人が見たら、「密談」なのか
2001年08月18日(日)
今日は、私と後輩の黒天使氏(仮名)とで、喫茶店にて閉店時間まで談笑した。酒が入らなくともなかなか盛り上がり、楽しい時間であった。ゲゼルシャフトなアホ会話(ノリを保ち続け、とにかく突飛なことを連呼し、それでもってウケをとり続けなければ成立しない強迫観念に満ちた会話。内容の情報量は非常に少なく、人間対人間で真剣勝負をする余地はない。あるいは他者と一応の接触を持ちつつも、真摯に話すことを回避するために行われる会話)なんぞは人生の浪費だが、今日の茶店での談笑のごとき場こそ大学生活の醍醐味である。
今日話した内容とは関係なく、ここではこの会談を知った人間がどう反応する、という観点で話したい。
黒天使氏は棒術部の幹部であり、私もかつては実務面での統括者であった。両者とも文官であり、また政治学科の学生でもある。この二人が茶店で話しているのを棒術部の誰かが見たら、「また『密談』だ」「『政治的工作』をしている」とでも言うのだろうか。我々はただ、話したいから話しているだけである。
だが、現在の棒術部には「政治」「派閥」「密談」というコトバに異常反応を示す部員が少なくない。彼ら曰く、「棒術部には政治学科を中心として『派閥』が跳梁跋扈しており、そうした『派閥』が水面下で『密談』を繰り返して部の運営を壟断している。自分の知らないところで決まる事柄、自分の知らないところで流される情報が多すぎる。こうした『政治的行動』は気に喰わない」ということだそうな。
そして現在、政治学科の人間や文官肌の人間が一緒にメシ喰ったり、家で酒飲んだりするだけで「派閥」「密談」呼ばわりされ、人々はこうした行動を「政治的行動」と呼んで、とかく非難する。「派閥」「密談」「政治」。この3つのコトバはほぼ同義で用いられ、これらのコトバが棒術部で出されるときは、大抵マイナス・イメージを伴う。
2000年の後半から、一定の人間が集まると、「派閥」だと言われることが多くなってきた。だが、「派閥」とはいったい何なのか。「派閥」が組織全体(この場合、棒術部組織と棒術部社会)に及ぼす悪影響とは何か。実際にどんな弊害が起こりうるのか。どうして「派閥」というコトバをマイナス・イメージとして使うのか。そうした認識なくして、ただ「『派閥』がわるい」「『派閥』はいけない」というコトバを連呼するだけでは、何ら生産的な結果を生みはしない。「派閥」をマイナス・イメージのコトバとして使うのならば、その根拠と目的を提示してもらいたい。「派閥」と呼ばれる小集団をどうしたいのか。そして、いったい棒術部社会がどうあるべきだと考えているのか。
人々は、特定の人間が集まると「派閥」と呼ぶらしい。だが、人間は平等ではないので、集団内部でも人間関係の濃淡・偏りは出る。ある程度は部全体としての交流は必要だが、人間関係の濃淡・偏りを否定できる人間はいるのか?そして、孤独な人間を除いて、自分が「特定の人間」とわりと多く飲んだり、集まったりしていないと言える人間が存在するのか?これは、「『派閥』はいけない」を連呼する人間に是非聞きたい。
「派閥」を批判する人間で、自分自身が(無自覚であろうとなかろうと)、名を掲げさえもしている「派閥」に属しているというのは、よくある話である。かつて部に対して問題意識を持つ有志が語り合おうという面目で「精鋭愛部会(旧清談竹林会)」が名乗りを上げたとき、■■は「奴らは精鋭か。それに所属していない人間は精鋭ではないのか。部内でなんでそんなものを結成する必要がある」と激しくこれを非難した。
だが、■■自身が小田急線沿線に住む部員連中を称して「小田急組」なるものを掲げていた。■■は、自らをそのボスと称して「小田急組」が行動を共にすること、たまに酒を飲むこと、つまり部についての情報を収集し、そして「配下」に影響力を行使することをもくろんでいた。「小田急組」は機能しなかったというか、■■の妄想に過ぎなかったのだが、これを除けば、この「小田急組」と「精鋭愛部会」との間にどれほどの違いがあったのであろうか?どちらも「派閥」である。集まった理由が地理的条件だろうと志であろうと、それは問題ではない。「派閥」が「派閥」足り得る条件は、集団内の排他的内集団が全体に対して影響力を行使しようという機能にこそある。発足理由が地理的条件だろうと学年だろうと仲良しグループだろうと、関係はない。
