一般映画鑑賞
2001年09月15日(土)


 参謀長(仮名)が一般映画を借りてきた。夏休みを利用して、映画を観ておこうとのこと。私も参謀長宅にお邪魔することとした。一応警告して於くが、ネタバレと称されるものには一切の配慮していないので、ここで取り扱う映画をまだ観ておらず、そして先が気になるというものは、読まない方がよかろう。扱う作品は、「タイタニック」「フォレスト・ガンプ」「パーフェクト・ブルー」「劇場版機動戦艦ナデシコ」である。


「タイタニック」

 主人公は貧民のガキ。博打でタイタニック号の三等船室の乗船券を巻き上げただけで、巨大な夢を見、さらには一等の令嬢に見惚れる始末。貧民のガキが夢みやがって・・・。しかし、この主人公役のデカプリオは顔がいい。体格もだ。だから、よい服を着れば見違える。そして話が面白い。センスがあるので本来場違いなはずの社交界に出ても、それなりの受けをとれた。
 もし、この貧民のガキが、茶色い歯を剥き出して下卑た笑いを浮かべ、短足で小太りで、鼻の穴に指を突っ込み何かをするような人間であったら、スーツで決めても、貧民がスーツを着たようにしか見えない。よくてせいぜいにわか成金か。そして外見や習性がどうあれ、社交界の雰囲気に気押され、意味のない追従笑いを浮かべるようでは、相手にもされまい。せいぜい小馬鹿にされて終わりだろう。その点も、デカプリオは堂々としていた。人間はやはり平等ではない。


 さて、タイタニック号は氷山に激突する。
 このとき、船は全速後退で左に舵を一杯に切った。効果半減。舵は速度がないと効きにくいのだ。ここで機関全速前進にし、高速のまま舵を切ったのならば、回避できたであろうと言われている。ま、これは後世に行われた研究だし、当時は緊急時に減速するよう教育されていたのかもしれない。それに、人間の心理として、やばそうだったら後退・ブレーキしたくなる。だが、車も同じだが、前進した方がよいことがある。


 タイタニック号は結局、右舷を氷山に打ち付け、浸水。防水区画は5区画浸水。設計では、4区画まで浸水しても保つようにされていたが、5区画で沈むとのこと。設計士は冷静にそう告げたが、「タイタニックは『浮沈船』だから大丈夫」という根拠のない盲信を持つ者は騒然とする。設計者や船長は冷静に捉えるが、多くの者が慌てふためく。大事(おおごと)なのは言わなくても分かっている。こういうときこそ冷静な判断をするのがエリートの役目。だが、棒術部でそれは無理だろうという人間は少なくないような。
 例えば、棒術部員の■■は、危機に際して、奇声を上げて慌てふためき、あちこちを行ったり来たり。打開策をとれないことだろう。また、別の部員の●●などは、「この船は沈まない!なぜならば『浮沈船』だから沈むわけはない!俺の船が沈むわけがない!」と設計士に怒鳴りつける様が目に浮かぶ。
 大衆は権威や称号にまどわされ、依拠して安心感を得ようとし、それが覆される事実が目の前に提出されても信じようとしない。物理的に「5区画浸水すると沈む」「鉄は沈む。鉄で出来た船も沈む」ということは理解はできても、精神的にはわかろうとしない。沈むと思いたくないのであろう。


参謀長「異常事態に於いては、人間を人間たらしめていたものが剥げ落ち、機械的存在としての人間の本能が噴出する。つまり、異常事態に於いては、人は電波になる」
 沈みゆくタイタニック上の人間模様は、なかなか見応えがあった。エンターテイメント、それも事故や事件を扱う作品には、悲惨さが必要だ。悲惨さが悲壮感を演出し、特定の主人公達のドラマに背景としての緊迫感を持たせ、視聴者は画面の仮想現実に没頭する。
 射殺された友人から救命胴衣を奪う者。
 子供を親切にも助けてくれた男から子供を奪い取り、相手をどつく男。
 言葉がわからないのか、沈みゆく船で経文を唱えるしかない異教徒。
 一度銃を突きつけてから、大衆に見つからないように弾薬をこめる船員。
 山口多聞のごとく、船と運命を共にする設計士・船長。
 水没している操舵室で、意味もなく舵をいじって白昼夢に浸る船長。
 なかなか騒然とした人間模様であった。まさに人がゴミのようだ。


 さて、最後はヒロインだったババァが、物語のキーワードとなる宝石を、タイタニックの水没海域に捨ててしまう。そのときのババァの声。脳天から突き抜けるように短く発したあの声・・・貴様は電波かババァ。そしてババァは自分が人生に於いて為す最後の仕事を終え、おそらくは永眠する。魂だけが船室に戻りデカプリオと社交場へ。そこには、一等も三等も、船員も、すべて一緒になって拍手。「エヴァンゲリオン」の最終話を連想するようでは私はダメですかな。
 こうした幸せな幻想を見つつ、あのババァは死んだのだろう。
 人生に於いてやることはすべてやった。
 つまりは宝石をタイタニックの、デカプリオと出会い、ともに過ごした唯一の場であるタイタニックのもとに。人の出す声とは思えぬ音声を出して、宝石を水面に落とした。参謀長曰く、ババァはあの宇宙的音声を発するために生きてきたのであろう、とのこと。この映画はあの音声のために存在する。歴史に残る名言ではある


