天狗使いの小太郎 第5話 『偶然と必然』

 

第5話 『偶然と必然』


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 闇を彷徨う虫は光を追い求めて右往左往。確かな物は何もないし、誰も保障してやくれない。それが本当に光であるのか確かめもせずに闇を彷徨う虫は光を追い求めて右往左往。例えばそれが篝火であったとしたならば、光を手にした瞬間、虫は小さな灯火となりて燃え尽きる。命の終焉。それさえも気付けぬ程の一瞬。

 丁度、オレもまた闇を彷徨う虫だった。闇を彷徨う虫達は自らが迷い子である事にすら気付けない。だから、オレもまた、正しい道を歩んで居ると信じて疑わなかった。道は一本しかないと信じて疑わなかった。何と愚かな事なのだろう。誰が定めた? 道は一本しかないと。根拠のない思い込みに過ぎなかった。

 何処までも果てしなく続く、暗い夜道の様な一本道を歩み続ける。何処まで行けば赦されるのかも知らずに、ただ、魘される様に歩き続けて居た。道は何処までも暗い。

 やがて雨が降り始める。シトシトと音も無く降り続ける雨は冷たく、残酷で、意地悪く纏わり付く。体温を奪い、心を奪い、ゆっくりと命さえも奪ってゆく冷たい雨。雨は容赦無く降り続ける。何時までも、何時までも、止む事無く執拗に降り続ける。次第に強まる雨足の中でオレの体は体温を失い続ける。寒さに震え凍える憐れな迷い子。そんなオレの事をあいつは『子犬』の様だと表した。ふざけるな。誰が子犬だ。

 あいつは何も言わずに笑いながら傘をさしてくれた。雨に濡れるオレを憐れだと想い傘をさしてくれた。優しい笑顔。柔らかく、甘い髪の香り。花を愛するあいつはオレに、こう教えてくれた。

 偶然などない。全ては必然なのだと――。

 二年前。ある春の日の出来事。色を失い灰色一色になった世界に、唐突に色彩が舞い戻る。それがオレの物語の新章の始まりとなった。

◆◆◆2◆◆◆

 過ぎ去った久遠の時の流れを手繰り寄せる様に思い描く。そっと瞳を閉じれば、記憶の流れは過去へと遡ってゆく。もう、二度と巡り会う事のできない過去。もう、二度と戻る事無き楽しかった日々。溢れる涙が、降り注ぐ数多の雨粒となりて駆け巡る――思い出の欠片。

 冬の寒さが過ぎ去れば直に春が訪れる。何時だって春は急ぎ足で忙しなく過ぎ去ってゆく。ようやく寒さが緩んできたかと思って居る内に、蕾だった桜は瞬く間に満開になる。京の春は華やかな桜並木と、それから、喧しいまでに賑やかな観光客の流れで彩られる。桜は華やかで、艶やかで、それから――どこか儚げな生き方を見せてくれる。一年もの長い間、来たるべき晴れ舞台だけを夢見て生き永らえて来たであろう想いに共感を覚える。夏の夕立も、秋の夜長も、冬の厳しい寒さも、晴れ舞台を夢見ればこそ耐え凌ぐ事ができたのだろうと、その苦労に共感を覚える。だが、晴れ舞台は酷く短い時間で終わってしまう。木々に花咲く時間は短く、息を就く間に風に散る花吹雪となるばかり。そんな儚い生き方に、命短き物語に、結花の姿を、結花の物語を重ね合わさずに居られ無い。

 アーケードに覆われた寺町通の商店街は今日も人混みに埋め尽くされている。往来する人々の流れは芋洗いとの表現が良く当て嵌まる。春先とは言え吹き抜けてゆく風は冷たい。桜の季節と言う事も相まって地元の連中だけでは無く、明らかに観光客も大勢入り乱されている。混雑した寺町通の商店街を抜ければ、引っ切り無しに車が往来する河原町通と巡り合える。

 信号前で立ち止まり、青になるまでの一時を待ち侘びる。ふわりと吹き抜ける春のそよ風。オレの傍らに佇む結花。春の香りに中てられたのか、唐突に髪を優しく撫で上げる。吹き抜ける桜色の風に寄り添う様に、淡く、優しい香りを肌で感じられる。小さく息を呑むオレの姿に気付く事も無く、結花は三条通に目線を投げ掛けるばかりだった。まるで幼い子供だ。思わず毀れる笑みを誤魔化す様にオレは腕を組んだ。程なくして信号が青になる。皆、一斉に歩き出す。その流れに乗ってオレ達も歩き出す。

 桜並木の香りに誘われて歩き始める三条通。ようやく桜が花開く季節になったとは言え、未だ吹き抜ける風は冷たく、情けも容赦も感じられない鋭さを湛えて居る。空を見上げながら微笑む結花の肩を抱いた。

「結花、大丈夫か? 寒くないか?」

 オレの問い掛けに結花は「大丈夫だよ」と、笑顔で返して見せた。

「そうか。なら良い」

 小さく吐息を就きながらオレは歩き出す。寄り添う様に結花も歩き出す。春の妖気に中てられた人々で賑わう三条通。数多の足音の中に響き合うオレと結花の足音。なるほど。これが春の足音と言う奴か? 柄にもない事を考えてみては、どうにも格好付かない自分が可笑しくてばつの悪い笑みが込み上げる。そんな小恥ずかしさを誤魔化す様に目線を敢えて遠くに投げ掛ける。

 遠く、視界の先には三条大橋がどっしりと居を構える。雨の日も、風の日も、夏の照り付ける日差しの中でも、シンシンと降り頻る冬の雪の中でも、往来する人々をただ静かに見守り続けて来たに違いない。人の数だけ物語は存在するのであれば、お前はどれだけの物語を知る? 何時かオレにも語って聞かせてくれ。

 未だ冷たさを湛えた風に背中を後押しされる様な感覚を覚えて居た。風は冷たく、鋭い。それでも桜の花は咲き誇る。

 あの日、あの時、あの瞬間――オレは結花と共に三条の街並みを流れる高瀬川沿いの桜並木を眺めていた。そう。確かに、二人で肩を並べて眺めて居た。

 一陣の風が吹き抜ければ、風に乗って桜吹雪が舞い上がり、高瀬川は桜の花弁に覆い尽くされて桜色の流れとなる。美しくも儚い光景だ。桜色一色の流れとなった高瀬川。何処までも続く桜色の流れが幻想的で、哀しいまでに美しくて、息をする事すら忘れて佇んでいた。このまま永遠に時が止まってしまえば良いのに。心からそう思えた。

「わぁ……綺麗」

 感嘆の吐息を漏らす結花の横顔を見つめたままオレは腕を組み直した。静かな風の流れに舞い上がる桜の花弁。ふわりと風に舞う桜色の欠片達。小さき命の終わりを見届けながら、オレはそっと結花の肩を抱いた。寒さに凍えない様に、寒さに震えない様に、そっと、ただ慈しむ様に肩を抱いた。

 高瀬川を埋め尽くす桜の花よりもお前の方が――柄にもない言葉が浮かんできたが、慌てて呑み込んだ。オレには不釣り合いな着飾り過ぎた言葉だ。それでも、こんな言葉が浮かんで来るのも春の妖気の仕業なのかも知れない、と決して反論する事無き者達に責任を擦り付けてみる。

 桜吹雪舞い散る情景を見つめたまま、静かに息を呑む結花の想いを見届けたのは、つい、昨日の事の様に感じられる。命短き桜の季節から一月も過ぎれば、京の都は蒸し暑さに包まれる。新緑の木々の葉に包まれる街並みを目の当たりにすると夏の訪れを感じずには居られない。やがて、一匹の蝉が鳴き声を響かせれば、いよいよ夏の訪れと成る。

◆◆◆3◆◆◆

 二年前。ある初夏の日の出来事。五月のうららかな日差しに包まれた心地良い部屋を後にして、オレは階段を一歩、また一歩と踏み締めていた。踏み締める度に妙に湿気た音が響き渡るのは、オレの気持ちを汲み取ってくれて居る証なのだろうか?

 溜め息交じりに靴を履き、出掛かった欠伸を噛み殺しながら、そっと玄関の戸に手を掛ける。ガラガラと軽やかな音が響き渡り玄関の戸が開けば、眩いばかりの光が差し込む。その眩しさに思わず目を細めずには居られない。

 そのまま玄関から顔を出してみれば、透き通る様な青空の下、湿気を孕んだ蒸し暑い風が吹き抜けてゆく。ジリジリと照り付ける強い日差しは既に夏の暑さを予感させる程だった。そっと目を細めて空を見上げれば照り付ける太陽が青空を背に力強く光輝いて居る。五月の気候に誘われる様に目を伏せれば、新緑の木々の香りを称えた風が心地良く感じられた。

「ったく、風は涼しくても、日差しは夏っつー感じだよな」

 普段は静かな社家の町並みも今日ばかりは妙な賑わいを見せていた。無理もない。今日は五月十五日。年に一度の葵祭が催される日なのだから。時刻は三時過ぎ。何かを為すには中途半端な時間帯と言える。どこかに出掛けるならば、もっと早い時間帯に始めるべきだろうし、夜の花街に繰り出すにしては、いささか勇み足な時間帯と言える。そんな穏やかな気候の中、人が気持ち良く昼寝をしていたのを強引に叩き起こした無礼者が居る。コタの言葉を借りるならば、万死に値するべき所業を為し遂げた大罪人とでも表現すれば良いか。

「あー、真面目に暑ぃな」

 ありったけの文句を言ってくれようかと息巻いてみたが、子供の様な無邪気な笑顔で出迎えられれば、そんな気持ちなど呆気なく凪いでしまう。そんな訳でオレは寝惚け眼で玄関を後にした。

「それじゃあ、張り切って行きましょう」

「……へいへい」

 それにしても、目的の為には手段を選ばない奴だ。まさか、お袋をけし掛けて来ようとは予想もしなかった。

 人がうららかな午後の日差しの中、気持ち良く昼寝をしていれば、唐突に枕が引っこ抜かれた。当然、驚いたオレは半ば強引に目覚めさせられる。一体、何が起きたのかと周囲を慌てて見回せば、そこには戦慄を覚えずには居られない程に満面の笑みを浮かべるお袋の姿があった。ノックも無しに人の部屋に容赦無く乱入して来る、デリカシーの欠片もない下町のおばさん。それが、オレのお袋だ。「未来の嫁さんが来てくれたんだ。ほら、さっさと顔を洗っておいで」。その一言で全てを察したオレは、大きな溜め息を就く事しかできなかった。

 まったく……相変わらず強硬手段を好む事だ。外交とはその様な力押し一辺倒では上手くいかない。どこかの偉いオッサンがそんな主張をしていたハズだ。そんなオレの心が発する不平不満の声を聞く耳を持つ気はさらさら無さそうだ。なるほど。あくまでも独裁政権を貫くか。まぁ良いさ。いずれクーデターが起こり、お前の政権は呆気無く転覆する。その時、自らの身勝手を知っても遅いのだ。後悔は決して先には立たない。良く覚えて置け。

「ほらほら、力丸君、早く、早く」

「……へいへい」

 ――なんて、心の声を大にして、噴き上がらんとするオレの思いの丈の全てを存分に叩き付ける事ができたら、独裁政権はとうの昔に崩壊していたハズだ。もっとも、残念ながら小心者のオレには、結花に立ち向かうだけの度胸は備わって居ない。所詮、弱者は虐げられるだけなのだ、と、どこかで聞いた様な名言らしき何かが脳裏を駆け巡る。何とも居た堪れなくなったオレは、敢えて結花に聞こえる様に目一杯、大きく溜め息を就いて見せた。

 今日も上賀茂神社は威風堂々たる光景を紡ぎ出してくれて居る。生い茂る木々の葉が風に揺れる姿を目にする事ができるだけで気持ちが安らぐ。やはり、変わる事の無い日常と言う物は心の拠り所になると思える。匂い立つ様な木々達に背中を後押しされる様な感覚を抱きながら通り沿いに歩む。丁度、オレ達の横を車が駆け抜けていった。一の鳥居の鮮やかな朱色が殊更に眩しく感じられる。まったく……春から夏へと移ろう季節の心地良さに抱かれながら昼寝すると言う、この時期にしか赦されない至福の一時を打ち砕くとは、それが、どれ程、罪深い事なのか判らないとでも言うのか? 相変わらずお前は身勝手な奴だ。大きな溜め息が毀れる。

 そんなオレの心の叫び等知る由もないどころか、知ろうとする気すらないのだろう。結花はオレの手を掴んでは、早く、早くと盛んに急かし続けて居た。そんなに焦らなくても良いだろうに。まったく……溜め息混じりに肩を落とさずには居られない。オレは首に巻かれたタオルで滴り落ちる汗を拭った。結花は相変わらず子供の様に落ち付き無くオレを急かすばかりだった。三度、大きな溜め息が毀れる。

「そんなに焦っても仕方ねぇだろ?」

 オレは聞こえよがしな溜め息混じりに返してやったが、結花は臆する様子など微塵も見せる事なく、相変わらず軽やかな足取りで歩み続けた。四度、大きな溜め息が毀れる。ついでに、大きな欠伸まで毀れる。間抜けに大口を開けるオレをジッと見つめながら結花は可笑しそうに笑ってみせた。

「……何、笑ってやがる」

 オレは慌てて、目一杯不機嫌そうな表情を作ると腕を組み直した。そんなオレの素振りにお構い無しな様子で結花は可笑しそうに笑うばかりだった。

「冬眠明けのクマさんと出会った気分って、こう言う気分なのかな?」

「どう言う気分だっつーの。意味判んねぇから」

「ほらほら、冬眠明けの力丸君、早く行こう」

「妙な肩書付けるんじゃねぇよ。ったく……」

 葵祭――京都御所を朝に出発した御一行は河原町通を北上し、昼前には下鴨神社に到着する。下鴨神社で社頭の義を行った後で、再び次の目的地を目指して発つ。洛北高校前を経由して北大路通を西へ西へと突き進み北大路橋を曲がる。そして、終点、上賀茂神社へと辿り着くと言う流れになる。当然、終点である上賀茂神社で待ち構えて居ればすれ違う事など絶対に有り得ない。オレはそう冷静に諭した。だが、結花は不意に足を止めると、毅然とした表情で振り返って見せた。不味い事を口にしてしまったか? 慌てて息を呑むが、時既に遅し。冷静に諭すオレとは対照的に、結花は溜め息混じりに熱弁を奮ってみせた。

「判ってないなぁ。年に一度しかない貴重なお祭りなんだよ? もしも、万が一見られなかったら、また来年まで待たなくちゃいけないじゃない? あのね、過ぎ去った時の流れは――」

 ふんだんに身振り、手振りを織り交ぜて捲し立てられたのでは形勢は圧倒的に不利だ。一清掃射を浴びたオレは、極めて迅速に白旗を上げる事しかできなかった。

「ああ、判った、判った。オレが悪かった。だから、少し黙っていろ」

「黙っていてあげるから、早く行こう?」

「……お前、ホント、良い性格して居るよな」

 オレはもう一度、結花にも聞こえる様に、一際大きく溜め息を就いて見せた。ついでに、湧き水の如く滲み出る汗を腕で乱暴に拭った。これで何度目の溜め息か、いよいよ自分で自分が嫌になり始めていた。

「ったく、蒸し暑くていけねぇぜ。汗、全然止まんねぇし」

「良い性格して居るって、色んな人に言われるの。でも、それって前向きな評価だよね?」

「はぁ? 何でそうなるんだよ……お前さ、世界はお前を中心に回って居るって信じて疑ってねぇクチなんじゃねぇのか?」

「うん。その位、前向きに人生を生きてみるのも悪くないかも知れないと思うの」

「……本気でそう思って居るから恐ろしいよな」

 どんな言葉を投げ掛けても結花には通用しないらしい。可笑しそうに笑いながら弾む様な足取りで歩き出されれば、もはや、これ以上何かを言い返そうと言う気すら失せてゆく。コタ達が相手ならば何の遠慮も無く好き放題に言い合えるのだが、結花が相手だと途端に分が悪くなる。迂闊に反論すれば、渦を巻く激流の如き勢いで打ち返しさんと挑んで来るか、今の振舞いの様に華麗な立ち振舞いで呆気なく交わして見せる。オレ如きが全力で挑んだ所であらゆる攻撃を呆気なく凪いでしまう。これでは反論しようとする想いも呆気なく萎えてしまう。事の詰まり、結花の戯言をいちいち真に受けるのも面倒だと結論付けた。不戦敗だと嘲笑われても構わない。だからオレは黙って結花の言う通りに歩幅を広げた。もっとも、上賀茂神社はオレの家の目の前だ。急がずともすぐに辿り着ける。精々押し寄せた人混みに阻まれる程度だ。

 予想通りと言うべきか、上賀茂神社前のバスロータリーは既に交通整理が敷かれていた。警備にあたる警察官の吹き鳴らす笛の音も、注意を促す声も、呆気なくかき消される程の雑踏を目の当たりにして戦意がみるみる削がれてゆく。

 毎年恒例の光景とは言え、地元に暮らす身としては複雑な気持ちになる。活気のない寂れた街と言うのも頂けないが、この光景は何度見ても圧倒させられる。毎年、警備にあたる警察官達も大変な想いをして居るのは想像に難くない。もっとも、警備に必死になるのも無理はない。大勢の観客達が道路まで迫り出したのでは行列の進行の妨げになるだけだ。中には身勝手な振る舞いで周囲の迷惑すら顧みない奴も居るのを考えれば警備が手堅くなるのも当然の事なのかも知れない。

 それにしても無駄に人が大勢居る物だ。これだけでも暑苦しくて仕方がない。五月の気候は元来、過ごしやすい物となるハズだが、これだけ人が密集すると無駄に蒸し暑くなる。見ず知らずの連中の放った熱気に起因する蒸し暑さだと考えると、それだけでも、何とも言えない気持ちになる。少なくても決して気持ちの良い物ではない。

 もっとも、人一倍暑がりなオレに取っては、この五月の穏やかな気候も暖かいどころか、蒸し暑ささえ感じる。人々の熱気に圧されて殊更に蒸し暑い。おまけに、どこかの熱狂的なファンに無駄に急かされたお陰で首元からじわりと汗が滲む。

 何時の間にか辺りは微かに霧が掛かった様な空気に包まれていて、どこか現実離れした風情を称えていたが、纏わり付く様な蒸し暑さは増すばかりだった。そんなオレの振る舞いを結花は可笑しそうに笑いながら見つめていた。

「なんだよ?」

 不機嫌そうに眉をひそめて見せれば、結花はますます嬉しそうに笑って見せる。やれやれと溜め息を就かずに居られない。相変わらず良い性分だ。

「力丸君、汗、びっしょりだね」

「どこかの物好きに無駄に急かされたお陰でな」

「煽いであげようか? 団扇はないけど、扇子ならあるよ?」

「……相変わらず、お前は変な女だな」

 小馬鹿にする様に吐き捨てて見せれば、結花はオレの目をジッと見つめたまま

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 そう口にして見せた。やれやれと、手を振りながら小さく溜め息を就いた。

「またそれかよ?」

 偶然なんてない。全ては必然だ。何かの決め台詞の如く、結花が何時も口にする言葉だった。口癖と言うのだろうか? 無意識に言って居るのではない事はオレでも判る。意図的に、作為的に、想いを伝える時に口にする。そんな言葉だった。

「ほらほら、ちゃんと目ぇ凝らしてねぇと御一行様が到着しちまうぜ?」

 オレの言葉に結花が静かに頷く。オレは結花の手を引き人混みの中に、半ば強引に結花を突っ込ませた。身勝手な奴だと批判したい奴は批判しろ。ああ、その通りだ。オレは自分の事しか考えられない様な器量の狭い男だ。年に一度の祭り、結花には少しでも良く見える様にしてやりたかった。ただ、それだけだ。結花の喜ぶ笑顔が見られるのであれば、オレは何でもできる。例えそれが人の道を外れた行為だったとしても、何の躊躇いも無くできる。

「うわぁ、早くも人が一杯だね」

「ああ。物好き共が早くも陣取ってるっつー訳か」

 笑いながら、溜め息交じりに続けた。

「へっ、どいつもこいつも暇な連中ばかりだぜ」

「そう言うあたし達も」

「……ま、暇な連中の仲間だな」

 相変わらず結花は上機嫌に振舞うばかりだった。無駄に上機嫌な結花と、仏頂面で腕組みしたまま面倒そうに振舞うオレが居た。確かに、あの日、あの時、あの瞬間、オレ達は上賀茂神社のバスロータリーに佇んでいた。

 長い旅路を経た葵祭の御一行は御薗橋を抜けて、上賀茂神社へと真っすぐに訪れる。バスロータリーからでも御薗橋は良く見える。御薗橋手前のガソリンスタンドも今日は随分と賑わって居る様子だ。忙しなく動き回る店員達の振る舞いが目に留まる。御一行が訪れればすぐに判る。汗を拭って居ると次第に人々の賑わいが大きくなってゆく。ガソリンスタンドの店員達も手を止め、見入って居る。どうやら御一行はもうじき到着するらしい。オレは思わず息を呑んだ。何だかんだと言いながらもオレ自身も興奮して居るらしい。もっとも、結花の手前、妙にはしゃいだ姿を見られるのも格好が付かない。敢えて平静を保とうと呼吸を整えたところで葵祭の先陣を切る乗尻が視界に唐突に飛び込む。オレの傍らで結花が興奮した様な口調で声を挙げる。

「わぁ……力丸君、いよいよ始まるんだね」

 子供の様に無邪気に振る舞う結花の笑みを見つめながら、オレは力強く腕を組み直した。

 行列を先導する左右各三騎の騎馬隊。馬に乗った鮮やかな紅の装束に目が留まる。葵祭――まさしく平安絵巻を現代に忠実に再現したかの様な祭りの始まりを告げるに相応しい光景と呼べる。それは古き時代、遠き、遠き昔、昔の時代の出来事。それは平安貴族達の華やかで、煌びやかな暮らしぶりを目にする事ができる色鮮やかなる祭り。想い想いの衣装に身を包んだ者達が紡ぎ出す雅なる情景に、オレはすっかり呑まれていた。

 甘やかなる桜の葉、匂い立つ一陣の風が吹き抜けるのを肌で感じた瞬間、唐突に空気が変わったかの様な感覚に包まれた。風に乗って舞う艶やかなる桜の花弁は、何時しか淡い色合いの藤の花弁へと移り変わっていた。思わず息を呑まずに居られなくなる。唐突にお囃子の甲高い音色が響き渡る様な感覚に、鳶の鳴き声が響き渡るかの様な感覚に現実に引き戻された。

 驚きの余り、オレは慌てて周囲を見渡してみた。どうやら、空気が変わったのは気のせいでは無さそうだ。こんなにも良い天気だと言うのに、不釣り合いに立ち込める霧が非現実の到来を如実に告げて居る。どうやら妖しの世界へと誘われたようだ。だが、それも悪くない。結花と共に在るならば、何だって受け入れてくれるまでだ。オレが結花を守る。何があっても結花を守る。そう力強く叫ばずには居られなかった。

 馬の蹄が地面を踏み締める小気味良い音色が響き渡れば、変わる事の無い日常の光景は形を潜め、いよいよ幻想的な雰囲気へと移り変わる。今、上賀茂神社は今と言う時代に今生の別れを告げ、古き、妖しの平安時代へと時を遡って居る。ここは見慣れて居る社家の町並みでは無く、平安時代の貴族達が紡ぎ出す豪華絢爛たる華やぎの時代へと重なり合おうとして居る。ゆっくりと気持ちが現代から過去へと引っ張り込まれてゆく様な感覚を覚えていた。何とも言えない感覚だったが、同時に、気持ちが安らぐ程に心地良い感覚だった。

 表には出さ無くても自然と胸が高鳴ってゆく静かな高揚感を覚えていた。そっと握り締めた拳の中、じわりと汗が滲んだ。どうやら上機嫌なのは結花だけではないらしい。乗尻に続き、検非違使志、検非違使尉と次々と行列が続く。時代を遡ったかの様に先陣を切る本列にすっかり釘付けになっていた。気分は既に最高潮だ。高鳴る胸の鼓動を抑えながら、オレは葵祭の本列に目を奪われていた。

 葵祭の何たるかを熱心に説いてくれた結花の言葉が脳裏を過り、思わず苦笑いが浮かんでしまう。そっと目を伏せながら、オレは結花の熱弁を思い出していた。

『判ってないなぁ。年に一度しかない貴重なお祭りなんだよ? もしも、万が一見られなかったら、また来年まで待たなくちゃいけないじゃない? あのね、過ぎ去った時の流れは――』

 確かにそうだと思った。過ぎ去った時の流れが再び戻る事はない。絶対にない。それは一度流れ去った川の水が再び同じ場所を流れる事と同じだ。絶対に有り得ない話だ。ああ、だからこそお前は熱心に想いを説いた。そうなのだろう? 葵祭の行列に釘付けになる結花を見つめるオレの顔は多分、締まりのない、だらしのない顔になって居るに違いない。それでも結花が喜ぶ姿を目にする事ができて本当に嬉しく思える。普段、お前は辛い事ばかり――イヤ、今はそんな湿気た話を考えるのは止めよう。今は今しか演じる事ができないのだから。オレは再びゆったりとした足取りで歩みゆく葵祭の流れに目線を投げ掛けた。

 葵祭の行列は本列と斎王代列に大別される。本列は勅使代を中心とした男達の列であり、その後に続く、斎王代列は斎王代を中心とした女達の列となる。結花の興味は、もっぱら、この斎王代列に向けられて居る。白塗りの化粧をした昔ながらの衣装に身を包んだ女達を見るのが楽しみなのだと言っていたのを思い出した。時代を感じさせる物が好きな結花に取っては白塗りの化粧も、昔ながらの衣装も、古き時代を生きた姫君を想起させるに十分過ぎる存在に違いない。

 赤や黄色、白や橙、古き時代を思わせる衣装に身を包んだ男達がゆったりと歩んでゆく。行列の中には時折馬にまたがる男達の姿もあった。普段、耳にする事はない馬の蹄が奏でる音色が心地良く感じられた。日差しを浴びて煌めく栗色の毛並みに見惚れて居ると

「お馬さん、可愛いね」

 唐突に結花に声を掛けられたオレは一気に現実に引き戻された。それにしても、微塵も予想もしない言葉に驚かされたオレは思わず「可愛い?」と、反射的に返していた。オレの声に気付いたのか、目の前を、丁度、風を切る様に悠々とかっ歩してゆく馬と目が合ってしまい、オレは思わず後退りした。

「……そうか?」

「うん。可愛いよ」

「ま、まぁ、感じ方は人それぞれだよな」

 想い想いの衣装に身を包み、手に様々な道具を手にした人々の姿は、確かに時代を遡ったかの様な感覚に包まれるには十分過ぎる様に感じられた。各人がそれぞれの役目を象徴する衣装に身を包んで居る。言うなれば古き時代に置ける役人達の行列なのだから。

 そんな事を考えながら行列を見つめて居ると、一際目を引く大きな牛車が見えて来た。藤の花をあしらった雅な牛車を引くのは立派な体躯を誇る大きな牛だった。艶やかな黒塗りの大きな車輪もまた、華やかさを醸し出していて、古き時代の風流さを感じられた。

 不思議な情景だった。日常の中に舞い降りた非日常の情景が確かに此処にある。色鮮やかな衣装に身を包んだ人々の群れを見つめて居ると吸い込まれそうな気持ちになる。流れゆく時の奔流に呑まれて古き時代へと旅立ってゆく様な感覚すら覚えて、思わず足元がふらついてしまった。

 何時の間にか周囲からは雅楽の音色が響き渡っていた。笙に力強く息が吹き込まれれば、凛とした気品あふれる音色が力強く駆け抜けてゆく。そのまま気持ちが浮かび上がる様な感覚を覚えた。一瞬、視界が揺らぐ様な感覚を覚えて、意識が途切れる様な感覚に包まれた。

 再び気が付いた時、オレは白馬に揺られていた。慌てて周囲を見回してみれば、色鮮やかな衣装に身を包んだ者達が左右にずらりと並んで居る。驚いて自分自身の姿を見れば、漆黒の装束に身を包んでいた。この装束には見覚えがある。本列の最高位とされる勅使の姿だった。驚きの余り、悲鳴を挙げそうになったが、行列はあくまでも優雅に流れ続けるばかりだった。

 オレの目の前には数多の役人達がずらりと列を為して居る。その列が向かう先にそびえ立つのは豪華絢爛足る、煌びやかな大内裏の姿だった。光り輝く白金と黄金の瞬きに彩られた大内裏はただ、雄大にそびえ立ち、オレを見下ろす様に佇んでいた。ふと、周囲を見渡せば、その終わりさえ見えない程に碁盤目状に広がった煌びやかな平安京が広がる。栄華の限りを極めた古き時代の都の情景にすっかり酔い痴れて居た。

 色鮮やかな装束に身を包んだ者達がいて、皆がオレを見つめて居る。多分、オレの後に続く列の中には斎王代となった結花が居るのだろう。時代を遡った光景の中、オレはこれ以上ない程に気持ちを昂らせていた。気が付いた時には大内裏はもう目の前だった。数多の金銀財宝を鏤めたかの様な荘厳たる大内裏へと踏み込んでゆく。いよいよ興奮は最高潮に達しようとしていた。

 再び気が付いた時には、丁度、目の前を勅使が去ってゆく所だった。今のは昼に見る夢だったのだろうか? 考え込んで居るうちに牽馬が通り過ぎてゆく。牽馬が過ぎれば、その後ろに続く風流傘が見えて来る。数え切れない程の牡丹や杜若といった季節の花を飾り付けた、大傘を手にした男達が過ぎ去ってゆく。

 人々の足音と馬達の蹄が奏でる音色だけがしめやかに響き渡る。周囲を舞う霧が一段と濃くなった気がする。いよいよ時の流れを超えて過去と現代が交錯するのだろうか? もしかすると、オレは結花以上に興奮を覚えて居るのかも知れない。そう考えると少々小恥ずかしい気持ちになる。そんなオレの気持ちを見抜いて居るのか、結花はそっとオレの顔を興味深そうに覗き込んでみせたが、すぐに何やら納得した様な眼差しで正面に向き直った。

 風流傘を見送ってから間もなく、華やかな斎王代列が目の前を歩み始めた。傍らでは結花が興奮した表情で目を大きく見開き、食い入る様に見つめていた。真正面を向いたまま、結花の肩に回した腕に力を篭めれば、結花は行列を見つめたままオレに寄り添って見せた。長い髪から花の様な、蜜の様な甘く、芳醇な香りがした。心地良い香りだ。思わず結花を後ろからそっと抱き寄せた。結花は、一瞬、照れくさそうに笑いながら振り返ったが、真っ赤になるオレを満足そうに見届けると、再び前を向いて見せた。結花の静かな笑い声が雑踏に消えてゆく。

 本列は言うなれば役人達の列である事を考えると、やはり斎王代列は本列と比べると華やかさが異なる。色鮮やかな着物と様々な花をあしらった華やかな傘に目を奪われる。結花が興味惹かれるのも頷ける。美しい物に憧れを抱く気持ちと言うのは理解できなくもない。

 命婦、女嬬と斎王代列の先陣を切る女官達がゆっくりと歩んでゆく。花をあしらった傘を手にした男達に寄り添う様に女官達が歩んでゆけば、いよいよ、斎王代の登場となる。言葉こそ発しなかったが、身を乗り出す様にして結花が興奮して居る様子が手に取る様に判った。

 十二単に身を包み、供奉者に担がれた一際豪華絢爛なる腰輿に運ばれながらゆっくりと歩んでゆく。その美しい姿に目を奪われ、思わず感嘆の吐息が漏れる。何時の日か、あの場所に結花が座って居る。そんな光景を思い描かずには居られなかった。結花が乗った腰輿を運ぶ供奉者を遠くから見つめるオレが居て――そんな妄想に想いを馳せながらも、オレは過ぎ去ってゆく斎王代をただ、ジッと見つめていた。イヤ、目が離せなかったと言った方が正しいのかも知れない。そこにオレは未来の光景を見ていたからなのだと思える。腰輿に運ばれ、皆から羨望の眼差しを向けられる結花の姿を。オレはビデオカメラを手に結花の晴れの舞台を収め続ける。もちろん、コタ達も皆一緒だ。オレなんかの下手な腕前では何処まで結花の姿を的確に収められるかは不安が残るが、それでも夢は尽きない。遠い未来に夢を馳せるのも悪くない。

 再び華やかな花飾りをあしらった牛車が通り過ぎ、列の最後尾を飾る命婦が過ぎ去ってゆけば、行列も間も無く終わりを告げる。その証拠に参道に集った人々の列もゆっくりと散らばってゆく。一時の異世界との出会い。年に一度だけ、この日にだけ赦された淡いの一時。その幻想に触れたくて、こうして、毎年の様に結花と共に見に来て居る。もっとも、本当の所は結花よりも、オレの方が乗り気なのかも知れない。その証拠に未だに興奮覚めやらぬ余韻の中、鼓動は高鳴り続けていた。

「斎王代の人、綺麗だったなぁ」

 結花の感嘆の声に、唐突に現実に引き戻される。

「ああ、確かにすげぇ綺麗だったよな」

「斎王代ってね、未婚の市民女性から選ばれるんだよ。あたしも何時か葵祭に参加したいな」

 結花の言葉に、心の奥底まで見透かされた様な感覚を覚えずにいられなかった。ドキリとさせられたオレは、敢えて、さも興味がないかの様に振る舞った。

「……ふーん。良いんじゃねぇの?」

「力丸君ってば、どうでも良いって言わんばかりの適当な返事だね」

 結花はオレの目をジッと見据えたまま、そう言って見せた。返答に窮したオレは慌てて空を見上げながら返した。

「ま、まぁ、オレは馬に乗ってみたいとは思ったけどな……」

 ふと、目線を戻せば上賀茂神社の本殿を目指し、一の鳥居をゆっくりと潜り抜けてゆく行列の後ろ姿が目に留まる。立ち込めていた霧も何時の間にか消え失せて居た。一体、何だったのだろうか? 葵祭の風情に誘われて現実に重なり合う様に非現実が訪れていたとでも言うのだろうか? それならば、上賀茂神社の本殿に向かえば再び非現実に出会えるのかも知れない。興味惹かれたオレは結花に向き直ると

「結花、オレ達も本殿に向かおうぜ?」

 そう、問い掛けてみれば、結花は予想に反して、小さく首を横に振って見せた。予想もしない反応にオレは驚かされた。あんなに楽しみにしていたのに、此処で引き下がるとは一体、どうした心境の変化なのだろうか?

「良いのか? この後、上賀茂神社の境内でも葵祭は盛り上がるんだぜ?」

 改めて問うて見せても、結花はにこやかな笑みを称えるばかりだった。

「人、大勢居る所、苦手だから」

「ああ、そっか。もしかして、人に酔っちまったか?」

 オレの問い掛けに結花は苦笑いしながら、小さく頷いて見せた。

「そうみたい」

「大丈夫か?」

 結花の身を案じたオレの問い掛けに対して、結花は来るりと踵を返すと颯爽と歩き出した。そのまま背中越しに

「それじゃあ、次の場所に向かおっか」

 驚くほど軽やかな口調で言い放って見せた。予想もしない振る舞いに、オレは思わず飛び上がった。

「はぁ? 未だオレを連れ回す気かよ?」

 驚きついでに思わず声を荒げれば、結花はわざとらしく目線を落しながら振り返って見せる。

「ああ、悪かった。オレが悪かった。だから、そんな顔をするな」

 やはり結花には勝てそうにない。

「……それで、次は何処に向かうんだ?」

 オレの問い掛けには応える事無く、結花は来るりと踵を返すと、相変わらず上機嫌な足取りで歩き始めた。やれやれとは思いつつも、結局、逆らう事のできない自分が居る。だけど、それも悪くない。こうやって振り回されてくれるのも中々に楽しい物だ。コタ達と一緒に居る時とは、一風違った情景がそこにある。オレは首から垂らしタオルを手に取り、溢れる額の汗を、首筋の汗を拭いながら結花の後を追い掛けた。

「ったく、しょうがねぇな……って、オイ、コラ! オレを置き去りにするんじゃねぇっての!」

 何時の日か斎王代に選ばれて葵祭に参列する事を夢見ていた結花。だけど、その夢は叶う事はなかった。次の年に再び、結花と一緒に葵祭を見ると言う願いも呆気無く断たれた。これが、結花と一緒に見た最後の葵祭になろうとは、この時のオレは想像すらしなかった。

◆◆◆4◆◆◆

 五月と言う季節は何とも中途半端な季節に思える。暦の上では初夏と呼ばれる時期であるが、この春でも無く、夏でもないと言う歯切れの悪さが今一つ好きになれなかった。白黒ハッキリさせたい性分のオレに取っては何とも不可思議な季節に思えた。もっとも、結花にしてみれば、こう言う季節の境目の様な淡い色合いを称えた命短き気候は、その儚さ故に大切に寄り添いたいのだと言う。

 花が好きな結花に取って、この五月と言う季節は、一年の中でも一際格別な季節なのだと言う。

 太田神社――オレ達の住んで居る社家の町並みの一角にひっそりと佇む、小さな神社。境内の池に自生する数百株の杜若が一斉に咲き誇るのは、丁度、五月の中頃となる。奇しくも昨晩から今朝に掛けてはシトシトと暖かな雨が降り頻っていた。水気を好む杜若に取っては、晴れ舞台への幕開けとなるに相応しい雨となったに違いない。

 人々は葵祭の活気に導かれるがままに上賀茂神社の一の鳥居を潜ってゆく。大勢の人の流れから逸れる様にしてオレ達は上賀茂神社を後にした。人々の喧騒から遠ざかる様に振る舞う。敢えて多数派の群れから逸れて、自らの主張を押し通そうとする少数派に身を置く。そう言う感覚は嫌いではない。自分の頭では何も考える事もせずに、ただ、皆がそうするから横に倣えと言う考え方が嫌いだ。そのくせ、何か自分に不都合があれば群衆に責任を押し付ける。結局、不平不満を口にする権利を手にしたいが為だけに多数派に身を置く。そんな生き方はオレの主義じゃない。オレは納得いかない事には徹底抗戦の構えで挑む身だ。好戦的? そうかも知れない。ただ、自分の意見を押し殺してまで、やりたくもない事を強いられる家畜の様な生き方は御免だ。

 明神川沿いにしばらく歩んだ先にある太田神社は、上賀茂神社とは比較にならない程に小さな、小さな神社だ。だけど、誰の目にも留まらずとも、ひっそりと佇む健気さも嫌いではない。

 オレの傍らでは未来の斎王代が無邪気にはしゃいで居る。まるで幼い子供だ。鼻歌混じりに陽気に歩き続ける結花の姿を、オレは腕組みしたまま見つめていた。幼い娘を持つ父親の心境と言うのはこう言う物なのだろうか? 妙な事を考えながら歩き続けていた。

 最高潮の賑わいを見せる上賀茂神社から離れるに従って、次第に社家の町並みは静けさを取り戻してゆく。むしろ、この界隈の連中もまた、皆、他の連中がそうする様に上賀茂神社に向かって居るのだろう。社家の町並みは静まり返っていて、人気も失せていた。ただ、変わる事無く流れ続ける明神川の涼やかな音色だけが、時が流れて居る事を告げてくれて居る様に感じられた。暮れ往く夕日をその身に受け止め、キラキラと瞬く様に煌めく明神川の流れは、風になびく黄金の錦糸を思わせる程に眩い光を称えて居た。瞬く様に流れ続ける明神川の流れに、一瞬、先刻思い描いた平安京の情景が重なり合う様な感覚を覚えて思わず息を呑んだ。だが、それは一瞬の気の迷い。非日常は形を潜めすぐに日常が戻って来る。安堵に胸を撫で下ろしながら、上機嫌そうに振る舞う結花に声を投げ掛けてみたい衝動に駆られたオレは

「姫君は随分とご機嫌な様子で?」

 そう、軽口を投げ掛けてみた。さて、興奮冷めやらぬ結花姫はどんな御反応を見せてくださるのかと楽しみに待ち侘びてみれば

「姫君? あたしの事?」

「他に誰が居るんだっての」

 オレの言葉にすっかり気を良くしたのか、結花は先刻目にした斎王代の様に妙に高貴な振る舞いで返してみせた。あからさまに芝居染みた振る舞いを見せる結花が可笑しくて、オレは声を出さずに笑った。

 日差しは夏を思わせる程に強くても、未だ日はそう長くはない。ゆっくりと日は傾き、辺りは次第に夕暮れ時の様相へと移り変わろうとしていた。そんな静けさと仄かな憂いに包まれた社家の町並みをオレ達は歩き続けていた。

 ふと、何気なく足元に目線を落としてみれば、長く伸びた二人の影が目に留まる。止まる事なく流れ続ける明神川の流れに寄り添う様にしながらオレ達は歩き続けていた。夕暮れ時の社家の町並みは人気が無くて、妙に静まり返っていた。皆、葵祭に出向いて居る中、オレ達だけが流れに逆らう様に振る舞って居るのが妙に心地良かった。

 西村家別邸前を過ぎれば藤木社が見えて来る。夕暮れ時の社家の町並みに向かって大きく手を伸ばさんとする力強い姿に、過ぎ去ってゆくだけの時の流れの中、変わる事のない姿を見せてくれる事に今日も安心感を貰えた気がする。

 太田神社をしばらく訪れて居なかったが、それには理由がある。未だ蕾の杜若を目にするのも成長過程が見られて楽しみではあったが、結花に言わせれば、それは舞台裏を覗き見する様な行為だと言う。来たるべき舞台公演の日を待ち切れずに、準備中の舞台裏を覗き見する様な行為は格好悪いと言われてしまえば、思い留まる事しかできなくなる。

「昨日の夜に夢を見たの」

 唐突に立ち止まると、結花はオレに振り返って見せた。

「い、いきなり何だよ……」

 相変わらず結花の行動は突飛で、オレには到底予想も付かない。戸惑うオレの顔を覗き込みながら、結花は静かに微笑んで見せた。

「昨日の夜に夢を見たの」

「夢? それで、どんな夢を見たんだ?」

 藤木社を後にオレ達は道沿いに歩み続けた。明神川に別れを告げて細い道へと移る。結花は相変わらず弾む様な足取りで歩むばかりだった。

「満開に咲き誇った杜若が風に揺れる情景を見たの」

 結花らしいと言えば結花らしい振る舞いだ。結花は勘が鋭くて、オレが何を考えて居るかなど、容易く見抜いてしまう。それだけではない。これから起こるであろう出来事まで、時として予見する事さえ珍しくなかった。不思議な能力の持ち主だが、結花はそれを否定する。

「偶然なんかないの。すべては必然なの」

「へへっ、またそれかよ? でもさ、お前の言う通りならば、きっと満開なんだろうな」

 最初の内は結花の言葉に懐疑的な反応しか示せなかったが、何度も同じ様な体験をして居ると、結花の持つ不思議な能力が本物だと認めざるを得なくなる。もっとも、結花からしてみれば、それは全て必然であって、決して、偶然ではないのだと主張するのだが。

「張り切って行こうね」

「意味判んねぇから。張り切って行く様な距離じゃねぇだろ?」

「良いじゃない? ほらほら、張り切って行きましょう」

「へいへい。姫君の仰せの通りに」

 他愛もないやり取りをしながらもオレ達は細い道を歩み続けていた。途中、横を通った琴と三弦の教室からは心地良い琴の音色が流れて来る。心地良い音色に後押しされる様にオレ達の歩調も上がると言う物だ。銭湯の手前、物静かな色合いの街並みの中に一際異彩を放つ、真っ赤な自動販売機が目に留まる。折角だ。何か飲み物を購入していくとしよう。

「何か飲み物買って来るから、ちと、待っていてくれ」

「あたしも何か買おうかな」

 一旦、足を止めて飲み物を購入したところで、再び歩き出す。既に日は傾き始め、暮れ往く夕焼け空の下、オレ達の影が長く伸びる。だから社家の町並みは茜色に染め上がり、多分、社家の町並みを歩むオレ達も、明神川の流れも、何もかもが茜色に染め上がって居るに違いない。

 風呂屋に床屋、立ち並ぶ地元の店とすれ違い、それでもなお歩き続けた。程なくして小さな十字路に至る。対面に佇む牛乳屋の緑色の屋根が目に留まる。茜色に染まる信号に別れを告げる様に左折する。多少広がった道路は両脇に民家がずらりと立ち並ぶ。この辺りは住宅地だ。一際静けさに包まれた通りをオレ達は歩み続けた。夕暮れ時を迎えた街を吹き抜けてゆく風は仄かに涼しくなっていて心地良く感じられた。それでも、相変わらず噴き出す汗をタオルで拭いながらオレは歩き続けた。

◆◆◆5◆◆◆

 小さな十字路を曲がっても、やはり、夕暮れ時の社家の町並みは茜色に染まっていた。今日と言う一日が終わり、明日へと移り変わってゆく時間帯。そんな物憂げな時間帯が心地良い。立ち並ぶ家々もまた茜色に染まって居る。社家の町並みを歩むオレも、オレの隣を歩む結花の姿も茜色に染まって居る。心地良い気候の中、オレ達は太田神社へと歩を進めていた。太田神社はもはや目と鼻の先だ。だからこそなのだろうか? 昂る想いをいよいよ抑え切れなくなったのか、結花は勢い良く走り出した。やれやれと思いながらオレもその後に続く。

 ゆっくりと歩みながら境内へと歩を進めれば、結花は池に向かい合ったまま小さく肩を震わせて居る。そっと結花の隣に並ぶと、オレは腕を組んで見せた。

 柔らかな細い緑色の葉の間から天を仰ぐ様に一斉に咲き誇る杜若の花達。緑一色の世界の中にひっそりと彩を添える紫色の花弁達。その光景は確かに息を呑む光景に思えた。年に一度だけ。恐らくは、この一瞬のために長い時を耐え忍んで生き抜いて来た事は想像に難くない。そう考えると、そのいじらしくにも、逞しい生き方にも、確かな共感を覚える。派手な色合いをして居る訳でも無く、華やかな大輪を咲かせる訳でも無く、ただ、ひっそりと、慎ましく咲き誇る杜若の淡く、色鮮やかな、目が醒める様な紫色の花が心に響き渡った。

「偶然じゃないの。すべては必然なの」

 杜若咲き乱れる池に向かったまま、結花が静かに口にした万感の想い。オレはその想いをただ、静かに全身で受け止めた。微塵も逃したくなかった。結花の想い、結花の願い、その全てを受け止めたかった。これはオレにしか為せない事なのだから。

「今日、こうして満開の杜若と向き合えたのは、決して、偶然ではなかったの」

 結花は尚もオレに背を向けたまま語り続ける。

「今日、こうして力丸君と一緒に太田神社を訪れた事も、決して、偶然ではなかったの」

「――必然だったんだろ?」

「そう。必然だったの」

 結花は嬉しそうに笑いながら振り返って見せた。

「ヘンな女だな」

「それも偶然じゃないの。必然なの」

「はぁ? オレがお前の事をヘンな女だって言うのも?」

「そうよ」

「意味が判らねぇよ」

「……意味なんてないの」

 不意に結花は静かに目線を落とすと、どこか寂しそうに呟いて見せた。今にも消えてしまいそうな眼差しに驚かされたオレは、慌てて結花の両の手を握り締めた。

「悪かった。謝る。だから、機嫌直せ?」

「怒って居るんじゃないの。傷付いた訳でもないの」

「じゃあ、どうしたんだよ?」

 結花は俯いたまま首を横に振って見せた。「自分でも良く判らないの」。今にも消え入りそうな口調だった。脆く、儚い夢の欠片は今にも崩落してしまいそうで、残された猶予は微塵もない。だからこそオレはどうすれば良いのか悩んだ。迷った。だが、時間は掛けられない。即座に返答しなければ崩落した夢の欠片は二度と戻らなくなってしまう。

 結花は浮き沈みの激しい一面を持って居る。オレはその理由を知って居る。知って居るからこそ、その理由を口にしたくなかったし、その理由に責任を押し付けたくなかった。オレが結花の事を守る。初めて出会った時から、そう、心に固く誓った。自分で自分の言葉を、覚悟を覆したくなかった。男に二言はない。それがオレの生き方だ。だから、オレは結花の隣に並び、そっと肩を抱いてみせた。

「杜若の花、綺麗だな」

「うん……」

 不思議な光景だった。池の向こう側には電柱と電線、それから、暮れ往く夕焼け空に沈まんとする、変わる事のない、当たり前の様に佇む住宅街が広がるばかりで、人々の生活の香り漂う日常の情景だけが無造作に広がって居る。そんな、日常の情景を背に受けながら、オレの目の前には非日常の情景が広がって居る。池一面に咲き誇る杜若の深みを帯びた紫色の花は、風が吹く度に静かに揺れていた。水気を孕んだ土特有の重みある、苦い香りが冷静さを教えてくれようとしていた。

 暮れ往く夕暮れ時の空模様は茜色一色で、照らし出される杜若達もまた茜色に染まろうとしていた。鮮やかな紫色の、柔らかな花弁に混ざり合う茜色に照らし出される姿は、舞台に立ち、照明に照らし出される舞台役者の様に思えて殊更に幻想的だった。

 ふわりと風が吹けば、それに応える様に杜若の瑞々しい葉が、柔らかな花弁が、柔らかく揺れ動く。幻想的な光景だ。ずっと見つめて居たい衝動に駆られる光景だ。その現実離れした美しさに、オレは心が浮かび上がる様な感覚さえ覚えていた。肉体から魂が剥がれ落ちる感覚と言うのは、こう言う感覚なのだろうか。不思議な気持ちで胸が一杯になる。心地良い優しさに包まれて居る様に思えて仕方がなかった。

「何だろうな。勝手な妄想かも知れないが、オレには、こいつらが唄って居る様に感じられる」

 気取った言葉は似合わないとコタ達には笑われるけど、オレには本当に杜若の花達が唄って居る様に思えて仕方がなかった。天を仰ぎ、葉に光る雨露を称えながら唄って居る様に思えて仕方がなかった。何を唄って居るかは聞こえ無くても、風に揺れながら、ただ嬉しそうに唄い続けて居る様に思えた。オレの言葉に興味を示したのか、結花も静かに杜若を見つめていた。好機到来。奇しくも結花の心に響きそうな言葉が脳裏に描き出された。だから、オレは結花の肩を抱き寄せたまま続けて見せた。

「お前に見て貰いたくて綺麗に咲いたんじゃないのか?」

「え?」

 オレの言葉に驚いたのか、結花は勢い良く振り返った。

「これも必然なんだろ? お前に見て貰いたくて綺麗に咲いた。それは偶然じゃ無くて、必然だった。違うか?」

 不思議な光景だった。雨が降った訳でもないのに、杜若の葉には雨露が輝いていた。残り香の様に置き忘れられた雨露に濡れた杜若の花は俯き、見方によっては、涙を流して居る様に見えなくもなかった。葉に残された雨露に夕暮れ時の日の光を反射して、茜色に煌めく姿、その儚い姿に夢幻の哀しみを見出した気がした。

「そう……だよね」

「だろ? なら、しっかりと目に焼き付けてやろうぜ。今日、今、この瞬間、命の限り咲き誇った花の姿、しっかりと記憶に留めてやろうぜ?」

 結花の表情に再び穏やかな笑顔が戻って来た。

「過ぎ去った時の流れは――なんだろ?」

 オレの言葉を受けて結花は力強く頷いて見せた。まるで幼い子供だ。無邪気な一面を目にする事ができた安堵感から、オレは小さく吐息を就いた。「ありがとう」と嬉しそうに言葉を投げ掛けると、結花は再び綺麗に咲き誇った杜若に向き直ってみせた。慎ましく咲き誇る杜若の向こうには民家が立ち並ぶ。体温の通わない無骨な電柱が立っていて、その電柱を無機的に繋ぎ合わせるだけの命無き電線が静かに風に揺れて居る。酷く現実的で、人の手が築き上げた冷たい文明に包まれた空虚な生活感あふれる景色の中に、そこだけ切り取られたかの様に佇む太田神社の景色は、だからこそ、言葉にできない物悲しさと、尽きる事のない慈悲に満ちあふれて居る気がして、胸が締め付けられそうだった。

「ねぇ、力丸君。ここで待っていてくれる? 池の周辺、ぐるっと見てきたいの」

「ああ。オレは此処で待って居る。気が済むまで見て来るといい」

「ありがとう」

 子供の様に無邪気にはしゃいだかと思えば、唐突に絶望の淵に沈んだかの様な振舞いを見せたりする。結花は厄介な病を患っていた。躁うつ病と言う心の病だと聞かされたのは出会ってから大分時が経ってからの事だった。

 当然の結果だと言える。陰湿ないじめに遭った末の結末だったのだから。いじめる奴らの心境はオレには到底理解できそうにない。恐らくは住む世界が違うのだろう。

 心ない連中は、何の関係もない第三者達は不登校になった結花の事を悪く言う。ざまぁみろと嘲笑う。怠け者だと罵り、いずれ社会から爪弾きされるのがオチだとほくそ笑み、年若いクセに人生詰んで居る憐れな娘と蔑む。それだけでは飽き足らないらしく、オレと一緒に過ごす僅かな一時さえも暴き出しては、日の当たらない路地裏で、何やら人様に言えない『ふしだら』な振る舞いをして居るに違いないと囁き合う。

 ああ、その事はオレも結花も良く知って居る。ガキ同士のクセに不適切な関係にあるに違いないとか、何だとか、事実無根な事を好き勝手に言いふらして回る。日本中の連中に叩き付けてやりたい気分で一杯になる。社家の町並みに生きるお上品な奥方達は、斯くも品性のない低俗愚劣なる哀れで、さもしい女達ばかりなのだと。身綺麗に創り上げて居るが、その舞台裏は乱雑に汚れ、酷い腐臭を放つ腐り果てた楽園に過ぎないのだと。

 オレからしてみれば、結花が羨ましいだけなのだとしか思えなかった。名家の家系に生まれ、幼い頃から気品あふれる生き方をして来た結花の事が羨ましいだけに違いない。そうした悪意が親の代から、子の代へと受け継がれてゆく。ただただ無為に連綿と受け継がれてゆく。負の連鎖だ。終わる事のない堂々巡りだ。その果てに居る結花が一手に受け止める。仕掛ける側は無数に居るが、受け止める結花は一人しか居ない。後は単純な話だ。結花が崩落するのは時間の問題だった。いや、既に結花はお前達の望み通り、冷たく渇いた音を立てて静かに陥落した。

 満足だろう? 結花をいじめた連中よ。お前達の願い通り、結花の心は粉々に砕け散った。今も砕け散った心の欠片を集めるべく模索し続けて居る。多分、もう二度と、元通りに修復する事は叶わない。だからこそ、お前達の心はオレがぶっ潰してやるから覚悟するが良い。例え結花が赦してもオレが赦さない。絶対に赦さない。地の果てまで追い詰めて、どんなに赦しを請うても赦すつもりは毛頭ない。絶望の淵で全身全霊の力を篭めて詫びるが良い。そんなお前達を嘲笑いながら、この手で一切合切の希望を叩き潰してくれる。

 憎悪に燃え上らんとする心を鎮めようと、オレもまた結花を真似て咲き誇る杜若に目線を投げ掛けてみた。そよ風に揺れる杜若の花は綺麗で、儚くて、溜め息が漏れる程に切ない運命を背負って居る様に思える。それでも、オレには結花が何を想い、何を願って居るのかは判らなかった。判らなかったけど……ただ、結花の無邪気な笑顔を見るのは嫌いではなかった。

「力丸君!」

 池の向こう側から、馬鹿みたいに上機嫌に手を振る結花の姿にオレはしばし見とれていた。やれやれと思いながら、オレは照れ隠しに仏頂面で腕組みしてみせた。暮れ往く夕暮れ時の日差しに照らし出されて、オレも結花も、萌える様な茜色に包まれていた。不意に、一陣の風が吹き抜ければ、杜若の花達もまた、風に静かにたゆたう様に揺れていた。

 結花は、口を開けば何ともヘンな女ではあったが、黙っていれば誰もが認める程に小奇麗な女だった。オレは、そんな結花の事が好きで、そんな儚い物語を歩む結花の事を大事に思っていた。男であるオレの腕で守り抜きたいと本気で思えた。何しろ、力一杯抱き締めたらガラス細工の様に呆気なく砕け散ってしまいそうな程に脆く、儚い存在だった。でも、そんな結花が好きだった。

 そう。『好きだった』と表現する事しかできない。それは即ち、過去形である事を意味する。結花は、もう、この世に居ない。もう、結花の笑顔を見る事もできない。何故なら、結花の物語は最後まで描き終わる事無く、途中で終わってしまったのだから。

 不意に吹き抜ける風の中、一本の杜若が茎から湿気た音を立てて折れた。池の向こう側で手を振る結花の姿が、ゆっくりと薄れてゆく。段々と霧が掛かった様に見え無くなってゆく。こうやって記憶の片隅から消え去ってゆくのかも知れない。消えない様にと、消えない様にと、必死で抱き締めても、無情にも腕の隙間から零れ落ちてしまう。少しずつ記憶の彼方から忘却されてゆく残酷な現実に抗う事はできない。

 砕け散ってゆく想い。冬の池に張った氷をそっと持ち上げて、手を離す。地面に叩き付けられた氷は、驚く程に呆気無く砕け散ってしまう。人の命も同じだ。人は驚く程に呆気無く死んでしまう。池に張った薄氷と同じ様に容易く砕け散ってしまう。

 花の命は短くて、儚くて、哀しみに満ちて居る。だから、あたしは花が好き。結花は以前、そう、口にしていた。短い命しか赦されないから。だからこそ、他の誰よりも花達の事を想い、慈しみ、愛したい。結花は常々、花達に対する尽きる事の無い慈悲心を見せてくれた。本当に花を愛していたのだろう。

 花を愛していた結花。お前は花を愛したのだろうか? それとも――儚く、哀しみに満ちた命短き物語を愛したのだろうか? オレの問い掛けに問い掛ける者は誰も居なかった。杜若の花はただ静かに風に揺れて居る。ほんの僅かな時間だけ花を咲かせる事を赦された身。季節が過ぎれば、また次の一年を待ち侘びて、葉だけとなって修練の日々を生きるばかり。

 なぁ、結花、お前は知っていたのだろう? だからこそ杜若の花を愛した。そうだろう? 後になって太助に教えて貰った知識なのだが、杜若の花言葉は――『幸せは必ず訪れる』。オレにはその事実が『偶然』だとは思えなかった。やはり、そこにも『必然』が込められて居る。そう思わずには居られなかった。

「なぁ、結花……お前は幸せだったか?」

 不意に、一陣の風が吹き抜けてゆく。さざ波の様に一斉に、葉だけとなった杜若が風に揺れる。杜若の花はただ静かに風に揺れるばかりで、オレの問い掛けに応える事はなかった。

◆◆◆6◆◆◆

 ある土曜日の昼下がり。朝から雲一つない空模様だ。ジリジリと照り付ける日差しの中、オレは明神川沿いを歩んでいた。ジリジリと照り付ける様な強い日差しがアスファルトを焦がす光景の中を一人歩んでいた。辺り一面から蝉達の鳴き声が割れんばかりに降り注ぐ。雲一つない青空の下、昼下がりの社家の町並みは酷く蒸し暑かった。滴り落ちる汗を何度も、何度も、腕で乱暴に拭いながらオレは歩き続けていた。クマゼミ達の力強い鳴き声が響き渡る中、ミンミンゼミの透き通る鳴き声と、時折混じるツクツクホウシの個性的な鳴き声が混ざり合う。蝉達もまた、この暑い昼下がりに、命を燃やして今を生きて居る。ただ前だけ見つめて、直向きに生き続けて居る姿に共感を覚えずには居られない。

 涼やかな明神川の流れが心地良く感じられる。豊かな水の流れゆく音色の中、時折車が往来する。自転車に乗った麦わら帽子の若い女性ともすれ違った。オレはただ悪夢に魘されて居るかの様に歩き続けた。

 通り沿いに居を構える小料理屋の前で立ち止まった。立ち止まりついでに、そっと顔を挙げる。空は何処までも果てしなく広がり、透き通る様に青かった。一点の曇りもない透き通る様な青空だからこそ、殊更に胸が締め付けられる様な感覚に包まれた。隙間だらけの心を持つオレとは対照的な空。何処までも広がって居る。照り付ける日差しは強く、腕がジリジリと焼ける様に痛んだ。滴り落ちる汗も、腕の痛みも、生きて居る証なのだと実感していた。ふと、足元に目線を投げ掛ければ、頬を伝って落ちた汗が地面に落ちる。じわりと広がった染みも、瞬く間にアスファルトの道路に静かに消え去ってゆく。ほんの一瞬で其処に在った事すら忘れ去られる。人の命と同じだと思った。

 全く馬鹿げた話だ。社家の町並みを歩き回った所で結花に出会える訳もないのに。それでも、結花の面影を追い求めずには居られなかった。だから、オレは明神川に寄り添う様に歩き続けた。汗が滴り落ちるままに歩き続けた。ただひたすらに結花の面影だけを追い求めて歩き続けた。

 嵐山での一件が引き金となり、鎮まったハズの古傷が再びうずき出した。結花の死から立ち直り切れた訳ではない。それでも、自分の中で必死で理由を探しては、何とか納得させようと試み続けた。幸い、支えてくれる仲間達のお陰で傷の痛みはゆっくりと鎮まりつつあるハズだった。だが、嵐山の騒動の最中で、克明に結花の幻を突き付けられた。その後遺症として、結花に会いたくて、ただ会いたくて、どうにも自分を抑え切れない事態に陥ろうとは思いも寄らなかった。情けない話だ。オレはこんなにも弱かったのだろうか。

「今日は格別に暑いな……」

 呟いてみても誰も応えてはくれない。隣を歩んでくれた結花の姿も今は失われてしまった。

「結花……」

 名を呼んでも応える者は誰も居ない。判って居る。そんな事、判り切って居る。結花は死んでしまったのだ。もう、この世に居ない。存在しない。炎に焼かれて、只の白く、小さく空虚な骨になってしまった。今は暗い土の中で眠って居るだけの存在だ。でも、それでも、結花に会いたい。ただ、結花に会いたいと切に願う。もう二度と会えないと判って居るからこそ、殊更に会いたいと言う想いを掻き立てられるのかも知れない。

 馬鹿な奴だと思う。失って初めて、その存在の大きさに気付かされた。一緒に居る事が当たり前の様になっていた。だから、もしも、ある日突然、結花がオレの前から姿を消してしまうと言う可能性なんて微塵も考えた事なんかなかった。「また明日」と声を掛けて、当然の様にまた会えると思っていた。だけど、そうではなかった。どれだけの涙を流しても戻る事のない時の流れ。現実は非情で、残酷で、それから……途方も無く意地悪で、底意地の悪い性分だ。

 オレはただ夢遊病患者の様に力無く社家の町並みを歩み続けていた。涼やかな明神川の流れる水音の中、蝉達の割れんばかりの鳴き声だけが響き渡る。バイクに乗った郵便局の配達員が駆け抜けてゆく音が風に溶けてゆく。静けさに包まれた社家の町並みに、オレの重い足音と息遣いだけが響き渡る。日差しは強くジリジリと容赦なく肌を焦がす。汗が吹き出し、ついでに溜め息が毀れる。

「ああ、もうすっかりビショビショだ。夕立に遭遇しちまったみてぇだな」

 キャップを脱いでみれば髪から汗が飛沫の様に飛び散る様が目に留まる。

「生きて居るって実感するよな」

 少し笑った。風が吹き始めたのか心地良い風がそっと頬を撫でてゆく。汗に濡れた体を撫でてゆく風が涼やかで心地良かった。熱くなった心を冷ましてくれる様で気持ちが安らぐ。

 どこかの家で線香でも焚いて居るのか、良い香りが街並みに彩を添えてゆく。オレはただ歩き続けていた。一歩、一歩と踏み込む度に足音が静かに響き渡る。明神川が流れゆく涼やかな音色と、オレの歩む足音。静けさに包まれた社家の町並みに微かな音色となって染み渡ってゆく。剥き出しになった腕がヒリリと痛む。照り付ける日差しがジリジリと容赦なく肌を焦がしてゆく。今日は雲一つない空模様だ。遮る物は何もない。汗が吹き出し、息遣いが荒くなる。それでも、ただ、魘されて居るかの様に歩き続けていた。

 明神川が大きく曲がらんとする手前に藤木社が静かに佇んで居る。風が吹けば大きなクスノキが称えた豊かな葉が、涼やかな音色を奏でてみせる。何時見ても威風堂々たる大樹だ。その大樹の足元には、時代の流れに置き去りにされた様な公衆電話が寂しげに佇む。その寂しげな姿に、オレ自身の姿を重ね合わさずには居られなかった。大丈夫だ。オレも時の忘れ形見の様な男だ。

「なぁ、結花。お前も見て居るか?」

 後から後から噴き出す額の汗を乱暴に拭いながら続けた

「今日も藤木社のクスノキはドッシリと構えて居る」

 オレの声に呼応するかの様に一際強い風が吹き抜けた。木々の葉が涼やかな音色を奏でながら揺れ動く。心地良い風だ。オレは石造りの椅子に腰掛けて、しばし風を感じていた。目を細めればすぐ隣に結花が並んで座って居る様な気持ちになる。

 クスノキに囲まれた藤木社はただ静かに佇んでいた。時の流れが無情に過ぎ去っても、変わる事のない景色がここにある。樹齢五百年を超えるクスノキ。この場所で通りを行き交う人々をずっと見つめ続けては、記憶に刻んでいた事だろう。その中には、オレと結花の姿もあったハズだ。

「さて、多少涼んだ所で行くとしようかな」

 応える者など誰も居ないのに、敢えて、誰かに語り掛けるかの様に呟いてみた。馬鹿みたいだ。でも、それでも良かった。馬鹿みたいに上機嫌に振舞って居なければ、後ろに引き戻そうとする弱いオレに呆気無く敗れて仕舞いそうだ。このまま行き倒れて死んでしまうのも悪くない。そうすれば結花に会える。確かに、結花に出会うと言う願いは叶えられる。

「……馬鹿な考えだな」

 死にたいなんて微塵も思っていない。死ぬのは恐ろしい。コタ達とも会えなくなってしまう。それに、死者達の行くべき世界には興味はない。オレは生きたい。現世を生きて、生きて、もっと沢山の事を知りたい。未だ、物語を終える時ではない。それだけは間違いないと言い切れる。

 宛ても無い旅。何の意味も為さない事くらい自分でも良く判って居る。それでも縋らずに居られない自分の弱さが滑稽だった。

 涼やかな音色を奏でながら流れゆく明神川に、どっしりと構える藤木社のクスノキに別れを告げ、オレは再び街並みを歩き始めた。入道雲が大きく膨れ上がる姿を見つめながら、ひっそりと佇む薬局と、郵便局とすれ違った。このまま暫く歩き続ければ太田神社に到着する。

 花が好きな結花は太田神社の杜若を深く、深く、他の何者よりも深く愛し、愛し続けていた。初夏の頃に池に咲き誇る杜若の花。華やかな淡い紫色の花が咲き乱れる情景は確かに幻想的で美しい。杜若が咲き誇る頃に結花と共に訪れた場所。一年の間に一度だけ咲き誇る杜若の姿に、晴れ舞台を重ね合わせて見ていた様に思える。花を咲かせる僅かな、本当に僅かな一時の為に長い時間を堪え凌ぎ、ようやくの想いで命の限りに花を咲かせる姿に、人の生き方を、命の重みを重ね合わせていたのかも知れない。

 結花の事を思い浮かべながらオレはただ道なりに歩き続けた。日はあくまでも空高く昇り詰めては、道を歩むオレを容赦なく照り付けた。照り付ける日差しにただ抗い、滝の様に流れる汗を何度も腕で拭いながら、オレは歩き続けた。

 道幅はいよいよ狭くなり車とすれ違うのがやっとな細さになる。丁度、横を通り掛かった琴と三弦の教室からは心地良い琴の音色が流れて来る。その涼やかな音色に思わず足を止めた。

(……あの日、あの時と変わらない音色だ)

 時が流れても変わらない物もあれば、変わってしまう物もある。だからこそ残酷だ。時の流れは本当に残酷だ。オレは小さく吐息を就いてから再び歩き出した。

 銭湯の手前、物静かな色合いの街並みの中に一際異彩を放つ自動販売機が目に留まる。石壁の殺風景な色合いと時折混じる木々の葉の深い緑色の入り混じる中に、唐突に現れる人工的な真っ赤な色合い。明らかに人の手が築き上げた物だと主張して居る。この光景も見慣れた光景だ。何度、この道を歩いたのか判らない。

 見慣れた風呂屋に、見慣れた床屋、立ち並ぶ地元の店とすれ違い、それでも、オレは細い路地を歩き続けた。すれ違う者は誰も居なかった。ただ、オレの歩む足音と、それから、重なり合う様な蝉達の威勢の良い声だけが空しく響き渡っていた。

 立ち並ぶ民家を超えれば程なくして信号が見えて来る。この信号を左に曲がれば太田神社は目と鼻の先になる。もっとも、今の時期に訪れても杜若は葉だけの姿になって居る。訪れる者も誰も居ない、ただ空虚なまでに静まり返った太田神社の情景しか見る事はできない。

 対面に静かに佇む牛乳屋に、細い道路の向こう側に寂し気に存在を主張する、色褪せたポストを後にし交差点を左に曲がる。汗を拭いながらオレは歩き続けた。相変わらず街は静けさに包まれて居る。変わる事のない情景の中、オレの歩く足音だけが響き渡る。間も無く視界の先に太田神社が見えて来る。民家に囲まれる様にしてひっそりと佇む姿。毎年、五月になると結花に連れられて良く訪れた場所だ。懐かしい情景を思い描きながら、オレはうっそうと生い茂る木々達に抱かれた小さな鳥居を潜り抜けた。

 周囲を生い茂る大きな木々に覆われて居る事もあり、昼間でも薄暗い境内は、どこか物悲しさを覚えずには居られない場所だった。照り付ける日差しが差し込まない分、涼やかさを感じる。湿気を孕んだ涼やかな気候を好むのは人だけではないらしい。時折、耳元を藪蚊が飛び回る羽音が聞こえる。すっかり魂の抜け切ったオレは煩わしい藪蚊を追い払う気力すら失せて居るらしい。人は何処までも駄目になれる物なのだなと自嘲的な笑みが込み上げる。もっとも、此処は木々に囲まれて居る事と、池に面して居る事もあり、湿気を孕んだ空気がすっかり汗ばんだ体には心地良く感じられた。生きる気力、少しだけ得られた気がする。

 結花と過ごした思い出の糸を手繰り寄せ、紡ぎ出す様に思い描いて居るうちに、導かれる様にして訪れた太田神社。此処には間違いなく、変わる事のない情景が広がって居るハズだ。ああ、今のオレを繋ぎ止めてくれる光景だと信じて間違いない。

 木々の香り、草の香りを孕んだ湿気た空気を肌で感じて居ると、不意に近くの木に蝉が止まった。ごつごつとした幹に止まった小さな姿。透き通る様な羽が日の光を浴びて微かに光を帯びる。その小さき者を驚かさない様に静かに佇んで居れば、やがて、ミンミンと鳴く威勢の良い声が響き渡る。腹から下をくの字に曲げる度に叫び声にも似た力強い声が響き渡る。何度も、何度も、腹を曲げて、命を燃やして鳴き続ける蝉の姿に目を奪われていた。蝉の声を肌で感じながら、ふと、何気なく池に目線を投げ掛けたオレは驚きの余り声を挙げてしまうところだった。

(一体、何がどうなって居る!?)

 信じられない情景がそこに広がっていた。満開に咲き誇る杜若の花――有り得ないハズの出来事が現実になる時、それは偽り以外に有り得ない。

『偶然なんてないの。すべては必然なの』

 結花の声が聞こえた気がした。その声に呼応するかの様に吹き抜ける風が頬をそっと撫でてゆく。何かが起きる。そんな気がして胸が高鳴った。図体デカい男が思い描く様な物ではないかも知れない。それでも希望に縋らずに居られなかった。

「結花……」

 伝えたい言葉なんか幾らでもあったハズだった。どうして、結花が生きて居た頃に想いを伝えてやれなかったのだろうか。本当に自分で自分が情けなくなる。結花を失った今更になって、こんなにも伝えたい言葉が沢山出て来る。どうしてこうなった? オレが非力だったからか? オレが無知だったからか? 拳を握り締め肩を震わせる事しかできないオレが酷く滑稽だった。

(結花……お前に会って、せめて一言、感謝の想いを伝えさせて貰いたい。ただ、それだけだ。ただ、それだけだと言うのに……)

 ああ、判って居る。頭では判って居る。生者と死者との間には超え様のない壁が佇んで居る。薄氷の如き薄い壁なのにも関わらず、決して超える事の叶わない壁が佇んで居る。判って居る。頭では判って居る。そう。頭では――。

「結花……お前に会いたい」

 蝉を愛した結花。その儚い生き方に嫉妬さえ覚える。結花が生きていた頃は、何気無く呟かれたその言葉の真意は理解できなかったが、今なら理解できる。結花が生きて居た頃のオレは、結花の本当の傷を知らなかったから。イヤ、知ろうともしなかったのだから……。

 大田神社――杜若の群生する神社。一面の杜若が紫色の花を咲かせる場所。「来年もまた一緒に見に来ようね」。オレに呼び掛ける結花の声が今にも聞こえて来そうに思える。近所と言う事もあったから毎年の様に訪れた場所だ。でも、一緒に見ると言う願いは、もう、叶わなくなってしまった。あの日、あの時、あの瞬間、結花の物語は終わってしまった。二度と動く事のない時計の針は、朽ち果てそうな程に錆付いてしまった。それは結花が望んで選んだ結末ではなかった。あの瞬間、結花の心は、茎から真っ二つに折れてしまった。無残に折れてしまった。だから、もう、結花と会う事はできなくなった。二度と。永遠に……。

 何時もオレの隣に居てくれた結花。だけど、もう、今は此処に居ない。今でも目を閉じれば、オレの傍らには結花が佇んで居る様に思えて仕方がない。結花の髪から漂う甘く、華やかな香りが好きだった。ずっと一緒に居ると信じて疑わなかった自分が滑稽に思える。どうして、もっと優しくしてやれなかったのだろうか。後悔ばかりが募ってゆく。

 夏の日差しは強くて、脆く、儚く、切なかった。ミンミンゼミが鳴く声だけが響き渡る。雲一つない青空。照り付ける日差しの中、オレは滴る汗を拭う事無く空を見上げた。不意に蝉の鳴き声が止まる。ぜんまいの切れた玩具の様に静かに消えゆくと、そのまま静かに木から落ちた。微かな声を挙げると、オレの足元に落ちた蝉は天を仰いだまま静かに事切れた。少し前まで蝉だった物は、今、ただの抜け殻と化してしまった。それはもはや蝉ではない。蝉だった物の亡骸に過ぎない。

 オレは再び空を見上げた。何処までも広がる青空は、だからこそ途方もない慈悲心に満ちあふれて居て、その雄大なる優しさに胸が一杯になった。照り付ける日差しの暑さに汗が後から後から滴ってゆく。頬を伝って落ちる涙。後から後から溢れていた。だけど、地面に落ちれば瞬く間に消えてしまう。そこに居た事すら忘れ去られる。丁度、オレと結花の物語の様に……。

◆◆◆7◆◆◆

 太田神社での出来事はオレの中で大きな意味を為そうとしていた。形無き物が形を為す。命無き者が命を宿す。現実と非現実が交わろうとして居る。そんな気がしてならなかった。何かが起こる。間違い無く起こる。それは予感では無く、確信へと変わろうとしていた。あの後、家に戻ったオレはしばしの眠りに就いた。再び目を覚ました時、既に外は夕暮れ時から夜へと移り変わろうとしていた。すっかり夕日も沈み、今日が終わろうとして居る情景が目に映る。

「偶然なんかない。全ては必然――だったよな」

 何かが起こる。間違い無く何かが起こる。逢魔が時と言う不可思議な時間に身を置いて居るからこそ、殊更に妖しの誘いを素直に受け入れる事ができそうだ。それは偶然では無く、間違いなく、必然であるハズだ。何者かが仕掛けた罠かも知れないけれど、それでも良かった。騙されると判っていながら、敢えて罠に嵌ってくれるのも悪くない。だから、オレは見えざる何者かに導かれる様にベッドから身を起こし、キャップを手に取った。目深にキャップを被り、そのまま部屋を後にした。

「……行くしかねぇよな」

 向かう先は上賀茂神社だ。結花との思い出が数多く残る場所だけに何かが起こるに違いない。そんな微かな希望を胸に抱きながら階段を一歩、一歩、踏み締めながら歩き続けた。玄関先で靴を履き、そのままそっと玄関の戸に手を掛けた。玄関の戸を開いた瞬間、外から蒸し暑い風が流れ込んで来た。蝉達の鳴き声。蒸し暑い風。ゆっくりと意識が遠退いてゆく感覚に包まれた。

◆◆◆8◆◆◆

 上賀茂神社では年間を通じて様々な行事が催される。その中でも葵祭と並んで、結花が気に入って居る行事がある。すっかり気温も高くなり、雨の日も増える梅雨の時期。その最中に催される行事がある。

 二年前――六月三十日の夕暮れ、オレ達は上賀茂神社を訪れていた。正確には、半ば強引に結花に連れられて訪れていたと言うべきだろうか。

「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」

「百人一首の歌だったな」

「力丸君、さすがだね。良くできました」

「へいへい。この時期になると、何時も口ずさんで居るから嫌でも覚えちまうってもんさ」

 夏越大祓――この大祓と言う行事は年に二回、六月と十二月に催される行事となる。半年間の罪、穢れを祓い清めて、次の半年を無病息災に過ごせるよう願う神事とされる。結花が口ずさんで居る和歌は藤原家隆が詠んだとされる歌で、ならの小川とは上賀茂神社の境内を流れる小川の事で、みそぎとは夏越大祓を示唆して居る。

「――で、合って居るよな」

「すごい、すごい! 力丸君、完璧じゃない?」

「……連日の様に同じ説明を聞かされ続ければ、オレみてぇな馬鹿でも覚えるっつーの」

 相変わらず結花は掴み所のないヘンな女だ。オレは溜め息交じりに茅の輪を目指して歩き出した。

「それよりも、オレ達もさっさと茅輪をくぐろうぜ」

 夏越大祓は昼の茅輪くぐりから始まる。もっとも、結花のお目当ては夜に催される人形流しとなる。この行事は毎年、参列者も少なくない。毎年賑わいを見せる行事だから無理もない。まだ夕暮れ時は活気にあふれて居る様に感じられる。だが、夜に催される人形流しは、昼の時間の活気あふれる空気とは一転して、厳かで、幻想的で、この世ならざる風情を称えた少し恐ろしい儀式となる。

 オレは結花の後に続いて高砂前に設けられた茅輪をくぐり左側へと抜けた。ふと、後ろを振り返れば、威風堂々たる二の鳥居の姿が目に留まる。広大な芝生が広がる向こうにそびえる一の鳥居は、何時も以上に威厳に満ち溢れた姿を称えて居る様に感じられて、地元に住む身としては何とも誇らしく思えた。再び元の位置に戻り、茅輪を潜り抜け、今度は右側へと抜ける。

「水無月の夏越の祓へする人は 千歳の命 延ぶと言うなり」

 オレの前を歩む結花が静かに口ずさみながら抜けてゆく。茅輪をくぐる際に言葉を唱えながらくぐり抜けるのもまた作法とされて居る。もっとも、オレには長過ぎる言葉は覚えられそうになかった事もあり、ただ静かに結花の後に続いた。

 一歩、また一歩、踏み込む度に白砂がじゃりじゃりと擦れ合う心地良い感触が足の指から伝わって来る。心地良い感触だ。大勢の人々が皆、それぞれの想いを胸に白砂を踏み締めてゆく。人の数だけ物語がある。以前、結花がそれとなく口にしていた言葉が不意に脳裏を過った。

 確かにそれはあるのかも知れない。誰もが皆、同じ物語を歩む事は有り得ない。当然、人の数だけ物語もでき上がる事になる。茅の輪を潜る人の群。皆、想い想いの物語を胸に抱きながら潜り抜けて居る。そう考えれば上賀茂神社は一体、どれだけの人の物語を見届けて来たのだろうか。ただ、黙して語る事無く、ただ、静かに受け入れてくれる。懐の深い事だ。

 楽し気に歩み続ける結花の後ろ姿を追う様にオレも茅の輪をくぐり続けた。再び元の位置に戻り、茅輪をくぐり抜けて左側へと抜ける。これを三度繰り返す。三度くぐり終えた所で結花が満足そうな笑みを称えて振り返った。

「あたしが口ずさんでいた言葉の意味、知ってる?」

「知らねぇよ」

 無知を馬鹿にされた様な気がしたオレは、ついつい苛立った口調で返してしまった。だが、結花はそんな事は微塵も気にする素振りすら見せずにオレの顔を覗き込んだまま解説を始めた。

「茅輪をくぐって夏越の祓いをした人は、寿命が千年にも伸びますよって意味なの」

「へぇー。そんだけ生きてりゃ、しわしわのババァだな」

 小馬鹿にする様な笑みで見下して見せても、結花は表情一つ変える事無く

「あたしがお婆ちゃんなら、力丸君はお爺ちゃんよ?」

 さらりと返して見せた。何とも言えない気分にさせられる一言だ。

「……何か、納得いかねぇな」

「あたしと力丸君は同じ年なんだから、そうなるでしょう?」

「そうだけどよ」

 やはり、何とも釈然としない気分に満ち溢れたオレを後目に、結花は相変わらず上機嫌そうに振舞っていた。オレの気持ちを察して居るのか後ろ手を組みながら

「私がオバさんになったら、あなたはオジさんよ」

 背を向けたままの結花にオレの表情など窺い知る事などできないにも関わらず、それでも、オレが憮然とした表情を浮かべるのを、むしろ楽しんで居るかの様に結花は上機嫌に唄い続けてみせた。その調子はずれな歌に周囲に参列して居る人々がクスクス笑う。耳が熱くなる感覚が居た堪れなくなったオレは結花を置いて、さっさと人形を探しに行く事にした。オレが居なくなった事に気付いたのか、結花が慌てて追い掛けて来る姿を見ながらオレは笑った。

「あんな調子はずれの下手くそな歌じゃあ、バチが当たるんじゃねぇのか?」

「そんな事ないわ。ほらほら、それよりさ、人形に名前書こう?」

「おう。そうだな」

 結花と並んで人形に字を刻み込んでいれば、妙な視線を感じる。何とも言い難い嫌な予感を覚えつつ、恐る恐る顔を上げれば、そこにはペンを握り締めたまま目を丸くする結花の姿があった。小さく息を就きながら、驚いた様な口調で「うわっ、力丸君ってば字、下手だねぇ」などと口にしてくれた。周囲の人々にクスクスと笑われたオレは一気に顔が熱くなる感覚を覚え、慌てて反論した。

「う、うるせぇな……でけぇ声出すんじゃねぇっての」

 人形にオレの名前と年を書いて、体に軽く擦り付ける。少々汗ばんで居るから気が退けたが、そう言う決まりなのだから仕方がない。それから息を三度吹き掛け、人形が完成した。

「うしっ! 完成だぜ」

「あたしも完成しちゃった。後は、八時になるまで待ちだね」

「そうだな。何か、腹減っちまったな。時間あるし、何か食い物探しに行こうぜ」

「あたしは飲み物が欲しいかな」

「日本酒をグイっといっちまうか?」

 酒を飲む様な振る舞いをして見せれば、結花が可笑しそうに笑いながら頷いて見せる。

「お酒に目覚めちゃうあたしかー。それも面白そうね。案外、凄い酒豪だったりしちゃうかもよ?」

 無邪気に振る舞う結花に、こっちが圧倒させられる。やはり、結花には勝てる気がしない。

「いやいや、真に受けるなよ……」

 未だ日は高く、ようやく夕暮れ時に差し掛かろうかと言う時間帯だった。人形流しが始まるのは夜の八時頃からとなる。当然、人形流しが始まるまで確かに時間があるのは事実だ。そこまで何も口にしないのも辛い物がある。それに、オレの事はどうでも良くても結花の事が心配だった。オレの記憶が正しければ、上賀茂神社を訪れる少し前に飲み物を口にしてから、何も飲み物を口にしていない。真夏の様な暑さは無くてもじめじめとした蒸し暑い気候に包まれて居るのは事実だ。暑さにやられて具合が悪くなっても困る。ここは一旦、コンビニで何か飲み物と食料を調達するのが無難だろう。

「結花、コンビニ行くぞ」

「あ、ちょっと待って!」

 歩き出した所で、不意に結花に手を掴まれた。一体、どうした事かと驚いて振り返ってみれば、静かにならの小川を指さしてみせた。一体何のつもりなのだろうか? コンビニは御薗橋の向こう側になる。行き先が明らかに逆方向だ。

「どうした? トイレにでも行来たくなったか?」

 真顔で問い掛けて見せれば

「違うわ」

 結花は顔を真っ赤にして眉をひそめた。見当違いな問い掛けをしてしまった事が悔やまれたオレは小さくなる事しかできなかった。そんなオレにはお構いなしに結花は続ける。

「ちょっとだけ寄り道してから行きたいの」

「まぁ、オレには拒否権はねぇからな」

 結花の言葉に、思わず大きな溜め息が漏れる。

「それで、気まぐれな姫君はどちらに行きたいんですかい?」

 オレの問い掛けに応える事なく、結花はオレの手を引くと、そのまま歩き始めた。やれやれと思いながらも、結局、オレは結花には逆らえない小心者だ。まぁ、こうして強引に連れ回されるのも慣れた物だ。最初の内は抵抗を試みたが、次第に無駄な事だと気付かされた。今ではすっかり飼い慣らされたも同然だ。もっとも、それを内心、楽しんで居るオレが居るのも事実だったりする。もっとも、こんな恥ずかしい事、結花には口が裂けても言えやしない。そんなオレの腹の内を見抜いて居るのか、結花は尚も上機嫌そうな足取りで歩み続けるばかりだった。結花の軽やかな足取りにオレも続いた。

◆◆◆9◆◆◆

 結花に手を引かれるままに導かれて訪れたのは上賀茂神社の一角、渉渓園だった。木々が生い茂って居る一角であり、周囲は生い茂る木々ばかりの静かな場所となる。人が訪れる事も少ない場所と言う事もあり、夏越大祓の賑わいとは裏腹に静けさが心地良い。すぐ傍を流れる明神川の涼やかな音色と、木々の香りに気持ちが安らぐのは確かだが、何故、結花はこの場所に連れて来たのだろうか。

「この木を見たかったの」

 結花はオレの手からするりと抜けると、風変わりな姿をした樹木へと歩み寄った。小さな広場の様な場所にどっしりと構える風変わりな見た目の樹木が佇んで居る。近くに歩み寄りじっくりと上から下まで眺めてみれば、見た目は何本かの樹木が密着して居る様に見えるが、目線を下げてゆけば、一本の樹木である事が判る。広場の中に佇む樹木は暮れ往く日差しを浴びて、その風変わりな見た目も相まって何とも神々しい姿に見えた。

「この木は『睦の木』って言うのよ」

「すげぇな。これ、一本の木なんだよな」

 近所にあるにも関わらず、その存在に気付いていないと言うのも間抜けな話だ。この近くを何度も通って居るのは事実だ。それでも、今、この瞬間まで気付かなかった。意識して見ていなくても、これだけ風変わりな風貌をして居るのだから、気付いても良さそうな気もするが……。

「この睦の木は樹齢三百年を超えるスダジイの木なの」

「三百年も生きて居るのか。すげぇな」

 結花の言葉に驚いたオレは、まじまじと睦の木を見上げてみた。

「それじゃあ、この木は上賀茂神社を訪れる連中を、三百年も見続けて来たって事になる訳か」

「そうなるわね」

 時の流れと言うのは凄い物だと、改めて実感させられる。この睦の木は、こうしてどっしりと居を構えて、往来する数多の参拝客を静かに見守り続けて来たに違いない。なるほど。結花が気に入るのも判る気がする。力強くどっしりと構える姿に触れる事で気持ちが落ち着く。変わる事なく、この場所に居続けて居ると言うのも頼もしい姿だ。留まる事のない時の流れの中で、不偏的な存在が居てくれると言うのは、それだけでも心の拠り所になってくれる。目にするだけでも気持ちが満たされる。それに、この独創的な風貌は、それだけでも、何とも言えない神々しさに満ちて居る様に思える。言うなれば、この木は上賀茂神社を行き交う大勢の人々の物語を見守り続けて来た守り人と呼ぶに相応しい存在なのかも知れない。どうか、オレ達の物語も記憶してくれ。そう、心の中でそっと願ってみた。

「一本の根から何本もの大樹が伸びて居る姿から、家族の結び付きを象徴して居るの」

 結花がオレに何を伝えたかったのか理解できたからこそ、オレは顔がみるみる熱くなってゆくのを感じていた。こんな顔、結花に見られたくない。それとなく結花に背を向ける様に振る舞った。もっとも、結花にはオレが何を考えて居るのかなど手に取る様に判るのだろう。背中越しにクスクス笑う声に、いよいよオレの顔からは蒸気が吹き上がりそうになっていた。

「あたしね、力丸君とずっと一緒に居たいなぁって思って居るの」

 嬉しそうに自らの想いを語る結花に、オレは何も口を挟む事ができなかった。ただ、ひたすらに顔が赤く、熱くなってゆく感覚だけを覚えていた。そんなオレの想いになど気付きもしないのか、結花は尚も弾んだ口調で想いを語り続けた。

「ほら。睦の木は家族の象徴でしょう? 力丸君とあたし、殆ど家族みたいな関係じゃない?」

「……か、家族!?」

「そうでしょう?」

「そ、それって、お、オレが……お前を!?」

 しどろもどろになりながらも、必死で問うてみようと試みた。だが、すっかり頭に血が上ったオレは興奮の余り、言葉すら出て来なくなってしまったらしい。

「いつか一緒に暮らそうね」

「……さっさとコンビニ行くぞ。腹減っていけねぇや」

 このまま結花に喋らせていたら、恥ずかしさの余り、顔から火を吹いて、そのまま消し炭になってしまいそうに思えた。だから、オレは結花には構う事無くコンビニに向かおうと考えた。ただでさえ蒸し暑いのに、一気に嫌な汗が噴き出した気がする。汗で張り付く服を剥がしながらも、オレは大股で歩き続けた。そんなオレに追い付くと、結花はさらなる追い打ちを仕掛けて来た。

「力丸君、照れて居るの?」

 オレは無言で真正面を睨み付ける様にしながら歩き続けた。

「ふふ、照れて居るんだ」

 何が可笑しいのか、結花は囃し立てる様にオレの顔を覗き込んで見せた。うっかり結花と目が合ってしまい、オレは思わず息を呑んだ。

「顔、真っ赤。力丸君ってば、やっぱり、可愛いよね」

「だーーっ! くだらねぇ事グダグダ言ってねぇで、コンビニ行くぞ!」

 思わず声を荒げて見せても、結花は静かに頷くばかりだった。それどころか、尚もクスクス笑い続けていた。すっかり結花のペースに嵌って居るのが悔しかったが、どう頑張った所で結花には勝ち目はない。このまま好きな様に振る舞わせて置くとしよう。

 それにしても、オレと家族になりたい――か。結花の考えて居る事は、やはり、オレには良く分からなかった。ただ、それだけオレの事を想ってくれて居る事だけは判った。オレを想う気持ちが判るからこそ、余計に辛く感じられた。結花はオレの隣を歩みながら、腕を絡めて見せた。

「どっかの誰かさんのお陰で、汗でベタベタだぜ?」

「気にしないよ」

「……ちったぁ、気にしろよ」

「ふふ、気にしない、気にしない」

「やっぱり、お前はヘンな女だな」

 夕暮れ時を迎えた街並みを、オレ達は歩んでいた。沈みゆく夕焼け空は物憂げな茜色で、オレも結花も茜色に染まっていた。二人の影が長く伸びていて、だけど、互いに密着して居るから一本の樹木の様な姿になっていた。偶然なのだろうか? 先刻、目にした睦の木を真似て居るかの様で不思議な気持ちで一杯になった。結花の願い、少しだけ叶ったのだろうか? 今のオレ達の姿、睦の木みたいだ。そう、口にしようかと思ったけれど、オレは出掛かった言葉を呑み込むと、そのまま空を見上げた。今が夕暮れ時で良かったのかも知れない。多分、今のオレの顔はこれ以上ない程に紅潮していたハズだから。

◆◆◆10◆◆◆

 一旦、上賀茂神社を後にしたオレ達は御薗橋を抜けて、通り沿いにあるコンビニで食料やら飲み物やらを物色していた。買い物して居る間、オレは結花が本気で酒を購入するのではないかと気が気ではなかったが、当の本人は自分の言葉すら忘れて居るのか、普通に紅茶を選んでいた。ほっとした様な、出鼻を挫かれた様な、何とも言えない気分にさせられた。もっとも、結花が気まぐれなのは今に始まった事ではない。迂闊に余計な事を思い出されても話がややこしくなるだけだ。さっさと会計を済ませてコンビニを後にするとしよう。既に飲み物を選び終えた結花に続く様に、オレも適当に食料を購入し、コンビニを後にした。

 無事に食料、飲み物を購入し終えたところで、再び上賀茂神社に戻って来たオレ達は境内の芝生に腰掛けてしばしの時を過ごす事にした。まだまだ人形流しの開幕までは時間がある。夕暮れ時の光景も悪くない。こうして芝生に腰を下ろしてのんびり過ごすのも悪くない。

 何だかんだと喋って居るうちに時間は過ぎ去っていく物らしく、気が付けば既に八時まで僅かとなっていた。寛いでいた連中も一人、また一人と芝生を後にしていった。それならばと、オレ達も人形流しに参加するために境内へと向かった。

 境内のあちらこちらに篝火が焚かれ、いよいよ人形流しが始まろうとしていた。ならの小川の水面に反射する篝火がゆらゆらと揺れ動き、言葉にできない幻想的な雰囲気が漂って居る。そんな中、白い装束に身を包んだ神職の人々が橋殿へと向かって来るのが目に留まる。

 先刻まで梅雨時特有の纏わり付く様な重みのある湿気が立ち込めて居たが、時が訪れると同時に空気が変わった様に思えた。ひんやりとした冷たく、鋭い風がそっと背筋を撫でてゆく様に駆け抜けてゆけば、唐突に辺りの空気が鋭く張り詰めた様に感じられた。いよいよ始まりの時だと、自ずと身が引き締まる様な感覚に包まれた。

 厳かな雰囲気の中、いよいよ人形流しが始まろうとしていた。時折、篝火にくべられた木々が爆ぜる音が静まり返った上賀茂神社の境内に響き渡る。漆黒の闇夜の中、篝火の炎だけが周囲を照らし出す。参列する人々も、神職の人々も炎色に染め上がっていた。闇夜の中、光を追い求めて彷徨う虫達の気持ち、少しだけ理解できた気がする。

 静かに流れゆくならの小川にも篝火が映し出され殊更に幻想的な雰囲気が醸し出されていた。普段は賑わいを見せる上賀茂神社の境内も、今宵ばかりは実に厳粛なる雰囲気が漂って居る。張り詰めた空気に身が引き締まる想いを覚えていた。境内には多くの人々が集まって居る。オレ達もその輪の中に加わり、二人並んで人形流しを見つめていた。この世にあって、この世ならざる情景の中に加われた事が素直に嬉しく感じられた。

 橋殿に集った神職の人々が謡う様に祝詞を口ずさむ。静まり返った上賀茂神社の境内に祝詞を読み上げる声が響き渡れば、いよいよ人形流しが始まる。オレの中でも緊張感が高まり始めていた。結花もまた、じっと祝詞を口ずさむ神職の人に釘付けになっていた。大勢の人々が押し寄せる夜半の上賀茂神社は、厳かな雰囲気に包まれていた。静まり返った光景の中、ただ粛々と祝詞が響き渡ってゆく。

 祝詞を唱え終えた所で人形がならの小川に流されてゆく。ゆったりと流れる人形達は、さながら春の桜吹雪が流れゆくかの様に幻想的で、儚くて、それから……どこか物悲しさを称えていた。不意に、春先に訪れた三条の高須川の情景が脳裏を過った。風が吹く度にはらはらと舞い落ちて葉川面を埋め尽くさんばかりに流れゆく桜の花弁。儚くて、切なくても、物悲しくて、そこには確かな哀しみが寄り添って居た。まるで走馬灯の様に脳裏を過ってゆく光景に、少し恐ろしさを感じていた。だからこそ、オレは結花の肩に回した腕に力を篭めた。何処にも行かない様に、桜の花弁の様に、ならの小川を流れゆく人形の様に流れ去ってしまわないように。

 篝火に照らし出されながら流れてゆく人形達。数多の人形の中にオレや結花が作った人形も含まれて居る事だろう。オレ達は流れてゆく人形達をただ、じっと見つめていた。人の穢れを背負った人形達はならの小川を旅立ち、やがて鴨川に合流し、永き時を経て大海原へと旅立ってゆく。壮大なる旅の始まりだ。半年分の穢れを背負い流れ、流れてゆく。オレ達は二人、寄り添う様に並んで人形を見つめていた。ならの小川を次々と流れてゆく人形を、ただ静かに見つめるばかりだった。それは厳粛な光景ではあるが、同時に、少し恐ろしい情景にも思えた。人々の穢れが流されてゆく。不思議で、物静かで、どこか現実離れした儀式。現実世界にあって、異界と手を重ね合わせる妖しの世界観に酔い痴れて居た。この世にあって、この世ならざる雰囲気漂う夏越大祓。そこに同席できた事が、結花と共に肩を並べて同席できた事が本当に光栄に思える。

 全ての人形を流し終えた所で若草色の装束に身を包んだ神職達が奏でる雅楽の音色が染み渡ってゆく。夜半の上賀茂神社。揺らめく篝火と風情を感じる雅楽と太鼓の音色。こうして夏越大祓はしめやかに終わりを告げてゆく。

「なぁ、結花。人形流しも終わったみてぇだし、そろそろ引き上げようぜ?」

 そっと結花の手を握ろうとすれば、結花の手はするりと逃げて行った。驚くオレを後目に結花は何かを見付けたのか、嬉しそうに走り出した。

「おい! 結花、待てって! 暗いのに走ったら危ねぇだろ!」

 オレの声など聞こえて居ないのだろうか。結花はまるで子供の様に軽やかな足取りで暗がりの中を駆け抜けてゆく。慌てて追い掛けるが、何しろ人が大勢居る。結花と違って図体のでかいオレでは、結花の様に軽やかに人の隙間をくぐり抜ける様な器用な芸当はできる訳もない。結局、片っぱしから人にぶつかりながら、オレは結花の後を追った。一体、何を見付けたのだろうか?

 橋殿から勢い良く走り出した結花はそのまま岩本社横を駆け抜けていった。驚く程に軽やかな足取りで走り抜ける結花を追い掛けるのは容易い事ではなかった。何しろ、オレは結花と違って図体がでかい身だ。結花の様に容易く人と人の間をすり抜ける様な器用な振る舞いはできそうにない。それでも、必死の想いで追い掛けた。睦の木が佇む渉渓園の裏を抜けて、奈良鳥居の前辺りまで辿り着いた所でようやく追い付いた。人混みの中を無理矢理駆け抜けたお陰で、頭から背中まで汗だくだ。結花は暗闇の中で立ち止まったまま、何かを目で追い掛けていた。楽しそうに笑う姿に、オレは怒る気力さえ失っていた。

「まったく……心配掛けるんじゃねぇっての」

「ねぇ、見て!」

「はぁ? 見てだと? 何をだよ?」

「ほたるが舞って居るの。ほら、ここにも、そこにも居るじゃない?」

 いよいよ頭が可笑しくなったか? そう思った瞬間、オレの目の前を一筋の光がふわりと横切って行った。

「うぉっ!?」

 暗闇に包まれた境内の中を舞う一筋の光。それは紛れも無くほたるの光だった。

「マジかよ……」

 何時の間にか辺り一面、ほたるが舞っていた。

「すげぇな。ほたる、こんなに沢山舞って居るなんて、驚いたな……」

「ね? すごいでしょう?」

「だからと言って、こんな暗い中を走り回ったら危ねぇだろうが」

「ごめんね。でも、すごく綺麗だったから、つい」

 色々言いたい事はあった。一体、何故、唐突に予想もしない行動に出たのかを問いたかったし、オレを置き去りにして走り去った事を咎めたい気持ちも否めなかった。だけど、こうして無事に追い付く事も叶った以上、口やかましく文句を言ってくれる必要も無いのではないだろうか。そんな気持ちになったのは事実だった。

 何よりも、暗闇の中、ならの小川沿いに舞うほたるの光は幻想的で本当に綺麗だった。言葉を失う情景と言うのはこう言う情景を指し示すのかも知れない。ほたるの光、本当に綺麗だ。でも、ほたるは哀しい昆虫だと、以前、太助に聞かされた話を思い出さずには居られなかった。

 ほたるは成虫になっても長い時間を生きる事はできない。飲まず食わずのまま短い生涯を終える。命の灯火を燃やして生み出す光。今にも消え入りそうな弱々しい光は、だからこそ脆く、儚く、何よりも物悲しかった。

 ほたると言う生き物の姿に結花の真実を重ね合わさずには居られなくなり、胸が締め付けられる感覚に溺れそうになっていた。

『力丸君と一緒に居る時だけ、あたしは本当のあたしで居られる』

 以前、結花が口にしていた言葉が重く圧し掛かる。ほたると同じだ。僅かな時間だけを赦された命。だけど、それは本当に僅かな時間だ。そして、その僅かな一時が終われば乾いた亡骸になる。短き命の物語。だからこそ脆く、儚く、切な過ぎる物語にしか成れない。

 それにしても、不思議な事もある物だ。周囲には人の気配が感じられなかった。先刻まで、境内には大勢の人が居たハズなのにどうした事なのだろうか。だが、そんな事はどうでも良かった。何故、結花がこの様な突飛な行動に至ったのか、そちらの方が気掛かりだった。

「お祈りしたの」

 そんなオレの心配を余所に、結花は相変わらずな振る舞いを見せるばかりだった。一気に気が抜けたオレは怒る気持ちを通り越して、呆れ果てていた。

「はぁ? どさくさに紛れてちゃっかりして居る事で……」

「何をお祈りしたか、聞きたい?」

「興味ねぇな」

 何時もの様に憮然とした態度で返して見せても、結花は可笑しそうに笑うばかりだった。そのままオレの前に歩み寄ると、そっとオレの顔を覗き込んで見せた。

「力丸君と、ずっと一緒に居られる様にってお祈りしたの」

 可笑しそうに笑う結花の頬を一粒の涙が伝って落ちた。どうして泣いて居るのかオレには判らなかった。だけど、ほたるの灯火に照らし出された結花の涙を目にした瞬間、月明りの様に儚く、瞬く涙を目にした瞬間、オレの中で、熱い想いが込み上げて来るのを感じた。気が付いた時にはオレは結花を力一杯抱き締めていた。そのままオレは勢いに任せて、結花のくちびるにオレのくちびるを乱暴に重ねていた。今まで、こんな行動を起こそうと考えた事もなかったけれど、自分でも驚く程に自然に振舞う事ができた。結花のくちびるは柔らかく、温かく、小さく震えて居た。

 結花は一瞬、硬直した様に背筋を伸ばした。だけど、次の瞬間、そっとオレの体に腕を回した。誰かに見られたところで、そんな事は、どうでも良かった。ただ、オレは結花を抱きしめたまま、ずっと、ずっと、くちびるを重ね合わせていた。体が触れ合って居るから、結花の高鳴る鼓動が伝わって来る。多分、割れんばかりに刻み込まれるオレの鼓動と、滲み出て来る汗の感触も伝わって居る事だろう。どれだけの時間、こうしていたのだろうか? そっとオレから離れると結花は顔を赤らめながら静かに笑って見せた。

「力丸君とずっと……ずっと、一緒に居るからね?」

「ああ。ずっと、一緒だ。オレがお前を守る。絶対、お前の事を守る!」

「……ありがとう、力丸君」

 嬉しそうに、だけど、照れ臭そうに笑う結花の頬を、再び涙が伝って落ちた。

「ねぇ、力丸君。何時か、あたし、力丸君の――」

 最後まで言い終わる事はなかった。何を言おうとしていたかは容易に想像が付いた。でも、だからこそ、その言葉を仕舞い込んでしまいたかった。その言葉を耳にするだけの、受け止めるだけの勇気を持つ事すらできないオレには、その言葉を耳にする事は赦されない。それよりも、何よりも、叶う事の無い願いを口にさせてしまう事が何よりも忍びなく思えた。違うな。そうじゃ無い。耳にしてしまえば責任を背負う事になる。その事を畏れただけの臆病者に過ぎない。とにかく、その言葉を口にさせる訳にはいかなかった。だから、オレは結花を抱き締めたまま、もう一度、結花のくちびるにオレのくちびるを重ねた。今度は壊れ物を扱う様に、そっと、優しくくちびるを重ね合わせた。言い訳にもならないが、心の何処かで謝罪の気持ちを抱いて居たのは事実だから。抱き締めて居るからこそ、密着した結花の髪からふわりと良い香りが舞い上がった。結花とこんな事をしたのは初めての事だった。だけど……これが最初で、最後だった。

 オレに取っては本当に夢の様な出来事だった。だけど、だからこそ、これがオレと結花が共に過ごした最期の夏になろうとは、あの時のオレには想いも寄らなかった。でも、今だから判る。結花は自分の死期を、あの時、既に悟っていたのではないだろうか? だから、オレにありったけの想いをぶつけた。そうとしか考えられなかった。そうで無ければ、あれ程までに覚悟を決めた振る舞いを見せる事などできなかったハズだ。だからこそ、夜半の上賀茂神社を舞うほたる達の様に命の灯火を燃やして、一夜限りの宴を紡ぎ出そうと必死の想いを見せたに違いない。だけど、だけど……意気地なしのオレは、結花が精一杯の勇気を出して伝えようとした想い、その想いからも目を背けてしまった。もう、その願いは叶う事はない。どうして、あの時、嘘でも結花の想いに応えてやれなかったのだろうか。自分で自分が嫌になる……。

◆◆◆11◆◆◆

 少し前の事になる。今年も六月三十日に、例年と変わる事なく、夏越大祓が催された。結花が居なくなっても世の中は何一つ変わる事はなかった。当然の様に夏越大祓は予定通りに行われた。当然の事と言えば当然の事のハズなのだが、オレの中では言葉にできない不思議な気持ちで一杯だった。独りぼっちで参列した夏越大祓。人形に汚い字で名前を刻んでも、結花は笑ってくれない。茅の輪を潜ってみても、調子外れな唄は聞こえて来る事はなかった。

 夕暮れ時の上賀茂神社は静けさに包まれていて、人の姿もまばらにしか見られなかった。暮れ往く夕日に照らし出された境内は、どこか空虚で寒々しい哀しみに満ちて居る様に思えて、妙に心地良かった。尽きる事のない哀しみを、終わる事のない痛みに、共感して貰えた様に思えて心地良かった。

 少年犯罪がニュースを賑わせて居る。ふと、そんな中で、目に留まるニュース記事があった。生まれたばかりの子犬を虐殺した少年の記事だった。その少年は大変な犬好きだったらしいが、だからこそ、その子犬の誕生を誰よりも、誰よりも喜んだらしい。そんな少年が何故、子犬を虐殺したのかという動機に興味を惹かれたオレはニュース記事を読み続けた。

 少年は子犬を溺愛していた。文字通り、目の中に入れても痛くない程に溺愛していた。だからなのだろうか? だからこそなのだろうか? 自分に取って世界一大切な物を、自分の手で壊した時、どれだけ心が痛むのかを見届けたかったのかも知れない。

 何故、その少年はこれ程までに歪んだ想いに身を委ねたのか? その理由は実に単純な物だった。少年は酷いいじめに遭っていた。担任教師は助けてくれる事はなかった。見て見ぬフリをしていただけでも万死に値するが、その教師はさらなる腐れ外道だったと記載されていた。あろう事か、担任教師までもがいじめに加担していたと言うのだから、世の中は救いようがない程に腐り切って居る。

 弱者は何時だって虐げられ、強者達のお慰み者に成る事を強いられる。弱き者達は強者達の糧となれ。気晴らしの道具になれ。つまりは、そう言う事か。実に判り易い構図だ。何しろ、弱き者達が居るからこそ学級は団結を見せられるのだから。皆に取って、共通の敵と化す事で、皆は弱き者を虐げると言う行為を通じて一致団結を果たす。

 強者達は勝者足る事の意味を知り、弱者で在る事が悲惨な結末しか招かない事を知る。その事を通じて世の中は勝者が正義だと理解する。弱者はお慰み者にしかなれない。人生の末路だと知る事になるのだろう。だからこそ学ぶ。敗者になってはならない。勝者であり続けなければならないと。

 実に美しい学校教育ではないか。少数の犠牲が大勢の勝者足る生徒達を育て上げる。人として壊れ果てた不良品であっても、勝者であり続ける事が正義であるなればこそ、弱者の存在は勝者を大量生産する上での必要不可欠な『媒介』になれるなら光栄だろうと言う訳か。それを『尊い犠牲』等と、さも、当然の様に口にする辺り、世の中は救いがない程に壊れ果てて居る。

 皆の糧となってしまったがために、逃げ道を失った少年は『勇気』を欲したに違いない。臆病だった少年が手にしたいと切に願った『勇気』。それは強者達に立ち向かう為の『勇気』などではない。この世から逃避する為の『勇気』だったと推測できる。そうで無ければ、この腐り果てた社会の在り方に疑問を呈する為の、命を賭しての『直訴』だったとするならば僅かながらでも意味を為すのかも知れない。だからこそ少年はこれ以上ない程の苦痛を手にする為に、敢えて、一番大事にしていた物を、唯一無二の親友を敢えて、自らの手に掛けた。それは恐らくは、想像を絶する苦痛だった事は想像に難くない。自らの四肢を切り刻むよりも、遥かに痛かったのでは無かろうか? だが、それでも少年は死に切れなかった。ただ、気が狂う程の果てしない絶望を手にしただけだった。

 偉い学者さんやら教育評論家達は、ここぞとばかりに好き放題な持論を展開する。ほら見た事かと、さも、自らの主張が唯一無二の正解であったかの様に声高々に叫ぶのか? 少年の心に何一つ寄り添う事なく、自らの正しさを切々と訴え掛けるだけの体温の感じられない持論には虫唾しか走らない。お前達も同罪だ。何も知らない外野の連中が、偉そうに講釈、垂れるな。お前達に少年の気持ちが判るのか? 絶望が、苦しみが、悲憤が理解、共感できるのか? できる訳ないさ……机上の空論では、人の心には決して寄り添う事など、できる訳がない。少なくてもオレはそう思う。

 その一方で、オレは少年の想いに共感を覚えた。その気持ち、理解できる。立場が違うから一から十まで理解する事はできなくても、少なくても共感はできる。だから、オレはこうして独りぼっちで夏越大祓に参列した。ああ、そうさ。自虐的な想いだけに駆り立てられた様な物だ。結花はもうこの世に存在しない。その事実を再認識させるために。傷を痛ませるために。かさぶたに成り掛けていた傷口を、敢えて抉る様な真似をした。傷を抉るだけでは飽き足らず、露出した柔らかな肉にあら塩を丁寧に塗り込んだ。当然、傷口は焼ける様に痛む。列記とした自傷行為だ。だが、それで良い。それで良いのだ。痛みを思い出したかったから。結花を失った壮絶な痛みを、絶望を、哀しみを。死を覚悟するまでに心が壊れた記憶を、心の叫びを声の限りに張り上げた事実を鮮烈に思い描来たかったから。紡ぎ出したかったから。痛みは憎しみへと変わる。噴き上がる憎悪を手にする事で鬼に成り果てたかったのだから。

◆◆◆12◆◆◆

 今年の夏越大祓もまた、結花と共に訪れた最期の夏越大祓の日と同じ様に、雲一つない晴天が広がっていた。夕暮れ時、萌え上がる様な茜色一色の光景の中、あの日と同じくコンビニで食料を調達し終えたオレは綺麗に透き通る様な空を見上げていた。もっとも、オレの周りだけは雨が降っていた。叩き付ける様な土砂降りの雨だ。一寸先さえも見えない程に激しい雨に降られて、オレはずぶ濡れになっていた。妙に生温く、体温の様な温かさを孕み、いやらしく纏わり付いてはオレの耳元で甘言を囁く生温かい雨だ。楽になってしまえば良いのに。生きる希望を失った今、結花の下へと誘ってくれようか? そんな甘言を囁く雨だ。

 冗談ではない。馬鹿にするな。オレはそんな戯言に耳を貸すつもりは毛頭ない。自らの不動の想いを形に表すかの様にオレは上賀茂神社の境内に広がる芝生にどっしりと腰を据えた。後は時が訪れるまでしばしの間を過ごすだけだ。

 あの時と違って今は独りぼっちだ。だから、ただ、こうして黙して佇む事しかできなかった。それでもオレは空を見上げたまま静かに時が訪れるのを待ち侘びた。

 どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 日は暮れ、辺りは静かなる夜半の闇に沈もうとしていた。巣に帰ってゆくであろう鳥達の群が空を往来する中、オレは一人、ぽつりと置き去りにされた様に上賀茂神社の境内に佇んでいた。風が吹けば芝生が静かになびき、木々の葉が空虚な音を奏でる。独りぼっちだ。オレは独りぼっちになってしまった。そんな気がして胸が締め付けられそうになった。日が暮れた境内を駆け抜けてゆく風は何処か冷たさを孕んでいて、オレの体温さえも奪わんとして居る様に思えて、妙に嬉しくなった。

 コタ達の存在がなかったら、オレは無事に結花の下に辿り着く事ができたハズだ。実に簡単な話だ。結花が死んだ……イヤ、殺された場所で道路に飛び出せば良い。それだけだ。あの場所は見通しの良い一本道だ。特に夜も遅い時間になれば交通量は減る。どいつも、こいつも、馬鹿みたいにかっ飛ばしてゆく。多分、痛みなんか感じる間も無く一瞬で死ねるに違いない。

 そんな事を考えて居る内に夜も更けて、人形流しが始まった。あの日、あの時と同じ様に煌々と燃え盛る篝火が焚かれて、大勢の参拝客達が穢れを払うべく、夏越大祓を訪れていた。皆、神妙な心持ちで挑んで居たであろう中で、オレだけが異質な存在だった。穢れも何も、オレ自身が穢れの元凶と化していた。いっその事、このまま人形になれたのであれば、大海原へと散るべく大義名分も果たせた事だろう。だが、それも叶わない。ああ、そうさ。オレは結局、ただの臆病者だ。何にも成れない半端者だ。

 結花の後を追う事は容易く為せるハズだった。何しろ、オレの手元には最高の道具が佇んで居る。常日頃から料理の修行のために研いで居る包丁だ。ああ、良く研がれた包丁だ。手首に宛てるなんて半端な事をせずに、首筋に宛がって、頸動脈をスパっと掻っ切ってやれば助かる事は絶対に有り得ない。簡単な話だ。オーケストラの第一ヴァイオリンの奏者にでもなったつもりで、首筋に宛がった包丁を力一杯、引けば良い。物の数秒で勝負は決まる。脚光浴びる舞台で真っ赤な花を咲かせて果てる事ができるのだ。華々しい最期で悪くないだろう?

「だけど、オレは結局、何処までも臆病者だった……」

 篝火を見つめながらオレは結花の事を思い出す事しかできなかった。ならの小川を桜吹雪の様に流れてゆく人形をただ、ジッと見つめる事しかできなかった。ただ、結花の笑顔を思い出し、肩を震わせ、唇が噛み切れる程に噛み締める事しかできなかった。ただ、結花と過ごした日々を思い出し、力強く握り締めた拳の中に爪が突き刺さる痛みを感じる事しかできなかった。

 そっと手を広げて見せれば拳の中に、爪の形にじわりと血が滲む。温かな感触に、確かに生きて居る事を実感した。一人、異様なる振る舞いを見せるオレに気付く者など誰一人としていない。皆、一心に流れゆく人形を見続けて居る。嫌な言い方をすれば、所詮、こいつらは自らの事しか、目先の事しか見えて居ないと言う事に等しい。全く、どこまでも馬鹿な奴らだ。穢れは、お前達のすぐ傍に居ると言うのに、誰一人として気付きもしないとは間抜けな話だ。

 それでも、やはりオレは半端者だ。結局、最後まで信念を貫ける程の強さはなかった。神聖なる場所で、一人、異形の振る舞いを見せてしまった事実がどうにも居た堪れなくなったオレは、逃げる様に渉渓園へと向かった。情けない程に弱虫だ。弱虫で、臆病者で、失った過去ばかりを追い求める愚か者だ。結花と共に語らった睦の木に救いを求めて、必死の想いで縋ろうとしていた。どんなに頑張ったって失われた過去が戻って来る事など有り得ないと言うのに。それは、丁度、このならの小川の流れを逆流させろと言われて居るに匹敵する物だ。できる訳がない事を追い求めても空しいだけだと言うのに。

◆◆◆13◆◆◆

 あの日、あの時と同じ様にオレは上賀茂神社の境内を歩き続けた。橋殿を後にして岩本社を目指した。あの日、あの時、夏越大祓が終わった後、結花を追って辿ったのと同じ道のりをオレは歩き続けた。ただ、結花の面影だけを追い掛けて。

 岩本社を経て渉渓園の裏を抜ける。奈良の鳥居まで辿り着いたところで、オレは足を止めた。忘れもしない場所だ。オレと結花の大切な……本当に大切な思い出が残る場所だ。結花と初めて唇を重ね合わせた場所。一度だって忘れた事はない。あれが最初であり、同時に、最後でもあったのだから。抱き締めた時の結花の壊れそうな感触も、柔らかな唇の感触も、良い香りのする髪も、全部、全て、何もかもがオレの記憶に刻まれて居る。ああ、忘れられる訳がないんだ。あれ程までに印象的な振る舞いを為したのだから。

「……ほたる?」

 不思議な事は起こる物だ。ならの小川の畔に立ったオレの目の前を横切る様に一匹のほたるがふわりと舞いながら飛び去って行った。慌てて周囲を見回してみれば、そこかしこに、ほたる達が舞って居るのが目に留まった。数え切れない程のほたるが舞って居る中で、オレはただ、立ち尽くす事しかできなかった。

 そっと空を見上げてみれば木々の隙間から覗く夜空には、月が綺麗に瞬いていた。皮肉な空模様だ。どうせなら空を埋め尽くさんばかりの暗雲が立ち込めてくれれば良かったのに。叩き付ける様な土砂降りに見舞われた方が、余程、オレの気持ちに寄り添ってくれて居る様に思える。だけど、誰もオレの願う通りには動いてはくれない。世の中は何時だって、オレを、オレ達の様な弱者を嘲笑うばかりだ。弱者は何時も虐げられるばかりだ。お慰み者に人権など無い。強姦され、棄てられるだけの女達と何ら変わらない。世の中の摂理は、何時だってそんな物だ。弱者は強者達のお慰み者として存在する事だけを強いられる。這い上がる事を望むな、求めるな。ただ、お慰み者としての短い命を真っ当するが良い。どうせ、代わりは幾らでも居るのだから。

 どいつも、こいつも腐って居る。叩き付ける様な雨よ降り注げ。何もかも暗い水の底に沈めてしまえ。結花の居ない世界なんか壊れてしまえば良い。体温の様に生温かい、頬を伝う涙の様に生温かい雨の底に沈んでしまえば良い。結花の居ない世界など認める物か。誰もやらないならばオレ自身の手でぶっ壊す――ああ、そうさ。これも嘘だ。全部、全て嘘だ。所詮、オレは口先だけなんだ。何も為せない半端者だ。ただの負け犬の遠吠えに過ぎない。自らの想いさえも主張し切れない弱虫のオレには、こんな惨めな願いを胸に抱く事しかできない。悔しくなる。ただただ悔しくなる。強くなりたかった……。

「風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」

 結花の真似をしてオレも口ずさんでみた。

「毎日聞いていれば……なんて強がって見せたけれどさ、本当はさ、お前に褒めて貰いたくて、必死で覚えたんだぜ? 馬鹿みてぇだろ? 笑ってくれよ」

 本当にオレは馬鹿だ。失ってから初めて、結花の存在がどれ程大きな物であったのかを思い知る羽目となった。結花が居なければオレは何もできない。その事に気付かされたのは、皮肉にも結花がこの世を去ってからだった。

 オレに取って、結花は妹の様な存在であったし、時に、姉の様な存在でもあった。確かに、結花は弱い女だった。誰かが死ぬ気で守ってやらなければ生きられない、ほたるの様な女だった。その一方でオレが辛い時は、弱いながらも必死でオレを支えてくれて、守ってくれて、時に慰めてもくれた。お前の優しさにオレは何時も甘えっぱなしだった。

 自分が何処に向かおうとして居るのか、さっぱり判らなくなっていた。結花に甘えたいのか、それとも、鬼に成り果てて世界を崩壊させたいのか。迷い続けるうちに体温が上がってゆく感覚を覚えていた。じわりと汗が滲む。腕から、首筋から、胸元から。すっかり汗だくだ。

 汗だくになりながら、結花の妙な振る舞いを思い出していた。汗っかきなオレは何時だって汗だくだった。それでも結花は何時だって、笑いながら腕を絡ませて来た事を思い出していた。暑いのに止せと言っても、結花は頑なにオレの言う事を聞かなかった。ベタ付いて居ようが、汗臭かろうが、そんな事はお構いなしに腕を絡ませた。何時も無邪気に振る舞って、子供の様な笑顔を見せてくれた。オレが辛い時には真正面から向き合って、支えてくれて、時に、駄目なオレを抱き締めて、慰めてくれた事もあった。優しかった結花。オレの事を一途に想ってくれた結花。だけど、結花はもう――この世に居ない。

 神も、仏も、結局、どいつもこいつも結花の無垢な願いに聞く耳すら持たなかった。例えば大量に金を貢いだら願いを聞き入れてくれるのか? それとも、下々の民衆共の下衆な祈りなんざ聞く耳すら持たないとでも言うのか? 結花の願いは無残に踏みにじられた……だからオレは独りぼっちだ。

 何が神だ! 何が穢れを祓うだ! 結局、何一つ救われやしなかった。願いは届かなかった。どうして……どうして! 結花みたいに、良い奴が死んで、結花の命を奪った腐れ外道がのうのうと生きて居る!? 間違って居る。何もかも……何もかもが間違って居る!

 なぁ、この世の中に神も仏も居ねぇとしたら、オレはこの怒りの矛先を誰に向ければ良い? 無差別に誰彼構わずぶっ殺してやれば気が晴れるか? どいつも、こいつも、オレを馬鹿にしやがって。神も仏もない世の中なら、オレが鬼になってやる。何もかもを喰らい尽くす程の悪しき鬼となりて、無差別に人を殺め続けてくれる。結局、誰も結花が死んだ事に対して何の反応も示さなかった。ふざけるな! 結花を死に追いやったお前達の事、オレは絶対に赦さない。お前達が生きていて良い理由など微塵もない。結花を死に追い遣ったあいつらも赦せないが、それを見過ごすだけだった担任の岡崎千雪も赦さない。無論、見て見ぬフリをした連中もまた同罪だ。必ずや、オレの手で仕留めてくれる。どいつも、こいつも、皆、赦せない! 何故、結花だけが死ななければならなかった? 何故、オレだけがこんなにも惨めな想いをしなければならない? 正義とは何だ!? 法とは何だ!? 秩序とは!? 誰も裁きを下さないと言うならばオレが鬼になる。オレが鬼になってくれる。どいつも、こいつも、皆、同罪だ。連帯責任で人と言う生き物全てをこの手に掛けてくれる!

 ああ、上等だ。無差別殺人だろうが、なんだろうが、やってやるさ。何しろオレは復讐を果たすために鬼に成り果てた身だ。そんなオレを世の中の連中は馬鹿な奴だと嘲笑う。憐れな奴だと蔑む。気の触れた奴だと大々的に報道するだろう。ここぞとばかりにお偉い学者さんやら、ジャーナリストやらがしゃしゃり出てきて好き勝手な持論を展開する。シナリオ通りの展開だ。結花を守る上では何一つ役にも立たなかった錆び付いた法が、オレに対しては研ぎ澄まされた姿を見せ付けてくれる。つまり、そう言う事だ。

 警察と言う名の偽りの秩序に問われて、人々の好奇に晒されて、オレは冷たく、無残に殺められる。目隠しをされたまま埃臭い部屋に閉じ込められる。十三段の階段を一歩、また一歩と上り詰める。十三段に達したところで、唐突に足元が消え失せれば後は簡単な話だ。蓑虫の様に無様に吊るされて、そうやって、少しずつ、少しずつ、指先から爪を食い破って感染して来る、冷たく、残酷で、底意地の悪い死と言う悪意に喰らい尽くされるだけだ。そこまで至れば話は早い。後は惨めに腐敗してゆくだけだ。じわじわ腐り果てて、やがて、酷い腐臭を放つだけだ。惨めな最期だ。そこには爪の垢程の救いすらない。

「……そんな度胸もねぇクセに、格好悪いな、オレ」

 ならの小川は静かに流れ続けてゆく。木々の隙間から覗く月明かりの中、ならの小川を流れゆく人形が目に留まった。ゆっくりと流れてゆく人形。一つ、また一つ。

「……オレと結花って事か」

 笑った。ならの小川の流れをジッと見つめたまま、オレは笑った。結花の笑顔を思い出して。結花と共に過ごした幸せだった一時を思い出して。笑った。

「へへっ、これもまた偶然じゃ無くて、必然だとでも言うのかよ?」

 笑った。笑って、笑って、それから、泣いた。

「結花……オレ、お前に会いたい! 会いたいのに……どうして会えないっ!」

 頬を伝って落ちる涙。温かな体温の中に、確かに生きて居る事を実感した。涙は後から後からあふれてきて留まるところを知らなかった。頬を伝ってならの小川に零れ落ちてゆく。一粒、また一粒。流れに乗って鴨川に合流し、最後には大海原で出会えるのだろうか?

「それとも……オレも死ねばお前に会えるのかよ?」

 哀しかった。ただただ哀しかった。温かな涙、後から、後から溢れては地面に零れ落ちる。男らしさなんてかなぐり捨てて、恥も外聞も一切合切投げ捨てて、惨めに弱音を吐ければどんなに良かっただろうか。だが、オレは周囲の目を気にして、本当の自分を演じ切れなかった。だから、オレは拳を握り締めた。握り締めた拳の中で爪が突き刺さらんばかりに握り締めた。歯を食い縛った。力を篭め過ぎた上下の歯がぶつかり合って砕けんばかりに。

「畜生……畜生っ……」

 体の奥深くから何かが湧き上がる様な感覚を覚えた。体の中心から湧き上がった怒りは、瞬く間に体中を駆け巡った。指先から中心へと向けて、燃え盛る炎の様な熱い痛みが駆け巡った。ただただ激しい憎悪で身を焦がさんばかりになっていた。

 だから、オレは走った。力の限り境内を走った。石段を力の限り踏み込んで走り続けた。石段を力の限り駆け上って、オレはそのまま勢いに任せて二葉稲荷神社まで駆け込んでいた。

「はぁっ……はぁっ……」

 この場所はオレのお気に入りの場所の一つだ。結花とも良く訪れた場所だ。高台から社家の町並みを一望できる場所と言う事もあって、高台からの景色を見たくて、何度も、結花と共に訪れた場所だ。オレと結花の思い出の残る場所の一つと言える場所だ。だが、今日、今、この瞬間上り詰めたのは結花との思い出を手繰り寄せたいからではない。ここは高台だ。ここからならばオレの声も良く響く事だろう。ああ、響かせてやるさ。オレの心に燻るありったけの憎悪をばら撒いてくれる! 今日、今此処に、オレは鬼になる事を宣言する! 何もかもを討ち滅ぼす鬼になってくれる! その決意表明であり、これは宣戦布告だ。臆病者で、弱虫で、何にもなれなかった半端者のオレだが、今こそ、一人前の姿を手にしてくれる。どいつも、こいつも、皆、赦さない!

「畜生ーーーっ!」

 天を仰いでオレは力の限り叫んだ。

「うおおおおーーーーーーーっ!」

 泣いて、泣いて、それから、ありったけの力を篭めて叫んだ。オレの怒り、天を動かせ。オレの怒り、燃え盛る炎となって何もかもを焼き尽くせ!

◆◆◆14◆◆◆

 月の綺麗な晩の事。すっかり日も暮れた街並みは夜半の宴へと移り変わる妖しの刻。夕闇に紛れて誘われるは鬼か、物の怪か、はたまた闇に蠢く異形の存在か? 想像力が異様なまでに盛んに掻き立てられる気候と言うのも、中々に背徳的で心地良い。このまま本能の赴くままに、勢い任せに妄想を暴走させてしまうのも、また、一興なのかも知れない。

 月明りだけが照らし出す中、俺達は静けさに包まれた泉涌寺の参道を歩んでいた。闇に紛れて何とやら。夜半の参道は当然の事ながら人の気配も無く、月明かりに照らされた俺達の影だけが歩んでいた。参道の両側からは身を乗り出す様に木々達が迫り出して居る様に見えた。穏やかな空気が流れゆく感覚に抱かれるのは悪い気持ちではない。とは言え、そこは夏の夜。涼やかで心地良い風からは程遠い、湿気を孕んだ纏わり付く様な蒸し暑い風だった。静かに歩んで居るだけでも自ずと汗がにじみ出る。既に額も、髪も汗で酷く濡れていた。

 クロは相変わらず腕組みしたまま静かに歩き続けていた。時折、俺の表情を窺いながら満足そうに微笑むばかりの振る舞いからは、何を考えて居るのかを窺い知る事はできそうになかった。否、むしろ――何を企てて居るのかと言った方が適切か? 相変わらず良い性分だ。今宵は何にまつわる話をしようとして居るのだろうか? 敢えて泉涌寺を選んだ理由は何なのだろうか? 否、こうして俺が疑念を抱く姿を楽しんで居るだけかも知れない。一人静かに目を伏せながら考え込んでいれば、クロの笑い声が静かなる木々の闇に響き渡る。

「そう身構える事もあるまい。何も肝試しに誘おうと考えて居る訳ではない」

 俺は立ち止まり、溜め息混じりにクロに向き直った。眉間に皺を寄せて見せれば、クロは首を傾げながら挑発するかの様な含み笑いで返して見せる。相変わらず良い性分をして居る。思わず小さく吐息が漏れる。

「お前の相手をする時は常に真剣勝負だ。身構えるなと言う方が無理がある」

「ふふ、余程、我は扱いに注意が必要な身と見える」

「違うと言い切れるのか?」

「それはコタ次第よ」

「……性悪なカラス天狗だ」

 尚も楽しそうに振舞うクロを置き去りにして歩き出せば、俺の少し後に続く様にしてクロも歩き出す。夜の泉涌寺境内は驚く程の静寂に満ちて居る。虫達の鳴き声だけが囁き合う様に響き渡る中、俺達の足音だけが微かに重なり合うばかり。遥か遠くから鳴り響くクラクションと、それから忙しなく駆け抜けてゆく消防車のサイレンだけが小さな雑音の如く混ざり合う。だが、そんな雑音はほんの一瞬で木々の葉にかき消される。瞬きする間に、そんな雑音は無かった事にされてしまう。それにしても、本当に心地良い静寂だ。意識を集中すればクロの鼓動さえも聞こえるのでは無いかと思える程の静寂だ。加えて今宵は月が綺麗だ。地上の蒸し暑さとは無縁なのか、夜空は何処までも晴れ渡っている。今の時期にこれ程までに月が綺麗に見られるのも珍しい事なのかも知れない。

 普段、人の手が築き上げた街明かりの中で暮らして居ると、人工的な光のない場所を歩むと言うのも中々に珍しい体験になってしまう事が、殊更に不可思議に思えてしまう。山奥に暮らして居るならばそうした景色に触れ合う事も珍しくはないのかも知れないが、市街の、それも夜になれば享楽に満ちた賑わいを見せる花見小路の近所に暮らしていればこそ、尚更、そう思わずに居られなくなる。

 総門を後にしてどれ程の時間が経過しただろうか? 時計も持たない状況では時の流れさえも判らない。俺達の歩く小さな足音だけが静けさに包まれた参道に響き渡る。点々と申し訳程度に置かれた街灯から漏れ毀れる光も、この静かなる情景に敬意を払っているのか穏やかな光を称えて居る。

 緩やかな坂道をしばし歩んでいれば、程なくして三叉路と出会う。なるほど。此れは面白い。左手に目線を投げ掛ければ、暗闇の中でも鮮明に浮かび上がって見える小さな橋の欄干の、赤い色合いが目に留まる。橋を渡れば今熊野観音寺に至る。だが、クロが向かおうとして居るのはそちらでは無さそうだ。そうだろう? と、横目でクロの表情を覗き込めば、クロは静かに頷いて見せた。

「向かう先は泉涌寺の先、雲龍院よ」

「意外だな」

 想定外の返答に驚いた俺は思わず足を止める。

「広大な敷地を誇る泉涌寺を目指さんとして居るのかと思ったが」

「立ったままでは話もし辛かろう? それに、今宵は蒸し暑い。涼やかな場所に腰掛けて語らいたいと思うてな」

 クロの口調には確かな含みが感じられた。なるほど。腹の内では何か企てがあると言いたい訳か。しかも、その事を敢えて表に出す辺りが実に性悪な振る舞いだ。俺はこれからお前を騙す。精々身構えて置け。こうも潔く正面切って宣戦布告をしてみせるとは、余程、策に自信があると見える。だが、策士策に溺れると言う言葉もある。さて、その策に対して、どう抗ってくれようか? はたまた、想定外の奇襲を以って先制攻撃を仕掛けてくれようか? 俺は不遜な態度を崩す事の無いクロを見つめたまま、そんな事を考えていた。

「なるほど。それで――予想通りの振舞いを見せるつもりか?」

「ふふ、翼ある者に取っては門など在って無き物よ」

 何を当たり前の事を問うか? そんな、自信に満ちた表情で胸を張られれば言い返す術を失うと言う物だ。その恐ろしいまでの潔さに、溜め息ついでに笑いまで毀れて来る。

「慣れとは恐ろしい物だな。そうする事が当然の様に思えて来るから恐ろしい。もっとも、俺が一人でそんな真似をすれば、住居不法侵入の罪でお縄を頂戴する羽目になる」

「なに、案ずる事はない。仮にその様な事態に直面する機会があったとすれば、その時は我がお主を奪還してくれよう。気分は現代社会に蘇ったねずみ小僧よ」

「随分と黒いねずみ小僧だな」

「闇に紛れるには便利であろう?」

「正義の味方の言葉とは思えないな」

「ふふ、正義の味方など詰まらぬであろう? 我は華麗なる悪役を目指すまでよ」

「……やはり、お前の捻じ曲がった道徳心を矯正する為の教育が必要と見た」

「ほう? それで、どの様な教育を施してくれるのであろうか?」

 楽し気に振る舞うクロの言葉を受け流しながら、俺は歩き出した。闇夜に浮かぶ鮮やかなる橋の赤に別れを告げて、俺達はさらに歩き続けた。周囲は木々に覆われて居る事もあってか、闇夜に包まれて居る。俺達、人は闇夜の中では何も見えなくなるが、虫達には見えて居るのかも知れない。辺り一面から響き渡る虫達の鳴き声は驟雨の如く横殴りに降り注ぐ。実に心地良い音色だ。其処に根付く大自然の息吹を確かに感じる事ができたかの様で良い気分になれる。穏やかな風が吹き抜ければ、しっとりとした湿気を孕んだ土の匂いが湧き上がる。此処には確かに大自然の想いが横たわって居る。そう実感しながら一歩、また一歩と歩み続けていた。虫達の鳴き声に重なり合うのは、やはり、俺達の歩む足音だけだった。

 緩やかな坂道も、泉涌寺へと続く手前から傾斜が多少険しくなる。いよいよ泉涌寺へと続く道だと、力強く告げられた様な気がして、気持ちも引き締まると言う物だ。額から滲み出る汗を拭いながら坂道を上る。互いに一言も発する事無く、互いの息遣いだけを耳にしながら歩み続けた。

 坂道を上り切れば広い敷地に至る。この場所には、時折、観光バスと思しきバスが停車して居るのを目にした事がある。やはり、泉涌寺ともなれば人も大勢訪れるのだろう。向かって左手には泉涌寺の大門が居を構えて居る。固く閉ざされた門は威風堂々たる威厳の様な物を感じさせるには十分過ぎる。だが、今宵の侵入先……もとい、目的地は雲龍院となる。このまましばし歩き続けた先だ。それにしても、日も暮れたと言うのに随分と蒸し暑い。軽く歩いただけだと言うのに胸元から、背中から、額から汗が噴き出す。俺は額の汗を腕で乱暴に拭いながら歩き続けた。

 泉涌寺を超えた先の参道を道なりに歩んでゆく。月明りだけが照らし出す暗い道をクロと共に歩む。静けさに包まれた参道に、俺達の歩む足音だけが染み渡ってゆく。しばし歩んだ所で道なりに沿って左手へと曲がった。月明りだけが照らし出す参道は、周囲を木々に覆われて居て心地良く感じられる。木々の隙間から、生い茂る草の合間から聞こえて来る虫達の鳴き声を肌で感じながら歩み続けた。緩やかな坂道を上り切った所で、今度は右手に曲がる。程なくして俺達の視界の先に風格を感じさせる小さな山門が見えて来る。数段の短き石段を上った先にある山門は、雲龍院の玄関口となる。

 山寺を思わせる赴きある山門は当然の事ながら固く閉ざされて居る。周囲の木々の隙間から響き渡る虫達の鳴き声を肌で感じながら振り返れば、クロが静かに頷く。そのままクロの手を借りて俺達は無事に雲龍院への侵入を果たした。予想通り、夜半の雲龍院は静けさに包まれて居る。

 山門を抜けてすぐのところには衆宝観音像が静かに佇んで居る。こっそりと侵入を果たした俺達の悪行の一部始終を見届けられてしまった様な気がして、思わず身が竦む。そんな俺の振る舞いには微塵も気付く様子もなく、クロは颯爽と俺の後ろを通り過ぎていった。

 思わず溜め息が毀れる。俺は衆宝観音像に一礼をしてからクロの後を追った。

 玄関先へと続く細い石床の道が心地良い。広大な寺が持つ威風堂々とした威厳に満ちた雰囲気も悪くないが、こう言う細く、こぢんまりとした道は懐かしい故郷に戻って来た様な温かな気持ちを感じる事ができて安心できる。石段沿いに歩めば小さな岐路に至る。左手にあるのは墓所である事を考えれば、どう考えても目的地の訳はない。クロに先導される様に右手に曲がり、そのまま玄関を潜り抜けた。

 雲龍院は小奇麗な住居の様な風情に包まれた場所で実に心地良い場所だ。ちらりと夜空を見上げながら、靴を脱いで下駄箱へと靴を収めた。雲一つない空には月が静かに瞬いて居る。拝観時間外だと言う事実を考えると、何とも言えない間抜けな気持ちになり、思わず笑いが毀れる。そのまま段になって居る木板を踏み付けながら、廊下へと歩を進めた。

 床板が軋む音色を足で感じながら、ふと正面に目線を向けた。玄関の正面に置かれた水墨画の龍に見られて居る様な気がして思わず息を呑んだ。見る物全てを射貫くかの様な鋭い眼光だ。見惚れる俺に気付いたのか俺の背後では、クロが勝ち誇った様な笑みを浮かべたまま腕組みしてみせた。目一杯鼻の穴を膨らませるクロに思わず言葉を失う。

(何の勝負だ……)

 水墨画の龍を後にして廊下を歩む。実に丁寧に掃除の行き届いた床だ。建物内を仄かに照らし出す蛍光灯の光が鏡の様に映し出されて居る。木板の床は一歩、一歩、足を踏み込む度に微かに軋んだ音を奏でる。木々の香りが感じられるのは心地良い。廊下にさり気無く置かれた飾りも、仄かな明りも小粋で中々に悪くない。宵闇の最中でぼんやりと廊下を、部屋を照らし出す明かりが慎ましくて心地良く感じられた。ふと、足元に置かれた飾りに目が留まる。

「ほう? 観賞用のかぼちゃを数種、取り揃えてみたか」

「ああ。一口にかぼちゃと言っても白いのもいれば、淡い黄色、オレンジ色など色合いも様々で、このかぼちゃの様に星型のも居れば丸みを帯びたのも居る」

「ふむ。涼やかで、悪くない心遣いであるな」

「そうだな。さて、先へ進むとしよう」

 雲龍院を入ってすぐ左手には台所がある。ここには走り大黒天と呼ばれる黒い色合いの風変りな姿の像が置かれて居る。とは言え、夜半の台所に侵入するのではつまみ食いの常習犯を名乗るに等しい物がある。それこそ食い意地の張ったねずみ小僧だ。目的から逸れた行動は慎むとしよう。

 雲龍院の廊下は鮮やかな赤い絨毯が敷き詰められていて、薄明かりと相まって何とも言えない淫靡な雰囲気が漂って居る。足元に置かれた小さな灯篭の様な明かりに照らし出されて、赤い絨毯は殊更に鮮やかな赤味を称えていた。庭園からは仄白い月明かりが差し込む。夜半の寺院と言うのは、どうにも本能を掻き立てられる奇妙な色香に満ちあふれて居る。隣に居るのがクロだからなのだろうか?

「性悪なカラス天狗だな」

「む? い、いきなり身に覚えのない事で一撃を喰らおうとは……」

「い、否、何でもない。ただの世迷言だ。気にするな」

 クロは足音も立てずに廊下を歩んでゆく。ねずみ小僧を意識して居るつもりなのだろうか? 無駄に細部まで拘る奴だ。

 台所の手前で右手に曲がる。そのまま細い廊下を進んで行けば、程なくして悟りの間に辿り着く。左右に掛け軸が飾られる中、中央に座する様に悟りの窓が作られて居る。深い色合いの部屋の中、外の景色を映し出す悟りの窓が一際、存在感を示して居る様に思えた。静かに窓まで歩み寄り、そっと外の景色を覗き込んでみる。

 丸い悟りの窓から覗く夜半の庭園は静寂に包まれて居て、時折、涼やかな風が吹き抜けてゆく。汗ばんだ体には虫達の涼やかな声が混ざり合う風が心地良い。こうして改めて見回してみれば、雲龍院は掛け軸から置かれて居る家具や、飾られて居る生け花の一つ、一つが洗練されていて実に居心地が良い。洗練された高級旅館に訪れた様な気持ちになれる。

 一頻り悟りの窓からの景色を堪能した所で、再びクロが踵を返す。そのまま今訪れた道を足音も立てずに歩んでゆく。クロに先導されるままに俺は蓮華の間に訪れた。小さな部屋ではあるが二人で腰掛けるには心地良い狭さだ。立ち並ぶ四つの障子と、その窓から覗く景色は『しきしの景色』と呼ばれる。左から順に椿、灯篭、楓、松が窓の向こう側に除く様は、さながら、額縁に彩られたかの如く感じられると言う、趣向の凝らされた情緒あふれる間だ。今の季節は夏だ。椿の花は咲いておらず、だからと言って、楓も色付いて居る訳ではない。それでも、活き活きとした新緑の葉を称えた木々達の姿を目の当たりにするのは心地良い物だ。月明かりに照らし出された庭園の情景にしばし目を奪われる。

「さて、未だ汗は引かぬかも知れぬが、話を始めさせて貰おう」

 クロは寛いだ様な表情であぐらを掻くと、胸元を大きく肌蹴させて見せた。畳の良い芳香が立ち込める中、窓からそっと風が吹き抜けてゆく。仄白い月明かりと赤い絨毯、畳の香りと木々達の香りが重なり合い、殊更に妖艶な雰囲気に包まれて居る様に感じられた。

「少々見苦しいやも知れぬが、今宵は蒸し暑い。コタも楽にすると良かろう」

 わざと俺を挑発する様に上目遣いの眼光をくれるとは良い度胸だ。だが、そうそう容易くお前の思い通りにはさせない。俺はすっかり汗ばんだ服の袖を捲り上げ、肩を露出させながら窓の外に佇む景色に目線を投げ掛けた。静かな夜の庭園が目に映る。ゆっくりと時だけが流れてゆく。そんな感覚に包まれる場所の様に感じられた。穏やかな景色と一体化する様な感覚に包まれながら、俺は静かに腰を落とした。仄かな温か味を帯びて居る畳の肌触りが心地良い。

「まるで自分の家で寛ぐ様な振舞いだな。まぁ、良い。ここには俺とお前しか居ない。要らぬ気遣いは無用と言う事か」

「そう言う事よ」

 一頻り和んだ所でクロが静かに顔を挙げる。先刻までの冗談めいた振る舞いは形を潜め、険しい表情を湛えて居る。どうやら、本題に入ろうと言う事か。なるほど。それならば真面目に話に耳を傾けてくれるとしよう。身構える俺の想いを汲み取ったのか、クロは俺の目をジッと見据えたまま、静かに口を開いた。

「市内の各地で異形なる情鬼達が目撃されて居る」

「妙な話の切り出し方だな」

「実際に妙な存在達よ。そう、まさしく異形の存在と呼べるであろう」

 掴み所のない表現だ。考え込む俺の姿など想定済みだったのか、何が異形であるかの所以を語って聞かせてくれた。

 情鬼は元来、人の心から生じた悪意が姿を為した物である筈。だが、クロが語って聞かせてくれた情鬼達は全く異なる手法を以って生み出されたらしい。そう――生み出されたと、クロは説明してくれた。では、一体どの様にして生み出されるか? まさか、何も無き虚空から自然に生じる訳はあるまい。火種無き所から火の手は上がらない。

「そう。確かに有り得ぬ話よ――外から作為的に力を加えぬ限りな?」

 再び妙な表現を使ってくれる。外から作為的に力を加えるとは、一体どう言う事なのだろうか? 情鬼とは外部から力を加える事で生み出す事ができる物なのだろうか? どうにも構造が描き切れない。一人考え込む俺をジッと見据えたままクロは続けて見せた。

「ふむ。例えるならば、孵化する前の雛を無理矢理、引き摺り出した様な状況と言えば伝わるであろうか?」

「孵化する前のって……うっ!」

(な、なんて表現を使ってくれる。グロい。グロ過ぎるぞ、クロよ! ああ、伝わったさ。不必要なまでに鮮明に、克明に! うっかり、おぞましい光景を想像してしまったではないか……)

 以前、親父から聞かされた恐怖話を思い出していた。都会では見掛ける事はないだろうが、田舎の農家では鶏を飼育して居る家も少なくない。毎朝の朝食に卵を使う事も少なくない筈だ。目玉焼きを作ろうと思い、卵を割る。だが……その卵が孵化の途中経過にある状態だったとしたならば?

 軽やかな音を立てて割れる殻。熱されたフライパンの上に落ちるのは黄色い塊。濡れた羽毛に閉じられた小さな瞳。成り掛けの姿となれば、想像するのも恐ろしい。俺の中では下手な怪談よりも遥かに恐ろしい話として、記憶の彼方に永遠に封印した忌むべき、禍々しき逸話となって居る。こう言う時、無駄に想像力が豊かな俺自身をどれだけ憎んだ事だろうか。その忌むべき禁忌を再び白日の下に晒すとは!

