に満ちた笑みでワシを見つめてみせた。

「兄ちゃんも匂いチェックしてやるー」

 そう言い放つと、大樹は高らかに笑いながら抱き付いてきた。

「にゃあ! な、何をするのじゃ!」

 予想もしない振舞いにワシはただ驚かされた。

 時々、大樹は本当に子供みたいな振舞いを見せる。人前ではシッカリとした姿を見せるのだが、その反動だろうか? 兄の前では着飾らない自分を、時に子供のような振舞いを見せたりもする。何だかんだ言って大樹はお兄ちゃん子らしい。まぁ、弟に慕われて、兄として悪い気はしない。そんなことを考えていると、不意に、背後から大樹の手が伸びてきた。

「うわっ! 兄ちゃんってば、結構、巨乳だよねぇー」

「こ、コラ! どさくさに紛れて人の乳をモミモミするで無い!」

「わはっ、良い感触だー。えへへ。もうちょっと、触らせてよ」

「こ、このっ! それならば、それならば……ワシもお前のおっぱいモミモミしちゃうのじゃー」

「に、兄ちゃん、何か手付きがエッチぃって! あ、ちょ、ちょっと、感じちゃうって!」

 時々、不安になるのだが……。ワシ、もしかして弟萌えだったりするのだろうか? 確かに、大樹が可愛い弟であることには変わりは無いし、まぁ、そういうシュミがあることも否定出来ないのは事実ではあるが……。

(むむむむむ……も、もしかして、もしかしちゃうのじゃろうか!? ううむ、コタでは無いのじゃが、妄想の偉大さに気付き始めてしまったような気がするのじゃ……)

「はぁっ、はぁっ、な、何か、無駄に疲れた気がする……」

「きょ、今日の所はこの辺で勘弁してくれるのじゃ……」

 ただでさえ蒸し暑いのに、無駄に暴れたお陰で余計に汗を掻いてしまった気がする。要らぬ遊びは控えるべきであろう。それに、こんなに暴れていると、またしてもおかん率いる無敵艦隊に一瞬にして殲滅させられる可能性がある。ワシと大樹の連合艦隊如きでは、おかん率いる無敵艦隊には万に一つの勝ち目も無い。そんなことを考えていると不意に部屋のドアが叩かれた。

「にゃー! 無敵艦隊の襲撃なのじゃ!」

「に、兄ちゃん、どうするのさ!?」

「と、取り敢えず……大人しく、無条件降伏するのじゃ」

「うわっ、兄ちゃん、弱いなー」

 背後でケラケラ笑う大樹を後目に、ワシは大急ぎでドアに駆け寄った。背に腹は代えられない。大樹よ、あと数年もすれば、お前にもワシの行動の真意がきっと判るハズだ。

「あんた達、何時までもプロレスごっこしてへんで、さっさとお風呂入ってきなさい」

 そこには無敵艦隊……もとい、おかんが呆れた表情を浮かべたまま佇んでいた。

「凄い雨じゃが、お客さんは大丈夫なのかの?」

「ええ。今、丁度お食事を運んだとこよ」

 やはり、お客はちゃんといるらしい。それを確認出来ただけでも一安心だった。何時の間にか布団の上に寝転がってテレビを眺めている大樹に、ワシは声を掛けた。

「大樹、ワシらも風呂に入るとするのじゃ」

 ワシの言葉に大樹が勢い良く起き上がって見せた。

「うん、そうしよう」

 こうしてワシらは、足音を立てないように注意しながら風呂場へと向かった。相変わらず外からは豪快な雨の音だけが響き渡っていた。正直、不安な気持ちで一杯ではあったが、大樹まで不安な気持ちにさせたくなかった。ワシは沸き上がる恐怖心を必死で抑え込み、平常心を見失わないように努めることにした。

◆◆◆7◆◆◆

 風呂場に辿り着いたワシらは周囲を確認してから、シレっと「貸切」の看板を立て懸けて風呂に入ることにした。さすがに、この荒れ狂う空の下で露天風呂に入る程の勇者にはなれそうも無かったので内風呂で済ませることにした。

「兄ちゃん、勝手にそんなことして大丈夫なの?」

「大丈夫なのじゃ。バレたらその時なのじゃ。にゃははー」

 少し前まで大樹はワシと一緒に風呂に入るのを極端に嫌がった時期があった。まぁ、ワシも歩んできた道だから、その気持ちは良く判る。しかしながら、今では別段気にすることも無く、威風堂々と振舞うようになった。とは言え、そこは良く似た兄弟。毛が生えたの何だのと騒ぐ程に明確な毛も無く、精々図体がでかくなった位の変化しか無かった。

 ワシは大樹と並んで体を洗っていた。それにしても、こうして裸になって並ぶと他者から双子の兄弟だと言われる理由も頷ける気がする。思わず二人で顔を見合せ、しばしの沈黙……。

(ま、まぁ、ワシの方が男前じゃがのう!)

 きっと、大樹も同じことを思っているのだろう。一瞬の沈黙の後に見せた、その勝ち誇った笑みにワシは全てを見た気がした。無論、ワシも負けるつもりは無い。ついでに、互いに腹の肉を掴んで、しばしの間絶句。思わず、再び顔を見合わせてしまった。

「な、何をにやにや笑っておるのじゃ」

「そ、そういう兄ちゃんこそ」

 広い浴槽にワシら兄弟の小さな溜め息だけが虚しく響き渡った。

 体を洗い、頭も洗い終えたワシらは浴槽に浸かっていた。相変わらず、外は大荒れの様相を呈している。ワシは大堰川が氾濫しないか、心配で仕方が無かった。

「雨、本当に凄いなぁ」

「そうじゃな。全然、鎮まる気配が無いのじゃ」

「大丈夫かな? 川、氾濫しないかな?」

「さて、どうじゃろうな。これだけ雨足が強いと判らんのう」

 本当に不安に駆られる空模様だった。窓の外に目線を投げ掛ける大樹の表情も重く感じられた。不安に思わない訳が無いのだろう。図体こそでかいものの、まだまだ子供であることには変わりは無い。

 それにしても、体付きは随分と立派になったものだと思う。何時もワシの後ろを追い掛けるばかりだった幼い大樹は、もう、居ないのだな。ふと、ワシの腕と比べてみても、腕の太さはワシに勝とうとしているようにさえ感じられた。そんなワシの視線に気付いたのか、大樹が照れ臭そうに笑った。

「兄ちゃんってば、そんなにジロジロ見ないでよ……」

「ご、ごめんなのじゃ」

「さては、また、お腹を鷲掴みにしてやろうって企んでいたなー? へへーんだ。そうそう何度も掴ませるものかー」

「そ、そんなこと考えて無いのじゃ」

 湯に濡れて光を反射する大樹の肌に見惚れていた……とは、口が裂けても言えなかった。ついでに、微妙に反応してしまった下半身にワシは動揺していた。

「兄ちゃん、何モソモソしているの? あー。もしかして、おならしたとか?」

「ち、違うのじゃ!」

「えー! じゃあ、コソっとおしっこしちゃったり!?」

「違ーう! 違ーう! 断じて、そんなことして無いのじゃ!」

 大樹は可笑しそうに笑いながらワシに向かって「シッシ」とやってみせた。やれやれ、先刻ワシが仕掛けたことを真似されるとは。ワシは苦笑いを浮かべながら、窓の外に目線を投げ掛けた。

 ワシの目線に気付いたのか、大樹が不意にするっとワシの腕に自らの腕を絡ませて見せた。敢えて強調するかのように体を密着させられ、ワシの下半身はあろうことかますます反応してしまった。弾力のある大樹の胸の感触は、中々に堪らないものがあった。

「雨、凄いなぁ……」

 大樹のことだ。多分、何時もじゃれ合っているノリでじゃれ付いているだけのつもりなのだろう。だからこそワシは余計に動揺していた。何故、大樹に反応してしまっているのだろうかと。焦れば焦る程に深みに嵌りそうな気がして恐ろしかった。

「そうそう。今日ね、面白いことあったんだ」

 大樹は相変わらず腕を絡ませたまま上機嫌に語り続ける。ワシは落ち付かない気持ちで一杯だったが、此処で妙な反応を見せるのも気が退けたから大樹の話に耳を傾けることにした。返事は無くても、耳を傾けていることに気付いたのか、大樹は嬉しそうに話を続ける。

「帰り道、皆で駅を目指して歩いていたんだ。そうしたらさ、大きな犬に出会ったんだ。犬と散歩していたのは若いお姉さんでね」

 偶然とは面白いものだ。大樹達もまた、ワシと同じように犬を連れたお姉さんとすれ違ったらしい。これで、連れていた犬がハスキー犬なら、ますます、凄い偶然だ。

「それでね、すれ違った後で、可愛かったよねって話で盛り上がってね」

 何となく流れが見えてきたような気がして、ワシは生温かい笑みが込み上げてきた。

「皆、可愛かったの対象がお姉さんだったんだよね。でも、オレは犬が可愛かったんだよね」

「にゃはは。お前はワシと同じじゃのう。可愛いのはワンコの方に決まっておるのじゃー」

「やっぱ、そうだよねー。えへへ。やっぱり、兄ちゃんはオレの話判ってくれるよねー」

(まぁ、連れていたのがムチムチの格好良いお兄さんだったら話は別じゃったがのう……)

 イヤイヤ、危うく、勢いに任せてトンでも無いことを口走りそうになって、ワシは慌てて息を呑んだ。大樹はワシの反応に一瞬、怪訝そうな反応を見せたが上機嫌に振舞っていた。

「お前もワシに良く似て、無類の犬好きじゃからのう」

「そうそう。別に、小奇麗なお姉さんには興味無いんだよね」

 さらりと言って退けた瞬間、大樹の表情が凍り付くのが見えた。イヤ、ワシも凍り付いた瞬間だった。

「あ、え、えっと、ヘンな意味じゃ無くて、ほ、ほら、オレ犬好きだからさ」

「わ、判るのじゃ。大きいワンコは可愛いからのう」

 嫌な汗が噴き出してきた。一体、何故、こんな微妙な展開になってしまったのだろうか? 前にも進めず、後にも退けぬといった四面楚歌、八方塞りの状況にワシらはただただ動揺するばかりであった。

(た、大樹もワシと同じなのじゃろうか? 良く似た兄弟なのを考えれば……否定は出来ない気がするのじゃが……)

 恐怖体験と背中合わせの状況下で、いよいよワシらの思考回路もあらぬ方向に突っ走り始めているのかも知れない。確かに、恐怖心を消すためには、あらぬ方向を向くというのは有効なのかも知れないが、それでも随分と妙な展開になったものだ。動揺するワシとは裏腹に、大樹は相変わらずマイペースに振舞うばかりだった。

「雨、どんどん強まっているみたいだね」

 大樹は窓の外を見つめたまま強張った表情を浮かべていた。ワシもまた大樹の隣に並び、叩き付けるように降り頻る雨を見つめていた。風もだいぶ強まり、悲鳴のような声を響かせていた。どうにも不安に駆られる情景だった。

 ふと、ワシは大樹が小さく震えていることに気付いた。強がっているように見えても、内心、不安な気持ちを拭い去ることは出来ないのだろう。ワシまで不安な気持ちになり始めた頃、不意に大樹の腕が伸びて来て、ワシの手に触れた。無意識のうちに、恐怖心からワシに縋ろうとしているのだろう。ワシはそっと大樹の肩を抱いて見せた。一瞬、ビクっとしたが、次の瞬間にはワシにもたれ掛かるようにして見せた。少しでも不安な気持ちを拭うことが出来るのであれば何でもしてやりたかった。非力で無知なワシにはこんなことしか出来そうに無かった。だから、せめて、やれる限りのことはしてやろう。

 雨は依然として激しく降り頻るばかりだった。大堰川が氾濫を起こすのも時間の問題なのかも知れない。不安な気持ちで一杯だったが、ワシは目一杯気丈に振舞おうと考えていた。少しでも大樹の不安を拭わなければ。大樹を守ってやれるのはワシしかいない。だからこそ、ワシがシッカリしなければならない。傍らに佇む大樹の顔を横目に見ながらそんなことを考えていた。

「さて、大樹よ、そろそろ上がるのじゃ」

「う、うん。そうだね」

  それに、これ以上この場に留まり続けるのは賢く無い気がした。有り得ない話ではあるが、見えざる何者かに意図的に丸裸にされようとしている気がして落ち付かなかった。自分でも気付いていない隠された本音を剥き出しにされそうな気がして恐ろしかった。イヤ、むしろ……誰かが入ってくる可能性のある風呂場では無く、誰も入ってこない自室の方が……? 余計な詮索をするのは止めにしよう。見つめたく無い現実を、知りたく無い真実と、わざわざ向き合う必要も無いのだろうから。その先にはある物は、間違い無く、ワシら兄弟に不幸な結末をもたらすものでしか無いのだろうから。こうしてワシらは風呂から上がり、再び部屋に戻って来ることにした。

◆◆◆8◆◆◆

 その後、大樹と二人で夕食を済ましたワシらは部屋でのんびりと寛いでいた。とは言え、相変わらず外は荒れ狂った様相を呈したままで、気持ちの上では終始恐怖に包まれたままだった。何とも言えない蒸し暑い部屋の中で、ワシらはピッタリとくっ付いたまま、時の流れにただ身を委ねることしか出来なかった。

「何かさ、随分と揺れているけど、大丈夫なのかな?」

「むぅ……。確かに、家が微かに揺れておるのう。時折、ギシギシ言っておるが……唐突に崩壊したりせんじゃろな?」

「こ、怖いこと言わないでよ……」

 怯えついでに、大樹は勢い良くワシの腹を掴んだ。

「いたたた! 腹を掴むで無いと何度言えば判るのじゃ。ワシの腹は持ち手じゃ無いのじゃ」

「ああ、兄ちゃん。気象情報始まるよ」

 思わず声を荒げるワシを後目に、大樹は何時もの調子で振舞うばかりだった。

「こら! 話を逸らすで無いわ!」

 とは言いながらも、今のワシに取って最大の関心事は気象情報にあった。故にワシらは食い入るように気象情報を見つめていた。土砂降りの雨は嵐山全域に渡って被害をもたらしているらしく、既に床下浸水どころか、床上浸水まで出始めているらしい。リポーターは相変わらず、至極事務的な口調で繰り返しの注意を繰り返し呼び掛けるばかりだった。もっとも、注意を呼び掛けられたところで、当事者であるワシらは一体どうすれば良いのか皆目見当が尽かなかった。

「大体、今まさに絶賛大荒れ中な状況の最中で、注意を呼び掛けられた所で、どーすりゃ良いのかという話なのじゃ」

 テレビに悪態をついても事態は何一つ変わる訳も無く、ただ虚しい気持ちで一杯になっただけだった。やれやれと、頭を掻いた、その瞬間であった。

「うわっ!」

「おぉっ!? て、停電かの!?」

 突然、部屋の明かりが、テレビが音を立てて暗転した。事態は確実に悪化しつつあった。

「い、一体どうなっているんだよ!?」

「た、大樹よ、落ち付くのじゃ!」

 だが、追い打ちは続く。突然の停電に呼応するかのように、部屋が真っ白になる程の眩い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、空を切り裂く落雷の衝撃が駆け巡った。地震が起こったかのような衝撃を体中で感じ、ワシらは思わず悲鳴を挙げた。

「のおぉう!?」

「うわーっ!」

 突然の出来事に、余程驚いたのだろう。ワシは大樹に全力で抱き付かれた。

「ど、何処かに落ちた……? 結構、近くだったよね?」

「し、心臓が止まるのじゃ……」

 只でさえ薄気味悪い状況での停電とは、絶望的な気持ちにさせられるばかりだった。階下でも突然の停電に慌てた様子でおかん達が何やら話をしている声が聞こえてきた。一体、どうなってしまっているのだろうか? ただただ不安な気持ちばかりが駆り立てられていた。

「時に、大樹よ。何時までワシにしがみ付いておるつもりじゃ?」

「だ、だって……」

「つ、ついでに……ワシの太ももに、堅いモノが当たっておるのは気のせいじゃろうか?」

 恐怖ついでに、大樹の奴、何処の避雷針を立てているのか……。こういうのは恐怖心と連動する物なのだろうか? まぁ、お陰で緊張感が一気に消え失せたのも事実ではあるが、何とも言えない生温かい気持ちで一杯になった。

 さすがに恥ずかし過ぎたのか、大樹は顔を真っ赤にしたまま黙り込んでしまった。と、思った矢先、不意に、ワシの股間をまさぐる大樹の手に、ワシは思わず鳥肌が立ちそうになった。

「にゃーっ!? ど、何処をまさぐっておるのじゃ!」

「そういう兄ちゃんだって元気一杯だよね」

 本当に不思議な物で、こんなにも恐ろしい気分で一杯なのに、何故か、ワシのも元気一杯になっていた。恐怖のあまり、いよいよ思考回路が暴走し始めてしまったのだろうか? それにしても、兄弟揃って行動パターンがソックリなのだと、改めて実感させられた。

「し、仕方が無いのじゃ。ずっと、お前が部屋に居ったから……その、な、何じゃ。ご、ゴニョゴニョすることも出来ずにじゃな……」

「うわー、兄ちゃんってば、エッチぃー」

「お、お前も一緒じゃろう?」

 ワシの切り返しに大樹は言葉を失った。しばし考え込んでから、顔を真っ赤にしながら切り返して見せた。

「そーいうお年頃なの」

「どーいうお年頃なのじゃ……」

 こんな状況で、ワシらは一体、何の話をしているのだろうか? 途方も無くシュールな光景だった。考えようによっては、ある種の危機回避システムなのかも知れない。逃れようのない恐怖の中で、何とか恐怖心を軽減しようとする生存本能が為せる……いやいや。ただ単に、男の哀しい生理現象が現れただけに過ぎないのだろう。まぁ、確かに、ちょっと……イヤ、すごーく処理したい気分であることは否定出来ないが。

(うぬぬ、こんな場面でも笑いの心を忘れぬとは、我ながら恐るべきプロ根性なのじゃ……)

 兄弟揃って可笑しな事態に陥ったこともあり、場の空気が何とも生温かくなった気がした。必死で腰だけでも引き離そうとする大樹の無駄な努力が可笑しいやら、微笑ましいやらで、微妙に和んだ気がする。

(ワシに抱き付いておるのが、テルテルじゃったら話は簡単だったのじゃが……)

 そんなことを考えていると、不意に妙な音が聞こえてきた気がした。ワシは要らぬ行動を起こして大樹の不安を煽らないように注意しつつ、耳に神経を集中させた。

(はて、何じゃろう? 何やら、人の声のようにも聞こえるのじゃが……)

「怖いなぁ……。停電、早く復旧しないかな。部屋も真っ暗だし……」

 恐怖のあまり、大樹は今にも泣き出しそうな顔をしていた。何とかしてやらねば。ワシは大樹の兄貴だ。こういう場面だからこそ、弟を守ってやらねばならない。ワシは大樹の手にワシの手を重ね合わせて、そっと握り締めてやった。一瞬、大樹は驚いたような表情を見せたが、すぐに不安げな表情を打ち消すかのような笑顔を見せてくれた。

「ちぃーとドキドキし過ぎて、手に汗握りまくりなのじゃが、まぁ、許してくれなのじゃ」

「兄ちゃんの手、温かいなぁ。えへへ」

 ようやく戻って来た笑顔に、思わずワシまでホッとさせられた気がした。

「子供の頃さ、何時もこうやって手、握ってくれたよね」

「そうじゃな。この年になっても、安心するかの?」

「……うん。安心する」

 大樹は照れ臭そうに笑いながら「やっぱり、布団持って来て、正解だったかも」と、ぽつりと呟いて見せた。何だかワシまで照れ臭くなって、大樹が未だ幼かった頃に、よくそうしたように頭を撫でてやった。照れ臭そうに笑いながらも、大樹はワシに力一杯抱き付いてみせた。

 しかし、ワシは安心することは出来なかった。微かに聞こえていただけの人の声が次第にハッキリと聞こえるようになっていたのだから。鳴き声のように響き渡る風の音に紛れて、ゴボゴボという妙に水気を帯びた声も聞こえていた。想像したくも無かったが、それはまるで溺れる人が、必死の想いで救いを求めているような声に聞こえた。

 何時の間にかワシは妙に冷静さを取り戻していた。今、この部屋にいるのはワシと大樹、二人しか居ない。何が起ころうとも大樹のことを守らなければ。そう、覚悟を決めた瞬間から不思議と恐怖心は薄れていた。弟を守る。その執念だけが、今のワシの原動力になっているような気がした。だが、この不気味な声は大樹にも聞こえてしまったらしい。痛い程に力の篭った手の感触に、不意に荒くなり出した息遣いに、ワシは全てを理解した。

「に、兄ちゃん……」

「わ、判っておる。大丈夫じゃ。ワシがお前のことを守るから、な、何も心配すること無いのじゃ……」

 嵐山で多発している可笑しな心霊現象の数々。どうやら、ワシらの所にまで押し寄せてきてしまったらしい。ゴボゴボと水を吐き出しながらも必死で救いを求める声が確かに聞こえた。それも一人や二人では無い。一体、何処から聞こえてくるのか、すぐ耳元から声は聞こえていた。

 有り得ない話だった。ここは畳張りのワシの部屋で、しかも、この部屋は二階にある。幾ら大堰川の水位が増したにしても、二階の部屋を呑み込む程の水位になることなど有り得ない。そう考えると、やはり、この世ならざる者の声としか考えられなかった。

 これだけでも十分に恐ろしいのに、窓を叩くような音まで聞こえてきた。今度は一体何が起きたのかと周囲を見回した瞬間、突然、大樹が悲鳴を挙げた。

「うわぁっ! 兄ちゃん! 窓! 窓見てっ!」

 慌ててワシも窓に目をやった瞬間、余りの光景にワシは思わず息を呑んだ。

「な、何じゃと!?」

 てっきり荒れ狂う風の影響で、窓がガタガタなっているのだとばかり思っていたが、窓を鳴らすのは風だけでは無かった。まるで、開けてくれと懇願するかのように、びしょ濡れの手が、次々と窓を叩いていた。もはや、現実の世界では考えられない事態に陥っていた。

 それでもまだ異変は続く。どこから聞こえて来るのか、お鈴の音色と読経の声が静かに聞こえ始めた。それに呼応するかのように、何者かが階段を登ってくる音が聞こえてきた。一歩、一歩、歩む度にビチャ、ビチャと、水気を孕んだ不気味な音を発しているように感じられた。

「もう、一体どうなっているんだよ! 絶対、可笑しいよ! 訳が判らないよ!」

「た、大樹よ! 落ち着くのじゃ! ワシが居る! 絶対にお前を守るのじゃ!」

 それで救われるのかどうかなんて保障は何処にも無かった。だが、この部屋から一歩も出てはならない。何故か、そんな気がしてならなかった。声も足音も、確かに聞こえているが、この部屋にまで侵入することは出来無さそうに感じられた。それならば、とにかく時間が過ぎるのを待つしかない。根拠など何一つ無いが、そんな気がしてならなかった。嵐が過ぎ去れば全てが終わる。この奇怪な現象も、この世ならざる空気も、恐らくは一緒に過ぎ去るのだろう。何の根拠も無い、実に都合の良い解釈でしか無かった。だが、他に縋る物も無い以上、上手いこと自分を騙せる口実が欲しかった。そうで無ければ、ワシまで恐怖に溺れ、パニックに陥ってしまいそうだった。そうなってしまったら、恐らく、ワシら兄弟もまたオカルトマニア達と同じ末路を辿ることになるだろう。

 とにかくワシは大樹を力一杯抱き締めたまま必死で祈り続けた。一刻も早く嵐よ、過ぎ去ってくれ。一刻も早く朝日よ、ワシらを救ってくれと……。必死で願っていると、不意に意識が遠退いてゆくのを感じた。まさか、恐怖のあまり気を失おうとしているのだろうか? だとしたら、なんと情けない話なのだろう。大樹を守り抜こうとしたワシは、所詮、ただのうそつきに過ぎなかったのだろうか……。ただ、無力で、非力な自分が、どうしようもなく哀しかった。雨は尚も降り続き、風は窓をカタカタと鳴らし続けていた。

◆◆◆9◆◆◆

 夕方前から降り出した雨は勢いを増すばかりだった。そっと手を突き出せば手の平に確かな雨粒の衝撃が伝わってくる。大粒の雨粒が空から勢い良く零れ落ちているのは間違いなさそうだ。

 俺達は清水寺の本堂から降り頻る雨を静かに見つめていた。派手に降り頻る雨は清水の舞台にも容赦なく叩き付け、一面水浸しになった舞台には次々と波紋が刻み込まれてゆく。吹き荒れる風は木々達を打ち鳴らし、時折、地響きのような雷鳴さえ轟かせていた。傍らではクロが険しい表情を称えたままジッと夜空を睨み付けていた。妙に張り詰めた空気がそこにあった。僅かなる弛みさえ感じられない程に敷き詰められた糸の牢獄。そのような場所に身を置くのは息が詰まりそうだった。此処は流れを変えなければ。俺はわざとらしく大きく溜め息を就きながら、クロの顔を覗き込んで見せた。

「すっかり、不法侵入が定着化しているのも、如何なものかと思うが?」

「まぁ、我らのように翼ある者に取って、門などあって無き物よ」

「否、シレっと正当化するのもどうかと思うのだが」

 思わず苦々しい表情で突っ込んで見せれば、予想通り、何時もと変わらない飄々とした態度で応えてくれた。こうで無ければやり辛くていけない。多少は気が楽になった。

 叩き付けるように降り頻る雨足は衰えるところを知らず、清水の舞台はすっかり水浸しになっていた。遠く見える京都タワーも微かな霧に包まれたかのように霞んで見え、清水寺の境内を覆う木々達も強い風雨に晒されて、大きく揺れ動いていた。

「まるで台風だ。しかし、この季節に、これ程までに荒れ狂うことは早々滅多にあることでも無い」

 感慨深げに呟いて見せれば、クロが静かに俺の隣に歩み寄る。そのまま、俺の真似をするかのように遠くに向けて目線を投げ掛けて見せた。だが、クロの鋭い目が見据えているのは、この景色だけでは無いのだろう。そうで無ければ、敢えてこの悪天候の最中に、清水寺に誘うとは考えられなかった。

「嵐山の地にて、夜な夜な可笑しな事件が起きている様子であるな」

「既にお前の耳にも入っているか」

 数日前から俺達の間でも話題には登っていたが、今日も可笑しなことが起こったらしい。輝の下にかかって来た大地からの一本の電話。だが、その電話は唐突に途切れ、以後は繋がらなくなってしまったと聞かされた。嵐山で一体何が起きているのだろうか……。

「コタよ、嵐山という土地がどういった場所であるか、お主は知っておるか?」

 俺を試すかのようにクロが不敵に微笑む。腕組みしたまま「さて、どうであるか?」と問い掛けるような眼差しを向けて見せる。なるほど。今宵は京都の歴史に関しての座談会と相成るか。それはそれで中々に興味深い話だ。上手い具合に乗せられてみようでは無いか。

「そうだな……。嵐山は観光地としての賑わいを見せる華やかな街並みだ。駅から少し歩けば風光明美なる渡月橋もある。まぁ、嵐山の駅前は中々に個性的な店が立ち並び、賑わいを見せる場所でもあるがな」

 俺の話にクロは興味深そうに耳を傾けていた。

「駅の周辺には幾つかの有名な寺社仏閣がある。秋になると紅葉の名所となる場所も多く、賑わいは最高潮に達する。ああ、嵐山という土地は華やかで、賑わいを見せる土地だ」

 クロは腕組みしたまま俺の話に興味深そうに耳を傾けていた。不意に、風に煽られた新緑の葉が一枚ひらりと舞う。クロは俺の話に耳を傾けたまま、涼やかな顔でそれを指先で摘んで見せた。涼やかな笑顔を称えたまま、誇示するかのように見せた優雅な振舞いから察するに、なるほど。退屈だと言いたい訳か。面白い。すぐに、その涼やかな顔を一気に燃え上らせてくれよう。

「――表向きはな?」

 笑いながらクロに向き直って見せれば、一瞬、怯んだような表情を見せた。同時に、手にした木の葉が勢い良く炎に包まれた。

 そうだ。その先だ。その先について、お前は何を知っている? いよいよクロは目を大きく見開き、俺が何を喋るかに熱い興味を注いでいるように見えた。

「華やかな装いの影には、言葉に出来ない暗い歴史が眠っていることも少なく無い」

 俺は再び遠く揺らめく、灯のように光を放つ京都タワーに目線を投げ掛けながら続けた。

「嵐山には曰くのある場所が幾つか存在している。嵐山の北に位置する化野念仏寺は有名な場所だ」

 ちらりとクロの反応を窺えば、何やら不敵な笑みを浮かべながら俺の話に耳を傾けている。どうやらクロの希望に添う話になっている様子。微かに上機嫌そうな振舞いを見せる辺りからしても、少なくてもクロが望んでいる話の方向性から大きくは逸れていないことだろう。

「多くの無縁仏を弔って来たとされる寺――大地と共に何度か訪れたことのある場所だが、この世にあって、この世ならざる佇まいを抱く、異様なる佇まいを抱く寺と言えよう」

「化野……古き時代から風葬地として知られた土地よの」

「風葬地?」

 俺が問い掛けるのと同時に、一陣の風が駆け抜けて行った。クロの翼が風に揺れる様を目にしながら、俺は続けた。

「聞き慣れない言葉だ」

 戸惑う俺の反応など既に予想していたのであろう。夜空に目線を投げ掛けたままクロが続ける。

「文字通りの意味よ。母なる土地に埋め、土に還ることことを願いながら死者を弔う土葬。燃え盛る炎に焼かれることで死者を浄化し、弔う火葬」

 クロが静かに語る話に俺はすっかり聞き入っていた。どうにも背筋が冷えて仕方が無かったが、それでも好奇心という物は猫をも殺すもの。その魅惑の色香に抗えという方が無理がある。

「そうか。風葬とは……野山に晒したままにすることで、風の流れの中へ、時の流れの中へ消えてゆくのを願う弔い方を示す。そういうことか?」

「ほう?」

 クロは腕組みしたまま、静かに笑って見せた。

「良く知っておるでは無いか?」

「以前、太助に聞かされた話を思い出しただけだ」

 クロに応えながら、俺は降り頻る雨の中でも灯台のように煌々と明かりを称える京都タワーに目線を投げ掛けていた。

「なるほどな。そういう弔い方を『風葬』と呼ぶのだな」

 俺が知識を有していたことが嬉しかったのか、上機嫌そうにクロが俺の肩を抱く。それならばと、俺はクロにもたれ掛かって見せた。

「風葬地……つまり、嵐山は古き時代より、多くの死体を受け入れてきた土地ということになる」

「なるほどな。野に晒されての原点回帰では、そうそう浮かばれる物でも無さそうだな」

「うむ。だからこそ、古き時代より死者を弔うための寺が建立されてきたという歴史を持つ」

 クロは静かに遠く、嵐山の方角を指差しながら語らい続ける。

「嵐山という土地は決して華やかな賑わいを見せるだけの歓楽の街では無い。死者の跋扈する異界という一面をも持っておる」

「……そんな場所に、心霊スポット巡り等という名目で訪れるとはな。物を知らぬというのは、それだけで十分に大罪になるものだな」

 思わず大きな溜め息が零れ落ちる。

「まぁ、そんな奴らが何人死のうが、どうなろうが、自業自得だ。願い通りの体験も出来て、自らの行く末にも花を手向けることが出来て、さぞかし満足であろう」

「ふふ、相変わらず口が悪いな」

「今に始まったことでも無い」

 笑いながら俺は周囲の景色に再び目線を投げ掛けていた。相変わらず雨は叩き付けるように降り続き、風が金切り声を挙げながら吹き抜けてゆくばかりだった。

(何故、こんな雨の夜に清水寺に連れて来たか疑問に思っていたが、なるほど。そういう意図を持たせていた訳か)

 ちらりとクロの表情を覗き込めば、クロは静かに口元を緩ませていた。

「ほう? 何か気付いた様子であるな?」

「お前は性悪な奴だ。よりによって、こんな夜に清水寺に俺を連れて来るとは、悪趣味以外の何者でも無い」

「ふふ、ようやく気付いた様子であるな?」

「ああ。この一帯は古くは鳥辺野と呼ばれた土地だ。鳥葬……大空を舞う鳥達に死者の身を喰らわせ、食物連鎖の摂理の環に誘う弔い方が選ばれた土地……」

 京都随一の観光名所も中々に血生臭い過去を抱いているものだ。只でさえ背筋が寒くなるような事案を物語っているにも関わらず、事もあろうに三大葬送地の一角に訪れることになろうとは、思いも寄らなかった。実際にこの界隈には墓地が多く点在している。薄暗い過去もまた誇張表現等では無いことを示している。

「ここから少し北上すれば高台寺がある。そのすぐ近くには霊山観音もある」

  俺は周囲を見回しながら続けて見せた。

「この界隈は賑わいを見せてこそいるが、人々が知らぬだけで、死臭に満ちあふれた禍々しい土地だ」

 俺は清水の舞台へと歩み出た。吹き荒れる雨が容赦なく叩き付けるが気にならなかった。水浸しになった舞台に足を踏み込む度に、足元に静かに波紋が広がる。

 この雨はまるで涙では無いか。言葉に出来ない生温かさを感じずには居られない。ゆっくりと舞台の淵へと歩み寄る俺に動揺したのか、クロが息を呑む声が聞こえた。その声に俺は満足感を覚えた。天を仰ぐように顔をあげれば、温かな体温を伴ったかのような雨粒が容赦無く降り注ぐ。だから、俺は静かに目を伏せ、舞を振舞って見せた。動揺するクロの素振りが可笑しくて仕方が無かった。そろそろ、勘弁してやろう。足を止め、俺はクロに向き直って見せた。

「……このまま清水の舞台から飛び降りるとでも思ったか?」

「お主がそのような無謀な真似をする訳があるまい。だが、不意に風が吹き付け、足を取られれば転落の危険性を伴う。そう、我の肝を冷やす真似をしてくれるな」

「ふふ、少しは俺の気持ち理解したか?」

 揶揄するように笑って見せれば、溜め息混じりにクロが眉をひそめる。少々苛立ちを覚えたか? それはそれで一興だ。

「むう……お主も性悪な性分よの。お主が望むとあらば、三大葬送地が三番目の角、蓮台野の地に誘ってくれても構わないのだぞ?」

 反撃するかのように目一杯俺に顔を近付け、クロが不敵な笑みを浮かべて見せる。

「生憎、俺はお前と違って悪趣味な性分では無いのでね。それに、こんな土砂降りの最中、屋根の無い場所を移動するのは勘弁願いたいものだ」

「なに、そう恐れるな。異形の者達に襲われることとなったら、我がお主を守ってくれよう」

 クロは腕組みしたまま可笑しそうに笑って見せた。笑いついでに、俺の肩を抱きながら本堂の下へと導いて見せた。こんな蒸し暑い晩だ。少し位雨に濡れた方が心地良い。

 クロに導かれるままに俺は本堂の奥へと歩を進めた。丸柱が立ち並ぶ本堂は明るい時間であっても、日の光が差し込まない薄暗い場所だ。夜半の暗さの中、灯された蝋燭の仄かで温かな光が心地良く感じられた。蝋燭に照らし出されたクロの横顔を見つめながら、俺はクロの腕を小突いた。

「血気盛んな奴だ。俺を守るという大義名分の下、ただ単に大暴れしたいだけでは無いのか?」

 俺が問い掛ければ、クロは「さて、どうであろうな?」と相変わらず飄々とした振舞いを見せるばかりだった。否定も肯定もしない。一体何を企んでいることか。

「まったく……性悪なカラス天狗め。天に代わって、俺が裁きを下してくれる」

「ほう? 叩き付けるような雨降る晩に、極楽浄土へと誘う責め苦を堪能出来るとは、中々に興味深い話であるな」

「投げ技、締め技、関節技……望み通りに痛め付けてくれる」

「ふふ、それならば――」

 クロはにやりと笑いながら俺の肩を抱くと、力強く、抱き寄せて見せる。そのまま、不敵な笑みを浮かべながら

「寝技を所望すると返答してみようか?」

 と、囁くような口調で返して見せた。

「やれやれ、違う部分まで血気盛んな様子だな」

 いかん、いかん。クロと他愛も無い掛け合いをすることが目的では無い。どうも、脱線気味だな。本線に向けて軌道修正するとしよう。

 俺は降り頻る雨を見つめながら、以前、太助から聞かされた逸話を思い出していた。歴史を紐解けば京都という街は死者達の都でもあったとも言えなくも無い。限られた地域の中に、何故、こんなにも沢山の寺社仏閣があるのかという話もある。太助から話を聞くまで、さして違和感を覚えること無く暮らしてきたが、自分の住む街が抱く歴史を紐解いた時、意外な事実に気付かされる。

「京都は古き時代から死者達の都であった」

 俺の心を垣間見ているのでは無いかと思う程に、実に適切な頃会いで話を切り出すものだ。予期せぬ言葉に大いに動揺させられたが、ここで取り乱すのも癪に障る。俺は、さも何事も無かったかのように向き直って見せた。

「ああ。穏やかな流れを称える鴨川も、飢饉の際には死者が川の流れをも埋め尽くしたと聞いたことがある」

「うむ。それに、数多の寺社仏閣が意図するのは『結界』としての名目も為して居る」

「そうだな。京の都には数多の死者達と共に、遍く魔物達の伝承も数多く残されている」

 クロの隣に立ちながら、俺はクロの体温を感じていた。不意に穏やかな風が吹き抜ければ、クロの香りがふわりと舞い上がる。懐に忍ばせた道具が放つ芳香に混ざり合う、肉感的なクロ自身の匂いを感じ取り、俺の心が酷く掻き乱された気がした。

「古き時代からカラス天狗達は人の為に戦ってくれたのだな」

 俺はそっとクロに全体重を掛けて寄りそって見せた。一瞬、クロの鼻息が荒くなるのが聞こえた気がする。

「ふふ。今宵は随分と愛い振舞いを見せるな?」

「……お前が散々怖がらせるからだ。只でさえ薄気味悪い事案に挑もうとしているのに、古き時代から連綿と続く伝承まで事細かに聞かされれば、誰だって恐怖に戦く筈だ」

「狙い通りであった様子よの?」

「ああ。性悪なカラス天狗の仕掛けた底意地の悪い罠に、憐れな俺が引っ掛かった訳だ」

「ほう? 自らを憐れと称するとは、お主も中々に魔性を知る身であるな?」

「……黙れ。黙らぬと、無理矢理にでも黙らせるぞ」

「興味深い言葉よの。して――」

 クロが目一杯俺を抱き寄せる。そのまま俺の耳元で吐息混じりに囁いて見せる。

「どのように我を黙らすのであろうか?」

「そうだな……」

 俺は笑いながらクロのくちばしに手を宛がって見せた。

「大福を大量に詰め込んでくれよう。それならば言葉を発することも出来まい?」

「ほう? そんなことをされれば我は窒息してしまうであろう」

「それは好都合だ。その、へらず口も叩けなくなるな」

「ふふ。それならば、我もお主のへらず口も塞いでくれようぞ」

「望むところだ」

 クロとの可笑しなやり取りもすっかり定着してきた感がある。狐と狸の化かし合い。人とカラスとの鬩ぎ合いとは何とも因果な夜伽草子だ。俺はすっかりクロの術中に嵌っている。だが……まぁ、それも悪くは無い。

 クロと出会うまで気付かなかった、俺自身の真実に気付いた時、俺は恥ずかしさの余り、今すぐにでも我が身を煉獄の炎に投じてやりたくなった。しかしながら、恐ろしい物で、痛みも迷いも最初だけだ。最初さえ乗り切れれば後は極楽浄土の悦びが待つ桃源郷へと誘われる訳だ。

 危うく、本当の意味で桃源郷へと呑まれようとした瞬間、不意に、強い風が吹き込んできた。風に舞う雨粒の冷たさに、俺は一気に我に返った。改めて淫らな欲望に呑まれようとしていた自分に気付き、無性に恥じらいを覚えた。動揺を隠すために俺は慌てて話題を逸らすことにした。

「雨、止まないな」

「空が泣いておるのであろうな」

 ぽつりと呟いたクロの言葉に、俺は静かに頷いた。

「眠りに就くことの出来ぬ数多の死人達の嘆きが幾千、幾万もの涙となりて、累々と天より降り注いでおるのであろう。真に哀しげな雨の夜であるな……」

「俺達の手で眠らせてやろう」

 眠りたいのに眠れないというのは、辛く、苦しいものだ。それならば、俺達の手で救ってやりたい。そう願うのは、もしかしたら、酷く傲慢な考えなのかも知れない。それでも、嵐山に起きている異変を解決出来るのは俺達しか居ない。無論、心霊スポットを巡る馬鹿共が何人死のうが、そんな奴らはどうでも良い。線香の一本すら挙げてくれる価値も無い。だが……迷える死者達の嘆き、哀しみ、苦しみ。そうした想いは救いたい。心からそう願っていた。

「さて、コタよ、そろそろ戻るとしよう」

「ああ」

 背を向けて歩き出すクロに、俺はそっと、声を掛けてみた。

「なぁ、クロ。ひとつ……我儘を言っても良いか?」

 俺の言葉にクロが驚いたような表情で向き直った。なに。そんな大仰な我儘では無い。

「この降り頻る雨の中を、お前と歩きながら帰りたいのだが……駄目か?」

「ふふ。中々に風変わりな赴きよの。だが、コタの願いとあらば聞き入れぬ訳にはゆかぬ。なに、案ずるな。傘ならば……ほれ? この通り、準備してあるでの」

 何処に隠し持っていたのか、さも当然であるかのように、背中から引っ張り出して見せたが……。

(い、一体何処に隠し持っていたのだろうか? ううむ、恐ろしく興味を惹かれるが……)

「さて、それでは参ろうか」

(お、恐ろしく興味を惹かれるが……否、駄目だ、駄目だ。深淵の闇を見届けるのは恐ろし過ぎる)

 クロは自慢げに鮮やかな紅の番傘を手にして見せた。随分と派手な色を好むものだ。俺は思わず苦笑いを浮かべていた。だが、此処で番傘を選ぶ辺りが、やはり、クロらしい。大きな番傘を差しながら夜半の道を歩む。三年坂、二年坂と経て、花見小路脇の家まで歩むとしよう。

「なぁ、クロ。そのでかい傘が一つだけと言うのは……何か意図する所があるのだろう?」

「ほう? その心を我に言わせたいと申すか?」

 再びこちらを振り返ると、クロが不敵な笑みを浮かべる。

「お主も中々に無粋なことを問うものよの」

「ふふ、それもそうだな……」

 俺は黙ってクロに寄り添い、クロの顔を覗き込んで見せた。これが返事だと。クロは目を細めながら静かに歩き始めた。俺もクロに続いて歩き始めた。言葉なんか要らなかった。こうして共に歩んでいるだけでも互いの心は通い合う。

 本堂を後に、轟門を抜けた所でクロが力強く番傘を開けば、静まり返った夜半の街並みに華やかな一輪の花が咲き誇ったような絵になった。やはり、京の都に生きる身としては、伝統ある物と共に歩むことは心地良いものだ。そう、実感しながら俺達は雨の参道を歩み始めた。何時の間にか雨も風も大分弱まってきたように感じられた。

◆◆◆10◆◆◆

 人の気配が無くなった夜半の参道をクロと共に歩んでいた。不思議な情景だった。昼間は賑わいを見せる通りも夜中は静まり返る。立ち並ぶ店々も明かりが消えて静かに佇むばかりだった。響き渡るのは俺達の足音とシトシトと降り続く雨の音だけだった。時折風が吹き抜ければ、木々の葉がざわめく音が重なり合うばかりだった。

「静けさに包まれておるな」

「ああ、さすがに夜は人通りも無くなるからな」

「うむ。日の当たる時間帯には、さぞかし活気に満ちあふれていることであろう」

 クロは目を細めながら周囲の景色を見回していた。ふと、目線を遠くに投げ掛ければ市内の街明かりが瞬く光景が目に留まる。周囲を山々に抱かれた市内の街明かりの情景。夜の清水寺を訪れる者は居ないかも知れないが、人の気配の失われた夜の清水寺から見下ろす景色、俺は気に入っている。地元に住む身だからこそ夜中でも容易く訪れることが出来る場所のひとつとなる。クロにも気に入って貰えて嬉しい限りだ。

「人の手が築き上げた文明など好みでは無い、と一蹴されやしないかと心配した時期もあった」

「さも昔のことであるかのような言い方よの」

「確かにそうだな」

 再び街明かりが瞬く光景に目線を投げ掛けながら、俺は続けた

「そんな遠い昔の話でも無い筈なのに不思議なことだ」

 清水寺へと至る参道はあくまでも静まり返っている。降り頻る雨の中、俺達はそっと足を止めて周囲の景色を見回していた。

「人の居ない時間帯で無ければ、こうしてお前と歩くこともままならないのが悔しいな」

 どこか棘のある言い方になったのだろうか。俺を嗜めるかのように、クロがそっと俺の肩に腕を回して見せる。

「我はカラス天狗であるからな。人との違い、受け入れねばならぬ」

「だが、そんなの……」

「納得ゆかぬ」

 囁くような声ではあったが、体の芯を揺るがす程に響き渡る声だった。驚きの余り、俺は思わず立ち止まった。満足そうに俺を見つめながらクロが続けて見せる。

「だからこそ、我らカラス天狗と人とが共に手を取り合い歩めた時代を再び築き上げる。それがお主の願いであったと思うが?」

「ああ、絶対に叶えて見せるさ。クロは俺に取って、掛け替えの無い大切な友だからな」

 ついつい熱くなってしまう俺の言葉を受け、クロは照れ臭そうに空を見上げて見せた。言い放ってから、俺自身も急に恥ずかしくなってきて、思わず俯いていた。

「だ、黙り込むな……」

「ふふ、済まぬ。時にコタの言葉は直情的過ぎて、我の琴線を甘美に撫で回してくれるでの」

「無駄に卑猥な表現を使うな……抑えが利かなくなる」

「ほう? 何故、抑え込む必要がある?」

 クロが静かに微笑むのと同時に、一陣の風が吹き抜けた。木々の葉が揺らされて、サラサラと涼やかな音色が響き渡る。ふと、足元に目線を落せば、雨に濡れた石造りの床が艶めかしく瞬く様に、思わず息を呑んだ。

「……こんな場所で戯れるつもりか?」

「道行く者達に視姦される。それもまた一興であろうぞ」

「ふふ、確かに。興奮するのは否定しないさ」

 思わず二人で顔を見合わせて吹き出した。こんな夜更けに、一体何の話をしているのだろうか。気を抜くと話があらぬ方向へと脱線してゆくのは、もはや悪癖以外の何物でもないだろう。

 土産物店が立ち並ぶ緩やかな坂道を経て、俺達は三年坂へと至っていた。この辺りも夜になると本当に静かになる。風情あふれる街並みを楽しむには、やはり、夜に限る。人の手が築き上げた電灯が仄かに照らし出す街並みは静けさに包まれている。昼間は風流さからは掛け離れた観光客達がさんざめくばかりでいけない。人気ある観光地の宿命と言えばそれまでなのかも知れないが、俺の中では言葉に出来ない想いを捨て切ることは出来なかった。

 三年坂を下り切った所でクロが静かに足を止める。俺も真似して足を止める。

「どうした、クロ? 何かあったか?」

「……我の存在に気付いたのであろう。死者の魂が見受けられる」

 静かにクロは周囲の景色を見回していた。だが、俺には何も見えなかった。目に見ることの出来ない者達の存在。肉体の有無だけなのに、生者と死者との間には決して超えることの出来ない大きな壁がそびえ立つ。もっとも、その壁が失せてしまったら世の秩序は乱れ、摂理を無視した異変が多発する。そんなことになれば、考えることすら恐ろしい事態が巻き起こるだろう。

「案ずるな。現世を彷徨う者達ではあるが、悪意ある者達では無い」

「放っておいて良いのか?」

「全ての魂を相手にするなど、我一人の手に負える話では無い。それに、時が訪れれば自ずと成仏の道を歩むであろう」

 少々冷たい振舞いにも感じられたが、確かに、クロの言うことにも一理ある。誰かを救えば、他の誰かが自分も救ってくれとなるだろう。そうなってしまえば収拾がつかなくなる。自分の力量の限界を超えたことはするものでは無いということなのだろう。身の程を弁えることの大切さを知った気がする。

「ふふ、そんな御大層なものでは無い。ただ、我も無尽蔵に力を使える訳では無い」

「そうだな。立ち向かうべき相手がいる以上、無駄に力を解き放つのは懸命では無いな」

 そういうことだ。クロは腕組みしながら満足そうに微笑んで見せた。

 それにしても世の中の摂理というのは、こうして改めて考えてみると不可思議なことだらけだ。クロと共に歩むようになり、情鬼と戦う道を選んだ。だからこそ、それまで考えたことが無かったようなことを考えるようになった。

「不思議なものだな」

 思わず飛び出した言葉に、クロが興味深そうに俺を見つめる。何に疑問を抱いているのか興味津々なのだろう。だから俺は想いを包み隠すこと無く口にして見た。形に成り切らない想い、果たして何処まで上手く描き切れるだろうか。だが、伝えようとする想いがあれば、想いは伝わるだろう。

「肉体とは器のような物だと認識している。その器に魂が入っている状態――これが生者の姿となる。死者は肉体を、器を失っただけに過ぎない訳だろう?」

「ふむ。中々に身も蓋も無い表現ではあるが、コタの言う通りであるな」

「それだけのことに過ぎない。だけど……」

 判っている。それだけのことに過ぎないけれど、生者と死者は決定的に違う。魂だけの存在となってしまった瞬間に命は粉々に砕け散る。肉体を失い、命を失い、体温を失い……あらゆる物を失ってしまう。何よりも、この世に留まるという事実さえも失ってしまうことになる。考えたく無いが、仮に俺の命が失われてしまったら、その時には皆と語らうことも出来なくなる。クロと共に冗談を言い合うことも出来なくなってしまうのだろう。体温を失い、氷のように冷たくなる。そんなの嫌だ……。

「ふふ、今宵のコタは随分と弱気であるな」

「からかうな。ただ、お前の前では強がっていないだけだ」

 心の奥底まで見透かされた気がして、俺は一気に耳が熱くなってゆくのを感じていた。そんな俺をクロは腕組みしたまま、何時もと変わらぬ飄々とした素振りで見つめるばかりだった。

「不服そうであるな?」

「ああ。クロ、お前こそ強がっていないか? 俺の前ではありのままの姿を見せて欲しい」

 俺の問い掛けにクロは可笑しそうに笑って見せた。笑いながら俺を真正面から力一杯抱き締めて見せた。

「感情表現が下手な性分でな。少なくても、コタの前では我は素の自分でいるつもりであるのだがな?」

「……やはり、お前は性悪なカラス天狗だ」

「ふふ、さて、どうであろうかな?」

 クロは上機嫌そうに笑いながら俺の肩を叩いた。このまま歩み続けようと言いたげな表情で俺を覗き込んでみせる。

(やれやれ。クロが相手では勝ち目は無さそうだな)

 再び歩き出せば湿気た足音だけが夜半の小道に響き渡る。三年坂を抜ければ、後は緩やかな坂道を下るばかりだ。雨に濡れて艶やかな光を称える石段を、俺はクロと共に一歩ずつ歩んでいた。家の軒先を照らす明かりが仄かに街並みを照らし出し、雨模様と相まって実に優美な情景だった。『雅』とはこういう情景を示すのだろう。そんなことを考えていた。

 このまま歩み続ければ、程なくして二年坂に至る。この時間帯ならば人も少ない。それに夜半の暗がりの中ではクロの存在を見られたとしても、少々でかい男が歩いている位にしか見えないだろう。

「死者は生者を妬む」

「え?」

「苦しくもあり、何よりも、果てしなく辛いのであろう。死んでしまったことがな?」

 クロは真正面をジッと見据えたまま、静かに語り続けた。

「未だやりたいことがあった。伝えたい想いを伝える前に死んでしまった。何よりも死は苦痛を伴う。終わることの無い苦しみの最中を彷徨い歩き続ける」

 クロの言葉に俺は静かに耳を傾けていた。

「生きている人々の悪意が集い情鬼が生じる」

「ああ、以前聞いた話だ」

「うむ。この世に強い未練を残した者達もまた、情鬼となる」

「……露姫がそうだったな」

 死んだ者からも、生きている者の心からも、情鬼は生まれ続ける。恐らく、未来永劫、終わること無く生まれ続けるのだろう。この雨と同じでは無いか。何時までも止むこと無くシトシトと冷たく、哀しく降り続ける。

 風光明美な観光地を称える京の都は多くの日本人の心の故郷となっているのだろう。だが、それは生きている者だけの心の故郷では無い。死んでしまった者達に取っても心の故郷なのかも知れない。もはや、帰る家も、帰る時代も失った者達が今宵も情鬼に成り果てる。哀しい螺旋だ。

「だからこそ、我らが存在している」

「カラス天狗の使命か」

「うむ。我らに与えられた力は、使命を為すための物であるからな」

 情鬼を葬り去る力……だけど、それは同時に、俺達を守ってくれる力でもある。

「守られるだけというのは俺の望む道では無い」

「ふふ、それならば、我が辛い時には支えて貰おう」

「当然だ。お前は俺の――」

「大切な友であるからな、であろう?」

 俺達は笑いながら、堅く手を取り合っていた。

 クロがさしてくれた大きな紅の番傘。それは夜半の街並みに咲き誇った大輪の花のようにも思えた。燃え上る炎のような、沈みゆく夕焼け空のような赤。大きな番傘は降り頻る雨から俺達を守ってくれた。それならば、俺も傘になろう。降り注ぐあらゆる物から友を守る傘となろう。それが俺の願いだから。

 夜半の細道は静まり返っていて、雨に濡れた道を歩む足音だけが静かに響き渡っていた。二年坂を後にした俺達は、そのまま一年坂を歩んでいた。丁度、路地裏のような静けさが心地良く感じられた。夜半の京都。降り頻る雨の中で、ますます雅な情景を醸し出す情景の中を俺達は歩み続けた。

「雨の街並みというのも悪く無いものだ」

「ああ。お前と共に、こういう情景を見届けたくてな」

「地に足を付けて歩き回ると言うのも中々に良い物だ」

「確かにそうだな。お前は翼ある身だからな。だが、大空高くからでは見えない物も少なくないだろう?」

 皮肉交じりに言葉を投げ掛けて見せれば、クロは一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに上機嫌な笑い声を響かせて見せた。

「確かに。こうしてコタから色々なことを教えて貰えるのは楽しいものだ」

 圓徳院の少し手前から石塀小路へと足を運んだ。この界隈もまた静けさに包まれた、風情ある道が広がっている場所となる。

「静まり返っておるな」

「悪く無い場所だろう? 俺のお気に入りの場所のひとつだ」

「沸き立つ石の香りが何とも心地良い」

  昼間でもひっそりとした石堀小路は夜になれば、ますます静けさを増す。背の高い石垣がすぐそこまで迫っている程に狭い道は、人とすれ違うのがやっとと言える程に細い小路だ。生い茂る木々と、古めかしい家々の雰囲気が、何とも良い風情を醸し出している。古き時代から連綿と受け継がれてきた街並みの情景を称えている情景が何とも心地良く感じられた。クロもこの情景を気に入ったらしく、言葉少なに、周囲を興味深そうに見つめていた。まるで幼い少年のようだ。童心に帰ったかのようなクロの振舞いを横目で見つめながら、俺は歩き続けた。点々と備え付けられた街灯の明かりも仄かな光で心地良く感じられた。

 石堀小路を抜け終えた俺達は、祇園さんの境内を潜り抜けて東大路通りへと至った。夜だと言うのに、通りを車が勢い良く駆け抜けてゆく。雨足はだいぶ弱まって来たように思えた。

「止まない雨は無いということよ」

「ああ、そうだな」

「なに、今回も我とお主の力で事態を解決しようではないか?」

「ふふ、心強い言葉だ」

 降り頻る雨の中、花見小路近くにある家を目指して俺達は歩き続けていた。不安な気持ちを駆り立てるには十分過ぎる空模様ではあったが、クロが隣にいてくれる。だから、こんなにも心強い気持ちでいられる。

「畏れることは無い。我がお主の隣に居るからな」

「ああ。お前が一緒に居てくれる。それだけでも十二分に心強くなれる」

「我がお主を守る。そう誓ったからな」

 横断歩道が赤になり、俺達はしばし足止めを食っていた。雨は好きではないが、雨の夜だからこそ目にすることの出来る情景もある。地面に落ちては波紋を刻み込み消えてゆく雨粒。鏡のように道路に水溜りを作っては街明かりをキラキラと反射する。横断歩道の赤い光を反射する水溜りも、雨粒が零れ落ちる度にゆらゆらと揺れ動く。その情景に見惚れていると不意に信号が青に変わる。水溜りの中、青に変わった信号がゆらゆらと揺らめいて見えた。今宵の風情を漂わせる情景だ。思わず見惚れているとクロに肩を叩かれた。

「コタよ、参ろうぞ?」

「あ、ああ。そうだな」

「ふふ……人の作り出した人工的な街並みというのも悪く無い」

「カラス天狗とは思えない言動だな」

「我は人と共に歩む身であるからな」

 水溜りが信号の青い光を反射する様を、その上を無造作に飛沫を挙げながら走り去ってゆく車を見届けながら、俺達は東大路通りを後にした。このまま路地裏を少し歩けば花見小路へと至る。そんなことを考えながら、静まり返った街並みを俺達は歩み続けた。

「さて、歩き回ったお陰でだいぶ汗も掻いたな」

「ふむ。帰ったら風呂に入るとしよう」

「お前も一緒に入るか?」

 そう、問い掛ければ、クロが静かに立ち止まり、腕組みしてみせる。

「ほう? それを我に言わせたいと申すか?」

 挑発するような笑みを浮かべたまま、俺を見つめて見せた。

「お主も中々に無粋なことを問うものよの」

「ふふ、それもそうだな……」

 相変わらず狐と狸の化かし合いの様相は続くばかりだ。だが、それが俺達の在り方だ。誰の介入も許さない俺達だけの関係がそこにある。だからこそ守り抜く。どんなに残酷な雨に降られようとも俺は退くつもりは無い。クロと共に歩むことの出来る『今』という掛け替えの無い時を守り抜くだけだ。生憎、俺はまだ死ぬ気は毛頭無い。俺の進む道を阻むというのであれば何人たりとも情けも容赦もしない。例えそれが何者であろうとも俺は無慈悲に切り裂くだけだ。止まない雨は無い。そう信じているから。

◆◆◆11◆◆◆

 遠くの方で微かに蝉が鳴く声が聞こえる。ワシャワシャとクマゼミの特徴ある鳴き声が耳に染み入る。ワシはそっと目を開き周囲を見回してみるが、全く見覚えの無い場所だった。木々に包まれた森の中にワシは置かれていた。周囲を高い木々に囲まれる中、ワシの佇む一角だけが開かれたような形になっていた。照り付ける日の日差しが眩しくて、ワシは思わず目を伏せた。

 涼やかな風が心地良い空間だった。何故、こんな場所にいるのかは定かでは無かったが、心の底から落ち付ける場所のように感じられた。先刻までの荒れ狂う空模様は何処へやら、そこには穏やかな空模様が広がっていた。眩しい日差しに目を細めながら空を見上げれば、一面に青空が広がっている。大きく迫り出した白い入道雲が、晴れ渡る青空に彩りを添える光景をジッと見つめていた。

「綺麗な青空なのじゃ」

 木々達の奏でる瑞々しい香りに抱かれながら、ワシはそっと目を伏せた。大きく手を広げ、周囲に佇む木々達と同じように日の光を一身に受け止めてみた。ジリジリと照り付ける日差しが暑くて、ジワっと汗が滲む。心地良い日差しだった。照り付ける日差しの暑さも、吹き抜ける木々の湿気を纏った風も心地良かった。

「ここは何処なのじゃろうか?」

 自分がどこに居るのか定かでは無かったが、長年暮らしている街並みだからこそ判る。土の香りも、木々の香りも、温かな空気も馴染みのある嵐山の雰囲気を称えていた。

「これは夢じゃな。うむ。間違い無く夢なのじゃ」

 何しろワシはつい数分前まで大樹と共に居たのだ。そもそも、叩き付けるような土砂降りの雨の夜から、唐突に一転して晴れ渡る青空の昼に移り変わるなど有り得ない話だ。そんなことを考えていると、不意に何処からか風に乗って涼やかな笛の音色が聞こえてきた。

「笛の音なのじゃ」

 一体、何処から流れて来るのだろうか? 透き通るような美しい音色に心が穏やかになってゆくのを感じていた。不思議な感覚で一杯だった。何処かで聞いたことのある音色に思えてならなかった。だが、何時、何処で聞いた音色なのかを思い出すことが出来なかった。遠い思い出の中に微かに残る記憶。手繰り寄せようと試みるが、どうにも辿り着くことは無かった。

「不思議じゃな……。確かに聞き覚えのある音色だというのに、どうしても思い出せないのじゃ」

 ここで、ワシはふと疑問を抱いた。笛は一人でに鳴り響くような代物では無い。誰かが息を吹き込み、その身を奏でない限りは音色を発することは有り得ない。つまり、誰かが笛を吹いているということになるのだろう。では、一体誰が吹いているのだろう? 興味を惹かれたワシは、笛を吹いている者に聞こえるように問い掛けてみた。

「ワシの声、聞こえておるのであろう?」

 そう問い掛けた瞬間、笛の音が止まった。代わりにクスクスと笑う声が聞こえてきた。声の感じから察するに敵意を抱いているようには感じられなかった。むしろ、ワシとのやり取りを楽しんでいるようにさえ感じられた。

「お主は何者なのじゃ?」

 クスクス笑う声は尚も留まらなかった。声の感じから察するに、少しずつ近付いているように思えた。だが、近付くにしては足音が聞こえないのは妙な話だ。時折、木々の枝が揺れる音と、鳥が羽ばたくような音が聞こえて来るのが不思議に感じられた。

(はて? 鳥が羽ばたくような音が聞こえるのじゃ。まさか、鳥が笛を吹いているとでも言うのじゃろうか? 恐ろしく芸達者な鳥も居るのじゃな)

 可笑しなことを考えながらも、そんな奇異な話がある訳が無い。思わず自分で自分にツッコミを入れていた。では一体誰なのだろうか? 何者かは判らないが、不思議な存在がすぐ傍にいることだけは間違い無かった。だが、不思議と恐怖感は微塵も抱けなかった。むしろ古き時代から共に歩んできた親しい友人が、戯れな振舞いを見せているようにしか思えなかった。

「姿を見せぬのは、さては、ワシとかくれんぼでもしようというつもりなのかのう?」

 何だか段々楽しくなってきたワシは笑いながら問い掛けてみた。すると、次の瞬間、不意に穏やかな風が吹き始めた。木々の香りを纏った心地良い涼風だった。

「あのね、君とは何度も会ったことがあるんだよ?」

「へ? ワシと会ったことがあるとな?」

 不思議な感覚だった。唐突にワシに語り掛けた声。その声は確かに聞き覚えがあった。だが、不思議なことに何処で出会った相手なのか全く思い出すことが出来なかった。焦るワシを何処かで見つめているのだろうか? 声の主は再びクスクス笑い始めた。

「それにね、この森には沢山のトモダチがいるんだよ。君と共にずっと一緒に歩んできたトモダチさ」

「へ? わ、ワシのトモダチとな?」

 その言葉に驚いたワシは周囲を見回してみた。そこには先刻までと変わることの無い、穏やかな光景が広がっていた。だが、何かが違うことに気付かされた。一体、何が違っているのだろうか? 二枚の絵を並べての間違い探しをするかのようにワシは意識を巡らせて見せた。

「なっ!?」

 違いが判った気がする。そこには姿こそ見え無かったが、数多の者達が佇んでいるように感じられた。目で見ることは出来なかったが、確かに、そこには木々達の息吹が感じられた。ワシを囲むように佇む者達。そいつらはワシのことを静かに見つめていたように感じられた。敵意は無い。むしろ、ワシと共に歩んでくれようとする温かな想いすら感じていた。こいつらは一体何者なのだろうか? 問い掛けようと、そっと手を伸ばした瞬間、再び意識が遠退いてゆくのを感じた。

 気が付くとワシはその場に仰向けになって倒れていた。眩しい日差しに目を細めながら、視界が白く、白く染まってゆく様を為す術も無く見届けていたように思える。遠退く意識の中、ワシは確かに声を聞いていた。

「大地、どうか……どうか、思い出して。ぼくと出会った日のことを、ぼくの姿を、ぼくのことを……」

 思い出す? 一体こいつは何を言っているのだろうか? 意味不明だった。それ以上に、その少年の声は聞き覚えの無い声にしか聞こえなかった。知らない相手のことを思い出せる訳も無い。

「もう、時間はそれほど残されていないんだ」

 時間が残されていない? 一体、どういうことなのだろうか?

「あいつらが動き出してしまった。このままでは、君が良く知る嵐山の情景は『忘却』され、風葬地としての嵐山が『回顧』されてしまう。そうなってしまったら、取り返しがつかなくなるんだ」

 忘却? 回顧? 何が何だかサッパリ意味不明だ。一体、どういうことなのだ? 何を求めているのか? ワシには理解出来なかった。

「ああ、此処までか……。大地、どうか……どうか、思い出して。ぼくと出会った日のことを、ぼくの姿を、ぼくのことを……」

  思い出すって一体何を? 訳の判らない言葉の数々に段々と苛立ちを覚え始めるのと同時に、ゆっくりと意識が遠退いて行った。必死で意識を繋ぎ止めようとするが、ワシが目にしている情景は、ただ、白く、白く染め上がってゆき、何時の間にか白一色の世界に呑み込まれようとしていた。そこから先はもう、一気に、高いところから墜落するような感覚を覚えた以外、何も覚えていない。

◆◆◆12◆◆◆

 どれ程の時間が過ぎ去ったのだろうか。再び意識が戻った時、ワシは自分の部屋に戻っていた。恐る恐る周囲を見回してみるが、ワシの部屋であることに間違い無かった。一体何が起きたのだろうか? 恐怖の余り現実逃避していたのだろうか? だが、少なくてもワシの腕の中には、しっかりと大樹の姿があるのを見届けることが出来た。少なくても大樹の無事を知ることが出来て、ワシはそっと、胸を撫で下ろした。

「ねぇ、兄ちゃん?」

 眠っているとばかり思っていた大樹は、何時の間にか目を覚ましていたらしい。唐突に声を掛けられて驚きはしたが、ワシは大樹の頭を撫でながら問い掛けてみた。

「どうしたのじゃ?」

「何か……静かになったと思わない?」

「お? 言われてみれば……」

 部屋の中を見回してみた。辺りは静けさに包まれているように感じられた。雨も大分弱まり、風も殆ど止んでいた。あれ程激しく窓を叩いていた青白い手も、人の声も聞こえなくなっていた。辺りは不気味なまでに静まり返っていた。一体何が起きたのだろうか? あれこれ考えを巡らしてみたが、無知なるワシらには真相を知ること等出来る訳も無く、精々、嵐が過ぎったのだろうという実に当たり障りの無い結論に落ち着くのが関の山だった。

「ふむ。一体何だったのじゃろうか? 夢にしては妙にリアルだったのじゃ」

「夢じゃないよ。まだ、恐怖で体が震えているもの」

「大丈夫なのじゃ。ワシはここに居るのじゃ」

 大樹に語り掛けながら、ワシは思わず額の汗を手で拭っていた。

(気になる夢だったのじゃ。思い出す? 一体、何を思い出すと言うのじゃ? 意味が判らないのじゃ)

 意味不明な夢よりも、ワシは自分の置かれている状況の方が気になって仕方が無かった。何しろ、この蒸し暑い気候の中、図体のでかい兄弟が抱き合っていたのだから、当然、汗も存分に吹き出す。ワシも大樹もすっかり汗でビショビショになっていた。

「互いに汗だくじゃの。ほれ、大樹よ。もう、怖くも無いじゃろう? 暑くて叶わんのじゃ。ささ、そろそろ離れるのじゃ」

 笑いながら大樹の肩に手を掛けてみれば、どうしたことか、大樹は俯いたまま、なおも力強くワシに抱き付いたまま離れようとしなかった。戸惑うワシに顔を覗き込みながら、大樹は照れ臭そうに笑って見せた。

「まだ怖いよ……。それに、腰が抜けちゃって、動けそうにないもの」

 安心ついでに、すっかり気まで抜けてしまった様子だった。

「ま、まぁ、それならば仕方がないのじゃ。精々、ワシの汗臭さを堪能するが良いのじゃ」

 冗談交じりに言ったものの、やはり、大樹は普段見せない複雑な表情を浮かべていた。困っているような、照れているような、でも、それでいて何だか嬉しそうな表情に見えた。

(まぁ、あんな恐怖体験をした後じゃからのう。ワシみたいに冷静に振舞える方が珍しいということじゃろうな。ま、こちとら情鬼相手の事案を体験している身じゃからのう。可笑しな耐性が出来ておるのかも知れんのじゃ)

「ねぇ、兄ちゃん、お風呂入らない?」

「おお、そうじゃな。この分ならば直に雨も上がることじゃろう」

 やはり、大樹は普段とは違う振舞いを見せていた。恐ろしい体験が未だ尾を引き摺っているのかも知れない。とは言え、こうして頼りにされるのは悪い気もしない。たまには子供の日に還った弟の相手をしてやるのも悪く無いだろう。

 ワシらは着替えを片手に風呂場へと向かった。相変わらず大樹はワシに密着したまま離れようとしなかった。大樹に取って相当の恐怖体験となってしまったのは間違いなさそうだ。

(大樹には悪いのじゃが、こんなにも怯えている姿を目にするのは中々面白いのじゃ)

 もっとも、迂闊にからかうような振舞いを見せれば間違い無く機嫌を損ねるだろう。要らぬ地雷を踏まぬように注意しながら、ワシらは階段を下って行った。

◆◆◆13◆◆◆

 程なくして風呂場に着いたワシらは汗で張り付いたシャツを脱ぎ捨て、颯爽と風呂に向かった。どうやら雨もすっかり止んだらしく、微かに、木々に残された雨粒が零れ落ちるに留まっていた。これならば露天風呂も使えるだろう。

「大樹、雨も上がったみたいなのじゃ。露天風呂に入るとするのじゃー」

「ちょっと、兄ちゃん。置いていかないでよ」

「にゃはは。早くするのじゃー」

 大樹とは普段からも仲の良い兄弟であるが、これ程までに幼い姿を目の当たりにしたのは久方ぶりのことのように思える。それ程までに大樹に取っては恐ろしい体験だったのだろう。

(まぁ、たまには兄貴の面子を保つのも悪く無いのじゃ。今夜はシッカリ面倒見るとするのじゃ)

 ワシは露天風呂に浸かり、大きく手を伸ばして寛いでいた。何時の間にか厚い雲の隙間からは月明かりさえ覗き始めていた。ようやく雨も過ぎ去ったということなのだろう。日が出るまで明確な被害状況は判らないが、今は要らぬ心配をするのは止めておこう。少なくても激しい雨が止んでくれた幸運に感謝しなければならない。もしも、あのままの勢いを保ったまま降り続けていたのであれば、被害状況はさらに深刻な物になったのは間違い無いのだから。

 少し遅れて大樹も露天風呂に入って来た。相変わらず周りが気になって仕方がないのか、頻りに周囲を見回していた。

「もう、大丈夫なのじゃ」

「で、でも……」

「ほれ、大樹。ワシの隣に来るのじゃ」

「う、うん……」

 相変わらず周囲を頻りに気にしながらも、大樹はワシの隣に腰掛けて見せた。きっと不安と恐怖で胸が一杯なのであろう。さて、ワシに何が出来るだろうか? どうすれば大樹の不安を解消してやれるだろうか? 無い知恵を必死で絞っていると、大樹が空を見上げながら呟いて見せた。

「月、出て来たね」

「おお、そうじゃな」

「大丈夫かな? あんなに凄い雨だったし、それに……」

 先刻までの恐怖を思い出してしまったのだろうか? 大樹は青ざめた顔で俯いてしまった。ここは適当なことを言って取り繕っても何にもならないだろう。だからこそワシは迷っていた。幽霊見たり枯れ尾花という言葉もある。素性が判らない相手はそれだけでも不気味に感じられるものだ。ワシも情鬼という存在を知らなければ、この異常な現象を受け止めることは出来なかったかも知れない。イヤ、情鬼という存在を知っても立ち向かう力が無い以上、恐怖であることに変わりは無い。当然、情鬼のことすら知らない大樹に取ってはさらに恐ろしいことだろう。

「あれだけ派手に降っていた雨とて止んだのじゃ」

「え? う、うん……。そうだよね」

「止まない雨は無いのじゃ」

「うん」

「明けない夜も無いのじゃ」

 太助を真似て目一杯気取った口調で呟いて見せれば、大樹が可笑しそうに笑い声を響かせた。

「兄ちゃんってさ、顔に似合わずクサい台詞言っちゃうよね」

「にゃー! 余計なお世話なのじゃ!」

「わはー。兄ちゃんが鬼の形相に変わったー」

 あれこれ考えていたが、大樹が口にした『鬼』という言葉に釣られて、ワシはついついコタ達と語らうかのように、要らぬ言葉を口にしてしまった。

「……実際に、さっきのも鬼の仕業なのじゃ」

「え? 鬼? 何の話?」

 もう、此処まで来てしまった以上は引き下がることも出来ないだろう。イヤ、最初から、こうなる展開を期待していたのは事実だ。全く無関係な立場にいたのであれば何としてもごまかしたが、もはや当事者となってしまった以上、知らないということが逆に危険に直結する可能性も否定し切れなかった。だから、ワシは大樹に鞍馬の街並みで起きた異変から今に至るまでの話の全てを、包み隠さずに聞かせてやった。最初のうちは、またワシが可笑しな話で場を盛り上げようとしている風にしか捉えて居なかった大樹の表情も次第に強張り始めた。

「情鬼……そいつらが嵐山の街を騒がせているっていうの?」

「未だ確証は持てないのじゃが、その可能性は十二分に考えられるのじゃ」

 事件の裏側を知った所で何か対抗する手段を手に出来た訳でも無い。結局、知ることが出来ただけに過ぎない。それでも、何も知らないより遥かにマシだと考えていた。

「でも、どうして嵐山に?」

「むう……。それはワシにも判らんのじゃ。じゃが、異変は始まったばかりじゃ。警戒を怠らないようにせねばならんのじゃ」

「そう……だね」

 結局、ワシは非力な存在だ。悔しいけれど、大樹のことを守れる力すら無い。せめて、ワシに出来ることと言えば、大樹の不安を軽減させる程度のことしか出来なかった。だから、ワシは真正面から大樹を力一杯抱き締めて見せた。

「ちょ、ちょっと、兄ちゃん!?」

「済まんのじゃ、大樹」

「え?」

「ワシは何にも出来ぬ役立たずでのう。こうして、不安になるお前の気持ちを軽くしてやること位しか出来ないのじゃ」

 ワシの言葉を聞きながら、大樹はそっとワシの背中に腕を回して見せた。

「兄ちゃんが傍に居てくれるの、心強いよ?」

「口が達者になったのじゃ」

「本当のことだもの」

「……て、照れるのじゃ」

「それに――」

 笑いながら大樹はワシの腹の肉を鷲掴みにしてみせた。

「にゃー!?」

「ああ、やっぱり、この感触、癒されるー」

「にゃー、ワシの腹を掴むで無いのじゃー」

 やはり、こういう場面でも格好良く決まらずに、お笑いに転じてしまう辺りが何ともトホホな感じであった。どうも、ワシは生粋のお笑いキャラのようだ。無理して太助みたいに良い男を演じようとすると要らぬ笑いを取れるということだけは良く判った。

「ささ、そろそろ上がるとするのじゃ。あんまり長々浸かっていると茹で上がってしまうでの」

「茹で上がっちゃったら、兄ちゃんのお腹、弄くり放題だね」

「うぬぬ、そうはさせないのじゃー」

 笑いながらワシらは風呂から上がった。少なくても大樹の表情に笑顔が戻って来た。それだけでも十分に意味はあったのかも知れない。少々納得いかない展開ではあったが、結果は望んでいた通りに落ち付いたのだから良しとしよう。

◆◆◆14◆◆◆

 一風呂終えて戻って来た所で、ワシらは再び並んで寝転がっていた。時間は丁度、深夜の三時になろうとしていた。

「ふむ、草木も眠る丑三つ時じゃな」

「ちょ、ちょっと……。どうしてそういう怖い表現使うのさ」

「あ! す、済まないのじゃ……」

 相変わらずワシは空気の読めない発言をしてしまった。折角戻った笑顔に、敢えて水を差してしまうとは反省しなければならない。

「怖い体験を思い出してしもうたか? 済まないのじゃ」

「また! せっかく落ち着いて来たのに……」

「あわわ! か、重ね重ね大変遺憾に思う所存なのでごじゃる……ごじゃる?」

 勢い余ってワシは何を意味不明な発言をしているのだろうか。しかも激しく噛み噛みだった……。一人ヘコんでいれば、隣では大樹が必死に笑いを堪えていた。

「ま、また、ワシは何か突拍子も無いことを口にしたかのう?」

 慌てた素振りが余程可笑しかったのか、大樹は声を挙げて笑い出した。ワシには何が何だかサッパリだった。

「イカンに思うってどういう意味なの? テレビのニュースとかで、政治家のセンセーみたいな偉いオジサンが使っているの見掛けるけどさ、悪いことしちゃイカーンって言う、イカンのことなのかな?」

「むう……。そう言われてみれば、ワシも意味が判らずに使っておったのじゃ。意味も判らずに使っては、イカーンのじゃ! なんてのう? にゃははー」

 何だかワシまで可笑しくなってきて、大樹と二人で腹を抱えて笑い転げていた。

 何とも不思議な光景に思えた。雨は何時しか止み、あんなにも荒れ狂っていたことがウソであったかのような月まで顔を覗かせていた。部屋は穏やかな月明かりに照らし出され、窓の外からは涼やかなコオロギの鳴き声も聞こえてきた。

 子供の頃はこうして何時も二人で寝ていた。それが、何時の頃からだろうか? 互いに自分の部屋を持ち、自分の部屋で過ごすようになった。他の家庭での兄弟というのもこういう過ごし方をしているものなのだろうか? オトナになるにつれて段々と大樹との距離を感じるようになった。普段、あまり意識することも無かったけれど、こうして一度意識し始めると妙に気になるものだった。

 まぁ、普通の兄弟はこんな場面でも抱き合って寝たりはしないように思える。一般の男友達同士と同じだと考えれば近しいのだろう。もっとも、ワシは「一般」の身では無いから、例外に当てはまるのは不思議なことには思えなかった。

「月、綺麗だね」

 大樹の言葉に、ワシも真似して窓の外に目線を投げ掛けてみた。

 数時間前までは、それこそ、この世の終わりとも言えそうな程に激しく降り続いていた雨も、どんよりと厚く、空を覆い尽くしていた暗雲も消え失せ、穏やかな月明かりが辺りを照らし出していた。

「おお、綺麗な月なのじゃ。さっきまで、派手な雨が降っていたとは、到底思えないのじゃ」

「えへへ。こうして兄ちゃんと二人で寝るの、すごく久しぶりな気がするなぁ」

「そうじゃな。まだ、お前が小さかった頃は何時も一緒に寝ておったのじゃがのう」

「一人の部屋じゃ無いと、落ち着いてゴニョゴニョすることも出来ないものね」

 大樹が可笑しそうに笑って見せた。ワシは耳が一気に熱くなるのを感じていた。

「い、いきなり何を言い出すのじゃ……」

 照れていると、不意に大樹の手がワシの腹の上に乗せられた。可笑しそうに笑いながら腹を撫で回したり肉を掴んでみたりしている。何だかくすぐったくて思わず声を挙げてしまった。

「た、大樹、人の腹を何だと思っておるのじゃー」

「兄ちゃんのお腹、癒されるー」

「ワシはそういうキャラでは……」

 そういうキャラでは無いのじゃ! と、力強く否定出来ない自分が何ともトホホだった。

「そういうお前だって、似たような体型なのじゃ」

「似てないよー」

「似てるのじゃ。大体、ワシら兄弟は双子なのでは無いかという位、見た目がそっくりなのを忘れたのかのう……って、何か、さっきも同じやり取りをした気がするのじゃ」

 兄弟で互いの腹を弄くり合いながら妙に和んでいるという構図は、何とも表現し難い可笑しな光景だった。言葉に出来ないシュールさが可笑しくて、可笑しくて、段々と笑いが込み上げてきた。気が付けば再び二人で腹を抱えて笑っていた。

「な、何なのじゃ、このビミョー過ぎる絵は!」

「あはは、可笑しいー。やっぱり、兄ちゃんはお笑いキャラだよね」

「にゃんと!? 喧しいのじゃー」

 兄弟というのも悪く無いものだ。こういう珍妙な遊びに身を投じるのも、何とも楽しいものがある。かつてはワシと大樹、そこにシロも加わり、三兄弟で楽しく過ごしていたことを思い出した。

 判っていた。生きている以上、何時かは別れが訪れることも。ましてや、シロは犬だから人と比べれば寿命も短い。それでも、予期せぬ別れであった……。余りにも早過ぎる別れに、ワシは心の準備すら出来なかった。

(シロ……)

 不意にシロのことを思い出し、ワシの頬を涙が一粒伝って落ちた。温かな体温が、頬を伝い、枕に零れ落ちるのを感じた。

「に、兄ちゃん? どうしたの?」

「ああ、済まないのじゃ。ちぃーっとばかし笑い過ぎて、涙が出て来ちゃったのじゃ」

 大樹には余計な心配を掛けたく無かった。だから、咄嗟に出てきたウソで誤魔化した。大樹は再び天井を見上げたまま静かに微笑んでいた。

「オレ、兄ちゃんの弟で本当に良かった」

「な、何を急に……」

「えへへ、ヒミツー」

 何だか今日の大樹は本当に掴み所が無かった。子供の時分にも、こんなにも不可思議な振舞いを見せたことがあっただろうか? 恐怖体験だけでは無い何かがあったように思えてならなかった。不意にモジモジしてみせたかと思うと、いきなり大樹がワシの方に向き直った。

「何だか眠くなって来ちゃった」

「そうじゃな。ゆっくり寝ると良いのじゃ」

「うん。兄ちゃん、オヤスミー」

「オヤスミなのじゃ」

 さて、ワシも眠るとしよう。壮絶過ぎる体験をしたお陰で体力を大幅に消耗してしまった気がする。まだ朝までは時間がある。今度こそ静かなる眠りに就くとしよう。ワシは眠りに就いた大樹の手をそっと握り締めたまま目を伏せた。押し寄せる波のような睡魔の中で、深い水の底へ向かい、ゆっくりと落ちてゆくような感覚を覚えていた。

 大樹はワシの背中に抱き付くようにしていた。少々暑苦しい気もしたが、こうして弟に頼りにされるのも悪い気はしない。次第に意識が遠退く中、何故か大樹の息遣いが荒くなっていたような気がした。ついでに、妙に小刻みに震えていたように思えたが、それ以上に押し寄せる睡魔にワシは抗えそうも無かった。恐ろしい体験をしたこともあり、気力も体力もだいぶ使い果たしてしまったことも影響しているのだろう。

 薄れゆく意識の中で、ワシは微かに響き渡る笛の音を聞いていた気がする。涼やかな笛の音が、静まり返った夜半の嵐山に響き渡っていたかのように感じられた。もっとも、遠退く意識の最中での出来事だ。それが夢の中の情景なのか現実の情景なのか、ワシには知る由も無かった。

◆◆◆15◆◆◆

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。ワシはどうやら夢を見ているらしい。イヤ、夢としか考えられない情景だった。夢の中で、何故かワシは古めかしい列車に揺られていた。

(さっきまで布団の上で寝転がっていたのに、突然列車に揺られる訳が無いのじゃ。つまり、これは夢で間違い無いのじゃ)

 それにしても妙に質感のある夢だ。夢なのか現実なのか区別出来ない程に鮮明な情景が広がっている。ガタンガタン、ガタンガタン。年季が入った列車なのだろうか? 随分と揺れが酷い。窓から吹き込んでくる風が涼やかで心地良かった。吹き込んでくる風は独特の匂いを纏っていた。

(この匂い……稲の匂いなのじゃ)

 むせ返るような稲の青臭い香りに興味惹かれたワシは窓の外に目線を投げ掛けてみた。

「にゃにゃにゃにゃんと!?」

 網膜に鮮明に焼き付いている情景なのだ。見間違える訳が無かった。

「こ、此処は亀岡なのじゃ」

 忘れる訳も無かった。かつてリキと共に二人で旅した亀岡の情景。見渡す限りに広がる水田の情景。風に揺れる稲穂達を照らし出す暮れゆく夕日。煌々と萌え上がるような鮮烈な色合いに周囲の景色もまた染め上げられていた。収穫間際の稲穂はたわわに実り、暮れ往く夕日を浴びて黄金色に瞬いていた。風が吹く度にさざ波のようにゆらゆらと揺れ動き、さざ波のような涼やかな音色を響かせていた。

 この列車はバスが通る道を走っているのだろうか? しかし、何故あの時の情景が蘇るのだろうか? 確かに息を呑む程に印象的な情景であり、ワシとリキとの間でも実に鮮明な記憶の一つとして残っているのも確かな場所だ。いつか皆を連れて訪れようと考えていたのも事実だ。だが、何故? 考えれば考える程に判らなくなる。

 再び列車の外から風が吹き込めば、稲穂の青臭い香りが一気に押し寄せてくる。暮れゆく夕日を背に受けながら、黄金色の波が揺れ動く様は何度見ても幻想的な情景に思えた。しかし、何かが奇異に思えて仕方が無かった。それが何であるかはすぐには判らなかった。

「むう。一体何に違和感を覚えておるのであろうか?」

 それにしても随分と殺風景な情景だ。確かに、以前亀岡を訪れた際にも人気は左程感じなかったが、だからと言って誰の姿も目にしなかった訳ではない。今、ワシが目の当たりにしている情景は異様なまでに殺風景で、不気味な程に静まり返っていて、何もかもが死に絶えた後のように感じられた。

 再び外から緩やかな風が吹き込んでくる。だが、それまでの風とは明らかに異なっていた。緩やかな風と共に吹き込んできたのは、何かしらかの生き物が腐敗したような強烈な異臭であった。

「うぇっ! な、何じゃこの匂いは!?」

 驚くワシの声に呼応するかのように突然列車が速度を落とし始める。乱暴に急ブレーキが掛けられ車輪と線路が軋み合う金属が発する悲鳴が響き渡る。唐突に急ブレーキを掛けられたお陰で、ワシは危うく前の席目掛けて跳ね飛ばされる所であったが、必死で踏ん張り、何とか事無きを得た。

「い、一体、今度は何がどうなっているのじゃ!?」

 応える者は誰一人としていなかった。だが、外から漂ってくる臭気は尚も激しさを増しているように思えてならなかった。込み上げて来る物を戻さ無いようにするだけでも精一杯な程に生々しい死臭が漂い、ワシは必死で口元を抑えていた。

 こんなにも強烈な匂いがする以上、周囲に少なからず何らかの生き物の腐乱死体があるのは間違い無い。止せば良いのにワシは恐る恐る列車の窓から顔を突き出してみた。

 列車が停車したこともあり、多少、稲穂も見えやすくなった気がする。何故かワシは頭を垂れるかのように実る稲穂が気になって仕方が無かった。心の中に響き渡る「見るな!」という自分の叫びを聞いていた気がした。だけど、それ以上に好奇心が勝ってしまった。止せば良いのにワシはしっかりと目を凝らして稲穂を見つめてみた。

「な、何か、ヘンなのじゃ……」

 有り得ない話だった。風が止んだにも関わらず稲穂がざわざわと異様な揺れ動き方をしていた。イヤ、厳密には稲穂自身が揺れ動いていた。それも不規則に何か小さな粒上の物がざわざわと蠢くような動きに見えた。嫌な予感を覚えたワシは慌てて目線を逸らそうとしたが、まるで目線は何者かに固定されてしまったかのように動かすことが出来なかった。そして、次の瞬間……。

「ひ、ひぃっ!」

 一体、それが何であるのかは定かでは無かったが、『そいつら』は一斉に舞い上がった。羽を生やした小さな虫達のように見えた。イナゴのようにも見えたが、イナゴにしては随分と小さかったし、何よりも稲穂のように群れる習性があるとは思えなかった。

 群れを為し、蠢くイナゴ達の姿を目にするのは耐え難いものがあった。凄まじい匂いも手伝い、ワシはいよいよ堪え切れず、その場にありったけの物を吐き出してしまった。吐いて、吐いて、それでも尚吐き続けた。止め処無くあふれ出る吐しゃ物と涙にワシは体の芯から震えていた。

「い、一体、何がどうなっていると言うのじゃ!? それに、今のは……!?」

 だが、恐ろしい事実は未だ終わっていないのだろう。この異様なまでの腐敗臭の正体を見届けていないのも事実なのだから。だが、敢えて見届けたいとはとても思えなかった。こんな嫌な夢、今すぐにでも醒めて欲しかった。

「ワシに何を望むのじゃ……。ワシは何も出来ない、ただの非力な身に過ぎないと言うのに……」

 無情にも夢から醒めることは出来なかった。ワシは足元にぶちまけた吐しゃ物から少しでも身を退けたくて、とにかく別の席に移ることにした。相変わらず窓の外は殺風景な光景が広がるばかりで、人も車も何も見られなかった。たまたま席を移る際に信号機が目に留まったが、無機的に信号は明滅して青になり、赤になり、それだけをただ無為に繰り返すばかりだった。

「何なのじゃ此処は……。この世の終わりなのじゃろうか? ワシはこのまま、こんな何もかもが死に絶えた世界に取り残されてしまうのじゃろうか?」

 不意に、じゃれついていた大樹の笑顔が脳裏を過ぎった。

「大樹……」

 絶望で一杯だった。ワシは崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。相変わらず列車の外からは異臭が漂ってくる。時折風が吹く度に、あの不気味な昆虫がざわざわと蠢き、時に舞い上がる様を見届けるばかりだった。この異様過ぎる情景を見ているうちに、ワシはとんでもない事実に気付いてしまった。何気なく目線を投げ掛けた水田の端から無造作に飛び出した人の手に気付いてしまった。

「ま、まさか!?」

 確かめたくなんか無かった。そんな事実、ワシに取っては何の利益にもならない、どうでも良い事実の極みでしか無かった。そう。死体は確かにそこにあった。ただ、生い茂る稲穂に覆い隠され見え無かっただけに過ぎない。恐らく、あの水田を満たしているのは只の水では無いのだろう。覆い尽くさんばかりに埋め尽くされた人々の死体。風葬地に植えられた稲穂だとでも言いたいのだろうか? もう、正気を保ってなど居られなかった。そこら中に死が立ち篭める、こんな異様な世界に身を置くことなど有り得なかった。

「に、逃げなければ……」

 途端にワシは言い知れぬ恐怖に襲われた。この世界で唯一、命があるのはワシだけなのだろう。だとしたら、そこら中に転がる者達が果たしてワシを無事に逃がしてくれるだろうか? ワシも道連れにしようとするに違いない。

「じゃ、じゃが、一体何処に逃げれば!?」

 もはやどうすることも出来なかった。どうすれば良いのか焦るワシに追い打ちを掛けるかのように誰かが歩む足音がどこからか聞こえてきた。酷く水気を孕んだ不快な音が響き渡る。一歩、一歩、歩む度にグチャ、ビチャと、普通に考えたら有り得ない足音が聞こえてきた。

「い、嫌じゃ……。嫌じゃ! ワシは、ワシは死にたく無いのじゃ!」

 だが、一体何処に逃げれば? そう考えていると、今度は枯れ果てた枝のような手が窓を叩くのが見えた。

「ぎゃーーっ!」

 ワシは腰を抜かし、その場に崩れ落ち情け無い声を挙げることしか出来なかった。

「嫌じゃ……。嫌じゃ……」

 だが、そんなワシの叫びとは裏腹に足音は数を増し、どんどん、こちらに向かって迫ってくる。やがて車両同士を繋ぐ扉まで叩かれる音が響き渡るようになった。

「ひ、ひぃっ!」

 ワシはただただ、頭を抱えて震えることしか出来なかった。

「止めてくれなのじゃ……。ワシは、ワシは……何にもしてやれないのじゃ」

 だが、そんなワシの切なる願いとは裏腹に、扉は尚も力強く叩かれていた。

「ひぃっ!」

 信じられない程の力で叩いているのだろう。叩かれる度に扉が大きく軋んでいた。厚みのある金属製の扉が人の手で打ち破られる。普通に考えれば有り得ない話だ。だが、有り得ないことが現実になろうとしているのは曲げようの無い事実だった。

「誰か、助けてくれなのじゃ……」

 ワシの必死の祈りも虚しく、扉は確実に大きく湾曲していた。人の手が金属製の扉を打ち破る。そんな、有り得ないことが起ころうとしていた。ワシはただ、頭を抱えて震えることしか出来なかった。扉は尚も激しく叩かれる。もはや、此処までか。本気で死を覚悟した瞬間、突然音が止んだ。

「へ?」

 それまでの出来事が嘘であったかのように、辺りは静寂に包まれた。一体どうなっているのだろうか? ゆっくりと頭を挙げた瞬間、それまでとは比べ物にならない程に激しい衝撃が響き渡った。

「い、イヤじゃ……。イヤじゃ! ワシは、ワシは未だ死にたく無いのじゃ!」

 うずくまり、頭を抱え、ただ無意味に絶叫を轟かせることしか出来なかった。だが、相変わらず車両の前後の扉は乱暴に叩かれるばかりであった。とても、人の力とは思えない程に強い力で叩いているのだろう。このままでは扉が破られるのも時間の問題なのかも知れない。ただただ、恐怖に支配されるばかりだった。

「お願いなのじゃ! ワシを……ワシを、大樹の下に返してくれなのじゃ!」

 悲痛な叫びは聞き入れられることは無かった。そして、次の瞬間、もう一度、凄まじい音が響き渡った。とうとう扉が打ち破られてしまったらしい。

「うわああーーーーーっ!」

 そこから先の意識は残っていなかった。一斉に雪崩れ込んでくる足音と、猛烈な腐敗臭に息が詰まりそうになった記憶だけを残し、ワシはそのまま気を失ってしまったらしい。

 人は限界を超えた恐怖体験をした時に、ブレーカーを落とすように意識を遮断するのかも知れない。ある種の防衛本能とでも言うのだろうか。そんなことを考えていた気がする。

◆◆◆16◆◆◆

 どれ程の時間眠り続けたのだろうか。不意に、誰かに声を掛けられた気がした。

「兄ちゃん、起きて。朝だよ」

「ひ、ひぃいっ!」

「に、兄ちゃん!?」

 慌てて飛び起きたワシを覗き込むのは、目を背けたくなるような異形の者達では無かった。

「た、大樹!?」

 ワシを覗き込むのは、余りの取り乱しように驚き、目を丸くする大樹だった。

「だ、大丈夫?」

「す、済まないのじゃ……」

「怖い夢でも見たの? もう、朝だよ。ほら、良いお天気だよ?」

 大樹が可笑しそうに笑いながら窓の外を指さして見せた。そこには雲一つない青空が広がっていた。小鳥達のさえずる声と蝉の威勢の良い鳴き声が聞こえてきた。どうやら無事に朝を迎えることが出来たらしい。

「さ、兄ちゃん、早く起きて。昨日の大荒れの天気のお陰で、大変なことになっているみたいでね」

「そ、そうなのじゃな……」

 正直、全く寝た気がしなかった。異様な悪夢のお陰で、ワシは全身の力が抜けるような感覚すら覚えていた。そんなワシを大樹は、ただただ心配そうに見つめるばかりだった。昨日の今日であることを考えれば異様な出来事にも敏感になっているのだろう。悪夢を見たのはワシだけであって、大樹には何の罪も無い。ワシは軽く呼吸を整え、何とか気持ちを切り替えることにした。

「ワシなら大丈夫なのじゃ」

「うん……」

  大樹はワシを気遣っているのか、目線を落したまま返事を返して見せた。ワシが言葉に詰まっていると、大樹は静かな笑みを称えたまま続けて見せた。

「でも、無理しちゃ駄目だよ? 兄ちゃんが辛い時は、オレが兄ちゃんのこと守るからさ」

「大樹……ありがとうなのじゃ」

 感謝の気持ちを篭めて、大樹の頭を撫でてやれば、大樹は照れ臭そうに笑って見せた。

「取り敢えずさ、外の状況見に行かない? 野次馬根性出す訳じゃ無いけど、少なからず酷いことになっているみたいだから」

「うむ、そうじゃな」

 布団から起き上がったワシは大樹と共に階段を下った。玄関前で靴を履こうとしていると、不意におかんに声を掛けられた。

「ああ、待ちなさい」

 珍しい場面で呼び止められるものだと、ワシは思わず大樹と顔を見合わせていた。

「ど、どうしたのじゃ?」

「……お外、えらい大変な事になってはるけど、腰抜かさんようにな?」

「わ、判ったのじゃ。大樹、行くのじゃ」

「うん」

 威勢良く玄関を飛び出したワシらではあったが、目の前に広がる惨状に言葉を失わずには居られなかった。

「こんなにも酷いことになっておるとは……」

「な、何か……街中が泥まみれになっているよ」

 昨日の大雨で色々な物が飛ばされたり、押し流されてきたのであろう。普段は静かな旅館前の小道は深い泥に塗れてしまっていた。おまけに、木の葉やら枝やら様々な物が辺り一面に散らばっていた。周囲を見渡せば、通り沿いの旅館も、店々も、同じ惨状らしく、皆、疲れ果てた表情を浮かべたまま静かに後始末に追われていた。

「これはまた、実に壮絶な光景じゃな……」

「片付け、終わるかな……?」

 一体、どう片付ければ良いのか、全く考えが浮かんでこなかった。それでもまだ嵐山旅館はマシな方だったらしい。同じ嵐山でも場所によっては床下浸水、酷い所では床上浸水にまで至ってしまったらしい。皆一様に言葉無く黙々と作業に臨んでいる姿が余計に重苦しく感じられた。

 ふと、何気なく空を見上げれば、雲一つ無い、澄み渡った青空が広がっていた。その、何とも言えない皮肉な光景の対比が、殊更に憎らしく思えて仕方が無かった。

「ああ、お前達、起きてきたのですね?」

 嵐山旅館前でせっせと掃除をしていたおとんが、ワシらに気付いたのか笑顔で声を掛ける。恐らくは昨晩の悪天候があったからこそ、落ち付かずに早々と外の状況を見届けに来たのだろう。

「おとん、これは昨日の雨の被害なのじゃろうか?」

 ワシの問い掛けに、おとんは苦々しい表情を浮かべたまま、力無く溜め息を就いてみせた。

「ええ、酷い惨状でしょう? これでは、今日以降のお客様を迎え入れることさえ難しいかも知れませんねぇ」

 お客様! その言葉に思わずワシは大樹と顔を見合わせていた。そうだ。昨日、嵐山旅館に宿泊したという怪しげな坊さん達はどうしたのだろうか? あの可笑しな現象とも、ワシが見た最悪な悪夢とも何らかの関わりがある。何の根拠も無かったが、そうとしか思えなかった。

「のう、おとん。昨日、ウチに宿泊していった坊さん達はどうしたのじゃ?」

「ああ、お坊さん達ならば、お前達が起きて来る少し前に、宿を出発されていかれましたよ。それがどうかしましたか?」

「あ、イヤ。べ、別に何でも無いのじゃ」

 可笑しな問い掛けにおとんは怪訝そうな表情を浮かべていたが、そんなことよりも、目の前に広がる惨状のことで頭が一杯なのだろう。今は余計なことを考える余裕など微塵も無さそうに感じられた。

「大地、大樹、掃除は適当な所で切り上げて今日は早めに学校に行きなさい。電車が定刻通りに動かない可能性もありますからね」

「むう……。じゃが、旅館のことも心配なのじゃ」

「そうだよ。こんな大変なことになっているのに、オレ達だけ学校に行くってのも……」

 ワシらの言葉を聞きながら、おとんは穏やかな笑顔を浮かべて見せた。

「その気持ちだけ有難く頂いて置きましょう。まぁ、学校から帰ってくる頃には、あらかた片付けて置きますよ。なぁに。嵐山の地を生きる商人の意地を見せますとも。だから、心配は御無用というものです」

 物腰柔らかな口調とは裏腹に、おとんは中々に豪胆なる一面を持つ。それに、街中がこんな状況になってしまっている以上、皆一丸となって立ち向かうことだろう。仮に、片付けが終わらなかったとしても、ワシらが学校から帰って来てから手伝えば良い。それだけのことだ。

 落ち付かない気持ちのままであったのは事実だったが、時の流れが止まることは無い。学校に行くための準備をしなければならない。気に掛ることは沢山あったが、ワシらはおかんが準備してくれた朝食を頂くことにした。

「そう。お外はそんなに大変なことになって……」

「ええ。大堰川の氾濫までは至らなかったとは言え、派手な雨と風でしたからね。中々、酷い惨状になってしまいました。しかし、そう心配することはありませんよ。私とお父さんとで何とか綺麗にして見せますから」

「そんな酷い状況やったら、うちも手伝いますわ。どうせ、こない状況ではお客様をお招きすることも出来ひんやろうし……」

「いえいえ、折角来て下さるお客様を誠心誠意お持て成しするべきでしょう。大丈夫ですよ。昼前までには片付けますから。それでも駄目でしたら、その時に考えましょう」

 中々無謀な事を口にして見せるものだ。朝食を口に運びながら、ワシはおとんの考えに賛同し兼ねていた。第一、そんな精神論で物事を進めて、駄目だった時に、一体どうするつもりなのだろうか? それで誠心誠意お持て成しすることなど出来るのだろうか? ワシもいずれは旅館を継ぐ身。不安に思わずには居られなかった。

「それに、泥汚れならば散水車でも手配すれば、直ぐに片付くでしょう」

 思わず大樹と二人顔を見合わせてしまった。

「さ、散水車って……そんなに簡単に手配できる物なのじゃろうか?」

 とワシが切り出せば

「で、でも、父ちゃんのことだから、何とかしちゃいそうな気がするよね」

 との大樹の返答に、思わず、二人で納得してしまった。

 何だか良く判らないけど、何とかしてしまいそうな気がする。そんな妙な安心感を覚えながらも、ワシは急いで朝食を済ませることにした。色々と心配ごとは尽きなかったけれど、今のワシらには他にやれることも少ない。少ない中で為し遂げられることと言えば、身支度を整えて学校に行くことしか考えられなかった。

◆◆◆17◆◆◆

 部屋に戻って来たワシらは手身近に準備を整えて嵐山旅館を後にした。そのままワシは大樹と共に駅へと向かう道を歩んでいた。道を歩みながらもワシらは周囲の状況に気を配っていた。抜けるような青空に勝るとも劣らない、気合いに満ちた表情で、皆、掃除に取り組んでいた。

「逞しいものじゃな」

「うん。何だか、本当に何とかしちゃいそうだよね」

「うむ。ワシらも今日一日を、しっかりと頑張らねばならんのう」

 渡月小橋を渡り終えた所でワシは周囲の状況に目線を投げ掛けていた。渡月橋のすぐ傍に佇む土産物屋もまた店の前の掃除に追われていた。それでも従業員達の表情は皆活気にあふれているように思えた。

「こうやって長い間、嵐山の街は大堰川と戦い続けながら生きてきたんだね」

「そうじゃな。ワシらも、皆に負けぬように生きて行かねばならんのう」

 何だか勇気を貰えたような気がした。もしかしたら、昨晩体験したのも夢だったのかも知れない。そんなことを考えていると自然と笑顔が毀れてきた。大樹もまた周囲の活気に推されたのか楽しそうな表情を浮かべていた。

 程なくしてワシらは渡月橋を抜け、駅前の通りを経て嵐山駅前へと到達しようとしていた。空は晴れ渡り、蝉達の威勢の良い鳴き声が響き渡る。そのまま勢いに乗ってワシらは駅の改札を潜り抜けようとしていた。

 昨晩の雨が嘘のように、何時もと変わらぬ活気あふれる光景が広がっていた。立ち並ぶ店は、何時ものように準備を進めていた。見ているワシらまで勇気付けられる光景だった。

「何だか、今日も頑張れそうな気がするね」

「そうじゃな。ワシらも学校から帰ったら、何か手伝えることをするのじゃ」

 大樹に語り掛けていると、不意にワシらの目の前から坊さんが歩いて来るのが目に留まった。妙に辛気臭い雰囲気を身に纏った坊さん達だった。一様に饅頭笠を深々と被り、表情を窺うことは出来なかった。何とも薄気味悪い坊さん達だ……。そんなことを考えていると、大樹が突然、ワシの手を力一杯握り締めた。

「び、びっくりするのじゃ! 一体、どうしたと言うのじゃ!?」

「あ、あの人達だよ! 昨日、うちに泊まったお坊さん達って!」

「なんじゃと!?」

 薄暗い駅舎の中、坊さん達がゆっくりと歩んでくるのが目に留まった。目深に被った饅頭笠に顔が隠れていて明確に表情を窺うことは出来なかったが、四人の坊さん達は皆一様に気味の悪い笑みを浮かべていた。深い悪意を感じさせる、気味の悪い笑みだった。

「大樹、ささっとすり抜けるのじゃ」

「えぇっ!? で、でも……」

「大丈夫じゃ。何があってもワシが絶対に守る。じゃから心配するで無いのじゃ」

「う、うん……」

 普通に考えれば、それ程珍しくも無い光景だった。坊さんとて移動の際には電車を使うこともあるだろう。たまたま市内の方から嵐山を訪れたのかも知れない。そう。普通に考えれば、そういうことになるはずだった。だが、今朝早くに旅館を経った坊さん達が、今度は嵐山の駅から降り立とうとしている。何故、そんなことになっているのか、理由が全く意味不明だった。だからこそ、こちらに向かってくる坊さん達は殊更に薄気味悪く感じられた。

 そっと風が吹けば駅舎に飾られた風鈴から、場違いなまでに涼やかな音色が流れる。後ろの通りを車が往来する音も聞こえる。昨晩の後始末に勤しむ人々の話声も聞こえる。そこには何時もと何ら変わらない日常の情景が広がっている。

 蝉の鳴き声が一際大きく聞こえた瞬間、ワシらは坊さん達と今、まさにすれ違おうとしていた。

 軽く会釈しながら坊さん達は静かに通り過ぎようとした。一人、二人、三人……そして、四人目……最も恰幅の良い坊さんとすれ違いざまに、ワシは確かに聞いた。

「……お目に掛れて光栄だな、嵐山大地よ」

 そう、ワシの名が呼ばれるのを。

「なっ!?」

「なるほど。天狗に愛されし、純粋なる風の子というのは、あながち間違いでは無さそうであるな」

 何故、この坊さんはワシの名前を知っている!? 驚きついでにワシは慌てて後ろを振り返った。だが、その瞬間、強烈な突風が吹き込んできた。目を開けてられない程の強烈な突風に、ワシは思わず目を覆った。

「せっかくお前の下を訪ねてきた『来客』を、持て成すどころか、冷たく突き放すとはな……」

 恰幅の良い坊さんは不敵な笑みを称えたまま、ワシに語り掛けて見せた。

 少なくてもこいつはワシに取って味方と呼べる存在には成り得ない。即ち、敵ということになる。やはり、こいつらは情鬼なのだろうか? 普通の人が見ず知らずのワシの名を知っている訳が無い。

「来客じゃと? あんな異形の化け物達が、来客の訳が無いのじゃ!」

 敵と認識した以上、気遣いも遠慮も、礼儀すら必要無い。ワシは思わず声を荒げていた。それでも、臆することなく恰幅の良い坊さんは淡々と続けて見せた。

「可笑しなことを申すものよ。お前自身が友だ、家族だと言い出したことではあるまいか?」

「何の事だか、サッパリなのじゃ」

「なるほど。何もかも都合の悪い記憶を洗いざらい『忘却』した結果が、今のお前ということか。変わらぬな、大地よ」

 恰幅の良い坊さんは可笑しそうに笑いながら、ワシを静かに見つめていた。正確には、目深に被った饅頭笠のお陰で、その表情を窺うことは出来なかったが、射抜くような鋭い眼光を感じていたのは事実だった。

「希望を持たせるだけ持たせて置きながら、平気で奈落の底へと突き落す。お前はそうやって、何人もの罪無き者達を惑わしてきた?」

「さっきから、一体何を言っているのじゃ!? 大体、お前は一体何者なのじゃ!?」

 ワシの言葉に耳を貸すつもりは無いのか、坊さんは一方的に語り続ける。

「街角ですれ違った者達の顔など覚えていないのが常であろう。だが、絶望の淵を彷徨う者達が、誰にも気付かれること無く孤独な旅路を送る者達が、ふと、温かな声を掛けてくれた者を忘れるであろうか? 例え、声を掛けた側が覚えて居なくとも、声を掛けられた側は覚えておる。そういうことよ」

 何を言っているのか全く以て理解不能だった。だが、何故だろう? 妙に心の何処かに引っ掛かる言葉に思えて仕方が無かった。昨晩、遭遇した、あきらかにこの世ならざる者達がトモダチや家族になれる訳が無い。では、この何かが引っ掛かるような感覚は一体何なのだろうか? 記憶の何処かに取っ掛かりがあるように思えて仕方が無かった。だけど、どうしても思い出すことが出来ない。もどかしさと、不安と、それから、この目の前に佇む薄気味悪い坊さんへの怒りとで、ワシは訳が判らなくなっていた。ただただ困惑していると、再び、強烈な突風が吹き込んできた。ワシは思わず、目を伏せた。だが、再び目を開いた時には……。

「あ、ありゃ!?」

 そんな馬鹿なことがあるハズが無かった。たった今、すれ違ったばかりの四人の坊さん達が、一瞬で消え失せることなど有り得ない話だった。仮に全速力で走り抜けたにしても、それでも、見通しの良い駅舎の中で見失う訳が無かった。

「い、一体どうなっているのじゃ!?」

  何が何だか意味不明な出来事だった。唐突に押し寄せて来たかと思えば、再び何事も無かったかのように消え失せる。恐怖心が生み出す幻でも見ていたのだろうか? いずれにしても、非力なワシには、あの坊さん達に太刀打ちする術など無い。今はとにかく学校に向かおう。皆に事情を話して手を貸して貰おう。それ以外に道は無い。恐怖に打ち震える大樹の肩を抱きながらワシは列車が来るのを待ち侘びた。

 程なくして列車がホームに走り込んできた。不安で一杯の大樹から離れるのは、身を引き裂かれる想いではあったが、四条大宮に着けば各々の学校へ向かわなくてはならない。とにかく、今、この瞬間だけでも気を強く持たなければ。そんなことを考えながら、ワシは列車に乗り込もうとした。そこで、ワシは不意に背後から声を掛けられた。

「ねぇ、兄ちゃん……。今、誰と話していたの?」

「へ? お前も見ていたじゃろう?」

「見ていた? 何を?」

「い、イヤ、じゃから、さっき、すれ違ったじゃろう? 四人の坊さん達と」

「え? 兄ちゃん、夢でも見ているの?」

「な……!?」

 どうやら、大樹には何も見えなかったらしい。どういうことかと問い質してみれば、確かに、あの坊さん達とすれ違った部分までは目の当たりにしていたらしい。どうやら、ワシと坊さんとが問答した辺りから見えていなかったらしい。ワシだけが見ていたというのか? 理解不能な出来事が起ころうとしている。多分、昨日の雨から全てが始まってしまったのだろう。

 ふと、周囲を見回せば、皆が奇異な目線をワシに投げ掛けていた。これ以上、大樹を不安な気持ちにさせたくなかった。だから、ワシはせめて、大樹だけでも落ち着かせたかった。

「な、何でも無いのじゃ。お前は、何も心配せんでも大丈夫なのじゃ」

 何が大丈夫なのか自分でもサッパリ判らなかった。何の力も持たない非力な存在でしか無いワシに一体何が出来るのだろうか……。しかし、あの坊さん、気になることを口にしていた。『天狗に愛されし、純粋なる風の子』とは、一体どういう意味なのだろうか? イヤ、無意味な詮索は止めにしよう。今は、何よりも大樹を安心させることが先決だ。

 ワシは大樹に座るように促し、共に座ることにした。ワシはただ大樹の手を力強く握り締めていた。多分、大樹を安心させるためというのは口実でしか無かった。不安と恐怖で一杯のワシの心を鎮めるために大樹の手を力強く握り締めていたに過ぎない。大樹のためでは無い。結局のところ、ワシ自身のための自己満足に過ぎなかった。

 程なくして列車が動き出した。窓の外には、どこまでも続く青空が広がっていた。何事も無かったように一日が始まる。スーツ姿の会社員らしき者達の姿もあれば、ワシらと同じように学生服に身を包んだ者達の姿もあった。楽しげに語らう観光客らしき者達の姿もあった。皆の中では何一つ変わらない日常が始まろうとしているのだろう。そんな中、何故、ワシらだけがこんな目に遭わなければならない……。何故、嵐山を騒がせているオカルトマニア達では無く、ワシらが巻き込まれなければならない? ワシらは無関係だと言うのに! 理不尽な世の中に、ただただ怒りを覚えることしか出来なかった。

◆◆◆18◆◆◆

 恐怖に戦く大樹から離れるのは身を引き裂かれる想いではあったが、一緒にいたところで事態が好転することは無い。そのことは重々承知していた。だからこそ、ワシは必死の思いで学校を目指していた。

 四条大宮から、ワシは何時ものように四条通を歩んでいた。賑わいを見せる四条通をひたすら歩きながら、ワシはふと、昨日のことを思い出していた。

 昨日、四条大橋に到着した頃には既に雨が降り出していた。大樹と可笑しなやり取りをしながら走り抜けたことが、果てしなく遠い日の思い出のように思えて仕方が無かった。思い出――思わず脳裏に浮かんできた言葉をワシは頭を振ってかき消した。

「思い出で終わらせるものか! ワシが大樹を守らなくて、一体誰が、大樹を守ると言うのじゃ!」

 思わず想いの丈を叫んでしまった。道行く人達が一斉に振り返ったが、ワシは肩を怒らせながら乱暴に歩き続けた。

(そんなにワシが滑稽か!? 可笑しな坊さんに狙われて、恐怖と絶望と、それから果てしない怒りで今にも気が狂いそうなのじゃ! ああ、邪魔くさい奴らなのじゃ。ワシの行く手を阻むで無いのじゃ!)

 自分でも可笑しくなる位に苛立っていた。判っていた。全部、全て判っていた。怒りの矛先が向けられているのは、あの薄気味悪い坊さんでは無く、自分自身に対してなのだと。口先ばかりが達者で、都合の良いウソばかり次々と思い浮かび、そのクセ何かを為し遂げるだけの力も無いハリボテ野郎。それが自分なのだ。それが現実なのだ。

 四条通を往来する人々は皆、楽しげに語らっていた。観光客達も少なくないのだろう。海の向こうから訪れたであろう人々ともすれ違った。透き通るような青空の下、人々が引っ切り無しに行き交うばかりであった。苛立ちながら歩んでいると、楽しげに笑い合う若い女性達が通り過ぎて行った。観光で京都を訪れたのだろうか? 語らっている内容から察するに清水寺に向かおうとしているらしい。

 ふと、周囲を見回してみれば土産物屋も軒先で掃除を始めたり、商品を陳列したりと準備に勤しんでいる。四条通は何時もと変わらぬ活気を称えていた。

 今日も暑くなるのだろう。照り付ける日差しも強く、行き交う人々も忙しく行き交う。何もかもが変わることの無い日常の風景だった。それなのに……それなのに!

(憎々しい! どいつも、こいつも楽しそうに振舞い居って……。ワシと同じ目に遭えば良い! ワシと同じように意味不明な恐怖体験をすれば良い! どうして……どうして、ワシだけがこんな目に遭わなければならないのじゃ!?)

 どうにも息が上がって仕方が無かった。苛立ちと不安が入り乱れ、ワシは自分でも何を求めているのか訳が判らなくなっていた。

(そうなのじゃ……。すれ違う人々には何の罪も無いのじゃ。そんなの、ただの見苦しい八つ当たりに過ぎないのじゃ)

 ワシはふと立ち止まって、静かに溜め息を就いていた。大きな、大きな溜め息だった。すれ違う人々が怪訝そうな目でワシを横目で見つめた。楽しげな気分に水を差すなよ。そんな、微かな怒りを称えた眼差しだった。もう一度出掛かった溜め息を呑み込み、ワシは再び歩き始めた。

 こんな格好悪い自分のことを「兄ちゃん、兄ちゃん」と慕ってくれる、可愛い弟のことを想えば想う程に悔しくて仕方が無かった。怒りの感情を出すことは嫌だった。何よりも、恐ろしくて仕方が無かった。だからこそ、普段からお笑いキャラという位置付けを作り出し、他者とのぶつかり合いを極力避け、物分かりの良い、話の判る、愛嬌ある自分というのを演じ続けていた。

 相反する感情同士がぶつかり合い、自分でも何が何だかサッパリ訳の判らない事態に陥っていた。冷静さを失ってはならない。それは良く判っている。だが、落ち着こうとすればする程に空回りし、ワシの中では向ける宛ての無い怒りだけが爆発的に膨張し続けていた。

(駄目じゃ、駄目じゃ。怒りの感情だけは絶対に駄目なのじゃ……)

 そっと顔を挙げればワシの目には透き通るような青空と日差しが飛び込んできた。同時に蘇る『あの日』の惨劇……。激情に駆り立てられワシが起こしてしまった傷害事件。今でも忘れることは出来ない。石を手に殴り付けた瞬間の骨の砕けた音も、小倉池に落ちて救いを請う少年の脳天に石を叩き付けた瞬間の短い悲鳴も、必死で許しを請う少年を、全体重を掛けて殴った瞬間の鈍い感触も、本気で殺すつもりで首を絞めた時に感じたジットリと滲む汗の感触も、何もかも、忘れ去ることは出来なかった。

(情鬼に畏れ戦くとは滑稽な話じゃな。本当の意味での『鬼』は此処に居るのというのに)

 自分自身を嘲笑いながらワシは重い足取りで歩んでいた。人通りのまばらな通りを抜けたワシは何時の間にか四条大橋を歩んでいた。

 四条大橋を歩んでいると、不意に誰かに声を掛けられた気がした。声が聞こえた鴨川の上流へと目線を投げ掛ければ大きく膨れ上がった入道雲が目に映る。そのまま目線を落とせば鴨川の流れの中に一羽の白鶴が優雅に佇んでいるのが目に留まった。透き通るような青い空に白鶴の新雪のような体が良く映えて見えた。不意に、白鶴はこちらに向き直った。その瞬間、信じられないことにワシと目があった。距離にしてみれば相当離れている。それなのにも関わらず射抜くような鋭い眼光を感じていた。

「そ、そんなことが……!?」

  動揺するワシを後目に白鶴は静かに翼を広げると、そのまま大空へと羽ばたいて見せた。透き通る青空に彩りを添える入道雲。その、雄大なる白さに重なり合うように、優雅に、だけど、力強く羽ばたいて行った。ただ、それだけの光景だった。それだけの光景だったのに……何故か、涙があふれてきた。

 大自然を生きる者達は本当に強く、逞しく、何よりも雄大なる生き方を見せてくれる。その姿にワシは何時も勇気を分けて貰っている。勝手な思い込みなのかも知れない。至極都合の良い妄想なのかも知れない。ただ、大空を舞う白鶴に声を掛けられた気がした。

『お前がそんなことで、どうするのだ? 大地、シッカリしろ!』

 そうだった……。ワシがシッカリしなくてどうするというのか? 事態の一部始終を見届けたワシに出来ることは、出来る限り正確な情報をコタ達に伝えることだ。その上で皆の協力を仰ぐ。ワシ一人の手に負えるような相手で無いことは間違いない。それに、ワシは熱くなり過ぎて、本当に大事なことを忘れていた。

「そうじゃったな……。ワシの家族は、大樹だけでは無いのじゃ……」

 熱くなったらオシマイだ。恐らく、ワシを焚き付けて、焚き付けて、一人暴走するのを期待しているのだろう。何故、ワシに狙いを付けているのかは判らなかったが、少なくても冷静さを失ってはならない。それだけは間違い無かった。

 遮る物の無い空からは容赦無く強い日差しが降り注ぐ。こうして歩いているだけでも汗が後から後から噴き出してくる。タオルで必死に汗を拭いながらもワシは走り続けた。このまま四条通を駆け抜け、祇園さん前の交差点を曲がる。今度は東大路通沿いに七条周辺まで走り続ければ、学校へと続く坂道に至る。辺り一面から降り注ぐ蝉の声を背に受け止めながら、ワシは走り続けた。皆の笑顔が浮かんでは消えてゆく。お前は一人では無い。そう、背中を後押しされた気がして、何だか勇気が沸いてきた気がした。

◆◆◆19◆◆◆

 やっとの思いで教室へと辿り着いた時には、走り続けたお陰で夕立に遭ったかのような惨状と化していた。こんなことになるなら着替えを持ってくれば良かった。そんなことを考えながら教室の扉に手を掛けた。渇いた音を立てて扉が開く。教室を見回してみれば、既にコタ達が何やら楽しげに雑談に興じている様子が目に留まった。

「ああ、ロック、おはよう!」

 ワシの姿に気付いたのか、テルテルが声を掛けてくれた。

 皆、テルテルが手にしているデジカメを囲んでいた。どうやら、数日前に皆で訪れた神戸旅行の写真を見ながら盛り上がっていたらしい。

「オッス、ロック! それにしても、やっぱりデジカメだと綺麗に撮れるものだよなー」

 そういえば神戸旅行に皆で行ったのも、ほんの数日前の出来事だった。テルテルの願いを果たすために、コタが半ば強引に決行した神戸への一泊二日の小旅行。余りにも急過ぎる話に焦らされたのは事実ではあったが、本当に楽しい旅で、ワシの中でも良き思い出になった旅だった。

「わはは! これ、オレかー? 何か、物食ってる場面ばかり狙ってねーか?」

「えー、そんなこと無いよー」

 笑いながら妙に慣れた手付きでテルテルがデジカメを操作する。興味津々に覗き込むリキと太助に向けてテルテルが得意げにデジカメを突き出して見せた。

 ほら、コレとか……お風呂上がりのリキのセクシーショット!」

「おわっ! おい、コラ、テルテル! 大事な所まで丸見えじゃねーかよ!」

「えへへ、油断しちゃ駄目だってことだよねー」

「ふふ、輝は油断も隙も無いな。案外、雑誌の記者とか向いているかも知れないのではないか?」

 太助が笑いながらツッコミを入れれば、「まったくだぜ」と頭の後ろで手を組みながらリキが相乗りする。

「テルテルが記者だとよ、珍妙な事件専門とか可笑しな箔が付きそうだよなー」

「あー、リキってば失礼なこと言ってくれちゃうんだからー」

 何だか、楽しげに盛り上がっている様子に、出掛かった言葉をワシは思わず呑み込んでしまった。本当に情けない奴なのじゃ……。大樹を守らなければと息まいていたクセに、同時に、皆にも嫌われたくないと八方美人なことを考えているワシがいた。

「なぁ、輝。その写真、俺にメールで送ってくれないか?」

「良いよー」

「おい、コラ、太助! てめぇ、オレの写真でハァハァするつもりだろ!?」

「さて、どうだろうな?」

「ひ、輝……。俺にも、送って貰って良いか?」

「こ、コタまで!?」

 予想外のコタの振舞いにリキが驚きの声を挙げた。だが、すぐに顔を赤らめながら

「ま、まぁ……その、なんだ。コタだったら、むしろ、好きなだけ撮らしてやっても……」

 そう、小声で呟いて見せた。そんな、リキとは対照的に、目を大きく見開いた太助が笑いながら立ち上がる。

「おい、輝、聞いたか? 今の力丸の言動、俺に対する態度と、小太郎に対する態度で、天と地程の差があったぞ?」

「うん! そっか、そっかー。リキってば、コタのことが好きなんだねぇ」

 二人に囃し立てられたリキの顔色が一気に真っ赤になる。

「ててて、てめぇら! 可笑しな話で盛り上がるんじゃねー!」

(ま、ますます話を切り出し難くなったのじゃ……)

 皆、実に楽しげに旅行の話に盛り上がっていた。だからこそ、数分前の四条通での出来事を思い出さずに居られなかった。楽しい気分に水を差すなよ。声に出さなかったが、すれ違った観光客達に冷ややかな目線で睨み付けられたことを思い出し、ワシは重苦しい気持ちで一杯になっていた。

(そうなのじゃ。皆、楽しげに振舞っているのに、敢えて水を差すような真似はしたくないのじゃ)

 それに、ワシが見た夢の内容は余りにも生々しく、思い出すことすら阻まれる程に気色悪い情景だった。リキとの思い出の残る場所を土足で踏み荒らされ、挙句の果てには散々汚されたことが悔しくて仕方が無かった。こんな想い、リキには絶対に伝えたく無かった。だから、ワシは楽しげに振舞う皆の邪魔をせぬように、静かに席に就いた。

(やはり、ワシの街で起きた出来事。しかも、あの坊さん達はワシを狙っている。これはワシの問題なのじゃ。ワシ自身の手で何とかしなくては駄目なのじゃ)

 不思議な出来事はその直後に起こった。ワシが席に就くと同時に、どこからか涼やかな笛の音が響き渡った。嵐山の竹林を吹き抜ける涼風を思い起こさせるような音色と旋律に、ワシは思わず顔を挙げて周囲を見回した。どうやら皆にも笛の音色は聞こえたらしい。皆も驚いた様子で窓から顔を出して周囲を見回していた。

(こ、今度は何が起きたのじゃ?)

 不意に笛の曲調が代わった。緩やかな音色から転じて、昨晩の荒れ狂う空模様を思わせる激しい曲調へと変わる。その瞬間、突然、窓から猛烈な風が吹き込んできた。余りの風に皆が思わず目を覆う。次の瞬間、有り得ないことに、風に乗って無数の木々の葉が舞い込んできた。

「うぉっ!? いきなり風が吹いたかと思ったら、今度は、木の葉が舞い込んできたぜ!?」

「笛の音色と言い、風に乗って舞い込んでくる木の葉と言い、奇妙な出来事が起こるものだ」

 可笑しそうに笑いながら太助が木の葉を拾い上げて見せる。その様子を見届けながら、コタが腕組みしたままワシの顔を覗き込んでみせた。全てを見透かしそうなコタの眼差しを見つめることが出来ずに、ワシは必死で目を逸らそうと試みた。だが、それでもコタはワシから目線を離すことは無かった。

「大地、昨晩、嵐山で何か起きた。そうだな?」

  コタは、ただ静かにワシを見据えたまま口を開いた。

「え? あ、ああ、イヤ……」

 昨晩、一緒にじゃれ合った大樹とのことを思い出し、ワシは今にも涙が毀れて来そうになった。だが、それでも思い留まった。駄目だ。皆を巻き込む訳にはいかない。

「な、何も……」

 だが、コタは尚も射抜くような眼光を保ったまま、ワシの言葉を鋭く遮って見せた。

「何か起きたのだな?」

  駄目だ。隠し通せる訳が無い。それに……大樹を守ることを優先するならば、皆に迷惑を掛けることになってしまうが巻き込むしかない。そう考えれば、今、ワシが為すことは――皆に正確な情報を伝えることだ。泣くのは全部終わってからでも遅くない。非力な自分なりの精一杯の抵抗のつもりだったけれど何の意味も為さなかった。

「昨日、早々と学校を引き上げてからのことなのじゃ……」

 ワシは皆に、嵐山旅館に泊まりに来た四人の坊さんの話を伝えた。明確な意図こそ判らなかったが、間違い無く一連の事件に関わっている存在であることを強調して説明した。

「そういえばさ、ロック、昨日の夕方頃に電話くれたよね。何か、すぐ切れちゃったけれど」

「丁度、ワシが嵐山の駅に着いた所で可笑しな事件と遭遇してのう……」

 ワシの言葉に皆の表情が一気に険しくなった。

 あまり思い出したく無い光景ではあったものの、話をしないことには事情も伝わらないだろう。そう判断したワシは、皆には少々申し訳無かったが、異常過ぎる死体の惨状を聞かせた。皆一様に険しい表情を浮かべていた。無理も無いだろう。直接見た訳では無いにしろ、無数の人の歯型の付いた傷跡というのはあまりにも気色悪過ぎるだろうから。

「……大地、続けてくれ」

「判ったのじゃ」

 ワシは姿無き亡者達に恐怖した一夜のことを語って聞かせた。それから、あの思い出すことすら憚られた生々しい悪夢の話も、ありのままに語って聞かせた。予想通り、皆一様に言葉を失っていた。リキに至っては過去の思い出もあったから殊更に衝撃的だったことだろう。皆、一様に俯いたまま言葉を失っていた。予想通りというか、予想以上というべきか、皆、沈鬱な面持ちを称えるばかりであった。ワシは話を口にしたことを後悔していた。でも、そうする他に救いは見出せなかった。

 緊迫した空気が立ち込める中、皆の間に立ち篭める重苦しい沈黙を打ち破ったのは、やはり、テルテルだった。

「え、えっと……大樹君は無事だったの?」

「大樹ならば無事なのじゃ。ずっと、ワシと一緒に居ったからのう」

「その部分に関しては、先ずは一安心だな。大地、話を続けてくれ」

「ああ、判ったのじゃ。そして、一夜明けた今朝のことなのじゃ……」

 嵐山の街が大きな被害を受けたという話に関しては、皆も驚きを隠せなかった様子だった。無理もない。皆、何度となくワシの家にも遊びに来てくれたことがあるだけに、風光明美な嵐山が泥や木々の枝に塗れているという情景は、中々想像することが出来なかったのだろう。しかしながら、これは曲げようの無い事実だ。ワシとしても、今朝、目の当たりにした情景が事実であったとは思いたく無かった。

「極め付けは嵐山の駅で、朝早くに嵐山旅館を経ったハズの坊さん達と出くわしたのじゃ……」

 恐らく、この部分が一番重要な内容となることは間違い無い。特に、あの恰幅の良い坊さんの言っていた意味深な一言がワシはどうにも気になって仕方が無かった。その話をした瞬間、一瞬、コタの表情が強張ったような気がした。

『ほう? 勇ましきことよ。流石は天狗に愛されし、純粋なる風の子よの……。さて、お前が吹くか、ワシらが吹くか、明日の風は見えはせぬ。互いの命を賭しての大勝負の始まりだ。丁と出るか、半と出るか、賭けるが良い!』

 一体、どういう意図が篭められているのか、ワシにはさっぱり理解出来なかった。

「話は此処までなのじゃ。済まないのじゃ……折角、神戸旅行の話で盛り上がっておった所に水を差してしもうて」

 皆の気持ちを沈めてしまったことを申し訳無く思ったワシは、頭を下げて謝罪の意を告げた。だが、険しい表情を称えたままコタがワシの前に立ち塞がって見せた。そのままワシを見下ろすと静かに口を開いて見せた。

「大地、俺達は皆家族だ」

「……そうじゃな」

 コタは短い溜め息混じりに、笑いながら腕組みしてみせた。

「お前は家族にさえも、気を使うのか?」

「へ? そ、そんな訳は……」

「なら、何の問題も無い。そうだろう?」

「そ、そうじゃな……」

 コタが笑いながらワシの頭に手を乗せて見せれば、皆も続々とコタに続いてくれた。

「嵐山で起きている異変、ぼくもずっと気になっていたんだよねー」

「姑息なやり方が気に食わんな。何よりも、俺の大切な仲間に喧嘩を売ったのだ。売られた喧嘩は高値で買ってやろうでは無いか?」

「それによ、これは嵐山全体に関わる話だろう? 観光業はそういう湿ったウワサ話に大きく揺さぶられるからな。第一、坊さんの分際で迷える奴らをダシに使うたぁ、聖職者の風上にも置けねぇ奴らだぜ。その捻じ曲がった性根、オレがビシっと叩き直してやるぜ!」

 必死で堪えようとしたけれど、もう、我慢出来なかった。抑えていた感情があふれ出して、孤独な恐怖に打ち震えていた昨晩からの緊張感が解け、ワシの目からはボロボロと涙が零れ落ちていた。涙は後から後から溢れて来た。格好悪いとは思ったが、どうすることも出来なかった。

「ほらほら、ロック、泣かないで? ぼく達が何とかするからさ。ね?」

「ううっ、ありがとうなのじゃ。ありがとうなのじゃ……」

「ロックを泣かせるなんて、罪は重いね。ぼくの自慢のむ……」

 勢いに任せて何かを言おうとしたように見えたが、テルテルは慌てて出掛かった言葉を呑み込んだ。明らかに違和感のある振舞いにコタが眉をひそめた。

「む? 輝、何の話だ?」

「ああー、え、えっと、そうそう。ほら、頼りになるコタが、必ず何とかしてくれるからさ」

「俺か? 何とも他力本願な話だな……」

 ふと、目線を横に向ければ、何時の間にかメモを片手に、太助が何かを書き出しているのが見えた。どうやら京都市内の簡単な地図を書いているらしい。その中に嵐山旅館を書き込み、さらに、何やら丸印付きの地名を三つ書き込んで見せた。

「おー? 太助、そりゃあ、何の地図だ?」

「これか? 少々雑ではあるが京都の三大葬送地の地図だ」

「そーそーち? 何だ、そりゃ?」

「そう焦らなくても、これから説明してやろう」

 太助はワシらの前に地図を広げると、描かれた図に関して説明し始めた。

「葬送とは死者を葬るために墓所まで送り届けることを示す。葬送地とはその送り先、つまりは墓所のことだと捉えて欲しい」

 太助は皆の表情を見届けながら、静かに続けて見せた。

「京都市内には古き時代に葬送地と呼ばれた場所が幾つかある。有名な所で蓮台野、鳥辺野――」

 地図上の大岡山付近と清水寺付近を順番に指差しながら太助が解説する。皆の目線が地図を追い掛けていることを見届けた所で、太助は三つ目の丸印を指差して見せた。

「そして……此処、嵐山の北部に位置する化野だ」

 葬送地の話から、何を伝えようとしているのか? さて、いよいよ細かな説明に入ろうとした所で、山科が教室に入って来るのが視界に飛び込んできた。

「はーい、それではホームルームを始めちゃいますよー」

 何とタイミングの悪い事か。思わず皆で顔を見合わせてしまった。

「続きは昼休みだな。太助、引き続きの説明、頼む」

「ああ。こういう場面でも無いと、俺の無駄な雑学も役に立たないからな。任せてくれ」

 こうしてホームルームが始まった。だが、どうにも、集中出来そうも無かった。大樹のことや嵐山旅館のこと、それに、ワシの身に振り掛かった奇妙な出来事の数々に、あの笛の音色。色々なことを考え出すと途方も無く不安な気持ちで一杯になった。

 皆を巻き込んでしまって本当に良かったのだろうか? 一抹の後悔も残った。だけど、これはワシ一人ではどうすることも出来ない話だ。皆の協力が無ければ、どうすることも出来ないのは事実だ。

 窓の外は憎らしい程に透き通る青空に包まれていた。遠くから聞こえるクマゼミのワシャワシャという鳴き声だけが教室に虚しく響き渡っていた。

◆◆◆20◆◆◆

 そうして迎えた昼休みになったところで、ワシらは何時ものように昼飯を買い込むと、そのまま勢いに任せて屋上へと続く階段を掛け上がっていた。屋上前に立ち、勢い良く扉を開けば、熱気を孕んだ風が吹き込んでくる。余りの暑さに一瞬怯みそうになった。それでも扉を超えて一歩踏み出せば、屋上から見渡せる景色は何処までも広がっていた。遠く、視界の先には京都タワーや東寺の五重塔も広がっていた。透き通る青空は何処までも広がっていて、何時もと何ら変わらぬ情景が目に留まる。遠く目線を投げ掛けていると、再び肌を焦がすような熱風が吹き抜けて行った。

「うおっ!? な、何か……火傷しそうな熱さの風が吹き込んできたぞ!?」

「ほう? 美味しく焼き上がってしまうか?」

「ううーん、これは本格的に夏だねぇ。あー、日焼け止め持ってくれば良かったなぁ?」

「大袈裟な、と言いたい所だが……確かに、これだけ日差しが強いのを考えれば、必要性を感じるな」

 皆、何時もと変わらぬ様子で振舞っていた。何だか、ワシ一人だけが薄暗い気持ちでいるみたいで申し訳無い気持ちで一杯になった。そんなワシを気遣ってかコタがそっと肩を叩いてくれた。

「確かに強烈な日差しだな。どこか日陰になっている場所を探そう。汗だくになりながらでは落ち付いて話も出来ないだろう?」

「コタ……」

「む? どうした?」

「大樹を……弟を、どうか、どうか! 救ってくれなのじゃ!」

 必死だった。形振りなんか構っていられなかった。とにかく、何とかしなければ……。それだけで頭の中が一杯になっていた。自分でも、何を、どうしたいのか良く判らなくなっていた。ワシは自分自身さえも見失っていたのかも知れない。熱くなるワシの頭にそっと手を乗せると、コタは可笑しそうに笑い掛けてくれた。

「ああ。心配しなくても、俺達が必ず何とかする。だから、もう、そんな哀しそうな顔をするな」

「ありがとうなのじゃ……」

「大地、俺達は仲間であり、家族でもある。だから、お前に一つ、言っておこう」

 妙に険しい顔を浮かべながら、コタが顔を近付けて見せた。ワシは緊張の余り、思わず息を呑んだ。

「遠慮することが非礼になる。そういうこともある。判ったな?」

「あ……」

 可笑しな話だった。常日頃から皆のことを、家族、家族と自分で言って置きながら、ワシは皆に嫌われないように、どこかで気を使っていたらしい。でも、それは言い換えれば距離感を感じる振舞いであり、受け止める側からすれば寂しく感じられたのは事実なのだろう。

「判ったのじゃ。これからは遠慮しないようにするのじゃ」

「ああ、そうだ。その想いで嵐山を包む闇を打ち払ってやろう」

 コタの言葉、心強く感じられた。必ず何とかしよう。そんなことを考えながら、顔を挙げた瞬間、唐突に照り付ける日差しに目が眩んだ。余りの眩しさに思わず目を伏せたが、その瞬間、ワシの脳裏にある情景が浮かび上がって来た。

 それは夕焼け空の情景だった。沈みゆく夕日に目が眩んだ記憶と重なり合った。燃え上る炎を思わせる煌々とした夕日。そこから、赤とんぼ舞う落柿舎の情景が連想された。

 今になって思い出すと、違和感に満ちあふれた情景だった。照り付ける夕焼け空の下、赤とんぼ達に見送られるかのようにワシは大樹と共に家路へと続く道を歩んでいた。だが、そこに居たのは大樹だけでは無かった。確かに、そこにはワシら以外の者達が共に歩んでいた。

 可笑しな話だ。トモダチとは無縁だったワシら兄弟を囲む大勢の者達。彼らは一体何者なのだろうか? 遠い日の記憶の中で、ワシは問い掛けていた。すると、周囲を歩む者達が一斉に足を止めた。

 一体何事だろうか? 動揺を覚えながら彼らの顔を必死で覗き込んで見る。だけど、どうしても見えて来ない。白く、ただ白く染め上がっただけのシルエット以外、何も見えなかった。必死で見よう、見ようと試みるのだが、照り付ける日差しが逆光となり、眩し過ぎて目を開けることすら出来なかった。ただ、彼らは頻りに、ある言葉を繰り返していた。そう――『忘却』という言葉を、まるでうわ言のように繰り返すばかりだった。その言葉が一体何を意味するのか? 多分、ワシは判っているハズだった。だけど、皮肉にも、その言葉通り、ワシは思い出すことが出来なかった。大切な事実を『忘却』してしまっているのだろう。そこに間違いなく、答があるハズなのに。ただ、ひたすらにワシの頭の中では『忘却』という言葉が繰り返されるばかりであった。次第に、視界が揺らいできた所で、唐突にコタに肩を叩かれた。

「大地、大丈夫か?」

「にゃー。熱射病かのう? ちと、暑過ぎてくらくらしてしまったのじゃ」

「ああ、今日は本格的に暑いからな。急いで涼しい場所を探し出すとしよう」

 はて? ワシは一体何を見ていたのだろうか? 照り付ける日差しに目が眩んだ所までは覚えているのだが……。その、すぐ後に、何か、意味深な情景を見た気がするのだが? 必死で記憶を手繰り寄せてみるが、何も思い出せなかった。気のせいだろうか? 気を取り直し、皆との語らいに集中するとしよう。釈然としないが割り切るしか無かった。

 涼を求めて右往左往してはみたものの、結局、皆で貯水タンクの裏側に回って来た。辛うじて日陰と呼べる場所がその一角しか無かったことを考えると、少々狭い場所ではあったが他の場所よりかはマシだろうという結論に落ち着いた。早速皆で各々の定位置を決めた所で、再び太助が説明を続ける。皆、食事を頬張りながら太助の話に耳を傾けることにした。

「さて、朝の続きだ。その前に……食事時だからな」

 太助が口にした妙な前置きにテルテルとリキが顔を見合わせ、首を傾げる。そんな二人のやり取りを見届けながら太助が続ける。

「詳しい説明は避けるから、歴史に興味があるならば各自で調べてくれ」

 太助の言葉にコタが妙に力強く頷いていた。

「確かに、極めて賢明な注意事項だな……」

「問題となっているのは地図の左上に丸印を付けた嵐山の葬送地、化野――イヤ、ここは『風葬地』と言った方が適切だろう」

 太助は皆の顔を見回しながら話を続けた。

「化野は風送地として長い歴史を刻んできた。まぁ、早い話、この地は古き時代には多くの人々が弔われた場所ということになる」

 太助の言葉に皆が静かに耳を傾けていた。響き渡るのは蝉の鳴き声だけだった。

「大地が言っていた坊さん達が何者かは定かでは無いが、嵐山という土地柄を考えれば不思議な話では無いだろう」

「最近はマナーの悪いオカルトマニアが増えているからねぇ」

 テルテルが妙にしみじみと言って見せれば、リキが苦笑いで切り返す。

「そもそも、オカルトマニアにマナーなんてあるのかー?」

(うむ、ワシもそう思うのじゃが……)

 リキのツッコミにも臆することなく、テルテルは上機嫌に語り続けた。

「少なくても周辺の住民に迷惑を掛けるようなことはしちゃ駄目だよね。無駄に騒いだり、ゴミを散らかしたりするなんてマナー違反の極みだよ」

 嵐山が風葬地だという話は、以前、爺ちゃんに聞いたことがある話だった。

 その昔、嵐山の化野には多くの死体が打ち捨てられていた。そうした無縁仏達を憐れに思った古き時代の僧達が化野念仏寺を建立したという話であった。毎年八月には無縁仏達を供養するための千灯供養が行われる。恐らくワシが見た悪夢は嵐山が風葬地であった史実を告げる情景そのものだったのだろう。実に奇異な話だ。体験するまでは人伝に聞いただけの話に過ぎなかったのに、こうして自らが当事者になってしまうことになろうとは予想もしなかった。

「引き金になったのはオカルトマニア達なのじゃろうか? 連日のように訪れては馬鹿みたいに騒ぎ立てる。これでは、死者達も落ち付いて眠ることが出来ないのじゃ」

「そうだな。その可能性は十分に考えられる。大地が出会ったという僧達も、そうした迷える死者達を弔って来た者達なのかも知れないな」

「そりゃあ、坊さん達も頭にくるよな。迷える魂達を必死で供養したってのに、それを嘲笑うような振舞いをされたんじゃあ、仕方ねぇって言えば仕方ねぇよな」

 鼻息荒く吐き捨てるリキであったが、ワシをジッと見つめながら苛立った表情を浮かべて見せる。

「まぁ、だからと言ってロックに喧嘩を売るのは筋違いな話で、許せねぇけどな」

 皆と共に語らっているうちに、何だか段々と事情が見えてきた気がする。そこにある何とも言い難い対立関係を考えると救われない話に思えた。

 本当に悪いのは言うまでも無く、無駄に騒ぎ立てたオカルトマニア達だ。古き時代から死者達が多く眠る嵐山という土地を守って来た坊さん達からしてみれば、自分達が命懸けで為し遂げたことを踏み躙るような真似をされた訳だ。眠りを妨げられた死者達が怒り狂うのは無理も無い。もしも、夜な夜な嵐山旅館の近所で騒ぎ立てられたとしたら、ワシは騒いだ奴らのことを殺してしまうかも知れない。自分の立場を置き換えれば話は判り易いように思えた。でも、だからこそ新たな疑問も浮上する。

「でも、可笑しな話なのじゃ。ワシは心霊スポットを荒らした訳でも無ければ、何か怒らせるようなこともした訳でも無いのじゃ」

「ああ、俺もそこに違和感を覚えていた」

 皆の話に静かに耳を傾けていたコタが反応を見せたことで、皆の目線が一斉にコタに集中する。

「確かに、皆の言っていることは間違い無く原因の大半を担っているのだろう。では、何故、大地が狙われなければならない? どう考えても大地は無関係だ」

「そうなんだよねぇ。オカルトマニア達が事故に遭ったりしているのは、そりゃあ、仕方ないでしょって思えるけどねー」

 コタの言葉を受けて、テルテルが身振り手振りたっぷりに想いを口にして見せる。

 確かに、疑問に思っている部分であることは間違い無かった。何故、ワシが狙われなければならないのだろうか? ワシは彷徨える魂達に仇為す存在では無いと言うのに、可笑しな話だ。腕組みしながら考え込んでいると、不意にコタが皆の注目を集めた。

「皆、聞いて欲しいことがある」

 皆がコタに向き直ったことを見届けたところで、コタが話を続けて見せる。

「先刻、大地が聞かせてくれた話の中で、どうにも気に掛る部分があってな」

 敢えて皆の注意を惹き付けながら、コタは自らが考えていることを語り始めた。

「大地、件の坊さんに『天狗に愛されし』、『純粋なる風の子』――」

 コタは、気になる部分を殊更に強調しながら皆の表情を見回して見せた。

「そう言われたというので、間違い無いな?」

「うむ。そうなのじゃ」

 どうやらコタは、あの恰幅の良い坊さんが口にしていた意味深な言葉に興味を示した様子だった。

「二つ、気になるフレーズが在ってな」

 コタは敢えて『二つ』という部分を強調して見せた。その上で皆の反応を見届けながらコタが続けた。

「一つ目は『天狗に愛されし』の部分だ」

 指を一本立てながらコタが語り始める。

「大地、可笑しな質問をするが、お前に天狗……まぁ、この場合はカラス天狗だな。カラス天狗の友はいるか?」

 あまりにも突拍子の無い問い掛けに皆が目を丸くして驚いていた。普通に考えたら、そのような交流関係がある訳が無い……そこまで考えた時に、ワシの記憶の彼方に微かに残る情景が浮かんできた気がする。だが、どうしたことか。その情景もまた、白く、ただ白く染め上がっただけの情景で、何一つ見えて来ることは無かった。

「どうした、大地?」

「うぬぬ……何か、記憶の中にあったような気がするのじゃが……」

 どうしても思い出すことが出来なかった。少なくても、それは、絶対に思い出さなくてはならない記憶であることだけは間違い無かった。何よりも、思い出すことが出来なければ、取り返しがつかなくなってしまうことも判っていた。では、何故、そんな重要な記憶が思い出せない? 不安で胸が一杯になった。

 とにかくワシは必死だった。形振り構わず、どんな手段を講じてでも思い出さ無ければならない。焦りからか、何時の間にか背中が汗でビッショリになっていた。ワシは必死で記憶を手繰り寄せていた。

 頬を汗が伝い、首筋から落ちる不快感。照り付ける日差しの暑さ。蝉の鳴き声。車の往来する音。校庭から聞こえて来る生徒達の楽しげな笑い声。何よりも、何よりも、皆の期待する眼差し! ああ、もう、止めてくれ! 皆でワシの気を散らさないでくれ! 

