雪中宴
1998年01月15日(木)


(東京に大雪が降った1月15日の模様を先輩Г氏(仮名)に送ったE-mailの転載。一部改変)

 午前五時まで國學院の友人と酒を飲み、常備してあるウィスキーを開けた。その友人は雪で横浜線が止まるのを警戒し、太陽が昇りきらぬうちに帰り、私は一人、発狂したパソコンと格闘した。別の友人からもらった得体の知れぬCD-ROMをインストールしたところ、パソコンはイガチキと化してしまっていたのだ。
 結局、この事態は私の手に負えず、ハードディスクの初期化を決断した。そのために、過去のメールやネットからおろした画像などの重要資料を、MOに保存する作業を行った。


 そうして、やっとフトンに入った午前十時過ぎ、T2氏(仮名)から電話がきた。
「今日雪降ってるから、芝で雪合戦(雪中稽古の別称とのこと)しよう」
 方向性は違えども、さすがは同じマッドサイダー(ダメの側の人間、と書く)のT2氏だ。誇り高き棒術部員ならば、これを受けぬ道があろうものか。ちょうど、学校でヒロポン先生(仮名)の原稿をいただくことであるし、実に都合もよい。


 外に出ると、東京にしてはめずらしく靴が埋まるほど雪が積もっていた。しかし、グリップの利く冬靴と、雪上の歩き方を覚えた身体があれば、さしたる苦もなく進軍できる。高校時代、一〜二メートルもの雪の上を歩き続けた「八甲田山、死の行軍」に比べれば、児戯にも等しいものだ。ただ、雪(特にシャーベット状のもの)の特性をしらない運転手が、ハンドルをとられて歩道に突っ込みはしないか、ということだけは心配である。


 前人未踏の積雪をかきわけ、学校に至る。しかし、学食はやっているのであろうか。先日の二十時に経堂の焼鳥屋を出てから、ろくなものを喰っていない。生協一階のドアを開ける前から、メニューのライトが点いていないのに気づいた。しかし券売機は動いていし、数えるほどしかいないが客も飯を喰っている。だが、券売機の前からは麺類のコーナーのシャッターがおりているのが見える。

 「今日のメニュー
  カレーライス 270円
  カツカレー  360円」

 なるほど。麺類のコーナーにシャッターがおりていたが、カレーのコーナーだけは開いているわけか。二種類だけだが。しかし生協従業員の通勤も食材の搬入も限られた中で、よく開いたものだ。喰えるだけありがたい。また、セルフサービスの箸・調味料などの置き場には、フレンチドレッシングと福神漬以外はソースさえなく、箸も一束しかない。物寂しい。


 カツカレーを喰い終わり、部のノートに駄文を書いているときヒロポン先生現る。ヒロポン先生から原稿をいただくが、実に教養あふれる出来映え。感服いたした。その後、ヒロポン先生と歓談するが、早々と生協は閉まり、追い出された。
 仕方なく外に出ると、●●氏(仮名)が、なぜか棒を持って多摩動方面からの階段を下りてくる。実は、今年まだ二回しか会っていない。試験期間なので稽古がない。稽古がないと、彼にとっては学校に来る理由がないのであろう。
 ペデ下でГさん(仮名)にお電話を差し上げたるなどしていたが、T2氏をはじめとする他の人員が一向に現れない。もしや、すでに芝(九号館横手の芝生)にいるのでは?


 雪で斜面と化した階段を下り、芝に向かうが、はるか前方に人影がいくつか見える。しかも、その人影は棒状のものを振りかざし、こともあろうかそれを雪山に突き刺した。これを見た●●氏は、気づかれないように八号館に入り、中で道着に着替え、足袋を履いた。そして外に出て、雪にめり込みながら、そり飛びをはじめた。彼は凍傷や肺炎になってもいいらしい。


 芝の人影たちは、道着で準備稽古をする殊勝な●●氏に気づき、駆け寄ってきた。予想通り、忍さん・T2氏・義盛氏(いずれも仮名)の三人だったが、この寒空の下、全員が服のまま風呂に入ったように濡れており、しかも頭から足に至るまで雪がこびりついていた。さらには、T2氏もまた道着であり、しかも学帽と下駄を用意していた。なんと若者らしいすがすがしさなのだろうか。皆よりも遅く芝に来たことが、実にもったいなく、そして恥ずかしいことのように思えた。


