たのしみがあってよい
1996年06月26日(水)


 毎日雨だのォ。これが梅雨というものか。部屋のどこかが腐っているのか、においがよどんでいる。

 今日生協に寄ってみる。布井氏の勧めでね。水168円か。うむ、何円でも安い方がいい。6L買ったが、袋くれず。忘れたのか、自分で用意するのか知らんが、2本をカバンに、1本を手に持った。

 さて、帰りはもどらずに前進して寮を目指すコースで行った。もとい行こうとしたが、いつぞや千石駅から電車で帰るハメになったときと風景が同じなので、来た道を戻って帰る。
 重くて歩くのが遅い。雨も邪魔だ。傘もやがて、邪魔なのでたたんでしまう。間に合うか?こんなことで反省書なんて冗談じゃない。重いカバンを持ち上げるようにして何とか走った。ちょうど1時間前に寮についた。助かった。しばらく疲労困憊。しかも汗がわくので着替えてもまた濡れる。

 英文法はやはり、英文と訳文だけで暗記した方がよい。問題はっつけてやるのは効率が悪い。今日、そう断定した。今までの文法は何だったのか?もちろん無駄ではない。それなりに身についてはいる。でもより効果的な方法があるのだ。いくら両国についていっても、やり方も効率を追求しないと。後悔などしない。俺は何度も考え、そしてやってきたのだから。

 西内氏と風呂で二人になる。彼の出身は、全国でも有名な農業高校で、大学みたいに広く、マラソンもできるらしい。まだ行ったことのないところもあるという。畑、田んぼ、寮、野球場、サッカー場、テニスコート、剣道場、柔道場、自習棟などとんでもない広さ。学園都市だな。でも必ず何人もやめているらしい。
 俺は何になるのか、と。決めていない。親の職業を言ったら、素でいいね、と。そんなにすごいのか?彼の父の配管屋だってもうけているじゃないか。でなければ、こんなところに息子をやれんよ。
 先生になったら?と言われたが、俺に似た先生がいたらしい。
 前にも書いたが、先生になることがあったら、彼の言のためもある、としてこう。

 どこの大学に行こうが、あの俺の匂いのする布団で寝て、レオとたわむれて、レオジオCDをやり、新しいパソコンを買い、エヴァのLDを観、たまった書を読む日は来る。たのしみがあってよい。たぶんこれが希望なんだろうけれども。勉強のプロの生活って、けっこういけるよ。

 復習をもっとしたいな。


この日のカネの動き

水2Lx3 -519

財布残高 15,685円


解説

 北海道から出てきたので梅雨というものをよく知らなかったので、梅雨とはいかなるものか身構えていたようだ。艱難に耐えることに快楽を見出していたせいかエアコンの冷房・ドライは一度もつけなかったけれども、除湿をしなかったせいでさぞかし部屋は湿気でやられていたのではなかろうか。

 前にも書いたが当時ペットボトルといえば2Lぐらいの大きなものが当たり前だったので、水もそうした大きいものである。当時は省資源のためにビニール袋をくれない店というのは珍しかったのではなかろうか。言えばもらえるのかもしれないが、文句も言わずに自力でなんとかできるかぎりは何とかするスタイル、今も昔も変わらぬようだ。

 生協の位置はまったく覚えていないが、「帰りはもどらずに前進して寮を目指」したというのだから、本来のルートから逸脱したところに生協があり、もとのルートに戻らずに近道をして帰ろうとしたのだろう。しかし迷う懸念があったので順路に戻る勇気を示した、ということか。帰宅時間はそんなに余裕がないので、少し買い物をするとすぐに時間があやうくなった。慎重さが求められた。そんな中でもできる範囲で店を開拓するのが若さゆえの好奇心か。

 英文法の勉強方法について、何やらそれまでのやり方を非効率と断じて、あたらしいやり方に切り替えたらしい。勉強をしているとこういうことがしばしばある。アホな受験生は「量より質」と称して、「こんな勉強方法は無駄だ」と称してなかなか手を付けない傾向があるが(少なくとも高校時代の私はそうだった)、しかし量をやりこんでいるうちに質を高める方法もわかってくるのだ。そしてそれまでの「効率がわるい」やり方での勉強も、それはそれで身についたし、ブラッシュアップするのにつながったし、決して無駄でもなかった。

 こうして学ぶ悦びを覚えたからこそ、予備校時代はいっとき教師になることを意識していたこともあった。西内氏との会話でそれらしいことを意識しているのが見て取れる。結局その道には進まなかったし、勉強方法の伝授だけが教師の仕事ではないので、ならなくてよかった気もするが。

 そして今の生活は、いっとき先送りしている楽しみをめいっぱい味わうための、期間限定のものだから終わった後を励みにしているとある。そう、期間限定だから禁欲出来るのである。後に就職するときには、人生の他のすべてを捨てて仕事だけをするべきだという声を少なからず耳にし、時間はもちろん、モノまで捨てるよう言う声まであったが、そういう従事すること以外の人生の他のすべてを切り捨てるのと一時だけ禁欲するのとはまったく違う。私は自分の暮らしを営みを悦びを捨てたのではなく、いっときだけ封印したから努力や禁欲できてそれが快楽にもなった。そして後のいちおう社会人となってからは人生の営みを捨てろという声に従ったことは一度も無いし、しなくてよかったと心から思う。人生の営みを守ることと、禁欲して一点集中することとを両立するメリハリが大切である。


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