一触即発
1996年04月20日(土)


 またしても雨。当然猫おらず。


 帰ると玄関で寮監に呼び止められる。セキするのか、と(注1)。高村氏が寮監に隣の晴天はセキをしてうるさいとでも陳情をしたのだろう。喘息です、それに体質なので治るとか治らないものでもありませんと答える。事実そうで、たまに咳払いぐらいはするが、咳き込んだことなどここに来てから一度もない。それと、鉛筆の音対策として机に敷くビニールシートを貸してくれた。そして俺の部屋まで寮監は一緒に来て、隣の部屋の高村氏と壁越しで向き合っている俺の机を、部屋の右端にずらした。
 それにしても、セキなんてしていたか。まあ、抑えられる限りは抑えるしかない。それに、鉛筆については完全に解決できる問題だ。自分で気をつけねば。やはり彼はマジメな人だ。23時前に洗面所で談笑したり、他室出入りするような人々とは違う。もっと気を遣わねば。
 それにしても、机の位置を確認するため、俺と高村氏の部屋を開けたとき、寮監は1本の鍵を使った。そういう仕組みか(注2)。


 2300時少し前、部屋の右端にズラした机に向かって勉強していたら、俺の眼前の壁を、高村室の方から叩く音が。なんと?うるせえってのか。そりゃ、昨日は本当にうるさかったかもしれんが、今日はそんなに筆圧かけていない。わざわざ机も離しているし、ペンの音はビニールシートに緩和されて鈍く拡散しやすいものになっている。思い上がりやがってこのタコが。これでもうるせえってか。てめえだって2000時ごろ、物音たてまくっていたじゃねえか。何をやっていたか知らんが、正当な理由があれば自分は音をたててもいいと?
 と思うと今度は声だ。もっと考えろ、お前が部屋のどこに居ても聞こえる、と(注3)。紙重ねて、筆圧まで加減していてどうしろというのか。俺はものを書くこともできんのか。もっと音を削減する方策は考えていきはする。しかしまあ、神経質だな。しかし壁は叩くな。ふざけやがってこの野郎。壁を殴っても伝わるのは悪意だけだ。ここが両国で共同生活の場でなかったら、ぶちのめしてやるところだ。
 ここで寮監に「奴が壁を殴る」などというのは大人げない。人格を陶冶しろ(両国の標語にある文句)とはよく言ったものだ。今度は紙50枚ぐらい重ねて字を書こう。それでまた文句言ってきたら、それなりの手は打たせてもらう。しかしまあ、彼に始末書をとらせるのは気の毒だ。ただ彼は勉強に集中したいだけだ。とにかく俺の方が余裕があるのだから、俺の方が譲れ!


 怒りのあまり文体が乱れた。けんしろ(高校時代の友人)にもっと優秀な人間になって帰ってくると誓った。もっとデカい人間になれ。
 所詮は1年の付き合いだ。しかし寮の1年を不快な1年にしてはならない。とにかく、人に悪い思いをさせるな。
 それにしても、奴は自分だけが正しいと思っているな。もしお互い様だから我慢してくれ、などと言ったところでふざけるなと言ってくるだろうな。まあいい。人に迷惑をかけんよう留意するしかない。


この日のカネの動き

電話 両国にて -210

財布残高 3500円


注1・・・
帰ると玄関で寮監に呼び止められる。セキするのか、と

 高村氏が先日、寮監巡回の際に長々と話していたのは聞こえた。内容までは聞こえなかったが。そのとき、ペンの音がうるさいだけでなく、セキについても述べたのだろう。
 それにしても、セキなんて本当にしていただろうか。咳払いはたまにする。ほこりっぽい部屋で、喉もかゆくなる。だが、1時間に10回も20回もしたわけはない。そして、咳き込んだ記憶はまったくない。とにかく高村氏は耳に入る全ての音が罪悪で、それが他者の発している音だと我慢できなかったのだろう。神経質すぎる。


注2・・・
俺と高村氏の部屋を開けたとき、寮監は1本の鍵を使った。そういう仕組みか

 当時の私は、マスターキーもしらんかったらしい。


注3・・・
もっと考えろ、お前が部屋のどこに居ても聞こえる

 私がどこに居ても聞こえる。私のたてる音は、私がどこにいても隣室に聞こえる。つまり、私が少しでも隣室まで聞こえるような音を出したら、それは罪悪だといいたいわけですか。前日はともかくとして、この日の鉛筆に関してはかなり気を遣っていた。ルーズリーフを重ね、ビニールシートの上で、うまりペン先を浮かせないようにして書いていた。それでも筆じゃないし、ペン先をまったく紙面から上げないわけにはいかない。多少は音がするというもの。
 もちろんどれほどの音を私が出していたかはわからないが、やはり高村氏が異常ではなかったのかね。そして、そこまで譲歩する必要があったのだろうか。まるで堪え忍ぶこと、自分が譲歩して安寧を維持することが至上の価値のように書いているが。


解説

 高村氏との対立激化。ペン先がたてる些細な音ひとつでいさかいになったり、そのペン先の音の削減を工夫したりと、予備校の寮という特殊環境でなければなかなか遭遇し得ない事態であった。私の完全譲歩によって事態は荒立つこともなく、収束した。自分自身でも、自分が罪を犯した、自分が迷惑をかけた、自分が折れろ、自分がもっと工夫しろと繰り返して言い聞かせているが、そこまでする必要あったんだろうか。
 黙って譲歩しても最大限都合良く解釈される。相手はますます私が悪で自分にはまったく問題がない、自分の尺度は絶対正義だ、と思うようになったことだろう。そして彼は寮監に「晴天はうるさい」と言ったように、他の寮生にも同じ不満を漏らしたはずである。そうした悪評も認めたことになる。こちらも対抗して、高村氏の異常性や壁を殴ったこと、怒鳴ったこと、彼も音を立てていることなんかを指摘して彼を切り崩すことも可能だったかもしれない。まあ、そこまでして何になると言われればそこまでだ。やはり、ただ「大学に合格する」という1点のための1年間。くだらんことに労力と精神力を使わなくて正解だったか。


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