第1話『時の鐘の鳴る街で』

◆◆◆1◆◆◆

 窓の外には広大な草原が広がっている。此処は高原。山脈の裾野に広がる高原は、見渡す限りに広がりを見せ、どこまで続いているのか判らないほどに果てしなかった。

 吹き抜ける風は肌寒さを感じさせたが、透き通っていた。

 木枯らしが吹き抜ければ、草原の草達もふわりと揺れ動く。

 ほうきが床を走る音が響き渡る。

 少女と呼んでもおかしくない女性は静かに歌いながら、古びた教会を掃除していた。荒れ果てた教会は、所々の床が抜け落ちみすぼらしい外観をはなっていたが、どこか懐かしく、暖かな香りが漂っていた。

「今日は本当に良いお天気ね」

 空を仰ぎながら、しばし手を休める。彼女の名はフリージア。淡い亜麻色の長い髪を後ろで束ねて、大きなリボンで結い上げた姿が印象的であった。

 何時の頃からそこに在ったのか、その由来さえも判らない程に古びた教会。

 フリージアは、花を愛する心優しい女性。風が吹き抜ければ、フリージアの髪も舞い上がった。

「あら?」

 不意にフリージアが腰を落とす。

 朽ち果てて底の抜けた床。その穴の中で健気に咲き誇る花。控え目ながらも、愛らしい花を咲かせていた。暖かな山吹色の花は、フリージアのリボンと同じ色合いであった。

「このお花も随分と大きくなったわね」

 身寄りのない子供達を、心優しいシスターが面倒をみていた教会だったというのが由来と聞かされていた。此処は孤児院の様な場所だった。笑いの絶えない、暖かな場所として、多くの人々に愛された場所であった。

 だが、そんなある日に惨劇が襲う。

 それは火の不始末が原因だった。瞬く間に教会は燃え盛る炎に包み込まれた。子供達もシスターも、皆、焼け死んでしまった。

 フリージアは焼け跡の教会を見て、酷く心を痛めた。

 せめて……天国の子供達に喜んで貰いたい。そんな願いを抱いたフリージアは、何時の頃からか、この教会を訪れては花を植えるようになった。

 造りのしっかりとした教会であったことが幸いだったのであろう。幸いにも、建物の損傷は少なかったため、焼け落ちてしまった床の跡に花を植えた。

「今年は寒いから、きれいな花が咲くわね」

 ようやく掃除も一段落着いた。

 フリージアはそっと立ち上がると、籠一杯の花を腕に下げながら軽快に歩き出した。後には花々の、淡く、甘い香りだけが残された。

「さぁ。今日も一日頑張りましょう」

 フリージアは上機嫌に鼻歌を歌いながら、街へと向かった。

◆◆◆2◆◆◆

「おーい。ジャックっ!」

 屋根の下から聞こえてくるドラ声に、ジャックと呼ばれた青年は焦りを隠せない。

 ピンと立った耳に、柔らかな茶色の毛並みも美しい犬の青年。

 大将はとにかく口やかましい。呼ばれたらすぐ返事。これは基本だった。

「ジャック、聞こえないのかっ!?」

「生憎、今は手が放せない状況でして……」

 慣れている屋根の修理とはいえ、あちこち壊れているおかげで迂闊に移動も出来ない。慎重に足場を選ばないと、修理するどころか、さらに損傷を酷くしてしまいかねない。

 そんな、真剣勝負真っ最中のジャックの声が聞こえていないのか、大将はさらに声を荒げる。

「おいっ! ジャックっ!」

「大将。この屋根は状態が悪過ぎます。修復するのは到底不可能です」

 屋根の上から聞こえてくる情けない声に、思わず大将の表情が歪む。

 やや小太りながらも実に見事な体格の巨漢のクマ。大将は苦笑いしながら頭を掻いてみせる。

 やれやれ……予想以上に事態は深刻であったということか。

「おいっ、ジャック。聞こえるか? 不可能を可能にする。それがオレ達だろう?」

「無茶苦茶なことを言っているよ……」

 屋根の下から聞こえてくる、大将の豪快な笑い声を聞きながら、ジャックは鼻の頭を掻いてみせた。

 しかし、シエナ婆さんも無茶な頼みをしてくれるものだ。

 いくら雨漏りがひどいと言われても、これは一流の大工でも容易く修復できる様な代物では無い。時の流れから逃れることなど出来る訳が無い。老朽化は不可避の事象なのだから。

 ジャックは修理屋を営む青年であった。

 大工ほど大規模な仕事は出来ないが、何かと細かな仕事をしているのだ。もっとも「修理屋」とは名ばかりで、実際の仕事内容は「便利屋」と呼ぶに相応しい内容なのであった。

「あっ。やばっ……」

 ホッと一息ついた瞬間、油断が生じたのか? ジャックの手元から工具が落ちた。

 あろう事かそのまま工具は屋根をすべり落ちると……。

「ふぎゃっ!……おいっ、ジャック! オレを殺す気か!?」

「す、すいませんっ!」

 ほーら、言わんこっちゃない。大体、こんな仕事、最初から無理だったのさ。大体、大将もいくら仕事不足だからと言っても、もう少し仕事は選ぶべきだ。

 ジャックは腕組みしながら、ぶつぶつ文句を呟いていた。

 不意にジャックの視界に一人の女性が入ってきた。

 淡い亜麻色の髪の女性であった。大きな黄色のリボンが印象的に思えた。

 思わずジャックは彼女に見入ってしまった。

「あら。いい香りね」

 フリージアは丁度、焼き立てパンが自慢の、ヨーゼフおじさんのパン工房のわきを通り掛かるところであった。フリージアの声に気付いたのか、パン屋の女将が笑い掛ける。

 恰幅の良いネズミの女将は、外見そのままにパワフルな性分の身であった。

「良い所に来たわね。ちょうどね、今パンを焼いている所なのよ。良かったら、もうちょっと経ったらいらっしゃい? この前の可愛いお花のお礼に、パンと、ついでにお茶もゴチソウしちゃうわよ? 寄ってお行きよ」

「それは楽しみね。後で立ち寄らせて貰うわね」

 フリージアは嬉しくなったのか、可笑しそうに笑って見せた。

 女将さんに挨拶を済ませると、再び軽快な足取りで歩き出した。

「それにしても、今日は本当に良いお天気だね」

 自分に向けられている、ジャックの視線には気付かないのだろうか? 相変わらず、陽気に鼻歌を歌いながら街を歩む。

「うわっ!」

 ジャックは、すっかりフリージアの愛らしい笑顔に見とれていた。

 そのおかげで、あるはずもない足場に足を掛けようとして、屋根から足を踏み外した。そのまま勢い良く屋根を転げ落ちてしまった。

「お、おい!? ジャックっ!」

 まるですべり台を転げ落ちるように、ジャックは屋根をすべり落ちる。

 危なく頭から地面に転落するところであったが、丁度通り掛かった馬車に救われた。たっぷりの牧草を積み込んだ馬車に、頭から勢い良く飛び込んだ。

「ぷはっ! ああ。びっくりした……」

 馬車を引っ張っていたロゼフ爺さんも、突然の出来事に驚きを隠し切れない。

「おいおい。ジャック。挨拶するのは結構だが、次は、もうちょっと穏やかに願いたいものだなぁ」

 キセルを吹かしながら、ロゼフ爺さんは可笑しそうに笑って見せた。

「ロゼフ爺さん、助かったよ。もうちょっとで石畳の上で、潰れたトマトみたいになるところだったよ」

 干し草の中から、ひょいと顔を出すとジャックは声を挙げて笑って見せた。

「いやぁ、大将。スリル満点でしたよ」

「大丈夫か? ケガはないか?」

「ええ、おかげさまで。こう見えても、結構頑丈に出来ているんで」

 そんな二人のやりとりを見ながら、丁度通り掛かったフリージアが笑う。

「びっくりしたわ。いきなり屋根の上から人が降ってくるんですもの」

 体中干し草だらけのジャックの間抜けな姿を見て、フリージアは再び、可笑しそうに笑って見せるのであった。

「おい、ジャック。言い辛いことだが、お前……酷い顔だぞ?」

「へ? ほ、本当ですかっ!?」

 大将に突っ込まれ思わず飛び上がるジャック。

 それもそのはずである。何しろ、髪から、服から、何もかもが牧草まみれになっていたのだから。

 目の前では、フリージアがなおもクスクス笑っている。

 照れくさくなったジャックはさっさと走り去っていってしまった。

「ああ、ジャック。どこ行くんだよ! ちょっと待てよっ!」

 元気良く走り去ってゆくジャック。そのジャックを慌てて追い掛ける図体のでかい大将。走り去っていくジャック達を見つめるフリージアは、彼らが見えなくなってしまうとまたしても、クスクス笑い出すのであった。

「まったく、そそっかしいんだから……」

 何時の間にか、フリージアの隣に佇むのはパン工房の女将さん。

「あの方は?」

「ああ、あの子かい? ジャックって言うんだよ。あの図体でっかいのと一緒に修理屋の仕事をしているのさ。まったく、良い年だってのにあのそそっかしさだろう? 嫁の貰い手が見つからない訳だよねぇ。まぁ、音は真面目で良い子なんだけどね」

 女将はまるで自分の息子の話をするように、どこか温かな微笑みを浮かべながら語って見せた。

「おや? 丁度パンが焼けたみたいだね。ささ。良かったら、うちでお茶でも飲んでお行きよ」

「ええ、そうね。それじゃあお言葉に甘えて、ご馳走して貰おうかしら?」

 豪快な女将にフリージアは笑顔で応えてみせた。

 街は丁度お昼時。正午を告げる教会の鐘の音が響き渡る。街は賑わいを見せ始める。

◆◆◆3◆◆◆

 ジャックは大将と共に昼食時を過ごしていた。

 柔らかなパンで作られたハムのサンドイッチは、先程のパン工房の女将さんお手製のお弁当。ジャックのことを、自分の息子の様に思っている女将からのささやかなプレゼントであった。

