政治学科飲み会にあたって
2000年12月20日(水)


 本日は、棒術部有数の派閥である政治学科閥の飲み会である。
 その成員は、5年生のI氏、4年の私、3年の黒天使氏(仮名)、2年のWild氏(仮名)・倉永氏(仮名)、1年のPGO(仮名)氏・参謀長(仮名)の計7人。ともに政治学を志し、その学問を日常社会に当てはめ活用せんとの意志にあふるる若者である。
 ちなみに「派閥」と書いたが、排他的集団でも、共通の利害のために共同戦線を張る圧力団体でもない。実際の政策決定に於いては、政治学科生同士で対立することもしばしばある。だが、あえて共通の心があるとすれば、それは棒術社会に無形の伝統や情に依る不文律ではなく、明確な秩序を導入し、意志決定を合理的に行うことによって、よりよい部を目指すという理想理念である。
 ただ単に政治学科に在籍していればそれで「仲間」と考えるようなアホ集団ではない。その志ゆえに自らが政治学科であることを誇る者同士が集い、互いの志ゆえに共同体意識を持って「政治学科閥」と称す。これが我ら政治学科閥である。無論、これは想像の共同体であり、ひとつのフィクションではあるのだが。


 その政治学科閥の飲み会は、Wild氏の部屋を会場として行うこととなった。
 これはそのとき、5年生のI氏が鍋をやろうと持ちかけてきたの会話である。
I氏「今日、Wildんちで鍋やろうぜ」
私「やってもいいですが積極的肯定はしません」
 私はI氏が事を運ぼうと、つまり意志決定の主導権を取ろうとしているのに違和感を覚えて敢えて消極的意見を提示した。
I氏「今、(鍋をやる)同意をとってるんだ。これで同意ね」
 コンセンサスは物事を為すときにとっておかないと、後々トラブルの火種となりうる。しかし、これがコンセンサスと言えるのだろうか?
私「ですから、積極的肯定はしません!しかし、するというのならば反対もしません。つまり棄権ということです」
 私は敢えて、I氏の言に対して攻撃をかけた。私の強い論戦口調に、I氏は他学科の学生の方を向いて「政治学科だけだからな・・・」などと苦笑いするしかなかった。私はさらに牽制する。
私「あまりIさんにヘゲモニーを行使されては・・・」
I氏「違う違う、鍋やろうかと言ってるだけだから」
 これがI氏のわるい習性である。自分がヘゲモンであり、自分がいかなる意図があろうとなかろうと、その行動言動には暴力性が伴うことに無神経なのだ。先輩は自らが持つ地域制圧力という刃に神経を使わねばならない。
私「それが支配だと言っているんですよ。面と向かってやるかと言われて、YESと言わない人間は私ぐらいしかいません!」
 Wild宅に鍋道具などなく、また新築できれいなWild宅で鍋をやるのはWild氏に悪い気がした。しかし、I氏がやろうとイニシアチブを取って提議すると、鍋をやる動きになるだろう。そうした危険性と無神経を咎める意味で、I氏に私は強く主張したのである。
I氏「・・・軽いつもりだったのに」 
 だから困るのである。I氏は優秀な学生であるが、日々の行動は大雑把。
 肩書きはOBであり、学年も高い。ヒエラルキー社会である棒術部に於いては、ただフレンドリーに先輩後輩がやっていこうとするのには、先輩の方が神経質にならねばならぬ。無自覚な刃が場を支配し、後輩に不快感を与え、なおかつそれに先輩が気づくチャンスは少ない。
 だから、敢えて敵対する論陣同士であるかのように、私は強く主張したのである。


 こうした論理をもって会話をできるのも政治学科閥ならではであろう。
 他のコミュニティで上記のようなことを言っても、「こいつ電波か?」と思われるか、「屁理屈こくな!」で一蹴されるのは必定である。人間同士のつきあいで、皮膚感覚や情緒でもって向き合うのも無論大切である。しかし、それだけでは誤解・曲解を生みやすく、意見・発想の対立などの諸問題に対処することが難しい。
 そのための政治学であり、論理である。
 最初にあるのは無論、情であるし、目的となるところも自らの情のよって見出される。しかし、その過程に於いては、困難であっても情と認識、情と論理を区別し、合理的に問題解決へ、目的達成へと邁進しなければならぬ。これが政治主体となる人間である。
 論理や合理でもって物事を語ると、「もっと情や皮膚感覚で人と接しろ」のようなことを抜かすアホや、「合理性や義務・責任とか、そんなんじゃねーだろ」などと意味不明なことを言ってくるアホもいる。これはつまり情・皮膚感覚至上主義的な発想であり、そのような人間にとって理を語る者は「冷血なマシーン」「理由もなく、ただ制度秩序を遵守する、意志ないし主体性に乏しい人間」としてしか感じられないのだろう。


 まったくバカな。
 論理は情を達成するための武器であり、共通の土台の上で争点を明確化して闘うための足場である。
 人間の物事への思考・発想は全方位的である。
 つまり、視点や考え、発想、イメージ、そして情は常に複合的であり、矛盾をはらみつつも相反するファクターが一人の人間の意識に混在している。そんなあいまいな存在である人間同士が、ただ正面から思うところを語り合っても、考えるのに使っている言葉、口に出す言葉、その言葉自体の捉え方・言葉自体に対して抱くイメージ自体が微妙に、あるいは甚だしく異なってくる。
 そうしたステレオタイプとしての認識・イメージの差を出来るだけ埋め、ある一点の争点を整理するための道具こそが論理である。情・イメージ・ステレオタイプむき出しで向き合っても、皮膚感覚でもって何某かの合意・妥協・共感は得られることは得られるが、かなり手間がかかる上に収集がつかなくなる可能性も大きい。
 だからこそ、人間は論理を発達させてきた。
 その論理とて、どれほどの成果を出せるかはわからないし、それを使う人間自体も不安定でいいかげんなものだ。私とて、感情的で短気で狭量な人間だ。しかし、人類の問題解決・目的達成のために確立してきた英知とその成果を、情とイメージでもって安易に否定してほしくはないね。
 こういう情・皮膚感覚至上主義的人間がはびこるからこそ、真摯な政治学科生は共同体意識を持つわけである。


 でもって、政治学科飲み会の内容は、結果がどうなってもどうでもいいような議論や、屁理屈の大会なわけではない。我々はそんなことに労力を使うほどアホではない。世間話と、部の現状に対するささやかな談笑で始まり、そして終わった。
 ただ、そうした他愛もない話の視座が、少々政治主体めいていたというだけである。 


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