 用があるヒロポン先生は、一緒に記念写真を撮ってから、どこかへ行かれた(※このときの写真は誰が死蔵しているんだろうか)。残った私たちは、忍さんの号令の元、雪中稽古にとりかかった。投げられた雪玉を棒で突き、雪の小山に手繰り突きを入れ、前蹴込みをくらわせた。それが終わると、忍さんがどこからか調達したダンボールをそりにして滑ることにした。


 新雪は粘着力が強く、ダンボールでは滑ることができない。雪の中に身体ごとめり込むのが関の山だ。実際、忍さんはダンボールを腹に敷き、スーパーマンのごとく滑ろうとしたが、雪との摩擦力でダンボールは滑らず、勢い余った忍氏だけ頭から雪の中に潜り込んだ。そこで我々は、雪玉を転がした跡を滑ることとした。圧雪ならば摩擦力も低い。よく滑るはずだ。ちなみに、私が来る前に忍さん・T2氏・義盛氏が、下を走る職員の除雪車を横転させようとの目論見で巨大な雪玉を作ってあったのだ(※実際に除雪車に転がし当てたりしませんよ)。それが役に立った。


 雪玉が通った後をさらに踏んで圧縮し、そこを滑ってみる。あまりスピードは出ないが、自分の重量が摩擦力に勝ち、ゆるやかに斜面を滑ってゆく。ゆっくりであっても、これがなかなか爽快である。全員が下におりてからは、雪が積もっている桜の木にドロップキックを喰らわし、枝に積もった雪を降らせようとする。太い木ゆえ、蹴ってもあまり効果がないので、雪玉を投げて枝にぶつけて、雪を落とそうとしたりもする。しかし、いつのまにか、下に人がいるところの雪を落とそうとしたり、直に人に雪玉を喰らわせたりと、雪合戦へと進歩していった。


 最初は、目に入る人間(たまにそばを通る職員は含まれない)を片っ端から狙ったが、いつしか●●氏・T2氏の「道着同盟」と忍さん・義盛氏・私の三人に分かれた。私たちは、●●氏の正確なコントロールに苦しめられた。しかも、彼は雪玉を硬く握るので質がわるい。さらに、こちらから投げる雪玉は、ことごとく受け止められて投げ返されるという。私も負けじと、敵弾を拳と蹴りで粉砕したが、その破片をもろに喰らうため、ギャグかパフォーマンスでしかなかった。


 コントロールのよくない私は、腹を使って雪をかき集めて人間の胴体ほどはあろうという雪塊を作り、それを抱えて敵陣に突入するという戦法を考案した。当然、集中砲火を浴びたが、雪塊を楯に突進し、ゼロ距離射撃で雪塊を叩き込んだ。特に、●●氏に突進すると見せかけて、安心して雪玉を作っているT2氏の背中に雪塊を叩き付けるなどの、巧妙な作戦が功をなした。ちなみに、雪塊突入をするときは「天皇陛下万歳」「死してお国の御楯となるのだ」と叫ぶのがよい。


 他にも、皆、種々の戦術を駆使した。雪塊を放って殴り、莫大な破片を浴びせる。密かに敵陣の背後に回り、前方の味方とともに十字砲火を浴びせる。塹壕を作る。塹壕に隠れる敵に対し、「迫撃砲」と称して曲線的に雪玉を放る。「桜花を倒すには、母機もろとろ落とすしかない」と、雪塊を作っているところに集中砲火を浴びせる。塹壕そのものを剛球で破壊する。などなど。これらの中で、もっとも画期的だったのは、忍さんの作った塹壕であろう。


