東京帰還と、出征直前の参謀長を送る
2001年08月08日(水)


 釧路に於ける滞在2週間弱。大学1年の夏休み以来の、長期帰省であった。
 だが、今日やっと東京に戻る。例年の帰省時は、実家にいてもやることが少なく、ネットがないために居ても立ってもいられなかったが、今回はノートパソコン持参での帰省。それなりに落ち着いて過ごすことが出来た。帰省当初は釧路の低すぎる建造物とその密度に落ち着かなかったが、10日以上の滞在で慣れてきたところであった。だが、私の生活空間は東京である。やはり東京でこそ、生産的な行為をしたい。パソコンがあると言っても、最低限のノートパソコン。サイトの更新にせよ、学業にせよ、東京の自室にあるパソコンでなければ出来ないことが多すぎる。


 東京から羽田空港に向かうときは、20キロもの荷物を背負って肩に内出血をしてしまった。だが、東京にもどる今日は、空港に向かう途中で荷物の大部分を宅急便に預けた。身軽である。
 羽田空港に着くまでは、何をしていたか覚えていない。寝ていたような気もする。
 それからリムジンバスで私の沿線の某駅まで至り、そこから電車で最寄り駅に。
 釧路からいきなり東京の景色の真ん中に戻っても、違和感は覚えなかった。気温も20度は違う。だが、私は暑さには強い。大した苦には思わない。やはり私はこちらの人間なのか。来年以降はこの東京も離れるのだが。


 自宅に戻ったのが午前6時前。
 それから1時間後に後輩の参謀長(仮名)がうちを尋ねる予定だ。棒術部の近況や世間話で私を迎えてくれるとのこと。持つべきは近所に住む後輩である。明日から棒術部の合宿だというのに、殊勝な心がけだ。


 棒術部の合宿は一般サークルの合宿とは異なり、練習・稽古・研究は面目だけで、あとは飲み会と観光・・・というものではない。棒術部の合宿は禁酒禁煙。例外も冗談も通用しない。稽古は起床は午前5時かそれより早く、稽古は1日2回。1回の稽古は2時間から2時間半であり、時間の長さも内容も普段の稽古とは段違いに過酷だ。食事は1日2食。稽古以外は師範・監督の道着・足袋の洗濯・乾燥、同じく師範・監督の身の回りのお世話、そして技や武道に対するミーティングも長時間行われる。研究が面目であとは遊んでいる合宿と違い、このミーティングも真剣勝負だ。睡眠時間は長くても5時間程度であろう。


 この合宿中は慢性的に睡眠不足・筋肉痛で、全身の痛みのために階段を這って上るようになる。それでも稽古に於ける妥協も、合宿運営の仕事に於けるミスも許されず、常に真剣勝負。神経が研ぎ澄まされてくるものだ。
 この非日常的な過酷な体験の中でこそ、技は先鋭化し、鋭い突きや蹴りを出せるようになってくる。常に物品・人員・時間・金銭に余裕のない中で、計画・目的をいかに設定し、現状をいかに認識して人・モノ・情報をどう動かし、時間をどう使い、宿といかに交渉して権利を主張しつつコストを抑えるか。こうした合宿運営の経験もまた、自分にとって大きな財産となる。この人生に於いてそう何度とない非日常体験は、自信となり、今後への糧となり、また自己の能力と限界について認識を持つことが出来る。話を聞いただけでは、どこのキ@ガイ団体の狂気の合宿だと思う人間も必ずいるが、こうしたシャバっ気を叩き出すような合宿はなかなか面白い経験となる。人生には血ヘドを吐く経験も大切だ。


 この合宿の前日は、体力温存のためにとっとと寝るのが定石なのだが、参謀長はわざわざ私を出迎えるために時間を割いてくれたのである。話の内容は他愛もない世間話や、留守中の棒術部について。そうした話はここに書くことではないが、1つだけ、話の中で上がった参謀長と私との共通認識について書こう。


