すばらしい皮肉
2000年12月08日(金)

泥臭い宅飲み


 この日は、棒術部幹部の一人■■が、最後の号令をとった稽古であった。
 他の幹部が「最後の号令」を取った後には、4年間の慰労として、飲み会が行われたのであったが、■■による「最後の号令」に際しては、参加人数も他の二人の半数程度で、稽古後には何も行われずに全部員が帰途についた。
 傑作なのは、3年生が会議のために稽古後集団で稽古場を立ち去ったことである。
 無論、優秀で責任感ある彼らが、図らずも会議を■■の最後の稽古の後に設定してしまったわけがない。
 ■■の人望がここに現れている。
 我が栄光の棒術部は、権威主義や構造的暴力を許すような愚鈍な組織ではない。
 実のなき「権威」ある立場にある者(この場合は制度化された「権威」)が、それを傘に着ようとも、返ってくるものなどなにもない。人間関係に於いて、何も築かず、何も努力しなかった者に、誰がなにをしてやろうか。


 私は■■の稽古後に、誰も何もしてやらぬことを見て、後輩と笑い合い、それで満足していた。
 だが、思いがけずこの日の深夜に、3年生の課長(仮名)から電話があった。
 これから私のアパートに来て飲むと言う。
 深夜11時過ぎのことであった。そう、3年会議が終わった深夜に、わざわざうちに来るとは。
 そう、幹部■■の慰労会を行わず、同じ4年生の私のアパートにて同日飲み会を催すとは、すばらしい皮肉である。
 まあ、私はそれに値することはした人間である。
 私は棒術部組織に対して多大なる貢献を為し、その功績を持って幹部に就任せずに「名誉ある隠者」として3年次の後半と4年次を過ごすことが許された人間である。また、自己の日常の在り方を厳しく問い続け、後輩に対して上下関係の無意識の刃が及ぶことのなきよう留意し、人づきあいに努力し時間とカネと神経を使い、人間関係を構築してきた。■■なんぞよりも、私の方が後輩にとって、付き合う価値ある人間であるのは必定であった。


 さて、課長が携えてきたブツは、ワンカップ6本、カップヌードル2個、さらには絹ごし豆腐2つ、魚肉ソーセージ4本であった。我らにふさわしい、泥臭い飲み会である。最高の栄誉だ。翌日に後期納会を控え、厳しい稽古と公式飲み会があるというのに、よくぞ我が家に来てくれた。
 これが私と■■との差なのである。 


 さて、ここから棒術部政治史について少し述べよう。


 急激な人数膨張の年であった1998年、それは無形の伝統と情、そして皮膚感覚のみによって統治されていた棒術部の、その旧態依然とした体制の限界の年であった。夏合宿の大幅な会計ミス、学祭におけるコンセンサスなき暴走、そしてそれらに対する情報の隠蔽と不誠実な対応、そして自らを何一つ省みない愚鈍と危機意識の欠如。
 この1998年、棒術部は崩壊の危機を迎えていた。現3年生、すなわち当時1年生が、棒術組織の愚かさに対して団結・政党化して改革を迫り、クーデターや集団退部も辞さない覚悟で日々オルグや会議が繰り返され、一触即発の年であった。
 この状況に対して、■■ら当時の2年生は何ら方策を持たず。いや、何かをしなければならぬという危機意識さえ持たず、何かをしようと、しなければならぬという意志さえなかった。部内が騒然としていたのに対して、その原因を自らの無能・無策ではなく、「不穏な動きを見せる」1年生に転嫁する有様。1年生が不穏な動きを見せている、との情報に対して、上級生ミーティングで■■は叫んだ。「1年の裏切り者は誰だ!」
 この状況に際して、暫定実務総括職に自ら立候補して部内改革と危機回避に当たったのが、当時2年生であった私である。ここに於ける私の活躍とその成果に関しては、全棒術部員に対して自慢し誇ることのできるものである。


 自らの私生活大事で、「2年生の今後に対する試金石として、すべてを2年生を任せる」と、全ての責任を放棄した当時の幹部・3年生。これは、委任と言う名に於ける無責任であった。いきなり全てを任せて、委任も試金石もなかろうて。学祭の破滅的失敗も幹部・3年生の無責任の結果であったとも言える。
 しかも、すべてを放棄したはずの幹部・3年生は決定権だけは保持しており、万事に当たる私は、いちいち上級生へ伺いを立てて政策の正統性を確保しなければならず、さらには彼らの都合によって連絡さえもとるのは困難であった。さらには、私の提示した政策に対して、自らの考えるところと合わねば即座に全面否定。今まで何日、何週間と努力してきた所作を、一瞬で全面否定。連絡も監督行為もなしで、だ。連絡をとろうにも、通信途絶していた彼らがだ。なんたる横暴であろうか。
 このときのことを彼らに言えば、「オレにも都合があった」「オレも棒術部だけが大学生活ではない」などと言うものだった。それでは、私の大学生活は、私の都合はどうなると言うのだ。私とて、このときのことがなければ留年などしなかった。放任・無責任を決め込むのならば、せめてある程度の決定権と正統性は欲しかった。これらの権威がなかったため、私は同期との葛藤にも悩まされた。