 叫びたかった。もっとも、そんなことをしても、何の意味も為す訳も無く、ただただワシは焦るばかりだった。焦りは次第に募り、募って、いつしか、途方も無い恐怖心へと変貌しようとしていた。思い出せなければ取り返しがつかなくなる。それなのに、何故、思い出せない! 自分で自分を壊したい程に苛立つばかりだった。

「大地、大丈夫か? 少し、落ち付こうか」

「何故じゃ……。何故、思い出せないのじゃ……」

 ワシの言葉を聞きながら、コタは何かを考え込んでいるように見えた。

「皆、鞍馬での能面騒動の一件は覚えているか?」

 唐突にコタは話題を切り替えて見せた。ついでに、ワシの表情をシゲシゲと覗き込んで見せた。その言葉、ワシに向けられているということか。それならば覚えている。イヤ、忘れられる訳も無い。あの時、鞍馬で能面を迂闊に身に付けた瞬間、ワシは体を乗っ取られたのだから。意識は鮮明だったにも関わらず、意図せぬ動きをさせられる。今まで一度も体験したことの無い異様な体験だった。そんな異様な体験、忘れられる訳が無かった。

「あの事件の中で俺は一人の友と共に歩むようになった。ここ数週間の様々な事件に挑む上でも、その友は俺と共に戦ってくれてな」

 コタは皆の表情を、皆の反応を窺いながら、どこか安堵したような表情を見せた。恐らく、ワシらであれば話をしても問題無いと断じたのだろう。

「その友の素性は――」

 今一度、皆の表情を確かめながらコタが小声で続けた。

「鞍馬山のカラス天狗だ」

「えぇっ!? マジかよ!?」

「驚いたな。カラス天狗とは……」

 皆が驚きの声を発した。ワシも驚きを隠し切れなかった。カラス天狗という存在とワシが必死で手繰り寄せようとしていた記憶との間には、浅からぬ縁があるように思えて仕方が無かった。それが、一体どういった縁であるのかは判然としなかったが、間違い無く関わりがあるハズだ。

 そうさ。いきなり目的地に辿り着くことが出来ないのであれば、大幅に迂回することも止むを得ない。最終的に目的地に辿り着ければ、それで良いのだ。何としてでも辿り着こう。記憶、絶対に手繰り寄せて見せる。

「あのね、コタの話は本当なんだ。ぼくもね……カラス天狗と出会ったのは事実だから」

  何故、テルテルだけは動揺しないのかと不思議に思っていたら、既に、カラス天狗と出会っていようとは。

「もっとも、話すなと口止めされていたのだけどね」

「……俺が自ら話したことだ。輝、お前が気にすることは無い」

 ただでさえ驚くべき話が続いている最中で、さらに、テルテルが口にした一言でリキは頭を抱えたまま動揺していた。対照的に、太助は何時もと変わらぬ涼やかな振舞いを見せる。

「正直、驚いたが、不思議な話でもあるまい。俺達は情鬼という存在を目にしてきた。普通に生活していたら出会うことも無い、情鬼という存在を既に目の当たりにしている。それに……輝が持つ不思議な能力もまた、皆も知るところであろう?」

「うん。ぼくには人の死を予見するという能力がある」

 テルテルは皆の顔を見回したまま、静かに続けて見せた。

「……それに、ぼくの目には木々や草花達の魂さえも映るんだよ」

 皆の話を必死で整理しつつも理解しようと悪戦苦闘しているのだろう。眉間に深いシワを刻ませながらリキが皆に問い掛けて見せた。

「つまり、アレか? 目に見えねぇから、存在しないっつー考え方は正しくねぇってことだな?」

「まぁ、早い話そういうことになるな」

「っつーか、お前ら、スゲーな! オレは、ただただ驚きの連続だぜ……」

 コタは皆の顔を見回しながらさらに話を続けて見せた。それは、このような場所で話す内容では無い程に強烈な話だった。

「今更ながらだが、思うことがあってな。何の根拠も無い、極めて勝手な憶測だが――」

 妙に勿体ぶった一言から始まったコタの考えという物に、ワシは大いに驚愕させられることとなった。

「俺達五人がこうして共に歩むようになったことさえも、誰かに仕組まれているのでは無いかとさえ思えてな」

「確かに、今になって思うと不思議な縁だと思う所は多分にあるな」

「そうだね。見えない物が見えたり、不思議な能力を持っていたり。それに――」

「ああ、そうだよな。情鬼とこんなにも次々と関わりを持つなんて、ぜってぇ可笑しいよな」

 ワシらは皆家族……普段、何気なく使っている表現ではあったが、もしかするとワシは知らず知らずのうちに、こういった不思議な縁さえも見抜いてしまっていたのかも知れない。家族か……確かに、こういった不思議な縁で結ばれた関係と言うのは、ある種の家族のような感じになるのかも知れない。どこか皆が安堵したかのような雰囲気に包まれたところで、コタが鋭く話を遮った。

「皆、忘れて貰っては困るが、気になるフレーズはもう一つある」

「純粋なる風の子、という一節だね?」

「ああ、その通りだ。少し長くなるがしっかりと聞いてくれ」

 コタは皆の表情を見回した後でリキと太助に向き直って見せた。

「未だ情鬼と深い関わりを持っていない力丸、太助にも深く、深く、関わってくる話になる筈だ。心して聞いてくれ」

「お、おうっ……」

「心の準備は出来ている。続けてくれ」

 コタが話を切り出した内容――それは、大自然の成り立ちに関する話であった。少々宗教染みた話ではあったが、大自然の在り方を考えれば理に叶った話に思えた。

「なるほど……万物は、土、水、風、火の四種類の元素から構成されているということじゃな?」

「そうなるな」

 コタは再び皆の表情を見回しながら話を続けて見せた。

「輝もまた、カラス天狗に遭遇したと言っていたな?」

「うん。コタと一緒に行動しているカラス天狗のクロとも会ったし、錦市場、それから、糺の森で出会ったカラス天狗もいるんだ」

 テルテルの言葉に太助が言葉を添えて見せた。

「そういえば、確か糺の森で情鬼に襲われた時、地面から吹き出した岩の塊が情鬼を叩き潰した。そう言っていたな?」

「うん。それに、ぼくは木々の魂達とも縁があるからね。そう考えると、ぼくは土の元素と縁がありそうだよね」

 テルテルの言葉を聞きながら、リキがワシをシゲシゲと見つめてみせた。

「それじゃあ、ロックが言われた『風の子』っつーのは?」

「恐らく、大地は風の元素と強い結び付きを持っているのだろう」

 嵐山という土地柄、風の元素というのも頷ける気がしていた。嵐山には竹林が広がっている。数ある名所の中でも、やはり、ワシは竹林に居る時が最も心が落ち付ける。嵐山の竹林には常に涼やかな風が吹き抜けていて、多くの人々も各地から訪れる。訪れる者達もいれば、去りゆく者達もいる風の通り道。旅という概念と、風という概念は深く関わり合っているように思えた。ワシもまた冒険を、旅を好む身だ。そう考えると、やはり、ワシは風の元素との結び付きが強いのだろう。

「そっか。カラス天狗とも繋がりがあり、数多の不思議な者達とも交友関係にあるロックは、情鬼達からしてみれば邪魔な存在になる訳だよね。だから、ロックに宣戦布告を叩き付けた。そういうことになるのかな?」

 テルテルの言葉に、ワシは何とも言えない気持ちになった。

 仮に、ワシが風の元素と結び付きがあったとしても、ワシは本当に非力な存在だ。それに、繋がりがあると言っても遥か昔の話に過ぎない。今のワシは何も出来ない無力な存在に過ぎないというのに、敵視されても困るというものだ。困惑するワシを横目で見ながらコタが溜め息を就く。

「輝、いたずらに不安感を煽る言動は頂けないな」

「あ……。ああ、そうだよね。ロック、ごめんね」

「ワシなら大丈夫なのじゃ」

 コタは腕組みしながら、しばし考え込んでいた。恐らくは、何か適切な表現を模索しているのだろう。ワシを不安にさせないように、しかしながら、しっかりと言いたいことの伝わる言葉、表現を選んでいるのだろう。

「一つ、気になることがあってな」

 そう前置きをしてから、コタはワシに向き直って見せた。

「大地、オカルトマニア達の来訪が顕著になったのは、つい、最近になってからのことと認識しているが、どうだろうか?」

 言われてみれば、確かに、オカルトマニア達が目立つようになったのは、本当に、つい最近のことだった。それまでも、心霊スポットと称される場所には度々オカルトマニアが訪れることはあったらしいが、殆ど、誰も意識しない程度のものでしか無かった。言われてみれば、確かに可笑しな話だ。

「コタの言う通りなのじゃ」

「そうか。俺の中では、この部分がどうにも気に掛って仕方が無くてな。何か裏があるとしか考えられない」

 傍らで腕組みしながら話を聞いていたリキが、コタの話を受けて、身を乗り出した。

「でもよ、結局のところ、何が元凶なのかはハッキリ判んねぇ訳だろ?」

「まぁ、そう言われてしまうと、身も蓋も無いが、その通りだ」

「オレもロックと同じ、自営業の家系に生まれた身だから判っちまうんだけどさ、風評被害っつーのは厄介な代物でな。特に、ロックの家は旅館を経営しているからな。客足が遠退く原因になっちまうんだよな」

 確かに、その通りだ。可笑しなうわさ話ばかりが瞬く間に広がり、嵐山を訪れる人も減っているように感じられる。うちだけでは無い。近隣の旅館や駅前の商店も、客足の減少に悩まされている。放っておけば事態は悪化の一途を辿るばかりだ。そういう面でも被害は拡大してしまう。何か手を打たなければならない。

「そういうことだから、ロック、オレが嵐山に行くぜ!」

「にゃにゃにゃにゃんと! り、リキよ、わざわざお主が出るまでも無く……」

「イヤイヤ、遠慮なんか要らないぜ」

「そ、そうでは無くてじゃな……」

「ああ、ロック、皆まで言ってくれるな。なぁに、オレが立ち上がったからには、もはや事件は解決したも同然だからよ!」

 いやいや、天と地がひっくり返ってもそれは無いだろう。可能な限りの善意で捉えたところで、波乱万丈の幕開けにしか聞こえない。皆、一斉に同じことを想ったのは間違い無い。むしろ、手元にハリセンがあったら、皆一斉にどついていたことだろう。しかし、そんな皆の冷ややかな反応など気にすることなく、リキは一人、熱く盛り上がるばかりだった。

「テルテルの時はすっかり蚊帳の外だったからな。仲間外れ感一杯で、オレ、すっげー寂しかったんだぜ?」

「そ、そうか……。それは済まない事をしたな……」

(あーあー。コタも、ドン退きしておるのじゃ)

「そういう訳で、今回はオレが事件を解決へと導く! 大船に乗った気分になってくれて構わないぜ?」

(大きな泥船じゃな。うむうむ。よーく判るのじゃ)

 此処まで熱くなってしまった以上、迂闊に水を差すのはヒジョーに危険な気がした。可笑しなことを言ってへそを曲げられた日には、さらなる暴走に至ることは間違い無い。

 リキは本当に仲間想いで、熱血漢で、頼もしい奴なのではあるが……力の篭め具合を、時に激しく間違えることがある。そして、その結果は往々にしてろくでもない結果に陥る。方向性を間違えた状態でアクセルを全開にした結果、全壊に陥ることは容易に想像が出来るという物である。

「大地、そういうことらしい……」

「そ、そうじゃな……。り、リキに助っ人に入って貰えて心強いのじゃ。むしろ、一人で居るよりも不安要素が増えてしまいそうな程に……」

「んん? ロック、何か最後の方、良く聞き取れなかったけど、何か言ったか?」

「な、何にも言って居らぬのじゃ! にゃははー」

 引きつった笑みしか出て来ないワシを後目に、すっかり上機嫌になったリキの重量感たっぷりの腕が肩に回される。此処は大人しく助っ人に入って貰った方が良さそうだ。仮に事態がヤバそうな展開に陥りそうになったら、さっさとコタ達に救いを求めるとしよう。イヤ、そうする他に道は無さそうに思えた。

(むうう、実に可笑しな話なのじゃ。物凄く深刻な話だったハズなのじゃが、何時の間にか、妙にノリが軽くなって来た気がするのじゃが……?)

 こうして昼休みも終わった所でワシらは午後の授業に臨むことにした。放課後、リキが一緒に来てくれるというのであれば、その心意気を有難く頂戴するとしよう。恐らく、事態はそんなに簡単な話ではなさそうに思えたが、少なくてもワシとリキの二人だけでも相応に調査することは可能であろう。そう、前向きに考えることにした。

◆◆◆21◆◆◆

 大樹のことが気掛かりで仕方が無く、何時も以上に授業にも身が入らなかった。徒然なるままに時間の流れに身を委ねていたが、やっとのことで放課後が訪れた。ワシらは急ぎ、学校を後にした。こういう時こそ、焦ってはならないのかも知れないが、それでも、焦らずには居られなかった。

 学校を後にしたワシらは東大路通を北上し、祇園さんを目指した。祇園さん前のT字路、そこで皆と別れた。ここから先はリキと二人旅になる。

「それじゃあ、後はこの力丸様がガツンと事態を華麗に、豪快に、優雅に解決してくっからよ!」

 勢い良く声を張り上げるリキに、皆がハッキリと聞こえるように一斉に溜め息を就く。

「……果てしなく不安を掻き立てるような言動は慎んでくれないか?」

「オイ、コタ、そりゃ一体どーいう意味だ?」

「まぁまぁ、ぼく達はこっちで構えているから何かあったら遠慮無く連絡してね」

 皆と別れたワシらは嵐山を目指し夕暮れ時の四条通を歩んでいた。その前に、ワシは取り急ぎ大樹に電話を入れることにした。無いとは思うものの、何か異変に巻き込まれていないか不安で仕方が無かった。無機的な呼び出し音が何回か鳴り響いた所で、不意に大樹が電話に出た。

「あ、大樹かの?」

「ああ、兄ちゃん。大丈夫だった? 何も無かった?」

 大樹もまた、ワシの身を案じていてくれたのだろう。思考回路がそっくりなのは、やはり、兄弟だからなのだろうと改めて実感させられる。行動パターンが同じことが妙に可笑しくて、ワシらは互いに笑い合っていた。一頻り笑い合ったところで互いの状況を交換することにした。

「ワシの方は平穏無事な一日だったのじゃ。そういう、大樹の方は無事じゃったか?」

「こっちも特に何も無かったよ。家のこと気になるからまっすぐ帰るね」

「ああ、それが良いのじゃ。ワシもリキと共に嵐山に戻るでの」

「ああ、力丸君も一緒なんだ。それじゃあ、帰りは少し遅くなりそうだね」

 さすがはワシの弟。リキの行動パターンは知り尽くしているらしい。

「おいおい、何か、オレの名前が上がったけど、何の話だー?」

 電話越しにリキの声が聞こえたのか、大樹が可笑しそうに笑う声が聞こえた。

「それじゃあ、兄ちゃん、また後でね」

 どうやら大樹にも特段変わったことは起こっていない様子に思えた。先ずは一安心と言えよう。

「お待たせしたのじゃ。それでは、嵐山に向かうのじゃ」

「おうっ! 張り切って行こうぜ!」

 扱いには注意が必要ではあるものの、リキは仲間内の中では唯一ワシと同じ立場にある身でもある。家業を継ぐ者同士だからこそ判り合えることも少なく無い。だからこそ、余計に黙って見ていられなかったのだろう。付き合いの長さで行けばリキとの付き合いはコタ達よりも遥かに長い。ワシとリキが共に歩み始めたのは小学生の頃にまで遡ることになる。

「へへっ、こうしてロックと二人きりってのも、何だか新鮮な感じするよな」

「おお、言われてみればそうなのじゃ。コタ達と知り合ってからは、皆で過ごす時間も長くなったからのう」

 上機嫌に肩を組みながら歩くリキの表情を窺えば、随分と楽しそうに振舞っているように見えた。リキの飾らない直情的な性格は一緒に過ごしていて実に清々しく思える。時に、その豪快さが羨ましく思えることも少なく無かった。ともすれば、ついつい保守的な道ばかり選んでしまうワシに取っては、自らの腕一本で新天地の開拓を突き進めるリキの在り方に学ぶことも少なく無かった。

「大樹の方も、無事そうで何よりだな」

「そうじゃな。今朝の妙な体験があったから、心配で心配で居られなかったのじゃ」

 安堵した表情を見せれば、リキが歯を見せて笑った。

「ロックと大樹は仲良いもんな。兄弟って羨ましいよな」

 確かに、何時も一緒の五人の中で兄弟がいるのはワシだけなのを考えると、他の仲間達からすれば羨ましく思うこともあるのだろう。

「へへっ、でもさ、ロックと大樹って微妙にアレな感じな兄弟だよなぁ」

「あ、アレな感じとな?」

「おう。仲良過ぎてさ、時々、ちょっと妬けちゃうんだよなー」

 リキの可笑しな発言にワシは思わず顔が熱くなった。普段、あまり意識することも無いが、やはり、大樹との関係は一般的な兄弟とは明らかに異なっているのだろう。あまり人の目を気にしたりとか、他の奴らの生き方を真似たりとかするのは、ワシの価値観からは逸れるが、それでも、こうして改めて指摘されると返答に窮するものがあった。

「だからさ、何が何でも大樹のこと、守ってやらねぇとな、兄ちゃん?」

「……リキよ、グーと、チョキと、パー、どれで殴られたいかの?」

「じょ、冗談だって! そんなに怒るなよ」

 リキとの関係も半ば兄弟のような関係だ。どちらが兄で、どちらが弟とかでは無く、対等な立場にある双子のような関係だと感じていた。それは出会った当初から今に至るまで変わることの無い事実だから。

「へへっ。なぁ、ロック……」

「何か腹減らねぇ、じゃろ?」

 やれやれ……大樹の言った通り、余計な寄り道が増えそうな気がする。とは言え、これでもリキなりにワシを気遣ってくれているのだろうから、その心意気は有難く頂くとしよう。そんなことを考えながら四条通を歩んでいると、不意に、頭の後ろで手を組みながらリキがぽつりと話を切り出した。

「能面騒動、謎の凍死事件、神隠しと来た次は、幽霊騒ぎとはねぇ。何だか、次から次へと可笑しなことばかり起こるよな」

「そうじゃのう。それに、不可解な話なのじゃ。小倉池も、清滝トンネルも、化野念仏寺も、古くから心霊スポットとしては有名な場所だったのじゃが、それが、何故、此処にきて急に盛り上がり出したのかも気になる所なのじゃ」

「おー、言われてみればそうだよな。突然話題になるような出来事があった訳でも無いのに、確かにヘンな話だよな」

 コタの言葉では無いが誰かが仕組んだという考え方も出来る気がしてならなかった。敢えて鎮まっていた風葬地を掻き乱し、騒ぎを起こした張本人がいる。そんな考え方もあるのでは無いかと考えていた。

「なるほど。そういう可能性もあるって訳だよな」

「うむ。もっとも、そんなことをして一体何の得があるのかワシにはサッパリじゃがのう」

 リキと二人、徒然に語らいながらワシらは四条通を歩き続けていた。夕暮れの四条通は活気に満ちあふれていて、引っ切り無しに人々が往来してゆく。

 丁度、ワシらは花見小路前を通り過ぎた所であったが、夜になればこの界隈には飲食店も多い。少々気の利いた酒飲場で一時を過ごそうと考える者達も少なくないだろう。リキと共に小粋な酒飲場を訪れる。後数年もすれば叶えられる願いだ。その時にはリキだけでは無く皆も連れて派手に騒ぐとしよう。そんなことを考えながら、ワシらは通りを行き交う大勢の人々とすれ違った。

 そろそろ一銭洋食の店に近付いてくる。ワシらは信号を渡り向かい側へと移動した。夕暮れ時の街中でも、やはり異彩を放つ店構えは実に個性的だ。四条通からすぐの場所に店を構え、でかでかと「壱銭洋食」と目立つ看板が目に留まる。犬にパンツを噛まれ、お尻どころか、前まで丸出しになった姿を晒している、何とも間の抜けた少年の人形が軒先に鎮座している構図は実に前衛的カオスな色合いを醸し出している。「ロックも食うだろ?」とリキが問い掛ける。もっとも、問い掛けるまでも無く、シレっと買ってくるクセに可笑しなことを問うものだ。そんなことを考えながら、しばし、一銭洋食の店の軒先で待ち侘びることにした。

 軒先では店員達が忙しく一銭洋食を焼く姿が見受けられた。修学旅行生なのだろうか? 若い女子学生達が楽しげに軒先のシャメを撮り続けていた。外観もインパクト大だが、店内に入れば、ますます凶悪な世界観が広がる。昭和レトロの風情を醸し出す店内には下ネタ全開の絵馬が飾られている。客で賑わっているのかと思えば、実はマネキン人形だったりと中々に凝った仕掛けが待ち構えている。初めてコタ達と共に訪れた際には、その強烈過ぎる光景に圧倒されたが、今ではすっかり、ワシらの行き付けの店と化している。

 実際、一銭洋食は実に美味い食い物だ。もはや、今となっては違和感すら感じなくなっている自分がいる。何とも言えない世界観ではあるが、昭和レトロな風合いを称える店内はワシの好みに合う。それにしても、この店は何時訪れても活気にあふれている。その風変りな店構えも手伝って人気のある店なのだろう。ちょっとした観光地と化しているのも頷ける。

 程なくして満面の笑みを浮かべたままリキが戻って来た。妙に大きな袋に自ずと目線を奪われるのは気のせいだろうか。

「お持ち帰りを選ぶ辺り、それなりに気遣いは出来るようになったのう。良い成長ぶりなのじゃ」

 笑いながらツッコミを入れれば、いきなり腹を鷲掴みされた。

「ロックの腹も、良い成長ぶりなのじゃーってか?」

「……お乳も成長した方が好みかの?」

 ワシの切り返しがツボに入ったのか、飲み物を口に含んだリキが派手にむせた。

(ふふふ、まだまだ修行が足りんのじゃ)

「な、なんつー切り返しをしやがる。面白過ぎて、思わずむせちまったじゃねぇかよ。ああ、危ねぇ、危ねぇ。うっかり、あっちの世界に逝っちまう所だったぜ」

 こうしてリキと二人で歩む街並みというのも悪く無いものだ。焼き立ての一銭洋食をハフハフしながらワシらは暮れ往く夕陽に目を細めていた。

(それにしても、賑わう四条通を歩きながら一銭洋食を食べるとは……すれ違う人々の視線が痛いのじゃ)

「ふぅっ、先ずは一個目完食っと」

「……リキよ、お主一体、何個買って来たのじゃ?」

「ん? ロックの分を二つと、オレの分を三つだけど?」

(わ、ワシも二つ食べる予定だったのじゃな……)

 さらりと切り返されると何も言い返せなくなってしまう。まぁ、仮にワシが食えなかったとしてもリキのことだ。美味しく頂いてしまうことなのだろう。それにしても……これだけ豪快に食っているのにも関わらず、体型を維持しているのは凄いことだと思う。それどころか、日々、腕や胸、足と言ったパーツだけを上手い具合に成長させているのがリキの本当に凄い所なのだと感心させられる。

「おー? 何だよ、ロック。オレの体に興味深々ってか?」

「……微妙な含みのある言い方なのじゃ」

 わざわざ妙なポーズを取りながら肉体を強調する辺りからしても、妙な意図を汲み取らずには居られなかったが、ここで妙なツッコミを入れれば、ますます調子に乗ることだろう。

「まぁ、日々の修練の賜物って奴だよな。筋トレ止めてこの食事量だと一気に要らない肉が付いちまうからな。気を付けないといけねぇよな」

 こうしてリキと並んで歩くと何とも不思議な絵になる。リキは背が高いから一緒に並ぶとワシの背の低さが殊更に強調されてしまうのが何とも哀しくなる。普通に大柄な体付きのリキと、横方向に肉厚なワシが並ぶと中々に威圧感のある絵になるらしく、通行人達が無言で道を空けてくれるのが何とも複雑な気分になる。そんなワシの悩ましい想いなど知ってか知らずか、相変わらずリキは上機嫌に振舞うばかりであった。何事にも動じない不動の精神には憧れさえ抱くというものだ。もっともリキ程に図太くなりたくなかったが。

「やっぱり、夕暮れ時だと賑やかになるよな」

「そうじゃな」

 ワシらは丁度南座の前を通り過ぎようとしていた。夜の南座は明かりを灯し、さながら不夜城のような重厚感ある佇まいを称える。そこに居るだけで圧倒的な存在感を放っている。そういえば、昨日は雨に濡れながら四条大橋を駆け抜けたっけな。そんなことを考えていた。

 暮れゆく夕日に照らし出されて茜色に染め上がる祇園の街並みは、言葉に出来ない物悲しさに満ちあふれている気がして、どこか、親しみにも似た感覚を覚えた。

(夕暮れ時の街並みの寂しさ……今のワシの気持ちに寄り添ってくれているような気がするのじゃ)

 引っ切り無しに往来する車の流れと人の流れを見届けながら、ワシらは信号が変わるのを待っていた。今日は昨日と違って雨に濡れる心配も無い。四条大橋を全力疾走しなくても済む。そんなことを考えていると不意に信号が赤から青に変わった。

「ロック、行こうぜ」というリキの声に頷きながらワシは歩き出した。歩き出しついでに、ワシは四条大橋から鴨川を見下ろした。下手に目線を投げ掛けてみれば、視界の先には五条大橋が見える。流れゆく鴨川の心地良い音色を感じながら、ふと、振り返れば、今度は勇壮なる鞍馬山が視界に飛び込んでくる。

 夕日を浴びて目に映る物は皆、鮮やかな茜色に染め上げられていた。

 先斗町に軒を連ねる店はこの時期になると鴨川に川床を出す。とは言っても貴船の川床のように風情あふれる光景とは程遠い、砕けた言い方をすれば和製ビアガーデンといった所だろうか。酒を片手に賑わう人々の歓声を聞きながらワシらは四条大橋を抜けようとしていた。

「丁度、先斗町も賑わい出す時間帯だよな」

「そうじゃな」

「この間さ、ほら、ロックがテルテルと一緒に嵐山に向かった日にさ、コタ達と一緒に先斗町を歩いたんだよ」

「何と! お主ら、その年で先斗町に飲みに行くとは、オトナなのじゃ!」

「コラコラ、ちょっと待ちやがれ。誰が飲みに行ったって言ったよ?」

 リキは既に二つ目の一銭洋食を食べ終えて三つ目に取り掛かろうとしていた。掻く言うワシも、ちゃっかり二つ目を美味しく頂いている真っ最中であった。ふと、リキの顔を覗き込んだワシは思わず吹き出しそうになった。夕日に照らし出された男前な横顔……というには、余りにも間の抜けた横顔だった。勢い良く一銭洋食を口に運んだお陰で、口の周りがソース塗れになっていた。

「リキよ……口の周りがソース塗れなのじゃ」

 吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、ワシはリキの腕を突いて見せた。

「うぉっ!? マジか!?」

 ワシの言葉に驚いたのか、リキは慌ててハンカチを取り出すと、豪快に口の回りをゴシゴシ拭い始めた。

「今、ワンコに遭遇したら、口の周りを念入りにペロペロされることじゃな」

「うへー。オレは、ロックと違って、そーいうマニアックなプレイはちょっと遠慮願うかな」

「それでは、ワシがマニアックなプレイ好きみたいに聞こえるのじゃ」

 ワシの切り返しに一瞬間を空けてから、リキが苦笑いを浮かべながら立ち止まる。

「わはは。そろそろ暗くなってきたとは言え、ペロペロだの、マニアックなプレイだの、シモトーク全開ってどうなんだよ?」

「仕掛けて来たのはお主なのじゃー」

 頭の悪いやり取りを交わしながら二人で歩んでいると、色々と不安な気持ちも薄れてゆくような気がした。もちろん、忘れた訳でも無ければ目を背けている訳でも無い。ただ、リキと一緒にいると不思議と不安な気持ちが薄らいでゆく。

 リキは普段から身振り手振りがやたらと大袈裟な一面がある。恐らく、本人はあまり意識していないのであろうが、仰々しい振舞いに、熱の篭った口調で語り掛けられると段々気分が高揚してくる。テルテルとはまた一風違った元気を分けて貰えるのが何とも心地良い。

 さすがに物を食べながら電車に乗り込むのは少々気が退けたワシらは、河原町駅前の高瀬川の前で一旦立ち止まっていた。サラサラと静かな流れを称える高瀬川の穏やかな流れと、行き交う人々の流れを見ながら、ワシらはしばしの時を過ごしていた。

 今の季節、河原に植えられた桜の木々は活き活きとした新緑の葉に彩られるが、春先にはこの界隈は、桜の花が咲き誇り見事な景色を醸し出す。もっとも、河原町の駅前は季節問わず、賑わいを見せる。およそ風情という言葉からは程遠い人々の姿ばかりが目に留まるが、その賑やかさも楽しげで嫌いでは無い。

「最近は、外国からの観光客も増えたよなー」

「そうじゃな。ここに佇んでいると、中々に多国籍な光景に圧倒されるのじゃ」

 夕暮れ時とは言え、相変わらずジットリと纏わり付くような空気が変わることは無かった。こうしてジッとしているだけでも汗が滲んでくる。

「うしっ! 腹もそれなりに満たされた所で、本格的な大冒険に挑もうぜ!」

(そ、それなりとは……。ううむ、お主の胃袋はどれだけの許容量を誇るのじゃ)

 恐るべし胃袋なり。そんなことを考えながらも、ワシらは河原町の駅から列車に乗り込み大宮駅を目指すことにした。四条大宮まで大した距離も無いので、頑張って歩いても良かったのではあるが、夕暮れ時の四条通は本当に混雑する。ただでさえ図体のデカイ男子が二人では歩き難くて仕方が無かった。それに、夕暮れ時とは言え、外は途方も無く蒸し暑い。少しでも涼を求めたくなるのは人の常という物であろう。何よりも、四条通も河原町周辺に至れば、高島屋を始めとする気品あふれる店が立ち並ぶ。都会的な風情漂う街並みを、汗臭さばら撒く図体でかい男子二人が歩むという構図は、自分で言うのも可笑しな話ではあるが、その洗練された景観を完膚なきまでに台無しにしているとしか思えなかった。

(身の程は弁えておるでのう)

 ワシらは駅へと続く階段を下りていた。ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、神妙な面持ちで胸元を広げて匂いを確認しているリキの姿に、ツッコミを入れたい気持ちと、妙に共感を覚える気持ちとが入り乱れ、何とも言えない生温かい気持ちで一杯になった。

「うはーっ! オレ、すっげー汗クセぇんだけど!」

「お、大きな声で叫ぶで無い……」

「わはは! こんだけ暑いと、どーしようもねぇよな。それにさ、コタの親父も言ってくれたからな」

「今度は何の話なのじゃ?」

「へへっ、ちょっと位汗臭い方が男らしいっつー話さ」

「意味がワカランのじゃ……」

 やはり、ツッコミ所満載な気がした。そんなことを思いつつも、ワシも思わずクンクンしてしまった。

(ううむ、ワシも胸元から相当に香ばしい匂いを放っておるのじゃ……)

 複雑な心境になりながらも、ワシらは河原町駅から大宮駅まで列車で移動した。僅かな時間ではあったが、空調の良く利いた環境下で多少生き返った気がした。

 無事に大宮駅まで到達したワシらは再び地上に出ると、そのまま四条大宮嵐電に乗り換えた。後はこのまま嵐山まで向かうばかりとなった。

「うしっ! 後は嵐山まで一本道だな。気合い入るぜー!」

 言葉そのままに、気合いの入った振舞いを見せながらリキが声を張り上げる。行き交う人々が小声で失笑するのが聞こえ、ワシは恥ずかしくて仕方が無かった。

「き、気合いが入るのは良いのじゃが、お主は無駄に声がデカいのじゃ……」

 リキと一緒にいるのは本当に楽しいのだが、人目を全く気にせずに我が道を歩む姿勢は慎んで欲しい気がする。どうも、一緒にいると周囲の視線が痛くて仕方が無い。もっとも、リキ本人は周囲の視線などお構い無しな様子であった。その図太さが時々羨ましく思えるような、あまり羨ましくないような、何とも複雑な気持ちにさせられる。ただ、そんなリキの豪快過ぎる一面が好きだという気持ちに偽りは無い。さて、少々時間を要してしまったが、急ぎ嵐山に戻るとしよう。

◆◆◆22◆◆◆

 大地、力丸コンビを見送った所で俺達は別行動に移ることにした。力丸を信用していない訳では無いが、カラス天狗の力無くして立ち向かえる相手で無いことは間違いない。既にクロと共にある程度の情報は収集済みであるが、やはり、情鬼が絡んでいると考えて間違い無い。そういった裏事情もあり、俺達三人で今後の対応策を講じることにした。とは言え、現地で直接行動を起こしている訳では無い以上、やれることにも限界はある。

 大地の帰宅ルートから察するに、このまま四条通を河原町方面に向けて直進してゆくことになる筈だ。後を追うような動きになれば力丸の心意気を無碍にすることに成り兼ねない。

(何よりも、迂闊に機嫌を損ねると、傷口を広げることになるからな……)

 道中、迂闊に遭遇しないよう俺達は大きく迂回することにした。即ち、このまま東大路通を北上し、知恩院の参道の向かい側から新橋通に入る。そのまま巽橋周辺を抜けて、大きく迂回しながら四条大橋を抜ける。そのまま錦市場周辺へと抜けようと考えていた。何故、錦市場に向かうことにしたのかに関しては深い理由は無い。ただ、どうにも薄暗い事案であることを考えれば、少しでも活気あふれる明るい場所に身を置きたかった。ただ、それだけのことだ。気持ちまで湿気てしまっては為し遂げられる事案も失敗に終わってしまう。それは何としても避けたかった。

「ロック達だけで大丈夫かなー?」

 輝の間延びした声が、俺達の間に立ち篭めていた沈黙を打ち破った。

「期待薄だろうな」

「うわっ、太助ってば、微塵の間も持たすことなくバッサリ言っちゃうねぇー」

 妙に大仰な輝の反応に、眉をひそめながら太助が返す。

「勘違いするな。俺は力丸が役に立たないと言っている訳では無い」

「否、直球ストレートで、力丸が役に立たないと言っているようにしか聞こえないな」

「気持ちは判るけどさー、存在自体全否定しちゃ可哀想だよー」

「……何故、そういう解釈になる?」

 眉間にシワを深く刻む太助の表情に、俺達は思わず顔を見合わせて吹き出した。だが、背後から静かに放たれる必殺の殺気に、太助の本気を見出した俺達は慌てて謝罪した。

「いずれにしても、カラス天狗の力無しでは情鬼に太刀打ちできない。そういう話なのだろう?」

 太助の鋭さは賢一さん譲りなのだろうか? カラス天狗と情鬼の関係を説明するまでも無く、双方の関係性を的確に見抜いていることに俺は驚かされた。もっとも、此処まで鋭く理解して貰えると説明を大幅に省くことが出来て、こちらとしても話を進めやすいというものだ。

「小太郎、今回の騒動に関して気になる点があってな」

「気になる点だと? 興味深いな。それで、どの辺りに疑問を抱いた?」

「唐突に賑わい出したオカルトマニアの存在に違和感を覚えた」

「ああ、俺が話した内容か?」

 話の内容がうやむやになってしまい、違和感を覚えたという部分まで話した所で立ち消えになってしまった。とは言え、やはり、太助も俺と同様に違和感を覚えていたのだろう。

「俺も同じ部分に違和感を覚えてな」

 前を向いたまま歩きながら、静かに続けて見せた。

「唐突に出始めたオカルトマニア達……それに、嵐山がかつて風葬地であったという事実。重なり合うような気がしてならなくてな」

 これは意外な切り口から攻めてきたものだ。古き時代から続く歴史を紐解く。そういう考え方もある訳か。俺は太助の考え方に興味を惹かれた。ただ違和感を覚えただけの俺とは違い、やはり、土台となる知識の裏付けがある太助の見解には興味惹かれる。俺達がどのような反応を示すかを見届けようとしている太助に、俺は「続けてくれ」と声を掛けた。

「多くの人々は嵐山が風葬地であったという史実を知らない。風光明美な情景の中に、禍々しい歴史があったとはそうそう考えが及ばないものだと考える。だが、今回の騒動は敢えて心霊騒動を巻き起こし、多くのオカルトマニア達の命を奪っている。そうすることで、薄暗い『死』の世界を匂わせている。まるで、人々の記憶から失われた歴史を、作為的に掘り起こそうとしているように思えないだろうか?」

 淡々と語られた言葉ではあったが、その言葉に俺達は戦慄すら覚えた。何故、失われた歴史を敢えて掘り起こそうとしているのかは定かでは無かったが、嵐山がかつては風葬地であったという史実を持ち、ここに来て、唐突にオカルトマニア達が集うようになった。挙句の果てには、次々とオカルトマニア達が変死を遂げている。繋がらない訳が無かった。

 だが、そうなってくると、また新たな疑問が浮上してくる。俺が疑問を抱くことすら予測していたのか、太助は不敵な笑みを浮かべながら俺をジッと覗き込んでいた。次にお前が口にする言葉は予測済みだと言わんばかりの表情を称えたまま、静かに薄ら笑いを浮かべて見せた。出鼻を挫かれた気がしたが、それでも、この疑問は皆にも共有して貰う必要がある。俺は静かに呼吸を整えながら、二人に向き直った。

「何故、大地が狙われなければならないか? 次に疑問を抱くのは、この部分だ」

「あー、確かにそうだよね。ロックはオカルトマニアじゃないものね」

 流石の太助も、この部分に関しては判らなそうだ。静かに目を伏せ、何も判らないと言いたげな表情で意思表示をしているように見えた。

「不可解な話だ。だが、必ず、何処かに大地と一連の騒動を繋げる要素があるはずだ」

「ああ、そうだな。無関係では無いからこそ、大地が巻き込まれている筈だからな」

 だが、一体、どの部分と関わりがあるのだろうか? 少なくても、大地と知り合ってから、今に至るまでの間、共に過ごす時間も少なく無かったが、大地は自他共に認めるお人好しだ。誰かの恨みを買うようなことをするとは、とても考えられなかった。

「……イヤ、悪意だけが人の恨みに繋がるとは限らないぞ?」

 唐突に太助に言葉を掛けられて、俺は思わずその場に硬直してしまった。またしても、心の声をうっかり口にしてしまったか? 否、そんな訳は無い。それでは何故、太助は俺の考えていることが判った?

「まぁ、以心伝心というヤツだな」

「それじゃあ、どういう行動が恨みを買っちゃうのかな?」

 輝は太助の話に興味を示したらしい。相変わらず、一つのことに目を奪われると、他のことに一切の注意が払われなくなる。太助が何故、俺が考えていることを読み当てたのかに関しては、何の疑問も抱いていない様子だった。

「悪意無き善意――良かれと思って取った行動が裏目に出る。そういう経験、一度くらいはあるだろう?」

「あー、何か、ありそうだよねぇ。ロックってば、人当たり良いけど、誰にでも優しくしちゃうからねー。えへへ、顔に似合わず光源氏状態だよねー」

 輝の発言が可笑しかったのか、太助は静かに笑っていた。顔に似合わずとは……中々に辛辣な言葉を口にするものだ。輝もまた、無意識のうちに、人の恨みを買いそうな気がするのは俺だけだろうか?

「確かに、大地は誰が相手でも、分け隔てなく気前の良い振舞いを見せてくれるからな」

 そう言いながらも、何か思い浮かんだのか? ふと、足を止めると、輝に向き直って見せた。

「輝、死者に好かれるのは、どういった人物像だろうか?」

 またしても、いきなりの変化球で来るものだ。予想もしない問い掛けに輝は驚いたような表情を浮かべていた。とは言え、太助が問い掛ける内容だ。少なからず、一連の騒動を紐解く上で意味を為すと判断したのだろう。何時に無く真剣な表情で考えているように見えた。

「うーん、そうだねぇ……。話を聞いてくれそうな人とか、共感してくれる人とか、無視しない人とか。ああ、他には、人が良さそうだったり、頼みごとをしても嫌がらない人かな」

 そう、言いながら輝は可笑しそうに笑い出した。

「えへへ、ロックの場合、全部の条件に当て嵌まっちゃうよね」

「なるほど……。つまり、お人好しの大地は、生者だけでは無く、死者からも好かれるということになるな」

 したり顔で笑みを浮かべる太助の言葉に驚いたのか、輝は目を丸くしていた。

「えー!? それじゃあ、ロックは、死者達に狙われちゃっているってこと!?」

「太助、いたずらに不安感を煽る言動は頂けないな」

 と、口にした物の、何処かで似たような状況を体験したかのような、妙な既視感を覚えていた。その証拠に太助と輝は顔を見合わせてクスクス笑っていた。何とも居た堪れない気持ちで一杯になった。

「そう、眉をひそめるな」

「……お前が言うか?」

「悪かった。だから、そう、機嫌を損ねるな」

「アレ? 何だか、賑やかになってきたねぇ」

「知らぬ間に、随分と歩いてきたものだな」

 話し込んでいるうちに俺達は巽橋周辺まで訪れていた。日が暮れればこの界隈は酔客達で賑わいを見せ始める。周囲からは楽しげな人々の笑い声が響き渡っていた。

「平和なものだな」

 時折混じる琴や三味線の音色を背に受けながら、太助が皮肉交じりに冷笑して見せる。

「仕方が無いさ。俺達以外に情鬼の存在を知る者は存在していないのだから」

「だが、知らぬというのはそれだけでも罪となる」

 溜め息混じりに太助は周囲の店から毀れる、仄かな明かりを見回して見せた。

「まぁ、何も知らない連中は、何も知らないまま滅びてゆけば良いだけのことか」

「ふふ、相変わらずお前は非情な奴だな」

「褒め言葉だ」

 相変わらず太助は良い性格をしている。ここまで潔く嫌な奴を演じ切れるならば恨みを買うことも無いだろう。それにしても、こうして徒然なるままに議論を交わすのは中々楽しいことだ。だが、それでは解決の糸口には繋がらない。話題が在らぬ方向に分散しないよう、俺は今後の策を講じることにした。

「さて、判っている情報が少ない以上、憶測で動かざるを得ない部分が殆どだが、判っている情報を土台にして考えるとしよう」

 俺達は夜半の白川通りを歩みながら策を講じていた。この界隈は夜になると京都らしさがそこかしこから匂い立つ場所になる。何も無ければ、こうして歩き回るだけでも中々に風情ある情景を堪能出来ることが出来る。地元に暮らす俺達に取っても、この場所はどこか憧れを抱く場所でもあった。酒を飲める年になったら一度は皆で訪れてみたい場所だ。未来に想いを馳せる……そのためにも、今、起こっている事態を解決しなければならない。

「既に大地は昨日から異変に直面している。敵は早々と行動を起こしているということになるな」

 俺の言葉に輝が頷く。

「敵が何を狙っているのか、ぼくには見当もつかないけれど、ロックが狙われているのは間違い無いよね」

「その状況下に力丸と大地が飛び込む形になる訳か……。少々無謀だったか?」

「だが、最初からカラス天狗を集めて一気に奇襲をし掛けた所で、敵の足取りすら捉えられていない以上、事態が好転することは無かっただろう?」

「嫌な状況だよね。結局、ぼく達には何も出来ることは無いってことなのかな?」

 はっきり言ってしまえば輝の言う通りなのかも知れない。此処であれこれ議論した所で解決策に繋がるとは言い難い物があった。ただ、少なくても判っている範囲内だけでも情報を整理しておかなければ、本当に手も足も出なくなってしまう。それは避けたかった。

「天狗に愛されし、純粋なる風の子……だったな?」

「ああ、大地が投げ掛けられた言葉のことか?」

「そうだ。他力本願な言い方になってしまうが、少なからず大地に手を差し伸べようとしているカラス天狗がいるのだろう?」

 そうだ。大地が昔に出会ったと示唆していたカラス天狗の存在が在る筈だ。不確かな記憶ではあるが、クロとは遠い昔から関わりを持っていたように記憶している。もしも、大地との間に関わりがあるとすれば、そのカラス天狗こそが今回の事案を解決する上での大きな力となるのは間違いない。

「それにさ、今日の朝、学校で起こった出来事、覚えている?」

「ああ、唐突に響き渡った笛の音と、舞い込んできた木の葉のことだろう?」

「うん。少なくても、あれは情鬼の仕業なんかじゃ無かったよ。判るんだ。確かに木々の香りを感じたからね」

 憎悪の能面師と対決した時と似た状況に陥ろうとしている。あの時のクロと同じように、大地と共に歩まんと欲するカラス天狗が接触の機会を窺っている。そんな気がしてならなかった。語らう俺達を静かに見据えながら太助が腕組みしてみせる。

「これは、嵐山に赴いた力丸の活躍に期待を托すというのが、妥当な策になるかも知れないな」

「ああ。力丸が一緒だからな。少なくても、大地一人では為しとげられなくても、力丸が手を貸してくれるだろう」

 俺の言葉を受け止めながら、太助は満足そうに頷いて見せた。

「今は二人を信じるとしよう。それに、ここでこうして話し込んでいても解決の糸口に至ることは無いのだろう?」

 涼やかな笑顔で言い放ってくれる太助に、俺は溜め息混じりの苦笑いで応えた。

「身も蓋も無い言い方だが、確かに、その通りだ」

「それならば、小太郎、輝、二人は大地から連絡が入り次第、すぐにでも嵐山に向かえるように身構えて居てくれ」

「お前はどうするつもりだ?」

「賢兄に予め連絡は入れて置いた。こっちは、こっちで嵐山に向かう準備を整えるさ」

 確かに、こうして話し込んでいても机上の空論に過ぎない。何の意味も為さないのは事実だ。それならば、一度、家に戻り、来るべき事態に備える方が遥かに意味も価値もある筈だ。

「輝、一旦家に戻るぞ」

「え? ああ、うん。判ったよ」

「太助、お前もくれぐれも無理をするなよ?」

「俺のことは心配無用だ。むしろ、無理をするのは賢兄だからな」

 策と呼ぶには随分と他力本願な要素に満ちあふれているが、それでも、俺達は次に為すべきことを見出すことが出来た。後はそれぞれの部隊の立ち振舞いに全てが托されている。無論、俺達もその一端を担っている以上、全力で挑まなければならない。それに、現時点でカラス天狗と手を組み、情鬼と戦う力を持っているのは俺以外にいない。そう考えると別行動に出ているクロと早急に合流する必要があるだろう。もっとも、今、クロが何処で何をしているのか、俺には知る由も無い。大地から救援の要請が入る前に合流したい所ではあるが……。どうにも、不確定要素の多い策となってしまったことに不安が残るが、この状況下では如何ともし難かった。さて、後は来るべき時に備え、可能な限りの準備に勢力を注ぐことにしよう。俺達は太助と別れ、一度家に戻ることにした。

◆◆◆23◆◆◆

 嵐電に乗り込んだワシらは街中をゆるりと走り抜ける列車に揺られていた。だが、どうやら異変は既に起こり始めているらしい。乗り込んだ時から既に列車の中は異様な空気に包まれていた。空調が利いているというにしてはあまりにも異質な肌寒さを覚えた。それに……明かりが点いているにしては妙に薄暗く感じられて仕方が無かった。ガタンガタン、ガタンガタン。ワシらは言葉無く、ただ静かに列車に揺られていた。リキもすぐに異変に気付いた様子で、険しい表情を称えたまま列車の中を見渡していた。

「何かさ、イヤーな雰囲気が漂っているよな」

「うむ。それに、またしても誰も乗っていないのじゃ」

 車内には言葉に出来ない嫌な雰囲気が漂っていた。窓の外を過ぎ去ってゆく景色もまた微かに霧が掛ったように見えて気味が悪く感じられた。昨日と同じような状況に陥っている……そう考えると震えが止まらなくなった。

「大丈夫か、ロック?」

「ワシなら大丈夫なのじゃ」

「なんつーのかな? 可笑しな表現だけどさ、この世にあってこの世ならざる空気が漂っているよな。ほら、皆で能面騒動の時に鞍馬に行っただろ? あの時の嫌な雰囲気と似ている気がするんだよな」

 嵐山へと近付いている。それは言い換えれば異変の起きている中心地へと接近していることと同義であり、不可解な異変が起こり始めても不思議では無いと言える。

「風葬地か……」

 不意に、リキがぽつりと呟いて見せた。

「浮かばれねぇよな。誰にも看取られることもなく野晒しにされてさ、無縁仏として処理されちまうなんてな。逢いたかった奴らも居たかも知れねぇしさ、思い残したことだってあったと思うんだよな」

「そうじゃな……」

「そんな場所を憐れに想い、必死で救ってやろうとした坊さん達がいた訳か」

 頭の後ろで腕を組みながらリキは席に深々と腰を沈めて見せた。ワシは窓の外を流れゆく景色を見つめながら返した。

「うむ。それに、墓所とは言い換えれば寝床でもあるからのう。やっと、苦しみから解き放たれ、眠りに就くことが出来たというのに馬鹿騒ぎされたのでは、そりゃあ怒りもするのじゃ」

 同じ「人」でありながらも僅かな差で立場は変わる。肉体を失った死者達を、肉体を持つ生者達が畏れ戦き、忌み嫌う。それどころかわざわざ異界なる地に大挙して押し寄せては、化け物扱いして騒ぎ立てられる。

 ワシも同じような境遇に置かれておったからこそ良く判る。年寄り染みた言葉使いをしているというだけで、何ら悪いことをした訳でも無いのに疎外される。それも、同じ世界を生き、同じ場所に同席している者達に。それが、どれだけ哀しく、悔しく、何よりも……激しい憎悪を抱くものかはワシには痛い程判ってしまった。

「気持ち、判るのじゃ。痛い程にのう……」

 ワシの言葉に、想いに気付いたのか、リキがそっとワシの肩に腕を回してくれた。リキの腕の重みと熱気をワシは肌でヒシヒシと感じていた。

「昔のこと、思い出していたのか?」

 ワシは静かに頷いて見せた。リキは大きな溜め息を就きながら、椅子に深く腰掛けて見せた。

「少し風変りな言葉使いをしているってだけで、可笑しな奴扱いして、仲間外れにして。ホント、人という生き物はくだらねぇよな。つまらねぇことに執着して、そのクセ、本当に大事なことからも目を背けちまう。ロックはこんなにも良い奴なのに、てめぇから身を引いちまうたぁ馬鹿な奴らだよな」

 リキは憮然とした表情で言い放った後で、にやりと笑いながらワシの表情を覗き込んだ。

「まっ、そんな馬鹿な連中はこっちから願い下げだっつー話だよな」

「ワシはお主のように、心ある者と出会えて本当に幸せなのじゃ」

 真顔で返して見せれば、少々照れ臭かったのか、リキは頬を掻きながら慌てて明後日の方向に向き直って見せた。そんなリキの振舞いが可笑しくてワシは笑った。

 笑いついでに列車の外に目線を投げ掛ければ、沈みゆく夕陽に照らし出された人々の暮らしが目に留まる。ガタンガタン、ガタンガタン。人気の無い列車は、尚も夕日に照らし出された街中を、人々の暮らしの中を走り続けてゆく。照れ臭そうに黙り込むリキを横目に見つつ、ワシは窓の外を走り去ってゆく情景を見つめていた。

 昨日もこの場所を通った。一昨日も、その前も、ずっと、ずっと……。では、昨日観た景色はどうだっただろうか? 一昨日は? 考えれば考える程に思い出せなくなる。必死で思い出そうとするが、白く染め上がってゆくばかりで、何も見えなくなる。『忘却』……。そこに途方も無い恐怖感を覚えていた。

 今、目にしている情景も白く、ただ白く染め上がってゆくのだろうか? ワシの隣に座っているリキも白く染め上がり忘却されてゆくのだろうか? 大樹が、コタが、テルテルが、太助が、ワシの記憶から忘却されてゆくのだろうか? 嵐山の街並みが、ワシの生まれ育った街並みが、思い出が、何もかもが音も無く白く、白く染め上がって、そして……何事も無かったように忘却される。後には何も残らない。当然、思い出すことも出来なくなる。そんなの嫌だ!

「そんなの嫌じゃ!」

「うぉっ!? い、いきなり、どうした? お、オレが照れているの、そんなに嫌だったか?」

「あ、い、イヤ……そうでは無いのじゃ。ただ……」

「ただ?」

 言葉、出て来なかった。今、この瞬間まで、ワシは一体何に怯えていたのだろうか? 何に不安感を抱き、何に恐怖していたのだろうか? 必死で手繰り寄せようとするが、やはり、白く、ただ白く染め上がった情景しか見えて来なかった。いよいよワシの恐怖も限界に達しようとしていた。それでも打つべき手は何一つ無い。せめて、共に歩んでくれるリキを不安にさせないようにしなければ。家族なのに、またしてもワシは妙な気遣いをしている。嫌だ、嫌だと思っても直せないクセ。これからワシはどうなってしまうのだろうか? そんなことを呆然と考えていた。

 程なくして、ワシらは帷子の辻に到着しようとしていた。帷子の辻は二手に分かれて市内を駆け抜ける嵐電の合流地点となっている駅となる。そのためだろうか? 他の駅と比べると、やはり、大きな造りになっている。今度こそ、この駅で誰か乗ってくるだろうか? 淡い期待を胸に抱いていた。異様な世界では無いのだと示して欲しかった。

「おお? 徒然なるままに話し込んでいるうちに、帷子の辻まで着いちまったな」

「ふむ。合流駅じゃからの。今度こそ人が乗ってくると良いのじゃが」

 昨日、家路に向かうために通った道。今朝、大樹と共に通った道。そんなことを考えながらリキと並んで座っていた。相変わらずリキは親しげにワシの肩に腕を回したままだった。

「帷子の辻かぁ……」

「む? どうしたのじゃ?」

「ああ、イヤな、前に太助と話していた時に、何かのタイミングで聞かせて貰ったんだよな」

 そう言いながらリキは窓から覗く駅の情景を静かに見回していた。

「この場所、帷子の辻も曰くのある土地らしくてな」

 何か異様な気配を察しているのか、リキは妙に周囲を気にしながら話を続けて見せた。

「此処、帷子の辻は古くは風葬地たる化野への玄関口だったらしくてな。言うなればこの世とあの世の境界線みたいな場所だったらしいんだよな」

「ふむ。今でこそ嵐山は随分と賑わう街になったが、古き時代は今の街並みとは大きく事なったのかも知れんのじゃな」

 自分で言いながら、古き時代という言葉に何かを見出せそうな気がした。だけど……やはり、無駄な足掻きでしか無かった。焦っても無駄ということか。それならば、流れに身を委ねるしか道は残されていない。抗うことは無駄ということなのかも知れない。そんなワシを後目にリキは、上機嫌に話を続けて見せた。少しでもワシを元気付けようと、努めて明るく振舞ってくれる心意気が、素直に嬉しかった。何よりも温かかった。

「これもさ、太助の受け売りなんだけどさ、『野』という字を含む地名っつーのは元々は何にも無かった場所らしいんだわ。ほら? この『野』って字は野原の『野』を指し示すらしいんだよな」

「ほうほう。風葬地と言う薄暗い場所なぞ、華やかな都からは遠ざけてしまいたかった訳なのじゃろうな」

「まぁ、そうだろうな。臭いモノには蓋をするっつー考え方だよな」

 ワシの言葉に頷きながら、リキは吐き捨てるように続けて見せた。

「昔は今のように医療も充実していなかっただろうし、衛生管理的な面でも、昔の京都は死臭漂う死の街と化していたらしいからな」

 嫌な物、目を背けたい物は、自ずと遠ざけたくなる。人の心理から考えれば、なるほど。確かにそうなのかも知れない。そう考えると、生者と死者の間にある境界線は、酷く厚みのある、超えることの出来ない壁のような物に感じられた。

「さて、そろそろ発車するみたいだぜ?」

「うむ。このまま、嵐山へと向かうとするのじゃ」

 やはり人の気配は感じられなかった。何とも不安な気持ちに駆られる。本当にワシらが乗っているのは使い慣れている嵐電なのだろうか? また、今朝見た悪夢のように可笑しな場所へ誘われないだろうかと気になって仕方が無かった。

 何時の間にか外は薄暗くなり始めていた。静まり返った街並みを再び列車が走り始める。何処からかカラスの鳴き声が響き渡る中、それでも列車は走り続ける。ガタンガタン、ガタンガタンと、相変わらず無機質な音だけが響き渡る。先刻感じた異様な気配を感じることは無かったが、だからこそ、逆に不可解に思えて仕方が無かった。嵐の前の静けさとでもいうのだろうか。

 そうだ。嵐と言えば街はどうなったのだろうか? 朝、惨状を目の当たりにした時の衝撃が一気に蘇る。

「むう……。片付けは無事に終わったのじゃろうか?」

 衝撃が蘇りついでに、思わず不安に思っていたことを口に出していた。

「おお? 片付け? ああ、昨日の雨の後始末か?」

 ワシの言葉に興味を示したのか、リキがこちらに顔を向ける。

「そうなのじゃ。派手な雨と風のお陰で街中が泥塗れなのじゃ」

「マジか? そりゃあ、結構な大仕事になるんじゃないのか?」

「ふむ。だからこそ、どうなっておるか気になってのう」

 嵐山に近付くに連れて不安だけが膨れ上がっていくように思えた。それに、妙に静まり返っているのも気に掛っていた。

「まぁ、人出が必要ならばオレが手伝わせて貰うぜ。へへ、まぁ、オレ一人の力だから大分限定されちまいそうだけどな」

「その気持ちだけでも百人力なのじゃ。ありがとうなのじゃ」

 列車は何事も無く揺れ動きながら嵐山を目指していた。ガタンガタン、ガタンガタン。ただ静かに走り続けていた。

 可笑しな話だ。何事も無いことを願っているのに、その一方で、相手が何の動きも見せないことを不安に思っている。どこかに潜んでいてワシらの動向を監視しているのかと思うと余計に落ち付かなかった。

「もうじき嵐山に着くんじゃねぇの?」

「そうじゃな。何だか妙に静か過ぎて余計に不安に駆られるのじゃ」

「案外、それが狙いかも知れねぇぞ? 今までの情鬼達もそうだったが、どいつも、こいつも、姑息な手ばかり好む奴らだった。オレ達の感情を掻き乱してコタ達と分断させることが目的かも知れないぜ。まぁ、そういう意味ではオレ達は別動部隊と化している。案外、敵の思い通りに動かされているのかも知れねぇな」

 相変わらずリキは強気な振舞いを崩さなかった。自分自身の強さに自信があるということもあるのだろう。だが、ワシが気弱になってしまうのには理由があった。思わず溜め息を就けばリキが力強く肩を抱いてくれた。

「大樹のこと、心配か?」

「え?」

「あいつらは姑息な手を好む奴らだからな。大樹のことを人質に取る可能性だって十分に考えられる。不安を掻き立てることを言って済まねぇが、現実から目を背けちゃ駄目だぜ」

 大樹を人質に取られる。それを畏れているからこそ弱気になってしまっているのは否定し切れない。そう考えると、確かにリキの言う通り、上手い具合に相手の術中に嵌ってしまっているのかも知れない。

「さて、もうじき嵐山に到着だ。何処から様子を窺っているか判らねぇが、奴らの尻尾を掴んでやろうぜ。なぁに、殺られる前に一撃必殺だぜ!」

 何処かで聞いたような、何とも言えない物騒な台詞に思わず笑いが毀れてしまう。だけど、退き下がる訳にはいかなかった。確実に敵の足取りを掴んで、可笑しな行動を起こされる前に叩き潰すべきだ。例えそこまで出来なくても何らかの情報は掴みたかった。

 やがてゆっくりと減速し始める列車のドアの前に立ち、ワシは静かに呼吸を整えていた。嵐山に到着だ。さて、ワシらの反撃開始と行こう!

 そう、意気込んだ瞬間だった。一瞬、視界が酷く揺らぐような感覚を覚えた。驚きながらも、顔を挙げれば、窓の外に映る景色が明らかに変わっていた。

「こ、これは!?」

 いつしか列車の外の情景が亀岡に変わっていた。夢で見た、あの異様な情景が克明に蘇る。思い出したくも無いのに、蘇ってくる、あの気色悪過ぎるイナゴの情景。ガタンガタン、ガタンガタン。列車は酷く揺れ動きながら走り続けている。辺り一面、枯れ果てた稲に包み込まれている。やはり、窓の外からは強烈な腐敗臭が漂ってくる。一気に込み上げてきた。

 ここに来てようやく理解した。今、目の当たりにしているこの情景……この死に満ちた情景は、嵐山が古き時代、風葬地であったことを示唆している情景なのでは無かろうかと。ワシが今、目の当たりにしている情景は史実を基に紡ぎ出された、人々の『記憶』なのでは無かろうか。本当の情景なのか、作り物の情景なのか、古き時代を生きた身では無いワシには判らない。ただ、そこには何かしらかの想いが篭められているのは間違い無い。それでは、一体、どんな想いが? 必死で手繰り寄せようとするが、やはり、何も見えて来ない。何も見えない、何も判らない。それが、こんなにも不安な気持ちを駆り立てるものだとは。

 もはや、ワシは平常心を保って居られなくなりつつあった。何時の間にか、傍らに座っていたリキの姿も失せている。ガタンガタン、ガタンガタン。列車は走り続ける。また、あの時と同じように、突然、何者かが襲撃してくるのでは無いかと考えると、不安と恐怖、絶望で、叫ばずには居られなくなりそうだ。気が狂わんばかりの恐怖心の中、鼓動だけが時を刻んでいる。

 ワシは何か大切なことを『忘却』している。その想いは次第に確信へと変わろうとしていた。間違い無い。何か、とてつもなく重要なことを『忘却』している。思い出さなければ。このままではワシだけでは無く、皆まで巻き込むことになる。だが、一体、ワシはどうすれば良い!? 恐怖に堪え切れなくなったワシは、そのまま椅子から立ち上がると、ありったけの力を篭めて叫んだ。

「うわあああーーーーーーっ!」

 ただ、虚しく叫び声が響き渡っただけだった。情景は変わらない。列車も止まること無く走り続けている。ガタンガタン、ガタンガタン。

「ワシは……このまま死んでしまうのじゃろうか? そんなの……そんなの、イヤじゃ……」

 応える者は誰もいなかった。ワシはただ、為す術も無く、再び椅子に深く腰掛けた。ふと、携帯を取り出してみる。予想通りだ。時の流れ、止まっている……。一体、此処は何処なのだろうか? ワシはどうなってしまうのだろうか? 不安と恐怖で押し潰されそうだった。

◆◆◆24◆◆◆

 相変わらずクロは良いタイミングで登場する。玄関前に立ち、戸に手を掛けた所で声を掛けられようとは夢にも見なかった。それだけに、驚きの余り、危うく声を出してしまう所であった。何処かで俺の動向を窺っているのでは無いかという疑いを抱かずには居られなくなる程に、絶妙なタイミングでの登場だった。まぁ、要らぬ詮索は控えるとしよう。何しろ相手はクロだからな……。

「些細なことよ。気にするで無い」

「……お前、俺の心が読めるのか?」

 疑惑が確信に変わろうとしていた。思わず俺は目を細め、クロをジッと凝視していた。いきなり在らぬ疑惑を持たれて、相当動揺したのか、クロは妙に慌てた素振りを見せた。

「な、何やら虫の居所が悪かった様子よの……。良く判らぬが謝罪しておこう」

「い、否、気にするな……」

 話を切り出す前から、既に出鼻を挫かれまくった気がするが、まぁ、気を取り直して挑むとしよう。時刻は日も暮れようとする時間帯。逢魔が時だ。さて、今回も魔の者との出会いを果たす時が訪れようとしている。

 クロの提案で俺達はそのまま大原へと向かうことにした。夕暮れ時の大原の街並みは静けさに包まれていて、山に抱かれた街の景色も相まって、落ち付いた気持ちで物事を考えるには適していることだろう。

 大原へと向かう道中、俺は現時点までの状況をクロに説明した。大地が体験したという数々の奇妙な体験のこと。力丸を伴い嵐山に戻ったこと。太助達と今後の策について話し合ったこと。その全てを事細かに話して聞かせた。クロ達も水面下で動いているらしいが、まるで手掛かりが掴めずに進展を得られない状況だと聞かされた。だからなのだろうか。クロは何時も以上に、俺の話に真剣に耳を傾けていた。その証拠に、何時ものように徒然なるままに話が脱線することも無かった。

 日暮れ時の物憂げな空模様を目にしながら、俺達は大空を羽ばたき続けた。間も無く大原に到着する。

◆◆◆25◆◆◆

 何時ものように大原に差し掛かるには、暮れかかっていた日が山の向こう側へと沈もうとしていた。間も無く本格的な夜の訪れとなる。気の早い虫達が涼やかな鳴き声を響かせる中、俺達は大原のバス停に舞い降りようとしていた。

「ふむ、少々蒸し暑いな」

「ああ。如何にも夏の夜と言いたげな気候だな」

「何かが起こる……そう言わんばかりの気候よの」

「既に異変は起きている。大地の住む街、嵐山でな?」

 俺の言葉を受け「そうであったな」と、クロは静かな含み笑いを浮かべながら頷いて見せた。

 今日は寂光院方面へと歩むことにした。三千院方面に向かう道は緩やかな坂道の参道であるが、寂光院方面へと向かう道は民家の間を縫うような道となる。このバス停からすぐ近く、透き通った流れを称えた高野川を挟んだ向こう側には学校もある。

「この辺りは木々や草花の湿度を感じる場所よの。中々に心地良い場所であるな」

「ああ。もう少し涼しければ、なお良いのだがな」

「ふふ、歩き回って汗を掻いたならば、帰りに大原の温泉にでも寄って帰るとしようぞ」

「それも悪く無いな」

 俺達はバス停を後にして、静かに歩き始めた。バス停から続く階段を降り、細い道を歩んでゆけば高野側を挟んだ向こう岸に静まり返った学校が見えて来る。涼やかな川の音色が心地良い。ふと、振り返れば、煌々と萌え上がるような夕焼け空を背に受けながらも、青々と生い茂った稲の葉が風に揺れる姿が目に留まる。

 道沿いに歩いてゆくと、やがて小さな店が視界の先に見えてくる。左手にはひっそりとした畑が広がり、右手には透き通った高野川の流れが水気を孕んだ涼やかな空気を称えていた。

 何時訪れても良い場所だ。クロと共にこの場所を歩むのは本当に心が落ち着く。表情に出さなくても、俺が良い気分になっているのはクロにも伝わっているのだろう。腕組みしながら俺の表情を興味深そうに窺っていた。

「嵐山で起きているという異変、間違い無く情鬼の仕業であろう」

「やはりそうか。大地が目撃したという四人の僧、そいつらが情鬼なのか?」

 クロは静かに頷いて見せた。頷きついでに、俺の目をジッと見据えながら続けて見せる。

「コタの見立てと我らの見立てとは概ね一致している」

 クロの言葉に俺は思わず足を止めた。高野川の流れる涼やかな音色、割れんばかりの虫達の鳴き声だけが染み入るように響き渡る。クロは相変わらず腕組みしたまま静かな含み笑いを浮かべていた。俺が気付くかどうかを見定めようとしていた訳か。相変わらず性悪な奴だ。

「ふふ、流石であるな」

「……相変わらず、お前は性悪な奴だ。それで、お前の同胞とは一体何者だ?」

 俺の問い掛けにクロは可笑しそうに笑いながら応えて見せた。

「我と同じカラス天狗よ。ただ、棲んでいる場所が異なる者達でな」

「無駄に引っ張らなくても良い」

「少々焦らされる方が興奮するであろう?」

 意表を突かれた一撃に俺は思わず硬直させられた。相変わらずクロは俺が動揺する姿を見るのが楽しいらしい。まったく、性格が悪いというか何と言うか……。そして、そのことに対して俺が苛立ち混じりに返答するのを楽しみにしている。だが、そうはさせない。何度も同じ手は食わぬ。涼やかな立ち振舞いを見せる俺に、クロは目を大きく見開き、何時も以上に上機嫌な振舞いを見せた。ますます性悪なことだ。

「愛宕山を知っておるか?」

「ああ。嵐山にある山だろう?」

 俺の問い掛けにクロは静かに頷いて見せた。

「かの地にも我らの同胞が暮らす集落があってな」

「愛宕山に?」

「うむ。カラス天狗は鞍馬山にだけ棲んでいる訳では無くてな。全国各地にもカラス天狗一族は散って居ってな。各々の一族が独自の文化を持ちながら暮らしている」

 俺が幾つかの疑問を抱くことは想定済みだったのであろう。クロは俺が問い掛けるよりも先に、疑問に対する返答を添えてくれた。そこで、さも「気が利くだろう?」と言わんばかりの、その厚かましい表情を見せなければ、尚、粋な計らいに思えるのだが。

「情鬼と対決しているという部分に関しては、皆同じよ」

「なるほどな」

「愛宕山のカラス天狗とは鞍馬山のカラス天狗は兄弟のような関係よの。人の世の言葉で説明するならば、本店と支店のような関係とでも言えば判り易いだろうか?」

(ほ、本店と支店って……。兄弟のような関係で十分意味は伝わったから、要らぬツッコミは慎むとしよう)

 だが、此処で俺の中で新たな疑問が沸いて来る。

(ということは、大地が出会ったカラス天狗と言うのは?)

「恐らく、愛宕山のカラス天狗であろう」

 なるほど。嵐山で生まれ育ち、嵐山の大自然と共に歩んできた大地の生い立ちを考えれば、愛宕山のカラス天狗と友になったとしても違和感は無さそうだ。

「愛宕山のカラス天狗達は皆、我の友よ。大地と関わりを持ったカラス天狗を探し出すことは、そうそう難しい話でもあるまい」

 大地と関わりを持ったカラス天狗を見付け出す。もしも、それが実現出来れば解決の糸口に繋がるかも知れない。だが、俺は別の角度から考えていた。

(本当にそれで良いのだろうか? 解決の糸口になるかも知れないが、大地と関わりを持ったカラス天狗本人はそれを願っているだろうか? 大地自身はそうなる展開を望んでいるだろうか?)

「クロ、以前お前が俺に言った言葉、覚えているか?」

 俺の問い掛けに、クロは首を傾げながら俺の表情を覗き込んで見せた。

「お前との出会いに関する記憶……俺が思い出すのを楽しみにしていると言ったことだ」

 続けられた言葉にクロは目を大きく見開き、微かに顔を赤らめながらそっぽを向いて見せた。

「お、覚えて居るに決まっているでは無いか……」

「同じことだ」

「む?」

「大地と愛宕山のカラス天狗も俺達と同じだ」

 俺の言葉にクロは「なるほど」と、唸ってみせた。

 それに、敵の思惑も見え無ければ、今回の事案の全貌すら明らかになっていなかった。これは俺の勝手な勘に過ぎないのだが、今回の事案もまた、そんなに単純な話には思えなかった。眠りを妨げられた死者達が大地に救いを求めている。それだけの話には思えなかった。表面上の問題は、確かにそうなのかも知れない。だけど、上手く言葉に出来ないが、表面上の問題を解決しただけでは意味を為さない気がしてならなかった。

「……コタよ、少し歩こうぞ」

「あ、ああ。そうだな」

 想いを上手くまとめ切れず、言葉に託すことの出来ない俺に気付いたのだろうか。自分では意識していないが無意識のうちに苛立っていたのかも知れない。何も言わずに静かに歩き出すクロの後を俺は慌てて追った。クロは後ろを振り返ることなく飄々とした態度を崩すこと無く歩き続けていた。何故だろう? 背中越しに伝わってくるクロの想い、何処か楽しげに振舞っているように思えて仕方が無かった。

(まったく……。今度は何を企てているのやら。まぁ、良い。乗せられてくれよう)

 俺達は高野川の上に架かる橋を抜けようとしていた。木々に覆われた橋の上、高野川から吹き上がる風はヒンヤリとした涼しさを称えていて心地良く感じられた。俺は思わず足を止め、そっと目を伏せた。その瞬間だった。

「なっ!?」

 不意に誰かが俺の目の前を過ぎった気がした。驚きの余り、俺は慌てて周囲を見回してみた。だが、そこにはクロの姿以外、何も見られなかった。それに、俺の目の前は川の上になる。クロのように空を飛べる存在でも無ければ、そんな場所を横切ることなど出来る訳も無い。驚く俺を遠目に見ながらクロは可笑しそうに笑っていた。

「な、何を笑っている……」

「何かが目の前を過ぎるのが見えたのであろう?」

 クロはなおも可笑しそうに笑いながら俺に語り掛ける。どうやら、クロにも見えていたらしい。否、むしろ俺にも見えるようになったと言った方が正しいのだろう。

「木々や草花にも魂はある。そう言った者達がコタにも見えたのであろう」

 輝が口にしていた言葉を思い出していた。輝は木々や草花の魂を目にすることが出来ると言っていた。それに、以前、大地と共に嵐山を散策していた時にも目にしたのを思い出した。

「ほう? 大地と共に夜半の嵐山を歩んだ際に目にしたとな?」

「ああ。その時は違和感無く受け入れていたのだがな」

「なるほど……」

 クロは腕組みしたまま感慨深そうに頷いて見せた。何か思うところがあるのだろう。

「コタよ、今日の昼間の天気はどうであったか?」

 唐突に話題が切り替わるものだ。今日の昼間の天気がどうであったか? 昼間、皆と語らった屋上での情景が蘇る。肌がヒリヒリしそうな程に強い日差し。熱気を孕んだ蒸し暑い風を肌で感じたこと。涼を求めて右往左往したこと。そうした情景が鮮明に蘇ってくる。

「猛烈な暑さだったな。照り付ける日差しも強く、ジリジリと肌を焦がされた程だ。おまけに酷く蒸し暑かった。滝のような汗を流す程だったな」

 俺の言葉を受けながら、クロは腕組みしながら、満足そうに頷いて見せた。

「それでは、昨日の昼間の天気はどうであったか?」

 クロの言葉に俺は再び記憶を手繰り寄せる。しかしながら、人の記憶とは随分と頼り無いものだ。今日の昼間の情景と、昨日の昼間の情景が、見分けが付かない程に混ざり合ってしまおうとしている。それ以上に、つい、昨日のことだと言うのに記憶が曖昧にしか蘇って来ない。

「今日と同じように良く晴れた、暑い一日だった」

 俺の言葉を受けながら、クロは可笑しそうに笑って見せた。笑いながら、さらに続けて見せた。

「それでは、一昨日の昼間の天気はどうであったか?」

「お、一昨日だと?」

 俺はクロの言葉に従い、さらに記憶を手繰り寄せてみた。たった、二日前のことなのに、殆ど思い出すことが出来なくなっていた。俺は焦った。二日前のことすら思い出せないとは、どれだけ記憶力が無いのだろうか……。焦りながらも、必死で記憶を手繰り寄せた。だが、殆ど何も見えて来なかった。

「多分、良く晴れていた……と思う」

 と思う。我ながら実に頼り無い記憶力だ。こんなにも記憶力に自信が無いとは、何とも情けない気持ちで一杯になる。それにしても、何故、クロはこんな質問をしたのだろうか? 考え込む俺の前に佇むと、クロは静かに腕を組んで見せた。

「つまり、そういうことよ」

「何が言いたい……」

「そう、不機嫌そうな顔をするな。折角の男前が台無しであるぞ?」

 苛立ち混じりに溜め息を就いて見せれば、クロが静かに歩み始める。着いてこいと言わんばかりの振舞いに、俺はクロと共に歩き始めた。

 細い道路を超えて、民家と田畑の立ち並ぶ小道へと足を踏み込んでいた。虫達の鳴き声も一層鮮明に聞こえるようになった気がする。そっと風が吹き抜ければ、青々と生い茂った稲の葉が涼やかに揺れる様が目に留まる。

「記憶とは消えゆく物よ。余程、克明に残っている記憶でも無い限り、容易く消え失せる。例えば……鞍馬での能面騒動の折、我とコタが最初に出会った時の情景、覚えておるか?」

 クロの言葉と共に、俺の脳裏には一瞬にしてあの時の情景が浮かんできた。場所は鞍馬の駅前。降り頻る雨、雷鳴が鳴り響く中、俺を救うために姿を見せてくれたあの日のこと。忘れる訳が無かった。

(そうだった。あの瞬間から、お前と共に歩むようになったのだったな……)

 そう遠い記憶でも無い筈なのに妙に懐かしく感じられた。短い時間の間で次から次へと不可思議な体験をしていれば、そうした気持ちにもなるのだろう。

「さて、コタよ。もう一つ問う。死とは……さて、どのような物であろうか?」

 またしても難しい問い掛けをしてくれるものだ。生と対になる物。命が終わる瞬間。もう二度と戻らない時の流れ……それ位しか、俺には思い浮かばなかった。否、連想される物など数え切れない程にある。だが、無作為に思い浮かべても、それは、クロが問い掛けようとしている内容と繋がるとは思えなかった。

(この一連の問答は何を意図しているのだろうか? クロのことだ。無意味に雑談をするということも考え難い。そうなってくると一体何を説明しようとしているのだろうか?)

 俺の考えなど容易く見抜いているのだろう。クロは静かに笑うばかりであった。

「何か、判ったことがあるのだな?」

「ふふ、さてな」

「勿体ぶるな」

 苛立ち混じりに返して見せれば、クロはますます可笑しそうに笑って見せた。相変わらず性悪な奴だ。後で懲らしめてくれよう。

「事件の裏側が見えた訳ではない。それは先に言っておこう」

「それでは、何が見えた?」

「大地が内に秘めた力よ」

 秘めた力? なるほど。大地にもまた、輝と同じような不可思議な力が秘められているというのだろうか。だとしたら、一体どのような力なのか。俺はクロの話の続きに興味を惹かれた。

「本来、人の目には見ることのできない存在。そうした存在を捉えることの出来る力を持っておる。それが大地の力よ」

「大地が……? そうか。だから、大地と共に歩んだ時に、そうした者達の姿が見えたということか」

「そうなるな」

「だが、その能力と今回の騒動と、どう関連するのか?」

 俺の問い掛けにクロは夜空を見上げながら続けて見せた。

「大地に取っては、生者も死者も見分けが付かない程に鮮明に捉える事が出来るのであろう」

 見分けが付かない程に鮮明に捉える事が出来るとは……。普段、何気なく接しているが、大地もまた、凄まじい力を持っているものだ。

「もっとも、その能力は幼き頃に最も力を発揮し、今は大分衰えている様子であるが」

「そうなのか?」

「年を経て、文明の恩恵を身に付けるに従い、人は大自然から遠ざかってゆく。そういうことよ」

「なるほどな」

 俺達は民家の隙間を縫うように歩んでいた。家々からは温かな光が漏れている。夕食の準備をしているのだろうか? 美味そうな匂いに思わず腹が鳴った。

 暗闇に包まれた細道を俺達は歩み続けていた。所々開けた場所には畑や水田が広がり、三千院方面とは赴きの異なる風景が広がっている。この辺りは斜面に畑や水田を開墾したため段々畑になっている。斜面に面した場所に暮らす先人達の知恵と言えよう。だが、こうした風景も悪く無い。市街には無い風情が俺の好みに合っている。

 古めかしい街灯は消え入りそうな光で微かに通りを照らすばかりだ。もっとも、これだけ薄暗ければ仮に誰かとすれ違ってもクロの姿は良く見えないだろう。

「未練を残して死んでいった者達は、現の世への想いを抱き続ける」

 月明かりに照らし出された景色を眺めていると、クロが静かに口を開く。

「だが、人は彼らの存在を『忘却』してゆく。無理も無い。見知らぬ他人のことを記憶に留め続けるなど不可能な話であるからな」

 またしても新しい言葉が飛び出した。『忘却』とは、一体何を意味しているのだろうか? 文字通りの意味なのか、はたまた、何か違った意図が込められているのか? 疑問を抱く俺に応えるかのようにクロが足を止める。

「どんな生き物とて、いつかは必ず死を迎える。それが大自然の摂理であるからな」

 クロは俺の表情を窺いながら淡々と語り続けた。

「時の流れの中で形ある物は次第に風化してゆく。これもまた大自然の摂理と言える」

 俺が理解出来るように順を追って説明してくれようとしているように感じられた。

「死んだ者達は『忘却』されてゆく。時の流れの中で『忘却』されてゆくのは至極当然のこと」

「確かに、時の流れの中で人々の記憶からも風化してゆくのは自然なことだな」

「うむ。名の知られた者達であれば歴史に名を残すであろうが、そうで無い多くの者達の存在は知られることも無く『忘却』されてゆく」

 クロが教えてくれた『忘却』という概念。大自然の摂理に従った考え方であるのは理解出来た。だが、別の角度からも考えられるとクロは続けた。

「ある意味では、『忘却』とは本当の意味での死を意味すると言えよう」

「確かに、人々の記憶から消え失せてしまえば、そいつは最初から存在しなかったことにされてしまう。だけど、それは仕方が無いことでは無いのか?」

 俺の問い掛けにクロは腕組みしたまま笑って見せた。

「それを、仕方が無いことと思えなかったのであろう」

 解せなかった。一体、情鬼が何を為し遂げようとしているのか俺には皆目見当がつかなかった。だが、少なからずろくでもないことを為し遂げようとしているのは間違い無い。『忘却』か……。敢えて大自然の摂理に抗おうとは、やはり、情鬼とはろくでもない連中ばかりのように思えた。

「未だ多くのことが判然とせぬが、明らかになっている部分から切り込むとしよう」

「そうだな」

「これは我の勝手な考えであるが、大地と死者達との間には何らかの関わりがあるように思える」

「妙な交友関係だな」

「うむ。確かに、元来、成立し得ぬ交友関係であるな。だが……生者と死者の見分けが付かない大地であれば、不思議な話でもあるまい」

「なるほど。少なからず今回の事件に浅からぬ関連性がありそうだな」

 歩きながらも俺は大地のことをずっと考え続けていた。大地との関係も、改めて振り返ってみればそう浅い関係でも無い。

(そう……。決して、浅い関係では無いのだから……)

 大地のために俺に何が出来るだろうか? やれる限りのことはしたいと思っていた。だが、どうすれば良いのだろうか? ふと、立ち止まり周囲を見回すと、丁度、俺達は大原の温泉宿の前に佇んでいた。無意識のうちに大原の温泉にゆったりと浸かり、羽を伸ばしたいと願っていたのかも知れない。否、ただの現実逃避に過ぎない。

「悩んでおる様子であるな?」

「ああ。柄にも無くな?」

 冗談交じりに笑い返してみせたが、クロは腕組みしたまま険しい表情で俺を見つめていた。俺の考えなど見抜いていると言わんばかりの鋭い眼差しに俺は思わず怯んだ。だが、クロもまた、俺と全力で向き合ってくれようとしている。そのことに気付いた俺は立ち止まり、クロに向き直った。

「クロ、俺に知恵を貸してくれ」

 だが、クロは静かに首を横に振って見せた。驚愕する俺に向かい静かな含み笑いを浮かべながら返して見せる。

「一緒に考えてくれ、であろう?」

「確かにそうだな。お前の言う通りだ」

 事件を解決するだけでは表面上の解決しか為し遂げられないだろう。確かに、オカルトマニアをめぐる幽霊騒動を解決すれば事件は解決する。表面上は。

「いずれにしても、根源から絶たねばならないのだろう?」

「うむ。大地と死者達との間には、恐らく何らかの関わりがある。その関わりを絶たねばならない」

「そうだろうな。根源から絶たない限り、何度でも同じ事態が繰り返される訳だ」

「うむ。我らが為し遂げるべきは、風葬地としての嵐山に彷徨う死者の魂を救うこととなる」

 随分と壮大な話を、いとも容易く言い放ってくれるものだ。

「大規模な話になろうぞ。決して容易い話ではあるまい」

「そうだろうな」

 嵐山に起こる異変を解決へと導く。だが、単純には為し遂げられない話になるだろう。さて、どうしたものか……。考え込むうちに俺はある一つの考えに行き着いた。多分に危険を伴う策ではあるが、もしかすると最良の策になるかも知れない。

 川が流れゆく涼やかな音色に耳を傾けながら、俺は静かに足を止めた。ふわりと、川から湿気を孕んだ涼やかな風が吹き上がり、心地良さに包まれた。

「ほう? 何か策が浮かんだ様子であるな」

「ああ。一つの策に行き着いた。先ずは聞いてくれ」

 俺はクロの顔をジッと見つめたまま、考えを伝えることにした。

「大地のために俺が出来ること……」

 俺は静かに呼吸を整えながら続けた。

「このまま成り行きに任せる」

「な、何と?」

 俺の意外過ぎる返答に驚いたのか、珍しくクロは動揺した素振りを見せていた。だが、そこには俺自身の確固たる想いも篭められているつもりだ。だから、俺は臆することなくクロに語り続けた。

「大地は俺と良く似ている。ああ、良くも悪くも良く似ている」

 不意に涼やかな風が吹き抜けた。木々達の隙間を縫うようにして吹き抜ける、ヒンヤリとした湿気を孕んだ風を肌で感じながら俺は語り続けた。

「確かに、俺達は非力な存在だ。カラス天狗の力無くして情鬼を討ち取ることは出来ない」

 俺の言葉にクロは腕組みしたまま静かに耳を傾けていた。

「矛盾しているかも知れないが、それでも、自分の力で何とかしたいと願っているのも事実だ」

 クロの表情を窺いながら俺は続けた。

「少なくても、俺自身の問題の全てをクロが片付けてしまったとしたら……俺は多分、複雑な気持ちに陥るだろう」

「ふむ。知れば知る程に人という存在は複雑怪奇であるな」

「そうかも知れないな」

 困ったような顔で笑って見せるクロに、俺は小さな溜め息混じりに返した。

「俺は矛盾の塊だ」

「そのようであるな」

「茶化すな」

 笑いながら切り返して見せれば、クロは上機嫌な笑みを称えたまま腕を組み直して見せる。上機嫌な表情を見届けたところで俺は続けた。

「大地と俺は良く似ている部分があるからな。同じように考えるのでは無いかと思ってな」

「同じ道を歩んできた身だからこそ判り合える、と?」

「ああ、そうだろうな」

 自信満々に応えたところで、もしも俺の勝手な思い過ごしだったら……。そう考えたら、照れ臭くなった。

「ふふ、もしかすると俺の勝手な憶測に過ぎないかも知れないけどな」

 迷いは無かった。もしかすると大地に取っては途方も無く苦しい戦いになってしまうかも知れない。だけど、大地は本当に良い奴だ。ついつい自我を抑えてまで仲間のために尽くしてしまおうとする。良くも悪くも自己を犠牲にする傾向にある奴だ。そして、俺達もそんな大地の人の良さに寄り掛っている節があることを否定出来ない。

 否、俺達だけでは無い。死者達までもが、大地の人の良さに付け込もうとしている。その慣れ合いな空気を変える良い転機になる筈だ。だからこそ、俺は大地を全力で支えたいし、大地の為し遂げることを見届けたいと考えていた。何よりも、大地自身が変わらない限り、本当の意味での解決には至らない。そんな気がしてならなかった。

「……コタの想い、コタの覚悟、しかと受け止めた」

「済まないな。俺の我儘を聞き入れて貰って」

 クロは腕組みしたまま力強く微笑んで見せた。そのまま静かに空を見上げて見せた。俺も真似して空を見上げてみれば、すっかり日は沈み、夜へと移り変わろうとする空模様が広がっていた。夕焼け空の色合いが残り香のように混ざり合う様は美しくも、今日が終わってゆくという儚さを称えているように思えて言葉を失う。夜の訪れを祝すかのように虫達の鳴き声がそこら中から響き渡っている。流れゆく川の涼やかな音色と重なり合い、実に心地良く感じられた。

「いずれにしても、大地と愛宕山のカラス天狗が上手く出会うことが出来れば、事態は大きく動く筈だ」

「うむ。それまで我は裏方に徹するとさせて貰おう」

 嵐山という場所で起きている事案であることを考えれば、出来る限り大地自身の手で解決へと導いて欲しいと願っていた。無論、俺達も最大限に手を貸すつもりではあるが、クロの手を借りるのは必要最小限にしたいと考えていた。無論、クロの手を借りたく無い訳では無く、ただ、俺達自身の手で何処まで挑めるのか見届けたいと考えていた。

「どうにも、今回の事案は不可解な点が多い。我も愛宕山のカラス天狗達と協力し、後方支援の布陣を敷くこととしよう」

「ああ、そうしてくれ。だが、もしも――」

「窮地に陥ったら遠慮無く、参戦させて貰おうぞ」

 にやりとクロが笑って見せれば、俺は力強く頷き返した。後は大地と力丸のコンビが何処まで立ち振る舞えるかに掛かっている。大原の温泉で汗を流して帰りたいという想いもあったが、何時、応援要請が掛かるかは予測不能だ。少々お預けを食うことになるが、事態が解決した暁にはクロと共にゆっくりと温泉に浸かるとしよう。少々不満そうな表情を見せるクロを説得し、俺達は一度、四条に戻ることにした。

「……俺は大地を信じているから、何も畏れることは無い」

 俺が何気なく呟いた一言にクロは腕組みしたまま目を細めて見せた。クロの振舞いに呼応するかのように、不意に、ヒグラシが物憂げな鳴き声を響かせる。思わずクロと二人、木々の上を見上げていた。

「ふふ、友を心より信頼しておるのだな」

「……お前もその一人だ」

 クロは静かに目線を逸らすと、そのまま空を見上げてみせた。不意に吹き抜けて往く一陣の風に、俺は微かな想いを馳せていた。必ずや事態を解決させてみせる。物憂げなヒグラシのカナカナと繰り返される声を肌で受け止めながら、俺はしばし、目を伏せていた。

◆◆◆26◆◆◆

 嵐山の駅に到着したワシらは周囲に警戒を配りながら駅舎を歩んでいた。夕暮れ時の嵐山は蒸し暑さに包まれていた。蝉達は与えられた時間を生きるべく、盛大な鳴き声を響かせている。時折、トンボが空を舞うのが目に留まる中、ワシらは駅舎を歩んでいた。

「此処で今朝、その薄気味悪い坊さん達とすれ違ったんだよな?」

「うむ。そうなのじゃ」

「まぁ、さすがに、こんな所に痕跡なんか残っている訳ねぇか」

 探偵にでもなった気分を満喫しているのか、リキは周囲を入念に見回しながら歩んでいた。

 ゆっくりと駅舎を抜けて嵐山の駅を後にする。観光客と思しき多くの人々とすれ違いながら、ワシらは駅前の通りへと至った。

 夕暮れ時の嵐山の駅前は何時もと変わらぬ活気に満ちあふれていた。この辺りは、それ程被害も大きく無かったことを考えれば、既にあらかた片付けが終わっているのも不思議な話では無い。

 さて、どこから調査を開始しようかという話になる。駅からは左右に道が広がっている。向かって左手に進めば渡月橋を経て嵐山旅館へと至る。ただ、どの道、嵐山旅館には戻ることを考えればあまり効率が良いとは言えない。むしろ、数々の異変が起きているであろう右手の方角……即ち、竹林や小倉池、祇王寺、化野念仏寺方面へと至る方向へと進むべきだろう。あれこれ考えを巡らせていると何時の間にかリキの姿が無くなっていた。

「あ、ありゃ? リキよ、何処に行ったのじゃ?」

 周囲を慌てて見回してみるが、リキの大きな図体は掠りもしない。

「むう……またしても、何か食い物に釣られおったのか? 相変わらず判り易いことなのじゃ……」

 苦笑いを浮かべながら溜め息を就いて見せれば、威勢の良い声が響き渡った。

「おーい! ロック、早く行こうぜー!」

「うぬぬ……。何たる行動力なのじゃ。コラー! ワシを置いていくで無いのじゃー!」

 駅前は特に変わった様子は無さそうだった。夕暮れ時の駅前は人気も少なくなり始めていた。四条界隈とは異なり、嵐山は夕方になれば殆どの寺社仏閣が閉門時間を迎える。飲み屋が栄えている場所では無いこともあり、この時間帯になると駅に向かう人々が増える。あるいは、近隣の宿泊施設に向かう人々の流れで駅前は賑わいを見せる。

 ワシらは天竜寺前を歩んでいた。暮れゆく夕焼け空の下、人の流れに逆らうようにして歩くのは不思議な気分だった。微かに空には雲が棚引くばかりで天候が崩れる様子は見られなかった。天竜寺の境内からは相変わらず蝉達の威勢の良い鳴き声が響き渡っていた。

 立ち並ぶ店の多くは既に店仕舞いを終えていた。辛うじて明かりを灯している店も、店仕舞いの準備に忙しそうに見えた。そんな様子を横目にワシらは歩き続けた。通りは薄暗さに包まれていて、人の流れも皆一様に、駅へと向かう流れとなっていた。一日の終わりを告げるかのような情景を横目で見届けながら、ワシらは人の流れに逆らうかのように歩き続けた。

 天竜寺を少し過ぎた所で左手に曲がり小道へと抜ける。そのまま道なりに歩んでいけば野宮神社に至る。何時の間にか空には無数のトンボ達が舞っていた。夕焼け空を背に空を舞うトンボ達の、その優雅に空を舞う姿にワシはしばし見とれていた。

「へへっ、ロックってホント、虫好きだよなー」

「種類にも寄るのじゃが、トンボは好きな虫なのじゃ」

 ワシの言葉を耳にしたリキは、静かに空を見上げていた。暮れ往く夕日が眩しかったのか、目を細めながらトンボを見つめていた。

「まぁ、確かに悪く無い光景だよな。夏の夕暮れって感じでさ、段々夜に移り変わってゆく物悲しい雰囲気に良く合うよな」

 妙に詩人のような言葉を口にして見せたのが可笑しくて、ワシは笑いを堪えるのに必死だった。

「笑い、堪えんなよ……」

「にゃはは、済まんのじゃ」

 丁度ワシらは駅前の通りを抜けて、野宮神社へと続く細道へと歩を進めていた。この辺りは道が細く、木々達も生い茂り涼やかな場所だ。店仕舞いを終えても穏やかに夜の景色を照らし出す明かりは残されている。穏やかな明かりに照らし出された細道の光景、悪く無かった。

 蒸し暑い気候の中で吹き抜ける風が心地良く感じられた。隣を歩みながら、ふと、リキの方を見上げれば、夕日に照らし出されたリキの横顔に一瞬、ドキリとさせられた。夕日に照らし出された、その横顔が妙に雄々しく見えた気がして、思わず息を呑んだ。ワシの視線に気付いたのかリキが笑いながらワシに向き直る。

「お? 見惚れちゃってどうした?」

 そのまま豪快に笑って見せた。

「へへっ、もしかしてオレに惚れたか?」

「……そんな訳無いじゃろ。それに、お主はワシのことを兄弟のように思っておるのじゃろ?」

「まぁ、そうだな。付き合いも長いし、何だか、すっかり本当の兄弟みてぇだよな」

 自分で言いながらも妙に照れ臭くなったのだろう。頬を赤らめながらリキは再びスタスタと歩き出した。こうして間近で見ると、やはり、リキの背中は大きく見えた。夕日を浴びて浮かび上がるリキの大きな背中に、ワシは再びドキリとさせられた。

「おーい、ロック。早くしねぇと置いていくぞー」

「にゃー! ワシを置き去りにするとは何事なのじゃー!」

 ワシは慌ててリキの後を追い掛けた。

 ふと、後ろを振り返れば、相変わらずトンボ達が優雅に空を舞っていた。平和な光景だ。明日も、明後日も、その先も、ずっとこの景色を見られるように守らなければ。嵐山はワシの大切な故郷であると同時に、仲間達と過ごした思い出の残る大切な場所だ。如何なる理由があろうと守り抜かなければならない。

◆◆◆27◆◆◆

 涼やかな風が吹き抜ける小道を歩み続ければ、程なくしてワシらの視界の前に野宮神社が見えてくる。夕暮れ時の野宮神社は人気も無くひっそりと静まり返っていた。黒木の鳥居が印象的な野宮神社を超えて、ワシらはさらに歩を進めた。この先の踏切を超えれば竹林へと至る。

(あの晩、テルテルと一緒に歩いた道なのじゃ)

 あの晩も、今と同じように野宮神社の前を抜けて竹林へと至った。丁度、線路を超えた辺りで……。ワシに取っては絶対に忘れることの出来ない出来事の起きた場所だ。

「そろそろ竹林に差し掛かるな」

「そ、そうじゃな」

「お? どうした、ロック? 何かあったか?」

「あ、ああ、い、イヤ、何でも無いのじゃ……」

 リキは怪訝そうな表情を浮かべていたが、さすがに、あの晩の出来事を話すのは恥ずかし過ぎた。それに、これはワシだけでは無く、テルテルの秘密でもある。二人だけの秘密。大事に、大事に仕舞っておこう。

 それにしても、本当に皮肉な話だった。こんな可笑しな事件が起こらなければ、リキと二人で楽しく過ごせる時間になっていたというのに。でも、事件が起きたからこそ、こうして二人で嵐山を訪れることも出来た。何だか、どっちが良いのか良く判らなくなっていた。

 話し込んでいるうちにワシらは竹林に足を踏み入れていた。視界の先に涼やかな景色が広がる。薄暗くなり始めた空に涼やかな竹林が溶け込むように感じられた。

 涼やかな光景にワシは思わず足を止めていた。そっと目を閉じ、吹き抜ける風を肌で感じていた。静かに風が吹き抜ければサラサラと川の流れを思わせる音色が広がってゆく。時々、竹同士がぶつかり合う軽やかな音色も聞こえてくる。心地良い風だった。多分、リキも隣で心地良い風を感じているのだろう。そんなことを考えている時だった。不意に、目の前に何かが落ちるのが目に留まった。

「おりょ? 何か、ポロポロと落ちてきたのじゃ」

「雨……では無さそうだよな。おお? 何だ、こりゃ?」

 リキが拾い上げたのは、何やら稲の穂先を思わせる形をした物だった。見たことも無い不思議な物ではあったが、手に触れた感触から察するに、何らかの植物の花のように感じられた。

「はて? 何じゃろ、これは?」

「何だろな? でもさ、たった今、落ちてきたって感じだよな」

 稲の穂先に良く似た物……。それも竹林で目にした物……。此処まで考えた時、以前、コタから聞かされた話を思い出した。背筋に寒気が駆け巡った。頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃を覚えていた。

「こ、これは……竹の花なのじゃ!」

「竹の花? 竹って、花が咲くものなのか?」

「あ、ああ……」

 体中が震えて、震えて、立っていられなくなり、ワシはその場に崩れ落ちてしまった。

「大変なことになったのじゃ……」

 突然のことにリキは酷く困惑していたが、上手く説明することも出来ない程にワシは動揺していた。

「お、おい? ロック、大丈夫か?」

「大変なのじゃ……」

「大変って、何が大変なんだ?」

 ワシはコタから聞かせて貰った話をリキに伝えた。竹の花が咲く時……それは、竹が今、まさに死を迎えようとしている時なのだと。しかも、竹の花は申し合わせたかのように一斉に咲き誇る。この竹林の竹達が一斉に花開き、そして――。

「一斉に枯れ果てることを意味しているのじゃ」

「ま、マジかよ!? み、見間違えとか、そういうのじゃ無いのか?」

「竹の花は稲の穂と良く似ているのじゃ。それに、以前、コタと一緒に図鑑で調べたこともあるでの。見間違える訳が無いのじゃ」

 ワシは土が露出している部分を探し出し、そっと、土に手を宛がってみた。ワシの行動を見ていたリキも真似して土に手を宛がって見せた。みるみるうちにリキの表情が変わってゆく。その様子をワシは静かに見届けていた。

「な、何だよ、これ!?」

「土が冷え切っておる。まるで氷なのじゃ……」

「マジかよ。こんなことってあるものなのか?」

 一体、嵐山の地に何が起ころうとしているのだろうか。

 この竹林はワシの中に在る幾つもの思い出と繋がる場所だ。幼き頃から大樹と共に何時も遊んだ場所。シロと共に雨の日も、雪の日も毎日お散歩した場所。コタ達との思い出だって、テルテルとの思い出だって眠っている場所なのに!

 竹林が一斉に枯れ果ててしまう? ごっそりと嵐山から竹林の景色が失われる? 耐えられなかった……。ワシの大切な、大切な思い出が失われてゆくことが。ワシの故郷が消え去ってゆくことが、ワシが歩んできた道が崩れ去ってゆくことが、何よりも、ワシが生きた足跡が静かに消え去ってゆくことが、哀しくて、苦しくて、声を張り上げて泣き叫びたかった。

 不意に、風が勢い良く吹き抜けた。竹林からは悲鳴を思わせるようなざわめきが響き渡る。竹同士が激しくぶつかり合い、渇いた音色を響かせた。その音色に重なり合うように聞き覚えのある声がワシに語り掛けてきた。

「大地、良く聞いて。これが『忘却』の本当の恐ろしさなんだよ」

「『忘却』じゃと?」

「そう。『忘却』されたものは、この世に存在していることさえ忘れられてしまう。つまり、それこそが、本当の意味での『死』の訪れなんだ」

 一体何を語っているのか、そもそも、こいつは一体何者なのかと、困惑するワシを後目に声の主は相変わらず淡々と語り続ける。

「奴らの仕掛けた罠により、人々の記憶から竹林が『忘却』されようとしている。だから、思い出すんだ。大地、せめて、君だけでも、この竹林の情景を忘れないで……」

 そうだ。この声の主は夢の中で見た少年だ。人間離れした腕前を持つ、笛を吹く少年。何度も出会ったことのある存在であるハズなのに、どうしても思い出すことが出来なかった少年。何故思い出すことが出来ないのだろう? それ以上に『忘却』とは一体、どういうことなのだろうか? 一連の異変に関わりのある言葉であることは間違い無い。それでは、一体?

 考え込みながらも、不意にリキのことが気になった。何か妙な気配を感じたような気がして不安に駆られた。確かに、ここにはワシとリキしか居ないハズなのに、もう一人、見覚えの無い人影が見えた気がした。

「結花……どうして、お前が此処に!?」

 リキは顔面蒼白になったまま、うわ言のように呟いていた。

「何でだよ……。何で、お前が? 一体どうなっているんだよ?」

「り、リキよ、大丈夫かのう?」

「ロック? オレ、一体、どうしちまったんだろうな……」

「一体、何があったのじゃ?」

「い、イヤ……何でも……」

 一瞬、言い掛けた所で、慌てて言葉を呑み込んだ。リキは明らかに何かを隠そうとしていた。酷く汗を掻き、揺れ動く眼差しから察するに、精神を激しく揺さぶられるような体験をしたのは間違い無いだろう。だけど、詮索されるのを拒んでいる素振りを見せている辺りからしても、要らぬ詮索は止めておくのが懸命だと感じられた。

「なぁ、ロック。もっと先へ進んでみようぜ。良く判んねぇだけどさ、北の方から嫌な気配を感じるんだよな」

「判ったのじゃ。このまま進んでみるとするのじゃ」

 相変わらず判らないことだらけで、不安な気持ちだけが増幅されているように思えて仕方が無かった。だけど、非力なワシにはどうすることも出来ない。ただ、沸き上がってくる不安感に阻まれているだけでは何の進展も得られない。とにかく動き回るしかないのだろう。動き回っていれば、何かを見付けることも出来るかも知れない。

 今は北を目指そう。リキが何かを感じ取ったという北の方角……。ここから北上すれば落柿舎に至る。さらに進めば二尊院、祇王寺、化野念仏寺と続く。この先に一体何が潜んでいるのか判らない以上、慎重に行動するべきだろう。ワシらは注意深く北を目指すことにした。

◆◆◆28◆◆◆

 事態は確実に悪化しつつある。多分、もはや、ワシの手に負える域を遥かに超越してしまったのだろう。一体どうすれば良いのか? こんなにも大事になってしまっては手を付けられそうに無い。

 リキもまた、先刻の出来事から一言も言葉を発していない。ただ、顔面蒼白になったまま、時折、思い出したかのように何かを小声で呟くばかりであった。一体、ワシはどうすれば良いのだろうか? このままでは大切な物が次々と忘却されてしまうだけだ。

 竹林が人々の記憶から忘却されようとしている。だから、冷たい死が迫っている。竹林だけでは無い。嵐山の各地でも、次第に異変が起こり始めるだろう。

 『忘却』とは実に恐ろしい仕掛けだ。そこに存在していたことすら、忘れ去られてしまう。イヤ、そうでは無い。最初から存在しなかったことにされてしまうのかも知れない。そんな気がした。

(もしも、ワシ自身が『忘却』されたら……ワシは、ワシは最初から、この世に存在しなかったことになってしまうのじゃろうか?)

 もう、何も考えられなくなっていた。楽しかった時間が、幸せだった時間が、何もかもが音を立てて崩落してゆく。そんな恐怖に駆られて身動きすら取れなくなっていた。ワシは余りの恐怖に、その場から動けなくなってしまった。そんなワシの傍らではリキが両の拳を握り締めたまま俯き、唇を噛み締めながら小さく肩を震わせていた。

「ふざけた野郎共だよな……」

 ようやくリキが口にした言葉。小さく震える声で絞り出した言葉。その言葉は激しい憎悪と怒りに満ちているように感じられた。

「何だって、今になって結花がオレの前に姿を現すんだよ……」

「リキ?」

「人のこと、馬鹿にしやがって……。ぜってぇ、許さねぇ。ぜってぇ、許さねぇ!」

 一体、リキの身に何が起こったのか、ワシには判らなかった。ただ、こんなにも激しい怒りに身を震わせる程の出来事を体験したのだろう。

「ロック、済まねぇな。オレ一人じゃ、何も力になってやれなかった……」

「何を言うのじゃ。未だ、終わっていないのじゃ」

「有り得ねぇ話なんだけどさ――」

 そう言って、リキが切り出した話は、先刻、リキが目の当たりにした情景に関する話だった。

 信じられないことに、生前の結花さんが当時と変わらぬ姿で現れたらしい。結花さんは亡くなった時と何ら変わらない姿で現れると、当時と変わらぬ立ち振舞いでリキに接してみせたらしい。それだけでは無かった。結花さんを失った、その当時の哀しみさえもが一気に押し寄せてきて、自分でも訳が判らない程に心を掻き乱された。リキは怒りに震える声でそう語って聞かせてくれた。

 リキの言葉を聞いて、ワシの中で一つの疑問が浮かんできた。『忘却』という概念があるのならば、その逆の概念もあるのでは無いだろうか。リキが体験したのは、『忘却』とは逆の現象なのだろう。つまり、『忘却』されれば無かったことにされてしまうが、その逆のことをされれば……無くなったものが、再び蘇ってしまう? だとしたら、何と恐ろしい話なのだろうか。

 ワシは『忘却』の概念について、リキに事細かに説明した。もちろん、あの声の主が何者であるかは定かで無ければ、ワシの考えが合っているという保証も何処にも無い。ただ、それでも、知らなければ太刀打ちできないこともある。

「……なるほどな。情鬼は人の心から生まれた存在だ。そう考えれば、心を掻き乱すのはそう難しく無いって訳か」

「ワシはそう思うのじゃ」

「フザけた野郎共だぜ。ますます許す訳にいかねぇな」

 死んでしまった人の時はその瞬間のまま止まってしまう。だからこそ、リキは悩み続けていた。結花さんを不慮の事故で亡くしてしまい、その瞬間から、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったのだろう。丁度、リキに取っての結花さんは、ワシに取っての大樹のような位置付けにあったハズだ。そう考えると、その哀しみも、悔しさも、計り知れないものがあるのでは無いだろうか? それ以上に為し遂げられなかった未練など、数え切れない程にあるハズだ。

 もっと、優しくしておけば良かった。もっと、色んな場所に連れて行きたかった。もっと、一緒に、色んなこと体験したかった。もっと、もっと……。でも、死んでしまった人の時はその瞬間のまま止まってしまう。時の流れが異なる以上、共に歩むことは出来なくなる。時間を掛けて少しずつ哀しみを『忘却』し、前へ、前へと必死の想いで進もうとしていたリキに、ようやく鎮まった哀しみを敢えて掘り起こし、思い出させるとは……。イヤ、人事では無い。ワシとて、婆ちゃんを、シロを失った時の哀しみを思い出させられたら、果たして正気を保てるだろうか?

「敵は想像以上に厄介な相手みてぇだな」

「うむ。そうじゃな」

「姑息な手段を選びやがって……。真正面から、ぶつかって来いっつーんだ」

 未だ何処か痛むかのような表情を見せたが、リキはワシに向き直ると力強く笑い掛けて見せた。

「もう、大丈夫かの?」

「ああ、ありがとうな、ロック。うしっ! 気を取り直して行くとしようぜ!」

 リキは自分の顔を大きな手で叩きながら気合いを入れて見せた。そのまま周囲を静かに見渡しながら何かを考え込んでいるように見えた。

「これ以上はオレ達だけではどうにもならないかも知れねぇな。コタに応援要請の連絡入れておくよ」

 そう言いながら、リキはメールにて状況を伝えてくれた。

(本当に、解決出来るのじゃろうか? もはや、どう足掻いても無駄なのじゃろうか……)

 不意に一陣の風が吹き抜ける。サラサラと涼やかな川の流れを思わせるような竹の音色が響き渡る。だけど、その音色は心なしか、どこか空虚な感じを覚えた。竹林が死にゆく時を刻んでいるかのようで、ワシは言葉に出来ない想いを抱くことしか出来ず、ただただ、両の手を握り締めることしか出来なかった。哀しみと、絶望と、どうすることも出来ない非力さが、ただただ寒く感じられて仕方が無かった。蝉達の鳴き声が降り注ぐ情景……ワシには、それは叩き付ける土砂降りの雨のように感じられた。冷たく、冷たく、ただ冷たく降り頻る驟雨のような絶望だけが、そこに寄り添っているように感じられた。

◆◆◆29◆◆◆

 ワシらは道なりに歩き続けていた。ひっそりと佇む民家の間を縫うように道を抜けてゆく。道中、小さな公園の横を通り掛ったが、人の気配は全く感じられなかった。普段は賑やかに人々が往来し、時に人力車のお兄さんが威勢良く駆け抜ける小路。だけど、その小路はすっかり覇気の失せた、暗い哀しみに包まれているように思えて、途方も無く哀しい気持ちになった。

 程なくしてワシらの視界の先には落柿舎が見えてきた。暮れゆく夕焼け空の情景の中、赤とんぼが舞うのが目に留まる。何時見ても落ち付く景色だ。変わることの無い情景がそこに広がっている。

「それにしても、『忘却』っつーのは厄介な概念だな」

「そうじゃな」

「なるほどな。『忘却』と対になる概念を持ち出した訳か」

 リキは夕暮れ空を舞う赤とんぼを目で追いながら、大きく溜め息を就いてみせた。

「なるほどね……。だから、オレの心の奥底に眠っていた結花への想いが形を為したっつー訳か」

「多分、としか言えないのじゃが、そうでは無いかと思うのじゃ」

 ワシの言葉を受けながら、リキは大きな溜め息を就いて見せた。

「恐ろしい能力だよな」

 静かな笑みを称えたままリキはワシに向き直って見せた。その背から照らし出す夕日が、ワシの目には後光のように映り、どこか神々しささえ感じられた。だけど、ワシにはリキの笑顔は泣き顔のように感じられて、胸が締め付けられる想いで一杯だった。

「オレ、結花と向き合っていたんだぜ? 手を握られたけど、ちゃんと体温もあってな。とても、幻とは思えなかったんだ」

 忘却されれば最初から存在しなかったことになってしまう。思い出されれば命を失った者とて再び存在していることになってしまう。ワシの言葉に驚いたのか、リキが青褪めた顔を見せる。

「もしもだぜ? もしも、風葬地だった頃の嵐山が完全に思い出されたならば……」

「嵐山は生者の住めるような場所では無くなるじゃろうな」

 感覚が麻痺し始めているのかも知れない。途方も無く恐ろしい事態が起こらんとしているのに、ワシは妙に冷静だった。イヤ、恐怖する心を『忘却』して、壊れそうになるワシ自身を必死で保とうとしているのだろう。相変わらず、実に都合の良い防衛本能だ。見たく無い物は全て『忘却』し、記憶の彼方から抹消してしまう。恐らく、思い出せないだけで、ワシは今までにも数多の記憶を『忘却』し続けて来たのだろう。自分を守るために……。

「……本気で願えば結花は戻ってくるのかな?」

「リキ?」

「へへっ……。何、馬鹿なこと考えているんだって話だよな。でもさ、許されるなら叶えて欲しい願いっつーのも否定は出来ねぇな」

 死んだ者と再び出会うことが出来る……。もしも、婆ちゃんに再び出会うことが出来たとしたら? もしも、シロと再び出会うことが出来たとしたら? ああ、駄目だ、駄目だ。これでは敵の願い通りだ。

(人の心の隙間に付け込むような姑息な手段、気にくわないのじゃ。幾ら、思い出した所で、そんなの、所詮は紛い物に過ぎないのじゃ。それでも、人はそんな紛い物にでも平気で縋ろうとするのじゃ)

 人は思い出の中で二度と会うことの出来ない誰かのことを美化する。綺麗な思い出として仕舞って置くだけならば、多少の花を持たせることも他愛の無いことだと微笑ましく思えるが、存分に美化され、本来の姿から大きく歪めた姿で再び現世に舞い降りることが、果たして本当に幸せなのだろうか? そんなの生きている側の勝手なエゴに過ぎない。

「ロックの言う通りだ」

「え?」

「そうだよな……」

 リキは短く溜め息を就きながら、どこかが痛むかのような笑みを見せた。

「多分、オレの記憶の中では、結花は恐ろしく美化された存在として描き出されていると思うんだよな。嫌な一面を全て『忘却』して、良い面だけを思い出す。多分、そうして築き上げられた結花は果てしない紛い物なんだろうな」

 リキの悲痛な笑みを直視することが出来ずに、ワシはそっと目を逸らした。

 大切な誰かを失う痛み、ワシも判るから。婆ちゃんは年も年だったから何処かで覚悟は出来ていたのかも知れない。でも……シロはそうでは無かった。余りにも唐突過ぎる別れに、ワシは何の心の準備も、覚悟も出来ていなかった。ただ、無情に押し寄せて来る死を受け入れるしか無かった。当然、納得出来る訳も無く、シロを失ったワシは抜け殻のような状態になっていた。だから、リキの気持ち、痛い程判ってしまう。

 あの日、結花さんを失った日からリキは死人のようになってしまった。笑わなくなった。何時も塞ぎ込んでいて、時折、目一杯に涙を称えている時もあった。

 辛かった……。苦しんでいる仲間のために、何もしてやれない自分の無力さが。だけど、それでもリキは必死で乗り越えた。そうさ。『忘却』も時と場合によっては必要なんだ。ただ、痛むだけの哀しみの感情を抱き続けるだけでは、何も生み出すことも無ければ、ただ、自分自身を傷付けるだけの結末しか与えてくれない。生きるためには『忘却』することも必要なんだ。

「そうかも知れねぇな」

 リキはへへっと笑いながら続けて見せた。

「ずっと、あの時の哀しみを胸に抱いたままだったら、オレはこの場に居なかったかも知れねぇからな」

 ワシはリキから聞かされた話を思い出していた。生きることに疲れ果て、結花さんの後を追おうとした日のこと……。列車に飛び込み、自殺しようとしたこと。それを阻止したコタのこと。リキは多くは語らなかったけれど、あの一件を経て、コタへの想いがさらに強い物へと変わったのでは無かろうか? 奇しくも、その想いがあったからこそ、コタへの想いが命綱となり、リキは現世への未練を抱き続けることが出来たに違いない。

(やはり、ワシには共感出来ないのじゃ。過ぎ去った時を懐かしむことはあったとしても、それを、現実の物にしようとするのは間違っているのじゃ。大自然の摂理を歪める行為、断じて許す訳にはいかないのじゃ)

「ああ、オレもそう思う」

「そうなのじゃ。時の流れは川の流れと一緒なのじゃ。過去から現在へと流れ続けるのじゃ。間違えても、逆流するようなことがあっては駄目なのじゃ」

「そうだよな。時の流れを歪めちまったら色んな所に矛盾が生じる。それにさ、本当の意味で時の流れを逆流させる訳でもねぇんだよな」

「そうなのじゃ。所詮、絵空事の幻に過ぎないのじゃ。そんなの虚しいだけなのじゃ」

 歩き続けたワシらは程なくして化野念仏寺に到着しようとしていた。この周辺は静けさに包まれた風情あふれる街並みが広がっている。時の流れから取り残されたかのような街並みが残る場所。懐かしい時代と出会うことの出来る街並みと言える。

「こうやってさ、昔を懐かしむだけに留めておくのが良いんだろうな」

「そうじゃな。過ぎた欲望は身を滅ぼすだけなのじゃ」

 久方ぶりにリキと二人きりで行動したこともあり、ついつい慣れ合いな空気になってしまった。本来の目的をすっかり見失い、半ば観光気分で街並みを巡るに留まってしまった。

 化野念仏寺を訪れたワシらは緩やかな石段を上り、境内へと足を進めた。

 夕暮れ時ということもあり、西院の河原は普段以上に不可思議な雰囲気を醸し出していた。まさしく、この世ならざる情景と呼べる程に。ワシらはさらに足を進め、みず子地蔵尊前を抜けようとしていた。此処にもまた、多くの想いが立ち篭めているのかも知れない。異様に静まり返った境内の中、ワシらは静かに歩き続けた。

 みず子地蔵尊前を抜けたワシらは竹林の階段を上った。一歩、一歩、歩む度にワシらの足音だけが静かに響き渡る。程なくして竹林の階段を上り切ったワシらは広大なる霊園へと至った。夕暮れ時の霊園は不気味なまでに静まり返っていた。

 不意にどこからかヒグラシの物憂げな鳴き声が響き渡った。カナカナカナカナ。周囲の木々に静かに染み入ってゆく。水場の六面六体地蔵も寂しげに佇んでいるように見えた。だが、異変は特に見られなかった。

「結局のところ、何の手掛かりも得られなかったな」

「むう……。そうじゃな」

 リキの言う通り、何の手掛かりも得ることが出来なかった。所詮、ただの徒労に終わったに過ぎなかった。

「コタ達もこっちに向かっていることだろうし、一旦、駅前まで戻ろうぜ」

「そうじゃな。コタ達と合流できれば、何か新たな発見があるかも知れないのじゃ」

 そう、口にした瞬間だった。唐突に、轟音が響き渡り、それと同時に凄まじい風が吹き荒れた。

「い、一体、どうなっているのじゃ!?」

 周囲の木々達が、化野念仏寺の竹林が荒れ狂う大海原のように激しくざわめき出した。川の流れを思わせる音色は次第に大きく、大きく響き渡り、昨晩の荒れ狂う嵐を思わせる程になっていた。竹林が紡ぎ出すとは思えない程の轟音が響き渡り、いつしか風も叩き付けるように荒ぶっていた。余りの風の強さに立っているのもやっとな程だった

(一体何が起きているのじゃ!? リキは!? リキは何処に行ってしまったのじゃ!?)

 慌てて周囲を確認しようとするが、余りにも強い風に阻まれ目を開けることすらままならない。一体何が起きているのかと、ただひたすら動揺しているうちに、次第に風の勢いも和らぎ始めた。やっとの想いで目を開けたワシは信じられない情景を目の当たりにした。

「こ、此処は!?」

 有り得ない話だった。一瞬にしてワシは全く別の場所に飛ばされていた。慌てて周囲を見回してみれば、そこは板敷の渡り廊下だった。屈曲した廊下の情景から察するに、ここは大覚寺の村雨の廊下のように思えた。だが、見覚えのある大覚寺の村雨の廊下とは何かが違って見えた。

「この廊下、一体、何処まで続いているのじゃ!?」

 信じられないことに、恐ろしく広大な村雨の廊下は終わりが見えない程に長く、長く続いていた。広大な庭園の中をひたすらに屈曲しながら駆け巡る廊下。暮れ往く夕日に照らし出されて、燃え上るような情景の中、ワシはひたすら走り続けた。

「こんな可笑しな場所に閉じ込められる訳にはいかんのじゃ!」

 額から噴き出す汗を拭いながら、ワシはひたすら走り続けた。一体、何処まで続いているのか皆目見当のつかない広大過ぎる廊下を、ワシはひたすら走り続けた。走って、走って、走り続けた。だが、行けども、行けども、同じ情景が繰り返されるばかりで、一向に終わりが見えて来ることは無かった。

「一体、どうなっているのじゃ……」

 いよいよ体力も限界に近付いてきた所で、唐突にワシの耳に予想もしない声が飛び込んできた。

『うわぁっ! 何するんだよっ! 兄ちゃん! 兄ちゃん、助けて! 助けてーーっ!』

「た、大樹っ!?」

 一体何が起きているのかは定かではないが、大樹の身に危険が及んでいる!?

「ああ、こんな所で迷っている場合じゃ無いのじゃ!」

 ワシは必死で走り続けた。だが、一向に終わりは見えて来ない。大樹の声も、先程の一回聞こえただけで、それ以降は何も聞こえなくなってしまった。そのことが余計に不安と焦りを掻き立て、ワシは平常心を保てなくなっていた。それでも、とにかく走り続けるしか無かった。

「一体、どうなっているのじゃ!? 大樹! 大樹ーーーっ!」

 だが、どんなに走り続けても情景は変わらない。それでも、ワシは必死で走り続けた。額から汗が吹き出し、いよいよ息も切れて来た。足も酷く痛んだがそれでも走り続けた。だが、そんなワシを嘲笑うかのように同じ情景が繰り返されるばかりだった。いよいよ体力も限界に達したワシは、その場に崩れ落ちた。

「もう……足が動かないのじゃ。大樹……済まないのじゃ」

 力無く崩れ落ちた所で、再び、唐突に背後から声が聞こえてきた。

「忘却……忘却……」

「な、何なのじゃ!?」

「忘却……忘却……」

「喧しいのじゃ! 忘却なんかさせないのじゃ! 大樹は、大樹は、ワシが絶対に守るのじゃ!」

 だが、声は嘲笑うように繰り返し、繰り返し、ワシに畳み掛ける。

「忘却……忘却……」

 気が狂いそうになりながらも、ワシは必死で叫び続けた。忘却なんかしないと。だが、声はどんどん大きくなり、次第に頭が割れそうな程に響き渡っていた。

「忘却……忘却……」

 気が狂いそうになったワシは、とうとう堪え切れずに発狂した。

「うわああーーーーーっ! ああ……ああーーーーっ!」

 叫び声を挙げるのと同時に、唐突に周囲の空気が変わった。

「おい、ロック! 今、大樹の声が聞こえたぞ!?」

「へ? り、リキ!?」

 慌てて周囲を見回したワシは、再び腰が抜けそうになった。そこは先刻、妙な空間へと誘われる前にワシらが佇んでいた、化野念仏寺の霊園だった。ただただ戸惑うワシとは裏腹に、リキは驚く程に冷静だった。一体、何が起きたのか? 呆然自失としていたが、次の瞬間、乱暴に腕を引っ張られた。突然のことに驚くワシにリキはありったけの声で叫んだ。

「ロック、しっかりしろっ! とにかく嵐山旅館まで戻るぞ!」

「じゃ、じゃが……」

「良いから、つべこべ言わずに走れ!」

 リキに手を引かれるままにワシはひたすら走った。走って、走って、ひたすら走り続けた。化野念仏寺を後にし、祇王寺へと続く細い参道前の通りを駆け抜けた。

(大樹! どうか……どうか、無事でいてくれなのじゃ!)

 頭の中は真っ白だった。ただただ大樹の無事だけを願い、ワシは必死で走り続けた。息が切れ、額から、胸元から汗が吹き出したが、それでも走り続けた。

 二尊院前を駆け抜け、民家が立ち並ぶ細道を駆け抜けた。柿舎前を駆け抜け、そのまま竹林を駆け抜けた。いよいよ視界が揺らいできた。足もパンパンに膨張し、走る度に鋭い痛みが駆け巡る。息も切れ、足は鉛のように重くなっていた。それでも、とにかくリキに先導されるままに駆け抜けるしか無かった。

 踏切を超え、ようやく野宮神社を後にしようとしていた。後は嵐山駅前へと続く通りを駆け抜けるだけだ。ひたすら走り続けたワシらの視界に、ようやく嵐山駅が見えてきた。

 だが、駅に近付くにつれ、何か只ならぬ異変が起きていることに気付かされた。明滅する赤い光に不安が一気に掻き立てられる。明滅する赤い光の正体は遠くからでもすぐに判った。それはパトカーの赤い光だった。

◆◆◆30◆◆◆

  間違い無く何か、大きな出来事が起きている。不安が体中を駆け巡る。背筋を悪寒が駆け巡り、不安な気持ちが一気に膨れ上がる。叫ばずには居られない程に動揺していた。

「……妙に駅前が賑やかだな。ここで大樹の身に何か起きたのか?」

  追い打ちを掛けるかのような、リキの一言にワシの不安は最高潮に達していた。

「大樹が!?」

「ああ、おい! ロック、待てって!」

「大樹! 大樹ーーっ!」

 ワシはとにかく走った。足はこれ以上無い程に膨れ上がり、呼吸をする度に肺が酷く痛んだ。滝のように汗が流れ出て来るが、そんなことに構ってなんか居られなかった。弟を、大樹まで奪われて堪るものか!

 だが、そんなワシの切なる願いさえも嘲笑うような光景が繰り広げられていた。近付くに連れ、事態の深刻さが浮き彫りになってゆく。

 駅前に立ち並ぶ数台のパトカー。警察官達の姿も数多く見受けられた。その中にはおかんの姿もあった。一瞬にしてワシの脳裏には最悪の事態が浮上してきた。余りのことに一瞬、視界が揺らぎ、倒れそうになったが、必死で耐えた。そのままワシは、呆然と立ち尽くすおかんの下に駆け込んだ。

 ワシの姿を目にしたおかんは、人形のように血の気の失せた表情のままワシに向き直った。

「ああ、大地。大樹が……大樹が!」

 血の気の失せた表情から一転して、みるみるうちに顔を紅潮させると、おかんは突然泣き崩れた。泣き崩れるおかんの肩を乱暴に揺さぶりながらワシは声を荒げていた。

「大樹が! 大樹がどうしたのじゃ! 一体何があったのじゃ! おかん、教えるのじゃ!」

「大樹が、大樹が突然行方不明になってしまって……。ううっ、皆で必死で捜索しているのだけど、一向に見つからなくて……」

「な……なんじゃと!?」

 最悪の展開だった。突然大樹が行方不明になっただと? いや、行方不明だなんて都合の良い表現だ。姿が確認出来なければ行方不明という表現でお茶を濁すのが通例だ。もしかしたら……考えたく無かったけれど、既に、殺されているのかも知れない。ワシの身代わりとなって! 先刻聞いた大樹の悲鳴……あれは、大樹の……大樹の断末魔だったのかも知れない!

 もはや、ワシには冷静に物事を判断するだけの頭は残されていなかった。激情に駆られ、ただただ激しい怒りに支配されようとしていた。

 恐怖心など消え失せてしまった。あるのはただ、果てしない怒りだけだった。誰がやったかなど自明だ。あの薄気味悪い坊さん達の仕業に違いない。ああ、そうさ。竹林の異変とて、あいつらの仕業だ。全部、全て、あいつらが悪いんだ。あいつらがワシから何もかもを奪おうとしているのだ。許す訳にはいかなかった。一人残らず撲殺するまでワシは引き下がるつもりは無かった。どんなに許しを請うても許さない。例え、ワシの身に何が起ころうとも、もはや、一歩も後には退けない。ワシの身がどうなろうが、そんなことはどうでも良かった。

「許さないのじゃ……。絶対に……絶対に許さないのじゃーー!」

「おいっ! ロック、落ち付けって! 今、コタ達もこっちに向かっている!」

「退け! そこを退くのじゃ! 邪魔するならば、お主とて許さないのじゃ!」

 ワシは怒りに身を任せてリキに暴言を浴びせていた。だが、それでも、リキは大きく手を広げたまま首を横に振るばかりだった。

「オレは退かねぇ! 絶対に退かねぇっ! 単独行動を起こせば、あいつらの思い通りになっちまう! 駄目だ……ロック、どうか思い留まってくれっ! オレはお前を失いたく無い!」

「退けと言っているのじゃーーっ!」

 ワシは必死の力を篭めてリキを殴り飛ばした。それでもリキは必死にワシにしがみ付き、走り出そうとするワシを全力で阻止しようとした。

「離せ! 離すのじゃーーっ!」

「駄目だ! 絶対に離さねぇ! 頼む、ロック! オレの言うことを聞いてくれ!」

「黙れ、黙れ、黙れーーっ! 大樹に……大樹に何かあったら、責任、取れるのかーーっ!」

 ワシは必死だった。大樹のことで頭がいっぱいになっていて、まともな判断が出来なくなっていた。焦りと不安、どうしようもない怒りが入り混じって、気が付けばリキにとんでもない暴言を浴びせていた。口にしてから、何て事を言ってしまったのかと思わず息を呑んだ。

「そん時は詫び入れて、オレのこの命、投げ捨ててやるよっ!」

「なっ!? り、リキ……」

 リキの言葉にワシは雷に撃たれたような感覚を覚えた。力一杯叫んだ後で、リキは静かに崩れ落ちると、そのままワシの両足をしっかりと掴んで見せた。

「だから……頼む、ロック。どうか……どうか、オレの我儘を聞いてくれ……」

 異様な光景だった。突然の出来事に、周囲の警察官達も動揺を隠し切れない様子だった。おかんも驚いた表情を浮かべていた。ワシは皆に向き直り、頭を下げた。

「お騒がせして済まなかったのじゃ」

「まぁ、力丸ちゃん、ごめんなさいね、大地が乱暴な真似をして……」

「へへっ、こんなのかすり傷だぜ。それよりさ、おばさん、大樹が居なくなったのは何時頃なんだ?」

「ええ……。それが、そろそろお風呂にお入りなさいと、声を掛けに行った時には既に姿が見え無かったんよ。学校からは真っすぐ帰って来はって、その後はずっとお部屋に居ったハズなんやけど……」

 可笑しな話だった。一階にある部屋ならばともかく、二階にある部屋から外に出るのは無理があり過ぎる。それに、先刻聞こえた悲鳴……。どう考えても大樹自身の意思で部屋を抜け出したとは考え難かった。だとすると一体何が起きているのだろうか?

「今、お父さん達が車を走らせて、山の方を探しに行ってはるわ」

 ワシはリキと顔を合わせ、一旦、野宮神社に向かうことにした。

「おかん、少しだけお話をしてくるのじゃ。じゃが、すぐ戻ってくるでの。心配は御無用じゃ」

「おばさん、大樹が戻ってきたら連絡くれよな!」

「ああ、ちょっと! 大地!」

 ワシはおかん達に背を向けたままリキと共に歩み出した。伝えたい言葉、沢山あった。謝りたい気持ちも一杯あった。だけど、必死で堪えていた。今、口を開けば言葉では無くて、涙があふれてしまいそうだったから……。

「ロック、大丈夫か?」

 口を真一文字に結び、険しい表情を称えたまま歩むワシに不安を覚えたのだろう。だが、どうしても口を開けなかった。だからワシは表情を崩さぬまま、首を縦に振って見せた。

「そ、そっか。なら良いんだけどさ……」

 そのままワシらは野宮神社へと続く細道へと入った。辺りはすっかり暗くなっている。普段は活気にあふれる駅前の通りでさえも人気が失われている今、この道を通る者は誰もいない。周囲に人の気配が無いことを見届けたワシは、リキに先刻の乱暴な振舞いを、非礼を詫びようと向き直った。

「り、リキ……」

「お、おうっ。どうした?」

 多分、緊張の余り、酷く強張った顔をしていたのだと思う。リキはワシの強張った顔を見て、怒っているのかと勘違いしてしまったのかも知れない。少々動揺したような、退け腰な振舞いを見せていた。

 とにかくワシは先刻の振舞いを詫びたかった。ただ、一言「ごめん」と言いたかった。本当に短い言葉だ。たったの一言だ。だけど、言葉は出て来なかった。代わりに涙が後から、後からあふれ出て来た。

「ろ、ロック!?」

 堪え切れなくなったワシは、そのままリキに抱き付いていた。抱き付いて、そのまま声を張り上げて泣いた。

「お、おいおい、一体どうしちまったんだよ!?」

「リキ、本当にごめんなのじゃ……。痛かったじゃろ? ワシ、頭に血がのぼっておって……」

「へへ、気にすんじゃねぇっつーの。ロックを失う痛みに比べたら、あんなの全然大したことねぇぜ。だからさ、もう、泣くんじゃねぇよ」

 リキは歯を見せて笑った。何時もと変わらぬ豪快な笑い声に救われた気がした。

「う、うむ……。そうじゃな」

「それにさ、泣いている暇があったらさ、大樹を探しに行こうぜ!」

 とは言ったものの、何をどうすれば良いのか、まるで考えが浮かんでこなかった。所詮、ワシは非力な存在に過ぎない。何かを為し遂げることも出来ない、弱い存在に過ぎなかった。思わず俯くワシに向き直るとリキが優しく笑い掛けてくれた。

「なぁ、ロック。嵐山旅館に戻るってのはどうだ?」

「大樹を探すのを諦めるということかの?」

 思わず目を見開くワシの額をコツンと叩きながら、リキが苦笑いを浮かべる。

「そうじゃねぇよ」

「じゃ、じゃが……」

「もしかしたら、ひょっこり嵐山旅館に戻ってくるかも知れねぇだろ?」

「むう……」

「それにさ、今、嵐山旅館には誰も居ねぇんだろ? そんな状態でさ、ひょっこり帰ってきても、なんつーか、寂しいじゃねぇかよ? だからさ、オレ達でさ、帰って来た大樹を、盛大に迎え入れてやろうぜ!」

 満面の笑みを浮かべて見せるリキに、ワシは思わず吹き出してしまった。

「お主は本当に暑苦しい男じゃのう。思わず、惚れてしまいそうになったのじゃ」

「マジか? へへっ、オレ、ロックの愛人でも良いぜ!」

 可笑しそうにゲラゲラ笑うリキの口を慌てて両手で押さえながら、ワシは慌てて周囲を見回した。大丈夫だ。周囲には誰もいない。誰も見ていなければ、誰も聞いていないハズだ。

「お、大きな声で、可笑しなことを言うで無いのじゃ! あ、愛人だなんて……何だか、人聞きが悪いのじゃ」

 取り乱すワシを腕組みしながら、リキは見つめていた。ついでに声を挙げて笑いながら、ワシの肩に腕を回して見せる。

「へへ。とにかくさ、嵐山旅館に戻ろうぜ。それにさ……もう、汗だくだろ? こんなベタベタな状態じゃ、まともな考えも浮かんで来ねぇよ」

「じゃが、良いのじゃろうか? 皆が必死に捜索しておるのに、ワシらだけ悠々と過ごしておって……」

 再び俯くワシとは対照的に、リキはワシの肩に腕を回したまま豪快に笑って見せた。

「だからこそ、オレ達は休息を取って置くのさ」

「にゃんと!?」

「良いか、ロック? 人は機械じゃねぇから、四六時中動きまわるなんて不可能な話だ。捜索隊だって何時かは限界が来る。そしたら、その時こそオレ達の出番だぜ?」

「ふむふむ。なるほどなのじゃ」

「オレ達は最後の砦になるんだ。な? そう考えれば、可笑しな考えでもねぇだろ?」

 必死になってワシを気遣ってくれるリキの心意気が本当に嬉しかった。あまりにも嬉しくて、また、涙が込み上げて来てしまった。

「あ、ありがとうなのじゃ……」

「お礼は、何か美味いもんでも腹一杯食わせてくれれば、それで良しとするさ」

「ふむ。それでは、嵐山旅館に向かうとするのじゃ」

「おう! 張り切って行こうぜ!」

 リキは歯を見せて笑いながら、豪快に腕を振り上げて見せた。気合も十分だ。

 こうしてワシらは嵐山旅館を目指すことにした。途中、警察の人達と共に大樹を探しているおかんにも事情を説明し、ワシらで嵐山旅館の留守を守る旨を伝えた。後は嵐山旅館に戻り、大樹の帰還を待つだけだ。

◆◆◆31◆◆◆

 物々しい警備態勢の敷かれている嵐山駅前を後に、ワシらは単身、渡月橋へと足を進めていた。駅前の店は何処も店仕舞いを終えて、祭が終わった後のような寂しげな情景が広がっていた。行き交う人々も殆ど見られなくなり、店の従業員達が後片付けしている姿だけが時折目に留まる程度だった。

 渡月橋前の信号も静まり返っている。この辺りは普段は大勢の観光客達が集う場所で、賑わいを見せる場所となるが、やはり夕暮れ時を過ぎると静まり返る。立ち並ぶ店は軒並みは明かりも消えて静かに佇むばかりだった。人力車のお兄さん達の姿も無くなり、物悲しい気持ちを後押しするような光景だった。響き渡るのは大堰川の流れる音色と虫達の鳴き声だけだった。

「いやー、気持ち良い位に人気がねぇなー。これなら、道路に大の字になって寝転んでも誰にもお咎め受けねぇよなー」

 沈みがちなワシを気遣って、目一杯、陽気に振舞ってくれるリキの想いが嬉しかった。

(ああ、駄目じゃ、駄目じゃ! ワシがこんなでは全然駄目なのじゃ!)