 「人間の存在に、価値はない」、これが私と参謀長との共通認識だ。
 別に、「人間には価値がない」から、今窓を開けて往来の人間を散弾銃で撃ち殺しまくってもよい、ということではない。私や参謀長が言いたいのは、自分自身の存在自体には価値がない、という自戒の念である。人間は、私も参謀長も他の誰でも、何もしなかったら、ただ呼吸してメシ喰って排泄して寝るだけの存在だ。大衆は、「人間には誰にでも価値がある」という発想が好きなようだが、こうした考えは時として自分自身はsomething(ひとかどの存在、対した奴)だという妄想、他人が自分に対して何かをしてくれるという甘えを産む。だが、誰がただ居るだけの奴に何かしてやるか、誰が何らかの価値を見出すか。


 参謀長は言う。「私が恋愛シミュレーションをやる理由は、自分自身が何の価値もない空虚な存在だと再認識するため、自戒のためだ」と。恋愛SLGの主人公は、基本的に空虚な人間である。何もしない。「東鳩」の主人公なんかも、ただ一人でテレビ観て、学校では寝ているだけのクズだ。プレイヤーが何もしなければ、何も起こらない。存在するだけである。だが、プレイヤーが何らかの選択肢を選ぶことによって、主人公は行動を起こし、イベントに参加したり、部活や勉強で活躍できたり、女性と付き合ったり出来るわけだ。全ての結果は、行動によって引き起こされる。主人公の存在によって起こるわけではない。というのが、参謀長の見解だ。そんな視点でゲームをやったことなどなかったが、なかなか興味深い話であった。
 人間の価値は、行動によって決まる。少なくとも、人が他者に何かを期待するのは、今までの行動を鑑みた上で、これからどんな行動をしてくれるか、ということだ。「一緒にいて安心できる」などというのも、一見相手の存在に価値を見出しているようだが、これも相手が「何か」してくれるという行動への期待である。行動の内容、「何か」が具体的である必要はない。いざというときに相手が何も行動してくれなかった場合、そうした期待は減退することであろう。
 今日参謀長が私の家に来てくれたのも、私が参謀長の話を聞き、そして私が参謀長に話を提示することを期待してのことだ。私が同じ棒術部に存在するだけで、何も話さない先輩だったら、参謀長の話をまともに聞かない先輩だったら、あるいは(参謀長にとって)どうでもいいことしか話さない先輩であったら、今日、参謀長は我が家に来などしなかった。


 極端な例を3つ挙げよう。
 棒術部には■■という人がいる。この人が棒術部の溜まり場や稽古場にやってくると、必ず何人もの部員が彼のそばにやって来る。慕われている先輩なのだ。■■は、話はおもしろいし、またその話はすばらしく知的に聞こえる。だから■■の回りには、そうした話やアドバイスを期待して人が集まるのだ。
 飲み会をやる場合でも、■■がいる飲み会ならば話が盛り上がる。他では出来ない知的な話と低俗な話が混合した会話を楽しめる。さらには、大学の講義や学問のことを真剣に聞いても、経験や知識から出される返答は勉強になる。ある難関科目の試験当日に、ある後輩が■■にその学問についてのレクチャーを受けて、その聞いた内容を試験に書いてAを取ったということもあった。
 ■■はアニメやゲームや下ネタ、芸能、スポーツと幅広い話題に対応しつつ、時事・社会情勢に通じ、学問への姿勢も真摯だ。大学時代に彼以上に本を読んだ学部生は、そうそうはいないであろう。こうした豊富なネタを武器に、誰にでも物怖じせずに話しかけ、集団の中でも割と孤立していそうな奴も敏感に見つけて盛り立てようとする。アホにはアホ話で盛り上げ、真摯な奴には真剣勝負で討議をする。サービス精神旺盛な人物だ。だからこそ、彼の回りには人が絶えず、多くの後輩に慕われているのである。


