参謀長宅にてバトルロワイヤルを鑑賞
2001年07月23日(月)
「バトルロワイヤル」がレンタルされた。というわけで、私はビデオを引っ提げて参謀長(仮名)宅に乗り込んだ。すでに何回も観ているのだが、これは参謀長に見せたい。この映画に対して、この世で最も汚いモノを見る目で観る者も少なくないが、彼ならば大爆笑することに間違いないであろう。
銃弾を浴び、首をかき切られ、全身を刺され、次々と死んでいく人々。もちろん拍手喝采しながら観ましたよ。特に赤松義生に対しては、登場したその瞬間から笑いが絶えなかった。批判も絶えず、また出来やオリジナリティに関してもとかく言われる作品であり、私もそうした批判はよくわかるが、観て楽しめはするものだ。この映画を笑って観るようでは人格を疑われることであろうな。だが、こう言ってはナンだが、たかが映画でしょう。ひどいものは本当に私も顔をそむけたくなるが、この程度の暴力、この程度の残虐描写、許容範囲です。エンターティメントにはある程度の暴力性も必要だ。
さて、棒術部の面々がこのゲームに放り投げられたら、いかになるであろうか・・・?
よくありがちな設定と言われるが、最後の1人だけが生き延びられるというのは、自分が投じられてみたら、とてつもなく恐ろしい。私など、背後から誰かに刺されたり、油断して撃たれたりしそうなものである。いやあ、誰が誰を殺すか、非常に興味深い。ま、この話はこのぐらいにしておいた方が、私の身のためであろう・・・。
映画鑑賞の後、ビールの一杯でもやりつつ談笑した。
やがて黒天使氏(仮名)も参謀長宅を来訪し、3人で乾杯を。
話の内容は、黒天使氏は棒術部に於けるチトーだということだ。
チトーはユーゴスラヴィアの政治家だ。本名をヨシップ・ブロズといい、民族はクロアチア人だが、「ユーゴスラヴィア国民」としての意識もまた、色濃く持っていた人物である。小国がそれぞれ乱立する状態では経済的に他国に蹂躙されると考え、「連邦」としてのユーゴスラヴィアの結束と、ユーゴスラヴィアのバルカン半島に於ける盟主たる地位を第一義に考えてきた人物である。
かつてユーゴスラヴィアと呼ばれた地域では、紛争が絶えず、現在も民族間の対立が激化しているが、チトーが死ぬまではユーゴスラヴィアは連合として存在していられた。チトーは民族間の関係を取り持ち、飴と鞭を使い分けて連邦の結束と内紛の防止に尽力した。もちろんユーゴスラヴィア連邦が消滅し、紛争が激化した原因は非常に多岐に渡る。チトーが残した体制(飴の部分。各共和国への分権)が紛争の引き金になった面もある。だが、ユーゴスラヴィアが第二次大戦後、ソ連ブロックに吸収されずに独自に地位を堅持し、南北格差はあったと言えども繁栄を享受し、「第三世界」の旗手としてその名を知らしめられたのは、ひとえにチトーの功績である。
棒術部とユーゴスラヴィア連邦。けっこう重なるところがありますよ。
それと関連して出された話は、論理的人間は情をつかえるが、感情的な人間は論理をつかえない、というものである。この場に集まった人間は、割と論理的人間であるとの自負を持っているし、世間でもそう言われている。棒術部に於いては、理想・理念が乱立し、感情が入り乱れ、個々人のエゴが吹き出す棒術社会に於いて、いかにうまく組織を取りまとめ運営するかに、3人とも努力してきた。
だが、そうした行動を「悪魔的」と見る人間も少なくない。つまりは、情こそが尊く、情で個々人がぶつかり合い、腹を割れば物事はすべて解決できる、という発想である。こうした思想の持ち主にとっては、「秩序」「合理的」「組織」「権利義務」「責任」というコトバは全てマイナスイメージを伴って聞こえ、情を論理で統制する冷血なやり方に見えるらしい。
人間同士が、情でぶつかり合って物事を解決する、というのは理想的ではある。だが、この闘争の人間社会、自分の情で言いたい放題言っても分かり合えることの方が珍しいし、文字通り感情的になりすぎると争点がはっきりせず、何かを決めるのには時間がかかって仕方がない。今日の棒術部のような大規模集団では、そんな悠長なことをやっていられない。また、この50〜60人といる棒術部員が、すべて対等な立場で言いたい放題言っては、組織はたちまち崩壊してしまう。
だからこそ、一定の秩序が必要なのだ。物事を決める上で、安定した足場を設定し、明確な目安をもうけなければ、「情」の美名の元で個々人に不当な要求がされ、「自由・対等」を謳いながらも暴力の力の順番にものが決まる、ということも抑制される。我々は、部員個々人が伝統的支配者から気分のままに不当な要求を突きつけられることを防ぎ、無秩序からくる部員個々人の不利益・混乱をされるために、秩序の確立と合理の追求に尽力してきたのだ。動機も目的もすべて、情なのだ。「秩序」と「情」とは、決して相反するものではない。秩序とは情を不当に踏みにじられることを防ぎことである。秩序に於ける合理性とは、情を果たすための手段に他ならない。このように、論理的人間は決して論理のために活動しているわけではない。出発点も目標点も、すべては情によって決めているのだ。当たり前のことだ。
