卒業式、およびそのための上京
2002年03月24〜26日(日〜火)


 中央大学に在籍すること幾星霜。ついに卒業式を迎えることとなった。法学部事務室に張り出された「卒業確定者名簿」の中に、自分の名前を見つけたのは3月2日。追試等もなく、卒業は確定した。4年次がはじまった段階で、すでに卒業見込みがなかったのだが、4年次で年間履修上限メイっぱいの単位を取り、5年次で難関ロシア語を含めた最後の単位を片づけた。これでようやく卒業である。


 すでに勤務地たる札幌に移住している私は、飛行機で東京へ。卒業式前日の24日の始発便で羽田に降り立ち、早速、後輩たる参謀長(仮名)宅の世話になった。彼のマンションには、よく入り浸られてもらったものだが、今回およそ1ヶ月の再会となった。
 П氏(仮名)なども呼びつけて、24日の参謀長宅の時間は、他愛もない談笑やパソコンの作業、札幌では放送されていない「Kanon」の上映などで過ぎていった。こういう何気ない時間こそが貴重である。だからこそ、私は地下鉄の始発と新千歳空港行きの始発を乗り継ぎ、やや無理なスケジュールで始発便に乗ったものである。


 25日、卒業式当日。参謀長宅を出発した我々は、途中で4年生数人と合流しつつも中央大学へと向かった。我が棒術部で、4年生つまり1998年度生は、実質7人。5年生たる私を含めて8人が卒業のはずなのだが、単位不足による留年、国家試験のための自主留年などがいるため、卒業するのは5人である。理由・事情は数あれど、毎年留年者がいるものである。
 そうした4年生諸氏や、1〜3年生の後輩連中が集まった。後輩から卒業生への花束の贈呈などが行われ、プレゼントなどが渡される。私は棒術部に4年間在籍した人間だが、この2001年度は厳密には部員ではなかった。それにも関わらず、今年度1年間棒術部周辺を大学生活の場とさせてもらい、そして4年生と一緒に卒業を祝われるとは、ありがたいことである。

 中大ペデ下に出現したゴロツキ。

 卒業式の日に、ぜひに日の丸ハチマキで決めてみたかった。さすがにこれで式場に入りはしなかったけど。

 後輩から花束を・・・。5年生たる私にもくれるとはありがたいような、むずがゆいような。とにかく感謝します。

 中大を卒業する面々。棒術部卒業者とは若干ズレがあるのは毎年のこと。

 後輩連中とともに集合写真。私が大学1年のときは、わずか10人程度のマイナーサークルだったのだが・・・。

 花束を手に嬉しそうな男。

CD-R、DVD-Rの山。

 ある卒業生が郷里から持参してきた、イナゴの佃煮。うまかったが、卒業式でわざわざイナゴを振る舞うとはさすがである。

 私が棒術部卒業生に配ったCD-R、DVD-Rの山。これだけでも相当かさばった。


 さて、私は1998年度生全員に、今まで撮りためた部の写真、ビデオ撮影した映像などをCD-RやDVD-Rにまとめて進呈した。DVD-Rならば1枚に収まる容量なのだが、DVD-ROMドライブ所有者が2名しかいないため、私は6枚組のCD-Rを5人分用意することとなった。ほとんど夜通しでライティングを行い、32枚ものCD-R・DVD-Rを札幌から持ってくるのは、正直面倒な作業ではあった。ケース入りで32枚もあると、メディアもかさばるし重いものだ。
 だが、こうした記録は、ぜひに同じ時間を共有した連中に持っていってもらいたい。この大学生活、棒術部生活は、このまま忘れ去れり、映像もおぼつかなくなるのには惜しすぎる。だからこそ、頼まれもしないのに写真撮影や、他の人間の撮った写真の集積・スキャニングを行い、記録をまとめた。これは、いらないと言っても持って帰ってもらう。ま、これは4年生諸氏には喜んで頂けたようである。