 しかし、■■は大変だらしのない人間で、重大な会議には幾度となく寝坊で遅刻をし、酒喰らっては人に絡む。酔って深夜のイタ電など日常茶飯事で、女性の前でも平気で下劣な下ネタを連発する。貸したモノはなかなか返さないし、原型を留めずに返ってくることもしばしば。人が運転している横で平気で酒を喰らい、どこでもタバコを吸い散らす始末。学食のど真ん中で女性生殖器の隠語を叫び、スーパーのショッピング・カートはかっぱらうは、工事現場のカラーコーンは盗むというとんでもない人物でもある。
 だが、それでも少なくない人物が■■を慕い、彼の蛮行を苦笑しながも許すのである。他の人間がやったら、軽蔑され、ぶん殴られても文句も言えないようなことをやっても、それを理由に■■と絶縁する者はなかなかいない。本気で■■の所業に抗議・意見具申する者はいても、次の日には酒を飲み、ともに笑うのである。
 これは■■に付き合う価値があると思うからこそ、人は■■が蛮行・犯罪を行っても、彼と接するのである。それはひとえに、■■の行動に価値を認め、期待するからである。■■が価値ある存在だから、■■を慕い、■■の蛮行を許すのではない。■■が人にとって価値ある行動をし、またそうした行動を期待するから人は■■の回りに集まり、■■が何かをしでかしても彼と付き合うのである。■■がやがて、人が期待するような行動をしなくなったら、■■は悪行を行うだけの人間となる。そのとき、■■を慕う人間はほとんどいなくなることであろう。


 2つ目の例を挙げよう。私の高校時代、▲▲なる人物がいつでも私の仲間の周囲にいた。日常溜まって談笑しているときも、飲み会のときも、連んで遊ぶときも、同じ場にいた。だが、▲▲はただ周囲が盛り上がったときに、回りに合わせて笑い声を立てるだけである。会話のイニシアチブを▲▲に渡してみても、話を▲▲個人に提示してみても、▲▲が発するコトバにはまったく内容がない。ただ前後の会話に上がった人間や組織、品物をバカにしたり、ただ相手のコトバに同意するだけだったり。
 ▲▲は私やその仲間と一緒の場にいて、笑いが起きたときに同時に笑うだけで、我々の仲間だと思っていたのであろうか。とんでもない。排除するのに心が痛んだから、あるいは逆恨みされて刺されたら嫌だから誰も排除しなかっただけで、▲▲は仲間でも何でもない。いてもいなくてもどうでもいいのである。それどころか、呼んでもいないのに我々の周囲に常に存在し、どこかに連んで行くと言う話があると近くで聞き耳を立てて、集合場所に現れるというのは、恐ろしい存在でさえあった。


 別に▲▲は会話がヘタというだけではない。私の仲間にも話がヘタな奴、寡黙な奴、気の弱い奴はいくらでもいる。私とて、どうも発音が不明瞭で、思いついたことが伝えられずに悔しい思いをしたことがいくらでもある。誰だってハンディキャップはあるのだ。▲▲は他者を楽しませようという努力、他者がどんな人間か認識しようとする努力、自分の行動言動が他者に不利益をもたらさないようにする努力、自分が他者にとって価値ある存在たろうとする努力を一切しなかったのだ。ただ、周囲に合わせて笑っているだけの奴、ただ前後の会話に追従する奴に、誰が一緒にいる価値を覚えるか。
 それどころか、▲▲にはかなり不快な行動・言動が目立った。


 何かを罵倒することがウケる話だと勘違いして、すぐに何でもバカにする。例えば誰かが「俺の弟は〜でよぉ、バカなんだよホント」などと言うと、▲▲は「バカじゃねーのか、そいつ」と吐き捨てる。ネタとして自分の弟の愚行を提示しても、それを思いっきり他人にバカにされていい気分などしない。ある教師をバカにする話が出ても、教師という存在そのものを罵倒する。我々の仲間には親が教師の奴、自身が教員志望の奴もいるというのに。それに我々は特定の教師に反感を覚えることはあっても、そこまで教師全体をナメた奴は1人もいない。
 また誰かが少しミスをしたら、▲▲は吐き捨てる。「バカヤロー!」「殺すぞ!」。道案内が通りを一本間違えたり、カラオケ代金の計算をミスしたり、ゲームの共同プレイでヘマをしたり、体育の実技でミスをしたり、さらには誰かが疲れてため息ついたり・・・そんな些細なことで、だ。一方、▲▲自身は横暴を見せる。ゲーム・カラオケ・ビリヤードでは順番は恒常的に無視し、学祭やイベントで共同落書きコーナーがあると人の書き込みの上に自分の書きたいモノを書く(人の書き込みを潰すことは大変な無法行為である)。些細なことなのかも知れないが、これらへの注意は一切聞かない。文字通り聞こえていないふりをするのである。