 「敵弾を防ぐ」として忍さんは塹壕を作り始めた。塹壕といっても、別に穴を掘るわけではない。ただ、雪を積み上げて楯とするのだ。しかし、楯とするためには圧縮して強度を持たせねばならず、そのためには莫大な量の雪を必要とした。そのため人力では塹壕はなかなか大きくならなかった。それどころか、作業をする忍さんは狙い撃ちをされ続けた。義盛氏は、塹壕の忍さんを後方から火力支援し、私は塹壕の前に立ち、忍さんの作業の楯となった。特に、敵の正面に何の遮蔽物もなく立ちはだかる私は、●●氏・T2氏の二人に徹底的な集中砲火をあびせられた。身を守るための塹壕を身を挺して守るとは、まさに本末転倒である。


 また、忍さんを支援する義盛氏と私に対し、T2氏は「その塹壕は忍さんひとりしか入られない。君たちは利用されているんだ。立ち上がり、忍新政権を打倒せよ!」などと、政治的宣伝を行う。しかしこのアジに対し、我々は「忍さんのためならば」「死してお国の楯となるのだ」と返す。●●・T2側は「忍新政権を打倒し、Г陛下の復権を!(←そりゃ留年だ)」「Г万歳!」とさらに叫ぶ。
(注:忍氏は新主将。Г氏は前主将)


 塹壕から手が届く範囲の雪を使い切る頃には、人ひとりが伏せて、やっと直撃弾を防げるくらいの楯になった。しかし、上空から落下する迫撃砲弾に対しては、逃げる方法もなかった。さらに、道着同盟側は固めた雪玉を塹壕に次々と叩き付け、塹壕の破壊をもくろむ。要塞破壊用の徹甲弾か。忍さんも、ときどき上半身を起こして反撃するが、タイミングを誤れば直撃を受けるため、実に危険であった。そうしているうちに忍さんは塹壕に穴を空けて銃眼を設けるが、すかさずそこに●●氏が正確な速球を送り込み、忍さんは顔面に直撃を受けてしまった。


 メガネに付着した雪を取り除きに忍さんは後退し、私が代わりに塹壕に入った。雪を圧縮して固めた塹壕も、直撃弾を受けて震え上がり、やがて亀裂が入りはじめる。私は塹壕を叩き直して修復し、近くから雪を運んで規模拡大をはかる。しかし、作業をする私の背中にも容赦なく直撃弾を浴びせられた。忍さんは「身を挺して塹壕を守るとは」と驚嘆した。


 義盛氏の援護の下、私と忍さんは雪を運び、塹壕を拡大する作業を続けた。そこを狙ってくる●●・T2両氏に対し、「非戦闘員を攻撃するとは、ハーグ陸戦条約違反だ」「戦争犯罪人め、絞首刑だ」と非難するが、T2氏は「ナチスには非戦闘員もなにもない」「勝利すればいいのだ」と。確かにその通りだ。非武装であっても、軍事設備の設営に当たる工兵は戦闘員と見なされ、攻撃されても文句は言えない。「戦力」に於いて、直接的な戦闘部隊の占める割合はさほど多くはない。


 マンパワーによる作業の限界を感じた忍さんは、正門の衛兵詰め所までスコップを借りに走った。しかし、その背中に●●氏の正確な遠投が襲う。軍使を撃つとは、国際法を知らぬらしい。後で、BC級戦犯として軍事裁判にかけ、Dead by hangingだ!


 スコップにより機械化をした我が方は、迅速に塹壕の拡大作業をできるようになったが、その反面、原料の雪に不足した。そして、忍さんと私が原料調達に塹壕を離れた隙に、道着同盟軍は全軍で突撃し、義盛氏の集中砲火もむなしく、塹壕は占拠されてしまった。


 しかし、状況は我が方に不利ではなかった。奥地に後退した我が方には無尽蔵の雪資源があった。しかし、道着同盟側が占拠した地域は、これまでの激戦のために雪は踏み固められ、あるいは使い果たされ、弾丸をつくることにも事欠いた。我々は機械力と豊富な資源を利用して新要塞の建設を進め、道着同盟側は飛んできた敵弾を鹵獲して投げ返していた。すでに、戦いは国力がものを言う総力戦の様相を呈し、軍事用の資源を奪うために戦うなど、手段が目的化する有り様であった。