また、2000年度には「水の会」なる集団があった。これは時の主将●●が毎週水曜の稽古後に、部室で酒を飲むという団体である。これは、「定期的に」「主将が主導し」「部室(公的場所)を会場として」「ほぼ同一のメンバーが」「酒を飲んで話す」という、まさに「派閥」である。これほど強烈な「派閥」は他にない。
この「水の会」は飲んでバカ話をしているだけで「派閥」ではないと主張するであろうが、「水の会」は主将の支持基盤となり、情報源となり、そしてメンバーは主将という権力者の意志決定に影響を与えられるという、強力な「派閥」である。だが、これに参加していた人間の幾人もが、政治学科やらを指して「『派閥』は嫌だ」と言っているのには失笑する。無自覚というのは恐ろしい。
「水の会」は主将●●の引退と共に消滅し、それに伴って「水の会」のメンバーは急に情報から遠ざかり、部の意志決定からの距離も遠ざかった。これは自分たち「水の会」という「派閥」が享受していた特権がなくなっただけなのだが、彼らはこれを「政治学科が『派閥』を連んで情報・意志決定を独占し、我々が当然持っていた権利を奪っている」と考えているようだ。これが「派閥」アレルギーのはじまりらしいのだが、スタートからイメージと妄想に満ちている。まずは「派閥」に対するテーゼを打ち立ててから物事を認識しろ。
政治学科が集まれば、「派閥」だ。
立川方面の人間が酒を飲めば「派閥」だ。
さらには、人の家に別の部員が酒瓶抱えてやってくれば、「密談」だ、と。
・・・この部に於いては、人間関係を保持することは禁じられるのか?人間関係の均等配分を理想とする社会主義サークルだったのか、棒術部は。すべてのことを万人に公開し、飲みやイベントがあれば全員に参加を呼びかけ、そして分け隔てなく話し、遊ぶってか?そんなことを実現している人間はただの一人も存在しないし、またこんなことを強要されるのならば、棒術部は狂人の集団と言わなければならない。
法職講座で共に学ぶ人間同士が飲んだら、「派閥」なのか?
次は、どこの沿線の人間が「派閥」と誹られるのか?
女性部員同士が集まるのは「派閥」なのか?
もういい加減にしてほしい。コトバをイメージだけで使うな。
特定の人が集まるのを称して、マイナス・イメージを込めて「派閥」と言う人間。つまりは「派閥」を否定し、「派閥」のない棒術社会を願う人間は、基本的に「疎外感」から「派閥」を批判しているのではなかろうか。そうした「派閥」ヒステリーな人間の心理を3つに分けて分析したい。
@自分自身が人間関係を持っていない
自分が孤独な、あるいは誰かと真摯に話し合うことが出来ない理由として、「派閥」がその機会を奪っているとして攻撃することがある。確かに、人間のカネ・時間・体力・肝臓には限界があるため、「派閥」の名の下に特定多数の部員が定期的に頻繁に飲んでいては、それに属していない人間は飲む機会・遊ぶ機会を失うことにもなりうる。この意味に於いては「水の会」には罪がある。「水の会」は「誰でも歓迎」と称していたが、こうした定期的に特定の人間が飲む場に他の人間が足を踏み入れることは難しい。
だが、大抵の「派閥」と称される団体は、規模は小さく、定期的に大っぴらに何かをしているわけではない。単に仲の良い、あるいは関係のある人間同士がつるんで飲んだり話をしたりしているだけのこと。決して、誰かから飲む場・語る場を奪っているわけではない。「派閥」を批判する人間は、どうもこうした「場」を自分の力で得ていない、得られないことの原因として、「派閥」を叩いている側面もあろう。
A他者と自己との区別が付かない
仲間同士、部員同士、あるいはある程度の人間関係を築いた者同士、いつでもどこでも行動を共にするものだ、と無意識に思っている人間は割といるものである。だが、「ある人間がいない場」「ある人間達だけの場」というもの必要である。人間いつでも似たようなメンバーで行動するわけではない。余談だが、私は後輩に対して「先輩がいない場」を尊重してきた数少ない先輩だと考えている。どのような「場」にも、いついかなる場合にも、常に介入しようとしていた先輩は枚挙に事欠かない。
「自分がいない場」が持たれるというものも、ままあることである。例え「自分が存在する場」が「自分がいない場」よりも多かろう少なかろうと、こうしたときに「疎外感」を極めて大きく持つ人間もいるのである。あたかも誰かに自分が切り捨てられたかのように、誰かに「裏切られた」かのように感じたとき、その「疎外感」は自分を阻害した原因として「派閥」を想定し、それを攻撃するという側面もあろう。