「それでは、手始めにワシが寝転がるのじゃー」

 ワシは道路に倒れ込むように横たわって見せた。予想外の行動に驚いたのか、リキは目を大きく見開き、慌ててワシを起き上がらせた。

「うぉっ!? ま、間に受けるなっつーの! いきなり車が突っ込んできたら、ペシャンコになっちまうぜ?」

「にゃはは、それは困るのじゃー」

 辺りはすっかり暗くなっていた。渡月橋を照らし出す穏やかな光を見つめ続けながら、ワシらは信号を渡り切った。視界の先には渡月橋の向こう側に佇む宿泊施設が煌々と光を称えている。夏の夜に虫達が光を求めて飛び回る気持ち、少しだけ理解出来た気がする。何も無い暗闇の中では人はどうにも不安な気持ちを駆り立てられるらしい。例えそれが偽りであっても、光に導かれるというのは、人が生き物である証なのだろう。イヤ、命を失った者達もまた光を求めて彷徨う。結局、誰もが皆、光を求めているのは事実なのだろう。

「それにしても、中々に物々しい光景だったな」

「ここのところ可笑しな事件が多発しているでの。警察の方々も大変なのじゃ」

「まぁ、自業自得のオカルトマニア共が、どうなろうが知ったこっちゃねぇけどな」

 闇夜に包まれた渡月橋は人通りが全く無かった。夜間の渡月橋は昼間と比べると薄暗くなる。仄かに照らし出す明かりも備わっているが、それでも、気を付けないと橋から転落する危険性さえある。だから、ワシらは少々速度を落とし、足元にも気を配りながら歩き続けていた。

「そういえばコタ達は今、どの辺りだろうな? ちょっと電話入れてみるか……」

 携帯を手にするリキの表情が段々険しくなってゆく。

「ありゃー? おかしーなぁ。全然、繋がらねぇし……」

 耳から離し、画面をシゲシゲと睨んでいたリキが唐突に驚きの声を挙げる。

「うぉっ!? 圏外になっているし! マジか!? 嵐山って、そんなド田舎じゃねぇよな?」

「無礼なことを申すで無いわ」

 リキにツッコミを入れるものの、不安な気持ちは払拭し切れなかった。

「この状況、昨日と同じなのじゃ……」

「あー。昨日、テルテルに電話したけれど、途中で切れちまったって話か?」

「ううむ。何とも嫌な感じじゃな……」

 思わず立ち止まるワシの肩をリキが豪快に叩いて見せた。

「ほらほら、そんな顔すんじゃねぇよ。携帯なんざ繋がらなくたって、オレ達は心で繋がっているだぜ? 信じようぜ。コタ達のことをさ」

 目一杯、良い男を演じようとするリキの厚かましさが可笑しくて、ワシは思わず吹き出した。

「にゃはは。やはり、お主は暑苦しい男なのじゃ」

「暑苦しい男じゃねぇよ。熱い男だっつーの」

「暑苦しい男なのじゃー」

「熱い男!」

「暑苦しい男なのじゃー」

「暑苦しい……あ、ありゃ!?」

「ほれ、やっぱり暑苦しい男なのじゃ」

「……うがー!」

「にゃー!? リキが怒ったのじゃー」

「待て、コラ! 亀岡直伝のベアハッグ喰らわしてやる!」

 二人でくだらないお喋りを続けているうちに渡月橋を渡り終えた。後は道なりに歩んでいけば嵐山旅館に到達する。結局、非力なワシは皆の協力を仰ぐことしか出来ない。自ら立ち向かう力を持っていないというのは、こんなにも悔しいものだとは思いもしなかった。ただ、ワシに出来ることを全力で為し遂げよう。それが、協力してくれる皆達へのせめてもの礼だと思えたから。

「さてっと、ようやく到着したな。お? 明かりもバッチリ灯してあるな」

「例えお客様がいなくてもこうして明かりを灯しておくのじゃ。薄暗い旅館では何だか辛気臭いでの」

「良いんじゃねぇの? 真っ暗な嵐山に佇む灯台になってやろうぜ。思い切り明るくしてさ、大樹が何処にいても判るように目印になってやろうぜ!」

 そう言いながら、何かを思い付いたのか、満面の笑みを浮かべながらワシに向き直ると

「へへっ、京都タワーに負けねぇ位、目立ってやろうぜ」

 体もでかければ、言うことのスケールもでかい。だけど、その心意気にワシは勇気付けられた。

「おお! 良い考えなのじゃ。ふむ。それでは、風呂から上がったら全力で明るくするのじゃー」

「わはは、良い感じだ。その意気だぜ、ロック」

「うむ。では、ワシらは風呂へと向かうとするのじゃー」

 皆、本当にありがとう。ワシは皆と家族で居られることを本当に嬉しく思う。さて……汗を流して、ワシらは大樹の無事を祈りつつ、ひたすら待ち侘びるとしよう。そう考えながら、ワシは一歩、歩み出した。その瞬間、唐突に視界が揺らいだ。立っていられない程に激しい眩暈を覚え、ワシはその場にうずくまった。

「お、おい、ロック、大丈夫か!?」

 異変は終わらない。唐突にワシの記憶から大樹の顔が消え失せた。必死で手繰り寄せようとするが思い出せない。『忘却』……! おかんの顔が、おとんの顔が、爺ちゃんの顔が、白く、白く染め上がってゆく。駄目だ。家族の顔を忘れるなんて有り得ない! 嫌だ……。嫌だ! 家族を、ワシの家族を失う訳にはいかない! 必死で記憶を手繰り寄せようとする。だが、そんなワシを嘲笑うかのように、記憶は音を立てて消え失せてゆく。『忘却』が、今、まさにワシを呑み込もうとしている。

「あ、ああ……。い、嫌じゃ……」

「ロック、しっかりしろ!」

「ああ、皆の顔が……白く、白く! うわあああーーーーっ!」

「ロック! おい、大丈夫か!?」

 必死でワシを揺さぶるリキの顔も、みるみるうちに白く、白く染め上がってゆくのを目の当たりにしてしまった。

「り、リキの顔も……真っ白に!?」

 もう、何も考えることなんて出来そうに無かった。このままワシ自身も忘却されてしまうに違いない。嫌だ。死にたく無い。まだ、死にたく無い! もっと、もっと、生きていたい。だから、だから、忘却しないでくれ! ワシは気が狂わんばかりに叫ぶことしか出来なかった。忘却されることの恐怖に耐えることが出来そうも無かった。

◆◆◆32◆◆◆

 力丸から連絡を貰った頃には既に大分日も落ちていた。夕方から夜へと移り変わる中、俺は輝と共に四条通を駆け抜けていた。相変わらず人通りが絶えなかったが、それでも、俺達は四条大宮を目指して駆け抜けていた。一刻も早く嵐山に向かわねば。クロに大見栄切った手前、いきなり最初から白旗をあげるつもりは無かった。

「やっぱり予想通りの展開になっちゃったねー」

「これで、大暴れする大義名分を手にすることが出来たという訳だ」

「おー? コタってば強気だねぇ」

 輝は上機嫌そうにケラケラ笑って見せた。

「まぁ、戦う前から退け腰じゃあ、勝てる戦いも勝てなくなるよね」

 力丸から連絡を貰った段階で俺はすぐさま太助達にも連絡を入れた。何時もの如く賢一さんがバイクをぶっ放してくれるそうだ。一刻も早く現地に辿り着くためには効率を重視する必要がある。そう考えれば、別行動になってしまうのも止むを得ない。何しろ醍醐から嵐山までは、どう頑張っても相当な距離がある。太助を待っていたのでは手遅れになり兼ねなかった。

 夕暮れ時は物憂げな風情が漂い四条通も賑わいを見せる。多くの人が往来する四条通をひたすら走り続けていた。南座前の信号を駆け抜け、四条大橋を駆け抜ける。夜の表情を見せ始めた先斗町通りに興味を惹かれながらも俺は走り続けた。

  往来する人の流れを縫うようにして、ただ一心に走っていた。事態は一刻を争うというのに、何故にこんなにも人がいるのか。道を塞ぐな。行く手を阻むな。邪魔立てするならば、無差別に斬り捨てるだけだ! もしも、今、手に刀を握り締めていたならば、片っぱしから斬り捨ててでも活路を切り開いたことだろう。見知らぬ他人がどうなろうが、俺に取ってはどうでも良かった。見知らぬ他人数十人よりも、掛け替えの無い大切な仲間一人の方が遥かに大事だ。

 河原町の駅前に差し掛かった所で不意に輝に手を引かれた。突然の出来事に、一気に意識が現実に引き戻された。驚いた俺は思わず輝の顔を覗き込んだ。輝はやれやれと言いたげな苦笑いを浮かべてみせた。

「もう、コタってば、本気で急ぐならば、此処から電車に乗った方が早いよ?」

「む? そうなのか?」

 思わず眉をひそめれば、輝はますます困ったような笑みを浮かべて見せた。

「えっと……もしかして、全力で走るつもりだったの?」

 い、いかん……。俺はまたしても脳味噌筋肉男になってしまう所であった。距離的には大した距離でも無いことを考えれば、全力で走り抜ければと考えていたが……。返答に窮する俺をジッと見上げたまま輝が眉をひそめる。ついでに、聞こえるように大きく溜め息を就いてみせた。いつもと立場が逆転するのはどうにもやり辛いものがあるが、少なからず、今回は輝に軍配が上がっている。俺の敗北は自明だった。

「あのねー、ぼくが体力的に劣っているとか、そーいう以前に、電車使った方が早いと思うんだよね」

「そうなのか?」

 ただ言われたままなのも悔しかった俺は、せめてもの抵抗でとぼけた振りをして見せた。だが、

「もう、コタってば何でもかんでも体力で片付けようとするの、止めた方が良いと思うよ?」

 バッサリと一刀両断された俺は、ショックの余り、その場に凍り付いてしまった。

(……人を斬ったつもりが、まさか、斬られたのは俺自身だったのか?)

「うわっ! も、もしかして……派手にショック受けちゃった? ああ、ほらほら。飴ちゃん上げるから、機嫌直して。ね?」

「……輝、お前、いつから大阪のオバハンになった?」

 笑いながらポケットの中から飴玉を取り出す輝に、俺は言葉を失った。

(しかも、お前の体温を感じる飴玉を差し出すとは……。輝よ、お前は一体どれだけマニアックなシュミの持ち主だ。俺を倒錯不能のめくるめく甘美なる深淵へと誘うな)

「倒錯不能? めくるめく甘美なる深淵? え、えっと……」

「な、何でもない。そ、そんなに退くな……」

「こ、コタってば、もしかして……欲求不満だったりする?」

「……本気で締め落とすぞ?」

 何とも緊張感の無い、緩いやり取りをしながら、俺達は地下へと続く階段を駆け降りた。

 河原町駅から大宮駅まで移動する。大宮駅まで着いてしまえば四条大宮は目と鼻の先となる。なるほど……。こういうルートもあるのか。今後、嵐山に出向く際の参考にするとしよう。ふむ。また一つ賢くなったな。

 列車に揺られながら、しばしの時を過ごすこととなった。とは言え、大宮までは直ぐに到着する。軽く列車に揺られているうちに気付けば到着しているだろう。

「でも、ぼく達二人だけだから、情鬼達に襲撃されたら逃げ回るしか無いよねー」

「まぁ、そうなるな。残念だが俺は戦う力を持っていないからな」

 ふと、隣に目線を投げ掛ければ、何やら妙に自信に満ちた表情を浮かべている輝が目に留まった。また、何か可笑しなことを考えていなければ良いのだが……。毎度のことながら、輝が自信に満ちた表情を見せる時は、ろくでもないことを考えているのが殆どだ。

「えへへ。何かあったら、ぼくが守ってあげるからね」

「ほう? それは心強いな。よしなに頼む」

「任せておいてー」

(お前に任せるのは途方も無い不安を伴うのだが……などと、要らぬことを口にしない方が身のためか)

 大宮駅に到着した俺達は改札を抜けて地上へと向かった。丁度、地上に出ると、目の前には四条大宮の大きな交差点が広がっている。なるほど。確かに、四条大宮の駅まですぐの場所に出るようだな。そんなことを考えていると、信号が青から赤になる。やれやれ。しばしの間、信号待ちか。信号待ちついでに、俺は気になっていることを輝に問うてみることにした。

「そういえば、嵐山の状況はどうなっている?」

「うん。それなんだけどね、何回連絡してもリキに繋がらないんだよね。ほら、昨日と同じ状況になっちゃっている感じだよね」

「なるほど。俺達との分断化を図っているつもりか。相変わらず姑息な奴らだな」

 それにしても……泣き女郎の一件から輝は随分と変わった気がする。以前の輝ならば大地の身を案じ、焦りと不安から派手に取り乱していたことだろう。だが、今の輝は、動揺した素振りすら見せない。随分と余裕のある振舞いに俺は微かな違和感すら覚えていた。

「さて、それじゃあ張り切って電車に乗ろう。ぼく、切符買ってくるね」

「あ、ああ……」

 輝は何時もと何ら変わらない振る舞いを見せていた。泣き女郎との一件を経て随分と気持ちが大きくなったとでも言うのだろうか? 確かに、誰の目から見ても動揺を隠し切れない程に壮絶な体験をしたのは事実だ。そう考えると少々のことでは動じなくなったのも頷ける。

 考え込んでいると不意に肩を叩かれた。振り返れば、輝が満面の笑みを浮かべたまま切符を差し出した。

「はい、切符買って来たよ。それじゃあ、早速向かうとしよう」

「ああ。注意を怠らないようにしつつ向かうとするぞ」

 俺達は駅のホームで列車を待った。数分もしないうちに列車がホームに訪れる。俺達は急ぎ、電車に乗り込んだ。ガランとした車内は静まり返っていて何処か不気味に感じられた。心なしか妙に薄暗いようにも感じられた。車内を見回してみたが、どうやら乗客は俺達二人だけらしい。何とも不気味な雰囲気が漂っているが後には退けない。クロの力を借りずに自分の力を試してみようと言ったのは俺自身だ。だからこそ、絶対に退く訳にはいかなかった。

 程なくして列車が動き出す。夜半の街並みへと繰り出してゆく列車に揺られ、俺達の嵐山への旅路が始まろうとしていた。俺の傍らに腰掛けた輝は、何やら妙に上機嫌な素振りを見せるばかりだった。不思議そうに見つめる俺の目線に気付いたのか、輝が上目づかいに俺に向き直る。

「何でこんなに落ち付いているか、不思議に思っているでしょ?」

「え? あ、ああ……。そうだな」

 俺の返答に、輝は可笑しそうに笑って見せた。笑いながらも静かに目線を落とした。

「本当はね、凄く不安なんだ」

 静かに呟く輝の言葉に呼応するかのように列車がガタガタと揺れ動く。俺は窓の外に映る情景に何気なく目線を投げ掛けていた。列車はただ静かに夜半の街並みを駆け抜けてゆく。

「それにね、ロックを泣かせた情鬼のこと……問答無用でズタズタにしてやりたい位の気持ちなんだよねー」

 にこやかな笑顔とは裏腹に壮絶な言葉を口にしてくれる。俺は輝の笑顔に薄ら寒いものさえ感じていた。落ち付いている訳では無かった。ただ、感情を抑え込み、湧き上がる殺気を静かに蒸留しているように思えた。その立ち振舞い方は泣き女郎、美月の立ち振舞い方と良く似ているように思えた。

 美月は本当に手強い相手だった。一度取り乱しても、すぐさま冷静さを取り戻す。虎視眈々と相手の動きを見据え、的確に弱点を突いて来る。姑息な戦術を好む奴ではあったが、あの異様なまでの冷静さは実に恐ろしい相手だった。蠱毒の使い手……否、あいつの戦い方はむしろ、暗殺者のような振舞いに近かったと思える。

「それにね、今はコタが隣に居てくれるからね。それが、何よりも、ぼくを心強くさせてくれているんだよ」

「……機嫌を取るのが上手くなったな」

「あー、そういうこと言っちゃうの?」

「嫌な奴だろう?」

「その手には乗らないよ」

 輝は可笑しそうに笑ってみせた。

「ここで嫌な奴だと言えば、コタが喜ぶだけだからねー」

「手強くなったな」

「まぁね。ぼくも、少しは成長したってことかもねー」

 もともと静かな街並みの中を走り抜けている路線ということもあり、夜になると、本当に窓の外は殺風景な景色が広がるばかりとなる。過ぎ去ってゆく街明かりを見送りながらも、列車は何事も無かったかのように走り続けている。

 俺は窓の外を流れゆく景色をただ静かに眺めていた。変わり映えしない街の情景。だけど、変わらない物こそが本当に大事なのだということに最近気付かされた。一度情鬼が暴れ出せば、変わらない日常は容易く砕け散ってしまう。何でも無いことが、実は本当の幸せなのだ。そんなことを呆然と考えながら窓の外を見つめていた。

 何時の間にか輝の手が俺の手に重ねられていた。ちらりと輝の顔を覗き込めば、相変わらず上機嫌そうに笑うばかりだった。それならばと俺は輝の手をシッカリと握り締めてやった。

(まぁ、此処での出来事は内密にしておくとしよう)

 駅に立ち止まり、再び駅を発つ。しばらく走り続ければ、また次の駅に立ち止まる。それの繰り返しだった。時間帯は夜。周囲は暗闇に包まれていて、建物や街灯、車や看板の人工的な明かりだけが街並みを温かく照らしていた。何事も無く走り続ける列車の中、俺達はただ静かに揺られていた。時ばかりが静かに流れ去ってゆく中で列車は何事も無く進み、帷子の辻に到着しようとしていた。

「此処までは何事も無かったか……」

 嵐山まで大分近付いてきた。そう考えていると、帷子の辻の駅は随分と人の姿が見受けられた。他の駅では全く人の気配が感じられなかったのに、何故、この駅だけこんなにも人があふれているのだろうか? そんな疑問を抱きながら駅を見回していると、輝も異変に気付いたらしい。

「アレ? 何か、妙に人だかりが出来ちゃっているね。何かあったのかな?」

「……やれやれ。何か、可笑しなことでも起きたとでも言うのか?」

「とにかく降りて、何が起きたか調べてみよう」

「そうだな」

 結局、列車は動くことは無かった。駅構内には列車の運転を見合わせているというアナウンスが事務的に響き渡るばかりであった。

(やれやれ……。見事に足止めを喰らってしまったな)

 なるほど。どうも、情鬼という奴らは姑息な手段を好む奴らが多いらしい。僅かでも目的を果たす上で妨げとなる俺達は、そもそも近付けないという考えか。確かに、考えようによっては最も妥当な策とも言えるだろう。

 何時の間にか姿の見えなくなった輝は、さっそく駅員に事情を問い合わせていた。

「ふふ、輝も随分と頼もしくなってしまったな。これでは、俺の方が置いてけぼりか」

 そんなことを考えていると、何やら輝が困った表情で俺の下に戻って来た。やれやれ。これは、本格的に、何か可笑しなことが起きていそうだ。

「信じられないことに人身事故だって。お陰で、帷子の辻から先は復旧作業中に付き、現在、運転見合わせ中だってさ」

「何だと? 何処かの馬鹿が車で踏切にでも突っ込んだのか?」

「それがね、ちっとも要領を得ないんだよね」

 輝は苛立ち混じりに、ちらちらと横目で駅員を睨み付けながら続けて見せた。

「何かを隠しているみたいでさ、言っていることがあやふやなんだよね」

 輝は腕組みしたまま、何かを静かに考え込んでいるように見えた。

「無理矢理にでも白状させちゃおうかな」

「お、おい……。ボソっと不穏な発言をするな」

「えへへ、冗談だよ。ぼく、もうちょっと調べて来るね」

「ああ。余り無茶なことをしてくれるなよ」

 それにしても人身事故とは……。まぁ、それは「生きている人」の仕業と限った訳ではない。何しろ、帷子の辻は古き時代には化野への玄関口だった場所だ。ここは生者の住む世界と死者の棲む世界との境界線ということになる。それに、敵は彷徨える魂を操る者。実に簡単な話だろう。線路上に人の死体を「再現」すれば良いだけのことだ。それだけで混乱を起こすには十分な威力を発揮するだろう。特に暗がりの中では明確に確認することも難しい。唐突に「死体」が消え失せ、血痕だけが残されれば現場はますます混乱するだろう。警察も容易く事情を判断出来ずに、復旧までに相当の時間を要することになる訳か。全く……情鬼の分際で、随分と世俗に塗れたことを考えるものだ。未だに人であった時代の記憶でも残しているとでも言うのか?

「中々鋭い推理であるな」

 不意に背後から声を掛けられて、俺は息が止まりそうになった。驚きついでに、ゆっくりと振り返った。

「……クロ?」

「コタが我に救いを求める声が聞こえた気がしてな」

 腕組みしながらクロはにやりと笑って見せた。

「もしかして、俺が心配でずっと監視していたのか?」

「……さてな?」

「随分と過保護なことだ」

「ふふ、そういうことにしておいてくれよう」

 可笑しなやり取りを交わしながら、思わず二人で顔を見合わせ笑った。

「だが、笑っている場合では無い。俺達は一刻も早く嵐山に向かわねばならない」

「ふむ。交通手段が失われた以上、如何ともし難い訳であるな」

 クロは可笑しそうに笑っていたが、俺からすれば笑い事では無い。大地を援護するため、何としても嵐山に向かわねばならない。そんな切なる想いなど最初から見抜いていたのだろう。相変わらず性悪な奴だ。

「済まないが俺達を嵐山まで運んでくれないか?」

 これはクロに手を借りる他無い。そう判断した俺は嵐山まで運んでくれるようクロに頼むことにした。

「ふふ、我は『タクシー』では無いのだがな?」

 したり顔で返されれば、こちらも反論する術を失うというものである。返答に窮する俺を満足そうに見届けたところで、クロが静かに手を挙げる。その振舞いに呼応するかのように、唐突に、強い風が吹き抜けた。余りの風の勢いに俺は思わず目を伏せた。再び目を開いた時には、クロの背後に二人のカラス天狗が佇んでいた。

(何時の間に!?)

 クロよりも立派な体格を誇る、見るからに屈強なカラス天狗達であった。

「この者達は太郎坊のカラス天狗達よ」

「太郎坊? 夕方、話していた愛宕山に棲むというカラス天狗達か?」

 クロに問い掛ければ二人のカラス天狗達が俺の前に歩み出る。二人並ぶと、さながら仁王門の阿形、吽形のような姿に見える。腕組みしながら向き合う姿には確固たる迫力を感じていた。見た目そのままに武術にも長けているのだろう。

「嵐山まで同伴してくれるそうだ。有難く力を貸して貰おうぞ。それでは、阿形、吽形、よしなに頼むぞ」

(そ、そのままの名前なのか……)

 丁度、そこに駅員に状況を確認していた輝が戻って来た。

「駄目だねぇ。電車、復旧の見込み無いみたいだって。困ったねぇ……って、アレ? クロがいるよ?」

 クロに気付いた輝が嬉しそうに駆け込んできた。駆け込みついでに、二人のカラス天狗の存在に気付いた輝は目を丸くして驚いていた。

「こ、この、物凄く素敵なお兄さん達は、ど、ど、ど、どちら様ーっ!?」

「……輝、何をそんなに興奮している?」

「うわぁ、な、なんて格好良い! ああ、ぼ、ぼく、輝って言うんだ。よろしくね!」

 満面の笑みで輝が手を差し出せば、にこりとも笑わずに阿行、吽行がそれぞれ手を差し出した。一人、異様に盛り上がる輝に阿行、吽行兄弟は引きつった表情を浮かべていた。

「そ、それでは、済まぬが俺達を嵐山まで運んで貰えるだろうか?」

 俺の問い掛けに阿行が一歩前に出る。

「……我が輝を運ぼう」

「うわぁ、ドキドキするなー。阿行、よろしくねー!」

 やたらと盛り上がる輝を背に乗せると、阿行は力強く羽ばたいて見せた。そのまま駅のホームを抜け、一気に夜空へと舞い上がった。その後に続くように吽行もまた大きく翼を広げると、大空に舞い上がった。

「うわー! 空、飛んでるよ! 凄い、凄い! ああ……感動するなぁ!」

「……おい、輝。目的を見失うなよ?」

 思わずクロと顔を見合わせ、二人で大きな溜め息を就いた。

「コタ、輝は普段からああいう調子なのか?」

「……済まない。後でシッカリと教育しておくから、大目に見てやってくれ」

(ううむ……。輝はカラス天狗という存在に随分と深い興味を抱いている様子だな)

 少々歪んだ興味のようにも思えたが、他人の趣味嗜好に俺が口出しするのも可笑しな話だ。

(まぁ、俺の趣味嗜好にあれこれ口出しされても困るがな)

「む? 趣味嗜好?」

 俺の言葉に興味を示したのか、クロが目を大きく見開きながら笑ってみせた。

「ふふ、欲求不満であるならば素直にそう言えば良かろう」

「……お前、本気で投げ飛ばすぞ?」

「照れておるのか? ふふ、愛い振舞いよの」

「だから……」

「案ずるな。我も欲求不満である身よ」

 満面の笑みを称えたまま放たれた恐ろしい一言に、俺は凍り付いた。

「い、今、この場で、そんな重たい告白をされても困る……」

 次第に遠ざかってゆく輝を見つめながら、俺は大きな溜め息を就いて見せた。段々と表情が険しくなる俺を面白半分に見届けながら、クロは俺を背に乗せて羽ばたいた。

「さて、我らも嵐山を目指そうぞ」

「む? お前も同伴するつもりなのか?」

「ふふ、早くも情鬼の気配を感じるでな。戦いを挑まれれば退く訳にはゆかぬ。さて、輝達に置いて行かれぬよう飛ばすぞ」

 早くも情鬼達が動き出しているとは……。余程気が短い性分なのか、はたまた、俺達を罠に嵌めることが目的なのか? いずれにしても油断は禁物だ。敵の思惑が見えない以上、最大限の注意を払って行動を起こすとしよう。

◆◆◆33◆◆◆

 小太郎から連絡を受けたのは夕暮れ過ぎのことだった。意気揚々と出陣していった力丸が、敢えて救援を求める辺りから察するに、事態は相応に深刻だと受け止めた。だからこそ、俺は早々に賢兄に連絡を入れることにした。

「――という状況らしい」

「おーおー。あー、ナンだっけな。えっと……そうそう、アレだろ。アレ?」

「アレ、アレって……賢兄、オジサン化しているんじゃない?」

「コラ、だれがオッサンだ。ああ、思い出した。嵐山で起きている幽霊騒動の話だろ?」

 電話の向こうから笑い声混じりに聞こえて来る賢兄の声に、俺は大きな溜め息で応えた。

「御名答。さすがは賢兄。相変わらず情報が早いね」

「まぁ、各地に忍ばせた『草』がつぶさに情報を教えてくれるからな」

「各地に忍ばせた『草』、ねぇ……」

 どうも、賢兄は何時もながら浮世離れし過ぎていて、時々着いていけなくなる。色んな意味で時代を先取りし過ぎているのかも知れない。もっとも、俺は賢兄ほどに時代を先取りしなくても良いかと思う。

「それで、大地ちゃんの危機を救うために嵐山に殴り込みってな訳だな?」

「な、何か……表現が妙に物騒なのは気のせい?」

「細けぇことは気にしなさんな」

「……少しは気にしてよ」

 再び溜め息を就くが、相変わらず電話の向こう側からは、賢兄の豪快な笑い声が響くばかりだった。

「それで、醍醐でお前を拾えば良いのかな?」

「そうだね。駅前まで向かうから、そこで落ち合おう」

「ああ、了解、了解。それじゃあ、駅前で待っていてくれ。俺もすぐに向かうからよ」

「うん、判ったよ」

 賢兄に連絡を入れ終えた所で俺は上着を手にして自室を飛び出した。家の外では虫が鳴いているらしく涼やかな声が響き渡っていた。その涼やかな音色とは似つかわしく無い、妙な匂いも感じていた。それは、ジットリと纏わり付く、重たい湿気を孕んだ匂いだった。濁り澱んだ池を思わせる、水気を孕んだ匂いに息が詰まりそうだった。

(早くも始まろうとしているのかな? あくまでも足止めするつもりという訳か……。でも、無駄なことだ。道が無いならば強引に切り拓く。それだけのことだ)

 静かに呼吸を整えながら俺は階段を駆け下りていた。丁度、階段を駆け降りた所で、婆ちゃんが居間からひょっこりと顔を出した。

「おや? 太助、何処かお出掛けかい?」

「うん。ちょっと大地の所に遊びに行ってくるね」

「あら? じゃあ、お夕食は要らないのかしら?」

 少し思案してから俺は応えた。

「そうだね。遅くなるかも知れないからね。残しちゃうのも勿体無いでしょう? だから、俺の分は要らないよ」

「そうかい? じゃあ、気を付けて行ってらっしゃいね」

 見送ってくれる婆ちゃんに「行ってきます」と応えて、俺は家を後にした。家から出ると既に外は日もすっかり暮れようとしていた。夕暮れ時の空を見上げながら歩んでいると何処からともなくカラスの鳴き声が響き渡った。

 玄関の戸を引き、外に出てみれば茹だるような蒸し暑さが一気に押し寄せて来る。夕暮れ時の日差しの中、蝉達が必死で鳴き声を響かせる中を俺は静かに歩き続けた。

 どうやら異変は早くも始まっているらしい。辺り一面から突き刺さるような視線を感じていた。俺は何にも気付いていないフリをして歩き続けた。何者かは判らないが、性質の悪い奴らがちょっかいを出そうとしている。迂闊に相手にすると面倒そうだ。此処は気付いていないフリをするのが賢明だ。

 出来るだけ周囲の気配から意識を逸らしながら歩き続けよう。そんなことを考えながら、酒屋の手前を左手に曲がり、道なりに歩んでいく。小さな立体交差点を抜けて、道なりに歩いて行けば、程なくして木々に抱かれた住宅地に至る。

(そう言えば、数日前に輝と一緒にこの道を歩いたっけな)

 周囲の景色を見回しながら、俺は輝と共に歩んだ情景を振り返っていた。

(また、輝と二人で歩きたいな。今度は……どう睦み合おうか。ふふ、大地に叱られてしまうだろうか?)

 後は団地沿いに坂道を下って行けば醍醐の駅は目前だ。急ごう。一刻も早く嵐山に向かわなければならないのだから。非力な俺には何もしてやれることは無いかも知れないけれど、それでも、傍に居るだけでも違うものだ。少なくても数日前、輝が泊まりに来てくれた時、心が温かな感情で満たされていたのは紛れも無い事実だ。あの時、輝がそうしてくれたように、今度は俺が大地を支えよう。

「さて、先を急ごう。ああ、そうだ」

 時計をちらりと確認しながら、俺は賢兄が到着するまでの大体の時間を計算した。

(予想通り、それなりに待ち時間はありそうだな。これなら、軽く買い物しても間に合いそうだ)

 仕事帰りで賢兄も疲れているだろうし、お腹も空いているに違いない。食料と飲み物を準備しておく位の気遣いは必要だろう。どの道、賢兄と合流するまでの待ち時間が発生する以上、時間は無駄にしたくない。それに、賢兄が食べられなかったとしたら俺の夕食に回してしまえば良いだけだ。

 さて、何が良いだろうか? 緩やかな坂道を下りながら俺は思案していた。

 醍醐の駅まで続く道は何時も通い慣れている道だ。毎朝、この道を経て学校まで向かっているのを考えれば、何ら変わった所は無い道の筈だった。だけど、何故だろうか? 妙に闇が深いように思えてならなかった。俺の中に眠る野生の勘が異変を知らせているように思えた。

(……嫌な空気だな。妙に生臭いような、重苦しいような感覚さえ覚える)

 相変わらず周囲からは妙な視線を感じる。嵐山は、大地は無事なのだろうか? 不安な気持ちだけが膨らんでゆく。だが、それでも前に進むしかない。気を取り直して俺は再び道を歩き始めた。

 夕暮れ時の街の景色を見つめながら歩き続けた。一日が終わってゆく。そんな、どこか物憂げな景色は俺自身を象徴しているみたいで、どこか居心地が良く感じられた。

 相変わらず周囲からは無数の視線を感じている。一体何者なのだろうか? 少なからず好意的な存在では無い事は間違いない。

 見慣れた景色の中を、ただ静かに歩んでいた。確かに、そこに潜む異質な存在の気配はあったが、それでも前に進むしかない。暮れゆく夕日に想いを馳せながらも俺はただただ歩き続けた。

 長く続く、緩やかな坂道を下り終えれば賑わいを見せる醍醐駅前に到達する。駅前には団地が立ち並び人々も大勢暮らしている。

 俺の住んでいる場所、つまりは醍醐寺の周辺は昔ながらの日本家屋が立ち並ぶが、駅前は都会的な印象さえ受ける。アルプラザも大規模な店構えだ。日頃、婆ちゃんも良く使っている店に俺も足を運んでみることにした。自分から食料品の買い物に出掛けることは珍しいことだが、まぁ、たまには悪く無い。

「さて、早々に買い物を済ませて賢兄を待つとしよう」

 主婦達が往来するアルプラザに足を運ぶのは少々気恥ずかしい気もしたが、それでも俺は前だけ見つめて歩き続けた。飲食店が立ち並ぶ入口付近を抜ければ食料品売り場に至る。俺はカゴを手に取った。後は手際良く買い物を済ませるだけだ。ガラス張りの自動ドアを抜けて、往来する主婦の流れに乗るようにして店内へと足を進めた。

 普段訪れることの無い場所を訪れるという行動は、新天地の開拓と同義だと、個人的には思っている。こうやって見知らぬ場所に足を踏み入れる。その度に世界が広がってゆく。悪く無い気分だ。俺は大きく深呼吸しながら周囲を見回してみた。店内は夕暮れ時ということもあり活気に満ちあふれていた。中には子供連れの主婦もいて何だか妙に浮いている自分の存在に少々気遅れすら覚えたが、店内の楽しげな風景に興味を惹かれていた。

 今度、力丸に料理を教えて貰うのも楽しいかも知れない。俺も料理の腕を磨いて、婆ちゃんに何か料理を振舞いたいものだ。そんなことを考えながら俺は店内を物色していた。これから戦地に赴く身にしては少々間の抜けた話ではあるが、買い物という行為は中々に楽しいものだ。俺はさらに店内を歩き回ることにした。

 この活気あふれる場所には余りにも似つかわしく無い者達も同席しているらしく、相変わらず周辺からは突き刺さるような鋭い視線を感じていた。こいつらは一体何者なのだろうか? 妙に濃密な獣臭さが鼻に突くのが気になった。次第に獣臭さは濃密さを増していた。一体、此処に何が訪れようとしているのだろうか?

 総毛立つという表現を身を以って体験した。今までにもこの世ならざる者達との関わりは少なからずあったが、これ程までに禍々しい殺気を放つ存在は初めてのことだ。

 不意に周囲を見回せば明らかに異様な空気に包まれているのが感じ取れた。人の世にあって人の世ならざる異空間。人ならざる場所へと誘われようとしているのは確かだった。

(この気配……嵐山を襲う者達か? それにしては、この異様なまでの獣臭さが説明つかないけれど……)

 いずれにしても姿が見えぬ者達に狙われているのは間違い無い。もしも、この場で襲われたとしたら、俺一人では太刀打ちできない。それどころか、何の関係も無い人々まで巻き添えにしてしまうことになるだろう。異様な気配は尚も濃さを増してゆく一方だった。有り得ないことだが霧まで立ち込め始めていた。だが、この霧は周囲を歩む子供連れの主婦達には見えてすら居ない様子だった。

(一体、何がどうなっている!?)

 いよいよ焦りが頂点に達しようとするのと同時に、小娘達の笑い声が響き渡った。耳元で呟かれているかの如く、酷く鮮明に聞こえた。何者かは不明だが、害為す存在であることは間違いない。非力な身ではあったが必死で抵抗を試みた。侮ってくれるな。どさくさに紛れて襲撃を仕掛けてきた物の怪の類如きに退けは取らない。信仰心の厚さならば負けるつもりは無い。爺ちゃんに、婆ちゃんに教えられた厚い信仰心に救いを請うまでだ。

(どうか……どうか、俺を護ってくれ、不動明王よ!)

 俺はその場に佇み、周囲の主婦達に気付かれぬように両の手を組み、九次の印を結んだ。そのまま下腹部に渾身の力を篭め、心の中で不動明王の真言を叫び続けていた。

(不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン、ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……)

 だが、俺を嘲笑うかの如く、小娘達の笑い声は強まる一方だった。もはや、此処までか! そう、本気で敗北を悟った瞬間、突然、背中を激しく叩かれた。

「急急如律令!」

 突然のことに驚いた俺は慌てて後ろを振り返った。

「け、賢兄!?」

「太助、大丈夫か?」

「お、俺は一体?」

「妙な胸騒ぎを覚えてな。大急ぎですっ飛んできて正解だったみたいだな」

 賢兄は笑いながら俺に数珠を差し出して見せた。

「知り合いの坊さんに気合いを入れて貰った数珠だ。腕にでも巻いておけ」

 一体、何が起きたのだろうか? 考え込む俺の肩を叩くと、賢兄は「店内を少し歩こう」と言った。俺は黙ってその言葉に従うことにした。夕暮れ時の店内は活気にあふれていた。そんな場所を柄の悪い、若い男二人が歩むというのは中々目立つらしい。主婦達のあからさまに突き刺さるような視線を感じながら俺達は店内を歩んでいた。

「見ろよ、この札を」

 賢兄が俺の目の前に突き出したのは、焼け焦げたかのように真っ黒になった札だった。

「これは!?」

「さっき、お前に気合いを入れる時に使ったものだが、ご覧の通りの状況だ」

 一撃で札を使い物にならなくさせるとは、先刻遭遇した物の怪は並の相手では無さそうだ。一体、何者なのだろうか? 焦りを見せる俺を横目で見ながら、賢兄が静かに笑った。

「もっとも、お前にちょっかい出したのは、違う連中みたいだけどな」

「……感じるでしょう? この強烈な獣臭さ」

「ああ。プンプン匂うな。とは言え、嵐山で猛威を奮っている連中では無い様子だな」

 賢兄は笑いながらも鋭い眼光で周囲を睨みつけていた。あの獣臭の根源を探し出そうとしているに違いない。それにしても、一体何者なのだろうか?

「逃げ足の速い奴らだ。まぁ、良い。いずれ素性を暴いてくれる。それより、今、俺達が向かい合う相手は嵐山に鎮座して居やがるからな」

 そうさ。今、俺達が向かい合わなければいけない相手は嵐山に存在している。通り魔のような連中をいちいち真面目に構っていてはキリが無い。もっとも、ただの通り魔とは思えない程に強い力を感じたが、意識を分散させて立ち向かえるような相手では無い。ここは賢兄の言う通り、目の前の事案とシッカリと向き合うとしよう。

「嵐山は不気味な程に静まり返っているらしいぜ? そう。何事も無かったようにな」

「え?」

「まぁ、アレだ。『草』から得た情報だ」

「はは……。本当、賢兄って何時の時代の人なのさ。何時もながら不思議な気持ちで一杯になるよ」

「何時の時代って、今の時代を生きている身だぜ?」

 俺の言葉を受け、賢兄は静かに笑ってみせた。静かに笑った後で不意に真顔に戻ると、俺に向き直って見せた。

「敵の素性はサッパリ判らないけど、小太郎ちゃん達も向かっているんだろう?」

「もう、既に向かっている筈だよ」

「なるほどな」

 賢兄は顎に手を宛てたまま考え込んでいた。考え込みつつ、ゆっくりと歩き出した。俺も賢兄の後に続く。一体何を思案しているのだろうかと考えていたら、シレっと日本酒をカゴに運び入れて見せた。一体、どこから突っ込めば良いか、大きな溜め息を就けば賢兄が不意に立ち止まる。

「日本酒は俺の好みっつーことで、置いておいてだな」

「その前フリは何なのさ……」

 冷ややかな目線で見つめる俺に向き直ると、賢兄はどこかが痛むかのような苦々しい笑みを浮かべて見せた。そのまま頭を掻きながら言葉に詰まったような振舞いを見せた。

「何だよ? 言いたいことあるならハッキリ言ってよ。気になるよ」

「そうか? まぁ、そうだな。じゃあ、言っちゃうぞ?」

 賢兄は俺の反応を窺うようにしながら、ぽつりと意外な言葉を口にして見せた。

「今回の一件、お前が首を突っ込んでも何にも出来ないと思うぞ」

「どういう意味!?」

 予想もしない言葉に、俺は思わず我を見失い、声を荒げていた。

「ああ、太助、落ち付け、落ち付け。そう、大きな声を出すな」

 予想外の反応に驚いたのか、賢兄に慌てて口を抑えられた。俺はその手を乱暴に振りほどき、そのまま賢兄に向きあった。

「落ち着いてなんか居られないよ! どういう意味なのさ!」

 まるで意味が判らなかった。そんなにも俺は役立たずだとでも言うのか? ああ、確かに、俺は賢兄みたいに頭も回らなければ、世間のことなんか何一つ知らない、ただの子供に過ぎないのかも知れない。それでも、大地は俺に取っては大切な仲間だ。仲間の危機を黙って見過ごせとは一体どういうことだ。理解も、納得も、出来る訳が無かった。

「太助、お前は小太郎ちゃん達と知り合ってからの時間が短いだろう?」

 感情的になる俺とは対照的に、賢兄は相変わらず冷静さを失わなかった。何時ものように、俺を教え諭すように向き合うばかりだった。

「え? ま、まぁ……確かに、そうだけど」

「これは俺の勘なんだけどな、敵は大地ちゃんを狙っている訳だろう? しかも、大地ちゃんの生まれ育った嵐山を舞台にしての騒動だ。当然、大地ちゃんと嵐山に関連した話になる訳だな」

 賢兄は慎重に言葉を選びながら話してくれた。多分、出来るだけ俺を傷付けないように気遣ってくれているつもりなのだろう。

 悔しいけれど、過ごした時間に関しては小太郎達には遠く及ばない。それに、俺の本当の姿……賢兄と二人で居る時だけしか見せることの無い、この姿。仮面を被っていない素顔の俺自身の姿は、悔しいことに、輝にも見せられなかった。輝はあんなにも自分を曝け出して俺に接してくれたのに、自分の弱さにただただ腹が立つ。結局の所、皆のことを俺は未だ何処かで信用し切れていないのだろう。過去の傷跡が原因だと口にするのは、所詮、ただの逃げ口上に過ぎない。

「確かに、俺は何にも出来ないかも知れない。何しろ、大地のこと、俺はそれほど詳しく知らないからね。何時も一緒に仲良く振舞っているけれど、それでも知らないことだらけだ」

 いじけた口調で賢兄に想いをぶつける自分、途方も無く惨めだった。惨めだったけれど、でも、此処で腐っているだけでは何も変わらない。きっと、隣に小太郎がいたら俺にこう言葉を投げ掛けてくれたことだろう。『簡単なことだ。知らないのであれば知れば良い』、と。

「……賢兄、俺を嵐山に連れて行って欲しい」

「ほう? 惨めにいじけて見せるかと思ったら、予想外の反応だな?」

「からかわないでよ。何にも出来なくても良い。役立たずでも良い。仲間は、ただ、傍にいるだけでも安心出来るものだって輝に教えられた。だから、今度は俺が大地の力になりたいんだ」

「へぇー。お前も変わったな。小太郎ちゃん達のこと、本当に大切に想っているってワケか」

「ああ、そうだよ。賢兄よりも大切に想っているかもね?」

「ありゃりゃー。まーた、そういう可愛げの無い言葉を口にしちゃう訳だ。あーあ、純情可憐なお兄さんの心はズタズタに踏み躙られちゃったよー」

 敢えて仰々しく振舞って見せる賢兄の振舞いを見つめながら、俺は笑いながら返した。

「酒飲んで、一晩寝れば、翌朝には不死鳥の如く咲き誇っているから心配要らないよ」

「ははは、そうかもな」

 軽く笑ったところで、賢兄が力強く俺の肩を叩いて見せた。

「それじゃあ、戦地に赴くとするか」

「覚悟は出来ているよ」

「ああ、良い返事だ。それじゃあ、気合い入れて行くとするか」

 微かな含み笑いを浮かべる賢兄の表情は気合いに満ちていた。何だかんだと言いながらも、俺よりも気合いが入っているように感じられた。

 人ならざる道を歩み続けてきた賢兄の本当の顔……。俺だけが知っている賢兄の過去……。さぁ、いよいよ戦地に赴く時が訪れた。気合いを入れて行こう。俺は賢兄から授かった数珠を力強く握り締めていた。そうさ。大地のこと良く知らないからこそ、一連の騒動が片付いたら醍醐の街並みを案内させて貰おう。俺の生まれ育った街、大地にも知って貰いたい。何としても一連の騒動を片付けよう。その為ならば俺は鬼にでも修羅にでもなって見せる。演じるのは得意な身だ。どんな役でも見事に演じ切って見せよう。

「まずは、景気付けに日本酒をグイっと」

「そんなことしたら、真面目に鉄パイプで殴るよ……」

「冗談だよ。だから、眉をひそめるなって」

 緊張感があるのか、無いのか、良く判らない状況に陥りつつあったが、俺達は軽く食料を買い込み、レジに向かうことにした。時間も時間だ。腹も減っている。力丸の格言では無いが、腹が減っては戦は出来ない。道中、適当な場所で食事を採りながら向かうとしよう。

◆◆◆34◆◆◆

 嵐山駅前には警察車両が立ち並び、物々しい雰囲気を醸し出していた。何か事件でも起きたのだろうか? 早くも不穏な気配漂う状況に俺達は驚きを隠し切れなかった。騒然とした光景の広がる嵐山駅前に降り立つのは賢明とは思えなかった。そこで、俺達は嵐山駅から少し離れた竹林の周辺に降り立つことにした。

 輝を降ろし終えた所で一礼して、阿行、吽行兄弟は再び飛び去って行った。ここからは俺達三人での戦いとなる。

 夜半の竹林は不気味なまでに静まり返り、時折風が吹き抜ける度に川の流れを思わせる涼やかな音色が響き渡るばかり。そんな静まり返った竹林の中、周囲の様子を眺める輝が何やら怪訝そうな表情を浮かべているのが気になった。

「どうした、輝。何か可笑しなものでも見つけたか?」

「うん。何か、数日前に来た時と比べて、何だか竹林、妙に元気が無さそうに見えてね。それに、何だろ? さっきからポロポロと降っているんだけど? 雨……では無さそうだよね。アレ? 何だろ、これ?」

 丁度、空から降って来た物を手の平で受け止めたらしい。「コタ、これ、何だろう?」と言いながら、輝は手にした何かを見せてくれた。辺りは薄暗くて鮮明には見えなかったが、月明かりに照らし出された時、それが一体何であるかに気付かされた。

「こ、これは!?」

「な、何? 何なの!?」

「……信じられないな。実物を見るのは初めてだが、これは竹の花だ」

 俺の言葉に、傍らに佇んでいたクロが険しい表情を浮かべた。

「不味いな。このままでは、嵐山の竹林が全滅する……」

「え? 竹林が全滅? どういうことなの?」

 驚いた表情を浮かべる輝に、俺は竹の花がどういう物であるかを語って聞かせた。竹が花を咲かせる時――それは、自らの命の終わりを悟った時であるということ。厄介なことに竹の花は一斉に咲き誇る。つまり、竹の花が咲いてしまったということは、この一帯の竹が死に絶えること……つまりは、竹林が消え失せることを意味する。

「だ、駄目だよ! 絶対、駄目だよ! そんなことになったら……ロック、どれだけ哀しむか……」

 俺はそっと、土が剥き出しになっている部分に触れてみた。

(やはり、予想通りか……)

 すぐさま俺の振舞いを真似て輝も手を触れて見せた。

「え?」

 土に触れた輝が思わず絶句するのが聞こえた。

「冷たい……土が、氷みたいに冷たいよ。一体、どうなっているの?」

 クロは腕組みしたまま、そっと輝に歩み寄って見せた。

「土壌が死に絶えようとしておる。否、土壌だけでは無い。このまま放って置けば空気は濁り、水も澱んでゆくであろう。文字通り、嵐山全体が再び風葬地と化すであろう」

「ただの姑息なだけの奴らかと思ったが、随分と大々的な振舞いを見せてくれるものだな」

 クロは腕組みしたまま険しい表情を浮かべていた。

「風葬地であった頃の情景が『回顧』されようとしている」

 またしても聞き慣れない言葉が出て来たものだ。だが、『忘却』と対になる概念だとすれば、意味は理解出来る。なるほど。『忘却』の反対だから『回顧』という訳か。くだらないことに、思わず納得しながらも、その異様な世界観に驚かずには居られなかった。普通に考えれば、思い出すことや、忘れることが、何らかの物理的な作用をもたらすなど有り得ない話だ。だが、それを為し遂げる力を持っている……。それが、俺達が立ち向かう相手の持つ力ということか。

 本来、概念でしか無い事象に形を為させるとは信じ難い能力だ。過去に対決した情鬼達もそうであったが、いずれにしても、人知を大きく超えた事象を為し遂げる力の持ち主ばかりだ。果たして、俺達に勝ち目があるのだろうか?

「実に厄介な事態に陥っている様子であるな」

 言葉無く苦悩する俺に気付いたのか、クロが静かに口を開く。

「情鬼達が中核となり、嵐山の地を彷徨う亡者達を掻き集めておる。このまま順調に『忘却』と『回顧』を為し遂げてゆけば、程なくして嵐山は風葬地であった時代の姿を取り戻し、結果、この地は人の住めるような場所では無くなるであろう」

 静かに俺達の顔を見回しながら、クロは溜め息混じりに続けて見せる。

「情鬼達の願う通り、この地は死者達が集う極楽浄土と化すであろうな」

 随分と壮大な仕掛けを考えることだ。だが、そんなことになってしまえば、被害は嵐山だけに留まらないだろう。被害は加速度的に拡大し、広範な地域で取り返しの付かないことになる筈だ。

「無論、そうなる前に手を打つ必要がある」

「クロ、ぼく達に力を貸して。ロックのこと、守ってあげて!」

 壮絶なる惨状を目の当たりにして、いよいよ輝も冷静さを保てなくなってきたらしい。輝には申し訳ないが、そういうお前の方がお前らしくて安心出来る。クロは力強い笑みを称えたまま輝に向き直って見せた。

「ふふ。案ずるな、輝よ。必ずや我が願いを叶えてくれよう」

 クロの力強い言葉に安堵を覚えたのか、輝は穏やかな笑みを称えていた。

 さて、落ち付いた所で何をすれば良いかを考える必要がありそうだ。闇雲にそこら中を突いて回るのはあまり賢いとは思えなかった。いずれにしても、先ずは大地達と合流することが先決だ。何しろ大地達は孤立したような状態になっている。敢えて、大地達に危害を加えないのは俺達を嵐山に招き入れるためなのかも知れない。いずれにしても敵の目的が見えない以上、一刻も早く大地達と合流する必要がありそうだ。

「ふむ。目下の目的が定まっているのであれば話は早い。嵐山旅館に向かおうぞ」

「今更ながらではあるが……」

「む? 何だ?」

 首を傾げるクロの振舞いから察するに、俺は出掛かった言葉を口にすることを憚られた。とは言え、想いはシッカリと伝えなければ伝わらない。何よりも、クロは時々、途方も無く天然な振舞いを見せる。ここで可笑しなボケをかまされても困るというものだ。

「何故、嵐山旅館では無く、竹林に降り立ったか。それを問いたいのであるな?」

「……まぁ、そうなるな」

 いきなり出鼻を挫かれた。皆まで言わずとも、お前の言いたいことは判っている。そう言いたげな表情で含み笑いを浮かべる辺り、やはり、性悪な奴だ。いずれ矯正してくれよう。

「この一帯に禍々しい気配を感じ取ったでの。阿行、吽行も、我と同じように異変を察した筈」

「なるほどな。それで、竹林に降り立った訳か」

 確かに、竹林では少なからず異変が起きている。俺達には無い、情鬼の気配を感じ取れるクロ達ならではの行動という訳か。何も考えていない訳では無かったか。

「少なからず、この竹林では異変が起こっている。尚のこと大地達の身が案じられる」

「ふむ。確かにそうであるな。少々気に掛る部分はあるが、先ずは嵐山旅館に向かうとしようぞ」

 クロと語らうことに意識が集中していたのか、何時の間にか輝の姿が見えなくなっていた。竹林の状況でも探っているのだろうか? 後ろを振り返ろうとした瞬間、不意に輝が俺の手を引いた。

「向かう先はもっと北の方だよ」

「北の方だと? 嵐山旅館とは反対の方角になる。一体、何処に向かうつもりだ?」

「行けば判るよ」

 いたずらっぽく笑う輝の肩の上に、どこからともなく大きなトンボが舞い降りるのが見えた。

(トンボ? それも、随分と大きなトンボだな……)

「ほらほら、早く行こうよー」

 戸惑いながらクロの表情を窺えば、驚いたような表情を浮かべていた。だが、俺と目が合うと、静かに頷いて見せた。どうやら輝の行動には、少なからず意味はあるということか。

(ここから北の方角に向かうと言ったが、何処に向かうつもりなのだろうか?)

「なるほどな」

 クロが腕組みしながら静かに笑う。

「中々に良い勘をしておる」

「どういうことだ?」

「化野念仏寺に向かおうとしているのであろう」

 一連の騒動の発端となっているのは、やはり、風葬地としての色合いを最も強く残す化野念仏寺ということか。そう考えると、あながち輝の考えも当てずっぽうでは無さそうに思えた。だが、それにしても、何の迷いも無く化野念仏寺に向かおうとするとは、意外な判断に思えた。それに……何よりも、輝の肩に止まったままの大きなトンボが気になって仕方が無かった。黄色と黒の独特の柄から察するに、そのトンボはオニヤンマのように思えた。以前、大地と一緒に歩き回った時にも何度も実物を見ているから間違いない。

(トンボは夜に行動するものなのか? 何よりも、輝の肩に止まったまま微動だにしないのは何故なのだろうか……?)

 どうやらクロもまた、輝の肩に止まっているトンボに大きな違和感を抱いている様子だった。だが、輝の手前、余計なことを口にすることをためらっているのであろう。少なくても害為す存在には思えなかったので、そっとしておくことにするとしよう。

 俺達は暗がりの中を歩き続けた。さすがに、これだけ暗いと足元すら見えない。道中、迂闊に転倒でもして負傷するのは馬鹿馬鹿しいとクロが提灯を用意してくれた。相変わらず、背中からヒョイと取り出した際には、やはり、色々と問い掛けてみたい気持ちに駆られたが、迂闊なことを問うと後が面倒だ。沸々と湧き上がる好奇心を必死で抑え込むことにした。

 竹林を超えて民家の間を縫うような細道を歩み続ける。この辺りには常寂光寺、二尊院、祇王寺と言った寺社仏閣が立ち並ぶ。嵐山を訪れた際に大地に案内して貰ったことを思い出していた。大地は地元のことや家族のことを語る時、本当に嬉しそうな表情で話を聞かせてくれる。お陰で、聞いているだけなのに、段々こちらまで幸せな気分になってゆくから不思議なものだ。

(事態は想像以上に深刻だ。だが、俺達が必ずや解決する。少々待たせることになってしまうが、もう少しだけ辛抱してくれ)

「ううーん、随分と歩いたねー。夜なのに蒸し暑いから汗掻いちゃうよね」

「ああ、嫌な蒸し暑さだな。妙な湿気に満ちている。しかも、何とも言い難い匂いまで漂っているな……」

 それにしても、確かに結構な距離があるのは事実だ。竹林周辺から化野念仏寺までは結構な距離がある。この辺りは丁度、静けさに包まれた民家の立ち並ぶ場所だ。そんな場所に目的地の化野念仏寺はひっそりと佇んでいる。何度か訪れたことのある場所ではあるが、実に不思議な雰囲気の漂う場所だ。この世にあって、この世ならざる風景の広がる、異界との境界線とも呼べる寺――特に毎年夏に催される千灯供養は実に幻想的な行事だ。去年に引き続き、今年も大地達と共に訪れたい行事の一つだ。

 そんなことを考えながら歩いているうちに妙なことに気付かされた。輝も気付いたらしく強張った表情で俺の顔を覗き込んで見せた。

「ねぇ、コタ。気付いている?」

「ああ。輝、絶対に振り返るな。何があってもだ。良いな?」

 何時の間にか俺達の後ろからは大勢の足音が聞こえて来ていた。それに呼応するかのように、打ち鳴らす錫杖の音色と口ずさむ読経の声が響き渡っていた。

「ほう? これは面白い」

 不敵な笑みを浮かべながらクロが六角棒を握る手に力を篭める。

「我らを歓迎しに参ったとでも申すか。ふふ、何だったら此処で討ち取ってくれようか?」

 クロは威勢良く構えて見せる。俺は溜め息混じりにクロに向き直った。

「敵の思惑が見えない以上、無用な争いは避けるべきだ」

「なるほど。コタがそう申すならば仕方ない。では、奴らの狙い通り、化野念仏寺に足を踏み入れてくれよう」

 俺の言葉にクロは少々残念そうな表情を浮かべていたが、敵の思惑も見えないうちに先手を繰り出すのは危険な気がした。それに、これは罠かも知れない。迂闊に振舞えば自らの首を絞める結末を迎えるだけだ。慎重さを失っては、冷静さを見失ってはいけない。

 背後に突き纏う僧達は一定の間隔を保ったまま歩み続けていた。無数の僧達に後ろから威圧され続けるのは、そうそう気分の良いものでは無かった。だが、此処は黙って従っていた方が正しいのであろう。そんなことを考えながら歩いているうちに、やがて、俺達の視界の先に化野念仏寺へと続く山門が見えてきた。緩やかな石段を登り切った先に目的地の化野念仏寺が俺達を待ち構えている。さて、どういう立ち振舞いを見せてくれるのか、お手並み拝見といこう。

◆◆◆35◆◆◆

 突然の出来事に、すっかり取り乱してしまったが、それでもリキはワシを必死で勇気付けてくれた。本当に心強い事だ。もしも、ワシ一人だったら、今頃はどうなっていたことか……。リキには本当に感謝している。

 やっとのことで嵐山旅館に戻って来たワシらは、二人で風呂に浸かりながらしばしの休息の時を迎えていた。ゆったりと寛ぐリキの姿を見つめながらワシは昨晩のことを思い出していた。

(昨日の晩、こうして大樹を一緒に風呂に浸かっておったのじゃ。一体、何処に行ってしもうたのじゃ……)

 嘆いているだけでは何も変わらない。『忘却』されることを何としても阻止しなければならない。そのためには記憶を手繰り寄せる他、道は残されていない。少しでも大樹の記憶を手繰り寄せ無ければ。そうさ。未だ名前までは忘れていない。このまま記憶を掘り起こしていけば、記憶も蘇って来るハズだ。大丈夫だ。大樹、ワシが何としてもお前を守り抜くと約束しよう。

「のう、リキよ」

「んんー? どうしたー?」

 湯に浸かり寛いでいるのか、リキが間延びした声で返事をしてみせる。ワシは月明かりに照らされたリキの表情を横目に見ながら

「ちょっとだけワシの昔話、聞いて貰えるかのう?」

 そう、問い掛けてみた。

「お? ロックの昔話かー。へへっ、興味深いな。それで、どんな話だ?」

 興味惹かれたのか、リキが身を乗り出して見せる。

「ワシと大樹との幼き日の思い出話なのじゃ」

 ワシの脳裏には随分と古い記憶が蘇っていた。古い記憶を回想するなんて何だか走馬灯みたいで縁起でも無く思えた。でも、それでも、過去へと誘う懐かしい温もりに抗うことは出来なかった。泥のように溶けてゆく感覚……。ゆらゆらと揺らぎながら、この温かな湯の中に体が溶けて一体化する……そんな、夢心地な感覚を覚えていた。それは、随分と古い記憶。まだ、ワシも幼かった頃の記憶。さぁ、一時の『回顧』に身を委ねよう。

「大地、お前はもうお兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」

 何かある度にそればかりを言われた。喧嘩になれば全てワシが悪者にされる。だって、お兄ちゃんなんだから。食べたかったおやつは大樹のために取り上げられた。だって、お兄ちゃんなんだから。面倒を見るのもワシ。見たいテレビを譲るのもワシ。おかんに甘えたくても甘えることも出来ずに、何時だってワシは我慢、我慢、ただただ我慢の日々だった。だって、お兄ちゃんなんだから。

 幼い頃は大樹のことを本当に疎ましく思っていた。イヤ、嫌っていた。憎んでいた! 何で、お前なんか生まれてきたんだ! 何時も心の中で叫んでいた。お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん! 何なのじゃ! ワシの方が先におったのじゃ! 後から生まれてきたクセにワシから何もかもを奪い去った! 順番を守るのじゃ! 何時も、ワシは一人静かに耐えるだけだった。哀しくて、悔しくて、何時も……大樹のことを憎んでいた。

(弟なんて……要らないのじゃ。いっそ……いっそ、死んでしまえば良いのじゃ!)

 あの頃のワシは本当に幼かった。おかんの見ていない所で、大樹に意地悪ばかりしていた。だけど、そんなワシの中で大樹の存在が変わる時が訪れた

 あれは、梅雨の頃だったと記憶している。生憎の雨で家から出られなかった上に、大樹の面倒まで押し付けられたワシはすっかり気が滅入っていた。時折、生温い風が吹き抜ける度に申し訳なさそうに鳴って見せる風鈴を、ただただ憎らしく想いながら睨み付けていたのを良く覚えている。綺麗な風鈴だった。その風鈴は婆ちゃんが縁日で気に入ったからと買って来た物だった。二匹の赤い金魚が仲良く泳いでいる絵が印象的な風鈴だった。

 縁側でただ退屈凌ぎにワシは馬鹿みたいに空を見上げていた。早く晴れろ、早く晴れろ。まるで、何かの呪いの儀式だった。大体、空に喧嘩を売ったところで晴れ間が覗く訳が無かったというのに、どうにも間の抜けた話だ。

 ワシの隣では大樹が一人、楽しそうに、調子外れな鼻歌を口ずさみながら絵を描いていた。随分と熱心に描いている姿にワシは無性な苛立ちを覚えていた。ワシがこんなにも退屈で、退屈で居た堪れないというのに、何故、コイツはこんなにも楽しそうにしているのだろうか? ワシは何だか大樹に意地悪をしてやりたくなった。上機嫌に振舞う大樹を土砂降りの最中に突き落してやりたくなった。笑顔がぐしゃぐしゃの泣き顔になるのを見届けてやりたい。そんな底意地の悪い想いに駆り立てられていた。

「のう、大樹よ」

「なーに?」

「戸棚にお菓子が仕舞ってあるの、知っておるか?」

「え? お菓子!?」

「そうなのじゃ。お前の好きな、甘ーい、甘ーい羊羹なのじゃー。早く食べないとネズミに食われてしまうかも知れんのう?」

 我ながら何とも頭の悪いウソだった。大樹は子供の頃から甘い物が大好物だったこともあり、ネズミに食われるなんて一大事だ! ワシの予想に反して、大樹は大慌てで居間へと飛んで行った。その慌てぶりを見届けながらワシは腹を抱えて笑った。

 大樹が居なくなった隙に、ワシは大急ぎで大樹が使っていたクレヨンを隠した。さて、どれだけ動揺するか楽しみだ。

 少なくても羊羹が置いてあったのは本当のことだ。ワシの分と大樹の分。おかんが四条まで出掛けた帰りに買って来たものだった。ワシが悪意ある企てを仕掛けていることなど知る由も無い、間抜けな大樹は上機嫌な表情でワシに羊羹を運んで来た。予想もしない行動にワシは大いに驚かされた。

(あ、ありゃ? ワシの分まで、コッソリ食ってしまうかと思っておったのじゃが?)

「えへへ。兄ちゃんの羊羹もネズミから守ってあげたよ」

「へ?」

「羊羹、すごく美味しかったよ。はい、兄ちゃんも食べなよ」

 疑うことの知らない大樹の無邪気な笑顔にワシの胸がズキリと痛んだ。底意地の悪い企てを胸に抱くワシとは裏腹に、大樹が見せた晴れ渡る夏空のような笑顔にワシは自分をただただ恥じていた。ああ、ワシはこんなにもいたいけな弟に、何て酷い仕打ちをしてしまったのだろうか……。だけど、言うに言い出せずに、ワシは大樹に背を向けて羊羹を口に運ぶことしか出来なかった。チビチビ食べた羊羹は、ちっとも美味しく無かった。

「あれ? クレヨンが無くなっちゃったよ?」

 背後から響き渡る大樹の驚愕の声に、ワシはもう生きた心地がしなかった。

「あれ? ええ? 何処に行っちゃったの? 何で? どうして?」

 必死で探し求める大樹の悲痛な声に、ワシはただただ震えが止まらなかった。

「ぐずっ……無くなっちゃったの? ううっ……ううっ……」

 とうとう大樹は泣き出してしまった。普段だったら、つまらないことで泣くなと叱り付けているところではあったが、その時のワシには、とても、そんなことは口に出来なかった。何よりも自分のやったことの罪の大きさにワシは潰されてしまいそうだった。だから、ワシは素直に謝った。大樹に頭を下げて、隠していたクレヨンを持って来た。その時の大樹の笑顔……ワシは一生忘れることは出来ない。

「ああ、良かった! これが無くなっちゃったら、お絵かき出来なくなっちゃう所だったよー」

(これがまた、へったくそな絵でのう。ワシには一体、何の絵なのかサッパリ判らなかったのじゃ)

 しかし、それ程までに必死になって描いている物は一体何なのだろうか? 何時もはそんなにも執着することは無いというのに、珍しいこともあるものだ。どうにも興味を惹かれたワシは大樹に問い掛けてみた。

「のう、大樹よ? コレは何の絵なのじゃ?」

 ワシの問い掛けに対し、大樹はこれ以上無い位に嬉しそうに、ついでに、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら応えてみせた。

「えへへ。兄ちゃんとオレだよ」

「わ、ワシと……大樹?」

「うん、そうだよ。一緒に、花火している絵なんだ」

 まるで、その時を狙っていたかのように、不意に涼やかな風が吹き抜けていった。チリーン。風鈴が景気の良い音色を響かせた。二匹の仲睦まじい金魚の絵がワシの瞳に焼き付いた瞬間であった。

 もう、駄目だった。まるで夏の夕立だった。ワシは声を挙げて泣いた。大樹を抱き締めて、声の限り泣いた。突然のことに大樹は酷く困っていた。その時の大樹の一言に、ワシはもう、涙が止まらなくなってしまった。

「兄ちゃん、大丈夫? 誰! 誰なの! オレの兄ちゃんを泣かす奴は、オレが許さないんだから!」

 あの時、ワシは心に誓った……。ああ、そうさ。ワシの可愛い弟を泣かす奴はワシが絶対に許さない! 大樹はワシの弟だ! 誰よりも可愛い、ワシの大切な、大切な弟だ! お前の兄貴になれて、ワシは本当に幸せだ。心の底からそう叫んだ。チリーン。照り付ける夏の日差しの下、風鈴が再び景気の良い音色を響かせた。

「あ、あれ? どうしちまったんだろうな。のぼせたかな? 何か、目頭が熱くなっちまったぜ」

 リキが鼻声で笑う声にワシは静かに頷いた。

「へへっ、オレ、こういう話に弱いの知っているのに、ヒデェなぁ」

「済まんのじゃ。じゃが、走馬灯のように……思い出が流れて来てのう」

 ワシは夜空に浮かぶ月をじっと見上げていた。

(何じゃ、今宵の月は……随分とゆらゆらとしておるのう。まるで波立つ湖面に映った月みたいなのじゃ。ああ、そっか。ワシ、泣いておるのじゃな……)

 走馬灯のように大樹と共に過ごした時間が脳裏に克明に描き出されてゆく。ワシは流れに逆らわずに、ただ、それを静かに受け入れようと考えていた。頬を一粒の温かな想いが伝って落ちた。ただただ大樹のことを想い描きながら、ワシは月をジッと見据えていた。涙、後から後から滲みでて来ると、ワシの頬を伝って落ちた。頬を伝う温かな体温を感じながら、ワシはさらに『回顧』を続けた。リキにももう少しだけ旅のお供を願うとしよう。

 大樹は何処に行くにもワシの後を着いて回った。寝る時も、遊ぶ時も、何時も一緒だった。小さかった頃は、ワシが学校に行くの時でさえも目に一杯の涙を称えていた。本当にワシのことが大好きな弟だ。

 あの当時から、大樹の面倒を見なければいけなかったこともあり、その上、旅館の手伝いもしていたお陰で友達は殆ど居なかった。まぁ、紆余曲折を経て、リキと友達になることが出来た時、ワシの世界が一気に広がったのだが、それまでは、何をするにも大樹と一緒に過ごしていた。そのせいか、大樹はとにかくワシに良く懐いていた。

「兄ちゃん、あのトンボは何て言うトンボなの?」

「おお、あれかの? あれはオニヤンマじゃな。見た目そのままに強い奴なのじゃ」

 ワシが昆虫に興味を抱くようになったのは大樹の影響も大きかった。大樹は幼い頃から好奇心の旺盛な子で、珍しい昆虫を目にすると脇目も振らずに追い掛けていってしまう。カマキリや蜂のように危険な昆虫が相手でも構うこと無く手を出そうとする。お陰でワシは常に大樹の奇想天外な行動に気を配っていなければならず、何と言うか……大樹の遊び相手をするのは常に真剣勝負であった。

「うわー、迫力ある顔しているねー! あはは、オレは大樹っていうんだ。トンボ君、オレと友達になろう!」

「トンボと友達になろうとは、無茶なことを言うのう……って、ありゃ?」

「あははー。待ってよー、トンボ君」

「こ、コラ! 大樹、待つのじゃ! そっちは小倉池なのじゃ! 危ないから近寄るで無いのじゃー!」

 本当に油断も隙も無い子だった。後先考えぬ無謀過ぎる行動パターンは、改めて考えるとテルテルと良く似ているように思える。

 嵐山は自然の豊かな街だったお陰で友達がいなくても遊ぶのに困ることは無かった。しかし、改めて振り返ってみると、本当に友達が居なかったのだろうか? 少々風体の変わった子供達とも遊んだ記憶が残っている気がしてならなかった。落柿舎の近くで遊んだ、妙に土気色をした子供達や、何時も竹林で出会い、夕暮れ時になると竹林に帰ってゆくヒョロりとした子供達も居たのを思い出していた。大堰川の上流では何時もずぶ濡れの、どこか魚のような見た目の子供達とも遊んだ記憶があるし、松尾大社の近くでは妙に酒臭い子供達とも遊んだ記憶が残っている。住む人も無くなった古い家に住んでいた子供達もいれば、中には戦時中を想わせるランニングシャツに帽子を被った子供達とも遊んだ気がする。

 随分と大勢の友達と共に過ごしたハズだった。そうだ。思い起こしてみれば、別に友達が居なくて寂しいなんて思ったことは無かった気がする。ちょっと風体の変わった子供達ばかりだったけれど、何時でもワシら兄弟の周りには色んな子供達が入れ換わり、立ち替わりで遊んでくれた気がする。

「大樹はオニヤンマと友達になりたいのかな?」

 不意に聞き覚えの無い声が耳に飛び込んでくる。

「え?」

 突然の出来事に大樹は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに嬉しそうに笑い返して見せた。

「うん。黄色と黒のシマシマ模様も格好良いし、他のトンボよりも体も大きいでしょう? 何か、トンボ達の親分って感じだからね」

「そうなんだね」

 声の主が応える。どこか楽しげな口調ではあったが、聞いたことの無い声だった。一体誰なのだろうか? 近所の子供達の声ならばすぐに判別がつく。知らない声ということは観光客なのだろうか? それにしては余りにも妙な気がする。一体、この声の主は何者なのだろうか? ワシの中で警戒心が一気に燃え上がるのを感じていた。

 良く見れば木の枝に腰掛けているのか、足が宙を泳ぐ様が目に留まった。木漏れ日が逆光のようになり、その顔を窺うことが出来なかったが、小さな足の感じから察するに、大樹と同年代位の少年のように思えた。

「良かったら、ぼくがオニヤンマ君にお話してあげようか?」

「え? 本当!?」

 あの時、ワシらは小倉池の周辺を抜けて常寂光寺の辺りまでオニヤンマを追い掛けてきたハズだった。あまり遠くに行ってはいけないという、おかんとの約束を破っては駄目だと大樹に言い聞かせたものの、すっかりオニヤンマに夢中になった大樹はワシの言葉には耳を貸さなかった。

 あの時、大樹に語り掛けてきた少年は、他の少年達とは明らかに異質な気配を放っていた。随分と高い木の上から語り掛けて来るとは、余程木登りが得意な子なのだろう。当時はそんな風に記憶していた気がするが、今、思い返せば有り得ない話だ。木は細く、幹にも足を引っ掛けられそうな部位は見当たらない。普通の人が登れるような木では無かった。何故、あの時、違和感を覚えなかったのだろうか。不思議で仕方が無い。

「それじゃあ、少し、そこで待っていてね」

 そう言うと、その少年はおもむろに小さな横笛を取り出して見せた。静かに笛を口元に運ぶと、驚く程に美しい音色が響き渡った。あまりにも見事な笛の音にワシらはすっかり言葉を失っていた。すると、信じられないことが起こった。

 唐突に、宙を旋回していたオニヤンマは、一体、何を思ったのか、スーっと大樹の肩の上に舞い降りてきた。

「うわぁ! 間近で見ると、やっぱり迫力あるなぁ!」

(そ、そんなこと、あるハズが無いのじゃ! オニヤンマは自らの縄張りを延々と旋回し続ける習性を持っているのじゃ。それに、何よりも……人に、自らの意思で歩み寄るなど、有り得ないのじゃ! 一体、この少年は何者なのじゃ!?)

「良かったね。その子とお友達になれたみたいだね」

「うん! ありがとう!」

「どうしたしまして。それじゃあ、ぼくのお願いも聞いてくれるかな?」

 ワシにはどうしても、その木の上から語り掛けて来る子が普通の存在には思えなかった。人知を超えた笛の音と言い、オニヤンマを従わせたことも有り得ない話だったが、それ以上に、その子が腰掛けている木は随分と細く、いかに木登りが達者な子供であっても到底登れるような木では無かった。それに、木の枝から覗く足は足袋だった。運動靴では無く足袋。どう考えても時代錯誤な服装だ。履いているのも見慣れない和装のように見えた。

  ここまで考えた時、ようやくワシは事の重大さに気付かされた。普通では無い。この少年は、間違い無く、人ならざる存在だ。それでは一体何者なのか? 考えれば考える程に恐ろしくなった。

「た、大樹、もう、帰るのじゃ」

「え? でも……」

「良いから帰るのじゃ! おかんに叱られるのじゃ!」

 警戒心を露わにするワシを見下ろしながら、その子は酷く寂しそうに肩を落としていた。

 暮れゆく夕焼け空の下、高い木の上から語り掛けて来る少年。しかも、何時の間にか辺りの木々や電線には無数のカラス達が集まっていた。皆、威嚇するようにワシらのことを見下ろしていた。実に異様な光景だった。

「帰っちゃうのか。残念だなぁ。でも、仕方ないよね……」

 大樹も異様な雰囲気を感じ取ったらしく、次第に動揺を隠し切れなくなっていた。だが、その少年が醸し出す何とも言えない寂しげな雰囲気に、ワシは自分と同じ境遇に置かれていることを感じ取っていた。

 そのことに気付いた瞬間、ワシの中では恐怖心よりも好奇心が勝ろうとしていた。目の前にいるのは素性の判らない魔性では無いのかも知れない。もしかしたら、親しいトモダチになれる存在なのかも知れない。もう、ワシの中では好奇心が抑え切れない程に膨れ上がろうとしていた。ワシは意を決して問い掛けていた。

「……約束するのじゃ。大樹に悪さをしないと」

「元より、そんなことするつもりは無いから安心して」

 少しだけ声の感じが明るくなった気がした。もしかしたら……本当に、トモダチになりたいだけなのでは無いだろうか? そう考えると段々と興味を惹かれ始めた。

「そんな高い所におったのでは顔も見えないのじゃ。降りて来てワシとお話するのじゃ」

「え? でも……」

 先刻までの楽しげな雰囲気は鳴りを潜め、かげりが見え始めていた。声のトーンが変わった様子にワシは異変を覚え始めていた。

「ぼく、大地や大樹とは、少しだけ……見た目が違うんだ」

「に、兄ちゃん……?」

「大丈夫じゃ。あいつは悪い奴では無いのじゃ。ワシを信じるのじゃ」

 妙な雰囲気を感じ取ったのか、怯え始めていた大樹を後ろに下がらせ、ワシは木の根元まで歩み寄った。内心、異様な雰囲気を感じていたのは事実だった。

「平気なのじゃ。さぁ、降りて来るのじゃ」

 多分、恐怖心より好奇心が勝っていたのだと思う。それに、可笑しな奴だったら全速力で逃げれば良い。そんなことを考えていたと思う。そう。それが……この姿の見えない少年を、どれ程傷付けることになるかなど微塵も考えていなかった。ただ、自分の好奇心を満たすためだけにワシは声を掛けていた。無論、何時でも逃げられるように身構えた状態で。

「判った。でも、驚かないでね? ぼくのこと、嫌いにならないでね?」

「大丈夫なのじゃ」

 次の瞬間、その子は木の枝から飛び降りてみせた。イヤ、厳密には……舞い降りたというべきなのかも知れない。その子の姿を見た瞬間、ワシは危うく腰を抜かす所だった。

「な! な……何と!?」

「うわぁっ! お、お化けだ!」

 あまりのことに驚いたワシは大樹の手を引き一目散に走った。走って、走って、とにかく走り続けた。

(ななな、何なのじゃ、あれは!? ひ、人では無かったのじゃ!)

 驚きの余りワシらは振り返ることすら出来なかったが、あの子は確かに泣いていた……。希望を持たせるだけ持たせておいて、友達になってやると甘言で騙し、その姿を見た瞬間、全速力で逃げ出す。幼かったとは言えワシは最低の振舞いをしたのは弁明することすら出来ない事実だった。

「う、ううっ……」

 背後から聞こえてきたすすり泣く声に、ワシは思わず足を止めた。

(泣いているのじゃ……)

「ううっ、うう……」

 少年は声を押し殺して泣いていた。当然だろう。希望を持たせて置きながら、冷たく突き落されたのだ。傷付かない訳が無かった。

(わ、ワシは……)

 哀しげにすすり泣く少年の声に、ワシは自分自身の姿を見出していた。誰からも相手にされず、やっと声を掛けて貰えたかと思って振り返れば、嘲り笑う声が降り注ぐだけ。そんな自分自身の哀しい記憶を重ね合わせずには居られなかった。もしかしたら、この少年とワシは良く似ているのではないだろうか? そう気付いた瞬間、ワシの中から恐怖心が消え失せようとしていた。そうだ。この少年も嵐山に生きる者なのだ。姿形が人と違っても、同じ嵐山に生きる仲間なのだ。トモダチなのだ。

 目を丸くして凍り付く大樹を後目に、ワシは少年に歩み寄った。少年は尚も声を押し殺して泣いていた。多分、ワシが近付いてきたことにも気付いていないのだろう。それ程までに、深く、深く傷付けてしまったのか……。ワシは改めて、自分の為した行いの残酷さに胸が痛んだ。

「……見事な笛の音だったのじゃ」

「え?」

 ようやくワシが間近に迫っていることに気付いたのか、少年は目を丸くして驚いていた。だから、ワシはそっと手を差し出した。

「え、えっと……」

 少年は尚も動揺した表情を崩さなかった。だから、ワシから切り出すことにした。

「さっきは悪かったのじゃ。お主さえ良ければ……ワシとトモダチになってくれんかのう?」

「え?」

「トモダチになってくれるのであれば、握手してくれなのじゃ」

「え、えっと……」

「ついでに、良かったら、ワシにも笛、教えて欲しいのじゃ」

 相変わらず大きく目を見開いたまま、動揺した素振りを崩さない少年に、段々とワシは照れ臭くなってきた。もしかして、ワシ一人だけ勝手に熱くなっているのではないだろうか? だとしたら、何と間抜けなことなのだろうか。そんなことを考えていると、不意に、少年はワシの手を力一杯握り締めた。余りにも力の篭められた握手に、ワシは思わず飛び上がった。

「にゃーっ!? ち、力の加減知らんのか!?」

「ご、ごめん……」

 思わず顔を見合わせたワシらは一瞬硬直した。だけど、次の瞬間には、二人で声をあげて笑った。相変わらず大樹は遠目にワシらを見つめるばかりであったが、ワシの興味は今、目の前にいる少年に向けられていた。

「え、えっと……大地、よろしくね」

 妙に照れ臭そうにする少年のはにかんだような笑み、印象的だった。そう。その表情さえ、鮮明に思い出せる。

「ワシの名を知っておるとは光栄なのじゃ。それで、お主、名は何と申すのじゃ?」

「ぼくの名前? ぼくは――だよ。よろしくね、大地」

 だが、名前までは思い出せなかった。それでも、ワシの記憶の中に確かに残る少年の姿。長い間忘れていた少年の姿形、今なら鮮明に思い出せる。

「なぁ、ロック。その……木の上から語り掛けてきた少年ってのは?」

「背中に大きな翼を生やして居った。黒く光る何とも綺麗な翼じゃった。その顔には立派なくちばしを持っていてのう」

「か、カラス天狗だったのか!?」

「そうじゃろうな」

 あの時、背中でヒシヒシと受け止めたどうしようもない哀しみ……。今でも忘れられない記憶だった。だからこそ、嬉しそうに、照れ臭そうに笑っていた少年の顔、今でも鮮明に覚えている。イヤ、思い出した……というべきなのだろうか。

 そういえば、あの時代、共に遊んだ子供達は皆、普通では無かった。多分、人では無かった者達なのだろう。それでも、見た目が人と大差が無かったこともあり、あまり気にすることも無かったのかも知れない。イヤ、正確には一緒に遊んだ子供達の姿は全く記憶に残っていない。もしかしたらワシらの視覚に留まらないように振舞っていたのかも知れない。だからこそ、ワシらも意識せずに遊べたのかも知れない。だが、あの少年は鮮明にその姿を見せた。だから、ワシの記憶にも鮮明に残っていたのだろう。ただ、長い間、思い出すことが出来なかっただけだ。『忘却』の恐ろしさ、改めて身を以って体験した気がする。

「さて、そろそろ風呂から上がるのじゃ。さすがに茹で上がってしまいそうなのじゃ。続きはワシの部屋で話すとするのじゃ」

「それもそうだな。へへ、オレも茹で上がっちまいそうだわ」

「着替えは……取り敢えず、ワシの服を適当に使ってくれなのじゃ」

「まぁ、仕方ねぇよな。都合良く着替えでも持って来ているなら話も別だったんだけどな」

 この後も動き回らないとも限らない。そう考えると浴衣では動き回り辛すぎる。ワシの服では身長差があるから少々窮屈な状態になってしまうかも知れないが、何とか耐え忍んで貰うとしよう。

「ふぅ、取り敢えず風呂から上がるのじゃ」

「そうだな。ロックの部屋で話しながら大樹の帰りを待つとしようぜ」

 それにしても随分と都合良く、思い出話をすることを思い付いたものだ。イヤ、そうでは無いのかも知れない。意図的に自分の存在を『忘却』させまいと考えている、あのカラス天狗が仕向けているのかも知れない。理由までは判らなかったが、少なからずワシに手を貸してくれようとしているのは事実のように感じられる。それならば、差し伸べられた手を握らせて貰いたい。ワシ一人では到底立ち向かえるような相手では無い。だからこそ、手を貸して欲しい。このまま大樹を奪われたままでは、事態は悪化の一途を辿るだけだ。非力ではあるが、精一杯抗おう。何も出来なくても抗うこと位は出来る。

 大樹……部屋に戻ったら、お前の想いを、より強く手繰り寄せよう。だから、もう少しだけ待っていてくれ。必ず、ワシが救い出して見せるから。ワシとリキと……それから、手を差し伸べてくれたカラス天狗の力を借りて。

◆◆◆36◆◆◆

 部屋に戻って来たワシは静かに部屋を見回してみた。当然のことながら、今朝、目覚めてから何も変わりは無い。そっと布団に腰掛ければ、布団は涼やかな触り心地を称えるばかりであった。昨晩は大樹と共に寝ていたこともあり、蒸し暑さも寝苦しさもあったのに今はそれが無い。当たり前のことなのに、もう二度と巡り合うことの出来ない記憶になってしまいそうで、無性に哀しくて仕方が無くなった。

 死んだ人の体からは体温が失われる。温かな感触は生きていることの証に他ならない。そっと、自分の頬に触れてみる。大丈夫。冷たく無い。少なくてもワシは生きている。だからこそ、大樹を無事に見付け出して、また、一緒に竹林を歩こう。大樹の身を案じながら、ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、何時の間にかリキの姿が見えなくなっていた。何処に行ったのだろうと部屋の中を見回せば、リキは何時の間にか窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。何を想っているのか、どこか物悲しい表情に、ワシは声を掛けるのをためらってしまった。

「ああ、悪りぃな」

 ワシの視線に気付いたのか、リキが振り返った。

「月がさ、あんまりにも綺麗だから、思わず見とれていたんだ」

 月が綺麗だというリキの言葉に倣って、ワシも窓から夜空に浮かぶ月を見上げてみた。

「そうじゃな。今宵は雲も無く、月が綺麗じゃな」

「大樹も何処かでさ、オレ達と同じ月見ているんだろうな」

 何処かで同じ月を見ている……。大樹、一体何処に行ってしまったのだろうか?

「そうじゃな。そうだと良いのじゃ……」

「おいおい。そんなシケた面、ロックらしくねぇぜ?」

「それもそうじゃな」

  リキの言葉にワシは笑いながら応えた。応えついでに大樹に纏わる物語が再び記憶の彼方から浮上した。だから、ワシはリキの顔を覗き込んだまま想いを伝えた。

「また、昔話を聞いて欲しいのじゃ」

「ああ。オレで良ければ幾らでも聞かせて貰うぜ」

 リキはドカっと腰掛けてみせた。ワシもリキの隣に腰掛け、二人で窓の外に映る月を眺めていた。軽く呼吸を整えながらワシは大樹との思い出話を語り始めた。

「あれはワシが中学生になった年のことじゃった……」

 普段は滅多に風邪とは縁の無いワシではあったが、気の緩みでもあったのだろうか? あの年の冬、ワシは高熱に魘されていた。不思議なことにかなりの高熱が出ていたにも関わらず、寒くて、寒くて仕方が無かった。だから、ワシは目一杯服を着込んで、布団に包まって静かに震えるばかりだった。

 そっと、窓の外に目をやれば、シンシンと音も無く雪が降り頻り、体の芯まで冷える寒い冬の晩だった。おかんは旅館の仕事で忙しく、ワシは一人うんうん唸ることしか出来なかった。

 何を為すにしても体に全く力が入らなかった。トイレに行くのでさえも難儀するような状況だっただけに、喉が渇いても階段を下りるだけの気力も残されていなかった。視界も揺らいで見え、次第に手足の先がゆっくりと冷えて行くような感覚さえ覚えていた。もうじき死ぬのだろうか? そんなことを真面目に考えていた。一人魘されていると、不意に階段を駆け上がってくる軽やかな足音が聞こえた。

(ありゃ? 何だか妙な足音が混ざっているような気がするのじゃが、何じゃろう?)

 考えていると部屋のドアが開き、シロが勢い良く駆け込んできた。

「し、シロ!? 何で、お前がおるのじゃ!?」

「えへへ。シロが兄ちゃんのために、お見舞いに来てくれたよ」

「コラ、大樹! そんなことしたら、後で、おかんに雷を落されるのじゃ!」

 必死で大樹を叱り付けようにも、情けないことに全然力が入らない。そんなワシを後目に大樹は何かを運んできたらしく、廊下から何かをせっせとワシの部屋に運び込んでいた。シロは心配そうにワシのことを見つめていた。

「何じゃ、シロ。そんな情け無い顔をしおって。ちぃーっとばかし、風邪をこじらせただけじゃ……って、ひぃっ!?」

 シロに笑顔で語り掛けていると、不意に、額に冷たい感触を覚えた。突然のことに思わず飛び上がりそうになったが、どうやら氷水を絞ったタオルを置いてくれたらしい。少々、絞り切れていない感は否めなかったが……。

「た、大樹よ……。もう少し、シッカリと絞って欲しいのじゃがのう?」

「熱がある時は、こうするのが良いって婆ちゃんが教えてくれたからさ」

 ワシの悲痛な叫びは聞こえていないのか、大樹は相変わらず何かをゴソゴソと準備しているように見えた。背中越しなこともあり、何をしているかがハッキリ判らないのが、殊更に不安な気持ちを掻き立ててくれる。傍らに座り込むシロもまた怪訝そうな眼差しで、楽しげに振舞う大樹を見つめていた。

「何じゃ、婆ちゃんめ。大樹に仕事を押し付けて、テレビでも見ておるのかのう?」

「えへへ、違うよ。兄ちゃんのこと心配だから、オレが看病したいって申し出たんだよ」

「にゃんと!? ふ、ふん……。申し出ただなんて、生意気な言葉を覚えてからに」

 目一杯強がって見せたものの、本当はとても嬉しかった。婆ちゃんに看病して貰うよりも遥かに、遥かに嬉しく思えた。もっとも、大樹はそそっかしい奴だから不安は拭い切れなかったが、心配してくれる心意気が嬉しく思えた。

「シロも兄ちゃんが早く元気になれるように、見守っていてあげてね」

 大樹の言葉に「判ったよ」と言わんばかりにシロが小さく吼えて見せた。シロは頭の良い子だから大樹が看病するのを邪魔しないように大人しく座っていた。

「飲み物、飲む? 婆ちゃんがね、喉が痛い兄ちゃんにこれを飲ませろって持たせてくれたんだ」

「そ、それは……!」

(なるほど。背中越しにゴソゴソやっていたのはコレじゃった訳か……うぬぬ、婆ちゃんめ。よりによって厄介な代物を)

 ワシの苦手な物を持たせてくれるとは婆ちゃんも実に人が悪い。確かに、風邪には大根の蜂蜜漬けが有効なのは知っているのだが、どうにも、大根特有の苦みが効いた味と、独特の青臭いような、土臭いような匂いが苦手でワシは敬遠していた。だが、大樹に渡せば断り切れないことを判っている上で仕向けるとは……。

 甘党の大樹は蜂蜜を使った風変りな飲み物に興味を抱いた様子で、軽く味見してみたらしい。スプーンで口に運び入れた瞬間、大樹の背筋がシャンと伸びる。その姿にシロもビクっと飛び上がった。

「うわっ、な、何これ! 何か臭いし……うぇっ、凄い味がするね……」

 予想とは大きく異なったであろう味に、一気に顔をしかめて見せた。

「た、大樹よ……。飲む前から戦意を削ぐようなことを言うで無いわ……」

 大いに戦意は削がれたものの大樹の心意気を無駄にしたくは無かった。それに、たまには兄の威厳を見せる必要もある。興味津々に目を輝かせながらワシの反応を見つめている大樹の期待に応えるべく、ワシは大根の蜂蜜漬けをコップに注ぐと一気に飲み干した。口一杯に広がる苦みと、何とも言えない匂いに体中の毛穴が開きそうになったが、ワシは必死で飲み干した。

「ふぅっ……」

(うえぇ……ま、不味いのじゃ!)

「うわぁ、兄ちゃん、あんな不味いの飲めるなんて凄いや!」

 大樹は目を輝かせながら、尊敬の眼差しを向けてみせた。些細なこととは言え、尊敬の眼差しを向けられるのは嬉しいものだ。

「ま、まぁ、ワシに掛れば、こんなものなのじゃ」

(さ、最悪な後味が! ううっ、い、異様な苦味、キターっ!)

 しかし、途方も無い不味さであることには変わりは無かった。

「さて、ワシは再び眠りに就くのじゃ。大樹よ、シロと大人しく遊んでおるのじゃ。ワシの傍に居れば、お前にも風邪が移ってしまうかも知れんでの」

「うん、判った。シロ、お散歩に行くよ」

 こうしてワシは再び一人になった。未だに口に残る苦みと匂いに身震いを覚えたが、大樹のためにも早く風邪を治さねば。ワシは再び眠りに就くことにした。

 それから先も大樹はマメにワシの看病を手伝ってくれた。恐らく、おかんか婆ちゃんに、ああしろ、こうしろと指示を受けながら動いていたのであろうが、それでも、ワシのことを気遣ってくれることが本当に嬉しかった。お陰でワシの体調は瞬く間に回復していった。

「とまぁ、此処で終わっていれば話としてはまとまるのじゃがのう……」

「あー、例によって妙なオチがあったりする訳だな?」

「そうなのじゃ……」

 必死でワシの看病をしてくれたのは良かったのだが、今度は大樹がダウンしてしまった。恐らく、ワシの看病をしているうちに風邪まで貰ってしまったのであろう。無論、ワシのせいで大樹がダウンしてしまったのは事実だから、今度はワシが大樹の看病を買って出ることにした。もちろん、婆ちゃん直伝の蜂蜜大根を持参して。

「おえーっ! こ、コレ、凄い大根臭いよ! 絶対、飲み物じゃ無いって!」

「おーおー、さすがに大樹には飲めぬか? ほうか、ほうか」

 にやにや笑いながら少々小馬鹿にしたように振る舞えば、何とも単純な奴である。馬鹿にするなよとばかりに気合いを篭めて一気に飲み干して見せた。で、飲み終わった後には予想通り……。

「おぇっ! や、やっぱり不味い……」

 この後、ワシらの騒ぎを聞き付けて突如襲撃してきた婆ちゃんに、大樹は追い打ちを掛けるように濃密な生姜湯を飲まされた。傍に居るだけでも目がシパシパする程の生姜の匂いに、ワシは涙が止まらなかった。

(こ、これは、生姜湯では無く……摩り下ろし生姜に砂糖と湯を加えたものでは無いのじゃろうか?)

「な、何これ!? うわっ、激辛だよ! ひー、口がヒリヒリするよー」

「ひっひっひ。体が中からポカポカ温まるじゃろう?」

「にゃはは、強烈なのを飲まされたのう」

「うわっ……何か、激しく燃焼系な感じだよ。うう、凄い熱くなってきたよ……」

「ほれ、大地。お前にはこれをくれよう。受け取るのじゃ」

「わん!」

 ポンと投げられれば、条件反射的に喰らい付くのが信条なワシは、何の疑いを持つことも無く飛び付いた。

「んんんーーーっ!?」

「ひっひっひ。ワシの秘伝の梅干しのお味はどうじゃ? さて、大樹よ。お前も食うのじゃ」

「お、オレは要らない……」

「何を申すか。若いモンが遠慮するもんじゃ無いよ」

「んんーーっ!?」

 ワシに続くように大樹は半ば強引に婆ちゃん秘伝の極悪な梅干しを食わされた。その余りの酸っぱさに大樹はみるみるうちに元気を取り戻し、ワシはあまりの酸っぱさに嫌な汗が止まらなかった。

「ろ、ロックの婆ちゃんって……色んな意味で、すげぇ人だったんだな」

「ま、まぁ、ワシの婆ちゃんじゃからのう……」

 口も悪ければ手も早い。年寄りのクセに妙に気が強くて、おっかない婆ちゃんではあったが、今のワシが在るのは婆ちゃんのお陰だ。厳しいながらも色々なことを教えてくれた。特に、物の考え方に関しては婆ちゃんに教わったことは本当に多い。人の為に尽くせ。その一言に婆ちゃんの想いの全てが篭められているように感じられた。ワシにお持て成しの考え方を教えてくれた婆ちゃんだったのだから。

 その婆ちゃんも数年前に亡くなり、シロもまた、その後を追うように眠りに就いてしまった。何時かは訪れる別れの日を、大切な家族と離れ離れになる日を、ワシは受け入れなければいけないということを知った。

「別れは期せずして訪れる。結花との別れも、そんなものだったからな……」

「あ……。済まないのじゃ。辛いこと、思い出させてしもうたの」

「オレのことは気にしなくて大丈夫さ。でもさ、ロックと大樹は本当に仲の良い兄弟なんだな。羨ましいな。兄弟が居るって」

「リキも兄弟なのじゃ」

「へへっ、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇかよ」

 ワシの言葉にリキは静かに目を細めて笑ってみせた。

 窓から覗く月明かりが部屋を穏やかに照らし出してくれる。穏やかな月明かりに包まれた部屋の中でワシは不思議と落ち着いていた。少し前までは大樹のことを想い、胸が張り裂けそうになっていたが、今は荒れ狂っていた心も穏やかな気持ちに変わっていた。

◆◆◆37◆◆◆

 少しずつ蘇ってくる記憶。途切れていた記憶が、再び紡ぎ出されようとしているのを感じていた。恐らく、あのカラス天狗の少年も、それを期待しているのだろう。ワシは、あのカラス天狗の少年と関わりを持った出来事を振り返っていた。その中でも印象的だった記憶を手繰り寄せていた。

 あの出来事があった日もまた、暑い夏の日だった。コタ達と知り合う前だったから、多分、ワシが小学生の終わり頃の体験だったと記憶している。

 その日は朝から猛烈な暑さに襲われた日だった。目が覚めると同時に割れんばかりの蝉の声と、部屋の中であるにも関わらずに陽炎が見えるのでは無いかという程の熱気に包まれた日だった。前日は叩き付けるような雨に見舞われたが、一夜明ければ、抜けるような青空と盛んに発達した入道雲が広がっている。とにもかくにも桁違いに熱い日だったのを記憶している。当然、そんな暑い日にやるべきことと言えば一つしか無い。

「た、大樹よ。今日はシロを連れて、川遊びに行くのじゃ……」

「うん。暑過ぎて、頭、クラクラするよ……」

「そうじゃな。茹で上がる前に、さっさと川に向かうとするのじゃ」

 ワシらはシロを連れて家を飛び出した。だが、地面も相当に熱を帯びているのか、シロは困ったような表情で歩き回っていた。恐る恐る地面に手を当てたワシは思わず手を引っ込めた。

「にゃにゃにゃにゃんと!? これは、目玉焼きが出来てしまう熱さなのじゃ!」

 これではシロもまともに歩けたものでは無かろう。

「おうおう、シロや、済まなかったのう。このような熱い場所を歩くのは辛かったであろうに」

「兄ちゃんがシロを抱っこして運んであげたら?」

 大樹の言葉に従い、試しにシロを抱き挙げてみたが……。

「うっ……。お前、中々に重たいのじゃ」

 ワシに無礼な暴言を投げ掛けられて、シロは何とも言えない表情を浮かべていた。実際、シロは体も大きいだけに重さもある。大樹と二人で運ぼうかと考えたが、絵的に有り得ないことになりそうだ。

(何だか、仕留めたイノシシを運搬するような絵になってしまうのじゃ……)

 シロもまた、同じ絵を想像したのだろうか。絶対にイヤだと言わんばかりの表情で、ワシを冷ややかに見つめるばかりだった。仕方が無いので、出来るだけ日陰の道を選びながらワシらは渡月橋を渡り切った。渡月橋を超えて少し大堰川沿いに下流を目指して歩む。渡月橋から少し下れば開けた場所に至る。その辺りは川遊びをするには丁度良い場所で、ワシら兄弟はその辺りで良く遊んでいた。

「さぁ、シロも一緒に遊ぶのじゃ!」

「うわぁ、水が冷たくて気持ち良いよー!」

 こういう暑い日は川遊びに限る。ワシらは夢中になって川遊びを楽しんでいた。もっとも、前日の大雨の余波は残っているらしく、普段はくるぶし辺りまでしか無い大堰川も、既に膝下まで浸かる程に水かさが増していた。やはり、大雨の影響は大きい。水も濁り、川の流れも早かった。少々川遊びするには危うい状況であったが、常日頃から大樹には深い場所には絶対に近寄らないように言い聞かせている。それに、今日はワシもシロも一緒にいる。夢中になって危ないことをしないよう、シッカリと見張っているとしよう。

 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 何時の間にか空はどんよりと厚い雲に覆い尽くされ、強い日差しさえも覆い隠そうとしていた。唐突に、空が激しい唸り声をあげたのを耳にして、ようやく、ワシは事態の深刻さに気付かされた。

「おりょ? 空模様が怪しげなのじゃ。ふむ。これは、派手な夕立が来そうじゃな」

 そろそろ潮時だろう。大樹に声を掛けようとしたが、何時の間にか大樹の姿は見えなくなっていた。

「ありゃ? 大樹は何処に行ったのじゃ?」

 ワシは慌てて周囲を見回してみた。だが、大樹の姿はどこにも見えなかった。一体どうしたことなのだろうかと焦りながら周囲を見回してみた。

 程なくしてパラパラと雨が降り始めた。雨足は一気に強まり、瞬く間に土砂降りの様相へと移り変わった。それに呼応するかのように川の水かさが急速に増してゆく。恐らく、上流の方でも派手に雨が降っているのだろう。

 嫌な予感が体中を駆け巡る。シッカリと踏ん張っていないと流されてしまいそうな程に、川の流れも勢いを持ち始めている。こんな状況なのに大樹は一体何処に行った? まさか、遊びに夢中になっているうちに!? 不安に駆られながら慌てて周囲を見回したワシの耳に、大樹の悲鳴が飛び込んできた。

「うわぁ! ああっ、兄ちゃん! 助けてーっ!」

「た、大樹!?」

 予想通りの展開だった。恐らく、遊びに夢中になっているうちに、知らず知らずのうちに深くなっている場所へと足を運んでしまったのだろう。

「まずいのじゃ! 急いで大樹を救出せねば!」

 雨は既に叩き付けるかのような激しい豪雨へと変わっていた。渡月橋の上を歩む人々も、通り沿いの土産物店も突然の雨に動揺しているのが見えた。この強い雨は非常に厄介な代物と化す。上流で派手に雨が降れば、川の水かさも派手に増す。水深も深くなり、水量も増えるから、早さも、勢いも増し、救助も難しくなる。

「大樹! 早くこっちまで来るのじゃ!」

「あ、足が、足が着かない! うわぁ、流されちゃうよ!」

「ああ……どうすれば? どうすれば良いのじゃ!?」

 駄目だ。今、ここでワシが取り乱せば、大樹を救出することは絶望的になる。だが、一体どうすれば? ワシ一人では大樹を救出することは不可能だ。ワシ一人で無理ならば……そうだ! ワシはシロに向き直り、可能な限りの声を張り上げた。

「シロよ! 家に戻り、おとんと爺ちゃんを連れて来るのじゃ!」

 流される大樹を目にしてシロもまた酷く動揺していたが、ワシの叫びを耳にして我に返ったのか、力強く一声鳴くと一気に走り出した。だが、大樹のことを一刻も早く救助しなければ本当に溺れてしまう。ワシは迷った……。とにかく迷った。救助の手を待っていては手遅れになってしまうかも知れない。非力なワシ一人に一体何が出来るのか? 待つべきか? それとも? 迷って、迷って、とにかく迷ったけれど、一つの結論に至った。

「大樹、今行くからしばらく耐えるのじゃ!」

 何とも浅い考えだった。幾ら、泳ぎに長けているとは言え、水かさの増した川の中で、流れに逆らって泳ぐことは容易いことでは無い。大樹はどんどん流されてゆき、ワシも足の付かない場所で激流に呑まれてしまった。どんどん小さくなってゆく大樹の声。必死で大樹の声を呼ぶが、水が容赦無くワシを呑み込む。必死で息を吸おうとして、どれだけの水を飲んでしまったことだろう。足が付かないどころか、激流にすっかり足を奪われていた。叩き付けるような強い流れと、川の冷たさに次第に体中の感覚さえも失われようとしていた。

(何と言うことじゃ……。このままではワシも、大樹も助からない……)

 絶体絶命の危機に陥り、ワシは自分の愚かさを酷く後悔していた。大樹の動きを、何故、しっかりと見ていなかったのか……。ワシの不注意が大樹を危険に晒してしまった。そして、ワシ自身も川に呑まれようとしていた。

(済まんのじゃ、大樹……。ワシはお前を助けてやれそうにないのじゃ……)

 どれ程の水を飲んでしまったのだろうか? もはや、呼吸さえままならなくなっていた。

(ああ……ワシは、このまま死んでしまうのじゃろうか……)

 やがて、ゆっくりと意識が遠退いて行った。薄れゆく意識の中、誰かが川に飛び込む音が聞こえた気がした。その音を耳にしたのを最後に、ワシの意識は途切れてしまったらしい。覚えているのは此処までだ。

◆◆◆38◆◆◆

 次に気が付いた時にはワシは川辺に横たわっていた。心配そうにワシの顔を覗き込む救急隊のお兄さんの顔、今でも鮮明に覚えている。

「ああ、お父さん! 大地君も意識を取り戻しました!」

「大地! ああ、良かった……。無事だったのですね!」

「お、おとん? 大樹は? 大樹は無事なのかの?」

「ええ、大樹も無事ですとも!」

 結局、この後救急隊に病院まで搬送され、ついでに、ワシらはおかんの猛烈な雷を頂戴する羽目になってしまった。しかし、誰もが首を傾げたことがあった。

 ワシらが流されてゆくのを確かに多くの人々が目撃していた。それにも関わらず、ワシらは川辺に横たわっていた。

「考えられない話なのじゃ。どう考えても有り得ない展開なのじゃ」

「その時に助けてくれたのって?」

「うむ。確証は無いのじゃが、あの時のカラス天狗であったに違いない。ワシの中で、そういう結論に落ち着いたのじゃ」

 あのカラス天狗の少年が、確かに、ワシらを生命の危機から救ってくれた。確証は無いけれど、ワシの中ではそうに違いないと確信していた。あのカラス天狗の少年に再び出会うことが叶ったならば、その時は、シッカリとお礼を告げたいと考えていた。だが、何時の頃からか、彼はワシの前には姿を見せなくなってしまった。だから、礼を言おうにも言うことが出来ないというもどかしさを覚えていた。

(のう、カラス天狗よ? お主は今もワシらの傍に居るのであろう? あの笛の音、お主の仕業なのじゃろう? もう一度、お主に会いたいのじゃ)

 本当に不思議な奴だ。何の見返りも無いかも知れないのに、何の得もないかも知れないのに、それでもなおワシらのために手を貸してくれようとしている。

(損得勘定なんか無いのじゃろうな。ワシらは……ワシらはトモダチだからのう)

 大樹との思い出を語り終えたワシはリキと共に静かに月を眺めていた。

 あのカラス天狗の少年は今度もワシらに手を貸してくれる気がした。あまりにも図々しく、厚かましい思い上がりなのかも知れない。だからこそ、もう一度出会いたかった。そして、丁重に礼を告げねば気が済まなかった。願いが届くことを祈り、ワシは月を見つめていた。

 窓の外からは虫達の割れんばかりの鳴き声が響き渡るばかりだった。大堰川が流れゆく音色が耳に染み入る。嵐山の街並みは不気味なまでに静まり返っていた。何かが起こる前兆のように思えて、不安で仕方が無かった。

◆◆◆39◆◆◆

 リキと共に徒然なるままに雑談をしながら大樹の帰りを、コタ達の到着を待ち侘びた。だが、待てども、待てども、どちらも訪れる気配すら見られなかった。

 どれ程時間が過ぎたのだろうか? 唐突に予想もしない異変が起こった。それは何の予告も無しに起こった。山鳴りとでも言うのだろうか? 突然、辺り一面から唸り声のような、獣たちの咆哮のような異様が響き渡った。激しく地面が揺さぶられ、さながら地震でも起きているかのような振動が響き渡り、周辺の空気までもが激しく揺さぶられた気がした。

「い、一体、何が起きているのじゃ!?」

「マジかよ……。周辺を取り囲む山々が鳴いているかのような声だぜ!?」

 それは今まで聞いたことも無い音だった。生き物が発しているかのような、その哀しげな声は辺り一面から響き渡っていた。木々が、山々が、大自然が叫びを挙げているのだろうか? 人が為す愚かな行いを、人と情鬼との醜い諍いを諌めるかのような切な鳴き声であった。体中が大きく震わされる感覚を覚えた。そこら中から響き渡る鳴き声のような音は一向に収まる気配が無かった。それどころか、さらなる異変がワシらに襲い掛かった。

「こ、今度は地震なのじゃ!」

「う、うぉっ! や、ヤバくねぇか! す、すげぇ、揺れてるぞ!」

「と、とにかく旅館から出るのじゃ!」

 万が一ということはあるが、建物が倒壊しないとも限らなかった。それ程までに激しい揺れであった。このまま地面もろとも崩落してしまうのでは無いかと思える程に激しく揺れ、ワシらは何度も転びそうになりながらも階段を駆け降りた。一刻も早く旅館から外に出なければ大変なことになってしまう。

 やっとのことでワシらは外に飛び出した。まだ揺れは酷く、乗り物酔いになったかのような不快な感覚を拭い切れなかった。木々達も派手に揺れ動いていた。慌てて大堰川が見える場所まで移動すれば、やはり、川の流れも波のように大きく揺れ動いていた。それだけでは無かった。もう、すっかり辺りは暗闇に包まれているというのに、どうしたことか、山の向こう側は煌々と燃え上る紅蓮の炎のように不気味なまでに赤々とした光を称えていた。何か、途方も無い出来事が起きている。それだけは確かではあったが、一体何が起ころうとしているのかワシらには皆目見当もつかなかった。

「い、一体どうなっているのじゃ……。この世の終わりでも訪れようとしているのかの?」

「わ、笑えねぇ話だけど、あながち誇張表現にも聞こえねぇよな……」

 揺れはゆっくりと収まってゆき、辺りは再び不気味なまでに静まり返った。だが、冷静になって考えてみると実に可笑しな話だ。これ程派手に揺れたにも関わらず、どの家からも人が飛び出してくる気配は無かった。それどころか、街があまりにも静か過ぎることに途方も無い違和感を覚えていた。

「な、なぁ……。何かさ、妙に静か過ぎやしねぇか?」

「わ、ワシも同じことを思っておったのじゃ。可笑し過ぎるのじゃ。こんなにも派手な異変が起きているというのに、誰も家から飛び出さないなど、有り得ない話なのじゃ」

 嫌な予感ばかりが駆け巡ってゆく。こういう場面で感じる嫌な予感というものは、皮肉なことに妙に的中率が高いから困るというものだ。だからこそ、ワシらは慎重に周囲の様子を窺うことにした。

 周囲の状況を知れば知る程に、明らかに可笑しいことに気付く。この辺りにはウチの他にも旅館が何件も立ち並んでいるというのに、どこの旅館も真っ暗だった。人の気配は微塵も感じられなかった。そんなことある訳が無い。一体、何がどうなっているのだろうか?

  やはり……嵐山という街さえも『忘却』されようとしているのか? イヤ、そうでは無い。風葬地としての嵐山が描き出されようとしている。人々の記憶に眠る、古き時代の嵐山の情景が描き出されようとしているのかも知れない。冗談では無い。思い通りにさせてなるものか。

「あ、明らかに可笑しいよな……」

「一体何が起きたと言うのじゃろう?」

 ワシらは二人でぴったりと寄り添いながら周囲の様子を窺っていた。やはり、人の気配は全く感じられなかった。まるで、ワシらだけが取り残されてしまったかのような、そんな恐怖感を覚えていた。そうとしか考えられない程に人の気配が感じられなかった。まるで一斉に神隠しに遭ったような状況だ。

「も、もう少し、探索範囲を広げてみようぜ」

「そうじゃな……」

 それでもワシらは一縷の望みを託して渡月橋を目指して歩んでいた。しかしながら、やはり人の気配は感じられず、辺りはただ無情にも静まり返っていた。未だ微かに響き渡る山々の鳴き声を除けば、辺りは不気味なまでの静寂に包まれていた。

「何だか、ホントにオレ達以外誰も居なくなっちまったってな感じだよな」

「そうじゃな。一体、何がどうなっているのじゃろうか?」

「そんなの決まっているだろ? ロックが遭遇したという怪しげな坊さん達……つまりは、情鬼の仕業だろ? オレ達だけ孤立させてやろうって魂胆な訳だ。オレ達を孤立させたって何にも意味ねぇだろっつーの。馬鹿か、そいつらは?」

 こんな切迫した場面だというのに、鼻息荒く怒りを露わにする強気なリキが頼もしく感じられた。もっとも、誰かに守って貰うだけでは事態は解決しない。前へ進まなければならないのだから。

「多分、何処まで行っても状況は変わねぇんだろうな。ま、オレ達はカゴの中に捕らわれた、憐れな小鳥ちゃんってなところだな。へっ、お手並み拝見と行こうぜ?」

「そ、そうじゃな。こんな小細工にいちいち驚いていては駄目じゃな……」

「おうよ。さっき、オレをガツっとぶん殴った時みたいに、気合い入れて行こうぜ!」

 取り乱した自分の姿を思い出し、ワシは無性に恥ずかしくなってしまった。

「そ、その話は許してくれなのじゃ」

「わはは。からかって悪かったな」

 リキは豪快に笑いながらワシの肩をバンバン叩いて見せた。

「取り敢えずさ、もう少し歩いてみようぜ?」

 リキの言葉に従いワシは辺りを散策してみることにした。見慣れた光景なのに散策というのも可笑しな話ではあるが、人気の全く感じられない街並みというのはあまりにも奇異な光景に感じられた。微塵の油断も許されないのであろうことは容易に想像がつく。

 嵐山旅館を出て右手に曲がる。そこには見慣れた旅館が立ち並ぶ通りが広がる。暗い街並みを街灯が温かく照らし出す。どの旅館からも煌々と光が漏れているのにも関わらず、やはり、人の気配は一切感じられなかった。

 そのまま道なりに進んだワシらは渡月小橋に差し掛かった。立ち並ぶボートが目に留まる。先程の地震の余波なのか、微かに波打つ水面でボートが寂しげに揺れ動くばかりだった。

「不気味なまでに静まり返っているよな」

「そうじゃな。確かに、日が暮れればこの辺りは人気も無くなるのじゃが、何とも言えない異質な感じがするのじゃ」

 確かに、夕暮れ時になれば、この辺りは人の気配も無くなり漆黒の闇夜に包まれる。明るい時間帯には賑わいを見せる中の島公園も、やはり、静まり返っていた。周囲からは虫達の鳴き声と大堰川の流れる音以外、何も聞こえて来なかった。ワシらは暗がりの中、仄かな光に包まれながら佇む渡月橋を歩み続けた。人の気配は全く感じられなかった。渡月橋を渡り切ったワシらは、嵐山駅前の大きな交差点に辿り着いた。

「駅の方からも全く人の気配が感じられねぇな」

 信号だけが一定時間毎に切り替わっていた。何とも異様な光景であった。立ち並ぶ土産物店は全てシャッターを閉ざし、見慣れた街並みは不気味なまでに静まり返っていた。当然、行き交う人も誰一人としていない。聞こえて来るのは微かに残る山からの唸り声と、虫達の鳴き声、それから、大堰川が流れゆく音だけであった。

「何かさ、オレ達だけが現実世界と瓜二つの別世界に叩き込まれたって感じだよな」

 周囲を見回しながら、ぽつりとリキが呟いた一言。何て恐ろしいことを言うのだろう。ワシは思わず目を見開き、息を呑んだ。そんなワシの動揺ぶりには気付いていないのか、溜め息混じりにリキが続ける。

「幾らなんでも、こんなにも大勢の人が一斉に神隠しに遭うなんて考えられねぇからな」

 恐ろしい話ではあったが、少なからず理に叶った内容なのは事実だった。慌てふためくだけでは何も解決しない。腹を括るしか無いのか。ワシは静かに呼吸を整えた。

「なるほど。ワシらだけが、別の世界に運ばれてきたか……。情鬼ならば為し得るのじゃろうな」

「おお!? おい、ロック、見てみろよ?」

 驚いたような口調でリキが声を荒げる。ワシは慌ててリキが指さす方向に目線を投げ掛けた。

「駅前にさ、あんだけ沢山居たハズの警察の車両が一台も居ないぜ? 居ないと言うより、最初から誰も居なかったって感じだよな。やっぱり、オレ達だけが見てくれだけそっくりな場所にすっ飛ばされて来たのかもな」

 随分と恐ろしい状況であるにも関わらず、リキが妙に落ち着き払っていることにワシは違和感を覚えていた。そんなワシの想いに気付いたのであろうか、前を歩いていたリキが静かに足を止めると笑いながら振り返った。

「へへ。何で、こんなに涼しい顔しているかって?」

 リキは相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま続けて見せた。

「なんつーのかな? アレだ。恐怖も限界を超えちまうと、感覚が麻痺しちまうみてぇでな。それにさ、露姫の一件でも似たような体験しているから、まぁ、何とかなるんじゃねぇの、なーんて気楽なことを考えているのかも知れねぇな」

「じ、実に頼もしいことじゃな。ワシは恐怖で足が震えて、まともに歩くことも出来ないのじゃ……」

「わはは。それが普通だと思うぜ? 恐怖心が麻痺しちまうと色々とろくなことにならねぇだろうからな。例のオカルトマニア達もそういうクチだろ? 恐怖心が麻痺しちまったから、より大きな恐怖を求める。そうこうしているうちに超えてはいけない一線を超えちまったってぇ訳だろうな」

 超えてはいけない一線を超える……。その代償が自らの命だとは随分と高い対価だ。妙に冷静にそんなことを考えている自分が滑稽だった。

「それに、一人だったらおっかなくて、おっかなくて、可笑しくなっちまっていたかも知れねぇけど、ロックも一緒に居るからな。まぁ、一人じゃ無いっつーのは、結構大きいよな」

「ああ、判る気がするのじゃ。ワシも一人だったら、恐ろしくて、恐ろしくて、嵐山旅館から一歩も出られなかったと思うのじゃ」

 可笑しそうに笑い声を響かせると、リキは、いきなりワシの肩を力強く抱いてみせた。突然のことに驚いたワシは、思わず小さく悲鳴を挙げてしまった。

「い、いきなり、ビックリするのじゃ……」

「わはは、驚かせちまったか? そりゃあ、済まねぇな」

 なおもリキは上機嫌に笑いながら、一気に顔を近付けて見せる。

「それにさ……こんなこと言うの、すげー不謹慎だと思うけどさ、今、オレはロックと二人きりな訳だろ? 誰にも邪魔されねぇし、誰にも見られることもねぇ訳だ」

「な、何の話なのじゃ?」

「……スケベ心ってのはさ、恐怖心を超える有効な手段の一つかも知れねぇなってハナシさ」

 笑いながらリキはワシの手を自分の股間へと運んで見せた。リキの股間は妙に熱気を帯びていた。しかも、カチカチに硬くなっていた。突然のことにワシは顔が一気に熱くなるのを感じていた。

「い、いきなり何をするのじゃ!?」

「へへ、ちったぁ、恐怖心、和らいだか?」

「ど、どっかに吹っ飛んでしまったのじゃ……」

「な? すげーだろ? スケベ心、偉大なりーってか? わはは」

 何だか妙な空気に包まれているような気がした。確かに、二人しか居ない虚構の世界であるならば、誰にも知られることは無いだろう。ワシとリキとの間に存在している途方も無いヒミツとて……。

「アレは何時だったっけ? 結構前だったよな」

「中学生の頃じゃな。お主が結花さんと付き合うようになって相応に時間も経った頃じゃからのう」

「ああ、そうだったな。懐かしいな……」

 何時の間にかワシは大堰川の流れを見つめながらリキに寄り添っていた。リキもまた満更でも無さそうな笑みを称えたままワシの肩を抱いていた。

「おおっと、こんなことしてるのバレたら、オレ、テルテルに殺されるかな?」

「何を言うておるか? そんな迷いなぞ最初から無かったのじゃろう?」

「へへ、バレちゃあしょうがねぇな。ま、アレはオレとロック、二人きりの秘密だからな」

 二人きりの秘密か。そうだった……。過去の記憶だと、自分の中では振り返らないように開かずの間に封じ込めた記憶だった。それに、今は互いに想いを寄せている相手だけを見つめている。あの当時のようにゆらゆらと揺れ動いている訳でも無い以上、今更振り返ることも無いと思っていたのに、未来とは判らない物だ。

「へへっ、照れてるのかー? ロックも可愛い所あるなー」

「か、からかうで無いのじゃ……」

 思わず言葉に詰まるワシの肩を抱いたまま、リキは俯いて見せた。

「ごめんな、ロック。大樹のことで頭一杯な時に、そんな下世話な話するんじゃねぇって話だよな」

 なおもリキは寂しそうに、ぽつりぽつりと呟くばかりであった。ワシだけが取り残されたような感じで胸が酷く締めつけられた気がする。

「ロックの優しさに、オレはいつも図々しくもたれ掛かってばかりだ。今だって、ロックは大変な事態に陥っているのに、オレはこうやって自分の我を貫き通そうとしている。ホント、ごめんな、ロック」

「ううっ!?」

 不意に、ワシの視界が酷く揺らいだ気がした。一瞬、意識が途切れたワシではあったが、慌てて目を開いた。駄目だ、このままでは倒れてしまう。ワシは必死で抗おうとしたが、どうすることも出来なかった。せめてもの抵抗として、ワシはしゃがみ込むのがやっとだった。しゃがみ込むと同時に、視界が白く、白く染め上がってゆく、そのままワシは意識が遠退くのを感じていた。

◆◆◆40◆◆◆

 何時の間にかワシは列車に揺られていた。セピア色の情景の中、夜半の竹林の中を駆け抜ける列車。ワシはその列車に揺られていた。ガタンガタン、ガタンガタン。軋む音が酷く年季を感じさせる。揺れる列車の窓の外、流れゆく夜半の景色をただ呆然と見つめていた。

 この列車が何処行きの列車なのか、何故、ワシが此処にいるのか、何一つ記憶に残されていなかった。視界に広がるのはセピア色の世界。どこか懐かしさを覚える物悲しい情景に思えた。

 列車の外を次々と駆け抜けてゆく情景は、確かに、見覚えのある情景ばかりだった。過ぎ去ってゆく情景は、さながら走馬灯のように感じられて胸が締め付けられる思いで一杯だった。

 駆け抜ける情景の中、ワシは幼き日のワシ自身と向き合っていた。俯いたまま、ただ静かに足元を見つめるだけのワシの姿と向き合うのは辛かった。だけど、目を背けることも出来ずに、ただ、ワシは幼き日のワシ自身と向き合うことしか出来なかった。

 ガタンガタン、ガタンガタン。列車が音を響かせながら走り抜けてゆく。

 昔から自分を偽ることだけは得意な身だった。自分に都合の悪い記憶、目を背けたくなる記憶、受け入れられない記憶、そうした記憶を全て自分に都合良く『忘却』しながら生きてきた。自分でも驚く程に巧みに『忘却』を繰り返したお陰で今のワシがある。だけど、為し遂げ続けた『忘却』と向き合う時が訪れてしまったのかも知れない。

 記憶に残っている情景……その中に潜む真実と対面する時が訪れようとしている。逃げ続けているだけでは、本当の意味での自分には成り切れない。それに、ワシが逃げてしまったために時が止まったまま過ぎ去ってしまった。そこに居たであろう、別の誰かの時さえも止めたままだ。そうやって、自分にだけ都合の良い歴史を刻み続けてきた。残された誰かの苦しみなどお構いなしに。

「そう。君はそうやって、幾つもの史実を『忘却』し続けてきた。だけど、それもお終いだ」

「誰じゃ? お前は一体何者なのじゃ?」

「ぼくのことは君が一番良く知っているハズだよ。思い出せないのかい?」

 思い出せないのかと問われても、まるで心当たりの無い少年の声であった。一瞬、あのカラス天狗の少年を思い浮かべたが、明らかに違う声だ。

「これも、『忘却』し続けた弊害なんだね……」

 聞き覚えの無い少年の声は哀しげに呟いて見せた。だが、本当に、まったく心当たりの無い少年の声だった。必死で記憶を手繰り寄せてみせるけれど、思い当たる節が無かった。

「大地、良いかい? 君の心にある五つの開かずの間の封印を解く。そして、向き合うんだ。君が目を背け続けた過去と。真実と」

 まるで意味が判らない。何のことを言っているのかワシにはサッパリ見当もつかなかった。

「もしかしたら、その途中で君は壊れてしまうかも知れない。でも……大地、君には是非とも乗り越えて貰いたい。そして、受け入れるんだ。本当の君を」

「何故、ワシがそんなことをしなければならないのじゃ?」

 大体、こいつは一体何者なのだ? それに、『忘却』された記憶と向き合えとは、一体どういうつもりなのだろうか? 意味の判らない言動に苛立つワシとは裏腹に、少年の声は淡々と続けて見せる。

「竹林の惨状を目の当たりにしたでしょう?」

「なっ!?」

「被害を食い止めたくないの?」

「そ、それは……」

「それならば、君は『回顧』しなければならない」

「か、回顧?」

「そう。『忘却』された記憶を再び想い起こす。そうすることで消え去った記憶が蘇る」

 『回顧』……。つまり、『回顧』し続けることで、『忘却』に対抗するということになるのだろう。だが、何故、ワシなのだろうか? 他にも嵐山に思い入れがある者達など幾らでもいるだろうに。何故、ワシで無ければならないのだろうか?

「大地、もう、余り時間が無いんだ。君の大切な故郷が『忘却』されても良いのかい?」

「そ、そんなの困るのじゃ!」

「悪いようにはしない。だから、どうか、ぼくを信じて欲しい」

 自分のことを「信じて欲しい」などと抜かす奴のことなど、信じられるものだろうか。それに、何故、ワシで無ければならないのかも意味不明だった。理解も出来なければ信用も出来なかった。だけど他に選択肢が無いのであれば、僅かにでも希望がある道を選ぶべきだろう。そんなワシの心を見抜いているのか、少年が静かに続けて見せた。

「さぁ、大地。旅の始まりだよ。最初の下車駅は――」

 程なくして列車がゆっくりと音を立てながら速度を落としてゆく。力強く掛るブレーキに線路が悲鳴を挙げる声が響き渡った。そっと振り返ってみるが乗客は他に誰も居ない。姿無き声の主。一体何者なのだろうか?

 恐る恐るワシは古めかしい列車の中を歩んでみた。立ち並ぶ座席を一つずつ超えれば、やがて、列車の扉が見えてきた。

「な、何じゃ、この扉は?」

 異様な風景がそこに広がっていた。そこは列車の内装からは大きく掛け離れていた。何しろ……そこにあったのは、嵐山旅館の客室にある襖と全く同じだったのだから。

「こ、これが……開かずの間じゃと? た、確かに、一種異様な重みを感じるのじゃ」

 ワシは呼吸を整えながら、そっと襖に手を触れた。ワシを受け入れるかのように襖は静かに開き始めた。開き切った襖からは目が眩まんばかりの光が波のように押し寄せてきた。涼やかな竹林の音色に抱かれながら、ワシの記憶が遥か彼方へと旅立ってゆくのを感じていた……。

◆◆◆41◆◆◆

 俺達は化野念仏寺へと続く緩やかな石段を歩んでいた。相変わらず背後には薄気味悪い僧達がゾロゾロと続いていた。小声で何やら経文らしき物を唱えながらもゆっくりと距離を縮めていた。俺達は後ろを気にしつつ化野念仏寺へと足を踏み入れた。

 何度訪れてもこの寺の一種異様な雰囲気には背筋が冷たくなる。昼に訪れても、この寺は十分に現の世からは切り離された異界と化した場所と呼べる。夜というだけでも十二分に不気味な風合いを称えているというのに、背後には薄気味悪い僧達が列を為している。絵的には極めて現実離れした構図に感じられた。

「気色悪い坊さん達だなぁ。クロ、あんな奴らガツっとぶちのめしてやっちゃえば良いのに」

「ふむ。輝は大人しい顔に似合わず、中々に好戦的であるな。さては、お主、血を見るのが好きなクチであるな?」

「ちょっとー。それじゃあ、まるでぼくが喧嘩好きみたいじゃない?」

「輝、先刻も言ったが俺達の目的は敵を叩き潰すことでは無い。それに、これだけの大人数を相手に立ち回るのは分が悪い。相手もこちらが手出し出来ないのを判った上で威圧しているのだ。迂闊な振る舞いは寿命を縮めるだけだぞ?」

「そんなこと、判っているよ」

 輝は頭の後ろで手を組みながら口を尖らせて見せた。子供染みた振舞いに思わずクロと顔を見合わせ笑った。普段だったら、ますます不機嫌そうな振舞いを見せるところであったが、今日の輝は俺の予想とは異なる振舞いを見せた。

「ま、何だったら、ぼくがあいつらを一掃しても良いんだけどねー?」

 不敵に笑う輝の肩の上には何時の間にかカマキリが佇んでいた。どこか見覚えのあるカマキリであった。見た目は普通のカマキリと変わらないが、目を合わせることすら憚られる程の殺意を放つ姿は何処かで見覚えがあるように思えた。

「おい、輝。そのカマキリは……」

「えへへ。判ったでしょう? ぼくも十分に戦力になるってことだよね」

 俺は思わずクロの顔を覗き込んでいた。だが、クロは可笑しそうに笑い返して見せた。

「案ずるな。輝が使おうとしているのは蠱毒の力では無い」

「だが、虫を操る能力など……」

「輝よ、随分と木々の魂達と心を通わせられるようになったな?」

「えへへ。判る? 美月が……母さんが、ぼくに授けてくれた力なんだ。禍々しい蠱毒の力を上手く使えるように調整した結果が、今のぼくの持つ能力なんだ。それに……このカマキリを初めとする多くの虫達が行き場を失ってしまったからね」

 輝は肩の上に乗せたカマキリに向き合いながら語り続けて見せた。

「この子も蠱毒という呪術の被害者なんだ。大自然に返してしまえば生態系を破壊し兼ねないからね。だから、せめて、ぼく達の戦いに協力して貰おうと思ってね」

 随分と短期間の間に凄まじい力を手にした物だ。これも、四天とやらの恩恵があればこそなのだろうか? いずれにしても美月が使っていた、あの凶悪な虫達を使いこなせるというのは実に大きな戦力となる。恐らく、俺なんかよりも遥かに役に立つだろう。

「なるほどな。美月が使っていた虫の力を使えるとは……相当な戦力になりそうだな」

「えへへ。だから、ぼくがコタのことを守って上げるって言ったでしょ?」

「言葉通りの意味だとはな……」

「へへん」

 少々調子に乗り始めている様子が窺えた。自信を持つことは悪いことでは無いが、勇敢と無謀とは似て非なるものだ。力に力で挑んだのでは事態は悪化の一途を辿るばかりだ。だから、俺は溜め息混じりに輝に釘を刺した。

「輝、先も言ったが無用な争いは慎むべきだ」

「判っているよ」

 再び口を尖らせて不機嫌そうな表情を見せたが、それは一瞬のことだった。次の瞬間には、何時ものように陽気に駆け出していた。

「ささ、境内を探ってみよう。この、オニヤンマが教えてくれたんだ。この境内に何か異質な物があるらしくてね。それが、何やらイヤーな匂いを放っているみたいなんだよね」

 嫌な匂いを放つ物とは一体何なのであろうか? いずれにしても、僧達も此処、化野念仏寺に俺達を囲い込もうとしている。間違い無くこの寺には何かあるのだろう。

 境内に入ってすぐの場所にあるのは、化野念仏寺の中でも最も異彩を放つ西院の河原であった。数え切れない程の石塔、石仏が立ち並ぶこの場所は、無縁仏達の成仏を祈願して築き上げられた場所らしい。こうして、数多の石仏達と向き合っていると、浮かばれぬ死者達の悲痛な叫びが聞こえて来そうな気がして鳥肌が立った。

 ふと、空を見上げれば何時の間にか空は不穏なる暗雲に覆い尽くされようとしていた。遠雷が微かに聞こえた気がする。もうじき、夜空に浮かぶ月もまた、不穏なる雲に呑み込まれるだろう。

 不意に風が吹き抜けた。ジットリとした湿気を孕んだ、酷く生臭い風だった。その上霧まで出始めたらしい。周囲はこの世ならざる情景に呑まれようとしていた。視界を遮る程の濃い霧にクロが、輝が身構える。異様な者達がすぐ傍まで忍び寄ってきているのだろう。

「ふむ。未だ成仏出来ぬ者達が集うてきたか」

 クロが周囲を見回しながら、力強く六角棒を打ち鳴らして見せた。

「静まれ、迷える者達よ! 一連の騒動が片付いたら、我が責任を持ってお主らを送り届けてくれる。なればこそ、今は黙って我らが進む道を開けよ! 要らぬ抵抗をすれば地の果てに落ちて、永遠の修行の日々を送ることになろうぞ。さぁ、判ったら道を開けよ!」

 クロの力強い声が辺り一面に響き渡った。ざわついていた風が鎮まり、空気も変わったように思えた。やはり、此処には無数の魂達が漂っているのであろう。ただ俺の目では捉える事が出来ない。それだけのことなのだろう。目に見えないからと言って、存在しないとは限らない。目に見える物だけが全てでは無いということか。なるほど。今後の戦いの参考にさせて貰おう。

「凄いね。クロの一喝で、沢山いた魂達が一斉に散って行ったよ」

「輝、お前には見えるのか?」

「えへへ。ぼく、そういうのも見える子だからね」

「……長い時を共に過ごしてきたが、改めて、お前の力に敬服させられるな」

「そんな御大層なものじゃないよ。見えるだけで、救ってあげられる訳じゃ無いからね」

「さて、コタよ、先へ進むぞ。境内の奥の方から嫌な気配が流れておるように思える」

「ああ、先に進もう」

 目を背けたいけれど何故か目を惹かれてしまう。西院の河原は不思議な感覚を抱かせられる場所に思えた。戦いの渦中に無ければ、夜にこの場所を訪れてみるのも悪く無い。無論、オカルトマニア達のように無駄に騒ぎ立てるつもりは毛頭無い。ただ、クロと共に浮かばれない者達のために、静かに祈りを捧げるのも悪くは無いと考えていた。さすがに一人でこの場所を夜に歩き回れる程の度胸は備わっていないが、それでも、この現実離れした情景を、真夜中に、肌で感じてみたい衝動に駆られたのは紛れも無い事実だ。好奇心は猫をも殺すというが、それでも、この何とも言えない風情に触れてみたいと願う気持ちは偽りでは無い。

 俺達は西院の河原を抜け、境内をさらに奥へと進んだ。みず子供養の地蔵を超えれば、その先には涼やかな竹林が広がる。竹林に挟まれるように佇む階段を上り切った先には六面六体地蔵の水所と、広大なる墓地が広がっている。異様な物があるとすれば、この階段を登り切った先であろうか? 周囲に注意を払いながら俺達は階段を登り続けた。

 明かりなど一切無い夜半の化野念仏寺。その寂莫とした境内を俺達は足音さえ殺しながら歩んでいた。不意に、緩やかな風が吹き抜けてゆけば、風に揺らされた竹の葉が涼やかな音色を奏でて見せた。心地良い風ではあったが、俺の傍らを歩く輝は険しい表情を浮かべていた。

「ここの竹も長くはもたなそうだよ。今はまだ花を咲かせていないけれど、花を咲かせるのは時間の問題のように思える」

 木々の魂を見ることが出来るという輝が語る言葉であれば間違い無く真実であるのだろう。ふと、クロの表情を窺えば、相変わらず険しい表情を称えたままだった。クロの険しい横顔を窺いながら階段を歩いていると、不意に足を止めた。俺達の間にも緊張が駆け巡る。

「この竹林の奥深く……ふむ、左手の方から禍々しい殺気を感じる。コタ、輝、中に向かうぞ」

「え!? ちょ、ちょっと。この塀を乗り越えて行けっていうの!?」

「大丈夫だ。為せばなる」

「えー!? ちょ、ちょっと、二人とも置いて行かないでよー!」

 しかし、こんな場所に何があると言うのだろうか? 誰が、一体何のために? クロに続き俺達も竹林の奥へと進んでいった。どれ程歩いただろうか。やがて、竹林の中に明らかに異質な物を発見した。禍々しい紫色の光を放つそれは、どうやら何らかの護符らしい。幾つもの護符が奇怪な模様を施した紐のような物で結び付けられていた。周囲の竹に縛り付け、円陣を思わせるような形に組み上げている辺りからしても誰かが施したとしか考えられなかった。

「うわー、何か、物凄い殺気を放っているね……」

 禍々しい殺気に興味を示したのか、思わず一歩前に出る輝をクロが語気鋭く制する。

「近寄ってはならぬ!」

「ひっ!」

「迂闊に近寄れば、その身が腐り果てるぞ!」

「えぇっ!? そ、そんな恐ろしい物なの!?」

「クロ、この禍々しいものは一体何なのだ?」

 しばし思案してからクロが応えて見せた。

「これは陰陽術の一種であろう。それにしても……随分と知恵のある者の仕業であるな。並の陰陽師如きに為せるような呪術ではあるまい」

「陰陽師だと? 随分と古めかしい職種だな。今の時代に陰陽師など存在しているのか?」

「……古き時代から生き永らえた者であろう。無論、人の道を踏み外した者だ。いずれ、我らの手で葬ってくれる必要がありそうであるな」

 それにしても実に奇怪な術を施したものだ。ただの紙切れにしか見えないが、どうにも、生命を持っているかのように見える辺りが、何とも不気味に感じられた。明滅する紫色の光は、まるで胎動を繰り返しているかのようで殊更不気味に思えた。

「もっとも、これは所詮、我らに対する挨拶程度の物であろう」

「こんな強烈な術が挨拶程度なの? これを仕掛けたのは、一体、どれだけの化け物なんだろうねぇ。出来ることならお目に掛りたくは無いかなぁ」

「……このような愚物を残しておけば、嵐山の地に数多の災いを招致し続けることとなろう。この場で破壊しておくのが賢明であるな」

 静かにクロは六角棒を構えて見せた。

「コタ、輝、十分に後ろに下がって居れ。例え破片であっても、その身に浴びれば悲惨なことになるでな……」

 静かに告げると、クロは真言を唱え始めた。

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン、ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 唱えながら、クロは渾身の力で六角棒を振り下ろした。次の瞬間、術を施されていた数本の竹が毒々しい鮮紅色の火柱となった。天まで突き上がる程の激しい炎に、俺達は焼け焦げそうになった。

「くっ! こ、これは……!」

「うわー! あちちちち!」

 次の瞬間、数本の竹は一気に黒焦げになり、そのまま音も無く崩れ落ちた。

「うわっ、ほ、本当に凄まじい力を放っていたんだね……」

「うむ。あれは周囲に漂う迷える魂達を呼び集め、なおかつ、怒りを増幅させるための術であった。あのような愚物を捨て置くとろくなことにならぬでな」

 俺達は気を取り直し、再び境内を探索することにした。確かに異様な気配を感じたのは事実ではあるが、あの妙な仕掛けしか無いということは考え難かった。当然、俺達を待ち構える四人の情鬼達が境内に潜んでいることだろう。

 周囲に警戒を払いながら俺達は竹林の横を抜ける階段を下った。階段を下り、西院の河原へと歩み寄ろうとした所で不意にクロが足を止めた。一瞬、驚かされたが、すぐに理由は明らかになる。

「なるほど……。袋小路に追い詰めた所で、いよいよ俺達に喧嘩を売ろうという訳か」

「ふーん。良い度胸だね。売られた喧嘩は買っちゃうよー」

 長らく俺達の後を付けてきた僧達が静かに立ち塞がる。皆、錫杖を構えている姿から察しても、俺達を討ち取るつもりらしい。こうなる位なら最初から戦いを挑めば良い物を。随分と回りくどいやり方をしてくれるものだ。実に気に入らない奴らだ。

「コタ、輝、くれぐれも周囲の石仏を傷付けるで無いぞ!」

 こんな狭い場所で立ち回ろうと言うのに、そんな器用な真似が出来るものか。そう返してやろうかと思ったが、それよりも先に輝が駆け込んだ。

「ぼくに任せておいて! さぁ、カマキリ、あいつらをズタズタに切り裂いちゃえ!」

 輝の声に応じるかのようにカマキリが空を切り裂けば、次々と刀のような風が吹き抜けて往く。その度に僧兵達は次々と切り裂かれ、その場で蛍のような光を放ちながら消え失せて行った。

「ほう? 見事な腕前であるな。輝一人でも十分に片付けられそうであるな」

「またまた、謙遜しちゃってー。クロだって暴れたいんじゃないのー?」

「ふふ、そうだな。どちらかと言うと、我は……少々荒っぽい方が好みであるからな!」

 不敵な笑みを浮かべながら、クロは握り締めた六角棒を頭上で派手に回して見せた

「さぁ、我が相手になろうぞ! 情鬼共よ、全力で挑んでくるが良い!」

 豪快な笑い声を響かせながら、次々と手にした六角棒で僧達を叩き伏せてゆく。

 どうやら、この僧達はまともに戦う術など心得ていないらしく、ただの的と化していた。二人が派手に立ち振る舞う様を見つめながら、俺は奇妙な違和感を覚えていた。

(何故だろう? こいつらからは何とも言えない異様な気配を感じるのだが……)

  言葉に出来ない想いに駆られていると、不意に、輝の背後に迫る僧の姿が目に飛び込んできた。

「輝! 後ろだ!」

「えぇ!?」

  僧は静かに錫杖を構えると、勢い良く輝を突き飛ばした。

「うわぁっ!」

「輝! 大丈夫か!?」

 次々と僧達が崩れ落ちた輝を囲むようににじり寄ってくるが、それでも輝は臆することなく怒りを露わにした。

「いたたた……良くもやってくれたな。ぼくを怒らせたこと、後悔させてやる!」

 輝の怒りに応じて現れたのは、先刻から輝の肩に乗っていたオニヤンマであった。コイツは一体、どのような能力を持っているのだろうか? そんなことを考えていると、オニヤンマが勢い良く舞い上がった。その場に留まったまま旋回し始めた。一体何をしようとしているのかと考えていると、不意に、小さなつむじ風が生じた。さらにオニヤンマが勢いを増して旋回を続ければ、つむじ風は吹き荒れる竜巻へと成長していた。

「コタ、クロ、避けて!」

 輝の言葉に、俺達は慌てて大きく身を退けた。次の瞬間、竜巻はゴウゴウと激しく風を巻き上げながら僧達へと突っ込んでいった。予想通り、竜巻に巻き込まれ、あるいは、弾き飛ばされた僧達が倒れ込むのが見えた。

「ううむ……絶大なる威力よの。我らよりも、余程戦い慣れしているのでは無いか?」

「これは、輝には迂闊に喧嘩を売れなくなったな……」

 明らかに俺達の方が優勢であった。だが、それにも関わらずに僧達は次々と戦いを挑んでくる。余程頭が悪いのか、それとも他に策が無いのか? 少々呆れながら相手をしていたが、次第に、俺は先刻感じた違和感の正体に気付き始めた。

「なぁ、クロ。こいつら、一体何人居るのだろうか?」

「むう。我も奇異に感じておった。倒しても、倒しても、後から後から現れる。一体、どうなっておるのだ?」

 クロと語らっていると唐突に目の前に巨大な蛍を思わせる光る玉が舞い降りてきた。炎のような光を身に纏った四つの光は地面に降り立つと、そのまま人の姿へと変貌してみせた。

「ほう? お主らが一連の事件の首謀者という訳であるか?」

 クロが問い掛ければ、四人の僧達の中でも一際大柄な体格の僧が一歩前に出た。腕組みしたままクロを見下すように振舞って見せる。しばしの沈黙……だが、不意に口元を酷く歪めると、揶揄するかのように高らかに嘲笑って見せた。

「紙切れを紙切れと見抜けぬとは、鞍馬山のカラス天狗の実力も大したこと無さそうであるな」

「何だと?」

「小僧、その目を見開き、良く見届けるが良いわ」

 背後に控えし僧が手に携えた琵琶を静かに掻き鳴らして見せた。不気味な音色が辺り一面に染み渡ってゆく。その音色が響き渡ると同時に無数の僧達が次々と消え失せた。

「あ、アレ!? いきなり居なくなっちゃったよ!?」

 俺は唐突に消え失せた僧達が立っていた辺りの地面を注意深く見てみた。そこには小さな人型の紙切れが無数に散らばっていた。

「……馬鹿な。あの僧達は皆、式神であったと申すか!?」

「ははは! 皆よ、聞いたか? 鞍馬山のカラス天狗は節穴の目しか持たぬと、呆気なく認め居ったわ。このような間抜け共、我ら……風葬地の裁定者の敵に在らず!」

 僧達は嘲笑うような高笑いを響かせてみせた。その様子を無表情な面持ちで見届けながら、輝が静かにカマキリをけし掛ける。僧達に気付かれぬよう、静かにカマを振り下ろせば、無音の風の刃が空を切り裂きながら駆け巡る。だが、大柄な僧はそれを片手で容易く受け止めて見せた。

「えぇっ!? ウソでしょう!?」

「それでワシを討ち取るつもりであったか? ふふ、少々涼やかな風を感じたに過ぎぬ」

 どうやら俺達が立ち向かうべき相手はそうそう生易しい相手では無さそうだ。姑息な手を好む非力な奴かと思っていたが、そうでも無さそうだ。しかも、相当の力量を持つ僧達が四人。簡単に片付けられる問題では無さそうに思えた。

「まぁ、良い。我らはお前達と争うために現れたのでは無い」

 大柄な僧の言葉にクロが怒りを露わにする。

「戯言を! 今更、引き下がれる訳があるまい! 何よりも、情鬼と対峙しておきながら、みすみす見逃すとでも思うたか!? 鞍馬山のカラス天狗を侮るで無いぞ!」

 怒りを露わにするクロとは対照的に、大柄な僧は不敵な笑みを称えたまま、俺達を見下すばかりだった。妙に自信に満ちあふれた振舞いに、俺は言葉に出来ない想いを感じていた。何か、途方も無く嫌な胸騒ぎがしてならなかった。

「……虫を操る小僧、お前の心の内には興味深い情景が見え隠れしておるな」

「ぼくの心に? ふーん。何を言っているのかサッパリだね」

 大柄な僧が不敵にほくそ笑めば、背後に控えていた錫杖を手にした僧が一歩前に出る。静かに手を組み合わせると静かに経文を唱え始めた。やがて、錫杖から淡い紫色の光が放たれる。光は球状に変化すると、緩やかに舞いながら輝へと向かってゆく。淡い紫の光がぶつかるかと思われた瞬間、輝の眼前で光は静かに四散した。

「な、何!? 何をしたのさ!?」

「輝!?」

 動揺する俺達を後目に、僧は錫杖を打ち鳴らした。一度、二度、三度。静まり返った境内に、錫杖の涼やかな音色が響き渡る。一体何の仕掛けを施したのかと、向き直れば、錫杖を手にした僧が静かに笑う。

「誰の心にも、二度と思い出したく無い情景など在る物」

「輝に何をした!?」

「我はその者の心の奥底に封じられた、忌まわしき記憶を『回顧』しただけのこと」

 回顧? 一体何を意味しているのだろうか? 焦る俺を後目に、クロが前に躍り出る。

「姑息な手を好むものよの。そのような、小賢しい術、すぐに解いてくれる!」

「……無駄なこと」

 クロが怒りに身を任せ六角棒を手にする。だが、僧達はまるで動じた様子も無く、淡々と振舞うばかりであった。今度は琵琶を手にした僧が一歩、前に出る。饅頭笠を目深に被っていることもあり、表情こそ窺えなかったが、不気味に口元を歪ませて見せた。

「ほっほっほ、輝殿を放置しておいて、よろしいので御座いましょうか?」

「何だと?」

「あ……ああっ! 嫌だ……嫌だ! 来るな……来るなーーーっ!」

 一体、何が起きたのか、輝は我を見失っていた。それだけでは無い。厄介なことに制御出来なくなったカマキリを構えて見せた。

「輝! 止せ! 俺は敵では無い!」

「うわあああーーーっ!」

 次の瞬間、カマキリが勢い良くカマを振り下ろせば、風の刃が次々と放たれる。俺は慌てて身を翻した。俺の傍らではクロが六角棒で受け止めながら、怒りの声を響かせる。

「くっ! えぇい、厄介なことをしてくれる!」

 自らの手を汚すこと無く、同志討ちを狙う。実に姑息な戦術ではあったが、仕掛けられた方としては、これ以上厄介な戦術は無い。何しろ仲間が敵になるのだ。迂闊に立ち向かうことも出来ない。さすがのクロも、輝が相手では挑むことも出来ず、ただひたすら放たれる風の刃を受け止めるだけの防戦一方だった。そんな俺達を僧達は嘲笑うばかりであった。

「ふざけた真似を……絶対に許さないぞ!」

「ほう? 威勢が良いことよの。ならば、お主の心に潜む想いも『回顧』してくれよう」

 再び、僧は力強く錫杖を打ち鳴らした。一度、二度、三度。静まり返った境内に、錫杖の涼やかな音色が響き渡る。再び、錫杖から放たれた淡い紫の光が飛んでくる。俺は慌てて手で振り払ったが、光はやはり、音も無く四散した。

「くっ!?」

 必死で抗おうとしたが、どうすることも出来なかった。脳裏を反響する錫杖の音色に頭が割れんばかりに激しく痛んだ。目が眩むほどに視界が揺らぎ、俺は立っていることすらままならなくなっていた。堪らず、俺はその場に崩れ落ちた。崩れ落ちた俺の視界の先、雪のように白い手がそっと差し出された。誰だ? 驚いた俺は慌てて顔を挙げた。

「小太郎様、またお会いできましたね」

「つ、露姫!? ど、どうして此処に!?」

「露はようやくお努めを果たし終えたのです。長い、長い……本当に長いお努めでした」

 恭しく頭を垂れる露姫。その壊れそうな笑顔、忘れる訳が無い。だが、何故、露姫が此処に? 否、騙されてはならない! これは露姫では無い。俺の記憶に眠る露姫の姿を真似ただけの偽物に過ぎない。

「小太郎様、春は未だ先のことなのでしょうね」

「……黙れ」

「小太郎様? もしかして、露のお顔を忘れて仕舞われたのでしょうか?」

「……違う」

「それでは、何故?」

「えぇい! 失せろ、偽物! お前は露姫では無い! お前は露姫の姿を模しただけの偽物に過ぎない!」

 俺は力の限り叫び声を挙げた。

「小太郎様、露のことをお嫌いになってしまわれたのですね」

 露姫は消えゆく露のように、哀しげな表情を浮かべて見せた。俺の心が激しく揺れ動いた。酷く痛んだ。

(くっ! 情け無いっ! 俺の……俺の精神は、こんなにも軟弱だったか!?)