だが、感情的人間は、論理を使うことが出来ない。感情的人間は、論理を小細工か、さもすると冷血な「悪魔的」行為と捉え、情で物事に当たり、情で人間同士がぶつかり合うことをよしとした。
こうした人間は、感情のままでものを言うのは、自分の「素直な意見」だから何を言っても許されて当然、何を言っても当然と思っている。争点を絞って、ある一点の目的のために他の感情を抑制することをしない。そのため、結局気の弱い者・暴力に劣る者・立場の弱い者が譲歩することでしか、物事は決まらない。結局、この闘争の人の世で、「自由に情を行動する」「腹を割って話す」という美名は、原始的な暴力支配しかもたらさない。
こんな感情を抑制する能力に劣り、「腹を割った」と自惚れつつも言いたいことだけ言って実は何も為せず、それに気づきもしない人間。「語り合って団結する」とか言いながら、結局暴力的に見解・思想・行動を強要し、それに気づきもしない人間。そうした人間に論理的人間が「冷血」「『ルール』でしかものを考えられない」「『悪魔的』所行をして支配者たろうとしている」との不当な誹謗を受けることを看過しない。このときの会話は、我々の不満と怒りの集約であった。
また、このときに出された話として誕生会の惰性化・形骸化もあった。
棒術部には、古来から部員の誕生日に集い、ゴミ・ガラクタをプレゼントするという奇習があった。それはしばらく廃れていたのだが、2001年度から、部員の誕生日にほぼ全員の部員が集まり、いたってまともにそれを祝うというイベントが幾度となく行われた。大学生になってまで、誕生日を祝ってくれるサークルはなかなかないであろう。それはそれでよい。これは黒天使氏の言う公共事業、飴である。
だが、この誕生会が今、重い枷になりつつあるのだ。誕生会は本来、仲のいい者同士で内輪で楽しんでいれば、それでいい代物。今までは、新入部員に対して棒術部員としての結束・連帯・意識を持たせ、まだまだ仲のいいグループが流動的なうちに大人数交流させるという意図があった。だが、7月になり何度も誕生会を開いているうちに、いくつかの強迫観念が生じてきた。
1つは、出るか、出ないか。誕生会に出席しない者が誹られるのではないか、という強迫観念である。これは数少ない休日の過ごし方を強制することにつながる。50人60人いる部員全員の誕生会をやっていたら、余暇のほとんどを誕生会で過ごすこととなり、部の仲間同士で他のことを出来ないという危惧である。現にいくつかの個人的イベント案が誕生会と衝突しつつあり、主催者を悩ませていた。誕生会というひとつのイベントに参加することを、部員全員に強制するような空気が出来かかっていたのである。
2つ目は、全員の誕生会をやらねばならない、誰もとばせないという部指導者の強迫観念。部を挙げて部員の誕生会をやったのならば、誰かを飛ばし誰かを祝う、ということは出来ない。結局、50人60人全員の誕生会をやったら、1のように、余暇の過ごし方が画一的に固定される。主催者たる4年生の負担は特に大きなものとなる。
3つ目は、本来個人の誕生日を祝うはずの誕生会が、よくわからない何かの口実になってしまうという強迫観念。これは強迫観念と言うよりは危惧であり、すでに生じている問題である。つまり、誕生会があると、とにかくわけもわからずに部員が皆参加し、主役を祝うどころか、単に酔って管を巻く、異性の部員に近づくことだけを目的に誕生会へ参加する者が続出しつつあるということだ。こんな状態ならば、主役としても自宅かどこかで、内輪で静かに祝われた方が気分良く時を過ごせるだろう。酔おうと異性の部員にアプローチしようとそれは勝手だが、個人的にやれ。別に部が多大なる時間と労力と金銭を投入してその場を用意してやる必要などまるでないし、祝われるはずの主役に対して失礼である。
だから、そろそろ公共投資は潮時だということである。
棒術部の公共事業は、第二次大戦後の西欧に於ける混合経済のように、十分な役割をはたした。あとは市場にまかせる時期である。誕生会は誰かが自発的に主催して内輪で祝い、そして人間関係という利益を得る能力のない人間はぬるま湯から叩き出され、いやでも自分の現状を認識することとなるであろう。誕生会は、難民キャンプでも福祉施設でもない。
また参謀長は誕生会によって、被害を受けた人間だ。
貧しい発想として「借りて減らないモノはタダ」というのがある。例えば、部屋や自動車。実際、リスクは巨大だしカネもかかるのだが、愚かな者はそれがわからないらしい。「減らないモノ」は貸して当然だと思っている。具体的には、自動車を持っていると、よく「送ってくれ」「迎えに来い」「何かを運べ」と体よくコキつかわれる。私の親も参謀長の親も、田舎では近所のババァや付き合いのある人間に簡単に車を出すよう頼まれた。運転というの社会的・経済的にリスクを背負う行為である。必要なければしないに越したことはない。さらには運転手の時間を奪い、ガソリンという消耗品を使い、そして確実に自動車の耐久部品・消耗部品をすり減らしている。だが、安易に車を出せと称するババァは、使って当然と思っているのだ。参謀長の親御さんが「車代」を請求したところ、車を使ったババァは意外な顔をし、そしてえらく不機嫌になったそうな。タダじゃないんだよ、車は!