B自分自身が常にアクター(主体者)でいたいという思い上がり
誰かがどこかで「何か」を話している。自分の知らないことが、自分の知らない場所で決まり、そして行われるのではないか。疑念を持つのはやむを得ないとしても、自分の知らないところで「何か」が決まるのを許せない、自分が常に部の決定に関わっていきたいというのは病理である。
Aで述べた、「自分のいない場」を許さない人間や、「後輩だけの場」を尊重しないでそこに必ず介入する先輩。こうした人間の「疎外感」というのは、「自分がアクターでいたい/あるべきだ」という妄想が満たされないときに生ずる稚拙な感情である。
組織や社会は、1人の人間がすべてを把握し、1人で動かしていけるほど簡単ではない。また、たった1人の人間が部のすべてを把握認識し、1人で指揮統括する必要もない。だが、自分自身を物語の主人公のように捉え、主体者たらんとする人間は、自分の知らないところで「何か」動きがあると、それに対する不満と不快感から、「自分のいない場」を「派閥」として攻撃するのである。
ちなみに、かつて1人で棒術部組織を動かした棒術部員が2名(I氏と私晴天)いたが、2名とも自分自身の時間・体力・精神力その他能力の限界とともに失敗、断念、挫折している。だが、この2名ほど「棒術部組織の主体者」を実践してきた人間は他にいない。無能な人間、何もしていない人間が、自分をsomething(ひとかどの人物)と認識して、主体者たらんとするのは失笑を禁じ得ない。
そんなにすべてを把握・統括する主体者をやってみたいのならば、上記2名が人生を狂わせ、プライドも尊厳も踏みにじられ、あらゆる時間を剥奪されて、すべてをかなぐり捨てて味わった地獄を、ぜひに体験してみてほしい。
「俺は普通の人の2倍は働いたつもりだ」「これだけ仕事したんだ、誰にも文句は言わせねえ」「俺の仕事をお前が代わりにやってみろ!」・・・あちこちで聞かれるコトバであるが、こういうを発言した人間はほぼ例外なく主体者としての仕事をしていない。ちょっと飲み会の幹事をやった、部で移動するとき誘導・案内した・・・この程度のことしかしていなかったり。あらゆる物事を把握しつつ、全ての物事を決定していかなければならないという主体者としての仕事に比べたら、単純労働などは児戯にも等しい。
まあ、こうした心理から人は自分の不満をすべて「派閥」なるコトバに集約させているのだろう。「密談」は「派閥」が行う行動のことで、「政治」とはそうした事象を表すコトバらしい。政治をナメとんのか。
さらに、「派閥」アレルギーな人々は、叫ぶ。「政治学科が度重なる秘密ミーティングを行い、水面下で部のすべてを決定している」・・・と。この際はっきり言うが、これは妄想以外の何者でもない。政治学科が「政治学科閥」と称して集まったのは1回だけだし、そのときも他愛もない話しかしなかった。そして、必ずしも政治学科生同士は人が思っているほど仲がいいわけではない。
仮に、政治学科が「秘密ミーティング」を行って部の何かを決定したと仮定しよう。それをそのまま公式の幹部ミーティングや全体ミーティングに持っていって「決定事項」を読み上げたとして、それが通るか?「政治学科秘密ミーティング」とやらで決まった胡散臭い紙切れを黒天使氏が読み上げただけで、皆それに同意するか?今棒術部で通っている企画や法案は、支持とコンセンサスを持って決定されているのだ。そうでなければ、部の指針・制度を発表する全体ミーティングで、いきなり黒天使氏の発表に異議申し上げる者が続出し、ミーティングは崩壊、黒天使氏の威信・権威は失墜し、発表される指針・制度も効力を持たなくなる。ミーティングの席上では、1年も2年も3年も4年も全員が黒天使氏の敵である。指導者というのは常に孤独なのだ。だから事前に各学年・各勢力と協議して、承認を得て、そしてはじめてミーティングで発表できる。
政治というのは、合意形成のプロセスである。裏で「派閥」と称するグループが何かを決めることではない。行政の中核たる黒天使氏が、どれだけ苦労して部の運営を行っていることか。他の4年生の誰よりも多く、様々な後輩と話し、不満を聞き、声を吸収し、出された法案や自身が作った法案に対しては、他の4年生連中と徹底的に議論して妥協を作り上げ、他の学年に対しても同意を取り付けるべく交渉と妥協を重ねる・・・これが政治というものだ。別に腹黒い連中が徒党を組んで裏で何かを決めて、その決定が部全体にまかり通るほど世の中簡単ではない。そんなに簡単ならば、黒天使氏も私も苦労はしなかったよ。
