「時代は変わる」
2000年03月07日(火)

 少子化と人口流出のため、釧路市の小中学校は多くの地方都市と同様に、1クラスの児童・生徒数を減じ、学年ごとのクラスも1クラス、2クラスと減っている。私が通っていた小学校や中学校の学年ごとのクラス数は、私がそれらの学校に通っていたころの半分程度になっているらしい。
 その少子化に対応するため、釧路市は小中学校の大胆な統廃合を計画。釧路に存在する市立小中学校は、およそ半数になる。これはドラスティックな変革だ。


 私の通っていた小学校と中学校は、どうなるのだろうか。例えば「統合した新小・中学校」の校舎として、私の通っていた学校の校舎を使用するような場合、校名はどうなるのだろうか。校名が変わったら、校歌なんぞはどうなるのだろうか。


 私の通っていた小学校、中学校がどうなるのかはわからない。
 ただ私は、形あるモノ(object)だけではなく、観念の上に存在しているモノも、流動的な存在なのだと、改めて認識したものだった。


 何年か、あるいは何十年か続いたものでも、それがこの先も同じ形体で存在し続けるとは限らない。また、「今まで」当たり前に捉えていたものも、考えているほど昔から存在していたとは限らない(そういう意味に於いて、私は「最近の〜は・・・」という、過去を美化し、目の前の事象を批判するような発想がキライである)。


 国家にせよ、企業にせよ、法にせよ、経済システムにせよ、家族形態にせよ、日常の生活習慣にせよ、すべては流動的に変化をし続けている。人間が見ているモノ、捉えているモノなどは、流れる川の、ある一点の水分子のようなもの。これからの社会が、世間が、どのようなものになっていくかは、想像がつかない。


 権威ある大会社に入ったところで、潰れるかも知れない。
 有望視されている資格を取っても、技術や制度の大変革が起き、無用な代物になるかも知れない。
 堅実に預金していても、インフレで預金が紙切れになるかもしれない。
 あるいは、日本国という国家形態が、ドラスティックに変革することだってありえることだ。自分の国の旗が変わるということも、そう荒唐無稽な話ではない。


 国が滅びようと、生活スタイルが劇的に変わろうとも、人間は生き、そしてくたばるわけだ。
 今、大学生という立場にある私としては、その流動の中に於いて、何が変わろうとも生きていける人間。それを、自己の在り方に於ける一つの指針として考えたのである。
 具体例をあげれば、立派な会社に入って安心するのではなく、倒産・解雇されても生きていける人間を目指す。といったもんである。    


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