社会科学に於ける「官僚制」と、大衆にとっての「官僚制」


 大衆の語る「官僚制」や「官僚制」を冠するコトバと、社会科学的な視点から見た「官僚制」というコトバはかなり差異がある。大衆は官僚制を「腐敗や組織の機能不全の温床」というマイナス・イメージで捉え、社会科学では官僚制を「合理的効率的な管理統制の仕組み」として定義する。別に、どちらが正しくどちらがあっている、一方を肯定し一方を否定するというものではない。社会科学を学ぶ者は、大衆の捉える「官僚制」なるコトバを否定するだけでは世間から乖離する。また大衆は、イメージとステレオタイプだけで「官僚制」なる存在を捉えていては、「あるべき社会」なるものへ世の中をどうしていくべきか、その方策を具体的に考えることが出来なくなる。


 ここで私は、敢えて強く社会科学に於ける「官僚制」の定義を協調し、大衆のイメージを批判したい。何かを考え語る上では、物事の本来の意味、テーゼを認識していなければ、それを否定することも批判することもただの空想になり、実際的な方策を考えることが出来ないからである。
 「官僚が政治家や企業家と結託して私服を肥やし、そのため社会が良くならない」「官僚制のセクショナリズム(縄張り主義)や形式主義、秘密主義こそが社会の停滞の原因」・・・こうした言はまったくのデタラメというわけではないが、このような貧しいイメージやごくごく些細な事象だけで官僚制を捉えていては、官僚制と呼ばれる中央政府の行政機関や官僚と呼ばれる上級公務員にまつわる諸問題や社会の行政一般の問題に対して、何ら有効な対応策を導き出すことは出来ない。官僚制や行政に関する問題を語るのならば、貧しいイメージや雑多な細かい事件だけで考えず、官僚制の仕組み、機能、役割について、包括的に認識する必要がある。批判を行うのにこそ、冷静に物事の仕組みを認識しなければならない。さもなくば、ただの空想的・感情的批判となり、何ら社会に対して意味を為さない。


 我々現代人は、原始時代や中世とはまったく異なる合理的な社会を生きているが、我々がそうした文明的な生活を送れるのには必ず理由がある。ただ単に、今が現代と名付けられた時代だから我々が文明的な生活を享受できているわけではない。人類が石器時代や中世から脱し、現代に至るのには、制度という知的所産が非常に大きな役割を果たしてきた。官僚制も中世から近代へと人間社会が脱皮するのに大きく貢献した仕組みの一つである。官僚制に代わる新たな管理統制制度がない以上、「官僚制が腐敗の温床だから、官僚制などない方がいい」などという安直な考えはあまりにも稚拙である。


 官僚制がなければ、我々の社会は再び前近代の地縁・血縁・家柄・門地・民族・宗教が幅を利かせ、支配者の責任を被支配者がチェックし追求することが出来ず、理不尽と不合理がまかり通る社会になってしまう。安直に官僚制を否定する者には、それを考えて欲しい。ちなみに、途上国の中には整備された官僚制がなく、前近代と同じように大地主が政治家や「官僚」の地位を独占して、国政を私物化している国も少なくない。それを鑑みると「官僚制の否定は前近代への逆行」というのはあながち荒唐無稽ではない。
 そうした国と比べると、日本や欧米の官僚制は非常に整備された優れたモノと言える。無論、日本に於いても我々は官僚制や行政の問題を厳しくチェックし、それを正していくことこそ必要だが、官僚制が為している機能・役割を見ずに、ただ問題があるからなければいい、という安直な発想がいかに危険か。私は官僚について人々が安直にマイナス・イメージで否定的な語りすぎるので、敢えて官僚制の機能・役割について述べたい。


 ときに官僚制は戦争を合理的に進めるのに強烈な役割を果し、独裁者が市民を抑圧するのにも多大なる貢献をしてきたが、為してきたことの善し悪しには触れない。今ここで私が語りたいことは、官僚制の機能・役割そのものである。善悪といった判定やその他の情緒を持ち込まず、ただ社会の事実を冷静に分析することこそが社会科学の役割である。