日本国家の政治とて、政治家や官僚や大企業家など大衆の言う「偉い人」が料亭に集まって、それだけで国政の全てが決まっているわけではない。労働者や生産者、特定職業などの集まり(「偉い人」ではなく、平凡な人々の集まりだ)が、自分たちの商売・生活に有利な法案を通すために、政治家に影響を与え、その見返りとして政治家を支持するのである。これが政治というものだ。
日本国家であろうと棒術部であろうと、どうも大衆は誰か特定の腹黒い奴が政治を私物化して好き勝手している、と思いたがるようだが、例え独裁国家であろうと特定の人間が社会全体を支配するのには多大なるコスト(別に金銭のことではない)を支払って、支持/同意を受けている。黒天使氏の支払っているコストは、時間と労力。前述の通り、黒天使氏以上にあらゆる部員と接触・交渉している人間は、他に存在しない。
一介の法学部政治学科の大学生である黒天使氏が、この部に於ける責務を果たすために、どれだけ1サークルに過ぎない棒術部に時間を労力を費やしているか。「好きでやっているサークル活動だからいいんじゃないか」では済まない負担だ。黒天使氏やかつての私が、絶大な負担の中で棒術部の運営を果たしてきた理由は、プライドと責任感と義務である。好きこのんで、この人生の貴重な時間をここまで投入しているわけではない。我々は自虐趣味の変態ではないし、これからの将来のこともあり、学生としての本分や日常生活にもやることはいくらでもある。別に棒術部でメシを喰っているわけでもない。
こうして運営されている棒術部組織。問題がなければともかく、不満や疑問があればすべて実務統括者である黒天使氏への非難となる。指導者が社会の不満から批判されるのはやむなきことかもしれないが、聞かれる「批判」の内容の多くは「黒天使氏が政治学科で『派閥』を組んで行政をすべて『密室』でやっている!こうした『政治的』なやりかたはけしからん」といった、まるで根拠もなく、問題そのものとは無縁な誹謗である。
黒天使氏の能力や役職の機能、通した法案そのものではなく、「派閥」が暗躍してどうこう、「密室」で全て決めているなどという事実無根な批判を浴びせ、我らが政治学科の志す「政治」という語を恐ろしく誤用し、実際に物事が決まり、組織が動く仕組み・プロセスをまるで考えもしない。これでは黒天使氏も堪らないことであろう。事実、今日の話では相当まいっているようであった。
こうした大衆の「派閥」「密談」云々というヒステリックな声は、黒天使氏がよく喫茶店や学食の普段部員が来ないスペースで誰かと会見を持っていることが多いからであろう。だが、これは黒天使氏が前述のようにあらゆる部員と接触して部員の声を拾い上げ、不満がある奴・不穏な行動をとる者の主張を聞き上げるための行為だ。こうした話は、部員全員いる場ではとても出来ない。時間はかかり(そもそも時間を合わせること自体困難だ)、話はまとまらず、そして文句や不満のある者はとても全員の前でそうした主張はできない。部員から見えないところで会見を持つのは、黒天使氏の正当な職務であり、そして皆の声を拾い上げるための行為であろう。それの何を非難されねばならぬのか。
そして、黒天使氏にももちろん親しい人間はいる。私とこうして茶飲んで談笑したり、参謀長宅で一杯やったりすることの何を誹られなければならぬ。もちろん部の話や組織運営の話も出ることもある。しかし、それの何が「派閥」なものか。棒術部員同士が会話するとき、部の話が出るのは当然だろう。黒天使氏が何か部のことで迷っているときに、アドバイスや参考意見を求めることもあるだろうに。それもしてはいけないのか。
「水の会」では、「水の会」メンバーが主将●●の意志決定に影響を与えたが、主将●●はそうして決めた部の事柄を、一切他に漏らさず、相談も承認プロセスもたどらずに、いきなり公的場で発表した。だから全体ミーティングの場で主将の決定が否決されるなどという前代未聞のことも起きた。だが、黒天使氏は事前に部の決定について各学年・各勢力と相談・交渉し、妥協を重ね同意を得てからミーティングで発表している。「水の会」率いる●●と黒天使氏。どちらのやり方が正当で、公共の福祉のためになるか。もちろん黒天使氏のやり方だ。そうしたプロセスの前に、黒天使氏が事前に親しい人間に部について相談を持ちかけることもある。それの何が問題なのか。それが「派閥」であり「密談」だというのか?
