新大久保駅での事故に関連して
2001年01月29日(月)

 私は専門性の低い世間のニュースや話題には疎い、というか意図的にそういう情報は観ないようにしていたのだが、それでも無知は犯罪だということで、ニュースぐらいは観るようにしている。今、大きく取り上げられている出来事に、「新大久保駅での死亡事故」もあるのだが、それに関連して少し書きたい。
 成人式の件といい、朝のニュース観て何だかんだとそれについて書くようでは、この「手記」も下世話になってきたものだ、と自分で思う。だが、私の掲げるテーマ「反・大衆迎合」とは、世間で話される話題を話さないという行為のことではないので、書きたいままに書く。


 ホームから落ちた酔っぱらいを救おうとして、2人の人間がホームを降りたが、結局3人とも電車に轢かれて死んでしまったというのが、この事故の概要だ。これに対して思うことは、私ならばそんなことは出来ないし、また、そんなことをしようしも思わないということだ。酔っぱらいがホームにいたら、私は「このおっさん落ちるんじゃないか」などとは考えず、「このおっさん、私を巻き込んで落ちたりしないだろうな」と考えることであろう。万が一酔っぱらいがホームから落ちても、私はそれを助けるどころか、遠退くだろう。
 確かに、亡くなったカメラマンや留学生は勇敢だったとは思う。
 今後、この2人の死は讃えられ、「美談」として語られることであろう。
 彼らの「行動」は称讃に値するかもしれない。
 しかし、自分が死んではいかんよ。
 死んだ2人の人間は、まだまだこれから出来ることもあった。やりたいこともあったろう。
 また家族もいただろうに。残された人間にしてみたら、死んだ人間がどんなに立派なことを為したところで、それで喜びなどはしない。特に親にしたら息子に先立たれなどしたものならば、もうたまらんよ。
 死ねばそれで終わりだ。
 私は死にたくないし、自分の生命がどこの誰の生命よりも大切だ。これを指して利己的・自己中心的などとは言われたくないし、自己の生命を顧みずに他者を救う精神を無条件に絶賛したりもしない。もっとも、ホームに飛び込んだ2人は何も考えないで、思わず酔っぱらいに駆け寄ってしまったのだろうけれども。


 「死」を讃えるかのような風潮が、今後支配的になると思うが、私は敢えてこれに抵抗する。別に私は、2人の行動や死を貶めるつもりもないし、またそれを讃える声も否定するつもりもない。ただ、そうした「感動」の在り方までをも強制するかのような空気や声に対して、疑問を提起したいだけである。これが私の言う「反・大衆迎合」である。   


■後年記■
 自らの命を賭して他者を救おうとする人々は英雄である。それ自体を否定しているわけではない。ただ、「命を落とした」という結果ばかりを感動物語として消費するがごとき言説に、嫌気さしていたのであろう。


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