諏訪・上越・十日町・沼田の旅
1999年09月12日 23時54分55秒

 去る9月10日、突然高校からの友人・総統(仮名)より、レンタカーにてどこぞに行かないかとの電話があった。残り少ない夏休み、何某かのことをしでかしたいと思っていた私は、これを快諾。その日のうちにレンタカーにて出発することとなった。
 何軒かレンタカー屋に当たったが、急な話の上にすでに夜。営業時間が終わっているレンタカーさえもあった。総統が私の家にやって来てからレンタカー屋に当たったため、その移動時間を結構ムダにしてしまったのが悔やまれる。しかし、協議する間もなかったため、やむなきことか。
 それでも何軒か電話しているうちに、1軒だけ今すぐ乗れる車を用意できるところがあった。しかし車種はマツダ・ファミリアのみ。1300ccクラスで安く上げようと思っていたのだが、1500ccクラスか。まあ、少し高くつくが、長距離運転ではデカい方が楽なはずだ。ここまで旅への思いが盛り上がり、このまま総統と二人で自宅で酒でも飲んで、何事もなかったように、解散して終わらせることは出来なかった。それにしてもトヨタでもホンダでもなく、マツダ車に乗ることになろうとは・・・。
 タクシーにてレンタカー会社に行き、車を受け取る。そして出撃。


 まずは私が運転する。総統も免許は持っており実家ではよく運転していたそうだが、多摩地域を脱出するには私が運転した方がよい。難なく国立府中ICから中央道に乗ったが、それまでの間、このファミリアの性能・装備には驚かされ続けた。
 まずトランスミッション。シフトをどれに入れても、何一つ変わったような気がしない。ATと言えども、シフトダウンすれば少しはエンジンブレーキが利くはずだが、何事も感じられない。さらにはフットブレーキ。踏んでも止まらん。そりゃあ、いつかは止まるのだが、効きが悪すぎる。最初から波乱の予感がしたものだった。
 内装もひどいものであった。私も総統も喫煙者なのだが、灰皿を引っ張ると何の抵抗もなくすっぽ抜けて、灰皿が落ちる。灰皿を固定する部品さえもケチっているというのか!さらには、ドリンクを保持するホルダーも、半円形という理解不能な形をしているため、ただ走っているだけでもドリンクの缶やビンがすぐに倒れて大惨事になりそうで、とても使えなかった。結局、飲み物はペットボトルで栓を閉めて、後部座席にぶち込むことした。
 マツダはフォードのテコ入れで気合いが入ったかと思いきや、まだまだだ。高速に乗ったら乗ったで、加速が悪すぎる。高速への乗り入れや車線変更さえも危ないぐらいだ。カタログデータでは馬力に劣るはずの10年近く前のホンダ・コンチェルトの方が、まだまだマシな加速をしてくれたよ。


 さて、中央道へと乗ったが、どこか明確な目的地があるわけではない。とりあえず、東京圏から手っ取り早く脱出し、どこか手頃なところで降りるに高速に乗ったまで。そもそも目的地なんぞは決めていない。とりあえず、長野県の諏訪南ICで高速をおりた。
 とりあえず、諏訪大社でも見物しようか。その程度の軽い気持ちだった。

石垣を這う。

 しかし、ICを降りるや否や、徹底的に迷った。北と南の判別もつかなくなり、何度も北へ南へ何qも走ってはもどりを繰り返した。地図は持っていたのだが、零時過ぎの夜中であるため、目印もなにも見えず、ただ走るしかなかった。
 そんなときに、ふと公園に立ち寄ったのが左の画像である。
 人がいないことを確認して、エモノ片手に公園を這って、「スパイ」の真似事をし、バカ笑いしながら写真など撮った。パトカーが近くを通ったときには冷や汗ものだったが。地面を這っているだけなので、そんな大変なことにはならなかったとは思うが・・・。

 諏訪大社を目的地には設定していたが、あくまで放浪が旅の目的。迷うこともまた一興であった。公園や無料の駐車場があると降り、写真など撮って、また移動。運転は私と総統が交互に行ったが、帰省していた間MT車をずっと運転していた総統の運転は冷や汗ものであった。
 そう、AT車に慣れていないのである。
 運転手が左足で無意識にクラッチを探している様と、ブレーキの遅さは、助手席に乗っていても気が休まらなかった。さらに、DからNにシフトチェンジするとき、シフトのボタンを押したばっかりにRに入る様にも、血が凍った。慣れない人は、Dに入れっぱなしで、停車時はブレーキだけでいいのであるが。
 私は助手席では、運転時以上に落ち着くことが出来なかった・・・。

周辺住民が、奇異の目で見ておりました。
夜な夜な刃物を洗うキ@ガイ(本当に洗ったわけではありません)

 このように、我々は公園や史跡に出くわすたびに車を止めて、珍妙な小道具とともに写真など撮ったのだが、我々は公共物、とくに歴史的遺産には敬意を持って当たったことを付記しておく。


