袴講習会後の鍋
2000年12月27日(水)


 この日、部室に於いて「袴講習会」が行われた。
 棒術部で号令者が履く袴は、後輩が畳んで渡すことになっている。その手順は複雑で、袴を的確に畳める技能を持つ者はごく少数である。そのため、袴を扱える者には「袴マスター」の称号が与えられ、合宿では「洗濯」の役職に就く確率が高くなる。
 しかし、数少ない袴スキル所有者である課長(仮名)が4年生へと進級するにの当たり、さすがに4年生が畳むのもおかしいということで、後輩に袴スキルを教授することにしたのだ。これが袴講習会である。また、技能の広い普及によって、合宿の役職に偏重が出来ることを防止することにもつながる。


 課長は自己の持つ技能を、後輩に伝えるのが惜しいと繰り返し口にしていた。
 こうした技能は、口伝で特定の者にしか教えず、「袴マスター」を聖域としたいとの思いもあったのだろう。これが秘伝というやつである。しかし結局、袴スキルは、広く後進に伝えることになった。そうせざるを得なかったわけだ。
 こうした「秘伝」こそが、近代化を妨げる障害なのだ。知識技能の隠蔽秘匿は、罪である。だからこそ日本は一部の刀匠など高い技術を持つ者がいたのにも関わらず、それらの技術が「秘伝」だったからこそ、工場制手工業に繋げることができず、近代化に多大なる遅れをとったのだ(日本がなんとかまともな工業力を持ったのは20世紀に入ってからのことであり、そして世界に評価される技術力を得るに至ったのは、実に1960年代からである)。
 武道もそうだ。一子相伝に等しい口伝による技や教えは、多くは消滅するかごく一部の人々の間でのみ伝えられ、市民権を獲得するに至らず、自己批判的な技術の革新・洗練にも遅れをとった。袴の技能が秘伝であることも、棒術部永遠の葛藤である伝統的正統性と合法的正当性の対立に於ける、近代化を妨げる意味に於ける悪しき伝統である!
 なーんてことを課長と延々と話した気がする。いや、袴講習会をするのは決まりきっていたことなんだけどね。


 この袴講習会は、名実ともに引退している私には、すでに関係のない出来事である。
 しかし、部室に於いて行われた講習会は、それが終了した後に、当然のごとく部室飲みとなった。
 行うは、鍋である。
 そして、アパートの自室でDVD鑑賞をしていた私にも、課長から声がかかった。
 先日定期が切れたばかりの私も、もちろん馳せ参じましたよ。


 今回も鍋!
 冬はやはり鍋に限る。
 いや、夏でも鍋はやるけど。
 この場に於いては、ただ一人の4年生ということもあって、私は何も準備に参加することはなかった。
 いや、「当部に於いては先輩が後輩をアゴで使うような悪習は存在せず、何事も先輩が率先垂範して事に当たるべし」(棒術部要覧より抜粋引用)とは言うものの、ここに於いて私が手伝おうとすると返って邪魔になるは必定であった。老兵は黙って座っておれと言うのならば、ここは後輩たちに任せましょう。その方が、彼らもやりやすいというもの

棒術部に栄光あれ!


 そうして出来た鍋。
 まずは私から頂くことに。そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに、返って恐縮してしまいます。
 しかし、私がここで「いや、いいよいいよ」などと言っても、お互い譲り合って事態が進まぬ。
 ここは甘えさせていただきます。
 これも年功序列の恩恵というものか・・・いや、学年では私が一番上だが、年齢では・・・いや、なんでもないッス。
 そして、一口喰らい、汁をすする。
後輩E氏「どうッスか?」
私「うむ・・・喰える!」
課長「うまいと言ってやって下さいよ!」
 まったく、その通りであった。


 棒術部の鍋の歴史は、部室の歴史とともにある。
 1996年に、先人たちの努力によってようやく獲得できたこの部室。
 私が入学した1997年から鍋が行われたが、その内容たるや凄絶なものであった。
 そうした歴史を積み重ねた今、ノウハウは蓄積され、また、新しい後輩たちの手によってさらにそれは開拓されている。なかなかおいしく鍋を平らげ、酒など飲んだものであった。

闇夜に咆吼するバカの図


 その後、帰宅時間が厳しいみう氏(仮名)と鰹氏(仮名)はП氏(仮名)宅に転がり込み、私もまたしてもそこに便乗した。実は私、翌日の午前8時から約束があって帰らねばならなかったのだが、まったくアホな話である。無論、私は約束は守る人間。時間には間に合うように帰るつもりであった。
 そうしてП氏の酒と食料をさらに消費したあげくに、始発が動いている時間に帰宅した。
 高校時代の友人が我が家を訪るてくるのは、午前8時。
 帰宅したのは、そのわずか2時間前のことであった。


戻る