「む? コタよ、顔色が優れぬ様子であるが?」

「き、気のせいだ。多分……」

 それにしても可笑しな話だ。俺は口元を押さえたまま考えていた。作為的に情鬼を生み出す者が存在して居ると言う事か。だとしたら、そいつは一体何者なのだろうか? そいつの目的は? 否、今は逸る気持ちは抑えて、しっかりとクロの話に耳を傾けるとしよう。

「詳しい事は掴めては居らぬが――」

 クロはジッと俺の目を見据えたまま、そっと握り締めた手を突き出して見せた。何の真似かと思って居れば、その手の隙間からは木炭の様な、何やら黒い粉が零れ落ちた。

「これは見ての通り、木炭であるが故、現物では無いのであるが、降り注ぐ黒い雪が引き金になって居ると聞いている」

 黒い雪……嫌な響きだ。今の時期には果てしなく縁遠い雪という存在。ただでさえ縁遠いと言うのに、黒い雪だと? 有り得ない話だ。空一面に木炭でもばら撒かない限り、雪が黒くなる事は有り得ない。なるほど……何者かが仕掛けた結果、黒い雪が降り注ぐ。その黒い雪が情鬼を作為的に生み出していると言う訳か。

「相も変わらずも可笑しな話になって居る様子だな」

「うむ。しかも、その黒い雪に纏わる情報は未だ、不明確な部分が多い」

「まったく……次から次へと」

「いずれにせよ、油断をせぬに越した事は無さそうであるな」

 クロは腕組みしたまま、俺の目をジッと見つめていた。射抜く様な鋭い眼光に、危機的な状況が差し迫って居る事を嫌でも認識せずには居られない。

「覚えて居るか、コタよ? 泣き女郎と対峙した際、遭遇した青い僧衣に身を包んだ者を。陰陽師『風詠み』と言う未だ見ぬ敵も現れんとして居る」

 またしても素性の判然としない敵との対決と相成るか。それにしても……。

「カラス天狗は随分と色んな所に恨みを買う性分の様子だな?」

 俺の言葉にクロの表情が一気に険しくなる。ジッと見つめる俺の眼差しに気付いたのか、クロは慌てて目線を逸らして見せた。普段見せる事のない慌てた振舞いが可笑しくて、思わず笑いが毀れる。

「冗談だ。そう怖い顔をするな。男前が台無しだぞ?」

 普段は仕掛けられて居る身だが、時には反撃をしてくれる事も必要だ。絶好の好機を得た俺は、畳み掛ける様に含み笑いを浮かべてクロの表情を覗き込んで見せた。予想通り、クロは腕組みしたまま眉間に深い皺を刻ませて見せた。

「な、何をにやにやして居る……」

「冗談は置いておいて、素性の判らぬ敵が相手である以上、油断は禁物だな」

「ふむ。そうなるな」

 それにしても作為的に人の心から情鬼を引き摺り出すとは厄介な相手だ。風葬地の裁定者との戦いの中で、俺は心を抉る様な情景を見せられた。少なくても俺自身はそうだった。輝もまた、壮絶な情景を見せられた結果、暴走した筈だ。人の心の隙を突いて奇襲を仕掛け、情鬼を作為的に生み出すとは、実に厄介な手口だ。

「とは申した物の、素性の判らぬ敵の事を追及しても、左程の意味も持たぬであろう」

 そう言いながら静かに立ち上がるクロに驚かされた。不穏なる事態が起きようとして居る事だけを匂わせて置きつつ、獲物が喰らい付いた所で逃げ去るか。如何な振る舞いかと咎めてくれようかと思ったが、今までの事を振り返れば、それは無駄な徒労に終わるのは間違いない。上手い事反撃を為し遂げられない自分自身の至らなさを苦々しく思って居れば、「別の部屋に移るぞ」とだけ言い残し、クロは颯爽と蓮華の間を後にした。やれやれと思いつつも、クロの気まぐれな行動は今に始まった物ではない。冷静な大人びた振舞いを見せる一方で、時に、妙に子供染みた振舞いを見せる事もある。中々に奥深い奴だ。これもまた何時もの振る舞いか。それならば抗っても仕方がない。咎めた所で言う事を聞く様な奴ではないのは周知の事実。此処は大人しく、何時もの気まぐれに付き合ってくれるとしよう。

◆◆◆15◆◆◆

 クロは既に大輪の間に座して、俺を待ち侘びて居るかの様な素振りを見せた。俺もまたクロの隣に腰掛け夜半の庭園に目線を投げ掛ける。畳の香りが心地良くて、気持ちが静かに解けてゆく様な感覚に包まれていた。風が吹けば木々の葉が揺れる涼やかな音色だけが響き渡る。虫達の鳴く声と俺達が呼吸する音以外、何も聞こえない程に静まり返っていた。耳を澄ませば互いの鼓動さえも聞こえるのではないかと思える程の確かなる静寂に包まれていた。だが、この平穏なる情景とは裏腹に、クロは険しい表情で俺をジッと見据えていた。大丈夫だ。心の準備はできて居る。そう目で告げれば、納得した様に静かに目を伏せた。

「コタよ、『回顧』がどういった物であるかを嵐山の一件で知ったと思うが、人の想いと言う物は千差万別に姿を変えるもの。そんな中、桁違いに強い想いが一人歩きを始め様として居る」

 クロが何を言わんとして居るのかは、幾ら鈍い俺でも容易く気付かされる。間違い無く力丸の事を示唆して居る。そんな俺の思惑など既に見抜いて居るのか、クロは相変わらず険しい表情を崩す事無く、庭園に佇む木々達に目線を投げ掛けながら淡々と語り続けた。

「今は未だ燻る火種に過ぎないが、これが全てを焼き尽くす程の業火と化した時、周囲に居る者達は無傷では済まぬであろう」

 嫌な表現を使ってくれる。何を考えて居るのかを明確に示さずに、敢えて仄めかす様な表現を使って見せる。一体、何を語ろうとして居るのだろうか? 俺はクロの言葉に神経を集中させた。クロは射貫く様な眼光で俺をジッと見据えたまま続けて見せた。

「既に上賀茂神社周辺は歪み始めて居る。力丸一人の力だけとは思えない程に大きな力よ。素性の判らぬ何者かが力丸に忍び寄ろうとして居ると考えて相違無かろう」

 嫌な予想と言うのは往々にして的中率が高いらしい。そうではないかと思ったが、やはり、と言うべきか……嵐山での一件があったからこそ、力丸の動向が気に掛っていたが、やはり敵も同じ事を企てて居るか。相変わらず姑息な手段を好む連中だ。

「力丸の事は我よりもコタよ、お主の方が遥かに良く心得て居るであろう?」

「ああ。力丸の心の中には未だに消える事のない深い傷が残されて居るからな」

「……結花と言う名の娘の事か?」

 俺は庭を見つめたまま小さく頷いた。クロもまた腕組みしたまま庭を見つめていた。吐息が漏れる様な溜め息交じりに

「頭では判っていても、体が伴わない。人とは相も変わらず難解なる生き物であるな」

 そう呟くクロに、「そうだな」と、俺は頷く事しかできなかった。力丸の気持ちを想えば溜め息が毀れる。

「結花は死んだ。この世の者ではない。それは力丸も重々承知して居る」

 再び大きな溜め息が漏れる。俺自身の事では無くても、親しき友を思えばこそ、心が痛まずに居られないという物だ。もっとも、そんなの俺の身勝手な偽善の押し付けに過ぎない。誰かを想い、代わりに痛んでやれているという自分自身に安堵しているだけだと罵られれば否定する術を失う。

「頭では判っていても、体が伴わない。だからこそ苦しむ」

 風が出始めたのか、俺の言葉に呼応するかの様に一陣の風が吹き抜けて行った。木々達の葉がザワザワと渇いた音を奏でる。心の内を見透かされた様な気がして、思わず息を呑まずに居られない。先刻まで平静を保っていた俺の心は、今や、波打つ湖面の如く揺らいで居る。こう言う場面だからこそ、冷静さを失ってはならない事は重々承知して居る。それでも、親しき仲間に危機が迫って居ると知らされた事で、俺は容易く冷静さを失う未熟者だ。ああ、駄目だ、駄目だ。落ち着け。俺が平常心を見失ってどうする。冷静にならなければ……。

「大地には負けるが、力丸との付き合いは長い」

 俺は夜空に瞬く月を見上げたまま呟いた。俺の言葉に興味を示したのか、クロが静かに俺に向き直って見せる。

「見た目そのままに暑苦しい男でな。泣いて、笑って、叫んで、吼えて……まぁ、少なくても俺の前では実に豊かな表情を見せてくれる」

 大仰な振る舞いを見せる力丸の姿が思い描かれ、思わず笑みが毀れる。

「馬鹿みたいに真っ直ぐで、気持ちが良い程に野生的な奴でな。俺に取っては、掛け替えのない親友だ」

 クロはただ静かに腕組みしたまま耳を傾けていた。俺が何を語ろうとして居るのかを鋭く見据えていた。否、違うな。俺がどの様にして本心を覆い隠そうとして居るのかを暴いてやろうと企てて居るに違いない。ああ、そうさ。力丸が俺を想って居る事は、ずっと昔から気付いていた。むしろ、そうなる様に仕組んだのは俺自身なのだから。

「其処に確かに横たわるは人が人であるが故の業と申すか」

 静かに放たれた言葉であった。だが、刹那、窓の外には吹き荒れるかの如き強い風が駆け抜けていった。風は木々の葉をザワザワと掻き乱す様に打ち鳴らすと、再び何事も無かったかの様な静寂を取り戻す。だが、俺の心はいよいよ波打つ所か、時化の様相へと移り変わらんとしていた。

「――つまらぬ嘘は止さぬか?」

 例え身構えていたとしても、それを呆気無く討ち破る程の威力がある。やはり、俺如きではクロには勝ち目は無さそうであるか。無駄な抵抗と知りつつも、そっと横目でクロの表情を盗み見れば、予想通り、クロは口元を歪ませて不敵な笑みを浮かべていた。

「嘘だと?」

 無駄な抵抗だ。そんな事は判って居る。それでも、馬鹿正直に受け入れるのも悔しかった俺のささやかな抵抗だ。もっとも、全てを知り尽くして居るクロが相手では何の意味も為さないだろう。

「それが虚でないとして、一体何が実であると申すか? コタよ、お主はそのまま虚の中に雲隠れするつもりかと問うて居る」

 なるほど。立ったままでは、確かに、こうした話はし辛い。屋外を歩んでいたとしたならば、俺は何時もの如く、クロからの追求を、聞かなかった振りをして回避する事も叶っていた。だが、この様に閉ざされた密室の中で、しかも、面と向かって挑まれたのでは逃亡先を見失う。やれやれ。今宵の話の標的は力丸では無く、まさか、俺自身だったとはな。相変わらずクロは抜け目のない奴だ……見事に嵌められた。

「降参だ。負けを認めてくれる」

 俺の言葉を満足そうに聞きながら、クロは静かに腕を組むと、そのまま俺の目をジッと見据えて見せた。今宵のクロは本気で俺を追い詰めるつもりの様子だ。口元には薄ら笑いを浮かべて居るが、獲物を射貫く様な鋭い眼光で俺を凝視して居る。つまらぬ嘘など吐いてくれるな? どんなに巧妙に取り繕おうとしても瞬時に見抜いてくれる。そう言わんばかりの圧力を掛けられたのでは分が悪い。やはり、俺如きではクロには到底勝ち目は無さそうだ。

「罪悪感に苛まされ続けて居たであろう?」

 圧倒的な威力で力押しする様に見せ掛けておきながら、今度は奇をてらうかの様に懐柔する様な言葉を口にして見せる。俺が身構えて居る事に気付いたからこその手札の変更を為した訳か。相変わらず手強い奴だ。緩急を変幻自在に使い分ける辺り、味方に付けて置くには頼もしい奴だが、敵に回すと実に始末が悪い。俺の弱点を知り尽くして居る以上、万に一つの勝ち目さえも無さそうだ。やれやれ。ここは無条件降伏する以外に道はない訳だ。

「ああ、そうだ。お前が相手では分が悪い。何もかも白状してくれる」

 何もかも白状するさ。結花の存在は最初から知っていた。力丸に初めて声を掛けた時に聞かされていたから。違うな。もっと前から知っていたさ。でも、だからなのだろうか? 力丸は良い奴だ。良き友になれると確信した。だから――俺の物にしたくなった。人の物は良く見えると聞くが、本当にそうだと思わされた。略奪愛と言う行為に、その背徳的な振る舞いに、魔性の振る舞いを為す自分自身に酔い痴れて居ただけに過ぎない。そうさ。俺は最低な奴だ。力丸が独り身であったならば、これ程までの興味を抱かなかったかも知れない。良き仲間として接する事が叶ったかも知れない。

「それだけではないさ」

 一気に捲し立てる様に喋り続けた俺は一呼吸就いた。ちらりとクロの表情を横目で盗み見てみるが、不敵な笑みを浮かべて居る。なるほど。こんな僅かな間ですらも鋭く見て居るとは、今宵のクロは随分と攻めて来る。まるで水を得た魚だ。青白い月明りの下で俺が動揺して居る姿を目の当たりにして、さぞかし気を良くして居るに違いない。相変わらず性悪な奴だ。

「力丸は良い奴だ。気も合えば、一緒にいて楽しいとも思える。それに、一緒にいて本当に落ち付ける相手だ。輝や大地、太助とは明らかに違う存在だ。俺の中ではな?」

 小さく溜め息を就きながら俺は続けた。ふと、この窮地から逃避するかの様に夜空に瞬く月を見上げてみた。どうやら救いを求める事は無意味らしい。月は今の俺の想いを代弁するかの様に、ただ力なく、陽炎の様にゆらゆらと揺らめいて居た。

「――『親友』だなんて惨めな嘘に過ぎない」

 俺の言葉を受け止めた所で、クロは静かに腕組みすると、可笑しそうに笑って見せた。

「なるほど。コタが力丸を想うて居らねば、我もまた、コタの事を只の友としてしか見られなかったやも知れぬ」

「性悪なカラス天狗だ。後で折檻してくれる」

「ほう? それは楽しみであるな」

 クロは笑いながら俺から離れると、窓辺に立って見せた。そのまま夜空に浮かぶ月を見上げてみせた。誇らしげな表情で腕組みすると

「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

 静けさを取り戻した中庭をジッと見据えたまま、クロは静かに囁いて見せた。そのまま俺に向き直ると静かに微笑んで見せた。

「崇徳院の歌よ。お主と力丸に良く合う歌の様に思える」

「さて、どうだろうな。お前と俺に重ね合わせた歌かも知れぬぞ?」

「ほう? 我と力丸との一騎討ちか。コタを巡って熾烈な争いを繰り広げようとは、中々に興味深い展開と相成る訳か」

 周囲が再び静寂に包まれる。俺は夜空の月を見上げたまま、しばし沈黙を続けた。人が真面目に振る舞って居ると言うのに、茶化す様な振る舞いで応えるとは実に良い度胸だ。苛立ち交じりに小さく吐息を就いて見せれば、不意にクロの笑い声が響き渡る。

「……冗談よ。そう眉をひそめるでない。折角の男前が台無しであるぞ」

「何を勝ち誇った様な笑みを浮かべて居る。先刻のやり取りの反撃のつもりか?」

「さてな?」

「性悪なカラス天狗だ」

 再び強い風が吹き抜けた。木々達の葉が掻き上げられサラサラと涼やかな音色が響き渡る。吹き抜ける風に呼応するかの様にクロが静かに目線を落とす。目線を落としただけではなく、小さな溜め息さえ就いて見せた。珍しい振る舞いだ。滅多に強気な振る舞いを崩す事のないクロが見せた振る舞いに、俺は不安な気持ちを抱かされた。

「我も人に生まれたかった」

 ぽつりとクロが口にした言葉に俺は思わず硬直させられた。普段、弱気な一面を滅多に見せる事のないクロが見せた、今にも消え入りそうな表情に驚かされた。だが、俺はその想いを知って居る。知って居ればこそ、何も言葉が出て来なかった。ただ、俯き唇を噛み締める事しかできない非力な自分が悔しかった。共に歩んでくれる友の為に気の利いた言葉の一つも掛ける事ができない。不器用な自分が途方も無く悔しかった。

「だが、それではお主を守る事ができなかったであろう」

「クロ……」

「済まぬな。カラス天狗らしからぬ情けない姿を見せた」

 クロはばつが悪そうな苦笑いを浮かべたまま、首を横に振って見せた。

「だが、我は悔やんでなど居らぬ。これが我の生きる道よ。お主を守り、お主と共に歩む。我はお主の友であり……兄の様な存在で在りたい」

「俺の前では強がるのは止せ」

 空回りする様な言葉だ。どうして、もっと気の利いた言葉が出て来ない。至らない自分がもどかしくて、悔しくて、悔しくて、仕方がなかった。だが、どうする事もできなかったのも事実だ。クロも、力丸も、俺の事を想ってくれて居る。どちらも心の底から俺の事を想ってくれて居る。だからこそ苦しかった。敢えて何も考えて居ない様に振舞う事で、現実と向き合う事から逃げ続けて居ただけだ。ああ、俺はクロの言う通り嘘つきだ。

「コタと共に歩み、我は人の心を知る様になった。すっかりカラス天狗らしさは鈍り、人の様な振舞いを為す様になってしまった」

 小さく溜め息を就くと、クロは静かな笑みを浮かべて見せた。普段、強気な振る舞いを崩さないクロが見せた弱気な一面に驚かされた。だけど、考えてみれば、これが普通の振る舞いなのかも知れない。クロの事を、どこかで英雄視していたのは、少なからず俺の罪だ。クロはそんな俺の願いに応えようと振る舞ってくれて居るだけなのかも知れない。俺を想って居るから? そうだとしたら、クロには申し訳ない事をしてしまった。だけど、同時に、クロの意外な一面を知る事ができて気持ちが揺らいだのも事実だ。俺は結局、自分の事しか考えていない。何処までも身勝手な性分だ。我が身可愛さの余り、共に歩む者達さえも平気で踏み台にできる。最低な奴だ……。

「挙句の果てには人であるコタを愛する様になってしまうとは、何とも間の抜けた話よ」

「俺は嬉しかった。貴船神社でクロと出会った日の事、鮮明に記憶に残って居る」

「……光栄よの」

 クロの想いも、力丸の想いも、どちらの想いも良く理解して居るつもりだ。でも、哀しい事に、人は同時に二人の存在を愛する事はできない。仮にそんな事をすれば、どちらも不幸にしてしまうだけの結末に終わるのは必至。無論、俺自身も不幸になる道から逃れる事はできない。

「だが、だからこそ我はコタの兄で在りたい」

「自ら身を引くと言うつもりか?」

「それが最善の策と断じたまで」

 腕組みしたまま力強く言い放つ姿は、普段のクロと何ら変わらない姿だった。

「それに、お主も判って居るであろう? 力丸がどれ程までにお主の事を想うて居るか?」

 罪悪感があったからこそ力丸の想いに応えたいと思っていた俺が居た。でも、それは違って居るのだとようやく気付かされた。俺は力丸の事を想って居る。ああ、そうだ。出会った日から、ずっと、ずっと……。クロの登場により、俺は俺自身の感情さえ見失う様になっていた。強い者に興味惹かれる俺に取っては、常に自信に満ち溢れた振る舞いを見せ、肉体的にも、精神的にも強靭なクロは全ての理想を叶えてくれる存在と呼ぶに等しい。だからこそ、クロと出会い、俺は容易く力丸を見捨てて、クロへと華麗なる鞍替えを果たした。だけど、本当の所はどうなのだろうか? 努めて考えない様にしていた。真面目に考えるのも、向き合うのも、どちらも辛く、苦しいのは間違いないと判って居るからこそ、近寄らぬ様に振る舞っていた。だが、それも、もはや此処までか。

「人は人と共に歩むのが良い」

「……寂しい事を言うな。お前が居なくなったら、俺はどうやって生きて行けば良い?」

「済まぬ。その様な意図を以って申したのではない。ただ、我は常にコタと共に在る。いかなる状況に置いても我がコタを守ろう」

「クロ……」

 しばしの沈黙が訪れる。互いに言葉を失い静寂が辺りを包み込む。夜半の闇夜の中に静かに佇む木々達の一部になってしまったかの様な感覚が妙に心地良く思えた。このまま時が止まってしまえば良いのに。そうしたら俺は樹木になろう。永遠の時を生きられる樹木になりて、時の終わりまで生き永らえよう。判って居る……そんなの現実逃避に過ぎない事だと言う事も。時の流れを止める事などできる訳がない。だからこそ静寂が苦しくもあり、心地良くもあった。そんな静寂を打ち破ったのは、やはり、クロであった。

「今宵は月が綺麗であるな」

 夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いて見せたが、俺がどの様な反応を見せるか、横目で盗み見て居る辺り抜け目がない事だ。俺がしっかりと聞いて居るのを確認したクロは満足そうに微笑みながら続けて見せた。

「コタよ、一つだけ我儘を申しても良かろうか?」

「お前が我儘を言うとは、珍しい事もある」

「ふふ、すっかりカラス天狗から遠ざかって居るでな」

「それで、どんな我儘を口にするつもりだ?」

「今しばらく、我と共に語らってくれぬだろうか? 続きは本堂、龍華殿前で語らおうぞ」

「ああ、互いに気が済むまで語らおう。案ずるな。今日、語り尽くせぬなら、明日、また語り続けよう。明日がだめなら、明後日もだ」

 俺の言葉を受け止めながら、クロは嬉しそうに笑って見せた。笑いながらも静かに歩き出した。今の言葉通り、龍華殿へと向かうのであろう。それならば俺も後に続くまでだ。足音を立てる事無く、大輪の間を後にしたクロの後を追う様に、俺もまた大輪の間を後にした。誰も居なくなった大輪の間には、再び平穏なる静寂が訪れようとしていた。

◆◆◆16◆◆◆

 クロの後に続いて、俺は雲龍院の本堂、龍華殿の前に移動して来た。クロは未だ色々な事を隠して居る様に思えて仕方がなかった。俺を気遣って口にしない訳ではないのは判って居る。クロは俺と似て居る部分がある。これは勝手な推測だが、本当の想いを口にする事を畏れて居るのではないだろうか。俺がどう思うか、どう反応するかでは無く、その言葉を口にする自分自身に対しての勇気を持てない。そんな気がして仕方がなかった。だけど、クロ自身が語りたがらない事を敢えて詮索する様な真似はしたくなかった。クロは大切な友であり……同時に、クロ本人が言う通り、俺に取って双子の兄の様な存在なのだから。

 クロは腕組みしたまま夜空に浮かぶ月を見上げていたが、そのまま龍華殿前の廊下に腰を下ろして見せた。なるほど。ここに腰を下ろせば綺麗な月を目にしたまま語らう事ができる。それに吹き抜ける風も心地良い。

「今宵は月が綺麗であるな」

「ああ。蒸し暑いが、雲がないから月が良く見える」

 俺は夜空に浮かぶ月を見上げたまま続けて見せた。

「だけど、今宵の月はどこか物悲しく見える。不思議だな」

 ふと、思い付いた事を何気なく口にした。ただ、それだけの事であったが、傍らに腰を下ろすクロは腕組みしたまま満足そうに頷いて見せた。

「我とコタは本当の兄弟なのかも知れぬ」

「急にどうした?」

「同じ物を目にして、同じ様に感じる。心が通じ合って居ると言う証よ。ふふ、少々照れ臭いな」

「い、要らぬ事を言うな……」

 不思議な気持ちで一杯だった。クロは少なからず俺の事を想ってくれて居る。それなのに、どうして力丸への想いを貫けと言ったのだろうか。俺の中でクロの想いが理解できずに苦しかった。心が離れて行く様な寂しさに駆られて途方も無く不安な衝動に駆り立てられた。

「コタを想って居る。誰よりもコタの事を想って居る。それは事実よ」

「それなら、何故だ?」

「……永久にコタの傍に居られるとは限らぬ。だからこそ」

 何時ものクロはそこに居なかった。普段、見せる事のない気弱な姿に、今にも消えてしまいそうな振舞いを見せるクロに、俺は胸が締め付けられる想いで一杯になっていた。必死で堪えようとした。こんな姿見せたくなかったし、こんな姿を見せればクロをさらに苦しめるだけの結末で終わる。頭では判っていた。だけど、体が付いてこなかった。目頭が熱くなり、気が付けば俺は恥じらいも、何もかなぐり捨ててクロに力一杯抱き付いていた。そんな俺の姿を目にして、いよいよ抑え切れなくなったのだろう。クロもまた、包み込む様に、俺の事を力一杯抱き締めてくれた。

「カラス天狗一族は情鬼と戦う事を生業とする。戦いの渦中に身を置く以上、何時、命を失うとも限らぬ。だからこそ、我は……」

「――つまらぬ嘘は止さないか?」

 俺はクロの目をジッと見据えたまま、クロの真似をして問い掛けた。一瞬、戸惑った様な表情を見せたが、クロは苦笑いを浮かべたまま、大きな溜め息を就いて見せた。

「なるほど。ここまで見抜かれて居る以上、今更、感情を隠す必要もあるまい」

 溜め息混じりにクロは続けて見せた。

「……大きな欲は、その欲を抱く者自身をも滅ぼす」

 クロは俺を抱き締めたまま、静かな口調で語り続けた。

「我はコタと友になると言う願いを抱いていた」

 クロは月を見上げたまま、穏やかな笑みを称えていた。

「願いが叶ってコタは我と友になってくれた。本当に嬉しかった」

 気の利いた言葉など浮かんできそうもなかった。だから、俺はクロの言葉に静かに耳を傾けていた。否、クロの言葉だけではない。雲龍院の周囲から響き渡る、割れんばかりの虫達の鳴き声を全身で受け止めていた。心地良い音色だ。気持ちが静かに鎮まってゆく感覚に包まれていた。

「だが、我はさらなる欲を抱いた。コタを我の物にしたいと願った。あるいは、結花と共に歩んでいた力丸に向けられたコタの想いと同じ想いを抱いたのやも知れぬ」

 本当にそうなのか、そうではないのか、俺には判らない。それでも俺はクロの想いをしっかりと受け止めたかった。クロは想いを伝えようと心から願って居る。だからこそ俺もしっかりと向き合いたかった。

「結局、俺は誰かを愛すると言う感情を明確に理解できて居ないと感じて居る」

 クロに促された俺はそっと、腰を下ろした。直ぐに、俺の隣にクロもまた腰を下ろすと、夜空を見上げてみせた。そのまま俺の言葉にそっと耳を傾けていた。

「だけど、お前と出会い、ようやく少しだけ理解できたと実感して居る」

 力丸が俺を想ってくれて居る事は知って居る。それどころか、敢えて、俺に興味を抱く様に仕向けたのだから。結局、俺は力丸に愛されて居る結花に嫉妬していただけに過ぎなかった。輝以外に友と呼べる存在と出会えた事が嬉しかった。だから、何としても手放したくなかった。その想いは瞬く間に歪んだ想いへと移り変わり、如何に力丸の心を俺に向かせるかの一点に集中させられていた。判って居る。そんなの……友でも、何でもない。言うなれば俺は身勝手な想いを叶えるためだけに、力丸を俺に向かせようとしていた。そんな事をしなくても、力丸は俺の事を友だと思ってくれていたと言うのに。

「人の欲とは際限無く膨れ上がるもの。コタだけが悪いとは、我は思わぬ」

「気休めは良いさ。俺は自分のやって来た事を重く受け止めて居る」

 俺が自ら撒いた種だ。最後まで面倒を見るのは俺に与えられた責務だ。ましてや今、力丸の心は煌々と燃え上る憎悪の炎に包まれようとして居る。逃げ続けるのはお終いだ。言うなれば、これは俺の償いだ。綺麗事を抜かすつもりはない。力丸にも、結花にも、俺は謝らなければならない。判って居る。それもまた自己満足に過ぎない事位。だから、俺は力丸に償いたい。今まで俺が為して来た事の全てを打ち明け、力丸の望む通りの裁きを受け入れよう。もしも、その結果、俺と友である事ができなくなったとしても、俺に力丸を引き留める権利など微塵もない。

「お主の事だ。我が何を言った所で聞く耳を持たぬであろう?」

「そうだな。これは俺の犯した罪だからな」

「ならば、我も余計な振舞いは控えるとしよう」

「……力丸とは一度、真正面からぶつかってみたい。今までずっと、俺も、力丸も、現実と向き合う事から逃れ続けて来た。その結果、互いに置き場の定まらない状況に陥ってしまった。このままでは誰も救われない」

 クロはただ静かに俺の想いを静かに受け止めてくれた。意見を口にするでも無く、何時もの様に、諭す事も無く、ただ、何も言わずに受け止めてくれた。それが嬉しかった。安堵感に包まれた俺は、小さく吐息を就きながら目を伏せた。それを待っていたかの様にクロが静かに口を開く。

「案ずる事はない。どの様な結末に至ろうとも、我はお主と共に在り、我はお主と共に生きる。何も畏れる事などない」

「……ありがとう、クロ」

 割れんばかりの虫達の鳴き声に包まれる雲龍院の本堂、龍華殿前の廊下。俺達はそこに座したまま、ただ静かに夜空に浮かぶ月を見つめていた。物憂げな表情を見せる月は、何を哀しんで居るのだろうか? 俺達の歩む先には、哀しい結末しかない事を憐れんで居るのだろうか? それでも俺達は生きて居る。生きて居るからこそ、前に進むしかない。残酷な展開でも受け入れるしかない。それが現実なのだから。だから、精一杯抗って生き抜こう。そう、心に誓った。

 俺と共に生きてくれると力強く言い放ってくれたクロの想い、本当に嬉しかった。こんな場面で口にするのは卑怯なのかも知れない。結局、俺は我が身可愛さを優先してしまうのだろうか。この想いを口にすれば、俺を想うクロの気持ちは、より一層、盤石な物となる筈だ。それを心得ていて、敢えて、最高の場面に立って居る事を上手く活かそうと試みる。もはや、本能的な物なのだろう。天性の詐欺師なのかも知れない。やはり、俺は最低な奴だ。自らを最低だと揶揄する一方で、そうやって自らを正当化する。こんな事を繰り返していれば、何時か、必ず破滅を向かえる事は必至。もっとも、その時はその時だ。俺はクロに向き直ると、そっと口を開いた。

「俺の記憶が間違えて無ければ、お前と知り合ったのは――」

 クロは驚いた様な表情で俺の顔を覗き込んで見せた。ああ、記憶が鮮明に蘇った訳ではない。ただ、クロと共に行動して居る内に少しずつではあるが蘇ろうとして居る。多分、クロに対する俺自身の想いの強さに同調して居るのだろう。そう考えれば不思議な話ではない。

「憎悪の能面師との一件が最初ではなかった筈だ」

 さて、どう言う反応を示すだろうか? 俺はクロの表情をジッと窺った。予想通り、クロは動揺した素振りを崩す事なく、白々しく夜空を見上げて見せた。

「ずっと、お前は俺の傍に居てくれたのだろう? ただ、俺がカラス天狗であるお前の存在に気付く事ができなかった。それだけの事だった。違うか?」

 俺の言葉を耳にしながら、クロは可笑しそうに笑って見せた。不意に、肩に回された腕に一気に力が篭められた。普段の冷静さに満ちた振る舞いはそこにはなかった。本能の赴くままに情熱的に振る舞いクロの姿に思わず笑みが毀れる。

「……先刻、我は人は人と共に歩むのが良いと申した。だが、その前言を撤回させて貰おう」

「ほう? それで、どの様に前言を撤回するのだ? 興味深いな」

 意地悪く笑い掛けて見せれば、クロもまた腕組みしたまま、そっと目を細めて見せる。

「そう何度も同じ手が通じる等と思ってくれるな?」

 不敵な笑みを浮かべながら、クロは腕組みして見せた。

「焦らずとも、いずれその時は必ず訪れる。その時を楽しみに待ち侘びて居るが良かろう」

「俺を焦らすつもりか? ふふ、やはりお前は性悪なカラス天狗だ。良いだろう。お前が口を割るまで語らい続けてくれるまでさ」

「ほう? 我に勝負を挑むと申すか? コタも中々に畏れ知らずよの」

 結局、こうやって俺はまた、身近に居てくれる仲間さえも食い物にしようとするのか。我ながら何処までも愚かな話だ。だが、それでも本能に抗い切れないからこそ、悩みは深みを増す一方だ。もはや底は微かにも見えなくなって居る。

 クロを想う気持ちは否定できない。何時の日か、俺が自らの存在に気付いてくれる日を待ち続け、ただ、静かに傍らに立ち見守ってくれていた事……無碍にできる訳がない。それに、初めて出会った日の事、克明に記憶して居る。人と言う生き物に対する一切の希望を見失い、人と共に歩む事を放棄しようと心に誓ったあの日、クロは俺に手を差し伸べてくれた。絶望の中で見付けた一筋の希望の光だった。

 <2017/06/28 過去の情景を挿入する>

 それだけではない。共に過ごす様になってから、俺の心はクロに奪われたままだ。これが誰かを好きになると言う感情なのかと、今更になって気付かされる愚かしさ。

 その一方で力丸への想いも棄て切れずに居る。結花を踏み台にしてまで手にしたのは事実だ。だからこそ、未だに潰える事のない罪悪感を背負い続けて居る。それは自業自得であり、だからこその因果応報なのだと言う事自体、理解して居る。だけど、力丸への想いは、そんな理論で片付けられる様な物ではない。共に歩んだ時間も決して短くない。

 卑怯な振る舞いだ。こうやって、さも、自分が被害者であるかの様に振る舞う事で、無理矢理、自分自身を正当化しようとして居る。その様な振る舞い、ただ見苦しいだけだと言うのに……。

(結局、俺はどうするのが正しいのだろうか? どの様な道を選ぶのが正しいのだろうか?)

 悩みも、迷いも、潰える事は無さそうだ。仕方がない話だ。これは俺が自らの手で築き上げた罪なのだから。罪を犯した以上、罪を償うのは必然だ。

 ちらりと横目でクロを盗み見てみる。クロは夜空を見上げたまま、ただ穏やかな笑みを湛えて居る。戦いの渦中では、否、人前では見せる事のない表情――つまりは、俺だけに見せてくれる表情と言う事か。此処に来て、身を退くのは卑怯なのかも知れないが――誰に、何と罵られようとも、俺は自らの道を歩みたい。力丸、済まない。赦してくれ……。

 クロはずっと昔から俺と共に歩んでくれていた筈だ。カラス天狗であるクロの姿を目にする事ができなかっただけで、クロはずっと俺と共に歩んでくれていた。何時の日か、俺と友になれる日を夢見ていた事は想像に難くない。その一途な想いを知った今、俺の中ではクロに対する想いを、どうにも抑える事ができなくなっていた。だからこそ、俺はクロと共に歩みたい。ただ、それだけを切に願う。夜空に瞬く月明かりだけが俺達を照らし出す中、俺はクロと共に他愛のない問答に興じる事にした。卑怯な振る舞いだ。相対する問題から目を背け、相対する問題を先送りにする。こうして俺の罪は上塗りされてゆく訳だ。目先の欲に目が眩む。実に人らしい業深き生き方と言える。

◆◆◆17◆◆◆

 現実が非現実と出会う瞬間は確かにあるのだと実感させられた。既に散々可笑しな体験をして来たとは言え、それが自分の周囲で起きて居ると言う事実に、ただただ動揺させられて居る。結局、昨日はあれから殆どまともに寝る事もできなかった。気持ちが昂り過ぎてしまったのかも知れない。

 夜が訪れれば、再び朝が訪れる。時が流れれば、再び夜が訪れて、再び朝が訪れる。オレがどんな想いを抱いて居るかなんてお構いなしに時間は意地悪く流れ続ける。決して、止まる事のない時の流れの中で非力なオレは何時だって流されっ放しだ。今も流され続けて居る。朝になれば支度を済ませて学校に向かう事を強いられる。時の流れに逆らう事はできない。どんなに必死で抗ったところで、次の瞬間には呆気なく押し流されるのが常だ。

 今朝は厚い雲に覆われて居る。どんよりと立ち込める厚みのある雲はオレの心を象徴するかの様な嫌な空模様だ。溜め息を就かずに居られない。玄関を出た所で気持ちが削がれた気がする。それでも朝は訪れる。一日は始まる。抗う事などできる訳もない。

 家を後にしたオレは上賀茂神社に沿って歩き続けた。普段歩き慣れて居るはずの道なのに、なぜか妙な気持ちで一杯になる。日常に混ざり込まんとして居る不可思議な非日常の存在を肌で感じればこそ落ち着かない気持ちに駆り立てられる。目に見えない、得体の知れない何者かが近付きつつある。それを察するのは野生の勘なのだろうか? いずれにしても何か現実離れした出来事が起こりそうで不安で仕方がない。程なくして上賀茂神社のバス停に辿り着く。何時もと変わらぬ顔ぶれがバスを待って居る。空は相変わらずの曇り模様で、嫌な重たさを称えて居る。重みある蒸し暑い空気が立ち込める中、しばし待ち侘びる。警戒しながら周囲を見回してみる。だが、目に留まる様な異変は無さそうに思える。それならば――バスの中で異変は起きるとでも言いたいのか。なるほど。敢えて密室となるバスの車内を狙うとは姑息な事だ。

 溜め息を就くのと、バスが到着するのはほぼ同時の事だった。今更退く事もできやしない。それならば先に進むしか道はないと言う事か。避けられないならば突き進むしかない。オレは覚悟を決めてバスに乗り込んだ。

 程なくしてバスの扉が閉まり、バスがゆっくりと動き出す。もう後戻りはできない。ただ空虚に流れ過ぎてゆくだけの外の景色をジッと眺めていた。昨日と変わらない景色がそこにあった。もっとも、街並みがたった一晩で様変わりする事など、想像を絶する程に大規模な天変地異にでも遭遇しない限りは有り得ない話だ。

 何気なく過ぎ去ってゆくだけの日常の光景。そんな中で静かに息を潜めてオレを狙う非現実が寄り添って居る。バスは変わる事の無い街並みをただ走り続け、信号が赤になれば停車する。停留所に到着する度に人が乗り込んできて、同時に人が降りてゆく。オレの横を多くの人々が横切ってゆく。人が乗り降りする度に微かな風の流れを感じる。もしかすると、それは時の流れと同義なのかも知れない。結花だったらこう言う場面を、どう表現しただろうか? 何時もの様に掴み所のない独特の表現で描き出して見せるのだろうか? そんな事を考えて居ると、丁度後ろの席に誰かがふわりと腰掛ける音が聞こえた。

 有り得ない話だ。どうやった所で、オレの横を通り過ぎなければ後ろの席には座れないハズだ。それなのにも関わらず、一体、何時の間に? 予想通りと言うべきなのだろうか。非日常が始まろうとして居るのか。逃げる事が叶わない以上、立ち向かうしかないと言う事か。そっと身構えて居ると、背後からどこか懐かしい香りが仄かに漂って来た。どうやら後ろの席に腰を下ろしたのは若い女らしい。どんな女だろうか? 普段は抱く事のない興味を抱いたオレは後ろを振り返りたい衝動に駆られた。だが、相手は女だ。妙な奴だと思われるのも格好悪い。やはり、可笑しな好奇心は棄てて大人しく寝て居るとしよう。そう考えた瞬間だった。

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 微かに空気が漏れる様な吐息と共に聞こえた声に、オレは背筋が凍り付きそうな想いで一杯になった。とくりと鼓動が高鳴り、じわりと背中に嫌な汗が滲む。動揺と焦りから脈打つ鼓動が早まり、背後の女にさえ聞こえそうな程に高鳴っている。

 ――有り得ないハズの出来事が現実になる時、それは偽り以外に有り得ない。コタの言葉が鮮明に蘇る。ああ、そうさ。これは偽りだ。オレを惑わそうとする何者かが仕掛けた悪趣味な罠に違いない。振り返るものか。絶対に振り返ってなるものか。

 多分、後ろに席に腰掛けた何者かは、必死に身構えるオレを嘲笑って居るハズだ。馬鹿にしやがって。怒りで体が一気に熱くなってゆく感覚を抑えるのに必死だった。だが、もしも、後ろの席に腰掛けて居る女が何の関係も無い一般人だとしたら、オレは取り返しのつかない過ちを犯す事になる。そう。あの時、地下街ポルタで暴走したロックを阻止する事ができなかったら、ロックは罪を背負う羽目になっていた。それと同じ状況に陥ろうとして居ると言う訳か。相変わらず姑息な手段を好む奴だ。そんな小細工に引っ掛かる物か。

「これは始まり。物語の始まりなの」

 再び空気が漏れる様な笑い声混じりに声が響き渡った。背中から一気に汗が噴き出す感覚を覚えていた。振り返りたい衝動を必死で抑えながら、オレはただ沈黙を守り続けた。目を力一杯閉じ、後ろに意識を奪われない様に必死に耐え続けた。何時しか周囲の空気までもが可笑しくなり始めていた。どこかヒンヤリとした冷気が漂う異質な世界がそこに佇んでいた。周りの乗客達はそんな異変には何ら気付いていない様子だ。オレと、オレの後ろに佇む女だけが切り抜かれた様に異質な空間に放り出されて居るのかも知れない。イヤ、むしろ、オレ達だけが異質な空間へと誘われたと表現した方が適切なのかも知れない。信じ難い異変に遭遇し、鼓動が限界まで高鳴る。心臓が軋む様に痛む。嫌な緊張感だ。人は本当の恐怖に直面した時、悲鳴を挙げる事すら叶わなくなるものらしい。それどころか妙な冷静さまで保てている事実に驚かされる。しかし、これは危機的状況だ。文字通り、恐怖と背中合わせになって居る。逃げたくても逃げられない。此処は閉ざされた空間なのだから。

「……そんなに不安にならないで。あたしは偽物ではないから」

 そんな言葉、誰が信じるものか。惑わされてなるものかと、オレは必死で意識を集中させた。だが、異変が終わりを告げる事はなかった。周囲の空気は尚も変わり続けていた。何時の間にか妙な風まで吹き始めていた。そこまで考えたところで、オレは一瞬固まりそうになった。

(そんな事、ある訳がない。バスの中に乗って居るのに、何故に風を感じて居る?)

 それに、この匂い……無機的なバスのシートの息が詰まる様な匂いではなかった。木々達の息吹を確かに感じる匂い。オレは恐る恐る窓の外に目線を投げ掛けた。

「なっ!?」

 思わず声を出してしまった。信じられない事にバスは上賀茂神社の境内を駆け抜けていた。有り得る訳がない。ならの小川が流れゆく音色が響き渡る中、夜半の上賀茂神社の境内を駆け抜けるなど有り得ない事だ。それでもバスは走り続けて居る。すっかり日の暮れた上賀茂神社の境内を駆け抜けて居た。見覚えのある情景を見届けながら駆け抜けてゆく。そう――それは、夏越大祓の情景だった。ならの小川を流れゆく人形を見届けながらバスは駆け抜けてゆく。

 渉渓園へと至るかと思ったが、それにしては木々が生い茂り過ぎて居る。もはや、それは森の中を駆け抜けて居るに等しい程にうっそうと生い茂る木々に抱かれた場所だった。森の中を走り抜けるバス。夜半の森の中を走り抜けるバス。有り得ない光景だ。余りにも有り得な過ぎる光景だ。

 一体何が起きて居るのか? 驚きついでにバスの車内を見回してみれば乗客は誰も乗っていなかった。何が何だか理解不能な状況だった。これが現実世界での出来事である事は断じて有り得ない。森の中を駆け抜けるバスなど聞いた事がない。不安と恐怖から、今にも心臓が飛び出しそうになっていた。ただただ、意味不明な状況に身を置かれ、ひたすらに動揺するオレの目の前を仄かに瞬く光がふわりと舞う。

「ほたる……」

 夢の中としか思えない情景だった。辺り一面、木々に抱かれた情景の中を駆け抜けるバス。一体、何処まで走り続けるのだろうか? 考えて居ると、唐突に景色が開ける。猛烈な眩しさに目が眩み、オレは慌てて目を伏せた。再び目を開いた時、森の中を抜け出したバスは、これまた信じ難い事に亀岡の街並みへと繰り出していた。

 あの時、皆で訪れた国道沿いを走り続けていた。辺り一面、稲穂が風に揺れて居る。月明りだけが照らし出す景色の中、数え切れない程のほたるが乱舞して居る。月明かりよりもなお明るい光を放ちながら優雅に舞って居る姿が目に留まる。

「一体、何がどうなって居るんだよ……」

 ただただ驚く事しかできないオレに、さらなる異変が襲い掛かる。後ろの座席にいたハズの女は、何時の間にか前の座席に腰掛けていた。大きな麦わら帽子に隠れて、その顔を窺う事はできなかった。だけど、見間違えるハズがなかった。長い髪、華やかな甘い香り、雪の様に白い肌とすらりと伸びた細く、綺麗な指。

「結花……本当にお前なのか?」

 女は応えなかった。ただ静かに俯いたまま、オレが次にどう振舞うのか楽しげに見届けようとして居る様に感じられた。

「なぁ、結花。お前なんだろ? 可笑しな冗談は止せよ。お前はもう――」

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 可笑しそうに笑いながら女は……イヤ、結花は静かに応えて見せた。笑いながら、そっと小さな鈴を手にして見せた。風になびく様に、そっと鈴を鳴らして見せた。涼やかな音色が響き渡り、風が頬を撫でていった気がした。

「怒りは炎へと変わり、赤々と燃え盛る業火へと成り変わる」

 結花は尚も可笑しそうにクスクス笑いながら続けてみせる。

「怒りは憎しみへと変わり、報いとなりて焼き払うだろう」

 可笑しそうに笑いながら、再び鈴を鳴らして見せた。心地良い音色が響き渡った。それに呼応するかの様に周囲を漂うほたる達が次々と燃え上る。驚いて周囲を見回せば、何時の間にか至る所に篝火が供えられていた。お囃子の音色が響き渡り、天狗の面を着けた屈強な男達が一斉に力強く太鼓を打ち鳴らす。体の芯から燃え上る様な激情に駆られる音色に、オレは我を見失いそうになっていた。

 舞い散る火の粉、太鼓を打ち鳴らす男達、滴り落ちる汗。その情景にオレは確かな「怒り」を見出していた。そうか。これはオレの心の象徴なのだろう。オレから結花を奪い取った見えざる仇敵へと向けられた怒りが一気に燃え上る感覚を覚えていた。そうさ。燻るだけでは湧き上がる想いを抑える事などできる訳がない。一気に燃え上り、紅蓮の火柱となり、全てを焼き尽くす業火となりて、何もかもを怒りの炎で焼き尽くしてくれる。オレを司るのは怒りの感情。尽きる事のない、荒れ狂う怒りの炎だ。

「でも、忘れないで?」

「え?」

「その炎は大切な物まで焼き払ってしまう暴れん坊。物言わぬ真っ白な灰になってから泣いても、もう、大切な物は戻って来ないの」

「……そうだよな」

「不安にならないで。抑え込むのでは駄目。解放してあげるの。でも、一人で抱え込んでは駄目。大切な人と一緒に考えて。そして、進むべき道を見付けて」

 やはり、こいつは結花だ。ああ、間違いない。オレに守られるだけの弱い一面を持って居る様に見せ掛けて、結花は時に、驚く程の強さを見せてくれた。挫けそうになって、臆病風に吹かれて負けそうになると、何時だって優しくオレの事を励ましてくれた。オレに取って結花は、時に妹の様な存在であり、時に姉の様な存在でもあった。たった一人なのに、幾つもの顔を使い分けてみせた結花。会いたくて、会いたくて、ただひたすらに会いたかった結花。そんな結花が目の前に居る。有り得ない出来事が現実の物となって居る。それは偽り以外の何者でもない。それでも……それでも!

「手を差し伸べてくれる相手、手を借りるべき相手、間違えないで。鬼になっては駄目。鬼になってしまっては取り返しが付かなくなってしまうから」

「結花……」

「大丈夫だよ。力丸君なら、ちゃんと、正しい道を選べる。そう信じて居るから」

 静かに語る口調。紡ぎ出される優しい声。忘れる訳がない。結花だ……こいつは正真正銘、本物の結花だ。一体、どう言う原理で、こんな事が現実の物となって居るのかは皆目見当も付かないが、それでも、こいつが結花である事には変わりはない。ああ、駄目だ……もう、抑えられない! いよいよ堪え切れなくなったオレは勢いに任せて結花を抱き締めようとした。その瞬間、結花が静かに振り返った。ふわりと風が吹き抜け、麦わら帽子が風に舞い上がった。そこには忘れる事のない結花の穏やかな笑顔があった。

「どうか、物語を最後まで紡いで見せて。大丈夫だよ。力丸君は一人じゃないから」

「結花っ!」

「信じて。ずっと、ずっと、あたしは傍に居るから――」

 そう言い終えた瞬間、再び周囲の空気の流れが変わるのを感じた。道路を行き交う車の音、乗降する客達の足音、鳴り響くブザーの音、車内アナウンスの機械的な声。それから、窓の外から聞こえて来る蝉達の威勢の良い鳴き声。いよいよ気が動転したオレは思い切って後ろを振り返った。だけど、予想通りと言うべきなのだろうか。そこには誰も座っていなかった。ただ、結花の残り香だけが微かに漂っていた。

(結花……本当にお前だったのか? イヤ、そんな訳があるハズがない。オレの弱い心が生み出した幻に違いない。でも――)

 相変わらず結花は掴み所のない女だ。一体何を考えて居るのか、まるで理解不能だ。そうこうするうちにバスは出町柳に到着しようとしていた。すっかり嫌な汗をかいてしまった。空調が利いて居るバスの車内なのに、何故、髪から汗が滴る程に汗をかいて居るのか自分でも理解不能だった。いずれにしても異質な世界に誘われつつあるのは間違いない。

(……無駄に疲れたけど、気を取り直して学校に向かうとしよう)

 妙にふらつく足に力を篭めながらオレは席を立ち、バスを後にした。外に出た瞬間、思わず後退りさせられる程の熱風が吹き付けた。蝉達の鳴き声が響き渡る中、道路を往来する車の音が鮮明に響き渡る。間違い無く、ここは現実世界だ。ジリジリと照り付ける日差しを身に受けて、一日が始まろうとして居る事を確かに実感させられた。

「イヤ、違うな。始まったのは今日と言う一日だけじゃねぇな。オレの――」

 地面に目線を落としながら、オレは肩で息を就いた。

「オレの物語も始まったっつー訳だな」

 それは落胆の溜め息などではない。これから始まるであろう戦いに向けたオレの意思表示だ。どんな事態に陥ろうとも敗北だけは決して認めない。敗北とは受け入れた瞬間に成立する物と考える。だからこそ、敗北だけは受け入れたくなかった。

「ろくでもねぇ物語かも知れねぇけど、全力で書き殴ってやらぁ」

 空回りする様な虚しい気合いに過ぎなかったかも知れないけれど、それでも、敵は心の隙間を狙って来る以上、空元気でも気合いを入れていかなければ容易く惑わされてしまいそうで不安だった。だから、オレは迷いそうになるオレ自身に気合いを入れながら、京阪へと続く階段を駆け降りた。未だ、何処か夢の中に居るかの様な浮遊感が抜け切らなかったけれど、それでも追い付かれない様に必死で走ってやる。そう心に決めて、前だけ見つめて走り続けた。

◆◆◆18◆◆◆

 出町柳で降り立ったオレは、そのまま、何時もの様に京阪に揺られて七条まで訪れた。道なりに緩やかな坂道を駆け上り、三十三間堂を走り過ぎ、東山七条の交差点の前で立ち止まる。しばし待った所で、信号が赤から青へと変わる。良し、スタートの合図だ! 気合いを込めてオレは全力で走り出した。相変わらず空は蒸し暑い雲に覆われて居る。どんよりとした厚みのある雲は、それだけでも気持ちが沈む光景だ。だが、この程度の事で気持ちが揺らぐ事があってはならない。自分に負けたくないオレはひたすらに走って、走って、走り続けた。学校へと向かう他の連中を追い抜く様に、息を切らしながら走り続けて居た。多分、すれ違う連中が腰を抜かす程に必死の形相で走っていたと思う。

「おはようございます」

「おうっ、おはよう!」

 校門前で登校して来る生徒達と挨拶を交わす亀岡の横を、わき目も振らずに駆け抜けていった。図体のデカいオレが全力疾走する姿に、皆が目を丸くして驚きの余り立ち止まる。だが、それでもオレは必死で走り続けた。息が切れて、肺も、足も、酷く痛んだ。それでもオレは立ち止まる訳にはいかなかった。追い掛けて来ようとする弱い想いから、自らの身を少しでも遠ざけたかったから。

 勢いに任せて校庭を突っ走り、下駄箱で大急ぎで靴を履き替える。そのまま、再び勢いに任せて教室まで力一杯駆け上がった。

「比叡君、階段を走っては駄目でしょう!?」

 背中で桃山の怒号を受け止めながらも、オレは走り続けた。

「止まりなさい! 止まらなければ、関節技、決めるわよ!?」

 今日だけは大目に見てくれ! そう、心の中で桃山に叫びながらも階段を駆け上がった。

 蒸し暑い中を全力疾走するなど正気の沙汰ではない。お陰で汗は噴き出す一方だった。いよいよ息が切れて肺が痛む。汗は後から後から噴き出す一方で、既に土砂降りに見舞われたかの様な惨状の様相を呈していた。階段を必死で駆け上がる。ふくらはぎがパンパンになって鈍い痛みが駆け巡る。それでも、とにかくオレは馬鹿みたいに走り続けた。走って、走って、後は教室までの直線を駆け抜けるのみとなった。滴り落ちる汗が目に入り酷く染みた。それでもオレは走り続けた。何かに憑かれているとしか思えない程に必死になっているオレがいた。だけど、悪い気分ではなかった。

 情鬼は心の隙を狙って来る。それならば、だからこそ余計に心の隙を作ってはならない。空元気でも良かった。馬鹿みたいに振舞っていれば自然と気持ちは持ち上がる。憎しみの気持ちも、哀しみの気持ちも、そうそう容易く忘れ去る事はできないだろうし、なかった事に帳消しにできる程、器用な性分でもない。仮に、そこまで器用な生き方をできる身だったならば、もう少し、違った生き方もできたかも知れない。だけど、成立し得ない『たられば』を議論した所で何の意味も為さない。間抜けさが惨めに思えるだけだ。それにオレはオレだ。不器用ながらも必死に生きて居る。ああ、そうさ。生きて居るんだ。だからこそ、こんなにも悩み、迷い、苦しむ。でも、それで良いと思って居る。オレは今を生きて居るのだから。痛みがあるから、苦しみがあるから、生きて居ると実感できるのだから。

「あ、リキ! おはよう!」

 そんな事を考えながら教室に入れば、オレの姿に気付いたのかテルテルが駆け寄って来るのが見えた。ロックが満面の笑みで手を振り、コタが静かに腕組みして見せる。何時もの様に太助が涼やかな笑みを浮かべながら、扇子を片手に歩み寄って来る。滲み出る汗が髪を伝い、頬を伝い、教室の床に次々と雫となって零れ落ちる。流石に余りにも鬼気迫る姿にテルテル達が静かに絶句するのが聞こえた。

「朝から夕立にでも遭遇したのか?」

 引き攣った表情で腕組みする太助の視線が、頭からつま先までしげしげと往復する。

「大丈夫? 凄い息切らして居るけど……もしかして、もしかしての緊急事態発生!?」

 明らかにドン退きした様に、テルテルが一歩後退りする。

「にゃはは。なるほどなのじゃ。トイレに行来たくて、行来たくて、全力疾走して来たのじゃな?」

 可笑しそうに笑いながらロックがオレを覗き込む。

「そうじゃねぇよ! 大体、なんで、お笑い方面に持っていくんだよ!?」

 ああ、判っている。判っているさ。こういう風に返してくれるのを期待しているのだろう? 安心しろ。お前達の想いなど、全部、全て、理解しているから。

 変わる事のない日常の光景がそこにあった。大丈夫だ。可笑しな出来事は学校まで追い掛けてきてはいない。こうして皆の顔を見る事ができて本当に安心できる。良かった。オレは一人じゃない。そう実感できるから。大袈裟かも知れないけれど、オレは孤独に耐えられる程に強くない。もう、無駄に強がるのも、無意味に背伸びをするのも止めにすると決めたのだから。思わず安堵の溜め息が漏れる。

「アレ? そういえばさ、夕立って夕方でしょう? えっと、今は朝だから――」

 不意に何かを想ったのか、テルテルが小首を傾げながら何かを言い掛ける。

「にゃはは。朝立ちなのじゃ」

「……未だ、清々しい朝の時間帯だと言うのに、禍々しいシモネタとは業の深い奴らだ」

 コタが苦笑いしながら歩み寄れば、テルテルが困った様な顔で、さらに首を傾げて見せる。

「えー? ぼく、何か可笑しな事言った?」

「にゃはは。テルテルは今日も天然色全開なのじゃー」

「えっと……何か、良く判らないんだけど?」

「おいおい、わざとボケてるんだろ? な?」

 だから、オレも何時もと変わらぬ振舞いで応えて見せる。テルテルの肩に力一杯腕を回して見せれば、空を切り裂く様な短い悲鳴が響き渡る。

「うわっ!? ちょっと、リキ! ビチャっとしたよ!?」

 テルテルが悲鳴を挙げれば、コタが冷静にスプレーを身構えて見せる。

「……輝、俺の半径五メートル以内の領海に侵入した場合は、制汗デオドラントで迎撃する」

「コタってばヒドーい。もう、リキも離れてよー」

「わはは、嫌いじゃねぇんだろ?」

 オレの言葉にテルテルが困った笑みで返して見せた。あまり調子に乗って居ると真っ二つにされそうだ。ここらで手を引くとしよう。オレの目の前では太助が不敵な笑みを浮かべながらコタに歩み寄る。

「ふふ、『性感』とは小太郎も中々に好き者だな」

 そう口にすれば、コタはこれ以上ない程の仏頂面で腕組みしながら、ぽつりと切り返して見せた。

「お前に言われると、本気の絶望感に満たされるな……」

「ほう? 冷たく突き放す様に振る舞って居るが、それは、本心の裏返しと言う事か」

「お前の思考回路は一体、どうなって居る?」

「もう、コタってばツンデレなんだからぁー」

 テルテルがケラケラ笑いながらツッコミを入れて見せれば、一瞬、静寂が訪れる。しばしの静寂の後、コタが顔を真っ赤にしながら声を荒げる。

「つ、ツンデレ!? 俺が!?」

「他に誰が居るのじゃー?」

「つ、ツンデレ……」

「ふふ、そうか。小太郎はツンデレだったのか。それならば仕方がない」

「俺は……」

「言うまでも無くツンデレだよなぁ」

「ち、違う……俺は……俺は……」

 取り乱したコタの振る舞いが可笑しくて皆、笑った。オレも笑った。笑って、笑って、皆と肩を組んだ。一人じゃない事を実感したかったから。強気で豪快に振舞うオレは、結局の所、演じて居るオレに過ぎない。本当のオレは孤独な寂しさに耐えられない弱虫だ。決して、強くなど無い身だ。だからこそ、皆とこうして繋がって居ると実感せずには居られなかった。皆の事を信じて居ない訳ではない。でも、それでも、こうして体の一部が触れ合って居ると安心できる。馴れ馴れしい奴だと皆に言われるが、不器用な性分だからこそ、言葉を交わすだけでは想いが伝わって居るか不安になる時も少なくない。だからこそ、こう言うノリで接するのが好きだ。暑苦しい男だと、からかわれるけれど、好きな物は好きだと主張したい。それに、オレの馴れ馴れしさを受け入れてくれる皆が居る事が嬉しいから、ついつい感情が昂ぶってしまう。どうやら、オレは人としての生き方よりも、動物としての生き方の方が性に合って居るらしい。自他共に認める野性的な男と言うのは間違いでは無さそうだ。

 こうして何時もと変わらない日常が始まる。今日と言う一日が始まる。今、この瞬間、確かにオレはここに生きて居る。そう実感する事で安心を噛み締めていた。窓の外には澄み渡る青空が広がり、入道雲が大きく迫り出して居る。ゆっくりと時が流れてゆく感覚を肌で感じていた。窓から吹き込む風は蒸し暑かったけれど、嫌いではない。夏が好きだから。暑い季節が好きだから。蒸し暑さを肌で感じれば、胸元を汗が伝って落ちる。それを皮切りにするかの様に蝉達の鳴き声が一際鮮明に響き渡った。

「はーい、それではホームルーム始めちゃいますよー」

 蝉達の割れんばかりの鳴き声に誘われる様に、何時もの変わらぬ振る舞いで、山科がのっそりと教室に入って来れば、今日と言う一日が始まる。うしっ! オレの物語、スタートだ。夕立遭遇状態になっているのは多分に頂けないが、コタの親父さんの格言が妙に染み渡る。『少し位、汗臭い方が男らしい』のだと。ああ、オレは野性的な男だ。小奇麗には生きられない分、力強く生き抜くまでだ。温室で育った小奇麗な花よりも、排気ガス吹き荒れるアスファルトを割って這い出た雑草は遥かに生命力に満ちて居る。逆境にあればこそ、命も活力を手にするという物だと、可笑しな言い訳をしてみる。

◆◆◆19◆◆◆

 つつがなく時間が流れてゆき、気が付けば既に昼休みに入ろうとしていた。また何時もの様に皆と一緒に屋上で昼食時を共に過ごすとしよう。オレ達は手身近に昼食を買い込んで何時もの様に屋上へと続く階段を歩んでいた。皆で屋上を目指して階段を昇って居ると、不意にテルテルがオレの隣に並ぶ。何やら妙な笑みを浮かべて居る辺りに、条件反射的に警戒心を抱かずに居られない。さて、何を言い出すのだろうか? 身構えて見せても、テルテルは相変わらずマイペースだ。

「ねぇ、リキ。今日、放課後に皆で太助の家に遊びに行こうって話になったんだけど、リキも一緒に遊ばない?」

 なるほど。弾む様な口調で問い掛ける辺りから察するに、いつもの様に景気の良い返事をする事を期待して居るのだろう。だけど、何故か、そんな気分にはなれなかった。今朝、体験した奇妙な体験が重く圧し掛かって居るのが原因だろうと、思えて仕方がなかった。どうにも、気持ちが沈んだきり、戻る気がしなかった。こんな中途半端な気持ちのままで、皆と共に遊びに出掛けるのも忍びない気持ちで一杯になる。さて、どう断ろうかと、返事に窮するオレに違和感を覚えたのか、テルテルが戸惑った表情で首を傾げる。その瞬間、耳元で鈴の音色が響き渡った。一瞬、周囲の音が一切消え失せたかの様に静寂に包まれた。チリーン。鈴の涼やかな音色が響き渡った。

(鈴の音? 一体何処から聞こえてくる?)

 目線だけを周囲に張り巡らせて探りを入れるが、何処にも音の発信源が見当たらなかった。そもそも、テルテル達は猫では無い以上、鈴を身に着けたりしない。チリーン。尚も鈴の涼やかな音色が響き渡る。不思議な音色だ。透き通るような、それでいて鋭利な刃物の様な鋭さをも称えて居る。不思議な音色を耳にした瞬間から、頭から氷水を浴びせられた様な衝撃を覚え、ついでに、みるみる力が抜けてゆく様な奇妙な感覚に襲われ、オレはその場に硬直させられた。

「リキ? どうしたの?」

「あ、ああ。何でもねぇよ。余りの暑さにちょいとクラっとしただけさ」

「珍しい事もあるのじゃー」

 茶化す様に振る舞うロックを軽く小突きながら返した。

「オレだって暑さにやられてふらつく事だってあるっつーの」

 そう口にしてから、小さく溜め息を就く。どうやら、この鈴の音色は偶然の産物では無さそうだ。間違いなく、何らかの必然が裏に潜んでいる。何やら仕組まれている以上、迂闊に抗わない方が無難なのかも知れない。何よりも必要以上に皆を巻き込みたく無かったと言う想いもあったし、それ以上に、これはオレの物語だ。オレの手で解決しなくてどうする。そんな、無意味としか思えない虚栄心がテルテルの好意を手堅く阻んでしまったのかも知れない。

「ごめんな。今日は止めとくわ」

 テルテルの期待が篭められた眼差しが申し訳無くて、結局、オレはうやむやな振舞いを見せる事しかできなかった。相変わらず、オレは現実と向き合う事から目を背けるだけの弱虫に過ぎない。テルテルの顔を見る事もできずに、誰に告げるともなく放たれた返答であったが、「そっかー。じゃあ、仕方ないよね」。テルテルはさして気にした様子も無さそうに振る舞っていた。気を悪くしないだろうかと、心配しただけに一安心だ。それにしても、またしても鈴の音色が響き渡るとは、一体、どうした事なのだろうか? 結局、どこから音が聞こえたのかは不明だった。現実が非現実と出会おうとして居る。それだけは間違いない。なるほど。現実と非現実は絶えず背中合わせと言う事か。それは丁度、鏡の様に表と裏の関係に近しいのだろう。不安と恐怖が背中合わせに佇んで居る事に気付かされた瞬間、鼓動が早鐘の様に高鳴り始めた。気持ちを落ち着かせるべく、オレは皆に気付かれぬ様に息を整えた。

「輝、済まないな。俺も遠慮させて貰う」

「アレ? コタも?」

 予想外のコタの反応に驚かされたのはテルテルだけではなかった。オレにしてみても意外な振舞いだった。だけど、四六時中一緒に居なければならない事もない訳で、コタにだって何か予定があっても不思議ではない。クロと共に歩む身である事を考えれば、何か予定があっても不思議ではない。一方的な先入観だけで物事を考えて居るとろくな目に遭わない。要らぬ固定観念はさっさと捨てるに限る。非現実はすぐそこまで忍び寄って居る。オレを呑み込もうと密かにほくそ笑んで居るに違いない。一瞬たりとも気を抜く訳にはいかない。気を抜けば呆気無く呑まれてしまう。そうなってしまえば、オレが存在していた事さえ、呆気なく否定されてしまう結末を迎える羽目になる。そんなの絶対に嫌だ。

「まぁ、良いさ。俺達だけで楽しむのも悪くない」

 相変わらず太助はクールな振る舞いを崩さない奴だ。静かに腕組みすると、さも、何事もなかったかの様にテルテル、ロックと、二人の顔を交互に見回して見せる。

「輝、大地、今日は琵琶湖疏水を巡る旅に挑んでみるとしよう」

「にゃはは。太助は相変わらずシュミがシブいのじゃ」

「だが、こういった渋い旅も嫌いではあるまい?」

「大自然のある場所なら、どこでも楽しんじゃうよ。ねー?」

「にゃー、楽しんじゃうのじゃー」

 色々と気になる事はあったけれど、要らぬ詮索をするのは止そう。それにしても、コタの振舞いがオレの中で妙に引っ掛かった。気のせいだろうか? さっきから、チラチラと横目でオレの表情を窺って居る様な気がしてならないのだが……。

「さて、腹も減ったな。こんな所で立ち往生していないで、さっさと屋上へ向かうぞ」

 オレの疑念に気付いたか、どうかは定かではないが、コタは皆を先導する様に階段を上ってゆく。一歩、一歩、踏み込む度に足音だけが響き渡る。窓から差し込む日差しの中、皆で階段を一歩ずつ上っていった。

(あの鈴の音は一体何だったのだろうか?)

 考えても判らない事に必死で想いを巡らせた所で何ら意味を為す事はない事位、重々判っている。判り切っているさ。無駄な事だと言う事位は判って居る。それでも結花の気配を感じずには居られなかった。すぐ傍に立って居る様な気がしてならなかった。ああ、判っているさ。そんなの、絶対に有り得ない事だと言う事は判り切って居る。罠なのかも知れない。未だ見ぬ敵がオレを陥れる為に仕掛けて居るのかも知れない。だからこそ気持ちをシッカリと持たないとならない。惑わされてなるものか。オレは静かに気合いを入れながら階段を昇り続けた。

 空は晴れ渡り、雲一つない青空。照り付ける太陽の日差しも熱く、外からは蝉達の鳴き声が降り注ぐ様に聞こえるばかりだった。だからこそ、そこに佇む確かなる「死」を予感せずには居られなかった。結花に会いたい……その想いだけが、ゆっくりと体を蝕んでゆくようで恐ろしくて堪らなかった。それでも時の流れは残酷で、ただ無情に過ぎ去ってゆく。色んな事に考えを巡らせていたせいか、結局、昼食時の記憶は微かにしか残されていなかった。心、此処に在らずと言うのは、まさに今のオレが置かれている状況そのものだと、妙に冷静に受け止めて居た。その一方で皆に嫌な想いをさせていないか……イヤ、皆に嫌われやしないかと不安に駆られたが、それでも、心の叫びに従わずには居られなかった。これは、オレ自身の物語なのだから。主人公を演じ切れるのはオレしか居ないのだから。

◆◆◆20◆◆◆

 夕暮れ時の光景は何時だって物悲しさに包まれていて嫌いではない。皆の前では無駄に明るく振る舞って居るが、人の心は天候と同じだ。常に同じであり続ける事はできない。心が哀しみに満ち溢れて居る時、オレは一人になりたくて、こうしてぶらりと寄り道をしたくなる。今日もそう言う心境に駆られていた。だからオレは上賀茂神社に立ち寄っていた。

 夕暮れ時の上賀茂神社は人の気配も無く、ささくれ立った心を鎮めるには心地良い静けさだった。上賀茂神社の一の鳥居前に立ち、そっと空を見上げてみた。暮れゆく夕日に包まれた街の景色が好きだ。今日が終わってゆく。また明日へと繋ぐためのしばしの別れを受け入れんとするかの様で、胸が締め付けられる様な哀しみが心地良い。痛みを感じる事で、生きて居る事を実感する。だからこそ、結花の言葉を思い出さずには居られなかった。

『痛みを感じるのは生きて居る証。だから、痛みを追い求めずには居られない……』

 やはり、結花が抱き続けた独特の世界観はオレには理解できなかった。思わず溜め息が毀れる。

「違うな。理解したくなかったんだ」

 受け入れる事が恐ろしかったから。あるがままの現実を生きられる程、オレは強くない。だから見たくない現実から目を背け、受け入れるべき現実から身を耳を塞ぎ、どこまでも逃げ続けて来た。その結果、辿り着きたくもない場所に辿り着いてしまった。それもまた、全ては自分で招いた結果だ。だからこそ、受け入れるしかない。もう、逃げられないのだから。イヤ、違うな。もう、逃げるのはお終いにしたい。お終いにするんだ。そう決めたのだから。変わるんだ。オレは変わる。絶対。必ず。

 一の鳥居を後にしたオレはそのまま歩き続けた。白砂の砂利が足元で小気味の良い音色を立てて居る。じゃりじゃりとオレの歩く足音だけが響き渡る。夕暮れ時の上賀茂神社には既に人の気配は無く、何だか独り占めした様な感覚に包まれて心地良かった。

 道なりに歩み続けながら、周辺の木々から響き渡る蝉の声を肌で感じていた。夕暮れ時の境内に響き渡る蝉の声が心地良くて、そっと足を止めて、もう一度、夕暮れ時の空を見上げてみる。巣に帰るところなのだろうか? 鳥達が羽ばたいてゆく姿が目に留まった。夕暮れ時の空を舞う鳥の群れ。今日と言う日に別れを告げ、明日との出会いに希望を馳せる。そんな生き方に縋ってみたい気持ちにさせられた。

 昼間は大勢の参拝客達が訪れる上賀茂神社も、夕暮れ時になれば静けさに包まれる。さっきまで、そこに居たであろう人々の残留思念だけを抱きながら、迫り来る静かな夜を優しく受け入れる。同時に見えて来る世界がある。日の当たる時間帯には目に映る事のなかった数多の人々が紡いだ物語。明るい時間帯には人目に映る事のなかった物語も、日が暮れる頃には次第に目に映る様になり始める。数多の人々の物語があればこそ、そこに道を見出す事ができるのでは無かろうか? そんな切なる願いに託して見たい衝動に駆られていた。

「少し、歩くかな……」

 判って居る。今の時間帯、二の鳥居より向こうに入る事はできない。それでも、結花と共に過ごした思い出は幾らでもある。判って居る。そんな事をしても、結花が帰って来る訳も無く、辛い現実に酷く痛むばかりだと言う事等、判って居る。でも、それでも、敢えて痛む傷口を抉ってやりたい衝動に駆られる。痛むからこそ、より大きな痛みに神経を集中させたい。馬鹿な振る舞いなのは自分でも良く分かって居る。いずれにしても、あの日、あの時、オレの隣を歩んでいた結花は、もう、ここには居ない。

「結花……」

 そっと、名前を口にしたところで応える者は誰も居ない。所詮、オレは孤立無援な存在に過ぎない。時の流れの中に捨て置かれた迷子に過ぎない。誰も憐れんでくれない。誰も同情なんかしてくれない。もっとも、そんな物、求めてもいない。仮にご親切な誰かに与えられたら乱暴に突っぱねるだけだ。無駄なプライドだが、それでもオレの想いだ。捻じ曲げるつもりはない。

 心地良い空気が流れて居る。芝生の柔らかな緑と、木々達の活き活きとした深い緑。耳を澄ませば、流れゆくならの小川の涼やかな音色が聞こえて来る。どこかの木から、蝉の鳴き声も聞こえて来る。邪魔する者達が居なくなった境内だからこそ、皆、目を覚まして、夜を受け入れようとして居る。そんな気がした。このまま、上賀茂神社の境内と一つになりたい。一つになれたら、どんなに幸せだろうか。そんな切な願いを胸に抱いてみても、それは叶わぬ願いだ。それならば、真逆の空間に身を置きたい。思い通りにならない現実への精一杯の抵抗。変わる事のできない自分自身への無限の反抗。そんな事したって、何の救いにもならないのに。相変わらずオレは頭の悪い振る舞いしかでき無さそうだ。そんな不器用な自分が哀しくもあり、同時に、滑稽過ぎて、可笑しくもないのに笑いが毀れる。

「へへっ、やっぱ、オレ、頭悪いな」

 一度家に戻ったら、どこかに出掛けるかな。あの家には居たくない。寝るためだけに在れば良い。それ以上の価値等どこにもない。それに、今のオレは、静けさに包まれた場所に身を置来たくなかった。どこか、酷く喧しくて、無駄に人の話し声に満たされた雑多な空間に身を置来たかった。ああ、そうさ。大自然から程遠い、人の手が築き上げた無機質な街並みを歩みたい。酷く濁り、淀んだ流れの中に身を置き、窒息寸前の苦しみにもがき苦しむオレを見届けたかった。そうさ。苛立ちを抑える必要なんか何処にもない。いっその事、このまま本能の赴くままに鬼に成り果ててくれるのも一興だ。湧き上がる怒り、誰彼構わず無差別に叩き付けてくれる。オレは鬼になる。復讐の鬼となるのだから。オレは大きく溜め息を就き、肩をいからせながら上賀茂神社の境内を後にしようとしていた。物語の欠片を追い求めて彷徨い続けるために。

◆◆◆21◆◆◆

 それから半刻程過ぎた頃、オレは河原町三条のハンバーガーショップに座り込み、夕暮れ時の街並みを忙しなく行き交う人々の流れを見つめて居た。店の外は夕暮れ時と言う事もあり活気にあふれていた。時折、店にお客が訪れる光景と、店を後にする光景を交互に見続けていた。何も考える気力が沸かなかった。ただ、酷く喧しくて、無駄に人の話し声に満たされた雑多な空間――と考えた時に、三条の街並みが真っ先に頭に浮かんだ。だから訪れた。ただ、それだけの事だ。それ以上の考えなど、何処にもなかった。

 予想通りと言うべきか、この界隈は夕暮れ時を過ぎても人通りは多い。人通りの多さと言う観点だけで言うならば、花見小路を抱く祇園の街並みの方が、遥かに賑わいも、活気もあったに違いない。ただ、賑わっては居るが、同時に、享楽的な空気が色濃く反映されて居るのも事実だ。宵の宴の華やかさは今のオレには辛過ぎる。思い余って、そのまま浮かれた酔客をぶん殴ってしまうかも知れない。ああ、そんなのただの八つ当たりだ。格好悪いだけだ。でも、それでも、自分を制する事ができる自信がなかった。だからこそ、地味な薄暗さを称えた、普段着の街並みに触れたかった――なんて、都合の良い事を口にして居るが、結局、オレは結花の面影を追い求めて居るだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 奇しくも、河原町三条の界隈は結花と良く訪れた場所のひとつだから。無意識の内に、結花の思い出を手繰り寄せる過程で選んでいたとしても不思議ではない。まったく、我ながら情けない姿を晒して居る物だ。何時までも結花に縋り付くだけの弱虫が居る。このまま夕暮れ時の雑踏の中に散ってしまえば良い。そう、毒付かずには居られなかった。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

 女性店員の明るい声が店内に響き渡る。そういえば、この店も結花と何度か訪れた事があった。ハンバーガー店に興味がある訳では無く、結花はこの界隈の街並みに興味を惹かれていた。そのお陰で、オレも良くこの界隈を連れ回された。歩き回っていれば腹も減る。そう言う時に、気軽に立ち寄れる店があるのは有難い物だ。もっとも、ハンバーガーを出す店は結花の好みでは無く、オレの好みなのだが。

 丁度、この一角にはカレー屋、ハンバーグレストラン、そしてオレが今居るハンバーガーショップと、オレ好みの店が三店並んで居る。コタ達と一緒ならば何の遠慮も要らないが、流石に結花と一緒に居る時はハンバーガー店を訪れるのが限界だ。

 時だけがゆっくりと流れ続けてゆく。すでにオレの手元にあるアイスコーヒーは氷がだいぶ溶けて薄くなってしまった。カップを揺らしてみれば、すっかり小さくなった氷がカラカラと渇いた音を立てるばかりだった。オレは入り口近くの席に腰を据えて、往来する人の流れをぼうっと見つめていた。時間にしてみれば僅かな時間であったハズだった。だが、ガラス張りのドアから覗く外の通りの景色が目まぐるしく変化して居る様に思えて仕方がなかった。果たして気のせいなのだろうか? 改めて目を凝らしてみれば、外の景色は唐突に暗くなった気がする。そんな事を考えて居ると突然、地響きを思わせる様な、唸りにも似た轟音が響き渡った。道行く人々も驚いたのか、その場に足を止めると、示し合わせたかの様に皆一様に空を見上げていた。

(……夕立か? さっきまで、あんなに晴れていたのに)

 再び空が唸りを挙げるのと、雨が降り始めるのは同時位の事だった。夕暮れ時の街に叩き付ける様に降り出す雨。オレは外の景色を呆然と見つめていた。降り頻る雨の中、無表情な人々が慌てた素振りで通りを往来する。時折、車が駆け抜ける度に雨水を撒き挙げる湿気た音が響き渡る。叩き付ける様に降り注ぐ雨粒が、地面に落ちる度に水飛沫を巻き上げる。夏の風物詩とも呼べる光景だ。人が築き上げた街並みと、大自然の使者とが交わる瞬間を目の当たりにしていた。オレはただ雨から逃れる様に忙しなく行き交う人の流れを見つめて居た。

 雨宿りついでに来客する人々が増えれば、店内はにわかに賑わい始める。人が往来する度に店の自動ドアが開き、湿気を孕んだ蒸し暑く、土臭い風が入り込んで来る。汗ばむ首元をタオルで拭きながらオレはキャップを被り直した。人の多い場所は好きではない。そろそろ潮時だろうか? すっかり氷の溶け切ったアイスコーヒーを呑み干した所で、ふと吐息を就く。吐息を就きながら、妙な違和感を覚えた。何気なく握り締めた掌の中、何か異物が存在して居る事に気付いた。

(何だ……これは?)

 恐る恐る掌を開いてみる。汗ばんだ掌の中でサイコロが無機的な音を立てて転がってみせた。

『偶然なんてないの。すべては必然なの』

 掌の中でサイコロを転がすオレの耳元で囁く様な声が聞こえた――そんな気がした。

◆◆◆22◆◆◆

 あれは結花と出会って間もなかった頃の事だったと記憶して居る。随分と昔の記憶だ。だが、それでも印象的な記憶であったからこそ、今でも克明に思い描く事ができる。

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 沈みゆく夕日に包まれた御薗橋は引っ切り無しに往来する車の流れで彩られて居る。忙しなく過ぎ去ってゆく夕暮れ時の街並みは戦場の様相を呈する。何をそんなに急いで居るのか、車は途切れる事も無く往来を続ける。

 御薗橋の下には加茂川の流れ。橋の上も、橋の下も、時の流れに寄り添う様に流れを称え続けて居る。排気ガスの匂いは好きではない。結花とて、こうした場所は好きではないハズだ。それなのにも関わらず、敢えて、こんな場所で足を止めるとは物好きにも程がある。やれやれと思いながら溜め息を就いて見せても結花の心には届かないらしい。

 予想通り、結花は子供の様な無邪気な笑顔でオレに振り返って見せた。さも、自分が言って居る事は世の真実なのだと言わんばかりの自信に満ちた振る舞いだった。普通に考えれば、そんな事、有り得る話ではない。それでも、結花に取っては世界は自分を中心に回って居ると考えて居るしか思えなかった。一体、何処からその根拠のない自信は来るのか? 問い掛けてみたい気がしたが、意味を為さない事は判って居る。判り切って居るオレが居る。だから、敢えて聞こえる様に溜め息を就いて意思表示してみせるが、予想通りの反応で応えた。オレに手を突き出すと、結花は嬉しそうに笑って見せた。そっと、手を開けば、結花の掌の上には二つのサイコロが並んでいた。

「サイコロ? 何だよ、手品でも始めようってのか?」

 また何時もの様に良く判らない事を言ってやがる。オレは興味がない事を告げる為に、殊更に仰々しく溜め息混じりに返した。何処かで誰かが急ブレーキを踏み込んだらしい。続けて響き渡るクラクションの音。相変わらずこの街の交通マナーは酷い。交通事故が絶えない理由をそこに見出した気がする。違った意味でも溜め息が毀れる。

「手品じゃないの。良く見ててね。この二つのサイコロは必ず、あたしの願った通りの数になるの」

 夕暮れ時と言う事もあってか、誰も彼も忙しなく振る舞う。相変わらず御薗橋の上を車が引っ切り無しに往来し続けて居る。沈みゆく夕日に照らし出されて流れゆく加茂川の流れもまた、萌え上がる様な茜色に燃え上っていて、ゆらゆらと揺れ動く炎が流れて居るかの様に思えてしまう。

 得意そうに笑い掛ける結花の長い髪も、風になびくスカートも茜色に染まっていた。相変わらず自信に満ちた表情を崩さない。自転車に乗ったおばさんが迷惑そうにすれ違ったが、結花の視界には一切入っていない様子だ。相変わらず興味がない物は一切視界に入らないらしい。そのお陰で何度事故に遭いそうになれば気が済む。一緒に居るオレの身にもなれ。出掛かった言葉を呑み込みながらオレは結花の顔を覗き込んで見せた。

「それで、お前は一体何がしたいんだ? 隠し芸の練習だとでも言うのか?」

 眉をひそめ、目一杯馬鹿にする様な態度で接しても結花の自信は揺るがない。その根拠のない自信は一体どこから来るのか教えて欲しい物だ。

「まぁ見ててよ。それじゃあ、どの目が出るかを考えてみてね?」

「へいへい」

 頭の後ろで腕を組んで、馬鹿にする様なオレの態度など気にする事もなく、結花は上機嫌に笑いながらサイコロを転がして見せた。何となくだが、三が出そうな気がした。

(いやいや、オレは何を期待して居る? 所詮、こんなの手品に過ぎないハズだ)

 馬鹿馬鹿しいと思う一方で、結花ならば何か、予想もしない様な事をやって退けるのでは無かろうか? そんな妙な期待感を否定し切れないオレが居るのも事実だった。色んな思惑が駆け巡る中、果たして結花の手のひらの中で転がったサイコロは見事、三のゾロ目になった。驚かされたのは事実だが、敢えて、オレは馬鹿にする様に溜め息を就いて見せた。

「……偶然だな」

 もっとも、偶然とは言え三のゾロ目になる確率は三十六分の一だ。そうそう狙って出せる様な物ではない。それでも結花の事だ。先刻までの妙な自信を考えれば、何か細工をしていたとしか考えられなかった。

「ほら、ね? 偶然なんてないの。すべては必然なの」

 そら見た事か。結花は勝ち誇った様な笑みを浮かべて見せた。悔しいが、一体、どんな手品を仕掛けられたのかオレには見抜けそうになかった。だからと言って受け入れるのもしゃくに障る。だから、オレは敢えて、さらに結花を馬鹿にする様に振る舞って見せた。

「サイコロの目は六個だ。二つ合わせれば三十六分の一になるが、それでも、偶然に出る事だってあるハズだろう? 仮に適当に言っても三十六分の一の確率で当たる訳だ。たまたま、すげぇ偶然に出くわしただけなんじゃねぇのか? そうで無ければ手品だな」

「ふーん。言ってくれるじゃない?」

 怯むかと思いきや、どうやら要らぬ事を口にしてしまったらしい。結花は不敵な笑みを浮かべたまま、大きく手を広げて見せた。

「良いわ。あたしの言った事は嘘じゃないの。それを今から証明してみせてあげる」

 何もこんな交通量の多い、夕暮れ時の御薗橋の上でやらなくても良い物を……ぶつぶつ小声で文句を言って見せても、結花は相変わらず聞く耳を持たない。だけど、オレは結花の言葉が真実であった事を見せ付けられた。オレが一だと思えば一のゾロ目が出た。オレが六だと思えば六のゾロ目が出た。何度やっても結花の言う通り、願った通りの目が出た。だけど、この時のオレは結花が仕組んだ手品に過ぎないとしか思っていなかった。そうでなければ、三十六分の一と言う低確率でしか起き得ない偶然を、ここまで巧みに操れる理由の説明ができないと言う物だ。

「へっ! やっぱり、ただの手品じゃねぇかよ」

「力丸君が手品だと信じて疑わない。それさえもね、偶然ではないの。必然なの」

「何だよ、ソレ。ただの負け惜しみか?」

 付き合い切れない。歩き出そうとしたオレの背に向けて、結花が笑いながら返す。

「力丸君が、あたしの事目一杯馬鹿にした様な態度で、負け惜しみかって言う。それも偶然じゃないの。必然なの」

 結花は何時もそんな調子だった。どんなツッコミを入れてもにこやかな笑顔で返すばかりだった。事ある事に、決め台詞の如く「偶然ではない。必然なのだ」。そう、言い切って見せた。随分なご都合主義だとしか思えなかった。終始こんな調子で振る舞うものだから、出会った当初のオレに取って、結花は本当に掴み所のない奴だった。オレが男で、結花が女だから理解できない事もあるのだろうか? そう考えた事も少なくなかったが、それだけでは片付け切れない不可思議な振る舞いと言動の数々で翻弄してくれた。掴み所のない振る舞いの数々。一言で現すならば結花は『ヘンな女』だった。ああ、とにかく『ヘンな女』だった。

◆◆◆23◆◆◆

 だけど――あの時、御薗橋の上で語らった結花はもうこの世に居ない。あの頃の様に可笑しな事を言って退ける結花に、眉をひそめ、溜め息混じりにツッコミを入れる事は、もうできない……。

 あの日の情景を思い起こしながら、二つのサイコロを頃がして見た。だけど、結花がやったみたいに願った通りの目が出る事はなかった。

(何だよ。やっぱり、手品だったんじゃねぇか……)

 悪態を就いて見せても誰も応える事はない。ふと、外の景色に目線を投げ掛ければ、傘を手に持ったまま歩き回る人々の姿が目に留まる。どうやら、ただの通り雨に過ぎなかったらしい。一頻り思いの丈をぶつけるが如く降ってしまえば、後はせっかちに走り去ってゆくだけだ。ある種、男らしい振る舞いと言えなくも無い。本能の赴くがままに荒ぶるだけ荒ぶっても、コトが終われば一気に理性を取り戻す。そういう男らしい潔さは嫌いでは無い。

 目線を人々の足元に落としてみれば、地面に溜まった水溜りには夕暮れ時の夕焼け空が映し出されて居る。去り往く暗雲と夕焼け空の共演とは、夏ならではの風物詩と言える。こんな情景も夏らしくて心地良い。

(腹ごなしも済ましたし、そろそろ出るかな)

 夕立の後の気候は蒸し暑く、すっきりと晴れ渡る空模様とは裏腹に、湿気だけが置き土産の如く残されてゆく。汗が止まらなくなる気候だ。涼を求めて、ぶらりと気軽にハンバーガーショップを訪れる奴も少なく無さそうだ。夕暮れ時と言う事も重なり、小腹を満たさんとするオレと同じ様な考えを抱く奴も居るだろう。店内はにわかに混み出した。突然の夕立の後だ。雨に濡れた体を拭きたい奴も居るだろうし、残り香の様な蒸し暑さに辟易して涼を求めて立ち寄った奴も居るだろう。いずれにしても、必要以上に混雑するのは必至と見た。人が多い場所は好きではない。潮時と言う事か。頼まれなくても退散してくれる。

 自動ドアの向こう側に見える食料品店の、印象的な青い文字と赤い三角が重なり合った看板を目にしながらオレは席を立った。さて、この後は何処に向かおうか。雨も上がったみたいだし、夜半の街並みと人々の雑踏に触れるのも悪くない。時間の赦す限り、三条の街並みと共に在りたいと願っていた。

 理由は実に単純だ。あの家に居たくない。ただ、その一点に尽きる。厳密には両親と顔を合わせたくなかった。いちいち細かい事に干渉して来るのがウザくて仕方がない。一人になりたい時だってある。それに、オレは何時までも子供でもないんだ。そっとして置いてくれ。そんな気分にさせられる。オレも両親も家族とは言え、同一の存在ではない。当然の事ながら互いに想う事がある。相反する想いを持つ者同士が衝突すれば諍いが起こる。それが嫌で、嫌で、仕方がなかった。結局、最後は権力でオレを説き伏せる。あくまでも一方的に。そんなの平等ではない。オレの意見は一切合切無視され、根拠も、理論も、何も無い理不尽さで強行突破する。オレが納得する、しないは関係ない。ただ、自分達の正義を貫く事だけに尽力する。だから殊更に嫌だった。身勝手な話だ。オレの正義とあんたらの正義は違うと言うのに。

(世の中は何時だって、理不尽で構成されているらしいな)

 それに夜の街並みを散策するのは嫌いではない。このまま夜の闇に溶けてしまい、三条の街並みの一部になってしまうのも一興かも知れない。

(祇園に抜けて、享楽と馬鹿騒ぎに満ちた夜半の街並みを嘲笑いに行くか)

 人の流れに重なり合う様にオレは歩き続けていた。この界隈は洒落た飲食店も多く、夜になれば人も大勢訪れる。日の暮れた街並みを照らし出すネオンサインが煌びやかに街を彩る。なんとも都会的で、人工的な冷たさが充満する街並みだ。こう言う人の手が築き上げた、無機的で体温の感じられない明かりに満ち溢れた街並みと言うのも嫌いではない。生きて居る者達の息吹が感じられない街並み。人が築き上げた見栄と体裁ばかり小奇麗な紛いもの。皮肉さに満ち溢れた感覚が妙に心地良かった。

 行き交う人々も何処か洗練された装いに身を包んだ連中ばかりの様に見える。少なくてもこの界隈の景色はオレのシュミからは程遠い。結花が生前気に入っていた場所だから良く訪れた。ただ、それだけの事だ。もっとも、結花のシュミは無駄に大人びていた。オレの様に図体ばかり無駄にでかい野郎が、この小奇麗な街並みの雰囲気に合う訳も無くて、随分と気恥かしい想いをさせられたものだ。結花はオレが困った振る舞いをするのを見て楽しんでいた。まったく、性悪な奴だ。思わず笑い混じりの寂しい溜め息が毀れる。

 行き交う人々の流れに乗る様に、ただ呆然と通り沿いに歩き続けた。車が往来する度に、水溜りを跳ね上げる湿気た音が響き渡る。雨は上がっても水溜りは残る。それなりに勢いのある雨だった。お陰で置き土産の様に残された気候も酷く蒸し暑い。額の汗を拭いながら歩む。夕暮れ時の三条の街並みは人通りが多い。

 少し歩いた先には高瀬川が静かな流れを称えて居る。人が築き上げた人工的な街並みの真っ只中を流れると言うのも皮肉な話だが、それでも、涼やかな流れは、見る者の心を優しく癒してくれる。喧しい街並みを流れゆく水のせせらぎが涼やかで、風情があって心地良い。だからなのだろうか? この時期になると、高瀬川の周辺には何をするでも無くたむろする、およそ風情とは縁遠い連中が少なくない。

 その高瀬川に寄り添う様に居を構える洒落たコーヒーショップがある。どう考えてもオレには似合わない洒落た店だ。結花はその洒落た店構えが気に入ったらしく、良くオレの手を引いては、訪れた。

 オレが言うのも可笑しな話だが、結花は物静かにしていれば相応に雰囲気のある小奇麗な女であった事は否定しない。どこか憂いを孕んだ影のある女。そういう女は往々にして得も言われぬ美女感を身に纏うものらしい。だからこそ思う。結花一人であれば、洒落た店も様になったに違いないと。

 昼下がりの照り付ける様な陽光が照らし出す中、蝉の声と木々の葉を風が揺らしてゆく音色が染み渡る。折り重なり合う高瀬川の涼やかな音色が重なり合う情景。そんな真夏の昼下がりの、絵画の一場面にでも包まれたかの様な光景の中で、コーヒー片手に優雅に読書でもして見せれば、相応に絵になったに違いない。もっとも、相対するのが、滲み出る汗をせっせとタオルで拭うばかりの暑苦しいオレでは、結花の存在が紡ぎ出す可憐な絵を、一気に台無しにしてしまって居るのは否めない。

『なんか、オレ、すげぇ場違いな気がして、肩身狭いんだけどさ……』

『そうかな? そんな事ないと思うけど。気にし過ぎなんじゃない?』

『……お前が気にしなさ過ぎなんだっての』

 日差しを浴びながらコーヒーカップを手にする結花の横顔は、強い日差しに照らし出されて、殊更に美しく思えた。穏やかな笑みを称える姿は、どこか神々しくさえ思えて、思わず息を呑まずには居られなかった。会った事はないが、女神と言うのは、こう言う慈愛に満ちた笑みを浮かべる物なのだろうか? 言葉に詰まり、静かに目を逸らすオレに気付いたのか、結花が心配そうにオレの顔を覗き込む。

『どうしたの?』

『……な、なんでもねぇよ』

『あ、判った』

 妙に楽し気な口調が気になって仕方がないオレは、溜め息交じりに結花の言葉を待ち侘びた。期待を裏切らない振る舞いを見せてくれる物で、結花は可笑しそうに笑いながら、突拍子もない事を口にして見せた。

『お腹空いちゃったのね?』

『違ぇよ! なんで、そうなるんだよ!? 大体、オレは何時も、腹を空かせて居る訳じゃねぇから!』

 思わず椅子を蹴り上げる様に立ち上がると、ついでに、声を荒げてしまった。だが、それでも結花は、相変わらず優雅に振る舞うばかりだった。周囲の連中の目線が気になったオレは、ますます肩身が狭くなった。傍から見れば、結花の様な小奇麗な女とは不釣り合い過ぎるオレの存在に好奇心を抱くのだろう。まったく、オレは見世物ではないと言うのに。

『ふふ、力丸君は、やっぱり、力丸君なのね』

『……へいへい。好きにしてくれ』

 懐かしい情景だ。結花とはいつも、こんな調子だった。茶化す様に振る舞う結花。それを真に受けて、本気で怒るオレが居たあの頃、馬鹿馬鹿しい振る舞いに過ぎなかったのかも知れないけれど、それでも、結花と一緒に居られる時間は本当に幸せだった。だけど、日も暮れた今、洒落た店も人気が失せて、どこか寂しそうに佇んで居る様に見えた。結花の居ない景色ならば、オレに取っては、どこもかしこも同じ様に寒々しく渇いた、寂しさに包まれて居る景色でしかなかった。あの日、あの時、結花と共に一時を過ごしたコーヒーショップには、今は結花の姿はない。どこか薄暗い寂しさに包まれた店を見続けるのも辛かった。だから、オレは後ろを振り返らずに再び歩き出した。

 結花と過ごした思い出を思い描いて居るうちに高瀬川に差し掛かった。高瀬川に並んで走る木屋町通り沿いは、春先には見事な桜並木に移り変わる。風が吹けば一斉に舞い散る桜吹雪と流れゆく早春の高瀬川のせせらぎ。舞い落ちた桜の花弁がせせらぎを流れてゆく様は壮観の一言に尽きる。今の季節の様に、暑い時期には青々とした桜の葉が、高瀬川の涼やかな音色が、心地良さを運んでくれる。とは言え、涼やかな情景の中、明らかに周囲の景色とは異質な、暑苦しい野郎は早々に退散してくれるのが良さそうだ。ああ、言われなくても早々に立ち去ってくれるさ。すれ違いざまに奇異な目でオレを見つめるOL達に、敢えて、聞こえる様に舌打ちしながらオレは足音を響かせながら歩き出した。

(何だよ……感じ悪りぃ女共だな。事故にでも遭えば良い)

 心の中で悪態を尽きながらも雑踏の中を歩む。嫌な想いをしたせいか、一際湿気が酷くなったように感じられた。苛立ちのお陰で体温が無駄に上昇したのかも知れない。腹が立つ展開だ。肩をいからせながら歩んでいると、唐突に濡れた手で背中を撫でられるような感覚を覚えた。酷く冷たく冷え切った手の様な、得も言われぬ悪寒に思わず立ち止まる。

(何だ……?)

 可笑しい。明らかに何か妙な異変を肌で感じ取っていた。それまで穏やかに流れていた周囲の空気が一変した様に感じられた。蒸し暑い気候の中、頬を撫でる様に吹き抜けていた風は、氷の様に冷たく、水気を孕んだ物へと移り変わっていた。一体何事かと周囲を見回したオレは、常識を覆す光景に思わず息を呑んだ。

「……また、可笑しな世界に迷い込んじまったか」

 何時の間にか周囲からは人の姿が消え失せ、変わりに、高瀬川沿いに佇む桜並木が一斉に淡い色合いの花を咲かせていた。風が吹かなくても、はらはらと静かに高瀬川へと舞い落ちてゆく桜の花弁が儚い夢の終わりを告げて居る様に思えた。ゆっくりと流れゆく高瀬川を覆い尽くさんばかりの桜の花弁。それは、あの日、あの時、結花と共に目にした夏越大祓の人形流しの情景と重なって見えた。上賀茂神社の境内を流れるならの小川。その小さな流れを埋め尽くさんばかりに流れていた人形の姿と重なって居るとしか思えない情景だった。過去の情景を手繰り寄せるオレの想いに呼応するかの様に、お囃子の透き通る様な音色が響き渡る。力強く叩かれる太鼓の音色が重なり合い、神職の口ずさむ祝詞が響き渡った。高瀬川沿いに立ち並ぶ明かりが篝火の様に思えて仕方がなかった。

 だが、異変は未だ終わる事はなかった。ふと、人の気配を感じて慌てて振り返れば、通りの北から般若の面を着けた者が妖艶なる舞を演じながらゆっくりと近付いて来るのが目に留まった。煌々と燃え上る炎を思わせるかの様な鮮やかな紅の装束を身に纏って居る。再び人の気配を感じて恐る恐る振り返れば、今度は通りの南から小面の面を着けた者が優雅な舞を演じながら近付いて来るのが目に留まった。咲き誇る桜の色合いに重ね合わすかの様な淡い桜色の装束を身に纏って居る。一体、こいつらは何者なのか? 考えて居る間にも二人はゆっくりとオレとの距離を狭めて居る。間違い無く、オレを狙って居るに違いない。逃げ出そうかとも思ったが、何故か、地面に縛り付けられて居るかの様に身動きを取る事ができなかった。得体の知れない者がにじり寄って来る。そんな恐ろしい情景と対面させられ、途方もない恐怖に駆り立てられていた。相変わらず二人は、ゆっくりと舞いを演じながら近付いて来る。逃げ様にも逃げ出す事もできない。これが金縛りと言う奴なのだろうか? 指一本さえ動かす事もできない状況の中、堪え様のない恐怖に押し潰されそうになったオレは、ただ、情けない声を挙げる事しかできなかった。精一杯の抵抗は余りにもささやかだったのかも知れない。

「何なんだよ……お前らは一体、何者なんだ!? オレをどうするつもりだ!?」

 恐怖心から取り乱していたオレは、思わず声を張り上げた。舞を演じていた二人は丁度、オレの目の前に辿り着いたところで静かに足を止めた。立ち止まった二人は人形の様に固まったまま、ぴくりとも動かない。不気味な振る舞いだ。一体、何を為そうとして居るのか手の内が見えないからこそ、オレはただ、身構える事しかできなかった。そんなオレの想いを知ってか、知らずか、二人はゆっくりとこちらに体を向けた。そのまま、そっと面に手を掛けると、般若の面を被った者が静かに面を外して見せた。その顔を見たオレは、ますます訳が判らなくなった。

「こ、コタ!? どうして!? そ、それじゃあ、こっちは……」

 予想通り、小面の面を被った者が静かに面を外して見せれば、そこには結花の顔があった。

「どうして……」

 余りの驚きから、オレは体中の力が抜けてしまい、その場に崩れ落ちた。そんなオレにそっと歩み寄ると、結花が静かな口調で語り掛けてみせた。

「選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える」

 そう、口にしたところで小さく吐息を就いた。オレは思わず結花の顔を覗き込んでいた。オレの目をジッと見据えたまま結花は続けて見せた。

「――『選択肢』の概念よ」

「『選択肢』だと? オレに一体何を選ばせようってんだよ」

 もはや、何が何だか理解不能な状況に陥っていた。まともに物を考えろと言う方が無理がある。何故、唐突にコタと結花が現れたのか? 一体何を意図して居るのか? オレにはさっぱり理解する事ができなかった。ただただ動揺するオレの想いなどお構い無しに、結花は静かに口元を歪ませながら驚くべき事を口にして見せた。

「力丸君、あたしを選んでくれるよね?」

「は? 何を言って――」

 すると、間髪入れずにコタもまた口を開いた。

「力丸、俺を選んでくれるよな」

「コタまで何を言ってやがる……」

 理解不能だと突っぱねようかと思った所で、先刻の結花の言葉が蘇る。

「まさか、『選択肢』って……!」

 二人は無表情のままオレの問い掛けには無反応だった。それどころか、人形の様に無機的な表情を称えるばかりだった。二人のうち、どちらかを選べと言いたい訳か。その結果、選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える。つまり、そう言う事になるのか? 多分、どちらも選ばないと言う『選択肢』、あるいは、どちらも選ぶと言う『選択肢』は赦されないのだろう。万が一、赦されざる『選択肢』を選んだ時に、どの様な不幸が襲い掛かるかを考えれば安易な行動は避けるべきだ。

 冗談じゃない。こんな『選択肢』、選べる訳が無い。イヤ、そうなる事を判っているからこそ、オレを追い詰める様な状況に追い込んでいる訳か。どうする? どうすれば良い? だが、考える暇など与えられていないに等しい。恐らく、時間は十二分にあるハズだ。もっとも、どちらかの『選択肢』を選ぶまでオレは逃げられないハズだ。この異様な世界に幽閉されたままになる。どちらにせよ、このまま此処に居続ける事はできない。道は二つに一つ。選ぶしかない。選ばない限り終わらない。逃れられない。どう足掻いても逃れられない。だから、オレは腹を括る事にした。

 ああ、そうさ。一人は既にこの世ならざる存在となってしまって居る。そう考えれば、選ぶべき『選択肢』は一つしかない。オレは覚悟を決めて立ち上がった。そのままコタの前に立ち、オレはコタの手を握ろうと試みた。だけど、どうした事か? 体が酷く震え上がり、どうしても手を伸ばす事ができなかった。そこに確かな真実を見出した気がした。

(そうか……これがオレの本心か)

 本音と建て前。理性と本能。人は矛盾のカタマリだ。相反する二つの想いの狭間で常に揺れ動き続けるものなのだと改めて実感させられる。さて、縋るべきは理性か? 本能か? 考えながらも静かに吐息を就く。難しい事を考えるのは性に合わない。それならば、野生の直感に全てを賭けてみよう。二度と戻れなくなるかも知れないけれど、これがオレの選んだ『選択肢』だ!

「結花、どうか……どうか! オレのところに帰ってきてくれ!」

 次の瞬間、唐突に意識が遠退く感覚を覚えた。体中から力が抜けてゆき、辺りの景色がみるみる眩いばかりの光に包まれてゆく。あまりの眩しさに目を開けて居る事もできなくなったオレは、そのまま、その場に崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、涼やかな鈴の音色を耳にした気がする。

◆◆◆24◆◆◆

 再び気が付いた時、オレは再び高瀬川の畔に佇んでいた。辺りはすっかり暗くなり、街灯にも明かりが灯される。周囲に立ち並ぶ店の看板にも明かりが灯され夜の訪れである事が告げられる。何も変わる事のない日常の世界に戻って来られたのか? 多分、今のは夢でも、幻でもない、真実だったハズだ。ただ、一体、何を伝えようとしていたのか、理解できなかった。唯一、記憶に残って居るのは『選択肢』と言う言葉だった。象徴的な言葉だ……間違いなく、何か、意図する所があるハズだ。

 コタと結花、二人から一人を選べと言われた。これが『選択肢』だとでも言うのか? それならば、オレが選んだ『選択肢』には、それに応じた展開が待ち受けて居るハズだ。もしも、あの時、コタを選んでいたらどうなっていたのだろうか? イヤ、今更、そんな事を詮索してみても何にもならない。気にならないと言えば嘘になる。ああ、何時もそうだ。こうやって、オレは何時だって迷ってばかりだ。なるほどな。だからこその――『選択肢』と言う訳か。馬鹿にしやがって……。

 いずれにしても、これ以上、詮索する事に何の意味もない様に思える。それならば、迷っていても仕方がない。少し、夜半の街並みを歩いて気持ちを落ち着かせるとしよう。もしかしたら、ただ疲れて居るだけなのかも知れない。白昼夢と言う言葉もある。そう考えれば夜に見ても可笑しくない。多分に強引ではあるが、とにかく気持ちを落ち着かせたかった。だから、オレは結花と共に歩んだ街並みを懐かしむ気持ちで歩こうと考えていた。

 周囲の雑踏など気にする事なくオレは歩き続けた。この界隈は不思議な街並みでもある。古き時代から受け継がれて来たであろう木造の店が立ち並ぶ中に、近代的な鉄筋ビルが立ち並ぶ。時代の流れなのだろうか? 木造の店は劣勢にある様に感じられる。それでも昔ながらの風情は残して欲しい。身勝手な話ではあるが、そう、切に願わずには居られない。結花と共に歩んだ景色が失われてゆくのは、やはり、寂しく思う。結花との思い出は何時までも色褪せる事無く、記憶し続けて欲しい。すっかり日の暮れた夜空を見上げながら、そんな事を想っていた。

 色のない世界だ。今、歩んできた道を振り返ってみようかと思った。だけど、そんな事に何の意味もない。振り返れば、そこには色のない世界が広がって居る事だけだ。立ち止まり、ジッと周囲の景色を見回してみても、やはり、色のない世界である事に変わりはなかった。色がないのは世界なのだろうか? それとも、オレ自身の心の中なのだろうか? 哀しい吐息だけが響き渡る。大勢の人々が行き交う夕暮れ時の三条の街並み。そこに捨て置かれた様に色のないオレが置き去りにされて居る。道行く人々は置物の様なオレを避けてゆく。中には不思議そうにオレを見る奴らも居た。

 往く物、来る者、数多の人々が道を往来する。数多の人々がオレとすれ違った。そう――すれ違った。多分、誰もオレの存在には気付いて居ない。何故ならオレとすれ違った瞬間、そいつには死が訪れる。オレの記憶の中に留まらない奴らは皆、死人も同然だ。以前、結花が口にした表現が脳裏を過る。

『すれ違うだけの人は死んだも同然なの。なぜなら、すれ違うだけの人は、あたしの物語の中では登場人物にさえなる事もないでしょう? だから、死んだも同然なの』

 すれ違うだけの人々は死人も同然だと表現していた。自分を基準としての物語の中に登場する事のない人物は、確かに、死人も同然と言えそうに思える。オレは結花に大きく関わっていた。だから、オレは結花の物語の登場人物として命を手にしたと言う事になる。結花の世界の中で、唯一、色を失わずに存在できた存在だ。

 結花の考えに従えば、大多数の奴は死人になる。先刻、すれ違った感じの悪いOL達も、すれ違った瞬間に死人になった。名も知らぬその他大勢の連中も、皆、すれ違った瞬間に死人になった。当然、そいつらはオレの物語の中には登場しない。つまりは死人と言う事になるのか。

(やれやれ……結花の可笑しな世界観にオレも大分毒されて居るな)

 再び歩き始める。人通りも増え始め、夜の街並みは賑わいを見せ始める。このまま道なりに歩き続ければ東山に出る。東山の界隈は住宅街だ。三条の街並みよりも、なお、静けさに包まれて居る。こんな沈んだ気持ちの中、静か過ぎる街並みを歩くのは気が退けたが、自分の心臓の鼓動さえも聞こえてしまいそうな静けさの中に身を置くのは、もっと恐ろしかった。そのまま、あらぬ『一歩』を踏み出してしまいそうで怖かったから。それならば、進むべき道の路線変更をするまでだ。享楽に包まれた賑やかなる花街、夜に目覚める祇園の賑やかな街並みを目指そう。そう考えた。

 気分が沈んで居る今だからこそ、賑わいを見せる街並みを歩みたい。そんな事を考えながら歩き続けた。先斗町通を南へと抜けるのも悪くはないが、酒臭い酔客達とすれ違うのも興醒めだ。そう言う頭の悪い賑やかさは求めてはいない。それならば、選ぶべき『選択肢』は一つだ。オレは自らが選んだ『選択肢』に従って歩み続けた。

 夜の三条の街並みは活気に満ち溢れて居る。往来する人々は皆一様に楽し気に振る舞っていて、何だかオレだけが取り残された様に感じられて肩身が狭くて、でも、妙に心地良かった。言葉にできない寂しさが胸をギリギリと締め付ける感覚に、得も言われぬ愉しみを覚えながら歩み続けていた。この楽し気に振る舞う連中が、地獄の業火に焼かれて叫び声を挙げながらのた打ち回る。そんな情景を思い描くと、静かな笑みが毀れる。何しろ此処に居るのは人の姿を模した鬼に過ぎないのだから。

 三条大橋に入った所で一端足を止めた。橋の下を流れゆく鴨川の涼やかな流れと吹き抜ける風が心地良い。僅かな時間ではあるが派手に雨が降ったせいか、随分と蒸し暑い。数分歩いただけなのに既に汗が噴き出して来る。川から吹き上がる風は涼しさを孕んでいて心地良く感じられた。しばし、汗が退くまで涼むのも悪くないかも知れない。風に吹かれながらオレはそっと目を伏せてみた。

 風が涼しくて心地良い。暑苦しい男だとコタ達にはからかわれるが、結花も似た様な反応を見せていた事を思い出し、不意に笑いが毀れる。結花はオレと出掛ける時にはわざわざタオルを何本も用意してくれた。恥ずかしいから止めろと言っても聞かずに、せっせとオレの汗を拭いてくれた。もっとも、汗を拭いてくれる結花はもう居ない。だから、今のオレはこんなにも汗だくで、見苦しい醜態を晒して居る。笑いたくなる程に惨めな姿だ。

 信号が赤になり三条大橋を往来する車の流れが止まる。往来する人々の流れに逆らう様にオレは再び歩き出した。額の汗を腕で乱暴に拭いながら歩き続ける。ふと、顔を挙げれば三条京阪の駅が視界に留まる。対面にある書店から煌々と光が漏れ出す情景が印象的だ。暗い街並みを照らし出す人工的な光。辺りはすっかり暗くなっても往来する車のライトに周囲を照らす街灯。規則正しく明滅を繰り返す信号の光。街並みはすっかり明るくなった。文明の力とは偉大であると同時に恐ろしくもある。この街並みを築き上げるために、一体、どれだけの草木が、動物達が犠牲になったのだろうか? 誰も考えた事もないのかも知れないが、それは罪だ。知らないと言う事は、それだけでも罪だ。人を殺した。だけど、それが罪になると知らなかったから無罪になる――そんな事は断じて有り得ない話だ。それと同じ事だ。

 こうやって行く当ても無く夜の街並みを散歩するのが好きだ。コタと共に夜の街並みを出歩く様になってから、すっかり一つのシュミとして定着した。大自然を愛する一方で、人の手が築き上げた街並みを眺める事も嫌いではない。矛盾して居るかも知れないが好きな物は好きなのだ。一人、徒然なるままに夜半の情景の中に身を置く事は嫌いではない。結花がこの世を去った後は特に一人で散歩する事が多くなった。共に歩んだ道、共に見届けた情景、記憶をなぞる様に歩き続けて来た。こんなシケた面してるのはコタ達には見られたくない。惨めな男の精一杯の負け惜しみだ。

◆◆◆25◆◆◆

 鴨川沿いは三条の街並みよりも遥かな賑わいを見せていた。立ち並ぶ飲食店は夏になると川床を構える。もっとも、視界の先に広がる光景からは貴船の川床の様に涼を感じる様な情景とは程遠い、即席のビアガーデンの様な印象しか得られない。風情の欠片もあった物ではない。鴨川の流れる音に混じって聞こえて来るオトナ達の賑やかな笑い声。そんな享楽に満ちた世界観は、結花を失い、ただ、こうして結花の面影を追い求めて彷徨うだけの惨めなオレには縁遠い世界だ。

 コタ達と一緒に居る時のオレと、一人で居る時のオレは全くの別人になる。皆の前ではでかい声で豪快に騒いで居るけれど、一人で居る時は寂しさに耐えられない弱虫と化す。ただ、馬鹿の一つ覚えの様に結花の面影を追い求める事しかできない。こんな姿、皆には見せたくないし、見られたくもない。

 鴨川沿いを歩みながら、ふと、空を見上げてみる。夜の闇が何処までも広がって居る。星も見えない程に明るい空。申し訳程度に月だけが静かに佇んで居る。この殺風景な空模様と同じで、オレは孤立無援な存在だ。往来する人々はすれ違う人々の事など微塵も気にする様子もなく過ぎ去ってゆく。ましてや、そこに佇むだけの薄暗いオレの存在など目に留まる事もない。所詮、オレはただの邪魔な置物に過ぎない。

 鴨川沿いには大勢の人々が腰を下ろして居る。肩を寄せ合う浴衣姿の恋人達の姿もあれば、外国人と思しき観光客達がカメラ片手に歩んで居る姿もあった。皆、一様に楽しそうに振る舞って居る。多分、オレとは異なる世界に暮らす者達なのだろう。そんな幸せそうな連中の姿を見て居ると、無性に苛立ちが沸き上がって来る。どうしてオレだけが、こんなにも惨めなのだろうか、と。

 世の中は間違えて居る。失う事を知らない連中に何を言っても無駄なのは、オレ自身が良く心得て居る。少なくても、結花を失うまではオレも、あちら側の世界の住人だった。こちら側の世界の住人の気持ちなど理解できる訳もなかったし、理解しようとも思わなかった。そんな辛気臭い世界に触れて、楽しい気持ちが湿気てしまうのは嫌だった。だから、そんな連中を目の当たりにしても近付きもしなければ、関わろうとも思わなかった。当然、理解なんかするつもりもなかった。

 ビアガーデンの様な川床で騒いで居る連中からも、鴨川沿いを歩く連中からも、オレの姿は見えないのだろうし、見るつもりもないのだろう。誰もが皆、独りぼっちだ。こんなに人の多い場所に身を置いてみても、誰も彼も皆、孤独な存在に過ぎない。だから、皆、馬鹿みたいに騒ぐ。楽しいから騒ぐのではない。孤立無援の寂しさを紛らわす為に必死で叫びを挙げて居るに過ぎない。それは楽しくて挙げる歓声では無く、死にゆく者達の、消えゆく者達が必死で爪痕を残さんと欲して放つ、哀しい断末魔の様な物に過ぎない。

「結局、皆、独りぼっちか……」

 街明かりは煌々と明るいが、氷の様に張り詰めた、鋭い寒々しさに包まれて居る気がしてならない。人の手が築き上げた街並み。だけど、だからこそ、無機的な冷たさに包まれて居る様に思えて仕方がない。だけど、それは当然の成り行きなのかも知れない。文明を築き上げるために犠牲になった者達が、容易く、人と言う救い難き生き物達を赦すとは思えなかった。怨嗟の叫びを挙げ続ければ、やがて、それは呪詛となりて人々に降り注ぐ。冷たい氷の様な雨となりて降り注ぐ。その冷たさの中で呼吸の通り道も凍り付けば、人は直に死に絶える。

 沈み切った気持ちのまま、ただ空虚に、ただ静かに歩き続ければ、すぐに四条大橋が見えて来る。どっしりと構える不夜城の様な南座はやはり存在感がある。思わず足を止めて見入ってしまう。祇園の街並みを象徴するかの様な華やかで、威風堂々たる建物だ。どっしりと構えていてくれる。それだけでも気持ちの拠り所になってくれるからこそ、安堵感に包まれる。

「四条大橋……数日前にロックと一緒に歩いたっけな。二人で笑いながら歩いた場所だ」

 気を取り直して四条大橋へと向かう。この四条大橋も何度歩いたか判らない。結花とも歩いた場所であり、コタ達とも歩んだ場所でもある。時に、一人、こうして夜半の情景に触れたくて歩んだ事もある。多分、これからも歩き続ける事になる。一人、痛みを忘れた頃に、再び傷を痛ませるために歩き続けるだけだ。

 賑わいを見せる祇園の街並みにどっしりと構える南座前で立ち止まる。何時見ても威風堂々たる姿を見せてくれる。その力強く構える姿に安堵感を覚える。ふと、信号に目線を投げ掛ければ丁度、赤から青に変わるのが見えた。さて、先に進むとしよう。

 煌々と明かりを称える南座に背を向けて信号を渡り切れば、すぐに四条大橋に至る。人通りの絶える事のない四条大橋を歩んでいた。往来する人々の流れに紛れて歩き続けていた。そんなオレの横をテルテルが笑いながら駆け抜けていった。ロックが駆け抜けていった。太助が駆け抜け、コタが駆け抜けていった。それから、最後に結花が駆け抜けていった。

(なんだよ……やっぱ、オレは置き去りなんだな)

 小さく溜め息を就いてから、オレは足を止めて橋の欄干から身を乗り出した。皆、オレを取り残して走り去って行ってしまった。だから、オレは独りぼっちだ。寂しくて、哀しくて、突き刺さる様な、残酷な寒さが妙に心地良かった。

 鴨川から吹き抜けてゆく風が心地良くて、オレはしばらく涼やかな風を感じていた。どうせ、独りぼっちになったオレの存在など、誰の目にも留まる事もないだろう。今のオレは所詮、ただの雑草であって、そこら辺に転がって居る石ころに過ぎない。路傍に横たわるだけの蝉の亡骸など、誰の目にも留まる事はない。容易く踏み潰されてお終いだ。すれ違う連中に取って、オレは死人も同然だ。皆、オレの存在になど目もくれる事もなく忙しく往来し続けるばかりだった。

 オレは鴨川を覗き込んだまま結花の事を考えていた。流れゆく水の流れは夜半の街並みを照らす明かりをその身に受け止めて、キラキラと煌めいていた。結花は風変りな女だった。人と関わる事を嫌う一方で、人の多く居る場所は嫌いでは無いと言う。賑わう人々の活気に包まれると、自分もその輪の中に居る様に錯覚する事ができて楽しい気持ちを共有する事ができる。良く、そんな事を口にしていたのを思い出していた。

 掴み所のない風変わりな女――最初の頃はそうとしか思えなかったけれど、次第に結花の素性を知るに従って、そうした風変りな価値観も理解できる様になった。今、思えば、オレと一緒に歩んで居る姿を周囲の連中に見せ付けたかった様にも思える。そうやって多くの人々の記憶に残る事で、結花と言う一人の女が生きていたと言う史実が『忘却』される事を阻止していた。今ならそう思える。

 四条大橋を渡り切れば店が立ち並ぶ賑やかな街並みへと変わってゆく。表通りは賑わいに満ちて居る。この界隈も路地裏に入ればひっそりとした風情漂う街並みが広がっていて、そこに生きる人々の体温に満ちて居る様な気がして気持ちが落ち着く。先斗町通は一風変わった風情を称えて居るが、四条の街並みも結花と一緒に良く歩いたものだ。ふと、空を見上げてみせれば、オレの傍らに立って、同じ様に空を見上げる結花が居る様な気持ちになる。妙に心地良くてオレは足を止めて、しばし空を見上げていた。背後を駆け抜けてゆく車の機械的な音色が妙に現実染みていて、夢の世界に逃避行しようとするオレを無情にも引き留めてゆく。そんな鬩ぎ合いもまた一興だ。負けてなるものかと言う気持ちになれる。

 四条通は相変わらず賑わいに満ちて居る。未だ日も暮れたばかりだ。立ち並ぶ店も、人々も、活気に満ちあふれて居る。人々の笑い声、駆け抜ける車の音、此処には様々な音が転がって居る。活気に満ちあふれた街並みの空気感と重なり合いたくて、オレは再び歩き出した。

 数日前にはロックと共に歩んでいた道も、今日は一人で歩き続けて居る。すれ違うのは見知らぬ連中ばかりだった。日の長い夏の夕暮れ時は人通りも多く、誰も彼も皆楽しそうに笑いながらすれ違ってゆく。誰かの楽しそうな姿を見て苛立つのは、多分、オレが満たされていないからに違いない。何に満たされていないのだろうか? 自分でも何に苛立って居るのか良く判らなくなる。ただ、家に居たくない気持ちだけが膨れ上がってゆく。

 一番落ち着くハズの家が一番落ち着かない場所になっていた。何とも可笑しな話なのだが、それは紛れもない事実だった。実に皮肉な話だ。オレの物語には非武装地帯はない。そう、宣告された様な物だ。良いだろう。そちらが宣戦布告を叩き付けるならば、こちらも徹底抗戦の構えで応えさせて貰うだけだ。孤立無援な軍勢だなんて、実に皮肉に満ちていて面白い。連合軍の圧倒的な火力の前に一瞬で消え失せる風前の灯火か。呆気無く砕け散る儚さが心地良い。どうせならテロリストの様に自らの命を爆薬と化して、無差別に人々の命を散らしてくれるのも悪くない。高瀬川を流れゆく桜の花弁と同じだ。人の命など呆気なく風に散る。容易い話だ。ただでは死なない。どんなに小さくても決して、消える事のない、癒える事のない爪痕は残してくれる。

 結花と初めて出会った日、お袋が馬鹿みたいに喜んだ。それだけならまだ良かった。未来の嫁が現れたと、一人、馬鹿みたいに盛り上がり出した姿を見て、オレはただただ嫌悪感を抱いた。結局、オレの事なんか何一つ考えていない。人並みに嫁を貰い、人並みに子供作って、人並みに幸せに暮らしてくれれば良い。さも、それが当然の幸福であるかの様に口にした言葉に戦慄さえ覚えた。判っていない。そんな既製品の様な物語を歩む事に幸福感を覚える奴が、一体、どれだけ居るのだろうか? 少なくてもオレには理解できない。

 結花が死んでから色々な事が狂い始めた。親父とはろくに言葉を交わす事も無くなった。お袋とも衝突してばかりだ。家を継ぐ事ばかりに執着するお袋の振舞いにも、いい加減、殺意さえ覚え始めた頃だ。

 お袋は結花が死んだ後も、新しい彼女は居ないのかだの、嫁を貰って子供を授かるのが幸せなんだとか無神経な話ばかりしては、オレの気持ちを逆なでしてくれた。親父はオレの動向に一切関心を示さ無くなった。家を継ごうが、継ぐまいがどうでもイイってな振舞いまで見せ始める始末だ。結花を失って、すっかり腑抜けになっちまったオレには、もはや、何の期待も抱いていないのだろう。そうで無ければ、お袋と衝突ばかりして居るオレに関わりたく無くなったのかも知れない。

 ああ、そうさ。結花が死んでから、何もかもが狂い始めた。結花が居てくれたお陰で保たれていた均衡が崩れ去った時、何もかもが変わってしまった。結花の存在はオレに取ってだけでは無く、オレの親父やお袋に取っても掛け替えの無い存在になっていたのだと今更になって実感させられる愚かさ。失われた日々は二度と戻らない。どんなに切に願っても二度と戻らない。

 大きな溜め息が毀れる。楽し気に語らい、笑い合う人々の流れの中、オレの存在だけが異質な闇を放っていた。享楽に包まれた祇園の街並みの中、酷く異質な存在として、酷く場違いな存在として、此処に居る。

(何だってこんな惨めな想いしなけりゃいけねぇんだよ。オレが一体何をしたって言うんだよ……)

 一人ぶつぶつと悪態を尽きながら歩くオレはさぞかし奇異な存在に見えるらしい。無駄に図体デカいお陰で野蛮な性分に思われるらしい。パトカーで巡回中のお巡りがオレの事を怪訝そうな眼差しで見ながら通り過ぎて行った。

(けっ! どいつもこいつもムカ付くぜ……)

 ただただ苛立って仕方がなかった。それでもオレは宛ても無く歩き続けていた。宛ても無くと言いながらも、心の何処かで結花の事を思い浮かべて居るのは間違いない。丁度、オレは河原町駅の入り口を過ぎた辺りを歩んでいた。この界隈はコタ達と歩く事は滅多にない場所ではあったが、結花と歩く事は頻繁にあった場所だけに無意識のうちの思惑が見え隠れしてしまう。

 そういえば、結花に何度か連れて来られた風変わりな喫茶店、この近くにあったっけな。ふと、昔の記憶が蘇る感覚を覚えた。確か喫茶ソワレと言う店だったと記憶して居る。

 その店は喫茶店なのに、何とも言えない不可思議な店だった。店内は海の底に居るかの様な透き通った青に包まれていて、何とも涼やかで、幻想的な雰囲気漂う店だった。結花はその店の人気メニュー、ゼリーポンチが好きだった。色鮮やかなゼリーがグラスの中で宝石の様に飾られた逸品は、確かに、オレも初めて目にした時には思わず感嘆の吐息が漏れた。

 童話の世界がそのまま再現されたかの様な店内は、趣のある絵画が飾られ、幻想的なシャンデリアが店内を柔らかく照らし出す。何よりも涼やかな青い照明が印象的な店だった。店内の何処に目線を投げ掛けても海の底に居るかの様な青色一色。幻想的な世界観が現実離れしている様に感じられて心地良かった。どこか言葉にできない物悲しさを湛えた店の雰囲気は、結花に良く合う様に思えた。確かに、結花の好みに良く合う店だ。あいつは幻想的で華やかな物が好きだったから。華やかさの中に、言葉にできない渇いた哀しみが佇んでいれば、なお、好んだハズだ。結花は一銭洋食の店を好むオレ達とは明らかに正反対な雰囲気を好んだ。結花らしいと言えば結花らしいと言える。結局、オレの心の中には結花の思い出ばかりが宝石の様に散らばって居る。喫茶ソワレの人気メニューであるゼリーポンチと同じだ。グラスの中一杯に鏤められた彩り豊かなゼリーは宝石の様に見えなくもなかった。

 賑わいを見せる、夕暮れ時の四条通沿いに歩んでいくと通りの向かい側に丸井が見えて来る。丸井の先には四条河原町の交差点がある。何度も、何度も訪れた場所だ。結花はこの交差点に向かい合う様に並ぶ高島屋と丸井を訪れるのが好きだった。真夏の日差しが照り付ける暑い日も、冬の雪が舞う寒い日も、良く訪れた。結花と最も良く訪れた場所の一つだ。何度も、何度も訪れた。此処に来れば結花に会えるのではないかと、在り得ない願いを胸に抱いて。だけど、もう、結花は居ない。結花は数年前、事故に遭って死んだのだから……。

(事故に遭って死んだ? 違うな。結花はひき逃げ犯に殺されたんだ!)

 逃げ得だなんて冗談じゃない。被害者は泣き寝入りするだけだ。そんなの間違って居る。でも、それが現実なんだ。理不尽過ぎる話が呆気無く成立するのが世の常だと言うならば――。

「オレがひき逃げ犯を殺っちまっても良いって事だよな」

 なぁ、結花? お前もそう思うだろ? 犯人見付けたら、オレがこの手で殺してやるからさ。見ててくれよな。所詮、警察は何の役にも立たなかった。上辺だけの手抜き捜査で済ませて、どうなっているのかと問い質してみれば、さも、当然の様に、事案は幾らでもある等と抜かしやがった。それが本音か? それが真実か? 薄ら笑いを浮かべながらオレを見下したお巡りの事、オレは絶対に忘れない。お前らも同罪だ。手抜き捜査した結果、また新たな被害者が出る事に成るハズだ。それでも、お前らは同じ台詞を口にして、同じ様に薄ら笑いを浮かべるのだろうな。この税金泥棒共め。お前達が未来に手にする幸せなんざ、オレが何もかもひき殺してくれる。怒り狂ったお前らを見下してやる。お前らがそうしてくれたみたいに、薄ら笑いを浮かべてな?

「……つまんねぇな。家、帰るかな」

 楽しげに語らいながらすれ違う連中を見ていても気持ちは晴れやしない。それどころか、ますます不愉快な気持ちで一杯になるだけだ。すれ違う連中だって同じ事を思って居るに違いない。お前みたいに辛気臭い奴は、さっさと何処かに行け。不幸を撒き散らすな。そう思って居るに違いないさ。ああ、さっさと何処かに行ってやるさ。落ち付く事のない家に帰ってやるさ。ありがたいだろう? 疫病神の退散だ。せいぜい、今、この一瞬だけの刹那的な享楽に身を委ねるが良いさ。どうせ、明日にはお前らが被害者だ。ざまぁみろ。

◆◆◆26◆◆◆

 学校を後にした俺達は吹き抜ける風に後押しされる様に歩んでいた。東山七条前の交差点は相変わらず交通量が多い。夕暮れ時と言う時間帯も災いして居るのか、引っ切り無しに往来する車のお陰で排気ガス塗れの空気の中を歩く羽目になるのは何とも頂けない話だ。なるほど。人が築き上げた文明と言う物は、絶えず何らかの犠牲を払う代物らしい。もっとも、その恩恵に預かって居るからこそ、今、こうして不自由なく暮らして居ると言うのも現実だ。そう考えると実に皮肉な話に思える。

 申し訳程度に植えられた街路樹からは蝉達の鳴く声が盛んに響き渡る。駆け抜ける車の音、重なり合う蝉の声、大自然と文明とが交錯する光景と捉えれば、これもまた皮肉な巡り合わせに思えて仕方がない。傍らで楽し気に談笑する輝と大地のやり取りを盗み見ながら、そんな事を考えていた。

 それでも、夕暮れ時の七条の街並みの情景は茜色一色に染め上げられた装いに包まれていて、どこか言葉にできない物悲しさに満ち溢れて居る様に感じられて心地良かった。照り付ける日差しは強く、肌を突き刺す様な感覚さえ覚えていた。

 奇しくも信号が明滅し青から赤へと移り変わる。やれやれ。一回休みだ。俺達は信号が青になるのを待ち詫びた。ふと、何かに呼ばれた様な感覚を覚えて空を見上げてみれば、何もかもを呑み込まんとするかの如く暗雲が北の空で渦を巻く様が目に留まる。なるほど。夏の夕暮れ時には夕立が付き物だ。賑わいを見せる蝉達の鳴き声を受け止めながら、青になった信号を渡る。

 通りを往来する車が速度を上げて駆け抜けてゆく。夕暮れ時は誰もが忙しなく走り抜けてゆく。そんなに急いで何処へ行く? 人の命など短い物だ。そんなに急いで駆け抜けて、途中でうっかり転倒でもしてみろ。呆気なく砕け散ってお終いだ。そんなに急がずとも、誰にでも等しく終わりは訪れる。そう生き急ぐ事も無かろうに。そんな事を考えながら俺は歩んでいた。

 暮れ往く夕焼け空の下、変わる事無く佇む三十三間堂を後にしようとしていた。昼の時間帯であれば賑わいを見せる三十三間堂も、夕暮れ時になれば人もまばらになる。一日が終わってゆくと言う現実を示唆して居る様に感じられた。横目で見つめながら三十三間堂を後にしようとしていた。

 最初に目指すは七条駅だ。七条駅は先に輝達に告げた通り、琵琶湖疏水沿いを歩き回るべく始点となる。京阪に揺られて七条から三条へと向かい、そこから東西線に乗り換えて山科駅を目指す。無論、これは只、皆で楽しく旅に赴こうと考えた訳ではない。それ位は輝達も良く心得て居る事だろうと勝手に性善説で考えてみる。

 それにしても――力丸の身に何が起きようとして居るのだろうか? 俺は昼食時に目の当たりにした力丸の姿を思い出していた。普段、見せる事のない無気力な姿に確かな違和感を覚えずには居られなかった。だから、俺は力丸の心の内を密かに覗かせて貰った。決して、褒められた手段ではないが、正面からぶつかった所で力丸はあれで結構、頑固な性分だ。素直に手の内を見せるとは思えなかった。それに、この様な芸当を為せるのは俺しか居ない。案ずるな。決して口外する事はない。昨今の世の中に於いて、何処でも後生大事にされて居る守秘義務と言う奴だ。案ずるな。相談相手の個人情報は幾ら金を積まれても公開する事はない。

 鴨川の手前にある七条駅。喧騒に包まれた夕暮れ時の地上から地下へと潜れば、どこか土臭さを残す石の香りが肌に心地良い。改札を抜けて、さらに階段を下る。丁度、列車が駅に到着しようとして居る場面に出くわした。良し。中々に幸先良い出だしだ。このまま三条を目指すとしよう。

 列車に乗り込めば涼やかな空気が心地良い。空調が良く利いて居るお陰で実に涼やかだ。短い間ではあるが汗が退くには良さそうだ。賑わいを見せる列車の中、俺達はすぐに降りられる様に扉の前に陣取る事にした。

 揺れる列車の中、俺は昼間、密かに覗かせて貰った力丸の心を振り返っていた。力丸の心の内に紡ぎ出された情景――俺の目には、力丸の揺らぎ続ける心が鮮明に映し出されていた。目に映る情景の全てが陽炎の如くゆらゆらと揺らめく様からも容易に想像が付く。人の心が読めると言う能力も、こう言う場面では役に立つ。

 精神を集中させながら力丸の心を注意深く覗き込んだ時、俺の目には一人の娘の姿が克明に浮かび上がった。力丸の隣に寄り添う様にして佇む娘。なるほど。この娘が小太郎から聞かされていた結花と言う女か。今は亡き、力丸に縁ある存在にして、揺らぎの中心地に居座り、心を掻き乱す元凶となって居る訳か。

 事情はどうあれ、嵐山での一件から少なからず力丸の心は揺らぎ始めた様に感じられる。良い揺らぎではない事位、俺にも判る。このまま放って置けば、その揺らぎはさらなる拡大を見せ、良からぬ結果を引き起こすのは火を見るより明らかだ。何か手を打たなければ取り返しの付かない結末を迎える事になるのは不可避だ。

  だが、それよりも、遥かに気掛かりな情景が浮かび上がって見えた。燃え盛る炎の情景が頻りと目に映る事に多分に違和感を覚えていた。恐らくは力丸の心を象徴する物であろうと思うのだが、何故、炎が描き出されたのか皆目見当が尽かなかった。哀しみに暮れて、気落ちして居る姿が描かれるのであらば、合点もゆくのだが……。

 こう言う場面に直面した時に、歴史の浅さと言う物を思い知らされる。何しろ俺は小太郎達との付き合いも浅い身。力丸が過去にどの様な出来事を体験したのかを知る事は、そう容易い事ではない。より深い部分まで意識を統一し、力丸の心の奥深くまでを垣間見れば、全てを知る事もできるのかも知れない。だが、それは少々乱暴であり、何よりも力丸の心に土足で踏み入る様な行為だ。親しき仲とは言え、礼節を忘れてはならない。だからこそ、俺は輝達から情報を聞き出したかった。裏付け無き憶測など何の意味も為さない。力丸の心の中、その心さえも焼き尽くさんと欲する程に煌々と燃え盛る炎が何を意味するのか知りたかった。勝手な憶測だが、燃え盛る炎が象徴するのは猛々しき怒りの情念――つまりは、何か激しい怒りを胸に抱いて居ると推測できる。この裏付けを知る事が事態を解決する上で、大きな意味を為すのは間違いない。

(案外、探偵と言う職は、俺に取って天職になるかも知れないな。どんなに偽っても俺の前では意味を為さない。丸裸にして全てを白日の下に晒してくれる。ふふ)

 窓に映る俺自身に勝ち誇った様な笑みを見せるのと、列車が三条の駅に到着したのとは、ほぼ同時だった。

(なるほど。これが『偶然などない。全ては必然だ』とでも言うのか?)

 再び静かな笑みを浮かべた。そのまま颯爽と開かれた扉を後にした。扉が閉まれば、空調の涼やかな風ともお別れだ。少々名残惜しく感じられるが、これもまた旅をする身には仕方がない事だ。駅のホームはどこか湿気を帯びた石の匂いに満ちて居る。息が詰まる様な石の匂いを堪能したくて静かに息を吸い込んでみる。ふと、隣に目線を投げ掛けてみるが、どうした事か輝達の姿が見当たらない。驚き、振り返ってみれば輝が目を丸くしたまま俺の顔をジッと見つめて居る。何か異変に遭遇したのだろうか? 少々疑問を抱きつつ問い掛けてみる事にした。

「輝、何か妙な事でもあったのか?」

「えっと……」

 何やら言い出し辛そうな様子。一体何が起きたのだろうか? 首を傾げてみるが、輝は挙動不審な振舞いを崩す事はなかった。もしや、何か異変でも起きたのか? 俺は静かに警戒しながら横目で周囲の様子を窺った。そんな中、発車音がホームに響き渡れば、輝の背後を列車が次第に加速しながら走り抜けて行く。頬を撫でてゆく生温い風が退けば、後に残されたのは静まり返った駅の風景だけだった。静まり返ったホームに輝の笑い声混じりの吐息が響き渡る。予想外の振る舞いに思わず怯まされたが、輝はお構いなしに続けて見せた。

「丸裸にして白日の下に晒してくれるだなんて……太助ってば、ぼくにそんな事したいのかなーって」

「……俺がそんな事を口走ったのか?」

「えへへ。ドキドキしちゃうよね」

「にゃはは。ドキドキしちゃうのじゃー」

 余り考えたくはないが、もしかして小太郎の珍妙なクセが伝染したのだろうか? 心の声は心の中だけに留めて置け。常々口にして居る俺自身が、まさか、その様な間抜けな振舞いをしようとは……余りにも間の抜けた振る舞いを為した事を知り、じわりじわりと恥じらいが体を駆け巡る。体の芯から燃え上がる様な熱さを覚えるが、今更、後戻りはできそうにない。行きは良い良い、帰りは恐い。とおりゃんせの唄が脳裏を過る。

「ふむふむ。やはり、お主もまた、コタが患って居る不治の病の犠牲者となった様子じゃな」

 腕組みしたまま大地がもっともらしい表情で、ぽつりと呟く。

「そう……らしいな」

 余りにも衝撃的過ぎる現実に、俺は小声で返す事しかできなかった。

「あー。なるほどねぇ。それじゃあ、仕方がないよね」

 輝の笑い混じりの軽やかな声が響き渡る。何とも言えない妙な空気が漂い始める中、大地が颯爽と俺達を先導するかの様に歩き出した。くるりと振り返ると、早く来いと言わんばかりに手招きしてみせた。

「にゃはは。二人とも戯れて居らぬで、先を急ぐのじゃ」

 ついつい、輝達と一緒に居ると無邪気に戯れたい衝動に駆られてしまう。どうにも、人と言う生き物は艱難辛苦に向き合うよりも、目先の享楽に身を投じたくなる物らしい。まだまだ俺も精進が足りないと言う事か。大いに反省せねばならない。力丸は今、まさに渦中の最中に置かれて居る。たった一人での孤立無援なる戦いに臨む事を強いられて居る。助力を為せるのは俺達しか居ない以上、気を緩めるのは全てが終わるまで待つとしよう。

「ねぇ、太助。それで、今日はどこを案内してくれるの?」

「ああ、そうだったな。琵琶湖疏水を巡るとは言ったが、具体的な目的地も告げられずに行動を起こす事は不可能だったな」

 俺はコンコースへと続く階段を上りながら輝達に道程を告げる事にした。三条京阪から山科へと抜けて、そこから毘沙門堂を目指す。毘沙門堂は十七時には閉門されるから、時間には配慮する必要がある。その後、当初の予定通りに琵琶湖疏水沿いに歩き続け蹴上まで抜ける。時間があれば南禅寺境内を拝観したいところではあるが、移動距離から考えるに、韋駄天でも無ければ為せぬ芸当であろう。むしろ、南禅寺は目標地点と捉えれば、そこから蹴上を目指せば良いだけの話だ。無事に蹴上に到達する事ができれば、そこから先は醍醐まで東西線で一本だ。婆ちゃんには事前に連絡は入れてある。抜かりはない。流石は俺だ。

「何か、壮大な冒険になりそうな予感がするのじゃ」

「そうだねぇ」

 大地の言葉を受けながら、輝が上機嫌そうに言葉を添えて見せる。

「毘沙門堂は桜の名所だよね? ぼくも昔、コタと一緒に行った事あるよ」

「ほう? オカルトマニアは市内の観光名所にも明るい様子だな。今後は平和に楽しめる場所を案内して貰えると在り難いな」

 俺の言葉にすっかり気を良くしたのか、輝は満足気に笑いながら頭の後ろで手を組んで見せた。

「えへへ。市内の観光名所だけじゃ無くて、美味しい甘味にも明るいんだよ」

「ふふ、甘い物は嫌いな身ではない。先日、大地が党首を務める『甘党』に参加させて貰ったばかりでな」

 予想もしない言葉に驚いたのか、輝は立ち止まると苦笑いを浮かべて見せた。

「甘党? ナニそれー」

 輝の言葉を耳にした大地は、何を想ったのか、誇らしげに胸を張って見せる。

「にゃはは。テルテルは既に党員登録済みなのじゃー」

「何か良く判んないけど楽しそうだね。それじゃあ、甘いお菓子を求めて旅立っちゃおう」

「目的が大幅に軌道修正されて、在らぬ方向に突き進んで居るな」

「大丈夫、大丈夫。毘沙門堂にもきっと、美味しい甘味が待って居ると思うんだよね」

 残念ながら、毘沙門堂の周辺は住宅街だ。茶店とは無縁なのだが……と、思わずツッコミを入れたくなったが、俺は出掛かった言葉を呑み込んだ。このまま知らずに旅立つのもまた一興だ。人伝に聞いた話など大した価値を持たない。百聞は一見にしかず。その言葉の真意を理解するには良いかも知れないと、腹の内でせせら笑う俺は相当に性格が捻じ曲がっているに違いない。

 それにしても、輝達と一緒に居る一時は本当に楽しく思える。ついつい話し込みたくなってしまうが、今回の目的から目を背ける訳にはいかない。イヤ、輝達もそれ位理解して居るはずだ。だからこそ、無意味に場が暗く、重くならない様に振舞って居るに違いない。物事は善意に捉えるのが吉だ。疑い始めればキリが無くなる。

 夕暮れ時と言う事もあり、京阪と東西線を結ぶコンコースは人通りも多く見受けられた。学校帰りの学生達も居れば、仕事帰りと思しきスーツ姿の大人達の姿もあった。俺達はコンコースを経て東西線のホームへと続く階段を下っていた。地下鉄特有の湿気を孕んだ石の香りが微かに感じられた。間も無く列車が到着すると言うアナウンスが聞こえた所で、俺達は互いに顔を見合わせ、階段を早足で駆け降りた。俺達が階段を下り終えるのと、列車が到着するのはほぼ当時だった。ただ、進行方向とは逆方向の列車だった。

「離してくれなのじゃー! ワシは行かねばならんのじゃー!」

「ロック、落ち着いて! 逆方向の電車だよ!」

 輝の言葉にようやく気付いたのか、大地が強張った表情で列車の案内表示を凝視する。そのまま静かな溜め息を就くと、田舎の車掌の如き振る舞いで去り往く列車に敬礼をしてみせた。当然、列車内に乗り合わせた人々は戸惑った反応を見せる。俺と輝は恥ずかしさで顔から火が噴き出しそうだった。

(……やはり、大地は色んな意味で猛者と言えるか)

 静かに走り去ってゆく列車を見送りながら、俺は静かに胸を撫で下ろした。

 しかし、流石は大地。中々の大捕り物劇と相成ったな。時折、人里に猪が現れては、必死の攻防の末に捕獲したと言うニュースを見るが、その当事者の心境はこう言う物なのだろう。多分。

 小さく吐息を就きながら、ちらりと電光掲示板に目線を投げ掛けてみる。どうやら本命の列車が訪れるまで数分は待つ事になりそうだ。しばしの小休止と言う事か。それも悪くない。しっとりとした湿気を帯びた石の匂いは、どこか涼やかに感じられ、心地良さを覚えていた。列車の走り去った後の駅のホームは静まり返っていて、人もまばらにしか見受けられなかった。静かな静寂が周囲を包み込もうとしていた。

「リキの事、心配だよね」

 緊迫した静寂を打ち破るかの様に、俺の隣に並ぶと、輝が静かに呟いて見せた。

「そうじゃな。嵐山での一件があってから、リキの様子が可笑しいのじゃ」

 溜め息交じりに大地が続く。やはり、二人とも力丸の身を案じて居る様子だ。だが、これは、少々不謹慎ではあるが俺に取っては好機到来と呼べる。こちらから呼び水を撒くまでもなく、自ら話題を切り出してくれるとは有り難い展開だ。このまま厚かましく便乗させて貰うとしよう。探偵の本領、いよいよ発揮と相成るか。ふふ、名探偵太助、ここに見参。後の事は何も心配要らない。万事、俺に任せて置けば良い。既に事件は解決した様な物だ――そう心の中で力強く叫んでみた。そう。あくまでも心の中だけだ。何処かの恥ずかしい誰かとは違う。それに、皆の前ではクールな男前で通しているのだ。路線変更をするつもりは無い――今の所は。

「……その事で話を聞かせて貰いたくてな」

「うん。判って居るよ。ぼく達もそのつもりできたからね」

 輝は俺の顔を覗き込みながら、そっと微笑んで見せた。

「太助もリキのために手を貸してあげてね」

「問われるまでも無く、元より、そうした腹積もりがあればこそ、今日、こうして二人に来て貰った次第だ」

 腕組みしたまま応えて見せれば、輝は無邪気な笑顔を見せた。

「えへへ。そうだと思った」

「にゃー、やはり男前は気遣いも男前なのじゃー」

「ふふ、そんな事を言って持ち上げても、何も出ないぞ?」

 二人の言葉に、静かに笑い返して見せた。持ち上げられて悪い気持ちがしないのは事実だ。だが、ついつい、舞い上がってしまいそうになる軽い自分を諫めずに居られなかった。此処は冷静に仕切り直しだ。再び黙り込めば、駅のホームは静寂に包まれる。それから程なくして列車が訪れる。良し、冒険の続きを描くとしよう。俺達はそのまま列車に乗り込んだ。夕暮れ時と言う事もあり、それなりに混雑しそうな時間帯ではあったが、乗り込んだ車両はがらりと空いていた。不思議な偶然もある物だが、これ幸いとばかりに俺達は三人並んで腰を下ろした。

「にゃー、涼しいのじゃー」

「うん。外、蒸し暑いから気持ち良いよね」

「にゃー、涼しいのじゃー」

 大地は座席の上に寝転がると猫の様な動きを見せた。その立派な腹からは想像も尽かない程のしなやか過ぎる動きに、輝と二人、思わず言葉を失う。猫がそのまま人になったのではないか? そう疑わずに居られない程の華麗過ぎる動きに、猫の動きを見事に再現した職人芸に、輝と二人、ただただ言葉を失う。余りにも見事過ぎる職人技をシレっと見せ付ける辺り、やはり、大地は只者ではない。

「にゃー、涼しいのじゃー」

 日の当たる温かな道路の上で、仰向けになって身をくねらせる猫としか思えない程に、忠実過ぎる振る舞いに、どうにもツッコミを入れずには居られない衝動に駆られる。どうしようもなく、力強く、ツッコミを入れたい衝動に駆られる。俺の隣でも輝が必死で堪えて居る。小さく肩を震わせ、座席に指を食い込ませて抗って居る。だが、ここで嵌れば大地の思う壺だ。駄目だ。負けるな。頑張れ、俺っ! 俺達はただ、ひたすらに堪えた。湧き上がる衝動を、吹き出しそうになるのを必死で抑え付けながら俺達は沈黙を守り続けた。とにかく、必死に耐え続けた。止まない雨はない。明けない夜はない。そんな事を必死で心の中で叫び続けた。全身全霊の力を以って、渾身の想いでやり過ごす俺達に敗北を感じたのか、大地は、さも何事もなかったかの様に涼しい顔で起き上がった。その、やり切った感に満ち溢れた、妙に清々しい表情が可笑しくて、可笑しくて、堪らなく可笑しくて、思わず吹き出しそうになったが必死で堪えた。どこまでも抜け目のない振る舞いを見せる大地は、やはり、生粋の芸人魂の叫びのままに生きて居る身と言っても過言ではない。恐るべし、大地。さり気ない振る舞いの中に篭められた職人芸に、ただただ圧倒させられるばかりだった。

「……や、山科まで暫く掛かる。汗が退くには良き一時となりそうだな」

 何とかして、流れを変えようと必死で言葉を絞り出した。とにかく大地を見ないように目線を逸らした。迂闊に視界に入れば、吹き出さずに居るのは極めて困難となる。

「そ、そうだね。結構、汗かいちゃったから良い感じだよね」

 輝もまた額に汗を滲ませながらも、消え入りそうな声で返して見せた。やはり、目線を大地から逸らそうと必死になっている。眉間に珠の様な汗が滲む辺りからも、その苦しい戦いの模様が窺える。

「にゃー、涼しいのじゃー」

(い、一旦、手を緩めた様に見せ掛けての不意打ちか!? あ、侮り難し……)

 皆で空調の涼しさを感じた所で、再び得も言われぬ珍妙な沈黙が訪れる。今、迂闊に口を開いたとしたら、吹き出さずに居る自信がなかった。だからこそ、沈黙を守り続ける事しかできなかった。そんな俺達の必殺の心構えなどに気付くはずも無く、列車は何事も無く走り続ける。駅から駅へと、ただ無機的に走り続けるばかりだった。ガタンガタン、ガタンガタン、無機的な金属音だけが響き渡る。駅のホームに差し掛かる度に微かなブレーキ音が響き渡れば、列車は再び静かに駅を発つ。列車は静まり返っていた。夕暮れ時の東西線は相応に混雑するのだが、今日に限ってどうした事か? 俺達の車両には俺達以外の乗客が誰も乗り合わせて居ない。これは本当に偶然なのだろうか? どうやら、結花の紡ぎ出す世界観に俺達も侵食されつつあるらしい。必然としか思えない状況を肌で感じ取って居るのか、小さく吐息を就くと静寂を打ち破る様に輝が口を開いた。微かに揺れる電車の振動に呼応するかの様に輝の声が響き渡る。

「リキにはね、結花さんってお友達が居たんだ」

 友達が居た――嫌な表現だが、その一言だけでも憶測は一気に確信に近付いた。なるほど。やはり、今は亡き人物と言う事か。未練を残したまま死別した者に想いを抱くなと言う方が可笑しな話だ。伝えたい想い、伝えたい言葉、幾らでもあったはずだ。それにしても、俺達と年も変わらぬ娘が何故、この世を去ったのだろうか? 普通に考えれば病死と言うのは考え難い。それに、病死したのであれば、力丸が何者かに対して、煌々と燃え盛る憎悪を抱く理由の説明が付かない。それならば事故か? イヤ、むしろ誰かに命を奪われた――例えば、何らかの事件に巻き込まれた。その様に考えるのが妥当かも知れない。それならば、何者かに憎悪を抱く理由も説明が付く。俺が、そんな疑問を抱く事位、予想していたのだろう。大地が話の続きを口にして見せる。

「ひき逃げに遭ったのじゃ」

 何の感情も篭められて居ない言葉だった。いや、だからこそ殊更に激しい感情が見え隠れしている様に思えた。大地に取って力丸は実の兄弟そのものに近しい間柄なのを考えれば、心中穏やかで言われる訳が無い事は想像に難くない。此処は俺も感情を抑えて接させて貰おう。必要なのは主観的な感情任せの判断では無い。客観的にあるがままの事実を捉える事が何よりも重要だと判断する。

「……穏やかな話ではないな」

「そうなのじゃ。結花さんはリキの目の前で車に轢かれて亡くなったのじゃ」

「最低だよね。自分が罪に問われるのが怖くなったから、そのまま逃げちゃうなんて」

 二人の言葉に、俺は唸らずには居られなかった。どうやら、事情は予想していたよりも遥かに重く、深く、底も見えない程に複雑な話の様だ。なるほど。あの燃え盛る炎の正体が見えて来た気がする。憎悪の念を抱くなと言う方が無理がある。猛々しい怒りを胸に抱かずに居られる訳がない。心無き者の手により命を奪われる等、断じて赦される話ではない。

 しかし、改めて力丸の心の内を振り返ってみれば、やはり、普段の力丸の姿からは、とても想像が尽かない話だ。いや、力丸は俺と似て居る部分が多い。あの豪快な振舞いが作り物だったとしても不思議ではない。それならば、何故、演じて居るのだろうか? 自らの思惑を覆い隠すため? はたまた……ああ、駄目だ、駄目だ。ついつい勝手な詮索が加わってしまう。もはや悪癖以外の何者でもない。賢兄にも良く咎められるが、俺の勝手な思い込みで相手の人物像を思い描くと、現実の姿との間にかい離が生じる。そんな状態で詮索だけが一人歩きすれば、本来の姿から掛け離れた固定観念しか抱けなくなる。それでは駄目だ。余計な先入観と身勝手な主観は棄てなければならない。探偵に求められるのは物語を築き上げる能力ではない。客観的に事実を繋ぎ合わせて、真実へと続く道を導き出す事にある。焦っては駄目だ。奇しくも目の前には輝が、大地が居てくれる。二人から情報を引き出して事態の解決へと導く事。それが俺の為すべき事だ。あくまでも冷静さを保ったまま挑ませて貰おう。

「奇しくも、その日は大晦日の夜だったんだ」

 一年が終わり、新たな一年が始まる特別な日に起きた惨劇とは、余りにも哀し過ぎる。もしも、俺が同じ場面に直面したとして、期せずして賢兄を失う事となったら? それが、何者かの仕業による物だとしたら? 到底、赦す事等できる訳がない。力丸の立場に置き換えて考えてみればこそ、力丸の怒りが、哀しみが共感できてしまう。だからこそ、俺は肩を小さく震わせる事しかできなかった。

「結花さんと二人、除夜の鐘の音を聞いて、初詣を終えて家に帰る途中に起きた事件なんだ」

 輝の言葉を聞きながら、俺は思わず拳をこれ以上ない程に力強く握り締めていた。指先がギリギリと音を立てて掌に食い込む鮮烈な痛みを感じていた。体中を駆け巡る激しい怒りに体が震えた。燃え上る様に体中が熱くなるのを静かに受け入れていた。

「……俺が力丸の立場だったら、そのひき逃げ犯を生かして置く事はない。絶対にな?」

 輝も、大地も静かに俺の言葉を聞きながら俯いた。だが、俺の怒りは留まらない。自分の事では無くても、力丸の人柄を考えれば怒りに身を震わせずには居られない。暑苦しいまでに豪快に振舞い、気前が良くて、何時だって熱い想いをもって接してくれた。時に俺が不安に駆られていたり、迷って居る時でも一緒になって熱くなってくれ、時に肩を叩いて喝を入れてくれる事もあった。俺達以上に激しい怒りを見せてくれる事もあれば、俺達以上に声を張り上げ喜んでくれる事もあった。ああ、俺だけではない。皆に取っても力丸は本当に良い仲間だ。裏表のない真っ直ぐな性格の力丸は一緒に居るだけで元気を分けて貰える希有な存在だ。それ以上に、俺に取っては大切な友だ。その友の仇敵であるならば、俺に取っても仇敵だ。討つべき存在だ。生かして置く道理など微塵もない。探偵業は一時休業だ。法が裁かないと言うのであらば、俺が裁いてくれる。現代社会に降り立った必殺仕事人になってくれるまでだ。

「驚いたなぁ」

「驚いた? 何にだ?」

「太助でも、熱くなる事あるんだなぁって」

 可笑しそうに輝が笑う。だから、俺は目一杯、輝に顔を近付けて囁いてやった。

「無礼な物言いだな。俺の事をどう言う目で見て居るか、夜を徹して問い詰めさせて貰おうか?」

「えへへ。クールな男前って思っていたけれど、熱い一面も見せちゃう、ますます格好良い男前って思って居るよー」

「ふふ、そんなに持ち上げられると気分が良くなるな。さて、何を奢ってくれようか?」

「えー、ホント? 真に受けちゃうよー」

「ワシも真に受けちゃうのじゃー」

 どこか凝り固まりつつあった時の流れを動かしたのは輝の言葉だった。怒りに沸き立った心では冷静さを保つ事はできない。それを判って居るからこそ、場の空気を和ませたてくれたのだろうか? 着飾る事のない、さり気ない振る舞いが、心遣いが、心地良く感じられた。

 輝達と笑い合って居るうちに、列車は間も無く山科駅へと到着しようとしていた。俺は二人に声を掛けて席を立った。さて、向かうとしよう。先ずは最初の目的地、毘沙門堂を目指して、旅の続きを描くまでだ。涼やかな列車に別れを告げて、再び纏わり付く様な蒸し暑い空気の中、俺達は山科駅を後にしようとしていた。

◆◆◆27◆◆◆

 日が暮れ始めた山科の街並みには蝉の鳴き声が威勢良く響き渡っていた。山科駅の駅前は賑わいを見せる場所で、駅前には洒落たカフェショップがあったりと、賑わって居る様子が窺える。観光地と化していない日常の生活がそこにある。着飾らない普段着的な光景が心地良い。夕暮れ時ともなれば買い物帰りの主婦達で普段は静かな山科の街もにわかに賑わい始める。そんな活気ある夕暮れ時の光景に輝達も興味を示したらしい。もっとも、今日は駅前を散策するのが目的ではない。なおかつ時間制限もある事を考えれば早急に毘沙門堂を目指すべきだ。

 山科駅を後にして線路と民家に挟まれた細道を歩む。駅前は確かに賑わって居るが、駅前を過ぎればすぐに民家が立ち並ぶ光景が広がる。赤錆色の線路沿いに広がる昔らしさを残す街並みは、夕暮れ時の日差しに照らし出されて赤味を帯びたセピア色一色に包まれて居る様に思えて心地良い。どこか郷愁感漂う街並みは物憂げな風情を称えて居る。時折、轟音を響かせながら走り抜ける列車を横目に見送りながら、俺達は線路沿いを寄り添うように駆け抜ける細道を歩み続けた。立ち並ぶ民家は古めかしさを称えて居る様に感じられる。植木鉢に植えられた草花や、時にやや大振りな樹木も目に留まった。赤錆色一色の金網のフェンス一枚を隔てた向こう側は線路となっている。良く考えてみれば中々に恐ろしい光景だ。薄いフェンス一枚を超えれば、そこには勢い良く列車が往来する線路が駆け抜けている。

 線路沿いを少し歩めば踏切が見えて来る。この踏切が丁度、曲がり角の合図となって居る。このまま左折して、後はひたすら緩やかな坂道を歩み続ければ、目的地の毘沙門堂に辿り付く。

 考えて居ると、不意に警笛が鳴り響いた。カンカンカンカン。ふと、足を止めて横目で窺えば、赤い光が明滅するのが目に留まる。程なくして列車が駆け込んで来る。ガタンガタン、ガタンガタン。勢い良く走り去ってゆく列車の金属音を見送った所で、俺達は再び歩き出した。

 細道を左に曲がり、陸橋の様な造りになって居る石造りの短いトンネルを潜り抜ければ、俺達の歩む足音だけが静かに反響する。この上もまた列車の通り道になって居る。列車が通過すれば話し声等呆気なくかき消される程の轟音が響き渡る。足音だけが反響するトンネルは湿気を孕んだ石の香りが涼やかに感じられる。好きな匂いの一つだ。心地良い香りを肌で感じながら、そっと目を細める。これから向かう毘沙門堂へと想いを馳せてみた。

 短いトンネルを抜ければ後は道沿いに進むだけだ。線路沿いの古めかしい家々とは対照的に、色鮮やかな家々が立ち並ぶ洒落た住宅街。その中を突き抜ける道は人の気配も少なく、ひっそりと静まり返っていた。人々の生活が感じられる街並みは心地良くて好きだ。特に夕暮れ時ともなれば、言葉にできない物悲しさを肌で感じる事ができて、殊更に心地良く感じられる。響き渡るのは蝉達の威勢の良い鳴き声だけだ。夕暮れ時の住宅街に響き渡る蝉の鳴き声は、だからこそ殊更に人々の生活の香りを重なり合い、物憂げに感じられた。俺達の歩む足音が夕暮れ時の街並みの中に静かに響き渡る。

「リキが結花さんと知り合ったのは中学生の頃だったのじゃ」

 長らく続いた沈黙を打ち破ったのは大地だった。大地の言葉を受けた輝が、さらに話を続ける。

「ぼくやコタとトモダチになる少し前に知り合ったみたいでね。ロックとはもっと前からの付き合いだったんだよね?」

「そうじゃな。ワシとリキは小学校の終わり頃から一緒だったでのう」

 なるほど。力丸との付き合いの長さで言えば、やはり、大地が一番と言う事になるか。さながら兄弟の様に仲の良い二人であるが、二人とも自営業の家系と言う事も親近感を抱かせる要因なのかも知れない。力丸の情報を引き出す上では大地は重要参考人と言えるだろう。探偵太助的には手帳に記録を取りたい衝動に駆られたが、さすがに目の前で記録を取る事は慎むべきか。俺はうっかり手を伸ばした懐の手帳を元に戻しながら、大地の言葉を心の中に静かに刻んだ。

「じゃが、付き合いの長いワシでさえ、結花さんの事は断片的にしか知らぬでのう」

 夕暮れ時の山科の街並みを歩みながら俺達はただ静かに語り合っていた。

 二人の話を聞くに連れて、次第に結花と言う娘の人物像が象られてゆく。二人の話を聞く限りでは結花と言う娘は中々に風変りな女の様に思える。自らの姿を他の者達に知られたくないのだろうか? 可笑しな表現ではあるが、人里離れた集落にそっと身を潜める、世捨て人の様な生き方を好んだ様に感じられる。力丸の豪快な性格を考えれば、随分と対照的な価値観を抱く身の様に思える。未だ殆ど、その姿を知るまでには至らないが不思議な人物の様に思えて仕方がなかった。

「うん。結花さんは確かに、不思議な人の様に思えるんだよね」

「リキと付き合いの長いワシでも会った事も無ければ、どんな人なのかさえ知らないのじゃ」

「……随分と徹底して居るな」

 俺達は道なりに歩き続けていた。このまま進んでゆけば道中、琵琶湖疏水の流れと出会う事ができる。毘沙門堂はさらに先に進んだ場所に静かに佇んで居る。桜の咲く時期になれば、桜の名所と言う事もあり、この静けさに包み込まれた山科の街並みにも場違いな程に大勢の人が訪れ、賑わいを見せる。この琵琶湖疏水の周辺にも多くの桜の樹が植えられて居る。琵琶湖疎水の流れにも数多の桜の花弁が舞い落ちて、一面、桜色の流れとなる。風に乗って優雅に舞う桜吹雪に、桜色の琵琶湖疎水の流れ。春爛漫の暖かな気候の中、数多の桜の花弁が織りなす華やかな光景が広がり、静かな山科の街並みに賑わいが訪れる。今の時期、桜は葉だけの姿となるが、力強く佇む姿は見る者の心に響く。割れんばかりに響き渡る蝉達の声を背に受けながら、俺達は歩き続けた。丁度、陸橋の上を列車が駆け抜けようとして居るのか豪快な音が響き渡る。

「結花の本当の姿を知って居るのは力丸だけと言う事になるか」

 ふと、足を止めて呟いて見せれば、輝達も立ち止まる。一瞬、時の流れさえも止まったかの様な感覚に包まれた。気のせいだろうか? 一瞬、蝉達の鳴き声も、陸橋を駆け抜ける列車の音も、何もかもが消え失せた様な感覚を覚えた。

「そうなっちゃうのかも知れないね」

「うぬー、できる事ならリキの心を余り掻き乱したくない所ではあるのじゃが」

「だが、憶測だけで動き回ったのでは、ろくな結末を迎える事はできないぞ?」

 俺は二人に向き直ると、溜め息混じりに続けた。

「変わると言う事を為し遂げるためには大きな力が必要になる。ましてや、受け入れ難い過去と真正面から向き合う以上、相応の苦痛を伴う事は止むを得ない」

 俺の言葉に一抹の不安を覚えたのか、輝が静かに俯く。

「そこまでしなければ駄目なのかな? リキの心を掻き乱そうとして居るのは情鬼でしょう? それならば、その情鬼を討ち取ればオシマイじゃないのかな?」

 輝の気持ちも判らない訳ではない。だが、それで本当に解決するのだろうか? 表面的な傷だけを綺麗に覆い隠した所で、内部での腐敗は続いて居る。次に傷が痛む時には、多分、予想を大きく超えた鮮烈なる激痛にのた打ち回る事になるだろう。当然の事ながら、根本的な解決からは程遠い顛末を迎えてお終いだ。それでは駄目だ。本当の意味での解決には、相応の痛みを伴うのは止むを得ない。無論、力丸一人に背負わせるつもりはない。俺達全員で痛み分けだ。

「情鬼は確実にリキを狙って来るのじゃ」

「でも、手掛かり無しでは、どうする事もできないよね」

「それに――もしかしたら、情鬼など存在しないかも知れないぞ?」

 俺の言葉に輝が、大地が驚愕の表情を浮かべる。二人の表情を見届けた所で、俺は二人を先導する様に歩き出した。こんな場所で立ち往生して居ても何も進展は得られない。それに歩きながら、風を感じ、風景の移り変わりに触れながら語らいたいと思えた。水の流れと同じ事だ。川は絶えず流れて居るからこそ、川を流れる水は清流を保ち続ける事ができる。池や水溜りの様に、一所に留まり流れから切り離されてしまえば、水はやがて濁り、澱み、腐り果ててしまう事になる。だからこそ風を感じたかった。吹き溜まりになりたくなかった。澱み、濁り、腐り果ててしまうような顛末は絶対に避けたかった。そんな想いを抱きながら歩き出した俺に続くと、さっそく輝が口を開いた。