「そんなに怖い顔しないで。折角の男前が台無しね」

 可笑しそうに笑う声に、俺は再び振り返った。そこには桃山が佇んでいた。

(騙されるものか。偽物だ、こいつも偽物だ……)

「あら? あたしが偽物だという根拠でもあるのかしら?」

「えぇい、黙れ!」

「小太郎君らしくない振舞いね。そんなに怖がらないでも、あたしは本物よ」

 有り得ない。有り得る訳が無い。何よりも、何故、今、この場所に桃山がいるのか!? これが……『回顧』なのか? 心の奥底に眠る記憶を呼び覚まし、具現化させる能力なのか? こんなにも不気味なまでに鮮明に、ありありとした姿で描き出すとは……。

「小太郎君、そんなことより大切な話があるの。落ち付いて聞いて? 大地君、大変なことになっちゃっているみたいなの」

「何? 大地が?」

「そうよ。さぁ、小太郎君、急ぎましょう。あたしが先導するから」

 俺に手を差し出す桃山の手を、俺は危うく握ってしまう所だった。ハっとしたところで、俺は慌てて手を引っ込めた。

「小太郎君、どうしたの? 大地君を見殺しにするつもりなの?」

「違う……違う……」

「そう。それじゃあ――」

 桃山は不気味な声で笑ってみせた。声を押し殺しながら笑う桃山の姿が不気味に湾曲してゆく。

「なっ!?」

 歪みながら桃山はどんどん姿を変えてゆく。やがて、桃山は見覚えのある女の姿に移り変わろうとしていた。

「お、お前は!?」

 思い出すだけで不快な気分になる忌まわしい女教師。既に命失った存在と化した者。俺が何もかもを失うキッカケを、ただ面倒くさそうに見届けるだけだった、あの役立たずの女教師!

「そう。小太郎君、あなたの放った呪いにより殺された、松尾かよ子よ」

「ち、近寄るな!」

「……忘れたなんて言わせないわ。だって、あたしはあなたに殺されたのだから」

「うわああーーーっ! 来るなっ! 来るなーーーっ!」

 もう、まともに物事を判断できるような状況では無くなっていた。必死で冷静さを取り戻そうと試みるが、荒れ狂う心を抑え切ることも出来ずに、俺はただただ流れに身を委ねることしか出来なかった。

「ほら、良くご覧なさい? 痛かったのよ。転落した衝撃で、腕も、足も、あらぬ方向に曲がってしまってね」

 不気味な笑みを称えたまま松尾はゆらゆらと歩みながら迫って来た。次第に首が有り得ない角度にぐにゃりと曲がってゆく。思わず目を背けたが、再び目にした時には既に腕はちぎれて、辛うじて皮一枚で繋がっているだけの姿に成り果てていた。余りにも壮絶な姿に目線を落せば、足もあらぬ角度に曲がっていた。俺は込み上げてくる物を抑えるので必死だった。

「この化け物め! 近寄るな!」

「そうやって自分の犯した罪から逃れるつもり? そうはさせないわ」

 薄ら笑いを浮かべる松尾の口元から、鼻から止め処無く血が滴り落ちる。長い髪は血塗れになり、割れた額からは湧水のように血が滲み出ていた。

「駄目だ……止めてくれ……」

「痛いの。痛いの。ほうら、こんなに血塗れになっちゃってね」

 血塗れの顔を俺に押し付けようとする松尾に、俺の精神もいよいよ限界に達しようとしていた。

「うわあーーーーーっ! ああっ! ああっ! 来るな! 来るな! 来るなーーーっ!」

「コタよ、目を覚ますのだ!」

 唐突に激しい衝撃を覚え、俺は慌てて振り返った。

 気が付いた時には、俺は化野念仏寺に佇んでいた。ようやく正気を取り戻した俺に安堵したのか、クロが小さく息を就くのが聞こえた。

「クロ……俺は、一体?」

「姑息な小細工に惑わされるな!」

 見事なまでに敵の術中に嵌ってしまおうとは、何と情け無い話なのだろうか。気を取り直して対峙しようとしたところで、俺は輝の姿が見えないことに不安を覚えた。

(輝? 輝は何処に!?)

「クロ、輝はどうした?」

「虫達の手を借り姿を眩ませた。コタよ、周囲に警戒を怠るで無いぞ。敵は目の前だけに居る訳では無いぞ」

「ああ、判っているさ」

 笑えない話だ。輝までもが俺達に敵対する状況に陥ってしまおうとは。翻弄され続ける俺達を見下すように見据えたまま、僧達は口元を歪めて笑っていた。

「口ほどにも無い奴らであるな」

「姑息な手しか使えぬお主らに、揶揄される筋合いは無いわ!」

「ほう? 威勢の良い事だが……背後に注意した方が良いのでは無いか?」

「なに?」

「いっけー! カマキリ! 敵を切り裂けーーっ!」

 輝の叫び声と共に、一斉に玉虫達が舞い散ってゆくのが見えた。

 周囲の景色を鏡のように映し出すことで、巧みに姿を隠していたとは。驚く俺を後目に、輝はそのまま、勢い良くカマキリを放った。

「輝っ!?」

 あろうことか、輝は俺を敵だと騙されているのだろう。全力で放たれたカマキリの刃が空を切り裂き、勢い良く襲い掛かる。

(こんな至近距離から放たれたのでは避けられない! くっ! もはや、ここまでか……!)

 縁起でもない話ではあるが、この時、俺は本気で死を覚悟していた。だが……。

「ぐああっ!」

「く、クロっ!?」

 あろうことか、クロは俺を庇うために、その背で一撃を受け止めてのだろう。俺を抱き締めるクロが、力無く崩れ落ちる。夥しい血が滴り落ちている様子が目に留まり、体が一気に冷えてゆくような感覚を覚えていた。

「クロ! おいっ! しっかりしろ!」

「くっ! こ、この程度の傷……うぐっ!?」

 もはや打つ手は失われたのか。尚もオニヤンマを仕掛けようとする輝を、俺は全力で投げ飛ばした。

「輝、目を覚ませーーっ!」

「うわっ!?」

 短く悲鳴を挙げると、そのまま輝はピクリとも動かなくなった。

「輝? おい、シッカリしろ! 輝!」

 最悪の展開だ。あろうことか、投げ飛ばした際にどこかを派手に強打してしまったのかも知れない。もしかすると、頭から落してしまったのかも知れない。焦りの余り、手加減すら出来なかった。俺は自らの手で輝まで……。

「ほっほっほ、同志討ちとは間抜けな話で御座いますな」

「……黙れ、この腐れ外道共。お前達、全員、殺してやる……殺してやるっ! うわああーーーっ!」

 俺はすっかり我を見失っていた。負傷したクロの姿を見届け、微動だにしなくなった輝の姿を見届け、もはや、まともな判断力を失っていた。

 勢いだけに任せて襲い掛かる俺の目の前に、大柄な僧が唐突に立ち塞がるのが見えた。視界に大柄な僧の顔を見た瞬間、俺は意識が遠退いて行くのを感じた。

 抜けた話だ。一瞬、体が宙に浮かび上がる感覚を覚え、次の瞬間には勢い良く叩き付けられた。あろうことか、見事な一本が決まった瞬間だったのだろう。どこまでも姑息で嫌味な奴だ。俺は遠退く意識の中、小さく悪態を就くことしか出来なかった……。

◆◆◆42◆◆◆

 それはワシらが中学二年の夏の日のこと。とても暑い夏の日のことだった。

 日暮れ前、期せずして降り出した雨のお陰で、リキと共に嵐山駅前で雨宿りをしていたが、その雨も少し前にはすっかり上がった。雨上がりの大堰川沿いをワシとリキは言葉を交わすことも無く、ただ徒然に上流を目指して歩いていた。辺りは夕焼け空に照らし出され、川面に映し出された夕焼け空がゆらゆらと揺れ動く中、蝉の鳴く声だけが物憂げに響き渡っていた。

 その日は、珍しくリキから聞いて貰いたい話があると切り出されていたこともあり、学校帰りにそのまま嵐山を訪れる形となった。普段、陽気に振舞うリキが見せた深刻な表情にワシは只ならぬ物を感じていた。

「のう、リキよ。一体、何があったのじゃ? そろそろ話、聞かせてくれぬかのう?」

 口を真一文字に結んだまま、リキは一言も発すること無く歩き続けていた。

 嵐山に到着するまでの道中から、ずっと、こんな調子だった。何かを言い掛けようとワシの目をジッと見据えるものの、思い留まってしまうのか、溜め息と共に気まで抜けてしまうばかりだった。普段見せない振舞いからも、少なからずリキに取っては、早々容易く口にすることの出来ない話なのは想像に難く無かった。とは言え、ワシは神でも仏でも無い。長らく続く沈黙にいよいよ堪え切れなくなったワシは、少々気が退けたがリキに声を掛けた。肩をいからせながら歩いていたリキが不意に足を止め、こちらに背中を向けたまま静かに口を開く。

「ここなら流石に誰も居ないよな。誰にも聞かれる心配も無いって訳だな」

 リキは静かに笑いながら切り出して見せた。

「……ロック、オレ、頭可笑しいのかも知れなくてな」

 いきなり予想もしない切り出しに、ワシは驚かされた。慌ててワシは切り返した。

「な、何を唐突に言い出すのじゃ? 何か、嫌なことでもあったのかのう?」

 ワシの問い掛けにリキは静かに振り返った。それまで一度だって見せたことの無い深刻な面持ちに、やはり、只ならぬことが起こっていると直感させられた。だからこそ、迂闊な受け答えをすることは絶対に出来ないと感じた。慎重に言葉を選びながら接しなければならない。それこそ、今にも自殺しそうな程に切羽詰まった表情を浮かべていた上に、こんな人気が無い場所で無謀な動きに出られたら、とてもワシ一人では阻止出来そうに無かった。だからこそ、出来るだけ刺激しないように、可笑しなことを言って感情を昂ぶらせないように、ワシは必死で知恵を巡らせながらリキと向き合った。

「オレ……結花のこと、本当に好きなのか、どうなのか、判らなくなっちまってな」

 リキの口から飛び出すのは、ワシの予想の範疇を大きく逸脱した言葉だった。ワシは一体どう受け答えすれば良いのか、いよいよ判らなくなってしまった。とは言え、ここでワシが取り乱せば、本当に取り返しがつかなくなる。駄目だ、駄目だ。冷静さを失ってはならない。ワシは早鐘の如く高鳴る胸を必死で抑えながら、出来るだけ冷静に問い掛けてみた。

「一体どうしたと言うのじゃ? 結花さんと喧嘩でもしたのかのう?」

「喧嘩したワケじゃねぇさ……」

 どうにも歯切れの悪い問答を繰り返すばかりで今一つ要領を得なかった。一体、何が起きたのか、まるで想像も付かないだけにワシも不安になる一方だった。とは言え、此処で迂闊に的外れなことを口にしてリキが取り乱したりしたら一大事だ。だからこそ、これ以上無い位に緊張しながら接していた。最後の砦としてワシを頼って来たのは間違い無い。その最後の砦が崩落する時、リキも一緒に崩落してしまうだろう。そう理解したからこそワシは全身全霊の意識を集中して向き合った。

「それでは、何か困ったことでもあったのかのう?」

「イヤ、そうじゃねぇんだ……」

「済まんのう。お主にどんな言葉を掛けてやれば良いのか、ワシには皆目見当がつかぬでのう……」

 ずっと、口を真一文字に結び、険しい表情を浮かべていたリキが唐突に顔を挙げた。恐ろしく気迫に満ちた表情にワシは思わず腰を抜かしそうになってしまった。

「ロック、オレのこと……可笑しな奴だと笑わないでくれよな? それと……出来れば、嫌いにならないで欲しい」

「何を言うかと思えば……。リキはワシに取って双子の兄弟同然の間柄じゃ。好きとか、嫌いとか、そんな薄っぺらい関係では無いじゃろう? 大丈夫じゃ。どんな悩みとてワシがシッカリと聞き入れるのじゃ」

 本当に都合の良い奴だと自分でも呆れる。良くもまぁ、ポンポンと出任せが飛び出すものだと我ながら感心する。だけど、ワシに取ってリキは本当に心を許せる本当に大切な仲間なのは間違い無い。リキが居てくれたから、あの絶望に満ちた時代を生きようと思うことが出来たのだから。だからこそ、どんな手を使ってもリキのことを手放したく無かった。ウソだって止むを得ないとすら考えていた。

 それでもリキは地面を見つめたまま堅く拳を握り締め、小さく肩を震わせるばかりであった。力強く噛み締めた下唇が痛々しくて、ワシは堪らずに手を差し出そうかとさえ思った。だけど、そんなことをしては必死の思いで何かを語ろうとするリキの想いに水を挿すことになり兼ねない。だから、ワシは何度も、何度も、出掛かった言葉を呑み込んだ。

 どれ程の時間が過ぎ去ったのだろうか。実際の時間にしてみれば、ほんの数秒のことだったのかも知れない。だけど、その時のワシには途方も無く長い時間に感じられた。沈黙というものが、これ程までに重圧感を感じるものだとは思わなかった。

「オレ……コタのことが好きなんだ!」

 何の前触れも無く、唐突に放たれたリキの一言だった。

「へ?」

 余りにも予想もしない一言に、ワシは不意打ちを喰らった気分で一杯になった。危うく転倒しそうな位に拍子抜けな言葉に、ワシはどう返答すれば良いのか大いに悩まされた。

「い、いや……。ワシもコタのことは好きじゃ。何時も不機嫌そうな表情をしておるが、いざ話をしてみれば中々に面白味のある――」

「そうじゃねぇんだよ!」

「ひっ!?」

 突然、声を荒げるリキにワシは酷く驚かされた。何か妙なことを言ってしまったのだろうか? 動揺するワシを後目に、大きく溜め息を就き、肩を落としながらリキはもう一度呟いた。まるで自分に言い聞かせるかのように。

「そうじゃ……ねぇんだ……」

「ち、違ったのかの?」

 ますますワシは訳が判らなくなっていた。リキとコタが仲が良いのは良く心得ていたし、仲が良い同士であれば好きだと思うことも不思議では無いと考えていた。だからこそ、リキが一体何に迷っているのか、ワシはどうしても理解することが出来なかった。イヤ……理解したくなかったというのが正解だったのだろう。だから、ワシは目一杯とぼけて上手いこと受け流そうと思っていた。それは、必死の想いでワシに向き合っているリキに対しての、実に卑怯な選択だった。

「オレさ、コタのこと好きなんだ。可笑しいだろ? 男なのに、男を好きになるなんてさ、へへ……」

 リキは哀しそうに笑っていた。自棄になった笑顔が、どうすることも出来ない程に痛々しかった。流れゆく大堰川に映る綺麗な夕焼け空と相まって、胸が締め付けられる想いで一杯だった。

「……結花さんのこと、好きじゃ無いのかのう?」

「結花のことは好きだ」

 リキは肩で荒く息をしながら、絞り出すように呟いた。

「ああ、確かに好きだ。でも……コタに対する好きという感情と、結花に対する好きという感情は、まったく違うんだ」

 ワシには全て判ってしまった。ただ、事実を明確な言葉に現すことが恐ろしかった。

「こんな風に、うじうじ考え込むなんてオレらしくねぇよな」

 リキはどこか開き直った表情でワシに笑い掛けて見せた。笑っているハズなのに、ワシには先刻まで目の当たりにしていた夕立の土砂降りを思わせるかのような泣き顔に見えてしまい、リキの顔をまっすぐ見つめることが出来なかった。

「普通さ、恋人同士だったらさ、なんつーのかな、エッチな想いを抱くのは可笑しな話じゃ無いと思うんだよな。でも、オレ、結花には、そういう感情を抱けなくてな……」

 リキは大きな溜め息を就いて見せた。多分、そういうのは当事者間で無ければ判らない微妙な距離感なのかも知れない。所詮、部外者であるワシには、リキの想いも、結花さんの想いも想像することしか出来なかった。

「あいつ、長い間引き篭もりだったからな。オレと知り合って、大きく世界が変わったって言っていたんだよな」

 引き篭もり……。ワシもリキと出会うことが無かったならば、あの事件の後、間違い無く引き篭もりの道を歩んでいたことだろう。運命とは本当に因果なものだと思う。ワシと結花さんとの間に意外な共通点を見出した気がする。そう考えると、結花さんの話が他人事には感じられなくなっていた。だからこそワシは苦しかった。結花さんの想いも判ってしまえば、リキの想いも理解できてしまう。二人の想いが理解出来て、しかも、二人のどちらも何一つ悪くない。それなのに、どうしてこんなにも複雑な状況に陥っているのだろうか……。

「今までさ、オレ、まさか男を好きになることなんて絶対に無いって思い込んでいた……」

 大きく溜め息を就きながらリキは空を見上げた。

「ほら、ウチの親父も、お袋も、昭和の人間だからな。なんつーか、古臭いっつーか、時代錯誤っつーか、まぁ、ガチガチの石頭なんだよな」

 リキは空を見上げたまま静かに唸って見せた。

「まだ、オレさ、一人じゃ何にもできねぇガキなのにさ、将来は結婚して家を継いでってな話するんだ……」

 空を見上げたまま哀しげに笑うリキに、ワシは何の言葉も掛けてやれなかった。せめて、少しでも痛む心を支えてあげられればと願いながら、リキの手をそっと握り締めてやることしか出来なかった。ワシの手を握り返したリキの手には、驚く程の力が篭められていて、ワシは思わず息を呑んだ。

「でもさ、オレ、多分さ、女に興味無いと思うんだよな。今までずっと一人でいたから、全然そんなこと考えたこと無かったけどさ、オレ……女の体見てもさ――」

 しばし、リキは考え込んでから、ワシの目をジッと見据えたまま続けた。

「ちんちん、反応しねぇんだよな……」

「男の体を見ると……どうなるのじゃ?」

 ワシの問い掛けにリキは顔を真っ赤にしながら動揺していた。必死で泳ぐ目を見ていると、不謹慎ながら思わず吹き出しそうになってしまった。でも、リキは本当に深刻に悩んでいる。馬鹿にするような真似はしたくなかった。

「……コタの裸さ、想い浮かべながらさ、その、一人でさ、ベッドに寝転びながら……するのさ、すげー興奮するんだ。し、しかもさ……一杯出るんだぜ?」

 何と言うか……多分、リキ的の中では切羽詰まった、実に深刻な問題だったのかも知れない。だけど、ワシからして見れば何だかシモネタで盛り上がっているような感覚で、小恥ずかしくて頬が熱くなって仕方が無かった。その上、深刻な話ながらも何とも微妙過ぎる内容に、ただただ笑いを堪えるので必死だった。そんなワシに気付いたのか、リキが上擦った声でボソっと呟く。

「わ、笑い堪えるなよ……」

「す、済まんのじゃ。じゃが、そんな深刻な顔で、話の内容が内容なのを考えると、どうにも笑いが……ぷぷっ」

「へ、へへ。あははは! そうだよな! 一人エッチの話をさ、真顔で、深刻に話すっつーのも面白過ぎだよなー!」

 人気の無い大堰川の畔で二人で涙が出る位笑った。張り詰めていた緊張の糸が解れたからこそ、その反動で余計に可笑しくて可笑しくて仕方が無かった。

 サラサラと大堰川の流れゆく涼やかな音色が響き渡る。空が静かに唸り、木々達が風にざわめく。何時もと変わらない大自然の音色。だけど、ワシには物憂げで、寒々しい音色にしか聞こえ無くて、真正面から見つめることが出来なかった。だからなのだろうか? ワシは笑いながらも、段々と寒々しい気持ちになってきた。

 そうさ……。笑い飛ばせるような話だったらリキは苦しむことも無かったはずだ。これ程までに苦しむのは、やはり、結花さんのことを想えば……。それに、両親のことを想えば、決して、笑い話で片付けられるような軽々しい話では無い。だから、ワシも腹を括ることにした。リキと本気で話をするためには、むしろ、ワシの『秘密』を知った方が遥かに気持ちも楽になることだろう。背負った荷物は重過ぎるかも知れないが、ワシも同じ境遇にあると知ることが出来れば、多分、少しは気が楽になるハズだ。無論、ワシ自身に取っても大きな賭けとなる。でも、だけど……リキのために、大切なトモダチの為にワシが出来ることなんて言ったら、こんなことしか思い浮かばなかった。

 ワシは幼き頃に何かの童話で読んだ物語を思い出していた。その物語は行き倒れになった旅人を救うために森に棲む動物達が自分達の為せることを為そうというお話だった。力持ちのクマは、その力を活かして川で魚を捕えてきた。知恵が働く狐は、その知恵を活かして木の実を採ってきた。だが、力も知恵も無いウサギは悩む。自分には何が出来るだろうか? 燃え盛る焚き火を見つめながらウサギは考える。そうさ……力も知恵も無い自分は、この身を肉として捧げることしか出来ない。

 静かに風が吹き抜ければ、木々の葉が涼やかな音色を奏でる。ワシはそっと顔を上げた。もうじき日も暮れる。今日という一日が終わり、冷たくて、寂しくて、それから……優しい哀しみに満ちた夜が訪れる。もしかしたら、もう二度と、朝日を目にすることは無いのかも知れない。

 ワシの生き方は間違い無く、このウサギの生き方そのものだ。知恵も力も無いならば体を張るしかない。それがワシに出来る精一杯の『お持て成し』なのだ。それならば迷う必要は無い。例えワシが傷付くことになったとしても、それで、リキが救われるならば本望だ。

「のう、リキよ。ワシにも想いを寄せている相手がおっての」

「お? ロックにも想っている相手が居るのか。へへっ、それで、誰のことが好きなんだ?」

 茶化すように振舞うリキにワシは真顔で返した。心臓が激しく鼓動を刻み、口の中が緊張でカラカラになった。対照的に握り締めた両の手の平は汗でジットリと湿っていた。退くなら今しかない。だけど、ワシは退きたくなかった。もう、どうにでもなれ! 後は勢いに任せて突っ走るだけだ。もう、二度と戻れない旅路へと旅立とう。燃え盛る焚き火に飛び込み、肉となりて、大切な、大切な、トモダチの糧になろう。明日を生きるための糧になろう。

「……テルテルなのじゃ」

「え?」

 あーあ。口に出してしまった。もう、後戻りは出来なくなった。流れゆく大堰川の流れと一緒だ。一度流れ出した水は同じ所に留まることは出来なくなる。絶えず流れ流れて新しい場所を求めて永遠の旅を続ける。川の流れのように、そこに留まること無く、常に流れ続け、常に旅を続けよう。

「ワシは幼い頃から自分のこと判っていたからのう。ああ、ワシは男が好きなのじゃ。女には一切興味が無いのじゃ。そういう訳じゃから家を継ぐという話になった時に、間違い無く揉めることになるじゃろうな。もっとも、ワシには大樹という弟がおるでの。そういう意味ではリキよりも遥かに気楽な身じゃ。アホな兄貴とシッカリ者の弟じゃからのう。何とか逃げ道はある訳なのじゃ」

「ま、マジか!?」

「ここで、お主にウソを着いて一体何の得になるというのじゃ? ワシは最初会った時からテルテルのことが好きじゃった。まぁ、ワシなんかに想いを寄せられて、テルテルもさぞかし迷惑じゃろうが、好きなものは好きなのじゃ」

 ワシは出来る限りあっけらかんと振舞って見せた。本当は……凄く悩んでいるし迷ってもいる。ワシのように同性に興味を示す生き方をする者に対する、世間の冷たい振舞いは良く心得ている。ウソでも良いから女に興味を持っている「フリ」をした方が、余程、気楽な人生を歩めることも判っている。何しろ、世の中には「偽装結婚」だの、「友情結婚」だの中々に便利な言葉がある。偽り続けて日の当たらぬ場所でヒッソリと生きる道だってある。だけど、ワシはそんな湿っぽい生き方はしたくない。日陰ばかりを縫うようにして歩むような惨めな生き方はしたくない。普通の恋人同士が仲睦まじく振舞っているのと同じように振舞いたい。願わくばテルテルに想いを告白したい。図々しく願いを口にするならばワシと共に歩んで欲しい。そう願っている。切に願っている。心の底から願っている。

 ワシには世の中の人々の考えの方が理解不能に思えて仕方が無かった。何故、男が男を好きになっては駄目なのだろうか? 子孫を残せない関係は『不適切』なのであろうか? そんな物の考え方は理解も納得も、ましてや共感なんか絶対に出来ない。

 どうしてオトナ達は結婚して、子供を授かり、家庭を築き上げることだけが唯一無二の幸せだと思い込むのだろうか? 独身でありながら夢を叶える人もいれば、結婚したからこそ多くの物を失った人だっている。それなのに、何故か、それが唯一至上の模範解答であるかのように考える。

 差別することは良く無い。平気で偉そうなことを言っている人達に限って、独身の人を、さも出来損ないのように見下す。挙句の果てには、ワシらのような生き方をする奴らのことを、病気だから治療が必要だと当たり前のように口に出来る。

(人の幸せは他人に決められるものでは無いのじゃ。ワシの幸せは、あんたの幸せとは、必ずしも同じとは限らないのじゃ!)

 たまたま好きになった相手が同性だっただけだ。それだけのことだ。それなのに、さも、ワシらのような人種が『失敗作』であるかの如く、人はワシらを『差別』し『見下そう』とする。同じ人という土俵に立ちながら、何故、勝手に優劣を決められねばならない? 人権とは何か? 自由とは何か!? ワシは何時だって立ち向かうだけの覚悟は出来ている。最悪……大切な家族を失うことになっても、ワシは自分の信念だけはウソで覆い隠したく無かった。

(ワシは問いたいのじゃ。あなたは今、本当に幸せなのじゃろうか、と。その幸せは『本物』なのか、と)

 気が付いた時にはワシは、ワシの想いを熱く叫んでいた。まるで選挙の街頭演説だ。ようやく我に返ったワシは恥ずかしさの余り、顔から火が噴き出しそうだった。ふと、傍らを見ればリキはばつが悪そうな苦笑いを浮かべていた。

「……強いな、ロックは。オレとは大違いだ」

「違わないのじゃ。何にも変わらないのじゃ。ワシとリキ、違いがあるとすれば……まぁ、背の高さ位なのじゃ」

 必死に想いを主張するワシの危機迫る表情が可笑しかったのか、リキは静かに笑っていた。笑いながらワシの両手を力強く握り締めた。

「オレ、ロックとトモダチで本当に良かった。ロック、オレとトモダチでいてくれて、本当にありがとうな!」

「何を急に言い出すかと思えば……コタのこと好きならば、何時の日かコタに想いを伝えるのじゃ。ワシも何時の日かテルテルに想いを伝えるのじゃ」

 そりゃあ、告白された方からしてみれば、トンだ迷惑かも知れないけれど、でも、人の心の中を見通せる人など誰も居ない。だから、想っていることはシッカリと伝えなければ相手に伝わらない。結果のために行動するんじゃない。行動するから結果が伴うのだ。なんて……考え方は、まぁ、何と言うか、実に自分勝手なご都合主義なのかも知れないけれど。

「ああ、ロックに話して良かった。何か、すげー楽になれた気がする」

「にゃはは、実はワシもなのじゃ。ずーっと腹の中に抱えていた想い、こうして、ワシ以外の誰かに話すことは途方も無く怖かったのじゃ。話、打ち明けたら、お主に嫌われるのではないだろうかと思ってな。でも……すごく楽になれたのじゃ。感謝、感謝なのじゃ」

「へへ。それを言うならオレだって感謝しているよ。こんな話、誰にも出来なかったから、すげー悩んでいたし、苦しかった……」

 リキは良くも悪くも生真面目な奴だ。自分の中で多少気持ちの整理がついても、結花さんのことがあるからこそ、素直に喜ぶことが出来ずにいるのだろう。

「でも……結花、オレがこんなこと想っているなんて知ったら、哀しむだろうな」

 リキの気持ち、痛い程に判ってしまう。だからこそワシも辛かった。二つある選択肢から一つしか答は選べない。誰かのために自分を犠牲にするか、自分のために誰かを犠牲にするか。リキは心優しい奴だから容易く選べ無いのであろう。本当に卑怯な奴ならば、二つの選択肢を並べて、都合の良い部分だけを切り取って上手い具合に逃げ切るのだろうけれど、リキはそういうことが出来ない性分だ。だから、悩みもするし迷いもするのだろう。

「多分、オレ……心の何処かで、微かな希望に掛けているのかも知れないな」

「希望じゃと?」

「ああ。結花のこと、身も心も愛せるようになる自分っていう、すげー図々しい希望をな?」

 確かに、一般的な人がそうであるように、結花さんを愛し続け、そのまま共に歩むことが出来れば誰も不幸になることも無いだろう。リキの両親の願い通りに結婚を為し遂げ、家業を継ぎ、そしてまた、次に産まれて来る子供が家業を継ぐ。多くの人からも祝福され、日の当たる道だって堂々と歩けることだろう。敢えて困難な道を歩む必要だってなくなるだろう。余計なことに振り回され、思い悩む必要も無くなることだろう。

「何時だったかな? 結花とさ、上賀茂神社の境内を歩いていた時にさ、丁度、結婚式が催されていてな」

「ほうほう? 神社で結婚式とは中々に風情ある話じゃな」

「そうだよな。それでさ、白無垢に身を包んだ花嫁さんが、丁度、神社から出てきた所でな」

 涙ぐみながら語るリキの悲痛な叫び、痛い程に判ってしまった。だから、ワシも今にも泣き出しそうな気分で一杯になっていた。

「すげぇ、綺麗だったんだよな。それを見た結花の何気ない一言が、今でもオレを苦しめていてな……」

『白無垢の花嫁さん、とっても綺麗ね。あたしも何時か……』

 照れ臭そうに微笑みながら、リキの太い腕に白く細い腕を絡めた結花さんは、一体、どんな夢を見ていたのだろうか? その夢が叶わないと知った時にどれだけ哀しむだろうか? 何気ない一言を耳にした時、リキはどれだけ身を引き裂かれる想いを抱いたことだろう。想像に難く無かった。

「だから、オレは何時も後悔している。どうして、あの時、どうして、結花に声を掛けてしまったかなって」

「不埒な男に絡まれていた所を助けてあげたリキの想い、ワシは間違えているとは思わないのじゃ」

「そうだな。でも……」

 皆の前では明るく、豪快に振舞うリキも、本当の姿はこんなものだ。「でも」。「だって」。呼吸をするように、その言葉から始まってしまうことに、果たしてリキ自身は気付いているのだろうか? 気付いていても、それでも、どうすることも出来ずに、堪え切れずに、その言葉が飛び出してしまうのだろう。

 そう考えると、ワシはただモヤモヤすることしか出来なかった。気の利いた一言を言うことも出来ず、ただ、こうして一緒になって頭を抱えることしか出来ない。こういう時、本当に、子供な自分が憎らしくあり、同時に、途方も無く悔しくなる……。

「いや、無駄な議論だな。偶然、声を掛けたんじゃ無いんだろうな。多分、こうなるのは必然だったのだろうな」

 それは、結花さんが良く口にする表現だった。

『偶然なんて無いの。全ては必然なの』

 結花さんとは直接会ったことは無いが、実に独創的な価値観の持ち主らしい。リキ以外の誰かと関わることを極度に嫌がり、二人だけの世界の中、道端に、それも日の当たらない場所にひっそりと咲き誇る花のような生き方を好むらしい。リキは結花さんのことを風変りな女だと揶揄するけれど、ワシには結花さんの気持ちが理解できてしまう。

 ワシも永い間、大樹と二人きりで生きてきた身だからこそ、そういう閉ざされた空間の中でしか自分の存在を認識出来ないという気持ち、共感出来る気がする。

「のう、リキよ? こんなこと言ったら傷付くかも知れぬが、必ずしも、コタがお主の想いに応えるとは限らないのじゃぞ?」

 ワシの言葉にリキの表情から一気に笑顔が消え失せた。判っている……。何か行動を起こす前から選択肢を摘み取るのは、酷く底意地が悪く、残酷な仕打ちでしか無いことも。ただ、可能性として考えておかないと取り返しがつかないことになってしまう。そう思ったからこそ、敢えて、嫌な言葉を口にした。

 ワシの言葉にリキはしばし何かを思案している様子に見えた。だけど、再び真顔で向き直ると、予想もしないことを口にしてみせた。

「なぁ、ロック。その……無礼を承知で聞くけどさ、なんつーか……」

 妙に煮え切らない態度を見せるものだ。此処まで自分の素性を話しておきながら、今更何に動じているのだろうか? 不思議に思っていると、唐突にワシは両肩を掴まれた。そのまま目一杯顔を近付け、顔を真っ赤にしながらリキが静かに、囁くように問い掛けてみせた。

「エッチしたことって……あるか?」

「なっ!? ななな、何を言い出すかと思えば! あ、ある訳無いのじゃ!」

 余りにも突拍子も無い問い掛けに、ワシは顔がこれ以上無い位に熱くなるのを感じていた。暮れゆく夕焼け空に照らし出されて、ワシの顔は煌々と燃え盛る炎の様に赤くなっていたことだろう。動揺の余り、今にも心臓は割れんばかりに鼓動を刻んでいた。余りにも動揺し過ぎたワシは、こんな顔を見られるのが恥ずかしくて、慌ててリキに背を向けた。だが、不意に、背後にリキの激しい息遣いを感じ、驚いたワシは慌てて振り返ろうとした。だけど、それよりも早く、リキが後ろからシッカリと抱き付いてみせた。

「こ、今度は一体どうしたと言うのじゃ!?」

「なぁ、ロック。オレが相手じゃあ――」

 リキはワシの耳元に目一杯、顔を寄せて囁いて見せた。

「やっぱ、イヤか?」

「へ? り、リキ、お主、一体何を言って……」

「……してみたいんだ」

 ワシを抱き締める腕に一気に力が篭められ、それに呼応するかのようにリキの鼓動を感じていた。確かに刻まれるリキの鼓動、触れあった肌から克明に伝わってくる。

「男とのエッチってのをさ」

 驚く程にリキは冷静に振舞っていた。こうなってしまった以上、腹を括るのはワシということか。無論、断ることも出来ただろう。何よりも、互いに想いを寄せている相手が居るにも関わらず、そんなことをするのはどう考えても間違えているとしか思えなかった。でも、その一方で……初めての体験という魅惑の響きにも興味を覚えていたのは事実だった。より生々しく言ってしまえば、間違い無く気持ち良い体験が出来るだろう。そう考えると、ワシの鼓動は酷く高鳴った。無論、ワシにぴったりと密着しているリキの鼓動も激しく刻まれるのを感じていた。

「こ、こんな場所でするのかのう?」

「此処なら人目にはつかないだろ?」

「それは確かにそうなのじゃが……」

 そのままワシらは言葉に詰まってしまった。涼やかな音色を奏でながら、ただ、大堰川が流れてゆく。変わらぬ日常の中、ワシらの存在だけが酷く異質に感じられた。リキはワシに抱き合ったまま鼻息荒く振舞っていた。首筋に温かな吐息を感じる度に、ワシの中で理性が段々と崩落してゆく恐ろしさを感じていた。

「イヤ、やっぱ止めておこう」

 そう呟くと、リキは照れ臭そうに笑いながらワシから慌てて離れて見せた。恐らく、ワシと同じことを考えていたのだろう。もしも、ここで肌と肌を触れ合う関係になってしまったら、深みに嵌ってしまい、二度と浮かんで来られなくなってしまうかも知れない。何よりも、互いに良きトモダチ同士で居ることが出来なくなってしまうかも知れない。そう考えた時に途方も無く不安になったのだろう。

 性欲というのは実に厄介な業だ。人の理性をいとも簡単に木端微塵に砕いて見せる。なるほど。性犯罪に突っ走る奴には、こういう舞台裏があるに違いない。少しだけ理解も、共感も出来た気がする。などと阿呆なことを真面目に考えている自分がいた。

 そんな不謹慎なことを考えているワシとは対照的に、リキは多分、今、崖っぷちに立たされているのだろう。結花さんに対する罪悪感と、自分自身の想いを貫きたいと願う気持ちとの狭間で、これ以上無い位に苦しんでいることだろう。

(ワシに出来ることは一体、何じゃろう?)

 自分の身勝手な想いにリキを巻き込んでしまうのは、やはり、問題だろう。だが、その一方で互いの素性を知った以上、体験してみたいという想いに駆られているのもまた事実だった。ワシはリキに背を向け、とにかく必死に悩んでいた。無い知恵を絞って必死に考え込んでいると、再び背後からリキに抱き締められた。

「にゃー!?」

 突然のことに驚いたワシは思わず声を出してしまった。その声に驚いたのか、鳥達が一斉に羽ばたく音が響き渡った。

「……ロックの匂いがする」

「あ、汗臭いじゃろう? 恥ずかしいのじゃ……」

 首筋にリキの荒い鼻息を感じ、ワシは思わずゾクゾクしてしまった。

「……やっぱ、オレ、男が好きなんだろうな」

 リキは哀しげに笑うと、吐息混じりに続けて見せた。

「結花もさ、こうやって近付くと、髪からすげぇ良い香りするんだ。心が落ち着く、優しい香りがするんだ。でもさ……品の無い言い方だけどさ、ロックの汗の匂い、ちんちんにさ、ビクビク来るんだよ」

 ワシを抱き締めるリキの腕に次第に力が篭められてゆく。リキの腕力を考えれば、真正面から腕力勝負になったら到底勝ち目は無い。本能の赴くままに襲われたらワシは為す術も無いだろう。

「はぁ……ロックの胸、柔らかいな。すげぇ良い感触だ」

「り、リキよ、駄目なのじゃ。お、可笑しな気分になってしまうのじゃ……」

「良いだろ? もう少し触らせてくれよ」

 リキの荒っぽい息遣いを間近で感じ、動揺する想いとは裏腹にワシの中でも、次第に興奮を抑え切れなくなり始めていた。そんなワシの焦りなど、知ってか、知らずか、リキはワシのシャツのボタンを外し、ゆっくりと手を入れてきた。そのまま汗でべた付いた体を荒っぽく撫で回して見せた。やがて、シャツをめくり上げるとワシの両方の胸にリキの熱い手が直に触れる。優しく揉まれ、乳首を撫で回され、摘まれて、つい、喘ぎ声が毀れてしまう。抵抗しようにも恐ろしく力が篭った腕はビクともしなかった。

「……ロック、ごめんな」

 不意に大きな溜め息と共に、リキが静かに手を抜いた。困り果てたワシから必死で目を背けようとしていた。自分がやろうとしていたことの意味を冷静に捉える事が出来たのだろう。

「最低だな、オレ。一人では背負い切れないからロックまで巻き込もうとした。オレの自分勝手な欲望に大切な友さえも巻き込もうとした……」

 リキは肩を落とし、今にも消えそうな声で呟いてみせた。そんなリキが居た堪れなくなったワシは、そっと歩み寄った。そのままワシはリキの頭を撫でてやった。判っている。こんなことされて喜ぶのは幼い子供だけだということくらい。でも、何だか……幼き日の大樹を見ているような気がして、どうしても自分を抑え切れなかった。

「ろ、ロック?」

「良し良しなのじゃ」

「へへ……。何か、子供に戻ったみてぇだな」

 どこかが痛むかのようなリキの強張った笑顔を見るのは辛かった。居た堪れなくなったワシは、湧き上がって来た想いを、言葉を、ありのままに伝えようと思った。包み隠すことの無いワシの本心。リキに伝えたかったから。

「リキ、ワシをずっと傍に居させて欲しいのじゃ」

「え?」

「辛いこと、哀しいこと、みんな半分こじゃ」

「おう……」

「楽しいこと、嬉しいこと、みんな半分こじゃ」

「そ、そうだな……」

 ワシの言葉に、リキは笑顔で応えようとしたのかも知れない。必死で作ろうとした笑顔。だけど、潤んだ瞳から温かな涙が零れ落ちた。一粒、また一粒。それでもリキは必死で笑顔で応えようとしてみせた。でも、もう、堪え切れなくなったのだろう。リキは声を押し殺して泣いていた。照れ臭さも手伝って、声を張り上げて泣くような真似は出来なかったのだろう。でも、多分、リキは……泣きたかったのだと思った。だから、ワシはリキを腰掛けさせて、隣に寄り添うと、ただ静かに頭を撫でてやった。

 男のクセに……。ワシはこの表現が大嫌いだ。男だから何だ? 女だから何だ? そんな下らないことばかり執着するから、人は人であるという業を背負う道から逃れることが出来ない。だから人は愚かなのだ。だから人は救いが無い。だから人は罪深い。婆ちゃんが口にしていた言葉が鮮明に蘇って来た。哀しい時に泣く。嬉しい時に笑う。それを否定するのは人が人であることを否定することと同義なのだから。ワシは婆ちゃんの言葉を噛み締めていた。

「リキよ、忘れてくれるな。お主は独りでは無いのじゃ。ワシが……お主の隣を歩くでの。だから、重い荷はワシとお主で担ぐとするのじゃ」

 ワシはふと顔を挙げた。辺りはすっかり夕焼け空に包まれていた。流れゆく大堰川が夕日に照らされて茜色の光をキラキラと反射する。周囲の景色も、木々達も皆、一斉に茜色に染まっていた。人気の無い大堰川沿いの小道。そこに腰掛け、寄り添うワシらがいる。不思議な気持ちで一杯になる情景だった。ワシはリキの頭を撫でながら続けた。

「まぁ、少々身長差があるゆえ、ワシの方がちと、重荷を背負うことになるかも知れぬが、そんな些細なことはどうでも良いのじゃ」

「ロック……ありがとうな」

「どういたしまして、なのじゃ」

「なぁ、ロック。迷惑ついでに、オレのわがまま聞いてくれるか?」

「わがままとな?」

「ああ。今日、この後さ――」

 この後、リキの頼みを聞き、ワシはリキの家に泊まりに行くことになった。

『偶然なんて無いの。全ては必然なの』

 結花さんの言葉、確かに、聞こえた気がする。

 リキの両親は丁度、長崎の親戚の所に泊まり掛けで出掛けているらしい。そう。これは『偶然』では無く『必然』なのかも知れない。こんな好条件をリキがみすみす見逃す訳が無いだろう。だからこそ、覚悟は必要なのだと思った。そういう展開になったら、その時は潔く受け入れよう。ワシは婆ちゃんの言葉を思い出していた。

『お前は自我を棄てろ。絶えず人の為に尽くせ。何時か……皆がお前に応えてくれる。だから、信じて……ただ信じて尽くせ』

 ことあるごとに婆ちゃんが口にしていた『お持て成し』の心……。多分、間違えた解釈なのだろう。だけど、ワシはウサギだ。知恵も、力も、何も持たない非力なウサギだ。それならば、ワシはリキのために体を捧げよう。ワシの体で少しでも救われるなら、それで良い。そんなことを、ただ呆然と考えていたような気がする。

◆◆◆43◆◆◆

 燃え上るような夕日に包まれながらワシらは歩いていた。先刻のこともあっただけに、どうにも微妙な空気が漂っていた。妙に意識してしまい、互いに話を切り出せずに黙したまま歩き続けるという何とも不思議な事態に陥っていた。

 一度、嵐山旅館に戻り、学生服から普段着に着替えたところで、リキの家を目指すことにした。ワシらは嵐山駅から嵐電に乗り込み西大路三条を目指していた。

 リキの家は上賀茂神社の傍にあるのだが、嵐山から上賀茂神社を目指すのは意外と面倒な道筋を辿ることになる。嵐山から西大路三条まで嵐電で移動する。そこから市営バスを乗り継いで上賀茂神社を目指すことになる。道中の乗り換え回数が多いおかげで意外と落ち付かない旅路になる。

 普段だったら、道中ずっとリキと他愛も無いお喋りに花が咲いていることもあり、あまり時間は気にならないのだが、どうにも、妙な緊張感が張り詰めているお陰でやり辛く感じられた。

 可笑しな気分だった。ほんの少し前までは何時もと変わらぬ友であったハズの存在が、何か、妙に異質な存在に思えて仕方が無く思えた。拒んでいる訳でも、距離を開けようという訳でも無い。ただ、余りにも近くなり過ぎた距離感に戸惑っているのだと感じていた。恐らくは、恋人同士という位置関係まで距離が近付くことができれば、こんなにも迷うことも無かっただろう。

 互いに言葉を発することも出来ず、人目を忍んでそっと手を握り合わせていた嵐電の車中での出来事。ふと、窓に目を投げ掛けると、窓の外に見慣れない蝶が止まっているのが見えた。どこから飛んできたのだろうか? 夕日を背に一時の休息をとっているかのように見えた。その淡いレモン色が美しくて思わず見惚れてしまった。

「綺麗な蝶なのじゃ」

「蝶? おー。何時の間に窓に止まったんだろうな」

 ふらりと現れた風雅な旅人のお陰で、ワシらの間で凍り付いていた時間がゆるりと流れ始めたように感じられた。

「夕焼け空の赤い色を背景に、鮮やかな黄色の蝶とは中々絵になるのじゃ」

「ああ、綺麗だな」

 穏やかな表情で蝶を眺めるリキの横顔が夕日に照らし出された。普段見慣れているハズの親しき友の横顔なのに何故かワシはドキリとさせられた。

 声も大きければ、振舞いも仰々しい。身振り手振りを織り交ぜて熱い口調で振舞う。そんな普段、目の当たりにしている姿とは大きく異なる一面を知ってしまった。体も大きく、鍛え上げられた確固たる四肢を持っているのにも関わらず、硝子のように脆く、壊れやすく、繊細な内面を持っている。その事実を知った時からワシの中でリキの存在が大きく変わったように感じられた。

 互いに想いを重ね合わすことが出来たのならば、悩みも、迷いも、容易く解決出来ただろう。でも、そう上手くいかないからワシらは何時だって悩み、迷い、時に運命に翻弄される。生きるということがこんなにも複雑怪奇で難しいものだとは考えたこともなかった。

「蝶は皆から綺麗だと言われるのに、蛾は皆から嫌われるんだよな」

「へ?」

「いや、この蝶を見ていて思ったんだよな。これが蛾だったら、例えどんなに綺麗な姿をしていても嫌悪感を抱いたんだろうなぁって」

 蝶と蛾……どちらも良く似た姿をしているが、その扱いの差は大きく異なる。確かに、蛾という昆虫は愛される道からは程遠い場所にあるように思える。日の光の下を優雅に舞う蝶とは異なり、夜半の闇の最中を光を求めて必死に飛び回る。しかも、蝶のように優雅に振舞うこともなく、叩き付けられたかのようにベタっと貼り付く。蝶のように華やかに彩られた身とは大きく異なり、どうにも薄暗く、毒々しいイメージが付きまとう。そう考えた時に、不意に、まだ大樹が幼かった頃の情景が脳裏に蘇えろうとしていた。

 その日、ワシと大樹は何時ものように旅館前の掃除を手伝っていた。夏の熱い時期は秋の落葉の季節と比べれば掃除の手間は少ないが、それでも全く何も無い訳では無い。旅館の周囲には木々や草花も多く生息しているため、風に揺られた木の枝や葉が落ちることも少なく無い。そうした物を放置しておくのは景観上好ましく無いため、こうしてまめに掃除を行う必要がある。そんな中、落ちた木の枝にしがみ付くようにしていた毒々しい色合いの毛虫が目に留まった。

 昆虫は好きであるが、やはり、好きにはなれない昆虫も存在する。蝶や蛾の幼虫は苦手な部類に入った。

「うわぁ、毛虫だよ。気持ち悪いなぁ。殺虫剤で退治してやる」

 何を思ったか、大樹は慌てた様子で、物置から殺虫剤を持ってくると素早く身構えた。だが、そこへ婆ちゃんが駆け込んできた。何事かと思っていると唐突に大樹の手を掴んだ。

「大樹、そんな可哀想なことをしては駄目じゃ」

「可哀想? 何でだよ。こんな気持ち悪い毛虫、殺しちゃえば良いじゃんか」

 一体自分の何が間違えている。必死で抗議する大樹を見つめながら、婆ちゃんは哀しそうに首を横に振って見せた。

「のう、大樹よ。この毛虫はお前に何か悪さをしたか?」

「え? な、何もしていないけど……」

「見た目が気持ち悪いから殺す。本当に、それで良いのかのう?」

「え?」

「良いか、大樹。死んでしまったら、もう、そこでお終いなのじゃ。命は二度と戻らないのじゃ」

「……うん」

「この毛虫は、確かに、こうした姿で産まれてしまったことは不幸かも知れない。だが、だからと言って、お前に罪も無い者の命を奪う権利があるのじゃろうか? ここでお前が殺してしまえば、この毛虫はやがて訪れる成虫としての自分の姿を知ることも無く死んでしまう。そして二度と命は戻らないのじゃ」

 多分、大樹には婆ちゃんの言っている言葉は難しくて正確には理解出来てはいなかっただろう。でも、少なくても婆ちゃんが伝えようとしている想いは伝わっているハズだ。だから、ワシは余計なお世話と思いながらも思わず口を挟んでいた。

「のう、大樹。もしも、不細工だから死んでしまえと、お前に殺虫剤を掛けられたらワシはどうなるのじゃろうか? 死んでしもうたら、もう、お前と一緒に遊んでやれなくなってしまうのう」

「そ、そんなの、嫌だよ……」

 くちびるを真一文字に結んだ大樹の足元に、小さな雫が零れ落ちた。一粒、また一粒。

「良いか、大樹よ。見た目が気持ち悪いからといって、むやみに命を奪ってはならぬぞ」

「うん、判ったよ……」

 大樹は慌ててワシの駆け寄ってくると、俯いたままワシの手を握って見せた。ワシが居なくなってしまったらと、在らぬ想像をして恐ろしくなってしまったのだろう。大樹も中々可愛い所があるものだ。目一杯鼻の穴を広げながらワシは婆ちゃんを見つめていた。珍しく、婆ちゃんが菩薩様のように思えた。流石はワシの婆ちゃんだ。誇らしい気持ちを満喫していると、不意に、耳元を不快な羽音が駆け抜けていった。

(ぬ!? 蚊が飛んでいるのじゃ。ありゃ? 何処に行ったのじゃろう?)

 周囲を見回していると、不意に婆ちゃんが修羅の形相で自分の腕を睨み付けていた。

「む! 蚊の分際でワシの血を吸うか!?」

 言うが早いか、目にも留まらぬ早業で、腕に止まった蚊を勢い良く叩き潰した。しかも、ワシらに自慢気に、手の平の中でペシャンコになった蚊を見せ付けてみせた。

「フン。ワシに勝負を挑むなど、百年早いわ」

「ば、婆ちゃん……。むやみに命を奪っちゃ駄目なんじゃないの?」

 恐らく、大樹の頭の中ではすっかり訳が判ら無くなっていたことだろう。だが、婆ちゃんはしたり顔でにやにや笑いながら鮮やかに切り返す。

「人に危害を加えるべく勝負を挑んできた者ならば、応戦するのは当然のことじゃ」

「……兄ちゃん?」

「わ、ワシをそんな目で見るで無い!」

 懐かしい話をリキに聞かせてやった。途中までは真顔で聞き入っていたが、何しろうちの婆ちゃんは強烈な個性を持っている。蚊の下りの辺りから段々と引きつった笑いに変わっていた。

「相変わらず、強烈だな……」

「ワシの婆ちゃんじゃからのう……」

 不意にワシの肩に重みのある感触が圧し掛かった。何時ものようにリキはワシの肩を抱きながら、穏やかな笑みを称えていた。

「でもよ、今の話聞いてさ、オレ、思ったことがあるんだ」

 ワシはリキの顔を見つめながら静かに耳を傾けた。

「オレ達のような生き方をしている奴らもさ、その話に出てきた毛虫と同じだよな」

 どこか痛むかのような笑みを浮かべながらも、リキは静かに語り続けて見せた。

「男のクセに男を好きだなんて気持ち悪い。だから、徹底的に差別して、迫害して、追い出してやろうとなる。オレ達は別に他人の害になるような振舞いをした訳でも何でも無いのにな」

「……人は自分と違うモノを嫌うからの。良く判らないモノ、異質なモノは全て外敵とみなす。判らないモノを判ろうなんて努力すらせずに、危害を及ぼすかも知れないから討ち取ろう。気持ち悪いから迫害しよう。挙句の果てには、ああ、こいつらは自分よりも社会的弱者だ。それならば、何をしても文句は言えないだろうとなるのじゃ」

 人の心を支配する悪意を代弁しているうちに、何とも居た堪れない気持ちになった。ワシは思わず大きな溜め息を就いていた。

「なんで、そうなるのじゃろうな?」

「結局さ、どいつも、こいつも、人と違った生き方をするのが怖いんだろうな。ほら? 田舎の村社会ってさ、すげー閉鎖的だろ? 村の外から訪れる奴らは、見慣れない顔の奴らは、皆外敵だとばかりに振舞う。同じだよな、田舎も都会も、人の心は……何処も同じだ」

 言いながらもリキは、さらに哀しげな表情を見せた。

「へへ、所詮、オレも同じなんだろうな」

「リキ……」

「そういう自分を認めたく無くて、人と違うと思われることが恐ろしくて、だから、都合良く出会えた結花を恋人に『仕立て上げた』のさ……。偽装結婚と何ら変わらない価値観だ。彼女がいる。あいつは俺達と同じだ。そう思われたかっただけなんだろうな」

「そんなことないのじゃ……」

「庇ってくれてありがとうな。でも、オレ、結花を便利な『道具』にしているだけなんだ。あいつの馬鹿みたいに一途で、純粋で、人を疑うことを知らないお人好しさに甘んじているだけなんだ」

「違うのじゃ!」

「違わねぇよ! オレは結局、人目を気にして生きるだけの臆病者なんだ!」

 唐突に声を荒げるワシらに乗客達の視線が一斉に集まる。ワシは居た堪れなくなって、そのまま俯くことしか出来なかった。

 哀しかった。どうして、そんなにも自分を悪者に仕立て上げようとするのだろうか? 良いじゃないか。仲の良い妹のような存在だって。そう、言ってやりたかった。でも、リキは、それが出来ないから苦しんでいるのだろう。

 リキを慕って、信じて、何よりもリキ自身も気付かなかった色々な才能を発掘してくれた結花さん。リキは恩ある結花さんのことを、どうして愛してやれないのだろうと必死で悩み、迷い、苦しんでいるのだろう。そして、コタのことを好きになってしまった自分のことを責め続けている。何時だって陽気に振舞っているけれど、その心の中は、何時だって土砂降りなのだろう。せめて、ワシがリキの心に傘をさしてやれれば良いのに。そんなの偽善だと判り切っているけれど、それでも、放っておけなかった。

「会わなければ良かったんだろうな……」

「そんなこと無いのじゃ。結花さんと会ってから、お主はだいぶ変わったでは無いかの? 見た目も以前のお主とは大きく変わったし、腕相撲大会での優勝経験から自信も持てたのであろう? 結花さん、一緒に喜んでくれたのじゃろう?」

「ああ、そうさ。あいつ、馬鹿みたいに喜んでいたさ。でも、だからこそ、苦しいんだ」

「苦しい……かの」

 ワシは一体、リキのために何をしてやれるのだろうか? こういう時、非力な自分が本当に悔しくなる。苦しむ友のために何かしてやりたい。だけど、知恵も力も無いワシには何も出来そうに無い。そのことがワシに取って途方も無く苦しかった。

 『恋』するということは実に難しいことだ。ほんの一時の幸せのために、その何百倍もの苦労を積み重ねる羽目に陥る。それが判っていても人は誰かに『恋』せずには生きられない。人という生き物は不器用で、不完全で、それから……なんて哀しい生き物なのだろう。

 ふと、窓を振り返れば何時の間にか蝶の姿は無くなっていた。再び何処かを目指して旅に出たのだろう。優雅に生きる蝶の姿に、ワシは願いを托したかった。ワシらもお前のように、誰からも愛される存在になりたい。イヤ、せめて、そこに居ることを許して欲しい。そう願うのは図々しいことなのだろうか? ワシらは一体何処へ向かえば良いのだろうか。そっと問い掛けてみたが、夕焼け空は何も応えてはくれなかった。

◆◆◆44◆◆◆

 西大路三条でバスに乗り換えたワシらは千本北大路を目指した。千本北大路から上賀茂神社前へと向かうこととなる。空はだいぶ暗くなり、夜の訪れを感じさせる装いへと移り変わりつつあった。夕暮れ時から夜へと移り変わる情景というのは、どうしてこんなにも寂しげな気持ちになるものなのだろうか。不思議な気持ちで一杯だった。

「綺麗な夕日だな」

 バスの外を流れ往く景色を見つめながら、リキがぽつりと呟くのが聞こえた。バスは交通量の多い通りを走り続けていた。夕暮れ時だからなのだろう。往来する車のヘッドライトの白い光と、テールライトの赤い光がすれ違う様を見つめていた。

「そうじゃな。じゃが、少々物悲しくなるのう」

 ワシの言葉にリキが静かに頷いて見せた。

「オレも同じ気分だ。何かさ、今日という日が終わってゆく。多分、この終わってゆくって部分に寂しさを感じるんだろうな」

 終わってゆく……。あらゆる出来事に『始まり』があれば『終わり』だってある。

「まぁ、オレとロックの物語は終わらねぇけどな?」

「い、いきなり何を言うのじゃ。照れるのじゃ……」

「へへっ、ロック、ずーっとオレと兄弟でいてくれよな?」

 リキは笑いながら再び窓の外に目線を投げ掛けて見せた。

「兄弟って関係……羨ましいなぁって何時も思っていた」

「ワシと大樹のことかの?」

「ああ。仲の良い兄弟だから尚更羨ましく思えたのかもな。ほら、オレ、兄弟いないからさ」

 リキの悩みが重いのは、兄弟が居ないという事実も大きく関わっているのであろう。もしも、兄弟がいれば、家を継ぐという責務も半分の重みで済んだのかも知れない。でも、リキには兄弟がいないから逃げ切れない。結局、抜け出すことの出来ない無限回廊の中で堂々巡りという道を歩むしかなくなるのだろう。

「コタに出会えたこと、不幸だったのじゃろうか?」

「不幸な訳ねぇだろ? あいつに出会わなければ……オレはもっと不幸だったさ」

 再びリキは険しい表情を浮かべたまま俯いてしまった。要らぬことを問うてしまったことを後悔したが、一度飛び出した言葉は二度と戻ることは無い。それは多分、命と同じような物なのだろう。生から死へと駆け巡るだけの一方通行。後戻りは決して許されない。

「コタは結構風変りな奴だよな。同じ年なのにさ、妙にオッサン臭い一面があったりさ」

「無礼な言い方なのじゃ」

 リキの言葉を受けたワシは、思わずコタのしかめっ面を思い出して吹き出しそうになった。

「確かに、少々古風な物の考え方をするでの。実際の年齢よりも年を経たかのように思えても不思議では無いのじゃ」

「やっぱり、色々と体験して、それを乗り越えてきたという強さなのかな?」

「ワシには判らんのじゃ。コタに直接問うてみれば良いのじゃ」

 リキは困ったような表情を浮かべたまま、黙り込んでしまった。そのまま、窓の外を見つめながら、そっと呟いた。

「そ、そんなこと出来るかよ……」

 多分、そんな問い掛けをすればコタのことだ。不機嫌そうに真一文字に結ばれた口は、さらに堅く捻じ曲げられてしまうことだろう。ついでに、何時も以上に鋭い眼光で睨み付けられることは間違いない。それでも、コタは不思議な魅力に満ちている奴に思える。

「にゃはは。リキは、本当にコタが好きなのじゃな」

「ば! 馬鹿、でけぇ声で言うんじゃねぇよ!」

「ほうほう、顔が真っ赤なのじゃー」

「うがー!」

「にゃー! 頭が割れるのじゃー!」

 揺れるバスの中でヘッドロックを掛けるとはリキも何とも無茶なことをする奴だ。お陰でワシまで運転手さんからお叱りを受ける羽目になってしまった……。

 そんなこんなで道中、徒然なるままに話し続けていたこともあり、さして退屈することも無く、上賀茂神社前にワシらは到着しようとしていた。

 上賀茂神社に到着する頃には、既に日はすっかり暮れ、残り香のような薄明るさを残すばかりとなっていた。カラス達も家路に就こうとしているのだろうか? 社家の街並みに、高らかに鳴き声を響かせていた。ワシらは上賀茂神社を後にリキの家を目指すことにした。

 歩きながらワシは無い知恵を必死で絞っていた。少しでも迷う気持ちに整理を付けたかった。リキのためにワシがしてやれることは一体何なのだろうか? ただ、それだけを必死で考え続けていた。だが、結局、ワシの役立たずな頭からは何も出て来ることは無かった。

◆◆◆45◆◆◆

 リキの家に到着したワシらは道中派手に掻いた汗を流すべく、先ずは風呂に入ることにした。互いのことを知ってしまったからこそ、妙に意識して仕方が無かった。終始、背中を向けたまま黙々と体を洗うだけという、何とも事務的な光景がそこにあった。時折、目が合うと慌てて目を背ける。ついでに顔を真っ赤にしながらモジモジする。何とも言えない微妙な間がそこにはあった。それでも、汗でべた付く体は気持ちが悪かったこともあり、サッパリとした気持ちになることは出来た。

 そんな微妙過ぎる風呂での一時を終えたワシらはリキの部屋で寛いでいた。エアコンの無い部屋とは言え、窓を開ければ上賀茂神社から木々の香りを称えた風が流れ込んできて、何とも心地良い感触だった。ふと、隣に目線を投げ掛ければ、リキもまた団扇を片手に涼しそうに振舞っていた。

「あー、やっぱ、風呂は気持ち良いよな。ずっと汗臭かったからなー」

「にゃはは、ワシもお風呂あがりでサッパリなのじゃ」

 笑顔で返事を返せば、不意にリキがワシの隣に座り込んで見せる。妙な笑みを称えたまま、ワシのことを静かに見据えていた。あまりにも見つめられて照れ臭くなったワシは思わず目を逸らした。

「うりゃっ!」

「にゃー!?」

 次の瞬間、ワシは唐突に押し倒された。そのままリキも続けて横になって見せる。丁度、ワシらはリキの大きなベッドの上に、二人並んで寝転がっているような構図になった。聞こえてくるリキの荒い鼻息に焦りながらも、ワシは静かに呼吸を整えていた。大丈夫だ。何があっても、覚悟は出来ている。何があってもリキのことを咎めるつもりも無いし、ずっと、ずっと、トモダチでいよう。兄弟でいよう。そう改めて自分に言い聞かせていた。

「何かさ、ドキドキするよな」

 顔を赤くしながらリキが呟く。要らぬ一言を呟いたお陰で余計に照れ臭くなったらしい。妙な沈黙に、ワシまでどうしたら良いのか判らなくなっていた。それでも、このまま妙な沈黙が続くのも堪え難い。ワシは腹に力を篭めて、目一杯の想いで声を絞り出した。

「そ、そうじゃな……」

 再び訪れる妙な沈黙。すっかり日も暮れたというのに蝉の威勢の良い鳴き声だけが響き渡る。多分、耳を凝らせば、リキの鼓動さえも聞こえたかも知れない。だけど、それを耳にしたら、ワシの緊張はいよいよ最高潮に達し、何も言えなくなってしまうだろう。だが、沈黙は、そう長く続くことはなかった。何とも言えない緊張感に堪え切れなくなったのかリキが吹き出した。もう、こうなると止まらない。ワシも釣られて吹き出し、そのまま二人で抱き合って笑った。一頻り笑った後で、リキはワシをシッカリと抱き締めながら耳元で囁き始めた。

「へへ。今までだってさ、ロックとは何度も一緒にさ、こうして寝たのにさ、今は全然違う気分だ」

「互いの素性を知ってしまったからのう。今までよりも互いの懐に深く入り込んだ訳じゃな」

「ほうほう。なるほど、こういうことか?」

 リキは笑いながら服の中に手を突っ込むと、ワシの腹を撫で回して見せた。くすぐったさに堪え切れなくなったワシは思わず、笑いながらリキを突き飛ばした。

「にゃー、人の腹を撫でるで無いのじゃ」

「へへ、違う場所の方が良かったかー?」

 リキの中で迷いは消え失せたのだろうか? イヤ、そんな簡単な問題では無いだろう。もっとも、ワシが気に病むようなことでは無いのかも知れないが、それでも、やはり心配なのは事実だ。それに、ワシは本当にこんなことを望んでいるのだろうか? 自分でも自分の気持ちが良く判らなくなっていた。そんなワシの心に気付いたのか、不意に真顔に戻ると、リキは小さな溜め息を就いて見せた。

「……迷い、消えた訳じゃ無いさ」

 静かに天井を見つめたまま、リキは続けて見せた。

「結花のことも、コタのことも、結局、結論が出なくてな。どうするのが良いのか未だ答が見付けられないんだよな」

 リキの言う通り、容易い問題では無いのだろう。リキを悩ませる要素は余りにも多過ぎる。たった一人のリキが背負い切れない程に大きくて、重たいモノ。それを必死で支えようと、リキはもがき苦しんでいるのだ。それなのに……。

「ワシは何もしてやれんのじゃろうか?」

「そんなこと無いぜ」

 静かに語り掛けながらリキが腕を伸ばして見せた。「頭、乗せろよ」。目で訴え掛けられて、ワシはリキの腕枕にそっと頭を乗せた。リキの熱い体温を直に感じ、思わず息を呑んだ。

「ロックはオレの話を聞いてくれた。それだけでも、オレ、すごく救われたんだぜ?」

「そうかのう。ワシでも役に立てて本当に嬉しいのじゃ」

 リキは天井を見つめたまま、静かに続けて見せた。

「結花とは、今のまま歩んでいこうと思う」

 不意にリキが口にした言葉には確固たる力強さが感じられた。多分、そこには迷いは無かったのだろう。

「あいつ、オレと一緒にいる時、本当に楽しそうにしているからな。今、オレが居なくなっちまったら、あいつはまた引き篭もりに逆戻りしないとも限らないからな」

「そこはリキが責任を背負う部分では無いと思うのじゃ。冷たい言い方かも知れんのじゃが、引き篭もりになった原因はお主にあった訳では無いのじゃろう?」

 ワシの問い掛けにリキは口を真一文字に結んだまま天井を見つめていた。しばし、考え込んだ後で、リキは溜め息混じりに口を開いた。

「いじめだ」

「え?」

「結花が引き篭もりになった原因さ」

 苛立ち混じりに口にするのと同時に、一際大きく蝉の鳴き声が響き渡った気がした。

「まったく、くだらねぇよな。少しばかり皆と意見が食い違ったというだけの理由で、クラス中の女共が一斉に敵になったらしくてな。昨日まで仲良くしていた連中が手の平を返したかのように態度を変える。理解不能だぜ。多数で、一人を限界まで追い詰める。一歩間違えれば、結花は……」

 静かに、だけど、大きく溜め息を就きながらリキは続けた。

「もう、生きていなかったかも知れないってのにさ」

 リキの言葉に、不意に思い出したくも無い過去が蘇る。本当に嫌な記憶だ。どんなに必死に忘却しようとしても執念深くワシを付け回す。そう……。多分、一生消えることは無いのだろう。どんなに楽しい思い出を沢山作っても、ふとした拍子に古傷のように鈍く痛む。楽しい思い出では塗り潰すことが出来ないものなのだろう。消すことが出来ない記憶。何時までも付き纏う記憶。

(『いじめ』という記憶は実に残酷な記憶なのじゃ。絶対に消えない。死ぬまで消えない。イヤ、もしかしたら死んでも消えないのかも知れない。何時までも、何処までも、執念深くワシを追い回すのじゃな)

 大樹と二人きりで生きて来た理由……。ワシと大樹が普通の兄弟では居られなくなった理由……。遊びのつもりなのに何を大袈裟な。ちょっとからかっただけなのに。

(そうじゃな。仕掛ける側は、ほんの些細な『遊戯』に過ぎないのじゃろうな。じゃがのう、された方は何時までも、何時までも、覚えているのじゃ)

 なんて粘着質な奴なんだ。執念深い奴め。そんなだから迫害されるんだ。

(何とでも言うが良いのじゃ。ワシは、ワシら兄弟を迫害した奴らを許しはせぬ。そうじゃ。永遠に終わることの無い悲痛なる呪いを受け続けるが良いのじゃ!)

 ワシは今にも口から飛び出しそうな想いを必死で抑え込んでいた。駄目だ。今、このタイミングでそんな話をすれば、ますますリキを困惑させてしまう。それに、これはワシと大樹だけの哀しい記憶だ。他の誰にも背負わせたくないし、知られたくも無い。何とか思い留まらねば……。ワシは今にも飛び出しそうな言葉を必死で抑え、可能な限り、平常心を保つべく踏ん張った。

「人の心は幾らでも汚れることが出来るものじゃ。それに、誰もが孤独になることを畏れるのじゃ。自分だけが孤立しないように、他の奴らがそうしているから、半ば引き込まれるように加担した奴らもおるのじゃろう」

「そんなの関係無いな。皆、同罪だ。いじめた奴らも、見て見ぬフリをした奴らも、皆、オレにしてみれば同罪だ」

 吐き捨てるように口にした言葉は、燃え盛る怒りに満ちあふれ、鋭く尖っていた。

 リキの怒りに触れていると、どうにも他人事には聞こえなかった。結花さんとワシら兄弟の置かれた境遇は良く似ていたのかも知れない。ただ、ワシらは一人では無かった。互いに支え合える兄弟がいたからこそ何とか乗り越えることが出来た。だけど、結花さんはリキと出会うその日まで、一人で必死に立ち向かっていたのだろう。それでも結花さんは気丈にも日々繰り返されるいじめに必死で抵抗を試みたらしい。

 だが、いじめというのは、行われている当事者以外には、その苦しみは判らないものなのだろう。誰にも頼ることが出来ず、孤立無援の戦いの中で心を擦り減らしていったことだろう。

 担任の教師に必死の想いで相談に行けば「それは貴女の思い込みでは無いのかしら?」と、薄ら笑い混じりに返されたことも、両親に心配を掛けまいと必死で耐え続けていたことも聞かされた。

 毎日の夕食時、一体、結花さんはどんな想いで学校のことを語ったのだろう。忌むべき敵を『仲間』と表現し、陰湿ないじめの事実さえも『皆、とても仲良しでね』と、偽り続けたことだろう。聞けば聞く程に、結花さんの話は他人事に思えなくて、ワシは今にも涙が零れ落ちそうだった。握り締めた拳の中、爪が突き刺さる痛みに思わず我に返った。駄目だ、駄目だ。余りに熱くなり過ぎて、ワシ自身の想いが口から飛び出してしまう。小さく震える体を抑えながら、ワシは呼吸を整えた。

「いじめは段々とエスカレートしていってな。それでも結花は必死で耐えた。違うクラスのことだったから、オレはそんなことが起きているなんて知りもしなかったけどな……」

 いじめは本当に陰湿に行われる。人が思うよりも遥かに子供達は悪知恵を身に付けている。決して表沙汰にならないように、決して明るみにならないように、実にそれは『丁寧』に行われる。

「馬鹿な奴らがさ、結花の携帯番号をネットに載せたらしくてな。それもさ……『割り切った関係』を求める女達御用立つの掲示板にな。ご丁寧に、さも、あたしは欲求不満ですと言わんばかりの内容まで添えてな」

 薄ら寒さを通り越して、吐き気さえ覚える話だった。何故、そこまでする必要があるのだろうか? 所詮、いじめる側からしてみればちょっとしたゲーム感覚に過ぎないのだろう……。だからこそ、そんなことをされた側が一体どうなるかなど想像出来ないのだろうか。イヤ、想像すら出来ないからこそ、想像するつもりすら無いからこそ、軽々しくそういう『遊戯』を為し遂げることができるのだろう。

(そして、誰も手は差し伸べない。何故なら、そんなことをすれば矛先が自分に向くからのう。おまけに、誰かがいじめられているうちは自分は安泰じゃからな。まぁ、いじめに遭っている誰かが自殺でもしてしまえば、順番繰り上げで、高みの見物も終焉を迎える。そいつらの心は腐り切っておるのじゃ)

 いじめ……随分とヌルい表現を使うものだ。これがオトナ同士ならば、数多の刑罰に相当する呼び名に変わることだろう。これはいじめでは無く、列記とした、『傷害罪』であり、『名誉棄損』であり、『脅迫罪』であり、事と次第によっては『殺人罪』すら適用出来るだろう。そのような行為、断じて許されることでは無い。

「そのお陰で結花は変な男達に着き纏われるようになってな。警察は何の役にも立たないし、結花の両親も近所の連中の心無い振舞いに酷く傷付けられたらしい。人は愚かな生き物だ。そうやって誰かを攻撃し続けることで、辛うじて自らの存在を見付けだそうとする」

 リキは大きく息を吸い込みながら続けた。

「ああ、こいつはオレ達より不幸なんだ。そうやって、自分より可哀想な奴がいることを認識して、安心したいんだろうな。どいつも、こいつも、性根が腐ってやがる」

「……そんな中で、お主と出会ったのじゃな」

 ワシの言葉にリキは小さく頷くと、ワシに向き直って見せた。

「ああ。丁度、結花が病院に行った帰り道だった。引き篭もりとは言っても、病院には通うことは出来たみたいでな。ただ、その日は運悪く、お袋さんが急用で一緒に行けなくなったらしくてな。それで、そこを狙っていた変態野郎を――」

「正義の味方力丸様がガツンとぶちのめしちゃった訳じゃな?」

「へへっ、マジでガツンとやっちまったからな。見事に顎に入ったから、どっか、砕けたんじゃねぇか? 悲鳴すら挙げられずにもがいていたからな。ざまぁみろっつーんだ」

 その場面、是非とも目にしたかったものだ。結花さんに取ってはこれ以上無い位に素敵な、白馬に乗った王子様――からは恐ろしく程遠い、マサカリ担いで熊に乗った金太郎のような野性的な男ではあるが、まぁ、その野性的なまでの男気に惚れたという訳なのだろう。

(ワシがリキにトモダチ以上の感情を抱いている理由……少しだけ判った気がするのじゃ。結花さんとワシ、何処までも良く似ておるのじゃ。これも『必然』なのかのう? 窮地に追い詰められたワシに手を差し伸べてくれたのも、リキよ……お主だったのじゃ。もっとも、お主のことじゃから、すっかり忘れておるかも知れんがのう)

「絵に描いたような場面だっただけに、まぁ、余計に厄介だったんだけどな……」

「そうじゃな。それは、結花さんでは無くとも、間違い無く心に響くのじゃ。ワシが同じ場面に置かれておったら、間違い無く惚れてしまっていたのじゃ」

「でもよ、あの時、結花を助けちまったお陰で、結花の両親からもすっかり、気に入られちまってな。だからこそ、余計に厄介だよな。まさか、大切な愛娘を助けた正義の味方は男好きでした! なーんてオチ、笑えねぇもんな……」

 リキの話し方が悪いのか何なのか、深刻な話であるにも関わらず、どうにも滑稽な話に聞こえてしまうから不思議である。それにしても、やはり、リキは不器用な性分らしい。義理人情に厚いのは良い事だが、度を超えれば自らが潰れてしまう結末を迎えるだけだ。そう考えたからこそ、ワシはリキに想いを伝えてみることにした。

「のう、リキよ。お主、少々気負い過ぎではあるまいか?」

「オレが?」

「考えてもみるのじゃ。仮に結花さんと結婚するとして、それまで後何年あると思っておるのじゃ? 一般的に結婚する人々の年齢から考えれば、後十年以上はあるのじゃ。それまで続くと誰もが考えると思うかのう?」

「そ、それは……」

「そうだったら良いなぁとは思うかも知れんじゃろうが、さすがに、初恋の相手と十数年の恋を経て、目出度くゴールインしましたなんて話、殆どお伽噺なのじゃ」

 良くも悪くもリキは生真面目な男だから、つい、気負い過ぎてしまうのだろう。そこがリキの良い部分でもあり、同時に悪い部分でもあると言える。何しろ、自分で自分の首をせっせと締め上げているのだから実に救いようが無い。

「それに、こんな話は聞きたく無いじゃろうが……『別れ』というものは、本当に何の前触れもなく、突然襲い掛かるのじゃ。明日のことなんか誰にも判らんのじゃ。もしかしたら、明日にはワシも、リキも生きて居らんかも知れんのじゃ。無論、コタだって、テルテルだって、結花さんだってのう?」

 こんな話を聞かせるのは正直、あまり賢いとは思えなかった。ただ、現実問題として、可能性の一つとして、抑えておかなければいけない話だと考えていた。何よりも、気負い過ぎるリキには、これ位のインパクトある話をしなければ、その強固な思い込みが変わることも無いのではないかと考えた。だからこそ、敢えて嫌な奴を演じた。

「そうだな……。ただ、結花はオレのことを必要としてくれている。オレ、結花の願う未来を叶えてやることは出来ないけれど……許してくれるよな?」

 許してくれる……それは何か違う気がしてならなかった。人の顔色を窺いながら生きることが果たして幸せなのだろうか? そうでは無いと思う。少なくてもワシは自分の想いは貫きたい。誰に何を言われても、この想いだけは絶対に捻じ曲げない。力では肉体を捻じ伏せることは出来ても、想いまでは捻じ伏せられない。想いの強さは絶対なる強さなのだと信じているから。

「何か、オレ、結局のところ人の考えに流されてばかりだ。オレ自身はどうしたいんだって話だよな」

 リキは天井に向き合ったまま目だけをこちらに向けていた。その寂しそうな笑顔にワシは居た堪れない気持ちになっていた。リキなりに必死の想いで救いを求めている。それは理解した。それならば、気になるのはリキ自身が何を願うかだ。

「そうなのじゃ。結局の所、お主はどうしたいのじゃ? ワシは、それが本当の答だと思うがのう」

 ワシの問い掛けにリキは再び天井に向き合うと、何かを考え込んでいるような表情を見せた。しばし考え込んだところで、リキはワシに向き直ってみせた。

「何時の日か……コタに想いを伝えられるだけの勇気を持つことが出来たら、話、してみるよ」

 普段は行動に至るまで殆ど時間を掛けないリキが、これ程までに慎重になっているのは、やはり、コタの手の内が判らないからなのだろう。言い換えれば、そこがリキの最大の弱点であるとも言える。リキはとにかく人の目を気にする一面がある。自分の考えを押し通す前に、相手にどう思われるだろうか? そればかりを優先する。普段の豪快な振舞いとは裏腹に、本当は気弱な一面を持っている。結花さんを助けた時のような思い切りの良さを見せることが出来た時、リキに本当の幸せが訪れる。そんな気がしてならなかった。

(まったく、世話の妬ける兄弟なのじゃ。まぁ、それまでワシがみっちり面倒を見てくれるとするのじゃ)

「さて……。何だか、話し込んでいたら腹が減ってきたな」

「そうじゃな」

「冷蔵庫の余り物しかねぇから、ろくなもん作れないかも知れねぇな」

「にゃんと!」

「へへっ、まぁ、何にも無かったら何か食いに行こうぜ」

「ふむ、そうするのじゃ」

 覚悟を決めたり、腹を括ったり、自分自身と必死の想いで対峙したと思えば、今度は夕食に阻まれるとは。どうにも、リキと一緒に居ると微妙な立ち振舞いに翻弄される。だが、生きている以上腹は減る。腹が減っては頭も回らない。まぁ、取り合えずは夕食にするとしよう。その後のことは、その後にでも考えれば良い。今すべきでは無いことは、今こなす必要は無い。実に都合の良い言葉ではあったが、ここは偉大なる婆ちゃんの格言に従うことにした。

◆◆◆46◆◆◆

 リキと共に冷蔵庫の中を覗いてみたが、そこには真冬の荒野を思わせるかのような殺風景な情景が広がるばかりだった。無言で冷蔵庫に別れを告げ、ワシらは夜の街に繰り出すことにした。とは言えリキの家の周辺には飲食店が殆ど無い。少々歩いて御園橋を超えれば大通りに出る。大通り沿いならば飲食店もあるはずだ。

 すっかり日の暮れた夜道を二人で歩いていると、近くにある飲食店が思い浮かんだのだろう。特段の拘りも無かったところで、ワシらはリキに案内されるままに全国展開している某餃子の店に向かうことにした。

 無事に夕食を終えた後で、ワシらは夕涼みを兼ねて賀茂川沿いを歩んでいた。この辺りは道路も大きく、交通量も多いが、賀茂川の周辺は涼やかななものだ。ワシらは賀茂川沿いの土手を歩んでいた。土手に植えられた柳の葉が涼やかに風に揺れる。こういう涼やかな風を感じながら歩む夜半の風景も悪くは無かった。ただ、夜も更けてきたこともあるのだろうか。リキの振舞いが次第に本能に忠実になり始めていた。人気が無いことも手伝い、気が大きくなっているのだろう。臆することなくワシに抱き付いたり、服の中に手を突っ込んだりと、やりたい放題な振舞いを見せていた。すぐ後ろに道路を車が往来する状況だというのに、相変わらず周囲には無頓着なことだ。こういう部分に関しては、全く人目を気にしないクセに、妙な部分に拘りを見せる。一貫性の無い立ち振舞いもまた個性ということになるのだろう。

「にゃー、リキよ、こんな所で駄目なのじゃー」

「へへ、良いだろ? 減るもんじゃねぇだろううし」

「むう……。腹の肉に関しては、減って欲しい所ではあるがのう」

「じゃあ、もっと触らせろー」

「にゃー! 何か違うのじゃー!」

 賀茂川沿いは流れゆく川の音色と虫の鳴く声以外、何も聞こえなかった。ただ、ワシとリキの語らう賑やかな声だけが響き渡っていた。多分、互いのことを知らなければ、何時ものように馬鹿みたいにはしゃいで、騒いで、楽しい一夜になったことだろう。だけど、夜は更けてゆく。きっと、楽しげに振舞っているように見えるリキもまた、心の奥深くに迷いを抱いているのだろう。リキから切り出すことが出来ないならば、ワシが切り出そう。ワシは足を止めると静かに腰を下ろして見せた。ワシが何を考えているかを察したのだろう。リキは何も言わずにワシの隣に腰掛けて見せた。

「皮肉な話じゃな。ワシはテルテルに想いを寄せ、リキはコタに想いを寄せている。互いに『紛い物』と交わり合おうとしておる。それも、初めての体験をのう」

「……紛い物じゃ無いさ。オレ、ロックのこと本当に好きなんだぜ?」

 涼やかな音色を称えながら流れゆく賀茂川の流れを見つめたまま、リキは臆することなく想いを口にして見せた。あまりにもシレっと言われたものだからワシの方が動揺させられた。

「そ、そう、ハッキリ言われると反応に困るのじゃ」

 ワシは呼吸を整えながら続けて見せた。

「わ、ワシもお主のこと、好きなのじゃ……」

 そう。リキのことが好きなのは事実だ。では、テルテルのことを『好き』という想いと、リキのことを『好き』という想い、どう違うのだろうか? 

「結局、ワシは誰かのことを本気で好きになったことが無いからのう。テルテルのことを好きという気持ちと、お主のことを好きという気持ち、どう違うのか、正直なところ良く判らないのじゃ」

 ワシの言葉にリキもまた、流れゆく賀茂川に目線を落したまま黙り込んでしまった。

「……結花のことを好きだという気持ちと、ロックのことを好きだという気持ち。それからコタのことを好きだという気持ち。へへ、オレも良く判ってねぇのかも知れねぇな」

 そう。ワシらは『好き』という感情さえ理解出来ていない未熟者に過ぎない。今更、優等生ぶって原点に帰るつもりも無いが、順序が違う気がしてならなかった。そのことが、ワシの中で大きな違和感となっているのもまた否定出来ない事実だった。

「そうだよな。好きという気持ち、本当のところ、良く判っていないのは事実だ。でもさ、やっぱり――最初の相手はコタが良いって思っちまうんだよな」

 さらりと想いを口にした後で、リキは慌てた様子でワシに向き直ると熱心に弁明を始めた。

「あ、イヤ、ロックのこと嫌いってワケじゃ無いぜ?」

「その位判って居るのじゃ。お主が言わんとしていることものう?」

 涼やかな風が吹き抜け、虫達が鳴く声が不意に鮮明に聞こえた気がする。結局、ワシは自分自身の『本能』を許せるだけの度胸も無く、そのクセ、『理性』に従うつもりも無い卑怯者に過ぎない。それならば、想いを寄せるテルテルと結ばれる日を待ち侘びるかと問われれば、そこまで強い精神力を持っているとは言えなかった。

「なぁ、ロック。オレ、最低なこと言うぜ。見下してくれても構わねぇからさ」

 リキはどこか自嘲的な笑みを浮かべていた。月明かりに照らされた横顔にワシは息を呑んだ。寂しさと哀しさと、それから、言葉に出来ない複雑な想いで満たされた表情に思えた。

「オレ、多分……自分と同じ生き方する奴に初めて出会えてさ、腹の内聞いて貰って、互いに共感して」

 言いながら、リキはふーっと大きく溜め息を就いて見せた。

「判っているんだぜ? そんなの、傷の舐め合いに過ぎないってことくらい判っているんだぜ? でも――」

 リキは月を見上げたまま静かに呼吸を整えていた。賀茂川の流れる音、虫達の鳴く声、道路を走る車の音。それら全ての音がゆっくりと風に溶けてゆくような感覚を覚えていた。

「結局の所さ、オレ、ただ単に気持ち良いことしたいだけなんだろうな」

 ワシも同じだ。思わず出掛かった言葉、ワシは静かに呑み込んだ。

「好きな奴としてぇとかさ、そんな、聖人君子みてぇなこと言っているけどさ、ほら、今日、ウチの親、居ねぇだろ? ロックとさ、そういうことしてもバレねぇっつー想いもあってな。結局、それだけなんだろうな。好奇心満たしてぇだけなんだよな。ただ、気持ち良くなりてぇだけなんだよな。へへっ……やっぱ、オレ、最低だよな」

「なら、ワシも最低なのじゃ」

「え?」

「毎日、毎晩、出しても、出しても満たされぬでのう。結局、もっと気持ち良いことを追い求めたくなるのじゃ」

 生々しい言葉にリキが息を呑むのが聞こえた。だけど、ワシは怯まなかった。ありのままの自分で接したかったから。どんなに醜い姿でも、これがワシの本当の姿だ。嘘も偽りも無い真実なのだから。

「ネットでそういう画像やら動画やら探して、楽しんでみているうちに欲望という物はどんどん大きくなるモノらしくてのう」

 もう、此処まで来たら、今更格好付けても仕方が無い。全部、全て、曝け出そう。ワシ自身の本当の姿を。真実を。

「裸の画像だけで満足していたのは最初のうちだけなのじゃ。絡みがある物を求めるようになって、どんどん、過激な物を求めていたのじゃ。それでも、それでも……満たされなかったのじゃ。知れば知る程に、画面越しの架空の世界では無く、現実の世界で体験してみたい。そう、切に願うようになったのじゃ」

「ロック……」

「そういう出会いの掲示板も知って居るでのう。探そうと思えば、幾らでも相手は探せたのじゃ。もっとも、そこまでの度胸は無かったのじゃがな」

 形振り構わぬワシの生々しい言葉にリキは言葉を失っていた。だけど、もう、格好付ける必要なんか微塵も無かった。今更、どの面引っさげて偉そうなことを言えるのだろう。所詮、ワシはただのスケベな男に過ぎない。気持ち良いことを追い求めるだけの、欲に塗れた変態に過ぎない。偉そうな理屈も、格好付けた振舞いも、何も必要無かった。もう……ウソはつきたく無かった。格好悪い自分も、惨めで醜い自分も受け入れると決めたのだから。もう、後戻りはしない。

「ワシが唯一、男に生まれたことを後悔する瞬間じゃろうか。こういう時、もしも、女じゃったら、抑えが利いたのだろうかとか、阿呆なことを何度も考えてみたのじゃ」

 ワシの言葉が可笑しかったのか、リキが静かに笑った。

「まぁ、世間一般からすれば我慢出来ねぇのが男っつー生き物らしいからな」

 だけど、改めて考えてみるが、だからと言って誰でも相手したいと思える訳でも無かった。見ず知らずの誰かと肌を重ね合わせる……想像しただけで、背筋が寒くなった。そんな汚らわしいこと、ワシには出来そうに無い。多分、リキだから相手したいと思えたのかも知れない。付き合いも長ければ仲も良い訳で、互いに本当に兄弟のような関係だ。テルテルとしてみたいと思うのは当然としても……。そこまで考えた時、不意に自分の中で新たな疑問が沸いてきた。違和感とも言える程に矛盾した感情にワシは戸惑わずにいられなかった。

「お? どうした?」

「ふむ。妙な違和感を覚えてのう。ちと、ワシの話を聞いてくれるかのう?」

「ああ、何でも聞くぜ」

 多分、今、隣にいるのがテルテルだったとして、果たしてワシは「そういう行為」をしたいと思えただろうか? 多分、そうはならない気がしてならなかった。距離の近さで言えば、リキを超える相手は他には居ない。テルテルが隣に居たとしても、そこまでの感情は抱けない気がしてならなかった。ますます、ワシは判らなくなっていた。好きという感情の意図する所、実は途方も無く深いのでは無いだろうか? そんな疑問をリキにぶつけてみた。

「あー。オレも……隣にいるのがコタだったら、多分、一緒にいるだけでも嬉し過ぎて、それ以上の感情抱けなかったかも知れねぇな」

 本当は、ワシは……テルテルでは無く、リキのことを想っているのでは無いだろうか? それならば、それはそれで迷う必要も無くなるのかも知れない。もしかすると、単に自分自身を正当化しようとしているだけなのかも知れない。でも……。

「なんつーか、ロックが言わんとしていること、判る気がする」

 リキはワシの方に身を向けながら嬉しそうに笑って見せた。笑いながら、ワシのことを力一杯抱き締めて見せた。

「へへっ、安心するなぁ。こうしてロックにくっ付いているの」

「暑いのに、何てことするのじゃー」

「でもよ、そう言いながらも嫌がってねぇよな?」

「う、うるさいのじゃ……」

 とは言えリキの言うことも理解出来る気がした。暑いのは事実ではあったが、心が温かな気持ちで満たされてゆくのを感じていた。

「何か、妙な気持ち、どこかにいっちまった気がする」

「ワシもなのじゃ」

「まるで通り雨だ。バーっと派手に降って、降って、スッキリしちまったら、再びフラっとどっかに行っちまう」

 確かにそうかも知れない。頷くワシを見つめながらリキが続ける。

「怖いんだろうな……。可笑しな一線超えちまって、ロックとトモダチで居られなくなっちまうのが」

 リキの声は微かに震えていた。だけど、その声に、その言葉に、全ての想いが集約されている気がした。一時の気持ち良さのために、生涯を共にするであろう掛け替えの無いトモダチを失うことになる。そう考えた瞬間『理性』が『本能』に圧倒的な威力を以って勝利を収めるのも納得出来る。

「ひー、何か、また汗でベタベタになっちまったぜ」

「蒸し暑いのに、お主が抱き付くからなのじゃ」

「お? オレのせいかよ?」

「他に誰が居るのじゃ?」

 ワシの言葉を受け、一瞬、青褪めた表情を浮かべながらリキは周囲を見回していた。そんなことをしなくても周囲には誰もいない。一体、何をそんなに動揺しているのか? 首を傾げた所でリキに勢い良く手を引かれた。

「にゃー!?」

「……と、取り敢えずさ、さっさと帰って風呂入ろうぜ」

「何をそんなに慌てておるのじゃ? まぁ、風呂に入るのは良いと思うのじゃが」

 互いの本音をこれ程までにぶつけ合ったのは初めてだったと思う。リキが感じていること、考えていること、知ることが出来て本当に嬉しかった。心が満たされるという感覚……。これが『好き』という気持ちなのだろうか。少しだけ理解出来た気がする。

 一頻り走ったところで、ワシらは落ち付きを取り戻した。そのままワシらは上機嫌に笑い合い、時にじゃれ合いながらリキの家を目指すことにした。蒸し暑い気候の中で暑く語らい、ついでに、密着したお陰でだいぶ汗を掻いてしまった。早く風呂に入ってサッパリしよう。そうしたら、また、話の続きをしよう。もっと、もっと、ワシはリキのことを知りたかったし、リキにもワシのことを知って欲しかった。リキとトモダチで本当に良かった。互いの想いを確かめ合いながら、ワシらは堅く手を握り合ったまま、リキの家へと続く道を歩み続けた。

◆◆◆47◆◆◆

 風呂に入りながらも徒然なるトークは続いていた。料理の道を目指さんとするリキの熱い想いから、最近見付けたお気に入りの和菓子店の話へと至り、昨日見たテレビのお笑い芸人の話から、何処で聞いたのかテルテルが喜びそうな胡散臭い心霊騒動まで、とにかく話続けた。ついでに、先刻、慌てて走り出した理由も聞かせてくれた。何でも、周囲に無数の人の気配を感じ取ったらしい。だけど、あの場所にはワシらしか居なかった。それで、恐ろしくなって逃げ出したと聞かされた。嘘か真かは定かでは無かったが、とにかくリキは凄まじい勢いで喋り続けた。

 多分、互いに『本能』を抑え切れないからこそ不安に駆られているに違いない。どうすることも出来ない自分が恐ろしくて、だからこそ黙っていることが恐ろしかったのかも知れない。沈黙が訪れないように、とにかく喋り続けたのだろう。その証拠に、風呂に入っている間、終始リキは獲物を狙う獣のような眼差しでワシを……イヤ、ワシの体を舐めるように見つめていた。目が笑っていないというのは、恐らく、こういう状況を示すのだろう。

(もっとも、ワシもリキの体から目が離せなかったのじゃ。ワシは一体どうしたら良いのじゃろう……? どうするのが正解で、どうするべきなのか、誰か道を示してくれなのじゃ……)

 風呂から上がった所で、リキはトイレに寄ってから戻ると口にした。その一言だけで、崖っぷちに置かれているリキの状況が手に取るように判ってしまう自分が可笑しくもあり、同時に、哀しくもあった。

(ワシも、リキが戻ってきたらトイレに行くかのう。少しでも遠ざけねば、取り返しがつかなくなるのじゃ。それに、リキがトイレで声を押し殺し、喘いでいる情景を想像したら……ううっ、も、もう、我慢出来そうに無いのじゃ)

 夜の闇というのは人が原始の時代、獣であったことを執拗に教えてくれるものらしく、次第に抗い切れなくなる自分に恐怖心すら抱いていた。段々と口数が減ってゆくリキの振舞いからも、それは容易く察することが出来た。多分、リキのことだ。その場の勢いに任せてワシを呼んだことを、今更になって大いに後悔していることだろう。もっとも、呼ばなかったとしても、それはそれで、初めての体験を為し遂げるという機会を失ったことへの悔しさに苛まされることになるのだろう。いずれにしても、リキに取っては、あまり幸福とは言えない事態に陥ることだけは明白だったように感じられた。

 そんな状況の中、ワシも次第に高鳴る胸の鼓動を抑え切れなくなっていた。もはや、頭の中にはリキと本能の赴くままに睦み合う情景しか浮かんでいなかった。テルテルのことが好きだとか、コタに申し訳ないとか、そんな感情は木端微塵に砕け散っていた。もう、引き返すことは出来無い。多分、ワシが過ぎ去った後、道は崩落してしまい、後には空虚な暗闇だけが広がっているのだろう。

「なぁ、ロック」

 不意に声を掛けられ、ワシは息が止まる程に驚いた。何時の間にトイレから戻って来たのか、慌ててリキに向き直れば、ジッとワシの目を見つめたまま寂しげに微笑んで見せた。

「オレ達、ずっとトモダチだよな?」

「いきなり、何を言い出すかと思えば……」

「わはは、驚かせちまったか? すまねぇな」

「ずーっとトモダチなのじゃ」

 ワシは笑いながらリキに抱き付いて見せた。それを待っていたかのように、リキの大きな手がワシをしっかりと抱き締めてくれた。

「ああ、ずっとトモダチで居てくれよな」

 リキの声は微かに震えていた。重なり合う体越しにリキの鼓動が、体温がヒシヒシと伝わってくる。ワシの中では今すぐにでも理性が飛びそうだった。多分、リキも同じなのだろう。ワシは恐る恐るリキの股ぐらに手を伸ばしてみた。一瞬、リキはビクっとしたように体を震わせたが、拒む素振りは見られなかった。

(……確かめるまでも無かったのじゃ。ワシと同じなのじゃな)

 だが、不思議なもので、こうして触れ合っていると心の底から安心できる。もう、一人では無い。そんな安堵感からか不意に睡魔が襲って来た。どうやらリキも睡魔に襲われつつあるらしい。欠伸を必死で堪える様子が伝わってきて妙に可笑しく思えた。

「何か眠くなってきちまったな」

「そうじゃな。ちと暑いかも知れんのじゃが……」

「ああ、このまま寝ようぜ?」

 笑いながらリキが顔を近付けて来る。ワシは緊張で心臓が破裂しそうだった。為し遂げようと思っていた行為に比べれば遥かに軽いことのハズなのに、こんなにも緊張するとは思わなかった。ワシに取っては人生最初の……などと考える間も無く、リキのくちびるがワシのくちびるに重ねられた。そこから先は、もう、何も考えられなかった。リキのくちびるの感触は柔らかくて、熱くて、何よりも相当緊張していたのか酷く震えていた。くちびる越しに伝わって来た体温も、生命の脈動も、その感触も、初めて胸に抱いた感動も、何もかも、ワシは絶対に忘れない。何よりも、二度と訪れることの無い、この一瞬を忘れたく無かった。

「へへっ、電気、消すな」

 リキはワシを抱き締めたまま豪快に体を起こし、そのまま部屋の明かりを消した。部屋の中は静寂に包まれた。外からは涼やかな虫の鳴き声が響き渡る。穏やかな風が時折吹き抜けるのもまた、心地良く感じられた。それから……リキには失礼かも知れないが、リキの匂いに包まれて、ワシは本当に幸せな気持ちで一杯だった。一人じゃ無いんだ。これからは、ずっと、リキが一緒にいてくれる。トモダチなのだから当然では無いかと、リキのことだから笑い飛ばされそうだったが、ずっと孤立無援だったワシに取っては本当に奇跡のような体験なのだ。少々暑かったが、それも悪く無い。押し寄せる睡魔の中、ワシはゆっくりと意識が遠退くのを感じていた。

◆◆◆48◆◆◆

 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 蒸し暑さも手伝い、ワシは夜更けに目を覚ましてしまった。今、何時なのだろうか? 未だ意識がハッキリとしない状況で、ワシは信じられない情景を目の当たりにしてしまった。その余りにも衝撃的な光景にワシは息を呑んだ。

 ハーフパンツを脱ぎ、下半身を露わにしたリキの姿がそこにあった。暗がりの中でも、何をしているのかはすぐに判ってしまった。荒い息遣いに、ワシの中で何かが燃え上るような感覚を覚えた。多分、リキのことだ。ワシが深い眠りに就いていることを見届けてからコトに及んだのだろう。ワシも同じ男だから、我慢し切れないことを否定するつもりも無ければ、リキのことを軽蔑するつもりもない。何度も、何度も、必死でワシのことを気に掛けて思い留まってくれたのだ。本能の赴くままにワシを襲うことだって出来たのだ。それでも、リキは必死で思い留まってくれたのだろう。ただ、隣にワシが寝ている状況下で、どうしても抑え切れなくなってしまった。それだけのことに過ぎない。

(此処は、何も見なかったことにしておくとするのじゃ……)

 正直、リキの為す『行為』に興味が無い訳が無かった。むしろ、果てしなく興味を惹かれて仕方が無かった。

「はぁっ、はぁっ……ううっ、あっ! うくっ!」

 止めてくれ……。そんな、甘美な喘ぎ声を聞かされてしまっては抑えが利かなくなってしまう。ワシは必死で眠りに就こうとしていた。だが、ワシの想いとは裏腹に、下半身にどんどん神経が集中してゆく。もはや、痛い程にワシの股間は膨張し切っていた。

(だ、駄目なのじゃ。ワシは何も見て居らんのじゃ! せめて、せめて……リキの行為が終わるまでは抑え切らねば……)

 ワシは必死だった。だが、そんな想いとは裏腹にワシの先端部からは湧水のように熱い想いが、ジワジワとあふれ出していた。せめて、体の向きだけでも変えようと、そっと体を横たえようとした所で、先端が微かに擦れた。その瞬間、下半身を駆け巡る電気のような衝撃に全身が硬直しそうになった。

(だ、駄目なのじゃ……。これ以上、体を動かしたら、限界に達してしまうのじゃ)

 そんなワシを後目に、リキの行動はエスカレートしてゆく一方だった。突然、何を思ったのか、先刻まで履いていたであろう下着を脱ぎ捨てる音が聞こえた。ワシの心臓はもはや、割れんばかりに鼓動を刻み続けていた。余りにも脈拍が上がり過ぎ、一瞬、眩暈さえ覚えた。多分、体中の血流が一点に集中し切ってしまっているのだろう。

「はぁっ、はぁっ……うぉお、堪んねぇ!」

 興奮に堪え切れなくなってきたワシは、恐る恐る薄目を開けて、リキが一体何をしているのかを覗き見た。その姿を目にしたワシは、頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃を覚えた。

 自らの下着の匂いを嗅ぎ、さらに興奮を覚えるリキの痴態を目にした瞬間、ワシの中で何かが弾け飛んだ。もう、抑え切ることは不可能だった。こんなことをしたら、どういう結末が訪れるかなど容易に想像が出来たはずだった。だけど、燃え上る業火の如き本能を、幾ら必死で理性で抑え込もうとしても、抑え切ることが出来なかった。ワシは敢えて寝たフリをしたままハーフパンツを脱ぎ捨てた。さも、寝ぼけているかのように振舞って見せた。判っている。そんな猿芝居、すぐに見抜かれてしまうことくらい。それは、ワシなりの必死の……本当に何の意味も為さない、ささやかなる抵抗だった。

 ビンビンにいきり立ったワシの物を目にしたリキが、凍り付くのが手に取るように判った。ああ、もうお終いだ。何もかもお終いだ。リキと共に過ごした楽しかった日々が走馬灯のように脳裏を過ぎっていた。思わず涙が零れ落ちそうになっていた。だけど、それ以上に、既にぐしょぐしょになった先端部を指の腹で撫でて見れば、体中に電気が駆け巡るかのような未体験の快感に襲われた。もう、止められなかった。ワシはそのまま握り締めて扱き始めた。

「……ロック、もしかして?」

 突然の出来事に、リキはこれ以上無い位に声を震わせていた。実に間の抜けた姿だ。片手に羨ましい程に立派なものを握り締め、もう片方の手では脱ぎたての下着を握り締めている。ワシは着ていたシャツを脱ぎ去り、大きく股を広げてリキに見せ付けた。窓から差し込む穏やかな月明かりに照らし出されて、ワシの体も穏やかな光を称えていた。

 誰よりも大切なトモダチに……ワシの初めてのトモダチに、普段、絶対に見せることの無い痴態を見られている。そんな背徳感も手伝いワシの興奮は頂点に達していた。

「あ、ああ……。駄目だ、ロック。オレ、オレ……!」

 リキはビッショリ汗を掻いていた。何時も見慣れている赤のタンクトップだけを身に纏い、下半身には何も着けていない。そんな有り得ない姿に、ワシもまた、これ以上無い程の興奮を覚えていた。

「り、リキ、やばいのじゃ。腰が砕ける程に気持ち良いのじゃ……」

「あ、ああ、ロック……。オレも、すげぇよ。すげぇ気持ち良いよ。頭、可笑しくなりそうだぜ……」

 そのままワシはリキの大きなベッドへとモソモソと移動すると、二人、ぴたりと寄り添って互いの痴態を見せ付け合っていた。信じられない情景だった。

 互いが、互いの痴態で挑発し合う。こんな淫らな体験は初めてのことだった。荒い息遣いでリキが左腕をワシの頭の下に回す。ワシを抱き締めたいのだろう。もう、ここまで来た以上、後戻りは出来ない。最初で最後の夜になるのであれば、今更思い留まっても仕方が無い。ワシはリキの腕に身を預けた。

「な、なぁ、ロック……」

 荒い息遣いを保ったままリキが語り掛ける。ワシは目だけ向けるのがやっとだった。そんなワシの目をじっと見据えたまま、リキがぽつりと呟いた。

「もっかい、キス……しても良いか?」

 その言葉にワシは静かに頷いた。リキは照れ臭そうな表情すら見せること無く、荒い息遣いのままワシのくちびるに自らのくちびるを重ね合わせて見せた。そのまま入り込んでくるリキの舌……。ヌルっとした感触が堪らなくて、ワシはリキと激しく舌を絡ませ合っていた。

(ああ、もう駄目だ……。我慢出来そうに無いのじゃ!)

 快感が頂点に達しようとしたところで、ワシはリキに力一杯抱き付いた。それを待ち侘びたかのように不意にリキの手が伸びてワシのものを力強く握って見せた。普段から体験しているリキの手の感触ではあったが驚く程に熱気を孕んでいた。そうか。そういうことか。何を望んでいるのか理解したワシは、代わりにリキのものを優しく握り締めて見せた。

「なぁ、ロック……」

「何じゃ?」

 リキは荒い息遣いでワシの胸を鷲掴みにしていた。

「乳首、舐めても良いか?」

「舐めて欲しいのじゃ……」

 すっかり汗ばんでいるのを考えると、少々恥ずかしかったが、それ以上に快楽を求める本能には勝てそうに無かった。リキは酷く緊張した面持ちでゆっくりとワシの胸元に顔を寄せる。そのまま、静かに目を伏せてワシの乳首に舌を這わせて見せた。

「あ、ああっ!」

 それまで感じたことの無い感覚だった。どんなに抗っても我慢出来ない程に、淫らな喘ぎ声が漏れてしまう。

「ロックの乳首、ピンク色でやらしいな……。滑らかな舌触り、堪らんねぇ」

「り、リキのも舐めさせて欲しいのじゃ」

「お、おう……。オレのも頼むぜ」

 リキは仰向けになったまま肩で荒く息をしていた。

 こうして改めて間近で見るとリキの体は本当に肉厚で逞しく思える。憧れを抱かずには居られない姿だった。撫で回してみるとはち切れんばかりの弾力が指から伝わってくる。月明かりに照らし出されたリキの厚観ある肉体は、汗がテラテラと光を称え幻想的な美しささえ感じていた。

 ワシはリキの乳首をそっと指で撫でて見せた。肉厚な胸に小さめな乳首がせり立つ姿に、ワシはずっと興味を惹かれていた。

 そっと顔を近付ければ汗の匂いと熱気を感じた。ワシは優しくリキの乳首を舐め回してみた。鮮烈な汗の塩辛さの中に、滑らかな舌触りを感じながらワシはそっと目を伏せた。

「あ、ああっ!」

 リキの体がビクンと仰け反る。ワシに舐められてリキが快感に身悶えている。こういうお持て成しも悪くは無い。互いに互いを持て成し合うという構図なのだろうか。舐め回したり、吸い付いたりする度にリキは体を大きく仰け反らしていた。気持ち良いのだろう。何だか満たされる気持ちで一杯になっていた。理由なんか判らないけれど、リキのことを独り占めした気がして、胸が一杯になりそうだった。

 欲望というのはエスカレートするものだ。此処までやってしまった以上、もう、後戻りなど出来る訳も無い。だったら、もっと気持ち良いことをしたくなるのが人の常だろう。ワシはそっと顔をずらし、ゆっくりとリキの下半身へと顔を移した。ワシが何を為し遂げようとしているのか、すぐに理解したのだろう。リキは一瞬、焦ったような表情を浮かべたが、それでも、静かに足を広げられた姿にリキの本心を見た気がする。

 リキのはワシのと比べると、圧倒的に立派だった。そっと握り締めてみれば、驚く程に熱気を感じた。

 ワシはそっとリキの顔を覗き込んで見せた。リキは顔を紅潮させたまま、ワシの目をジッと見据えていた。どこか不安と憂いに満ちた表情ではあったが、もう引き下がれない。もう後戻りは出来ない。どうせ、最初で最後の夜になるのであれば……。

「ろ、ロック。止せ。駄目だ、止めてくれ……」

 唐突にリキの慌てたような声が降り注いだ。だけど、もう、ワシは自分を止めることは出来そうに無かった。そっとリキの物に顔を近付ければ、ムワっとした匂いを感じられ、ワシの興奮は最高潮に達していた。

「お願いだ、ロック。そんなことされちまったら、オレは……っ!」

 ワシはそっと、リキの物を口に含んでみた。驚く程に熱くて、トロッとした液体がジワリと滲む。

「あっ……!」

 微かな塩気を孕んだ味にワシは酷く興奮していた。そのまま舌を這わせたまま、ワシはリキの物に吸い付いてみた。

「ああっ! ろ、ロック、や、やべぇっ!」

 ワシは何も言わずにリキの物を舐め回し、吸い付き、時に手も交えて扱いてみたりした。

「はぁっ、はぁっ……気持ち良い……」

 ドクドクと刻まれる時の流れ、生命の脈動……。そこにある、確かな『生』をワシは感じていた。リキは大きく股を広げて、虚ろな眼差しでワシを見つめるばかりだった。

「……なぁ、ロックのも舐めさせてくれよ」

 ワシはリキの問い掛けに頷きながら体勢を変えた。互いに互いのを舐め合うような姿勢を取った。何ていやらしい格好をしているのだろう。これ以上ない位に激しく鼓動を刻んでいた。だけど、次の瞬間、未体験の快感が体中を駆け巡った。

「んんっ!」

 リキの舌がワシの物を舐め回す感触にワシは震えていた。温かくて、ヌルヌルしていて、体中に電気が駆け巡るような衝撃を覚えた。それまで体感したことの無い快感にワシは腰が砕けそうだった。

 互いに長くは持ちそうに無かった。もう、今すぐにでも出したくて、出したくて、気が狂いそうだった。ワシは再び態勢を変え、ワシは再びリキの腕枕に頭を乗せさせて貰った。

「なぁ、ロック、一緒に出そうぜ?」

「ワシが出すところ、シッカリと見て欲しいのじゃ」

「ああ、オレが出すところも見てくれよな」

 ワシはリキの物を握り、リキがワシの物を握り、互いに扱き合った。二人、抱き合って、汗だくになりながら扱き合った。そこから先は早かった。

「あっ! ああっ! 出るっ、出る、出るっ!」

 小さく呻き声を挙げるのと同時に、ワシの手の中で噴き上がる熱い感触。次の瞬間には、ワシもまた、体中を震わせながら何度も、何度も放出した。

「わ、ワシも出るのじゃっ! う、ううっ!」

「はぁっ、はぁっ……」

「う、ううっ、力が抜けたのじゃ……」

 初めて体験した途方も無い快感の余韻に浸っていたい気持ちだった。だけど、高揚し切っていた気持ちが落ち着いてきたところで、ようやく、ワシはとんでも無いことをしてしまったことに気付かされた。慌ててリキから離れようとするワシを、リキは信じられない力で抱き締めて見せた。

「行かないでくれ!」

「え?」

「オレのこと、一人にしないでくれ……頼む!」

「り、リキ……?」

 ワシに力一杯しがみ付いたまま、リキは声を殺して泣いていた。多分、弁明したかったのだと思う。だけど、言葉を発しようとすればする程に空回りしてしまい、それが、途方も無く不安な気持ちを掻き立てたのだろう。

(大丈夫なのじゃ。ワシも同じ気持ちなのじゃ。じゃから、お主の気持ち、痛い程に理解出来るのじゃ……)

 場違いな対応なのは判っていた。でも、ワシに思い付く行動は一つしか無かった。ただ、声を押し殺して泣きじゃくるリキの頭を、ワシはただ撫でてやることしか出来なかった。まるで大きな子供だ。ワシはリキの頭を撫でてやりながら、幼き日の大樹の姿を振り返っていた。

(大樹は何時も、こうしてワシに甘えておったのじゃ。特に、怖い夢を見た後は大変じゃったのう。暑くて暑くて叶わないというのに、ワシにピッタリとしがみ付いたまま、ビクともしなかったのう。今のリキは幼き日の大樹と同じなのじゃ。何だか、懐かしい気持ちで一杯なのじゃ……)

 今更ながらの「後悔」の念で一杯だった。ワシらは元に戻れるのだろうか? 過ぎ去った時の流れは戻らない。それは川の流れと同じで、残酷なまでに、ただ、流れ過ぎてゆくだけだ。これからどうなるのだろうか? また、トモダチとして共に歩めるのだろうか? それとも、明日の朝には朝露の如く朝日の中でパァっと散ってしまうのだろうか? 月明かりに照らされた部屋の中、ワシはただ呆然とそんなことを考えていた。

◆◆◆49◆◆◆

 それから、どれ位の時間が経ったのだろうか? ようやく落ち着きを取り戻したところでリキが静かに顔を挙げて見せたが、ワシと目が合うと慌てて目を逸らした。

 恐らくはリキのことだ。酷く後悔しているに違いない。もう、二度と戻れない場所に踏み入ってしまったこと、激しく後悔しているのだろう。イヤ、あの時ワシが目を覚まさ無ければ、あるいは、ワシが踏み止まっていれば……。止めよう。そんな議論、何の意味も価値も為さない。

「ロック……ごめんな」

 リキはワシに背を向けたまま、消え入るような声で小さく呟いて見せた。窓の外、命の灯火を燃やして今を生きんと欲する虫達の声に消え入りそうな、小さな、小さな声だった。

「気にしておるのかのう?」

 ワシの問い掛けにリキは応えなかった。ただ、静かに窓の外、夜空に浮かぶ月を見上げたまま、リキは黙り込んでしまった。

 どんな言葉を掛けてやれば良いのか、まるで考えが浮かんでこなかった。ただ、ワシは何故、こんなにも平常心を保っていられるのか、そのことが恐ろしく思えて仕方が無かった。最初からこうなることを予想していたというのもあるが、多分、それ以上に、こうなる展開を期待していた自分がいたのだと思う。

「リキ、ワシは何処にも行かないのじゃ」

「ロック……」

 リキは相変わらずワシに背を向けたまま静かに呟いて見せた。リキの大きな背中が月明かりに照らし出されて仄白い光を称えていた。雪のように青白い月明かりが不思議に感じられた。今は真夏なのに、まるで雪の降った真冬の朝を思わせる情景だ。リキの心の中には雪が舞っている。こんな暑い夏の夜にシンシンと降り頻る白い雪。幻想的だけど、何だか、締め付けられるような哀しみで胸が一杯になった。

「オレ、もう、戻れなくなっちまったな。へへっ……」

「リキ……」

「あーあ、格好悪ぃよな。ロックは何にも悪くねぇのに、嫌な事、辛い事、背負い切れない責任から何から何まで全部、全て、ロックに背負わせて、オレだけ逃げようとしちまった。ホント、オレ、最低だな」

「自分のことを悪く言うで無いのじゃ」

 ワシの言葉に、リキはばつが悪そうな笑みを浮かべながら振り返って見せた。

「自分のこと、最低だって罵るのは、所詮、図々しい逃げ口上でしかねぇな」

 普段目にすることの無い、酷く強張った笑顔だった。窓から差し込む月明かりに照らし出されて、ワシもリキも青白く光り輝いていた。

「月、綺麗なのじゃ」

 しばし、二人で月を見上げたまま黙り込む。虫達の割れんばかりの鳴き声が心地良かった。不意に、そっと頬を撫でるように風が吹き抜けた。一瞬、虫達が一斉に鳴くのを止めると、その瞬間を待ち侘びていたかのように木々の葉がサラサラと涼やかな音色を奏でる。心地良い音色を耳にして、荒ぶる気持ちも少しは鎮まったのだろうか? リキは静かに笑った。

「ああ、そうだな。こんなに明るいものなんだな。明かり消しているのに、部屋の中をシッカリと照らし出してくれるんだな」

 不思議な情景だった。月明かりとはこれ程までに明るさを称えたものなのだろうか? それに、明るい光なのにも関わらず、何故、こんなにも寒々しい光なのだろうか。照らし出せば照らし出す程に、体の芯から冷え切って行くような想いに駆られて仕方が無かった。

「なんつーのかな。来るところまで来ちまったってのが、今の心境だ」

「後悔しておるかのう?」

「イヤ、後悔なんかしてねぇよ。何よりも、後悔なんかしちまったら、ロックに申し訳ねぇからな」

「そんな堅苦しい義理立ては不要なのじゃ」

「ありがとうな。でも、本当に後悔はしてねぇんだ。むしろ……吹っ切れたかな」

 リキはワシに向き直ると、あぐらを掻いて見せた。やはり窓の外に浮かぶ月明かりを見上げたまま、話を続けた。

「オレは最低な男だ」

 まるで見知らぬ誰かを揶揄するような口調だ。どこか投げやりな口調に、ワシは哀しみさえ覚えていた。やはり、リキの誘い、頑として断るべきだったのだろうか? 要らぬ同情心が取り返しの尽かない結末を招いてしまったのだろうか? 妙に強気なリキの振舞いが余計に苦しかった。

「結花の想いを知りながらも、我が身可愛さのため、適当に連れ回している。コタに想いを寄せていると口にしながらも、ロックとあんなことしちまった」

「済まないのじゃ……」

「ロックは悪くねぇって言っているだろ? オレが悪ぃんだ。全部、全て、オレの責任だ。でも、これでもう、ウジウジしねぇで生きていけるさ」

 何処までが本心で、何処からが強がっている自分なのか、ワシには計り知れなかった。だからこそ不安で不安で仕方が無かった。

「ロック、ずっと傍に居てくれよな」

 リキの問い掛けにワシは力強く頷いた。ワシの表情を見て安心したのか、リキの表情にようやく何時もと変わらぬ豪快な笑顔が戻ってきた。歯を見せながらリキが声を上げて笑う。

「へへっ、あんな姿見せちまった以上、ロックにならば何を見せても怖くなくなっちまったからな。それに……」

「それに? 何じゃな?」

 勿体ぶった口ぶりに興味津々なワシは、顔を突き出してリキの返答を促した。リキは照れ臭そうに笑いながら続けて見せた。

「こんな場面で言うのもヘンだけどさ、こんなにも誰かと距離を近付けて付き合えるなんて、絶対に有り得ないって思ってたんだよな」

 その言葉通り、本当の意味で心の底から吹っ切れたように感じられた。先程とは打って変わって、リキは妙に上機嫌な口調で話し始めた。長い付き合いだ。作り物の表情では無いことくらい容易く見抜くことが出来る。本当の意味で迷いを払拭してしまったのだろう。それならば、ワシも何時までも迷っていても仕方が無い。リキが前を向いて歩こうというのであれば、ワシも同じ方角を向いて歩こう。

「オレさ、ずっと独りだったんだ。ロックに出会うまで、誰とも打ち解けられなくてな」

「お主は妙なところで頑固じゃからのう」

「頑固……なのかな? まぁ、オレの中では、コイツとだったら仲良くしたいって思える奴に出会えなかっただけだと思っているんだけどな」

 ふーっと息を就きながら、リキは上機嫌に語り続けた。

「どいつこいつも、何にも考えてねぇ馬鹿ばっかりでさ、絶対オレとは話合わねぇだろうなーって、何時も周囲の連中を見下していた」

 珍しくリキが自身の話を語り始めるのを聞いた気がする。そういえば、リキはあまり自分の話をしようとしなかった。単純に、話題がリキ自身の生い立ちに向けられることが無かっただけだと思っていたが、改めて思い出してみると、リキは自身の生い立ちにまつわる話題になると、慌てて話題をすり換えていたように思える。多分、触れて欲しく無かったのだろう。

「でも、そうじゃねぇんだよな」

 不意にリキがワシに向き直る。

「多分、オレ、ガキの頃から自分のことを判っていたんだと思うんだ。興味を持った相手は皆、男ばかりだった。それがトモダチとしての好きという感情とは違うことに薄々勘付いていたんだと思う」

 だから、距離を近付けるのが恐ろしかった。リキは可笑しそうに笑いながら話を聞かせてくれた。妙に上機嫌な振舞いで、何時も以上に身振り手振りを織り交ぜながらリキは豪快に話を続けた。徒然なるままに思い浮かぶ限りの話を口にしていた。嬉しかったのだろう。自分の全てを見せて尚、ワシが一歩も退かなかったことが。安心したのだろう。コイツは本当のトモダチなのだと。

「ふぅー、何かスゲー喋くりまくった気がする」

「にゃはは、凄い勢いで喋っておったのじゃ。ワシはひたすら聞き手に回るので精一杯なのじゃ」

「ああ、悪ぃな。オレばっかり喋りまくっちまって」

「気にするで無いのじゃ。こうして話を聞くのも楽しいのじゃ」

 思わず顔を見合わせて笑った。笑いながらリキが勢い良く抱き付いて見せた。ヒンヤリとした月明かりに照らし出されているとは言え、蒸し暑い夜であることには変わりは無い。互いに相応に汗も掻いている。ベタっとした感触に思わず声が飛び出す。

「にゃー! ベタっとしたのじゃ!」

「へへっ、なぁ、ロック……」

「おお? どうしたのじゃ?」

「何かさ……抑え、利かなくなっちまったみてぇでな」

 リキは笑いながらワシの手を股間へと導いて見せた。驚く程に熱く脈打つ感触に、ワシの中でも何かが燃え上るような感覚を覚えた。

「もう一回、やろうぜ?」

 誰もワシらを止めることは出来なくなっていたと思う。この後、ワシらは狂ったように何回も、何回も、行為に及んだ。リキの部屋だけでは飽き足らず、風呂場で、ベランダで、勢いに乗ってそのまま賀茂川の河川敷にまで足を伸ばした。次第に行動もエスカレートしていき、あらゆる行為を試してみた。とにかく、ただ、気持ち良くなりたかった。友情だとか、好きだという想いだとか、そんな上っ面だけの言葉、要らなかった。ただ、そこには快楽を求めるだけのケダモノが二匹存在しただけに過ぎなかった。

 変わってしまったのだろう。ワシとリキとの関係。さようなら、昨日までのワシ。もう、二度と戻ることの出来ない自分自身に別れを告げ、ワシはリキと痴態の限りを繰り広げた。明け方までずっと、ずっと、楽しみ続けた。自分でも驚く程に回数をこなせるものだと驚いた。散々楽しんだ後で、微かに残った燃えカスのようになったワシらは、二人で抱き合ったまま昼過ぎまで眠りに就いた。

 取り返しの付かないことをしてしまったという想い、重く圧し掛かった帰り道だった。皆の顔を思い浮かべ、大樹の顔を思い浮かべ、ようやく我に返った時には、もう、ワシは何も言葉を発することが出来なかった。リキもまた同じ状況だった。あんなにも盛り上がって、燃え上ったことが嘘のように沈痛な面持ちでワシを見送ってくれたこと、ワシは忘れない。

 それから、ワシらの関係は変わった。端的な言葉で言えば、酷く『不潔』な関係になったのは間違い無かった。下手に綺麗事を並べるだけの偽善者では在りたくは無かったけれど、それからもリキとは何度も何度も行為に及んだ。人目を忍んで行為に及ぶ背徳感が殊更に快感で、すっかり病み付きになっていた。

 何度も元の関係に戻ろうと思った。でも、駄目だった……。コタ達だけには絶対に知られたくない、ワシとリキ、二人だけの薄暗い秘密。それでも、ワシはリキのことが好きだから離れられなかった。

(そんなのタテマエに過ぎないのじゃ。気持ち良さに溺れてしまっただけなのじゃ……)

 もう、ワシは二度と戻れない程に汚れてしまった。醜く汚れ果てたワシは一体何処に向かうのだろうか? 真面目に考えると怖くて怖くて仕方が無かった。だから、何時しかワシは記憶を封じることを思い付いてしまった。多分、それが開かずの間の始まりだったのだろう。

◆◆◆50◆◆◆

 再び気が付いた時、ワシは再び列車に揺られていた。見覚えのあるセピア色の情景の中を列車は駆け抜けてゆく。渡月橋を潜り抜け、そのまま速度を上げながら桂川から大堰川へと遡ってゆく列車。ワシはその列車に揺られていた。ガタンガタン、ガタンガタン。空高く水飛沫をあげながら走り抜ける列車から覗く景色。そこには夜半の木々達の姿が映し出されていた。青白い蛍のような光に包まれた情景は、あの時、リキと共に見た情景と同じだった。氷のように冷たい月明かりに照らし出された木々達の姿を、ワシはただジッと見つめていた。

「おかえり、大地。無事に一つ目の開かずの間から戻って来られたみたいだね」

 声だけの存在が語り掛ける。

「逃げ出すなら、それでも構わない。見たく無い過去と決別するのも一つの選択肢だ。だけど、同時に、嵐山の街並みも、君の思い出も、全部、全て、消え去ることになる」

「そんなの……嫌に決まっているのじゃ!」

「良いかい? 君に与えられた選択肢は二つしかない。何もかも『忘却』して楽になるか、あらゆる記憶を『回顧』して傷だらけになるか、それしか無いんだ」

 聞き慣れない言葉だ。そうか……。『忘却』の対になる言葉は『回顧』ということか。妙なことにワシは感心していた。だが、声だけの存在が語り掛ける内容に、ワシは大いに驚愕させられた。

「既に小太郎と輝は敵の術中に落ちた」

「な、なんじゃと!?」

「ううん。小太郎と輝だけじゃない。太助と賢一も、間も無く敵の術中に落ちるだろうね。辛うじて無事なのは力丸だけさ」

「そんな……」

「君が必死で記憶を手繰り寄せたから力丸は『忘却』から免れた。でも、『回顧』し続けなければ、途切れてしまう。途切れた瞬間、敵の術が効力を発してしまう。さぁ、急いで、大地。皆との思い出を『回顧』しつつ、一刻も早く、あいつらを討ち取るんだ」

 簡単に言ってくれるものだ。ワシには何の力も無い。立ち向かう力さえ無いワシに、一体、どうやって敵を討ち取れというのか。言っていることが余りにも無茶苦茶だ。

「そうだね。確かに、君は非力なのかも知れない」

「判っているのに無茶苦茶なことを言うのじゃ」

「そうかも知れない。無茶なことを言っているのかも知れない。でも、何も君自身が戦わなければならない訳でも無い」

「どういうことなのじゃ?」

「戦える力を持つ者に力を貸して貰うのさ。それならば、戦えるハズだ」

 相変わらず妙なことばかり口にする奴だ。戦える力を持つ者だと? コタ達には、少なくても、そんな力があるとは思えない。それならば、一体?

「君の記憶の中に解決の糸口が眠っているハズさ」

「ワシの記憶の中に?」

「そう。君が、君自身の手で『忘却』した記憶の中にね?」

 ワシの記憶の中に解決の糸口がある。それならば、ワシ自身の記憶を『回顧』し続ければ?

「道は開けるだろうね」

「それなら、ワシは記憶を『回顧』するのじゃ」

「……簡単に言ってくれるね。受け入れるには余りにも辛過ぎる過去だから、君は開かずの間に記憶を『忘却』したんだ。それを『回顧』するというのは相応の覚悟が必要になるんだよ」

「わ、判って居るのじゃ。じゃが……ワシが立ち上がらなければ、皆を救えないのじゃ。それに、皆が傷付くのを見る位ならワシ自身が傷付く道を選ぶのじゃ」

「変わらないね。君のそういうところ」

「なんじゃと?」

「……無駄なお喋りはお終いだよ。覚悟があるなら、次の開かずの間、開くと良いよ」

 それにしても不思議な情景だ。大堰川の上を駆け抜ける列車とは、一体、どのような仕掛けになっているのだろうか? 線路などあるハズも無い大堰川の上をただ上流へ、上流へと向かい駆け抜けてゆく列車。窓の外は夜半の闇に包まれており真っ暗だった。ただ、うっそうと生い茂る木々達の活き活きとした姿と、川面に映る穏やかな月明かりだけが見えていた。程なくして列車がゆっくりと減速し始める。

 到着という訳か。第二の開かずの間。今度は一体、何を見せるつもりなのじゃ? ワシは過去を切り捨てた身だと言うのに。振り返ることを憚られる過去ばかりだから、二度と、浮かび上がって来ぬように重しを括り付けて暗い、暗い川の底へと沈めたというのに。

 ワシは席から立ち上がり、ゆっくりと扉へと向かい歩み始めた。だが、不意に何かが足にぶつかった。それは硬く、重量感のある物だった。

「何じゃ、これは?」

 足元に転がっていたのは大きな石であった。嫌な予感を覚えながらも、ワシは石を拾い上げてみた。

「ひぃっ!」

 べったりとこびり付いた血糊……。それが一体何を意味しているのか、皮肉にも、ワシは一瞬にして思い出してしまった。そう。ずっと、忘れよう、忘れようと、記憶の彼方に忘却した『事件』。二度と思い出したく無い忌まわしい記憶。ワシが本当の意味で独りぼっちになったキッカケとなった忌まわしい事件! だからこそ、二度と思い出したく無かった……。

「……こ、これは!?」

 イヤ、もう逃げるのはお終いにするんだ。皆を救うため……そう、割り切ろう。この記憶は、確かに、ワシに取っては背負い切れない程に重たい記憶だった。だから、ワシの中に在る防衛本能が『忘却』させたのだろう。まさか、ここに来て『回顧』することになろうとは、これもまた因果なのだろうか。

 ワシはそっと襖に手を掛けると、そのまま静かに襖を開いた。開かれた襖からは目が眩まんばかりの光が波のように押し寄せてきて、ワシを包み込もうとしていた。どの道、前に進むしか選択肢は無いのだ。それならば突き進むまでだ。流れゆく大堰川の音色に抱かれながら、ワシの記憶が遥か彼方へと旅立ってゆくのを感じていた。

◆◆◆51◆◆◆

 ワシは『猫アレルギー』であるということにしているが本当の所は少し違う。確かに、猫の毛に反応するらしく、肌が痒くなるのは事実ではあったが、それ以上に猫を目にすると、あの日の恐怖が蘇り、どうすることも出来ない哀しみに駆られる。ただ、深い、深い哀しみに沈むワシの姿を見せるのが嫌だから、敢えて笑いに磨り換えようと考えた。所詮、頭の悪いワシが考え出した苦しい浅知恵に過ぎない。結局、ワシは自分自身の本質と向き合うことが恐ろしくて、真実から目を背けることで、辛うじて自分自身を保とうとしているだけのウソつきに過ぎない。

 家業を継ぐということに否定的だったのは事実だった。幼き頃は特にその想いが強かった。学校の中でも上手く友達を作ることが出来ずに、ただ一人孤立していたことが哀しかった。どうして、こんな家に産まれてしまったのだろうか? 自分自身の生い立ちを憎んだこともあった。でも、憎むだけでは何も変わることは無い。その位は心得ていた。

 そんなある日のこと……確か、あれは小学校の終わり頃のことだった。

 季節は秋。大自然豊かな嵐山も秋を迎え、活き活きと生い茂っていた緑の木々の葉は、いつしか赤や黄色、鮮やかな色合いに移り変わろうとしていた。

 毎年秋になると嵐山には多くの観光客達が訪れる。この界隈の寺社はどこを巡っても人だらけ。辺り一面を覆い尽くす紅葉の景色を楽しむために、各地から大勢の人々が嵐山を訪れる。

 華やかなモミジの紅に、物憂げな黄色のイチョウ、旅愁へと誘うブナの褐色。多くの木々が様々な色合いに衣替えを行う季節。夏の暑さも退き、肌を切るような寒さを感じさせる気候の中でも人々が集まる街は活気に満ちあふれる。だから、この季節は嵐山旅館も賑わいを見せる。何時も以上に忙しい旅館を支えるべく、家族もまた皆忙しく駆け回るばかりであった。

 一仕事終えたワシは何時ものように竹林を歩んでいた。秋になっても竹林はやはり青々とした葉を称えたままだった。移り変わる季節の中でも、此処は何時も変わらない景色で迎えてくれる。それが嬉しくて、つい、この場所に足を運んでしまう自分がいた。吹き抜ける風の身を切るような冷たさに身震いしながらも、活き活きとした緑色を称えた竹林を歩むのは心地良かった。

 小倉池へと差し掛かる緩やかな坂道。その坂道から少年達の賑やかな声が聞こえてきた。だが、その声に混じって聞こえて来るのは子猫達の悲痛な叫び声だった。ワシは、その声に只ならぬ出来事が起きていることを感じ取り、慌てて駆け込んだ。

 そこで目にしたのは信じられない光景だった。雨風に晒されてボロボロになった段ボール箱。その中で血塗れになりながらも、必死で救いを求めようとする小さな子猫達。大きな声で笑いながら少年の一人が子猫を乱暴に持ち上げた。

「汚ねぇ猫だよなー。うわぁ、汚っねぇ!」

 笑いながら猫をサッカーボールのように蹴りあげた。涼やかな情景の中、骨が軋む鈍い音が響き渡る。猫が悲痛な叫びをあげながら宙を舞い、そして、地面に叩き付けられた。叩き付けられた猫はか細い声で鳴き声を発するのがやっとだった。

「あはは。コイツ、まだ生きているぜ?」

「どうせ、このまま冬になれば死んじまうんだろ? 可哀想になー」

 ワシは一気に体が熱くなるのを感じていた。燃え盛る炎の中に身を投じているかのように沸々と湧き上がってくる怒りを抑え切れそうに無かった。

(可哀想に? 何を馬鹿なことを言っているのじゃ……。それに、何の抵抗も出来ない非力な子猫に、何て酷いことを!)

 少年達の嘲笑う声に、ワシの中に幼き時代の記憶が奔流となって一気に雪崩れ込んできた。

(そうじゃ……。何時も、何時も、大樹と二人きりのワシを周囲の連中は馬鹿にしたのじゃ)

『こいつ、何時も弟と一緒にいるんだぜ!』

『おい、ジジィ小僧。お前、友達居ないのか?』

『居る訳無いのじゃー。あはは、だって、ジジィ小僧だもんなー』

 ああ、そうさ。何時だって大樹と二人で歩んできたワシのことを、皆、執拗に馬鹿にした! 何故、兄が弟と仲良くしてはならない? 他に友達がいないことがそんなにも憐れなのか? お前達のようなくだらない馬鹿と一緒にいるよりも、大樹と一緒に居る方が余程楽しい。兄弟を愛せないお前達は憐れだ。可哀想だ。そう、怒りに身を任せて叫んだワシに、あろうことか、あいつらは石を投げつけた。

 自分達の主張にワシが反論したことが、そんなにも面白く無かったのか? 投げられた石は大樹の額に当たった。きょとんとする大樹の額から滴り落ちる鮮血。それを見た瞬間ワシの理性は完全に吹っ飛んだ。

『……おい、お前、今、何をしたのじゃ』

『お、おい。コイツ、何か可笑しいぞ……』

『応えるのじゃ。今、何をしたーーっ!?』

『うわぁっ! な、何するんだよっ!』

 幼い頃から自分の感情を抑えるのが苦手な性分だった。だから、出来るだけ感情が昂ぶらないように、何時も、何時も、道化を演じてきた。心の何処かでお笑い芸人に憧れていたのは事実だった。人を笑わせることで自分も楽しい気持ちになれる。それに、笑いは偉大だ。笑いながら喧嘩することは出来ない。皆に平和をもたらし、皆に幸せを贈ることができる。何よりも自分の中に棲む『修羅』との決別に繋がると考えていた。だけど、駄目だった。

『うわああーーーーっ!』

『うわっ! こ、こいつ、耳を噛んだぞ!?』

『痛い! 痛い! やめろよ! やめろよーーっ!』

 噛み千切ってやるつもりだった。大樹に怪我を負わしたのだ。お前には大樹が感じた痛みを何倍にもして返してやろう。

(もう少しで、本気で噛み千切ってしまう所だったのう。腐れ外道の血の味……思い出すだけで吐きそうになるのじゃ)

 ワシは驚く程に冷静だった。目の前で繰り広げられる惨劇を目の当たりにして、もはや理性は消え失せようとしていた。再び修羅が降臨する。

(さて、こいつらはどう『始末』してやろうか? ワシの怒りは、この子猫達の怒りと知れ)

 不意に疾風が吹き抜け竹林が激しくざわめいた。ワシの目にはざわめく竹林が一斉に赤々と燃え上るような色合いに移り変わったかのように見えた。それは火の粉を天高く撒き散らし、髪を振り乱しながら怒りに満ちた舞いを振舞っているようにも見えた。

 何時の間にかワシの周りには真っ赤な着物を身に纏った男達が舞っていた。皆一様に真っ赤な鬼の面を被り、燃え上るような鋭い眼差しを抱く者達であった。長く垂らした真っ赤な髪を激しく振り乱し、両の手に携えた松明から盛んに火の粉を撒き散らしながら舞っていた。

『何をしておる。そやつらを殺せ!』

『ああ、そうだ。殺せ! 殺せ!』

『殺してしまえ! 悪党共に天の裁きを下せ!』

(ああ、判っているのじゃ。ワシが、こいつらに裁きを下すのじゃ)

 ああ、そうさ。こういう腐った奴らがいるから、ワシと大樹は散々苦しい想いを強いられてきたのだ。重く受け止めるが良い。こんな阿呆共に生きている意味も価値も無い。

(もう、十分生きたじゃろう? 腐れ外道は、さっさと死にさらせ。案ずるな。ワシが送ってやるでのう)

 何時の間にかワシは大覚寺の広沢池前に佇んでいた。池に映る月は鮮血のように生々しい赤を称えていた。そこに敷かれた舞台の上で舞を演じるは紅の着物に身を包んだ女。小面を身に着け、優雅なる舞を演じていた。だが、不意に青白い月明かりに照らし出された広沢池は、みるみるうちに鮮血を思わせる紅へと移り変わってゆく。その情景の変化に呼応するかのように、女の舞もまた、猛々しい憤怒に満ち満ちた激しい舞へと変貌してゆく。

 何時しか空は雷鳴轟く荒れ模様へと移り変わり、けたたましい雨が降り注いだ。それでも女は舞を止め無い。般若の面を着け直すと、気が狂ったかのように荒々しく舞を演じてみせた。

『さぁ、大地よ! この面を被り、身も心も修羅に委ねよ。案ずるな。お前は罪に問われぬ!』

 女の白い手が伸びて、ワシの顔にそっと般若の面を被せた。

 何時しか周囲には蛍が舞っていた。だが、仄かな光を身に纏いながら舞う蛍達が、次々と炎に包まれてゆく。辺り一面怒りの炎に包まれんとしていた。体中を駆け巡る激情と、数多の男達の鬨の声を背に受けながらワシはゆっくりと振り返った。

「楽しそうじゃな」

「ああ? 何だ、オマエ?」

 ワシは足元に転がっていた大きな石を静かに拾い上げた。

 柄の悪そうな三人組の少年は制服の感じからして中学生に思えた。だけど、そんなことはどうでも良かった。ワシよりも年上なのに、こんなにも愚かな奴らが生きていて良い訳が無い。

「……捨てられてしまった子猫に乱暴をするとは、お前達は人として最低じゃな」

「おいおい。何だよ、コイツ? ジジィみてぇな喋り方しているぜ?」

「あはは。それで、オレ達に何か用か?」

「お前も一緒に猫と遊ぶか?」

 ワシの怒りに呼応するかのように再び竹林がざわめき、炎を纏ったかのような熱風が一気に駆け抜けて行った。体中が焼け焦げるような鮮烈な感覚を覚えながらも、ワシは流れ込んでくる怒りの感情に身を委ねた。

 返す言葉など必要無かった。ワシを嘲笑うように手を伸ばした少年の頬を、手にした石で思い切り殴った。

「うわっ!」

 頬を殴り付けられた衝撃で崩れ落ちた少年は激しくむせ込んでいた。吐き出された血の塊の中に小さな破片が見えた。歯が折れただけだろう。些細な事だ。些細な事なのに随分と見苦しく取り乱すものだ。うずくまる程に痛かったか?

