「平等」だと?アホか
2000年08月02日(水)

 私はテレビなんぞあんまり観ない人間なのだが、たまたま観た番組で、なかなか珍妙なガキを見たわい。彼曰く、「先生に注意されるのはムカツク。エラそうで。何で先生がエラいの?そんなの『平等』じゃないじゃん」 だそうな。
 思わず、手に持っていた本を床に叩き付けてしまった。


 こういうアホガキを批判ないし非難すると、「理由もなくただ『規則』を盲信する『優等生』」「ただ『ルール』に従い、自分で何も考えられないアホ」「制度や権威に盲従し、点数稼ぎして、いいカッコしようとする奴」などと思われたりするが、勘違いしないで欲しい。
 別に教員個人を憎もうが、軽蔑しようが、どうでもいい。
 学校のシステムからちょいとはみ出すのも、一興だ。
 権威に楯突くというのならば、なかなかパワーのある若者と言える。
 だが、「平等」だと?


 この世に万人均等の「平等」なんてモンはないんだよ。
 「平等」なるものがあるとしたら、この優勝劣敗・弱肉強食の世に於いて、成功した人間が、富や権力、地位や名声を得て、それを思いのままに使える状態のことだ。
 今この場に於いて何も為せない、何も生み出せない、誰も動かせない空虚な人間が、勘違いしやがって。「自由」とか「平等」とかいう、耳に聞こえのいいコトバ。これはクズにとっては、自己の怠惰や無能や意志薄弱をごまかすのに実に都合のいいコトバに思えてくるらしいな。


 まあ、たかがテレビ。
 このアホな高校生も、台本通りにやっているだけかも知れないし、わざとアホを選んで出演させたのかも知れない。テレビに出ていたあのアホな若者個人なんぞはどうでもいい。問題は、自由観・平等観の都合の良い解釈が、現実にまま為されることである。特に「平等」という概念が、かなりいい加減に解釈されがちである。


 どこかの会社で、社長や重役が社員食堂で食事をし、高級な社用車を廃して安車で出社することを称して「当社は『平等』な会社だ」と言った。実に奇妙な話だ。
 社長・重役が一般社員とともに談笑しながらメシを喰うのは、まあ、わるいことではない。親睦してわるいということはない。高級な社用車の廃止も、多少の経費節減や何らかのパフォーマンスにはなるだろう。
 しかし、「平等」とは笑止な・・・。


 「日本式経営」を学ぶアメリカのビジネスマンは、この会社の称する「平等」を聞いて、次のように思ったそうな。
「成功したビジネスリーダーが、高級な食事をとり、専用駐車場に運転手付きの高級車を持つことの、何がわるいんだ?」
 つまり、アメリカ人にとっての平等とは、成功するための機会を開くことこそが「平等」であり、能力と努力でもって成功した人間が富や権力を得るのは、実に「平等」なのである(アメリカの「機会均等」というのにも何かと問題があって、理想通りではないが、ここではそれは問題にしない)。
 一方、日本の「平等」は、人間を均等に扱おうということ。
 私はこういう日本的な平等観念こそが、先に挙げた高校生のような「甘え」を生み出すと考える。


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