「ジャック。何、考え事しているんだ?」

 大将がにやにや笑いながらジャックの目を覗き込む。

「な、なんでも無いですよ」

「ほう? 何でも無いねぇ……でもよ、顔に書いてあるぜ? さっきの女の子の事が気になっていますってな?」

「なっ! なんのことですか!?」

 ジャックは思わず声が裏返ってしまった。その、あまりにも率直過ぎる反応を楽しむ様に大将はゲラゲラ笑いだした。大将の豪快な笑い声に、ジャックは憮然とした表情を見せる。

「いや、笑って悪かった。あの子は街でも有名な美人でな」

 ハーブティーで喉を潤しながら、大将が向き直る。

「そういえばお前、まだ逢ったこと無かったのか?」

「……ええ、さっきはじめてお逢いしました」

「そうか。不思議なものだな。同じ街にいるのにな」

 感慨深そうに頷きながら大将は残りのハーブティーを飲み干した。

 食事を終えたジャックは、愛用のバイオリンの手入れをはじめた。

 指先の器用なジャックは、街の青年達を集めて、何時の間にか楽団を仕立て上げてしまったのだ。

 それからは、どこに出掛けるにも愛用のバイオリンを持ち歩くようになった。

 街で仲間達と出逢えば、そこがコンサート会場になる。

 いつでも、どこでも演奏できるように、ジャックは常にバイオリンを持ち歩いている。

「おっ。バイオリンのお手入れかい? 相変わらず余念がないねぇ。お前さん、修理屋の仕事より弾き語りでもしている方が売れそうだしな」

 苦笑いする大将を見ながら、ジャックは含みを浮かべた笑みで応える。

「そうかも知れないですね」

「お、おいおい。頼むぜ? オレを一人にしないでくれよ?」

 ジャックは大将と顔を見合わせると、声を挙げて笑った。

 石畳で出来た街の道路はどこか暖かな感じがした。石と石の間に生えたわずかのコケが年月を感じさせる。昼時は吹き抜ける風も暖かい。

 お昼を告げる鐘が何処からともなく聞こえてくれば、手を休める人々で街は新たなにぎわいを見せる。青い空を見つめながら、ジャックは午後の一時を過ごすのであった。

◆◆◆4◆◆◆

 フリージアはたっぷりの花の入った籠を手にしながら、お昼時の街を歩いていた。

 色とりどりの花々の淡い香りに誘われて、街の人々が手を休めて花に見入る。

 花を愛する街の人々は、豪華な食卓を演出しようと花を購入してくれる。だからこそ、フリージアは愛想良く笑顔を振りまきながら街を歩んでいた。

「あら?」

 石で出来た塀にもたれ掛かりながら、午後の一時を過ごすジャックの姿が目に入った。

「まぁ? またお逢いしちゃったわね」

「あ。君はさっきの?」

 先程の間抜けな姿を思いだし、ジャックは思わず帽子を目深に被って見せた。

 クスクス笑いながらフリージアは花を一本、差し出してみせた。花の淡い香りにジャックが微笑む。

「良い香りの花だね。ぼくにくれるの?」

「ええ。良かったら貰ってあげて」

「ありがとう。お代と言っちゃなんだけど、ぼくのバイオリン、聞いて貰えるかな? 手持ち、持っていなくてね」

 ジャックは、わざとバツの悪そうな笑みを浮かべてみせる。

 自慢のバイオリンをフリージアに見せると、そっと立ち上がって見せた。

「ジャック、ちょっと待ちな」

 苦々しい表情の大将に睨まれ、ジャックは思わず硬直した。

 大将は苦々しい表情を浮かべたまま歩み寄ってくると、ジャックの手の中に何かを握らせた。

「え? た、大将……これは?」

「なーに。お前さんの懐が寒いのはオレが一番良く知っている。折角のデートだからな。あまりみじめな想いはさせられないだろう?」

 豪快な笑い声を響かせる大将に、肩をバンバン叩かれ、ジャックは思わず真っ赤になる。

 だが、ジャックは心の中でそっと大将にお礼を言うのであった。大将。お心遣い、感謝します。

◆◆◆5◆◆◆

 ジャックとフリージアは街の中心部、噴水の眼前に店を構える少々洒落たカフェに訪れていた。

「この店は、ぼくのお気に入りの店でね。ほら? あそこの噴水の前で仲間と演奏するんだ」

「まぁ。素敵だわ。でも、いいの? 私なんかのために?」

「おや? ジャック君。来ていたのかい?」

 お店の奥からひょっこり顔を出したのは、カフェのご主人ティルル。シカのティルルは自慢の角が軒先の看板にぶつからないように身をかがめて見せた。

「おじさん、ちょっと噴水の前で演奏してもいいかな?」

「構わないが、今日はバロンもロブも来ていないぞ?」

 愛想良く笑いながらも、フリージアが気になるティルル。にっこり笑いながらフリージアにご自慢のカフェをごちそうしてみせる。

「お嬢さんはかわいいから、おじさんの奢りだよ。ミルクとお砂糖をたっぷりいれてお飲みよ。ささ、冷めないウチにどうぞ。ジャック君もどうぞ」

「サンキュー、おじさん」

「まぁ、ありがとう。お礼に、お花、いかがですか?」

 ジャックは思わず目を丸くした。フリージアは中々に抜け目が無いなと、感心しながら。

 フリージアは手籠から淡い香りのする小さな花束を差し出した。

 教会でのお掃除ついでに見つけてきた野草。ハーブの仲間に属する植物だけに清涼感ただよう涼しい香りがする。ティルルおじさんは、その香りにうっとり酔いしれる。

「ほう? ミントみたいな良い香りだね」

 嬉しそうに微笑むおじさんに、フリージアも笑顔で応える。お気に入りの花を喜んで貰えたことが嬉しかったのだろう。

「このお花は、この辺りの野山に一杯咲いているのよ?」

「なるほどね。折角だから、お店に飾らせて頂くよ。花売りのフリージアご推薦ということでね?」

 嬉しそうにウィンクしてみせるティルルおじさんに、ジャックが苦笑いする。

「フリージアはそこに腰掛けて。今日のお客さんは君だからね」

 周囲のお客達もまた、ジャックのバイオリンに気付いたのであろう。嬉しそうに拍手をしてみせる。

 ジャックは手馴れたもので、わざわざ仰々しく手を振って応えて見せた。

 準備が整ったところで、ジャックは静かに噴水のわきに腰掛けた。

 静かに呼吸を整えると、愛用のバイオリンを静かに弾き始めた。

 穏やかな街に響きわたるジャックのバイオリンの澄んだ音色。まるで唄うように、踊るように、どこか懐かしい旋律が街を包み込んだ。

 仕事に勤しむ母も、はしゃぎまわる子供達も、忙しく走り回る馬車の御者も、ふと足を止めてジャックの素晴らしい音色に時を忘れた。

 ジャックのバイオリンにつられて愛らしい小鳥達も噴水に飛んできた。

 バイオリンの音色に重なる様な小鳥達のコーラス。

 その暖かな音色にフリージアはすっかり聞き惚れてしまった。

 ジャックが静かにバイオリンを降ろすと、広場の周囲には盛大な拍手が巻き起こった。

 フリージアは思わず驚いてしまった。慌てて周囲を見回せば、知らない間に広場の周囲は人だかりが出来ていた。

 石段に腰掛ける人もいれば、お店の上を走る石の道から身を乗り出す人もいた。

「すごいわ。ジャック!」

「気に入って貰えて光栄だよ。気分が良いから今日はもう一曲披露しよう。ぼくの得意の曲さ」

 ジャックは再びバイオリンを構えると、今度は陽気にステップを踏みながら噴水の周りを踊りながら弾き始めた。

 その軽快なリズムは、思わず踊り出したくなってしまうような陽気なメロディー。

 広場からはジャックのバイオリンに併せるかの様な手拍子が聞こえてきた。

 フリージアもまた、陽気な空気に酔ったのか? お隣のお嬢さんのスカーフをちょいと拝借すると、籠の中から一本の花を取り出して口にくわえてみせた。

「ちょっとお借りするわね?」

「あら、ダンスでも? まぁ。素敵ねぇ」

「ええ。素敵な曲なんですもの」

 ひらひらと優雅に舞うスカーフに、黄色の美しい花。ジャックのバイオリンに併せて、フリージアは楽しそうに踊って見せた。

 いきなり登場した素敵なダンサーに、広場はさらなる盛り上がりを見せた。

 こいつぁ絶好のチャンスだとばかりに、ティルルおじさんせっせとカフェを勧め、菓子を振舞った。

 バイオリンを弾きながらも、ジャックがフリージアに語りかける。

「素敵なダンスだね」

「あら? ジャックのバイオリンも素敵よ?」

 二人は嬉しそうに噴水のまわりを駆け回った。

 優雅に、それでいて時に情熱的に踊るフリージア。

 そんな彼女に合わせるかの様に、熱情を込めて引き語るジャックに、皆が見とれていた。

「はいっ!」

 ジャックのバイオリンの終了と同時に、華麗にダンスを終えたフリージアの立ち振る舞いに、広場は割れるような拍手喝采で埋まった。

 あちこちから飛んでくるコインを、ジャックは何度も、何度もおじぎをしながら受け取った。

◆◆◆6◆◆◆

「いやぁ、ジャック。やるじゃないか?」

「ああ。バロン。それにロブも居たのか」

 ジャックの親友コンビがにこにこ笑いながら歩み寄ってきた。

 グレーの毛並み、すらっと長身の猫のロブに、鮮やかな樫の木色の毛並みの狼バロン。フリージアを見て思わず微笑む。

「お嬢さんのダンスも、最高だったよ」

「ジャック。お前にもやっと春が来たんだな」

 にやにや笑うバロンに思わずジャックとフリージアは顔を見合わせて真っ赤になってしまう。

「そ、そんな、ぼくは彼女にお花を貰ったお礼に……」

「まぁ、照れるな。照れるな。色男」

 ゲラゲラ笑う親友コンビに、ジャックは照れて、焦るばかりであった。

 そんなジャックを後目に、フリージアは可笑しそうに笑いながらも、握手を求めてみせた。

「あたし、そろそろ帰らなくちゃいけないの。本当に素敵なバイオリン、ありがとうね」

「気に入って貰えて、ぼくも光栄だよ」

「ねぇ、ジャック。良かったら……今度はあたしにも、バイオリン、教えてくれる?」

 ジャックは一瞬照れて困った表情をしながら、にやにや笑う親友達をちらりと眺めた。

 さてさて、ジャックはどんな応対を見せるのだろう? 親友達は腕組みしながら笑っている。そんな親友達の振る舞いにも怯むことなく、ジャックは胸を張ってフリージアに向き直って見せた。

