サンシャイン60
1996年05月26日(日)


 また母来る日。眠らぬよう立って古文単語を読む。母が来ないかと窓から道路をしばしば見たが、やってくる姿は見つけられなかった。1140頃ノックが。母が来た。荷物を部屋に置いて、二人で部屋を出る。こんな時間に自室に鍵をかける音がして、他の人々はどう思ったか。帰寮時間を1400にしたら、寮母さんがせっかくだからもっとゆっくりしていきなさい、と。1500時にして特別外出届けを出す。訂正印はいらんのか?


 母と駅まで歩く。日傘なんぞさしおって。さて、どこで喰うか。近場で喰っても帰寮時間までヒマだ。それにフリータイムで外出する寮生に見られてもナンだ。池袋へ行くことに。


 池袋に出るまでに40分かかった。日曜だけあって、家族づれで混み合っていた。混むだけならば平日でも混んでいるが、日曜は人混みの動きが緩慢で不規則だ。


 サンシャイン通りのメシ屋に入る。うなぎ屋にて特上ウナ重を。すげー豪華だ。だが、特別ありがたみを覚えもしなかった。いつものメシでも量と栄養価は足りている。しかしそんなことよりも、母が私に特上ウナ重を食わせることに意義があるのだ。
 メシ屋では公立大に入るな、地元で働くことになる、とか大学の話を少々した。


 メシ屋を出て、サンシャインの方へ。折角来たのだから観光めいたこともしてみよう、と展望台へ。チケットを買って、一気に60階までまでエレベーターで。600km/h!すさまじいスピードだ。しかし何でもない−とは言わないが、大してGは感じなかった。エレベーター内が真っ青になって、いかにも見せ物な感じだった。が、1980年代のセンスだ。科学万博の時代の。しかしこのサンシャインが建てられ、科学万博が世の中をにぎわせていたとき、私は物語の舞台のごとく遠くて遠いそれらを、学研の雑誌で読んでいた。創作小説のような、行けないことを当然の前提としながらも、万博やサンシャインに憧れ、嘆息していたものだった。そうか。私は今サンシャイン60にいるのか。
 60階展望台。すげー高いとは思わない。高すぎて、航空写真を見て見るみたいな感覚だ。リアルな景色がそこにあるのに、写真のように感じる。
 土産物屋に。特に買うモノもない。猫グッツでもあればな。自販機で彫ったメダルだけが、今日の記念品だ。意味を持たせようとしているとは、このサンシャインに来たことに。


 サンシャインを出て、私は1人アニメイトへ。母にすぐ終わるからと、外で待っていてもらった。


 そして駅で別れる。「じゃあね、しっかりやるんだよ」と母。何億回使われたかもわからないありがちなセリフ。しかし身にしみた。私が改札を入ってから振り向くと、まだ母は立って、こちらを見ていた。見送ってくれていた。私がホームへの階段を上って、見えなくなるまで。わざと仰々しい意味を持たせたくはない。ただ、年を喰った。私も母も。母は子供をすべて送り出し、私は親元を離れた。ただそういうことだ。そしてこの状態は、おそらく一生続く。


 寮に帰ってから。田山氏に「どこに行ってた?」と聞かれたので、親が来てメシを喰っていたと答える。すると田山氏はいい親でしょう、と感心していた。


 田山氏は部屋に温度計をつけている。25度?そんなに暑いのか(注1)。まったく意識していなかった。


 部屋で、買ってきたエヴァのバンダナしてみるが、頭がかゆくなる。
 エヴァのタオルも買ってきたが、これはバスタオルだな。


 洗剤が切れた。洗濯場に忘れていったとき、かなり使われたからな。今回はほとんど真水で洗う。


 窓の下から、大河ドラマ「秀吉」のテーマが聞こえてきた。寮監は部屋で見ているのか。関西人だもんな。まあよその家からかもしれないが。


 今度は隣の民家の風呂場から歌声が。女の子の!そういえば、朝親子でケンカしているのが聞こえていたな。若いねえ。
 ・・・!この曲は!!「残酷な天使のテーゼ」!!しかも間奏の高い声まで再現している!!うまくはないが、なかなか凝っているではないか。ぜひにお友達に!


1245。夜更かししすぎだ。寝る。 


この日のカネの動き

母より +1000
エヴァタオル、バンダナ -2266

財布残高 13306円


注1・・・
25度?そんなに暑いのか

 釧路生まれ釧路育ちだった私にとって、25度は天文学的な温度である。東京で暮らし、ユタにも行った今の私にとっては大した温度ではないが、当時の私にとっては一瞬耳を疑う数値であった。が、それほど暑いとは感じていなかった。そういう意味では、私の適応力は高いらしい。


注2・・・
隣の民家の風呂場から歌声が。女の子の!

 もちろん確認のしようもないが、隣の女の子は当時中学生ぐらいだったと推定される。彼女がたまに、風呂場でこうしてアニソンを歌うのが聞こえてきたのだが、それを聞くのは予備校生活で最大の慰みの1つであった。なんて禁欲的な。


解説

 当時の私は、物事に意味をつけることを嫌っていた。まして、すべての物事に既定の、万人共通の意味があるかのような発想を嫌悪していた。だからこそ、出来る限り意味を廃した書き方をしようとしていたのだが、そうしたことを連呼していることそのものが、母との会って、そして別れたことに強い情感を覚えたことを示している。やはり、はじめて親元を離れて、親がたまに来ることにまったく何も感じなかったということはなかったようだ。


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