こうした黒天使氏や彼と親しい人間への「派閥」「密談」「政治」云々という批判に業を煮やした黒天使氏は、部の機関誌にある記事を書いた。その内容は、端的に言えば「部内で『政治』というコトバが簡単にマイナス・イメージで使われるが、それは間違いである。政治というのは具体的にこのような機能を持っており、部の運営にそうした見地は必要不可欠である。大学生ならば簡単なイメージで物事を判断しないように。イメージだけで簡単に物事を判断する奴は大衆である」というもの。棒術部に於いて過去起きた事象を具体的に挙げて、結果を出すに至ったプロセスと視点を説明するという、棒術部政治史の一端を為す名著である。本人の許しを得たら、一部改変してサイトにアップしたい。
この黒天使氏の記事を読んだある部員▲▲の言。
某部員「黒天使さんのこの記事、どうだった?」
▲▲「いや、俺は『政治』は嫌いだ」
ダメだこりゃ。安直に「政治」のなんたるかも知らずに「『政治』は嫌いだ」と言う奴はアホだ、という記事を読んで、同じことを言うかね。おそらくはまともに読んでいないのであろう。斜め読みして「政治的なコトバ書いてある。これは『政治』だ。気にくわん」。これで終わり。おそらくはそういう読み方しかしていないんだろうな。政治学や政治現象が嫌いならばそれはそれでよい。だが、批判するからには理由があるはずだろう。本当に理由がないというのならば、それこそイメージだけで物事を捉えているアホ、幼稚園児にも似た世界観しか持たない人間であるとされても文句は言えんぞ。黒天使氏が報われぬ。
また、これ以上黒天使氏や政治学科、そして我らが志す政治に対して、何の根拠もなく、悪意と偏見に満ちた誹謗中傷を浴びせ続けるのならば、それなりの対価を支払うこととなるであろう。「派閥」「密談」云々と喧伝するアホこそが、不当な暴力を振るっていることに何故気づかないのか。自分の誹謗が正当な主張だとでも思っているのだろうか。
私思うに、バカはコトバの定義をしないのである。
マイナスとプラスを伴ったイメージしか持たず、またそれを疑わないのである。定義やテーゼを言うと、「屁理屈言うな」あるいは「専門用語で煙に巻こうとしている」とでも言われそうだ。
コトバをそんな簡単すぎるイメージでしか捉えていない人間は、物事を考え認識することもイメージとステレオタイプでしか出来ない。感情的なイメージや自分の期待だけでコトバを捉える人間は、思考の発展性がないからだ。例えば「『派閥』はいけない。気にくわない」としか「派閥」というコトバを捉えていない人間は、「腹黒い連中がどこぞで秘密会合を重ねて、部を私物化しているに違いない」としか考えない。それ以上の発展性はない。「派閥」とは何か、どんな状態か、どんな機能と目的を持つのか、具体的にはどういう集団が「派閥」か、部の意志決定に「派閥」がどう影響し、「派閥」以外の人間にどう影響しているか・・・コトバを簡単にイメージだけで片づけ疑問の余地を持たない人間は、こうした地道な思考プロセスをたどることが出来ないのである。
物事を認識する地道な手段を持たない人間にとっては、この世は怪奇だ。個々の事象が点になって視界に点在しているだけで、事象と事象の間の関連性・関係性がまったく見えてこない。だから、感情でしかものを判断できないし、物事を認識する正当な手段がないから信じることしか出来ない。自分の地道な考えで物事を認識しているわけではないので、大衆は権威に惑わされる。「黒天使氏が政治学科を率いて度重なる秘密ミーティングを重ね運営を牛耳っている」などという妄想がまかり通るのも、黒天使氏や政治学科に権威があるからである。
大衆は「政治学科はこうであるべきだ、こうに決まっている」というステレオタイプ・自分の期待を起点として、政治学科生を見ている。「政治学科はどのような存在か?」という疑問からスタートするのではない。「実際の政治学科がどんなことをし、何を考えているか」ではなく、「政治学科はこうだ!こうに決まっている!」という見方ね。これがステレオタイプなわけだ。何を言っても大衆は自分のステレオタイプを疑わず、目前の政治学科の現実の方を疑うことであろう。ま、黒天使氏が卒業した後は、こうした政治学科への妄想も消滅するであろうが・・・。