「ぼくなんかで良ければ」

「楽しみだわ」

「ちなみに、このバイオリンはぼくの手製でね。良かったらフリージアにも作ってあげるよ。ちゃんとフリージアの手に合うようにね」

「お。ジャック、中々言うじゃないか?」

「妬けちゃうねぇ。バロン。この色男をどうしてくれようか?」

 またしても親友にからかわれて真っ赤になるジャック。

 フリージアは、ジャックに何度もお辞儀をしながら広場を後にした。

 街は何時しか夕焼け空。情熱的な街は、燃え上がるような真っ赤な色合いに包まれていた。

 スタスタ走っていくフリージアも、その夕陽に照らされて真っ赤に燃えるように見えた。

 亜麻色の髪は、夕陽に照らされて、まるで紅葉した木々の様な色合いを放っていた。

 ジャックは、そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、なにか不思議な感覚を抱いていた。

「……さて、ジャック。飲みに行かないか?」

「丁度、夕飯時も近づいてきたからな。まぁ、酒でも飲んで、さっきのお嬢さんの事でもあれこれと白状してもらおうかな? なぁ、ロブ?」

 バロンがにやにや笑えば、ロブもそれも面白いなとばかりに、ジャックにちらっと視線を送ってみせる。

「さて、行こうぜ。親友」

「だから、彼女とはそういう関係じゃ無いんだってば」

「まぁまぁ。じっくり話は聞かせて貰うよ」

 賑やかだった広場は、人気が去って急に空虚な感じに包まれてしまった。

 たんまり儲かってしまったティルルおじさんは後かたづけに大忙し。街は今日も陽気だった。

◆◆◆7◆◆◆

 山の天気は変わりやすい。特に冬の天気は目まぐるしい変化を見せる。

 ジャックは街の北外れの山を歩いていた。

 数日前の大雪は未だに溶け残っていた。ふもとではすっかり雪は見られなくなってしまったが、山の気温はふもとの気温と比べると遥かに低い。

「ううっ。今日は寒いな」

 かじかむ手をこすり合わせるジャックの首に、そっと誰かが暖かなマフラーを掛けてくれた。

 手をこすりながら「ありがとう」と振り返ろうとした瞬間、ジャックは思わず飛び上がってしまった。

「ふ、フリージアっ!? どうして、ここにっ!?」

「奇遇ね。あたしも、ちょうど山にお花を見に来たのよ。この時期は、とても寒いでしょう? 冬ならではの可憐なお花もこの寒さの中でね、凍えながらもきれいな花を咲かせているのよ。そういうジャックは何をしていたの? 今日もお仕事なのかしら?」

 クスクスとおかしそうに笑いながらフリージアは雪深い山道を、慣れない足取りで歩き出した。

 どこか辿々しい足取りは山歩きに慣れていない事の証明。

 ジャックは、そんな事を考えながらも照れくさそうに微笑んでみせるのであった。

 不意に、突風が吹き付けた。

「きゃあっ!」

 風に煽られた瞬間、突然木に積もった雪が降り注いだ。

 巨大なモミの木から降り注ぐ雪は、小規模な雪崩の様な量であった。

「フリージア! 大丈夫!?」

 ジャックは思わず叫んでしまった。

 雪まみれになったフリージアが、小さくくしゃみをした。その瞬間、ジャックは、フリージアは不思議な光景を目にした。

◆◆◆8◆◆◆

「トーマスっ! トーマスっ!」

 どこの景色であろうか? 見覚えの無い景色であった。

 降り続ける雨は果てしなく叩き付けていた。

 恐ろしい唸りを轟かせる川は氾濫し、土と石を伴っての凄まじい濁流になっていた。

 氾濫した濁流に流される青年を、為す術もなく岸で見つめる女性は、何度も何度も青年の名を呼んだ。声も枯れよとばかりに、悲痛な叫びを響かせた。

 だが、青年はどんどん流されていく。

 声にならない叫びをあげる女性の頬を、ただ大粒の涙が後から後から伝うばかりであった……。

◆◆◆9◆◆◆

「フリージア、大丈夫かっ!?」

「ええ、大丈夫。ちょっと驚いただけよ」

 ジャックに力強く抱き締められていることに気付き、フリージアは思わず戸惑う。慌ててジャックは飛び退いてみせた。

「あたし、今不思議な光景を目にしたの……」

「え?」

 フリージアは空を見つめたまま、ポツリと一言洩らした。

 ジャックは驚きを隠せなかった。今、自分も不思議な光景を見た。

 もしかして……彼女も今、自分が見たのと同じ情景を目にしていたのだろうか? だとしたら、そんな事ってあるのだろうか?

 フリージアは、ジャックの目をじっと見つめたまま、静かに口を開いて見せた。

「氾濫した川の流れに、流されていたの。その人……」

「その人は、ぼくそっくりだった。そう言いたいのだろう?」

「え?」

「ぼくも同じ情景を目にしていたんだよ」

 ジャックの言葉に、フリージアは自分の耳を疑った。

 何がなんだか判らないと言った表情で困惑していた。

「どういう事? あたしが今見た不思議な景色をジャック、あなたも見たというの?」

「そうだと思う。でも、なんでだろう? ぼくと、フリージア……君は、つい昨日出逢ったばかりだろう? もしかして、どこかで一度逢ったことがあるのかな? でも、ぼくは川に流された記憶なんてないしなぁ」

「決定的な違いは、川に流されていた人は、ジャックという名前じゃなかったわ。トーマスって呼んでいたわ。そう、あたしそっくりの女の人がね……」

 不思議な光景を目にした二人は、思わず目を見合わせて考え込んでしまうのであった。

 昼間に見る夢……白昼夢と言う奴かな? それにしてはおかしな気もする……。

 頭を抱えて考え込むジャックを見つめるフリージアが思わず吹き出した。思わず、ジャックは憮然とした表情で顔をあげた。

「何がおかしいんだよ?」

「ごめんなさい。ジャックったら、とても真剣な顔して考え込んでいたじゃない? なんか面白くて思わず吹き出しちゃった。ごめんなさい。あ。そうだ。お弁当にしない? お弁当作ってきたのよ」

 クスクス笑うフリージアの笑顔にジャックの心の中のもやもやは、あっと言う間に消え去ってしまった。

 あの光景は一体何だったんだろう? 二人は不思議な想いを胸に抱きながらも、フリージアが作ってきたお弁当で一時を過ごすことにした。

◆◆◆10◆◆◆

 北の山は、標高はさほど高くはない。それでも気温は低く、吹き付ける風は身を切り裂く程に冷たかった。風が吹き付ける度に二人は悲鳴をあげるのであった。

「寒いわね」

「いや、こんなに寒いとは思わなかった。それにしても、マフラーにしても、お弁当にしてもやけに用意が良いね。もしかして……大将でしょ?」

 苦笑いしながら問い掛けるジャックを余所に、フリージアは聞こえないフリをしながらせっせとお弁当の用意をしている。

 そう来るならば、こっちにも考えがあるさ……。

 ジャックはクスクス笑いながら、いきなりフリージアに抱きついて見せた。

「きゃっ!」

「誰に聞いたんだよー、言わないとくすぐるぞっ!」

「きゃっ! ジャック、やめてよ。お茶がこぼれちゃうわ。もう。」

 まるで言うことを聞かない子供を諭す母親の様に、腰に手を当ててジャックを叱りつけるフリージア。

 これは少々やり過ぎだったかな? 困った様な表情のジャックを見ながらフリージアはクスクス笑い出してみせた。

 ジャックに煎れたてのティーを渡しながら、小さなコインを見せた。

「あ! それはっ!」

「ロブさんとバロンさんに聞いたのよ? このコインをジャックに見せてご覧、きっと、びっくりするから。そう言われて借りてきたの」

「そのコインは、ぼくら三人が友情の記念の品でね。いつかのお祭りで、三人一緒に買ったコインなんだよ」

 あいつらの仕業か。妙に的確だと思ったけれど、なるほどね。ジャックも思わず笑い出す。

 ふと、街を見下ろせば、広い街も小さく見えてしまう。随分と登ってきたものだ。

 その景色はどこまでも続いている山々に彩られ、なんとも美しい景色であった。

 冬の空はどこまでも澄み渡り、青空は果てしなく続いているかの様に思えた。

「きれいな空ね。高いところから見ると、あれだけ広い街も随分と小さく見えてしまうのね。でも、とっても素敵」

「だろう? この景色、ぼくも好きなんだ。ほら、あの白い噴水……あそこで昨日、演奏したんだよ」

 ジャックは、さも自慢気にフリージアに説明してみせた。どこか子供っぽいジャックの姿に、フリージアは温かな笑みを浮かべた。

◆◆◆11◆◆◆

 二人は時の経つのも忘れて、美しい景色にすっかり夢中になっていた。

「ずいぶんと長居しちゃったわね。ごめんなさいね。お仕事の邪魔してしまって」

 フリージアは立ち上がると、慌ただしく食事の後かたづけを始めた。

 すっかり景色に酔いしれて、口笛なんか吹いてみせるジャックもフリージアに続くように後かたづけの手伝いを始めた。

「ありがとうね。お弁当、おいしかったよ」

「喜んでもらえて良かった。実はね、あたしね、自分で作ったお弁当誰かに食べて貰うのは、初めてだったの。だから、上手に出来ているか不安だったの。でも、ジャックったら、あっと言う間にペロリと食べちゃったんだもの。少なくても、あたしのお弁当が、美味しくないということは無かったみたいね」

 満足そうに微笑むフリージアを見つめながらジャックは、笑いながら首を横に振って見せた。

「とてもおいしかったよ。また……作ってくれる?」

「まぁ? ええ。良いわよ。いつでも作ってあげるね。それじゃあ、ジャックもお仕事がんばってね。あたし、お花を届けなくちゃいけないの。お先に失礼させていただくわね」

「うん。雪道は滑るから気を付けてね」

「ええ。それじゃあ、また」

 フリージアはジャックに手を振りながら颯爽と山を下山しはじめた。

 不意に悲鳴と共に、尻餅をついているフリージアが目に入った。

 あーあ、言っているそばから……にやにや笑うジャックに雪玉を投げつけると、フリージアは笑いながら山を降りていった。

「さぁて。ぼくもクリスマスツリーにふさわしいモミの木を選ばなくっちゃ」

 気合いを入れるとジャックは再び仕事に戻った。

 だが、どうしても腑に落ちなかった。

 さっき見た、あの情景は一体何だったのだろう? 