 官僚制というのは、一般的には中央政府の行政機関を指すのだが、ある程度の規模の自治体、ある程度の規模の企業、軍隊、大学などの大規模組織にある発達した管理統制機構をも指す。こうした管理統制機構は、ピラミッド型で命令系統が一元化され、専門的な知識・技術(法技術、財政技術から扱う具体的な事象の知識・経験まで)を持つ人間がそれぞれに仕事領域が区分されて物事を処理する、すばらしく合理的で効率的なものである。
 そうした管理統制機構の発達を、国家の行政機関としての官僚制から見てみたい。


 個々人や小さな人間集団が出来ることなどたかが知れている。近代以前の社会では、君主が国を支配していると言えども、フランスや日本という国を直接支配しているわけではなく、君主に命じられた貴族や大名が国の各地域を受け持ち、さらに貴族や大名に命じられたより小さな地域の領主がそれを受け持つ。そうした個々人や小さな人間集団が支配できる程度の村落や荘園になってはじめて、地域を支配する者がそこの住民を管理統制することとなる。
 そのため、君主が決めたことが各地域に伝達されるのには大変な時間が掛かる上に、そうした伝達や法律は具体性に欠け、また各地域の支配者が勝手に解釈できる上に多少のことならば無視してもバレず、そもそも君主や中央の小さな役人集団がいちいち個別の地域のことなど考えられるわけもない。事実上中央と各地域はほとんど別の国であった。
 近代以前は、知識階級や首都の人間は別として、自分が「フランス人」や「日本人」であると認識している人間はほとんどいなかった。自分はブルターニュの人間である、薩摩の人間であるとは言えても、フランスや日本というコトバの意味さえ知らない人間も珍しくはなかった。国の中に国があり、その中にさらに国があるような・・・近代国家(国民国家)が直接領土と人民を支配しているのに対して、近代以前の国とは小さな領地とそこの住民を支配する封建支配者がより大きな封建支配者に従い、より大きな封建支配者はもっと大きな封建支配者に従う領主を核とした多重的なものである。これは極道社会に似た仕組みであり、人民が支配され忠誠を誓うのはせいぜい地元の領主か代官で、中央の君主が領土と人民を支配しているわけではなかった。


 前近代に於いて、中央が地域を支配しているというのは、簡単に言えば生産物と兵隊を地域が中央に提供し、その代わりに中央は、地域の支配者に支配の正統性や名誉、外国からの保護を約束していることである。
 つまり、地域の支配者が穀物などの生産物をさらに上の支配者に納め、各地域から集めた生産物をさらに上の支配者に納め、そして最後に中央へ生産物がとどけられるというまどろっこしいものである。現代のように、直接中央政府が税収をとることはほとんどなく、税の種類も極めて少ない上に穀物で納められるのがほとんどであったため、財政は不安定かつ小規模であった。
 戦争の際は、君主が各領主や大名に兵隊を動員するように求め、そうした領主や大名は自分でも直属兵は持っていようが、やはりより小さな領主に兵隊を集めるように言い、そして最後に直接地域を支配している者が農民などを徴兵する。あとは、徴兵した農民兵を各地域の領主が領主が家臣も含めて動員して馳せ参じ、穀物と同様の経路で中央に集まっていく。国家に忠誠を誓った公務員としての軍人からなる常備軍を持つ近代国家に比べて、動員に時間が掛かる上に指揮系統は合理的ではなく、「自分の兵」を持つ領主の判断によっては寝返ったり勝手に退却したりもするという、不安定な軍隊である。前近代に於ける中央の君主は、他の軍事力を持つ封建諸侯が群雄割拠する中で、わずかに優越を保持しているに過ぎない。


 こうした状況を脱して近代化を為した国が強国となり、前近代的な国は次々と侵略され、植民地化された。その侵略の恐怖から、近代化に立ち後れた国々も近代化を勧めようとし、それが出来なかった国は近代化を為した強国に次々と支配された。
 この近代化の核となったのが、官僚制と教育制度と常備軍である。特に官僚制度が重要である。
 官僚制度は、中央が地域を直接支配するために不可欠なものである。前近代では、君主は大領主すなわち封建諸侯を支配していただけであった。しかし近代国家になるためには、中央政府が領土と人民を直接支配しなければならない。領土と人民全体を直接支配するためには、莫大な情報を集め続けて処理し、各地域にそれぞれ的確な指令を与えて管理することが必要であるが、前近代のようなごく少数の支配者にそんなことは出来ない。必要なのは、合理的で効率的な大規模な物事を管理運営する装置、官僚制である。