「派閥」アレルギーに関連して、もう少し書いておこう。
棒術部では1年会2年会3年会4年会、と学年ごとに集まって会議を開くことがある。これは1998年に黒天使氏ら当時の1年生が、行政組織もなく腐敗・崩壊が極まった棒術部に対して、革命勢力として誕生したのが始まりである。
ここで言いたいのは、この「学年会」は「派閥」そのものであるということだ。だからと言って善し悪しを判定するつもりはない。ただこれは「派閥」であることを指摘したい。気づいていない人があまりにも多いけど。
学年会は、「排他的で」「部全体のことを話し、意志決定に関わることを目的とし」「頻繁に、あるいは定期的に会合がある」というれっきとした「派閥」である。排他的にも関わらず、部全体のことを話し、それでいて目的は公共の福祉のためではない。目的はその学年の威信とメンツでしょう。「この権限は我が*年生が勝ち取る」「この人事権は*年生に渡さない」「1年生に対して、*年生の実力と権威をアピールする」・・・部の公共の福祉とは関係ないですね。
学年会は「派閥」である、と書くと圧倒的大多数の人間が「違う!」と言うであろう。その根拠としては、学年会は公式のもので、各学年の意志を運営に反映させるためのものだ、と言うことでしょう。しかし「派閥」なのだな。私は「派閥」だからと言って、学年会の意義や存在価値を否定しているわけではないよ。念のため。
まず、学年会は決して公式のものではなく、慣習で行われているだけである。例え公式であっても「派閥」は「派閥」です。世の中には公的に認められた派閥というのが、いくらでもあります。
次に学年の意志云々。それがまさに「派閥」たる所以である。学年というのは自然なものであり、学年ごとの序列が存在する棒術部で学年ごと固まるのは「派閥」ではない、と言う声が聞こえそうだが、「派閥」が「派閥」たる所以は結束理由・成員同士の共通項にはないのである。個々人の自然的な条件で集まろうと、志や仲良しグループで集まろうと、「排他的集団が組織全体のことを決定するために集まる」のは「派閥」以外の何者でもない。もし「派閥」が公共の福祉に反するからいけない、と言うのならば、学年会を他の学年に公開してみろ。はっきり言って、学年会の存在は往々にして全体の利益にはならない。学年の利益のための集団である。何度も言うが、だからと言ってその存在意義を否定するつもりはないが。
だけれども、某学年会に於いては「『派閥』はよくない」などという議論がかわされたそうである。ここで言う「派閥」とは政治学科とか、黒天使氏と親しい人間とか。だから、そういうイメージとステレオタイプで満ちた発言をするんじゃないって。
あと、この文中では派閥というコトバのほとんどに「」を付けた。それは国会議員や会社の派閥と棒術部の「派閥」とは、一線を画した存在であると考えるからだ。
政党が役職を決めるとき、派閥のボスたちを料亭や邸宅に集めて、ボスが推薦する者を役職に決める。推薦される人間の人柄・能力は関係ない。派閥の力関係でもって割り振られる。こうした役職には巨大な利権と選挙がついて回り、政党の派閥の目的は、選挙の票や利権という稀少資源の獲得が目的である。
一方棒術部の「派閥」はまったく違う。あくまで理想理念で固まる集団のことで、金銭は一切関係ない。重要なのは個人的価値や感情であって、政党や企業の派閥とは目的からして異なるのである。だから棒術部の「派閥」を派閥と称するのには抵抗があった。少なくない部員が「派閥」というコトバに拒絶反応を示すのも、政党あたりの派閥と重なって聞こえたためであろう。
棒術部の人事の際は、「派閥」の観点が大きく人事決定に影響を与える。「派閥」の仲間をいい職に就かせてうまい汁を吸わせよう、などという意図などまるでない。国会議員と違って、役職についても一銭にもならないし、時間・労力がかかるばかり。いい経験にはなるけれども。ここで言う「派閥」の観点で役職を割り振ろう、というのは、人々を出来るだけ広く役職に当てはめようということである。一定の人間ばかりが固まるとそれこそ「『派閥』が運営を支配」することになりかねないし、問題・不満が上がった際に他勢力から政権が全面攻撃を受けて不安定になるからだ。