 余計な詮索は止めよう。仕事を片付けなければならない。もう、クリスマスは間近なのだから。ジャックは自分に言い聞かせると再び仕事に戻った。

◆◆◆12◆◆◆

 夕暮れ時の街は何時になく活気にあふれていた。忙しそうに走り回る荷馬車とすれ違う度に、一生懸命に走る馬達に微笑みながら手を振ってみせるフリージアがいた。

「あら? おいしそうなオレンジね。ジャムでも作ろうかなぁ。そのまま食べてもおいしそうね。うーん、どうしようかなぁ?」

 にこやかに微笑みながら、品定めをするフリージアの姿があった。

 お店のご主人がにこやかに微笑みながらオレンジを差し出して見せた。

 戸惑ったような表情で、フリージアが顔をあげてみせれば、ご主人が可笑しそうに笑ってみせる。

「おいしいオレンジだよ。安くしておくよ?」

「本当? それじゃあ、そのオレンジを頂くわ」

 買い物も済ませたところで、夕食の支度をしなくては。そんな事を考えながら、フリージアは街を歩んだ。

 歩きながら、ふと、古風な骨董品屋が目に入った。そのショーウィンドウに飾られている小綺麗なオルゴールに目線を奪われた。

「まぁ。可愛いオルゴールね」

「おやおや。お嬢さん? このオルゴールが気に入ったのかい?」

 にこにこ笑いながらお婆さんが語り掛けてきた。

 まるで、絵本の世界から出てきた魔女みたいな黒い服に身を包んだ、どこか不思議な感じの老婆。優しい笑顔を浮かべながら、オルゴールのネジをそっと、静かにまわしてみせた。

 すると、オルゴールは静かに音色を奏で始めた。それに伴って小さなオルゴールの箱が開く。一体どういう仕掛けなのだろう? 不思議そうに見つめるフリージアの目には、さらに驚くべき光景が繰り広げられた。

 オルゴールの小箱の中からは、人形達がクルクルまわりながら出てきた。ラッパを構えたおもちゃの兵隊、小粋な子供達に楽しそうに遊ぶ動物達、優雅なクリスマスを描いたその人形達の幻想的な世界は、どこか懐かしく、どこか優しい香りがただよっていた。

「まぁ。何て素敵なオルゴールなのかしら……」

 フリージアは思わず息をするのも忘れてしまった。

「このオルゴールは、この街に住むジャックが作ってくれたんだよ。ほんにあの子は、手先の器用な子でねぇ」

 ジャックがこのオルゴールを作ったの? なるほどね。この曲、昨日あたしに聞かせてくれた曲と同じ曲だったのね。だから、どこか懐かしい感じがしたんだわ。ジャックはまるで魔法使いね。こんな凄いオルゴールを作ってしまうなんて。

「……ちょっと待って」

 思わずフリージアは心の中の声を発してしまった。

 どうして、あたしは昨日ダンスを踊っていたの? あたし、ダンスなんてしたことないし……ましてや、はじめて聞いたはずのジャックの曲でどうして?

 ああ、そんな事って……そんな事ってあるのかしら? フリージアは、慌てて荷物を手にすると駆け出した。

「ああ、お嬢ちゃん。どうしたんだい?」

 驚きを隠せない老婆の叫びは、フリージアの耳には入らなかった。

 なんて事なの……そんな事って……。

◆◆◆13◆◆◆

 夜半過ぎから降り出した雨は、恐ろしいほどの勢いで降り続けた。

「これは凄い雨だなぁ。今日は暖かくて過ごしやすかったけど、この大雨とはねぇ。ちょいと寒くなれば雪。暖かければ雨。どっちにしても大迷惑だね。困ったものだ。てるてる坊主でも作ってみるかな?」

 降り続く大雨を恨めしそうに眺めながらも陽気に振る舞うジャック。

 さっそく紙を用意すると、器用な手付きでてるてる坊主を作り始めた。

 なにしろこの時期に雨に見舞われてしまうと仕事にならない。

 クリスマス用のモミの木の配達をするにしても、雨が降ると山がぬかるんでしまう。当然、危険を伴うから、山に行くことも出来ない。

「あれ? 誰か来たのかな?」

 ドアをノックする音にジャックは敏感に反応すると、慌てて椅子から立ち上がった。

 盛んに蒸気をあげるポットを暖炉から退かすのを忘れずに。

 ちょっと火力が強かったかな? 焦りながら暖炉の薪を崩す。だが、ドアは何度もノックされる。

「はいはい。今行きますよー。うわっ! あちちっ!」

 飛んできた火の粉を慌てて振り払いながら、ジャックは急ぎドアに向かった。

「やあ、ジャック。出来れば、もう少し早く出てくれると助かるよ……」

「やぁ、バロン。どうしたんだい? こんな大雨の日に? ああ、そうだ。クッキー焼いたんだけどさ、食べてみる? おいしいんだよ」

 にこにこ笑いながらキッチンに向かって歩き出そうとするジャックを見ながら、バロンは大きなため息を就いて見せた。

「あのなぁ、ジャック。誰が好んでこんな土砂降りの日に、恋人でもない人の家に来たと思って居るんだよ? 見ろよ、この大雨を」

「さっきから窓の外見ていたよ。うん。クッキーは中々の傑作になったみたいだね」

 焼き立てのクッキーをおいしそうにかじるジャックを見ながら、バロンは再びため息を就いて見せた。

「相変わらずお前はマイペースだな。ああ。そうだそうだ。町外れの測候所から河川の氾濫に気を付けてくれって伝言がまわってきてな。ジャック、お隣のオバサンにも伝えてやってくれないか? オレ、苦手なんだよねぇ。あのオバサン。話好きなのは結構だけど、人の都合も顧みずにベラベラ喋るからなぁ……はは」

 苦笑いしながら雨で濡れた髪を掻き分けるバロンに、ジャックは大きなタオルを差し出した。

 サンキューと目で合図するバロンを見た瞬間、ジャックの脳裏に悲鳴が聞こえた……助けを請う叫び声。その悲痛な叫びにジャックは身が震えた。

「……バロン、今悲鳴が聞こえなかったか?」

「え? ああ、言われて見れば……それらしい声が聞こえた気がしなくもないな」

 ジャックの家はやや高台にあるが、少し坂を下っていくと大きな川が流れている。

 この地域一帯を流れるアノイ川は大地に恵みを与え豊穣を与えてきた豊かな川。だが、一度大雨に見舞われれば、まるで狂犬の様な猛威を見せる。この街は、何度となくアノイ川の水害に見舞われている。

「……助けてっ!」

 聞こえた! 今度ははっきりと!

「すまない、バロン。暖炉で暖まっていてくれ」

「おい、ジャック! どこに行くんだよっ! おいっ!ジャック! 川は危ないぜっ!」

 背後に響きわたる親友の叫び声を背中に浴びながらもジャックは走った。

 今度は確かに聞こえた。誰かが助けを求めている。土砂降りの中をジャックはひたすら走った。

◆◆◆14◆◆◆

 時折凄まじい雷鳴が轟いた。凄まじい大雨と、激しい雷が鳴り響いた。

「あ、あれはっ!?」

 ジャックの視界に入ってきたのは濁流に呑まれようとしている幼い少年と、為す術もなく見守る母の姿であった。

 そう、あの時と全く同じように。

 ジャックは、全てを思い出した。そうさ……あの日、ぼくも川に呑まれてこの命を落とした!

「ああ、あたしの坊やっ!」

「もう少しだけ頑張ってくれよ!」

 ジャックは大きく息を吸い込むと、力一杯川に飛び込んだ。

 川の流れは予想外に凄まじく、ジャックにその恐ろしい牙をむき出しにして襲いかかってくるのであった。

 この子を失えば、あの母親も悲しいだろう。

 勝算なんて無かった。ただ、ジャックはこの少年を助けたいだけだった。助け出すために、危険を冒してまで川に飛び込んだのだ。

 橋は雨によって増水した川に押し流されてしまったのか、その痕跡すら見当たらなかった。

 なにか障害物になるものは無いか? くっ、このままではぼくも溺れてしまう。

「わぁーん、ママぁっ!」

 そんなこと出来ない……。この子を見殺しには出来ない。ああ、あと少し手を伸ばせば届くというのに!

