「ケッ、何が『都市政策を考える』だ!」
私は総合講座「都市政策を考える」、略称「都市政」を終えて、8号館から外に出た。そして、学食前の通路・ペデ下の端で一服。人心地ついたところで、吸殻を通路端の灰皿に叩き込んで歩き出そうとしたまさにそのとき。
「ケッ、何が『都市政策を考える』だ!」
いきなり背後でただならぬ声が聞こえた。振り向いたら、後輩■■が、痰を吐き捨てた直後のような顔をして歩みよってきた。私が驚いて何だと聞き返すと、ポイ捨てダメですよ、と彼は続けた。今度はコトバじりこそ丁寧ではあったが、怒りをたたきつけるような口調であった。
まあ彼が何を勘違いしているのかは想像に難くなかった。ペデ下の縁石にハメ込まれた灰皿。彼はこれが灰皿だと知らず、また私がそこに吸殻を捨てたのを見ても、それが灰皿だとは気づかなかったに相違あるまい。
「これは、灰皿だろう」
私が指をさしてそう言うと、■■は驚いたような顔をしてそうなんですか、と数度聞き返したあげく、なんとか自分の立つ瀬を保とうとよくわからんことを言いつくろおうする。やっぱり。
中央大学は、私が入学した当初は学部棟の廊下の壁にも灰皿がハメ込まれ、ほぼすべてのゴミ箱は灰皿との一体型であった。つまり事実上、ほとんどすべての場所で喫煙できた。しかしやがて屋内のほぼすべての場所が禁煙になり、灰皿は激減した。
それでも、昔の習性が抜けない者や吸いたいときにどこであろうとその欲求を抑制する意志に欠ける者なんかは、ペナルティが事実上ないこともあってここそこで吸殻を散らかし、床や壁を焦がした。しかし私はもちろん、そんなクズではない。この日もまた、通路に置かれたベンチの奥で喫煙し、吸殻を設置された灰皿に捨てたのだ。それに対して文句を言われる筋合いはない。
もちろん■■は、間違っただけだ。正義感あふれると自称する彼は、私が吸殻を地べたにポイ捨てしたと思い込んで、声を上げた。年齢も学年も2〜3離れた先輩に対して、その非を弾劾しようとする勇気は大したものと認めよう。だが。彼が声を上げたとき、彼の認識が誤っているケースが多すぎる。
今回とて、床やタイルの上に吸殻を転がしたわけではなく、鉄製の取り外し可能な器に吸殻を投げ込んだのだ。この物体が灰皿と知らなくても、もしかしたら灰皿ではないか、という程度の発想は持たないのかね。もちろん間違うことを恐れていたら何も言えない。しかし、自分の認識を疑いもせずに、いきなりケンカ腰で吐き捨てるのはいかがなものかと。だから恥をかく。「ポイ捨てダメッスよ」程度に声をかければ、勘違いとわかってもそれほど恥をかくこともなかっただろう。プラス、私からの軽蔑を受けることもなかっただろう。
別の項目で述べるが■■は、自治体によって「燃えるゴミ」「燃やせないゴミ」との区別や処理方法が異なることを知らず、人の家でゴミの在り方に対していきなり罵声を上げ、やはり恥と軽蔑を受けた。正義漢を気取るのがわるいこととは言わないが、別に相手が「間違っていた」としても、自分が高まるわけではない。相手が、自分の行いが「間違っている」と気づいていないのならば、それを指摘し、わかっていてそれを為しているのならば非難するのも結構なことだ。だが、そこを優劣関係で捉えると病理を生む。
「間違ったこと」をする他者がクズで、「正しく物事を為す」自分がすばらしい人間だと思えてくるわけだ。別に、1つ2つなんかやらかしたぐらいで全人格を完全否定できるわけでもない。また、無知故に「間違い」を犯すこともある。そして、1つ2つの物事を「適切な」方法で為したぐらいで、自分の全存在が賛美礼賛されるわけではない。「適切」とされるやり方で物事を為すのは、社会で生きるうえでは当然のことであって、取り立ててすばらしいことではない。そこを勘違いしていると、自分の認識を疑えなくなってくる。極端に言うと、他者の「間違い」を弾劾して相手を「劣者」と認定し、自分の「優越」を確認する快楽の中毒になる。その結果、自分が他者に見出す「間違い」の判断が、妥当なものか疑えなくなってくる。そして相手が「間違っている」と判断すると、相手を徹底的に叩く衝動にかられる。正義の名の下に、優劣認識がもたらす快楽を、より強く求めるわけだ。
「あいつ、あんなことやりやがって、許せねえ」なーんてのは、「義憤」のような体裁をとっている。実際、■■が弾劾しようとしたポイ捨てにせよゴミの分別怠慢にせよ、「正義」と思えそうな御旗を掲げている。「義憤」も「正義」の執行も本来は結構なことなのだが、ただ自己優越意識を追い求めるようになったら本来の目的を逸する。必要以上に他者を貶め、ケンカをふっかける体裁を当たり前のように行うことを「正義」の執行と勘違いするようになってしまう。こうなると、自分の認識が間違っていたときの収拾がつかない。
正義漢の名を語って自己の「優越」を高めたい人は、自分が「正義」の御旗を掲げて「善行」を為していると思い込んでいるから、自分を疑うことさえも出来なくなりがちになる。その結果、自分の認識が「間違っている」と指摘されただけで、相手が「正義」に挑戦するクズであると感じられて、怒り狂うようになる。自分の言動や判断の妥当性を再検討などは決してしない。さらには、道を歩いていて自分の肩に誰かが触れただけで怒り狂い、逆に自分の肩が誰かに当たってもそれには気にしない。相手が怒ったら、相手を異常と認定して逆に怒り狂う。そんなクズになり下がってしまう。すべての対人関係が、自己の「優越」と他者の「劣等」を確認する行為に成り下がってしまい、それを覆すような他者やその言動を「おかしい」「異常」とラベリングすることしかできなくなる。
ちなみに■■もまた、具体的には述べないがある悪行の常習犯である。場合によっては社会的制裁を食らうだろう。しかしそれについて誰かに責められたとき、■■は笑って自分の行いは大したことではないと述べ、しまいには誰もがやっていることだと怒りだした。やはり■■もまた、ただ自分の尊厳を高めるために他者を貶め、自分を疑えない人間なのだろう。■■は次第に誰からも軽蔑され、孤立し、しまいには姿を消してしまった。
蛇足ながら、一神教の絶対神のようなものが存在しない以上、罪のある者が他者の罪を裁くしかない。批判者も罪を犯しているからと言って他者を批判を出来ないのであれば、他者の罪は誰も正すことは出来なくなる。そこに於いて、自分があたかも神かその使いのようにイノセントで、イノセントだから悪人の罪状を裁く、のような発想を持つなということだ。罪人が罪人を裁いているという認識を持ち、自分の判断を疑い、自分の行状を顧み、その上で敢えて非難を行う。もちろん非難するときに容赦する必要はないが、一定の謙虚さ−自己を疑う余地−は保持し続ける必要はあろうて。