こなしきれない
1996年05月08日(水)
うまくいかなくなってきた。精神がせっぱ詰まってきたという意味ではない。時間が足りなくなってきたのだ。復習だけで0.7日終わってしまう。メシ食ったら瞬時に歯磨きして、便所すませて、勉強。帰って風呂入って、洗濯もせず勉強。と、やっているのに時間が足りない。勉強しまくる生活そのものはどうということはない。ただ、やることがこなしきれない。それがなんともたまらん。オレのやり方が能率的ではないということか。毎日5コマある医歯系に比べたら、時間など有り余っているだろうに。しかも三科目しかない。英語のノートを作り直しているのがいけないのか。ただ授業と予習で作ったノートをみて、かみしめて、反復して、それですませれば時間は1/3で済むだろう。暗記ノート作って、それを観ているヒマがねえ。休み時間ぐらいか。英語力は伸び続けていると思うが、単語知らないので点は伸びない。英単語やっても覚えられない。だから反復している。別に自分の方法に後悔などはしていない。けれども、負担にはなる。はたして、この方法でやっていけば、文をなめらかに読めるようになるのだろうか。今よりは出来るようになるだろう。
明日のテストの予習していない。まあこれは朝にやろう。夜は使わない。
そう、今日帰寮すると、両国の生活指導のおばさんにほめられた。部屋がきれいだと。机の上に評価書があったが、そこにもいい評価が書かれていた。
風呂に入っていると、母から私に電話があったらしい。電話をとったのは生活指導のおばさん。おたくの息子さんはきちんとしている、というようなことを言ったらしい。面会についての問い合わせで、私に取り次いでもらう気は母にはなかったのだが、風呂から上がって電話の横を通った私を生活指導は呼び止める。せっかくだから話せ、とのこと。
さて、寝るか。0時には寝る。
この日のカネの動き
なし
財布残高 12665円
解説
私はいつでも復習中心である。高校の教員も予備校の講師も、知人友人も、予習こそが必要だというようなことを言う人も少なくないが、私は復習こそが肝要と考える。いや、予習をしなくてもいいと言っているわけではないが、復習は必ず、そして徹底して反復しなければならない。だから私は、ノートの作り直しまでして復習に力をいれていたのだ。別にきれいな字で清書していたわけではない。汚い字で、出来る限り情報を漏らさないように書き殴ったノートを解読し、要点を理解しやすくまとめ直し、わからない点・不明確な点は自分で調べ直してノートを作ったわけだ。たとえば英文解釈ならば、やった英文の直訳(+しばしば意訳も)、単語、構文、熟語、慣用表現を解説して、自分なりの解釈書をつくりあげてしまったのだ。そうして、何一つ書き込みのない元に英文を通読して、そしてわからない点はまた自分のノートをみて確認し、あるいはノートを見てから元の英文を読んだ。これを毎日欠かさず繰り返したため、ずいぶんと英文を読めるようになったものである。
だから、時間をかけてやっていた、人によっては無駄とか二度手間とかいわれそうな復習も、意味はあったといえる。
ちなみに復習よりも予習の優位性が語られるのは、予習の方が未知との邂逅があり、未知に対して自分でアプローチしなければならないと思われているからだろう。そして復習とは、ただノートを読み返すとか、与えられたものを丸暗記するとしてしか思われていないのだろう。つまり、能動的な努力をする予習こそが苦労するので身になり、ただ受け身でちょっと読んだりするだけの復習は楽だから身にならない、と。そういう発想があるのだろう。
とんでもございません。予習もまた未知にアプローチせねばならないが、復習でもまた、脳を刺激しなければならんのです。復習でも、必ず不明点はてでくるし、実際わかったようでわかっていないことがたくさんあります。授業で得た情報に目を通し、ここで終わらず、情報を整理し、今までやってきたことや既得知識とリンクさせて再構築し、それでもなおあやふやな点を叩いて、自分なりに英文・古文ならばその解釈、世界史ならば歴史の軸や時代性に対する解釈を作り上げていくものであります。そしてやらには、復習とは、ただ目で見て同じことを何度も書いたり読んだりするのではなく、文章を暗唱してみたり、なんの書き込みもしていない英文を再び読んで解釈を試みたり、世界史ならばテーマを決めてどんな時代だったか、なにがあったか思い起こしてみたり、日本語だけ見て英単語を思いだし、あるいは書き出してみたり・・・。やることはいくらでもありますよ。