やりたければやれ。ただし覚悟は決めろ
2001年01月11日(木)


 「社会問題」として急に世間の注目を集めるようになったことについて記述するのは抵抗がある。
 大衆というのは、現在形で話題となっている問題事象が昔からあろうとも今現在特有のことだと錯覚し、また、それに対して抱くイメージ・ステレオタイプも扁平である傾向にある。ある事象に対して情緒のみで受け止め、より大きな文脈に於けるその事象の位置づけをいうものを鑑みないためである。
 だからこそ、私も「成人式に於けるごく一部のクズが起こした騒動」に関して述べるのには、どうも抵抗がある。


 それはさておき、これから「成人式に於ける騒動」を通して、だいたい同じ世代の人間として、騒動を起こした人間や他のクズな若者の気質について述べてみたい。
 あらかじめ言っておくが、ここに書くのは視座を限定した極論である。私の全方位的な意見・考えではない。 


 成人式でクラッカーに酒の一気飲み、ヤジ、罵声。
 これについて「いい」か「わるい」か、なんてことは言うつもりはない。
 ここに於いて私が重視するのは、自己の行為がもたらすことに対する現実認識である。
 ある者が他者にケンカを売るとき、結果として殴られたり、それ相応の報復をされることは容易に想像される。あたり前のことだ。世間にはびこる個々人のコンフリクトは、こうした想像力が暴発を抑止していると言える。悪事を抑制するためには、道徳や倫理、良心を訴えかけるよりも、報復や暴力による制裁をちらつかせた方が遙かに効果的であるというものだ。
 こんな簡単なことを予想しない、できない。
 これが成人式で話題となっているクズの気質である。
 つまりは、成人式を妨害し、市長にケンカを売るのも、ただのノリで調子こいただけの行動にすぎず、パクられた連中も、自分がパクられるなどとは想像さえもしていなかったに違いない。


 こうした人間の意識を、マンガ「カイジ」はよく表現している。
 「仮」の意識。
 現実認識がとにかく甘く、根拠のない楽観の下に刹那的享楽にとらわれ、その結果がどうなるのかを本気で想起できない。犯罪を犯そうとも、他者に不利益をもたらそうとも、どうにかなる。自分は許されるという根拠のない無意識の甘さに支配され、実際に警察にパクられたり、相手に血ヘドを吐くまで殴られるまで、自分の行動がなにをもたらすのか気づくこともない。
 アメリカの犯罪者が、自衛する市民に射殺される瞬間にみせる表情。
 それは「信じられないことが起きた」というものであるそうな。
 この世のクズは、なにも必ずしも悪人や確信犯ばかりではない。
 自分の行動が、他者にとって何を意味するのか、結果として何が自分の身に起きるのかわからない。
 そうした、稚拙な人間の粗暴な行動こそが、犯罪でもっとも多い形態であると私は考える。


 目の前の他者は、テレビの画面ではない。
 しかし、あたかも目の前の他者をテレビの画面のように捉えている同世代の若者に、しばしば出くわす。
 大学の講義でも、我が名門中央大学の講義にさえもそんなクズは特別めずらしくはない。
 講義中の私語・携帯電話・彷徨・レジュメを取るために教壇の目の前を横切るなどなど。
 これらの行動は、教官に対する挑戦であると同時に、他のマジメに講義を受ける学生に対する挑戦でもある。私は親が身を粉にして払ってくれている学費と、自分自身の有限な時間とを行使して講義を受けているのだ。それを妨害する者に対しては、鉄拳をふるうことも辞すつもりはない。教官とて鉄拳こそふるわないものの、あまりにひどい奴にはそれなりの措置をとることとなろう。
 しかしクズは、そんな他者の内心や、他者が自己に対してとるかもしれない行動を想起することなどしない。講義中に私語をしない、携帯を切るということは、「とにかく守ることを課せられたルール」だから守るのではなく、自己を防衛するために守る必要のあることである。
 成人式で騒いだバカにくらべれば中大のクズなどおとなしいものだが、その精神構造には、現実認識が甘いという共通性があるのである。


 念のために言って於くが、中大の講義でナメた態度をとる奴はごく一部である。
 教室全体の人数にしめるクズの割合は、4年間の私の経験から鑑みると、多くても数%。場合によっては、1%に満たないということを付記しておきたい。成人式に参加した若者とて、正確な割合などわかろうはずもないが、大多数の人間はマジメとはいわないまでもまっとうな人間であったはずである。
 扁平なイメージでもって、「近頃の若者はみなクズだ」などという根拠のないステレオタイプを持つことのないように。


 さて、ここからが極論になるが、私は必ずしも「成人式でおとなしく話を聞け」「真摯に講義を受けろ」というつもりもない。
 成人式をぶち壊したいならば壊せ。
 市長や教授の(制度化された)権威に楯突きたいのならば楯突け。
 講義を妨害したいのならば妨害しろ。
 教授の(情報を無条件で信用する意味に於ける)権威を否定したいのならばやってみろ。


 ただし、私の目の前でそのような行動をとる奴がいたのならば、私は自己の利益を守り、情緒の均衡を守るために、そのような人間を暴力でもって排除し、殲滅する。秩序を守り、自己のあるいは社会の利益を守るために、秩序や利益に仇為す者に対して暴力を行使する人間というのは、必ず存在する。また、警察はまさにそのために存在する暴力機関であり、これに敵対する者は、法の名に於ける暴力によって処断されることとなろう。
 そうした他者の暴力に身をさらされる覚悟、自己の人生を刑務所で終わらせる覚悟、社会的に抹殺される覚悟があるというのならば、自己の情緒や信念のままにことを為してみろ。決して私は社会秩序や他者の利益・感情を害する行為を肯定するつもりはないが、そうした行いの恐ろしさは認める。すべてを顧みず、自己の全存在を賭してことに当たる人間が一番怖い。
 私はテロを肯定など間違ってもしないが、テロリズムが恐ろしいのはそうした覚悟の上に立った行動であるからだ。


 覚悟があれば何をしていい、などというバカなことをいうつもりはない。
 ただ、何の覚悟もなく、ただ甘い現実認識の下に粗暴な行動を起こすクズ。そうしたクズを観ていると、ヘドが出る。私は確信犯的に悪事を為す人間よりも、無自覚に無知のうちに悪事を為す人間の方が憎く、そして私の生理的嫌悪感を掻き立てる。
 この国・・・に限ったことかどうかはわからないが、同世代の人間の内に、しばしばそうしたクズを目にすることがあると、この国の行く末がクソ地獄じゃという思いを禁じ得ない。  


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