「ねぇ、さっきの、どう言う意味なの?」

「……聞きたいか?」

 勿体ぶった様な表情で笑い掛けて見せれば、輝は大きく目を見開いた。満足した俺は薄ら笑いを浮かべながら小声で囁いて見せた。

「俺の勝手な憶測に過ぎないぞ?」

「それでも聞きたいよ」

 心配そうな、それでいて、好奇の入り混じった複雑な表情に思わず笑みが毀れる。大切な仲間を想う気持ちと、そんな気持ちと相反するかの様な好奇心。人と言う生き物は、やはり、深い業に満ちて居る。もっとも、そんな人の業を知りながらも試す様な振る舞いを見せる俺も人格が破綻して居るか。俺の言葉を待ち侘びる輝の表情を横目で窺いながら俺は続けた。

「情鬼は人の心から生じる物だと聞いて居る。それならば、力丸の心から情鬼が生じても不思議ではない。いや、もっと言ってしまえば力丸自身が情鬼になり得る可能性とてないとは言い切れない」

 俺の言葉に輝は俯いたまま黙り込んでしまった。大地もまた険しい表情を崩す事はなかった。だけど、これが現実だ。目を背け続けても何も変わる事もないし、前に進む事もできない。何よりも力丸自身がそれを望んで居るとは到底思えなかった。

「さて、そろそろ琵琶湖疏水の流れが見えて来るぞ」

 俺の言葉に二人揃って顔をあげた。住宅街の間を横切る様に流れる静かな流れ。琵琶湖から旅立った流れは山科の地へと辿り着く。地表を旅する事もあれば、トンネルの中を人知れず潜り抜ける場所もある。波乱万丈に満ちた壮大なる冒険物語といえる。

「琵琶湖疏水は琵琶湖から京都市内へと水を流すために作られた水路でな。疏水とは、判り易く言えば水の通り道だと思ってくれれば良い」

 俺の言葉に興味を示したのか、大地が、輝が、橋の欄干から身を乗り出す様にして疎水の流れを覗き込んで見せた。まるで幼い子供だ。思わず笑みが毀れる。

「疎水は、その旅の過程の中で幾つかの分岐点で別たれて居るため、一本道と言う訳ではない」

 二人はすっかり琵琶湖疎水の流れに興味を惹かれて居る様子だ。だが、旅の目的は琵琶湖疎水ではない。あらぬ方向に興味を惹かれてしまったのでは、見据えるべき事実からも目が逸れてしまう。それでは旅の目的を達成する事はできない。俺から仕掛けて置きながら、お預けを喰らわすと言うのも、中々に極悪非道な話ではあるが、お楽しみは後に回して、先ずは旅の目的を優先させるとしよう。

「さて、琵琶湖沿いの散策は後のお楽しみだ。先に毘沙門堂を参拝するぞ」

「そうだね。十七時には閉まっちゃうなら、先に行かないとね」

 真正面から力丸と向き合わなければならないと言うのに、こんな観光染みた振舞いをして居る事に違和感を覚えない訳ではなかった。ただ、力が入り過ぎた状態ではろくな考えも浮かんでこないのもまた事実だ。柔軟に振舞いつつ、多方面から突いてみる。その過程で運良く解決への糸口が見つけられれば締めた物だ。もっとも、最後は力丸本人に話を聞く必要があるのは間違いないのだが、それでも手持ちの札は多いに越した事はない。少しでも事を優位に運べる様に仕組むとしよう。

 琵琶湖疏水を後にした俺達はそのまま歩き続けた。夏とは言え日も次第に傾き始める。それでも気温は全く下がる気配は無く、蒸し暑い空気に抱かれたまま俺達は歩き続けていた。

「今回の事案に関しては、自在に動き回れるのは俺達三人だけと言う事になる」

 俺はそう呟きながら二人の顔を互いに見回した。

「大地には太郎坊のカラス天狗達にシロ、酒呑童子と言う心強い仲間が居る。輝の虫を操る能力も大きな力になってくれるはずだ。手駒としては十分過ぎる品揃えだ」

「太助には賢一さんも居るじゃない?」

 何気なく口にされた輝の言葉に俺は抉られる様な感覚を覚え、思わず息を呑んだ。嫌な所を突いてくれる。賢兄の事は話題にして欲しくなかった。ああ、そうさ。嵐山の一件が尾を引いて居るのは力丸だけではない。賢兄の心の中に俺が居ないと言う事実を叩き付けられてから、俺の中で賢兄に対する強い不信感が生まれた。それまでずっと、俺だけを守ってくれて、俺だけを想ってくれて居ると思っていた。そうだと信じて疑いもしなかった。俺は――いや、駄目だ、駄目だ。今は俺の事を考える場面ではない。俺の問題は俺自身の手で決着を付ける。誰の手も借りたくない。それに、今は俺の事を考える時ではない。後に回すとしよう。

「ワシは一歩退いた立場からお相手させて貰いたいのじゃ」

「え? どう言う事?」

 頭を整理して居ると唐突に、大地が口を開く。予想もしない言動に輝が戸惑いを投げ掛ける。確かに、意外な発言だ。だが、大地の事だ。何も考え無しに適当な事を言うとは考え難い。何か考えがあっての振る舞いなのは間違いない。俺達が疑問を抱く事は当然、想定していたはずだ。大地は俺達に向き直ると、先刻の言葉に秘められた想いを口にし始めた。

「ワシでは、なまじ、リキとの距離が近過ぎるでのう。どうしてもワシ自身の感情が強く反映されてしまうでのう。冷静さを欠いては勝てる相手にも勝てなくなるのじゃ。そう考えると、太助やテルテルの方が冷静な判断をできると思うのじゃ」

「なるほど。確かに、それは一理あるかも知れないな」

 俺は輝をジッと見つめて見せた。俺の想いに応える様に、輝は力強く頷いて見せた。

「事故ではないが、俺は祖父との別れを体験した身。大地も祖母との別れを体験した身だ。大切な誰かを失う哀しみは心得て居る。力丸の想いに、少し位は寄り添う事ができるだろう」

 俺の言葉を受けて、輝もまた口を開いた。それは輝の弟にまつわる話だった。俺に取っては予想もしない話だった。あの時、俺は輝と共に事態の解決の為に行動していた。それでも、俺にも見抜く事のできなかった物語があったと言う事か。

「ほらほら、毘沙門堂は目の前だよ? 続きは中に入ってからのお楽しみー」

 上手い具合に引っ張って見せる物だ。好奇の感情で輝の物語に耳を傾けるのでは、ただの野次馬と何ら変わりはない。その様な無礼な振舞い、俺自身が納得できそうにない。しっかりと向き合わせて貰おう。大地もまた、何か思う所があったのか、静かに腕組みしたまま頷いていた。いずれにしても俺達は毘沙門堂へと到達した。輝の言葉通り、続きは中に入ってからにさせて貰うとしよう。俺達は毘沙門堂の本殿へと続く参道へと歩を進めた。

◆◆◆28◆◆◆

 毘沙門堂はうっそうと生い茂る木々に囲われる様にして佇んでいた。しっとりとした、水気を孕んだ空気が涼やかで心地良く感じられる。日差しが直接当たらない事もあってか、気温も多少低く感じられる。小さな石橋を超えながら、流れゆく小川に目線を落とす。小さな流れではあるが、涼やかで心地良い。小川から吹き付ける風を肌で感じながら、俺達は毘沙門堂の境内へと歩を進めた。一歩、一歩、踏み込む度に足元の砂利が心地良い音色を奏でる。蝉達の鳴き声と鳥の鳴き声、それから俺達の歩む足音。大自然と共に歩んで居る感覚に包まれていた。

 毘沙門堂と記された赤い旗に誘われる様にして境内を歩んでいた。目指す場所は砂利道の先にある本殿となる。そっと本殿へと続く石段の上を見上げる。少々険しい石段だが、避けては通れない。俺達の歩む物語と同じだ。微かな共感を覚えながら、毘沙門堂の境内へと続く緩やかな石段を一歩ずつ歩んでいた。境内へと続く道は三通りあるが、先ずは本来の順路となる仁王門へと続く石段を通り過ぎて、勅使門へと向かう緩やかな石段を訪れていた。勅使門は通常、開かれる事のない門ではあるが、その手前に広がる風情あふれる景色を二人に見せたかった。

 勅使門へと続く緩やかな参道を囲う様に立ち並ぶのは紅葉の木々達。今は夏の時期と言う事もあり、木々達の息吹が感じられる青々と生い茂った瑞々しい葉を称えて居るが、これがもう少し季節を経て秋になると一斉に鮮やかな紅へと移り変わる。春は桜。夏は新緑。秋は紅葉。冬の時期に雪が降れば絵画の様な美しい光景が紡ぎ出される。祇園界隈の賑やかで、華やかさに満ちた寺社仏閣と比べると静かな場所だが、こう言う静けさに包まれた寺は俺の肌好みに合う。だからこそ、この場所に無意味に人がそぞろ集う光景など想像しただけで興醒めだ。

「ねぇ、太助。周りに生えて居る木々って紅葉でしょう?」

「ほう? 流石は観光大使輝だな。御名答だ」

「か、観光大使? えっと……何か、肩書きが変わって居るのは気のせいかな?」

「些細な事だ。気にするな」

「秋になったら綺麗なのじゃろうな」

「ああ。この緩やかな石段一面、木々から落ちた紅葉に覆い尽くされる。前の晩に雨でも降れば、しっとりと水気を帯びた紅葉が鮮やかな紅の絨毯の様になり、それはそれは見事な情景が広がる。丁度、昨年、早朝に訪れた際の一枚がある。携帯で撮った一枚だから余り綺麗に撮れて居ないかも知れないが見て貰えるか?」

 輝が、大地が、幼い少年の様に目を輝かせながら俺の手元を凝視する。俺は昨年の秋に毘沙門堂を訪れた際の奇跡の一枚を二人に披露した。これもまた、皆と語らう為のネタ集めの一部に過ぎないのだが、その事を明らかにしてしまうのも興醒めだろうし、何よりも俺自身の格好が付かない。男とは無駄に見栄を張りたがる、哀しくも、不器用な生き物らしい。

 その写真は、丁度、勅使門へと続く緩やかな石段を下から見上げる様な形で撮った構図となる。暮れ往く秋の日の中、真っ赤に色付いた紅葉が数多の葉を称えた木の枝が、礼をするかの如く垂れて居る。その足元の石段には絨毯の様に葉から落ちた紅葉が鏤められて居る。奇しくも前日の晩には雨が降っていた事もあり、しっとりとした紅葉が殊更に艶やかで、実に華やいだ情景を収めた、文字通り、偶然が紡ぎ出した奇跡の一枚と呼ぶべき一枚だ。

「うわぁ、綺麗だねぇ!」

「携帯とは言え綺麗に撮れて居るのじゃ。何よりも、この景色がまた絶景なのじゃ!」

「ふふ、秋になったら皆で訪れるのも悪くない。その際も俺が案内を買って出るとしよう」

 興奮した様子で、携帯の写真と目の前の景色を何度も、何度も、繰り返し照らし合わせる二人の姿が可笑しくて、思わず笑みが毀れる。無邪気にはしゃぐ姿を見て居ると、俺まで嬉しい気持ちになれる。さて、見せたかった光景を紹介すると言う小さな願い事も叶った。少々、寄り道になったが本来の目的を果たすために一旦引き返すとしよう。俺達は正面にどっしりと居を構える勅使門を後に、参道を引き返した。勅使門は通常は開門される事のない檜皮葺きの総門となる。ここからは通行できない。先刻通り過ぎた仁王門へと続く石段を上り、本殿へと至る事になる。

「仁王門かぁ。えへへ、真っ先に太郎坊の阿行、吽行兄弟の姿が浮かんじゃうよね」

「そうじゃな。あの兄弟は迫力満点じゃからのう。案外、仁王門の中に立っていても違和感ないのじゃ」

 仁王門の中で佇むカラス天狗の兄弟か。鍛え上げられた体格も考えれば、迫力満点の姿になるのは間違いない。しかしながら、迫力があり過ぎて誰も仁王門を潜れなくなりそうな気もするが……。

「いきなり仁王門の中にあの兄弟が居たら、観光客はさぞかし驚く事だろう」

「仏像の阿行、吽行より、遥かに迫力あるもんね」

「目力が違い過ぎるのじゃー」

 俺達は賑やかに笑い合いながら歩を進めた。仁王門へと続く石段は急こう配な造りになって居る。初めの数段は緩やかな石段だが、途中から傾斜が厳しくなる。両脇に規則正しく並べられた赤い旗が印象的だった。少々きつい石段に輝が息を切らして上る姿を目にした大地が可笑しそうに笑う。

「なんじゃ、テルテルよ、だらしないのじゃ」

「ぼくは……ロック達と違って、体力ある訳じゃ、ないの。可弱くて、可愛くて……」

 息を切らしながら必死で絞り出した言葉に大地が吹き出す。俺も釣られて、思わず吹き出してしまった。

「ちょっとー。言い終わる前に吹き出すって、どう言う事?」

「輝、今のは俺達を笑わせるための、気の利いた振舞いだろう?」

「そんな訳ないでしょー」

 三人で笑いながら石段を上り切れば、さすがに汗が吹き出す。夕暮れ時とは言え、中々に蒸し暑い。毘沙門堂は此処に至るまでの住宅街とは打って変わり、周囲をうっそうとした木々に覆われて居る。さながら、森の中に仁王門が佇んで居るかの様な造りになって居る事もあり、生い茂る木々達だけでは無く、土地柄も水気を称えた土壌の様に思える。だからなのか、湿気に満ちて居る様に感じられた。気温の高さも相まって、実に蒸し暑く感じられる。周辺の木々からは蝉達の威勢の良い鳴き声が降り注ぐ。蒸し暑さを後押しするかの様な蝉達の威勢の良い鳴き声も重なり合い、殊更に蒸し暑く感じられた。とは言え、心地良い蒸し暑さだ。木々達の、蝉達の、それから土の、命の息吹を肌で感じられるのだから。額に滲む汗を拭って居ると、どこからかヒグラシの鳴き声が聞こえて来た。なるほど。夕暮れ時と、早朝の一時にしか、その声を聞く事はできないが、こうして聞く事ができるとは中々の幸運だ。立ち止まる俺に気付いたのか、二人もそっと耳を澄ませていた。どこか物憂げな鳴き声が心地良く感じられた。

「おー、ここが仁王門じゃな。毘沙門天と銘打った提灯も、中々に味があるのじゃ」

「えへへ、山科の阿行、吽行兄弟とのご対面だねぇ」

「ここから境内に入れる。境内正面に本殿、右手に弁才天、左手に回れば本殿がある」

 俺は二人に境内の案内を軽く説明した所で「左手に回るぞ」と短く告げた。夕暮れ時の毘沙門堂は静けさに包まれていて、どこか物悲しさを覚える空気が心地良かった。本殿の奥にある宸殿、その裏手に座する晩翠園は回遊式庭園となり、木々と池に囲まれた情景が実に見事な場所だ。人の居ない本殿と言う場所は、腹を割って語らうには良さそうに思えた。

 唐門を潜り抜ければ、すぐに本殿に至る。本殿は毘沙門堂の名の由来とも言うべき毘沙門天が祀られて居る場所となる。受付で拝観料を払った俺達は早速、中へと歩を進めた。真正面に存在する立派な本堂には毘沙門堂の御本尊足る毘沙門天が安置されて居る。毘沙門天と言えば四天王の一人となる。

 色鮮やかな朱色の柱に彩られた本殿へと歩み寄る。数段の階段を昇れば、正面の本殿にどっしりと座する毘沙門天と相対する事になる。ガラス張りの戸に囲われて居ると言うのも少々不思議な気持ちになるが、それでも、薄暗い部屋の中、蝋燭だけが照らし出す光景は、何とも厳かな雰囲気に包まれて居る様に思える。

 俺達は本殿の手前から毘沙門天を見つめて居た。しばし、見つめた後で、目を伏せ、手を合わせ、偉大なる毘沙門天に力丸の手助けを祈願した。困った時だけ神頼みと言うのも実に都合が良く、図々しい話ではあるが、それでも手を貸して貰いたかった。

「太助は何でも知って居るんだね」

 本殿での祈願を終えた俺達は廊下伝いに歩んでいた。一歩踏み込む度に微かに軋んだ音色を奏でる木の床が心地良く感じられる。歩きながら輝に問い掛けてみた。

「毘沙門天の話か?」

「うん。でもさ、四天王って事は、他にも三人居るって事だよね」

 なるほど。確かに、そこは疑問を抱くところだろう。神頼みの様な有り難さからは程遠いが、無駄な雑学で喜んで貰えるのは実に誇らしく、光栄な気持ちになれる。良し良しと心の中で思いつつ、もう少しだけ知識を披露させて貰う事にした。

 四天王とは――先刻、目の当たりにしたのは北方を守護する毘沙門天を初めとし、東方を守護する持国天、南方を守護する増長天、そして西方を守護する広目天と並び、四天王となる。仏教に置ける四人の守護神と呼ぶべき存在だと言う話を語って聞かせた。話し終えた所で大地が嬉しそうに声を挙げた。

「にゃー! なんか、強そうなのじゃ!」

「ふふ、強い者達である事は間違いないだろう。毘沙門天の姿を見ても判る通り、戦いに長けた者達であろうからな。戦いに身を置く仏と言う位置付けを考えれば、カラス天狗達とも通づる部分がありそうに思える」

 折角訪れた毘沙門堂だ。もう少し、輝達に、俺のお気に入りの寺の光景を紹介させて貰うとしよう。本殿を後にした俺達は、丁度、本殿の真裏に存在する霊殿に辿り着こうとしていた。早速、俺達は霊殿の中へと歩を進めた。畳が敷き詰められて居るお陰で、畳の良い香りがする。この霊殿の天井に描かれた天井龍と呼ばれる絵画は霊殿の守護者となる。今で言う所の騙し絵の様な仕掛けが施されており眼の向きや顔が、見る角度によって変わる。そう説明しながら、俺は天井に描かれた天井龍を見上げた。俺の真似をする様に大地が天井を見上げる。

「にゃんと! 龍の顔が動いたのじゃ!?」

「不思議だねぇ。どう言う仕掛けになって居るんだろう?」

「色彩や明暗を上手く工夫して描いた物らしい。俗に言う騙し絵と言う手法を駆使したのだろうな」

 毘沙門堂には、こうした不思議な絵画が数点安置されて居る。この先の宸殿にも同様の絵が待って居る。しばし天井龍との対面を楽しんだところで、俺達は霊殿を後にした。続いて目指すのは宸殿となる。丁寧に整備された庭の木々に目線を投げ掛けながらも、短い渡り廊下を経た先にある一つ目の宸殿へと歩を進めた。

 この宸殿に佇む襖絵もまた、見る角度によって変化して見える。さらに、奥にある二つ目の宸殿へと歩を進めれば、そこには鯉の絵画が置かれて居る。この絵もまた見る角度を変える事で、鯉が見る者について来るかの様に見える。輝達は、この不思議な絵に興味を惹かれたのか、色んな角度から覗き込んでは感嘆の声を挙げていた。無邪気に楽しむ二人の姿を目にして、俺まで嬉しくなっていた。

「宸殿の正面には大きなしだれ桜が佇んで居る」

 俺の言葉に振り返った二人は、今度はしだれ桜に目線を投げ掛けて見せた。普段は開く事のない勅使門の手前に佇むしだれ桜は樹齢百数十年にもおよぶ巨木となる。大きく伸ばされた、枝張りは荘厳の一言に尽きる。葉だけの季節になっても、その威風堂々たる姿を目の当たりにするだけでも気持ちが昂る。春には、一体、どれ程までに美しい姿を見せてくれるのだろうか? 尽きる事のない興味を惹かれる。

「にゃー、立派なしだれ桜なのじゃ」

「春になったら綺麗な花、咲かせるんだろうねぇ」

「ふふ、春になったら皆で訪れてみるか? 毘沙門堂は桜の名所としても知られる。満開の桜並木の中、桜吹雪に吹かれながら歩むのも一興であろう」

 目の前にどっしりと構えるしだれ桜を目にして、二人は恐らくは吹き抜ける風の中、舞い上がる桜吹雪を思い浮かべて居る事だろう。目を輝かせる二人の無邪気な姿が可笑しくて、ついつい、からかいたくなってしまう。

「もっとも、桜の時期の毘沙門堂は、相当に混雑するがな」

 俺の言葉に輝が、大地が苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと振り返る。

「あー、やっぱり?」

「にゃー、桜じゃなくて、人を見るのはビミョーなのじゃ」

「でもさ、やっぱり、この綺麗な桜が咲いて居るところ、見てみたくない?」

「ふむ。それもそうなのじゃ。春になったら皆で来るのじゃ」

「良いね。皆で来よう。まぁ、邪魔な人混みはぼくの虫で一掃――」

 言い掛けた所で輝が言葉を呑む。腕組みしたまま無言の圧力を掛ける俺達の眼差しに気付いたのだろう。仁王門の阿行、吽行の迫力には負けるが、ここは友として、輝の暴走をなんとしても阻止しなければならない。

「そ、そんな事する訳ないじゃない。イヤだなぁー」

 輝の渇いた笑い声が夕暮れ時の境内に響き渡る。相変わらず隠し事が下手な事だ。花見目当てに訪れた参拝客達を、楽しそうに笑いながら虫達が放つ強風で吹き飛ばす光景が克明に見えた以上、その様な嘘がまかり通る事はない。名探偵太助の目を欺くには未だ精進が足らないと見受けた。もっとも、それ以上に演技が大根過ぎる。嘘を吐くならば、もっと上手く振る舞った方が良い。主演女優賞を勝ち取る為にも演技指導も併せて必要と見受けた。

 一頻り語らった所で俺達は一つ目の宸殿の裏手に在る晩翠園の前まで歩を進めた。ここ、晩翠園は谷川の水を引き滝を作った江戸初期の回遊式庭園とされて居る。「心字」の形取った池に亀石、千鳥石、座禅石などが配置された庭園となる。ゆったりと時間が流れる様な感覚が、実に心地良い。晩翠園の向こう側は山となって居る。山一面に広がる広大な木々の隙間からは蝉達の声が降り注ぐ様に響き渡る。先刻、耳にしたヒグラシの鳴き声も、そこに折り重なって居る。ゆったりと流れゆく時の流れの中に身を置くのは心地良いものだ。

「ここ、晩翠園は紅葉の季節になると、辺り一面が色付いて実に見事な景観となる場所でな」

 輝達はすっかり俺の話に興味津々の様子だ。だが、今日は観光目的で訪れた訳ではない。余り、俺の知識に注意が向いてしまうのは頂けないものがあるし、俺達が目指すべき目的を忘れられては困る。ゆったりと境内を巡り、気持ちも落ち着いた事だろう。さて、毘沙門堂の境内に入る前に輝が話し掛けた話の続き、今こそ聞かせて貰おうではないか。呼び水をさして見せれば、「そうだね」と輝が神妙な面持ちで頷いて見せる。

「約束だからね。さっきの話の続きをさせて貰うね」

 輝は俺と大地の顔を交互に覗き込みながら、そう切り出して見せた。

「ぼくには生まれて来る事のできなかった弟がいた。そのお話は前にも聞いて貰ったと思うんだけど」

 輝が語って聞かせてくれたのは、俺達が知って居る話の続きだった。世の中には実に不可解な出来事が幾らでも転がって居る物だと改めて認識させられる。驚いた事に輝は会った事もないはずの弟と向かい合い、暫しの時を共に過ごしたと聞かされた。死んだ者と対話する能力を持つ者が存在すると言う話は知って居るが、その体験を為した者が目の前に居ると言うのも驚きだ。

「嵐山の騒動の中でも、ぼくは弟の暁と出会ったんだ。でも、その正体は暁の姿を真似た幻に過ぎなかったんだよね」

 輝はどこか痛むかの様な悲痛な笑みを浮かべたまま続けて見せた。

「正直、凄く抉られたんだ。冷静さを失ってはならないと思っても、心が掻き乱されて仕方がなかった」

 輝は寂しそうに溜め息を就きながら続けて見せた。

「もしも、暁が生きていたら、ぼくもロックと大樹君みたいに振舞えたのかなって。そう思ったら、悔しくて、悔しくて、仕方が無くなっちゃってね」

「テルテル……ごめんなのじゃ」

「ロックは何も悪い事していないじゃない? ぼくが弱かったから、心に隙があったから、その隙を突かれた。それだけの事だよ」

 桁違いの精神力を誇る賢兄でさえも我を見失ってしまった。多分、俺の前に爺ちゃんが現れたら、俺もまた正気を保って居られる自信は微塵もない。二度と会う事の叶わない相手をちらつかせる事で心を掻き乱す。確かに、戦術としては実に有効な手段と言える。同時に、これ程までに人の道に外れた行為も中々ないと言える。

「成長した弟の姿はぼくとそっくりでね。もしも、暁が生きていたら、どんな兄弟で居られたのかなぁ。そう考えると辛くなるよね」

「テルテル……」

「ロック、ありがとう。でもね、ぼくは大丈夫だよ」

 何だかんだと言いながら輝は変わった様に思える。周囲の仲間達の支えもあるのかも知れないけれど、輝自身も必死で抗った事だろう。やはり、最後は自分との戦いになると言う事か。同じ事は俺自身にも言えるはずだ。容易く降り回されぬよう、心を強く持たなければならない。支え合う輝と大地の姿を目の当たりにして居ると、何の脈絡も無く、過去に調べた知識が脳裏を過ぎった。

 そうだった。二度と会う事の叶わない死者との再会を果たす手段、何一つない訳ではない。無論、その様な手段が正当な手段である訳も無く、微塵の意味も為す事はない事位、重々承知して居る。だが、良い機会だ。二人にも聞いて貰い、どの様に受け止めるかを聞かせて貰おう。力丸の支援策を講じる上で何かの役に立つかも知れない。

「輝、オカルト方面の知識に明るい事を考えれば知って居るかも知れないが」

 そう切り出した所で輝の表情が不意に曇る。やはり、俺如きが知って居る様な浅い知識を、輝が知らない訳も無いか。

「降霊術の話をしようとして居るのでしょう? 止めた方が良いと思うな」

「流石だな。切り出す前から先手を取られたか。ああ、判って居る。実際に行うつもりは微塵もないがな」

「降霊術? 何じゃな、それは?」

 その方面に興味を持たない大地には無縁な知識だったようだ。俺は大地に降霊術とはどういった物であるかを手身近に説明した。晩翠園に佇む池は静まり返っていて、水面には波紋すら刻まれない。静けさに包まれた木々の中に佇む晩翠園もまた、俺達のやり取りを耳にして居る事だろう。池の向こう側には観音堂が在る。観音様に悪巧みを聞かれて居ると知りながらも、仏の道に反する呪術について語らうと言うのは、少々気が退ける物があったが、この静けさは語らうには実に心地良い。

 巷には数多の降霊術が知られて居る。だが、魂だけの存在を無理に呼び寄せる事に一体何の意味があるのだろうか? それどころか、ろくでもない奴らが呼び出される事が大半だ。何の救いにもなりはしない。余計に未練が募るだけのお寒い結末に終わるだけだ。そんな後ろ向きな策、力丸が選ぶとは到底思えなかった。そう、俺自身の考えも添えた所で詳細に語って聞かせた。予想に反して大地は興味を示した様子だった。腕組みしたまま何かを思案して居る姿に俺も輝も戸惑いを隠し切れなかった。

「えっと……ロック、もしかして、怖い事考えちゃって居る?」

「ふむ。これはワシ自身の考えなのじゃが、本当に無意味なのじゃろうか?」

 どうやら大地は俺とは違う考えを持って居る様子。駄目な物は駄目だと考えるだけでは視野が狭くなってしまう。やはり、こうして皆で議論する事には意味がある。人の個性が千差万別であるならば、価値観も千差万別になるはずだ。当然、策を講じるにしても皆とは違った視点からの切り口を見出す者も居る事だろう。ましてや、大地は力丸との付き合いが最も長い身だ。もしかすると、意外な奇策を打ち出さないとも限らない。俺は大地に向き直った。何を語って聞かせてくれるのかに興味を駆り立てられていた。待ち侘びる俺達の想いを受け止めてくれたのだろうか。大地は静かに続きを語り始めた。

「大事なのはワシらが何を望むかではないのじゃ。肝心のリキは何を望むのじゃろうか? 確かに、どんなに願った所で結花さんは戻って来ないのじゃ。それでも、幻ではない本物の結花さんと語らう事で、気持ちの整理ができやせぬじゃろうか?」

 これは興味深い意見だ。俺は輝と顔を見合わせた。輝もまた興味を示したらしく、「もっと詳しく聞かせて貰えるかな?」と、大地に問い掛けて見せた。大地は力強く頷くと、話の続きを語って聞かせてくれた。

「婆ちゃんがこの世を去った後になってからの事なのじゃ。生前、毎日の様に顔を合わせていたのに、いざ、不意に居なくなってしまった後から、伝えられなかった言葉が後から、後から浮かんできたのじゃ。どうして生前に浮かんで来なかったのか不思議でならなかったのじゃが、どうも、そう言う物らしくてのう。もしも、もう一度婆ちゃんに出会う事が叶ったならば、ワシは婆ちゃんに話したい事が沢山あるのじゃ」

 いよいよ死期が近付き、気持ちの整理ができていても、誰の心にも未練と言うのは残ってしまうものなのだろう。俺も爺ちゃんに生前、散々迷惑を掛けてばかりだった。だけど、爺ちゃんが居てくれたからこそ、あの頃の俺から大分変わる事ができた。その中でも、特に小太郎達と出会えた事が何よりも、大きな意味を為した。

 伝えたい想いなんか幾らでもある。ただ、どうして、生きて居る間に伝えられなかったのだろうか? 後悔は決して先には立たない意地の悪い物らしい。多分だが、今日、伝えられなくても、明日がある。そんな思い上りがあったから、先延ばし続けた結果と言う訳か。皮肉な話だ。必ず明日が訪れると言う事を、一体、誰が保証してくれると言うのだ? 結局、「ありがとう」の気持ちを伝える前に爺ちゃんはこの世を去ってしまった。

「でも、結花さんは寿命で亡くなったんじゃ無くて、誰かに命、奪われちゃったんだもんね……」

「気持ちの整理なんかできる訳がないのじゃ」

 大地の考えは理解した。だけど、やはり、俺個人としては死者と生者を巡り合わせると言う策は反対だ。古き時代から伝わる怪談の中には、死者との再会を願う恋物語も少なくない。俺の中では真っ先に牡丹灯籠の顛末が浮かんできた。人は目の前に甘い菓子をちらつかされれば、飛び付かずに居られない業深き生き物だ。もしも、結花が力丸を我が物とせんがために、ありったけの甘言でそそのかしたとして、その時、力丸に抗う事ができるだろうか? 少なくても露姫の一件では、力丸は危うい状況まで陥っていたのは事実だ。義理人情に厚く、情にほだされ安い力丸の性分を考えれば、殊更に危険な賭けの様に思えてならない。

(例え皆が賛成したとしても、俺は断固反対の姿勢を貫かせて貰うよ。結花、悪いけれど……力丸は君の愛した男であると同時に、俺達の大切な親友でもあるのでね。君に渡す訳にはいかない。恨むなら冷酷非情な俺を恨むが良い)

「さて、大分日も暮れて来た。琵琶湖疏水の流れと共に続きを語らうとしよう。もっとも、時間も時間だ。行ける所まで行くと言う形になるかも知れないが、そこは容赦してくれ」

「えっと……途中でリタイアした場合はどうなっちゃうのかな?」

 輝が苦笑い混じりに問い掛ける。これは中々に興味深い問い掛けだ。それならばと、俺は笑いながら輝の顔を覗き込んで見せた。

「世の中には知らない方が良い事もある。つまり、そう言う事だ」

「な、何か、ホントに大丈夫なのかな?」

「テルテルよ、道はワシらが歩んだ後にできるのじゃ。信じて突き進むのじゃー」

「えっと……二人とも、すごーく適当な事言ってない?」

「些細な事だ。気にするな」

「些細な事なのじゃ。気にするでないのじゃ」

「えー、本当に大丈夫なのかなぁ……」

 こうして俺達は次なる目的地を目指して、毘沙門堂を後にした。既に日もだいぶ傾き始めていて、夕暮れ時の空を背に、巣に帰る鳥達の姿が目に留まった。俺達は後ろを振り返る事なく、毘沙門堂の仁王門を後にしようとしていた。阿行、吽行に見送られる中、急こう配の石段を下り、再び住宅街に至る。来る途中にすれ違った琵琶湖疏水に沿って、ひたすらに蹴上を目指す。やはり、予想通り、南禅寺を巡る事は難しそうだ。もっとも、無事に蹴上まで辿り着けるかも少々怪しい気がするが、それもまた冒険の醍醐味と言える。困難のない冒険では味気ない。不安そうな表情を崩さない輝を半ば強引に引き連れながら、俺達は琵琶湖疏水と共に歩むべく旅路に臨もうとしていた。

◆◆◆29◆◆◆

 既に日は暮れ掛かっていて、辺りは萌える様な夕焼け空の情景に包まれていた。山科の街並みを縫う様に静かに流れゆく琵琶湖疏水の流れもまた、夕日を浴びて赤々と燃え上る様な色合いに包まれていた。日のある時間帯から夜半の時間帯へと移り変わる景色の中に身を置くのは心地良く思えて嫌いではない。

 今日は大地がこの場に居る。嵐山の騒動が片付いた後、大地が醍醐に遊びに来てくれた日の事を思い出していた。あの時、出会った――いや、再会を果たした三匹の子猫達の存在が、少なからず力丸を援護する上で意味を為すのではないかと考えていた。とは言え、話題にするには少々突飛な話となる。良き間の到来を窺いつつ、自然に話題に上る様に進めるとしよう。

「最初に訪れた際にも説明した通り、琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都市内に運び入れる為に築き上げられた水路でな。琵琶湖を旅立った流れは長い旅を経て、市内の各所へと運ばれてゆく事になる」

 俺の話に興味を示したのか、輝達は興味深そうに疏水の流れを見つめていた。そろそろ日没も近いと言う事もあり、琵琶湖疏水沿いには人の姿は見られなかった。暮れ往く夕焼け空が水面に反射してキラキラと光り輝く様は、何処か物憂げに感じられて殊更に幻想的に思えた。

「知っての通り、琵琶湖と京都市内との間には山がそびえ立って居るため、地面に沿って水路を作る事はできなかった」

「あー。確かにそうだよね。ぼく達の視界の先は山になって居るものね」

「そうだな。そのお陰で地表を流れる箇所もあれば、山の中を突き抜ける様にトンネルの中を流れて居る箇所もある。何が言いたいかと言うと、道沿いに歩んでいけば蹴上に辿り着けると言う訳ではない」

 俺の言葉に、輝が再び不安そうな表情を見せる。

「まぁ、そう心配するな。道順は覚えて居る。多少暗くても、全くの未開の地を突き進む訳ではないから安心してくれ」

 大地は琵琶湖疏水の流れに興味津々なのか、周囲を駆け巡っては琵琶湖疏水の流れを眺めていた。

「中々に壮大な旅をして居るのじゃな」

 一瞬だけ俺の方に向き直ったが、再び興味深そうに流れをジッと凝視し始めた。壮大な旅か……中々に良い言葉を口にしてくれた。この流れからならば話を繋げ易そうだ。これ幸いとばかりに、俺は二人に聞いて欲しい話題をさらりと口にした。

「水の流れと、人の魂の流れは良く似た一面を持って居る」

 俺の言葉に興味を示したのか大地が振り返った。意外に鋭い大地の事だ。俺が何を言わんとして居るかを察してくれて居るのかも知れない。

「――どちらも、循環すると言う面では共通して居るのじゃ」

「魂の場合は、輪廻転生と表現した方が適切だよね」

「太助よ、察しの通り、あの子猫達は再びこの地に生を受けた身なのじゃ」

 予想通りと言うべきか、あるいは、俺が何を考えて居るのか汲み取ってくれたのだろうか? 流石は大地だ。それにしても、魂の循環とは、実に興味深い話だ。恐らくは、シロが大地に向けて助言してくれたのだろう。俺には魂の流れを見極める力は備わっていない。だが、犬神であるシロの言葉であるならば、間違い無く、真理を指し示して居るはずだ。それにしても、随分と短い時間で輪廻転生を果たせる物だと驚かされる。それだけ現世に戻りたいと願う気持ちが強かったのだろうか? はたまた、そこには何らかの存在の力添えでもあったのだろうか? 所詮、一介の人に過ぎない俺には知る由もない世界だ。

「テルテルは知って居るかも知れんのじゃが、生きて居る者と、死んでしまった者とでは、時間の概念が全く異なるのじゃ」

 やはり、シロはこうした知識に関しては俺よりも遥かに詳しい様子だ。この様な知識を得る機会はそうそう得られる物ではない。俺自身の興味も重なり合えば、尚の事大地の話――もっとも、この場合はシロの話と言うべきだが、実に知的好奇心を掻き立てられる内容と言える。

「言うなれば、死んでしまった者は自分の思い通りに時の流れを制御できてしまうのじゃ」

「ぼくも知って居る知識だけれど、シロ君が言って居るってのを考えると、一気に信憑性が高まるね」

「そうじゃな」

 大地は再び流れゆく琵琶湖疏水の流れに目線を落したまま語り続けた。すっかり日の沈んだ光景の中、涼やかな音色で流れてゆく琵琶湖疎水と共に歩むと言うのも、中々に心地良い物だ。共に歩む仲間達が居てくれるから、殊更に心強い気持ちになれる。

「うちのチビ達は、一刻も早くワシの下に戻りたいと願っておったのじゃろう。もっとも、輪廻転生を果たすための好条件が幾つも重なった事もまた、大きな理由の一つなのじゃ」

 嵐山の騒動では想像を絶する程に大多数の魂達が成仏の道を歩んだ。普通に考えたら、余りにも現実離れした話だ。それに、あの時に催した供養祭には数多の人成らざる者達も集っていた。あの日の晩、短い時間ではあったが一時的に嵐山の地が異様な状態になっていたのは否定できない事実だ。現実世界と異界とが重なり合う等、先ず有り得ない話だ。そうした異質なる状況が一時的にとは言え、築き上げられた事を考えれば、人知を超えた出来事が現実の物となったとしても、不思議な話ではない。

「そうじゃな。特殊過ぎる条件が重なり合った上でこそ、輪廻転生を為す事ができたと言う事になるのじゃ」

 輝もまた何か思う所があるらしい。大地の話にジッと耳を傾けていたが、不意に口を開いて見せた。

「これはぼくの勝手な想いなんだけど、あの子猫君達は普通の猫ではない様に思えるんだ。えっと……上手く表現できないのだけど、一般的な猫とは明らかに違う。そんな気がしてね」

「ワシも同じ考えなのじゃ。ウチのチビ達は、確かに、普通のニャンコとは違うのじゃ」

 そうだろうと思う。二人とも上手い表現を見付けられずに、言葉選びに苦戦して居る様に思えたが、あの子猫達は憶測になってしまうが、土地神に近い様な存在なのではないだろうか。神仏の寵愛を受けし者達であると考えれば、普通の者達には決して為し得ない事を為し遂げていても不思議ではない。つまり、極めて特殊な例だと言えるだろう。

「普通に考えたら、そう短い時間で魂が循環する事はないと言う事か」

「うーん、その部分に関しては十人十色としか言えないんだよね。ぼくが知って居る話でも、随分と短い時間で輪廻転生を為し遂げた例もあれば、永い時を経てから輪廻転生を為し遂げた例もある。ただ……殆どのケースにおいて、前世の記憶は失われて居るんだ」

「その話は聞いた事がある。ただ、極めて稀に前世の記憶を保持したまま、輪廻転生を為し遂げる例もあるそうだが」

 判っていた事だが、そう容易く万事を解決できる様な都合の良い道は得られないと言う事か。

「何故、この様な話を持ち出したか、気になるだろうから種明かしをさせて貰おう」

 俺は二人に考えを詳細に語って聞かせた。あの子猫達との物語があればこそ、結花もまた、同じ事を為し遂げられやしないだろうかと考えた。前世の記憶を持ったまま、見事、輪廻転生を為し遂げる事ができれば、再び力丸と再会すると言う願いを果たす事もできるはずだ。もっとも、その場合、どう頑張っても年齢差を埋める事はできないし、外見も当然変わってしまう。下手をすれば性別すら変わってしまう可能性も否定できない。何よりも輪廻転生を果たすにしても、そこは十人十色の動きを為す部分だ。力丸が生きて居る間に為し遂げられるとは考え難いし、それに、仮に輪廻転生を果たした所で前世の記憶が無ければ、何の意味もない。

「考えが甘過ぎたようだ。はっきり言って、人知を遥かに超えた奇跡でも起きない限り、為し得ない話だな」

「そうだね……」

 輝が小さく溜め息を就く。

「なまじ、可笑しな希望を持たせておいて、やっぱり駄目だったって突き落す事になっちゃったら、余計にリキ、苦しむ事になっちゃいそうだよね」

「やはり、そう簡単な話では無さそうだ。俺達如きの浅知恵でどうこうできそうな話ではないのかも知れない」

 無論、最初から現実離れした考えだと言う事位、重々承知していた。万に一つの可能性に托してみようと考えてみただけで、上手くいく等とは微塵も考えていなかった。だからこそ、二人にも手を貸して貰う必要があった。俺一人で考えた所で良い知恵が出るとは思っていなかった。俺はそこまで傲慢ではない。そう考えると、やはり、今日、こうして二人と共に山科を訪れたのは正解だった。

「だいぶ、日も暮れて来ちゃったね」

「そうだな」

「琵琶湖疏水かー。でもさ、良く考えてみると壮大な物語だよね」

 俺が話した琵琶湖疏水の話に興味を示してくれたのだろうか。無駄な雑学でも、時に誰かの役に立つ事がある。千載一遇の好機を待ち侘び、日々、無駄な雑学を集め続けて居るが、こうして日の目を浴びる瞬間が本当に嬉しく思える。病み付きになって居ると言っても過言ではない。だから止められない。

「ああ、壮大な物語だ」

 俺もまた、琵琶湖疏水の流れを見渡しながら話を続けた。

「水は一所に留まる事無く絶えず流れ続けて居る。琵琶湖を旅立った流れは各地を巡り巡って目的地へと辿り着く」

 輝と大地、二人の表情を交互に窺いながら、俺は続けた。

「琵琶湖疏水は一本道ではない。生々流転の物語を紡ぎ続ける。疏水を流れる水は雲になり、空高く舞い上がる。時が訪れれば雨となり、再び土の中へと還ってゆく」

 敢えて、琵琶湖疏水を巡ろうと提案したのには意味がある。水の流れを起点として、力丸を支えるべく策を講じたいと考えていた。元来、俺は川の流れを始めとした、水に因んだ事物に深く興味惹かれる身だ。それならば、自分の得意分野から切り崩したいと考えるのが常であろう。だからこそ、俺は二人に、最も伝えたかった想いを伝える事で締め括る事にした。

「水の流れも人の流れも同じ事だ。力丸の事、皆で支えて行こう。良い案は浮かばなくても、傍に居るだけでも救いになる事もあるかも知れないからな」

 事の詰まり、妙案を手にする事はできなかった。だが、それはそれで物語の始まりとしては、相応に意味を為すはずだ。無論、未だ諦めた訳ではない。今、この時点では無策の状況と言うだけの事だ。手段は幾らでも残されて居るはずだ。いずれ、力丸自身と語らう事で解決の糸口を見付け出すまでだ。

「さて、俺達も物語の続きを綴るとしよう」

 日は既に沈み、微かに残り香の様な残光を残すばかりとなった。間も無く夜が静かに訪れる事になる。蹴上までは相応に距離はある。周囲も暗くなって来たが、道なき道を歩む訳ではない。

「ねぇ、太助。蹴上までって、結構距離、あるんだよね?」

「ほう? 中々に畏れ知らずな問い掛けをしてくれるな」

「お、畏れ知らずなって……」

「にゃはは。ここまできたら、後は野と成れ山と成れなのじゃー」

「ううっ、予想はしていたけれど、やっぱりこうなるんだね……」

 項垂れる輝の肩を叩きながら、俺達は蹴上を目指して歩み始めた。もっとも、今ならば、山科まで戻った方が遥かに早いのは事実ではあるが、来た道を引き返すと言う考え方は好ましくないと思えた。前に進むのでは無く、後ろに退く。これでは、戦う前から負けを認めて居る様な物だ。頻りに来た道に目線を投げ掛ける輝の肩を叩きながら、俺達は半ば強引に進軍を続ける事にした。

「ね、ねぇ、今ならば、未だ引き返せると思うんだけど……」

「ふむ。実に正論だな」

「じゃが、ワシらは前に進むしかないのじゃー」

「ああ、その通りだ」

 静かに熱くなる俺達の毅然たる眼差しに気付いたのか、輝は引きつった笑みを称えたまま歩き始めた。何かを言いたそうにしていたが、もはや何を言っても無駄だと諦めた様に思えた。そんな訳で俺達の物語はこうして綴られていく事になる。物語はいよいよ佳境に差し掛かろうとして居る。敢えて自らの手で道なき道へと進むべく、平坦なる道に別れを告げる事にした。後悔はしていない。

 「最近、太助のキャラが、日に日に崩壊して居る様な気がするのだけど……」と、輝の心の声が呟かれるのが聞こえた気がするが、まぁ、些細な事だ。気にする事なく白地図の上に俺達の物語を綴ってゆくとしよう。名探偵太助の物語は続く。いや、ここは迷探偵太助とした方が味があるだろうか? 暮れ往く夕日の中、俺達は山科を後にしようとしていた。

◆◆◆30◆◆◆

 四条河原町を発つ頃には、既に日も暮れ辺りは大分、暗くなっていた。夜半の街を駆け抜けるバスは嫌いではない。既に日も落ち、辺りはすっかり夜の装いへと移り変わっていた。昼の間は寺社仏閣を巡っていた観光客達は日の暮れた街を右往左往する。あるいは地元の会社員達なのだろうか? 夕食に向かうのか、はたまた飲みに向かうのか、享楽に満ちた姿が目に留まる。オレとは違う世界を生きる住民達に用はない。それよりも、どこか寂し気な雰囲気に包み込まれた街の景色の方が余程性に合う。

 日の暮れた街並みには明かりが灯される。月明りが照らすだけでは街は暗過ぎる。だからこそ、人の手が築き上げた文明の力を持って街を明るくする。全く以って無意味な事だ。そんな事をしたところで、光を失った人の心までを照らす事はできない。それに、仮初の光で街を照らし出せば、影が生じる。光が強ければ強い程に、そこから生じる闇もまた濃さを増す。人の心から棄て去られる様にして生まれ落ちた者達。人はそいつらを鬼と呼ぶ。まぁ、奴らはオレの仲間達だ。精々仲良くするとしよう。

 バスは暗い街の中を静かに駆け抜けてゆく。薄暗いバスの車中に身を置いたまま、オレは流れゆく外の景色を呆然と眺めていた。バスは四条河原町から上賀茂御薗橋まで抜ける。そこから家まで大した距離でもない。面白くも何ともない情景。市内を走るバスなんざ、大して面白味もない物だ。

 結花と一緒にバスに乗った記憶は数え切れない程に遺されて居る。上賀茂神社周辺から出掛けるには、どうしてもバスを使わざるを得ない。徒歩で移動するには近場でもない限り無理がある。結花は体があまり丈夫ではない事もあったから、できるだけ負担を掛けない様にバスで移動する事が多かった。もっとも、それも今となっては遠い昔の記憶になろうとして居る。

 一緒に居る時は、何時も、座席が開けば結花を座らせて、オレは結花の傍に立つのがオレ達の在り方だった。一緒に座れば良いのにと結花は笑うけれど、この図体で一緒に座れば窮屈になる。それに、オレはお前を守る立場で居たい。誇らしげに胸を張るオレを可笑しそうに笑う結花を思い出して、オレは静かに笑っていた。バスの窓に映る、締りのないオレ自身と目が合った。

(何て間抜け面してるんだ、オレは……)

 笑顔はすぐに溜め息に変わる。

(馬鹿みたいだな、オレ)

 バスは淡々と日の暮れた街並みを駆け抜けてゆく。停留所から次の停留所へ、ただ、何事もなかった様に駆け抜けて居た。乗客はまばらにしか見当たらない。停留所に着く度にバスが停車し、扉が開く。手際良く乗客達が乗り降りすれば、再び扉が閉まる。誰も乗降しないバス停は素通りしてゆく。再び窓の外に目線を投げ掛けて見せれば、市街地から離れた外の景色はすっかり暗闇に包まれていた。バスの扉が開く度に土臭さを孕んだ草木の匂いと、割れんばかりの虫達の音色。それから蒸し暑い空気が飛び込んで来るばかりの空虚な光景だけがそこに佇んでいた。夜半の街並みに置き去りにされた人々の想い。その想いの欠片の様な物なのだろうか。そんな事を一人、呆然と考えてみたりしていた。

 何時しか四条通界隈の賑わいはすっかり消え去っていて、月明りが心地良く思える程に暗い景色に移り変わって居る。駆け抜ける景色も市街の景色から街路樹に挟まれた通り沿いへと移り変わってゆく。静かな街中をバスは走り続けていた。

 四条河原町からだと上賀茂御薗橋まで相応に時間が掛かる。四条河原町を出た当初は人々の生活の香りのする街並みを駆け抜けて居るが、葵橋西詰を過ぎた辺りから街路樹に挟まれた人気の少ない道へと様変わりしてゆく。変わる事のない道を走り続けて居ると、唐突に暗闇の中に光に囲まれたトンネルの様な入り口が現れる。北大路バスターミナルはその名の通りの場所だ。唐突に街中に現れたトンネルの様な入り口から導かれる無機的な空間。北大路バスターミナルを過ぎ去れば、再び街並みが姿を現す。田舎の風情を称えた景色を駆け抜けた所で上賀茂御薗橋に到着する。こうしてバスの車窓から覗く景色をジッと見つめて居ると、目まぐるしく移り変わる景色がある事に気付かされる。そこに確かに横たわる物語がある事を知らされる。

 そうこう考えて居る内に北大路バスターミナルを過ぎ去ろうとしていた。ここまでくれば、そう時間を要する事も無く上賀茂御薗橋に到着する。オレは窓の外を流れゆく夜半の景色をしばし見つめていた。静まり返った夜半の街並みは置き去りにされた迷い子のようで、どこか言葉にできない物悲しさに包まれて居る気がした。こう言う景色は嫌いではない。空虚で、無機的で、寒々しくて。でも、そこには確かに人々の生活の息吹が感じられる。使い古された様な感覚に懐かしささえ覚える。程なくして車内にアナウンスが響き渡る。

「次は上賀茂御薗橋。上賀茂御薗橋です。上賀茂神社へお越しの方はこちらでお降り下さい」

 抑揚のない音声に呼応する様にオレは窓の外へと目線を投げ掛けた。家に戻ったら何をしようか。そんな事を呆然と考えて居るうちにバスが停車しようとしていた。

 オレはキャップを被り直しバスを後にした。多少風が出て来たのか、湿気を孕んだ風が頬を撫でてゆく。すっかり汗ばんだ体には大して心地良く感じられなかった。首元をタオルで乱暴に拭いながらオレは歩き続けた。御薗橋を超えれば上賀茂神社が見えて来る。家はもうすぐ傍だ。

(やれやれ……またお袋と喧嘩になっちまうのかな?)

 溜め息ついでに足取りも重くなる。できる事なら顔を合わす事無く、部屋に駆け上がってしまいたい所だ。そんな事を考えながらオレは夜半の道を歩き続けていた。人通りのない夜道には、オレの足音だけが響き渡る。

 不意に風が吹き始めた。何の前触れも無しに吹き始めた風にオレは思わず足を止めて周囲を見回した。風になびく様に上賀茂神社の境内に植えられた木々達がざわめくのが聞こえた。どこか人々の話し声の様に感じられて、妙に温かく感じられた。人気の失せた上賀茂神社の境内はひっそりと静まり返って居る。漆黒の闇夜の中、鳥居の朱色だけが鮮やかに浮かび上がって居る様に見えた。風は尚も静かに吹き抜けてゆく。

「……気のせいか? 誰かに呼ばれた様な気がしたが?」

 だが、周囲を見渡してみても人の姿は見当たらない。風に乗って流れて来た猫の泣き声でも聞こえたのだろう。都合の良い言い訳で自分自身を納得させながら家へと向かう道を歩んだ。程なくして家が見えて来る。店は未だ営業時間内だ。親父もお袋も店に出て居るハズだ。

「はぁっ……帰って来ちまったか」

 さっさと風呂に入ろう。そんな事を考えながら玄関の戸をそっと開く。未だ夜は始まったばかりだ。静まり返った玄関で靴を脱ぎ、ついでに汗ばみ、足の裏に貼り付く気色悪い靴下も脱いだ。足音を忍ばせながら廊下を歩み、ちらりと店の厨房を覗き込んでみれば、親父の姿もお袋の姿もあった。再び足音を忍ばせながら廊下を戻り、そのまま二階へと続く階段を上ってゆく。汗ばんだ足が階段に張り付く感覚に身震いを覚えずに居られない。可笑しな体験をしたお陰で、すっかり汗でべた付いて気持ちが悪かった。さっさと風呂に入るとしよう。大きな溜め息を就きながらオレは自室の襖に手を掛けた。気のせいか、普段よりも重たく感じた。訳の判らない体験の数々にすっかり体力も、気力も消耗し切って居るのかも知れない。

 すっかり汗を吸い込んでびしょ濡れになったキャップを乱暴に放り投げ、部屋の明かりも点けずにベッドの上に投げ出す様に体を横たえた。寝転がったままハーフパンツを乱暴に脱ぎ捨て、すっかり汗ばんだタンクトップを脱いだ。下着一枚になった所で大きな溜め息を就いた。

「さっきのは一体、何だったんだ? 何故、結花とコタが?」

 考えてみても何も判る訳もなかった。

「訳が判んねぇっての」

 日常が非日常と出会う瞬間がじわじわと迫って来て居る様に思えて不気味で仕方がなかった。だが、オレは戦う力を持たない。調査に乗り出してみたい気もするが、その中でオレに忍び寄る悪意ある者と戦う展開を迎えたとしたら、その時は皆の手を借りるしかない。思わず大きな溜め息が毀れる。溜め息ついでに、手にしたタンクトップを顔に宛ててみる。

「うぉっ!? すげぇ、汗くせぇし……」

 一休みしたら風呂に入るとしよう。何時の間にか風が出始めたのか、上賀茂神社の境内から木々達の涼やかな音色が聞こえて来る。風に乗って虫達の鳴き声も聞こえて来た。染み入る様に響き渡る虫達の鳴き声が、風が木々の葉を揺らす涼やかな音色が心地良い。夏の夜は、どこか物悲しくて肌に合う気がする。命の灯火が静かに潰えてゆく季節……そんな事を考えて居ると、盛大に腹が鳴った。思わず大きな溜め息が毀れる。

「やっぱり、オレにはシリアス路線は似合わねぇっつー事か」

 再び溜め息交じりに天井を見つめてみた。

「腹、減ったな……風呂から上がったら、何か適当に作って食うとしよう」

 可笑しな体験をした事もあって、妙に疲れた気がする。今日はさっさと寝るとしよう。そんな事を考えながらオレはベッドから起き上がった。

「あー、駄目だ、駄目だ! こうも汗でベタベタだと気持ち悪くていけねぇ。ついでに、恐ろしく汗臭ぇし……こんなんじゃ、まともに考える事もできやしねぇや」

 着替えを手に、風呂場へと向かう事にした。どうせ誰にも見られる事もない。パンツ一枚と言う少々間抜けな姿だが、細かい事だ。気にするまでもない。オレはゆっくりと階段を降りて行った。こうして居る間にも額から汗がにじむ。今夜はだいぶ蒸し暑い夜になりそうだ。

◆◆◆31◆◆◆

 風呂から上がった所で、オレは冷蔵庫の中を漁っていた。ふと、窓の外に目線を投げ掛けてみる。窓の外には何時もと変わる事のない上賀茂神社の境内が覗いて居る。時折風が吹き抜けるのを除けば、静けさに包まれて居る。これもまた何時もと変わる事のない情景だ。

 虫達の鳴き声が心地良い。時折、思い出したかの様にバイクが走り去ってゆく音が響き渡るのを除けば静かな物だ。夜は静けさに包まれる。物悲しささえ覚える程に静けさに包まれる。これもまた何時もと変わる事のない情景だ。

 再び冷蔵庫に目線を移す。あれこれ物色してみるが、まともな材料は数える程しか残されていなかった。

「おー? 何だこりゃ?」

 冷蔵庫の中を物色して居ると、見るからに危険な雰囲気を放つ、禍々しい物体が目に留まった。

「なんつーか、危険な香りしかしねぇぞ……」

 途方も無く嫌な予感を覚えつつも、手に取ってみれば、体中の毛穴が開く様なおぞましい感触を覚え、そのまま無言で異界に送ってくれた。

「有り得ねぇし……何だよ、あの不気味過ぎる物体は!?」

 悲鳴を挙げながら、オレは大慌てで手を洗った。正体こそ判らなかったが、明らかに食中毒の危険に直結するのは間違いない。手洗いは必須だと判断した。オレはハンドソープを大量に搾り出し、力一杯手を洗った。周囲に水飛沫が飛ぶ事もお構いなしに手を洗った。

「ったく、仮にも飲食店を経営する家の冷蔵庫とは思えねぇぞ。まさか、あんなの客に食わせたりしてねぇだろうな?」

 集団食中毒発生の飲食店――そんな不名誉な内容で有名になると言うのは、最悪過ぎる展開だ。せっかく風呂に入ったのに、早くも嫌な汗が止まらなくなっていた。

「マジで、シャレにならねぇぞ、オイ……」

 取り敢えず冷蔵庫の中を漁ってみて、生存者の救出を急ぐ事にした。既に助かる見込みがない死亡者、及び、半ば無縁仏と化して居る方々は一切の慈悲心を棄てて、成仏を願い、異界に送り込んだ。最終的に、手元に残った食材は数える程しか残されていなかった。

「……この家の食糧事情は一体どうなって居るんだよ」

 とは言え、全く何も残っていないと言う訳でも無さそうだった。取り敢えず無事に救出する事に成功した野菜やら、余り物の肉類を手にしながら、何を作ろうかと考えを巡らせてみる。食材を机の上に並べて、今一度、異臭がしないかをチェックしてみるが、どうやら無事な様に思えた。机の上に並ぶ食材を眺めながら、さて、何が作れるだろうかと考えてみた。凝った物を作るのも面倒だし、適当に腹が膨れればそれで良い。

「ま、飯は炊いてあるみてぇだから、適当に何か作るとするかな」

 窓の外から覗く景色はすっかり暗闇に包まれて居る。街灯の明かりだけが微かに照らし出す街並みをちらりと見つめながら、オレは夕食の準備に取り掛かる事にした。点けっぱなしのテレビからは雑音が流れ続けて居る。別にテレビに興味がある訳ではない。それでも、一人で居るのもどこか寂しい物がある。だから、人の話し声が聞きたくて点けて居る。ただ、それだけの理由に過ぎなかった。むしろ、窓の外から聞こえて来る虫の声や、木々のざわめきの方が、よほど好みに合う。

「さてっと。さっさと作るかな。えっと、油は何処にあったっけな?」

 コタ達に振舞う時には、相応にしっかりとした物を作り上げるが、自分用の食糧に必要以上の労力を割こうと言う気にもなれなかった。取り敢えず食えれば良い。そんな程度に過ぎない。

「卵とか余ってたっけな。さっき冷蔵庫の中で見た気がするぞ」

 テレビから聞こえて来る雑音を背中で聞きながら、オレは手際良く夕食の準備を終えた。どうにも残って居る材料が微妙だった事もあり、十分に腹が膨れるかどうかは曖昧な量しか作れなかった。

「ま、腹減ったらまた適当に出歩きゃ良いだけだしな。うしっ、取り敢えず夕食にするかな」

 食卓に並べられた幾つかの皿と箸、それから炊き立ての米。盛んに湯気を放つ飯を口に運びながら、オレはただ呆然とテレビを眺めていた。何の番組を見ていたかさえ、まともに記憶していない。何も考える事もなく、ただ、食糧を口に運ぶだけ。口に運び、噛み砕き、飲み込む。また、口に運び、噛み砕き、飲み込む。それの繰り返しだけだ。薄暗い食卓で、一人口にする静かな夕食。響き渡るのはテレビから聞こえてくる見知らぬ誰かの笑い声だけ。ゆっくりと時だけが流れて居る。

 生きて居る事とはどう言う状態を指し示すのだろうか? 時は確かに流れて居る。止まる事無く流れ続けて居る。でも、結花の時は止まったままだ。あの時から年をとる事も無く、あの時と変わらぬ姿のまま、何一つ変わらない。だけど、オレの時は流れ続けて居る。

「つまり、これが生きて居る奴と、死んだ奴の差と言う事か……」

 静かに溜め息を就きながら、箸を置いた。

「何にも残ってねぇなと悪態尽く事も、こうやって無気力に飯を食う事も、生きて居るからこそ、為し遂げられる事なんだよな」

 生きていない結花はもう、腹を好かせる事も無ければ、退屈な日々を過ごす事もできない。そう考えると、胸が締め付けられそうになる。結花はもう、この世に居ない。どんなに会いたいと願っても、もう、二度と会う事は叶わない。その事実を改めて突き付けられた様で、途方も無く苦しくなった。目の奥が熱くなって、じわりと何かが滲む感覚に驚いたオレは反射的に呟いた。

「生きるって何だろうな? 死ぬって何だろうな?」

 言葉にできない哀しみが波の様に押し寄せて来て、今にもオレを呑み込もうとして居る。そんな気がして不安で一杯になった。お前は確かに生きて居るんだ。そう、誰かに言って貰いたかった。思わず溜め息が毀れた。ついでに、涙まで毀れそうになった。だから、オレはテレビの音を大きくした。後ろ向きな感情など、雑音に紛れてしまえば良い。そう、心から叫びたかった。テレビから聞こえて来る人々の声が無為に耳に飛び込んで来る。

「馬鹿みてぇだな。こんな事しても何の意味もないってのに」

 判って居る。判って居るんだ。どんな事をしても、死んだ奴が蘇る事なんて有り得ない話だと。ある日突然、結花がふらっとオレの前に姿を現すのではないだろうか? そんな、夢物語に縋り付いて居る自分自身の弱さが滑稽だった。

「ホント、オレ、馬鹿みてぇだな……」

 こうして暗い気持ちになっても、何も変わりはしない。ただ、折角作った夕食が冷めてしまうだけだ。さっさと食い終えてしまおう。冷めた食事では美味く無くなってしまうのは間違いない。それに、こう言う気分の時はうだうだ考え込まずに、さっさと寝てしまうのが良い。そう考えていた。

「こんな気分になる位なら、皆と一緒に太助の家に遊びに行けば良かったかな」

 ただ、不思議に思う事がある。何故、テルテルが誘ってくれた時に、誘いを断ろうと思ったのだろうか? それに、聞こえて来た鈴の音。今朝のバスの中で結花が鳴らしていた鈴と同じ音色だった。それだけでは無い。その後、三条の高瀬川で見た不思議な光景。あれは一体、何を意味していたのだろうか? コタと結花、二人に提示された『選択肢』――それに対してオレは迷う事なく結花を選んだ。もしも、あの時、もしも、コタを選んでいたら、オレはどうなっていたのだろうか。もしかすると、コタと共に……?

「選ばれなかった『選択肢』を選んでいたらどうなっていたか? なんて考える事自体、無意味な事だよな」

 再び大きな溜め息が毀れた。不意に、結花の言葉を思い出して、もう一度、より大きな溜め息が毀れた。

「溜め息をする度、人の幸せは逃げて行くんだったよな」

 何だかんだと言いながら、結局オレは結花の事を今でも想い続けて居る。その一方で、コタの事も想って居る。結局、我が身可愛さを最優先するからこそ、他者に向けられる想いが希薄になる。何処までも身勝手な性分だ。

「へへっ、最低だよな、オレ。ただの浮気野郎じゃねぇか。あーあ、みっともねぇ」

 駄目な自分が可笑しくて、思わず笑みが込み上げて来る。可笑しくもないのに笑わずに居られない気持ちに駆られた。丁度、食事も終えたところで、部屋に戻ろうかと食器を台所に運ぼうと立ち上がった瞬間、不意に、食卓の上に置かれた携帯が鳴り響く。

「うぉっ!?」

 予期せぬタイミングで携帯が鳴り出すと驚かされる。

「びっくりさせるなよ……ったく、誰だよ?」

 何て間の悪い奴だ。迷惑電話の類だったら、目一杯、怒鳴り付けてやる。オレは携帯を乱暴に手に取った。

「お? コタからだ」

 珍しい事もある。普段、コタから電話をして来る事は、そう多くない。オレから電話する事が殆どなだけに、どう言う風の吹き回しかと興味を惹かれる。それに、昼間見せた意味深な振舞いからも、何かを企てて居る事は、それとなく想像がついていた。予想通りの行動に出るとは、オレの推理も捨てた物では無さそうだ。思わず鼻息荒くなりながらも、オレは電話に出てみた。

「おう、コタか? どうした?」

「大した用事ではないのだが……」

 電話の向こうから聞こえて来るコタの声は、どこか覇気の感じられないくぐもった声だった。何かあったのだろうか? 不安な気持ちを駆り立てられたが、少なからずオレを頼ってくれて居る事は間違いなさそうだ。それも、コタから頼って来るとは実に珍しい事だ。普段、オレは何時も、コタに支えて貰ってばかりだ。折角手にした千載一遇の好機。こう言う場面でこそ日頃の恩返し……と言うか、オレだって頼りになるんだぜと思って貰えれば幸いだ。

「丁度、今、夕飯食い終わった所でな」

「ああ、タイミングが悪かったな。済まない」

「謝るなって。材料がイマイチでさ、ちょっと物足りない位でな。へへっ」

「なるほどな」

 笑い声混じりに返す辺り、少しは元気を取り戻してくれたんだろうか? 良い傾向だ。とは言え、直接問い掛けるのも、それはそれで間抜けな気がする。さて、どう振舞おうか。そう考えて居るうちに、早くもコタが吐息混じりに声を発した。

「なぁ、力丸。今夜は暇か?」

「まぁ、暇っちゃあ、暇だよな」

 さり気なく応えてから、思わず苦笑いが込み上げて来る。

「っつーかさ、その聞き方って、オレが何時も暇みてぇな聞き方だよな」

「ああ、済まない」

「だから、謝るなって。それで、どこかで待ち合わせして遊ぼうぜって話だろ?」

「ああ、そうなるな」

 珍しい展開が重なる物だ。普段はオレが半ば強引にコタを呼び出して居るのだが、今回はコタからのお誘いとなった。この時間から呼び出すのを考えれば、泊まり込みで遊びに来いと言う事になるのだろう。一瞬、何時もの様に気軽に遊びに行こうかとも考えた。だけど、オレの中では結花を選んだと言う事実が重く圧し掛かる。本当にこれで良いのだろうか? コタに対する申し訳無さからか、オレは携帯を握り締めたまま言葉に詰まった。

 夕暮れ時に高瀬川で遭遇した情景が克明に蘇る。般若の面を着けたコタと小面の面を着けた結花。二人のどちらかを選べと『選択肢』を突き付けられて――。

(オレは結花を選んだ……)

 今更、コタと共に歩む道を選ぶのでは筋が通らない。確かに、このままコタと共に歩めば道は開けるのかも知れない。その一方で、既にこの世に存在しない結花の事を、幾ら追い求めてみても何も手にする事はできない。現実的に考えれば、オレの選んだ『選択肢』は真っ当とは言い難い物だ。だが、今更、自らの選んだ道を変えると言うのも如何な物かと思った。嫌な状況だ。オレはどうすれば良い? どうするのが正解なのだろうか? そこに居るハズもない誰かに問い掛ける自分が滑稽だった。

「力丸? どうした? 大丈夫か?」

「あ、ああ……大丈夫だ」

 駄目だ。これ以上、間を持たせる事はできそうにない。中途半端な気持ちでコタの想いを踏み躙る真似はしたく無い。何よりも、これはオレの問題だ。コタを巻き込むのは筋違いだと思った。だから、オレは絞り出す様な声で返した。

「悪りぃな。今日は、ちょっと都合悪くてな」

「……そうか。済まなかったな、こんな時間に」

 電話越しに聞こえて来る、どこか寂し気な口調が気にならなかったと言えば嘘になる。だけど、今更、自分の言葉を覆すのもらしくない。喉元まで出掛かった言葉を必死で抑え込み、震える手で携帯を握り締めたまま、オレは震える声で返した。

「お、おう。また、明日な」

 ふと、窓の外に目線を投げ掛ければ何時の間にか音も無く雨が降り始めた。シトシトと囁く様に降り頻る雨を見ながら、胸が締め付けられる想いに包まれていた。寂しい雨だ。蒸し暑い夜に不釣り合いな静かな雨が降り頻る。静まり返った夜半の社家の町並みに降り頻る。傘も持たずに帰る人々に、針の様に細く、鋭く尖った雨は情けも容赦も無く降り注ぐ。嫌な雨だ。まるでオレの事を皮肉って居るかの様に思えて殊更に嫌な気持ちにさせられた。

「雨か……」

 こんな夜には不釣り合いな雨……嫌な気配が立ち込める。何かが起こる。そんな気がして仕方がなかった。情鬼に関連した出来事かも知れないし、そうではない出来事かも知れない。ただ、予想もしない出来事に遭遇して居る以上、再び予想もしない出来事が起きたとしても不思議ではない。それにしても……コタの振舞い、普段とは少し異なって居る様に感じられた。電話越しだから声でしか判断はできなかったが、何と言うか、何時もの強気な振舞いが感じられなかったのが気に掛かる。何よりも、夕方に見た不思議な光景が引っ掛かって仕方がなかった。確かに、あの時、オレは結花を選んだ。そして、選ばれなかったコタから泊まりに来ないかと誘いがあった。

「――偶然なんかじゃない。これは必然なんだろうな」

 さて、何が起こるのだろうか。いずれにしても、何事も無く全てが終わるとはとても思えなかった。むしろ、何も起きない根拠を探す方が難しいと言う物だ。もしもの時に備えて、他の皆にも連絡を入れておくべきだろうか? 携帯を手にしたところで、オレは思わず俯いた。

「イヤ、止めておこう」

 緩やかに流れていた日常と言う名の静かな流れは、予期せぬ展開を迎え、非日常と言う名の濁流へと移り変わろうとして居る様に感じられた。抗うつもりはない。ただ、受け入れよう。もっとも、事と次第によっては立ち振舞いを変えなければならなくなるかも知れないが、その時はその時だ。そう、自分に言い聞かせ、小さな溜め息を就いたところで、オレはそっと、部屋を後にした。

 妙に薄暗い廊下を後にして、湿気た音を放つ階段を一歩、一歩、踏み締めながら二階の部屋へと戻って来た。そっと扉を閉めればやけに軋んだ音が響き渡った。嫌な感じだ。

 部屋に戻ったオレは、湿気た気持ちを切り替えたくて、窓をそっと開けてみた。シトシトと降り頻る雨の中、夜半の上賀茂神社は静けさに包まれていて、虫達の染み入る様な小さな鳴き声だけが響き渡っていた。街灯の明かりが夜半の道と降り注ぐ雨を照らし出す。地面は雨に濡れていて街灯の明かりを微かに反射していた。先刻よりも遥かに水溜りが増えて居る様に見えた。雨は音も無く、ただ静かに地面に落ちては、その都度、小さく波紋を刻み続けて居た。霞んだ様な視界の中、降り頻る雨の夜道を歩く者は誰も居ない。外から漂って来る土臭さを孕んだ、噎せ返る様な石の匂いが妙に心地良かった。窓の外を降り頻る雨を眺めて居ると、不意に、背後から鈴の音色が響き渡った。

「鈴の音色!? 誰か居るのか!?」

 一瞬、空耳かと思ったが、そうではなかった。神経を研ぎ澄まし、耳を傾けて居ると、再び鈴の音色が響き渡った。間違いない。やはり、こう言う不可思議な夜には何かが起こるに違いない。それならば受け入れよう。抗う事に意味はないだろうし、何よりも、結花の面影を追い求めたいオレに取っては有難い話だった。それが罠である事は百も承知して居る。

「……それでも良いさ。オレは結花を選んだ。こうなる事を願っていたのは事実だ。それならば、あるがままの流れを受け入れてくれるまでだ」

 シトシトと降り注ぐ雨に打たれながら夜道を歩きたい衝動に駆られた。傘もささずに歩き回る夜半の街並み。シトシトと降り注ぐ雨に打たれながら夜半の街並みを彷徨い続けたい。いっそ、このまま死んでしまえば良い。だからこそ、もう少し、気持ちを抑えよう。敢えてお預けを喰らわす事で、興奮を高めたかった。焦らして、焦らして、溜め込んだ方が気持ち出せるハズだ。そんな頭の悪い事を考えながらオレはベッドに乱暴に倒れ込んだ。傘もささずに外に出れば、雨に濡れて汗も、涙も、見分けが付かなくなる。そうやってオレは、現実から目を背け、自分自身さえも欺き、誤魔化し続けて生きて行くだけだ。多分、これからもずっと。今日が命日になると言うならば、それも悪くない。訪れる物の全てを、ただ、静かに受け入れてくれるまでだ。

 あの日、あの時、波の様に押し寄せる死を受け入れようと本気で願った日の事を思い出していた。多分、今のオレもあの時と同じ様な状況に陥って居る様に思えた。死ぬ事に畏れを感じられなくなって居る自分が居る事に気付かされた。恐怖心が麻痺すると言う感覚は、可笑しな言い方だが、快楽と背中合わせの様に思える。手足の指先からゆっくりと痺れてゆき、やがて、恐怖心さえ痺れて凍結する。後は快楽に身を委ね、雄叫びにも似た喘ぎ声を放つだけだ。結花に会うために必要だと言うのであれば、それも仕方がない事なのだと考える様になっていた。受け入れよう。これはオレが自ら選んだ『選択肢』なのだから。

 不意に、ゆっくりと意識が遠退いてゆく感覚に包まれていた。心地良い感覚だった。温かな想いに包まれて、ゆっくりと落ちてゆく感覚に酔い痴れていた。どうやら眠りに就こうとして居るらしい。このまま二度と醒めぬ眠りに落ちてしまえば良い。現実は辛く、苦しく、残酷なだけだ。それならば、絵空事だけでも良い。優しく包み込んでくれるだけの夢の世界に逃避してしまおう。願わくば、二度と眠りから醒めぬ事を願って。今度こそ永遠の夢を見られる様にと切なる願いを託して。

◆◆◆32◆◆◆

 琵琶湖疏水を巡る旅を終えた俺達は、波乱万丈なあれこれを乗り越えた末、ようやくの想いで醍醐駅まで戻って来た。流石に長旅の疲れも出て来た俺達は、アル・プラザのフードコーナーでしばしの休息を過ごした。力丸ではないが腹が減っては戦はできぬとは良く言ったものだと思う。加えて我らは甘党の一味だ。やはり、疲れた時には甘い物が最強の特効薬になる。

 婆ちゃんには二人を連れて帰る事も連絡済みなのを考えれば、続きは家で話せば良いだけの事だ。結局の所、俺達に何ができるかを考え抜く事はできなかった。それでも、少なくても力丸の置かれて居る状況、過去の経緯を知る事をできたのは大きな意味を為す。何も知らないのでは、何も策を講じる事はできなかっただろうが、こうして輝、大地の二人から話を聞く事ができたからこそ、策を講じる事も可能になる。

 いずれにしても、今回の事案は俺達三人が軸になって動き回る必要があると言う意識を共有する事もできた。これが一番の収穫ではないだろうか? 皆で挑む以上、俺達の心は一枚板で無ければならない。それでなくても情鬼は人の心を掻き乱す手段を好む傾向にある。揺れ動く心ではまともに太刀打ちする事すら叶わない。

 しばしの一時を終えた俺達は我らが秘密基地を目指すべくアル・プラザを後にしようとしていた。自動ドアが開き、外の空気に触れた瞬間、微かな違和感を覚えた。妙に空気が湿気を孕んでいた。重みさえ感じさせる生温さが、汗ばんだ人の肌触りの様に感じられて奇異な気持ちにさせられる。

「アレ? なんか、何時の間にか空模様怪しくなって……って、うわ! 雨、降って来たよ!?」

 唐突に響き渡る輝の声に、一気に現実に引き戻された。驚いた俺は慌ててアル・プラザの奥、団地前の道路へと目線を投げ掛けてみた。すっかり日の暮れた道路には輝の言う通りシトシトと静かに雨が降り注いでいた。駆け抜ける車が派手に水飛沫を巻き上げながら走り去ってゆく姿が目に留まり、思わず溜め息が毀れる。

(これは厄介な事になった。僅かな時間でこれ程までに天候が急変しようとは想定外だ)

 嫌な空模様だ。アル・プラザから家まではそれなりに距離がある。傘もない状況では、間違いなくずぶ濡れになる。さて、どうした物か。駆け抜ける車の湿気た水音を耳にしながら、俺は小さく溜め息を就いた。

「全力で駆け抜けるのじゃー」

「えー!? 無茶だよー。だって、太助の家まで、結構距離あるよ!?」

「にゃー、そこは韋駄天の如き俊足で挑むのじゃ」

「ロックってば、凄い事言って居るよね……」

 確かに、とんでもなく無茶な事を言ってくれる。一介の人に過ぎない俺達が、光の早さで駆け抜ける様な芸当を為せる訳もない。流石は大地だ。本気で走り抜けるつもりなのか、準備運動する姿に渇いた笑みしか浮かんで来ない。そこまでして笑いを取ろうとする辺り、職人の心意気を見た気がする。

「止むを得ないな。まさか、雨が降るとは予想もしなかった」

「うん。でも、どうしようか?」

「やはり、こういう場合は正攻法で挑むのが通例と言える。つまりは――」

 俺達はアル・プラザで手短かに傘を購入し、家までの道のりを歩む事にした。他に手段がない以上、止むを得ない。まぁ、予想もしない出来事が起きるのは、それはそれで退屈しなくて良い。変わらない日常と言うのも悪くないが、時に退屈な気分になるのは事実だ。

「さて、今度こそ、家に向かうとしよう」

 力丸の身を案じればこそ気に掛る事は幾らでもある。だけど、今は焦っても何の解決にもならない。俺達ができる事は全て為し遂げた。これ以上、何かを無理に為し遂げようとしても不可能な話だ。むしろ、今俺達が為すべき事は、来るべき時に備えて体を休めて置く事だ。冷静さを欠いては駄目だ。冷静さを欠けば解決できる事態すら解決から程遠くなる。

 シトシトと音も無く降り頻る雨の中、俺達は静かに歩き続けた。アスファルトの道路は雨に濡れて、所々水溜りができ上がっていた。街灯の光が水溜りに反射し、キラキラと瞬いていて……何よりも妙に濃い霧に包み込まれて居る景色がどこか幻想的にさえ感じられた。一歩、また一歩と歩む度に水気を孕んだ湿気た足音だけが響き渡る。雨は尚も音も無く降り続けて居る。霧も濃さを増し続けていた。蒸し暑い夜だと言うのに、何故か、体の芯から冷えそうな気持ちになる雨だった。それにしても、夏の夕暮れ時の雨で、こんなにも視界を遮る程の濃霧が発生する物なのだろうか? 考えれば考える程に奇異な雨だ。この雨は本当にただの雨なのだろうか? どうやら、輝達も俺と同じ事を考えて居るらしく、時折、立ち止まっては不安そうな表情で夜空を見上げていた。街灯に照らし出されて降り頻る雨粒が光をたたえて居る様が目に留まる。哀しい雨だった。無償に泣きたい気持ちにさせられる、死者の息吹さえ感じさせる程に冷たく、鋭い雨だった。

「何か可笑しな空模様だよね。それに、この雨、妙に冷たく感じられない?」

「……やはり、輝も同じ事を感じて居るか」

「え? それじゃあ、太助も?」

「にゃにゃにゃにゃんと!? うぬぬ、ワシも同じなのじゃ」

 やはり、この雨はただの雨では無さそうだ。思わず、三人で言葉を失ってしまった。一つだけ言える事は、この雨に中てられるのは良く無さそうに思えた。俺の野生の勘が危険を告げて居る。これは普通の雨ではない。危険だ。一刻も早く建物内に避難しろと告げて居る。帰路を急ぐとしよう。

「輝、大地、急ぐぞ」

「そうじゃな」

「うん。急ごう」

 俺達は傘を握り締めたまま家までの道を走り出した。アル・プラザ前から坂道に至る。降り頻る雨の中、静かに佇む墓地が殊更に不気味に感じられて背筋が寒くなった。それでも走り抜けない訳にはいかなかった。此処に居続けた所で事態が解決する事は有り得ない。何時しか風も出始めたのか、夏の夕暮れ時とは思えない程に冷たい風が吹き抜けてゆく。風が吹き抜ければ立ち並ぶ木々の葉がザワザワと音を立てる。囃し立てる人の声の様に思えて鼓動が高鳴った。やはり、何かが可笑しい。これは普通の状況では無さそうだ。とにかく急いで家まで戻らなければ。

 息を切らしながらも俺達は走り続けた。輝はちゃんと着いて来て居るのだろうか? 不安に駆られながら、時折、横目で確認したが、どうやら着いて来て居る様子だ。異変は尚も深まってゆくばかりだった。何時しか薄っすらと霧が出始め、雨足はじわりじわりと強まって居る様に感じられた。不気味な空模様だ。悪意ある何者かに仕組まれて居るとしか思えなかった。

 それにしても、こんなにも必死になって走る事になろうとは、予想外の展開だ。息を切らし、痛む胸を、足を必死で抑えながら俺は走り続けていた。こんなにも体力が衰えていたのだろうか? いや、そうではない。この雨だ。この雨が少しずつ、少しずつ、じわりじわりと俺の体から生気を奪い取って居る。そう考えた方が妥当に思えた。一体、どの様な魔性か? 雨と共に現れるとは、性根まで湿気た奴に違いない。悪態を吐きながらも俺は必死で走り続けた。輝が、大地が、逸れてしまわない様に細心の注意を払いながら走り続けた。

 踏み込む度に響き渡る湿気た水音を足元で感じながらも必死で走り続けた。緩やかな坂道は走り続けて居ると、みるみるうちに体力を奪ってゆく。足が、肺が、悲鳴を挙げる。それでも走り続けた。とにかく走るしかなかった。

 走って、走って、ただただ全力で走り続けた。力の限り走り続けた俺達は集合住宅に囲まれた坂道を駆け抜けようとしていた。此処から先は平坦な住宅街に面した道路に至る。少なくても坂道を駆けるよりは楽になる。程なくして見えて来る小さな立体交差を後にした。とにかく急いで駆け抜けなければ取り返しが付かない事になる。俺達はとにかく走り続けた。

 だが、異変は俺達を容易く逃がすつもりは毛頭無さそうだ。不意に、雨に混じって妙な気配が漂い始めてきたいや、匂いとでも言うのだろうか。ねっとりと纏わり付く様な異様な生温かさが漂い始めれば、それに呼応する様に、さらに雨足が強まり始めた。シトシトと音も無く降り注いでいた雨は、何時しか叩き付ける様な激しい雨へと移り変わっていた。まるで俺達を逃がさないと言わんばかりに降り頻る雨に恐怖感しか抱けなかった。間違いない。この雨は作為的に俺達を狙って居る。この雨を操る何者かが口元を酷く歪ませて、不気味な笑みを称えて居る情景が脳裏に浮かぶ。間違いなく、この雨は危険だ。一刻も早く家に帰り付かなければ大変な事になる。

 通りの終端にあるのは見覚えのある酒屋だ。長い道のりではあったが、間もなく家に到着する。とにかく最後の力を振り絞って俺達は走り続けた。

 家の傍にある酒屋の前を駆け抜けた俺達は、そのまま玄関の戸を乱暴に開いた。突然、雪崩れ込んできた俺達を目の当たりにした婆ちゃんは、目を丸くして驚いていた。

「あ、ああ……婆ちゃん、ただいま」

 余りにも驚いたのか、婆ちゃんは口を大きく開いたまま部屋の中へと戻って行った。俺達は互いに顔を見合わせ、思わず吹き出した。

「ちょ、ちょっと、豪快なお帰りになっちゃったかな?」

「にゃー、お婆ちゃん、ビックリし過ぎて言葉も出なかったのじゃ」

「後で俺から事情は説明しておくから、そこは心配しないで大丈夫だ」

 緊張の糸から解き放たれたからなのか、動揺し切っていた自分達の姿が急に滑稽に思えて仕方がなかった。だけど、異様な気配を感じたのは間違いなかった。それは錯覚などではなかった。あの雨の中には無数の気配を感じた。ついでに、微かにではあったが、確かな獣臭を感じたのも事実だった。そう考えれば、恐らくは人ならざる異形の存在なのだろうが、その素性は見当も付かない。だが、あの匂いには覚えがある。嵐山の騒動の中、賢兄と共に嵐山に向かうべくアル・プラザで買い物をしていた際にも、同じ匂いを感じた。俺を突け狙う何者かの存在が見え隠れして居るのは事実だ。だが、何故、俺を狙う? それに、一体何者なのだろうか? 理解不能だが――警戒を怠らないに越した事は無さそうだ。もっとも、こちらが望まなくとも、いずれ対面する時が訪れるのは間違いない。思うに、「敵」の狙いは「俺達」では無く、「俺」なのだろうから。そうだろう?

「全力疾走したお陰で、傘が余り役に立たなかったな。すっかりびしょ濡れだ」

 思わず互いの姿を確認し合い、再び笑いが込み上げて来る。息も切れ切れだ。何とも間の抜けた事だ。

「バスタオルを持って来るから、少し待っていてくれ」

「水も滴る良い男って感じだよね」

「戯言を。此処まで派手にずぶ濡れになったのでは、憐れな濡れ鼠だ」

「にゃはは。それならば、ワシは憐れな濡れ狸なのじゃー」

 二人を玄関先で待たせて、俺は急いでバスタオルを持って来た。傘をさしていたとは言え、勢い良く駆け抜けたお陰で、だいぶ濡れてしまった。取り敢えずバスタオルで体を拭いてから、二人にも家に上がって貰った。走り回ったお陰で雨と汗でびしょ濡れだ。この状態ではまともに話をできる訳もない。着替える必要がある。その前に、一刻も早く、あの雨を洗い流すべきだ。やはり、あの雨からは何か嫌な気配を感じて仕方がなかった。このまま濡れたままにしておくのは、余りにも賢くないと判断する。

「済まないが二人で先に入って来てくれ。家の風呂では、三人同時に入るのは無理がある」

「うん、判った。それじゃあ、先にお風呂入らせて貰うね」

「湯上り卵肌美人を待つが良いのじゃー」

 二人が風呂に入って居る間に、俺は自分の部屋に戻っていた。それにしても、不可解な出来事ばかりが起こる物だ。あの獣臭には確かなる悪意を感じた。だが、一体何者なのか、俺には皆目見当も尽かない。可笑しな心霊スポットを訪れた訳でも無く、異形の者に魅入られる様な行動を起こした訳でもない。ただ、一つだけ判る事がある。間違い無く異質の存在が迫って居ると言う事実に変わりはない。素性こそ判らないが俺を狙って居るのは明白だ。

 我が身に異変が降り掛かればこそ、力丸の身にも危険が及んでいないかと、殊更に不安に駆られるのは事実だった。こう言う時、何の力もない自分が悔しくなる。俺にも力があれば……そうで無ければ、賢兄の様に識者達を動かせるだけの知恵があれば、もしかしたら、何か為せる事があるのかも知れない。

「……力無き者は、何時だって虐げられるばかりだよ」

 項垂れついでに小さな溜め息が毀れる。髪から零れ落ちた雨粒が腕を濡らす。まるで涙だ。

「俺にも輝や大地の様な力があれば、もっと色んな事を一人で為し遂げる事ができたのかも知れないのに」

 思わず口から出掛かった「悔しい」と言う言葉を呑み込んだ。ああ、これでは駄目だ。力がないから何もできないと言い切るのは、ただの逃げ口上に過ぎない。何かを為す前からできないと断言して居る様な物だ。確かに、俺には輝の様に虫達を操る力も無ければ、大地の様に人ならざる仲間達の支援を仰ぐ術もない。

「――人の心を見抜く能力」

 それは俺にしかできない芸当だ。もっとも、なまじ人の心が見えてしまうからこそ、人の心の裏側が見えてしまう。それが原因で俺は人を信じる事ができなくなり、人が嫌いになった。何故、こんな厄介な能力を手にしてしまったのかと自分を呪った。だけど、その忌み嫌って来た能力が日の目を浴びる時が到来したのかも知れない。千載一遇の好機、何としても逃がす物か。

 人の悩みと言うのは中々に厄介な物で、悩んで居る本人は往々にして客観的に自分自身を見る事ができなくなって居る。その一方で、第三者は高い所から俯瞰する事で全体像を客観的に見る事ができる。俺の能力が、少なからず解決の糸口に繋がる事は間違いない。非力な俺にも為せる事があるはずだ。

 人は悩み、迷い、右往左往して居る時は往々にして自らを客観的に見る事ができなくなる。力丸はまさに今、そうした状況に陥って居るはずだ。悩みや迷いは心の中に深い霧を発生させる。一寸先すら見えなくなる程に深い霧だ。力でこじ開けるのでは駄目だ。そんな事をすれば力丸の心はさらに、堅く閉ざされてしまうに違いない。霧散させるためには霧を発生させて居る元凶を解決しなければならない。少々反則技かも知れないが心の奥底まで垣間見れる俺の能力はこうした場面でこそ威力を発揮する。先ずは力丸と対話する必要がある。それも他の誰も居ない状況下でだ。

(これならば力丸を傷付ける事無く、正攻法での策を講じる事も叶うはずだ)

 少しでも力丸の迷いを解消する手助けをできれば幸いだ。奇しくも、今日、こうして輝達からも、ある程度の情報を聞き出す事はできた。何も情報を持たない状況では、力丸の心を垣間見ても、判らない事だらけだったはずだ。あるいは大事な情報を見過ごしてしまったかも知れない。だからと言って、それを逐一力丸に尋ねていたのでは間違いなく不信感を抱かれる。より一層、心を閉ざす結果に陥ってしまったのでは俺の存在意義が皆無になる。少なくても力丸には未だ俺の能力の事は伝えていない以上、上手いタイミングを狙う必要がある。この部分の微妙な調整は本人を相手にしながら手探りでやるしかないだろう。

 無い知恵を必死で結集しながら策を講じて居ると、不意に輝達の話声が聞こえて来た。どうやら、風呂から上がったらしい。俺も風呂に入って汗を流して来るか。何よりも、この不快な雨を一刻も早く、洗い流したかったのは事実だ。気持ちを切り替えてから後の事は考えるとしよう。俺は着替えを片手に風呂に向かう事にした。途中、階段を昇って来る輝達とすれ違った。俺の部屋で適当に寛いでいてくれと告げて、俺は風呂場に向かった。未だ色々と考えなければいけない事がありそうだが、焦っても仕方がない。一つ、一つ、確実に潰していくとしよう。さて、名探偵太助の本領発揮と行かせて貰おう。

◆◆◆33◆◆◆

 夢を見て居るらしい。自分の事なのに「らしい」と言う表現も可笑しな話だが、オレはシトシトと雨が降り頻る社家の町並みを歩んでいた。静かに流れ続ける明神川の流れを横目に歩き続けていた。雨は音も無く静かに降り続いて居る。降り頻る雨の中、傘もささずにオレは歩き続けていた。降り頻る雨が容赦なく体を濡らしてゆく。何処へ向かえば良いのだろうか? そう考えた瞬間、どこからともなく鈴の音色が鳴り響いた。チリーン。涼やかな音色が周囲の景色に染み渡ってゆく。鈴の音色に告げられた様な気がする。そうだ。オレは太田神社に向かわなければいけない。そんな気がした。そうだ。それで良いんだ。そう言わんばかりに再び鈴の音色が響き渡った。湿気た空気に包まれた街並みに鈴の音色だけが静かに染み渡ってゆく。

『夢は残酷。偶然が必然に変わる幻想を見せ付けてくれるばかり』

「結花!?」

 すぐ耳元で囁き掛ける様な、詩を朗読するかの様な結花の涼やかな声が聞こえた気がした。オレは慌てて周囲を見回した。だけど、結花の姿は何処にも見当たらなかった。何処だ? 何処に居る!? 居るならば姿を見せてくれ! オレは必死の想いで周囲を見回した、だが結花の姿を見付ける事はできなかった。

『朝、目が覚めた時、それが夢だと気付かされた時、人は哀しみに暮れる』

 結花の声が響き渡る。耳元で聞こえて居るのか、それとも、遠くから聞こえて居るのか、判然としない不可思議な聞こえ方に確かな違和感を覚える。

『沢山の夢を見た。決して、叶う事のない願いが叶う場所。それが夢の世界。でも、そんなの哀しいだけ。判って居るの。判って居るの……』

 結花の声は尚も響き渡る。オレは地面にうずくまり、両の手を地面にそっと重ね合わせてみた。不思議な感触だった。降り頻る雨が、まるで、涙の様に生温かく指先に纏わり付く。

「結花……泣いて居るのか?」

 思わず両の手の拳を握り締めた。ギリギリと力が篭められ、オレは小さく肩を震わせていた。行くしかない。前に進むしかない。他に道が残されて居るとは思えなかった。そこに結花の想いが在ると言うのならば追い求める。全力で追い求める。それが今のオレに為せる精一杯の事だ。

『目覚めた時、それが朝露と共に消え去る物と知った時、余計に傷が痛むだけ。痛むために人は夢を見るの? 後、どれだけ涙を流せば良いの? あたしの涙、雨になって降り注げ。冷たい雨に降られて、寒さに震えて、あたしの所に誘っておくれ』

「……ああ、お前の所に行ってやる。だから、もう少しだけ待っていてくれ」

 罠でも何でも良かった。惑わされていようが、化かされていようが、嵌められていようが、どうでも良かった。結花に会いたい。ただ、結花に会いたい。その一念だけがオレを突き動かして居る。そう信じて疑う事はできなかった。そこに結花が居る――その一念だけがオレを突き動かしていた。オレはただ、明神川に寄り添う様に歩き続けた。

 人の気配の失せた社家の町並みには、流れゆく明神川の涼やかな音色と、虫達の割れんばかりの鳴き声だけが響き渡っていた。そんな大自然の音色に重なり合うのはオレの歩む足音だけ。社家の町並みは夜半の光景の中で深い眠りに就いて居るのか、静けさに包まれていた。だが、街並みを歩むオレの足音は酷く湿気た、重たさに満ちた足音だった。

 ふと、空を見上げれば、体温を思わせる様な温かな雨が容赦なくオレに降り注いでいた。髪を、頬を伝って雨粒が流れ落ちてゆく。降り頻る雨の中、何時の間にか周囲には無数のほたるが舞い始めていた。月の見えない厚い雲に覆われた街並みを照らし出す様な淡いほたるの瞬きが心地良かった。ふわりと舞うほたるの光は、やけに輪郭がぼやけて見えた。まるで大きな光の珠が飛び交って居る様で不思議な光景に思えた。

「そっか。オレ、泣いて居るのか」

 音も無く降り頻る雨はオレが流す涙を象徴して居る様に思えた。そう考えると何だか可笑しくなって笑った。男のクセに涙を流して泣くとか情けない。そう、思えば思う程に涙が止め処なくあふれて来る。笑った。笑って、笑って、それから泣いた。雨は尚も温かく、優しく、降り続いていた。一頻り声を押し殺して涙を流し切った所で、再び歩み出した。

「このまま先へ進むとするか」

 オレは明神川沿いに歩き続けた。相変わらず、辺り一面にほたるが舞っていた。不思議な情景だった。どう考えても、夢の中でしか有り得ない情景だ。現実世界には、こんなにも辺り一面を照らし出す程にほたるが乱舞する事など有り得ない。人の手が多分に加わり、社家の町並みの自然は少なからず破壊されてしまって居る。ほたるは環境の変化に敏感な生き物だ。古き時代であればいざ知らず、今の時代、こんなにも沢山のほたるが生息できる環境は残されていない。やはり、これは夢の中での情景と考えて間違い無さそうだ。確かに、有り得ない光景ではあるが、これは夢の中での出来事だ。今更、非現実の世界を歩む事に違和感を覚えても何の意味も為さない。

 歩き続けた所で、オレの視界の先には藤木社が見えて来た。この場所も結花と共に何度も訪れた場所だ。結花と二人、この場所に腰を下ろし、他愛もないお喋りに花を咲かせて物だった。もっとも、やたらと口数が多く、良く喋る結花の話を聞くのが殆どで、オレは時折、結花の言葉にツッコミを入れる程度だったが。

「懐かしいな。この場所でも結花と二人、くだらねぇ話、沢山したっけな……」

 ふと、目を伏せれば、今も結花がオレの隣に立って楽し気に語り掛けて居る様な気がして仕方がなかった。あの頃は、結花が居なくなる事なんて考えた事もなかった。ずっと、オレの隣に佇んで居ると盲目的に信じるばかりで、居なくなる可能性など微塵も考えた事もなかった。だけど、もう、あの日々が蘇る事はない。二度と蘇る事はない。楽しかった日々を思い出し、目の奥が熱くなる。もう、涙なんだか、汗なんだか、さっぱり判らない程に濡れて仕舞って居る。大半は降り注ぐ雨なのだろうが、そんな事はどうでも良かった。オレは藤木社を囲う様にそびえ立つクスノキを見上げてみた。天を仰ぐ様に大きく伸ばされた枝と、そこに生える数え切れない程の葉を見上げていた。不意に一陣の風が吹き抜けて行った。心地良い風だった。風を受けてクスノキの葉が一斉に湿気た音を奏でてゆく。ふと、オレの視界には街灯に照らし出された雨粒が光り輝く様が目に留まった。ただ、それだけの事だ。雨の日であれば別段珍しい情景でもなかった。それでも、オレは大きく吐息を就きながら、降り注ぐ雨を、結花の涙の様な雨を、ただ、この身で一心に受け止めていた。

「雨に濡れる冷たさも、頬を伝って落ちる涙の温かさも、生きて居る証なんだよな」

 そう、呟かずに居られなかった。聞いて居る相手など誰一人居ない。それでも良かった。想いを口にしなければ、誰にも届く事はない。太助の言葉ではないが、言葉とは言の葉と書く。このクスノキの葉の様に、無数の想いとなって相手に届く。例え受け取る相手が居なくても、ばら撒いていれば、そのうち誰かが手に取ってくれるかも知れない。オレなんかの不器用で、無骨で、何の飾り気のない想いだけど、誰かに受け止めて貰いたかった。一人で居るのは寂しい。一人で居るのは辛く、苦しい。だから――。

「なぁ、結花。お前は生きていた頃から、何時だって独りぼっちだった。お前がそれを望んだ訳ではない事位、オレは良く知って居る。だけど……お前はそうせざるを得なかった」

 それにしても皮肉な空模様だ。結花の心を象徴して居る様に思えて仕方がなかった。嫌な光景だ。胸が締め付けられる。

 結花の心の中には何時だって冷たい雨が降っていた。唯一、オレと居る時だけは雨が止んでいた。少なくてもオレの目にはそう映っていた。結花は頻りに自らの想いを告げてくれたから。オレと居る時だけ、本当の自分自身で居られる。その言葉が全てだった様に思えて仕方がなかった。だからなのだろう。オレから離れて居る時間が辛くて、辛くて、仕方がなかったのかも知れない。本人もその事は口にしていたから見当違いと言う事は無いハズだ。

 オレの存在が結果的に結花を苦しめて居る。そう理解した時、オレは本気で悩んだ。オレが結花の前から姿を消せば、結花は楽になれるのだろうか? 何度も、何度も考えた。何度、自ら身を退こうかと本気で悩んだ。だけど、オレを失った時、結花が果たしてどうなってしまうのか? その先に繰り広げられるであろう展開を考えれば、その決断を下す事は余りにも恐ろしかった。だから決断を下す事も無く、ただ結花と共に在り続けた。それが正しい判断だったとは思っていない。だけど、あの時のオレにはそれ以上の策が思い浮かばなかった。

(違うな。そんなの言い訳だ。結花を失う事でオレ自身が傷付き、哀しみに暮れる事から逃れたかっただけだ)

 一呼吸置いてから、オレは大きく息を吸い込み、それから、思い切り息を吐いた。呼吸を整えながら、オレはそこに居るハズもない結花に問い掛けていた。

「なぁ、結花」

 馬鹿な行為だ。何の意味も為さない、憐れな行為に過ぎない。それでも問い掛けずに居られなかった。オレの想い、届かなくても良い。ただ、誰かに拾って貰えればそれで救われる。だから言葉に託させてくれ。

「オレと出会えて、お前は幸せだったか?」

 応える者は誰も居なかった。それでも良かった。想いを口にする事で、少しだけ、ほんの少しだけ救われた気がした。自己満足に過ぎないけれど、それでも良かった。それで、少しだけ、ほんの少しだけ今日を、明日を生きられるのならば、それで良かったと思えるだろうから。

「――オレはお前と出会えて幸せだったぜ?」

 さて、先に進むとしよう。溜め息交じりにオレは歩き出した。相変わらず雨はシトシトと降り続けて居る。嫌な雨だ。恐らく、止まない雨なのだろう。そう考えれば殊更に気が滅入る。だが、それでも歩み続けるしか道は無い。歩き続けて居る内に妙な事に気付かされた。最初は気のせいかと思ったが、どうやら気のせいでは無さそうだ。太田神社に近付くに連れて、少しずつ空気が変わり始めている。最初の内は気のせいかと思っていたが、もはや、気のせいでは片付けられそうにない。明らかに奇異な状況だ。その事実に気付かされた時、オレの想いに呼応するかの様に再び風が頬を撫でて行った。妙に人の体温を感じる風だった。だが、オレがそれ以上に驚かされた事がある。

「この匂いは、結花の匂い!?」

 憶測は次第に確信へと近付こうとしていた。やはり、太田神社で何者かがオレを待って居る。だが、何故だろうか? 不思議と嫌な気配が感じられなかった。上手く表現する事ができなかったが、親しき友との再会を告げるかの様な雰囲気を覚えずに居られなかった。だからなのだろうか? 恐怖心よりも、気持ちが昂ぶる感覚すら覚えていた。もっとも、このまま彷徨い続けて居ても夢から醒める事はないのだろうし、何も変わる事もない。オレに与えられた『選択肢』は一つしかない。前に進むと言う『選択肢』しかないのだから、要らぬ事を考えるのは止めにしよう。

 細くなった道を歩んでいた。雨は相変わらずシトシトと音も無く降り続いて居る。ほたるの数は減るどころか増える一方だった。可笑しな話だ。水辺からも離れ、それ以上に、民家の真っただ中を歩んで居ると言うのに、ほたるが増えるなど有り得ない話だ。だが、そんなオレの想いとは裏腹に辺り一面無数のほたるが舞い、夜半の街並みを静かに照らし出していた。美しくも、哀しみに満ちた光景だった。風呂屋を超えて、さらに進めば交差点に至る。対面に佇む牛乳屋の緑色の屋根が目に留まる。明かりは灯されていない。夜なのだから当然といえば当然なのだろう。規則正しく明滅する信号だけが無機的に動き続ける。もっとも、人も車も居ない夢の世界だ。存在する事自体が無意味としか思えなかった。そんな事を考えながら、オレは左手に曲がった。

 進む先には太田神社がある。遠目から見ても明らかに可笑しい事は一目瞭然だった。暗がりの中、太田神社の境内からは、何かの光が感じられた。黄金に光り輝く光……間違い無く、そこに何かしらの仕掛けがあると考えて間違い無さそうだ。ようやく姿を現すか。オレに何かを伝えようとする意思を持った者が其処に居るハズだ。素性は判らない。敵なのか、味方なのか、判別する事はできない。だが、それでも今更、後に退こうと言う気にはならなかった。

(ああ、ここまできた以上、てめぇの正体を見届けてやらぁ。鬼が出ようが、化け物が出ようが、今更驚きはしないさ)

 ここまできた以上、引き下がれるものか。オレは雨に濡れた髪を乱暴に振り払うと、力強く踏み込む様にして歩き続けた。民家に挟まれた暗い道を、ただ歩き続けた。一歩、また一歩、太田神社に近付くにつれて結花の匂いがより一層、強く感じられる様になっていたから、殊更に後に退く事ができなかった。

 歩き始めてからどれ程の時間が過ぎたのだろうか。ようやく、オレは太田神社に到着しようとしていた。もうじき、太田神社に辿り着くと言う所で、一度立ち止まり、呼吸を整えた。不意に鈴の音色が響き渡り、太田神社の境内からゆっくりと光が消え失せてゆくのが目に留まった。もはや、ここまできた以上、目印は必要ないとでも判断したのだろうか? もはや、そんな事はどうでも良かった。素性の判らぬ何者かとの対面、ただ静かに受け入れてくれるまでだ。腹は括った。どこからでも来やがれ。

「さぁって、オレを呼び寄せた奴とのご対面っつー訳だな。まぁ、可笑しな真似をしたら、一発、ぶん殴ってくれるまでだ」

 神社の境内に向かい、オレは一歩、また一歩と慎重に歩を進めた。素性の判らない何者かが潜んで居ると考えると、やはり、気味の良い物ではない。暗がりに目を凝らしながらオレは一歩ずつ近付いて行った。程なくして、オレの視界の先に人影が飛び込んできた。

「人? 結花か!?」

 後姿しか見えない事もあり、人である事は判っても、どの様な姿をして居るかは判然としなかった。だが、結花にしては体格がガッシリし過ぎて居る様に思えた。少なくても女ではない事は判った。それならば、こいつは一体何者なのだろうか? 恐怖心と共に、好奇心を駆り立てられたオレは足音を忍ばせながら人影に近付いてみる事にした。

 太田神社は昼間でも薄暗い場所だ。当然の事ながら、夜に成れば漆黒の闇に沈む事になる。放たれる微かな光だけを頼りに足音を忍ばせて歩み寄る。近付くに連れてそいつの姿が鮮明に見える様になった。そいつは、明らかに、今の時代の者とは思えない服装に身を包んでいた。淡い紺色の格子模様の着物に身を包み、深い紺色の袴を身に付けた姿が目に映る。年の頃は大樹と同じ位だろうか? 子供の様なあどけなさを感じさせる後姿ではあったが、改めてじっくりと見てみると手足が太く、骨格もしっかりして居る様に感じられた。それにしても、こいつは一体何をして居るのだろうか? 警戒しつつ、少しずつ近付くに連れて明らかになって来たのは、何やら一心に絵を描いて居ると言う事だった。

 だが、改めて冷静になって考えてみると、実に奇妙な話だ。何故、こいつはオレの夢の中に存在して居るのだろうか? 大体、会った事もない少年絵師が、どうしてここに居るのだろうか? 雨が降り頻り、光も遮られた太田神社の境内で、一体何を描いて居るのだろうか? 考えれば考える程に奇異な少年絵師だ。オレはさらに慎重に近付いてみる事にした。既にオレの姿に気付いて居るらしく、一瞬、オレをちらりと覗き見たが、再び一心に絵を描き始めた。

(こんなにも必死になって、一体何を描いて居るんだ?)

 好奇心に駆られたオレはそっと、そいつの、すぐ背後まで忍び寄った。オレが背後に忍び寄って居る事に気付かない訳がなかった。だが、そいつは尚も黙々と絵を描き続けていた。大きな背中に阻まれ、何を描いて居るのかハッキリと確認する事はできなかったが、そいつはオレが好奇の思惑を抱く事など想定済みだったのだろう。そいつは静かに筆を置いてみせた。そのまま、絵を手にすると、ゆっくりとオレに向き直って見せた。

「なっ!?」

 驚かずには居られなかった。そこに描かれて居たのは――。

「結花!?」

 どうして、こいつが結花の事を知って居る? それに、筆一本で、一体どうやったら、これ程までに鮮明な絵を描き出す事ができるのだろうか。それは、モノクロで描かれた結花の姿その物だった。微笑みながら髪を掻き上げる姿……。何よりも、そこに描かれていた結花の姿は、出会った当時の姿、そのままだった。

 オレはただただ吸い込まれる様に、その絵から目を離す事ができなかった。ただ、驚きの余り、金縛りに遭ったかの様に、指一本動かす事さえできなくなっていた。そいつが手にした絵を見続ける事。それしかできなかった。

 心を奪われたかの様に絵に見惚れて居ると、唐突に鈴の音色が鳴り響いた。心地良い鈴の音色が太田神社の境内に染み渡ってゆく。驚いたオレは辛うじて動かせる目だけを必死で動かして、音の発信源を探った。もっとも、探るまでも無く、すぐに見つかった。そいつが手にした小さな鈴。それが発信源と考えて間違えなかった。これまでに何度と無く耳にした鈴の音色と同じ音色である事を考えると、仕掛けていたのはこの少年絵師だったと言う事になる。だが、一体何のために? 考え込む間もなく、唐突に意識が遠退き始めた。

(一体、どうなって居る!? まさか!? この鈴の音色のせいか!?)

 チリーン。再び鈴の音色が響き渡る。チリーン。三度、鈴の音色が響き渡る。次第に鈴の音色が大きくなり、繰り返しの間隔がどんどん狭まってゆく。チリーン、チリーン、チリーン……その音を耳にする度に体が重くなり、地面に沈んでゆく様な感覚に包まれていた。だけど、どうする事もできなかった。抵抗する事もできず、ただ、意識だけが遠退いてゆくのを感じて居た。

(くっ!? まずい! このままでは、意識が完全に失われる!)

 チリーン。何度目の鈴の音色を耳にしたのだろうか? もはや、立って居る事すら困難になったオレは、どうやらその場に崩れ落ちたらしい。視界が白く、白く染め上がってゆく。オレの意識は、もはや、完全に途切れようとしていた。一体、何がどうなって居るのか……必死で抵抗を試みたが、遠退く意識に抗う事はできなかった。

◆◆◆34◆◆◆

 遠退き、途切れた意識は無数のほたるとなって宙を舞う。まどろむ想いは無数のほたるとなりて、夜半の街を彷徨い続ける。だけど、それは短き命。明日の朝、日の出と共に散る命。だから夢は儚い。だから夢は優しい。夢の中では何もかもが赦される。絵空事の出来事さえ、さも、真実であるかの様に描き出される。

 再び意識が戻った時、オレは見覚えのない場所に佇んでいた。此処は一体何処なのだろうか? 改めて周囲を見回してみる。辺りを照らす物は何一つない、一寸先さえ見えない程の深い暗闇に包まれた場所に佇んで居る。辛うじて足元が地面だと言う事しか判らない。辺り一面漆黒の世界。落ち着いて周囲の状況を確認する。ふと気付かされたのは、水の流れる音が聞こえて居る事だった。

 そうか。この聞き覚えのある音色は明神川の流れか。そうだとすると、暗闇に包まれて周囲の景色こそ判らずとも、ここは社家の町並みと言う事になるのか。そう考えた瞬間、風が吹き抜けた。木々の葉がざわめき、蝉の鳴き声が降り注ぐ様に一斉に響き渡った。それに呼応する様に、唐突に眩しい光に包まれた。目も開けて居られない程の強い光に照らし出される中、意識は瞬く間に遠退き、オレは再び膝から崩れ落ちた。

◆◆◆35◆◆◆

 三度目に意識が戻った時、オレは夕暮れ時の社家の町並みに佇んでいた。だが、何かが可笑しい。慌てて周囲を見回してみる。なるほど。周囲の雰囲気が今の街並みとは少し違う様に感じられた。この確かなる違和感に何が隠されて居るのか不確かな以上、迂闊な行動は慎むべきだ。そう考えればこそ、オレは慎重に周囲を窺う事にした。

 時が移り変わっても、街並みの様子は大きく変わった部分はない。歴史を重んじる街並みだからこそ、大きく変わる事はないのは当然だろう。ただ、何かが違って感じられた。明らかなる違和感だ。周囲を見回したところで、ようやく異変の正体に気付かされた。妙な感覚は多分、今、オレが立って居る場所が、現実に存在する世界ではないからだと気付いたからに他ならない。根拠などないが、オレの野生の勘がそう告げて居る。

 今、オレが目の当たりにして居るのは過去の情景だ。決して、戻る事のない過去の一場面だ。夕暮れ時、社家の町並みを歩んで居る場面とくれば、なるほど。今、オレは、過去のオレ自身に重なろうとして居る訳か。そして、この場面は――全ての始まりとなった、あの場面と言う事か。これはオレが中学一年だった頃の記憶だ。それならば、この後に起きる事も予想通りの展開となるハズだ。

 社家の町並みは明神川沿いに太い通りが東西に一本突き抜けていて、そこから魚の骨の様に細い道が南北へと伸びて居る。表通りとは異なり、路地裏へと続く道は細く、多少曲がりくねって居る事もあり、表通りからは見え辛い。その死角を上手い事使ってやろうと考える悪党も存在する。少なくてもオレは、そんな悪党と遭遇したのだから間違いない。

 丁度、学校からの帰り道、オレは何時もの様に周囲をぶら付いていた。特に何か目的があった訳ではなかったが、夕暮れ時の街並みを歩き回るのは嫌いではなかった。今日と言う一日が終わってゆく。今日と言う一日の命が消え失せ、明日と言う一日に果たせなかった想いを託す。そんな物悲しさに触れる感覚が嫌いではなかった。だから、何時もの様に目的地を決める事も無く、風の赴くままに、気の赴くままに、ただ気まぐれに社家の町並みを歩んでいた。不意に、横道に逸れた路地裏の奥から悲鳴が響き渡った。

「イヤ! 止めてください!」

 面倒事に関わるのは好きではない。ましてや、自分に取って何の得にもならない事であれば、尚の事関わり合いになりたいと思える訳もなかった。それは、ただすれ違うだけの物語に過ぎなかった。決して、関わり合いになる事のない物語になるハズだった。何もかもが色褪せた世界になるハズだった。見なかった事にする事だってできたハズだった。だけど、気が付いた時にはオレは首を突っ込んでいた。我ながら実に物好きな性分だ。敢えて、通りすがりを装う様に路地裏へと歩を進める辺りに、何ともつまらない小細工を好む性分だと可笑しくて少し笑った。

 元々腕っ節には自信があったし、高校生に間違われても可笑しくない程の体格にも恵まれていたのも大きな意味を持つ。何らかの凶器を手にした相手でもない限り、負ける事は有り得ない等と根拠のない自信に満たされていた。もっとも、今まで一度だって殴り合いの喧嘩などした事はないが、それでも、自分の力量は十二分に心得て居る。迂闊に腕を振り上げれば相手が無事で済む訳がない。何よりも無意味に暴力を振るうのは好きではない。だが、それ以上に非力な者を力で虐げようとする輩はもっと好きではない。正義の名の下にぶちのめしてくれる。オレは拳を力強く握り締めたまま慎重に路地裏を一歩、また一歩進んだ。

 雲一つない夕暮れ時の空に、響き渡る蝉の声。涼やかな明神川の音色が響き渡ると言う、変わる事のない日常の一場面の中に唐突に迷い込んだ非日常との遭遇。こうして思いも寄らない場所で背中合わせになって居るのかと考えると不思議な気持ちで一杯になる。

「離してください! 人、呼びますよ!?」

 娘の鋭い声が響き渡る。どうやら、ただの痴話喧嘩では無さそうだ。もっと、何か不穏な空気を感じさせる状況の様に感じられる。誘拐? 強盗? それとも変質者による婦女暴行が繰り広げられて居るとでも言うのか? いずれにしても非力な女相手に、力で物を言わせようと考える様な不届き者を放って置く訳にはいかなかった。オレは足を早めて声のする方向へと向かった。

 なるほど。確かに、表通りからは見え辛い場所だ。奇しくも人気が全くない状況か。そんな状況の中、テカテカに脂ぎった顔。頭頂部だけの禿げ頭。黒光りする丸眼鏡に無精髭。小太りに猫背と、見るからに気色の悪い男が、一人の娘の手を掴んで居るのが目に留まった。オレに気付いたのか、男が険しい表情でオレを睨み付けた。それ以上近寄るな。何も見なかったフリをして此処を去れ。そう言いたげな表情で睨み付けられた事で、むしろ、オレの闘争本能は殊更に燃え上がった。ガキのクセにと馬鹿にされた事で激しい怒りの感情が沸き上がった。

「お願い! 助けてください!」

 人と関わるのは得意ではなかった。どうにも、同年代の連中が相手では実のない会話しか成り立たないだろうし、そう言うくだらないやり取りには興味がなかった。人付き合いが苦手なクセに、腹を割って話せる親友を欲する。そんな矛盾に満ちたオレだが、無意味なまでに強い正義感を抱いて居るのもまた事実だった。

 幼い頃から特撮物が好きだった。正義の味方が悪を討つ。単純明快ではあるが、そんな安っぽい勧善懲悪の世界観に興奮を覚えた。普段から地味で目立たず、無駄に図体ばかりがデカい男としてしか認識される事のなかったオレにとって、特撮物の中で目の当たりにした正義の味方になれる瞬間が訪れようとは予想もしなかった。奇しくも、目の前に広がる光景はまさしく悪が人質を盾に、正義の味方に相対して居る状況だ。これ以上ない晴れ舞台の到来に、オレの士気は高まる一方だった。

 だが、立ち止まったまでは良かった物の、オレの中では相反する想いがぶつかり合っていた。オレは別に、誰かの称賛を得たい訳でも、目立ちたい訳でもなかった。仮に、この見知らぬ娘を助けた所で何か得する事があるのかと問われれば返答に困る。自分でも嫌な性格だと思う。勧善懲悪の考えよりも先に、損得勘定で物事を考えてしまう一面を持つ。確かに、自営業の家系に生きて居る以上、勘定ができないのはそれはそれで問題ではあるが、だからと言って、損得勘定だけに捉われるのも貧乏染みていて好きではなかった。

 そんなちっぽけな損得勘定を呆気なく吹き飛ばさせたのは、必死で救いを懇願する娘の眼差しだった。お願い。あなたしか居ないの。そんな想いを汲み取った以上、思わず鼻息が荒くなる。この最高の晴れ舞台の下、男であるオレが為すべき事はたった一つ。実に単純明快な話だ。それよりも、何よりも、オレの中で、非力な娘を力づくで捻じ伏せようとする男の考えが気に食わなかった。親父譲りの古臭い考えを土台にして生きて来た身だ。男足る者、自分より強きを挫き、自分より弱きを守るべし。そう言う信念を抱けと、幼き頃より親父に教えられて生きて来た身だ。ああ、オレの親父は寡黙ではあるが、決める時は決める男らしい男だ。息子のオレからしても尊敬すべき最高の親父だ。そんな親父に教えられた想いを実践する場に出くわした事で、興奮さえ覚えていた。やはり、根底にあるのは正義の味方への飽くなき憧れだと改めて認識させられる。

 それに、良く考えてみれば、これは最高の舞台設定だ。余計な目撃者が居ないと言うのも、実に慎ましくてオレの好みに合う。大体、本物の正義の味方は無駄に自らの素性を誇示したりしない物だ。胡散臭い政治家のオッサンとは違う。正義の味方、此処に見参! などと無駄に晴れ晴れしく騒ぎ立てないのがオレの主義趣向に合う。そう考えると、ますます気持ちは昂る。良し。機は熟した。今こそ、オレは長年の憧れだった正義の味方になる。思わず握り締めた拳の中でじわりと汗が滲んだ。鼓動が高鳴る。此処まできた以上、絶対に退く事はしない。オレはオレの正義に従い、目の前に立ち塞がる諸悪の権化を討つ! 力丸、いざ尋常に参る!

「……何してるんだよ? その子、嫌がって居るじゃねぇかよ」

「お、お前には関係ないだろ? 怪我したくなかったら、さっさとどっか行けよ」

 明らかに動揺して居る。何だ? もしかしてオレ如きに畏れを為して居るのか? 随分とちっぽけな悪党だ。所詮、三下に過ぎないと言う事か。興醒めだ。自分より弱い者にしか強気に出られないとは、何とも惨めで情けない相手だ。期せずして訪れた最高の晴れ舞台の相手がこんな三下の雑魚キャラだとは余りにも拍子抜けだ。ガッカリだ。最高潮の盛り上がりを見せたオレの気持ちに全力で謝罪しろ。そう叫びたい気持ちで一杯になった。こんな惨めな三下の雑魚など放って置いて、さっさとこの娘を奪還するとしよう。オレは男の目を睨み付けたまま、ただただ怯える娘の手を掴んだ。

「行こうぜ」

 娘の手を引き、来るりと男に背を向けた瞬間、唐突に手が伸びてきたいきなり背後から乱暴に肩を掴まれたオレは派手に転倒させられた。

「おい、何、勝手な事してるんだよ?」

 派手に腰を打ったお陰で鮮烈な痛みを感じた。

「痛ってぇ……」

 その鮮烈なる痛みが、オレの中で何かを吹き飛ばしてしまったらしい。穏便に解決してくれようと振舞ったオレに対して、その振舞いは何だ? 登場して数秒でやられるだけのエキストラ以下の三下の分際で、随分と大きく出てくれる物だ。何よりも背後からの不意打ちとは、三下の常套手段だ。古典的過ぎる典型手段だ。余りにも教科書通り過ぎる。この男は特撮のセオリーを理解し尽して居るとでも言うのか? しかしながら正義の味方に挑戦状を叩き付けた罪は重い。何よりも真正面から正々堂々と勝負を挑む事もできず、卑怯な手段を好むとは断じて赦さん。どうやら、こいつには正義の名の下に裁きの鉄槌を喰らわせてくれる必要がありそうだ。例えお天道様が赦したとしてもオレが赦さん。

 怒りに我を見失ったオレはそっと立ち上がると、勢いに任せてそいつの胸倉を力一杯握り締めた。先程までの勢いは何処へやら。男は酷く驚愕した表情でオレを見つめていた。しきりに目を逸らそうとする姿に惨めささえ覚えたが、オレの怒りは留まる事はない。悪の手先に相応しい振る舞い、断じて見過ごす訳にはいかない。裁きの鉄槌、その身で受け止めろ!

「……なぁ、今、お前、オレの事転ばせたよな」

「そ、それが……どうした!? お、お前が余計な事をするか――」

 男の言葉が言い終わる事はなかった。それよりも先に、オレの拳が炸裂していた。本能の為せる技だとでも言うのだろうか? そいつの息が腐ったどぶ川の如く、猛烈に臭かった事もあり、ますます腹が立ったオレは男の顎に向けて力一杯拳を突き上げた。オレの拳がそいつの顎に入った瞬間、一瞬、何かが軋む様な不快な感触が伝わった。だが、勝負は一瞬で終わった。何だか拍子抜けだ。もう少し華やかに決めるつもりだったが、男はそのまま派手に転倒すると、勢い良く塀に頭を打ち付けると、男はそのまま崩れ落ちた。一瞬の出来事だった。実に呆気無い終焉だ。やはり、特撮の様に華々しくはいかないらしい。小さく溜め息を就いた。溜め息ついでに現実に戻る。そうだ。今、オレが為すべき最優先事項は変態男をぶちのめす事では無かったハズだ。突然の出来事に、ただただ呆然と立ち尽くす娘の手を乱暴に掴むと、オレは全力で走り出した。

「何、ボサっとしてるんだ! 逃げるぞ!」

「え? で、でも……」

「良いから走れ!」

 あの変態男がどうなろうがオレには興味はない。塀に頭から綺麗に叩き付けられた瞬間、何とも形容し難い鈍い音が響いたが、そんな事は知った事ではない。オレはただ、正義の名の下、悪に裁きを下しただけに過ぎない。それに、少なくても、素人の拳が一発決まった位で人が死ぬと言う事は有り得ないだろうし、三下は基本、無駄にしぶとくできて居る物だ。あの程度でくたばるとは思えなかった。もっとも、仮に傷を負ったとしても、相手に一方的な非がある。警察に駆け込んだ所で、こっちは婦女暴行の瞬間を鮮明に目撃して居る。しかも二対一だ。あの変態男が優位に立てる事は絶対に有り得ない。こう言う場面でこそ、損得勘定も活きて来ると言う物だ。自分でも驚く程冷静に、そんな事を考えていた。いずれにしても、とにかく一刻も早く、あの場所から遠ざかりたかった。だから、オレは明神川沿いにひたすら走った。人の多い場所に出れば、あの変態男も迂闊には追い掛けて来られないだろう。そう思った瞬間、娘が唐突に崩れ落ちた。想定外の展開に、オレは大いに驚かされた。期せずして訪れる危機的状況もまた、特撮物の、正義の味方の基本ではあるのだが、現実の物となると動揺せずには居られない。

「お、おい!? 大丈夫か!?」

 娘は苦しそうに肩で息をしながら、オレに頷いて見せた。

「え、ええ、大丈夫。驚かせてごめんなさい。あたし、体が、弱くて……」

 苦しそうに囁かれた言葉にオレは再び焦らされた。皆が皆、オレと同じ様に体力があるとは限らない。そんな当たり前の事さえ忘れてしまう程に、無我夢中になっていたらしい。もっとも、幸運にもオレの視界の先には藤木社の大きなクスノキが見えていた。人通りもある安全な場所だ。体を休めるには良さそうな場所と言える。

「歩けるか? 藤木社まで行けば石の椅子もある。そこで体、休ませられるだろうから、もうちょっとだけ辛抱してくれ。何だったら、オレがお前を運んでやろうか?」

 想定外の出来事に、すっかり気が動転していたオレは、目の前の娘を荷物か何かを扱うかの様に振舞っていた。今思えば、随分と配慮のない言葉をぶつけた物だと恥ずかしくなる。オレの言葉に驚いたのか、娘は顔を真っ赤にしながら、ちぎれんばかりの勢いで首を横に振って見せた。

「だ、大丈夫。一人で……歩けるから」

「おい、無理すんなって」

「平気。大丈夫。だから、そんなに不安にならないで」

 娘は尚も毅然とした態度を崩す事はなかった。オレからしてみれば、突然、酸欠で倒れたりしないだろうかと、内心、冷や冷やしていたが、要らぬ事を言えば、ますます機嫌を損ねてしまいそうに思えて、出掛かった言葉を呑み込んだ。どうやら、この娘、先刻の変態男よりも遥かに恐ろしい相手の様子だ。すっかり迫力に気圧されてしまったオレは、ただ、情けなく娘の後を力無く歩む事しかできなかった。正義の味方もこうなってしまうと、色々と残念な気持ちで一杯になる。

 藤木社に辿り着いた所で、娘はそっと石の椅子に腰掛けると、大きく息を吸い込んで見せた。ようやく落ち着きを取り戻したのか、呼吸を整えながらオレの顔を興味深そうに覗き込んだ。明らかに判る好奇に満ちた眼差しに、今度は何を言い出すのだろうか? オレは三度、窮地に追い遣られようとしていた。元々人と接するのは得意ではない上に、女が相手では余計にやり辛く感じてしまうオレからしてみれば、正直、先程の変態男とやり合った時以上に緊張していた。さっきの変態男はただの三下の雑魚キャラに過ぎなかったが、オレの目の前に居るのは、例えるならば敵を陰で操る真の黒幕的な存在なのかも知れない。間違いなく最強の相手だ。紅白歌合戦に登場する小林幸子的ラスボスに違いない。オレは身構えずには居られなかった。すると、突然、娘が立ち上がった。予想もしない振舞いに驚かされたオレは思わず、野生動物の如き振る舞いで後退りしてしまった。

「さっきは……ありがとう」

「お、おう……」

 夕暮れ時の社家の町並みは、沈みゆく夕日に照らし出されて茜色に染まっていた。静かに流れ続ける明神川も、藤木社のクスノキも、周囲の家々も道路も、それから――多分、オレ達も茜色に染まっていたと思う。

 互いに突然の出来事に酷く動揺し、緊張もしていたと思う。次の言葉が見付けられずに、気まずい雰囲気が漂い始めた。一度、黙り込んでしまうと次の言葉を模索する事が酷く困難になる。微妙な膠着状態が続く中、奇しくも、オレ達の後ろを郵便屋のバイクが通過した。バイクのエンジン音が張り詰めた緊張を良い感じに打ち砕いてくれた。好機到来と見たオレは、意を決して娘に声を掛けてみようと考えた。勇気を振り絞って、必死の想いで――。

「あのさ……」

「あ、あの……」

 まさか、同じタイミングで切り出す事になろうとは思いも寄らなかった。偶然とは恐ろしい物で、見事なまでにタイミングが一致してしまった。余りの事に心底驚かされたオレ達は、今度こそ、頑丈な金縛りに遭った様な状態になってしまった。最悪の状況だ。再び訪れる沈黙。だが、これでは埒が明かない。互いに強張った表情で向き合って居ると言う何とも言えない珍妙な状態に陥ってしまった。正直、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていた。何とか話を切り出さねば。そう考えれば考える程に空回りしていた。絶体絶命の危機到来だ。真面目に焦って居ると、唐突に近くの電線に一羽の大柄なカラスが舞い降りた。そのカラスは黒い瞳で、オレ達をジッと見つめて居る様に思えた。丁度、オレと目が合った瞬間、それを待っていたかの様にカラスが大きな声で鳴いた。夕暮れ時の社家の町並みに響き渡るカラスの鳴き声。その響き渡る鳴き声が固まった時の流れを動かすキッカケとなった。再び好機到来。

「な、何だよ。お前から先に言えよ……」

 自分でも情け無くなる程に、消え入りそうな声だった。

「え? ひ、比叡君から先に言ってよ」

「はぁ? 何でオレなんだよ?」

 こいつ、どうしてオレの名を知って居るのだろうか? 疑問を抱かずには居られなかった。だが、良く考えてみれば、見るからに同年代の娘だ。同じ学校に通っていたとしても不思議ではない。単純にオレが周囲に興味関心を持たないから、人の顔を覚えられないだけの事なのだろうと性善説で解釈した。

「あ、あのね、さっきは……ありがとう」

 その台詞を聞くのは二度目だ。そうツッコミを入れてやろうかと思ったが、再び場を凍り付かせる様な真似をするのは、自分の首を絞める事になるだけだ。出掛かった言葉を呑み込み、オレは娘に背を向けた。少なくても人通りはそれなりにある。それに、あの変態男も、追い掛けて来ない所から察するに、あのまま逃げ去ったのだろう。実に三下らしい振る舞いだ。これで後日、想像を絶する力を手にして再戦を挑んで来たとしたならば、中々に見所のある奴と言えるが、多分、それは無いだろう。何よりも、あんな小汚いオッサンでは画面映えもしない。絶対に有り得ないだろう。

「……オレ、帰るからさ。お前も、もう、ヘンな奴に付きまとわれない様に気を付けて帰れよ」

 それだけ言い残して立ち去るつもりだった。だが――。

「ちょ、ちょっと待って!」

 唐突に呼び止められた事に驚いたオレは、ゆっくりと振り返った。

「えっと……待って。お願い。もう少しだけ時間、くれる?」

「はぁ? 何だよ? 未だ何かあるのかよ?」

 照れ臭さも手伝って、オレは棘のある口調で返していた。多分、これ以上ない位に不機嫌そうな仏頂面をしていたと思う。娘はしどろもどろになりながらも、必死で何かを言い出そうとしていた。夕焼け空に照らし出されたお陰で、何もかもが茜色に染め上げられた情景の中、娘が意を決して口を開いた。明神川の涼やかな音色と蝉の鳴き声が一際強くなった様に感じられた。

「あ、あのね、もう少し……お話、しない?」

 予想もしない事を口にしてみせる物だ。一瞬、動揺させられたが、正義の味方としては、此処で退け腰な姿を見せるのも格好悪く思えた。だから、オレは目一杯、平静を装ってみせた。明神川が涼やかに流れゆく音色が、殊更に鮮明に聞こえた気がした。顔が熱くなるのを感じていた。高鳴る鼓動を必死で抑え、オレは頬を掻きながら小声で返した。

「お、おう……。ま、まぁ、少し位なら構わないぜ?」

 もっとも、内心、一体何を話せば良いのか、オレはただただ焦っていた。

(とは言った物の、どうすりゃ良い!? 後先考えずに勢い任せに言っちまった!)

 大体、同年代の女を相手に、一体何を話せば良いのだろうか? また、先刻の様に迂闊に口を滑らせて機嫌を損ねないだろうかと、不安で仕方がなかった。あの変態男を殴り飛ばした時よりも遥かに緊張していたし、同時に、これ以上ない位に動揺していたのも事実だった。実際、足が小刻みに震えて、背中から一斉に嫌な汗が噴き出していた。多分、これまで生きて来た中で一番、緊張を覚えた瞬間だったと思う。

「えっと、あたし、西村結花って言うの。余り、学校にも行ってないから、あたしの事、知らないと思うけど……」

 夕暮れ時の社家の町並みに、結花の凛とした声だけが響き渡る。オレはただ、結花の表情を見つめる事しかできなかった。夕暮れ時の日差しに照らし出されて結花は茜色に染まっていた。多分、オレも茜色に染まっていたと思う。

「と、取り敢えず、上賀茂神社に向かおうぜ」

 これがオレと結花の物語の始まりだった。可笑しな出会いから始まった物語だった。結局、この後、オレ達はまったく噛み合わない会話を続けた。何しろ、同年代の連中とも話の合わないオレが、事もあろうに女である結花と会話をしようとして居るのだから、それは、無謀以外の何者でもなかった。話が噛み合わない事に動揺する。動揺すれば、ますます珍妙な話が飛び出す。最悪の展開だった。すっかり足場を見失ったオレは嫌な堂々巡りに嵌るばかりだった。まるで蟻地獄だ。もがけばもがく程に嵌ってしまうばかりで、どうする事もできない状況に陥っていた。

「ねぇ、力丸君」

 結花は妙に馴れ馴れしい一面のある女だった。既に下の名前でオレを呼んで居る辺りに、何とも言えない気分にさせられた。そんなオレの動揺など気にする素振りも見せずに、結花は嬉しそうに笑いながらオレの両手を掴んで見せた。予想もしない振る舞いに体中の毛が逆立つ感覚を覚えた。危なく悲鳴を挙げそうになるのを必死で堪えた。

「良かったら、これからあたしの家に来てくれない?」

「はぁ!? 話するだけだったんじゃねぇのかよ!? な、何か、話がいきなり飛躍して居るぞ!?」

  し、しかも、何故、オレの手を力強く掴んで居る!? オレの緊張は最高潮に達していた。口から心臓が飛び出しそうになると言う表現があるが、今のオレはまさしく、そんな状況だった。心臓どころか、勢いに任せて色んなモノが飛び出しそうで気が気では無かった。

「助けて貰ったお礼、させて貰いたいの。あたしの家、そんなに遠くじゃないから。ね?」

 相当に風変りな女だと思っていたが、どうやら、オレの野生の勘は中々に高性能らしい。もっとも、結花はオレ以上に強引な一面を持って居る。ここで拒否した所で、泣き落してでも連れて行ったに違いない。迂闊に切り返せば、ろくな目に遭わないのは想像に難くない。ここは大人しく従って置いた方が賢明そうだ。思わず大きな溜め息が毀れるが、結花は全く気にする素振りすら見せなかった。見た目とは裏腹に、かなり図太い女らしい。恐るべし黒幕。ただ、影で糸を引くだけでは無く、自らも表舞台に立てば圧倒的な戦闘能力を見せつけてくれると言う訳か。こうしてオレは半ば強引に結花の家に案内される事となった。沈みゆく夕日に照らし出された二人の影が社家の町並みに長く、長く、棚引いていた。明神川の涼やかな音色に寄り添う様に、二人の足音だけが妙に鮮明に響き渡っていた。だけど、足音は瞬く間に蝉達の鳴き声で、流れゆく明神川の涼やかな音色でかき消される。それは、ある夏の夕暮れ時の出来事だった。

◆◆◆36◆◆◆

 意外にも結花の家はオレの家の近所だった。社家の町並み界隈には昔ながらの風情を称えた家々も少なくなかったが、結花の家もまた、その例に漏れない家だった。広大な敷地を誇る、古くから代々受け継がれて来た名家ならではの威風堂々たる雰囲気を称えた家だった。

 道路に面した引き戸を抜ければ、目の前には小規模ながらも良く手入れされた庭園が広がって居る。池があり、石の灯篭が置かれて居るのが目に留まった。小奇麗な庭園を抜けた先に、ようやく母屋が佇んで居る。これだけでも十二分に裕福な家庭である事は間違いない。近所に在りながらも、余りにも現実離れした光景にオレは頭の中が真っ白になっていた。何かの冗談ではないかとさえ思ったが、どうやら、これは現実らしい。

「ここがあたしの家なの。お母さんに声掛けて来るから、少し待っていて」

「お、おう……」

 多分に風変りな振舞いからヘンな奴だとは思っていたが、仕草の節々に妙に品がある部分から察するに、良い所の世間知らずのお嬢様なのだろう事は、ある程度は予想できた。とは言え、まさか、これ程までに筋金入りのお嬢様だとは想いも寄らなかった。自営業を営む我が家とは余りにもかけ離れた家庭の様に思える。本当に、余りにも身分不相応なオレなんかが招待されてしまって大丈夫なのだろうか? むしろ、これは罠なのではないだろうか? 特撮ではお約束とも呼べる展開となる、正義の味方の危機一髪の巻的な展開なのではないだろうか? 一抹の不安が脳裏を駆け巡ってゆく。そう考えると、先刻、オレが遭遇したあの変態男の目的は誘拐だったとしても、有り得ない話には思えなかった。無論、今となっては、あの変態男の目的など知る由もなかったし、知りたいとも思えなかった。あるいは違う目的だったのだとしたならば、結花は他人に興味のないオレの目から見ても美人と呼べる顔立ちをして居る。そう言うシュミを持って居る男に狙われたと言う展開でも違和感はない。いずれにしても現実離れした話だ。やはり結花は恐ろしい女だ。只者ではない。流石は黒幕……恐るべし。

「お待たせ、力丸君」

「うぉっ!?」

 在らぬ妄想に想いを馳せる余り、すっかり周囲に対する警戒心を失っていた。お陰で、唐突に結花に声を掛けられた事で、オレは驚きの余り可笑しな声を挙げてしまった。

「な、何だよ……驚かすなよ」

「え? あたし、普通に声掛けただけだけど?」

「こ、細けぇ事は気にすんな……」

 腕組みしながら小声で返して居ると、結花の背後から小奇麗な女性が姿を現す。普段着が和服と言う辺りからしても、間違い無く裕福な家庭に違いない。結花と良く似た綺麗な顔立ちから察するに、どうやらこの人は結花の母親らしい。比較するのも無礼かも知れないが、オレの母親と比べる事自体が大罪と言える程に綺麗な母親だ。女優だと言われたら、ああ、なるほどと素直に納得できる程の美人だ。唐突に登場した、これまた現実離れした母親のお陰で、オレの緊張は頂点に達しようとしていた。

「まぁ、あなたが結花を助けて下さったのね。娘がお世話になりました」

 深々とお辞儀をされて、オレはどう切り返せば良いか判らずに、ただただ硬直する事しかできなかった。そんなオレを、結花は面白そうに横目で覗き込んで見せるばかりだった。笑ってないで助けてくれ。そう、目で訴え掛ければ、オレの気持ちを察してくれたのか、結花は可笑しそうに笑いながら母親にオレを紹介してくれた。

「もう、お母さんってば、そんなに仰々しい挨拶するから、力丸君が困っちゃって居るじゃない?」

「あら、それは申し訳ない事をして……ふふ、こう言う振舞いが仰々しいのね。御免なさいね」

「お、オレなら……全然、大丈夫ですから」

 多分、夜道をぶら付いていて、唐突に警察官に声を掛けられた時以上に緊張して居るのは間違いない。もっとも、そんな経験をした事はないが……。

「あたしと同じ学校に通って居る、比叡力丸君よ」

 結花の言葉を受けた母親は、そっと目を細めると、穏やかな笑みを浮かべて見せた。その仕草の一つ一つが女優の様に気品に満ち溢れていて圧倒させられる。無知なオレにさえも判る程の振る舞いである事を考えれば、本当に上品な人なのは間違いない。同じ母親でも、これ程までに違い過ぎると本気で切なくなる。

「折角だから、どうぞ。お上がり下さいな。すぐにお茶を煎れますので」

 振舞いの一つ一つが気品にあふれていて、しかも、テレビに出て居る女優並に美人の母親。和服姿も相まって殊更に女優の様に見える。すっかり、オレの顔は熱くなっていた。恐る恐る顔に手を宛ててみれば、驚く程に熱気を称えていた。母親の姿に上せて居るオレの姿が面白くなかったのか、結花は少々憮然とした表情を見せると

「ほら、力丸君。ぼさっとしてないで、早くお部屋に行きましょう」

 結花は颯爽と靴を脱いで玄関先から上がってしまった。

「な、何、怒って居るんだよ?」

 オレの言葉に一瞬、硬直した様な素振りを見せたが、「別に、怒ってなんかないわ」。そう、背を向けたまま言い放つとスタスタと去って行ってしまった。

(……やっぱり、怒って居るじゃねぇかよ)

 女と言う生き物は良く判らない。取り敢えず、見知らぬ家の玄関先に置き去りにされるのも困る。危機感を覚えたオレは慌てて結花の後を追った。何しろ図体だけは無駄にデカい。お陰で一歩、一歩、踏み込む度に床が微かに軋んだ音を放つ。うっかり床板をぶち抜いたりしたら一大事だ。オレは慎重に結花の後を追った。

 案内された場所は小奇麗な和室だった。これが俗に言う応接間と言う奴か。畳の香りが心地良い部屋だった。香でも焚いて居るのだろうか? 重なり合う様に良い香りが漂って居る。部屋の明かり一つ取っても、華美な明るさは無く、むしろ、薄暗い程に柔らかな明かりだった。思わず部屋の中を見回さずには居られなかった。漆塗りの箪笥に、歴史を感じさせる大きな置き時計。庭に面した側には穴一つない、丁寧に張り詰めた障子が称えられて居る。どの品一つ取っても、素人のオレにも判る程に高級な品々である事は容易に察しが付いた。

「なぁ、お前の家、すげぇ金持ちだったりするんだろ?」

 問い掛けて居る内容が既に貧乏くさい上に品がない。自分で自分を戒めずには居られなくなる振る舞いだった。そんなオレとは裏腹に、結花にとっては普段から慣れ親しんで居る家なのだろう。他の子の家に遊びに行く事もないから良く判らない。あっけらかんと返されると、どう振る舞えば良いか路頭に迷う。

「お待たせしました。少し熱いかも知れないけれど、どうぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 ついつい、声が裏返ってしまう。そんなオレのぎこちない振舞いを見つめる結花は、終始、楽しそうに笑うばかりだった。それにしても、こんな蒸し暑い日に熱いお茶を出されるのも中々に苦しい物がある。お茶菓子まで添えてくれるとは、これが上流家庭のお持て成しなのだろうか? ロックの家に遊びに行ったとしても、出されるのは良く冷えた麦茶とアイス等の冷たい菓子が殆どだ。同じ和服姿の母親でも、やはり、家庭によって違いはあるらしい。そんな事をシゲシゲと考えながら、気付けばオレは、堅苦しく正座で腰掛けていた。

「結花、お外から帰ったのだから手を洗って来なさい」

「そうね。力丸君、ごめんね。少しだけ待っていてね」

「お、おう……」

 顔立ちこそ良く似て居る物の、その振舞いは鏡に映した様に思える。お淑やかな母親とは対照的に、結花の振舞いは少々がさつに感じられた。パタパタと元気良く足音を立てながら部屋を出て行く結花の後ろ姿を見届けながら、母親は苦笑いを浮かべて見せる。

「御免なさいね。誰に似たのか、結花は少々がさつな子でして」

「は、はは……お、オレは全然、気にしないですから」

 お茶を出し終えたのであれば引き下がるのが通例の様に思えたが、何故か、結花の母親は座したまま、ジッとオレの顔を見つめていた。オレは照れ臭さも相まって、慌てて目線を落した。しばしの沈黙の後で、結花の母親は小さな溜め息交じりに口を開いた。

「比叡君にこんな事お願いしたら、窮屈に感じてしまうかも知れないけれど……」

 またしても、妙な切り出し方をしてくれる物だ。まさか、結花を嫁に貰ってやってくれとか、途方も無く重たい話を切り出すのではないだろうか!? 何しろ、女とはことごとく無縁なオレからしてみれば、女の母親が真剣な表情で切り出す話の内容など見当も付くハズが無く、身構えずには居られなかった。正座したまま背筋が伸びる。膝の上に置かれた手にも自ずと力が篭められる。

「結花と……」

 握り締めた掌の中でじわりと汗が滲み、背筋を汗が筋を為して伝ってゆく。妙な沈黙だけが立ち込める中、家の外からは蝉の鳴き声が聞こえて来る。それ以上に、オレ自身の鼓動の方が鮮明に聞こえて居た気がする。口がカラカラに渇き、思わず唾を呑んだ。

「結花と……仲良くしてあげてくださいね」

 オレは思わず顔を挙げていた。仲良くしてくれと頼み込む母親。そこに一体、どう言う意図が篭められて居るのだろうか? オレは思わず息を呑みながら、結花の母親の顔を覗き込んだ。先程見せた表情とは打って変わった、どこか寂しそうな母親の表情に、オレは再び息を呑んだ。

「結花には友達と呼べる子が居なくてね。比叡君を連れて帰って来た時の結花、今まで見せた事もない程に嬉しそうな顔で、あたしの手を引いてね。お母さん、早く、早くって」

 そう口にした所で、小さく溜め息を就いて見せた。伏目がちで、物憂げな表情に結花の母親の心を垣間見た気がした。気が付いた時、オレは畳に目線を落としたまま、正座して膝の上で手を力強く握り締めていた。

「あの子のあんな笑顔見たの、本当に久しぶりで……」

 頭の悪いオレにもすぐに判った。結花の妙な立ち振舞いは、嬉しい気持ちの表れだったのではないだろうかと。結花はオレと良く似て居るのかも知れない。人付き合いの苦手なオレは、ロック以外の相手とはまともに接した事もなかった。多分、この先も、オレが認めた相手以外とは仲良くする事もないつもりだ。そう考えれば、結花もまた、オレと似た様な生い立ちを持って居るのではないだろうか? 似た様な境遇を持つオレと出会えた事。それは、結花に取って大きな意味を持って居るのかも知れない。初めてロックに声を掛けた日、オレは結花と同じ様に馬鹿みたいに浮足立っていた。結花はオレと良く似て居るに違いない。野生の勘がオレにそう告げた瞬間だった。

「え、えっと……お、オレなんかで良ければ……」

 それからすぐに結花が戻って来た。「それじゃあ、ごゆっくりと」と、一言だけ残すと、結花の母親は入れ替わる様に席を立った。それから、しばしの間、結花と共に他愛もない話に花が咲いた。結花は自分の事をオレに知って欲しいらしく、とにかく喋り続けた。余りにも勢い良く喋り続ける物だから、オレはただただ結花の話に耳を傾けるだけで精一杯だった。

 結花が聞かせてくれた話の中には、幾つか気になる点があった。ひとつはオレと同じ一人っ子だと言う点だった。オレと同じ立場とは言え、やはり、そこは男女の差があるのだろうか? 自由気ままに生きて居るオレとは違って、結花はどこか窮屈そうに感じられた。もう一つ、気になる点があった。結花の母親の言葉とも重なる部分だったが、独りぼっちだと言う事を暗に仄めかして居る事が気になった。多分、だからこそ、オレに仲良くして欲しいと思って居るのだろう。

 少々変わった奴ではあるが、一緒に語らっていて楽しいのは事実だ。オレに取っても新たなトモダチが――それも、異性のトモダチは初めてだ。共に歩めるのは嬉しい事だ。それに――あの日、あの時、ロックがオレを受け入れてくれたお陰でオレは新しい道を歩み始めた。言うなれば、物語が大きく動き出した瞬間との出会いだった。今度はオレが結花の物語を動かす番だ。ちょっと方向性が変わったけれど、こう言う面での正義の味方と言う立ち位置も悪くない。オレが結花のヒーローになってやろう。そう心に堅く誓った瞬間だった。

 結花の家を出たのは日が暮れてから大分時間が経ってからの事だった。母親まで同伴の上で、わざわざ門の外まで見送りに来る辺りからも、やはり、結花の置かれて居る立場は特殊な様に感じられた。もっとも、オレに取ってはそんな事は大して意味のある話ではなかった。一緒に歩みたいと思えるか、思えないか以外、オレが興味を抱く事はない。結花は一緒に居て楽しい奴だ。だから一緒に居たいと思える。それだけの事だった。

 中学一年の夏のある日に起きた出来事。この出来事がキッカケとなり、オレは結花と共に歩む様になった。この日からオレと結花とが綴った物語が始まる。その最初の一歩を踏み出した日の事、オレは一度だって忘れた事はなかった。結花と出会わなければオレは、何一つ変わる事ができなかったのだから。結花との出会い、それが全ての始まりとなったのは事実なのだから。

 結花の家からの帰り道、ふと足を止めて空を見上げてみた。暮れゆく夕暮れ時の空を見上げながら、オレは小さく吐息を就いた。「女が男の生き方を変える」。何かのくだらない雑誌で目にしたフレーズが不意に脳裏を過ぎった。そんな言葉は遠い別世界を生きる奴らの話だと思っていた。オレには果てしなく無縁な話だと思っていた。だけど、今なら、その言葉の意味が判る気がする。多分だけど、そのフレーズを書いた奴はきっと、オレと同じ様な体験をしたのだろう。不思議な気持ちで一杯だった。遠い異国の話の様に思っていた話が、実はすぐ近く、背中合わせで歩んで居る事に気付かされた瞬間だった。燃え上がる様な茜色の空を見上げて居ると、不意に、近くの木から蝉が鳴き出す声が聞こえた。止まっていた時の流れが動き出した様な気がした。微かに熱くなった頬に手を宛がってみる。確かな体温を感じた。不意に、脈拍が早まった様な気がした。生きて居る。そう実感しながら、オレは家路へと続く道を足早に走り去った。

◆◆◆37◆◆◆

 結花の事は少なくてもお袋には話したくなかった。何しろオレのお袋は結花の女優張りの美人な母親とは似ても似つかない、下町のくたびれたオバサンに過ぎない。くだらないうわさ話にばかり興味を示し、他人の醜聞を面白可笑しく口にして見せる様な性分だ。ロックが度々遊びに来る事もあったが、その度に彼女は居ないの? 少しは痩せた方が良いんじゃないの? だの、何だのと無礼千万な事を平気で口にして見せる。デリカシーと言う横文字言葉は、どうやらお袋の辞書には載っていないらしい。

 それにしても、オバサン連中のネットワークと言うのは実に侮れない物らしく、結花の家から息を切らしながら帰ったオレを出迎えてくれたのは、気持ち悪い位に満面の笑みを浮かべたお袋だった。何の事はない。近所のオバサンがオレと結花が一緒に過ごして居るのを目撃したらしい。そのお陰で、呆気無く結花の事は知れ渡り、挙句の果てには話が勝手に暴走し、何時の間にか未来の嫁さんと言う話にまで盛り上がっていた。もはや反論する気も起きなかったオレは言いたい様にさせて置く事にした。親父もまた、うわさ話好きなお袋の口の軽さには辟易して居るらしく、オレと同じ様に、さも興味の無さそうな振舞いを見せるばかりだった。

 それにしても改めて振り返ってみると、夢の様な出来事の数々だったと思わされる。もしも、路地裏から響き渡った結花の声を無視していたならば、オレは結花と出会う事はなかった。もしも、あの変態男が凶器を手にしていたら、オレはこの場に居なかったかも知れない。随分と無謀な事をした物だと、改めて冷静になってみると今更ながら恐怖心が湧きあがって来る。だが、オレの無謀な行動が結花との出会いを紡ぎ出した事になる。そう考えると数多の偶然が連なったからこそ成立した物語と呼べる。一体、どう言う展開になるのか全く先が読めないが、日常の中に舞い降りた非日常との出会いは、オレを興奮させるには十分過ぎる程の威力を持っていた事だけは間違いない。

◆◆◆38◆◆◆

 結花と出会ってオレは色々な部分が変わった。特に外見に関しては大きな変化を為し遂げた。あの当時のオレは、今のオレとは全くの別人だった。地味な色のシャツに飾り気のないジーンズ、黒ぶちの眼鏡にぼさぼさの髪。大きく穴が開き、親指が飛び出して居る様な靴下を平気で使っていた。そんな具合に身なりには無頓着で、存在感の薄い、目立たない外見だった。図体ばかりが無駄にデカいだけで何の特徴もない奴だった。そんなオレを結花は大きく改造してくれた。

 結花と出会ってから数日の時が過ぎた、ある休日の事だった。何故か、お袋が満面の笑みを浮かべたままオレに気前良く小遣いをくれた。しかも、決して安い額ではなかった。いよいよ、お天道様に顔向けできない様な悪事を働いたかと、項垂れるオレにお袋は信じられない言葉を投げ掛けて見せた。

「数日前に結花ちゃんがうちを訪ねて来てね。中々感じの良いお嬢さんじゃないか?」

「な、なに!? ちょっと待て! どう言う事だ!?」

「どうも、何も、お前に会いに来たのだろうけど、お前、何時もの様にどっかで寄り道していたのか、居なかったから、ちょいとばかりお喋りしただけの事さ」

「あ、有り得ねぇし……」

 もはや、うちのお袋のド厚かましさは軌道修正不可能らしい。頭を抱えるオレに向けてゲラゲラ笑いながら、小遣いに隠された真相を教えてくれた。

「それでね、今日、お前の服を選んでくれるって言うから、お父ちゃんにナイショで隠して置いたあたしのヘソクリ、お前の軍資金に宛ててやろうと思ってね」

「意味判んねぇから! 何だよ、その気遣いは!?」

「まぁまぁ、お前なんかに声を掛けてくれる気さくなお嬢さんなんざ、二度と現れないかも知れないから、大切に、大切にするんだよ?」

「あのな! シレっとオレの人格、全否定すんじゃねぇよ!」

 お袋は「グッドラック!」と、意味不明な言葉と豪快な笑い声を響かせながら階段を下って行った。重みのある足音が響き渡る中、オレはその場に崩れ落ちる事しかできなかった。無駄に体力を消耗した気がする。しかし、頭を抱えて居る場合ではなかった。

(ま、まさか……この展開で行くと、次に起きる出来事は……!?)

 嫌な予感と言うのは、何故にこれ程までの的中率の高さを見せるのだろうか。そして、恐ろしい事に、既に結花とうちのお袋は結託して居るのは疑いようのない事実としか思えなかった。オレの中では結花はただの女友達だと言う認識でしかなかったのだが、結花に取っては違って居るとでも言うのか?