 卒業式本番。棒術部が普段稽古を行う第一体育館が会場である。少なくない学生にとっては、体育実技と入学式でしか訪れない場所である。だが、棒術部員にとっては、棒をかざして技を繰り出し、突きや棒の一撃を受け、床を汗で濡らし、床に投げ転がされ、倒れても休むヒマなく這い上がって突きを繰り出し続けた場所である。感慨深いものがある。我々を含めた体育部会の汗と熱気、相撲部のまわし乾燥機の放熱、通気性の悪さ故によどんだ空気・・そんな泥臭い場所だったのだが、会場設営をすると見事に儀式の場所となるものだ。
 中央大学校歌の斉唱は、問題なく行えた。カラオケでしばしば歌い、酒を飲んで歌い、学祭明けに放歌し、何もないときでも口ずさんだ校歌だ。歌詞も音程も覚えている。そして私は、このような儀式に於いて、自分が所属することに誇りを覚える共同体の歌を歌うに当たっては、なんら照れもせず、恥ずかしくもない。堂々と歌った。私の左隣には、日々発声練習を行い、歌には一家言ある男・べーやん(仮名)がいた。彼のすばらしい声量に私が引っ張られた面もおそらくはあるのだろう。校歌の音程をよく知らないのか、それとも歌う意志がないのかわからぬが、ただ起立していただけの右隣の学生など、堂々と校歌を歌う我らに振り返って驚いたほどである。
 ま、別にかかる儀式に於いて別の学生が、共同体への帰属を讃える歌を歌わずとも、照れようとも、恥ずかしがろうとも、あるいは歌うことそのものを拒否しようとも、私はそれについては何も言わない。ただ校歌斉唱を終えたその刹那、会場に歓声が沸き騰がったことは嬉しかった。


 校歌は言うまでもなく歌えたのだが、「惜別の歌」は1番を聞いてからでないと歌えなかった。テープは持っているのだが、「惜別の歌」はあんまり聴かなかったからなあ・・・。「惜別の歌」は島崎藤村の詩に、中大生・藤江英輔が曲を付けたものであり、中大からの学徒出陣の際には毎回歌われていた伝統ある歌である。一般的な歌謡曲として有名であるのにもかかわらず、中大の歌だとはほとんど知られていないこの「惜別の歌」。ちゃんと覚えておきたかったのだが、2番からなんとか歌ってみたものである。
 ま、なにはともあれ、よい卒業式であった。
 ちなみに、法学部と文学部の卒業式が午後に行われ、商学部・経済学部・総合政策学部の卒業式は午前であった。今回棒術部の卒業生は法学部と文学部しかいなかったが、もし某氏が留年していなかったら、一人だけ午前の卒業式に出ていたのだな。世の中うまく出来ているわい。


 卒業式会場の外では、フルコン空手の部会が、スーツのまま瓦を砕き、板を割る。沸き上がる歓声。他にも、馬の面や兎の面をかぶってパフォーマンスをする者、部会全員でユニフォームを着込み、看板と旗を掲げて卒業生を出迎える者など、様々な様相が見られた。我々も棒など掲げて何事かしてもよかったのだが、あいにく我々の流派は見せ物には向かない。ま、何もしないで同窓(卒業年度で同窓は区切られる)や後輩と何事かやった方がいいというものである。
 卒業式が終わった後は、卒業証書、成績表、卒業証明書などを受け取りに法学部棟へと向かう。中大法学部専任の教授からそれらの書類を受け取るが、私に卒業証書を渡してくれた教授は、私にことごとくD(不可)をつけた方であった。無事に卒業できたが、成績表を見ると、5年次たる今年度もその教科はD。たしかにあまり研究も勉強もしなかった教科だが、なかなかすばらしい厳しさである。その教授から卒業証書を受け取り、話し込みなどするとは因縁というものであろうかのう。



 さて、お世話になった教授を囲む謝恩会に行く者、兼部している別の部会に顔を出す者、個人的な友人と言葉を交わす者など、卒業式後の棒術部卒業生の有様の様々であったが、それでも夕方からは居酒屋に集まって酒を飲み、そのあとカラオケなどしたものであった。
 カラオケに於ける名言。
「べーやん、マイクは?」
「いらない」
 こんな当たり前のやりとりも、もう最後なのであろうか。そう思ってみると、些細なやりとりの一つ一つがすべて貴重なものに思えてきたものであった。


