大衆迎合
2000年04月04日(火)
今日の日経で読んだのだが、富士通の秋草社長が企業が求める人材像について、次のように語った。
「個人の価値とは第一にお客様、つまり市場の評価。会社の中でしか価値が持てない人は淘汰される」
そう、企業であれ、個人であれ、自己の価値観でしか物事を認識できない人間はダメだ。他者を想起する能力と、それを踏まえた上で繊細な対応をする人間こそが、商業であれ人間関係であれ勝利する。自分勝手に「よかれ」と思ってやる行動ほど、端から見ていて滑稽で、その行動の対象となる人間にとって迷惑なものはない。
まあ、これは社会に於いて自己の立場を、自己の利益を獲得するためには当然のこと。
私は秋草社長の言葉から、もう一歩踏み出した解釈をした。
自己の価値観を打破するのは結構なことだが、周囲に合わせるだけではダメだ。大衆迎合は「攻め」のための方策のように思えるが、実際には弱気な「守り」に過ぎない。それは緩慢な滅びへの道だ。
流行りに合わせて、似たような商品を売ってもダメだ。同じものを売っても、勝利するのは最も体力のある企業か、いち早く新製品を売り出し、市場にその商品のイメージを確立した企業だけだ(市場は、二番手以降の商品を、即座に「模倣」と判断する)。
大衆迎合と、市場のニーズに応えることとは異なる。
それを誤解して、ソ連型官僚主義的社会主義国のように、同じような商品ばかり売る。これは不毛だ。
同じような商品を売るのならば、競争としてコスト削減が図られる。すると、売り上げに対して利幅が減り、人件費も抑えられる。
企業に勤める社員も、消費者である。
会社の収益が抑えられた結果、社員への給与も伸び悩む。その結果、消費が抑えられ、さらに商品は売れなくなる。それを打破するために、さらに値下げ。するとやはり企業の利益が減る。そのしわ寄せは社員に・・・これがデフレってやつだろう。
実体経済以上に資本が流入している状態(バブルってやつ)ならば、大衆迎合して似たようなものを売ってもいいのだが、その状態は長くは続くまい。
大衆迎合した商品開発していても、流行りが廃れるのは早い。
流行が去ったとわかったとき、すでに工場をすぐには止められない。材料・部品を発注している。さらには、作ってしまった商品が在庫となって存在している。
ヤバイと思った投資家が一斉に資本を引いたとき、どうなるか・・・。
不況。
ヘタすれば恐慌だ・・・。
大衆迎合ではない市場へのアプローチ。
それは、「大衆」などという実体にとぼしく、風ひとつでどうにでもなるものではなく、もっと手堅い「一定の客層」を限定し、ピンポイントで商品開発をすることではなかろうか。
流行のままにつくられた商品は、やっぱりつまらんわけよ。開発コンセプトに、ある程度の一貫性のある商品は、人によってはとても魅力的なものとなる。
そういうモノ作りを企業に求めたいッス。
そして、それは個人レベルに於ける人間関係でも同じ。
流行りにあわせて話題を選定し、AというシチュエーションがあればBという言葉を提示する・・・。最初からそうした決まり事があるかのように。それ以外の言動の在り方が存在しないかのように。これは「代替コミュニケーション」と言える。結局、何も言ってないのと同じわけよ。
まあ、こういう「会話」でも笑い、楽しめないことはないけど、それはノリを維持しているだけ。こんな「会話」しかできない人間。真摯になれず、常に「意味内容のない笑い」や「代替コミュニケーション」以外の言葉を紡ぎ出せない人間は、つまらん奴だね。こんな奴は、信用もされなければ、頼りにもされまい。いざというときに、誰も助けてもくれまい。
大衆迎合。
むなしい人間の生き方だね。
私は御免だ。
奇人変人と言われようが、私は私の道を行く。
富士通の秋草社長の言葉。
わずか何行かの言葉で、ちょいと考えましたよ。
まあ、常日頃思っていたことだが、文章化し、明確化する契機となった。
そして、当サイトを改築しようとの気になったのである。
当サイトのコンセプトを、「反大衆迎合」として掲げよう、と。