 官僚制は、それまで世襲だった封建支配階級とは異なり、高等教育機関で高度な専門知識を蓄積し知的技術を習得したエリートが、そうした高度な専門性を用いて各々の専門分野の事象を処理し、問題に当たる仕組みである。冒頭でも述べたが、その仕組みは封建制とは違って上から下まで一直線に司令と情報が伝わり、下から上へ情報が集められる命令系統が一元化されたきれいなピラミッド型で、専門的な知識・技術を持つ人間がそれぞれに仕事領域が区分されて物事を処理する。地方の担当官は、封建領主が自分の領地にするように担当地域を好き勝手に出来ず、何もわからないクズが親の血筋だけで行政を壟断することも、美食やセックスにしか興味のないクズが責任ある地位で何ら責任を果たさずそれでいて責任を追及されないということもない(注1)。ちなみにエリートとは、学歴と専門性によって支配者層に入る人間のことであり、封建領主や貴族はエリートとは呼ばない(注2)。


 こうした中央政府の行政機関として誕生し発達した官僚制は、軍隊、企業、大学などの大規模な近代的組織に於いても取り入れられ、あるいは最初からこうした管理統制機構を核に誕生し、莫大な組織運営を効率的に合理的に行わせている。逆を言えば、こうした管理統制機構を持たない組織は、とても近代的な組織とは呼ぶことが出来ない。
 今日、国家、自治体、軍隊、企業などの巨大組織は、その官僚制−管理統制機関によって、莫大な事務を処理し、カネ・人・モノ・情報を細部まで把握して配分し、1人1人の人間が単独では到底統御できない巨大組織を維持・運営している。こうした管理統制機関にも数多くの欠点や問題はあり、それを批判する声は多い。改善すべき点は尽きない。だが、こうした管理統制機関なしには今日存在する巨大組織は、存在することさえも難しい。

 



 これが社会科学の視点から見た「官僚制」である。
 一方、大衆が持つ「官僚制」へのイメージ、あるいは大衆が用いる「官僚」ないし「官僚」を冠するコトバについて、次に述べる。



 大衆が「官僚」や「官僚」を冠するコトバを口にするときは、大抵が批判的な色彩を持つ。 「官僚」を冠するあらゆるコトバは、とにかく批判的に使われ、他人を批判するときにさえも使われる。「官僚」と呼ばれる上級公務員に対しては、人民の抑圧者、特権身分意識の保持者、官尊民卑の具現者としてのイメージで捉え、「官僚制」に対してはセクショナリズム、形式主義、画一主義、秘密主義、創造性の欠如、特権意識などの行動様式や精神構造を産み出す土壌として捉える。
 こうした「官僚」や「官僚制」が、組織の機能不全や国民の権利侵害、汚職などの様々な弊害を起こし、民主主義を阻害し、政治家や大企業の経営者などと結託して利権を貪り、自己の利益を保持するためには社会を悪くすることも厭わない。そう信じて疑わない人間も少なくないようだ。



 これが大衆にとっての「官僚」「官僚制」のイメージだろう。
 確かに、官僚制にはセクショナリズム、形式主義、画一主義、秘密主義、創意の欠如、特権意識といった弊害がついて回る。これは批判されて然るべきであるし、人民はこうした弊害が起きないよう常にチェックする必要がある。しかし、官僚制そのものの否定は出来ない。なぜならば、それに代わる仕組みが存在しないからである。官僚制を批判してやまない者には、いいオルタナティブ(代替案)があるのならば、是非に教えてもらいたい。


 中央政府の行政機関としての官僚制や、大企業・軍隊・大都市・府県・州の官僚制的な管理統制機関に対して、その存在を否定することはできない。大規模な組織は、こうした機構なしでは運営・維持することさえも出来ない。現代社会に生きている人間にはなかなか想像できないだろうが、我々が石器時代のクソ地獄や前近代の不合理・理不尽・不安定・暴力的な社会ではなく、それより少しはマシな社会に生きていられるのは、官僚制を中心とした近代国家が社会秩序を維持し続けているからである。
 現代社会がこうして安定し、個々人や集団の暴力が規制され、財産の保持や商売のやり方にも細かいルールがあるために経済活動が発達し、使用するコトバが一定地域で統一され、子供は教育を受け能力を修得すれば医者や法律家にもなるチャンスがあり(注3)、水や電気・エネルギーが安定して供給され、本来食糧を産まない地域の住人も働けば食うことが出来、職や働き手を失った人間も即座に飢え死にすることはなく、糞便が衛生的に処理される・・・こうした社会は当たり前ではない。前近代でも部分的には実現していたが、上の事象すべてが満たされる社会は近代以前には存在しない。