「痛ぇ! 痛ぇよ!」

「後方注意……じゃな」

「え?」

 ワシはそのまま少年に歩み寄ると、今度は後頭部を抉るように、石の尖った部分で力一杯抉った。まるで石榴のように、髪の隙間から赤黒い血が懇々と湧き出すのが見えた。崩れ落ちた少年はただ、静かに痙攣するばかりだった。

「薄汚い血じゃな」

「て、てめぇ、何しやがる!」

「……お前達のような低俗愚劣なる奴らなど、生きている価値も無かろう?」

 怒りに駆られたワシに善悪の区別など必要無かった。ただ、今にも息絶えようとしている子猫達の姿にワシは果てしない哀しみと、押し寄せる波のような怒りしか感じなかった。

 この子猫達は多分、ワシと同じなのだろう。何故、猫なんかに産まれてきたのだろう? 何故、捨てられなければならなかったのだろう? ぼく達だって暖かな家庭に産まれて来たかった。皆に愛され、大事にされ、幸せな日々を送りたかった。そう願っていたに違いない。

 ああ、シロは偶然にもワシに出会い、それなりに幸せな日々を過ごしているのだろう。だからこそ、ワシは捨てられた動物には特段の思い入れをせずにはいられなかった。それなのに、この目の前にいる腐り果てた馬鹿共は、抵抗することも出来ない子猫を寄って集っていたぶっている。懸命に生きようとする小さな命の灯火さえも吹き消そうとしている。必死で、必死で、こんなにも悲惨な状況に置かれているにも関わらず、それでもなお、健気に生き永らえようとする命を嘲笑い、その小さな命さえも奪おうとしている。許されるべきでは無い。ワシの大切な嵐山の街に存在してはならない『鬼』だ。ならば、ワシがこの手で制裁を下しても何ら問題は無いだろう。

 尚も小さく痙攣を続ける少年の抉られた傷跡目掛けて、ワシは再び、全身の力を篭めて石を叩き付けた。グシャっという不快な音が響き渡り、少年は一瞬、体を激しく震わせた。だが、そこまでだった。後は事切れたかのように口から血を吐き出しながら、二度と動かなくなってしまった。先程までの威勢の良さは何処へいった? もう、死んでしまったのか? 少々、事を急ぎ過ぎたか。なに残りの二人は丁重に持て成してくれよう。

「……さぁ、次はお前じゃ」

「く、来るな! 近寄るなーっ!」

 血塗れになった石を手に歩み寄るワシをそいつは乱暴に突き飛ばした。ワシは派手に転倒した。酷い痛みが体中を駆け巡る。冷え切った道路の感触は氷のように冷たく、地面に叩き付けられた尻がじわりと痛んだ。だが、その痛みがワシの中に眠る鬼を、さらに克明に引き摺り出した。ワシは無言でそいつの腹を目掛けて全体重を掛けて拳を減り込ませた。

「ぐ! ぐぇっ……」

 そのまま、ただ静かに、崩れ落ちた少年の腹を目掛けて石を全力で叩き付けた。

「うぐっ! あ、ああ……!」

「ひ、ひぃっ! な、何か、コイツ、可笑しいよ!」

「……もう十分生きたであろう? 三人まとめて殺してやるでの。覚悟するが良い」

 あの時もそうだった。耳を噛み千切られそうになった馬鹿も、必死で命乞いしたことすら忘れ、何事も無かったかのように再びワシに絡んできた。だから、事故に見せ掛けて溺死させてやろうと思った。何しろあいつは泳げない身だ。人気の無い大堰川の畔に呼び出し、不意を突いて突き落した。

 確かに溺死したハズだった。激しく叫び声を上げ、何度も、何度も、水を飲み、やがて、事切れて浮かび上がって来た姿も見届けたハズだった。だが、家に戻ってみれば、あいつは何故か生きていた。理由なんか判らない。ただ、本当に殺そうと思ったのは事実だった。何のためらいも無かったし、何の感情も湧き上がってこなかった。ただ、想っていたことは一つだけ。

(来世では二度と罪を重ねるな)

 命は平等? それは違う。与えられるべき者だけに与えられるべきだ。ワシの目の前にいるのは何かの手違いで命を手にしてしまった愚物に過ぎない。こいつらは、ただの『失敗作』だ。憐れみを篭めて、慈悲を篭めて、丁重に殺してやろう。

 もはや、ワシは完全に正気を失っていた。崩れ落ちた少年は、ただ小さく呻きながら痙攣を繰り返すばかりであった。主犯格と思われる大柄な少年が必死で肩を揺さぶっている様をワシは無表情で見下していた。

「てめぇ! 何てことしやがる!」

 ワシはその言葉に応えるつもりは無かった。再び石を手にし、言葉も発すること無く主犯格の少年の足を全力で殴り飛ばした。

「ぎゃあああーーーっ!」

 鈍い感触が伝わった。飛び散った血を頬に浴びた。生温かい感触が酷く不快だった。もしかしたら勢い余って足の骨を砕いたのかも知れない。でも、そんなもの、あの子猫達の命に比べれば安いものだろう。たかが足が一本、駄目になっただけに過ぎない。ほんのかすり傷では無いか。それに派手に抉られた足では逃げることも出来やしない。

 そんなことを考えながら、ふと見回してみれば、少年の姿が見えなくなっていた。無駄な足掻きを。何処に逃げても無駄だ。必ず仕留める。

 腹で石を受け止めた少年の後をワシは追った。よたよたした足取りで、一体何処に逃げるつもりなのか? どこまでも頭の悪い奴だ。予想通り、すぐに少年に追い付いた。ワシの姿を目にした少年は、情けない声で必死の叫び声を挙げた。

「く、来るなーーっ!」

 奇しくも逃げ伸びた先が小倉池とは実に間抜けな話だ。背を向けて這うようにしながら、少年は必死で逃げ伸びようとした。無駄な足掻きだ。ワシは少年の腕を乱暴に掴んだ。

「うわぁっ!」

「……冷たい池の中で、しばし頭を冷やすが良かろう」

 ワシはそのまま少年を力一杯蹴り飛ばした。勢い良く小倉池に転落し、緑色の水飛沫が舞い上がった。

「た、助けてくれ! お、オレ! 泳げないんだよ!」

「……あの猫達はお前達に助けてくれ、殺さないでくれと懇願したハズじゃ。なのに、お前達は聞く耳を持たなかった」

「な、何を言って……う、ううっ……」

「残念じゃな。ワシにはお前の声は聞こえぬ。精々そのまま冷たい池に抱かれて溺れ死ぬが良かろう」

「ごぼごぼ……うぷっ、た、助け……!」

「ワシからの餞別じゃ。有難く受け取るが良い」

 ワシは手にした石を少年目掛けて渾身の力を篭めて投げ付けた。石は見事に少年の脳天を直撃した。少年はそのまま事切れたかのように水面に浮かび上がった。緑色の池にみるみる鮮やかな赤い血が広がってゆく。それを見届けた上でワシは静かに踵を返した。

 さて……主犯格の少年には極刑を与えるのが相当だろう。そう考えながらワシは再び竹林を目指して走っていた。不思議なまでに気持ちは冷静だった。

 こんなことをすれば、どういう展開を迎えるかなど幾ら頭の悪いワシでも重々理解していた。でも、どうしても許すことが出来なかった。あの小さな子猫達は必死に救いを求めてワシを見つめていた。小さな目に一杯の涙を称えて、どうか、殺さないでください! ぼく達の明日を奪わないでください! そんな目でワシに救いを求めていた。その願い……叶えられないかも知れないが、だからこそ、そうなった元凶を許す訳にはいかなかった。同じ痛みを味わせる必要があった。同じ苦しみを味わせる必要があった。二度と陽の光を拝むことは無い。お前達には冷たく、暗い、土の中がお似合いだ。

 どうやら痛む足ながらも必死で逃げようとしたらしい。元の場所に戻った時には主犯格の少年の姿は無かった。だが、そう遠くへ逃げられる訳も無い。ワシは静かに後を追った。足取りを辿るのは容易いことだった。まるで目印のように血の跡が点々と残されていた。相応の出血にも関わらず無駄に執着心のあることだ。

(見苦しいことじゃな。なぁに、すぐにワシが殺してやるでの。楽しみに待っているのじゃ)

 程なくして少年の姿が目に止まった。丁度、大河内山荘前を去り往こうとしている所であった。ワシは少年の背後に静かに歩み寄った。

「鬼ごっこは此処までじゃな」

「ひ、ひぃっ!」

 ワシはこれ以上無い程の、悪意と侮蔑を篭めた嘲笑を見せ付けた所で、負傷した部分を力一杯蹴り飛ばした。

「ぎゃあああーーーっ!」

 薄暗い道の上に少年は派手に転倒した。ワシは仰向けに倒れた少年に馬乗りになった。そのまま枯れた竹の葉を両手に掬い、少年の口に落した。

「うっ! おえっ! ゆ、許してくれ! もう、悪いことはしないから!」

「……馬鹿か? お前は馬鹿なのかのう?」

「え?」

「謝ったところであの猫達の命は戻らないのじゃ。だから、お前も……」

 ワシは少年の胸倉を掴み、目一杯、引き寄せながら笑ってやった。

「死ね」

 そのままワシは狂ったように少年の顔を殴り続けた。

「あーーっはっはっはっは! 死ね! 死ね! さっさと死ぬのじゃーーっ!」

 口一杯に枯れた竹の葉を詰め込まれた状態で殴られて、少年の口からは湧水のように血が滴り落ちていた。咳き込んだ際に小さな破片が飛び出した。歯が折れた位で情け無い。それでも生への執着心という物は凄まじいものらしい。少年は尚も必死の抵抗を見せた。

「えぇい、往生際の悪い奴め! どうせ、このまま死ぬのじゃ! 無意味な抵抗は止すのじゃ!」

 不意に車が勢い良く駆け込んでくるのが見えた。遥か遠くから照らし出すヘッドライトの光をワシは静かに見据えていた。辺りはすっかり暗くなっている。暗がりの中ではワシらの存在も捉え難いのだろう。そうだ。このままコイツを放置してやろう。どうせ、身動きも取れないだろうし、このまま勢い良く駆け込んでくる車に轢かれてしまうが良い。

「……幸運じゃな。不注意な運転をする暴走車に轢かれて、グチャグチャになるが良いのじゃ」

「い、嫌だ! 嫌だ! お願いだ! 助けて……たす……ぐぶっ!」

 ワシは満面の笑みを浮かべたまま少年の腹に全力で拳を減り込ませた。

「あの子猫達も命乞いをしたハズじゃ。それなのに、お前達はその声を無視した。つまり、そういうことじゃ」

 そのまま一瞥をくれてやってからワシは急いで道から離れた。このままではワシまで巻き添えになってしまう。死ぬのはこの馬鹿だけで十分だ。

「うわーーっ! 来るな! 来るなーーーっ!」

 急激に接近してくる車のヘッドライト。

「嫌だ! 嫌だ!」

 なおも車はアクセル全開で走り続ける。微塵も速度を落とす気配は見られない。

「止まれ! 止まれーーっ!」

 だが、車の運転手は携帯電話片手に談笑を続けるばかりだ。後少し。もう少しだ。

「止まれーーーっ! 頼む、止まってくれっ!」

 精々、詫び続けろ。それで罪が微塵も軽くなるハズも無いが、それでも精々祈り続けろ。もうじき、お前の命も終わる。ぐちゃぐちゃの醜い肉塊となって土に還れ。

「助けて! 助けて! うわ、ああっ、あ、ああーーーーっ!」

 奇しくも、車は寸でのところで停車した。響き渡る急ブレーキの音。慌てて飛び出してきた運転手。恐らく、少年の存在に気付いた運転手が迅速にブレーキを掛けたのだろう。

「おいっ!? 大丈夫か!? な! 何て酷い怪我を……す、すぐ、救急車を呼んでやるからな!」

「……余計なことを」

 もはや、こんな生きる価値も無い馬鹿には用は無かった。それよりも、さっきの猫のことがワシは気になって仕方が無かった。ワシは再び子猫が捨てられていた場所へと戻った。

 だが、そこにあるのは無残な光景だけだった。まだ、温かさを残したまま、数匹の子猫達は皆、息絶えていた。そっと触れてみたが、もはや心臓の音は聞こえて来なかった。

「……ううっ、ごめんなのじゃ。守ってあげられなかったのじゃ」

 ワシは子猫達の亡骸を前にして、ただただ、あふれて来る涙を抑えることが出来なかった。この小さな子猫達は一体どんな想いで死んでいったのだろうか? 人に対する恐怖心と憎しみ。哀しみだけを抱いて死んでいったのだろう。何故、こんな非力な子猫達が殺されなければならなかったのだろう? ワシはただそんなことを考えていた。

 不意に救急車のけたたましいサイレンの音が近付いて来る。何故、あんな馬鹿共が生き永らえ、非力な子猫達が無残にも殺されなければならないのか? 願わくば、あの馬鹿共の命を糧に、この子猫達に再び命を呼び戻してやりたかった。叶わぬ願いとは知りながらも、ワシはただ、そんなことを考えていた。

◆◆◆52◆◆◆

 無論、只で済む訳が無かった。ワシの仕出かした行為に、おかんはただただ泣き崩れるばかりだった。何故、こんなことをしたのか? 問い掛けられたワシは、ただ淡々と子猫達の身に振り掛かった物語を語って聞かせた。

 街は大騒ぎになっていた。だが、不思議なことに、あれ程派手に痛めつけたにも関わらず、少年達の傷は信じられない程に浅かったと、後に聞かされた。

 後頭部を殴り付けた少年は出血こそ酷かったが軽い切り傷を残す程度。小倉池に突き飛ばした少年は何時の間にか池から脱出していたらしく、主犯格の少年もまた顔を殴られた程度の傷しか残っていなかったらしい。一体、どういうことなのかワシにはさっぱり理解不能であった。

 ただ、ワシが三人の少年達に暴力を奮ったという事実だけは少なからず一人歩きしていた。結局、ワシはおかんに連れられて三人の少年の家に謝りに行くことになった。しかし、この子供にして、この親と言うのだろうか? 自分の息子のやったことは「些細なこと」だの、「猫の命ごとき」だの、信じられない言葉の数々にワシはただ驚愕するばかりだった。挙句の果てにはワシのことを「人殺し」と罵る始末だった。

 少なくてもワシは間違えたことをしたとは微塵も思っていなかった。ただ、おかんが流した涙に、ワシはただただ人に対する果てしない絶望しか感じることは出来なかった。

 夕焼け空の下、ワシはおかんと一緒に帰り道を歩んでいた。渡月橋は今日も大勢の人が行き交い賑やかな空気に包まれていた。そんな賑わいを見せる渡月橋の上、真っ赤な夕日に照らし出されて、ワシもおかんも真っ赤に燃え上っていた。肩を落とし、言葉無く歩むワシらの姿は、道行く人達にはさぞかし奇異な姿に映ったことだろう。

「……ごめんなのじゃ。ワシのせいで、おかんにも迷惑を掛けたのじゃ」

 ワシの言葉におかんは何も応えなかった。代わりにワシの手を握ってくれた。温かな手の温もりにジワリと涙が込み上げてきた。だけど、ワシは下唇を力強く噛み締め、必死に堪えた。肩だけが小さく震え、地面に長く伸びた影もゆらゆらと揺らいで見えた。

「大地。お前は自分のやったことが、間違えていたと思ってはるの?」

「え?」

「確かに、暴力を奮ったのは良く無かったかも知れへん。でも、正直なところ、うちも――」

 可笑しそうに笑いながら、おかんは拳を握り締めると殴り飛ばすような振舞いを見せた。普段のおかんからは想像もつかない振舞いにワシは言葉を失った。

「あの子らも、あの子らのおかんも、どうしようもない阿呆やったわ」

 口を開いたまま硬直するワシを他所に、おかんは尚も可笑しそうに笑って見せた。

「なんや偉そうに、うちに講釈まで垂れおって。自分の息子の教育もできひんクセに、口だけは一著前やったわ。このドアホ! 言うて、一発、どついてやりたかったわー」

 言いながら、また、可笑しそうに笑って見せた。

「それにな、あの子らは悪い意味で有名な子達でな――」

 聞けば、あの三人組は素行の悪さでは有名だったらしく、駅の近くの店でも万引きをやらかしたり、女の子に乱暴なことをしたり、非力な老人に暴力を奮ったりと、悪いことばかりしているらしい。周囲の大人達は皆、彼らのことも、それから、彼らの両親のことも忌み嫌っているらしい。

「親が阿呆やと子供まで阿呆になるんやな。あの子らも可愛そうや。ある意味、被害者やわ」

 そういう意味では不幸な産まれだったのかも知れない。でも……あの子猫達にしたことは絶対に許すことは出来ない! 小さな命でも必死に生きているんだ。それを奪う権利など誰にも無い。

 あの一件が引き金となり、ワシは猫が恐ろしくて仕方が無くなってしまった。嫌いなのでは無い。元来、動物好きのワシからしてみれば、犬も、猫も、皆大切な友達であることには変わりは無い。ただ、猫を目にすると……どうしても、あの時の子猫達の哀し過ぎる末路が蘇ってしまい、恐怖心が先だってしまう。だから、猫のことは好きだけど……苦手だった。

「大地、お婆ちゃんがな、今あちこちを回ってはるんよ」

「え? 婆ちゃんが?」

「そう。あの子らのせいで被害に合うた人達を集めてはる。まぁ、子供の喧嘩に親が出るなとは言うけれど……悪いことは悪いことや。ふふ、今まで日の目に当たらんかった悪事が、仰山出て来るで。ああ、良い気味やわ」

 人の心とは恐ろしいもので、少年達の悪事は明るみになったが、同時にワシも傷を背負う羽目になってしまった。無理も無いだろう。小学生とは言え、やったことは相当に派手な立ち振舞いだった。それは、それは、さぞかし人々の興味を惹くには十分な威力を持っていたことだろう。ましてやワシの家は旅館を営んでいる。

 自営業というのは実に不利な立場だ。例え、自分達が間違い無く正しくても、結局、最後に頭を下げるのはワシらの方になってしまう。

『自営業って不利だよな。例えオレ達が正しくても、結局頭を下げるのもオレ達だ。所詮、客商売はそういった、くだらねぇ評判っつーのに振り回される。ほんと、損な星の下に生まれちまったよな、オレ達』

 リキが口にしていた言葉、鮮明に蘇った。

 あの一件のお陰で、ワシはますます孤立することになってしまった。ただでさえ、年寄り言葉で喋る奇異な存在だったのに、今度は暴力沙汰まで起こした。そういうウワサは瞬く間に駆け巡る。しかも、あること無いこと勝手に面白可笑しく脚色されて、ワシは……イヤ、ワシの一家は途方に暮れる日々を過ごすことを強いられるようになった。

 あの時、子猫達に酷い仕打ちをしていた少年達を「見なかった」ことにしていれば、もっと、楽で、幸せな道を歩むことが出来たのかも知れない。家族にも迷惑は掛からなかったかも知れない。でも、ワシはそのことを一生後悔しながら生きて行く道を歩むことになっていただろう。

 不幸な出会いだった。あの日、あの時、あの場所で、子猫達に出会わなければこんな事態に陥ることも無かったのかも知れない。でも、出会ってしまった以上、見過ごす真似は出来無かった。だから、後悔はしていない。ワシは自分のやったことが間違えていたとは微塵も思っていない。ただ為すべき正義を為しただけだ。

 そう……。これがワシの本性だ。ずっと、目を背けてきた事実だ。馬鹿みたいに明るく振舞っているのも、何時も笑いを取るように道化を演じているのも、ワシの内に潜む修羅の存在をひた隠すための哀しくも滑稽な猿芝居に過ぎない。

 あの事件の後、ワシの中では一つの感情が消え失せた。喜怒哀楽の中の一つ、「怒り」という感情――この感情はワシに不幸しかもたらさないと判断した。だから、怒ることは止めようと堅く心に誓った。怒りの感情を制御し切れないワシは全力で暴走してしまうことが判ったから。だから、怒りの感情を捨てて穏やかな生き方を選ぼう。そう、心に堅く誓った。もう、二度とワシの中に棲む修羅が姿を現すことが無いように生きよう。そう、暮れゆく夕焼け空に堅く誓った。

◆◆◆53◆◆◆

 あの事件から一週間程経ったある日のことだった。何も変わることの無い日々をワシはただ無為に過ごしていた。暮れゆく秋の夕焼け空は物憂げな色合いを称えていた。下駄箱で靴を履き替えようとした瞬間、何処かでカラスが威勢良く鳴き声を響かせた。

「お前が嵐山大地か?」

 カラスの声に重なり合うように、不意に誰かに声を掛けられた。また、ワシを面白可笑しく嘲笑ってやろうという輩が現れたのだろうか? ワシは警戒しながら振り返った。

「……そうじゃ。ワシが嵐山大地じゃ」

 夕日を背に、腕組みしたまま仁王立ちするリキの姿、印象的だった。腕も太ければ、足も太い。喧嘩したら間違い無く強いと思わせる風貌だった。今でも鮮明に思い出せる程に印象に残っている。リキは腕組みしたまま、ワシをジッと見下ろすようにしながら口を開いた。

「そうか。お前が大地か。オレは比叡力丸って言うんだ」

 これがリキと初めて言葉を交わした瞬間だった。だが、交わしたのは一言だけで、そのまま沈黙を保ったままワシらは学校を後にした。何とも言えない不思議な時を体験していた。図体のでかいリキが寄り添うようにワシの隣を歩き、二人の影だけが長く、長く、静まり返った道路に伸びていた。何処に向かうでも無くワシらはただ徒然に街を歩んでいた。

「オレ、お前の武勇伝に興味を惹かれてな」

 それが、リキが二言目に口にした言葉だった。武勇伝? 一体、コイツは何を訳の判らないことを言っているのだろう? ワシはリキの良く判らない価値観に警戒心しか抱けなかった。だが、そんなワシとは裏腹に、初対面にも関わらず二言目を発した後から、リキは急に馴れ馴れしい振舞いを見せるようになった。

 同じ学校にいるとは言え同学年の生徒など大人数在籍している。言葉を交わしたことも無ければ、顔さえ見知らぬ生徒だって沢山いる。もともとワシは孤独な身であったから、尚のこと人との関わりも無かった訳で、当然、リキのことも全く知らなかった。

「どいつも、こいつも、お前のことを悪く言うけどさ、オレはそうは思わない」

 腕組みしたまま妙に力強く語り出すリキにワシは少々気遅れしていた。自分のことでも無いのに、何故に熱が篭っているのだろう? 可笑しな奴だ。ワシは冷ややかな目でリキを見ていた。

「……そうなのかの?」

「大体さ、弱いものいじめする奴ってさ、許せないんだよな。その三人の中学生達ってのもさ、子猫じゃ無くてさ、でっかい虎と勝負したっつーなら、むしろ、尊敬していたけどな」

 何とも突拍子の無いことを考える奴だと思った。幾らなんでも虎に勝負を挑むような無謀な阿呆など居る訳も無いだろうに。

「……お主、変わった奴じゃな」

「あー。良く言われる」

「……変な奴じゃな」

「おう。それも良く言われる」

 何とも言えない珍妙なやり取りに、だんだん可笑しくなってきた。静まり返った路地裏には、ワシらの歩む足音だけが響き渡っていた。互いに無表情のまま歩き続けていた。相変わらず足音だけが響き渡る。次第に可笑しな空気に堪えられなくなったワシは思わず吹き出してしまった。それを待っていたかのようにリキも声を出して笑った。一頻り笑った後でリキは足を止めると、苦笑いを浮かべながらワシに向き直った。

「大地ってさ、変わった奴だの、変な奴だの、スゲー失礼なこと言うよなー」

「だって、本当のことだから仕方が無いのじゃ」

「うわっ! ヒデェな。オレ、傷付いちゃうぜ?」

「なんじゃ、お主。図体でっかい割には繊細なのじゃな」

「おうよ。こう見えても、ガラスのハートの持ち主なんだぜ?」

 一瞬の沈黙の後で、再び二人で腹を抱えて笑った。

 家族以外の誰かと語らい、おまけに声を出して笑い合ったのは、もしかしたら、これが初めてだったのかも知れない。イヤ、大袈裟過ぎる表現かも知れないけれど、本当の意味で笑い合えたのは初めてだと自信を持って言える。

 リキは不思議な奴だった。上手く表現出来ないけれど、一緒にいて楽しいと思える存在だった。だから、歩きながらも徒然に話を続けていた。

「へー、大地の家って旅館なんだ。何か、スゲーな!」

 一体、何が凄いのか良く判らなかったが、リキはますます鼻息荒く興奮していた。ワシからしてみれば料亭の家系に生まれたリキの方が余程凄く感じられた。華麗な包丁さばきで見た目にも華やかな料理の数々を作り出す姿を想像した瞬間から、急にリキが神々しい存在に思えてしまった。危うくワシは勢いに乗って平伏してしまうところだった。

「そういう力丸とて、料亭だなんて凄いのじゃ。きっと、料理も上手なのじゃろう? 想像したらお腹が鳴ったのじゃ」

「えへへ。それじゃあ、今度、何か作ってやるよ」

「本当かの!?」

「ああ。まぁ、まだまだ見習い中の見習いだからな。毒見になっちまうかも知れないけどな」

 腕組みしたままリキは上機嫌そうにふんぞり返ると、そのまま、健康そのものな白い歯を見せて嬉しそうに笑って見せた。

「それで、大地の好物は何だ? 折角だから、大地の好物を作らせて貰うぜ」

 そういえば、出会った当初は、力丸、大地と互いに下の名前で呼び合っていた。今、改めて振り返ると何だか照れ臭くなる情景に思えた。それでも、ワシとリキが仲良くなるのに時間は要しなかった。互いに自営業の家系に生まれた身であり、互いに友達の居ない身であり、互いに個性的な身であり。良く似た一面を持つワシらはすぐに打ち解け、互いの家に遊びに行くようになり、互いの街の自慢を披露し合うまでに時間は要らなかった。

 あの事件がもたらした物は悲惨な結末だけでは無かった。数え切れない程の絶望の中に見付けた、たった一粒の希望の光。でも、ワシに取ってその希望の光は本当に大きな価値を持つものとなった。掛け替えの無い友という存在となって……。

◆◆◆54◆◆◆

 再びワシはセピア色の情景に包まれた列車に揺られていた。ガタンガタン、ガタンガタン。空虚な音を立てながら列車はただ走り続けていた。

「お帰り、大地。折角だから面白い話を聞かせてあげるよ」

 相変わらず声だけの何者かがワシに語り掛ける。ワシは黙って耳を傾けることにした。

「あの時、あの少年達の傷が浅かったことに疑問を抱いているみたいだけど、彼らに怒りを覚えていたのは君だけでは無くてね」

「どういうことなのじゃ?」

「あの子猫達を見守っていた者達は大勢いたってことさ。そして、大地、君の勇気ある振舞いに共感を覚えた者達も大勢いた。そんな大勢の同胞達が、君に降り掛かる罪を少しでも軽くしようと振舞った結果。それが君の知る過去の史実ということになる訳だ」

 またしても意味の判らないことを言うものだ。ワシに共感を覚えた者達じゃと? そんな奴ら、一体何処にいたというのか? あの場にはワシとあの三人しか居なかった。他に目撃者がいたとしても、あの辺りには身を隠せるような場所など無い。それに、わざわざ身を隠してまでの同胞とは、一体どういうことなのだろうか? サッパリ意味が判らなかった。

「覚えていない? 君に語り掛けた者の姿、確かに目にしたと思うのだけど」

 そうだ! 確かに不思議な者達と向き合った。髪を振り乱して舞いを振舞った男達も、紅の着物に身を包んだ般若の面の女も、今思えば有り得ない存在だった。では、彼らは一体何者だったのだろうか? ワシの怒りを掻き立てるような振舞いを見せた彼らは一体?

「まぁ、いずれ、彼らのことは必ず思い出すから心配しないでも平気だよ」

 ワシの心など見透かしているかのような言葉に、ワシは反発心を覚えた。

「そりゃ、どーもなのじゃ」

「あれ? ご機嫌ナナメみたいだね? それじゃあ、機嫌が良くなるお話も聞かせてあげよう」

 一体、コイツは何者なのだろうか? 妙にワシのことを良く心得ているのが何とも気味悪く感じられたが、不思議と拒絶する気持ちになれ無かった。

「あの三人がその後どうなったか? 君は知らないと思うけれど――」

「今更、どうなろうが知ったこと無いのじゃ」

「ふーん。あの三人が、一連の騒動の最中で、死んだ……イヤ、殺されていたとしても?」

「な、何じゃと!?」

 ワシは思わず椅子から立ち上がった。動揺するなという方が無理がある。幾らなんでも、あまりにも話が出来過ぎていないだろうか? 何故、あの三人が都合良く狙われたのだろうか? ガタンガタン、ガタンガタン。ワシの鼓動に呼応するかのように、列車が軋んだ音を立てながら酷く揺れ動いた。

「あの猫達が彼らを許す訳無いでしょう? ずっと、機会を窺っていたんだ。そして……風葬地の裁定者の手を借り、あの猫達は見事、復讐を為し遂げた」

 風葬地の裁定者? 一体何者なのだろうか? 疑問に思うワシの心を読んでいるのか、声だけの何者かが可笑しそうに笑いながら語った見せた。

「もう、既に会っているハズだよ? あの四人の僧達こそが、情鬼『風葬地の裁定者』さ」

「風葬地の裁定者……!」

 あの時、嵐山の駅で出会った四人の坊さん達……やはり、奴らは情鬼ということになる。間違い無くワシの敵だ。何としても討ち取らない限り、ワシの身の安全は保障されないのだろう。

 窓の外に目線を投げ掛けるが、微かな月明かり以外、照らす物が何も無い漆黒の闇夜だけが広がっている。周囲を木々に抱かれた大堰川の上流へと向かって走り続けているのは間違い無い。目には見えないが、周囲には木々達がすぐそこまで枝葉を伸ばしている。そんな気がした。

「君が小倉池に突き落した彼は、数日前に水死体となって発見された。ぶくぶく膨れ上がった、醜い水死体となってね?」

「なっ!」

「化野念仏寺付近、嵯峨鳥居本町の橋から、夜中に悲鳴と共に人が転落死する事故があったよね? 君が石で殴った彼は、民家を囲う柵に後頭部から串刺しになって死んだ。丁度、君が殴った辺りから綺麗に突き刺さって、裂けた石榴のような無残な顔で発見された」

「そ、そんな……」

「清滝トンネルで事故があったでしょう? あの事故で主犯格の彼は、他の仲間達と仲良くグチャグチャの肉塊となったんだ」

 言葉にならない恐怖というのはこういう物を言うのであろうか? ワシは背筋が凍り付く想いで一杯だった。

「ね? これで判ったでしょ? 怒りの感情を抑える意味なんか何にも無いんだ。だって、君の周りには沢山のお友達がいるからね。例え君が怒りの感情を封じた所で……沢山のお友達が黙っちゃいないってコトさ」

 そいつは可笑しそうに笑いながら続けて見せた。

「君が君自身の心だと思っている物は、本当は君の心じゃ無いという訳だね」

「お前の言っていることは、サッパリ意味が判らんのじゃ」

 ガタンガタン、ガタンガタン。相変わらず列車は空虚な音を立てて走り続けるばかりであった。

「君の心は嵐山の大自然の心であり、嵐山の大自然の心は君の心でもある」

 何とも言い難い不思議な表現を使ってくれるものだ。だが、言わんとしていることは理解できた。ワシが幾ら怒りの感情を抑え込んでも、周りにいる沢山のお友達とやらが怒りの感情を抱けば、ワシの想いを代弁してくれるということなのだろう。

「つまり、そういうことになるね」

 楽しそうに声は笑い声を響かせた。もっとも、ワシはとても笑える心境では無かった。得体の知れない者達への恐怖心で、背筋が凍り付かんばかりの心境だった。そんなワシにはお構い無しに、相変わらず淡々とした口調で声は語り続ける。

「修羅は君の中に眠っている訳じゃない。あれは、嵐山に生きる者達の怒りが一つの形になった物に過ぎない。つまり、君が犯したと思い込んでいる罪は、嵐山に生きる者達全ての罪ということになる。だから、痛み分けした結果、罪は小さな物になったということさ」

 ワシにはとても笑える話には聞こえなかったが、一体何が可笑しいのだろうか? 声の主は相変わらず楽しげに語らうばかりだった。

「因果応報って言葉、知っているでしょう?」

 動揺するワシの想いなど気に掛けるつもりも無いのか、声の主は相変わらず淡々と続ける。

「報いはね、必ず返ってくるんだよ。善行には善行が、悪行には悪行が返ってくる。それだけのことだよ」

 因果応報……確かに、その通りなのかも知れない。あの少年達のやったことは、断じて許される行いでは無かった。相応の裁きが下ったとしても不思議ではない。

「彼らは小さな命を奪った罪人だ。のうのうと陽の当たる世界を生きるには相応しく無い。だから、地の果てに落ちて、今頃は修行の日々を送っていることだろうね。まぁ、来世は無力で非力な子猫に生まれ変わることは間違いないんじゃないかな? あの子猫達もそれを願っている。そして、今度は彼らがその命を狩られる番になる」

「さっきから話に上がっているお友達とは一体何者なのじゃ? ワシには思い当たる節が無いのじゃ」

 先刻までの上機嫌な振舞いは形を潜め、声の主は少々呆れたような口調で返して見せた。

「本当に思い出せないの?」

「思い出せないのじゃ」

 苛立ち混じりに返すワシに、少年は静かに溜め息を就いて見せた。

「……君は何時もそうだった。その場限りの八方美人な立ち振舞いで、誰からも嫌われないように立ち振る舞って来た。そう、誰からも嫌われないようにね? 君は何時だって気前の良い言葉ばかり口にしていた。後先考えず、何の責任も考えずにね?」

 抑揚の無い口調で、声は事務的に淡々と語り続けた。

「君は覚えていないだろうけど、君は仲良くなった者達、皆に対してトモダチだ、家族だと言って回った。その相手が何者であるかを見極めること無く、実に、軽々しく口にしたんだ。そして、君はその事実さえも『忘却』している」

 声は静かに呼吸を整えながら続けて見せた。ワシはただ両の手を握り締め、肩を震わせることしか出来なかった。怒りを覚えていたのは事実だ。だけど、怒りの矛先は、この声の主に対してでは無い。無責任に、後先考えずに、いい加減な振舞いをしてきた自分自身に対してだった。声はワシの想いなど知ってか、知らずか、相変わらず淡々と語り続ける。

「良いかい? 死は命を失った瞬間に訪れるものでは無い。人々の記憶から『忘却』された瞬間に訪れる――それが本当の意味での死なんだ」

 本当の意味での死。『忘却』の持つ意味は、やはり、そこに行き着くということか。

「つまり、君は少なくても力丸との記憶を『忘却』し、あの少年達との騒動を『忘却』したんだ。もっとも、あの少年達は既にこの世から消え失せた存在だ。何しろ、彼らの『忘却』を願った子達がいたからね。そう、今話した、あの子猫達さ」

「あ、あの子猫達が!?」

「そうだよ。知っているかい? 魂は輪廻するものでね。あの子猫達は、自らの命を奪った少年達の魂と引き換えに、奪われた命を取り返したのさ」

「ど、どういう意味なのじゃ!? 応えるのじゃっ!」

 返事は無かった。代わりに、ワシの視界が酷く揺らいだ気がした。一瞬、意識が途切れたワシであったが、慌てて目を開いた。

◆◆◆55◆◆◆

「お、おい! ロック、大丈夫か?」

 唐突に降り注いだリキの声に、ワシは大いに驚かされた。慌てて飛び起きついでに周囲を見回してみた。そこは確かに見覚えのある場所だった。勢い良く立ち上がろうとした所で、再び頭が揺らぐような感覚を覚え、そのまま崩れ落ちそうになった。

「うう、此処は何処なのじゃ?」

「何処って……大堰川の上流の方さ。大丈夫か? 立てるか?」

「う、うむ。大丈夫なのじゃ……」

 再び意識が戻った時、そこには変わることの無い大堰川の景色が広がっていた。辺り一面漆黒の闇夜に包まれた情景の中、心配そうにワシを見つめるリキの姿があった。どうやら、意識が飛んでから殆ど時間は経過していないらしい。それでは、あのセピア色の列車は一体何だったのだろうか? それ以上に、あの正体不明の声の主は一体何者なのだろうか? それに、リキと話し込んでいたのは渡月橋の端だったハズだ。気を失ってから、一体、どうやってワシは此処まで辿り着いたのだろうか? とにかく判らないことだらけだった。

「リキよ、ワシは一体どうなっていたのじゃ?」

「ああ、そうだよな。覚えている訳ねぇよな」

 リキは苦笑いを浮かべながら、頭を掻いて見せた。

「渡月橋の端でさ、あの日のことを思い出して話し込んでな」

「そこまでは覚えているのじゃ」

「おう。それで、どういう訳か、大堰川の上流の方に行きてぇって言い出してフラフラ歩き出してな」

 有り得ない話だ。ワシはあの時、既に意識を失っていたハズなのに何故? 一体、どうやって此処まで歩いてきたというのか?

「声を掛けても生返事で返すばかりだし、何が何だか分からずに後を追い掛けてな」

 リキは困ったような笑みを称えたまま語り続けた。

「で、ここに辿り着いた所で、急に糸が切れた人形みてぇに膝から崩れ落ちてな。しかもさ、息して無かったんだぜ?」

「にゃんと!?」

「オレ、ロックが突然ポックリ逝っちまったかと思って、なんて言って詫び入れれば良いのかって、死ぬほど焦ったんだぜ?」

「にゃにゃにゃにゃんと!? ワシを勝手に殺すで無いのじゃ!」

 何が起こっていたのかは、薄々とは想像がついてしまった。『忘却』はワシにも狙いを定め始めているのだろう。だから、つい、さっきのことさえ思い出せなくなっている。少しずつ浸食してゆくのだろう。恐ろしいことに、気付かぬうちにジワジワと浸食してくる。気が付いた時には何もかもが『忘却』されてしまっているのかも知れない。恐ろしいことだ。抵抗するどころか、知らず知らずのうちに忍びより、そっと『忘却』させられてしまうのだから手の打ちようが無い。せめて、気持ちだけでも強く持とう。心に隙があればそこから侵入してくるハズだ。隙を見せたらお終いだ。気を強く、強く持ち続けよう。

「ロック、一旦嵐山旅館に戻ろうぜ。もしかしたら、コタ達も到着しているかも知れねぇからさ。それに、大樹が戻ってきてるかも知れねぇだろ?」

「うむ。それもそうじゃな」

 何が何だか良く理解は出来なかったが、いずれ、少しずつ真実は明らかになってゆくだろう。そんな期待を抱きながらワシらは再び嵐山旅館に戻ることにした。

 嵐山旅館へと向かう道中、ワシはセピア色の情景の中で見届けたことを、リキに語って聞かせようと思った。だけど、あの日、あの瞬間、リキと共に過ごした記憶は大切に仕舞って置きたかった。迂闊に日の当たる所に出すような記憶では無い。それに、子猫達との一件は生々し過ぎて、冷静になった今、振り返るには過酷な情景だった。何よりも不確かなことが多過ぎる。単純に可笑しな夢を見ていただけに過ぎない。そう考えるとしよう。イヤ、そう考え無ければ前に進めそうにない。だから、余計なことは口にするのは止めよう。ただでさえ理解の範疇を超える出来事が起こっている中で、これ以上リキを困惑させることは避けたいと考えていた。

 言葉を交わすことも無く、ワシらは暗がりに包まれた大堰川沿いを歩んでいた。辺りはすっかり夜の闇に包まれている。人の気配は相変わらず感じられない。それでも、街は煌々と明かりを称えていた。文明がもたらしたもの。豊かな生活と引き換えに、人はどれだけ沢山のものを失ったのだろうか? そんなことを考えながら、ワシらは歩み続けた。

 この辺りは堰き止められた川の水が集い、湖のようになっていてボート遊びも楽しめる。もっとも、さすがに今の時間は静まり返っていて、ボートも静かに川面に佇むばかりであった。

 相変わらず言葉を交わすこと無く歩き続けて、ワシらは渡月橋まで到達した。そのまま渡月橋を超えて嵐山旅館へと向かう道を歩んでいた。何時の間にか可笑しな霧も晴れたらしく辺りは再びの静けさを取り戻していた。立ち並ぶ旅館から毀れる光からも、異様な状況では無いことを知ることができて、ワシとリキは思わず顔を見合わせ、そっと胸を撫で下ろした。

 次の角を曲がれば嵐山旅館が見えて来る。そんなことを考えながら、何気なく曲がり角を左折した。今度こそ皆に出会えるだろうか? それとも、またしても異質な世界に誘われてしまうのだろうか? 緊張しながら、ワシは曲がり角を左折した。

 そこには煌々と明かりを称えた嵐山旅館が佇んでいた。大丈夫だ。未だ『忘却』されてはいない。だけど、嵐山旅館は不気味なまでに静まり返っていた。何か異様な物を感じずには居られなかったが、ここでこうして立ち往生していても埒が明かない。

 ひとまず中に入ることにした。玄関先を抜けた瞬間、何か違和感を覚えた気がした。ワシは慌てて周囲を見回していた。だが、改めて冷静になって周囲を見渡してみるが、特段変わった様子は見られなかった。そこには、何時もと変わらぬ静かな夜の嵐山旅館が佇むだけだった。何時もの夜と変わること無く車が停められていて、旅館には煌々と明かりが灯されている。それでも、ワシは何か言葉に出来ない違和感を覚えて仕方が無かった。だが、その違和感の正体は判らないままだった。無駄に考えてみても始まらない。一端、ワシの部屋に戻ることにした。

「しっかし、一体何がどうなっているんだろうな? 駅前は相変わらず人の気配無かったもんな」

「ふむ。そういえば、おかんの姿も無かったが無事に戻って来たのじゃろうか?」

「そうだよな。それにさ、ロックの親父さん達も車で山の方に行ったんだろ?」

 リキの言葉を受けて、ワシはほんの数秒前に目にした情景を想い起こしていた。

(そうじゃ! おとんと爺ちゃんは車で大樹を探しにいったハズなのじゃ。それなのに、何故、玄関先に車があったのじゃ!?)

 先刻感じた違和感の正体に気付くと同時に、ワシは言い知れぬ不安に駆りたてられた。居ても立っても居られなくなったワシは慌てて部屋を飛び出した。

「ああ、おい! ロック! どうしたんだよ!」

 返事をするだけの余裕すら無かった。ワシは早鐘のように鳴る心臓を必死で抑えながら、玄関へと向かった。

「や、やっぱり……!」

 後から何事かとリキ駆け込んできた。

「おいおい、一体どうしたっつーんだよ?」

「車が此処にあるのじゃ」

「おう。確かにあるな……って、おかしくねぇか!?」

「そうなのじゃ。おとんと爺ちゃんは、車に乗って大樹を探しているハズなのじゃ。車が戻っている。それなのに、何故、おとんの姿も、爺ちゃんの姿も無いのじゃ?」

「ま、マジかよ……」

「多分、おかんも戻って居らんのじゃろう」

 異変は何一つ終わってなんかいなかった。それに、こちらに向かっていると聞かされたコタ達の姿も見当たらない。幾らなんでも時間が掛り過ぎている。やはり、あのセピア色の列車の中で、声だけの存在が語り掛けた内容が、現実の物になろうとしているのだろうか。

(イヤ、むしろ巻き込まれているのは、ワシらの方なのかも知れないのじゃ……)

 ワシは必死で無い知恵を巡らせてみた。だが、妙案は一向に出て来る気配が無かった。多分、此処で皆を探しに出掛けても徒労に終わるだけだろう。さて、どうしたものか。考え込んでいると、不意に、ワシに語り掛ける声が聞こえた。

「大地、大樹と会いたいと心から願えるかい?」

「お前は……!」

 問いたいことは幾らでもあった。一体、お前は何者なのか? 何故、ワシに関わるのか? だけど、今のワシに取って重要なのはそんなことでは無い。

「そう。重要なのはぼくの素性を知ることではない筈だよ」

「判っておるのじゃ」

 突然見えない誰かと語り出したワシに、リキは目を丸くして戸惑っていた。細かな話を説明するのは後回しだ。こいつは少なからず協力してくれる存在だ。敵では無い。今のワシに取っては、どんなに些細なことでも、手を貸してくれるのであれば縋らずには居られなかった。

「大樹と巡り合うためには君の記憶を『回顧』する必要がある。君にそれだけの覚悟はあるかい? 目を背け続けた真実を知って尚、大樹と心の底から再会を果たしたい。そう願うなら、この襖を開けるんだ。でも、それだけの覚悟が無いなら止めた方が良い」

 妙に仰々しい警告を添えてくれるものだ。ワシが『忘却』している記憶とは、それ程までに壮絶なものなのだろうか? だが、このまま放っておけばワシは大樹のことすら『忘却』してしまうことになるだろう。そう考えれば怖い物など何も無い。命に換えてでも大樹を守り抜く。ワシは大樹の兄貴だ。可愛い弟のこと、何としても守り抜かなければならない。だが、そんなワシの気合いを打ち砕くような言葉が投げ掛けられた。

「もしも、此処で君が切り捨ててしまえば、本当の意味で大樹は死ぬ。良く考えてから行動に移すべきだ」

「それでも……それでも、ワシは一歩も退くことは出来ぬでのう」

「良い覚悟だね。第三の開かずの間、その舞台は今、君がいる嵐山旅館さ」

 少年の声に呼応するように周囲は白く、白く染め上がってゆく。みるみるうちに周囲は白一色の世界に染め上がってゆく。一寸先さえ見えない程の濃霧の最中に放り出されたかのような情景だった。ゆっくりと白い霧に中に溶けてゆくリキを、ワシはただ静かに見届けることしか出来なかった。

(リキ……済まんのじゃ。大樹を死なせる訳にはゆかぬでのう)

 ワシは結局、自分のことしか考えていない。何が大切な仲間だ。トモダチだ。そうやって上辺だけの言葉で取り繕って見せても、最後には我が身可愛さが最優先される。こんなにも呆気無く、唯一無二のトモダチさえも見捨てられる。ワシは最低な奴だ。

 驚愕の表情を称えたまま、ワシを掴もうと力強く手を伸ばしたリキに背を向けると、ワシは目の前に佇む襖に静かに手を宛てた。何故、こんなにも平常心を保っていられるのか、自分の冷酷さが哀しくなった。

「さぁ、大地。遠い過去への旅路の始まりだよ」

 ワシの脳裏には、何を見せようとしているのかが鮮明に映し出されていた。

「こ、この情景は!?」

「今ならまだ、引き返せる」

「……それも、これも、全部、ワシの撒いた種なのじゃ。最後まで見届けるのじゃ」

 ワシは、そっと襖を開いた。開かれた瞬間、襖は静かに光り輝き始めた。ワシを受け入れるかのように。そして、開き切った襖からは目が眩まんばかりの光が波のように押し寄せてきた。見慣れた部屋の情景を見据えながら、ワシの記憶が遥か彼方へと旅立ってゆくのを感じていた。

◆◆◆56◆◆◆

 流れゆく夜半の大堰川をワシは静かに見つめていた。渡月橋の少し上流、そこは堰止められたような形になっている。流れゆく大堰川の涼やかで、力強い音色を肌で感じながら、ワシは川面と向き合っていた。ゆらゆらと水面に揺れ動く月が幻想的で、哀しい程に美しくて、ワシはその場から動けなかった。湖のように広大なる情景を目の当たりにしながら、穏やかな月明かりが古き時代の温かな情景を紡ぎ出してくれる。

「のう、大樹よ。お前がまだ幼かった頃のこと、覚えておるかの?」

 そこに居るハズも無い大樹にワシは語り掛けていた。どうせ応える者など誰もいない。だけど、過去の記憶を手繰り寄せ、紡ぎ出すことが出来れば記憶は形を為して蘇る。大樹のことを忘却する訳にはいかない。ワシの……ワシの大切な弟なのだから。

「オレが幼かった頃の情景だね」

 何時の間にかワシの隣には大樹が佇んでいた。突然のことに驚いたワシはもう少しで悲鳴を挙げてしまうところだった。だが、やっとの想いで巡り合えた大樹との記憶。ここで手放したら、二度と戻らなくなってしまうかも知れない。事は重大だ。慎重に立ち振る舞う必要がある。だから、ワシは何時もと変わらぬよう、出来る限り平静を装った。

「そうじゃな」

「ねぇ、兄ちゃん。ここであった出来事、覚えている?」

「覚えているのじゃ」

 あの日は夕暮れ時から降り出した雨が止むこと無く降り続いていた。叩き付けるように降り頻る雨の中、虫達の鳴き声が雨音に掻き消されんばかりの夜。酷く蒸し暑い夏の夜のことだった。

 何も知らない奴らに大樹との関係を馬鹿にされ、気持ち悪がられたこともあった。ワシはずっと耐え続けてきた。誰に何と言われようと大樹はワシの弟であることに変わりは無い。そんな中、堪え切れなくなってしまった瞬間を迎える時もあった。

 その夜、ワシは大樹と些細なことで喧嘩した。堪え続けてきた想いは静かに蓄積し続けていた。燻る炭火のように心の奥底で、ただ静かに燃え続けていた。蓄積され続けた怒りは些細な衝撃でも、たやすく爆発する。何故、ワシだけがこんな目に遭わなければならない。もしも、大樹が生まれて来なければ……。そんな想いを抱いていたことを否定するつもりは無い。

 本当に些細なことだった。何で喧嘩していたのか思い出せない程度に些細なことだったのだろう。だけど、それでも、ワシの心の奥底で眠る種火を、天まで届かせる程の火柱にするには十分過ぎる起爆剤となってしまったのは否定出来ない事実だった。

『何故、お前が弟なのじゃ! お前がいなければ、お前さえいなければ、こんなことにはならなかったのじゃ! 全部、全て、お前のせいなのじゃ! お前なんか……お前なんか、居なくなってしまえば良いのじゃーーっ!』

 怒りに身を任せてワシは大樹に酷い言葉を浴びせてしまった。ワシの言葉に驚きと、衝撃と……それから多分、途方も無い哀しみを覚えたのだろう。大樹は表情一つ変えること無く、無言で家を飛び出してしまった。

 すぐに戻ってくるだろうと思ったが大樹は戻ってこなかった。これは只事ではないとおかんに話をしたワシはこれ以上無い程に叱られた。だが、それ以上に大樹の身が案じられた。すぐに家族総出で大樹の捜索が始まった。

 ワシは生きた心地がしなかった。行方不明になった大樹の身を案じ、不意に、どうしようもない哀しみに襲われた。何て事を言ってしまったのだ。どうか、どうか、大樹、もう一度ワシの下に戻って来てくれ。時よ、少しだけで良い。大樹に怒りをぶつけてしまう前まで巻き戻して欲しい。そんな切な願いを胸に抱き、空を見上げてみた。だが、そんなワシの想いとは裏腹に、捜索に参加してくれた近所の人の叫び声が響き渡る。

『おーい! 大堰川で水死体が上がったぞー!』

 不意に聞こえて来たのは大堰川での水死体発見の報。絶望的だった。だけど、それは――大樹では無かった。亡くなられた方には申し訳無いが、ワシはそっと胸を撫で下ろした。

 大樹では無かった。少なくても大樹では無かった。大樹は無事だ。大樹は未だ生きている。それならば大樹は一体、何処に行ったのだろうか? 考え込むワシの耳に不意に涼やかな笛の音が聞こえてきた。それと同時にワシの脳裏にある映像が浮かんできた。

『大樹……!』

 そこは大樹と良く遊んだ大堰川の上流の一角だった。ワシに突き離されても、それでも大樹はワシとの思い出が残る場所を選んだ。その事実に気付いたワシはもう堪え切れなかった。おかんの制止を振り切ってワシは全力で走り続けた。暗闇の中、何度も、何度も転倒した。体中泥水に塗れ、傷だらけになっていたと思う。それでも必死で走り続け、そして、ようやく大樹と出会えた。

『兄ちゃん……?』

 ワシは何も言わずに大樹を力一杯抱き締めた。

『大樹、済まなかったのじゃ』

 大樹はワシの胸の中で泣いていた。ワシも泣いた。ごめんよ、ごめんよと謝りながら泣き続けた。大樹と共に泣き続けた。二人で抱き合って泣いて、泣いて、一頻り泣いた後でワシは大樹を背負って戻って来た。正直、大樹はかなり重たくてワシの足腰は悲鳴を挙げていた。だけど、何が何でもワシが大樹を守る。その想いだけを胸に抱きワシは歩き続けた。歩いて、歩いて、ようやく皆に発見された時、緊張の糸が切れたワシは火が付いたように、もう一度、泣いた。

 その日の夜、ワシは大樹と一緒に布団に入った。もう二度と離すものか。ワシは力一杯大樹を抱き締めていた。ワシの腕の中、大樹はそっと目を細めて見せた。月明かりに照らし出された大樹の笑顔。ワシは絶対に忘れない。静かに笑う大樹の頬を一粒の涙が零れ落ちた。それは夜半の嵐山に咲いた一輪の朝露だった。

「……今なら判る気がするのじゃ」

 もう、あの時からワシと大樹の物語は始まってしまっていたのだろう。イヤ、一つのキッカケに過ぎなかったというべきだろう。もっと、ずっと、ずっと昔からワシは大樹のことを愛していた。多分、弟以上の存在として見てしまっていたのだろう。もはや、軌道修正など不可能な話であるし、何よりも、ワシ自身がそれを望んでいない。

(思い出したのじゃ……。確かに、この記憶は、受け入れるのが恐ろしくて仕方が無かった。だから、ワシは大樹に対する『想い』を、強引に『忘却』することで、自分だけが助かる道を選んだのじゃ)

 だから、大樹は何時も孤独だったに違いない。元を正せば、あの一件がキッカケになって、ワシの中で大樹に対する想いが大きく歪み始めた。うっとうしいだけの弟という存在から、ワシのことを兄と慕ってくれる、誰よりも可愛く、何よりも大切な弟という存在へと移り変わったのだから。そうさ。大樹がワシに想いを寄せるようになったキッカケを生み出したのも、全部、全て、ワシのせいなのだから。

「ねぇ、兄ちゃん」

 大樹は穏やかな笑みを称えていた。月明かりに照らし出された横顔が印象的だった。虫達の割れんばかりの鳴き声の中、大樹はそっと口を開いて見せた。

「何じゃ?」

「オレの気持ち、知っているのでしょう?」

 大樹の問い掛けにワシは返答することが出来なかった。想いを言葉に現すのは得意ではない。どうせ口下手なのだから無理に器用な真似をするよりも、あるがままの姿で接した方が余程、思いも伝わるだろう。ワシは大樹に向き直ると、そのまま大樹をそっと抱き締めた。

「大樹……済まないのじゃ」

「兄ちゃん……」

 ワシはただ黙って大樹の頭を撫でてやった。

「ワシは卑怯じゃったな。お前の想いを知りながら、受け入れることが恐ろしくて、ワシ一人だけ逃げ続けていたのじゃ」

 幸か不幸か此処には誰もいない。何を口にしても誰にも知られる心配は無い。それならば、ずっと逃げ続けてきた想いと向き合おう。大樹の想いに向き合ってあげなければならない。それは兄としての責務だ。最低最悪の兄ではあるが、それでも、大樹からしてみれば大切な兄であることには変わりは無いのだから。

「オレ、兄ちゃんのことが好きなんだ……」

 ワシは黙って大樹の頭を撫でてやった。大樹はそっとワシの体に腕を回すと、力強く抱き付いて見せた。

「兄弟なのに、そんなの可笑しいって判っている。オレ、ヘンなんだって判っている。判っているけど……どうすることも出来なくて、それでも、どうしても兄ちゃんのことが好きで、好きで……」

 不意に、温かな感触を肌で感じた。感極まった大樹の想いに堪え切れ無くなったワシは、大樹を力一杯抱き締めた。そんなことをしても何の救いにならないかも知れないけれど、でも、それでも、力一杯抱き締めずには居られなかった。もう、二度と離れないように。大樹もまた、痛い程に力を篭めてワシに抱き付いていた。

「昨日、怖い体験した晩、兄ちゃんと一緒に寝られて嬉しかった」

「ワシもなのじゃ」

 一瞬、ためらったような素振りを見せた後で、大樹が苦笑いを浮かべながらワシの顔を覗き込んでみせた。

「……兄ちゃんの匂い嗅いでいたら、どうにも抑え切れ無くなっちゃってね」

「やはり、そうじゃったのか」

「……えへへ。オレ、変態だよね。気持ち悪いよね」

 荒い息遣いで小さく震えていたこと、違和感を覚えていたが、やはりそうだったのか……。リキがからかうように言った『仲の良過ぎる兄弟』――その真実が此処にあるということか。だが、ワシは大樹のことを否定する気にはならなかった。だから、ワシは夜半の嵐山を照らす月を見上げながら、応えた。

「それならば、そんな弟を、誰よりも可愛いと思ってしまうワシも変態じゃな。気持ち悪いじゃろう?」

「え?」

 大樹は一瞬、驚いたように目を丸くして見せたが、次の瞬間には何時もと変わらぬ笑みを見せた。ケラケラ可笑しそうに笑いながら、もう一度、ワシに抱き付いて見せた。

「そんな訳無いじゃない……」

 大樹と共に笑った。虫達の鳴き声を押し返す程に大きな声で笑った。普段見せない深刻な表情が可笑しくて、可笑しくて、笑った。とにかく笑った。大樹もまたワシの顔を見て可笑しそうに笑った。

「えへへ。やっぱり、オレ、兄ちゃんの弟で良かった」

「お前はワシの可愛い弟なのじゃ」

「うん」

 大樹の想いは本当に真っ直ぐで、純粋で……だからこそ恐ろしくも思えた。イヤ、恐ろしいなどと思ってはならないのだろう。誰にも打ち明けられずに、壊れそうな想いを必死で抱き続けてきたのだから。ガラスのように脆くて、儚くて、繊細で、鋭い感情。今、この瞬間まで大樹はその想いを自分の中だけで完結させようと必死になっていたことだろう。

「のう、大樹よ。何時からワシのことを想ってくれていたのじゃ?」

「……何時からだろう? 判らないよ。でも、オレ、兄ちゃんしか見ていなかった」

 普段は見せない幼い姿を見せてくれたことが嬉しく思えた。同時に、大樹のことが愛おしくて仕方が無くなっていた。多分、これが偽らざるワシの本当の想いなのだろう。普段は周囲の目を気にして必死で抑え込んでいた想い。ただでさえ人と違う道を歩んでいる上に、その上、実の弟と愛し合う関係にある。そんな真実を知った時、周囲の人々は間違い無くワシを異質の存在として遠ざけようとするだろう。ワシだけでは無い。大樹もまた異質の存在として遠ざけられるだろう。

「兄ちゃん、お願い聞いて貰って良い?」

「む? 何じゃな?」

「これから、兄ちゃんの部屋で一緒に寝ても良いかな?」

「全部話してしまった以上、もう、遠慮はしなくなったということなのかの?」

 そうだねと、大樹は照れ臭そうに笑って見せた。大樹の無邪気な笑顔が可愛いくて仕方が無かったワシは、不意に意地の悪い問い掛けをしてみたくなった。

「じゃが、ずっと同じ部屋に居ったのではゴニョゴニョすることも出来ぬのう」

 ワシの問い掛けに大樹は、妙に挑発的な笑みを浮かべながらワシに向き直って見せた。

「兄ちゃんってば、品が無いなぁ」

「にゃはは、それがワシなのじゃー」

 おどけてみせれば、「そうだね」と大樹は笑い返して見せた。一頻り上機嫌に振舞ったところで、大樹が不意にワシの目をジッと見据える。

「ねぇ、兄ちゃん」

「なんじゃ?」

「覚えている? あの日のこと」

 もう、逃げない。大樹は真正面からワシに向き合おうとしてくれているのだ。ここでワシが逃げたら、ワシは大樹に合わせる顔が無くなる。イヤ、それどころか……二度と、大樹のことを思い出すことが出来なくなってしまうに違いない。ワシの記憶から綺麗さっぱり『忘却』されてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。そのために、どんなに大きな傷を負うことになろうとも、ワシはただ静かに耐えるとしよう。

「ああ、覚えているのじゃ」

 もう後には退けない。ワシの心臓は緊張の余り、今にも張り裂けそうだった。だけど、震える声でも、早鐘のように刻まれる鼓動でも、一歩も退くことは出来ないのだから。

「忘れるハズも無いでの。あの時、ワシがお前にあんなことをしたから、お前はますます判らなくなってしまったのじゃろう?」

「違うよ」

 大樹は俯いたまま、ワシの手をシッカリと握り締めた。

「それは一つのキッカケに過ぎない」

 ワシは大樹の、途方も無く熱い体温を感じていた。

「ずっと、オレ、兄ちゃんしか見えて無かったから」

 ある夏の暑い夜のことだった。ワシは一人エッチだけではどうにも物足りなくて、有り得ないを思い付いてしまった。大樹に手を出す。実の弟に手を出すという、超えてはいけない一線を乗り越えることに対する背徳感が、だからこそ余計にワシを狂気に駆り立てたのだろう。ワシの中では長い間、大樹に途方も無い恐怖体験をさせてしまったと暗く、暗く受け止めていたが、大樹に取っては違う意味で忘れられない夜になったことだろう。

「兄ちゃんは、ゆっくりとオレのハーフパンツを脱がし、パンツも脱がした。すごく恥ずかしかった」

 ワシに向き合ったまま大樹は静かにあの晩の出来事を語り始めた。

「あの頃、毛も生え出した頃で、恥ずかしくて、兄ちゃんと風呂に一緒に入れ無くなっていたのにね。あろうことに、布団に寝転がっている状態でまじまじと見つめられるなんて、予想もしなかった……」

 大樹は妙に嬉しそうな表情を称えたまま語り続けた。

 あれは夏の暑い夜のことだった。虫の鳴き声が辺り一面から響き渡っていたことを良く覚えている。夏場は暑いらしく、大樹は何時もタンクトップにハーフパンツという涼やかな格好で過ごしていた。多分、ワシの真似をするようになったのだろう。

「そんな状況なのにさ、オレ、すごく興奮していて……恥ずかしい位に、おちんちんが濡れていた」

 大樹が静かな笑みを浮かべると同時に、一斉に、周囲から割れんばかりの虫達の鳴き声が響き渡った。それは短い命の灯火を一気に燃え上がらせ、一夜限りの儚い宴にしようという、切な願いにも感じられた。

「あの頃ね、オレも一人エッチ覚えたばっかりだったんだ。友達にね、それとなくやり方を教えて貰ってね」

 段々と興奮してきたことも手伝い、恥ずかしさも相まって、ワシは大樹の顔を真正面から見ることが出来なくなっていた。だから、そっと大樹を抱き締め、そのまま土手に横たわった。大樹はワシの耳元で囁くように続けて見せた。

「パンツを脱がした兄ちゃんは、オレのおちんちんを弄くっていた。握ったり、皮を剥かれたりして、あまりの気持ち良さにオレ、声を堪えるのに必死だった」

 生々しい体験ではあったが、大樹は臆することなく楽しげに語り続けるばかりだった。

「段々、兄ちゃんの息遣いが荒くなってきて、それから――」

 大樹の高鳴る胸の鼓動に呼応するかのように、ふわりと青白い光が目の前を通り過ぎて行った。それは蛍のようにも見えたが、蛍にしては余りにも冷たい光だった。命の灯火を静かに燃やしながら舞うもの。それは……イヤ、止めよう。無意味な詮索に何の価値も無い。今を、大樹と二人きりで過ごせる限りある時間の中で、ワシも命を灯火を燃やそう。良いさ。明日の朝には消し炭になったワシら兄弟が朽ち果てている。何だか、心中したみたいで小気味良さそうだ。

「それから、兄ちゃんはオレのおちんちんを舐め回した。もう、気持ち良くて、気持ち良くて、オレ、頭、可笑しくなりそうだったんだ」

 アレがワシの初めての体験だったのは事実だ。大樹のおちんちんを初めて舐めた時、蒸れた小便の匂いがムワっと口一杯に広がり、ワシが気が狂わんばかりに興奮した。匂いを感じると同時に、ねっとりとした塩気を孕んだ汁がジワリと滲み出た。自分のおちんちんから出る汁と同じ味がする。ワシは気が狂わんばかりに興奮して、滲み出て来る汁を全て舐め取った。

 もしも、あの時、大樹が眠っていたのであれば、すぐには堅くならなかっただろう。だけど、大樹のおちんちんはすぐに堅くなった。大樹が目覚めていたことは薄々勘付いていた。だけど、後に退くことは出来なかった。ワシは、そのまま大樹のおちんちんを舐め回し、ワシのおちんちんも扱き続けた。大樹が必死で声を出さないように堪えていたことにも気付いていた。むしろ、大樹が目覚めていたことが、余計に興奮を掻き立てた。

 大樹が無抵抗なことは理解していた。それどころか、大樹はさらなる行為を求めていたのだろう。敢えてワシを挑発するかのように腕を持ち上げて見せた。ワシのシュミすら心得ているとは末恐ろしいことだ。

 ワシはそっと大樹の脇に鼻を近付けた。大樹の汗の匂いと、脇の匂いが混ざり合い、ワシはさらに興奮を掻き立てられた。

 微かに生えた腋毛を愛でながら、ワシは大樹の脇に舌を這わせた。大樹は身悶えながらも、敢えて乳首が出るように肌蹴させて見せた。もう、ワシは止まらない。薄桃色の柔らかで、滑らかな乳首が綺麗で、いやらしくて、ワシはそっと撫でてみた。大樹は身悶えながら小さく呻き声を挙げた。もはや、本能の赴くままに突っ走っていたワシの暴走は止められなかった。

 大樹の乳首を舐め回しながら、おちんちんを扱いてみた。大樹のおちんちんの先端からは先走りが後から後からあふれ出ていた。そろそろ頃合いかと判断したワシは、そのまま、大樹が出すまで吸い付いた。

 やがて、大樹のおちんちんがビクン、ビクンと脈打ちながら、熱い精液が飛び出した。初めて口に含んだ精液は独特の匂いを孕んでいて最高に興奮した。ワシは堪らずに大樹の精液を飲み干した。喉の奥を噎せ返るような、熱い感触が流れ落ちてゆくのを感じ、それと同時に、ワシも果てた。

「兄ちゃんにオレの……飲まれちゃって凄い興奮した。あの後ね、オレ、朝が来るまで、気が狂ったように、何回も、何回も出し続けたんだ。兄ちゃんのこと思い浮かべながらね」

 大樹はずっと、ワシのことを想い続けていたというのか……。何故、ワシのような何の取り柄も無い、変態な兄貴を慕ってくれるのだろうか? ワシはただただ申し訳無い気持ちで一杯になっていた。

「困った弟なのじゃ」

「えへへ。オレ、兄ちゃんのことなら何だって知っているんだよ」

「にゃはは。お前は怖い相手なのじゃ」

「例えば、兄ちゃんとシロとの関係とかもね?」

「な!? 何じゃと!?」

 誰にも知られることが無いと思っていた過去を、まさか大樹の口から語られることになろうとは想いも寄らなかった。

 ああ、そうだ。ワシは何処までも変態だ。救いようが無い程に変態だ。初めて射精したのは、シロと遊んでいる時のことだった。

 それは大樹に夜這いを掛けるよりも少し前に遡る。あの日、ワシは何時ものようにシロと共に夜のお散歩を終えて嵐山旅館に帰って来た。ワシは何時ものようにシロを犬小屋に繋いだ。酷く汗を掻いていたワシは額の汗を手で乱暴に拭った。

 不意に、何を思ったのか、シロが汗まみれのワシの手を舐め回し始めた。シロからしてみれば何か風変りな匂いがする。これは一体何だろう? といった感覚だったのだろう。だけど、ワシの頭の中にはさらに、とんでもない考えが浮かんでいた。

(匂いがする場所を舐め回す……。もしかしたら?)

 止せば良いのに、ワシは信じられない行動に出てしまった。

 人目が無いことを確認し、ワシはそっとズボンを下ろし、座り込んで見せた。案の定、興味津々に尻尾を振りながらシロはワシのおちんちんの匂いを嗅ぎ始めた。鼻息が妙にくすぐったくて、やっぱり駄目かと思った瞬間のことだった。

「ああっ!」

 いきなりシロがワシの玉袋を舐め回し始めた。言葉に出来ないくすぐったいような、何とも言えない感覚にワシはすっかり腰が抜けそうになってしまった。

「し、シロ、もう止めるのじゃ! ワシが悪かったのじゃ!」

 だけど、シロは止まらなかった。ワシの慌てぶりを見て、喜んでいるのだろうと勘違いしたのかも知れない。次第にシロはワシのおちんちんの先っぽを甘噛みしながら舐め回し始めた。実に巧みな舌使いにワシは気が狂わんばかりの快感を覚えていた。舐め回されて程なくして下半身が震えるような感覚を覚え、見たことの無い液体が飛び出した。シロはそれを興味深そうに舐め回していた。

「い、今のが、射精というモノだったのじゃろうか? ああ、な、何て……気持ち良いのじゃ」

 その後もワシは時々シロを相手に、その奇妙な遊びを続けた。試しに、尻を突き出した時には、今度は尻の穴を穿られんばかりに舐め回されて、その快感が堪らなくて、ワシは何度も、何度も、射精した。

「お、お前……!」

「大丈夫。知っているのオレだけだから。誰にも言わないよ」

「と、当然なのじゃ!」

 動揺するワシに抱き付いたまま、大樹は尚も挑発するような目でワシを見据えていた。今度は、どんな恐ろしい話を聞かせるつもりなのか? 思わず身構えるワシに、大樹は予想もしない言葉を口にして見せた。

「えへへ。輝君には内緒にしておいてあげるね」

 不意に、ワシの脳裏にテルテルの笑顔が浮かび上がり、ワシは居た堪れない気持ちになった。だけど、多分、ワシは大樹に迫られたら断り切れないだろう。それに……断り切れないと思う以上に、断りたく無いというのが本当の所だったのかも知れない。

 大樹のことを想っているのは真実だから。曲げようの無い事実だから。傍からどう思われようとも、変えることのできない想いなのだから。そのくせ、自分の幸せは捨てたく無いと縋り付く。言うなれば、恋人と愛人、双方を手にしたような状況に、ワシは間違えた優越感を見出しているのかも知れない。それ以上に、あふれんばかりの性欲の捌け口を見付け出せたことに、悦びすら覚えているのかも知れない。

「ワシはやはり、最低じゃな……」

「兄ちゃんがイヤなら、オレ、今まで通りに振舞うよ」

 どこか寂しげな笑みを称えたまま大樹が応える。ワシは思わず首を横に振っていた。

「お前がそれでも良いと言ってくれるなら、ワシは嬉しいのじゃ」

「えへへ。何か、その言い方、ずるいよね」

「……そうじゃな。では、正直に言うのじゃ。ワシは大樹のことが好きなのじゃ」

 本当にこれで良いのだろうか? あの時と同じだ。リキと過ごした晩も、必死で悩み、迷い、考え続けたが、結局抗うことは出来なかった。多分、ワシはどうしようもなく最低な奴なのだろう。誰からも共感も理解もされないだろう。ただ、本能の赴くままに生きるだけの獣に過ぎない。皆が知った時、どう思うだろうか? 皆、ワシから遠ざかるだろうか……。

(ああ、こういうのが駄目なのじゃろうな。結局、ワシもリキと同じなのじゃ。周囲の目線ばかり気にしている。ワシ自身はどうしたいのじゃ? 例え間違えた道を歩んでいるとしても、その道を歩みたいと願うのであれば、想いを貫けば良いのじゃろうな)

 それにしても本当に静かな街並みだ。こんな状況で不謹慎ではあるが、大樹と二人、誰の目も気にせずに振舞えるというのも滅多に無いことだ。

 ワシらは大堰川沿いを歩んでいた。すっかり静まり返った嵐山の街並みには、明かりこそ灯されていたが人の気配は感じることは無かった。

「本当に誰の気配も感じないね」

「そうじゃな」

「今だったら、道路に大の字になって寝転がっても誰にも叱られないよね」

「しょうもないことを考えるのじゃ」

 笑いながら脇腹を突いて見せれば、大樹は「えへへ」と嬉しそうに笑いながらワシの腕に自分の腕を絡ませて見せた。目一杯寄り添いながら歩く姿は恋人同士のように感じられた。現実世界では出来ないことも、ここでは為し遂げることが出来るという訳か。実に皮肉な話だ……。

「ねぇ、兄ちゃん、何処に向かっているの?」

「にゃはは、大樹、ワシと冒険するのじゃ」

 ワシは大樹の手を引きそのまま大堰川沿いに歩み続けた。何処へ向かうのだろう? 興味津々な眼差しでワシと共に歩む大樹の姿に、ワシは幼き日のワシら自身の姿を見ていた。

(そうじゃったな……。大樹がまだ幼かった頃は、冒険と称して嵐山の野山を駆け巡ったものじゃ。子供染みた遊びを卒業して何年が過ぎたのじゃろうか? 大樹もすっかりワシと身長が並ぶようになり、体格も立派になった。月日は流れ、人も変わってゆくのじゃろうな)

 昔を振り返り、懐かしさと同時に微かな物悲しさを覚えていた。そんなワシの心を見透かしているのか、ワシにぴたりと貼り付いたまま大樹が笑い掛ける。

「えへへ、兄ちゃんとの冒険、楽しいなぁ」

「にゃはは。楽しいとな? 図体でかくなっても中身は子供のままなのじゃ」

「そうだよ。普段のオレは作り物のオレなんだ。兄ちゃんと一緒さ」

「なっ……!?」

 やはり、共に過ごした時間の長さでは大樹を超える存在はいない。ワシの全てを知り尽くすのは、やはり、大樹なのだろう。知り尽くしているからこそ、普段、ワシが演じている姿など容易く見透かしていることだろう。その上で無理に背伸びをして『理想の兄貴』を演じようとしても無駄な努力だったということなのか。

「兄ちゃんは兄ちゃんだよ。本当の兄ちゃんは子供みたいに無邪気で、無駄に夢追い人で、馬鹿みたいに意地っ張りで……」

 苦笑いを浮かべるワシを見上げながら大樹は続けて見せた。

「でも、オレはそんな兄ちゃんが好きなんだ」

「な、何を言っておるのじゃ……」

「あ? 照れてる、照れてる。あはは、兄ちゃん、可愛いー」

「か、可愛いって……。うぬぬ、お前、扱いづらくなったのじゃ」

「えへへ。これからはありのままのオレで居るよ」

「そうじゃな。ワシも……ありのままのワシで居るのじゃ」

 流れゆく夜半の大堰川をワシは静かに見つめていた。渡月橋の少し上流、そこは堰止められたような形になっている。湖のように広大なる情景を目の当たりにしながら、不意に悪知恵が浮かんできた。

 そのままワシらはボートに乗り込むことにした。少々気は退けたが、どうせ誰もいない以上、コッソリ忍び込んでもお咎めは無いだろう。もっとも、とてもコッソリとは言えない程に大胆に忍び込んだのだが……。

「普段は夜にボートに乗るなんて出来ないものね」

「にゃはは、立派な不法侵入なのじゃー」

 大堰川のボートに揺られながら眺める夜半の情景はどこか物悲しく感じられた。夜半の大堰川をたゆたうボート。静けさに包まれた木々抱く山々に囲まれ、涼やかな川からの風に抱かれて心落ち着く情景だった。

 ワシは言葉も無く、ただ、大樹を抱き締めていた。この幸せな一時が何時までも続けば良い。そう、切に願っていた。もう、二度と大樹のことを離さない。イヤ、決して『忘却』させやしない。

「兄ちゃん……」

「何じゃ?」

「オレのこと、忘れないでね」

「可笑しなことを言うのじゃ。何だか、別れの言葉みたいじゃのう」

 ワシは笑いながら大樹の額を小突いて見せた。だが、大樹は寂しげな笑みを称えるばかりだった。

「大樹?」

「ごめんね、兄ちゃん……。どうやら、ここまでみたいだ……」

「大樹? 一体、何を言っているのじゃ!?」

  駄目だ! 忘却させる訳にはいかない! ワシは必死で大樹を抱き締め続けた。だが、ゆっくりと体中の力が失せてゆくような感覚を覚えていた。それと共に、ワシの意識もゆっくりと遠ざかっていた。ゆらゆらと川面に浮かぶ落ち葉になったような浮遊感を感じながら、ワシは眠りへと沈んでいくのを感じていた。抗うことは出来そうに無かった。

(駄目だ! 大樹のことを……大樹のことを……!)

◆◆◆57◆◆◆

 醍醐を後にした俺達は嵐山を目指して夜の街を突っ走っていた。夏の夜は賑わっているように見えたが、どこか、言葉に出来ない寂しさを孕んでいるように思えて胸が締め付けられた。そんな俺の振舞いに気付いているのか、気付いていないフリをしているだけなのか、賢兄はただ静かに走り続けるばかりだった。

 大地は無事だろうか? 自分の目の届かない所で繰り広げられている事態を考えると、気持ちばかりが先行してしまいそうになる。そんな俺の息遣いに気付いたのか賢兄が静かに口を開く。

「不安か?」

「……不安じゃ無いと言えば嘘になるよ」

「ほう? 珍しいこともあるものだ。普段は冷ややかな振舞いを崩さないお前も、そんな気持ちになることがあるのだな」

 からかうような口調で笑われて、俺は苛立ち混じりに溜め息を就いて見せた。

「この程度の挑発で気持ちが揺らぐ。まだまだお前は子供だな」

「うるさいな。それより、ちゃんと運転に集中してよ」

 相変わらず賢兄は何を考えているのか、サッパリ腹の内が読めない。態度を頻りに変えては、俺が動揺する姿を見て、楽しんでいるとしか思えない。でも、賢兄のことだ。表面上の振舞いだけでは推し量れないことを考えているに違いない。

(心の中を見抜く能力……万人の心を覗ける訳では無いということか)

 今は変幻自在に調整出来るようになったこともあり、普段は誰の心も覗かずに済むように力を抑え込んでいる。その気になれば、誰かれ構わず心の中を覗くことは出来るけれど、見たくない物まで見てしまうのは疲れるだけだ。要らぬことはしない方が平穏無事に過ごせる。

(でも、賢兄の心だけはどうしても覗くことが出来なかった。どんな手を使っても、見えて来るのは真っ白な霧に包まれた景色ばかり。一体、何故なのだろう?)

 賢兄はそんな俺の考えなど見抜いているのか、静かに鼻で笑ってみせた。

(やっぱり、賢兄には叶わないな。俺なんかが太刀打ち出来るような相手じゃ無いことは周知の事実か。無駄なことをするのは止めておこう)

「ああ、それが良いと思うぜ」

「え!?」

「無駄なことはしないに越したことは無いからな」

 思わず息を呑む俺の振舞いさえも、賢兄は可笑しそうに笑い飛ばすばかりだった。

(い、一体どういうこと!? 俺は何も口にしていないというのに!?)

 イヤ、余計な詮索は止めよう。今、重要なのはそんなことでは無い。嵐山に辿り着いて、大地の力になることだけを考えよう。気を散らしながら挑めるような相手では無い。これは正真正銘の戦いなんだ。ゲームの世界じゃ無い。敗北すればゲームオーバーになる。そして、その代償は俺の命だ。

(イヤ……俺達の命、か)

 責任重大だ。もしかしたら、非力な俺では何も出来ないかも知れないけれど、それでも、何か出来ることはあるはずだ。道が無ければ切り拓けば良い。

 あれこれ思案しているうちに、相応に時間も過ぎた。夜の市内は交通量も増える。街を照らすネオンライトの明かりと街灯の明かり。それから、すれ違う車のヘッドライトとテールライト。ここには人工的な明かりが満ちあふれている。そんなことを考えながら周囲を見回してみた。

(一体、今、どの辺なのだろう?)

 周囲を見回した俺は異変に気付かされた。確かに、数分前まで、確かに大通りを駆け抜けていたハズだった。だが、何時の間にか周囲はうっそうとした木々に覆われていた。それに、どこかの山道を駆け抜けているかのような傾斜を感じていた。賢兄も突然起こった異変に驚いているのか、頻りに周囲を見回していた。

「一体、どうなっているんだ!?」

 辺りは暗闇に包まれていて、一体何処を走っているのか判然としなかった。大型車両でもすれ違える程の大きな道であることを考えると、未開の地に迷い込んだ訳では無さそうだ。それにしても、何処まで上ってゆくのだろう? 何よりも、見覚えのある景色のように……。そこまで考えた所で俺は息を呑んだ。

(見覚えがあるも、何も、この道は!)

「賢兄、この道って……」

「ああ、比叡山ドライブウェイだ。一体、どうなっているんだ? 狐にでも化かされたとでも言うのか?」

 流石の賢兄も、唐突に身に振り掛かった異変には動揺を隠し切れない様子だった。少なくても、このまま突っ走り続けるのは危険だ。何が起こるか判らない以上、一度、足を止めるべきだ。

「賢兄、このまま突っ走るのは危険だよ。一端、止めよう」

「ああ。そうだな」

 珍しく、賢兄が取り乱していた。どんな事態に直面しても飄々とした態度を崩さない賢兄が取り乱している。その事実が、俺の中で途方も無い不安を呼び起こそうとしていた。何か、恐ろしい出来事に直面しようとしているのだろうか? 不安だけが膨れ上がってゆく。

 それにしても、ここはドライブウェイのどの辺りなのだろうか? 周囲を見回してみれば、開けた場所にいることに気付かされた。辺りは漆黒の闇夜に照らし出されているが、遠く、山々の裾野に広がる街明かりと、その手前に佇む広大な湖の情景。

(ここは夢見が丘か)

 賢兄が良く連れて来てくれる夜景の綺麗な場所。此処から望む景色が好きだと口癖のように聞かせてくれた。煙草を吹かしながら遠い目を街明かりに投げ掛ける賢兄の横顔。月の綺麗な晩には仄かに照らし出される横顔。だけど、今宵は何か奇異な気配を感じずには居られなかった。ジットリと纏わり付くような、生臭いような湿気を孕んだ空気は重く、重く、俺達に圧し掛からんとしていた。

「太助、俺の傍から離れるな。何か……嫌な気配を感じる」

「判っている。この暗闇に紛れるようにして何者かが近付いてきている」

「ああ。まぁ、化け物相手なら半殺しにしちまっても罪にはならねぇよな?」

「このまま崖っぷちから、投げ飛ばしてやるまでさ」

「おうおう、頼もしいねぇ。正義のヒーローが窮地に陥ったら華麗に助けてくれよな?」

「正義のヒーロー? 諸悪の権化の間違いでしょう?」

「へっ、口の減らねぇ奴だ」

 互いに強がっていたけれど、得体の知れない何者かが近付いて来るという状況に、ただただ恐怖を覚えていたのは事実だった。こんな暗闇の中で襲い掛かられたら太刀打ち出来る訳も無い。相手もそれが判っているのか、敢えて、俺達に恐怖心を植え付けるかのようにジワジワと近付いていた。

 妙な足音だ。地面に足をすり寄せながら歩くような、それでいて、どこか水気を孕んだ足音に聞こえた。不揃いな足音の感じから察するに、相手は一人では無さそうだ。

(厄介だな……。二対一なら、まだ勝ち目はあったかも知れないけれど、相手が複数居るとなると話は別だ)

 何時の間にか雲が出て来たのか、夜空を覆い尽くさんばかりになっていた。おぼろげながら周囲を照らし出していた月明かりさえもが遮られようとしていた。辺りは一切の光さえ差し込まない漆黒の闇夜に沈もうとしていた。それに呼応するかのように、一層、空気は密度を増し、息が詰まらんばかりに張り詰めていた。

「おいおい、完全に真っ暗になっちまったぜ」

「賢兄、俺から離れないで」

「判っているっての。お前は俺が守る。大丈夫だ。こうやって、背中を合わせていれば死角は生じない」

 守られるだけの存在……男のクセに情けないと、自分でも思う。昔の俺だったら、こんな気持ちになることなんか絶対に無かった。周囲は全て敵。だから、常に威嚇し続けて、虚勢を張り続けなければならない。微塵でも隙を見せたら、そこから突破されて、陥落させられる。だから、何時だって怒りという名の鎧を身に纏い自分を守り続けていた。でも、仲間と呼べる存在に出会い、誰かに守られることを知った時、俺は弱さを手にしてしまった。自分を守る力さえも失い、牙を抜かれ、野生を失ってしまった。

(俺は……)

「太助、気を抜くな! 敵はすぐそこまで来ているぞ!」

「わ、判っているよ!」

 賢兄に応えると同時に、俺の目の前を何かが横切って行った。それは青白い蛍のような光だった。一体何事かと慌てて周囲を見回せば、何時しか、辺り一面に青白い蛍のような光が無数に舞っていた。漆黒の闇夜を照らし出す青白い光。周囲の木々や、建物まで鮮明に見える程の光に包まれていた。何とも幻想的な光景ではあったが、凍えそうな程に冷たい光だった。その、冷たい光の中、誰かがゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。それは間違い無く人の姿をした存在達だった。ゆらゆらと青白い光を放ちながら近付いて来る人影。その姿は近付くに連れて鮮明になり始める。だが、何かが可笑しい。ゆらゆらと揺らめきながら人影は重なり始めた。やがて人影は一つの姿を為した。それは見覚えの無い青年の姿だった。その青年の姿を目にした瞬間、賢兄が短く悲鳴を挙げるのが聞こえた。

「賢兄?」

「そ、そんなことが……そんなことがある訳が無い!」

「賢兄、落ち付いてよ。あの人、知っている人なの?」

 意外な光景を目の当たりにしていた。普段、何があっても動じることの無い賢兄が青褪めた表情で驚愕している。今まで一度も目にしたことの無い、賢兄の狼狽した姿に俺は焦りを隠し切れなかった。だけど、それでも、賢兄を支えられるのは俺だけだ。守って貰うばかりだったけれど、俺だって何時までも子供じゃない。

「何者かは知らないが、少なくても俺の敵であることに変わりは無い。討ち取ってくれる!」

 飛び掛かろうとする俺の前に賢兄が慌てた様子で飛び出してくる。

「賢兄! 邪魔しないで!」

「待ってくれ、太助……」

「どうして!?」

「あいつは……あいつは、武司だ」

 信じられないことを口にしてくれる。武司さん――錦おばさんの一人息子にして、此処、夢見が丘でバイク事故で亡くなった人。俺達の先輩であり、賢兄の親友だったという武司さん? あの人が? そんなことがある訳が無い。事故で亡くなった人が再び蘇ることなんて、あるハズが無い。情鬼が仕掛けた幻覚としか考えられなかった。

「賢兄、シッカリして! 武司さんはこの世の人では無いのでしょう!?」

「武司……」

「賢兄!」

 駄目だった。賢兄には俺の声は全く届かなかった。何よりも驚かされたのは、あれ程強固な精神を持つ賢兄が、こんなにも容易く敵の仕掛けた術に落ちてしまおうとは予想もしなかった。それだけ賢兄に取って武司さんという存在は、大きな位置を占めていたのだろうか。俺の声が届かない程に仲の良かった武司さん……。あろうことか、俺は嫉妬で気が狂いそうになっていた。

(そうじゃない! 今、大事なのは、賢兄を何とか目覚めさせることだ!)

「賢兄、お願いだ! 目を覚ましてくれ!」

 俺の声は賢兄の耳には届かなかった。賢兄は呆然自失となりながら、引き寄せられるように武司さんに歩み寄って行こうとするばかりだった。必死で阻止しようとした。だけど、信じられない力で俺を跳ね除けると、そのまま武司さんに向かっていく。一体どうすれば良い!? 考えられる手段は一つだけ。

「……賢兄の心を掻き乱す偽物め!」

 遅かれ早かれ討ち取る相手であることには変わりは無い。それならば、早々に引導を下すまでだ。俺は武司さんの偽物に駆け寄ると、力一杯、胸倉を掴んだ。

「死にさらせ、この偽物がっ!」

 そのまま力一杯投げ飛ばした。地面に勢い良く叩き付けられた武司さんが小さく呻き声を挙げる。

「偽物の分際で、一著前に呻き声まで挙げるか? さぁ、引導を下してくれる!」

「太助、止めるんだ!」

「賢兄、何故止める!? この人は武司さんじゃない! ただの偽物なんだよ!?」

「良いから、止めろ!」

「うわっ!」

 賢兄に乱暴に退き離され、俺はしたたかに腰を打った。冷たい地面に叩き付けられて、酷く痛んだ。でも、それよりも、何よりも……俺を蔑むような目で見下す賢兄と、それから、武司さんの偽物の含み笑いが痛かった。

(俺は……邪魔者なのか? 賢兄に取っての俺は……)

 苦しかった。哀しかった。ただただ頭の中が真っ白になって、何も考えることが出来なくなっていた。皆の顔が次々と走馬灯のように浮かんでは消えた。

(小太郎、俺に……俺に手を貸してくれ……)

 何も出来ない非力な自分がただただ悔しくて、惨めで、哀しくて、俺はその場にうずくまることしか出来なかった。二人、立ち並んだまま、賢兄と武司さんは冷淡な表情を称えたまま、俺をジッと見つめるばかりだった。いっそ、このまま死んでしまおうか? 本気でそんなことを考えていた。

◆◆◆58◆◆◆

 再び意識が戻った時、ワシらは嵐山旅館の前に立っていた。顔面蒼白になったリキが、ひたすら動揺している姿に気付いたワシは慌てて声を掛けた。

「り、リキよ、大丈夫かの?」

「うぉっ!? ま、またしても、唐突に意識を取り戻したし……」

「にゃはは。ただいまなのじゃー」

「頼むから、オレの心臓を止めるような真似は勘弁してくれ……」

 どうやら、ワシは再び仮死状態になっていたらしい。リキからしてみれば、そんな状況に一人取り残されるのは、途方も無く恐ろしかったことだろう。

「ま、まぁ、無事で何よりだぜ」

「心配掛けてスマンのじゃ」

 そうだ。ワシのことよりも大樹は? 大樹は何処に行った!? ようやく意識がハッキリし始めた所で、ワシは慌てて大樹の姿を探した。意識が戻る直前に大樹が口にした不穏な一言が気になって仕方が無かった。

「ど、どうした?」

「リキよ、大樹は何処に行ったのじゃ? 大樹は? 大樹はっ!?」

「お、おいおい、落ち付けって。大樹は未だ戻って来てねぇだろ?」

「な……」

 やはり、開かずの間の情景は、所詮、架空の情景に過ぎなかったのだろうか。それとも、押し寄せる『忘却』の力が成長し過ぎてしまったのだろうか。やはり、ワシにはもはや、どうすることも出来ないのだろうか……。絶望に沈むワシに、さらに追い打ちを掛けるような出来事が起きた。

「うぉっ!? て、停電かよ!?」

  今度は唐突の停電か。姑息な手段でワシを何処まで追い詰めれば気が済む? ワシが一体何をしたというのか? もはや、怒る気力さえ失われようとしていた。

「おいおい、勘弁してくれよ……」

 次々と起こる異変に、いよいよリキも気持ちを強く持ち続けることが出来なくなってきたように思えた。

「ロック、外の状況を確認しに行こうぜ……って、真っ暗で何にも見えねぇな。うぉっ!? 痛ぇっ!」

「ああ、リキよ。少々待つのじゃ。今、非常用の懐中電灯を用意するでの」

 取り敢えずワシらは食堂に向かうことにした。暗がりの中、手探りで階段を降りていた。迂闊に足を踏み外さないように慎重に、一歩、一歩、踏み出した。食堂に行けば、こういう非常時に備えて、おとんが色々と準備した物資がある。それを頼みの綱としたかった。

 程なくしてワシらは無事に食堂に辿り着いた。色々な物資がある中から、今のワシらに必要そうな物を取り出した。

「停電時に備えて非常用のろうそくまで準備しているとは、さすが、抜け目ねぇよな」

「おとんがこういうことに関しては実に細かい部分まで準備してくれておるからの。まさかの場面で、こんなにも役に立つとは思わなかったのじゃ」

 しかし、暗い部屋の中を照らし出すのがろうそくの明かりだけとは、何とも不安な気持ちになる。遥か昔、電気など無かった時代には人々はこうして生活していたのか。そう考えると、昔の人達の忍耐力というのは実に逞しいものがあったのだと改めて認識させられる。

「しっかし、暗い部屋で、ろうそくの明かりだなんて、何だか、百物語するみてぇな気分になるよな」

「テルテルがいたら、やりそうなのじゃ」

「そうそう。で、コタに『輝、くれぐれも、要らぬ話をするなよ?』と、先手を打たれる訳だ」

 思わずリキと顔を見合わせ、ワシは声を挙げて笑った。笑わなければ居られなかった。不安と恐怖、押し寄せる絶望に今にも沈んでしまいそうで仕方が無かったから。

 暗闇を仄かに照らし出すろうそくの光。ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、ワシはふと、懐かしい情景を思い出していた。そうだ。このろうそくの灯火、何処かで見たような記憶があったが、そうか。あの時の記憶か。

「へへ。ロック、ろうそくの炎に見惚れちゃってどうしたんだ? 何か、面白い話でも思い付いたのか?」

 そうだ。『回顧』すること……つまり、過去を思い出すことで何か解決の糸口が見えて来るかも知れない。ワシの防衛本能が、忘れてはならない記憶までも忘却してしまっているのだとしたら、とにかく思い出すことだ。どこに重要な手掛かりが潜んでいるかは皆目見当が付かない以上、手当たり次第思い出すしか無い。下手な鉄砲とて数打てば当たる。

 深刻な状況に置かれてもなお、相変わらずワシは無責任で調子の良いことばかり考えている。こんなワシだからこそ、無意識のうちに誰かを傷付けてしまっているのだろう。それでも、今のワシに出来ることは、思い出すこと以外に思い浮かばなかった。

「一年前、皆で清滝川へキャンプに出向いたこと、覚えておるかのう?」

「ああ、楽しかったよな! 良く覚えているぜ」

 一年前の記憶とは思えない程に鮮明に情景が浮かんでくる。夜の清滝川で焚き火をしながら、皆で語らったことを思い出していた。その時に見た焚き火の炎と、このろうそくの炎。どこか、似ているような気がしてならなかった。ゆらゆらと揺れ動くろうそくの炎を見つめながら、ワシは去年の夏の出来事を振り返っていた。

◆◆◆59◆◆◆

 何時もの五人で京都駅に集まったワシらは、そのまま勢いに任せて清滝川を目指して列車で大移動していた。知名度で言えば保津川に軍配が上がるかも知れないが、保津川は人も多く、何よりも川の流れが早い。川下りで名を馳せているのは伊達では無く、川遊びするには危うい場所となる。それに、人の多い場所を好まないワシらに取っては賑やか過ぎる保津川よりも、静けさに包まれた清滝川の方が遥かに心地良く感じられる。

 人の手の介在しない場所に出向くという状況は、少なからず冒険心をかき立てるには十分過ぎた。何処までも広がる広大な青空。強い日差しも、暑さも、夏ならではの楽しみだ。ワシらは列車の椅子に並んで腰掛け、清滝川に到着したら何をしようかと作戦会議に花を咲かせていた。

「清滝川だったら、やっぱり川遊びかな。今日みたいに暑い日なら最高だよねー」

 テルテルの意見に皆が力強く頷く。

「暑い夏には川遊びか。確かに涼しくなりそうだな」

「でしょう? あ、コタってば、ちゃんと水着持ってきたー?」

「……何故、忘れていることが前提になっている?」

「ところで、先刻から気になって仕方無かったのだが、力丸が運んできた、その巨大な荷物は何だ?」

「へへー、良くぞ聞いてくれた!」

 太助が興味深そうに問い掛ければ、リキが満面の笑みを浮かべて応えて見せる。

「皆でバーべキューしようと思ってな。その道具と、たっぷりの食材だ。ま、オレがみんなに上手い飯、振る舞ってやるから楽しみにしていろよ?」

 こういうイベント事になるとリキは何時だって盛り上げ役に徹してきた。やはり、料理人の道を歩むだけに、食事に関しては自らの独壇場にしたい様子だ。それに、その膨大な荷物の中には花火やら薪やら色々な道具が詰め込まれているらしい。無論、リキ一人に全てを背負わせる訳にはいかなかったが、これだけの荷物を京都駅まで運んでくるのは相当に苦労したことだろう。

「ああ、その荷物ならば俺達も一緒に運んできた」

「そうそう。リキってば、これだけの荷物を一人で運んでこようとしていたんだから、無謀過ぎだよね」

「わはは。さすがにオレ一人の力で運ぶのは無謀過ぎたっつー話だな」

 そこでシレっと手を差し伸べる辺りが、やはり、物静かに気の利くコタらしく思えた。

「そろそろ列車が発車しそうだな。飲み物を購入してこようと思うが、皆の分も購入してこようか?」

 太助が問い掛ければ皆一斉に手を上げる。やはり、これだけ暑いと、どうしても水分補給が欠かせなくなる。ジリジリと照り付ける日差しの中で気温も体温も上昇し続ければ、やがて、暑さに倒れることとなる。それでは冒険を楽しむ所では無くなる。

 それにしても、太助は相変わらず涼やかに振舞ってくれる。しかし、何も、列車が発車する間際に買いに行かなくても良かったような……。そんなことを考えていると発車を告げる音色が響き渡る。

「太助、早く、早くー!」

「わはは! おいてけぼりになっちまうぞー!」

 窓から身を乗り出しながらリキが、テルテルが陽気に囃し立ててみせるが、太助は相変わらず涼やかな振舞いで売店の店員からお釣りを受け取っていた。

「お前達、貸切じゃ無いんだから、少しは落ち付け……」

(な、何か、こういう場面になると、コタが急にオヤジキャラと化すのは何故なのじゃろうか?)

 それでも華麗に走り込み、出発に間に合わせる辺りが、やはり太助らしさなのであろう。相変わらず身のこなしが軽やか……というか、妙に芝居掛っている辺りがツッコミ所満載ではあったが。

「まるで修学旅行状態だな」

「だって、せっかくの大冒険だもの。盛り上がるじゃない? ねー?」

「まぁ、その気持ちは判るのじゃが……ちと、恥ずかしいのじゃ」

「リキ、恥ずかしい奴だって言われちゃったよー?」

「……オイ、コラ。何でピンポイントでオレ狙いなんだっつーの」

 こうして皆で何処かに出掛けるのは楽しいものだ。イヤ、普通に皆と一緒に過ごすだけでも十分に楽しいのは事実だった。長い間、大樹と二人きりだったワシに取ってコタ達との出会いは本当に大きな意味を与えてくれた。世界の広さを教えて貰えたと言ったら少々大袈裟過ぎるだろうか? それでも、こうして何時も皆で一緒に賑やかに振舞う。コタ達も皆、ワシに取っては大切な家族そのものだ。だからこそ、少しでもこの幸せな時間を長続きさせたいと思っていたし、この幸せな時間を大切にしたいと考えていた。

 話し込んでいるうちに列車は颯爽と丹波口を通り過ぎて行った。中央卸売市場も昼下がりになれば人の気配も消え去る。静けさに包まれた光景が流れ往く様をワシは静かに見つめていた。

「ひゃー、何か騒いでいたら暑くなってきちゃったねぇ」

「今日もまた良いお天気だからなー」

 語らうテルテルとリキに、ワシはそっと、自慢の嵐山旅館団扇を差し出した。

「うわっ、出たなー」

「眩し過ぎる、原色の赤っ!」

「にゃはは、一杯あるでの。好きなだけ貰ってくれなのじゃー」

 こういう場所でも商売魂と笑いの心は忘れてはならない。ワシのモットーでもあった。

「コタ、太助、良かったら使ってくれなのじゃ」

「……中々に強烈な団扇だな」

「原色の赤に、大きな文字で『嵐山旅館』か。ふふ、宣伝効果は高そうだな」

 この団扇を考案したのは、やはり、うちのおとんであった。色々な情報をかき集め、独自に分析、研究を重ねた結果、このデザインに行き着いたらしい。確かに、これ程までに厚かましさ全開の色と見てくれが重なり合えば鮮明に記憶に残ることだろう。それにしても、一般的な旅館は大々的な宣伝などしないものなのだが、そこはやはりおとんなのか。個性的というか、奇抜というか、まぁ、面白い家族が経営する旅館ということでガイドブックにも載るのは嬉しいものだ。

 皆で騒いでいるうちに列車は二条、円町、花園、太秦と滞り無く突き進んでいた。人々の暮らしが感じられる生活の香り漂う街並みを経てゆくに従い、段々と景色も様変わりしてゆく。背の高いマンションが次第に姿を消し、人々の暮らしの感じられる民家が立ち並ぶ景色へと変わってゆく。

 嵐山の辺りに差し掛かると周囲の景色も木々や草花が目立つようになり、段々と大自然豊かな景色が広がり始めるようになってきた。行く手には木々に抱かれた山が次第に迫ってくる。こういう木々や草花の多い場所に来ると本当に落ち着く。どうも、ワシは人ばかりがウジャウジャ歩き回る都会的な街並みというのが苦手で、観光地のように人が多く集まる場所では人に酔ってしまう。乗り物酔いならぬ人酔いという不思議過ぎる現象が起こってしまうらしい。

「風が心地良いな」

「うむ。コタも大自然を愛する身じゃから、こういう場所は心落ち着くであろう?」

「そうだな。嵐山の竹林のように風情あふれる洗練された景色も素晴らしいが、こういう、人の手の介在していない、あるがままの大自然の姿というのも悪く無い。時に野山を駆け巡ってみたくなる衝動に駆られる」

「にゃはは、コタは野性的なのじゃ」

「だが、夏の暑い日差しの中、木々達と共に語らい歩く。悪く無いと思わないか?」

 コタが穏やかな笑みを称えながらワシに問い掛けて見せた。ワシも窓から吹き込む風にそっと耳を傾けながら目を伏せてみた。こうして目を伏せて耳を傾けると実に様々な音色が聞こえる。列車が走る金属の音、木々の葉が風に揺れる音、鳥達の歌声、セミ達の鳴き声。本当に色々な音色がそこに感じられた。

「うむ。悪く無いのじゃ。大自然の息吹、確かに、此処にはあるように感じられるのじゃ」

 コタとワシ、何時の間にか太助も静かに窓から吹き込む風を静かに感じていた。吹き込む風が、静かに髪を撫でてゆくのを、心地良い風の音色を体全体で感じていた。

(……む? むむむ!? な、何じゃ、この妙に甘ったるーい匂いは!?)

「こんな暑いのにカリン糖だなんて、リキのセンスを疑うよー」

「とか、何とか言いながら、バリバリ食ってるのは何処のどいつだっつーの」

「えへへ。だって、ほら。甘いお菓子って、ねー。誘惑しちゃうからさー」

 風情ある景色とは程遠い振舞いに、ワシらは思わず体中の力が抜けてゆくのを感じていた。何も、こんな蒸し暑い列車の中で豪快に音を立てながら、カリン糖を熱心に頬張ることも無かったのでは無かろうか?

「酷い絵だな」

 と、太助が冷ややかな含み笑いを浮かべれば

「ううっ、あ、甘ったるい匂いに酔いそうだ……」

 甘ったるい匂いにコタがぐったりと崩れ落ちる。

「風情の欠片も無い奴らなのじゃ。それに、そんな黒糖の匂いをばら撒いておると、カブトムシが飛んでくるのじゃ」

 そんな都合良く飛んでくる訳無いじゃない。テルテルが可笑しそうに笑う様をワシは目を細めて横目で見つめていた。やがて列車は長いトンネルへと差し掛かる。この長いトンネルを抜けた先に目的地の保津峡駅がある。京都からの時間にしてみれば、たかだか二十分程度の時間しか過ぎていない。それでも、既に街並みの景色は失われ、そこに広がるのは広大な大自然の景色ばかりだった。

 程なくして列車が減速を始める。太助が颯爽と席を立てば、そのすぐ後にコタが物静かに続く。陽気にはしゃぐリキとテルテルを後目にワシも颯爽と通り過ぎれば、ようやく置き去りにされたことに気付いたのか、慌てて席を立ち上がる姿が目に留まった。そんなこんなで、ワシらは保津峡駅に到着した。後は駅を後にして清滝川までの長い、長い道のりをひたすら歩き続けるだけだ。

◆◆◆60◆◆◆

 保津峡駅を後にしたワシらは割れんばかりの蝉達の大合唱を一身に受け止めながら歩いていた。楽しいキャンプではあるのだが、やはり冒険と名が付くだけあり、そうそう容易く目的地には辿り着ける訳も無かった。

「暑い。むちゃくちゃ暑い……。うぉっ!? 汗が目に入ったーっ!」

「力丸、一人で楽しそうだな」

「うぉー! 誰か、オレの目をタオルで拭いてくれー!」

「しょうがないなぁ……」

 テルテルが苦笑いしながらリキに歩み寄る。首に掛けたタオルを手にした瞬間、テルテルの悲鳴が響き渡る。

「って、うわっ! ちょっとー。リキのタオル、ビチャっとしたんだけど……」

「輝、俺の半径五メートル以内の領海内に侵入した場合は、容赦無く虫除けスプレーで迎撃する」

 テルテルが驚きの声を挙げるのと、コタが虫除けスプレーを構えるのはほぼ同時だった。冷ややかな眼差しで虫除けスプレーを向けられたテルテルがワシの肩に腕を乗せる。

「うわっ、コタってばひどーい。ロック、聞いたー?」

「ううむ。皆、元気なのじゃ。ワシは荷物が重たくて、重たくて、ぐったりなのじゃ……」

 こういう場面で格好付けようとするとろくな目に合わないらしい。リキに張り合ったがために、ワシは重た過ぎる荷物に潰れそうになっていた。ヘロヘロになっているワシに気付いたのかコタが手を貸してくれた。

「仕方の無い奴だな。ほら、俺が半分持ってやろう」

「えへへ。ぼくも持たせて貰うねー」

 苦労無くして楽しみを得ることは出来ず。人の生き方と良く似た者だ。額の汗を拭いながら、ワシはそっと空を見上げてみた。木々に包まれた大自然の中。照り付ける日差しが眩しくて、ワシは思わず目を伏せていた。蝉達の鳴き声に混じって保津川の流れる涼やかな音色が聞こえて来る。それだけでも十分頑張れそうになる音色だった。

「この辺りは多くの人々が遊びに来る場所らしいな」

「お、さすがは太助。事前に調査済みという訳じゃな?」

「そんな御大層な物じゃ無いさ。相変わらずの無駄な知識だ」

 太助の言う通り、この辺りは夏になれば涼しさを求めて多くの人々が集まる。河原でワシらのようにバーベキューを楽しむ人も居れば、弁当を持参して楽しげに語らう家族連れもいる。釣りを楽しむ人達もいれば、やはり、定番とも言うべき、川遊びに興じる子供達の姿も見られた。川下りという選択肢もある。

「おーおー、ガキんちょ達の賑やかな声が聞こえて来たぜー」

「さぁ、俺達も頑張って歩いていこう。目的の清滝川までは、まだまだ相当の距離があるからな」

 額の汗を拭いながらワシらは再び歩き始めた。

 昼間は人も多く賑わいを見せる場所ではあるが、夜になれば人も少なくなる。まぁ、テルテルの行動に目を光らせておかないと、また、何処の心霊スポットに駆り出されるか判ったものでは無い。その点に関しては既に皆とは事前に綿密なる対策会議を重ねている。抜かりは無い。

 ひたすら歩き続け、ようやく清滝川に辿り着くことが出来た。京都から保津峡までの距離自体は大したことは無かったが、駅で降りてからの方が遥かに過酷だった。やはり、文明の利器に頼るばかりでは大自然と触れ合うことは叶わない。太古の昔の人々がそうしたように自分の足で歩くということ。それが、何よりも大自然と共に語らうために大切な『礼儀』と言えるのだろう。

 人の姿は見られなかった。ただ静かに流れゆく川の流れだけがそこにあった。周囲を木々達に囲まれていることもあり、吹き抜ける風は木々の香りを纏っていて実に心地良く感じられた。川の水も冷たいのだろう。先刻までの暑さも和らいだ気がする。

 岩肌が剥き出しになったゴツゴツとした風景は、大自然の力強さを感じるには十分過ぎるように感じられた。ワシはそっと澄み渡る青空を見上げながら額の汗を拭った。

 保津峡駅からの長い道中を歩んできたこともあり、中々に気持ちの良い汗をかくことが出来た。これだけ汗を掛けば川遊びが楽しみということになる。とは言え、今回の冒険を言い出したワシが、テントの設営をほっぽらかして真っ先に遊びに行くのも気が退けたので、先ずはテントを設営することにした。しかしながら、やはり、そこは皆気の良い仲間達なのだろう。「皆で手分けして取り掛り、手際良く片付けよう」というコタの一言で総動員で準備に当たることにした。何だかんだ言って昼食もまだということもあり、腹も減っていたので二手に分かれて準備に当たることにした。

 ワシとコタ、それから太助の三人でテントの設営に当たり、リキとテルテル二人で食事の準備に当たることにした。テルテルはあまり力仕事は得意では無いものの、料理には興味があるらしく、以前にも中々に見事な腕前を披露してくれたことがある。リキに色々と教えて貰ったのであろう。それならばということでリキと共に食事の準備をお願いすることにした。

 賑やかに騒いでいたワシらもやる時はビシっと決めるのだ。二手に分かれて皆の力を総動員すれば意外と手際良く片付いた。やはり、元々腕力の強いコタと太助に協力を依頼したのは正解だった。これがリキの場合だと要らぬ所に要らぬ力を使うから、どうにも話が可笑しな方向に突っ走る。有り余る力を全力でぶっぱなされるより得意な料理に力を注いで貰った方が、皆、幸せになれるというものだ。テントの設営を終えたワシらはリキ達と共に昼食準備を進めることにした。

「ねぇ、リキ。何でピクルスなんか用意しているの?」

「それはオレのだ。オレがきゅうり嫌いなの知っているだろ? それなのに、お前達が川できゅうりを冷やして食おうなんて言うから、なーんか悔しいからピクルス用意したっつー訳さ」

 好き嫌いの無いリキではあったが、唯一嫌いな食べ物がきゅうりだという話を以前聞かされた。どうも、あの匂いが苦手らしく、似たような匂いのするスイカや瓜の漬物なども苦手らしい。とは言え、しば漬けのきゅうりは平気だとか。事の詰まり、匂いと食感が変わってしまえば平気になってしまうのだろう。

「冷えたきゅうりに味噌付けて食うのは基本なのじゃ」

「何か、ロックって、シュミがオッサンだよね」

「オッサンじゃ無いのじゃー」

 テルテルと語らっているとリキが準備した大きな荷物を指差し、コタが皆を見回して見せた。

「さて。力丸、お前が苦労して持ってきたバーベキューセットの出番が来たようだな」

「おうよ」

 唐突に力強く胸を張ってみせるリキであったが、そのままビシっとコタを指さして見せた。突然、指をさされたコタが思わず怯む。

「っつー訳で、コタ、太助、二人で頑張って火を起こしてくれ」

「ほう? 俺に振るとは中々の目利きだな。よし、小太郎。匠の技を見せてくれよう」

「……何故、匠の技なんだ?」

 怪訝そうな表情でコタが問い掛ければ、太助は涼やかな笑みで受け流して見せる。

(この二人、これはこれで漫才コンビみたいなのじゃ)

「手始めにワシは野菜を刻んで串に刺しておくのじゃ」

「お、助かるねぇ。それじゃあ、ロック、よしなに頼むぜ」

 コタと太助の何とも言えない絶妙なやり取りを横目に、ワシはリキが用意してくれた野菜を刻み、串に刺すことにした。バーベキューの主役は確かに肉類なのかも知れないが、ワシはどちらかというと、こういう野菜のような立ち位置に居続けたいと考える。主役を影ながら支える名脇役。地味な役どころではあるが名作の影には必ず名脇役の存在がある。ワシはそう信じている。それに、ワシみたいなお笑いキャラには主役の座は似合わないと思うし、何よりも荷が重く感じてしまう。それにしても野菜を刻むという作業は、こんなにも物悲しくなるものなのだろうか?

「ううっ、涙が、涙が、止まらないのじゃ……」

「玉ネギを刻めば涙が出るのは仕方が無いだろう……」

(ああ、コタよ、ワシはそのツッコミを待っていたのじゃ!)

「ロック、一人上手している場合じゃねぇぞー」

「う、うるさいのじゃ!」

 色々な材料を手際良く混ぜ合わせながら、リキは大量の肉類の下ごしらえを行っている様子だった。にんにくを大量に使っているのだろうか? いかにも、元気の出そうな匂いが漂ってくる。

「何か本格的なのじゃ」

「へへっ、和食の基本を抑えていれば色々とアレンジ出来るっつーもんさ」

 こういう場面ではリキ存在が一際強い輝きを発する。やはり、料理上手なのは羨ましく思える。今度はワシも料理を教えて貰うとしよう。美味い料理を作れるようになれば旅館での料理にも使えるかも知れない。そんな野望を胸に抱きつつ、ワシは自分の指を突き刺さないように注意しつつ、野菜を串に刺していた。

「それにしても、随分と沢山用意してきたんだねー」

「おうよ。こういう場所での食事ってぇのは、普段以上に美味く感じるからな。それに、腹が減っては存分に遊ぶこともできねぇだろ? 折角だから、たくさん食わねぇとな」

「豚肉、鳥肉、牛肉に、ソーセージとかまで準備してきたんだね」

「へへ、何でも有りだぜ?」

 リキとテルテルの手に掛りすっかり下準備は済んだ様子に見えた。こうしてはいられない。名脇役、出番無くして潰えるの巻となるのは寂し過ぎるので、ワシはペースを上げて野菜を切り刻み、串に刺し続けた。野菜を次々と手に取っていると風変りな野菜が目に留まった。

「おりょ? これは……万願寺唐辛子なのじゃ」

 万願寺唐辛子を用意する辺り、リキも中々に通なことだ。そんなことを考えていると立派な米茄子が目に留まった。ワシはその米茄子を手にし、真ん中から切り分けた。切り分けたところで味噌を塗る。

(やはり、米茄子はみそ田楽じゃな。みそは少々甘目にした方が良いじゃろう)

「おー? ロックってば、何か、本格的なのを作っているねー」

「にゃはは、おかんの自慢の料理なのじゃ。皆にも、嵐山旅館の名物を振る舞うのじゃ」

「米茄子のみそ田楽かー。美味しそうだねぇ。えへへ、楽しみだなぁー」

 テルテルと語らっていると、何やら良い香りが漂ってくる。

「トウモロコシに醤油タレを和えて焼くのか。中々美味そうだな」

 背後からコタの声が聞こえてきた。拘り派のリキらしく色々な料理を用意したのだろう。何だか、段々と普通のバーベキューと比べると、手の込んだ料理が出来上がりつつあるが、それはそれで悪く無い。皆で好きなように焼きながら片っぱしから食いまくる。これぞ、青空の下での料理の醍醐味と言えよう。

 それにしても……炭火を起こしながら、火加減を適度に調整するコタと太助のコンビは、傍目から見ると、まるで職人みたいに見えた。頭に巻いたタオルと言い、顔中煤だらけにしている姿と言い、何だか妙に本職らしく見える。

「コタ達、何か目が怖いよね」

「うむ。妙に真剣過ぎて殺気さえ感じるのじゃ」

 小声で語らいながらも、二人のやり取りが面白くてつい見惚れてしまう。

「どんどん焼けてきたぞ。焦げないうちに取ってくれ」

「おい、力丸。肉が無くなって来たぞ。追加分を持って来てくれ」

「わはは。やはり予想通り、食が進むみてぇだな」

 リキの言葉に太助が静かな笑みで返す。

「バーベキュー如きと侮っていたが、流石、力丸の手に掛ると絶品に様変わりするな」

「へへっ、そんなに褒めると調子にのっちゃうぜ?」

 照れ臭そうに笑うリキに、コタも相乗りして返して見せる。

「否、本当に良い仕事をしている。これで、白い飯があれば最高だったな」

「なるほど、なるほど。うしっ、次回やる時はオニギリでも用意するとしよう」

「あー。それだったらさ、お米炊いちゃうのもアリだよね。きっと、こだわり派のリキだから土鍋とか用意しちゃったりして」

「土鍋かー。ほうほう、それも悪くないなー。へへ、今度は備長炭と併せて用意してくるな」

 本当に楽しい一時だった。自分達の手で食事を準備して好きなように食べる。腹も満たされるし、何よりも、こうして皆で力を合わせて何かを為し遂げるというのは本当に楽しいものだ。何時も以上に皆の笑顔も上々に感じられた。

「大地、そっちの肉も良く焼けているぞ。野菜を焼くのは俺達に任せてお前も食った方が良い」

「そうかのう? それではワシは、しばし食べることに専念するのじゃ」

 こうしてさり気無く気遣ってくれるコタがいて、涼やかに皿に焼き上がった肉を取り分けてくれる太助がいて、楽しそうに肉を焼くリキがいる。はて? テルテルは何処に行ったのだろうか? 姿の見えないテルテルが気になり、肉を口に運びながら周囲を見回す。良く見れば少し離れた場所で何やらゴソゴソとやっている後姿が見えた。鼻歌交じりに、何やら楽しげに振舞っている後姿に、ワシは戦慄を覚えずには居られなかった。

(今度は、何をやらかそうとしておるのじゃ? まさか、唐突に花火を突っ込んだりしないじゃろうな……)

 テルテルの場合、一般人の想像を遥かに超える行動をシレっと為してくれるのを考えると、不安を掻き立てられて仕方が無い。ワシが凍り付いた表情を浮かべていることに気付いたのか、皆もまたワシの目線の先を追い掛け、そして、予想通り、表情が一気に凍り付いた。さて、誰が最初に声を掛けるのだろうか? 緊迫した空気の中、リキが意を決してテルテルに声を掛けた。

「……なぁ、テルテル、何してるんだ?」

 震える声で問い掛ければ、満面の笑みを浮かべながらテルテルが振り返った。しかしながら、何かを仕掛けている様子は無さそうに見えた。取り越し苦労だったか? そんなことを考えていると、テルテルは空き缶を突き出して見せた。

「えへへ。見てみて。空き缶に油を入れてー」

 手にした空き缶に油を注ぐと、それを網の上に乗せて見せた。

「リキが持ってきた材料の中にカレー粉があったの見付けてね。ちょっと、ぼく流のアレンジだけど……これを油の中に投入しまーす」

 ぷつぷつと小さな気泡が出始めた油の中に、黄色い衣をまとった鶏肉を投入する。すると、軽やかな音を立てて鶏肉が芳醇なカレーの香りに包まれてゆく。どうやら余った材料でカレー風味の唐揚げを作ろうとしているらしい。

「おお。こりゃあ、何とも美味そうな匂いだな」

「えへへ。美味しく出来上がるかなー?」

 数分後には見事な味わいのカレー風味の唐揚げが出来上がった。

「わーい、出来上がりー。はいはーい、皆、食べて、食べてー。美味しかったら、もっと、作っちゃうからねー」

 即席とは言え、意外な腕前を見せたテルテルに皆が賞賛の声を捧げる。

「また、何か恐ろしいことをやらかすのかと、皆で冷や冷やしていたが、中々見事な腕前だな」

(……考えることは皆、同じなのじゃな)

「えー? ナニそれー?」

 皆の強張った表情など気にも留めること無く、テルテルがケラケラと笑い声を響かせる。

「コタってば、まるで、ぼくが問題児みたいな言い方だよね」

(イヤ、違うと言えるのかのう……)

 にこやかな笑顔交じりで返された一言に、皆が一斉に沈黙した。

「うわっ! 何で、皆、黙っちゃうのさー?」

「……自覚、していないのか? それはそれで色んな意味で恐ろしいな」

「え? 自覚って、何の話?」

「い、否……何でもない」

(テルテルは、やはり、人跡未踏の最終兵器なのじゃ……)

 そんなこんなで皆で楽しい一時を過ごした。

 すっかり腹も満たされたワシらは食後の後片付けを手際良く終えて川遊びに興じていた。やはり、この辺りは人里から遠く離れた場所だけに川の水も冷ややかで、何よりも透き通っているように思えた。皆で水着に着替えて、泳ぎ回ったり水を掛け合ったりして遊んだ。ワシが持参したビーチボールが意外に有効な遊具となったのはちょっと驚きだった。さすがに、ビーチバレーのように派手に動き回るにはゴツゴツとした石が痛過ぎて無理があったが、それでも、のんびりと遊ぶには中々に有効な手段となった。

 川遊びで涼んだところで、コタと太助が周辺の森の中を散策してみないか? と提案してくれた。この辺りは大自然も豊かな場所だ。日も次第に傾き、段々と夕方に差し掛かって来た。賑やかな蝉達の声を追い求めながら涼やかな森の中を歩き回るのも悪くは無い。満場一致で今度は森に足を運んで周囲を散策してみたりもした。本当に楽しい一時だった。目一杯遊び終える頃には辺りもだいぶ薄暗くなって来た。

「さて、そろそろテントに戻るとしよう。夕食の支度もしなければならないからな」

「そうだな。辺りもだいぶ薄暗くなって来た。完全に陽が落ちれば辺りは闇に包まれる。周囲の様子が判らなくなる前に戻った方が賢明だな」

 こうしてワシらは再び森から川へと向かい、来た道を引き返すことにした。やがて訪れる夜の闇。人の築き上げた文明から遠く離れた場所で過ごす一夜。いよいよ、本格的な大冒険の様相にワシらの興奮はさらに高まろうとしていた。さて、一体、どんな一夜になるのか。本当に楽しみに感じられた。

◆◆◆61◆◆◆

 夜になれば辺りは漆黒の闇夜に包まれる。光源となる物は夜空に浮かぶ月だけだった。穏やかな月明かりだけが照らし出す川の流れの畔で、ワシらは焚き火をしながら夕食の準備を進めていた。リキが色々と準備してくれたお陰で色んな物を作れる。バーベキュー用の金網を今度は鉄板に変えて夕食の準備を進めていた。

 鉄板の上でワシはテルテルと共に豚肉を焼いていた。再びコタと太助が火を起こす中で、ワシらはキャベツやらモヤシやら色々な野菜を炒めていた。シンプルに焼きそばを作るというのも、これはこれで中々に楽しいものである。そんなワシらを後目にリキは一人、黙々と山芋を摩り下ろしていた。

「とろろそばってあるけどさ、とろろ焼きそばってどうなんだろうねー?」

「むう……。幾らなんでも、そんな奇抜な料理を考えては居らぬじゃろう」

「それもそうだよねぇ。ああ、ロック、お肉も野菜も良い感じに焼けてきたんじゃない?」

「ふむ。それでは、そろそろ焼きそばを投入するのじゃ」

「はいはーい。任せて置いてー」

 涼やかな川の流れる音に混じって、ワシらの話声と料理をする音だけが響き渡る。時折、明かりも兼ねての焚き火に虫達が集まってくるが、それもまた大自然ならではの光景。さすがに、焼きそばに虫が入るのは困るが、それ程、飛び回る虫達は多くは無かった。むしろ、周囲の森から響き渡る涼やかな虫達の鳴き声と、時折混じるカエル達の声が心地良く感じられた。いかにも夏の夜といわんばかりの情景に、ワシは気持ちが穏やかになってゆくのを感じていた。

「お? 焼きそばも中々に美味そうに仕上がって来たなー。へへっ、ソースは力丸様が直々に作り上げたから、期待しちゃってくれよなー」

「へー。焼きそばのソースまで自前だなんて、リキってばホント、料理上手だよね」

「まぁ、本職を目指している身だからな。人より美味く作れてなんぼってな話だな」

 何やら大きな鍋を運んできたが、これは一体何を作ろうとしているのだろうか? 興味津々に覗き込んで見せれば、リキが自慢げに微笑んで見せた。

「へへっ、この鍋の中身が気になるだろ? お好み焼きの生地を作っていたんだ。キャベツとか天かすとか土台になりそうな物は色々と入れてあるから、後は好きな具材を乗っけて焼くだけだぜ」

「ほう? 先程の山芋はお好み焼きの生地に使った訳か」

「おう。さすがは太助。良く判ったな」

「ああ。うちの婆ちゃんが作る時にも、同じようにしていたからな。山芋を入れると生地が柔らかく仕上がるから、食べた時の食感も良くなる」

 なるほど。お好み焼きに入れるとは、これは意外な発見だ。家に戻ったらおかんにも教えてやるとしよう。そんなことを考えながらも、すっかり美味しく仕上がった焼きそばを、ワシは大皿に移すことにした。

「皆よ、焼きそばが完成したのじゃ。ささ、熱いうちに食べると良いのじゃ」

 出来たての焼きそばを頬張りつつも、各自の想い想いの材料を乗せて、今度はお好み焼きを焼き始めていた。やはり、皆で力を合わせて料理を作るのは楽しい物だ。

 辺りは光すら差し込まない暗闇に包まれていて、ワシらの周囲から少しでも離れれば全く何も見えない状況に陥る。とは言え、今更何処かに移動する必要も無いし、精々、用を足したくなった時に移動する位だろう。それでも、この辺りは人の手の入らない大自然だ。夜空に瞬く満天の星空も月明かりも、十分に辺りを優しく照らし出してくれる。大自然がもたらす明かりというのも悪く無い。何よりも心地良く感じられた。

「うーん、この焼きそば美味しいね。何だろう? 香辛料が効いていて香りが良いよね」

「ああ。一風変わった風味ではあるが、これは中々に食が進みそうな味だ」

「へへっ、力丸様直伝のソースを気に行って貰えて光栄だな。このソース、お好み焼きにも使えるから、是非とも使ってくれよな」

 こういう場面は完全にリキの独壇場と化す。その腕前を考えれば、ワシを含め皆、有難く感じていることは間違いない。やはり、こういう屋外に遊びに出た際には料理上手なメンバーが居るとそれだけでも十二分に盛り上がるというものである。

「しかし、満天の星空と月明かりの下、涼やかな川の流れを聞きながらの一時とは、中々風情があって悪く無い物だな」

 しばし姿を見掛けなくなっていた太助であったが、何時の間にか、その手には使い慣れた雰囲気の三味線を抱えていた。

「ほう? 三味線とは中々に渋いシュミであるな」

「婆ちゃんが良く弾いているのを見て、俺も教えて貰ってな。慣れると中々に面白い物だ」

「この風景に三味線で弾き語りとは、雰囲気が出るな」

「まぁ、キャンプだったらギターの方が合うのだろうけど、生憎、俺はギターには縁が無くてな。賢兄ならば華麗な腕前を披露してくれるのだけどな」

「えー、三味線も格好良いよー」

「まぁ、ズブの素人の演奏だ。少々調子外れな音でも大目にみてやってくれ」

 静かに構えると太助はそっと三味線を奏で始めた。流れるような指裁きで奏でられる音色に、思わず皆、言葉を失っていた。静かな夜の風景に透き通る音色が染み渡ってゆく。お好み焼きの面倒を見つつも、リキもしばし時を忘れて聞き入っていた。皆、言葉を出すことさえ忘れて太助の見事な腕前にすっかり聞き入っていた。

 虫達の鳴き声、川の流れる音、それに、時折、遠く列車が駆け抜ける音。様々な音に重なり合うように響き渡る三味線の音色が何とも心地良く感じられた。一曲弾き終えた所で、太助がそっと皆にお辞儀をして見せた。

「太助、凄いのじゃー」

「うん、こんなに上手だなんて、凄いよねー」

「とても素人と呼べる腕前では無かったな」

「楽器が弾けるってのも格好良いもんだなぁー。オレも何か挑戦してみたくなったぜ」

 皆に褒め称えられて、珍しく太助が照れ臭そうに笑っている姿を目にすることが出来た。「まだまだ未熟な身だ」と口にして見せた謙遜さえも、格好良く見えてしまうから何ともずるい男だ。そんなことを思いつつも、すっかり皆の目から遠ざけられてしまったお好み焼きをワシはせっせと裏返していた。

(にゃー! 放置プレイしていては、お好み焼きが焦げ焦げになってしまうのじゃー!)

「ささ、皆よ、お好み焼きが良い感じに焼けたのじゃ」

「こっちに力丸が用意してくれたかつお節に、青のり、その他色々とある。各自、好きなように使ってくれ」

 傍らではコタも一緒にせっせと皆の皿にお好み焼きを取り分けていた。ワシらも出来上がったお好み焼きを食べながら静かに空を見上げていた。

「それにしても、ここは星が綺麗だな。街中にいるとあまり鮮明には見えない星空も、人の手の入らない場所では良く見える」

「うむ。そうじゃな」

「これで蛍でも舞っていれば最高の景色なのだが――」

 そう、口にしながらコタは周囲を見回してみた。辺りは静まり返っている。聞こえて来るのは虫達の鳴き声と涼やかな川の流れる音色だけだった。

「まぁ、それは高望みし過ぎというものだろうな」

 コタは可笑しそうに笑って見せた。でも、確かにコタの言う通り、月明かりを受けて穏やかに煌めく川の流れに蛍が舞っていれば、これ以上無いくらいに幻想的な光景になることであろう。とは言え、古き時代には多く生息していた蛍達も、人の手が入り込んだがために住む場所を奪われてしまったのもまた目を背けてはならない事実なのだろう。

 嵐山の大自然を歩んでいると時々考えさせられることがある。殊、ワシは大自然との関わりの深い身だからこそ余計にそう思うのかも知れないが……木々も、草花も、皆、見返りを求めずにワシらに多くの物を与えてくれている。イヤ、彼らはそんなことを考えて生きている訳では無いのかも知れないが、少なくてもワシにはそう感じられる。だが、その一方で、ワシら人は一体何をしてやれているのだろうか? ワシらは奪うだけの存在。多くの動植物が生きてきた領土に土足で踏み入り、好き勝手に破壊してゆく一方だ。そのくせ、人の領土に入り込んでくる野生動物達には容赦無く牙を向ける。道具という名の武器を使い、何のためらいもなく彼らを抹殺出来る。

「大地の気持ち、俺も良く判る」

 ワシの考えに同調してくれるのか、太助が静かに微笑んで見せた。

(はて? おかしいのう? ワシは心の中では喋ったが、口に出して語った訳では無いのじゃが? ふむ。これが以心伝心という奴じゃな)

「人という生き物は本当に傲慢な生き物だ。自分達が生態系の頂点にでも立っているのだと、実に素敵な勘違いをしている」

 流れゆく清滝川に目線を投げ掛けながら、太助がぽつりと呟いて見せる。

「だが、実際のところ、人は大自然の前には無力で非力な存在だ」

 ワシらの会話に興味を示したのか、皆も会話に加わってきた。

「そうだよね。今もほら、こうして皆で集まっているし、色々と準備もしているし、火も焚いているから光がある。でも、こうした道具が無ければぼく達は何にも出来ないものね」

「荒野に丸腰の状態で放たれたとしたら、その状態で大自然を生きる動物達に叶う人など殆ど居ないに等しいだろう。人はどこまでも無力な存在だ。もっとも、その無駄な浅知恵を持ってしまったために、今の俺達があるだけのことだ」

 皆の話に耳を傾けながらも、リキは相変わらずせっせとお好み焼きを焼いている。

「オレ達ってさ、生きているんじゃねぇんだよな。今は穏やかに流れている清滝川だってさ、大雨でも降って氾濫した日にゃあ、オレ達なんか一瞬で呑まれちまうもんな。結局、オレ達はただ生かして貰っているだけなんじゃねぇかなぁって思うんだよな」

 ワシらは何時も、何処か浮いた存在として周囲に見られる。こうした物の考え方をするのは何とも珍しく見えるのだろう。哲学的というか、どこか宗教的な価値観を持っているように見られてしまう。ワシらの年で大自然と共に生きるという考え方を持っているのは相当に不思議に見えるらしい。確かに同年代の連中と比べるとワシらは古典的というか、少々風変りに見えるのかも知れない。太助の言葉では無いが、もしかすると、ワシらは産まれてくる時代を間違えたのかも知れない。もっとも、ワシらからしてみれば、自然回帰の思想がそれ程珍しいものなのだろうかと思うのだが。

「ぼく達って、やっぱり良く似ているんだろうね」

「おう。だから、こうして何時も一緒にいるんだろうな」

「皆、大自然と共に歩むことに心地良さを覚える身だからな」

「そして、人の作った文明を拒む身でもある。まぁ、こういう性分だからな。確かに周囲からは変わり物扱いされるだろうな」

 太助の言葉に皆、静かに微笑んで見せた。

 皆、それぞれに違った道を歩んできた。だが、その道を歩む中で互いに惹かれ合い、こうして一つの道を歩むようになったのだから縁という物は中々に不思議なものである。

「ワシらは川のようなものじゃな」

「ぼく達が川?」

「うむ。そうなのじゃ。違う場所を流れていた川はやがて旅の途中で出会う。そして、合流して、一つの流れになって、また、流れてゆくのじゃ。そして、流れ流れて、最終的には大海原で合流するのじゃ」

 ワシの言葉に皆、それぞれ個性ある反応を見せてくれた。嬉しそうに笑うテルテルに、ワシの肩に腕を回して見せるリキ。照れ臭そうに空を見上げるコタに、腕組みしながら穏やかな笑みで皆を見回す太助。皆違う個性で、皆それぞれの道を歩み、こうして一つの流れになることが出来た。だからこそ願う。この幸せな時が永遠に続くことを。

「なぁ、皆。オトナになってもさ、オレ達、ずっと一緒に居ようぜ!」

「相変わらず暑苦しい奴だな」

 コタが何時ものように済ました顔で返せば、太助がコタの肩を抱いて見せる。

「口ではそう言うが、実際の所、そういう暑苦しさ、嫌いじゃ無いんだろ?」

「……お前もな?」

「ああ。俺は嫌いじゃ無いさ」

 太助が皆の表情を見回しながら続ける。燃え盛る火の粉がふわりと舞い上がり、夜空に蛍のように散ってゆく。皆の顔も煌々と燃え盛る炎に照らし出されて普段とは違って見えた。皆の顔を見回しながら太助が続ける。

「熱い友情、何時までも大事にして生きたいと思っている」

「えへへ。ぼくも、皆と一緒に過ごす時間、本当に楽しいし、大切な時間だと思う」

「ワシもなのじゃ!」

「へへっ、何だよ? 皆、暑苦しい野郎共じゃねぇかよ?」

「ああ。俺達は暑苦しくて、むさくるしい男集団さ」

 涼やかな笑みを称えながら放たれたコタの言葉に、皆で思わず顔を見合わせて笑った。俺は違うだろ? いや、オレだって違うだろ!? えー!? ぼくはその中に入って無いよねー!? 本当に沢山笑った。皆、皆、本当に大切な仲間だ。そう……ワシの大切な家族なのだから。

 あの後、結局皆で夜更けまでずっと、くだらないトークに盛り上がっていた気がする。でも、本当に楽しい一夜だった。また、あの日と同じように皆で楽しく過ごしたい。心からそう願っている。イヤ、今でも、ずっと、ずっと、そう願い続けている。

◆◆◆62◆◆◆

 再び現実に帰って来たワシはゆらゆらと揺れ動くろうそくの炎を見つめていた。何時の間にか、リキもまた温かな笑みを称えながらろうそくの炎を見つめていた。

「今年もさ、さっさと騒動を片付けちゃって、皆で清滝川行こうぜ」

「そうじゃな」

「お! へへっ、良いこと思い付いちゃったぜー」

 リキが嬉しそうに笑いながらワシの反応を窺う。やはり、リキの豪快な振舞いには救われる。沈み切った心を力一杯持ち上げてくれるのは、本当にありがたいことだ。

「清滝川でのキャンプも悪くねぇけど、亀岡の湯の花温泉に行くっつーのも悪く無いと思うぜ」

「おお、そうじゃな。行きたいのじゃ」

「違うだろ」

 リキがにやにや笑いながら腕組みしてみせる。

「へ?」

「行きたい、じゃ無くて、行くんだよ。オレ達皆でさ」

 そうだ。行きたいでは無いのだ。皆で行くのだ。これしか無かった。だから、こんな可笑しな事件、一刻も早く片付けるだけだ。ワシは静かに揺れるろうそくの炎を見つめながら、熱い想いを馳せていた。

  皆、無事だろうか。次々と浮かんでくる皆の顔を思い浮かべながら、ワシは胸が締め付けられるような想いを抱いていた。そんなワシの想いに呼応するかのように、何者かがワシの耳元で静かに囁き掛ける。

『さぁ、思い出せ……お前と共に歩むことを願う者達が、じきに訪れる』

 慌てて振り返った瞬間、頭が割れんばかりの鮮烈な痛みに襲われ、ワシはその場に崩れ落ちた。声は尚も畳み掛けるように語り続ける。

『それとも、またしても無責任に追い払うか? 無責任に忘却するか?』

『お主の手で多くの者達の魂を打ち砕くだけの覚悟があるならば止めやせぬ。だが、お主は一生、その業を背負って生きてゆくことになろう』

『さぁ、さぁ、どうなさりますかな、大地殿?』

 畳み掛けるように語り掛ける四人の声に、確かに聞き覚えがあった。ワシは痛みに堪えながら必死で立ち上がった。

「お、おい、ロック、大丈夫か!?」

「……奴らが来たのじゃ」

「奴らだって?」

 リキが驚いたような声を挙げるのと同時に、ワシらの目の前に蛍のような光を放つ四つの球体が舞い降りてきた。そのまま光を放つ球体は四人の坊さんへと姿を変えた。

「うぉっ!? ど、どうなっているんだ!?」

『嵐山の地は、元来、死者達が眠る安息の地になるべき場所。それを、享楽に塗れた街並みに塗り替えるなど許されることではありませぬ。ささ、大地殿、この地のあるべき姿をご覧になられると良いでしょう』

『古き時代より連綿と受け継がれしこの地の真実、お主の目でしかと見届けるが良かろう』

「ようやく姿を見せやがったな! この腐れ坊主が! オレがぶっとばしてやるぜ!」

「リキ! 早まるで無いのじゃ!」

 殴り掛ろうとしたリキの腕を、錫杖を手にした坊さんは片腕で軽々と受け止めて見せた。

「……愚かな。力とは人を守るためにこそ使うべきもの。人を傷付けるために使う物ではあるまい」

「うるせぇ! 偉そうに講釈垂れてんじゃねぇよ!」

 静かに坊さんが何かを呟くのが聞こえた。次の瞬間、突然、天井から激流が流れ落ちてきた。激しい水の流れに押し流されて、リキが弾け飛ばされた。

「うぉっ!?」

「い、いきなり水が!?」

「……周囲を良く見てみるが良い。お主らが居る場所は、さて、何処であろう?」

「何じゃと? 此処は……!」

 見間違えるハズも無かった。一体、どんな手を使ったのかは皆目見当付かなかったが、ワシらは確かに、あの時、皆で語らった清滝川の畔に佇んでいた。穏やかな月明かりに虫達の鳴き声。時折混じる蛙の声に、今まさに通り過ぎていった列車の音。あの日と何ら変わらない光景がそこに、確かに存在していた。

「清滝川の源流たる保津川は何度となく氾濫し、その度に多くの命を呑み込んできた」

 錫杖を手にした坊さんが静かに語りながら、ワシにゆっくりと歩み寄って来た。

「ひ、ひぃっ! ち、近寄るで無い!」

「大地よ、何をそんなに畏れて居る? 我らはお主に危害を加える存在では無い。ただ……お主に、迷える死者達を救って欲しいと願っているだけだ」

「だ、黙れ! 黙れ! 散々、訳の判らないことをして、ワシの家族まで人質に取り、その上、まだそのような意味不明なことを口走るか!? 何が救いじゃ! そんなもの、ワシは知らんのじゃ! つべこべ抜かすなら、お前を殺してやるのじゃ!」

 怒りと恐怖にすっかり我を見失ったワシは、あろうことか、燃え盛る炎のような怒りを叩き付けていた。坊さんは口元を寂しそうに歪めながら、静かに首を横に振って見せた。

「……穏便に話を済ませようとしておるのに、そのような態度を見せるとはな。少し、頭を冷やした方が良さそうであるな。どれ、大自然の真の恐ろしさを教えてくれよう」

 坊さんは錫杖を打ち鳴らしながら、何やら経文のような物を力強く唱え始めた。その声に呼応するかのように辺りが激しく揺れ動き始めた。

「おいおい! 今度は何が起こるんだよっ!?」

「な、なんじゃと!?」

 信じられない光景だった。地響きを立てながら流れ込んできたのは、信じられない程に増水した川の流れであった。鉄砲水とでも言うのだろうか? 一気に水かさが増してゆき、それに呼応するかのように川が激しい濁流となり、ワシらを呑み込まんばかりに叩き付けてきた。

「だ、誰か! 助け……ごぼごぼっ……」

 必死で救いを求めようと手を伸ばしたが、もはや、どうすることも出来なかった。土や木々の葉、砂利を孕んだ水が口から勢い良く流れ込んでくるばかりだった。必死で息を吸おうと試みるが、流れ込んでくるのは水ばかりだった。涙が毀れてきた。

(イヤじゃ! ワシは……ワシは死にたく無い! イヤじゃ! ワシを! ワシを一人にしないでくれなのじゃーっ! 皆と、皆と、バーベキューするのじゃ! 亀岡の湯の花温泉に行くのじゃ!)

『死にたく無い!』

『嫌だ! 誰か、誰かーっ! 助けて!』

『お母さーん』

(ひ、ひぃっ! わ、ワシを引き摺り込む気か!? 止めるのじゃ!)

『冷たいよ……冷たいよ……』

『寒い、寒い……。此処は、本当に寒い。だから、温めて……』

(嫌じゃ! ワシは……ワシは死にたくないのじゃーーっ!)

 必死だった。流れゆく水の中から次々と伸びて来る細い無数の手。氷よりもなお冷たい手に触れられる度にワシの体温が奪われてゆく。イヤ、ワシの命が奪われているのだろう。

(ワシに……死者達の『糧』になれと言うのか? 冗談じゃ無いのじゃ! 命尽きた奴らのことなど知ったことでは無いのじゃ! ワシは生きているのじゃ! ワシは……ワシは……お前達が何人死のうが、知ったことでは無いのじゃ! ワシの大切な、大切な、仲間達を、家族達を、奪わないでくれなのじゃーーーっ!)

 やがて、ゆっくりと視界が白々と染まっていった。もう、指を動かすことすら出来なくなっていた。手足の感覚はとうの昔に失われ、瞬きさえ出来ない程に力を奪われた気がする。

(このままワシは死んでしまうのじゃろうか? 嫌じゃ。生きたい。もっと、生きていたい……)

 ワシの物語は此処でお終いなのだろうか? そんなの、そんなの嫌だ……。

◆◆◆63◆◆◆

 叩き付けるような雨の音が聞こえて来る。生温い雨粒が容赦なく体に叩き付けられてゆく。泥臭さを感じながらワシは静かに目を開けてみた。今度こそワシはあちら側の世界に足を踏み入れてしまったのだろうか? もしも、そうなのだとしたら、もう、皆と語らうことも出来ないのだろうか。

 どうやら、地面に突っ伏した状態で倒れているらしい。妙に冷静に自分の置かれている状況を振り返りながら、ワシはそっと手に力を篭めて置き上がってみた。

 空を覆う厚みを帯びた鈍色の雲だけが広がる中、雷鳴が轟き、雨が叩き付けるように降り注いでいた。この世の終わりのような空模様の下、ワシは静かに空を見上げていた。周囲を見回してみたが荒涼とした景色が広がるばかりだった。木々は乱暴に押し倒され、家々の残骸と思しき物がそこら中に散乱していた。辺り一面、泥と土砂に塗れている。数多の人々が息絶えた残骸だけが広がっている。一体、何が起きたというのだろうか? 大きな災害が起こったとしか思えない情景が目の前に広がっている。ワシはその荒涼たる光景を、ただ呆然と見つめることしか出来なかった。

(一体何が起きたのじゃ? 辺り一面泥と砂に塗れておる。木々まで倒れているとは……大規模な河川の氾濫でも起きたのじゃろうか?)

 古めかしい家々の様子から察するに古き時代に起こった惨劇の後なのだろうか? ワシは周囲を見回しながら慎重に歩いていた。土砂に飲まれた人を……恐らく、生きていないであろう人を、うっかり踏み付けてしまうことの無いように細心の注意を払いながら。

(酷い状況なのじゃ……。どれだけ激しい水の流れに押されたのじゃろうか?)

 普通の雨ではこれ程までに激しい被害が起こることは考えられなかった。恐らく、豪雨などと呼べない程に激しい雨が降ったのだろう。川の上流で水位が急激に上昇すれば、川の流れは激流と化して、何もかもを呑み込む程の威力を為すだろう。

 考えながら歩いていると、不意に背後から琵琶をかき鳴らす音色が響き渡った。聞き覚えのある音色にワシは慌てて後ろを振り返った。

「ようこそ、私が生きた時代へ」

「お前は!」

 怒りに我を見失い、思わず襲い掛かろうとしたワシに向けて、坊さんは静かに琵琶をかき鳴らして見せた。哀しげな旋律が惨劇に襲われた嵐山の街並みに静かに染み入ってゆく。何とも哀しみに満ちた音色であった。琵琶をかき鳴らしながら、そっと、坊さんは饅頭笠を取り去って見せた。

「なっ!?」

 年老いた坊さんの顔を見たワシは驚かされた。慈悲深さを称えた表情ではあったが、坊さんは目が見え無かった。盲目でもあるに関わらず、杖も手にせずに立ち振る舞えるとは。とは言え、目の前にいるのは只の坊さんでは無い。

「我が名は風葬地の裁定者が一人、雨乞いの琵琶法師! さぁ、大地殿、私が歩んできた道をお見せしましょう。人を救うとは一体どのような行為であるか、そこに、どれだけの想いを、覚悟を篭めることが出来るか! 我が想い、迷える亡者達が叫び、その身で見事受け止めて御覧なさいっ!」

 坊さん……イヤ、雨乞いの琵琶法師は激しく琵琶をかき鳴らしながら歌声を轟かせて見せた。その声に呼応するかのように、次々と、辺りから人々の断末魔が染み出してきた。

「嫌ーーっ! 死ぬのは嫌!」

「ごぼごぼ……苦しいよ! お母さーん!」

「痛いよ! 痛いよ! 誰か……誰か、助けてっ!」

 断末魔の悲鳴はそこら中から響き渡っていた。今にもワシに襲い掛からんばかりの叫び声に、ワシはただ逃げ惑うことしか出来なかった。逃げ惑うワシの足を掴もうとする手が次々と地面から飛び出してくる。

「ひぃっ!」

 結局、ワシは非力で、無力で、口先だけの奴に過ぎなかった。ただ逃げ惑うことしか出来ない臆病者なのだ。逃げて、逃げて、ただひたすら逃げ伸びることしか出来ない弱虫で、泣き虫で、口から出まかせな奴で……。でも、皆のことを家族だと思っている気持ちにウソも偽りも無かった。

(どうすれば良いのじゃ? ワシは! 結局、どうすれば良いのじゃ!)