(あ、あいつ……澄ました顔して、トンでもねぇ女だな。まさか、お袋と結託して居るとは……)

 誰もが予想しなかった究極の真犯人、その正体は何と、主人公自身が真犯人だったと言うレベルでの奇想天外、もとい、反則極まりない行動を問答無用で為し遂げてくれた訳で……。

「ほら、力丸ー! 未来の嫁さんが会いに来てくれたよー!」

「ななな、何を口走ってやがる!?」

「やだー、お母さんったら、気が早いですよー」

(いやいやいやいや、結花、そこで何故、お前までノリノリなんだよ……)

 こうしてオレは半ば強引に結花に連れられて家を後にした。豪快な笑い声を響かせながら見送るお袋に、オレはただただ恥ずかしさの余り、光の速さで消えて無くなってしまいたかった。楽し気に手を振る結花の振る舞いが、さらなる追い打ちを掛ける。お袋の豪快な笑い声に気付いた周囲の家々からうわさ好きのオバサン達が次々と顔を覗かせる。挙句の果てには上賀茂神社を訪れた観光客達まで反応するとは最悪の展開だ。皆に見送られ、外国人観光客にカメラを向けられ、オレはこれ以上ない程の脱力感に襲われながら歩き続けていた。

◆◆◆39◆◆◆

 家を出て数分もしない内に、すっかり汗だくになっていた。ただでさえ暑いのに、寿命が縮まる様な想いをさせられたお陰で無駄に汗が噴き出した気がする。突き刺さる様な日差しは容赦なく体を焦がしてゆく。割れんばかりの蝉達の鳴き声も相まって、ただひたすらに暑く感じられた。部屋の中に居た時から茹だる様な暑さを感じていたが、やはり、直射日光に晒されると格段に威力が上がる。予想を遥かに上回る暑さに思わず視界が揺らぐ様な感覚さえ覚えていた。

「……恐ろしく暑いし」

「ほらほら、力丸君、張り切って行こーう」

 言いたい事は山ほどあったが、口下手なオレでは結花には全く歯が立たない。こうして突き刺さる様な日差しの中、オレ達は上賀茂神社前を過ぎ去ろうとしていた。結花の話では、このまま四条河原町まで向かおうと考えて居るらしい。

「最初に美容院に行こうね」

「美容院? 髪でも切りてぇのか?」

「そうよ。でもね、あたしじゃなくてね……」

 妙な笑みを浮かべて見せる辺りに、何を言わんとして居るかは理解した。先刻のお袋の話から察するに、抗う事など無意味なのだろう。後は野と成れ山となれ。オレは大きく溜め息を就く事しかできなかった。

 待つ事なく訪れたバスに乗り込み、オレ達は四条河原町を目指す事にした。バスの車内は空調が良く利いていた。色々あったお陰ですっかり汗だくになった体に、涼しい風が心地良い。だが、暢気に構えて居る事はできそうになかった。何しろ、オレの傍らでは結花が何やら真剣な表情で考え事をして居る。その真剣過ぎる表情に、涼しさどころか寒気さえ覚え始めていた。これから何が起きようとして居るのかを考えると、汗が一気に退いてゆくのを感じずに居られなかった。

◆◆◆40◆◆◆

 四条河原町に到着するや否や、結花は軽い足取りでオレを先導し始めた。一切の迷いも無く歩き続ける足取りは、確固たる自信に満ち溢れていた。オレはただ、風を切って歩き続ける結花の後を追う事しかできなかった。程なくして結花は洒落た雰囲気の美容院の前で立ち止まった。思わず凍り付くオレに向き直ると、結花は可笑しそうに笑って見せた。

「ちょっと待っていてね」

 そう言い残すと、結花は颯爽と美容院の中へと入って行ってしまった。後に残されたオレは、店員と楽し気に語らう結花の姿を遠目に見つめる事しかできなかった。しばらくすると、結花がオレを手招きするのが見えた。予想していたとは言え、現実の物になると気付かされた事で、今更になって動揺させられていた。恐ろしい事に、結花は事前に話を通していたのだろう。実に抜け目のない段取りだ。何も知らないオレを余所に、流れる様な展開を迎えようとしていた。

「それじゃあ、お願いします。さ、力丸君、こちらに座って」

「お、おう……」

 手始めに結花の指示に従って髪型を変えてみる事にした。まるで着せ替え人形になった様な気分だったが、それでも、オレは結花の言葉に従ってみたい気持ちになっていた。微塵の迷いも見せる事無く、確固たる自信に満ちた振る舞いを見せる結花に賭けてみたい気持ちになったのは事実だった。ただの負け惜しみと言われれば、そうなのかも知れないが、此処まできた以上、今更、取り乱すのも酷く格好悪く思えた。オレも男だ。こうなった以上、後は結花を信じ、腹を括るだけだ。

 ぼさぼさの髪をバッサリ切って短くしてみた。そんなの似合う訳ないと思い込んでいたオレは、鏡に映ったオレの姿に驚かされた。こんなにも変わる物なのか? 半信半疑で聞き流していた結花の言葉に、ただただ驚愕させられるばかりであった。そんなオレの動揺とは裏腹に、結花は何もかもを見越していたかの様な表情でオレを見つめていた。

 生まれて初めて美容院なる場所で髪を切った。それまでは近所の床屋でしか髪を切った事なかったオレに取っては初体験の連続だった。妙に涼しくなった頭に途方もない違和感を覚えずには居られず、どうにもぎこちない振舞いになってしまう。時折、ガラス張りの店先を歩む度に、ついつい、ガラスに映る自分自身の姿を凝視せずに居られなかった。そんなオレの振舞いを横目でチラチラ見ながら結花は可笑しそうに笑っていた。

「な、何だよ……可笑しいかよ?」

「ううん。力丸君って、意外と男前なんだなぁって」

 結花はそっと足を止めると、オレの顔をシゲシゲと覗き込んだまま満足そうに頷いて見せた。余りにもジッと見つめる物だから、照れ臭くなったオレは慌てて目線を逸らした。

「何だよ、それ……」

 精一杯の抵抗もどうにもキレが悪い。そんなオレに畳み掛ける様に結花は陽気な口調で続けて見せた。

「力丸君って結構ゴツい体付きして居るじゃない? 髪型変えて、もっとゴツい感じになったけど、良く似合って居るんじゃないかな」

「そ、そうか?」

 今まで外見の事で褒められた事など一度もなかったオレからしてみれば、結花の言葉は嬉しくもあり、同時に、何とも言えぬこそばゆさを感じずには居られなかった。思わず上機嫌になり、ついでに鼻息荒くなるオレに向けて、結花は思い掛けない言葉を投げ掛けてみせた。

「髪型を変えたところで、服装も合わせた方が良さそうだよね」

 結花はコーディネーターにでもなった気分なのだろうか、オレを上から下までシゲシゲと見つめながら、あごに手を宛てて何かを思案して居る様子だった。

「良し。あたしがコーディネートしてあげる」

「は? あのな、オレは着せ替え人形じゃねぇんだぞ?」

「嫌なの?」

 結花はオレの事を何もかも的確に見抜いていた。「嫌なの?」と、お伺いを立てる様な問い掛け方をして居るが、オレが「嫌だ」と返せない事を知った上で、そう振舞って居るから実に性質が悪い。下から見上げる様に覗き込まれ、ついでに小首を傾げられる。その状態で問い掛けられて拒否できる訳がない。

「うっ……」

 オレはただ情けなく、必死で声を絞り出す様に出す事しかできなかった。

「そ、それ反則だからよ……」

「はーい、それじゃあ、力丸君改造計画第二弾、開幕でーす」

「第何弾まであるんだよ……」

 オレの声など聞こえてなど居ないのだろう。結花は上機嫌に笑いながら、「早く、早く」とオレを急かすばかりだった。だけど、結花が提案したコーディネートは恐ろしい事に微塵の狂いもなかった。陽気にはしゃぐ結花に連れられるままに、とにかく色んな店に連れ回された。一体、どの店で何を買い物したのか記憶に残っていない程に転々と巡った気がする。何しろ人よりも遥かに図体のデカイ身だ。着られる服と似合う服が中々一致する訳もなかった。それでも結花に振り回されるままにオレは連れ回された。

 コーディネーターの結花様に言わせれば、普段着て居る様なグレーや、くすんだ地味な色合いの服は似合わないのではないかとの事。赤や黄色、オレンジといった暖色系の色で鮮やかな色合いの服が似合いそうだと言われた。服を変え、暑苦しいジーンズから涼やかなハーフパンツに変え、靴も使い古された運動靴から洒落たバッシュに変えた。

「力丸君、足も大きいから、こう言う靴、似合うかなーって思ってね」

「お、おうっ……」

 もう、こうなって来ると何も反論できなくなる。自分でも想像した事もない自分自身が着々とでき上がってゆく。鏡に映ったオレを見て、オレは何も言葉にする事ができなかった。そこに映って居るのは全くの別人だった。影の薄い地味で根暗な印象のオレは消え失せ、見るからに体育会系で、活発な印象のオレに変わろうとしていた。

「やっぱり、最後はコレよね」

 そう言いながら、結花はオレの眼鏡を指差して見せた。

「力丸君、思い切ってコンタクトに変えてみちゃおう? 料理する時も眼鏡だと邪魔でしょう? それに、力丸君、体鍛えるの好きだって言っていたよね? 体動かすにもコンタクトの方が良いかなぁと思うの」

 もはや何も言い返せなくなっていたオレは、結花に手を引かれるがままに眼科を訪れていた。今までは服や靴の店を訪れていたが、唐突に眼科とは、一体どう言う事なのだろうか? オレは湧き上がる疑問をそのまま口にしてみた。

「眼科? オレ、別に結膜炎とか、花粉症とかないぜ?」

 首を傾げるオレを見つめたまま、結花は可笑しそうに笑って見せた。

「そうじゃないの」

「じゃあ、何だよ?」

「あのね、コンタクトレンズを作るにはお医者様の診察が必要なの」

「そう言う物なのか?」

「そう言う物なの。でも、心配しないでも大丈夫よ。視力を測ったりするだけだから」

「お、おう……」

 眼科での診察を終えたオレの手を引き、今度はお隣のコンタクトレンズの店へと向かった。相変わらず結花は、手際良くあれこれ店の人と交渉してくれた。こう言う場面では本当に結花は頼もしい奴だと思える。桁違いの行動力と決断力。微塵の迷いすら無く次々と話を進めてゆく。その姿にオレは圧倒され続けるばかりだった。俗に言う、尻に敷かれると言うのはこう言う状況の事なのだろうか? そう考えると、ますます何とも言えない気持ちで一杯になる。もっとも、オレ如きでは結花に太刀打ちできる訳もない。こうした展開も受け入れるしか無さそうだ。女と言う生き物は、実に末恐ろしい生き物だ。知れば知る程に、その恐ろしさを思い知らされる。

「よしっ! これにて、力丸君改造計画完了ね」

 自分でも本当に驚いた。これがオレなのか? それが率直な感想だった。髪型に始まり、服装を変えて、眼鏡をコンタクトに変えて……その結果、全くの別人が誕生した。だけど、その姿にオレは感動すら覚えた。人はこんなにも変わる事ができる物なのかと、ただただ驚愕させられるばかりだった。考えてみれば、女と言う生き物は化粧をする事で、それこそ別人に変身する事すら為し遂げられると言う神憑り的な神通力まで使いこなせる魔性の存在だ。結花にもそうした神通力が備わっているに違いない。しかも、その力は今は未だ成長過程にあると考えれば、最終的にはどうなってしまうのだろうか? 男のオレには女の生態は理解不能であり、同時に、畏敬の念さえ抱く程に未知なる神秘さえ感じられる。やはり、女と言う生き物は末恐ろしい生き物だ。

◆◆◆41◆◆◆

 結花の改造計画も一段落付いた所で、オレ達は四条通をぶらぶらと歩き回っていた。さすがに、延々と歩き続けて疲れた事もあり、どこか座れる場所で飲み物でも飲もうと、話し合いながら歩いていた。自分でも驚く程に変わった事もあって、どうにも、周囲の連中の目線が気になって仕方がなかった。多分、オレが思う程に周囲の目を惹く事は無かっただろう。所詮、自意識過剰な振る舞いに過ぎない。

 人通りの多い四条通を歩き回りながら他愛もないお喋りに花を咲かせていたが、ふと、通り沿いの商店のガラス窓に映った自分の姿を改めて目の当たりにした時、オレの中でどうしても問いたい疑問が浮上して来た。

「なぁ、結花」

「ん? なにかしら?」

 昼下がりの四条通は引っ切り無しに人が往来し続けて居る。賑わいを見せる四条通は、次々と人々が右へ、左へと歩み去ってゆく。賑やかな光景だ。皆、オレ達の存在など気に留める事もなく川の流れの様に静かに歩み去ってゆく。オレ達だけがそこに取り残されて居る様な不思議な感覚に包まれる。そんな光景の中をオレ達は歩んでいた。

「オレがこんなにも劇的な変化を遂げたのも、やっぱり――」

「必然だったの。偶然なんかじゃないわ」

 予想通り、結花は間髪入れずに返答してみせた。そこには微塵の迷いさえ感じられなかった。未来を予知する能力――架空の世界にしか登場しない夢物語かと思っていたが、結花の言葉の数々を振り返ると、未来を予知して居るとしか思えなかった。偶然ではない。すべては必然なのだ。その一言で片づけるには、余りにも話ができ過ぎて居る。だけど、結花は、それは違うと呆気無く否定する。

「そうじゃないの。未来が見えて居るのとは違うの」

「うーん、良く判んねぇけど、そう言うモンなのか?」

「あのね、力丸君。こう言うのはね、頭で考えては駄目なの。肌で感じ取るの」

「……ますます意味不明だぜ?」

「良いの、良いの。そのうち、きっと判る時が来るから」

「はぁ? 何だよ、ソレ」

 結花はただ上機嫌そうに笑うばかりだった。まぁ、結花が掴み所のない振舞いを見せるのは今に始まった事でも無く、今更驚く程の事でもない。それに、オレは結花の笑顔を見るのが好きだった。本当に嬉しそうに笑い、楽しそうに振舞う姿を見て居ると、不思議と心が満たされる感覚を覚える。もちろん、そんな事を想って居るなんて絶対に知られたくなかったし、伝えるつもりもなかった。もっとも、結花は恐ろしく鋭いから、こうやって何気なく振舞いながらも、ちゃっかり観察を続けて居るに違いない。子供染みた振舞いとは裏腹に、実は結構怖い奴なのかも知れない。やはり、女と言う生き物は末恐ろしい生き物だ。改めて実感させられる。

「力丸君」

「……お、おう。何だよ?」

「そんなにあたしの事見つめられると照れちゃうなぁ」

「はぁ? 何を素敵な勘違いをしてやがる。お前、自意識過剰なんじゃねぇの?」

「じゃあ、そー言う事にしておいてあげよう」

「……何か、すげぇムカ付くのは気のせいか?」

「素敵な勘違いじゃない? もう、力丸君ってば自意識過剰なんだからー」

(やはり、結花に勝てる気がしない……)

「あ! そうだ!」

「今度は一体何だよ……」

 思わず身構えて見せれば、結花は可笑しそうに笑いながらオレの顔を覗き込んで見せた。

「あのね、あたしも――」

 何の事はなかった。オレの改造計画を終えれば、今度は自分が着る服も見たくなったらしい。そんなこんなで半ば強引に結花に連れられるままにオレは四条通を歩んでいた。それにしても、結花はこんな暑い日でも長袖の服を着て居る。暑くないのかと問い掛ければ、無論、暑いらしい。それでも長袖の服を頑なに着続けて居るのは何故だろうか? 男のオレには判らないが、日焼けしたくないと言う強い想いがあるのかも知れない。確かに、結花の肌は透き通る様に白い。迂闊に日焼けすれば跡が残ったりと、後々厄介な事になるのかも知れない。化粧品の宣伝などを見ても、日焼けを抑える様な品が多く存在して居る事を考えれば、勝手な想像だが、女と言う生き物は水面下で美しさを保つために、あれやこれやと苦労を強いられて居るのであろう。

(なるほど。苦労を怠ると、ウチのお袋みたいになるっつー訳か……)

 結花も、いずれああなるのかと考えると、思わず顔が引きつりそうになる。その小奇麗な、整った顔立ちが醜く歪む。成れの果てと言うか、人生の終着駅と言うか……少なくても、お袋の様にはなって欲しくない。それだけは声を大にして言える事だ。イヤ、断固として主張させて貰いたい! それだけはどんな手段を講じてでも死守しなければならない重大任務なのだと。一人阿呆な事を考えながら、無駄に力が篭ってしまう。気分は選挙演説の場で、聴く者はサクラだけだと言うのに声を張り上げ、一人誇らしげに熱弁して居る政治家のオッサンだ。傍から見ればアンタは裸の王様だぜと馬鹿にしたくなる様な姿だ。

(ううむ……熱いな。熱いぜ、オレ。火傷する程にな)

 傍らで一人、そんな事を考えていようとは結花は想像も尽かないだろう。もっとも、心の内を見られても困るが……。

(女って、色々と大変なんだなぁ。そう考えると、オレ、男で良かったな。小便したくなっちまっても、その気になれば男なら外でもできちゃうもんな)

 ますます阿呆な事を考えながらもオレは結花と共に人通りの多い四条通を歩んでいた。迷う事無く颯爽と歩き続ける結花の振る舞いが、どうにも気になって仕方がない。「それで、オレ達はどこに向かって居るのか?」、と問い掛ければ、結花は嬉しそうに振り返りながら視界の先にそびえる立派な建物を指差して見せた。なるほど。確かに、四条河原町には丸井に高島屋といった大規模な百貨店が軒を連ねて居る。オレからしてみれば格調高過ぎて近寄り難い場所なのだが、結花からしてみれば別段不思議な話でも無さそうだ。流石は良家のお嬢様。オレなんかとは格が違い過ぎる。なるほど。その格差が結花の美人な母親と、ウチの残念なお袋との差を生むと言う事か。ふむ。これが格差社会の真実と言う訳か。実に世の中の摂理は奥深い。思わず一人納得して、頷いてしまった。

「帽子、買いたいの。暑い日が続くからね」

「まぁ、日差しが直撃すると暑いもんな」

「うん。ついでに可愛い日傘も欲しいかな」

 可愛い、の部分を殊更に強調する結花に、思わず吹き出しそうになったが、慌てて呑み込んだ。迂闊な言動を口にして機嫌を損ねると、後々不幸が訪れる事になる。オレは気を取り直して結花の顔を覗き込んだ。

「やっぱり、日焼けとか気になっちまうもんなのか?」

「そうよ。真っ黒に日焼けしちゃったあたしとか、嫌でしょ?」

 以前、コタの親父さんに聞かされた『ヤマンバ』なるファッションが一時期、流行した事があったと聞かされた逸話を思い出さずに居られなかった。どう考えてもゲテ物以外の何者でもない程に顔も体も黒塗りにして、対照的に真っ白な口紅にアイシャドーで彩った若い娘達。そんなゲテ物なファッションに身を包んだ結花を思い描き、危なく卒倒する所だった。挙句の果てにはギャル語なる異国の言葉を口走られた日には――イヤイヤ、有り得ない。有り得な過ぎる。そんなぶっ飛んだ結花と共に歩くのは、余りにも嫌過ぎる……。

「……お、おう。途方も無く嫌過ぎだな」

 普段着が和服の母親の姿を考えれば、結花もまた和服に袖を通す事もあるのだろう。和服を身に纏った色黒の結花……何とも、絵的にアレ過ぎる感じになるのは否めない。やはり、色白の日本美人が和服を身に纏い、日傘を片手にたおやかに京の街並みを歩む。これでこそ絵になる気がする。もっとも、結花の珍妙な性格を考えると、今一つ、絵に成り切らない様な気もするが……。在らぬ妄想が脳裏を駆け巡り、思わず表情が強張るオレに気付いたのか、結花が怪訝そうな顔で首を傾げる。

「どうしたの、力丸君? あ! もしかして、もしかして、お腹空いちゃった?」

「……あのな。オレは四六時中空腹なのかよ」

「何か、そんなイメージがあるのよね」

「どういうイメージ持たれて居るんだよ、オレは……」

 相変わらず上機嫌に振舞う結花に先導されるままにオレは最初に丸井へと向かった。普段、こうした場所に馴染みのないオレからしてみれば、何だか迷子になりそうな恐怖感すら覚える程に店内は広大だった。そんな広大な店内を、結花は自分の家を案内するかの様に軽やかな足取りで進んでゆく。オレは人混みの中、結花の後を追い掛けるだけで精一杯だった。

 お気に入りの店は予め決まって居るらしく、目的地に辿り着く度に結花は楽しげに店内を物色していた。どうにも、女物の品が立ち並ぶ中にオレが立ち入るのも気が退けたので、オレは少し離れた場所で結花を待とうと考えていた。無論、結花がそんなオレの振舞いを赦容する訳も無く、結局、強引に連れ回される結果に終わった。

 丸井を巡り、高島屋を巡り、あれこれ物色した。本人に取っては満足いく品を見付ける事ができたのか、何時もの様に上機嫌な振舞いを見せていた。一段落就いたところで、どこかで一休みしようと言う話になり、オレ達は信号が変わるのを待っていた。妙な視線を感じて、そっと横目で盗み見れば、何を企てて居るのやらオレの事をジッと見つめる結花の姿があった。今度は唐突に何を言い出すのやら。内心冷や冷やして居るうちに信号が青になった。

「おい、結花。信号、渡るぞ」

 オレに促されて歩きながら、結花が可笑しそうに笑う。

「あたしも髪、バッサリ切ってみようかな。失恋しちゃったーって」

「はぁ? 失恋? 誰に?」

 唐突に何を言い出すのかと思えば……オレは何時もの様に眉をひそめながら問い掛ける。すると、結花はますます可笑しそうに笑いながら返して見せた。

「力丸君に」

「あのな……」

 早く渡らないと信号が赤になるぞ。結花の背中を押しながら促すも、結花は相変わらず周囲には無頓着な振舞いを見せる。仕方がないので強引に手を引き信号を渡り切った。だが、結花は尚も口を閉ざす事無く笑いながら続けて見せる。

「あー。始まっても居ないって言っちゃう? ヒドイなー。純情可憐な乙女の希望の芽をそうやって摘み取って喜ぶのね?」

 敢えてでかい声を出す物だから、道行く人々が一斉に振り返った。判っていてそう言う振舞いをするから実に性質が悪い。さすがに、これにはオレも動揺させられた。

「ちょ、ちょっと、待て、コラ!」

「あ! じゃあ、あたしの事、貰ってくれるの?」

「ななな、何で、そんなに話が飛躍してるんだっつーの!?」

「あははー。力丸君ってば赤くなって居る。カワイイー」

「うっ……。だ、駄目だ。お前には勝てる気がしない……」

 結花は何時もこんな調子だった。何と言うか……掴み所のない、実に可笑しな女だった。終始こんな調子だったから、オレは何時も結花の奇想天外な言動と振舞いに翻弄されっ放しだった。

 色々と疲れたオレは、何故か、涼し気な甘味処を目指し四条通を歩んでいた。無論、これはオレの想いで選んだ目的地では無い。黒幕の手に拠り、オレが行きたかったハンバーガーショップは半ば強引に書き変えられた。ただ、それだけの事だ。些細な事に過ぎない。四条大橋を超え、南座を超え、ようやく辿り着いた甘味処にオレは我が目を疑った。

「はーい、目的地に到着でーす」

「マジか!?」

「ここ、人気のお店だから混雑するの」

(……混雑ってレベルじゃねぇだろ。マジで此処に並ぶのか? 正気の沙汰じゃねぇだろ!?)

 どうやら、この店は結花のお気に入りの店らしいのだが、豪快な行列を目の当たりにして、ますます疲れが増した気がする。行列に並び、待つ事半刻程。随分と長々と待たされた物だ。ようやく店内へと案内される頃には、すっかり疲れ切っていた。そんなオレとは対照的に結花は満面の笑みを浮かべるばかりだった。やはり、結花、恐るべし。

 甘味処で二人で抹茶のパフェを食べてから、上賀茂神社まで戻る事にした。終始、陽気にはしゃぎながら走り回っていた事もあり、結花は少々お疲れな表情を浮かべていた。ようやく訪れたバスに乗り込めば、都合良く座席が一つ空いていた。オレは結花を席に座らせて、その手前の吊皮につかまった。

「力丸君が隣に居てくれると安心する」

「な、なんだよ、それ……」

「何だろうな? あたしだけの用心棒って感じなんだよね」

 用心棒とは、また古臭い表現を選ぶ物だ。ガードマンとか、護衛とか、同様の表現は色々あるけれど、敢えて古臭い表現を選ぶ辺りが結花のシュミなのだろうか。

(まぁ、用心棒っつー表現も、硬派な感じで悪くない。ああ、オレがお前を守ってやるさ)

 何だか、妙に誇らしい気分に包まれながら、オレは窓の外を眺めていた。バスは見慣れた街並みの中を静かに走り抜けてゆく。昼下がりを過ぎたとは言え、外の景色を見る限り、暑さは衰える所を知らなそうに感じられた。多くの人々が扇子を手に、盛んに扇いで居る姿からも、それが窺える。ふと、お喋りな結花が妙に静かな事に気付き、何気なく目線を投げ掛けて見せれば、既に結花は夢の世界へと旅立って居る様子だった。

(まるで子供だな。散々はしゃぎ回って、疲れて寝ちまうなんてな)

 こうして静かにして居る分には平和な物だ。口を開けば珍妙な言動の数々で振り回してくれる一面を考えると、小奇麗な顔立ちをして居ると言うのに勿体ない話だ。それでも、無邪気な顔で静かな寝息を立てて眠る結花は可愛らしく思えた。

(へぇー。こいつ、こんな顔して寝るのか)

 初めて目にする結花の寝顔に、思わず見惚れてしまった。バスは何事もなかった様に走り続ける。ふと、気付けば丁度、日差しが結花の顔に当たって居る。日焼けを気にしていた事を思い出し、オレはそっと立ち位置をずらした。こう言う場面では、普段は何の役にも立たないデカい図体も役に立てそうだ。上手い具合に顔に当たる日差しを防ぐ事ができる。用心棒の任務としては少々地味過ぎる気もしなくもないが、そうそう用心棒の活躍の場が訪れても困ると言う物だ。

 バスはただ静かに街並みを走り続けていた。停留所に着く度に人が乗り降りしてゆく。唐突に人が大勢乗り込んできた。予想に反して大勢乗って来たお陰で後ろから押し出される。それでもオレは必死で吊革につかまった。結花はオレが守る。この場所から動く事は絶対に避けたかった。必死の攻防を繰り返しながらも、オレは必死で結花を守り続けた。こんな場面で一人、孤軍奮闘を繰り広げて居る事など結花は知る由もないのだろう。まったく、良い気な物だ。結花は相変わらず気持ち良さそうに寝息を立てるばかりだった。そんな結花の寝顔を見ながら、オレは心が満たされてゆく感覚を覚えていた。

(まっ、用心棒っつーのも悪くねぇな)

 バスは照り付ける日差しの中を、ただ静かに走り続けていた。結花は、相も変わらず静かな寝息を立ててまま、深い眠りに就いて居る。徐々に乗客が減ってゆく中、見慣れた景色が流れ去ってゆく。上賀茂神社前に到着するまで、そう掛からないだろう。そんな事を考えながら、窓の外を流れゆく景色を眺めていた。相変わらず外は暑そうだ。時折、人が乗降する際にドアが開けば、その度に、威勢の良い蝉達の鳴き声が響き渡るのが聞こえる。賑やかな声だ。如何にも夏らしい光景の中、バスは走り続ける。強い日差しに照らされて、背中にジットリと汗が滲んでいた。空調が利いて居るとは言え、やはり、日差しに照らされると暑くなる。額の汗を腕で乱暴に拭いながらも、時折、結花の寝顔を盗み見て居た。もっとも、他の奴らには結花の寝顔は見せたくなかった。オレは結花を覆い隠す様に身を乗り出していた。

 バスは街中を走り続けていたが、程なくして、バスは上賀茂神社に到着した。乗客達が次々と降りてゆくのを見届けながら、オレは結花の肩を叩いて起こした。

「お客さん、終点だぜ?」

「あれ? あたし、寝ちゃっていた?」

「おう。口元からよだれ垂らして、ひでぇ顔して寝てたぜ?」

「うそっ!?」

 結花は取り乱した様子で、慌ててハンカチで口元を拭っていた。オレは結花の慌てぶりを見ながら、声を挙げて笑った。

「……まぁ、うそだけどな」

「あー。やられたー」

「へへっ。ほら、さっさとバス降りようぜ」

 まだ時間も早かった事もあり、この後、オレ達は何時もの様に社家の町並みをぶらぶらと歩き回った。バスの中で一眠りした事もあり、結花の疲れもだいぶ取れたらしい。

 楽しい一時だった。結花と出会い、オレは色々な部分が変わった。外見が変わったのはもちろんの事ながら、大小合わせて様々な部分が変わった。色のなかった世界に、色を添えてくれた。オレに取っての結花はそんな存在だった。それに、外見が変わった事により、オレの中で色々な価値観が変化を迎え始めたのもまた、事実だった。

「あーあ、家に帰りたくないなぁ」

 唐突に唐突に放たれた結花の言葉が夏空に散った瞬間だった。静かに放たれた一言は空を舞い上がり、大気さえも震撼させた。そんな気さえする程に力の篭った一言だった。どうせ何時もの事だろう。また、可笑しな事を言ってオレの反応を楽しんで居るに違いない。そう思ったオレはわざとらしく溜め息を就きながら、結花の顔を覗き込んでみせた。

「なんでぇ。もしかして非行にでも目覚めちまったか?」

 だが、予想に反して結花は沈んだ面持ちで、ゆっくりと地面を見据えるばかりで、何も応えなかった。これは可笑しい。何とも言えない嫌な予感を覚えずに居られない。何時もとは全く異なる反応に確かな違和感を覚えたオレは、できるだけ冷静さを保ったまま結花の反応を窺う事にした。「何処に行こうか」と問い掛けようとした瞬間、結花が静かに顔を挙げた。

「お……?」

「太田神社に行きたい」

「お、おう。判った。それじゃあ、行こうぜ」

 初めて目にした姿だった。普段から結花は妙に明るい振る舞いを崩す事も無くて、こんな風に何かを想い詰めた様な表情を見せたのは初めての事だった。確かに、オレを驚かせるために敢えて、そうした振る舞いを見せる事はあったが、それはあくまでも、オレを驚かせるだけに過ぎず、それ以上でも、それ以下でもない振る舞いだった。それなのに、今、こうして妙に沈んだ表情を見せて居る。それが一体、何を意味して居るのかオレには想像も尽かなかった。

 上賀茂神社前を後にしたオレ達は社家の町並みを歩んでいた。結花は相変わらず一言も口にしようとしなかった。流れゆく明神川の音色だけが妙に鮮明に聞こえていた。

 藤木社前を通り過ぎ、細い小路へと歩を進める。時折、思い出したかの様にすれ違う郵便屋のバイクとすれ違い、それでもオレ達は歩き続けた。交差点の対面には牛乳屋の緑色の屋根が目に留まる。何時もと変わらない景色のハズなのに、なぜか、もう二度と出会う事ができなくなってしまいそうな恐怖感に駆られていた。心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。何に恐怖感を覚えて居るのか判らなかったが、何かに追われて居る様な感覚さえ覚えて居た。ただ黙したまま歩き続ける結花の後に続く事しかできない自分が滑稽だったが、迂闊に可笑しな言葉を投げ掛けたりすれば、結花が粉々に砕け散ってしまい、二度と元通りにはならなそうに思えて不安で仕方がなかった。だから、ただ結花の後に続いた。

 程なくしてオレ達は太田神社へと辿り着こうとしていた。夕暮れ時に差し掛かった街並みは人気も無く、傾き始めた日差しは情けも容赦無く降り注いでいた。日焼けを気にしていた結花の言葉が気に掛かったオレは、結花の手を引きながら境内へと歩を進めた。境内に入ればうっそうと生い茂った木々達のお陰で強い日差しにさらされる事も無くなる。

「……ごめんね」

 ようやく落ち着いたのか、小さく吐息を就いた後で、結花はそう口にして見せた。一体、何がどうなって居るのか、さっぱり訳が判らないオレだけが置き去りにされたようで妙に滑稽な一瞬だった。何を口にすれば良いのかためらって居ると、結花は夕暮れ時の空を仰いだまま静かに口を開いた。

「力丸君は華麗な転身を為せたのに、あたしは何も変われなかった」

「お前は別に髪を切った訳でもねぇし、服装の趣味をガラリと変えた訳でもねぇし、変わってねぇのは当然なんじゃないのか?」

 オレの問い掛けに結花は表情を曇らせると、弱々しく首を横に振って見せた。余計な事を口にしてしまったかとオレはますます困惑させられた。それ以上に、何よりも、結花が何を憂い、何に悩んで居るのか、オレには皆目見当が尽かなかった。だからこそ殊更に不安を駆り立てられた。響き渡る蝉達の鳴き声が殊更に大きく響き渡った様な気がした。

「どうして、あたしが学校に行っていないのか、気になって居るでしょう?」

 結花はどこか寂しそうな笑みを湛えたまま、オレに向き直って見せた。今にも消えてしまいそうな、うっかり触れれば壊れてしまいそうな儚い笑顔が苦しかった。だけど、今、この場に居るのはオレしか居ない。何としても受け止めてやらなければならない。それができるのはオレしか居ない。あの時、結花と出会った時にそうした様に今一度、結花の事を全力で守る。そう心に誓うオレの中で、不安な気持ちは静かに燃え尽きようとしていた。

「不登校――引き篭もりって言えば判り易いよね」

 呆気なく前言撤回。予想していたとは、本人の口からこの言葉が飛び出すのを聞いた時、オレはどう返せば良いか言葉を失っていた。だが、怯んだとは言え、結花が口にした想いを受け止めないと言う『選択肢』はなかった。

「いじめに遭って居るの」

 見知らぬ誰かの事を話すかの様な、妙にあっけらかんとした口調が殊更に冷たく思えた。多分、そこには感情も、体温も必要なかったのだと思う。だから、こんなにも冷たく、鋭い言葉となって、その言葉を受け止めるオレを乱暴に突き刺すのかも知れない。それでもオレは逃げ出したくなかった。力強く握り締めた拳の中で汗が滲んだ。噛み締めた奥歯が割れそうな程に痛んだ。だけど、それでも逃げるつもりはなかった。

「誰も、彼も、あたしが存在する事を否定し続けた。だから思った」

 結花は尚も静かな笑みを湛えたまま続けて見せた。

「あ、そっか。あたし、此処に居てはいけないんだなぁって」

 夕暮れ時の空を見上げたまま、結花は声を挙げて笑った。オレは微塵も笑えなかった。

「あたし、生きてちゃいけないんだなぁって」

「……だから不登校になった。そう言う事か?」

「そう。学校にはあたしの居場所はないの」

 握り締めた拳の中で爪が突き刺さりそうになっていた。柔らかな皮膚を突き破って、爪が手のひらを貫きそうな程に力が篭っていた。体中が燃え上がる様に熱くなっていた。確かな怒りの感情だった。誰かを本気でぶっ殺してやりたいと思ったのは初めての事かも知れない。こんなにも心が震えて、体が焼ける程に熱くなるのだと知った瞬間だった。

「……誰だよ?」

「え?」

「お前をいじめた奴らだよ。誰だよ? 教えろよ」

 そんな奴ら、オレがこの手で締め上げて、二度と悪事を働く事ができなくなる様な『恐怖』を叩き込んでくれるまでだ。結花はこんなにも非力な女なのに、そんな非力な奴を力で説き伏せる様な奴らに生きる理由など与える必要など何処にも無い。オレがこの手で一人残らず、その首、刈り取ってくれる。だが、予想に反して結花は毅然とした表情を湛えたまま、静かに首を横に振って見せた。

「どうしてだ? そんな奴らの肩を持つ必要なんか、何処にもねぇだろ!?」

 サイアクの気分だった。結花の手によって華麗なる転身を果たした記念すべき日で終わるハズだったのに、どうして、こんなにも湿気た気持ちになって居る? 全部、全て、結花を日の当たらない場所へと追い遣った奴らのせいだ。ああ、そうさ。全部、全て、そいつらのせいだ。それならば責任を取らせるのは至極当然であり、実に正しい権力の行使だと言えるハズだ。だけど、結花は相変わらず口を真一文字に結んだまま、静かに首を横に振るばかりだった。

「これはあたしの問題だから」

「なんでだよ!? オレはお前の用心棒なんだろ!? 守らせてくれよ!」

 熱くなったオレは思わず叫んでいた。だが、結花は相変わらず毅然とした態度を崩す事はなかった。口を真一文字に結んだまま力一杯、首を横に振られたオレは絶望にも似た敗北感を抱かずに居られなかった。

「変わらなくちゃ駄目なの。あたしも力丸君みたいに変わりたいの。だから――」

 結花の言葉は矛盾に満ちて居て意味が解らなかった。それならば、どうしてオレにその話を打ち明けたのだろうか? 訳が判らなかった。ただただムカ付いていた。もっとも、その矛先はオレ自身に向いていた。無知で、非力で、何も気の利いた言葉も掛けられず、だからと言って結花を守り切る事もできない弱いオレがムカ付いた。結花はオレなんかを頼ってくれて居るのに、オレは結花のために一体何をしてやる事ができた? 結花はオレに、オレの知らない世界を幾つも教えてくれたのに、オレの知らないオレと出会わせてくれたのに、オレは結花のために何一つ恩返しする事さえできて居ない。その事実が殊更にオレを苛立たせた。

「ごめんね……」

「謝るんじゃねぇよ……」

 サイアクな気持ちで一杯だった。結花に辛く当たるオレ自身の弱さにムカ付いていた。不意に、太田神社前の道路をCOOPの車が駆け抜けていった。それを皮切りにするかの様に蝉達が一斉に鳴き声を響かせた。もうじき夕暮れ時も終わる。店仕舞い前の一仕事と言う訳なのだろうか? いずれにしても割れんばかりに響き渡る蝉達の声に背中を後押しされた気がした。力丸、お前がシッカリしなくてどうする!? そう声援を受けた気がして、気が付いた時にはオレは結花を抱き締めて居た。突然の事に結花は戸惑っていたが、それでもオレは結花を力一杯抱き締めた。自分でも驚かされる行動だった。だけど、後に退くつもりはなかった。

「オレがお前の事、守ってやるからさ……」

 割れんばかりの蝉達の鳴き声だけを体中で受け止めて居た。

「だからさ、もう……そんな顔、すんじゃねぇよ」

「……うん」

 それは、まるで夏の夕暮れ時に期せずして訪れる夕立の土砂降りの中にぽつりと捨て置かれたかの様な状況だった。ただ、人気のない夕暮れ時の太田神社の中、叩き付ける驟雨の如き、割れんばかりの蝉達の鳴き声の下、オレは結花を抱き締めて居た。多分に汗ばんでいたから気が退けたのは事実だったが、それでも、とにかく、結花を繋ぎ止めて置来たかった。此処で腕を緩めてしまったら結花が何処かに言ってしまいそうで不安で仕方がなかった。もう二度と会えなくなってしまう。そんな気がしたから。だから、オレはとにかく結花を力一杯抱き締めた。

◆◆◆42◆◆◆

 結花と出会い、それまでのオレには知る事のなかった世界を沢山知った。外見が変わった事も大きく影響していたが、それ以上に、結花と言う不可思議な存在との出会いが何よりも大きな意味を為した。

 何かで目にした言葉なのかも知れないが、誰かと出会う事で世界が混ざり合い、新しい世界が築き上げられると言う話を知った。例えるならば人は絵の具の様な物らしく、それぞれが自らの色を持つらしい。人の数だけ色は存在するから、誰かと出会う度に新しい色が増えてゆくと言う仕組みだとか。それまでオレの色一色だった世界に、結花の色が混ざり合い新たな世界が築き上げられた。そう言う事なのかと妙に納得した。

 それまで一匹狼な生き方を好んできたオレに取って、誰かを守る為に生きると言う道は新鮮であり、同時に、多くの事を考えさせられるに至った。同時に、それは酷く困難で苦しみに満ちた道である事も知った。乗り掛かった船と言う奴なのだろうか? 途中で結花を見捨てて、自分だけが逃げ出すと言う『選択肢』は最初から存在しなかった。弱い奴なりの無駄な意地だったのかも知れないけれど、オレの手で断ち切った。そんな『選択肢』は不要だと。

 結花と出会い世界の広さを知った気がする。言い換えればそれまでオレが歩んできた道が如何に狭く、ちっぽけな物だったのかを知ったのかも知れない。世界は広い。結花の歩む道は果てしなく広く、大海原より尚広く、果てしなく広がっていた。とてもオレには見切れる程の広さではなかった。だけど、同時に結花の住む世界は酷く重苦しく、冷たく、物悲しい世界だった。寒空の下で凍えるだけの結花を何とか守ってやりたいと願うが、それも無知で非力なオレには叶わぬ願いに過ぎなかった。自分の弱さを知り、痛む事を知った頃、思いも寄らない出会いがあった。

 その出会いを通じて、オレは世界は広く、思いも寄らない所に、思いも寄らない物が潜んで居る物だと知らされた。元来、人との関わりに興味関心を抱く事もできず、友と呼べる存在はロックしか居なかった。唯一無二の親友とも呼べるロックが居てくれたお陰で、オレはオレ自身を孤独から遠ざける事ができた。ロックが居てくれて、結花が居てくれる。それだけでも十二分に満たされていたし、それ以上を求める事で何かを失う結末を手にする事が恐ろしかった。

 そんな中、新たな出会いと巡り合う事になろうとは予想もしなかった。少なくてもオレは一本道を走って居るハズだった。まさか、一本道の途中に分岐点があろうとは予想もしなかった。そう――。

『それだけ体がでかいと、相応に腹も減る物なのか?』

 それがコタに話し掛けられた最初の一言目だった。最初の一言にして、随分と無礼な言葉を投げ掛けてくれる物だ。だけど、不思議とあの時のオレは不快には思えなかった。周囲の連中の言動から、そいつの名前は知っていた。半年間に渡って不登校を続けていたと聞かされていたから、さぞかし妙な奴なのだろうと思っていた。

 実際に本人を目の当たりにした時に思った事は、人を寄せ付けない何かを持った奴と言うのが第一印象だった。涼やかな振る舞いとは裏腹に、どこか刺々しい殺気を放ち続ける身。何とも不思議な奴だと思った。だけど、何故だろうか? 嫌な感覚は抱かなかった。妙な話だ。何も、敢えて、人を寄せ付けまいとする様な刺々しい殺気を放つ奴に興味を抱く事も無かろうに。それでも、オレはコタに興味を惹かれていた。こんな事、コタには一度も言った事がないが、永い間離れ離れになっていた親しき旧友との再会――そんな感覚すら覚えていた。

 もっとも、声を掛けられたのは初めてだったが、それよりも前から、コタがオレの食の太さに興味を惹かれていた事は気付いていた。イヤ、多分だけど、話し掛けるキッカケが欲しかったのだろう。そう、善意で捉えた所で、その実情はオレの事を、さながら野生動物の様に見て居やがったと言う事になる訳だ。良く考えれば中々に無礼な話だ。だけど、オレもついつい悪乗りしたくなって、日に日に食事量を増やしながら、コタの反応を見るのが楽しみになっていた。だからオレは、声を掛けてくれたコタに笑いながら返してやった。

『しっかり食わねぇとさ、大きくなれねぇだろう?』

 さぁ、お前はどんな反応を見せてくれる? オレは期待を胸に抱きつつコタの返答を待った。一瞬、驚いた様な表情を見せたが、コタは笑いながら返して見せた。

『ふふ、それ以上大きくなってどうするつもりだ?』

『野性味あふれる、良い男に成長するだけさ』

 互いに、意外な程に違和感なく話す事ができた。何となく肌で感じていたのかも知れない。野生の勘とでも言うのだろうか? こいつとなら仲良くなれる。そんな感覚を肌で感じ取っていたのかも知れない。多分、オレだけじゃなく、コタもまた同じ事を思っていたのではないかと思う。

 コタと仲良くなるのに時間は必要なかった。どこか古典的な立ち振舞いを好むコタとは気が合うだろうと確信していたが、予想通りだった。

『なぁ、今度の土曜日って空いてるか?』

 自分でも不思議な感覚だった。友であるコタに声を掛けて居るだけだと言うのに、何故、こんなにも緊張して居るのだろうか? 高鳴る胸を必死で抑えながら、オレはコタの返答を待った。どうか、オレからの誘いを断らないでくれ。そんな必死の願いを胸に抱きながら。

『ああ。何か美味い物でも食わせてくれるのか? それなら歓迎だ』

 良かった。受け入れてくれた。嬉しさの余り、危なくガッツポーズを決めてしまいそうになっていた。慌ててオレは興奮冷めやらない感情を抑えつつ、可能な限り平静を装って返した。

『へへっ。一緒にさ、鞍馬に行こうぜ。弁当、用意するからさ』

 オレの問い掛けにコタは目を大きく見開き、興味津々な眼差しを投げ掛けて見せた。照れ隠しなのだろうか? さも、興味がなさそうに溜め息を就きながら腕組みしてみせた姿が印象的だった。

『それなら、目一杯腹を空かして行かないとな。お前の事だ。食べ応えのある弁当を用意してくれるのだろうからな』

 それからオレはコタとも頻繁に遊ぶ様になった。代わりに結花と遊ぶ頻度が減っていたのも事実だ。判っていた。最初に声を掛けられた時から、オレの中でコタに対する想いが揺らいでいた事を。イヤ、違うな。オレがコタに興味を惹かれていたのは、初めて目にした時からだったのか知れない。それは否定できない真実だった。

 結花と過ごす時間は楽しくもあったが、同時に、非力なオレに取って結花を守り抜くと言う立場を守り抜く事は息苦しくもあった。見捨てないと心に誓ったのは事実だが、だからと言って、四六時中結花を守り続けるなんて、非力なオレには不可能な話だった。

 そんな中、同じ年でありながらも、妙に大人びて居ると言うか……どこか悟りを開いたかの様なコタの達観した振る舞いに少なからず興味を惹かれる様になったのは当然の成り行きだったのかも知れない。単純な物の考え方だ。オレより強いか、オレより弱いか。それだけがオレの中での判断基準だった。双子の兄弟の様に思っていたロックとは違って、コタは頼りになる兄貴の様な存在に思えて居た。だから、オレはコタに興味惹かれていたのだと思う。

 コタと出会ってからのオレは何時も、何時も、コタの事ばかり想っていた。何時しかコタの事を本気で好きになっていた。それは、ロックに続く仲の良いトモダチができた事への喜びだと思っていた。だけど、そうではなかった。その事実を受け入れ難くて、トモダチに対する友情の念だと、そう思い込もうと必死に振る舞っていた。

 例えるならば蟻地獄に嵌った蟻の様な状態だった。もがけばもがく程に足を取られ、ゆるゆると窮地へと近付きつつあるだけだった。もっとも、そんな命を賭しての一本勝負に殊更に心を揺れ動かされていたのもまた、否定できない事実だった。もっとオレを嵌めてくれ。もっとオレを狂わしてくれ。もっとオレを壊してくれ。もはや病気だった。

 コタとの出会いは少なからず、オレの中で大きな分岐点となった。もっとも、コタと出会わなかったとしても、オレの隠された性癖が形を潜める訳も無く、別の誰かに矛先が向いただけだったに違いない。火種が煌々と燃え盛る炎へと移り変わるのが早いか、遅いか、それだけの差だ。今更、悩んでみても何も変わる事はなかったと思う。

 コタとの出会いは嬉しかった。本当に嬉しかった。だけど、同時に、苦しくもあった。コタと出会った事で、オレは迷い、悩み続けた。新たなトモダチができて、本来ならば幸せな日々を送れるハズだった。だけど、現実はそうではなかった。コタの事を想えば、想う程に、オレの心の中では日に日に苦しみが成長し続けていた。

 結花の事が好きなのは事実だった。だからこそ、自分で自分の想いが見え無くなってゆく事が本当に恐ろしかった。自分で自分の心を見失ってゆくのが怖くて仕方がなかった。このままオレと言う存在が消えてしまうのではないだろうか? そう考えると、日々、眠りに就く事さえ恐ろしくも思えた。形に成らない不安定な感情だけに、ロックにも相談できなかったし、仮に形に成っていたとしても、ロックにも話せない感情だった。

 そんなオレの思惑など、最初から見抜いていたのだろう。コタは明らかにオレの心を掻き乱さんとしていた。結花からオレを奪い取ろうとして居るのではないかと思う程に挑発的な振舞いを崩さなかった。

 最初のうちはオレも戸惑っていた。男であるコタに興味を抱く自分に動揺を隠し切れなかった。だけど、多分、オレはその真実から目を背けたかっただけなのかも知れない。実際に、ロックと一緒に遊ぶ様になってから、オレはロックにも興味を惹かれていたのは事実だったのだから。

 一緒に風呂に入っていても、ついついロックの体に目が釘付けになって居る自分が居た。ロックと並んで寝た時には妙な興奮を覚えた。ふざけて抱き付いたり、抱き付かれたりした時には、体中が熱くなる感覚を覚え、酷く胸が高鳴って――それから、ちんちんの先からじわりと熱い何かが滲み出る快感に身震いさえ覚えた。だけど、それは単純に仲の良いトモダチだからこその感覚だと思っていた。イヤ、そう思いたかったのだと思う。大切なトモダチであるハズのロックに妙な感情を抱いて居る自分を認めたくなかったのだと思う。

 だからこそ、コタと共に出掛けた時には自分自身の想いに動揺を隠し切れなかった。初めてコタと一緒に出掛けた鞍馬の街並みの事を思い出さずに居られない。鞍馬駅で待ち合わせしようと言う話になった、あの日。道中、車の事故に巻き込まれたお陰でオレは時間より多少遅れて到着したが、既にコタは到着していた。相変わらず妙に澄ました振舞いで、オレの顔を目にしたコタは静かに笑い掛けてくれた。それだけの仕草だったのに、オレはすっかりコタに魅了されていた。

 コタは出会った当初からヘンな奴だった。常に視線を感じて横を向けば、コタはオレの目をジッと覗き込んでいた。それも一度や二度では無く、常にそう言う振る舞いをしていたから殊更に違和感を覚える。人と話をする時は相手の目を見て話す。礼儀作法の基本と言えば基本なのは事実だ。加えて、元々コタは古風な立ち振舞いを見せていたから、古風な礼儀作法に忠実な奴なのだと思っていた。でも、そうではなかった……。

 最初の出会いから数日後、オレ達は予定通り鞍馬の駅で待ち合わせた。無事に合流できたオレ達はそのまま鞍馬寺から貴船へと続く山道に入った。木の根道を抜けて貴船へと抜ける道中、オレ達は昼飯を口にしながら語らっていた。徒然なるままに他愛も無い会話を交わしたが、その中でも記憶に鮮明に残って居る内容がある。

 鞍馬の街並みの中、コタがカラス天狗と出会ったと言う話――何の違和感も無く、オレはコタの話を信用した。鞍馬山にカラス天狗が棲むと言う伝承は幼き頃から知っていた。牛若丸に剣術を指南したとされるカラス天狗達。人ならざる者との出会いに確かな興奮を覚えたのは事実だ。少なからず、オレの中ではカラス天狗の中に『強さ』を見出していた。人には真似のできない能力を持つ者達とトモダチになりたい。そう素直に思う事ができた。

 今になって思えば、あの当時からオレはクロ達の存在を自然に受け入れて居たのだと思う。あの日、コタと共に訪れた鞍馬山は数多の木々と草花に包まれていて、大自然の息吹が心地良かった。大自然に触れる事が好きだと言うコタの話を聞きながら、オレもまた気に入って居る景色の話を聞かせた。

 懐かしい記憶だ。あの当時、オレはコタの事を『小太郎』と、未だ下の名前で呼んでいた。元来、人との距離は近付けない主義だが、オレが認めた奴だけは例外だった。ロックもそうだったが、そう言う連中とは馴れ馴れしいまでに距離を近付けたくなる。両極端な振舞いしかできないのは、オレ自身が不器用だからに他ならない。

 一緒に居た時は、それほど深く考えなかったが、出町柳でそれぞれの家路に就くべく帰り道を歩み出してから、オレはオレ自身の心の異変に気付かされた。それは本当に不思議な感覚だった。胸が締め付けられる様な息苦しい様な感覚だった。体が熱くなって、息ができなくなって、それから……頬を伝って落ちた一粒の涙。温かな体温に驚いたオレは、その場に立ち尽くしていた。多分、そこにオレの本心が現れていたのだと思う。

(そっか……。オレ、コタの事を……)

 オレの中で世間一般の『常識』と呼ばれる、堅苦しいだけで何の意味もなさない摂理が音を立てて崩落した瞬間だった。だからこそ、オレは恐怖の余り気が変になりそうだった。あの当時のオレは未だ、本当にただの非力で無力、何も知らない無知なガキに過ぎなかったからこそ、余計に恐ろしかった。ロックにも相談できない感情だった。

 だからこそ、オレはコタとの距離を空けようと試みた。結花の笑顔が浮かび、気品ある結花のお袋さんの思い悩んだ表情が浮かび、道を踏み外してはならない。必死で自分を抑えようとした。だけど、コタはそんなオレの迷いすら見抜いていたのだろう。それからも、何度となくオレを遊びに誘ってくれた。最初のうちはそれとなく断った。だけど、その度に見せるコタの寂しげな表情に、心が酷く揺れ動いた。

 後にコタから聞かされた話になるが、テルテル以外にトモダチと呼べる存在の居なかったコタに取って、オレと出会えた事は本当に大きな意味を為したと聞かされた。だからこそ、殊更に手放したくなかった。包み隠す事のない剥き出しの感情が恐ろしく思えたが、同時に、こんなにもオレが存在して居る事を喜んでくれる奴が居てくれる。生きて居る意味を、存在して居る価値を見出した瞬間だったのだから。

 もう、後は流れに逆らう事はできなかった。後は階段を転げ落ちる様にコタの事を好きになってゆくばかりだった。それに伴って、少しずつ結花の存在が遠退いていった。判っていた。オレのやって居る事は間違えて居ると。結局、優柔不断なオレに振り回されて結花も、コタも、苦しかったに違いない。全部、全て、オレの弱さが招いた結末だった。

◆◆◆43◆◆◆

 遠退き、途切れた意識は無数のほたるとなって宙を舞う。此処は何処なのだろうか? 辺りを照らす物は何一つない、暗闇に包まれた道を歩んでいた。辛うじて足元が地面だと言う事しか判らない。辺り一面漆黒の世界。落ち着いて周囲の状況を確認する。ふと気付かされたのは、水の流れる音が聞こえて居る事だけだった。そうか。この聞き覚えのある音色は明神川の流れか。そうだとすると、暗闇に包まれて周囲の景色こそ判らずとも、ここは社家の町並みと言う事になるのか。そう考えた瞬間、風が吹き抜けた。木々の葉がざわめき、蝉の鳴き声が降り注ぐ様に一斉に響き渡る。それに呼応する様に、唐突に眩しい光に包まれた。再び意識が遠退き、オレは膝から崩れ落ちた。

『斎王代の人、綺麗だったなぁ』

 唐突に聞こえた結花の声に、オレは慌てて振り返った。有り得ない光景がそこに広がっていた。それは忘れもしない、結花と共に最後に目にした葵祭の光景だった。もう、二度と目にする事のない光景。葵祭は毎年繰り返される。だが、結花はもう、二度と蘇る事はない。

『斎王代ってね、未婚の市民女性から選ばれるんだよ。あたしも何時か葵祭に参加したいな』

 見たかったよ。お前が斎王代に選ばれて、葵祭に参列する光景を。ああ、見たかったよ……お前の晴れ舞台を。でも……でも!

「もう、その夢は叶う事はないんだよな……」

 地面に崩れ落ちた。不思議な光景だった。皆、葵祭の光景を見つめる中、一人だけ崩れ落ち、その場にうずくまるオレがいた。地面に手を突き立てる様に力を篭めてみたが、全く力が入らない。乾いた地面に小さな染みができ上がる。一つ、また一つ。頬を伝って落ちる温かな感触。ああ、そっか。オレ、また泣いて居るんだな。情けないよな。格好悪いよな。男なのに――結花の用心棒なのにな。弱くてごめん。強くなれなくてごめん……。

◆◆◆44◆◆◆

 再び気が付いた時、視界に飛び込んできたのはオレの部屋の天井だった。恐る恐る手で周囲を確認してみれば、そこには確かにベッドの感触があった。可笑しな夢でも見ていたのだろうか? しかし、夢だと片付けるには余りにも不可解な点が多過ぎる。結花を想う余り、結花との出会いの記憶が蘇っただけとは、到底、考えられなかった。何よりも、太田神社で出会った少年絵師の正体が説明できない。

 もっとも、あれこれ考えてみたところで、答えに至る事は無さそうに思える。それならば、敢えて無駄な労力を割いても得られる物もないのだろう。いずれにしても、皆に話を聞いて貰う事で、手を貸して貰うしか道は残されていない様に思える。とても一人で考えて片付けられる様な内容ではないのは間違いない。

 魘されたお陰で随分と酷く汗を掻いていた。ベッドから起き上がってみれば、じっとりと湿った体温を感じられる。恐る恐る自分が眠っていた部分に顔を近付けてみれば、目が染みる程の汗臭さが舞い上がり、思わずベッドから慌てて身を離した。

「うぉっ!? こ、これはまた凶悪な……ぜってぇ、布団を干す必要アリと判断したぜ」

 ところで、今は一体何時頃なのだろうか? 何気なく窓の外に目線を投げ掛けてみれば、朝日が昇らんとして居る様子が目に留まった。眩しいばかりの朝の日差しを感じながら、オレは大きく背伸びした。妙な体験をしたお陰で今一つ寝足りない気もするが、朝日を肌で感じながら街並みを散策するのも悪くない。

 窓の傍に立って見せれば外から蒸し暑い風が吹き込んできた。朝から酷く蒸し暑い。それでも外の空気を吸いたかった。見慣れた街を目に焼き付けたかった。

「これじゃあ、まるで遺言だな」

 それでも生きて居る事を実感したかった。イヤ、結花に報告したかったのかも知れない。夢の中でお前に会った、と。だから、明け方の社家の町に繰り出してみる事にした。オレは汗でびしょ濡れの服を乱暴に脱ぎ捨て、手際良く着替えた所で部屋を後にした。

 部屋を後にしたオレは、その足で階段を一歩、一歩、地面の感触を踏み締めながら歩き続けた。不思議な感覚だった。普段、こんな事を想ったりする訳もないのに、何故か、朝日に包まれた街並みを歩みたい衝動に駆られていた。何の根拠もないが、見慣れた光景と二度と出会う事ができなくなってしまいそうな気がして、不安で、不安で仕方がなかった。

 変わる事のない日常の中、オレは変わる事ができるのだろうか? このまま何も変わらずに居る事は辛過ぎる。オレは呼吸を整えながら玄関の引き戸に手を掛けた。そっと引き戸に力を加えれば、ガラガラと音を立てて引き戸が開く。玄関先から眩いばかりの光が差し込む。その余りの眩しさに思わず目が眩んだが、それでもオレは社家の町を巡るべく家を後にした。

 玄関から一歩を踏み出した瞬間、唐突に周囲の空気が変わった気がする。それまで雲一つなかった空に恐ろしい勢いで暗雲が迫り出して来た。考えられない光景だ。やはり、何かが起きようとして居るのは間違いなさそうだ。それにしても、この空は一体何なのだろうか? 言葉で表現できない程に禍々しい空だ。胎動する様に膨張と収縮を繰り返す厚い暗雲は、毒々しい暗紫色を称えていて殊更に不気味に思えた。

「な、なんか……ヤバい事が起きるって主張してやがるな。こりゃあ、マジでシャレにならねぇぞ」

 厚みを帯びた雲は獣の様な唸りを挙げ、時折、爪で引き裂いたかの様に雷光が駆け巡って居る。どうにも不安に駆り立てられる光景だった。まるで、この世の終わりを告げられて居るかの様な光景に思えた。

「なるほど。いよいよ諸悪の権化のお出ましっつー訳か」

 そう口にしてから思わず大きな溜め息が毀れる。

「勘弁してくれよ……オレ、戦う力ないんだぜ? 襲われても逃げる事しかできねぇってのに」

 悪態を吐いた所で事態が変わる訳などなかった。空を覆い尽くす暗雲はあくまでも不気味に蠢くばかりだった。一旦、家に逃げ帰るべきか? それとも、事の成り行きを見守るべきか? オレは立ち止まり、しばし考えを巡らせた。もっとも、悠長に身構えて居るだけの時間があるとは思えなかった。空を覆い尽くす暗雲は次第に深みを増し、それに呼応するかの様に胎動を思わせる蠢きを増し続けて居た。見て居るだけで吐き気を催しそうになる程に禍々しい光景に、オレはただ恐怖する事しかできなかった。

「戦う力は無くても事態をコタ達に伝える位はできるよな」

 限度を超えた恐怖心と言う物は人の心をあらぬ方向へと狂わせる物なのだろうか? いよいよ頭がオカシクなり始めたオレは、在らぬ度胸を駆り立てられていた。結果、自分でも愚かだと思う『選択肢』を選んでいた。

「へへっ、ホラー映画とかだと、こうやって首を突っ込む奴が最初に死ぬっつーのがお約束だよな」

 空を見上げて小さく溜め息を就いた。

「結花、この街はオレとお前が過ごした大切な思い出の残る街だ」

 沸々と湧き上がる闘志を胸にオレは力強く眼前を睨み付けた。

「尻尾を巻いて逃げ出すなんて、格好悪りぃ姿、お前には見せられねぇからさ」

 オレはただただ走り続けた。判って居る。オレ一人の力ではどう足掻いても勝ち目がない事位、重々承知して居る。それでも、ただ黙って指を咥えて見て居る事なんかできる訳もなかった。だから、オレは明神川沿いに全力で走り続けた。息が切れて、汗が吹き出した。それでもオレは全力で走り続けた。走って、走って、とにかくひたすら全速力で走り続けた。必死になって抗おうとするオレを嘲笑んばかりに空は暗さを増し続けて居た。

 丁度、藤木社に差し掛かった辺りで、さらなる異変が起きた。空を覆い尽くす雲は厚みを増し、唐突に周囲が暗くなった。まるで時間が遡り、再び夜に舞い戻ってしまったかの様な情景に、オレは思わず足を止めた。余りにも異様な空模様の変化に驚かされる。一体、何がどうなって居る!? 慌てて空を見上げれば、ゆっくりと黒い物が舞い落ちて来るのが見えた。雪の様に辺り一面に一斉に舞い降りて来る黒い、煤の様な色合いの物がはらはらと舞い落ちて来る。どう考えても普通の雪の訳がない。

「何だ、コレは!?」

 黒い煤の様な姿を称えたソレは、さながら舞い落ちる雪の様にゆっくりと舞い落ちて来る。だが、冬の街並みを舞う雪とは全く異なる、酷く禍々しい殺気を孕んで居る様に感じられた。

「おいおい、冗談じゃねぇぞ。こんなの体に浴びたら、ぜってぇヤバいに決まって居る」

 だが、周囲には屋根のある様な場所などない。オレは縋る様な想いで藤木社に駆け寄った。無論、辺り一面に降り注ぐ黒い雪から身を守る事などできる訳もなかった。不気味な黒い雪は次々と舞い落ちて来た。明神川の流れに舞い落ちた雪は、毒々しい黒い色合いを周囲に撒き散らしながら溶けてゆく。慌てて周囲を見回してみれば、道路に舞い落ちた黒い雪は周囲を黒く染め上げていた。

「うぉっ!? 腕に着いたしっ!?」

 オレは慌てて腕を拭った。だが、黒い染みの様な物はジワジワと不気味に広がってゆくばかりで、どんなに必死に擦っても落ちる事はなかった。

「くそっ! 一体、何がどうなってやがる!?」

 平常心を必死で保とうとするが、どうする事もできなかった。ただただ動揺し続ける事しかできなかった。異変は尚も立て続けに起きた。辺り一面、黒一色に染め上げられた情景の中、次々と地面から沸き上がる様にして現れる影の様な者達。こいつらは一体何者だ!? 考える間も無く異変は次々と変化を遂げてゆく。やはり、オレの様に戦う力がない奴が迂闊に手を出すなと言う事なのか!? 

(冗談じゃねぇ! これはオレの物語だ。勝手に他人に好き勝手に書き換えられてなるものか!)

 身構えるオレの耳に唐突に太鼓の音色が響き渡った。

「今度は一体……うぉっ!?」

 辺り一面が漆黒の闇夜に呑まれようとする中、明神川沿いに規則正しく篝火が焚かれ、天狗の面を被った屈強なる男達が一斉に太鼓を打ち鳴らして居る光景が飛び込んで来る。こいつらは一体何時の間に現れたのか? もはや、まともに物事を考えるだけの頭は残されていなかった。いよいよ、オレの命も此処までか……本気で死を悟った。

(どうして、つまらねぇ意地なんか張っちまったんだろうな。素直にコタに救いの手を求めていれば、こんな事にならなかっただろうに……)

 どんなに格好付けても、死んでしまったら元も子もない。そんな単純な事さえ判らない程に、オレは視野狭窄に陥っていたとでも言うのか。

(結花、済まねぇ……)

 尚も激しく打ち鳴らされる太鼓の音色の中、上賀茂神社方面から何者かがゆっくりと近寄って来るのが見えた。それは、一際禍々しい殺気を称えた不気味な僧だった。頭から深々と紫色の僧衣に身を包んで居るため、その表情を窺う事はできないが、錫杖を打ち鳴らしながらゆっくりと近付いて来るのが見えた。一歩、また一歩、歩む度にその体からは暗紫色の煙の様な霧が噴き上がっていた。禍々しい殺気だ。オレなんかの目にすら見える程の瘴気から察するに、今まで出会った情鬼達とは別物である事は容易に想像できてしまい、本気で迫り来る死に恐怖させられた。

 奴がこの騒動を巻き起こした張本人に違いない。だが、その張本人に出くわしたところで、どう考えてもまともに太刀打ちできる訳がない。こいつは人ではない。遥か遠くに居ると言うのに、その凄まじい殺気に気圧されて、情けない事にオレは身動きすら取れなくなっていた。蛇に睨まれた蛙とはこう言う心境を指し示すのだなと、妙に冷静に感じて居る事が可笑しかった。一歩、一歩、ゆっくりと歩み寄りながら、そいつは手にした錫杖を打ち鳴らし続けた。

『内に秘めたる怒りの感情を燃やせ』

「な、何だ!?」

 不気味な笑い声混じりに耳元で囁く様に聞こえた声は、間違い無く、あの紫色の僧が囁き掛けたに違いない。かなり距離が離れて居るにも関わらず、どう考えても耳元で囁き掛けたとしか思えない声だった。一体、何がどうなって居るのだ? 理解不能な振る舞いに背筋が凍り付きそうな恐怖を抱かされた。

『その想い、煉獄の炎と化して仇敵を焼き払え』

「うぉっ!?」

『さぁ、力丸よ。京の都を荒涼たる焦土と化せ。我が導いてくれよう。お主を怒りの彼方へと』

「……てめぇが諸悪の権化、黒幕っつー訳か」

 オレの言葉を聞いて居るのか、聞いていないのか、不気味な坊さんはゆらゆらと揺れ動きながら歩む足取りを止める事はなかった。

『我はお主の呼び声に応え、馳せ参じた身』

「はぁ? オレがお前を呼んだだと? んな訳ねぇだろ!」

 頭からすっぽりと僧衣に身を包んで居る事もあって、表情を窺う事はできなかったが、そいつが不敵に笑った様な気がした。その僧衣の向こう側で口元を歪ませて居る姿が容易に想像できてしまった。だからこそ、殊更に背筋が凍り付きそうな想いに駆られた。

『上賀茂神社から放たれたお主の心の叫び、確かに、我の胸に響いた』

「なっ……!?」

 確かに心当たりがある。そうか……そう言う事だったのか。あの日、あの時、結花を想い、怒りの炎に我が身さえも焼き尽くさんばかりの激情に駆られた夜の情景が克明に蘇る。ああ、確かにオレは怒りに我を見失い、鬼にでも、何にでもなってくれると叫んだ。叫んだのは事実だ。だからと言って!

「真に受けてんじゃねぇよ、この変態ストーカー野郎が! 大体、頼みもしてねぇのに、勝手にしゃしゃり出てきて押し付けたぁ、非礼にも程があるぜ!」

 負け犬の遠吠えに過ぎない事位、幾ら馬鹿なオレでも判る。それでも、明らかに禍々しい殺気を放つ奴の手を借りるのはオレ自身の正義に反する。大体、自らの顔さえも隠し通す様な後ろめたい奴が、正義の味方である等、絶対に有り得ない話だ。

『我は敵に非ず。お主に手を貸すべく存在よ』

「未だ言うか!?」

 無駄な振る舞いだ。人ではない、こんな化け物相手にオレなんかが太刀打ちできる訳がないのは判り切って居る。それでも、精一杯の抵抗を見せたかった。例え、この場でこいつの手に掛かったとしても、それでも、自らの信念を捻じ曲げたくはなかった。どこまで馬鹿なのだろうか。オレはこんな場面でさえも意地を張って居る。それでも、惨めに命乞いして殺される位なら、ありったけの罵詈雑言をぶちまけてから死ぬ方がまだマシだ。そう、心の底から思ったのは事実だった。

『あの娘――結花に会いたかろう?』

 思わず息を呑んだ。こいつ……結花の事も知って居るのか? イヤ、考えてみれば、こいつは人ならざる存在だ。人には為せない事を為せても不思議な話ではない。それよりも、何よりも、人の弱味に付け込み、甘言で人を惑わせるとは、情鬼の常套手段だ。やはり、こいつは情鬼であると考えて間違え無さそうだ。オレも随分と馬鹿にされた物だ。こんな安い甘言に惑わされるとでも思って居るのか?

『人の世の摂理は何時の時代も間違いだらけよ。何故、お主だけが苦しまねばならぬ?』

 惑わされる物か。こんなくだらない言葉に惑わされてなる物か。

『力丸よ、お主は知って居る筈。結花が抱えていた深い闇の真実を――』

 流石にこの言葉には、オレは黙って居られなかった。

「て、てめぇ! 結花の事を図々しく語ってんじゃねぇよ!」

 怒りに身を任せて、オレは不気味な坊さんに殴り掛かった。だが、信じられない身のこなしでオレの拳を容易く受け止めて見せた。相変わらず、表情こそ窺えないが、僧衣の向こう側で不気味な笑みを浮かべて居る様な気がして背筋が凍り付きそうな恐怖心に駆られた。だが、不気味な坊さんは信じられない程の力でオレの拳を握り締めるばかりで、逃れられなかった。

「くっ!? 離せよっ!」

 オレの言葉を受けながら、不気味な坊さんは手にした錫杖を静かに打ち鳴らして見せた。涼やかな音色が響き渡る。そのまま、二度、三度、打ち鳴らして見せた。次第にゆっくりと意識が遠退いてゆくのを感じていた。嫌な感覚だ。このまま深い闇に呑まれ、堕ちてしまいそうな、そんな不快な感覚に包まれていた。

『結花は生きる希望を見失っていた。そうであろう?』

 止せ! その話に触れるな! オレは怒りに身を任せて叫ぼうとした。だが、どうしても声が出てこなかった。何故だ!? ゆっくりと体が痺れて、次第に力が失われてゆくのを感じていた。不味い……このままでは、こいつの思い通りになってしまう。必死で抗おうとするが、抵抗すらできなかった。

『さぁ、力丸よ。思い出すのだ。結花から希望を奪ったのは誰であった?』

「止せ……止めろっ……!」

『数年前の大晦日の晩に起きた惨劇、お主はその一部始終を記憶して居る筈』

「あ、ああ……駄目だ。止めろ……」

『惨劇に至った真相をお主は知って居る筈。結花の希望を断ったのは誰であろう?』

「止めろ……っ!」

 次々と脳裏を過ってゆく過去の情景。走馬灯の様に駆け巡る情景を見つめて居るうちに、堪え様のない怒りが燃え上がってゆくのを感じていた。体の中を炎が駆け巡るかの様な感覚に包まれて、体中が熱く、熱く、燃え上がってゆく感覚を覚えていた。それに呼応するかの様に、怒りの感情が湧き上がってゆく。膨れ上がってゆく怒りの感情は炎へと姿を変えて、オレ自身の姿さえも変えようとしていた。煌々と燃え上がる炎に包み込まれた、真っ赤な姿になった自分自身を見つめて居た。これが鬼になると言う感覚か? そんな事を呆然と感じていた。もはや、これまでなのだろうか?

『――さて、力丸よ。今一度、問う』

 表情こそ窺えないが、紫の僧衣の向こう側で、そいつがほくそ笑むのが判った。容易く術中に嵌り、今、まさに堕ちようとして居るオレを嘲笑って居る訳か。何処までも性根の腐った奴だ。

『我が力、欲するか? 我がお主に手を貸してくれよう。我がお主の力になってくれよう』

「お、オレは……」

『案ずるな。我はお主の敵に非ず。さぁ、力丸よ。こちらに来るが良い』

 そう、口にしてから不気味な坊さんは錫杖を打ち鳴らした。二度、三度、響き渡る錫杖の音色。再び意識が遠退かんとして居る。意識が緩やかに崩壊し始め、少しずつ判断力が失われようとしていた。

 ああ、そうさ。どうせ、誰もオレを助けてなんかくれなかった。それならば――手を貸してくれるならば、誰でも良いのかも知れない。素性の知れない奴であっても、もう、どうでも良いではないか? これ以上苦しむのは嫌だ。楽になりたい。救いが欲しい。ああ、目の前には光が見える。そうだ。オレは闇をを彷徨う憐れな虫に過ぎない。光が欲しい。光が欲しい。ただ、救いが欲しい。その光を手にすれば救われるに違いない。オレはその光に向けて手を伸ばした。ゆっくりと、ゆっくりと。もう少し、後少しで光に手が届く。そう思われた瞬間、唐突にごうごうと音を放ちながら何かが駆け抜けていった。轟音が轟いた、そのすぐ後に、凄まじい熱気が駆け巡った。余りの熱さにオレは思わず身を仰け反らせていた。

『くっ!?』

 次の瞬間、オレの目の前に何本物火柱が立ち上った。

「うぉっ!? な、何だよ、コレ!?」

 凄まじい熱気に驚いたオレは慌てて後退りした。突然の出来事に余りにも驚いたのか、足元さえ覚束ないオレは、そのまま尻餅を着いた。今、まさに、この不気味な坊さんの術中に嵌ろうとしていた事実に気付き、殊更に慌てさせられた。だが、それ以上に、今、唐突に噴き上がった火柱は一体何だったのだろうか? 我に返ったオレは慌てて周囲を見回した。

「お、お前は!?」

 そこには意外な人物が佇んでいた。険しい表情を崩す事なく、少年絵師は身構えて見せた。何がどうなって居るのか、オレには状況がさっぱり呑み込めなかった。一つ、判る事は、目の前に居る不気味な坊さんと少年絵師は少なからず敵対関係にあると言う事だけだった。敵の敵である以上、オレに取っては味方だ。素性こそ判らないが、この状況から逃げ延びるためには、どうにかして手を貸して貰うしか道は残されていない。少年絵師はオレにちらりと目線を投げ掛けた。下がって居ろと告げられた様な気がしたオレは、慌てて、その場を離れた。なるほど。派手に立ち振る舞う上で、戦う力を持たないオレが傍に居たのでは足手まといになるだけだ。懸命な判断だと思った。

『……ほう? お主が我の相手をすると申すか? 此れは面白い』

 不気味な坊さんは錫杖を力強く打ち鳴らすと、片手を突き出し何かを呟き始めた。何を呟いて居るのかは小声過ぎて聞き取れなかったが、妙な韻を孕んだ声が響き渡る。しばし唱え続けた所で、再び錫杖を力強く打ち鳴らした。その瞬間、一瞬、地面が揺れる様な衝撃を感じた。一体、何事かと驚いて居ると、不気味な坊さんの足元から炎を身に纏った紅蓮のトカゲが現れる。何が起きたのかと考える間もなく、トカゲ達は一斉に少年絵師目掛けて走り出した。少年絵師は静かに息を着くと、筆を片手に何かを描いた。力強く掲げられた絵から勢い良く吹雪が吹き荒れる。凄まじい冷気が駆け抜ければ、後に残されたのは氷漬けになったトカゲ達だけだった。

『ふふ、この様な小細工など通用せぬか。それならば――』

 不気味な坊さんは錫杖を握り締めると、静かに何かを呟き始めた。禍々しい旋律が響き渡る中、不意に空気が振動する様な感覚を覚えた。そっと手を突き出すと、その手の中から黄金色に瞬く砂が零れ落ちた。サラサラと零れ落ちる砂は、ゆっくりと風に流れてゆく。ゆらゆらと揺らめきながら、黄金色の砂はゆっくりとほたるへと姿を変えた。ゆらゆらと周囲をほたるが舞う。一体、何の真似だ? ほたるを呼び出した所で一体何になる? そう考えて居ると、目の前で不意に、二匹のほたるが重なり合った。刹那、ほたるはみるみるうちに赤味を増すと、次の瞬間、派手に爆ぜて盛んに燃え盛る火の粉となった。

「うぉっ!? な、何だよ、こいつらは!?」

 気が付いた時には辺り一面、火薬の様な振る舞いをみせるほたる達に取り囲まれていた。これでは、迂闊に逃げる事もできない。その上、うっかりほたるに触れようものならば、オレは一瞬で、炎に包み込まれ、呆気なく消し炭になるであろう事が容易に想像が尽き、背筋が凍り付いた。オレはその場から身動きすら取れなくなった。動揺するオレを余所に、冷静に筆を構えると少年絵師は大きな袋を描き出した。この場面で袋とは、一体、何をしようとして居るのだろうか? 考え込んで居ると、絵から大きな袋が飛び出した。速やかに袋を構えると、そのまま袋の紐を解いて見せた。次の瞬間、袋から猛烈な風が吹き出した。風に煽られたほたる達は、次々と周囲の木々や、家の壁にぶち当たっては勢い良く炸裂した。

「マジかよ!? 洒落にならねぇっての!」

 オレはただ頭を抱えて情けなく叫ぶ事しかできなかった。人ならざる力を持つ者同士の戦い、その渦中に置かれたオレは正直、生きた心地がしなかった。次々と爆ぜてゆくほたるの中、何時の間にか不気味な坊さんは行方を眩ませていた。破裂し続けるほたるに気を取られて居る内に身を眩ませたのか。少年絵師も筆を構えたまま周囲を警戒して居る。

 唐突にオレの目の前に姿を現すと、そのまま不気味な坊さんは信じられない身のこなしで少年絵師に殴り掛かった。意表を突かれた少年絵師は両腕で必死に食い止めようとするが、人の腕で錫杖を受け止める事などできる訳もない。激しい衝撃をもろに受け止めた少年絵師が派手に転倒する。転倒した瞬間、手にした筆がカラカラと音を立てて転がり落ちる。その瞬間を狙って居たのか、不気味な坊さんが手にした錫杖を大きく身構える。

『絵を描けぬお主等、赤子同然よ。さぁ、必死で抵抗するが良い!』

 体勢を崩し、倒れ込んだ少年絵師に容赦無く錫杖が振り下ろされた。思わずオレは目を背けた。だが、響き渡ったのは乾いた金属音だけだった。

「……なに!?」

 何時の間に身を翻したのか、少年絵師の姿はそこにはなかった。

『現身か……小賢しい真似を』

 不気味な坊さんは周囲を警戒する様に振る舞いながらも、静かに錫杖を握り締めた。迎え撃つつもりなのだろう。なるほど。あの少年絵師は、絵を描く事ができなければ力を発揮する事ができない訳か。絵を描く隙さえ与えられないのでは、その力は封じられてしまうに等しくなる。描いた物が現実の物になると言う能力は絶大ではあるが、描けなければ発揮する事はできない。そんな事を考えて居ると、唐突に凄まじい風が吹き始めた。

「うぉっ!? な、何だよ、これ!?」

 とても立って居られない程の強烈な風が吹き付ける。イヤ、実際には風が吹き抜けて居るのでは無さそうだ。凄まじい速度で移動して居る事もあり、その姿を正確に捉える事はできなかったが、何か、四足の動物が超高速で駆け抜けてゆくのが感じられた。次々と駆け抜けてゆく動物達に切り刻まれ、不気味な坊さんの僧衣が無残に切り裂かれてゆく。

『くっ!? 姑息な真似を! 邂逅絵師よ、次に会う時は必ず仕留めるぞ!』

 捨て台詞を残すと、不気味な坊さんは無数の黒い闇の欠片となって、その場から四散した。後に残されたのは静寂だけだった。不気味な坊さんが姿を眩ませるのと同時に、禍々しい気配が消え失せようとしていた。ようやく危機が去った事を理解した所で、一気に力が抜けた。その場にへたり込むオレに歩み寄ると、少年絵師はそっと手を差し伸べて見せた。

「おう。ありがとうな……」

 不思議な感覚で一杯だった。今更になって、良く良く考えてみれば、この少年絵師と出会ったのは夢の中だ。夢の中で出会った存在が、今、目の前に佇んで居る。普通に考えれば不可思議な話だ。だが、妙な既視感に包まれたオレは、この不思議な現実を素直に受け止める事ができた。

「お前が手を貸してくれなければ、オレは情鬼になっちまっていたかも知れない。ありがとうな」

 オレの言葉に少年絵師は静かな笑みを浮かべたまま、頷いて見せた。それにしても、こいつは一体何者なのだろうか? 夢の中に現れた事も不思議だが、結花を描いて見せた事も驚かされた事実だ。そして、今、危機に瀕したオレを救ってくれた。敵でない事は間違いないが、その素性には少なからず興味を惹かれる。

「なぁ、お前は一体何者なんだ? どうしてオレを助けてくれたんだ?」

 オレの問い掛けに少年絵師は静かな笑みを浮かべるだけで、何も応えようとはしなかった。興味惹かれて仕方がなかったのは事実ではあったが、無理に聞き出して嫌われてしまうのも、それはそれで困る。

「へへっ、ヒミツなのかよ? じゃあ、無理に聞き出したりしないさ」

 オレの言葉を受け止めながら、少年絵師は満足そうに頷いて見せた。そのまま、懐から小さな鈴を取り出して見せた。

「お? 鈴か?」

 少年絵師は静かに鈴を鳴らして見せた。チリーン。涼やかな音色が響き渡る。早朝の社家の町並みに響き渡る心地良い音色。その音色を耳にした瞬間、視界が揺らぐ様な感覚を覚えた。体中からゆっくりと力が抜けて、立って居る事さえできなくなりそうになった。このままでは転倒する。そう思ったオレは慌ててしゃがみ込んだ。チリーン。涼やかな音色が響き渡る。

 だが、再び顔を挙げた時には、そこには少年絵師の姿はなかった。辺りを見回してみるが、何処にも姿は確認する事はできなかった。代わりに、もう一度だけ、チリーン。涼やかな音色が響き渡った。

 周囲を見回してみても、何事もなかったかの様な社家の町並みが広がるばかりだった。空は明け方の清々しい様相を呈し、小鳥達のさえずる声が響き渡る。明神川の流れゆく涼やかな音色が響き渡り、続けて蝉の鳴き声が響き渡った。微かに夜の暗さを残す中、朝日が顔を覗かせようとしていた。何時もと変わらない朝が訪れ、一日が始まろうとして居る。そんな穏やかな光景だけが広がっていた。非日常の襲来も過ぎれば、再び、変わる事のない日常が戻って来る。当然の摂理と言えば当然の摂理なのかも知れない。

「……ったく、可笑しな奴だぜ」

 判らない事だらけだった。だけど、幾つか判った事がある。先ず、あの不気味な坊さんは間違い無く敵だ。それも半端じゃない力を持った禍々しい相手だ。次に、オレを助けてくれた少年絵師だ。

「あの不気味な坊さん、『邂逅絵師』と呼んでいたな。それが、あいつの呼び名と言う事か?」

 唐突に現れた不気味な坊さんはオレの願いを聞き入れてくれると口にしていた。戯言に過ぎないが、怒りに我を見失ったオレが願った情鬼になると言う道。その道へと誘う様に振る舞った。だが、その思惑は失敗に終わった。あの少年絵師――『邂逅絵師』がオレに手を貸してくれたから。もっとも、オレの味方である事までは判明した物の、その素性は一切不明だった。

 判らない事だらけだ。オレを軸にして動き出した物語――興味惹かれない訳がない。だが、好奇心に駆られるがままに行動を起こすのは危険過ぎる。今回は危機を回避する事はできたが、あの不気味な坊さんが居る限り、オレの身に迫る脅威は去る事はない。いずれにしても、これ以上、オレ一人で首を突っ込むのは危険過ぎる。どう考えてもオレ一人の手に負える様な話では無くなって居る。此処は、大人しくコタ達に洗いざらい話を伝えて、一緒に考えて貰うとしよう。

 オレは未だ、酷く震える足に必死で力を篭めて家へと続く道を歩み出した。時間にすればほんの僅かな時間の事だったのかも知れないが、派手に体力を消耗させられてしまった。いずれにしても気を抜かずに学校へと向かうとしよう。

◆◆◆45◆◆◆

 学校へと向かう道中も、警戒心を解く事はできそうになかった。もっとも、警戒した所で、あれ程の力を持つ坊さんが相手では、オレ一人では到底太刀打ちできる訳がない。再び、坊さんに襲われたら一貫の終わりだ。日常の生活の中、命の危機と背中合わせと言う非日常が顔を覗かせて居る。そんな緊迫した空気の中、何時もと変わる事のないバスに揺られながらオレは学校への道を移動していた。今、思い出しても震えが止まらなくなる。威勢良く啖呵を切ったにしても、いざ、死と隣合わせだったと言う現実を目の当たりにした時、今更になって恐怖に押し潰されそうになる。

 だが、オレの不安とは裏腹に、バスの車内では特に何か奇妙な出来事に遭遇する事も無く、無事に学校へと辿り着こうとしていた。拍子抜けさえ覚えずに居られないが、生命の危機から脱する事ができたのは有り難い事だ。後は学校へと続く緩やかな坂道を上り切るだけだ。いつもと何ら変わる事のない通学路だと言うのに、既に体力を使い果たした様な状態に陥っていた。それでもただ、必死の想いで一歩ずつ歩み続けた。

 変わる事のない日常の中に忍び寄る非日常の出来事との出会いを体験した今、少なからず死と言う物を意識させられた。イヤ、事と次第に寄っては、より一層、恐ろしい体験をせざるを得なくなっていたかも知れない。情鬼に成り果ててしまったとしたら、その時、オレはコタ達の敵になってしまう事になる。それは絶対に避けたい。

 変わる事のない日常――日頃、特に気に留める事も無く過ぎ去ってしまう景色も、見納めになるかも知れない。そう思ってしまうと、ただ何事もなかったかの様に過ぎ去ってしまうのが忍びなくなる。縁起でもないと理解して居るが、それでも考えずには居られなかった。

 ふと、空を見上げる。風が吹き抜け、街路樹の木々が揺れ動く音色が涼やかに響き渡る。すっかり汗ばんだ体に涼やかな風が心地良かった。しばしの涼を感じた所で、オレは再び歩き出した。

 見慣れた校門を抜けて校庭に至る。酷く蒸し暑い。汗が後から後から滲み出て来る。腕で乱暴に汗を拭いながら歩き続けた。校庭を抜けて下駄箱で上履きに履き替える。後は急ぎ、教室へと向かうだけだ。いずれにしても、コタ達に状況を伝えない事には、オレが助かる道は見付けられない。それだけは間違いなかった。思わず大きな溜め息が毀れる。少なくてもオレは今、こうして生きて居る。イヤ、生きて居る。そう信じたかった。生きて居る。オレは生きて居る。それを確かめずには居られなかった。

「大丈夫だ……オレは生きて居る。今、こうしてこの場に立って居る」

 とにかくオレは教室へと向かった。階段を一歩ずつ上り、ようやく教室の前まで辿り着いた。コタ達が既に来て居る事を切に願う。祈りを込めて、オレは教室の扉を開いた。どうやら、コタ達は既に登校していたらしい。イヤ、むしろ、オレが訪れるのを待ち侘びていたと言わんばかりに見えた。普段は席に座ったまま、動く事無く皆のやり取りを見つめて居るコタが、オレの姿を確認するや、険しい表情を称えたまま近付いて来た。勘の鋭いコタの事だ。既に何が起きていたか把握していても不思議ではない。

「……無事に学校まで来る事はできたか」

「へへっ、まぁ、正直な所、既にヘロヘロだけどな」

「凄い汗なのじゃ。リキ、大丈夫なのじゃ?」

「ああ、辛うじて大丈夫だ。ロック、ありがとうな」

 皆の姿を目の当たりにした事で、一気に緊張から解き放たれた。張り詰めていた緊張が解けたついでに、体中から一気に力が抜けてしまった。危なく崩れ落ちそうになった所を、ロックに支えて貰って、何とか事無きを得た。

 席に着いた所で、さっそく皆がオレの周りに集まって来る。既に、何かが起きていた事は掴んで居るのだろう。話が早くて助かると言う物だ。オレは皆の顔を見回してみた。皆、一様に、真剣に考えてくれて居る事が窺える。それならば、こちらも本気で接させて貰わなければ礼儀に反する。今朝、体験した出来事の一部始終を聞いて貰うとしよう。

「何処まで状況、掴んで居るか判んねぇから、あった事、全部話すぜ」

「ああ、頼む」

 オレはコタ達に早朝に体験した出来事の一部始終を語って聞かせた。唐突に空に暗雲が立ち込めたかと思えば、胎動するかの様に不気味に蠢き始めた事。続けて空から舞い落ちて来た、あの禍々しい黒い雪の事。それから、突如現れた篝火と太鼓を打ち鳴らした男達の事。一連の出来事を仕掛けて来た紫の僧衣に身を包んだ不気味な僧の事。オレを言葉巧みに惑わそうとした事。社家の町で今朝、遭遇した出来事の全てを、一部始終を打ち明けた。ただ、絵描き小僧――『邂逅絵師』の事だけは伏せて置いた。何故、そうしたのかは自分でも良く判らない。ただ、絵描き小僧は少なからずオレの味方だ。迂闊に日の目に晒す事で、あいつの行動を制限する様な真似はしたくなかった。コタ達の手を借りなければ、どうにもならない部分がある一方で、オレ自身の手で決着を付けたい想いもある。我儘な話なのかも知れないが、そこには結花との思い出も深く介在して居る。できる事なら、皆には、必要以上に結花の事を話したくなかった。結花との物語は、オレと結花、二人以外の誰にも触れて欲しくなかった。身勝手なのかも知れないが、それでも、どうしても譲れない部分もある。非力な身の分際で、何を言うかと思われるかも知れないが、それでも、自身の信念は貫き通したかった。

「……あの不気味な坊さんが途中で手を引かなかったら、今頃オレは間違いなく、ここに居なかった」

 正直、余りにも鮮烈なる恐怖体験をしたせいか、逆に現実味が薄れつつある様に感じられた。まるで、他人事を話すかの様に妙に冷淡な口調で事情を説明する自分が滑稽だった。

「力丸、紫の僧衣に身を包んだ僧――と言ったな?」

「ああ。気味の悪い坊さんだったぜ。頭から深く被っていたから、顔は見えなかったけどな」

 オレの言葉にコタが息を呑むのが聞こえた。何か心当たりでもある相手なのだろうか? いずれにしても、オレからしてみれば生命を脅かす恐ろしい相手である事には変わりはない。しかも、厄介な事にオレ一人では戦える相手ではない。皆の手を借りなければ、生命の危機から脱する事は永遠に叶わない。絶対に。

「それに――」

 コタは目を伏せると、小さく首を横に振って見せた。

「黒い雪か……嫌な話だな」

 何処か深刻な雰囲気を醸し出す振る舞いに、皆が静かにコタを見つめる。そんな皆の振る舞いを余所に、コタは重々しい口調で続けて見せた。

「クロから聞かされた話が、そのまま現実の物となったと言う訳か」

「へ? それじゃあ、コタはあの不気味な坊さんの事を既に知っていたのか?」

 オレの言葉にコタは険しい表情を称えたまま首を横に振って見せた。

「その紫の僧衣に身を包んだ坊さんの方では無く、黒い雪に纏わる話の方だ」

 そう切り出すと、コタは皆の顔を見回しながら、話を続けて見せた。

「クロから聞かされた話なのだが、最近、市内の各地で目撃されて居るらしくてな。空から降り注ぐ、煤の様に黒い雪がな?」

「まさしく、オレが体験した奴だぜ!」

 オレの反応を見届けながら、コタは静かな口調で続けて見せた。

「どう言う仕組みかは俺も判らない部分ではあるが、その黒い雪は人々の心から強引に情鬼を引き摺り出せる代物と聞く」

 強引に情鬼を引き摺り出す。そんな事ができる物なのだろうか? イヤ、あの不気味な坊さんはオレの心を掻き乱し、自らの意のままに操ろうとしていた。確かに、少なからずオレの心にも迷いは在ったのは事実だ。だが、その想いを操る事ができると言う事実が恐ろしく思える。あの黒い雪をばら撒いたのが不気味な坊さんなのだとすれば、人々の心から強引に情鬼を引き摺り出す事も為し遂げられるのだろう。そんな、有り得ない話を現実の物にできたとしても、何ら不思議では無さそうに思えた。

「それにしても、次から次へと、ぼく達を狙う刺客が登場するよねぇ」

「皮肉にも、ワシらはそういった奴らと戦う力を手にしたからのう。敵もワシらが目障りなのじゃろう」

 なるほど。それが、オレを狙った理由の一つと言う事になりそうだ。テルテルは虫を操る力を持って居るし、ロックもまたシロや愛宕山のカラス天狗達との関わりを持って居る。コタに関しては言うまでも無く、クロと行動を共にして居る。そうなって来ると、残るのは太助かオレかと言う『選択肢』になる。もっとも、太助には賢一のアニキと言う強力な後ろ盾が居る。そう考えると、誰の後ろ盾もないオレを狙うのが一番楽だと言う話になる訳か。その上、オレは結花の事で心に隙ができやすくなって居る上に、さらに悪い事に、結花の命を奪ったひき逃げ犯への尽きる事のない憎悪も渦巻いて居る。守りが弱く、破壊力絶大の起爆剤と来れば、ますます利用価値は高いと言う事になる訳か。

 今朝、遭遇した状況が再び克明に記憶の中に蘇る。改めて生命の危機との背中合わせになっていた事実を叩き付けられた様な気がして背筋が冷たくなった。そんなオレの震えとは裏腹に、窓の外に広がる景色は何時もと何ら変わらない光景だった。何処までも広がる青空、蝉の鳴き声、教室内に響き渡る級友達の他愛もない話し声。そこには確かに変わらない日常が佇んでいた。だが、オレを狙う非日常は確実に忍び寄って居る。足音を響かせる事も無く、ただ静かに闇に、影に紛れてオレを狙って居る。恐ろしい事だ。一旦は退いたとは言え、根源的な原因を取り除いた訳ではない。今は皆と一緒に居るから良い物の、また一人になれば生命の危機と背中合わせだ。そう考えると震えが止まらなくなる。

「なぁ、コタ。オレはどう振舞えば良いんだ?」

 オレの問い掛けに皆が一斉にオレに目線を投げ掛ける。

「知っての通り、オレには何の力もねぇから、奴に狙われたらどうする事もできない。不要不急の外出は避けろとかさ、何か、オレでもできる事があるなら教えてくれ」

 少なくても情鬼が絡む話になってしまうと、オレにはどうする事もできなくなる。この部分に関しては、コタ達に救いの手を借りる以外に道はないのは、どうする事もできない。だが、オレの思惑とは裏腹に、コタが口にしたのは意外な返答だった。

「最善は尽くす」

 予想もしない言葉に、思わず皆が一斉にコタの顔を覗き込む。それでも、コタは怯んだ素振りを見せる事無く、力強く腕組みして見せた。

「済まないな、力丸。荒っぽい手口とは裏腹に、相当に用心深い性分の相手のようでな。実は既に、クロ達が上賀茂神社周辺を探って居るらしいのだが、何の手掛かりも掴めずに、困窮して居ると言う報が入ったばかりだ」

「マジかよ!? でもよ、確かに、黒い雪が降ったの、見たんだぜ!?」

 思わず声が大きくなってしまう。一瞬、訪れる沈黙。皆が唐突に声を荒げたオレに目線を投げ掛ける。居た堪れなくなったオレは静かに俯く事しかできなかった。自分の事しか考えていないと罵られても仕方がないが、それでも、生命の危機と背中合わせになって居ると言う状況は余りにも恐ろし過ぎる。オレに取ってはコタ達が最後の頼みの綱となる。ここで救いの手を得られなければ、オレは本気で死と向き合わなければならなくなる。冗談ではない! 常に生命の危機と背中合わせの状況が続くなど考えられない。鼓動が高鳴る中、コタが静かに口を開く。

「今までの騒動はいずれも特定の地域内で起きていた。だからこそ、迎え撃つ事もできたが、今回の事案は厄介な事に、地域を問わず発生して居る。市内の各所で発生して居ると言うだけで、何ら有力な手掛かりが得られずに居る。今、クロ達も全力で調査に当たって居るが、何の痕跡も残されて居らず、調査は難航して居るそうだ」

「マジかよ……」

 コタは済まなそうにオレを見つめたまま、そっと返して見せた。

「皆が思う程に、カラス天狗の力は万能な物ではない」

「あ、ああ、イヤ、別にクロの事責めてる訳じゃねぇからさ……」

「その位判って居る。とは言え、厄介な相手である事には変わりはない」

 コタは俯いたまま、小さく溜め息を就くと、苛立ち交じりに続けて見せた。

「皆、注意を怠らない様に頼む。それから、万に一つ、黒い雪に遭遇する事があったら、すぐに俺に連絡を入れてくれ」

 決定打を打ち出せない事に、コタ自身ももどかしさを覚えて居る様に見えた。どうも、オレはクロの事を――カラス天狗の事を勘違いしていたらしい。神も仏もいない世の中ならば、オレ達にはない力を使いこなせるクロ達は万能なのではないだろうかと、実に身勝手な思い込みをしていた。少し考えれば判る事だった。この世の中に完全な存在など、一つもある訳がない。クロ達、カラス天狗とて、その例に漏れる事はない。だけど、それは、同時に、あの坊さんとて万能な存在ではないと言えるハズだ。実際に、あの坊さんが絵描き小僧の放った一撃を喰らって引き下がるのを目の当たりにしたのだから。そう考えると、今のオレに取っては、絵描き小僧の手を借りる事が一番の近道の様に思える。だが、不思議なのは、どうしてあいつは見ず知らずのオレに手を貸してくれるのだろうか? 未だ素性が明らかになっていない以上、必要以上に頼るのは危険かも知れない。疑うつもりはなかったが、それでも、死と背中合わせになる様な体験をした以上、慎重になるのは無理もない事なのかも知れない。もっと、絵描き小僧の事を知りたい。手を貸してくれると言うのであれば、理由は置いておいても、力になって欲しいのは事実だ。だが、どうすれば再び会えるのだろうか?

「はーい、それではホームルーム始めますよー」

 考え込んで居ると、山科が颯爽と教室に入って来た。あれこれ考えるのは一旦、中断だ。続きは昼休みか、あるいは放課後に考えるとしよう。今は余り要らぬ事に力を割くのは控えるべきだ。それで無くても無駄に体力を消耗させられた以上、無理はしない事が懸命だ。

◆◆◆46◆◆◆

 放課後、オレは何かに誘われる様に屋上を訪れていた。高台から見下ろす京の街並みが心地良く感じられる。日も傾き始め、夕暮れ時へと移り変わる途中の景色が醸し出す、物悲しさに寄り添うのは嫌いではない。時折吹き抜ける風を感じながら、夕暮れ時の街並みに響き渡る蝉の声に耳を傾けていた。時折、車が往来する音が混ざり合うのもまた、風情があって心地が良かった。

(あれこれ考えてみたけれど、結局、あの坊さんが敵だと言う事以上の事は判らなかったな)

 早朝に体験した出来事を思い出すと、背筋に冷たい物が走る。あの時、絵描き小僧が手を貸してくれなければ、オレはここに居なかったかも知れない。そう考えると、心底、ゾっとさせられる。あの時、黒い雪が付着した腕は黒い痣の様な物が広がっていたが、今は何ともなくなって居る。これもまた、早期に絵描き小僧が手助けしてくれたお陰なのかも知れない。

 遠く、遠く広がる夕暮れ時の空を見つめて居た。何処までも果てしなく広がる夕暮れ時の空は言葉にできない物悲しさと体温の様な温かな憂いに満ちていた、だからこそ、結花と共に過ごした一時を思い起こさずには居られなかった。結花と歩んだ社家の町並みを想い、オレはただ、呆然と夕暮れ時の空模様を見つめて居た。このまま吸い込まれてしまうのも悪くない。憂いに満ちた夕暮れ時の空模様の中、大空高く舞い上がれば結花に会えるだろうか? 言葉にできない誘惑に惑わされつつあったが、それもまた心地良い感覚だった。もう一歩、後一歩、踏み出せれば未来は変わるだろうか? 思わず一歩を踏み出した所で唐突に声を掛けられた。

「こんな所に居るとはな」

「おお?」

 不意に背後から声を掛けられて、オレは驚きついでに振り返った。静かな笑みを称えたまま、コタがゆっくりと歩み寄って来る。そのままオレの隣に並ぶと、屋上からの景色を見下ろして見せた。

「輝達は今日も何処かに冒険に出掛けるらしい」

「へへっ、のんきなもんだぜ。こっちは生命の危機と隣り合わせだっつーのにな」

「まぁ、俺がお前の隣に居てくれる。それとも――」

 オレを挑発する様な目線を投げ掛けながら、コタは可笑しそうに笑って見せた。

「俺では不服か?」

 相変わらずコタは良い性格をして居る。妙に気取った振る舞いが可笑しくて、オレは思わず吹き出しそうになった。

「へへっ、不服な訳ねぇだろ?」

 何だか良い気分になったオレは、笑いながらコタの肩に腕を回して見せた。そんなオレの上機嫌に釣られたのか、何時に無く上機嫌そうに振舞いながら、コタは再び街を見下ろして見せた。

「ここには俺とお前しかいない。好都合と言えば、好都合だな」

「へー、それで、何が好都合なんだよ?」

「ほう? 俺に言わせたいのか?」

 相変わらずコタは楽しげに振舞って見せる。テルテル達といい、コタといい、良い気な物だ。こっちは生命の危機と背中合わせの危機的状況に身を置く事を強いられ、深刻に悩んで居ると言うのに。あるいは、だからこそ、要らぬ事を考えずに済む様に振舞ってくれて居るのかも知れない。物事は善意に捉えておく方が良いだろう。

「……今日も暑いよな。屋上に出れば、風通しも良いだろうし、ちったぁ涼しいかと思ったけれど、日差しがジリジリと照り付ける。お陰で汗が止まらなくてな。へへっ、既に夕立に降られた様な状況になっちまってな」

「ああ、俺も汗が止まらなくてな。だが、流れるがままに汗を流すのも心地良い」

 コタは遠くを見つめたまま呟いて見せた。

「力丸は夏が好きだと言っていたな」

「おう。寒いのは苦手でな」

「ふふ、奇遇だな。俺も同じだ。夏と言う季節が好きでな」

 寒い季節が苦手なのは事実だ。どうにも、寒さには弱い性分らしく、蒸し暑い夏の方が過ごし易くて好きだ。それに――寒い季節になると、どうしても結花の事を思い出さずには居られなくなる。結花が死んだのは大晦日の晩だった。シンシンと雪が降り頻る中、結花は死んだ。だから、冬は好きではない。結花の事を思い出さずに居られなくなり、どうしようもない哀しみに駆られるから好きになれない。今は暑い季節だから良い物の、寒い季節になると人肌が恋しくなる。これもまた本能に起因する部分なのかも知れないが、今が蒸し暑い夏の最中で良かった。冬の身を切る様な冷たい北風の中、コタと二人きりになったら、それこそ、本能を抑えられなくなってしまうかも知れない。もっとも、それも悪くない。不測の事態に陥ってしまったとしても、それは本能のせいだ。オレは悪くない。そう言い訳する事もできる。卑怯な逃げ口上だ。

「なぁ、力丸」

「お、おう。何だ?」

 コタが何かを企てて居る事は、少なからず予想が付いて居る。ただ、何を、どう振舞おうとして居るかが見えない。感情がすぐに顔に出てしまうオレとは対照的に、コタは何を考えて居るかが表情に出ない。だから、今、コタが何を企んで居るかは予想も付かない。そんなコタは、時として、心を深く抉る様な事を平然と口にする事もある。一体、何を口にするのだろうか? そう考えると身構えずには居られない。だけど、コタの想いも判って居る。現実と向き合うとから逃げ続けるオレを、敢えて、現実と向き合わせようとして居るのかも知れない。もっとも、今日のコタの振舞いは、どうも、何時もと違う様に思えてならない。だからこそ、何時も以上に身構えずに居られなくなる。コタの事だ。そんなオレの想いなど容易く見抜いて居るに違いない。そして、オレがコタの振る舞いに疑念を抱く事さえも見越して、それすらも楽しんで居るのだろう。まったく、性悪な事だ。

「話たくないのであれば、無用な詮索は慎もう」

 嫌な前フリだ。俺はこれからお前に騙し討ちを仕掛けるぞ? そんな宣戦布告、止めてくれ。そう言いたかったが、言ったところで手を引くとは思えなかった。思わず溜め息が毀れれば、コタは声も出さずに笑って見せた。

「お前は実に判り易い奴だ。騙される物かと、全力で身構えて居るのが手に取る様に判る」

「う、うるせぇな……」

「――何か隠して居る事がある。違うか?」

 一瞬笑って見せても、次の瞬間には獲物を狙う肉食動物の様な表情へと移り変わる。その切り替えの早さに圧倒させられる。コタの華麗過ぎる振舞いに、オレは思わず息を呑まずに居られなかった。そんなオレの振る舞いさえも、コタは相変わらず鋭い眼光で見つめるばかりだった。些細な振る舞いであっても見逃しはしないぞ? そんな強い気迫に満ち溢れた眼光に、オレはただただ動揺させられるばかりだった。

 ああ、そうさ。隠して居る事は確かにある。だけど、オレはその問い掛けに真正面から向き合うつもりはなかった。イヤ、向き合えなかったと言うのが本当のところだ。あの時、オレに『選択肢』を投げ掛けた、当の本人を前にして、その『選択肢』の結末を口にする事はオレにはできそうになかった。つくづく自分の度胸の無さが嫌になる。だからなのだろうか。あの時、高瀬川で出会った能面を身に着けたコタと結花、二人に突き付けられた『選択肢』が再び、鮮明に脳裏を駆け巡った。

『力丸君、あたしを選んでくれるよね?』

『力丸、俺を選んでくれるよな?』

 オレはその『選択肢』に対して、結花と共に歩むと答えた。それは偽りのない事実だ。今更、否定するつもりも、弁明するつもりもない。何よりも、オレは結花と共に歩みたいと切に願った。心の叫びに従った末の『選択肢』だ。今更、コタに手を貸して貰うと言うのも虫が良すぎるし、何だか、反則して居るみたいで気分が悪い。もちろん、情鬼との対決に関わる部分に関してはオレではどうする事もできない。だけど、結花との事は他の誰にも立ち入って貰いたくないと言うのが本音だ。オレ一人の手ではどうする事もできなくならない限りは、例え、コタと言えども触れて欲しくなかった。トモダチなのに――と言われたら、オレは何も言い返せない。だけど、オレにも譲れない物はある。曲げる事のできない信念もある。オレみたいにどうしようもなく情けない、駄目な奴でも決して譲れない物の一つ位はあるのだ。

「……珍しく、強情な振る舞いを見せる物だ」

 コタはどこか寂しそうに笑いながら、静かに呟いて見せた。

「お前がそれ程までに頑なに口を閉ざす程の隠し事であるならば、強引に立ち入るつもりはない」

「……済まねぇ」

「判って居る」

 そう一言だけ口にすると、コタは離れる様に歩き出した。背を向けたまま、コタは続けて見せた。

「お前は今までにも、おのれの腕一本で道を切り拓いて来た身だ。俺達を信じていないのでは無く、ただ、今回の事案に関しても自らの手でやれる所までやりたい。そう考えて居るのだろう?」

 厳密には少し違う。だけど、コタはやはりオレの事を良く見てくれて居る。大枠ではコタの考えにズレはなかった。

「それならば、要らぬ手出しをするのは控えよう」

 それだけ言い残すと、コタは屋上の扉へと向かって歩み始めた。夕日に照らし出されたコタの背中は萌える様な茜色に染まっていた。去り往く背中をジッと見つめていたが、不意に、振り返るとオレの目をジッと見据えたまま力強く笑い掛けて見せた。振り返ったコタの顔もまた、萌える様な茜色に染まっていて、何だか戦地へと赴く友を見送るかの様な眼差しだった。そこにあったのは確固たる決意を感じさせる力強い笑みだった。イヤ、決意と言うよりも――『覚悟』と言った方が適切だったのかも知れない。友を信じればこそ、手を貸す事も無く戦地に赴くのを見送る事もできると言う事か。勝手な思い込みかも知れないが、微かな寂しさを孕んだコタの笑みからオレは目を離す事ができなかった。夕焼け空を背に佇む港。そこから船に揺られて戦地へと赴く。体験した事のない情景なのにも関わらず、戦時中の様な感覚に包まれていた。

「手が必要になったのであらば遠慮は要らない。他の皆に話辛ければ、俺一人で話を聞かせて貰う」

 そう、口にしてからコタは静かに笑って見せた。

「だから、余り一人で気負うな」

「……ああ。コタ、ありがとうな」

「気にするな――俺とお前の仲だろう?」

 それだけ言い残すとコタは静かに立ち去って行った。要らぬ手出しをするのは控える。その言葉通りの振舞いだった。コタなりに精一杯の気遣いをしてくれて居るのが判ったからこそ、嬉しかった。

「ありがとうな、コタ。オレの事信じてくれて」

 そう呟いた瞬間、不意に、一陣の風が吹き抜けた。校庭に植えられた木々達がざわめく音が響き渡る。続けて、またしても涼やかな鈴の音色が響き渡った。再び異変が起きるのか? 今度は一体、何が起ころうとして居ると言うのか!? 身構えた瞬間、意識が遠退いた。目の前の視界が揺らぎ、立って居るのもやっとな状態に陥っていた。途切れゆく意識の中、ある情景が浮かんだ。

『偶然なんてないの。すべては必然なの』

 耳元で結花の声が聞こえた気がした。遠退く意識の中、確かに鈴の音色が鳴り響くのを感じた。一瞬、視界が激しく揺らいだ。余りの揺らぎに立って居る事さえできなくなったオレは膝から崩れ落ちた。尚も鈴の音色だけが鳴り響いて居る。涼やかな鈴の音色と共に、誰かが歩み寄る足音が聞こえた。微かに引き摺る様な草履の足音は聞き覚えのある音だった。足音の主はゆっくりとオレの目の前まで訪れた。そっと顔を挙げれば、予想通り、そこには絵描き小僧が佇んでいた。

「……ようっ」

 オレは絵描き小僧に声を掛けた。不思議な気分だった。良く見知ったトモダチに声を掛ける様な感覚で、実に自然に声を掛けていた。絵描き小僧はオレの顔を覗き込みながら、静かに頷いて見せた。

「今朝はありがとうな。お前が手を貸してくれなかったら、今更、オレはここに居なかったかも知れねぇからな」

 オレは何時もの調子で手を突き出して見せた。絵描き小僧は戸惑った様な表情で首を傾げて見せた。なるほど。何を意図して居るのか伝わらなかったか。それならば簡単な話だ。

「へへっ。握手! 仲良くしようぜ?」

 オレが何を求めて居るのかを理解したのか、絵描き小僧の表情が明るくなる。どこか照れ臭そうな表情を浮かべながらも、そっとオレの手を握って見せた。握り締めた手の感触は驚く程に熱く、また、想像よりも遥かに力の篭った感触だった。予想もしない力強さに驚かされた。

「お? お前、結構、腕っぷし強いんだな」

 あどけない顔には似合わぬ意外な握力に驚かされたオレは、立ち上がりついでに絵描き小僧をシゲシゲと見つめていた。オレに見つめられるのが照れ臭いのか、絵描き小僧は頬を赤らめながら困った様な素振りを見せた。

「へぇー。お前、意外と体格良いんだな。へへっ、オレと勝負してみちゃうか?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は困った様な顔で笑い返して見せた。笑い返しながら、絵描き小僧はそっと一枚の絵をオレに見せてくれた。

「おお? これは……?」

 相変わらず、恐ろしく精密な絵を描く物だ。だが、意外な事にその絵はオレを描いた物だった。どこかの駅で列車を待って居るオレの姿だったが、何故、この絵をオレに見せたのだろうか? それにしても、これはどこの駅だろうか? 見覚えのある駅の風景である事は間違いないのだが、それが何処であるのかはスグには出てこなかった。考えついでに、オレはそっと絵描き小僧の表情を覗き込んで見せた。絵描き小僧はどこか寂しげな表情を見せると、そっと目を逸らした。何か言い辛い事でもあるのだろうか? それにしても、見覚えのある駅の風景だが、これは一体どの駅を描いた物だろうか? あれこれ考えるうちに、唐突にオレの脳裏にある駅の情景が蘇った。不思議な物で、唐突に、だけど至極自然に脳裏に浮かんできた。確かに、そこは見知った駅であった。

「ああ、思い出した。この場所は京阪の伏見稲荷駅だな」

 思い出せたところで、今一度、確認の意味も込めて、絵描き小僧の絵をシゲシゲと覗き込んだ。

「周囲の景色から察するに、こりゃあ、上り方面のホームだな?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は何も答えなかった。だけど、どこか哀しそうな眼差しを称えたままオレの事をジッと見つめて見せた。

「何か良く判んねぇけど、ここに行けって事だな? へへっ、そこで何か起きるっつー事だろ? ちょっとした宝探し気分だな。まぁ、お前が行けっつーんだから、何か、面白い事が起きるんだろうな。うしっ、早速行ってみるぜ」

 意気込むオレとは裏腹に絵描き小僧は、ますます哀しそうな表情で俯いてしまった。

「おいおい、どうしたんだよ? オレ、何か気に障る事言っちまったか? それなら謝るけどよ」

 オレの言葉に絵描き小僧は寂しそうな表情を称えたまま首を横に振って見せた。今にも泣き出しそうな表情に、何か只ならぬ物を感じたが、絵描き小僧は黙したまま語ろうとしなかった。

「まいったな……」

 途方に暮れるオレを見上げると、絵描き小僧は唐突にオレの目の前に何かを突き出して見せた。

「おお? 何だこりゃ?」

 突然の出来事に思わず驚きの声を挙げるオレとは裏腹に、絵描き小僧は寂しげな表情を称えたまま、手にした物を振って見せた。その瞬間、透き通る様な涼やかな音色が響き渡った。オレは慌てて絵描き小僧が手にした物を確認した。

「鈴……」

 やはり、予想通り、あの涼やかな音色を奏でる鈴だった。何度と無くオレに聞かせてくれた音色、その音色を放っていた鈴を見せてくれた。絵描き小僧が使って居る物だ。普通の鈴とは仕掛けの異なる、特殊な鈴であろう事は想像に難くない。何度と無く聞かせて貰った鈴を、改めて良く見させて貰った。精巧な細工が施されて居る辺りからしても、何とも不可思議な雰囲気を感じさせてくれる。不意に、鈴に顔を近付けた際に、ふわりと良い香りが漂うのを感じた。良い香りだ。気持ちが安らぐ香りだった。香りに気付くのと、絵描き小僧が鈴を引っ込めたのは、ほぼ同時だった。一瞬、意識が遠退いたが我に戻ったオレは絵描き小僧に問い掛けてみた。

「これ、何度も聞かせてくれた鈴だよな」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は静かに頷いて見せた。一つ疑問が解決した。小さな、小さな、疑問だが解決した。何度と無く聞かせてくれた鈴を目にした事で、小さな疑問が解決した。だが、人と言う生き物は実に強欲な生き物らしい。一つ疑問が解決すると、新たな疑問を解決したくなる。次から次へと解決したくなる。絵描き小僧が、少なくてもオレの敵ではない事は明らかになったが、それならば、何故、オレを手助けしてくれるのだろうか? 目的は何なのだろうか? イヤ、それよりも、何よりも、何故、この鈴から結花の匂いがした!? 結花と絵描き小僧の間に何らかの関わりがある。その事が何よりもオレの中での動揺となった。

「なぁ、教えてくれよ。お前は一体何者なんだ? 何で、お前が持って居る鈴から結花の匂いがした!? 結花とはどう言う関係なんだ!? 教えてくれ! 頼む――」

 突然、乱暴に揺さぶられて驚いたのだろうか? 絵描き小僧は目を丸くしたまま、鈴を鳴らして見せた。チリーン、チリーン。何度も、何度も鳴らして見せた。酷く慌てた様な素振りで鈴を鳴らして見せた。

「うっ……!?」

 不思議な感覚だった。何度も、何度も繰り返される鈴の音色に耳を傾けて居るうちに、次第に意識が遠退いてゆく。必死で抗おうとしたが、どうする事もできなかった。視界が揺らぎはじめ、それに伴う様に絵描き小僧の姿がゆっくりと風に溶けていった。

「待ってくれ! お前に聞きたい事が沢山あるんだ!」

 必死の思いでオレは手を伸ばした。だが、あと少しと言う所で、唐突に絵描き小僧の姿が消えた。一瞬、目が眩む程の光を放ったかと思ったが、次の瞬間には無数のほたるとなって空中に四散してしまった。

「待ってくれ!」

 周囲を見回してみても、やはり、絵描き小僧の姿はどこにも見付ける事はできなかった。

「くっ……我を見失っちまったか」

 情けない話だが、我を見失い、野蛮な振る舞いを行ったのはオレ自身だ。突然、あんな風に乱暴な振る舞いを見せられたのでは、誰だって、恐怖を覚えるのは当然の事だ。絵描き小僧に悪い事をしてしまった。再び、オレの前に姿を見せてくれる保障は何処にもなかったが、もしも、再び会う事ができたならば、その時には謝るとしよう。少なくても、絵描き小僧の手を借りる事ができないのは辛過ぎる。他力本願ではあるが、力のないオレには、力のある奴に手を借りるしか道は残されていない。それに、絵描き小僧と結花との間には何らかの接点があるのは間違い無さそうだ。結花の絵を描いていた事も、手にした鈴から結花の匂いがした事も、確実にその事実を裏付けて居る。

 いずれにしても、絵描き小僧がオレの前に姿を現したのは偶然ではない。必然だ。

 死者は生物と意思の疎通を取る事はできない。大自然の摂理に従って考えれば――の話だが。絵描き小僧は人ならざる存在だ。言うなれば、大自然の摂理の輪から逸れた存在とも言える。結花の思惑を知って居る以上、直接、顔を合わせて居ると考えるのが正しいハズだ。事の詰まり、絵描き小僧を追い掛けて居れば、結果的に結花との再会も果たせるのではないだろうか? そう考えた時、今のオレに取って、間違いなく最重要な仲間に成る身である事は間違いない。何としても手を貸して貰わなければならない。その為にも、敢えて、意味深な振る舞いを見せてまで伝えようとした想いをこの目で確かめる必要がありそうだ。

「伏見稲荷まで行くしか無さそうだな」

 やれやれと気を取り直しながらオレは屋上を後にした。

「これはオレが自ら選んだ『選択肢』だ。最後まで見届けてやる」

 いずれにしても伏見稲荷の駅で何かが起こるハズだ。だが、例え、何が起きようと、最後まで見届けるだけの覚悟はできて居る。これまでだっておのれの腕一本でここまで来る事ができたのだから、今回も行ける所まで行ってくれるまでだ。オレは空を見上げたまま屋上を後にしようとしていた。

◆◆◆47◆◆◆

 学校を後にしたオレはゆっくりと傾いてゆく日差しの中、七条駅を目指していた。いつもと変わる事のない夕暮れ時の茜色に染め上がった街並みをただ静かに歩き続けていた。何時もと同じ様に東大路通は交通量も多く、何時もと同じ様に車の流れが絶える事もなかった。夕暮れ時の時間帯特有の忙しない空気が流れて居るが、あくまでも、此処にあるのは日常の光景に過ぎない。物好きなオレは敢えて非日常を追い求めて危険な旅路へと誘われる。

 信号が赤から青に変わる。行き交う人の流れに乗る様にしてオレも歩き出す。七条通を歩みながら周囲の景色を注意深く目で追ってみた。絵描き小僧と出会った以上、何も起こらないと言う事は有り得ない。もっとも、オレには何時、何処に、日常が非日常へと移り変わる仕掛けが施されて居るのか皆目見当も付かなかった。一見すると、何も変わらぬ景色の様に見せ掛けて、意外な罠が仕掛けられて居るのかも知れない。自分でも可笑しくなるほどに慎重に歩いていた。変わる事のない、見慣れたハズの街並みに、こんなにも警戒して居る自分が滑稽だった。

 そこに佇むのは変わる事のない日常のハズだった。夕暮れ時の、静まり返った七条の街並みの中、変わる事のない、時の流れだけが空虚に刻まれてゆく。だけど、それは本当に気のせいなのだろうか? 変わる事のない街並みから、静かに色合いが失われようとして居る様に思えて仕方がなかった。緩やかな変化だ。注意深く意識を集中していなければ見逃してしまう程に緩やかな変化だった。妙な感覚に駆られながらもオレは歩き続けた。道中、観光客と思しき人々や、地元の住民と思われる人々ともすれ違った。人とすれ違う度に、言葉にできない妙な感覚に駆られた。あの時、結花が口にしていた言葉が妙に重く圧し掛かる。

『選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える』

 そうだ。七条通を行き交う連中は皆、オレの物語に登場する事のない者達ばかりだ。そう考えれば、こいつらは皆、死人も同然と言う事になる。こうしてすれ違うだけの奴らは皆、選ばれなかった奴らでしかない。すれ違うだけの奴らは数え切れない程居るが、その中で、足を止めてくれて、オレの物語に登場する様になった奴らなど数える程しかいない。街中で出会ったのがコタ達ならば間違いなく声を掛けるだろうが、見知らぬ奴らが相手ならば声を掛ける事は有り得ない。

 そう考えるとオレは数え切れない程の奴らの未来を殺して来た事になる。同時に、オレとすれ違っただけの連中からしてみれば、オレの未来を殺す事になる。もっとも、それは、そいつの物語の中だけの話だ。オレの物語の中で死んだ連中が現実でも死ぬかと言えば、そんな事は有り得ない。誰かの物語の中で死んだ奴らが現実の世界でも死ぬかと言ったら、そうはならない。何よりも、そんな事になったら世の中は矛盾だらけになってしまう。誰かの物語の中で生きて居る奴が、現実世界では死んで居る。イヤ……その矛盾、オレ自身が一番良く心得て居るのではないのだろうか? 不意に背筋を冷たい物が駆け抜けた。

 もっとも、この言葉を口にしたのが結花だった事を考えると、そうそう軽く受け止める訳にはいかない。結花の言葉は時々、未来を予知して居るかの様に思える事も少なくなかった。多くの場合においては、何時もの様に気まぐれに言葉を口にして居るだけだったが、時折、未来を予知して居るとしか思えない様な言葉を口にする事もあった。

 不安と恐怖、絶望と深い哀しみに駆られたオレは、何かに縋りたくて空を見上げてみた。だけど、そこには何時もと変わる事のない空模様が広がって居るだけだった。どこまでも広がる空は、微かに夕焼け空の様相を呈し始めて居る。間も無く日も暮れれば、賑わい見せる青い空から憂い孕んだ茜色の空へと移り変わってゆく。これもまた変わる事のない日常の光景だ。日々、当然の様に繰り返され続ける人々の生活の営みの一場面だ。だけど、やはり目に映る物、全てが次第に色褪せつつある様に思えて仕方がなかった。色のない、白と黒だけで構成されたモノクロの世界へと移り変わろうとして居る。日常が死に絶え、その度に葬儀が行われる。モノクロの世界は葬式の場で目にする白と黒の鯨幕を示唆して居る様にしか思えなかった。だからこそ胸が締め付けられる様な気持ちになった。多分、伏見稲荷駅に近付くに連れて、より鮮明に感じ取れる様になるのだろう。何か良くない事が起きる。それだけは間違いない。予感は次第に確信へと変わろうとしていた。

「不安じゃねぇって言ったらウソになっちまうんだろうな。でも、オレは一歩も退く気はない」

 何の確証もなかったけれど、絵描き小僧は少なくてもオレの敵ではない。それだけは信じられる。それに、あの不気味な坊さんとは敵対関係にある事は自明だ。もしも、オレに危害を加える様な相手であるならば、先刻、学校の屋上で会った際の振舞いの説明がつかなくなる。ただ、あの時見せた哀しげな表情が引っ掛かって居る事もまた、否定できない事実だった。

「いずれにしても、伏見稲荷駅に辿り着けば色んな事が明らかになるハズだ」

 丁度、京都国立博物館前を通り過ぎようとしていた。七条通の向かい側には三十三間堂が見えて来た。緩やかな坂道を下りながら、道沿いに歩いてゆけば、やがて鴨川にぶつかる。七条の駅には鴨川のすぐ手前から入る事になる。そこから伏見稲荷駅までは遠くない。さしたる時間も要する事無く到着するハズだ。

 しかし、疑問は拭い切れない。何故、伏見稲荷駅なのだろうか? 結花と一緒に訪れた事も無ければ、コタ達と過ごすにしても、そうそう縁のある場所でもない。お稲荷さんに皆で出掛ける事はあったけれど、それだけの場所だ。やはり、判らない事だらけだ。住み慣れた街だと言うのに、こんなにも判らない事だらけの状況に陥ると、そこがまるで、見知らぬ異国であるかの様に思えてしまい、酷く恐ろしい気持ちで一杯になる。ああ、駄目だ、駄目だ。必要以上に考え過ぎると足が止まってしまいそうだ。今は何も考えずに、ただ、前だけ見つめて歩き続けるとしよう。

 三十三間堂を後にしたオレは尚も歩き続けていた。辺り一面から蝉の鳴き声が響き渡る。夕暮れ時とは言え、相変わらず蒸し暑く、ゆっくり歩いて居るにも関わらず汗が湧水の如くにじんで来る。七条の街並みは不気味なまでに静まり返って居る。

 この辺りは人々の普段着での生活が感じられる街並みが広がって居る。コタの所に泊まりに行く時には、夜になればこの界隈まで足を伸ばす事も少なくなかった。夜の七条の街並みは静けさに包まれ、人々の生活が感じられる温かな光景が広がる。そんな街並みをコタと共に歩む。祇園の街並みの様に気取っても居なければ、着飾っても居ない。だからこそオレ達もまた、素顔のままで居られる様に思えて、気持ちが落ち着く場所と言える。

 このまま鴨川を超えて、道沿いに歩んでいけば京都駅周辺に出る。夜でも駅ビルは煌々と明かりを称えていて、灯台の様に存在感を主張する京都タワーを間近に見る事もできる。大自然と寄り添う事を好む一方で、時に人の手が築き上げた物にも興味を惹かれる。コタはそんな振舞いを矛盾して居ると表現していた。それでも、夜の街並みを歩くのは嫌いではない。コタは夜行性の動物の様な一面を持って居る。日の下を歩む時よりも、月明りの下に在る時の方が饒舌になる。そんな、あからさまな裏表を見せ付けて来る挑発的な振る舞いに、オレは何度と無く心を掻き乱されて来た。むしろ、理性で抑え切れなくなってしまう程に心を掻き乱して欲しかった。先刻、絵描き小僧に見せてしまった様な野蛮で、乱暴な振る舞いでオレをぶっ壊して欲しかった。

「また、コタと一緒に、夜の街並みを散歩したいな」

 そう、口にしながら、ふと足を止めた。

「……これじゃあ、まるで遺言だ。縁起でもねぇ話だな」

 そっと顔をあげれば日は確実に傾き始めて居る。やがて、空が茜色に萌え上がり、今日と言う一日が終わってゆく。今日と言う一日が終わり、入れ替わる様に、明日と言う一日が始まる。そうやって連綿と時の流れだけが受け継がれてゆく。死と生が繰り返し紡ぎ出される。葬儀は確実に、毎日行われる事になる。だからこその鯨幕を思わせるモノクロの世界と言う訳か。

 静かな街並みを歩んで居ると、不意に、どこからか風鈴の音色が響き渡った。静かに風が吹き抜ける度に、涼やかな音色が響き渡る。夏らしくて心地良い音色だ。

「さてっと、何時までも油売ってないで、さっさと目的地に向かうとしよう」

 何時までも、こんな蒸し暑い中を歩き続けるのも辛い物がある。それに、七条界隈を歩き回っていた所で、何も得られる物はないハズだ。オレは歩調を早めて七条駅を目指す事にした。

◆◆◆48◆◆◆

 鴨川に架かる七条大橋の手前から七条駅へと続く階段を下ってゆく。地下の改札から吹き付けて来る風は、石の匂いを孕んでいた。人が築き上げた無機的な光景の中、どこか温か味を覚える石の匂いが心地良く感じられた。何とも言えない生温かい風が心地良く感じられた。このまま改札を抜けて伏見稲荷駅を目指すとしよう。

 普段、七条から京阪に乗る機会の少ない自分に取っては、妙に新鮮味を感じる旅路だった。皆の所に遊びに行くにしても、伏見稲荷駅を経由して向かう事はないため、殊更に不思議な感覚を覚えていた。

 改札を抜けて、地下のホームへと続く階段を降りながら、オレはあの日の出来事を思い出していた。もっとも、あの時、オレが歩んでいたのは七条駅では無く、一つ隣の清水五条駅のホームだった。オレの中では、余り思い出したくない記憶ではあったが、だからと言って、決して、忘却してはならない記憶でもあった。自殺を試みた日の事……オレ自身への戒めとして、永遠に風化させてはならない記憶だと思って居る。

 それに、あの日、あの時、あの瞬間……コタを想う気持ちが、一気に強くなったと言う面でも、オレに取っては、大きな転換点となった史実となった。色々な意味で、オレの中では忘れられない出来事となったのも事実だ。だからこそ、大事に仕舞って置きたい記憶だ。

 程なくしてホームに風が吹き込んで来る。どうやら列車が接近して居るらしい。直に列車が到着するだろう。そんな事を考えて居ると、列車の到着を知らせるアナウンスが流れて来た。列車が到着すれば、後は伏見稲荷駅まではすぐに到着する。

(さて……。何が起きるのか、予想もできねぇけど、しっかりと見届けてやらぁ)

 暗いトンネルを乗り越えて、ホームへと駆け込んで来る列車のライトは、さながら、暗闇の中で光を放つ肉食獣の瞳の様に思えた。なるほど。弱い想いに呑まれようとして居るオレを貪り喰らうつもりか。上等だ。返り討ちにしてくれる。一人、妙な事を考えながらオレは腕組みしてみせた。

 程なくしてホームに列車が駆け込んで来る。ゆっくりと減速しながら、やがて停車する。開かれた扉から列車に乗り込んだオレは、空いて居る席に深々と腰を下ろした。列車の中は空調が利いて居るのか、汗ばんだ体には心地良い涼しさだった。イヤ、むしろ涼し過ぎると言った方が適切だとすら思える。何か嫌な感じのする冷たさだった。それでも引き下がるつもりはなかった。途中下車して引き返すと言う『選択肢』もない訳ではなかった。だけど、その『選択肢』は選びたくなかった。前に進まない限りは同じ場所をぐるぐると堂々巡りするしかない。それでは何の解決にも繋がらない。皮肉な話だ。オレはこうやって、同じ場所をぐるぐると堂々巡りするだけの生き方しかできなかった。逃げて、逃げて、逃げ続けるだけのオレに救いの道など見付けられるハズがなかった。だけど、もう、そんな生き方からは足を洗いたい。変わりたい……イヤ、変わらなければならないのだから。

 あの時、オレは結花にコーディネートして貰って変わる事ができた。新しい自分に出会う事ができた。その事実を踏まえれば簡単な事だ。今一度、変化を起こさせれば良いだけだ。誰かに与えて貰うのを待ち侘びるのでは無く、自らの手で道を切り拓いてくれる。オレは開拓者だ。道無き道を、この腕で必ずや切り拓いてくれるまでだ。

 程なくして、発車を告げる音色が鳴り響き、扉が閉じる。やがて列車は何事もなかったかの様に静かに走り始める。ガタンガタン、ガタンガタン、駅のホームを過ぎ去れば無機的なトンネルの光景だけが窓の外に広がる。規則正しく走り去ってゆく蛍光灯の明かりをぼんやりと眺めていた。ついでに小さく溜め息を就いた。地下を走る列車の無機質な雰囲気が肌に合う気がする。光の届かない地下を無機的に走り続ける。何時か、日の目を浴びる瞬間を夢見て駆け回る感覚に、共感にも似た想いを抱かずには居られない。長く続いた暗い道から飛び出した時、再び光と出会う瞬間を迎える。そんな事を考えて居ると、奇しくも、列車は地上へと飛び出そうとしていた。

 七条を過ぎて、東福寺へと差し掛かる途中から列車は地上を走る様になる。ガタンガタン、ガタンガタン。列車の外に目線を投げ掛けてみれば、そこには夕暮れ時の物憂げな街の情景が広がっていた。オレは夕暮れ時へと差し掛かる空をジッと見つめていた。何故だろうか。今ならば結花の不可解な世界観にも共感できそうな気がする。何だ。そう言う事だったのか。思わず笑みが毀れる。

(死は常にオレ達の傍に佇んでいたんだな)

 夕暮れ時の情景が好きだ。皆が必死で隠そう、隠そうとする死の存在を浮き彫りにしてくれるから。ああ、そうさ。無駄な事なんだ。どんなに抗おうとしたところで、何しろ死はそこら中に散らばって居る。砕け散った無数の欠片となって散らばって居る。運悪く欠片を組み合わせ、築き上げてはならない物を作り上げた瞬間、そいつには死が訪れる。そいつには死が贈呈される。不運ではない。むしろ幸運だと思え。当選おめでとう!

「へっ、すっかりお前に毒されちまったみてぇだ……」

 程なくして列車は東福寺駅へと到着する。目的地の伏見稲荷駅は次だ。短い列車での旅路ではあったが、これはあくまでも出発地点へと向かうための前座に過ぎない。本幕は伏見稲荷駅にて執り成されるのだろうから。

 コタ達と一緒に居たならば、そのまま伏見の街並みを歩き回るのも悪くない。伏見界隈は七条周辺と比べると、昔ながらの風情残す下町らしい風景が広がる街並みだ。懐かしさと温か味を感じる下町の風景はオレの肌に合う。コタ達がどう感じて居るかは判らないが、少なくてもオレは伏見の街並みが好きだ。とは言え、要らぬ寄り道をするべきでは無さそうな気がした。目的地はそっちではないと、寄り道するオレを咎めるかの様に、何か良からぬ事が起こりそうな不安感を拭い去る事ができなかった。

 今朝の早朝、生命の危機と隣り合わせになる様な恐ろしい体験をしたにも関わらず、我ながら実に物好きな事だ。何時の間にか、テルテルの悪いクセが伝染したのではないかと不安に駆られる。溜め息混じりに天井を見上げれば、丁度、列車の扉が閉まろうとしていた。やがて、列車がゆっくりと加速を始める。遠ざかってゆく東福寺駅の光景を、オレはただ呆然としたまま見つめていた。次は伏見稲荷だ。間違いなく何かが起こる戦地からの誘い。これで退路は断たれた。

「へへっ、もう、これで後戻りはできなくなっちまった訳だ」

 もとより腹は括っていた。今更、何を畏れる必要があるのだろうか。

「ま、ただのハッタリに過ぎねぇけどな。強がって居るだけさ。ああ、無駄に、強がって居るだけだ」

 きっと、また、恐ろしい体験をする羽目になって、自分の思慮の浅さを後悔する事になる。でも、それでも、どうしても興味を惹かれて仕方がなかった。我ながら本当に物好きな性分だと思うが、絵描き小僧が見せた掴み所のない一連の振舞いが、殊更にオレの好奇を掻き立ててくれたのは事実だ。ろくでもない顛末しか待っていない事など百も承知して居る。それでは、一体、どれ程までにろくでもない顛末なのか? 怖い物見たさとでも言うのだろうか。はたまた、感覚がすっかり麻痺してしまって居るだけなのかも知れない。そんな事を考えて居るうちに、列車は減速を始めた。もうじき、伏見稲荷駅に到着する。これで退路は完全に断たれた事になる。

「後は野と成れ山と成れってか」

 列車は伏見稲荷駅に到着した。開かれた扉を見届けた所で、オレは席を立った。

「さて、恐怖とのご対面といこうか」

 駅に降り立った所で列車の扉が静かに閉まる。程なくして列車が動き始めた。次第に加速しながらゆっくりと過ぎ去ってゆく列車を背にオレはゆっくりと歩き始めた。後はこのまま向かい側の上りホームに立ち、時が訪れるのを待つとしよう。多分、恐怖はすぐそこまで近付いて居るハズだ。ここまできた以上、何が起きようとも最後まで見届けてくれるまでだ。

◆◆◆49◆◆◆

 改札を抜ければ、そこには夕暮れ時の伏見の街並みが広がっていた。左手に曲がって通り沿いに歩んでいけばお稲荷さんに辿り着く。夕暮れ時の街並みは人通りも多く、街は活気に満ちあふれて居る様に感じられた。何時もと変わる事のない温かな下町の情景が広がるばかりで、とても、数々の異変と背中合わせになって居るとは考え難い光景だった。街並みをのんびりと歩き回りたい衝動に駆られたのは事実だが、今は控えるべきだろう。

「さて、それじゃあ、上りのホームでしばらく待ってみるとするかな」

 何が起きるかなど予想もつかなかったが、このまま何も起こらずに終わるとは思えなかった。

「絵描き小僧のあからさまな振舞いから考えても、何事も起きないとは考え難いからな。ま、用心するに越したこたぁねぇっつー訳だよな」

 オレは改札を抜けて伏見稲荷駅の上りホームへと足を運んだ。注意深く周囲の様子を窺うが、夕暮れ時の伏見稲荷駅は人も少なく、閑散としていた。この時間帯になると周辺の寺社仏閣の拝観時間も終わりを告げ、当然の事ながら観光客も少なくなる。まばらに人が点在するホームに佇み、オレは暮れ往く空を見上げていた。夕暮れ時の空はどこまでも澄み渡る茜色で、胸が締め付けられる哀しみに満ちあふれていた。駅のホームから伏見の街並みを見渡せば、閑散とした駅のホームとは対照的に、夕暮れ時の街並みを忙しなく往来する人々の姿が目に留まる。地元の住民だろうか? 買い物帰りのオバサンも居れば、犬の散歩をする老人の姿もあった。学校帰りと思しき子供達が賑やかに笑い声をあげながら駆け抜けてゆく姿もあった。

 変わる事のない日常の風景がそこにあった。程なくして警笛が鳴り始める。カンカンカンカンカン。慌てて踏切を駆け抜ける人々を余所に、交互に明滅する踏切の赤い光に目を奪われていた。続いて遮断機がゆっくりと降りて来る。往来する人も、車も、静かに立ち止まる。

「間も無く二番線に電車が参ります。ご注意ください」

 つい、さっきまでオレが佇んでいた向かい側のホームに電車が来ようとして居る。静まり返った駅の情景の中、列車が走り込んで来る音が響き渡る。列車が駆け込むのに呼応するかの様に風が舞い上がり、そっと頬を撫でて行った。ブレーキが掛けられる音。ゆっくりと減速する列車に呼応するかの様に線路が金切声にも似た悲鳴を挙げる。程なくして列車が停車し、扉が開く。向かい側のホームで人が乗降する姿を、オレはただ茫然と眺めていた。やがて列車の扉が閉まり、次の駅を目指して発車する。再び踏切が開き、夕暮れ時の伏見の街並みを人々が忙しく往来してゆく。ただそれだけの事だった。何の変哲もない日常の光景に過ぎなかった。

 上り列車は何分に訪れるのだろうか? このまま引き返すつもりはなかったが、何時ものクセなのだろうか? 何気なく電光掲示板に目線を投げ掛けてみた。何時の間にか人が近付いて来たのか、誰かが背後を歩む足音が聞こえた。足音から察するに女性二人組の様に感じられた。オレは二人の声に静かに聞き耳を立てていた。他人の話題に興味はないが、何やら楽しげに語らって居る様子が聞こえた。

「そんなの偶然じゃない?」

 聞き覚えのある言葉に思わず振り返りそうになっていた。

『偶然なんてないの。すべては必然なの』

 結花が良く口にしていた言葉が脳裏を過った。オレは静かに俯いたまま、握り締めた拳に力を篭めた。力強く握られた掌の中、汗がじわりと滲んだ。蒸し暑い夕暮れ時の一場面。蒸し暑さからか、驚きから来る緊張のせいか、頬を汗が伝って落ちた。地面に落ちた汗は小さな染みとなったが、すぐに消えてしまった。

 偶然なんてない。すべては必然なんだ。何度も口にしていた結花の言葉を振り返っていた。思い起こせば、その言葉を最初に耳にしたのは、結花と出会ってから間も無くの事だった。オレは静かに目を伏せ、懐かしい記憶へと思いを馳せていた。

◆◆◆50◆◆◆

 それは学校からの帰り道、何時もと変わらないバスの中での一場面だった。丁度、梅雨も明けた頃。いよいよ夏本番と言う季節に良く似合う、雲一つない夕焼け空が広がっていた。オレは吊革につかまったまま、流れゆく窓の外の景色を眺めていた。何時もと変わらない日常の光景がそこに広がっていた。そんな変わる事のない、学校からの帰り道のバスの中、不意にメールが届いた。

(メール? 誰からだ?)

 そっとポケットから携帯を取り出したオレはそのままメールを開いた。予想通りと言えば、予想通りだった。メールの差出人は結花だった。藤木社で待ち合わせして、社家の町並みを一緒に歩かないかと言う内容だった。特に予定もなかったオレは、家に戻って着替えたら向かう、と返信した。バスは何時もと変わる事のない街並みの中を走り抜けていた。ただ、変わる事の無い日常の光景がそこにあった。今日も、明日も、明後日も、永らく変わる事の無い光景となる事だろう。

 良く考えれば奇異な話だったが、その事にオレは敢えて触れない様にしていた。結花は学校に行く事も無く常に家で過ごしていた。その理由が気にならなかったかと言えば嘘になるが、人には人の事情がある。そう割り切って、深くは踏み込まない様にしていた。迂闊に人の心に土足で踏み込んで、傷を広げてしまう様な結果になるのが恐ろしかったのは事実だ。人と接する事が得意ではないオレに取って、結花の心を掻き乱す様な振る舞いは殊更に避けたかった。いずれにしても誰かを待たせて居ると言う状況は落ち着かなくていけない。早く着いてくれ。期せずして赤信号で足止めを食うバスに、少なからず苛立ちを覚えて居るオレが居た。もっとも、苛立ったところで、バスが早々と着く訳でも無く、何の意味も為す訳がなかった。

 そこから先も何度と無く赤信号に阻まれはしたが、それも普段もと変わらない日常の光景に過ぎない。皆が日常を過ごす中、オレ一人だけが何度も、何度も、携帯を手にしては時間を、結花からのメールを、繰り返し確認し続けていた。

 定刻通りに到着したにも関わらず、恐ろしく時間を要した気がしてならなかったのは、多分、オレの気が短いからだろう。自分でも嫌になる。もっと、大らかに生きられれば良いのに。図体ばかりデカいクセに、心はちっぽけだと言う矛盾が悔しかった。

 バスを降り立ったオレは急いで家まで戻りたかった。とにかく結花を待たせたくなかった。結花に会いたくて――と言えれば、恋に生きる情熱的で熱い男として様になったかも知れないが、残念ながらそうではない。純粋に誰かを待たせると言う事が堪えられない性分に過ぎない。だから、オレは息を切らしながら全速力で走り続けた。道行く人々からしてみれば、実に迷惑な話だ。何しろ、オレの様な図体のデカい男が、全力疾走して居るのだ。言うなれば、歩道をダンプカーが駆け抜ける様な物だ。皆、突進して来るオレに畏れを為して、慌てて道を空けてくれた。何だか悪者に成り下がったみたいで酷く気分が悪かったが、それでも、結花を待たせたくなかった。まったく……くだらない事に見栄を張りたくなる。男と言う生き物は、だからこそ、不器用で、情けなくて、格好悪い生き物だと思った。

 息を切らしながら全速力で家に戻って学生服から普段着に着替えたオレは、そのまま藤木社へと急いだ。予想通り、結花は既に到着していて、オレを待っていた。走り込んで来るオレの姿に気付いたのか、嬉しそうに笑いながら手を振って見せた。相変わらず、妙に芝居染みた仰々しい振舞いが気になったが、いちいちツッコミを入れるのも面倒だ。敢えて憮然とした表情を作って見せても、結花は上機嫌そうに笑うばかりだった。

 溜め息しか出てこなかった。涼しい顔をして佇む小奇麗な結花と、顔を真っ赤にして、おまけに汗だくになりながら息を切らす図体でかいオレが居る。傍から見れば何とも言えない構図だ。美女と野獣をそのまま絵にした様な構図に再び溜め息が毀れる。

「何がそんなに可笑しいんだか」

 後から後から噴き出す額の汗を拭いながらオレは馬鹿にするような口調で問うてみせた。

「まさか、箸が転がっても可笑しい年頃だなんて、ベタな事言いだしたりしねぇだろうな」

 ついつい棘のある言葉が飛び出すのは、不器用なオレの精一杯の照れ隠しだ。真正面から向き合うだけの勇気も無く、こうして無意味に強がる事しかできないオレが悔しかった。だけど、結花は相変わらず満面の笑みを称えたままオレを見つめるばかりだった。振舞いに困ったオレは結花から目を背けると、さも、何事もなかったかの様に太田神社へと向けて歩き始めた。やれやれ。自分でも哀しくなる位の大根役者だ。後から後から湧き水の如く噴き出す汗を拭いながら

「こんな所に突っ立って居るのも暑いだろ? ほら、行こうぜ」

 そう切り出せば、結花は嬉しそうに笑いながら頷いて見せた。急ぎ足でオレの隣まで駆け込んで来ると、そのまま並んで歩いて見せた。何がそんなに楽しいのやら、結花は相変わらず妙な笑顔を見せるばかりで、最初に出会った時の様に喋る訳でもなく、一体何をしたいのかオレにはサッパリ判らなかった。とは言え、沈黙が続く状況には耐えられそうもない。だから、オレは溜め息混じりにツッコミを入れてやった。

「お前、やっぱりヘンな女だよな」

 オレの言葉に結花の足が止まる。やばい。うっかり調子に乗って、機嫌を損ねる様な事を口にしてしまったか? オレは慌てて振り返った。だが、予想に反して、結花は相変わらず可笑しそうに笑いながらオレを見つめるばかりだった。

(こいつ、オレの反応見て楽しんで居るのか? 嫌な奴だな……)

 大きく溜め息を就くオレに歩み寄ると、結花はそのままオレの両の手を握って見せた。結花が突然見せた、予想外の行動にオレは思わず飛び上がりそうになった。

「な……何だよ?」

「あのね、力丸君、聞いて?」

 結花はオレの目をジッと見据えたまま

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 そう、呟いて見せた。これが結花の口癖を耳にした最初の瞬間だった。唐突に耳にした意味不明な言動に、オレは意味が判らずに、ただ眉をひそめる事しかできなかった。

「はぁ? 何だ、そりゃ? 意味判んねぇし」

 馬鹿にする様に苦笑いを浮かべつつ返して見せても、結花は相変わらず上機嫌な振舞いを崩す事はなかった。

「言葉の通りよ。それ以上でも、それ以下でもないの」

 最初に会った時から可笑しな女だと思っていたが、どうやら、本気で可笑しな女だったらしい。それにして、相変わらず詩的な表現を好む事だ。風変わりな奴ではあるが、結花の世界観は実に個性的で、独創的で、その風変りな世界観に興味を惹かれたのもまた事実だ。大体、一体、何が偶然で、何が必然なのだろうか? 興味惹かれたオレは上機嫌に振る舞う結花に問うてみる事にした。

「それで、その偶然とか、必然って、何の事を言って居るんだ?」

 オレ達は丁度、上賀茂神社前を通り過ぎようとしていた。明神川と共に寄り添う様に歩めば、流れゆく明神川の涼やかな音色が心地良い。照り付ける日差しの下、明神川沿いに歩む事で多少の涼しさを感じていた。心地良い涼しさだ。静かに吹き抜ける風を肌で感じながら、結花の返答を待った。

「難しい事はないの」

 結花は楽しげに振舞いながらオレに語って聞かせてくれた。だが、あっさりと語って聞かせてくれた内容は、オレを驚かせるには十分過ぎる内容だった。

「力丸君、この間の出来事、覚えて居る?」

「ああ。あんな衝撃的な大変、初めての事だったからな。生まれて初めて、人を本気で殴った瞬間の事、そうそう簡単には忘れられねぇよな」

 正義の味方になった瞬間を思い出し、ついつい誇らしげな気持ちに駆られる。目一杯胸を張りながら鼻息荒く応えて見せれば、結花は妙な笑みを浮かべながら「ふーん」と返してみせた。

「なーんだ。あたしとの出会いが衝撃的だった訳じゃないのね」

「へ!? ま、まぁ、お前との出会いも衝撃的だったけどな……」

「あたしとの出会いは二の次って事ね。良く覚えておくわ」

「あー。お前、アレだな? 根に持つタイプだな。おー、おっかねぇ、おっかねぇ」

 茶化す様に振舞って見せても、結花は澄ました顔で微笑むばかりだった。静けさに包まれた明神川沿いは人気が無く、オレ達だけが歩んでいた。夕暮れ時の街並みは暮れ往く日の光に照らし出されて物憂げな茜色一色。そんな光景の中、不意に蝉が鳴き始める声が響き始めた。それを待っていたかの様に小さく吐息を就くと、結花は静かに足を止めた。

「偶然じゃなかったの」

 涼やかな顔で口にした言葉に、オレは凍り付きそうになった。結花はオレの反応を確かめながら、続けて見せた。

「あの時、あたしがヘンな人に手を出された事も、力丸君が現れてあたしを助けてくれた事も、今、こうやって一緒に歩いて居る事も、全部、すべて、偶然ではないの。必然なの」

 返す言葉を失ったオレは、その場に立ち尽くす事しかできなかった。こんな突飛な言葉が迷い無く飛び出すのは、可笑しな夢を追い求めるばかりの現実離れした奴なのか、そうで無ければ、未来を見通す事ができる奴なのか、そのどちらかでしかない。ただ、オレの中では結花は、ただの現実離れした夢追い人には思えなかった。そうなると、結花は未来を見通す能力の持ち主なのだろうか? オレの心の中を見抜いて居るのか、結花は静かに首を横に振って見せた。

「違うわ。そうではないの」

「なっ!?」

「あたしは別に未来を見通せる訳でも無ければ、人の心が読める訳でもないの」

「で、でもよ、今、オレが考えて居る事、確かに見抜いたよな」

「どうしてだと思う?」

 結花は再び可笑しそうに笑いながら歩き始めた。蝉の鳴き声が降り注ぐ様に聞こえて来る、蒸し暑い夏の夕暮れ時。だが、オレの背筋には冷たい物が駆け抜けた。

「……それも、必然なのか?」

 オレの問い掛けに応える事なく、結花は可笑しそうに笑いながら歩き出した。問い詰めたい事は幾らでもあった。一体、どう言う仕組みなのか興味を惹かれたのは事実だった。だけど、結花にその事を問い掛けても意味のある返事が聞けるとは思えなかった。恐らく、頭で考えて判る様な話ではない様に感じられた。恐らくだが、世の中にはオレなんかの様に、無知な奴には理解し得ない様な不思議な話など幾らでもあるに違いない。偶然、目の前に居る結花がそうした能力と縁があった。そう考えれば、決して、不可思議な話ではないと言う事に成る。

(イヤ、そうじゃないんだろうな。これもまた、必然なんだよな)

 言葉を失うオレを余所に、結花は楽しそうに歩き続けて居た。暮れ往く夕暮れ時の街並みの中、オレだけが取り残された様な気がして、途方も無く不安になった。だから、オレは慌てて結花の後を追い掛けた。

 西村家別邸前を過ぎ去って、どっしりと居を構える藤木社を後にする。明神川の流れと別れて小路を歩めば、夕暮れ時の風情が心地良い。静かな街並みだ。夕暮れ時の街並みは静けさに包まれていて、何だか、オレ達だけが切り離された別の世界に放り出された様な気持ちで一杯になる。迂闊に離れ離れになってしまえば、もはや二度と結花と会えなくなる。そんな気持ちで胸が一杯になって妙に恐ろしくなった。間の抜けた話だが、不安に駆られればこそ、結花の隣を寄り添いたい気持ちで一杯になった。目一杯、ギリギリまで寄り添う様にして歩むオレを時折横目で盗み見ながら、結花は満足そうに微笑んで見せた。多分、これさえも偶然では無く、必然だったのだろうか? イヤ、オレが妙な不安感に駆り立てられて、結花の隣を寄り添う様に歩む。それさえも必然だと思える様になって居るオレが居た。

◆◆◆51◆◆◆

 あの時のオレには予想もできなかったが、この後、オレの歩む道で起こった数々の出来事。それらは全部、すべて、偶然などでは無く必然だった。今ならそう思える。だけど、だからこそ、時に絶望に打ちのめされる事も少なくなかった。結花の言葉通りに受け止めるのだとすれば、言うなれば、オレの物語は既にシナリオができ上がっていて、オレはそのシナリオ通りに歩む事しかできないと言う事になる。どんなに抗ってみても、必ず、シナリオ通りになる。むしろ、抗う事すらシナリオに綴られて居ると言う事になる。そうだとしたら、生きると言う事は、こんなにも無意味な物になってしまうのだろうか? 冗談じゃない。オレはオレの望んだ道を歩み続ける。必然だと? ふざけるな! 勝手にオレの歩む道を他人に決められて堪る物か。オレはオレの手で道を切り拓いて見せる。それに……偶然など無く、全てが必然だと言うのであれば、結花が死んだのもまた、必然だったとでも言うのか? ひき逃げ犯が逃げ伸びたのも、無能な警察が犯人を捕まえられないのも、学校側が頑なにいじめの事実を無に帰そうとして居るのも、全部、全て、必然だとでも言うのか!? オレは認めない。絶対に認めてなる物か! そんな理不尽な話がまかり通ってなる物か! どうせ、この世には神も仏も居ない。それならば、オレがこの手で引導を下してやるまでだ。鬼に成り果ててでも引導を下してやる。もっとも、それさえも必然だとでも言うのであれば、オレは何が何でも抗ってくれる。納得いかない物語なら、この手でぶっ潰す。一度、全力でぶっ潰して、新しい物語を再び描き出すまでだ。高鳴る鼓動を抑える事もできず、怒りに体が燃え上がりそうになるのを、なるがままに放置したかった。このまま激情に駆られて、限界を超えてまで突っ走り切れるならばそれでも良い。燃え盛る炎に焼かれて消し炭になるまで走り続けるまでだ。

 一人、熱くなり、我を見失い始めた頃、再び警笛が鳴り響き出した。カンカンカンカンカン。その音を耳にした事で、唐突に我に返った。何気なく踏切に目線を投げ掛ければ、遮断機がゆっくりと降りて来るのが目に留まる。往来する人々が慌てた様子で駆け抜けてゆくのを、ただ静かに見つめて居るオレが居た。

「間も無く一番線を電車が通過します。ご注意ください」

 駅のホームに無機的なアナウンスが響き渡る。伏見稲荷の駅は各駅停車しか止まらない。それにしても何も起こらない。可笑しな話だ。不発だったのか? 少々拍子抜けしたオレは、どこか気が抜けた様な気分にさせられた。やれやれと思いつつ、何気なく駅のホームを見渡したオレは、思わず息を呑んだ。

(そんな馬鹿な!?)

 先刻、確かに女性二人組が後ろを通り過ぎて行ったハズだ。有り得ない話だ。伏見稲荷駅の上りホーム、下りホーム、どちらにしても改札は踏切側に一箇所しかない。居なくなる事は絶対に有り得ない。だけど、現に駅のホームには誰も居なかった。何が起きたのか理解できずに佇む事しかできなかった。

 イヤ、そもそも伏見稲荷駅に導かれた事自体が仕組まれた物だ。何かが起こるべくして起こった。それだけの事だ。今更些細な事で驚いても仕方がない。恐らく、これから、もっと、途方もない事が起きるはずだ。考え込んで居ると頭上からカラスの鳴き声が聞こえた。予兆は確信へと変わりつつあった。根拠なんか何一つない。それでも確信していた。

(偶然ではない。これは必然なんだ……でも! 腹を括るのと、実際に目の当たりにするのでは天と地程の差があるって事か……)

 不意に隣に人の気配を感じた。微かな風の流れを感じ、オレはそれとなく横目で盗み見た。何時の間に訪れたのか一人の女がすぐ隣に立っていた。そいつは、オレと同年代位の女に思えた。それにしても、知り合いでも何でもない女なのに、何故、すぐ隣に立つ? 気味の悪い女だ。その表情からは全く生気が感じられなかった。言葉にできない恐怖心に襲われたオレは、それとなく距離を空ける事にした。

(何なんだよ、この女。気色悪い奴だな……)

  オレは女に気付かれぬ様に、改めて横目で盗み見た。生気が感じられないだけではない。見れば見る程に色の白い女だった。結花も色白ではあったが、この女の肌の白さは異様だった。色白どころか、本当に白粉塗れにでもなって居るのではないか? と思える程に病的な白さから察するに、既に生きて居る者ではない。そう思えて本気で戦慄させられた。

 一体、この女は何者だ? 何がしたい? 何故オレの隣に立つ? 考え込むオレを余所に、女はただ、俯いたまま線路を見つめるばかりだった。焦点の定まらない目で一体何を見つめて居るのか? 何よりも、この女は何時の間に現れたのだろうか? 理解不能な状況に置かれた事で、緊張が体を駆け巡る。例え心の準備ができていたとしても、こうして異変の渦中に身を置くと震えが止まらなくなる。唐突に現れた見知らぬ女。この女は間違いなく、異変に関与して居ると考えて間違い無さそうだ。

 カンカンカンカン。静寂を打ち破る様に突如、鳴り出した警笛に鼓動が一気に高鳴る。人気のない上りホームに警笛だけが空虚に鳴り響く。無機的な音色が、殊更に、異様な雰囲気を後押しして居る様に思えて、堪らなく不安を掻き立てられる。

 程なくして駅のホームに向けて電車が近付いて来るのが見えた。何事もなかったかの様に、駅のホームに列車が駆け込んで来ようとして居る。可笑しい。これは日常の、極有り触れた光景のハズだ。それなのにも関わらず、何か、言葉にできない嫌な予感が抑え切れなくなる。良からぬ事が起きようとして居る前兆としか思えなかった。一体、何が起きようとして居る? 恐らく、オレの貧弱な想像力を嘲笑うかの様な凄まじい出来事が起こるはずだ。鼓動が高鳴る。不安と恐怖で足が震える。口の中がカラカラに渇き、気を抜けば、このまま倒れてしまいそうな程の恐怖に呑まれようとして居る。そんなオレを余所に、駅のホームに勢い良く駆け込んで来る列車……背筋を何か、冷たい物が伝って落ちた。

 カンカンカンカン。尚も警笛の無機的に鳴り響く音だけが夕暮れ時の伏見の街並みに空虚に響き渡る。ただ無為に、ただ無情に響き渡る無機的な音色を、ジッと受け入れる事しかできなかった。心臓が早鐘の如く鼓動を刻み、背中は噴き出した汗でぐっしょりだ。足が震え、口の中がカラカラに渇いて居る。

 ガタンガタン、ガタンガタン。通過列車だからこそ減速する理由などある訳もなかった。車輪が線路を打ち鳴らす音色が次第に大きくなりながら、急速に近付いて来る。既に先頭車両は駅から見える場所まで接近して居る。間もなく駅を通過する事になる。それは確かに、日常の一場面に過ぎない。伏見稲荷駅は小さな駅だ。各駅停車以外は停車する事なく、勢い良く通過してゆく。それは日常の極ありふれた光景と言える。だが、オレの中では言葉にできない不安だけが急速に肥大し続けていた。

 日常が非日常に変わる瞬間。その瞬間は、今、オレのすぐ背後に忍び寄って居る。大きく口を開けて、オレを嘲笑って居る事だろう。狭い駅のホームに嫌な空気が立ち込めてゆく。言葉で言い表す事のできない憎悪を、人の心が生み出す際限ない憎悪にも似た悪意を肌で感じずには居られなかった。

(おいおいおいおい、シャレになんねぇぞ……何が起きるんだよ!? イヤ、判って居る。判って居るんだ。これから何が起きるか、オレは判って居る。判って居るけれど、判って居るけれど……!)