 言語を持ち、安定した生産手段を持つに至ってから、人間は人間になったと言えるが、人間が現在のような社会が実現するまでには数千年の時がかかった。官僚制を中心とした近代国家システムは人類の英知である。もちろん、理不尽・不合理は現代社会にも腐るほど氾濫しているし、官僚制が不合理・理不尽を生んでいることもある。だが前近代の社会に於ける理不尽・不合理とはレベルが違う。「今が現代と呼ばれる時代だから」「現代人が優れているから」、安定した社会が存在するのではなく、優れた制度があるから社会が維持されているのだ。
 私が突飛なことを言っているわけではない。官僚制を否定するとはどういうことか。官僚制のない社会は、前近代の恐怖の社会だ。官僚制には数多くの問題点があり、様々な弊害を産んでいる。しかしその前に、官僚制が果たしている機能・役割について忘れてはならない。そうした具体的な思考なしの批判に、意味はない。


 アンチテーゼや耳に聞こえのいい批判だけを聞き、ごくごく一部の事象だけを捉えて全てを知った気になる。これは危険である。アンチテーゼはテーゼになりえない。自分の空想的なステレオタイプに基づいた批判を「正論」として捉えている人間にはまま出くわす。そうした人間が例えば「官僚は悪、奴らはクズ、故に社会はよくならない」と言えば、大抵の人間は喜び、あるいは賛同めいたことを言うかも知れない。だが、私は決して安易に「その通りだ」とは言わない。
 私が「そうではない」と言い、少しでも官僚制に対して肯定的なことを言えば、相手は驚き、そして私を「説得」にかかる。曰く、「ニュースで言っているように汚職が起きている。だから奴らはダメだ」「奴らが東大卒の石頭だから創造性がない」「奴らは寄生虫だ。何かと許認可を握って税金を喰らう」「役所に電話したら、たらい回しにされて、最後にも元の部課に戻った」。あるいは私が割と官僚を輩出している有名大学の学生だということを念頭に置いて、私が「支配階層」の仲間だと考えた上で、私を学歴社会や官僚制と同一視して批判まですることも。曰く、「学問はやった奴が偉いからではなく、楽しいからやるものだ」「合理性云々ではなく、国民一人一人の気持ちを考えろ」「一流大の奴はみんなオタクだ。官僚はオタクばっかりだからうまくいかない」「学問だの何だの机の上で考えてばっかりいるだけで何が解る」(注4)。
 ある程度は正当な批判であり、ある程度は事実である。だが、一部と全体の錯誤は甚だしく、まったくのデタラメ・偏見から出たイメージ・ステレオタイプも跳梁跋扈。しまいには言われなき誹謗中傷、関係のない文言まで飛び出す始末。これはすなわち、正当な知識・認識を持たず、世間でささやかれる事象や批判・誹謗、漠然と持つ権力や支配層への反感、メディアで報道される汚職など不正に関する情報などが入り交じり、そうして出来たステレオタイプでモノを言っているためである。


 別に私は、官僚制万々歳な人間ではない。割と肯定的に見ている面はあるが、そうでない面もかなり持ち合わせている。
 ただ、私は大衆が無条件に「正論」だと思い込んでいる文言に、安易に賛同したくないのである。無論私も大衆であることを逃れられないが、所詮何々はこうではないか、という自分の期待でもって物事を捉え、期待に合致する情報でもって全てを認識したつもりになり、自分のイメージ・ステレオタイプを疑いもせず、無知なままで物事を簡単に決めつけたくないのである。
 私は無知な人間であり、それでいてわかった風な口を利いている。だが、私はドグマやソリッドな世界観念を希求しない人間である。絶対的な事実を求め、「何々はAである以上、Bではない」「何々はAでないのならば、Bである」「何々がBであるのならばAではない」といったような、簡単な認識をしない人間である。自己のステレオタイプを、ステレオタイプであると認識できる人間である。少なくともそういう人間でありたい。
 だからこそ、「官僚制すなわち絶対悪」「学歴社会すなわち絶対悪」のごとき簡単安易、絶対的な考えにはひどい反発を覚えるのである。 


