試験完遂後の酒
2001年01月25日(木)


 昨夜参謀長(仮名)宅の「お別れパーティー」に参加してそのまま泊まり、ほんの2〜3時間寝てから直接大学へ。今日1限の政治情報学の試験を無事完遂。とっとと帰って寝てから夕方起き、この夜我が家を訪れるП氏(仮名)を待った。私とП氏の両方が試験を終えたのがこの日。前々からうちで飲むのを楽しみにしていた。

 ちなみに私は法学部の最大履修単位62単位を登録し、それのすべてを完遂した。1年間に62単位を履修するのは、例えば教員免許取得のため初期のうちに大半の単位を取得させる教育大学あたりの友人から見たら当たり前の数らしい。しかし、我が中央大学では履修枠は制限されている。通常は年間40単位程度しか履修できない(単位を落としたら再履枠として履修出来る上限が増す仕組みだ。その限界上限が62単位なのだ)。そして1コマずつの単位をとるのに要する労力はおそらく相対的に大きいはずだ(年62単位が普通のところと年40単位が普通のところとを比較すると、制度的にそうなるはずだ)。その40単位が普通のところで62単位すべてを取れたとしたら、なかなか壮絶な実績と言える。まあ、うちの大学の4年生は、本当ならば4年次に取るべき単位がほとんど残らないのだが、私は自己のこの状況を誇りに思っている。それについては、また別のところで。

 さて、午後9時過ぎにП氏が酒と食い物を携えて来訪し、さらには手土産に警察庁のルリ・ポスターを持参。このポスターは我が家の家宝とし(後日、額に入れた)、早速酒を酌み交わすこととした。飲む前に酒・食料のカネを半分払おうとしたのだが、П氏がいらないというので世話になることとした。先日の参謀長といい、1年生に世話になってばかりじゃのう。有形・無形のいずれのものであり、返さねばなるまい。
 こうして飲んで、途中「QOH'99SE」のコリン登場ver.にて1時間対戦。勝率は3:7。私が3でП氏が7ね。こうしたゲームは、対戦してナンボなのだが、機会を作らねばできない。こうして存分に飽きるほど対戦をしまくった。


 この時点で午前1時すぎであっただろうか。おとなしくこのへんにしておけばよかったのだが、П氏が酒を勧めるのでさらに飲むことに。П氏が持参した「夢一首」と「あおぎり」を飲み尽くし、さらに私は用意していた「藤村のにごり酒」と安ワインを出した。
 飲み過ぎなのは、自分でもわかっていた。抗利尿作用がマヒしてきて、やたらと便所に行くようになっていたことからもそれは明らかだった。私は飲むと小便が近くなる質だが、ここまで高頻度になるのはよほど酔ったときだけである。それでも私はこの場の終焉を引き延ばすかのように飲み、そして場を引き延ばした。


 こうして我々は午前8時まで酒を交わして話などし、そしてくたばり、昼過ぎにП氏は帰宅した。
 この日は消化器官が何物をも受け付けず、エタノールの二次物質であるアセトアルデヒドが脳神経をいかれさせていた。私はただ寝るしかなかった。翌26日、胃腸は食い物を受け付けるに至っていたが、中枢神経にはまだまだ不快感がつきまとい、やはり何をするでもなく過ごすこととなった。そして27日、大分日常の体調にもどってきたが、睡眠のリズムが崩壊しており、また、まだまだ酒の影響で本調子とは言い難かった。
 私は激しく飲み過ぎると、その後3日は役に立たなくなる。この状態に至ったのは、去年の前半に1度あって以来だ。まあ、ペースを遅く保持し、適度に水を補給していたために、記憶をふっ飛ばしたり、暴れたりはしなかった。だが、それでも量を飲み過ぎれば、翌日以降の影響は回避できないということか。これはいい勉強になった。


 今回の飲みで、私は3日近くの時間をムダにし、そしてそれなりに苦痛に呻いていたが、自発的に好きこのんで飲んだ酒だ。アセトアルデヒドの苦痛よりも価値ある飲みだったからこそ、私は飲んだのである。意義や価値のある飲み会ならば、その後の多少の苦痛など問題ではない。でなければ、参謀長宅の飲み会にも、テストの合間に泊まりがけで行ったはせぬ。逆を言えば、支払う時間やカネが負担にならず、体力・スケジュール的に余裕が有ろうとも、無価値な飲みには行かないということだ。だから、同じ日にあった**ゼミの追コンには行かなかったである。


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