東京出征の日
1996年04月06日(土)


 本日、釧路を発つ。生活の場が異郷に移るという感じはしない。ただパソコンから時計まで、部屋の電気製品全ての電池を抜き、コンセントを外して、自分の部屋にあるCDラジカセやカメラ、果ては酸素のスプレーまでをも使ってくれ、と親に渡す。ベトナム戦争で被弾した兵士が、「ボクの銃をあげるよ」と銃や弾薬、手榴弾などの装備を仲間に渡した話を思い出す。別に死ぬわけでも、帰ってこないわけではない。
 それにしても、あまりにも移動するという気がしない。大学に行って何をしようと思いめぐらすのでも、パソコンなどの新しい道具が手にはいるわけでもない。だから大した気概を感じないのか。


 大した考えもなく、家で軍歌を歌ったり、映画の別れのシーンの真似などしてみるが、たいした感慨はない。だが、もし自分がいぬ間に、家が火事になったらなどと考えては、それを振り払う。今までと安全管理がどれほど変わろうか。自分で確認せにゃ安心できないのか。それならば、高校に行っていたときも自分が対処できないという点に於いては同じではないか。変な心配をするな。何を考え、何を心配しても、何も変わらない。ならばそんなに深刻に考え込むな。俺はそんな脆弱な人間ではないはずだ。


 父の車で釧路空港へ向かう。その道中、カーステレオで軍歌など流す。「異国の丘で」「友よ、辛かろ、切なかろう」「艱難辛苦うちたえて」・・・そんな歌詞ばかりの軍歌。さらには「同期の桜」で流れる、特攻隊員の別れの手紙の朗読が。昨日の映画(注1)といい演出しすぎだな。父に泣けと言わんばかりだ。
 母は東京まで同伴してくれるのだが、父はここまでである。空港の搭乗口へと向かう階段を上るときに、父と握手をして別れた。父の握手かつてないほど熱がこもっていた。搭乗口への階段を上っていくとき、手を振る父の方を振り返り、カカトを鳴らして敬礼でもしようと思ったが、そこまでしたら泣かれたに違いない。限に、父の目には水分が潤んでいたような気もした。滑走路へと移動する飛行機の窓から見た空港の屋上に、何人かの見送りの人影があった。確認できなかったが、もしやいたのでは?


 飛行機が釧路空港から飛び立つと、すぐに太平洋上を飛行する。空や海を見ていたら、飛蚊症の多さと目の解像度の雑さが気になった。何を見ても邪魔なものがはいる。空ならば空が、手元の紙見れば、文字ならば文字がちゃんと見えてはいるのだが。飛蚊症が気になりいらつくが、飛蚊症は病的なものではない。先天性のものだ。心配いらん。昨日の深夜、暗い中ワープロ打っていたせいで目が疲れているのだ。飛蚊症(の飛ぶもの)に焦点が合わさることはない。意識しなければ見えてこない。気にするな。


 今回も、B767-200。前に何かと思った女性のマークのボタンは、フライアテンダントの呼び出しだった。スライドして作動させるものなのだが、前に乗ったときは知らずに押してみたことがあった。スライド式でよかった。


 羽田に到着。空港でカレーを喰ってからモノレールへ。どこかで東京見物でもしようかと思ったが、荷物が負担になっている母が疲れている。品川プリンスへ直行する。ところで母は、1人で釧路へ戻られるだろうな。俺と歩くスピードが合わない(注2)のはともかく、標識などの必要なところを瞬間的に見るようなことはできないらしい。ただ行き方・帰り方は、覚えて理解してくれ。


 品川プリンスで、母は本館、俺は新館に泊まることに。新館と本館とでは、設備・待遇にすごい差がある。鍵は新館では磁気カードなのに対して、本館は温泉旅館と変わらぬ機械錠。窓の大きさ、風呂・便所の広さ、照明の数、風呂の消耗品の有無、電子金庫の有無、すべてに差が大きい。俺の部屋はツインだったため、今日は母もここに泊まるとのこと。ツインとわかっていれば、余計なカネと手間はかからなかったのだが。


 ホテルに落ち着いた後、ゲーセンに行く。まずは「エアーコンバット22」。コンティニューなしでクリア!見事Majorになる。次は「デザートタンク」。目標を見ずに撃破されるも命中率53パーセント。新記録だ。クラスは少尉。次に射的をやろうと思ったが、埋まっていたので「バーチャコップ2」にする。釧路のゲーセンでは大画面でやっていたが、ここのは拡大レンズ月の小さな筐体。そのため調子が狂ったのか、集中力が散っていたのか。1面のボスを見ずにやられた。このへんでやめておく。母が心配する。


 夕食はバーガーキングのハンバーガーですませて、今日は寝る。
 ここ数日単語(注3)をやっていない。
 両国でもどこでも、自分の力だけがものをいう。
 「目から血出すつもりでがんばれ」(注4)だ。


注1・・・
昨日の映画

 おそらくは「連合艦隊」。わざと東京出立の前日に借りて、両親とともに観た。父子の悲劇的な話が描かれているため、年老いた父には泣けるらしい。隠しているつもりで涙を拭いていたのを覚えている。

注2・・・
俺と歩くスピードが合わない

 私は歩くスピードが速い。年老いて、しかも慣れない東京に荷物持ってやってきている母が、私のスピードについてこれるわけがない。もうちっと気を遣えよ、我ながら。

注3・・・
単語

 両国予備校では、入学入寮前に、両国予備校の英単語帳を暗記することを要求される。
 実際にそれをやる人間はほとんどおらず、私はほとんどさわりしてやっていなかった。
 
注4・・・
「目から血出すつもりでがんばれ」

 ある伯母が私に言った激励の言葉。エリート主義者でプラグマティックな考えの持ち主であるこの伯母とは、ガキのころは相容れなかった。だが、こうした激励は励みになった。もし、両国まで来て私が何ら成果を収められなかったら、親類縁者が「ガキの頃は頭がいいと思ったが、所詮クズだったか」と見なすこしであろう・・・そうした思いこそが、私が両国で艱難辛苦に打ち堪えるエネルギーの一端となった。


解説

 この日は、18年間住んだ釧路市から、はじめて居住地を移すことになる日であった。それに特別な意味を添付しようとしたり、しなかったり。あたかも自分の村から一歩も出たことがない中世の人間が、生まれて初めて外界に飛び出るようではないか。この日の日記には、家が火事になったらどうしようだの、飛蚊症にいらついたりと書かれているが、なんだかんだ言って、かなり神経質にはなっていたようである。
 たかが釧路から東京の予備校へ行くだけのことなのだが、私自身も、末っ子を送り出す両親も、随分と大騒ぎしてこの日を迎えたようである。ま、両国予備校というのは特殊な予備校なので、父母も私も心配だったのだろうね。 


戻る