注1・・・
 (近代以降に於ける)地方の担当官は、封建領主が自分の領地にするように担当地域を好き勝手に出来ず、何もわからないクズが親の血筋だけで行政を壟断することも、美食やセックスにしか興味のないクズが責任ある地位で何ら責任を果たさずそれでいて責任を追及されないということもない

 そんなことは今の役人もよくやっているだろう、などとは言わないように。
 もちろん現代の行政機関にもクズはいるし、クズの所業がバレず、追求できないこともあるだろう。だが、封建時代に比べると近代以降は分業・仕事領域の分割が進み、個人の持つ権限の規模はとても小さい。その上、チェック機能が優れている。特に現代ではそうしたチェックを逃れることは難しい。帳簿をいじってカネちょろまかしたり、賄賂もらって便宜を図ったりするぐらいならば、バレないこともあるかもしれないが、中世のごとく派手に権力を私的に使ったり、官位の世襲、責任の放棄などは必ずバレるというものである。
 近代以前と近代、そして現代では、腐敗のレベルが違う。だが、現代国家に於いて中世の封建貴族のごとき所業が行われないのは、ただ漠然と「現代だから中世と違う」というわけではない。優れた管理統制機関があるからである。これこそが中世と近代以降との違い。
 ちなみに、現代でも中世の封建貴族のごとき特権を行使し、私腹を肥やし、責任を果たさない支配層というのは存在する。それは未だ近代化を為したとは言い難い国々。街を車が走り、軍隊が自動小銃とヘリコプターを装備する国でも、支配の仕組みの内実は中世にケが生えた程度のひどいものであることがしばしばある。官僚制のような職制を敷き、それっぽい役所があっても、大地主が世襲でそうした肩書きを得て、権力を行使してもチェックする機構もなく、マスコミも発達していないという実状だったり。それを思うと日本はとても進歩的で優れた官僚制を持つ国である。
 だからと言って、日本に於ける官僚の不正を容認してよいわけでも、不正や不合理の温床となる官僚制の性質を改善しなくてよいと言うわけでもないが、官僚制を否定するのは中世社会への逆行と同じというのがあながち荒唐無稽なことではない。


注2・・・
エリートとは、学歴と専門性によって支配者層に入る人間のことであり、封建領主や貴族はエリートとは呼ばない

 エリートというのは大抵高等教育機関の出身で、官庁にはそうした大学/大学院の学閥があったりもする。そうした面からも学歴社会を批判する声が挙がるが、世襲の封建貴族が何もしらないまま官職に就いたり、地縁血縁がモノを言ってそうしたコネがない者は決して支配者層にはなれない社会よりはマシでしょう。
 現代の先進国でも、学歴よりも民族・宗教・家柄・門地・階級・地縁・血縁がモノを言うことはよくあることである。例えばアメリカでさえもそうした傾向がある。アメリカでは、雇用で人種を法律で定められた割合にしなければならない。こんな法律があるのは、社会に根強く差別があるからである。アメリカは一般の日本人が思っているほど自由で平等な国ではない。イギリスでは、そんな法律も制度もどこにもないが、医者や法律家になるのは事実上世襲で、それ以外の職業の親を持つ人間が、医者や法律家になるのは極めて困難である。3〜40年前よりはかなりマシになってきたが、EU諸国でさえもブルーカラーとホワイトカラーの間の社会移動(例えば労働者の息子が知的職業に就いたり)には、まだまだ阻害が残っている。
 日本は欧米よりも差別が多いイメージがあるだろうけれども、ここ60年間行われている調査では、社会移動の比率は欧米よりも高い。つまり誰の息子であろうとも、能力があれば好きな職業に就けるチャンスが多いということだ。社会にコネが跳梁跋扈しているのは私自身よく知っている。だが、それでも高等教育機関を出て試験に受かれば、ほとんど誰でも医者にも弁護士にもなれ、そして上級公務員にもなれる。これはかなり画期的なことだ。現代に於いても、これらの職業になることが自分1人の努力ではほとんど無理な国は、先進国にもまだまだ見られる。これを鑑みれば、日本社会の進歩性を認識しなければならない。
 もちろん学歴社会にも問題はあるし、弊害もある。それは正していく必要があるが、学歴社会そのものを否定することは出来ない。


