卑しくも最高学府に学ぶ者が・・・
1999年12月13日(月)

 同じゼミの奴に声をかけられた。
ゼ「お前、ノートとか集めてるか?」
私「まったく」
ゼ「どうすんだよ、お前?」
私「テキトーに」
ゼ「死ぬぞお前」
 確かに私は成績のよい学生ではなく、そのことはゼミで有名である。しかし、ノート集めなんぞをしていないからと言って、それでヤバイなんて言われる筋合いはない。


 中央大学は、勉学に打ち込める大学だとの評価が一般的である。周囲に遊ぶ施設などなく、学校に来さえすれば講義に出るしかない。校風としても、学生は真面目で質実剛健。資格試験なんかでも、合格実績は一流大学としても相当高い。


 しかし、必ずしも中大生が勉学に秀でているというわけではない。「中大生はマジメに勉学に勤しむ」との評価の実態は、「とりあえず講義には出るが出てるだけ」「マシーンのように、ただノートをとる」「テスト前には、『ノートマシーン』からノートを借りて、それで試験対策とする」といったものである。
 無論、真摯に学問と向き合う学生も少なからずいる。講義でボケていたり、テスト前にノート集めをしたり奴も、どこの大学にも居ることだろう。ただ、中大もその例外ではないということである。


 ノートを取るのは大変結構なことだ。ノート集めをするのも、わるいことではない。情報はあったほうがいい。
 しかし、私は「ノート集め」などバカの所行であるとの念を禁じ得ない。


 ろくに講義にも出ないで、ノートを集めてどうするつもりだ?他人の書いたノートなんぞ見ても、大したことは想起できまい。ノートなんてものは、理解し、認識したことをより明確に思い出すための道具に過ぎない。ノートは参考書でも学術書でもない。
 ノート集めをする奴は、大方はバカである。バカというのは、講義に出てるか出てないかということではなく、学問への姿勢や認識能力・思考能力が扁平だということだ。
 あらかじめ知識や教養のある奴ならば、他人のノートを見ても、書き記してある断片の情報や単語から、なにがしかのことは想起できる。ノートを見て講義で行われたことを把握し、その上で学術書を開いてみるのもいい。しかし、バカはそんなことなどしないし、できない。
 バカのやることはというと、ノートの内容を暗記するだけである。


 そんなのは、学問じゃねー!暗記はよく「無意味な勉強」と批判されるが、私は暗記こそが学問の礎だと考えている。しかし、他人のノートを暗記するなどという行為は、よほど素晴らしいノートでもない限り、断じて学問ではない。


 私は、出ている講義であろうと出ていない講義であろうと、一切他人には頼らない。
 試験開始後に問題を見て、それから考える。知識は材料にすぎない。知識があり、それを知るだけではなく認識し、そして考えてこそ答案は書ける。
 私の成績は決してよくはないが、私はこれが私の実力だと思っている。他人のノートを丸暗記して、忘れないうちにそれを答案用紙に並び立て、努力賞でCを貰うなんてことは決してしない。だから、私はまったく無知な分野や認識が足りない科目に於いては、落とすこともしばしばある。
 私は自分が学問に於いてさほど出来る人間とも思っていないし、事実落とした科目も少なくない。しかし、学生たる者はこれでいいのではないかと考える。1年のときの成績表は傑作で、AとDの2種類の評価しかついてなかった。これが私の学問である。


戻る