 不意に背後に微かな風圧を感じた。誰かが歩み寄る妙な足音を感じた。慌てて振り返りそうになったが、恐ろし過ぎて、そんな行動を起こす事はできそうになかった。だから、オレは、そっと横目で女を覗き込んだ。そこで、オレは信じられない光景を目の当たりにした。驚きの余り、オレは思わず息を呑んだ。その微かな音さえも女の耳に入っていないか、不安で仕方がない程に動揺して居る自分が滑稽だった。

(な、何だよこの女は!? マジかよ!? 意味不明過ぎだろ!?)

 オレの隣に佇む生気の失せた女。その女と同じ背格好をした女がもう一人、生気の失せた女の背後に寄り添う様に立っていた。無表情ながらも口元を静かに歪め、不気味な薄ら笑いを浮かべて見せた。もはや絶体絶命の状況だった。予感は既に確信へと変わり、最悪の事態を享受する事を余儀なくされて居るのは必至だった。ただ、このままオレは恐ろしい惨状を受け入れる事を強いられて居る。それだけは確かだった。もう判って居る。もう判って居るんだ。これからオレは恐ろしい光景を目の当たりにする。それだけは確かだ。それは間違いない。それは避けようがない。判って居る。判って居るけれど、判って居るけれど! 心の準備もできて居なければ、心の準備ができて居たとしても、そんな光景を受け入れられる訳がない!

 大体、有り得ない光景だ。何故、同じ姿をした女がもう一人居る? 実は双子の姉妹だとか、そう言うオチではないのか!? どこかに性質の悪いカメラマンが居て、ドッキリでしたと笑いながら登場してくれるのだろう!? そうだろう!? イヤ、それしか有り得ない! そうだと言ってくれ!

(イヤ……冷静になって考えろ、オレ)

 有り得ない事だ。大体、もう一人の女は何処から現れた? もう一人の女が、音も無く、何時の間にか姿を現していた事実を説明する事ができない。足音も気配も感じなかった。改札は一箇所にしかない。線路の上を駆けこんできたのでも無ければ為し得ない事だ。もっとも、そんな常識外れな振る舞いをすれば、誰かが間違いなく注意するハズだ。それも、こんな狭い駅のホームで見落とす事など考えられない。

 理解できない事だらけで、オレは身動きすら取れなかった。この場から逃げる事もできたのかも知れないが、足が鉛になったかの様に重く圧し掛かり、身動き一つ取る事もできなかった。

(はぁっ、はぁっ……マジかよ……シャレにならねぇぞ。勘弁してくれって……)

 もはや心臓は破裂寸前だった。足はガタガタと震え、まともに立って居る事もできそうになかった。良く、恐怖体験談などで恐怖のあまり小便を漏らしたと言う話を目にするが、限界を超えた恐怖に直面した時、時の流れは停止した様な状態に陥るのかも知れない。そう考えれば、五感の感覚は失われ、緊張感の全てを失い、何もかもを垂れ流したと言うのもあながち嘘には思えなくなる。

 一体、オレは何を口走って居るのだろうか? 壊れたラジオの如く、ただひたすらに饒舌なまでに喋り続けるオレに、オレはツッコミを入れずに居られなかった。だけど事態はさらに恐ろしい方向へと突き進まんとして居る。動揺し切ったオレを、さらに嘲笑うかの様に、背後に忍び寄る女が静かにオレに向き直った。突然の行動に驚いたオレは慌てて目を逸らした。だが、どうにも気になって仕方がない。背中から、胸元から汗がにじみ出る。滴り落ちる汗が肌を伝う生温かい感触とは裏腹に、背筋に寒気を覚えた。女はオレをジッと見つめたまま声を出して笑った。

「ひっ!?」

 血の気の失せた顔には不釣り合いな程に、深い憎悪を称えた瞳でオレを射貫く様に見つめたまま女は笑い続けた。口を酷く歪ませて、これ以上ない程に気味の悪い顔で笑い続けた。雪の様に真っ白な肌とは対照的過ぎる真っ赤な口を大きく開かせて笑っていた。舌でも噛み切ったのか? 大きく口を広げる度に糸を引く様に真っ赤な鮮血が滴り落ちる。強烈な血生臭さを覚え、オレは戻しそうになるのを必死で堪える事しかできなかった。慌てて口元を目一杯、力を篭めて抑え込む事しかできなかった。もっとも、そんなの気休めにもならないと言うのに、どうかして居る。

 女は不快にごぼごぼと水気の混じった声でげらげら笑い続けた。何がそんなに可笑しいのか、女はただ、気が狂った様に声を張り上げて笑い続けた。対照的に、もう一人の女は死人の様に濁った眼差しで虚空を見つめるばかりだった。この状況を異常と呼ばずして何と呼べば良い? ただただ、オレは気を失わない様に踏ん張る事しかできそうになかった。静まり返った駅のホームに女の耳障りな高笑いだけが響き渡る。

 列車は間も無くホームに飛び込んで来る。伏見稲荷駅は通過列車だ。停車駅ではない以上、速度を緩める事なく突っ走ってゆくハズだ。当然、今、線路に落ちれば助かる事は絶対に有り得ない。間違いなく死ぬ。ぐちゃぐちゃの惨めな肉塊となってカラス達に啄まれる事に成るのは間違いない。だからこそ、カラス達は身構えて居るのだろうか? さぁ、今夜は御馳走だ。新鮮な生肉を囲んでの宴だ。そんな歓喜に満ちた声が聞こえて来そうで、胃が焼ける様に熱くなった。体内が痙攣を起こし、今まさに嘔吐しようかと言う刹那、間一髪でオレは慌てて口元を抑えた。必死で抑えた。必死で堪えようと堪えた。だが、どうにも堪えられそうもなくなっていた。駄目だ。こんな場所で……とにかく必死で堪えた。必死で堪えようと試みたが、呆気なく限界に達してしまった。もはや、人目を気にしてとか、駅のホームでとか、そんな事を考える余裕も無く、間欠泉の如く、勢い良く異の中から吹き上がった想いを、夕暮れ時の駅のホームに、無様に吐瀉物をばら撒く事しかできなかった。

「っ!? うぇええええーーーーっ!」

 向かいのホームから、さも、汚い物を目にした様な声が放たれるのを、小さく震える体で受け止める事しかできなかった。小さく体を震わせながら崩れ落ちたオレはなんて惨めなのだろうか……。吐瀉物特有の酸っぱい匂いが殊更に体中の毛穴を開かせ、オレは二度目の嘔吐の時を迎えようとしていた。体中の力が抜ける中、腹筋だけが異様なまでに脈動を繰り返すと言う異常事態にいい加減、嫌気が差そうとしていた。

 全身の力が抜け、力なく膝から崩れ落ちたオレは想像を絶する光景を目の当たりにした。それは、ほんの一瞬の出来事だった。ホームに今、まさに通過電車が駆け込んで来る、その瞬間――その僅かな一瞬に起きた出来事だった。

 まるでスローモーションを見て居るかの様な情景だった。時の流れが急速に速度を落しながら過ぎ去ってゆく。まるで、そうする事が当然であったかの様に、女は耳障りな笑い声を響かせながら、俯く、生気のない女を線路に向けて突き飛ばした。無表情なまま、ゆっくりと宙を舞う女。響き渡る列車の警笛。向かいのホームに居あわせた人々の悲鳴。列車が急ブレーキを掛ける。だが、間に合わない! 目を背けたかった。直視したい光景の訳がない。だけど、どうしても目を背ける事ができなかった。金縛りに遭ったかの様に体が硬直する。地面と車輪に挟まれた線路が耳障りな金属音を発する。それは本当に一瞬の事だった。

「え……?」

 妙な衝撃を覚えた。唐突にどこかに転落したかの様な感覚を覚え、全身の痛みに思わず呻く。

「いってぇ……何が起きた?」

 慌てて周囲を確認する。そこは光の差し込まない暗闇に包み込まれた場所だった。何故だ? 夕暮れ時の伏見稲荷の駅は、幾ら何でもここまで暗くなかったハズだ。慌てて周囲を見回す。だが、妙な暗がりの中、良く見えない。ただ、妙に土臭さと石の匂いに満ちていた。手元にはやけにひんやりとした何かがある。

(金属? オレは一体、何処に落ちた? イヤ、そもそも何故、落ちた?)

 考え込んで居ると、唐突に列車の警笛が響き渡った。

「え……?」

 考える間もなく暗闇の中、遥か向こうから列車が勢い良く駆け込んで来るのが見えた。暗闇の中、獣の瞳の様に爛々と光り輝くライトの明かりに照らし出され、余りの眩しさに目を伏せた。だが、良く考えればそれは真正面からオレを照らして居る。

「ちょ、ちょっと待て!? それじゃあ、此処は!?」

 唐突に『その場所』の照明が一斉に灯された。オレを照らし出す様に灯された光。そして気付いてしまった。その場所が清水五条の駅である事。オレは線路に尻餅を着く様な形で蹲って居る事。そして――。

「うわあああーーーーーっ!」

 今、まさに、列車がホームに駆け込んで来ようとして居る事に気付かされた。

 オレは声の限りの叫び声を張り上げた。無駄だと判っていても叫ばずに居られなかった。ホームに立って居るOLらしき女が悲鳴を挙げる。子供連れの母親が慌てて子供の目を手で覆った。仕事帰りのサラリーマンらしき青年達が目を大きく見開いていた。再びの警笛。そして、オレは――。

「っ!?」

 唐突に意識が戻った時、オレはやはり伏見稲荷の駅に蹲っていた。

(今のは何だった? 夢!? 幻!?)

 だが重要なのはそんな事ではない。ああ、そうさ。あの女はどうなった? オレは慌てて女が立っていたであろう場所に目線を投げ掛けた。

 実に僅かな動作だったハズだ。ほんの一瞬でも長過ぎる程の動作のハズだった。だけど、オレに取っては、何故か気が遠くなる程に長い時間の様に感じられた。実際には、それは瞬きする程の刹那の出来事だったのだと思う。

 伏見稲荷の駅のホームは不気味な程に静まり返っていた。時の流れが止まってしまったのではないかと疑いたくなる程に静まり返っていた。何もかもが静寂に包まれていた。人々の悲鳴も、列車の急ブレーキの音も消え失せていた。衝突の衝撃なのだろうか? 先頭車両、運転席の窓には亀裂が生じていた。顔面蒼白と言うのはこう言う状態を示すのだろうか? 運転手の表情からは血の気が失せ、あの女と……今、まさに、突き落とされた女と同じ様に、死人の様な白さを湛えていた。夕暮れ時の伏見稲荷駅は何時もと何ら変わらない光景に包まれていた。ただ、不気味なまでの静寂だけがそこに横たわって居る。それだけの違いだ。

(なぁ、何でこんなに静まり返って居るんだよ? オイ、冗談だろ……シャレにならねぇって……)

 あの生気の失せた女は間違いなく無事ではない。その証拠に、本来であれば通過するハズだった列車が立ち往生して居る。列車の中に取り残された人々が困惑して居るのが目に留まる。何故、こんなにも静まり返って居る? とんでもない大惨事が起こると大騒ぎになっていたハズだ。だが、今、こんなにも静まり返って居る。ああ、判って居る。オレには判って居る。つまり……そう言う事だ。夢ではなかった……これは受け入れ難いが、現実なのは間違いない。そう、あの女が嘲笑った様な気がした。

「ひ、人が飛び込んだぞ!」

「誰か! 誰か! 警察を! ああ、その前に救急車だ!」

「駅員は居ないのか!?」

「自殺か!?」

 静寂はほんの一瞬の事だった。すぐに、伏見稲荷駅は悲鳴と絶叫で満たされた。イヤ、駅だけではない。途中まで駅に入った状態で立ち往生して居る列車の乗客達も取り乱して居る様子が見て取れる。カンカンカンカン。踏切の警笛が尚も無機的に鳴り続けて居る。突然の事態に伏見の街を行き交う人々も、その場に凍り付いていた。戦慄と言うのはこう言う状況を目の当たりにした時に、自然と浮かび上がる感情らしい。自分でも驚く程に冷静だった。イヤ、そうではないのだろう。余りの出来事を目の当たりにして、いよいよ、神経が麻痺してしまったと言うのが本当の所なのだろうと思った。

 程なくして駅員達が真っ青な顔で駆け込んできた。無理もない。夕暮れ時の混雑する時間帯に、この様な事態が起ころうとは、一体誰が想像したのだろうか。たった一人の死。それでも、平和だった日常が音を立てて崩壊するには十分過ぎる威力となった事だろう。期せずして訪れた非日常の襲来に、人々はただ混乱するばかりだった。

◆◆◆52◆◆◆

 ゆっくりと遠退く意識の中、何故か、オレは自宅の料理場に立っていた。目の前には大きなボウル。そして、オレは何かを必死で捏ねて居た。

「挽肉を入れて、つなぎには卵黄を――」

 べっとりとした感触が指から伝わる。それにしても妙な感触だ。何故、こんなにも生温かいのだろうか? 多分、オレはつくねの種を作って居るのだろう。だが、それならば良く冷やしたひき肉を使うべきだ。こんなにも生温いのでは鮮度もがた落ちだ。それに異様なまでに妙な脂の感触が指に残る。鶏肉の脂はこんなにも粘着質だっただろうか? 違和感を覚えずには居られなかった。

「片栗粉も少し入れた方が良いかな?」

 やはり可笑しい。余りにも感触が緩い。妙な感触だ。こんなにも生温い上に、妙に緩いとは一体どうした事か? 卵黄だけではなく、卵白までうっかり入れてしまったか? オレはゆっくりと目線をボウルに落とした。

「!?」

 ぐちゃぐちゃと音を立てながらオレは、あの女の顔を捏ねて居た。ぐちゃぐちゃの肉片になった血塗れの顔を、ボウルの中で一心に捏ねて居た。その瞼を覆う様に卵黄が静かに滴り落ちるのを目にしたオレは、そのままボウルの中に勢い良く嘔吐した。

「うぇええーーーっ!」

 もう、勘弁してくれ。もう、赦してくれ。オレが一体何をした? オレが何をしたって言うんだ!? 声にならない叫びを挙げながらオレはその場の崩れ落ちた。オレの手の中から落ちたボウルがカラカラと無機的な金属音を奏でる。続けて女の高笑いが響き渡った。もはやオレの精神は限界だった。一気に意識が飛び、そのまま世界は暗闇に包まれた。

◆◆◆53◆◆◆

 もはや何がどうなって居るのか理解不能だった。再度、気が付いた時にはオレは何故か、伏見稲荷駅のホームに立っていた。唐突に首筋に温かな息を吹き掛けられ、オレは自分でも驚く程の身のこなしで後ろを振り返った。

「その娘はもう、助からないわ」

 女は可笑しそうに笑いながら語り掛けて見せた。恐怖の余り、オレは女を直視したくなかった。だから、敢えて足元を見つめたまま返した。

「……お前は一体何者だ?」

「さぁ? 貴方には関係のない事でしょう?」

 女は悪びれた様子も無く、それどころか、可笑しそうにケラケラ笑いながら返して見せた。理解不能だった。何故、同一人物から生じた存在が自分自身を殺める。一体、どう言う事なのだろうか? 絵描き小僧が哀しげな表情を浮かべた理由は、ここにあったのか。だが、何故、オレにこの瞬間を見せたかったのだろうか? そこに秘められた目的が皆目見当付かなかった。

 駅は騒然としていた。通過列車は尚も、駅のホームに途中まで入った状態で立ち往生したままだった。普段は静かな伏見の街が騒然として居る。商店街の人々も、道行く人々も、それから、野次馬達も、皆、何事が起きたのかと状況を見守るばかりだった。当然と言えば当然だろう。何しろ、人が列車に跳ね飛ばされたのだ。日常に於いては有り得ない、非日常が静かに歩み寄って来たのだから。

 あの娘は、今頃は線路の下でぐちゃぐちゃになって居るハズだ。何処が、どの部位だったのか、もはや判別すらできなくなって居るハズだ。車輪に巻き込まれて、あるいは、衝撃でそこらに吹き飛ばされて、多分、オレが捏ねて居たつくねの種、その物に――イヤ、とても想像したくない情景だ。要らぬ想像をして、また、勢い良く吐瀉物をばら撒く様な醜態を晒したくなかった。

 間もなく日も暮れようとする伏見の街に、程なくしてパトカーが駆け付ける。パトカーの赤い光は見て居るだけで不安な気持ちにさせられる。これはオレの見間違いでも、幻でも無く、現実に起きた出来事なのだと。今すぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯だったが、オレは蛇に睨まれた蛙の如く、身動き一つ取れなかった。相変わらず、女は不敵な笑みを浮かべたままオレを見つめていた。この女、一体何をしたいのだろうか? どいつも、こいつも意味不明な振舞いばかりしやがって。そんなに、オレを困らせて楽しいのか?

「一つだけ教えてあげる。あたしをこの娘、自身なの」

 意味不明な言動だ。何が言いたいのか、全く理解できなかった。それ以上に、その勝ち誇った様な笑みは一体、何のつもりなのだろうか? 血の気の失せた薄気味悪い顔をして居る分際で、大女優を気取って居るかの様な振る舞いを見せた所で似合う訳もない。人の姿を真似たつもりなのだろうが、演じ切れなかった物の怪の様な不気味さだけが残されて居る。

「はぁ? サッパリ意味が判らねぇな。大体、お前は一体、誰だ? 何が目的だ?」

「ふぅん。あなた、何も知らないのね。ううん、何も知らされていない。そうでしょう?」

「意味が判らないな」

 オレの言葉に女は腕組みしたまま、眉をひそめて見せた。先程までの高飛車な振る舞いは形を潜め、代わりにあからさまに苛立った様な表情を浮かべて見せた。眉間に深く刻まれた皺が、それを如実に物語って居る様に思えた。

「まぁ、良いわ。あたしは、あたしを自身を殺すために生み出されたの。判る?」

「判んねぇよ! 全然、意味不明だよ!」

「……簡単な話よ」

 女はオレに歩み寄りながら続けて見せた。近寄るな! そう、叫びたかったが声が出なかった。女は尚も可笑しそうにケラケラ笑いながら、オレの目をジッと見つめたままじりじりと歩み寄って来る。笑う度に口の中で糸を引く、どす黒い血の流れが気持ち悪くて、オレは慌てて目を背けた。もっとも、吐き出される血生臭い息までは避けようがなかった。正直、あの時の変態野郎にそうしたみたいに、力一杯、殴り飛ばしてやりたかった。だけど、それ以上に、雪の様に白く、生気の失せた死人の様な肌に触れたくなかった。多分、殴り飛ばした事を間違いなく後悔させられる。そう思えて仕方がなかった。

「死ぬために生まれて来た命――あなたに取っては、極身近な話でしょう?」

「はぁ? 何の事だか、サッパリだな」

 意味不明な言動の数々に、すっかり苛立ったオレは声を荒げていた。肩で荒く息をしながら、怒りを露わにするオレを見届けた女は、満足そうに笑って見せた。調子付いたのか、再び、大女優張りの高飛車な振る舞いを見せた。

「そんな訳ないわ。料理の道を歩まんとするあなたには、切っても切り離せない話よ」

 そこまで言われて、何を示唆して居るのかが判ってしまった気がする。多分、オレは戦慄の表情を浮かべていた事だろう。女は、殊更に勝ち誇った様な気色の悪い薄ら笑いを浮かべながら、オレの目の前で立ち止まって見せた。

「肉も、魚も、野菜だってそう。皆、皆、人と言う生き物に殺されるために、死ぬために――」

 そう口にしてから、女はさらに口元を歪ませて見せた。

「いえ、殺されるために生まれて来た命なの。料理の道を歩む貴方ならば知って居るハズ」

 小さく吐息を就きながら、オレが驚愕するのを女は満足そうに見届けてみせた。

「魚を上手に捌けるのでしょう? 同じ事じゃない? 人を捌くのと、何が、どう違うの?」

「全然、違ぇよ! 大体、人を捌いた事なんか、ある訳ねぇだろっ!?」

 女はオレの目をジッと覗き込んだまま、不意に哀しそうな表情を見せた。

「……判って居るわ。こんなの、所詮、ただの負け惜しみに過ぎない」

 女心と秋の空と言う表現があるが、これ程までに振る舞いが一定しない理由が理解できなかった。情緒不安定と言うのだろうか? イヤ、そうではない様に思える。この女には心がない。所詮、人の姿を模しただけの存在に心など在る訳がない。こいつは人の真似をした傀儡に過ぎない。どんなに上手く心を描いたつもりでも、所詮、それは紛い物に過ぎない。ああ、そうだ。こいつは紛い物だ。出来損ないの傀儡に過ぎない。あの列車に轢かれた女を真似たできの悪い紛い物に過ぎないと言う事か。だとしたら、誰がこいつを生み出した? 理解不能な出来事ばかりが脳裏を駆け巡るお陰で、オレはすっかり疲弊していた。この世ならざる者と関わる事が、こんなにも、命を削る様な振る舞いになろうとは、予想した事もなかった。

「あたしは結局、あたし自身を殺すためだけに生み出された存在に過ぎないの」

 憶測が確信へと近付こうとしていた。やはり、この女は誰かの手によって、作為的に作り出された紛い物に過ぎない。少しだけ、この女の素性を理解した気がする。もっとも、そんな事を知った所で、何の解決にも繋がっていない。相変わらず理解不能な奴だ。ただただ困惑するオレを余所に、女はふーっと大きく溜め息を就くと、今にも消えてしまいそうな、儚げな、酷く自嘲的な笑みを浮かべて見せた。

「残念。時間切れね」

 時間切れ? 一体どう言う事だ? 女の言動に、オレはさらに困惑させられた。

「まぁ、仕方がないと言えば仕方がないわね。あたしの死をこれ程までに強く願った人が居る以上、抗い切れなかった」

「――お前の死を願った奴だと?」

「そうよ」

 この女が一体、どこの誰なのか、皆目見当が付かないが、それ程までに存在する事を頑なに否定した奴が居たと言う事実だけは、何となく判ってしまった気がする。事の詰まり、何らかの呪いを掛けられた結果、この紛い物の女が作り出されたと言う事か? それも、死を願う程の呪いとは……余程、強力な恨みの念を抱いていたであろう事が窺える。

「比叡力丸君、あなたに謝らないといけない事があるの」

「な、何故、オレの名前を知って居る!? お前は一体、誰なんだ!?」

「……あたしの正体はいずれ明らかになるわ。でも、今、あたしの正体は明かす訳にいかない。あたしの死を強く願ったあの女が、それを赦していないから」

「あの女だと? 誰なんだ、そいつは!?」

 気が付くと、オレは女の両肩を握り締め、激しく揺さぶっていた。乱暴な振舞いにも怯む事無く、女はただ哀しそうに首を横に振るばかりだった。

「未だ判らないの? あなたもあたしの死を願った一人よ?」

「な、何だと!?」

「比叡力丸君、良く覚えて置いて。直接手を下さ無くても、間接的にでも手は下せる物よ。でも、あなたにも謝らないといけないわね。ごめんなさい……」

 それだけ言い残すと、砂が崩れ落ちる様に女は静かに崩れ落ちた。余りにも唐突な展開にオレは腰を抜かしそうになった。後には何の痕跡も残されていない。全く以って理解不能な振る舞いだった。人の形を為していた物が、突然、白い砂となって風に散ってしまった。これを、一体、どう受け止めろと言うのだろうか? 言いたい事だけ言い放って、勝手に消え失せてしまうとは、馬鹿にするにも程がある。後に残されたオレはどうすれば良い!?

「くそっ! 何がどうなって居るのか、さっぱり意味不明だぜ! あの女は一体何者なんだ!? 何で、オレがこんな目に遭わなければならねぇんだ!?」

 体中を血が駆け巡る様な感覚に包まれていた。燃え上がる様に体が熱くなり、鼓動が高鳴る。オレは荒く、肩で息を就いていた。感情がただただ昂り、気が狂いそうだった。

「うわああぁぁーーーーっ!」

 唐突に、声を荒げ、叫び声を挙げるオレに人々が一斉に目線を投げ掛ける。なるほど。周囲の連中には、あの紛い物の姿は見えて居なかった訳か。一人、見えない誰かと喧嘩するオレは、さぞかし奇異な存在に見えたに違いない。オレの推測を裏付けるかの様に、可笑しな奴が居ると睨み付ける奴らの姿が目に留まった。現場検証をする警察官達にも奇異な目を向けられた。駄目だ、駄目だ。これ以上、可笑しな振舞いをすれば、在らぬ疑惑を持たれてしまうかも知れない。落ち付け、落ち付け……少しでも気持ちを落ち着かせようと周囲を見回したオレは、再び戦慄を覚えた。

(な、何なんだよ、こいつらは!?)

 異様な光景だった。何時の間にか、辺りを埋め尽くさんばかりに、騒動とは何ら関係のない連中が次々と集まっていた。停止線を引いて、必死で阻止しようとする警察官達と、携帯を片手に騒ぎ立てる野次馬達。熱心な口調で実況する者もいれば、せっせと携帯片手に何かを操作して居る奴らもいた。嫌な光景だ……思い出したくない情景が、抑えていた怒りが沸々と湧き上がって来るのを感じていた。鼓動が高鳴り、体が燃え上がる様に熱くなり、怒りの感情が体中を駆け巡る。

(あの時と同じだ……結花が事故に遭った時と同じだ!)

 最悪な光景だった。甘い菓子に群がる蟻の群れの様にそいつらは集まって来た。普段、目にする事のない、凄惨なる事故現場に好奇の眼差しを向ける奴らの腐り切った心に、オレは激しい怒りを覚えた。他人の不幸をお祭り気分で喜ぶ連中の心境が理解できなかったし、理解したくもなかった。退屈過ぎる日常の中に舞い降りた非日常は祭りの様な娯楽にでもなると言う事か。ああ、判って居る。オレにそいつらを非難する筋合いはない。能面騒動が起こるまでのオレがこの場に居たならば、同じ行動を起こしていたに違いない。

(……人の不幸は蜜の味だってか? けっ! 胸糞悪ぃ連中だぜ。さっさと、こんな場所去ってくれるまでだ)

 自分の事を棚に上げて、良く言えた物だと思う。だが、それでも、今のオレは好奇の眼差しを向けられる側に立たされて居る。立場が変われば加害者も、唐突に被害者にすり替わる。身勝手なのかも知れないが、今のオレは追い詰められて居る。手負いの獣は誰彼構わず喰らい付く物だ。その事を思い知れ。

 このまま、この場所に居たら、オレはこいつらを片っ端から殴り殺してしまうかも知れない。自分で自分を抑え切れなくなりそうで堪らなく不安で仕方なくなっていた。見ず知らずの腐れ外道のためにオレが罪を犯す羽目になる等、あまりにも馬鹿げて居る。一刻も早く、この場所を離れなければ。ここは人々の悪意で満たされて居る。激しい腐臭にも似た、人々の憎悪が胎動して居る様に思えて、堪らなく気分が悪くなった。沸々と殺意が湧き上がって来る。誰か武器を寄越せよ。そうしたら、お前ら、一人残らず殺してくれる。てめぇら全員、つくねの種に成っちまえば良い!

(ああ、駄目だ、駄目だ。此処に居るのは危険過ぎる。一刻も早く離れなければ……)

 だけど、離れるにしても、何処に向かえば良い? この惨状から察するに、伏見稲荷駅が復旧するのは何時になるか判った物では無さそうだ。

(仕方ねぇな。ちょっと遠回りになるが、稲荷駅から帰るしか無さそうだな)

 JR奈良線の稲荷駅から一旦、東福寺に向かう。多分、事故の影響で京阪は東福寺で折り返し運転をして居るだろうから、東福寺で京阪に乗り換えて出町柳まで向かう。後は出町柳からバスに乗れば、何とか、家まで戻る事はできるハズだ。

 相変わらず野次馬達の数は減りそうにない。物好きな連中だ。こう言う性根の腐った連中など、まとめて死んでしまえば良い。一瞬、そう思ったが、例え心の中で思い描いたとしても、それが現実の物にならないと言う保証は何処にもない。心の中に描き出された怒りの感情を、オレは慌てて掻き消した。もしも、オレの怒りが形を為して、オレの紛い物を生み出そう物なら、事態は本格的に収拾がつかない状況に陥る。要らぬ事は考えずに速やかに立ち去るべきだ。

(……今、迂闊な事を想い描くのは危険過ぎる)

 とにかく要らぬ事を考えない様にしながら、オレは稲荷駅を目指して歩き始めた。辺りはすっかり暗くなり、だからこそ余計にパトカーの明滅する赤い光が不安を掻き立ててくれる様に思えた。それでも、オレは後ろを振り返らずに歩き続けた。日常の中に舞い降りた非日常の光景。パトカーの明滅する赤い光がまさしく、その象徴だ。とにかく逃げよう。一刻も早くこの場所から逃げるべきだ。非日常はオレを呑み込もうとして居る。何も知らない連中は気付かぬ内に呑まれてしまえば良い。だが、気付いてしまったオレだけでも逃げさせて貰う。人で無しとでも、何とでも言え。オレは自分が可愛い。ただ、それだけの事だ。知らぬが仏とは良く言った物だ。

『――堀川まゆみ、列車に轢かれて醜い肉塊と成り果てた』

 何だ? 唐突に耳元で囁く様に響き渡った声にオレは慌てて振り返った。だが、そこには変わる事の無い夕暮れ時の伏見の街並みが広がるばかりだった。期せずして立ち止まり、険しい表情で周囲を窺うオレに道行く人々があからさまに奇異な目線を投げ掛ける。駄目だ、駄目だ。今、この状況で迂闊な振る舞いを見せるのは危険過ぎる。在らぬ嫌疑を掛けられでもしようものなら悲惨な展開を迎える事に成る。とにかく一刻も早くこの場を離れねば。

『先ずは一人目。だけど、まだまだ終わらせない……』

 まただ。また聞こえた。間違いなく女の声だ。押し殺したような笑い声は――考えたく無かったが結花の声の様に思えて仕方が無かった。それならば、先刻、目の当たりにした壮絶過ぎる事件は結花が為したとでも言うのか? ああ、駄目だ、駄目だ。今は何も考えたく無い。とにかくこの場から離れる事だけを考えるとしよう。オレはふらつく頭を必死に保ちながら、引き摺るようにしつつもその場を逃げる様に立ち去った。後に遺されたのは妙に生温い風だけだった。

◆◆◆54◆◆◆

 伏見稲荷駅を後にしたオレは稲荷駅を目指して足早に歩んでいた。本当は全力で走って逃げたい位であったが、そんな事をすれば不審者扱いされかねない。人は日常の中に忍び寄る非日常に余りにも無力だ。だからこそ必要以上に警戒心を抱く。過ぎた警戒心は人を疑心暗鬼に駆り立てる。結果、人は自分以外の何もかもを疑い始める様になる。その矛先を向けられでもしたらお終いだ。この場に縛り付けられ逃れる事ができなくなる。

(……去り際に聞こえた声は一体何だったんだ?)

 駄目だ、駄目だ。今はとにかく冷静さを取り戻す事が先決だ。余計な事は考えずに立ち去る事を最優先事項として考えるべきだ。

 それにしても……騒動とは無縁な、昔ながらの風情を残す伏見の商店街も落ち着かない雰囲気を称えていた。無理もない。平和な伏見の街を襲った突然の凶事は、平和な日常を呆気なく粉々に打ち砕いてしまうには十分過ぎる程の威力ある出来事だった。それも、普通に起こった事故ではない。得体の知れない何者かの手により作為的に作り出された事件なのだから、余計に人々の不安を煽る事は容易に想像が尽く。

 伏見の街並みは、どこか昔ながらの懐かしい雰囲気を残していて、時に一人で、あるいは、コタ達と共にぶらりと訪れる事も少なくない場所だった。広大な敷地と木々達に囲まれたお稲荷さんを訪れる事で、ささくれ立った気持ちを鎮めて貰った事は一度や二度ではない。可笑しな表現だが、どこか、故郷の街並みを訪れたかの様な感覚に包まれるのが心地良く感じられる街並みだ。その平和な街並みが揺れ動かされて居る。

 一点の乱れもない鏡の様な湖面。例えちっぽけな小石でも、鏡の様な湖面を揺らがせるのは容易い事だ。それなのにも関わらず、巨岩とも呼べる程の災厄が降り注いだのだから、波打つどころか、湖面は激しく揺さぶられた事だろう。

 夕暮れ時の商店街には、見た事もない程に大勢の人が訪れていた。地元の人々も居たのだろうが、多分、大半は事故の様子を目撃しに訪れた野次馬達だろう。解せない話だ。そんなに、非日常が欲しければ、幾らでもくれてやる。オレがお前らにくれてやるから、有り難く受け取るが良い。

 夕暮れ時を迎え、本来であれば静かな一時を過ごすハズの商店街は嫌な喧騒に包まれていた。尚も増え続けるパトカーの赤い光が不安な気持ちを駆り立てる一方だった。無駄に野次馬共がそぞろ集う物だから、警察も不必要な労力を割く羽目になる。ご苦労な事だ。どいつも、こいつも、自らを守ってくれる砦を自らの手で打ち砕いて居る事に気付いていないとは、愚かな話だ。もっとも、自らの過ちに築いた時には時、既に遅しだ。皆、まとめて情鬼に喰らわれるが良い。

 商店街を抜ければ、やがて小さな公園が見えて来る。ただ、オレは一刻も早く、この場所から遠ざかりたかった。目には見えないが、ここには嫌な気配が充満して居る。事故を嗅ぎ付けて集まって来た野次馬達の放つ悪意が街を薄暗い殺気で覆い隠そうとして居る。嫌な感じだ。どろどろの汚泥の様な殺気が驚くべき早さで街を侵食して居る。恐ろしい事だ。背筋が冷たくなる。うかうかしていられない。一刻も早く伏見から逃れなければオレまで巻き添えを喰う事になる。

 小さな公園前を抜けて、川の上を流れる小さな橋を足早に通り過ぎた。自然と足早になる。この先にはJR奈良線の踏切がある。先刻の事があったからこそ、不安な気持ちを否定する事はできなかった。

 奇しくも踏切前に差し掛かった所で警笛が鳴り始めた。カンカンカンカン。その音に驚かされたオレは、思わずその場で硬直した。先刻の恐ろしい情景が克明に蘇ってきそうで、不安と恐怖で、前に進む事ができなかった。赤く明滅する光から目を逸らす事ができなかった。

 カンカンカンカン。やがて、ゆっくりと遮断機が降りて来る。ここで無理矢理に踏切を駆け抜けようとして、うっかり線路の隙間に足でも挟まれれば、それこそ先程の女と同じ運命を辿る事になる。そう考えれば、再び襲い掛かる恐ろしさで体が凍り付いた様に冷たくなった。少なからず蒸し暑い夕暮れ時だと言うのに、不可解なまでの悪寒に本気で恐怖を覚えて居た。予想以上に侵食する速度は早いらしい。こんな時に足止めを食うとは最悪な展開だ。列車よ、さっさと過ぎ去ってくれ。

 程なくして列車が目の前を駆け抜けてゆく。線路を地面、深くに押さえ付ける度に轟音が響き渡る。勢い良く駆け抜けてゆく列車に撒き起こされた風を肌で感じながら、明滅する踏切の赤い光を見つめながら、オレの脳裏には過去の記憶が鮮明に蘇ろうとしていた。

◆◆◆55◆◆◆

 あれは、今から一年以上前の出来事だった。オレは何処に向かうでも無く、ただ彷徨う様に五条の街並み歩んでいた。その日は朝からぐずついた空模様で、降ったり止んだり、時々強まったりと嫌な雨と縁があった。なるほど。この空もオレの死を哀しんでくれて居るのだろうか? そう思えば、殊更に背中を後押しされた気さえしていた。乾いた笑みを浮かべたまま、シトシトと降り頻る雨の中、傘もささずに歩んでいた。体温を感じさせる様な生温かい雨の感触を肌で感じたくて、ただ、魘される様に歩んでいた。これはオレの死を哀しむ空が泣いてくれて居るに違いない――なんてご都合主義も良い所だ。間違えた前向きさだと笑いが毀れる。ああ、判って居るさ。それは馬鹿な考えに過ぎないと思う。死のうとするオレを後押しする奴が何処に居ると言うのだろうか。追い詰められ切った心と言うのは、恐怖心さえ麻痺させるのかと思い知らされた。

 それでもオレは本気で死にたいと願っていた。生きる事に絶望しか見出す事ができず、ただ、逃げる事ばかりを考えて居た。結花に会いたい。結花に会いたい。結花に会いたい。ただ、それしか考える事のできないオレは、すっかり生きて居る意味を見失っていた。生ける屍とでも呼べば良いのだろうか? 肉体だけが辛うじて動き回って居る様な状態だとしか言えない、酷く不可思議な状態に陥っていた。生きて居るのか死んで居るのか自分でも良く判らなくなっていた。

 生前、結花が死を追い求めて居た理由、今更になってようやく理解できて居る自分が滑稽で乾いた笑いが浮かんで来る。生きて居る事を実感できなくなった時、人は体温を投げ捨てて、冷たく渇いた死体に成る事を渇望する物らしい。不安で仕方が無くなるのだろう。生きて居る理由を見失い、生きて居る意味が判らなくなってなお生き続けると言う事が、堪らなく不安で仕方が無くなるのだろう。少なくてもオレはそうだった。生きて居ると実感できない以上、生きて居ても仕方がないとしか思えなくなっていた。

 結花が死んでからオレは見る影もない程に壊れてしまった。先ず、何を食っても味が判らなくなった。だから、食事をすると言う行為がただの苦痛に満ちた行為でしか無くなり、何時しか食事をする事から身を遠ざけて居た。料理の道を歩む身が食べると言う基本的な行動から身を退けるとは実に滑稽な話だ。だが、喉を通らない食事を無理に詰め込もうとすれば、すぐに戻してしまう様になっていた。それが世に聞く『拒食症』と言うヤツだと知ったのは大分後になってからの事だった。

 怖かった。心の何処かで心に病を持つ者達を見下していた報いなのだろうか? オレ自身が同じ立場に立とうとは思いもしなかっただけにショックも大きかった。図体ばかりでかいクセに、オレはこんなにも弱かったのか? 自分自身の弱さを受け入れられなくて症状は悪化の一途を辿った。それでもオレは頑なに医者に行く事を拒んだ。認めたくなかった。結花と同じ様に心の病を患ってしまったと言う事実を。イヤ――心の何処かで結花を見下し、揶揄していたオレ自身を受け入れたくなかったし、認めたくもなかった。

 だが、オレの身に降り掛かった異変はこれだけでは終わらなかった。コタ達と一緒に過ごしていても、ちっとも楽しめなくなった。オレ以外の皆が語らって居る中に、場違いな置物の様に置かれて居るオレ自身が居る。皆、オレに気を使ってくれて居るのが判ってしまうからこそ、余計に息苦しくて――負の螺旋階段だ。終わる事のない堂々巡り。悪循環の連鎖。つまり、オレは生きながら死んで居る様な状態に陥っていた。

 それだけではない。ふとした拍子に結花の事を思い出しては涙が止まらなくなる事も少なくなかった。何度も、何度も、あの事故現場を訪れては吸い込まれる様に道路に飛び出そうとして、偶然通り掛かった通行人に慌てて止められた事もあった。家に居てもベッドに突っ伏して一人、声を押し殺して泣くばかりだった。何時も夜は明かりも灯さずに泣いていた。弱い自分を、弱過ぎる自分を受け入れる事ができなくて、ただただ苦しんでいた。

 だから、正直なところ、死ぬ事は大して怖くなかった。今、オレが置かれて居る状況が余りにも辛過ぎて、苦し過ぎて、丁度、リセットボタンを押してゲームをやり直す様な感覚で、オレ自身の物語をやり直したかった。死ねば楽になれる。死ぬ事ができれば苦しみからも解放されて、オレの物語も晴れて、やり直しが叶うに違いない。そう、心の底から信じ切っていた。恐ろしい話だが、疑う事を知らず、盲目的に信じていた。恐怖心は微塵もなかった。それどころか、一人エッチするための材料を追い求めて居る時の気分と良く似た、ムラムラ感に駆り立てられる様に追い求めて居た。依存症と言うのはこう言う状態を言うのだろう。これもまた後から知った知識だ。

 それでも、大切な誰かを失う苦しみを知ってしまったからこそ、コタ達に同じ苦しみを体験させたくなくて、連鎖を食い止めたくて、ただ負の連鎖を食い止めたくて、食い止めたくて、何とかして、生きようと必死で振る舞っていた。

 だけど、現実は底意地が悪くて、必死で生きようとするオレを容赦無く追い詰めるばかりで、苦しみは軽くなるどころか、結花がもう居ないと言う事実を殊更に強調するばかりで、絶望は肥大化する一方だった。どんなに抗ってみても、結花を失った哀しみは癒える事は無く、日に日に、生きる事に絶望を覚える様になっていた。それに比例する様に死を追い求める感情が色濃くなっていた。丁度、一人エッチを我慢し続けた状況下で、最高に抜ける映像を目にしてしまった時の様に湧き上がる興奮を抑え切れなくなっていた。出したい。抜きたい。イきたい。死にたい! 死なせてくれ! 雄叫び上げながら搾り出させてくれ! もう……限界だった。

 それでも、そんな駄目なオレの事を、コタ達は必死で支えてくれようとしてくれた。そんな皆の想いを裏切る様な結果になってしまう事を本当に申し訳なく思う。何かが引き金になったと言う訳ではなかった。ただ、どうしても波の様に繰り返し、繰り返し、押し寄せる哀しみに耐えられなくなってしまった。

 それは丁度、限界まで水を湛えたダムに、さらなる水が雪崩れ込んだ結果、決壊してしまうのと良く似た状況の様に思えた。結局、オレが弱かったから堪えられなくなってしまったのだと思う。だから、あの日、オレは結花の後を追って死んでしまおうと、本気で思っていた。普通に考えたら、死ぬなんて恐ろしい事、絶対にできる訳がなかった。だけど、あの時のオレは本気で死を受け入れようと思っていた。そうすれば、もう一度結花に会える。波の様に押し寄せる苦しみからも解放される。何の根拠もないが、それでも、すっかり我を見失ったオレは、そんな考えに縋らずに居られなかった。もう、あの時のオレは完全にぶっ壊れていたのだろう。本気で、もう、どうでも良い。心の底からそう思っていた。イヤ……むしろ、思考が停止されていた。何も考えられなくなっていたし、ただ、死ぬ事だけが、唯一、与えられた『選択肢』だと理解した。

 昼を過ぎた頃から唸りをあげ始めた空だったが、学校を出る頃には、とうとう大粒の雨が降り出す様相へと移り変わっていた。心地良い雨だった。体温を感じさせる、温かな雨は今生の別れには十分過ぎる雰囲気を醸し出してくれて居る様に思えて、皮肉に満ち溢れて居て心地良かった。

 こんな場面だと言うのに、オレは最後まで本能に忠実で、煩悩に塗れて居るらしく、こんな場面だと言うのに阿呆な事を考えて居た。せめて、死ぬ前に一度だけで良かったから、コタと肌を重ね合わせて体温を感じたかった、と。雄叫びの様に声張り上げて一緒に果てたかった。何度も、何度も。

(まったく……最後まで格好悪りぃよな、オレ)

 結花の事を想う一方で、コタの事を想う辺り、最期の最期まで、オレは優柔不断な男だった。あの世で結花に会う事が叶ったら、何時もの様に叱って貰おう。そんな事を真面目に考えて居る自分が不憫で、憐れで、それから、途方も無く滑稽だった。だから、訳も無く笑いが零れ落ちた。

 雨から身を守るかの様に、道往く人々達は足早に過ぎ去ってゆくばかりだった。傘もささずに力無く歩み、その上、時折、不気味に笑うオレに、さも、奇異な存在を目にしたかの様な好機に満ちた目線を投げ掛ける。温かな雨なのに、何故、そんなにも慌てて逃げ惑う必要がある? オレには空が涙を流してくれて居る様に感じられた。だからこそ、降り注ぐ雨は心地良くて、何時までも打たれて居たい衝動に駆られていた。

 程なくしてオレの視界に清水五条の駅が入る。行く宛ても無く彷徨って居るうちに、こんな所まで来てしまったのか。再び乾いた笑いが毀れる。だけど、これは偶然では無く、必然なのかも知れない。清水五条には止まらない通過列車がある。そうだ。これこそ偶然では無く、必然なのだと理解した。この駅にしよう。この駅で死のう。勢い良く飛び込んで来る通過列車なら、痛みを感じる間も無く死ねるハズだ。即死なら苦しまずに済みそうだ。痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。最後まで我儘で、優柔不断で、情けないオレはできるだけ一瞬で、楽に、何よりも確実に死ねる手段を冷静に選んでいた。オレは何かに導かれる様に駅のホームへと続く階段を下って行った。

 オレは何かに呼び寄せられるかの様に地下へと続く階段を歩んでいた。すっかりずぶ濡れになって、髪から雨水だか汗だか判らない何かを滴らせながら歩むオレを目にして驚いたのだろうか? すれ違う人々は、一瞬、驚いた様な表情を見せたが、慌てて道を空けた。そんなに怖がってくれるな。少なくても今のオレは、お前達と同じ、生ある人の身なのだから。

 溜め息交じりに駅の改札を抜け、ホームへと続く階段を一歩、また一歩と降りていた。丁度、列車が到着したのだろうか? 駅のホームから吹き抜ける、緩やかな風が頬を撫でてゆく。湿気を孕んだ石の匂いが心地良かった。

 やがて、駅のホームに辿り着いた。とうとう、オレの死に場所に辿り着いてしまったか。覚悟はできて居るハズなのに、今になって恐怖心が鮮明に噴き出して来た。どこまでも優柔不断なオレが情け無くて、惨めで、格好悪くて、肩をだらりとだらしなく垂らしながら大きく溜め息を就いた。

 夕暮れ時の駅のホームは多くの人で賑わっていた。恐らく、観光客もいれば、会社帰りのサラリーマンもいた。大勢の人々が集う中、オレは子供連れの母親が楽しそうに子供と語らって居る姿に目を取られていた。幸せに満ちた人生を歩んで居る親子に、人が肉片へと成り替わる瞬間を見せ付ける事になるのは少々気が退けたが、まぁ、悪く思わないでくれ。そんな光景、一生の間で一度だって見る事もない、ある意味貴重な体験になるだろうから。

『まもなく特急電車が参ります。危ないですので白線の内側までお下がりください』

 耳に馴染みのある構内アナウンスが響き渡った。夕暮れ時の駅のホームは人も多かった。上手くやらなければ、オレの振る舞いに気付いた奴らに阻止される可能性もある。程なくして、微かに風が吹き始めた。アナウンスの通り、特急電車が近付いて居るのだろう。トンネルを駆け抜ける列車の圧が空気を押し出して居る。勝負は一瞬だ。少しでもタイミングを見誤れば失敗に終わる。失敗は赦されない。一度だけ……この勝負は一度だけしか挑めない。だからこそ、この好機を逃す訳にはいかなかった。

 程なくして、特急電車の先頭車両が視界に飛び込んで来る。続けて、線路を打ち鳴らす轟音が響き渡る。今だ。今しかない。この一瞬を逃す訳にはいかない。そう思った。ここで、失敗してしまえば、オレは恐怖の余り二度と死ぬ事ができなくなってしまうに違いない。一度切りのチャンスだ。両の手を力一杯握り締めた。握り締めた拳の中でジワっと汗がにじんだ。足が酷く震える。口がカラカラに渇き、鼓動が早鐘の様に高鳴る。呼吸が荒くなり、気を抜くと今にも叫び声を挙げてしまいそうだった。結花の笑顔が浮かんできて、コタの笑顔が浮かんできて、それから皆の笑顔が浮かんできた。だけど、もう、後戻りはできない。

(すまねぇっ! 皆!)

 目を伏せて、思考を停止させて、オレは思い切り地面を蹴って飛び込もうとした。そう――あの時、オレは確かに、特急電車目掛けて飛び込んだハズだった。飛び込んだハズだった――だが、その瞬間、オレの後を尾行していてくれたコタの機転のお陰で命を救われた。もしも、あの時、もしもコタが現れなかったら、オレは間違いなく、この場所には居なかっただろう。

◆◆◆56◆◆◆

 走り去ってゆく列車の音に、オレはあの日の出来事が失敗した光景を思い出していた。コタが居てくれたから救われた。そう、締め括ろうとしていた。

 やがて列車が駆け抜ける音が遠ざかり、踏切の遮断機が開く。再び車が、人々が歩き出す足音が聞こえて来た。列車も通過し終わった今、此処に留まる理由は何一つない。踏切を抜けて稲荷駅を目指すべく歩き出そうとしたところで、唐突に視界が揺らいだ。一体、何事かと、慌てて目を開いたオレは、我が目を疑った。

「そ、そんな馬鹿な!?」

 信じられない光景が目の前に広がっていた。そこは清水五条の駅のホームだった。駅のホームは多くの人で賑わって居る。

 恐らく、観光客もいれば、会社帰りのサラリーマンもいた。大勢の人々が集う中、オレは子供連れの母親が楽しそうに子供と語らって居る姿に目を取られていたそれから、もう一人……オレの視界にはとんでもない奴が映っていた。

「あれは……オレか!? それならば、これはあの時の光景なのか!?」

 嫌な予感しかしなかった。慌てて周囲を見回してみるが、オレの後を尾行していたハズのコタの姿は何処にもなかった。まずい。この状況は非常にまずい。このままでは、オレは本当に死んでしまう事になる。

「待て! 駄目だ! 止せ!」

 オレの声など聞こえていないのか、あの日のオレは足元をジッと睨み付けたまま肩を小さく震わせていた。両の手を握り締め、酷く荒い呼吸がここまで聞こえて来る。

「まもなく特急電車が参ります。危ないので白線の内側までお下がりください」

 駄目だ! このままではオレは……! そんなオレの切な願いとは裏腹に、列車の先頭に付けられたライトが獣の目の様に暗いトンネルの中、煌々と光を放つのが見えた。今、まさにホームに特急電車が駆け込んで来ようとした。ようやく階段を駆け下りてコタが飛び込んで来るのが見えたが、あの距離からでは、とてもではないが間に合わない。

「止せ! 頼む! 思い留まれ、オレ!」

 だが、オレの声が届く訳もなかっただろうし、何よりも、あの時のオレは本気で死を決意していた。だからこそ、例えオレの声が届いていても無駄だったハズだ。コタが、そうした様に、力づくでも抑え込まない限り、阻止する事はできなかったハズだ。

 地面を跳躍すると、オレは勢い良く走り出した。子供連れの母親が悲鳴を挙げ、観光客が慌てて止めようとする。だが、遅かった。そう。それは一瞬の出来事だった。

「うわあああーーーーっ!」

 響き渡る列車の警笛。皮肉にも、ようやく階段を必死の形相で駆け下りて来るコタが見えた。だが、到底間に合う訳がない。

「力丸ーーーっ!」

 静まり返った清水五条の駅のホームにコタの怒号が空しく響き渡る。だけど、だけど――何もかもが遅過ぎた。急ブレーキを掛ける列車の音が響き渡るが、どう考えても間に合わない。線路と車輪が擦れ合う、悲鳴にも似た金属音だけが空しく響き渡る。やがて、その轟音さえも一瞬の出来事だった。やがて、清水五条の駅のホームには静寂が訪れる。

 列車はホームに中途半端に入り込んだ所で止まって居る。何とも中途半端な場所での停車だ。一瞬の静寂の後で、駅のホームは瞬く間にざわめき出す。この光景には見覚えがある。ああ、そうさ。先刻、伏見稲荷駅で目の当たりにした光景その物ではないか。列車に閉じ込められたまま動揺する乗客達。ざわめく駅のホームで列車を待つ乗客達。多分、オレはあの列車の下で既に――。

「そんな……。どうして……」

 崩れ落ちるオレの前に誰かが静かに歩み寄る。驚いたオレは顔を挙げた。

「こ、コタ!?」

 そこに居たのはあの時、三条の街並みで見た時と同じ姿をしたコタだった。燃え盛る炎の様に鮮やかな紅の着物を身に纏い、あの時と同じ様に般若の面を着けていた。

「……見届けたか? これは俺が歩んだ、ある『選択肢』の結果だ」

「ある『選択肢』だと?」

「そうだ」

 オレの問い掛けにコタは静かに応えて見せた。

「あの日、あの時、あの瞬間、俺がお前を阻止できなかった『選択肢』を歩んだ末の結末だ」

「何でだよ!? どうしてオレを阻止してくれなかったんだよ!?」

 何て身勝手な事を言って居るのだろう。自分で自分が嫌になる。だが、コタは相変わらず抑揚のない機械の様な声で返して見せた。

「あの日、あの時、高瀬川での出来事を忘れたとは言わせないぞ?」

「そ、それは……」

「お前は結花と歩む道を選んだ筈だ。それにも関わらず、よくもそんな図々しい事が言えた物だな」

 冷たく突き放されれば言葉を失う。何も言い返せなかった。ああ、そうだ。オレはあの日、あの時、確かに結花と共に歩む道を選んだ。それは事実だ。コタの言う通りだ。

「良く覚えて置け。『選択肢』は誰にでも等しく与えられる。それと同時に、一度選んだ『選択肢』がもたらす結末から逃れる事はできない。何故なら、それは偶然では無く、必然だからだ」

 そう言い残すとコタはオレに背を向けると、ゆっくりと歩き出した。

「コタ! 待ってくれ!」

 オレは急いでコタの後を追い掛けようとした。だけど、不意に、誰かに腕を掴まれた。誰だ!? オレの行く手を阻む奴は、誰であろうと容赦しない。怒りに身を任せて振り返れば、そこには絵描き小僧が佇んでいた。

「お前は、絵描き小僧!?」

 オレを鋭い眼差しで見つめたまま絵描き小僧は首を横に振って見せた。

「何で、オレの邪魔をするんだよ!? 離せよっ!」

 怒りに身を任せて振舞うオレに対しても、絵描き小僧は毅然とした態度を崩す事なく、静かに首を横に振った。オレの問い掛けに応えないどころか、再びオレに一枚の絵を差し出して見せた。胸元に掲げられた絵は一目見ただけで、何を描いた物か判ってしまった。

「これは……夜の花見小路の情景か? ここに行け。そう言う事だな?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は力強く頷いて見せた。

 冗談じゃない! お前の導きに従った結果、オレは最悪の光景を目の当たりにさせられたのだぞ!? そう乱暴に言い放って、頭ごなしに拒否する事もできた。だけど、これもまた、『選択肢』に違いない。絵描き小僧が示した道に従うか、絵描き小僧が示した道を拒否するか、二つに一つと言う訳か。嫌な『選択肢』だ。それに、コタが言う通り、一度選んだ『選択肢』がもたらす結末から逃れる事はできないハズだ。適当に選べば後々、後悔する羽目になる。迂闊には選べない。

「なるほどな。これも『選択肢』っつー訳なんだろ? また、可笑しな事に巻き込まれるのは勘弁して欲しいけど、迂闊にお前の指示を無視するのも恐ろしいからな。それに、お前に何かを問う事すら赦されねぇんだろ?」

 意地悪く問い詰めて見せれば、絵描き小僧は申し訳なさそうに俯いて見せた。そんな落ち込んだ様な振る舞いを見せられたのでは、オレとしても気分は良くない。それに、あの女――堀川まゆみをけし掛けたのは絵描き小僧ではない事は判っていた。堀川まゆみは自らを『情鬼』と言った。そう考えれば、やはり、背後に居るのは、あの不気味な坊さんに違いない。もっとも、何故、わざわざ敵が仕掛けた罠に直面する様に仕向けたのかは理解不能だが、此処で絵描き小僧を問い詰めても可哀想な想いをさせるだけだ。我ながら実に単純な事だ。良くも悪くもオレは格好付けたがる性分らしい。どんな場面でも格好良いオレを演じたくなる。本当に馬鹿な奴だ。

「ああ、判った、判った。だから、そんな顔するんじゃねぇよ」

 オレは絵描き小僧の肩を抱きながら、笑い掛けてやった。

「なぁ、全部片付いたら種明かししてくれよ? まぁ、それも駄目だっつーなら、そん時は潔く諦めるけどよ」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は力強く頷くと、そっと手を差し出して見せた。

「お? 何のつもりだ?」

 戸惑うオレを他所に、絵描き小僧は力強い笑みを称えたままオレに、もう一度、小指を突き出して見せた。

「ああ、なるほどな。それがお前の気持ちっつー訳か。嫌いじゃないぜ、そう言う古臭い振舞い」

 オレは絵描き小僧と指を切った。絵描き小僧はオレの目を見据えたまま力強く微笑んで見せた。

「これは男と男の約束だぜ。ちゃんと約束守れよ?」

 オレの言葉に誇らしげな笑みを称えたまま、絵描き小僧は力強く頷いて見せた。不意に、唐突に視界が眩しい光に包み込まれ、意識が遠退く感覚に包まれた。足場が揺らぐ様な感覚を覚え、立って居られなくなったオレは、その場に崩れ落ちた。再び感覚が戻った時には、周囲は妙に賑やかになっていた。一体、何が起きたのかと立ち上がり周囲を見回したオレは驚かされた。

(ここは……四条大橋か!?)

 一体、どんな手を使ったのかは判らないが、絵描き小僧がここまで運んでくれたのは間違い無さそうだ。既に夜空には月が顔を覗かせていた。流れゆく鴨川の流れに月明りがキラキラと反射して居る様を静かに見届けた所でオレは歩き出した。

(ま、あいつなりに気を使ってみせたつもりっつー訳か。まぁ、良いさ。今度会ったら、何か美味いもんでも作ってやるとするかな)

 丁度、青になった信号を渡り、不夜城の様にどっしりと構える南座前をオレは風を切って抜けた。しばらく四条通沿いに歩き続ければ花見小路へと至る。異変は未だ収束する事はないのだろうから、気を緩める事なく挑むとしよう。オレは呼吸を整えながら、すっかり日の暮れた夜半の四条通を歩き続けた。

◆◆◆57◆◆◆

 宵の初めへと誘われた祇園の街並みは水を得た魚の様に賑わっていた。活気に満ち溢れていて、往来する人々も大勢見受けられた。人々の賑わいが街に染み渡ってゆく様にさえ感じられた。そんな賑わいの中、あからさまに場違いなオレが歩んで居る。言うなれば、オレの存在自体が日常の中に舞い降りた非日常になって居ると言う状況か。何とも皮肉な話だと溜め息が毀れる。

 南座前を抜けてすぐの所、通りを挟んだ向かい側に居を構える一銭洋食の店が目に留まる。壮絶な人身事故を目の当たりにしたり、自殺を為し遂げてしまう自分自身を見届けてみたりと、心を揺さぶるには十分過ぎる体験をしたお陰で、無駄に腹が減ったのは事実だった。

(うう……腹減ったなぁ。一銭洋食の店に立ち寄りたい気もするが)

 周囲を見回してみたが特に異変は感じられなかった。それでも、迂闊な行動を取るのは得策とは言い難い様に思えて、思わず身震いさせられた。

(さっさと片付けて、腹一杯、飯食うとするかな)

 オレは一銭洋食の店を見ない様にしながら四条通沿いに歩き続けた。辺りはすっかり暗くなっており、往来する人の流れも夕食や酒目当ての観光客達ばかりが目に付く。そのまま人の流れに乗って花見小路を目指して歩み続けた。

 日の暮れた四条通もまた、風情があって悪くない。早く騒動を片付けてコタと二人、散歩したい。そんな事を考えながら、オレは歩き続けた。それにしても蒸し暑い。妙な体験の数々に遭遇したお陰で殊更に汗だくだった。べた付くのが気持ち悪かったが、いずれにしても騒動に決着をつけない事には道は開かれない。不平不満を口にした所で事態が好転する事など有り得ない。だから、オレは人の流れに重なり合う様に歩き続けた。飲食店も多い事もあり、そこかしこから旨そうな食い物の匂いが漂って来る。今のオレに取っては苛立ちを覚えるには十二分過ぎる拷問に過ぎない。

 夕暮れ時の四条通らしく観光客達の姿も目に付く。丁度、正面からこちらに歩み寄って来る浴衣姿の娘達が目に留まった。結花の姿がついつい思い出されてしまい胸が締め付けられそうになる。それでもオレは歩き続けた。立ち並ぶ店々を後にして、ただひたすらに歩き続けた。遠く、視界の先には祇園さんの大きな鳥居が見える。威風堂々たる姿でオレを見て居る様な気がして、自然と気持ちも引き締まる。どうか、オレの行く末を見守っていてくれ。

 祇園の街並みはこれからが盛り上がる時間となる。楽し気に語らいながらオレを追い越してゆく観光客達を見送りながら、思わず溜め息が毀れる。煌びやかなネオンサインや照明に彩られた祇園の街並み。そこを行き交う人々の楽し気な想い。世の中は何時だって理不尽だと思い知らされる。陽気に語らう声が、煌々と照らし出す明るい光が、どこからか流れて来る琴や三味線の音色が、何もかもが皮肉に思えて仕方がなかった。何もかも壊してやりたい衝動に駆られる。多分、凶悪犯罪に手を染める奴は、こういった想いを積み重ね、積み重ね、ひたすらに積み重ね続け、ある日、溜りに溜まった想いが、絶望が、決壊した瞬間、人であった自分を捨て去り、鬼である自分へと生まれ変わるのではないだろうか? 普段は、そうした人種は壁の向こう側に存在する異質な連中だと馬鹿にするだけだが、今のオレは、そうした人種の想いに共感を覚える。いよいよ、オレも気が触れようとして居るのかも知れない。だけど、抗う気にはなれなかった。このまま壊れてしまうのも悪くない。そう真面目に考えていた。

 程なくして花見小路に到達する。やはり、夜だからなのだろうか? 昼間とは違った華やかな賑わいを見せていた。立ち並ぶ店々は軒先を明るく照らし出し、往来する人々の流れも活気にあふれて居る。酒を振舞う店では、酒の肴も振舞って居る事だろう。焼き鳥の香りだろうか? 立ち上る煙から漂う、良い香りに思わず引き寄せられそうになる。

(くそっ! 何の拷問だっつーの! こんな美味そうな匂いさせやがって……)

 鳴り響く腹を押さえながら、オレは花見小路を歩き続けた。夜半の風情漂う花見小路を、図体のでかい、汗臭い男が歩き回ると言う、壮絶に雰囲気台無しな状況に居た堪れなくなる。すれ違う人々の視線が突き刺さるようで痛かった。

(オレだって、好きでこんな所彷徨ってるんじゃねぇんだよ……)

 ぶつぶつ小声で文句を言いながらもオレは道なりに歩き続けていた。それにしても、絵描き小僧も随分と曖昧な指示の出し方をしてくれる。今更ながらではあるが、花見小路で何をしろと言うのだろうか? まさか、浴びる程、酒を呑んで来いとか、そんな事を伝えたかったと言う事は間違えても有り得ないだろう。ただ、余りにも漠然としていて、何を為せば良いのか見当もつかず、オレは花見小路の道なりに歩く事しかできなかった。

 夜の花見小路は賑わいと活気に満ち溢れて居る。行き交う人々は皆、楽しそうに語らい、それぞれ想い想いのお気に入りの店へと消えてゆく。人々の笑い声と賑やかな話し声に満たされ、座敷で奏でられて居るであろう琴や三味線の音色が時折聞こえて来る。そんな中、忙しなく座敷から座敷へと燕の様に歩み去ってゆく舞妓達の姿もあった。

 ここは花街。夜半の時間帯には享楽だけが存在する事を赦される場所となる。日常のいざこざから解放され、一時の非日常を体感する事を目的とする者達が集うと言う事を考えれば、確かに、此処、花見小路もまた日常の中に舞い降りた非日常と見る事もできる。日暮れと共に素顔を見せる非日常の世界と考えれば無害な存在だ。もっとも、この場所にそぐわないオレが彷徨って居る姿は、もはや、道化以外の何物でもなかった。嫌な意味での非日常が彷徨って居る状況だと考えれば、オレの存在は相当な不協和音になって居る事は想像に難くない。

 すれ違う人々がヒソヒソと囃し立てながらオレを見て居る。嫌な気分だ。赦されるならば顔の形が判らなくなるまで殴り飛ばしてやりたい気持ちで一杯だった。どいつも、こいつも、浮かれやがって……。苛立ちを抑え切れないオレは肩をいからせながら歩き続けた。余程、鬼気迫る顔をしていたに違いない。何しろ、浮かれた連中も、オレの顔を目にすると、途端に恐怖に満ちた表情へと移り変わり、慌てて道を空けてくれた辺りからも容易に想像できる。なるほど。オレの様な危うい野蛮人とは関わり合いになりたくないと言う訳か。ああ、それが無難だ。今のオレは人には非ず。怒りに我を見失った鬼に成り果てた身その物だ。悪い意味での非日常だ。精々、オレから逃げ惑え。

 このまま花見小路を歩いて行けば、やがて、建仁寺に辿り着く。今の時間帯、建仁寺の裏門は固く閉ざされて居る。しかし、花見小路を歩んで居るが何の発見もない。何かを見落として居るのではないだろうかと不安になる。何しろ、絵描き小僧が敢えて示唆した場所だ。何も見付けられないまま終わってしまうとは考えられない。

 オレはふと、足を止めて考えてみた。花見小路とは言っても通り沿いにあるならば見付けるのは難しくないが、脇道まで含めて花見小路として考えて居るのであれば、探索範囲が一気に拡大する。とてもではないが、全ての道を総当たりで調べ尽すのは困難を極める。仕方がないので、オレは脇道を通り過ぎる際に、通りの奥まで目を光らせながら歩き続ける事にした。だが、結局のところ、何かしらかの異変と遭遇する事はできなかった。

 何も発見できないまま歩き続けていれば、程なくして建仁寺の門が見えて来る。なるほど。そう言う事か。通り沿いに歩き続けるオレの視界の先、丁度、建仁寺の門の辺りに明らかに異質な存在が佇んで居るのが見えた。

(なるほどな。今度はお前が出迎えてくれるっつー訳か)

 あの時、三条の街並みで目にしたのと同じ姿でオレを待ちうけるのは、小面の面を着けた結花の姿だった。周囲の連中には結花の姿は見えて居ないらしく、何事もなかったかの様に目の前を人々が往来してゆく。面を被って居るお陰で結花の表情は窺う事ができなかったが、じっと構えたままオレを待って居る事は容易に想像が付いた。だからこそ、オレもまた焦らずに一歩、また一歩、能面の向こうにあるであろう結花の目を見据えたまま歩み寄った。一歩、一歩、ゆっくりと歩み寄り、ようやく結花の前まで辿り着いた。

「さぁ、絵描き小僧に導かれるままに、ここまできたぜ?」

 結花は静かに俯くと何かを小声で呟いて見せた。何を言って居るか聞き取れなかったが、結花の声に呼応する様に周囲にほたるが集い始めた。一体、何をするつもりなのだろうか? 警戒しつつ見つめて居れば、光輝くほたる達は結花の周りを舞いながら、次第に二つの群れに分かれた。尚も結花は小声で何かを呟き続けて居る。やがて、二つの群れは次第にゆっくりと人の姿へと変わって行った。一体何をするつもりなのだろうか? 思わず身構えるオレの目の前で、ほたる達の群れは見覚えのある人影へと姿を変えた。

「……なるほど。またしても『選択肢』っつー訳か」

 結花の手前、取り乱す姿を見せたくなかったが、正直、動揺を隠し切れなかった。何しろ、オレの目の前に佇んでいたのは、あろう事か太助とテルテルだったのだから。

(とんでもねぇ『選択肢』をご提示してくれたもんだ。こんな『選択肢』、選べる訳がねぇだろ……)

「選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える」

 まるで機械の様に抑揚のない口調だった。そこには微塵の感情も、体温も感じられなかった。こいつは結花の姿形だけを真似た人形なのではないだろうか? そう思える程に無機的な声だった。それとも、オレの感情を振り回さない様にとの要らぬ配慮でもしたつもりなのだろうか?

「選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える」

 結花は相変わらず抑揚のない口調で繰り返すばかりだった。

「優柔不断な力丸君が救える命はひとつだけ」

 不意に、口調が変わった。それは、生前の結花が良く見せた振舞いだった。オレがどんな反応を見せるのか楽しんで居る時の口調その物だった。その無機的な能面の向こう側で、可笑しそうに笑って居るに違いない。それにしても、痛い所を突いてくれる。ああ、そうさ。オレが優柔不断だったから、お前を苦しめたのは事実だ。その報いとでも言うのか? なるほど。因果応報だと言いたい訳か。そう考えれば、この途方もない『選択肢』に込められた想いも理解できる。

「……少しだけ時間をくれ」

 無駄な時間稼ぎである事は重々承知して居る。それでも、結花の言葉が真実だとすれば、オレが選んだ方は救われ事になるハズだ。だが、オレが選ばなかった方は一体、どうなってしまうのだろうか? 想像するのも恐ろしい。不意に、脳裏に伏見稲荷駅での惨状が蘇った。冗談ではない。あんな体験、もう、二度としたくない。必死で冷静さを失わない様に考えた。静かに目を伏せて考えた。二人の表情をなまじ見てしまえば要らぬ感情が加わってしまう。うっかり選んでしまったら、それでお終いだ。どうする? オレはどちらを選べば良い? ああ、判って居る。二人とも救われる道を選ぶのが最善の策だ。だけど、それが赦されるとは思えなかった。

(どうすれば良い? オレはどうすれば良い!? くそっ!)

 嫌な状況に陥っていた。走馬灯の様にテルテルと過ごした思い出と、太助と過ごした思い出とが次々と脳裏を駆け抜けていった。止めてくれ……縁起でもない! 絶体絶命の状況だった。オレの目の前には、ただ、機械の様に微動だにしない結花が佇んで居る。オレがどちらの『選択肢』を選ぶのかを、ただジッと待ち侘びて居るに違いない。

(どうする……オレはどうすれば良いんだ!?)

 またしても、こんなにも追い詰められる羽目になろうとは……何故、オレがこんな目に遭わなければならない!? 鼓動が早鐘を刻む様に高鳴る。息が切れて視界が白々と染まってゆく。相変わらず脳裏には無邪気に振る舞うテルテルの笑顔と、悔しいまでに男前な振る舞いを見せる太助の格好付けた表情が交互に浮かんでゆく。

(イヤだ! イヤだ! イヤだ! あいつらは最高の親友だ。失いたくない……絶対に失いたくない!)

 とにかく必死だった。判って居る。判って居るんだ。これは『選択肢』だ。どちらも選ぶと言うのは赦されないハズだ。だからと言って、この場を逃げる事も赦されない。迂闊に逃げた時、二人の身に何か、とてつもなく恐ろしい事が降り掛かるのは容易に想像が尽く。つまりは、二人とも殺されるに違いない。冗談ではない。それは最悪の展開だ。絶対に選んではならない『選択肢』だ。

(ああ……オレはどうすれば良い? どうすれば良いんだよっ!)

 とにかく絶体絶命だった。崖っぷちに追い遣られた状態で、ただただオレは追い詰められていた。指先から体温が失われてゆく。こんなにも蒸し暑い夜だと言うのに、体中が凍り付くかの様に冷え切っていた。不安と恐怖で一杯だった。

(くそっ! 何だってオレがこんな目に遭わなければならない!)

 テルテルは何時だってその場の勢い任せに振る舞うばかりで、時として皆を巻き込むトラブルメーカーに成る事だって少なくなかった。その一方で子供の様な一面を見せてくれる。例えるならば、皆の弟の様な存在だ。同じ年とは言え、恐ろしく童顔だし、あのキャラクターだ。皆に取っての弟だと言っても不思議には思えない。

(駄目だ、駄目だ、駄目だ! オレは何を考えて居る!? これではまるで……)

『変わりたいんだ。ねぇ、リキ。ぼくもリキみたいに変われるかな?』

『変われるだろ。オレなんかが変われたんだ。テルテルなら簡単に変われるだろ』

『そっかー。えへへ、嬉しいなぁ。ぼくね、リキに憧れて居るんだ』

 止めてくれ……こんな、走馬灯みたいな情景、見せないでくれ。もう、耐えられそうにない。心が音を立てて軋んで居る。苦しい。辛い。このままでは砕け散ってしまいそうだ。くそっ!

 太助は何時だって来るに振る舞っていて、悔しいまでに男前で、どうやったらこんなに格好良く振る舞えるのか? オレに取っては本当に不思議な奴だ。何処か浮世離れした、俳優を思わせる様な振る舞いをさり気なく見せてくれる。しかも、それが嫌味も、違和感もないから本当に悔しくなる。こっそり太助の振る舞いを真似てみたが、やはり、オレが真似をしてみても何とも言えない振る舞いにしかならない。皆の笑いを誘うのが関の山だ。

(ああ、駄目だ……止めてくれ! これ以上オレを追い詰めるな! オレは……オレは!)

 今、すぐにでも逃げ出したかった。此処から逃げ出したくて仕方が無くなっていた。辛かった。苦しかった。息をする事さえ困難に思える程に苦しくて、苦しくて、いよいよ視界が白々と染まり始めた。もはや、どうすれば良いのか判らなくなっていた。

『太助って何でも知って居るよな。お前の知識って、一体、何処から入手したもんなんだ?』

『ふふ、さてな? ただ、色々な物事に興味を抱き、追い求めて居る内に、次第に知識を深く追求したくなる衝動に駆られてな。まぁ、それでも俺の知識などたかが知れて居るぞ?』

『いやいや、そんな事ぁねぇだろ。お前の知識量、素直に尊敬できるもんよ』

『ふふ、光栄だな』

『その、ふふっての止めろよ。何かムカ付くぜ』

 何時だって太助は冷静沈着に振る舞っていて、その冷静さに救われる場面も少なくなかった。例え皆が熱くなっていて、頭に血が上っていても、太助だけは虎視眈々と状況を見極めては、確かな打開策を打ち出して見せた。何だかんだと言いながら皆、太助を頼りにして居るし、その豊富な知識量に敬意を払って居る。もっとも、皆、負けず嫌いだから、それを素直に認めようとしないだけだ。ああ、オレも太助の事は尊敬して居るし、頼りにして居る。口に出さないだけだ。

(し、しまった……!)

 必死で考える内に、うっかりオレは太助の顔を思い浮かべてしまった。

(しまった! 太助ならば冷静に助言をしてくれるに違いないと、余計な事を考えちまった!)

 オレは慌てて目を開いた。そこで目にしたのは、信じ難い光景だった。

「お、おい! 結花、何を考えて居る!?」

 余りにも現実離れした光景だった。結花は身の丈よりも長い刀を握り締めると、オレの声にも耳を貸す事無く、ゆっくりと構えて見せた。月明りを受けて、刀は殊更に妖しく光り輝いて居る様に見えた。冗談ではない。これは模造刀などでは無く、本物の刀だ。不気味なまでに研ぎ澄まされた刀身は月明りをその身に受け、青白く瞬いて居る。

「これは――力丸君が選んだ『選択肢』でしょう?」

 この状況には、余りにも場違いな楽しげな口調で言い放って見せた。オレと戯れる様な口調で結花はクスクス笑ってみせた。だけど、その笑い声に、オレは背筋が凍り付きそうになっていた。狂気に満ちた結花の振る舞いが恐ろしくて堪らなかった。同時に、これから起こるであろう惨劇は容易く予想できる。何としても阻止しなければ。慌てて飛び掛かろうとするオレを後目に、結花はいきなり、テルテルの背中から刀を力一杯突き刺した。テルテルは大きく目を見開いたまま、震える手をオレに突き出して見せた。

「り、リキ……どうして? ぼく、リキの事、大切なトモダチだと思って……」

「テルテルーーっ!」

 判っていたとは言え、結花を阻止できなかった、非力な自分が悔しかった。

「テルテル、済まねぇ……。オレが……オレがお前を……」

 足元に広がってゆく赤々とした鮮血の中、オレはただ、項垂れる事しかできなかった。例え、結花が相手でも赦されない事はある。オレは怒りに体を震わせながら顔を挙げた。華やかな着物に返り血を浴びながらも、結花は静かに刀を引き抜いて見せた。それと同時に、テルテルは顔面から地面に倒れ込むと、二度と動かなくなってしまった。血の海に沈むテルテルの姿……こんな姿を目の当たりにする事になろうとは、夢にも見なかった。

「幾らなんでも……こんな事、赦される訳がねぇだろ!?」

 怒りに身を任せてオレは結花に飛び掛かろうとした。

「くっ!?」

 だが、それよりも早く、結花は手にした刀をオレの眼前に突き出して見せた。信じられない程に機敏な動きだった。非力な結花に、その様な芸当を為せる訳がない。どう考えても刀の扱いに慣れた者の振舞いとしか思えない程に、超人的な動きだった。

「力丸君、醍醐へ向かうのよ。そこで、力丸君が『選んだ』太助君が待って居るから」

 理解不能だった。何故、結花がこんな振る舞いをして居るのか、オレには皆目見当も付かなかった。もしかすると目の前に居るのは結花ではないのかも知れない。イヤ、こいつは間違いなく偽物に違いない。第一、本物の結花が、こんな惨たらしい事をできる訳がない。伏見稲荷で目の当たりにした、あの女――堀川まゆみと同じだ。こいつもまた、あの不気味な坊さんが仕掛けた紛い物に違いない。

「……お前は一体何者だ? 結花の真似をして、何が面白い!?」

 オレの問い掛けに結花は何も応えようとしなかった。ただ、静かに佇むばかりだった。まるで人形だ。生気の全く感じられない振る舞いに、オレはさらに怒りを掻き立てられた。

「黙ってんじゃねぇよ、このクソ野郎が!」

 オレは怒りに身を任せて、結花の姿を模した物を殴り飛ばそうとした。だが、唐突にオレの拳が掴まれた。

「なんだとっ!?」

 信じられない力だった。見てくれこそ、か弱い女の手であったが、オレの拳を握り締める力は尋常な物ではなかった。ギリギリと細い指がオレの拳に食い込む。慌ててオレは身を引いた。

「くそっ! 化け物がっ!」

「力丸君、醍醐へ向かうのよ。そこで、力丸君が『選んだ』太助君が待って居るから」

 抑揚のない口調だった。壊れたテープレコーダーの様に、ただ、同じ言葉を繰り返すだけのそいつに、オレは言いようのない不気味さを感じた。これ以上、迂闊な振る舞いをするのは危険かも知れない。どう考えても、こいつが結花だとは思えなかった。気配や雰囲気こそ、結花その物だが、それにしては振る舞いが余りにも人形染みて居る。それ以上に、一度選んだ『選択肢』を覆す様な振る舞いをした結果、何が起こるか想像もできなかった。或いは、『選択肢』を突き付けたこいつに危害を加えた場合に、どう言う展開になるかも予測不能だ。万に一つ、オレの選んだ『選択肢』の結果、太助にまで被害が及んでしまったのでは、オレはどう詫びを入れれば良いのか、本気で途方に暮れる事になる。

「ああ、判ったよ。醍醐に向かう。それで良いんだろ?」

 相変わらずそいつは何も応えようとしなかった。これ以上、何かを言っても無駄だろう。そう判断したオレはそいつを睨み付けたまま静かに後ろに下がった。背を向けた瞬間、後ろからバッサリ斬られても堪った物ではない。オレはできる限りゆっくり、後ろに下がり続けた。少なくても敵の間合いから完全に離れるまでは油断はできない。

「ごめんね、力丸君」

「え?」

「ただ、前だけ信じて走り続けて。道は必ず切り拓かれるから」

「な、何を言って……」

「偶然なんてないの。すべては必然なの」

 馬鹿にしやがって。今更、結花そっくりな振る舞いをされても、どう信用しろと言うのだ!? もはや、目の前に居る結花が本物だろうが、偽物だろうが、そんな事はどうでも良くなっていた。振り回され過ぎてオレの精神はもはや限界だ。これ以上、何かを考えるだけの気力は微塵も残されていない。今のオレにできる事と言えば、情けなく尻尾を巻いて、惨めに逃亡する事だけだ。悔しいが非力なオレにはそれ以上の事はできない。

「ふざけるんじゃねぇ! もう、これ以上、オレを振り回すなっ!」

 それだけ叫んだところで、オレは後ろを振り返る事もなく全力で走り続けた。後ろを振り返る事なく、ただ、ひたすらに走り続けた。花見小路を歩む人々は皆、楽しげに振舞うばかりで、だからこそ、こんな状況に置かれたオレが憐れで、惨めで、悔しくて、悔しくて仕方がなかった。片っ端から人を突き飛ばし、体当たりしながら、それでも走り続けた。走って、走って、ただひたすらに走り続けた。頭では判っていた。怒りに我を見失っても何一つ解決する事はないと言う事位。だからこそ、せめて、オレだけでも真っ直ぐな道を歩もうと思えた。少なくても、誰かを不幸にする様な道を歩む事はしたくない。それでも、それでも、テルテルはもう……。

「畜生ーーーーっ!」

 逃げ出したい気持ちで一杯だった。何もかも投げ出して逃げ出したかった。夕暮れ時の校舎の屋上、あの場面でコタに洗いざらい話しておくべきだった。大人しく手助けを要請するべきだった。今更ながら、自分の選んだ『選択肢』を後悔する事しかできなかった。すれ違う人々の声がただの雑音でしかなくなっていた。

(どいつも、こいつも喧しいんだよ。ああっ! こいつら、みんな、くたばっちまえば良い!)

 ああ、そうさ。どいつも、こいつも、人の不幸に群がるばかりの腐れ外道共に過ぎない。そんなに楽しいか? 惨めなオレを見下し、嘲笑い、憐れむ事で、そんなにも勝ち誇った気分になれるのか!? 結花の事件が起こった時と同じだ。皆、他人の不幸を目にする事で、自分は未だ救われて居るのだと安心したいだけだ。

(畜生……畜生……畜生! どいつも、こいつも、ムカ付くんだよ!)

 一体、オレは何をして居るのだろうか? 見ず知らずの人々に喧嘩を売って歩くとは……本当に惨めなのはオレ自身だ。皆、それぞれの物語をただ、歩んで居るだけなのに、オレは何をして居る? ただ羨ましいだけなのか? 嫉妬して居るだけなのか? オレが不幸だから? 何だよ。理不尽なのはオレではないか。馬鹿みたいだ。本当に馬鹿みたいだ。このまま消えてしまいたい。そんな自分が滑稽で、哀れで、とにかく惨めだった。

(あーあ、格好悪りぃな、オレ。このまま消えちまいてぇな……)

 こんな明るい場所に居るのは居た堪れなかった。惨めな自分を人に見られたくなかった。ただ、辛くて、苦しくて、居た堪れなくなっていた。

「へへっ、なんか……オレ、本格的に可笑しくなってきちまったな」

 意味も無く笑いが込み上げて来る。どうやら、極限状態まで追い込まれた奴は、意味も無く笑いたくなるのかも知れない。これでは完全なる不審者だ。通報されても可笑しくない。もっとも、今、この状況で通報されては困る。今のオレは何としても醍醐に赴き、太助に会わなければならない。少し冷静さを取り戻したオレは、取り敢えず急ぎ、路地裏へと身を隠した。無駄に大暴れしてしまった以上、誰かが通報していないとも限らない。後々の事を考えれば、厄介事になる様な事態は避けたかった。取り敢えず路地裏を経由しながら上手い事逃げ切るとしよう。どうせ、大半が観光客だ。面が割れる心配はないハズだ。ほとぼりが冷めるまで時間を稼ぐまでだ。妙に冷静になって居る自分が可笑しくて、また、笑いが込み上げて来た。

「あーあ、オレ、最悪な奴だわ。マジで馬鹿だな……ホント、救いようがねぇぜ」

 だが、このままこうして街を彷徨っていても埒が明かない。結花の言う通り、今のオレには太助の手を借りる以外に救いの道は残されていない。だけど、唐突に押し掛けると言うのも実に迷惑な話だ。いや、それ以上に、何処かに出掛けられでもしたら一貫の終わりだ。自分の事しか考えて居ない、実に身勝手な振る舞いではあったが、どうか悪く思わないでくれ。今のオレに取って、お前だけが希望なのだから。

 いずれにしても行動は迅速に起こすべきだ。急ぎ、太助に連絡を入れるのが最善の策だ。オレはポケットから携帯を取り出すと、急ぎ、太助に電話を掛けた。もしも、電話に出てくれなかったらどうしようか。もしも、都合が悪くて会えない状況に陥ったらどうしようか。イヤ、それどころか、オレはどうなってしまうのか? 考えるだけで恐ろしくなる。『選択肢』は絶対的な物だ。オレの事情などお構いなしに現実の物になるに違いない。頼む、電話に出てくれ! 至極身勝手な振る舞いである事は重々理解して居る。それでも、オレは生きたかった。死にたくない! 生きたい! ただ、それだけを願いながら待ち侘びた。奇しくも数回のコールの後、太助が電話に出た。

「よ、ようっ、太助。急に電話して済まねぇな」

 できる限り明るい口調で接したかった。何時もと違う、すっかり取り乱したオレの姿を見せたくなかったから。相変わらず、無駄な見栄を張りたがるオレが居る。もう十二分に地の底まで転落したのに、今更、何を取り繕うか。馬鹿みたいだ。

「珍しい事もある。力丸から電話を貰おうとはな」

「なんだよ? オレからの電話なんて、欲しくなかったのかよ?」

 電話の向こうから太助の笑い声が聞こえた。ああ、駄目だ。親しい仲間の声を聞いたら、もう、抑えられそうになかった。目の奥が熱くなって、視界が滲んでゆくのを感じていた。胸が熱くなって、ついでに、体中が熱くなって、オレはその場にうずくまった。どうせ、人通りのない路地裏だ。へたり込んだ所で誰にも気付かれないだろう。

「いや、中々に不思議な事もあるものだと思ってな」

 今、オレがどう言う状況にあるか、どうやら太助は気付いていない様子だ。何時もと変わらぬ涼やかな口調で受け答えして居る辺りから、それが窺える。だが、気になる事を口にしてみせる物だ。不思議な事とは一体何を意図して居るのだろうか? オレは太助に問うてみた。

「力丸はどうして居るだろうか、と考えていたら電話が掛かってきてな。ふふ、絶妙なタイミングに驚かされたところだ」

「ああ、アレだ。きっと、オレとお前は心の何処かで繋がって居るっつー事だな」

「相変わらず暑苦しいな」

「暑苦しいじゃねぇよ。熱い男だっつーの」

「それは失礼した」

 何時もと変わる事のない他愛もないやり取りだった。だけど、こうして何時もと変わらぬやり取りができる事が本当に嬉しく思えた。同時に、太助が居てくれた事を心から感謝していた。感謝しついでに、図々しく、本題に入らせて貰うとしよう。

「ところでさ、これからお前の家、行っても大丈夫か?」

 オレの問い掛けに太助はしばし黙り込んだ。やはり、急な申し出は迷惑だっただろうか。思わず意気消沈しそうになって居ると、電話の向こうから静かに笑う声が聞こえて来た。何事かと携帯を握る手に思わず力が篭ってしまう。

「しばし間を持たせたらどう言う反応を見せるかと思ったが――」

 言い終わる事は無く、電話の向こうからは軽やかな笑い声が聞こえて来た。

「そんなにも想って貰えるとは実に光栄だ」

「て、てめぇ! オレを嵌めやがったな!」

「ああ、済まない。醍醐駅で待って居るから、落ち着いて来てくれ」

「うがーっ! てめぇ、絶対赦さねぇ! 駅で会えたら、まず、一発ぶん殴ってやるから覚悟しておけ!」

「ああ、楽しみに待って居るよ」

 尚も太助は可笑しそうに笑うばかりだった。思わず声を荒げてしまったが、心底、嬉しかったのは事実だ。無事に電話を終えたオレは静かに立ち上がった。次の目的地が確定した今、起こすべき行動は一つだ。

「あの野郎、マジで一発、ぶん殴ってやらぁ」

 だが、こうして手を差し伸べてくれた事は大きな救いとなった。オレは力一杯立ち上がった。頭の中で手際良く道順を考える。ここから徒歩で三条京阪まで移動する。そこから東西線に乗れば醍醐まで一本だ。とにかく、一刻も早く太助と合流して手を貸して貰うとしよう。奇しくも明日は土曜日だ。正直、精神を派手に消耗した。少なくても太助の所に泊めて貰う事に関して了承を得られたのは大きな意味を持つ。もっとも、太助の事だ。既に、二手、三手先の事まで考えて居るに違いない。いずれにしても、今のオレではまともな考えは浮かんできそうにない。冷静さを保つ事は到底不可能な話だ。太助を巻き込んでしまう事になるが、一人ではどうする事もできない手詰まり状態だ。救いを求めるしかないのは事実だ。迷惑を掛ける事になるが堪忍してくれ。イヤ、むしろ、派手に巻き込む事になるのは間違いない。だが、それでもオレには他の道は残されていない。これは、オレが選んだ『選択肢』なのだから。

 溺れる者は藁をも掴むと言うが、その相手がむしろ太助で救われたのかも知れない。いずれにしても一刻も早くこの場所を離れるとしよう。暗がりの中、オレは速やかに行動に移す事にした。

◆◆◆58◆◆◆

 日も暮れ切った頃、俺はクロと共に泉涌寺仏殿へと続く境内の緩やかな坂道を歩んでいた。力丸から聞かされた話は、一刻も早くクロに伝えなければならない内容だった。ところが、俺の想いとは裏腹に学校から帰った時にはクロの姿は無く、結局、この時間になるまで合流する事ができなかった。相変わらず気まぐれな性分だ。

 今日もまた前回訪れた時と同様に総門を潜り抜けた所から歩き始めた。もっとも、毎度の恒例となりつつあるが、今回も御多分に漏れる事無く、さも、そうする事が当然であるかの如く総門の上を潜り抜けたのだが……。

(ううむ、段々と、不法侵入する事に違和感が無くなりつつある事が恐ろしい……)

 日の暮れた泉涌寺道は木々達に両脇を囲われて居る事もあり、薄暗さの中に独特の風情が感じられる小道となる。吹き抜ける風が心地良く、緩やかな傾斜の上り坂を歩むと言う感覚も趣があって、中々に悪くない物がある。時折、風が吹き抜ける度に木々達が涼やかな音色を奏でてゆく。多分に蒸し暑いが、涼やかな風が熱くなった体を冷やしてくれるのが心地良い。

 泉涌寺へと続く参道の周辺には幾つかの塔頭があるが、目指すべき目的地を目指して俺達は歩き続けた。それにしても、クロは何を考えて居るのだろうか? ちらりと横目で盗み見てみるが、相も変わらず黙したまま一言も口を聞こうとはしなかった。まぁ良い。クロがこう言う振る舞いを見せる時は、無理に言葉を引き出そうとしても無意味な事は良く心得て居る。相変わらず可笑しな振る舞いを見せる。もっとも、こうした振る舞いを見せる時は、往々にして気分が良い時が殆どだ。ただ、俺と共に寄り添い、歩む事ができる。それだけの事ではあるが、クロは、そうした時間を何よりも重んじる傾向にあるように思える。俺と二人きりで誰にも邪魔されない場所を歩んで居る。泉涌寺へと続く参道の周囲には木々達が生い茂っていて、活気に満ち溢れた木々の香りが実に心地良い。月明りの下を歩むのが好きだと言うのはクロ自身が口にしていた言葉だ。それならば、今、暫くはクロの趣味に付き合ってくれるとしよう。

 緩やかな坂道を俺達はただ静かに歩んでいた。日が暮れれば蝉達も眠りに就くのか、代わりに、涼やかな音色を奏でる虫達の静かな声が聞こえ始めた。日が暮れ、間もなく月夜が辺りを照らし出す。囁き掛ける様な虫達の音色が心地良く思える。月明りの下には、やはり、夜の虫達の奏でる涼やかな音色が良く合う。

 クロは相変わらず上機嫌そうに歩み続けていた。腕組みしたまま、時折俺の表情を窺って居るのが目に留まる。高みの見物を決め込むとは随分と良い御身分だ。力丸は迷いの渦中で彷徨って居ると言うのに、優雅な振る舞いを見せるクロに苛立ちを覚えたのは事実だ。だけど、ここで苛立ちをぶつけた所で何も解決する事はない。むしろ、クロの様に優雅な余裕を見せられる程に大らかな心を持ちたい。否、違うな。クロの様な大らかな心を持てる様にならなければならない。クロの事だ。お前も俺の様になれー―そう伝えたいのだろう。俺の思惑に気付いたのか、クロは空を見上げると静かに目を細めて見せた。

 微かな夜風に背中を後押しされる様にしながらも俺達は静けさに包まれた参道を歩み続けた。総門を抜け、即成院、法音院、戒光寺、新善光寺と幾つかの塔頭とすれ違った。周囲は木々に覆われていて隙間から覗く空はすっかり光を失おうとしていた。間もなく夜が訪れる。まったく……逢魔が時に敢えて寺社仏閣を訪れるとは、クロの趣味は到底、俺の理解の及ぶ範囲を超越して居る。

 溜め息交じりに歩んでいれば、程なくして俺達は道が枝分かれして居る場所に辿り着いた。ここから道は大きく三通りに分岐する。左手に曲がれば緩やかな下り坂を経て今熊野観音寺へと辿り着く。真ん中の道は泉涌寺の裏側を走る長い道となる。そして、右手に曲がれば、前回訪れた雲龍院、及び、泉涌寺へと至る。考えるまでもなくクロは右手へと曲がった。さて、お前はどの道を往くと考えて居た? そう、問うかの様に、ちらりと後ろに目線を投げ掛けながら、静かな含み笑いを浮かべて見せた。やれやれと思いつつも、小さな溜め息交じりに俺はクロに続いた。

 少々傾斜のきつくなった坂道を上り切れば泉涌寺仏殿へと続く大門がどっしりと居を構える姿が視界に入って来る。当然の事ながら既に大門は固く閉ざされて居る。それにしても、流石は泉涌寺の大門だ。闇夜の中に在っても、その威風堂々たる力強い姿に圧倒される。そんな俺の心を知ってか、知らずか、どっしりと構える大門を前にしたクロは怯んだ様子を見せるどころか、不敵な笑みを浮かべたまま腕を組み直して見せた。

(……お前には道徳心の欠片も無いのか? 否、愚問であったな)

 こうして俺は、したり顔のクロに運んで貰い内部へと侵入を果たす事に成功した。回を重ねるごとに、こうして人目を忍んで潜入する事が、むしろ、当然の事の様に思えて来るから恐ろしい。どうも、クロと共に過ごす様になってから、失ってはいけない何かを日々、失い続けて居る様に思えて仕方がない。そして、その事に何の疑問も抱けなくなりつつある事が、殊更に恐ろしく感じられる。

(今更、あれこれ言っても聞く耳を持つ事などないか。それならば、無駄な労力は割かぬに限る)

 さて、泉涌寺の境内に侵入を果たしたところで、クロはようやく口を開いた。多くを明かそうとはしなかったが独自に何かを探っていたらしい。ただの気まぐれかと疑っていたが、水面下で独自に調査を進めていたと言う事か。仲間内の事にしか目が向かない俺と違って、クロは大局的に物事を捉える身だ。もしかすると、既に、紫の僧衣に身を包んだ僧の素性も掴んで居るのかも知れない。そんな淡い期待を込めながら俺はクロに話を切り出した。

「既に掴んで居るかも知れないが、力丸が紫の僧衣に身を包んだ僧に襲われた」

 俺の言葉を静かに聞きながら、クロは腕組みしたまま小さく唸っていた。

「うむ。我もその情報を掴んだところでな。お主に伝えたいと思っていたが、なるほど。既に力丸から聞かされていたと言うのであれば話が早い」

 俺達は泉涌寺の境内を歩んでいた。砂利を踏み締める足音だけが静まり返った泉涌寺の境内に響き渡る。静けさに包まれた境内を歩みながら、俺は力丸から聞かされた話の一部始終を余す事なくクロに伝えた。もっとも、カラス天狗の情報収集能力の高さを考えれば、俺からの情報など殆ど意味を為さないかも知れないが、それでも余す事無くクロに伝えた。クロは腕組みしたまま静かに耳を傾けていたが、俺が話し終えるのと同時に大きな溜め息を就いた。

「黒い雪を降らす力を持つ者、その姿――似た風貌の持ち主であるのを考えれば、以前遭遇した、あの青い僧衣に身を包んだ僧と関わりがありそうに思える」

「ああ。厄介な話だ。大きな力を持つ者が相手となれば、俺達も相応の危険性と隣り合わせと言う事になる」

 情鬼を意図的に引き摺り出す力を持つ者、か。力丸が遭遇したと言う僧自身が、どれ程の強さを持ち合わせて居るかは定かでは無くても、広範囲に渡って、意図的に情鬼を呼び出す力を持って居ると言うのは厄介な話だ。

「しかも、敵は力丸を狙って居る」

「ああ。身を守る手段を持たない力丸は格好の的となるだろうからな」

「力丸に対して行動を起こす前に、討ち取ってしまうのが最善の策ではあるのだが……」

 そこまで口にしたところで、クロは腕組みしたまま言葉に詰まった。言わんとして居る事は判る。大々的な力を持つ割には妙に用心深い相手らしく、その痕跡を追い掛ける事が困難だと言う事実も心得て居る。それに、仮に痕跡を掴む事ができたとして、俺達の叶う相手なのだろうか? 敵もまた、こちらが動向を掴めない事を判っていて振舞うか。なるほど。どうする事もできずに手をこまねく俺達を、高みの見物を決め込んでは嘲笑って居るに違いない。ふざけた奴め。必ず、討ち取ってくれる。静かに怒りの感情が湧き上がって居る事など容易く見透かして居るのか、クロは腕組みしたまま含み笑いを浮かべて見せた。

「コタよ、逸る気持ちは理解できるが、そう急くものではない」

 相変わらず憎らしい振る舞いを見せてくれる。お前の事など何もかも掌握して居る。無駄な抵抗は止せ。そう、告げられた様な気がして、怯まずには居られなかった。見透かす様なクロの眼差しが恐ろしくて、俺は慌てて目線を逸らした。見透かされたくない想いまで全て見透かされる。そうで無ければ、口にしたくない想いさえも自白させられてしまいそうな気がして、思わず息を呑んだ。それでも、取り乱して居るのを見透かされるのも面白くない。できる限りの平常心を保ったまま俺はクロに向き直った。

「判って居る。判って居るが、今もこうして俺達が策を模索して居る間にも、力丸に危害が及ぼうとして居るのを考えると、どうにも落ち着かなくてな」

 クロは何時もと変わらぬ涼やかな表情で腕組みしたまま佇んで居る。息巻く俺を横目で見ながら、可笑しそうに笑って見せた。

「ふふ、相変わらずお主は血気盛んであるな」

「生憎、お前みたいに冷静に振舞えない身だからな」

「だが、こう言う場面に置かれて居ればこそ、殊更に冷静さを失ってはならぬ」

「判って居る」

 小さく溜め息が毀れる。

「判って居るさ……」

 冷静さを失ってはならない事位、重々理解して居る。それでも、力丸は俺に取っては大切な友である事には変わりはない。何としても守り抜かなければならない。こう言う場面で、クロの手を借りる以外に何もできない自分が、もどかしくて仕方がない。もしも、俺に情鬼と戦うだけの力があれば、事態を解決へと導く事もできたのかも知れないと言うのに。

「ふふ、良くも悪くも、お主らは似た者同士であるな」

「……唐突に何を言い出す?」

 憮然とした表情で問い掛けてみせれば、クロは可笑しそうに笑いながら二枚の葉を手にして見せた。一体、何時の間に拾ったのだろうか? 良く似た外見の桜の葉だ。元来、木々の葉は似た様な見た目を持つ事が殆どだ。それでも作為的に、こうして俺に見せる以上、何か伝えたい想いがあると言う事だろう。

「お主と力丸は良く似て居ると申した。なればこそ、お主らは共感できる同士と成れたのかも知れぬ」

「俺と力丸が似て居るだと?」

 クロは静かに頷くと、敢えて、俺に見せ付けるかの様に二枚の葉を重ね合わせて見せた。葉の縁取りと言い、ギザギザした形状と言い、その容姿は寸分違わず重なり合っていた。相変わらず遠回しな表現を好む事だ。

「コタよ、仮にお主が力丸と同じ境遇に置かれたとして、さて、その時、お主はどう振る舞ってあろう?」

 嫌な問い掛けをしてくれる。ああ、そうだ。俺と力丸は良くも悪くも良く似て居る一面を持って居る。自らの腕一本で事態の解決に挑もうとするだろう。仲間達を信頼していないからではない。むしろ、その逆だ。仲間達に要らぬ心配を掛けたくない。そう思うからこそ、自らの腕一本で事態の解決に挑む筈だ。だが、それは……仲間達を信頼していない事と同義となる。その事実にさえ気付けない程に頭に血が上ってしまう。俺も、力丸も、良く似て居る。こう言う悪い面も含めて。溜め息交じりに返して見せれば、クロは満足そうに頷いて見せた。

「うむ。力丸もまた、自らの腕一本で事態を解決しようと模索して居る。余計に、その身を危険に晒すだけだと言うのに、中々に畏れ知らずである事よ」

 やはり、俺達は良く似て居る。まったく……要らぬ心配を掛けるなと言いたいところだが、言ったところで聞く様な奴ではない事も判って居る。恐らくは徒労に終わるだけだ。それに、夕方、屋上で語らった時も、力丸は何か隠し事をして居る様な振舞いを見せた。あの時、強引にでも口を割らせるべきだったのだろうか? とは言え、力丸の心の中に土足で踏み入る様な、無粋な真似はしたくなかった。親しき仲であっても礼儀は弁えるべきだ。そう思って居るのは事実だが、危険と背中合わせになって居る状況を考えれば、可笑しな意地を張るべきではなかったのかも知れない。やれやれ……不器用な姿さえも、皮肉にも良く似て居ると言う事か。思わず深い溜め息を就く俺を見つめながら、クロが可笑しそうに笑う。

「信じて居るからこそ、力丸の選んだ道を見守ってくれよう。そう考えたのではあるまいか?」

「……まぁ、そうなるな」

 もう一度、溜め息が毀れる。

「もっとも、俺も、力丸も、結局は格好を付けて居るだけに過ぎないのだがな」

「力丸とて、相応に物を考えて居る筈。本当に危うくなれば、皆の手を借りるであろう」

「そうだな。力丸もそこまで馬鹿ではない。信じて待つとしよう」

「それが良い。熱くなる事は悪い事ではないが、自らを見失っては敵の策に容易く陥落する事になる」

 諭す様な口調が可笑しくて、俺はクロの顔を覗き込んだまま笑った。予想外の反応だったのか、クロは戸惑った様な表情を浮かべて見せた。

「な、何をにやにや笑って居る……」

「弟に教えを説く、面倒見の良い兄としての姿が床に就いて居ると思ってな」

 クロは腕組みしたまま俺に背を向けた。照れ臭かったのか、妙に動揺して居る素振りが可笑しかった。これは面白い。調子に乗った俺は、横からクロの顔を覗き込んで見せた。目が合ったところで、クロは慌てて目線を逸らした。クロが怯む姿を目にするのは中々ない事だ。調子に乗った俺はさらに畳み掛けてみせた。

「何だ? 照れて居るのか?」

「……からかうでない」

「ふふ、『兄上』――とでも呼んでみるか?」

 声を押し殺して笑って見せれば、クロは真っ赤になったまま黙り込んでしまった。あまりからかうと本気でへそを曲げてしまうかも知れない。この辺りが引き際だろう。照れ隠しのつもりなのか、無言で歩き出すクロに続く様に俺も歩き出した。すっかり日の暮れた泉涌寺の境内には、俺達が砂利を踏み鳴らす涼やかな音色だけが響き渡る。気のせいかも知れないが、多少、木々の間を吹き抜ける風が涼しさを増した様な気がして心地良かった。

 ふと、空を見上げれば遠く、微かに夕暮れ時の残り香を残すかの様な夕日の色合いが目に留まる。今日が終わってゆく。そんな物悲しい情景の中、こうしてクロと共に歩める事は本当に心地良く思える。だからこそ何としても守り抜きたい。この大切な時間を守るためならば俺は修羅にでも、鬼にでもなってくれる。

「コタよ、少し境内を散策してみぬか? 泉涌寺は中々に広大な寺であるからな」

「それもそうだな。それに、風も涼しさを増した様に思える。心地良い風に吹かれるままに気持ちを落ち着かせるのも悪くなさそうだ」

「ほう? 天狗使いとしての振る舞いが床に就いて来た様子であるな」

「面倒見の良い兄上の教えの賜物だな」

「ふふ、そう持ち上げられると気分が良くなるな」

 手強い敵を相手にする以上、気を抜く事はできないのかも知れないが、だからといって四六時中気を張り詰めていたのでは必要な場面になった時に全力投球できなくなる。必要な場面で力を発揮するためにも、時には休息する事もまた、冷静さを保つために優雅な一時を過ごす事も必要なのかも知れない。そうした切り替えを見極める事も必要だと気付かされた。情鬼と戦う力を持つカラス天狗と、そのカラス天狗と共に歩む天狗使い。どちらも万能ではないからこそ、互いに互いの弱点を補完し合う戦法が必要となると言う訳か。

 俺達は威風堂々たる雰囲気を醸し出す仏殿前を歩んでいた。すっかり日も暮れた時間帯の仏殿を目にする事など普通に考えれば有り得ない話だ。クロと共に居るからこそ目にする事ができる光景だと考えればそれも悪くない。砂利を踏み締める心地良い感触を楽しみながら舎利殿前へと差し掛かった辺りでクロが足を止める。

「元来、こうした仏殿の様な建物は上座に造るのが常であるが、此処、泉涌寺では敢えて坂道を降りた下座に造られて居る」

「何かしらかの想いを込めて造り上げたのだろうな。生憎、俺は知識を持ち合わせて居ないが、太助ならば涼やかな顔で、さも何事もなかったかの様に語って聞かせてくれるかも知れない」

「ふふ、太助は中々に博識な身である様子よの」

 穏やかな空気が漂う中、時間だけがゆっくりと流れ去ってゆく心地良い感覚に包まれていた。このままずっとクロとこうして居たい。そんな事をこっそり考えて居ると、不意に、肩にクロの腕が置かれた。そっとクロの顔を覗き込んで見せれば、どこか満たされた様な表情で頷いて見せた。

「……性悪な兄上だな」

 俺の言葉にクロは目を細めて見せた。

「すっかり兄と言う立場にさせるのが気に入った様子であるな?」

「俺には兄弟が居ないからな。長らく、大地兄弟を羨ましく思っていた」

 普段見せる事のないクロの穏やかな表情が無性に照れ臭くなった俺は、小声で「此処だけの話だ」と付け加えた。クロは笑いながら俺の肩に回した腕に力を込めた。

「泉涌寺は良い場所だ。ゆっくりと時が流れて居る感覚が心地良い」

 何気なく口にした言葉に興味を示したのか、クロが俺の顔をまじまじと覗き込んで見せる。目一杯、俺に顔を近付けるとクロは可笑しそうに笑って見せた。

「やはり、我らは兄弟なのであろう」

「同じ事を感じていた――とでも言って見せるか?」

「うむ。このまま、コタと二人、この地に根を生やすのも悪くないと思って居った」

「それも悪くないが、それでは新たな旅をしたくなった時に困ってしまうな」

 俺の言葉を聞きながらクロは嬉しそうに笑って見せた。笑いながら、そっと空を見上げて見せた。クロは一体何を見つめて居るのだろうか? 興味を惹かれた俺はクロの真似をして空を見上げてみた。そこには、すっかり暗くなった夜空が広がっていた。どこまでも、どこまでも続く空が広くて、大きくて、街を生きる人々全体を包み込んでくれるようで、殊更に心地良く思えた。

「今宵は実に気分が良い。コタよ我と共にしばし境内を歩んではみぬか?」

 上機嫌そうに振る舞うクロに俺は小さく溜め息を就いて見せた。力丸の事が気掛かりでないと言えば嘘になる。だけど、ここで力丸の身を案じて取り乱したところで事態が好転する事など有り得ない。むしろ冷静さを欠いた俺達が狙いを定められる事になる。敵の目線の先を力丸から逸らす事ができると言う意味では大きな意味を為すのかも知れないが、クロはそれを望んでは居ない様に見える。あれやこれやと詮索を巡らす俺をちらりと横目で見ながら、クロは静かに笑って見せた。

「気持ちを鎮め、来たるべき戦いの日に備える。これもまた天狗使いの使命だとは思わぬか?」

 相変わらずクロは冷静さを失わない。ご丁寧にも天狗使いとしての心構えまで説いてくれるとは、俺の兄上は中々に世話好きな性分らしい。少々説教染みた上から目線な振る舞いもクロらしいと言えばクロらしい。静かに笑う俺を余所に背を向けると、クロは何も言わずに歩き出した。やれやれ、兄上には逆らえないな。俺は小さく溜め息を就きながらクロの大きな背中を追った。

 仏殿を後にした俺達は広大なる境内を反時計回りに回っていた。昼から夜へと移り変わる逢魔が時。そんな妖しの一時の中、生い茂る木々に囲われ、静かに佇む池は深い緑色を称えていて、妖しげな佇まいを醸し出していた。時折、穏やかな風が吹き抜けるだけの境内の中、池の水面は鏡の様に静まり返っていた。静けさに包まれた境内の中、俺達だけが歩む度に砂利が擦れ合い、軋む様な音だけが響き渡っていた。

 しばし歩んだ先にある、霊明殿前の唐門に一礼してから道なりに歩を進めた。暮れ往く日もすっかり沈み、いよいよ夜半の時間帯へと移り変わらんとして居る様に感じられた。逢魔が時を過ぎれば一際妖艶なる闇夜が訪れる。抗うか? 呑まれるか? 暗闇が耳元で囁き掛ける様に問い掛ける。物の怪の分際で俺を惑わすか? 心の中でそう返しながらも俺はクロの隣を歩き続けた。

 程なくして開けた場所に出る。一面に白砂を敷き詰めた広場が広がり、正面には重厚な雰囲気を醸し出す立派な門が構えて居る。

「月輪陵へと続く門であるな」

「門は堅く閉ざされて居るな。あの門の先には何がある?」

 俺の問い掛けにクロは腕組みしながら不敵な笑みを浮かべて見せた。

「閉ざされた門と言う物は往々にして好奇を駆り立てるもの。なまじ、何もかもを潔く見せられるよりも、仄めかす程度に見せるばかりで、隠された方が情欲を掻き立てられると言う物よ」

 敢えて囁く様な小声で得意気に語るクロの勝ち誇った様な表情に俺は大きな溜め息で返した。

「仏門を歩む身とは思えないな」

 俺の言葉にクロは興味津々に大きく目を開いて見せた。そんな振る舞いを見せられた所で怯むものか。俺はクロに向き合ったまま続けて見せた。

「お前の言動は生臭な欲望に満ち溢れて居る」

 俺の言葉にクロは静かに笑って見せた。笑いながら月輪陵に向き直ると静かに腕を組んで見せた。

「あの門の先は墓所となって居る。ふふ、如何に我とて、あの門を潜り抜ける様な無粋な真似はせぬ」

「ほう? お前にも仏門を歩む身としての良心はいくばくかは残って居る訳か。安心した」

 棘のある言葉を返して見せてもクロは静かに腕を組んだまま動じる様子もなかった。相変わらず冷静さを崩さない奴だ。これ程までに強固な構えを見せられると、意地でもその不動の構えを崩してみたい衝動に駆られる。もっとも、冷静さを保って居る様に見せても、クロは意外にも容易く取り乱す。少々驚く様な振る舞いを見せれば容易く取り乱す。普段の振る舞いが作り物である事が容易に判ってしまうのが可笑しくて、クロを取り乱させるために画策したくなる。とは言え、要らぬ衝動に身を委ねるのは慎んでくれるとしよう。

「それにしても、泉涌寺は広大な敷地を誇る寺だな」

「ふむ。周囲の塔頭も併せて考えれば、実に広大な敷地を誇る寺と言う事になるな」

「こう言う広い寺を何も考えず、ただ徒然なるままに歩き回ると言うのも中々に心地良い」

 もっとも、拝観時間を過ぎた時間帯に侵入すると言うのは頂けない話ではあるが、他に誰も境内を歩まない中を俺達だけが歩き回ると言うのも、独り占めして居るようで心地が良い。ただ、忘れてはならない想いもある。平和と言う物は待っていれば自ずと訪れる様なお人好しではない。自らの手で築き上げなければ得られない。だからと言って誰かに与えて貰う様な代物でもない。だからこそ俺達の平和な一時を邪魔する者は速やかに排斥されなければならない。他の誰でもない俺達自身の手で。

「クロ、俺達の手で力丸を救い出そう」

 少しだけ心構えが変わり始めたのかも知れない。少し前の俺だったならば、クロに手を貸してくれ。力丸を救ってくれ。そう頼み込んでいたに違いない。だけど、今は違う。確かに、俺にはクロの様に戦う力はない。それでも、力丸は俺の仲間だ。ああ、同時にクロの仲間でもある。力丸を救い出す事ができるのは俺達しかいない。だからこそ、全力で立ち向かいたい。必ず、力丸を守り抜いて見せる。あいつは……力丸は俺の、否、俺達の大切な仲間なのだから。

「ふふ、変わったな」

「俺か?」

 クロは静かに頷くと、その足で静かに歩き始めた。足元の砂利が微かに軋む音色が心地良く響き渡る。

「冷静に振る舞う姿が床に就いて来た」

「手厳しい兄上の教えの賜物だな」

「むう、我は手厳しいか?」

 一瞬、立ち止まり困った様な表情を浮かべるクロを追い越しながら「さてな」と、俺は返してやった。腕組みしたまま小さく溜め息を就くクロが可笑しくて、俺は振り返る事なく歩き続けた。時の流れがゆったりとしていて心地良い。広大な敷地を誇る泉涌寺だからこそ、これ程までに気持ちが大きくなれるのかも知れない。そう考えると実に心地良い。俺の隣ではクロもまた穏やかな笑みを称えたまま歩んで居る。

 心地良い時間が流れてゆく。こうして、クロと共に静かな場所を歩めるのは心地良い。もっとも、賑わいを見せる祇園の街並みを歩き回るのも、それはそれで人々の活気に寄り添う事ができて心地が良い。結局のところ、俺に取ってはクロと共に過ごす一時が楽しいと言う事になるか。このまま時が止まってしまえば良いのにと心から思える光景だった。

 日の光が照らし出す昼間の力強い光景も嫌いではないが日の光は眩し過ぎる。こうして柔らかな月明りが照らし出す景色の中を歩む方が性に合って居るのかも知れない。本当に穏やかな一時だ。実に良い気分に包まれる。

 ふと、空を見上げれば何時の間にか雲が出始めたらしい。それにしても妙な雲だ。夕立時を思わせる様な黒い雲がゆっくりと月を覆い隠してゆかんとして居るのが目に留まった。何故だろうか? 心地良い気候とは余りにも不釣り合いなまでに不穏な雲だ。見て居るだけで肌の裏側がざらつく様な不快な不安感を駆り立てられる。嫌な空気が立ち込めてゆく。何か不穏な事が起きそうな気がして俺は無意識の内に身構えていた。

 不安に思う俺の心に呼応するかの如く、状況は唐突に移り変わる。不意に周囲の気温が下がり始めた。瞬く間に気温は下がり、何時の間にか周囲は真冬を思わせる様な冷たく張り詰めた空気に包みこまれていた。余りにも異常な事態だ。先刻までの蒸し暑さを考えれば、誰かが作為的に手を加えない限りは、唐突にこれ程までに気温が下がる事など有り得ない筈だ。それも、周囲の気温さえも操作できるとは一体、どれ程の力の持ち主か? 敵襲――それ以外には考えられなかった。

「クロ!」

「うむ。異様な殺気を感じる。コタよ、我から離れるでないぞ!」

 随分と甘く見られた物だ。どうせ、お前達では足取りを掴めないのは判って居る。それならば、こちらから出向いてくれるとでも言いたいのか? 馬鹿にしやがって。俺達を甘く見た事を後悔させてくれる。

「む!? コタよ、急ぎ、屋根のある場所へと向かえ!」

 クロの鋭い叫びを聞いた俺は、急ぎ、視界の先に佇む舎利殿へと駆け込んだ。慌てて空を見上げれば、予想通り、ハラハラと舞い降りて来る黒い雪が目に留まった。

「これが件の黒い雪か……確かに、禍々しい殺気に満ちて居るな」

 敵が襲撃を仕掛けて来た。俺は周囲を警戒しながら身構えていた。だが、肝心の本体は姿を見せる事はなかった。何処かに身を潜めて俺達を嘲笑って居るのか? 性根の腐った奴だ。自らの手は汚さずに事を為す。そう言う姑息な奴は嫌いだ。徹底的に叩き潰してくれる。苛立ち混じりに構えて居ると、不意に錫杖を打ち鳴らす音色が響き渡った。慌てて周囲を見回してみるが、その姿を捉える事はできなかった。尚も錫杖の音色がそこら中から響き渡る。下らない小細工だ。こんな小細工で俺達が動揺するとでも思って居るのか? 随分と馬鹿にされた物だ。

「敵は近くに居る様子であるな」

「ほう? こそこそ隠れるばかりの根暗な奴かと思ったが、意外に好戦的なのかも知れないな」

 クロと背中合わせに身構えながら、俺達は周囲を警戒した。何しろ周囲はすっかり夜半の闇に呑まれて居る。身を隠し、奇襲を仕掛ける側からしてみれば実に有利な戦況だ。この状況下で唐突に隙を突かれたのでは形勢は明らかに不利になる。先手を取られない様に身構えなければならない。

「コタよ、大門へと続く坂道を見るが良い」

 クロの言葉を受けた俺は、大門へと続く坂道に目線を投げ掛けてみた。すっかり日の暮れた暗がりの中でも、煌々と青白い光を放ちながら歩む者の姿が見えた。そこに佇むのは毒々しい紫色の僧衣に身を包んだ僧の姿であった。僧は一歩、また一歩と歩む度に錫杖を打ち鳴らしていた。妙に芝居掛かった様な大仰な振る舞いから察するに、無駄に派手好みな性分なのかも知れない。

「……あいつが紫の僧衣に身を包んだ僧か」

 読めない相手だ。姑息な手を好むのかと思えば、敢えて、真正面から正々堂々と挑んで来るとは。だが、逆に考えればそれは自らの強さに絶対の自信を持って居る事を示して居るとも捉えられる。油断は厳禁だ。

 僧は尚も錫杖を打ち鳴らしながら、揺らめく灯火の様に、妙にゆらゆらとした動きで近付いて来る。遥か遠くを歩んで居ると言うのに、恐ろしいまでの殺気を感じる。強敵との対面に動揺する俺達とは裏腹に、紫の僧衣に身を包んだ僧はあくまでも余裕に満ちた振舞いを見せ付ける。それどころか、敢えて隙だらけの振舞いを見せる事で俺達を挑発して居る様にさえ見えた。随分と馬鹿にされた物だ。

「お初にお目に掛かる、鞍馬山のカラス天狗、小太刀と、その天狗使い、四条小太郎よ」

 果てしなく距離があると言うのに耳元で囁く様に声が聞こえた。解せない奴だ。そんな小細工で俺が動揺するとでも思ったのか? 甘く見てくれるな。そう息巻いて居ると唐突に目の前を何かがふわりと舞った。何かと思いながら目で追ってみれば、それは暗紫色に煌めく蝶だった。一体何事かと慌てて周囲を見回せば、何時の間にか俺達の周りには無数の蝶が舞っていた。キラキラと紫色に煌めく鱗粉を撒き散らしながら舞う妖艶なる姿にしばし目を奪われていた。不気味ではあったが、言葉にできない美しさに魅了されつつあった。周囲を舞う度に、火の粉の様に舞い散る紫色の鱗粉に見惚れていたが、唐突に体が痺れる様な妙な感覚に襲われた。

「くっ!? な、何だ、これは!?」

 俺の異変に気付いたクロは、静かに手を合わせると真言を唱え始めた。クロの真言が響き渡ると同時に俺の周辺を舞っていた蝶が一斉に紫色の炎を噴き上げて燃え上がった。瞬く間に燃え尽きれば、後には欠片すら残らなかった。

「くだらない小細工よの」

「随分と馬鹿にされた物だな……」

「ふふ、その怒り、存分に叩き付けてくれるが良い」

「ああ。数百倍にして返してくれるとしよう」

 怒りに燃える俺の姿を目にしながら、紫の僧衣に身を包んだ僧は天を仰ぐ様に大きく手を広げながら、耳障りな高笑いを響かせて見せた。

「我らの出会いを祝しての贈答品であったが、どうやらお気に召さなかったと見える」

 紫の僧衣に身を包んだ僧は相変わらず飄々とした振る舞いで俺を嘲笑う様に振る舞った。明らかに馬鹿にした様な振る舞いに、自らの強さに対する絶対的な自信を垣間見た気がする。だが、こうした輩は往々にして振る舞いこそ派手ではあるが、小さな揺さぶりでも容易く崩れる事が殆どだ。安い挑発に乗って取り乱せば俺の負けだ。むしろ、その自信に満ち溢れたお前の隙を突き、恥辱を送り返してくれるまでだ。

「残念だったな。俺は派手好きな性分でな。どうせならば、黄金に光り輝く蝶の方が性に合っていた」

 俺もまた腕組みしたまま挑発し返してくれた。もっとも、俺を完全に見下して居る様な奴には、何の効力も為す事はない事位判って居る。それでも売られた喧嘩には応えてくれなければ気が済まなかった。

「皮肉な話であるな。実に皮肉な話よ」

 紫の僧衣に身を包んだ僧は尚も喋り続けた。

「憎悪の能面師、露姫、泣き女郎――それだけではない」

 相変わらず無駄に派手な振る舞いを好む性分らしい。まるで舞台役者だ。大きく手を広げ、尚も朗々と響き渡る声で語り続けて見せた。

「かの、陰陽師『風詠み』に力を授けられた風葬地の裁定者までもが討ち取られようとはな」

 無駄なお喋りを朗々と続ける奴だ。そんな事を考えて居ると、俺の背後でクロが静かに真言を唱え始めた。俺はさり気なくクロの姿が隠れる様に前面へと一歩、進み出た。

「どれ程の百戦錬磨の達人かと思うて期待してみれば、ふふ、この様な駆け出しに敗れたと申すか?」

 大きく手を広げながら感嘆の声を朗々と響かせる紫の僧衣に身を包んだ僧を見つめたまま、俺は力強く返した。

「ああ、そうだ! お前の同胞達は、この様に非力で、無知で、経験も皆無に等しき駆け出しに敗れた! だが、お前は気付いていない。だから、俺が叩き付けてくれる。お前の無知、無能を証明してくれる!」

 俺の言葉に興味を抱いたのか、紫の僧衣に身を包んだ僧は身を乗り出す様に構えて見せた。相変わらず表情を窺う事はできないが、見下して居る筈の俺が一体、何を語るのかに興味を抱いて居る様に見えた。

「確かに俺一人では何もできないのは事実だ。だがな、俺には仲間達が居る。信頼できる仲間が居てくれる! お前はどうだ? 孤立無援なお前には仲間と言う存在の価値など判るまい!」

 俺が力強く吼えるのと、クロの真言が発動したのは、ほぼ同時だった。唐突に俺の背後から放たれた真っ赤な炎の矢が一斉に紫の僧衣に身を包んだ僧に襲い掛かる。だが、紫の僧衣に身を包んだ僧は微塵も動揺した素振りを様子も見せる事もなく、容易く全ての矢を手に取って見せた。信じられない身のこなしだった。一瞬、その腕が、千手観音の如く何十本にも増えたかの様に見えた。その様な身のこなし、人には到底為せない振る舞いだ。

「ふふ、中々に気の利いた挨拶であるな。だが、こう言う姑息な振る舞いは嫌いではない」

 紫の僧衣に身を包んだ僧は相変わらず、俺達を見下す様に声を押し殺して嘲笑するばかりだった。やはり、この程度の小細工が意味を為すとは思わなかったが、予想通りと言う事か。もっとも、俺もこの程度の小細工で討ち取られるとは微塵も思っていない。この僧が言う通り、所詮は只の挨拶に過ぎない。

「小太刀よ、小太郎よ、覚えて置くが良い。我が名は錫杖の影法師! さぁ、お主らの腕前を見せて貰おう。見事、この者達を討ち取って見せるが良い!」

 天を仰ぎながら高笑いを響かせると、そのまま風に溶ける様に錫杖の影法師は暗紫色の霧となりて、その姿を霧散させた。代わりに、黒い雪は勢いを増して降り始めた。先刻までよりも遥かに勢いを増した黒い雪はシンシンと降り続き、音も無く砂利に吸い込まれてゆく。吸い込まれた黒い雪は周囲の地面を黒く、黒く、墨汁をばら撒いたかの如く染め上げてゆく。異様な光景だった。辺り一面が夜半の闇に呑まれてゆくかの様に黒い雪が降り頻る。活気あふれる境内の木々達を黒く染め上げ、境内を黒く染め上げ、何もかもを黒く染め上げてゆくかの様に思えた。

「何とも禍々しい殺気を孕んだ雪よの」

「だが、奴は気になる台詞を言い残して立ち去った」

「うむ。この者達を討ち取って見せよと申したが……」

 周囲を見回してみるが、錫杖の影法師が口にした存在達の姿は何処にもなかった。相変わらず、黒い雪がシンシンと音も無く降り続けるだけだった。それにしても不気味な雪だ。既に砂利は煤まみれになった様に黒く染め上がっていた。一切の光さえも逃さない程に深い色合いだった。漆黒の闇夜をそのまま塗料にしたならば、この様な異質な姿になるのかも知れない。

「この黒い雪で俺達を足止めしたつもりか?」

「この雪を体に浴びるのは懸命とは言えぬ。足止めと言えば、確かに、足止めではあるが……ふむ。果たしてそれだけであろうか? あの者の能力を考えれば、それだけではあるまい」

「まぁ、そうだろうな」

 それにしても気味の悪い光景だ。煤の様な黒い雪がシンシンと降り頻る光景と言うのは、不安な気持ちを掻き立てるには十分過ぎる。この黒い雪が情鬼を引き摺り出す力を持って居るとは恐ろしい話だ。確かに、これ程までに禍々しい雪を浴びれば、心の奥底に潜む悪意を強引に引き摺り出されるのも頷ける。シンシンと降り頻る黒い雪。地面に落ちては周囲を黒く染め上げてゆく黒い雪。だが、その黒い雪が次第に妙な動きを為そうとして居る様に思えて来た。

「なぁ、クロ。俺の気のせいだろうか? 黒い雪がゆっくりと塊になろうとして居る様に見えるのだが」

「……気のせいでは無さそうであるな」

 クロが静かに六角棒を手に身構える。やはり、俺の目の錯覚などでは無さそうだ。地面に次々と舞い落ちる黒い雪は、吸い込まれる様に染みとなり、次第に形を為そうとしていた。やがて地面からゆらりと黒い影が浮かび上がると、二つの人影へと姿を変え始めた。

「一体、何が起きようとして居る?」

 動揺を隠し切れない俺とは裏腹にクロは静かに身構えていた。異様な光景だ。シンシンと降り注ぐ黒い雪の中、異形なる影が形を為そうとして居る。影は時の流れと共にゆっくりと成長を続け、やがて見覚えのある姿へと移り変わろうとしていた。さすがに、これにはクロも驚きを隠し切れない様子だった。確かに、我が目を疑わずには居られない光景だった。あろう事か、黒い影は俺達の良く知る二人のカラス天狗へと、その姿を変えようとしていたのだから。

「事もあろうに、あの兄弟の姿を取るとは……大丈夫か、クロ?」

「ふふ、中々に面白い趣向であるな」

 クロは静かに笑うと六角棒を力強く握り締めて見せた。

「我が同胞の姿を為すとは、無礼千万! さぁ、参るぞ、コタよ!」

 事もあろうに阿行、吽行兄弟の姿を為そうとは思いもしなかった。実に悪趣味な事だ。偽物だと判っていても仲間と戦う事になるのは、やはり気が咎める。だが、相手は阿行、吽行兄弟だ。実際に手合せした訳ではないとは言え、立ち振舞いを見て居れば、二人の武人としての強さは素人の俺にでも判る。皆と語らっていても全く隙のない構えを無意識の内に見せる辺りからしても、決して、容易く勝てる様な相手ではない筈だ。本気で挑まねば、俺達が討ち取られる事になる。恐ろしい相手を生み出してくれる物だ。正直、俺は不安と恐怖で震えが止まらなかった。間違い無く、これまで戦って来た情鬼とは比べ物にならない程に強力な相手だ。だからこそ、全力で挑ませて貰おう。

◆◆◆59◆◆◆

 泉涌寺の境内は不気味なまでに静まり返っていた。阿行、吽行兄弟の影はただ静かに身構えるばかりで微動だにしなかった。表情一つ変える事なく、あくまでも虎視眈々とこちらの動きを窺って居る様に見えた。張り詰めた緊張感の中、膠着状態に痺れを切らし、先に手を出したのならば、呆気なく返り討ちに遭うのは必至。クロもその事を心得て居るのか六角棒を身構えたまま、静かに呼吸を整えていた。

「……皮肉な話よの。阿行、吽行の立ち振舞い方を見事に再現して居る」

 俺は阿行、吽行兄弟から目を逸らす事無くクロの言葉に耳を傾けていた。僅かにでも隙を見せれば一気に切り崩される。ましてや俺はクロと違って戦い慣れしていない身。切り崩されれば俺がクロの足を引っ張る事になる。それだけは何としても避けたかったし、敵もまた、俺が弱点である事を理解して居る筈だ。足手まといに成りたくない。ただ、それだけを肝に銘じるばかりだった。

「コタよ、我の後ろに控えて居れ」

 クロの静かな声が虚しく響き渡る。判って居る事とは言え、こうもはっきりと告げられると悔しくなる。だが、可笑しな意地を張ればクロの足を引っ張るだけだ。ここは大人しくクロの言葉に従うべきか。阿行、吽行兄弟から目を逸らす事無く、オレはゆっくりと後退りした。

「さて、二対一とは明らかに分が悪いが、ここでお主らに敗れるつもりはない」

 クロは静かに六角棒を身構えると静かに笑って見せた。

「この際、手段などは問わぬ。相手が鬼である以上、礼を以って対する道理もない。全力で参るぞ!」

 クロの声に呼応するかの様に、唐突に阿行が地面を跳躍して飛び掛かる。不意を突かれたとは言え、クロは動じた様子も無く真正面から一撃を受け止めた。すぐさま背後から飛び掛からんとする吽行に向き直ると、力一杯、六角棒で突き上げた。大きく翼を広げたまま吽行が声に成らない叫びを挙げる。

「……手加減などせぬと申したであろう?」

 クロはにこりとも笑う事無く身を翻すと、そのまま阿行を力一杯蹴り上げた。腹にクロの足が減り込む。派手に転倒しながらも、阿行、吽行兄弟は再び態勢を立て直そうと試みる。一瞬、俺を横目で捉えた事に気付いた俺は慌てて身構えた。クロが相手では分が悪いならば、非力な俺を狙おうと言う訳か。所詮、紛い物は紛い物に過ぎない。短絡的な考え方しかできやしない。単に姿形だけを真似ただけの相手だ。俺を甘く見た事を後悔させてくれる。

 予想通り、二人は俺に向かって飛び掛かって来た。相手の動きを予測していた俺からしてみれば、むしろ、予定調和の展開だ。飛び掛かる阿行の腕を乱暴に掴んだ俺は、そのまま力一杯、地面に叩き付けた。すぐさま背後から吽行が飛び掛かって来る。反則行為だと罵りたければ罵るが良い。勝者こそが正義だ。そう、心の中で叫びながら、俺は地面の砂利を掴むと、吽行の顔面目掛けて力一杯ぶちまけた。予想通り、吽行が怯む。好機到来!

「クロっ!」

「ぬおおおーーーっ!」

 クロは一気に俺に駆け寄ると、そのまま力任せに吽行の脳天目掛けて六角棒を力一杯振り下ろした。間一髪で、ギリギリ急所を外されたが、それでも肩口を六角棒が直撃したのは事実だ。決まったか!? だが、俺の目に映るのは意外過ぎる光景だった。ゆっくりと立ち上がると、何事もなかったかの様に吽行は六角棒を身構えて見せた。その隣で同じ様に阿行が静かに身構える。

「ほう? やはり、一筋縄ではゆかぬ相手か」

 クロは静かに身構えて見せた。可笑しな展開だ。少なからずクロの攻撃は見事に決まっていた筈なのに、何故、こいつらは無傷なのだろうか? やはり、あの黒い雪から生じた事が何か関係して居るのだろうか。考えて居ると、唐突に阿行が飛び掛かって来た。不意を突かれた俺は派手に吹き飛ばされた。

「くっ!?」

「コタっ!? 大丈夫か!?」

 慌てて身構えるクロに向かい、吽行が六角棒を振り下ろす。体勢を立て直し六角棒を受け止めるクロの表情に、明らかに驚愕が窺えた。

「ぬぅっ!?」

 吽行は、尚も不気味にほくそ笑むと、体勢を崩したクロを渾身の力で蹴り上げた。派手な蹴りをもろに受け止めたクロが、勢い良く宙を舞う。

「クロっ!?」

「ぐっ……! 信じ難い力よの。これもまた、あの黒い雪がもたらす物だとでも申すか!?」

 先刻までの立ち振舞いが演技であったとしか思えない程の機敏な動きで、阿行が、吽行が、畳み掛ける様にクロに襲い掛かる。次々と繰り出される六角棒の応酬に、クロは完全に圧されていた。手を出そうにも、俺では足手まといになるだけだ。そう考えると迂闊に手出しをする事もできなかった。一体、どうすれば良い? 考え込んで居ると、阿行が大きく六角棒を振りかざした。それに呼応するかの様に吽行もまた横向きに六角棒を構える。次の瞬間、十字を切るかの様に阿行、吽行が立て続けに襲い掛かった。

「ぐおっ!?」

 渾身の一撃を喰らってしまったクロが派手に転倒した。崩れ落ちたクロの口元から血が流れ落ちるのが目に見えた。俺は慌ててクロに駆け寄った。

「クロっ!? 大丈夫か!?」

「大丈夫だ。だが……本物の阿行、吽行以上の相手やも知れぬ。少々、分が悪いか」

「無理をするな! クロ、仲間を呼べ!」

 だが、クロはゆっくりと立ち上がると、俺を制するかの様に目の前に力強く立ち上がって見せた。

「ふふ、コタよ、我は悪趣味な身でな。こんな場面であるにも関わらず、本気で戦える事に血が沸き立って居る」

 信じ難い言葉を口にしてくれる。冗談ではない。こんな恐ろしい連中が相手なのに、戦いを楽しめるとは一体どう言う神経をして居るのか。俺の溜め息など聞こえて居ないのか、クロは力強く六角棒を握り締めながら阿行、吽行に向き直って見せた。

「さて、お主らの素性、多少は掴めて来たでな」

 クロは不敵な笑みを称えたまま俺に向き直って見せた。

「所詮は、姿形を真似ただけの紛い物に過ぎぬ。その本質は、やはり、情鬼よの。それならば、単純な殴り合いだけでは効果は得られぬ」

 静かに耳を傾ける俺に向き直ると、クロは六角棒を身構えて見せた。

「さて、ここからは二対二の対決となる。コタよ、腹を括るが良い」

「冗談だろう? 俺に戦えと言うのか?」

「ふふ、異な事を申す。他に誰が居ると申すか?」

 単純な肉弾戦では情鬼であるこいつらには効果が薄いと言う事か。だからこそ、何時もの様に術を軸とした戦い方に切り替えると言う策を打ち出す訳か。当然の事ながら真言を唱えて居る間は無防備になる。その間の時間稼ぎをしろと言う訳か。簡単に言ってくれるが、俺一人でこいつらを抑え切れるのだろうか? 否、俺を信用すればこその言葉なのだと受け止めるとしよう。それならば、クロの期待に添う様に立ち振る舞ってくれるまでだ。天狗使いの意地を見せてくれる。

「腹は括った。さぁ、阿行、吽行、俺が相手になろう。ただの人だと甘く見てくれるなよ?」

 静かに身構えたかと思った次の瞬間、驚くべき早さで阿行、吽行兄弟が同時に襲い掛かって来た。なるほど。一気に袋叩きにするつもりか。だが、どう振る舞えば良い? 単純な腕力勝負では到底勝ち目はない事は目に見えて居る。真正面からぶつかったのでは明らかに不利だ。身軽さに関しても、戦い慣れして居る二人の方が遥かに優れて居る。全てにおいて圧倒的に不利な状況だ。しかも俺一人で立ち回る以上、さて、どうした物だろうか。

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン、ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 背後から響き渡るクロの唱える真言を受け止めながら、俺は阿行、吽行兄弟に背を向けると全力で走り出した。予想通り、すぐさま二人は宙に舞い上がった。挟みうちにするつもりなのだろう。危険と背中合わせになるが、それでも真正面から挑むよりかは遥かに勝ち目はあるのかも知れない。否、こいつらを捻じ伏せる必要などない。ただ、クロが術を為し遂げるまでの時間を稼げればそれで良いのだ。身を守りながら、とにかく逃げ惑う。それしかない。

 不意に俺の正面に阿行が降り立つ。慌てて身構えれば、すぐに背後に吽行が降り立つ音が聞こえた。予想通りの振舞い方をしてくれる物だ。それならば、次に起こす行動も予想通りなのだろうか? 俺の憶測通り、阿行が、吽行が、一斉に飛び掛かる。だから、俺は真正面から飛び掛かる阿行の腕を掴むと、力一杯投げ飛ばした。すぐに背後から襲い掛かろうとする吽行に向き直った。だが、予想以上に身のこなしが早い。

(くっ!? 見込みが甘かったか!?)

 驚愕する俺を嘲笑う様に吽行が懐に飛び込む。しまった! そう、想った瞬間には、既に地面に叩き付けられていた。驚くべき程に軽やかな身のこなしだ。しかも、敢えて、投げ技で挑んで来るとは、俺に対する精一杯の皮肉のつもりか? 随分と馬鹿にされた物だ。慌てて起き上がろうとするが、受け身すら取れずに地面に叩き付けられたからなのだろうか、思う様に体が動かない。必死で起き上がろうとする俺を嘲笑う様に、阿行が俺の正面に降り立つ。

(ま、不味い!)

 空を切り裂き、唸りを挙げながら勢い良く六角棒が振り下ろされる。

「くっ!?」

 間一髪、身を翻す事で交わせたが、相手は戦い慣れした二人だ。この状況で逃げ続けるのは無理があり過ぎる。追い詰められる俺を目の当たりにして、クロの表情が険しくなる。だが、未だ時間を稼ぐ必要がありそうだ。このまま俺が窮地に陥ってしまえば、クロの唱える真言も徒労に終わってしまう。信頼してくれればこそ、限界まで耐えようとして居るに違いない。

(駄目だ……まともに太刀打ちできる様な相手ではない! 逃げるしかないのか!?)

 非力な自分が悔しかった。とは言え、平和な日常を生きて来た身に過ぎない。常日頃から戦いの最中に身を置いて居る、武人としてのカラス天狗達を相手に立ち回れる訳がない。そう考えれば、とにかく逃げ回るしか無さそうだ。無策とて策の一つと言える。少々強引な理論ではあるが、頭で考えて駄目ならば行動を起こすのみだ。俺は勢い良く飛び起きると、とにかく逃げ回る事にした。だが、唐突に二人が空高く跳躍する。

「くっ!? 奇襲を仕掛ける気か!? 何処へ行った!?」

 慌てて頭上を確認するが、二人の姿は何処にもなかった。厄介な事になった。カラス天狗達は人には為せない特殊な術も行使する事ができる。隠れ蓑の様に姿を眩ませる術でも使われよう物なら太刀打ちできない。それでなくても周囲は明かりのない闇夜に包まれて居る。身を隠せる様な場所こそないが、夜目の利かない俺に取っては危機的な状況だ。六角棒での一撃を喰らえばお終いだ。間違いなく俺は仕留められる。

(何処だ!? 何処へ行った!?)

 一瞬、背後の何かが降り立つ様な風圧を感じた。

(後ろか!?)

 慌てて振り返ったが、そこには誰も居なかった。

(仕掛けられたか!?)

 次の瞬間、力一杯、腕を掴まれると、そのまま天高く放り投げられた。体が宙に浮く感覚を覚えた。完全に無防備な状態だ。必死で防御態勢を取ろうと試みるが、どうする事もできない。次の瞬間、俺は地面に力一杯叩き付けられた。

「ぐあっ!?」

 背中からもろに転落した俺は、激しく咳き込んだ。だが、それで終わった訳ではなかった。追い打ちを掛けるかの様に、阿行が俺の背後に滑り込む。そのまま、俺を抱き締めるかの様に腕を回した。絞め技で落とすつもりか。あくまでも俺を徹底的に痛め付ける事で、クロの心を掻き乱そうと考えて居るのかも知れない。しかも皮肉な事に柔術で仕掛けて来るとは、実に性悪な奴らだ。無礼千万な振る舞いの数々、断じて赦さん。

「くっ!」

 やはり、その腕力は桁違いだ。凄まじい勢いでグイグイと絞められてゆく。必死で阿行の腕の隙間に、俺の腕を食い込ませようと試みるが、微動だにしない。このままでは、僅かな時間で意識を失い、俺は無様に陥落する。奇しくも、俺の正面では吽行が手を組み合わせ、何やら真言を唱える様な仕草を見せて居る。非力な自分が悔しかった。視界が白々と染め上がり、いよいよ落ちようかと言う刹那、何らかの術を為そうとして居るのが見えた。薄れ往く意識の中、吽行の手の中に炎を纏った蝶が次々と集ってゆくのが見えた。

(絞め落とされた上に、炎で焼かれるか……無様な最期だ)

 いよいよ、本気で死を覚悟していた。炎は尚も勢いを増し、離れた場所に居るにも関わらず、火傷するかの様な激しい痛みを覚えていた。ジリジリと焦がされる様な感覚に、いよいよ今際の瞬間を覚悟せずには居られなかった。同時に、視界も白々としてゆき、意識が遠退こうとしていた。吽行の手から、燃え盛る炎が放たれるのを見届けるのと、俺の意識が途切れたのは、ほぼ同時の事だった。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか? 時間にすれば、恐らくは一瞬の出来事だったに違いない。次に気が付いた時、俺の傍らにはクロが立っていた。一体、何が起きたのか、俺には理解不能だった。ただ、辺り一面に月明かりの様な色合いを纏ったほたるが舞って居た。いよいよ俺は極楽浄土へと誘われたのか?

「クロ? 俺は……?」

「細かい事は気にするでない」

 クロは不敵な笑みを浮かべると、俺に大きな手を差し出して見せた。

「さて、コタよ。反撃の狼煙を上げてくれると参ろうぞ?」

「……ああ。随分と痛め付けてくれたからな。万倍にして返してくれる!」

 クロは背中から真っ赤な番傘を取り出すと、力強く、開いて見せた。この場面で番傘? 何の冗談だ? 動揺する俺を後目に、クロは唐突に天高く、番傘を投げ上げた。空高く放り投げられた番傘は、静かに砕け散ると、無数の赤い欠片へと姿を変えた。何が起きるのかと状況を見守っていれば、小さな破片が次々と無数の番傘へと姿を変えてゆく。無数の番傘は砕け散り、さらに数多の番傘へと姿を変えてゆく。次々と増え続ける番傘がゆっくりと空へと舞い上がってゆく。荘厳なる光景に、俺は思わず息を呑んだ。何時の間にか、泉涌寺の境内は一面の番傘に覆い隠されていた。一面に咲き誇る寒椿の如き鮮烈なる紅。何とも派手な趣向だ。

「雨を凌ぐには傘が居る。つまりは、そう言う事よ」

 クロは腕組みしたまま誇らしげに夜空に咲き誇る真っ赤な番傘達を見上げて見せた。

「なるほど。あの番傘で黒い雪を遮断しようと言う訳か」

「その通りだ。そして、あの黒い雪こそ、あの者達の力の源」

 そうか。あの黒い雪をかき集める事で、奴らは力を増していたのか。仕組みは単純ではあるが、時間の経過と共に戦闘能力が高まってゆくと言うのは、実に恐ろしい仕掛けと言える。だからこそ、黒い雪を遮断するための大規模な仕掛けを講じたと言う訳か。

「残念であったな。これ以上、お主らの戦力を高める事はできなくなったと言う訳だ」

 クロは腕組みしたまま不敵な笑みを浮かべて見せた。もっとも、クロ以上に俺の怒りは深い。非力な俺を徹底的に追い詰め、散々愚弄してくれた礼を返してくれなければ、気が済まないと言う物だ。そんな俺の気持ちを理解して居るのか、クロはやや小さめな六角棒を俺に差し出して見せた。

「……これは?」

「ふふ、随分と愚弄された様子であるからな。礼をしたいであろう?」

「それもそうだな」

「この六角棒には特別な術を施してある。お主でも阿行、吽行に打撃を与えられる筈よ」

「ほう? それは面白そうだ」

 ほくそ笑む俺を見届けながら、クロは六角棒の先端に静かに手を置いた。そのまま静かに小声で真言を唱えると、唐突に六角棒から青白い炎が噴き上がった。不思議な感覚だった。青白い炎を噴き上げて居るにも関わらず、手が火傷する様な感覚はなかった。それどころか、体中に力が漲る様な感覚さえ覚えていた。

「さぁ、コタよ。思う存分、あの者達を打ちのめすが良い」

「ああ。存分に仕返しをしてくれる!」

 俺に六角棒を授けたクロは、再びその場に座り込むと真言を唱え始めた。何を為そうとして居るのか俺には予想もできなかったが、クロの事だ。散々、俺を痛め付けてくれた二人を無事に帰すつもりはないのだろう。

 黒い雪を遮断された事で、阿行、吽行兄弟の動きが急に鈍くなった様に思える。クロの言う通り、力を増す手段を失った事が大きな意味を持つのだろう。さて、形勢は逆転する。俺は手にした六角棒を力一杯、振り下ろした。慌てて六角棒で受け止めようとするが、先刻までの様な力強さは失せていた。そのまま勢いに任せて、俺は阿行の六角棒を打ち払った。すぐさま、背後に回り込む吽行に向き直ると、その腕を掴んだ。そのまま、俺は力一杯、地面に投げ飛ばした。背中から派手に転落した吽行が呻くが、この好機を逃す訳もない。

「くたばれーーーっ!」

 再び六角棒を天高く構えると、俺はそのまま吽行の脳天目掛けて力一杯振り下ろした。確かな手応えが伝わった。間違いなく致命傷になった筈だ。予想通り、崩れ落ちた吽行は微動だにしなくなった。

「さぁ、次はお前の番だ」

 目の前に崩れ落ちる吽行の姿を目の当たりにして、明らかに動揺した素振りを見せる阿行に向き直った。六角棒を構えると、反撃を為すべく飛び掛かって来たが覇気がない。先刻までの苦戦ぶりが嘘の様に思える。武人としての力を失った今、俺の様な駆け出しが相手でも、まともに戦う事もできないとは憐れな事だ。必死で抗おうとして居るが、今の俺の相手ではない。呆気なく六角棒を打ち払われた阿行が、慌てて六角棒を手にしようと試みる。余程、取り乱して居るのだろう。俺を目の前にして無防備な背後を見せるとは、死を覚悟して居るとしか思えない。

「それならば、望み通りの裁きを下してくれる!」

 武人としての誇りも、振る舞いも、何もかも失い、醜態を晒していた。だが、俺には慈悲心の欠片もない。生き持ち合わせた攻撃性も手伝い、多分、俺は口元を酷く歪めていただろう。燃え盛る六角棒を天高く掲げると、そのまま背骨目掛けて渾身の力で振り下ろした。鈍い感触が伝わり、阿行もまた呆気なく陥落した。

「クロ、二人とも沈めたぞ!」

「うむ。こちらも準備が整った」

 クロは静かに立ち上がると、不敵に笑って見せた。そのまま懐から数枚の札を取り出すと俺に見せてくれた。淡い桜色の綺麗な色合いの札だった。良く見るとうっすらと桜の絵が描かれて居る。

「手間取らせてくれたが、それも此処までよの。さて、散りゆく者達に別れを告げてくれよう」

 クロは先刻手にした札を再び取り出すと、真言を唱え始めた。真言を唱えながらクロは空高く、札を飛ばして見せた。

「不動明王! ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン、ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」

 クロの真言に呼応するかの様に、どこからか一斉に桜吹雪が吹き荒れ始めた。辺り一面、覆い尽くすかの様な華やかな、だが、どこか寂しささえ感じる光景だった。音も無くはらはらと舞い落ちる桜吹雪の中、二人の姿がゆっくりと風に溶けてゆく。華やかな桜吹雪とは不釣り合いな、無数の黒い雪となって地面に吸い込まれていった。程なくして黒い雪は完全に消え失せ、残り香の様な桜吹雪だけが微かに舞い散るだけの光景となった。

「……終わったようであるな」

「ああ。本気で肝を冷やす相手となった」

 ほっと胸を撫で下ろせば、クロもまたようやく安堵したのか、目を細めながら俺の肩を叩いて見せた。

「派手な立ち回りのせいで汗をかいたな」

「俺は嫌な汗が止まらなかったがな……」

「ふふ、これが我と共に歩むと言う事よ」

 クロは意地悪く笑いながら俺の反応を窺っていた。

「性悪なカラス天狗だ」

 笑う俺の肩を叩くと、クロは再び可笑しそうに笑って見せた。「さて、鞍馬山の温泉にでも向かおうか」と告げると、クロは静かに歩きだした。まったく、相変わらず良い性格をして居る。生命と隣り合わせの戦いを繰り広げたばかりだと言うのに、何事もなかったかの様に振る舞える辺りに敬意を払うどころか、むしろ、危機感すら覚える。まぁ、良い。クロの自由気ままな振る舞いは今に始まった物ではない。今さら動揺を覚える事自体無意味と言う事か。

「どうした、コタよ。置いてゆくぞ?」

「……ああ、そうだな。行こうか」

 生温かい風が吹き抜ける中、俺達は泉湧寺を後にした。先刻まで繰り広げられていた、非日常の光景が嘘であったかの様に境内はただ、静まり返っていた。そこには黒い雪も、華やかな赤い番傘も、それから、舞い散る桜吹雪の痕跡も残されていなかった。非日常の残り香を残しておく訳にはいかない。特に情鬼との戦いの痕跡を残す訳にはいかない。不用意に要らぬ証拠を残したお陰で、心無き者達にカラス天狗の存在を知られたくなかった。クロ達が望む友好なる関係に成れるならば良いが、皆が皆、性善説で動くとは考えられなかった。そう考えれば、立つ鳥後を濁さずと言う考え方で振る舞うのが適切と言える。哀しい話だが、人の心程、信用できない物はないと、俺は思う。

◆◆◆60◆◆◆

 無機的に走り続ける列車から覗く景色をただ呆然と見つめていた。テルテルがどうなってしまったのか、電話を一本入れれば確認できたのかも知れない。だけど、現実と向き合う事がどうしようもなく恐ろしく思えたオレは逃避する事しか考えられなくなっていた。あの時、太助を選んでしまったのは事実だ。もしも、オレのせいでテルテルの身に危害が及んだとしたら、オレは何と謝れば良いのだろうか。もしも、オレのせいで命を落とす事となったら、どんなに謝っても謝り切れなくなってしまう。それどころか、大切なトモダチを失う事になる。そんな事になったならば、オレは一体、どうすれば良い?

「……違うな」

 丁度、列車は駅に到着した。暗いトンネルと抜けた所で再会する明るい駅のホーム。だけど、その光は無機的で、寒々しい程に白く瞬く光に思えた。

「オレのせいじゃねぇんだ」

 それなら誰のせいか? 