「坊やっ、手を伸ばしてっ!」

「うわぁん! 出来ないよっ! 怖いよー!」

 ジャックは決して泳ぎが達者であったわけじゃない。ましてや、こんな凄まじい濁流の中でなんて、常人ではとても身動きを取ることさえままならないであろう。

「あとちょっと……あとちょっとで届くのにっ!」

 不意にジャックの視界に、崩れ落ちた橋の跡が見えた。

 しめた。こいつに掴まれば……ジャックは、濁流の中で必死に身をよじりながら、橋の跡を掴んだ。

「よしっ!……さぁ、坊やっ!」

「うわぁんっ!」

◆◆◆15◆◆◆

 間一髪、ジャックは無事に少年の手を掴んだ。

 何があっても、この手は決して離さない。ジャックは必死で橋にしがみついたまま、もう片方の手を自らにたぐり寄せるのであった。ずぶぬれになった幼い少年は、恐怖と寒さとで身動きを取るのもやっとと言った所である。

「ああ、坊やっ!」

 突然川に飛び込んだジャックに驚きを隠せないまま、少年の母親は必死に走ったのだ。

 心優しい黒猫の母は、腫れ上がった目をしながらジャックに手を差し伸べるのであった。

「さぁ、掴まってっ!」

「ぼくのことは後で良い! それよりも、この坊やを!」

「ママぁっ!」

 泣きじゃくる坊やを、母はしっかりと抱きしめると、岸にゆっくりと降ろした。

 今度はジャックを助けなくては。母は再び手を伸ばした……。

「うわぁっ!」

 激流に押し流されてきた巨大な岩がジャックに激突した。

 一瞬、目の前が真っ暗になったジャックは、再び川に押し流されてしまった。

 少なくても坊やを助けることはできた……。満足そうな笑みを浮かべながら、ジャックはそっと目を閉じた……。

 川の流れに身を任せたまま、ジャックは流木の様にただただ流されるのであった。

 不意に、激しい衝撃がジャックの体に走った。何かに激突したのか、鋭い痛みがジャックの意識をはっきりさせたのだ。

「くっ!」

 気が付いた時には、ジャックの服の端が、倒れた倒木の枝に引っかかっていた。

 これはしめたと、ジャックは必死で木の枝を掴むと、陸地へと這い上がった。

 危なかった……もう少しで、本当に死んでしまう所だった。ホッと胸をなで下ろしながらジャックは、這うようにしながら岸へと辿り着いたのだ。

「……ここは、どこだろうか?」

 覚束ない足取りではあったが、ジャックは視界に飛び込んできたみすぼらしい建物を目指した。

 理由は判らなかったが、何故かそこに行かなくてはいけないような気がした。

 雨があがるまで、しばし休ませてもらおう。

 派手に体力を消耗してしまった今、体力が回復するまでは迂闊な行動に出ない方が賢明だ。

 ジャックは、ふらつく足で古びた建物を目指した。

◆◆◆16◆◆◆

 みすぼらしい建物は、良く見れば教会の様にも見えた。

 何とか立てるようになったジャックは、そのまま教会の中に入った。

 どうしたことか、教会の中からは人の気配が感じられた。

「……誰かそこにいるのか?」

「ジャック? その声は、ジャック?」

「フリージア? どうしてここに?」

「ジャック! どうしての、ずぶぬれじゃないっ!?」

 大雨の最中、突然現れたジャックにフリージアは驚きを隠せなかった。

 一方のジャックにしてみれば、なぜこんな場所にフリージアがいるのか? その理由が判らなかった。

「フリージア、どうしてここに?」

「この教会はずっと昔に火事に遭って、子供達がみんな焼け死んでしまった場所なの。ほら。あそこを見て? 床が抜けてしまっている所よ」

 フリージアが指さす先をジャックは目を懲らして覗き込んだ。

 床が抜けてしまって空洞になってしまった部分に、愛らしい黄色い花がたくさん咲き誇っているのであった。それは淡い香りのスイセンの花であった。

「……亡くなった子供達の為に、あたし、お花を育ててあげているの。ここは孤児院みたいな所でね。身寄りのない子供達を心優しいシスターが引き取ってきて面倒をみていたんですって」

「でも、なんで君がここに?」

 まだ納得の行かないジャックは、怪訝そうな顔をしながらフリージアを見つめた。はにかんだ様な笑顔を浮かべてみせるフリージア。

「この大雨でしょう? お花達が大丈夫か心配になってね。流されたりしていないかしら? 風で倒れちゃったりしていないかしら? 心配でね」

「君は優しいんだね。ついでに、フリージアは本当に花が好きなんだね」

 クスクス笑いながらも、ジャックは大きなくしゃみをしてみせた。

 ハッと我に返って今度はフリージアが質問をする番である。

「ジャックこそどうしてこんな所に? それに、びしょ濡れじゃないっ? まぁ。ケガまで!?」

 矢継ぎ早に次々と言葉を掛けられ、ジャックは苦笑するばかりであった。

「川でさ、子供が溺れていてね。助けてあげようと思って飛び込んだまではいいけど……」両手を上げて苦笑してみせるジャック。

「ご覧の通りのザマさ」

「……子供は?」

 険しい表情でフリージアが尋ねれば

「無事に助かった。お母さんの所へね。子供を岸にあげたまでは良かったんだけど、うっかりしていてね。また流されちゃって。ちょうど流れ着いたのが、この近くだったんだ」

 フリージアは一瞬呆れた様な顔をしながらも、クスクス笑いだした。その目にいっぱいの涙を讃えて……。

「でも良かった。その子供もジャックも、どちらも無事で良かった……」

 安堵からか、フリージアは崩れ落ちそうになった。だが、不意に顔を挙げると、険しい表情でジャックに向き直った。

「そうよ。ジャック。服を脱ぎなさい。びしょびしょじゃない? 風邪を引いてしまうわ」

 フリージアは急に我に返ると慌ててパタパタと教会の中を走り回りだすのであった。

「何をするつもりだい?」

 世話しなく周囲を見回すフリージアを見つめながら、ジャックが尋ねれば「いいから早く脱ぎなさい」と叱り付けられるばかりであった。

 フリージアは一体何をする気だろう? 考えながらも、ジャックは濡れた衣服を脱いだ。

「よし。この辺りの床は湿ってないわね」

 何を思ったのか、フリージアは力一杯床の端を引っ張ると次々と床を剥がし始めた。

 何をするんだと驚いた表情のジャックであったが、その真剣な表情にすっかり推されていた。

「ふぅっ。こんなもので良いわね。待っていてね、ジャック。すぐに火を起こすから」

 フリージアの言葉にジャックは愕然とした。

「な、何を言っているんだよ? 君が守ってきた教会じゃないかっ!?」

「ジャックこそ、何を言っているのよ? ずぶ濡れじゃない? 風邪をひいてしまうわ。まして、こんなに寒い夜なのよ? 命に関わるかも知れないじゃない」

 フリージアはジャックの制止も聞かずに、慣れない手付きではがした床を小さく割りながら焚き火の準備を淡々とすすめた。

「きっと、シスターも子供達も判ってくれるわ」

 額に汗しながら、慣れない手つきで必死にがんばるフリージアの姿に、ジャックは言葉も出なかった。

 彼女の意志を無駄にしないように、ジャックは静かに座って見せた。

「ああ、フリージア。マッチかなんか持ってない?」

「持ってないわ。大丈夫よ。こうやってね……木をこすり逢わせていれば、火が着くってね……昔ね、お婆ちゃんに教わった事あるんだから」

 なんだか危なっかしい手付きながらも、フリージアは必死で火を起こそうと試みていた。

 白く美しい手。花売りをしている彼女の繊細な姿からは想像も着かないその表情。顔中ほこりだらけの汗まみれ。亜麻色の柔らかな髪を振り乱し、一心に木と木を擦り合わせるフリージア。ジャックは微笑んだ。