 追い掛けて来る断末魔の悲鳴と、無数の手からワシはひたすら逃げ続けていた。何時の間にか、辺りはうっそうと茂った木々に包まれた場所になっていた。何がどうなっているのか、さっぱり理解不能だった。おまけに段々と暑くなってきたような気がしてならなかった。

(い、一体どうなっているのじゃ? 段々、明るくなって来たような気がするのじゃが……)

 森の中を駆け抜ける細く長い道をワシは無我夢中で走り続けていた。

 何時の間にか強い日差しを浴びながら、蝉達の鳴き声が響き渡る様を肌で感じていた。言うなれば、突然夜が明けて、そのまま真昼のまっ只中に飛び込んだような状況に陥っていた。一体、何がどうなっているのかさっぱり意味不明だった。おまけに、視界の先には、確かに、生きている人々の姿も見られた。家々も無残に破壊される前の姿を保っており、ますます意味が判らなくなっていた。

(今度は一体何が起きていると言うのじゃ?)

 移り変わる情景に着いていけずに、ワシは思わず膝から崩れ落ちた。何時の間にか森を抜け出たワシに猛烈な日差しが突き刺さる。余りの眩しさに目を開けて居られない程であった。その上、桁違いな暑さだった。夏になれば相当暑くなるが、これ程までに激しい暑さは初めてのことだった。遠く、視界の先では余りの暑さからなのか、目に映る景色がゆらゆらと揺らいで見えた。

(家々の感じから察するに随分と古い時代のように感じられるのじゃ。此処は、嵐山なのじゃろうか?)

 そんなことを考えながら、周囲を警戒しつつワシは歩き回ってみた。歩き回るに連れて周囲が異様な状況に陥っていることに気付かされた。

 田畑に植えられた農作物達は日干しになってしまったかのように萎れていて、中には無残に枯れ果てている物さえも見受けられた。

「何時まで続くんだろうねぇ、この日照り」

 不意に背後に人の声を受け、ワシは慌てて振り返った。そこには忌々しげに空を見上げる人々の姿があった。

(い、何時の間にワシの背後に?)

「もう、何日も、何週間も雨が降っていない。このままでは農作物が全滅だ……」

「また、飢饉が訪れてしまうというのか? また、食い扶持を減らさねばならぬのだろうか……」

「天はワシらを見捨てたのか? ああ、頼む。雨よ、降ってくれ。このままでは村人達がまた、大勢死ぬことになってしまう」

(……ワシの姿は見えて居らぬ様子なのじゃ)

 飢饉――その言葉自体を知らない訳では無かったが、実際に、日常生活の会話の中で、その言葉が使われるのを耳にするのは初めてのことなのかも知れない。

 物が満ち足りた現代社会では飢饉という言葉とは無縁な生活を送っている。何か欲しい物があれば何処にでも二十四時間営業しているコンビニがある。ネットでは簡単に欲しい物が注文出来るし、食事をしようと思えば幾らでも飲食店だって存在している。古い時代には存在しなかった文明が至る所に根を生やしている。だから、農作物だって季節を問わずに生産可能な時代になっている。だが、古き時代にはそういった文明は存在していなかった。だから、自然との一騎打ちとなる生活から逃れることは出来なかったのだろう。

「おーい! みんなー!」

 考え込んでいると、不意に一人の若者が駆け込んできた。何事かと皆が一斉に若者に目を向ける。若者の少し後ろを歩く坊さんの姿を目にしたワシは、思わず、その場に凍り付きそうになってしまった。

「あ、雨乞いの琵琶法師!? な、何故、此処におるのじゃ!?」

 イヤ、良く考えればワシが目にしているのは、恐らく『生前』の彼の姿なのであろう。情鬼に成り果ててしまう前の、未だ人であった時代の彼の姿なのであろう。

「旅の坊さんらしくてな。嵐山の日照り続きの話を耳にしたそうで、少しでも、何か出来ることが無いかと立ち寄ってくれたらしい」

「ご覧の通り、私は琵琶を弾くことしか能の無い身で御座います。それでも、少しでも、日照りに苦しむ貴殿らの心に灯火をもたらすことが出来れば幸いと想い、こうして、立ち寄った次第に御座ります。そんな訳ですので特段の持て成し等、お気使いは無用で御座ります」

 琵琶法師は穏やかな笑みを称えたまま、深々と頭を下げて見せた。ささくれ立った村人達も皆、穏やかな笑みを浮かべる琵琶法師の振舞いに心を動かされたのか、皆、表情が穏やかになったように感じられた。

(雨乞いの琵琶法師は何故、ワシに生前の姿を見せて居るのか? 解せぬのじゃ……)

 だが、この場から抜け出すことも出来ない以上、成り行きに身を任せるしか無かった。リキの安否が気に掛っていたが、幾ら気を揉んだ所で、この場から抜け出せない以上はどうすることも出来ない。それならば、成り行きに任せる他、道は残されていないのだろう。

 それにしても尋常では無い暑さだ。蝉達の声もそこら中から割れんばかりに響き渡っている。夏の時期、これだけ暑い日ならば雨雲が発達しない訳が無かった。嵐山でもこういう暑い日には雲が発達し、夕暮れ時には雷を伴った激しい夕立に見舞われることも少なく無かった。それにも関わらず雲の欠片さえ見当たらないとは、異様な空模様に感じられた。容赦無く照り付ける日差しは強く、みるみるうちに肌が赤々と熱気を帯びてゆく。

「ほんの僅かな時間でこれ程までに日焼けしてしまうのじゃ。農作物達に取っては、これでは生き伸びることなど不可能であろうに……」

 日照りが続けば農作物は死に絶えてしまう。そうなれば収穫を迎えることが出来なくなる。食べる物が失われる。結果、飢饉と呼ばれる事態に陥る。想像しただけで恐ろしい話だ。ワシらが生きている時代では当たり前のように食事をすることが出来る。腹が減れば簡単に食べ物は手に入る。飢饉という言葉とは程遠い暮らしを送ることが出来ている。でも……古き時代には、そうした事態に陥った際の対抗策など無いに等しかったのだろう。

(飢え死にとは壮絶なのじゃ。空腹の辛さは良く判るのじゃ。じゃが、そうなった時に何も食う物も飲む物も無い。一体、どんな辛さなのじゃろうか? ワシには、とても、想像出来ないのじゃ)

 何時の間にか琵琶法師が歩き出していた。村の中を見て回ろうとしているのかも知れない。ワシが生きている時代よりも遥かに昔の時代の風景。どこに何があるのかなど皆目見当もつかない。確かに、ここは嵐山なのだろうが、今、ワシがいるのはどの辺りなのだろうか? 何か目印になる物は無いだろうか。そう考えた時に、不意に一つの考えが浮かんできた。そうだ。古き時代から寺社仏閣は存在していたハズ。いずれかの寺社仏閣を目にすることが出来れば、何処に居るのかはおおよそは予測できるはず。そんなことを考えながらワシは雨乞いの琵琶法師の後を追った。

「ふむ。話に聞いていた以上に酷い有様だな。せめて雨を降らすことが出来れば村を救うことも出来るかも知れぬ。だが、空には雲一つ見られない。さて、どうしたものか……」

 険しい表情を浮かべながら考え込む琵琶法師の言葉に、ワシもまた憂いを覚えていた。雨が降らなければ土地は渇いてゆくばかりだ。水の失せた水田には縦横無尽に亀裂が走り、畑の土も乾燥し切っていて、そっと触れてみれば砂のようにサラサラと崩れ落ちる。これでは、とても農作物は生きることは出来そうに無い。それに、この日照りでは山に生きる野生動物達も食料に飢えていることだろう。人里に出てきて人を襲わないとも限らない。悪いことは連鎖するものだ。

「しばしの間、雨が降り続いてくれれば、もしかしたら事態は好転するかも知れない」

 空を見上げたまま静かに琵琶法師が呟くのが聞こえた。やはり、ワシの姿は見えないらしく、こちらには目線さえ向けることは無かった。

「雨乞いの儀……私に為し遂げることが出来るだろうか?」

 最後は祈るしか無いということか。溺れる者は藁をも掴む。確かに、突拍子も無い話ではあったが、誰だって好んで死を受け入れる訳が無い。命ある以上、生きたいと願うのは当然のことだ。それに古き時代は現代社会と異なり、神仏への信仰も厚かったと聞く。現代社会を生きるワシらからしてみれば神頼みなど非科学的であり、何の根拠も無い、突飛な行為としか見えないのかも知れない。でも、それでも、人を救いたい、誰かの役に立ちたいと切に願う琵琶法師の想いには共感を覚えた。方向性こそ違うが、そこには、お持て成しの心と通じる想いが在るように感じられた。

「私の祈りが届くことを、ただ切に願うばかりだ……」

 静かに呟くと琵琶法師は静かにその場に腰掛けて見せた。一呼吸、間を置いてから静かに琵琶をかき鳴らし始めた。琵琶の音色に乗せるように聞いたことも無い唄を口ずさみ始めた。恐らく、唄というよりも、見えざる土地神達に語り掛ける祈りのようなものであったのだろう。どこか、経文のような旋律が肌に染み入るような感覚を覚え、ワシもまた心を動かされつつあった。

「過去に起きた出来事……。そこに、ワシなどが祈りを重ねてみても何にも成らぬかも知れぬ。それでもワシも願う! 土地を守護せし者達よ、どうか、この地にしばしの恩恵を願うのじゃ! 雨を……雨を降らせてやってくれなのじゃ! このままでは、この地に生きる者達の、その尊き命が多く、失われてしまうのじゃ!」

 世の流れは何時だって無情なものだ。誰一人ワシの声に応える者は無かった。辺りは相変わらず空虚に静まり返るばかりで、蝉達の威勢の良い鳴き声しか聞こえて来なかった。

「……やはり、私のような未熟者には、これ程の大義を為すことは叶わぬと申すか」

 肩を落とす琵琶法師の悲痛な想いが感じられて、ワシも哀しい気持ちで一杯になっていた。

 この状況が続けば多くの人々が命を落とすことになるだろう。何度も見せられた、荒涼とし切った嵐山の惨状が現実の物となるのも時間の問題のように感じられた。

 それから数日が過ぎた。その間、殆ど飲まず食わずのまま、琵琶法師は村のあちこちで祈りを捧げ続けていた。哀しみに満ちた琵琶法師の歌声も次第に力が失われようとしていた。

(不思議な気分じゃ。これだけの時間が過ぎたのにワシは腹も減らねば、喉も乾かぬ。挙句の果てには睡眠さえ無用になるとは……もしかして、ワシは既に死んでおるのじゃろうか?)

 そう考えると恐ろしくて仕方が無くなった。だけど、不思議と心が荒ぶることも、不安に駆られることも無かった。有り得ないことだが、それならそれで仕方が無い。そんなことさえ考えていた。いよいよ気が触れてしまったのかも知れない。あるいは、心が壊れてしまったのかも知れない。そんなことを考えながらも熱心に祈りを捧げるばかりであった。

 相変わらず日照りは続いている。村人達の表情も日に日にやつれてゆくばかりであった。とうとう死者も出始めてしまったらしい。無理も無い。これだけの暑さだ。体の弱っている者達には耐えられなかったのだろう。何時終わるとも知れぬ日照りに、身も心も疲れ果てた人々は日に日に弱り、衰え、一人、また一人と死に絶えて行った。

「……何もお力になれず本当に申し訳ありません。せめて、亡くなった方達をお弔いさせて下さい」

 何時の間にか場面は変わり、どうやらワシは村の外れに居るらしい。辺り一面から凄まじい腐敗臭が漂ってくる。息が出来ない程の異臭にワシは戻さないようにするのが精一杯だった。正直、出来る限り離れていたいと思った。目を背けたくなるような惨状がそこにはあった。

 まるでゴミを投げ捨てるかのように人々の死体が放り投げられてゆく。渇き切った気候とは裏腹に、長い間置かれた死体は腐り果て凄まじい腐臭を放っていた。そこへ、村人達が誰かの死体を運んでくると、何事も無かったかの様に投げ捨てて行った。あまりの状況に驚くワシを後目に、投げ捨てた人々もまた、顔をしかめながら慌てて遠ざかってゆくばかりであった。そんな状況下でも琵琶法師は顔色一つ変えること無く、琵琶をかき鳴らし続けた。死者達を想い、静かに響き渡る歌声は途方も無い哀しみと絶望に満ち、聞いているだけでワシは心を引き裂かれる想いで一杯だった。だが、信じられない出来事は、このすぐ後に起きた。

「期待させておいて、何も変わらなかったじゃないか!」

「ああ、そうさ! 一体、何のために村を訪れたのだ!?」

「雨を降らせてくれよ! あんた、坊さんなんだろ? 祈りを捧げて雨乞いの儀を為してくれよ!」

 目を覆いたくなる光景だった。何故、皆、そのような振舞いを出来るのだろうか? ワシは人の心の醜さが哀しくて、哀しくて、ただ目を背けることしか出来なかった。

 人々は皆、ボロボロに疲れ果てた琵琶法師を蹴り飛ばし、殴り付け、暴行を加え続けた。それでもなお琵琶法師はされるがままであった。

「何故じゃ……。お主は皆を想い、村を訪れたというのに、このような酷い仕打ちを受け、何故、黙っているのじゃ!」

「う、うう……。ほ、本当に申し訳御座りませぬ……。せめて、せめて、私の涙が雨となり、村を救ってくれることを願うばかりで御座ります……」

「未だ言うか、この役立たずめ!」

「皆、こんな胡散臭ぇ坊さん、殺しちまおうぜ!」

「ああ。こいつを生贄に、雨を降らせて貰うとしよう!」

「仏の道を歩む者ならば、役に立てて光栄だろう!?」

 もはや、皆、気が狂っているとしか思えなかった。空腹への苛立ち。何時終わるか判らぬ日照りへの苛立ち。大切な家族を失う苛立ち。あらゆる苛立ちの感情がそこにあった。だから、人々は皆、歓喜の声をあげながら、琵琶法師を殴り、蹴り、暴行を奮い続けた。出来ることならばワシはこの、頭の可笑しい村人達を皆殺しにしてやりたかった。でも、そんなことをすれば、この心優しい琵琶法師の願いを無碍にすることになってしまう。だから、ワシはただ、両の手の拳を握りしめることしか出来なかった。

「どうか、雨よ……村を、村を……救ってくだされ……」

 その口から大量の血を吐き出すと、そのまま琵琶法師はぴくりとも動かなくなってしまった。

 理解出来ない行動のハズだった……。理解も共感も出来ない行動ではあったが、何故か、ワシは体の震えが止まらなかった。琵琶法師を殺めた村人達の哀しみも、無抵抗のまま殺された琵琶法師の哀しみも、ワシには判ることが出来てしまったからなのかも知れない。

 ようやく正気に戻った村人達は皆、地面に崩れ落ちると声をあげて泣いていた。本当に人は哀しい生き物だと思う。事を為す前には気付くことが出来ず、事を為し遂げてしまってから己の犯した過ちの深さに、大きさに気付く。だが、失われた時は二度と戻らない。その事実が余計に哀しみを増長させる。

「ああ、俺達は何てことをしてしまったのだ……」

「この、琵琶法師には何の罪も無かったというのに……」

 哀しみに暮れる村人達をワシはじっと見つめていた。だが、不意に異変が起こり始めたことに気付いた。唐突に辺りが暗くなってゆく。驚いたワシは慌てて空を見上げた。

「な、なんじゃと!?」

 信じられない光景が広がっていた。空一面に立ち篭めるのはどんよりとした暗く、厚みを帯びた雲。次の瞬間、獣の咆哮を思わせるような雷鳴が轟いた。驚いた村人達も、皆、一斉に空を見上げた。

「こ、これは!?」

「き、奇跡だ……!」

 口々に歓喜の言葉を口にした瞬間、空から勢い良く雨粒が零れ落ちてきた。それは長らく待ち望んでいた、文字通り恵みの雨であった。雨は瞬く間に降り注ぎ、渇き切った土に癒しを与えていった。みるみるうちに雨足は強まり周囲の空気さえも潤してゆく。

「ああ、何てことだ……。雨が……雨が降って来た!」

「これで、これで、村は蘇る! 多くの死者を出さずに済む!」

 不思議な雨だった。温かな優しさに満ちた雨であった。ワシは空を見上げたまま、ただ、降り注ぐ雨に打たれていた。

「文字通り、恵みの雨じゃな。琵琶法師、雨乞いの儀、お主が命を賭してまで為し遂げたのじゃな……」

 自らの命を投げ捨ててまで人の為に祈りを捧げ続けた琵琶法師。ワシにはとても真似の出来ることには思えなかった。何故、そこまで出来るのだろうか? ワシは琵琶法師の寛大過ぎる心に、その深さに、自らの不甲斐無さを恥じていた。不意に、背後に人の気配を感じたワシはそっと振り返った。そこには雨乞いの琵琶法師が佇んでいた。再び手にした琵琶をかき鳴らしながら唄い始めた。その声に呼応するかのように雨はさらに勢いを増していた。

「大地殿、何故、私が死を甘受したか御判りになられましたか?」

「何となく判ったのじゃ。お主も、ワシと良く似ておる」

「ほう? それでは、聞かせて貰いましょうか」

「家族じゃ。ワシは仲間達を家族じゃと思うておる。もっとも、お主はワシよりも遥かに心の大きな存在じゃ。この村の者達を、ほんの数日前に出会うたばかりの者達をも、家族のように慈しみ、守り抜こうとした。そうじゃろう?」

 ワシの言葉を受け、雨乞いの琵琶法師は静かに目を細めて見せた。

「その通りに御座ります。人を救うという行為……それは、命を賭す覚悟が無ければ為し遂げられませぬ。私は非力で未熟な身でした。だから、せめて、我が命を糧として祈りを捧げることしか思い浮かばなかったので御座います。ですが、こうして雨を降らせることも出来、多くの村人達もまた救われることで御座いましょう」

 恐らく、雨乞いの琵琶法師が為したことはそれだけでは無かったのだろう。不幸にも命を落とした者達さえも救おうとしたに違いない。野晒しにされ、醜く腐臭を放つばかりの腐肉と化した人々さえも救済しようとしたのだろう。死してなお人々の為に尽くし続けた。その想いが強過ぎた余り、不幸にも情鬼となってしまったのだろう。それでも未だ人々を救い続けようとする心、ワシにはとても真似の出来るものには思えなかった。

「大地殿、貴殿は多くの迷える魂達を救うことの出来る力をその身に秘めし存在。どうか、迷える魂達を救ってやって下され」

「わ、ワシが?」

「そうです。貴殿ならば出来る筈です。例えどのような姿であろうと、同じ嵐山に存在する者同士、つまりは……家族に御座りましょう?」

 不意に雨乞いの琵琶法師が口元を歪ませながら不気味に微笑んで見せた。その異様な表情に、ワシは背筋が凍り付く想いに駆られた。

(な、何じゃ、コイツ!? さっきまでとは全然違う、禍々しい顔で笑ったのじゃ!?)

「大地殿、ご覧なさい。現世への未練を断ち切れず、因果の鎖に捕らわれの身となった者達が……往くべき道を見失った亡者達が貴殿に救いを求めて押し掛けて来ました。さぁ、どうぞ! この者達を救ってやってくだされ!」

 次の瞬間、雨足は一気に強まった。前さえも見えない程に叩き付ける集中豪雨へと移り変わっていた。余りにも激しい雨にワシは慌てて走り出していた。何故か、この場に留まってはならぬ気がした。

「苦しい! 痛い! ああ、誰か助けてーー!」

「ああ、光だ……。光があるぞーーっ!」

「どうか、どうか、我らを救ってくだされ!」

「ななな、何なのじゃこいつらは!? ば、化け物なのじゃ!」

 必死でワシは走り続けた。もはや人の姿を為していない腐り果てた者達や、体の一部を失った者達、中には白骨化した者までもがワシに向けて走り込んでくるのが見えた。

「じょ、冗談では無いのじゃ! こんな化け物達、ワシには救えないのじゃ!」

 確かに、琵琶法師の振舞いを見て、迷える亡者達を救ってやりたいと考えたのは事実だった。だが、流石に、こんな不気味な姿に成り果てた者達が大挙して迫ってくるような光景には耐えられそうになかった。ワシは必死で逃げた。とにかく逃げるしかない。例え、不幸な道を辿ることになった者達とは言え、このような不気味過ぎる風体をした者達を救えるだけの心の広さは、到底、持ち切れるものでは無かった。

 ワシはとにかく走った。何度も腕を掴まれたが必死で振り払いながら逃げ伸びた。走りながらワシは激しく後悔していた。ほんの僅かにでも同情の気持ちを抱いてしまったがために、このような化け物達に追われる羽目になろうとは想いもしなかった。だから、とにかく逃げ続けた。捕まったら、もう、二度と日の目を浴びることも無くなるだろう。死にたく無い! ただ、それだけだった。だから、ワシは息を切らし、額から汗を噴き出しながらも走り続けた。やがて目の前に光が見えてきた。あの光の中に飛び込めば逃げ切れるかも知れない。ワシは一縷の望みを託し、光の中に飛び込んだ。

◆◆◆64◆◆◆

 遠退く意識の中で、ワシは幼き日のワシ自身を見ていた。不思議な気分だった。幼き日の自分を、こうして遠くから見つめている。周囲を見回してみる。どうやら、ここは落柿舎の周辺らしい。大樹とシロと共に、良く駆け回った場所だ。夕暮れ時。沈みゆく夕日に照らし出されてワシは真っ赤に萌え上がる様な色合いを称えていた。そんな情景の中、ふと、周囲に見覚えの無い少年達が佇んでいるのが目に留まった。皆一様に酷く痩せ細り、とても少年とは思えない程にやつれた姿に見えた。

「お主ら、さぞかし空腹じゃろう」

 少年達はただ哀しげな笑みを称えるばかりだった。彼らは一言も口を聞かなかった。だけど、ワシの心の奥深くに、確かに、彼らの声が響き渡った気がした。

(飢えに苦しんでいる? そうか……。この少年達は、日照りの最中、ひもじい想いをしながら死んでいった子供達なのじゃな)

  痛ましい姿だ。直視するのは余りにも辛く思えた。だが、幼き日のワシはどうにも無責任な見栄っ張りだった。豪快に笑いながら少年達の肩を抱くと、あろうことか、信じられない言葉を口にして見せた。

「なーに、雨ならワシが降らしてやるのじゃ」

 耳を疑う言葉だった。だが、悪びれた様子も無く、幼き日のワシは自信満々に仏頂面で続けて見せた。

「ワシが天に祈れば立ちどころに雨が降るのじゃ。そうすれば、枯れた稲も、作物も蘇るのじゃ。飢饉もすぐに終わってしまうのじゃ」

 有り得ないことを意図も簡単に口にするものだ。少年達は人を疑うことを知らないのだろうか? 目を輝かせて、幼き日のワシを見つめていた。恐らく、少年達には幼き日のワシは希望の星に見えたことであろう。真実に気付いてしまうまでは……。

「皆、元気になれたらワシと遊ぶのじゃ」

 無責任な上に驚く程に口が軽い。気前良く偉そうな言葉ばかりを連ねて見せる。ワシは拳を握り締めたまま小さく肩を震わせていた。許されるなら幼き日の自分自身を殴り飛ばしてやりたかった。盛り上がる少年達の姿を目にしながら、ワシは途方も無い罪の重さに押し潰されそうだった。

「皆、皆、ワシの大切なトモダチなのじゃ!」

 実に無責任な甘言の数々……。希望だけをもたらし、いざ、遊びに来た彼らの本当の姿を見たワシは恐怖に戦いたのだろう。まさしく、先刻、目の当たりにした情景がそれを告げている。

 ワシは、自分がされて悔しかったことを意図も簡単に他者に対して為し遂げてしまっていた。改めて自分自身の無責任さに、苛立ちどころか哀しみさえ覚えていた。そうまでして、繋ぎ止めたかったのだろうか? 絵空事の嘘八百を並べてまでトモダチが欲しかったのだろうか?

(情け無いのじゃ。本当に、情け無いのじゃ。ワシは……ワシは、本当に最低なのじゃ)

 ワシは思い出していた。誰からも相手にされることなく孤独だった時代を。僅かな希望を抱かせておいて突き落す。その度に絶望に満ちた表情をさせられた大樹のことを。ズタズタに打ち砕かれた自分自身のことを。結局、ワシは、自分がされて、本当に辛かったことを、まるで、仕返しをするかのように少年達に叩き付けていたのだと気付かされた。同時に理解した気がする。彼らはワシを襲おうとした訳では無かったのだろう。ただ、トモダチに会いに来たに過ぎない。偽らない本当の姿でワシに会いに来ただけに過ぎない。それなのに、ワシは恐怖の余り、突き放してしまった。逃げ出してしまった。トモダチなのに! 本当に残酷なのは……ワシ自身だったのかも知れない。

◆◆◆65◆◆◆

 次に気付いた時、ワシは嵐山旅館の食堂に戻っていた。一体、何が起きているのか? ワシは慌てて周囲を見回したみた。だが、仲間達の姿は何処にも無かった。

「リキ? 一体、何処へ行ってしまったのじゃろうか……」

 周囲を見回してみても明かりの消えた食堂には人の気配は感じられなかった。リキは何処へ行ってしまったのだろうか? ワシは必死で周囲を探ったが、まるで人の気配は感じられなかった。再びワシは一人になってしまったのだろうか?

 不意に外から音が聞こえてきた。そっと窓から外の景色を覗き見てみれば、期せずして降り始めた雨が、庭の木々の葉に叩き付ける情景が目に留まった。気持ちまで滅入ってしまいそうなシトシト降り頻る湿気た雨の音にしばし耳を傾けていたが、次第に違和感を覚え始めていた。妙に生臭いような、池の水を思わせるかのような、異様な匂いが漂い始めた。

「何じゃ、この匂いは? 何だか生臭い匂いなのじゃ」

 一体何処から、この異様な匂いは漂ってくるのだろうか? あの大雨の影響で、どこか水が詰まってしまったのだろうか? 妙に気になったワシは暗闇に包まれた旅館の中を歩き回ってみた。だが、一体どこから漂って来るのか、異様な匂いは強まってゆくばかりだった。

「うう、何だか気持ちが悪くなる匂いなのじゃ……」

 不意に玄関先から何か物音が聞こえた気がした。誰か来た来たのだろうか? リキか? それとも大樹か? ワシは反射的に玄関先へと駆け込んだ。だけど、そこには誰も居なかった。代わりに、響き渡ってくるのは異様な音ばかりだった。ゴボゴボと何かが詰まったような水音が響き渡り、思わず立ち止まってしまった。

(な、何なのじゃ、この音は? 何か、嫌な予感がするのじゃ)

 次の瞬間、玄関が乱暴に開け放たれた。

「ひぃっ!?」

 それと同時に、ぶくぶくに膨れ上がった者達がなだれ込んできた。

「な、何なのじゃーっ!?」

 どう考えても生きている人の姿では無かった。何倍にも膨れ上がった顔、腕、足、その全てが異ように揺れ動いていた。口からは水を吐き出しながら、必死で呼吸をしようとするそいつらが一斉にワシに歩み寄って来た。

「こ、こっちに来るで無いのじゃーっ!」

 一体、何がどうなっているというのだ。嵐山はいよいよ死者達の跳梁跋扈する異界と化してしまったのだろうか? ぶよぶよの体を震わせ、ゴボゴボと不快な音を発しながらも、そいつらは意外にも迅速な動きで追い掛けてきた。逃げ惑うワシの腕にそいつの水膨れした手が触れた。ヌルっとした感触と共に、鼻を突く酷い腐敗臭にワシは思わず込み上げてきた。

「わ、ワシには何の力も無いのじゃ! もう、ワシを頼らないでくれなのじゃーっ!」

 だが、そんな言葉は彼らの耳には届かないらしい。なおも、ジリジリと迫ってくるそいつらに囲まれてワシはいよいよ本気で死を覚悟せざるを得なくなっていた。

(もはや、此処までなのかのう……)

 その時であった。不意に風が吹き抜けるような音が響き渡り、ワシの目の前にいたそいつらが、突然ズタズタに引き裂かれてその場に崩れ落ちた。

「ひぃっ!」

 飛び散る返り血を浴びながら、ワシはあまりの光景に腰を抜かしていた。だが、唐突に何者かがワシの腕を掴んだ。

「こ、今度は一体何なのじゃ!?」

「ロック、急いで逃げるよ!」

「て、テルテル!? な、何故、此処に!?」

「話は後! とにかく逃げるよ!」

「ま、待つのじゃ! 一体、何がどうなっているのか、ワシには皆目見当が尽かないのじゃ!」

「良いから走って!」

 雨にでも降られたのだろうか? テルテルは頭から多量の水を浴びたかのように全身びしょ濡れだった。何がどうなっているのか判らずに戸惑うワシの手を乱暴に掴むと、そのまま全力で走り出した。

「何がどうなっているのか、説明してくれなのじゃ!」

「良いから、今は黙ってぼくの言う通りにして!」

 驚く程に険しい表情を浮かべていた。今まで見たことも無い程に険しい表情であった。戦いに臨む者ならではの覚悟を決めた表情……そんな表情だった。テルテルの有無を言わさぬ気配に圧されたワシは、ただ黙って従うことにした。一体、何がどうなっているのか? テルテルと会うことが出来たということは、コタ達は今、どういう状況に置かれているのか? 聞きたいことは幾らでもあった。ただ、今はそんなことを問うている場合では無い。とにかくワシはテルテルと共に走り続けた。一刻も早く、出来るだけ遠くへ逃げ伸びなければ、身の安全は保障されない。だから力の限り走り続けた。

 渡月橋へと続く道は不気味なまでに水浸しになっていて、空模様もまた異様な色合いを称えていた。毒々しい暗紫色の雲に覆われた空を見ただけでも十二分に有り得ない事態に陥っていることは容易に想像がついた。

 どこか、他人事のように事態を捉えている自分が滑稽だった。こんな場面でも、現実を直視することを畏れ、『忘却』へと縋ろうとしている自分自身の情け無さが、不甲斐無さが、ただただ悔しかった。ただ、今は気持ちを落ち着かせることが先決だと考えていた。現実逃避なのかも知れない。でも……住み慣れた故郷が、見るも無残な姿に成り果ててゆく現実を、まともに受け止めてしまったら、多分、ワシは何も考えることも出来ずに、その場に立ち止まってしまうに違いない。そうさ。これは現実逃避では無い。戦術的撤退だ。もはや、理由なんかどうでも良かった。自分が如何に駄目な奴なのかは重々理解している。ならば、今為すべきことに全力で挑もう。

 渡月橋に差し掛かった辺りで、必死で走りながらもテルテルが不意に口を開いた。あくまでも前だけをシッカリと見据えたまま、ワシの手を握ったまま走り続けながら。

「とにかく、一刻も早く嵐山から抜け出さなければ取り返しがつかないことになる」

「ど、どういうことなのじゃ?」

「周囲の様子を見たでしょう? それに、あの化け物達……嵐山は完全に死人達の跋扈する異界と化してしまった。もはや、ぼく達の手ではどうすることも出来ない」

「皆は? 皆は何処に?」

「判らない……」

「じゃが、コタと共に嵐山を訪れたのでは無かったのかのう?」

 ワシの問い掛けにテルテルは静かに足を止めると、哀しそうに微笑んで見せた。

「コタは……」

 言い掛けた所でテルテルは言葉に詰まった。何かあったのだろうか? 不安感から詮索しようと試みるワシに唐突に向き直ると、力強くワシの両肩を掴んで見せた。

「ロック、今はとにかく逃げ伸びることだけ考えて。皆を救うとか、そう言うのは後回しにして」

「じゃが……」

「ロック、シッカリして!」

 煮え切らないワシに業を煮やしたのか、テルテルは普段見せることも無い凄まじい形相を見せていた。ワシの両の肩を力強く握り締めたまま声を張り上げた姿に、ワシは自らが置かれている状況を鮮烈に理解させられた。

「ぼく達が倒れちゃったら、一体誰が皆を助け出すと言うの!? 今はとにかく逃げる。良いね?」

「わ、判ったのじゃ……」

 うかうかしては居られない。いずれにしても、この場に留まるのは危険過ぎる。コタはどうしたのか気になって仕方が無かったが、今は自分の身を守らなければならない。仮にコタの身に何か起きていたとしても、救出を行うためには先ずは逃げ切らなければならない。それに、リキの行方も判らなくなっている。多分、敵の手に落ちてしまったのだろう。今、動けるのはワシらしか居ない。悩んだり、迷ったりしている暇があったら、とにかく行動を起こすべきだ。覚悟を決めたワシの想いに気付いたのか、テルテルが静かに、だが、力強く語り掛けて見せた。

「駅まで向かうよ。何としても嵐山から抜け出さなくてはならないからね」

「うむ、そうじゃな」

「ロック、全力で駆け抜けるよ。あいつらに追い付かれたらお終いだからね」

「判ったのじゃ」

 目の前には見慣れた渡月橋が広がっている。駅に行くためにはこの橋を抜ける必要がある。一気に駆け抜けるしかない。渡月橋の上で前後を封鎖されたら逃げ場を失う。ワシはテルテルと顔を見合わせ、一気に駆け抜けることにした。だが、ワシらの考えなど見抜いているのだろうか、目の前に水死体達が群がってゆくのが見えた。皆、次々と大堰川から這い上がってくると、ワシらの行く手を阻むかのように渡月橋の出口を塞ごうとしていた。

「邪魔するなら容赦しないよ! ぼく達の行く手を阻むなら地の果てに落ちて、終わること無き永劫の苦しみを味わうことになる! それでも良ければ精々道を塞ぐが良い!」

 渡月橋を駆け抜けながらテルテルが声を張り上げる。だが、奴らはテルテルの声を受けても微動だにしなかった。「それならば仕方が無い」。そう、冷淡な口調で呟くと、テルテルはカマキリを放り投げた。

「さぁ、カマキリ! あいつらを微塵切りにしてやって! 情け容赦は無用だよ! ロック、目を閉じて走って! ぼくが手を引くから!」

「え、えぇっ!? 目を閉じて走るなんて無理なのじゃ!」

「それとも、水死体達がミンチになる光景を見届けちゃう?」

 不敵に笑うテルテルの言葉に背筋が寒くなったワシは、慌てて目を閉じた。

「さぁ、イナゴ達よ! 粉々になったあいつ等を片っぱしから弾き飛ばせ!」

 ワシは目を堅く閉ざして走り続けた。カマキリが肉を切り裂く音が響き渡り、続いて、イナゴ達が勢い良く羽音を響かせ、肉片を撒き散らす音が響き渡った。ワシは吐きそうになるのを堪えるので必死だった。酷い腐臭と濃厚な血の匂いに包まれながらワシは必死で走り続けた。途中、「破片」を踏み付けてしまい、何度も転倒しそうになったが、それでも必死で走り続けた。

 気を失わずに居たことが奇跡だと思える悪夢のような情景だった。だが、それでもワシらは駅を目指してひたすら走り続けた。ここでワシらが倒れたら、一体誰が皆を救えるのか。ただ、その想いだけを糧に走り続けた。

 渡月橋を駆け抜ける頃には、もはや追ってくる者は居なかった。片っぱしからテルテルの操る虫達が打ち砕いてしまったのだろう。

「もう、追っ手はいないみたいだね。幸い、列車も運行している様子で一安心だよ」

 それにしても、あれだけの光景を目の当たりにしながら顔色一つ変えないとは……違った意味でワシはテルテルに恐怖心を抱いていた。そんなワシの目線に気付いたのか、哀しげに笑いながらテルテルが目を逸らした。

「退いちゃった……よね?」

 テルテルは肩で大きく息を突きながら、どこかが痛むかのような笑みを浮かべて見せた。

「ぼくもね、自分でも驚いているんだ。こんなにも抵抗なく受け入れられるものなのだなぁって」

「テルテル……」

「言い訳にしか聞こえないかもだけど、ぼく、ロックを守りたくてね。ただ、ひたすらに守りたい。その気持ちだけを糧に走り続けたんだ。だけど……」

 不意にテルテルが膝から崩れ落ちそうになった。ワシは慌ててテルテルの肩を抱いた。

「だ、大丈夫かのう?」

「えへへ……。あの匂い、感触、音……駄目だねぇ。やっぱり、慣れるものじゃ……うぅっ!」

 安心した瞬間、一気に込み上げて来てしまったのだろう。

「うぇええーーーっ!」

 テルテルはありったけの物をその場に吐き出してしまった。ワシも釣られないようにするのが必死だった。無理も無い。先刻の壮絶な情景を、その目でシッカリと見届けてしまったのだから……。

「はぁっ、はぁっ……。何か、格好付かないなぁ。ああ……ごめんね、ロック」

「わ、ワシなら平気なのじゃ。それより、何か飲み物を買ってくるでの。少々待っておるのじゃ」

「うん。ありがとうね」

 疲れ果てた表情を浮かべ、小さく肩を震わせるテルテルの顔を、ワシは真っすぐ見ることが出来なかった。飲み物を買いに行くなんて都合の良いこと言ったけれど、自分の不甲斐無さが悔しくて、テルテルと向き合うことができなかった。だから、逃げたかった。ただ、それだけだった。それに、あの虫達は一体何だったのだろうか? どう考えても普通の人に為し遂げられるような物では無かった。知らぬ間にテルテルがワシの手の届く場所から、遥か遠くまで行ってしまったような気がして不安で仕方が無かった。

 何時だってそうだ。上辺ばかり都合の良いことを口にして、結局は、自分が傷付くことを遠ざけようとするだけの臆病者なのだ。体を張ってまでワシを救ってくれたテルテルに対し、ワシは恐怖心さえ抱いてしまった。どこまで最低なのだろう……。

「飲み物、買えたー?」

 何時の間にかワシの後ろにはテルテルが立っていた。何時もと変わらぬ屈託の無い可愛らしい笑顔に、ワシは居た堪れない気持ちで胸が一杯になった。そんなワシの強張った表情に気付いたのか、テルテルがそっと手を握ってくれた。

「えへへ。やっぱり、ロックの手は良い感触だね」

「そ、そうかのう?」

「うん。安心するんだ。こうして、ロックの手、握るの」

 照れ臭そうに笑うテルテルの横顔を見つめながら、ワシは高台寺でのことを思い出していた。

(ワシはテルテルのことが、やはり、好きなのじゃ……。本当に好きなのじゃ。なのに、何を迷っているのじゃ! 風葬地の裁定者……奴らは敵でしか無い。敵に同情も、共感も必要無いのじゃ。奴らはワシの敵! それならば、討ち取るだけなのじゃ。それだけの存在でしか無い。それ以上難しいこと等考える必要は無いのじゃ!)

「さっきは大きな声で怒鳴ったりしてごめんね。でも、ああするしか無かったんだ」

「判っているのじゃ。テルテルよ、済まぬの。今のワシには戦う力は無いのじゃ。非力な自分が悔しいのじゃが、ワシには何も出来ぬでのう」

「ロック……」

「本当ならば、ワシがテルテルを守ってやりたかったのじゃ。降り頻る雨からテルテルを守る傘になりたかったのじゃが……結局、ワシが守られてしまうのじゃな」

「そんなの関係無いよ」

 テルテルは可笑しそうに笑いながら、ワシのもう片方の手も握って見せた。

「だから、ずっと、ずっと……ぼくと一緒にいてね?」

 その手の温かな感触に、ワシはあの夜のことを思い出していた。竹林での出来事……。テルテルと共に想いをぶつけ合った夜のこと。本当に嬉しかった。あの夜体験した行為が嬉しかったという訳では無い。ただ、それまでずっと、大樹と二人で生きて行くしかないと腹を括っていたワシが、こうして誰かと共に歩む道を選ぶことが出来ようとは夢にも思わなかった。ましてや、最初に会った時からずっと想いを抱いていたテルテルがワシと共に歩んでくれている。だからこそ、ワシはもっと色んなものを見たいし、聞きたいし、体験したい。テルテルと一緒に果てしない冒険へと想いを馳せたい。そう、切に願っていた。

「ぼくね、ロックに好きだって言われて本当に嬉しかったんだよ。だから……お願いだから、生きて? ね? ぼくの為に生きて欲しいんだ」

「判ったのじゃ。ワシは生きるのじゃ!」

 そうさ。ワシが居ることを、生きていることを喜んでくれるテルテルがいる。生きている意味がそこにある。だから、絶対に屈する訳にはいかない。

「大丈夫じゃ。あいつらに絶対に屈したりしないのじゃ」

「うん。それを聞けて安心したよ」

 テルテルは何時もと変わらない穏やかな笑みを浮かべながら続けて見せた。

「取り敢えず、一度、嵐山を離れよう。策がある訳では無いけれど、此処に居続けるのは間違い無く危険だと思うからね」

「判ったのじゃ」

 テルテルの言葉に従い、ワシらは駅に訪れた列車に乗り込み四条大宮まで向かうことにした。コタ達の、大樹の安否が気に掛って仕方が無かったが、今のワシらに出来ることは無謀にも立ち向かうことではない。今一度体制を整え直して事態を解決へと導くことに他ならない。

◆◆◆66◆◆◆

 四条大宮へと向かう列車の中にはワシらしか居なかった。静まり返った列車の中、ワシとテルテルは言葉を交わすことも無く車窓の外を流れゆく夜半の景色を眺めることしか出来なかった。恐らくテルテルのことだ。何から話を切り出せば良いのか迷っているのだろう。あの虫達のこと、コタのこと、聞きたいことは幾らでもあった。だけど、迂闊なことを問えばテルテルを傷付けてしまわないだろうかと不安な気持ちで一杯になる。ガタンガタン、ガタンガタン。列車の無機的な音だけが響き渡る。ワシらの間には沈黙が佇む。

(テルテルに気を使わせるとは、ワシもまだまだ未熟じゃの)

「のう、テルテルよ」

「んん? どうしたの?」

「また、二人で竹林を歩みたいのう」

 ワシの言葉にテルテルは顔を赤らめながら静かに笑って見せた。ガタンガタン、ガタンガタン。列車の揺れる音だけが無機的に響き渡った。誰も乗っていない列車。誰も運転していないハズなのに、ただ、日々の記憶を手繰り寄せるように運行し続けている。不思議な情景だと思った。

「そうだね」

 静かな吐息混じりにテルテルが天井を見上げて見せる。

「空を仰ぐ程に伸びた青々とした竹林と夜空に浮かぶ月、本当に綺麗だったよね」

 静かに応えながらテルテルがワシの手を握り締める。少し汗ばんだテルテルの手。汗ばむ手を気にしている様子だけれど、ワシはテルテルの手の感触が好きだ。温かな体温を、確かに、生きているのだと実感出来るから。

「そうじゃな。竹林の景色はワシが最もお気に入りの一つでの」

 幼い頃から共に育った竹林の情景……だけど、その思い出さえも消え失せようとしている。咲き誇った竹の花は、まさしく凶事を告げる象徴そのものだった。死者達が跋扈する異界と化し、大切な竹林さえも滅びようとしている。例え、戦う力が無くてもワシは守りたかった。どんな手を使ってでも守り抜きたかった。

「ぼく、戦うよ。ロックを守るために。ぼくと共に歩んでくれる、この子達とね?」

 テルテルがそっと重ね合わせた手を広げて見せれば、その手の中からはふわりと蛍が舞いあがった。仄かな光を称えながら舞う姿にワシは思わず目を奪われていた。ガタンガタン。走り行く列車の中を舞う数匹の蛍達は幻想的で、何時までも見続けて居たいと願えた。

「蛍……なのじゃ」

「綺麗でしょう? この子達は風変りな子達でね」

「風変りとな?」

「うん。母さんから受け継いだ子達じゃなくてね。この子達は最近知り合った子達なんだ」

 ワシが疑問を抱くことは想定していたのだろう。テルテルは虫達との出会いに纏わるエピソードを語って聞かせてくれた。

(蠱毒……。原点となったのは、泣き女郎――つまりは、情鬼の力なのじゃな。じゃが、戦う力を持たないワシらには大きな力になるのじゃ)

 守られるだけになってしまうのは少々心苦しい物があったが、このまま逃げ惑うだけでは何一つ解決することは無い。そう考えれば貴重な戦力だ。それにしても、一口に虫と言っても、その種類は多岐に渡る。あのカマキリ達のように戦う力に長けている虫達もいれば、蛍のように人々の心を穏やかにしてくれる虫達もいるということか。

(ワシらと同じなのじゃ。得手、不得手はそれぞれにあるのじゃな)

「戦う力を持たない子達だけど、ぼくはこの子達のことが好きでね」

「にゃはは。なんだかワシみたいなのじゃ」

 ワシの言葉を聞きながら、テルテルはちょっと困ったような顔で笑って見せた。

「あ? 判っちゃった。えへへ。ロックにはぼくの考えていることはお見通しなんだね」

「そ、そうなのかの?」

「なんか、ちょっと嬉しいような、照れ臭いような複雑な気分だなぁ。えへへ」

 何時に無く照れ臭そうに微笑むテルテルの表情を見ていたらワシまで照れ臭くなってきた。

 相変わらず列車は空虚に走り続けるばかりであった。ガタンガタン。ガタンガタン。無機的に響き渡る列車の中を舞う蛍達と共に走り抜ける情景は幻想的で、儚くて、物悲しくて、だからこそ、美しいと感じられた。

「ロックは何時でも皆を盛り上げてくれるでしょう? 戦う力が無くても、ぼくに取っては大切な存在なんだよね」

「と、唐突に何を……」

 蛍に重ね合わせたワシの姿か。テルテルらしい考え方だ。ささくれ立った心を温かく沈めてくれる温かな気持ちが嬉しかった。語らいながらも不意にテルテルの表情が険しくなった。

「ぼくの力だけでは事態を解決することは出来そうに無くてね。カラス天狗達の協力があれば戦うことも出来たのかも知れないけれど……」

「そうじゃな。何とか解決の糸口を探し出さねばならぬのう」

 再び重苦しい空気が立ち込めてゆく。だけど、目を背けてはならない。逃げているだけでは事態は何一つ変わらない。自らの歩む道を掴み取らなければならない。辛い想いをしても、苦しい想いをしても、自分の歩む道は自分の手で切り拓くしか無いのだから。

 ガタンガタン、ガタンガタン。列車は無機的な音を立てながら夜半の街並みを駆け抜けて行く。ワシらは静かに窓の外の景色を眺めていた。すると、不意にテルテルが口を開いた。

「コタのこと、気になるよね?」

 ワシは喉まで出掛かった言葉を思わず呑み込んだ。テルテルはワシの返答を待たず、静かに吐息を就きながら続けて見せた。

「コタと一緒に嵐山まで来たんだ」

 道中、帷子の辻で足止めを食い、そこでカラス天狗達の手を借りて嵐山まで訪れたことを語って聞かせてくれた。嵐山を訪れて目の当たりにした竹の花の情景のことも語って聞かせてくれた。コタがその目で見届けた以上、間違いは無いのだろう。

「そこから先、ぼく達は不気味な僧達に追い立てられるように化野念仏寺に向かったんだ」

 重い口調だった。両の手を力強く握り締め、静かに肩を震わせながら話し続けてくれた。ワシは居た堪れなくなって、テルテルの肩を抱いてやりたい衝動に駆られた。でも、今、此処で、迂闊な情けを掛ければテルテルは壊れてしまうかも知れない。ワシは小さく息を就いて、思い立った行動を控えることにした。

「可笑しな術を仕掛けられてね」

「可笑しな術とな?」

「うん」

 テルテルは不意に言葉に詰まってしまった。あまり語りたく無い話なのかも知れない。ワシは窓の外を流れゆく景色に目線を移し、テルテルに余計な気遣いをさせないように振舞った。

「幻を見せ付けられたんだ。二度と思い出したく無かった情景を。何度も、何度も、繰り返し見せられたんだ……」

 ワシは黙ったまま、静かに流れゆく夜景を見つめていた。

「なまじ、戦う力を手にしたことが災いしてね」

 テルテルは静かに溜め息を就きながら、哀しそうに笑って見せた。

「ぼくはカマキリをけし掛けた。あろうことか、コタに向けて……」

 予想しないテルテルの言葉に、ワシは思わず息を呑んだ。

「でも、幸い、コタは無傷だったんだ」

 コタが無事であったことを聞き、ワシはそっと胸を撫で下ろした。だけど、テルテルはますます哀しげな表情を浮かべたまま続けて見せた。

「……その代わりに、コタを庇ったクロに大怪我を負わせてしまったんだ」

「クロとな? おお、コタと共に戦っている、鞍馬山のカラス天狗じゃな?」

「うん。そうだよ」

 テルテルの悲痛な想い、ワシにも痛い程に伝わって来た。騙されていたとは言え、仲間に危害を加えてしまった。心中穏やかでいられる訳が無い。ワシが同じ立場に立たされたとしたら、やはり、同じように、自分の行いを悔いることしか出来なかったに違いない。掛けてやる言葉が思い浮かばなかった。何て言ってあげれば良いのだろうか? 下手な同情ならば掛けない方が遥かに良い。そんなワシの思惑とは裏腹に、テルテルは淡々とした口調で語り続ける。

「それで、再び気が付いた時には、ぼくは嵐山旅館の傍に倒れていてね」

「そんなことがあったのじゃな……」

 一緒になって意気消沈するワシに気付いたのか、テルテルは顔を挙げると、何時ものように笑って見せた。ああ、駄目だ。駄目だ。こういう時だからこそ、気持ちを盛り上げていかなければならない。テルテルも一人で背負うのは辛かったに違いない。ワシに想いを聞いて欲しかったのだろう。

 なんだ。ワシにも出来ることはあるでは無いか。戦う力が無くても、ワシにも皆を支えることは出来るはずだ。せめて、気持ちだけでも優位に立たなければ。イヤ、むしろ、戦う力が無い以上、そういう部分だけでも支えさせて貰いたい。ようやく、ワシは自分の歩むべき道を見付けたような気がする。ならば全力投球するまでだ。

「ふざけた坊さん達なのじゃ」

 ワシはあの時、おかんがそう振舞ってくれたように振舞った。

「このドアホ! 言うて、ワシが一発、どついてやるのじゃ!」

「ロック……」

「テルテルを哀しませた罪は重いのじゃ。絶対に、許さないのじゃ。ワシの怒りと、テルテルの怒り、合わせてお見舞いしてくれちゃうのじゃ」

 ワシの言葉を受けて、テルテルは可笑しそうに笑っていた。

「きっと、クロは無事なのじゃ」

「そう……だね。うん。そうだよね」

「奴らの、姑息な手の数々、ワシも頭に来ているのじゃ」

 少しだけ、気持ちが持ち上がった気がする。空元気でも良かった。ハッタリでも、強がりでも、何でも良かった。気持ちの上だけでも勝たなければならない。

「そうだ。ロック、ぼくね、太郎坊のカラス天狗達に出会ったんだ」

 沈みゆく重苦しい空気を払拭するかのように、テルテルが陽気な声をあげる。

「太郎坊とな?」

「うん。鞍馬山に棲むカラス天狗達は僧正坊と呼ばれていてね。太郎坊というのは、愛宕山に棲むカラス天狗達のことなんだ。ぼくが会ったのは太郎坊のカラス天狗でね。帷子の辻から嵐山まで運んでくれたのも太郎坊のカラス天狗達なんだ」

 太郎坊のカラス天狗! 何気なく口にしたテルテルの言葉に、ワシは頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃を覚えた。そうか。あの時、ワシが出会ったカラス天狗の少年は太郎坊のカラス天狗なのだろう。それならば、愛宕山まで行くことが出来れば、ワシは再びあのカラス天狗に出会うことが出来るのかも知れない。

「……ワシが幼き日に出会ったカラス天狗は、やはり、太郎坊のカラス天狗だったのじゃろうな」

「天狗に愛されし、純粋なる風の子――か」

 あの時、坊さんに言われた言葉、テルテルがそっと口にして見せた。

「やっぱり、ロックもまたカラス天狗と縁ある身なんだね」

 ガタンガタン、ガタンガタン。再び空虚な音色だけが響き渡った。

 一連の事件を収束するためにはカラス天狗の力を借りなければならない。戦う力の無いワシだからこそ、戦う力を持つ仲間と共に歩めということなのだろう。そうなってくると、やはり、何としても、あのカラス天狗の少年と会わなければならない。でも、それは実に厄介なことだ。敵が陣営を組んでいる嵐山に舞い戻らない限り、愛宕山に辿り着くことは出来ない。

 愛宕山……化野念仏寺のさらに北へ向かう必要があるということか。結局、全ては嵐山にあるということになる訳か。何とも皮肉な話だ。

「困ったものだね」

「何とかして嵐山に戻ることが出来れば、あの少年に出会うことが出来れば、解決の糸口に繋がるのかも知れないのじゃ。とは言え、嵐山に戻るのは危険過ぎなのじゃな」

「そうだね。ぼく一人の手では、ロックを守り切るのは難しいと思うからね」

 結局、ワシは非力な存在でしか無い。どうにか道を切り開こうにも、どうすることも出来ないということか。

「ワシ一人では何にも出来ないのじゃな……」

「ロック……」

 ああ、テルテルの前だと言うのにワシは暗い顔を見せてしまった。テルテルが好きだと言ってくれた笑顔……だからこそ暗い顔は見せたく無かった。哀しい顔とか辛い顔とかテルテルには見せたく無かった。明るい顔を見せたかった。だから、何としても笑顔を見せなければ。でも、焦れば焦る程に笑顔は硬直してゆくばかりだった。

「あ、ああ、えっと……」

「ロック?」

「ゴメンなのじゃ。テルテルはこんな暗い顔、見とう無いじゃろう……」

 思わず口から零れ落ちた言葉。だけど、その言葉がテルテルの心に哀しく響き渡ってしまったらしい。ワシの言葉にテルテルは小さな溜め息を就きながら、ワシの顔を哀しそうに見つめるばかりだった。暗い顔、見せるのが怖かった。でも、これが偽らない本当の自分の姿なのだから……。ただ、ワシはテルテルに嫌われたく無かった。

「明るい姿が好きなのはそうだけど、それだけが全てだなんて思っていないよ」

「ご、ごめんなのじゃ……」

「ロックはぼくと良く似ている。良い面も、悪い面もね」

 テルテルは静かに笑いながら窓の外を流れ行く夜半の景色を眺めていた。

「嫌われるの、怖いんでしょ?」

 ワシは思わずドキリとさせられた。テルテルは相変わらず可笑しそうに笑うばかりだった。

「ぼくもそうだった」

 笑いながら、そっと、ワシの手を握って見せた。

「こうやって何時も笑顔でいれば、皆にも好かれると思っていた。でも、そうじゃ無かったんだよね」

 テルテルが語って聞かせてくれたのは、泣き女郎、美月との一件でのことだった。

 確かに、あの一件の中でテルテルは泣いたり、笑ったり、時に叫び、怒りをぶつけ、ありのままの素顔を見せてくれた。だからこそ、ワシは、心の底からテルテルと共に歩みたいと思えたのかも知れない。

(ワシは……)

「畏れないで」

「え?」

「皆、ロックの家族だよ?」

「そ、そうじゃな……」

「どんな姿でも、ぼくはロックのことが好きなんだ。一緒に歩みたいと思っているんだ。だから、諦めないで。ロックが辛い時はぼくが照らす。ぼくがロックの光になるから! だから、もう、畏れないで? ね?」

「そうじゃな」

「ぼくね、誰かを好きになることが怖かったんだよね。ほら、ぼくさ、人と違うからね。ずっと、一人で生きて行くのかなって思い込んでいた。だから、ロックと共に歩むことが出来て本当に嬉しいんだよ」

 テルテルの言葉は一点の曇りも無くて、まっすぐで、純粋な物に感じられた。

「だから、今はとにかく逃げ切ろう。何も策が浮かんでこないかも知れないけれど、今は逃げ切るしか無いと思うんだ」

 そうさ。愛宕山の太郎坊に頼ることが難しければ、鞍馬山の僧正坊に頼るという手があるのでは無かろうか? 四条大宮まで出てしまえば、そこから鞍馬まで向かうことは難しく無い。

「そうじゃ。テルテル、鞍馬山に向かうのじゃ」

「鞍馬山へ?」

「うむ。確かに、ワシは非力な身じゃ。じゃが、鞍馬山に行けば僧正坊のカラス天狗に力を借りることが出来るかも知れないのじゃ」

 非力な自分を受け入れなければならない。結局、自分の弱さを受け入れられなかったからこそ、ワシは今まで不器用な生き方を強いられるばかりだった。皆の顔色を窺うばかりで、結局、本当の自分を曝け出すことをしなかった。その結果、ワシの大切な故郷さえも失いかねない状況になってしまった。非力である以上、力ある身に力を借りるしか道は残されていない。救いの手を求めること、差し出された手に応えること。それもまた、一つの道なのかも知れない。そんな想いを抱くワシに、テルテルは静かに微笑み掛けて見せた。

「ぼくも同じだよ」

「え?」

「ぼくは戦う力無いけれど、虫達の力を借りて何とか戦えるようになったんだ。ぼくには何の力も無いから、こうして他の誰かの手を借りる。もっとも、ぼくは虫達に何もして上げられていないのだけどね」

 何もしてあげられないけれど共に歩んでいる者達か……。それでも良いのだろうか? ワシは本当に非力な身だ。何もすることは出来ることは無いのかも知れない。でも、あの時、あのカラス天狗の少年はトモダチになりたいと言ってくれた。それがワシに出来ることなのだろうか?

「ねぇ、ロック。友達ってさ、損得勘定で付き合うものじゃ無いと思うんだよね」

 テルテルの言葉にワシは頷いた。テルテルは相変わらず可笑しそうに笑って見せた。

「だって、ぼく、ロックと一緒に居たいから一緒に歩んでいるんだよ? 別に、ロックと一緒にいると、何か得するとか、良い事あるとか、そんなこと考えたことも無いよ」

 テルテルの言う通りなのかも知れない。ワシは結局、嫌われることを畏れるばかりだった。結局、皆、ワシとは本当の意味で判り合えていないのかも知れない。それは、ワシが願っている道とは正反対の方向に突き進んでいることと同義だ。

(ワシは本当に間抜けじゃったな。自らの手で、自らの進むべき道を閉ざしていたとは……)

 程なくして、列車は四条大宮駅に到着しようとしていた。大宮駅に乗り換えて、そこから河原町へと抜ける。祇園四条から出町柳へ出て、そのまま鞍馬へと抜ける。もう、辺りは真っ暗になっていたが、それでも先へ進むしか無い。

「そろそろ到着するね」

「そうじゃな。この先、道中何が起こるか判らぬ。気を付けて向かうとするのじゃ」

 しかし、此処で、唐突に予期せぬ事態が起こった。

 一瞬、酷く目が眩むような感覚を覚えた。次の瞬間、ワシらは信じられない光景を目の当たりにしていた。

「な、なぬっ!?」

「えぇっ!? い、一体……どうなっているの!?」

 信じられない光景だった。そこは京都駅の地下街ポルタの真っ只中だった。何故、そんな場所に居るのかワシらには理解不能だった。列車から降りようとしたハズなのに……。これもまた、風葬地の裁定者が仕組んだ罠なのだろうか? いずれにしても、これは普通では無い事態の始まりだ。最大限の警戒を怠ってはならない。

「テルテル、慎重に行動するとするのじゃ……」

「そうだね。何処に敵が潜んでいるか判ったものでは無いからね」

 ワシらは京都駅の地下街ポルタの中を静かに歩み始めた。丁度、京都駅前からエスカレーターで地下へと潜った場所にワシらは佇んでいた。そこは地下階の西端、ファッションや雑貨の店が広がる一角であった。周囲には夜という時間帯にも関わらず、随分と人通りが多いように感じられた。行き交う人の流れは普段と変わらないように感じられた。だが、やはり、何かが可笑しいとしか思えなかった。だが、とにかく、今は何とかして鞍馬への道を目指すしか無い。

◆◆◆67◆◆◆

 ワシらはポルタの中を歩んでいた。ファッションや雑貨の店が並ぶ一角を抜け、飲食店が立ち並ぶ通りを歩んでいた。どの店からも賑わう人々の声が響き渡る。ワシらにはファッションや雑貨の店が立ち並ぶエリアは殆ど無縁であった。実際に、その一角を歩むのは若い女性ばかりで、どう考えてもワシらでは浮いてしまうというものである。もっとも、飲食店の一角もそうそう頻繁に訪れることも無い。京都駅を経由して何処かに出掛ける際の食事場所として選ぶ位だろうか。どうも、ワシらには一般的なレストランのような場所は似合わないらしい。とは言え、何処かに出掛ける際の食事には重宝しているのは事実であった。

 このままずっと歩んでいくと、地下鉄の乗り場を経て土産物屋が立ち並ぶ東側のエリアに移る。ワシらは飲食店の通りを慎重に歩んでいた。

「特に変わった所は無さそうだね」

「そうじゃな。じゃが、何処に、何が潜んでいるか皆目見当が付かぬでの。油断は出来ぬのう」

「そうだね。こうやって日常の風景を見せて油断した所を狙おうとしているのかも知れないからね」

 人々が引っ切り無しに往来し、何時もと変わらぬ音楽が流れている。そんな中をワシらは慎重に歩んでいた。活気あふれる地下街の情景は何時もと何ら変わらぬように見えた。

 ポルタには何度も訪れている。普段は野外を歩き回ることが多いが、雨の日にはこういう屋根のある場所は重宝する。特に目的も無く皆で集まってお喋りする際にもここは便利な場所だ。人々が大勢往来する賑わいのある雰囲気も悪く無い。人々の活気にあてられてワシらも元気になれるというものである。

「それにしても何でポルタに飛ばしたのだろう? 嵐山からは大きく離れているし、どう考えても古い時代を生きた人々には無縁な場所だと思うのだけど?」

 確かに、テルテルの言う通りだと思った。何故こんな場所を選んだのか? ワシにも敵の意図がまるで見え無かった。ただ、ここは場所的にはかなり厄介な場所だ。何しろ地下街は封鎖された空間となる。地上へと続く出口と地下鉄への出口、連絡通路も含めれば封鎖すべき場所は多いが、仮に、その全てを封鎖されれば逃げ道は無くなる。あるいは、ここで火災でも起こればワシらは一貫の終わりだ。

「こ、怖いこと言うねぇ……」

「じゃが、事実なのじゃ。何故、この場所を選んだのかはサッパリ判らぬが、やりようによっては、ここは封鎖された空間となるのじゃ。逃げ場を失うのは危険じゃな」

「なるほどね……。それならば、さっさと地上に出た方が良さそうだね」

 だが、敵の目的が見えないというのは実に薄気味悪い物がある。一体何が目的なのだろうか? 何故、嵐山と無関係な場所を選んだのだろうか? 一体、何を狙っているのだろうか? 判らないことだらけという事実が余計に不安感を掻き立ててくれる。

「ねぇ、ロック。ぼく、思うんだけどさ」

「何じゃ?」

「此処、人通りが多いじゃない?」

「ふむ。確かに、人通りが多いのじゃ」

「夜なのにこれだけ人通りが多い場所って、そうそう無いと思うんだよね。だから、ここを選んだんじゃないかな?」

 そう、口にしながらテルテルは周囲を見回して見せた。

「多くの人々が行き交う場所……しかも、過去には無くて現代的な光景が広がる場所じゃない?」

 テルテルの話にワシは静かに耳を傾けていた。

「もっと深く入り込んだ言い方をすれば……ここは、それだけ多くの人々の『物語』が交差する場所なんだよね。人の物語……生もあれば、死もある場所でしょう?」

 古き時代を生きた者達には、このような現代的な地下街は無縁な場所であるだろう。だけど、此処には多くの人々が行き交う。人の数だけ命があり、人の数だけ物語もある。

「まさか!? 無差別に人々を巻き込むつもりなのじゃろうか!?」

「……可能性はあると思うよ。あいつら、目的の為ならば手段を選ばないからね」

 そこまでしてワシを炙り出そうと言うのか? 何故、ワシなんかのように、何の取り柄も無い奴に執着するのか全く理解不能だった。ただ、一つだけ判ったことがある。奴らは何処までも性根の腐った奴らだということ。その事実だけは改めて認識させられた。

 そう考えると、すれ違う人々のことが気になって仕方が無くなった。もしかしたら、ワシらのせいで、偶然この場所に居合わせた人々までもが巻き添えを食う可能性があるということになる。

「とにかく一度地上に出よう。此処にいれば、多くの人達を巻き添えにすることになる」

「そうじゃな。地上を目指すとしよう」

 しかし、異変は既に始まっていた。その事実に気付かされるまで時間は要さなかった。

 全力で走っているにも関わらず、一向に地上へと続くエスカレーターが見えて来なかった。何か有り得ない出来事が起きている。ワシらは状況を確かめるために一度足を止めた。テルテルも異変に気付いているのだろう。ワシに向き直ると静かに溜め息を就いてみせた。

「何か可笑しいよね」

「そうじゃな。これだけ全力で走っておるにも関わらず、何故、エスカレーターに到達せぬのじゃ?」

 無限回廊……嫌な言葉が脳裏に浮かんできた。もしかするとワシらは同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかも知れない。周囲の景色を記憶に焼き付けながら、ワシはテルテルに考えを伝えてみた。

「テルテルよ、この場にしばし留まっていてくれぬかのう?」

「え? どうするの?」

「ワシがこのまま道なりに走るのじゃ。普通に考えればテルテルと出会うことはないじゃろう? じゃが、この地下街が無限回廊と化しておるのであれば再び出会えるハズじゃ」

 勢い良く駆け出そうとしたワシは唐突に腕を掴まれた。驚いたワシは慌てて振り返ると、血相を変えたテルテルが勢い良く首を横に振って見せた。

「駄目だよ! そんなことしたらロックが一人になっちゃうよ! それに、奴らに狙われたら太刀打ち出来ないでしょう!?」

「むう……。それもそうじゃな」

「そんなに焦らないで。何もぼく達が走り回る必要は無いから」

 自信に満ちた表情でテルテルがにやりと笑って見せる。指を鳴らせば、次の瞬間、何処から現れたのかひらひらとアゲハ蝶が優雅に舞い降りて見せた。

「さぁ、アゲハ蝶、このまま真っすぐ飛んで行くんだ。危険を感じたら、すぐに逃げるんだよ。良いね?」

 テルテルの言葉を理解したのか、アゲハ蝶は優雅に舞いながら通りの彼方へと羽ばたいていった。

「戦闘能力は無いけれど目立つ姿をしているからね。目印にはなりやすいから見失うことも無いと思ってね」

「本当に、凄い力なのじゃ……」

 思わず感嘆の吐息を漏らすワシに向き直りながら、テルテルは上機嫌に笑って見せた。

「ロックも、きっと、ぼくのような力を身に着けることになると思うよ。いずれ、必ずね?」

「そうだと良いのじゃが……」

 そう言えば、何故、地下街に飛ばされてきたのか疑問に抱いていたが、良く考えればワシらに取って少なからず縁のある場所だった。

(そういえば、この場所は何時もテルテルと訪れた場所だったのう……。今のように深い関係になる前から良く使ったものじゃ)

 ワシらは何時も行く宛てを決めることなく風の赴くままに各地を巡っていた。さて、今日は何処に出掛けようか? ポルタの一角にあるイノダコーヒーのポルタ支店で何時も作戦会議を繰り広げていた。

『テルテルはミルクティーで良かったかのう?』

『ああ、ありがとうね。ぼく、コーヒーが苦手でね』

 そう。コーヒーが苦手なテルテルとは何時もミルクティーを片手に議論を交わしていた。学生にしては少々敷居の高いお店ではあったが、ファーストフード店では同年代の若造ばかりで、無駄に賑やか過ぎて落ち付かない。周囲の人々と比べると浮いた姿になってしまうが、それでも、高級感漂う店の雰囲気が嫌いでは無かった。

 何処に遊びに行こう? 何処に美味しいものを食べに行こう? 学校帰りにも休みの日にも良く使っていた。何処に出向くにも便利な場所ということもあったが、特に今の季節はエアコンの良く利いた地下街ポルタは涼やかで、汗を気にすることなく歩めるのが嬉しい。

(また、テルテルと二人で地下街ポルタを徒然なるままに歩きたいのじゃ。此処だけでは無いのう……。天気が悪い時には、駅ビルで遊んだりもしたのじゃ)

 懐かしい思い出を振り返りながら待つこと数分。予想通り、アゲハ蝶はワシらの背後から戻ってきた。

「やっぱり、ぼく達は閉じ込められちゃった訳だね」

「しかし、困ったことになったのじゃ。何とかして脱出せねば……」

「でも、どうやって? それに、姑息な手段を好むあいつらのことだからね。ただ閉じ込めるだけでは無いと思うのだけど……」

 ただ閉じ込めるだけの芸当しか持たないような奴らでは無いことは良く判っている。姑息な手段を駆使してワシを翻弄するのが目的なのか何なのかはサッパリ判らなかったが、いずれにしても、この場に封じ込めた以上は次の手を打つのは間違いないだろう。

 行き交う人々をワシは横目で眺めていた。ここは飲食店の立ち並ぶ一角。今の時間帯であれば、これから夕食に臨もうという人もいれば、仲間内で飲みに来た人もいるのかも知れない。あるいは家族連れで一家団欒の一時を紡ごうとする者達もいることだろう。もしも、ここが戦場となれば無関係な人達まで巻き込むことになってしまう。何の罪も無い人々まで何の関係も無い人々まで巻き込むことになる。

(理解不能なのじゃ。何故、そこまでするのじゃ? 狙いはワシじゃろう? それならば、ワシが出てゆけば……解決するのかのう?)

「ロック、可笑しなことを考えるのは止めてね」

「へ?」

 前だけ見つめたままテルテルが放った言葉。その言葉はゾっとする程に冷たかった。物静かな言葉ではあったが、燃え上る炎のような怒りを感じずには居られなかった。

「ロックは何時だってそうだった。自分がガマンすれば、自分が受け止めれば、万事解決する。そいう物の考え方、止めて」

「テルテル……」

「そんなの、解決策でも何でもないよ。ただ、ロックが妥協しているだけでしょ?」

「そ、そうじゃな……」

「誰かの不幸の上に築かれた幸せなんて、所詮、ただの紛い物に過ぎない」

 普段見せることの無い鋭い眼差しを称えたまま、テルテルは続けて見せた。前だけ見つめたまま、ワシの顔に目線を投げ掛けることなく語り続けて見せた。

「ロックが望んでいるものは違うでしょう? 紛い物の幸せを手にして、紛い物の笑顔を浮かべる人々? 違うでしょう? だから、そんな物の考え方、止めて」

 容赦の無い言葉だった。だけど、何故だろうか? テルテルが口にした辛辣な言葉、嬉しかった。何よりも温かく感じられた。

「約束して」

「わ、判ったのじゃ」

 ワシのことを本当に想っているからこそ叱ることが出来るのだと思った。誰かに嫌われることから身を退けることばかりを考えていたワシは、結局は相手のことなど何にも考えていなかった。ワシに向き合ってくれる誰かの為? そうじゃない。自分が傷付くことから逃げていただけだ。何の解決にもなっていない。むしろ、中途半端な治療だけを施して、上辺だけ綺麗に取り繕って、見えない所で傷が化膿し続けていただけだった。そうやって、嫌なこと、見たくない物の全てに蓋をしてきただけに過ぎない。

 その結果として生み出されたのが『開かずの間』なのか。目を背け、見たくない物、受け入れたくない物、そういった物を全て、『開かずの間』という封印された空間に閉じ込めてきた。そうやって、あらゆる物事を放り投げてきた結果が今のワシだ。だけど、このままでは駄目だ。ワシは変わらなければならない。そのためにも先ずは此処から脱出しなければならない。だけど、一体どうすれば脱出することが出来るのだろうか?

(ちょっと待つのじゃ……。そもそも此処は普通の空間では無いハズじゃ。つまり、ワシらが目にしているのは紛い物の光景なのかも知れないのじゃ)

「テルテルよ、ワシに考えがあるのじゃ」

「え? 考え?」

「そうなのじゃ」

 少々奇をてらう案ではあったが、ワシは確固たる自信を持って考えを伝えるべく、テルテルの表情を見つめた。

「テルテルよ、通行人達に虫をけし掛けるのじゃ」

「えぇっ!?」

「無論、カマキリのように攻撃的なのでは駄目じゃ。そうじゃな……人に致命的な危害を加えずに、なおかつ、間違い無く反応する虫がベストなのじゃが」

 どういう虫ならば良さそうだろうか? 考えるワシの脳裏に、以前、大樹に毛虫の話を聞かせていた際の婆ちゃんの姿が克明に蘇った。

『む! 蚊の分際でワシの血を吸うか!?』

 言うが早いか、目にも留まらぬ早業で腕に止まった蚊を勢い良く叩き潰し、ついでに、ワシらに自慢気に手の平の中でペシャンコになった蚊を見せ付けて婆ちゃんのしたり顔が蘇る。

『フン。ワシに勝負を挑むなど、百年早いわ!』

(そうじゃ! 実に適任な虫を思い付いたのじゃ!)

「テルテルよ、蚊の大群を仕掛けるのじゃ」

「えっと……ロック、意味が判らないのだけど?」

「ふむ。それもそうじゃな」

 確かに、これだけ伝えられても、ワシが何を考えているのかはサッパリ理解不能であろう。だから、ワシは言葉を足した。

「テルテルよ、良く聞くのじゃ。仮に此処にいる人々が生者であるならば、蚊が周囲を舞えば間違い無く反応するであろう? じゃが、この者達が死者であるならば……」

「反応しないかも知れない?」

「あくまでもワシの考えなのじゃ。じゃが、お主も見たであろう? 死者達にはワシらの声は届かなかったのじゃ。ただ、何も考えずにワシらを追い回すだけだったのじゃ」

「なるほど。やってみる価値はありそうだね」

 テルテルが静かに指を鳴らせば、何処からともなく不快な羽音が聞こえてきた。黒い渦を為す蚊の大群……見ているだけでも、体中が痒くなってくる。

「さぁ、お前達。道行く人々にお前達の存在を存分にアピールしてくるんだ」

 テルテルの言葉に従い、蚊の大群は幾つかの小規模な黒い渦に分かれて道往く人々の周囲を飛び回った。さて、どのような反応を見せるだろうか。慌てて振り払うか、もしくは、逃げ回るような動作を見せてくれることを期待した。だが、予想通り、ワシの期待は儚く打ち砕かれた。

「……全然、反応しないね」

「やはり、道行く人々は生きている人では無いのじゃ」

 そう口にしながらも、ワシは恐ろしい事実に気付いた。ワシらは今、閉鎖された空間の中で無数の死者達と向き合っていることになる。こうして、まやかしを打ち破った今、彼らが次に出る行動は?

「ま、まずいのじゃ! テルテルよ、急いで逃げるのじゃ!」

「え? え? ちょ、ちょっと待ってよーっ!」

 何処へ逃げれば良いかなど皆目見当が付かなかった。だが、ワシはテルテルの手を引き、無我夢中で走った。何時の間にか活気にあふれていた地下街の明かりは消え失せ、流れていた音楽も何時の間にか人々の悲鳴や断末魔に変わっていた。ボロボロの廃墟のような様相を呈する店からは、次々と紫色の肌をした人々が這い出てきた。今や、この地下街は亡者達の跋扈する異界と化していた。

「うわぁっ! 追い掛けて来るよ!」

「とにかく全力で逃げるのじゃ!」

「逃げるって、一体何処へ!?」

「ワシにもワカランのじゃ!」

 とにかく逃げるしかない。出口など何処にも無いのは判っていたけれど、それでも逃げ惑うことしか出来なかった。無数の死者達が一斉に追い掛けて来る。悲鳴をあげながら、必死になってワシらを捕えようと手を伸ばしてくる。

「ああ、もうっ、面倒な奴らめ! そっちがその気なら、情けも容赦もしないよ!」

 テルテルが身構えた瞬間であった。予想もしない出来事が起こった。

「うわっ!?」

「な、何が起きたのっ!?」

 信じられない光景が広がっていた。通りの奥から、突然、激しい冷気が吹き込んできた。有り得ないことに地下街の中を吹雪が吹き荒れていた。みるみるうちに周囲の店が白い雪に包まれてゆく。身を切るような寒さに肌が酷く痛んだ。

「うぅっ! も、猛烈な寒さなのじゃ!」

「マズイ! これじゃあ、虫を使うことが出来ない!」

「なんじゃと!?」

「虫達は冷気に弱いんだ。冬の寒さの中では虫達は生きられない。ぼくが操る虫達も身動きが取れなくなるんだよ!」

「ど、どうするのじゃ!?」

「に、逃げるしか無いよっ!」

 ああ、何と言うことなのだろうか……。結局、ワシらは永遠に無限回廊の中に封じられたままだ。四面楚歌、八方塞りとはこういう状況を指すのだろうか? とにかくワシらは走り続けた。だが、無数の死者達の足は恐ろしく早かった。凄まじい速度で追い掛けてくる死者達は、もはや、ワシらのすぐ後ろまで迫っていた。もう、今すぐにでも手が届きそうだ。

「はぁっ、はぁっ、もう、逃げ切れないよ!」

「何を言うのじゃ! ワシが、ワシがお主を守るのじゃ!」

 所詮、口だけに過ぎない。ワシにはテルテルを守るだけの力は無い。とにかく逃げなければならない。だが、行く手は阻まれ、逃げることもままならない。おまけに体力の限界が迫るワシらとは裏腹に死者達の動きは衰えるところは無かった。

「うわぁっ!」

「て、テルテル!?」

 足がもつれたテルテルが転倒した。その瞬間を待ち侘びたかのように、死者達が一斉にテルテルに覆い被さる。

「止めるのじゃーーっ! このっ、化け物共がーーっ!」

 ワシは必死でテルテルから死者を引き離そうとした。だが、ワシの力では死者達はビクともしなかた。

「このっ! 離れるのじゃ! 化け物がっ!」

 ワシは必死だった。とにかく、ワシはテルテルを救い出すことしか考えられなかった。だが、次の瞬間、ワシは信じられない光景を目の当たりにした。唐突に死体達が退き下がると同時に、数え切れない程の手がテルテルの両足を一斉に掴んだ。蛇のように長く伸びた手は、とても、人の手体の一部とは思えなかった。

「うわぁっ! 何するんだよっ! 離してよっ! ロック、助けて! 助けてーーっ!」

「テルテル! ワシが助けるのじゃーーっ!」

 必死だった。ワシは形振り構わずに襲い掛かっていた。だが、呆気なくワシは弾き飛ばされた。それでもなお、ワシは必死で襲い掛かった。

「邪魔をするで無いのじゃーっ!」

 何度も、何度も弾き飛ばされながらもワシは襲い掛かった。だが、まるで闇の中に呑み込まれるかのようにテルテルは引き込まれていった。

「て、テルテル!? あ、ああ……」

『ほっほっほ、大地殿、未だ判りませんか? 大地殿は既に知っている筈です。死んだ人は二度と蘇ることはありません。祖母殿、シロ殿の死を見届けた貴殿ならば判る筈です』

「き、貴様ーーーっ! テルテルに何をしたのじゃーーっ!」

『大地殿、貴殿が強情なる振舞いをすればする程に、大切な仲間達が失われてゆきます。さぁ、大人しく私達の下へと参りなされ』

 非力だからいけないのだろうか? 何の力も持たないからいけないのだろうか? 結局、ワシはこうして誰かに嘲笑われ、虐げられ、蔑まれるばかりだった。ワシだけでは無い。大樹までもが馬鹿にされ続けた。それも、これも、全部ワシが非力だったからに他ならない。ワシに力があれば大樹が馬鹿にされるのを阻止出来たかも知れない。ワシはどうなっても構わない。ただ、ワシの家族を馬鹿にされるのは許せなかった。

 あの日、あの時、あの瞬間……子猫達が命を無残に奪われた時と同じような状況が起きようとしていた。ただ、頭に血が上ったワシは、もはや怒りの感情を抑え切ることは出来そうに無かった。

「ふざけるな……ふざけるなーーっ! 殺す……殺すっ! お前を殺してやるのじゃーーっ!」

『……大地殿、良くご覧なさい。貴殿は今、何処に居られるのでしょう?』

「な、何じゃと?」

 信じられない情景がそこに広がっていた。そこは化野念仏寺だった。ワシは西院の河原に佇んでいた。そこに無造作に置かれた棺。

「ま、まさか……」

『さぁ、大地殿。その目でお確かめになりなさい。そこに眠る者の顔を見届けるのです』

 目を背けたい現実がそこにあるのは間違い無かった。だけど……だけど、確かめない訳にはいかなかった。ワシを守ろうとして、テルテルは……。ワシは恐る恐る棺の中を覗き込んだ。そこに横たわる姿を目の当たりにしたワシは、頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃を覚えた。

「あ、ああ……そ、そんな馬鹿な……!」

 信じたくない光景だった。白菊に囲まれ、静かに眠るように横たわるテルテルの姿がそこにあった。

「あ、ああ……!」

 走馬灯のように脳裏を過ぎってゆく想い。出会った日の記憶……。

『えへへ。一緒に帰ろう? 大地君の家は何処なの?』

 テルテル……。ワシの大切な……。

『へぇー。嵐山なんだ。しかも、お家は旅館を経営しているんだね。うわー、凄いなー!』

『ぜ、全然凄く無いのじゃ。家の手伝いがあるから、他の子達とも中々遊べないのじゃ。じゃから、ワシには友達が居らんのじゃ……』

『ふーん。じゃあ、今度、遊びに行っても良い?』

 もう一度笑って欲しい。何時ものように、目を細めて、子供のような無邪気な表情で笑って欲しい。どうして? どうしてこんなことに……。

 そっと、テルテルの頬に触れてみたワシは、体中に電気が駆け巡るような感覚を覚えた。

「冷たい……。それに、硬い……!」

『死んだ者達は二度と蘇らないのです! だからこそ、回顧する必要があるのです。多くの死者達が眠る嵐山の地。その地で宴を催すなど許されることではありませぬ。死者達にも光を! 大地殿、貴殿はその灯火となるのです!』

「黙れ……この腐れ外道が……」

『ほう? 未だ判らぬと? 次は誰が犠牲になるか……精々、それまでに考えを改められるが良いでしょう』

「安心しろ。お前は絶対に許さない。この手で殺してやるから、首を洗って待っていろ……」

 再び気が付いた時には、そこは何時もと何ら変わらぬ地下街の光景が広がっていた。行き交う人々が怪訝そうな眼差しでワシを横目に見据えながら去ってゆくばかりだった。皆、汚らしい物を見るような目でワシを見据えてゆくばかりだった。ワシはただうずくまったまま、床に爪を立てることしか出来なかった。テルテルを守れなかった非力な自分への怒り。テルテルを奪われたことへの哀しみ。ワシを馬鹿にしたような通行人の含み笑い。楽しげに語らう通行人達の笑い声。楽しげな振舞い。幸せそうな笑顔。その全てが許せなかった。

「何故じゃ……。何故、ワシがこんな目に遭わなければならないのじゃ……」

 込み上げて来る怒りを抑えることは出来なかった。

「皆、皆、殺してやるのじゃ……命ある者の存在など許さないのじゃっ!」

 いきなり大声を張り上げるワシに通行人達が一斉に振り返った。だが、そんなことはどうでも良かった。あふれ出る怒りを抑え切ることは出来なかった。こいつら皆、楽しそうに振舞いやがって。どいつも、こいつも、皆、殺してやる! 殺してやる! 怒りに身を任せ、ワシは偶然目に入った若い女性目掛けて走り出した。

「きゃあーーーっ!」

「うわああああーーーっ!」

 襲い掛かろうとした瞬間だった。突然、ワシは誰かに乱暴に肩を掴まれ、力一杯背後に引き倒された。そのままワシは意識が遠退いてゆくのを感じていた。薄れゆく意識の中でワシは過去の情景を走馬灯のように見つめていた。

◆◆◆68◆◆◆

 京都駅中央口を出てすぐ左手。天まで続くかの如くそびえるエスカレーターに揺られていた。エスカレーターを昇り切れば、先ずは室町小路広場に出る。古き時代から連綿と受け継がれる歴史残す古都京都。そんな京都の伝統的な街並みとは対照的な近代的な駅ビル。テルテルはこのビルがお気に入りだと、良くワシに聞かせてくれた。確かに特徴ある造形美が描き出す近代的で、人工的な情景は、人が為し遂げた文明の最たる物だと思わせてくれる。

 ふと、室町小路広場から天井を見上げれば、アーチ状に組まれた鉄筋が織り成す、近代的な幾何学模様が目に留まる。大自然と共に歩むのも好きだが、こうした近代的な造形美を好む辺りが実にテルテルらしい。

『西瓜の甘味を引き出すためにお塩をかけるでしょう? アレと同じ原理だと思うんだよね』

 気取った評論家のように、人差し指を立てながらテルテルが熱く語る持論。

 室町小路広場から空を仰げば、鈍色の空からは静かに小雨が降り注ぐ。嫌な天気だ。そんなことを考えながら、そっと傘を広げる。室町小路広場から天高く続く階段を昇りながら、熱く語るテルテルの言葉に耳を傾けていた。一歩、一歩、歩む度に足元から水音が響き渡る。

『古の都の玄関口となる駅だからね。この近代的なビルの雰囲気、ぼくは好きだなぁ』

 ワシはテルテルの考えには共感出来なかった。古の都らしく、慎ましく、質素で古典的な駅の方が雰囲気には合うのでは無かろうかと考えていた。しかしながら、此処、京都駅は多くの鉄道が一同に介する巨大な駅でもある。恐らく、古典的な構造では使い勝手という面で不便だったのだろう。そう考えると、西瓜にかける塩という考え方もアリなのかも知れない。そう考えることも出来そうだ。もっとも、ワシはテルテルの喜ぶ顔を見られれば、それだけでも十分嬉しく思えた。

『今日は生憎の雨だね。これじゃあ、何処に遊びに行くにもビショビショになっちゃうなぁ』

『なら、今日も此処で遊ぶとするのじゃ』

『そうだねぇ。お金掛からないし、伊勢丹にも、ポルタにも美味しい甘味処は沢山あるからね』

『にゃはは。テルテルは甘党なのじゃー』

『そういうロックも甘党だよねー』

『その通りなのじゃー』

 楽しかった。二人で何をするでも無く、ぶらぶらと宛ても無く歩き回る。何かの目的がある訳でも無く、賑わう観光客達に紛れて歩き回る。それだけでも幸せだった。変わることの無い日々だと思っていた。終わりなど訪れる訳が無いと思っていた。

『ね、ね、ロック。空中経路行こう?』

 空中経路は京都駅ビルの中を駆け巡る文字通りの経路だ。高台を駆け抜ける一本道。たかが通路だと侮るなかれ。此処は無料で歩ける場所ということで、ワシらの中ではちょっとしたテーマパークのような場所になっていた。格子状の鉄筋に囲まれた通路から覗く景色は最高の景色だ。

『雨の京都タワーってのも中々絵になるよね』

『そうじゃな。空中経路なら雨に濡れることも無いでのう』

 遠く広がる景色は霧が掛かっていておぼろげにしか見えなかった。雨だけがシトシトと音も無く降り続く。雨は好きではない。でも……少しだけ、雨も悪くは無い。そう思える自分がいることに気付かされた。

 楽しい思い出、沢山作った。夜になれば駅ビルはまた一風変わった装いを見せてくれる。優雅なる情景を楽しむことが出来るのも駅ビルの楽しみとも言えよう。

 学校帰り、此処でテルテルと何度も遊んだ。徒然なるままに駅ビルの中を歩みながら今度は何処に遊びに行こう? 何を食べに行こう? 二人で冒険に夢馳せたものだった。

(……ものだった?)

 そう。テルテルはもう居ない。さっきまで一緒に手を繋ぎながら、笑い合っていたのに、今はもう一人ぼっちだ。

「テルテル? 何処へ行ったのじゃ?」

 ふと振り返れば、さっきまで賑わっていた空中経路には誰の姿も見られなかった。

「テルテル? 何処にいるのじゃ? ワシを……ワシを一人にしないでくれなのじゃ……」

  不意に周囲が静まり返る。人々の雑踏も、話声も、何もかもが音も無く消え去ろうとしていた。テルテルはもう、二度と戻らない。その事実を叩き付けられたような気がして、途方も無く恐ろしくなった。テルテルと過ごした思い出が片っぱしから『忘却』され、ワシ一人だけが取り残されてしまう。そう理解した瞬間、ワシは自分自身を抑えられなくなっていた。

「イヤじゃ……。ワシを、ワシを……ワシを一人にしないでくれなのじゃーーっ!」

 次の瞬間、信じられない出来事が起きた。突然、足元からガラガラと音を立てて崩れ始めた。

「ひっ!?」

 必死で逃げようとした。だけど、どうすることも出来なかった。唐突に足元が崩れ、ワシはそのまま転落してゆくのを感じていた。重力を感じながら、風圧を感じながらみるみる地表目掛けて墜落してゆく。そして、ワシはそのまま駅前の広場に叩き付けられた。

 痛みは感じなかった。ただ、指先からゆっくりと冷たくなってゆくのを感じていた。指先を動かそうとした。だが、冷たい氷の塊のようになった指先は動くことは無かった。多分、ワシはこのまま死んでゆくのだろう……。冷たい死体となって、誰にも看取られずに死んでゆくのだろう。

(嫌じゃ……。こんなの嫌じゃ……。テルテル、ワシは……ワシは……)

◆◆◆69◆◆◆

 再び目を覚ました時、ワシは再び地下街ポルタの通りに崩れ落ちていた。眩暈を覚える程に酷い頭痛を覚えた。だが、その痛みのおかげで意識が鮮明になった。

 そうだ。いきなりワシを阻止しようとした何者かが居たハズだ。怒りに身を任せ、通行人に襲い掛かろうとした瞬間、ワシの肩を乱暴に掴んだ誰かが居たハズだ。何者かに力一杯背後に引き倒されたことを思い出した。記憶が蘇るに従い、ワシの中で見えない何者かに対する怒りが沸々と沸き上がって来た。

「誰じゃーーっ!? ワシを邪魔するのは誰じゃーーっ!」

「ロック、落ち付け!」

 聞き覚えのある声に驚き、ワシは慌てて振り返った。

「り、リキ!?」

「何が起きたか知らねぇが、とにかく落ち付け」

 何故、この場所にリキがいるのか? ワシは予想もしない出来事に、すっかり混乱していた。そんなワシを後目に、リキが怪訝そうな視線を投げ掛ける通行人達を鋭く威嚇する。

「おいっ、てめぇら。見世物じゃねぇんだよ! ぶん殴られたく無かったら、さっさと、どっか行きやがれ!」

 リキに起こされ、ワシは何とか立ち上がった。リキは静かに笑いながら、何時ものようにワシの肩に腕を回して見せた。

「取り敢えずさ、何か冷たい飲み物でも飲もうぜ」

「じゃ、じゃが……」

「良いから、黙ってオレの言う通りにしてくれ」

 静かに溜め息を就きながらリキが続けた。

「頼む……」

 何時に無く真剣な表情を見せるリキの言葉に、ワシは静かに従うことにした。

「判ったのじゃ……」

「うしっ。それじゃあ、行こうぜ」

 ワシらは地下街を後にし、京都駅の二階にあるコーヒーショップ、カフェ・デュ・モンドに向かうことにした。駅の中央コンコースを見下ろす立地にある見晴らしの良い場所だ。そこで、ワシの気持ちを落ち着かせてくれようと考えているのかも知れない。

 何故、リキが此処にいるのか、何がどうなっているのか訳が判らないことだらけだった。ただ、一つだけ判ること……テルテルの笑顔は、もう、二度と見ることは出来ない。それだけは確かな事実だった。

◆◆◆70◆◆◆

 リキに先導されるようにしてワシは歩き続けた。地下街ポルタから地上へと続くエスカレータにゆられながら周囲の景色を見回す。何時もと変わらない日常の光景が、確かにそこにあった。これから夕食なのだろうか? 楽しげに語らうOL達の姿もあれば、観光客なのだろうか? 土産物を手にした中年男性の姿も見られた。何一つ変わらない日常の光景の中、ワシらだけが取り残されたような感覚を覚えて、妙に哀しく思えた。同時に悔しささえ覚えていた。何故、ワシらだけがこんな目に遭わなければならないのだと。苛立ちは次第に嫉妬に変わり、憎悪に変わろうとしていた。

 エスカレータを乗り継ぎながらワシは人々が往来する駅の改札を見つめていた。行き先を告げる電光掲示板の人工的な光がぼうっと目に留まった。憎悪に沈もうとしているワシを現実に引き戻したのはリキの言葉だった。

「ここから見る景色、中々に悪くねぇよな」

 不意に肩を叩かれて驚いたワシは、危うく悲鳴を挙げそうになった。それでも必死で踏ん張った。

「そ、そうじゃな」

 動揺するワシとは対照的に、リキは懐かしさを称えた笑みで周囲の景色を見回していた。見慣れた景色のハズなのに不思議なことをするものだと思っていると

「オレのセンスじゃ無いんだぜ?」

 そう、言って見せた。

「へ?」

「オレがこんな洒落た場所で、コーヒー片手に道行く人々を眺めるなんて絵にならねぇだろう? 此処は結花に教えて貰った場所でな」

 寂しげに微笑んで見せるリキの横顔は一体どんな想いを描いていたのだろう? 考えれば考える程に胸が締め付けられそうになる。憎悪の念はすっかり失せていた。代わりに、大切な友の寂しげな表情が辛く思えて、ワシもリキの真似して周囲を見回してみた。

(駅という場所は始まりの場所であり、終わりの場所でもあるのじゃ)

 以前、コタがぽつりと漏らした言葉を思い出していた。それは、丁度、親しき友人同士が手を振りながら改札を抜けてゆく光景を目の当たりにした時のことだった。見送る友人と、手を振る友人と。夕暮れ時の景色と相まって実に印象的な光景だった。これが恋人同士であったならば、もっと心に響いていたのかも知れない。同時に想うこと。大切な誰かを失うこと……それは本当に、大きな意味を持つと思う。昨日まで笑い合えたハズの相手と、もう、笑い合うことも出来ない。もう、触れることも出来ない。もう、共に語らうことも出来ない。もう、叱って貰うことも出来ない。もう、声も聞けなくなる。そして、時の流れと共に段々と、その顔や記憶さえも薄れて行ってしまう。思い出という名の欠片達は、時の流れの中で次第に風化し、サラサラと砂のように零れ落ちて行ってしまう。本当に哀しいこと。多分、何度体験しても絶対に慣れることは出来ないと思う。痛みを感じなくなることなど有り得ない。

 ワシらはアイスコーヒーを二つ注文し、空いている席に着いた。

「夜半の京都駅か……」

 リキが吐息混じりに呟いて見せる。

「悪く無いもんだな。結花が愛した景色、オレも好きだ」

「きっと、どこかでワシらのことを見守っておるのじゃろう」

「そうだと良いな」

 笑いながらリキはコーヒーを口にして見せた。ワシも真似してアイスコーヒーを口にして見た。ほろ苦さと芳醇な香りが口一杯に広がり、ささくれ立った心が鎮まってゆく感覚を覚えていた。

 小粋な椅子に腰掛け、ワシは呆然と行き交う人々の流れを見つめていた。多分、ワシは表情さえも失われ、もはや、蝋人形のような表情を浮かべていたと思う。そんなワシに対して、リキは何時もと何ら変わらぬ振舞いを見せるばかりであった。

「あいつらの言ったことなんて、真に受けることなんかねぇって」

 ワシは何も言葉が出て来なかった。あれが幻だと? 確かに、触れた感触は冷たかったし、肌も硬かった。息もしていなかった……。あの状態が生きていると言えるのだろうか? テルテルはワシのせいで殺されることとなった。このままでは他の皆の命も危ういのだろう。目の前にいるリキとて、その中に含まれるのだろう。

「考えても見ろよ? あいつらは多彩な幻を見せ付けて、ロックの心を掻き乱しているだけだろう? どうせ、くだらない仕掛けしかねぇんだ。そんなもん、まともに受け止める必要なんかねぇって」

「……もしも、本当だったらどうするのじゃ? リキよ、お主が次は狙われるのかも知れんのじゃぞ?」

「ああ? オレが?」

 一瞬考え込んで見せたが、リキは豪快に笑いながら腕に力を篭めて見せた。

「へっ、オレに喧嘩を売るなんてフザけた野郎は、本気でボコボコにしてやらぁ! 何よりも、ロックを……オレの大切な兄弟を悲しませるなんて、許す訳にはいかねぇからな」

 相変わらずリキは豪快な振舞いを見せるばかりだった。だが、ワシはどうしても、気持ちが沈んだままであった。

「それにしても、坊さんのクセに死者を冒涜するたぁ、トンでもねぇ奴らだぜ」

 怒りが収まらないのか、リキは尚も吐き捨てるように続けて見せた。

「もう二度と会えねぇハズの結花の幻を見せ付けやがって……。人の心に土足に踏み込んで、散々荒らしてくれたこと、絶対に許さねぇぜ。相応の礼はしてやらねぇとな」

「リキ……」

「ロック、あいつらの言うことに耳なんか貸すこたぁねぇぜ?」

 リキは何時ものように豪快に笑ってみせた。

「大丈夫だって。きっと、皆、無事だからさ。考えてもみろよ? オレはご覧の通り、ピンピンしているんだぜ?」

「そうじゃな……。ありがとうなのじゃ」

「あっちもビンビンだぜ!」

「にゃにゃにゃにゃんと!? いきなり、下ネタ全開なのじゃー!?」

「わはは。良い切り返しだな。何時ものロックに戻ったっつー感じだよな」

 嬉しかった。どんな場面でも、リキは何時だってワシのことを元気付けてくれて、勇気付けてくれた。不安な時も、哀しい時も、何時もこうやって励ましてくれた。だから、ワシはこうやって生きて来ることが出来たのかも知れない。

 リキは笑いながら、手身近に何が起きたかを聞かせてくれた。

  確かに、ワシと共に嵐山旅館にいたのは事実だった。三度、ワシが意識を失うのを見届けたリキは、今度こそワシが死んだのでは無いかと心底焦ったらしい。だが、そんなリキ自身も唐突に意識が遠退き、気を失ったと聞かされた。そして、次に気が付いた時には、地下街ポルタに佇んでいたらしい。そこで、荒れ狂うワシを目にして、大慌てで制止に入ったというのが、事の顛末だと聞かせてくれた。

 理由はどうあれ、こうして、リキと再会出来たことは大きな救いとなった。今のワシは崖っぷちまで追い詰められた状態にある。どんなに強固な肉体を持っている者でも、精神は外部からの圧力で容易く崩壊すると聞いたことがある。ワシのように非力な身であれば、呆気無く崩壊してしまうことだろう。あの時、リキがワシを止めてくれなければ、ワシは今頃どうなっていたのだろうか? あの幻の顛末動揺、冷たい亡骸に成り果てていたかも知れない。そう考えると、一気に、背筋が寒くなった。

「やはり、お主と一緒にいると元気になれるのじゃ。そうじゃな……。テルテルはきっと、無事なのじゃ」

 本当にそうなのだろうか? その不安も拭い切れなかった。あいつらは一人一人でも桁違いの力を持っている。それなのに、そんなのが四人もいる。ワシら如き非力な存在で勝てるのだろうか? 考えれば考える程に不安になってゆく。

「それにしても、まーた、オレとロック、二人だけになっちまったな。へへっ、ゴメンなぁ、オレなんかで」

「何で謝るのじゃ?」

「まぁ、なんつーか。オレは何の力もねぇからさ。一緒になって逃げることしかできねぇから、何か申し訳ねーなーって思ってな」

「そんなこと無いのじゃ。リキと一緒だと本当に安心するのじゃ。リキの前ならば、ワシは皆の前に居る時のように作らなくて済むからのう」

 可笑しそうに笑うワシに向かって、リキは腕組みしながら苦笑いしてみせた。

「そーいうの止めろって何度も言ってるじゃねぇか? 良いじゃねぇかよ。オレの前で振舞っているみてぇにさ、皆の前でも在りのままに振る舞えよ」

「ふむ。テルテルにも叱られたのじゃ。じゃから、ワシは変わるのじゃ」

「お? 良いね、良いね。絶対その方が良いって。皆さ、何の違和感も無く受け入れてくれると思うぜ? 何しろ、オレ達は――」

「家族じゃからのう!」

「おう! その意気だぜ!」

 リキの仰々しいまでの豪快さと、暑苦しいまでの情熱には何時も助けられている気がする。どんな場面でもこういう調子だから、何時の間にか皆も調子が盛り上がってゆく。気付かないうちにリキのペースに嵌り、皆、勢いある振舞いに変わっているから面白い。だけど、その勢いの良さは本当に大事だと思う。病は気からというが、こうして勢いある振舞いを取っていれば、物事は何となく上手く言ってしまうものだ。皆もリキの勢いある振舞いを気に入っているとワシは感じている。

「そういえばさ、二人きりと言えば、何時だったか二人で亀岡の湯の花温泉に小旅行に行ったよな」

「おお、結構昔の話なのじゃ」

「そうそう。確か、中学生最後の年だったよなー」

「懐かしい思い出なのじゃ……」

 そうだ。思い出を手繰り寄せる。『忘却』を阻止し、『回顧』を為し遂げるためには、そうする以外に手立ては無かった。思い出そう。とにかく思い出そう。どんな些細なことでも構わない。記憶を必死で手繰り寄せなくては。大切な家族の絆を、今一度『回顧』することとしよう。もう、誰も失いたく無い。せめて、今、目の前にいるリキだけでも失わないように、リキとの思い出を鮮明に思い出さ無くてはならない。『回顧』を為し遂げること――それが、ワシに残された唯一の救いなのかも知れないのだから。

「へへ、懐かしいよな。湯の花温泉ってさ、結構、駅から離れているんだよな。意外と近場なんだろうと思っていたら結構な大冒険になってさ。でも、それもまた楽しくて、今でも鮮明に記憶に残っているんだぜ」

 それは中学生時代の思い出だった。

 リキとワシとは境遇も良く似た同士だけに語り合えることも少なく無かった。リキは料亭を継ぐ身、ワシは嵐山旅館を継ぐ身という関係上、将来のことを語り合うことも少なく無かった。

 あの頃のワシは、何故、普通の家庭に生まれて来られなかったのだろうかと常々思っていた。だけど、今更、歩む道を変えることも出来ない。受け入れるしか無いと感じていた。その一方で、何時も必死になって抗っていたと記憶している。丁度、ワシ自身の歩むべき道を模索し続けていた時代だった。

「亀岡の湯の花温泉、懐かしいのじゃ」

「ああ、懐かしいよな」

 穏やかな笑みを称えながら、リキは再びアイスコーヒーを口に運んで見せた。

「旅館を運営する上で必要となる『お持て成し』の心を学びたくて、歴史ある亀岡の湯の花温泉を訪れてみたかったのじゃ」

「そうそう。ロックの何気ない一言から始まった旅だったよな」

「確か、夏が終わり秋の始まった頃じゃったな。丁度、野山も夏の装いから移り変わる良き時期を選んだのじゃ」

 静かに目を伏せれば、あの日の情景が鮮明に蘇ってくるような気がする。おとんとおかんに話をして軍資金を出して貰って、ワシはリキと共に旅に出ることにした。旅だなんて大袈裟な気もするが、それでも、ワシに取っては旅であり、大冒険への幕開けそのものだった。

 判っている……。今、ワシがすべきことは過去を顧み、思い出の中に逃げ込むことでは無い。判っている。向き合うべきものはそこにある訳ではない。それでも、リキを失わないためにも『回顧』を為し遂げる必要がある。そのためには、リキの力も貸して貰う必要がありそうだ。

「のう、リキよ」

「へへっ、どうした?」

「少しだけ……」

 ワシはリキの眼差しをジッと見据えたまま続けた。

「少しだけ、過去の懐かしい記憶の中に旅立っても良いじゃろうか?」

 ワシの問い掛けにリキは少々考えてから、腕組みしながら力強く笑って見せた。

「それじゃあ、オレも一緒にお供させて貰おうかな?」

 リキがそっとテーブルの上に手を差し出して見せた。何を意味しているのかを察したワシは、その手の上にワシの手も重ね合わせた。重ね合わせた手の感触を感じていると、次第に意識が遠退き始めた。

 さぁ、過去へと旅立とう。温かな思い出の待つ懐かしい過去へ。リキと共に歩んだ物語を再び歩み直すとしよう。『回顧』を為し遂げるために。風葬地の裁定者をこの手で殺めるための力を手にするために、しばしの間、過去へと旅立つとしよう。

◆◆◆71◆◆◆

 ワシが中学三年生の時のことだった。その日は良く晴れた秋の日だった。未だ残暑の厳しさ残る暑い日だったと記憶している。婆ちゃんとシロが相次いでこの世を去った冬の日から、未だ立ち直り切れていなかった時代。そんな時代に築き上げた思い出だった。

 現地で合流する手筈になっていたが、どうやらリキの方が先に到着していたらしい。亀岡駅のホームに降り立つと、何時もと変わらぬリキの姿がすぐに目に飛び込んできた。時刻は朝の七時半。かなり早い時間ではあったが、それでも日差しは夏の頃と大差は無かった。

「おうっ! ロック、待っていたぜ!」

「待たせてしまって済まないのじゃ」

「へへっ、気にするなよ。まだ集合時間の十五分以上前だぜ?」

 何時ものようにリキは豪快に笑って見せた。相変わらず季節の流れを一切無視した服装だったが、リキの場合、その立派な体格があればこそ良く似合う格好だったのを考えると、別段不思議では無かった。それに秋とは言え、昼間の暑さは真夏と左程変わりは無い。

「さーって、大冒険の始まりだなっ! へへっ、楽しみだなぁー」

 こうしてワシらは駅の改札を抜けて亀岡駅前に降り立った。

 山陰本線亀岡駅。ワシらは南口から降り立った。ふと、振り返ればガラス張りの姿が印象的な駅舎が目に留まる。駅前には客待ちのタクシー達が立ち並び、嵐山の駅前とは大きく雰囲気の異なる場所だった。

「取り敢えずさ、コンビニで朝メシでも買ってこようぜ」

「コンビニ……あるのかのう?」

 思わず二人で顔を見合わせてしまった。だが、考えていても何も始まらない。行動あるのみだ。

「ま、まぁ、少し歩いてみようぜ……」

 リキもワシも亀岡に来るのは初めてだったから、何しろ勝手が判らない。温泉がある街という程度の浅い情報しか手にしない状況で飛び込んできたのだから、無謀であったのは言うまでも無い。だけど、冒険とは斯くあるべきだとワシらは考えていた。シナリオ通りに敷かれた線路の上を走るだけの物語を紡ぎたく無かった。だから、敢えて何も調べずに飛び込みで来て見た。無論、今宵の宿など予約すらしていない。腕試しをしてみたいという想いもあったのかも知れない。

 男というのはこういう下らないことに楽しみを見出す生き物らしい。ワシの無謀な発想におかんは溜め息を就き、おとんとじっちゃん、大樹は鼻息を荒くして興奮していたのを思い出していた。是非とも、大樹に面白い土産話を聞かせられるように色々と体験したい所であった。

「うん。何にもねーな」

「そうじゃな」

 言っては悪いが田舎だと思った。何と言うか、ワシは観光地に暮らす身であり、リキもまた上賀茂神社という賑わいを見せる大きな神社の傍に暮らす身である。こうも人通りがまばらな場所というのは、逆に珍しく思えるものだった。京都駅から数十分で、斯くも街並みは変わるものなのかと、先ずは最初の驚きを感じていた。

「お! 弁当屋発見!」

「ふむ。此処で食料を調達せぬと、当分何も無さそうな気がするのじゃ」

「そうだな……。何かさ、無礼を承知で言うけどさ、ホントに気合いの入った田舎に来たって感じするよな」

「そ、それでこそ、大冒険と呼べるのじゃろう?」

 再び顔を合わせて考え込んでしまった。

(本当に大丈夫なのだろうか?)

 言葉には出さなかったが、それが率直な気持ちだった。

「うぉっ!? し、しかも、この弁当屋、まだ開店まで時間あるし……」

「にゃんと!? 駅の売店も未だ閉まっておったしのう……。うぬぬ、恐るべし亀岡なのじゃ」

 結局、食糧を調達出来ぬままワシらは駅前まで戻り、バスの待合所で飲み物を口にしていた。恐ろしいことにバス停の時刻表は眩しいばかりに白一色で、その中に数ヵ所だけぽつぽつと時刻が刻まれていた。つまり、バスを一本でも逃すと、次のバスが訪れるまで途方も無い時間を待つことになるということだ。市内のバスに慣れているワシらには、このバス停の時刻表は色んな意味で衝撃的な内容だった。驚くなという方が無理がある。

「未だ始まって間もないのに、驚きの連続なのは気のせいかな?」

「気のせいじゃないと思うのじゃ」

 ワシらは飲み物を口にしながら時計を確認していた。何しろ一時間に一本以上の間隔だ。逃せば大変なことになる。時刻表によると八時少し前にバスが訪れるらしい。何としてもこのバスに乗らなければならない。絶対に逃がす訳にはいかない。何しろ次のバスは十時半過ぎだ。それまで、こんな何にも無い駅前に居続けるのは微妙過ぎる。そんなことを考えていると、不意に、携帯で何かを調べていたリキがワシに語り掛ける。

「ほうほう。どうやらバスに乗っちゃえば意外と直ぐみたいだぜ。三十分も掛らずに目的地まで到着するみたいだぜ」

「ふむふむ。意外と近場なのじゃな」

「そうだな。もっと、すげー山奥にあるのかと思ったけど、そーでもねぇみたいだな」

 何しろ目にする物の全てが珍しく思えて仕方が無かったワシらは、目にするあらゆる物に驚き、感動し、声をあげたり、感嘆の吐息を漏らしたりしていた。

 そうこうする間にバスが訪れた。手際良くゴミを片付け、ワシらはバスに乗り込んだ。

 駅前を発ったバスは静かな街中を走り続けていた。これといって変わった物は目に着かなかったが、田舎の閑静な街並みという感じで、静かに落ち付いた感じが心地良く感じられた。嵐山という観光地に住んでいて日々賑やかな場所で暮らしている身からしてみると、こういう静かな街並みというのは逆に新鮮に感じられた。

 観光地特有の賑やかさからは程遠い街並みは普段の人々の暮らしが感じられて、目にする全ての物が珍しく感じられた。通り沿いにも普通の民家が立ち並んでいる様子を窓からじっと眺めていた。

「オレの住んでいる辺りと近い感じだけど、やっぱり、何か雰囲気が違うよな」

「ふむ。確かにそうじゃな。リキの住んでいる辺りも住宅が立ち並ぶ静かな街並みなのじゃが、確かに雰囲気が違って感じられるのじゃ」

 静かな街並みを走っていると何時の間にか大きな通りに出ていた。往来する車も速度を上げて飛ばしてゆく道を走っていると、ワシらの進む先に興味を惹かれる大きな建物が見えてきた。ガラス張りの外観に格子状の内装が印象的な大きな建物だった。

「おお、大きな建物なのじゃ」

「ガレリアかめおかって書いてあるぜ。道の駅らしいな」

「ほうほう。道の駅なのじゃな。それならば、色々なお店もありそうなのじゃ」

 大きな建物に興味を惹かれている間にもバスは静かに走り続ける。普段目にすることも無い建物を目にすると、いかにも冒険をしているという気持ちになれる。

(大樹に言われてしまうのじゃが、やはり、ワシは幾つになっても子供なのかのう?)

「へへっ、大樹もナマイキなこと言うようになったな」

「そうなのじゃ。口だけは達者な奴でのう」

「でもよ、男なんてさ、幾つになってもガキなんだろうなー。ほら、男ってさ、夢と冒険を追い求め無くなっちまったらさ、もうジジィだと思うんだよな」

「それは嫌じゃな。ワシは何時までも若々しくありたいのじゃ」

「だろう? だからさ、オレ達、何時までもガキで良いと思うんだよな」

「そうじゃな。大樹は妙にオトナになりたがっているのじゃが、ありのままの自分で良いのじゃ」

 ありのままの自分――自然に振舞うことが出来るのはリキの前だけだ。でも、それも悪く無い。偽って生きていくよりも、ずっと、ずっと良い。

 再びバスは変わることの無い広い道を走り続けて行く。段々と家々も減り、周囲の景色はますます郊外の景色に移り変わろうとしていた。さらに走り続けて行くバスからの景色をワシらは眺めていた。再びワシらの目に興味を惹く景色が飛び込んできた。バス停の名前からしても大きな公園があるのだろう。

「今のバス停、運動公園前らしいぜ」

「ふむ。でっかい公園じゃな。グラウンドも広ければプールもあるのじゃな」

「おう。何か、すげー充実しているよな。此処、今度さ、皆を連れて来ないか?」

「うむ! これだけ広ければ色んなことが出来そうなのじゃ!」

「そうそう。それでさ、汗を流した後は、この先にある湯の花温泉で一泊とか悪くねぇよな。ロックじゃねぇけど、これぞ、お持て成しっつー奴だよな」

「おお、悪く無いのじゃ!」

 運動公園前を過ぎれば周囲には一面の水田が目に留まるようになる。たわわに実った稲穂が目に留まる。風が吹き抜ければ、稲穂が一斉に風に揺れる。その情景にワシらはしばし見惚れていた。畑では何かを燃やしているらしく白い煙が立ち上る。農家の人々が作業をしている姿がある。言葉に出来ない懐かしさを覚える景色だった。

「何かさ、こういう所で作っている米ってさ、ぜってー美味いと思うんだよな」

「うむ! きっと、美味しいお米なのじゃ。ああ、何かお腹が空いてしまうのじゃ……」

 焚き立てのご飯の映像が脳裏に鮮明に描き出された。ムワっと立ち昇る蒸気と、艶々と光を放つご飯を茶碗に盛り付ける。焼き鮭にみそ汁、そこに気の利いた小鉢が添えられる。おかん特製のふんわりとしただし巻き卵も並べてみたりする。少々甘目に仕上げるのがおかん流。ワシら兄弟の好物の一つだ。ふむ、実に悪く無い。

「おい、ロック……」

 妄想に耽っていると不意にリキに小突かれた。何事かと振り返れば

「何もそんな、ご丁寧に情景を語ってくれなくても良いじゃねぇかよ……」

 そう口にしながらリキが頬を赤らめる。続けて、リキの腹が鳴る音が聞こえて、ワシも釣られて腹が鳴った。思わず顔を見合わせて笑った。

「でもさ、美味そうだよな」

「中々の収穫の様子じゃな」

 国道沿いに広がる一面の水田の情景。水田一面を覆い尽くすように頭を垂れる稲穂達の姿を、ワシらはただ静かに見つめていた。良い景色だ。何処までも広がる水田と豊かな実り。ワシらが普段口にしている米はこうして作られているのだな。そう考えると感慨深い気持ちで一杯になった。

「この景色さ、夕暮れ時とかに見たいよな」

「あー。夕日を受けて黄金色に輝く稲穂……。それが風に揺れる光景かのう」

「そうそう。風が吹けばさ、稲穂が揺れてさざ波のような音色が響き渡り――」

「波打つ稲穂も光景も重なり合い、さぞかし幻想的な光景になるじゃろうな」

「おう。良いよな。そういう景色ってさ」

 やはり、ワシはこういう大自然にある物を目にしていると落ち付く。同年代の者達が好むような、人が創り出した遊びにはどうしても興味を惹かれなかった。

 道は何処までも果てしなく続いていて、行く先には山々が展望を広げ、そこに覆い被さるように発達した、夏の忘れ形見のような入道雲が彩りを加える。広がるのは透き通るような青空。空が高くて、深く澄み渡った青空に散りばめられたような羊雲が綺麗だった。所々が赤や黄色に色付き、秋の装いに変わり始めている山々の景色。見ているだけでも飽きない光景がそこに広がっていた。

「良い所だな」

「そうじゃな。田舎の景色……ワシは好きなのじゃ」

「ああ、オレも好きだなぁ」

 国道沿いに規則正しく並ぶ電柱と送電線。時々街灯があるのを除けば、やはり、広大な水田の景色が何処までも続いている。点々と存在する家々は、きっと農家の人々の家なのだろう。少々暮らすには不便な場所かも知れないが、こういう静かな街並みで暮らすのも悪く無いのかも知れない。

 やがて水田の広がる景色の中に大きな看板が見えて来る。湯の花温泉と書かれた看板は亀岡の温泉街への入り口を告げるものなのだろう。

 奥条のバス停を過ぎた辺りから道幅が次第に狭くなる。程なくしてせり立つ山の急斜面を横目にバスが走り抜けてゆく。すっかり水田の景色も失われ、両脇を迫り来る山々に挟まれた道へと様変わりしつつあった。おまけに、段々と緩やかな上り坂になっていた。いよいよ冒険の雰囲気が出て来るというものである。

「何か、良い感じだよな。雰囲気出てきたんじゃねぇの?」

「うむ。大冒険の幕開けなのじゃ!」

 道はさらに細くなり一車線通行へと変わっていた。温泉旅館もちらほらと姿を見せ始め、いよいよ湯の花温泉は目前へと迫りつつあった。気持ちも昂ぶる一方だった。そして、バスの電光掲示板にも、いよいよ目的地の名が表示された。

「ああ、次だな。次が目的地の湯の花温泉だぜ!」

「うむ! 気合いが入るのじゃ!」

 やがてバスはゆっくりと速度を落としながら、湯の花温泉のバス停へと到着した。

 目の前には小さな商店を営む民宿がひっそりと佇んでいた。素朴で家庭的な感じが印象的に感じられた。いよいよワシらは亀岡の湯の花温泉へと到着した。取り敢えずワシらは何処に宿泊するのかを検討するために湯の花温泉案内所を目指すことにした。こうして、あれこれ考えるのも楽しいものだ。夢はただ膨らむばかりであった。

◆◆◆72◆◆◆

 周囲は見渡す限りの木々ばかりの世界であった。曲がりくねり先が見えない国道が一本突き抜けていて、そこを時折車が往来するのを除けば、辺りは蝉の鳴き声と風が木々の葉を揺らす音が響き渡るばかりだった。

 大自然に抱かれた場所を、ただこうして往く宛ても無くぶらぶらと歩き回るのも楽しいものだ。辺りには小さな川が流れ、静けさに包まれた民家が何件か立ち並ぶ。他には何も無い山奥の景色が広がるばかりであった。

「未だ蝉、生きているんだなー」

「まだまだ暑いからのう。蝉も生き永らえておるのじゃろうな」

「しっかし、本当に何にも無い場所なんだなー」

 湯の花温泉案内所で宿を選ぼうにも、当然のことながら未だ営業を始めてすらいない。仕方が無いので、のんびりと周囲を散策して回ってみることにした。この辺りは山の真っただ中にあるため周囲には生い茂る木々しか無かった。迂闊にけもの道を突き進んでいけば、戻って来れなくなる危険性も孕んでいるため、あくまでも通り沿いに周辺を歩き回るだけに留めた。

「でもさ、何にもねぇ場所だけど、そこがまた良いよな」

「そうじゃな。これ程までに大自然豊かな場所ならば、コタもきっと喜ぶに違いないのじゃ」

「コタは木々の名前とか草花の名前とか色々と詳しいからなぁ。また、面白い知識を教えて貰えるかも知れないな」

「この草には毒がある。誤って体内に入れた場合には数時間で呼吸機能が麻痺し、死に至るだろう……なーんて話じゃろ?」

「わはは! 今の、もしかしてコタの真似かー? 全然似てねぇし!」

 ワシらは何時も一緒に行動していた。多分、同年代の連中とは趣味の方向性が異なり過ぎて、輪に加わることが出来ないからだと感じていた。皆、大自然を愛し、古い時代の寺社仏閣を好むなど、同年代の連中と比べると明らかに風変りな趣味の方向性を示していると感じていた。だからと言って他の連中と仲が悪いという訳でも無い。ただ、好んで関わり合いになることが無かっただけだった。互いに住む世界が違うのだからと、ワシらは皆、そう割り切って振る舞っていた。互いに必要以上に干渉し合わない。だから、共存することが出来ているのだろう。

「しっかし、本当に何もねぇ場所だな……」

「そうじゃな……」

 静けさに包まれた場所であり、木々の息吹を感じられる良い場所なのは確かだった。とは言え、此処まで何も無いと段々と飽きてくる。さて、どうしたものかと思わずリキを顔を見合わせていた。

「そういえばさ、亀岡駅に着いて早々にこっちに来ちゃっただろ? まだ昼まで時間がある位なのを考えると、道中の気になった場所に出向いてみるのもアリかも知れねぇな」

「ふむ。しかし、如何なる行動を起こすにしてもバスが命綱なのは変わりないのじゃ。先ずはバスの時刻表を確認してみるのじゃ」

 次に何をするかを決めてしまえば後は話は早い。ワシらはバス停まで急いで駆け戻り、時刻表を確認してみた。本数は確かに少ないが、ある程度計画性を持って行動すれば何とかなりそうだ。

「ふむふむ。適当に時間を潰して、十時半少し前に来るバスに乗れば亀岡まで戻れそうだぜ」

「なるほど。食事処が微妙な気がするのじゃが、一時半過ぎに亀岡駅前を出るバスに乗れば道中で道草を食うことも可能じゃろう。ガレリアかめおかや運動公園にも訪れることが出来そうじゃな」

「ああ。その後もさ、四時半前にバスが通るから、夕暮れ時の稲の景色を眺めても、五時半過ぎにバスが通る。それに乗れば六時前には再び戻って来れるぜ?」

「ふむ。じゃが、宿の予約をして居らぬのを考えると、中々に綱渡りじゃな」

「まぁ、道中どっかで適当に予約入れておこうぜ。電話でも大丈夫だろ?」

「それもそうじゃな。よし、それでいくとするのじゃ」

「おう。さっさと駅前に戻って、何か探そうぜ。腹減って仕方がねぇや」

 こうして、毎度の如く出た所勝負の無謀過ぎるワシらの大冒険が再び始まろうとしていた。最初から計画を立てて行動していれば、このように面倒なことにもならなかったのであろうが、当たり障り無く進む旅など観光会社にでも任せて置けば良い。ワシらはそういう敷かれたレールの上を走るような生き方を好まない身だから、ちょっと位ヒヤヒヤする展開がある方が楽しいというものである。

 こうしてワシらは再び訪れたバスに揺られて駅前まで戻ることにして見た。しかし、この温泉の周辺は本当に何も無い様子だ。これはギリギリまで他所で遊んでから温泉に戻ってくる方が良さそうに思えた。とはいえ、今後、皆を連れて来る際の貴重な情報源となった。少々体を張り過ぎな気がしなくも無いが、これがワシらのやり方なのだ。

「わはは! 再び駅まで戻るたぁ何とも珍妙な旅だぜ」

「じゃが、嫌いでは無いのであろう?」

「おうよ。レールの上を走るなんて生き方、オレぁゴメンだぜ。そんなの面白くも何ともねぇ。冒険っつーのは、先が見えねぇからこそ面白いもんなんだからよ」

「そうじゃな。ところで、亀岡駅の反対側の出口はどうなっておるのじゃろうな?」

「おお、そうだよな。駅舎に阻まれて良く見え無かったからな。へへ、それも含めて色々探ってみようぜ。この街は初めて訪れるに等しいからな。色々と探検し甲斐がありそうだよなー」

 乗り合わせた乗客が他に居ないことを良いことに、ワシらは散々賑やかに騒いでいた。時折、フロントミラー越しに覗く運転手さんの目がかなり怖かったこともあり、次第にトーンダウンしつつもワシらは冒険への熱い想いを語り合っていた。

 こうしてリキと二人で出掛けるのもこれで何度目だろうか? コタ達と知り合ってからは皆で出掛けることが多くなった。リキと温泉に出掛けたこの旅行から数ヶ月後、高校生になったワシらの輪の中に太助も加わり、今の五人組が完成されることとなる。それまでは、ワシら四人で何をするにも、何処に出掛けるにも一緒にいることが多かった。とは言え、こうしてワシとリキで二人で出掛けることも少なくは無かった。二人だけのヒミツを共有する者同士だからこそ、時には二人で一緒に行動したくなる時もある。

 リキと初めて肌を重ね合わせた夜から、ワシとリキの関係は変わってしまった。それが良い変化なのか悪い変化なのか、ワシには判断出来なかった。ただ、絶対に誰にも知られてはならなかったし、知られたくも無いヒミツだった。こうしてリキと旅行に出掛けようと思ったのも、誰の目も気にせずに、二人だけの時間を過ごしたかったからに他ならない。多分、ワシとリキは恋人同士に近い関係だったのだと思う。その一方で、ワシとリキは、互いに想っている相手がいるという極めてイビツな関係でもあった。ワシもリキも、それがまともな関係だなんて思っていない。多分、厳しい言われ方をするとしたら、傷の舐め合いに過ぎないのかも知れない。単純に、互いの欲求の捌け口を互いに見出しているだけの関係なのかも知れない。

(何か、そう考えると……汚らしい関係じゃな)

 でも、もはや、ワシもリキも、辿って来た道を戻ることは出来なかったと思う。この年にして妙に汚れ切った関係。だからこそ、尚のこと退け目を感じてしまい、他の同年代の連中とは関わることが出来なかったのかも知れない。バスの窓から吹き込む秋の風は涼しくて、心地良くて、殊更に胸が締め付けられた。

「ロック、そろそろ駅が見えてきたぜ。わはは、さっき出発したばかりの景色に、こんなにも早々と再会を果たすっつーのも妙な気分だよなー」

「にゃはは。ただいま、なのじゃー」

 結花さんのこともあるだろうから、リキはさらに深く迷っているのだろう。だけど、逆に考えれば迷った末に此処に辿り着いたのかも知れない。コタには本心を伝えることが出来ず、結果的に騙しているのと同等な状態に置かれている結花さんとの関係にも思い悩んでいる。そうなった時、ありのままの姿で何でも打ち明けられ、頼ることが出来るのはワシしか居なかったのだろう。ましてや、同じ家業を継ぐ身同士。似たような境遇だからこそ、余計に親密に関わり合えるのかも知れない。

「さて、駅前に再び戻って来た所で、何か、食い物探そうぜ」

「そうじゃな。ワシも空腹でフラフラするのじゃ」

「取り敢えず、食い物屋を求めて彷徨ってみるとしようぜ」

 表面上は何も考えていないように見えるけれど、リキはリキなりに色々と考えているように思える。ただ、ワシに要らぬ心配を掛けぬようにしてくれているのだろう。無為に奇妙な小細工をする位ならば、いっそ、リキと同じように駄目な自分を受け入れて、正直に生きた方が余程潔い。

「さて、取り敢えず何か食い物屋を探すのじゃ」

 こうして再び亀岡駅前に降り立ったワシらは周辺を散策してみることにした。今は、迷うことは止めよう。リキと二人きりで過ごせる大切な時間なんだ。良いじゃないか? 互いに紛い物同士でも、恋人同士のように振舞うことで互いが幸せになれるなら、例えそれが絵空事の夢物語であってもそれでも良い。高望みばかりでは身が持たない。地に足が付かない生き方など、所詮、絵空事の世界に過ぎないのだから。今を、在るがままの現実を受け止めよう。

◆◆◆73◆◆◆

 あれこれ探し回ってみたが、結局、目ぼしい食事処を見付けることは不可能そうだったので、諦めて駅の売店で弁当を購入することにした。

 ワシらは駅弁を頬張りながら周囲の景色を眺めていた。やはり、周囲の感じから察するに、この辺りは店自体が少ないように感じられた。食事処を探すのも中々に大変そうだ。

「まぁ、取り敢えず腹は満たされたから良しとしよう!」

「相変わらず、お主は判り易いのう」

「そういうロックだって、上機嫌じゃねぇかよ」

「にゃはは。その通りなのじゃ」

「それじゃあ、さっそく、もう一方の出口に降り立ってみようぜ」

 リキと二人、顔を見合せながらワシらは階段を下って行った。初めて訪れる亀岡という場所を探検するという楽しみを噛み締めながらワシらは階段を下って行った。やがて階段を降り切ったワシらは周囲の景色を見回し、思わず息を呑んだ。

「おおーっ!」

「す、凄いのじゃ……」

 目の前に広がる光景にワシらは思わず硬直するばかりだった。客待ちのタクシーが数台佇むのを除けば、後は見渡す限りの大草原だった。遥か彼方に広がる広大な山々と駅から山の方へと伸びる道路。周囲を見渡せば実に壮大な景色だった。後ろを振り返れば、フェンス越しに駅のホームに立ち並ぶ人々の姿が見えた。

「へぇー。駅から見えていた景色は、此処だった訳かー」

「ふむ。こっち側は何も無いが、中々悪く無い景色じゃの。この景色を見るだけでも価値はあるのじゃ」

「おお、そうだよな! 特に今日みたいに良く晴れた日は綺麗だよなぁ。ああー、コタ達にも見せてやりてぇよなー」

「うむ! 先ずは絶景ポイントをひとつ見付けたのじゃ。駅のすぐ傍で、なおかつお金も掛らないのじゃ!」

「へへっ、その条件、結構重要だよなー」

「ワシらビンボー学生には重要な条件なのじゃ」

 実に良い景色だった。駅の真正面には小さなロータリーが築き上げられ、小奇麗に整備された芝生や小粋な木々が植えられていた。視界の先には山々がそびえ立ち、雄大な入道雲を抱きながら佇んでいた。透き通る秋の青空。広大な景色は、やはり郊外ならばこその景色に思えた。

 涼やかな風を感じながら見渡すのは美しい景色だった。嵐山の景色も美しいが、今目にしている、あるがままの大自然の景色と比べると、随分と手の加わった景色のように感じられる。大堰川の流域は観光地に囲まれた土地であり、嵐山旅館の周辺も小奇麗に良く整備されている。化野念仏寺の方に向かってみても、やはり、綺麗に整備された風景が広がっており、それはそれで美しいのだが、あるがままの景色というのは、心にガツンと来る、一風変わった響き方をする気がした。思わず、二人で目の前に広がる景色に見入ったまま、しばし言葉発することさえ忘れてしまいそうになっていた。

「何っつーか、すげぇ心に響き渡る景色だよなー」

「うむ。周囲に広がっているのは畑のようじゃな。じゃが、遠くにそびえる山々と、間を遮る物が何も無い景色というのは、何とも雄大なのじゃ」

「ああ。なんつーか、野生に還るっつー感じするよな」

 野生に還るか……。この景色を目にした時から、ワシは、どうしてかは判らないが、涙が込み上げて来そうな感覚を抱いていた。「還りたい」と思ったのも事実だ。何故、そのような気持ちになれたのかは判らない。ただ、あるがままの大自然の姿に心を打たれたのは事実だったのかも知れない。それに、隣に居てくれるのがリキだったからこそ、ありのままの自分を曝け出すことが出来たからなのかも知れない。

「良い景色なのじゃ。嵐山からもそう遠くでは無いし、ワシらの遊び場の一つに加えたい所じゃな」

「そうだな。日帰りでも結構楽しめそうだもんな。それにさ、これから冬になると寒くなるだろ? 錦おばさんの銭湯も良いけど、湯の花温泉は日帰りでも楽しめるらしいからな。寒くなったら、それはそれで楽しみな場所かも知れないぜ?」

「そうじゃな。雪が降ったら、今見ている景色もまた、さぞかし幻想的な光景になるのじゃろうな」

「お! 良いねぇ。この景色が一面銀世界になるのかー。すげぇ綺麗なんだろうな!」

「結花さんも連れて来てあげると良いのじゃ」

 ワシの言葉にリキは言葉に詰まったような表情を浮かべていた。振るべきでは無い話題だったのかも知れない。これはマズイと感じたワシは慌てて話題を切り替えることにした。

「そ、そうじゃ。リキよ、そろそろ一時半過ぎのバスの時間なのじゃ」

「お!? マジか!? 逃したら長時間待つ羽目になる。うしっ。ロック、急いでバス乗り場に向かおうぜ!」

 誰にでも触れてはならない心の傷というのはあるものなのだろう。それが例え、親しき親友であったとしても迂闊に踏み込んではならない。取り敢えず、結花さんの話題には触れない方が賢明なのかも知れない。

 リキと結花さんとの間には、言葉に出来ない独特の距離感があるように感じられた。だからこそリキは思い悩んでいるのだとも感じていた。それは多分、部外者が迂闊に立ち入るべきでは無い、極めて繊細で、酷く脆い世界観なのだろう。

◆◆◆74◆◆◆

 駅の中を駆け抜け、再び反対側の階段を駆け下りれば、丁度バスが訪れる所であった。これは絶対に逃す訳にはいかないと、ワシらは全力で走り込んだ。

「ふぅー。間一髪だったな」

「間に合って良かったのじゃー」

「まぁ、道中にある、ガレリアかめおかっつー場所も興味津々な場所ではあるけれど、駅からそんなに離れて無いからな。次に来た時に探索してみるとしようぜ」

「うむ。次回は皆を連れて探索なのじゃー」

 ワシらはバスの外を流れゆく街の景色を眺めながら静かに腰掛けていた。時刻表によれば十五分もあれば運動公園には到着しそうだった。それまでの間、ワシらはしばし雑談を続けていた。

 こうして共に旅行に訪れた目的は幾つかあったが、その中の一つに、他の温泉宿はどういう作りになっていて、どういったサービスを振る舞っているのかを自分の目で確かめるというのがあった。 やはり、旅館の経営を受け継ぐ身としては、こういった物は直接自分の目で見て、耳で聞き、肌で触れて体験してみたいと考えていた。その中で良い部分を見付けることが出来たならば、嵐山旅館のこれからに活かすために学び、悪い部分を見付けることが出来たならば、嵐山旅館の未来に繋げようと考えていた。

 リキもまた他の場所で出される料理という物に興味があるらしい。やはり、知りたいのは和食の知識なのだろう。その中でも、特に京都の伝統的な料理や懐石料理といった技術を要する料理を、自分の目で見て、味わい、体験することで学びたいらしい。こういう知識は、やはり、自分自身で体験してみないことには学べ無いものだ。だからこそ、ワシらは学ぶことの出来る機会を大事にしたいと考えている。そのためにも、各地を旅することは大きな意味があると感じていた。

 二人で人の居ないバスの中、熱く語らっていた。危うく目的地を通り過ぎてしまいかねない程に。

「あ、危なかったのじゃ……」

「ああ。話に夢中になり過ぎるのは、それはそれで危険だな……」

 取り敢えず無事に目的地に辿り着くことが出来た。何時の間にか携帯片手に情報を調べていたリキがワシの肩をたたく。

「ここ、季節のイベントなんてのもやってるらしいぜ」

「ほほう、中々に興味惹かれるのじゃ」

「おお。今の時期だと体育館の隣でのコスモス園が開催中らしいぜ」

「ほほう。それは楽しみなのじゃ。他の季節はどうなのかのう?」

「そうだなぁ。お! これ、コタが飛び付きそうだぜ」

 コタが飛び付きそうだという情報にも興味を惹かれた。一体どのような催し物なのだろうか?

