参謀長宅さよならパーティー
2001年01月24日(水)
本日は、財政学、国際政治史、政治思想史Uの試験3連ちゃん。だが、これを終えれば、私の62単位分の長い試験戦線はほとんど終わったも同然だ。あとは、明日の政治情報学のみである。ほとんど試験は終盤とは言え、この試験の合間に、参謀長(仮名)宅のさよならパーティーが催された。今月末に引っ越す参謀長が、あと数日で解約するアパートに於いて、この部屋と縁の深い者だけを集めての内々の宴である。
参加者は、私、課長(仮名)、黒天使氏(仮名)、トーマス氏(仮名)、みう氏(仮名)、Wild氏(仮名)、П氏(仮名)といったところか。あくまで内々である。酒の匂いあらば、どこでも傍若無人に馳せ参じるアホもいるが、本日はそういう人々抜きで行った。
宴の場で話された話を少しピックアップしてみる。
三国志の曹操の父が宦官であったことが話され、ではどうやって曹操が生まれたのかという疑問が提示されたとき、
私「どうせ、こさえてからぶった切ったんじゃろう」
などと言うのは下世話な発想らしい。
正解は養子らしいのだが、皆宦官になる「手順」やら三国志の武将の系譜なんかに詳しいね。
さらに、課長が身近な出来事について憂いの言葉を発したとき、
課長「所詮この世は−」
私「けだものごっこ」
それはもっと何段階も後の話で、末期的状態とのこと。
宦官の話しといい、どうも私の発想は下世話というかオヤジだとのこと。
実年齢で年上で、外見はさらに年上に見える課長に言われたくはないなあ。
ちなみに、「所詮この世は−」に続くのは「男と女」である。鶴田浩二の名曲「傷だらけの人生」の一節ね。
ささやかながらに盛り上がり始めた頃、みう氏の携帯に電話が。
NECの中折れ携帯を開いて電話に出たみう氏が言う。「え!?婆さん死んだって!」
こういうこともないことではない。そろそろ危ない祖父母の万が一のために、携帯電話を持たされた、という話もしばしば聞く。みう氏の携帯がどういういわれのものかは知らないが。
みう氏は親御さんに「すぐ帰ってこい」と言われたに違いない。しかし「今自分がすぐに帰ったところで、どうにかなるものでもない」と親と交渉し、終電近くまで酒を飲み続けることとした。9時すぎにみう氏は参謀長宅を出たが、親御さんはどう迎えたんだろうか・・・。
そんなアクシデントを交えながらも、この宴が終わったのは午前3時。電車で帰れるものはすでに帰っており、チャリやバイクの面々もこのとき帰宅した。残ったのは私と参謀長だけである。まあ私も、歩いて30分程度で帰られるのだが、この日も参謀長宅に世話になり続けることとした。
敷いてもらった布団に入ったのが、午前3時過ぎ。先日の試験のために寝不足のはずの私は、なぜかなかなか寝られなかった。最後に見た時計が午前4時26分だったと記憶している。私に布団を譲って、気の毒にも毛布にくるまって寝ていた参謀長は、寝るや否や寝息を立てていた。うぐぅ・・・どうしたものか。
それでもいつの間にか寝ていた私は、8時に起床。
感心にも参謀長が淹れてくれた茶など飲み、政治情報学の試験会場についたのが9時45分。つまり5分の遅刻。それでも私は全身全霊で答案を作成し、試験時間をすべて使うことなく退室した。Aはとれない解答だが、落とされる筋合いもない解答であると自負している。
今年度の履修単位は、これですべて完遂した。
レポートは0。卒論が1つ。ほとんどすべて試験であった。その数は19。すべて試験というのは、レポートのように長い時間をかける必要がない反面、受験時間が固定されているために、それはそれで準備に労力が要る。試験とレポートのどちらがいいなどとバカなことを言う気はないが、バランスが大切である。
さて、全62単位のうち、どれだけ取れるかはわからない。
いくつかは落としているかも知れない。
それでも、来年度はすばらしく空いた時間割になることであろう。
それをどう有効に使うかが、私の今後の人生を大きく左右することとなるであろう。