 こんな人間と付き合う価値などない。人にとって価値のある行動を一切とらず、また人に対してマイナスの価値を持つ行動ばかりする▲▲。最初のうちは自分自身の罪悪感から▲▲を排除しなかったが、やがて我々は▲▲を徹底的に排除した。この選択は適切であったと今でも思っている。
 もし▲▲が我々にとって価値ある行動、面白い話・興味深いをする、会話を盛り立てる、真剣に人の話を聞く、親身になって何かをしてくれる・・・何でもよい。価値ある行動をする人間だったら、▲▲の暴言や横暴はまだ許せた、ガマンできたかもしれない。私の仲間内でも、日常的にぶち殺そうと思いたくなる奴がいたのだが、彼は付き合うことで得るものも大きかったため、絶縁することもなく、今日まで友好関係を保っている。


 そして3つ目の例。某所での知人●●。●●は▲▲同様、場に存在するだけの人間である。とにかく何かあるとその場に存在するが、何もしないし話さない。やはり場が沸いたら、ただ周囲に合わせて笑うだけである。
 こんな●●と▲▲の最大の差異は、●●が罵倒や罵声を一切口にしないこと。一応●●は他者に配慮しているのである。だが、ただそれだけである。これこそまさに存在しているだけの男。最低限の行動言動しかしないから、恨み辛みを買うことはそうないが、好感を持たれることもまずないのである。ただ、人が集まっている場に存在している男。彼の目には周囲に人が居て、物理的にその輪の中に自分が居るだけで、仲間がいるとして安心できるのだろうか。


 人と人とつながりは、有機的である。つまり個々人同士が相互に他者を評価判定し、他者がマイナス面を上回る価値ある行動をすると期待するからこそ、関係を保っている。これは駆け引き、真剣勝負だ。仲間・グループという集団は、そうした関係・駆け引きの集合体だ。ただのmass(カタマリ)ではない。何かのグループや仲間をただのmassと錯覚し、ただその中に居ればよい、嫌われることを言ったりしたりしなければよい・・・というのは、どういう発想か。ただ人の中にいて、嫌われることさえしなければ、自分が他者と親交を深められるとでも思っているのであろうか。だが、あいにく存在するだけの存在に、価値を見出す奇特な人間は滅多にいない。結局、●●のような男は、ただ人を求めて人の集まる場所に寄りつき、そして何も得られないことであろう。
 「嫌われそうな行動」をしないことなど大したことではない。重要なのは、「他者にとって価値ある行動」をすることだ。そうすれば、多少の失態や失言は見過ごしてくれる(かもしれない)。一方、そうした「価値ある行動」も「嫌われそうな行動」もしない者は、悪意も好意も受けることはないが、普段評価する材料・印象が乏しいため、些細な失態・失言が巨大なマイナス・イメージを作り上げてしまうこともある。他者に不快・不利益を及ぼす行動をしない、というのも必要な観点だが、それだけでは大した意味はない。もっと血ヘドを吐いて他者と当たれ。人間関係は外交である。


 実際、この●●には友人と呼べそうな人間は誰もいないようである。
 こうした自分の現状を鑑みて、他の人間はもっと親密な付き合いをしているのに、「同じ仲間」の自分がグループの人間と親密な関わりを持つことが出来ないのは、誰かの陰謀だ、爪弾きにつようと策謀を重ねている奴がいる、本来自分が享受するはずだったものを奪っている!と考える傾向が●●にあるような気がするが、これはもう病理である。他者をナメ、そして他者に甘えている。自己批判しろ。存在ではなく、行動の観点で自分の在り方を顧みたら、少しはマシになるかもな。


 これは私の交友関係の話であるが、「人間の存在そのものには価値がない」という発想には、参謀長の認識とそう大きくは変わらないことであろう。看過できない違いがあるのならば、また一杯やりつつ話しましょう(参謀長への私信)。 


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