私が日常的に持つ日本人批判
2000年08月02日(水)

 先の日記で、私は日本的平等観念を批判し、アメリカ的平等観念を適切というようなことを述べた。
 別に私は、アメリカ人の言う「平等」が「正しく」て、日本人の言う「平等」が「誤っている」と言いたいわけではない。それぞれの文化・風土で培われてきた発想の習慣に、いいもわるいもない。シチュエーションごとに、視点ごとに、何が自分にとって、あるいは相手にとって「適切」かを考えればそれでいい。


 ただ、日本人の「考え」に対する捉え方は、結構極端である。
 一つの考え方が提示されると、それがいついかなる場合に於いても、その考え方が絶対である、と言われたかのように受け止める。
 その原因としては、発想の内容自体が極端なのではなく、「情」と「考え」を分離せず、また「情」と「理論」とが一体化していることにさえ気付いていないことが挙げられる。
 コトバでは誰しも「相対化の時代に於いて、唯一絶対の『正しさ』はない」「グローバル化の時代に、多種多様な考え方を認め合うおう」などと考えてはいても、情緒・感覚に於いては「異質な考え方」が存在することをなかなか受け入れられない。
 そうして感情的になった揚げ句に、「考え方」に対する認識の仕方が極端になってゆく。


 つまり、口では「色々な意見があるから認め合おう」とか言っておきながらも、自分と異質の意見を提示されたら、感覚的には全か無か方式で「相手の言っていることはおかしい」と感じてしまう。考えているのではないから、自分でそれに気付かない。
 そして、相手に自分の意見を否定されたりしたものならば、自分の全人格を否定されたかのような気分になり、やはり情緒は「正しい」「正しくない」に二元化されてしまう。
 しかも、「オレはいままで四十年と生きて、いろいろと考えてきた。それをこいつは無下に否定するのか。オレそのものを否定するのか」という思いは、そのまま「こいつは『自分が絶対正しい』と思っている偏った奴だ」「人のことを顧みない無神経な奴だ」という相手への感情的な非難へと移行していく。
 その結果、日本人は「考え方」そのものに対して議論することが出来ず、「考え方は常に多様に存在し、その価値は相対的だ」という感覚を持つに至れないのである。


 例えば私は「日本的平等観念」は嫌いだが、他者の「平等」の解釈の仕方なんぞは、別にどうでもいい。問題は、「平等」という観念が多様に存在すること、その価値や意味は相対的だということを、少なからず日本人が感覚でつかんでいないことである。だからこそ、「その場面に於ける、一般的な意味」を踏まえず、それでいて自分独自のコトバの解釈をそのまま使い、説明も何もなく、そもそもそのコトバの使い方は論理に乏しく感情的で、そのため話が成立しにくい。
 自分の感情でしかコトバを捉えていないため、考え方そのものも、かなり閉鎖的になる。
 そして、コトバの用法の違い、考え方の相違そのものを認識できないので、議論なんぞはもちろん成立しない。


 なんて知的レベルの低い国だ・・・。
 こういうことを考えるたびに、国外脱出して、外国の大学院で学びたくなる。私は相当な愛国者で、なかなかのナショナリストだけれども、知的レベルの面では、日本にいては自分がアホのまま生き、アホのまま死ぬことになるのでは・・・なーんて思ったりしますぜ。


 蛇足ながら、「愛国者」「ナショナリスト」の意味を、イメージとステレオタイプで安易に解釈しないように。
 ついでに、「日本人は〜」「アメリカ人は〜」というのが、一般論という名のステレオタイプであることも認識しています。    


■後年記■
 若者特有の根拠薄弱な自己有能感や、国民のごときあまりにも漠然としたものを簡単に断じて軽く見る傾向には、赤面する他ない。ただ、後の就職が思うように行かず、入試難易度で甚だしい差のある大学出身者の中に紛れ込んだときは、このサイトで苛立っていた事象を遙かに超越するような言動や思考回路に囲まれて気が狂いそうになったし、また、さらに後に大学院に潜り込んだときは周囲の秀才ぶりには感涙した。やはり、自分よりも明らかに不出来な人間の中にいると腐るし、自分よりも優秀な人間の中にいると活力を得る。その点、酒飲んで喧々囂々して結果として根拠薄弱な自己有能感に浸る程度の日々であったとしても、そうした自負を持てるような気の利いたやりとりを出来る仲間に恵まれていた学部時代は、やはり幸福だったという他はない。


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