「未確認飛行物体」
2000年07月24日(月)
国際政治史の試験会場にて、私は試験時間の2〜30分前から席に陣取り、国際政治史の事実関係を復習していた。そのとき、近くにいた二人に学生の他愛もない雑談が気になった。
学生A「お前、UFOを信じとるか?」 |
どーでもいいくだらない会話である。
しかし、私は友人に選ぶのならば学生Bだ。彼は少々頑固で少し意地が悪いかも知れないが、学生Aよりは知的レベルが高い。学生Aのような愚鈍な生きる屍の目には、学生Bは「変人」としてしか認識できないのだろうな。
上記のような会話は、予備校時代、私と同じ寮生のTとの間で交わされたものとほとんど変わりない。もちろん私が「『UFO』を信じるかだって?何言ってんだお前」と言う側であり、Tが「だから、『UFO』の存在を信じるかって言ってんだ」と執拗に問う側であった。
『UFO』というコトバが、すでに「宇宙人の乗り物」という意で使われ、「葉巻型」「アダムスキー型」だのという胡散臭い代物やコトバが次々と登場する一種のショーとなり、エンターティメントとなっていることぐらい、私とて知っている。
だが、「未確認飛行物体」という大した意味もない分析概念を「信じるか」という問いかけには、私のプライドが断じて取り合わない。『UFO』の定義をさておいても、「信じるかどうか」などという愚鈍な問いかけにも応えたくない。
「信じる」とは何か?
「信用すること」なのか、「存在を確信すること」なのか。
それに、「信じる」「信じない」という精神活動は、かなり極端。”believe”と”unbelieve”とは、ベクトルが反対を向いているだけで、認識・判断の仕方自体は全く変わらない。そんな白痴のごとき答えを私に強いると言うのか!
多分、「お前、UFOを信じるか?」という人間と、「あ?意味不明な問いかけをするな」と応える人間とは、一生分かり合えないのだろうな。
自分でもそう思うね。