「犬飼川沿いのホタルだってよ」

「にゃはは、それは、コタが食い付くこと間違い無しなのじゃ」

「だろー? コタってさ、和製ファンタジーなもの好きだもんなー」

「ふむふむ。それでは二人きりで来ると良いのじゃ。初夏の夜、河原を舞う幻想的なホタルを二人で眺める。むぅー、ムード満点じゃろうなぁ。そのまま手を繋いじゃったりして――」

 からかうワシにリキのヘッドロックが決まった。

「あうぅ……。痛いのじゃー」

「余計な言葉を付け足すのが悪い」

(とか言いながらも携帯に情報をシレっと登録する辺り、満更でも無さそうじゃのう。ウシシ)

「お、ロック、これ見てみろよ」

「何じゃ、何じゃ?」

「結構、ここ設備が充実しているみてぇだぜ。野球場にテニスコート、プールに体育館、競技場とか色々あるんだな」

 敷地面積の広さから考えても、目に留まる建物の多さからしても充実しているであろうことは想像に難く無かった。しかし、改めて考えてみるとワシらには不向きな気がしてならなかった。

「……って良く考えたら、オレ達には結構無縁そうだよなー」

「言われてみれば確かにそうなのじゃ。ワシらの場合、何かスポーツするというより野山を駆け回っていることが多いからのう」

「確かに、そうだよなー。割と普通に山とか歩き回っているもんな」

「そうなのじゃ。この間は皆で鞍馬山から貴船まで山道を歩いたのじゃ」

「ああ。アレ、結構過酷だったよな。オレ、次の日に足がパンパンになっちまって大変だったぜ」

「にゃはは。テルテルに至っては、翌日、人形みたいにぎこちない歩き方していたのじゃー」

「まぁ、テルテルはオレ達と違って、体鍛えたりしている訳じゃ無いからな。無理もないだろ」

「そうじゃな」

「その分、ロックが守ってやらねぇとな」

「そうなのじゃ。ワシがテルテルを……!?」

 思わずワシのグーがリキの後頭部を抉った瞬間だった。

「痛ってぇ……。く、口は災いの元だな……」

「ささ、取り敢えずコスモス園を見に行くとするのじゃー」

 大通りを後にしてワシらは体育館を目指してみることにした。休日ということもあり、多くの人々が集う中々活気のある公園に思えた。こういう場所はワシらが普段出掛ける場所には無いので、皆で遊ぶ時には意外と有効かも知れないと考えていた。

「へぇー。結構、立派な体育館だな」

「そうじゃな。お! あれがコスモス園じゃな?」

「おうおう、中々見事なコスモスだなー」

「秋の花らしい何とも可憐な色合いなのじゃ」

 大したものでは無いのだろうと思っていたが、中々本格的なコスモス園だった。紅、桃色、白と色鮮やかなコスモスが咲き乱れる様は中々の景色だ。

 その後も、ワシらは公園の中を一通り巡ってみることにした。せっかく訪れたからには、皆を連れて遊びに来る場所として使えるか、どうかを確かめることも重要なことだった。国道を挟んで南北に広がる公園は中々に広大な敷地を誇っているらしく、こうして歩き回ってみると意外と広いことに気付かされた。

「甘く見ていたが、この公園、結構広大だな……」

「うむ……。探索しているだけでも結構な距離、歩いた気がするのじゃ」

 恐るべし亀岡運動公園。さらにワシらは公園を歩きついでに周囲の景色も確かめていた。予想通り、公園の周辺は水田の広がる長閑な場所だった。このまま時間が過ぎ去ってゆけば、夕日が照らし出す中で稲穂が黄金色に輝く瞬間に立ち会えるだろう。

 バスの本数は少なく、逃がしてしまったら大変なことになるが、一度バスが走ったルートはワシとリキ二人の目で見届けている。同じルート沿いに歩き回っている分には乗り逃すことも無いだろう。後は時間を確かめつつ適当な停留所から乗り込めば良い。何しろこの先、奥条のバス停を過ぎる辺りまでは長閑な田園風景が広がっている訳で、道も一本道だ。あまり無謀な振舞いをしない限りバスを乗り逃すことは無いハズだ。このまま通り沿いに歩き回るのも悪く無いかも知れない。

「それじゃあ、引き続き歩いて行くとしようぜ」

「うむ。歩くのじゃー」

 こうしてワシらは運動公園を後にして国道沿いに歩き回ってみることにした。予定がころころ変わるのもワシらの冒険の特徴だ。その時の気分で風任せに徒然に歩き回る。その結果、仮に迷子になったとしても、それはそれで冒険らしくて盛り上がるというものだ。もっとも、今回は迷子を引き起こす最大の張本人たるコタが居ない上に、一本道であることを考えれば先ず迷子になることは無い。ワシらはそのまま勢いに乗って国道沿いを歩くことにした。

◆◆◆75◆◆◆

 目的も無くぶらぶらと歩き回るのは意外と楽しかったりするものだ。少なくてもワシはこうやって放浪の旅へと臨むのは嫌いではなかった。徒然なるままに歩み続ける。その先に何が見えて来るのか? どのような世界が広がるのか? 気の向くままに、風の赴くままに歩み続ける。それも悪くないと感じていた。

「なぁ、ロック。今宵の宿なんだけどさ、何か希望とかあるか?」

「おお、そうであった。放浪ワンコの心境に夢馳せている場合では無かったのじゃ」

「はぁ? ほ、放浪ワンコ? 何じゃ、そりゃ?」

「むむ! 乙女のデリケートエリアに土足で立ち入るとは、お主も中々の不届き者なのじゃ」

「な、何か良く判んねぇけど、すまねぇな」

 真顔で頭を下げられると反応に困るというものだ……。イヤ、それを判っていて真正面から挑んできたのだろうか? さすがはリキ、ワシが切り返しに窮する立ち振舞いを心得ている様子。敵ながら実に天晴れなり。

「それでさ、どうしようか?」

 反応に困るワシを後目に淡々と振舞ってくれる。こうなると、迂闊にボケをかましても良い感じにスルーされて寂しさだけが残される。ここは、まともな振舞いで応えるとしよう。

「そうじゃな。ワシとしては民宿は避けたいのじゃ。民宿では一般家庭と変わらぬ故、あまり参考になりそうに無いのでな」

「なるほど。それじゃあさ、幾つか候補出てきたけど、何処にしようか?」

 大通りで一度足を止め、ワシらはしばし協議をすることにした。しかし、携帯片手にあれこれ見てみたが、画面に表示された宿泊料金にワシらは思わず言葉を失いそうになっていた。

「か、亀岡って、実は何気にすげぇ所なんだな……」

「ちょ、ちょっと甘く見ておったかのう?」

 しかし、今回は有難いことにおとんから結構な額の軍資金を貰っている。こういうことに関して、おとんは恐ろしく太っ腹だったりする。

(まぁ、実際の見た目も太っ腹……などということを、偉大なるスポンサー殿に言ってはバチが当たるのじゃ)

「判ったかの、リキよ?」

「へ? な、何の話だ?」

「な、何でも無いのじゃ……」

(いかん、いかん。ワシの妄想ワールドにリキをご招待してしまう所だったのじゃ。それこそ、めくるめくトワイライトゾーンへようこそ。二度と現の世に戻ることの出来ない、甘美なる倒錯不能の官能ワールドへと誘ってしまうところだったのじゃ)

「と、トワイライトゾーン? 甘美なる倒錯不能な官能ワールド? なぁ、ロック、一体何の話だ?」

「ふ、復唱するで無いのじゃ……」

 ワシの妄想ワールドが繰り広げられる中、一人、ドン退きするリキを後目にワシは宿の情報を調べ続けた。しばらく調べていると一軒の旅館が目に留まった。

「ふむ。此処が良さそうじゃな」

 ワシの声に反応したリキが興味津々に携帯を覗き込む。続けて、息を呑む声が聞こえた。

「マジか!? め、めちゃめちゃ豪勢な旅館だけど、大丈夫なのか?」

「大丈夫なのじゃ。この料金なら、おとんから貰った軍資金で十分事足りるのじゃ。後はデジカメ片手に、館内のあーんな所や、こーんな所の写真をあれこれ入手してくれば、おとんからのお咎め無しなのじゃ」

「あ、あーんな所や、こーんな所って……よ、良く判らねぇけど、大丈夫なのか、それって?」

「何を申すか。敵情視察も重要なお仕事なのじゃ。それに、この旅館、料理も美味そうなのじゃ。バッチリ撮ってリキにも後で送るのじゃ」

「お、おう……」

「何だったらお主のあーんな所や、こーんな所も撮ってくれるのじゃ」

「で、それをうっかりオヤジさんに間違えて送り付けると」

「そうなのじゃ……って、大問題なのじゃ!」

「オレに取っても大問題だぜ。お婿に行けなくなっちまうっつーの」

「おお、それは死活問題なのじゃ。売れ残りになってしまうのじゃ」

「売れ残りって……」

「はて? そう言えばワシらは一体何の話をしておったのじゃ?」

「そ、そろそろ本線に軌道修正しようぜ……」

 どうやら亀岡の湯の花温泉周辺は宿泊施設が少なく、まともな所に泊まろうとすれば一万円ところでは収まらない。ましてや一泊二食付きとなれば相応に値段も上がる。それでも一万五千円程度で収まる上に、見るからに豪勢なお宿とくれば十分に勉強になりそうな気がした。嵐山旅館とは規模がまるで異なっているが、それでも志は同じだろう。根底にある物が同じならば学ぶ意味は十二分にあると言えるだろう、多分。

「湯の花温泉のバス停で降りてから、道沿いにしばらく登った所にあるみたいじゃな」

「ああ、湯の花温泉案内所の先って感じだな」

「そうじゃな。あのまま道沿いに行けば出れそうじゃ。よし、さっそく予約を取るのじゃ」

 こんな豪華な旅館に宿泊する中学生コンビというのも、かなりレアな存在であろう。ワシらのようなガキんちょにはふさわしく無い程に豪華過ぎる気もしたが、まぁ、細かなことは気にしない、気にしなーい。

 そんなこんなでさっそく電話を入れてみたが、有難いことに空き室はあるらしい。無事に予約が完了した所でワシらは再び田園風景を楽しむことにした。少々豪華過ぎる宿に、若干、緊張を覚えなくも無かったが、まぁ、それも悪く無いだろう。

「しっかし、この道、何処までも果てしなく続いているように見えるよな」

「そうじゃな。一本道な上に遮る物が無いでの。何処まで続いておるのか、良く判らん作りなのじゃ」

「バスだと楽々走り抜けて行くけど、やっぱり歩くと相当な距離感だよな」

「そうじゃな。とは言え、やはり、こういう景色は自分の目で歩きながら楽しみたいのじゃ」

「それもそうだな」

「何よりも気持ちが良いのじゃ。まっすぐに伸びる一本道。両側には水田が広がり、視界の遥か彼方には山々がそびえ立つ。最高の景色なのじゃ」

「おうよ! 良い景色だよな。なんつーか、野生に還れそうだぜ」

 垂れる程に実った稲穂の姿から察するに今年は相当に豊作のように感じられた。目に映るのは実に長閑な風景だった。

 何処までも果てしなく広がる水田の情景。所々に民家が目に留まるのを除けば、後は水田が何処までも広がるばかりであった。稲穂は黄色く色付き良く実っている。稲穂の鮮やかな黄色に葉の活き活きとした緑色が入り乱れる情景。風が吹き抜ければ一斉に稲穂が涼やかな音色を奏でる。空は何処までも青空が広がり、夏の忘れ形見のような入道雲が遠く、遠く、広がっている。周囲は木々生い茂る山々に囲まれている。その中を突き抜けてゆく一本の道。こうして、目を閉じれば、大自然に抱かれていることを全身で実感することが出来る。国道を走り抜ける車の音を背に受けながら、ワシらは青臭いまでの稲の香りを感じていた。

「コタはこの匂いが好きだって言っていた。安心感を覚えるんだってさ」

「あー、何か判る気がするのじゃ」

「オレも何となく判る気がする。稲のむせ返るような青臭さに、畑の一角で何かを燃やす煙の匂いが混ざるとさ田舎らしさ全開になるよな」

 リキはそっと目を細めながら周囲を見回して見せた。

「でもさ、なんつーのかな? この匂い、落ち付くんだよな。オレの故郷はこういう景色とは無縁な場所だけどさ、でも、何でだろうな? 懐かしい気持ちになれるから不思議だよな」

「リキの故郷は一風変わった、独特の文化を持って居るのじゃろう?」

「おう。ウチの田舎はどこか西洋文化の香り漂う色合いを称えているからな。まぁ、さすがにシレっと遊びに行こうぜとは言えない距離だけどなー」

 リキの田舎は路面電車が走る街並みが印象的な九州の長崎県だったと以前、聞かされたことがある。テレビの旅番組でしか見たことが無い場所ではあったが、何時か皆を連れて行きたいと、リキが口にしているのを何度か聞いたことがある。一風変わった街の景色に興味を惹かれるのは事実だった。坂の多い街並みを路面電車が走る街という印象を抱いているが、あながち間違いでも無いらしい。食べ物も美味い街らしく何とも興味を惹かれる。

「お! 見ろよ、ロック。トンボ、一杯飛んでいるぜ」

「赤とんぼじゃな。一杯飛んでいるのじゃ。ああ、本当に良い風景なのじゃ」

 古い記憶に残っている情景があった。規模の大きさも違えば水田では無く普通の畑だったが、夕暮れ時、燃え上るように赤々と染まる情景の中、トウモロコシの穂に止まる赤とんぼ達の姿がとても印象的だったのを覚えている。落柿舎前の小さな畑。良く大樹の手を引きながら歩いた場所で、夕暮れ時になると二人で一緒に赤とんぼを追い掛けたものだ。その時の情景は、ワシの中で今でも強く印象に残っている。規模の大きさこそ違うが、確かに、そこに通じる想いがあることをワシは思い返していた。

「なるほどな。トンボが好きという理由、そこにあったんだな」

「そうじゃな」

「なーんか、ロックの記憶は何でもかんでも大樹絡みだな。へへ、やっぱり妬けちゃうよな」

「そ、そんな、可笑しな話では無いのじゃ……」

「判っているって。たださ、やっぱり、兄弟居るの羨ましいなぁって思っただけさ」

 大樹に嫉妬するとはリキも中々に可愛い所があるものだ。にやにや笑いながら顔を覗き込んで見せれば、リキは慌てて顔を背けて見せた。

「ほ、ほら、さっさと歩こうぜ。こんな所で立ち止まっていると、変な奴だって思われるかも知れねぇからな……」

「判ったのじゃ」

 バスに乗っている時は早い速度で通り過ぎてしまうからあまり印象には残らなかったが、やはり、こうして自分の足で歩きながら肌で感じていると、印象が全然違って感じられる。暮れゆく日差しを浴び、稲穂のむせ返るような青臭さに包まれながら時折吹き抜ける風を肌で感じる。田園風景の中を優雅に舞う赤とんぼ達。何かを燃やしている畑の匂い。それから、むせ返る程に青臭い稲の匂い。ここにはワシの心を落ち付かせてくれる懐かしい記憶達が沢山佇んでいるように感じられて、本当に心から安心出来る気がした。

◆◆◆76◆◆◆

 ワシらは国道沿いに何処までも続く道を歩き続けていた。大きな通りの両側に繰り広げられる広大な田園風景を眺めているうちに、次第に日も暮れ始めたのだろう。ワシらの影も長く伸びていた。昼間の日差しはまだまだ強いが、やはり、夕暮れ時に近付き始めると日差しも弱まる。夏が終わり秋に移り変わろうとしているのだろう。夏から秋への季節の移り変わりを肌で感じていた。

 夏の終わりは何時だって物悲しい気持ちで一杯になる。皆と共に過ごした夏休みも終わってしまえば再び学校が、変わることの無い日常が始まる。時の流れが留まることは無い。だからこそ、何時だって寂しい気持ちで一杯になる。夕焼け空を見ると胸が一杯になるのは、一日が終わろうとしていることを告げているからなのかも知れない。それは人の一生と似ているようにも思えて、だからこそ、胸が締め付けられる。

 また明日。その言葉を掛けることは出来ても、明日、また再会出来るとは限らない。もしかしたら、もう、二度と合うことは出来なくなるかも知れない。そんなの嫌だ……。一人考え込んでいると不意にリキが足を止めた。ワシも真似して足を止めた。

「でもさ、ほんと、良い景色だよな」

 改めて周囲の景色を見回しながら、リキが静かに呟いてみせた。

「そうじゃな」

 ワシも応える。

「こういう景色に想いを馳せるなんてさ、何かさ、年寄り染みているよな」

「身も蓋も無いのじゃ」

「まぁ、好きな物は好きな訳で、他人にどう思われようが関係ねぇけどな」

「そうなのじゃ。好きな物は好きで良いのじゃ」

 不意に風が吹き始めた。涼やかな風がそっと頬を撫でて行った。段々と夕焼け空の様相へと移り変わってゆく情景の中、ワシもリキも赤々と燃え上るような色合いに染まっていた。

「日本の原風景って感じだよな。不思議な気持ちだ。こういう景色に包まれていると、落ち付くよな」

「ワシも同じなのじゃ」

 広大な田園風景。良く実った穂をおじぎをするように垂らしながら稲は風に揺られていた。サラサラと涼やかな音色が響き渡り、辺り一面からむせ返るような稲の青臭さが舞い上がってゆく。豊かな土地の祈りを一身に受け止めながら成長した稲達。その姿は広大な寺院の間に座して、一身に仏に祈りを捧げる僧達の情景が重なって行くように感じられた。人々の安寧を、無事を、平和を祈願し続けるべく熱心に祈りを捧げる人々の姿が重なって行くように感じられた。無病息災、平穏無事、五穀豊穣、数多の願いを一身に受け止めていることだろう。

「不思議な光景だよな……。吸い込まれそうになる」

「そうじゃな。ワシも同じなのじゃ」

「ずっと昔から、こういう景色を知っていたような気がしてならない」

 リキは目を細めながら静かに風に揺れる稲穂を見つめていた。ワシも風を感じながら稲穂をじっと見つめていた。リキの言葉も、想いも、ワシには深い共感を覚えることが出来るものだった。ずっと昔からこういう景色を知っていたような気がしてならない。太古の昔から刻み込まれた景色を振り返るからこそ懐かしいという想いに至るのかも知れない。懐かしいけれど、もう、二度と戻ることの出来ない情景。だからこそ、こんなにも胸が締め付けられるのかも知れない。だからこそ、こんなにも涙があふれてきそうになるのかも知れない。

「不思議じゃな。亀岡を訪れてから、ワシは何度も不思議な気持ちに包まれておるのじゃ」

 ワシの話に興味を示したのか、リキは穏やかな笑みを称えたままワシの顔をじっと見つめていた。面と向かって語らうには少々小恥ずかしかったこともあり、ワシはすぐ近くまで迫っているかのような山々へと目線を投げ掛けながら語らい続けた。

「広大な水田の景色を眺めていると懐かしい気持ちで一杯になるのじゃ。帰りたくても帰れない故郷……そんな想いに駆られて、胸が締め付けられて、涙が毀れて来そうになるのじゃ」

「オレも同じ気持ちだ」

 辺りには家々も立ち並んでいて人々の暮らしの香りも感じられた。あぜ道には葛がその茎を張り巡らせながら佇んでいる。所々に咲き誇る赤紫色の花もまた風に揺れていた。

 ふと、リキと共に歩んで来た道を振り返れば、何処までも果てしなく続く真っすぐな一本道もまた、夕焼け空に包まれようとしていた。通りの両脇には田畑が広がり、田畑の隙間を縫うように民家が立ち並ぶ。視界の両端には山々がすぐそこまで迫っている情景。等間隔に並ぶ電柱の灰色と電線の黒。暮れゆく夕暮れの空に浮かぶ入道雲達も、鮮やかな朱色に染まっている。時折目に留まる人工的な真っ赤な自動販売機が異彩を放っている。遠く裾野広がる山々に目をやれば、斜面に寄り添うように段々畑が築かれている。此処には大自然が確かに息衝いている。だからこそ、こんなにも心が落ち着くのかも知れない。ワシはリキと共に眺めている、今、この瞬間を決して『忘却』することないように瞳に焼き付けようと思った。

「こういう場所は、生活するには不便な場所なんだろうな」

「そうじゃな。コンビニも店も何にも無い場所じゃからのう。バスとて本数が少ないのじゃ。確かに、生活するには不便な場所じゃろうな」

 信号さえもまばらにしか存在していないようなへんぴな場所。それでも、こういう場所に心惹かれるのは事実だった。リキもまたワシと同じ想いを抱いてくれていることが本当に嬉しく思えた。もしかしたら、遠い昔、ワシとリキは共に歩む同士だったのかも知れない。トモダチだったのか、あるいは、兄弟だったのかも知れない。そう考えると、同じ景色を見て同じように共感を覚えるのも納得出来る気がした。

「さてっと。まだまだ道は何処までも果てしなく続いている。もっと歩いてみようぜ」

「そうじゃな」

 何処までも続く長い国道をワシらはひたすら歩き続けた。何故、そうしたのかは良く判らなかった。ただ、この景色と共に歩んでみたくて仕方が無かった。言葉に言い表すことの出来ない懐かしさで胸が一杯になり、ただただ、歩かなくてはいけない使命感に駆られていた。歩き続けているうちに、ワシらは興味を惹かれる物に出会えた。

「おお? これ、バス停の待合所みたいな物なのかな?」

「小さな待合所じゃが、中々に味のある待合所なのじゃ」

 バスで通り過ぎた際には気付かなかったバス停だった。乗り降りする人も無ければ呆気なく通り過ぎてしまうだけの小さな待合所だった。大人が二人も座れば、それだけでも窮屈になりそうな小さな待合所は、どこか神社を思わせるような青と白の縞々模様の鳥居で彩られていた。そこには小さな人形が三体立ち並んだ飾りが置かれているなど、中々に手の込んだ作りに感じられた。

「中々洒落た待合所だな」

「ふむ。この小さな空間に篭められた、大きな想いを感じるのじゃ」

「へへ。バス停の向こうには酒蔵見学とか描かれているぜ?」

「本当なのじゃ。ちょっと興味惹かれるのじゃ」

「へへっ、ロックは酒好きだもんなー」

「ひ、人を酒乱のように言うで無いわ。時々おとんやじいちゃんに付き合うだけなのじゃ……」

「ふつーの中学生はそんなことしねぇって」

 可笑しそうに笑いながらリキは再び歩き出した。ワシもその後を追って歩き始めた。

 何時しか辺りはすっかり夕焼け模様に包まれていた。沈みゆく夕陽に照らし出されて辺り一面に広がる広大な水田もまた、すっかり黄金色の情景に移り変わっていた。

 古き時代から米は人々の貴重な食料として重宝されてきた。文字通り、黄金にも匹敵する程に価値のある物だったに違いない。だからこそ、夕焼け空に包まれた稲達の情景を見て、人は黄金の稲穂という呼び方をするようになったに違いない。時代は移り変わっても古き時代から連綿と受け継がれてきた想いというものは、現代でも人々の心の奥深くに刻み込まれている。だからこそ古き時代の人々の想いが蘇り、こうして、懐かしさと、帰りたいという気持ちで胸が一杯になったのだろう。勝手な想像かも知れないけれど、そう考えた方が夢があって良いでは無いか。何だかワシは嬉しくなっていた。

「へへ、ロック、何か上機嫌だな?」

「そういうリキも、何やら機嫌良さげなのじゃ」

「ああ。何か良い景色だなぁって思ってな。良いよな、こういう景色。本当に心が落ち着くよな」

「そうじゃな。夕暮れ時の、ほんの一時だけ許された情景。過去と今が出会う景色なのじゃ」

 ワシの言葉を隣で聞きながら、リキが静かに頷いて見せた。

「その表現、良く判る気がする。オレも同じ気持ちだ。遥か昔からこの景色を知っている。そんな気がしてならなくてな。何でだろうな? 不思議な気持ちで一杯だ」

 不思議な気持ち……確かに、そう表現するのが最も妥当な気がする。他に適切な表現が思い当たらなかった。やはり、古き時代から受け継がれた想いなのだろうか? でも、理由なんかどうでも良かった。ワシはこの景色が好きで、リキもまた、この景色が好きなのだ。それだけで良かった。

「さて、そろそろバス停を目指して移動しようぜ」

「そうじゃな。あまり遅くなり過ぎると、チェックインの時間を大きく超過してしまうでの」

「野宿はさすがに勘弁願いてぇからな」

「ワシとて嫌なのじゃ」

 バスの到着時刻を再度確認した上で、ワシらは次のバス停でバスに乗ろうと考えていた。このまま道なりに進んでいけば奥条のバス停が見えて来るハズだ。もっとも、そこから湯の花温泉までは、そんなに遠くは無いが、この先は緩やかな上り坂になる。それに、何だかんだと言いながらも、ひたすら歩き続けたこともあり、だいぶ足も疲れてきた。ここは無駄な努力はせずに大人しくバスに乗るのが賢明であろう。

「そろそろ夕日も沈もうとしているな」

「そうじゃな。また明日なのじゃ」

 暮れゆく夕陽に想いを馳せながらもワシらは歩き続けた。だいぶ疲れたが、それでも中々楽しい冒険だった。もちろん、冒険はまだまだ終わりを告げることは無い。今夜は豪華な宿に一泊する訳で、舞台が宿に変わるだけでワシらの冒険はまだまだ続くのだから。

 それから程なくしてワシらは無事に奥園のバス停に到着した。この辺りまでくると周囲の山々もだいぶ間近に迫っているように感じられた。湯の花温泉は朝、訪れた場所だが、今宵の宿はさらに深い木々に包まれた場所にあるらしい。大自然に抱かれた光景の中で過ごす夜。一体どんな夜になるのだろうか。期待に胸が膨らむ。

「お! ようやく、お待ちかねのバスの到着だぜ」

「中々にハードな冒険だったのじゃ。さすがに足に来たのじゃ」

「あー、オレもだぜ。ちょっと、足、パンパンになってきちまったかなー」

「ふむ。それでは温泉に浸かって、疲れを良く解すとするのじゃ」

「へへ、温泉かー。疲れにも利きそうだな。楽しみだぜ」

 こうしてワシらは訪れたバスへ颯爽と乗り込んだ。ひたすら歩き続けたお陰で大分汗を掻いてしまった。ついでに、国道沿いを歩き続けていたお陰でかなり埃っぽくなっていた。無理も無い。国道を引っ切り無しに往来する車達が吐き出す排気ガスに、巻き上げる砂埃や土埃。汗でベタベタになった体に、そういった浮遊物が付着すれば余計に悲惨なことになる。

「うぉー、汗だくな上に埃まみれでベタベタだぜー」

「うむ。宿に着いたらさっさと風呂に入るとするのじゃ」

 日も暮れようとする道を走りゆくバス。そのバスに揺られながらワシらは湯の花温泉のバス停を目指していた。目的地の宿は湯の花温泉のバス停からさらに坂道を登った先にある。もう少しだけ冒険は続きそうだ。せめて、それまでの間、短い時間ではあるがバスの中でしばしの休息を取らせて貰うとしよう。

◆◆◆77◆◆◆

 湯の花温泉のバス停に着く頃にはすっかり日も落ち、辺りは夜の装いへと移り変わろうとしていた。とは言え相変わらず暑さは残っていた。周囲の木々から驟雨の如く降り注ぐ蝉達の鳴き声を受け止めながら、ワシらは目的地を目指して歩いていた。

「おうおう、すっかり薄暗くなってきたなー」

「そうじゃな。やはり、暗くなるのが早くなっておる。こうやって段々と秋も深まってゆく訳じゃな」

「そうなったら嵐山も忙しくなるんだろ?」

「ふむ。毎年、紅葉の季節になると人が沢山来るでの。ありがたいことに既に今シーズンの嵐山旅館は連日超満員なのじゃ」

「マジかよ? スゲーなぁ。それじゃあ、ロックも忙しくなるな」

「そうじゃな。でも、時間を見付けて皆とも遊びに行きたいのじゃ」

「おうよ。オレ達もさ、季節の行事に相乗りして、紅葉狩りにでも行ってみようぜ」

「悪く無いのじゃ。皆で美味い物を沢山食うのじゃー」

「わはは、ロックは食欲の秋って訳だな」

「そういうお主とて、読書の秋やら芸術の秋からは程遠いじゃろう?」

 ワシの言葉にリキはしばし考え込んでから、可笑しそうに笑って見せた。

「わはは。まぁ、そうだな」

 ワシらは笑いながら緩やかな坂道を歩んでいた。この辺りは自然に包まれた場所だ。きっと、秋が深まれば、さぞかし綺麗な景色が広がることだろう。その時は皆を連れて来るのも悪く無いかも知れない。京都から亀岡までの道中にある清滝川で秋の景色を堪能してから亀岡を訪れるのも悪く無いだろうし、亀岡という街並みを巡るのも悪く無いかも知れない。夕日を浴びて光り輝く稲穂達が紡ぎ出す黄金の情景、きっとコタ達も気に行ってくれることだろう。

「お! 見えてきたぜ。あれが今宵の宿かー。ひゃー、スゲェ外観だな」

「そ、そうじゃな。思わず気遅れしてしまう程に凄いのじゃ……」

「ロックのオヤジさんに感謝だな」

「ふむ。そうじゃな」

 本当に感謝していた。敵情視察なんて冗談めいたことを口にしていたけれど、多分それは建前でしか無くて、本音はワシに楽しんできて欲しいと思ったからなのであろう。幼い頃は嵐山旅館の経営も際どい状況で、ワシの面倒を見ることすらままならない状態だった。それでも、ワシが成長するに連れて、段々とワシの行く末が心配になり出したらしい。無理も無いだろう。長い間、友達の一人すら居らず、大樹と共に遊ぶばかりの日々だったのだから、長い目で考えれば不安にもなったに違いない。だから、こうして出来たワシのトモダチのことを、おとんもおかんも本当に大切に想ってくれているのだろう。

(じゃが、ワシはリキと友達以上の関係になっておる。だからこそ、時々、不安な気持ちにも駆られる)

 それでも、一度知ってしまった蜜の味という物は恐ろしいもので、深みに嵌る一方だった。表面上はあっけらかんと振る舞っているリキも、腹の内では必死に色々と考えていることは判る。きっとワシと同じなのだろう。深みに嵌って抜け出せない迷い子が二人。

 だけど、最近、段々と考えが固まり始めた。否定しても仕方が無いのだから、好きな物は好き。ましてや、誰にも邪魔されない状況でどうして理性を抑える必要があろうか。否定することに微塵の意味も無い。今更、歩んできた道を引き返すことも出来る訳も無ければ、路線変更をするつもりも無い。人に何と言われたとしてもワシはワシの道を歩みたかった。

 ワシらのような人種を人は穢れた物を見るような目で蔑むのだろう。見た目が美しく無ければ平気で叩き潰される。あの時、大樹が対峙していた毛虫のことを思い出していた。それでも良い。ワシはワシの道を歩みたい。それに……リキのことを好きなのは事実だ。恋人ではないけれど、だからと言って、トモダチよりも遥かに深く踏み込んだ関係なのは事実だ。

 色んなことが頭の中を駆け巡る中、ワシらは旅館の玄関前に立っていた。立派な外観からも予測していたが、玄関から覗くロビーは想像以上に豪華絢爛な場所だった。思わず気遅れしそうになってしまう。思わず凍り付くワシであったが、不意にリキに声を掛けられたお陰で我に返った。

「さてっと、先ずはチェックインの手続きしねぇとな」

「そうじゃな。ワシはチェックインの手続きをしてくるでの。お主は此処で荷物を見ていてくれなのじゃ」

「おう。任せておけ」

 無意味なことを考えるのは止めにしよう。こういう話は考えれば考える程に暗い気持ちになってしまう。多分、ワシが弱いから深みに嵌ってしまうのだろう。先のことを考えれば不安に押し潰されそうになる。だからといって他の多くの人々がそうするように、異性への愛情を貫く生き方に転向することは出来そうにない。それは、好きでも無い食べ物を無理矢理に好きになれと言われているような物だ。

 オトナ達は何も判ってくれない。権力という力や多数という力で押し切れば、黒いカラスを白いカラスだと言わせるように仕向けられるとでも思っているのかも知れない。だけど、ワシはそんな権力には絶対に屈さない。カラスは黒いのだ。どんなに強い力でねじ伏せようとも白くはならないのだから。

 そうさ。リキがきゅうり嫌いになったのもまた力でねじ伏せた結果だった。リキの両親は揃って古典的かつ厳格な人達で、幼き頃のリキのトラウマを作り出した張本人でもある。幼い頃から料理人の家系に生まれただけあって好き嫌いの無い子供だったらしいのだが、初めてきゅうりを食べた際に、どうも、独特の匂いと食感が受け付けられなかったらしく、リキは吐き出してしまったらしい。そのことに腹を立てた父親に無理矢理食べさせられ、何度も吐き出したという話を聞かされたことがある。そのことが原因で、成長した今でもリキはきゅうりを食べることが出来ないらしい。同じ理由で実はスイカも余り好きでは無いらしい。確かに、スイカもきゅうりと同じ瓜科の野菜だ。似たような匂いがするのが影響しているのだろう。

 リキの家庭は複雑な状況にある。ワシの家族と違って、リキの家族は何処か堅苦しくて息苦しく思える。皆もリキの両親には余り良い感情は抱いていない。何よりもリキ自身が距離を空けようとしている。リキに取って両親は料理人としての師ではあるが、それ以上でも、それ以下でも無いらしい。

 昔話を思い出しながらも、ワシらは高級感あふれる玄関を抜けロビーへと進んでいた。

 玄関前から見ていたとは言え、やはり、こうして中に入ると思わず感嘆の声が毀れてしまいそうになる。質素な見た目の外観とは対照的な高級感あふれる装いに圧倒される。

 解放感あふれる吹き抜けに煌々と輝く照明の数々。広いロビーはそれだけでも圧倒される光景だった。思わずリキと二人硬直しそうになりながらもフロントを目指した。

 広大なロビーは吹き抜けになっている構造であるため二階を歩む人々の姿も見えた。ぼんぼりを模したような形状をした、天井から吊るされた照明は穏やかな明かりで、何とも品が感じられた。さり気無く飾られている花達も荘厳なる顔ぶればかりだった。中でも目を引いたのは、何とも優雅に咲き誇る胡蝶蘭達であった。しかも、さり気無く幾つもの大きな花瓶に活けられていた。この花瓶とて一体如何程のお値段なのか想像も出来ない程に大きく、そして高級感あふれる見た目だった。

「何か、本気でスゲーな……」

「う、うむ。圧倒されてしまうのじゃ……」

 興味を惹かれずには居られなかった。嵐山旅館とはまるでスケールが違う。豪華さがそのままお持て成しに繋がるとは限らないし、そもそも、規模が違い過ぎるのだから単純に比較することに意味は無い。恐らく、これ程までに大きな宿泊施設であれば部屋数も多く、また、ここで働く人々の人数も桁が違うのであろう。言うなれば、目指すべき「夢」の一つであろうか。もっとも、嵐山旅館をこれ程までの規模に改造しようと思ったら敷地面積の狭い嵐山では不可能な話だ。それこそ夢のまた夢だ。でも、こうした完成された姿に触れることで、学ぶことは沢山あるように感じられた。何時の日か、こんな凄い旅館を経営する身になる。そんな夢を抱くこと位ならば許されるだろう。

「いらっしゃいませ」

「ほ、本日予約させて貰っておる、嵐山大地なのじゃが……」

 思わず声が裏返りそうになってしまい、ワシは思わず息を呑んだ。

「ああ、嵐山様ですね。少々お待ちください」

 それでも受付のお姉さんは、まるで動じた様子も無く、笑顔を称えたまま帳簿を確認し始めた。

 リキは周囲の光景を見回しながら、ますます圧倒されている様子だった。上擦った声で語り掛ける。

「土産物屋も気品あふれているよな。何か、ホント、現実離れした光景だよなぁ……」

「それでは、お部屋にご案内致します」

 すっかり田舎から上京してきたおのぼりさん状態なワシらとは裏腹に、案内の女性は涼やかな振舞いで接してくれた。

「ささ、リキよ、行くのじゃ」

「お、おう」

 こうしてワシらは客室へと案内された。客室へと続く道もまた細かな部分に配慮が為されている。わざわざ犬矢来まで配置されていて、時代を超越しての冒険に至っているような感覚に駆られていた。予想通り、傍らを歩むリキは、気を抜けば倒れてしまうのでは無いかという程に動揺しているように見えた。無論、ワシとて緊張の連続ではあったが、同じ旅館業を営む身としては此処で動揺した素振りを見せるのも何だか格好悪く感じられた。もっとも、そのような浅い物の考え、田舎から上京してきた田舎者の都会人に対する哀しい虚栄心に過ぎなかった。きっと、この旅館で働くような人々からすれば、ワシらのような田舎者の振舞い如きで取り乱すような恥知らずな真似は出来ないのだろう。それどころか気にも留めさえしないのだろう。何だか、ワシは自分の小ささが恥ずかしくなっていた。

「こちらで御座います。お風呂は大浴場をご利用ください。お食事の時間になりましたらご案内致しますので。それでは、どうぞ、ごゆっくりと」

 案内の女性は一礼して去って行った。ようやく緊張の糸から解き放たれたかと思いきや、部屋に入ったリキが驚愕の声をあげるのが聞こえた。

「ぬぉっ!?」

「ど、どうしたのじゃ!?」

 慌てて部屋に飛び込んだワシもまた、驚愕の光景に声を失いそうになっていた。そこは、何とも見事な客室だった。畳張りの広い部屋の真ん中には一点の曇りも無いテーブルが置かれ、奥の部屋には寛げるように椅子と小さな机が置かれていた。窓の外にはこれまた良く手入れされた小奇麗な庭が広がり、部屋の明かりもまた程良い明るさで高貴な雰囲気に満ちあふれていた。

「す、すげぇな……。部屋に額縁があったり掛け軸が飾られていたり、何よりも部屋が綺麗だよな」

「ぬ、ぬぅ……。凄い部屋なのじゃ。わ、ワシらには余りにも似つかわしく無いのう」

 これ程までに圧倒されることになろうとは想いも寄らなかった。多分、ワシらの身分から考えたら、民宿でも十分に分相応だったのかも知れない。ただ、ワシはこういう大きな宿泊施設に泊まってみたかった。リキと共に過ごしたいという想いもあったが、欲張りなワシは嵐山旅館の経営を受け継ぐ身として色々なことを学んでみたかった。座学ではこういう知識は得られないこと位、良く判っていた。だからこそ、京都の各地にある宿泊施設を巡り、自分なりに多くのことを学んでみたいと考えていた。そして、そんなワシの想いを知るおとんも、おかんも惜しむこと無くワシに協力してくれた。多分、幼き頃からワシに余り構ってやれなかったことを悔いているのだろう。だから、ワシもこまめに小遣いを貯めるなどして、自分で出来ることを増やしているが、こうして時々は援護して貰える。そのお陰でワシは着実に色々なことを学んでいる。

 実際に学んだことは旅館の色々な部分に応用し、効果も得られている。きっと、ここで見たり体験した物は必ずや嵐山旅館の経営に役立つことだろう。

「ささ、リキよ。そんなに緊張せずに、先ずは風呂に向かうのじゃ」

「お、おう……」

 リキは相変わらず緊張しっ放しだった。だからこそ、ワシはなるべく普段と変わらぬ振舞いをするように心掛けていた。要らぬ所で委縮されて楽しんで貰えないのではワシとしても寂しい。これもまたお持て成しの心を知るための修行のひとつと捕えるとしよう。

「ロックはスゲーな。こんな場所でも何時もと変わらないもんな」

「そんなこと無いのじゃ。じゃが、此処は知識を得るには最高の場所なのじゃ。それに、夕食と朝食の際には、お主も色々と学べるのでは無いじゃろうか?」

「おお、それもそうだな。へへっ、驚いてばかりじゃ損だよな」

 そう言いながら、何時ものように豪快にワシの肩に腕を回して見せた。

「夢みたいな体験だけどよ、オレ、ロックと一緒に冒険できて本当に嬉しい気持ちで一杯なんだぜ?」

「それで良いのじゃ。お主は何時ものように豪快に振舞っている姿が一番なのじゃ」

「それもそうだな。うしっ、風呂に向かおうぜ!」

 こうしてワシらは浴衣とバスタオルを手に風呂場を目指すことにした。何しろ歩き回ったお陰で汗だくな上に、埃まみれにもなっていたから気持ちが悪くて仕方が無かった。この旅館、風呂もかなり見事な場所らしく露天風呂もあるらしい。やはり広い風呂は良い物だ。ワシは使おうと思えば旅館の大浴場を使えるが、普段は家にある一般家庭用の風呂を使っているリキに取っては、広い風呂はやはり心が躍るものなのであろう。意気揚々とはしゃぎながらワシらは風呂を目指していた。

◆◆◆78◆◆◆

 風呂場の前に広がる湯あがり処に先ずは圧倒された。江戸時代の芝居小屋に能舞台、精巧に作られた芝居小屋の見事な作りに驚かされた。能舞台を囲むようにして設置された足湯など、細かな部分に至るまで実にお持て成しの心が鏤められている。風呂場の前に広がるだけの飾りとも呼ぶべき場所にも関わらず、随分と手が込んでいるものだ。

「おー。こんな所にも、細かい気配りがされているんだなー」

「ううむ、凄いのじゃ」

「へへ、風呂上がりに此処で寛ぐために作られた場所なんだろうな。いやいや、恐れ入ったぜ」

「きっと、風呂も凄いのじゃろうな」

 ワシらは期待に胸を弾ませながら、風呂場へと向かった。

 ましてや此処は、ただの風呂では無く温泉を使っている。伊達に湯の花温泉に座する旅館では無い。なおのこと期待は高まるというものである。ワシらは脱衣所で手際良く服を脱ぎ、さっそく大浴場へと向かった。

「おおー! すげぇ広いし!」

「凄いのじゃー!」

 有難いことに誰も入っていなかったお陰で貸し切り状態だった。ワシらは手際良く体を洗うと、早速、広大な大浴場に足を踏み入れてみた。

「ああー、さすがは温泉! 何か良く判らねぇけど、スゲー効能ありそうな気がするぜ!」

「ふむ。疲れた足にも効くのじゃー」

 硫黄温泉のように目に見えて判る温泉では無かったが、やはり、温泉というだけあって、体の芯から温まるような気がした。何よりも歩き疲れてパンパンに膨張した足に、この温かな湯が染み入っていくような感覚を覚えていた。

「あー、広い風呂はやっぱり最高だよなー」

「そうじゃな。こうして、ゆったり浸かるのも悪く無いのじゃー」

 現実世界から切り離された空間に居るような感覚に包まれていた。本当に幸せな気持ちで一杯だった。このまま時が止まってしまえば良いのに。そう想いながら、ワシは高い天井を静かに見つめていた。窓の外から覗く景色はすっかり夜の闇に沈んでいるのか真っ暗だった。そんな暗闇の中、外庭に置かれた灯篭からは静かな光が放たれていた。

「なぁ、ロック。露天風呂行こうぜ!」

 夜半の情景に見惚れていると、唐突にリキの腕が肩に圧し掛かって来た。

「にゃはは、お主は落ち付かない奴なのじゃ。じゃが、興味あるのはワシも一緒なのじゃ」

「へへっ、行こうぜ!」

 外はすっかり真っ暗になっていた。虫達の鳴く声が涼やかな風に乗って流れて来る。ワシらはその声に耳を傾けながら、先ずは石風呂に入ることにした。やはり秋の夜だけあって風は涼しく感じられた。石風呂も気に入ったが、ワシの中では檜風呂にも興味を惹かれていた。木の香りが好きなワシに取って檜風呂というのは多分に興味を惹かれる場所であった。さっそくリキと共に檜の香りに包まれた檜風呂に入ってみることにした。

「うぉっ、スゲー檜の香りがするぜ!」

「おおー、良い香りなのじゃー。これが檜の香り……ううむ、心に染み入ってゆくのじゃ」

 張り詰めた緊張感さえ覚える檜の清々しくも高貴な香りに、ワシはすっかり心を奪われていた。清廉潔白なる印象を感じさせる、その香りにすっかり魅了されていた。

「ああ、良い香りだよなー」

「うむ。ワシの家も檜風呂にしてみたい所なのじゃ」

「へへっ、でもさ、檜風呂って、スゲー高そうじゃね?」

「そうじゃなぁ……。じゃが、何時の日か嵐山旅館にも檜風呂を設けてみたい所なのじゃ」

「お! 大きく出たねぇ。オレは良いと思う。きっとさ、客も大勢来ると思うぜ?」

「そうじゃな! ううむ、しかし、露天風呂はやはり良いのう」

「ああ、そうだな。風が涼しくてさ、熱くなった体に気持ち良いよな」

「そうじゃな。それに虫達の声が良く聞こえるのじゃ」

「虫の声だけじゃないぜ? ほら、空、見てみろよ」

「おお!」

 すっかり暗くなった夜空に、何処までも広がる満天の星空。辺り一面から響き渡る虫の声を聞きながら、露天風呂から眺める光景。ゆらゆらと立ち昇る湯気を感じながら、檜の香りを堪能していた。このまま時が止まってしまえば良い。本気でそう思える程に美しい情景だった。手を伸ばせば夜空に瞬く星達に手が届きそうに思える程に数多の星達が夜空を埋め尽くしていた。月明かりも一際強く輝いているように感じられた。

 不意にリキが腕を伸ばして見せた。人が誰も居ないことを確認してから、ワシはそっとリキの腕の中に収まってみせた。リキの満足そうな表情を見届けながら、ワシは再び星空を眺めていた。瞬く星空からは今にも星達が雨粒のように零れ落ちんばかりに見えた。

「本当に綺麗なのじゃ」

「ああ。スゲー綺麗だよな。この景色、コタ達にも見せてやりてぇよな」

「うむ。そうじゃな。やはり市街地では街明かりが明る過ぎて、星も見えないのじゃ」

「でも、ここは市街から離れているからな。星も良く見えるよな」

 幻想的な光景だった。このまま、本当に時が止まってしまえば良いのに。心の底からそう想っていた。リキと共に二人で眺めた美しい情景……。ワシは決して忘れない。何があっても忘れない。

「良い景色だな」

「うむ。実に良い景色なのじゃ」

「ロックと一緒に来られて、オレ、幸せだぜ」

「何を言うのじゃ。照れるのじゃ……」

「へへ。でもさ、本当に楽しんでいるんだぜ? ロックとトモダチで本当に良かったと思えるし」

「そうじゃな。ワシもリキとトモダチで本当に良かったのじゃ」

 トモダチで本当に良かった……。満天の星空を眺めながら、ワシはリキとの関係について改めて考えていた。もしかしたら、このままリキと共に何処までも歩んでゆくと言うのも悪く無いのかも知れないと。確かに、ワシもリキも想いを寄せている相手が居ることに変わりは無い。だけど、その相手が果たしてワシらと同じ道を歩む身であるのかどうかは定かではない。もしも、ワシらとは違う道を歩む身であるのであれば、ワシらが幾ら想いを寄せた所で絶対に振り向くことは無いだろう。それどころか、トモダチですら居られなくなってしまうかも知れない。

 人は欲張りな生き物だ。実に強欲な生き物だ。その果てに身の破滅しか待っていないと判っていても、それでも欲してしまう愚かな生き物だ。

「リキよ、ワシの想い、聞いてくれるかのう?」

「ロックの想い?」

 リキはどこか哀しげな笑みを称えていた。その笑みを見ただけで、何を考えているのか判った気がした。その証にワシの肩を抱く手に力が篭められたような気がする。

「……ちゃんと聞いているからさ、聞かせてくれよ」

「ワシは思うのじゃ」

 酷く緊張していた。恐怖心もあった。もしも、ワシが言おうとしている言葉と、リキの想いとの間に食い違いがあったら今の良好な関係が壊れてしまうかも知れない。でも……ワシは想いを口にせずには居られなかった。今のこの幸せな一時が、より盤石な物になることを願わずには居られなかったから。

 人は本当に愚かな生き物だ。求めなければ、欲しなければ、現状は変わらずに寄り沿ってくれると言うのに、欲を出さずには居られない。覚悟は出来ていた。例え、どんな結末になっても受け入れよう。リキのことを責めずに居よう。

「テルテルがワシと同じ道を歩む身であるかどうかは、全く確かめようが無いのじゃ」

 リキは静かにワシの肩を抱いてくれていた。

「もしかしたら、ワシが想いを告げたらテルテルはワシを気持ち悪がって、去って行ってしまうかも知れないのじゃ。そうなる位だったら……」

 ワシが言葉に詰まるのを予期していたのだろう。リキは静かに笑いながら、ワシの想いを語ってくれた。

「オレと恋人同士になるのも一つの道だと考えてくれた訳か」

 リキは穏やかな笑みを称えたまま、ワシの目をじっと見つめてくれていた。照れ臭くて目を逸らしそうになったが、ワシはリキの目を静かに見つめて見せた。

「同じこと考えていた」

「リキ……」

「へへ、ロックに言わせちまうなんてオレも卑怯だよな」

 リキはばつが悪そうな笑みを称えたまま続けて見せた。

「でもさ、怖くてな。ロックにさ、オレの想い伝えてさ、今のように仲良く出来なくなっちまったら、オレ、どうやって生きて行けば良いのかなって思ってさ」

「そう、じゃな……」

「結花のこともまともに受け止めることも出来ず、結果的に二股掛けているような最低の男だけどさ、オレ、ロックのこと、本当に好きなんだぜ?」

「リキ……」

 ワシに見つめられて照れ臭くなったのか、顔を真っ赤にしながらリキは再び星空を見上げて見せた。

「最初の頃はさ、男同士のエッチに興奮してな。それだけを追い求めていたんだよな。でもさ、ロックのこと知れば知る程にな……」

「迷ったのかのう?」

「ああ。コタのこと好きなのは事実だけどさ、オレに振り向いてくれるとは限らねぇだろ? コタとテルテルってさ……なんつーのかな、ほら。オレ達が割って入れるような関係じゃねぇだろ?」

 そうなのだ。それもまたワシが心を痛ませている事実の一つであった。テルテルとコタの関係は言葉に言い表すことの出来ない、不思議な絆で結ばれているように思えてならなかった。兄弟よりも兄弟らしく、恋人同士よりもなお深い絆で結ばれた関係。多分、ワシが割って入ることは絶対に不可能だと思える程に、堅い絆で結ばれた同士なのだろう。

「こんな言い方すると、何だか妥協したみてぇに聞こえちまうかも知れねぇけどさ」

「構わないのじゃ」

「オレ、ロックと一緒に居る時、本当に楽しいんだよな。何でも話せるしさ、馬鹿みてぇに振舞うことも出来る。格好付けなくても良いし、何より……多分、本当のオレの姿見せられていると感じている」

「ワシも同じなのじゃ。お主と一緒に過ごす時間、本当に幸せなのじゃ」

「なぁ、ロック……」

 不意に肩に回された腕に一気に力が篭められた。湯を巻き上げながらワシはリキに乱暴に抱き締められた。もしも、誰かが入ってきたら大変なことになってしまうだろう。だけど、ワシは抵抗できなかった。イヤ、抵抗したくなかった。その想い……ワシも同じだったから。

「オレと……お、オレと……」

 余程緊張しているのか、大胆な振舞いとは裏腹に、リキはすっかり裏返った口調になっていた。何度も、何度も、言い切ろうと試みるものの、上手く言葉にならずにもどかしそうな振舞いを見せるばかりだった。それでもリキは必死で想いを言葉にしようと振舞っていた。

「お、オレと……オレと……えっと、その……」

 しどろもどろになりながら、顔を真っ赤にしながら、それでも必死で絞り出すように飛び出した言葉。リキの余りの緊張ぶりにワシも心臓が張り裂けそうな程に緊張していた。無論、リキ自身も早鐘のように鼓動を刻んでいた。リキの鼓動が肌を伝わってくるのをワシは静かに感じていた。

「つ……つ、付き合ってくれないか?」

 必死の思いで絞り出したリキの言葉、本当に嬉しかったし、何よりも温かかった。兄弟みたいな関係なんてお茶を濁すような言葉で自分の想いを偽り続けてきたけれど、それも、もう必要なくなるということか。

「あーっ! 言っちまった! もう、後戻り出来ねぇぜ! わはは!」

 照れ隠しからなのか、リキは高らかに笑い声を響かせて見せた。

「今日、お主と共に亀岡に訪れたのは、単純に見知らぬ街を探索したいだけじゃった」

 ワシの言葉にリキは冷静さを取り戻すと、静かに耳を傾けてくれた。

「じゃが、こんな展開になろうとは思わなかったのじゃ。ワシは……ワシは本当に幸せなのじゃ」

「ロック……。これからも、よろしく頼むな」

「ワシと共に何処までも冒険するのじゃ。ずっと、ずっと、冒険するのじゃ」

 偽らない想いだった。もう、色々と思い悩むことも、迷い続けることも必要無くなるのだろう。これからは二人で歩んでいけば良い。幸せな気持ちに包まれたままワシらは風呂場を後にした。

 ぎこちない歩き方なのも、顔が真っ赤なのも、決してのぼせたからでは無い。ただ、嬉しくて、嬉しくて、ついでに、何だか照れ臭くて互いの顔を見ることも出来ずに、ワシらは手を繋いだまま部屋まで戻った。そろそろ夕食の時間だ。気持ちを切り替えて夕食に臨むとしよう。

◆◆◆79◆◆◆

 夕食は予想通り豪華なものだった。やはり、京都という街を象徴する料理でのお持て成しと相成った。見た目にも考慮され、盛り付けにも創意工夫の為された料理の数々は、器に至るまで洗練された物であり、箸を付けてしまうのが勿体無く思える程に、見事な料理の数々だった。

「何か、圧倒される料理の数々なのじゃ……」

「そうだな。先付け、刺身に……おお? これは何だろうな?」

 鮮やかな色合いの霜降り肉が目に留まる。手元に置かれたお品書きに寄ると丹波牛らしい。目の前に置かれている鉄板で焼いて食べるのだろう。

「丹波牛と書かれているのじゃ」

「丹波牛!? ま、間違い無く、高級な肉だぜ……」

「そうじゃろうな。ささ、頂くとするのじゃ」

 ワシは茶碗を手にし、ご飯をよそった。炊き立てのご飯の蒸気を孕んだ香りが広がってゆく。米も良い物を使っているのだろう。艶々とした輝きを放つご飯は、それだけでも十分に美味そうに見えた。

「ふむふむ。料理の出し方が違うから、ウチで出している料理と単純に比較は出来ねぇけど、でも、見た目にも色鮮やかだよな。素材も良い物を選んでいるんだろうなぁ」

「そうじゃろうな。ささ、受け取るのじゃ」

「おお、ありがとうな」

 ワシの手から茶碗を受け取ると、リキは嬉しそうに笑って見せた。

「オレはお茶でも煎れて置くぜ」

「よろしくなのじゃー」

「熱いお茶しかねぇのがアレだけどな。まぁ、こういう食事には熱いお茶なんだろうな」

 暑がりのリキに取っては、食事時には冷たい飲み物の方が嬉しいらしいが、さすがにこの料理を目の当たりにしてしまうと、ここにコップ入りの水が置かれているのも違和感がありそうだ。

「これは懐石料理じゃ無くて、会席料理だな」

「なぬ? どう違うのじゃ?」

 ワシには同じ言葉にしか聞こえなかった。怪訝そうなワシの表情に気付いたのか、リキは可笑しそうに笑って見せた。

「音だけ聞くと違い、判らないよな。壊した石の料理と表する方の『懐石料理』はお茶の席で使われる料理のことでな。まぁ、言うなれば茶菓子のような料理だよな。だから見た目に重きを置き、風情ある料理を振る舞う形態になる訳だ」

「ふむふむ」

 リキの説明を聞きながら、ワシは湯呑にお茶を注いでいた。

「これに対して、オレ達の目の前にあるのは、会う席の料理と表する方の『会席料理』になるな。これは宴会で振舞われることを目的とした、賑わいのある料理を振る舞う形態になる訳だ」

「なるほど。そういう違いがあるのじゃな。確かに、宿に泊まる際に、お茶の席向けの料理を出されたのでは夜中に腹が減ってしまうのじゃ」

「ははは。ロックらしいな」

「にゃはは。やはり、ワシは食欲には勝てそうに無いのじゃ。何と言っても、食欲の秋じゃからのう」

「まぁ、オレも同じだけどな。うしっ、冷めないうちに食べようぜ」

「そうじゃな。さて、どこから箸を付けるかのう」

 色鮮やかな料理の数々は箸を付けることをためらってしまいそうになる。小奇麗に作り上げられた料理を崩してしまうのが何だか忍びなく感じられた。だが、料理は目で楽しみ、舌で味わってこそ、料理としての意味を為す。それならば、その味を楽しまなければ意味が無い。

「お持て成しの料理の数々じゃな」

「そうだな。お! この米、良い米使っているなぁ。美味いぜ」

「それは楽しみなのじゃ」

 落ち付いたお食事処での夕食。テーブル席と座敷席があったが、幸運にもワシらは座敷席を使わせて貰っていた。やはり、こういう日本らしい料理は座敷で頂くのが合っているように感じられた。

「丹波牛も美味そうだよな」

 鉄板の上に乗せれば、香ばしい音を立てて肉が焼けてゆく。肉の脂が焼ける甘味を帯びた香りが立ち篭めれば、食欲が一気に掻き立てられる。立ち昇る煙もまた何とも良い香りだ。

「良い香りなのじゃー。ワシも焼いてみるとするのじゃ」

 リキと二人、贅沢過ぎる夕食を楽しんだ一時だった。本当に楽しい一時だった。時の流れが止まってしまえば良いのにと、これ程までに強く渇望したことが今までに無かったことだった。本当に幸せな一時だった。気を抜くと涙が毀れてきそうだった。だけど、それは哀しい涙では無かった。だからこそ、リキと共に紡いでいこう。これから先の物語、共に紡いでいくとしよう。

◆◆◆80◆◆◆

 夕食を終えたワシらは部屋へと戻って来た。夕食後の一時、ワシらはしばしの間テレビを見ながら寛いでいた。のんびり過ごしていると誰かが扉を叩く音が聞こえた。どうやら布団を敷きに来てくれたらしい。

 部屋に案内してくれたお姉さんが再び、姿を現した。軽く一礼すると、驚く程の手際の良さで布団を敷いてゆく。その手際の良さに見惚れているうちに、既に布団は綺麗に敷かれた状態となっていた。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 そう、一言だけ言い残すとお姉さんは静かに去って行った。

 布団も敷いて貰い、後は誰からの干渉も受ける必要も無くなった。お姉さんが出てゆくのを見届けたワシは部屋の鍵をそっと締めた。不意に、背後から忍び寄ってくるリキの影があった。ワシの後ろに佇むと、笑いながらワシのことを抱き締めてみせた。

「これで邪魔者は居なくなった訳だ」

「焦らずともワシは居なくならないのじゃ」

 ワシを抱き締めてくれるリキの太く、力強い腕。温かな体温が微かに肌寒い秋の夜には心地良く感じられた。ワシに頬を擦り寄せながらリキは照れくさそうに笑って見せた。

「へへっ、ずっとこうしたかった……」

「ワシもなのじゃ」

「亀岡の景色を眺めながら歩いている間も、ずっと、ロックに抱き付きたかったんだぜ?」

「にゃはは。それだけワシのことを想っていてくれたのかのう?」

「へへっ、それを言わせちまうのか?」

「それも無粋じゃのう」

 複雑な心境だった……。リキの想いは嬉しく思えたけれど、本当にそうなのだろうか? 本当にそれが本心なのだろうか? ワシは未だ何処かでリキのことを疑っていた。それは多分、自分自身が迷いを抱いているからこそ、リキも同じなのでは無いだろうかと考えてのことだった。

 酷い奴だと自分でも思う。でも、それでも、寂しいという感情を消すことは出来ない。もしも……。もしも……隣にいるのがリキでは無く、テルテルだったらどういう展開になっていたのだろうか? やはり、こうして二人で笑いながら抱き合って、色んなことを語らって、それから……。

「お! ロックも既に元気一杯じゃねぇか」

「にゃー! いきなり、そう来るとはビックリなのじゃ!」

 テルテルと交わり合う自分を想い浮かべて、つい、興奮してしまった……何て、口に出せる訳が無かった。結局、ワシはテルテルの代わりをリキの中に見出しているだけなのだろう。ずるい生き方だと思う。テルテルとリキ、二人を天秤に掛けて計っている。色々な観点から、どう振舞えば自分が一番得をするかを考えている。

 本命ではあるものの、手の届かない場所にいるテルテルよりも、手の届く場所にいるリキを選んだ。好きだからでは無く、それが最も妥当に手に入る幸せだから選んだ。

(ワシは、本当に最低なのじゃ……)

 そんなワシの想いに気付いているのか気付いていないのか、リキは相変わらず上機嫌にじゃれついてくるばかりだった。考え込みながらも、つい、深刻になっていると、不意に体が浮かび上がるような感覚を覚えた。

「にゃあ!? な、何じゃ!?」

「へへー。運んじゃうぞー」

「り、リキよ、降ろすのじゃ! 怖いのじゃ!」

 恐るべしリキの腕力……。体重は相当あるハズなのだが、それでもヒョイと持ち上げ、抱きかかえるとワシのことを軽々と運んで見せた。そのまま布団の上にワシを寝かせるとリキも隣に横になって見せた。

「やっぱり、布団の上の方が落ち付くよなー」

「そ、そうじゃな……」

 屈託のないリキの笑顔……壊したく無かった。多分、リキの中ではもう、難しく考えることは止めにしたのでは無いだろうか? 良く考えたらワシは自分のことしか考えていなかった。テルテルとコタ、二人の関係は多分、ワシらには計り知れない関係なのだろう。同じ道を歩むとか、歩まないとかそういう話とはまるで異なる次元の話のように感じられてならなかった。テルテルをワシの物にするということは、リキがコタを自分の物にするということは、寄り添い合いながら歩んでいる二人の幸せを壊すことに繋がってしまうのでは無いだろうか? 二人の間にどんな物語があったのか、ワシには知る由も無いが、あの絆の深さを見る限り、そうそう薄っぺらい物語では無いだろう。ワシの身勝手な想いで、誰かを不幸にしてしまっても良いのだろうか?

 それでも、結局、人は一人では生きてはいけない。ましてやワシは永い間孤独だった身……。誰かを好きになるという感情を知った時、ワシはその想いに呑み込まれてしまったのだと感じている。 最初の内は確かに、誰かと肌を重ね合わせることで得られる快楽にしか目が向いて居なかったけれど、リキの温かく、力強い想いに包まれるのはとても心地良く、心が満たされる感覚で一杯だった。こういう気持ち、幸せと呼ぶのかも知れない。そんなことを考えていた。

「もしかしたら、オレが本心を偽っているように感じているかも知れねぇけどさ、そんなことねぇからさ」

「へ?」

「判っちまうのさ。こうして触れ合っていると、ロックが何を考えているのか、何に迷っているのか、色んなことが判っちまうんだ」

「そ、そうじゃの……」

 ワシは思わず言葉を失ってしまった。リキは既にワシの心に気付いていたのだろう。それでもなお楽しげに振舞ってくれている。幸せを噛み締めるように振舞っている。それなのに、ワシは……。

「なぁ、ロック。今度は何処に遊びに行こうか? これから紅葉も深まるだろう? 何処が良いかなーって思ってな」

「そうじゃな。余り人の居らぬ場所が良いのじゃ」

「ああ、それはオレも同感だわ。人混みって好きじゃねぇんだよな。なんつーか、歩き辛くていけねぇよな」

「……そうでは無いのじゃ」

 もう、迷いは捨てよう。お持て成しの心……リキの幸せそうな笑顔、見ているとワシも幸せになれる。高望みは止めようとか、妥協している訳じゃ無いとか、そういう話では無い。ただ、共に歩みたかった。二人きりで、もっと、色んな所に出掛けたかった。願わくば……ずっと、ずっと、一緒に歩んで欲しかった。だから、ワシは想いを伝えることにした。偽ることの無い本当の想いを。

「ありゃ? それ以外の理由でもあるのか?」

「……わ、笑うで無いぞ?」

「お、おお。大丈夫だ。真剣に聞いている」

 妙に畏まったリキの表情が可笑しくて、ワシの方が笑ってしまいそうだった。だけど、必死で堪えながら、ワシは想いを口にした。

「……人が沢山居ては、手も繋げないのじゃ」

「へ?」

「秋も深まれば寒くなるのじゃ。じゃから、その……」

 ワシの言葉に驚いたのか、リキは顔を真っ赤にしながら慌てて仰向けになってみせた。照れている顔を見られたく無かったのだろう。だから、ワシも真似して仰向けになってみせた。ついでに、リキの大きな手を握ってみせた。

「ロックの手、温かいな」

「にゃはは、癒し系の手なのじゃ」

「ああ。確かに、何か癒される感触だよな」

 笑いながらリキはワシの手を握り締めてくれていた。静まり返った部屋の中、二人が呼吸する音だけが聞こえていた。リキは相変わらずシッカリをワシの手を握り締めてくれていた。もう、絶対に離さない。そんな想いが伝わってくるような気がして心強く思えた。

「ここ、本当に静かだよな」

 リキがぽつりと呟いて見せた。耳を澄ませば色々な音が聞こえて来る。とは言え、余程、耳を澄まさないと聞こえない程に小さな音ばかりだった。誰かが廊下を歩く足音。時折聞こえる車が走り抜ける音。扉を開閉する音。そんな雑音を掻き消すかのような、涼やかな虫達の鳴き声が心地良く感じられた。そっと目を伏せれば、虫達の鳴き声が天に瞬く星や月の光と重なり合って、驟雨の如く降り注いでくるような気がした。

「虫の鳴き声……本当に心地良いのじゃ」

「ああ、そうだな」

 ワシの言葉に重ね合わせるかのように、リキが言葉を重ね合わせる。だけど、それっきり言葉、出て来なくなった。普段はポンポン出て来る言葉、何故か、全然浮かんでこなかった。でも、言葉なんて必要無かったのだと思う。こうして二人並んで手を繋いでいる。それだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。そんなことを考えていると、不意にリキが腕を伸ばして見せた。驚くワシに「頭乗せろよ」と目で訴えて見せた。ワシは少々照れ臭かったがリキの腕枕に頭を乗せた。優しく肩を抱いてくれるリキの熱い手の感触もまた、幸せを感じるには十分過ぎる感触だった。

 割れんばかりの虫達の鳴き声、本当に心地良かった。窓の外は夜半の景色が広がっている。今にも零れ落ちそうな満天の星空。数多の虫達の鳴き声。ワシとリキの温かな吐息の音。耳を澄ませば、互いの鼓動さえも聞こえそうな程に静まり返っていた。

「水田の近くにさ、家、何件もあっただろう?」

 静寂を打ち破るかのように、リキがぽつりと呟いた。

「おお、あったのじゃ」

 ワシは天井を見上げたまま返した。

「ああいう場所で夏の夜を過ごしてみたいよな」

 リキが返した言葉、ワシは目を伏せて思い描いてみた。

 広がる田園風景の中で過ごす夏の夜……。虫達の鳴き声と重なり合うように響き渡る、蛙の鳴き声。稲のむせ返るような青臭さに抱かれながら、風が稲を揺らすさざ波のような音色が響き渡ることだろう。夜空に浮かぶ満天の星空。そこに無数の蛍が雪のように舞い落ちていたら、さぞかし幻想的な情景になるに違いない。

「な? 悪く無いだろう?」

「そうじゃな。さすがに、外で寝たら蚊の大群に襲われそうじゃが、大自然に抱かれて眠るというのも実に心地良さそうなのじゃ」

「そうだろー? へへっ、来年の夏には体験してみてぇな。まぁ、この辺りに住んでいる奴らに心当たりなんか無いから、どこか、良さそうな場所を探そうぜ」

「次の大冒険じゃな?」

「ああ。色んな所さ、冒険しようぜ。まだまだ、オレ達の知らない場所なんか一杯あると思うんだよな。そういう場所さ、時に皆と、時に……」

 照れ臭そうに笑うリキの手に、一段と力が篭められた瞬間だった。

「へへっ、オレと二人きりでさ、冒険しようぜ?」

「冒険するのじゃ!」

 本当に幸せな時間だった。リキと共に歩む道……もしかしたら、それがワシが本当に歩むべき道なのかも知れない。欲を出し過ぎてはいけない。あれもこれもと強欲に多くの物を欲しようとすれば、結果的に何もかも失うことになるかも知れない。それは哀し過ぎる。それに、上機嫌に振舞うリキの笑顔、ワシは何時までも見て居たいと心から思えた。だから、ワシはリキと共に歩んでみようと思った。大冒険、何処までも続けよう。終わることの無い物語、何時までも刻み続けよう。

「なぁ、ロック……」

 不意に小声になるリキの口調にワシは思わずドキリとさせられた。微かに顔を赤らめながら、ワシを見つめるリキの笑顔に、何を言わんとしているのか判った気がした。だから、ワシは静かに頷いて見せた。

「電気、消しても良いか?」

「良いのじゃ……」

 リキは既に鼻息が荒くなっていた。ワシの心臓も早鐘のように脈拍を刻んでいた。

 不思議な気分だった。何時もは、真面目に考え過ぎると不安な気持ちやら照れ臭さやらで可笑しな状況になるから、じゃれ合うようにして始めていたけれど、何だか今日はそういう雰囲気にはならなかった。多分、リキの想いもワシの想いも、普段とは大きく異なっていたからなのかも知れない。それに、普段はリキの部屋か、ワシの部屋という日常の一角でのことだったが、今日は日常からは大きく離れたお伽噺のような宿で過ごす夜ということもあり、現実と非現実の狭間でワシらは不思議な世界観に酔い痴れているのかも知れない。でも、それでも、互いを想う気持ちに偽りは無かった。だから、ワシはリキの想いを受け止めたいと思う。同時に、ワシの想いも受け止めて欲しいと願っていた。もう、一人では無いのだと安心したかったから。

 部屋の明かりが消され、立ったままリキが浴衣を静かに脱ぎ捨てる姿をワシは静かに見届けていた。月明かりに照らし出されたリキの威風堂々たる背中は、全てを受け入れてくれるだけの懐の深さを称えているように思えた。庭の明かりだけがうっすらを差し込む部屋の中、穏やかな光だけが照らし出す部屋の中は、言葉に出来ない程に幻想的な風合いに包まれていて不思議な気持ちで一杯になった。

◆◆◆81◆◆◆

 うっすらと外から差し込む光だけが照らし出す部屋。ワシらは布団の上で堅く抱き合っていた。不思議な気持ちで一杯だった。最初の頃はこんなことをしている自分が酷く不潔に思えて、言葉に出来ない苛立ちと、哀しみと、やり場のない想いに苦しんでいた。今はそんな感情、抱けなくなっていた。多分、リキの意外過ぎる一面に触れた瞬間から、ワシの中で何かが弾け飛んでしまったような気がしてならなかった。

「可笑しな話だよな……」

「ん? 何が可笑しな話なのじゃ?」

「何でさ、男が男を好きになっちゃいけないんだろうな」

「……そうじゃな」

 ワシの胸に顔を埋めながらリキは哀しげに笑っていた。声を押し殺して、涙を流すかのような声で笑っていた。

「好きになった相手が偶然、同性だった。それだけの話なのに……何で、オレ、こんなにも肩身の狭い想いしなきゃならないんだろうな」

 哀しい位に言葉、出て来なかった。リキがこんな姿を見せるのはワシと二人の時だけ。それも、こういう場面でしかリキは弱い自分を見せようとしなかった。それは多分、普段のリキに対する周囲の目を気にしての行動なのだと感じていた。なまじリキは体も大きく、体格の良さで言えばプロレスラー志望だと言っても、誰も疑わないような外見だ。声も大きいし、普段から豪快な振舞いを見せている。でも、それは周囲が思い描く理想像に、リキが無理矢理その姿を合わせようとした結果に過ぎない。

 あるがままに振舞うことの出来ないリキが悪いのだろうか? それとも、周囲が勝手な理想像を押し付けたのが悪いのだろうか? そんなことはどうでも良かった。ただ、リキが窮屈な想いをしていることだけは間違いない。何故、自由に生きることを許してくれないのだろうか? 何故、周囲の思い描く勝手な理想像に従った生き方をしなければならないのだろうか?

 体も大きくければ、普段の立ち振舞いの印象からも、強そうな印象を持たれる。そのお陰で、リキは弱音を吐くことが出来なかった。皆、リキの強さに夢を馳せる。ワシら以外の者達からは、その外見も手伝い一目置かれている。あいつは凄く強い男に違いない。体格も良いし、腕っ節も強い。その強さに憧れを抱く者達とて少なく無い。気は優しくて力持ち。不器用で、素朴で、でも男気あふれる頼れる奴で……。そんなの違うとワシは思う。見た目と中身のギャップが大きいと人は驚きを隠し切れなくなる。ただ、自分が安心したいから。ただ、自分が納得したいから。だから、外見から連想される勝手な理想像を押し付ける。

「損だよな……。この外見のお陰で、オレ、弱さを見せちゃいけない気がしてな」

「そんなこと無いのじゃ」

「へへっ。判ってくれるのは、親しい身内の仲間だけだもんな」

 ワシは非力な存在だ。リキのように恵まれた体型を持っている訳でも無い。背が低いクセに、妙に固太りな体型のお陰で何とも不格好な姿をしている。童顔でコロコロした体型のお陰で、子供染みたお笑いキャラに仕立て上げられる。それはそれで悪く無いと自分では思っている。そこにいるだけで人々を和ませる癒し系キャラという姿、ワシは結構気に入っている。むしろ、得な身分だと思っている。でも、それはワシだからそう思える訳で、リキが同じように、今在る姿に満足しているとは限らない。

「こうしてロックに甘えることが出来るのも、二人きりの時だけだ」

 リキは静かに顔をあげて見せた。やはり哀しそうな笑みを称えたままだった。今にも泣き出しそうな、壊れてしまいそうな笑顔が痛々しくて、ワシは胸が締め付けられる思いで一杯だった。

「ロックさ、こうやって抱き合っている時にさ、オレの頭、良く撫でてくれるだろ?」

「ああ、アレは……ゴメンなのじゃ。ついつい、大樹が子供だった頃に、そうしていたように振舞ってしまうのじゃ」

「謝るなよ」

 リキはワシを上目づかいに見上げながら、照れ臭そうに笑って見せた。

「オレ、結構好きなんだぜ? ああやって、頭撫でて貰うの」

「……知っているのじゃ」

 気が付くとワシは笑いながらリキの頭を撫でていた。手に触れるリキの短い髪の感触が心地良く感じられた。

「へへっ、すげー落ち付くんだよなぁ。ロックの匂い感じながらさ、こうして頭撫でられるの、嬉しいんだ」

「わ、ワシの匂いって……。恥ずかしいのじゃ……」

「良いじゃねぇかよ。オレ、好きだぜ。ロックの匂い」

 あまりにも恥ずかしくてワシは思わず言葉を失ってしまった。それでも、こういう振舞いは本能的な物なのか? リキの頭を撫でる仕草だけは止められなかった。

「手を伸ばせばさ、すぐ近くにあるはずなのにさ、スゲー遠いんだよな……」

 窓の外は漆黒の闇夜に包まれている。それでも、部屋はこんなにも明るい。月明かりと数多の星達の織り成す光がこんなにも明るいものなのだとは、普段の生活の中で気付くことは無かった。だけど、雪のように仄白い光は、どうしてだろう。胸が締め付けられる程に儚くて、切なくて、壊れてしまいそうな輝きに思えて仕方が無かった。

「ロックとさ、オレ、ずっと、こうして抱き合って居たいんだ。でも……人はそれを許さないからさ」

「そうじゃな。ワシらのような生き方をしている身に、人は手厳しく当たるのじゃ。気持ち悪いと、平気で罵って見せるのじゃ。ワシらが何か悪いことをしたのか? 問い質さずには居られないのじゃ」

「ああ、そうさ。だからオレは本当の想いを押し殺して生きている」

 そう言いながらリキは哀しそうに溜め息を就いた。

「判っているんだ……。結花のこと、オレは便利に利用しているだけなんだ」

「そ、そんなこと――」

 そんなこと無い。そう、否定し切れなかった。リキが何を想い、何を考え、それから、何に憂いを、迷いを覚えているかワシには痛い程に理解出来てしまう。だからこそ否定出来なかった。

「彼女が居るって周囲に思わせておけば、少なくても、オレは変な奴だとは思われないからな」

 敢えて悪人ぶった口調でリキは吐き捨てるように言い放ってみせた。そんな、悪人ぶる必要など何処にも無いのに。言い掛けてワシは言葉を呑み込んだ。

「ああ、結花のお陰でオレは色々と助かっているさ。まぁ、アイツのお陰で、オレは色々な面で変わることが出来たからな。そういう意味でも感謝している」

 結花さんのことは話でしか聞いたことが無いので憶測でしか判断出来なかった。だが、聞く限りでは、とても良い娘さんのように感じられた。ワシやコタ達とは明らかに立ち位置は異なっているものの、リキに取っては本当に大切なトモダチなのだと感じていた。むしろ、リキに取っては妹であり、姉であり、言うなれば兄弟のような関係に思えた。

 二人は本当に仲が良さそうに聞こえる。仲が良過ぎるから、距離が近過ぎるから、恋愛関係では無く、実の兄弟のような関係になっているようにも聞こえた。だからこそリキは悩み、迷い、苦しんでいるのだろう。

「ロックに真実を打ち明けた頃のオレは、自分のことを嫌っていた。男なのに男を好きになるなんて、頭のおかしい奴か、それとも、精神を病んでいるのかと本気で悩んでいた」

「どっちでも無いのじゃ」

 言いながら、ワシはリキを力強く抱き寄せた。

「リキはリキなのじゃ。好きな物を好きだと言って何が悪いのじゃ」

「そうだよな。ロックの言葉でオレ、本当に救われた。ああ、オレ、間違って無かったんだって」

「そうなのじゃ」

「でも、厄介なものだよな……。オレ、この外見のお陰で、甘やかされることなんか殆ど無かった。強い男になれと、親からも周囲からも可笑しな期待を抱かれて、オレは何時だって自分を押し殺してきた。だから……初めてロックに優しくされた時、オレ、本当に怖かった……」

 リキを苦しめてしまった一端はワシにも原因があることは否めなかった。

 「優しさ」とは時として恐ろしい凶器になってしまうものらしい。それまで、誰かに心を開き、弱い自分を見せ、甘えさせて貰うということを頑なに拒絶してきたリキに、ワシが大樹にするような振舞いで接したことが、もしかすると、悲劇の始まりだったのかも知れない。

 可笑しな話ではあるが、薬物依存と良く似た状況を生み出してしまったのはワシなのかも知れない。リキはそんなこと無いと否定するが、それでも、ワシは大きな罪の意識に苛まされている。だから……リキに求められれば、応えずに居られない。

 一件、良き友同士のように見えるが、ワシらは互いに互いを滅びへと導いているだけの関係なのかも知れない。そこに……甘い快楽が混ざり合えば、毒は尚も猛々しい物へと変わりゆくばかりだ。進むことは出来ても後戻りすることは出来ない。一方通行の片道切符。その儚さが、その切なさが、余計に、ワシ自身を甘美な誘惑へと誘い続けていた。だから、もう、蜜の味を知る前のワシに戻ることは出来ない。

「ロックだけさ。オレに優しく接してくれるのは」

「そんなこと無いのじゃ。コタ達とてお主のことを大事に思っておるのじゃ」

「でも、コタはこんなことしてくれないだろ?」

「そ、それは……」

 しばしの沈黙。割れんばかりの虫達の鳴き声が一際鮮明に聞こえ始めた気がした。同時に、気温が一段と下がった気がする。やはり秋の夜なのだと実感させられる。ワシはそっと、布団を肩まで引き上げた。

「裸でさ、こうして抱き合っているとさ、ロックの体温感じられるんだ。ずっと、ずっと、一人、冷たい雨の中を生きてきたオレには、ロックの温かさが嬉しくもあり、同時に……」

 リキは一呼吸置きながら続けた。

「同時に、凄く怖かったんだ」

「リキ……」

「このまま時が止まっちまえば良いのにな。そうしたらさ、オレ、ずっと、ロックと一緒に居られるのに。何時も、そんなことばかり考えている」

 リキは天井を見上げたまま可笑しそうに笑って見せた。

「馬鹿な奴だと笑ってくれ。身の回りにある、ありったけの時計。全部、全て、ぶっ壊してやったらさ、時が止まったりしねぇかな、なんて、有り得ねぇこと、マジで考えちまったりしているオレがいてな。な? スゲー馬鹿だろ?」

 声を挙げてリキは笑っていた。だけど、ワシにはちっとも楽しげな笑い声には聞こえ無かった。ワシの目に映るのは、土砂降りの雨の中、傘もささずに、天を仰いだまま涙を流すリキの哀しげな姿だけだった。

「じゃが、時が止まってしまったのでは季節も廻らないのじゃ。お主と四季折々の街並みを冒険する夢も果たせなくなってしまうのう」

「ロック……」

 もう一度、小さく溜め息を就くと、リキはバツが悪そうに続けてみせた。

「へへっ、やっぱり、オレ、情けないよな。格好悪いよな」

 今にも泣き出しそうな笑顔にワシは胸が張り裂けそうな想いで一杯だった。これ以上深みに嵌らないように必死で抑えようと思った。でも……駄目だった。結局、こうやって堕ちて行くだけなのかも知れない。

 結局、ワシらはただ気持ち良く射精するために、どう盛り上げれば良いかを無意識の内に追い求めているだけの色狂いに過ぎないのだろう。まだ、ワシらは子供に過ぎないと言うのに、恐ろしいことに、互いに快感を追い求める術を見出してしまっている。どうすれば興奮するか、どうすればより激しい快感を得られるか、それを無意識のうちに知り尽くしている。もう、本当に、ワシらはただ堕ちるだけの存在なのかも知れない。

「なぁ、ロック」

「ん? どうしたのじゃ?」

「死ぬってさ、どういうことなんだろうな? 苦しいのかな。痛いのかな」

「そ、そんな話、止めるのじゃ……」

「生きているって実感するのってさ、どういう瞬間なんだろうな」

「それは……」

 一段と部屋の気温が下がった気がして、思わず身震いした。返答に窮していると、リキは渇いた口調で続けて見せた。

「笑わないで聞いて欲しいんだけどさ」

「笑わないのじゃ」

 リキは一呼吸就くと、静かに続けて見せた。

「ちんちん扱いてさ、精液出す瞬間にさ、ああ、オレ生きているんだなって実感出来るんだ。抑えようの無い気持ち良さを何度も体験したくなる。何度も、何度も、何度もな?」

 それは片道切符だけの旅路。行くことは出来ても、引き返すことの出来ない現実なのだろう。壊れてゆく自分自身の想いが恐ろしかった。理性が失われ、次第に本能だけの存在になってゆくことが恐ろしかった。人が人である「業」を受け入れるのが辛かった。

 ワシの心の中も土砂降りの様相を呈していたけれど、リキには、そのことを悟られたく無かった。ワシが耐えれば、ワシが受け入れれば、ワシが全てを背負えば……それで済むのだから。

「こうしてロックと抱き合っているの、悪く無いもんだな」

「不意にどうしたのじゃ?」

「今、オレ、生きているって実感している」

 リキは静かにワシの胸元に顔を乗せると、そのままワシの手を握って見せた。驚く程に熱い感触に驚かされたが、ワシはそのままリキの手を握り締めた。

「こうやってくっついているとさ、ロックの体温感じられて、鼓動を感じられて……ああ、オレ、今、生きているんだって実感できる」

 当たり前だと笑ってやろうかと思ったけれど、案外、リキの言葉は大自然の摂理を的確になぞっているように感じられた。確かに、命ある者には体温があり、鼓動もある。死んだ者からはどちらも失われる。

(ああ、そうか。ワシ、生きているのじゃな)

 そう考えると不思議な気持ちで一杯になった。生きているからこそ、今、この瞬間をリキと共に過ごせている。もしも、死んでしまったら、こうして手を握り合うことも、体温を確かめ合うことも出来ない。生きている。そうさ。ワシは生きている。その事実を、こんなにも幸せなものだと受け止めたこと、今まで一度も無かったけれど、改めて考えてみると命とは実に奥深いものだ。

「ずっと、こうしていたいな」

「ワシもなのじゃ」

 抱き合ったまましばしの時、ワシらは窓の外から聞こえて来る虫の声に、風の音に静かに耳を傾けていた。リキの体温を感じながらワシは静かに窓の外を眺めていた。不意にリキの息遣いが荒くなったような気がした。次の瞬間にはリキの手がワシの胸を撫で回す。ワシが目を丸くして驚いて見せれば、リキはばつが悪そうな顔で笑って見せる。

「こういう時にさ、ホント、なんで、オレ、男に生まれちまったのかなーって思わされるよな」

 抱き合っているうちに抑え切れなくなってしまったのだろう。何ともリキらしい野生的な立ち振舞い方だ。ワシの胸を撫で回しながらリキが可笑しそうに笑う。

「あーあ、ダメだなぁ。全然落ち着かねぇや。ちんちんがムズムズしてさ、落ち付いて話、出来そうに無くなっちまったなぁ」

「それならば、生きているって実感するのじゃ」

「そうだな。それじゃあ――」

 笑いながらリキがワシに目一杯顔を近付ける。だから、ワシはそっと顔を突き出して、リキとくちびるを重ね合わせた。

 月明かりに照らし出された幻想的な部屋の中にワシらは二人で横たわっていた。二人とも一糸纏わぬ姿で力強く抱き合っている。リキの笑顔も、大きな体も月明かりに照らし出されていた。それは途方も無く現実離れした、どこか不思議な情景だった。

「なんつーか、スゲー不思議な気分だ」

 リキが静かに笑う。ワシはリキの顔を見つめたまま、次の言葉を待ち侘びた。

「あんまり派手にやりたいって気分じゃねぇんだよな。むしろ、ロックとずっと抱き合って居たいんだ」

「ワシも同じなのじゃ」

「へへっ、でもさ、落ち着かねぇからさ、一回出しちゃおうぜ?」

「また落ち着かなくなったら、そしたら、もっかいするのじゃ」

「ああ、悪くねぇな。なんつーか、そういうダラダラ過ごすってのも楽しいよな」

 上機嫌に笑うリキをそっと横たわらせ、ワシはリキの太いのを握り締めた。肉厚なリキの胸に目一杯顔を寄せてリキの匂いを感じていた。そっと、弧を描くように滑らかに舌を這わせれば、リキが短く呻き声を挙げる。もう、後は言葉なんか要らなかった。今度はワシが乱暴に押し倒されて、犬のような息遣いでペロペロと舐め回された。リキの温かく、柔らかな舌が這い回る度にワシは何度も声を挙げながら仰け反った。互いに体中を舐め合った後は、今度は態勢を変えて互いのを口に含み合いながらワシらは声を張り上げた。

 月明かりに照らし出されたまま、ワシらは絡まり合う蔦のようにただただ互いを求め合った。誰も許してくれなくても構わない。ただ、ワシはリキのことを求めていたし、リキもまたワシのことを求めてくれた。それだけで心が満たされて、体の芯で互いの想いを感じていた。

 一頻り絡み合った所で、不意にリキが手を止める。

「なぁ、ロック……」

「どうしたのじゃ?」

「月、綺麗だよな。すげぇ、幻想的な景色だ」

「そうじゃな。夢の中のような情景なのじゃ」

 ふと、手を止めて部屋の中を見回してみれば、穏やかな月明かりにぼんやりと照らし出されてワシらの部屋もまた青白く照らし出されていた。虫達の割れんばかりの鳴き声が響き渡り、不意に風が吹き始める。風になびく様に木々の葉がサラサラと川の流れのような音色を奏でる。気のせいだろうか? 部屋の中を舞い落ちる雪のような色合いの光が舞っていたような気がした。驚きのあまり、ワシは声を出しそうになったが、リキが力強くワシの肩を抱き締めた。多分、リキにも見えていたのだろう。ふわりと床から舞い上がってゆくように、白い、淡雪のような光が舞い上がってゆく情景が。

 まるで蛍だ。儚き命を散らしながら一夜限りの宴に興じる蛍……。ワシらの夜を、儚い夜半の物語を憐れんでくれているように、庇ってくれているように思えて仕方が無かった。

「このままさ、一緒に出さねぇか?」

 リキがワシの顔を見つめながら可笑しそうに笑って見せる。

「オレが出すところさ、見てくれよ」

 幻想的な情景に酔い痴れていたワシを一気に奈落の底へと突き落す言葉を、意図も容易く口にしてくれるものだ。リキらしいと言えばリキらしい。ワシはリキの頭を撫でてやりながらリキの顔を覗き込んだ。

「ワシが出すところも見て欲しいのじゃ」

 言い終わるや否や、布団を蹴り飛ばすと、そのままリキが太い腕を突き出す。ワシはリキの腕に抱かれる形で、天井を仰いだままリキの体を凝視した。リキもまた天井を仰いだまま、ワシの体を凝視していた。互いに互いを挑発するように振舞いながら、しばしの時を過ごした。何度も、何度も限界に達したが、その度に必死に踏ん張った。言うなれば、これはリキとの勝負のようなものだ。そんなことを考えていたが、段々と互いに限界が訪れてきた。

「も、もう、オレ、限界だぜ……」

「わ、ワシもなのじゃ……」

 二人で顔を見合わせ、同時に声を挙げて、それから、同時に想いの丈をぶっ放した。

「あ、ああっ! 出る! 出る!」

「わ、ワシもなのじゃ!」

 夏の夜半に花開く花火のような生き方だと思った。パァっと燃え上り、色鮮やかに花開く。でも、それは一瞬だけのこと。次の瞬間には燃えカスとなって無様に散ってゆくだけだ。

 花火大会の終わり。祭の終わり。それから……夏の物語の終わり。秋は何時だって物悲しい季節だ。祭が終わり、人が去ってゆく。満ちていた潮が音も無く引いてゆくような情景だった。多分、大きく、大きく、満ち潮が引き潮になった時、ワシは死ぬのだろう。命が尽きてしまうのだろう。そんなことを考えながら大きく、大きく、吐息を就いた。余りにも息を吐き過ぎたワシは慌てて息を吸い込んだ。うっかり、魂まで吐き出してしまったかのように思えて、途方も無く恐ろしくなった。

 不思議な情景だった。月明かりに照らし出された幻想的な部屋の中で互いの想いをぶつけ合った。多分、言葉で想いを交わすよりも遥かに饒舌に互いの心に届いたと思う。もう、蛍のような光は見えない。多分、あれはワシらの想い、そのものだったのだろう。

 傍から見たらワシらの関係は、ただの盛りの付いたケダモノ同士の関係にしか見えないのかも知れない。だけど、他者にどう思われるかはワシらに取っては重要なことでは無かった。もとより、そんな想いがあったのであれば、このような関係には踏み入らなかったことだろう。

 オトナ達はワシらのような関係を激しく糾弾し、断罪するのだろう。子供のクセになんて淫らな、と。男同士でなんて不潔なことをするのだと、蔑み、揶揄し、遠ざけようとするのだろう。そこにあるワシらの想いなど、どうでも良いとばかりに押し寄せてくるに違いない。そうやって世の子供達は『想い』という名の芽を摘み取られ、皆、オトナ達が望む同じ顔、同じ価値観を抱く『人形』へと育ってゆく。そうして育った『人形』は結局、自分のやりたいことも見付けられず、羽ばたくことも出来ないままに、強引に崖から押し出される。だから、崖の下は打ち捨てられた数え切れない程の『人形』が無残に雨ざらしになるばかり。今や世の中は『人形』の製造工場と化している。でも、オトナ達は何も気付いていない。そうして、製造工場で作り出された『人形』には多くの不良品が含まれることを。凶悪事件だの、教育現場の崩壊だの、高らかに叫ぶ前に自らの罪を顧みるべきだ。大体、ワシが思うに、オトナ達は聖人君子からは最も程遠く、だからこそ、自分達の穢れを隠すかのように、子供達に純潔を求める。因果応報という言葉の意味、良く、理解するべきだ。

(ワシは……イヤ、ワシらは、ただ、生きているって実感したいだけなのじゃ)

「なぁ、ロック」

「なんじゃ?」

「ずっと……オレの傍にいてくれよな?」

 ティッシュで後始末しながら交わす言葉では無いだろうに。思わずツッコミを入れてやろうかと思ったけれど、そういう場違いな発言もリキらしくて嫌いでは無い。

「にゃはは。リキこそ、ずっとワシの傍にいてくれなのじゃ」

「おうよ。ずーっと、一緒だ」

 リキは頭の後ろで腕を組みながら天井を見上げていた。月明かりに照らし出された青白いリキの横顔も、リキの体も、言葉に出来ない程に幻想的だった。

「オレ……ロックに出会えて本当に良かった」

 月明かりに照らし出されたリキの笑顔、その壊れそうな笑顔、ワシは絶対に忘れない。今まで見たどんな表情よりも満ち足りた表情だった。微かに額に汗を掻きながら笑った顔は、月明かりに照らし出されて青白く瞬いて見えた。

 皮肉なことに、この夜の出来事から一年後の冬、結花さんがこの世を去ることとなろうとはワシも、リキも予想もしなかった。永遠なんて所詮は幻想に過ぎないのだという残酷な事実を叩き付けられ、リキの心が壊れた冬、ワシは結局、何もしてやることが出来なかった……。

 それに、現実世界は残酷だ。確かに、ずっとリキと共に歩んでいこうと心に決めたのは事実だった。だけど……テルテルがワシの手に飛び込んで来る好機を見出した瞬間、ワシは、自分でも驚く程に呆気無く、リキとの関係を終わらせることが出来た。人は薄情な生き物だ。自分の幸せの為ならば、平気で人を不幸にすることが出来る。

 ワシの心の中には何時も、何時も、冷たい土砂降りの雨が降り注いでいた。ワシもシロと一緒だった。冷たい雨が降り頻る嵐山の街並みで、ずっと救いの手が差し伸べられる瞬間を待ち望んでいた。そんなワシに傘をさしてくれたのがテルテルだった。ああ、だけど、ワシの想いは届かないと勝手に決め付けて、それから、勝手に諦めていた。だからワシはリキを選んだ。簡単に手に入ったから。丁度手の轟くところに居たから。多分、それだけのことだったのだと、今更ながらに思う。

『ウソつき……』

 幼き日のワシが今のワシに叩き付けた言葉。否定出来なかった。

(ああ、そうさ。結局ワシはテルテルと共に歩む道を選んだ卑怯者に過ぎないのじゃ)

『卑怯者……』

 そうさ。ワシは卑怯者だ。でも、もう逃げやしない。そろそろ自分自身と向き合う時が訪れてしまったのかも知れない。因果応報。今まで無碍にし続けてきた自分自身を受け入れよう。それが、ワシに出来る精一杯の償いなのだから。

◆◆◆82◆◆◆

 再び現実に戻って来た時、目を背けていた現実が情け容赦なく襲い掛かってくる。どう足掻いても、今の辛い現実から逃げることは出来ない。だけどワシは少しは変われたと感じている。そうで無ければ過ごしてきた時が何の意味も為さ無かったことになってしまう。皆と共に歩んだ時間がウソだったということになってしまう。だから、ワシは前を見て走り続ける。もう、後ろは振り返らない。そう決めたのだから。

「過去を『回想』することで、心が癒されたのは事実じゃな」

 そっと口を開けば、リキが静かに頷いて見せた。

「じゃが、シッカリと実感したのじゃ」

 ワシは溜め息混じりに続けた。

「心が癒されても、それだけでお終いなのじゃ。結局、前に進むことは出来ないのじゃ。ただ、あの頃は楽しかったと自分を慰めることしか出来ないのじゃ。『回顧』なぞ、ただの幻想に過ぎないのじゃ」

 ワシの言葉にリキが力強く頷く。だから、ワシはリキの目をしっかりと見据えたまま、力強く笑い返して見せた。

「逃げるだけでは何も得られないのじゃ。だから、ワシは立ち向かうのじゃ」

「へへっ、気合十分だな」

 リキは何時ものように歯を見せて笑いながら、力強く腕組みしてみせた。

「おうよ、あんな辛気臭ぇ生臭坊主共に敗れるなんて、ぜってぇ有り得ねぇ話だからな」

 そう言い放った後で不意にリキの表情が曇る。

「でもよ、どう立ち向かうつもりだ? オレ達の力じゃ、あいつらには太刀打ち出来ねぇぜ?」

「鞍馬に向かうのじゃ」

「鞍馬だと?」

「そうなのじゃ。愛宕山のカラス天狗に手を借りる道が絶たれた以上、鞍馬山のカラス天狗達の手を借りるしか、風葬地の裁定者に太刀打ちする手段は無いのじゃ」

「なるほどな。うしっ、それじゃあ、行こうぜ。鞍馬目指して!」

 一人では無いというのは本当に心強いものだ。もしも、一人だったら、ワシはただ逃げ惑うことしか出来なかったかも知れない。だけど、今、ワシの隣にはリキが居てくれる。それだけでも十分に心強い気持ちになることが出来る。そう思いながら席を立とうとした瞬間、ワシの足元に何かが零れ落ちた。耳を澄ませていなければ呆気なく聞き逃してしまいそうな程に小さな、渇いた音が響き渡った。

(はて? 何か落したのじゃろうか?)

 何を落したのかを確認しようと、身をかがめた瞬間だった。今度はハッキリと聞き取れる音で何かがパラパラと落ちる音が響き渡った。リキにも聞こえたらしく驚いた様子で周囲を見回していた。

「今、何かが落ちたような音、したよな?」

「ふむ。何の音じゃろうか?」

 周囲を見回してみるが、音を発しそうな物が落ちた形跡は見られなかった。

 気のせいだったのだろうか? そう考えながら歩き出そうとした瞬間、今度はハッキリと聞こえる程にザラザラという物音が響き渡った。慌てて顔をあげたワシの前にそいつは佇んでいた。

「お、お前はっ!」

「……あの日、あの時、お主が亀岡の地で見た情景、今一度思い起こさせてくれよう」

 風葬地の裁定者の一人が何時の間にかそこに佇んでいた。目深に被った饅頭笠のお陰で表情を窺うことは出来なかったが、不敵に口元を歪める様から、ワシを揶揄していることは容易に察しが付いた。

「ワシはお前達を絶対に許さないのじゃ。今度こそ、ワシの手で殺してくれる!」

「ほう? 中々に威勢の良いことだ。だが、お主の采配一つで、大切な友の命が散ることになるぞ?」

「なんじゃと!?」

 何時の間にかワシの視界からリキの姿が失われていた。ワシが慌てて睨みつければ、風葬地の裁定者は尚も不敵に笑うばかりであった。笑いながら静かに錫杖を打ち鳴らして見せる。シャラン。涼やかな音色が広い駅ビルに響き渡る。再び錫杖を打ち鳴らす。シャラン。尚も涼やかな音色が響き渡る。

「貴様……リキに何をしたのじゃ!」

「我は何もして居らぬ。ほれ? お主の目の前に居るでは無いか」

 慌てて足元に目線を落せば、そこには糸でぐるぐる巻きにされたリキが倒れていた。一瞬の間に、どのような手段を講じたのか。だが、重要なのはそんなことでは無い。ワシは慌ててリキに駆け寄った。

「リキ! シッカリするのじゃ!」

 猿ぐつわの如く口元まで糸でがんじがらめになっているお陰で、まともに声を出すことすら叶わない。その苦しげな姿に、ワシは目の前に佇む敵の事など忘れて必死で糸を解こうと試みた。

「くっ! 何なのじゃ、この異様に堅い糸は!」

「無駄だ。人の手で解けるような代物では無い」

「……ならば、お前を殺して術を解くのじゃ!」

 ワシは怒りに身を任せ、目の前でほくそ笑む風葬地の裁定者に襲い掛かろうとした。だが、その瞬間、何者かに足を掴まれ、ワシは派手に転倒した。突然の出来事に周囲の人々が驚きの声を挙げる。だが、異変はまだ終わらなかった。氷のように冷たく、水気を孕んだ小さな感触が次々と足に触れる。

「な、何なのじゃ!?」

 慌てて起き上がったワシは、思わず自分の目を疑った。

 そこには、何時の間に現れたのか、膝丈程の背丈しか無い、幼い子供のような姿をした者達が佇んでいた。紫色の肌に異様なまでに痩せ細った体。腹だけが不格好に飛び出したそいつらは、獣のような眼光でワシを見据えていた。入れ替わるように姿を消した周囲の人々……。ということは、この目の前にいる異形の存在は周囲の人々が変わり果てた姿なのか? 一体、何がどうなっているのか理解不能だった。ただ、一つだけ判ること。こいつらはワシの敵であることに変わりは無い。作り出された幻なのか、現実の人物なのか、ワシには判る訳も無かった。ただ、リキを守るためにも、こいつらを抹殺する必要がある。考えがまとまれば後は行動に移すだけだ。

「この、化け物めっ!」

 ワシは反射的にそいつらを力一杯蹴り飛ばしていた。小さな体に相応しい体重しか無いのか、そいつらは呆気なく崩れ落ちた。その様子を見届けながら、なおも、風葬地の裁定者は可笑しそうに笑って見せた。

「こんな弱っちぃ奴らなぞ、ワシの敵では無いのじゃ!」

「ふふ……確かに、その者達には戦う力等無いに等しい」

 風葬地の裁定者は笑いながら、そっと手を突き出して見せた。握り締めた拳をゆっくりと解けば、そこからは米粒がパラパラと零れ落ちるのが見えた。地面に落ちた米粒。そのザラザラとした音は先刻耳にした音と同じ音であった。

「お前の仕業だったのか。じゃが、一体、何の真似じゃ?」

「目を見開き、良く見届けられよ」

 足元に零れ落ちる米粒。その音が響き渡った瞬間、周囲に蠢く小さな奴らが一斉に駆け寄って来た。我先にと他を押し退けながらも、必死で米粒を拾い集めては口に運ぶ姿にワシは嫌悪感を覚えていた。見た目も醜ければ、振舞いも醜いことこの上ない奴らだ。こんな奴ら、どうでも良かった。それよりもリキを助け出さなければならない。だから、ワシはそいつらを蹴り飛ばしながら、風葬地の裁定者に殴り掛った。だが、風葬地の裁定者は陽炎のように消え失せた。

「なぬっ!?」

 勢い余ったワシは、そのままテーブルに転倒してしまった。ワシは何度も、何度も、風葬地の裁定者に襲い掛かった。

「あくまでも我を討ち取らんとするか。血の気の多いことよ」

「黙れ、黙れ、黙れなのじゃーーっ!」

「……中々に強固なる意思の持ち主よの。良かろう。我の記憶、お主にも見せてくれよう。何故、我が情鬼に成り果てたか、その一部始終を見届けられよ」

 風葬地の裁定者は静かに錫杖を打ち鳴らした。一度、二度、三度……。シャラン、シャラン、シャラン……錫杖の音色が鳴り響く音をこの身で受け止める度に、ワシの視界が酷く揺らいでゆく。三度めの音色を聞き終えた時には、もはや、視界は原形を留めて居なかった。そのままワシの意識が急速に潰えてゆくような感覚を覚えていた。またしても妙な世界に誘うつもりか。そうはさせない。必死で抗おうとしたが、ワシの力では到底太刀打ち出来る相手では無い。結局、ワシは誘われるままに暗い穴の底へと引き摺り込まれてゆくばかりだった。

◆◆◆83◆◆◆

 気が付いた時、ワシは見覚えの無い場所に倒れていた。此処は一体どこなのだろうか? 周囲を見回してみるが、辺り一面荒涼とした情景が広がるばかりだった。草も木も枯れ果てている光景の中に、ワシだけがぽつんと捨て置かれているような光景だった。

 空は不穏な色合いに澱み、時折、唸りを挙げていた。恐らくワシが今見ている情景もまた、古き時代の嵐山なのであろう。そう考えながら改めて周囲を見回してみれば、遥か彼方に民家が立ち並んでいるのが目に留まる。だが、それだけだ。辺りは静寂に包まれ、何の音も聞こえ無い。何もかもが死に絶えてしまった荒涼たる景色。そんな気がして、早くも絶望に呑まれそうになっていた。

 不気味なまでに静まり返った景色の中で、ワシは一体、何をどうすれば良いのか判らずに途方に暮れるばかりだった。それにしても周囲に転がっている石は一体何なのだろうか? もしや、これは墓標のつもりなのだろうか?

「……酷い惨状よの」

 シゲシゲと周囲に転がる石を眺めていると、不意に背後から溜め息混じりの声が聞こえた。もしやと想い振り返れば、そこに佇んでいたのは予想通り、あの錫杖を手にした僧の姿であった。

「風の噂に聞いていたよりも遥かに悲惨な状況であるな。この地は仏に見捨てられたとでも申すのか……」

 沈痛な面持ちで周囲を見回しながら静かに手を差し出す。そのままそっと目を伏せると、静かに経文を唱え始めた。静まり返った景色の中に僧が口ずさむ経文だけが静かに染み渡ってゆく。その声に呼応するかの如く頭上に鳥が集う。見たことも無い不気味な鳥だった。嘲笑うようにケタケタと不快な声で鳴く声だけが響き渡る。一体、この不気味な鳥は何者なのだろうか? 見た目はカラスと似ているように思えたが、それにしては何とも言えない禍々しい気配を身に纏っているように思える。もしや、この鳥は命ある存在では無いのではないだろうか? 鳥の姿をした異界の存在。有り得ない話では無い。辺り一面から濃密な土臭さが立ち込めるだけの、忘れ去られたかのような粗末な墓所であることを考えれば、異形の物と遭遇しても何ら不思議ではない。

「……忌まわしき者達よ、去れ! この地を荒らすと申すならば我が相手になろうぞ!」

 錫杖を打ち鳴らしながら叫ぶと、僧は尚も力を篭めて経文を唱え続けた。僧の気迫に敗北を認めたのか、不気味な鳥達は相変わらずケタケタと不快な鳴き声を響かせながら何処かへと飛び去って行った。

「墓所を荒らすとは不届き者め。この地には多くの見捨てられた幼子達が眠る。年端も行かぬ幼子の眠る墓所さえも食い荒らそうとは、断じて許せぬ行いよ」

 吐き捨てるように口にした言葉にワシは戦慄を覚えた。周囲の荒涼とした情景からしても、大規模な飢饉に見舞われていることは容易に想像が尽いたが、まさか、幼き子供達が眠る墓所だとは想いも寄らなかった。予想通り、この粗末な石は墓標なのだろう。

「さぞやひもじい想いをしたのであろう。間引かれ、見捨てられ、口減らしのために……尊き命を奪われた幼子達よ」

 空を見上げながら僧は静かに呟いた。そっと饅頭笠を外すと静かに目を伏せて見せた。

「もっと生きたかったであろう? 飢えの苦しみに耐え、死の苦しみに抱かれ、絶望の淵に沈んで行ったか……。せめて、少しでもその想い、聞き入れてくれよう」

 言葉に出来ない想いで一杯だった。目の前にいるのは、ワシの大切な友を、リキを死に至らしめようとしている憎き仇敵のはずなのに、何故、こんなにも心が締め付けられるのだろうか。討ち取るべき敵なのに、何故、情けを抱いているのだろうか?

「幼子達よ、我の声が届いておるか? 我にも幼き息子が居った」

 優しく語り掛けるような口調に、ワシは思わず僧の顔を覗き込んでいた。

(こ、この僧は……父親だったのか? しかも、息子が居ったじゃと?)

「飢饉とは恐ろしい災厄よの。生きている者は食わねば命を繋ぎ止められぬ。のう、幼子達よ……。我の息子は病に倒れ、苦しみ、苦しみ、血を吐きながら死んでいった。我は哀しい程に非力なる身……。果てゆく息子を見届けることしか出来なかった。だから、せめてお主らのために祈りを捧げさせてくれまいか?」

 ワシの中ではますます迷いが膨れ上がろうとしていた。幼き息子を失った心優しき父……。例え忌むべき敵であるとは判っていても、例え討つべき敵であるとは判っていても、沸き上がる哀しみを抑えることは出来そうに無かった。

(何故じゃ……。何故、こんなにも心優しい父親が敵なのじゃ……)

 迷う事など何一つ無いはずなのに、何故、こんなにも心を掻き乱される? ワシはリキを守るのでは無かったのか? 駄目だ。騙されては駄目だ。惑わされては駄目だ。それに、戦いに無用な情など必要無い。迷ったら散るのはワシだ。それに、ワシの大切な仲間達まで散ってしまうことになるだろう。それならば無用な慈悲心など必要無い。ワシは心に修羅を宿す身! 目の前にいる、この僧は忌むべき敵だ。討つべき情鬼、風葬地の裁定者に過ぎないのだ。迷いは無用だ。何としても討ち取る。下らない小細工でワシの心を揺さぶろうとしても無駄なことだ。

 錫杖をそっと地面に置くと、僧はそのまま地面に腰を下ろした。僧はあぐらを掻いたまま静かに経文を唱え始めた。僧が唱える経文だけが響き渡る。物音ひとつ聞こえない荒野に、ただ無情にも僧の唱える経文だけが響き渡る。経文が響き渡ると同時に、周囲の地面から何かが這い出そうとするのが目に留まった。何か小さな物が一斉に地面から這い出そうと蠢いている。背筋が寒くなるようなおぞましい光景に、ワシはその場から動くことが出来なかった。

(な、何じゃ? 一体、何が這い出そうとしておるのじゃ……)

 不意に、地面から紫色の小さな手が飛び出した。手は次々と数を増し、やがて、ゆっくりと地面から餓鬼達が這い出してきた。その姿を見届けると、僧は満足そうに微笑みながら懐から小さな袋を取り出して見せた。袋を手にすると中から何かを取り出し、地面にゆっくりとこぼし始めた。ザラザラという聞き覚えのある音が響き渡る。

(さっき見たのと同じ米なのじゃ……。どうするつもりなのじゃろうか?)

 手から零れ落ちる施餓鬼米に気付いたのか、餓鬼達が一斉に耳障りな声を発しながら駆け寄る。他の餓鬼達を押し退けてでも我先にと必死に群がる姿に、ワシは憐れみどころか不快感さえ覚えた。なんて見苦しい奴らなのだろうか。これが餓鬼の真実という訳か……。自分が助かるためには他者がどうなろうと知ったことでは無いとは、実に見苦しいことだ。人が人である業をそこに見出した気がした。

 だが、そんなことを考えているうちに、あっという間に施餓鬼米は尽きてしまった。無理も無いだろう。あの小さな袋に入る米などたかが知れている。施餓鬼米が無くなっても尚、餓鬼達は見苦しい争いを繰り広げていた。その情景を静かに見つめながら僧は再び経文を唱え始めた。

「施餓鬼米にも限りはある。飢饉の最中では僅かな量を用意するのが関の山であった。やはり、全ての迷える魂を救済することは不可能なのであろうか……」

 寂しげに吐息を付きながらも、それでも、僧は静かに腰を下ろすと再び経文を唱え始めた。無言の立ち振舞いではあったが、そこに確固たる想いを見たような気がした。何故かワシの中では胸騒ぎが収まらなかった。目の前で経文を必死で唱える僧が為し遂げようとしていることが見えてしまった気がして、不安で仕方が無かった。

 僧が腰を落し、経文を唱え始めてからどれ程の時間が過ぎたのだろうか。餓鬼達の姿はまばらにしか見られなくなっていた。食料が失せた以上、もはや、僧には用は無いとでも言っているかのように感じられた。それでも僧は静かに経文を唱え続けていた。ただ、一心不乱に。ワシの中で不安な想いが確信へと変わろうとしていた。

(この僧、あれから何も食べて無いのじゃ。それどころか、何も飲んでもいないのじゃ。やはり、このまま……)

 僧はただ一心不乱に経文を唱え続けていた。その痛々しい姿を直視することは出来なかった。それでも、ワシは僧の姿から目を逸らすことが出来なかった。

 不思議な情景だった。周囲の時間の流れが信じられない程に早くなっていた。早送りで見ているかのように日が上り、日が沈み、そして再び日が上る。一体、何回日没を見たのだろうか? もはや、僧は座っているのがやっとのように見えた。口にする経文も、もはや音を為していない。呼吸する音だけが微かに響き渡るばかりであった。

(何故、そこまでするのじゃ。その命の灯火、潰えてしまったら一体誰が餓鬼達を供養するのじゃ……)

 やがて、僧は静かに崩れ落ちた。無理も無い。人の体は脆く儚いものだ。呆気無く散ってしまうばかりだ。哀しい話ではあるが、命とは永遠の物では無い。何時の間にか辺りからは餓鬼達の姿はすっかり消え失せていた。恐らく、餓鬼達には僧の想いなど届かなかったのだろう。命を賭してまで、必死の想いで紡ぎ上げた経文は何の意味も為さず、ただ、無為に死ぬだけの結末を迎えることになった。

 風が吹き始めた。強い風だ。周囲の木々の葉を揺らす程に強い風は、時折、つむじをあげながら駆け抜けて行った。吹き抜ける風の音は、さながら人の泣き声のように聞こえた。哀しみに暮れ、すすり泣くかのような音色が哀しく響き渡るばかりだった。

 暮れゆく夕焼け空の下、僧はもう動かなくなっていた。ただ、静かに風に吹かれるばかりだった。哀し過ぎる情景の中、意識が唐突に遠退いてゆくのを感じていた。白々と染まってゆく世界の中、ワシは何処かへと凄まじい勢いで転落していくような感覚を覚えていた。

◆◆◆84◆◆◆

 再び気が付いた時、亀岡の地でリキと共に見た情景の中に佇んでいた。そこは忘れることも無い情景だった。黄金の稲穂が風に棚引く水田の中に佇んでいた。辺り一面、黄金色に包み込まれた情景の中、風だけが涼やかに吹き抜けてゆく。ふと、空を見上げればそこには数え切れない程の赤とんぼが優雅に宙を舞っていた。

「……救われぬ餓鬼達を供養するために我は命をも差し出した」

 不意に背後から声が聞こえ、ワシは慌てて振り返った。シャランと錫杖を打ち鳴らしながら僧が笑う。

「お主は我を愚か者だと愚弄するであろう。何故、あのような醜悪なる餓鬼達のために、自らの命さえ差し出せることが出来るのかと、理解も共感も出来ぬことであろう?」

「あ、当たり前なのじゃ!」

 思わず声を荒げるワシを見下しながら僧は口元を歪めて笑った。笑いながら空を舞う赤とんぼを指さして見せた。思わず、ワシは僧が指し示す先に目線を投げ掛けていた。

「秋の夕日を背に空を舞う赤とんぼ達。彼らは死者の魂の運び手とも呼べる」

「い、一体何を言っているのか、サッパリ意味不明なのじゃ」

 尚も鼻息荒く返すワシを見つめながら、僧は可笑しそうに笑って見せる。

「大地よ。お主は『死』というものを、『別れ』という概念を理解している筈だ」

 唐突に叩き付けられた言葉に、ワシは出掛かった言葉を呑み込まずには居られなかった。そんなワシの振舞いを見抜いていたのか、尚も畳み掛けるように僧は続けて見せる。

「師と呼べる祖母との別れ、兄弟であった愛犬シロとの別れ、その時お主は何を感じた?」

「わ、ワシは……」

「命を失った者達は二度と戻らない。後は忘却されてゆくばかりよ。人々の記憶から消え失せること――それこそが、本当の意味での『死』なのでは無かろうか?」

  駄目だ。惑わされては駄目だ。こいつは適当なことを言って、ワシを混乱させようとしているだけだ。耳を貸すな。信じるな。こいつの言葉は全て戯言だ。虚言だ。所詮、こいつは敵なのだ。討つべき敵だ。忌むべき仇敵だ。ワシは心を保つのに必死になっていた。

「嵐山の地はすっかり風光明美な街並みと化してしまった。否、京の都自体が『忘却』してしまっておる。数多の者達の死すら『忘却』されようとしておる。大地よ、本当にそれで良いのか? お主が愛する故郷の真実を『忘却』してしまっても良いのか? 『忘却』は罪。お主はそのことは理解している筈では無かったのか!?」

「黙れ、黙れ、黙るのじゃ!」

 必死の想いでワシは怒りを言の葉に乗せて、目の前に佇む僧に叩き付けた。筋が通っていなくても構わなかった。意味が判らなかろうが、何だろうが、どうでも良かった。とにかく、こいつと長い間対峙しているのは得策ではない。上手い具合に丸めこまれてしまったら一貫のお終いだ。こうなったら醜かろうが、何だろうが、形振りなど構うことはなかった。手段なんか選んでいられない。とにかく、こいつを討ち取る。それしか逃げ伸びる道は無いのだから。

 ワシの必死の覚悟を見届けたのだろうか? 僧の表情がみるみるうちに険しいものへと移り変わってゆく。先刻までの余裕に満ちた表情は消え失せ、代わりに、氷のように冷たい眼差しでワシを射抜かんばかりに見据えていた。

「残念であるな……。お主ならば我が想い、理解してくれると期待しておったが、とんだ見当違いであったか」

 僧は冷徹な笑みを浮かべたまま錫杖を静かに打ち鳴らした。一度、二度、三度……。すると、周囲の景色は、砂が崩れるように消え失せ、ワシは再び京都の駅ビルのカフェ・デュ・モンドへと戻ってきた。

「そろそろ遊びはお終いにしようぞ」

 手にした錫杖を力一杯打ち鳴らした瞬間であった。唐突に駅の明かりが消え失せ、代わりに、毒々しい光に包まれた。それに呼応するように、周囲の人々が次々と崩れ落ちては、苦しそうに呻き声をあげ始めた。突然の出来事に、ワシはただただ動揺することしか出来なかった。

「な、何の真似なのじゃ!」

「我が名は風葬地の裁定者が一人、餓鬼供養の大師! さぁ、出でよ。餓鬼達よ!」

「な……!」

 信じられない情景だった。駅ビルを行き交う人々が次々と餓鬼へと変貌してゆく。改札を抜けて来た人も、エスカレーターに揺られながら室町小路広場を目指す人々も、楽しげに語らう人々も、あらゆる人々が悲鳴を挙げながら餓鬼へと変貌してゆく。それも、一匹や二匹では無い。今や、この広大なる駅ビルを覆い尽くさんばかりの餓鬼達に取り囲まれていたのだから。

「この米は施餓鬼米と呼ばれし物。空腹に飢えし餓鬼達を救済するべく供物なり」

 僧は……イヤ、餓鬼供養の大師は、あの時ワシが見たのと同じ小さな袋を手にしていた。

「お主も見届けたであろう? 古き時代、嵐山の地は幾度と無く飢饉に直面してきた。その度に多くの者達が飢えに苦しみながら死んでいった。或いは、口減らしのために親が子を殺し、子が親を殺す。そうした事態も当たり前のように繰り広げられてきたのだ」

「そのこととワシとの間には、何ら関係も無いのじゃ!」

「さて、果たしてそうであろうか? 例えば……腹を空かせた餓鬼達が、お主の大切な友を、喰らおうとしていたとしても、同じことを言えるであろうか?」

「な、何じゃと!?」

 慌てて振り返ったワシは驚きの余り、息が止まりそうになった。

 信じられないことに、糸でぐるぐる巻きにされたリキに向かい、餓鬼達が次々と歩み寄っていた。天井からリキに降り注ぐ米粒は、さながら天から立ち上る蜘蛛の糸のようにさえも見えた。だが、そんな悠長なことを言っている場合では無かった。一刻も早くリキを助け出さなければ、取り返しがつかなくなる。

「止めるのじゃ!」

 ワシは片っぱしから餓鬼を掴んでは放り投げた。力一杯蹴り上げ、その顔に拳をめり込ませながら次々と撃退した。姿形こそ異形なれど、やはり、中身は人と変わらないらしく、血を流しながら、悲痛な叫び声をあげる姿にワシは背筋が凍り付く想いで一杯だった。だけど、それでも、リキに危害を加えるならば、許すことは到底出来そうに無かった。

「この、化け物共め! 皆、皆、殺してやるのじゃーーっ!」

 無我夢中だった。とにかくリキを助け出さ無ければならない。その一心だけを胸に、ワシは次々とそいつらを殺し続けた。

 恐らく、こいつらは体力を限界まで奪われただけで、本質的には人と変わらないのだろう。骨は朽ち果てた木の枝のように脆く、軽く蹴り上げただけで腕が、足が、あらぬ方向へと曲がってしまう。その都度、鼓膜を破らんばかりの不快な悲鳴を挙げるばかりであった。だが、その数があまりにも多過ぎる。何しろ、今や、この駅ビルを覆い尽くさんばかりの頭数の餓鬼達が跋扈しているのだ。殺しても、殺しても、次から次へと数に物を言わせて押し寄せて来る。いよいよワシの体力も次第に限界へと近付きつつあった。

「い、一体、何匹居るのじゃ……」

「んーっ! んーーーっ!」

 一瞬、酸欠状態に陥り、崩れ落ちそうになったワシの耳にリキの悲鳴が響き渡った。

「り、リキっ!」

 糸で口元まで抑え込まれているせいか、くぐもった声しか発せなかったが、リキは目を大きく見開き、必死でもがいていた。

「き、貴様ら……リキに何をするのじゃ!」

 そいつらはあろうことか施餓鬼米ごと、リキに齧り付いていた。次々とリキに齧り付く餓鬼共に、ワシは完全に人としての理性を失っていた。足元に転がっていた椅子を手にすると、力の限り、餓鬼共を叩き潰した。次々と体を砕かれてゆく餓鬼共の血生臭い、不快な匂いが辺り一面に充満する。それでもワシは必死だった。リキを守ることだけを考えて餓鬼共を次々と殺めて行った。だが、如何せん頭数が多過ぎる。いよいよ視界が霞もうとしていた。

「んーーっ!」

 相変わらず、リキは必死で悲鳴を挙げていた。

「ワシに……ワシに、どうしろと言うのじゃ! そんなに楽しいか!? ワシを苦しめて、そんなに面白いのか!」

 餓鬼供養の大師は静かにワシを見据えるばかりだった。ワシはリキの悲鳴を背で受け止めながら向き合っていた。リキを救うことは非力なワシには不可能に思えて絶望で一杯だった。だからこそ絶対に許すことが出来なかった。例え、刺し違えたとしても絶対にこいつを殺してやる。覚悟を決めていた。

「……嵐山の地は度々飢饉に襲われた。空を覆い尽くす一面の雲、冷たい風ばかりが吹き抜ける時代。日の光を断たれた作物は次々と死に絶えていった」

 語りながら静かに錫杖を打ち鳴らした。次の瞬間、一斉に餓鬼達が悲鳴を挙げながら燃え上った。リキに襲い掛かっていた餓鬼達も、そこら中に蠢いていた餓鬼達も、一斉に、炎に包まれ、消失した。驚くワシを後目に、なおも餓鬼供養の大師は淡々と語り続けた。

「皆、空腹に苦しみながら死んでいった。中には死した者達の腐肉を喰らう者達もいた。この世に描き出された地獄絵図とは、まさに、そうした物を示すものかと、我は世の無常を憎み、己の非力さを呪った! そう……丁度、今のお主と同じような状況に置かれておったのだ」

 餓鬼供養の大師は静かに饅頭笠を取って見せた。そこにあったのは疲れ果てた一人の僧の姿であった。どこか、おとんに似た雰囲気を持つ優しげな表情が印象的だった。

「古き時代、我は彷徨える餓鬼達を供養すべく嵐山の地へと赴いた。我が命を賭してでも、迷える者達を救ってやろう。願いを胸に嵐山の地を訪れた。だが、惨状は想像を遥かに超えるものであった。我如き未熟者の祈りでは到底救い切れるものでは無かった」

 静かに語り続ける餓鬼供養の大師の言葉。だが、ワシの耳にはそんな言葉など、殆ど聞こえて居なかった。それよりも、ワシは目の前で傷を負い、苦しむリキの痛々しい姿に釘づけになっていた。

「リキよ……済まぬ。ワシが非力じゃったばかりに、お主を守り切ることが出来なかったのじゃ……」

「力無き者は何時だって、力有る者達に虐げられるばかり」

 尚も涼やかな口調で語り続ける餓鬼供養の大師の言葉に、ワシはただ、殺意しか覚えられなかった。

「黙れ……この腐れ外道。お前の物語なぞ、どうでも良いのじゃ!」

 背を向けたまま怒りの言葉を口にするワシのことを、相変わらず馬鹿にしたような涼やかな目で見つめていることだろう。そんなこと、もはや、どうでも良かった。今すぐにワシの手に掛り、殺される相手に情けなど微塵も必要も無かったのだから。

「ふふ、良く似て居る。あの頃の我も同じであった。今のお主と同じように、震え上がる程の激情に駆られておった。留まるところを知らない憎悪に掻き立てられておった」

「黙れと言っている! 飢饉だの、餓鬼だの、ワシには何の関係も無いのじゃ! もう既に死んだ奴らが迷おうが、どうなろうが、ワシにはどうでも良いことなのじゃ!」

 一体こいつは先刻から何をベラベラと講釈を垂れているのだろうか? 今、この状況でそのような話を聞かされることに一体何の意味が、価値があると言うのか? ワシには理解不能だった。

「残念であるな。我が言葉、届かぬか……。良かろう。迷える亡者達が跋扈すれば、どういうことになるか、その目で見届けるが良い」

 再び餓鬼供養の大師が静かに施餓鬼米をばら撒いて見せた。ザラザラと米粒が落ちる軽やかな音が響き渡る。

 一瞬、視界が揺らいだような感覚を覚えた。再び気が付いた時、ワシは亀岡の一角に佇んでいた。忘れることも無いあの国道からの景色。夕日を浴びて黄金色に輝きながら風に揺れる稲の情景。だが、あの時とは何かが異なって見えた。

(今度は一体、何を企んでいるのじゃ。むう? 何か、可笑しな景色なのじゃ……)

 異様な光景だった。風に揺れる稲達は、皆一様に痩せ細り、辛うじて姿を保っているに過ぎなかった。枯れそうになりながらも必死で生き永らえる稲の姿。それが意図する情景は、まさしく現代の飢饉の構図に感じられた。

「食料が無くなれば人は生きられない。飢饉の度に大規模な争いが起きた。生きるためには他者から略奪せねばならぬ。そう――他者の命さえもな?」

 荒涼とした光景を目の当たりにし、ワシはこれから起こるであろう哀し過ぎる展開に気付かされた。恐らく、平和な亀岡の地でさえも争い事は起こるのだろう。人は生きたいと願う生き物。生存への願いが断たれれば、如何なる手段をも講じることだろう。この平和な風景が血に染まる……。想像するのも哀しくなる光景だった。

「のう、大地よ。お主は飢えに瀕した者達に喰らわれる覚悟はあるか? 己の命を捨ててまで、他者を救おうと思えるか?」

「そ、そんなこと……出来る訳無いのじゃ!」

「ほう。迷いも無く返答出来るか。だが、お主の友は、今、まさに空腹に倒れようとしておるぞ?」

 餓鬼供養の大師が口元を歪めながら笑って見せた。何時の間にか糸を解かれたリキがうずくまっていた。ワシは慌ててリキに駆け寄った。

「リキ! リキよ! しっかりするのじゃ!」

「うう……」

「リキよ! 大丈夫か!?」

「腹が……腹が減った……」

「へ? 腹がって……」

「ああ、腹が減って倒れそうだ……。ロック済まねぇ、オレは……オレは!」

 リキがゆっくりと立ち上がる。その表情に、ワシは思わず腰を抜かしそうになった。

「ひっ!」

 今にも飛び出しそうな程にギョロギョロとした目に、痩せこけた頬。普段、見慣れているリキの表情とは余りにも異なって見えた。

「リキよ、お主、一体!?」

 驚きの声を挙げるワシに倒れ掛るように抱き付くと、リキは耳元で静かに囁いて見せた。

「ロック……。オレ、お前を食いたいんだ……」

「へ!? い、一体何を……」

 次の瞬間、ワシの首筋に激痛が走った。

「ぎゃーっ!」

 あまりの痛みにワシは思わずリキを突き飛ばしていた。慌てて首に触れてみれば、ジワリと血が滲む感触を覚えた。信じられないことに、リキがワシの首に噛み付いた結果だった。此処にきて、ようやくワシは事の重大性に気付かされた。

「り、リキよ……お主?」

「判ったか、大地よ? 他を救うとはこういうことを意味する。だからこそ、我はお主にそれだけの覚悟があるのかと問うたのだ」

「あ、ある訳無いのじゃ!」

「そうか……。それでは仕方あるまい。憐れ、お主の友は物言わぬ死体と成り果てるであろう」

 餓鬼供養の大師はそれだけ言い残すと静かに手を合わせて見せた。後に残されたリキは倒れたままどんどん痩せ細ってゆくばかりだった。

「ロック……助けてくれよ。オレ、ロックと一緒に……もっと、色んな所に行きたいんだよ……」

「済まぬ……。済まないのじゃ……。ワシにはお主を救うことが出来そうに無いのじゃ……」

 所詮、ワシは一介の人に過ぎない身。結局、我が身可愛さの余り、友をも平気で見捨てるのだろう。小さく体を震わせてたリキの動きが次第に緩慢になってゆく。多分、このまま死んでしまうのだろう。ワシはただ、涙を流すことしか出来なかった。目の前で死にゆく、大切な仲間を見届けることしか出来なかった……。

「ううっ、ワシは……ワシは……」

「所詮、お主に我を討ち取ることなど叶わぬ願いであった。精々、お主の浅墓さを恨むが良い」

 餓鬼供養の大師は、ワシを嘲笑うかの如く静かにほくそ笑むばかりであった。

「許さないのじゃ……。お前のことを殺してやるのじゃーーっ!」

 頭に血が上り切ったワシはすっかり我を見失っていた。怒りに身を任せて、ワシは手元にあった椅子を手にした。そのまま餓鬼供養の大師に力一杯、振り下ろした。餓鬼供養の大師は不敵な笑みを浮かべるだけで何の抵抗も見せなかった。その人を小馬鹿にしたような含み笑いに苛立ちと憎悪を覚えたワシは、何度も、何度も、殴り続けた。血塗れになりながらも、餓鬼供養の大師は不気味に笑い続けるばかりであった。

「その……気色悪い笑いを止めるのじゃーーーっ! うわあああーーっ! 死ね、死ね、死ねーーーっ!」

 留めの一撃……脳天に振り下ろした瞬間、砕け散る頭蓋骨を確かに感じた。そして、そこに崩れ落ちるリキの姿を、ワシは確かに見届けていた。

「なっ!? な、何故、リキが!?」

「怒りに我を見失い、激情のままに突っ走った結果、その目の輝きさえも曇らせたか」

「貴様っ!?」

「未だ判らぬか? お主は、お主自身の手で大切な友を手に掛けたのだ。判り易く言ってくれようか?」

「や、止めるのじゃ……。あ、ああ……わ、ワシは……」

「大地よ、お主が! その手で、力丸を、殺したのだっ! あーっはっはっは!」

「うわあああーーーーーっ!」

『お前が嵐山大地か?』

 下駄箱で靴を履き替えている時に、不意に声を掛けられた。また、ワシを面白可笑しく、嘲笑ってやろうという輩が現れたのだろうか? ワシは警戒しながら振り返った。

『……そうじゃ。ワシが大地じゃ』

『そうか。お前が大地か。オレ、比叡力丸って言うんだ』

 リキと出会った日の情景が鮮明に蘇る。あの日、あの時、リキが声を掛けてくれたからこそ、共に歩むことが出来た……。

『ふぅっ、先ずは一個目完食っと』

『……リキよ、お主一体、何個買って来たのじゃ?』

『ん? ロックの分を二つと、オレの分を三つだけど?』

 一連の騒動が無ければリキを巻き込むことも無かったのかも知れない。平和な日々を過ごせたかも知れないのに、何故、何故、こんなことになってしまった!?

『なぁ、ロック』

『ん? どうしたのじゃ?』

『死ぬってさ、どういうことなんだろうな? 苦しいのかな。痛いのかな』

『そんな話、止めるのじゃ……』

『生きているって実感するのってどういう瞬間なんだろうな』

 一杯語らって、一杯悩んで、一杯笑って、時に泣いて……。

(イヤじゃ! こんなのイヤじゃ! まるで走馬灯なのじゃ! リキと……リキとずっと一緒に歩むと約束したのじゃ!)

 何時も豪快に笑っていたリキ。声も大きくて、身振り手振りが妙に仰々しくて、無駄に暑苦しくて……。それでも、ワシが辛い時、落ち込んでいる時には豪快に笑い飛ばして励ましてくれて……。

(イヤじゃ……。こんな別れ方、絶対にイヤなのじゃ……)

 ワシはただ力無く崩れ落ち、涙を流すことしか出来なかった。どんなに足掻いても非力なワシでは立ち向かうことが出来る訳も無く、ただ、こうして無力さを呪うことしか出来なかった。

◆◆◆85◆◆◆

 一瞬、視界が揺らぐような感覚を覚え、ワシは堪え切れずにその場に崩れ落ちた。尚も頭が割れんばかりに痛んだが、ワシは顔を挙げてみた。やはり、そこは予想通り、落柿舎の前に広がる小さな畑の風景だった。空は夕焼け空に包まれ、辺り一面萌え上がるように赤々とした色合いに包まれていた。

 幼き日のワシは、またしても見知らぬ少年達と楽しげに語らっていた。痩せ細った少年達は、どう考えても生きているとは思えなかった。土気色の肌といい、生気の失せた眼差しといい、命ある者の姿には思えなかった。恐らく、彼らもまた、何日も飲まず食わずの状況下で、命の危機に瀕していることだろう。

「皆、嵐山旅館に来るのじゃ。そうすれば、好きなだけ食事を振舞うのじゃ」

 相変わらず幼き日のワシは無責任な言葉を軽々しく口にするものだ。だけど、少年達の振舞いもまた、どこか異様に感じられるものだった。皆、一様に不気味に口元を歪めて笑っていたのが気に掛った。

(違う! これは幼き日の情景とは違うのじゃ!)

 まさか……何者かが『回顧』を為し遂げようとしているのか? 死者達の想いが形を為す。極限状態の飢餓状態に陥った彼らが紡ぎ出す想いが形を為す。

 何時の間にか周囲の景色が移り変わり、気が付いた時には、ワシは嵐山旅館の食堂に佇んでいた。だけど、何かが可笑しかった。

(何じゃ? 何故に、こんなにも薄暗いのじゃ? それに……何か、嫌な雰囲気が漂っているのじゃ……)

 程なくして段々と薄暗い室内に目も慣れて来たのか、ワシの視界にとんでもない物が飛び込んできた。

「り、リキ!?」

 信じられない情景だった。テーブルの上には縛り付けられたリキが横たわっていた。だけど、リキは微塵も動かなかった。何時の間にか少年達がテーブルを囲んでいる。

「ま、まさか……!」

「お持て成しの心、見せてくれるんでしょう?」

「ぼく達、トモダチなんでしょう?」

「ふ、ふざけるで無いのじゃ! ああ、リキ! リキ! 目を覚ますのじゃ!」

 だけど、ワシの声は届かないのか、リキは微動だにしなかった。

「無駄だよ。大地、君が彼を見捨てたから、彼は死んでしまったんだ」

「な、何じゃと!?」

「でも、安心して」

「そうそう。オレ達が、ちゃんと最後まで食べてあげるから」

「もう一度、生まれ変われるように、綺麗に食べてあげるから」

 少年達が冗談を言っているのでは無いことは、その目が如実に物語っていた。

 冗談では無い。リキを食べるだと? ふざけるな! ワシの大切な仲間を食べるなど、有り得ない話だ。そんなこと、絶対にさせない。例え、こいつらを皆殺しにしてでもリキを守る。飛び掛かろうとするワシを睨み付けながら、少年達が一斉にワシを指差した。

「なっ!?」

「それなら、代わりに君が食べられるかい?」

 ゾっとする程に低い、地の底から響き渡る様な声で少年達が一斉に問うた。

「そ、そんなの、嫌なのじゃ!」

 思わず声を荒げるワシを蔑むような眼差しで見つめながら、少年達はこれ以上ない程に、醜く顔を歪めながら嘲笑って見せた。

「それも嫌だと応える訳だ」

「まだ判らないのかい? 全部、全て、君自身が撒いた種なんだ」

「八方美人に振舞い、誰からも嫌われないように振舞った結果だ」

「手当たり次第、無責任なことを口にするから、こういう結末に陥ったんだ」

「わ、ワシは……」

 唐突に部屋が真っ暗になった。信じられない程の暗闇に包まれ、ワシは何も見えなくなった。

「い、一体、どうなっているんだよ!? うぉっ!? ろ、ロック! 助けてくれ! オレは……オレは、未だ死にたくねぇよ!」

「り、リキ!?」

 意識が戻ったのか、リキが叫ぶ悲痛な声が響き渡る。だが、何も見えない。必死で目を凝らすが何も見えない。何も触れることが出来ない。ただ、声だけが響き渡るばかりだった。イヤ、これもまた真実の裏返しなのかも知れない。辛い現実から目を背けるワシ自身に向けられた、実に皮肉なる因果応報なのかも知れない。

「ぎゃあああーーーっ! 痛ぇっ! 痛ぇよ!」

「り、リキ!?」

「痛ぇ! 痛ぇ! ああっ……ああ、止めろ……止めろって! ぎゃああああーーーーっ!」

「リキ! リキーーっ!」

 遠退く意識の中、ワシはリキの悲痛な悲鳴を聞くことしか出来なかった。無力な自分が許せなかった。無責任に立ち振る舞うばかりだった自分自身を殺してやりたかった。イヤ、それすらも口先だけなのだろう。どこまでも無責任な奴だ。それならば、リキの代わりに死ねるか? そう問われればワシは一目散に逃げ出しただろう。

(結局、ワシは我が身可愛さのために、大切な仲間さえも平気出見殺しにする……。最低な奴なのじゃ……)

「ロック! ロック! 助けてくっ……助け…………」

 自分でも驚く程に冷静だった。多分、リキはもう助からないのだろう。だから、こうやって受け入れ難い現実を『忘却』して逃げ回るだけだ。結局、ワシは何一つ変わっていない。大切な物を失う哀しみを、痛みを、『忘却』することで身を守ることしか出来ない。だから、結局、ワシは独りぼっちなのだろう。そう……未来永劫、孤立無援の世界に置き去りのままだ。

◆◆◆86◆◆◆

 再び視界が揺らいだ。気が遠くなるような感覚を覚え、それと同時に、割れんばかりに頭が痛んだ。余りの痛みに耐えられなくなったワシは、そのままその場に崩れ落ちた。今度こそ本当に死んでしまうのだろうか? それならばそれでも良いさ。もう、疲れ果てた……。いっそ、このまま何もかもを投げ打って楽になってしまおう。それでも良いさ。死んで楽になれるなら……罪を償えるなら、それでも良いさ。そう思いながら、ワシは静かに目を伏せた。だが、痛みは増してゆく一方だった。

 何処かで半鐘を叩く音色が響き渡る。カンカンカンカン。一体、今度は何が起きたというのだろうか? 痛む頭を抱えながら、ワシは耳だけ傾けた。

 木々が燃え盛る音。逃げ惑う人々の叫び声。大規模な火事でも起きているのだろうか? 子供の泣く声。必死で我が子の名を呼び続ける母らしき女性の声。理解不能だった。今度は何を見せようとしているのだろうか。もう、ワシは疲れ果てたのだ。変わろう、変わろうと思ったけれど、やっぱり駄目だった。所詮、ワシは上辺だけ小奇麗に繕ったウソ付きに過ぎなかったのだ。大きく吐息を吐くと同時に、唐突に背後から爆音を思わせるかのような凄まじい音が響き渡った。

(こ、今度は一体何なのじゃ!?)

 次の瞬間、凄まじい勢いで熱風が吹き付けて来た。

「ぎゃあーーっ!」

 一体、何が起きたのか、凄まじい熱さに包まれた。

「熱い! 熱い! ああっ! 熱いーーっ!」

 もしかしたら、ワシの体は炎に包まれてしまったのかも知れない。そんなことを冷静に考える間も無く、ワシは必死でのた打ち回った。自分の体が炎に包まれている恐怖。凄まじい熱さと痛み。息を吸い込めば、今度は、肺の奥が焼けるように痛みを孕んだ。

「熱い! 熱いっ!」

 必死でのた打ち回った。一体、何が起きているのか全く、理解できない状況だった。ただただ、必死で転がり回っていたことだけは確かだった。

 どれほどの時間、のた打ち回ったのだろうか。いよいよ、ワシの肉体も燃え尽きてしまったのだろうか。不思議なことに、もはや、痛みすら感じなかった。

 ワシはそっと目を開いてみた。いよいよ彼岸の地に足を踏み入れてしまったのだろうか。死ねば楽になれる? 冗談では無い。楽になるどころか、堪え難い苦痛を体感するだけでは無いか。死にたいと願った気持ち……それすらも、所詮は現実逃避のウソに過ぎなかったということか。まったく、何処までワシを馬鹿にすれば気が済むのだろうか。

 生きるのも辛いが、死ぬことはもっと辛い。今更、ワシにそんな説教をして、一体何の得になるというのか。まぁ、良いさ。生きて恥を晒してくれよう。それがお前達の願いならば、ワシはその辱めを受け入れてくれよう。

 それにしても、随分と周囲が明るくなった気がする。一体、此処は何処なのだろうか? 周囲を見回してみた。

「今度は学校に? もう、何が何だか意味不明なのじゃ……」

 本当に、ワシに一体何を望んでいるのか皆目見当が尽かなかった。それでも前に進むしかない。死の苦しみを甘受する位なら、生きて天寿を全うする方が遥かに幸せだ。それに、死んでしまったら、そこでワシの物語も終わってしまう。それはイヤだった。皆と共に物語を綴り続けたいという想いだけは、少なくてもウソでは無いと言い切れる。だから、賭けてみようと思った。

 いずれにしても、此処でこうして立ち往生していても始まらない。ワシはそっと校門に手を掛けてみた。予想通り、校門には鍵が掛かっていなかった。重たい音を立てながら校門が静かに開く。ワシはそのまま人気の失せた夜半の校庭に足を踏み入れてみた。

 そっと校庭に立ち、ワシは校舎を見回してみた。夜半の校舎は静まり返り、不気味なまでに静寂に包まれていた。そんな静かな校舎の一角、一室だけ明かりが灯る教室があった。見間違うハズが無い。そこはワシらの教室だった。明かりが灯っているということは、誰かがいることを意味している。もう、誰でも良かった。敵でも味方でも誰でも良かった。ただ、この場に一人、放り出されていることに耐えられそうに無かったから。

「行くしか無いのじゃ。もしかしたら、何か、救いの道が切り拓かれるかも知れないのじゃ」

 一縷の望みを胸に抱きながらワシは力無く歩き始めた。一縷の望み――今のワシに縋ることが出来るのは、そんな、酷く曖昧な物しか無かった。それでも希望を抱かずには居られなかった。だからワシは後ろを振り返らず、ただひたすらに走り続けた。

◆◆◆87◆◆◆

 下駄箱で靴を履き替えたワシは、そのまま教室を目指していた。夜の校舎内は静まり返っていて不気味に思えたが、それでも前に進むしか無かった。だから、ワシは一歩、一歩、階段を登った。やがて廊下の向こう側から光が差し込む光景が見えてきた。間違い無い。ワシらの教室から煌々と明かりが漏れている。

(頼むのじゃ……。誰でも良いのじゃ。どうか、ワシに……ワシに力を貸してくれなのじゃ!)

