一番ありそうにない・・・
私の台所には、ゴミ箱が7個ある。
可燃ゴミ、不燃ゴミ、空き缶、空き瓶、ペットボトル、吸い殻、電池。
私はちゃんと分別している。私がマジメだから分別しているというよりも、分別しないと回収されないから分別している側面もある。ゴミ箱を分ける些細な労力を惜しんで、アパートの玄関口がゴミで埋まるようなことにはしたくない。面倒を避けるための労力に過ぎない。もちろん、地方行政を学んでいる人間として、ゴミを分別しないと住民にどんな負担が返ってくるかも把握しているが。
さて、このゴミ箱の数々に対して、来客はしばしば戸惑う。私の部屋を訪ねる客人は大抵長期戦になり、メシをうちで食うことになる。宿泊の最中に消費した弁当殻や飲料の缶などを廃棄しようとして、客はゴミ箱の前でゴミを手に持ったまま停止する。
大抵はそこで、「ゴミ、どこに捨てればいいんですか?」と聞いてくるのだが、この日訪ねた■■は違った。カップラーメンの発泡スチロール容器を手に持って、ゴミ箱の前でしばらく停止していた。どうするんだろうと思って、私はその様子を黙って見ていた。
すると■■は、一番ありそうもない空き瓶のゴミ箱に捨てやがった。考える努力を放棄して、一番近いゴミ箱に捨てたのだろう。「燃えるゴミ」「空き瓶」とはいちいち書いていないが、空き瓶しか入っていないゴミ箱にどうして捨てるかね・・・。
小学校のときも似たようなことがあった。こっちはもっとひどい。
実家に訪れた同級生は、鼻をかんだちり紙を捨てようと立ち上がった。部屋にはチリ紙なんかが入ったゴミ箱と、アイロンがけしてハンカチを入れておく円筒形の入れ物の2つがあった。このハンカチ入れは、切り絵を施されたきれいな民芸品である。
だが、同級生はこのハンカチ入れの前までやってきた。中を覗き見る。中に入っているのはキレイに折り畳まれたハンカチ。彼はしばらく考えてから、積み重ねられたハンカチの上に鼻をかんだチリ紙を投げ捨て、何事もなかったかのようにまた座った。
ちょっと考えれば、このハンカチ入れがゴミ箱ではないことなどわかるはずである。ゴミ箱にしてはおかしい、ということは彼も気づいたはずだ。しかし彼は考えることを放棄した。一刻も早く、汚らわしい丸めたチリ紙を離したい、という欲求こそが最優先であった。
ゴミの問題というのは、結局は「自分の身からゴミを遠ざけたい」という欲求に帰結される。この欲求を優先させることの前には、捨てた場所が適切なところかどうか、捨てたゴミがどのように扱われるか、どのような影響を及ぼすか、などということはどうでもいいことなのらしい。
人間に良識のための努力を期待してもムダだ。ゴミをよく考えないで投棄したら、痛い目に遭う。そういう仕組みこそが必要なのであろう。私はゴミをちゃんと回収されなかったら困るから、きちんと分別する。うちの来客は、いい加減にゴミを捨てたら私に一喝される。だから私にゴミをのように捨ててよいか聞くようになる。これが社会というものか。
もっとも■■流の発想では、燃えるゴミというのは火にくべれば燃えそうなものすべて。ここにはプラスティックも発泡スチロールもペットボトルも含まれる。燃えないゴミというのは空き缶・空き瓶。凄まじい発想である。テレビや新聞を目にして、この現代を生きていて、こんな発想しか持てないとは驚異的である。