注3・・・
子供は教育を受け能力を修得すれば医者や法律家にもなれ

 残念ながら、ホワイトカラーの子弟でないとそうした職業に就けない国、事実上世襲に近い国というのは世界的には非常に多く、また先進国にもまだまだ見られる。だけれども日本で官僚と呼ばれる上級公務員、医者、法律家になるのには試験に合格すればよい。ギルドや法服貴族などが独占していた職業を、一般に開くよう特権を切り崩してきたのは官僚制である。まあ、許認可を官が握りすぎる弊害というのもあるのだが。


注4・・・
「ニュースで言っているように汚職が起きている。だから奴らはダメだ」
 汚職は断じられるべきであり、それが起こる土壌も正す必要がある。だが、不正があるからと言って、他の公務員全体をクズと見なすのは全体と一部との錯誤も甚だしい。また、不正があると言って、官僚制の役割・機能・存在意義までを否定はできない。

「奴らが東大卒の石頭だから創造性がない」
 これは差別である。差別というのは個々人の人格・能力などを鑑みずに、ある集団に属しているというだけで、個々人の実際を無視して何かを決めつけることである。さらに言えば、各社会に於けるクズや石頭の比率は、そう変わるモノでもなかろう。名門大だろうとあまり知られていない大学だろうと、専門学校だろうと短大だろうと、進学校だろうとそうでない高校だろうと、どこにでもクズや石頭はいるし、いい奴もいる。


「奴らは寄生虫だ。何かと許認可を握って税金を喰らう」
 生産に直接携わっていないで収入を得る人間を寄生虫と言うのならば、公務員は寄生虫と呼べなくもないだろう。呼ぶのは勝手だが、トマス・モアのユートピアじゃあるまいし、分業というものがある。この複雑怪奇で大規模な社会を運営するためには、管理統制だけを仕事にした人間も必要である。
 許認可については日本は確かに多すぎるかもしれない。こうした既得権益が弊害をもたらしていることも認めるが、だからと言って官僚制そのものまでは否定できない。また、許認可はすべてを民に開放するわけにはとてもいかない。そのためにこそ、寄生虫すなわち生産者としての利害にを持たない存在が必要なのである。

「役所に電話したら、たらい回しにされて、最後にも元の部課に戻った」
 よくある話だし、実際よくあるのだろう。だが、電話を受けたり受付で応対する職員と官僚とは違うのでは。こうしたセクショナリズム、面倒事の回避は確かに問題だが、官僚制の機能そのものの問題ではない。

「学問はやった奴が偉いからではなく、楽しいからやるものだ」
 「国政や企業のトップが高学歴だから世の中おかしくなる」と誰かが言うのを否定したら、こう言われたことがある。まず私個人から言うと、私は楽しんで学んでおる。一言も学歴のある人間・学問をやった人間が「偉い」などと言った覚えはない。また教育機関で専門的なことを学んだ人間が専門的な仕事をするのに、何か問題があるのだろうか?あまり同質の人間ばかり集まるのは問題かもしれないし、大学には何かと問題があること、日本の学生にアホが多いのも認める。だが高等教育機関そのものを否定はできない。
 また、「偉い」というのは、立派だ、尊敬に値するという意味だ。何か目標があって、それに向かって努力し、そしてなにがしかの知識・技術・能力を身につけた人間を「偉い」と呼ぶことに何か問題があるというのだろうか?「偉い」と言ってもその人間の全存在を讃えるわけではなく、評価するのは知識や能力、あるいはそれを身につけた努力やそれに向けての意志・情熱だけだろうに。まさか、「偉い」というコトバを「お勉強がよくできたね。エラいエラい」と母親が幼少のガキに向けて言う言葉と重ねているのではなかろうな。
 さらに言えば、「楽しいから」「人のために役立ちたいから」学んだ人間と、「立身出世したいから」「高収入や名声が欲しいから」学んだ人間との間に、貴賤があるとでも言いたいのだろうか?社会に於いて仕事をするのに必要なのは能力だ。その能力を身につけた動機ではない。