「フリージア、そうじゃないよ」

「え?」

「いいかい? こうやるんだ」

 ジャックはフリージアの背中にぴったりとくっつくと、フリージアの柔らかな手を握った。そのまま木と木を擦り合わせ始めた。

 フリージアの柔らかな手の、その暖かさにジャックは生き返るような想いがした。

 フリージアの髪の淡い香りに、その暖かさにジャックは生きている事を再び実感するのであった。

 そうさ。ぼくは生きているんだ。

 不意に焦臭い香りが立ちこめた。プスプスと小さく立ち上る、その小さな煙にフリージアが笑う。

「見て、ジャック! 成功よっ!」

「よし。薪に移そう……気を付けて。消えないようにね」

 ドキドキしながら見守るジャック。

 この上なく真剣な表情でフリージアは薪に火を移して見せた。

 焦臭い香りと共に、僅かながら煙が出てきた。お願い……祈るような表情のフリージアの祈りが通じたのか、火はみるみるうちに大きくなっていった。

「やったわ、ジャック!」

「よし。これで大丈夫だ」

 無邪気に微笑むフリージアを見つめるジャックの表情は、いつしか暖かくなっていた。

◆◆◆17◆◆◆

 パチパチと盛んに燃える焚き火に当たりながらジャックは、冷え切った体を暖めていた。

 フリージアは先程からなにやら指先をいじくっている。ジャックはその様子が気になった。

「どうしたの?」

「ドジよねぇ。木の端が刺さっちゃったみたいで……」

 苦笑いしてみせるフリージア。その白く美しい指に刺さった小さなトゲを、ジャックは慎重に抜いて見せた。

「これで大丈夫。痛くない?」

「ええ、ありがとう。ジャックって本当に何でも出来ちゃうのね。凄いわ」

 フリージアに褒められて、ジャックは照れ臭そうに笑って見せた。

 焚き火に照らされたジャックとフリージアの顔は、夕焼け空の様に萌える様な赤い色をしていた。

「ねぇ、ジャック。あたし達……」

「何も言わなくて良いよ。全部思い出したんだ」

「え?」

◆◆◆18◆◆◆

 遠い、遠い、昔のお話。

 青年の名はトーマス。柔らかな茶色の毛並みの犬の青年。牧歌的な山間の小さな村に暮らす羊飼い。愛犬のヒムリーと一緒に暮らしていた。

 娘の名はオリビア。若草色の美しい髪をした村でも有名な女性。はた織りを生業とする清楚な女性。一織り、一織り、心を込めて織り続ける。

 トーマスとオリビアは、皆が羨むほどの素敵な恋人同士だった。

「トーマス。今日も良いお天気ね」

「やぁ、オリビア。仕事の方はいいのかい?」

「ええ。一段落着いたところなのよ」

 にっこり微笑むオリビアの足下に元気良く走り込んできたのは、トーマスの愛犬ヒムリーであった。

「まぁ、ヒム。お前も元気そうね?」

「こいつはいつだって元気さ」

 クスクス笑うトーマスを見て、オリビアも微笑んで見せた。二人は何時も一緒だった。

 だが、ある時、山間の小さな村を大変な大雨が襲った。

 羊達のすむ小屋をトーマスは訪れていた。

 羊達はデリケートだ。大雨に、凄まじい雷と来れば脅えてしまうであろう。トーマスは相棒のヒムリーを連れて小屋を訪れていた。幸い、何事も無かったようだ。

「よし。どうやら雨漏りとかの心配も無さそうだな。すごい雨だけど、明日には止んでくれるだろう。さっ、ヒム。帰るよ」

 小屋を出ようとしたトーマスは大変な光景を目にした。この大雨で川はすっかり氾濫してしまったのだ。

「なんて事だ。これじゃ帰れないな……」

 困った表情をしてみせるトーマスを見つめるヒムリーも、クーンと困った声で応えてみせる。

「ん? どうやら、あっちの橋はまだ無事みたいだね。さっさと帰ろう、ヒム、急ぐよ」

 急いで橋を渡ろうとしたトーマスであったが、ヒムリーは怖がってその場を動こうとしない。トーマスは、何度も呼んだがヒムリーは悲しい声を上げるばかり。

 しょうがないなと、岸の方に戻ろうと、歩き出した瞬間……橋に亀裂が入った。

「え?」

 次の瞬間、橋は音を立てて崩れ落ちた。

「うわあああっ!」

 トーマスは為す術もなく濁流に呑まれた。慌ててご主人を追い掛ける様にヒムリーも川に飛び込んだ。

◆◆◆19◆◆◆

「覚えている? 橋が落ちてしまって帰れなくなって困っていたところに、突然あなたとヒムが流されてくるのを見た時には、本当に驚いたわ」

 フリージアは燃え盛る焚き火を見つめながら、静かに微笑んだ。

「でもとっさの判断で思いついたのが、織物を川に放り込む行為だなんて、あたしらしいわ」

 そう、あの時、彼女は咄嗟に織物を投げ込むと、もう一方の端をすぐ側にあった大木に結び付けたんだ。その咄嗟の判断力。度胸。今も変わっていないな。ジャックは感慨深そうにフリージアを見つめてみせた。

「でも、本当のトラブルはこの後だったよね」

「ええ、そうね……」

 パチパチと盛んに燃える焚き火を見つめるフリージアは遠い目をしながら微笑んでみせた。

◆◆◆20◆◆◆

 トーマス達の暮らしていた村は裕福と言う言葉からはかけ離れていた。

 男達は羊飼い。女達ははたを織り生計を立てていた。だが、決してその生活は豊かではなかったのだ。

 そんなある日のことであった。

 ジャック達の村には、およそ不釣合いな装いの、どこかの貴族の召使いがやってきた。村は大騒ぎになった。なぜならば……。

「え? あたしが?」

「はい。オリビア様の美しさは我らが街でも名高く、我が主もその評判を聞かれましてね。若旦那様の……その、嫁になって頂きたいと。それでこうして参りました」

 丁寧に挨拶をしてみせる召使いにオリビアは驚きを隠せない。

 この村は貧困に近しい状況にある。若い世代の者達は永らく続いてきた変わること無い生活に嫌気がさし、都会に出ていく者も少なくは無かった。しかも、オリビアの両親が彼女の将来を考えてと、その申し出に乗ってしまったのだ……。

 月明かりのきれいな夜、トーマスとオリビアは小高い丘の上で月を眺めていた。

「トーマス。あたし……」

「何も言わなくていいよ。良いじゃないか? この村でぼくと一緒にいるより、都会に出てお金持ちの旦那様に愛された方が幸せだよ」

 月を眺めながらトーマスは、そっと微笑んだ。だが、その笑いは決して心の底からの笑いではない。愛する人を他の男に渡してしまう自分の不甲斐無さ。もっとお金と力があれば彼女を守ってやれたのに……。

 そんなやるせなさが、トーマスは苦しかったのだ。

 彼の気持ちを察したのか、オリビアは気丈にも笑ってみせるのであった。

「父さんも、母さんも、判ってないわよね? どんな事をしたって、あたしの心は、あなたと共にあるのよ、トーマス? あたしにはあなたしかいないの」

「ああ、そうさ、オリビア。あの星に誓うよ。きっと、君を迎えに行くから。その時こそ……」

 トーマスは、そっとオリビアの手を取った。

「指切りだ、約束するよ」

「ええ。きっと……迎えに来てね?」

◆◆◆21◆◆◆

 運命の日。トーマスは、オリビアを最後まで見送りには来なかった。逢えば、決心が揺らいでしまう。これで良いんだ。これで良いんだ。

 何度もそう自分に言い聞かせて、その手を堅く握りしめて、必死で堪えた。

 だけど……優しかったオリビア。どこか姉の様で、どこか母の様な、そんな優しさと雄大さを兼ね備えた美しきオリビアをどうして、手放す事が出来ようか?

 気がつくとトーマスは草原を走っていた。まるで風になった様に、必死で走った。

「オリビアーっ!」

 走り去っていく馬車を必死で追い掛けた。あの馬車には、オリビアが乗っているんだ。ぼくの愛した人が……ぼくの最愛の人が!

 ジャックは裸足で走りつづけた。涙を拭いながら、必死で走りつづけた。息が切れて、胸が苦しくても走った。

 しかし、無情にもどんどん馬車は遠ざかっていった……。

「オリビア……すまない……」

 トーマスは向ける相手もいない怒りを込めて、地面を殴りつけた。

 その場に崩れ落ちて悲しみにくれる彼を知る者は誰もいなかった。ただ一人、オリビアだけが、彼の心を知っていた……。

 それから後に、トーマスはオリビアの住む屋敷を何度か訪ねたが、その度に門前払いを受けた。

◆◆◆22◆◆◆

 パチパチとなおも盛んに焚き火は燃え続けている。

 だいぶジャックの冷え切った体も暖まってきた様子だ。自分をじっと見つめるジャックに、思わず照れて赤くなるフリージア。

「……やっぱりね、あたしね、あなたが忘れられなくてね。街に行ってからも、毎晩月を見てはあなたを想っていたの。時には故郷の村が寂しくて涙したこともあったわ。若旦那は、とても良い人だったし、家の人達もみんな本当に素敵な人達だったわ。でもね、やっぱりあたしには、あなたしかいなかったの」