「政治学科閥」が云々と叫ばれていても、黒天使氏は「武断派」にも役職を与えて重んじている。また社会福祉の観点から、勢力に属しない人間、評判のよくない人間にも役職は広く割り振っている。適材適所の美名の元に、個々人へのステレオタイプで役職を決めるのも危険である。適材適所などと言っても、個々人の能力はやってみなければなかなかわからないし、出来なさそうな奴を排除して成長の機会を奪うのは部の発展性を阻害する。あるいは適材適所と言いつつも、結局は仲良しグループが役職を独占することもある(一部の勢力が役職を独占するのは政治的に不安定を産む)。それよりは「派閥」の観点から、広く人々を当てはめていった方が安定するものである。
政権の安定とは何か。簡単に言えば、ミーティングで何かを発表する際に、反対がないことだ。稀にみる不安定政権としては、××政権があった。このときの体制は「オール野党体制」と呼ばれて、××の決定は一つも通らなかった。試合がない我々にとっては、日頃の技を披露する演武会こそがその目標なのだが、時の主将××はその演目を考えて発表した。しかし当時の3年生はそれを拒否。自分たちで演目を考えて稽古し、主将××の演目を無視して自分たちの演武を披露することとなった。稽古の指導者である主将の最大の見せ場で、これは前代未聞の出来事であった。
××は人望がなく、人望を得るための努力もせず、情報的孤立の中にいた。そして誰とも相談せず承認も取らず物事を決めようとした。威張るだけの独裁とも称される。自分で勝手に決めた物事をミーティングで発表したとき、××は自分は主将のイスに座っているから皆自分の決定に従うものと思いこんでいた。だが、ただ威張り腐るだけの人間が肩書きをタテに威張っても、「何言ってんだ、このバカ」で終わる。誰も従わない。
このときは3年生が優秀であったから滞りなく物事が運んだ。しかし、幹部に対して「何言ってんだ、このバカ」な状況で、幹部の代わりに物事を決め、同意をとり、それを遂行する人間がいなかったら・・・かなり混沌な状態に陥る。政治的不安定とは、指導者の決定に権威がなく誰も従おうとしない状態。この年の3年生のように野党勢力がうまく運営を代行することなど極めて稀である。大抵は、決定には従いたくない、かと言って自分は何もしないし出来ない。結局個々人のエゴが噴出して部組織は破滅してしまうのである。個々人は気にくわなければ、最悪部員としての行動・自覚を放棄してしまう。
安定政権を作るためには、根回しとダブルスタンダードな交渉で支持を固めるしかない。ダブルスタンダードな交渉とは、各勢力に対してそれぞれの相反する意見・利害を反映するように折衷・妥協を含んだ交渉をすることだ。安定政権の政策・公約は、常に矛盾を内包している。そうでなければ、より多くの人の声を拾えず、より多くの人に利益を与えられない。一方、徹底的に一貫性のある政権の方がおそろしい。首尾一貫した姿勢を貫徹するのは安定政権とは言えない。異分子排除と野党の先鋭化を産みかなり危険である。だからこそ、黒天使氏は政権の安定を図って各地で交渉・会見を繰り広げているのである。
首尾一貫した政策を貫徹しようとするのがいかに危険か。この例も挙げてみよう。
ある時代の◎◎という副将は「武断派」の急先鋒であった。主将も「武断派」であり、彼らは稽古至上主義的な政策を打ち出そうとした。我々は棒術の稽古をするために集まっているサークルであるが、やりすぎはよくない。◎◎が出した法案は、「稽古週*回義務化法案」であった。つまり週に一定回数以上稽古に出ない奴は、強制退部というものである。
