もっと高きを目指そう
1996年05月13日(月)


 風呂に入ったら崎元氏に話しかけられた。

勉強やってる?と。
まあね、やってるやってる、と答えると
帰ってすぐ?風呂出てからまたすぐ?と。
10分がらいは休むが。
英語の長文わかる?とも。
わからない。でも短文はなんとか。
復習やってる?と。
やってるやってる。
どうやっている?と。
もう一回訳してみたりとか。
社会は?と。
世界史。
わかる?
わかるというか、覚えるだけだから(注1)。
政経の方が覚えること少ないから楽だ、と崎元氏。
その通りだと言うと、佐々木氏がでも世界史の方がおもしろいよと。
まあね。
眠くならない?よく集中できるね、と。
眠くなるよ、でも今日寝たら明日も寝るから。
すると、そんなに出来てなんで浪人したの?と。
いや、3年間遊んできて何もやってないよ。
何やっていたの?と。
ゲームとか競馬とか。
すると崎元氏はコンパ三昧で、あとバンドでボーカルやっていたとか。
偏差値高い学校?と聞かれたので、まあねえと(注2)。
崎元氏の学校は偏差値40台で就職率99%でプー率99%と。大学は0.01%しかいなくて、大学行くと行ったら行ってどうすんだ、つきあいわりーなと言われたと。
崎元氏はなかなかの覚悟で両国に来たに違いない。

法政を狙っていると言ったら(注3)八王子に住んでいるの?と。
いや実家は北海道。
じゃあ八王子市民になるんだ、と崎元氏。そして八王子の治安の悪さを語る。
崎元氏は早稲田を狙わないの、と。
いや狙っていません。
早稲田と法政両方受かったら、早稲田行くんでしょと。
そりゃそうだ。
そうしたら崎元氏、やっぱり早稲田行きたいんじゃないか、早稲田受けろよ、と。
これは目標を高く持ってがんばれということか。なかなかいい人ではないか。

 そして脱衣所で、崎元氏は晴天君、いっしょに頑張ろう、と言って出ていった。そして脱衣所で佐々木氏が晴天君になりたい、と。いや、なるんだったらもっと出来る人になるべきだ。とか言っていると、崎元氏が再登場。今日、厨房で変な親父がメシつくっている!と。それに三浦の奴がキ@ガイだ!と騒いでる。何があったのか聞いたら、見ればわかると。見てみたら、三浦の社長が洗面器に缶詰を入れて歩きながら、紙を見ながらなにやらつぶやいているではないか。


 それにしても崎元氏、今までサボっていたがオレもやろう、と言っていた。がんばれよ!オレはここに来てよかった。


この日のカネの動き

なし

財布残高 5322円


注1・・・
世界史。わかる?わかるというか、覚えるだけだから

 私は本当は、社会に対して「覚えるだけ」という文言を吐きたくない。社会は体系的な理解と認識がものを言う。けれども、ろくに出来ない当時の私が、社会について語るのは気が引けた。さらにはまったく出来ない、やり方もわからないと言っている人には、まず簡単な方法を告げた方がよい。実際、断片的な暗記でも、試験である程度の点はとれるようになるし、がむしゃらな暗記でも続けていれば体系的な知識になっていく。

注2・・・
偏差値高い学校?と聞かれたので、まあねえと

 北海道は高校に偏差値をつけない。だから私は高校の偏差値を聞かれてもわからない。ただ進学校には違いない。そして崎元氏は進学校ではない。こういうときに、「うちの学校なんて低い」などと謙遜する方が嫌みというものだ。だからまあねと答えた。

注3・・・
法政を狙っていると言ったら

 最初のうちは法政が第一志望と言うのを恥ずかしがっていた。それは、将来スター歌手になりたい、プロ野球選手になりたいというような、手の届きそうにない夢みたいな目標を述べるような気恥ずかしさがあったからだ。しかし勉強をしてみて、多少の手応えはつかめて、多少の自信は持ったのであろう。だから高い目標である法政第一志望ということを隠さなくなったわけだ。しかしまだまだこの時点では、法政は高く掲げた目標であった。


解説

 崎元氏は、私が進学校たる母校で人並みに勉強して大学にストレートで入っていれば、本来はなかなか出会うチャンスがなかった種類の人間である。だが、この日の彼との会話には私は感銘を受け、ここに来てよかったと心から思ったものであった。
 私は高校時代は劣等生だった。勉強していなかったのだから当たり前だ。私は友人連中に最後まで成績を隠し通していた。だが教師をはじめ、成績を知っている人間は言ったものだ。入れる大学に入ればそれでいい(そんな大学は存在しない。あったとしても無試験に近いところ)、いい大学に入りたいとか高望みをするな、評判の低い大学に入りたくないとはなんたるいいざまか、と。そして高校で勉強しない奴は、浪人しても出来ないともよく言われた。もちろんこれは現役生を奮い立たせるための方便であったが、実力が固定的なものであるかのような言われようには腹が立ったものであった。だからこそ私は、そういう発想を行動でもって覆すために、自分がいい大学(この場合は法政)に入ってやると燃え上がり、両国へとやってきた。この執念こそが私のエネルギーであった。
 そんなときに、高い目標を持て、高ければ高い方がいい、と正面から言ってくれたのは同年代の人間では崎元氏ぐらいしかいなかったのではないか(同年代でない人間としては伯父夫妻が、高校1年頃に「東大目指すつもりで勉強して、その結果北大に入る。勉強とはそういうものだ」とは言ってくれた。が、当時の私はあまり熱心に聞いていなかった)。寮では悪い影響を受け合う人間の方が多かったような気がしたが、こういう瞬間こそが、貴重なのかもしれない。 


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