 さて、そろそろ本腰を入れて諏訪大社を探そう。そう思い、神社を探しているうちに、我々はとんでもない山道に迷い込んだ。ファミリア1台分の幅しかない急すぎる山道。ギアを落として一気に登ろうとシフトダウンしても、何かが変わったようには感じなかった。エンジンが悲鳴を上げる中、アクセルペダルを目一杯踏んで上り続けた。
 自分のヘッドライト以外は、何一つ光のない山奥。そこに物の怪の目玉のごとく赤い光がいくつも輝いたときには、正直背筋が凍った。一瞬遅れて、ファミリアのヘッドライトが積み上げられた廃車のテールランプを照らし出したのだが、どうやってこんな山奥に廃車を積み上げたのだろうか?

 この面妖なる山道を登りきった末に、小さな鳥居にたどり着いた、右の画像である。この鳥居の向こうには、草が生い茂った通路があり、何かはあったのだろうけれども・・・ヘッドライトを消したら自分の手の平も認識できない暗さである。この山奥、木々は原始の昔から生えているかのように高くそびえ立ち、しかも霧まで立ちこめていた。お詣りをしてもよかったのだが、こんな中、草が生い茂る、つまり人がほとんど訪れない鳥居の向こう側へと足を踏み出す勇気などなかった。
 乏しいスペースで無理矢理Uターンをし、もと来た山道を下ったのだが、私のドコモP206でさえも圏外なこの山奥。ちょっと脱輪しただけで、どんな艱難辛苦に陥ることか。プレーキングが遅く、しかも平気でヘアピンカーブを飛ばす総統に対し、私はスピード出しすぎだと注意しつつも、私は助手席で存在しないブレーキを踏み続けていた。

アングルがおかしいのは、車のボンネットにカメラを於いて写したためッス


 ちょいとした冒険から文明世界へとなんとか戻った後、道路標識に「諏訪大社」との記述をみつける。
 それに従って車を走らせ、やがて2時間も迷い続けていたのがウソのように、諏訪大社に至ることができた。
 すでに午前2時だったのだが、諏訪大社の門は開かれていた。 

・・・飲んで大丈夫なのか? 手を清める。


 入り口で手を清め、早速諏訪大社を参拝する。
 國學院の学生である総統は、神社に対しては最大限の敬意を払う。
 また、私も史跡・文化遺産は尊重するし、神道にもそれなりに敬意を払う。
 境内に於いては、我々は悪ふざけは一切しなかった。
 それにしても、日中は観光客や参拝者が数多く訪れるであろうこの大社に、我々以外はだれ一人としていなかったのは、なんとも得難い体験であった。諏訪大社の敷地はとても広い。だが、その敷地に存在するのは、神社の建物や石造りの設備、そして古くから生えている木々だけである。どこに目をやっても、そうしたものしか見えない。そんな中に於いて私は、なんとも由緒あるところに来ているのだな、と何気なく思ったりもしていた。
 観光客や参拝者で溢れていたら、印象は大幅にかわっていたことであろう。


 それから、我々は北に向かうこととした。
 理由などない。ただ、もっと旅をしたかったからだ。
 目的は日本海を観ること。
 レンタカーは24時間契約なので、諏訪から新潟あたりに行くのが限界であった。
 その運転は、すべて私が行った。何故かというと、総統が寝てしまったからだ。寝ている人間を無理矢理たたき起こして運転させても、それは危険だ。シートベルトをしたままリクライニングを目一杯倒し、そして寝ている総統。運転席からその図を見て思う。私がどこからぶつけたら、シートベルトで首が折れるんじゃなかろうか、と。
 私はこんなこともあろうかと思って、東京を出発する直前まで眠っていたので、そう眠くはなかった。
 まあ、総統が起きたときに日本海をながめさせ、驚かせてやろうではないか。
 一人で深夜、空いた国道を走るのもいいものだ。
 

早朝、セルフタイマーにて撮る。


 県境を越え、そして上越市に入るころには、通勤の車で渋滞が始まっていた。どこかの脇道から出てきた日産ADバンを列に入れてあげたりして、のどかに車を走らせた。景色ものどかだった。遠く前方には上越の町並みのようなものが見えていたが、自分の走る道路周辺は、なかなかの田舎。幹線道路からちょっと降りて、JR脇野田駅にて写真など思わず撮ってしまったぐらいである。 

上越到着。すがすがしい・・・というか、疲労困憊の朝 ゴミ箱前にて頭を洗う奇人


 このまま富山まで行ってしまおうかな・・・などという無謀な考えを捨てて、上越市内の海の見える公園にて駐車。やっと車を止める。総統もやっと起き出して、日本海を見て感心。さして、いきなり公衆便所横の水道にて、頭なんぞを洗い出す。総統曰く、「台湾式シャンプー」だそうだ。台湾では、よく見られる光景だそうだが・・・台北に1年間留学していた彼の言うことだから、間違いではないとは思うが・・・。
 その後、写真が趣味の総統は、1眼レフのカメラ片手に防波堤を越えて、喜び勇んで写真なんぞをとりに行った。私は一服やって用を足し、のんびりくつろいでなどいたが。