 万が一、風葬地の裁定者が仕掛けた罠が潜んでいないとも限らなかった。得体の知れない奴らを放ったかも知れない。だから、ワシは可能な限り足音を殺しながら歩み寄った。程なくしてワシは教室の前に辿り着いた。

 この扉の向こうには誰か居るのかも知れない。もしかしたら、これもまた罠という可能性もある。でも、それでも、前に進むしか無いんだ。ワシは静かに深呼吸をしてから、そっと扉に手を掛けた。静かに教室の扉が開かれる。ワシは恐る恐る教室の中を覗き込んでみた。

「こ、コタ!」

「大地! ああ、良かった。無事だったのか……」

 つくづく不思議な縁だと思う。地獄に仏とは、このことを言うのだろうか。カラス天狗の力を借りることの出来るコタならば、必ずや道を切り開くことが出来るハズだ。ようやく救われた。ワシは安堵から思わずコタに駆け寄っていた。

「輝と共に嵐山に向かったのだが――」

 コタは此処に至るまでの経緯を聞かせてくれた。

 嵐山に向かう道中、帷子の辻で足止めを喰らったこと。カラス天狗の手を借りて嵐山まで連れて来て貰ったこと。奇妙な坊さん達に囲われるようにして化野念仏寺まで向かったこと。そして……そこで起きた惨劇を聞かせてくれた。

「そうか。輝と出会えたのか」

「コタの相棒のカラス天狗に傷を負わせてしまったこと、相当気にしていた様子だったのじゃ」

「輝らしいな」

 コタもまた奇妙な幻覚を見せられ、気が狂わんばかりの激情に駆られたと聞かせてくれた。そのまま意識を失い、次に気がついた時には教室に倒れていたと言った。

「ワシの話も聞いてくれなのじゃ」

「ああ、頼む」

 ワシは、今、この瞬間までに起きたことの全てをコタに語って聞かせた。嵐山旅館からテルテルと共に逃げ出し、鞍馬を目指していたが、道中、突然、京都駅地下街へと移り変わっていたこと。その流れの果てで、テルテルが棺桶の中で力尽きた姿を見届けたこと。その後、リキと再会したこと。カフェ・デュ・モンドで今後のことについて作戦を講じていた中、餓鬼達の手によりリキが蛾死させられたこと。その全てを包み隠さず語って聞かせた。

「くだらないまやかしだな」

「ワシもそう思うのじゃ。じゃが、もしも、本当だとしたら……」

 ワシの言葉に、コタは窓の外に目線を投げ掛けながら返して見せた。

「奴らが本気を出せば、その位のことは容易く為し遂げられるだろう。だが、本当に為し遂げたとは思えなくてな」

 コタは大きく溜め息を就きながら、窓の外に目線を投げ掛けて見せた。

「根拠など何一つ無いが、奴らは手荒な真似を好まないように感じられる。あくまでも、狙いは……大地。お前なのだから」

 行き着く先は、やはりワシ自身となる。何の力も持たないワシに一体何を望んでいるのだろうか? もはや、身も心も疲れ果て、ワシは死をも受け入れようと思ったというのに……。

「だが、打つ手は無しだ」

「ど、どういうことなのじゃ?」

「厄介なことに相棒とも切り離されてしまってな」

 コタは何処かが痛むかのような悲痛な笑顔を称えたまま、向き直って見せた。

「操られていたとは言え、輝が放った虫の一撃。その一撃から俺を庇おうとしてクロは……」

 クロ――テルテルが口にしていたカラス天狗の名だった。

「カラス天狗の力を借りられない俺は、ただの非力な存在に過ぎない。済まないな、大地。今の俺では、お前の希望にはなれそうにない」

「そ、そんなことないのじゃ。何か手はあるはずなのじゃ」

 普段は強気なコタも、精神に畳み掛けられれば、やはり、堪え切れなくなるのだろう。ワシはとうの昔に心が壊れてしまった気がする。どんなに強靭な肉体を持っていても、人の心は硝子のように脆く、儚いものだ。驚く程に呆気無く壊れてしまう。可笑しな話ではあるが、弱気なコタの姿を目にしたことで、妙に勇気付けられた気がした。絶望に溺れようとしているのはワシだけでは無い。そのことが妙に安心感を与えてくれた気がする。

「そうだな。これまであったことを整理しつつ、今後の身の振り方を考えるとしよう」

 落胆しなかったと言えば嘘になる。でも、そんな他力本願な生き方には嫌気がさしていた。結局、ワシに力が無かったから、皆を守ることが出来なかった。仮にワシに力が無くても、力ある者達と共に歩むことが出来れば、未だ道は切り拓かれたのかも知れない。そうさ。道は切り拓かれるハズだ。あのカラス天狗の少年と何とか出会うことさえ出来れば。まだ、希望は潰えていない。無駄でも良い。ハッタリでも良い。しぶとく生き延びよう。

「大地、カラス天狗と接触することは出来たか?」

「残念ながら何の痕跡も無いのじゃ」

「そうだな。仮に、カラス天狗の手を借りることが出来たとすれば、事態はもう少しは好転していただろうからな」

「そうじゃな」

 結局、ワシが出来たことと言えば、過去の思い出を振り返ることしか出来なかった。それに、他の誰にも話すことは出来なかったが、あの、開かずの間とやらを見せ付けた存在……そいつの目的が見えてこなかった。あの、開かずの間を見せた存在もまた、解決の糸口に繋がっているような気がしなくも無かったが、口にするだけの勇気は無かった。ただ、過去の記憶を紐解いていけば答に行き着くのかも知れないという、ひとつの考えを見付けることは出来た。

(そういえば、コタとも良く二人で遊んだのじゃ。昔からコタは何処か風変りで、個性的な性分であったのう)

「む? 何だ、シゲシゲと俺の顔を見つめるとは」

「にゃはは。コタと共に過ごした日々を振り返っていたのじゃ」

「俺と過ごした日々を?」

「そうなのじゃ」

 次々と可笑しな出来事ばかり巻き起こる中で、よくも、こんなにも落ち着いて振る舞えるものだと自分自身の振舞いに違和感さえ覚えていた。人は辛いこと、哀しいこと、苦しいことに直面した時に、楽しかった思い出を振り返ることで、逃避しようと試みる弱い生き物なのだろう。こうして過去を振り返ることに一体何の意味があるのか定かでは無かった。ただ、開かずの間を見せ付けた存在が何かを意図していることだけは間違い無い。恐らく、過去の記憶に鍵を掛け、真実から逃げ続けているからこそ、ワシは本当の意味で力を発揮することが出来ないのかも知れない。その代償にテルテルやリキが巻き込まれたのだとすれば、やはり、過去の記憶を紐解くことに、少なからず意味はありそうに思えた。

 その中に太助が登場していないことも気になっていた。多分、これは簡単な話なのだろう。他の三人と比べると、太助とは知り合ってからの時間が短い。秘め事をしなければならないような事態に直面したことが無いからこそ、過去の回想の中に姿を現すことも無いのかも知れない。

 逆に考えれば、今、この場で、こうしてコタと共に在るということは、コタとの間にも何か目を背けてはならない秘め事があったハズだ。

「過去を振り返るか……。だが、意味はありそうだな」

「どういうことなのじゃ?」

「ふふ、俺にも良く判らないが、何の策も無い以上、思い付くことを試してみるのも意味はあるだろう。何しろ、俺達が今いる場所は多分、現実世界から切り離された異質な場所に在る筈だからな」

 やはり、これもまた、風葬地の裁定者が仕掛けた幻影なのかも知れない。そう考えると、何が起きても不思議では無さそうに感じられた。そう考えた瞬間であった。不意に、ワシの視界が酷く揺らいだ気がした。 一瞬、意識が途切れたワシではあったが、慌てて目を開いた。

◆◆◆88◆◆◆

 何時の間にかワシは列車に揺られていた。セピア色の情景の中、賑わいを見せる四条通りの中を駆け抜ける列車。ワシはその列車に揺られていた。ガタンガタン。ガタンガタン。不思議な光景だった。普段は車が往来する道を、列車は路面電車の如く駆け抜けていた。視界の先には賑わいを見せる南座と、その先に広がる四条大橋の情景が目に映っていた。

「おかえり、大地。さぁ、四つ目の開かずの間を開く時だよ。しっかりと見届けるんだ。君と小太郎との間に佇む秘め事の真実を」

「もう、何があっても驚かないのじゃ。『忘却』を阻止するため、ワシは通り過ぎて来た道を『回顧』するのじゃ。そうするしか道は残されていないのじゃから」

「大地、必ず君の行く末には道が広がる。もう少しの辛抱だよ」

 相変わらず不思議なことを言う少年だ。そんなことを考えていると、少年は静かな口調で続けて見せた。

「信じてくれと、言うつもりは無いけれど……少なくても、ぼくは君の敵では無い」

 ワシはただ黙って声に耳を傾けていた。

「ただ、ぼくは君の力になりたいんだ。でもね、そのためには、ぼくが何者であり、君との間にどんな物語があったのかを鮮明に思い出す必要がある」

 またしても意味の判らないことを言うものだ。この少年との間に関わりがあった? そんな訳あるものか。記憶の中に、この少年の声と合致する人物は存在していなかった。浅からぬ縁にある少年の声が記憶に残っていない訳が無い。

 だけど、不思議な気持ちで一杯だった。何故だろう? この少年とは、浅からぬ縁にあったような気がしてならない。多分、これも『忘却』された結果に過ぎないのかも知れない。それならば、封印した全ての記憶を『回顧』できた時、この少年の素性を知ることが出来るのでは無いだろうか? 何の根拠も無かったが、そんな気がしてならなかった。

「記憶を手繰り寄せるんだ。そして、ぼくが何者か思い出すことが出来た時……ぼくは、君の力になることが出来る」

 ワシは必死で記憶を手繰り寄せようと試みていた。だが、今度はどの記憶を思い出せば良い? 少なからず封印された記憶を想い起こすためには、何かキッカケとなる物が無ければ困難極まりない。必死で記憶を手繰り寄せようと試みた。だが、何も浮かんでこなかった。そんな訳は無い。コタとの間にも、何か途方も無い秘め事があったハズなのだから。必死になるワシを後目に、少年は相変わらず淡々と語り続ける。

「ひとつだけ注意しなければならないことがある」

 不意に気になる言葉を耳にしたワシは、思わず顔を挙げた。少年は相変わらず淡々と語り続けて見せた。

「どんなに辛い結末になっても絶対に投げ出しては駄目だよ。君が諦めてしまったら、そこでお終いだ。君の物語だけでは済まされない。皆の物語も同時に散ってしまうことになる」

 途方も無く恐ろしいことを、いとも容易く口にしてくれるものだ。だけど、ワシは黙って話に耳を傾けていた。自分でも驚く程に冷静だった。焦りも動揺も、恐怖心さえも麻痺してしまったのかも知れない。行き着くところまで行き着いてしまったのだろう。なら、話は簡単だ。落ちる所まで落ち切ったら、後は上るだけだ。

「君は……最後の砦にならなくてはならない。それが、君が犯した数々の罪への償いなのだから」

 罪? 償い? 相変わらず気になる言葉を口にしてくれるものだ。だけど……ワシがしてきたことの数々は、少なからず罪としか言いようの無い振舞いの数々だった。当然、罪を償う必要はあるのだろう。その先に道が開けるというのであれば、ワシは犯してきた罪と向き合おう。

 やがて列車が静かに止まる。何時の間にかワシの前には鮮烈なまでの紅の襖が佇んでいた。暮れゆく夕焼け空を背に、大空を優雅に舞う赤とんぼ達が描かれた襖であった。ただ、ひたすらに紅一色。その先にある真実、必ず、受け止めよう。もう……後戻りは出来ない。腹を決めるしか無いのだから。

「……過去との対面じゃな。今一度、過去へと旅立つのじゃ。ワシの真実を見届けるためにのう」

 ワシは静かに襖を開けた。そっと開かれた襖からは、目が眩まんばかりの光が波のように押し寄せてきた。四条通を行き交う人々の雑踏に抱かれながら、ワシの記憶が遥か彼方へと旅立ってゆくのを感じていた。さぁ、始めよう。『回顧』へと至る物語との対面を。

◆◆◆89◆◆◆

 その日は蒸し暑い日だった。照り付ける日差し。響き渡る威勢の良い蝉達の声。発達した入道雲は、まさしく夏の風物詩。時折響き渡る風鈴の涼やかな音色と、吹き抜けるジットリと湿気を孕んだ風。耳に入る数多の音達に、じっと耳を傾けながら、ワシは周囲の景色を見回していた。

 今から遡ること数年前の情景。ワシらが中学生最後の夏を過ごしていた時代のことだった。丁度、リキと亀岡の湯の花温泉に向かう少し前の出来事だった。

 ワシは駅前で時計を気にしながら、待ち人が訪れるのを静かに待っていた。駅に列車が訪れる度に多くの乗客達が列車から降りて来る。その人混みの中に居ないかどうかを、ワシは改札前から見つめていた。

 待ち人の到着を待ち侘びる間の高揚感が堪らなく好きだった。列車が訪れる度に人が往来する。ああ、今の電車にも乗っていなかったか。それならば、次の電車に違いない。一日千秋の想いを胸に抱きながら、古き時代を生きた文豪のような気持ちを体感してみたりする。もっとも、そんなのワシの勝手な独り遊びに過ぎないが、それでも楽しいものは楽しいのだ。

 やがて、往来する人々の流れの中に見覚えのある顔が見えた。待ち侘びるワシの姿に気付いたのか、笑顔で手を振って見せた。ワシも思わず嬉しくなり、大きく手を振り返した。すっかり気持ちが昂ぶったこの時のワシの心境は、例えるならば、遠距離恋愛の恋人同士が紆余曲折の困難を経て、数年ぶりに再開した瞬間を思わせるかのような実にドラマチックな情景だった。少々、大仰なリアクションだったこともあり、往来する人々の失笑を買ってしまい、ワシは慌てて咳払いで誤魔化した。少々、妄想が暴走し過ぎてしまったらしい。気持ちを昂ぶらせるのは楽しいものだが、度を超えると周囲の人々の冷ややかな視線を頂戴する羽目になる。

(むう……。ここは、愛憎劇の果てに、シンシンと雪の降り頻る小樽の街並みで、不倫相手との駆け落ちを果たした――)

 妙な妄想ワールドに耽っていると、コタが可笑しそうに笑いながら肩を叩いて見せた。唐突に現実に引き戻されたワシは、危なく、悲鳴を上げてしまう所であった。

「駅まで出迎えに来てくれるとは、済まないな」

 そんなワシの動揺とは裏腹に、微かに笑いを堪えたような表情でコタが言った。

「構わないのじゃ。ワシが遊びに来てくれと頼み込んだでのう」

 改めて冷静になって考えると、自分の立ち振舞いが妙に小恥ずかしくなり、ワシは顔が熱くなった。それを隠すように、ワシは汗も掻いていないのにハンカチで顔をゴシゴシ拭った。

 コタとは二人で遊ぶことも少なく無かった。コタとはリキ経由で知り合った。知り合った当時は、同年代の奴らとは明らかに異なる趣味趣向を持つ少々風変りな奴だと思っていたが、今ではすっかり打ち解けて、こうして気さくに遊ぶようになった。

 普段から寡黙で口数こそ少ないが、だからと言って物静かな奴という訳でも無い。少々古風な振舞いが印象的だった。同じ年とは思えない程に、常に威風堂々としていて、立ち振舞いの一つ一つが優雅で涼やかに見える。かと思えば、外見そのままの無骨な一面を持っていたりと、知れば知る程に、底の知れない個性にワシは大いに興味を惹かれていた。それに、二人で語らい始めると、どこか哲学的な語らいになっていることも多く、皆と一緒に過ごす時とワシと二人で過ごす時で、まるで違う素顔を見せることもまた興味を惹かれる一因となっていた。

「嵐山は何度も訪れているが、今回もまた、地元を知り尽くしている大地に案内して貰えるのが楽しみだ」

 蒸し暑さが気になるのか、胸元をハタハタやりながらコタが楽しげにワシに目線を投げ掛ける。

「そ、そんなに期待されると、激しくプレッシャーなのじゃ」

「それに、旅館を経営している大地の家に泊まらせて貰うというのも、実に興味を惹かれていてな。ここだけの話なのだが……」

 コタは不敵な笑みを浮かべながらワシの耳元に顔を寄せる。どこか照れくさそうな笑顔に、ワシは思わずドキリとさせられた。何時も不機嫌そうな顔をしているコタが見せる、いたずら小僧を思わせる笑顔。そのギャップにワシは思わず心を動かされていた。

「あまりにも楽しみ過ぎて、昨晩は良く眠れなかったんだ」

「にゃにゃにゃにゃんと!?」

「これではまるで遠足前夜の小学生だな。まぁ、そういう子供染みた一面がある奴だという話は、俺と大地、二人だけのヒミツということで頼むぞ?」

「も、もちろんなのじゃ!」

 遊んでいる回数は多いものの、良く考えてみたらワシの家に泊まりに来たことが無いことに、ふと気付かされた。普段から何時も一緒に過ごしているせいか、あまり深く考えたことも無かったが、それでもコタのことをもっと知りたいと願ったワシは、良い機会だと思い、コタを嵐山旅館に誘ってみることにした。

 ワシの地元、嵐山のことをもっと良く知って貰いたいという想いと、何よりもワシが愛してやまない嵐山の情景を好きになって貰えたら光栄だと考えていた。言うなれば、ちょっとしたツアーガイドのような気持ちで誘ってみたのがキッカケだった。

 風が吹き抜ければ、駅舎に吊るされた風鈴達が一斉に涼やかな音色を奏でる。引っ切り無しに往来する人々とすれ違いながらも、ワシらは歩き続けた。

「駅前は賑わっているな」

「何と言っても観光地じゃからのう。さーて、何処から案内しようかのう」

 何処を案内すればコタは喜んでくれるだろうか? ワシなりに色々と知恵は搾ってみたつもりだった。面と向かってあれこれ聞くのも悪くは無かったが、それでは、何処に向かうかが予め判ってしまう。驚きと感動は背中合わせだとワシは考える。意表を突いたお持て成しというのは、往々にして記憶に残る物だ。今日は一人のトモダチとしてでは無く、ツアーガイド大地としてコタに接してみたかった。思う存分楽しんで貰って、ワシも一緒に楽しい気持ちに浸りたい。そんな願いを胸に抱いていた。そんな訳で、口先では、さも現在進行形で考えているように振舞っているが、実際は数日前から必死に知恵は絞ってある。大根役者と笑われても仕方が無いが、ワシなりに考えたベタな演出だった。

 さて、コタはどんな表情で街並みを見回しているだろうか? そっと横目で盗み見れば、コタは実に興味深そうに通りを行き交う人々を眺めていた。普段、ワシが目にしているコタは、もっと気難しそうな性分に思えたのだが、今日のコタは無邪気な子供のように好奇心に満ちた表情で、終始笑顔を絶やさなかった。

(コタは乗せられ上手なのじゃ。ワシの考えた『冒険』に上手い具合に乗ってくれているのじゃな。さすがはコタなのじゃ。これは、ますます気合いが入るのじゃ。何としても、コタに楽しんで貰わねばなのじゃ)

 嵐山の定番と言えば渡月橋が真っ先に浮かぶ。とは言え、ワシの家に行く際に必ず通る場所であることと、少なからず昼下がりのこの時間帯、人通りの多さも予測される。嫌いなものは人混み。好きな物は大自然とくれば、やはり、案内する場所は竹林しか無いだろう。竹林方面へと抜ければ人も減り、静かな景色も広がる。

(ふむ。ワシの好きな竹林をコタにも気に入って貰えると嬉しいのじゃ)

「コタよ、このまま通り沿いに歩くとするのじゃ」

「いよいよ冒険の始まりという訳だな? どんな場所を案内してくれるのか、楽しみにしているぞ」

「ツアーガイド大地にお任せなのじゃ」

「ははは。随分と重量感のあるツアーガイドだ」

「可愛らしいバスガイドの制服でお持て成ししようかと思うたのじゃが、どうにもサイズが合わぬでのう」

 ワシの言葉に、思わず在らぬ光景を想像してしまったのだろう。一瞬、険しい表情を見せたが、次の瞬間には可笑しそうに笑い出した。

「バスガイド大地か。案外似合うかも知れないぞ?」

「にゃんと! ううむ……で、では、次回は真面目に検討するのじゃ」

「ははは。案外、可愛いかも知れないぞ? まぁ、笑いを取れるのは間違い無いだろう」

 コタは目を細めて微笑んでいた。普段のどこか不機嫌そうな表情とは大きく異なる姿に、少年のような笑顔にワシは早くも手応えを感じていた。

「む? 何だか雲行きが怪しくなってきたな」

 コタの言葉を受けて、ワシは思わず空を見上げた。その瞬間、頬を撫でていくようにヒンヤリとした風が吹き抜けて行った。空はどんよりと厚みを帯びた鈍色の雲に覆われ、先刻まで綺麗に広がっていた青空が呑み込まれようとしていた。

「ふむ。妙にヒンヤリとした風が吹き抜けてゆくのじゃ。これは、雨が降るかも知れないのじゃ」

「雨の嵐山というのも中々に風情があって悪くなさそうだ。とは言え、雨に濡れるのは頂けないな」

 コタは空を見上げながら静かに呟いて見せた。

「まぁ、降り出したならば、その時にでも何処かで傘を購入するとしよう」

 天龍寺前は賑わいを見せていた。此処、天龍寺は嵐山の駅前という立地に居を構えることもあり、また、その風光明美なる庭園に惹かれて多くの観光客が訪れる場所でもある。ワシの中では天龍寺は朝が一押しだと決めている。未だ朝露が消え残る早朝。清々しい朝の陽ざしの中、広大な庭園を練り歩くのも悪く無い。そうだ。明日の朝、コタを連れて来るとしよう。威風堂々と構える山門前に立ちながら、ワシはコタに向き直った。

「此処、天龍寺は早朝に訪れるのが良いのじゃ」

「ほう?」

「朝露を肌に感じながら広い庭園をぐるりと回るのも悪く無いのじゃ。それに、高台からは市街の光景が良く見えるでの。良く晴れた透き通った空気の中で訪れたい場所じゃな」

「確かに、この空模様では遠くまで見えそうに無いな。明日の朝は、天候に恵まれることを期待しよう」

「ワシが案内するのじゃ」

「ああ。期待している」

 そう言った後で、不意にクスクス笑いながらワシの肩に腕を回して見せた。

「大地は面白い奴だな」

「ワシが面白いとな?」

「ああ。何と言うか、一緒に居るだけで自然と楽しい気持ちにされてしまうから不思議だな」

 褒められているのか、からかわれているのか何とも言えない表現ではあったが、コタの性格を考えれば褒めているつもりなのだろう。実際に、楽しそうに振舞っているのは事実なのだから。

「それにしても、駅前の通り沿いは中々に多国籍な装いだな」

「色んな店が軒を連ねているでの。ほれ、行列の出来ているあの飲食店はリキのお気に入りの店なのじゃ」

 丁度、ワシらが歩んできた道沿いに佇む、おばんさいの店「ぎゃあてい」は、昼下がりを過ぎて尚長蛇の列が出来上がっていた。この店はおばんざいの食べ放題の店ということで、リキと一緒に訪れると色んな意味で目立ってしまって仕方が無い店でもある。軽く数人前を食べ切ってしまうリキに取って、食べ放題という響きはまさしく桃源郷そのものなのであろう。その光景が容易に想像出来たのか、コタは腕組みしながら苦笑いしていた。

「あの男の底無しの食欲を考えれば、店からしてみれば、それはそれは忌むべき客だろうな」

「にゃはは。一緒にいるワシも目立ってしまって恥ずかしいのじゃ」

「だが、それも面白そうだな」

 腕組みしながら、何か悪だくみでも浮かんできたのか? 可笑しそうにコタが笑って見せる。

「今度は力丸を連れてきて、どれだけ食えるかを見届けてやるとしよう」

「にゃはは、コタも中々に物好きなのじゃ」

 笑いながら通りを歩んでいれば、何時の間にか空は厚い雲に完全に覆い尽くされようとしていて、今にも雨粒が零れ落ちそうな様相を呈している。これは間違い無く雨が降り出すだろう。湿気も増しつつある上に、木々の青々とした香りがより一層濃厚になって来た気がする。木々達にも判るのだろう。恵みの雨が降り出すということが。だからこそ、こうして手を大きく広げて雨を請うているのだろう。さぁ、雨よ降り注げ。天よ荒れ狂え。祭の始まりだ。宴の訪れだ。そう言っているように思えて仕方が無かった。コタもまた、傍らで目を細めながら周囲に佇む木々を見回していた。

「ふむ、そろそろ雨も降り出しそうじゃな」

「そうだな。手身近な店で傘を購入した方が賢明だな」

「ついでに、飲み物やら茶菓子やらを購入ついでに傘も購入するのじゃ」

 ワシの言葉にコタが声を押し殺して笑う。優先するのは飲み物やら茶菓子で、傘は二の次なのだなと。何だかワシまで可笑しくなってきて、声を挙げて笑った。

 青空と共に歩む景色も悪くないが、雨の嵐山は一風変わった表情を見せる。特に梅雨から夏に掛けての暑い季節の雨というのは、木々の息吹と相まって、はんなりとした京都らしい風情を感じられる。そうした気候はワシの性分に良く合っているように感じられて、実に心地良く感じられた。夏の盛り上がりに包まれることで、気持ちまで昂ぶるというものだ。

「夏の暑さに重なり合うように降り頻る雨。嵐山という土地は雨の中でこそ、湧き上がる息吹を称えているように思えるのじゃ」

「判る気がする」

 ワシの言葉を受けながらコタもまた静かに目を細め空を見上げていた。

「微かに霧が出てきたようだが、この景色もまた中々に風情があるな」

「コタに気に入って貰えてワシも嬉しいのじゃ」

 自分が好きな物を他の誰かにも好きだと言って貰える。好きな物を共有出来るというのは、心が重なり合っているような安心感に満たされる瞬間だと感じていた。別々の道を歩んできた同士が出会う瞬間……。少々大袈裟な表現かも知れないけれど、そんな感覚さえ覚えていた。

 程なくして雨が静かに降り始めた。囁くように静かに振り出した雨は、ワシらに向けて何かを物語るかのように感じられた。

 ワシらは早速、購入したばかりの傘を使うことにした。傘に降り注ぐ静かな雨音を耳に感じながらワシらは歩み始めた。賑やかな通りを後に、丁度、野宮神社へと続く小道へと歩を進めたところだった。

 この先はうっそうと茂った竹林に覆われた細道となる。昼間でも青々と茂った竹により光が遮られる場所。雨が降り頻る中、一層薄暗く感じられる場所ではあったが、同時に、ヒンヤリとした涼しさを感じられる小道でもあった。人通りも少なく静けさに包まれた道は、ワシのお気に入りの場所の一つでもあった。

「賑わう通りから離れれば、静けさに包まれた小道に至るか。中々風情があって悪く無い小路だ」

「竹がギッシリ枝を伸ばしている故、雨も多少は防げるはずなのじゃ」

「良い香りだな。竹の香りが心地良い」

 コタは歩みながらも、静かに目を伏せて見せた。うっかり何かに躓いて転んでしまっては一大事だ。ワシは大樹に接するような感覚で、無意識のうちにコタの手を握ってしまった。握ってから、しまったと思った。だが、皮肉なことに過ぎ去った時間は戻ることは無い。

(し、しまったのじゃ! つい、リキと一緒にいる時のクセで、思わずコタの手を握ってしまったのじゃ!)

「ほう? 大地の手は良い感触だな」

「へ?」

「柔らかな手の感触だ」

 前を向いたまま静かに笑って見せるコタの表情に、ワシは慌てて手を引っ込めようとしたが、意外にもコタはワシの手を逃がさないようにシッカリと握り締めていた。相変わらず涼やかな笑みを称えたまま、ワシを横目で見つめながら小声で呟いて見せた。

「行き交う人も居ない。そう、焦ることも無いだろう?」

「じゃ、じゃが……」

「もう少し、このまま居させてくれ」

 再びコタは前を向きながら静かに微笑んで見せた。

「この柔らかさは病み付きになりそうだ。実に癒される感触だ」

 勝手な憶測でしか無かったが、ワシの中でコタに対する感情が変わった気がした。コタもまた、ワシと同じ道を歩む身なのでは無いだろうか? その上でコタはワシに対して好意を抱いてくれているのでは無いだろうか? 一瞬、リキの笑顔が浮かんできてワシの中で胸がズキリと痛んだ気がしたが、普段見せることの無い穏やかな表情を見ていると、此処で手を引っ込めてしまうのも何だか申し訳無い気がした。

(まぁ、コタが楽しんでくれるならば、良しとするのじゃ)

 竹の葉にシトシトと降り注ぐ雨の音が心地良く感じられた。葉に降り注ぐ雨の音。そこから雫となって水溜りに零れ落ちる音。濡れた道を歩む足音に、時折、列車が駆け抜けて行く音。そっと目を閉じれば様々な音色が耳に染み入るように感じられた。加えて雨に濡れた竹の葉が放つ淡い緑の香りと、土の香り、石の香り。大自然の息吹が生々しく感じられる瞬間であった。

「雨の嵐山も悪く無い物じゃろう?」

「そうだな。夏の雨は心地良いものだ」

 コタは目を細めたまま、周囲の木々達に微笑み掛けて見せた。

「俺達からしてみれば蒸し暑さが倍増するが、木々達にしてみれば恵みの雨だからな。さて、先に進むとしよう」

 この雨はコタに取っても恵みの雨になっている。そんな気がしてならなかった。大自然と共に歩むことを好むコタに取っても雨は心地良いのかも知れない。生憎の雨と捉えるのが多くの人の考えかも知れないが、コタのように受け止めるという考え方もあるのか。また一つ意外な価値観を学んだ気がする。

 道中、降り頻る雨の中、静かに佇む野宮神社に立ち寄った。樹皮を見に纏ったままの鳥居、黒木の鳥居からは確かな熱気が放たれているように見えてならなかった。やはり、降り頻る雨をその身に受けて、静かに呼吸をしているのかも知れない。雨に濡れた石段もまた、どこか艶めかしく感じられた。

 傘に零れ落ちる雨音を感じていると、ワシの手を握るコタの手に一段と力が篭められたように感じられた。驚いてコタの顔を覗き込んで見るが、相変わらず涼やかな笑みを称えたままだった。

「小さな神社だな。人の気配が無いのが心地良い」

「そうじゃな。晴れていれば、この辺りは観光客も大勢来る場所での。賑やかなのじゃが、今日は生憎の雨。人も訪れないのじゃろう」

 この雨のお陰で、今、ワシは幸せな一時を過ごせている。そう考えると雨も悪くは無い。そんなことを考えていた。

 コタと共に黒木の鳥居をくぐり抜けて野宮神社の境内に足を一歩踏み入れた瞬間、ワシは二度と戻れない異質なる世界に足を踏み入れることが出来る。何故かそんな気がして仕方が無かった。有り得ないお伽噺が現実になる瞬間との出会い。そのことに気付いた時、ワシの中で一気に心が沸き立った。

 有り得ない話ではあったが、ワシには周囲の木々達がヒソヒソと小声で笑い合っているように思えて仕方が無かった。ワシらを人ならざる異世界へと誘う妖しの物の怪達。だが、そんな奴らがいるならば是非ともトモダチになってみたいものだ。大自然を愛するワシらを見知らぬ異世界への冒険へと誘ってくれるのであれば、喜んで仕掛けられた罠に嵌ってくれよう。

「コタよ、中に入ってみるのじゃ」

 この鳥居を潜り抜けたらもう後戻りは出来なくなる。何故かそんな気がして胸が高鳴っていた。黒木の鳥居をくぐり抜けた先には見知らぬ異世界が広がっている。見た目は普段暮らしている世界と変わらないけれど、何かが違っている世界が広がっている。行きは良い良い、帰りは怖い。現の世に二度と戻ることのできない片道切符。それでもワシはその先を見てみたかった。だから、ワシはコタの手を力強く握り締めながら鳥居を潜り抜けた。その瞬間、頬を撫でてゆく生温かい風を感じた。誰かの吐息のような、微かな木々の香りを纏った風だった。

 降り頻る雨の中、木々達に囲まれた境内はうっそうとしていて、薄暗く感じられた。木々達の深緑色の情景の中、灯篭のぼんやりとした明かりと、秋の荒野に咲き誇る彼岸花を思わせるような鳥居や、絵馬を掛ける板の鮮烈な赤が殊更に引き立って見えた。

「小さいながらも中々に風情のある神社だな。初めて訪れたが悪く無い場所だ」

「辺り一面木々に抱かれた場所にあるでの。大自然好きなコタならば気に入ると思っての」

「ああ。木々に抱かれて、大自然に抱かれて、それを包み込むような雨が降り頻る情景。悪く無いな」

「にゃはは。やっぱりコタは風変りな奴なのじゃ」

 ワシの言葉にコタは一瞬、困ったような表情を見せたが、次の瞬間には可笑しそうに笑って見せた。

「良く言われる。まぁ、趣味が年寄り染みているからな」

「ワシはそうは思わないのじゃ」

「そうか? それならば、安心して本音をさらけ出すことが出来そうだ。ますます楽しみになる」

 もっと、もっと、本音をさらけ出して欲しい。互いに想いの全てを曝け出して、もっと、もっと、判り合いたかったし、互いに何処までも打ち解けたいとも願っていた。親しい仲だからこそ知りたくなる。色々な話を聞かせて欲しいと願う。

 ぼんやりと薄暗い境内を照らし出す灯篭の明かりが、寝屋を仄かに照らし出す行燈のように思えて、何とも淫靡な風情にワシは興奮さえ覚えていた。

 ふと、周囲を見回せば地面を覆う苔達も瑞々しさを称えて、優しく佇んでいるように感じられた。この神社には甘酒のように甘美で、白粉のように妖艶なる風情が漂っている。コタと共に真っ赤な布団の中で淫らに睦み合う情景を思い浮かべて仕舞い、ワシは思わず息を呑んだ。いけない、いけない、物の怪に惑わされる訳にはいかない。そろそろ現実に引き戻してくれよう。そう、自分に言い聞かせながらコタの手をそっと握り締めた。

 コタは嵐山の大自然に触れて随分と開放的になっているように思えた。それならば、もっと仕掛ければ、さらなる姿を目の当たりにすることが出来るかも知れない。奇しくも今日は雨。だからこそ、ワシがコタを案内しようと考えている場所は、コタの心を打ち鳴らすには十分過ぎる場所となることだろう。甘美なる麝香を身に纏った物の怪との遭遇とは、いよいよ冒険らしくなってきた。ワシの中で期待が高鳴ってゆくのを感じていた。

「さて、さらに冒険を進めるとするのじゃ」

「冒険か。ふふ、大地と一緒にいると童心に帰れる気がするな」

「何か発言がオッサンなのじゃー」

「そうかも知れないな」

「じゃが、ここにはワシとコタしか居らんのじゃ。ありのままに振舞っても誰も何も言わないのじゃ」

「そう言って貰えるとありがたいな」

 普段は不機嫌そうな表情を崩すことは無いコタが終始、無邪気な笑みを絶やすことが無い。思い上がっているだけなのかも知れないが、コタがワシに心を開いてくれている。そう思えることが嬉しかった。何処か野生動物のように、自然と他者との距離を空けてしまうコタが、こんなにもワシに心を開いてくれている。それだけワシのことを信頼してくれているのだろう。長い間、親しいトモダチに恵まれることの無かったワシに取って、親しいトモダチと出会うというのは一つの夢だった。その夢が今、叶おうとしている。嬉しく無い訳が無かった。感情が昂ぶらない訳が無かった。

「このまま道なりに歩んでゆくと線路にぶつかるのじゃ。その線路を超えれば、いよいよ竹林に至るのじゃ」

「大地の一押しだと言っていた場所か。気持ちが昂ぶってしまうな」

「にゃはは。どんどん盛り上げて行くのじゃー」

 野宮神社を後にしたワシらは、そのまま道沿いに歩み続けた。

 なおも雨は音も無く降り続けていた。夏の暑さには珍しい、梅雨の時節を思わせるような霧雨へと移り変わっていた。雨の変遷に伴うかのように周囲には霧が立ち込め始めていた。深い霧とシトシトと降り注ぐ霧雨。幻想的な情景は、さながら夢物語を紡ぎ出す舞台への花道のように思えて仕方が無かった。

 だからこそ、ワシはあふれ出る想いを抑えることが出来なかった。このまま花道を駆け上がり、舞台に掛け上がりたいと願っていた。きっとコタならば優雅で幻想的な舞で応えてくれるだろう。降り頻る雨の中で、一際艶やかに咲き誇る紫陽花を思わせるような幽玄なる舞を見せてくれることだろう。

 不思議なことだが、そこに居るハズも無い者達の視線を感じていたワシらは、その視線に応えるように周囲の景色を眺めながら歩み続けていた。さぁ、さぁ、ぼく達は此処に居る。上手いこと見付けて御覧? 見えざる者達とワシらとの騙し合いの遊戯が始まろうとしていた。

◆◆◆90◆◆◆

 野宮神社から真っすぐ進めば踏切に至る。その先には雄大なる竹林が広がっている。先刻、コタに伝えた通りの道順だ。だが、ワシの耳元で天邪鬼が嘲笑う。お約束通りの道を歩むなんて、大地、お前はなんて芸の無い奴なのだろうかと。そう言われて、そのまま引き下がるのも癪に障る。それならば、敢えて、お約束から逸れた道を辿ってみるとしよう。一端、野宮神社から元来た道を引き返し、別れ道から別の道へと進む。これならどうだ。

 道なりにしばらく歩むと木々が途切れ開けた場所へと至る。丁度、天龍寺の北門付近を過ぎる辺りまで開けた場所が続く。

 何気なく空を見上げてみれば、空は一面鈍色の厚い雲に覆い尽くされていて、雨が頻りに零れ落ちるばかりだった。雨はシトシトと音も無く降り続いている。

 程なくしてワシらは再び竹林の小道へと足を踏み入れていた。天を仰ぐように大きく手を伸ばした生い茂る竹に抱かれながら歩む道は、微かな霧とシトシトと降り頻る雨のお陰で殊更に幻想的な光景に感じられた。

 それにしても、不思議なことに誰とも出会うことも無ければ、すれ違うことも無かった。竹林の道は嵐山でも人気のある場所。人通りの絶えることの無い場所だというのに、今日は誰も歩いていなかった。

 野宮神社の鳥居をくぐり抜けた瞬間から、本当に見知らぬ異世界へと運ばれてしまったのだろうか? だが、それはそれで悪く無い。住み慣れた街が突然異世界に移り変わる。如何にも大冒険の幕開けを思わせる展開だ。

 これだけ幽玄たる情景が広がっているならば、例えば、目の前から白無垢に身を包んだ花嫁が歩んできても不思議では無さそうに感じられた。俯くようにして静かに歩み続ける白無垢の花嫁。先導する者達が手にするのは狐火のような色合いを称えた提灯。そして、気付いてしまうのだろう。すれ違った所で振り返れば、その花嫁は九本に分かれた柔らかなる尻尾を生やしていることに。そんな妖しげなお伽噺さえもが現実になりそうな情景だ。そんなことを考えながら歩いていた。

「言葉を失いそうになる情景だな」

「晴れた日の竹林の情景も活き活きとしていて元気を分けて貰えるのじゃが、こういう雨の日の竹林もまた、静けさに包まれていて悪く無いのじゃ。ましてや霧に雨とは殊更に幻想的なのじゃ」

「ああ、何だか見知らぬ世界へと迷い込んだような気持ちになるな」

 見知らぬ世界……有り得ない話ではあったが、あながち間違いにも感じられなかった。人通りがまるで無い竹林の情景を目にするのは初めてのことだった。嵐山に生まれ、嵐山と共に歩んできたが、この場所を人が往来しなくなるのは、日が暮れた時間帯以外では体験したことが無かった。やはり、ワシらは本当に見知らぬ世界に迷い込んでしまったのだろうか? 恐怖心よりも湧き上がる冒険への想いを抑え切れなかった。

 ますます周囲の景色からは視線を感じる。息を殺して、ワシらに見付けられるその瞬間を心待ちにしている者達がいる。さぁ、さぁ、ぼく達はすぐ傍にいるよ。早く見付けて御覧よ。声を掛けて御覧よ。そうしたら――。

『君達が鬼になる番だね』

 すぐ背後で囁くような声が聞こえた瞬間、ワシは突然見知らぬ場所へと誘われていた。一瞬にして周囲の景色は移り変わり、ワシは良く整備された小奇麗な庭園に面した部屋に座していた。

 畳の良い香りに酔い痴れる。外は満月。雲一つ無い夜の景色が広がっていた。だが、月明かりにしては異質な色合いに感じられた。ひっそりと佇むような青白い月明かりとは程遠い、燃え盛る炎のような紅蓮の光を放つ月が空に瞬いていた。

 異様に巨大な月だ。脈打つように蠢く様が何とも淫靡で、妖艶で、ワシの中では違った興奮さえ沸き上がろうとしていた。太古の時代より連綿と受け継がれし野生の血が体の中で騒ぎ出す。

 そんな異様な興奮を覚える中、煌々と燃え上るような色合いに照らし出された廊下を、何かが歩む姿が見えた。目を凝らして見つめれば、それは古めかしい日本人形だった。滑るようにして床の上を移動する人形。何とも言えない不気味な笑みを称えた人形だった。だが、その不気味な笑みの中に、何とも言えない妖しを見た気がして、ワシはどうにも興味を抑え切れなくなった。人形の後を追い掛けたい衝動に駆られたワシは、その人形を必死で追い掛けた。だが、人形は信じられない程の速度で駆け巡ってゆく。それでもワシは追い掛け続けた。

 一体、何処まで続いているのだろうか。果てしなく長い廊下は幾度も、幾度も曲がりくねり、もはや元居た場所に戻ることは不可能に感じられた。余りにも早い速度で移動する人形をすっかり見失ってしまった。

 不意にフクロウの声が鳴り響き渡る。驚いたワシは慌てて顔を挙げた。そこは竹林に包まれた場所であった。見慣れている竹林の中を駆け抜ける廊下……。有り得ない情景のハズなのだが、ワシは確かに、その場所に佇んでいる。

 ふと、周囲の竹林がざわめくのが聞こえた。風が吹き抜け、竹林が川の流れのような音色を奏でる。その音色に混ざって微かな歌声が聞こえてきた。

 耳を澄ましてみれば、どうやら幼い少年達が唄っているように聞こえた。聞いたことの無い唄ではあったが、どこか懐かしさを覚える童歌のように感じられた。心地の良い歌声だった。

 不意に、風が吹き抜ければ、何時の間にか其処ら中に若草色の着物に身を包んだ少年達が佇んでいるのが見えた。不思議なことに皆一様に両手を顔の前に合わせて、顔を隠すようにして唄っていた。何とも楽しげな歌声ではあったが、少年達の妖しげな姿にワシは心が沸き上がる想いで一杯だった。

『……ようこそ、大地』

『今宵は満月。宴の夜』

『宵の誘いに誘われて、森へと遊びにおいで』

『ぼく達と一緒に遊ぼう』

『そうさ、遊ぼう。眠りを忘れ、時を忘れ、それから――』

「風が吹く度に、川の流れのような音色が響き渡るのだな」

「ひっ!?」

  コタの声にワシは現実に引き戻された。慌てて周囲を見渡してみれば、そこはさっきまでコタと共に歩んでいた場所だった。動揺するワシを目にして、コタは戸惑ったような表情を浮かべていた。

  まるで狐にでも化かされたような顔をしているな。コタが可笑しそうに笑ってみせた。その笑顔に呼応するかのように静かに風が吹き始めた。人肌を思わせるような、何とも生温かい風が吹き抜けるのを感じた。風が吹き抜けるのと同時に、竹林が川の流れのような涼やかな音色を奏でる。心に響き渡る、実に心地良い音色だった。

「……良い音色なのじゃ」

「ああ。涼やかな音色が何とも心地良いな」

「気に入って貰えて嬉しいのじゃ。ここはお気に入りの場所での」

「それならば、俺もお気に入り仲間に加えて貰うとしよう」

「にゃはは、コタに気に入って貰えて光栄なのじゃ」

 相変わらずの雨のお陰で蒸し暑さを感じずには居られなかった。

 一体、今のは何だったのだろうか? 疑問を抱かずには居られない余りにも妖しい情景だった。それに、あの顔を隠した少年達は一体何者だったのだろうか? 考えてみたところで応える者は誰もいなかった。迷っていても仕方が無い。ワシは気を取り直してコタに向き直った。

「このまま進むと大河内山荘に至るのじゃ」

「大河内山荘? 訪れたことの無い場所だな」

「広大な庭園が広がる場所なのじゃ。じゃが、屋根の無い場所を歩き回ることになるでの。良く晴れた日がお勧めなのじゃ」

「なるほど。それならば、いずれ良く晴れた日に案内して貰うとしよう」

「もちろんなのじゃ」

 大河内山荘を後にしてワシらはさらに歩き続けた。道なりに歩んでゆけばやがて小倉池が見えてくる。そのすぐ近くにはトロッコ嵐山駅がある。ここも人通りが多い場所のはずなのだが、やはり、人の姿は見られなかった。

 いよいよ予感は確信へと変わろうとしていた。やはり、ここはワシらが普段暮らしている世界とは別の世界なのでは無かろうか? 疑問は抱くものの、恐怖心を抱くことは無かった。それどころか、再び、あの妖しの世界へと誘われることを切に願っていた。言葉に出来ない幻想的なる異世界……何と心地の良い世界だったのだろうか? 起きていながら見る夢とは、あのように甘美で、優雅で、そして、恐ろしく淫靡なる世界なのか、と。あのまま妖しの世界に浸かっていれば、想像を絶する程の快楽に出会えるかも知れない。人が人であることを見失う程の絶頂に触れてみたい……。野望は膨らむばかりだった。

「此処が小倉池か。あの時の悪夢が蘇るな……」

「テルテルじゃな……」

 ワシの問い掛けにコタは可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。

「もう、此処での恐怖体験は御免だな」

「ワシもなのじゃ」

 不気味に静まり返る小倉池を後に、ワシらは道なりに歩み続けた。小倉池に寄り添うように伸びる細道を歩んでゆく。カエル達の低い鳴き声が響き渡り、異様な雰囲気に拍車が掛かる。今更、そんな微妙な演出は無用だ。既に此処は異界を化しているのだろうから。

 この辺りは民家が点々としていて生活の香りが漂う場所となる。静かな場所だから、こういう場所で暮らすのも悪く無いのかも知れない。そんなことを考えながらワシはコタを先導した。木々の隙間から覗く空は尚も暗く、重たく、妖しげな風情を称えていた。

 シットリとした空気を肌で感じながら常寂光寺を後にした。ここも中々に味のある寺だ。いずれ、此処にもコタを案内するとしよう。そんなことを考えながら、コタと徒然なるままに語らっていると、やがて、視界の先に落柿舎が見えてきた。

「落柿舎が見えてきたのじゃ」

「小さな庵のような場所だな」

「ふむ。小さいながらも中々に味のある場所での。この辺りは開けた場所じゃから、大樹やシロと一緒に良く遊ぶ場所なのじゃ」

 ワシの言葉を聞きながら、コタは静かに落柿舎を見つめていた。今の季節、まだまだ柿が実るのは先のことではあるが、それでも静かな佇まいは風情があって悪く無かった。

「兄弟がいるのは羨ましいな」

「コタに取ってはテルテルが弟みたいな感じなのじゃ」

「なるほど。確かに、傍から見れば俺と輝の関係は兄弟みたいに見えるかも知れないな」

 テルテルの話をする時のコタはどこか楽しそうに見えて、ワシの中では複雑な想いが沸き上がろうとしていた。やはり、コタとテルテルとの間にワシが割って入ることは不可能なのだろうか? 一瞬、現実に引き戻される寂しさを感じた。寂しげに目線を落したワシに気付いたのか、コタが笑いながらワシの肩に腕を回して見せた。

「まぁ、俺に取っては大地も兄弟のようなものだけどな?」

「ワシが兄弟?」

「ああ。だから、兄弟のことを知りたいと思えるし、何よりも、仲良くなりたいと願っている」

「にゃはは。それならばワシはコタの弟になっちゃうのじゃー」

「ふふ。大地が弟か。それも悪く無い。何よりも楽しそうだ」

「何か、コタは皆の兄ちゃんみたいな感じなのじゃ」

「不思議とそういう風に見えるらしいな。まぁ、俺としては、俺の兄になってくれる相手も欲しいと願ってみたりするのだがな」

  何か言いたげな目線を投げ掛けられれば、これは、応えない訳にはいかない。面白い返答でコタに喜んで貰うとしよう。

「にゃはは。それじゃあ、時々はワシがコタの兄ちゃんになるのじゃ」

「大地が俺の兄貴か……。ふふ、それも悪くないかも知れないな」

 雨は相変わらずシトシトと降り続けているが、悪い気分では無かった。だから、ワシは勢いに任せて心の声を、ありのままの想いを、包み隠すこと無くコタにぶつけてみた。

「ワシは、コタのことが好きなのじゃ」

 一瞬、コタが息を呑む声が聞こえた。ついでに、立ち止まると、驚いたように目を丸くしてワシのことを見つめて見せた。

 物の怪の放つ、妖しの気に当てられたのだろう。今ならば普段は口に出来ないような大胆な発言でも、容易く口から零れ落ちそうだ。さて、コタは一体どんな反応を見せるのだろうか? その反応を見れば、コタがワシのことをどのように想っているか判るはずだ。どれだけ、ワシと距離が近しいかも知ることが出来るはずだ。兄弟に――という想いの深さを推し量ることも出来るだろう。さて、どう出るか? ワシはコタの反応が楽しみで仕方が無かった。

「光栄だな。俺も大地のことが好きだ」

「にゃはは。嬉しいのじゃー」

「夜が楽しみだな」

「へ?」

「あ、否……誰にも邪魔されずに、色んな話が出来るのは楽しいだろう?」

 予想以上の反応……イヤ、むしろ、予想外の反応だったと言った方が良いのかも知れない。コタは少なからずワシに興味を抱いていて、ついでに、何とも意味深な振舞いを見せてくれた。あの時のリキと同じように、コタとも色んな意味で親しくなれるのだろうか?

(イヤイヤ、幾らなんでも、それは妄想が暴走し過ぎなのじゃ。いくら仲良くなりたいとは言え、超えてはならない一線を超えてしまっては駄目なのじゃ。ワシはあくまでも、コタをトモダチとして大切にしたいでのう。じゃ、じゃが……コタが相手ならば……ああ! ワシは一体、何を考えておるのじゃ!)

「ささ、先へ進むのじゃ。ワシらの目的地はもう少し先にあるでの。少々長旅になるのじゃが頑張って向かうとするのじゃ」

 妄想が暴走する中、ワシは可能な限り冷静に振舞った。何事も限度が大事だ。勢いに任せて突っ走るのは、それこそ、アクセル全開で峠道に突撃するようなものだ。そんなことを繰り返していたのでは、命が幾つあっても足りなくなってしまうだろう。

「ほう? 何処へ案内してくれるのか楽しみだ」

「ワシの一押しの場所なのじゃ。特に、今日のように雨が降っている日は雰囲気出て、最高の場所となるのじゃ」

 ワシの言葉に興味を示したのか、コタは嬉しそうに笑って見せた。

 コタには内緒ではあったが、ワシが目指している場所は、此処から少し歩いた場所にある祇王寺となる。木々に包まれた高台にひっそりと佇む寺で、苔に覆われた庭園が何とも雰囲気を感じさせる場所となる。水気を孕んだ苔だからこそ、今日のような雨の日こそ活き活きとした姿を見せてくれるハズだ。そう考えると、この雨は予想外の幸運だった。そうそう都合良く雨が降るとは限らないのだから。

 秋になれば紅葉の美しい寺として人気を集める場所ではあるが、夏の季節ならではの活き活きとした木々の緑と、苔の緑。夏という季節には、見る物全てが緑色一色に染め上がってゆく情景を楽しめる。きっと、コタの心にも響くことだろう。シトシトと降り頻る雨の中、木々達も苔達も、一際生命力あふれる姿を見せてくれるに違いない。

「雨の嵐山も悪く無いものだな」

「そうじゃな。何時も以上に蒸し暑いのは、少々キツいのじゃが、木々達の活気が感じられるでの」

「ほう? 大地にも判るのだな」

「にゃはは。嵐山はワシの庭じゃからのう。何だって知っているのじゃ」

「楽しみだな。大地と共に嵐山を巡っていれば、見知らぬ者とも出会えそうな気がする」

「ワシがシッカリと案内するのじゃ」

「ああ。楽しみにしている」

 笑いながらワシの頭を撫でてくれた。普段、ワシが大樹にしている振舞いを、こうして家族以外の誰かにされたのは初めてのことだった。恐らくコタのことだから、ワシと同じように無意識のうちに振舞っているのだろう。今のワシはコタに取っては弟のように見えているのだろうから。それならば、もしも、ワシがコタに兄と思って貰える瞬間が訪れたとしたら? ワシの中でひとつの作戦が出来あがろうとしていた。だが、その作戦を実行するのは今では無い。時期を見計らって行動に移すとしよう。

「大地の頭、良い感触だな」

「にゃはは。さすがはコタ、お目が高いのじゃ」

「柔らかな手の感触も悪くないが、触り心地の良い頭の感触も悪く無い」

「にゃはは、好きなだけ触ると良いのじゃ」

 コタと仲良くなれるのは本当に嬉しいことだった。だけど、リキのことも良く知る身としては、どこかでリキに申し訳ない気持ちを抱き始めているのも事実だった。リキはコタに想いを寄せている。それなのに、ワシがコタと仲良くなってしまうのは何だか気が退けた。別に、コタを自分のモノにしてやろうなんて思っていない。ただ、ワシと仲良くなって貰いつつ、リキの願いも上手いこと叶えられないものだろうか。そんなことを考えていた。もっとも、不器用なワシにそのような器用な振舞いが出来る訳も無く、段々と深みに嵌ってゆくのが自分でも手に取るように判った。だからこそ、ワシはどうすれば良いのか迷っていた。

「む? どうした、大地。具合でも悪いのか?」

「へ!? あ、ああ……少々小腹が空いたと思うてのう」

「奇遇だな」

「へ?」

 ワシの言葉を受けて、コタは可笑しそうに笑って見せた。

「力丸では無いが、こうして話し込みながら歩いていると腹が減るものだな。道中、何か食い物でも探すとしよう」

 無邪気に笑い掛けるコタの笑顔が苦しかった。

 行きは良い良い、帰りは怖い。怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ。何故か通りゃんせの一節がワシの脳裏に繰り返し、繰り返し流れていた。そう――。有り得ないことに、あの若草色の着物に身を包んだ少年達の歌声が、すぐ耳元で囁くように聞こえていた。ワシを嘲笑うように、囃し立てるような声が。その声を聞きながら、ワシは体中の体温が奪われていくような感覚を覚えていた。

◆◆◆91◆◆◆

 降り頻る雨の中、ワシは膨れ上がる迷いから目を背けることしか出来なかった。それに、ここでワシが突然沈んだ表情を見せれば、コタはどうすれば良いか路頭に迷ってしまうことだろう。後のことを考えるのは止めよう。走り出してしまった以上、もはや後戻りなど出来ないのだから。それならば潔く訪れる未来を受け入れる方が良い。いずれにしても前に進むしか無い。例えそれが正しくなかったとしても受け入れよう。

「結構歩いたのじゃ」

「そうだな。だが、この辺りは静けさに包まれていて悪く無い場所だな」

「もうじき目的地が見えて来るのじゃ」

「長旅の果てに待つ目的地とようやくのご対面と相成る訳か。期待が高まるな」

「雨模様だからこそ、より一層雰囲気の出る場所なのじゃ」

 向かう先には奥ゆかしさを称えた蕎麦屋が見えていた。その蕎麦屋の横、祇王寺へと続く細い小路へと足を踏み入れた。このまま進めば祇王寺に到着する。

 何時の間にか雨足が強まり出したように感じられた。ますます湿度が増し、汗に濡れた服が肌に張り付いていた。嵐山旅館に戻ったらさっさと風呂に入るとしよう。そんなことを考えながらもワシらは歩き続けていた。

 程なくしてワシらの目の前にどっしりと構えた山門が見えて来る。辺りは木々に覆われていることもあり、一際薄暗く感じられた。気のせいか、妙にヒンヤリとした冷気が漂っているようにも感じられた。雨に濡れた木々達の息吹なのだろうか? いよいよ蒸し暑さにへたばり始めていたワシらには実に心地良い涼しさだった。

「此処が目的地か?」

「その通りなのじゃ。ワシらが目指す目的地は祇王寺なのじゃ」

「訪れたことの無い場所だな。どういう場所なのだ?」

「それは訪れてみてのお楽しみなのじゃー」

 ワシの言葉に「それもそうだな」と、コタは満足そうに返して見せた。

 山門を抜けて木々に抱かれた小道を歩んでゆく。この先で道は二手に分かれており、向かって左側に滝口寺、向かって右側にワシらが目指す祇王寺が佇んでいる。雨は相変わらず降り続いていて、木々の葉から雨粒が零れ落ちる音が響き渡っていた。

 降り頻る雨の中、遠く、蝉が鳴く声が響き渡る。雨粒が滴り落ちる音に混じって蝉達の声も、周囲の木々に染み入るように響き渡っていた。

「ようやく到着なのじゃー」

「ああ、いよいよご対面だな」

 受付で拝観料を払い、ワシらは早速内部へと足を進めた。

 静けさに包まれた境内に足を踏み入れれば、直ぐにワシらの目の前には一面の苔が目に飛び込んでくる。ワシの傍らでコタが息を呑む声が聞こえた。

「これは見事な庭だ……」

「ワシの言った通りじゃろ? 雨だからこそ、この光景に出会えるのじゃ」

「ああ、確かに雨模様だからこそ、より一層活き活きとした姿を感じることが出来るという訳か」

「喜んで貰えて光栄なのじゃ」

 コタは子供のように嬉しそうに微笑みながら苔庭の情景を見渡していた。

 ここには色鮮やかな花も無ければ優美なる造形美も無い。ただ、物静かに広がる苔庭の情景が佇むばかり。地味と言えば地味なのかも知れない。だけど、だからこそ、この苔庭はワシらの心に饒舌に語り掛けてくれるように思える。それに、この寺が築き上げられた歴史を考えればこそ、この寺の寂しげな情景を肌で感じることが出来るのでは無いかと感じていた。

「この寺の名、『祇王』とは人の名前に由来しておるのじゃ」

「人の名前に由来している寺か。興味深いな」

 シトシトと降り頻る雨の中、ワシらが歩む音と雨水の流れる涼やかな音色が響き渡る。

「平清盛の心変わりにより寵愛を失った白拍子の祇王が、妹の祇女、母の刀自と共に出家して、この寺で晩年を過ごしたことに由来しておるそうなのじゃ」

 恋を失った女達がひっそりと身を寄せ合いながら生きた尼寺。侘しい物語に良く似合う静かな風景を眺めていると、人の世の無常を感じずには居られなかった。

「哀しい物語だな。華美な風景とは無縁なのも頷けるな。あくまでも静かに佇む寺であるべきか」

 コタは深呼吸するかのように周囲を見回しながら続けて見せた。

「何よりも、ここは哀しい人生を歩んだ女達の眠る墓所とも呼べる場所なのだろうからな」

「そうじゃな」

「なぁ、大地。庭園を回ってみよう」

「うむ。回ってみるのじゃ」

 木々に抱かれ、まるで自分自身も大自然と一体化しているかのようにひっそりと佇む寺。派手さも無ければ広大な敷地という訳でも無い。物静かな苔庭は丁寧に手入れされており、思わず吐息が零れ落ちる程に物静かな美しさに包まれた庭園である。

 シトシトと降り注ぐ雨は生い茂る木々の葉により適度に分散され、柔らかな苔を穿つような勢いは削がれる。だからこそ、苔達は穏やかに降り注ぐ雨をその身で受け止めながら、こうして生命力あふれる姿を見せてくれるのだろう。苔達に囲まれながら、天を仰ぐように大きく枝を伸ばす木々達の躍動感あふれる姿も印象的だった。

「ひとつ願いが叶うならば、この寺で一夜を過ごしてみたいものだな」

「その気持ち判るのじゃ。ここは木々の息吹を感じられる場所。古き時代、此処で暮らした祇王達もまた、この庭を眺めながら心を潤して居ったのかも知れないのじゃ」

「そうかも知れないな。想い人に見捨てられた女達は何を想って生きたのだろうな」

 コタは静かに目を伏せながら穏やかに吹き抜けてゆく風を感じていた。ワシも真似してコタの隣に並んでみた。不意に、コタがワシの手をそっと握り締める。だから、ワシもまた、その手を握り返した。言葉に出来ない物憂げな雰囲気にコタの心も揺れ動いたのかも知れない。大丈夫だ。コタの隣にはワシが居る。そんな想いを胸に抱きながらワシはコタの手を握り返した。

「此処は本当に静かで、美しくて……何よりも、悲哀に満ちあふれた寺だな」

「秋になると、今度は紅葉が見事になるのじゃ」

「確かに、あちらこちらに紅葉が植えられているな。夏の季節には他の木々達と変わらぬ色合いの葉を付けているから目立たないかも知れないが、なるほど。秋になると紅葉達が鮮やかに炎上する訳か」

 コタは周囲を見回しながら感慨深げに吐息を就いて見せた。

「実ることの無いまま燻り続けた恋の情念を、煌々と立ち昇る炎と化して舞う訳か。ふふ、ますます、この寺らしい風情と相成る訳だな」

 一年の間で許された時期だけ鮮やかな紅に燃え上る。それは見捨てられて尚、心の奥底に抱いていた祇王の想いを象徴しているかのように思えて、殊更に物悲しさを覚えずには居られなかった。

「もっとも紅葉の季節になると今度は人が多過ぎて、あまり風情を感じられないかも知れないのじゃがのう」

「それは言えているな。この静かな寺に人混みが押し寄せる構図か。何とも世俗に塗れた感があって、違った意味で物悲しい気持ちになれそうだ」

 雨が降り頻る光景というのも悪くは無いものだ。確かに雨はうっとうしく感じるものではあるが、それは人の側から見た感覚でしか無い。大自然を生きる木々達からしてみれば、雨が降らなければ地面は枯れてしまう。その結果、木々は生きることが出来なくなってしまう。水はどんな生き物にも欠かせない物なのだから、降り注ぐ雨は木々達に取っても苔達に取っても貴重な物であるのは間違い無い。もっとも、渇いた心を潤すのは豊かな水源だけでは無いのかも知れない。ワシの渇いた心が求めているのもまた、誰かの寵愛なのかも知れない……等と考えるのは世迷言なのだろうか。

「丁寧に手入れされた庭だ。こうして苔を定着させるのは簡単な仕事では無いと聞いたことがある。恐らく、何年もの年月を経て、この寺は築き上げられてきたのだろうな」

「そうじゃな。古き時代に多くの人の手により築き上げられ、今、この時代に至るまで大切に手入れされてきたのじゃ。これからも、ずっと、ずっと、此処に在り続けるのじゃろうな」

「ああ。今度は秋に訪れたいものだ」

 コタの言葉に呼応するかのように、すぐ近くに佇む木から蝉の鳴き声が響き渡った。その声を肌で感じながらコタがワシを見つめた。

「まぁ、出来れば人が居ないことを祈りたいものだな」

「にゃはは。秋になったら皆で来るのじゃ」

「そうだな。それも楽しそうだ」

「庭をぐるりと回れば今度は草庵に至るのじゃ」

 向かう先には大きな茅葺きの屋根が印象的な草庵が佇んでいる。降り頻る雨の中、静かに佇む草庵はそれだけでも存在感が感じられた。ふと、茅葺きの屋根に目線を投げ掛ければ、まるで、呼吸するかのように湯気が立ち上る様が見えた。命が宿っているようにさえ感じられる情景だった。その命宿る草庵の手前にはつくばいがひっそりと佇んでいた。縦に割られた竹の上を涼やかな流れが駆け抜けてゆく。

「冷たそうな水だな」

「せっかくなのじゃ。ここで手を清めてゆくのじゃ」

「ああ。つくばいとは元来、茶室に入る前に手を清めるために置かれたものだからな」

「ふむふむ。コタは物知りなのじゃ」

「つまらない雑学だ」

 つくばいで手を清めたワシらはそのまま草庵へと向かった。入口へと回り込めば柔らかな線香の香りに心が満たされる感覚を覚えた。微かな音色に気付いたのか、コタが静かに足元に目線を投げ掛ける。

「ほう? 水琴窟とは中々に風情があるな」

「涼やかで良い音色なのじゃ。これだけ周囲が静かだと良く聞こえるのじゃ」

 ワシらは足を止めて、水琴窟の涼やかな音色に暫し耳を傾けていた。

 一頻り涼を感じたところで、ワシらは草庵の中に入ってみることにした。入って直ぐに目に留まったのが外から差し込む穏やかな光だった。吉野窓と呼ばれる大きな窓が目に留まる。四角い障子に重なり合うように丸い窓から差し込む光。窓の格子と、外の竹やぶが織り成す影が紡ぎ出す模様が何とも幻想的で、美しくて、思わず見惚れてしまった。

「ほう。これはまた見事な光景だな」

「あの窓から外の景色を見ることも出来るのじゃ」

「そうか。窓の格子と外の景色がこの影を創り出しているのか」

「その通りなのじゃ」

「見事な景色だな。それに……草庵も中に入ってみるとこんなにも静かなのだな。古き時代から受け継がれた草庵。良い香りがする」

「ふむ。心落ち着く香りなのじゃ。それに、畳の感触も温かいのじゃ」

「ああ。実に良い場所だ」

 コタの満足そうな笑顔を見ることが出来ただけでもワシは十二分に嬉しく思えた。

 草庵の中に身を置き、外の景色を眺めてみる。降り頻る雨がシトシトと苔庭に降り注ぐ。それもまた実に哲学的な情景で悪く無かった。何よりもワシの隣にコタがいる。満足そうな笑みを称えたまま目を細めて景色を見渡していた。きっと、存分に喜んで貰えたことなのだろう。

「大地、実に楽しい冒険となった。感謝する」

「にゃはは。何を申すのじゃ。まだまだ冒険は終わって無いのじゃ」

 ワシの言葉にコタは思わず目を丸くしていたが、何を言わんとしているのか理解したのか可笑しそうに笑って見せた。

「それもそうだな。ひとつの目的地に辿り着けただけで冒険を終わらせてしまっては勿体無いな」

「そうなのじゃ。今度は嵐山旅館に戻るという冒険になるのじゃ」

「ああ。道中、何か食い物でも見つかると良いのだがな」

「お茶屋さんなら何箇所かあるのでのう。甘味を堪能するのも悪くないと思うのじゃ」

「それも悪く無いな。疲れた体に甘い物は効能がありそうだ」

 帰路に着くべく祇王寺を後にする頃には雨は止んでいた。木々の葉からは残り香のように雨粒が零れ落ちていたが、空には微かに青空が広がり始めていた。夕暮れ時の空は燃え上るような様相を呈していて、何処か物悲しさを覚える情景をコタと二人で見つめていた。雨が上がったことを喜んでいるのか、夕焼け空に寄り添うように蝉達の威勢の良い鳴き声がそこかしこから響き渡った。

「雨、上がったみたいだな」

「風情を感じ終えた後は、雨が止んでくれた方が歩きやすいのじゃ」

 地面のあちらこちらに水溜りが出来ていた。水溜りに映る夕焼け空と、置き土産のように残る暗い雲の欠片。大樹やシロと共にこの道も何度歩いたことだろうか? その道を今、コタと共に歩んでいる。不思議な気持ちで一杯だった。

「さて、帰るとするのじゃ」

「ああ。それにしても……かなり蒸し暑かったからな。汗でベタベタだ」

「ワシもなのじゃ。帰ったら、さっさと風呂に入るとするのじゃ」

「そうだな。寛ぐのはそれからだな」

 沈みゆく日差しの中、ワシらは来た道を戻ることにした。帰り道を歩むワシらの頭上を赤とんぼが飛び去ってゆくのが見えた。

「お! 赤とんぼなのじゃ!」

「夕焼け空に赤とんぼか。実に絵になる情景だな」

「むう……コタは話の判る男なのじゃ。ますます気に入ったのじゃ」

「それは光栄だな。それでは、赤とんぼに先導されながら帰るとしよう」

 こうしてワシらは家路へと続く道を歩み始めた。吹き抜ける風は相変わらず熱気を孕んでおり、ジットリと纏わり付いてきた。汗が噴き出してくるがそれでもワシらは歩き続けた。コタもまた額の汗を腕で乱暴に拭っていた。

「蒸し暑いな。雨が上がった分、気温が上がった気がする」

「あー。ワシだけかと思ったが、やはり蒸し暑いようじゃな」

「ああ。汗でベタベタだ」

「にゃはは。ワシもベタベタなのじゃ。帰ったら風呂に入るのじゃ」

「ああ。そうしよう」

 夕焼け空に包まれた景色は、言葉に出来ない物悲しさに包まれていて何とも心地が良かった。優雅に空を舞う赤とんぼ達に先導されるかのようにワシらは道を歩んでいた。

「そう言えば、夜の竹林とかどうなのだろうか?」

「にゃはは。流石はコタなのじゃ。夜の竹林は当然のことながら真っ暗なのじゃ。とは言え安心するのじゃ。嵐山旅館に戻ればシロとの夜のお散歩用に準備した懐中電灯もあるでの。安心して夜道も散歩出来るのじゃ」

「準備万端だな。まぁ、俺は輝みたいにオカルトを求めているつもりは無いが、夜の竹林も風情が合って涼しそうに思えたからな。興味を抱いてみた次第だ」

「大丈夫なのじゃ。ワシがちゃんと案内させて貰うのじゃ」

「それは楽しみだ。よしなに頼むぞ」

「任せてくれなのじゃー」

 道中、甘味所に立ち寄り甘い物を腹に収めたワシらは、そのまま嵐山旅館へと向かう道を歩んでいた。相変わらずコタは上機嫌な表情を崩すこと無く歩き続けていた。夕日を受けて煌々と燃え上る炎のような色合いに包まれながらワシらは家路へと向かう道を歩んでいた。

◆◆◆92◆◆◆

 嵐山旅館に戻って来たワシらは早速風呂に入ることにした。雨も風情があって悪くは無いのだが、何しろ蒸し暑くて仕方が無い。当然、汗を掻かずに済む訳も無く、すっかり汗だくになっていたワシらは一刻も早く風呂に入り、サッパリしたいと切に願っていた。

 ついつい、コタが服を脱いでゆくように目線が奪われてしまうが、内に秘めた感情に気付かれないようにワシは目線を慌てて逸らした。

「ううむ、すっかりベタベタだ。うっ……しかも、恐ろしく汗臭い」

 コタの言葉に、思わずワシは鼻息が荒くなってしまう。

「中々に楽しい冒険ではあったが、やはり、にじみ出る汗はいかんともし難いものだな」

「そうじゃのう。仮に汗を止めることが出来たとしても、そんなことをしたら、体温を下げる術を失うでの。呆気なく熱中症に陥ってしまうのじゃ」

 一人盛り上がるワシとは裏腹に、コタは何時もと変わらぬ淡々とした素振りを見せていた。

「それもそうだな。さて、さっさと汗を流して夕涼みを楽しむとしよう」

「そうじゃな」

 相変わらずコタは体格が良くて羨ましい限りだ。ワシと違って人並みに身長もあれば、骨格もシッカリしていることもあり、均整の整った姿に憧れを抱かずには居られない。やはり、日頃から柔道で鍛えていることもあるのだろう。リキ程では無いにしても腕も太い。同年代の奴らと比較しても、その体格の差は一目瞭然である。そんなワシの視線に気付いたのか、コタは照れくさそうに笑って見せた。

「そんなにジロジロ見られると反応に困ってしまうな」

 ゴツい体格とは対照的な少年のような笑顔もまた、ワシの心を鷲掴みにするには十分過ぎた。

「コタは良い体をしておるのじゃ」

「そうか? 力丸に比べたら全然大したことは無いと思うが」

「リキを基準にすること自体、間違っている気がするのじゃー」

「それもそうだな。さて、さっさと体を洗うとしよう」

 ワシの視線が照れくさいのか、コタは必死で話の矛先を逸らそうとしているように見えた。何と言うか、こういう場面で恥じらいを感じる一面がまた、普段の不機嫌そうな姿と対照的で、ますますワシは興奮してしまった。すっかり勢い付いた姿をコタに見られないように、ワシは身をかがめながらコタに続いた。何とも不審な姿が情けないやら、恥ずかしいやらで、ワシまで可笑しな気分になっていた。

 今日は宿泊客がいることもあり、さすがに大浴場を使う訳にはいかなかったので家族用の風呂に浸かっていた。

 窓を開ければ煌々と燃え上るような夕焼け空が目に入った。カラス達の鳴き声と蝉達の鳴き声が響き渡る情景だった。蝉達も夕暮れ時になり、主役の座はヒグラシが飾っていた。物憂げな鳴き声と重なり合う、暮れゆく夕焼け空が何とも絵になる情景に思えた。遠く、ねぐらへと帰ってゆくカラス達の姿を二人で見つめていた。

「良い景色だな。夏の夕焼け空はどこか寂しさを感じさせてくれるから俺の感性に合う」

「コタらしいのじゃー」

「ふふ。俺らしいか。こういう景色が好きでな。年寄り染みた言い方かも知れんが、日本の原風景を感じるのが好きでな。こういう景色に触れる度、俺はこの国に生まれて来て本当に良かった思える」

 年寄り染みたというより、古き時代を生きた者の言葉のようにも感じられる。現代的な文明を嫌い、大自然と寄り添い歩くことを好む姿は、確かに、同年代の連中とは異なる趣味趣向のように思える。でも、コタのそういった一面に共感を覚えるからこそワシらは共に歩んでいる。

 ワシはコタの言葉に静かに頷いていた。共感を覚えるというのもあったし、同じ方向を向いているということが嬉しく思えた。安堵感からか気が緩み、ついでに腹も緩んでいた。無意識のうちに突き出した腹をコタが可笑しそうに笑いながら撫でて見せた。

「これはこれで、中々見事なものがあるな」

「にゃー! お腹は駄目なのじゃー!」

「ははは。無意識のうちに人を笑わせることが出来るというのは、素晴らしい才能なのかも知れないな」

「な、何か、素直に喜べないのじゃ……」

 苦笑いするワシを後目にコタは可笑しそうに笑いながら、今度はワシの腕に触れて見せた。

「大地は多少腹が出ているけれど、ただ太っている訳でも無いのだろ?」

「にゃはは。日夜、旅館の掃除やら料理の手伝いやら、あれこれやっていると自然に鍛えられてしまってのう」

「覚えているか? 以前、試しにお前と腕相撲してみたが……」

 コタは尚も可笑しそうに笑いながらワシの腕を撫で回していた。

「ああ、思い出したのじゃ。中々の試合じゃったが最終的にワシは勝ったという話じゃろう?」

「力丸には及ばないかも知れないが、驚く程の腕力だったな。俺も腕っ節には自信があるが、流石に日夜たゆまぬ修行をしている大地には勝てなかった」

 素直に向けられた敬意が、くすぐったいような、誇らしいような不思議な感覚で、顔が熱くなるのを感じていた。

「それに、大地の体は弾力があって感触が良いな。毛も無ければ中々に筋肉質な体型をしている」

「にゃはは。毛が無いのは昔からじゃのう」

「スベスベなのは羨ましいな」

 笑いながらコタは足を持ち上げて見せた。筋肉質な足は程良く毛が生えていて、それはそれで男らしくて羨ましく思えた。結局、人は自分に無い物に憧れを抱くもの。他人の持ち物は何だって良く見えるものなのだ。それにしてもコタは気付いていないのかも知れないが、随分とペタペタとワシの体に触れているのが気になった。案外、コタはワシに興味を抱いてくれているのかも知れない。それならば、少々からかってみるのも面白そうだ。

「にゃはは、ワシのお尻はスベスベな上に、ぷりぷりなのじゃー」

 ついつい笑いを取りたくなってしまうのは、もはやワシの習性と言っても過言では無い。何よりも、普段から余り表情の変わらないコタが、腹を抱えて笑う姿というのもそれはそれで興味惹かれるものがあった。結局のところ、ワシは共に歩んでくれる仲間を笑わせることが好きなのだろう。そういう自分の姿、嫌いでは無いのも事実だ。

「た、確かに……ふむ。何とも良い手触りだな」

「にゃー!」

 これは予想外だった。いきなりお尻を突き出したワシの姿が可笑しかったのか、予想に反して、コタも悪乗りしてきた。声を挙げて笑いながらワシのお尻を撫で回してみせた。いきなりの行動に今度はワシが驚かされた。

「ははは。確かに良い弾力だな」

「にゃはは、コタのお尻もチェックするのじゃー」

 冗談交じりにコタの肩を叩いて見せれば、普段は見せない陽気な振舞いで応えてくれた。可笑しそうに笑いながらもワシに向けてお尻を突き出して見せた。やはりコタは普段から鍛え込んでいることもあり、ガッシリとした感触だった。思わず手触りの良いコタのお尻をワシは撫で回していた。

「大地、何か手付きがいやらしいな」

「にゃはは、感じちゃうかのう?」

「そんな妙な手付きで触られると、可笑しな気分になってしまう」

 頬を赤らめながらコタは微妙に前屈姿勢になっていた。何だか、段々楽しくなって来たワシは、そのまま勢いに任せてコタのお尻にワシのお尻をぶつけ合わせて見せた。

「お尻だけに――」

 すっかり上機嫌になっていたワシは、ぶつけ合わせついでにお尻をフリフリしてみせた。

「お尻合いなのじゃー!」

 ワシの振舞いが余程可笑しかったのか、コタは浴槽に倒れ込むと声を挙げて笑った。今まで見たこともない程に顔をぐしゃぐしゃにしながら笑い転げるコタの表情に、ワシは妙に満足感を覚えていた。本当に楽しんでいるのだということが判り、ワシも嬉しい気持ちで一杯になっていた。

「は、腹が痛い。ああ、笑い過ぎて腹筋がつりそうだ」

「にゃはは。そんなに受けたかのう?」

「ああ、降参だ。人を笑わせることに関しては大地には叶わないな」

「にゃはは。何か、褒められているのか、褒められていないのか、微妙な気分なのじゃー」

「いやいや、大地と一緒にいると本当に楽しいな」

「にゃはは、それじゃあ、勢いに任せて抱き付いちゃうのじゃー」

「お! 今度は締め技勝負という訳だな? 俺に勝負を挑んだことを後悔させてくれる」

「にゃー! 激しいベアハッグなのじゃー!」

 笑いというのは中々に便利なもので、相手の警戒心を解かせるには最高の手段だと思う。散々、笑い転げたコタはワシがじゃれ付いてみせても、何ら抵抗を見せることは無かった。それどころか、上機嫌にワシのことを力一杯抱き締めてくれた。嬉しい気持ちと共に、ワシの中では一気に興奮が高まっていた。風呂場でじゃれているとは言え、こんなにも無防備に肌と肌を重ね合わせているとは、興奮するなという方が無理があるというものだ。ワシを抱き締めながらコタが顔を赤らめ、照れくさそうに笑って見せた。

「おおっ、大地の胸は良い感触だな。ムニュっとしたぞ」

「にゃははー。ワシの自慢のおっぱいなのじゃ。遠慮無く触ると良いのじゃ」

「じ、自慢のって……ははは、大地、止めてくれ。笑い過ぎて涙が出て来た」

 のぼせているのか、それとも違う理由なのか、コタの表情がみるみる赤らんでゆく様を見つめていた。コタは相変わらず可笑しそうに笑いながらワシの胸を撫でていた。

「でも、確かに良い感触だな」

「にゃはは。意外と硬いじゃろう?」

「ああ。例えるなら、大地は小さなクマといった所だろうか?」

「ワシがクマじゃと? にゃはは。クマさんだなんて何か可愛いのじゃー」

「大地のその笑顔、確かに可愛らしいかも知れないな」

 段々とコタの行動がエスカレートしてきたような気がする。何時の間にか、真正面からワシの胸を両手で掴んだまま興味深そうにワシの胸を眺めていた。その手には確かに力が篭められていた。妙に鼻息も荒くなっている辺りからして、ワシの中で確固たる確信へと変わろうとしていた。だから、ワシは危険を承知で、敢えてコタの度肝を抜くような問い掛けをしてみることにした。

「のう、コタよ?」

「む? 何だ?」

「コタは……ワシのおっぱい、好きかのう?」

 夕焼け空を見つめたままコタが凍り付くのが手に取るように判った。こうして密着しているからこそ、余計に、その想いが伝わってくる。だから、ワシは敢えて無意識を装いながら、そっと、コタの股ぐらに手を伸ばしてみた。予想通り、熱く、堅い感触が指に触れた。一瞬コタは呻くような声を挙げたが、だからと言ってワシの手を跳ね除けることもしなかった。むしろ、もっと深く触れて欲しいのか足を広げてさえみせた。

「そうだな。好きだな……」

「にゃはは。どう好きなのかのう?」

「そうだな……。肉付きが良いのに垂れていない辺り、羨ましく思うな。胸板が厚いのは、何と言うか、男らしさの象徴のようにも思えてな」

 声が裏返っている様が可笑しくて、可笑しくて、止せば良いのにワシはさらに悪乗りしようとしていた。舞い上がるような気持ちで胸が一杯だったのは事実だった。

 それまで、ワシは自分自身の体型にコンプレックスしか抱いていなかった。背が低いのに、妙に肉厚な体型をしていることが何とも不格好に思えて嫌で嫌で仕方が無かった。特にリキのように背が高い奴と並ぶと、余計に背の低さが強調されるようで哀しく思えた。だけど、コタはワシの体型を馬鹿にするどころか、敬意さえ見せてくれた。その上、ワシの中で一番気に入っている部分を好きだと言ってくれた。ワシ自身を認めてくれて、受け入れてくれたような気がして、嬉しくて、嬉しくて、舞い上がりそうな気持ちで一杯だった。何よりもワシの中では憧れの存在でもあったコタが、ワシに興味を示してくれていることも嬉しく思えた。だから、ワシは調子に乗ってさらなる一手を繰り出してみた。

「試しに、ワシのおっぱい、舐めてみるかのう?」

 相変わらずコタは可笑しそうに笑いながらワシの胸を掴んで見せた。だけど、今度はワシが圧倒される番だった。

「間に受けてしまうぞ?」

「へ?」

「何だか、妙な気分になってしまったからな。それに……此処には俺と大地しか居ない」

「こ、コタ?」

「二人だけのヒミツだな」

 真顔で見つめられてワシは心臓が止まりそうになっていた。コタは笑っていたが、その目は笑っていなかった。獲物を狙う肉食動物のような鋭い眼差しにワシは腰が抜けそうになっていた。コタはワシの顔をジッと見つめたまま、ゆっくりと顔を近付けて見せた。静かに口を開き、舌を見せながらワシを挑発してみせた。

「大地の乳首はいやらしくて興奮するな」

 今、まさに触れようとした所でコタが静かに動きを止めた。突然の出来事に心臓が張り裂けそうな程にワシは背筋が凍りそうになっていた。余程、驚いた顔をしていたのだろう。不意に、コタが可笑しそうに吹き出して見せた。

「ふふっ、今度は俺の勝利だな」

「なっ……!」

「びっくりしただろ?」

「にゃにゃにゃにゃんと! うぅっ、や、やられたのじゃー」

「ははは。やはり、大地と一緒にいると楽しいな。ついつい、悪ふざけしたくなってしまう」

 可笑しそうに笑いながらコタはワシの頭を撫でて見せた。何だか立場が逆転したような感じで複雑な気持ちになったが、悪い気はしなかった。時に兄であり、時に弟であり。リキとの関係同様にコタとの距離が一気に縮まったような気がした。ワシの中ではそれだけでも十分に嬉しかったし、何よりも心が満たされた気がした。

「さて、そろそろ上がろうか。あまり長く風呂に入っていると上せてしまいそうだ」

「そうじゃな。それに、そろそろ夕食の時間なのじゃ」

「ああ、汗も流してサッパリ出来た。そろそろ上がるとしよう」

 コタは上機嫌に笑いながら風呂から上がってみせた。脱衣所の戸を開けながら静かに振り返って見せた。

「大地と一緒に過ごしていると、ついつい、悪乗りしたくなってしまうな」

「にゃはは。二人だけのヒミツなのじゃー」

「まったく、お前には叶わないな。こんなにも子供みたいにはしゃいだのは久方ぶりだ」

「じゃが、何だかんだ言いながらも楽しんでおるのじゃろう?」

「否定出来ないな。ふふ、それどころか、もっと悪乗りしてみたくなっている俺がいる」

「大丈夫なのじゃ。皆にはナイショなのじゃ」

「そうしてくれ。もしも、皆に要らぬことを喋ったら――」

「ど、どうなってしまうのじゃ?」

 恐る恐る問い掛ければ、コタは目一杯ワシに顔を近付けながら、わざわざそれらしい顔を作って見せた。そのまま

「その時は、口で言い表せない程に怖いお仕置きだな」

 敢えて低い声で呟いて見せた。

「にゃははー。コタのお仕置き、受けてみたい気もするのじゃー」

 だいぶ悪ふざけが過ぎてしまった気がするが、予想に反してコタは楽しんでくれたらしい。多分、兄弟の居ないコタに取って、ワシとの悪ふざけは兄弟のじゃれ合いのように受け止めて貰えたのかも知れない。

 段々とワシの中で可笑しな考えが消え失せようとしていた。普段、見せることの無いコタの無邪気な一面も、あんなにも笑った顔も見ることが出来た。何だか、それだけでも心が十分に満たされた気がしてならなかった。そう言えば、リキと共に過ごす時も同じような感覚を覚えていた気がする。声をあげて豪快に笑うリキを見たくて、ついつい、悪ふざけして笑わせてみたくなる。そう考えるとコタとはこのまま仲の良い兄弟のような関係で在り続けるのも悪くないかも知れない。でも、人は欲深い生き物で、さらに深い関係になってみたい衝動に駆られるのも事実だった。結局、ワシはどうしたいのだろうか? いっそのこと、このまま本能の赴くままに突っ走ってみるのも悪くないかも知れない。

◆◆◆93◆◆◆

 夕食はおかんが用意してくれた。忙しい中でも、ワシの大切なトモダチをお持て成ししてくれる想いが嬉しかった。コタはワシに取って掛け替えの無い友になろうとしている。だからこそ、おかんもワシのために腕を奮ってくれた。

 米茄子の田楽。おかんの得意料理。シンプルながら夏の時期に旬を迎える米茄子を最も美味しく頂ける料理。だから、ワシはこの料理がお気に入りとなっている。コタも気に入ってくれた様子。それだけでもワシは幸せな気持ちで一杯だった。

 楽しい夕食の一時を終えたワシらは夜の嵐山を散策することにした。コタは色んな場所を歩き回るのが好きだと言っていた。その気持ち、判る気がする。大自然と共に在ることを願うコタに取っても嵐山は気に入って貰えた様子だ。実に嬉しくもあり、同時に、誇らしい気持ちにもなれる。

 懐中電灯片手に嵐山旅館を出発したワシらは、渡月小橋を抜けて中の島公園へと歩を進めていた。渡月橋へと続く道から外れ、暗闇に包まれた景色の中へと足を伸ばしていた。

「夜になると、辺り一面真っ暗になるのだな」

「にゃはは。言った通りじゃろ? 誇張表現では無く、本当に真っ暗なのじゃ」

 大堰川の対岸に、そっと、目線を投げ掛ければ大通りを照らし出す街灯の明かりと、往来する車の明かりが目に留まった。微かに漏れ聞こえてくる光があるお陰で薄っすらと明かるく感じられた。点々と佇む街灯が照らし出す中を、ワシらは歩き回っていた。

「ああ。これだけ暗いのを考えれば、確かに、懐中電灯無しで竹林を歩き回るのは困難だな」

「ついでに虫にも気を付けるのじゃ。今の時期は蚊が多いでの。刺されると後で痒くて、痒くて、大変なことになってしまうのじゃ」

「確かに、虫は多そうだ。でも――」

 静かに立ち止まると、コタはそっと夜空を見上げて見せた。

「虫の鳴き声に大堰川の流れる音色か。悪く無いな」

 漆黒の闇夜に包まれている中、街灯が仄かに周囲を照らし出す。コタの横顔もまた、街灯の明かりに照らし出されていた。口数こそ少ない物の、楽しげに振る舞っていることは手に取るように判る。満足そうにほころぶ表情を目にするのは、ワシに取っても嬉しいことだった。

「嵐山も昼間は賑やかじゃが、夜になると静かなものじゃろ?」

「ああ。時折、周囲の旅館から人々の笑い声が聞こえて来るが、まぁ、それも一興だろうな」

「にゃはは。この時間帯はオトナ達は宴会で盛り上がっている頃じゃからのう」

「まぁ、俺は宴会よりも大自然と共に歩む方が楽しいけどな」

 普段から慣れているとは言え、こうして夜の景色をコタと共に歩むというのも不思議な気持ちで一杯だった。何よりも自分が好きな物を、大切な仲間にも気に入って貰えると言うのは嬉しいものだ。好きな物を共有出来るということは、言い換えれば心が繋がっていることとも同義だと思えるから心が満たされる感覚を覚える。

 不意にコタがベンチに腰掛けるのが見えた。ワシも隣に腰掛けて見せた。

「大地と一緒にいる時は、ありのままの自分で居られるから楽で良いな」

「嬉しいのじゃー。じゃが、テルテルと一緒に居る時はもっと楽なのではないかのう?」

 ワシの問い掛けにコタは可笑しそうに笑って見せた。

「輝は思い付きで次々と奇想天外な行動を起こすからな。一緒に居ると色んな意味で落ち着かない」

 興味惹かれる物が視界に入れば、周囲のことなど一切構うこと無く突っ走る。テルテルは良くも悪くも子供のような一面を持っている。一緒に居てハラハラするのはコタだけでは無いのだろう。誰の前でもテルテルは裏表の無い振舞いを見せる。良くも悪くも一緒に居ると油断ならないのは事実だった。

「にゃはは。さすがはテルテルの兄ちゃんなのじゃ」

「輝も、もう少し落ち着いてくれると良いのだがな」

「じゃが、変に大人しいテルテルというのも何だか違和感ありありなのじゃ」

 何気ないワシの言葉にコタが息を呑む。腕組みしたまま、眉間に皺を寄せて苦笑いを浮かべて見せた。

「それもそうだな。変に物静かに振舞われると、今度は一体、どんな恐ろしい企てを講じているのかと要らぬ気苦労をする羽目に陥りそうだ」

 やはり、コタに取ってテルテルは特別な存在なのだろう。ワシは複雑な気持ちで一杯だった。そんな手の掛る問題児なテルテルのことをワシは想っている。そういう意味では、コタはワシに取っては厄介な存在だ。何しろ、付き合いの長さで言えばワシなど、到底追い付け無い程に長い時を共に過ごしてきたのだから。その一方でワシはコタにも興味を惹かれている。普段は見せない姿を存分に見せてくれていることも嬉しく思えたし、もっと、もっと、コタのことを知りたくもなる。だからこそワシは迷う。一体、ワシは何を望み、何を願っているのだろうかと。

「輝は大地のことを随分と気に入っているらしくてな」

「へ? テルテルがワシのことを?」

 突然、切り出された話にワシは困惑させられることとなった。テルテルがワシのことを気に入っている。それは、トモダチとしてなのだろうか? それとも……?

「事あるごとに大地の話題を口にしている。まぁ、輝のことだから、自分では意識していないのだろうけどな」

 ワシの表情を窺うように、横目でワシを見つめながらコタは可笑しそうに笑った。

「そ、そうなのじゃな。何か、照れるのじゃ」

 照れ隠しに笑って見せれば、コタは静かに目を細めてみせた。

「輝はああいう性分だからな」

 夜空を見上げながら、コタは静かに微笑んでいた。

「可笑しな言い方かも知れないけれど、輝と仲良くしてやってくれ」

「本当に可笑しな言い方なのじゃ。確かにテルテルとは気が合うでのう。ワシもテルテルも甘い物好きで、同じように背が伸び難い同士として、人には言えない悩みを語らうことも出来るでのう」

「そんなことを気にしているのか?」

「む! そんなこととは失礼なのじゃー」

「ああ、済まん、済まん。笑ったことは謝る」

「気にして無いのじゃ。ちゃんとワシがテルテルの面倒を見るでの。可笑しな方向に突っ走らないように、上手い具合に軌道修正させるのじゃ」

 ますますワシは自分の感情が見えなくなっていた。折角二人きりなのに、何故テルテルの話を出すのだろうか? 苛立ちにも似た感情に気付いたワシは、自分自身の進むべき道を完全に見失いつつあった。テルテルのことは好きだが、同時に、コタのことも好きな自分に気付いてしまった。実に都合の良い話だ。結局、コタとテルテル、どちらとも親しい関係になりたいと願っているのだろう。欲を張れば両方を失うことになるのは歴史が証明してくれている。それなのにも関わらず、両方手に出来ないという訳でも無い。そんな、賭博師のような考えに支配されつつあった。

「しかし、本当に静かだな。昼間の喧騒が嘘のようだ」

 嘘――その一言が妙に引っ掛かった。ワシが想い描くことは只の絵空事の出来事の夢物語に過ぎないのかも知れない。夢から醒めた時、ワシは大切な物を全て失ってしまっているのかも知れない。賭けごとは時として大きな代償を伴う。一攫千金の夢を叶えるか、無一文の最中に夢を散らすか、二つに一つ。得る物と失う物。夢を手にすることが出来るかも知れないけれど、同時に、夢が木端微塵に砕け散ることだってある。本当に、こんな危険な賭けに手を出すべきなのだろうか? 一人、思い悩んでいると不意にコタに肩を叩かれた。

「どうした? 何だか魂が抜けたような顔をしていたぞ?」

「へ? にゃはは、今夜も暑いでの。冷たくて甘い物でも食べたいなぁと考えておったのじゃ」

「冷たくて甘い物か。ふふ、俺だったら水羊羹か水まんじゅう、あるいは麩まんじゅうも悪く無いな」

「和の甘味なのじゃ。コタはやはり日本人なのじゃ」

「まぁ、俺は生粋の日本人だからな」

 ここでテルテルならばアイスを食べたいと言い出しそうだ。不意にテルテルの笑顔が脳裏に浮かんできた。少々問題行動が目立つのは事実ではあるが、それでも、テルテルの笑顔は可愛らしい。ワシの好きな笑顔だ。

(やはり、ワシはテルテルのことが好きなのじゃ)

「ほう? 大地は輝のことが好きなのか」

「へ?」

 コタが可笑しそうに笑って見せた。笑いながら、そっと夜空を見上げて見せた。ワシは無意識のうちに心の中で呟いたつもりの言葉を口に出してしまっていたらしい。その証拠にコタは可笑しそうに笑いながらワシの顔を覗き込んでいた。

「あ、い、イヤ、へ、変な意味じゃ無いのじゃ!」

「変な意味? ふふ、大地はやはり面白い奴だな」

 コタはますます可笑しそうに笑って見せた。そんなにもワシの振舞いは面白いのだろうか? コタは弟のように想っている輝のことを好きだと言ったワシの言葉を、字面通りに受け止めてくれたのだろう。友として仲良くしてやってくれ。そんな意味を篭めての笑みだったように感じられた。多分、コタはワシの本心には気付いていないのだろう。

「嵐山は自然に満ちた場所だな。本当に心が落ち着く」

 不意に、緩やかな風が吹き始めた。涼しいというには程遠い風ではあったが、川から吹き付ける風は水気を孕んでいて心地良く感じられた。

 一瞬、風がワシに何かを語り掛けてきたような感覚を覚えた。それは明確な言葉では無かったが、ワシに想いを語り掛けるような口調であることは間違い無かった。不意に、コタが立ち上がった。しきりに周囲を見回しているのが気になった。もしかしたら、コタにも何者からの言葉が聞こえたのだろうか?

「妙だな。誰かに語り掛けられたような気がしたのだが?」

「き、気のせいじゃろ? 此処にはワシとコタしか居らぬでのう」

「……それもそうだな」

 不思議な感覚を覚えていた。木々達がざわめている。そんな表現が合っているように感じられた。ヒソヒソと何かを語らっているようにも感じられた。この感覚、遠い昔に何度も体験したような気がする。ワシの記憶は実に不思議な作りになっているらしく、自分に取って都合の悪い記憶は思い出せないようになっている。もしかすると、こうした木々達がざわめく光景も体験したことがあったのでは無いだろうか? 記憶の彼方には残っているものの思い出すことが出来ない。ただ、それだけのことなのかも知れない。そう考えると、ますます不思議な気持ちで一杯になる。

「不思議な感覚で一杯だ。秘めた想いを口にしなければいけない……。そんな衝動に駆られている」

「コタもなのかの?」

 ワシの言葉にコタは目を大きく見開き、酷く驚いたような表情を浮かべていた。

「昼間の喧騒も忘れ去られ、静かになった嵐山の街を歩いている。だからこそ、こんなにも開放的な気持ちになっただけなのかと、思い込んでいたが……」

 夜空に浮かぶ月を見上げながら、コタは静かな笑みを称えていた。

「どうやら、ただの思い込みでは無さそうだな」

「確かに聞こえたのじゃ。木々達の囁く声が」

 ワシの言葉を耳にしたコタは目を大きく見開き、酷く驚いたような表情を浮かべていた。だけど、ワシの表情をシゲシゲと覗き込むと、何かを納得したように頷いて見せた。

「明確に人の言葉を喋る訳では無い。ただ、風に乗って聞こえて来ることがある。何かを語り掛けるような……そうだな。木々達の想い、とでも表現すれば良いのだろうか?」

「この感覚、何度も体験したことあるのじゃ。そうか……木々達がワシに語り掛けておったのじゃな」

「これは興味深い。俺だけでは無かったのだな」

 コタは興奮したような口調で続けて見せた。

「大地もまた、大自然と共に歩む生き方を選んだ身ということになる訳か」

 コタの言葉を耳にするのと、ほぼ同時に笛の音が響き渡った。涼やかな音色が眠りに就こうとしていた木々達を呼び醒ますように感じられた。笛の音が響き渡るのと同時に、木々達がざわめき始めたように思える。さらに、笛の音に呼応するかのように無数の鈴の音色が響き渡る。

「透き通るような笛の音に……これは神楽鈴の音色か?」

「神楽鈴? 何なのじゃ、それは?」

「神楽を奏する時に手に持つ鈴でな。複数の小さな鈴を綴って柄を付けたものだ」

 神楽……元来、このような木々に抱かれた情景の中で催されることの無い催事が、何故、この状況下で行われようとしているのだろうか? それに、一体誰を祭るつもりか? 考え込んでいると、周囲の木々達が再びざわめき出すのが聞こえた。風が吹き抜け木々の葉を揺らす……どうも、それだけには思えなかった。月明かりに照らし出された周囲の景色は何時の間にか、そこに息衝く木々達の魂、そのものを現すかのような淡い緑色に包み込まれていた。

 月明かりの中に身を置いているかのように、不意に周囲が明るくなる。何事かと思えば、淡い翡翠色に瞬く無数の蛍が周囲を舞っているのが目に留まった。信じ難い情景にワシは思わず息を呑んだ。傍らに佇むコタもまた興奮したような面持ちでワシの顔を覗き込んで見せた。

「ふふ、いうなれば俺達は会うべくして会った同士なのかも知れないな」

「な、何か、運命を感じちゃうのじゃ」

「ははは。大袈裟な表現ではあるが、しっくりくる表現だ。それならば……」

 突然コタに抱き締められて、ワシは心臓が止まりそうな程に驚いた。だが、コタは可笑しそうに笑いながら、さらに、予想もしない言葉を続けて見せた。

「ヒミツを分かち合ってしまっても良いということにもなりそうだ」

「ひ、ヒミツとな?」

「ああ。俺のヒミツだ」

「そ、それならば、ワシも……ヒミツを分かち合うのじゃ」

 何とも都合の良い解釈だと自分自身の図々しさに呆れる。もしかしたら、コタは口が驚く程に達者で、上手い具合にワシのことを丸めこもうとしているだけなのかも知れない。でも、それでも、ワシは本当に嬉しかった。どんな手段を講じてでも、ようやく手に入れた家族とも呼べる程に親しいトモダチを手放したく無かった。例え、人の道に外れた手段を手にすることになろうとも、それでも、皆のことを手放したく無かった。同時に嬉しかった。例えワシのことを騙してまでも、その手中に収めようとしているコタの野心が、ワシに向けられた本能とも呼べる熱く燃えたぎる想いが嬉しかった。だから、コタが望むならばワシは何だって為し遂げよう。今、この瞬間、迷いは完全に消え失せた。

「中の島公園か。悪く無い場所だな」

「そうじゃろう? ここは古き時代から秋になると灯篭流しを行ったりするでの」

「ああ。そんな感じがする場所だな」

「のう、コタよ。折角じゃから、このまま竹林へと向かってみるかの?」

「大地のお気に入りの場所ならば、是非とも共に歩みたいな」

「にゃはは。今日のコタは妙に上機嫌なのじゃ」

「大地と一緒にいると本当に楽しい気持ちになれる。それ以上に、大地のことを知ることが出来たことが嬉しくてな。もっと知りたくなるな」

「にゃはは。コタならばワシの全てを見せてしまうのじゃ」

「ほう? それならば俺も応えよう」

 不思議な感覚だった。リキと共に肌を重ね合わせた夜も、同じような感覚を抱いたことを思い出していた。コタの言葉を借りるならば、リキもまた同士ということになるのだろう。恐らく、テルテルもまた同士なのだろう。ワシらは偶然知り合ったのでは無いのかも知れない。結花さんの言葉では無いが、偶然なんて無い。全ては必然だったのかも知れない。そう、思えるようになっていた。

◆◆◆94◆◆◆

 暗がりの中でも煌々と瞬く嵐山駅は、さながら、漆黒の海を照らし出す灯台のようにも感じられた。ゆらゆらと揺らめく駅舎の明かりを横目に、ワシらは人気の無くなった道を静かに歩んでいた。時折風に乗って運ばれてくる、嵐電が往来する音を除けば周囲は静まり返っていた。ワシらの足音だけが夜半の嵐山に染み入っていた。

「さすがに駅は明るいな。だが、暗闇の中だからこそ姿を見せる者達もいる」

「こ、怖いことを言うのじゃ……」

「可笑しな話だが、遠い昔、俺は人ならざる者と出会ったことがあってな」

 駅前を通り過ぎようとした時にコタが静かに口にした言葉。その言葉に驚いたワシは思わずその場に硬直してしまった。

(人ならざる者との出会いとな? ああ、ワシの記憶の彼方にも、確かに、残っておるのじゃ!)

「む? 大地、どうかしたか?」

「ワシも……ワシも出会ったことがあるのじゃ!」

 ワシの言葉に驚いたのか、コタもまた足を止めると、目を大きく見開いてワシの顔を見つめていた。一度ならず何度も出会ったことがあるにも関わらず、どうしても思い出すことの出来ない存在。確かに、その少年の顔をワシは見たハズだった。それだけでは無い。そんな浅い縁では無かったハズだ。何度も出会い、共に語らい、戯れたハズだ。それなのに、思い出そうとすると霧が掛ったように阻まれる。何者かの力が干渉し、意図的に見えないようにしているとしか思えなかった。

「俺と同じだな」

 コタは嵐山の駅舎の明かりに吸い込まれるように目線を逸らして見せた。暗闇の中、駅舎の放つ明かりに照らし出されたコタの横顔は、見慣れた表情とはどこか違って見えた。

「出会ったことがあるどころか、共に語らい、歩んだ筈なのに、どうしても思い出すことの出来ない存在……」

 小さく溜め息を就きながら

「そうか。大地も出会ったことがあるとは驚きだな」

 そう、口にして見せた。

 やはり、ワシとコタは不思議な縁で結ばれた関係なのかも知れない。そう考えると、コタとの関係は、やはり、何か運命的な物を感じずには居られなかった。

「似ているのかも知れないな。俺と大地は」

 コタは静かに微笑んで見せた。

「そうかも知れないのじゃ」

 だから、ワシも笑顔で応えた。すると、コタもまた何か含みを孕んだ口調で返して見せる。

「もしかすると、意外な出会いがあるかも知れないぞ?」

「意外な出会いとな?」

「――人ならざる者との出会い、だな」

 可笑しそうに笑いながらコタがこちらに向き直った。一体、何を言っているのかと動揺していると、コタは笑いながらワシの肩に腕を回して見せた。

「楽しみだな」

「ぬう……。オカルト方面はテルテルにお任せなのじゃー」

「だが、俺達はそいつらと一度は出会っている身。それに、お前も感じただろう? 今夜は何か異質な感じがする。そう思わないか?」

 コタは可笑しそうに笑いながら再び歩き出した。ワシは頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃で足が酷く震えていた。人ならざる者との出会い……イヤ、再会と言うべきなのかも知れない。いずれにしても、気をシッカリと保っていなければならない。それにしてもコタは随分と肝が据わっていると見える。この不可解な状況に畏れを為すどころか、むしろ、楽しんでいるようにさえ思えた。

 ワシは短い時間の中でコタとの距離が一気に縮まったという、曲げようの無い事実を噛み締めていた。だけど、同時にあまりにも急激な変化を受け入れることが恐ろしくもあった。冬場の池に張った薄氷のように脆く、儚く割れてしまわないだろうか? そんな哀しい結末を迎えるくらいならば、此処で思い留まった方が賢明なのだろう。

 皮肉な話だ。あの時、リキが抱いたであろう想いを、今、こうしてワシもまた、身を持って体験することになろうとは。でも……ワシはコタの考えを受け入れたかった。その先にどんな結末が待っているとしようとも、それでも、コタの想いを受け入れたかった。

 駅に嵐電が停車しようとしているのだろう。長い旅路に疲れ、しばし、羽を休めるかのように。緩やかなブレーキ音が響き渡り、金属が軋む音が響き渡る。普段は耳触りで寒々しいだけの雑音なのに、何故か、今のワシには温かい音色に感じられた。

 ワシがテルテルのことを想っていることも、テルテルがワシを気に入ってくれていることも、コタは理解してくれている。コタの表裏の無い、潔い姿を見たのは事実だ。普段、皆の前で見せている姿と、本来のコタの姿との間に大きな隔たりがあることも知った。イヤ、それさえも含めて見て欲しいと願っているに違いない。これはコタとワシとの一騎打ちなのだ。勝敗は関係無い。そもそも勝敗に何の意味も無い。ただ、互いに判り合いたいだけだ。そんな、コタの義理堅い姿にワシはますます想いを募らせるばかりだった。

 多分、それは朝日に散りゆく朝露のような想いだったに違いない。呆気無く散ってしまうことだろう。蛍の命のように仄かに燃え上り、次の瞬間には渇いた亡骸になるばかりだ。そんな、叶うことの願いに想いを馳せる自分が滑稽だった。

 複雑な想いを抱くワシに気付いたのだろうか? ワシの隣に並ぶと、コタはそっとワシの手を握ってくれた。驚く程に熱い手だった。

「こ、コタ?」

「俺なんかと手を繋ぐのは嫌か?」

「い、嫌な訳ないのじゃ」

「それは光栄だな。大地、俺は――」

 コタは可笑しそうに笑いながらワシの耳元にそっと顔を寄せた。そのまま囁くような声で呟いて見せた。

「お前のことが好きだ」

「なっ!?」

 信じられない一言だった。余りの驚きにワシはその場に立ち止まり、そのまま硬直した。唐突に頭から氷水を浴びせ掛けられたような衝撃だった。その半面、体の中を何か熱いものが駆け巡った気がした。

「これは、俺からの告白――」

 可笑しそうに笑いながらコタは続けて見せた。もう少しで、互いのくちびるが触れそうな程に顔を近付けられて、ワシは顔が燃え上りそうに熱くなった。

「とでも、言うと思ったか?」

「にゃにゃにゃにゃんと!?」

 ワシの脳裏では、勢い良く打ち上げられた花火が夜空に華を咲かせる瞬間になるハズだった。だが、どうしたことだろうか? 不発だったらしく、中途半端な散り方を見せただけで、人々の落胆の溜め息が聞こえた気がした。

 前言撤回。またしても、コタの仕掛けた罠に見事に嵌ってしまった。こうやって、相手をからかって、その立ち振舞いを楽しむとは、コタも中々に良い性格をしている。安堵と落胆とが入り混じった不思議な気持ちに、ワシは、その場にへたり込みそうになっていた。予想外に気落ちするワシの姿に、当のコタ自身も驚いた様子だった。

「む? 随分と残念そうな振舞いだな」

「あ、い、イヤ……こ、これはじゃな……」

「ははは。夜は長い。もしかすると、今宵の満月に照らし出され、人ならざる者に変身するかも知れないぞ? 男は狼だと言うからな」

 またしても、実に、意味深な言葉を口にしてくれるものだ。何処まで本気なのか判らないが、こうなったら、とことん罠に嵌ってくれるのも面白い。ワシの反応を楽しんでいるのであれば、予想もしない反応で、逆に驚かしてくれよう。

「うぬぬぬぬ……。それならば、ワシが先に狼になるのじゃー。ガオーなのじゃー!」

「ははは。既に人ならざる者と出会ってしまったか?」

 コタは相変わらず挑発する性分だ。まったく、ワシの反応を見て楽しむとは、何とも人が悪いことだ。もっとも、無意識の内に振舞うテルテルとは違い、コタは意図的に振舞っているから余計に性質が悪い。

「今、俺のことを嫌な奴と思っただろ?」

 コタは可笑しそうに笑って見せた。

「うぬー、お見通しなのじゃ」

「褒め言葉だ」

 涼やかに受け流そうと思えば、コタもまた涼やかな笑顔で受け止めて見せる。

「コタは性格悪いのじゃ」

「重ね重ねの褒め言葉、光栄の極みだな」

 やはり、コタは涼やかな立ち振舞いを崩さない。それどころか、ワシがいつ沸き立つかを楽しみにしているとしか思えない振舞いだった。必死で冷静さを保とうと思ったが、やはり、自分自身の想いを偽ることは出来そうになかった。

「ふにゃー! 何か悔しいのじゃー。寝込みを襲っちゃうのじゃー!」

「お? 宣戦布告か? ふふ、それでは今夜は早々と寝るとしよう。案ずるな。無防備に振舞ってくれよう」

「にゃー! 油性マジックで極太眉毛にしてくれちゃうのじゃー!」

「ほほう? それは中々に恐ろしい仕打ちだな」

「うぬぬぬぬ……にゃー! 何か、悔しいのじゃー!」

 相変わらずコタは挑戦的な振舞いを崩さなかった。でも、それは言い換えれば、それだけワシに対して心を開いてくれた証なのだろう。それに、テルテルやリキのことが無ければ、コタはワシに想いを伝えてくれたのかも知れない。それはそれで嬉しく思えた。

 それにしても、コタは随分と威風堂々と自分の素性を受け入れていることに驚かされる。人目を気にしてばかりいるワシとは大違いだ。

(コタはやはり、ワシと同じなのじゃろう。じゃが、そんな自分と真正面から向き合っているのじゃ。どうやったら、そんなにも強くなれるのじゃろうか? ううむ、落ち込んでいても駄目なのじゃ。これは最高の好機なのじゃ。このまま上手い具合にコタに人生相談してしまうのじゃ)

 徒然なるままに話し込んでいるうちにワシらは野宮神社を超えて、見慣れた踏切に差し掛かろうとしていた。踏切を超えれば、もう、そこは竹林だ。ワシは視界の先に広がる竹林を見つめてみた。やはり、何時も見慣れている竹林とは何かが違う気がした。何が、どう違うのかと問われれば返答に困ってしまうのだが、確かに、何かが違う気がした。

「昼間訪れた時と比べて湿度が高いな。だが、竹の香りが立ち昇るかのようで、心地良い。悪く無いな」

「そうじゃな。何とも不思議な感じなのじゃ」

「ああ。やはり、何かが違うみたいだな」

「信じられない話なのじゃ」

「だが、紛れも無い現実だ」

 竹林がざわめいている。お持て成しの心……来客を歓迎するかのような空気が漂っている。竹林自体が月明かりを浴びて、仄白く瞬いているようにさえ感じられた。何とも幻想的な雰囲気に包まれている。これが見慣れた竹林なのか? ワシは驚きのあまり言葉を失っていた。

「大自然の神秘とでも言うのだろうか。やはり、嵐山の地にも大自然に棲まう者達は確かに存在しているということになるのだろうな」

「その中に、ワシがかつて出会ったトモダチもおるということなのじゃろうか?」

「むしろ、当の本人が近くで俺達を見ているかも知れないぞ? 大地と友達になりたい。そう願っているのかも知れない」

「幼き頃は何度も出会ったことがあるのじゃが、今はまったく出会えないのじゃ」

 思わず肩を落とすワシの肩をコタがそっと抱き締めてくれた。

「また、出会えるさ。きっとな?」

「そうじゃろうか?」

「ああ。俺が出会った奴も同じだったからな」

 コタは足を止めると周囲の木々を見上げて見せた。木々の隙間から差し込む月明かりが幻想的だった。

「あの時、俺はそいつと確かに、堅く握手をしたのを覚えている。また何時か会おうと」

 コタは竹の隙間から覗く月明かりをジッと見据えたまま穏やかな笑みを浮かべて見せた。月明かりに照らし出されたコタの横顔は仄白く瞬いているように思えて、胸が締め付けられそうになった。

「必ず出会えると信じている」

「ワシも、もう一度出会えるじゃろうか?」

「ああ。きっと出会える筈だ。姿を見せないそいつも、きっと頷いていることだろう」

「コタは優しいのじゃ。気持ち、楽になれたのじゃ」

「そうか。お役に立てて光栄だ」

 こうして不思議な現象に出会うことが出来たのも、やはり、コタのお陰なのだろう。だからこそ、ワシは迷っていた。迷い? 違う。このままコタと一夜を共にすることが恐ろしかった。理性を抑え切れるだろうか? 既に痛い程に膨張し切っているのもまた、哀しい事実だった。そんなワシに気付いたのかコタが笑いながら肩に腕を回す。

「大地、ひとつ問うても良いか?」

「な、何じゃ?」

 コタがそっとワシに向き直った。その振舞いに呼応するかのように静かに風が吹き抜けた。竹林の葉を風が撫でてゆき、涼やかな川の流れのような音色が響き渡る。

「大地は俺のことが好きか?」

 清々しいまでの直球。しかも真正面から挑んでくる辺りが実にコタらしい。ここでお茶を濁すような返事をすることも選択肢としてあるのかも知れない。でも、そんな振舞いはしたくなかった。コタのまっすぐな想いには、ワシもまっすぐに応えたかった。

「嫌いな訳無いのじゃ」

「光栄だな。お前と友になることが出来て本当に良かった」

 また、ワシの反応を楽しんでいるのだろう。そうそう何度も同じ手に乗るものか。

「ワシもなのじゃ」

 目一杯明るい声で返して見せた。だが、予想に反して、コタは竹林の隙間から覗く月明かりを見上げながら満足そうに微笑んでみせた。

「俺に取って友とは唯一無二の宝物でな。そうだな……家族以上に大切なものと言っても良い」

「か、家族以上に?」

「ああ。かつて俺は何もかもを失う事態に陥ってな。結果、一年にも渡る引き篭もり生活に至った。そう。あれは、俺が小学校最後の年の出来事だった――」

 そう切り出しながらコタが語り出したのはコタ自身の過去にまつわる物語だった。

 抑揚の無い口調で語られた物語だった。コタはただ感情を見せること無く語り続けた。まるで、見知らぬ他人のことを語るかのように、ただ淡々と語り続けた。だけど、涼やかな表情とは裏腹に、煌々と燃え盛る炎のような怒りが、憎しみが、そして……言葉に出来ない哀しみが見え隠れしているように思えて仕方が無かった。話を聞きながらワシは体中が震え上がる思いで一緒だった。

「……本気で、そいつを殺そうと思ったのじゃな」

「ああ。俺の大切な兄弟に……輝に辱めを与えた奴だ。生かして置く理由など見当たらなくてな」

 一瞬、コタが見せた修羅の形相。やはり、似ているのだろう。ワシも心の中に修羅を宿す身だ。そして、あの日、あの時、子猫達に残酷な仕打ちをした少年達に向き合ったワシもまた、本気で殺すつもりで向き合っていた。イヤ、殺すつもりだったどころか本気で殺したハズだった。それなのに事態は想いも寄らない事態に陥ってしまった。

 今度はワシの物語を聞いて貰った。何故、そんな気持ちになったのか自分でも良く判らなかった。ただ、コタにはワシの全てを知って欲しかった。だから、ワシは包み隠すこと無く語り続けた。もっとも、ワシはコタのように感情を押し殺すような器用な立ち振舞いは出来ない。だから、精一杯の喜怒哀楽の感情を惜しむことなく全て出し切った。

 歩みながら語り続けたワシの話、コタはただ静かに聞いてくれた。あの時の情景を思い出したワシは震えが止まらなくなっていた。それでも、コタには一部始終聞いて欲しかった。だから、ワシは必死の思いで語って聞かせた。語り終えた所で、前を向いたままコタが静かに口を開く。

「確かに良く似ているな。なるほど。大地と一緒にいると居心地が良い理由、ようやく判った気がする」

「ワシも判ってしまったのじゃ」

 何を言わんとしているのか、コタには既に判ってしまっているのだろう。それでも、ワシが何を口にするかを楽しみに待ち侘びている表情がただただ嬉しかった。だから、ワシは惜しむこと無く、包み隠さずに想いを口にした。

「ワシらは兄弟みたいなのじゃ」

「兄弟か……。俺には兄弟がいないから、ずっと、兄弟という存在に憧れていた」

「にゃはは。ワシなんかで良ければコタの兄弟になるのじゃー」

「ふふ、中々に壮絶なヒミツを分かち合ってしまったな」

「にゃはは。そうじゃな」

「大地、これは俺と大地、二人だけのヒミツにしよう」

 目一杯顔を近付けるとコタは消え入るような小声で囁いて見せた。普段、見せることの無い、無邪気な子供のような笑顔だった。ワシは思わず息を呑んだ。二人だけのヒミツ……。何とも甘美な響きだった。ワシとコタ、二人だけのヒミツが二人の間に横たわっている。誰も知らないワシら二人だけのヒミツ。不思議な高揚感に満たされていた。思わず鼻息荒くなるワシを見つめながら、コタは可笑しそうに笑っていた。笑いながらワシの肩に腕を回して見せた。

「夜半の竹林、心地良いな。もう少し、歩いてみたいな」

「そうじゃな。風が涼しくて気持ち良いでのう。もう少し、歩くとするのじゃ」

 こうしてワシらは徒然なるままに竹林を歩き回った。昼間とは違い、人気の全く無い竹林は文字通り漆黒の世界だった。時折、風が吹き抜ける度に涼やかな音色が響き渡り、何とも心地良い気持ちで満たされていた。やはり、大自然と共に歩む道こそワシの歩む道に他ならない。改めてそう実感させられていた。

 どれだけ歩いただろうか? やがて竹林も終わり、ワシらの視界の先には民家の明かりが見え始めていた。

「さて、盛り上がった所で、そろそろ戻るとしよう」

「そうじゃな。ちと、蒸し暑いでの。汗も掻いたでのう。再び風呂に入るのじゃ」

 こうしてワシらは、再び幻想的な雰囲気の広がる竹林を抜けて、嵐山旅館へと戻ることにした。道中、コタはずっとワシの手を握っていてくれた。兄弟という言葉が余程嬉しかったのか、終始、照れ臭そうな笑みを称えたままだった。

 すっかり暗闇に包まれた渡月橋を歩みながら、コタは上機嫌な笑みを絶やさなかった。そこに、コタの素顔を垣間見たような気がした。

 人は誰しも人前で見せる仮初の自分と、人前では見せない本当の自分を持っているもの。コタがワシに本当の自分を見せてくれたのは、ワシのことを兄弟だと、心から感じてくれたからなのかも知れない。コタとの距離感がどれ程縮まったのか明確には計り知れるものでは無かった。だが、少なからず、コタとの距離が大幅に縮まったのは間違い無かった。過去の傷を、その痛みを共感出来たこと。ワシの中では大きな意味を持ったに違いない。そんな気がした。

「なぁ、大地」

 不意に後ろを歩くコタに声を掛けられ、ワシは慌てて振り返った。

「夜半の中の島公園は人の気配も無いのだろう? 中の島公園を抜けて嵐山旅館に戻るというのはどうだろうか?」

「急にどうしたのじゃ?」

「ああ、大したことは無い。風が吹き始めたからな。この涼やかな風、実に心地良いと思ってな」

「ふむふむ。昼間は賑わいを見せる中の島公園も、夜は静かなのじゃ。涼やかな風の中、お散歩するのも悪く無いのじゃ」

 夜の中の島公園は人気も無く、流れゆく大堰川の音色も涼やかで心地良い。もう少し散策するのも悪くないかも知れない。それに、この心地良い風を感じながら夜半の嵐山を歩き回るというのも中々に風情がありそうだ。どの道、帰った後は風呂に入るのだ。今更、汗を掻くことを気にする必要も無いだろう。ワシはコタと共に中の島公園へと進むことにした。

◆◆◆95◆◆◆

 どれ程歩いただろうか? ふと、振り返れば、月明かりに仄かに照らし出された渡月橋の全貌が目に映った。渡月橋から中之島公園に至り、それなりに歩いたような気がする。周囲は木々が生い茂り、風が吹き抜ける度に涼やかな音色が響き渡る。流れゆく大堰川の音色と重なり合い、心地良い感覚に包まれていた。

「歩き回ったからすっかり暑くなったな」

「そうじゃな」

「風が気持ち良いな」

 コタは相変わらず上機嫌に振舞っていた。人の気配の失せた夜半の中の島公園は静まり返っていた。静かな公園の中、ワシとコタ、二人だけが歩む足音が響き渡る。辺りは静まり返っていて、風が吹き抜ける音と大堰川を流れる水の音、それから、虫達の割れんばかりの鳴き声以外、何の音も聞こえなかった。

「本当に人の気配が無いのだな」

「静かじゃろう?」

「ああ。何だか独り占めしているみたいで良い気分だ」

 空を見上げれば、そこには静かに瞬く月だけが佇んでいた。吹き抜ける風が心地良い夜、こうしてコタと二人きりで歩くというのも不思議な感覚だった。今日一日共に過ごしたことにより、コタの意外な一面を幾つも知ることが出来たのは嬉しいことだった。

「心地良い風なのに、汗を掻いたせいかベタ付いているのが少々頂けないけどな」

「にゃはは、今の季節は暑いから汗を掻くのは仕方が無いのじゃ」

 コタは苦笑いを浮かべてみせた。「暑く無ければ夏らしくも無いか」と、小さく呟きながら歩き続ける。辺り一面から虫の鳴き声が尚一層鮮明に聞こえるようになった気がする。ここに佇む木々達にも、草花達にも、魂は宿っているのだろう。万物には命があり、命ある物には魂がある。目に見えないから存在しないという考え方は正しく無いことを知った。きっと、この中の島公園にも数多の命が息衝いているのだろう。

「嵐山は自然が豊かな場所だな」

「そうじゃな。自然と人々の営みとの調和が取れた街並みじゃな」

「ああ。だから、こんなにも心地良くなれるのかも知れないな」

「コタは自然と共に歩むのが好きじゃからのう」

「自然と共に歩むのが好きか。確かにそうかも知れないな」

 コタは穏やかな笑みを称えたまま周囲の景色を見回して見せた。景色を見回しながら、不意に何を思ったのか

「これだけ人気が無ければ、ここで脱いでも誰にも見られる心配は無い訳だ」

 そう口にすると、コタはおもむろにシャツを脱ぎだした。突然の振舞いにワシはどう反応すれば良いか判らずに、ただただ硬直することしか出来なかった。

「ああ、風が心地良いな。すっかり汗ばんだから良い気持ちだ」

「そ、そうじゃな……」

 月明かりに照らし出されたコタの裸体からワシは目を離すことが出来なかった。普段から鍛え込んでいるであろう肉厚な体付きは、汗を掻いたことも手伝って月明かりに瞬いて見えた。

 夕方、一緒に風呂に入った時にも目にしたが、ここは元来、衣服を脱ぐような場所では無い。だからこそ、ワシは有り得ない情景を目の当たりにして、いよいよ沸き上がる興奮を抑え切れなくなっていた。必死に腰を退くワシの姿をチラチラ横目で見つめながら、コタは静かに口元を歪めて見せた。

 確かに、今、ここにはワシとコタしかいないとは言え、随分と大胆な振舞いを見せるものだ。月明かりに照らし出されたコタの体はテカテカと艶めかしく光り輝いていて、何とも言えない色香を称えていた。ワシは思わず息を呑んだ。

「風が心地良いな」

 突然のコタの大胆な振舞いにワシは動揺を隠し切れなかった。そんなワシを後目にコタは上機嫌に振舞うばかりだった。

「そう、心配するな。どうせ、誰にも見られやしないだろうからな」

「そうなのじゃが……」

「ふふ、俺の中に眠る野生の血がどうにも騒いで仕方が無い」

「や、野生の血とな?」

「時々思う時があってな」

 コタは空を見上げたまま上機嫌に笑って見せた。

「俺は人の姿をした獣では無いのかと」

「にゃんと!?」

「野生に還りたい衝動に駆られる。だから、自然が好きなのかも知れないな」

  意外な一面を見た気がした。確かに、コタは普段から周囲の反応を気にしないというか……無頓着なところがある。人は人、俺は俺という生き方をするコタに取って、周囲の人々の価値観など、自身の価値観にそぐわなければどうでも良い物でしか無いのだろう。少なくても人の道に外れる振舞いや他者の迷惑を顧みない行動を取ることは無いが、それ以外の場面では実に自由気ままな立ち振舞いを見せてくれる。コタのそういう強気な振舞いには多々驚かされるが、ワシはそんなコタの強気な振舞いが嫌いでは無い。自分には無い物を持っているコタの個性は羨ましくもあり、時に、自分もコタのように振舞えることが出来たら、どれ程良いだろうかと願いを抱くことも少なく無かった。

「ああ、風が気持ち良いな。大堰川は水量も多く、川幅も広い。だからなのだろうな。同じことを鴨川でやっても、あまり心地良く無かった」

「か、鴨川でやったのかの!?」

 思わず驚きの声を挙げるワシの表情を、コタは可笑しそうに笑いながら見ていた。

「ああ、そうさ。少々人通りもあったが、それはそれで中々に――」

 言い掛けた所でワシの反応をシゲシゲと窺いながら、コタは続けて見せた。

「興奮するものがあったな」

「こ、興奮するって……」

 コタは明らかにワシの反応を楽しんでいた。大胆過ぎる振舞いと言動の数々に、ワシがどれだけ困惑するかを見届けながら楽しんでいるようにしか見えなかった。

「興奮ついでに、何度と無く全部脱いで、そのまま……」

 敢えて勿体ぶった言い方をしてワシの反応を楽しんでいるように見えた。コタが何を口にするのか、何となく想像できたワシは思わず生唾を呑んでいた。そんなワシの反応を確かめてから、コタは可笑しそうに笑いながら続けた。

「もちろん、最後までしたさ」

 何処まで本当なのかは定かでは無かったが、それはコタが口にした確かなヒミツだった。何故、そんなヒミツをワシに、それも、何故、今、この瞬間に打ち明けたのだろうか? まさか、此処で見せようとでもしているのだろうか? もう、ワシの心臓は興奮の余り張り裂けそうになっていた。

「俺のこと、可笑しな奴だと思っただろ?」

「そ、そんなこと無いのじゃ……」

 ワシの返事を聞きながら、コタは可笑しそうに笑って見せた。

「嘘が下手だな」

「う……」

「大地のそういうところ、嫌いでは無い。裏表無く、誰に対しても平等に接することが出来る。俺も見習わなければならない謙虚さだ」

「そういうコタとて、誰に対しても裏表無いのじゃ」

 ワシの言葉にコタは一瞬、困ったような表情を見せたが、笑いながらワシに向き直って見せた。

「確かに、そうかも知れないな。もっとも、俺の場合は遠慮など知らない身だからな。誰に対しても本音でぶつかっていく。それだけだ」

「コタの着飾ることの無い真っ直ぐな振舞い、ワシは好きなのじゃ」

 「光栄だな」と言いながらコタは再び空を見上げて見せた。風が吹き抜ける度に、木々の葉がざわめく音が響き渡り、その音に大堰川が流れゆく涼やかな音色が重なり合う。ここには大自然の音が満ちている。

「ああ、本当に風が気持ち良いな」

「そうじゃな」

「ふふ、もっと野生に還ってみるか?」

「な……何をするのじゃ?」

「思い切って全部、脱いでしまおうか?」

「にゃんとっ!?」

 驚愕の悲鳴を挙げるワシの表情をジッと見据えたまま、コタは可笑しそうに笑って見せた。

「見てくれるか? 俺が自分を慰めるところを」

「にゃにゃにゃにゃんとっ!?」

 コタはワシの反応を見届けると、声を挙げて笑って見せた。

「やはり、大地は良い反応を見せてくれるな」

「うにゃー、またしてもやられたのじゃー」

「ははは、大地と一緒にいると楽しいから、ついつい、弄くり倒したくなるな」

 それはそれで嬉しいことなのかも知れない。それにしても、コタが見せた行動には一体どんな意味があるのだろうか? 単純に暑さに耐えられなくなったというだけでは無いのは間違いない。ワシはコタでは無いから憶測でしか判らないけれど、コタは意味も無く行動を起こすことは無い。それは短い付き合いとは言え、コタの振舞いを見ていた理解したことだ。間違い無いと確信を持って言える。

「ふふん。ワシとて負けて居らんのじゃ」

「ほう? どうするつもりだ?」

「ワシもババーンと脱いでしまうのじゃー」

 何となくコタが伝えたい想い、理解した気がする。それならばワシも同じ土俵に立つとしよう。

「にゃはは、ワシも何だか野生に還っちゃった気がするのじゃ」

「ほう? 驚いたな。大地まで悪乗りしてしまうとはな」

「ワシも大自然を愛する身じゃからのう。それに、こんなにも色々な体験をした後なのじゃ。もしかしたら、本当に野生に還れるかも知れないのじゃ」

 コタはワシの表情を見据えながら、そっと頭の上に手を乗せて見せた。だから、ワシはコタに向き直りながら続けた。

「ワシは今まで誰かに必要とされたこともなかったでの。どんな形であれ、誰かの役に立ち、誰かに必要とされ、何よりもワシが生きていることを喜んで貰えるのが嬉しいのじゃ」

「ああ、今、この瞬間、お前とこうして同じ時間、同じ空間に在ることが出来ること、俺は光栄に思う」

 満足そうに微笑んだ後でコタは静かに呼吸を整えて見せた。月明かりに照らし出されたコタの体は仄白い月明かりを浴びてうっすらと光を身に纏っているように見えた。何とも言えない妖艶な姿にワシは思わず息を呑んだ。そんなワシの昂ぶる想いなど気付くことも無いのだろう。コタは空に浮かぶ月を見上げると、静かに口を開いた。

「さっき話した出来事……。あの出来事には続きがあってな」

「テルテルを辱めた奴を、本気で殺そうと思った話じゃな?」

「そうだ。あの後、俺は――」

 それは壮絶な話だった。クラス中の全員どころか担任教師さえもが敵となり、皆が一丸となってコタを排斥しようと行動に出たこと。その結果、引き篭もりになってしまったことを聞かされた。そんな中でも、必死で支えてくれたテルテルの話を聞かされて、コタとテルテルとの間にある絆の深さを改めて認識させられることとなった。確かに、コタとテルテルは兄弟のような関係に思える。そして、その経緯もまた波乱に満ちた物語であった。

「恩人なのじゃな。コタに取ってのテルテルは」

「恩人か。ふふ、そんな御大層なこと考えたことも無いが……輝への感謝の気持ちに偽りは無いのは事実だ」

「じゃが、そんなことがあったのじゃな」

 人の物語は、その物語を辿った者にしか計り知れないのかも知れない。普段の姿しか知らないワシに取っては、コタの過去は予想もしない話だった。懸命に支えてくれたテルテルの存在……。それは、ワシに取っての大樹やシロの存在そのものだった。同時に、何故、コタがこれ程までにトモダチに拘るのかも理解した気がする。やはり、ワシらは良く似ている。

(ワシはコタのために、何が出来るのじゃろうか? コタのこと好きなのじゃ。大切なトモダチなのじゃ。何か……コタのために、コタの力になりたいのじゃ。ワシもテルテルみたいに、コタのために何かをしてあげたいのじゃ)

 そんなことを考えるワシの想いに気付いたのか、コタはワシの表情を覗き込んだまま、静かに微笑んで見せた。

「大地は何を考えているのか、本当に判り易いな」

「にゃー! な、何も考えていないのじゃ!?」

 相変わらずワシは大根役者だ。ここで取り乱せば、何かを考えていることを明確に主張しているのと同じことでは無いか。どうにも間抜けな話だ。焦るワシを見つめながら、コタは可笑しそうに笑って見せた。

「一緒に居てくれる」

「へ?」

「大地は俺と一緒に居てくれるだろう? それが、俺に取って本当に幸せなことなんだ」

「わ、ワシが一緒にいることが?」

「ああ、そうさ。こんなにも笑ったのは本当に久方ぶりだ。大地と一緒にいると本当に楽しい。それに……」

 コタは静かに呼吸を整えながら、必死で言葉を模索しているように思えた。

「何と表現すれば良いのだろう? 心が落ち着くと言えば良いのだろうか? ふふ、上手い言葉が思い浮かばなかった」

 想いを上手く表現しようと、必死に言葉を選ぶコタの姿が嬉しかった。本当に嬉しかった。ワシを必要としてくれて、その上、ワシと共に歩めることを心から喜んでくれる。ワシが生きていることを喜んでくれる誰かが傍にいる。それだけでも、ワシは生きている価値を見出すことが出来た気がする。存在意義を知ることが出来るのは本当に幸せなことだと思う。

「大地は俺の還る場所のような存在……なんて言い方は大袈裟過ぎるだろうか?」

 言いながらもコタは照れ臭そうに頬を赤らめていた。

「コタ、手を出すのじゃ」

「こうか?」

 ワシが何をしようとしているのか想像も尽かないのだろう。コタは少々動揺した表情で右手を差し出して見せた。だから、ワシはコタの右手を握り締めた。

「もう片方の手も出すのじゃ」

「あ、ああ……」

 照れ臭そうに笑いながら左手を差し出した。だから、ワシはコタの左手を握り締めた。

「ずっと、手を握っていてあげるのじゃ。これなら、ずっと一緒で居られるでのう」

 ワシは目一杯の笑顔でコタに笑い掛けて見せた。照れ臭くなったのか、コタは顔を真っ赤にして、慌てて目を逸らして見せた。だが、それでも握り締めた手を離すことは無かった。それどころか、さらに強い力で握り締めて見せた。

「おお、もっと良いことを思い付いたのじゃ」

「こ、今度は何を思い付いた?」

 満面の笑みを浮かべて見せれば、コタは引きつった笑顔で返して見せる。

(うしし……ワシを散々おちょくってくれた報いなのじゃ。今度は、ワシが仕掛けちゃうのじゃー)

 ワシはコタの手を離すと、今度は、真正面から力一杯コタを抱き締めた。勢い余ってコタは倒れ込んだが、それでもワシは力一杯、抱き締めていた。

「にゃはは、これなら何が何でも離れないのじゃー」

「大地……」

 予想に反して、コタは顔を真っ赤にしながら、慌ててワシから目線を逸らした。そのまま、消え入るかのような声で、

「ありがとうな」

 そう、呟いて見せた。

 良い雰囲気になってきた。だけど、だからこそ、ワシは笑いの風を招き入れたくなってしまった。もはや、これは性分なのだろう。折角の良い雰囲気を敢えてぶち壊すワシ自身のアホさ加減が哀しかったが、それでも、湧き上がる笑いへの想いを抑えることは出来そうになかった。ワシは敢えて深刻そうな顔を作りながらボソっと呟いて見せた。

「……た、大変なことになってしまったのじゃ」

「な、何が大変なんだ?」

 コタが上擦った声で問い掛ける。冷静さをすっかり失ったコタの動揺ぶりが可笑しくて、可笑しくて、ワシは吹き出しそうだったが、それでも必死で踏ん張った。

「うう、汗でべた付いているから、本当に離れなくなってしまったのじゃ……」

「ほ、本当か!?」

「こ、こうなってしまったら仕方が無いのじゃ……」

 ワシは目一杯深刻そうな表情を作ったまま、コタの顔を見上げて見せた。しばしの沈黙……。コタの表情がみるみるうちに強張ってゆく。だから、ワシは目一杯可愛い声を作って返して見せた。

「コタよ、責任取ってワシのことを……お嫁さんにしてくれなのじゃ」

 再びコタの表情に笑顔が戻って来た。イヤ、これまで見たことも無い程に顔をぐしゃぐしゃにして笑っていた。自分で口にしながらも何と面白い言葉を口にしたのか。ワシも可笑しくて、可笑しくて堪らなくなって笑い転げていた。

 結局、二人とも上半身裸で派手に暴れ回ったお陰で、すっかり汚れてしまった。これは一刻も早く嵐山旅館に戻って風呂に入らなければ収拾が付かない。それに、こんな姿、人に見られたら何らかの事件に巻き込まれたのかと要らぬ勘違いをされるに違いない。こうしてワシらは帰り道、誰にも出会わないことを切に願いながら嵐山旅館を目指して全力で駆け抜けることにした。

◆◆◆96◆◆◆

 ただでさえ汗だくになっていたのに要らぬ振舞いをしたお陰で大変なことになっていた。それでも風呂に入ってサッパリしたワシらは部屋に戻って来た。ワシの嫁に貰ってくれ発言がコタの中では余程ツボに嵌ったらしく、何度も思い出しては吹き出しそうになっていた。

「にゃはは、夢の中で思い出して笑わないでくれなのじゃー。いきなり、夜中に吹き出されたら、ビックリするでのう」

「あれは大地が悪いのだぞ? あんな面白いことを言われて笑うなという方が無理がある」

 妄想力豊かなコタのことだ。白無垢姿のワシの姿を思い浮かべて笑いが止まらなくなったのだろう。

「いや、しかし、あんなに笑ったのは生まれて初めてかも知れないな」

「にゃはは、そんなに楽しんで貰えたならワシも満足なのじゃ」

「満足も何も、明日の朝には腹筋が筋肉痛にならないか心配な程だ」

 笑うということは大事なことだとワシは考える。笑いながら喧嘩することが出来る奴など居る訳が無い。そう考えれば、世界中の皆が笑い合えるようになれば、世界中から争いも消えてしまうだろう。だから、ワシはどんな手段を使ってでも人を笑わせたい。それがワシに出来るただ一つのことなのだから。

 それにしても、一人では無いというのは本当に心強いものだ。少々風変りな一面があるのは事実だがコタは最高のトモダチだ。ずっと、ずっと、傍に居て欲しいと思う気持ちに偽りは微塵も無い。だから、ワシはコタの傍にずっと居させて貰おう。そして、コタのことをずっと、ずっと笑わせ続けよう。笑う門には福来る。今よりも、もっと、もっとコタに幸せになって貰えればワシも幸せだ。

 笑い疲れたのだろうか? コタは静かに布団に身を横たわらせると、静かに天井を見つめて見せた。何かを考えているのか、静かな面持ちを称えたまま天井をジッと見つめている。

「どうかしたのじゃ?」

「大地を嫁に貰う、か……。それも悪く無いと考えていた」

「えぇっ!? ま、間に受けられちゃうと、わ、ワシとしては……」

 取り乱すワシの姿を見て、また、大喜びするのかと思ったが、予想に反してコタは静かに溜め息を就いて見せた。

「あれだけ色々なヒミツを口にしてしまった以上、もはや、大地には隠し事など一切必要無くなった訳だな」

「何か、話したいこと、あるのじゃな?」

「ああ。俺のヒミツについてだ」

 ワシはコタの隣に寝転がった。話し辛い内容なのだろうか? コタは天井を見上げたまま小声で「明かり、消して貰っても良いか?」と呟いて見せた。ワシは一旦起き上がり、部屋の明かりを消した。真っ暗な部屋の中でも、コタは相変わらず天井を見つめていた。そのまま静かに語り始めた。

「もう、気付いているだろうが、俺は男に興味を抱く身でな」

 ワシは黙ってコタの話に耳を傾けた。

「男だけでは無い。女にも興味を示す節操無しだ」

 打ち明け話を聞かされた以上、ワシも隠す必要は無くなった。むしろ、洗いざらい全て話してしまった方がワシに取っても有利な展開になるかも知れない。だから、ワシも思い切って自分のことを話すことにした。

「ワシも男に興味ある身なのじゃ。女には興味無いのじゃが……テルテルには興味あるでのう」

 ワシの言葉をコタはジッと黙って聞いていた。天井を見上げたまま、ぽつりと呟いて見せた。

「そうだと思った」

 そう言いながらコタが静かに笑った。

「だから、輝を頼むと言った」

「そうだったのじゃな。それならば、ワシからも頼みがあるのじゃ」

 何を言わんとしているか、コタは既に予測出来て居たのだろう。可笑しそうに笑いながら、ワシに向き直って見せた。

「力丸を頼む――」

 思わず息を呑むワシの表情を満足そうに見届けながら、コタは笑って見せた。

「そう言いたいのだろう?」

「にゃはは、さすがはコタなのじゃ」

「あいつのことは嫌いでは無いからな。前向きに善処するとでも言っておこう」

「にゃー、どこかの政治家のセンセイみたいな発言なのじゃ」

 ワシの言葉にコタは照れ臭そうに笑って見せた。

「誰かのことを本気で好きになった経験、無くてな。だから、今一つイメージが沸かなくてな」

「そうなのじゃな」

「力丸が好意を抱いてくれていることは気付いているが、どう応えれば良いのか判らなくてな。正直、これでも結構真面目に悩んでいる」

 改めて考えてみると難しいことなのかも知れない。誰かを好きになるという感情とは果たしてどういうものなのだろうか? 確かに、ワシはテルテルのことが好きだ。だが、それはトモダチとして好きなのか、もっと違った好きなのか、自分でも良く判らない。

(そう考えると、『好き』という感情を知らずしてリキとあんな行為に及んでしまったのじゃな。もっとも、好きとか、好きじゃないとかいう感情とは直結しない気はするのじゃが……順序が逆なのじゃ)

「まぁ、やりたいか、やりたくないかと言う話ならば、自信を持って返答出来るのだがな」

 シレっと放たれた言葉にワシは思わず頷いてしまったが、思わずコタの顔を凝視してしまった。

「い、いきなり、シレっとにゃんということを言うのじゃ」

「まぁ、俺も男だからな。そういう欲求は十二分過ぎる程にあるからな」

 色々な面でコタはすっかり、ワシに対して包み隠さ無くなっているように見えた。それだけワシのことを信頼してくれているのは嬉しいことだが、少々反応に困るというものだ。

「例えば、大地が相手してくれると言ってくれれば、俺は喜んで相手をして貰うつもりだ」

「にゃー!? わ、ワシなのかのう!?」

 動揺するワシを後目に、コタは可笑しそうに笑い返して見せた。

「一緒に風呂に入っている間も、お前の体に終始興味惹かれまくりだったからな」

「直球なのじゃー」

「まぁ、半分冗談だけどな」

「は、半分は本気なのじゃな……」

 コタは天井を見上げたまま、静かに口を開いて見せた。

「大地と一緒にいると本当に楽しいからな。ああ、これが『好き』という感情なのかと、何となく理解したような気がした」

 衝撃的な発言だった。予想もしない展開に陥っていた。コタがワシにトモダチ以上の感情を抱くようになろうとは思いも寄らなかった。だが、振り返って考えてみれば、ワシはコタを楽しませることだけに全神経を注ぎ、行動の結果を考えもしなかった。余りにも浅い考慮だったと反省してみても過ぎ去った時は戻りはしない。それに、人の心とはそうそう容易く動く物では無い。コタがワシに好意を抱くようになってしまったのを強引に軌道修正する等できる訳も無い。良かれと思って為した行動がことごとく裏目に出てしまおうとは予想もしなかった。

「大地は俺に取って掛け替え無いトモダチだからな。嫌がる相手を力で捻じ伏せるような真似はしない。そこは安心してくれ」

 行動の結果を何も考えず、ただ勢いだけで振舞っていたワシと違い、コタはシッカリと理性を保ちながら行動を起こそうとしている。結局、ワシはただ、自分が必要とされているという事実に舞い上がっていただけに過ぎない。どこまで愚かだったのだろうか……。だが、今更後に退くことは出来ない。前に進むしかない以上、やれる限りのことをするとしよう。妙に緊迫した空気になってしまったことに戸惑いを覚えたのか、不意にコタがワシに問い掛けて見せた。

「なぁ、大地。可笑しなお願いをさせて貰っても良いだろうか?」

「お願いとな? い、一体、どんなお願いなのじゃ?」

「ああ、一度やってみたいと思っていたことがあってな。それは――」

 これ以上無い位に真剣な表情で見つめられて、ワシは思わず後退りしてしまった。だが、コタの口から飛び出したのは意外過ぎる一言だった。

「廊下の雑巾がけとな?」

「実はな、こう見えても結構な掃除好きの、綺麗好きでな」

 やはり、コタは底知れぬ個性の持ち主だ。何と言うか、計り知れない程に深い個性を持っている。人はコタのように深淵なる存在を『変人』と呼ぶのだろう。イヤ、コタの場合、正真正銘の変人だろう。

「……な、中々に風変りなことを申すのじゃ」

「旅館の仕事という物に前々から興味を抱いていてな。百聞は一見にしかずという。それならば、むしろ、見るよりも、体験した方が判り易いと思ってな」

「は、はは……。そんなお願いなら実に容易いのじゃ」

「おお、それは楽しみだ」

「明日の朝、廊下の雑巾掛けを軽く体験したら、そのまま天龍寺を案内するのじゃ。広いお寺でのう。晴れた朝ならば最高の景色が楽しめるのじゃ」

「楽しみだ。明日もツアーガイド、よろしく頼むな」

「ワシにお任せなのじゃー」

 コタはワシの言葉を受けて静かな笑みを称えていたが、不意に、大きな溜め息を就いて見せた。どこか、哀しげな表情を称えていることが気になった。コタは天井を見上げたまま、静かに、だけど、力強く呟いて見せた。

「なぁ、大地。もう一つ、可笑しなお願いをさせて貰っても良いだろうか?」

「良いのじゃー」

「……もう一度、中之島公園に行かないか?」

「へ?」

「野外での自慰行為の話……あれは本当の話でな」

 ワシは心臓が止まりそうな想いで一杯になった。そんなワシの動揺とは裏腹に、コタは尚も淡々と語り続けて見せた。

「風呂場でのこと、覚えているか?」

 コタは天井を見上げたまま低い声で呟いて見せた。色々と吹っ切れた結果なのだろうか? 何の迷いも、ためらいも無く……イヤ、そうでは無いように思えた。理性と本能のぶつかり合いの結果、本能を抑え切れなくなってしまったのだろう。野生に還るの言葉、嘘では無さそうだ。

「あのまま勢いに任せたかったが、必死で思い留まった」

 冗談が半分、ワシの本能が半分で立ち振る舞った行為の報いは、コタの中に眠る野生の本能を燃え上がらせるには十分過ぎてしまったのだろう。先刻、中之島公園で見せた振舞いも、抑え切れなくなった本能をワシに示すためだったに違いない。後先考えぬ振舞いがコタを惑わせることになってしまおうとは思いも寄らなかった。

「見てくれないか? 俺の恥ずかしい姿を」

「わ、ワシに、なのかの?」

「ああ。誰かに見られながらしてみたいという衝動に駆られてな」

 コタは静かに笑っていた。

「変態だな、俺。露出狂と言うのだろうか? どうも、そういう場面に興奮を覚えるらしい」

 コタの赤裸々な発言にワシは疼く股間を抑え切れそうになかった。今、すぐにでもコタと共に抱き合いたくて仕方が無くなっていた。多分、ワシもまた、本能を抑え切れなくなっていたのだろう。リキのこと、テルテルのこと、必死で思い留まろうと思ったけれど抑え切れそうに無かった。

「わ、判ったのじゃ……。再び、中之島公園に向かうのじゃ」

「……済まないな」

 もう、どうにでもなれ。そんな気持ちしか無かった。コタとこんなことをしたら、どうなってしまうかなど容易に想像がついた。トモダチで居られなくなってしまうかも知れない。もしも、リキやテルテルに知られたら、ワシは再び独りぼっちになってしまうだろう。でも、だけど……沸き上がる本能を抑えること、どうしても出来なかった。多分、コタも同じ気持ちだったのだろう。迷いながらも、コタもまた、好奇心と、それから……本能に駆り立てられているに違いない。

 ワシらは玄関を後にして再び中之島公園を目指すことにした。普段から夜の散歩に出掛けることも多いワシのことは家族も良く心得ている。何も声を掛けられることも無くワシらは嵐山旅館を後にした。やってはいけないことをするという背徳感というのは、こんなにも興奮を駆り立てるものなのだと可笑しなことを実感していた。コタもまた俯いたまま一言も喋らなかった。コタの興奮がヒシヒシと伝わって来て、ワシもまた、これ以上無い程に興奮していた。

 そっと、コタの手を握って見せれば、汗ばんだ手で力強くワシの手を握り返したくれた。だから、もう後には戻れそうに無かった。このまま奈落の底までワシらは無様に落ちてゆくしか出来ない。

 本当にこれで良かったのか? 何度も、何度も、自分に問い掛け続けた。それでも、ワシは突き進みたかった。一時の欲望に任せて何もかもを失うことになろうとも、それでも、湧き上がる欲情を抑えることは出来そうに無かった。

◆◆◆97◆◆◆

  再びワシらは中之島公園へと戻って来た。だけど、先刻までの楽しげな雰囲気はそこには無かった。言葉に出来ない緊迫した空気だけがそこに佇んでいた。ワシとて平常心を保っていられた訳では無かった。何度、コタを止めようと思ったか。だけど、哀しいかな。人は目の前にある大きな快楽に誘われれば、容易くその誘いに乗ってしまうものらしい。あの晩と同じだった。もう、後戻りは出来そうに無い。多分、コタもまた、同じ気持ちなのだろう。何故、ワシはこんなにも誰かの心を掻き乱してしまうのだろうか。上辺だけの優しさが、都合の良い言葉ばかり口にする甘さが招いた結末だとでも言うのだろうか。

 そんなワシの心に気付いているのかコタが静かに足を止めた。それに呼応するかのように、一斉に虫達もまた鳴き止んだ。何か途方も無い事が起きようとしている。そんな気がして殊更に不安が掻き立てられたような気がする。

「……迷っている」

「え?」

「迷っているのだろう?」

 コタは背中を向けたまま、静かに呟いて見せた。ワシは返事をすることも出来ずに、ただ、俯くことしか出来なかった。

「俺が可笑しなことを言いだしたからお前を困らせてしまったのだな」

「そ、そんなこと……無いのじゃ」

 消え入るような声しか出せない自分が本当に情けなく思えた。自分で自分のことを信じられなくなってゆく。ワシに取ってのトモダチって、一体、何なのだろう? コタとは本当の意味でのトモダチなのだろうか? それでは、トモダチとは一体、どういう存在のことを言うのだろうか? ワシはただ、今、この場から逃げ出したい気持ちで一杯になっていた。

「大地の気前の良さに俺は頼りっ放しだ」

「え?」

「輝の前では、ついつい兄貴としての姿を演じようとしてしまう」

 コタはそっとワシに向き直ると、どこかが痛むかのような笑みを称えてみせた。

「力丸の前では、どうしても格好付けたくなってしまう俺がいる」

 そのまま、そっと夜空を見上げると可笑しそうに笑って見せた。

「大地の前では遠慮することなく、ついつい悪乗りしてしまう俺がいる」

「コタ……」

「大地だったら何でも話しを聞いてくれる。俺の全てを受け入れてくれる。そんな、身勝手なまでに図々しいことを考えている俺がいることに気付かされた」

 コタは再びゆっくりと歩き出した。街はすっかり眠りに就いているかのように静まり返っている。ただ大堰川の流れだけが変わること無き涼やかな音色を刻み続けている。少しだけ、張り詰めた空気が和らいだような気がした。

「ワシのこと、そんなに信頼してくれているのかのう?」

 恐る恐る問い掛ければコタは一瞬、驚いたような表情を見せた。だが、次の瞬間には照れ臭そうに笑って見せた。

「あんなに笑ったのは、初めてのことかも知れない」

 やはり、コタはコタなのだと思った。ぶっきらぼうで、不器用で、無骨で、でも、とにかく真っすぐな生き方を好む身なのだと。ワシの問い掛けに真正面から答えることを避け、上手い具合にはぐらかそうとしている姿が可笑しく思えた。

「度肝を抜くようなことを言う割には、可笑しな所で小心者なのじゃな」

「うっ……。そ、そうかも知れないな」

 知れば知る程に人の心という物は複雑怪奇で不可思議な物だと思わされる。仲良くなれたとは言え、まだまだ、ワシにはコタの心の内を見透かすことは出来そうに無い。付き合いの長いリキの心も、何よりも、常に日常生活を共にしてきた弟の大樹の心の内さえも見透かすことの出来ないワシに、コタの心を見透かすことなど出来る訳が無い。それどころか、ワシはワシ自身の心さえも、ちゃんと理解出来ていないのかも知れないのだから。

 都合の良い言い訳に過ぎないのかも知れない。自分を正当