「少なくてもオレのせいじゃねぇ……」

 結花の姿を模した敵――イヤ、違う。そうじゃない。

「ああ、そうさ……」

 そうだ。あの時、遭遇した、あの不気味な坊さん以外には考えられなかった。

「あいつが全部、全て、悪いんだ。あいつが一連の騒動の諸悪の権化である事は間違いねぇんだ。あいつが……あいつが!」

 第一、結花があんな残酷な振る舞いを為せる訳がない。結花は心優しい女だ。虫も殺せない様な女が、何よりも、体力的にも劣っていて、ましてや腕力なんかないに等しい結花が、金属の塊である刀を事も無げに扱える訳がない。どう考えてもアレは結花の姿を真似ただけの出来損ないの紛い物に違いない。だけど、アレがもしも本物の結花だったとしたら? 想像したくないが、確かに、あの振る舞いは結花の振る舞いその物の様にも思えた。

 仮にアレが本物の結花だったとしたら、それはそれで実に不可解な行動に思える。本物の結花が、果たしてテルテルに危害を加えるだろうか? 優柔不断なオレに道を指し示すための行動だった――そう、思いたかった。だけど、仮に、結花が情鬼になってしまったのだとしたら、その時は……。

「その時は、せめて、オレの手で引導を下してやる。他の誰でもない。オレ自身の手で」

 できるのだろうか? 何時だってそうだった。口先ばかり景気の良い事をペラペラと並べて見せるが、実際にはそんな度胸、微塵もなかったりする。そう言う自分の弱さが嫌いだった。

 列車はオレの事などお構い無しに走り続けていた。当然と言えば当然の事だ。列車は人を輸送するために作り出された物だ。そこには要らぬ感情は存在しない。ただ、無機的にダイヤに従って運行される。それだけの事だ。駅に着く度に、ただ無機的に乗客が乗り降りする。乗り降りが終われば、次の駅を目指す。それの繰り返しだけだ。日常はあくまでも日常であるべきだ。既に日も落ちた時間帯と言う事もあってか、仕事帰りの人々の姿が目に留まった。男女問わず、皆、覇気のない青白い表情を称えて居る。これもまた、あるべき日常の姿なのだろう。

 人は人。オレはオレ。コタの価値観はオレと良く似て居る様に思えた。他人がどうであろうと、我が道をゆく。良くも悪くも、綺麗に線引きして居るコタの生き方に共感を覚えたのは事実だった。

 オトナになる事を拒み続けた時期があった。もっとも、今でもオトナになる事を拒んで居るのは事実だ。目の前に佇む、疲れ切ったオトナ達の姿を見て居ると、未来には夢も希望も抱く意味を見失ってしまいそうになる。

 冗談じゃねぇ。オレはこんな機械みてぇなオトナになんかならねぇぞ。朝になれば時計に叩き起こされ、ただ無為に黙々と仕事をこなす。搾取されるだけ搾取され、用済みになれば呆気無く棄てられちまう。夢も希望もない。ただ草や木と同じ様に、ただ、そこに在るだけの生き方――イヤ、草や木でもないな。心を失い、体温を失い、生きて居る意味さえ失う。そんな生き方、絶対受け入れられる訳がなかった。歯車になどなる物か。そうなる位だったら、オレは社会をぶっ壊してやる。もしも、オレの物語にはくだらねぇ未来しかねぇっつーなら、情鬼になって何もかもぶっ壊してやる。なぁ、結花。偶然なんてねぇんだろ? なら、オレがどうなるかも必然だっつー訳だ。面白ぇ。お前が好んだ薄ら寒い未来なんざ、オレが全部、全て、焼き尽くしてやる。オレは熱い男だ。何もかもを焼き尽くす程に熱い炎になる。誰もやらないと言うならばオレが鬼になる。それがオレの生きる道だ。

「嘘吐きだ」

 思わず大きな溜め息が毀れる。結局、オレはこうやって口先ばかり、強がる事しかできない敗者に過ぎない。オトナ達を見下して、馬鹿にして、嘲笑う。だけど、それは結局、オレ自身が周囲の連中に思われて居るであろう事を、そのまま向き先を変えただけに過ぎない。ただ、無為に黙々と機械の様に振舞う事しかできない自分が悔しいだけだ。力があれば良かった。オレにもっと大きな力があれば何かを変える事ができたのかも知れない。結花を失わずに済んだのかも知れないし、復讐を果たす事もできたのかも知れない。あるいは、コタと共に歩む道を選ぶ事だってできたのかも知れない。

 こうやって選ばれなかった『選択肢』の事ばかり考えて居る。前だけ見つめて進みたいと願いながらも、実際には歩んできた道を振り返ってばかりだ。それで、後悔する事しかできない。そんな生き方、望んだ事なんか微塵もなかったのに、何故か、いつもこうなってしまう。

「……違うよな。そうじゃねぇんだ」

 再び、大きな溜め息が毀れる。

「結局、そうやって不幸な道、不幸な道へと、自ら好んで突っ走って居るだけに過ぎないんだ。誰かのせいにして、自分の責任から目を背け、逃げて居るだけだ」

 何も生み出す事のない、くだらない事に考えを巡らせて居る自分が惨めで、滑稽で、途方も無く可笑しかった。ふと、顔を挙げれば、向かい側の窓の中にオレが映っていた。トンネルの中は暗い。だから、車窓が鏡の様になって居る。そこに映し出されたオレ自身と目が合った。規則正しく並ぶ、無機的な光に照らし出されたオレの顔は、自分でも哀しくなる位に惨めな顔だった。

「なんて面してるんだよ」

 映し出されたオレが嘲笑って居る様に見えた。確かに、外見に関しては十二分に鍛え込んで居る。自分でも今のオレ自身の外見は気に入って居る。だけど、中身に関しては酷く脆いのが現実だ。傍から見れば、強そうな男に見えるのかも知れない。重量級の格闘技をやって居る様に見られる事も少なくない。だが、実際にはハリボテの様な見せ掛けだけのハッタリ野郎なのが現実だ。その現実を知られた時、誰かに落胆され、憐みを篭めた溜め息を就かれる事が堪らなく嫌で、嫌で、だからこそ無駄に虚勢を張るだけの自分がますます嫌いになる。終わりのない堂々巡り、悪循環の連鎖だ。出口のない無限回廊の中を彷徨うだけの自分が滑稽だった。抜け出すためには、ほんの僅かな勇気があれば良い。そんな、ちっぽけな勇気さえ持てずに居る。

「変わりてぇな」

 肩を落とせば、思わず大きな溜め息も一緒に毀れ落ちる。

「違うな。変わるんだ。変わらなければ駄目なんだ」

 おのれの腕一本で道を切り開いて来たのは事実だ。だけど、オレ一人の力では限界がある。ここまで来る事はできたけれど、さらに上を目指そうとしたら、もはや無理があるのかも知れない。それならば考え方を切り替えるまでだ。一人でどうする事もできないなら、皆の力を借りるしかない。結局、自分自身を嫌って居るだけでは心の隙が消える事はない。敵はオレの心の隙を狙って来る。それならば、何としても隙を塞がなければならない。情鬼になっても、何の解決にも繋がらない事位、良く判って居る。それに……オレが情鬼になれば、皆にも被害は及ぶ。クロにオレを討たせる様な結末を迎える日の到来は絶対に阻止しなければならない。それならば、今、オレが為すべき事は一つしかない。

「なんだ。単純な話だったんだな。それなのに、オレは難しい方向へと、せっせと導いていた訳か」

 太助、オレに手を貸してくれ。ついつい、熱くなりがちなオレには、常にブレる事のないお前の冷静さが必要だ。あれこれ難しく考えるのは止めにしよう。どうせ、ろくな頭じゃないのだから、無理に考えても良い考えが浮かんで来るとは考え難い。

「ところで、今、どの辺りなんだろうな?」

 ふと、顔を挙げれば、丁度、列車は小野駅に到着しようとしていた。

「お? 小野まで来て居るなら、次が醍醐だな。取り敢えず太助と合流したら、何か食いてぇな。腹が減っては戦はできねぇってな」

 列車の中には乗客の姿は見られなかった。そうで無ければ、一人でぶつぶつ喋り続けて居るオレは間違い無く奇異な存在として白い目で見られたに違いない。夢中になり過ぎて周囲が見え無くなっていたが、結果として問題はなかった。

 暗いトンネルの中を列車は颯爽と駆け抜けてゆく。そろそろ着くだろうか? 考えて居る内に列車は減速を始めた。さて、降りる準備をするか。考えて居るうちに、列車は醍醐駅のホームへと辿り着いた。

 心境の変化なのだろうか? 無機的で冷たく思えた蛍光灯の白い明かりも、どこか温かな光に感じられる様になった気がする。もうじき、太助に会えると言う安堵感からなのかも知れないし、揺らいでいた気持ちが方向性を見出して、まっすぐになり始めたからなのかも知れない。いずれにしても、今は、意味のない見栄を棄てて、素直に太助の知恵を借りるとしよう。もう、可笑しな意地を張るのはお終いだ。オレは一人ではない。今は太助の手を借りて、前に進むとしよう。

◆◆◆61◆◆◆

 醍醐駅に降り立ったオレは、そのまま改札を目指して急いでいた。わざわざオレのために手を貸してくれる太助を待たせてしまうのも気が退けた。人気の少ない醍醐の駅構内をオレは息を切らしながら走っていた。そういえば、駅で待って居ると言っていたが、太助は一体何処で待って居るのだろうか? 予め待ち合わせ場所を決めて置くべきだった。そんな当たり前の事にさえ、頭が回らない程に追い詰められていたとは、実に間の抜けた話だ。改札を抜けたら、先ずは電話を入れるとしよう。そんな事を考えながらオレは改札を抜けた。奇しくも電話を掛けようとポケットの中から携帯を取り出した所で太助から電話が入った。これもまた偶然では無く、必然なのだろうか? 不思議な気持ちに包まれながらも、オレは慌てて電話に出た。

「もし――」

「どうやら、無事に到着した様子だな」

 オレが何かを言うよりも先に、まさしく電話に出ると同時に、太助が口を開いた。意表を突かれたオレは思わずその場に立ち止まってしまった。

「へ? 何で判ったんだ?」

 息を切らしながら問い掛ければ、電話の向こうで太助が静かに笑う声が聞こえた。

「簡単な話だ。列車の中に居るのであれば音が聞こえるはずだ」

 確かにその通りだ。ましてや東西線は地下鉄だ。トンネル内を走り抜ける際には、殊更に音が反響する。電話越しにも十分に判る程の大きな音が聞こえるハズだ。オレは思わず息を呑みながら受話器に意識を集中させた。そんなオレの緊張を汲み取って居るのか、太助は尚も静かな口調で淡々と続けて見せた。

「だが、電話の向こう……つまりは、力丸の居る場所から列車の音は聞こえない」

「おう。確かにそうだな」

「少なくても駅に着いた事は容易に想像できる。ついでに、息を切らす様な声の感じから察するに、改札を抜けて――」

「おう。それから、それから?」

 太助の話し方が悪いのか、どうも、探偵物のドラマか何かで、事件の真相を明かされて居るシーンに全神経を傾けて居る視聴者の心境にさせられるから不思議だ。それにしても、何だ? この妙な溜めは。ついでに、何故、そこで笑いを堪えて居るのだろうか? 何やら嫌な予感がしながらも、オレは受話器を耳に宛てたまま歩き出した。

「永い間離れ離れになっていた愛しき俺にようやく会える。一日千秋の想いを経て……」

「ちょっと、待て、コラ!」

「そして、再会を果たした二人の想いは激しく燃え上り……」

「燃え上らねぇよ!」

 思わず声を荒げた瞬間、背後から肩を叩かれてオレはもう一度悲鳴を挙げた。

「うぉおっ!?」

「待ち侘びたぞ」

「い、いきなり背後に居るとか、笑えねぇ冗談止せっつーの!」

「ふふ、相変わらず賑やかだな」

「お前が驚かせるからだろーがっ!」

 やれやれといった表情を浮かべたまま太助は颯爽と歩き始めた。アル・プラザの外で待って居るとばかり思いきや、わざわざ改札から死角になる場所に隠れていたと言うのか。オレを驚かせるために、随分と手の込んだ仕掛けを考えてくれる。お陰であれこれ考えていた事が見事に吹っ飛んだ気がする。目一杯文句を言ってやろうかと思ったが、オレの驚いた姿が余程面白かったのか、何度も思い出し笑いを堪えて居る姿に殺意を覚えずには居られなかった。

「ったく、お前、絶対、良い死に方しないぜ?」

 オレの言葉を受けた太助は満面の笑みを浮かべて見せた。

「心配するな。俺の様に他人の恨みを買う様な奴は、往々にして長生きする物だ」

 そんな太助の挑戦的な笑みに、オレは溜め息で返した。

「口の減らねぇ奴だぜ」

「嫌いではないのだろう?」

「何の話だか、サッパリだぜ」

 太助が相手ではどう頑張っても勝ち目は無さそうだ。それにしても、相変わらず、上手く振舞ってくれる。可笑しな先制攻撃を喰らったお陰で、ヘンに肩肘張らずに話ができそうだ。さり気ない太助の気遣いが嬉しく思えた。

「先に言って置くが」

「おう。何だよ?」

「好意的に捉えてくれたのであれば、それはそれで良しとしておく。力丸の中での俺の株が上がる分には、俺に取っては有益な話だからな」

「……発言の一つ一つがムカ付くのは気のせいか?」

「嫌いではないのだろう?」

 含み笑いを浮かべながら流し目をくれるとは、相変わらず嫌味な男だ。しかも、そうした振舞いが妙に様になるから、余計に悔しい気持ちで一杯になる。いちいち乗ってやるのも悔しく思えたオレは、聞こえていないかの様に振舞って見せた。太助に取ってはそんなオレの反応すら面白く思えるのだろう。相変わらず涼やかな笑みを称えたまま颯爽と歩き続けていた。

 くだらないやり取りを交わしながらも、オレ達は地上へと出て来た。地下の涼やかな空気とは裏腹に、外に出てみれば湿気を孕んだ蒸し暑い空気が纏わり付く。只でさえ汗ばみ、ベタベタになって居るオレに取っては歓迎し難い気候だった。

「ひー、蒸し暑いな」

「……少し歩くぞ」

 オレの返答などお構い無しに、相変わらず流れる様な足取りで太助は歩き続ける。

「歩くのは良いけどよ、どこに向かおうとして居るんだ?」

 首を傾げながら問い掛ければ、太助は静かに足を止めた。そのまま静かに向き直ると、オレの目をジッと見据えたまま問い掛けて見せた。

「目的地の定められた旅など白々しいだけだ。敷かれたレールの上を歩くだけの物語など綴りたくないだろう?」

 これでどうだ? 太助は、そう言わんばかりの自信に満ちた目でオレの目をジッと見つめてみせた。涼やかな振舞いとは裏腹に、野生の獣を思わせるかの様な鋭い眼光だった。オレの返答を待つ様な素振りを見せつつも、恐らくは『選択肢』に関わらず、強引にでも太助が目指さんとする場所へと導くつもりなのだろう。

「そうだな。それも悪くない」

 大きく溜め息を就きながら、オレは太助に笑い掛けて見せた。もう、要らぬ意地を張るのは止めにした。だから、今宵はお前に先導して貰うとしよう。自分の行くべき道さえ判らなくなってしまった憐れな迷子に、どうか、道を示してくれ。そんな想いを込めて返したつもりだった。恐らく、太助の事だ。オレが何を想って居るのかなど既に見抜いて居るに違いない。

「醍醐駅前を少し歩き回ろう」

 意外な場所を選ぶ物だ。太助はこう言う賑やかな場所は好まず、醍醐寺周辺の様に静けさに包まれた場所を好む物だと思っていた。だけど、普段と違う動きを見せるのには、理由があるハズだ。思慮深い太助の事だ。単純に気まぐれに行動を起こして居るとは思えなかった。

(イヤ、余計な詮索をするのは止めておこう。頭で考えるだけでは、どうしても理屈っぽくなっちまう。それでは駄目だ。それに、今夜は太助に道案内を頼むと決めたんだ。あれこれ余計な事は考えずに、黙って従ってみるとしよう)

 オレは改めて周囲の景色を見渡してみた。醍醐駅の周辺は集合住宅が立ち並び、太助の家の周辺とは明らかに異なる景色が広がって居る。この一帯は巨大なショッピングモール、アル・プラザが鎮座し、そのアル・プラザを囲う様に集合住宅が立ち並んで居る。目の前を横切る大きな通りは車が勢い良く往来して居る。近代的な街並みと言えば聞こえが良いが、早い話、人の手が築き上げた至極人工的な街並みだ。無機的で、冷たくて、多分、この辺りに生きていた大自然を切り崩して開発された事が容易に想像できる。皮肉な話だ。そうやって人は大自然を支配した様な気になって居るのかも知れないが、本当の所は、そうではない。判って居る。開発されたお陰で生きる事ができる人々も、確かに存在して居る。だが、そのために犠牲になった者達もまた、確かに存在して居る事を忘れてはならない。力で説き伏せられた者達が怒りを胸に抱き、謀反を起こしたとしたらどうなるのだろうか? 人の築き上げた街など、意図も容易く滅ぼしてしまうに違いない。因果応報。先に仕掛けたのは人だ。報復されたとしても文句は言えない。

「力丸、夕食は未だだったか?」

 見えない何者かの誘いなのだろうか? 語り掛ける誰かの想いに、すっかり心を奪われ掛けた所で、唐突に現実に引き戻された。一瞬、状況を理解できずに戸惑ったが、オレは慌てて返した。

「おう。未だではあるんだけど……」

 不思議な感覚だった。東西線に乗り込んだ時は倒れそうな程に空腹だったが、今は、それ程気にならなくなっていた。これもまた語り掛ける誰かの想いの余波なのだろうか? 日常の中に潜む、非日常との出会い。どうやら、今宵はこのまま静かに終わると言う事は無さそうだ。不安ではあったが怖い物見たさと言う奴だろうか? 危機的状況に置かれながらも何処かで楽しんで居る不謹慎なオレが居るのも事実だった。

「どっかコンビニでも見付けたら食糧調達するわ。あー、でも、喉は渇いたかな?」

「そうか。少し、ここで待っていてくれるか? 近くの自販機で飲み物を買って来よう」

「ああ、済まねぇな。何でも良いからよろしくな」

 颯爽と走り去ってゆく太助の後ろ姿を見送りながら、オレは顔を挙げて周囲の景色を見回してみた。ついでに、大きく息を吸い込んでみた。排気ガスの匂いが混じった空気は不快な匂いで、決して心地良くなかった。だけど、これがオレ達、人が築き上げた文明が作り出した結末なのだとしたら、受け入れなければならない。そんな気持ちにさせられた。

「結局、オレは何処から来て、何処に向かえば良いんだろうな」

 夜空を見上げてみても星一つすら見えなかった。人の手が介在した事で街は明るくなり過ぎてしまったのかも知れない。そのお陰で夜でも明るい街並みを生きる事ができる。だけど、同時に、見えなければならない物が見え無くなってしまったのも事実だ。明る過ぎる街明かりのせいで夜空に瞬く星は見えない。それだけではない。本来であれば寄り添って居るハズの見えざる存在達の姿さえも見えなくなってしまって居る。非日常は何時だって、オレ達の傍に寄り添って居る。ただ、明るくなり過ぎてしまった街並みが、そいつらの存在を覆い隠してしまって居るだけに過ぎない。感覚が研ぎ澄まされて居る今、オレはそうした者達の存在に気付く事ができる様になって居るのかも知れない。そうで無ければ、こんな事を感じる事すらなかっただろう。

「こう言う景色も悪くないだろう?」

 何時の間に戻って来たのか、太助はオレの隣に並ぶと、オレの真似をして空を見上げて見せた。そのまま良く冷えたペットボトルのお茶をオレに差し出して見せた。「おう。ありがとうな」。そう応えれば、太助はそっと目を細めて見せた。

 二人で並んで夜半の醍醐の街並みを見渡していた。規則正しく明滅する信号も、集合住宅の各部屋を照らす明かりも、立ち並ぶ街灯も、車のヘッドライトにテールライトも、それから、周辺に立ち並ぶ飲食店の明かりも、何もかもが明るかった。イヤ、明る過ぎてしまったのかも知れない。確かに、街はこんなにも煌々と眩しい程に明るい。だけど、強過ぎる明るさのお陰で、弱々しい光はなかった事にされてしまう。最初からそこに居なかった事にされてしまう。何しろ、誰の目にも留まらない。だから、例え居なくなってしまったとしても、誰にも気付かれない。それだけの事だ。でも、それは……それは、とても怖い事だと思った。隣に居るはずの誰かが、とても大切な仲間が、ある日突然居なくなっても、誰も疑問にすら思わない。それどころか、居なくなった事すら気付かれないのかも知れない。もっとも、何もかもが歯車と化した今の世の中では、それは些細な問題として片付けられてしまうのかも知れないが。

「今、目にして居る人工的な景色も嫌いではない」

「意外だな。太助は、こう言う景色は好きじゃないって思っていた」

「ああ。好きではないのは事実だ」

 随分と潔く否定してみせる物だ。そんな事を考えて居ると、太助が向き直った。オレの目をジッと見据えたまま微かな含み笑いを浮かべて居る。

「だけど、小太郎の言葉で、少しだけ視点を変えるキッカケを得られた。だから、嫌いではない」

 なるほど。コタらしい感性での捉え方だ。以前、コタと一緒に夜半の京都駅周辺を散策した時にも、それらしい表現を聞かせてくれた事があった。

「この景色は墓標だ。大自然をぶっ壊して、その上に人が築き上げた欺瞞の象徴だって話だろ?」

「ああ。皮肉な表現ではあるが、間違ってはいない」

 太助は静かにオレの顔を覗き込むと、そのまま歩き出した。オレも太助の横に並び、一緒に歩き出した。夜半の街並みは静けさに包まれていて、時折、車がすれ違う音が響き渡る音が聞こえるのを除けば、虫達の鳴き声が響き渡る以外、街は静けさに包まれていた。

「この辺りは見ての通り、集合住宅が立ち並んで居る。言うなれば、墓標の中で多くの人が眠りに就いて居ると言う事になる。中々に皮肉な話だと思わないか?」

「ああ。すげぇ皮肉な話だよな」

「死者達の上で眠りに就く。如何に人が驕った生き物であるか良く判る」

 太助は冷たい笑みを称えたまま、周囲を見回して見せた。オレも太助の視線を辿る様に追い掛けてみた。

「万物の頂点に立ったつもりかも知れないが、所詮、担がれただけの馬鹿殿に過ぎない。風が吹けば容易く吹き飛び、雨が降れば容易く流される。地面が震えれば、それだけでも俺達の文明など呆気無く崩壊する。ましてや、この国は四方八方を海に囲まれた島国だからな。野生を失った人と言う生き物なぞ、実に弱い存在に過ぎない」

 吐き捨てる様に言い終えた所で、不意に太助は自嘲的な笑みを浮かべたままオレに向き直って見せた。

「もっとも、俺も、力丸も、その弱い存在の中に居る、さらに弱い存在に過ぎない」

「へへっ、良いじゃねぇか? 負け犬の遠吠え、オレは嫌いじゃないぜ」

 オレの言葉に興味を示したのか、太助はオレの目をジッと見据えていた。だから、オレは敢えて太助の真似をするかの様に芝居染みた口調で続けて見せた。気分は駅前で選挙演説をする政治家のオッサンだ。

「負け犬は負け犬らしく、精一杯、抗ってやろうぜ。オレ達の力なんか、たかが知れて居るけどさ、追い詰められたネズミは仇敵である猫をも討ち取る物らしいからな。無様でも、見苦しくても良いさ。やれるだけの事、やってやろうぜ」

 気分が乗って来たオレは大きく息を吸い込むと、力一杯、想いをぶちまけた。

「そうで無ければ、生きて居るって実感できねぇからな。全力で熱くなろうぜ!」

 オレの言葉を受けながら、太助は可笑しそうに笑って見せた。

「暑苦しいな」

「そうは言って居るが、こう言う熱いノリ、本当は嫌いじゃねぇんだろ?」

「ああ、嫌いではないさ。そう言う暑苦しさは、むしろ好きだな」

「だろう? へへっ。そう言い切ってくれるお前も、実は暑苦しい男なんだろうな」

「そうだな」

 二人で声を挙げて笑った。夜半の醍醐の街並みにオレ達の頭の悪い声だけが響き渡った。そのまま勢いに乗ったオレ達は、どこへ向かうでも無く、ただ宛ても無く街を彷徨い歩いた。敷かれたレールの上を歩くだけの生き方なんて面白くも何ともない。誰かがお膳立てしてくれた道なんざ、この手でぶっ壊してくれるまでだ。道は自らの手で切り拓いた後に築き上げられる物だと信じて居る。

 太助と二人、夜半の醍醐の街並みを歩き回るうちに、オレの中で一つの想いが生まれようとしていた。偶然なんてない。全ては必然なんだと言う結花の考え方に真っ向から逆らってみたいと思う様になった。色々考えてみたが、やはり、どうしても、納得する事ができなかった。恐らく、オレが迷い続けて居たのは望まない道を歩んでいたからなのでは無かろうか? と疑念を抱くに至った。結局、オレは弱い奴だから、道を切り拓くなんて景気の良い事を言って居るが、実際には人と同じ道を歩んでいたに過ぎなかった。結果、オレは流れ付きたくもない場所に漂着してしまった。そう、漂着だ。自分の意志で辿り着いたのではないのだから。だが、それも、もう終わる。オレは歩む道を変える。この手で変える。強引にでも変えて見せる。

 結花が自分自身の考えを貫き通したのであれば、オレは、お前の考えに真っ向から逆らう道を貫き通してくれる。オレはオレだ。お前ではないのだから。心からそう思う様になり始めていた。少しだけ、オレの中で価値観が変わろうとしていた。

 このまま太助と共に歩んでいれば、もっと色んな事が変わるのかも知れない。流れに身を委ね、抗う事なく流され続ける。さて、その旅の果てで、オレは何処に漂着できるのだろうか? 自ら狙って変わるのでは無く、敢えて、見えざる誰かに想いを組み立てて貰うと言うのも悪くない。恐らく、今宵は未だ異変が続くに違いない。明日の朝には、オレはどんな姿に変わって居るのだろうか? 期待に胸が高鳴るばかりだった。

◆◆◆62◆◆◆

 どこに向かうかなど定める事も無く、オレ達は徒然なるままに歩き続けた。その果てに何かを求めた訳ではなかった。何時もと変わる事のないオレ達がそこにいた。真面目に語らってみたり、可笑しなやり取りを交わしながら笑い合ったり、そんな風に気楽に接する事ができるのは本当に心地良く思える。太助は悔しい程に男前で、知識も豊富な奴だけど、外見に似合わない一面を持って居る。妙なプライドを持って居る訳でも無く、ヘンにお高く振舞う訳でもない。可笑しな事ばかり口にするし、時に奇想天外過ぎる発想で皆を笑わせてくれる。だからこそ、オレは太助の事が好きだし、一緒に居る時間も短く無い。オレは太助とは似ても似つかないけれど、気が合うのは事実だ。多分、オレも、太助も、男らしく在ると言う事に異様な執着心を抱いて居ると言う面で共感を覚えるからなのかも知れない。判って居る。そんなの、互いに舞台役者の様に演じて居るだけだと言う事も。だけど、太助と二人で居る時、オレも、太助も、これ以上ない程に男を演じ切れて居ると思えるから。男同士の友情劇。そんな振る舞いを演じるのが心地良くて、二人で肩を並べて、風を切って歩くのが好きだ。何と言えば良いのだろうか。等身大のオレで居させてくれる太助は一緒に歩んでいて心地良く思える相手だからなのだと思う。

「随分と歩き回ったな。既に力丸は土砂降り遭遇状態よりも悲惨な状態になりつつあるな」

「へへっ、今、服を絞ったら汗がビシャビシャ出ると思うぜ?」

「まぁ、そう言う俺も人の事を言えない状態だけどな」

「珍しい事もあるもんだな。普段、あまり汗掻いて居る姿見ないのにな」

「なに。隣に暑苦しいのが居るから、何時も以上に蒸し暑く感じるだけの事だ」

「そうそう。この湿気の何割かはオレの体から沸き立つ汗なんだぜー?」

「……気のせいか? 急に気分が悪くなって来た」

「わはは。力丸汁をたっぷり堪能しやがれっつーんだ」

 オレの言葉が可笑しかったのか、太助は声を挙げて笑っていた。

「何だか可笑しな効能がありそうだが、案外、小太郎に煎じて飲ましてみたら、面白い事になりそうだ」

「暑苦しい振舞いを見せるコタか――」

 何時も不機嫌そうな顔をして居るコタが、ある日、突然、恐ろしく暑苦しい熱血漢になる。そんな構図、見てみたいような、見てみたくないような不思議な気分になる光景だ。

「何か、全然、想像つかねぇな」

 コタの顔を思い浮かべて居るうちに、オレの中ではコタが静かに般若の面を身に着ける姿へと移り変わっていった。鮮血を思わせる紅の着物に身を包んだコタの姿へと移り変わり、胸が締め付けられる想いに沈みそうになった。結局、どんなに馬鹿みたいに振舞っても、そんなの夢を見て居るだけに過ぎない。目が醒めれば直視する事が辛い現実が冷たく待ち構えて居るだけだ。

 何時の間にか、オレ達は再びアル・プラザ前まで戻っていた。ここから集合住宅の間を縫う様に伸びる緩やかな坂道を上れば太助の家の近くまで出る。煌々と明るい光を放つアル・プラザが殊更に明るくて、優しい冷たさに満ち溢れていて、だからこそ、オレの心はシクシクと痛んだ。そんなオレの気持ちなど見抜いて居るのか、太助は穏やかな笑みを称えたままオレの隣に立つと、静かに立ち止まって見せた。

「不安か?」

 太助の言葉に驚いたオレは、思わずその場に硬直させられた。

「え?」

「ふふ、俺も不安だ」

「太助……」

「皆が思う程に俺は頼りになる訳でも無ければ、役に立つ知識を持って居る訳でもない」

 そう口にする太助の表情からは何時もの自信に満ち溢れた雰囲気は感じられなかった。

「例えば、荒野に放り出されたとする。くだらない雑学など生き抜く上では何の役にも立たない。何の力も持たない、ただの非力な身に成り果てるだけだ」

 太助は可笑しそうに笑いながら「置き去りにするぞ?」と呟くと、静かに歩き始めた。オレも太助に寄り添う様に歩き始めた。大通りから離れると周囲は驚く程に静まり返る。オレ達の歩く足音以外、何も聞こえなくなる。遠く、車が往来する音が微かに聞こえるばかりだった。耳を澄ませば互いの鼓動さえ聞こえそうな程に静まり返った光景は深い安心感に包まれて居るが、同時に、その静けさが途方も無く恐ろしく思えた。

「生物は元来、暗い場所を畏れる習性を持つ。別に、臆病だから怖がって居る訳ではない」

 太助はオレの方をちらりとも見る事無く、さらりと言い放って見せた。何だか、心の奥深い所まで見透かされて居るみたいで小恥ずかしくて、だけど、同時に、妙に嬉しくて、羞恥心をくすぐられたみたいな気持ち良さに包まれて、思わず耳が熱くなった。

「暗がりの中には何が潜んで居るか判らない。もしかすると、腹を空かせた肉食獣が虎視眈々と獲物となる俺達を狙って居るかも知れない。だからこそ、暗闇を畏れるのは危険から身を遠ざけようとする生物の本能と言える」

「……確かに、暗い場所ってのは怖いよな。何か、得体の知れない奴が潜んで居るかも知れねぇもんな」

 何も、こんな場面で余計な事を言わなくても良いだろうに。それでなくても、散々妙な体験をして居る事もあり、何時も以上に周囲を警戒して居るのは事実だ。思わず周囲をきょろきょろと見回す小心者のオレが滑稽であった。そんなオレを満足そうに見つめたまま太助が口元を歪める。

「そうだな。言うなれば、ここには爪も牙も持たない非力な二人しか居ない訳だ。もしも、暗がりから情鬼に奇襲を仕掛けられでもすれば、呆気無く、亡骸が二つ転がるばかりだ」

「止めろよ。怖い事言うんじゃねぇっつーの……」

 夕暮れ時の事もあったからこそ、余計に暗闇が不気味に思えて仕方がなかった。ああ、そうさ。次から次へと妙な事ばかり起きて、訳も判らないままに巻き込まれたオレとしては迷惑この上ない話だ。イヤ、迷惑どころか、それこそ生命の危機と隣り合わせの状況だ。そんな状況に置かれて不安にならない訳がない。

 だけど、だからこそ、オレは迷っていた。太助に力を貸して貰いたくて醍醐まで来て、何の得にもならないかも知れないのにオレの馬鹿話に付き合ってくれた。それなのに、この上さらに太助に迷惑を掛けても良いのだろうか? テルテルやロックの様に戦う力を持たない太助を敢えて危険に巻き込んで良い物だろうか? 今更ながら戸惑いと不安からオレは無意識のうちに大きな溜め息を就いていた。無論、太助にも聞こえたに違いない。互いの鼓動さえもが聞こえそうな程に静まり返って居る坂道でオレの大きな溜め息が聞こえない訳がない。太助はオレに背を向けたまま静かに立ち止まった。

「太助? どうかしたのか?」

「……俺は小太郎に会うまでは孤独だった」

 不意に、太助が口にした言葉にオレは驚かされた。唐突に、何を言い出すのか? 戸惑うオレを他所に太助は冷淡な口調で続けて見せた。

「小太郎と知り合い、輝と知り合い、大地と知り合い、無論、俺の隣に居る力丸とも知り合った」

 オレはただ黙って太助の話に全神経を集中させていた。何を語ろうとして居るのかは判らなかったが、少なくても、面白可笑しく冗談話を聞かせて居るつもりは微塵も無く、そこには、太助の覚悟の様な確固たる想いが感じられた。だからこそ、オレも真正面から向き合わせて貰いたかった。太助の事だ。煮え切らないオレに業を煮やしたのかも知れない。だから、こうして覚悟を持ってオレに真正面からぶつかろうとしてくれて居る。そんな気がしてならなかった。本来ならば、オレが腹を括らなければならないのに、敢えて、太助はオレのために想いを、心の叫びを聞かせてくれて居るのだから。

「皆、俺の宝だ。何よりも大切な宝物なんだ」

「暑苦しいなぁ」

「ふふ、暑苦しいだろ?」

「おう。オレ達の事を、大切な宝物だなんて言う辺り、すげぇ暑苦しいし、へへっ、恥ずかしい奴だよな」

 太助はオレに向き直ると照れ臭そうに笑って見せた。その確かな恥じらいを孕んだ顔を見て、何だかオレまで照れ臭くなってきて、顔が熱くなった。まったく……こんな所で、オレ達は何て恥ずかしいやり取りを交わして居るのだろうか。意味が判らなくなった。でも、嬉しかった。そんな風にオレの事を想ってくれて居るなんて、物凄く誇らしい気持ちで一杯になった。うじうじ下らない事を考えて居る自分が情けなくなる程に。ここまできた以上、もはや後に退く意味など何処にもない。

「一蓮托生だ」

「い、いちれん……?」

「一蓮托生。まぁ、判り易く言えば、俺達は運命共同体と言う事だ」

「む、難しい四字熟語使ってるんじゃねぇよ。政治家のセンセーじゃねぇんだからさ、訳の判らねぇ表現で煙に巻くなっつーの。それこそ、言語道断、横断歩道、弱肉強食、焼肉定食、それから……」

「それから?」

「……ああ、そんなこたぁ、どうでも良いんだよ!」

 またしても妙な方向に脱線しそうになったが、無意味に逃げ回るのはお終いだ。太助の想いを知る事ができた以上、妙な気遣いは無礼にしかならないと判断した。だから、オレの物語に太助を巻き添えにさせて貰う事にした。悪いな。先に謝って置く。オレ達は運命共同体だ。生きるも、死ぬも一緒だ。それならば、盛大に大暴れするまでだ。

「なぁ、太助。可笑しな話するけどさ、最後まで聞いてくれるか?」

 太助はオレの目をジッと見つめたまま、力強く頷いて見せた。

「そっか。それじゃあ、長くなるかも知れねぇけど、オレの話、聞いてくれ」

 オレは今日あった出来事の一部始終を語って聞かせた。もっとも、絵描き小僧の事はオレの心の内だけに仕舞って置来たかった事もあり、敢えて触れはしなかったが、それ以外の出来事を、体験した出来事の一部始終を可能な限り事細かに語って聞かせた。

 伏見稲荷駅での目を疑う様な事故の体験から、花見小路で結花と出会った事。そこで太助とテルテル、二人を選ばされた事。もう、ここまで話をしてしまった以上、昨日の出来事もまとめて語って聞かせる事にした。

 三条の高須川でコタと結花、二人から一人を選ばされた事も、全部、全て、語って聞かせた。とは言え、太助の様に上手く話をできる程に器用でもない。結果的にまとまりのない、無駄に長いだけの話になってしまったのは否めない。正直、自分でも何を言って居るのか段々判らなくなり始めていた。オレは一体何を口走って居るのだろうか? 不安になりながらも、それでも止める事もできずに、捲し立てる様に一部始終を語って聞かせた。太助は目を伏せ、腕組みしたまま静かにオレの話に耳を傾けてくれていた。

「――ってな事があってな。正直、どうしたら良いのか判らなくなって、藁にも縋る想いでお前の手を借りに来た訳だ」

 オレの話を聞き終えた所で太助は険しい表情で溜め息を就いて見せた。

「嫌な予感はしていたが、現実は予想を遥かに超えたか。これ程までに深刻な状況に陥って居るとはな」

「だろう? オレなんかの手に負える様な話じゃなくてな」

「事態も深刻だが、話の内容もまた複雑だな」

 太助はオレを先導する様に歩き出した。歩きながら続きを話そうと考えて居るのだろう。だから、オレも太助に並んで歩き出した。

「正直、俺にもどうしたら良いのか、まるで見当が付かない」

「そう……だよな」

 思わず肩を落とし、消え入る様な声を出す事しかできなかった。当然の反応だろう。こんな意味不明な話を聞かされて、所詮、非力な学生に過ぎないオレ達に一体、何ができると言うのか? 幾ら太助でも、そうそう簡単に見切れる様な話ではないと言う事なのだろう。

「だが、勘違いするな」

「え?」

 予想もしない反応に、オレは思わず声を出していた。

「諦めた訳でも、見捨てた訳でもない。ただ、余りにも複雑過ぎて訳が判らなくてな」

 太助は険しい表情を浮かべたまま必死で考えを巡らせてくれて居る様に思えた。無論、オレもオレなりに必死に考えてみて居る。だが、何しろ意味が判らない事ばかりで、しかも、話の流れも酷く断片的だ。誰が、一体、何の目的を以って、オレに何を伝えようとして居るのか皆目見当も付かなかった。何故、結花がオレに『選択肢』を掲げたのか、絵描き小僧が行動を起こす目的は一体何なのか、さっぱり判らなかった。判る事と言えば、あの不気味な坊さんは敵であり、オレを狙って居ると言う事位だろうか。

「お手上げだな。俺如きの浅知恵では太刀打ちできる気がしない」

 太助は可笑しそうに笑って見せた。だが、笑いながらも獲物を射抜く様な鋭い眼差しをオレに向けて見せた。思わず怯むオレをジッと見つめたまま太助は続けて見せた。

「そう。俺の浅知恵では、太刀打ちできないのだろうな」

「ど、どう言う事だよ?」

 思わず声が裏返るオレを見つめたまま、太助は静かに腕を組みながら笑って見せた。

「言葉通りの意味だ。俺の浅知恵だけでは、到底太刀打ちできる様な話では無さそうだ」

 だが、言葉とは裏腹に、太助は強気な表情を崩す事はなかった。

「俺一人ではどうにもならないのは事実だ。だが、俺は諦めの悪い身でな。このまま、はい、そうですかと尻尾を巻いて逃げ出すのも性に合わない」

 言葉とは裏腹に妙に自信に満ちた振る舞いに、何だか、オレまで気持ちが昂って来た。体中が熱くなって、今ならば何でもできる。そう言う気持ちにさせられた。何の根拠はなかったが、それでも気持ちが大きくなっていたのは事実だった。

「無策と言うのも一つの策と考えれば、決して、絶望的な状況でもないだろう?」

 随分なご都合主義だ。病は気からと言う。それならば、逆の発想で挑んでみようと言う訳か。相変わらず、無茶苦茶な事を真顔でサラっと言って除ける辺り、やはり、太助らしい振る舞いだ。思わず「なるほど」と頷きそうになった所で、慌ててオレは頭を振った。

「いやいや、何の解決にもなってねぇだろ!?」

「それはそれで面白いだろう?」

「面白くねぇよ! オレは生命の危機と背中合わせなんだぜ!?」

「ほう? 中々に刺激的だ」

 オレの反応などお構いなしに飄々と振る舞い続ける太助に、もはや言葉を失う事しかできなかった。恐らくはオレが何を言った所で、するりと交わしてしまうだけだ。そう考えれば、これ以上、何かを言った所で徒労に終わるだけに違いない。イヤ、もしかすると、こんな風に振る舞って居るが何か良い策を講じてくれて居るに違いない。そんな微かな期待を胸に抱くオレを前に、太助は静かに立ち止まると振り返って見せた。

「他力本願なのは如何な物かと思うが?」

「えぇっ!?」

 何故、オレが考えて居る事が判ったのだろうか? イヤ、異常なまでに鋭い太助の事だ。オレの細かな仕草から読み取ったとしても不思議ではない。流石は太助。恐るべし。心の内まで見抜いてしまうとは、やはり、侮れない奴だ。迂闊に余計な事を考えるのは控えた方が無難と判断した。

「さて、そろそろ家に着く。腹が減っては戦はできぬだろう?」

 したり顔で含み笑いを浮かべられたのでは、もはや何も言い返せなくなる。もう、此処まできた以上、後戻りなんかできる訳もないし、後戻りをしようとも思えなかった。太助のふざけた振る舞いを目の当たりにして居る内に、もはや段々、無駄に悩む事が馬鹿らしく思えて来た。こうなったらあとは野となれ山となれだ。出た所勝負で当たって砕け散る。むしろ、そう言う振る舞いの方が、余程オレらしい。どうせ、ろくでもない知恵しか出せないできの悪い頭だ。それならば考えるよりも、行動に移して居る方が余程性に合って居る。それにしても……相変わらず、良い性格をして居る。

「ったく、お前、ぜってぇろくな死に方しねぇぜ」

「ほう? 悪党の最期と言うのは往々にして華々しい物だ。そんな幕の引き方も悪くない」

「口の減らねぇ奴だぜ。まっ、腹減っちまったのは事実だからな」

「婆ちゃんが何か作ってくれていれば良いが、何も無ければ俺が振舞おう」

「へぇー、太助が料理作ってくれるのか?」

「ふふ、力丸には到底叶わないが、料理は嫌いではないのでな」

「そりゃあ楽しみだぜ」

 精一杯オレを気遣ってくれる太助の気持ち、本当に嬉しかった。同時に、太助が一緒になって考えてくれた事で少しだけ判った事もある。何故、絵描き小僧が結花の事を知って居るのか疑問に思っていたが、もしも、絵描き小僧が結花に代わって、表に出て行動を起こして居ると考えれば、二人の関係は繋がる。もっとも、それは所詮、オレが勝手に考えただけの憶測に過ぎない。根拠など何処にもない。

(やっぱり、複雑過ぎてオレには良く判らないな)

「さて、もうじき家に着くな」

「おうよ。歩き回ったお陰で汗だくな上に、腹減っちまっていけねぇよな」

「空腹なのは俺も同じだ。先ずは腹ごしらえといこう」

 こうして太助の家に辿り着いたオレは、さっそく上がらせて貰った。どうやら、太助の婆ちゃんは既に眠って居るらしく、家の中は暗かった。オレ達は婆ちゃんの眠りを邪魔しない様に静かに部屋に上がった。

「居間で待って居てくれるか?」

「おう」

 太助の言葉に従い、オレは居間に腰を据えた。程なくして台所から太助が戻って来たが、何やら強張った笑みを浮かべて居る。一体何があったのかと問うてみれば、何の事はない。

 有難い事に炊飯釜一杯の白米に、大鍋一杯のカレーを作っていてくれたらしい。太助の婆ちゃんの勘の鋭さは太助以上なのを考えると、オレが遊びに来る事を予想していたとしても不思議ではない。太助曰く、太助が夕方出掛けた姿から、オレ達を連れて帰って来る事を予測したのだろうとの事。仮に、誰も遊びに来なかったとしても、土日の間に太助と賢一のアニキが美味しく頂く事は想定済みと言う訳か。さすがは太助の婆ちゃん。太助以上に抜け目がない。

 太助の婆ちゃんの作ってくれたカレーの誘惑に心惹かれるが、それ以上に汗を流したくて仕方がなかった。何しろ蒸し暑い中をひたすら歩き回った物だから、互いにすっかり汗だくだった。こんな汗臭い状態では落ち着いて話もできそうにない。美味そうな香りを放つカレーの誘惑に後ろ髪引かれる想いではあったが、そんな想いすらも打ち砕く程の惨状を考えれば、お預けは止むを得ない。何よりも、こんな状態でカレーを頂くなど、それこそ、太助の婆ちゃんへの冒涜以外の何物でもない。そんな訳で、オレ達はそのまま風呂場へと向かった。

◆◆◆63◆◆◆

 オレ達は勢い良く服を脱ぎ捨てると、そのまま浴室へと駆け込んだ。太助に好意で先に体を流させて貰った。続けて太助も手際良く汗を流し終えた所で、二人並んで浴槽に浸かっていた。とにかく汗でベタベタだったから、ようやく気持ち悪さから解放された感覚にしばし言葉も出て来なくなる。やはり、この季節は風呂がない所では生きられそうにない。そんな事をシミジミと実感しつつ、人が築き上げた文明の恩恵に深く、感謝していた。

「ふぅー、ようやくサッパリできたぜー」

 浴槽に浸かりながら湯を顔に掛けて見せれば、傍らで太助が可笑しそうに笑う。

「温泉を楽しむ野生動物の特集とか時々テレビでやって居るが、そういった情景を連想せずには居られない絵だな」

「わはは。野生的な男だってか? いいね、いいね。オレに取っては褒め言葉だぜ」

 豪快に笑い返しながら、ふと、過去にも同じ様な場面に遭遇した様な妙な既視感に包まれていた。

「……なるほど。これが俗に言うデジャブと言うヤツか」

「ふふ、一人で楽しそうだな」

「おうよ。何しろオレの隣に居るのは京都一の男前だからな」

 オレの言葉に太助が一瞬凍り付いた様な表情を浮かべて見せた。

「心にもない事を、意図も容易く口にされると反応に困るな」

 しばしの沈黙。だが、長くは持たない。二人で顔を見合わせたまま、どちらが先とも取れぬタイミングで吹き出した。そのまま風呂場が壊れるのではないかと思う位に笑った。

 本当に楽しい一時だった。やはり、気心の知れた仲間と共に過ごす一時は本当に楽しく思える。だからこそ、オレの大切な物を奪おうとする奴には情けも、容赦も無用だ。戦う力はないかも知れないけれど、気持ちだけでも強く持ちたかった。

「なぁ、太助。夕方、会った女の話なんだけどさ」

「ああ。件の事故の話か?」

 オレが静かに頷いて見せれば、太助は天井を見上げたまま険しい表情を浮かべて見せた。何も言葉にはしなかったが、続きを話してくれれば受け入れる。そんな想いを汲み取ったオレは、遠慮する事なく想いを語って聞かせた。

「アレは事故なんかじゃないんだ」

 そう口にしながらもオレの顔は、多分、これ以上ない位に強張っていたと思う。あの時の情景を思い出すだけでも背筋が凍り付きそうになる。同じ顔をした女が、もう一人の女を笑いながら線路に突き飛ばしたのだから。ゆっくりと体が宙に舞い上がり、線路へと転落してゆく。まるでスローモーションで再生したかの様にオレの目には異常なまでにゆっくりと映っていた。お陰で、見たくもない情景を克明に記憶に残す事になってしまった。オレにしてみればトラウマ以外の何物でもなかった。折角の食事前に思い出す様な情景ではない。それでも、脳裏に焼き付いて離れる事がなかった。

 太助には申し訳ないと思ったが、やはり、オレは弱い奴だ。弱いだけならまだしも、自らの救いの為に大切な仲間さえも平気で巻き込む迷惑で、身勝手な奴だ。太助にも嫌な想いをさせる事になってしまうかも知れない。でも、それでも、駄目だった。とても、一人では抱え切れそうになかった。思い出しただけで体中の震えが止まらなくなる。格好悪いのは承知だ。だけど、後から後から嫌な汗が溢れて止まらなかった。

 オレは伏見稲荷駅で体験した事の一部始終を、改めて、太助に語って聞かせた。先刻、一部始終を話した際に、確かに、事件の大まかな内容は語って聞かせた。だが、詳細な内容までは話さなかった。イヤ、話せなかったと言うのが正確な所だろう。

 思い出す事すら憚られる程の恐ろしい情景だったにも関わらず、何故かオレは自分でも驚くほど冷静に状況を語っていた。状況説明から時系列まで完璧過ぎる説明だった。これ程までに克明に話せる自分に驚かされる。太助はただ静かにオレの話に耳を傾けてくれていた。これで、絵描き小僧の事を除く、起きた出来事の全てを伝え切れたハズだ。

 オレの中では、あの事件も衝撃的だったが、それ以上に、まゆみが遺した言葉が頭に引っ掛かって消えなかった。可笑しな話だ。人が列車に轢かれる瞬間を目の当たりにしたと言うのに、それ以上に印象に残って居るのがまゆみが遺した言葉だとは……人の命以上に重みある物として心に残って居るのが不可思議に思えた。

 『肉も、魚も、野菜だってそう。皆、皆、人と言う生き物に殺されるために――』。それから、こう続けられた。『死ぬために生まれて来た命なの。料理の道を歩む貴方ならば知って居るハズ』。それから、あの時、まゆみはこう締め括ったのだから。『魚を上手に捌けるのでしょう? 同じ事じゃない? 人を捌くのと、何が、どう違うの?』

 まゆみが口にした言葉が妙に引っ掛かって仕方がなかった。オレを惑わせるために吐き捨てただけの台詞だったのかも知れない。だけど、オレの中では無性に気になって仕方がなかった。まゆみの言う通り、オレは料理の道を歩む身だ。普段、真面目に考えた事もなかったが、確かに、料理すると言う行為は他者の命があってこそ成立する物だ。

 魚を捌く時、オレは何の抵抗も無く魚を捌いて居る。親父に連れられて海に出向いた時には、それこそ、釣りたての魚を捌かせて貰った事もある。だけど、その時、オレは罪悪感など微塵も感じる事はなかった。やはり、見た目が魚だからこそだったのかも知れない。だけど……。

「鶏を捌けって言われたら、多分、ビビっちまって何にもできねぇと思うんだよな」

 太助はただ黙ってオレの話に耳を傾けていた。

「豚とか牛が相手だったら、オレ、多分、逃げ出すと思うんだよな。情けねぇ声上げてさ、一目散に逃げ出しちまうと思うんだよな」

 全く恐怖心を抱いた事がなかった訳ではなかった。これもまた、親父に教えられた事だった。それはオレが未だガキだった頃の記憶だ。親父はオレが未だ幼かった頃から、自分と同じ料理人の道を歩ませたいと願っていたらしく色々な食材に触れる機会を与えてくれた。農家の知り合いの家に連れて行って貰った時には、野菜を収穫すると言う体験をさせて貰った。漁師の知り合いに頼んで海釣りを見学させて貰った時には、無骨ながらも最高に美味い漁師料理を堪能させて貰った。牛の牧場に連れて行って貰った事もあった。てっきり、酪農を体験する物だと思っていたオレの前に出されたのは肉料理の数々だった。そう。料理とは、他者の命の犠牲があってこそ成立する物だと言う事を、親父は教えたかったのだろう。散々、牛と戯れた後に出された肉料理に喜んだオレに、親父は衝撃的な話を聞かせてくれた。お前が今、喜んで食って居る肉は、つい、さっきまで遊んでいた牛達の肉、その物なのだと。当然、オレは凄まじいショックを受けた。

 それから数年が経ち、さらに深い部分まで知りたくなったオレは自分なりに書物を読み漁って、肉が『加工』されるまでの一連の流れを知った。あの時、親父は一切の途中経過を省略して聞かせてくれた。多分、オレが心の底から驚く事は予想していたのだろう。心の準備はできていたつもりだったが、本気でショックを受けたのは事実だった。

「昔は料理も下手だったからな。包丁で手を切る事も少なくなかった。爪の先ほどのちっぽけな傷なのにさ、血は出るし、体中の毛穴が開く位に痛いんだよな。こんなちっぽけな傷なのに、悲鳴挙げる程痛いんだぜ? そう考えたら、心底恐ろしくなってな」

「確かに、料理の際の負傷は実に手痛い物だ。傷を作るのは一瞬だが、完治するまでには相当な時間を要する。俺も料理する身だから判る」

「ああ。そうなんだよな。だからこそ、本気で恐ろしくなったんだよな」

 うっかりよそ見していて電柱にぶつかっただけでも、目の前が真っ暗になる位に痛むと言うのを考えれば、あの女は列車に跳ね飛ばされた時、一体、どれだけの痛みを感じたのだろうか? イヤ、痛みを感じる間も無く死んだのだろうか? それでも、死ぬのは途方も無く苦しいだろう事など、容易に想像がつく。

「そんな道を歩んできたからさ、『養殖』って言葉が一時期、すげぇトラウマになっていたんだよな」

 小さく溜め息を就くオレを横目で見つめながら、太助が興味深そうに「それで、どの様なトラウマになったのだ?」と、消え入りそうな小声で問い掛けて見せる。だから、オレは想いを語り続けた。

「早い話、死ぬために生み出されて居る命って事だからな。人に置き替えて考えたら、心底恐ろしくなってな。動物園に飼われて居る猛獣達の食糧にするために、日々、人が作り出されて居るっつー様なモンだろ? もう、そう考えちまったら、怖くて、怖くて、震え上がる事しかできなかったな」

 我ながら無駄に想像力が豊かな物だと思う。一体、何をどう置き換えれば、そんな考えに至るのだろうか? 教えて欲しい位だった。だけど、太助は笑わなかった。多分、普通の奴らだったら、お前の考え過ぎだと馬鹿にされてお終いだったに違いない。だけど、太助は驚く程に真面目な顔で考え込んでいた。

「お前は笑わないんだな」

「笑う? 何故、笑う? とても、笑える話をして居る様には聞こえなかったが?」

 むしろ、お前こそ何を妙な事を言うか? 怪訝そうに眉をひそめる太助の反応が、何だか途方も無く嬉しかった。ああ、こいつはオレと同じ様に物事を受け止めるのか、と。やはり、オレが見込んだだけの事はある。お前は一人ではない。そう、自信を持って言って貰えた様に思えて、心強く思えた。何よりも嬉しかった。だから、オレは何もかもを曝け出して話そうと思った。

「バラバラに『精肉』されたオレの体が調理される。それを誰かが口に運ぶ。死にたくない。もっと、生きたかった……何度もそんな悪夢にうなされた。純粋だったんだろうな。ガキの頃のオレ」

 太助はただ静かにオレの話に耳を傾けてくれていた。こんな、くだらない話を真面目に聞いてくれるなんて、本当にありがたい事だ。

「命って何なのだろうか? 何度も、何度も、考えた。そればかり考えていた。でもさ、ある日、自分なりの答に行き着いたんだよな」

 ようやく戻って来たオレの笑顔に安堵したのか、太助はオレの目をジッと見据えたまま、静かに微笑んで見せた。

「リレーの様に受け継がれてゆくもの。必死の思いで絞り出した結論。そう受け止められる様になったから、少しは気持ち、落ち付いた」

 太助はオレの話を受けて、何か思う所があったのか、浴槽の天井を見上げたまま静かに口を開き始めた。

「受け継がれる命の循環。生きるためには何かを犠牲にする必要がある。数え切れない程の命が失われた上に俺達の命が図々しくあぐらをかいて居る。だが、その一方で命を無碍にする者達も少なくない。大量に作られた食料が容易く廃棄される。好んで命を奪う者もいれば、自らの命を投げ捨てる者も居る。ただ、そうした社会の裏事情は夜半の闇に隠れて見えないだけだ。イヤ――敢えて、見ない様にして居るだけなのかも知れないな」

 太助の言う通りだ。人は傲慢な生き物だ。死ぬためだけに生まれて来る事を余儀なくされた命を作り出す一方で、何の迷いも無く命を棄てる事ができる。他者を殺める事に呵責を持たない者もいれば、数多の命の上でようやく成り立って居る命を容易く投げ棄てる者も居る。人は生きて居るのではない。人は数多の命に生かされて居ると言うのに、その事実さえも忘れ去り、さも、おのれの腕一本で生きて来たかの様に振舞える。人は随分と思い上った、酷く傲慢な生き物らしい。不意に醍醐の駅に降り立った際に目にした夜半の街並みの情景が脳裏を過った。

「ああ、その通りだ。人の心は闇に満ち満ちて居る。だからこそ、人は夜と共に寄り添う道を追い求める。自分の闇に目を向けるのが怖いから。そうやって目を背けて、常に誰かのせいにしようと画策を続ける。これは俺が悪いのではない。時代が悪い。社会が悪い。文明が悪い。そうやって、身勝手な理論を並べて誰かに押し付ける。後は簡単な話だ。押し付けた誰かに悪者のレッテルを張って、皆で袋叩きにすれば良い。犠牲になるのは押し付けられた誰かだけだ。僅かな犠牲のお陰で大勢が救われる。犠牲になった者も本望だろう。そうやって、自らの正義を正当化する。犠牲になった誰かは殉職者だ。何時の間にか、やたらと小奇麗な物語となって完結させられて居る。まぁ、押し付けて居る者達は、次は自分の番かも知れない――とは微塵も考えやしないのだろう。実にお目出度い話だ」

 ここまで一気に言い切った所で、太助は不敵な笑みを浮かべたままオレの顔を覗き込んで見せた。一体、何を言い出すのだろうか? 思わず身構えるオレに目一杯顔を近付けながら、敢えて、囁く様な声で問い掛けて見せた。

「犠牲になるのは不幸な誰か一人で済む。そうする事で多くの者達が救われる。楽になりたいとは思わないか? 誰かに背負わせて救われれば良い。どうせ、犠牲になるのは見知らぬ誰かだ。そうは思わないか?」

 不意討ちか? 結花の事を示唆して居るのかと思って、思わず息を呑んだが、そんな訳はない。未だ太助には結花の事は何も話していない。そうでなければオレの心の内を垣間見ない限り知り得ない情報だ。偶然だろう。そう自分に言い聞かせて落ち着きを取り戻そうと試みた。

 それにしても、嫌な問い掛けをしてくれる物だ。それも皮肉な問い掛け方だ。敢えて『選択肢』としての形で提示してみせるとは、相変わらず抜け目のない奴だ。だが、ここで尻尾を撒いて逃げ出すのも面白くない。だから、オレは太助の目を見つめたまま返してやった。

「重たい『選択肢』だな。自ら背負うか、誰かに背負わせるか、か」

 そう、口にした所でオレはしばし考えてみた。やはり、オレの脳裏に浮かんできたのは結花の顔だけだった。皮肉な話だ。だが、オレが同じ立場に在ってもお前と同じ道を選んだハズだ。

「……オレは誰かに背負わせる位なら自分で背負いてぇな」

 目一杯力を込めて返してやった。だが、太助はオレを見つめたまま可笑しそうに笑って見せた。

「判り易い返答だ。だが――それは本当に力丸の本心なのか?」

「なんだと?」

 思わず立ち上がってしまうオレを見上げたまま、太助は不敵な笑みを浮かべて見せた。

「自らが背負うと表向きは言いながらも、実際は誰かに背負わせて居る。違うか?」

「そ、それは……」

 そうなのかも知れない……認めたくなかったが、それがオレの真実なのかも知れない。イヤ、真実だ。否定できない事実だ。結局、上手い具合に言葉遊びを繰り返して、自分を騙し、相手を騙し、逃げて、逃げて、逃げ続けて来たツケが、ようやく、今になって回って来たのかも知れない。因果応報――巧妙に欺いたつもりだったが、実際は誰も欺けて居なかったと言う些末な結末を叩き付けられる格好に終わっただけか。何て間抜けな話だ。

「――お前、嫌な奴だな」

 再び浴槽に身を鎮めたオレは笑いながら太助を睨み付けた。

「ふふ、褒め言葉だ」

 太助は微塵も怯んだ様子も無く、ただ可笑しそうに笑っていた。俺の勝利だ。そう言わんばかりの勝ち誇った笑みが無性に悔しかったが、やはり、知恵比べでは太助には勝ち目は無さそうだ。もっとも、男前さでもお前には到底勝ち目は無さそうだが。まったく……どこまでも嫌な奴だ。

「しかし、力丸とこう言う話を真面目にしたのは初めてかも知れないな」

「言われてみればそうだよな。へへっ、でもさ、何か面白いよな。こう言うの」

「ああ。面白いな。俺の価値観と、力丸の価値観では、当然、全く別の物になる」

「そうだよな。互いの価値観を台の上に並べて披露し合う。そう言うのってさ、何か楽しいよな」

「多分、そこに『生』を実感して居るからだろう。生きて居る。ああ、今、俺は生きて居る。そう実感できるからこそ楽しいのだろうな。それは――」

 言い掛けて太助は言葉に詰まった。オレの表情を窺いながら、明らかに動揺して居る様に見えた。多分、可笑しな言葉を選んでオレを傷付けないかを心配して居るのだろう。「ヘンな気遣いは要らねぇって。オレと太助の仲だろ?」。そう、笑い掛けてやれば太助も納得したのか、そのまま言い切って見せた。

「それは、命ある事を実感できるからに他ならない」

「ああ。そうだよな。死んじまったら、こんな感じで議論する事もできなくなっちまう。だからさ、オレ、生きたいんだ。生きて、生きて、ジジィになるまで生きてさ、色んな事知りたいんだ。それから、色んな奴らに会いたいし、色んな場所にも行きたい。もちろん、お前と一緒にだぜ?」

「ああ、一緒に行こう」

 議論に熱が入り過ぎたのか、ついでに、少々上せ気味になって来た。

「うーん、なんつーか、段々と視界が揺らいできた気がするんだけどよ」

「ふむ。少々議論が白熱し過ぎた様子だな」

「おう。世界が回って見えるんだよな」

「奇遇だな。俺も同じ状況だ」

 二人顔を見合わせ、思わず力強く頷いた。

「そろそろ上がろうぜ」

「ふむ。それが良さそうだ」

 続きは風呂から上がり、夕飯を済ませてからにするとしよう。腹が減っては戦はできない。この続きは太助の部屋に会場を移してからにしようぜ。オレの言葉に太助が頷く。すっかり温まり過ぎてしまった。これでは、再び汗が吹き出してしまいそうだったが、それはそれで悪くない。また汗ばんだら風呂に入れば良い。生きて居るからこそ、自由気ままに生きられる。限りはあるとは言えども、時間は十二分に与えられて居るハズだ。焦る必要など何もない。無駄に焦って、道を踏み外した日には、余計に遠回りする羽目になる。卑怯な手を使っても駄目だ。真正面から正々堂々と挑まなければならない。そう自分に言い聞かせながらオレ達は風呂場を後にした。

◆◆◆64◆◆◆

 せっかく清々しい気持ちで一杯になったのに、禍々しい汗臭さを放つタンクトップを再び着るのは忍びない物があったので、太助に断りを入れて、そのまま洗濯機に葬り去らせて貰った。太助の家には頻繁に遊びに来るから、次回遊びに来た時にでも回収するとしよう。

「へへっ、備えあれば憂いなしって言うもんな」

「随分と準備の良い事だな」

「まぁ、オレだけじゃねぇもんな」

「皆、俺の家を秘密基地か何かだとでも思っていないか?」

「そんな事……多少は思って居るかも知れねぇな。わはは」

 そんな訳で、前に遊びに来た時に置き去りにしたタンクトップに着替え、少々遅めの夕食となった。やはり、太助の婆ちゃんは料理上手だ。着飾る事のない味わいが実に絶品だ。ついつい、大量に食べ過ぎてしまうが、それもまた一興。腹が減っては戦はできないと言うが、腹が満たされ過ぎても戦にはならなそうだ。少々食べ過ぎた気がする。まぁ、それもまた一興と言える。

 夕食を終え、議論の舞台を太助の部屋へと移した。時折、窓から吹き抜ける風は涼やかで心地良く思える。窓の向こうにひっそりと佇む醍醐寺の光景を楽しみながらの夕涼みと言うのも、実に贅沢な話だ。オレの家も上賀茂神社のすぐ傍にあると言う恵まれた立地条件にあるが、醍醐寺のすぐ傍と言うのも風情があって悪くない。他人の物は良く見えると聞くが、本当にそうだと思う。傍から見れば、上賀茂神社を見渡せる場所に構えるオレの家も羨ましく見えるに違いない。

 夜の醍醐寺は静まり返っていて、時折風が吹き抜ける度に境内の木々達が緩やかに揺れて居る。ザワザワと川が流れゆく様な音色を奏でてゆく様が殊更に心地良く感じられた。通り沿いに、配置された街灯が道路を柔らかく照らし出す。月明りに照らし出された醍醐寺は落ち着いた雰囲気に包まれていて、心が落ち着く感覚を覚えた。実に心地良い光景だ。醍醐の街並みの静けさと相まって、実に風情ある景色を紡ぎ出して居る様に感じられた。

 それにしても、太助は何をするにしても恐ろしく手際が良い。何時の間に敷いたのか、オレの布団まで敷いてくれて居るとは、その華麗過ぎる動きに恐れ入る。旅館で仕事をしたならば間違いなく凄腕の仲居となるだろう。しかも男前とくれば、間違いなく女性客達の心は鷲掴みだ。やはり、太助恐るべし。その微かな憂いを孕んだ横顔で何人の女達の心を奪って来た? もっとも、心を奪った所で「俺は女に興味はない」の一言でバッサリ一刀両断する辺り、ますます罪な男だ。ううむ、男前な奴は羨ましい。オレも、もう少し男前だったら違う人生を歩めたかも知れない。一人、あらぬ事を考えながら思わず唸ってしまった。

「窓を開けて置けば風も入って来るだろう」

 その涼やかな横顔でオレの心まで奪わんとするとは、何処までも抜け目ない奴だ。小さく溜め息を就きながら静かに首を横に振った。このまま負けを認めるのも癪に障る。目一杯の抵抗だ。

「そうだな。自然の風がやっぱり、心地良いよな」

 それにしても、短い時間の間に色々な事が起こり過ぎたからこそ、こうして隣に誰かが居てくれるのは本当に安心できる。オレ一人だったら、到底受け止め切れなかった。

「右へ進もうか、左へ進もうか――」

「へ?」

「今の力丸の置かれて居る状況だ。どちらに進もうか迷って居る。どちらに進むか、自分の中で『選択肢』に対する答えは出て居る。だけど、本当にその『選択肢』で良いのか迷って居る」

 布団に寝転がったまま、太助は可笑しそうに笑い掛けて見せた。何を言わんとして居るのか克明に判ってしまうからこそ、余計に返答に窮する。思わず唸るオレを後目に太助は笑いながら続けて見せる。

「自我を押し殺し光の当たる道を進むか、自我を貫き暗闇に包まれた道を進むか、さて、どうした物かと迷って居る」

「……お前、嫌な奴だな」

「ふふ、褒め言葉だ」

「かーっ! お前、ホント、嫌な野郎だぜ!」

「重ね重ねの褒め言葉、光栄の極みだ」

 相変わらず嫌味な奴だ。相手が劣勢になればなるほどに、水を得た魚の様に強気になる。太助に取っては、相手が自分に屈し、敗北を帰する瞬間のどうしようもない程に悔しい表情を見届けるのが至高の幸せなのだろう。オレの考えを、恐ろしいまでに的確に捉えて居るからこそ、余計に悔しくなる。もっとも、これは勝負事ではない。むしろ、自分では目を背けてしまう事実を、突き付けてくれるのは有り難い事なのかも知れない。素直に受け入れてみるとしよう。オレもまた思い上った傲慢な人の一人だ。謙虚さを身に着けなければ道は切り拓かれない。傲慢な奴に救いの手を差し伸べる様な物好きな奴は居ないが、謙虚に生きて居る奴に救いの手を差し伸べる奴は必ず居るハズだ。それならば、オレが選ぶべき道は一つだ。

「――そうかも知れねぇな。結局、オレ自身はどうしてぇんだっつー話なんだよな」

「何だ? 答、出て居るではないか?」

「ああ、答は出て居るんだ。ただ……」

「ただ、不安なだけなのだろう? 誰かに『これで良いんだ』と言って背中を後押しされたい」

「そうだな。そんでもって、何かあったら、そいつのせいにしたいんだろうな。オレ、弱いよな」

 その部分に関しては触れられたくなかった。オレの中だけの秘め事にして置来たかった。だけど、太助の前ではそんな抗いは何の意味も為さないようだ。どんなに上手く隠そうとしても、オレなんかでは太助には到底叶わない。ああ、そうさ。オレはコタの事を想って居る。その一方で結花への想いもまた、同じ位に強い。だからこそ自分の進むべき道に悩む。結花がもう一度、オレの下に帰って来てくれれば誰も傷付く事のない結末を迎える事ができるだろう。だけど、それは自然の摂理を捻じ曲げでもしない限り、絶対に成立する事のない絵空事の物語に過ぎない。それに――判って居る。コタはオレの事を仲の良いトモダチとしてしか見ていない事も。オレには判る。野生の勘がオレに告げてくれる。コタの心に居るのはオレではない事を……。

 ああ、そうさ。結花が戻ってくれば、万事が解決する。誰も不幸にならない結末を迎えられると言うのに……。溜め息混じりに俯けば、何時の間にオレの隣に移動して来たのか、太助がオレの肩を叩いて見せる。

「なら、俺が背中を押してやろう。俺と共に歩む道――どうだろうか?」

 相変わらず嫌な奴だ。真面目な話を振って置きながら唐突に変化球を混ぜて来る。予想もしない所からの不意打ちを喰らわされれば殊更に驚かされる。

「はぁ!? 何で、そこでお前が飛び入り参加して来るんだっつーの。意味判んねぇから」

「俺は力丸の事、嫌いではないのだがな?」

 太助の場合、何処までが本気で、何処までが冗談なのか、全く読めないだけに判断に困る。それにしても、もしも、これが冗談では無く、本気なのだとしたら? 余りにも意外過ぎる『選択肢』だ。だが、もしも、その先にオレの歩むべき道が築かれると言うのであれば、それも悪くないのかも知れない。振り向く事のないコタを追い求めても誰も得をしないのならば、共に歩んでくれる太助と共に歩むと言うのも一つの道なのかも知れない。オレは溜め息交じりに笑い返してやった。

「……『選択肢』の一つに入れてやっても良いぜ?」

「真に受けるぞ?」

 不意に、太助が真顔を見せる。だから、オレも真顔で返してやった。

「冗談じゃねぇっつーなら、オレも真面目に考えてやるよ」

 予想もしない返答だったのだろうか? 太助はどこか寂しげな表情を称えたまま、小さく吐息を就いて見せた。窓からそっと風が吹き抜ければ、風鈴が涼やかな音色を奏でる。透き通った音色が部屋に染み入ってゆく。太助はそのまま立ち上がると、そっと、窓に掛けられたすだれ越しに夜空を見上げて見せた。オレも太助の隣に並ぶと、真似をして夜空を見上げてみた。月の綺麗な晩だ。雲一つない空には仄白い色合いを称えた月が瞬いて見えた。広い夜空にぽつんと一人、置き去りにされた様に佇む姿が、どこか物悲しく思えた。独りぼっちは寂しかろうに。今のオレと同じだ。誰かが傍に居て欲しい。誰かの温もりが欲しい。そう願ってしまう事は、悪い事なのだろうか? 何が正しくて、何が間違えて居るのか判らなくなる。思わず小さく吐息が漏れる。

「気休めでも嬉しい物だ」

「何だよ、それ。オレの事、からかって居るのかー? ひでぇ奴だなぁ」

 きっと、太助の事だ。また妙な振舞いをして見せて、オレが動揺する姿を見て喜んで居るに違いない。だけど、そうそう何度も同じ手は通用しない。

「からかってなど居ないさ。ただ、改めて実感させられただけの事だ」

「実感させられたって、何をだよ?」

 笑いながら問い掛けて見せれば、挑発する様な目でオレを見据えて見せた。何かを企てて居る。そんな確固たる自信に満ちあふれた含み笑いに、オレは身構えずには居られなかった。気分は蛇に睨まれた蛙だ。強烈な一手を繰り出す。だから、精々身構えて置け。そんな、妙な前置きをされた様な気がして、余計に動揺させられた。

「俺では結花には到底、勝ち目はないと言う事をな。無論、小太郎にも勝ち目はない。その事実を実感させられたと言って居る」

 言い返す言葉を失った。そうか。ロック達から色々と聞き出したのだろう。俯くオレに向かい合ったまま、太助は申し訳なさそうに頭を下げて見せた。

「済まないな。だが、大地を、輝を責めないでくれ」

 なるほど。三人で出掛けた以上、オレの話を共有していたのだろうと想像していたが、予想通りだったと言う事か。もっとも、ロックを、テルテルを、責めるつもりなど毛頭なかった。結局、オレ一人ではどうにもならなくなるのは時間の問題だった。その時期が少しだけ早まっただけに過ぎない。

「お節介とは知りながらも、苦しんで居る友を目の前にして、何もせずには居られなくてな」

「太助……」

「判って居る。俺では結花の代わりにはなれないし、小太郎の代わりにもなれない。それでも、何かさせて貰いたくてな」

 普段、目にする事のない姿だった。今にも消え入りそうな小声で、囁く様に語る太助の姿に、確かな違和感を覚えていた。戸惑うオレを余所に、太助は続けて見せた。

「誰かの身代わりになりたいと願う等、ただの傲慢であり、自己満足であり、上から目線の思い上った偽善に過ぎないかも知れない。だけど、俺は力丸の事が好きだから」

 普段の太助とは全く異なる印象を受ける振舞いだった。そこには冷静さを見失い、どうしようもない位に焦りながらも、何とかオレのためにできる事を模索してくれようとする、太助の必死な想いが佇んで居る様に思えた。嬉しかった。オレの事を全力で支えてくれようとする太助の熱い想いが、ただただ嬉しかった。

「太助、ありがとうな。いきなり、無理言って押し掛けて来ちまったけどさ、でも、来て良かった。その言葉聞けただけでも、すげぇ救われた気がする。ああ、オレ、一人じゃないんだなって実感できた。本当に心強く思える」

 オレの言葉を受けて、太助は照れ臭そうに笑って見せた。笑いながらも、やはり、そこは太助なのだろう。感情だけに流されてしまうオレとは違い、事態を解決するために必要な手段を、虎視眈々と考えてくれて居る様に感じられた。

「不思議な物で、会えなくなってから、伝え切れなかった想いに気付く」

 唐突に何の話をし始めたのだろうか? 動揺を隠し切れないオレをジッと見据えたまま、静かに窓の外に目線を投げ掛けて見せた。夜空に高く瞬く月と重なり合う様な、言葉にできない寂しさが伝わって来る様に思えて、太助の気持ちと重なりたくてオレも窓の外に目線を投げ掛けて見せた。

 太助は窓の外に目線を投げ掛けたまま、オレに昔話を聞かせてくれた。自分の過去を語ろうともしなければ、触れられる事さえも拒んでいた太助が語って聞かせてくれた昔話は、太助の祖父に纏わる話だった。

 そういえば、ずっと、気になっていた事がある。何故、太助は祖父母に育てられたのだろうか? 気になっていたが、人には人の事情がある物だ。部外者のオレが興味本位で首を突っ込む様な話ではない事位、幾ら頭の悪いオレでも判る。だから、その事には触れない様にしていた。

 そんな太助の祖父も、太助が高校生になった年にこの世を去ったと聞かされた。奇しくも、コタと知り合ったのは、それから程なくしての事だったらしい。

「本当に皮肉な物だと思う。どうして、生きて居る間に想いを伝えなかったのだろうかと、今更になって後悔する」

 小さく溜め息を就きながら太助は続けて見せた。

「怖かったのかも知れないな。伝えたい想い、口に出してしまったら、もう後戻りできなくなってしまいそうで。そのまま、本当に爺ちゃんが、俺の前から居なくなってしまう。そんな気がしてならなかった。でも、結局、本当の想いを伝えられないまま、今生の別れを迎えてしまった」

 寂しそうに笑いながら太助は消え入りそうな声で締め括って見せた。

「後悔先に立たずってな?」

 ロックも同じ事を言っていた。生きて居るうちに、どうして想いを伝えられなかったのだろうか。会えなくなってから後悔したと言っていた。皆、同じなのだろうか? また明日会えるだろうし、その時に伝えれば良い。そう思っていたら、ある日突然、明日へと続く道がぷつりと途絶えてしまった。イヤ、結花の場合は意図的に道を崩落させられた。だから、それきり、道が終わってしまった。結花自身の意志では無く、心ない他者の手で強引に終わらされてしまった。

「上辺だけの言葉に聞こえてしまうかも知れないが、俺でも、少し位は力丸の気持ちを理解も、共感もできるかも知れない。そう思ってな」

「……そうだな。オレが弱いから、何時までも未練を棄てる事ができないのだろうか? そう、本気で悩む事も少なくなかった」

 俯くオレを見つめたまま、太助は静かに首を横に振って見せた。

「そう言う弱さは嫌いではない」

「え?」

「人が人である事を教えてくれる痛み。その痛みを忘れた時、人は人である事を見失い、鬼に成り果ててしまう。そんな気がしてな」

「……それは嫌だな」

 何だか可笑しくなって笑った。表情が強張って、上手く笑えなくて、まるで泣きべそみたいな顔を見せていたに違いない。何て格好悪いのだろう。だけど、太助はどこか嬉しそうに振舞って居る様に見えた。意味も無く楽しそうに振舞う太助の姿を見ていたら、弱い自分も悪くない様に思えた。

「なぁ、オレさ、弱くても良いのかな?」

「可笑しな事を問うてくれるものだな」

 太助はオレの顔を覗き込んだまま続けて見せた。

「もしも、一人で何でもできてしまう様になってしまったら、俺は何もしてやれる事が無くなってしまう。そんな、人としての温か味の欠片もない、完成され尽くした力丸が相手では、一緒に歩みたいとは思え無くなるだろうな」

「ああ、確かにそうだよな。太助は悔しくなる位に男前だけどさ、中身は結構ヘンな奴だったりするもんな。そう言う一面見るとさ、なんか、安心できるんだよな」

 茶化す様に笑い掛けて見せれば、「無礼な事を言ってくれる」と、太助もまた可笑しそうに笑って見せた。少し笑ったところで、太助は不意に真顔に戻って見せた。

「他者と関わり合う事を拒み、力丸と共にある事だけを願い続けた」

 さらりと口にして見せた言葉にオレは、頭から氷水を浴びせられた様な衝撃を覚えた。動揺の余り凍り付くオレを後目に太助は、さも、何事もなかったかの様に続けて見せる。

「隠し通そうとする物を無理に暴き出した結果は、往々にしてろくでもない結果に終わる。それならば、無理に暴き出そうとは思わないさ」

 誰の事を示唆して居るかを明言しなかったが、間違いなく結花の事を示唆して居る。そうとしか思えなかった。それにしても奇異な話だ。オレは結花の事をロックにさえも話した事がないと言うのに、一体、何処から手にした情報なのだろうか? イヤ、これは無意味な詮索に過ぎない。太助の鋭さは今に始まった物ではない。それに、オレは何をするにしても馬鹿正直に想って居る事が全て顔に出てしまう性質らしいのを考えれば、案外、自ら手の内を明かして居るのかも知れない。

「さて、謎解きの続きは朝日が昇ったらにしようか」

 すっかり太助のペースに呑まれていた。一方的に仕掛けられて、ただ動揺させられて居る内に話は勝手に切り上げられ、打ち切られようとして居る。押したり引いたり、緩急を巧みに使い分けながら相手を翻弄する。太助らしいと言えば、太助らしい振舞いだ。やはり、その器用な振舞いには勝てる気がしない。

「大きな川の流れが好きでな」

「確かに、太助は水のある場所、好きだよな」

 オレの言葉に頷きながら、太助は上機嫌そうに大袈裟な身振り、手振りを織り交ぜながら続けて見せた。

「絶えず留まる事なく流れ続ける光景に、希望を見出して居るのかも知れない。今日が哀しくても、明日は良い事があるかも知れない。明日が駄目でも明後日は良い事があるに違いない。そんな気持ちになれる」

「なんつー強引な理論だ。凄まじいご都合主義だな」

 茶化して見せても、太助は上機嫌そうな振舞いを崩さない。

「力丸、明日、共に宇治に行かないか? ここから宇治まではそう遠くない。途中下車しながらの、宛てのない旅だ。悪くないだろう?」

「なーんて聞き方して居るが、その『選択肢』には拒否権はないんだろ?」

 笑いながら問い掛ければ、「さて、どうだろうな?」と、太助は腕組みしたまま不敵に笑うばかりだった。相変わらず、腹の中では何を考えて居るのか見えない奴だ。

「明日は宇治へと大冒険に挑む訳だし、そろそろ寝ようぜ?」

「そうだな」

 太助はどこか寂しげな表情を称えたまま、小さく吐息を就いて見せた。窓からそっと風が吹き抜ければ、風鈴が涼やかな音色を奏でて見せた。太助はそのまま、そっと、窓に掛けられたすだれ越しに夜空を見上げて見せた。オレも真似をして見上げてみた。月の綺麗な晩だった。雲一つない空には仄白い色合いを称えた月が瞬いて見えた。広い夜空にぽつんと一人、置き去りにされた様に佇む姿が、どこか物悲しく思えた。

「力丸」

「ん? なんだ?」

「明かり……消しても良いか?」

 妙に力のない太助の言葉が気に掛った。太助は俯き、オレに背を向けたままだった。無口な背中が月明かりに照らし出されて寂しそうに思えた。だからオレは太助に「ああ、頼む」と告げた。「では、消すぞ」と今にも消え入りそうな声で応える太助の姿に、動揺する事しかできなかった。

 不思議な気分だった。明かりの消えた部屋の中は暗く、太助の姿も影の様にしか見えなかった。オレに背を向けて腰掛けて居る太助の後姿は、月明かりに照らし出されて妙に艶めかしくて、思わず息を呑んだ。確かに、太助は羨ましい程に男前ではあるが、こんな妖艶な姿の太助は初めて目にした。仲の良いトモダチが見せた意外過ぎる姿に、オレは動揺を隠し切れなかった。

 そこまで考えて、オレは思わず息を呑んだ。そうか……先刻の太助の問い掛け、些細な冗談だとばかり思い込んでいたが、あれもまた、一つの『選択肢』だったのかも知れない。「真に受けるぞ?」と太助が掲げた『選択肢』に対して、オレは迂闊にも「冗談じゃねぇっつーなら、オレも真面目に考えてやるよ」などと返してしまった。事の詰まり、冗談ではなかったと言う事に成る。まさか、太助にそんな風に思われて居るとは予想もしなかった。厄介な事になった。優柔不断な自分が嫌で、思い切った振舞いを取ってみれば、それはそれで仇となる。結局、オレはどうすれば救われるのだろうか。自分でも段々と判らなくなっていた。

 そういえば、今になって不思議に思う事がある。何故、あの場面で太助とテルテル、二人が登場したのだろうか? コタやロックが登場しなかったのは何か理由があるのだろうか? それとも、二者択一で考えた時にオレに取って太助とテルテルが、何か、運命の分かれ道にでもなるのだろうか? もっとも、今、まさに運命の分かれ道に直面して居るのは事実だが。

「――まだ寝ないのか?」

「そう言うお前こそ」

「ふふ。隣に仲間が居ると、ついつい話し込みたくなってしまう物だな」

「へへっ、その気持ち、判るなぁ。オレも同じ気分だからさ」

 太助は静かに天井を見つめていた。暗さに目が慣れて来たのか、穏やかな笑みを称えたまま、時折、瞬きする太助の表情さえもが鮮明に判る様になった。月明かりと言う物は意外と明るい物らしい。普段、意識しないから気付かないだけなのだろう。

「捨てられる物ならば過去を切り捨てたい。そう願った事が何度あった事か」

 太助は頭の後ろで腕を組んだまま、静かに語り始めた。まるで見知らぬ誰かの物語を朗読する様な口調だった。オレは太助の方に身を向けながら静かに耳を傾けた。

「普段、皆に俺の昔話をしない理由、そこにある。それに、もう気付いて居るのだろう?」

「気付く? 何にだ?」

「俺が演じて居る事だ。本当の俺とは違う、こうありたいと願う俺自身。そんな姿を演じて居るだけだ。皆が目にして居る俺は、本当の俺では無く、作り物の俺に過ぎない」

 自嘲的な笑みを浮かべる太助に、オレは笑いながらこう答えてやった。

「結局、誰だって皆、多かれ少なかれ、自分を偽って生きて居るんじゃねぇかな? オレだって、多分、本当の自分が嫌だから、格好付けて振舞って居るからな」

「なるほどな」

 太助は天井を見上げたまま、しばし、何かを思案して居る様子だった。さて、今度は一体、どんな言動でオレの度肝を抜いてくれるのだろうか? 余りにも真剣な表情に、不謹慎ながら、好奇心を掻き立てられずには居られなかった。

「皆は俺を器用だと思って居るかも知れないが、実際はそうではない」

「そうかぁ? オレはそんな事ねぇって思うけどな」

「ふふ、そう思って貰えるなら、それはそれで光栄だな」

 やはり、妙に自嘲的な振舞いを見せるばかりだった。オレからしてみれば、太助は器用に何でもこなすし、振舞いの一つ一つが悔しい位に格好良く決まる、凄い奴だと思って居る。だけど、それはあくまでも他人の目から見た太助の姿であって、太助自身が必ずしも同じ様に思って居るとは限らない。その事実はオレ自身が体験して来た事だけに良く判る。太助の気持ちに共感を覚えたのは事実だった。

「案外、似て居るのかもな。オレと太助って。まぁ、オレは太助みたいに男前じゃねぇけどな」

「実は意外に、寂しがり屋と言う部分も似て居るとでも言うのか?」

 太助は可笑しそうに笑って見せた。青白い月明かりに照らし出された太助の笑顔、どこか壊れ物の様に儚い笑顔に感じられた。楽しげに振舞って居るのに、言葉にできない寂しさが同居して居る。そんな感覚を抱かずに居られない、寂しげな笑顔だった。

「……似て居るんだろうな。オレ達」

「そうかもな」

「誰かを愛さずには居られない力丸が居る」

 天井を見上げたまま独り言の様に呟く。まったく……何て恥ずかしい表現を使ってくれるのか。オレは顔が熱くなる感覚を覚えた。だけど、太助の言う通りなのかも知れない。イヤ、そうだと認めたくないオレが居る。でも、実際のところ、太助の言う通りだ。

「誰かの愛情無しには生きられない俺が居る」

 全く予想もしない言葉だった。驚いたオレは思わず飛び起きていた。太助はそんなオレの振る舞いには動じる事なく天井をジッと見つめて居た。

 オレからしてみれば、太助は大人びていて、一人でも色々な事をそつなくこなせる器用な奴だと思い込んでいた。でも、あくまでも思い込んでいただけだ。それが事実かどうかなんて、オレには判る訳がない。そうなれば、太助の言葉は偽りではないと考えるのが正しい様に思える。

 静かに考えながらオレは考えを巡らせていた。冗談めいた口調で語っていたけれど、太助は本当にオレの事を想ってくれて居るのだろうか? 誰かに嫌われるのは哀しい事だが、誰かに好かれるのは嬉しいものだ。

 理屈ではない。頭で考えても出せない答は確かにある。多分、太助が口にして居る様な問答が、そうした物なのだと思う。それが正しいか、間違って居るか、そんな事はオレに取っては些細な事に過ぎなかった。ただ、壊れそうな程に弱々しい姿を見せてくれた太助の想いに、オレはどう接すれば良いのか判らなかった。理屈じゃない。感覚で捉えるのだ。だとすれば、オレに思い浮かぶ事はこんな事しかなかった。オレは太助を窓側に向かせると、後ろから力一杯抱き締めた。

「……同情か?」

「そうかもな。でも、それでも満たされるから不思議だな」

 オレの腕の中で太助が可笑しそうに笑った。だから、オレは笑いながら返した。

「やっぱり、お前は嫌な奴だな」

 普通のトモダチならば、こんな慰め方をする事は有り得ない。だけど、悪い気はしなかった。どんなに強がった所で、結花を失ってからオレは、ずっと、ずっと、寂しかった。確かに、皆、良い連中だけど、それだけでは満たされ切らない想いだってある。人肌が恋しくなる時だってある。ロックとの一件で、オレは肌を重ね合わす事で満たされる想いがある事を知ってしまった。多分、太助も同じなのだろう。誰と……なんて、下らない詮索をするつもりはなかった。太助は何も答えなかった。ただ、可笑しそうに声を押し殺した様に笑うばかりだった。

「このまま寝ようぜ。へへっ、暑苦しいだろー?」

「明日の朝には二人とも汗だくになって居る事だろう。だけど――」

 太助は声を押し殺す様に笑うと「生きて居ると実感できて悪くないかも知れないな」と、妙に熱っぽい吐息混じりに囁く様に言って見せた。

 時だけがゆっくりと流れていた。すだれ越しに流れ込んで来る風は木々の香りを称えていて心地良かった。ここに居るのは行き先さえも見失ってしまった憐れな迷い子が二匹。互いに暖を取り合う事で、辛うじて生きて居るだけの哀しい迷い子が二匹。だけど、二匹は判って居る。判って居るからこそ化かし合いを続ける。オレも、太助も、本音を見せ合って居る様に見せ掛けて、どちらも嘘で塗り固めて居るだけなのだから。きっと、太助にも想いを寄せて居る相手が居て、だけど、オレがコタへの想いを貫けないのと同じ様に、燻って居るのでは無かろうか? 言葉は悪いが、手身近な所で手に入る相手で妥協しようとして居るのでは無かろうか?

 結局、オレ達は似た者同士だと言う事か。どちらも自分の本心に素直になれず、嘘で塗り固める事で強引に納得しようとして居る同士だ。仕方がない。仕方がない。そう口にする事で『選択肢』を一つしか選べない状況にする事で、諦めざるを得ない状況へと強引に自らを追い遣る。オレも太助も嘘吐きだ。でも、それで今日を、明日を生きられるなら、それでも良かった。いずれにしても誰かが隣に居てくれると言うのは心強く思える。可笑しな出来事ばかり降り掛かる渦中に身を置いて居る状況下では、余計にそう思えて仕方がなかった。

 そんな事を考えて居るうちに、次第に意識が遠退いてゆく感覚を覚えていた。今夜は安心して眠れそうだ。太助に感謝だ。そんな事を考えながら、オレは深い眠りに就こうとしていた。明日の事は、明日に無事に出会う事ができたら考えるとしよう。

◆◆◆65◆◆◆

 翌朝、目が覚めるとそこには太助の姿はなかった。窓から差し込む日差しが眩しくて、思わず目を細めた。今日も良い天気になりそうだ。

「うぉーっ! すげぇ良い天気だぜ」

 大きく伸びをして居ると、太助が部屋に戻って来た。一瞬、驚いた様な表情で目を丸くしてみせたが、次の瞬間にはオレの姿をしげしげと見つめながら、感慨深そうに笑って見せた。

「目覚めたようだな」

「お、おう……んで、何で笑って居るんだっけ?」

「冬眠明けの熊を見て居る様な壮大な気分を体験できた事に感謝だな」

「あのなー」

 目が覚めた時に、隣に誰かが居てくれると言うのは、それだけでも落ち付ける物だ。それにしても、予想通り、汗だくになって居る。太助に目線を投げ掛ければ、苦笑いを浮かべながら腕組みしてみせた。

「何はともあれ、先ずは風呂に入るとしよう」

「それもそうだな。既に汗でベタベタだぜ」

「ああ。風呂から上がったら朝食にしよう」

 オレ達はそのまま風呂場へと向かった。昨晩、寝る前に太助から話があった通り、今日は宇治に向かう予定だ。いずれにしても身支度を整えない事には旅立つ事もできそうにない。風呂で汗を流し、着替え終えた所でオレ達は朝食にする事にした。既に太助の婆ちゃんは、近所の友人達と出掛けたらしい。今日は天気も良いし、何処に出掛けるにも良さそうだ。

「しっかし、朝から暑いよな」

 窓の外からは蝉の声が勢い良く響き渡る。差し込む日差しも強く、今日も暑くなりそうだ。こう言う暑い日は嫌いではない。早くも、風呂上がりで汗だくになって居るが、それも悪くない。汗を拭うオレを後目に、太助は手際良くカレーを温めていた。

「流石は婆ちゃんだな。こうなる事を見越していたと言う訳か」

「へへっ、カレーなら温めるだけで良いからな」

「そうだな。手際良く準備できるのもありがたい話だな」

 やはりカレーは一晩寝かせると旨味が深まる。オーソドックスな料理なだけに、各家庭の個性が現れる。太助の婆ちゃんが作るカレーはオレが作るカレーとは大分違う味わいだ。ついつい凝ってしまうオレとは違う、少々甘目の味わいが心地良い。

「……婆ちゃん、一体、何合炊いたんだ?」

 台所から太助の引きつった声が聞こえる。恐らく、オレが遊びに来て居るのを知って居るから大量にご飯を炊いてくれたのだろう。

「良いじゃねぇか。腹一杯食って、旅に出るとしようぜ」

「食欲旺盛な事だ。ますます冬眠明けの熊だな」

「オイ、コラ。オレの事をどう言う目で見て居るのか、詳しく聞かせて貰おうか?」

「野生的な男だろう?」

「おうよ。間違えても野生動物じゃねぇぞ」

 何だか、このやり取りも妙な既視感にあふれて居る気がする。太助もオレが何を想って居るのかを見抜いて居るのか、生温かい笑みを浮かべて居る。

「な、なに、にやにやして居るんだよ……」

「これが俗に言うデジャブと言う物なのかと、感動して居るだけだ」

「まぁ、何にせよ、飯にしようぜ。腹が減っては戦はできねぇからな」

 朝食からカレー山盛りと言うのも中々に強烈な物があったが、腹が減って居るのは事実だった。それに、太助の婆ちゃんは料理上手だから、ついつい食が進んでしまう。何だかんだと言いながらも、ちゃっかりお代りまでしていた事をオレは見逃していない。

 朝食を終え、軽く身支度を済ませたところで、いよいよ目的地を目指しての旅へと臨む事になる。目指すは宇治。ただ、太助はどこかで途中下車をしようと考えて居るらしい。さて、どこへ案内してくれるのか、お手並み拝見といこう。

「力丸、出発の準備は整ったか?」

「おう。何時でも大丈夫だぜ」

「そうか。それでは、旅立つとしようか」

 玄関先で靴を履いたところで、そっと戸に手を掛けた。思わずそのまま硬直させられた。オレの異変に気付いたのか、太助が怪訝そうに首を傾げる。玄関の戸を一枚隔てた向こう側には、醍醐寺の白壁の塀が広がる。戸の向こう側から響き渡る蝉の鳴き声から察するに、間違いなく、外の気温は半端ではない程に暑いに違いない。深呼吸を整えながら、オレは玄関の戸を開いた。次の瞬間、蝉達の鳴き声が鮮明に響き渡り、同時に、熱風とも呼べる程に熱気を帯びた風が吹き込んできた。

「うぉっ!? サウナ風呂の戸を開けた時、その物な熱風が吹き込んできたぜ!?」

 思わず振り返れば太助もまた、苦笑いを浮かべる。

「今日の暑さもまた、一際強烈だな。力丸、少し待っていて貰えるか? 俺も帽子を持って来る」

「ああ。玄関前で待って居るぜ」

 太助を待つ間、そっと空を見上げてみる。どこまでも広がる青い空が一面に広がる中、迫り出す様に膨れ上がる入道雲が目に留まる。蝉達の鳴き声が降り注ぐ様に響き渡り、照り付ける日差しがジリジリと肌を焦がす。既に腕から玉の様な汗が後から後から噴き出していた。

「待たせたな」

「おう」

 振り返れば、帽子を目深に被った太助が佇んでいた。これで準備万端と言う事か。それならば冒険に向けて旅立つとしよう。オレ達はそのまま太助の家を後にした。後は醍醐駅を目指して突き進むだけだ。

 突き刺さる様な日差しの中、オレ達は歩き続けていた。足元からはジワジワと熱波が伝わって来る。強い日差しが照り付ける事で、アスファルトは派手に熱を帯びて居る様に感じられた。

「まだ、朝早いと言うのに、今日は随分と暑いな」

「これだけ暑いと、地面で鉄板焼きとかできそうだよな」

「力丸、試しに寝転がってみるか?」

「オレを鉄板焼きにするつもりかよ」

「それも面白そうだ」

「面白くねぇっつーの」

 他愛もないお喋りをして居るうちに、オレ達は住宅街へと差し掛かろうとしていた。時折、風が吹き抜ければ、街路樹の葉が涼やかな音色を響かせる。早朝の醍醐の街並みは、たまに思い出した様に車が通り過ぎて行く以外には人の気配は感じられなかった。

 醍醐の街並みは静かだった。本当に静かで、照り付ける日差しの下、蝉の鳴き声だけが響き渡る。時折、そこに混ざり合う車が往来する音とオレ達の歩く足音以外、何も聞こえて来ない程に静まり返っていた。平和過ぎる街並みの情景に触れて居ると、昨日体験した現実離れし過ぎた出来事が夢か幻だったのではないかとさえ思えて来る。

 何事もない日常の一コマが紡ぎ出される情景の中に身を置いて居ると、一連の騒動は夢だったのではないかとさえ思える。きっと、テルテルも無事で、騒動もなかった事に帳消しされるに違いない。そう思いたくなる程に平和な情景だ。だからこそ心が酷く揺れ動いた。

 オレと共に在りたいと願った結花の気持ち、今だから理解できる気がする。ああ、そうさ……だからこそ結花はオレと共に在りたいと切に願ったハズだ。オレと一緒に居る時だけ世界は色を取り戻し、結花が結花で居られると口にしていた。ようやく、今更になってお前の気持ちを理解できる様になろうとは思いもしなかった。ああ、駄目だ、駄目だ。後ろへと力一杯引き戻そうとするオレに敗れては、再び悪夢への逆戻りだ。断ち切る。ぶった切る。それでも駄目なら全力で疾走するまでだ。現実へと引き戻す。強引にでも、力づくでも構わないさ。これはオレの物語だ。誰にも邪魔はさせない。

「しっかし、今日は恐ろしく暑いな」

「ああ。既に汗だくだ」

 丁度、間も無く下り坂に差し掛かろうとして居る。高台から見下ろす街の景色と言うのは良い物で、遠くまで広がる街並みを目にするのは心地良い。ふと、足を止めて景色を見回して居ると、オレの隣で太助もまた目を細めて周囲の景色を見回していた。

「不思議な物だな」

 太助の言葉に興味を惹かれたオレは、太助の方に体を向けた。太助は穏やかな笑みを称えたまま続けて見せた。

「見慣れた景色のはずなのに、こうして誰かと一緒に見渡すと違った景色に見える」

「それなら、オレと一緒にもっと色んな景色見ようぜ」

「ああ、一緒に見よう」

 オレ達はそのまま緩やかな坂道を下った。日差しは尚も強くなる一方で、何もしなくても汗がじわじわ滲み出て来る。それでもオレ達は坂道を下り続けた。歩き続ければ駅前の大通りが見えて来る。アル・プラザまでそう遠くはない。後は醍醐駅から東西線に乗り込み、目的地を目指して移動するだけだ。しばしの間とは言え、列車の中は空調が利いていて涼しいハズだ。オレは額の汗を拭いながら、アル・プラザへと急いだ。涼を求めて、ついつい足早になるオレに太助が続く。さて、いよいよ大冒険の幕開けだ。

◆◆◆66◆◆◆

 駅のホームに到着して程なくして列車が訪れた。オレ達はそのまま列車に乗り込んだ。空調が利いた車内は心地良くて汗が静かに引いてゆくのを感じていた。太助は手短かに旅の行程を聞かせてくれた。

「このまま東西線で六地蔵まで向かい、六地蔵で京阪線に乗り換えて宇治へ向かう。その途中、黄檗で途中下車して寄り道と言う流れになる」

 黄檗とは、また意外な場所を選ぶ物だ。万福寺を訪れるつもりか。中国文化の色合いが濃く残る異国情緒あふれる寺と聞く。中々に風変りな寺だと聞いて居るが、行った事のない場所だ。敢えて変化球で挑んで来る辺りが、太助ならではの趣向の様に感じられる。

「ま、それまでは涼しい列車での旅を楽しむとするかな」

「そうだな。今日の暑さは相当の物だから、今の内に涼んで置くのが良さそうだ」

 もっとも、醍醐から六地蔵までの間には石田しかない。一駅しかないのを考えればスグに着いてしまうだろう。実際、微かに汗が退き始めたかと思って居ると、列車は既に六地蔵の駅に到着しようとしていた。

「ありゃ? もう到着しちまうのかよ?」

「まぁ、距離にすれば大した距離ではないからな」

 思わず二人、顔を見合わせて苦笑いした。程なくして列車が停車し、扉が開く。一旦、乗り換える事になる。ここから京阪の六地蔵に乗り換えて、黄檗を目指す。もっとも、六地蔵から黄檗までも僅かな時間で到着する。

「さて、行こうか」

「うしっ! 気合い入れて行こうぜ」

 何に気合いを入れるのか良く判らなかったが、取り敢えず、気合いを入れて行こう。過ぎ去ってゆく東西線を見送りながら、オレ達は駅を後にした。このまま乗り換えて黄檗を目指すとしよう。

◆◆◆67◆◆◆

 一旦、東西線の六地蔵駅に降り立ったオレ達は、そのまま京阪の六地蔵駅を目指していた。多少、距離が離れて居る事もあり、しばしの間、日差しが照り付ける蒸し暑い最中を歩き回る事となる。川沿いの土手道を歩む事暫く。日差しを遮る物は当然、何もない。猛烈な日差しと熱気の中、アスファルトの道路からはお約束通りに陽炎が立ち上る。本気で鉄板焼きができそうだ。汗を拭いながら歩き続けて居れば、程なくして京阪の六地蔵駅が見えて来る。地下を走り抜ける東西線と異なり、こちらは地上を走る路線となる。短い距離ではあったが、日は高く上り、一際暑さが増した様に感じられる。飲み物を購入してからホームへと向かう。もっとも、ホームに辿り着く頃にはペットボトルは空になっていたのは言うまでもない。

 乗り換えこそ手間が掛かったが、目的地の黄檗まではそう遠くない。大して時間も掛からずにオレ達は黄檗に到着した。

 宇治に行く途中にある駅と言う事で、何度となく目にした駅ではあったが、こうして実際に下車したのは初めての事だ。小さな駅のホームを後にしたところで、道案内は太助にお願いしなければ判らない。

「太助、道案内頼むぜ」

「ああ、任せてくれ」

 そう口にしてから、太助は「ふふ」と笑って見せた。今度は何を言い出すのかと期待して居ると、笑いながらオレに向き直って見せた。

「流石に小太郎相手に道案内頼むとは言えなくても、俺には言える訳だな」

「わはは。コタに道案内させると、どんなに単純な道でも遭難に導いてくれるからなぁ」

「ふふ、ある意味、凄まじい高性能のナビかも知れないぞ?」

「確かに。コタの方向音痴は国宝級だからな」

 太助は笑いながらオレを先導する様に歩き始めた。きっと、今頃、コタは何処かでくしゃみをして居るに違いない。憮然とした表情で周囲を窺うコタの顔が浮かんでしまい、思わず笑いが込み上げて来る。観光地と化して居ない街の風景が心地良かった。こう言う普段着な色合いを称えた街並みは嫌いではない。駅のホームから出てすぐの所には花屋と郵便局が向かい合わせになっていた。周囲に立ち並ぶ家々も普段着な装いで心地良く感じられる街並みだった。長閑な街並み。それがオレの中での第一印象だった。

 太助に先導されるままに郵便局前を抜けたオレ達は、そのまま踏切を超えた。丁度、この辺りはJRの奈良線と京阪線とが並行して走って居るらしく、ごく近い距離を二本の線路が走り抜けて居る形になって居る。

 線路を抜ければ正面には住宅街が広がって居る。なるほど。清水寺の様に観光地の真っ只中に位置する寺を一部の例外と考えれば、住宅街の中に位置する寺社仏閣も少なくない。もっとも、中には高山寺の様な山寺もあるが、周辺の風景から考えるに山寺と言う事はないだろう。

 交通量の多そうな道路を渡った先にあると言う事で、オレ達は横断歩道の前に立ち、信号が青になるのを待った。それにしても蒸し暑い。ジリジリと照り付ける日差しは容赦無く、蝉達の威勢の良い鳴き声が暑さを後押しして居る様に感じられた。やがて信号が青になれば、太助が静かに歩き出す。

「この先の路地裏を抜けて万福寺へと向かう」

 思わず呆然とするオレの肩を叩きながら、太助は颯爽と歩き続けた。オレも太助に続く様に路地裏へと歩を進めた。休日の朝と言う事もあるのだろうか? 本当に静かな街並みだ。周囲の家々を見回してみても、静まり返って居る。

 静まり返って居ると言えば聞こえは良いのかも知れないが、実際には、どこか物悲しい雰囲気の感じられる街並みだった。人の気配も無く、寂れた街並みと言う印象が拭い切れなかった。時の流れは何時だって残酷で、情けも、容赦も無く、人を、街を、置き去りにしてゆく。時代の勝者だけが生き残り、敗者はただ忘却される。この街も同じ様な境遇にある様に思えて、胸が痛んだ。今のオレと良く似た境遇に置かれて居るようで寂しい気持ちで一杯になった。結局、どんなに頑張った所で、人、一人の力では何も為せない。オレもそうだから良く分かる。必死で抗ってみようと試みても、結局、一人では何も為せない。皆が居てくれるから、何とか生き伸びる事ができて居る。人混みは嫌いだけど、だからと言って孤独が好きな訳ではない。ただ、身の回りに少数の、本当の意味で分かり合える仲間が居てくれる。だから、辛うじて生きられるのかも知れない。改めて太助が隣に居てくれて本当に良かったと思える。

 だからこそ、あの時、建仁寺前で結花が突き付けた『選択肢』を想わずに居られない。

 もしも、あの時、ロックに声を掛けられて居なかったら? もしも、あの時、変態男に絡まれていた結花を見捨てていたら? もしも、あの時、コタと出会わなかったら――何も変わる事もできず、ただ、つまらない日常を過ごすだけだったのかも知れない。孤独は寂しい。誰かと共に歩める事に安堵感を覚える。こうして今、オレの隣に太助が居てくれる。誰かの温もりを感じる事で、辛うじて生きて居る意味を見出して居るのかも知れない。やはり、弱いな、オレ。小さく溜め息が毀れる。

「――似て居るな。俺と力丸は」

 路地裏を歩きながら太助がぽつりと呟く。通り過ぎた家の軒先に植えられていたノウゼンカズラの鮮やかな朱色の花が、道行くオレ達をジッと見据えて居る様な気がして、思わずドキリとさせられた。この路地裏は妙な冷たさに満ちて居る気がした。温か味を感じる情景なのに薄ら寒さを感じる事実が恐ろしく思えた。だから、オレは目一杯茶化す様に返してみせた。

「へへっ。ようやく、オレが男前だって気付いてくれた訳か?」

「そうではない」

 間髪入れずに笑い混じりに返してくれるとは、中々に手厳しい振舞いだ。

「……ちったぁ間を持たせろよ。間髪入れずに否定するたぁ、嫌な野郎だぜ」

「人が嫌い」

「へ?」

 オレ達の足音だけが響き渡る路地裏に、太助の言葉が妙に鋭く響き渡った。

「人が嫌いなのだろう? オトナ達は信用に値しない。俺達以外の連中も近付けたくない」

 何がそんなに楽しいのか、太助は上機嫌そうに歩きながら続けて見せた。

「俺と力丸は良く似て居る」

「そうかもな」

「安心しろ。俺も同じだ。人が嫌いだ。その反動なのだろうか? 動物が好きでな。動物は偽らない。良くも悪くもあるがままの姿で、演じる事のない姿で俺に接してくれる」

 太助が言い終わるとの同時に、オレ達の目の前を一匹の黒猫が颯爽と通り過ぎようとした。腕組みしたままジッと見つめる太助の視線に気付いたのか、静かに立ち止まると、黒猫は尻尾をピンと立てたまま太助に向かって一直線に近付いて来た。どうやら、オレの事は眼中にないらしい。猫にも男前な奴は判るのだろうか。太助はしゃがみ込むと黒猫の額を撫でてみせた。黒猫も満更では無さそうで、喉を鳴らしながら太助に頬をすり寄せていた。

「……そうだな。似てるよな、オレ達。だから、一緒に居るんだろうな」

「素直になれ」

「へ?」

「俺の事、好きなのだろう?」

 息が漏れる様な声で太助が笑って見せる。

「なんで、そこまで話が飛躍してるんだっつーの!」

 思わず声を荒げれば、大きな声に驚いたのか、黒猫は一目散に逃げ出した。名残惜しそうに目で追い掛ける太助に、妙な苛立ちを覚えて居る事に気付き、オレは殊更に動揺させられた。だけど、このまま太助の妙なペースに巻き込まれるのも釈然としない。だから、オレは腕組みしたままキッパリと言い放ってみせた。

「……トモダチとして好きだって事さ」

「ふふ、照れて居るのか?」

「あのな!」

「力丸は実に弄くり甲斐がある。中々に良い反応だ」

「うぬぬぬぬ……」

「さて、先を急ごう。万福寺はもう、目と鼻の先だ」

 足止めしたのはお前だろう。ツッコミを入れてくれようかと思ったが、また、可笑しな切り返しをされても間抜けな想いをするだけだ。太助の後に続く様にオレも歩き出した。相変わらず、この路地裏には妙な冷たさが感じられる。日の当たらない場所だからなのだろうか? イヤ、それだけではない様に思える。命が潰えてゆく様な感覚……そんな、薄ら寒い感覚が漂って居る様に思えて恐ろしい気持ちで一杯になった。

 命の温もりが感じられない、奇妙な空気に包まれて居るからなのだろうか? オレは無意識のうちに、人は死ぬために生きて居ると言う、以前、コタが聞かせてくれた話を思い出していた。

 確かに、人はこの世に生を受けてから少しずつ成長してゆく。だけど、それは言い換えれば一歩、一歩、死へと向かって老いてゆく事と同義だ。それならば、オレもそうなのだろうか? 死ぬために生きて居るのだろうか? ただ、生きられる時間に差があると言う事なのだろうか? 考え込むオレに気付いたのか、前を向いたまま太助が静かに口を開く。

「人の寿命とは、丁度、ろうそくの様な物だ」

「え?」

「長さは人それぞれ違って居る。誕生すると同時に灯された炎は消えるまで燃え続ける。ろうそくの長い者は長生きするだろうし、短い者は早死にする」

 結花はどうだったのだろうか? 考えずには居られない話だった。俯くオレに向き合いながら、太助は溜め息混じりに続けて見せた。

「もっとも、中には自ら灯火を吹き消す奴もいれば、他人のろうそくをへし折る奴も居る」

(そうだ……結花は自分の意思で死んだんじゃない!)

 オレはあの日、あの時、結花がこの世を去った瞬間の苦しみを思い出していた。イヤ、オレが感じた痛みも、苦しみも、結花が感じた物に比べたら大した物ではないハズだ。ああ、そうさ。あの日、あの時、あの瞬間! 結花の命を叩き折った奴が居る。絶対に赦す訳にはいかない。この世には神も仏も居ない。それならば、オレは――。

「そこまでにしておけ」

 唐突に太助に肩を乱暴に掴まれた事で、オレは一気に現実に引き戻された。驚きついでに太助の顔を覗き込めば、太助は哀しそうな表情で静かに首を横に振って見せた。

「行くぞ」

「お、おうっ……」

 一体、何がどうなって居るのやら、相変わらず太助の振る舞いは掴み所が無さ過ぎてオレを困惑させるばかりだった。だが、ふと横目で盗み見た太助の表情には確かなる怒りの感情が秘められていた。普段見せる事のない鋭い眼光に思わず背筋が寒くなった。余り感情を表に出さない太助が見せた鋭い怒りの感情。むしろ殺意すら感じさせるほどの眼光に驚かされた。太助は真正面を射貫く様な鋭い眼光で見据えたまま静かに口を開いた。

「結花の持つ独特の世界観――イヤ、死生観と言った方が良いのだろうか?」

 オレはただ静かに太助の言葉に耳を傾けていた。むしろ吸い寄せられる様な感覚さえ覚えて居た。物静かな口調ではあったが、そこには確かに燃え盛る炎の様な猛々しい想いが篭められて居る気がして心を奪われそうだった。

「生きて居たならば、案外、俺とも良き友になれたのかも知れない」

 確かに、それはあるかも知れない。あらゆる面で鈍感過ぎるオレと違って太助は常に鋭く周囲を見据えて居る。冷静さを見失わない太助ならば、言葉で言い表せない結花の心の内さえも上手い事見抜く事ができたのかも知れない。

「だからこそ、結花の命を奪った者を生かして置く気にはなれない」

 静かに口元を歪める太助に、オレはいよいよ背筋が凍り付きそうになった。なんて恐ろしい表情を見せる事ができるのだろうか? オレなんかよりも、余程、鬼に近いのかも知れない。そう思わせる程に冷たく、だけど、燃え盛る様な怒りを感じた。

「――俺に取っても仇敵だな」

 太助の考えて居る事はオレには良く判らなかった。だけど、一つだけ判る事がある。少なくても太助は、一度も会った事のない結花の事をトモダチだと思ってくれて居る。それに、見ず知らずの殺人犯に対して尽きる事のない怒りを抱いてくれて居る。オレの想いに共感してくれて居る。それだけは判った。イヤ、もっと踏み込んでくれて居るのかも知れない。オレと同じ想いを抱いて居る。オレを一人にさせる物かと、全力で考えてくれて居る。それならば、信じてみよう。周囲の連中は信用する事はできないけれど、太助の事は信じられる。それならば、信じたトモダチに賭けてみよう。オレは太助の後に続く様に歩き始めた。

◆◆◆68◆◆◆

 路地裏を抜ければ、万福寺はすぐ目の前に居を構えて居る。住宅街の中に静かに佇む寺と言う赴きが心地良い。広大な敷地とは対照的な小さな総門が印象的だ。太助は颯爽と歩き出すと、そのまま総門を潜り抜けた。総門を抜ければすぐに細い参道へと至る。規則正しく並べられたひし形の石が印象的だった。訪れて早々に他の寺社仏閣では見掛けない物を目にする事ができる辺りからして、やはり、一風変わった寺なのだと実感させられる。一体、どんなお寺なのだろうか? 好奇心を掻き立てられる。

「周囲の池には蓮が所狭しと植えられて居る」

「花、結構咲いて居るな。綺麗なもんだ」

「そうだな。さて、このまま三門を抜けるとしよう」

 道なりに歩んでいくと雄大なる三門が見えて来る。丁度、ここが玄関口の様な場所に相当するのだろうか。太助曰く、三門を抜けた先には大小様々な建物が立ち並んで居るとの事。その一つ一つが異国情緒あふれる風合いを称えて居るらしい。丁度、目の当たりにして居る三門もまた、良く知る寺社仏閣の光景とは異なって居る様に感じられる。中国文化の色合いを残す異国情緒あふれる寺と聞いて居るが、確かに、そんな感じがする。

 この先にはどんな光景が広がって居るのだろうか? 期待を胸に抱きながら三門を抜ければ、一気に開けた場所に出る。やはり、ここにも規則正しく並べられたひし形の石が一直線に続いて居る。

「天王殿へと続く様にひし形の石が並べられて居る」

 周囲を見回してみると、鉢植えの蓮が立ち並んで居る。ふと、左手に目線を投げ掛ければ小さな門の向こうに、どっしりと構える建物が目に留まった。派手さはないが、威風堂々たる力強さを感じさせる外観に興味を惹かれた。

「なぁ、太助。あの建物はなんだ?」

「ああ、あの建物は開山堂と呼ばれる建物でな。ここ、万福寺を開創した隠元禅師を祭った建物だ」

 隠元と言う名を聞いて、失礼ながら、オレは真っ先に隠元豆を思い浮かべてしまった。最初から予想していたのだろうか? 太助は可笑しそうに笑いながら解説を続けて見せた。

「確かに、隠元禅師が伝えた物の一つであるな」

「あー。やっぱり、そうなんだな」

「ああ。だが、それだけではない。隠元豆の他にも西瓜、蓮根、孟宗竹……まぁ、竹の子の事だな。こういった物を伝えたのも隠元禅師だ」

「へぇー。意外と身近にある物のルーツになって居るんだな」

「そうだな。食べ物だけではないぞ? 美術、建築といった文化的な物も日本に伝えた事を忘れてはいけない」

 なるほど。この異国情緒あふれる建物の数々もまた、そうした発祥を経て今に至るのだろう。そう考えると、歴史と言う物は実に興味深い。古き時代から連綿と積み重ねられた物があるからこそ今が在るのだから。

「昨晩、力丸は料理にまつわる話を聞かせてくれた」

「ああ、そうだったな」

「だからこそ、万福寺に寄り道しようと思ってな」

「どう言う事だ?」

 まぁ、そう焦るなと、太助は相変わらず可笑しそうに笑って見せると、オレを先導する様に歩き出した。開山堂へと向かうぞ。短く告げると、静かに歩き続けて見せた。太助の話に興味津々なオレは太助に並び「続きを聞かせてくれよ」とせがんで見せた。持ち上げられて気分が良くなったのだろうか? 太助は自信に満ちた表情で続きを語って聞かせてくれた。

「力丸は普茶料理を知って居るか?」

「イヤ。初めて聞いた言葉だ」

「普茶料理とは中国版の精進料理の事だ。もっとも、精進料理と言っても力丸が良く知る精進料理とは雰囲気が異なる」

「オレの知る精進料理は、生臭物……つまり、肉や魚を使わない料理だな。早い話、殺生を伴わない料理になる。豆腐だったり、湯葉だったり、肉や魚の代用品となる食材を上手く使って作る料理を思い浮かべた」

「ああ。これもまた隠元禅師が伝えた文化でな。同じ精進料理とは言えど、大皿に盛り付けられた料理を取り分けて食べる辺り、中華料理らしいだろう?」

 文化が違えば食も異なると言う事か。開山堂を見つめながら、オレは太助の話を噛み締めていた。単純に料理の腕を磨く事ばかりに意識が集中していたが、時に、こうした料理の歴史を手繰り寄せると言うのも良い勉強になりそうだ。ただ、腹を満たすためだけの手段だけでは無く、料理と言う行為は多くの意味を持つ事を知った。

「死ぬために生み出された者達。そうした者達の上に俺達は生きて居る」

 空を見上げたまま太助がぽつりと呟いた。

「改めて考えてみると、そうなんだよな」

 オレもまた太助の隣に立って、空を見上げてみた。澄み渡る空は何処までも広がって居る様に感じられた。心地良い空模様だ。この広い空の下、万福寺にオレ達は居る。そう考えると不思議な気持ちになる。コタ達も同じ空を見て居るのだろうか?

「大地が良く口にする『お持て成し』の心もまた、時に命の上に立って居る。料理と言う手段もまた、『お持て成し』一つの形だからな。力丸に取っては切っても切れぬ縁だろう」

「まぁ、料理の道を歩もうと考えて居るからな」

「結局、俺達は日々、他者の命を奪って、生きて居る訳だ」

「そうだな。飯、食わなければ生きられねぇからな」

 人は生きて居る。生きるためには食わなければならない。他者の命を糧として生きる。他者の命を喰らって命を繋げる。そのための手段の一つが料理と言う行為になる。オレが歩む道。そこに篭められて居るのは『お持て成し』の想いだ。ロックが歩む道にも繋がって居るオレの道。生きると言うのはそう言う事だ。決して、偽善や綺麗事だけでは片付けられない。だから人は生きる。

「生きるために他者を糧とする」

「そうだよな。そうやってオレ達は生きて居る……違うな。生かされて居るんだよな」

 命ある者は自ら死を望んだりしない。生きたい。生きたい。そう悲痛な叫びを挙げる者達を強引に力で捻じ伏せ、無理矢理に命を奪い、その身を糧とする。弱肉強食。大自然の摂理その物だ。ただ、オレ達はその『過程』から目を背けようとする。知りたくないから。残酷だから。哀しいから。

「残酷か……ふふ、どの口がその様な事を抜かすかと問い詰めたくなるな」

「そうだな。他者の命を奪いたく無ければてめぇが死ぬしか無くなっちまうもんな」

「偽善だ。そうやって人は自らの罪から目を背ける」

「弱いからな。人は皆」

「ああ。俺も力丸も、その弱い人の中に身を置いて居る」

 そうやってオレ達は生きて居る。生きて居るからこそ、こうやって照り付ける日差しの下を歩む事もできる。滴り落ちる汗だって生きて居る証だ。生きるために他者を糧にする。それは大自然の摂理だ。曲げ様のない事実だ。真理だ。

「ただ、人は時に意味も無く他者を殺める。糧とするためでは無く、ただ、己の保身のために。ただ、己の快楽のために」

「そうだな」

 結花はその結果、殺された。糧となるためではない。ひき逃げだ。殺人だ。事故なんかじゃない! 絶対に赦す訳にはいかない。因果応報。オレがお前をぶっ殺してやる。糧にするためじゃない。オレが納得するためだ。報いは果たしてくれる。

「食を巡る物語は実に奥が深い」

「そうだな。改めて真面目に真正面から考えてみると、色んな事考えさせられるよな」

「恐らくは普茶料理もそうした問答をするための一手段として考案されたのかも知れないな」

「腹減った。飯食おうぜ――だけじゃ、確かに、何にも出てこねぇもんな」

「そうだな。そう考えると力丸の歩もうとして居る道も奥深いと言う事に成る」

「へへ、そんな御大層なモンじゃねぇよ。オレなんざ、まだまだ修行中の身だ」

「ふふ、殊勝な心掛けだ。必ずや道は切り拓かれるだろう」

 料理をする事の意味を改めて知る事ができた。こうやって、色々な知識を得るのは楽しい物だ。最初は、何時もの様に寺社巡りをしながら、徒然なるままに話をするつもりなのかと思ったけれど、そこはやはり太助なのだろう。上手い事を考えてくれる。改めて太助とトモダチで本当に良かったと思える。そんなオレの尊敬の眼差しに気付いたのか、太助は不敵な笑みを浮かべながらオレの肩に腕を回すと、敢えて耳元で囁く様に呟いて見せた。

「しかし、意味もない殺生を日々繰り返すのもまた、人の業と言える」

「大自然に生きる者達は無意味な殺生はしねぇもんな。人が人である業だよな」

 溜め息交じりに呟いて見せれば、太助が不敵な笑みを浮かべる。

「何を他人事の様に言って居る?」

「へ? オレは無用な殺生なんかしねぇぞ?」

 オレの言葉に太助は可笑しそうに笑って見せた。

「男なら誰でも無用な殺生を繰り返すだろう?」

「なっ……!」

「健全な男ならば数日も耐える事もできないはずだ」

「シモネタかよ!?」

 前言撤回。やはり、太助はただのムッツリスケベと言う事か。

「一瞬でもお前の事を尊敬したオレが可哀想になる……」

「褒め言葉だな」

「いやいや、微塵も褒めてねぇから!」

 笑いながらもオレ達は再び訪れた道を戻り、天王殿へと向かった。

「天王殿とは中国寺院では一般的に玄関として見られるお堂になる。天王殿には布袋様が祭られて居る」

 普茶料理とくれば、やはり食に関わる仏が祭られる事になる訳か。それにしても、またしても傍らで太助がクスクス笑って居るのが気になる。

「……なぁ、今度は何で笑って居るんだっけ?」

「済まない。少し前に大地が家に泊まりに来た時の事を思い出してな」

「あー、なるほどな」

 何となく予想はついたが、やはり、予想通りだった。ロックの腹を見て居る内に、福々しい布袋様を連想したらしい。ついつい、オレの頭の中でふてぶてしい笑みを浮かべ、仰々しく鎮座するロックの神々しいお姿が描き出されて、思わず吹き出した。

「オレの中で、お前が良い男からヘンな奴へと絶賛格下げ中になって居るんだけどさ」

「ほう? 驟雨の如く蔑まれ、徹底的に貶められ、俗物だと罵られ、この上ない程の辱めを受けるか……」

 太助は不敵な笑みを浮かべたまま強烈な言葉を羅列して見せた。思わず後退りするオレの目を見つめたまま静かに歩み寄る。

「ふふ、そんなに俺を興奮させてどうする? 責任を取って貰うぞ?」

「わはは、言動が妙にエッチぃのはどう言う事だっつーの」

 実に賑やかな事だ。だが、初めて訪れた場所だが、万福寺は異国情緒あふれる寺で、こうして徒然なるままに歩き回って居るだけでも静かに心が満たされていく様な感覚に包まれる。オレ達は布袋様に向き合いながら、静かに流れゆく時の流れを感じていた。

「万福寺は広い寺だからな。じっくりと歩き回ってみるとしよう」

「そうだな。それにしても、この寺は変わった物が多いな。天王殿前にあった透き通る様な水色のでっかい水瓶とか、他の寺じゃ見た事ねぇ色合いだったもんな」

「ああ。この先にある大雄寶殿――つまりは、本堂だな。その入り口にも色鮮やかな水色の置き物がある」

 異国情緒あふれるのは建物だけでは無く、細部にも渡って居るらしい。太助の話では、他にも境内の随所に風変りな物があるとの事。斎堂と呼ばれる僧達が食事をする場所の前には、魚の形をした開パンと呼ばれる法具が吊るされて居ると聞かされた。時を告げるために使われる物らしい。また、境内の建物間を繋ぐ廊下には金属製の照明が鈴なりに吊るされて居る事も聞かされた。

 知れば知る程に興味深い寺だ。まだまだオレの知らない事など幾らでもあるのだろう。だからこそ思う。もしも、結花が生きていたとして、この万福寺の異国情緒あふれる情景を目にしたら、どんな反応を示しただろうか? 子供の様に境内を縦横無尽に走り回っては、声を張り上げて喜んでいただろう。結花の事を思い出し、思わず俯くオレに気付いたのか、太助はオレの隣に来ると、そっと空を見上げて見せた。

「照り付ける日差しは強く、ジリジリと肌を情けも容赦も無く焦がしてくれるが、こう言う暑さは嫌いではない」

「奇遇だな。オレも夏って季節が好きでな。まぁ、オレ、八月生まれだからなのかも知れねぇけどな」

「なるほど」

 太助は目を細めたまま眩しそうに空を見上げていた。オレも真似して空を見上げてみた。突き刺さる様な日差しに目が眩む。

「俺がどう受け止めるか、気にして居るみたいだが、そんな気遣いは無意味だと言って置く」

「太助……」

「大地が良い事を言っていた」

 厳密には、ロックの婆ちゃんの言葉らしいのだが。

『哀しい時に哀しい感情を抑え込む。それでは生きて居る意味がないではないか』

 太助はその言葉をオレに伝えてくれた。

「泣きたい時に何故、堪える必要がある? それは生きて居る事の否定だ。辛さを感じるのも、苦しみを感じるのも、痛みも、数多の欲望も、沸き上がる感情も、全部、全て、生きて居る証だ」

「そう……だよな」

「何のために俺は今、力丸の隣に居る?」

「へ?」

 返答に窮するオレにちらりと目線を投げ掛けると、太助は可笑しそうに笑いながら「今日、帰るまでに俺が納得できる答を出せ」と言い残すと、静かに歩き出した。ああ、ちゃんと答、出して見せるさ。仮に今日、答を出せなかったとしても、それならば明日、答を出すだけだ。それでも駄目なら、全身全霊の力を持って必死で考え抜いてやるまでだ。オレは太助の後を追って歩き出した。まだ、冒険は始まったばかりだ。さて、次なる目的地へと向かうとしよう。

◆◆◆69◆◆◆

 黄檗を発ったオレ達は、再び京阪に揺られて終点の宇治駅へと訪れた。距離的には大した距離でも無く、予想通り、早々に到着してしまった。既に日はだいぶ高い位置まで上って居る。時刻は昼少し前と言える時間帯だった事もあり、宇治の街並みは賑わいを見せていた。元々宇治の街並みは観光客も多い街である事を考えると不思議な話ではない。

 宇治抹茶の本場としても知られる街であり、近年では抹茶スイーツが確かなる知名度を獲得して居る。源氏物語にも縁深い平等院鳳凰堂と言う観光名所もある。宇治川の鵜飼いもまた広く知られる。中には橋姫神社に縁切り目的で訪れるコアな女達も居るかも知れないが、いずれにしても宇治と言う街は実に魅力的な街並みと呼べる。もっとも、オレの隣に居る男前の興味は宇治川に絞られて居るのだが。

「意外に万福寺は見所があったから、それなりに時間を要してしまったな」

「でも、充実した時間過ごせたから、楽しかったぜ」

「そう言って貰えると光栄だな」

 京阪の宇治駅に降り立ったオレは、駅のホームから周囲を見回してみた。向かって右手に目を向ければ、豊かな水源を称える宇治川の流れが目に留まる。太助のお気に入りだと言う宇治川。この流れに触れたくて、今日、こうして宇治を訪れた事になる。どっしりと構える宇治橋の上は、人も、車も引っ切り無しに往来して居る。やはり昼時と言う事もあって街は賑わって居る様に見えた。

「さて、冒険の続き、第二幕と行こうか」

「おう。気合い入れて行こうぜ!」

 そういえば、コタは京阪の宇治駅が好きで、特に夜の景色が好きだと言っていた。判る気がする。印象的な石造りの駅舎は、確かに個性的な風情に満ち溢れていて悪くない。夜になれば辺りは暗闇に包まれ、駅舎の明かりが照らし出す。剥き出しになった石の柱と電灯が照らし出す無機的な情景は、宇治川が称える大自然の息吹と折り重なり合い、実に風情のある風景になるハズだ。その幻想的な情景の中をコタと共に歩きたい。一段落付いたらコタと共に訪れてみるのも悪く無さそうだ。思わずコタの顔を思い浮かべたところで

「……先ずは宇治橋を抜けるとしよう」

 そう言い放つと、太助はどこか不機嫌そうな表情を称えたまま歩き出した。どうして不機嫌そうにして居るのだろうか? 気になったが要らぬ詮索をするのは控えるとしよう。オレの勝手な思い違いかも知れない。石の柱が剥き出しになった駅舎を見上げながら、オレは歩き続けた。

 駅舎を抜ければ目の前には小さなロータリーが広がる。客待ちのタクシー運転手達も、この暑さにやられて居る様子で、ぐったりとした表情を浮かべて居る。

「やはり、外に出ると一気に暑くなるな」

「ああ。日差しが半端じゃねぇよな。肌がヒリヒリするぜ」

 駅前のロータリーを後に、オレ達は宇治橋へと歩を進めた。改めて宇治橋の上を歩んでみると、この橋の大きさが良く判る。人も車も引っ切り無しに往来して居るのを考えると、相当な重量が掛かって居るハズだ。そんな雄大なる宇治橋を太助と共に歩んだ。橋を歩むに連れて、段々と宇治川の流れの中央へと差し掛かってゆく。今、オレ達の下、橋を挟んだ向こう側には豊かな水源を称えた宇治川が流れ続けて居る。ごうごうと唸りを挙げて、時にうねりながら流れ続けてゆく。猛々しい流れを称える宇治川の流れに興味惹かれたオレは、勢い良く橋から身を乗り出してみた。

「よっと!」

「うっかり転落するなよ?」

「大丈夫、大丈夫。ああ、でもよ、万が一転落したら何とかしてくれよな」

「無茶な事を言ってくれる」

 身を乗り出せば、力強く流れゆく宇治川の流れが目に留まった。何だかんだと言いながらも、太助も興味を惹かれたのだろう。オレの隣に並ぶと、大きく身を乗り出して見せた。

「吸い込まれそうな流れだな」

「おいおい、お前こそ転落するんじゃねぇぞ?」

「大丈夫だ。そんなヘマはしない」

 まるで子供だ。上機嫌に、無邪気に振舞う太助の姿は、まるで子供の様に感じられた。ごうごうと唸りをあげる川から吹き上がる風は水気を孕んでいて、川、独特の青臭い様な、魚臭い様な匂いを孕んでいた。だが、心地良い匂いだ。猛々しさの中にも、繊細な優しさを感じさせる匂いに、何時までも触れて居たい気持ちにさせられる。

 勢い良く流れ続ける宇治川の流れは絶える事なく、ただ力強い流れを湛えていた。その力強さに大自然の力強い想いを見出さずに居られない。心地良い景色だ。このまま川の流れを見つめたまま何時間でも此処に居られそうな衝動に駆られる。そんな事を心の内でそっと考えて居ると、太助に声を掛けられた。

「力丸、そろそろ行こうか。時間も時間だから腹も減って来た」

「ああ、そうだな。先を急ごうぜ」

 橋を渡り切った先には飲食店や土産物屋も立ち並ぶ。甘味処は点々と存在しては居る物の、観光客向けの飲食店はこの一角にしかない。地元の人々向けの一般的な飲食店はあるだろうが、それはそれで冒険気分が台無しだ。そう考えれば、やはり、此処で昼食にするのが良さそうだ。そう考えながらオレは歩み続けた。

 宇治の街並みを眺めながら想う事がある。この辺りは人通りも少なくない。宇治には平等院鳳凰堂を初めとする観光名所も少なくない。人通りが多いのも頷ける。引っ切り無しに往来する人の流れを見て居ると、オレの目に幾つかの情景が重なって見えた。不思議な情景だった。宇治の情景と、見慣れて居る情景とが重なり合う。一瞬、視界が揺らぐ様な感覚を覚えたが、オレはそれでも必死に踏み止まった。

 宇治の情景と重なり合うのは、見慣れて居る上賀茂神社周辺の街並みであったり、四条通の街並みであったりした。引っ切り無しに往来する人の流れ。そこに息衝く者達の数だけ物語がある。生も、死も、そこに同居して居る。人の数だけ同居して居る。

『ねぇ、力丸君。知って居る? すれ違った人の数だけ死がそこに横たわるの。声を掛けられた人だけが力丸君の物語の登場人物になる権利を手にするの。後の人達は、その他大勢の人達として忘れ去られる。ただの通行人。ただの木の枝。ただの風。だって、そうでしょう? すれ違った人の顔なんて覚えていられないでしょう? だからね、すれ違った人の数だけ死がそこに横たわるの』

 耳元で囁き掛ける結花の声、確かに聞こえた気がした。期せずして信号が明滅を繰り返し、赤へと変わった。オレ達は信号待ちのために立ち止まった。

 結花の世界観は本当に独特だった。だけど、偽る事のない死が、確かに、そこに横たわっていた。何時も結花は死を追い求めていた様に思える。まるで、今すぐにでも死ぬ事を願って居るかの様に思えて、オレは何時も言葉に窮した。

「力丸?」

「うぉっ!?」

「す、済まない。驚かしてしまったか?」

「あ、ああ……済まねぇ。ちょっとボーっとしていただけだ」

 駄目だ、駄目だ。結花の事を考えていて、こんなところで呆然とするのは危険だ。せめて、もう少し、車の通りの少ない所で考えるとしよう。

「へへっ、腹減り過ぎて力、抜けちまったみてぇでな」

「それは一大事だ。これは、一刻も早く昼食にしなければ力丸がガス欠になってしまうな」

「……オレの事、どう言う目で見て居るのか問い詰めたくなるな」

 信号が青になる。太助は可笑しそうに笑いながら歩き出した。だから、オレもすぐ後に続いた。宇治の街並みは賑わいに満ちて居る。周囲の景色を見渡しながらオレは歩き続けた。だが、何故だろうか? 結花の事を思い浮かべてから、周囲の空気が変わった様な気がする。上手く言えないが、纏わり付く様な冷気を感じずには居られなかった。何か良からぬ事が起きる。そんな気がして仕方がなかった。偶然ではない。必然なのだと告げる様に異様な冷気を孕んだ風が頬を撫でて行った。その異常なまでの冷たさに思わず背筋が凍り付きそうになった。

「……力丸、警戒を怠るな。何か得体の知れない嫌な気配を感じる」

「お前も感じ取ったのか?」

「何か、妙な事が起こりそうな気がしてな。用心する事に越した事はない」

 一体、何が起きようとして居るのだろうか? 考えを巡らせてみた所で、何かが判る訳でもなかった。それならばと、太助と二人、周囲を見回してみたが、これといった異変は感じられなかった。

「考えてみても、判んねぇよな。取り敢えずさ、飯にしようぜ?」

「それもそうだな。さて、それでは何処で昼飯にするかだな」

「まぁ、選べる程の店がねぇっつーのが現実だったりするんだよな」

 気持ちの上では落ち着かなかったが、あれこれ考えを巡らせてみても判らない物は判らないままなのだろう。それに、この感覚、以前も体験した事がある様に思える。もしも、あの時、体験したのと同じ様な出来事が起きようとして居るのであるならば、いくら抗った所で回避できる様な代物ではない。あの時、結花が避ける事のできない未来を予見したのと同じ事を、オレも為そうとして居る。そんな気がした。予想はできていたが、未だ太助に伝えるべきではないと思った。不確実な話を伝えるべきではない。そう思えたからこそ、オレは時が訪れるのを待つ事にした。今のオレに必要なのは覚悟だけだ。逃げ出さない勇気があれば尚良し。オレは覚悟を決めて、太助と共に昼飯をとる場所を探し求める事にした。大丈夫だ。オレ達は一蓮托生だ。悪いな、太助。巻き込ませて貰うぞ?

◆◆◆70◆◆◆

 気持ちの上では落ち着かなかったが、それでも、オレ達は生きて居る。生きて居る以上は糧を喰らわなければならない。腹が減るのは生きて居るからだ。ああ、そうだ。オレ達は生きて居る。訪れるべきではない死を甘受するつもりなど毛頭ない。

 言い知れぬ不安の正体が気にならないかと問われれば、それは否としか言えなかった。だが、素性が判らない恐怖に怯えながら生きると言うのも、それはそれで間違って居る様に思えて仕方がなかった。半ばヤケクソになっていた面がなかったかと言えば嘘になる。だが、それでもオレは前に進むしかない。『選択肢』はそれしかない。退路はオレ自らの手でぶっ壊した。だから、オレは太助と共に近くの飲食店へと足を運んだ。不安と恐怖から逃れるためだったのかも知れない。普段以上に飯を食らった。自分でも可笑しな思考回路だと思うが、とにかく腹一杯食えば何とかなる。根拠など何も無いが、そんな想いに縋ってみた。溺れる者は藁をも掴むと言うが、まさしく、そんな状況だった。こんな場面でも弱味を見せられないオレは情けない奴だ。信頼する太助と共に居ると言うのに、結局、何処かで格好を付けたいオレが居た。救いようのない馬鹿が此処に居る。

「へへっ、腹一杯だぜー」

「力丸の食欲に後押しされて、少々食べ過ぎてしまったかも知れないな」

「お? ひでぇな。オレのせいかよ」

「他に誰が居る?」

「まぁ、細けぇ事は気にすんなって」

「ふふ、それもそうだな。腹一杯になって幸せも一杯と言う事か」

「なんだよ、そりゃ?」

「大地和尚の格言だ」

 わざわざ『和尚』なんて言う物だから布袋様の振る舞いを見せるロックが思い描かれて、吹き出しそうになった。

「へへっ、まぁ、腹も満たされたし、折角だから、この辺をぶら付こうぜ」

「ああ。それも悪くない」

 そうは言った物の特に目的地も考えて居なかった。まぁ、それはそれで悪くない。気の向くままに、風に吹かれるままに旅をするのも一興だ。そういえば太助は宇治川が好きだと言っていた。それならば目指す方向は一つだ。オレ達はこのまま宇治川沿いを歩こうと考えていた。店を後にして平等院鳳凰堂の表参道を歩んでいけば川沿いに出るだろう。そんな事を考えながら歩き出した瞬間、唐突に視界が揺らぐ様な感覚を覚えた。

(お!? な、何だ!?)

 視界の揺らぎが治まった時には、オレ達は平等院鳳凰堂の表参道では無く、一本隣のあがた通に佇んでいた。可笑しな話だ。確かに、平等院鳳凰堂の表参道へと向かっていたハズだ。一瞬、視界が眩む様な感覚を覚えたが、その僅かな隙を突いてオレ達を運んだとしか考えられない。どう考えても普通の人にできる様な仕掛けではない。誰かが作為的に仕組んだとしか考えられなかった。

「……偶然ではない。全ては必然っつー訳か」

「ああ。作為的に仕組まれて居るな」

「ま、避けられねぇんだろうな。太助、周囲の警戒、怠るんじゃねぇぞ?」

「そう言う力丸こそ、しっかり周囲に気を配って置け」

 何が起きるのか予想も尽かない以上、警戒を配った所でどうする事もできないと言う物だ。そんな事は判って居る。だけど、それでも何も身構えて居ないよりかはマシなハズだ。何か良くない事が起きる。それは間違いない。そう考えながらオレは周囲を慎重に見回していた。

「……あれは?」

 有り得ない物が目に留まった。普通に考えたら、電柱に立て掛けられる訳がない物が置かれていた。日常の街並みの中、それも商店街の中に在って、誰も気付く事がないと言うのも実に不可解な話だ。仕掛け人はあくまでもオレだけに想いを伝えたい様に思える。もっとも、その仕掛け人が絵描き小僧である事を考えれば、納得もできると言う物だ。電柱に立て掛けられた一枚の絵。さて、そこには一体、何が描かれて居るのだろうか?

(お前からのメッセージとくれば、オレの目で見届けるしかねぇっつー訳か)

 オレは太助に「ここで、待って居てくれ」と、一声掛けて、急いで電柱に立て掛けられた絵を確認した。間違いない。筆で描かれたモノトーンの、恐ろしく精巧な絵。やはり、これは絵描き小僧が仕掛けた物だ。もっとも、厳密にはこれから起こるであろう出来事をオレに伝えようとしたのだろう。昼下がりの宇治の街並みには大勢の人が居る。そう考えれば、迂闊に姿を見せたくなかったのも頷ける。いずれにしても、この絵には、これから起きるであろう出来事が克明に刻まれて居るハズだ。オレは急ぎ、絵を手にした。どんな内容が描かれて居るのか目にするのは恐ろしかったが、これはオレ宛てのメッセージだ。オレには、絵描き小僧の想いを受け止める責務がある。一呼吸、腹を括ってからオレは絵に目線を投げ掛けた。

「これは……!?」

 手にした絵には、恐らくはこれから起こるであろう交通事故の惨劇が描き出されていた。想像以上の事態に足が震え、背筋が凍り付きそうになっていた。だが、目を背けた所で未来が変わる訳ではない。今一度、良く、絵の中に描かれた惨状に目を向けるとしよう。オレは再び絵をジックリと眺めてみた。

 そこに描かれた光景を見る限り、怪我人は無さそうに見えるが、事故としての規模はかなり大きな物に感じられた。電柱に突っ込んだ車と、ぐしゃぐしゃに潰された自転車。こんな惨劇がこれから起ころうとして居るとは想像したくもない。だが、この出来事が起きるのは決して、偶然ではない。どうやっても避ける事もできない必然なのだから。だからこそ、オレ達はその出来事を見届けるしかない。仮に、事故を未然に防ごうと抗ったところで何ら意味を為す事はない。これは偶然では無く、必然なのだから。避ける事は不可能だ。少なくても、オレ達だけでも事故に巻き込まれない様に避難させて貰うとしよう。

 オレは太助の下に急ぎ戻ると、宇治橋方面へと大急ぎで引き返す旨を伝えた。突然の事に困惑する太助の背中を中ば強引に押しながら、オレは急いだ。とにかく少しでも遠くに移動したかった。無責任かも知れないが、避ける事のできない物であるならば、せめて、オレ達の身だけでも守りたかった。自分だけ良ければそれで良いのかと罵られそうだが、それならば、どう周囲の連中に説明すれば良い? 絵描き小僧がこれから起こるであろう惨劇を予知してくれた。だから、お前達も逃げろ。そんな事を口にしたところで、頭のオカシイ奴だと馬鹿にされてお終いだ。何よりも説明して居るだけの時間があるとは思えなかった。不幸な惨劇が起こる。それは偶然ではなく必然なのだ。避けようがないのだから、運がなかったと、諦めろとしか言いようがなかった。

「何か、良からぬ事が起きるのだな?」

「ああ。その前兆を掴んだからな。取り敢えず、この辺りで成り行きを見守るとしようぜ」

 成り行きを見守る……つまりは、事故の発生からの一連の騒動を見届けようと言うのだから、我ながら、可笑しな事を言って居ると思う。だが、他に手段がない以上、卑怯者と罵られても、無責任だと罵倒されても、非力なオレ達にはどうする事もできない。

 オレ達は急ぎ、宇治橋の終点付近の交差点まで戻って来た。横断歩道の信号から流れる無機的な音声が反響して居る。カッコー、カッコー、不協和音の様に重なり合う音色を耳にして居ると、次第に意識が奪われそうになる。だが、今だけでも意識を鮮明に持たねばならない。カッコー、カッコー、尚も信号は機械的な音色を発し続けて居る。しばし、信号を見つめて居れば、程なくして赤から青へと移り変わる。それを見届けた歩行者達が往来してゆく。何時もと何一つ変わる事のない、宇治の日常の光景が確かにそこにあった。だが、間もなく非日常の光景が到来する。そんなオレの想いに呼応するかの様に信号は明滅し、青から赤へと移り変わった。しばし待ち侘びる。だが身構えて居る割には一向に異変は起こらなかった。妙な話だ。ただの思い過ごしだったとでも言うのか? イヤ、それは違う。そんな訳ない。絵描き小僧が、わざわざ告げてくれたのだ。不発で終わるとは到底思えなかった。考え込んで居るうちに、再び信号は赤から青へと変わり、カッコー、カッコー、と不協和音が響き渡る。

 本当に不発だったのだろうか? 絵描き小僧の描いた未来が外れたのだろうか? そうだ。そうに違いない。そう都合良く考えながら、思わず、安堵の溜め息を就いた。だが、惨劇は起こってしまった。それは、オレが溜め息を就いた瞬間だった。溜め息を就くのと事故が起こるのとは、ほぼ同時だった。まさか、こんなにも唐突に起きようとは予想もしなかっただけに、腰が抜けそうになった。

 それは本当に一瞬の出来事だった。何事も無く通り過ぎて行ったトラックが、突然、ハンドル操作を誤ったかの様に電柱に激突した。白昼に起こった惨劇を目の当たりにして、辺りは騒然としていたが、驚く程の静寂に包まれていた。余りの出来事に、皆、何が起きたか理解すらできなかっただろう。

「……やっぱり、起きちまったか」

 妙に冷静な自分が可笑しかった。事前に絵描き小僧が残してくれた絵を見ていたからこそ、何が起きるかは知る事ができた。だからこそ、必要以上に取り乱す事もなかった。それだけの事だ。だが、予想通りと言うのも可笑しな話だが、事故は悲惨な物だった。わき見運転でもしていたのだろうか? 電柱に減り込まんばかりに衝突したトラックは、もはやまともな形を為して居らず、衝突の際に巻き込まれたであろう自転車もぐしゃぐしゃになっていて、原型を留めていなかった。盛んに煙を挙げるトラックからは、信じられない事に無傷な運転手の青年が降りて来た。程なくしてサイレンが響き渡り、パトカーやら、救急車やらが現場に到着し、静かな宇治の街は騒然としていた。

 ここから先の事はオレ達が首を突っ込む事ではない。無駄に現場を掻き回すだけの野次馬には成り下がりたくなかったから、オレは「行こうぜ」と、太助の肩を叩くと、早々に平等院鳳凰堂へと続く表参道へと移動した。立ち並ぶ店からは、従業員達が何事かと顔を覗かせていた。まだ、現場に駆け込んでシャメを片手に、状況をSNSに垂れ流しと言う振舞いをしていないだけマシな振る舞いだと言える。流石の太助も、突然の出来事に驚かされた事は想像に難くない。その表情からは、すっかり色が失われていた。

「もう、安心しても平気だぜ。さっきの事故が、異変の正体だったからな」

「ああ。それにしても……」

 そこまで言い掛けて太助は言葉を呑んだ。判って居る。何を言いたいか判って居るさ。

「気になるだろう? どうして、オレが事故の詳細まで知っていたか」

「気にならないと言えば嘘になるが、敢えて詮索するつもりはない」

 相変わらず太助らしい振る舞いを見せる物だ。興味はあるが、ただ、無為に好奇心に駆り立てられるだけの野次馬には成り下がりたくない。そんな、誇り高き振る舞いを垣間見た気がする。

「……取り敢えず歩こうぜ。歩きながら話、聞かせるからさ」

 オレは太助の肩に腕を回すと、そのまま通り沿いに歩き出した。今度こそ、平等院鳳凰堂へと続く表参道を歩かせて貰うとしよう。

 歩きながらオレは一連の出来事を整理していた。先刻、目の当たりにした事故は、絵描き小僧が起こした物ではない。それは間違いない。絵描き小僧は、ただ、これから起きるであろう異変を事前に知らせてくれたに過ぎないのだから。そう。かつて、結花が為し遂げた事と同じ事をやって見せたに過ぎない。イヤ、むしろ――結花が未来を予見した未来の出来事を、絵描き小僧がオレ達に教えてくれた。そう考えた方が筋が通る気がした。

「結花の事、どこまでロック達から聞いて居るか知らねぇが、一つだけ言える事がある」

 敢えて、興味を惹く様に間を置けば、予想通り、太助は興味津々な眼差しでオレを覗き込んで見せた。だから、オレは小さく呼吸を整えながら続けた。

「今しがた起こった事故を予見したのは、結花だと、オレは思って居る」

 微塵の迷いもなかった。そうかも知れない、では無く、そうだと、オレは断言した。そう言い切っても間違いない。そう確信していた。根拠など何一つない。オレの勝手な思い込みだ。だけど、間違って居ると言う想いは微塵もなかった。それ以外の正解がないと言った方が良いだろう。より、正確に告げるとすれば結花がこれから起こる惨劇を予見し、それを絵描き小僧が絵で伝えた。これが最も正確な所だろう。微塵の疑いも無く、そうに違いないと、オレは確信していた。

「信じられねぇだろ?」

「信じるさ」

 太助もまた迷いのない振る舞いを見せた。間髪入れずに返された言葉。そこに、太助の想いの全てが篭められて居る様な気がした。

「力丸がそうだと言った言葉だ。それならば、信じられるさ」

 結花の想いを汲み取って貰えた事が嬉しかった。もちろん、オレの言葉を信じて貰えた事も嬉しかった。だから、オレは結花との物語の一場面を語って聞かせる事にした。

「前にさ、結花と一緒に居た時に、同じ様な出来事に遭遇してな。まぁ、その時は死人も出ちまったから、心底後味、悪かったけどな」

 あの日、あの時、結花は先刻、オレ達が目の当たりにした事故と同じ様な状況を予見してみせた。本人は、それは予見等ではないと否定していたが、誰が聞いたとしても、結花がこれから起こるであろう惨劇を予見したとしか思えなかった。もっとも、本人が頑なに否定する以上、それ以上踏み込む事はできなかった。もっとも、人の死に纏わる予見など、仮に為せたとしても、ちっとも有難味などない物だろう。むしろ、余計な未来が見えてしまう分だけ損をする事になる。あの日、あの時、結花と共に歩んだ一時が、オレの脳裏に克明に蘇ろうとしていた。

◆◆◆71◆◆◆

 その日、オレ達は京都駅近くを散策していた。丁度、オレが高校一年の頃の話だから、結花と出会ってから、それなりに時間が経ってからの出来事だった。

 結花は人と関わる事が得意ではなかった物の、人が多く居る場所に身を置く事は好む傾向にあった。だから、結花が行来たがる場所は四条の丸井や高島屋であったり、そうでなければ、京都駅の地下街ポルタの様に、人が多く、賑やかな場所が多かった。

 季節は丁度、そろそろ梅雨が明けようかと言う、暑い夏の日の事だったと記憶して居る。一頻り買い物も済んだ所で、さて、次は何処に出掛けようかと考えていた最中に直面した出来事だった。

 梅雨明け前の最後の悪足掻きとでも言うのだろうか。数日間続いた雨もようやく上がり、久方ぶりに太陽が姿を見せたと言う事も重なり、日差しの下を歩きたくなったのかも知れない。丁度、お東さんの手前にある交差点にコーヒーショップがある。そこで冷たい飲み物でも飲もうと、オレ達は大通り沿いを歩いていた。信号が青になり、横断歩道を渡ろうとした所で、不意に手を引かれた。

「お? どうした?」

 驚きついでに結花の顔を覗き込んだオレは、思わず息を呑んだ。結花は、普段、見せる事のない、酷く険しい表情を称えていた。ただ、信号の先をジッと睨み付ける様に凝視したまま、オレの手を痛い程の力で握り締めたのだから、驚くなと言う方が無理がある。

「……力丸君、信号が次に青になるまで待って。お願い」

 この頃は、既に結花の不思議な力の事も十分に理解していた。だから、オレは何の疑いも抱く事無く、結花の言葉に従う事にした。信号が青になったと言うのに信号を渡るでもなく、ただ呆然と立ち尽くすオレ達を、行き交う連中は容赦なく奇異な目で見ていたが、そんな事はオレにはどうでも良かった。これまでにも、結花は何度と無く同じ様な振る舞いを見せたが、その都度、起こった出来事には寸分の狂いもなかった。だからこそ、結花の言葉に抗うと言う『選択肢』は最初から選ぶつもりはなかった。結花の言葉に従う。その『選択肢』以外、オレが選ぶ道は有り得なかった。

「十、九、八、七……」

 一体、何をぶつぶつ言って居るのだろうかと思ったが、すぐに、それがカウントダウンである事に気付かされ、背筋に冷たい物が走った。だが、結花は道路の向こう側にある信号をジッと見つめたまま、ゆっくりとカウントダウンを続けて居る。オレはそんな結花を固唾を呑んで見守る事しかできなかった。

「六、五、四、三……」

 道路の向こう側に設置された横断歩道が点滅を始めた。何か良くない事が起きる。それも、決して、小さな事ではないハズだ。不安と恐怖から、オレは今すぐにでも結花の手を引いて、この場から逃げ出したかった。だけど、結花は動こうとしなかった。まるで、見届ける事が責務だと言わんばかりに毅然とした態度を崩す事無く、ただ、その場に力強く立ち尽くすばかりだった。

 驚くべき事は次の瞬間に起きた。一体、何を考えて居るのか、杖を手にした一人の老婆が信号が点滅して居ると言うのにも関わらず、大急ぎで信号を駆け抜けようとする姿が目に留まった。道路の向こう側から必死の形相で駆け抜けようとして居る。だが、どう考えても渡り切る前に信号は赤になってしまうだろう。予想通り、周囲の連中も嫌な予感を抱き始めた様子だ。小声でヒソヒソ何かを語らう奴らも居れば、ただ、黙って状況を見守る奴もいた。

「二……力丸君、目を閉じて、耳を塞いで」

「え?」

「お願い。あたしの言う通りにして」

「お、おう……」

 次の瞬間、驚くべき事が起きた。異様に速度を挙げたまま、強引に左折しようと試みるトラックが勢い良く交差点に駆け込んできた。あろう事か、携帯で電話中らしく、老婆の姿に気付いていない様子だ。オレの背後で女子高生が短く悲鳴を挙げた。それに気付いたのかどうかは定かではなかったが、運転手はようやく事態に気付いたらしく、慌てて急ブレーキを掛けた。だけど、哀しいかな。人と言う生き物は、自らの死を察した瞬間、驚きと恐怖の余り、逃げるどころか身動き一つ取れなくなってしまう物らしい。老婆は逃げる事もできずに、その場で凍り付いたかの様に立ち尽くした。

 響き渡る急ブレーキの音。周囲の連中が発する悲鳴。老婆の絶望に満ちた叫び声。そして、次の瞬間、鈍い音が響き渡った。予想以上にスピードが出て居たのか、トラックは横断歩道を大分通り過ぎた所で止まった。道路に倒れた老婆はぴくりとも動かない。それどころか、うつぶせに倒れた老婆の周りにはジワジワと血の海が広がる。その光景を直視してしまったオレは、思わず息を呑んだ。時の流れが止まったかの如く、周囲にはゆっくりと静寂が立ち込めてゆく。誰もが言葉を失ったと思われた時、不意に、誰かの叫ぶ声が響き渡った。

「だ、誰か……誰か! 救急車を呼べ!」

 『誰か』じゃなくて、『お前』が呼べば良いだろうが。自分でも驚く程にオレは冷静だった。

「大変! あのお婆ちゃん、死んじゃったんじゃないかしら!?」

 妙に冷静に振る舞う主婦がいた。ワイドショーで見て居る光景を生で見る事ができた今の心境はどんな物だ? 亡くなった老婆に向けて何か一言お願いします。馬鹿にする様にリポーター口調でマイクを突き付けてみたい衝動に駆られる。平和な日常に退屈して居るに違いない。きっと、聞いても居ない事までベラベラと喋り続ける事だろう。主役はさも、自分だと言わんばかりに。

「あ、ああ……」

 女子高生は余りの出来事に声も出せない様子だ。顔面蒼白のまま、その場に膝から崩れ落ちた。貧血か? おいおい、こちらのお嬢さんもヤバそうだぜ? 一緒に救急車で搬送してやった方が良いんじゃねぇのか? 皮肉った笑みを浮かべるオレが居た。

 そんな中、冷静に振る舞う者もいた。体育会系出身と思しき、やたらと体格の良い、若いサラリーマンは携帯を片手に救急車に状況を伝えていた。多分に大きな声のお陰で、こちらにまで会話内容が聞こえて来る。

「ええ、ハイ。場所は……交差点です。事故……ハイ。負傷者はお婆さんで……」

 冷静に状況を伝えていた。まるで取り乱した様子もない。オレもこう言う男になりたい。そう素直に思えた。

 これ程までに冷静さを保って居られるのは、多分、目の前に広がる光景が余りにも現実離れしていて、オレの中ではドラマか、何かの撮影でもして居るかの様にしか思えなかったからに他ならない。それに、言葉は悪いが、身の程を弁えない婆さんがどうなろうが、そんなの、自己責任だ。赤の他人であるオレ達の知った事ではない。トラックの運転手は死傷事故を起こした事で、法の名の下に裁かれるだけだ。職を失い、ついでにブタ箱行きだ。自らの手で蒔いた種だ。自らの手で落とし前を付けるが良い。オレに取っては、見知らぬ連中の未来など、どうでも良かった。それよりも、オレに取っては結花の事が遥かに気掛かりだった。

「大丈夫か、結花?」

「……あたしなら大丈夫」

 そう、気丈に口にしてみせたが、次の瞬間には肩を落として、消え入る様な口調へと移り変わっていた。

「でも、あのお婆ちゃんを救って上げられなかった」

「結花は何も悪くねぇだろ? 信号が変わろうとして居るのに無理に渡ろうとした方が悪いんだ。それに、あの運転手だって、わき見運転していたのが悪い。結花は何も悪くないだろ?」

「でも……」

「良いから行こうぜ。オレ達がここにいてもできる事は何もない。さっさと忘れちまえよ」

 悪い夢だったらどんなに良かっただろうか。だけど、現実と言うのは往々にして夢よりも残酷な物だ。結局、誰が悪かったかなんて、オレには判らなかった。多分、あの婆さんは助からないだろうし、あのトラックの運転手は法の名の下に裁かれる。それだけの事だ。そこから先の事はオレ達が首を突っ込む事ではない。知る必要も無ければ、知る意味もない。それに……他人の命に纏わる物語なんて、知った事を後悔する事が殆どだ。知らない方が良い事など、世の中には幾らでもある。ましてや、見知らぬ赤の他人のいざこざに首を突っ込むなど、気の触れた物好きにでも任せて置けば良い。

 例えば、あの婆さんの死を願った奴がいて、そいつの願い通りの展開になったのだとしたら、そんなドロドロとした舞台裏など知るだけ損だ。醜悪な人の心の闇など知らない方が幸せで居られる。見知らぬ他人の物語まで背負えるほど、オレは人間ができて居ないし、そんな強さも持ち合わせていない。

 むしろ、オレの心配事は結花にだけ向けられていた。見知らぬ婆さんの死とは言え、人の死と言う物語の幕引きを目の当たりにしてしまったのは事実だ。オレの中では、結花には一番見せたくない光景だった。極めて忌むべき光景だ。迷惑以外の何物でもない。何故、オレ達の目の前で人が死んだ? 何故、敢えて、オレ達の目の前で死んだ? 止めてくれ! それでなくて結花は強い自殺願望を抱く身だ。鮮明過ぎる人の死を見届けてしまった事で、結花の中に潜む自殺願望が急激な成長を為し、殻をぶち破り、芽を生やさないかが心配で、心配で、仕方がなかった。一刻も早く、この場を離れ、結花の目線を変えさせなければならない。災いの芽など芽生える前に根絶やしにしてしまうべきだ。

「結花、ポルタに行こうぜ。ああ、そうだ。夏服、見に行くのも悪くないだろ?」

「え?」

「そうで無ければ、ほら、あのカフェショップだ。京都駅のカフェ・デュ・モンドからさ、行き交う人々を見降ろすでも良いしさ」

「ちょ、ちょっと……」

「そうだ。ケーキでも食いに行こうぜ。オレ、腹減っちまってさ」

「力丸君、落ち着いて……」

「ほらほら、そうと決まれば善は急げだ。思い立ったらすぐ行動に移そうぜ」

 駄目だ、駄目だ。今すぐにでもここを離れなければならない。最悪、結花を担いででもこの場から離れる必要がある。結花は遠い目をしていた。オレの言葉さえも届かない程に遠い場所に意識が旅立ってしまって居るであろう事の証だ。目の前で起きた死に、深く、深く、心を奪われて居るのは間違いない。死んだ魚の様に光を失い、とろんとした恍惚感溢れる眼差しに、オレはこれ以上ない位の危機感を覚えた。とにかく、目がヤバい事になって居る。このままでは呑まれてしまうのも時間の問題だ。冗談じゃない。そんな事させる物か。

 オレは半ば強引に結花の手を引き、逃げる様にその場を後にした。とにかく、ひたすらに馬鹿みたいに明るく振る舞って、結花の喜びそうな話題を次から次へと焚き付けた。必死だった。とにかく必死だった。何としても、結花の意識を明後日の方向に向けさせなければならなかったのだから。正直、それでも駄目なら、結花を担いでトイレにでも連れ込んで、強引に犯す位の覚悟はあった。冷静になって考えてみれば、そんな事をすれば、違った意味で結花を傷付けてしまう事になるのは間違いない。だけど、馬鹿なオレにはそんな事しか思い付けなかった。焦り過ぎて、多分に我を見失っていた事も否定はできない。

 そんなオレの頭の悪い振る舞いが功を奏したのか、越えてはいけない一線を越える前に結花が気持ちを切り替えてくれた。助かった。本当に良かった。恐らく、結花は勘の鋭い女だから、オレが何を考えて居るのか気付いてくれたのだろう。獣の本性を剥き出しにして、本気で結花の事を犯そうとするだけの覚悟を抱くオレに気付いた時には、流石に、恐怖を覚えたに違いない。それで良い。気付いて貰うために敢えて、最低な振る舞いを見せたのは事実だ。結花、お前を守るためならばオレは何だってやる。

 結花は何も言わずに踵を返すと、オレの腕を掴んで見せた。信じられない程に力が篭っていたが、これ以上ない程に震えて居るのが気に掛かった。不意に現実に戻った瞬間、死を追い求めていた自分に気付き、恐怖心を覚えたのかも知れない。いずれにしてもこの場から一刻も早く離れるべきだ。オレは結花の肩を抱いたまま駅ビルを目指す事にした。何処に向かうかなんて、正直、まともに考えられそうもなかったけれど、とにかく一刻も早くここを離れるべきなのは間違いない。一歩、また一歩、オレ達は惨劇に起こった死の現場から足を遠ざけていた。

◆◆◆72◆◆◆

 オレ達はすっかり静けさを取り戻した平等院鳳凰堂への参道を歩んでいた。流石は宇治と言うべきだろうか? 通り沿いには茶店が並び、茶葉の濃厚な香りが漂っていて、思わず背筋が伸びる。周囲には変わる事の無い、日常の長閑な光景が広がって居る。普段であれば観光客も多く往来するのだろうが、先ほどの事故の影響も否めない気がする。もっとも、オレに取っては見知らぬ他人が何処で、何をしようが、そんな事には微塵の興味もなかった。ただ、目の前に居る太助にオレの想いを伝えたかった。オレの想いを聞いて欲しい。受け止めて欲しい。ただ、それだけしか考えられなかった。

「結花が未来を予見したのは一度や、二度じゃなかったからな」

 オレの言葉に太助は神妙な表情で頷くばかりだった。

「もっとも、人が死ぬ様な大きな出来事に遭遇したのは、その一回だけだけどな」

「なるほどな」

 その一言だけ口にすると、太助は前だけ見つめたまま静かに歩き出した。

「力丸、このまま宇治川沿いに歩くぞ」

「お、おう……」

 太助の事だ。考え無く行動を起こして居るとは考え難い。何か思う所が在るのだろう。だけど、要らぬ詮索はしたくなかった。太助とこんなにも真面目に、互いの想いを交わし合ったのは初めての事だから。確かに、普段から一緒に遊ぶ事も多かったが、それでも、どこかに一緒に出掛けては徒然なるままに語らう事が殆どだった。その豊富な知識を聞かせて貰うのが楽しくて、太助の雑学を聞く側に回る事が多かった。だからこそ、普段、出会う事のできない機会に出会えて居る以上、大切に扱いたいと思う。今は要らぬ事を考えずに、力強く流れゆく宇治川に寄り添う事で、大自然に抱かれるとしよう。

「案ずるな」

「え?」

 唐突に太助が口を開いた。穏やかな笑みを湛えた表情からは、涼やかな想いの様な物が見て取れた。何を企てて居るのかは予想もできないが、少なからず機嫌が良さそうなのは間違いない。やれやれ、オレにはお前のその涼やかな笑顔が妙に恐ろしくて仕方がない。

「水の流れに想いを馳せてみるのも悪くない」

 そう口にしながら太助は静かに歩き出した。

「一所に留まる事なく、流れ続ける水の流れ。だからこそ生々流転の物語を紡ぎ出す事ができる」

 太助が水のある場所を好む理由が少しだけ見えた気がする。宇治川の猛々しい流れを目の当たりにした際に、確かに、その想いが聞こえた気がする。小さく溜め息を就きながらもオレは太助に続いた。何を企てて居るのか判らないが、生々流転の物語、オレにも紡げるだろうか? 興味惹かれる部分も少なからずあった。好奇心は猫をも殺す。それでも好奇心を抱かずに生きられないとはオレも中々に悪趣味な性分だ。さて、何が出るやら楽しみに待ち侘びてみるとしよう。

◆◆◆73◆◆◆

 表参道を抜ければ、桜並木立ち並ぶ宇治川沿いへと至る。今は葉だけの姿になって居るが、これはこれで躍動感あふれる姿だ。青々と生い茂る桜の木々の葉は、照り付ける日差しの中でも生きて居る事を主張して居る様に思えて、生きる糧を分け与えて貰える様な感覚に包まれる。

 桜の木々の間を繋ぎ合わせる様に吊るされた提灯は、夜になれば暗闇に包まれる宇治川沿いを、静かに照らし出してくれるだろう。昼下がりの宇治川沿いを歩むのも悪くないが、夜に歩くと、また違った雰囲気を感じられそうだ。そんな事を考えて居ると、唐突に太助が想いも寄らない言葉を口にして見せた。

「そうだな。今度は夜にでも共に歩みたいな」

「なっ!?」

 驚かずには居られなかった。想いを口に出したつもりはなかったハズなのに、太助は何の迷いも無く、オレの考えて居る事を読み当てて見せた。当然、オレが疑問を抱く事は想定済みなのだろう。静かに吹き抜ける風を受け止めながら、太助はそっと目を細めて見せた。

「結花の気持ちに共感するところがあってな」

「……太助、お前も?」

 恐る恐る問い掛ければ、太助は俯いたまま静かに頷いて見せた。

「そうだ。俺にも人とは違う、特殊な能力――人の心を読める力が備わって居る」

 予想もしない話ではあったが、それ程驚きもしなかった。普段から勘の鋭い太助は、オレ達の僅かな動きさえも見逃す事なく、何を考えて居るかを読み解いて見せた。勘の鋭い太助だからこそ、為せる技だと思っていた。その延長線上にある能力だと考えれば、左程、違和感もなく受け入れる事もできた。

「驚かないのだな」

 オレの反応が予想外に素っ気なかった事が面白くなかったのか、太助は小さく笑って見せた。もっとも、今更驚かない自分も滑稽だった。色んな事を体験し過ぎたせいで可笑しな耐性ができ上がって居るのは間違いないと言える。それに、明言こそしなかったが、結花もまた、そうした能力を持っていた。そう考えれば、そうそう驚く様な事でもない様に思える。

「まぁな」

「話を聞く限りでは、結花は輝と似た能力を持って居る様に聞こえる」

 結花はそうした話を頑なに否定し続けた。未来が見える訳でも、人の死が判る訳でもない。そう、口にしていた。それに、そうした話題に触れられる事を結花は酷く嫌がった。それならば、敢えて詮索する意味も、価値もない。オレに取って、結花が風変りな能力の持ち主であろうが、無かろうが、そんな事はどうでも良かった。

 太助の話が引き金となり、考えない様にしていたテルテルの安否が脳裏に浮かんできた。

 あの時、花見小路の端、建仁寺前でオレは太助とテルテル、二人から一人を選べと『選択肢』を叩き付けられた。そこで、オレは太助を選んだ。そのお陰で、今、こうして太助と共に歩む事ができて居る。それならば、選ばれなかったテルテルはどうなったのだろうか? 結局、オレは自分の事だけで頭が一杯で、テルテルの身の安全を確認する事すらしなかった。何て薄情な奴なのだろうか。

「偶然なんてない。全ては必然か」

 太助はそう呟くと、宇治川へと向かって歩き出した。オレも慌ててその後を追った。

「今日、こうして力丸と共に宇治川の畔を歩んで居るのも、偶然ではなく、必然なのだろうな」

「オレもそんな気がする」

 それだけ言葉を交わしたところで、宇治川沿いまで歩み寄った。豊かな水源を称えた宇治川は、ただ静かに流れ続けて居る。流れゆく川の音に耳を傾けるのは心地良く感じられた。流れゆく川の音色と生い茂る草の匂いが心地良く感じられた。涼やかな風が吹き抜ける中、蝉達の鳴き声が重なり合う。耳に染み入る涼やかな音色を感じながら、オレはふと、昨夜、太助と共に語らった時の事を思い出していた。

『絶えず留まる事なく流れ続ける光景に、希望を見出して居るのかも知れない。今日が哀しくても、明日は良い事があるかも知れない。明日が駄目でも明後日は良い事があるに違いない。そんな気持ちになれる』

 流れゆく川に馳せる想い――そうか。太助が抱く想いが意味するのは、こう言う事だったのだろうか。大自然の息吹を全身で感じて居る自分に気付かされた。そんなオレの想いに呼応するかの様に不意に宇治川から風が吹き抜けていった。そっと、目を伏せて体全体で風を感じてみた。水の匂いを孕んだ涼やかな風が心地良くて、複雑に絡み合った心が静かに解けてゆく様な感覚に包まれた。心地良い感覚だ。このまま風に溶けてしまいたい。そう思える程に。違うな。ただ、自分に取って都合の悪い事を忘れて、逃げ去ってしまいたいと願うだけの臆病者で、卑怯者に過ぎない。

「大丈夫だ。力丸に選ばれなかったとは言え輝の身に何かが起きたとは考え難い。第一、そんな事になっていれば小太郎から真っ先に連絡が届くはずだ」

「そ、そうだよな」

 やはり太助はどんな状況下でも冷静さを失わない。オレもその冷静さを身に付けたい。イヤ、身に付けなければならない。感情的になるだけでは心を掻き乱す仕掛けには到底対抗できない。敵の思惑通りに動かされ、情鬼に成り果てるなんて冗談ではない。確かに、神も仏も居ない世の中ならば、オレが鬼になって復讐を果たしてやろうと思ったのは事実だ。だけど、本当にそれしか道はないのだろうか? 太助と共に語らう中で、少しずつ冷静さを取り戻したオレは、自分の考えの狭さに焦りを覚え始めた。考える事を放棄して、たった一つの『選択肢』に頑固に執着し過ぎて居るだけなのではないだろうか。そんな気がしてならなかった。

「橘橋を渡り、中州へと移動するぞ」

 太助の言葉に従い、オレは後に続いた。丁度、オレの視界の先には宇治川の流れの中、小島の様な中州がどっしりと居を構えて居る。宇治川の流れを、手前側の小さな流れと、向こう側の大きな流れとに分かつ様に佇む中州。手前側は流れも緩やかで、水面も平坦な姿を保って居る。対する向こう側は、荒々しく流れ続けて居る。どちらが宇治川らしいかと問われれば、やはり、向こう側の流れであろう。猛々しく、力強い流れを称える宇治川の流れは、だからこそ、心惹かれるのかも知れない。迂闊に足を踏み入れよう物ならば情けも容赦もしない。そう言わんばかりの荒ぶる姿に大自然の力強さを見出して居るのかも知れない。オレは強い者が好きだ。オレ自身が非力で、弱々しい男だからなのかも知れない。だからこそ、強い者に憧れを抱く。少しでも、自分もそうなりたいと思えるから。傍に居てくれれば目指すべき目標となってくれるハズだ。他力本願かも知れないけれど、自分の弱さを受け入れる事にした。だから、もう迷わない。

 橘橋を渡り終えたオレ達は、宇治川の流れの中に佇む中州へと歩を進めていた。一歩、一歩、踏み込む度に、足元で砂利が心地良い音を奏でる。ジリジリと照り付ける日差しが暑くて、汗が滝の流れの様にあふれ出て来る。既に、オレは土砂降りに出くわしたかの様な悲惨な状態に陥って居る。だが、あるがままの姿で振る舞うと言うのは悪くない。実に心地良い気持ちになれる。

「蝉達が威勢良く鳴いて居るな」

「ああ。そこら中から響き渡って居るよな」

「この暑さも相まって、夏らしい風情が感じられて悪くない」

「でもさ、すげぇ暑いよな」

「そうだな。向こう側に出れば、迫り出す木々達が日差しを防いでくれる。多少は涼しいかも知れない」

「じゃあ、張り切って行こうぜ」

 中州の中程から朝霧橋が架かって居る。神社の鳥居を思わせる様な、鮮やかな朱色の欄干が浮き立って見える。今の時期は木々の緑と空の青に包まれるだけに、こうした鮮やかな色合いは他にない。だからこそ、一際目立って見えるのかも知れない。鮮やかな色合いの欄干から身を乗り出せば、ごうごうと唸りを挙げながら、勢い良く流れゆく宇治川の流れが心地良い。所々で渦を巻く様に泡立って居る。水気を孕んだ風の流れが心地良い。川の畔に立ち並ぶ木々からは蝉達の威勢の良い鳴き声が、宇治川の流れに折り重なる様に響き渡る。流れゆく宇治川の水音と降り注ぐ様な蝉達の鳴き声。重ね、重ね合う中で、次第に涼を求める心が一気に膨れ上がらんとしていた。いよいよオレの中に眠る野生の血が抑え切れなくなりつつあった。

「ああっ、泳ぎてぇなぁ」

「……止めはしないが、確実に溺れるぞ?」

「いやいや、そこは笑ってないで止めろよ」

「なるほど。そんな『選択肢』もある訳か」

 相変わらず涼やかな笑みを称えたまま太助は颯爽と歩き出した。それにしても、太助は何時でも落ち付いて居る。一体、何をどうしたらこんなにも落ち着き払って居られるのだろうか。いずれにしても放っておけば、涼しい笑みを称えたまま颯爽と置き去りにしてくれる事だろう。

「オイ、コラ! 置き去りにするんじゃねぇよ!」

 オレは慌てて太助の後を追い掛けた。それにしても、次はどこへ向かうのだろうか? 川の流れが好きだと言っていたが、だからと言って、川が流れる様な軽やかな足取りで去っていかなくても良いだろうに。太助は一瞬だけこちらに振り返ったが、再び含み笑いを浮かべたまま歩き出した。

◆◆◆74◆◆◆

 朝霧橋を渡り切れば、そこには宇治川沿いに続く細い道が続いて居る。何処まで続いて居るのだろうか? 細いながらも長い道は、終わりが見えない。だからこそ、どこまでも歩んでみたい衝動に駆られる。

 向かって右側には宇治川が流れ、左手には小高い石段が組まれ、その上に木々達が生い茂って居る。道路側に迫り出す様に大きく枝を伸ばす木々達が強い日差しを遮ってくれて、突き刺さる日差しから守ってくれて居る様に感じられた。ふと、空を見上げれば木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日が眩しい。思わず目を細めずに居られない程の日差しだ。やはり今日は蒸し暑い。日差しを浴び続けた肩がジリジリと痛む。照り付ける様な日差しの中、丁度、宇治川の流れに逆流する様にオレ達は歩んでいた。進んで居る方向には興聖寺がある。そこに向かおうとして居るのだろうか?

