芝酒
1997年06月03日(火)


 二日前にWR(ウォーキングラリー)に参加した我々棒術部は、全員完走を果たした。だが、神奈川県相模湖から中央大学多摩キャンパスまで山を越えて歩くという行為はなかなか出来ることではなく、体力に自信がある者でも翌日は筋肉痛となった。それでも、翌日は棒術の稽古が行われ、半数近くの部員が参加した。
 そして明けて6月3日。前日の2日は寝込んでいた連中も、3日になると大学に登校して顔を合わせることが出来た。3万人いる中大生の中でも1000人程度しか参加しないWRを完走し、道着を着て武具を抱えて練り歩いたという経験は、我らこそ棒術部というアイデンティティをますます固めていった。このときの気分は、あたかも一世一代の大事業を成し遂げたかのようでさえあった。
 そんな高揚した気分でいるときに、同期のYasutaka氏(仮名)が一升瓶を持って現れる。実家からの土産だという。これはありがたく頂戴するが、いつ開けたものだろうか。だが、義盛氏(仮名)が言う。「飲んでしまおう」と。一升瓶でラッパをキメるのもわるくはないが、それは無粋というもの。学食から湯飲みを拝借して、それで呑ることとした。


 我々がこのとき集まっていた場所は、ペデ下と称される中大の中心通りに出された出店。新入生勧誘のための出店なのだが、この時期になると、出店を出す部会はもうほとんどいなかった。しかし、当時弱小な零細サークルであった棒術部は、1人でも新入生を受け入れるため、かなり遅くまでその出店を出していた。ま、学食で場所を取れないときにメシを喰ったり、ただ単に溜まったりする場所として使われていたのだが。
 その出店で最初酒を飲んでいたのだが、どうも案配が良くない。二層構造の通路の下であるペデ下は、日陰であるために暗く、風が吹き込んでいていささか寒い。背後を通り過ぎる学生はともかく、職員や教員の目はさすがに気になった。
 そこで我々は、普段稽古場として使っている芝生に移動して飲むこととした。


 歴史は当時20年目だったが、規模が小さい零細サークルの悲しさで、棒術部の稽古場は体育館をあまり取れず、屋外の芝生で行われることが多かった。その稽古場たる芝生で酒を飲む。はたして稽古人として許される行為だったのだろうか。ちょっとばかり気が引けたが、酒を飲んでいるうちにそんなことは忘れてしまった。日が差している芝生で飲む酒は格別。なかなか杯が進んだ。

 昼下がりの芝生は、他にもくつろぐ人々が幾人か見られる。我々もその一組と思いきや・・・。一升瓶。

 一升瓶をひたすら湯飲みでやる。つまみも何もない。芝生で飲むことに意義がある。

 この貫禄、これほど一升瓶が似合う男は、大学1年生ではそうそうおるまいて。

 酒が回ってきたところで、本人が回り出す。芝生は丘になっているのだが、そこを転がり落ちてみたり。

 皆、マネして転がる。排水溝にハマらないよう注意。

 正門前まで転がり落ちて、道行く学生(しかも女性)にカメラを渡して、撮ってもらう。何事だと思われただろうか。

 一升瓶を飲み干し、稽古なんぞはじめてみる。一升瓶も、立派な武器。

 突きを1年生同士で、見てやったりも。よっているので、まっとうな突きは出ないような、力みが抜けて返っていいような。

 仕舞いには、棒を持ち出して空き缶を打つ。棒をこんなことに使っているのを、稽古指導者に見られたら・・・。


 後にこのことを知った先輩方は、OBや稽古指導者にこのことが発覚するのを極度に恐れ、箝口令を敷いたものであった。当時の棒術部は少人数であったが故に、かなり厳しい指導が行われる部会であった。スターリンとも称される当時の監督に見つかったものならば、本当に粛清されるのではないか・・・。ま、このことは広く知れ渡ったのにもかかわらず、お咎めはなし。在学生の先輩達は、胸をなで下ろしたことであろう。


 さらに言えば、2001年度から中央大学では学内禁酒へと動きつつあり、今こんなことをやれば棒術部が所属する学生団体から総顰蹙を買うのは必定である。もしかしたら、予算カット・部室剥奪さえもあるかもしれない。さらに、2000年度あたりから、学食の食器を持ち出して外でメシを喰い、食器等をそのまま屋外に放置して立ち去るクズが急増している。そのために学食は湯飲みの屋外への持ち出しに神経をとがらせている。そういう意味に於いても、おおらかな時代であった。
 もちろんこのときの湯飲みは、洗って返したことは言うまでもない。


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