確かに、棒術部に在籍しながら稽古は一切出ず、飲み会だけ来ていい気分な連中が、この当時存在した。マジメに稽古している連中から見たら、気に入らない。飲み会という稀少資源をただ浪費するだけの連中を排除しようと思うのも当然だ。そういう人にしてみたら、利益となる法案ではあった。だが、この法案には不利益を被る部員も少なからずいた。棒術の稽古も棒術部も好きだが、事情があってあまり出られない者。例えば、苦学生でバイトで一定以上稼ぐ必要があるとか、司法試験や公務員試験などを優先したいが棒術部でも出来る範囲でやっていきたいとか。また、自分のために行うはずの稽古の数量で部員を秤にかけるやり方、一方的に強制退部させるやり方を快く思わない部員も相当数いた。
もちろんこの法案は、圧倒的な批判と否定でもって否決され、この法案を出した◎◎の威信と信頼を徹底的に失墜せるここととなった。もともと◎◎は権威のある副将ではなかったが、さらに失墜。この時期の政治的不安定は色濃くなった。
もし、この「稽古週*回以上義務化法案」が幹部権限によって無理矢理通っていたら・・・ミーティングで反対されようと、どんな声があろうと、無理矢理実行してしまったら。◎◎が想定していた以上に、棒術部員は激減していたであろう。棒術部崩壊なんていうものではない。ヘタすると消滅、存続の危機である。サークルというのはけっこう消滅するものである。
最後に、現在の棒術部は決して共和制ではないことを述べたい。多数決など一切行われず、法案・意志決定は各勢力の調整という形で行われ、発表される。誤解を恐れずに敢えて言えば、独裁である。だが勘違いして欲しくない。独裁というのはある程度民主的なプロセスの上に成立している。人々の合意の上に成り立つ独裁が現在の棒術部である。決して、誰かが裏でシンパと共に度重なる秘密会議を行って、運営を私物化しているわけではない。棒術部が存在していられるほぼ唯一の選択肢として現体制が存在しているのだ。
大衆が妄想するような「独裁」、例えば政治学科が裏で度重なるミーティングを開いて部の運営を壟断しようとしても、皆が反対・反発して独裁は成立しない。上記の××のように自分で勝手にもの決めてただ威張り腐っていても、「何言ってんだ、このバカ」で終わる。
一方共和制の場合、多数決など取ってもまっとうな意見が通ることの方が少ない。1998年は責任無き多数決によって迷走し、崩壊した年であったとも言える。皆が雑多な意見を言って、どうまとめる。皆の意見を聞くだけ聞いてどうもならんのでは、リーダーシップがないとしてやはり政権は不安定になる。そもそも皆が意見を述べ合う時間などない。それに同じ1票でも、考えている人の1票と、何も考えていないアホの1票、仕事や運営の知識・経験がある人の1票と妄想に支配されている人の1票を同じには扱いたくない。共和制民主主義の美名の下で、まったくの門外漢がよくわからんことを口出しするのもどうか。
今の棒術部で50人60人のエゴが爆発せず、1998年のようにクーデターも起きず、××政権のようにオール野党体制にもならないで存在していられるのは、現在の体制の在り方と黒天使氏らの努力の所産以外の何者でもない。結局はダブルスタンダードによる合意に基づく、緩やかな独裁しか選択肢は思い浮かばないのである。
こうしてかろうじ保っていた棒術社会は、今後崩壊するのか、これからも優れた後輩が指導して安定を維持するのか。危機的状況に陥った場合、またカリスマ的指導者が現れるのであろうか。興味は尽きないものである。
ちなみに実務の仕事は、稽古以上に「やる気」が通用しない仕事である。だがこうした仕事も「頑張れば」出来ると思っている人も少なくないようだ。実務の統括者には、仕事・役職・制度に対する圧倒的な知識と認識、物事がどうやって行われるか把握する認識力、情報を集める人脈と人望、信頼、そして合意を作り出す駆け引きのセンス、段階的な妥協・譲歩を出来る謙虚さと冷静さが必要である。正直、頑張ってどうにかならない部分も少なくない。今後の棒術部を誰がどう指導していくのかわからないが、この肥大化しすぎた棒術部を存続し、機能させていた黒天使氏の所業を称して、「『派閥』とかはよくない」「『政治』は嫌いだ」「誰それと誰それが茶店で話していた。また『密談』だ!『密談』だ!」などとしか言えない考えられない人々が、今後どうなっていくのであろうか。疑問である。もはや私は介入しないし、できないが、かなり不安である。