 カラオケ終了後、引っ越したばかりの課長(仮名)宅に乗り込み、それから近所のメシ屋でメシなど喰った。治安の悪い地域で、近所のガキが課長のバイクの工作をしたせいで、走行中にエンジンオイルが漏れるなどということもあったとか。課長宅から24時間営業のメシ屋に行く途中も、ここそこにバラガキが座り込んでいたものであった。
 だが、一方、我々もまた尋常な格好ではない。過半数の人間がスーツである。ドス黒い礼服や白いスーツを着込んで深夜10人近くで夜道を闊歩する様は、我々とてカタギには見えなかった。メシ屋に徒党を組んで乗り込んだとき、牛丼など喰らっていたバラガキ連中の視線が一斉に集まったものであった。

 課長宅の1コマ。私と行った北陸旅行の写真は、引き延ばして額に入れてくれてやったもの。大切にされているようだ。

 淘汰されて残った本。ケイオス状態だった本棚もよかったが、淘汰したばかりの本棚を観ると、家主の趣味嗜好が窺い知れる。

 狭い台所で物品を探す。

 ありったけのコップを出したが数が足りず、計量カップや湯飲みまで出される始末。まあ、飲めればよい。 

 計量カップで飲むビールは、格別か。

 深夜、河川敷を闊歩するカタギでない連中の図。


 さて、私は参謀長宅に戻る必要があった、遅くなるとは連絡しておいたが、荷物を参謀長宅に置いてあるし、翌日も大先輩のГ氏と約束がある私は早急に寝る必要がある。それも6帖あるかどうかの課長宅にて何人も押し込まれた状況ではなく、広い参謀長宅でだ。
 うかつにも終電を逃し(というか、とっくに終わっていたが)、時間をかけて参謀長宅にもどったときは、午前2時半であった。私を待たなくてもよいとは言ってあったが、参謀長は寝ていなかった。やはり電車がなくなったPGO氏(仮名)が参謀長宅に乗り込んでいて、火遊びなどしていたのである。
 テキトーに火遊びなどした後、フトンに入ったのが午前4時のことであった。

 最初は、沖縄土産の香を焚いていたはずであった。

 だが、それだけでは飽きたらず、大量のマッチを火にくべだす。燃え上がる炎。PGO氏はこういう遊びが大好きだ。

 深夜、炎を凝視して喜ぶアホ二人。
 卒業式の夜の風景としては、なかなか風変わりである。

 炭化して白煙を上げるマッチ。

 ちょっと見ないうちに、参謀長宅の机も変わったものだ。机のマットが、「銀色」と「みずいろ」とは。

 そしてようやく眠りにつく。
 鳩子様抱き枕は出さなかった。


 翌朝、3人でメシなど喰ってから参謀長・PGO氏に別れを告げて、私は一路新宿に向かった。Г氏とは東口交番前で待ち合わせていた。Г氏は私が大学1年次に4年生だった方で、何かとお世話になった人である。大先輩だ。今回は、私の見送りのため、わざわざ有給まで取って駆けつけて下さったのである。
 飛行機は最終便を取った。それまでの時間、新宿のあやしげな店を回り、あるいは茶店で談笑して過ごした。そうしてГ氏は羽田空港まで来てくださり、空港で夕食をとってから搭乗口へと向かう私を最後まで見送って頂いた。「遠方に旅立つ友を見送らせてくれ」とはГ氏の言葉である。いい先輩を持ったものである。ありがたいことだ。
 そうして握手を交わしてから、私は金属探知器をくぐったのだが、なぜ餞別にもらった再生カートリッジが引っかからなかったのかは疑問である。使用済みの弾薬の薬莢に、再び弾頭を被せた土産物なのだが、火薬が入っておらず、プライマーが使用済みであること以外は、実包と同じである。M-14用10連マガジン、.223Rem、.308Win、9×19、.45ACPなどの軍用弾が、数発カバンに入っていたのだが。ま、ナイフ類ではなく、銃器本体ではないので、危険物とは思われなかったのであろう。


 かくして、私は学士号(法学)を授与され、5年間学んだ中央大学から名実ともに離れることとなった。
 高校を卒業するときも似たようなことを言ったけれども、大学生活・棒術部生活に私は大変な満足と、誇りを持っている。葛藤や失敗や闘争は山とあったけれども、それらは私の5年間を決して否定するようなものではない。それどころか私の5年間を形作る重要な経験であった。
 そうした場となり、環境となった我が大学と棒術部。そしてともに過ごした諸氏に謝意を表します。


戻る