 さて、この映画を女性と一緒に観たとしたら、涙を流している女性の横で、私や参謀長は平気で大笑いすることか。「おお、死んだ死んだ!」「このアホ、友人の死体に取りすがっているかのようにしつつ、救命胴衣をはぎ取っておるわ!」「うははははッ、人がゴミのようだ!」と笑っていたら人格疑われることであろうな。
 そう言えば、私は実家で「ランボー」を観ていただけでも、母姉にはキ@ガイ扱いされ、「お前も■■(当時起きた連続惨殺犯の名前)になる。そのうち人を殺すのが快感になる」と不当な言いがかりをつけられたものであった。私が定期購読していた軍事雑誌を郵便受けから取ってきた姉は、「汚らわしい!」とか言って私に雑誌を放り投げてきたものであった。小学時代は、友人が家に来ても、10本か20本ばかり映画のビデオテープがあるだけでも■■呼ばわりされたものであった。
 話がずれた。ま、大衆は常に理解不能な存在を誹謗し、わかりやすいステレオタイプを求めて他者を判定呼称したがるものよ。「タイタニック」を観て笑う者には、いかような称号をいただけるのであろうかな。


 ちなみに、私がこの映画で感心したのは、悪役の男が「女子供優先」の救命ボートに乗るために、取り残された幼女を拾い上げ、「この子には私しか身寄りが居ない」と船員を騙してボートに乗り込んだこと。これを観て、「子供をダシに使って自分だけ助かろうとするとは、なんという卑劣漢か」と憤慨する人もいるかもしれしない。
 しかし、私は卑劣だとは思わない。自分が助かりたいのは当然かつ正当な発想。限られた希少資源である救命ボートを確保するために、取り残された幼女を利用し、結果として幼女も自分も助かることの何がいかんのか。放っておけば、甲板上で置き去りにされていたあの砂利は、水没して、溺死していたか、あるいは冷たい水温の中で、すぐに心臓停止してしまったに違いない。悪役の男は、動機はともあれ、人を、これから可能性があるガキを助けたのだ。それの何を誹られる必要があるのか。
 などと言ったら、どう思われるのかも楽しみだ。


「フォレスト・ガンプ」

 知能に問題を抱える男が、幸運と友に恵まれ、持ち前の瞬脚と突進するかのような行動力を武器に、幸福をつかむ物語。幸福かどうかはともかく、とにかくカネは手に入れた。
 これは感動というオブラートに包まれているから大衆はそう考えていないが、知能に問題を持つ人間を滑稽に描いた作品ではないのだろうか?残虐描写が規制される世の中でも、ユダヤ人の強制収容や第二次大戦のアメリカの戦いを描く、という『正義』のテーマの映画ならば、残虐表現の規制はなかなかされない。性的描写が規制される国でも、世界的に芸術品との権威が確立している絵画や写真にモザイクはまずかからない。そして差別に敏感な昨今でも、感動的に描く作品ならば、つまり「バカにしているなんてとんでもない。感動を謳っている人間賛歌だ」との御旗があれば、差別との批判を交わしつつ滑稽に被差別対象者を描けるということか。
 いや、なかなかおもしろい作品だったよ。身近に似たような人(障害者ではない)を知っている私と参謀長としては、主人公ガンプと知人の行動とが重なって、ついつい笑みがこぼれたものであった。


 あと、特筆すべき事項としては、ガンプが突然走り出して、アメリカ大陸を走って横断し始めたときのエピソード。あのときは、ガンプが走る意味を勝手に解釈して、勝手に共感を覚え、そして一緒に走る者が続出した。そして、ガンプが走るのに飽きて家に帰ったとき、彼らは途方に暮れた。
 アホである。ガンプが、ではなく、彼に追従していた連中が、だ。他者のやることに理由や意味があるとは限らない。だが、人は他者の行動に意味を添付し、その人がその行動を行う理由を求める。それも、できる限りわかりやすく、出来る限り自分で納得できるものを。極言すれば、自分が他者に期待している理由を期待する。
 もちろん、厳密には、人が何かをするのには必ず理由がある。だが、それは機械的存在としての中枢神経の複雑怪奇な働きなので、コトバで他者が簡単な意味を添付できるとは限らない。行動を行う自分自身ですら、何故自分がこうした行動をとるのか説明できないこともままある。他者を理解しようと努力するのは勝手だが、わかるなどと思うな。そして簡単な結論を出した時点で認識は停滞する。ガンプが走った理由は、とにかく走りたかった。わかりやすそうな理由はそれだけなのだが、アホ連中は「世界平和や環境破壊に対する運動」とか勝手によくわからん意味をつけて、知りもしないガンプに勝手な期待をして、そのあげくにガンプの予想を超えた行動(つまり旅をやめて帰宅したこと)に対して愕然とすることしか出来なかった。アホである。 


「パーフェクト・ブルー」

 キ@ガイを描いたサイコ・ホラー作品。どこまでを虚構とし、どこまでを事実として描いたのかちと不明だが、そうした区別を企図していない作品なのかも。再視聴すると違って見えるかもしれぬ。


「劇場版機動戦艦ナデシコ」

 ルリに尽きます。


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