写真撮影のため、防波堤を乗り越える


 私は、とりあえず日本海まできたのだから、上越でゆっくりして休み、そして上信越自動車道にて東京に帰る案を提示した。すでに午前8時を過ぎ、車の返却時間まであと、ちょうど12時間程度であった。24時間契約というのは、けっこう無謀な旅だったかも。これから車に傷一つ付けずに東京まで返却するのは、それはそれで難作業である。
 しかし、総統は「それではおもしろくない」と反対。寝ていた彼にとって、諏訪を出た次の瞬間にはもう上越だったので、まだまだ物足りなかったに違いない。総統が運転するということで、もうちょっと回ってみることとした。


 上越から十日町に至り、十日町で給油。そこから六日町ICに至り、関越を下る。
 総統の運転だったのだが、実は彼は、このときが高速に初めて乗ったのである。自動車学校でも、我々釧路人はシミュレーターでしか体験しない。私は棒術部の関係でかなりの長距離を何度も乗っているが、総統の運転は恐ろしかった。
 高速道路で、××km/hを切らないでくれ。あおられるだけならばまだしも、追突されたら冗談にもならない。
 さらに、追い越し車線を××km/h程度で走らないでくれ。160km/hぐらいのスピードでかっ飛ばしてきた奴に、本当に後ろから追突されるおそれがある。
 今度はスピードを上げるが、××km/hは速すぎる。それぐらい出すやつは出すが、高速の感覚と常識がわかていない総統が出すには危険な速度。出し過ぎだというと、××km/hでカーブを曲がっている途中でブレーキを踏むな!遠心力で吹っ飛ぶ!!
 そんなこんなで、私が総統にかなり口やかましく注意をし続けた。そのため、車内の空気は険悪。
 そのため、このへんの記憶はほとんどない。


 沼田で一度高速降り、再びのんびりと写真撮影なんぞをやることにした。
 総統が興味ある神社を回り、いいアングルの景色がある度に写真をとり、車内の空気はやっと緩和されてきた。口数も多くなってきた。
 そして出会ったのが、下の不法投棄車両郡である。

法政Tシャツは、私の自慢の逸品 足を変に絡ませているのは、気取っているのではなく、足場のせい


 利根川か何川かわからないが、河川敷に廃棄されたブルドーザーとパワーショベルを発見。
 これは早速撮影するしかない。
 「これがオレのマシーンだ!」と言わんばかりに撮影したのが、上の画像である。
 ひさびさに笑った気がした。


 それから再び沼田ICから関越に乗り込み、私が運転して多摩地域までなんとか戻った。
 しかし、最も辛かったのは、圏央道を降りてからの道のりであった。
 もう疲労と眠気で、意識を保ち続けることでせいいっぱい。
 それでもレンタカーに傷一つつけずに無事返却。
 それから総統と二人、料金の精算などをした。
 かかった費用は、一人当たり15000円ほど。これはレンタカー代、高速代、ガス代、レンタカー屋まで乗ったタクシー代の合計値を割った数字であり、これにそれぞれ個別で買った食料・ドリンクなどをいれると、かなりかかったな。それでも、たった24時間で、随分と放浪できたものである。
 レンタカー屋の近くの公園にて、私と総統の二人はビールで無事に乾杯。
 それから、日がくれるまで雑多なことを話し続けた。
 自宅に帰り着いたのがいつのことであったか。帰ってから20時間もの間、私は眠り続けたのであった。
 このとき、サークルの連中はカラオケでアニカラ13時間耐久をやっていたとか。


注意:
 実際にスピードを出しすぎるのは、道路交通法などで処罰をされるだけでなく、内定取り消し・減給・降格・クビなどの理由となり得ます。また、言うまでもなく重大事故の原因となり、身体的・精神的・経済的・社会的に不可逆的な大損失を受け、あるいは与えることにもなりえません。


■後年記■
 公園を這っていることを警察官に注意されるのでは、ということを書いているが、それよりも小道具で武装していることの方が今日の目からすると、よほど問題である。ものによってを持ち歩くことは軽犯罪法に抵触する恐れがある。エアガンを持ち歩くことを禁じる法令はないが、みだりに持ち歩き、人前で見せるとトラブルを招く恐れがある。武器についての社会の警戒や取り締まりが厳しくなってきた後の時代では、旅行で武器を持って記念撮影なんてとても出来ない。
 なお、宗教施設においてエアガン等を持って立ち入った訳ではないことは付記しておく。上記の通り、我々は宗教には敬意を払っている。


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