 危機的状況に対して、上級生が暫定実務総括職を設置し、それに就任する者を2年生から求めた。
 このとき、私はしばらく待ってから挙手した。
 私は後輩たちの真摯なる念に突き動かされ、何かを為さねばとの意識に満ちていた。
 しかし、このときに私が挙手しなければ、私の同期はいつまでも俯いていたことであろう。
 このとき私が暫定実務統括職に就任したことは、他の2年生が私が権限を握るということに対してのコンセンサスを得た、と言うことであった。それにも関わらず、2年生は私に協力せず、情報さえもよこさず、影で独自で動き、私の指示・勧告・政策に対してその場では「うん」とは言うものの何一つ従わず、やはり自分の考えのままに動いていた。
 無秩序。
 人間だれしも自分の考えが的確で、その通りにやればうまくいくとの感は持っている。
 しかし、人間が1人で出来ることなどごく些細。
 それでは組織が運営できなかったからこそ、この1998年は混迷と破綻の年となったのだ。
 そんなことも認識せず、自分がsomething(ひとかどの人物)であると言いたげに自分の考えと思いのままに行動するから、秩序が、組織が混迷するのだ。
 依って立つ秩序が成り立たない組織。
 それは所属する構成員にとって不幸なことだ。
 自己の意志も、利害も、都合も組織に反映されず、横暴や無法が許され、今後の予定を立てる指針さえも見あたらない。
 それは原始社会である。


 私はこのようなクズな同期を最終的には捨てて、1998年度後期納会・1998年度春合宿・1999年度新勧のすべてを私は一人で取り仕切ってきた。
 すべて一人で、だ。
 現在の整備された棒術部に於いては、それぞれ責任者は2人ないし3人。さらに指揮官の下には合理的に責任を分担された部下が配置され、指揮官の負担は小さい。このような組織ならば、「棒術部だけが大学生活のすべてではない」などという嘆きなどは最小限に抑えられる。しかし、私はすべて一人で立案・計画・指示・さらには現場の些細な作業まですべてやった。
 同期に仕事を配分しても、書類一枚書いて来ない。
 ただただ謝る。
 ふざけんな。
 謝るのならば、やってこい。やってこれないのならば、やると言うな。
 さらに、些細な、どーでもいいことで私の計画・指揮に反対し、しかも譲歩することさえない。それでいて、自分の案を却下されたら感情むき出しで怒り狂う。2年生同士のミーティングで可決されたはずのことを1・2年生との全体ミーティングの場で私が発表していると、いきなり1年生の前で「それは違うぞ」と遮られる。2年生対1年生との真剣勝負の場で、私は本陣たる後ろからいきなり刺されたようなものだ。
 そんな中で、私は1998年12月〜1999年4月の間、睡眠時間はわずか3時間程度。テレビやマンガさえも見る時間もとれず、最後には発熱して薬を服用しながらも事に当たった。今の棒術部が存立しているのは、そして今の合理的・合法的な組織が築かれたのは、掛け値なしに私の功績である。


 その後、このままでは身体・精神の限界というだけではなく、それこそ自分の人生さえも失いかねないと、1999年新勧終了を待って棒術部における暫定実務職を辞任。「名誉ある隠遁」になって今に至る。
 それから今に至るまで、私の他の同期が部の指導的立場についた。
 しかし、同期ただ一人の盟友▲▲氏を除いては、同期連中はまたしても責任意識も乏しく、何も為さず、果たさず、自己を省みることも出来ずに思いのままに振る舞い、全体の文脈を見て何かを為すこともできずに終わった。
 すべてを為したのは、かつての私同様▲▲氏ただ一人であったが、彼のサポート・実務実行には有能な現3年生連中が当たった。本来▲▲氏と協力して事を運ぶはずの■■や●●は、何もしなかった。全く何もしなかったわけではないが、些細な艱難辛苦や功績におぼれ、自己特別意識に浸ったままに、自分が棒術部に於いて何かを為した、優秀な先輩であったという意識のままに大学を、棒術部を卒業し、社会に羽ばたいていくのは看過ならぬ。
 大学に於ける彼らの居場所は棒術部しかない。
 彼らがOBとして偉そうに戻ってくることは看過できぬ。
 いや、後輩たちがそれを認めないであろう。
 今日は、それを確認したような日であった。 


戻る