 我が方の新要塞の建設は着々と進み、大きさはすでに最初の塹壕の数倍になっていた。戦闘のさなかの建設。その成果を目の当たりにした敵側は、やがて戦うことを放棄し、我が方の要塞建設に協力をしはじめた。すでに要塞はかまくらと名を変え、平和利用が考えられていた。いや、忍さんは、最初の塹壕を作りはじめたときから、「みんなで暖をとるため」に作業していたという。


 かまくら作りは、そうそう簡単にはできない。もっともっと雪を積む必要があった。しかし、道着の●●・T2両氏は、肉体の限界にさしかかっていた。激戦のために、道着は完全に濡れはて、濡れた生地は透けて脚が見えた。さらに、彼らの手足は感覚を失いかけていた。私がT2氏の手にライターの火を近づけたが、彼は火を触ることができた。●●氏は、さらにわるいことには(to make matters worse)、「that's allなんだね!!」「Г〜〜〜!!」などと叫びだし、発狂しかけていると思われた。これは群馬旅行で、ひどく酔って昏睡する直前の症状と似ている。これはまずかろう。しかも、●●氏は最初からカゼぎみなのだ。死ぬ気かアホ。


 時刻はすでに十六時半をまわっていた。かまくらを完成させられなかったのは残念だが(生まれてこのかた、一度もかまくらに入ったことがない忍さんに、ぜひともかまくらに入ってほしかった)、やむなく撤退を決意した。しかし、私と義盛氏のふたりは二〜三回斜面をダンボールで滑ってから、撤退した。ちなみに、棒は終始芝の雪山にぶっ刺さったままだった(※棒を傷める上、そうでなくともこのような扱いは稽古人としてはあるまじきこと)。


 八号館で着替え、忍さんにおごっていただいたコーヒーを回し飲み、それからタッチングをはじめた。水を吸いきった靴でのタッチング一周は、思いのほか疲労した。疲れはしたが、別に身体は暖まらなかった。実は、今までさんざん暴れていたため、身体は冷えてはいないのだ。ただ、手足という末端が冷え切っているのを、身体全体が冷えていると勘違いしているのであろう。


 これから飲みに行こうかとの話もあったが、テスト期間であるし、なによりも全身水浸しで店に入り、イスを濡らして帰るのも何なので、おとなしく帰ることにした。私は忍さんと一緒に帰った。道中の木々は、雪の荷重で枝をたれ下げ、別の植物のようになっていた。忍さんと私は、二人で木に積もった雪をたたき落としながら帰った。通行人が、急に足早になったのは言うまでもないであろう。

                                つづく

「マッドサイダー」 次回予告
 鎌倉の地で、我らが棒術部員が見たものは死か。
 マッドサイダーの武器調達を阻む、群青色の武装集団の正体は如何に。
 次回、「武器の街、鎌倉」に乞うご期待!!
 


 以上が、東京に大雪が降った翌日の記録である。棒術部でE-mailアドレスを持っていたのは当時私とГ氏だけであったが、その通信が、サイトを持たぬ時期の出来事を文字化した。
 しかしヒロポン氏(先生と書いているが、もちろん学生である)と一緒に撮った写真は誰のカメラであったのか。私のカメラならばすでに手元に写真があり、それがスキャニングされているはずである。現像されたのかどうかさえ疑わしい。この日の写真がないことはとても残念である。
 ちなみにこの日は、成人式。私のマンションにも、八王子市から成人式の案内が送られていた。だが、異郷で誰も知らぬ中で成人式に出ようなどとはまったく思わなかった。忍氏、●●氏も同じく成人式だったはずだが、やはり郷里を離れた学生が東京の成人式に出るわけがなかった。けれども、このようにして成人式の日を過ごした20才の若者は、稀な部類に入ることであろう。

 ちなみに次回予告だが、2月14日に鎌倉の武器屋へ買い出しに行く計画であった。このメールはそれ以前に作成・送信されたので、次回予告に終始している。「群青色の武装集団」は警察のことを指しているのだが、鎌倉で模造刀などを購入した後、飲み屋に入って酒を飲んだばかりに拙いことになり、本当に「群青色」の方々のお世話になるところであった。バカはやっても反社会的行動をやってはならない。


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