サイト理念
一、日常礼賛 |
■解説■
「日常礼賛」
読んで字のごとく。世の中には、いつでもつまらなさそうな面して歩き、人と会うたびに「何か面白いことないか」と聞いて回る人間がいる。私の友人にもそういう人間は存在し、「何かないか」「面白い話して」と頻繁に言ってきたものであった。私が何かいかれた話の1つでもすると、そのときは笑って私の話を楽しんでくれるが、話が終わるとまた、世の中に何一つ気に入るようなことがないかのような面に戻ってしまう。こういう手合いは、誰かとバカ騒ぎして笑っているように見えても、うまいもの喰っても、欲しいもの手に入れても、基本的に何をしてもつまらないのである。
他者がどんな面して歩こうがそれは勝手だが、私はそんな面して人生の日々を過ごすのは御免である。刹那的快楽を求めるのも、日常を逸脱したかのような刺激を求めるのもわるくはないが、まずは自分の日常そのものを楽しんでいきたい。艱難辛苦も、怒りも、闘争も、葛藤も、自分が日々行う些細な行為や抱く感情も、私にとっては謳い上げたくなる最高の愉悦なのである。だからこそ、私はサイトに自己の些細な出来事や日々抱いた感情や考えを書き綴る。それが、このサイトの出発点である。
このサイトは、他者にとっては単にくだらん文字列でしかないのかもしれないが、私は他人様を喜ばせるサービス精神でもって書いているわけではないので、あしからず。ついでに、無理して楽しくないのに何でも楽しいかのように振る舞う、という態度・精神も、私とは相反するものであることを追記しておく。
「全体主義的確信に反旗を掲げよ」
おそらくは、ここの「サイト理念」でもっとも誤解を受けそうな文言。別に政治問題のことではない。「全体主義」とはWWII期のドイツやスターリン支配下のソ連の於いてのみ見られる事象ではない。「全体主義」とは、ある中心に向かって人々が邁進し、あるいは吸引され、それと同時に異端を作成して否定する運動力学のこと。
私は幼少期から、何かある確信に根ざした価値観を持つ人間が、それにそぐわない存在をよく把握もしないで否定(批判ですらない)することに生理的嫌悪感を覚えていた。
例えば、「戦争」「暴力」「偏差値」「学歴社会」「官僚」「権力」といったコトバは高い確率でマイナス・イメージを伴い、そのコトバは何かを絶対否定するためにも用いられた。こんな一文を挙げてみよう。「■■(組織)の実体は、『学歴社会』そのものだ」などと言ったとき、その■■を否定したことになるらしい。■■のどういう部分が「学歴社会」なのか、「学歴社会」とは何を指しているのか、「学歴社会」であることがどういう弊害をもたらしているのか、何をどうすれば弊害が改善されるか、それとも■■の役割をも含めて全てを否定しなければならないことなのか。ここまでを言わなければ批判にもならない。これだけでは意味不明である。
しかし、こういう文言を吐く人間は、この一文だけで■■を否定し、それに反対意見を持つ人間の反論を封じ込めたつもりになるらしい。この文言に反対意見を持つ者は、「学歴社会」の賛美・信奉者、すなわち「異端」として処断される。あたかも、「『学歴社会』は絶対悪」という神聖にして犯すべからざる確信があって、その文言だけ唱えていれば自分の論が神聖化・権威化されるかのようではないか。その内容を具体的に省みることもなく、ただ唱えていればいい。それを批判する意見は悪の権化か頭がわるい者として処断すればそれでよい。なんて簡単すぎる思考法か。それで何の発展性がある。
一方、「自由」とか「平等」なんてコトバが、高い確率でプラス・イメージを伴い、そのコトバは何かを絶対肯定・賛否するためにも用いられる。この場合もやはり、「自由ではない」と言えば何かを即時に否定でき、「これは平等だ!」とでも言えば相手を黙らせて何かを通すことができるらしい。
何か絶対的な価値の確信を持つのが一個人ならば、そんな人相手にしなければいいのだが、社会自体が神聖にして犯すべからざる確信に根ざした運動力学が働いているかのように見える場合。それがここでいう全体主義であり全体主義的確信である。
「官僚」と言えばマイナスイメージを伴い、それを否定しない人間を「官僚主義の権化=悪の権化」のように扱うのは、一個人だけの傾向ではない。テレビ、週刊誌、娯楽書籍・・・至るところにその空気が感じ取れる。判で押したかのようだ。「官僚」というコトバの意味も、官僚制が果たしている機能・役割も省みないで、だ。まっとうな批判やアンチテーゼが一人歩きして、いつしかあるものを表すコトバ自体が否定詞となる。