「それはぼくも一緒さ。ずっと、ずっと君を……ううん。君だけを思い続けていたんだよ」「でも、また、こうして逢えるなんて思わなかった」

 優しく微笑むフリージアの、その澄んだ瞳の奥にジャックは吸い込まれそうになっていた。一点の曇りも無い、透き通るような美しい瞳。

 不意に、フリージアはジャックの目の前に人差し指を立てて見せた。

「ん?」

「ねぇ、ジャック。約束。忘れてないでしょうね?」

 見上げるようにしながら微笑むフリージアに、ジャックは思わず戸惑った様な表情を見せる。

「え? な、なんの約束?」

「あたしにバイオリン教えてくれるって約束よ? 今日ね、街の骨董品屋さんであなたの手作りのオルゴールを見たの。とっても素敵だったわ」

「手作り」の部分をやけに強調するフリージアを見つめながら、ジャックは声をあげて笑って見せた。

 ああ、バイオリンだろうと、オルゴールだろうと、君の為ならなんでも作るよ。

「約束よ?」

 クスクス笑うフリージアの手を握りしめながらジャックは笑った。

「ああ。約束するよ」

「じゃあ、指切りね?」

 暖かな教会の中で、二人は雨があがるまで焚き火を囲んで待っていた。

 どちらかが火の番をしながら、やがて訪れる朝を待ち続けた。

 いつしか雨もあがり、静かな朝が訪れたのだ……。

◆◆◆23◆◆◆

 すっかり乾いた服に着替えるとジャックは教会の外に出てみた。

 フリージアが必死で守り続けたこの教会。きれいな花はフリージアの優しい心が育てたのだろう。

 この景色をフリージアはいつも見ていたのだろうか? 目の前には広大な草原が広がり、その向こうにはどこまでも続いている森。森の向こうには山々の裾野が広がる。

「この景色、気に入った?」

「やぁ、フリージア。起きていたのかい?」

「ええ。まぁ朝日がとてもきれいね。昨日の大雨がウソみたい。ほんとに良い天気だわ」

 フリージアは大きく背伸びをしてみせた。

 だが、髪は酷く乱れ、顔はススで真っ黒。思わずジャックは吹き出してしまった。

「なに? あたしの顔になにか?」

「昨日は薄暗くて気付かなかったけれど、中々に素敵な顔をしているよ?」

「あ! 笑ったわねっ!」

 赤くなりながら怒り出すフリージアの頬に、そっとキスをしてみせるとジャックは笑いながら草原に向かって走り出した。

「でも、その顔も悪くは無いね」

「ちょっと。ジャック! 待ちなさい!」

 真っ赤になりながらフリージアはジャックを追い掛けた。

 どこまでも、どこまでも続く草原の中を、朝日を背にして二人は駆け回った。まるで失われてしまった時間を取り戻すかの様に。

◆◆◆24◆◆◆

「ああ。ジャックを追い回したお陰で、お腹が空いたわ」

 走り疲れたのか、川の畔に来たところでフリージアは静かに足を休めた。

 昨夜のあの恐ろしい濁流はそこにはなかった。傷跡こそ残ってはいるが、川は再び穏やかな流れを讃えていた。

 大自然の力は偉大だ。ジャックは改めて大自然の力に畏怖するのであった。

「食事ついでに、ちょっとやりたい事があってね。良かったら一緒に付き合ってくれないかな?」

 微笑むジャックを見つめるフリージア。

「あら? 何かしら? やりたい事って」

「あの教会……建て直そうよ。ぼくらの手で」

「え?」

「ぼくを守るために、教会の床を壊してしまっただろう? それに、折角だもの。きれいな教会に建て直してあげた方が天国の子供達も喜ぶよ」

 もう決めたんだ。そう言いたげなジャックの表情は何時になくしっかりとしていて、その意志の強さを雄弁に物語っているかの様に見えた。

「でも……ジャック一人では難しいのでは無いかしら?」

「なぁに。大将に頼んでみるよ」

 こうしてジャックとフリージアは街に向かって歩き出すのであった。

 橋は壊れて落ちてしまったが、倒木を橋の様にしてジャック達は向こう岸に渡ると、改めて街を目指して歩き始めた。

◆◆◆25◆◆◆

「と言うワケなんですよ、大将」

「なるほどな。話は判った。だがな……」

 大将は苦々しい笑いを浮かべながら頭を掻いた。その険しい表情にジャックとフリージアは思わず顔を見合わせてしまうのであった。

「あれだけでかい教会だろう? まずは、落ちてしまった橋を修理しなきゃならない。それから人手が要る。材料を揃えるためには金が必要になってくる。ジャック、そうそう簡単に出来る事じゃないぞ。確かに、お前さんの考えていることは素晴らしいことだ。だがな、絵に描いたモノを現実のモノにするのは決して簡単な事ではない。それは判ってくれ」

 大将の言うことは正論だ。所詮は夢物語だったのか? 悲しそうに肩を落とすジャックをちらりと見ながら大将は苦笑いをしてみせるのであった。

「だがな、ジャックよ。話はまだ終わってないぞ?」

「え? まだ……何かあるんですか?」

 渋い作り笑顔を浮かべながらジャックは向き直った。

「……聞いたぞ。お前の昨日の活躍を。良い人を助けたな。お前さんを探して黒猫の奥さんがお見えになっているんだよ」

「へ?」

 堪え切れない表情の大将は、突然腹を抱えながら笑い出した。

 憮然とした表情のジャックに気付き、大将は慌てて咳払いしてみせた。

「まぁ。あなたはジャックさんと仰るのですか?」

「あ! あなたは……」

「昨日は息子を助けて頂き、本当にありがとうございました。聞けば街のあちらこちらで、お仕事をなさっていると言うお話を伺いまして。若いのに感心ですわ。申し遅れました。私はこの街の学校の教師をしております」

「なるほど。学校の先生でしたか」

 この街には規模こそ小さいが、豊かな自然に恵まれた学校があるのだ。

 幼い頃にはジャックも通っていたのだ。確かフィンディア学校と言う名だったかな? ジャックは幼い頃の記憶をたぐり寄せてみるが、思い出すことは出来なかった。

「私はフィンディア学校の校長をしています、エメルと申します。ほら、リーヤ。お兄さんにありがとうしなさい。あなたを助けてくれたのよ?」

 黒猫のお母さんのスカートを掴みながらモジモジと照れくさそうにしている坊や。ジャックはモジモジする少年、リーヤを覗き込んでみせた。

「やぁ。君はリーヤ君って言うんだね。ぼくはジャック。元気そうで良かったよ」

「……お、お兄ちゃん……ぼくを助けてくれたんでしょう? あ、あの、あのね……えっと、えっと……あ、ありがとうっ……」

 人見知りをするのか、照れくさそうにしながら挨拶をすると、また母の後ろに隠れてしまった。

「あらあら、ごめんなさいね。この子、本当に恥ずかしがり屋さんで。そうですわ。この子を助けて頂いたお礼に、何かお返しをしたいと思っていたのですけれど、ちょうど良いお返しが見つかりましたわ」

 エメルは大将の表情を窺いながら、微笑んで見せた。

「教会を建て直すお仕事。私たちにもお手伝いさせて下さい。いえ、お金の事なんてお気になさらないで下さい。教会を建て直すなんて素敵な仕事ですもの。是非、協力させて下さい。お願いしますわ」

「そ、そんな。こちらこそお願いします」

 黒猫のエメルに深々とお辞儀をされてしまって、慌ててジャックもお辞儀を返してみせた。その様子を見つめるリーヤがクスクス笑い出す。

「……ぼくも、お手伝い出来るかな?」

「ああ。出来るとも。是非ともお願いするよ?」

「わぁいっ!」

 無邪気にはしゃぐリーヤを見ながらフリージアがそっと微笑んで見せた。

◆◆◆26◆◆◆

 そして、教会を建て直すための計画がさっそく組み始められた。ジャック達を中心に作業は急ピッチで動き出していた。

 ジャックの親友バロンとロブも、それは面白そうだと、さっそく乗り気で参加したのだ。大雨の夜に、身を呈してまで少年を救出した、ジャックの勇敢な行いは、瞬く間に街中に広まった。一躍有名人となったジャックの影響もあり、気が付けば次々と参加者達が増えて、何時しか街をあげての大きなイベントとなっていた。

 ロゼフじいさんが、せっせと積み荷を運んでくれば、パン工房のローゼフ夫妻は、その持ち前の技能を活かして、焼きたてパンを振る舞い、喫茶店のティルルおじさんは、差し入れのコーヒーを片手にあちらこちらを走り回って見せた。

「ジャック君、精が出るね。ちょいとカフェでもいかがかな? ささ。みなさんもどうぞ」

「ああ、ティルルおじさん。毎日すみません」

「いやいや。良いんだよ。私が好きでやっているんだ。お代は要らないよ。その代わり素敵な教会にしてやってくれよ?」

 クスクス笑うティルルおじさんに、ジャックは再度お礼をしながら力強く微笑むのであった。

 街中の力自慢達が次々と集まって来ては、教会の建て直しを手伝った。

 フィンディア学校の生徒達も時折、授業を交えて手伝いに来ることもあり、街をあげての作業だけに、そのペースは実に早かった。

◆◆◆27◆◆◆

「お疲れさま。ジャック」

「ああ、フリージア。驚いたよ。こんなにも大勢の仲間が来てくれるなんて思わなかったからね。しかも、みんな無償で手伝ってくれているんだもの。こんな嬉しい事ないよ。本当に神様に感謝だね」

「ええ、そうね。本当に、あたし達は幸せね」

 微笑むフリージアの言葉に思わず真っ赤になるジャック。

「ようっ、ご両人。そろそろメシにしないか?」

 にやにや笑いながらバロンとロブのコンビが歩み寄る。

 教会の工事は予想外に進んでいる。

 今日は、ヨーゼフおばさんが腕によりを掛けてお弁当を作ってきてくれると言うことで、皆の期待は高まる。そんな中、不意に騒がしくなってきた。

「ん? なんの騒ぎだろう?」

「オレ達も行ってみようぜ」

 さっさと走り去って行ってしまったバロン達を追い掛けてジャック達も走り出した。

◆◆◆28◆◆◆

 何やら人だかりが出来ている。皆が囲んでいるのはキラキラと輝く巨大な鐘であった。鮮やかな金色の光沢を放つその鐘は、とびきり大きく、また、美しい色合いを放っていた。

「……おお、ジャック。皆の歓声に惹かれてやってきたか?」

「大将、なんですか? このでっかい鐘は?」

 きょとんとした表情で訪ねるジャックの頭を、大将がポカリと殴る。ついでに、苦笑いしながら腕組みしてみせた。

「良いか? 教会と言えば鐘だろうが?」

「ああ、そっか。なるほどね。それで……このでかい鐘をぼくらで?」

「他に誰がいるって言うんだよ? ロゼフじいさんに感謝しろよ。こんな重たい物、ここまで運んで来てくれたんだから」

 大将の指さす方を見れば、ヘトヘトに疲れた表情の馬が休んでいた。ロゼフ爺さんは、綱を外し、麗らかな陽気の中で馬を休ませていた。

「ああ、ロゼフじいさん。ありがとう。こんな大変な荷物運んできてくれて。でも、誰がこんな鐘を注文したんだろう?」

「誰って……お前さんの所の大将だよ。ほっほ」

「えぇ!?」

 慌てて大将の方を向き直れば、照れくさそうにそっぽを向きながら口笛なんか吹いて見せている。

「……折角きれいな教会にしたんだ。それから……ちゃんと、床の部分は空けて置いたぜ? お嬢さんの可愛らしい花達が見えるようにな」

「まぁ。どうもありがとう」

「鐘の名はジャック……お前が考えな」

「え? ぼくが?」

 そもそも鐘に名前を付けるものなのだろうか? 大将は一体何を考えているだろう? そう言えば、この教会……白一色で彩られていて何とも清楚なイメージだ。ボロボロになってしまった教会がここまできれいになるなんて、予想出来なかったよ。

「まぁ。もう完成まで間近ですわね」

「ああ、エメルさん」

「関税間近だねっ。お兄ちゃん」

「やぁ。リーヤも来ていたのか?」

 えへへと微笑むリーヤの頭を撫でてやると、ジャックは大将に向き直ってみせた。自信に満ちた表情で。そして力強く、鐘の名を告げた。

「あの鐘の名前は……『時の鐘』です。何時までも、何時までも、ずっとこの教会が永遠に在り続けるように。ずっと、ずっと、あの鐘の音が街中に響きわたるように……どうです?」