「ああ、その通りだ」

「ひ、人の心の中覗き見するんじゃねぇよ」

「俺はムッツリスケベらしいからな。覗き見趣味を持っていても可笑しくあるまい?」

「うわっ……お前、もしかして結構根に持つクチか? おー、怖ぇ怖ぇ。迂闊な事言えなくなっちまったな」

「言わなくても心の中は垣間見れる。無駄な抵抗だ」

 ふふ、と涼やかな表情で笑い返す太助の余裕に満ちた振る舞いに、オレは思わず息を呑んだ。

「俺の前では誰もが丸裸にひん剥かれる。最初のうちは誰もが恥じらいを覚えるが、次第に、その恥じらいが抗い難き快楽に変わってゆく。ふふ、そうやって人が堕ちてゆく様を見届けるのは中々に愉快な物だぞ?」

「わはは。発言がちょっとアブな過ぎだぜ」

 太助は終始上機嫌な振舞いを崩す事はなかった。少々、突飛な言動の数々に驚かされるが、太助の事だ。どう言う発言をすればオレが動揺するかを心得て居る上で、敢えて妙な振舞いを選んで居るのだろう。オレなんかの面白味のない反応でも喜んで貰えるなら光栄だ。

「ふむ。なるほど。将来はお笑い芸人志望か。それも悪くないな」

「オイ、コラ! 人の将来を勝手に軌道修正するんじゃねぇよ!」

 笑いながら歩いて居るうちに、目の前には小さな橋が見えて来た。観流橋と言う名の橋だと、太助はさらりと教えてくれた。宇治川へと流れ込む様な形になって居る川の上流には、宇治発電所があると聞かされた。なるほど。だから、関係者以外は立ち入り禁止になって居ると言う訳か。しかしながら、入るなと言われれば、余計に入ってみたくなってしまうのが人の常だ。気になる。この先には何があるのだろうか? 発電所とは一体、どの様な場所なのだろうか? 興味を惹かれる。イヤ、むしろ、気になって仕方がない程だ。

「そうだな。何もかもを見せられるよりも、見えそうだが、ギリギリ良い所で上手い具合に見えないと言う方が妄想を掻き立てられ、興奮させられる物だ」

 思わずオレは腕組みしたまま力強く頷いてしまったが、にやにや笑う太助の視線に気付き、慌てて咳払いで誤魔化した。

「……男心の理解者の称号をくれてやろう」

「光栄だな」

 ダムが放水を行って居るのだろうか? 宇治川に流れ込む水流はゴウゴウと雪崩れ込み、白く泡立って居る。その猛々しいまでに力強い流れは、見る者を魅了する様に思えた。太助が宇治川を愛する理由が判った気がする。雄大なる宇治川の流れは、それだけでも前へ、前へと突き進むべく背中を後押ししてくれる様な感覚さえ抱かせてくれる。ずっと、見つめて居たい衝動に駆られるが、立ち止まって居るだけでは物語は進まない。さて、先に進むとしよう。

 それにしても、こんなにも風情あふれる涼やかな景色を歩みながら、何と品のない話をして居るのだろうか。やれやれと思いながらも、オレは太助を先導する様に歩き出した。行く先に釣具屋がひっそりと店を構えて居るのが目に留まった。興味を示したオレに気付いたのか、太助が静かに口を開く。

「宇治川は鵜飼いでも知られる川だからな。様々な川魚も釣れるはずだ」

「川魚か。今の時期だと、ニジマスの塩焼きとか美味いよな」

 腕組みしながら口にして見せれば、オレの言葉に興味を惹かれたのか、太助が静かに笑って見せた。

「ふふ、今度は食い物の話か? 俺達は随分と本能に忠実な生き方をして居るらしい」

「まぁ、野生的な男だからな」

「ほう? その言葉には俺も含まれて居るのか?」

 太助は腕組みしながら、目を細めて不敵な笑みを浮かべて見せた。

「他に誰が居るんだよ」

 オレは突き放す様に言って見せてから、そのまま通り沿いに歩き続けた。照り付ける日差しの中、ゴウゴウと音を立てながら勢い良く流れゆく宇治川の川音が心地良い。宇治川は水量も多く、豊かな流れを称えて居る。流れゆく川の音色が耳に染み入る感覚が心地良い。宇治川と一つになって、共に歩んで居る様にさえ思える。そんなオレの想いに応えるかの様に不意に風が吹き始める。木々の葉の音色が肌で感じられる。割れんばかりに降り注ぐ蝉達の鳴き声と宇治川の流れが重ね合い、大自然の息吹が此処に在る。そう実感できるのが実に誇らしく思えた。

 釣具店を後にしてしばらく歩けば、程なくして興聖寺の入り口が見えて来る。興聖寺と記された立派な石碑は、長い歴史を感じさせる風合いを称えており、確固たる格調高さが感じられた。なるほど。ここが興聖寺の玄関口か。この玄関口の光景を見ただけでも、気品あふれる寺である事は想像できる。どの様な情景に出会えるのか気持ちが昂ってゆく。

「先に言って置くが、興聖寺の本殿は事前に連絡しておかないと拝観できなくてな。まぁ、それでも本殿へと続く琴坂の景色に触れるだけでも十二分に訪れる価値はある」

「なるほどな。まぁ、今回の旅の案内人はお前だからな。オレは案内されるがままに着いて行くだけだぜ」

「それでは、行こうか」

 オレの言葉に誇らしげに頷きながら太助が歩き出す。そのすぐ後を追う様にしてオレも続いた。宇治川の音色を受け止めながら、此の地に永らく在り続けた寺。多くの人々が往来して来たであろう寺。その寺に、こうして太助と共に訪れる事ができた。恐らくは、この流れもまた、仕組まれた物なのだろう。偶然ではない。必然に他ならない。

 興聖寺の玄関口を飾る石碑を過ぎれば、そこには本殿へと続く緩やかで長い琴坂が続いて居る。ふと、目線を道の端へと落とせば、道の両脇を小川が静かな水音を奏でながら流れてゆく情景が目に映る。琴坂の道幅は狭く、両脇は石垣が築かれ高台になって居る。そこから生い茂る木々達が琴坂を覆い尽くさんばかりに大きく枝を伸ばして居る。水気の多い土地柄なのだろうか? 小川沿いには、湿気を好むシダ類や苔が生い茂って居る。生い茂った木々達が光を遮ってくれる事もあり、育ちやすい環境なのかも知れない。

 宇治と言う地は、宇治川に象徴される様に水に縁ある土地柄の様に感じられる。照り付ける日差しを遮る様に木々達が大きく枝を伸ばして居る。そこに重なる様に涼やかな湿気が折り重なり合い、日に焼けた肌を癒してくれる様な感覚さえ覚えていた。此処は不思議な場所だ。人の手が築き上げた場所だと言うのに、山深い地にひっそりと居を構える山寺の参道を思わせる風情を称えて居る。此処に居るだけで気持ちが安らぎ、心が鎮まってゆく感覚に包まれる。

 秋になれば琴坂は紅葉に包まれる。両岸から大きく枝を伸ばして居るのはいずれも紅葉達だ。今は真夏の盛りだからこそ、新緑の青々とした木々の息吹も感じられる。だけど、季節が巡れば、青々とした木々の葉も鮮やかな紅へと移り変わる。秋になった時、その想いはどう移り変わるのだろうか? 今と同じ様に迷い続けて居るのだろうか? それとも、変わりゆく木々の葉の様に迷いも移り変わってゆくのだろうか? 道など幾らでもある。後は覚悟だけだ。『選択肢』を選ぶ覚悟だけあれば変われるハズだ。選んだ道を信じて突っ走る覚悟……それだけを信じて力の限り、ひたすらに突っ走るだけだ。

「なぁ、太助」

 オレの言葉に太助は静かに足を止めると、そのまま振り返って見せた。

「秋になれば、この両岸の木々が一斉に紅葉するんだろ? すげぇ綺麗なんだろうな」

「そうだな。秋になったら皆で訪れてみるのも悪くない。その時は、今と同じ様に、俺が案内人として名乗りを挙げさせて貰おう」

 一斉に紅葉した琴坂か。周囲を覆い隠す様に伸びる木々達が一斉に色付く光景は、言葉も出無くなる程に綺麗な光景となるに違いない。だけど、その情景を思い浮かべた瞬間から、オレはどうしようもない程に、胸が締め付けられる様な感覚を覚えていた。酷く息苦しい様な感覚だった。もしも、この場所を結花と共に訪れて居たら――そう考えずに居られなかった。

 燃え上がる様に紅葉した木々達が参拝客達を優しく出迎えてくれる。豊かな水源を称えた地だからこそ、秋になればヒンヤリとした冷気を称えるのは想像に難くない。幻想的な光景の一歩、また一歩、ただ静かに歩む。その光景の中に、結花と寄り添う様にしてオレも居る。結花は華やかな光景や、色鮮やかな光景が好きだった。そう――「だった」なんだ。過去形。もう、結花と共に過ごした一時は戻ってこない。結花はもう、この世に存在していないのだから。いっそ、オレも結花と共に――。

 何時しか周囲は夜半の情景へと移り変わっていた。はらりはらりと静かに音も無く舞い落ちる白い雪の中、寒さに身を寄せ合う様にしてオレ達は共に歩んでいた。吐く息さえも真っ白になる程の寒空の下歩んだ記憶。はらりはらりと静かに音も無く舞い落ちる白い雪は何時しかほたるへとその姿を変えようとしていた。人々の命さえも凍らせて、人々の命さえも飲み干す程に冷たく、鋭く、残酷な哀しみに満ちた雪の情景の中、確かにオレ達は大晦日の晩を歩んでいた。そして、その旅路の果てで結花は、結花は――。

「……琴坂を上り切るぞ」

 遠退き掛けた意識を力強く引き戻したのは、やはり、太助だった。心なしか、惑わされそうになったオレに気付き、現の世へと引き戻してくれたのだろうか?

「あ、ああ」

 未だ多少、視界が揺らぐ中、太助に心配を掛けない様にオレは力強く踏み込んだ。

 それにしても、人の心を垣間見る能力を持つ者、か……もしかすると、太助はオレの想いだけでは無く、結花の想いさえも見抜いて居るのではないだろうか? イヤ、何の根拠もない、身勝手で無意味な詮索は止そう。

 オレ達は一歩、また一歩と踏み締める様に琴坂を上り続けた。辺りは静けさに包まれていて、蝉達の鳴き声と小川の流れゆく涼やかな音色以外、何の音も聞こえなかった。だからこそ、余計に胸が締め付けられて仕方がなかった。もしも、結花が生きていたら……坂を一歩、一歩、歩む度に、結花への想いも募っていく様な不思議な感覚を覚えていた。本当に不思議な感覚だった。オレの隣を結花が歩いて居る。そんな感覚に包まれていた。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。オレ達は坂を上り切った。ふと、後ろを振り返ってみれば緩やかな坂道を下り切った所に、先刻、目にした石碑が佇んで居るのが見えた。緩やかな坂ではあったが、それなりに長い坂道だった。

「結花は花が好きだったのだな」

「ああ。それも古くから日本に生きて来た様な花を好んだ」

 オレはそっと空を見上げてみた。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日が優しくて、儚くて、キラキラと光り輝く命の灯火の様に感じられた。

「派手な花よりも、道端にひっそりと咲く様な名も知らぬ様な花を好んだ」

「特にお気に入りだったのは――杜若か」

 溜め息混じりに言った所で、太助は静かに空を見上げて見せた。

「結花の想い、俺には良く判る気がする」

 太助は木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日を見上げる様にそっと顔を挙げて見せた。穏やかな笑みとは裏腹に、深い憂いを孕んだ表情に確かな疑問が沸いた。何故、太助はこんなにも切な気な表情を湛えて居るのだろうか? 疑問には思っても問う事はできなかった。そんなオレの想いなど気にする素振りも見せずに太助は淡々とした口調で想いを語って見せた。

「振り向いて欲しいと切に願う相手は、だからこそ、振り向く事はない」

 意味深な言葉に体が震えた。それは結花の想いなのか? それとも、お前自身の想いなのか? 気になって仕方がなかったが、やはり、臆病者のオレには問う事はできそうにない。

「振り向く事はないと判って居るのに追い求めずに居られない。知らなければ追い求めようと思う事すらなかった。気付きもしなかった。ただ、微かな風が吹き抜けて行っただけとしか感じられなかった。だけど知ってしまった。だから、もう、後戻りはできない。知らなければ良かったのにと、何度も、何度も自分を恨んだ。それでも――」

 太助は小さく吐息を就くと、殊更に寂しそうに呟いて見せた。

「追い求めずには居られなかった。その先に待つのは絶望。その先に待つのは哀しみに満ちた結末だけだと言うのに。だからこそ思う。だからこそ思う。知らなければ良かったと。そう――」

 一瞬の静寂。それから吹き抜ける穏やかな風。だけど、生い茂る木々達の葉を揺らすには十分な威力を伴っていた。ざわざわとさざ波の様な涼やかな音色を奏でながら木々達の葉が一斉に揺れ動く。心地良い光景だった。だけど、オレには木々達が泣いて居る様にしか思えず、胸が酷く締め付けられた。そうか。そうだったのか……結花は絶望を知った。どんなに頑張ってもオレを手にする事はできないと知っていたから。それでも、追い求めずには居られなかった。たった一つの、ようやく見つけた小さな、小さな、希望だったのだから。暗闇に満たされた残酷な小路を歩むだけの結花に取って、その光は本当に希望の光だったのだから。

「――愛されると言う感情など、知らなければ良かったと、せせら笑いながら涙を零したのだろうな」

 小さく溜め息を就いてから、太助は感極まった様に微かに掠れた声で絞り出す様に呟いた。

「辛かっただろうに……」

 そう呟く太助の頬を一粒の涙が零れ落ちた。木漏れ日に照らし出された一粒の涙はキラキラと光りを称えていた。思わず息を呑むオレには気付いて居ないのか、穏やかな笑みを称えたまま、太助は空を見上げていた。言葉通り、結花の想いを受け止めて貰えた。そう確信できたからこそ、オレもまた、太助の目線を追う様に木々達を見上げてみた。

 その時だった。信じられない出来事が起こった。何の前触れも無しに、唐突に、驚く程に自然に。余りに驚かされたオレは、驚きの余り声を発する事さえできなかった。チリーン。確かにオレは耳にした。木々達に覆われた琴坂を駆け巡った鈴の音を。気のせいなんかじゃない。確かに耳にした。

 次の瞬間、オレ達の立って居る場所を起点に、坂道を駆け抜ける様にして一斉に木々達が赤々と移り変わってゆく様が目に留まった。一体、何が起こったと言うのだろうかと、考える間も無く異変は瞬く間に駆け抜けていった。お陰で、もはや琴坂はすっかり紅葉に包まれた情景へと移り変わってしまって居る。時折、ハラハラと鮮やかな紅の葉が舞い落ちてくれば、深まった秋の香りが頬を撫でてゆく。余りにも幻想的な光景だ。この世に在って、この世ならざる美しくも儚い光景。その光景に見惚れて居る内に、段々と胸が一杯になって来る感覚に襲われていた。

 この燃え上がる様な紅葉の光景に呼応するかの様に、体が燃え上る様に熱くなり、どうにも自分を抑え切れなくなったオレは、太助を後ろから力一杯抱き締めていた――何故、そんな事をしたのか、自分でも良く判らない。ただ、オレの中で太助に対する想いが変化したのは事実だった。

 判って居る。判って居るんだ。オレは抱き締める太助にコタの姿を重ね合わせて居た。オレは抱き締める太助に結花の姿を重ね合わせて居た。後ろから抱き締めたのはそう言う意味だ。判って居る。判って居るんだ。その様な振る舞い、非礼以外の何者でもないと重々理解して居る。だけど、多分、こう言うのは理屈ではないのだと思った。頭で考えるだけでは知り得ない事など、世の中には沢山あるのだと、笑いながらオレを諭してくれた結花の姿が蘇る。ああ、そうだな。頭で考えるのではない。肌で感じ取る必要がある。野性的な男を目指すクセに、野生を見失った、矛盾に満ちたオレに贈ってくれた想い、温かな体温の様なその想い、どうして手放してしまったのだろうか……。オレは太助を抱き締めたまま小さく肩を震わせる事しかできなかった。情けないな。野性的な男は何処へ行った? 所詮、理想と現実は違うのだとオレを揶揄するのか? 事あるごとにコタがオレに投げ掛けた言葉が胸を締め付ける。

「……同情か?」

 甘やかな吐息混じりに紡がれた太助の言葉に、思わず我に返ったオレは笑いながら返してやった。

「違ぇよ。結花の想い、受け止めて貰えたの嬉しかったからさ。だから――」

 オレは太助を抱き締める腕に、一際力を篭めた。

「ありがとうな」

 こんな光景を目の当たりにしても、太助は冷静さを失う事はなかった。余りにも落ち着き払った姿に、思わず笑みが毀れてしまう。そんなオレに構う事なく、太助は木々達を見上げたままぽつりと呟いて見せた。

「言っただろう? 皆が思う程、俺は強くない」

「ああ、知ってるさ」

 オレは太助を抱き締める腕に力を篭めた。まったく、卑怯な奴だ。誰もが羨む男前なクセに、海の底の様な深い寂しさを内に秘めて居るとは反則以外の何者でもない。

「少なくてもオレは知って居る。何しろ、オレ達はトモダチだからな」

「ありがとう、力丸……」

 どうして太助が結花の想いを汲み取る事ができたのか。そんな事はどうでも良かった。ただ、結花の想いを汲み取り、結花と共に哀しんでくれた太助の想いが嬉しかった。だから、オレは太助の事を力一杯抱き締めた。こんな蒸し暑い中で、汗だくのオレなんかに抱き締められて気色悪かったかも知れない。でも、あふれ出る想いをどうしても言葉で言い表す事ができなかったオレには、溢れる想いを伝える手段が他に思い浮かばなかった。だから、オレはただ、力の限りに太助を抱き締めていた。降り注ぐ蝉達の鳴き声と、重なり合う小川の水音。そこに重なり合う太助の鼓動とオレの鼓動。高鳴る互いの鼓動を感じ合っていた。生きて居る。オレも太助も生きて居る。確かな事実をオレは……オレ達は、ただ、静かに確かめ合っていた。

◆◆◆75◆◆◆

 興聖寺の境内をぶらりと巡って来た後で、オレ達は再び宇治川沿いを歩いていた。宇治川沿いに宇治橋を目指す様に歩んでいけば、民家が立ち並ぶ静かな街並みの中、宇治神社がひっそりと佇んで居る。宇治神社の境内を抜けて、そのまま道沿いに少し北に歩けば世界遺産にも登録されて居る宇治上神社に到着する。世界遺産に登録されて居る程に格式ある神社であるが、その規模は小さく、人気も少なく、ひっそりと佇んで居る様な印象を受ける。それでも厳かなる気品に満ち溢れた鳥居を目にして、気持ちが引き締まる感覚を覚えた。

 静けさに包まれた道沿いには昔ながらの民家が立ち並ぶ。静かな道の中をオレ達は歩み続けた。程なくして「世界遺産」と記された石碑が見えて来る。その隣にそびえる鳥居をくぐって少し歩けば小さな石橋が見えて来る。細い小川に架かる小さな石橋を渡ってすぐの所にある門を潜り抜ければ、宇治上神社の境内に至る。

「予想外に小さくて、本当に静かな神社なんだな」

「そうだな。華美に着飾る訳では無く、あくまでも物静かに佇む姿が、この気取らない姿が好きでな」

 太助の言葉を受けながらオレは境内の景色を見回していた。人気も無く、静まり返った境内は、厳かな雰囲気を称えていて身が引き締まる想いで一杯だった。

「判る気がする。お稲荷さんみたいに賑わいを見せる、でっかい神社も悪くないけれど、こう言う人気のない物静かな神社も好きだな」

「境内すぐの所に桐原水と呼ばれる湧水がある。綺麗な水だ」

 太助が指し示す方向には、桐原水の建屋がひっそりと佇んで居る。厳かな雰囲気が漂う建物の中は薄暗く、近付かないと見えそうにない。石壁に囲まれた建屋の中は光が差し込まず、薄暗かったが、確かに透き通った湧水が、敷き詰められた石の隙間からこんこんと湧き出る様が見てとれた。そっと、手桶で掬って見せれば驚く程に冷たく、また、透き通る様な綺麗な水だった。

「綺麗な水だな」

「そうだな。古き時代から受け継がれて来た物は大事に後世まで伝えて行きたい物だ」

「大袈裟な……と言いたいところだが、確かにそうだな」

 湧水の冷たさに心癒された所で、太助がオレを先導する様に奥へと進んでゆく。境内の奥、一段高くなった所に本殿が、その手前に拝殿が佇んで居る。いずれも国宝だと、太助が教えてくれた。

「小さい神社だが、実に味のある神社だろう?」

「ああ。なんつーのかな。言葉にできない重みのある雰囲気を感じる場所だよな。上手く表現できねぇけど、厳かなる雰囲気を感じる場所なのは確かだな」

「高貴な雰囲気の漂う場所であろう? こうした場所では騒いではいけない。そう言う気持ちに自然とさせてくれると言うのも、中々に赴きある事だ」

 溜め息が漏れる様な雰囲気を肌で感じていた。古き時代から今の時代に至るまでの長き年月の間、大切に、大切に守られ続けてきて、だからこそ、今、この時代を生きる事ができて居る。多分、これからもずっと、ずっと、大切に守られ続けてゆくのだろう。小さい神社だけど、これ程までに厳粛なる雰囲気を感じる場所とは初めて出会った気がする。それに……オレに取っては、太助と共に訪れた思い出の場所の一つとなる。大事に守って生きたいと切に願う。

「ここは人の気配も無く、静けさに包まれていて心地良い場所だ」

 太助が静かに溜め息を就く声が聞こえた。蝉達もまた、この神社の雰囲気を介して居るのだろうか? 遠くの方で鳴いて居る遠慮がちな鳴き声が、漏れ聞こえて来る程度の心地良い静けさに包まれて居る。

「結花の気持ちが理解できた理由、少しだけ話させて貰おう」

 宇治上神社の境内を歩みながら太助は静かに想いを語り始めた。静まり返った境内にはオレ達の足音だけが静かに響き渡っていた。他の誰も居ないからこそ、普段は口にできない様な話も口にできるのかも知れない。

「昔の俺は誰も信じる事ができなかった」

 そう、切り出された瞬間から境内の空気が変わった気がした。ピンと張り詰めた糸の様な冷たい気迫に包まれた気がする。気を抜いたら粉々に砕け散ってしまいそうな感覚さえ覚えていた。多分、太助の心の中に描かれた情景が、宇治上神社の神々しい雰囲気と重なり合おうとして居るのだと思った。

「そんな中、俺は賢兄と出会った。後から聞かされたが爺ちゃんに俺の面倒をみてくれる様に頼まれたらしくてな」

 太助は声を押し殺す様に笑って見せた。だけど、どこか哀しげな笑い声だった。

「もっとも、そんな事は何も知らなかった俺からしてみれば、ある日突然現れて、今日から俺の面倒をみる事になったと言われても訳が判らなくてな。何の事かサッパリ理解できなかった俺は無謀にも賢兄に喧嘩を売った。大体、お前は一体どこのどいつなんだってな?」

 太助はそっと足を止めると、可笑しそうに笑いながら空を見上げて見せた。そのまま来るりと振り返ると、オレの顔を覗き込んだまま、もう一度笑って見せた。

「ふふ、勝負にすらならなかったさ。あの時の賢兄は涼やかな顔で笑って見せたけれど、背筋が凍り付きそうな迫力に満ちていた。殺される――生まれて初めて体験した恐怖心だった」

 太助と賢一のアニキの出会いに関しては何も知らなかった。イヤ、太助はそれ以前に、自身にまつわる話題に触れられる事を嫌っていた。だから、当然、オレ達もその事には触れない様になっていた。そう考えると、こんな風に昔話を聞かせてくれたのは、それだけオレに心を開いてくれて居る事の証なのだろう。それならば、最後までシッカリと受け止めさせて貰おう。

「だけど、賢兄は俺と真正面から向き合ってくれた。あの日から俺は賢兄と共に歩む様になった」

 妙な親近感を覚える。太助と賢一のアニキの出会い、オレと結花の出会い、どちらも、どこか似て居る様に思える。どちらの出会いも、偶然では無く、必然だった。そうとしか思えない。

「だから、他人事に聞こえ無くてな。力丸と結花の関係――俺と賢兄の関係と良く似て居る。多分、賢兄が居なくなったら、俺は、また、あの頃に逆戻りしてしまうかも知れない」

 そうなのかも知れない。太助に取って賢一のアニキが少なからず、掛け替えのない存在である事位は、幾ら鈍いオレでも判る。同じ様な境遇にありながらもオレは結花を失った身だ。対する太助にしてみれば賢一のアニキは健在だ。だからこそ、オレの立場に立って考えてくれたのかも知れない。誰かを失う事の痛みを理解しようとしてくれた事、嬉しく思える。

「だから、力丸の哀しみは痛い程理解できてしまうのかも知れない。イヤ、理解できるなんて傲慢な言葉だな。実際に失った者にしか、その痛み、知る事はできないのだろう」

 完全に理解する事はでき無くても、同じ様な立場にある事を考えれば、ある程度は結花の気持ちを汲み取る事ができても不思議ではないと言う事か。だからこそ、興聖寺を歩んでいた時に結花の気持ちを介する事ができたのかも知れない。そんな事を考えて居ると、唐突に、予想もしない言葉を口にして見せた。

「だけど――結花は幸せ者だな」

 信じられない言葉に、オレは思わず太助に歩み寄ると、乱暴に肩を掴んだ。

「結花が……幸せ? そんな馬鹿な事あるか! 結花は……結花は、もう、死んじまったんだぞ!?」

 オレは思わず怒りに任せて太助の胸倉を掴んでいた。肩で荒く息をするオレの額を、頬を、お構いなしに汗が伝って落ちる。鼓動が高鳴り、体中が燃え上がる様に熱くなる感覚を覚えて居た。もはや、自分を抑える事はできそうになかった。怒りの感情は恐ろしい。呆気なく我を見失わせてくれる。だけど、走り出した激情は止まりそうにない。

 静寂に包まれた神社で声を荒げる様な真似はしたくなかったが、黙っていられる訳がなかった。オレの声に驚いたのか、鳥達が飛び去ってゆく羽音が響き渡った。一体、どんな想いで言ったのかはオレには判らないが、そんな馬鹿な事があるか! 怒りを露わにするオレを見つめたまま、太助は静かに、だけど、どこか寂しげな笑みを浮かべて見せた。

「こんなにもムキになって怒ってくれる力丸が居る。本当に大事に想われていたのだな」

 太助は目を伏せ、小さく溜め息を就きながら続けて見せた。

「死して尚、これ程までに心の底から想ってくれる力丸が居る。俺が死んだ後、こんなにも想ってくれる誰かが居るのだろうか? 少し、羨ましく思えるな」

 溺れる者は藁をも掴む。多分、オレは自分の事しか見えて居なかった。だからこそ、一方的にオレの想いだけを太助に必死で叩き付けていた。太助がどんな風に想うかも知らずに。昨晩、太助が見せた寂しそうな振舞いの意味、判ってしまった気がする。でも……だからと言って、そんな事は嘘でも思って欲しくなかった。だから、オレは太助の肩を乱暴に掴んだまま、再び声を荒げた。

「太助、お前が死んだら哀しいよ。オレ、涙、止まらなくなるぜ?」

「力丸……」

「だから! 冗談でも死ぬとか言うな! 次に言ったら、本気でぶん殴るぞ! 判ったか!?」

「済まない……」

「ずっと、トモダチで居てくれよな。オレ、お前とトモダチになれて本当に良かったって思ってるんだぜ? オレの知らねぇ事一杯知って居るしよ、清滝川で聞かせてくれた三味線、すげぇ格好良くてさ、鮮明にオレの記憶に残って居るんだからよ」

 オレの言葉を受け止めながら、太助は照れ臭そうに顔を赤らめた。

「悔しい位に格好良くてさ、ちょっとだけ惚れそうになっちまったじゃねぇかよ。だからさ、死ぬなんて言わないでくれよな。もっと、オレと一杯、思い出作ろうぜ? な?」

 太助は照れ臭そうに笑いながら、静かに頭を垂れて見せた。

「俺も未熟だな。辛いのは力丸だと言う事は重々理解して居るのに、それなのに、情けない話だ」

 そこまで口にしてから、言い辛そうに苦笑いを浮かべて見せた。だから、オレは太助の肩を抱いたまま、目一杯、顔を近付けてやった。

「今更、ヘンに格好付けるんじゃねぇよ。もう、十分、格好悪りぃんだからさ」

「それもそうだな。ああ、素直に白状するさ。俺は結花に嫉妬した。力丸にこんなにも愛されて居る事が羨ましくて、嫉妬したさ」

 一瞬訪れる沈黙。二人、真顔で互いの顔を見つめてから、それから、神社の境内が吹っ飛ぶ位に笑った。何だか、妙に可笑しくて、可笑しくて、声を張り上げて笑った。オレは太助の背中をバンバン叩きながら笑った。

「太助、これからも仲良くしようぜ!」

「ああ。やはり、力丸は俺に取って最高の親友だ」

「お? 言ってくれるじゃねぇか。へへっ、何か照れるな」

 一緒に頭抱えて悩んでみたり、豪快に笑い飛ばしてみたり、結局、オレ達は似た者同士と言う事なのだろう。性格も考え方も対照的だけれども、それでも、こうして腹を割って判り合えるのは本当に幸せな事だ。やはり、太助は知れば知る程に面白い奴だ。もっと、もっと、太助の事を深く知りたくなる。色んな所に出掛けて、一緒に考えて、もっと判り合いたい。心からそう願って居るオレがいた。

 何時の間にか日は大分傾き始めたらしい。暮れ往く夕焼け空に照らし出された宇治上神社の境内は、どこか物悲しい光景に思えた。だけど、同時に心が満たされる様な温もりに満ちた光景でもあった。時の流れに逆らうのも悪くない。そんな事を本気で思わせてくれる光景だった。そんなオレの背中を後押しするかの様に、どこからともなくヒグラシの物憂げな鳴き声が聞こえて来た。珍しい事もある物だ。元来、ヒグラシはこの様な人里では見掛けない蝉だと言うのに。イヤ、これも偶然では無く、必然だと考えれば不思議な話でもない。

 さて、そろそろ時間も時間だ。親しき友と行く旅も終わりが近付きつつある。思わず小さな溜め息が毀れるが、時の流れは残酷だ。止めようとしても止められる物ではない。受け入れるしかないと言う事か。二人、静かに顔を見合わせてから、そっと歩き出した。そのままオレ達は宇治上神社を後にするべく、静かに歩き始めた。

◆◆◆76◆◆◆

 時間が過ぎ去るのは早い物だ。楽しい時間は瞬く間に過ぎ去ってゆく。日の長い季節になったとは言え、宇治上神社を後にする頃には、すっかり日も傾き始めていた。日暮れ時も近付いて居ると言う事なのだろう。このまま通り沿いに歩き続ければ京阪の宇治駅へと至る。心なしか、オレも、太助も、歩く速度が落ちて居る様に感じられた。

 太助の住んで居る醍醐までは、京阪の宇治から六地蔵まで戻り、そこから東西線で戻ると言う道順になる。一方のオレは宇治から中書島を経由して出町柳まで戻り、そこからバスで上賀茂神社を目指す形になる。途中まで一緒とは言え、昨日からの一連の流れを考えると、離れ離れになりたいとは思えない。可笑しな話だ。明後日になれば、また、学校で会えると言うのに。奇しくも明日は日曜日だ。もう一日、図々しく太助の家に泊めて貰うと言う『選択肢』もなかった訳ではない。あるいは、オレの家に泊まって貰う事も可能だった。だけど、その『選択肢』は危険だ。オレに取っても、太助に取っても。だから、選ぶ訳にはいかなかった。判って居る。頭では判って居る。でも……それでも、大きな溜め息が毀れる。

「なぁ」

 思わず二人、同時に言葉を発してしまった。互いに顔を見合わせたまま、思わず硬直してしまう。

「な、なんだよ。お前から先に言えよ」

「そ、そう言う力丸こそ、言いたい事があるのだろう?」

 やはり、オレ達は良く似て居る。多分、考えて居る事も同じなのだろう。オレは笑いながら太助の肩を組んだ。

「へへっ、何を考えて居るか当ててやろうか?」

「そんな事をしなくても、大人しく白状するさ」

 太助は照れ臭そうに笑いながらオレの顔を覗き込んで見せた。

「白状しなくたって構わねぇさ。多分、同じ事考えて居るんだろうからな」

「ああ。そうだろうな」

 何だかんだと言いながら、オレも太助も恥ずかしい奴だと言う事は間違いない。クールに振舞って居る姿は世を忍ぶ仮の姿。本当の太助はオレと良く似た一面を持つ、意外にも熱いハートの持ち主なのだと、改めて実感させられる。

「宇治橋を再び渡るっつーのもヘンな話だよな」

「そうだな。しかしながらど、反対側を渡る事になるから、多少は違いがある」

 一瞬、「ああ、なるほどな」と、納得しそうになったが、慌てて首を振った。

「すげぇビミョーな違いじゃねぇかよ」

 宇治橋を渡りながら、ふと橋の向こう側に目線を投げ掛けて見せた。宇治川の流れは何処までも果てしなく続いて居る。ただひたすらに真っ直ぐ伸びて居る。すぐ右手には京阪の宇治駅がある。橋の上からだとホームの様子が良く見える。丁度、京阪線が駅のホームに入ってこようとして居る姿が目に留まった。

「日暮れ時になると、宇治川は夕日に照らし出されて燃え上る様な色合いになる」

「お? そりゃあ興味惹かれるな」

「それならば、一緒に見るとしよう」

 二人並んで、橋から身を乗り出してみた。そこには、思わず息を呑む様な情景が広がっていた。夕焼け空の茜色を受け止めた宇治川を、茜色に瞬く様に煌めき、流れ続けて居る。太助は橋の欄干から身を乗り出すと、宇治川の流れを覗き込んで見せた。オレも真似して宇治川の流れを覗き込んでみた。ゴウゴウと豪快な水音をたてながら流れゆく宇治川の猛々しい流れが心地良く感じられる。

 宇治川を境界線として鏡の様に空と、川の中に、向かい合う様に夕焼け空が描き出される情景は胸が締め付けられる様な切なさに満ちていて、息が詰まる程の物悲しさに包まれていた。しばし、見惚れて居れば、丁度、奈良線が鉄橋を駆け抜けようとしていた。夕焼け空を背に受け、影絵の様に駆け抜ける列車の情景に見惚れずには居られなかった。ガタンガタン、ガタンガタン、線路の軋む音が殊更に物悲しくて、胸が締め付けられそうになった。赦されるなら、このまま太助の事を力一杯抱き締めたい衝動に駆られた。だけど、その一歩を踏み出せば、もう、後戻りできなくなる。オレは必死で思い止まった。

「綺麗な景色だな」

「そうだな」

 それきり、互いに言葉が出なくなってしまった。不思議な気持ちで一杯だった。だけど、どうしても言葉、出てこなかった。それならば無理に抗う必要もないのかも知れない。そんな気がした。だから、オレは暮れ往く夕日だけを見つめて居た。ふと、隣に立つ太助を横目で盗み見てみれば、太助もまた夕日に照らし出されて茜色に萌え上がっていた。静かに目を細める太助の横顔に、オレはしばし目を奪われていた。親しき友の飾らない素顔。しっかりと思い出に刻み込ませて貰おう。

「これもお前と一緒に作り上げる思い出になるな」

「可笑しな言い方をしてくれる。それでは、まるで――」

 太助が続きを言い掛けた所でオレは慌てて言葉を遮った。

「そ、そんなつもりで言ったんじゃねぇからな!」

「ほう? 何をそんなに動揺して居る?」

「……ど、動揺なんかしてねぇよ!」

「それならば、照れて居るのだな?」

「照れてねぇっての!」

「ふふ。やはり、力丸は可愛いな」

「か、可愛い!? オレが!? ななな、なんでそうなるっ!?」

「ふふ、さてな?」

「かーっ! やっぱり、お前、嫌な奴だな」

「褒め言葉だ」

「うぬぬ……ますますムカ付く」

「さて、そろそろ行こうか」

 やはり、太助は掴めない奴だ。散々、オレを翻弄して置いてから、颯爽と歩き出すとは良い度胸だ。もっとも、オレ如きでは太助には到底、太刀打ちできる気がしない。悔しいが無駄な事に労力を割くのは止めにしておこう。これ以上、隙を見せるのも悔しく思えた。だから、オレは太助の後を追った。このまま歩き続ければ平等院鳳凰堂へと続く表参道に至る。昼間の事故がどうなったのか、気になる所ではあったが、必要以上に首を突っ込むつもりはなかった。そんな事を呆然と考えて居ると、不意に太助が足を止めた。太助の動きに呼応する様に水気を孕んだ風がそっと吹き抜けていった。

「孤独に耐えられない寂しがり屋が二人、か」

 太助が可笑しそうに笑いながら言う。

「へへっ。お互い、なんつーか。男らしくねぇよな」

 オレもまた、腕組みしたまま返してみせた。

「ふふ。寂しがり屋同士、もう少しだけ共に彷徨ってみるか?」

「それも悪くねぇな。なぁ、太助。何かさ、腹、減らねぇ?」

「相変わらず力丸は判り易いな。それでは、何か食い物を求めて、次なる旅に挑むとしよう」

「おうよ。次なる冒険の幕開けだぜ」

「ふふ、それも悪くない」

 このまま道なりに歩き続ければJR奈良線の宇治駅に至る。宇治の街並みは妙に観光地と化して居なくて心地良い。昔から受け継がれて居る商店街の雰囲気も、いかにも下町といった風情が漂っていて実に心地が良い。

 結局、この後もオレ達は徒然なるままに喋りながら、宇治の街並みを歩き続けた。太助の言葉通り、地平線の彼方へと沈みゆく夕焼けの情景は実に壮大な物だった。言葉を失いそうになる程に壮大で、美しい情景にしばし二人で見惚れていた。

 もし物世界があるならば、太助と共に歩む物語と言う『選択肢』も悪くないのかも知れない。常に冷静で、物事を鋭く判断する頼りになる仲間だと思い込んでいたが、知れば知る程にオレの勝手な幻想だったのだと思い知らされた。多分、太助の事だ。未だ完全に腹の内を見せたつもりではないのだろうが、それでも、だいぶ踏み込んだと言う感触は確かだ。意外にも、寂しがり屋で、弱く、儚い一面を持って居る事に気付かされたからこそ、オレの中で太助の存在が少し変わった気がする。全部を見せないのは、少しずつ小出しにする事でオレの興味を惹こうとでも考えて居るのだろう。まったく、恐ろしい奴だ。これは言うなればオレと太助の一騎打ちと言う事なのだろう。仮にお前に敗北する事があったならば、その時は、どうか、オレと共に歩んでくれ。口にする事はできなかったけれど、何時の日か、この言葉を太助に伝える日が来るのかも知れない。そう考えると明日は判らない。判らないからこそ探求したいと願える。なぜなら、オレも太助も生きて居るのだから。

 もしも、太助と共に歩むと言う『選択肢』を選んだとしたならば――恐らくは、予想もしない道が切り拓かれる事になるのかも知れない。だけど、ただ、今の苦しみから逃れるためだけの温もりを欲したとしたならば、必ず、そのしっぺ返しは訪れるハズだ。それに、希望を持たせるだけ持たせておいて、奈落の底へと叩き落された時、人は本当の意味での絶望を知るハズだ。そんな残酷な仕打ちをしたいとは思えなかった。それに、太助の心の中に居るのはオレではないハズだ。互いに、今、この瞬間の寂しさを埋め合わせるためだけに振る舞ったとしたならば、後には寒々しい想いしか残されないだろう。そうなってしまえば、オレだけでは無く、太助の心さえも深く傷付ける事になる。共倒れになる様な『選択肢』である事を判っていて、なお、選ぶと言うのは有り得ない話だ。本当はずっと一緒に居たかった。でも、それは違うと互いに判って居る。騙し合いは止めよう。互いのためにならない。だから、オレ達はそれぞれの歩むべき道を歩む事としよう。

◆◆◆77◆◆◆

 寂しくないと言えば嘘にしかならないが、太助と共に過ごした楽しい一時も終わりを告げた。イヤ、オレ達の手で強引に終わらせたと言うべきだ。折角、手にした温もりを手放すのは辛かったが、本能の赴くままに突き進めば、待って居るのは破滅だけだ。それは絶対に避けたかった。その結果、太助を失う事になる位なら、一時の苦しさを受け入れる方が遥かに良い。

 大きな溜め息を就けば、後はこのまま家路に就くばかりとなった。六地蔵で太助と別れたオレは、そのまま中書島で次なる列車に乗り換えた。幸運にも出町柳行きの列車に乗る事ができたので、後はこのまま、のんびりと家に戻るだけだ。

 夕暮れ時の列車からの車窓と言うのも嫌いではない。物悲しさ漂う雰囲気が実に心地良い。この時間帯は乗り合わせる乗客達の数も少なくない。乗り降りする乗客達を横目で見ながら、オレは太助と過ごした一時を振り返っていた。

 それは賑わいを見せた祭が終わった後の様な感覚。楽しい思い出に満ちた夏休みが終わってしまった様な感覚。そんな感覚にも良く似た、言いようのない喪失感を感じていた。寂しくないと言えば嘘になる。ずっと、隣に太助がいたけれど、今は隣には誰も居ない。心にぽっかりと穴が空いてしまった。そんな気持ちだった。

(この感覚……コタと最初に鞍馬を訪れた後の帰り道でも抱いた感覚だ)

 昔懐かしい記憶が、昔懐かしい痛みが、妙に心地良かった。酷く歪んで居るかも知れないが、心が満たされる様な、だけど、同時に空っぽになってゆく様な、相反する、極めて矛盾した感覚を覚えて居た。妙な感覚だった。言葉で言い表せない感覚だった。痛みと快楽は背中合わせだと、以前、太助が口にしていたのを思い出した。今ならお前の言葉の意味、理解できる気がする。イく寸前の微かな痛みを伴う様な高揚感に似た感覚だ。窓の外を流れゆく景色が次第に揺らいでゆく。

 理解できるからこそ、自分の気持ちが見え無くなる。結花の事を想って居るハズなのに、結局、目先の温もりに容易く心を奪われる。太助と共に歩む道……その『選択肢』に賭けてみるのも悪くなかったのかも知れない。敢えて、破滅を目指して突き進んでみるのも悪くなかったのかも知れない。自分でも馬鹿な考えを抱いて居る物だと思う。いずれ気付くだろう。その『選択肢』を選ばなくて正解だったと思える日が必ず訪れるハズだ。何よりも、その『選択肢』を選ぶと言う事は、太助をも巻き込む事になる。これはオレの物語だ。太助には太助の物語がある。他人の物語を勝手に捻じ曲げる事は絶対に赦されない。それを赦してしまったならば――それは、結花を殺めた仇敵を赦す事と同義になってしまう。冗談じゃない。絶対にオレは信念を曲げない。そんな事を徒然なるままに呆然と考えていた。

 列車は滞りなく走り続け、駅に着いては、再び駅を発つ。これの繰り返しだった。今、どの辺りだろうか? 何気なく停車した際に、駅名の記された看板に目線を投げ掛けてみた。

「……ったく、皮肉な話だぜ」

 思わず苦笑いが浮かんでしまう。奇しくも、偶然、顔を挙げた所で目にした駅名が伏見稲荷駅だとは。何とも言えない因果を感じてしまう。もっとも、今日はさすがに可笑しな出来事は起きなかったが。何事も無く駅を過ぎ去ってゆく光景を見届けながら、オレは思わず胸を撫で下ろしていた。

 次は東福寺だな。そんな事を考えながら、何気なく車内を見回してみた。偶然にしては妙な光景がそこに広がっていた。何時の間にか、オレが乗る車両には乗客が誰一人として居なくなっていた。この時間帯はそれなりに人も多く乗り降りする。誰も居ない状況と言うのも中々に奇異な話だ。

 窓の外はだいぶ暗くなっていた。間もなく、本格的な夜が訪れる。家に帰ったら独りぼっちだ。さて、どう過ごそうかな? そんな事を考えながら呆然と佇んでいた。ガタンガタン、ガタンガタン。列車はただ静かに走り続ける。変わる事の無い日常の光景がそこにあった。小さな吐息が漏れる。オレの小さな吐息さえも聞こえる程に車内は静まり返っている。これを非日常と呼ばすして何と呼べば良い? 悪態をついても誰も応えやしない。程なくして東福寺駅に到着する。相変わらず駅のホームには人の気配が感じられなかった。オレは思わず身構えていた。何か可笑しな出来事が起こる前触れ――そんな気がしてならなかった。

 身構えて居ると、不意に誰かが隣に座った。微かに座席が沈み、風圧を感じた。妙な奴だ。こんなにもガラガラなのに、何故、わざわざオレの隣に座る? 一体、どんな奴なんだ。ヘンな奴だったら逃げるとしよう。恐る恐る、オレは隣に腰掛けた奴を横目で盗み見た。

「お、お前は!?」

 違った意味で驚かされた。まるで、そこに居るのが当然であるかの様に、絵描き小僧が腰掛けていたのだから。

「……ったく、驚かすんじゃねぇっつーの」

 オレが苦笑いして見せれば、絵描き小僧も釣られて笑って見せた。笑いながら、そっと、窓の外を指さして見せた。

「おお? 窓の外に何かあるのか?」

 何気なく窓の外に目線を投げ掛けたオレは、さらに驚かされた。列車が止まっていた。可笑しな話だ。列車が停止する際には、必ずブレーキ音が響くだろうし、それなりに、揺れも発生するハズだ。イヤ、そうでは無さそうだ。窓の外、遠く、夕暮れ時の空を舞う鳥達が同じ姿勢のまま止まっていた。そんな事、現実には有り得ない話だ。だけど、隣に座って居る絵描き小僧ならば、その位の事は容易く為し遂げられそうだ。

「お前の仕業だな? まったく、妙ないたずらしやがって」

 こうして会うのも何度目だろうか?

「絶大な力をいたずらに使うたぁ、トンでもねぇ奴だぜ」

 段々とオレの中で絵描き小僧が普通のトモダチの様に思えて来た。少なくても敵ではない。それならば、仲間だ。つまりは、トモダチだ。オレの心が判るのだろうか? 絵描き小僧は上機嫌そうに笑顔で応えて見せた。

「今日は逃げないんだな」

 からかう様に問い掛けて見せれば、絵描き小僧は笑いながら頷いて見せた。やはり、ヘンな奴だ。だが、こうして並んで見ると、改めて色々な事に気付かされる。昔のオレとどこか似て居る様に思えて仕方がなかった。ぴたりと並んで居るから、余計にそう思える。ガッシリとした骨格もオレと良く似て居る。もう少し、成長すれば、案外、オレと良く似た姿になるのかも知れない。相変わらず、一言も発しない辺り、やはり風変りな奴である事は間違いないが、何だか、妙に親しみを覚える奴である事も事実だ。だが、何故、一言も言葉を発しないのだろうか? 興味惹かれたオレは絵描き小僧に問い掛けてみる事にした。

「なぁ、お前さ、どうして一言も喋らないんだ?」

 オレの問い掛けに応えるかの様に絵描き小僧は口を開き、言葉を発する様な振舞いを見せた。だが、息が漏れる音以外、何も聞こえなかった。その振舞いを見てようやく気付かされた。言葉を喋らないのではない。喋りたくても喋る事ができないのか。その理由を詮索する様な真似をするつもりはなかった。それでも、知らぬとは言え、傷付ける様な問い掛けをしてしまったのは事実だ。悪い事をしてしまったと、思わず項垂れるオレの肩を叩くと、絵描き小僧は上機嫌そうに笑いながらオレの顔を覗き込んで見せた。

「ごめんな、可笑しな事を聞いちまって」

 絵描き小僧は笑みを称えたまま、首を横に振って見せた。あくまでも無邪気な笑みを崩さない姿に絵描き小僧の想いを見出す事ができた。だから、オレも必要以上に気にするのは止めにした。

「へへっ、オレの事、赦してくれるのか?」

 そう、問い掛ければ絵描き小僧は笑顔で、力強く頷いて見せた。そのまま、オレに一枚の絵を見せてくれた。そこに描かれていたのは、絵描き小僧と同じ着物を身に纏ったオレの姿だった。オレと絵描き小僧、二人が誇らしげに腕組みしながら立って居る絵だった。同じ格好で並んで見ると、ますます兄弟の様にしか見えなかった。何だか嬉しくなって来たオレは、思わず絵描き小僧の肩に腕を回すと、力一杯、抱き寄せていた。

「へぇー、もしかして、オレの事、お前のアニキの様に思ってくれて居るのか?」

 そう問い掛けて見せれば、絵描き小僧は腕組みしてみせた。その仕草を見ただけで、誰を真似て居るのかすぐに気付かされた。わざわざ、目一杯胸を張って見せる仕草まで真似て見せるとは、細かな仕草まで良く見て居る物だ。少々照れ臭かったが、それ以上に誇らしい気持ちで一杯になった。

「お? もしかして、オレの真似してるのか?」

 笑いながら額を小突いて見せれば、絵描き小僧もオレの真似をして額を小突いて見せた。

「わはは。お前、面白ぇ奴だな。気に入ったぜ」

 すっかり気分が良くなったオレは、絵描き小僧の肩を力一杯抱き寄せた。絵描き小僧も気分が乗って来たのか、何やら絵を描くとオレに見せてくれた。そこに描かれていたのは、台所に並ぶオレと絵描き小僧の姿だった。何やらオレが教えながら、包丁片手に慣れない手付きで料理しようと奮闘する絵描き小僧の姿が描かれていた。なるほど。本気でオレの弟になりたいと主張して居るのか。少々照れ臭いが、長い間、オレは兄弟が欲しいと切に願っていた。弟でも、兄貴でも、どちらでも良かったけれど、仲の良いロックの影響なのだろうか。何時しか、弟が居たらどんなに楽しい日々を過ごせるだろうか。そう、切に願う様になっていた。だからこそ、こうしてオレと良く似た一面を持つ弟ができた事は素直に嬉しいと思えた。

「うしっ! じゃあ、今日からオレとお前は兄弟だ。自分で言って置きながらアレだけどさ、なんつーか、照れるな。へへっ」

 すっかり舞い上がって居るのか、絵描き小僧はオレの真正面に立つと、妙に仰々しい振舞いで一礼をして見せた。

「わはは。お前の立ち振舞いは妙に古風な感じだな。だけど、そう言う古めかしい振舞いも中々に新鮮で悪くないな」

 率直な感想を口にして見せれば、何を思ったのか、絵描き小僧はオレの真似をして、オレの肩に腕を回して見せた。体格差があるせいか、少々間抜けな構図になったが、それでも絵描き小僧は満足そうにふんぞり返って見せた。

「なるほどなぁ。つまりは、お前もオレに似た野生的な男だって言いてぇ訳だな?」

 そう問い掛けて見せれば、誇らしげな表情を称えたまま、力強く腕組みしてみせた。あくまでも、オレの真似をして居るのだと主張したいのだろう。

「へへっ。お前、やっぱり面白ぇ奴だな」

 頭を力一杯撫でてやれば、絵描き小僧は、さも満足そうに歯を見せて笑いながら力強く腕組みして見せた。体もでかければ、腕っ節も強そうだ。腕組みしながら立って居る姿は、どこからどうみても、腕に覚えのある姿にしか見えないが、その一方で、外見に反して中々に愛嬌のある一面を持って居る。それに、こんなにもオレの真似をして見せる姿に、くすぐったい様な、照れ臭い様な不思議な想いを抱かずには居られなかった。兄を慕う弟といった姿を見せ付けてくれる事が誇らしく思えた。

 だけど、だからこそ、改めて冷静になって考えてみる必要がありそうだ。絵描き小僧は少なからずオレに取って、大きな力になれる大切な相棒だ。利用するようで気が退けたが、それでも、あの不気味な坊さんと互角にやり合えるだけの力を持って居るのは事実だ。オレの傍に居てくれれば、これ程心強い仲間は居ない。だが、こいつを連れて帰って大丈夫だろうか? 万が一、お袋にバレたら、どう説明すれば良い? 野良猫をこっそり連れ帰って飼うのとは訳が違い過ぎる。第一、見た目の大きさはオレと良い勝負だ。さて、どうした物かと、一人、腕組みしたまま考えて居ると絵描き小僧は再び一枚の絵を差し出して見せた。

「お? 今度は何の絵だ?」

 そこはオレの家だった。居間の机に並んで座り、飯を食うオレと絵描き小僧。その後ろを何事もなかった様に通り過ぎるお袋の姿が描かれていた。良く見ると、絵描き小僧の体は半透明に描かれていた。なるほど。つまり、そう言う事か。

「もしかして、お前の姿はオレ以外の奴には見えねぇって事か?」

 そう問い掛けて見せれば、絵描き小僧は力強く頷いて見せた。

「へぇー、すげぇな。色んな事ができちまうんだな」

 尊敬の念を込めて、マジマジと見つめて見せれば、誇らしげな表情で腕組みしてみせた。妙に自信に満ちた振舞いが可笑しかった事もあり、オレは絵描き小僧の腹を突きながら笑い掛けて見せた。

「っつーかさ、お前、最初からオレの家に押し掛けて来るつもりだっただろ?」

 意地悪く問い掛けて見せれば、絵描き小僧は済ました顔で聞こえナイフリをしてみせた。

「まぁ、良いや。お前の様に腕が立つ奴が傍に居てくれるのは心強いからな。こんな言い方するのもヘンだけど、オレの事、シッカリ守ってくれよ。期待しちゃうぜ?」

 オレの言葉を耳にした絵描き小僧は、力強く、自らの胸を叩いて見せた。何とも頼もしい弟だ。だが、少なからず、あの坊さんが健在である以上、オレの身辺に平和が訪れる事はない。多分、こうして絵描き小僧と共に歩む事になるのも、偶然などでは無く、必然だと思えて仕方がなかった。共に同じ道を歩むのもまた、仕組まれた事に違いない。敷かれたレールの上を歩くだけと言うのは気に入らないが、それでも身を守る手段を得る事ができたのは大きな意味を為す。

「それはそうと、オレはお前の事を何にも知らねぇに等しいんだよな」

 あごに手を宛ててシゲシゲと絵描き小僧を覗き込んで見せれば、オレの言葉に耳を傾けたまま絵描き小僧は興味津々な表情を浮かべて居る。少なくても、言葉を喋る事はでき無くても、相手が何を言って居るかは理解できて居るらしい。絵描き小僧の素性は良く判らないが、その古めかしい服装から考えても古い時代を生きた身の様に思える。それならば、一体、何時の時代を生きたのだろうか? それ以上に、何故、オレに手を貸してくれるのだろうか? 興味は尽きないが、それを問うのも味気ない気がした。やはり、共に過ごす中で解き明かしてゆく方が楽しそうだ。それならば、オレが選ぶ『選択肢』は一つしかない。

「なぁ、絵描き小僧。オレと冒険してみないか?」

 オレの言葉に多大なる興味を示したのか、絵描き小僧は勢い良く立ち上がると、興奮した様子でオレの顔を覗き込んで見せた。まるで子供だ。上機嫌な振る舞いが実に分かりやすい。ますます兄弟だ。

「へへっ。やっぱり、お前、オレと似て居るんだろうな。冒険っつー言葉に反応しちまうとは、中々に見所がありそうだぜ」

  どうせ、家に帰ってもお袋と衝突するだけだ。それならば、少しでも家に帰る時間を遅くしたい。もっとも、そんな事よりも長い間、ずっと兄弟と言う存在に憧れていたオレとしては、絵描き小僧の事をもっと色々知りたいと言う衝動が遥かに勝っていた。逆に、絵描き小僧にもオレの事を色々と知って貰いたい。さて、どこを冒険するとしようか?

 醍醐の街並みを、宇治の街並みを歩き回った事で、オレは太助の知られざる一面を沢山知る事ができた。絵描き小僧も同じハズだ。それならば、共に夜半の街並みを散策する事で得られる物もあるだろう。そう、考えて居ると再び列車が動き出した。

「おお? 今度は何が起きた?」

 驚き周囲を見回してみれば、何時の間にか車内には人の姿がちらほらと見受けられた。それならばと、慌てて隣に目線を投げ掛けて見せれば、そこには、さも当然であるかの様に絵描き小僧が腰掛けていた。やはり、周囲の連中には見えないらしい。だから、オレは絵描き小僧に小声で話し掛けた。

「三条まで行くぞ。オレのお気に入りの街、案内してやる」

 こうしてオレと絵描き小僧との、珍妙な旅が始まろうとしていた。正直、汗だくになって居るのを考えれば、一刻も早く風呂に入ってサッパリしたい所ではあったが、それは置いておいても、絵描き小僧と共に夜半の街並みを歩んでみたいと願えたのは事実だ。さて、三条までは左程時間も掛からないハズだ。どこを案内するかを今のうちに考えて置くとしよう。そんな事を考えながら、ふと、絵描き小僧に目線を投げ掛ければ、何やら壮大なる絵を描いて居る。恐る恐る覗き込んでみれば、それは大きな船に揺られながら、どこかの港町を旅立とうとするオレ達の絵だった。

「男なら、でっかい夢を追い求めろってか?」

 オレの問い掛けに対し、絵描き小僧は不敵な笑みを浮かべて見せた。そんな振る舞いを見せられてしまっては、返す言葉を失うと言う物だ。

「お前には勝てそうにねぇな。まぁ、そこまで壮大なる大冒険じゃないかも知れねぇけど、ガッカリしないでくれよ?」

 オレの言葉など聞こえて居ないのか、すっかり、自分の世界に入り込んで居る様子だ。初めて出会った時は、どこか近寄りがたい神々しい奴に思えたが、こうして仲良くなり始めると、意外に面白い奴だと気付かされる。コタ達と接して居るのと変わらない感覚で振舞える事が心地良く思える。兄弟と言う立場を考えれば、確かに、そうそう堅苦しい関係と言うのも可笑しな話だ。それにしても、あの不気味な坊さんをも退ける程の力を持ちながらも、その素顔はオレと良く似た一面を持つ、面白い奴だと気付かされた。あれこれ無用な詮索をするのは絵描き小僧に失礼だ。長い間、離れ離れになっていた弟と、長い時を経て再会できた。そう考えた方が、余程夢がある。無邪気に絵を描き続ける絵描き小僧を眺めて居るうちに、オレ達は三条の駅に到着しようとしていた。

◆◆◆78◆◆◆

 三条の駅に降り立ったオレ達はそのまま駅のホームを後にした。忙しなく往来する人々の流れに乗る様にして地上へと向かえば、涼やかな地下の空気は消え失せ、入れ替わる様に湿気を孕んだ蒸し暑い風が流れ込んで来るのを肌で感じていた。

 地上に出てみれば辺りはすっかり日も暮れて夜半の闇に包まれていた。絵描き小僧を先導する様に外に出てみれば、生温かい風がふわりと頬を撫でてゆく。日が暮れても蒸し暑さは変わる事は無さそうに思えた。それでも三条の駅前は夜になっても相変わらず交通量も多く、今夜も賑わいを見せていた。往来する人の流れに混じってオレ達も歩き始めた。

「お? どうした?」

 目に映る物に興味を惹かれるのか、絵描き小僧は興味津々な眼差しで周囲を見回していた。オレからしてみれば、別段珍しくも何ともない光景ではあったが、生きていた時代が違う事を考えれば珍しさを覚えても不思議ではない。視線の先から察するに、煌びやかな明かりや建物、大通りを行き交うバスや車と言った、人の手が築き上げた文明に興味を示して居る様に見えた。

「なるほどな。目に映る物の全てが珍しいみたいだな」

 オレが笑い掛ければ絵描き小僧は、丁度、目の前を通り過ぎたバスに興味を示したのか、精巧な絵を描いてオレに掲げて見せた。

「オレに取っては何でもない様な光景でも、お前に取っては珍しい物だらけな訳か」

 オレが問い掛ければ、絵描き小僧は嬉しそうな笑みを称えたまま力強く頷いて見せた。何でもない事に素直に喜んで見せる姿は、それだけでも新鮮に感じられる。

 三条に戻って来たのには意味がある。少し歩けば商店街が広がって居る。三条の街並みは夜になれば人々の生活の香りあふれる街並みが広がる事もあり、オレの中ではお気に入りの場所の一つだ。オレが気に言って居る場所を絵描き小僧にも気に入って貰えたら嬉しい。そんな想いからこの場所を歩いてみようと考えていた。

「ありゃ? おい、絵描き小僧? どこ行っちまったんだ?」

 目を離せば何時の間にか行方をくらましてくれるとは、実に油断ならない奴だ。見た目に反して、中身はまだまだ幼い子供の様な一面を持って居るのか。慌てて周囲を見回してみれば、明らかに目立つ格好をして居るからすぐに見付けられる。どうやら、今度は明滅する信号に興味を示した様子だ。

「オレを置いていくんじゃねぇっつーの」

 すっかり周囲の景色に興味惹かれて居るのか、オレの言葉など聞こえていないと言わんばかりの振舞いを見せるばかりだった。やれやれ。世話の焼ける奴だ。興味惹かれる物を見付けたら、また、何処にぶらりと突っ走るか判った物ではない。仕方がないので、オレは絵描き小僧の手を握ったまま歩き回る事にした。

「暑苦しいかも知れねぇけど、こうでもしねぇとお前、どこ行っちまうか判ったもんじゃねぇからな」

 嫌がるかと思いきや、相変わらず上機嫌そうに周囲を見回すばかりだった。どうやら、絵描き小僧は相当に好奇心旺盛な性分らしく、実に真剣な表情で周囲の景色を見つめては驚いてみたり、感嘆の溜め息を漏らしてみたりと、大忙しな反応を見せていた。

「へへっ、ご機嫌だな。そんなに楽しんで貰えるとオレも光栄だ。うしっ! このまま三条大橋を渡って突き進もうぜ」

 青になった信号を渡り、オレ達は三条大橋へと歩を進めた。ふと、何かに興味を示したのか、絵描き小僧は橋の欄干から身を乗り出すと、涼やかな音色を奏でながら流れゆく鴨川を覗き込んでいた。なるほど。時代は違えど、鴨川の流れまでは変わる事はないと言う訳か。そう考えると不思議な気持ちになれる。異なる時代を生きたオレ達が、時代を超えても移り変わる事のない鴨川の流れを肩を並べて見つめて居る。二つの時代、二つの物語が重なり合う。そう考えれば感慨深い想いで胸が満たされると言う物だ。

 季節は夏だ。鴨川沿いに立ち並ぶ川床も賑わいを見せて居る。風が吹く度に吊るされた提灯がゆらゆらと揺れ動いて居る様が目に留まる。流れゆく鴨川の音色と、往来する車の音色。人々の話し声と足音。夕暮れ時の三条大橋は活気に満ち溢れて居る。人々が往来する中、オレ達は橋の欄干から鴨川の流れを見つめていた。恐らく、行き交う人々にはオレの姿しか見えないのだろう。此処で一時の夕涼みをするのも悪くない。しばし川の流れを見ていたが、気も済んだのだろうか? 絵描き小僧がそっとオレの手を引いた。

「お? そろそろ行くのか?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は嬉しそうに頷いて見せた。オレ達は三条大橋を後にして歩き出した。このまま道なりに歩んでいけば、高瀬川に至る。昔ながらの風情残す街並みも広がって居るのを考えれば、興味を示してくれるだろうか? 何時の間にか、オレは上機嫌そうに振舞う絵描き小僧の笑顔を見る事に喜びを覚えていた。こうして楽しげに振舞いながらオレと一緒に歩いてくれて居ると、本当の兄弟ができた様な気がして、嬉しい様な、照れ臭い様な、不思議な気持ちで一杯になった。だけど、悪い気はしない。ずっと、兄弟が欲しかったオレからしてみれば、少々風変りな弟ではあるが、長い間、ずっと欲しいと心から願っていた弟である事に変わりはないのだから。

「夜の街並みも中々に風情があって良いもんだろう?」

 オレが問い掛ければ、絵描き小僧は嬉しそうに頷いて見せた。

「今度は明るい時間にも案内してやろうな」

 オレの言葉に頷きながらも、すっかり、周囲の景色に興味惹かれて居る様子だった。この辺りは昔ながらの建物と、近代的な建物が混在する不思議な情景が広がる場所だ。立ち並ぶ店も千差万別だが、この界隈は飲食店が多い。絵描き小僧はさっそく、食べ物屋のショーウィンドウに釘付けになっていた。

「腹が減っては戦はできぬってな。もしかして腹減ったのか?」

 オレが問い掛ければ、絵描き小僧は照れ臭そうに笑いながら腹を撫でて見せた。

「わはは。そうか、そうか。途中で何か、適当につまみながら行こうな」

 歩き続けていれば、程なくして高瀬川に差し掛かる。結花との思い出の残るカフェショップも見えて来る。思わず結花を思い出し、足を止めるオレに気付いたのか、絵描き小僧も静かに足を止める。オレを気遣う様な眼差しで覗き込まれれば返答に困ると言う物である。

「ま、お前相手に、ヘンに格好付けるつもりはないからな」

 オレは絵描き小僧の肩に腕を回しながら、周囲の情景を見回した。

「あのカフェショップは結花と一緒に良く訪れた場所でな」

 絵描き小僧はオレの隣を歩きながら静かに周囲の景色を見つめていた。オレの想いが判るのか、どこか遠い目をしながら、じっくりと景色を見つめていた。不意に、何を思ったのか絵を描くと、オレにそっと見せてくれた。

「これは……」

 そこに描かれていたのは、カフェショップにオレと並んで座る結花の姿だった。何を語らって居るのか、オレに向かって楽しげに語り掛ける結花と、頬杖しながら憮然とした表情を浮かべるオレが向き合って居る絵だった。二度と戻って来る事のない一時が克明に蘇る。結花と共に歩んだ時間が鮮明に紡ぎ出され、思わず笑みが毀れるが、すぐさま胸が熱くなる感覚が体中を駆け巡った。目の奥深くが熱くなり、じわりと視界が滲んだ。

「ありがとうな」

 嬉しくなったオレは、絵描き小僧の肩に回した腕に力を篭めた。

 あれから殆ど時間が経っていないにも関わらず、随分と色々な事があった。不可思議な出来事の数々に翻弄され続けて居る。未だに、その謎は殆ど解明していない。少なからず結花に関わる内容である事は確かなのだが、恐らくそこに秘められた想いは表面的な物ではないハズだ。考え込みながら歩いて居ると、今度はハンバーガーに興味を惹かれたのか、絵描き小僧はガラス戸に手を宛てると店内をまじまじと覗き込んでみせた。その振る舞い方が、さながらガラス戸に貼り付くカエルの様に思えて、失笑ついでに力が抜けそうになった。

「やっぱり、お前は面白ぇ奴だな。人がせっかく感傷に浸って居るのに、見事にぶち壊してくれるんだからな」

 笑いながら頭を小突いて見せれば、絵描き小僧は照れくさそうに笑いながらハンバーガーの絵を手に、向き直って見せた。確かに、絵描き小僧が生きていた時代にはなかった食べ物なのを考えれば、興味を惹かれるのも不思議ではない。

「わはは。お前も野性的な男だって事か?」

 笑いながら問い掛けて見せれば、誇らしげに胸を張って見せる。その妙に勝ち誇った様な表情が可笑しくて、思わず吹き出しそうになった。

「わはは。お前と一緒に居ると、何だか楽しくて良いな」

 何だかんだと言いながら、オレと一緒に歩んで居る事を楽しんでくれるのは嬉しい。好奇心旺盛な絵描き小僧は早くも、視界の先に広がる商店街に興味を惹かれて居る様子だった。大通りの向こう側、信号を渡った先には商店街が広がって居る。アーケードに包まれた商店街には、様々な種類の店が立ち並んで居る。好奇心旺盛な絵描き小僧にはおもちゃ箱の様に見えて居る事だろう。頻りに指差ししながら、早く行こうとオレを急かす絵描き小僧が可笑しくて、オレは笑いながら額を、もう一度、小突いてやった。

「へへっ、そんなに焦らねぇでも、ちゃんと案内してやっからさ」

 信号を渡り終えたオレ達は、そのまま三条名店街へと足を進めた。ここは地元の人々が訪れる普段着らしさを感じられる商店街となる。夕暮れ時を過ぎて居る事もあり、人通りは少なくなりつつあるが、夕暮れ時になれば相当に混雑する。飲食店もあれば衣料品店もある。茶葉を売る店もあれば、雑貨屋に薬局と立ち並ぶ店も賑やかな装いを見せる。目にする物全てが珍しい絵描き小僧には、それこそ、おもちゃ箱の様な通りとなる事だろう。

 予想通り、絵描き小僧は絵を描く事すら忘れて目を輝かせていた。興味惹かれる物を目にする度に、急ぎ駆け寄ると、これは何? あれは何? 興味津々にオレに目で訴え掛けて見せた。

「予想通り、すっかりお気に入りの様子だな。ああ、扇子に興味を示したのか?」

 やはり、普段から馴染みのある物に興味を惹かれるのだろう。かと思えば、今度は衣服に興味を示したらしい。なるほど。絵描き小僧が生きていた時代と異なり、今は和装の方が珍しくなって居る。見慣れない現代風の服にも興味を示す訳か。

「なるほどな。服にも興味を示した訳か。でも、オレは今のお前の格好の方が素朴で似合って居ると思うぜ? むしろ、オレもお前とお揃いの格好してみたいって思うもんよ」

 自分の着物に興味を示して貰えた事が嬉しかったのだろう。絵描き小僧はせっせと絵を描き始めた。一体、何を描いて居るのだろう? 興味を惹かれてみせれば、誇らしげに一枚の絵を差し出して見せた。そこに描かれていたのは絵描き小僧と同じ和装に身を包んだオレの姿だった。一瞬、体をふわりと何かが包み込む様な感覚を覚えたが、次の瞬間、ショーウィンドウに反射する自分の姿に驚かされた。何時の間に着替えたのかオレは絵描き小僧とお揃いの格好になっていた。

「うぉっ!? いきなり変わったし!?」

 なるほど。この程度の事を為し遂げるのは、絵描き小僧に取っては朝飯前と言う訳か。

「わはは。いきなりでビックリしたけど、やっぱりお前はすげぇよな。ただ、絵が恐ろしく上手いだけじゃねぇんだもんな。へへっ、こんなすげぇ奴がオレの弟になってくれるなんて、なんつーか、誇らしいよな。皆に自慢できちゃうもんよ」

 オレに褒められたのが照れ臭かったのか、頬を赤らめながら絵描き小僧は頭を掻いて見せた。

「へへっ。お揃いだな。ますます兄弟っつー感じだよな」

 思わず胸を張って見せれば、どこからともなく甘い香りが漂って来た。なるほど。たい焼き屋の前まで訪れていたと言う訳か。ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、予想通りの振る舞いを見せてくれた。今度はたい焼き屋に興味津々な様子だ。食い入る様な力強い眼差しを向けて居る姿に思わず笑いが毀れる。もっとも、たい焼きならば歩きながらでも食べられそうだ。小腹を満たすにも悪くない。

「うしっ! ちょっと待ってな。オレも腹減ったから、たい焼き買って来るからな」

 見慣れない食べ物に興味を示す辺り、ますますオレと良く似て居る。案外、料理を教えてやるのも楽しいかも知れない。適当に数種類のたい焼きを見繕うと、オレは絵描き小僧の下に戻って来た。

 三条通から寺町通へと歩を進めれば、すぐ右手には矢田寺がある。立ち並ぶ商店街のアーケードの中にひっそりと佇む小さな寺。色鮮やかな提灯が飾られ、煌びやかな雰囲気を称えて居る。小さなベンチが置かれて居るのが目に留まる。丁度良さそうだ。ここで一休みさせて貰うとしよう。オレが腰を下ろせば、絵描き小僧も真似してオレの隣に腰を下ろす。

「熱いから気を付けて食えよ」

 オレの言葉に頷いた絵描き小僧であったが、勢い良くかじり付いて見れば、予想通りの振舞いを見せた。突然の熱さに余程驚いたのか、絵描き小僧は目を丸くしたまま、たい焼きを色んな角度から覗き込んで見せた。

「わはは。だから言ったじゃねぇかよ? 慌てねぇで、落ち付いて食って良いんだぜ?」

 間抜けな姿を見せたのが照れ臭かったのか、ばつの悪そうな笑みを称えたまま、絵描き小僧は美味そうにたい焼きを口にしていた。こんな蒸し暑い夜に、敢えて熱い食べ物を食べたせいか、ますます汗が噴き出す。だけど、絵描き小僧の口には合ったらしく、満足そうにしていた。

 提灯の明かりが仄かに照らし出す中、オレ達はしばし羽を休めていた。ふと、矢田寺の内部に目線を投げ掛けて見せれば、辺り一面を囲う様に飾られた無数の提灯がどこか幻想的で、気持ちが落ち着く様な感覚を覚えていた。そっと、瞬きをする度に灯火の様に、消え往く魂の様に柔らかな光で応えてくれる提灯が、渇いた心を癒してくれる様な気持ちになって思わず胸が熱くなった。

 此処、矢田寺は地蔵菩薩が御本尊のお寺であり、人々の苦しみを身代わりになって受け止めてくれるらしい。もっとも、これもまた例によって太助から聞かされた話なのだが。それにしても、敢えて身代わりになって人々の苦しみを受け止めてくれるとは、随分と懐の深い仏様だ。ふと、地蔵菩薩に目線を投げ掛けて見せれば、穏やかな笑みを称え、佇んで居る姿が目に留まった。炎の向こう側に佇んで居る姿が印象的だった。地獄の業火に包まれても、それでも、人々を救わんとする。その慈悲深い姿に心が揺れ動かされたのは事実だった。

 オレの目線に気付いたのか、絵描き小僧も目線を投げ掛ける。何か想うところがあったのだろうか。地蔵菩薩に向かい合いそっと手を合わせると、深々と頭を垂れて見せた。絵描き小僧の信心深い一面を見たオレもまた、真似をして手を合わせ、頭を垂れた。オレの苦しみを身代わりになって受けて貰おうとは思わなかったが、結花の事を思い浮かべていた。オレでは結花の想いの全てを受け止め切る事はできなかった。だから、少しでも手を貸して貰えればと願った。もっとも、実に図々しい話だ。普段は見向きもしないクセに困った時だけ手を貸してくれと祈るなんて、都合が良いにも程がある。それでも、オレはしばし、祈り続けていた。

 とはいえ、折角でき立てのたい焼きを購入したのだから、冷めてしまうのも勿体ない。何とも世俗に塗れた生き方をして居る。そんな自分が可笑しく思えたが、それでも絵描き小僧に楽しんで貰いたいと言う想いの方が勝ったようだ。まだまだオレも精進が必要そうだ。

「たっぷり買って来たから、好きなだけ食って良いんだぜ。ほら、次はこれを食いな」

 見た目そのままに食は太そうだ。これは、色々と料理を振舞うのも楽しみだ。人々が往来する中、オレ達は矢田寺に腰を据えてのんびりと過ごしていた。普段、何気なく通り過ぎてしまうだけの街並みの中に、こうして身を置き、行き交う人々を眺める。ただそれだけの事なのだが、どこか不思議な光景を目の当たりにして居る様な気持ちになれるから不思議だ。隣に座って居るのが絵描き小僧だからなのだろうか。しばし、不思議な気持ちに身を置くのも悪くない。そんな事を考えながら行き交う人々をただ眺めていた。

「なぁ、お前は何処から来て、何処に向かおうとして居るんだろうな」

 不意に心に浮かんできた言葉を、そっと呟いてみた。不思議な感覚だ。誰かに、そう問う様に仕向けられた感覚に包まれる言葉だった。絵描き小僧はオレの言葉に応える事もなく、静かに立ち上がると、そのまま歩き出した。

「ったく、気まぐれな奴だぜ」

 たい焼きを食べ終えたところでオレ達は徒然なるままに寺町通を歩き続けた。こちらも通り沿いに賑やかな商店街が広がって居る。大分、周囲の景色にも慣れて来たのか、先程までと比べると落ち着いた様子で絵描き小僧はオレの隣を歩いていた。小腹も満たされて満足したのだろうか。ゆったりとした足取りで歩んで居る姿に思わず笑みが毀れる。

 道中、賑わい見せる街中にしては広い敷地を誇る、静けさに包まれた天性寺の横を通り抜けた。物静かな風情が感じられる寺だけに、夕暮れ時の街並みにも良く映える様に思える。今度、絵描き小僧を連れて来るのも悪くない。

 さらに歩を進めれば歴史的にも有名な本能寺が見えて来る。周囲を高いビルに囲まれながらも古き時代からの歴史を受け継ぐ寺は静かに佇んで居る。歴史の上にも名を連ねる寺だけに訪れる者達も少なくないのだろう。ちらりと目線を投げ掛けて居ると、不意に絵描き小僧が足を止めた。なるほど。興味惹かれるのだろうか? 腕組みしながら絵描き小僧の振る舞いを見守っていたが、不意にこちらに向き直って見せた。寺町通りの向こう側を指さす仕草から察するに、どうやら大通りの方が興味を惹くらしい。なるほど。現代的な物に興味惹かれると言う訳か。実に分かりやすい。

「寺町通を抜ければ京都市役所が見えて来る。結構、でっかい建物なんだぜ?」

 腹が満たされれば再び観光へと想いを馳せる。良くも悪くも絵描き小僧は、本当に純粋な奴なのだと思える。並んで歩けば兄弟その物だ。ガッシリとした力強い体格に似合わず、どこか子供らしい振舞いのギャップが何とも面白い。ギャップと言えば、見た目に似合わず、子供の様に好奇心旺盛な一面があったりと、そういった一面もまた素直に可愛らしく思えた。案外、オレと良く似て居るのかも知れない。ただ、オレと違ってヘンに格好付けないからこそ違和感無く振舞えるのかも知れない。簡単な事なのに上手く振る舞えないオレが居るから、絵描き小僧の素直な振る舞いを羨ましく思えた。少しだけ勇気を手にする事ができれば呆気なく叶えられる夢なのに。馬鹿みたいだな、オレ。

「信号を渡れば京都市役所だ。ほら、あのでっかい建物がそうだぜ?」

 レトロな風合いを称えた京都市役所前に辿り着いた。普段、市役所に用事ができる事など先ずないが、ぶらりと風任せに散歩する際には市役所前は大きな通りになっていて、遥か彼方に東山が見えるのが心地良くて好きな場所だ。こう言う開けた場所を歩むと、何だか気持ちまで大きくなれた様な気がして気持ちも晴れ晴れする。

「さてっと、ここまできたのは良いけれど、どうやって戻ろうかな」

 出町柳まで出ればバスで一本だ。再び三条まで出れば出町柳まではすぐに辿り付ける。もっとも、出町柳までならば、歩いても移動できない距離ではない。さて、どうした物かと思案して居ると、傍らで絵描き小僧が何やら熱心に絵を描き始めた。妙に大きな和紙を扱って居る辺りに興味惹かれる。何やら画伯は大作を描いて居るらしい。

「お? 今度は何の絵だ? へへっ、随分、気合い入って居るみてぇだけど」

 今度は月明かりに照らし出された京都市役所を描いて居るのだろうか? 何気なく覗き込んで見れば、予想もしない物を描いていた。そこに描かれていたのは力強く翼を広げた鷹の絵だった。今にも飛び出しそうな程に躍動感に満ち溢れた絵だった。大きく口を開き、高らかに声を響かせて居る姿は力強い迫力に満ち溢れていた。

「それは……鷹か? でも、何で鷹なんだ?」

 何を意図して居るのだろうかと首を傾げた瞬間、猛烈な風が吹き付けた。猛烈な風に伴い、豪快に羽ばたく様な音が聞こえて来る。続けて響き渡る力強い鳴き声。まさかと思い、恐る恐る空を見上げてみたオレは、危なく腰を抜かす所だった。

「うそだろぉ!?」

 信じられない程に巨大な鷹がゆっくりと舞い降りて来た。慌てて絵描き小僧に向き直れば、可笑しそうに笑って見せた。

「ったく、お前の仕業か……びっくりするじゃねぇかよ。大体、何で鷹が出て来るんだっつーの!?」

 オレを驚かせたかっただけならば、十二分過ぎる程に驚かされた。だけど、果たしてそれだけなのだろうか? 思わず腕組みしながら考え込んで居ると、唐突に服ごと持ち上げられた。

「うぉっ!?」

 一瞬、宙を舞う様な感覚を覚えたが、次の瞬間には柔らかく、温かな感触に包まれた。気が付いた時には、オレは巨大な鷹の背中の上に乗せられていた。

「ま、まさか……この展開って!?」

 オレ達を乗せたまま鷹は勢い良く地面を跳躍すると、そのまま大空目掛けて一気に舞い上がった。予想もしない展開にオレは度肝を抜かれた。だが、良く考えてみれば凄い体験をして居る事になる。

「うぉーっ! すげぇ! 空、飛んでるぜー!?」

 なるほど。三条の街並みを案内して貰った礼のつもりなのだろうか? それとも、今度はオレに喜んで貰いたくなったのだろうか? いずれにしても、こんな体験は初めての事だ。遥か高い所から京都市役所を見下ろす事になろうとは予想もしなかった。通りを忙しなく行き交う車の流れを眼下に見下ろしながら、オレ達は優雅に大空を舞っていた。行き交う車のヘッドライトとテールライトが道路を覆い尽くし、夜空に咲き誇る花の様に思えた。それは、人が築き上げた文明と言う名の墓標に手向けられた花輪のようで、皮肉に満ちた愛情の様に感じられて、妙に心地良かった。

 それにしても、月がこんなにも近くに感じられる様な情景を体験しようとは、思いも寄らなかった。そんなオレを横目に見ながら、絵描き小僧は満足そうに笑っていた。

「わはは! すげぇ、すげぇ! 最高だぜー」

 普通に暮らしていたら、こんな体験をする事なんて絶対に有り得ない事だ。何しろオレは何もできない非力な身に過ぎず、大空を自由に舞う鳥ではないのだから、こんな風に、大空を舞うなんて体験をできる訳がなかった。鷹はなおも、勢い良く羽ばたきながら夜空を舞い続けていた。出町柳の駅を通り過ぎ、糺の森を眼下に見下ろしていた。すっかり夜の装いになった糺の森は静まり返っていた。月明りに照らし出された下鴨神社を後にしながら、尚も鷹は勢い良く夜空を舞う。

「ああ、気持ち良いもんだなぁ。へへっ、やっぱり、お前は最高の弟だぜ!」

 すっかり気を良くしたのか、絵描き小僧は手を大きく上げると、円を描く様に振る舞って見せた。不意に、鷹は一声、鳴き声を響かせると大きく旋回を始めた。進むべき方角に、敢えて背を向けて、一体、何処に向かおうと言うのだろうか?

「おいおい、絵描き小僧、オレの家はそっちじゃねぇぞ?」

 オレの言葉に絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。妙に楽しそうに振る舞って居る姿から察するに、何かを企てて居る事は間違いなさそうだ。それならば、このまま乗せられてみるのも面白そうだ。丁度、南下する様なコースを辿って居る辺りから察するに、京都駅へと向かって居る様に感じられた。予想通り、オレ達の視界の先には夜半の闇夜の中でも煌々と光を放つ京都タワーが見えて来た。こうして高い所から目にすると、京の都にそびえ立つ灯台の様にも見える。

「うぉっ!? 京都タワーが見えてきちゃったぜ! わはは! すげぇ、すげぇ!」

 京都駅周辺は一際賑わいを見せる場所となる。人々が築き上げた文明の象徴。数多のネオンや看板、立ち並ぶビルの明かりを目の当たりにしながらオレ達は上空を旋回していた。夜の京都の駅ビルはガラス張りと言う構造もあって、周囲の景色を煌びやかに映し出していた。夢の様な光景だ。地上から見上げる事はあっても、上空から見下ろすと言う経験は初めての事だった。

 それでもなお、鷹は南下を続けた。さて、何処に向かうのだろうかと考えて居れば、すぐに見えて来るのは東寺の五重塔だった。月明りの下、どっしりと佇む五重塔は、やはり、威風堂々たる風情を称えていて安堵感を覚える。街はすっかり夜の景色に包まれて居る。家々には明かりが灯され、家族団らんの一時を過ごして居るのだろうか? それとものんびりと一人の時間を、あるいは、誰かと共に過ごす時間を紡ぎ出して居るのだろう。そんな事を考えて居ると、再び鷹は高らかに鳴き声を響かせると、颯爽と旋回を始めた。賑わう街並みに別れを告げ、鷹は再びあるべき道へと戻ろうとしていた。

「すげぇ体験しちゃったぜ。普通に暮らしていたら、こんな光景、空から見るなんて有り得ねぇもんな。やっぱ、お前はすげぇ奴だな!」

 絵描き小僧と並んで街並みを眺めていれば、あっと言う間に御薗橋が見えて来た。そのすぐ向こうには上賀茂神社も見えて来た。短い時間ではあったが、空の旅も間も無く終わりを告げようとして居る。だが、絵描き小僧と共に歩む道はこの後も続く。いずれにしても、散々歩き回って汗だくだ。取り敢えず家に戻ったら、一緒に風呂に入る事にしよう。

◆◆◆79◆◆◆

 家に帰り付いたオレは玄関を静かに開けてみた。音も立てずに戸を開き、家の中の様子を窺う。傍から見れば不審者以外の何者でもない。オレの真似をして居るつもりなのか、妙に緊張した様子で絵描き小僧も家の中を覗き込んで見せる。

「何で、お前まで緊張してるんだっつーの」

 思わず小声になりながら絵描き小僧を小突いた。どうやら、お袋は未だ店の方に居るらしく、家の中は静まり返っていた。姿が見えないにしても、遅く戻って来たオレにあれやこれやと文句を言うのは目に見えて居る。せっかく良い気分なのに水を差されて台無しにされるのもつまらない話だ。

「うしっ! 今なら安全だ。これより任務を開始するぞ。準備は良いな?」

 冗談めいた振る舞いをしてみせれば、絵描き小僧は真顔で敬礼をしてみせた。お前は軍人かよ。妙なノリの良さに思わず笑いそうになったが、慌てて呑み込んだ。そのままオレは絵描き小僧を先導する様に玄関先で靴を脱いで、足音を忍ばせながら風呂場へと向かった。気分は民家に侵入する窃盗犯だ。何とも言い難い妙な緊張感に包まれたまま、オレ達は無事に目的地の風呂場に辿り着いた。

「良しっ、任務完了だ」

 オレの言葉に絵描き小僧が再び、それらしい顔で敬礼してみせる。

「わはは。笑わせるんじゃねぇっつーの。大体、そんな振る舞い、何処で覚えて来たんだよ? 絶対、時代が違うだろ?」

 オレの言葉に絵描き小僧は笑いながら頭を掻いて見せた。いずれにしても、すっかり汗でベタベタだ。今はとにかく風呂に入る事を最優先にしよう。

「やっと風呂に入れるぜ。ひゃー、汗だくだ。ベタベタで気持ち悪くていけねぇや」

 勢い良く服を脱いで、そのまま洗濯機へと放り込んだ。絵描き小僧は周囲を見回していたが、ここが風呂場だと気付いたのか、何やら納得した表情を見せながら、着物を脱ぎ始めた。ついつい、その姿に目を奪われてしまう。ガッシリとした体格なのは服の上からでも判るが、改めて服を脱ぐと予想以上の体付きだった。

「……やっぱり、褌なんだな」

 思わずシゲシゲと見入ってしまえば、オレの目線に気付いたのか絵描き小僧が慌ててオレの目を手で抑え付けた。

「わはは、減るもんじゃねぇし、良いじゃねぇかよ」

 これから一緒に風呂に入ると言うのに、何を、今更恥ずかしがる意味がある。そんな事を考えながら、オレは先に風呂場にへと向かった。オレに続く様にして絵描き小僧も入って来た。照れ臭さよりも、やはり例によって見慣れない物に興味を示していた。

「あー、なるほどな。お前が生きていた時代にはなかった物もあれこれ置いてあるもんな」

 取り敢えず体を洗いたい。汗でベタベタして気持ちが悪くて仕方がなかった。シャワーを浴びながら、絵描き小僧にもシャワーをかけてやった。温かな湯が飛び出す事に驚いた様子ではあったが、汗でべた付いて居るのは絵描き小僧も同じだったらしい。

「ほれ、そこに座りな。背中、流してやるからさ。ちなみに、これはこうやって使うんだぜ?」

 ポンプ式のボディソープなんて、当然の事ながら絵描き小僧が生きた時代にはなかった物だけに、一体、どう言う物なのか興味惹かれるらしく、オレがボディソープを出すのを興味深そうに覗き込んでいた。そのまま背中を流してやれば、気持ち良いのか、じっと、オレに背中を洗われていた。

「前は自分で洗えよ」

 オレが何を考えて居るのか理解して居るのか、絵描き小僧はにやにや笑いながらオレの顔を覗き込んで見せた。

「な、何、笑って居るんだよ……」

 オレに背を向けたまま絵描き小僧は上機嫌そうに体を洗っていた。体を洗い終えるのを見計らってから、シャワーで泡を流してやった。

「今度は頭洗ってやるな。ちゃんと目、閉じてろよ?」

 シャンプーを手に取って、絵描き小僧の頭も洗ってやった。目に入れば染みるであろう事は予想できて居るのか、背筋をピンと伸ばしたまま、さながら借りて来た猫の様な振る舞いで、大人しくしたまま頭を洗われていた。妙に緊張して居る姿が可笑しく思えたが、頭も洗い終えた所でシャワーで綺麗に流してやった。絵描き小僧は顔を手で拭いながらオレの顔をシゲシゲと覗き込むと、そのままオレの背後に回って見せた。何をしようとして居るのだろうか? 考え込んで居ると不意に両肩に手が宛てられた。なるほど。座れと言いたい訳か。

「へへっ、オレの背中も流してくれるのか? そいつぁ、楽しみだ」

 オレは絵描き小僧に背を向けて腰掛けた。不慣れな手付きでボディソープを出すと、オレがそうしてやったみたいに、背中を流してくれた。こうして互いの背中を流すと言うのも、如何にも兄弟らしくて誇らしい気持ちで一杯になった。長い間、ずっと夢にまで見ていた体験をできた事が、決して叶わぬ願いだと思っていた事が実現でき、心から嬉しく思えた。

「なんつーか、こうして背中流し合うってさ、兄弟っつー感じするよな」

 オレの言葉を背後でシッカリと聞いて居るのだろう。絵描き小僧は、力を込めて背中を洗ってくれた。背中を洗い終わった所で振り返って見せれば、オレの真似をして居るのだろうか。絵描き小僧は、にやりと笑ってみせた。もっとも、同じ振る舞いを見せるのも芸がない。それならば、意表を突いた振る舞いで驚かせてくれよう。

「何だったら、前も洗ってくれても構わないんだぜ?」

 予想もしない返答に戸惑ったのか、絵描き小僧は慌てて首を横に振ると、そのまま乱暴にオレの顔を掴み、力一杯、前に向けさせた。

「わはは、そうきやがったか。じゃあ、仕方ねぇな。自分で洗うかな」

 もっとも、背を向けたままである以上、どんなイタズラをされるか判った物ではない。妙な警戒心を抱いて居ると、予想通り、背筋を指が上から下へと駆け抜けた。

「うぉおっ!?」

 思わず背筋が伸びてしまう。

「お、お約束通りのイタズラをしやがって……」

 このまま放置しておくと、さらなる悪戯をされそうに思えたので、オレはさっさと前も洗った。洗い終わったのを見届けたのか、絵描き小僧がシャワーで流してくれれば、汗が綺麗に押し流されてサッパリできた。ふぅっと一息就いて居ると、今度はオレの頭に手を乗せて見せた。

「ああ、頭も洗ってくれるのか? それじゃあ、頼むぜ」

 オレの言葉を受けながらシャンプーを手にすると、絵描き小僧はオレの頭を洗ってくれた。やはり、繊細な絵を描くだけに手先は器用らしく、慣れた手付きで頭を流してくれた。汗ばんでいただけに実に心地良く感じられた。

 互いに体と頭を洗い終えたオレ達は浴槽に並んで浸かっていた。やはり、風呂は心地良いのだろうか? 絵描き小僧は頭の上にタオルを乗せたまま満足そうに足を伸ばしていた。

「汗、流したから、サッパリしただろう?」

 オレが問い掛ければ、満面の笑みを浮かべたまま頷いて見せた。

「オレもお前に背中流して貰ってサッパリしたぜ」

 不思議な光景だった。当たり前の様に二人肩を並べて浴槽に浸かって居るけれど、絵描き小僧は少なくても人ではない存在だ。一体、どんな目的でオレと共に歩んでくれようとして居るのか、何も明らかにはなっていない。現時点で判って居る事と言えば、オレの敵ではないと言う事だけだ。その素性が気にならないと言えば嘘になるが、敢えて無駄な詮索をするのも気が退けた。興味がない訳ではなかったが、オレに取ってそれを知る事は大して重要な事では無さそうに思えた。そんな事よりも、こうして肩を並べて歩んでくれて居る事の方が遥かに意味を持つ。世の中には知らなくても良い事なんざ、いくらでもある。要らぬ事を知ろうとする事より、今の幸せを手放さない様に生きたい。鶴の恩返しの結末を知る以上、もう、大切な何かを失うのは辛過ぎるから……。

「ま、事の詰まり、お前はオレの弟なんだよな」

 浴槽に浸かったまま肩を抱いて見せれば、絵描き小僧は誇らしげな笑みを称えたまま、力強く頷いて見せた。

「そうだよな。オレ達は兄弟だ。へへっ、何か嬉しいな」

 絵描き小僧はオレが何を語ろうとして居るのか、興味津々な様子だった。だから、オレは絵描き小僧の肩を抱いたまま続けて見せた。

「お前が何者かなんて、どうでも良いや。だからさ、ずっとオレの傍に居てくれよな? 一人で居るのは寂しいからな。それにさ、お前みたいに面白いのが傍に居てくれると楽しくて良いよな」

 絵描き小僧はオレの真似をして腕組みしながら、力強く笑い掛けて見せた。

「まだ、何一つ解明しちゃいねぇけど、お前と一緒に居れば何とかなっちまいそうな気がするよな」

 オレの言葉を聞きながら絵描き小僧は力強く頷いて見せた。

「お前の行きたい場所、何処でも案内してやる。だからさ……」

 面と向かって続きを口にするのは少々照れ臭く思えた。だから、オレは敢えて絵描き小僧から目線を逸らしながら続けた。

「ずっとオレの傍に居ろよな? ふらっと、どこかに行っちまったりするんじゃねぇぞ?」

 さて、一体どんな反応を示すだろうか。自分で口にしておきながら、まるで告白するかの様な言葉だと動揺すら覚えていた。対する絵描き小僧はしばし何かを思案してみせた。真剣な顔で腕組みしたまま何かを考え込んだかと思えば、そっと、オレの前に小指を差し出して見せた。

「お? 小指? 何をしようっつーんだ?」

 何を意図して居るのか判らずに問い掛ければ、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら、再び小指を突き出して見せた。

「ああ、指切りしようっつーのか。わはは、そう言う古風な振舞い、嫌いじゃねぇぜ。うしっ! 約束だぜ?」

 オレは絵描き小僧と固く指切りをした。これはオレと絵描き小僧、男と男の約束だ。そう言えば、昨日も同じ事をしたのを思い出していた。可笑しな話だ。昨日の話だと言うのに、遥か昔の事の様に思えてしまう。短い間に色々な事が起こり過ぎたからなのかも知れない。

 いずれにしても、どこかに行くなと約束させた以上、オレも迂闊にどこかに行ってしまう様な真似はしたくない。約束は守るためにある物だ。破るためにある物ではない。そんなオレの想いを見透かして居るのか、絵描き小僧は、相変わらず満面の笑みを称えたままオレの顔を覗き込んでいた。頻りにジッと見つめて見せる物だから、反応に困ってしまう。

「な、なんだよ……」

 オレの問い掛けに応える事なく、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら天井を見上げて見せた。再び肩を抱いてやれば、少々照れ臭そうに笑いながら、そっと身を寄せて見せた。こうして並んで浴槽に浸かって居ると何だか妙な気分になる。絵描き小僧と出会ったのはつい最近の事だ。それにも関わらず、オレは遥か昔から絵描き小僧の事を知っていた様な気がしてならなかった。それどころか、本当の兄弟だった様な感覚さえ覚えていた。動揺するオレに気付いたのか、絵描き小僧は再びオレの顔を覗き込んで見せた。

「そ、そんなにジロジロ見るんじゃねぇよ。照れるだろ……」

 絵描き小僧は相変わらずオレの顔をジッと見つめるばかりだった。照れ臭くなったオレは天井を見上げたまま、独り言の様に呟いた。

「輪廻転生――つまりは、生まれ変わりって、あるもんなのかな?」

 横目で盗み見てみれば、オレの腕の中で絵描き小僧は小さく頷いて見せた。絵描き小僧がそう言うのだから嘘ではないのだろう。そう考えれば、絵描き小僧が前世ではオレの兄弟だったとしても不思議な話ではない。そんな馬鹿な話、ある訳ないだろう。情鬼に出会うまでのオレだったら、そう一蹴していた事だろう。だけど、数々の不思議体験をした来たオレには、絵描き小僧の想いが嘘だとは思えなかった。そう考えても不思議ではない程に、妙に懐かしい感覚さえ覚えて居る。

「オレとお前は本当の兄弟だったのかも知れねぇな」

 絵描き小僧は肯定も、否定もせず、ただ曖昧な笑みを浮かべたままそっぽを向いて見せた。肯定も否定もしない。なるほど。真実はお前の目で見届けろ。そう言いたい訳か。

「へぇー。そう言う可愛くない態度を取っちゃって良いのかな?」

 オレの言葉に何か不穏な物を感じたのか、恐る恐る絵描き小僧がオレに振り返る。その瞬間を狙って、オレは絵描き小僧の脇腹をくすぐってやった。

「逃がさねぇぞー。わはは」

 浴槽の中、二人でくすぐり合って暴れた。くすぐられるのには弱いらしく、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら抵抗して見せた。だが、単純な力勝負になれば、腕力があるとは言え、オレには遠く及ばない様子だ。

「へへー。恐れ入ったか?」

 降参だと言わんばかりに絵描き小僧は両手を挙げて降伏の姿勢を見せた。こんなくだらない遊びを楽しむなんてまるで子供だ。だけど、悪い気分ではなかった。オレの中では、絵描き小僧はすっかり弟になっていた。だからなのだろうか? 離れ離れになっていた時間を埋めるかの様に、共に同じ時を過ごしたいと心から思っていた。

「さて、そろそろ上がろうぜ。あんまり浸かって居ると上せちまいそうだ」

 絵描き小僧はオレの言葉に頷いて見せた。オレ達は風呂場を後にして、部屋に向かう事にした。元々図体でかいオレが使って居るベッドでは、少々窮屈かも知れないが、まぁ、それは仕方がない。窓を開けて置けば多少は風が吹き込んで涼しいハズだ。そんな事を考えながら、オレ達は手際良く体を拭いて、部屋に向かうべく階段を上った。

◆◆◆80◆◆◆

 オレ達はベッドに並んで寝転がっていた。長風呂した後の火照った体に、窓から吹き込む風が心地良く感じられた。二人並んで、夜風に吹かれていた。心地良い風だった。絵描き小僧が隣に居てくれるからこそ、こうして落ち着いて過ごす事ができるのかも知れない。どれ程の時間が過ぎたのだろうか。何時の間にか絵描き小僧は眠りに就いてしまったらしい。静かな寝息を立てながら眠りに就く絵描き小僧のあどけない寝顔をオレは見つめていた。

「へへっ。可愛い顔して寝ていやがる」

 オレも眠りに就こうと、そっと目を伏せた。心地良い感覚に包まれたまま、ゆっくりと眠りに就こうとしていた。だが、唐突に静寂が打ち破られた。チリーン。響き渡る鈴の音色に気付いたオレは、静かに目を開けた。チリーン。再び鈴の音色が響き渡る。響き渡る鈴の音色を耳にして居るうちに、ゆっくりと意識が遠退き始めた。まずい! これは再び、妙な世界に誘われる。必死で抗おうとした。だが、オレの力ではどうする事もできなかった。ゆっくりと意識が遠退いてゆき、それに呼応するかの様に、みるみる体が沈んでゆく様な感覚を覚えた。必死でベッドにつかまって抵抗を試みたが、どうこうできる様な物ではないらしい。みるみる体が沈んでゆき、それに伴い、意識が遠退いてゆく。いつしか視界は白一色になっていて、眩し過ぎて何も見えそうになかった。

◆◆◆81◆◆◆

 再び意識が戻った時、オレは有り得ない光景の中に佇んでいた。これが夢でない訳がない。時刻は昼過ぎ。照り付ける様な日差しと、降り注ぐ蝉達の鳴き声に包まれた中、オレは見覚えのある駅前に佇んでいた。

「……また、可笑しな夢が始まっちまったのか」

 見間違えるハズがなかった。駅舎から出た所に広がるアーケード。駅前ロータリーには客待ちのタクシーがずらりと並び、駅前に大きく広がる歩道橋の上を人々が歩いて居る。長崎駅――オレのお袋の故郷にして、つまりは、オレに取っても故郷となる街。だが、何故、オレはここに居るのだろうか? 理解不能だった。こんな意味不明な展開など、夢の中でしか成立し得ない光景だ。何よりも、オレの家からほんの一瞬で辿り着く事のできる様な距離ではない。だが、すぐに気付かされた。何故、オレがこの場所に立って居るのか。その理由を。

  ――有り得ないハズの出来事が現実になる時、それは偽り以外に有り得ない。結花が生きて居る未来など、決して、有り得ない未来のハズだ。だが、オレは結花の下へ向かわなければならない気持ちで一杯になっていた。ここは夢の中で見て居る光景であり、オレが居るのもまた、夢の中に築き上げられた、ある一つの未来なのだろうから。

「結花は市民病院前で待って居るハズだ」

 別に、どこか具合が悪くて病院を訪れて居る訳ではない。丁度、市民病院前がオレ達の目的地のすぐ傍にあるから、待ち合わせの場所として都合が良いから選んだに過ぎない。

 何もかもが可笑しい世界である事は間違いない。これが偽りでない訳がない。この世界では結花が生きていて、何故かは理解不能だがオレ達は長崎を訪れて居る。誰が、一体何の目的を持って、こんな情景をオレに見せて居るのか理解不能だ。もしかすると、結花を想うオレの心が作り出した幻なのかも知れない。もしも、これが夢だと言うならば、こんな悪趣味な夢、一刻も早く醒めてくれ! そう思うオレが居る一方で、結花と出会える事を喜んで居る馬鹿なオレも居る。本当に馬鹿な奴だ。救いようがない程の大馬鹿野郎だ。だけど、それでも……この夢を強引に終わらせようとは思えないオレが居る。見て居る情景は偽りかも知れないけれど、オレの気持ちは真実なのだから。

 その証拠に、オレは何事もなかったかの様に、長崎の駅前で路面電車が到着するのを待っていた。立ち並ぶ人々の中に、さも、当然であるかの様に並んで居るオレが憐れで、哀しくて、それから……途方も無く滑稽だった。馬鹿だな、オレ。

「結花、本当にお前に会えるのだろうか?」

 独り言を呟いてみても応える者は誰も居ない。程なくして微かに金属が軋む音が近付いて来るのを感じた。お袋の故郷と言う事もあり、何度も訪れた街並みであり、それから、路面電車が街中を走り抜ける光景も、何度も目にして居る。ああ、此処は間違いなく長崎の街並みだ。

 やがて、オレの目の前に路面電車が止まる。ブレーキが掛けられた際の、金属が擦れ合い、軋む悲鳴にも似た音が妙に懐かしく感じられた。思わず、大きな溜め息が毀れる。オレの後ろに並んだ連中が小さく咳払いする。早く乗れよ。後が仕えて居る。声にならない想いを背中で受け止めるのが精一杯だった。判って居る。そんな事判り切って居る! ただ、ただ……路面電車に乗ってしまったら、一度乗り込んでしまったら、もう後戻りはできない。判って居る。判って居る。でも、それでも……!

「オレ、強くなれそうにねぇや。結花、ごめん……」

 気が付いた時には、オレは路面電車の中から長崎の街並みを見つめて居た。ああ、もう、後戻りできなくなったか。だけど、多分、これがオレの望んだ『選択肢』なのだろう。ここで、この『選択肢』を選ばなかったとして、何時までも、何時までも、うじうじと後から悩み続けるだけだ。本当に馬鹿だ。そっちの方が、遥かに傷が浅くて済むハズだったろうに。絵描き小僧と共に歩む事で、ようやく、光が見えて来た道を、敢えて、この手で閉ざすとは、何処までも救いがない馬鹿だ。イヤ、違うな。むしろ、自ら救いの手を払い除けて居るに過ぎない。不幸なオレ自身に酔い痴れたいだけに違いない。

 そんなオレの想いなどお構いなしに、やがて路面電車が動き出す。小さく溜め息を就くが、もう後戻りはできない。自らの手で敢えて退路を断ったのに、何を今更といったところだが。そっと顔を挙げれば、丁度、路面電車の路線図が目に映った。そういえば、随分と長い間、長崎にも訪れていない事を思い出した。まだガキだった頃に何度か連れてきて貰った位だから、記憶が薄れて居るのは不思議な話ではなかった。

(ああ、そうだ。思い出した。市民病院前に行くためには、一旦、築町で乗り換える必要があったな)

 やはり、長崎を訪れたのは大分昔の事だ。大まかな部分を記憶に残っていても、細かな部分は記憶から欠落して居る。まぁ、良いさ。欠落して居る記憶など、結花と共に作り上げれば良いだけの事だ。思い出は作り上げる物だ。一人では作れないけれど、結花と一緒なら作り上げる事もできるハズだ。

 考え込んで居るうちに、路面電車は間もなく築町へと到着しようとしていた。此処で乗り換えても、たかだか数分もあれば市民病院前に到着する。

(結花……)

 夢でも、幻でも、何でもよかった。結花に会いたい。その気持ちだけは偽りではなかったと言い切れる。それに、此処まで来てしまった以上、引き下がろうと言う気持ちも起こらなかった。後は前に進むだけだ。こうやって調子の良い言葉で自分自身を騙して、前向きな生き方をして居る様に見せ掛けては、周囲の連中まで騙し、それが真実であるかの様に演じ切る。そうじゃない。違うんだ。結局、目の前に餌をチラつかされれば飛び付かずには居られない、自制心の欠片もない生き方を選ぶ事しかできない弱虫に過ぎないんだ。だから、結花を想いながらも、コタを想ってみたりもした。罪悪感を覚えて居るフリをして、内心、両手に花だと高笑いして居るオレが居る。ああ、そうさ。オレは最低な奴だ。もう、取り繕うつもりも無ければ、今更、偽善者を演じるつもりもない。このまま本能に忠実な生き方を貫いてくれるまでだ。

◆◆◆82◆◆◆

 照り付ける日差しの中、路面電車は間もなく市民病院前に到着しようとしていた。蝉達の鳴き声が響き渡る。ふと、窓から空を見上げてみれば、何処までも続く青い空を背にする様に入道雲が迫り出す様が目に留まる。路面電車を待つ間の一時を思い出しても相当な暑さだ。この暑さの中、長崎の街並みを歩んで大丈夫だろうか。それ以上に、結花の身が案じられる。日の当たらない場所で待っていてくれれば良いのだが。程なくして、路面電車が止まる。オレは急ぎ、路面電車を後にした。

 ゆっくりと速度を上げながら走り去ってゆく路面電車を見送りながら、オレは腕で乱暴に汗を拭った。それにしても、結花は何処に居るのだろうか? 考え込んで居ると、不意に目の前にハンカチを差し出された。見覚えのある花柄の刺繍。甘く、華やかな花の香り。オレは恐る恐る振り返ってみた。

「やっと来てくれたのね」

「結花……」

 見間違える訳がなかった。あの当時と何ら変わる事のない姿のまま、結花がそこに佇んでいた。大きな花をあしらった麦藁帽子が良く似合って居る。伝えたい想いも、伝えたい言葉も、とにかく、沢山あったハズだった。だけど、言葉、出てこなかった。無理に言葉にしようとすれば、代わりに、涙が止め処なくあふれそうで恐ろしかった。

「今日はとても暑い日ね。だからね、ちゃんとね、日傘も準備して来たの。準備万端でしょ?」

「お、おう……」

 何もかもが、あの頃のままだった。変わる事のない結花の姿を目にして、オレは自分の気持ちを抑え切れなくなっていた。硬直するオレを余所に、結花は相変わらず上機嫌そうに振る舞うばかりだった。そっと、日傘を開くと、そのまま歩き出した。

「さ、力丸君。行きましょう」

「何処へ向かうつもりなんだ?」

 思わず問い掛ければ、結花は静かに立ち止まった。背を向けたまま、日傘をくるくると回して見せると、そのまま振り返って見せた。ジっとオレの目を覗き込まれれば、どう振る舞えば良いのか困惑する。そんなオレの動揺とは裏腹に結花は可笑しそうに笑って見せた。

「力丸君が案内してくれるって言ったじゃない?」

「オレが?」

「そうよ。故郷の長崎を案内してやるって、張り切っていたじゃない?」

 訳が判らなくなる。一体、どう言う事なのだろうか? しばし考えてみた所で、ある結論に至った。イヤ、これは只の憶測に過ぎないが、ここ数日に起きた出来事の数々を考えれば十分に考えられる展開だ。今、オレが目の当たりにして居るのは只の夢ではないのかも知れない。これは本来、選ばれる事のなかった、ある『選択肢』の結果なのかも知れない。

『選ばれた未来は生き残り、選ばれなかった未来は死に絶える』

 そうだ。結花の言葉に従うならば、本来は死に絶えるハズだった未来を歩んで居ると言う事になる。結花が生きる道を選んだ『選択肢』。選ばれる事のなかった『選択肢』。死に絶えるハズだった未来を歩んで居るとは矛盾に満ちた話だ。偽り以外の何者でもない。頭では理解して居る。だが――。

「そ、そうだったな。オレが案内しないで、誰が案内するんだって話だよな」

 このまま現実の物になってくれるなら、もはや、細かい事を気にする必要など微塵も感じられなかった。ああ、そうだ。このまま、この紛い物の世界に彩を与え続けよう。そうすれば、今、オレが歩んで居る物語の展開も書き換わる事になるのかも知れない。過去を塗り替える事は不可能かも知れないが、未来を塗り替える事ならば可能なハズだ。それなら、オレが為すべき行動は一つしかない。

「うしっ! それじゃあ、最初の目的地を案内させて貰うぜ」

 オレは結花の手を握りながら歩き始めた。照り付ける日差しは強く、ジリジリと肌を焦がす様に感じられた。汗が後から後からあふれ出る。だけど、この暑さもまた、生きて居ると実感できて心地良く感じられた。

 バス停を後にして、しばし道なりに歩む。赤レンガ造りのホテルが目印となる。後はホテルに沿って道を曲がればオランダ坂は目の前となる。オレは結花の手を握り締めながら、一歩、また一歩、オレ達の歩んだ記憶を刻み込む様に歩んでいた。微かに聞こえる結花の息遣いが気に掛かったオレは思わず足を止めた。

「結花、大丈夫か? 今日は暑いから、具合悪くなったらスグに言えよ?」

「うん。でも、あたしなら大丈夫よ」

「そうか。それなら良いのだけど」

「折角の大冒険ですもの。目的地に辿り着くまで、倒れたりしないから心配しないで」

「へへっ、そいつぁ頼もしい事で」

 結花が生きていた頃は当たり前の様に、こんな風にやり取りをしていた。だけど、それも、生きて居ればこそできた事だった。失ってみて初めて気付かされた。当たり前の様にできて居る事が、本当はとても幸せな事なのだと。特別な体験をする事が幸せなのだと思い込んでいたが、それは、ただの思い上りに過ぎなかった。一度、失われた命は二度と戻らない。だからこそ、何度、あの頃に戻りたいと願った事だろうか。無意味だと知りながらも結花の事を想わずに居られなかった。滑稽だと思う。でも、それが残酷な現実なのだから。

「この赤レンガ造りのホテルを超えれば、オランダ坂の入り口が見えて来る」

「ああ、道路の向こう側にある坂道がそうね」

「おう。結構な坂道だからな。途中でバテるんじゃねぇぞ?」

「ふーん。言ってくれるじゃない? そう言う力丸君こそ、暑さで倒れないでね」

 オランダ坂は風光明媚な場所として知られる観光名所の一つ。古き時代から外国文化との関わりも深かった街並みだけに、随所に異国情緒あふれる光景が残されて居るのも長崎と言う街の特徴と言える。時は明治時代まで遡るが、当時、出島に住むオランダ人の影響からか、開国後も長崎の人々は、外国人の事を、一律、「オランダさん」と称していた事が、地名の由来になったと記されて居る。

 古めかしい石畳の坂道は、雨に濡れると一段と風情ある光景へと変貌する。それも夏の雨が心地良い。シトシトと降り頻る温かな雨の中、土の香りを身に纏った石畳の坂道は、当時を振り返っては名残惜しむかの様に思えて、だからこそ、物悲しさが漂う。周囲の洒落た洋館と相まって、一際、風情あふれる情景になるのは言うまでもない。きっと、結花にも気に入って貰えるだろう。

「ま、残念ながら、今日は御覧の通りの晴天だけどな」

 残念そうに言い放って見せれば、結花は可笑しそうに笑って見せた。

「でも、これだけ晴れて居れば、遠くまで見渡せそう」

「まぁ、曇って居ると、あんまり遠くまでは見えねぇのは確かだな」

 目一杯、持ち上げて置いて、呆気なく落とすと言うのも可笑しな話ではあるのだが、長崎を故郷に持つ身からしてみると、御大層な名前に負けて居る感は否めない場所と言える。確かに、高台からは街並みも見下ろせるし、景色も悪くない。とは言え、近隣の住民達が日常使う道の一つに過ぎないのは事実だったりする。

「ってな具合に、名前負けしちゃって居る場所っつーのは否めないんだよな」

「そうかしら? 風情があって素敵な坂道だと思うけどな」

「まぁ、お前が喜んでくれるなら、オレは光栄だ」

 結花の笑顔を見る事ができて本当に嬉しく思えた。同時に、胸が締め付けられる様に痛んだ。ああ、そうさ。これは架空の世界だ。だからこそ、こうして結花の笑顔を目の当たりにする事が赦されて居る。だけど、実際には結花はもう、こんな風に笑う事はできない。隣を歩む事も、手を繋ぐ事も、何もできなくなってしまった。何故なら、結花はもう、この世の存在では無くなって居るのだから。少なくてもオレが生きて居る世界では……。楽し気に振る舞う結花を見て居ると、どうにも自分自身を抑えられなくなる。オレはそっと、結花の後ろに回り込むと、そのまま結花を抱き締めていた。

「力丸君ってば、急にどうしちゃったの?」

「結花……ずっと、オレの傍に居てくれよな」

「え?」

「オレを一人にしないでくれ。オレ、お前が居なければ何もできないからさ」

 人通りがなかった事に救われた気がする。もっとも、人が居ようが、居まいが関係なく、結花を抱き締めていたと思う。割れんばかりの蝉達の鳴き声と透き通る様な青空、それから、肌を焦がす程に強い日差しと暑過ぎる空気。そんな光景の中、オレは結花を抱き締めていた。結花は小さな溜め息を就くと、可笑しそうに笑って見せた。

「何だか、今日の力丸君、変な感じね」

「え?」

「普段は、恥ずかしがって、こんな姿見せる事ないのに」

「そ、それは……」

「あー、判った」

 結花は可笑しそうにクスクス笑って見せた。

「また、お母さんと派手に喧嘩でもしちゃったのね?」

 結花は可笑しそうに笑いながら、オレの腕の中からするりとすり抜けて見せた。そのまま得意そうな笑みを称えたまま、オレの顔をジッと覗き込んで見せた。

「約束する。あたしは、ずっと、力丸君の傍に居るから」

「本当か!?」

「ふふ、こんな可愛い力丸君の事、一人になんてしておけないですもの」

 何も反論できなかった。あの当時のオレだったら、結花に「可愛い」なんて言われたら、激しく動揺していたハズだった。そもそも、オレが追い求めて居るのは強く、逞しい男としての自分であって、可愛いと言う表現は、対極に位置する表現でしかなかった。だけど、今は素直に嬉しく思える自分自身が居る。単純な話なのだろう。本心では、結花の想いを、言葉を、素直に受け止めたかった。だけど、照れ臭さが勝ってしまって、つい、棘のある振る舞いしか見せられなかった。ずっと、悔やんでいた。まさか、ある日、突然、結花がオレの目の前からいなくなってしまおうとは、考えた事もなかった。だからこそ、結花を失った時、オレの心は音を立てて崩落した。

 オランダ坂は短い坂道だ。東山手十二番館と活水女子大の間を通る短い坂道と、ここから少し歩んだ先にある東山手洋風住宅群から孔子廟へと下る短い坂道に「オランダ坂」の碑が立って居るだけとなる。もっとも、この先にある東山手十二番館は中々に風光明媚な洋館だ。結花にも喜んで貰えるに違いない。かつては住宅としても使用された建物だが、現代の世の中では旧居留地私学歴史資料館として公開されて居る。入館無料と言うのも有り難い点だ。蒸し暑い中を歩き回るだけでは結花の身が案じられる。それに、結花の好みそうな洒落た洋館だ。先ずは、此処で涼みながら楽しんで貰うとしよう。

◆◆◆83◆◆◆

 東山手十二番館は外観からしても優雅な姿を見せてくれるが、中に入ると一際優雅な世界観が広がって居る。洒落た喫茶店を好む結花の趣味から考えれば、気に入って貰えると考えていたが、予想通りの反応を目の当たりにする事ができた。

 物静かな建物内をゆったりと巡る事で、気持ちはすっかりオランダさんと一体化していたのではないだろうか? 涼しい建物内で優雅な一時を過ごせた事もあってか、結花はすっかり上機嫌な振る舞いを見せていた。歩き方まで貴婦人を気取って見せる辺り、役作りが好きな性分らしい。

 結花が生きていた頃は、そんな芝居掛かった振る舞いも珍しい物とは思えなかった。だけど、失ってみて初めて気付かされた。こんな何気ないやり取りができると言う事が本当の幸せだったのだと。そんな事を考えながら俯くオレを余所に、結花は貴婦人を気取った様な優雅な歩き方で道を歩み続けていた。軽やかな足取りに鼻歌まで混じって居る辺りからして、相当に上機嫌なのが窺える。だからこそ胸が締め付けられそうになる。

 今、オレは当たり前の様に結花と共に歩んで居る。だけど……だけど、これは紛い物の世界だ。選ばれる事のなかった、ある『選択肢』が描き出す未来の情景に過ぎない。夢から醒めれば、何もなかった事になるだけだ。残酷な夢を見させてくれる。握り締めた拳の中、じわりと汗が滲む。

「力丸君、次はどちらにご案内して下さるのかしら?」

 日傘を来るりと回しながら結花が振り返る。気分はすっかり貴婦人と化して居るらしい。妙に芝居掛かった振る舞いが可笑しくて苦笑いが毀れる。

「そう言うキャラじゃねぇだろうに?」

「うーん、残念。頑張って高貴なお嬢様を演じてみたつもりだけど、まだまだね」

「へっ、とんだ大根女優だな」

「失礼ね。大根女優じゃなくて大女優でしょう?」

 得意気に返して見せる結花に、オレは目一杯の皮肉を篭めて返してやった。

「大女優ってのは年期の入った女優だぜ? つまり、お前はババァって訳か?」

 オレの言葉に驚いたのか、結花は目を大きく見開くと顔を赤らめた。

「そう言う意地悪な事を言うのね? 良いわ。あたし、一人で旅を楽しむから」

 くるりと踵を返すと、再び静かに歩き出そうとしてみせた。これには、今度はオレが驚かされる。

「わ、悪かった! オレが悪かった! だから、怒るな。機嫌直してくれ。な?」

 慌てて結花に謝って見せれば、結花は背を向けたまま静かに立ち止まって見せた。一体、何を言い出すのだろうか? 内心、冷や冷やしながら構えて居れば、結花は肩を小さく震わせながら笑ってみせた。

「ふふ、あたしの勝ちね?」

「うぐぐっ……!」

「駄目ね。こんな単純な振る舞いに引っ掛かっちゃうなんて」

「う、うるせぇ……」

「さ、それじゃあ次の場所に向かいましょう?」

「へいへい」

 あれからオレは色々な事があり過ぎて、良くも悪くも色々な部分が変わってしまった。結花、お前は何一つ変わっていないのだな。何時もの様にオレをからかっては、オレが動揺したり、憮然としたりするのを楽しんで居る。可愛い、か……お前の目に映るオレはそう言う姿だったのだろうな。オレが思い描くオレ自身の姿と、傍から見たオレの姿は違って居ると言う事か。結花、お前は変わらないのだろうな。いヤ、違うな。もう……変わる事もできなくなってしまったと言った方が正しいのかも知れない。時の流れから外れた場所に行ってしまったのだから。それも大自然の摂理と言えるのかも知れない。

 結花は相変わらず鼻歌混じりに歩き続けていた。貴婦人の振る舞いにも疲れてしまったのだろうか? 普段と変わらない姿で歩む結花の後ろ姿を見つめて居た。このまま、この世界の住人になってしまえたとしたら、どれだけ幸せなのだろうか。紛い物でも何でも良い。結花……オレを見捨てないでくれ。

「ねぇ、力丸君」

「うぉっ!?」

 考え事をしていたせいか、周囲の動きに全く意識が向いて居なくなっていた。唐突に結花に声を掛けられたオレは驚きの余り、思わず声を挙げていた。そんなオレを目の当たりにして、結花は目を丸くして可笑しそうに笑って見せた。

「次、何処に向かうのかな?」

「あ、ああ。次か……」

 いけない、いけない。今は目の前に居る結花に意識を向けなくては。挙動不審な振る舞いを見せたのでは結花を不安にさせてしまうかも知れない。ああ、冷静に考えれば実に馬鹿な考えだ。どうせ、これは紛い物なのだ。夢から醒めれば砕け散ってしまうだけの偽りの世界なのに……でも、それでもオレに取って、結花はやっぱり結花なのだから。

「大浦天主堂を案内してやろうと思ってな」

 オレの言葉に結花は首を傾げて見せた。ああ、なるほど。その名前だけ聞いても、どう言う場所なのかは中々想像が尽かないかも知れない。オレからしてみればお袋の故郷にある有名な観光地と言う事で、すぐに頭に浮かんで来るが、そうでない奴らには中々想像もできないだろう。

「早い話、教会だな」

 オレの言葉に、結花は納得した様な笑みを浮かべて見せた。

「ここから少し歩くが、大浦天主堂の周辺は中々に風情ある場所となる。それに、大浦天主堂には綺麗なステンドグラスもあるからな。お前の好みに合うかと思った訳さ」

「ステンドグラス! わぁ、楽しみ」

 予想通りの反応だ。結花は色彩豊かな物を好む。様々な種類の花々が咲き乱れる様な庭園など、結花に取っては最高の場所となるだろう。何度か、結花に連れられて訪れた先斗町にある喫茶ソワレは、まさしく教会のステンドグラスを思わせる造りとなっていた。そこで、結花が注文したゼリーポンチもまた、色彩豊かなゼリーがグラス一杯に煌めいていた。その辺りの記憶から考えてみたが、予想通り、結花に喜んで貰えた事が嬉しく思える。

「坂道を下り切ると大通りに出る。大通り沿いに少し歩いて、途中で脇道に入る。緩やかな坂道を上った先に大浦天主堂があるってワケだな」

 多少歩く事になるが、それでも歩けない程の距離と言う事もない。仮に道中、結花が暑さにやられてしまったならば、休憩を挟みながら向かえば良いだけの事だ。

「さて、それじゃあ向かうとしようぜ」

 あれこれ考えるのは止めにしよう。ただ、逃げて居るだけに過ぎないのは重々承知して居る。こんな紛い物の世界を歩んでみたところで、何一つ救いが得られない事も良く理解して居る。でも、それでも、目の前に結花が居る。その事実が、オレの中から正常な判断を奪ってしまったのかも知れない。違うな。そんなのただの言い訳に過ぎない。オレが弱いからいけないんだ。そう。オレが弱いから……弱いから、目の前に差し出された甘い誘惑に容易く乗せられてしまうだけの事だ。それどころか、自ら尻尾を振って飛び付いたと言うのが本当の所だ。強くなんか成れなかった。オレは弱い奴だ。もう、無駄な抵抗は止めた方が賢いのだろうか? 段々と思考が麻痺しつつある様に思えて恐ろしかった。それでも、結花の笑顔をただ見たくて、ただ見たくて、オレは坂道を下っていた。

◆◆◆84◆◆◆

 大浦石橋通りへと歩を進めたオレ達は、そのまま通り沿いに歩き続けた。目印となるのは路面電車の終着駅である大浦天主堂下となる。遮る物のない通り沿いは強い日差しに照らし出されて、相当な暑さに包まれていた。地面から立ち上る熱気もまた強烈な物があった。上からの照り付けと、下からの照り返しと言う強烈な暑さの中、オレ達は大浦天主堂を目指して、ただ、歩き続けていた。滝の様に流れ出る汗をひたすらタオルで拭っていたが、オレの事よりも結花の身が心配だった。これだけの暑さの中を歩き回って居る以上、体調に異変が現れても不思議ではない。時折、横目で結花の様子を窺ってみるが、意外にも結花は何時もと変わらぬ振る舞いを見せるばかりだった。心配そうに見つめるオレに気付いたのか、結花は静かに足を止めた。

「あたしなら平気よ」

「本当か? 無理してないだろうな?」

 オレの言葉を受け止めながら結花は颯爽と歩き出すと、「無理なんかしてないから大丈夫」と、口にして見せた。なるほど。本人が大丈夫だと言って居る以上、大丈夫なのだろう。それならば、このまま目的地を目指すとしよう。オレ達は照り付ける日差しの中を歩く事にした。

 歩く事しばらく、ようやく路面電車の終着駅、大浦天主堂下が見えて来た。ここまで来れば、後は通りの向こう側に渡り、緩やかな坂道を上るだけだ。オレ達は信号前に立ち、信号が青になるのを待った。程なくして信号が青になる。よし、このまま大浦天主堂を目指すとしよう。

 信号を渡り、そのまま道なりに歩む。しばし大通り沿いに歩んだところで、途中の脇道を曲がる。後は緩やかな坂道を登り切るだけだ。ちらりと横目で結花の様子を窺ってみるが、特に変わった様子は無さそうで一安心だ。それにしても、これだけの暑さの中でも、結花の振る舞いに全く変化が見られない事がむしろ不可解に思えた。夢の中の世界では、結花は健康な体を手にしたとでも言うのだろうか? 結花は体が弱かったから、こう言う強い日差しの下を歩き回るのは厳しかった様に思える。結花の願望が叶う場所、か……だからこそ、紛い物だと言う事なのだろうか。実に皮肉な話だ。

 緩やかな坂道には土産物屋も見受けられた。確かに、大浦天主堂は観光地としても有名な場所だ。観光客目当ての土産物屋が立ち並んでいても不思議では無さそうに思える。緩やかな坂道には人通りも少なくなかった。皆、一様に坂道を上って居る辺りからして、目的地は同じと見える。

「結構、人通り多いね」

「まぁ、アレだ。皆、考える事は一緒っつー訳さ」

「なるほどね。有名な場所なんだね」

「まぁ、有名な場所だよな。ガイドブックにも載って居るからな」

 坂道をしばらく歩んでいくと、大浦天主堂が見えて来る。周囲の建物と比べると、明らかに背の高い聖堂だからこそ、遠くからでも目立って見える。教会らしい白く、清楚な壁面に透き通る様な青い窓、正面の壁面には金の文字で「天主堂」と記されて居る。古き時代からこの地に在り続けて来た教会。歴史の赴きある佇まいで訪れる者達を大らかに受け入れてくれる事だろう。

「あの建物が大浦天主堂だ」

 木々達の間にそびえ立つ大浦天主堂の姿を目にした結花が歓声を挙げる。重厚感のある建物の外観に少なからず興味を示した様子だ。もっとも、内部はより目を引く光景で満たされて居る。結花の喜ぶ顔が目に浮かぶ様に思えてオレまで嬉しくなる。

「力丸君、早く行こう」

「ああ、待て、待て。そんなに慌てねぇでも、逃げたりしないから」

 まるで子供だ。無邪気にはしゃぐ結花を横目で見ながら笑った。それでも、こうして素直に喜んで貰えるのは嬉しい事だ。案内した甲斐があると言う物だ。さて、ここではしゃいでいても仕方がない。観光客達の流れに乗ってオレ達も向かうとしよう。

◆◆◆85◆◆◆

 遠くから見ると判らないが、大浦天主堂までは石段を上ってゆく事になる。そう、長い石段ではないが、近くで見るとそこそこの距離がある様に思える。緩やかとは言え、坂道の後の石段と言うのは中々に酷な物がある。思わず足を止めて汗を拭って居れば、そんなオレを余所に、結花は軽やかな足取りで石段を上って行った。後ろを振り返る事無く上ってゆく振る舞いから察するに、余程、興味を惹かれたのだろう。やれやれ、オレの存在は二の次以下と言う事か。このまま置いて行かれても堪った物ではない。オレも慌てて結花の後を追った。

 庭木に挟まれる様にして佇む石段を上り切れば、目の前には大浦天主堂が構えて居る。こうして間近で見ると、一際、大きな建物に見える。歴史の重みを感じさせる建物に自ずと気持ちも引き締まると言う物だ。

 入口で拝観料を払い、オレ達はそのまま内部へと足を進めた。普段、教会に足を運ぶ機会などないであろう結花に取って、教会と言う場所は、やはり、物珍しい場所の様に感じられた。興味津々な眼差しで聖堂の内部を見回していた。

 そこには教会ならではの光景が広がっていた。コウモリの羽を思わせる形状の天井はリブ・ヴォールト天井と呼ばれるらしい。空間を天井へと導くゴシック様式の教会に多く見られる様式とされて居る――と、まぁ、この部分はガイドブックの受け売りだが。正面奥には立派な祭壇が安置されていて厳かな雰囲気を称えて居る。何よりも目を引くのは壁面に埋め込まれたステンドグラスの数々であった。日の光を受けて、色鮮やかに瞬くステンドグラスからは様々な色彩が零れ落ちて来る様に感じられた。

「歴史的な背景までは詳しくは知らねぇけど、長崎の原爆投下時に、此処、大浦天主堂も相当な被害に遭ったらしくてな。周りにあるステンドグラスの中には、破壊されちまって、新たに作り替えられた物も混じって居るって話だぜ」

「原爆……そうだよね。長崎と言う街は、原爆の被害に遭った街だ物ね」

「ああ。そうだな」

「多くの命が一瞬にして失われたんだよね……」

 結花の表情がみるみる曇ってゆく。迂闊な話題を口にしてしまった。結花は人の命に纏わる話に関しては、必要以上に感情移入する部分がある。話題を逸らさなくては……。

「原爆資料館もあるんだよね」

「良く知って居るな」

「事前に調べたの。折角、力丸君に案内して貰うのだから、色々知って置こうと思ってね」

「そっか」

 人が巻き起こした負の歴史――戦争。その傷跡が色濃く残されて居るのも、また、この長崎と言う街の特徴なのかも知れない。長崎と言う街は、ただの異国情緒あふれる街並みと言う訳ではない。この街には哀しい歴史が残されて居る事も忘れて欲しくない。この街を故郷として生きるオレとしては、そういった想いも伝えていきたいと思って居る。確かに、オレ自身は戦争を体験した身ではないけれど、それでも、年寄り達から話を聞く機会があれば、必ず、そうした戦争の体験談は飛び出して来る。目を背けようとは思っていない。人が起こした負の歴史、現代を生きるオレ達もまた、未来の奴らへと受け継いでいかなければならない。そう思って居るから。

「あたし一人では、何もできないかも知れないけれど、少しでも力になれれば」

 そう口にすると、結花は祭壇に向かって静かに手を合わせて見せた。手を合わせると言う仕草は仏教の振る舞いその物であったが、祈りを捧げると言う気持ちに宗教の色は関係ないと思う。そこにあるのは、平和を切に願う静かなる祈りだけ。その気持ちに変わりはないと思う。オレもまた結花の隣に並んで手を合わせた。ステンドグラスから差し込む光は色鮮やかで幻想的な美しさを称えていた。だけど、どこか物悲しい色合いに見えるのはオレだけなのだろうか? ふと、そんな事を考えながら結花の様子を盗み見た。結花は静かに手を合わせたまま祈り続けていた。こんなにも信心深いとは、意外な一面を見た気がする。

 結花はしばらくの間、手を合わせていたが、静かに顔を上げて見せた。思わず動揺するオレを見つめながら、そっと手を握って見せた。照れ臭くなったオレは、さり気なく祭壇へと目線を投げ掛けて、さも、平常心を保って居るかの様に振る舞う事しかできなかった。

「ステンドグラス、綺麗だね」

「ああ。今日は天気も良いから、外からの光も強いからな。色合いもくっきり出て居るよな」

「そうだね。幻想的で、本当に綺麗だなぁって思える」

「確かに綺麗だよな」

「でも、どこか物悲しい綺麗さに思える」

 オレだけではなかったか。結花にもまた、同じ様に見えていた事に驚かされた。やはり、誰の目から見ても、このステンドグラスが紡ぎ出す情景は物悲しい色合いに見えるのだろう。古き時代から連綿と受け継がれて来た歴史。その歴史が醸し出す哀しみさえも、克明に描き出してくれて居るのかも知れない。

「綺麗な色。でも、どこか儚い色だよね」

「そうだな」

「大事にしないとね」

「何を大事にするんだ?」

 オレの問い掛けに結花は静かな笑みを称えたまま応えて見せた。

「平和、かな?」

「……そうだな。命ある限り、平和を守って生きたいな」

 オレの言葉に結花は静かに頷いて見せた。その振る舞いを横目で見ながら、オレは改めて大浦天主堂の聖堂を見回していた。此処には数多の人々の想いが眠って居る。そんな気がした。何時の日か、今度はコタ達も連れてきたいと考えていた。コタ達を連れて来た時、この情景を目の当たりにした時、コタ達が何を感じ、何を想うのか、興味を惹かれた。皆で意見を交換し合うのも悪くない。

「さて、そろそろ次の目的地を目指すとしようか」

 オレの言葉に結花が嬉しそうに笑いながら頷いて見せる。

「次の目的地はすぐ近くだ」

 結花は色彩豊かな花を愛する身だと言う事は良く心得て居る。色彩豊かな花々と歴史情緒あふれる洋館の数々。高台にあるからこそ、遠くまで見渡せると言う意味でも、結花が喜びそうな要素の数々を満たして居る場所と言えよう。次の目的地は、此処、大浦天主堂から少し歩いた先にあるクラバー園となる。さて、結花に気に入って貰えると良いのだが。傍らを楽しそうに歩む結花の表情を時折、盗み見ながら大浦天主堂を後にしようとしていた。

◆◆◆86◆◆◆

 大浦天主堂を後にしたオレ達は、その足でクラバー園を目指していた。異国情緒あふれる建物が建ち並ぶクラバー園には色とりどりの花々達が咲き乱れて居る。花が好きで、異国情緒な物が好きな結花に取っては、おそらく、楽しめる場所になるのは間違いないだろうと勝手に判断した。それに、クラバー園は高台にある。オレの故郷、長崎の街並みを一望できる場所と言う事もあって、オレの想いを結花に伝えるには最高の場所だと考えて居る。きっと喜んで貰えるに違いない。そんな想いを胸に抱きながら、オレ達は入口を潜り抜けた。時刻は丁度、昼前に差し掛かろうとして居る。ジリジリと照り付ける日差しが肌を焦がす様に暑くて、汗が止まらなくなっていた。何度も額の汗を拭うが、すぐに汗が噴き出す。悪くない。こう言う暑さは嫌いではない。

 歴史を感じさせる建物が目に留まる。この場所だけは時間の流れが異なって居るのではないか? そう思わせる光景に魅せられて居るのか、結花は周囲をきょろきょろと見回していた。言葉にしなくても、その興奮はオレにも伝わって来る。予想以上の反応を肌で感じ取れたオレは腕を組みながら結花を見つめていた。

「色々興味惹かれる物があるだろうが、順番に見て行った方が良い。オレが先導するから着いて来い」

 オレの言葉に結花は嬉しそうに頷くと、するりとオレの腕に自らの腕を絡ませて見せた。思わず顔が紅潮する。そんなオレの振る舞いに気付いて居るのか、結花は可笑しそうに笑いながらオレの顔を覗き込んで見せた。照れ隠しに小さな溜め息を就いて見せれば、結花は殊更に可笑しそうに笑って見せた。

「ほら、行くぞ」

 まずは動く歩道に沿って移動する。クラバー園の中でも、最も高台にある旧三菱第二ドックハウスを目指す事にした。二階のベランダからの眺望は実に見事な物がある。街並みを高台から見回してみれば、オレの故郷の情景を結花に見せてやる事も容易い話だ。見て欲しかった。オレの故郷の街並みを。もっとも、厳密にはオレのお袋の故郷だが。

 実際の所、オレは京都で生まれ育った身だ。長崎は何度と無く家族で訪れた場所でもある。オレの故郷を結花に見せてやりたい。イヤ、見て欲しかった。異国情緒あふれる、風光明媚なる長崎の街並みが好きだから。オレが好きな物、結花にも好きだと言って欲しかった。そう――言って欲しかった。叶う事のない願いだった。だけど、今、こうして結花と共に歩んで居る。判って居る。判って居る。これはただの紛い物に過ぎないと言う事も。夢から醒めれば呆気なく消えちまう、脆く、儚く、切ない思い出に過ぎない。でも、それでも……オレは結花に見て欲しかった。

 傍らを歩む結花は、時折、感嘆の溜め息を漏らしながら、クラバー園の光景を楽しんで居る様に見えた。クラバー園には時代を感じさせる建物だけでは無く、多くの花々が咲き誇って居る。花が好きな結花に取って、本当に楽しめる場所なのだろう。

 今では観光地の一つとなってしまって居るが、当時は、このクラバー園で暮らしていた人々も大勢居た。これから向かおうとして居る旧三菱第二ドックハウスは、修理船の乗組員の宿泊所を移設した物である事を考えれば、やはり、大勢の人々が暮らしていたと考えても不思議な話ではない。当時を生きた身ではないので、あくまでも想像を巡らせる事しかできないが、それでも、歴史ロマンに触れると言うのも中々に楽しい物だ。

 照り付ける日差しは強く、容赦なく肌を焦がすばかりであったが、その暑さも心地良い。傍らを歩む結花も手にした扇子で盛んに風を送って居る。程なくしてオレ達は旧三菱第二ドックハウスへと辿り着こうとしていた。最も高台にある建もの。ベランダからの眺望を目にした結花が、どんな風に喜んでくれるのかを想像するだけで楽しい気持ちで一杯になれる。誇らしい気持ちで一杯になりながら、動く歩道から降り立った。

「力丸君、少し待っていてくれる?」

「お、おう」

 唐突にどうしたのだろうか? 問い掛けようとするオレの唇に指を宛てると、結花は可笑しそうに笑って見せた。

「もう、力丸君ってばそんな事、聞いちゃ駄目でしょう?」

 何が何だか判らずに首を傾げるオレを後目に結花は軽やかな足取りで歩き出した。向かう先にある物は……なるほど。そう言う事か。

(ったく、トイレに行きてぇなら、そう言えば良い物を)

 腕組みしながらオレは笑った。それにしても日差しが強い。情け容赦無くジリジリと照り付ける日差しに、すっかり肌がヒリヒリし切っていた。ふと、空を見上げてみれば眩いばかりの強い日差しに目が眩む。頬を、背中を、汗が滴り落ちてゆく。本当に暑い日だ。

「こりゃあ、どこかで飲み物でも買わねぇと日干しになっちまうな」

 誰に語り掛けるともなく、ぽつりと呟いてみた。汗を拭いながら、ふと、違和感に気付く。

「……随分、遅いな」

 そう呟いた瞬間から嫌な予感に満たされてゆく。今日は本当に暑い。トイレに行ったまでは良いが、まさか、中で倒れて居たりしないだろうか? そう考えると無限の不安に駆られる。オレは慌ててトイレへと向かった。もっとも、流石に中まで入る訳にはいかず、トイレの前で立ち往生する事しかできなかった。不気味なまでにトイレは静まり返って居る。何の音も聞こえないと言うのも不思議な話だ。それどころか人の気配すら感じられない。意を決して声を掛けてみる事にした。

「結花? 大丈夫か? 具合悪いのか?」

 だが、オレの声が空しく響き渡るだけだった。結花の返事は聞こえる事はなかった。

「結花!? 居るんだろ!? 返事しろよ!」

 応える者は誰も居なかった。ただ、静寂だけがそこに置き去りにされて居る様に思えて、果てしなく不安で一杯になった。

「……結花」

 結局、そう言う事か。ああ、そうさ。これが現実なんだ。結花は居ない。オレが生きて居る世界には結花は居ない。世界中どこまでも果てしなく探し求めた所で徒労に終わるだけだ。敢えて持ち上げるだけ持ち上げて置いて、一気に奈落の底へと叩き付ける。それが望みだったのであれば、仕掛け人の思い描いた通りの結末になった事は間違いない。大成功だ。オレはこんなにも心がズタズタに引き裂かれた。いっそ、このままクラバー園の高台から空高く舞い上がり、地面に無様に叩き付けられて死んでしまいたいと切に願った。

 こんな所に居ても何も変わる事はない。オレは一人、旧三菱第二ドックハウスへと向かう事にした。もしかしたら、結花が待って居るかも知れない。そんな無意味な期待だけを胸に抱いて。馬鹿だと言う事は判って居る。それでも縋らずに居られなかった。受け入れられる訳がなかった。つい、今さっきまで、オレの隣には結花が居た。それなのに、こんなにも呆気なく消え失せてしまう物なのか? 納得できる訳がなかった。だから、オレは結花の足跡を追い求めて旧三菱第二ドックハウスを目指した。

 あれからどれだけの時間が過ぎ去ったのだろうか。日が傾き、夕暮れ時になっても結花が姿を現す事はなかった。間もなくクラバー園も閉園時間を迎える事だろう。もはや、これ以上、此処に居続ける事はできそうになかった。

「……結局、全部、全て夢だったって事か」

 溜め息しか出てこなかった。自分の馬鹿さ加減が可笑しくて、可笑しくて、声も出さずに笑った。笑って、笑って、それから泣いた。

「結花……どうして?」

 どうする事もできなくなった惨めなオレは、ただ、その場に崩れ落ちる事しかできなかった。へたり込む様に座り込んで、遠く広がる夕暮れ時の長崎の空を見つめる事しかできなかった。夕暮れ時の空模様は萌える様な茜色で、綺麗で、優しくて、それから、途方もない儚さで一杯だった。このまま駄目になってしまおうか? もう、何もかもが嫌になったオレはその場で大の字になって寝転がってみた。こんな事をしたって何にもならない。それでも、時の流れに抗ってみたかった。不意に、強烈な睡魔が襲って来る。抗う事のできない程に強烈な睡魔だった。必死で抵抗を試みた。だが、どうする事もできない。ゆっくりと遠退く意識の中、結花がオレの顔を覗き込むのが見えた気がした。慌てて手を伸ばそうとするが、もはや意識は途切れる寸前だった。視界が白く、白く染め上がってゆき、そして、意識は完全に途絶えた。

◆◆◆87◆◆◆

 再び目が覚めて見れば、そこはやはり変わる事のないオレの部屋だった。傍らでは絵描き小僧が静かな寝息を立てて眠って居る。だが、妙な夢を見てしまった事もあり、気持ちがすっかり昂ぶってしまったオレは、とても眠れそうになかった。気持ち良く眠って居る絵描き小僧を起こしてしまうのも気が退けたから、オレは絵描き小僧を起こさない様に、そっとベッドから起き上がった。少し夜風に吹かれたかった。とにかく頭を冷やしたかった。だから、オレは絵描き小僧を残し、一人、部屋を後にした。

 玄関先で靴を履いて静かに戸を開ければ、隙間から風が吹き込んで来る。一瞬、戸惑ったが、戸を開いた。外から吹き込んで来る湿気を孕んだ蒸し暑い空気の中、オレは家を後にした。

 こうして夜半の街並みを歩くのも何度目になるのだろうか。結花の事を思い出しては、もう二度と会えない苦しさに堪え切れずに、こうして夜半の街を宛ても無く歩き回った。そんな事をしたところで、何の救いにも繋がらないと言うのに、馬鹿な奴だと自分を嘲笑いたくなる。それでも、こうして彷徨い歩く事しかできなかった。ただ、結花の面影だけを追い求めて、結花と過ごした思い出の欠片を探し求めて……。

 月の綺麗な晩だった。涼やかな音色を奏でながら流れゆく明神川の流れが心地良く感じられた。夜半の街並みは静けさに包まれていて人の姿は見られなかった。月明かりに照らし出された街並みを一人、とぼとぼと歩き続ける事しかできなかった。

 結花と共に何度も歩んだ道。何時もオレの隣を歩んでくれた結花はもう居ない。どんなに会いたいと願っても、どんなに話したいと願っても、もう、二度と会う事はできない。過ぎ去った時の流れが戻って来る事は有り得ない。この明神川の流れと同じだ。流れ過ぎた水の流れは、流れてしまえば二度と戻って来る事は有り得ない。だからこそ、余計に切なくなるし、胸が締め付けられる様に苦しくなる。

 太助と共に歩んだ宇治の情景が蘇る。規模こそ違えど明神川も、宇治川も、同じ川である事には変わりはない。流れゆく水の流れに想いを馳せてみても、流れ去った水の流れは戻る事はない。時の流れと川の流れは同じで、一度過ぎ去ってしまえば二度と戻る事はない。

 結花と過ごした日々が、数え切れない程の思い出だけが蘇る。そう。結花はもはや過去の存在に過ぎない。今、この時代には存在していない過去だけを生きる存在。もう二度と戻る事も無ければ、もう二度と会う事も叶わない。

「結花……ううっ、うう……」

 今が夜で良かった。今ならば、地面に膝から崩れ落ちて涙を流して居る間抜けな姿を人に見られずに済む。もう、止められなかった。もう、抑えられなかった。克明に結花の面影を描き出すには十分過ぎる体験をした今、必死で思い出さない様にしていた哀しみが、痛みが鮮明に蘇る。

「結花……」

 涙は後から後から零れ落ちては、地面に落ちて小さな染みを作る。激しい痛みが体中を駆け巡る。結花を失った喪失感が黒い炎となって噴き上がり、容赦なくオレを焦がしてゆく。体中を焼かれる痛みが駆け巡り、生きて居る事に嫌気がさす。

「なぁ、結花……オレ、お前の所に行きたいよ。もう、良いよな? もう、頑張らなくても良いよな?」

 次第に涙は収まろうとしていた。イヤ、違うな。涙が枯れようとして居るのかも知れない。涙も枯れれば少しずつ体温も失われてゆくハズだ。そうやって少しずつ力が抜けて、体が冷たくなって、オレは死んでゆく。そうすれば晴れて結花と同じ土俵に立てる。

「そうすればお前に会えるよな? 会えるんだよな?」

 明神川沿いを抜ける道は一本道だ。夜になれば人気は失われる。さぁ、全速力で突っ走って来い。暗がりの中ではオレの姿も闇に塗れて良く見えないだろう。安心しろ。オレをひき殺したお前の事をオレは恨んだりしない。だから、どうかオレを跳ね飛ばしてくれ。オレをひき殺してくれ。自分で命を絶つ事もできない臆病者のオレに引導を下してくれ。結花の下へと誘ってくれ。オレは……オレはもう、生きて居ても仕方がないんだ。生きて居るのが辛いんだ。だから……だから!

