「ノリ」自体に意味内容はない
2000年04月15日(土)

 私は、ノリというものをそう重視しない。
 ノリというのは、「場」の支配力の一種。大声で誰かが仕切り、他の人間は、率先垂範して「場」を盛り上げようとする者の拍手やシュプレヒコールに同調する。こうして、あたかもその場にいる人間が一体となったかのような気分を味わい、大声や歓声を発することによってそれなりに充足する者もいるだろう。
 しかし、私はこのような「場」の在り方を好まない。


 これは、コミュニケーションとしてはもっとも粗雑な形態であり、その内容は原始的。他の形態のコミュニケーションを排除さえする。
 個々人の名も顔もわからぬような「大衆」相手に、質を問わず「一体意識」を持たせ、大衆を一集団として行動を起こすためには、ノリは必要なのかもしれない。選挙運動やコンサート、祭りなどでは、こういう手法も有効だろう。
 しかし、日頃の会話や飲み会、カラオケは、大衆社会(mass society)ではない。ノリによって「場」を支配し、参加者を「大衆」にするということは、参加者個々人の主体性を奪うということであり、個人対個人の交流を阻害させ、個々人が「名も顔もなき民」のままその「場」を終息させるということである。


 このような飲み会・カラオケは、オールラウンド・サークルのような大衆サークルに於いて行われる。
 大量の人間が存在するオールラウンド・サークルに於いては、「イッキやりまーす」などと叫んで酒を喰らう以外に目立つ手段がなく、大衆と化した参加者が「イッキ、イッキ」「粗相ッ、粗相ッ」などとわけもわからず叫ぶことでしか一体感を得られない。


 ま、それで楽しい愚衆はそれでいいだろう。他者の人間関係の在り方なんざ、どうでもいい。しかし、私はそんな意味内容のない行為で、貴重な大学生活の一時を費やすなんてことは出来ない。
 そして、オールラウンド・サークル的な人間が、クラスやゼミの飲み会に於いても、「場」を意味内容のないノリで支配しようとするのは看過ならぬ。大衆社会に於いてならばまだしも、人数もそう多くなく、個々人を特定の個々人として認識できる「場」に於いて、何故大衆支配力であるノリを造り出し、敢えて盲目になろうというのか。


 オールラウンド・サークル的人間は、「オレ、次イッキするから、お前盛り上げろ」などと根回しを行う。なんて空虚なのだ、「ノリ」というヤツは。そんなものに頼らないと、酒も飲めないのか。
 結局のところ、ノリによって盛り上げようとする人間は、それ以外の飲み会の在り方を知らないのである。酒を飲んで、個人対個人で語ること、ときには真摯にときにはバカに話し、互いに刺激・触発し合うことが出来ないのである。
 少人数でなにがしかのことを語り、そしてささやかながらも楽しんでいると、ノリの亡者は必ず言う。

「お前ら、盛り上がってないなぁ」
「暗いんだよ、ここ(のテーブル)は」
「ノリがわるいぜ」

 うるせー、クズ。
 原始的な言葉を連呼し、一度Aというシチュエーションに対してBという言葉が受けたら、Bという言葉を連呼し、それでバカ笑いし、満足する。これは、猿ないしそれに近い知的レベルの人間の所業である。
 私や私の友人は、こんな猿のごとき原始的コミュニケーションに迎合などしない。


 結局、ノリをつくるという行為は、積極的に「場」を盛り上げようとする「攻め」の行為に見えるが、実際は「守り」の行動である。
 全体が盛り上がっていないと不安なため。
 怒号・拍手などのなにがしかの行動をとっていないと、自己が集団に埋没する不安のため。
 「場」を盛り上げないと、自分が飲みに参加しているという「実感」をつかめないため。
 参加者が主体者であることを喪失させ、自らも大衆となるため。
 すなわち、決められた体裁がなければ、何もできず、語れないため。
 結局は、代替コミュニケーションなわけか。
 空虚な人間存在だ。


 飲み会は、複数の人間が都合を合わせている時間である。そして、カネを払って買っている時間である。その「場」を扁平なノリで支配し、他者の時間を浪費させる行為は、罪である。
 ノリを造り出し、それによってしか盛り上がれず、さらにはそれ以外の飲み在り方を知らない人間。こういう人間は、空虚で知的レベルが低いばかりではなく、公害でさえある。見るに堪えん。


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