「知るか」「知らないか」であらかた決まる科目

 高校の科目及び大学入試科目としての社会を、私は便宜上「『知るか』『知らないか』であらかた決まる科目」と書いた。これについて少し書きたい。

 世間ではとかく「知識偏重の詰め込み」が想像力・思考力を奪い、社会科目をつまらないものにしている、という批判がある。社会の年号・固有名詞にせよ、英語の単語にせよ、ものを覚えること自体が徒労であり教育の諸悪の根元である、という風潮さえもある。私はこの風潮に抵抗を覚える。

 確かに、知識だけ機械的に覚えても、例えば歴史ならばその時代の人物、思想、情勢に対する認識が今ひとつ深まらないというのはわかる。それに世の中には本や辞書、コンピューターという便利なものがあり、知識がなくても必要なときに調べればよいというのもわかる。だが、物事を深く考察し認識する以前の問題として、知識の蓄積は必要不可欠である。

  知識は思考し、認識をするための足がかりであり、手段だ。極言すれば知識とはコトバである。
 例えば「ウェストファリア条約が1648年に結ばれた」という一節がある。これは多くの受験生がそのまま暗記するフレーズであろう。ここに於いては、「ウェストファリア条約」と呼ばれる事象がキリストが生まれたとされた年からグレゴリ暦で1648年後に起きた、ということ自体には大した意味はない。これだけを知っていても、ドイツ三十年戦争のいかなる経緯に於いてこの条約が結ばれ、この時代の人々がこれをどう受け止め、そして主権国家という概念の確立に於いてどんな意味を持ち、現代に至る西欧国家体系に対してどのような影響を与えたのか、なんてまるでわからない。

 だが、この一節の役割は、「ウェストファリア条約」の何たるかを考察することではなく、その考察をはじめるための出発点となることである。「ウェストファリア条約」というコトバそのものを知らなければ、それに対して興味を持つこともないし、またこの時代を考えるのも困難になる。
 「ウェストファリア条約が1648年に結ばれた」という一節の役割は、まずは「1648年」と「ウェストファリア条約」というコトバを頭の片隅に入れておくことである。詳しい考察はそこからはじめるのだ。だが、1つ1つのコトバにあまりにも長い時間をかけていると、高校のごく短い授業時間で原始から現代に至るまでの歴史の全体像なるものを扱うことが出来ない。だからこそ、多種多様な高校生全般に必要最低限の知識、そこから考えるキッカケであり手段としての知識を教えるのは、結構効率のよいやり方であるであると言える。

 もっと詳しくやりたい奴は、自分で調べるなり、大学の史学科なりに行けばそれでよい。高校社会科の役割は、そのキッカケを与えるだけでも意義があると言える。
 ちなみに、大学受験に於いても、文脈を踏まえた上での考察を要求されることが多くなっており、ある程度のレベルの大学では、ただ暗記するだけでは社会科目で合格点を叩き出すことは困難になりつつある。

 だが、私は自分の高校時代を述べるに当たって、社会を「知るか」「知らないか」であらかた決まると書いた。確かに、ある種類の大学では暗記するだけでは社会科目で合格点を出すのは困難ではあるが、受ける大学の専攻や試験制度によっては機械的に覚えるだけでどうにかなることも往々にしてある。大学側も、一定以上の考察が出来る学生しか取らないのでは経営に支障が出るし、また入学以前の段階では、こうした考察が出来なくともよいとする大学もあるであろう。
 こうした事実が「社会科=暗記」という在り方を作り上げ、教師や生徒が「考察せずにとにかくひたすら、機械的に詰め込め」という姿勢をとる理由にもなっているのであろう。

 ここに於いて、私は「すべての入試で、歴史の文脈を踏まえた問題を出せ」「機械的な詰め込み知識でよしとする入試が、詰め込み教育を作り出す」などと言うつもりはない。
 もちろん、コトバの意味内容・コトバが登場する文脈を踏まえて認識を深めるに越したことはないが、私はこうした簡単な詰め込み勉強法もまた、価値あるものだと考えている。前述のように、コトバを覚えるだけでも、興味関心が沸き立つこともあるし、コトバを知っているだけでも今後の人生で考える足がかりになるというものだ。

 「社会の授業は、無味乾燥で退屈なだけ。時間のムダ」。よく言われることだし、改善できる点は改善し続けてしかるべきだろう。だが、ものを覚えるという作業は大切である。「無味乾燥、退屈」・・・それは想像力がないということだ。ただ書きつづられた王朝の勃興や衰退、時代の変化の記述を読むだけで、私はこの間に何があったのか、どういうプロセスがあり、人々は何を考え、どう行動したのか、が気になって興奮したものだった。高校生や受験生が何を言っても高校のカリキュラムや受験制度は変わらない。ならば目の前にある物事を楽しんで当たらなければ人生の損である。


 また、こうしたコトバを覚えるのが機械的でも、すぐに忘れようとも、脳を使い、情報処理能力を高めることにも意義はある。「社会の科目はクズだ、徒労だ」・・・こういう風潮には、もちろんもっともな理由もあるが、勉強する生徒が労力使い、血ヘドを吐くのを避けて自己正当化する、逃避の方便という気がしてならない。私自身、高校時代はそんなガキであった。人生には血ヘドを吐く瞬間も必要である。血ヘドを吐いて作業に従事してみれば、情報の処理、知識の蓄積がなかなかおもしろいとわかったものであった。

 そうした行為が「時間のムダ」だと思うのならば、他にもっと優先してやるべきことがあるというのならば、別に勉強なんぞやらなくてもいい。いくらでも高校生活の過ごし方はある。また、進学についても、私は入りたかったから大学に入ったが、別に大学に行きたくない人は、別のことで努力すればいい。また、受験制度が多様化しつつあると言われている今日では、別の勉強法でも入れるところはある。
 どんな人生を歩もうと選択しようと、本人に価値あることであればそれでいいが、社会に対する批判や不平ばかり口にし、それを言い訳にして出来る範囲の努力を何らしない人間は、私としては気にくわないのである。