努力しただけしか、返しはせぬ
2000年12月06〜8日(水〜金)
棒術部の幹部交代式は12月9日。
その前の3日間の稽古では、私の同期3人、すなわち主将・副将・主務の3人の、最後の号令がかけられた。
6日は■■氏の最後の号令であった。
能力もさることながら、彼は人格的にかなり難のある人間であり、摩擦と闘争の日々の末に、情報的孤立に追い込まれた。しかし、彼は1年生の一部との間にある程度の人間関係は築くことが出来た。我々はこれを「4年目にして■■ははじめて後輩が出来た」と呼んだ。それはさておき、一応関係のある人間らによって、1年間の労をねぎらう意味に於いて、稽古後飲み会が開かれた。
7日は▲▲氏の最後の号令であった。
人格的に優れた人間・・・かどうかはわからぬが、彼は人望厚く、信用があり、そして何よりも優秀な人材であった。私が同期を見切って隠遁した後は、彼が事実上すべてを為した責任者であり、全体の文脈に於いて個々の行為を見ることの出来ぬ■■と●●に妨害されながらも、見事に職責を全うした。
そして、後輩の突きに対して腹を貸すという、稽古の先輩として役割に妥協なく向き合った。内出血を起こしてまでも▲▲は本気の突きを腹に受けたが、■■や●●はテキトーにごまかして手で突きを受けたり、甚だしくは後輩にカウンターを喰らわせるなどして後輩の信頼を失墜させた(特に稽古台として腹を突かせる稽古で、カウンターをするのは稽古目的と信義の両方に反する)。この2人と比較しても、▲▲の信頼は大と言えた。
彼の稽古後には、盛大なる飲み会が開かれた。
8日は●●の最後の号令であった。
彼は愚かで、暴力的な人間であった。さらにわるいことには、肩書きを笠に着る権威主義者であり、何ら人間関係に於いて努力しなかったのにも関わらず、当然のごとく厚い礼と接待、人間関係のようなものを希求し、それが得られぬ理由さえもわからなかった。
しかも●●の稽古に出た後輩曰く、「何の思想性もねー。 出て損した」とのこと。この稽古に出た人間は、最初はわずか3人。やがて遅刻して1人2人とやってきて、終わり頃には20人にもなったが、後輩連中は稽古後に飲み会を開くかどうか以前に、稽古に出るかどうか迷ったとのこと。
彼の稽古後には、学食でメシをともに喰うことさえもなく、皆とっとと帰宅した。
あくまで原則としてだが、人間は努力した分しか幸福にはなれぬ。
努力してもダメな奴はダメだし、たいした苦もなく成功を収められることもあるが、努力しなかった奴が成功もしないのは極めて自然なことである。4年間、横暴に、無神経に、無責任に、それでいて権威主義的にしか日々を過ごさなかった●●に、他の部員が何も返すものなどなかった。
4年間一貫して、まったく少しも、人間関係に於いて努力することのない人間。同じ棒術部員だから、先輩だから、幹部だから、何某かの人間関係があるかのような扱いを受けることができた。しかし、自分が何も為してこず、何も築いていないことに彼は最後まで気づかなかった。
幹部交代式を終えてから、追コンまでのしばしの間、彼は何を思って過ごし、そして大学を、棒術部を去るのであろうか。