もっと顕著な例は「テロ」である。「●●(組織)は国際テロ集団だ」とメディアや政治指導者が言うと、●●は地球上から消滅しなければならない。武力でもって叩き潰して当然ということになる。だが、「テロ」というコトバには未だ正確な定義はなく、強い影響力を持つ者が気にくわない暴力を「テロ」と認定呼称しているだけだ、という側面を忘れてはならない。だが、こう言うと「お前はテロを養護するのか」「●●の暴挙を肯定するのか」などと言われたりもするのだが。まったく極端な判定である。
一方、今の世の中が旗印に掲げるもの、全体主義の吸引力としてありがちなのは、「人権」「自由」「民主主義」「市場経済」といったところであろうか。日本の一部では「非暴力」も入るかも。これらの旗印の前では、これらの旗印にそぐわない存在はすべて異端である。処断すべきものである。「それは市場経済に反する」と言えば、即座に何かを否定したことになるらしいし、「これは人権尊重の見地に立った行動である」と言えば、その行動を「正義」と認定呼称できるらしい。
別に私は「人権」「自由」「民主主義」「市場経済」「平等」を否定はしないし、「戦争」「暴力」「偏差値」「学歴社会」「官僚」「権力」の問題点に目をつぶっているわけでもやたら賛美しているわけでもない。ただ、私は簡単に物事を判定したくないのである。まず判定ありき、できなく理解と認識の努力から始めたい。ただそれだけのことなのである。
しかし社会は理解することよりも判定することを好む傾向を強めている。この動きのわかりやすい例として、テレビなどのメディアから暴力表現や過激な言動が消えつつある。暴力や過激な言動にも問題や、悪影響らしいものはあるのかもしれない。だが、今の世の表現規制を見ていると、何がなぜ、どうして規制する必要があるのか、ではなく、暴力だから控えよう、過激だから控えよう、と世の中の流れとやらに沿っているだけではないか、との念を禁じ得ない。規制さえしていればメディアは誹られることもなく「良識あるメディアだ」と胸を張ることが出来、暴力番組を流すメディアは「害悪を垂れ流すメディアだ」と処断される。別にメディアを批判しているわけではない。そうせざるを得ない、理解よりも判定−というか判定されているものに従うこと−を重視せざるを得ない世の中になっているのではないか。それが私の言う、全体主義という流れであり、全体主義的確信である。
ちなみに、全体主義的運動や確信は、世の中に一つしかないわけではない。
国際社会とやらにはアメリカ主導の「グローバリゼーション」とかいう全体主義があるし、一国の中にも文化に於けるナショナリズムと経済に於けるインターナショナリズムという全体主義がある。マスメディアの世界にも表現規制を巡った全体主義があるし、他の企業・業界にも全体主義があるかもしれない(例えば成果主義。聞こえはいいが、必ずしも的確な方法で行われるとは限らないし、返ってサービスの質を落とすこともあるが、とにかく信奉されている風潮がある)。
そして雑多な日常でも、スポーツやバラエティ観ることがスタンダードで、アニメや特撮観る奴はおかしいという全体主義があるし、アニメ・特撮愛好家の集団では、スポーツやバラエティだけ観る奴はおかしいという全体主義があるかもしれない。ある学生サークルでは、自分たちの大学生活こそがもっとも充実していて、他のサークルの奴は空虚だ、という全体主義があったりすることも。武道の流派でも、自分の師事する師範の稽古こそが正統であり、実戦的だが、■■流のは邪道で非実用的だ、という全体主義もある。ガキが弱そうな奴を迫害し、自分たちで結束するのもれっきとした全体主義である。
人間社会には、至る所に全体主義という運動と、全体主義的な確信が存在する。無論、私も社会に生きている以上、結局は全体主義的確信に基づく枠組みから逸脱することは出来ない。自分の属する組織・集団に於いてはそこが余所よりもいいという自負は持つし、組織の中でも組織に貢献している奴は優秀で、何もしない奴はクズだ、という全体主義的見解を持つ。
だが、答えよりは問いかけを。この姿勢だけは忘れず、絶やさずにいたい。このサイトを書き綴るときにも、この姿勢を通したい。人間は、考える努力をやめ、ただイメージとステレオタイプでもって判定するだけになったとき、その脳は壊死する。事態に対して適切らしき対策をとることが困難になるし、狭量な偏見・差別待遇・暴力を誘因しうる。私はそんな人間でありたくはない。だからこそ、問いかけを続けたい。それが「全体主義的確信に対する反旗」であり、「反・大衆迎合」なわけである。
「帰属集団に幸いあれ」
読んで字のごとく。自分の意志で帰属し、わたしの日常の一片となり、行動の場となる集団に対しては、批判はしても、最終的には愛着がある。だからこそ、批判はしても否定はしない。今後ともそうした帰属集団には発展してほしい。その程度のことである。