父きたる
1996年06月04日(火)
父来(きた)る。寮監が部屋まで案内してきた。注文の品と少々のテレホンカード。手紙は読んだら持って帰るか、と言ってくれたが大丈夫(注1)。元気そうで安心したとのこと。そりゃそうだ。**(親戚)なんかは仕事で胃を壊している。仕事に比べればこんな楽な場所はない。父はこれから**県の**施設を視察してくるらしい。無理矢理作った出張とはこれのことか。
父を「父」として感じたのは、もしかすると今日がはじめてかも。・・・等と書いたら悲しむだろうな。今までは実家で一緒で、居るのもなにをするのも「当然」だったから取り立てて何も思うことはなかった。離れて急に意識するようになったということか。
父が帰り、寮監が巡回してきたとき、「お父さんも心配で」と言ってた。
ミーティングで左手前の洗濯機使っていた奴は誰だと聞かれた。岩本氏が手を挙げた。寮監が言うには、最高水位で手折る一枚がぐるぐるまわっていた、とのこと。皆大笑い。これははじめて知ったのだが、洗濯機は洗濯物を水に通すだけでなく、洗濯物同士の摩擦で汚れを落とすものらしい。多すぎる水は汚れも落ちないし水のムダ。
父が持ってきた手紙を見た。なんというのか、この感覚は。小説を読む時のカタルシスに近い(注2)。草刈部(高校時代の同級生)がただ絵の上手い人間というだけでなく、デカい人物のように思えてきた。彼が働いているからだろうか。ベンや■■君のもある!■■君の学生会館は、隣の部屋には●●氏がいると?こりゃ大変だ。よくもまあ、二人して・・・(注3)。
返事書くのに2時間も潰してしまった。手紙に返事を書くという行為が、今の私が出来る行為の中で、最も時間を食うとわかってはいるけど。まあ、滅多に書くものではないから。英語の復習はもう終えた。明日の休み時間に反復だ!
この日のカネの動き
なし
財布残高 11710円
注1・・・
手紙は読んだら持って帰るか、と言ってくれたが大丈夫
手紙とは、実家宛に届いた高校時代の友人連中からのもの。寮の住所は家族以外には教えては成らないことになっていたし、友人や彼女に住所を漏らして寮に手紙が来た奴は処罰された。だから、手紙が現物があってはまずいから、持って帰ろうかと父は心配したのである。
しかし手紙ぐらいはいくらでも隠し持てる。これからも家族の協力を得て何通か手紙が来たが、それらは薄いクリアファイルに入れて、勉強のバインダー類と一緒の棚に並べて置いた。これで一度もバレなかった。そしてこの手紙の入ったクリアファイルを就寝直前に眺めることが、日記書きと並んで最大の娯楽となった。ちなみに本の娯楽は、隠れた買った漫画を読むことを除けば、大学案内通読、大学に入ったら何をするかの計画立て(捕らぬ狸の類)、昔見たアニメの筋書きの書き起こし、実家にある漫画やビデオのリスト作りなどをやった。こんなことでも、随分楽しめた気がする。
注2・・・
小説を読む時のカタルシスに近い
私が今までの半生で最も本を読んでいたのは、高校時代である。大学に入ってからは、必要に応じて専門書は開いているが、小説や雑誌などの活字はあまり読まなくなった。本好きなガキらしく、カタルシスというコトバをかなり好んでいた気がする。今となっては恥ずかしくて、滅多に使えない言葉だ。
注3・・・
草刈部(高校時代の同級生)がただ絵の上手い人間というだけでなく、デカい人物のように思えてきた。彼が働いているからだろうか。ベンや■■君のもある!■■君の学生会館は、隣の部屋には●●氏がいると?こりゃ大変だ。よくもまあ、二人して・・・
父が届けた手紙は、高校を出て札幌に引っ越した友人連中の合作である。草刈部は働いて苦学し、ベンは大学に入ってボクシング部で鍛えていた。彼らは私にとっては、それだけでも一目置くべき存在であった。
が、■■君と●●氏は浪人である。この浪人2人は、札幌の予備校に通いつつゲームセンターや飲み屋に出入りし、同じ学生会館でも部屋は隣同士。この部屋は札幌に来た他の旧友もたまり場にし、ゲームや漫画描きなんかを結構やっていたらしい。さらにはもう1人高校時代の奴(浪人)が同じ学生会館に引っ越す始末。私の浪人生活とは対称的であった。
もちろん、遊びながら予備校に通い、エンジョイしながら大学に入られれば万々歳だ。私が入った中大でも、「高校時代は勉強しないで偏差値はかなり低く、予備校でも遊びまくり、秋か冬になってから勉強して、それで中大に入った」という奴が何人かいた。両国に来なければ間違っても中央には入られなかったであろう私にとって、それは凄いことだ。が、■■君も●●氏ももう1人も、そういう「凄い奴」ではなかった。3人とも、1浪で全員そこそこの大学に入れたが、当初の志望校に届いた者は1人もいない。だが、もし私が札幌の学生会館やアパートに住んでいたら、間違いなく彼らと同じ轍を踏んだことであろう(高校時代の成績が彼らより悪い私は、そこそこどころか底辺の私大だったかもしれん)。
さらに言えば、札幌浪人組は高校時代の末期に、私が「両国へ行く」言ったら強行に反対した人間を含んでいた。曰く、「そんなところへ言ったらお前は死ぬぞ。自由な時間がないと気が狂うぞ」と。冗談ではなく、本気の警告であった。この警句は私を怒り狂わせた。たかが予備校でないか。だからこそ私は、ここで成果を挙げ、そして札幌組よりも大きな成果を挙げる気概に燃えたのであった。そして彼らが札幌で楽しく高校時代の延長・発展のような生活を送っているのならば、なおさら私は勝利せねばならなかった。
などと言いつつ、この手紙は私にとって、仲間がいることを示していた。予備校では私はほとんどムダ話をせず、孤独の道を選んでいた。寮には、私を「自閉症じゃないか」などと抜かす奴もいた。だが、私は高校時代に、毎日毎晩バカをやり、夜通し遊び、会話だけでなく文字や絵も交えて相当な情報量をやりとりした仲間がいた。予備校を終わらせさえすれば、私は再び連中と通信し、酒やゲームを楽しむことが出来る。この事実は私にとって、多分大きな精神的支柱になっていたことであろう。だからこそ、旧友が同じ浪人なのに遊んでいるのは、大丈夫かという気もしてならなかった。
解説
私は高校を出るまで父と疎遠だった。何かあって敵対したのではなく、私が生まれた頃に起業して、会社を軌道に乗せるため走り回っていた父は、家にほとんどいない人だった。夜は12時、1時という時間に帰って来るため、日常に子供と接触することはほとんどなかった。だから私は幼い頃父に懐かなかった。アイデンティティ・クライシスを迎えていた不安定な頃も、父には接触しようとしなかった。近寄りがたい、脅威だったのだ。しかしそれは父にとっての私も同じだった。話す言葉がなく、父も敢えて私と接触しようとはしなかった。それが上京して距離的に離れてはじめて、接触するようになったというわけである。