 ちょっと照れくさそうに微笑むジャックを見つめながら、フリージアは静かに微笑んで見せた。

◆◆◆29◆◆◆

 それから程なくして教会は完成した。

 何ともめでたいことに、クリスマスに完成したのだ。

 街の人々は教会に集い、大規模なクリスマスの祭りにしようと考えたのだ。

 バロンとロブも、お得意の楽器を手にしていた。

 ティルルおじさんはたっぷりのコーヒーを用意し、ヨーゼフ夫妻は焼きたてパンを用意した。

 街の男達は皆でクリスマスツリーを飾り付け、女達は各々自慢の料理の腕を振るってみせるのであった。子供達は、大きなクリスマスツリーに喜び、素敵な教会に驚くのであった。

 夜も更けてきたところで、荘厳な鐘の音が街中に響き渡った。その重みある音色に皆が感動した。

「やっと完成したんだな」

「そうさ。ぼく達、みんなで作ったんだよ」

「力を併せれば、何でも出来るんだな」

 ジャック達三人は、嬉しそうに微笑みながら教会の中で着替えていた。サンタクロースの衣装に着替えて、ジャックはバイオリンを手にした。ロブがフルートを手にすれば、バロンがご自慢のアコーディオンを構えてみせる。

 最高の聖夜にしよう! 三人は堅く手を組ますとクリスマスソングに備えて、教会の扉を目指して歩んでいった。

◆◆◆30◆◆◆

 再び教会の鐘の音が鳴り響いた。

 子供達が、今か、今かと待ちわびてみせる。大人達も、教会を作っている間の苦労話や、あのパネルを刻んだのは自分だの、あの柱を逆さまに入れてしまったのは自分だの、皆ですっかり盛り上がっていた。そして……。

「メリークリスマスっ!」

 勢い良く教会の扉を空けて、飛び出してきた三人のサンタクロースはご自慢の楽器と歌で、その喜びを歌に託した。

 皆がそのクリスマスの夜に感謝の意を示し、喜びの気持ちを形にした。何時しか、皆の心は一つになっていた。

 無事に演奏も終わったと、ホッとした表情でバイオリンをジャックは降ろして見せた。

 だが、バロンとロブは演奏をやめなかった。

 あれ? 予定と違うぞ? 戸惑った表情のジャックの目の前に、サンタの格好をした大将がスタスタと走り込んできた。

「メリークリスマス、ジャック!」

「た、大将? こりゃあ、なんのつもりですか?」

 目を白黒させながらジャックが戸惑いまじりに問い掛けてみせれば、大将は笑ってみせた。

「……オレからのプレゼントだ。持ってこいっ!」

「な、なんですか? こりゃ?」

 何やら布きれに包まれた巨大な柱の様な物をみつめながらジャックはキョトンとした。

「ジャック、こいつぁ、氷の柱だ。オレがロゼフじいさんに頼んで運んで貰ったんだ」

「そう言うわけで、ジャック。オレ達からもプレゼントだ」

 バロンとロブがおかしそうに笑いながら、ジャックに手渡したのは、大きなノミと木槌であった。

 ひきつった笑いを浮かべるジャック。だが、ロブとバロンは威勢良く再び演奏を始めてみせるのであった。これで何かを創れと言いたいワケだね? ああ。やってやろうじゃないかっ!

 曲に逢わせて、ジャックは陽気に踊りながら氷の柱を削り始めた。

 料理に、あるいは酒に夢中になっていた、街の人々は、何事かとぞくぞくと集まり出した。

「あら? ジャックったら、何を作っているのかしら?」

 フリージアはクスクス笑いながら、人を掻き分けながらそっと覗き込んだ。

「……まぁっ!?」

 ジャックがノミと木槌を奮いながら、必死で氷柱を叩きながら創っていたのは、楽しそうにダンスをしているフリージアの姿だったのだ。

 ジャックったら……。フリージアは照れくさそうに笑いながら、その様子をじっと見つめていた。

 ジャックもまた、フリージアの視線に気付いたのか、嬉しそうに微笑みながらさらに彫り続けるのであった。

 ロブとバロンが笑う。

「ジャック、幸せになれよっ!」

「ありがとうっ! バロン、ロブっ!」

 ジャックが木槌を奮う度に、氷の欠片がキラキラと光を受けて舞い散り、まるで雪の様にジャックを包み込んだ。その幻想的な美しさに皆が息を呑んだ。

「よしっ。完成だっ!」

 ジャックの言葉と共に教会は大興奮に包まれた。

 フリージアは、花束を握りしめながら、氷で出来た自分の像の側に立って見せた。そして……照れくさそうに笑いながらジャックに向き直ると……。

「最高のプレゼント、ありがとうね、ジャック。これは……あたしからのお礼よ? ジャック。大好きよ」

 フリージアはそっと、ジャックの唇に自らの唇を重ねて見せた。

 思わず真っ赤になるジャックに盛り上がる教会。

 それは最高のクリスマスとなった。静かな夜の中、教会だけが賑やかであった。

 白く清楚な教会に祝福されながら、ジャックとフリージアは今度こそ、一緒になることが出来たのだ。

 教会の鐘の音は何時までも、何時までも、鳴りやむことはなかった……。やっと巡り合えた二人を祝福するかの様に、何時までも、何時までも、鳴り続けた。

◆◆◆31◆◆◆

 あれから……どれほどの年月が過ぎたのかしら?

 年老いたフリージアは、今年のクリスマスにもまた聞こえてくる、あの『時の鐘』の音色にそっと耳を澄ませていた。暖炉の側のゆり椅子に揺られながらマフラーを編んでいた。暖炉の上には、ジャックの肖像画が飾られている。

「……ジャック。あなたはあたしより先に逝ってしまったのね……でも、ふふっ。また産まれまわっても、やっぱりあたしの恋人は……あなたしかいないのね。すっかりあたしも、お婆ちゃんになってしまったけど、今でも思い出すわ……」

 フリージアは、今は亡きジャックに作って貰った、暖かなバイオリンを手にすると懐かしそうに微笑んで見せた。

 外はいつしか白い雪が降り出していた。

「あら……雪?」

 今年のクリスマスも、あの教会で賑やかにクリスマスのお祭りが行われているのかしらね? そっと眼鏡を掛けると、フリージアは窓の外から教会を眺めた。

 漆黒の闇夜……その窓ガラスには年老いた彼女の顔だけが写っているのであった。

「ふふっ、昔は美人だと良く云われたあたしも、もうしわくちゃのお婆ちゃんねぇ。でも、思い出すわ。あの頃を……」

 フリージアは懐かしそうに微笑みながら、再び暖炉側の椅子に戻ろうとした。その時であった。

「フリージア」

「え? その声は……ジャック!?」

 何という事であろうか? 窓に映るフリージアの隣りには、ジャックが写っていた。

 あの時、あの頃、出逢った頃のあの姿で……。

「ああ、ジャック……」

「フリージア、君はしわくちゃのお婆ちゃんなんかじゃないよ? あの頃のままの絶世の美人の君だよ? ほら、見てご覧よ?」

 窓の中のジャックは可笑しそうに笑って見せた。

 慌てて鏡を覗き込めば……大きなリボンのよく似合う、あの頃のフリージアに戻っているのであった。

「まぁ。ウソみたいだわ……」

「フリージア、あの暖かそうなマフラーはぼくに編んでくれているのかい? それとも?」クスクス笑うジャックに、ちょっとむくれた顔をしてみせながらフリージアは笑った。

「あなたの他に誰に作るのよ?」

「それもそうだね。ねぇ。雪がとても素敵だよ? 一緒に外に出てみない? ぼくがバイオリンで、君はダンスをね」

 にっこり笑うジャックの手の中には手作りの柔らかな光沢のバイオリンがあった。

 気が付くと、フリージアは雪原のど真ん中に立っていた。

 まぁ、素敵。見渡す限りの大雪原。ハラハラと舞い降りる可愛らしい雪に祝福されながら、こんな素敵なステージで踊れるなんて、本当に素敵だわ。

「さぁ、フリージア用意は良いかい?」

 ジャックは嬉しそうに笑いながらバイオリンの弦を弾くのであった。

 静かな雪原に響きわたるジャックのバイオリンの美しい音色。

 気が付くと、そこにはロブのフルートと、バロンのアコーディオンまで加わっていた。

「いやだ。みんな来ていたの?」

「当たり前だろう? なにしろ君は……」

「ジャックの奥さんだものね。お祝いに来たんだよ」

 フリージアは嬉しそうに微笑みながら再び踊り出すのであった。

 サンタの格好をした大将がメリークリスマスを告げた。パン工房のヨーゼフ夫妻がメリークリスマスを、喫茶店のティルルおじさんがメリークリスマスを、荷馬車を引っ張る陽気なロゼフじいさんが、エメルが、リーヤが、皆が口々にメリークリスマスを告げてくれたのだ。

 なんて素敵なクリスマスなのかしら!

 フリージアは力の限り、想いを込めて、詠うように、飛び回るように、ダンスを振舞うのであった……。

 素敵な、素敵なクリスマス……ありがとう。

 ジャック……ありがとう……。

 みんなも、本当に……ありがとう……。

 ゆり椅子にもたれたまま、年老いたフリージアはそっと眠りについた。

 その手には、出来上がったばかりの暖かなマフラーが握られていた。

 シャンシャンシャンシャン……。鈴の音が響きわたり、ゴーンゴーン。教会の鐘の音色が街中に響き渡る。

「……お婆ちゃん。メリークリスマスっ!」

 少年が賑やかに笑いながら、部屋に入ってきた。だが、フリージアは動かない……。

「お婆ちゃん? お婆……ちゃん? わぁっ! ママっ、ママっ! お婆ちゃんがっ!」

◆◆◆32◆◆◆

 フリージアは眠るようにして、息を引き取っていた……。

 その手には、暖かなマフラーを握りしめ……安らかな笑顔を浮かべたまま、眠るようにして……息を引き取ったのだ。

 ジャック。生まれ変わっても、またあたしを探しに来てね? きっとよ? きっと……また二人で一緒に踊ろうね? 約束よ? 指切りよ?

 外は白い雪が降り続けていた。いつまでも、いつまでも、ずっと、ずっと……。


   The End