「合理性云々ではなく、国民1人1人の気持ちを考えろ」
 公務員つまり公に奉仕する者には、「国民1人1人の気持ちを考える」という心がけは大切かもしれない。ここでは、1人1人の利害をどうこう出来ない、結局全員の利益を代弁できる訳はない、というのは抜きにする。問題なのは「合理性云々ではなく」のくだりだ。
 「合理性」というコトバを聞くと拒絶反応を示し、心こそが大切、合理性権利義務だの抜かす奴はクズだ、と考える人間は意外にいるようだ。もちろん人間は心情に生きる。だが、合理性だけのために生きる人間なんぞ、私は見たことも聞いたこともない。何かをうまくやりたいという心情あってこそ、合理性を求めるのだろうに。合理性という手段なくして、情緒を満足させる結果を出すのは難しい。特に役所の仕事では、情に走るのは危険だ。公平を欠くことになる上、国民から集めた税金などの希少資源の適正配分を間違い、ムダにすることになる。
 
「一流大の奴はみんなオタクだ。官僚はオタクばっかりだからうまくいかない」
 これも差別である。一流大の人間とオタクと呼ばれる人間、両方への差別である。前にも言った通り、差別というのは個々人の具体的な人格・能力などを見ずに、その人がある集団に属しているというだけで何かを決めつけることである。
 ちなみにオタクというのは進学校や一流大に多いとは限らない。社会に於けるオタクの割合は、そう変わるものではない。例えば、ゾクやヤンキーの中には、仲間の家に集まるときはマンガかゲームに熱中することもしばしばある、という人々もいる。レンタルビデオ屋のアニメコーナーにもそれっぽい人間がゾク車止めてくるのもけっこう頻繁に見るしね。オタクとされている人間には、それこそエリートもいるし、平凡な会社員や一般公務員もいるし、職人や技術者もいるし、労働者にもいるし、フリーターもいるし、進学も就職もしない人間もいる。物事は一概に言えないモノである。私の大学は一流大と言われているが、私を含めて二次元愛好家はそれなりにいるし、またそんなものにまったく関心のない人間、差別意識する持つ人間もかなり多い。

「学問だの何だの机の上で考えてばっかりいるだけで何が解る」
 実際に手で触れ、人と会い、身体で行動することこそ、人間の基本である。頭でひたすら考えていてもわからないこと、想像が及ばないことというのはよくある。だからこそ、企業で幹部候補生として入った人間には様々な体験をさせ、事務方でも最初は現場に出るということがよくある。そういう意味に於いては、実体験なき思考思索は欠けるものがあると言える。
 だが、だからと言って学問や知的生産の価値を意義を、否定は出来ない。この複雑怪奇で大規模な社会で、物事を運営するのには知識の蓄積・知的技術の修得は不可欠である。ただ、よく勘違いされるのは、「学問」や「専門家」というのは何もかもわからない中で何かを模索をし続け、仮説を立てていくことだ。「何もかもうまくいく技術」や「絶対的な事実」を提供するものではない。専門家が全力で事に当たっても失敗するときは失敗するし、わからないことはわからない。当たり前のことだ。だが、これを称して「学問だの偉そうななこと言っても、何もわからないし役に立たない」「もっともらしいこと言っているだけで、奴らの言うようにしても、ちっとも世の中よくならない」「高学歴の人間が企業や政府のトップに立つから、世の中わるくなる」などというのは愚の骨頂。
 人事を尽くしてもダメなときはダメ。失敗するときは失敗するし、わからないときはわからない。当たり前のことだ。学問や専門技術なるものは、全ては仮説。わかることと言えば何も解らないということ。それでも、人間は世の中のことを分析し、どうしたらよりよい世の中になるか、いい生活ができるか模索していかねばならない。その手段こそが、学問であり専門技術だ。見えにくいし、現在の社会が当たり前との感覚があるとありがたみが解らないが、学問は専門技術は、原始時代の地獄や中世の混沌から近代、現代へ、人間社会の進歩に貢献してきた代物である。
 期待しているほどドラスティックに問題を解決するものではないし、神のごとく揺るぎなき真実や法則を教えてくれるものでもない。盲信的な期待などするから、失望するのだ。学問の否定・・・つまり、ただ皮膚感覚や心身のみで物事に当たって、何が出来る。少なくとも、この複雑怪奇な世の中をよくするどころか、維持することも出来まい。人事−人ができる最大限すべてのこと−を尽くさずに、ただ天命を待つなど、人間の所業ではない。