それと同じように、参謀長は誕生会で部屋を貸した。自分とあと2人ばかりの合同誕生会だが、参謀長もこれは公共事業と割り切って参加し、そして部屋を貸した。だが、深夜早朝まで続いた騒ぎは確実に近隣住民の迷惑となり、参謀長の立場に影響を及ぼしていることであろう。また自分の私的空間に20人を超える人間が足を踏み入れ、飲み食いし、朝まで過ごすと、部屋は確実に汚れるし、私物は勝手に使われ、モノの配置・配列の秩序は混乱し、消耗品は減り、何かと手間や労力、神経もかかり、部屋を貸した主の時間は、準備や掃除なども含めてこの誕生会に参加したどの人間よりも長く拘束される。実際金銭的にも社会的にも、体力・精神的にも、部屋を貸すというのは多大なる負担となる。
この誕生会は参謀長が割り切って、覚悟して貸したものだ。当然のように提供された場ではない。それを愚かな者共は勘違いしている。少しは参謀長にかけた迷惑を詫び、そして感謝の意を示せ。そうすれば、参謀長も少しは貸した甲斐があるというものなのだが、愚かな者共の態度にはあきれかえる。感謝するどころか、また次の誕生会で貸せと言うのである。参謀長はもちろん拒否したが、「他にやる場所はない」「参謀長は金持ちだからいいだろう」とのことである・・・。人の住宅・私的空間を何と心得る。こんな根性で誕生会をされるぐらいならば、公共事業として誕生会を行うのはやめた方がいい。
前述の「論理的人間と感情的人間」との話に重なるが、感情的人間はどうも他者を想起しようとする意志・能力に欠けるようだ。感情的人間は、自分を善人だと思っているのか善人でいたいのか知らないが、私や参謀長のように悪虐なコトバは口にしないし、例えゼミの議論でさえも「悪そうなコトバ・話」を言おうとしない。前述のように、「合理」「秩序」なんてコトバを漠然とマイナスイメージで捉え、当たり障りのない話しかしない。論理ではなく、簡単なことばかり言い、少しマジメな話になると黙りこくるか話をそらす。
だがこうした人間は、別に本人が思っているほど善人ではない。車や参謀長の家を借りることを何とも思わず、相手の状態や負担がわからないのである。普段当たり障りのない話しかしないように心がけ、論理的に物事を考えて認識しないので、車や家を借りることの負担を知ろうとしないし、「俺とお前との仲だろう」「お前は金持ちだからいいだろう」「何だお前、冷たいやつだな、貸してくれたっていいだろう。他にアテはないんだ」などというよくわからないことを言って、簡単な気持ちで相手を苦しめるばかり。何が「情」か、何が「善人」か!彼らの言うそんなコトバは、自慰行為と同じだ。
「感情的人間」というのは、ようするによく物事を考えない、人のことを考えない、自分に不利なことを考えない人間ということではなかろうか。少しだけでいい、自分が他者から「善人」「いい奴」と思われたいのならば、もう少し自分がかける他者の負担と状態について考えろ。当たり障りのないことだけ言って、「やばそうな」コトバを口にしないだけで、誰も自分を評価はしない。
さて、その他出た話題は・・・
●「ある」と錯覚していたものが「ない」とわかったとき、奪われたと大衆は考える。
自分に不利益があったとき、自分ではなく他人のせいにする。自分に原因があったとしても。また自分に不利益を及ぼす相手原因は最大限わかりやすく、「そうだろう」と期待される相手に向けられる
●棒術部は社会的弱者のOBのための救済施設ではない
今夜もなかなかエキサイティングな話であった。
念のために言っておくが、これを「棒術部のすべてを裏で決める密談」などと言わないように。ただの世間話である。誕生会なんかがこれからどうなっていくかはし知らないし、どういう決定が為されるかは不明だ。ただ、話題の一環として気になっていることや日々の不満を口にしているだけである。こうした場もないと、努力する人間は頭がおかしくなる。当たり障りのないことだけ口にし、やばそうなことを口にしなければよいというわけではない。こうした場は必要なプライベートである。