 世の中はそう上手くはできて居ない物らしく、待てど暮らせど車が通り掛かる事は無さそうに思えた。思わず溜め息が毀れる。こんな馬鹿げた事を真面目に望んで居る自分が居る事が途方も無く滑稽に思えて、ただ渇いた笑いしか毀れて来ない。

 こんな夜中に、オレは一体何をして居るのだろうか。こうして、夜の街並みを彷徨い歩いた所で結花に出会える訳でもないと言うのに。無意味な事である事位、重々承知して居る。馬鹿な事をして居るだけなのも理解して居る。それでも結花を追い求めずに居られない、どこまでも弱く、情けない自分が滑稽だった。歩き続けて居るうちに、オレは西村家別邸前まで訪れていた。

「……これもまた必然とでも言うのかよ? ったく、皮肉な話だぜ」

 ここにも結花と共に過ごした思い出が眠って居る。オレ達の住んで居る場所からも近い場所にあり、無駄に観光客も大勢訪れる事もない。日常の生活の中に静かに佇む姿が心地良くて、同じ社家の町並みに暮らす身だからこそ、知り合いの家に遊びに出掛ける様な感覚で訪れる事ができるのも心地良い。

 西村家別邸の前に佇んだまま、オレはかつて、結花と共に西村家別邸を訪れた際の記憶を手繰り寄せていた。そんな事をしても辛くなるだけなのは理解して居る。それでも、粉々に砕け散った結花の思い出を手繰り寄せて居れば、何時か、結花が再び姿を現してくれはしないだろうか。何の根拠もない馬鹿な願いである事位、自分でも良く判って居る。それでも縋らずに居られない弱い自分が本当に情けなかった。でも、それでも、オレは結花を追い求めずには居られなかった。再び溢れ出る涙を必死で拭いながらも、オレは結花の面影を紡ぎ出そうとしていた。散らばった欠片を繋ぎ合わせれば、結花に会えるかも知れないなんて、いよいよオレも来る所まで来てしまったらしい。死を決意するのはもう少し、先送りするとしよう。

◆◆◆88◆◆◆

 あの日は暑い夏の日だったと記憶して居る。澄み渡る青空と発達した入道雲の下、オレは何時もの様に、半ば強引に結花に連れられるままに社家の町並みを歩んでいた。照り付ける日差しは強く、情け容赦なくジリジリと肌を焦がす。余りの暑さに湧き水の如く汗が噴き出す。熱されたアスファルトの上にポンと置かれた雨蛙の心境は、多分、こう言う物だろうと、意味不明な事を考えて居た。

 明神川の上に掛けられた小さな石橋を超えたオレ達は、西村家別邸と記された木の看板が置かれた門を潜り抜けた。右手に垣根、左手に立ち並ぶ木々、細い道を抜ければ家屋へと到達する。相変わらず結花は楽しげな足取りで進むばかりだった。その後ろをゆっくりと歩みながら、垣根越しに庭を見回すオレの事など眼中に無さそうだ。

 それにしても、近所にこんな場所があろうとは予想もしなかった。何度も、前を通り過ぎた事はあるのだが、周囲に立ち並ぶ家々に挟まれる様に佇む人様の家を見て、一体何が楽しいのだろうかと興味を惹かれる事はなかった。陽気な足取りで駆け抜けて行った結花も、実は今日、初めて訪れるらしい。興味はあったが一人で訪れるのもつまらなく思えたのだろう。

「……オレの存在は眼中にねぇって感じだな。まったく」

 大きく溜め息を就いた所で、結花の奇想天外な行動が改善する訳もなく、結局、振り回されるだけか。放っておけば、また勝手に予想もしない事をやらかさないとも限らない。やれやれと思いながら、オレは結花の後を追った。

 玄関先で拝観券を購入する仕組みらしい。既に結花が二人分購入していたのか、拝観券を貰うだけとなった。少々出鼻を挫かれた感は否めなかったが、オレはこの家の主と思われる品の良い爺さんに軽く会釈してから、玄関を上がらせて貰った。

 玄関先から既に日が差し込まず薄暗く感じられた。だけど、この薄暗さが何とも心地良く感じられた。すぐ近くの木に蝉が止まって居るのか、思わず溜め息を就くオレに呼応する様にゆっくりと鳴き声を響かせ始めた。

 木で造られて居るであろう床は一歩、一歩、踏み込む度に、年期の感じられる軋んだ音を響かせた。軽く、沈む様な感覚に一抹の不安を覚えた。まさか、いきなり床をぶち抜いてしまう事はないだろうな。ついつい、慎重になりながらオレは歩き続けた。

 玄関を抜けてすぐ右隣にある部屋の前に立って部屋の中を覗き込んでみた。やはり、部屋の中は少々薄暗く感じられたが、庭の明るさと部屋の薄暗さの対比が実に心地良く感じられる。畳張りである事を考えれば、余り日に当たり過ぎると畳が日焼けしてしまう。そう考えれば、日焼けを防ぐための工夫なのかも知れない。良く手入れされた畳に興味を示したオレは、そっと身を屈めて部屋を見回してみた。綺麗に掃除されていて埃など微塵も見当たらなかった。障子もまたしっかりと張られて居る。こうして一般公開しながらも、日々の生活の場としても使われて居る事を考えると、実に貴重な場所の様に思えた。社家の町並みでも、ここ、西村家別邸以外に一般公開して居る家はない事を考えると、何時までも大事にしていきたいと心から願えた。

(それにしても、結花は一体、何処に行っちまったんだ? まぁ、そのうち、どこかで会うか)

 気まぐれな結花の事は置いておいて、オレは昔ながらの風情を残す綺麗な家屋にすっかり興味を惹かれていた。

 不意に奥の部屋から人の話し声が聞こえて来た。既に先客が居るのだろうか? そう考えながら、さり気なく声に耳を傾けてみれば、どうやら西村家別邸の紹介をするための音声案内が流れて居るらしい。なるほど。訪れる人々のために案内を聞かせようと言う趣向か。納得したオレはそのまま奥の部屋へと向かった。

 奥の部屋に訪れてみれば、結花は腰を下ろして庭の景色を眺めていた。やれやれと思いながら、オレもまた結花の隣に腰掛けて見せた。オレが隣に腰掛けた事には気付いて居るのだろうが、結花は静かに庭園を見つめていた。オレも結花の真似をして庭園を見回してみた。

 様々な木々が立ち並ぶ庭園は小さな川を思わせる流れが敷かれ、地面に埋められた規則正しく並ぶ石床も相まって、時の流れが止まって居るかの様に見えた。苔生した灯篭が置かれていたり、角が丸くなった石段が組まれていたりと、細かな部分にも意匠が施されて居る。

「庭園を流れる小さな川は明神川の水の流れを引き入れて居るみたい。それでね、この庭園をぐるっと回った後で、再び明神川に帰る様な造りになって居るんですって」

「へぇー。そいつぁ変わった造りだな。一般的に庭園にあるのって池だもんな」

「そうね。そう考えると、個性的な庭園よね。でも、こう言う庭園、良いなぁ」

 結花はそっと立ち上がると庭園をぐるりと見回して見せた。大きく手を広げながら、息を吐いて見せた。風が吹き始めたのか、木々達が涼やかな音色を奏でる。蒸し暑い中、穏やかに吹き抜けてゆく風が心地良かった。戸板も何も仕掛けられていないから、風が本当に心地良く感じられる。だけど、不意に雨が降り出したら部屋はびしょ濡れになりそうだ。ついつい、現実的な事を考えて仕舞い自分でも興醒めしてしまった。そんなオレに背を向けたまま結花が口を開く。

「古き良き日本の家って感じ。大人になったらこう言う家に暮らしてみたいな」

「年寄り染みた趣味だな。それに、お前の家、十二分に立派な家じゃねぇかよ?」

 オレの言葉に結花は小さく俯くと、首を横に振って見せた。

「あたしは、あたしの家に住みたいの」

「うへぇ、贅沢な願いだな」

「あたしの家に暮らして、あたしの家庭を築き上げたいの」

 確かに、家と言う場所は一つの城の様な物だ。一国一城の主になりたいと願う気持ち、オレも同じだから共感を覚える。元々、口喧しいお袋と一つ屋根の下で暮らす等、息が詰まる以外の何者でもない。早くオトナになって家を出たい。そう切に願って居るのは事実だ。世間知らずのガキが何を偉そうにと言われるかも知れないが、では逆に問いたい。世間知らずのガキは夢を見てはならないのか、と。オレにだって夢はある。自由を手にしたいと願う時もあれば、未だ見ぬ未来に希望を馳せる事だってある。誰にもオレの未来を阻む権利はない。オレは、オレの物語を描きたい。ただ、それだけだ。

 一人、熱くなり、ついでに鼻息荒くなって居ると結花が可笑しそうに笑いながらオレの顔を覗き込んで見せる。妙な笑みを湛えて居る辺りからして、嫌な予感が脳裏を過ぎり、思わず背筋が寒くなる。そんなオレの目をジッと見据えたまま、結花は殊更に可笑しそうに笑ってみせた。指を立てながら、さも誇らしげに続けて見せた。

「それでね、あたしの家には力丸君も一緒に暮らしていて――」

「はぁっ!? 何でオレがお前と一緒に暮らしてるんだよ!?」

 思わず立ち上がるオレに再び背を向けると、結花は可笑しそうに笑いながら続けて見せた。

「料理の腕磨かないとね。力丸君に美味しい料理作って上げたいな」

「あのな!」

「あー、でも力丸君、きっと料理上手だから、あたしがご馳走されちゃうのかな?」

「勝手にオレの未来を決めるんじゃねぇっつーの!」

「力丸君、あたしと一緒に暮らすのは嫌?」

「へ? あ、い、イヤ……そう言うワケじゃ……」

「じゃあ、一緒に暮らそうね」

「なんで、そうなるんだっつーの!?」

「力丸君、あたしと一緒に暮らすのは嫌?」

「う、うぐぐっ……!」

 結花は本当に真っ直ぐだった。馬鹿みたいに真っ直ぐで、一点の曇りも無くて、ただひたすらに純粋で、無垢だった。一体、何をどうしたら、そんなにも未来を信じる事ができたのだろうか? 明日の事だって不確かな世の中なのに、どうして、遥か彼方の未来を信じる事ができたのだろうか? オレには結花の気持ちが理解できなかった。イヤ、違うな。結花の気持ち……理解できてしまっていた。だからこそ、目を背けたかった。真正面から向き合うのが恐ろしかった。どうして……どうして、オレなんかに、そんなにも想いを向ける事ができたのだろうか? どうして、オレなんかと共に歩みたいと願えたのだろうか?

 結花は本当に純粋で、無垢で、馬鹿みたいに真っ直ぐで、何の保証もないのに明日に、未来に、希望を託す事ができた。そんな結花の想いはオレには重た過ぎてしまった。真正面から受け止める事が恐ろしくて、オレは結花と向き合う事から逃げ続けてしまった。だからなのだろうか? オレがコタに想いを寄せる様になったのは。もっとも、今更になって気付かされる。オレが選んだ『選択肢』は、とんでもない紛い物だったに過ぎなかったのだと……。

◆◆◆89◆◆◆

 オレは西村家別邸を後にして歩き始めた。再び結花との思い出を鮮明に思い出したお陰で胸が締め付けられて涙が後から、後から零れ落ちた。視界が滲むがそれでも腕で乱暴に涙をぬぐいながら歩き続けた。

 滲む視界の先には変わる事のない藤木社の大きなクスノキが佇んで居る。夜半の闇の中でも、確かな存在感を見せ付けてくれる。何もかもが驚く程に早い速度で移り変わってゆく現代の中において、藤木社のクスノキの様に変わらない物が居てくれるのは大きな意味を持つ。心の拠り所になってくれて居る事が本当に有り難く思える。月明りを受けながら、どっしりと構えるクスノキに歩み寄ったオレは、涙を力一杯拭うと、俯きながら静かに呟いていた。

「……なぁ、結花。お前は幸せだったのか?」

 応える者は誰も居ない。判っていても思わず溜め息が毀れる。

「あの時、オレに出会わなければお前は死なずに済んだのだろうか? 違った未来を歩む事ができたのだろうか?」

 何が正解だったかなんてオレには判らない。ただ、結果論としてオレの隣に結花は居ない。それだけが重い現実となってオレを潰さんとする如く圧し掛かって来る。

 藤木社前の石段に腰を下ろしてみた。流れゆく明神川の水音が心地良かった。オレと一緒に居る時は何時も楽しそうに笑っていた結花。そっと目を閉じれば、オレのすぐ隣に腰掛けて居るかの様に思える。だけど、隣を見てみても誰も居ない。居る訳がない。結花は、もうこの世に居ないのだから。ただ、空虚に街灯の明かりを照らし出す公衆電話が寂しそうに光を称えて居る。今の時代、使う人も殆ど居ないであろう公衆電話。時の流れに置き去りにされたかの様に、ただそこに、寂しそうにぽつんと佇んでいた。オレと同じだ。時の流れに置き去りにされた迷い子だ。辛い。苦しい。結花に会いたいと思う気持ちが胸を駆け巡り、体中を駆け巡り、いっそ、このまま消えてしまえたらどんなに楽だろうかと真面目に考えて居た。

「死んだらお前に会えるのかな? オレ、お前に会いたいよ……」

 また、涙が溢れて来た。

「ううっ、結花……オレ、強くなんかなれねぇよ。もう、イヤだよ。辛いよ」

 温かな体温を孕んだ涙が後から、後から溢れて止まらなかった。

「もう良いだろ? もう辛いのはイヤだよ。耐えられねぇよ……」

 後から後からあふれ出る涙に重なり合う様に、不意に絵描き小僧の顔が浮かんできた。オレの真似をして誇らしげに腕組みしてみせた姿が、三条の街並みを楽し気に歩んでいた姿が、一緒に巨大な鷹に乗って夜の街を冒険した姿が、褌をシゲシゲと見つめたオレの目を慌てて手で覆った姿が――だからこそ、その『選択肢』を選ぶ事はできない。体中が熱くなって、燃え盛る炎に身を包まれた様に熱くなって、唐突に何かが途切れた気がした。結花を追い求める余り、道を踏み外そうとしていたオレの想いが唐突にプツリと音を立てて千切れた気がした。

「なぁ、結花。オレさ、弟ができたんだぜ?」

 馬鹿みたいだ。誰も応える訳もないのに。それでも、オレは結花に語り掛けずに居られなかった。

「恐ろしく絵が上手い奴でな。描いた物が本物になっちまったりするんだぜ?」

 明神川の流れる水音だけが涼やかに響き渡る。蒸し暑い気候の中、にじんだ汗が滴り落ちては地面に吸い込まれてゆく。汗を垂れ流しながら、オレはそこに居るハズもない結花に笑い掛けていた。生前は照れ臭さが手伝い、ついつい、不機嫌そうな顔を見せてしまったけれど、本当は一緒に居る時はすごく楽しかったし、嬉しかった。だけど、一度だって素直に想いを伝えられた事はなかった。「結花、お前の事が好きだ」。どうして、その一言が言えなかったのか。悔しくなる。思わず拳を力強く握り締めていた。馬鹿みたいだ。小さく肩を震わせるオレが、酷くちっぽけで、惨めで、憐れで仕方が無くなる。

「鷹の絵を描いて見せたかと思えば、そこから鷹が飛び出してな。それでさ、生まれて初めて、空を飛ぶって体験しちゃったんだぜ」

 誰かが通り掛かったら、オレは間違いなく不審者に見えた事だろう。だけど、そんな事はどうでも良かった。後から、後から、結花を想う気持ちがあふれて来て止まらなくなっていた。今更、素直になっても、もう遅い。どうして、結花と居た頃、素直になれなかったのだろうか。明日こそは素直になろう。明日こそは素直になろう。信じて疑わなかった。明日は必ず訪れると。だけど、明日は訪れなかった。結花は死んだ。時が止まり、結花の時だけが止まって、結花だけが置き去りにされた。オレは流れに呑まれるだけで、必死で抵抗したけれど、無駄だった。時の流れは残酷だ。生きて居る間は流れ続けるのだから、流れに逆らう事は不可能だって気付かされた。

「言葉、話せないんだけどさ、何を考えて居るかは判るんだ。以心伝心っつー奴かな? まぁ、多分、そこは兄弟だからこそ判り合えるんだろうな」

 それにしても蒸し暑い。汗が後から、後からにじんで仕方がない。温かな汗が後から、後から頬を伝って落ちてゆく。

「今度さ、お前にも紹介するよ。オレの可愛い弟をさ」

 不思議な感覚だった。寒くもないのに体が震えて仕方がない。どうしてだろうか? 鼻水まで出てきてしまった。不細工な顔がますます不細工になってしまう。オレは照れ笑いを浮かべながら空を見上げてみた。夜空に浮かぶ月はゆらゆら揺らいで見えた。

「可笑しいな。何かさ、見る物全てが歪んで見えるんだよな。へへっ……」

 まったく、相変わらずオレは泣き虫だ。男らしく生きたいと切に願ってみても、結局、このザマだ。情けないな。格好悪いな。笑いながら泣いて居るとか格好悪過ぎだ。まったく……オレ、男なのにな。絵描き小僧の兄貴なのにな。チリーン。そう考えた瞬間、再び耳元で鈴の音色が聞こえた気がした。

「……そっか。お前、杜若、好きだったもんな。ああ、ちょっと待っていてくれよ。すぐに向かうから」

 どうして、もっと優しくしてやれなかったのだろうか? どうして、いつも棘のある振舞いをしてしまったのだろうか? 後悔先に立たずと言うけれど、今になって、その言葉の意味を理解して居る自分が可笑しかった。意味がない事は判っていたけれど、それでも、とにかくオレは太田神社を目指して走り続けていた。頭では判って居るハズだった。例え、今、太田神社に向かった所で結花に会う事ができる訳がない事を。それでも何でも良い。とにかく、何かに縋らずには居られなかった。だからオレは走った。走って、走って、走り続けた。

 銭湯の前を駆け抜けて、対面に佇む牛乳屋を見送る様に交差点を曲がり、走って、走って、とにかく走り続けた。汗が滝の様に溢れて、容赦なく視界を遮る。もはや汗なのか、涙なのか、判別できなくなっていたが、そんな事はどうでも良かった。息が切れて、汗が噴き出して、とにかく暑くて、暑くて、それでもひたすら走り続けた。

 程なくしてオレの視界の先に太田神社が見えて来た。予想通りと言うか、やはり、見慣れた太田神社の光景とは明らかに異なっていた。不安な気持ちはなかった。結花が待っていてくれる。ただ、それだけを信じて、最後の気力を振り絞って走った。息が切れて、足がパンパンに痛んで、汗が滝の様に流れて、それでも、とにかく走った。

 幻想的な光景だった。太田神社は暗闇の中で、ぼうっと青白い光を放っていた。大きなほたるだ。夜半の社家の街に舞い降りた大きなほたるだ。そんな風に思えて仕方がない程に、月明りの様な柔らかな光を放っていた。間違いなく何かがあるハズだ。オレは期待に胸を弾ませて走り続けた。

 太田神社の境内に駆け込んだオレは、急いで池へと向かった。もしも、杜若が咲き乱れて居たならば、結花と再び会えるハズだ。何の根拠もない未来に希望を託していた。結花がそうしたみたいに、オレも根拠のない希望に縋ってみたくなった。だけど――。

「……そうだよな。そんな事、ある訳がないんだ」

 だけど、そこにあったのは不思議な光景だった。池の上を舞う無数のほたる達。青白い光を放ちながら、池の上を舞う光景は確かに現実離れした光景だった。杜若は青々と生い茂る葉を風になびかせるだけで、静かに、ただ静かに佇むばかりだった。

 本当に不思議な光景だった。降り注ぐ雨の様に舞う無数のほたる達の姿がそこにあった。けれど、やはり、花は一輪も咲いて居なかった。頭では判っていた。最初からあるハズのない光景だと言う事位、判り切っていた。根拠のない希望に縋ってみても結果はこんな物だ。現実は冷たくて、残酷で、容赦なくオレを突き落してくれる。

「……結局、無駄足に終わっただけか。へへっ、救いようがねぇ馬鹿だな、オレ」

 後に残されるのは絶望と徒労だけだ。こんな夜中にオレは一体、何をして居るのだろうか? 可笑しくて、可笑しくて、渇いた笑いが浮かぶ。肩を落として太田神社を後にしようとするオレの前に見覚えのある人影が歩み寄って来た。

「何だ、お前も目が覚めちまったのか?」

 絵描き小僧はオレの言葉に静かに頷くと、そのままオレに歩み寄った。どこか寂しそうな表情を称えたたまま、オレに歩み寄って来ると、そのままオレの事を力一杯抱き締めてくれた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった格好悪い顔を見られたく無くて、オレは慌てて顔を背けた。だが、次の瞬間、絵描き小僧は唐突に驚く程に力の篭った腕でオレの事を力一杯抱き締めてくれた。温かな体温を感じて、オレは再び胸が熱くなった。

「絵描き小僧……」

 絵描き小僧はオレの胸に顔を埋めたまま、静かに首を横に振って見せた。その仕草に全てを見出したオレは笑いながら絵描き小僧の頭を撫でてやった。

「ありがとうな。オレの事、慰めてくれるのか?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧はオレの胸に顔を埋めたまま、小さく頷いて見せた。

「へへっ、男のクセに格好悪い兄貴でごめんな。でもさ、オレ、強く成れそうにねぇよ」

 オレの言葉に驚いた様に慌てて顔を挙げると絵描き小僧は口を真一文字に結んだまま、首を横に振って見せた。何を想うのか、オレの両手をしっかりと握り締めると、力の篭った瞳でオレをジッと見据えて見せた。ああ、そうか。そう言う事か。お前の気持ち、良く分かった。ありがとう……。感極まったオレの頬を温かな涙が一粒、伝って落ちた。

「そうだったな。オレ達、兄弟だもんな」

 絵描き小僧は静かにオレを見上げると嬉しそうに笑って見せた。その無邪気な笑顔が嬉しくて、嬉しくて、オレはまた涙が止まらなくなっていた。

「あーあ、格好悪りぃな。ごめんな、弱い兄貴で。格好悪りぃ兄貴でさ」

 絵描き小僧は首を横に振ると、そっとオレの涙を手で拭って見せた。静かに笑う絵描き小僧の頬を涙が伝って落ちるのを目にしたオレは、もう、抑えられなかった。そのまま絵描き小僧を力一杯抱き締めると、恥も何も一切合切捨てて、声を張り上げて泣いた。

「うわあああーーーーーっ!」

 判っていたんだ。ずっと、泣きたかったんだ。声の限り、想いの限り、泣きたかった。ただ、コタ達と一緒に居る時は強がってしまって本心を見せられなかったし、両親には殊更、こんな姿、見せたくなかった。それでもオレは誰かに想いを受け止めて欲しかった。誰かに慰めて貰いたかった。そんなオレの想いを理解してくれて居るのか、崩れ落ちたオレを絵描き小僧は力一杯抱き締めると、オレの頭を撫でてくれた。妙な気持ちで一杯だった。オレは絵描き小僧の兄貴なのに、弟に慰められるとは格好悪いとか、こんな無様な姿を見せてしまって絵描き小僧は落胆しないだろうかとか、色んな事を考えて居た。だけど、そんなオレの気持ちなど気にする素振りも見せず、絵描き小僧はただ、オレを抱き締めてくれて、頭を撫でてくれた。そうか。そうだったんだよな……。

「格好悪りぃと思い込んで無駄に格好付ける。そっちの方が格好悪いんだよな」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。嬉しかった。絵描き小僧の作る事のない素直な想いが本当に嬉しかった。ついでに、格好悪い兄貴のために一緒に泣いてくれた事、本当に嬉しかった。誰が何と言おうと絵描き小僧はオレの弟だ。本当の弟だ。それ以外の何者でもない。非力なオレでは守られてしまうだけかも知れないが、それでも、オレは絵描き小僧を守りたかった。全力で守りたかった。もう、大切な誰かを失うのはイヤだから。死のうなんて馬鹿な考えは今、この瞬間、綺麗サッパリ棄て去ってくれる。約束する。絵描き小僧に。オレの大切な弟に。オレは静かに立ち上がると絵描き小僧の顔の前に小指を突き出した。戸惑った表情でオレを見上げる絵描き小僧にオレは力を篭めて想いを伝えた。

「絵描き小僧。約束する。オレ、もう二度と、死のうなんて思わねぇから」

 オレの言葉に絵描き小僧は力強い表情で頷いて見せた。

「また馬鹿な事考えちまったりしたら、その時は遠慮は要らねぇ。全力でオレをぶん殴れ」

 オレの言葉を耳にした絵描き小僧は不敵な笑みを浮かべて見せた。何を意味して居るのだろうか? と考えて居ると、オレの頬にそっと拳を宛てて見せた。

「ああ、さっき死んじまおうって考えて居たオレに対して気合い入れてくれるのか?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。

「へへっ、全力のパンチじゃ無くて良かったぜ。お前、腕っぷし強ぇからな。本気で殴られたら、オレ、真面目に吹っ飛びそうだもんよ」

 笑いながら小突いて見せれば、絵描き小僧は不敵な笑みを浮かべたまま腕捲りすると、立派な腕を誇示して見せた。

「うへぇ、この約束は絶対に破る訳にいかねぇな。お前のパンチ喰らうのは勘弁だぜ」

 笑いながら頭を撫でてやれば、絵描き小僧は嬉しそうに笑いながら、力強く頷いて見せた。そのまま再びオレに力一杯抱き付いて見せた。

「おいおい。そんなに力一杯抱き締められちまったら、歩けねぇって」

 額を小突いて見せれば、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頭を掻いて見せた。

「帰ろうぜ。また汗だくになっちまったから、帰ったら風呂入るかな。お前も一緒に入るか?」

 オレが問い掛ければ、絵描き小僧は上機嫌そうに笑いながらオレの腕に自らの腕を絡ませて見せた。風変りな奴ではあるが、こうして並んで歩いて居ると心が落ち着く。一人ではないと実感できるからなのだろうか? でっかい図体で無邪気に振舞う絵描き小僧と共に歩んで居ると気持ちが落ち着いてゆく。結花を想う気持ち、絵描き小僧を……弟を想う気持ちに変える事ができれば、オレも救われるのかも知れない。何よりも、こんなにも兄を慕ってくれる弟のために何かをしてやれるのは嬉しい物だ。

「ったく、そんなに引っ付くなっての。オレ、汗くせぇぞ?」

 笑いながら頭を小突いて見せれば、敢えて犬の様にオレの胸元の匂いを嗅いで見せた。すぐさま後退りすると顔をしかめて見せた。

「マジか!? そんなに……か?」

 不安になったオレも胸元の匂いを嗅いでみる。言う程汗臭くない気もするが……と考えて居ると絵描き小僧が笑いながら足早に逃げ去ろうとして居るのが目に留まった。

「てめぇ! 待ちやがれ!」

 まったく、頭の悪い振る舞いだ。こんな夜中にオレ達は一体何をして居るのだろうか。それでも、こうやってオレを励ましてくれたり、慰めてくれようとしたりする絵描き小僧の想いは本当に温かかった。手放してなる物か。未だ出会ったばかりだが、オレに取っては掛け替えのない宝物になるのは間違いない。もう、大切な誰かを失うのは耐えられない。絶対に手放してなる物か。

 絵描き小僧の素性は判らないが、本当にオレの弟なのだと思えて仕方がなかった。イヤ、絵描き小僧の素性になど、もはや興味はない。重要なのは絵描き小僧がオレの弟だと言う事実だけだ。

 すぐに考えを切り替える事はできないかも知れないけれど、オレが生きて居る意味を見付ける事ができたのは大きな救いだ。もしかしたら、壮大な勘違いに過ぎないかも知れないけれど、それでも、絵描き小僧はオレと共に歩む事を楽しんでくれて居る。オレを救ってくれる存在になるのであれば、今のオレには必要不可欠な存在になるだろう。絵描き小僧、オレと一緒にどこまでも一緒に行こうぜ。オレの心の声が聞こえたのか、絵描き小僧は足を止めると、オレの方を振り返って見せた。そのままオレの目を見つめたまま力強く頷いて見せた。

「絵描き小僧、オレ、お前の事、大好きだぜ!」

 オレは力一杯叫んだ。その言葉が照れ臭かったのか、絵描き小僧は顔を赤らめた。これ幸いとオレは思わず悪乗りしたい衝動に駆られた。

「だから、オレとチューしようぜ!」

 そう言い放って見せれば、絵描き小僧は慌てて首を横に振ると脱兎の如き勢いで全速力で逃げ出した。

「わはは、待ちやがれ。逃がさねぇぞー、捕まえて目一杯、チューしてやる」

 必死になって逃げ回る絵描き小僧が可笑しくて、可笑しくて、オレは全力で走った。まったく、オレは幾つになってもガキのままらしい。図体ばかりでかくなっても頭の中はガキのまんまだ。それでも良いさ。今は絵描き小僧と共に歩める幸せをただ、体中で噛み締めたかったから。だから――。

「へへーん、捕まえたぞー」

 必死で抵抗する絵描き小僧を抱き締めて、オレは絵描き小僧の唇にオレの唇を強引に押し付けてやった。予想通り、絵描き小僧の全力のパンチを喰らった。予想以上の破壊力に真面目に視界が揺らいだ。

 互いに汗だくになりながら、ついでに豪快な笑い声を響かせながらオレ達は家へと戻った。すっかり汗だくだ。もう一度一緒に風呂に入って汗を流して、それから、一緒に眠りに就くとしよう。

◆◆◆90◆◆◆

 その晩遅く、俺達は大原のバス停へと降り立った。バスの運行時間は当の昔に終わって居る事もありバス停は静けさに包まれていた。人気も無く、明かりも消えたバス停はひっそりと佇み、周囲を覆う草花達と同化して居る様にさえ感じられる。夜空を見上げれば満天の星空。蒸し暑いが空気は澄んで居る。やはり大原は大自然との縁深き地なのだろうと実感できる。辺り一面から割れんばかりに響き渡る虫達の鳴き声と、近くを流れる川の流れ。それから蛙達の水気を孕んだ鳴き声だけが響き渡る光景の中、俺達だけが時の流れから切り離された忘れ形見の様にそこに降り立った。心地良い風だ。微かに湿気と草花の放つ青臭さを孕んだ風が心地良かった。ささくれ立った頭ではまともに物事を考える事はできそうにない。静けさに包まれた涼やかな場所に身を置来たかった。だからこそ、今日、こうしてクロと共に大原の地を訪れた。無論、ただの夕涼みではない。こんな振る舞いをして居るが、これでも列記とした作戦会議――のつもりだ。俺なりに無い知恵を絞った結果、ようやく思い付いた苦肉の策だ。もっとも、それは素人が思い付きで作り上げた出来損ないの策でしかない。

 大原のバス停前を後にした俺達は、その足で、三千院へと続く緩やかな参道を歩んでいた。力丸の事が気掛かりではあったが、どうする事もできない事がもどかしかった。あの紫の僧衣に身を包んだ僧、錫杖の影法師は間違いなく俺達の敵だと言う事は理解した。無論、力丸の敵でもある。だが、力丸は自らの腕一本で事態を解決しようと試みて居る。俺の手を借りる事を拒む以上、無理矢理に踏み込むつもりはなかった。考え込む俺を横目で時折盗み見ながら、クロは声も出さずに静かに笑って見せた。

「……何が可笑しい?」

「お主も、力丸も、傍から見て居ると実にもどかしい物だと思うてな」

 ああ、判って居るさ。力丸に手出しは無用だと言われて、その言葉を額面通りに受け止める必要など何処にもなかった筈だ。むしろ、生命の危機に瀕して居る以上、強引にでも踏み入るべきだったのかも知れない。だけど、俺には力丸の想いを踏み躙ってまで土足で立ち入るだけの度胸はなかった。ああ、そうさ。少なくても俺にはそんな権利はない。力丸と共に歩む道では無く、クロと共に歩む道を『選択』したのだから。

 否、それだけではない。元を正せば俺が自らの身勝手な欲望のために、結花から力丸を奪ったのは曲げる事のできない事実だ。冷静になって考えれば、そこまでしなくても力丸とは良き友になれた筈だった。それなのにも関わらず欲深い俺は力丸を俺の物にしたいと願ってしまった。友になってくれただけでも感謝すべき筈であったのに、自らの邪な性欲を優先してしまった。結果、結花から力丸を奪う事になる事も判り切っていたと言うのに。最低最悪の確信犯だ。

(全く以って愚かな話だ。今更になって後悔したところで結花は戻らないと言うのに……)

 俺の身勝手な想いが力丸から結花を奪う原因を作った。結果、力丸は大切な者を失った喪失感に今も苦しみ続けて居る。全部、全て、俺が招いた結果だ。俺のせいだ……どう償えば良い? 俺はどうお前に償えば良い? ただただ罪悪感に震えるばかりで、何も打つ手も持たない無知で無能な俺が悔しくて、悔しくて、ただ辛かった。

 溜め息の絶えない俺を横目で見つめながら、クロが静かな吐息混じりに口を開く。

「律儀と言えば聞こえは良い。だが、我に言わせれば、どちらも自らが傷付く事を畏れて居るだけの様にしか見えぬがな?」

 少なからず間違えた事は言っていない。だからこそ、余計に悔しく思えた。お前の事など、何もかもお見通しだ。そう言わんばかりの強気な振舞いが面白くなかった俺は、黙ったまま歩き続けた。そんな俺の振舞いを見届けながら、クロは小さな溜め息混じりに笑うばかりだった。

 車の往来すら無くなった夜の横断歩道を抜けて、小さな飲食店の前を通り過ぎる。白く咲き誇る朝鮮朝顔の誇らしくも、妖艶なる姿に目を奪われながらも緩やかな坂道を上る。昼間は人の往来もある参道も、こんな夜更けには夜半の闇夜の一部と化した様に漆黒の色合いに染まる。静まり返った大原の街並みに俺達の歩む足音だけが響き渡る。割れんばかりの虫達の鳴き声と心地良い風に背中を押されながらも俺達は歩き続けた。傍らでは相変わらずクロは沈黙を決め込んだまま、静かに寄り添う様に歩む姿だけが在った。

 最初の坂道を抜ければ平坦な場所が広がる。畑に並ぶ紫蘇は大原名物の柴漬けを作るのに利用するのだろう。月明りに照らし出された大原の情景に鮮やかな赤紫色の彩を添えて居る。周辺に並ぶ土産物屋はとうの昔に明かりを消して、既に眠りに就いて居る。この先は曲がりくねった緩やかな坂道へと至る。参道の坂道沿いに立ち並ぶ数々の土産物屋も同様に眠りに就いて居る事だろう。

 錫杖の影法師との直接対決は避けられないのであろうが、この部分に関しては俺達の範疇での話だ。力丸には、むしろ、どうする事もできない話である以上、俺達が秘密裏に解決すれば良いだけの事だ。だが、厄介なのは力丸の心に関わる部分だ。容易く踏み入る事ができないからこそ、もどかしく思える。そんな俺の心を見透かして居るのか、クロが腕組みしながらぽつりと呟いて見せる。

「ここからはコタと結花との戦いになるであろう」

「嫌な言い方をしてくれる」

「だが、事実であろう?」

 クロは含み笑いを浮かべながらも、射抜く様な目で俺の事を見据えて居た。今更、尻尾を撒いて逃げ出す事は断じて赦さない。そんな、確固たる意志を感じさせる眼差しだった。ああ、大丈夫だ。俺は逃げるつもりはない。クロと共に歩む道を選んだのだから。天狗使いとして生きる道を選んだ以上、弱音を吐くつもりは毛頭ない。

「前に進もうとする心と、後ろに引き戻そうとする心、双方の鬩ぎ合いとなるか」

 そう口にしたところで、不意に俺に向き合って見せた。鋭い眼光だ。射貫かれそうになる。

「コタよ、心苦しいかも知れぬが暫くはお主は幕に下がるのが良い」

 相変わらず、クロは容赦のない振舞いを見せてくれる。中々に俺の兄は厳しい性分の様子だ。弟を自らと同じ立ち位置に持ち上げるべく、微塵の情けも容赦もしない。だが、その手厳しさも俺を信頼してくれていればこその物だと信じて居る。それならば、クロの言葉通り、俺は幕に下がるとしよう。未だ機が熟していないと言う事になるか。だが、力丸が過去の自分自身と向き合うためには、俺とぶつかり合う事も避けられない筈だ。判って居る。それこそ、俺が償うべき罪の一旦だ。潔く受け入れて、お前を苦しめた事を詫びさせて貰うとしよう。だからこそ、来たるべき時に備えて、今は体を休めて置くのが妥当な策と考える。

「太助が良い動きを見せてくれた。表舞台で振舞うはお主の仲間達となろうぞ。だが、必要となった際には存分に振舞うが良い」

 そう告げてからクロは静かな笑みを湛えたまま続けて見せた。

「無論、我も必要とあらば大いに立ち振る舞おう」

「ああ、判って居るさ。力丸は自分自身と向き合おうとして居る。確実に俺の出番は訪れる筈だ。その時までは幕に下がり、体力を温存するとしよう」

 クロは腕組みしたまま満足そうに俺の言葉を受け止めて居た。それだけ口にするとクロは再び黙り込んだ。それで良い。無闇に言葉を交わしたからと言って想いが通じ合うとは限らない。言葉など所詮は手段の一つに過ぎない。こうして共に並んで歩いて居るだけでも俺とクロは心が通い合って居る。口にすると酷く安っぽく聞こえてしまうが、そうした表現が適切だと判断する。

「今宵も中々に蒸し暑いな」

「うむ。だが、この辺りは木々が生い茂り、虫達の鳴き声も実に心地良い」

「ああ。参道の傍らを流れる呂川のせせらぎも涼しげで悪くないな」

 上流を流れる川、特有のごつごつとした角ばった小石が敷き詰められて居る。乱雑な石の並びのお陰で月明りが様々な角度から照り付け、ぼんやりと光を反射する様が綺麗だ。生い茂る草も多く、鴨川の様に整備されていない姿が心地良い。水気を好むシダの葉が生い茂り、舞い散る水気を一心に受け止めて居る。さぞかし涼しい事だろう。

 川面から吹き上がる風はヒンヤリとした涼を孕んでいて心地良く感じられた。俺達は一旦、参道から外れて『展望台』へと向かう事にした。俺の気に入って居る場所であり、クロも気に入って居る場所の一つだ。久方ぶりに訪れる気がするが、緩やかな裾野が広がる光景を目にするのは心地良い物だ。風通しも良い場所だけに多少は涼しいかも知れない。いずれにしてもクロと二人で歩くのは楽しい。戦いの渦中に身を置く身分にしては、少々、緊張感に欠ける言葉かも知れぬが、四六時中気を張って居るのも難しい話だ――と言い訳をしてみる。

「お主も良い具合に肩の力が抜けて来た様子であるな」

 俺は溜め息混じりにクロに笑い掛けた。

「阿行、吽行兄弟の影と対峙した際には、本気で死を覚悟した」

「ふふ。少々刺激的な位の方が退屈せぬであろう?」

「……口の減らない奴だ。俺達はあんな凶悪なのと戦って居るのだぞ?」

「なに。傍らに居るのがお主であればこそ、我も安心して身を任せられると言う物よ」

 茶化す様な口調で軽口を叩かれれば、溜め息で応戦する事しかできない。

「本当に口の減らない奴だ」

 二人並んで展望台から見下ろす景色を眺めていた。眼下に広がるのは段々畑になった稲達の姿であった。そっと風が吹き抜ければ、サラサラと涼やかな音色を奏でる様に新緑の葉が風になびく。心地良い音色だった。むせ返る様な稲の青臭い匂いに包まれながら、俺達は肩を並べて風に吹かれていた。汗ばんだ体に木々達の、流れゆく小川の湿気を孕んだ風が心地良かった。

 ゆっくりと時が流れていく様な感覚に包まれていた。夜半の闇夜に包まれて居るから克明には見る事ができなかったが、それでも雄々しくそびえる山が黒く影を落として居る。月明かりを身に纏った空はうっすらと明るく感じられる。山と空が織り成す夜半の光景の中に身を置き、大自然と一つに重なり合えた様な感覚が好きだった。このまま時が止まってしまえば良いのに。クロと過ごす至福の一時が永遠になれば良いのに。誰にも邪魔されたくなかった。だが、それは身勝手な想いに過ぎない。大切な友が苦しんで居るのに――それも、その原因の一部となって居る張本人である俺が、どうして絵空事の幸福に酔い痴れる事ができようか。だからこそ、この想い、クロとも共有する必要がある。逃げるつもりはない。誰かに背負わせるつもりもない。ただ、知らなければ策を講じる上での支障となる。そう判断したに過ぎない。

「今更になって気付かされた事があってな」

 俺は空を見上げたまま吐息混じりに切り出した。クロは腕組みしたまま俺が何を語ろうとして居るのかに静かに興味を示した様子だ。そのまま俺の真似をして夜空を見上げて見せた。だから俺は続けた。

「力丸は本当に結花を想っていた」

 本当に静かな夜だ。虫達の鳴く涼やかな声と、カエル達の水気を孕んだ鳴き声だけが響き渡る。そっと、頬を撫でる様に風が吹けば稲達がサラサラと涼やかな音色を奏でる。耳を澄ませばクロの呼吸する音が聞こえる。さらに意識を集中させれば互いの鼓動さえも聞こえるかも知れない。

「……俺の敗北だ」

「だが、それを選んだのは力丸では無く、お主自身であろう?」

「ああ。未だに罪の意識に苛まされる。俺が身勝手な私利私欲のために力丸を振り回さ無ければ、結花は死なずに済んだかも知れない」

 思わず溜め息が毀れる。だが、ここで引き下がる訳にはいかない。

「償い切れるかどうか判らない。力丸が俺を赦してくれるかも判らない。だけど――」

 俺はクロに向き直った。月明かりに照らし出されたクロは静かに目を細めながら頷いて見せた。

「このままでは力丸が救われない。少なくても、迷いの果てに情鬼に成り果ててしまう様な結末だけは、絶対に避けねばならない」

 そんなの所詮、お前の自己満足に過ぎないだろう? そう、見知らぬ誰かに揶揄されたとしても、俺は反論できない。そうなのだと自分でも判って居る。判って居るけれど、それでも何もせずには居られない。俺の言葉を受け止めながらクロは静かに目を伏せた。哀しそうに笑いながら首を横に振って見せた。予想もしない振舞いに動揺して居ると、さらに、俺を驚愕させる言葉を口にして見せた。

「本当にそれが力丸のためになるのであろうか?」

「どう言う意味だ?」

「カラス天狗らしからぬ言葉を口にするが、どうか怒らずに聞いて欲しい」

 妙な前置きだ。だが、クロがこんな前置きをする時は、少なからず俺の予想を遥かに超える言動を口にする時だ。まるで俺を子供扱いするかの様な言葉に反発を覚えたが、ここで取り乱せばクロを大いに落胆させる事になる。俺を信じて居るからこそ、腹の内を包み隠さずに見せてくれようとして居るのだから。だからこそ、俺も応えなければ……否、応えさせて貰いたい。クロと共に歩むと決めたのだから。

「生きて居る事が必ずしも幸せとは限らない。命を断つ事が不幸だと、果たして言い切れるのだろうか?」

 背筋が凍り付きそうな一言だった。予想もしない言葉に俺は言葉を失う事しかできなかった。だが、クロは尚も畳み掛ける様に続ける。

「人の世を知るコタならば判るであろう? 生きる希望を見付けられなくなった者が最後に選ぶ『選択肢』がある事は。力丸に生きる道を強居るのは、お主の至極身勝手な偽善ではあるまいか? コタよ、お主はそれを偽善ではないと言い切れるか?」

 クロの言葉を受けた俺は頭から氷水を浴びせ掛けられた様な衝撃を覚えた。同時に思い出してしまった。ずっと、記憶の彼方へと追い遣ってしまい、永遠に忘却しようとした記憶が。あの日の忌まわしき記憶が……。

 あの日、人と言う生き物を信頼する事を投げ捨て、果てしない絶望を手にした日、俺は鞍馬の街並みを行く宛ても無く歩んでいた。シトシトと音も無く降り頻る雨は次第に雨足を強め、トタンの屋根を叩き付ける音色が小気味良く響き渡っていた。顔も、体もずぶ濡れになって、すっかりずぶ濡れになった靴からは歩む度に不快な音色と感触が響き渡っていた。

 あの時の俺は本当に何も考える事ができなくなっていた。生きたいとか、死にたいとか、そんな事すら考える事もできずにただ、夢遊病患者の様に鞍馬の街を徘徊していた。もしも――あの時、クロに出会う事がなかったら俺はどうなっていただろうか? 多分、俺は鞍馬から帰る事はできなかった。鞍馬の山奥へと足を踏み入れて、作為的に事故に遭う等して、何らかの手段で命を絶っていたと思う。今の俺にはそんな度胸は微塵も残って居ないが、あの時の俺は本当に考える力を失っていた。否、それ以上に生きる気力さえも失った居た。

(このまま消えてしまいたい――そう、心から願ったのは事実だ)

 心の底から必死で救いの叫びを挙げた。その声を辛うじてクロが聞き入れてくれなかったとしたら、今、俺は夜半の大原の街並みを歩む事はできていただろうか? あの時の姿のままで永遠に時を止める事になっていただろう。そう考えれば絶望に沈もうとして居る力丸に、何も考えずにただ無為に『生きろ!』と叱咤激励を送り続けるのは拷問に等しい偽善に過ぎないのかも知れない。

 どんなに小奇麗に繕ってみても、結局、俺は俺の事しか考えて居ない。クロはそんな俺の浅さを鋭く抉って見せた。死んでしまえば全てが終わりになる。だから、何としても阻止しなければならない。否、阻止するべきなのだ。そんな表面的な偽善だけを投げ掛ける事で、正義を為し遂げた自分に酔い痴れたいだけなのかも知れない。ああ、そうさ。少なくても力丸は俺の目の前で、一度は、その命を投げ出そうとした事があった。結花を失った哀しみが重た過ぎて、生きる事に一切の希望を見失った果てに起こした行動だ。だが、あの時、俺は、今、まさに列車に飛び込まんとする力丸の事を全力で阻止した。

「さぞかし、満足であったであろう? 大切な友が命を散らそうとする瞬間を阻止したのだからな。舞い上がった事であろう? 阻止された力丸がどの様に受け止めるかなど、微塵も考える事なくな?」

 クロの言葉を受け止めながら、俺は両の拳を力強く握り締めていた。怒りの余り、拳の中に爪が突き刺さりそうになった。噛み締めた奥歯がギリギリと音を立てて、今にも砕け散ってしまいそうな痛みさえ覚えて居た。クロは腕組みしたまま蔑む様な目で俺を見下していた。

「確かに、力丸の命は救われた。だが、果たしてその心はどうだったのであろうか? いっその事潔く散ってしまった方が楽だったのかも知れぬ。無論、これは力丸の心の中の事であるが故、我はこうして憶測を巡らせる事しかできぬがな」

 不意に風が吹き抜けていった。青々とした稲穂をザワザワと掻き分けながら吹き抜けてゆく。俺はただ、風の中に置き去りにされたまま俯く事しかできなかった。

「一連の出来事の後、お主と離れ、独りになった晩に力丸は何を想ったであろう? もはや、二度と同じ様に命を散らす真似をする事もできず、だからと言って終わる事のない苦しみの中、どれ程の絶望を感じたであろうか? 何時終わるとも知れぬ苦しみの日々。そこから解放される手段さえも奪われ、ただ永遠に苦しみ続けるだけかも知れぬ。そんな恐怖と向き合い続けるのは、さぞかし辛い責め苦であった事は想像に難くない」

 あの時、俺は何も考えていなかった。ただ、力丸の命を救う事。それ以上の事を考えるだけの余裕があった訳がない! 今、まさに列車に飛び込もうとしていた力丸を阻止する。それ以上の事を考えられる余裕などあった訳がない! ただ、失いたくなかった。死なせたくなかった。だけど……それは本当に力丸のためになったのだろうか? ただ、俺が力丸を失いたくなかった。それだけの身勝手な理由ではなかったのだろうか? 死のうとする者を救い出す事。それは本当に正しい事だったのだろうか? 俺に取って正しい事が、力丸に取っても正しい事であった。本当にそうなのだろうか? 自分で自分が判らなくなってゆく。

「我が憎いか? 怒りに身を任せて我を殴り飛ばすが良い」

「……そんな事するか。ただ、俺は俺を赦せないだけだ」

 何が償いだ。何が友のためだ。結局、そうやって薄っぺらい偽善に満ちあふれた俺に酔い痴れて居ただけに過ぎなかったとは、俺はどこまでお目出度い奴だったのだろうか。それが友として当然の振る舞いだと、厚い友情なのだと勝手な幻想を抱いていただけに過ぎない。

「コタよ、お主は誰かを救う事の重みを理解して居るか?」

 嫌な切り出し方だ。間違いなく耳を傾けたいとは思える内容ではない筈だ。クロがこうした振る舞いを見せる時は出来の悪い俺に何かを教えようとして居る時だ。相変わらずクロは手厳しい。情けも容赦も無く俺を全力で追い詰めようとする。退路を断った上で敢えて全力で仕掛けて来る。だが、それでも受け入れなければならない。それが俺の物語なのだから。それがクロと共に歩む道に他ならないのだから。

「償う事――それは、誰かの人生を背負い生きていく事と同義と言える」

 静かに口にしながらもクロは鋭い眼光で俺の振る舞いを見つめて居る。さて、お前はどう受け止め、どう感じる? そう問われた気がして身が固まる様な感覚さえ覚えて居た。

「自らの物語を歩み、同時に、背負った誰かの物語も歩む。並大抵の覚悟では為せぬ荒行よ」

 クロは静かに口元を歪ませながら続けて見せた。

「それこそ自らの全てを投げ捨てるだけの覚悟が無ければならない。それだけの覚悟があると言い切れるのか? 力丸だけではない。結花の想いさえも背負って生きられるだけの覚悟があると言い切れるのか? 容易く歩める道でも無ければ、容易く選ぶ道でもない。それを知った上で『償い』と口にしたのかと問うて居る」

 全く以ってその通りだ。クロの言う通りだ。何が償いだ。結局、俺は口先だけに過ぎないのか。覚悟はできて居ると思い込んでいたが、クロの言葉を受けた今、ただ自らの非力さ、無力さを思い知らされただけの結果に終わった事を受け入れたに過ぎない。結局、俺は何も為せないのだろうか? 自らの手で傷付けてしまった力丸に謝る事しかできないのだろうか? 俺は……。

「意地の悪い振舞いをしたな。謝ろう」

「謝るな。お前は俺が如何に浅い思慮しか持たぬかを教えてくれた。償いと言う言葉は、そんな軽々しく口にして良い物ではないと教えてくれた。感謝こそすれど、怒りをぶつけるなど間抜けの極みだ」

 クロは俺に背を向けると静かに歩き出した。背中越しに想いを伝えられた様な気がした。着いて来い。そう言わんばかりのクロの大きな背中を見つめながら、俺も歩き出した。もう少しだけ、ここでクロと一緒に時を過ごしたかったけれど、そんなのは後ろ向きな俺の甘えに過ぎない。力丸の事を想えばこそ、クロと共に道を切り拓かなければならない。それにしてもクロは相変わらず容赦のない厳しさを見せ付けてくれる。戦いの渦中に身を置く事は、そう容易いものではない。身を持って俺に教えてくれようとして居るのだろう。それならば、クロの想い、この体で受け止めたい。少しでもクロに近付来たかったから。

◆◆◆91◆◆◆

 三千院へと続く参道は静けさに包まれていた。心地良い静けさだ。時折、思い出した様に風が吹き抜ければ、木々の葉が一斉に涼やかな音色を奏でてゆく。道の脇を流れゆく呂川の水の音色と重なり合い、涼やかな空気を醸し出していた。気のせいだろうか? 吹き抜ける風もひんやりとした湿気を孕んでおり心地良く感じられた。

 俺達は言葉を交わす事無く暗闇に包まれた参道を歩き続けた。照らし出すのは月明かりだけ。響き渡るのは大自然が奏でる声だけ。それだけだ。辺りは静まり返って居る。日中は賑わいを見せる参道も、さすがに夜になれば人通りも無くなる。心地良い静けさだ。既に参道に立ち並ぶ店は遥か昔に店仕舞いを終えており、どの店からも明かりは見られなかった。人々の気配の失われた参道は、酷く静まり返っていて、言葉にできない物悲しさに満ちて居る様に感じられた。静かに流れゆく呂川の水の音色と俺達の足音、それに幾重にも、幾重にも重なり合う様に響き渡る虫達の鳴き声。肌で感じ取りながら、緩やかに曲がりくねった参道を上ってゆく。時折、風が吹き抜ければ木々の葉が涼やかな音色を奏でてくれる。月明りだけが照らし出す静かな参道を俺達は、一歩、また一歩と、静かに上り続けていた。

 静かな宵の瞬きは忘れ去ってしまった記憶さえも蘇らせてくれる物らしい。静かに流れゆく呂川の涼やかな音色が呼び覚ました記憶は、やはりと言うべきなのだろうか? 露姫と共に過ごした一時だった。あの時、自らの意志で旅立つ事を決意した露姫を見送った時、俺は体中を引き裂かれる様な痛みを覚えた。哀しみと言う感情は限界を超越すると痛覚にも似た感覚になって心を容赦無く引き裂く物なのだと知らされた。どんなに叫び声を挙げようとも、涙を流そうとも、どうやっても痛みが軽減する事は無くて、ただただ波の様に押し寄せる激痛とも呼べる哀しみの中、俺は絶望しか見出す事ができなかった。判っていた――旅立ちだなんて都合の良い表現を使ったのは、少しでも傷付かない様にしようとする見苦しい防衛本能に過ぎない。判っていた。もう、二度と露姫と会うと言う願いは叶わない事は。少なくても俺が生きて居る間に露姫が戻って来る事はないのだろうと判っていたから。

 勝手な思い込みかも知れないが、結花の死と直面する事を余儀なくされた力丸は、どれ程の絶望を覚えたのだろうか? 少なくても俺が感じたのよりも遥かに壮絶な痛みを感じたに違いない。それなのに――俺は力丸の為に一体、何をしてやれたのだろうか? ただ献身的に力丸を支え、振り向かないと知りながらも一途に想い続けた結花の、その健気で、献身的な生き方に嫉妬さえ覚えて居た。俺はお前の様に身綺麗な生き方はできなかった。薄汚れ、身勝手な我欲の赴くままに生き続けた。歩んできた道を悔やむ事も、省みる事もせず、ただ欲望の赴くままに生き続けた。そして力丸さえも、そんな俺の穢れた道に引き摺んでしまった。容易い事だった。因果応報、か。自らの起こした行動に対する結果が報いとなって跳ね返って来た。それだけの事だ。救いようがない馬鹿だな、俺は……。

 クロは相変わらず一言も発する事なく歩き続けて居た。さて、今宵は何処に向かうつもりだろうか? 三千院を気に入って居る様子なのを考えると、三千院を目指して居るのかも知れない。だが、この方角には幾つかの寺が存在して居る。いずれにしてもクロがこう言う振舞いを見せる時は、黙って従った方が懸命だろう。

 俺達の歩く足音だけが周囲の景色に溶けてゆく中、緩やかな参道をただ静かに歩き続けて居た。間も無く細い参道が広がりを見せ、三千院前へと続く石段が見えて来る。予想通り、クロは石段を静かに上り始めた。俺もクロの後に続いた。店仕舞いを終えた立ち並ぶ茶店の前を過ぎ、三千院の御殿門前に来たがクロは足を止める事無く静かに歩き続けた。玉砂利を踏み締める小気味良い音だけが心地良く響き渡る中、俺もクロに続いた。

 三千院前の参道に立ち並ぶ茶店も静まり返っていた。日のある時間帯には明かりを灯し、賑わいを見せる茶店も、夜になれば人の気配も失われ寂しげに佇むばかりだ。クロは後ろを振り返る事なく歩き続けて居た。律川に掛かる鮮やかな赤い橋を渡り切れば、周囲の闇は一際、暗さを、深さを増した様な気がする。だけど、同時に、周囲の木々達が穏やかな表情で俺達を受け入れてくれた様な気がした。

 律川を渡り切ってすぐの所には不断桜で有名な実光院が居を構えて居る。そのまま道なりに歩んでゆけば突き当たった所に勝林院、その手前には五葉の松で有名な宝泉院がひっそりと佇んで居る。さて、クロはこの三か所の何処に向かおうとして居るのだろうか? クロが何を考えて居るのか想いを馳せて居ると、さも、何事も無かったかの様に実光院前を通り過ぎた。それならば、残る二か所のどちらかに向かおうとして居るのだろう。クロに続いて歩んでゆくと、不意に細い小道を左手に曲がった。なるほど。宝泉院に向かおうと言う事か。

 律川の涼やかな音色を感じながら俺達は小道を抜けて、宝泉院へと向かった。木々に覆われた道沿いに歩んでゆけば目の前に宝泉院の玄関口が見えて来る。点々と置かれた灯篭からは穏やかな光が漏れ出て、静まり返った参道を穏やかに照らし出していた。心地良い光だ。その光に導かれる様にして、参道に沿って歩んでゆけば宝泉院の門へと辿り着く。無論、門は固く閉ざされていた。門前にて立ち止まったクロの背後に歩み寄る。クロは静かに振り返ると不敵な笑みを浮かべて見せた。もはや今更動揺する気も失せた。だから、俺は苦笑いを浮かべながら頷いて見せた。

 宝泉院の玄関を過ぎれば、そこには静かな庭園が広がって居る。腕組みしながら考え込んで居ると、ふと、視界の端に目に留まる物があった。凛とした佇まいで咲き誇る桔梗の花だった。涼やかに風に揺れて居る姿に思わず目を奪われた。紫の桔梗と、白い桔梗。どちらも月明りを浴びて凛とした姿で佇んでいた。ここから左手に進めば庭園に出るが、そちらでは無さそうだ。予想通り、クロは迷う事なく右手へと曲がった。

 玄関へと導く様に参道の傍らを流れゆく水の流れが心地良い。月明りを浴びた石段が艶やかに黒光りして居る。どこか妖しげな風情を称えた床石を歩みながら、俺は玄関の引き戸にそっと手を掛けた。不思議な事に鍵は掛けられて居なかった。

 玄関先で靴を脱いだ俺達は、そのまま宝泉院の建物内へと歩を進めた。夜ではあったが、建物内は穏やかな光に包みこまれていた。一歩、また一歩と足を進める度に木板が軋んだ音色を放つ。我が物顔で振舞うクロの得意気な表情が可笑しく思えて、少し笑った。俺の表情に気付いたのか、微かに顔を向けたままクロが可笑しそうに笑う。

「何をにやにやして居る」

「まるで自分の家を歩むかの様な、お前の厚かましい態度が可笑しくてな」

「ふふ、確かに此処は住居としても中々に心地良い場所となりそうだ」

「性悪なカラス天狗だ」

 再び言葉を交わす事無く、俺達は歩き続けた。だが、改めて、冷静になって考えれば、これは立派な住居不法侵入者だ。万が一見つかったら、俺は塀の向こう側にぶち込まれる事になるだろう。そんな切迫した状況なのにも関わらず、相変わらずクロは上機嫌そうに振舞うばかりだ。相変わらず良い度胸をして居る。仮に見つかったとしても、即座に証拠隠滅する腹積もりか。簡単な事だ。目撃者を始末すれば良い。そこまで派手に振る舞わないにしても、記憶から忘却させれば良い。いずれにしても実に手荒な振る舞いとなる。全く……仏の道を歩む者とは思えない振る舞いだ。

 程なくして俺達は畳張りの小部屋、竹林の間に至った。途中、すれ違った囲炉裏の部屋も腰を据えて語らうには中々に心地良さそうに感じられたが、クロは何事もなかったかの様に素通りして見せた。その理由はすぐに判った。なるほど。此処、竹林の間は額縁庭園として名高い「盤桓園」に面して居る。確かに、この部屋の前では見劣りするかも知れない。もっとも、竹林の間には血天井や水琴窟と言った見所もある。

 月明かりに照らし出された中、竹林の向こう側には大原の山野が広がりを見せる。心地良い景色だ。左側に目線を投げ掛ければ、そこには天を仰ぐ様に大きく身を伸ばさんとする五葉の松の力強い姿が目に留まる。その力強さを感じる姿に、俺は思わず息を呑み、しばし見入っていた。夜の闇夜の中に佇む姿は、だからこそ、一際、赴きがある様に思えた。すっかり見惚れて居る俺の傍らに立つと、クロは腕組みしたまま俺と同じ様に見入って見せた。しばしの間、二人で見入っていたが、不意に俺の肩を叩くと、クロはそっと腰を下ろして見せた。だから、俺もクロの隣に腰を下ろした。

「クロ、俺はどうしてやれば良いのだろうか?」

 力丸の身が案じられて仕方がなかった。本人が手を差し伸べる事を望んでいないとは言え、ただ手をこまねいて居るのも苦しい物だ。判って居る。それこそが偽善だと言う事位、痛い程に理解して居る。だけど、それでも、理屈ではないのだ。何か手があるならば、例え偽善でも良い。力丸のためにやれる事をしてやりたい。そんな俺の切なる想いさえも、クロは呆気なく一刀両断してみせた。

「コタよ、残酷かも知れぬが、これがお主の選んだ道よ」

 言い返す言葉が見当たらなかった。確かに、その通りだ。だけど……。

「もしも、力丸と共に歩む道を選んでいたのであれば、違った道を見出す事も出来たであろう。だが、時の流れは常に一方通行だ。逆流する事は出来ぬ。コタよ、お主が迂闊に関与すれば力丸をさらに追い詰めるだけの結末を辿るであろう。良く、覚えて置くが良い。『選択肢』を選ぶ重みを」

 クロは相変わらず、情け容赦のない振舞いを見せてくれる。ここまで容赦なく振舞われると、むしろ、清々しい気持ちになれるから不思議だ。

「我らは引き続き、錫杖の影法師を討伐すべく、その足跡を追い求めるとしようぞ」

「……そうだな」

「コタよ、今回の事案はそうそう容易い話では無さそうに思える」

 そう前置きをしてから、クロは俺の目をジッと見据えたまま続けて見せた。

「辛いやも知れぬが情鬼の討伐は我らにしか為せぬ事。我と共に歩む道を選んだ以上、天狗使いとしての責務を果たして貰うぞ?」

 クロはにやりと笑いながら俺の肩に腕を回して見せた。何もできない非力な自分が悔しかったけれど、これが現実なのだと改めて認識させられる。力無く頷いて見せれば、「それで良い」と言わんばかりに、クロは目を細めて見せた。

「……冷たい奴だと我を恨んでくれても構わぬ。あるいは、力丸と共に歩む道を選び直したとしても、我はお主を咎めたりはせぬ」

 さて、お前はどう応える? クロは興味深そうな眼差しで俺をジッと見つめていた。俺は溜め息混じりに五葉の松に目線を投げ掛けてみた。救いを求めて縋る様な気持ちだった。どうすれば良いのか皆目見当が付かない。情けない話だ。自分で選んだ道だと言うのに、未だに迷い続けて居るだけだ。

「ふふ、俺は駄目な奴だな。どうすれば良いのか、すっかり道を見失ってしまった」

 力なく笑って見せれば、クロもまた静かに笑って見せた。

「仕組まれた通りの道を歩むなど、お主の性に合わぬであろう?」

「確かにそうかも知れない。だけど、道に迷って居るのは事実だ」

 思わず溜め息が毀れる。

「今の俺は何処を目指せば良いのか判らない迷子だ」

「さて、どうするのが良いのであろうな」

 クロは腕組みしたまま五葉の松に目線を投げ掛けて見せた。月明りに照らし出されながら、クロはそっと目を細めて見せた。何か想うところはあるのだろう。だが、敢えてそれを口に出す様な真似はしない。クロらしい振る舞いと言えば、クロらしい振る舞いと言えるだろう。

「信じてみようではないか。力丸はお主の良き友であろう? それならば、友の選ぶ『選択肢』を信じてやるのもまた、お主の進むべき道ではあるまいか?」

 そう口にしてからクロは静かに目を細めて見せた。

「償う――のであろう?」

 力丸の選んだ道を信じてやる、か。つまり、力丸が自らの手で答えを導くまで待ち侘びろと言う事か。嫌な事を言ってくれる。待つのは苦手だ。ただ、手をこまねいて待ち続ける。俺の性に合わない振る舞いだ。だが……確かに、それが正しいのかも知れない。これまでも、俺は自分の考えが正義だと信じて疑わずに、皆に強引に考えを押し付けて来た節がある。それが正しい道に繋がった事もあるが、俺が気付いて居ないだけで、実際にはそうではなかった事も少なくないのだろう。だが、それが俺に課せられた試練であるならば、受け入れる事も必要なのかも知れない。ああ、そうさ。力丸は今、必死で戦って居るのだ。それならば、俺もまた共に戦わせて貰うまでの事だ。それに、これは俺自身の戦いだ。俺自身の物語だ。敗北したくない。否、絶対に敗北する物か。俺は俺に打ち勝ってみせる。

 呼吸を整えながら、そっと顔を挙げて見せれば、夜空に浮かぶ月が綺麗に見えた。雄大なる姿を見せ付ける五葉の松に重なり合う様に瞬く月を見つめていた。綺麗な月だ。だけど、この穏やかな景色とは裏腹に、今の俺の心は酷く乱れて居る。こんなにも心が刺々しく荒ぶって居る時は、何をしても上手くいかない。とは言え、ささくれ立った心のまま居続けるのも本意ではない。

 それにしても五葉の松は実に雄大な姿を見せてくれる。こうして月明りに照らし出された姿も幻想的で悪くない。だからこそ、妄想が暴走しそうになる。もしも、ここにほたるが舞って居たとしたら、今、俺が目の当たりにして居る景色は、どれ程、幻想的な物になるだろうか? 命を燃やして舞うほたると共に夜半の一時を過ごす。胸が締め付けられる様な哀しみに身を置くのも悪くない。或いは、雪が降れば、この大きな枝にも雪が積もるのだろう。舞い散る雪の中、寒さに耐え凌ぐ様にして佇む五葉の松と言うのも実に趣がありそうだ。シンシンと音も無く雪が降り頻る中、クロと共に寒さに震えながら、五葉の松と共に在ると言う構図も、中々に捨て難い。夏には夏の良さがある。冬には冬の良さがある。秋になれば周囲は紅葉に燃え上がる。それはそれは実に見応えのある絵になりそうだ。四季折々の情景に想いを馳せる俺に気付いたのか、傍らに佇むクロが静かに笑う声が聞こえた。不意に照れ臭くなった俺は慌てて姿勢を正した。

「なぁ、クロ。風が気持ち良いな」

「うむ。そうだな」

「このまま、もう少し夜風に吹かれるのも悪くなさそうだ」

 夜空を見上げたまま呟いて見せれば、クロが静かに頷いて見せた。

「それならば、コタの気が済むまで、ここで共に風に吹かれてくれるとしよう」

 それだけ口にするとクロは再び五葉の松を見上げて見せた。なるほど。俺が何を考えて居るか判って居るが、だからこそ、要らぬ言葉を口にする様な真似をしたくないと言う事か。相変わらず性悪な奴だ。俺が自らの敗北を受け入れ、その想いを自ら口にするのを待ち侘びるつもりなのか? その手には乗る物か。今は只、数多の季節の情景に想いを重ね合わせる様にして、この景色を見つめるとしよう。難しい話ではない。それぞれの季節になる度に訪れれば良いだけの事だ。無論、こうして人気の失せた夜半の一時に忍び込むのが良さそうだ。独り占めして居る優越感に浸れるのも楽しい物だ。

 俺はクロと並んだまま大原の大自然に包まれていた。ささくれ立った心を鎮めてくれる懐の深さが、慈愛さえも感じさせてくれる様な大自然に寄り添うのは実に心地良い。綺麗な景色だ。ここで唐突に空模様が移り変わり、暗雲立ち込める中、シトシトと静かな雨が降り出しても心地良さそうだ。雨に触れて、殊更に活き活きとした姿を見せる木々達と、草達と触れ合うのも悪くない。むしろ、こんな気持ちの晩には雨が降ってくれた方が熱くなった心を沈めてくれそうだ。だが、贅沢を言えば切りがない。クロと二人で歩める事は幸せな事だ。多くを望み過ぎれば何もかもを失う事になる。欲張ってはいけない。明日の事は明日考えよう。今は余計な考えは棄てて、クロと共に過ごせる一時を大切にしよう。そんな事を考えながら俺は五葉の松と重なり合う月明かりを見つめていた。

◆◆◆92◆◆◆

 一夜明けてみれば、恐ろしく良い天気だった。余りにも良い天気過ぎる。普段、休みの日はお袋に叩き起こされて目覚める事が殆どなのだが、この日は違った。

「……暑ぃ。無茶苦茶暑ぃし」

 窓から差し込む日差しは、早朝とは思えない程にギラギラしていて、日に当てられた腕の痛みで目覚めさせられた。洒落にならない程の日差しを目の当たりにしたオレは、そのままカーテンを閉めた。まだ朝も早い。もうひと眠りしようかと思ったが、今度は絵描き小僧がオレの陣地を占領するべく寝返りを打つ。

「ほう? オレに宣戦布告を叩き付けるとは良い度胸だな」

 止せば良いのに早朝からプロレス開幕。絵描き小僧はオレと体格が似て居る事もあり、腕っぷしも相当の物がある。半分寝て居るとは言え、本気で取っ組み合いをすればオレとて無傷では済まない。その上、絵描き小僧は武道の心得もあるのか、何時の間にかオレの方が完全に圧されていた。挙句の果てには――。

「ぎゃーっ! ギブギブギブ!」

 結局、双方、相討ちと言う不本意な結末に終わった。

「大体、何でお前、関節技なんか知って居るんだよ? どう考えても時代が違ぇだろ!?」

 オレの言葉に絵描き小僧は腕組みしたまま不敵な笑みを浮かべて見せる。

「ううっ……要らぬ事をしたから、汗、かきまくったぜ」

 互いに肩で息をしながら、額には珠の様な汗が滲んで居る。思わず互いの顔を見つめ合いながら言葉を失う。すっかり汗だくになった絵描き小僧の顔が朝日に照らし出されて、珠の様な汗が朝露の様に光り輝いていた。もっとも、そんな涼やかな風情あふれる様な見てくれの訳も無く――。

「ったく、暑苦しい顔しやがって」

 オレの言葉に絵描き小僧は苦笑いを浮かべながらオレを指さす。

「まぁ、オレも暑苦しい顔して居るのは否定できねぇけどな」

 再び二人で天井を見上げながら大きな溜め息を就く。

「っつーかさ、オレ達、朝っぱらから何やって居るんだろうな?」

 我ながら全く以って意味不明な振る舞いだ。大体、絵描き小僧とプロレスをしたところで、一体、誰が得をすると言うのだろうか? いよいよオレも頭が可笑しくなって来たのだろうか?

「あー! 駄目だ、駄目だ。暑くていけねぇ! おい、絵描き小僧。風呂、行くぞ……って、うぉっ!?」

 野性的な兄弟二人分の汗をふんだんに吸い込んだベッドに手を付けば、体中の毛穴が開きそうな、ジットリとした水気を孕んだ感触に身震いさせられる。そんなオレの驚愕ぶりを目の当たりにした絵描き小僧は、止せば良いのに目一杯、顔をベッドに近付けて匂いを嗅いで見せた。一瞬、硬直した様に見えたが、振り返った表情は壮絶の一言に尽来た。

「ああ、目がシパシパしちまったか?」

 オレの言葉に絵描き小僧が険しい表情を湛えたまま静かに、だが、力強く頷く。そのまま首を抑えたまま倒れ込む辺り、中々に演出好きな性分らしい。しかしながら、予想はしていたが、事態が現実の物となると本気で驚愕させられる。

「マジか……。やっぱ、野性的な男が二人、ベッドで身を寄せ合って眠るっつーのは現実的じゃねぇよな」

 取り敢えず、これだけ強い日差しに晒されていれば、すぐに渇くだろう。多分。そんな事を考えながらオレ達は風呂を目指す事にした。何しろ、汗臭くていけない。自分の体から放たれる匂いで目がシパシパすると言うのは、何とも言えない気分になる。

(うぉっ!? 胸元から……一際強烈な汗臭さが漂う……!)

 野性的な男に憧れるのは確かだが、獣臭い男と言うのは余りにも残念過ぎる。何よりもベタベタ感が気持ち悪くていけない。一刻も早く汗を流してサッパリしたかった。それに、折角、絵描き小僧と二人で過ごせる日曜日だ。何処かに遊びに連れて行ってやろうと、密かに画策していた。絵描き小僧は好奇心の塊の様な性分だ。何処に遊びに連れて行っても喜ぶだろう。そんな事を考えながら階段を降りていた。

 手際良く風呂で汗を流した所で、早速、出掛ける準備に取り掛かる事にした。何しろ、朝の時点でこれだけの暑さだ。着替えは数着は必須だろうし、タオルも一本では足りない。制汗デオドラントやら、何やら、準備は手厚くしておくべきだろう。無論、二人分、だ。ごそごそと準備を進めるオレを見つめながら、絵描き小僧は戸惑った様な表情を浮かべていた。無理もない。何も伝えて居ない以上、オレが何をして居るのか見当も付かないのだろう。そう、心配するな。直に判る。

「うしっ! 準備万端だ。それじゃあ、行こうぜ」

 何が何だか理解できずに困った様な表情を浮かべる絵描き小僧が可笑しくて、オレは絵描き小僧の肩に腕を回してやった。ついでに笑いながら

「一緒に冒険に行こうぜ?」

 と、言って見せれば、ようやく理解したのか、絵描き小僧は嬉しそうに頷いて見せた。もっとも、何処に向かうかは何も考えて居なかった。出たところ勝負でも悪くないだろうと考えていた。何しろ絵描き小僧の力を駆使すれば何処に移動するにしても容易いハズだ。行きたい場所を話し合いながら徒然なるままに行動を起こしても十分に問題もないだろう。それに、未だ朝も早い事もあって、お袋は寝て居るだろうから、朝飯は何処かで適当に済ませれば良い。冒険の準備は整った。後は旅立つだけだ。

「それじゃあ、張り切って行こうぜ」

 何処に向かうかは考えて居なかったが、さすがに最初の目的地すら考えて居ないのでは、何時もの如くグダグダになって、結局、社家の町並みを巡っただけと言うオチになるのは目に見えていたので、アドリブではあるが最初の目的地だけは選ぶ事にした。

 折角、二人で出向くのであれば、人混みは避けたかった。何よりもオレが人混みに耐えられない。そう考えると、余りにも知名度の高過ぎる観光名所的な場所は『選択肢』から消える。さて、絵描き小僧はどう言う場所を好むだろうか? 現代的な場所を好むのは昨日、共に行動してみて明らかになって居る。とはいえ、そうした場所は往々にして賑やかな事が多い。不向きだ。これまた『選択肢』から消える。小細工はオレには不向きな様に思える。あれこれ考えるの面倒だ。考えるより先に行動に移す。それがオレだ。良し。オレの野生の勘に従ってみるとしよう。

 絵描き小僧はオレと良く似た活動的な性分なのを考えると、禅寺をじっくりと巡ると言う感覚よりも、広大な敷地を誇る寺社仏閣を歩き回る方が好みに合いそうに思えた。この条件を付け加える事により、『選択肢』は大分絞られる。良し良し、良い傾向だ。すぐに頭に浮かんできたのは南禅寺、醍醐寺、下鴨神社、仁和寺、大徳寺辺りだろうか? もっとも、山奥にある寺社仏閣ならば人は少なくなる。そう言う意味では、そうした『選択肢』もアリと言う事になりそうだ。この考えに当て嵌まりそうなのは大原の三千院、栂尾の高山寺辺りだろうか。他にもあるかも知れないが、少なくても、パッと浮かんできたのはこの辺りだ。さて、無駄に『選択肢』を増やすと厄介だ。今、上がった『選択肢』の中から最初の目的地を選ぶとしよう。

(距離的に考えれば、南禅寺だったら近いハズだな)

 良し。最初の目的地へは無難にバスと電車を使って向かう事としよう。北大路バスターミナルまでバスで移動すれば、後は北大路から烏丸御池を経由して蹴上まで向かえば良い。蹴上まで出られれば南禅寺は目の前だ。二番目以降の目的地は、何処を選ぶにしても離れて居る。いちいちバスで移動するのも面倒だ。二番目以降は絵描き小僧に運んで貰うとしよう。少々他力本願ではあるが、こうしてオレ達の冒険は始まった。どんな冒険物語を綴る事ができるのか期待に胸が膨らむ。

◆◆◆93◆◆◆

 蹴上の駅に降り立ったオレ達はそのまま駅を後にした。絵描き小僧と共にバスに揺られたり、列車に乗ってみたりと言う振る舞いも中々に不思議な話に思えた。それでも絵描き小僧は考え方が柔軟なのか、さも何事もなかったかの様に現代社会の文明を受け止めて居る。変幻自在に数多の絵を描き出す振る舞いそのままに器用な性分なのかも知れない。もっとも、相変わらず好奇心旺盛な振る舞いは変わる事は無く、バスに乗せても、地下鉄に乗せても、何しろ見る物全てが初めて目にする物ばかりだ。その度にアレは何だ、コレは何だとせっせと尋ねる姿が妙に新鮮で中々に楽しい旅路だった。予想通りと言うか、切符の自動改札や、列車のホームドア等には特に興味を示した様子から察するに、意外にも機械いじりとか好きなのかも知れない。まぁ、そんな事はさておいても、オレからしてみれば絵描き小僧が喜ぶ笑顔を見られるのが何よりも嬉しい。こうして楽しんで貰えて光栄だ。駅の改札を抜け、誇らしげな気持ちのまま地下から地上へと続くエスカレーターに揺られ、ようやく辿り着いた地上で降りる。外界へと顔を出した瞬間の事だった。

「うぉっ!?」

 その桁違いの暑さに思わず視界が眩む。照り付ける日差しはジリジリと肌を容赦無く焦がしてくれる。猛烈な暑さに重なり合う様にして、数多の蝉達の鳴き声が右から、左から、容赦無く響き渡る。日陰と日向で、これ程までに差があるのかと圧倒させられる。余りの暑さに怯むオレの隣をするりと抜けると、絵描き小僧は軽やかな足取りで歩き出した。

「……ったく、無駄に体力ある奴だぜ」

 一度も後ろを振り返る事無く、絵描き小僧は淡々と歩き続けていた。目の前に興味惹かれる物があれば一直線に突っ走る。確固たる信念を抱いて居ると言えば聞こえは良いが、興味惹かれる物しか目に入らないと言う振る舞いは少々危うい様に感じられた。

「お前は子供かっての。オイ、コラ! 絵描き小僧、オレを置き去りにするんじゃねぇっての!」

 オレの声は聞こえて居るのだろうが、それでも足を止める事無く歩き続ける絵描き小僧に溜め息が毀れる。最初の目的地が南禅寺である事は伝えたものの、詳細な場所までは伝えて居ない。それでも目的地は判って居るのか、レンガ造りのトンネルを颯爽と潜り抜けた。ようやく絵描き小僧に追い付いたオレは汗を拭いながら歩き続けた。

「へぇー、お前、道判って居るみてぇだな」

 オレの問い掛けに絵描き小僧が頷いて見せる。南禅寺へと続く道は幾つかあるが、琵琶湖疎水沿いから続く参道は道幅も広く、人通りも多い。道中、湯豆腐の店が建ち並ぶなど賑わいもある。一方、絵描き小僧が選んだ道は裏道に近い道で、金地院と天授庵の間を抜ける道となる。人も少なく、静けさに包まれた小路は風情があって心地良い。このまま道沿いに歩んでゆけば南禅寺の中門付近へと至る。それにしても蒸し暑い。こうして、ゆったりと歩いて居るだけでも汗が噴き出す。周囲の木々からは蝉達の威勢の良い鳴き声が響き渡り、殊更に暑さを引き立てて居る様に感じられた。傍らを歩む絵描き小僧も、さすがに暑いのか頻りに汗を拭っていた。

「すげぇ汗だくだな。まぁ、オレも汗だくだけどさ」

 ジリジリと照り付ける日差しの下、二人揃って汗だくになって居る姿と言うのも中々に滑稽な物がある。背格好も瓜二つならば、汗かきと言う性分まで瓜二つとは、絵描き小僧は本当にオレの弟なのではないだろうかと妙な親近感さえ覚える。軽やかな笑みでタオルを絞って見せれば、びしゃびしゃと汗が滴る。その隣で同じ動作を為すオレが居た。互いに顔を見合わせてニヤリと笑う。

 程なくして南禅寺へと至る。何時訪れても広大な敷地を誇る南禅寺は、足を運ぶだけでも気持ちが鎮まる場所の様に思える。どっしりと居を構える不動の姿に勇気付けられるのは確かだ。オレの勝手な想像だが、絵描き小僧は庭園や建物を見て回るよりも、広大な敷地の中を駆け回る方が性に合って居る様に思えた。予想通りと言うか、絵描き小僧は静かに足を止めると好奇に満ちた眼差しで周囲を見回していた。こうして素直に喜んで居る姿を目の当たりにできると、それだけでも嬉しい気持ちで一杯になれる。誇らしい気持ちで一杯になって居ると、唐突に絵描き小僧に腕を掴まれた。驚いたオレは慌てて絵描き小僧に向き直った。何やら不敵な笑みを浮かべながら絵描き小僧は南禅寺の三門を指さして見せた。なるほど。実に判り易い事だ。

「何とかと煙は高い所が好きっつーもんな」

 腕組みしながらにやりと笑い掛けて見せれば、絵描き小僧も腕組みしたまま、何とも形容し難い不敵な含み笑いで返して見せる。

「オレもその、何とかだって言いたいのか?」

 そう問い掛けて見せれば絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。

「へぇー。そんな態度取っちまって良いのか?」

 勢い良く絵描き小僧にヘッドロックを仕掛けて見せれば、わざとらしくフラ付いて見せる。そんな絵描き小僧を置き去りにする様にオレは歩き出した。

「それじゃあ、オレは先に行っちまうから適当に着いて来いよ」

 そう、口にしてみせれば慌てた様子でオレを追い抜くと、敢えてオレを先導する様に歩き出す。あくまでも自らが先陣を切りたいとする振る舞い方、やはり、オレと良く似て居る。何だか自分を見て居る様で、思わず照れくさくなって頬が緩む。

「へいへい。それじゃあ、張り切って行こうぜ」

 幸運にも南禅寺の境内には、それ程の人は見られなかった。無駄に混雑していたのでは落ち着いて見て回る事も困難になる。空いて居る方が好都合だ。そんな事を考えながらオレ達は三門へと向かった。三門の内部は階段が突き抜けて居て、階段を抜ければ三門の上に出る事ができる。そこから見渡す市街の景色は圧巻の一言に尽きる。もっとも、何時もの様に鷹を描き出せば、高い所から市街の景色を見回すのは容易い事だ。だが、それでは味気ない。一般人の目線から見る景色を絵描き小僧にも見せてやりたかった。今日はオレが案内人を引き受けさせて貰って居る。だからこそ主導権もオレにある。頼りない兄貴ではあるが、少し位は兄貴風を吹かさせてくれ。

「うしっ! それじゃあ、ここから階段を上って三門の上まで上るぞ」

 入口で拝観料を払い、三門の内部へと歩を進めた。靴を袋に詰め込み、階段を見上げる。ふと、オレの傍らに目線を投げ掛けて見せれば、傾斜の急な階段に絵描き小僧が戸惑った様な表情を見せる。これは面白い。腕組みしたまま、さも、見下す様に笑いながら

「何だぁ? もしかして……怖いのか?」

 と、茶化す様に焚き付けて見せれば、絵描き小僧は怒った様な表情を称えたまま階段を上り始めた。

「わはは。単純な奴だなぁ」

 オレも絵描き小僧に続いて階段を上ってゆく。上りながら、ふと思う。うっかり絵描き小僧が足を滑らせてたりしたら、どうなるのだろうか? 幾らなんでも、こんな足場の悪い場所で、しかも、重量感のある絵描き小僧を受け止める事など到底できるハズもない。

「お、おい、絵描き小僧。ゆっくりで良いからな? 気を付けて上れよ?」

 オレの言葉が聞こえて居るのか、聞こえて居ないのか、すっかり頭に血が上った絵描き小僧は勢い良く階段を踏み締めながら上り続けていた。

(……こいつ、扱いに注意が必要だな)

 もっとも、本当に恐ろしいのは最初の階段を昇り切った先にある細い階段となる。こちらは傾斜がさらに急になる上に、幅も狭まる。特に下りの際が足を踏み外しそうで恐ろしい場所だ。そんな場所だと言うのに、すっかり頭に血が上った絵描き小僧は一切の迷いを見せる事も無く、威勢良く足音を響かせながら階段を踏み込み続けていた。そんな状況だったからこそ、途中、絵描き小僧が足を踏み外さないかに心配が集中して、緊張感が絶える事はなかった。仕掛けた側のオレの方が冷や冷やさせられると言う、何とも頂けない展開に陥ろうとは想定外だった。多分に不安な一時も終われば、ようやく三門の上まで辿り着こうとしていた。早速、絵描き小僧の豪快な足音が響き渡る。その足音からだけでも、興奮し切って居る様子は伝わって来るが、同時に不安にもなる。絵描き小僧は子供の様な一面を持って居る。興味惹かれる物を目にすると周囲が見えなくなる。不意に、何故か、昨日の出来事が脳裏を過る。橋の欄干から目一杯身を乗り出す太助。慌てて制したオレ。ついつい嫌な予感が脳裏を過る。太助と重なる絵描き小僧。そして――。

(ま、まさかとは思うが……身を乗り出して、勢い余って転落とかしねぇよな?)

 予想もできない様な事を仕出かさないか、果てしない不安に駆られたオレは急いで階段を上り切った。何しろ絵描き小僧は好奇心が先行する余り、平気で危うい行動をも起こしてしまうのは容易に想像できる。事故が起きてからでは遅い。

 高鳴る鼓動を抑えながら周囲を見回してみれば、意外にも絵描き小僧はのんびりと遠くの景色を眺めて居た。ほっと一安心だ。胸を撫で下ろしながら絵描き小僧の隣に並ぶ。心地良い風が吹き抜けてゆく。すっかり汗ばんだ体に涼やかな風が心地良く感じられた。興味津々に景色を眺める絵描き小僧に目線を投げ掛けながら

「ったく、オレを置き去りにするんじゃねぇっての」

 そう、溜め息交じりに言って見せても、絵描き小僧には聞こえて居ない様子だ。相変わらず上機嫌そうに景色を見回しながら、暢気に絵を描いて見せるとは中々の大物振りだ。

「相変わらず良い性格してやがる事で」

 悪態をついて見せても絵描き小僧は上機嫌そうな振る舞いを崩す事はなかった。ただ、オレの隣で身を乗り出す様にしながら市街の景色を眺めていた。満面の笑みを称える横顔を目にできるのは嬉しく思えた。

 こうした飄々とした振る舞い、どこか結花と似て居る気がしなくもない。何とも妙な気分にさせられる。結花と似た振る舞い……ただの偶然なのだろうか? オレには偶然だとは思えなかった。これもまた必然なのだろうか? 気にならないと言えば嘘になるが、今は余計な詮索は止めて置くとしよう。大事な事はそんな事ではない。オレの好きな景色を絵描き小僧にも気に入って貰えた。それが何よりも嬉しく思えた。それだけで良かった。多くを望んだ結果、悲惨な結末を何度と無く体験して来た。折角手にした希望だ。大事にしなければならない。

 オレは絵描き小僧の隣に並んで景色を眺めていた。時折、吹き抜けてゆく風が心地良くて、このまま時が止まってしまえば良いのに。そんな事を考えていた。ただ、一つの所に留まり続けていたのでは、流れは止まり、澱みが生じてしまう事も理解して居る。

 川は絶えず水が流れ続けて居るからこそ、清らかなる姿を保つ事ができて居るが、流れが止まり、池の様な状態に陥ってしまえば、水はみるみる内に澱み、濁り、穢れてしまう。時の流れも同じ事なのではないだろうか? 止まってしまえば、そこから腐敗が始まる。やがて、止まった時の流れは壊死し始め、腐り落ちてしまう。そうなってしまえば、何もかもがお終いだ。立ち止まってばかりでは駄目と言う事か。それでも、三門から見渡す景色は荘厳の一言に尽きる。遠くまで広がる市街の情景を目の当たりにするのは実に心地良い。ふと、門の下に目線を投げ掛ければ人々が三門を往来する姿が目に留まる。こうして三門の上から地表を見下ろすと相当な高さだ。万が一、此処から転落したならば無事では済まないだろう。そう考えると背筋が寒くなる。勢い良く身を乗り出す命知らずな絵描き小僧を横目で見ながら、オレは生きた心地がしなかった。そんなオレの反応を横目で見ながらにやにや笑う絵描き小僧に、何とも言えない気持ちにさせられた。

「ったく、うっかり手を滑らせて転落しちまったらどうするんだっつーの」

 試しにもう一度悪態を吐いてみても、やはり、絵描き小僧は上機嫌そうに振る舞うばかりだった。やれやれと思いながら溜め息を就いて見せた。それでも、三門から見下ろす市街の情景は壮大で、誇らしい気持ちで一杯になった。オレの傍らでは絵描き小僧が遠くまで広がる景色をジッと見つめて居た。やれやれと思いながらも、その無邪気な振る舞いに、嬉しそうな振る舞いに、心が満たされる感覚で一杯だった。楽し気にはしゃぐ横顔を見て居ると、こちらまで嬉しい気持ちになれる。息を弾ませながら遠くまで広がる景色を楽しそうに見つめて居る姿に満たされていた。

「お前が居た時代と比べると、今の景色、全然別物になっちまって居るんだろ?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧は少し考えてから、笑顔で頷いて見せた。

「そうだよな。多分だけど、お前が暮らしていた時代にはバスも、地下鉄もなかっただろうからな」

 絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら頷いて見せた。当然と言えば当然か。絵描き小僧の服装から察するに、普通に着物で生活していた時代と考えられる。当然、かなり昔の時代になるハズだ。もっとも、何時の時代を生きていたのかはオレには想像も及ばなかったが、そんな事はさして重要な事ではないと感じて居る。興味がないと言えば嘘になるが、今、こうしてオレと共に歩んでくれて居る。それだけで十分だ。

「見てみたくなるよな」

 遠く広がる裾野を見つめたまま、ぽつりと呟いて見せれば、絵描き小僧が興味深そうにオレの表情を覗き込んで見せた。判り易い奴だ。オレは笑いながら絵描き小僧の肩に腕を回して見せた。

「お前が生きた時代の景色、一緒に見てみたくなるよな」

 オレの腕からするりと抜けると、絵描き小僧は肯定も否定もせず、そのまま来るりと踵を返すと三門を歩み始めた。オレは腕組みしながら足音を立てて走り去ってゆく絵描き小僧の後ろ小僧をジッと見つめて居た。

「ったく、相変わらず可愛げのねぇ振る舞いだよな」

 まぁ、良いさ。絵描き小僧の気まぐれな振る舞いは今に始まった物ではない。それで良い。何時か絵描き小僧が語ってくれるのを待つか、仮に話してくれなくても構わないと思っていた。重要なのはそんな事ではない。今、オレの隣に絵描き小僧が居てくれる。それだけで十分だ。判って居るから。知って居るから。欲深く多くを求めれば、大切な者を失ってしまう事になる。だから、今、目の前にある幸せを大事にしよう。小さくても、ささやかでも良い。大事に、大事にしよう。

 絵描き小僧の気が済んだら次の場所に向かうとしよう。南禅寺は見所の多い広大な寺だ。その中でも一際目立つ場所にして、誰もが知って居るであろう程に有名な場所、水路閣を訪れてみるとしよう。絵になる光景だ。絵描き小僧もきっと喜んでくれるに違いない。もっとも、そのためには、急な階段を、今度は下る必要がある。先刻の恐怖体験を考えれば、必要以上に絵描き小僧を挑発しない方が無難と判断する。さて、その絵描き小僧は未だ周囲を見て居るのだろうか。その姿を捉える事はできそうにない。やれやれ。その気まぐれな振る舞いは、どこかの誰かにそっくりだ。思わず笑みが毀れる。

 既に日は高く昇り、照り付ける日差しが容赦無く肌を焦がす。滝の様に汗が流れる。だが、この暑さが好きだ。汗だくになりながら、照り付ける日差しの下を歩む。そうする事で生きて居ると実感できるから。オレは顔を挙げて目を細めた。日差しが強く、眩しい。オレは額の汗を腕で乱暴に拭った。

「おーい、絵描き小僧! 次の場所に向かうぞ!」

 オレの声に気付いたのか、絵描き小僧が豪快な足音を立てながら勢い良く戻って来た。と、言ってみた物の、さて、何処に向かうとしようか? 相変わらずオレは後先考えない性分だ。出たところ勝負と言うのも嫌いではないが、余りにも考えが無さ過ぎると路頭に迷う。我ながら実に間抜けな話だ。目を輝かせてオレを覗き込む絵描き小僧の笑顔に無言のプレッシャーを覚えずに居られなかった。これは厄介な事になった。オレは必死で考えを巡らせた。程なくしてオレの脳裏にある情景が浮かんできた。なるほど。灯台下暗しと言う奴か。

「見ての通り、南禅寺は広大な寺でな。中でも水路閣は有名な場所だ」

 オレの言葉に絵描き小僧は力強く頷いて見せる。冒険と言う言葉に反応した辺りからも察するに、そういった振る舞いが好きなのは間違いなさそうだ。

「っつー訳で張り切って行こうぜ」

 オレの言葉に頷くと、絵描き小僧は予想通り、勢い良く走り出した。

「階段で足、踏み外すんじゃねぇぞ?」

 予想通りの振る舞いに、やれやれと思いながらもオレは絵描き小僧の後を追った。自分で言った物の、口にしてみれば途端に妙な不安に駆り立てられる。勢い良く突っ走って、階段から足でも踏み外そう物ならば怪我を負う事になるのは間違いない。そう考えた瞬間から、どうしようもない程の恐怖心に駆られたオレは大慌てで絵描き小僧の後を追った。止めようとした所で聞く耳を持たない以上、何とか未然に防ぐしか道はない。無事に絵描き小僧に追い付いたオレは、あくまでも慎重に階段を下り事無きを得た。無事に三門を後にしたオレ達はそのまま予告通り、水路閣へと向かった。

◆◆◆94◆◆◆

 三門を後にしたオレ達はそのまま道沿いに法堂を目指した。一際大きくそびえ立つ法堂は存在感があり、遠目に見て居るだけでも圧倒される程だった。こうしてどっしりと構えて居る姿を目にすると心が落ち着く。時が流れても変わる事のない建物があると言うのは安心できる。思わず足を止めて見入るオレの傍らに佇むと、絵描き小僧もオレの真似をして見入って見せた。何処かオレの仕草を真似して居る様な感じが可笑しくて思わず笑みが毀れる。

「今日、お前と一緒に訪れた思い出、南禅寺にもしっかりと残されるのだろうな」

 オレの言葉に絵描き小僧が静かに頷く。頷きながら、そっと一枚の絵をオレに差し出して見せた。さて、この絵には何が刻まれて居るのだろうか? オレは差し出された絵を手に取ってみた。

「へへっ、なるほどな」

 そこに描かれていたのは法堂を見上げるオレと絵描き小僧の姿だった。二人並んで居る姿を目にすると、やはり、オレ達は本当の兄弟なのだとしか思えなくなる。敢えて、絵描き小僧とお揃いの着物にして居る辺りに、絵描き小僧の想いが見え隠れして居る。何だか誇らしい気持ちで一杯になって思わず胸を張って見せれば、傍らでも絵描き小僧が胸を張って見せる。思わず二人顔を見合わせて笑いが毀れる。

「っつーか、なに、オレの真似して居るんだよ?」

 笑いながら小突いて見せれば、絵描き小僧も笑いながら小突き返して見せる。何だか、そんなやり取りまで妙に可笑しく思えた。

「立ち止まって居ると暑ぃな。さてっと、涼を求めて先に進もうぜ」

 既に日は高く昇りジリジリと照り付ける日差しは暑く、情けも容赦も無く肌を焦がしてゆく。空を見上げてみる。抜ける様な青空が果てしなく広がっていて、周囲にそびえる木々からは蝉達の威勢の良い鳴き声が降り注ぐ。夏らしい光景が広がる中をオレ達は肩を並べて歩いていた。こうしてゆっくりと歩いて居るだけでも汗が後から後から滲み出て来る。滴る汗をタオルで拭いながら歩み続ける。だけど、この暑さが心地良い。夏と言う季節が好きだから。ふと、傍らに目線を投げ掛ければ、やはり、絵描き小僧も汗を滴らせながら歩いて居る。首から下げたタオルがお揃いで可笑しくなる。まったく……兄弟揃って暑苦しい事だ。野性的な兄弟、此処にありと言った所だろうか。思わず苦笑いを浮かべながら、オレ達は法堂の手前で右折した。目的地の水路閣はこのまま道なりに歩み、南禅院の手前で左折した先にある。うっそうとした木々に覆われた中に佇む水路閣。少しでも涼を感じられればと考えつつ歩を進めた。

 法堂前を過ぎれば周囲は木々に覆われた景色へと移り変わってゆく。日差しが遮られれば多少は暑さも軽減するだろうと考えていた。実際に直接日差しに照り付けられる事がない分、幾ばくかは涼しさが増した気がする。

 視界の先には赤レンガで彩られた水路閣が見えて来る。木々に覆われた中でも、確固たる存在感を放って居る。歴史を感じさせる重厚感あふれる外観は、何度目にしても思わず感嘆の吐息が漏れる。ふと、足を止めれば、傍らに立つ絵描き小僧も感慨深そうな眼差しで水路閣を見つめていた。やはり、時は流れても変わらない物は存在して居るのだと改めて実感させられる。

「ぐるっと回ってみるとしようぜ」

 オレが歩き出せば、すぐさま絵描き小僧も隣に並ぶ。後ろに続くのでは無く、隣に並ぼうとする辺りに絵描き小僧の想いが見え隠れしていて思わず笑いが毀れる。あくまでも肩を並べて歩きたいと言う事だろう。もっとも、能力的には絵描き小僧の方が遥かに優れて居る。ただの人に過ぎないオレは非力で無知で、何もできやしない。そう考えれば、むしろオレを先導してくれても不思議ではないのだが、あくまでも隣に並ぼうとする。対等の立場に立ちたいのか、それとも、オレを立ててくれようとして居るのか、どうなのかは絵描き小僧本人で無ければ判らないが、それでも誇らしく思えるのは事実だ。滲み出る汗を腕で乱暴に拭いながらもオレ達は歩き続けた。

 水路閣は言うなれば疎水の通り道の一部となる。下から見る分にはレンガ造りの橋にしか見えないが、実際には橋の上を水路が走って居る形となる。水の流れに想いを馳せたついでに、疎水の流れも目にしたくなったと言うのが実際の所だ。ついでに、涼やかな水の流れを目にして涼を感じられれば尚良しと、少々欲張りな感も否めないが、こうして南禅寺に訪れたのも何かの縁だ。目一杯楽しまなければ損と言う物である。

 橋の下を抜けて、緩やかな坂道に沿って歩を進めてゆく。高徳庵へと差し掛かる手前当たりは、丁度、水路と同じ高さになる。その辺りからならば疎水の流れも拝む事ができる。もうじき、坂道も上り終わろうとしていた。辺りを覆う木々も密度を増し、うっそうと生い茂る木々達の香りを肌で感じられるのが心地良い。

「いやぁ、しかし暑いな。もう、ビショビショだぜ」

 オレの言葉に絵描き小僧が苦笑いを浮かべながら頷く。

「ほら、見てみろよ。琵琶湖を旅立った疎水の流れとご対面だ」

 絵描き小僧は嬉しそうに頷きながら、急ぎ足で疎水の流れに駆け寄った。勢い余って転落するなよ。そんな事を考えながらもオレも絵描き小僧に続く。

「涼やかな流れだな」

 豊かな流れを称える琵琶湖疎水をジッと見つめて居ると、色々な事が脳裏を過ってゆく。涼やかな水音を奏でながら流れゆく水の流れ。上流から下流へと流れてゆく水の流れ。そこにオレ自身の在り方を重ね合わさずには居られなかった。

 丁度、オレもこの水の流れと同じ様な生き方をして居る。イヤ、強いられて居ると言った方が正しいのかも知れない。水の流れと同じ様に高い所から低い所へと、ただ、流れ、流され続けるだけの生き方だった。判って居る。本心ではその様な生き方、望む訳がない。オレは流れに逆らってでも自らの想いを貫きたい。ただ、流されるだけの弱い生き方は終わりにする。オレ自身の手で断ち切る。そう決めたのだから、もう後には退かない。もう流されたりしない。大丈夫だ。今のオレには絵描き小僧も居てくれるし、掛け替えのない仲間達も居てくれる。今度こそ、想いを曲げる事無く生き抜いて見せる。流れに逆らって何処までも駆け抜けてくれる。

 どうも、オレは思って居る事が表情に現れるらしい。ふと、顔を挙げればオレの目の前には絵描き小僧が立っていた。腕組みしたまま力強く頷く姿に、何か得も言われぬ想いを感じて居た。

(もしかして、また、オレ、心の叫びを口にしちまったのか?)

 これは間違いなく、コタのクセに感染した証だ。恐るべしコタ。そんな恥ずかしい振る舞い、オレだけは絶対にしないと堅く誓ったにも関わらず、呆気なく突破するとは実に油断ならない。流石はコタだ。思わず唸って居ると、不意に絵描き小僧が手際良く何かの絵を描いた。今度は一体何を描いたのだろうかと考える間もなく、唐突に絵を疎水の流れに浮かべて見せた。

(おお? 絵を水の流れに浮かべるたぁ、一体、何をするつもりだ?)

 思わず首を傾げるオレに向かい、何やら絵描き小僧は不敵な笑みで返して見せる。

(……嫌な予感がする。こいつ、何か仕掛けたな?)

 間違いなく、何かを仕掛けたに違いない。それも琵琶湖疎水に絵を浮かべたのを考えると、水の流れに何かを仕掛けたと言う事か。ふと、オレ自身が考えて居た事が脳裏を過る。だが、流石に絵描き小僧とは言え、それ程に大掛かりな事を為せる訳はないだろう。そう自分に言い聞かせるオレが妙に滑稽だった。背筋を何か冷たい物が伝う。可笑しい。こんなにも蒸し暑いハズなのに何故か寒気さえ覚える。周囲を窺って居ると、不意に水の流れが緩やかに止まろうとしていた。

(ま、マジかよ……)

 いよいよ体中の毛穴が開こうとしていた。丁度、坂道を上って来た若い女性達の歓声が聞こえて来た。水路閣を流れる疎水に興味を示して居る様子だ。こんな場面に厄介な事に目撃者まで登場してしまうとは万事休すか。必死の想いで平常心を取り戻そうとするオレの想いを余所に、疎水の流れはゆっくりと……ゆっくりと逆流を始めた。もはやオレは生きた心地がしなかった。

「うそー!? 水の流れが逆流して居るよー!?」

「えぇー、ほんとー!?」

 違った意味で歓声を挙げる女性達の声に驚愕したオレは慌てて絵描き小僧に向き直った。絵描き小僧は頭の後ろで腕を組みながらにやにや不敵に笑うばかりだった。

「オイ、コラ! シャレにならねぇイタズラすんじゃねぇっての!」

 慌てふためくオレを見つめたまま絵描き小僧は可笑しそうに笑うばかりだった。それにしても恐ろしい奴だ。疎水の流れを逆流させるとは、大自然の摂理を一切合切無視した振る舞いだ。そして、それを軽々と為し遂げてしまう絵描き小僧の底力にオレは驚かされるばかりだった。しかし、強大な力を持ちながらも、それをイタズラに使う辺り、振る舞いには相当な注意が必要そうだ。この調子では、今後、どんなド派手なイタズラをやらかすのか考えると恐ろしくていけない。

「お前の力は判ったから、取り敢えず元に戻せ……」

 オレの言葉に絵描き小僧は腕組みしたまま、眉をひそめて悩み始めた。予想もしない振る舞いに、オレはさらにどん底に突き落とされた。

「も、もしかして、元に戻せねぇとか言い出しちゃったりしねぇよな?」

 恐る恐る問い掛けて見せれば、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながらオレの肩を叩いて見せた。

「いやいや、どーすんだよ、コレ!?」

 オレの焦りなどお構いなしに、絵描き小僧は可笑しそうに笑うばかりだった。その振る舞いを見たオレは、ただただ言葉を失うばかりだった。どうやら、オレの責任は相当に重大だと判断した。絵描き小僧は強大な力を持って居るにも関わらず、容易く、それをイタズラに使用する事が判った以上、何が何でも阻止しなければならない事だけは判った。事の詰まり、絵描き小僧の遊び相手をするのは想像以上に大仕事になると言う事が良く判った。

 頭を抱えて居ると、妙に周囲が騒がしくなっていた。嫌な予感を覚えつつも、周囲を見回したオレはさらに言葉を失った。

(ま、マジか!?)

 予想通りと言えば予想通りなのだが、騒ぎを聞き付けた多くの観光客達が、皆、何事かと琵琶湖疎水の流れを目にしようと集まって来ていた。有り得ない光景だった。この場所は何度も訪れて居るが、こんなにも人混みができたのを目にしたのは一度もない。恐るべし、絵描き小僧。いずれにしても、この場に長居をするのは危険と判断した。オレは小声で絵描き小僧に「次の場所に向かうぞ」と囁き掛けた。妙に芝居染みた振る舞いで敬礼をしてみせられれば溜め息しか出てこない。そんなオレの思惑とは裏腹に絵描き小僧は手際良く何かの絵を描いて見せた。もはや嫌な予感しかしないが、そんなオレを余所に絵描き小僧は絵を地面に置いて見せた。次の瞬間、オレの背後から馬のいななきが聞こえた。どう考えても良からぬ事が起こる未来しか描けなかったが、オレは恐る恐る振り返ろうとした。だが、それよりも先に――。

「うぉっ!?」

 一瞬、何かに跳ね上げられる感覚を覚えたが、次に気が付いた時にはオレは馬の背に跨っていた。

「こ、この展開は……」

 オレを乗せると同時に馬は勢い良く地面を跳躍して走り出した。予想通り、観光客達は悲鳴混じりに慌てて道を開けてくれた。響き渡る悲鳴を背に受けながらも、想像以上に勢い良く走り出す馬に、オレはただただ圧倒されるばかりだった。

「うぉお!? マジかよ!?」

 再び脳裏をオレ自身の言葉が過ぎる。

(確かに、結花と共に葵祭を見て居た時に、馬に乗りたいと言ったのは事実だけどさ!)

 何と言うか、絵描き小僧に綺麗さっぱり持って行かれた様な気がしてならなかったが、そんな事を考えて居る余裕は微塵も残されていなかった。何しろ、馬に乗るのは生まれて初めての体験だ。こんなにも足が早いとは思いもしなかっただけに、ただただ振り落とされない様に必死で掴まるのがやっとだった。傍らでは楽しそうに馬を乗り回す絵描き小僧の姿があったが、とても、オレにはそんな余裕はなかった。とにかくシャレにならない状況に、オレは必死の想いで立ち向かう事しかできなかった。

 それでも不思議な物で、ある程度走り続けて居ると段々と余裕も出て来た。もっとも、このまま道路を馬に乗ったまま突っ走ると言うのは問題があり過ぎる。すれ違う観光客達の突き刺さる様な眼差しがただただ痛かった。正直、生きた心地がしなかった。流石に冷静さを取り戻したオレは絵描き小僧に向かって慌てて声を掛けた。

「おい、絵描き小僧。幾ら何でも馬に乗ったまま走り回るのはマズいだろ!?」

 絵描き小僧に取っては何が問題なのか、今一つ判らないのか、首を傾げて見せるばかりだった。事態は悪化の一途を遂げて居るらしく、何処からともなくパトカーのサイレンが聞こえて来た。もはや、嫌な予感どころか……確信以外の何者でも無くなっていた。最悪過ぎる展開だ。一刻も早く、この場を立ち去らなければオレはお縄を頂戴する羽目になる。冗談ではない。いよいよシャレにならない事態はすぐ背後まで迫って居る。一刻の猶予も残されて居ない。言いたい事は腐る程あったが、此処で事細かに説明して居る余裕も無さそうに思えたオレは、思い切って遠方の目的地を選ぶ事にした。後は野となれ山となれ! もはや半ば自棄だった。

「つ、次の目的地は高山寺だ! 幾らなんでも馬で移動したら時間掛かるだろう!?」

 この言葉は理解し易かったのか。なるほどと頷くと、絵描き小僧は手際良く一枚の絵を描いた。絵を描くと、そのまま驚くべき手際の良さで折り鶴を作って見せた。随分と大きな折り鶴だと思って居ると、絵描き小僧の手元から折り鶴が勢い良く舞い上がった。次の瞬間、オレ達の目の前に光り輝くトンネルの様な物が出来上がった。今度は一体何をするつもりだと考える間もなく、オレ達は光の中へと飛び込んだ。当たり一面、目も眩む程の光に包まれて居る。白一色の世界の中をしばし駆け抜けて居たが、やがて、再び何処かの景色が見えて来た。トンネルを抜けた先、そこは――。

◆◆◆95◆◆◆

 トンネルを抜けた先には見覚えのある景色が広がっていた。太助の好きな場所と言う事もあって、何度と無く皆と訪れた場所だ。見間違える訳もなかった。思わず溜め息が毀れる。南禅寺を後にしてから僅かな時間しか経って居ないと言うのに、気が付けば高山寺へと続く道路を歩んで居ると言う事実に驚かされる。まったく、絵描き小僧には一般的な常識と言う物は通用しないらしい。これ程までに大きな力を持って居るにも関わらず、その力を容易くイタズラに使って居ると言う事実を改めて冷静に考えると、背筋を冷たい物が伝う。やはり、最大限の注意を払って接する必要があると言う事だけは間違いなさそうだ。どうやら、オレの責任は極めて重大だ。何しろ、暴走機関車の様な絵描き小僧の手綱を握る唯一の存在だ。奴は歩く最終兵器だ。迂闊に可笑しなイタズラをやらかさない様に注意を払うしか道は残されていないのかも知れない。思わず大きな溜め息が毀れるが、そんなオレにはお構いなしに絵描き小僧は颯爽とオレを追い抜くと、高山寺の駐車場へと向かった。

(そりゃまぁ、車を停める場所だからあながち間違いじゃねぇけどさ……)

 相変わらず、妙に柔軟性のある振る舞いに苦笑いしか出てこない。手際良く馬を休ませると軽やかな振る舞いで馬から降りて見せた。

「オイ、コラ。オレを置いて行くんじゃねぇっつーの。それに、大体、どうやって馬を停めりゃ良いんだよ?」

 オレの言葉を耳にした絵描き小僧が軽やかな足取りで歩み寄って来る。そのまま馬を先導すると、静かに馬の顔を撫でて見せた。何やらやり取りをする様な振る舞いを見せれば、馬は静かに頷いて見せた。そのまま静かにその場に座り込んで見せた。

「な、なんかさ……今、お前、馬と当然の様に会話してなかったか?」

 オレの問い掛けに応える事無く、絵描き小僧は来るりと踵を返すと軽やかな足取りで歩き始めた。やれやれと思いながらも、放って置くのも恐ろし過ぎる。オレは慌てて絵描き小僧の後を追った。まったく……絵描き小僧の遊び相手をするには相当な労力を要するらしい。軽い気持ちで遊びに連れ出した事を今更になって少し後悔して居るオレが滑稽だった。

「ったく、しょうがねぇ奴だな」

 それにしても高山寺の周辺は何度訪れても荘厳なる光景が広がって居る。迫り出す様に伸びた木々達の枝が風に揺れて居る。山に囲まれた中に佇む高山寺は、だからこそ、殊更に厳かな雰囲気に包まれて居る様に感じられる。何度訪れても気持ちが引き締まる場所だ。

 うっそうと生い茂る木々達に囲まれた参道を歩む。木々達の隙間から漏れ毀れる木漏れ日が眩しくて目を細めながらも、オレは空を見上げてみた。既に日は天高く昇っていて照り付ける日差しを称えて居る。周囲に生い茂る木々からは蝉達の鳴き声が降り注ぐ。夏らしい光景だ。そんな光景の中をオレ達は歩んでいた。木々の香りが心地良くて思わず足を止めたくなる。忙しなく過ぎ去ってゆく時の中で、だからこそ、時の流れを止めたい衝動に駆られる。しばし目を伏せて木々の息吹を感じて居ると、何時の間にか傍らに人の気配を感じた。それとなく横目で盗み見てみれば、オレの隣ではオレの真似をして空を見上げる絵描き小僧の姿があった。思わず二人顔を見合わせて笑いが毀れる。

「すげぇ暑いけどさ、木々の香りが良いよな」

 オレの言葉に絵描き小僧が頷く。時の流れがゆったりとして居るようで心地良い。もっとも、蒸し暑い気候である事には変わりはない。後から後から滲み出る汗が雫となって滴り落ちる。それもまた、今の季節ならではの感覚だ。この暑さが好きだから。

「うしっ! 先に行こうぜ」

 こうしてこの場に留まっていても何も始まりはしない。時の流れを止めたいと願ってみても、それは無意味な願いに過ぎない。それならば生きて居る今を精一杯過ごさなくては。降り注ぐ蝉達の鳴き声を全身で受け止めながら、そんな事を考えて居た。今と言う一瞬は二度と戻る事はない。ちらりと横目で盗み見れば、汗だくになりながらも歩み続ける絵描き小僧の姿がある。静かな笑みが毀れる。ああ、そうさ。こいつと共に過ごす時を大事にしなくては。もう、大切な何かを失うのはイヤだから。

 曲がりくねった参道を歩みながら、ふと思う。そういえば駐車場がある側は裏参道に当たるのだと以前、太助に聞かされた事があったなと。本来の表参道はバス停から多少離れて居る事もあって、どうしてもバスの停留所がある側から入りたくなってしまう。毎度、裏参道から入ると言うのも少々違和感があったが、それでも多くの観光客はそうとは知らずに訪れて居るのだろう。乗り慣れない馬に乗ったまま表参道に停められても、道路に面して居る事もある上、この辺りは信号も少ない。車も速度を上げてかっ飛ばしてゆくのを考えると、それはそれで危険性と背中合わせだ。絵描き小僧の気遣いなのか、はたまた、単なる気まぐれなのだろうかと考えて居るうちに、立派な山門が見えて来た。

 今は生い茂る木々も緑一色ではあるが、紅葉の時期には辺り一面、萌え上がる様な赤や黄色の鮮やかな色合いに包まれるが、相当に混雑するのだろう。人混みが苦手なオレとしては紅葉の時期に敢えて真正面から訪れるつもりはない。それに、今は絵描き小僧が一緒に居てくれる。常識破りな振る舞いを駆使すれば、紅葉の時期とて上手い具合に人混みを避けて訪れる事もできるのかも知れない。

「それじゃあ、石水院に行こうぜ」

 高山寺と言えば、やはり、石水院が有名だ。飾られて居る鳥獣戯画は多くの人に知られて居る程に有名な絵画と呼べる。それに、石水院から眺める景色は実に心地良い。高山寺の名の通りに、高台に位置する石水院から臨む景色は美しく、時の流れから切り離された様な気持ちで一杯になれる。忙しなく過ぎ去ってゆく時の流れの中、石水院は時の流れがゆったりと流れゆく様に思えて安心感に包まれる。もっとも、絵描き小僧には少々退屈な場所かも知れないが――と思いつつ横目でちらりと盗み見れば、何やら不穏な笑みで応えられた。

「おいおい、また妙なイタズラするんじゃねぇぞ……」

 イヤ、間違いなく何かやらかすつもりだ。確信できたとは言え、だからと言って、絵描き小僧の暴走を阻止するのは容易い事ではない。何しろ、気が付いた時には既に行動を起こして居るのだから、どうしようもない。この閑静な山寺を騒がせる様な無粋な振る舞いは慎んで貰いたい物ではあるが、オレの想いなど届く訳もないのだろう。嫌な予感しか抱けないまま先に進むのも実に微妙な話ではあるが、せめて被害を最小限に食い止める様に最善を尽くすまでだ。既に考え方が間違えて居る気がしてならないが、取り敢えず、受付で拝観料を払い、石水院の中へと歩を進めた。

 木々の息吹を感じられる周囲の景色とは打って変わって、石水院の中は薄明りに照らし出される静かな雰囲気となり、どこか住居の様な佇まいさえ感じさせる。畳の香りと木目鮮やかな木の天井。吊るされた明かりからは仄かな光が放たれて部屋の中を照らし出す。外にはやはり一面に生い茂る木々の葉が目に留まる。鮮やかな木々達の緑の中に畳の柔らかな色合いが心地良い。

 閑静な石水院は、そこに居るだけでも落ち着く事のできる場所なのだが――何しろ、オレの傍らには爆薬が服を着て歩いて居る。何時、導火線に火が点くかと冷や冷やしながらでは、とても落ち着ける物ではない。身構えるオレを絵描き小僧は楽しそうに見つめるばかりだった。実に良い性格をして居る。まったく……どう考えても、取り乱すオレを見て楽しんで居るとしか思えなかった。実に良い性分だ。一度、本気でシメてやらないと判らないのかも知れない。

 昼下がりの石水院は人も居らず静けさに包まれていた。涼やかな畳が心地良い。一歩、踏み込む度に微かに沈む様な感覚を楽しみながらも、どうにも落ち着き切れない状況がもどかしい。室内を歩む事しばし。程なくしてオレ達は鳥獣戯画とご対面となる。やはり、絵画とくれば絵描き小僧の興味を惹くのだろう。ガラス越しにまじまじと眺める絵描き小僧の表情は真剣その物だった。端から端までじっくりと見つめる真剣な眼差しに思わず見入ってしまう。やはり、絵を描く身としては古き時代に描かれた絵画に興味を惹かれると言う事か。しげしげと見つめながらも、おもむろに筆を手にして見せた。この場面で何かを描くとは……嫌な予感しかしない。強引に阻止するか? イヤ、この場所で迂闊に暴れられれば大変な事になる。さて、どうするか? 腕組みして考える間に驚くべき速度で一枚の絵が描かれた。一体、何をしでかすのかと困惑して居ると、絵から飛び出したのは小さな兎やら蛙やら。鳥獣戯画の中に登場する動物達を克明に描いた物らしい。それが絵から飛び出して、今、オレの目の前で相撲を取って居るのだから、何とも言えない気分になる。

(い、意外にも被害のない絵だったか……)

 ほっとした様な、何だか物足りない様な、妙な気持ちになったのは事実だった。それにしても、中々にシュールな絵だ。何しろ目の前では絵から飛び出した兎と蛙が相撲を取って居る。それを応援するのもまた、兎達に蛙達。何とも不思議な光景ではあったが、何とも言えないほのぼのとした光景に思わず見入ってしまう。オレの傍らに立つ絵描き小僧は楽しそうに相撲の様子を見つめて居る。相撲を取る様子を無邪気に応援する横顔を見つめて居ると、小さな事を気にしていたオレがばからしく思えてしまう。

 ここにきてようやく気付いた辺り、やはり、オレは相当に鈍い性分らしい。自分自身の至らなさに溜め息が毀れる。そうさ。絵描き小僧はオレに出会うまでの間、どう過ごしていたのだろうかと言う話だ。これはオレの勝手な想像に過ぎないが、ずっと独りぼっちだったのではないだろうか? 描いた物が現実の物になると言う凄まじい能力を持つ絵描き小僧が普通に過ごせたとは考え難い。それに、人ならざる存在であって絵描き小僧が一体、どう過ごして来たのかと考えれば何となく想像はできてしまう。

(そっか。そう言う事だったんだよな……)

 無邪気にはしゃぐ絵描き小僧の横顔を見つめて居ると、目頭が熱くなった。

(お前はオレと出会えて嬉しくて仕方がないんだよな。だから、こんなにも楽しくて、楽しくて……)

 ああ、駄目だ駄目だ。これ以上、余計な事を考えて居ると涙が毀れそうになる。だが、ここで涙を見せれば、絵描き小僧の気持ちに水を差す事になる。それでは駄目だ。ここは一緒に楽しむくらいの余裕を見せてやらなければ。気持ちを新たに切り替えようとすれば、不意に絵描き小僧に手を引かれた。

「お? おお? おいおい、一体、何がどうした!?」

 オレの問いに応える事無く、絵描き小僧は軽やかな足取りで歩むばかりだった。石水院の中を歩むオレ達の後ろにお供する様に兎達が、蛙達が続くと言う何とも言えない絵にオレは動揺させられるばかりだった。

「ちょっと待て、オレは何処に向かって居るんだよ!?」

 オレの言葉が聞こえて居るのは間違いない。その証拠に楽しそうに笑いながら手を引くばかりだったのだから。さて、今度は何を企んで居るのか……ハラハラしつつも、内心、何処かで楽しんで居る自分が居るのも事実だった。次は一体、どんな奇想天外な行動を見せてくれるのだろうか? 怖い物見たさにも似た感覚なのかも知れない。

 手を引かれるままに辿り着いたのは開けた床の間だった。善財童子がこちらをジッと見つめて居る様な気がして思わず身が竦んだ。ようやく足を止めた絵描き小僧が来るりとこちらに向き直る。やれやれ……今度は何を仕掛けるつもりか? 頭を掻きながら苦笑いで応えて見せれば腰を落として身構えて見せた。何となく嫌な予感を覚えて居ると、唐突に頭から突っ込んでみせた。

「うぉっ!? 予想通りの振る舞いで来やがったか!?」

 何故か蛙達やうさぎ達の声援を受けながら、絵描き小僧との相撲に臨む事になろうとは予想もしなかった。だが、そこは勝負事。やはり、ここは兄貴の威厳を見せ付けたい所と言う物だ。

「うぬぬぬぬ……!」

 しかしながら、絵描き小僧の腕力は相当の物がある。予想はしていたけれど、これ程までに力が強いとは思わなかった。やはり、古き時代を生きた身なのか、にわか相撲のオレとは全く異なる振る舞いに圧倒されるばかりだった。

「うぉっ!?」

 それは一瞬の出来事だった。絵描き小僧の渾身の一撃を喰らって、オレは派手に投げ飛ばされた。蛙達がうさぎ達が歓声を挙げる。派手に尻餅を着いたオレに歩み寄ると、絵描き小僧は満足そうな笑みを称えたまま、そっと手を差し伸べてみせた。額に目一杯の汗を垂らす笑顔にオレまで釣られて笑顔が毀れる。

「ったく、こんな所で相撲するとか、有り得ねぇだろ」

 軽く小突いて見せれば、絵描き小僧は苦笑いを浮かべながら頭を掻いて見せた。まったく、そんな振る舞いまでオレに似せて居るつもりか。再び笑みが毀れる。

「大体、うっかり善財童子に激突しちまったらどうするつもりだったんだよ?」

 オレの言葉に絵描き小僧が目を丸する。わざとらしく善財童子に歩み寄ると笑いながら肩を叩いて見せた。

「わはは。何だよ、その振る舞い。意味判んねぇから」

 それにしても、まさかこんな場所で絵描き小僧と相撲を取る事になろうとは思いも寄らなかったが、それはそれで中々に楽しい体験となったのも事実だった。予想に反して腕っぷしの強い絵描き小僧に圧倒されたのは中々に楽しい体験となった。もっとも、次はもう少し広い場所で勝負を挑ませて貰いたい物だ。そんなオレの考えなど見抜いて居るのか、絵描き小僧は楽しそうに絵を描いて見せた。そこに描かれていたのは予想通り、上賀茂神社の広大な芝生の光景だった。

「なるほどな。まぁ、あそこなら派手に振る舞っても問題ねぇよな」

 上賀茂神社は相撲とも縁のある場所なのを考えると不思議な話ではない。毎年九月には烏相撲が行われる。子供達が相撲を取ると言う行事となる。もっとも、さすがに絵描き小僧が参加したら完全勝利を収めるのは間違い無さそうだが、年齢的に無理があるか。

「ったく、ただでさえ暑ぃのに余計に汗だくになっちまったぜ」

 流石にこれ以上暴れ回られても困る物がある。折角、風情あふれる高山寺を訪れて居るのだ。静かに境内を巡るのも悪くないだろう。それに今はすっかり汗だくになった状態だ。木々に包まれた涼やかな境内を巡るのも実に心地が良い。木々の息吹を感じながらも、流れゆく水音の心地良さに包まれる。こんな暑い日には悪くない一時となりそうだ。それにしても……。

「なぁ、絵描き小僧。こいつら、何処までお供するんだ?」

 相変わらずオレ達の後ろには蛙達とうさぎ達と……気付けば数多の動物達が連なって居る。この光景、さながら大名行列だ。何となく偉い人になった様な気持ちに包まれ、思わず胸を張ってしまったが、慌てて首を振った。相変わらず絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら首を傾げるばかり。

「わはは。まぁ、お前が相手だと何でもアリだから、今更、細けぇこたぁ気にしねぇけどな」

 段々オレも絵描き小僧に毒されつつあるのかも知れない。何と言うか、段々と抵抗力ができつつある自分に一抹の不安を覚えなくもなかったが、まぁ、人畜無害な連中だ。それに、こんなにもずらりとお供が居てくれると言うのも中々に楽しくて悪くない。まるで大名行列だ。

 ぐるりと石水院を見て回った所で、オレ達は石水院を後にした。涼やかな水の流れを感じられる高山寺の大自然に包まれた境内は心地良く、のんびりと歩んで居るうちに汗も退こうとしていた。木々の息吹に水の流れる音色。時折吹き抜ける風に乗って流れて来る小鳥達の声もまた実に涼やかで心地良く思えた。人気のない山間の寺、高山寺。コタ達とも何度も訪れて居る場所ではあるが、こうして絵描き小僧と二人きりで訪れるのも悪くないと感じて居た。相変わらずオレの隣を上機嫌そうに歩む絵描き小僧の姿に思わず目が細む。もっとも、妙なイタズラは程々にしてくれると、オレ的には、もう少し安心して共に旅をできるのだが……と考えて居ると、不意に絵描き小僧が足を止める。何やら不敵な笑みを浮かべたままこちらに目線を投げ掛けられれば思わず身構えずに居られない。もっとも、絵描き小僧の事だ。オレの反応を見て楽しんで居るのだろう。全く、良い性格をして居る。まったく……その振る舞い、どこかの誰かにそっくりだ。

◆◆◆96◆◆◆

 高山寺を後にしたオレ達は、再び馬に揺られながら徒然なるままに国道沿いを駆け抜けて居た。慣れれば乗馬と言うのも中々に悪くはない物だと思わされる。バスや電車で移動するのとは全く異なる感覚が、確かな体温を感じながら、風に乗って駆け抜けると言う躍動感が何とも心地良く感じられた。やはり、オレ達は野性的な兄弟なのだと改めて実感させられる。もっとも、すれ違うバスの乗客達が馬に乗って駆け抜けるオレ達に気付いた時、予想通りに目を丸くして驚いていたのは中々に愉快な体験だった。どうやら段々と絵描き小僧の妙な振る舞いに耐性ができて来たらしい。もっとも、そうなると一般人の常識から次第に遠ざかってしまいそうな恐ろしさもあったが、まぁ、細かい事は気にしない、気にしない。

 少々速度を上げて高山寺を後にしたオレ達はそのまま国道沿いに駆け抜け、仁和寺前まで訪れていた。ようやく人里に戻って来た感覚に包まれる頃には、日もすっかり高い所まで上っていた。時刻は昼過ぎ。さすがに腹も減る。腹が減っては戦はできぬと言う事で、さて、どうしようかと思案していた。丁度、仁和寺前の信号が赤になった所で、律儀に立ち止まる馬に思わず笑みが毀れる。傍らに佇む絵描き小僧が袖で汗を拭う姿が目に留まる。照り付ける日差しは強く、容赦無く肌を焦がす。派手に汗もかいた。喉も乾いたし、腹も減った。そろそろ昼飯にしたいところだ。

「絵描き小僧、そろそろ昼飯にしねぇか? さすがに腹減っただろ?」

 オレの問い掛けに絵描き小僧が頷く。しかしながら、次の目的地は何処にするかは何も考えて居なかった。相変わらずの出た所勝負な立ち振る舞いだが、まぁ、旅は風任せにするのも悪くない。気の向くまま、風に吹かれるままに駆け抜けるのも悪くない。

「とは言え、何処に向かおうかな」

 此処、仁和寺に立ち寄るのも悪くはないが、仁和寺の周辺は飲食店が少ない。また、広大な敷地を誇ると言う面では南禅寺と似た様な一面がある。時間を考えれば、色合いの違う場所を訪れたいと願うのが人の常だろう。さて、次は何処へ向かおうか? しばし腕組みして思案して居ると、絵描き小僧が一枚の絵を差し出して見せた。そこに描かれていたのは渡月橋だった。なるほど。嵐山に向かいたいと言う事か。確かに、仁和寺からならばさほど距離も離れて居ない。昼食を探すにも不便はない。悪くは無さそうだ。強いて言えば、うっかりロック達に出会わないかが気掛かりだが、その時はその時で考えるとしよう。

「うしっ! それじゃあ、向かうとしようぜ」

 オレの言葉に頷くと絵描き小僧は青になった信号を渡った。さて、何処に向かうつもりなのだろうか? 絵描き小僧が向かおうとして居る先には御室仁和寺の駅がある。なるほど。嵐電で嵐山に向かおうと言う事か。それならば馬はどうするつもりなのだろうか? イヤ、そもそも、この馬は絵描き小僧の作り出した物だ。深く考える必要はないだろう。

 蝉達の鳴き声を肌で感じながらもオレ達は御室仁和寺の駅を目指した。昼過ぎだと言うのに人は少なく、まばらにしか見られなかった。オレ達は静けさに包まれた駅舎に腰を下ろし、嵐電の到着までのしばしの一時を待ち侘びた。

 空を見上げれば雲一つない青空が広がって居る。降り注ぐ日差しは強く、ただ静かに座って居るだけでも汗が滲んで来る。辺りは静けさに包まれて居る。心地良い時間だ。誰もオレ達の存在に違和感を抱いていない。絵描き小僧と二人並んでいれば兄弟にしか見えないはずだ。

 程なくして嵐電が到着する。開かれたドアから中に入る。こちらは静けさに包まれた駅とは裏腹に混雑して居る。やはり嵐山は観光地として人気の場所らしい。これだけ大勢の乗客達が向かって居る事を考えれば頷ける。

「途中、帷子ノ辻で乗り換えて、そこから嵐山へと向かう事になる」

 オレの言葉に絵描き小僧が頷く。頷きついでに路線図に興味を示したのか、しげしげと路線図を眺めて見せた。オレは帷子ノ辻を指差しながら説明した。

「オレ達が乗ったのが御室仁和寺だな。で、ここから帷子ノ辻を経由して嵐山に向かうっつー流れになる訳だな」

 こうしてオレ達はしばしの間、嵐電に揺られる事になった。道中、帷子ノ辻で乗り換えが発生するが、混雑状況は変わらないだろう。皆、向かう先は嵐山で間違いないのだろうから。涼やかな空調に触れたお陰で汗も退こうとしていた。心地良い涼しさだ。外の景色を眺めて居るうちに、間もなく帷子の辻へと辿り着こうとしていた。

 ゆっくりと時が流れてゆく。心地良い時の流れだ。普段からこんなにもゆったりとした生き方をできたのであればどんなに幸せだろうか。イヤ、止めて置こう。多くを望み過ぎれば掌の隙間から砂の様に零れ落ちてしまうだけだ。今、こうして絵描き小僧と共に歩む事ができて居る。その事に心から感謝しなければならない。過ぎ去った時の流れは二度と戻って来る事はない。無駄にして良い時の流れなど微塵もない。それに――もう、大切な何かを失うのはイヤだから。

 帷子ノ辻に辿り着いた所でオレ達は人の流れに乗って乗り換える事にした。しばし、呆然と考え込んでいたオレはすっかり取り残されてしまった。心配そうにオレを覗き込む絵描き小僧の肩に腕を回すと「腹、減り過ぎちまって意識、途切れてたぜ」と冗談めいてみせれば、絵描き小僧は可笑しそうに笑いながら自分の腹を撫でて見せた。

「わはは。お前もか? それじゃあ、嵐山に着いたらガッツリ食おうぜ」

 人の流れに乗る様にして、丁度訪れた嵐電に乗り換えて今度こそ嵐山を目指すとしよう。さて、嵐山に着いたら何処で昼飯にしようか? やはり、毎度おなじみの『ぎゃあてぃ』にするのが妥当な気がする。嵐山には洒落た湯豆腐の店も存在して居るが、食の太いオレ達では物足りなくなるのは目に見えて居る。それならば最初から腹一杯食える場所を訪れた方が無難と言える。

 改めて考えてみれば絵描き小僧と一緒に食事を共にするのは初めてになるかも知れない。三条の商店街で一緒にたい焼きを食べたきりなのを考えると、中々に新鮮な体験となりそうだ。それはそれで新しい体験となる。中々に楽しみだ。腹も減って居るから余計に楽しみに思える。さて、嵐山を目指すとしよう。こうしてオレ達は丁度訪れた列車に乗り換えて嵐山を目指す事にした。

◆◆◆97◆◆◆

 やはり嵐山は観光地としても名高い場所なのだと改めて認識させられる。予想通り、大勢の乗客達に取っての目的地は嵐山だったらしい。減る事のない人の流れに乗る様にしてオレ達もまた改札を後にした。

 駅の改札は人の話し声に満ち溢れて居た。誰も絵描き小僧の姿を目にしても気に留める事もなかった。確かに、和装と言う部分では少々珍しく見えない事もないが、嵐山と言う場所を考えれば殊更に違和感もないのだろう。

 吹き抜ける風が心地良く感じられるが、それ以上に照り付ける日差しは容赦がなかった。駅舎を抜ければ目も眩まんばかりの強い日差しが降り注ぐ。思わず手で目を覆わずには居られない。しばしの眩しさに堪えて居ると目も慣れて来た。よし、目的地を目指してもう一踏ん張りと行こう。

「うしっ! 長い道のりだったが、ようやくオレ達は昼飯にありつけるっつー訳だな」

 オレの言葉を受けた絵描き小僧が力強く頷く。やはり、腹が減っては戦はできない。目指すは嵐山駅近くに居を構えるオレのお気に入りの店『ぎゃあてぃ』となる。さて、いよいよ次なる戦場を目指す事にしよう。

 賑わう人々の流れの中、さながら戦地に赴くかの如く肩で風を切って歩む兄弟。図体のでかい兄弟の真剣な眼差しに、人々が慌てて道を空ける。少々微妙な気持ちに駆られたのは事実だが、相変わらず絵描き小僧は妙な部分で演じるのが好きらしく、我が物顔で道を歩む。その表情はさながら敵武将の首を取った凱旋を思わせる程の気迫に満ちて居た。なるほど。絵描き小僧に取っては『食』とは、まさに『勝負事』の世界と言う訳か。一触即発の殺気を身に纏いながら人々の雑踏で賑わう嵐山の街並みを歩むとは、嫌がらせ意外の何者でもないと言う物だ。そんな事を考えて居るうちにオレ達は戦地……もとい、目的地へと辿り着いた。此処からが本気の勝負だ。さぁ、いざ尋常に参らん!

◆◆◆98◆◆◆

 オレ自身、かなり食は太い方だと認識していたが、絵描き小僧の底無しの胃袋には圧倒させられた。一体、何人前食うのだろうかと、途中からは観戦モードで周囲の観客達と共に絵描き小僧の豪快な食いっぷりをただ見て居るだけと言う状況に陥ろうとは予想もしなかった。次から次へと皿に山盛りに積み上げては、瞬く間にそれを平らげる。一体、何日ぶりの食事なのだろうか? と疑わずに居られない程の食いっぷりは、ただただ見て居て気持ち良くなる程だった。苦笑いを浮かべるオレを見つめたまま絵描き小僧は静かに席を立って見せた。やれやれ。相変わらず我が道を往く事だ。

「おう。そろそろ行くのか?」

 ようやく店を後にしたオレ達は食後の散歩を楽しんでいた。駅前の通りは特に人通りが多く、気を付けないとカメラ片手に周囲を撮影して居る人々と衝突しそうになる。満足そうに腹を撫でる絵描き小僧の姿に、ついついロックの姿が重なってしまい渇いた笑みが毀れる。

「しっかし、お前、すげぇ食うんだな。マジでビックリだぜ」

 明らかに腹が出て居るのが判ってしまう。少々間抜けな姿になって居るが、それでも、満足そうに笑い返されたのでは言葉を失うと言う物だ。

「こりゃあ、出入り禁止になっても文句言えねぇかも知れないな。いっその事、大食い大会にでも参加してみちまったらどうだ? お前だったらぶっちぎりで勝利収められんじゃねぇの?」

 勢い良く腕捲りしてみせると、そのまま自慢の腕に力を篭めて見せる絵描き小僧に思わず笑いが毀れる。

「いやいや、何の勝負に挑むんだよ」

 相変わらず絵描き小僧のノリの良さは今一つ理解に苦しむ物があるが、それでも楽しんで居る事は容易く伝わる。それにしても短い時間を共にしただけとは言え、随分と振る舞いが変わった様に思える。共に三条を歩んだ初めての夕暮れ時は、好奇心を抱きながらも周囲を歩む人々を何処か畏れる様な振る舞いを見せて居たが、今は自らの存在を誇示さえして居る。

 その振る舞いには覚えがある。結花が生きて居た頃、人混みが苦手だった結花が頻繁に賑わいを見せる四条の街並みを歩むのが好きだったのと似て居る。そう考えると懐かしさに胸が詰まりそうになる。ただ、無邪気に楽しそうに振る舞う絵描き小僧の表情を見られて嬉しいのは事実だ。

「さてっと、何処に行こうかな」

 考え込んで居ると、唐突に絵描き小僧が一枚の絵を差し出す。一体、どんな場所を描くのだろうか? 興味津々に待ち侘びて居ると、なるほど。王道を往く一枚を差し出して見せた。

「渡月橋か。へへっ、王道を選んできたなぁ」

 やはり嵐山と言えば渡月橋に行かないと言う『選択肢』はないと言う事だな。まぁ良いさ。今日は絵描き小僧を楽しませる為の冒険だ。絵描き小僧が行きたいと願う場所が目的地になる。何よりも渡月橋から見渡す光景は絵になるのは間違いない。絵描き小僧が行来たがるのも頷ける。

「やっぱり、人、すげぇなぁ」

 これじゃあ景色を見ると言うよりも人を見ると言った方が正しく思えてしまう。やはり嵐山は人気の観光名所と言える。相変わらず駅前に立ち並ぶ店は統一感がない。何ともカオスな店が軒を連ねて居る。そう言えば、前来た時と微妙に店が変わって居る様な気がしなくもないが……。

(入れ替わり激しいんだろうなぁ。カオスな店ばかり並んで居るし)

 渇いた笑みを浮かべながら周囲の店を見回す。程なくして渡月橋前の交差点に辿り着く。この交差点は交通量も少なくない。駆け抜ける車の何割かは間違いなく観光客だろう。風光明媚な観光地も、こんなにも人でごった返しては風情もへったくれもないと言える。もっとも、オレ達もその中の一部だったりする。

「渡月橋を渡った先にロックの旅館があってな」

 オレの言葉に絵描き小僧が頷く。頷いてみたかと思えば、忙しない振る舞いで渡月橋の欄干へと駆け寄る。やれやれ。相変わらず落ち着きのない奴だ。そう言う部分はまだまだ幼い子供の様に思える。

「ったく、落ち着きのない事だ」

 橋の欄干へと駆け寄った絵描き小僧は流れゆく大堰川の流れをジッと見つめて居た。やれやれと思いながらも、オレもまた絵描き小僧の隣に並んで流れに目線を落とした。サラサラと流れゆく川の音色が心地良い。周囲は往来する車の音と人々の話し声が混ざり合い、雑音の様に耳に飛び込んで来るが、そんな事を気にせずに景色と一つになりたいと願えた。

 普段、ロックと共に目にする事の多い嵐山の光景ではあるが、こうして絵描き小僧と共に目にすると、また一風違った風に見えるから不思議だ。それにしても今日は暑い。このまま絵描き小僧と共に川遊びと言うのも楽しそうだが、それだったら水着を用意してくれば良かったか。次に訪れる時は川遊びの準備をして来るのも良さそうだ。

「橋を渡り切っちまえば中之島公園に出る。河原まで出てみるのも悪くないかもな」

 中之島公園まで出れば渡月橋を離れた場所からも見渡せる。良く観光写真に撮られて居る構図そのままの光景を目の当たりにする事ができる。とは言え、今は折角、渡月橋の上に居る以上、楽しまなければ勿体ない。

 流れゆく大堰川の音色。心地良い水音と木々の香りに抱かれながら歩むのは心地良い。やはり、嵐山は何時訪れても良い場所だ。心往くまでゆったりと楽しんでゆくとしよう。考え込んで居る内にオレ達は渡月橋を渡り切ろうとしていた。中之島公園もまた広大な公園だ。大堰川の河原まで近付く事もできるだろう。

「中之島公園に到着、だな」

 絵描き小僧は早速、周囲の景色に興味津々の様子だ。離れた場所から見渡す渡月橋もまた悪くない。予想通り、絵描き小僧はまじまじと見つめて居る。ゆったりと時の流れて居る場所だ。オレ達もまた、ゆったりと過ごすとしよう。

◆◆◆99◆◆◆

 渡月橋から中之島公園へと至る一時は実にゆったりとした流れを称えて居た。やはり、大自然に抱かれて過ごすと言うのは心地良い。渡月橋の絵を何枚も描けた絵描き小僧も満足そうに見えた。もっとも、渡月橋を描く姿を目にした時は、うっかり渡月橋が二つになったりしないだろうか? と真面目にドキドキさせられたが、流石の絵描き小僧もそこまでの無茶は慎んでくれた様子だ。もっとも、できないかと問われれば、それは否となるハズだ。絵描き小僧の力を以ってすれば、渡月橋を好きなだけ複製する事も朝飯前だろう。もっとも、そんな事をされては冗談抜きで笑えなくなる。先刻の南禅寺での騒動どころの騒ぎでは済まなくなる。

 中之島公園を後にしたオレ達は再び渡月橋を渡り切り、嵐山の街並みへと戻って来た。賑わいを見せる大通りに沿って北上を続ける。最も賑わいを見せる嵐山駅前から天龍寺前を抜ける。天龍寺を後にしばし歩み続ける。そこから小路へと入れば、静けさに包まれた光景が広がる。視界の先には竹林が広がっていて、道を覆う様に枝を伸ばして居る。時折、風が吹き抜ける度に竹の葉が涼やかな音色を奏でてくれるのが実に心地良く感じられた。何度訪れても良い場所だ。何度と無く皆とも歩んだ場所だが、今日は絵描き小僧と共に歩んで居る。誰と共に歩むかで目に映る景色はがらりと変わって見える。目にして居る景色は生きて居るのだと改めて実感させられる。不思議な気持ちで一杯だ。

「少し前にも此処、訪れてな」

 絵描き小僧はそっと足を止めると、静かに顔を挙げて見せた。周囲に広がる竹林の光景を体全体で感じて居る様に思える振る舞いだった。オレも絵描き小僧の真似をして足を止める。そっと顔を挙げて見せれば、心地良い木々の香りが鼻を突く。生い茂る竹林の瑞々しい青臭さが心地良い。しばし、二人並んで一時を過ごして居ると、オレ達の背後を人力車が通り過ぎて行った。興味津々に覗き込む絵描き小僧が可笑しくて、オレは絵描き小僧の肩を叩いて見せた。

「もしかして、乗りてぇのか?」

 意地悪く笑い掛けて見せれば絵描き小僧は慌てて首を横に振った。そもそも絵的に問題有り過ぎだろう。ただでさえ図体のでかいのが二人、人力車に運ばれる構図と言うのも中々に凶悪な絵だ。すれ違った人達が間違いなく二度見するに違いない。生憎、オレは自ら好んで見世物になる様な物好きではない。そんな事を考えながら失笑して居ると、例によって絵描き小僧の姿が見当たらない。相変わらず無駄に行動力のある奴だ。一体、何処に行ったのだろうか? 周囲を見回してみれば、野宮神社の境内に見覚えのある着物の柄が目に留まった。まったく……何も好んでそんな狭い場所に足を運ばなくても良い物を。そう思いながらも放置する訳にもいかず、オレは立ち並ぶ女達を押し退けながら絵描き小僧の下へと向かった。

◆◆◆100◆◆◆

 絵描き小僧の振る舞いは確実に変わりつつあった。最初に出会った頃は自らの存在を決して表に出そうとせずに、精々オレと共に社家の町並みを夜に歩む程度だった。それが今では日の当たる時間に道行く人々も大勢ある嵐山の街並みを歩む事に成ろうとは予想もしなかった。何よりも、あれだけ人前に姿を見せる事を嫌がっていたにも関わらず、今は当然の様に道行く人々に姿を見せ付けて居る。一体、どうした心変わりなのだろうか? 木の枝を手にして楽し気に歩む絵描き小僧の姿に思わず笑みが毀れる。

 野宮神社を超えればすぐに踏切と出会う。丁度、列車が走り去り遮断機が開こうとして居る所だった。踏切を過ぎれば小粋な竹細工の土産物屋が目に留まる。不意に足を止めると興味深そうに店内を覗き込む絵描き小僧の、余りにも判り易過ぎる振る舞いに笑わずには居られなかった。

「ほんと、お前は単純明快っつーか、判り易い奴だよな」

 笑いながら小突いて見せれば、絵描き小僧は照れ臭そうに頭を掻いて見せた。しかしながら、オレの中で興味惹かれていたのは事実だった。過去にロック達と何度となく通った場所ではあったが、土産物屋に立ち寄ると言うのも妙な気がしたので興味は惹かれる物の、立ち寄る事はなかった。偶然とは不思議な物で、こんなタイミングで足を運ぶ事になろうとは思いも寄らなかった。

「図体でっかいオレ達、兄弟が入れるのか?」

 思わず互いに顔を見合わせて苦笑いが浮かんでしまう。取り敢えず絵描き小僧を先に入らせる事にした。しかし、物作りと言う根っこの部分では繋がって居るのだろうか。竹細工に興味を惹かれる絵描き小僧の気持ちは良く理解できる。

 料理を作る上でも彩を添えるために食材で飾りを作る事も珍しくはない。そうした考え方は共通して居る部分なのだと静かに実感させられた。物を作ると言う行為は実に奥が深い物だと感じる事ができて有意義な一時となった。

 竹細工の土産物か。恐らくは、この界隈で採れた竹を使って居るのだろう。嵐山で生まれ育った竹が土産物となって旅の思い出と共に帰路に就く。そう考えると一口に土産物と言っても、奥行きのある世界観に包まれて居るのだなと実感できる。何やら気に入った品でもあったのか、絵描き小僧が小さな竹細工の土産物を持ってきて見せた。

「おお? これが欲しいのか?」

 そう問い掛ければ笑顔で頷き返して見せる。絵描き小僧に小銭を握らせれば、颯爽と店内へと入って行った。まったく、無邪気な物だ。こうして振る舞って居る分には平和なのだが、一度、悪巧みをし始めると予想もできない様な振る舞いを見せてくれる。もう少し平和的に振る舞って欲しいと切に願うが、そんなオレの気持ちなど知る由もない……いや、むしろ、知って居るからこその悪戯なのだろうと考えると、何とも言えない気持ちにさせられる。

「ま、オレが食い止めなくて誰が食い止めるんだって話だよな」

 一人腕組みしながら頷いて居ると、唐突に肩を叩かれた。

「うぉっ!?」

 不意を突かれたオレは大袈裟に驚かされた。絵描き小僧からしてみれば、普通に声を掛けただけなのに、こんなにも派手に驚かれたのでは、それは、それは面白いに違いない。

(なるほど……オレの振る舞いが原因だったのか。気を付けねば)

 竹細工の土産物を後にしたオレ達はそのまま道なりに歩んでいた。そう言えば、この界隈は昔、ロックとも良く歩んだ場所だと懐かしくなる。時の流れとは不思議な物で、同じ場所を歩んでも違った景色を目の当たりにする事ができる。ロックと共に目にした景色と、絵描き小僧と共に目にして居る景色は、同じ景色のハズなのに違って見えるから不思議だ。

 ふと、空を見上げれば何時しか日は傾き、夕暮れ時の装いへと移り変わろうとしていた。不意にカラスの鳴き声が響き渡る。夕暮れ時の空にカラスの鳴き声とは、少々出来過ぎた感も否めないが、それでも実に良い雰囲気だ。丁度、絵描き小僧の目の前は一匹のトンボが静かに横切って行った。その光景を目にしたオレの中で、ふとした情景が脳裏を過る。

(そういえば、大樹もトンボが好きだって言っていたっけな)

 嵐山の街を駆け回ったロックと大樹の物語を、オレは何時も心の何処かで羨ましく思っていたのは事実だ。オレにも弟が居たならば……そう考えては、叶わぬ願いだと寂しい溜め息を就く事しかできなかった。それが今、こうして絵描き小僧と共に嵐山の街並みを歩んで居る。夕暮れ時の嵐山。何度も思い描いた光景が今、こうして現実の物となって居る事が素直に嬉しく思える。相変わらず絵描き小僧は興味惹かれる物が視界に入ると、それしか見えなくなるらしい。トンボの後を追い回す姿に静かな笑みが毀れる。</